(2007年3月頃に最終更新された旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)
(兵頭二十八先生 より)
函館山要塞が残した28cm砲弾
一連の写真は、函館山の麓にある「船魂神社」境内の池の脇に、半没状態で安置されている1発の28cm砲弾を、全周アングルからしつこく写したものである。撮影は、2003年7月の下旬だ。
まさにその1ヵ月ほど前、HTV(北海道テレビ)のスタッフが、物好きにもこれを掘り出して全体を撮影していったらしい。しかし私が訪れたときは、はやこの原状。
1発217kg(もし発射直前状態の堅鉄榴弾であったならばの話)もある砲弾だ。とても「ヨッコラショ」と抱え上げ、弾底などを観察するわけにもいかなかったのであった。
だが、私はこの砲弾を見るや、『これはいかぬ』と内心思ったのである。なぜなら、ご覧の通り、先端に信管のようなものがついている。尖っていない。
これは、アーマー・ピアシング用のタマではない。つまり旧陸軍で「破甲」と称し、海軍では「徹甲」と称した榴弾とは、別物だと知れたからだ。
コンクリートや鋼鈑を貫通しようというAP弾は、弾頭を少しでも頑丈にしておくために、信管のための孔を弾頭に穿ったりはせぬものなのである。もしそんなスキのある構造にしていたら、弾殻が衝突の瞬間に自壊してしまいかねないだろう。
すでに優秀なるインフォーマー君によってUPされている岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾の写真と、よく見比べて欲しい。実際に軍艦に撃ち込んだタマは、先端が尖っていたことが分る。これぞ、私がとことん仔細に調べたい、当時のホンモノの堅鉄破甲榴弾だ。
さて、ならば、破甲榴弾でないならば、船魂神社に置かれてあるこいつは一体何のタマなのだ、と問われると、とても困ってしまう。
それは、目黒の防衛研究所の戦史部図書館に出掛け、タイトル中に「重砲」「弾薬」などとある所蔵史料を片端からめくっていけば、必ず図面付きですべて分ることなのである。
が、その図書館に日参していた頃、この兵頭は、正直、有名すぎるこの28cm砲などに深い興味は抱かなかった。だから、その貴重な記述を見かけても、まったくメモ帳に書き取っておかなかったのだ。
そこで関東在住の奇特な方々に呼びかける。誰か、目黒に行って、それを調べて来て欲しい。そして、そのリポートを当コーナーにUPして欲しいのだ。
たとえば、最大射距離で発射したときの弾道の最高点は、本当に地上5000mくらいだったのかどうか、などだ。
このコーナーは、世界で唯一の「28cm榴弾の写真博物館」にしようと、密かに私は目論んでいるのである。
というわけで、愛知県の陸自の春日井駐屯地内にあるという、先の尖った28cm砲弾も、誰か撮影してきて欲しい。
また、青山墓地などを仔細に探険すれば、きっと28cm砲弾が飾られている墓がある筈である。誰か網羅的に探険してリポートして欲しい。尚、くれぐれも「墓あらし」にはならないように。
大連の戦争記念館にあるという28cm砲弾は、インターネットの公開写真を見れば、どうも先端が尖っておらず、船魂神社と同種の物であるように見える。
つまり、それは古戦場から掘り出したものではなくて、日露戦争後に旅順を守備することとなった、日本軍の重砲兵連隊が、教育用か何かに用いていたタマなのだろう。
ついでだから念を押しておくと、ナントカ群像というムックの舞鶴要塞特集の中
で、28cm榴弾砲をクルップ製であるかのように書いているのは、ヘンな話だ。この大砲がどこ製であったのかは、拙著『有坂銃』をお読みの貴男には今更説明する迄も無かろう。
函館山要塞は、28cm榴弾砲を尾根線にズラリ並べた要塞として、明治31年6月起工、明治35年10月に竣工している。(日清戦争の賠償金を活用したという。)
その放列の跡や弾薬庫などは比較的良好に、今日でも保存されているのだ。(観光ガイドブックに載っていないだけで、ロープウェイ山頂駅から歩けば誰でも苦もなく見物ができる。夏場は雑草もちゃんと刈ってある。さすがに冬の除雪はしていないが、通行は可能。)
ところが、その放列から最も近い対岸となる青森県の大間岬まで、だいたい距離にして30kmもある。28cm榴弾砲は、日露戦争当時から綿火薬を装薬としているが、最大射距離は7650mしかない。(同砲には最短射程限界もあり、それは1500mであった。)
津軽海峡が最も狭くなっている「汐首岬~大間岬」間でも、直線距離で20km近い。
つまり、とうじの要塞の数的主力であったこの榴弾砲を仮りに両岸から射ったとしても、津軽海峡の中央までカバーできなかったわけである。
こんなところからも明らかに、函館山要塞は、「北海道全体の弾薬庫」と位置付けられていた函館地区を、敵(ロシア)の上陸占領の企図から防衛するための備砲陣地であったらしい。
さすがに遠隔地なので、この要塞の榴弾砲が明治37~38年に山東半島や満州に持ち出されることはなかったが、有り余る砲弾を弾庫から取り出して旅順に送っている。
ちなみに、旅順を砲撃した計18門(三度に分けて6門づつ運送された)の28cm榴弾砲は、いずれも東京湾か由良(瀬戸内海)の要塞から外して持って行ったものばかりであった。
28cm砲弾は、旅順戦で少なくとも二千数百発が発射されている。これらは内地で新たに増産したのではなく、すべてありあわせをかきあつめてそのまま送ったタマ。
ただし、弾底の信管だけは交換した。
(日本の要塞内では、28cm榴弾砲の砲弾と信管は、別々な場所に保管してあった。即応分だけが、初めから結合されて置いてあった。)
日本の28cm榴弾には信管が2種類あった。ひとつは遅滞爆発するもので、海峡を通過する軍艦に上から命中させ、当時はまだロクに装甲されていなかった甲板を40度以上の大落角で貫いて、艦底近くで炸裂するように考えたものだ(明治31年刊『砲工学校砲兵要務教程 海防戦之部』)。
この対軍艦用の信管を、陸軍省は、大阪砲兵工廠に集めさせ、そこですべて「遅延装置」を外させてから、旅順に送らせたのだ。この命令書は残っている。
ただし砲弾は、そのまま各地の内地要塞から旅順へ直送させたものと思われる。それは何を意味するかといえば、内部の炸薬(なんと黒色粒薬がタッタの9.5kg、ちなみに2尺玉の花火には黒色粉薬がちょうど80kg使われている)を、たとえば黄色薬(ピクリン酸、海軍の下瀬火薬と同じ)や綿火薬には、敢えて詰め替えしなかったということだ。
そこで改めて弾底信管の直径にご注目である。AP弾は孔は弾底にしか開いていない。(リフティング・アイは、孔にはなっていないだろう。)
この小さな孔から、黄色薬を詰めた紙袋(ピクリン酸は金属に直接触れると変質し、クラッカーボールのように鋭敏化して甚だ危険なので)を詰めるなんて、できなかったことが確かめられるだろう。
ではせめて綿火薬に詰め替えなかった理由は何か?
たぶん、入念に試験をやってみる時間がない以上、技術者(有坂)の良心として、元のままで送り出させることに決めたのだろう。たとえるなら、五輪のマラソンの本番で、いままで一度も履いたことのない新考案のできたての靴を、選手は試せるか、ということだったと思う。大本営では一刻を争っていたのだ。
もちろん、28cm榴弾砲持ち出し作戦のメリットは、「今あるものを利用できるので、内地にあらたな負担はかけない」ということが大きかったから、余計な面倒は極力回避したのである。黒色火薬は長期保存性では綿火薬を凌ぐのだ。それでも信管だけは、遅延装置を外させた。
弾底信管というやつは、遅延装置がなくとも、瞬発とはならぬ。弾底信管のみの砲弾は、基本的に反応は遅れて起こり、インパクトからごく僅かにディレイして炸裂する。
寺内にそのような命令を出させた有坂の意図は不明だが、軍艦よりも、コンクリート・アーチを強く意識していたことは、想像ができよう。
なお、昭和4年刊の『明治工業史 7 火兵編』には、日露開戦するや寺内陸相が大阪砲兵工廠をおとずれ、堅鉄弾はすべてその底部を改正し、弾底信管を塞螺にうえこむよう命じた、との記述があるが、これは28cm砲弾のことではあるまい。
28cm榴弾砲は、最大腔圧が1700kg/平方cmで、あまり高くはなかった。しかし、それが信頼性を高めていた。
WWIの青島要塞砲撃では、新登場の24加の弾底信管が不良で腔発を起こし、けっきょく古手の28cm榴弾砲が安定した活躍をみせたという。また、満州事変では、こんどは24加の弾底信管が発射衝撃で圧壊してしまって、多くが不発弾になったという。
国産信管はそれほど厄介なものだったのだ。特に陸軍はそれを1000発~1万発単位のロットで量産させねばならぬのだから、責任者の有坂の寿命は縮まったのも無理はない。
函館要塞の28cm榴弾砲は、WWI中にロシアに数門が売られた他、昭和9年以降に、1門が旭川(護国神社)、1門が靖国神社、2門が三沢方面に送られて、それぞれ永久展示用とされた(これらはすべて終戦時に消滅したらしい)。
さらに、ノモンハン事件の前後に、関東軍用に送られたものもあったらしい。
そして函館に残された十数門も、すべて終戦時に“消滅”した。いったいどこへ行ってしまったのか、その末路は、地元の郷土史家ですら明らかにできてはいない。
函館山の一角(薬師山)には、旧式な15cm臼砲も並べられていた。これは、港に上陸してきた敵兵を射撃するため使う備砲である。
そしてまた、道南の戸井(汐首岬)や、白神岬(竜飛岬と、もう一対のチョーク点を成す)には、津軽海峡の真ん中まで届く15cm加農が置かれていた。
(戸井には昭和3年から「長30cm榴弾砲」×4門も配備。大間には、『伊吹』からおろした30cmカノン×2も置いたとされる。)
船魂神社に15cmのタマも1発奉納されている理由は、こんなところから説明されるだろう。
もちろん、奉納された段階では、内部の炸薬や信管等の火工品は取り除かれていたのは言うまでもない。教育訓練用のタマだ。
奉納したのは誰か、であるが、函館山要塞に布陣していた「津軽要塞司令部」ならびに「重砲兵連隊」(その前は大隊)だっただろう。
明治33年の『砲兵学教程』によると、破甲弾には、堅鉄弾と鋼鉄弾があったそうである。後者はスチール、それも特殊鋼であって、海軍の砲弾はコレだ。陸軍の28cm榴弾砲のタマは前者であり、それは基本的に鋳物なのであった。
昭和9年の、長谷川正道著『国民講座 兵器大観』によれば、鋳物の砲弾にもいくつかの種類があった。
「鋼製銑」は、鉄の中に鋼屑を少しまぜたもので、強靭だ。
「堅鋳銑」は、銑鉄の冷却の速度を加減して硬さとねばりの中間を出したもの。
「特別銑」は、銑鉄にマンガン、クロム、タングステンなどを混ぜたものだ。
もちろんこんなことをしても、炭素鋼にニッケルを混ぜた特殊鋼よりははるかに強度は劣ったはずである。
それでも明治時代、砲弾を鋳物としていたのは、陸軍の大砲は、重砲といえども、バカスカ弾丸を発射しなければならないと分っていたからである。
他方の海軍は実戦でもそんなにタマをたくさん消費することを予期しない。たとえば『三笠』の30cm砲(の内筒)の寿命はわずかに120発だったという。それ以上を一海戦で撃つつもりが初めから無いのである。だから高価なスチールで贅沢に砲弾をこしらえることが、海軍では昔から許されたのだ。
28cmの堅鉄弾は、御影石を積んだ表層をやすやすと貫き、その下のコンクリートを1.20m貫入できたという。
ここで説明が要るのだが、日清戦争当時の要塞にコンクリート(仏語ではベトン)を用いているところは滅多になかった。アーチ部分も煉瓦製というのがほとんどであった。
これは地雷榴弾(地面に少しめりこんでから遅延信管により炸裂する榴弾)の無かった普仏戦争スタンダードの、瞬発の榴弾の爆発力は簡単に吸収できた。
しかし、直径15cm以上のAP弾は、煉瓦の壁や天井などはいともあっさりと貫徹できたのであった。
日露戦争当時にはコンクリートはやや普及していたが、まだ要塞全部をコンクリートで造ることはなかった。アーチ部分だけがコンクリート。しかも、無筋だった。
鉄骨も鉄筋も、入っていないのだ。
これは、鉄筋コンクリートの工法が、大正5年頃までフランスのアンネビック社が広汎な特許を押えていて、その使用権料がヤケに高かったからだとも言われるが、要はとうじ世界的に未だ信頼されていなかった新技術であったのだ。
それで、ロシアの旅順要塞も、日本の各地の海岸要塞も、弾庫、砲具庫や棲息掩蔽部(砲員が敵の砲撃を凌ぐ空間)の天井は、すべて無筋コンクリートでアーチをつくってあった。
函館要塞だとそのアーチ部の厚さはちょうど1mある。(他の内地要塞ではどうなっているか、手分けして調べてみて欲しい。これらのアーチは端面が垂直外壁の表面まで露出していることが多いので、簡単に厚さが測定できる。)
旅順ではそれは60cmだったらしい(浄法寺による)。
そして、そのバイタル・パートの天井コンクリート・アーチの周りは、単に煉瓦や切り石を積むのみという構造であった。これが日露戦争当時の「永久要塞」なのだ。
明治31年時点で、世界の海岸砲の最大口径は、32cmだった。これのAP弾を近距離から直射されたら、側面にコンクリートを使っていない構造物などひとたまりもない。が、海岸要塞は半地下式が多く、真上から砲弾が落ちてこぬ限り、バイタル・パートは直射はされないはずだった。
函館要塞遺跡の場合、棲息掩蔽部の表面には厚く土が被せてある。これはWWIの戦訓で、土壌の耐弾力が評価されたために後からそうしたのか、あるいは最初からそうだったのか、よく分らない。
ひとつ確かなことは、明治37年のロシア軍は、旅順要塞の掩蔽棲息部にまったく土を被せていなかった。そのため、厚さ60cmの無筋コンクリートは、40度の落角で命中する28cmの堅鉄榴弾の運動エネルギーを、食い止めることができなかったのだ。
9.5kgの黒色火薬の化学的エネルギーは、煉瓦層でも阻止できる程度のものであったろうが、217kgのマスの運動エネルギーが、薄いコンクリート・アーチの裏面を逆漏斗状に高速で剥離させ、その高速コンクリート片が、内部の人員を殺傷し、要塞内に居たたまれないように仕向けたのであろう。
そして、狭い密閉空間内では、発熱量の比較的に小さな黒色火薬といえども、顕著な焼夷&殺傷威力を発揮したものであろう。
函館山 現況写真
28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾]