『旅順攻防戦』余話

(2004年2月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 別宮暖朗先生の新刊の宣伝として、同書に載らなかった周辺的な雑談をしようと思います。

 この企画に関しましては28cm砲弾の写真収集等、皆様にもご協力を賜り、有難うございました。どうも版元の都合でせっかくの貴重な写真が掲載してもらえなかったようなのは残念ですが、まあ、よくあることでしょう。

 去年、私はスカパーのラジオ放送で、花火のお話をしました。そこからおさらいしてみたいと思います。

 今の日本の法律では、花火に仕込める火薬は80kgと決められています。直径90cmの2尺玉にも、それより多くは入れられません。

 打ち上げる火薬は「割り薬」といい、黒ゴマ状の粒に練られていて、500グラム。これで高度600mまで上がるのです。筒と玉の間には隙間があり、そこから点火用の千切れた火縄を投入します。

 どの角度からみても球状に多重の菊が咲く、日本の打ち上げ花火の技術は、塩素酸カリウムが輸入されだした明治7年頃から、大正末にかけて完成したものです。

 この日本型の花火玉、基本構造はナポレオン戦争時代の「曳火榴弾」に似ていました。もちろん鋳鉄ではなく、腰の強い和紙の重ね張りを、殻の素材にしたのです。

 黒色火薬は開放空間で火をつけても爆発しません。これが爆発するためには、火薬全体に火が回るまでの一瞬の時間、発生ガスの圧力が閉じ込められなくてはならないのです。そして、その外殻がいよいよ内圧に負けて破裂する際には、全方向に均等にはじけとぶようにこしらえておかなければ、花火は球状には散開しません。

 興味深いことに、欧米の打ち上げ花火では、その「三次元シンメトリー」の理想は、最初から諦めています。なんと、筒状の殻を打ち上げて、筒の一方から、すすきの穂状に飛び散るようなものしかない。おそらくは「曳火榴霰弾」の発想なのでしょう。

 このように祝祭用の洋式花火では西洋を早々と追い抜いた日本人だったのですが、肝心の戦争で用いる「砲弾」や「爆弾」の技術では、近代日本の陸海軍は甚だ苦戦しました。じつは、この分野ではいまだに西洋には追い付いてはいないのですけれども、それは防衛庁周辺ではなんとなく秘密にされている雰囲気です。

 追い付けない原因は、シミュレート能力に関係しています。

 砲弾は花火のように空中で勝手に自爆するものだけではありませんね。多くは、何かに当たってから爆発しなければなりません。

 当たる対象が柔らかい地面だけであるなら、信管を敏感にすれば良いだけの話で簡単ですが、そうでない場合がしばしばある。たとえばコンクリートの半地下室です。たとえば岩盤に掘られた満州の塹壕です。たとえば軍艦のぶ厚い砲塔や舷側です。

 これらの「ハード・ターゲット」に砲弾を貫入させるには、砲弾の殻は強靭に造らなくてはならない。ところが、殻を強靭にこしらえますと、その中に充填できる比較的に僅かな黒色火薬では、細かな均一な破片を無数に飛散させることができない。比較的少数の大きな塊に割れますので、密閉空間内に飛び込んだときには、十分な対人殺傷威力と焼夷力を揮うのですけれども、開放空間での人馬に対する危害力は思ったほどではない。また、ハードターゲットそのものを崩壊させるような爆圧も発生できません。

 日露戦争で旅順要塞を攻略するために、日本陸軍は、本土の海峡防備のために置いてあった「28センチ榴弾砲」を、東京湾と由良から取り外し、現地に送りました。これは有名な話ですね。

 この大砲は、明治20年代の軍艦の甲板(それは硬い材木を何重にも張ったものです)を上から射ち貫き、内部で爆発させて、あわよくば弾薬庫に火災を起こさせてやろうと考えていたもので、発射する砲弾は、ぶ厚い、しかもとても硬くなるように熱処理した鋳鉄製。中に充填された炸薬は、長期保存しても安全確実で、しかも燃焼時の発生ガス圧の大きな粒状黒色火薬でした(ちなみに花火の玉に入っている黒色火薬は粉状のまま使うので低威力です)。

 日露戦争では、日本陸軍は緒戦そうそうに、陣地攻撃に有効な「榴弾」を撃ち尽くしてしまって、内地の工場がフル操業で砲弾を量産しても間に合わないような状態でした。しかし好都合にも、この28センチ砲弾だけは、各地の海峡砲台におびただしくストックされており、工場に改めて増産をさせる必要がありませんでした。

 当時すでに「ピクリン酸」という、黒色火薬とは比較にならぬ猛烈な爆薬が、陸海軍で実用化されていました。開放空間でも付近の可燃物に火災を起こさせる高熱も、同時に生ずるものです。が、これは極く不安定な物質で、砲弾に充填するときにいろいろと気をつけねばならぬことがあり、巨大な28センチ砲弾は国内を列車で運ぶだけでも手間でしたから、陸軍省は、黒色火薬充填のまま、旅順に向け海送させたのです。ただし、最初に送った二千数百発については、その信管(各要塞内に、砲弾とは別な倉庫に保管されます)から「延期装置」を外させていたことが、防衛研究所に残っている当時の電報綴りから確認できるでしょう(これら公文書史料はインターネットを通じてデジタル画像を読むことができるようになっています。「函館」「信管」といった複数キーワードで検索が可能でしょう)。

 延期装置というのは、信管の中にあり、軍艦の表面では起爆させずに、内部の奥深くまで穿貫してから炸裂するようにタイミングを遅らせるための小部品です。しかし28センチ砲弾は弾頭ではなく弾底側に信管がついていたので、この延期装置を外しても理念的には「瞬発」とはなりません。ある程度の鈍感さはあり、百分の何秒かは遅れて轟爆します。

 これはどういうことだったかといいますと、別宮先生の本に書かれていますように、陸軍の最上級幹部には、この28センチ砲で旅順港内のロシア軍艦を撃沈しようという意図は無かったのです。明瞭に、二龍山や東鶏冠山北堡塁などのコンクリート天蓋陣地内の敵兵員を制圧させる目的であったのです。浄法寺朝美氏によれば、厚さ60cmのコンクリートの下に居たコンドラチェンコ少将は28cm砲弾の命中で戦死しました。

 おそらく、その時点でのストック砲弾の性能と対象物との間の「摩擦」が読めた者が、参謀本部や満州総軍ではなく、陸軍省の中に居たのではないか。私はその筆頭者が、技術系の少将だった有坂成章だろうと思うのです。

 この砲弾の人員殺傷効果が徐々に効いてきたので、まず「203高地」が陥落し、ついで他の敵陣地も守備努力が放棄されました。前後して28センチ砲による軍艦砲撃も試みられていますが、講和後にロシア艦を引き揚げて調査したところでは、やはり鋳鉄製の28センチ砲弾には、日露戦争当時のロシア戦艦を撃沈する威力は欠いていたことが理解されました。

 旅順のロシア軍艦は、副砲をすべて舷側から取り外し、山上に据えて日本兵を射撃しました。砲弾や火薬、そして水雷までも陸揚げし、陸戦兵器として活用している。むろん水兵も、塹壕の補充用員として次々に送り込んだのです。このため次第に艦内では、漏水をポンプで排水したり、火災を消火する「ダメージ・コントロール」が人手不足ゆえに不可能になって、窮余の策として、いっそ導水バルブを開き、浅い港内に自から着底して、艦を水中で保存するという手に出たのです。そして守備軍司令官が降伏することがハッキリすると、こんどは軍艦を日本に再利用させぬようにと内部で機雷を炸裂させたのでしたが、すでに弾薬庫すら空でしたから、小さな穴が開いただけに終りました。

 当時の機雷には、爆薬が30kg以上も入っています。これでなくては戦艦を沈没させることができなかった。しかるに、28センチ砲弾の炸薬は黒色火薬が9.5kgのみ。また当時の陸軍として最新のクルップ製15センチ榴弾砲でもピクリン酸2.6kg、15センチ加農砲だと同1.6kg、12センチ榴弾砲では同1.3kgというところでした。

 本来なら、これでは撃沈効果など無いのですが、撃沈したと同じ結果をもたらすことができましたのは、現地で敵の「士気」を観察した結果です。これはウォー・ゲーム式の机上理論では分らないことだったでしょう。

 それならば、日本海軍の砲弾は万全であったか?

 日露戦争頃の戦艦の主砲の寿命は、120発です。つまり、主砲が4門ある『三笠』でしたら、一海戦で30センチ砲弾を480発以上撃つことなど考えていない。タマも、その分だけ積んでいたら良かったわけです。ですから海軍の徹甲砲弾は、陸軍のように大量生産向きな鋳鉄ではなくて、贅沢な圧延特殊鋼を採用していました。中味の炸薬はピクリン酸です。

 信管は、とても敏感だったと言われますけれども、やはり弾底に装置されたものであって、タマ先が何かに触れて炸裂するまでの間には一瞬のディレイがありました。その間に強靭な弾殻が敵艦の装甲内部に貫通し、内部のピクリン酸が轟爆することになっていたのでしたが、日露戦争後の調査では、これも次のような事実が判明したといいます。

 すなわち、軍艦の舷側のような堅い金属表面に命中した砲弾の内部では、信管が作動するより前に、衝突衝撃で赤熱した弾殻がピクリン酸を自燃させ始めてしまい、結果として緩慢な爆発に終っていたというのです。

 道理で、さんざんに砲弾を撃ち込んで炎上させ、ついに降伏に追い込んだロシアの戦艦が、いっこう沈む様子もなく、内地の軍港まで簡単に連れ帰ることができ、やがて日本の戦艦になったりしているわけです。

 こういうディテール情報は、明治末期には軍の上層部に共有されていたのだと思われますが、大正末期には忘れられてしまい、特に陸軍では、佐藤鋼次郎中将の嘆いた「歩兵科」至上の空しい戦術主義(これについては『SAPIO』バックナンバーをごらん下さい)が横行して、昭和の国家防衛を破綻させてしまうのです。

 28cm砲の据付に関しては『偕行社記事』という雑誌に、その工事を指揮した将校・横田穣(有坂に抜擢された)の回想が載っているのですが、なぜか最初の砲撃開始の時点で、話が終ってしまっています。これは、今にして思いまするに、谷版『機密日露戦史』の「203高地攻め直前に児玉がさらに砲床を動かさせたのだ」説と、背馳してしまう内容だったために、編集カットされたのではないかとも疑えるでしょう。

 奉天では日露双方が観測気球を活躍させていますが、なぜ旅順ではあまり役に立たなかったのでしょうか? これは、旅順が海のそばで、しかも大陸の縁ですので、連日上空に強風が吹いていたからだと考えられます。またおそらく、要塞内から射程の長い重砲で榴霰弾による曳火射撃を受ければ、地表付近のデカい気球だけに、照準も付け易く、ひとたまりもなかったんでしょう。

 それから海軍がとにかく旅順攻略を急がせた理由ですが、戦艦の主砲身の内筒交換の必要があったためではないでしょうか。実射120発で寿命になるというのですから、これを新品に代えておかねば、摩耗したライフリングでは命中が期待できなくなります。(訓練は、内とう砲という、同軸固定の縮小射撃装置=豆鉄砲でやっていたんだろうと思います。)30cm砲の内張り交換が朝鮮あたりでできれば良いのですけれど、その設備はなかったのでしょう。

 もちろん、機関その他の整備もやりたかったのでしょう。当時の国内のドックがあまりに作業能力に余裕がなかったので、時間に余裕をもたせたかったのではありますまいか。
 昭和19年刊の佐野康著『闘魂記』には、アッツ島で将兵を殺したのは艦砲射撃でも地上火器でもなく、敵機の猛爆であった、と書いてある(矢野貫一編『近代戦争文学事典 第三輯』)そうですので、28Hの対塹壕射撃の効果の程も想像できるのではないでしょうか。それは、密閉空間で炸裂したときだけ、決定打となり得たのです。

 ちなみに、これは前にどこかで引用済みの数値と思いますが、日本は日清戦争で50万発の砲弾を補給したのに比し、日露戦争では105万発を補給。この日露戦費の起債が、旅順陥落までは難儀を極めたのです。また支那事変&大東亜戦争では7,400万発を補給していますが、すでに欧米列強はWWIの4年間で各国とも億発単位で発射していたことをご想像ください。ちなみに1941~45年の合衆国は、無慮4百億発を補給しました。

 『旅順攻防戦』にはフランスのシュナイダー社製75ミリ野砲が出てきますね。この諸元が大正5年の『各国各兵種使用兵器概見表』(by臨時軍事調査委員)に載っています。

 名称   1898年式野砲(※1897年に仏が初めて駐退機付きの75ミリ野砲を完成しましたが、それと同じものでしょうか)

 砲身素材 ニッケル鋼
 機構   ねじ閉鎖、気水圧式駐退、空気式復坐
 弾頭   7.2kg(榴散弾)
 炸薬   130グラム(榴散弾子放出用)+10g弾子×300個+濃煙剤
      またはメリニット700グラム(榴弾)
 仰角   最大12度
 初速   532m/s
 射程   榴散弾曳火200~5500m可変、榴弾Max8500m
 発射速度 20発/分(急射の場合)
 放列砲車 1150kg
 1中隊   4門 

 ちなみにドレフェス事件は、仏軍の最新の120mm砲の秘密漏洩の嫌疑がかかったものでした。


日本海軍の爆弾―大西瀧治郎の合理主義精神 (光人社NF文庫)


(管理人 より)

 以前スカパーで『Salon 28』という兵頭二十八先生がメインパーソナリティのラジオ番組が流れていました。実話ですよ!もちろん私は聴いていました。録音したCDを紛失した事は、痛恨の極みである!
 もう1回やってくれないすかね、藻岩山ラジオとかで……。マンガ『波よ聞いてくれ』は本当に面白いなぁ。
  (2020年2月)