パブリックドメイン古書『NYPD爆弾テロ対策班』(1919)を、AI(GPT-5.1 Thinking High)で訳してもらった。

 第一次大戦中の話です。
 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさま、ITに詳しい御方はじめ、各位に深謝申し上げ度い。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

題名: Throttled! The Detection of the German and Anarchist Bomb Plotters
(スロットルド!ドイツ人およびアナーキスト爆弾陰謀犯の摘発)

著者: Thomas J. Tunney(トーマス・J・タニー)

編集者: Paul M. Hollister(ポール・M・ホリスター)

公開日: 2020年5月2日 [eBook #61996]
最新更新: 2024年10月17日

言語: 英語

クレジット: deaurider、Charlie Howard および
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   の協力により制作
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*** PROJECT GUTENBERG 電子書籍
THROTTLED! THE DETECTION OF THE GERMAN AND ANARCHIST BOMB PLOTTERS
(スロットルド!ドイツ人およびアナーキスト爆弾陰謀犯の摘発)
ここから開始 ***

翻訳者注(Transcriber’s Note):
イタリック体および一部の下線付きテキストは アンダースコア で示されています。
太字テキストは =イコール記号= で示されています。

THROTTLED!

[挿絵: Inspector Thomas J. Tunney(トーマス・J・タニー警部)]

THROTTLED!

THE DETECTION OF THE GERMAN AND ANARCHIST BOMB PLOTTERS
(ドイツ人およびアナーキスト爆弾陰謀犯の摘発)

BY

INSPECTOR THOMAS J. TUNNEY
(ニューヨーク市警察 爆弾班長
トーマス・J・タニー警部)

Head of the Bomb Squad of the New York
Police Department
(ニューヨーク市警察 爆弾班長)

AS TOLD TO

PAUL MERRICK HOLLISTER

Author, with John Price Jones, of “The German
Secret Service in America”
(『アメリカにおけるドイツ秘密工作機関』
ジョン・プライス・ジョーンズとの共著)

ILLUSTRATED
FROM PHOTOGRAPHS
(写真図版入り)

[挿絵]

BOSTON
SMALL, MAYNARD & COMPANY
PUBLISHERS
(出版者)

Copyright, 1919
BY SMALL, MAYNARD & COMPANY
(INCORPORATED)
(著作権 1919年 スモール・メイナード・アンド・カンパニー)

ARTHUR WOODS に

かつてニューヨーク市警察本部長、現在はアメリカ陸軍大佐。
彼の先見性と協力により爆弾班の活動が可能となった。
本書を謹んで献呈する。

序文(INTRODUCTION)

タニー警部の班(Squad)は、1914年8月初旬に、
組織犯罪のうち暴力犯罪を専門に扱うために設けられた。
この班はブラック・ハンド(Black Hand)への対策で
抜本的な成果を上げ、国内の法と秩序の敵に対する
いくつかの事件を処理したが、時が経ち戦争が進展するにつれ、
班のエネルギーは専ら、我々の中に潜むドイツ人の
邪悪な活動を阻止することへと向けられていった。

タニー警部は、実に卓越した刑事である。
機知に富み、粘り強く、人間性をよく理解し、
そして優れた指導者だ。
彼は、勇敢で不眠不休の男たちを選び抜いた。
彼らは長時間、懸命に働いただけでなく、
顕著な技能と機転を示した。
彼らは全身全霊を捧げたアメリカ人であることを
その働きぶりで証明した。
闘志に満ち、忠誠心に厚く、
どれほど困難があろうと任務をやり遂げる決意に燃えていた。

彼らの任務は、我々の中にあって
中立義務を踏みにじるドイツ人を捜し出すことだった。
そして――ついに我々が、
長きにわたり公海上で、また我々自身の只中で
我々に戦争を仕掛けていた敵国に対し
宣戦するに至った後は――
彼らは積極的なドイツの敵どもを
挫き、捕らえるべく行動を開始したのである。

彼らがあげた成果は、
国家的な軍事力が痛ましいほど貧弱であった
あの数か月、数年間――
国家的危機がいかにも明白になり、
しかもますます明白さを増していった――
その間、ニューヨークにおいて秩序を維持することを
可能にする上で、大いに寄与した。

多くの事件において、タニー警部は
一つあるいは複数の連邦秘密サービス機関と連携して働いた。
しかしながら、連邦側の仕事は当初、
絶望的なまでに不十分な組織によって深刻に妨げられ、
その後は、強力で統一された一つの機関ではなく
まったく別個の複数機関が存在していたことにより
妨げられることになった。

タニー警部は、きわめて興味深い本を書いた。
彼が語ることの多くについては、
当時、彼自身との協議や、
スカール少佐、ビドル大佐、ポッター少佐との協議を通じて
私は知っていた。
また、本書に記されたいくつかの出来事については、
直接事件に関わったため
ごく間近から知ることができた。
しかしながら、なかには
私が1918年1月1日に警察を去った後に起きたため、
私自身は全く知らないものもある。

そして、タニー警部と彼の部下たちによってなされた
実に多くの優れた仕事、真の公共奉仕がある。
それらは本書では触れられておらず、
おそらく書かれることもないだろう。
なぜなら、それらは公共の平穏のために
大いに貢献したにもかかわらず、
ここに語られる物語を特徴づけているような
劇的な側面を欠いているからである。

本書を読めば誰もが、
平時でさえ、我々の敵が
どれほど野蛮なまでに活動的であったかを目の当たりにする。
彼らがいかにあからさまに、
そして侮蔑的なまでに
我々の中立を踏みにじっていたか。
彼らが、条約で認められた公的な職務を担う者たちを通じて、
また多数の秘密工作員を通じて、
いかに我々の産業生活を麻痺させようと
企んでいたか。

彼らの企てたことは、
連合国への重要物資の出荷を
一切妨げることだった。
そしてその目的のため、
労働争議の扇動、工場の放火、
船舶の爆破といった手段に訴えた。

彼らは、
自分たちがこの種の活動において
平和条約を結んでいる国民の財産を
破壊しているという事実を
少しも気にかけなかった。
また、自らの放火や爆破によって
人間を傷つけ、殺しているということに
とどまるような抑止的な思索すら
一片も抱かなかった。

しかし、彼らを気遣わせたことが一つある。
それは、事を秘密裏に進め、
隠れて行うということだ。
そうすることで、
自分たちがこの卑劣な対米戦争を、
見つかることなく続けられるようにするためである。
それは、いかなるルールも慣習も持たぬ、
「フェア・プレー」という概念を知らぬ野蛮人の戦い方であった。
暗闇の中で敵を打ち倒し、
背後から襲いかかるのである。

アメリカにとっての教訓は、
日の光のように明白だ。
我々は二度と、
十分な国家的インテリジェンス組織を欠いたまま、
不意を打たれてはならない。

複数の連邦局は一つに統合されるべきであり、
その統合された一つの機関は、
常に、そして包括的に
警戒していなければならない。

我々は、見慣れぬ教義に対して
用心深くなければならない。
判断は揺るぎないものであり、
世論を毒そうとする者たちを
本能的に退けるべきだ。

そして我々の法律は改正されなければならない。
その改正は、アメリカ人に対しては
意見・理論・信念の相違を
妨げることなく表明できる自由な場を与えつつ、
同時に、敵国の陰謀者および宣伝者を
禁止し、阻止するようなものでなければならない。

班の仕事には、もう一つ別の側面があった。
それは、外国の敵ではなく、国内の敵を扱う部分である。

1914年および1915年に
非常に深刻化した失業という産業上の状況は、
暴力によるプロパガンダを信奉する者たちに
利用された。
彼らは、仕事を得られない何千人もの人々の中に
熱心で憤りに満ちた聴衆を見いだそうとしたのである。

この状況による困難を多少なりとも和らげるため、
ニューヨークの警察は、
当時としてはかなり新しい警察手法をいくつか試みた。

彼らは人々に仕事を見つけてやり、
困窮した場合には救済を施した。
その資金の半分以上は、警官たち自身の拠出だった。

街頭集会が開かれ、興奮が高まったときでさえ、
警察は自ら定めた行動方針の線から
揺らぐことはなかった。

彼らは単に自由な集会を許したにとどまらず、
それが法律を守る限り
集会を保護すらしたのである。

そして法律はこう定めていた。
集会が暴力を扇動せず、
交通を妨げない限り、
法は守られているとみなされる、と。

暴力の危険が差し迫った場合には、
それを未然に防ぐために
迅速かつ強力な行動がとられた。
秩序は必ず維持されねばならなかったのである。

タニー警部の班は、
ここでも積極的に活動していた。
ただしそれは、特定の教義を説く者たちの口を
封じ込めようとするものではなく、
単に、暴力的行為を企てる陰謀者を突き止め、
彼らを法の裁きにかけることに
専念するためであった。

私は、当時の警察手法は
健全で効果的なものであったと信じている。
そして、それは
公益が動揺している時期や、
産業上の混乱が生じている時期に
守るべき正道である。

このやり方は、実践を通じて
次の二点を明らかにする。

すなわち、
すべての人に対し、
自らの合法的権利を
十分に行使できる余地が与えられること。

そして同時に、
違法な手段に訴えることは
決して許されないよう
十分な対策が講じられること、である。

この国の多くの場所で、
深刻な騒乱と流血が生じたところでは、
その問題は、少なくとも一部は
ある特定の人々の集団に対して
合法的権利の一部が
否定されたことによって
助長されてしまったように見える。

私は本書が、もう一つ別の教訓も
広く伝える一助となることを望む。
それは、我々の警察組織における
知性と高い士気の必要性、
そして職業精神の涵養の必要性である。

職業精神は、警察の仕事に威厳を与え、
政治的影響力や、
警官が単に自らの明白な義務を果たそうとするとき
その心を折ってしまう
あらゆる他の影響力を
排除しなければならない。

また、国民は、警察の方法と成果に
知的な関心を向ける必要がある。
それによって、
不正直さや無能を覆い隠すために
伝統的に用いられてきた
神秘主義や秘密主義という
煙幕を取り払う必要がある。

                                         アーサー・ウッズ

1919年2月

目次(CONTENTS)

第 章 ページ
I THE BOMB SQUAD(爆弾班) 1

II  WESTPHALIAN EFFICIENCY(ヴェストファーレン式能率主義)       8

III PLAYING WITH FIRE(火遊び) 39

IV  THE HINDU-BOCHE FAILURES(ヒンドゥー・ボッシュの失敗)        69

 V  A TRUE PIRATE TALE(真の海賊物語)                          108

VI  ALONG THE WATERFRONT: SUGAR AND SHIPS AND ROBERT FAY  
    (波止場で:砂糖と船とロバート・フェイ)                   126

VII ALONG THE WATERFRONT (II): “DAMN HIM, RINTELEN!”
(波止場で(続):
「リントーレンのやつ、くたばれ!」) 156

VIII MR. HOLT’S FOUR DAYS(ホルト氏の四日間) 183

IX  THE NATURE FAKER(自然詐欺師)                             217

 X  THE PRUSSIAN, THE BOLSHEVIK, AND THE ANARCHIST  
    (プロイセン人、ボリシェヴィキ、アナーキスト)             246

挿絵一覧(ILLUSTRATIONS)

Inspector Thomas J. Tunney(トーマス・J・タニー警部) 口絵(Frontispiece)

                                                                ページ

Lieutenant-Colonel Nicholas Biddle, Military Intelligence
(陸軍情報部 ニコラス・ビドル中佐) 4

Paul Koenig(ポール・ケーニッヒ) 10

Random Pages from “P. K.’s Little Black Book”
(「P.K. の黒い手帳」のランダムなページ) 22, 23, 26, 27, 36, 37

Alexander Dietrichens and Frederick Schleindl
(アレクサンダー・ディートリーヒェンスとフレデリック・シュラインドル) 30

Carmine and Carbone in Court(法廷のカーミネとカルボーネ) 46

Pages from the bomb-thrower’s textbook
(爆弾投擲者の教科書からのページ) 52

A postcard received by Commissioner Woods after the arrest of the
Anarchists
(アナーキスト逮捕後にウッズ本部長が受け取った絵はがき) 60

Detectives in Disguise–George D. Barnitz, Patrick Walsh, James
Sterett, Jerome Murphy
(変装中の刑事――ジョージ・D・バーニッツ、パトリック・ウォルシュ、
ジェームズ・ステレット、ジェローム・マーフィー) 64

Threats to Polignani(ポリニャーニへの脅迫) 66

Frank Abarno and Carmine Carbone(フランク・アバルノと
カーミネ・カルボーネ) 66

A Handbill, printed in Hindu, used by the Hindu-Boche Conspirators
(ヒンドゥー・ボッシュ陰謀団が用いた、ヒンディー語印刷のビラ) 72

The Hindu-Boche Conspirators(ヒンドゥー・ボッシュ陰謀団) 76

The Annie Larsen’s Cash Account
(船 アニー・ラーセン の現金勘定) 80

Gupta’s Code Message(グプタの暗号電文) 80

How the Hindus used Price Collier’s “Germany and the Germans” as
a cryptogram
(ヒンドゥーたちがプライス・コリアーの
『ドイツとドイツ人』をどのように暗号文に利用したか) 90

Alexander V. Kircheisen and his application for a certificate as
able seaman
(アレクサンダー・V・キルハイゼンと、一等水夫免状の申請書) 106

Lieutenant George D. Barnitz, U. S. N.
(米海軍 ジョージ・D・バーニッツ中尉) 118

Robert Fay and Lieut. George D. Barnitz
(ロバート・フェイとバーニッツ中尉) 130

Fay, Daeche and Scholz arraigned in Court
(フェイ、デーチェ、ショルツの法廷出廷) 130

The Fay Bomb Materials(フェイ爆弾の材料) 138

Lieutenant Fay’s Motor Boat(フェイ中尉のモーターボート) 150

Rudder Bombs(舵爆弾) 154

Franz Rintelen(フランツ・リントーレン) 160

Henry Barth, who posed as the German Secret Service Agent
(ドイツ秘密工作員を装ったヘンリー・バース) 164

Ernest Becker(アーネスト・ベッカー) 168

Captain Charles von Kleist and Captain Otto Wolpert
(シャルル・フォン・クライスト大尉とオットー・ヴォルペルト大尉) 168

Sergeant Thomas Jenkins, U. S. Army, who located part of one of
the bombs in the German Turn Verein in Brooklyn
(ブルックリンのドイツ・ターンフェラインで
爆弾の一部を発見した米陸軍トーマス・ジェンキンス軍曹) 174

Norman H. White, of Boston, a civilian attached to the Military
Intelligence, who unearthed numerous German intrigues
(ボストン出身で陸軍情報部付の民間人、
多くのドイツ陰謀を暴いたノーマン・H・ホワイト) 180

Mrs. Holt’s Mysterious Letter(ホルト夫人の謎めいた手紙) 208

The First Word from Texas(テキサスからの第一報) 208

Fritz Duquesne prepared for a Lecture Tour as Captain Claude
Stoughton
(クロード・ストートン大尉と名乗り
講演旅行の準備を整えたフリッツ・デュケーヌ) 224

From Fritz Duquesne’s Past(フリッツ・デュケーヌの過去から) 230

Papers found in Fritz Duquesne’s effects
(デュケーヌの遺留品の中から見つかった書類) 236

Lieutenant Commander Spencer Eddy
(スペンサー・エディ少佐(海軍中佐級)) 248

Major Fuller Potter, Military Intelligence
(陸軍情報部 フラー・ポッター少佐) 252

Lieutenant A. R. Fish, Naval Intelligence
(海軍情報部 A・R・フィッシュ中尉) 260

Captain John B. Trevor, Military Intelligence
(陸軍情報部 ジョン・B・トレヴァー大尉) 268

THROTTLED!
(スロットルド!)

I

THE BOMB SQUAD
(爆弾班)

私は過去23年間、ニューヨーク市警察の一員である。
一つの仕事としては、長い年月だ。

警察組織は、その規模から言えば
第一級の製造業企業に匹敵する――
1万人を超える人員を抱えており――
そこで行われている職務は、
人の嗜好や野心がどれほど多様であろうと
必ずや満足させうるほど多岐にわたっている。

こうして私は、現場を一通り経験してきた。
一つの任務から別の任務へと昇進していき、
1914年には代理警部(acting captain)となり、
ブルックリンとマンハッタンの両方で
刑事局のさまざまな部門を任されていた。

私の職務は犯罪捜査であり、
その中でも特に、
最も頻繁に直面してきた
特殊な犯罪分野――
すなわち爆弾爆発事件――が専門だった。

さかのぼること1904年、
ニューヨークでは
いくつもの不可解な爆発事件が相次ぎ、
かなりの財産被害を出していた。
そこで私は、爆弾というものと初めて
本格的に向き合うことになった。

爆弾は、研究対象としては興味深い代物であり、
実際に用いられれば
実に邪悪な武器である。

私は、ブラック・ハンド(恐喝組織)の連中が
収監されている間に
自分たちの投てきした爆弾の作り方を
話してくれたことなどから、
爆弾製造に関する情報をいくつかの手段で集めた。

デュポン火薬会社のニューヨーク支社では
発破作業を学ぶ機会もあった。
鉱山局(Bureau of Mines)の刊行物からも
多くの情報を得た。
我々自身の組織である消防局(Bureau of Combustibles)での
実務も興味深く有益であり、
やがて私は、
多少なりとも化学を学ばざるを得なくなった。

もっとも、我々の仕事と
研究室の化学者の仕事との違いはこうだ。

研究室の化学者は
爆発物を調合して試験し、
爆発が起きた時点で
仕事を終えたことになる。

一方、刑事はというと
たいていの場合、
その調合と試験は
いつもどこかの犯罪者が
先にやってしまっている。

我々は、
爆発が起きた現場に駆けつけ、
残された破壊の痕跡という手がかりから
犯人の名前と住所を割り出すことになる。

言うなれば、
研究室の化学者が
材料を混ぜて爆発させた瞬間に
仕事を終えるのに対し、
刑事はその瞬間から、
材料の所在とそれを混ぜ合わせた人物を
突き止めるための
骨の折れる長い追跡を
開始するのである。

1914年初頭までには、
私はすでに数多くの経験を通して、
ニューヨーク市の人口の一部を占める
アナーキストやブラック・ハンドの連中による
爆弾テロ事件の多くを
追跡してきていた。

その年が進むにつれ、
こうした事件の発生は
飛躍的に増加し、
特別な対処を要するまでになった。

そして8月1日――
ヨーロッパで戦争が勃発した
ほぼその日――
アーサー・ウッズ警察本部長は
警察内部に「爆弾班(Bomb Squad)」を
新設した。

私はその指揮官となり、
本部長に直接報告することになった。

仕事量が増し、
人員が追加されるにつれ、
本部長は爆弾班の監督を
当時第五副本部長で、
現在はアメリカ陸軍少佐である
ガイ・スカールに委任した。

その後、この監督役は
特別副本部長ニコラス・ビドルに引き継がれた。
彼は、私がこれを書いている今、
アメリカ陸軍中佐として
ニューヨークの陸軍情報部(Military Intelligence Bureau)を
統括している。

さらにビドル氏の後任として、
別の特別副本部長フラー・ポッター
(現在は陸軍情報部少佐)が
班の運営方針を指揮した。

わずか数か月のうちに、
爆弾班の陣容には
次のような選り抜きの男たちが
名を連ねることになった。

ジョージ・D・バーニッツ、
アメデオ・ポリニャーニ、
ヘンリー・バース、
ジョージ・P・ギルバート、
エドワード・キャデル、
パトリック・J・ウォルシュ、
ジェローム・マーフィー、
ジェームズ・J・コイ、
ヴァレンタイン・コレル、
ジェームズ・ステレット、
ヘンリー・ゼンフ、
マイケル・サンタニエッロ、
ジョセフ・フェネリー、
ジョセフ・カイリー、
チャールズ・ウォーレス、
ウィリアム・ランドルフ、
トーマス・ジェンキンス、
アンソニー・テラ――
以上は全員、刑事巡査部長である。

さらに、ジョージ・バズビー中尉も加わった。

この一覧には後に、
ジェームズ・マーフィー、
ロバート・モリス、
トーマス・J・フォード、
ウォルター・カルヘイン、
ヴィンセント・E・ヘイスティングス、
トーマス・J・キャヴァナ、
ルイス・B・スノーデン、
トーマス・M・ゴス、
ダニエル・F・コリンズ、
フレデリック・メイザー、
エドワード・J・マー、
ウォルター・プライス、
ウィリアム・マカヒル、
コーネリアス・J・サリヴァンの名も
加えられた。

彼らは、
我々が遂行すべき業務にとって
実に素晴らしい人材であった。

そして、
1917年に我が国が参戦するまでの中立期間において
彼らが、いかに有能かつ注意深い
国の番人であったかを思えば、
ここで彼らの能力と勇気――
そしてそれらすべての資質――に
一言の賛辞を捧げることを
誰も咎めはすまい。

爆弾班の多くは、その後戦地に赴いた。
バーニッツは、アメリカ海軍の少尉となり、
高度な情報活動に従事した。

バース、キャデル、コレル、フェネリー、ジェンキンス、
ウォルシュ、ステレット、サンタニエッロ、ランドルフ、
ジェームズ・マーフィー、モリス、フォード、カルヘイン、
ヘイスティングス、キャヴァナ、スノーデン、ゴス、コリンズ、
プライス、メイザー、マー、マカヒル、サリヴァンらは、
全員、国民軍(National Army)の
諜報警察隊(Corps of Intelligence Police)の
軍曹となった。

そして、私自身が陸軍省の
陸軍情報部(Military Intelligence Branch)に
配属されてからは、
戦時中、ここに名を挙げた男たちと
しばしば協力する機会を得た。

[挿絵:
Lieutenant-Colonel Nicholas Biddle, Military Intelligence
(陸軍情報部 ニコラス・ビドル中佐)]

私が班長として最初に抱いた希望は、
爆発物を用いて人命や財産を破壊する者たちの
活動を抑え込むことだった。

そこで私は、自分の経験から得た
爆発物の物理・化学に関する知識を、
部下たちにすべて伝えた。

こうした訓練の時間は、
かなり細部にまで及んだ。

我々は、使用される爆発物の種類、
その相対的な威力、成分、
起爆方法、
装填に用いられる容器、
そして時計仕掛け、導火線、酸、
およびガス圧による起爆の仕組みを
徹底的に議論した。

未爆発の爆弾を取り扱う際の
特別かつ明確な指導も行われた。

例えば、電気的な装置が取り付けられた爆弾は
決して水に入れてはならない。
水は電気の良導体だからだ。

また、たとえ
決して火では爆発しない」
とされる種類の爆薬であったとしても、
爆発物のそばで喫煙してはならない――
ということも徹底させた。

爆発物に関して、
100回中100回、確実に言えることは
「予想していないことが起こる」
というただ一点だけだからである。

爆弾班には、
旅客列車・電車・フェリー、
あるいは金属貨物を輸送している場所の付近では
決して爆弾を運んではならない――
という指示と、その理由が与えられた。

また、爆発しても
人命や財産に危険を及ぼさないような場所で
爆弾を発見した場合には、
それを移動させず、専門家を呼び、
その到着を待つこと。

そして、どのような場所が危険で
どのような場所がそうでないかについても
教え込んだ。

要するに、我々は
かなり徹底した爆発物講座を
開いたわけである。

戦争の規模が拡大し、
アメリカの関心が
ますます直接的なものになるにつれ、
爆弾班の活動は、
当初想定していた目的から
やや逸れるようになった。

そして班の名称も、
「Bomb Squad(爆弾班)」から
「Bomb and Neutrality Squad
(爆弾および中立監視班)」へと改められた。

8月の時点で我々は、
ドイツ人が爆弾を用いて
我々の中立を覆そうとするなどとは、
夢にも思わなかった。

だが、実際に彼らはそうした。
そしてその結果、
我々は3年間、
じつに陰鬱な多忙さに
縛りつけられることになった。

その3年間というのは、
我が国がようやく
長きにわたり我々に戦争を仕掛けてきた
その相手国に対し、
正式に宣戦を布告するまでの期間である。

そして、本書に続く物語が
なぜこうして語られることになったのかも、
そこに理由がある。

もっとも、
アメリカ合衆国の参戦が
班の活動を止めたわけではない。

すでに述べたように、
多くの隊員は国の軍務についた。

彼らが海軍情報部(Naval Intelligence)や
陸軍情報部(Military Intelligence)に所属し、
その一方で、
本部に残った者たち――
海軍側ではスペンサー・エディ少佐やアルバート・フィッシュ中尉、
陸軍側ではビドル大佐やポッター少佐――
および諜報警察隊(Corps of Intelligence Police)と
緊密な関係を保ったことで、
ニューヨークにおけるスパイ狩りは
非常に高いレベルの協力体制のもとで遂行された。

それは、短期間で
他のメンバー構成によって
築き上げるのがほぼ不可能であったような連携であり、
我々の国内の安全を守る上で
きわめて重要な役割を果たしたのである。

II

WESTPHALIAN EFFICIENCY
(ヴェストファーレン式能率主義)

1915年初頭の出来事の推移からして、
爆弾班が今後、
中立違反の試みと思しき事件を
ますます多く扱うことになるのは
明らかであった。

あの当時の
我が国全体の心理状態を覚えている者なら、
国民の心がまだ定まらず、
しばしば「ブレインストーム(脳天気な激昂)」に
襲われがちだったことを
思い出すであろう。

誰もが、
前触れもなく押し寄せ、
論評を待つことなく
次々と通り過ぎていく、
前代未聞の暴力と大規模な出来事を
目の当たりにしていた。

人々はあまりに茫然自失で、
どの一つの出来事に対しても、
冷静でバランスの取れた判断や
筋道だった党派心を
保つ余裕などなかったのである。

それは混乱の時代であり、
我々警察にとっては
頭を冷静に保ち、
目を見開いていることが
なにより重要な時期であった。

爆弾班は、
いわば安全弁として
機能しなければならなかった。

1915年夏までに、
連合国政府が1914年の秋から冬にかけて
発注していた軍需品の注文は、
大量に生産・出荷され、
欧州へと送られていた。

同時期、ドイツ海軍は、
この一年間そうであったのと同様、
大艦隊を率いてキールを出る様子など
少しも見せなかった。

こうなると、
物資輸送の遅延・妨害・破壊の任務は
アメリカ国内のドイツ人に
委ねられることになる。

そこで我々は、
ニューヨークで異常なほど頻発している
財産の破壊と、
ドイツの活動への強い疑念とを
結び付けることにした。

そして、
人間の力の及ぶ範囲で
破壊の源と手段を
片っ端から洗い出そうと決意した。

秋も深まった頃、
波止場での任務中、
我々は「注視に値する」と思える男を
見つけた。

ポール・ケーニッヒという男で、
彼はハドソン河の両岸では
かなり知られた存在である、
ということが少しずつ分かってきた。

彼はハンブルク=アメリカン・ライン
(Hamburg‑American Line)の
主任探偵として
一定の権限を持っていた。

この汽船会社は
戦争勃発から1週間で、
ドイツの通商破壊艦に補給する目的で
虚偽の貨物目録を使って
船を出そうと試みていた会社である。

だが今や、その全船隊は
ホーボーケンで足止めされており、
商売よりも暇の方が
はるかに勝っている状態だった。

にもかかわらず、
そんな不本意な閑散期であるはずなのに、
彼らの男ケーニッヒは
妙に忙しそうだった。

そして我々も、
なぜなのかを突き止めようと
忙しく動き回る羽目になった。

もっとも、最初のうちは
好奇心ばかりで成果は上がらなかった。

我々は彼につきまとい、
習慣や行動範囲を
観察するよう人員を割いた。

これは、場合によっては
それほど難しい仕事ではない。
だがこのケースでは、
司法省(Department of Justice)が
すでに一度試みており、
彼を尾行してみたものの、
「追うだけの価値はない」と
結論していたのだ。

優秀な尾行担当者というものは
生まれつきの素質によるところが大きく、
後天的に作られるものではない。

追跡対象が
自分を尾行されていると
気付く、あるいは疑うや否や、
その人物は問題児となり、
逃げおおせるか、
あるいは疑いをそらすような
振る舞いをし始め、
追跡側をしばしば困惑させる。

ケーニッヒは、
鋭い野性的感覚を備えた男で、
特に尾行に気づくのが異様に早かった。

ある局員たちは、
こんな場面でひどく混乱させられたものだ。

ケーニッヒが角を曲がって姿を消し、
それを見た局員が足早にあとを追って
同じ角を曲がると、
いきなりケーニッヒが
ドアの陰から飛び出してくる。

そして、
「今日の仕事はこれでパアだな」と
言わんばかりに、
追跡者に向かって
あざ笑うのだ。

私は、非常に優秀な刑事でありながら
尾行となると苦手な男たちを
何人も知っている。

そうした者たちは、
体格がよすぎて目立ってしまうこともあるし、
熱心すぎて
かえって怪しまれる者もいる。

あるいは、
用心深く振る舞いすぎて
疑惑を招いてしまう者もいる。

自然な飄々さと
高度な技術の組み合わせ――
それが、優れた尾行を成り立たせる
ごく稀な資質だ。

それは、
熟練の釣り師が持つ本能に
似ているかもしれない。

どれだけ糸を出し、
いつ引きをかけるべきか、
絶妙な勘でわかるのである。

ケーニッヒは、
まさにそうした「逃げ足の速い魚」だった。

[挿絵:

Copyright, International Film Service
(国際映画サービス社・版権)

ポール・ケーニッヒ ― ハンブルク=アメリカン・ラインの社員にして、
アメリカにおけるドイツ暴力行為の実行工作員を
供給・指揮した男]

新しい「尾行(tailing)」の手法を用いることで、
我々は、彼が市内のいくつかの
ドイツ人向け人気スポットを
よく訪れていることを知った。

例えば、コロンバス・サークルのパブスト、
ドイツ・クラブ(Central Park West)――
ここにはアルバート博士、ボーイ=エド、
フォン・パーペンもしばしば出入りしていた――
14丁目のルーシェウ(Luchow’s)レストラン。

それに加えて、
アメリカ的なホテルである
ベルモントやマンハッタンも
よく利用していた。

両ホテルは町の中心にあり、
出入口も複数あって、
地下鉄と直結する
地下階の通路も備えている。

ニューヨークで
最も簡単に姿をくらますことができる場所の一つだ。
(数か月前には、ある殺人犯が、
2日間も逮捕を逃れて
地下鉄列車を行ったり来たりしていた例もある。)

だが、こうした場所は
どんなドイツ人でも自然に集まる地点に過ぎず、
われわれは会話を聞き取ろうとしても、
具体的な方向性を示すような
手がかりを一片も拾うことができなかった。

それでも一つだけ明らかな事実があった。

すなわち、
彼は忙しく動き回っており、
その多くの仕事を
ブロードウェイ45番地――
ハンブルク=アメリカン・ビル内の
自分のオフィス――から
差配している、ということである。

ブラスバンドを引き連れて
ベルリンに押し入ろうとするのと同じくらい、
このビルへ情報を求めて
入り込もうとするのは
無謀な試みだった。

しかし、我々には
一つだけ取るべき手段が残されていた。

それは、
彼の電話回線を「盗聴(listen in)」することだ。

尾行担当の者たちが、
彼がハンブルク=アメリカン・ビルに入り、
おそらくオフィスにいる――と報告してきた時、
我々は彼の電話回線に割り込み、
受話器のこちら側に
担当警官を配置して、
そこで交わされる会話を
すべて書き取らせた。

だが、外線への発信内容は
期待外れだった。

ケーニッヒは愚か者ではない――
むしろ、きわめて特殊な種類の愚か者であった――。

彼は、公衆電話回線という
おしゃべりな媒体を通じて、
敵に利するような情報を
うっかり漏らすほど
不用心ではなかった。

我々は長いあいだ、
空しく耳を傾け続けた……。

ところが、
ある時、
可能性を感じさせる通話が入った。

男の声が、
ポール・ケーニッヒに向かって、
「お前は『強情なヴェストファーレン・オランダ野郎
(bull‑headed Westphalian Dutchman)』だ」
と罵り、
さらにもっと色鮮やかな言葉を浴びせたのである。

会話は短いものだったが、
その短い間にも、
通話主がケーニッヒに対して
たいそう不満を抱いているらしいことが
うかがえた。

その後数日間のうちに、
同じ声が再び「P.K.」に電話をかけ、
先日言い漏らしたらしいことを
次々とぶちまけた。

要するに、
この正体不明の声の主は、
ケーニッヒから
ひどい扱いを受けたらしかった。

我々は、その不満たらたらの電話が
かけられた番号を突き止めた。

それは、ある酒場の
公衆電話ボックスだった。

重大事件というものは、
たいてい些細な出来事に
端を発しているものだ――
「釘一本の欠如が戦いの敗因になった」
という有名な詩が
それをよく物語っている。

今我々が扱っているのは
単なる可能性の話ではなく、
厳然たる事実の話である。

だがそれでも私は、
もしこの酒場に
記憶力の良いバーテンダーが
いなかったら、
ニューヨークやカナダで
ドイツ人の残虐行為が
どこまで進んでいただろうか――と
つい想像してしまうのだ。

はい、彼はよく覚えていた。
ある男が、
あの時間帯にやってきて
電話をかけていたということを。

そう、時々現れる客だった。
名前は知らないが、
角を曲がった先の
この番地あたりに
住んでいるらしい――と。

その住所に行ってみると、
バーテンダーの人相書きが
非常に正確であったことが分かった。

男の名前はジョージ・フックス
(George Fuchs)だった。

そこで我々は、
フックス宛に手紙を1通送った。

ある無線電信会社(wireless telegraph company)の
社用便箋を使ってタイプしたもので、
そこにはこう書いた。

「あなたは、
我々が空席としている職務に
ふさわしい人物だと考えています。
ついては、仕事の内容および給金について
お話ししたく存じますので、
所定の日時に当社事務所まで
おいでください。」

フックスは、
指定した時刻には現れなかった。

これは一時的に
我々の計画を狂わせることになったが、
やがて彼が姿を見せたとき、
「会社」の幹部を名乗る人物が
温かく迎え入れ、
応募者との顔合わせを始めた。

無線会社の人物――
すなわちコレル刑事――の態度は
実に警戒心を解くもので、
彼のドイツ語は見事であり、
フックスこそが
その職務に適任である、という確信は
最初から疑いの余地を与えないほど
おおらかだった。

二人はやがて、
近くのレストランに移動した。
(刑事コレルは、
実務に支障のない程度には
ドイツ語を操れた。)

「ところで、今は誰の下で働いているんだ?」
と、コレルは
フックスのビールジョッキの縁越しに尋ねた。

「あの強情なヴェストファーレン・オランダ野郎さ」
と、フックスは吐き捨てるように言った。

「やつは俺の母親の親戚なんだ。
母はプロイセン人だったが、
Gott sei dank!(ありがたいことに、神様に感謝だ!)」

コレルは要所要所で
適切に笑い、
続く会話の中で
フックスのケーニッヒに対する
不満を巧みに引き出していった。

1915年9月、
ケーニッヒ夫妻は、
ニューヨーク州ナイアガラフォールズの
ロキール・アパートメントに住む
フックス親子を訪ねていた。

田舎の親族を訪問する
といった体裁である。

客人たちは、
ナイアガラの滝の雄大さを
十分堪能した。

そしてケーニッヒは、
ウェランド運河(Welland Canal)――
滝を迂回して船舶が通行する水路――にも
多少の関心を示した。

彼はこう言った。

「この水路は厳重に警備されている。
さもなければ、
実際に見に行きたいところだがね。」

その代わりとして、
フックスに対し、
カナダ側へ渡って
閘門のスナップ写真を撮ってきてほしい――
と持ちかけたのである。

「なぜ自分で行かないんです?」
とフックスが問うと、

「俺が行けば、
おそらくすぐに捕まるだろう」
とケーニッヒは答えた。

「なら、
俺がカメラなんか持って
あそこへ行くわけにはいきませんね。
でも、
報告だけならしてきましょう」
とフックス。

こうして取引が成立した。

ケーニッヒ曰く、
「フックスこそ、この仕事に最適だ」。

なぜなら、彼は
カナダ側では「ジョージ・フォックス(George Fox)」
という名で通っており、
アメリカ生まれのアメリカ人だから、
疑われにくい――というのである。

こうして9月30日午後7時、
――ちょうど
ホルスト・フォン・デル・ゴルツと
フォン・パーペン大尉が
ウェランド運河爆破を企てて失敗してから
一年余りが過ぎた頃――

「ジョージ・フォックス」は
ウェランド・ハウスに宿泊登録した。
ここは運河のすぐそばにあるホテルである。

その夜、彼はそこで一泊した。

翌朝、彼はポート・コルボーンに向かった。
ウェランド運河がエリー湖へと注ぐ起点である。

その日の残りの時間を費やして、
彼は運河の北端に向かって
歩き続けた。

そこでは、水路を通る船舶、
閘門(ロック)の構造と警備状況を
頭に刻み込んでいった。

夜までに、彼はソーロルド(Thorold)に到着し、
宿を取り、これまでの観察をメモにまとめ、
一夜を過ごした。

次の日、彼は残りの
約27マイルを歩き切って
オンタリオ湖へと到達した。

途中、閘門の数を数え、
それぞれの閘門には
2~3名の武装兵が
警備に立っていることを
確認した。

こうして、
大規模な破壊計画に役立つ
豊富なアイディアを
頭に詰め込んだ彼は、
その夜再びナイアガラフォールズへと戻ってきた。
――10月2日のことである。

ケーニッヒは、
彼の報告に大いに満足した。

ところが、フックスが
それを文書にまとめると、
ケーニッヒは
「こんな文書を身につけていたら
危険が大きすぎる」と言い出した。

「この報告は、
ニューヨークの私書箱840番宛に
郵送してくれ。

署名は『George(ジョージ)』だけでいい。
たとえ誰かが目にしたとしても、
それが誰のことか分かるものか。」

そう言い残して
彼はニューヨークへ戻っていった。

フックスは数日間、彼から連絡を受けなかった。
ただ、作戦の開始が延期された――
と知らされたのみであった。

やがて田舎者の従弟は、
都会の従兄のもとへ
催促の手紙を送るようになり、
ケーニッヒは
ニューヨークで働かないかと
彼を誘った。

そこでフックスは
彼のもとに赴き、10月8日、
週給18ドルで
「捜査局(Bureau of Investigation)」の
給与名簿に名前を連ねることになった。

ケーニッヒは計画を練った。
フックスに、人夫を雇わせて
ダイナマイト満載のボートを
ナイアガラ川上流から
カナダ側へと渡らせ、
密かに爆薬を持ち込ませようというのだ。

彼自身はというと、
補佐役のリヒャルト・エミール・ライエンデッカー
(Richard Emil Leyendecker)と
秘書のフレッド・メッツラー(Fred Metzler)を伴い、
湖上交通の大動脈である運河を
粉々に吹き飛ばして遮断する
具体的な計画を進めていた。

ところが11月7日の日曜日、
フックスは病気で出勤しなかった。

それでも彼は、
通常どおりの給料を求めた。

ケーニッヒはこれを拒否した。

彼は、フックスが本当に
病気で出られなかったのか疑っていたし、
病気ごときで
祖国への奉仕が
妨げられるべきではない――と考えていた。

このことが、二人の間に
軋轢を生んだ。

11月22日、ケーニッヒは彼を解雇した。

理由は
「他の工作員への絶えざる喧嘩腰の態度、
飲酒、および素行不良」
であるとされた。

そして前日、
港湾巡視船での勤務を拒否したため、
その日の賃金2ドル57セントについても
支払わないと告げた。

この2ドル57セント――
それがフックスの魂を
取り返しのつかないほど毒し、
彼はケーニッヒに対して
強い憎しみを抱くようになった。

そして、その憎しみが高じた結果――
我々の手元には
ついに逮捕に足る
証拠が揃うことになったのである。

これは明らかに
連邦レベルで起訴すべき事件だった。

そこで我々は、
ウィリアム・オフリー大尉と、
司法省きっての
有能な捜査官アダムズを呼び寄せた。

数時間後、
ケーニッヒには
逮捕の手が伸びた。

彼はこの強制捜査を憤り、
バーニッツに向かって
こう吐き捨てた。

「ドイツ人やドイツ政府の邪魔をする者は
必ず報いを受ける!」

彼の自宅は
市内北部にあり、
そこでも家宅捜索が行われた。

そこで見つかったものの中に、
おそらくアメリカにおけるスパイ狩りで
最も価値のある戦利品の一つ――
と言っても過言ではない代物があった。

それが、
ポール・ケーニッヒの
小さな黒いメモ帳である。

ルーズリーフ式で、
すべて綺麗にタイプされており、
逮捕の前日までの記録が
一貫して書き込まれていた。

オフィスの能率に取り憑かれた
狂信的な事務屋であれば
こうしたものを思いつくかもしれない。

だが、ここまで整然と
メモ帳を埋め尽くすのは、
ドイツ人ならではと言っていい。

その内容は、
彼の「捜査局」がどのような仕事をしていたかを
ほとんど宗教的とさえ言えるほどの
細かさと熱意で綴っていたのだ。

ハンブルク=アメリカン・ラインの幹部は、
おそらく1912年に
ポール・ケーニッヒという
狡猾なごろつきを任命して、
ジャージーシティの埠頭使用料を巡る
背任疑惑を調査させたとき、
自社に「捜査局(Bureau of Investigation)」が
生まれたなどとは
思ってもいなかっただろう。

だが、ポール・ケーニッヒは
そうは考えなかった。

彼はささいな仕事でさえ
いかにも謎めいた
「能率」とやらで包み込み、
三文ミステリに出てくる
アマチュア探偵ばりの
気取りで動いた。

最初の事件には
謎めいた番号をふり、
自らには「xxx」という
いかめしい匿名を与え、
メッツラーという男を秘書に雇った。

そして、ケーニッヒとメッツラーは
自分たちこそ
「局(Bureau)」であると
心から信じ込んでいたのである。

こうして、
彼らの仕事がどれほど
重要だったかを示す
非常に興味深いメモが
いくつも残されることになった。

彼の小さな黒い手帳には、
次のような記録が整然と残されている。

1913年5月13日、
45ブロードウェイにある部屋を借りて
「新しいオフィス」を開設。

5月24日、
最初のプライベート電話を設置。

11月19日、
部署のファイルを収納するための
スチール製キャビネットを購入。

1914年5月28日、
隣室を82号室に併合し、
同室を局長の「専用」オフィスに改装。

7月14日、新しい金庫を購入し、
オフィスに設置――。

この最後の項目については、
サラエボ事件(フランツ・フェルディナンド大公暗殺)が
何らかの影響を与えたのかもしれない。

なぜなら、ハンブルク=アメリカン社は、
ドイツが宣戦布告する
かなり前から戦争の到来を
察知していたことが確かだからだ。

いずれにせよ、
1914年7月31日――
イギリスとドイツが実際に
戦争状態に入る前であり、
また、同じ日に
ニューヨーク支社の取締役が
本社ベルリンから電報を受け取っている。

そこには、
「戦争が近い。
アメリカ水域にいるドイツ艦艇への補給を
お前たちに期待する」
という指示があった。

その同じ日に、
ポール・ケーニッヒは
すでに戦時任務に着手していた。

すなわち、ニューヨーク港に停泊する
自社の全埠頭と船舶に
特別警備を配置したのである。

この時点まで、
ケーニッヒが担当していた事件は
すべて海運に関することだった。

密航者、火災、三等船客の料金、
船員に対する告発――
といった類いである。

ところが8月22日、
彼はドイツ軍のスパイとなった。

そのことは、
彼自身の言葉で手帳に記されている。

「8月22日。ドイツ政府は、  
ビュンツ博士(Dr. Buenz)の同意のもと、  
ある捜査の指揮を私に委ねた。  

軍事武官フォン・パーペン大尉が  
その後オフィスに来訪し、  
期待されている任務の性質を説明した。  
(これが、本局が  
ドイツ帝国政府に対する  
任務を開始した最初である。)」

「ある捜査」の内容とは、
カナダのヴァルカティエ(Valcartier)訓練キャンプ――
第一次カナダ海外派兵軍が
動員されていた場所――に
2名の工作員を送り込み、
彼らの出征準備の状況を
軍事武官に報告させることだった。

軍事武官は、
もしまだ間に合うようであれば、
彼らを出征させないための手段を
講じようと考えていた。

フォン・パーペンが考えていたのは、
ウェランド運河の爆破である。

これは失敗に終わったが、
ここで我々にとって重要なのは
この事件が、
ケーニッヒによる
対ドイツ政府任務の始まりを
意味していたという点だ。

そして、その任務は
急速に拡大し、
様々な方向に広がっていった。

彼の局は、
三つの部門に分かれていた。

桟橋(pier)部門、
特別任務(special detail)部門、
そして秘密情報(secret service)部門、
すなわち「Geheimdienst(ゲハイムディーンスト)」である。

もちろん、
P.K.(ケーニッヒ)は
そのすべての頂点に立っていた。

彼は、規則集の中で
次のような珠玉の文言を記している。

「第2条   
局の機密および業務を守るため、  
以後、来訪者を応接する前には必ず、  
机上の書類をすべて片付け、  
当該業務に関係する書類のみを  
机上に残すこと。」

「第9条   
私と血縁関係にある者は、  
たとえ遠縁であっても、  
今後、本局への雇用を  
一切認めない。  
ただし、妻はこの限りでない。」

「第6条   
本局の直接雇用者を  
私の自宅その他へ  
社交目的で招待すること、  
あるいは彼らの招待を受け入れることは、  
局の規律にとって有害であることが判明した。  
よって、この慣行は直ちに廃止する。  

ただし、この規定は  
秘密情報部門の工作員には適用しない。  
また、直接雇用者であっても、  
社交上の接待や旅行を伴う作戦に  
私とともに従事する場合には  
適用しない。」

彼は、各工作員に対し
バッジ、盾、写真付き身分証明カードを
複雑かつ精巧に配布しており、
その費用はすべて
工作員自身の負担だった。

彼の細かすぎるほどの注意深さと
常に示された用心深さは、
彼が手帳に記した
偽名リストにも表れている。

そこでは、
26件の事件について
26種類の異なる名前を使っており、
そのどれもが
自分本来の名ではなかった。

例えば、
「D‑Case 250」において、
「シュルシュタット(Sjurstadt)」という工作員に接触した際、
ケーニッヒは自分を
「ワトソン(Watson)」と名乗っていた。

また、D‑Case 316では、
宣伝屋のフォン・ピリス(von Pilis)と交渉する際、
ケーニッヒは「ボーデ(Bode)」を名乗っていた。
(ちなみに、このフォン・ピリスは
後に拘留された人物である。)

彼は、新しい事件ごとに
新しい偽名を考案し、
場合によっては
同じ事件の中で
相手ごとに2~3種類の偽名を
使い分けていた。

無論、多重人格者さながらの
この有様では、
自分が誰なのかを
記録しておかねばならなかった。

そのおかげで、
偽名一覧は、
彼が指を突っ込んでいた
数多の「パイ」の目録を
政府側に提供することになった。

また、秘密情報部門の
各直属工作員については、
3種類の識別が用意されていた。

本名(もちろんドイツ名)、
番号、
そして特別な2文字のイニシャルである。

例えば、
ウェランド運河事件で
彼と共謀した美術木材商
リヒャルト・エミール・ライエンデッカー
(Richard Emil Leyendecker)は、
秘密工作員第6号として「B.P.」と呼ばれていた。

ニューヨーク市警の一員であった
オットー・モットーラ(Otto Mottola)は、
秘密工作員第4号であり、
「A.S.(以前は A.M.)」と呼ばれていた。

局からの依頼人も、
特定番号で言及されていた。

帝政ドイツ大使館は5000番、
フォン・パーペンは7000番、
ボーイ=エドは8000番、
アルバート博士(商務武官)は9000番――
といった具合だ。

[挿絵:

SECRET SERVICE DIVISION.
(秘密情報部門)

List of Aliases Used by XXX.
(XXX が用いた偽名一覧)

          _D-Cases._  

Sjurstadt #250 Watson
Markow #260 von Wegener
Horn #277 Fischer
Portack #279 Westerberg
Berns #306 Werner
Scott #309 Werner
McIntyre #311 Bode
Miller #314 Reinhardt
Harre #315 Kaufmann
Kienzle #316 Wegener
Wiener #316 Wegener
von Pilis #316 Bode
Burns #325 Reinhardt
Stahl #328 Stemmler
Coleman #335 Schuster
Schleindl #343 Wöhler (Paul)
Leyendecker #344 Heyne
Feldheim #357 Winters
Warburg #362 Blohm
Van de Bund #358 Taylor
Lewis #366 Burg
Hammond #357 Decker (W.P.)
Uffelmann #370 Schwartz
Hirschland #371 Günther
Neuhaus #371 Günther
Ornstein #371 Günther
Witzel #371 Wöhler
Plochmann #375 Breitung
Archer #289 Mendez
Bettes —- Goebels
Reith #382 Brandt

SECRET SERVICE DIVISION.

Ciphers Used In

Confidential Reports

(Oct. 1914-Sept. 1915)

   ---oOo---

5000 I. G. Embassy
(帝国ドイツ大使館)
7000 ” ” Military Attache
(同・軍事武官)
8000 ” ” Naval Attache
(同・海軍武官)
9000 ” ” Commercial Attache
(同・商務武官)
——-
7354 von Knorr
7371 Tomaseck
7379 Tokio
7381 Copenhagen
7600 Burns Agency
(バーンズ探偵社)
9001 Herbert Boas

「P.K. の黒い手帳」のランダムなページ]

[挿絵:

SECRET SERVICE DIVISION.
(秘密情報部門)

SAFETY BLOCK SYSTEM
(安全ブロック方式)

Operatives of the S. S. Division, when receiving instructions from me
or through the medium of my secretary as to designating meeting places,
will understand that such instructions must be translated as follows:
(秘密情報部門の工作員は、私または秘書を介して
集合場所の指示を受けたとき、
その指示は以下のように解釈されねばならない。)

For week Nov. 28 to Dec. 4 (midnight)
(11月28日から12月4日(深夜)までの週について)

A street number in Manhattan named over the telephone means that
the meeting will take place 5 blocks further uptown than the street
mentioned.
(電話でマンハッタンの丁目番号が指示された場合、
実際の集合場所は、その番号より5ブロック (アップタウン)
の地点を意味する。)

Pennsylvania R. R. Station means Grand Central Depot.
(「ペンシルヴァニア鉄道駅」は
グランド・セントラル駅を意味する。)

Kaiserhof means General Post Office, in front of P. O. Box 840.
(「カイザーホフ」は
中央郵便局、私書箱840番の前を意味する。)

Hotel Ansonia means Cafe in Hotel Manhattan (basement).
(「ホテル・アンソニア」は
ホテル・マンハッタン地下のカフェを意味する。)

Hotel Belmont means at the Bar in Pabst’ Columbus Circle.
(「ホテル・ベルモント」は
コロンバス・サークルのパブストのバーを意味する。)

Brooklyn Bridge means Bar in Unter den Linden.
(「ブルックリン橋」は
「ウンター・デン・リンデン」店内のバーを意味する。)

For week Dec. 5 to Dec. 12 (midnight)
(12月5日から12月12日(深夜)までの週について)

Code to remain the same as previous week.
(コードは前週と同一とする。)

For week Dec. 12 to Dec. 19 (midnight)
(12月12日から12月19日(深夜)までの週について)

A street number in Manhattan named over the telephone means that the
meeting will take place 5 blocks further downtown than the street
mentioned.
(電話でマンハッタンの丁目番号が指示された場合、
実際の集合場所は、その番号より5ブロック
(ダウンタウン)の地点を意味する。)

SECRET SERVICE DIVISION.
(Geheimdienst)
(秘密情報部門・ゲハイムディーンスト)

Rules and Regulations.
(規則および細則)

–1915–

#1. Beginning with November 6th, no blue copies are to be
    made of reports submitted in connection with D-Case #343, and
    the original reports will be sent to H.M.G. instead of the
    duplicates, as formerly.  
    (11月6日以降、D‑Case #343 に関する報告書については  
    青焼きコピーを一切作成しない。  
    以後、従来とは逆に、  
    複写ではなく原本を H.M.G. に送付すること。)

#2. In order to accomplish better results in connection with
    D-Case #343, and to shorten the stay of the informing agent at
    the place of meeting, it has been decided to discontinue the
    former practice of dining with this agent prior to receiving
    his report. It will also be made a rule to refrain from working
    on other matters until the informant in this case has been
    fully heard; and all data taken down in shorthand. (11-11-15)  
    (D‑Case #343 において  
    より良い成果を上げるため、また通報工作員の  
    集合場所での滞在時間を短縮するため、  
    従来行っていた  
    報告受領前の会食を中止することに決定した。  
    さらに、本件通報者の話を  
    最後まで完全に聞き取り、  
    すべてのデータを速記で記録するまで、  
    他の案件に手を付けないことを  
    規則とする。(1915年11月11日))

#3. Beginning with November 28th, 1915, all operations
    designated as D-Cases will be handled exclusively by the Secret
    Service Division, the Headquarters of which will not be at
    the Central Office, as heretofore. This change will result in
    discontinuing utilizing operatives or employees attached to the
    Central Office, Division for Special Detail and Pier Division.
    On the other hand, great

「P. K. の黒い手帳」のランダムなページ]

同じ手帳には、
集合場所の偽装方法も記されている。
すでに引用した通りである。

「秘密情報部門の工作員は、  
私または秘書を通じて  
集合場所の指示を受けたとき、  
その指示は以下のように解釈されねばならない。

『11月28日から12月4日(深夜)までの週について。  
電話でマンハッタンの丁目番号が指示された場合、  
実際の集合場所は、その番号より5ブロック  
アップタウン側を意味する。

ペンシルヴァニア鉄道駅は  
グランド・セントラル駅を意味する。

カイザーホフは  
中央郵便局、私書箱840番前を意味する。

ホテル・アンソニアは  
ホテル・マンハッタン地下のカフェを意味する。

ホテル・ベルモントは  
コロンバス・サークルのパブストのバーを意味する。

ブルックリン橋は  
「ウンター・デン・リンデン」店内のバーを意味する。』」

彼は毎週このコードを組み替えた。

したがって、
もし誰かが、
彼の電話を盗聴すれば
彼の行き先が分かる――と
考えていたとしたら、
その人物はおそらく
期待どおりの場所では
ケーニッヒを見つけられなかっただろう。

彼はドイツ系ニューヨーカーの集まる場所を
よく知っており、
そこには、
邪魔されずに工作員と会談できる
便利な待ち合わせ場所が
いくつもあった。

例えば、
3番街と42丁目のドイツ系ホテル、
ブロードウェイと110丁目のドイツ系バー、
島の先端近く、
サウス通りとホワイトホール通りの
下宿屋、
あるいはハーレムにある
トルコ風呂に併設された酒場。

このように彼は、
自分の線を盗聴されても
行き先を辿れないようにしただけでなく、
工作員に対しても
人通りの多い場所には
公衆電話から掛けさせるよう
指示していた。

そこならば、
かけた人物を特定できる可能性は
百万に一つもないからである。

フックスは――
もちろん――
ケーニッヒの命令に
もはや従っていなかった。

しつこく電話をかけ、
注意も怠っていた。

要するに、
ケーニッヒは
紙の上だけで見ればほとんど完璧とも言える
用心深さの体系を築き上げており、
そのおかげで
膨大な量の仕事を
遂行することができていたのである。

各部門の職務分掌は
はっきりと区別されていた。

桟橋部門は、
ニューヨーク港における
ハンブルク=アメリカン・ラインの埠頭と船舶の
警備を担当していた。

また、出航予定の船舶情報を
ケーニッヒに提供し、
彼はそれを
海軍武官ボーイ=エドに
伝達していた。

この部門を通じて彼は、
波止場の裏社会と
緊密な関係を保ち、
必要に応じて
破壊行為の実行要員を
調達できる態勢を整えていた。

また船舶の動静に関する
詳細な記録も維持していた。

特別任務部門は、
ロングアイランドのシーダーハーストにある
ベルンシュトルフ伯爵の別荘、
ハンブルク=アメリカン・ビル内の
アルバート博士のオフィス、
ウォール街60番地のフォン・パーペンのオフィス、
ニューヨークのオーストリア領事館――
こういった場所の警備を
担当していた。

この部門は、
アルバート博士が
尾行されていないかどうかを
毎週テストしていた。

彼の手帳の工作員欄には、
次のような記述がある。

「_H. J. ウィルケンス_ は、  
これまでアルバート博士の警護員として  
非常に良好な勤務を続けてきたことに対して  
私から表彰される。  

この表彰は、  
11月12日付で  
博士から受領した次の書簡に基づくものである。

『親愛なるケーニッヒ氏

  貴局の工作員 H. J. ウィルケンスによる服務は  
  まったくもって  
  満足のいくものでした。

                            敬具  
                          (署名)H. T. アルバート』」

明らかに、
ケーニッヒがドイツの大義に対して
その責務を果たしていたことは、
アメリカに駐在する
ドイツ政府高官たちの
信頼を高めることになった。

その結果、
これらの警備任務は
1915年夏の間に
次々と彼の管轄下に置かれていった。

7月3日には
シーダーハーストの大使別荘、
9月1日には
アルバート博士のオフィス、
10月26日には
フォン・パーペンのオフィス、
そして12月15日には
オーストリア領事館――
がそれぞれ
彼の管轄下に入った。

このうち最後のものは、
ケーニッヒ逮捕のわずか3日前、
そして、
フォン・パーペン大尉が
わが国の要請により
本国送還の途に就いてから
一週間も経たないうちの出来事である。

フォン・パーペンは
帰国前にドイツ・クラブに
P.K. を呼び出し、
「本局が自分に対して行った
諸々の服務に感謝する」と
述べている。

手帳には、こう記録されている。

「その席上で、
彼は私に別れを告げた。」

こうした職務は、
手帳の中でも
どこか神妙な口調で触れられている。

だが、
ケーニッヒの「自伝」が
陰鬱なベールを再びまとうのは、
秘密情報部門の職務の説明に
話が及ぶときである。

そこでは、彼は
すべてを牛耳る存在であり、
モリアーティ教授とゴリラを
足して2で割ったような
印象を与える。

すなわち、一方では
滑りやすい陰謀家、
他方では
喧嘩っ早いチンピラであり、
その両面が、
彼自身の自画自賛的な報告によって
白日の下に晒されているのである。

ここでは、
「D‑ケース」と呼ばれる案件において
用いられた彼の
多彩な偽名、
秘匿番号、
捉えどころのない集合場所、
そして本質的にテュートン的な
規律が
最もよく現れている。

その仕事の性質を示すには、
手帳に頻繁に登場する
一つの事例――
D‑Case 343――を挙げるのが
手っ取り早いだろう。

[挿絵:

    may not be in my interest. The stenographer of the Central
    Office, however, will continue to write out checks as
    heretofore, but the check-book itself, will always be kept
    under lock and key. (11-23-15)  
    (…は私の利益にならないかもしれない。  
    しかしながら、本部の速記係は  
    これまでどおり小切手の記入を続ける。  
    ただし、小切手帳そのものは  
    常に施錠保管とする。(11‑23‑15))

#11. Operatives of the Pier Division in future will carry as
their means of identification only the Bureau’s identification
card, on the reverse side of which a photograph of the bearer
will be pasted, with my signature written above and below the
photo. The front side of the card will also bear my signature.
These men will not carry any more shields, as in the past.
Any changes in the personnel of the Pier Division, such as
attachments and detachments, will be brought to the attention
of the Marine Superintendent or other Superintends at whose
piers they are stationed. There will be special operatives
selected to check up operatives of the Pier Division and
employees of the piers, who will not be named to anyone in
advance, but who will, at Intervals, make their inspections,
carrying with them as their means of identification, a
commission consisting of a letter on Company’s stationery,
setting forth their authority, which will be duly signed by
me and counter-signed by one of the Company’s Vice Directors.
These special operatives are to be known as Central Office men,
and do not come under the jurisdiction of the Pier Division.
(11-23-15)
(今後、桟橋部門の工作員が携行する身分証明は
本局の身分証カードのみとする。
カードの裏面には、
所持者の写真を貼付し、
その上下に私の署名を記す。
表面にも私の署名を入れる。

    これらの者は、  
    もはや従来のようなバッジを持たないものとする。  

    桟橋部門の人員配置に変更があった場合――  
    例えば配属・異動など――は、  
    海事監督(Marine Superintendent)や  
    該当埠頭の監督者に通知する。  

    桟橋部門の工作員や埠頭職員を  
    抜き打ちで点検する  
    特別工作員を任命する。  

    彼らの身元は事前には  
    誰にも明かされないが、  
    隔週で検査に赴き、  
    会社のレターヘッドを用いた委任状を  
    身分証として携帯する。  

    この委任状には  
    私の署名と  
    会社副社長の副署が  
    記されている。  

    これら特別工作員は  
    「本部要員(Central Office men)」と呼ばれ、  
    桟橋部門の管轄外とする。(11‑23‑15))

#12. Beginning with today, specific plans have been decided
upon as to the best manner in which to keep newspapers and
clippings dealing with the war and political subjects.
Clippings that refer to D-Cases of this Bureau will continue to
be placed in the private files, together with their respective
reports. An exception to this particular rule may be made in
the event that there are too many clippings at hand, in which
case they may be bound together and kept separate, as is being
done in the case of operation D-#332. Other clippings are to be
mounted on cardboard, and the name of the newspaper and date
typewritten thereon. Articles of interest that cover an entire
page or more will not be clipped, but will be kept whole in
a temporary folder in view of binding same later. This, also
applies to copies which deal with matters on which reports have
been rendered. (12-7-15)
(本日より、戦争および政治問題に関する
新聞および切り抜きの最適な保存方法について
具体的な方針を定める。

    本局の D‑Case に関連する切り抜きは、  
    これまでどおり  
    当該事件の報告書とともに  
    私的ファイルに綴じ込む。  

    ただし、切り抜きが多すぎる場合には  
    この限りではなく、  
    作戦 D‑#332 のように  
    まとめて製本し別置きにすることもできる。  

    その他の切り抜きは  
    厚紙に貼り付け、  
    新聞名と日付を  
    タイプで記入すること。  

    紙面1ページ以上にわたる  
    長文記事については  
    切り抜きせず、  
    いずれ製本することを想定して  
    一時フォルダにそのまま保管する。  

    この方針は、  
    すでに報告済み事項に関する  
    記事のコピーにも適用される。(12‑7‑15))

「P. K. の黒い手帳」のランダムなページ]

秘密情報部門の規則の第1条は、次のように述べている。

「1915年11月6日以降、  
D‑Case 343 に関する報告書については  
青焼きコピーを一切作成しない。  

以後、従来とは逆に、  
複写ではなく原本を  
H.M.G. に送付すること。」

手帳の「特定人物一覧」から、
この「H.M.G.」が
フォン・パーペン本人を指すことが分かっている。

第2条は以下のとおりである。

「D‑Case 343 において  
より良い成果を上げるため、  
また通報工作員の  
集合場所での滞在時間を短縮するため、  
従来行っていた  
報告受領前の会食を中止することに決定した。  

さらに、本件通報者の話を  
最後まで完全に聞き取り、  
すべてのデータを速記で記録するまで、  
他の案件に手を付けないことを  
規則とする。」

我々は、
D‑Case 343 において
ケーニッヒが「ヴェーラー(Wöhler)」の偽名を用い、
情報提供者の名が
シュラインドル(Schleindl)であることを
手帳から知った。

さらに、「工作員メモ」の欄には、
次のような記述がある。

「フリードリヒ・シュラインドル …  
当初は工作員 #51 として知られ、  
後に C.O. 工作員と称されていたが、  
10月21日付で B.I. 工作員と改称する。」

これにより、
規則集にある
別の記述の意味が明らかになった。

「B.I. 工作員には、  
直ちに本部への再来訪を  
禁止する旨を通達した。  

別の場所で彼と会う手筈を整える。  

D‑Case 343 の報告書を  
本部の速記係が  
引き続きタイプするかどうかは  
後日決定する。」

第4条は次のように続く。

「第2条を補足して、  
B.I. 工作員からの報告を受ける  
その日の夕食前には、  
ビールおよびその他の酒類を  
一切飲まないこととした。  

これは、  
彼の報告を受ける際に  
完全に頭をすっきりさせ、  
十分な準備を整えておきたいからである。」

そして第3条には、
次の一節が含まれている。

「…秘密情報部門の工作員およびエージェントは、  
本部および他部門の職員から  
完全に身元を秘匿されるよう  
細心の注意を払わなければならない。  

これらの規定は  
例外的に D‑Case 343 には適用されない。  

本件は1915年7月以降、  
秘密情報部門に属さない職員も  
存在を知っている状態で  
取り扱われてきたためである。  

より望ましい体制が整うまでは、  
この運用を継続してよい。」

ここに、
ひときわ重要な案件が
浮かび上がってくる。

メモによれば、
ケーニッヒは
シュラインドルなる人物から
何度も価値ある情報を受け取っており、
少なくとも5か月にわたって
そのやり取りを続けていた。

彼はその報告を
フォン・パーペンに上げており、
以後も情報収集を
継続するつもりであった。

ドイツ人が自ら進んで
ビール断ちを宣言するとなれば、
そこにはよほど重大な事情があると
見なければならない。

バーニッツ中尉と、
ウォルシュおよびフェネリー両刑事は、
ケーニッヒを逮捕したその日のうちに
シュラインドルも逮捕した。

彼のポケットからは、
ロシアへの軍需品に関する
電報が出てきた。

彼はドイツ生まれの予備役兵で、
バイエルン出身だった。

戦争勃発時には
ニューヨークのナショナル・シティ銀行に
事務員として勤務し、
ブロンクスに住んでいた。

戦争の最初の熱気の中で、
彼はドイツ総領事館に出頭して
軍務に志願した。

しかし数か月経っても
呼び出しはなく、
ある晩、彼は
一人のドイツ人と出会った。

その男は、
「ホテル・マンハッタンのバーに行き、
ワゴナーというドイツ人に会え」
と言った。

「やつはバーにいるはずだ」とも。

この「ワゴナー」こそ、
ポール・ケーニッヒその人だった。

彼は青年と会い、
愛国心をくすぐりながら
次のような情報を引き出した。

――シュラインドルには、
連合国政府が
軍需品を購入・輸送するために
やり取りしている電報――
そういった電文に
銀行の仕事を通じて
接触できる立場にある、というのである。

ケーニッヒは
週25ドルの報酬を提示し、
こう指示した。

銀行のファイルから
連合国向け輸送品に関する
すべての電報を
盗み出すように、と。

また、貨物がいつ埠頭へ搬入されるのかを示す
宅配伝票の写し、
支払われた価格に関する全データ、
購入品の詳細な説明、
およびその他、
アメリカからどのような軍需品が
海外に送られているかを
ドイツ政府が把握するのに
役立つあらゆる情報を
手に入れるよう命じたのである。

シュラインドルは、
この仕事に大いに乗り気になった。

最初は小さな窃盗から始め、
次第に大胆になっていった。

やがて彼は、
夜ごとに書類を盗み出し、
ケーニッヒとの約束の場に持参して
写しを取らせ、
翌朝、銀行に誰よりも早く出勤して
元の場所に戻す――
ということを
繰り返すようになった。

金曜日の夜が定期的な報告日となったが、
大量輸送に関する電報が入ったときには、
臨時で情報を
即座にケーニッヒへ伝えた。

この追加の25ドルは
彼の収入を事実上倍増させ、
祖国への奉仕は
実に魅力的なものとなった。

そのあまりの魅力ゆえ、
彼はやがて、
自分は命の危険を冒しているのに
ケーニッヒは単に
情報の受け取り窓口に過ぎず、
危険を負っていない――
ということに
不満を抱くようになった。

もし鉄十字章や
遠隔地勤務章が授与されるのであれば、
自分こそが受けるべきだ――と考えたのである。

そこで彼は、
バイエルン方言で書かれた
速記メモを時折
オーストリア在住の兄へ送った。

内容は、
自分が集めた情報の要約である。

イギリス軍の検閲を避けるため、
彼はメモを細かく破り、
新聞紙の折り目の間に
混ぜ込んだ。

その新聞は
キルクウォールの英国検閲を
難なくすり抜けていった。

兄はそれら細片を
つなぎ合わせて訳文を作り、
ドイツ当局に
報告書として提出した。

[挿絵: Alexander Dietrichens
(アレクサンダー・ディートリーヒェンス)]

[挿絵:

International Film Service. Inc.
(インターナショナル映画サービス社)

Frederick Schleindl
(フレデリック・シュラインドル)]

[挿絵:
Schleindl and Dietrichens at a German party
(ドイツ人のパーティでのシュラインドルとディートリーヒェンス)]

シュラインドルの熱意は、
やがて別のドイツ系活動にも
彼を引き込んだ。

ドイツの大学時代、
彼には
アレクサンダー・ディートリーヒェンス
(Alexander Dietrichens)という友人がいた。

この男は後に、
ウィリッシュ(Willish)、
サンダー(Sander)、
グラス(Glass)、
リツィウス(Lizius)など
様々な名で知られるようになる。

いわゆる「リガ出身のロシア人」でありながら
ドイツ系の血を引く者で、
ロシアにおけるボリシェヴィキ運動に
多大な貢献をした人物である。

1915年、
ディートリーヒェンスが
アメリカにいることが分かり、
二人は友情を再び育んだ。

彼は祖国に尽くす意欲に燃えている――
と語り、
誰が連合国に軍需品を供給しているのか
さえ分かれば、
そうした者たちに対する
破壊工作を始めるつもりだ――
と言った。

その彼が示した標的が、
ウィルミントンの
デュポン工場だった。

ディートリーヒェンスは
シュラインドルに同行を求めたが、
感受性の強い
この若い銀行員には、
その勇気がなかった。

彼は私に、
「人が死ぬかもしれないと思ったら
涙が出てきてしまった」と
打ち明けている。

さらに彼は
ディートリーヒェンスに尋ねた。

「もし爆発で
誰かが死んだら、
俺に累が及ぶ可能性はあるのか?」

ディートリーヒェンスは、
「十分あり得る」と
あっさり答えた。

そこでシュラインドルは、
共犯になることを断った。

それでも彼は、
昼間の間だけ
友人の爆薬を預かるという形で
手を貸した。

銀行のロッカーや
机の下に
爆弾やダイナマイトの包みを
保管してやったのである。

ディートリーヒェンスの
主な隠し場所は
ニュージャージー州テナフライ近くの
人里離れた場所にあり、
そこは最寄りの建物から
ほぼ1マイルも離れていた。

だが、
シュラインドルを伴って
その小屋を訪れたときには、
そこはすでに
もぬけの殻だった。

シュラインドルは、
文書窃盗の罪で
起訴・有罪判決を受け、
不定期刑の判決を言い渡された。

ケーニッヒも同様の罪を認めたが、
ウェランド運河事件の方が
より重大であったため、
判決は保留となった。

シュラインドルやディートリーヒェンスの事件は、
小さな黒い手帳が
手がかりを与えた多くの事例のうち
ほんの二つに過ぎない。

手帳は、多数の名前を蓄えた
真の宝庫であり、
また、
アメリカ国内で展開された
ドイツの破壊活動において
最高位に立つ当局との
ケーニッヒの緊密な関係を
如実に示していた。

それはまた、
アメリカがドイツに対して
非難の声を高めていく際、
訴状に添えられる項目を
多く提供することになった。

その訴状こそが、
1916年の大統領「星条旗記念日演説」を
誘発することになったのである。

D‑Case 277 に「ホーン(Horn)」という名が
ただ一度記されていただけで、
ヴェルナー・ホーンが
1915年2月に
ヴァンスボロ橋の爆破を試みた事件の背後に
ドイツ政府の支援があったことが
判明した。

D‑Case 328 に「シュタール(Stahl)」の名が
載っていることは、
ルシタニア号に砲門が搭載されていたとする
虚偽の宣誓供述書に対し、
その報酬を支払ったのが
ケーニッヒだったことを示している。

D‑Case 316 の「キーンツレ(Kienzle)」は、
フランスおよびイギリス行きの船舶を
爆破しようとした事件に関与した人物であることが
分かっている。

D‑Case 357 の「ハモンド(Hammond)」という名は、
「捜査局(Bureau of Investigation)」が
スパイ活動や破壊工作の指揮に
主として従事していたとはいえ、
ときにはベルンシュトルフ伯爵のために
より繊細な用務を
受け持つこともあった――
という事実を明らかにした。

このときケーニッヒは、
「W.H. ベッカー」と名乗って
J.C. ハモンドを訪ねた。

ハモンドは作家・宣伝屋で、
ブロードウェイと34丁目の角に
事務所を構えていた。

ケーニッヒは彼にこう告げた。

「アメリカにいるドイツ人の立場からすると、
二つの新聞が
実に癪に障る
敵対的な態度を取っている。」

その二紙とは、
『ニューヨーク・ワールド(New York World)』紙と
『プロヴィデンス・ジャーナル(Providence Journal)』紙である。

両紙は、
戦争勃発直後に
アメリカが直面する問題について
はっきりとした論調を打ち出しており、
その後も
これを徹底して論じ続けた。

『プロヴィデンス・ジャーナル』紙は、
比較的小さな地方紙であったにもかかわらず、
戦争初期に、
驚くようなドイツ工作員告発記事を
次々と掲載した。

それらは、
信じがたいほどの
証拠書類を伴っていた。

その多くは、
良質ではあるものの
ときに英国側に好意的すぎる
情報源から得られたものだった。

他方、『ワールド』紙は、
政治的影響力の強い新聞であり、
いわゆる「大ネタ」の匂いを
嗅ぎ付けると
前面に押し出す癖があった。

この二紙の暴露記事は、
全米各地の新聞に
転載されていた。

当然ながら
世論に強い影響を与えることになり、
大多数の国民は、
誰の目にも最悪の行為を
しているように見えた国に対して
反感を抱くようになっていった。

これらの告発の一部――
当時、あまりに突飛に思えたため
ほとんど信じられなかったもの――は、
じつは真実であった。

アメリカに駐在するドイツ大使館の面々は、
その真実を一番よく知っていた。

そして、
新たな暴露記事が出るたびに
内心で身を捩らせていたのである。

『ワールド』紙には、
扇情的なニュース記事を
一面に大きく載せるだけでなく、
文書の写真を掲載して
その信憑性に色をつけるという
厄介な習慣もあった。

そこでベルンシュトルフ伯爵や武官たちは、
さまざまな微妙な手段を用いて
こうした報道を抑え込もうと試みた後、
最後の手として
ケーニッヒを呼び出し、
彼にハモンドのもとへの
「小巡礼」をさせたのである。

ケーニッヒはハモンドに対し、
二紙が今後用意している
暴露記事の内容を知りたい――と持ちかけ、
そのために
かなり大きな金額を提示した。

さらには、
二紙が保有する記事や宣誓供述書の一切を
自分に譲渡させることができれば、
ハモンドが金額を指定する
いかなる額でも
支払う用意がある――と伝えた。

この申し出は
受け入れられなかった。

ハモンドは、
ケーニッヒが後に提示した
「反ドイツ報道を沈黙させるための
10万ドル」の報酬にも
飛びつかなかった。

また彼は、
リントーレンが
アメリカから逃亡した際に
どこかに置き去りにした
重要書類入りトランクの在り処を
探るために
イギリスへ渡航してほしい――
という要請にも
応じなかった。

「ルイス(Lewis)」という名が
小さな黒い手帳の
別の案件に出てきたことで、
秘密情報部門の任務の幅は
さらに広いことが分かった。

当時、アメリカは
クラーグ=ヨルゲンセン小銃を
大量に保有していたが、
平時にそれほどの数を
必要とする理由はなかった。

ところが複数の外国政府は、
喉から手が出るほど
それらを欲しがっていた。

そうした「商業的独身者」たちは、
いわば「戦時の花嫁候補」である
これらの銃に
次々と求婚していたわけだが、
ことごとく失敗していた。

読者は、
この銃を巡る
ちょっとした騒ぎを
新聞で目にしたかもしれない。

その中で、
何人ものドイツ人が
購入交渉に関与したとして
非難の矢面に立たされていた。

新たな告発が出るたびに、
告発された当人は
即座に否定した。

やがて、
セルマ・ルイス(Selma Lewis)夫人が
仲介役として
取引に関わっていたことが明らかになり、
彼女は進んで
「購入者役」を
買って出た。

舞台裏には
フランツ・リントーレンがおり、
ドイツ政府の代理として
動いていたことが
後に判明した。

そして、この「ルイス」の名が
ケーニッヒの手帳に記されていた。

さらに我々が押収した
別の小さな住所録には、
ルイス夫人のフルネームと住所が
明記されていた。

これにより、
ケーニッヒが
フォン・パーペンやボーイ=エドのみならず、
ドイツの「破壊工作大使」である
リントーレンのためにも
動いていたことが分かったのである。

私は、ここまで述べれば
アメリカ政府が
ポール・ケーニッヒを拘束したとき、
ドイツのスパイ網の中で
最も活動的な男の一人、
そして最も風変わりな男の一人を
手中に収めたのだ――
ということがお分かりいただけると思う。

彼は、
肉体的には屈強であり、
精神的には
ドイツ流の俊敏さを備えた男だった。

彼は、
これまで出会った中でも
随一と言ってよいほど
絶対的な自己信頼を
持っていた。

そのことが、
彼の破滅を招いたのである。

もし彼が、
自らの局を
部下の忠誠心を育てるようなやり方で
運営していたなら、
もっと大きな成功を収めたかもしれない。

しかし彼は、
自分の仕事を
「一人芝居」と見なしていた。

そして部下たちを
自分のリズムに合わせて
「グースステップ(goose-step:ドイツ式行進)」させようとした。

もし彼が、
自らの行為が
我々にとってどれほど有益な証拠となるのかを
正しく理解していたなら、
きっと手帳には何一つ
書き残さなかっただろう。

だが結果は逆だった。

もしこの男が、
自分の手で
一つひとつの出来事を
微に入り細を穿つほどに
記録していなかったとしたら、
彼の活動が
いつまで続いただろうか――
誰にも分からない。

ナポレオンにはワーテルローがあった。

そしてポール・ケーニッヒには、
小さな黒い手帳があった。

同じく念入りな遠見の結果、
不屈の「xxx」は、
この手帳を
我々が最も見つけやすい場所に
置き残してくれたのである。

[挿絵:

_HEALTH RULES._  
(健康上の規則)

#1. I have decide to refrain from chewing tobacco in the
    office, as it disagrees with my health, thereby interfering
    with my work. (12-1-15)  
    (私は、オフィス内で噛みタバコをするのを  
    やめることにした。  
    それは私の健康に合わず、  
    仕事の妨げとなるからである。(1915年12月1日))

#2. I shall drink no more whiskey. (12-6)  
    (私は、これ以上ウィスキーを飲まない。(12月6日))


_HEALTH TABLE #1._  
(健康表 第1)

XI.  
9-12-14-17-17-21-23-24-25-28-28-  11

XII.  
1-3-5-8-9-11-13-16-

「P. K. の黒い手帳」のランダムなページ]

[挿絵:

         safeguarding of the Imperial German Embassy at Cedarhurst,
         L. I.  
         (ロングアイランド・シーダーハーストにおける  
          ドイツ帝国大使館の警備)

Sept. 1. Bureau was entrusted with the safeguarding of the
         offices of Commercial Attache Dr. Albert.  
         (9月1日 本局は、アルバート商務武官のオフィスの警備を  
          委ねられた。)

Oct. 26. Bureau was entrusted with the safeguarding of the
         offices of the Military Attache.  
         (10月26日 本局は、軍事武官オフィスの警備を  
          委ねられた。)

Nov. 12. Began first investigation for Austro-Hungarian
         Government.  
         (11月12日 オーストリア=ハンガリー政府のための  
          最初の調査を開始。)

Dec. 13. As 6.30 P.M. Captain von Papen, German Military
         Attache, received me at the German Club to express his
         thanks for the services which this Bureau have rendered
         to him. At the same time he bid me Good-Bye.  
         (12月13日 午後6時30分、ドイツ軍事武官フォン・パーペン大尉が  
          ドイツ・クラブで私と会見し、本局が彼に対して  
          行った諸々の服務への謝意を表した。  
          同時に彼は私に別れを告げた。)

Dec. 15. Bureau was entrusted with the safeguarding of the
         offices of the I. & R. Austro-Hungarian Consulate General.  
         (12月15日 本局は、オーストリア=ハンガリー帝国総領事館の  
          オフィス警備を委ねられた。)


_LIST OF_ _IMPORTANT CASES HANDLED._  
(重要案件一覧)

- 1913 -

C.#17. Investigation Re: Jersey City Wharfage Graft.  
       (C.#17 ジャージーシティ埠頭使用料不正捜査)

C.#24. Investigation of Baggage Department, Hoboken.  
       (C.#24 ホーボーケン手荷物部門の捜査)

C.#32. Chinese Stowaways on S.S. “PRINZ JOACHIM”, Voy. 77.  
       (C.#32 客船「プリンツ・ヨアヒム」第77航海における  
                 中国人密航者)

C.#40. Investigation Re: Thefts of Cargo on the Atlas Pier, New
       York City.  
       (C.#40 ニューヨーク市アトラス埠頭における貨物窃盗調査)

C.#41. S.S. “FRIEDRICH DER GROSSE”, Arrival at New York July 2,
       1913.  
       (C.#41 客船「フリードリヒ・デア・グロッセ」  
                 1913年7月2日のニューヨーク入港)

C.#49. Charges Made Against W. Barbe, Chief Officer, S.S. “CARL
       SCHURZ”.  
       (C.#49 「カール・シュルツ」号主任航海士  
                 W・バルベに対する告発)

C.#54. Investigation Re: S.S. “PRINZ FRIEDRICH WILHELM”,
       Arrived at New York on June 3.  
       (C.#54 「プリンツ・フリードリヒ・ヴィルヘルム」号  
                 6月3日ニューヨーク入港に関する調査)

C.#67. Fire on Board S.S. “IMPERATOR” on August 28.  
       (C.#67 8月28日「インペラトール」号の船内火災)

C.#69. Fire Patrol on S.S. “IMPERATOR”, & etc.  
       (C.#69 「インペラトール」号火災パトロール、その他)

C.#70. Max Ludwig Thomsen, Alias Thomspson.  
       (C.#70 マックス・ルードヴィヒ・トムゼン、別名トンプソン)

C.#95. Charges Against Paul Koenig.  
       (C.#95 ポール・ケーニッヒに対する告発)

「P. K. の黒い手帳」のランダムなページ]

この手帳は、
その後の情報価値とは別に、
今となっては非常に貴重な読み物でもある。

そしてそこには、
当のヴェストファーレン人本人にしか
解き明かせない謎が一つ
含まれている。

「健康上の規則」と題されたページには、
こう記されている。

「第1条 私は、オフィス内で噛みタバコをするのを  
         やめることにした。  
         それは私の健康に合わず、  
         仕事の妨げとなるからである。(12‑1‑15)

 第2条 私は、これ以上ウィスキーを飲まない。(12‑6)」

これを見ると、
彼が模範的生活の
実利的価値を
理解していたことが窺える。

しかし我々は、
「健康表」と題されたページについては
彼の説明を待たねばならない。

そこにはこうある。

「XI

9‑12‑14‑17‑17‑21‑23‑24‑25‑28‑28.


XII

1‑3‑5‑8‑9‑11‑13‑16.」

「XI」は明らかに
1915年11月を指しており、
「XII」は12月である。

では、
この正確に列記された日付に
彼は何をしたのか?

もし、17日と28日に
二度ずつ同じ誘惑に負けたとすれば、
それはどんな誘惑だったのか?

もし、
自らの行いを逐一タイプで書き留めるような
あの良心が、
ふとたるんだ瞬間があったとするなら、
その後悔が
こうした「逸脱の記録」を
手帳に書き加えさせたのだろうか?

さらに言えば、
ここに記された日付の一つ一つが、
ポール・ケーニッヒが
11月に10回、12月に8回、
「新しい健康規則」を破り――

すなわち、
「勤務時間中に噛みタバコをした」
ことを意味している可能性があるのだろうか?

我々は、
辛抱強く待つしかない。

いつの日か、
彼のヴェストファーレン的良心が
この謎に答えてくれるかもしれないのだから。

III

PLAYING WITH FIRE
(火遊び)

犯罪の予防と捜査という仕事は、大部分が、人が人をどれだけ信用できるかにかかっている。だからこそ、「スツール・ピジョン(密告屋)」は、事件で味方にしてみても、どうにも落ち着かない存在なのだ。犯罪者とつるんでいながら、その仲間を売っている人間が、同時にこちらの事件をも売っていない、とどうして言い切れるだろうか。彼の一味は、密告したことで彼を憎み、彼の証言は裏切り者の証言であり、とても頼れる相手ではない。ここでその点に触れたのは、私が昔から、密告屋の利用をできるだけ避けてきたからであり、これから語る話が、「信用できる一人の男」でどこまでできるかを示す例になるからである。

この話の本当の始まりは、今からおよそ二十年前にさかのぼる。1900年の春、ニュージャージー州パターソン出身のイタリア人、ブレシアという男が、ニューヨーク・エリザベス街の一軒家で開かれたアナーキスト(無政府主義者)の集会に出席した。そこには二派がいた。便宜上、一方を「進歩派」、もう一方を「不活発派」と呼ぶことにしよう。ブレシアは不活発派を罵倒し、臆病者だと非難し、あまりに大きな内輪もめを引き起こしたため、警察の手入れを恐れて集会はお開きになり、何人かのメンバーは報復として、ブレシアを「警察のスパイだ」と告発した。彼はイタリア行きの船に乗り、7月29日、小さなロンバルディアの町モンツァで、「善良王ウンベルト」と呼ばれたウンベルト1世を暗殺した。アメリカへ打電されたこのニュースは、一般市民には当然の悲しみをもって迎えられたが、ブレシアを裏切り者と呼んでいたアナーキストたちは大喜びした。すぐに執行された死刑は、彼を“殉教者”にした。その栄誉をたたえ、彼らのグループは「ブレシア・サークル」と名乗るようになった。

1914年までに、このサークルの会員は600人近くに達していた。実に雑多な連中だ。イタリア人、ロシア人、ロシア系ユダヤ人、ドイツ人、オーストリア人、スペイン人、アメリカ人――男女混成である。主だった指導者たちは、扇動演説のうまさで群衆の中から頭角を現した連中で、手を動かすより口先ひとつで食っていけるほうが楽だと悟ってしまったような人間だった。爆弾班は、彼らの活動や習性をある程度把握していた。過去のアナーキスト事件の経歴から、いくつかの名前がくっきりと浮かび上がっていたからだ。彼らが爆弾を好むことも分かっていたし、警察の記録には、こうした扇動家の煽情的演説に触発されて暴力に訴えたアナーキストの例が山ほど残っている。彼らの偶像フランシスコ・フェレールが、スペインで暴力を説いたのと同じ筋道である。

ヨーロッパで戦争が勃発すると、その地からアメリカに移住してきた者が多かったこのグループは、その戦争がもたらすであろう社会混乱の「前途有望さ」に少なからず興奮した。活動的なメンバーは、ニューヨーク・セントラル鉄道の高架線路の東側にある、みすぼらしい地区のボロ家――東106丁目301番地――の地下室に定期的に集っていた。集会はたいてい日曜に開かれた。平日は働いている会員が多かったからだ。そこでは、悪名高いアナーキスト、エマ・ゴールドマン、ベッキー・エデルソン、フランク・マンデーゼ、カルロ・トレスカ、ピエトロ・アレグラといった連中が演説をしていた。一般の人にはほとんど馴染みのない名前だろうが、警察にとっては「昔なじみ」の連中である。ときどき、マサチューセッツ州リンのアナーキスト紙の編集者ガリアーニもこの地下室にやってきては演説し、プランケット、ハリー・ケリー、アレクサンダー・バークマンらも、この輪の常連だった。

1913–1914年の冬は、産業不況の冬だった。急進的な労働者の多くがI.W.W.(世界産業労働者組合)に集結し、失業者もまた、すすんでその中に加わっていった。アナーキストとI.W.W.の手法はよく似ており、「不穏」を唱道する者たちは、両方の旗の下に集められた。冬の終わりごろになると、デモが起き始め、増え続け、ついには3月、フランク・タネンバウムという若者(後にエマ・ゴールドマンのお気に入りとなる)が、I.W.W.の群衆を率いてセント・アルフォンスス教会に押し入り、「食べ物をよこせ」と要求した。警官は彼らが教会内に入りきるのを待って扉を閉め、全員を逮捕した。これは、その後もさらに問題が起きそうだと予感させる出来事の一つに過ぎなかった。I.W.W.とアナーキストのあいだに、教義上の微妙な違いがどうあろうと、それは紙の上の区別に過ぎなかった。両者の「実績」を見れば、アナーキストの皮を剥げば、その下にI.W.W.がいるのが大体見当がついたものだ。

アナーキストたちは、どこかから戦争勃発の報を嗅ぎ取っていたのかもしれない。7月になると、連中の何人かは、やけに行動的になり始めた。独立記念日(7月4日)には、マンデーゼがタリタウンで逮捕された。ジョン・D・ロックフェラー邸とその本人の、あまりにも近くでの話だ。同じ日、ブレシア・サークルの一員であるカロン、バーグ、ハンセンの三人は、レキシントン街と104丁目の自室で爆弾の仕上げに取り組んでいたが、装置が早くも爆発してしまい、三人とも死亡した。その爆弾はロックフェラー一家を狙っていた。こうした出来事の報を少しでも秩序を尊ぶ人が読めば、当然身の毛もよだつ話である。だが、それをアナーキスト自身の立場から評価してみると、様相は別の意味を持ってくる。一件は死者を出し、マンデーゼの事件は逮捕という結果にはなったが、いずれも「騒ぎを起こす」という点では成功だったのだ。アナーキストは、秩序を嫌うと同じくらい、騒乱を好む。なぜなら、不穏は伝染し、運動への新しい加入者を意味するからだ。

したがって、我々に課された務めは、こうした騒動を、発生源にさかのぼって徹底的に捜査することだった。そして我々は、爆弾班の刑事を一人、ブレシア・サークルの内部に「潜り込ませる」ことにした。

彼は英語しか話さなかった。社交には便利だが、106丁目の地下室の「内輪」の話を理解する鍵にはならない言葉だ。名うての扇動家たちが、何か本当に重要な相談事をするときには、イタリア語を使った。だから、我々の男には、盗み聞きができなかったのだ。あるいは、彼が少し張り切り過ぎていたのかもしれない。二度もサークルに「スパイ容疑」で「裁判」にかけられたからだ。二度とも彼は無罪放免となった。しかし、敵対派が三度目の正式な「告発」を起こすと、アナーキストたちは「証拠はないが疑いは濃い」という理由で、「こいつは外に出したほうがいい」と判断した。こうして、彼は追い出された。

10月3日、アナーキストたちはハーレム・カジノでエマ・ゴールドマンをたたえる盛大な舞踏会を開き、その席上で「10月13日にフォワード・ホール(イースト・ブロードウェイ)で記念集会を行う」と発表された。フランシスコ・フェレール「暗殺」記念日を祝う、という名目である。演説者レナード・アボットは、聴衆に向かって「フェレールの死にはカトリック教会が責任がある」とも付け加えた。10月12日午後5時、セント・パトリック大聖堂北側通路で激しい爆発が起きた。それはアナーキストの爆弾だった。身廊には多くの信者が参列しており、パニック状態になったが、幸いにも、祭壇の破片を顔に受けた若者一人を除き、負傷者は出なかった。翌13日の深夜、セント・アルフォンスス教会の司祭館前の通路に仕掛けられた爆弾が爆発し、司祭館の窓という窓と、向かいの家の窓をすべて吹き飛ばした。どうやらフェレールの「暗殺記念」は、連中なりに「相応しく」祝われたらしい。

状況は、看過しがたく不穏だった。どうにかして爆弾投擲に終止符を打たなければ、アナーキストどもはますます大胆になり、自分たち以外の誰かを殺し始めるだろう。当然、我々としては可能な限り多くの証拠を押さえたかったが、その時点までに入手できた証拠ですら、すでに二件の凶行を防げなかったのだ。おそらく証拠の宝庫となる場所は相変わらずブレシア・サークルだと我々は考えた。なぜなら、そこが、犯行を企てたと信じられる分子の、主要な組織であり本拠地であったからだ。そしてここで、再び「スツール・ピジョン」という問題に戻らねばならない。

理屈の上では、サークルの内部から密告者を雇うことも不可能ではなかっただろう。だが、もし私が、その男の証言だけに頼らざるを得ない立場になっていたとしたら、とても安穏とはしていられなかっただろう。爆弾というものは、こちらが調べ終えるまで待っていてくれたりはしないのだ。ブレシア・サークルに人間を「植え込む」ことは、一度やってもうまくいかなかった。だが私は、工夫しさえすれば成功すると確信していた。そこで、局内の候補者5、6人の中から、アメデオ・ポリニャーニを選び、この仕事を任せることにした。

彼は若いイタリア人刑事で、寡黙で、体はがっしりしており、物静かで目立たない男だ。そしてイタリア語ができる。

「今からお前の名前はフランク・バルドだ」と私は言った。「自分が刑事だということは忘れろ。ロングアイランド・シティで肉体労働の仕事を探せ。表向きの“生活”としてな。お前はアナーキストだ。ブレシア・サークルと、関係するほかのグループに入会しろ。そして毎日、私に報告するんだ。古株たちはお前を疑うかもしれないし、後をつけるかもしれない。だから、お前がいつ電話をかけ、私はどこでいつ会うか、あらかじめ取り決めておいたほうがよい。」

我々は、この任務に関して考えうるあらゆる角度を検討し、ポリニャーニの立場が怪しまれる原因となりうる、あらゆる偶発事故――やるべきこと・やってはいけないこと――を先回りして潰していった。彼には、一定の時間に、内線の秘密番号へ電話をかけるよう指示した。その際は必ず、一般商店などにある公衆電話からかけること。しかも、その店には電話ボックスが1つしかないこと。そうすれば、誰かが尾行してきても、隣のボックスから薄い仕切り越しに会話を盗み聞きされる心配がないからだ。彼は控えめな態度を貫き、与えられた役になり切ること。おだやかで人当たりのよい彼の性格は、きっと新参者への疑念を解く助けになるだろう。そして、仮装の精神に完全に没入してしまえば、そのうち重要な情報が自然と引き出せるようになるはずだ。最優先の任務は、10月の二つの爆弾事件の犯人に関する証拠を見つけること。第二に、アナーキストたちの活動および意図全般を網羅すること。第三に、目と耳を開き、口を閉じること――そして、どんな緊急事態にも自分で対処することだった。

[Illustration:

Copyright, by International News Service

Carmine and Carbone in Court
(カーミネとカルボーネの法廷での写真)]

小説ではよく、男が遠い国へ旅に出て、どこかの航海の途中で古びたスーツを脱ぎ捨てるみたいに自分の正体をかなぐり捨て、その後の数年間を別人として冒険し続ける――といった話がある。映画では、娘が男装して、フィルムが何百フィートにもなるあいだ、他の出演者たちを見事にだまし続けるくらい、朝飯前だ。だが、自分の管轄区域の外に一歩も出ず、変装も使わず、奇跡的な力にも頼らず、半年間、自分の名前と人間関係を完全に捨て去り、アメリカで最も厄介なアナーキスト集団の一つについての情報を、記録に――ひいては警察組織の「効率」に――大きく貢献する規模で積み上げてみせたのは、ニューヨーク市警の刑事が初めてだった。

彼はブロンクスの小さな家族に別れを告げ、ロングアイランド・シティの工場で肉体労働の職を得て、サード・アヴェニュー1907番地の安下宿に部屋を借りた。11月じゅう、彼はブレシア・サークルの集会に通い続けた。そこで耳にしたのは、政府や組織宗教を倒すだの何だのという過激な演説ばかり。だが、その裏で、彼は地形を頭に叩き込んでいった。彼から話しかけてくる会員には丁寧で友好的に接したが、そう多くはなかった。重要メンバーらはいつも部屋の隅にたむろし、小声でひそひそ話をしており、新入りがその「ご内聞き」の輪に招かれることはなかった。だから彼はひたすら黙って、名前と顔を覚えていった。そして、やがて機会が訪れた。

11月30日、ポリニャーニは、カルボーネという若いイタリア人靴屋に目をつけていた。彼はサークル内でちょっとした影響力を持っているように見え、その判断は次の二度の日曜夜にも裏づけられた。カルボーネが、フランク・マンデーゼとカンパニエリという男と、ささやき声で話し込んでいるのを見かけたからだ。翌週の日曜、例の三人がまた「密室会議」をしているとき、部屋の別の場所で取っ組み合いのレスリング遊びが始まり、カルボーネがそちらのほうに顔を向けた。ポリニャーニは、何人かの男を軽々と投げ飛ばしていた。短い勝負のあとで、髪をなでつけていると、カルボーネが肩をたたいて言った。

「強いじゃないか。ブレシア・サークルのメンバーになってくれて、嬉しいよ!」

刑事はにっこり笑い、二人は話を始めた。会が終わってからも、サード・アヴェニューを一緒に歩きながら話を続けた。

「あいつらの悪いところはな」とカルボーネは言った。「口ばかり達者で、ちっとも行動しねえ。何もやりゃしない。」

「まったくだ」とポリニャーニも同意した。

「爆弾を二、三発ぶちこんで、警察に思い知らせてやりゃいいんだ」とカルボーネは続けた。「やつらを目覚めさせてやるのさ! ほら見ろよ。」彼は右手の5本指の「根元」だけになった手を持ち上げた。「これは爆弾を作ってたときにやっちまったんだ。今度、お前にも作り方を教えてやるよ。」

この「約束」は、ポリニャーニには願ってもない展開だった。彼は、退屈な「待ち」の時間をようやく打ち破る手がかりをつかんだのだ。その「待ち」の最中には、11月11日にブロンクス郡裁判所前で起きた謎の爆弾爆発も起こっていた。彼は、支配階級・法・秩序・教会に対する延々たる罵倒演説を聞き続け、セント・パトリックとセント・アルフォンススへの爆弾が「弱すぎた」と仲間を叱り飛ばす話も聞いた。また、ダイナマイトを使うつもりの会員に対し、「あまり多くの人間に打ち明けるな」と忠告する演説も聞いていた。そのカルボーネが、いま「バルド」に向かって、自分から機密を打ち明けてきたのだ。刑事は、この男との仲をとことん深める決意を固めた。

以下の手帳抜粋は、その知り合いがどう熟していったかを物語っている。

「その後、カルボーネに会ったのは、27日の日曜日までなかった。この日、彼はフランクという友人のことを話し、もしアナーキストが皆この友人のような人間だったら、大したものだ、と言った。彼は、爆弾を作り投げることなど何とも思っていないという。1月1日午後1時45分ごろ、カルボーネは約束どおり私に会いに来た。二人で失業者集会の開かれている場所へ行き、ルイーズ・バーグ、マンデーゼ、ビアンコと握手を交わした……。それから彼は私を友人フランクに紹介した……。」

ここで第三の共謀者が登場する。フランク・アバルノ。25歳。出生地はイタリア、サン・ヴェッレである。将来有望な新会員にとって、紹介が済むや否や、その新会員の生活には新たな「躍動」が生まれ始めた。1月3日、カルボーネは、演説が終わった後にポリニャーニを会場の外に連れ出して言った。

「125丁目の駅まで行こうぜ。あそこなら暖かいし、誰にも邪魔されねえ。爆弾の作り方を教えてやるよ。」

レキシントン街を上りながら、カルボーネは、長さ2インチほどの雷管をいくつか必要だと説明した。ダイナマイトはいくらでも手に入る――田舎の請負業者をしている叔父のところからだ。「ダイナマイトを手に入れて、お前とフランクと俺とで、教会をぶっ壊すのさ。分かるか?」

「もちろん」と刑事は答えた。「どの教会だ?」

「セント・パトリックが一番だ。この前みたいなんじゃなく、今度こそ“上物”をやるぜ。」

「こないだマンデーゼが言ってたのを聞いたか?」とポリニャーニが聞いた。「あいつ、誰かと口論になっててな、相手が『仕事をくれねえなら、爆弾でも投げてやる』って言ったんだ。そしたらマンデーゼが、『お前の投げる爆弾は、口から出るやつだけだろ』って返して、相手が『じゃあ、お前はどんな爆弾を投げるんだ?』って聞いた。するとマンデーゼがこう言ったんだ。『マディソン・スクエアと、あの二つの教会に飛んだやつさ。分かるか!』ってな。」

どうやらカルボーネは、これまでの爆発の“出来栄え”には満足していなかったようだ。彼はこう言った。

「ふん、あんなのは出来損ないさ。カロンとバーグとハンセンを吹き飛ばした爆弾は、作り方がまずかったんだ。巻き方をきつくし過ぎた。それで早く爆発しちまったのさ。俺なら、ベッドの柱の真鍮玉を使って爆弾を作って、ひと暴れさせてやる。」

二週間が過ぎたころ、カルボーネはアバルノを連れて、ブレシアの集会場に現れた。彼らはポリニャーニを手招きし、三人でサード・アヴェニューを歩いた。アバルノはアナーキズムをまくし立てていたが、ふいに、「セント・パトリックに行って、ファーレイ枢機卿を一人のときに見つけて、絞め殺してやりたい」と言い出した。この「優しい魂」は、続けてこう言った。

「カルボーネ、お前が爆弾を作れ!」

「雷管を手に入れられれば、大聖堂を地上から丸ごと吹き飛ばす爆弾を作ってやるさ。雷管が手に入らなきゃ、別の種類のを作るしかないがな。」

「とにかく二つ作れ」とアバルノ。「朝6時ごろ、教会の外で爆発させよう。そうすれば、きれいに逃げられるし、ちゃんと出勤時間にも間に合う。誰も違いなんか気づきやしねえ。」

カルボーネはアバルノに硫黄を買ってくるよう頼み、ポリニャーニには、「Collorate di Potase, 1 lb.」と「Andimonio」と書いた紙切れを渡した。「バルド、お前はこれを薬局で買ってこい」と言った。

「バルド」は言われた通りにし、数週間後には材料が揃った。カルボーネは、ポリニャーニにアバルノを訪ね、爆弾製造についての小冊子を借りてくるよう指示した。2月4日午後6時ごろ、アバルノは刑事にパンフレットを渡し、自分はスパゲッティを買いに出かけた。7時半にカルボーネと会う約束になっていたのだ。ポリニャーニの姿が見えなくなるや否や、私は電話を受けた。彼は駆け足で公衆電話に向かい、私に連絡を入れたのである。私はすぐに本部で彼と会い、小冊子を写真係に渡した。係はただちに、ページの複写撮影に取りかかった。猶予は短かった。撮影が終わらないうちに、私は本をポリニャーニに返さねばならなかった。リンカーンの誕生日(2月12日)には、カルボーネが再び本を「うちの男」に「勉強用に」と渡しており、そのおかげで、今度はすべてのページの撮影を完了する時間が十分に取れた。

[挿絵:

【器具(ISTRUMENTI)】

中古のはかり            リラ 8.00
温度計                〃 2.50
計量器具(メス類)          〃 3.00
ガラスのフラスコ           〃 6.00
ガラスのろうと三個とガラス棒三本   〃 2.00
アルコールランプ           〃 1.00
30~35リットル入りの木製たらい一つ  〃 3.00
雑費および不測の支出         〃 20.50
                 ────────
                合計 リラ 46.00

 これらの作業に取りかかろうとする者には、まず第一に、必要な金をきちんと工面しておくよう勧める。さもないと、途中で足が止まり、物事を引き延ばして、無用な危険に身をさらすおそれがあるからである。

 また同じ人びとには、警察の注意を引かないために必要なあらゆる予防策を怠らぬよう勧める。公然たる宣伝活動で目立つことのないようにし、顔の知れた仲間と一緒にいるところを人目にさらさないこと、そして捜索を受けるおそれのある家では、決して作業をしないこと。

 とりわけ勧めておきたいのは、「作ること自体を楽しむため」に爆発物を製造しないことだ。既製のものが手に入るなら、それで十分であり、自分には専門家のような経験も手段もないのに、わざわざ自分で作ろうとするのは無益であり、愚かしい。ダイナマイトを入手できる場所――しかも今日ではほとんどどこでも入手可能なのだから――で、なぜわざわざ自分で製造しようとするのか?

 さまざまな爆薬、さまざまな爆弾などの中からは、それぞれの者が自分にとって最も扱いやすく、実際的なものを選ばなければならない。そして常に、次のことを忘れぬよう心に刻んでおくべきである。
 =実行に移された小さなことのほうが、計画のまま終わった大きなことよりもまさっている。=

 ――13――

 (前略)しかるべく対象物のまわりにしっかりと針金で固定し、起爆用の装置を取り付けて土をかぶせれば、地雷は準備完了である。これ一つで、約半メートルほどの破壊が生じる。より広い範囲を破壊したい場合には、この種の地雷を何個も、適当な間隔をあけて設置し、それぞれに同じ質と長さの導火線を備えつければよい。導火線の端を一か所にまとめておけば、一度に点火することで、すべての地点で同時に爆発させることができる。
 線路の分岐器――すなわち複数の線路が交差している地点――を吹き飛ばすには、この方法がしばしば有利である。
 蒸気機関車やその他の蒸気機関を使用不能にするには、内部の重要な管の中で小規模な爆発を数回起こすだけで十分である。

【爆弾(BOMBE)】

 爆弾とは、爆発物質を詰めた金属製の容器であり、爆発によって破片に砕け散り、その周囲の者を傷つけるものである。形はどのようなものであってもかまわないが、球形がもっとも効果的である。
 起爆の方法としては、点火後すぐに投げられるような速燃性の導火線付き雷管を用いることができる。また、容器の周囲一帯に雷管やその他の装置を取り付け、落下の衝撃によって起爆薬がはじけ、それが本体の装薬に火をつけるようにすることもできる――いわゆるオルシーニ型のものがその例である。

 爆弾の効果は、装薬がそれを破裂させるに足る力を持っているかぎり、金属が頑丈であればあるほど大きい。したがって、もっとも適した金属は鉄または鋼であり、その次が銅、真鍮、青銅、さらにその次が鋳鉄、最後に、すずとの合金を含めた亜鉛である。鉛は用をなさない。
 (以下、殻の厚さなどの説明が続く)

 ――39――

Pages from the bomb-thrower’s textbook
(爆弾投擲者用教科書のページ)]

その翻訳を見たとき、私はカルボーネがなぜ爆弾製造にあれほど詳しいのか、はっきりと悟った。

表紙には「La Salute e’ in voi!」――「健康は君たちの中にある!」とあった。おそらく、この小冊子が作られた「兄弟団」に向けた乾杯の文句なのだろう。全60ページほどで、判型はおよそ4×8インチ、イタリア語できれいに印刷されていた。内容は、爆弾の作り方を一から手ほどきする「教科書」以外の何ものでもなかった――言ってみれば、アナーキスト向けの「礼儀作法ガイド」だ。その手順はあまりにも正確で、社会の平穏のためを思えば、ここにその詳細を再録するのは控えねばならないほどである。しかし、次に示す索引を見れば、はるかイタリアで匿名の著者たちが、どれだけ徹底的にこのテーマを扱っていたか、おおよその見当はつくだろう。

「索引――
基本原理(First principles) 1
器具(Instruments) 7
操作(Manipulation) 8
爆発物(Explosive material) 11
火薬(Powder) 14
ニトログリセリン(Nitroglycerine) 14
ダイナマイト(Dynamite) 20
雷酸水銀(Fulminate of mercury) 23
綿火薬(Gun cotton) 27
導火線の作り方(Preparation of fuses) 31
雷管と爆竹(Capsule and petard) 34
爆薬の応用(Application of explosive materials)35
爆弾(Bombs) 39
発火剤(Incendiary materials) 44」

この本は、実に正確――そして非常に実用的だった。困窮するアナーキストたちへの助言の一節を引用しよう。

「この種の仕事に手を染めようとする諸君には、何よりもまず、必要なだけの金を手に入れるよう、強く勧める。さもなくば、道の真ん中で立ち往生し、長い苦労がすべて水の泡になる危険を負うことになる。

同時に、警察の注意を引かぬよう必要な予防策を決しておろそかにせず、大衆の中に混じって目立たぬようにし、有名な仲間と一緒にいるところを見られぬよう心がけるべきである。また、必要なとき以外は、家の中で仕事をしてはならない……

作業は、よく換気され、煙突の具わった部屋で行うべきであり、誰か入ってきたときには物を隠せるような調度にしておくこと。この部屋は、いつも匂いの問題があるため、家の最上階にあるべきだ……

何よりもまず、ただ作ること自体を楽しみとする目的で爆薬を製造してはならぬと勧告する。必要以上のことをするのは、まったく無用であり愚かである――とりわけ、その道の職人が持っているような経験も適切な手段も、何一つ持たない場合には。ダイナマイトを手に入れられる土地――そして今日では、ほとんどどこでも手に入る――で、わざわざ自分で作る必要がどこにあるのか。

さまざまな種類の爆薬・爆弾等の中からは、それぞれの者が自分にとって最も扱いやすく、実際的なものを選ばなければならない。その際、いつも忘れてはならないのは、「大事業を計画して頓挫させるよりも、小さな事をやり遂げるほうがよい」ということである……。」

小冊子には、必要な器具一式と、そのおおよその価格が記されていた。また、使用すべき化学薬品について、こう書いてあった。「使用する材料は、十分に純粋なものでなければならない。化学品および薬剤の販売業者から入手できるが、同じ店で一度にすべてを買わぬことが望ましい。そうしないと、何を作ろうとしているかを店主に悟られてしまうからである……。」さらに、爆薬の相対的な威力については、次のような説明がなされていた。「各種爆薬の相対的威力は、次のとおりである。散弾銃用火薬の威力を1とすると、同量の『パンカラスタイト』は6、ダイナマイトは7、乾燥綿火薬は9(50%の硝酸塩を含む場合は5)、ニトログリセリンは9、雷酸水銀は10または3½、ニトロマンニットは11……。ここで名を挙げた他の爆薬――メレニット等――はすべてニトログリセリンを基剤としており、その威力はニトログリセリンを上回ることはない。」

ニトログリセリンの製造法に関する説明――読むだけで髪の毛が逆立つような代物だ――のあとで、編者はこう結んでいる。

「……冷えている状態で使用する限り、世間で言われているほど危険ではない。もし誰かアメリカの製造業者が、衝撃に対する感受性を弱めるために、ニトログリセリンを凝固させる手段を考案してくれれば、それは大いなる貢献となろう。そうなれば、安全に鉄道輸送することも可能になるはずだ。」

綿火薬については、こう述べている。

「瞬時に点火するため、最も速く燃える導火線を用いるのが良い。例えば、人に向かって投げるための爆弾に用いる場合であれば、より合わせたひも状のものを使えば十分である、云々。」

小冊子には、挙げられている爆薬の家庭実験室的な製法が、細大もらさず説明されており、挑戦しようとする実験者に対しては、各物質の「気まぐれさ」について、きわめて平易かつ強い言葉で警告がなされていた。彼は、1ヤードあたり8時間で燃えるひも状導火線、6時間で燃える導火線、火花が端に触れてから爆薬に達するまで2時間かかる紙製導火線、1メートルあたり15秒燃えるもの、3分燃えるもの、そして最後に、「電気と同じ速さ」で燃焼する瞬間導火線の作り方を教えていた。これについては、

「通過列車の下に仕掛けた地雷や、人の集まり、騎兵隊の下に仕掛けた地雷を起爆するなど、多くの重要な用途に供することができる」

と記されていた。

爆破したいのが壁なら、必要な爆薬量を簡単な算数で計算する方法が載っている。橋なら「壁の二倍の装薬」を要するとして、橋の弱点まで図示されていた。電話・電信の柱や電線、道路の格子(グレーチング)、路面電車の線路、機関車、ボイラー――いずれも「注意を払うべき対象」として説明されていた。「爆弾に適した容器を見つけるのは、とても簡単だ」と著者は続ける。「たとえば、大きなインク壺や、印刷用プレスに使われる真鍮製の取っ手……。ある種の目的には、ガラス瓶も爆弾として役に立つ――窓から投げ落とすのにちょうどよい……。壊れやすいガラス瓶に、この溶液(発火用混合物)を満たせば、軍隊や官吏の集会に向けて投げつけるのに便利な焼夷爆弾が出来上がる。窓から軍隊に浴びせかけることもできるし、コップやバケツからぶちまけることもできる……。」

私は時々思うのだが、サラエボのガヴリロ・プリンチプは、この本を読んだことがあったのだろうか。あるいは、この本自体が、元はドイツ語で書かれたものをイタリア語に翻訳したものだったのかもしれない。

この邪悪なテキストを持っているという事実だけで、所有者がろくでもないことを企んでいることは容易に想像がつく。とりわけ、その所有者が、アナーキストの集団の中で気まぐれな性格を持ち、すでに何かを破壊する意図を口にしていた男であれば、なおさらだ。爆薬のようなデリケートな物質を扱う人間たちが、単なる口伝えの「聞きかじり化学」だけでここまでやれるとは考えにくいのだから、どこかにこうした「教本」が存在しているに違いない――と我々は推測していた。だが、率直に言えば、この小冊子を初めて目にしたときには、我々が追っていた男たちの企てが、一気に「現実味」を帯びて迫ってきた。私は、いつ救急車の出動要請が入ってきて、「早すぎる爆発」の残骸の中からポリニャーニを拾い出しに行かねばならなくなるか、分かったものではなかったし、彼からの電話報告を受けるたびに、「今度はどんなニュースだろう」と、一瞬身構えずにはいられなかった。刑事本人は至って冷静で、こいつは手ごわい敵だが、確実に尻尾をつかみつつあるという事実に、むしろ興奮していた。過去の爆発に関する証拠の問題は、もはや背景に退きつつあった。ブレシア・サークルが政治的な単位としてどんな活動をしているかよりも、カルボーネを含む三人のメンバーが、「andimonio(アンチモン)、collorate di potase(塩素酸カリ)」とパンフレットを手に、いかにカトリック教会への憎しみを燃やしているか――それこそが、我々の最大の関心事となっていた。

カルボーネがこの憎悪をどれほど抱いているか、ポリニャーニは何度も目の当たりにしていた。ある寒い夜、二人がハーレム駅近くを歩いていると、二人の慈善修道女が通りかかった。カルボーネは、その足元に唾を吐き、罵声を浴びせた。そんな男だから、聖バレンタインの日(2月14日)の夜に、アバルノが「三人でセント・パトリックの大聖堂に爆弾を仕掛けようじゃないか」と提案したときも、刑事はさほど驚かなかった。

「近いうちに行って、どこが一番いい場所か下見してこよう。で、うまい祝祭日に仕掛けるんだ。たとえば3月21日とかよ、どうだ?」

「その日って何だ?」とポリニャーニ。

「コミューンだよ!」とアバルノが答えた。

ポリニャーニはアンチモンと塩素酸カリを買ってきた。その後の会合で、カルボーネがアンチモンをハンマーで砕こうとするのを、彼は不安な気持ちで見守った。しかし、それは骨の折れる作業だったので、「バルドよ、お前が粉末になってるやつを、ちょっとだけ買ってこい」と指示が出た。そうして、三人は英語圏の下宿屋――29丁目あたり――で爆弾製造用の部屋を探していたが、いい場所が見つからず、最終的にサード・アヴェニュー1341番地の家具付きの部屋を借りた。そこに、12ヤードの銅線、ガラクタでいっぱいのトランク、工具、導火線、各種薬品などを運び込んだ。さらに中空の鉄球をいくつか手に入れたがっていたが、そんなものはそう簡単に見つからず、最終的にブリキ製のハンドソープ缶3個で代用することにした。2月27日、ポリニャーニとアバルノは、セント・パトリック大聖堂の下見に出かけた。階段を降りる途中で、アバルノはこう言った。

「カテドラルを片付けたら、次はカーネギーの屋敷だな。90丁目と5番街の角だ。その次はロックフェラー邸だ。」

「3月21日までなんて、待ってられねえ」と彼は言った。「さっさと片付けようぜ。そうだな、火曜の朝ってことにしよう。」

[Illustration: A postcard received by Commissioner Woods after the
arrest of the Anarchists
(アナーキスト逮捕後にウッズ本部長が受け取った絵はがき)

メッセージにはこう書いてある:

「ウッズ殿
親愛なる閣下

あなたの警察によるスパイ行為は、あなた方の破産した『法と秩序』社会を維持するためなら、どこまでも行なわれることでしょう。
ニューヨークのアナーキストたちには、世界中の人類と人間解放の理想のために捧げるべき命が、ただ一つあるのみです。
敬具
絶対自由と人間解放の普及協会より……」]

翌日正午前、三人の陰謀者は、家具付きの部屋で楽しげに作業に没頭していた。アバルノとカルボーネは、硫黄・砂糖・塩素酸カリ・アンチモンの分量を慎重に計量し、カルボーネが缶に混合物を詰めて、導火線をその中心に差し込んだ。彼はときおり顔を上げて、ポリニャーニを誇らしげに見上げた。「どうだ、バルド。これがプロの仕事ってやつだ」と言わんばかりだ。「バルド」のほうも、自分の「持ち分」をきちんと提供していた。鉄の棒を数本持ち込んでいたのである。カルボーネは、これらを紐で缶の外側に括りつけ、引き出しの中で見つけたボルトや、ねじ曲げたコートハンガーも巻きつけた。その上から銅線でぐるぐると巻き上げ、二つの重く締まった爆弾を作り上げた。缶のふたに導火線用の穴をあけ終えたとき、カルボーネが何気なくハンマーを手に取り、缶をトントン叩き始めたものだから、ポリニャーニはほとんど髪が白くなりかけた。彼はとっさにベッドのかげ、床に近いところへ逃げ込んだ。

「隠れてもムダだぜ、バルド!」カルボーネは笑いながら言った。「いっぺん火がついたら、この家ごと吹き飛ぶんだからな。どうだ、フランク?」
彼は出来上がった爆弾をアバルノに見せた。

「こっちは俺が投げる。もう一個はお前が投げろ、カルボーネ」とアバルノ。「いいか、こうだ。火曜の朝6時きっかり、ここで会う。6時20分にはカテドラルに着く。それから導火線に火をつける。導火線は20分かけてゆっくり燃えるようにしておくから、そのあいだにマディソン・アヴェニューの電車まで行って、ちゃんと仕事にも間に合う。これでアリバイはバッチリってわけだ。で、火曜の夜には、また集まって、5番街を震え上がらせた祝いに、一杯やりに行くんだ。火曜の朝、6時きっかりだぞ?」

カルボーネとポリニャーニは同意し、アバルノは帰っていった。

その瞬間から、ポリニャーニは私と密に連絡を取り合った。黒いアンチモンを買いにドラッグストアへ行かされた日以来、我々は二重のチェック体制を敷いていた。カルボーネは、「もし簡単に手に入らなかったら、店員を買収しろ」とまで言い含めていたのだ。私は二人の刑事を任命し、陰謀者たちに常時尾行をつけた。事件は、いよいよ山場に向かって動いていた。カルボーネが爆薬の処方箋を書きつけた紙切れを、ポリニャーニがうまく「記念に」残していたのも幸いした。カルボーネが「あの紙どこやった?」と聞いたとき、彼は「破いて捨てちゃったよ。持ってたらヤバいだろ。面倒ごとになる」と答えた。アナーキストは、その用心深さを褒めた。爆弾班の二人は、アバルノとカルボーネを一瞬も視界から外さなかった。だから、少なくとも一か月のあいだ、我々はポリニャーニ本人が目撃したやりとりに加えて、二人の尾行からも証言を得ていた。おそらく本人たちすら思い出せないほど、詳細に彼らの行動が記録されていたと言ってよい。だからこそ、ポリニャーニ(自分が尾行されていることは知らない)が最終計画を私に報告したとき、私はその情報をすぐに二人の影に伝え、火曜の朝に向けた「対抗作戦」を練ることができたのである。

火曜の朝、日の出からさほど経たないころ、ポリニャーニはベッドから飛び起き、服を身につけた。彼は角のチープなランチルームで、あわただしく不安げな朝食をかき込むと、1341サード・アヴェニュー前の歩道に急いだ。午前6時を数分過ぎたころだった。6時半になって、アバルノが現れた。

「カルボーネはどうした、まだ来てないのか?」――それが彼の挨拶の第一声だった。

「来てない」と「バルド」。

「待ってられねえよ。時間がねえんだ。7時半には職場にいなきゃならねえ。さあ、爆弾を取りに上がろう。通りで合流するかもしれない。もしかしたら靴屋にいるかもな。」

二人は三階奥の部屋に上がった。

「鍵をよこせ」とアバルノが小声で言った。ポリニャーニは鍵を手渡した。アバルノはトランクを開け、二つの爆弾を取り出した。

「一つはお前が持て。もう一つは俺だ」とささやいた。「行くぞ。コートの下に隠せ。」

二人はサード・アヴェニューを下り始めた。尾行役の二人も、早朝から待機しており、ドア口で時間をつぶしていたのを抜け出し、一定の距離を保ちながら後をつけた。そのさらに数百ヤード後方には、リムジンが一台。私はその中にいた。二人の姿ははっきり見えたし、彼らが制服警官の姿を一ブロック先に見つけるたびに、あわてて道路を横切って反対側に移るのを見て、私は思わず笑ってしまった。同じことが、道中で二度三度と繰り返された。我々の「行列」は進んでいく。コートの下にゴツゴツした包みを抱えた二人の労働者に、我々以外の誰も注意を払う者はいなかった。

53丁目で、運転手は西にハンドルを切り、高速ギアに入れた。1分も経たずに我々は大聖堂前に着き、私は飛び降りて玄関ホールに入った。そこにいたのは、3、4人の掃除婦だけ。薄暗がりの中、モップやバケツを手に、せっせと床を磨いていた。本堂前方には、数百人の信者がすでに集まっており、ヘイズ司教が早朝ミサを執り行っていた。私は身廊を進みながら、近くには白髪ひげの老案内係が一人いるだけなのを確認した。私は暗がりの片隅に身をひそめ、待った。

[Illustration:

  1. Detective George D. Barnitz(ジョージ・D・バーニッツ刑事)
  2. Detective Patrick Walsh(パトリック・ウォルシュ刑事)
  3. Detective James Sterett(ジェームズ・ステレット刑事)
  4. 左から:パトリック・ウォルシュ、ジェローム・マーフィー、ジェームズ・ステレット]

2、3分も経っただろうか――もっと長く感じられた。やがて、アバルノとポリニャーニが玄関ホールに入ってくるのが見えた。二人はホールを横切り、教会内に進みながら、北側通路へ向かうところで口にくわえた葉巻を外した。先頭を行くのはアバルノだった。10番目のベンチで、彼はポリニャーニに合図し、ポリニャーニはそこに座って跪き、祈るふりをした。アバルノはその前方6列目まで進んだ。北側通路では、さきほどの掃除婦二人がモップを置き、ベンチのほこりを払っており、新参者たちの近くで動き回っていた。アバルノは一瞬、ベンチに腰掛けて頭を垂れ、祈りを捧げているふりをしたが、すぐに立ち上がり、ポリニャーニのもとへ戻った。ふたたび立ち上がった彼は、今度は祭壇北端へと歩み寄り、数秒のあいだ身をかがめて、巨大な柱の根元に爆弾を置いた。もう片方の手には、葉巻の火を持っており、その火種から灰を払うふりをして導火線に接触させた。そのまま北側通路を3歩ほど戻ったところで、掃除婦の一人がハタキを振る手を止めた。彼女はアバルノの腕を鉄のような力でつかむと、素早く通路の奥へと引きずって行った。あまりに手際がよかったので、誰一人として異変に気づかなかった。その掃除婦の正体は、変装したウォルシュ刑事だった。白髪ひげの案内係は、二人とすれ違うと足早に柱のところへ向かった。彼は導火線が燃えているのを見て、指でつまんで消した。この「老案内係」こそ、変装したバーニッツ中尉だった。ポリニャーニは即座に身柄を押さえられ、アバルノと共に玄関ホールへ連行された――この時点では、まだ証拠が出揃っていなかったからである。

アバルノはすぐに、カルボーネの裏切りを疑った。彼は激しく抗議し、この一件はすべてカルボーネが言い出したことであり、その発想も爆弾の製造も彼の手によるものだと主張した。そして、カルボーネは、イースト67丁目216番地四階のハンガリー系ユダヤ人一家のところに住んでいると告げた。逮捕のショックから立ち直るにつれ、彼の非難はますます饒舌になっていった。こうして、我々が二人の爆弾犯と二つの爆弾を本部へ護送しているあいだ、爆弾班の別動隊はカルボーネの家を訪ね、彼を逮捕した。

本部での取り調べで、我々がすでに知っていた経過は、改めて裏づけられた。二人は互いを非難し合ったが、逮捕後数日にわたり、どちらもポリニャーニがこの計画を持ち出したり、爆弾製造に関与したりしたことはないと証言した。当然ながら、彼らが刑事の正体を知るまで、それほど長くはかからなかった。そして、自分たちが「完全な刑事」に何もかも打ち明けていたと知った瞬間――ああ、その時こそが嵐の始まりだった。おそらくは似非法律家の助言に乗せられてのことだろう、二人は「でっち上げ(Frame-up)だ!」と声の限りに叫び続けた。しかし、もはや手遅れだった。なぜなら、地方検事補アーサー・トレインの手元には、すでに、彼ら自身の自白によって罪状を確定させる供述書が、宣誓済みの形で提出されていたからである。

[Illustration:

  1. ポリニャーニへの短剣による脅し(The Dagger Threat to Polignani)
  2. ブラック・ハンドの脅し(The Black Hand Threat)
  3. フランク・アバルノ(Frank Abarno)
  4. カルミネ・カルボーネ(Carmine Carbone)]

アナーキストたちは、彼らを救おうと駆けつけたが、その努力の大半は口先だけに終わった。ブレシア・サークルでも、イースト4丁目64番地のI.W.W.本部でも、「被告を弁護する証言を45人か50人そろえるつもりだ。全員、ポリニャーニに“爆弾を作ろう”と誘われたと証言する」といった噂話が、もっぱらの話題になっていた。私は、彼にそのようなことを絶対に口にしてはならないと、厳しく言い含めてあった。新入りのくせに爆弾の話ばかりする者は、アナーキストの間では真っ先に怪しまれるのが常だからだ。そして私は、彼が命令を守ったことを知っている。「カルボーネおよびアバルノ弁護委員会」が結成され、サード・アヴェニュー2205番地に本部を構え、近隣のアナーキスト的傾向のあるイタリア系クラブから、二人への支援を募った。ニューヨークのイタリア語新聞には、ほどなくポリニャーニの写真が掲載され、次のようなキャプションがつけられた。

「ニューヨーク警察の命令を受けて爆弾陰謀をでっち上げ、その結果としてアバルノとカルボーネを現在法廷に立たせている卑劣な腐肉。この顔を、同志たちは皆しかと胸に刻んでおこう。」

彼のもとには、匿名の脅迫状が何通も届いた。おなじみの「ブラック・ハンド(黒い手形)」が描かれたものもあれば、新聞に載った彼の写真に、復讐の短剣が刺さるであろう場所を赤い印で描き込んだものもあった。単なる大言壮語の挑戦状もあった。(匿名の脅迫状を書きたがる人物は、えてして勇敢な魂を持っている――ということになっている――が、実際には自筆が手がかりにならないよう、新聞から切り抜いた文字を一つひとつ貼り付けて「文面」を作るほどの用心深さを持っている。)

では、5か月にわたる忍耐への報酬は、何だったのか。二人の被告が有罪となり、それぞれ6年から12年の懲役刑を言い渡されたこと――これは目に見える一つの結果に過ぎない。より大きな成果は、ニューヨークにおける爆弾投擲事件が目に見えて減少したことであり、おそらく最も痛快だったのは、ブレシア・サークル内部に生じた不和である。グループは恐怖に駆られ、互いをスパイ呼ばわりし始めた。かつてアナーキストだった男の一人は、「自分さえも信じられない。昨夜、自分がスパイをしている夢を見た」と語ったと言われている。ブレシア・サークルは瓦解し、市内のほかの同種グループも同じ運命をたどった。その指導者たちは四散し――その後さらに厄介な事件を引き起こしていくのだが、それについては後で触れる。

爆弾の教科書の「原本」は、ついに見つからなかった。カルボーネは破棄したと言い張っていた。しかし、おそらく同じ印刷所から出た別のコピーが、今もどこかで「正式な爆弾投擲人」の手に渡っているに違いない。もし彼らがそれを持っていないのなら、ニューヨーク警察に申し込めばよいだろう。

IV

THE HINDU-BOCHE FAILURES
(ヒンドゥー・ボッシュの失敗)

ブレット・ハートは、「異人のシナ人(the heathen Chinee)は変わり者だ」と言った。イギリス人は、はるか昔から、ヒンドゥー――つまりインド人――もまた、東洋人である以上、「変わり者」であることから逃れられないと学んできた。そして、こんなにも気質の複雑な民族を、善政のもとに治めるために、あれほどまでの努力と成功を手にしてきたという事実は、イギリス人の粘り強さを物語る大きな証拠でもある。彼らはヒンドゥーを研究し、理解しうる限り理解してきた。そして理解したからこそ、彼らを監視してきた。戦争が勃発したとき、この広大な東洋の帝国は、イギリスにとって重大な問題を提起した。なぜなら、アメリカにいたあるヒンドゥー系編集者の言葉を借りれば、「イギリスはドイツの敵であり、イギリスは我々の敵だ。我々の敵の敵は我々の友」であったからだ。

イギリスがインド亜大陸の忠誠を維持するために、どのような手法を用いたかについて、ここで論ずるつもりも、またその力もない。ここではむしろ、我々が果たした役割――すなわち、地球の裏側で展開されるイギリスの努力に深刻な複雑さをもたらしかねなかった陰謀を暴くうえで、どのように関与したか――を描き出したい。

スコットランド・ヤードから、1917年2月、「アメリカ国内で、ヒンドゥーがドイツ人と共謀して爆弾陰謀を企てている」という連絡があった。もしそれが事実なら、我が国の法律に対する違反である。彼らはいくつかの名前を提示してくれたが、こうも気を回してくれた。「ここはあなた方の国であり、あなた方の法律が破られようとしているのだから、事件はあなた方自身の手で解明されるのが望ましいだろう」。アメリカ国内の諸当局も、すでにイギリス側の主張に強い疑いを抱いてはいた。しかし、まだ具体的な行為を立証するだけの証拠には至っていなかった。そこで我々は作業に取りかかった。

提供された名前の一つに、チャクラバルティという人物がいた。住所はニューヨーク、西120丁目364番地である。2週間以上にわたり、ビドル特別副本部長(現・中佐)の指揮のもと、爆弾班の刑事たちはこの家を監視した。彼らは向かいの家に部屋を借り、カーテンに細い切れ目を入れて、玄関口を常時観察できるようにした。ニューヨークの労働者が家を出て金を稼ぎに行き、夜には金を稼いで戻ってくる時間帯には、その玄関が使われることはほとんどなかった。だが、午前10時前後や明け方など、不規則な時間になると、褐色の肌をした人物が何人か、この家を出入りするのを見かけた。建物自体からは、何ら怪しい気配はうかがえなかった。戦争の瀬戸際であり、ブロックのほかの家々と同様、この家の窓にも星条旗が垂れ下がっていた。その「迷彩幕」の裏で何が行われているのか、我々には分からなかった。ときおり、刑事たちは外階段の影に身を潜めながら、誰にも気づかれずに暗い玄関口へ忍び寄り、耳を澄ませてみたが、家の中からは物音ひとつ聞こえなかった。少なくとも、これらのヒンドゥーが、ドイツ帝国政府と共謀してダイナマイト陰謀を企てているような兆候は、何一つなかった。

我々には、信頼のおける東インド系の知人が何人かいたので、彼らにチャクラバルティを訪ねさせてみた。しかし、この策略は不成功に終わった。なぜなら、チャクラバルティは来訪者に対し、終始無垢な顔をして対応したからだ。彼らの報告によれば、彼の職業は「錠剤製造業」であり、彼とアーネスト・セクンナという人物の二人で「オミン・カンパニー」を名乗り、アルミニウム箱入りの錠剤を製造しているとのことだった。この錠剤は、世にありがちな特効薬と同様、消化不良から上は何でもよく効く(あるいは下までよく効く)と宣伝され、少数の顧客に販売されていた。売れれば万々歳というわけだ。この話を聞いても、我々の焦燥は収まらなかった。そこで、家宅捜索に踏み切ることにした。

1917年3月7日の夜、バーニッツ、コイ、ランドルフ、マーフィー、ジェンキンス、ウォルシュ、ステレット、フェネリーの各刑事は、手分けして家の四方を囲んだ。ステレットは、使い物にならない小包を抱えた「配達人」を装い、正面玄関に姿を現した。他の者たちは、逃走経路になりそうな場所を押さえた。扉を開けたのは、小柄なヒンドゥー人で、あどけない顔をしてステレットを見上げ、「チャクラバルティ先生は留守です。ボストンに行っています」と言った。刑事たちは、家探しの意向を告げた。小柄な男は激しく抗議したが、捜索の妥当性について手短に説明され、黙り込んだ。驚き、傷ついたような無実の表情、そして苛立ちが、彼のくすんだオリーブ色の顔を次々とよぎった。彼は、自分は愛国的なアメリカ人であり、合衆国の法律を破るようなことは何もしていないと主張した。もし我々がチャクラバルティを望むなら、「あいつを捕まえろ。それで十分だ。平穏に暮らしているこの家を、こんなふうに乱すべきではない」と言った。そして、チャクラバルティは何か月も前にニューイングランドに発っており、連絡先も残していないと主張した。この点については、同居人のもう一人――30代半ばとおぼしきドイツ人セクンナ――も同じ答えをした。我々は家捜しを行い、二人の住人と、相当量の押収物を本部へ連行した。

[Illustration: A Handbill, printed in Hindu, used by the Hindu-Boche
Conspirators
(ヒンドゥー・ボッシュ共謀者が使ったヒンディー語のビラ)]

捜索の結果、オミン・カンパニー製錠剤の効能を説明したパンフレット一式、チャクラバルティとセクンナがターバン姿でポーズをとった「世界の病める人々の恩人」風の写真、そしていくつもの郵便為替の領収書や権利書、銀行通帳が見つかった。それらによれば、行方不明のチャクラバルティは、過去2年間に相当な額の金を手に入れていたことになる。よく見ると、先ほどの写真に写っていた小柄な男こそ、ほかならぬチャクラバルティ本人だった。セクンナがその事実を認め、写真を突き付けられたチャクラバルティも、自分が嘘をついていたことを認めた。

我々は、彼がどうやって6万ドルもの大金を稼いだのかを尋ねた。彼は、それはインドの祖父の遺産であり、ノーベル賞詩人のラビンドラナート・タゴールその人が、1916年12月に、遺産のうち4万5千ドルのうちの2万5千ドルを自分に支払ったのだ、と答えた。さらに、1916年3月には、ビルマ・ペグーのチャタジという弁護士から、3万5千ドルを受け取った、とも述べた。

彼の語る身の上話によれば、カルカッタ大学を卒業し、ロンドンやパリにしばらく滞在したのち、アメリカに移住したということだった。インドでは、自分に対する「扇動」容疑の逮捕状が出ていると耳にしているが、それはおそらく、イギリス統治に関する論文を数本書いたせいだろう、と彼は言った。

「最近ドイツに行ったことはありますか?」と私は訊いた。

「もちろんありません」と彼は答えた。「イギリス人が私を見張っているのに、どうやって行けるでしょう? 行こうとしたら、すぐに逮捕されてしまいますよ。なぜ、そんなことを聞くのです?」

「知りたかったからさ」と私は言った。彼の所持品の中に、「そんな旅行」があったことを示す証拠がいくつか見つかっていたからだ。フロリダ州の女性から来た、1915年12月13日付の手紙には、こう書かれていた。

「あなたの高尚な理想と崇高な目的のための努力と達成を、私が妨げるようなことは決してありません。多くの点で、私の精神はあなたと一つになっているからです。
兄さん、どうか、十分な用心なしには、何も行なわず、何も口にせず、誰も信じないでください。
神があなたを守り、あなたの帰還を急がせてくださいますように。あなたのこと、そしてあなたの関わるすべての事柄に心を寄せる者たちのもとへ。
祝福あれ、愛しい兄さん。」

これは、何かしらの「旅」をほのめかしている。1915年12月23日、ノルウェー・ベルゲンから送られた電報は、セクンナ宛で次のようにあった。「ここに無事到着(Safe arrival here)」。少なくとも彼が大陸までは到達したことを示している。さらに3枚の葉書が、残りの事情を教えてくれた。差出人はセクンナで、ベルリン市内の住所に住む自分自身宛てに出されたものだが、封筒には、

“Return to Sender, E. A. Sekunna, Omin Company, 417 E. 142nd Street, New York City”

との指示が書かれていた。消印は1915年12月および1916年1月のベルリン。チャクラバルティは、自分の名を使うことを避けるための連絡手段の一つとして、これらを利用していたと考えられる。

彼の所持品の中には、フェズ帽をかぶったチャクラバルティの写真もあった。ベンガル出身者としては、やや奇妙な帽子だ。さらに、この写真は、パスポート用としてよく用いられるサイズと仕上げになっていることに気づいた。私はそれを掲げて、こう言った。

「ドイツには行っていないと言いながら、どうしてこんな写真を使ってペルシャ人としてのパスポートを取ったんだい?」

彼は釣られた。「分かりました。降参です」と言った。「嘘をついていました。本当の話をしましょう。私はドイツに行きました。」

「なぜ?」

「ヴェーゼンドンクに会うためです。彼はドイツ外務省のインド担当書記官です。彼は、イギリスからインドを解放するための宣伝計画を立てたがっていました。」

チャクラバルティは、そこに座って、驚くべき物語を紐解き始めた。最初のうちは、自分の関与について遠まわしに触れるにとどめていた。だが、やがて、他にも、自分と同程度に道義的に非難されるべきでありながら、より暴力的な行為に手を染めた者たちが大勢いる――と気づいたようだった。小柄な医師の逮捕と自白は、アメリカにおけるドイツ・ヒンドゥー陰謀の全貌に迫る数々の手がかりを当局に与え、第一級の興味と重要性を持つ訴追へとつながっていったのである。

[Illustration:

  1. フランツ・シューレンベルク(Franz Schulenberg)
  2. ラム・チャンドラ(Ram Chandra)
  3. ラム・シング(左、Ram Singh)
  4. チャンドラ・チャクラバルティ博士とアーネスト・セクンナ博士
  5. ペルシャ服を着たチャクラバルティ博士(Dr. Chandra Chakravarty in his Persian Dress)]

これらの企てについては、実際の時系列とは異なる順番で述べたほうがよいだろう。チャクラバルティは、インドでかつての1857年の大反乱を再現しようとした計画には、自分はほとんど関与していないと主張した――ただし、今度こそ成功させた上で、というわけだ。

クルップ鉄鋼兵器工場のニューヨーク代理人、ハンス・タウシャー大尉は、戦争勃発時、ベルリンにいた。大西洋を渡ることができるようになるとすぐに、彼はニューヨークのフォン・パーペン大尉のもとに出頭した。彼の最初期の任務の一つは、相当量の小銃、野砲、軍刀、弾薬を購入することだった。それらはニューヨーク、ウエスト・ヒューストン街200番地の倉庫に保管された。1915年1月9日、彼は一車両分の武器と弾薬を、サンディエゴ(カリフォルニア)へ発送した。そこで、それらは小型船アニー・ラーセン号(Annie Larsen)に積み込まれた。この船はドイツ側の利益でチャーターされたものであり、表向きはメキシコ行き――革命派が武器を欲しがっている土地だ――を装っていた。しかし、真の目的地はソコロ島沖の洋上集合地点であり、そこにはタンカー船マヴェリック号(Maverick)がドイツ資金で購入され、サンフランシスコから回航されてくる予定だった。マヴェリック号はそこで武器弾薬を積み替え、検査が入る恐れがある場合には、貨油タンク内に投入して隠し、バタヴィアやバンコク経由でインドのカルチ(カラチ)港へ向かう手はずだった。カルチはパンジャブへの玄関口である。そこには、友好的な漁船団が待ち受けており、貨物を陸揚げしたのち、うまくいけばカルチ駐留英軍守備隊を虐殺し、インド全土で地獄のような騒乱を巻き起こす算段だった。1915年初頭という、まだイギリスの軍備が整っていなかった時期に、もしこんな蜂起が成功していたら、その影響は計り知れない。フランス戦線で「穴」をふさいでいたインド兵部隊は、本国に呼び戻されざるを得なかっただろうし、半忠誠の部族たちはまたとない好機を見たはずだ。ドイツも、トルコ軍を動かして北方の峠に攻め込むことをためらわなかっただろう。要するに、大英帝国の存立にとって、悪夢のような局面が現実味を帯びていたのである。

しかし、マヴェリック号とアニー・ラーセン号は、ソコロ島での接触に失敗した。アニー・ラーセンは数週間にわたり太平洋をさまよった末、最終的にワシントン州ホキアム港に入港し、アメリカ政府に武器を差し押さえられた。マヴェリック号のほうはというと、ソコロからサンディエゴ、ハワイ・ヒロ、ジョンソン島を経てジャワ島アンジェールへ、さらにバタヴィアへと彷徨い、そこでドイツ代理人の失望とともに迎えられたのち、最終的に売却された。この武装密輸作戦は、莫大な失敗に終わった。武器代だけでも少なくとも10万ドルないし15万ドル、太平洋岸への輸送費が約1万2千ドル、アニー・ラーセン号のチャーター代が1万9千ドル、マヴェリック号の購入費に至っては数十万ドル――さらに、関与した無数の工作員たちへの個別報酬も加えなければならない。

この陰謀について、我々は大まかな輪郭を知ってはいたが、その詳細を暴いたのは、サンフランシスコの連邦検事ジョン・W・プレストンの執念深い捜査によるところが大きい。ニューヨーク、ウォール街60番地のフォン・パーペン秘書ヴォルフ・フォン・イーゲルの事務所に対する家宅捜索では、司法省の捜査官たちが、アニー・ラーセン号とマヴェリック号の計画に関して、サンフランシスコ領事館との連絡を取り合っていたフォン・イーゲルの書類を押収している。しかし、チャクラバルティによれば、この「革命」方面の計画は、別のヒンドゥー、ラム・チャンドラが主導していたものであり、自分はほとんど関与していないという。ラム・チャンドラは、シアトルおよびサンフランシスコのドイツ領事と交渉し、その背後にタウシャーやフォン・パーペンがいた。チャクラバルティは、アニー・ラーセン号に乗り込んだヒンドゥーたちの名前を供述し、船上にはフィリピン人やドイツ人も乗っていたとした。そして、フィリピン人たちは途中でドイツ船に移され、その船が日本の巡洋艦に追跡された際に、モーターボートで脱走したとも述べた。しかし、と彼は繰り返す。「それはラム・チャンドラの仕事であって、自分の責任ではない」と。

このラム・チャンドラこそ、カリフォルニア・バークレーで発行されていたヒンドゥー革命新聞『ガダル(反乱)』の編集者であった。1914年、その前任者ハル・ダヤルが「度の過ぎた言論の自由」を理由に逮捕され、保釈中に大陸と大西洋を越えてベルリンへ逃亡したとき、彼が編集長の地位を引き継いだのだ。ベルリンに渡ったダヤルは、ヒンドゥスターニー革命委員会を結成し、ドイツ政府から資金と指令を受けながら、外務省のヴェーゼンドンクの監督下で活動を続けていた。彼らの口座には、一千万マルクが振り向けられていた。世界各地の中立国にあるドイツ領事館には、在外大使館を通じて、「インド独立運動のための援助を惜しまないこと」「必要な資金はすべて支出し、その費用はインド民族党の勘定に付けること」が命じられていた。30万ドルが中国やジャワに投じられ、ヒンドゥー人の工作員たちはペルシャやアフガニスタン経由でインドへ送り込まれ、ドイツの信用を背景に不穏を煽った。アフガニスタン自体もスパイだらけで、戦争勃発時にイギリス政府に約束した「厳格な中立」の約束を破らせようとする試みが絶えなかった。チャクラバルティが1915年12月にベルリンへ赴いた際、彼と協議していたのは、このハル・ダヤルであった。その訪独の目的は、やがて明らかになり、次の第三のヒンドゥー=ドイツ陰謀計画へと話がつながっていく。

[Illustration: The Annie Larsen’s Cash Account
(アニー・ラーセン号の金銭出納帳)

Gupta’s Code Message
(グプタの暗号メッセージ)]

チャクラバルティは、比較的簡単に保釈保証会社から保釈を得た。逮捕から2、3日後、彼は私に電話をかけてきた。

「グプタという男に脅されています」と彼は言った。「2千ドル渡せと言うのです。それから、ワゲルという名の男もいます。彼もヒンドゥーです。1万ドル要求しており、渡さなければ危害を加えると言っています。彼はすでにドイツ政府からメキシコで7千ドルを受け取っています。インド革命を完成させるために、ベルンシュトルフ伯爵に2千万ドルを要求したこともあります。」

「ちょっと待ってくれ」と私は言った。数字が頭の中で目まぐるしく踊っていた。「ワゲルはどこにいる?」

「分かりません」とチャクラバルティ。

「では、グプタは?」

「コロンビア大学の学生です」と彼は答えた。

「分かった、ドクター」と私は言った。「君に何かあれば困る。こちらで手を打とう。」

コイとウォルシュの両刑事は、ただちにグプタの行方を追った。彼らは、コロンビア大学リヴィングストン・ホール73号室の学生寮で彼を見つけ、本部に連行した。

「新聞でチャクラバルティ逮捕の記事を見ました」と彼は言った。「彼が僕の名前を出せば、僕も逮捕されると思いました。」

実際、彼は逮捕されることを十分承知していた。二人の間には嫉妬があり、その理由について彼はすぐに語り始めた。

ヘランバ・ラル・グプタ、当時32歳。カルカッタでの少年時代以来、世界各地を渡り歩き、アメリカでも学んだ経験を持つ。1915年春、彼はニューヨークでフォン・パーペン大尉と何度も会見し、軍事武官の彼は若いヒンドゥーを信頼するようになった。そして渡航費用として1万5千ドルを渡し、シカゴの元ドイツ領事グスタフ・ヤコブセンとの会談に送り出した。同道したのは、インド人のジョド・シン――ブラジルからベルリン、そしてフォン・パーペンのもとへ渡ってきた男――と、美術収集家のアルバート・H・ウェーデである。そこへさらに、ジョージ・ポール・ベームとシュテルネックというドイツ人が加わった。こうして二つの計画が練られた。一つは、グプタ、シン、ウェーデが日本へ渡り、インド反乱支援のための連絡網と支援を確立すること。もう一つは、ベームとシュテルネックがフィリピンへ行き、チャクラバルティの弁護士仲間であるチャタジを拾い上げ、そこからジャワへ向かい、撃沈されたドイツ巡洋艦エムデン号の脱走将校2名と合流し、それからインド北辺のヒマラヤ山中で探検中だったフレデリック・A・クック博士――あの「北極探検家」を自称した男――の一行に合流する、というものだった。そこで彼らはクック隊を制圧し、ベームが探検家クックになりすまして山地を旅し、現地部族に反乱を煽る算段である。この荒唐無稽な計画は、ジャワでドイツ側が待ち合わせに現れず、完全な失敗に終わった。(ちなみに、グプタは「準備の大切さ」を信じていたようで、ベームをシカゴの射撃場に連れて行き、拳銃の撃ち方を何度も練習させていた。)

グプタ、シン、ウェーデは、サンフランシスコ発のモンゴリア号に乗船し、1915年9月16日に横浜へ上陸した。グプタはすぐに有力なインド人たちと接触した。会合は熱気に満ち、インド反乱のために日本の武器を入手する見込みも有望だった。だが、英国側諜報員が、グプタの存在に気づいたことで、彼の活動は著しく制限されることになった。到着から1週間以内に、彼は「次の船で出国せよ」との通告を受けたのである。だが、「次の船」は上海行き、つまりイギリス領の港へ向かう船だった。これはすなわち、イギリスの手に引き渡され、死刑が待っているのと同義だった。そこへ、日本人の友人が彼を救い出した。その友人は、自宅へ彼を連れて行き、尾行する警官たちは後を追った。ちょっとした細工で、警官たちの注意をそらすあいだに、グプタは裏口から抜け出し、自動車に飛び乗って内陸へ逃走した。彼は、友人の家の薄い壁の間に、半年ものあいだ身を隠した。ようやく日本を脱出できたのは1916年5月であり、東行きの船に密かに乗り込み、翌6月にニューヨークへ戻ってきた。そこで彼が目にしたのは、ベルリンから発せられた次のような電報だった。

「1916年2月4日 ベルリン発
ワシントンのドイツ大使館宛。

今後、インド関係の案件はすべて、チャクラバルティ博士が結成する委員会によって独占的に扱われるものとする。ディレンドラ・サルカルおよびヘランバ・ラル・グプタは――後者はすでに日本から追放されたが――本日をもって、ベルリンに存在するインド独立委員会の代表権を喪失する。

(署名)ツィンマーマン」

要するに、グプタは自分の立場を失った。彼の遠征は失敗に終わり、チャクラバルティが彼の役割をすでに半年近く引き継いでいたのである。彼はチャクラバルティとのあいだで、一部の名誉回復を図ろうとしたが、小柄な男は彼と深く関わろうとはしなかった。1917年1月、フランスの秘密警察がスイス国境で一通の手紙を押収した。それは1916年11月16日付でニューヨークから発送されたもので、封筒表には次のように書かれていた。

“Mr. Albourge
Hotel Des Alpas
Territel
Montreau, Switzerland.”

中身は暗号文であった。この手紙は押収後、フランス側諜報員によってアメリカの同僚たちに送られ、ちょうどドイツとの外交関係断絶が起きた頃に、我々の手に渡ることになった。アメリカ側での調査の結果として分かったことは、きわめて少なかった。手紙はタイプ打ちされており、内容を解く手がかりは、封筒の裏に書かれていた副宛名だけだった。

“Mr. Chatterjee”

どうやらヒンドゥー系の人物のようである。(ちなみに、これは先ほどから何度も名前が登場しているチャタジと同一人物である。)ところが、モントルーには“Hotel Des Alpas”など存在しない。実際のホテル名は“Hotel des Alpes”であり、“Territel”は“Territet”の綴り間違い、“Montreau”も“Montreux”の誤記らしい。後にグプタを逮捕したとき、彼の手帳にも、上記とまったく同じスペル――すなわち全く同じ誤記を含む――の宛先が書かれているのが見つかった。これは、手紙の作者がグプタであることの、ほとんど決定的な証拠だった。この宛先はさらに、カリフォルニアで発行されていた革命新聞『ガダル』の郵送先リストにも、同じ誤記込みで載っているのが発見された。こうした小さな間違いが、重要な鎖の輪をつないでいったのである。

グプタの暗号文は、アメリカ人作家プライス・コリアーの近著『ドイツとドイツ人(Germany and the Germans)』(1913年ニューヨーク刊)をコードブックとして用いたものだった。手紙の本文では、各文の中核をなす語句が、注意深く暗号化されていた。たとえば、手紙にはこう書かれていた。

“…I do
not believe there
are very many men
including
98-5-2
98-1-1
98-1-9
98-4-1
98-5-8
98-3-3


”Who can show much
better results a-
long the line of
97-1-3
97-1-11
97-6-5
97-8-4


132-1-1


         “Undertook”  

『ドイツとドイツ人』98ページを開くと、5行目2文字目は b、1行目1文字目は h、1行目9文字目は u、4行目1文字目は p、5行目8文字目は e、3行目3文字目は n。合計すると「Bhupen」というヒンドゥー人名になる。97ページを見れば、冒頭数行は次のような文になっている。

“am willing to concede that perhaps even an emperor
has been baptized with the blood of the martyrs,
and feels himself to be in all sincerity the instrument
of God; if we are to understand this one, we must
admit so much.

“In certain …” 等々。

したがって、97-1-3は w、97-1-11は o、97-6-5は r、97-8-4は k。これを並べると「work」となる。132-1-1は I である。したがって、この部分を訳せば、

「私は、ブーペンを含めても、私が引き受けた仕事の分野で、より良い成果を挙げられる人間がそう多くいるとは思わない」

という意味になる。

手紙は、タイプ打ちで一枚あたり4段組みで、罫線付きの紙7枚にわたって続いていた。そして最後には、すでに触れた英語の一節が添えられていた。そこには、グプタの怒りがあけすけに表現されている。

「いまだに何の行動もとられていないようだ。もし本当に仕事を望むなら、やり方を根本から変えるべきだ。責任者の男は、役に立たないどころか、仕事を台無しにしていると断言する。彼のせいで、重要な活動家たちは協力も資金も得られず、時間を空費しているのに、当の本人は金を浪費している。君たちがどう決めようと私は構わないが、私には実情を知らせる義務がある。だが、どうも君たちは耳を貸そうとしないようだ。これは、大義のために発する私からの最後の警告だ。
もう一度、もっと真剣に考え、無責任で狂気じみた男の手に仕事を任せることで、仕事そのものを台無しにしないようにしてほしいと訴える。再度言うが、誰も彼と一緒に仕事をしようとはしない。第一に、彼は何も分かっていない。第二に、彼は金を馬鹿げたやり方で使っている。第三に、彼は一切仕事をしていない。真剣に考えて、返事をしてほしい。」

グプタがなぜこれほど苛立っていたのか、そして、彼がいかに「お粗末な」形で暗号文を作成していたのかを示すため、手紙の全文を引用するのも有益だろう。以下では、原文でイタリック体になっていた部分を、下線 で示す。

グプタがなぜ憤慨していたのかを示し、ついでに彼がいかに「いかにも無邪気な形」で手紙に暗号を仕込んでいたかを示すために、その手紙を全文引用しておこう。数か月後になってから解読されることになった語句は、原文どおりイタリック(ここでは 下線)で示してある。

「親愛なる Chatto へ。Japan から戻った。ずいぶんと trouble があった。
Thakur(本名 name Rash Behari Ghose )という、India での優秀な活動家は、いまも Japan にいる。報告書は2回送り、そのほかに German 経路でも伝言を送った。計画どおり Japan に行った。
Tarak から、あなたが私には日本へ行く right がなかったと言ったと聞き、驚いている。委員会に提出した私の報告書を見てほしい。出発前には、Berlin Shanghai の当局も、私に重要な仕事をしてほしいと言ってきた。このことは German Embassy で告げられたことであり、だからこそ、あなたが私について何も知らなかったというのが理解できない。帰ってからも、すでに2通の報告を送っている。受け取っているとよいのだが。
Tarak は、あなたが my work に満足していないと言っていたし、Bhupen Dutt は、I のような無能な人間をアメリカに送るべきではなかったと言っていた。BhupenAmerica を発つ前に、Chakravarty にこう言った。『 Gupta は単なる adventurer にすぎず、送るべきではなかった』と。そしていつものように、そのことはみんなが知るところとなり、当然ながら、私が一緒に仕事をしなければならない人々に、I に対する偏見を植え付けた。
Bhupen に、そんなことを言う権利があっただろうか。私が自分を、非常に有能な人間だと言い張っているわけではない。あなたも覚えているように、私は最初から come here ことを望んでいなかった。だが、Bhupen はどのようにして私の能力を測ったのか? 何の報告も受け取っていないのなら、どうやって誰が未知の事柄について判断を下せるというのか?
あなたは、私の沈黙を criticize my するかもしれない。だが、私が引き受けた work I の路線で、Bhupen を含めて、私よりはるかに良い成果を示せる人間がそうたくさんいるとは思わない。この種の仕事の成果は、black and white で示すことはできないが、our agencies を通じて行われた solid work を無視しようとする者がいるなら、誰であれ私は挑戦する。それを証明できるのは、時間だけだ。
最近着手された work を、当初われわれが立てた program と比較することはできない。あなたの要請どおり failed to start a revolution in Bengal のであれば、それは結果として最善だったのだ。もし failed land arms のだとすれば、それは誰よりもむしろ Germans の責任だ。われわれの men worked, suffered 。今もなお suffering している。より有能な brains failed を備えた Germans の直接監督のもとにあった全計画も、同様に失敗した。
われわれは future work のための基礎を築くことには成功した。Japan におけるわれわれの work は、比類のないものだった。われわれの work を軽んじる Lajpat Rai でさえ、三か月のあいだにそこで行われた solid work は、India 以外の世界のどの地域でも、何年もかけなければ達成できないほどのものだと、しばしば認めている。

いまは Chakravarty が一切の事務を取り仕切っていると理解している。実際に会った。Tarak Harish によれば、彼は myself を含む五人の committee を組織するようにという指示を受けたという。しかし彼はそれに同意しなかった。すべては自分の裁量にかかっているのだと言った。
実のところ、彼は私に恨みを抱いており、その原因は you にある。彼と Mrs. Warren との relations についての報告が Berlin に送られた。あなたは、その報告をしたのは私だと彼に言った。だが私はやっていない。たとえ私がやったのだとしても、あなたが私の名を出す筋合いはない。
それから、committee がどのようにして、この告発が虚偽であると“納得”したのかも知りたい。Chakravarty’s letters だけを根拠にしたのか? 彼は私に apologize するよう求めたが、私はしなかったし、今後もしない。第一に、私は report していない。第二に、仮にしたのだとしても、それは cause の利益のためだった。
私は、彼が connection with Mrs. Warren を持っていると考えていた。彼女は him を通じて、work に関する多くのことを知るようになった。いまでも私は同じ考えだ。私は、women man enjoys が何人いようとかまわない。だが、真剣な work to women を女たちに話す権利はない。
彼がどんな work he いるのか、私は知らない。彼は私に何の情報も与えない。彼が借りた house 、そしてその princely furniture は、一目で German connection を示している。彼の pamphlets の中には、単なる German propaganda に過ぎないものもある。それがあなたの policy なのかもしれない。

われわれは、centres in Japan, Burmah, Manila を持ち、Japanese ルートを通じて India との定期的な communication を行っている。現在も Working はしているが、ひどく in need of funds である。私は、balance of funds credited が自分の account に入金されるとの印象のもとに work を始めたが、その兆候はまったくない。より良い work のためには、少なくとももう一人 manJapan に派遣する必要がある。
TarakChina に行く予定だが、Chakravarty は、部下たちに一か月間 watch Tarak させると言っていた。大人しくしていれば、支援や便宜を与えるのだそうだ。grand diplomacy ではないか! Chakravarty は私に、committeeTarak を信頼していないので、彼を遠ざけたのだと言った。
ところが Tarak は、多額の funds が承認されており、領収書なしで引き出せると言っていた。(これが本当なら)私がこの方針を理解できなくても、あなたは私を責めるだろうか?

Ram Chandra working は自分のやり方で動いている。私は、分裂を生むことを fear して、干渉はしなかった。私がしたのは、funds の調達を手伝ったことだけだ。いまでは、私は彼に対して影響力を持つようになっているが、Chakravarty gone San Francisco ので、あなたからの返事を聞くまでは、沈黙を守るのが自分の義務だと考えている。
私は、これまで自分の最善を尽くして worked きたし、これからも働くつもりだが、done last yearhalf の仕事の真の性格を理解していないことが確実な人々の言いなりになって、その仕事をすることはできない。
私は、work さえ犠牲にしてしまうような mean jealousies に、驚きあきれている。あなたが faith shaken in me し、my work に疑念を抱いていることに、私はショックを受けている。
work に関する一切について、早く知らせを受けたい。皆によろしく伝えてほしい。最初の手紙は、Berlin からの情報を待っていたため、投函しなかった。」

[Illustration: How the Hindus used Price Collier’s “Germany and the
Germans” as a cryptogram
(ヒンドゥーたちがプライス・コリアー『ドイツとドイツ人』を暗号文に使った方法)]

最後は、すでに引用した英語の追伸で締めくくられていた。

ここで、多少話の腰を折ることになるが、この暗号がどのように解読され、手紙がどのように翻訳されたかを紹介しておくと、読者も興味を持つだろう。一般的な推理の手法を用いた部分的解読の結果、暗号文のあるページには、“foreign legation(在外公館)”という語句が出てくるはずだ、ということがほぼ確実視された。同様に、別のページのある行には、“rush to a newspaper(新聞社へ駆け込む)”という句が並ぶはずだ、とも推定された。さらに作業を進めることで、解読班はおよそ25個の単語・句について、「本のどのページのどの位置に現れるのか」をほぼ特定することができた。残る問題は、肝心の「本」を見つけることだった。語彙の性質から、その本は比較的最近の刊行物で、歴史――おそらくは、ある民族の性格――を扱ったものに違いないと思われた。こうした絞り込みにより、候補となる本の数は最大でも10万冊程度にまで減り、暗号解読班は、その条件に合う本を探すよう複数のエージェントに依頼した。手紙の冒頭に“Hossain’s Code(ホサインの暗号)”と書かれていたことが、彼らの探索をしばらく迷走させた。連合国側の欧米で「ホサイン暗号」なるものを必死に探したが、そんなものはどこにも存在しなかったのだ。実際には、“Houssain”とは、トリニダードにいるヒンドゥー系のスパイの名前に過ぎなかった。やがて、干し草の山から針を探していた捜査員の一人が、ついにそれを見つけた――それが、プライス・コリアーの『ドイツとドイツ人』だったのである。

こうして見ると、グプタがチャクラバルティの能力をかなり厳しく、かつ偏見まじりに評価していたことが分かる。実際には、グプタが逮捕された際にも、チャクラバルティは過去のわだかまりを捨て、彼の保釈保証人になっている。しかし、今回ばかりはグプタ自身が危機に陥った。日本への渡航、その目的、ドイツ人との共謀を裏付ける証拠が揃ったことで、彼はシカゴでヤコブセン、ウェーデ、ベームと共に裁かれることになった。(なお、チャタジ弁護士は、この裁判では検察側証人として出廷している。)連邦検事クラインの見事な立証により、三人のドイツ人被告は有罪となり、5年の禁錮刑および1万3千ドルの罰金を言い渡された。グプタには、2年の禁錮と200ドルの罰金が科され、控訴中の保釈が認められた。しかし、1918年5月、サンフランシスコで多数の同胞が裁かれている最中に、彼は保釈条件を破ってメキシコへ逃亡した。

彼の逃亡は、おそらく恐怖心のなせる業だったのだろう。ヒンドゥーたちは、復讐心の強い連中だ。「ブドウの木でつながった電報(grapevine cable)」は、彼にこうささやいていたかもしれない。サンフランシスコで裁かれている被告の一部の支持者が、自分たちの裁判で証拠提供の一端を担ったグプタに、復讐を企てている――と。我々は、彼のコロンビア大学の部屋からも、コロンバス・アヴェニューの銀行にある貸金庫からも、いくつもの証拠を見つけた。その中には、先ほど触れたスイスの宛先リストも含まれていた。また、チャクラバルティの家から押収されたセクンナの手紙には、次のような一文があった。

「親愛なる坊やへ

同封の宛先は、ヴェーゼンドンクからのものだ。報告書は以下へ送れ。
Mr. Director Karl Hirsch, Kreuzlingen, Switzerland.」

チャクラバルティは、さらに二つの暗号方式を提供してくれた。一つは、ある独和辞典のページと単語番号に基づくものであり、もう一つは、まったく異なる原理に基づくものだった。後者と三番目の暗号は、同じ手紙の中で併用されることも多かった。その一例を、チャクラバルティの報告書の断片から示そう。手紙には、こう書かれている。

“50337069403847695228, 265-3, 331-6, 497-2, 337-10-3, 335-14, 77-11.”

最初の数字列は「第三の暗号」によって書かれており、以下のような「文字表」を用いて解読する。

   1 2 3 4 5 6 7
1  A B C D E F G
2  H I J K L M N
3  O P Q R S T U
4  V W X Y Z

各文字は、まず行番号、次に列番号によって表される。したがって、「A」は1-1、つまり11、「K」は2-4、すなわち24のようになる。ただし、ヒンドゥーたちが暗号文を送る場合、これだけで満足するはずがなかった。というのも、このままでは文字が頻出し過ぎ、「頻度分析」という古典的な手法で簡単に破られてしまうからである。そこで、彼らはこの表で一度文字列に変換したあと、あらかじめ定めた4つの「鍵数字」を、それぞれの数字に順繰りに加算していった。したがって、我々が“50337069403847695228”を解読しようとする場合、次のような引き算をしなければならない。

暗号文 50337069403847695228(2桁ずつ分割)
     50 33 70 69 40 38 47 69 52 28
鍵数字 25 11 26 32 25 11 26 32 25 11
結果  25 22 44 37 15 27 21 37 26 17

再び表を見ると、25は“L”、22は“I”、44は“Y”、37は“U”、15は“E”、27は“N”、21は“H”、37は“U”、26は“N”、17は“G”。つまり“LIY UEN HUNG”――リ・ユエン・フン、李袁弘――となる。

先ほど引用した一文は、こう解読される。

李袁弘が現在、中国の大統領である

固有名詞は第一暗号(辞典式)では表せないので、この第三暗号で書き、そのあとは再び辞典コードに戻る――という具合だった。

このように見てくると、グプタがいかにチャクラバルティを酷評していたかがよく分かる。だが、評価が公正だったかどうかは、別問題である。チャクラバルティは、自分は「大枠の宣伝工作」だけを担当するよう委任されていた、と言っていた。彼がドイツ大使館経由およびスイスの宛先へ送っていた報告書から判断するに、彼はアメリカにおけるインド関係委員会の「五人委員会」の一人(もう一人はラム・チャンドラ)として任命されていた。彼らは、西インド諸島に代理人を送り込み、そこに住む推定10万人のヒンドゥー系労働者を扇動し、志願兵をインド本国へ送り返して反乱軍に加える計画だった。同じ方針は、英領ギアナ、ジャワ、スマトラにも適用される予定だった。ラム・チャンドラの『ガダル』印刷所からは、インドの各地方語による宣伝ビラが大量に刷られ、西インドと東インド、さらにインド本国にはもちろん、フランス戦線のインド兵部隊の上空から、ドイツの飛行機がばらまく用にも供されることになっていた。チャクラバルティは、日本に派遣する特使のために紹介状を手配し、グプタが果たせなかった任務――日本での工作――を、別の人物にやらせようとしていた。さらに、中国への使節も送られる予定だった。実に広範なプログラムであり、小柄な医師は、帰国するや否や組織づくりに取りかかった。

その活動は、ワシントンのベルンシュトルフ大使およびドイツ大使館の全面的協力を得ていた。チャクラバルティは、ヒンドゥーたちが「汎アジア同盟(Pan-Asiatic League)」の名で活動できるよう、カモフラージュとして「同盟」を立ち上げた。その会員としてふるまうことで、彼らは不審を招かずに移動することができたのである。だが、1916年春には、自動車事故で入院したことや、フォン・イーゲル事務所の押収事件で、活動が一時的に妨げられた。中国への特使には、チンという中国人を雇い、ギリシャ船でニューヨークから送り出した。ベルリンから紹介されたトリニダード在住のホッサインなるスパイを通じて、西インド諸島の組織化も監督した。7月には、チャクラバルティ自身が西部視察に出かけ、バンクーバーの不忠実なヒンドゥー二人と会談し、その地での行動計画を定めた。その足でサンフランシスコへ下り、現地委員会の長であるラム・チャンドラを訪ね、さらに「英日同盟」を攻撃する記事を書いてくれるという日本人新聞記者とも打ち合わせを行った。新大統領の私設秘書、W・T・ワンが北京へ向かう途上にあったので、彼とも会談し、「有力者の中には、インドを直接支援し、ひいては間接的にドイツを支援してもよいと考える者がいる。その条件は三つあり……」ということを聞き出した。その三条件とは、ドイツとのあいだに秘密軍事同盟を結び、終戦後5年間その効力を保ち、インドの国境地帯へ密輸する武器弾薬の一割を中国に引き渡す――というものだった。1916年末までに、チャクラバルティは、イギリス帝国のほぼ全植民地支配に揺さぶりをかける、実に複雑で精巧な機械仕掛けの「親玉」として活動していた。もしマヴェリック号事件がアメリカの港湾検査官たちに「目を覚まさせる」ことになっていなかったら、つまり、密輸船への取り締まりが強化されていなければ、1917年3月に我々が彼を逮捕した頃には、すでにどこかで血なまぐさい騒乱が起こっていた可能性も否定できない。そうでなかったとしても、逮捕時点でチャクラバルティが、すでに動き出した組織の「総支配人」であったことは確かなのだ。

彼がどうやってこれほどの組織網を築き上げたのか、不思議に思う読者もいるかもしれない。その答えは、グプタの貸金庫の中にあった。そこには、アメリカ国内のインド人団体の会員およそ200名の名簿があり、その多くは奨学金を得て米国の大学に留学してきた青年だった。彼らは、学成って祖国に帰り、自国の向上に寄与することを期待されていたのである。そのうちの何人かは、すでに有力な工作員となっており、全米各地に都合よく散らばっていた。これに加え、数え切れないほど多くのドイツ工作員が協力し、ベルリンが西半球におけるアナーキズム、人種暴動、ヒンドゥー宣伝のために用意した3200万ドルの資金が注ぎ込まれていた――となれば、これは相当な「騒動の種」である。組織がここまで長いあいだ発覚せずに機能していたことは、むしろ驚くべきことであり、逆に言えば、14か月以上も秘密裏に活動していながら、大規模な暴動に発展しなかったことは、さらに驚くべきことである。だが、チャクラバルティの逮捕は、タイミングとしては絶妙だった。時間がかかったぶん、当局はより多くの手がかりを手にし、より多くの関係者を一網打尽にすることができたからだ。

そして、チャクラバルティ本人も、ある意味では「満足していた」と私は思う。彼がベルリン行きを告白したとき、まさに板挟みの状態にあった。イギリスが自分に復讐するのではないかと恐れていたのだ。私は、彼がアメリカの囚人として保護されることを保証した。すると彼は言った。「私がドイツ人にしてきたことをあなたに話せば、彼らがそれを聞きつけて、きっと私を殺すでしょう。それに、たとえそうでなくても、自分の仲間に殺されます。あなたは、あの人たちのことを分かっていない!」私は彼をなだめ、「では、インドの遺産という話についても、本当のことを話してほしい」と促した。

「ヴォルフ・フォン・イーゲルからもらったのです」と彼は答えた。「私は事故で外出できなかったので、セクンナを彼のオフィスへ行かせました。全部で6万ドル受け取りました。詩人タゴールの名前を出したのは、彼がノーベル賞受賞者であり、疑いの目を向けられにくいと思ったからです。」

彼は西120丁目364番地の家を購入し、快適な住居に整えた。さらに77丁目の家を買ってヒンドゥー・レストランを開き、ホープウェル・ジャンクションに農場を買って、陰謀者たちの集合場所にしようとした。そして、我々に貴重な情報を提供し、裁判で証言し、短期ながらも服役し、一連の騒動が一段落ついた頃には、3つの不動産物件と、かなりの収入源を手にしていた。つまり、プロイセンの工作員としては失敗に終わったものの、「プロイセン資金の運用家」としては、かなりの成功を収めたと言えるだろう。

多少の寄り道もあったが、ここで、爆弾班が特に関心を寄せていた第三のヒンドゥー=ドイツ陰謀計画に話を戻そう。フォン・パーペン大尉の小切手帳が、1916年1月、ファルマス港でイギリス軍に押収されて以来、アメリカ国内のドイツ陰謀を追う者たちの間で、次の2つの小切手の記載が、長く議論を呼んでいた。

“1915年2月2日 ドイツ領事館 シアトル
(案件 Angelegenheit)        1,300ドル

“1915年5月11日 ドイツ領事館 シアトル
(シューレンベルク用 for Schulenberg) 500ドル”

1917年12月、バーニッツ、ランドルフ、そして私の3人は、アニー・ラーセン=マヴェリック号事件の証言のため、サンフランシスコへ向かった。ちょうどそのころ、サンノゼで身元の怪しいドイツ人が逮捕された。名前はフランツ・シューレンベルク。サンフランシスコ当局の要請で、我々も彼の取り調べに協力した。彼の供述によると、1915年前半、彼はサンフランシスコ領事館勤務のフォン・ブリンクケン中尉と知り合い、その紹介でシアトルのドイツ領事を訪ねた。そこで、本人いわく、フォン・パーペンから直接4千ドルを受け取り、ライフル銃50丁、マキシム消音機50個、ダイナマイト1トンを購入し、ワシントン州スーマスとカナダの国境でシンというインド人に引き渡すよう命じられたという。シンはそれを、大勢のクーリー労働者からなる小規模軍隊に引き渡し、彼らはカナダ北西部で、橋梁や鉄道、船舶を爆破し、警備兵を銃撃して恐怖政治を展開するはずだった。シューレンベルクは、実際に一部武器の購入を進めていたが、その途上でフォン・ブリンクケンから「インド人との関係を断て」という手紙を受け取った。その後、彼はさらなる金を求めてフォン・ブリンクケンに迫ったが、領事フランツ・ボップは彼を追い払った。ブリンクケンは、ニューヨークへ行ってフォン・パーペンから直接受け取れ、と言い、彼はホーボーケンへ向かった。しかし、フォン・パーペンは彼に追加の金を支払うことを拒んだ。その頃、ホーボーケンに滞在していた彼のもとに、ポール・ケーニッヒの部下3人が現れた。彼らはアメリカ政府の秘密捜査官を装い、彼にこう申し出た――「ベルンシュトルフ伯爵に不利な情報を提供すれば5千ドルを支払う」と。シューレンベルクの知らぬところで、フォン・パーペンはケーニッヒに命じ、部下たちを送り込んでいたのだ。つまり、彼の口を試すためである。当時、フォン・パーペンの周囲にはきな臭い空気が漂っており、彼には、報酬をもらえなかった腹いせに酒場でべらべらしゃべり出すような不満分子を、これ以上抱える余裕がなかったのだ。しかしシューレンベルクは、三人を本物の連邦捜査官だと信じ、知っていることを口にするのを断った。翌朝、彼の宿に一人のドイツ人が現れた。見たことのない男だった。男は列車の切符を一枚差し出し、「メキシコ行きだ。秘密捜査官が追ってきている。これで逃げろ」と告げた。シューレンベルクは病み上がりでもあり、告げ口する発想は一切浮かばなかったようだ。彼はメキシコへ逃走し、フォン・パーペンはこうして一人の「やっかいな証人」を消すことに成功した。我々が彼と話をしたのは、その2年後であり、すっかり落ちぶれた、もう一つの「ドイツの失敗例」を眼前に見る思いだった。

我々3人がサンフランシスコまで出向いた主目的は、チャクラバルティ逮捕と彼およびグプタの供述について証言するためだったが、ヒンドゥー一斉検挙の「最後の場面」には直接立ち会ってはいない。サンフランシスコでの裁判は長期戦となり、被告は百名を超えた。小柄な医師の供述をもとに、政府は連邦大陪審に対し、連邦刑法第13条違反の全貌を提示した。そこには、サンフランシスコ・ドイツ領事館の全職員、アニー・ラーセン号をチャーターし、マヴェリック号を購入した海運業者たち、バークレーのラム・チャンドラ編集室を中心とするヒンドゥー工作員たち、さらにはフォン・パーペンやフォン・イーゲル(いずれも当時はすでに安全なドイツ本国に帰っていた)を含む、悪名高い連中の名が並んでいた。我々は、被告となったインド人たちを観察する機会を得たが、彼らがお互いをそれほど好いていない様子が目についた。彼らはいつもささやき合い、頭を振り、互いの襟や首に紙片を押し込んだ。仲間の一人が、証言台で「正直すぎる話」を始めると、彼らは身をよじり、顔をしかめた。裁判中、チャクラバルティの命にも脅迫があった。関係者全員に、法廷の秩序を維持するという点で、通常の何倍もの重圧がのしかかっていた。裁判は6か月以上に及んだ。ドイツ人被告たちは法廷で互いを罵り合い、ブリンクケンはボップへの嫉妬から、彼を職務怠慢だと非難し、自分の独立性を誇示した。こうした不和は被告全体に広がっていった。その頂点が、1918年4月24日――すべての証言が出揃い、ヴァン・フリート判事が陪審への説示のために一時休廷を命じた日の出来事である。被告の一人、ラム・シングが突然立ち上がり、ラム・チャンドラに向けて拳銃を二発撃ったのだ。ラム・チャンドラは即死した。その瞬間、合衆国保安官ホロハンの放った弾丸がラム・シングの首を貫き、彼もまた絶命した。その後、陪審は説示を受けて評議に入り、大多数の陰謀者に有罪評決を下した。

ホロハンの弾がラム・シングの首を折ったように、チャクラバルティの供述も、このヒンドゥー陰謀の「首」をへし折る役目を果たした。しかし、我々には、これに関連してもう一つだけ、付け加えるべき事件があった。それでこの話を締めくくろう。アニー・ラーセン号の責任者の一人は、アレクサンダー・V・キルハイゼンというスパイであり、もう一人はオトマー船長だった。キルハイゼンの名は、ドイツ秘密情報部の報告書に“K-17”としてしばしば登場していた。1917年ごろ、彼はデンマーク・コペンハーゲンで逮捕され、その所持品から、ラ・ナインという別の工作員宛の手紙が見つかった。その手紙には、「もし自分より先にアメリカに入国したなら、ブロンクスのテラー・アヴェニュー1319番地、コッツェンベルク宅で、自分宛の郵便物を受け取るように」との指示が記されていた。

この情報が我々に届くと、ランドルフとゼンフの両刑事は、さっそくコッツェンベルクの家を訪ねた。彼は「キルハイゼン」についてはよく知らないと言い、「ただ、従兄弟の友人だ」と答えた。

「その従兄弟の名前は?」とランドルフがドイツ語で尋ねた。

「オトマーです」とコッツェンベルク。「彼はサンフランシスコから逃げ出して、列車と自動車を半々くらい乗り継いで、アメリカ中を横断してきました。うちにしばらく滞在していましたが、ある朝、作業着に着替えると、そのまま出て行き、ノルウェー船に乗ってしまいました。今ごろはドイツに戻っているでしょう。」

ランドルフとゼンフは家宅捜索を行った。成果の一つは、1917年1月9日にキルハイゼンがニューヨークで提出した「一等水夫(able seaman)資格証明」申請書だった。この証明を得るには、彼は自分がアメリカ合衆国に帰化した市民であること、そして、「合衆国憲法を敵対者すべてから支持・防衛し、その憲法に忠実な信義と忠誠を誓う」と宣誓しなければならない。彼は、それを実に良心の呵責のない様子で誓っていた。さらに、彼の人格は、同じく水夫資格証明を申請していたチャールズ・A・マーチンなる人物によって保証されていた。記録を見れば、キルハイゼンもまたマーチンの「人格証明」に署名しており、互いに「保証し合って」いたことが分かる。私は今でも、「マーチン」が一体何者だったのか、つい考え込んでしまうことがある……。コッツェンベルクの家からは、もう一つ興味深い文書が見つかった。そこには、サンフランシスコから逃げ出したあと、オトマーがフォン・パーペンに提出した旅費精算書が含まれていた。そして最後に、アニー・ラーセン号そのものの航海日誌の断片――メモ帳を引きちぎった二枚――が見つかった。そこには、次のように書かれていた。

「3月8日 S.D. 発
3月18日 Soc. 着
4月5日 井戸掘り開始
4月9日 艇 Emma 到着
      水夫2名
4月10日 Emma 到着
      2組の乗組員が井戸作業
4月16日 井戸深さ22フィート 固い岩盤に突き当たる 水出ず 断念
4月17日 メキシコ沿岸へ向け出帆
   同22日 上陸用ボートで上陸 水探し
4月24日 アカプルコ着
      U.S.S. Yorktown Nansham(?)
      N. Orleans Annapolis
4月27日 アカプルコ発
5月19日 ソコロ断念
      沿岸へ向かう
6月7日 (判読不能な語二つ)
      糧食入手
6月29日 ホキアム着
7月1日 W. 着
      同1日 Investigator 着
7月4日 aus」

要するに、オトマーは、アニー・ラーセン号に関わるヒンドゥーとドイツ人双方の計画を、たった一語で総括したことになる。「全部、全部、『アウス(aus)』だ」と。

[Illustration: Alexander V. Kircheisen and his application for a
certificate as able seaman
(アレクサンダー・V・キルハイゼンと一等水夫資格証明申請書)]

V

A TRUE PIRATE TALE
(真の海賊物語)

戦争によって生まれた数々の海の物語の中で、本章に述べる話は、決して面白さという点で劣るものではない。これは「犯人を追い詰める」物語ではない。我々爆弾班が果たした役割は、ただ一つ、捕らえられた男を正義の場へ連れ戻すことだった。我々に求められたのは、彼を取り調べること、そして彼自身の供述と、彼と関わった他の者たちの供述とともに、彼をニューヨークへ連行することだけだった。そして、この物語は、その供述文そのものに語らせるのが一番だと思う。

1916年4月1日付 コレル刑事から爆弾班長宛報告書より

殿
受領した命令に従い、私はデラウェア州ルーイスへ赴き、ドイツ人スパイと目されるアーネスト・シラーなる人物を捜査し、可能であれば連行することとした……。

1916年3月31日 デラウェア州ルーイスにてコレルによって聴取されたシラー供述書より

私の名はアーネスト・シラーです。ロシア生まれで、23歳です……。職業は繊維技師です。私は1915年4月、イングランドのハルから出航した汽船コロラド号の乗組員としてニューヨークに到着しました。船での持ち場はグリサー(潤滑油係)でした。船上での私の名はフランク・ロバートソンでした。ニューヨーク到着時、船長からいくらかの金を受け取り、船を降りました。その後、合計8〜9か月ほど、ロードアイランド州ポータケット、マサチューセッツ州ローレンス、同州ウィティンズヴィル、同州ニュートン・アッパー・フォールズで働き、最後はセイラムの工場建設を終えました……。

1916年4月1日 ニューヨークにて行われたクラレンス・レジナルド・ホドソン(別名アーネスト・シラー、ロビンソン、ロバートソン、A・ヘンリー)尋問記録より

質問. あなたの本名は?

回答. クラレンス・レジナルド・ホドソンです。

Q. 他にどんな名前で知られていますか。

A. ロビンソン、ロバートソン、A・ヘンリー、それにアーネスト・シラーです。

Q. どこで生まれましたか。

A. ロシアのペトログラードです。

Q. ご両親はどこで生まれましたか。

A. 父はロシア、母はドイツです。私たちは、私が10歳か11歳になるまでペトログラードに住んでいました。その後、イングランドへ渡りました。父と母は私を、ラムズゲートのチャタム・ハウス・カレッジに預けました。私はそこに3年間いました……。

Q. その学校の校長の名は?

A. A・ヘンリーです。

Q. 卒業しましたか。

A. いいえ。私は士官候補生として乗船することになり、「コンウェイ(Conway)」という名の船で、海軍士官の訓練を受けました。その船に2年間いました。17歳でそこを辞め、マンチェスター郊外のオールダムにある機械工場で働き、そこで工作機械工の修業をしました。1914年8月にそこを離れ、イギリス陸軍に入隊しました……。上役から仕事を辞めるように言われました――若い者はもう職場には置かないと言われたのです……。上司は、「いずれにせよお前はいなくなるのだから、今のうちに行ったほうがよいし、そのほうが良い機会にも恵まれるだろう」と言ったのです。

Q. そのとき、あなたの同情心はイギリス側に向いていましたか。

A. イギリス側に向いていたことは一度もありません。ただ「兵隊がどんなものか見てみたい」と思っただけです。ドイツと戦うつもりはありませんでした。戦争は長く続かない――数か月で終わるだろう――と思っていましたし、その気になればいつでも逃げ出せると分かっていました。だから12月に退隊しました。

Q. なぜ退いたのですか。

A. 兵士たちをよく見分けて、「本当のところ、何者なのか」判断しようとし始めたのです。そして、彼らが一群の鼠にすぎないと分かりました。自分は考え方においてブリティッシュ(英国人)ではなく、ドイツの大義に賛同する者だと気づきました。私はできるかぎり他の兵士から離れ、野原へ新聞を持って行って読んでいました。彼らはいつも私をいじめ、あるとき私は、そのことで二人の兵士を殺しかけました。彼らは私をドイツのスパイだと決めつけて懲らしめようとしたのです。私は逃げ出し、バースで一週間働きましたが、その後警察に捕まり、連れ戻されました。そして、戦争に対する自分の考え方に賛同できない旨を説明すると、連隊長から除隊を言い渡されました……。

「シラー」のコレル宛供述より

数か月前、母から手紙を受け取り、ロシアに戻って来てほしいと書かれていました。私はパスポートを取るためニューヨークへ来ましたが、届かなかったので、1か月ほど滞在して待っていました。手持ちの金は次第に減っていったので、ある人物から金を借りました――誰かは言いたくありません……。

ホドソン尋問記録より

Q. ローレンス(マサチューセッツ)にいたとき、どこに泊まりましたか。

A. ザクソニア・ハウスです。ドイツ人たちと一緒でした……。

Q. ザクソニア・ハウスで、他に誰と知り合いになりましたか。

A. グリューンヴァルトという紳士と、ドイツ人のパーティーで知り合いました。彼が自分の酒場に来るよう誘ってくれたのです。ローレンスにある酒場です……。

Q. 彼の酒場では、他に誰か知り合いはいましたか。

A. いいえ。しかし、同じ家に泊まっていた若い女性を知っていました……。

Q. その女性とはかなり親しくなったのですか。

A. はい、プラトニックな友情関係です。

Q. 彼女はあなたに金を貸しましたか。

A. 彼女は自分の判断で金を貸してくれました。200ドルです……。私は30ドルだけ頼んだのですが、彼女は200ドル、全部金貨で持ってきました……。

Q. その後、どのくらい経ってから、再び金を貸してくれましたか。

A. およそ1か月後です……。「今すぐ金が必要だ」と電報を送りました。12時までに40ドルが届きました。彼女は、「今夜、さらに金を送る」と言っていました。翌朝、ホーボーケンの指定住所へ行くと、手紙が届いていました。中にはまた40ドル入っていました。その後、もう一度10ドル送られてきました。

Q. 合計290ドルですね。

A. はい。今思い出せる限りは、それだけです。

「シラー」の供述より

……ある人物から金を借りた、とだけ言っておきます。その後、再びボストンへ行き、仕事を探しましたが、望んでいた仕事には就けませんでした。そこでニューヨークに戻り、ホーボーケンで何人かの男たちと出会いました。名前は知りませんが、金を得る計画を立てました……。

ホドソン尋問記録より

Q. ドイツ人たちには、どこで会ったのですか。

A. ニューヨークに到着したとき、ウェスト通り12丁目あたりの、キュナード・スチームシップ・カンパニー近くの酒場で、一人の男に会いました。ドイツ人だと思ったので、船を爆破する話を持ちかけました。それから、彼と一緒にホーボーケンに渡り、そこでハラーという男に酒場で会いました……。それから、どの船を爆破するか相談しました。それが、キュナード・ラインの客船パノニア号(Pannonia)だったのです……。

Q. なぜ、その船に決めたのですか。

A. どの船も大量の弾薬を積んでいることは、よく分かっていましたから……。桟橋まで行き、この船を見て、「これこそがうってつけだ」と思いました……。私は3人の男と、54番埠頭あたりで落ち合いました。彼らの夕食代は、私が払いました……。それから、名前も知らぬ男にダイナマイトを調達するよう頼み……6ドル渡しました。ベッカーは自分の船を持っていると言い、私は彼にガソリン代として8ドル渡し、それから質屋で二挺の拳銃を買うように言いました……。私はハラー用に一挺の拳銃と、弾薬100発を買ってやりました……。

Q. その後、彼らに会いましたか。

A. はい。土曜の朝、彼らに会いました。ベッカーにモーターボートのことを聞くと、「凍りついていないといいが」と言い――まるで、ボートが凍りついてさえいなければ、喜んで計画に乗るつもりだったかのような口ぶりでした。ベッカーは、「2時間あればボートを下ろせる」と言っていましたが、私はモーターボートの扱いについては何も知りません。それでも、あのボート――パノニア号を爆破しに行くために使うはずだったボート――を水に浮かべるには、少なくとも6時間はかかっただろうと思います。それでは、出航前の船に間に合わなくなってしまいます……。その後、私は彼らの誰にも会っていません……。

「シラー」の供述より

……しかし、他の連中は私を置き去りにしてしまったので、私は一人で勝手に行動しました。マトッポ号(Mattoppo)という汽船が出航しようとしているのを見て、私はその船の救命艇の中に潜り込み、5日間そこに隠れていました。6日目に、船は出航しました……。

英汽船マトッポ号船長R・ベルグナー供述書より

3月29日午後3時30分、イギリス汽船マトッポ号は、ホーボーケン12丁目埠頭を出航し、ロシアのウラジオストクへ向かった。

「シラー」の供述より

その夜……私は隠れ場所から出て、船長室のほうへ歩いて行きました……。

ベルグナー船長供述書より

午後7時45分頃……サンディフック灯船からおよそ20マイル沖合の地点で、私は機関長室で主任機関士と話をしていました。8時5分頃、私は主任機関士の部屋を出て、自分の船室に戻り、隣接する寝室に入ったところ、アーネスト・シラーという男に、拳銃二挺で脅されました。彼は私に向かってこう言いました。「手を挙げろ! 俺はドイツ人だ。お前の船を沈めてやる。」それから、私に背を向けさせ、身体検査をしました。何も持っていないのを確認した彼は、船室のドアを閉めるよう命じ、そのうえで私を部屋の隅に立たせ、二挺の拳銃で狙い続けました。そしてこう言いました。「金庫はどこだ? 船には二千ポンドあるはずだ。その金が欲しい!」
彼は「船内に爆弾を仕掛けてある。これから爆破するつもりだ」と告げました。

午後8時20分、二等機関士が私のドアをノックし、返事がないのでドアを開けました。シラーはたちまち彼に拳銃を向け、「部屋に入れ」と命じました。二等機関士は言われた通りにしました。シラーはドアに鍵をかけ、内側から閂を下ろしました。それから、私に自分の鍵を出せと言いました……。彼は鍵を手に入れると、船の書類と私物をすべて漁りました。現金箱を開け、金貨4ポンドと銀貨5ポンドを取って行きました。そして、「人から金を奪ったのはこれが初めてだが、金が必要なんだ」と言いました。
船の書類に、船内に有刺鉄線が積まれていると書かれているのを見ると、彼はこう言いました。「それは禁制品だ。だから、この船を沈める。」
それから彼は、どこへ向かって航海しているのか尋ねました。私がロシア行きだと告げると、彼は船を沈めることに逡巡する様子を見せ、「ロシアは愛している」と言いました。
その後も会話は続き、真夜中近くまで続きました……。

「シラー」の供述より

私が船長室にいるとき、二等機関士がやって来たので、彼に拳銃を持っていないか調べたうえで、「そこに座って楽にしていろ」と言いました。私は船長にウィスキーはないか尋ねました。私は寒く、5日間ろくに食べていなかったからです。そこで船長はウィスキーの瓶とビスケットをくれました。お互いの健康を祈って乾杯したあと、2時間ほどそこに座っていました……。

ベルグナー船長供述書より

真夜中になると、彼は「無線を使えなくしてやる」と言い、ちょうどそのとき、海図室で誰かが動いている気配を聞き取ると、彼は私に「船室から出ない」と名誉にかけて約束させました。「もし出てきたら、その場で撃ち殺すぞ」と言うのです……。

二等航海士アレン・マクラカム供述書より

私が当直に入った真夜中頃、海図室の外で誰かとすれ違いました。しかし暗かったこともあり、船長だと思って、そのまま海図室に入りました。すると、その人物が後からついて来て、「手を挙げろ」と言いました。彼は「この船は今やドイツの指揮下にある。抵抗すると、船長と二等機関士の命が犠牲になる」と言いました。
彼は、もしこの船がイングランド行きだったら、すぐにでも沈めていたが、ロシア行きなので、おそらく見逃すつもりだ、というようなことを言いました。それから、私に自分の前を歩かせ、左舷後部の救命艇のところまで行かせ、その先端部にある斧を取ってくるよう命じました。彼はそれを手にして、私を連れて無線室へ戻りました……。

無線士アレクサンダー・ダネット供述書より

私が無線室で当直していると、この男が二等航海士を連れて入ってきました。彼は私を二挺の拳銃で脅し、私と二等航海士を、見習い水夫の部屋まで連れて行きました。そこで二等航海士は、「見習い(彼は副無線士も兼ねています)を出せ」と言いました。シラーは彼も拳銃で脅し、我々二人に、海図室へ上がるよう命じました……。

二等航海士供述書より

彼は私を無線室に連れ戻し、拳銃を私の肋骨に押し当てたまま、機械装置を壊し始めました。それから、彼は機関長室へ行き、銃を要求しました。私は彼に付き添いました。銃を手に入れると、彼はそれを海に放り投げました。それから、今度は一等航海士の船室まで私を連れて行きました。そこでは、一等航海士は寝ていたのですが、彼はその寝込みを襲って武装解除しました。
それから彼は、私に対して「コンパスで南西に進路を取れ」と命じました。私がブリッジへ行く途中で、三等航海士が降りて来たので、彼は今度はその男を脅し、私はそのあいだにブリッジへ向かいました。

[挿絵: Lieutenant George D. Barnitz, U. S. N.
(米海軍 ジョージ・D・バーニッツ中尉)]

無線士供述書より

シラーは再び戻ってきて、私たちを船長室へ連れて行きました。その後しばらくして、彼は再び現れ、私を連れて無線室へ行きました。彼は「自分が壊してしまった無線装置を、修理できないか」と尋ねました。私は、「一台なら、修理できるかもしれない」と答えました。すると彼は、「それなら朝まで待とう」と言い、今度は私をデッキに連れ出し、第四・第五機関士の船室まで連れて行きました。私がドアを開け、彼が中に入りました。二人とも寝ていました。彼は私に全ての引き出しを調べさせ、やがて一挺の拳銃と弾薬箱を見つけました。それらを私に、海へ投げ捨てさせました。
次に彼は、私を三等機関士の船室に連れて行き、そこでも引き出しをすべて探らせました。そこからはウィスキーの瓶を持ち出しました。それから彼は、「金を持っているか」と私に聞きました。その後、彼は私を再び船長室に連れて行き、「朝6時までここにいろ」と命じました。

「シラー」の供述より

私は、各士官の船室に入り、拳銃をすべて取り上げました。給仕係からは10ドル、二等航海士からは2ドル紙幣を取りました。

二等航海士供述書より

午前1時30分、彼は再びブリッジに戻って来て、「コンパスで南に進路を取れ」と命じました。

「シラー」の供述より

それから再び船長室へ行き、「これから船を沈めるつもりだ」と告げました。しかし船長は、「自分は少年の頃から、週にわずかな賃金で船上で働き、今の地位にまで這い上がってきた。なのに、それがこんなことで終わるとは」と言いました。彼は妻と一人娘(少女)がいることを話し、壁に掛かった娘の写真を見せました。私は、「もしこの船が沈んだら、別の職を得られるのか」と尋ねると、彼は、「港湾労働者として働くしかないだろう」と答えました。船長は、「ボートを降ろすには海が荒れすぎている」と言いました。私は殺人を犯したくはありませんでしたし、船長が職を失うのを知りながら、それをする気にはなりませんでした。一方、自分は若く、仕事などいくらでも見つかる、とも思いました。そこで私は、「夜が明けたら、岸へ降ろしてくれないか」と船長に頼みました。船長は「そうしよう」と名誉にかけて約束しました……。

ベルグナー船長供述書より

午前5時30分……彼は私に船の指揮を返し、私はデラウェア・ブレイクウォーター(防波堤)へ向かいました……。

無線士供述書より

午前6時、彼は「下へ降りてよいが、無線室には入るな」と言いました。私が大工室のあたりを歩いていると、彼がそこを物色しているところでした。彼は私に斧を持ってくるよう命じ、それを持って再び無線室に連れて行きました。そこで彼は、私に機器の一台を叩き壊すよう命じ、背後で拳銃を構えていました。私は、装置の一部を破壊した後、「これでいいか」と尋ねました。彼は「斧をそこに置いて、ドアに鍵をかけろ」と言いました。私はその通りにしました。そのあと、彼は私のもとを離れました。

「シラー」の供述より

我々が陸地を視認したとき、船長は、「灯台に向かって真っ直ぐ進まなければならない。そうしなければ、君が行きたがっている別の方向へ行けば座礁してしまう」と言いました。そこで、私は進路を船長に任せ、彼の言葉を信じることにしました。船長は、私を上陸させると言っていたからです……。

ベルグナー船長供述書より

陸に近づくと、彼は船のボート一隻を降ろすよう命じ、「私は人質として二人の士官を一緒に連れて行く。そうすれば君が私を追跡してこないことが保証される。さらに、漕ぎ手として中国人船員三人を連れて行く」と言いました……。

ケープ・ヘンロペン沿岸警備隊詰所長 ジョン・S・ウィンゲート供述書より

午前11時30分頃、沖合から一隻の蒸気船が近づいてくるのを目にしました。私は隊員たちに、「軍艦が来たぞ。ただ、それがドイツ船かイギリス船かは分からない」と言いました。11時45分、見張りが、「蒸気船がヘン・アンド・チキン浅瀬(Hen and Chicken Shoal)に向かっている」と報告しました。
私はすぐに、「J.D.」信号旗を掲揚するよう命じました。これは「危険水域に向かっている(You are standing into danger)」という意味です。我々の信号を見たと思しき時点で、船は一旦停止し、約10分ほど停船したのち、大きく左舵を取り、浅瀬を避けました。
それから数分後、船はボートを降ろしました――我々は、音測(測深)を行うためだと思いました。ボートは船から離れ、海岸に向かって真っ直ぐ進み始めました。

二等航海士供述書より

およそ午前11時45分……私は、彼の命令で小艇に乗り込み、乗組員四人とともに岸へ向かいました。しかし、パイロット船フィラデルフィア号に呼び止められ、「上陸を試みれば溺れ死ぬぞ」と警告されました。フィラデルフィア号は、その後我々を安全な水域まで曳航してくれました……。

ウィンゲート詰所長供述書より

その間に、パイロット船は、危険を知らせる汽笛を鳴らしながら、蒸気船のほうへと向かっていました。そのとき、蒸気船は「K.T.S.」信号を掲げました。これは「海賊行為(Piracy)」を意味します。私は「海賊」信号を見て、すぐに自分のボートの出航準備を命じました。5分後には海へ出る態勢が整いました。12時20分、私はルーイス詰所のリンチ詰所長に電話をかけ、自分がこれから何をするつもりかを伝え、岬の沖合で合流するよう依頼しました。

ルーイス沿岸警備隊詰所長 ジョン・S・リンチ供述書より

私と隊員たちは、動力救命艇を出し、蒸気船へ向かいました。蒸気船に到達する前に、パイロット船が蒸気船の小艇を曳航してくるのを見ました。パイロット船は、岬のすぐ沖で小艇を離し、小艇の乗員は自力で岸に向かって漕ぎ始めました。私は彼らに声をかけ、彼らは止まりました。我々は彼らの横につけ、「その男は私が岸まで連れて行く。そうすれば君たちも楽だろう」と言いました。そこで、その男は我々のボートに乗り移りました。
それから私は、ウィンゲート詰所長のボート――彼のボートは手漕ぎボートです――まで戻り、彼を我々の船に乗せました。それから蒸気船に横付けしました。私は蒸気船の船長を呼び、「私と一緒に来てほしい」と頼みました。すると彼は、「行きたくない。あの男と同じ船には乗りたくない。あいつは拳銃を五挺も持っている!」と言いました。私は、「あいつが何丁銃を持っていようと構わない。私は怖れはしない」と答えました。そこで船長は、「それなら、君がその男を岸まで連れて行ってくれ」と頼みました。
すると、このアーネスト・シラーという男は、自分の持っていた銃を海に投げ捨て始めました。シラーは一挺を投げ、ウィンゲート詰所長――彼はすでに私のボートに乗り込んでいました――が二挺を投げ捨て、C・A・ジェンキンズが、船底に転がっていたもう一挺を投げました。さらにシラーは大量の弾薬も海に投げ捨てました。上陸後、我々は彼の身体検査を行い、残っていた弾薬も取り上げて、これも海に投げ捨てました。その後、私は彼を税関事務所へ連行し、そこに引き渡しました。

「シラー」の供述より

私は、今すぐニューヨークへ戻って、自分の罪を告白する用意があります……。自分の知るかぎり、船内には爆弾は一つも仕掛けていないことを、ここに宣誓します。私は単に、はったりとして船長にそう告げただけです。

こうして、この向こう見ずなロシア人――生まれはホドソン、好みではシラー、信仰としてはドイツ人――は、たった一人で汽船を「拿捕」し、出港から36時間後にはニューヨークへ引き返すことになった。彼は「公海上の海賊行為(piracy on the high seas)」として、アトランタ合衆国刑務所での終身刑という「板の橋」を歩むことになったのである。

VI

ALONG THE WATERFRONT
(波止場で)

I
Sugar and Ships and Robert Fay
(砂糖と船とロバート・フェイ)

大港湾の河岸に馴染みのある者なら、その地域を警備することがどれほど難しいか、よく分かるだろう。昼間は地域で最も活気ある一角であるが、夜になると、人影はまばらだ。人の少ない場所には、たいてい街灯も少ない。そして、灯りがなければ、犯罪が起きるのは当然だ。海岸線の輪郭は不規則で、自然港を縁取る元来の陸地に沿って入り組んでおり、「通り」と呼べるような本通り一本につき、路地、小道、暗がりのくぼみや行き止まりが、十や二十はある。鍵と錠前、そして夜警が埠頭の陸側を守ってはいるが、水側から埠頭へ侵入するのは容易であり、身を隠す場所はさらに豊富で、逃走に至っては、たやすいことこの上ない。

もし1914年当時のニューヨーク港が、20年前の同港と同じ姿をしていたとしたら、戦争の到来によってどれほどの混乱が生じていたか、私にはとても見当がつかない。だが、おそらく世界のどの港も、ニューヨークほど整然と巨大な船舶量をさばいてはいないだろう――ここで言う「整然」とは、港湾設備ではなく、「法と秩序」の観点からである。河岸は物理的にも清潔であり、長年にわたる有能な警察の働きのおかげで、港湾労働者たちも統制のとれた存在になっていた。とはいえ、シェイクスピアの言うとおり、「陸の鼠もいれば、水の鼠もいる」のである――。

1914年8月、戦争が宣言され爆弾班が新設されてから、その年の秋にかけて、河岸にはある変化が現れた。ハンブルク=アメリカン・ラインやノルトドイチェ・ロイド客船、アトラス・ラインの貨物船、その他赤・白・黒の三色旗を掲げた雑多な船舶が、イギリス海軍の封鎖によって出航不能となり、港内で足止めを食らったのである。ドイツ船は約80隻が係留された。彼らは動けなかった。ドイツが利用可能な輸送船団は、南方海域で英国艦隊の追撃をかわしつつ通商破壊を試みるほかになかったからだ。ハンブルク=アメリカン・ラインとボーイ=エド大佐は、数度にわたり通商破壊艦への補給を試みたものの、戦争によって港内に閉じ込められた大半の商船は、結局ひとつとして港を離れなかった。その結果、ニューヨーク河岸には、数千人もの熱烈なボッシュ(ドイツ野郎)たちが、長期滞在することになった。一方で、中立国および連合国資本の大手船会社は、これまでにないほどの繁忙期に入った。最初の船が欧州から到着すると、その船には購買代理人や欧州の資金が満載されており、「即納の物資」とアメリカとを物々交換するために来ていた。貨物船に似たものを所有している者なら誰しも、一夜にして「大金持ち予備軍」となった。合衆国中のあらゆる物資が、連合国――当面のあいだは、中立国のオランダやスカンジナビアを経由してドイツにも――に向けて、どっとニューヨークの河岸に流れ込み始めた。そして、ハドソン川とイースト川からは、その対外貿易が、絶え間なく、ますます太い流れとなって海へと注ぎ出ていった。

1915年を迎えるころには、その流れはすっかり整っていた。埠頭は非常な繁忙を極め、「厄介ごとの種」も増える一方だった。1月3日、エリー・ベイスン停泊中の汽船オートン号(Orton)で、原因不明の爆発が起こった。一か月後、ヘニントン・コート号(Hennington Court)の積荷から爆弾が発見されたが、それがなぜ、どのようにして積み込まれたか、誰にも説明できなかった。2月末ごろ、カルルトン号(Carlton)が洋上で火災を起こした――これも不可解な火事だった。二か月ののち、ロード・アーン号(Lord Erne)の貨物から二つの爆弾が見つかった。爆弾班の仕事柄、本来なら我々が調べるべきだったが、発見者たちは、あまりにも性急にそれを海中に投棄してしまった。1週間後、デヴォン・シティ号(Devon City)の船倉から爆弾が一つ見つかったが、これも説明はつかなかった。クレッシントン・コート号(Cressington Court)が4月29日に洋上で火災を起こした件も、合理的な原因は全く見当たらなかった。

我々は、これらの事案のたびに注目を促され、そのつど捜査を行い、報告書をファイルに綴じた。そこには、いずれも「いずれ適切に進展があれば、逮捕に至る手がかりとなるはずの」記録を加えていった。しかし、その合計が示していたのは――「何もなし」であった。それから、ようやく運がこちらに向き始めた。

ニューヨークを出てフランス向けの物資を満載していた汽船カーカスウォルド号(Kirkoswald)が、マルセイユに入港した。その船倉の中から、砂糖袋四つに、それぞれ爆弾が一つずつ入っているのが見つかったのである。フランス当局は爆弾を押収し、その爆薬部分を取り出して分析した。警察本部長は直ちにマルセイユへ電報を打ち、一つの爆弾ケースと、それが入っていた砂糖袋、および内容物の分析結果の返送を要請した。返事はなかった。そこで再度電報を打った。その後、爆弾ケースは、フランス共和国政府の厚意によりジュセラン大使からワシントンの国務省に寄贈され、そこからミッチェル・ニューヨーク市長宛に送られ、最終的に我々の手元に届いた。我々の調査の結果、それは新型の爆弾であることが判明した――長さ約10インチの金属管で、薄いアルミニウム製の隔壁で二つの区画に分かれていた。一方の区画には強力な爆薬である塩素酸カリ(potassium chlorate)が、もう一方には硫酸が入っていた。硫酸が隔壁を徐々に溶かしていき、やがて両者が混ざり合って爆発が起きる――そのはずだった。だが何らかの理由で、それは作動しなかった。金属は良質で、細工も精巧だった。

ここに、事件解明のための最初の手がかりが現れた。多くの警察官は、一つの仮説にあまりに固執するあまり、その仮説にうまく収まりきらない重要な事実を切り捨ててしまいがちである。私はいつも、まず証拠を集め、その上に理論を築き、そして新たな事実が出てくるごとに、その理論を検証し、採用するか却下するかを決める、というやり方を信条としてきた。今回、そのやり方が正しかったことは明らかだ。我々には、爆弾の筒そのもの以外に、構想の土台にできるものはなかったからである。そこから何が読み取れたか。第一に、我々は幸運にも爆弾を実物として調べることができた。通常、爆発後に起きる火災は、その原因の痕跡をほとんど残さない。我々は、その構造と成分という、漠然とはしているが確かな手がかりを手に入れた。第二に、カーカスウォルド号がフランス向けの物資を積んでいたこと、そしてこれまでに爆弾が見つかるか火災が起きたすべての船もまた、連合国向けの物資を運んでいたことを知っていた。すでにこの時点で、被害船のリストは拡大していた。5月には新たに3隻、6月に1隻、7月には5隻の火災・爆弾事件が発生していたのである。したがって我々の第一仮説は、「これらの爆弾は、ドイツ人またはその手先が製造し、仕掛けたものだ」というものになった。

[挿絵:

Copyright, by Underwood and Underwood, N. Y.

フェイ中尉(右)と、逮捕後のジョージ・D・バーニッツ中尉]

[挿絵:

Copyright, by Underwood and Underwood

左から右へ:フェイ、デーチェ、ショルツ――法廷出廷の様子]

カーカスウォルド号は砂糖を積んでいた。他の被害船の貨物記録を調べてみると、いずれも砂糖を積んでいたことが分かった。火災が起きた場合、この可燃性の高い砂糖が、消火活動を甚だ困難にしていた。河岸と港湾警察の警戒は言うまでもなく最大限に引き上げられていたが、爆弾を仕掛ける者が、自分の爆弾を警官の鼻先にぶら下げて歩くことはまずない。爆弾が砂糖とともに船に積み込まれたと考えるのは、それほど不自然ではなかった。そこで私は、砂糖の製造現場を見に行くことにした。

私は、原糖の搬入から、袋詰め・出荷に至るまでの工程をすべて見学した。国外向けの砂糖はすべて袋詰めで発送されており、袋は手縫いかミシン縫いで密封されていた。幾度か試してみた結果、手縫いの袋は、一度開いてから再び縫い直しても、あまり痕跡を残さずに元どおりに見せかけることが可能だと分かった。しかし、ミシン縫いの袋はちがった。一度縫い目をほどいてしまうと、元の縫い方をそっくり真似て縫い直すのは難しく、改ざんはまずバレる。私はこの事実を心にメモしておき、出荷部門を覗きに行った。そこで、ある重要なことが分かった。積み出された砂糖が、実際に船倉へ積み込まれる前に、その行き先を知りうるのは、製糖所の出荷係と、製糖所から船へ砂糖を運ぶ艀(はしけ)の船長だけだ、ということである。

そこで、我々はまず艀の船長とその助手たちに「色目」を使うことにした。製糖所の門から下ろされた砂糖の積み込みを、出荷係が艀の船長に伝票を手渡すところから、艀が埠頭を目指して出て行くところまで、我々は目を離さなかった。艀がどこか港の埠頭に横付けされると、我々はそこまで追跡し、船倉への積み替え作業を監視した。もし艀の船長が、手縫いの袋なら一度開いて再び縫い直せることを知っており、それに爆弾を入れて再封印しようと考えたとしたら、それをやれるのは、製糖所を出てから埠頭に着くまでのあいだしかない――この点には確信が持てた。艀が船に横付けされるやいなや、荷役人たちはすぐさま貨物を船倉に落とし込み、ハッチを閉めてしまう。船側の貨物係は、艀の船長へ引渡しの受領書を渡す。この一連の流れの中には、袋に細工する余地はほとんどなかったのである。

では、製糖所から艀、艀から外航船の船倉へと至るまで、「袋そのもの」を監視するにはどうしたらいいか。これは厄介な課題だった。日中の河川は、絶え間ない船舶の往来でごった返している。船足の重い艀にとって、河の航路を進むのは、ラッシュ時に五番街を徒歩で横断するのと同じくらい「楽しい」ものだ。夜の川は、比較的すいている。そのため、艀による運搬作業も、主として夜間に行われていた。水上の男は、暗い水面に浮かぶ不格好な船影を見分けることができる。しかし陸の男には、それができない。我々は不利な条件を抱えたまま、モーターボートで艀を追跡するしかなかった。霧の中、遠くまたたく灯りを何時間も追い続けた末、ようやく追いついてみれば、それが「目当てとは別の船」だった、ということも少なくなかった。暗い川の上の船は、暗い路地の独身女性と同じだ――衝突を恐れてか、あるいは「船も女性も用心深い」という意味で言っているのか、とにかく近づいてくるものには、強い警戒心を示す。我々のモーターボートは、うるさいエンジン音で、半マイルも先から自分の存在を知らせてしまう。ボートを漂流させれば、今度は目標を見失う。艀に潜入しようともしたが、数があまりに多く、それぞれ行き先も違うため、我々の人員では到底カバーしきれなかった。

こうして6月と7月は過ぎていった。報われにくく、しかも危険な仕事だった。ある晩、ゼンフ刑事は、ウェスト44丁目の埠頭下で、怪しい男を追いかけているうちに川へ落ち、手荒い救出を受けるまで、溺れかけたこともあった。事件は、抽象的な議論ばかりが先行し、具体的な進展を見せないように思われ始めていた。しかし、その一方で、河岸の艀船長の多くがドイツ人だという情報も掴んでいた。そこで、調査対象を絞るため、「過去の火災船に最も頻繁に砂糖を運んでいた艀の船長」の名を洗い出すことにした。これは時間のかかる作業で、艀運送業者の受領記録を徹底的に調べねばならなかった。しかし、その結果、どのケースでも、「出航する船に砂糖を届けた艀の船長は、受け取った砂糖の袋数について、常に『全数受領』の受領書を返している」ことが分かった。これは、「船長が一つの出荷から袋を抜き取り、爆弾を仕込み、別の出荷分に紛れ込ませる」という可能性を、ほぼ打ち消すものだった。

今になって言えば、ここで諦めなかったのは幸いだった。諦めるわけにはいかなかったのだ。なぜなら、船舶火災はその後も頻度を増しながら続いており、誰かが爆弾を作り続けていることは、爆弾が発見され続けている事実から明らかだったからだ。もし艀の船長が、砂糖袋に爆弾を仕込もうとするなら、まず爆弾そのものを入手しなければならない――この前提に立ち、我々は艀船長たちを、水上だけでなく陸上でも尾行し始めた。そこから、事件は突然妙な方向へ曲がり、我々の「ドイツ陰謀」仮説は、大いに混乱することになる。

我々は、何人かの艀船長を自宅、馴染みの酒場、そして「もう一つの商売の場所」まで追跡した。その結果、その「もう一つの商売の場所」の一つが、マンハッタン西側下町にある、ある男の住まいであることが分かった。その男は、昔から知られた「川の盗賊」だった。それだけで逮捕に十分な理由となった。8月27日、我々はマイク・マツェット、フェルディナンド・ハーン、リチャード・マイヤーホッファー、ジーン・ストームスのドイツ人4名と、スウェーデン人ジョン・ピーターソンを、本部へ連行した。マツェットは供述した。「自分を含め、艀船長連中はみんな、常習的に砂糖を盗んでいた」と――彼の言葉を借りれば、“all the rest(他のみんな)”である。盗んだ砂糖は、相場の6分の1で川賊に売り、その結果、川賊は市場価格の6分の5で売り捌くことができた。つまり、澄ました顔で400%の利益を得ていたわけである。川賊たちはモーターボートで静かに艀の影に近づき、停泊中に数袋盗み出しては、影のように去っていった。我々も、そんなボートを何度か目にしてはいたが、これまで一度も、その現場に踏み込むことができなかった。貨物検査をするはずの「チェッカー(荷役監督)」も、実は共犯だった。彼らは、砂糖の袋数を正しく報告するどころか、盗まれた砂糖が再び売られたとき、その売上から取り分を得ていたのである。

船長たちからは爆弾は一本も見つからなかった(彼らはまもなく投獄された)が、彼らは河岸事情については十分承知していたようだ。「砂糖を“買っている”」川賊の一人に対して、ある船長はこう言った。「好きなだけ持ってけ――どうせこのクソ船、向こう(欧州)にはたどり着きゃしねえさ!」
爆弾は見つからなかった――仮に見つかっていたとしても、どうだったろうか。我々には、この船火災が「故意に起こされたもの」だろうという合理的な確信はあった。しかしそれが、「ドイツの目的」によるものなのか、それとも単に「砂糖窃盗が、貨物が対岸の荷受人に届いて発覚する前にすべて灰にしてしまおう」とする意図によるものなのか、その区別はつかなかった。盗賊を有罪にできたことは、事件進展の遅さを思えば、ささやかな慰めにはなったが、爆弾の罪を誰かに着せるには程遠かった。

しかし、長旅に出かけるとき、切符をどこかにやってしまったと分かっていても、人はつい、ありとあらゆるポケットをもう一度まさぐってみるものだ。さっき全部探したばかりで、「ここにはあるはずがない」と知っていても、である。そして結局、「あるはずがない」と思っていたポケットから、切符が出てくる――そういうものだ。我々もそれと似た本能に従い、6月から9月までの足跡をたどり直し、もう一度、製糖所から外航船の船倉までの砂糖の動きを追跡することにした。我々の「砂糖と爆弾の関連説」は、この再調査で証明されるか、完全に覆されるか、そのどちらかでなければならなかった。この、やや退屈な「総復習」のさなかに、我々は「シナンゴウ(Chenangoes)」なる存在と出会った。

彼らは、ロマンチックな存在でも何でもない。ただの「日雇いの波止場作業員」だった。製糖会社の契約する艀運送会社が、砂糖埠頭での積み込み作業のために雇っていた連中だ。彼らは日給制あるいは出来高制で働き、仕事が終われば給金を受け取って各々の道を行く。雇う側としては、「どこの誰か」「どこから来たか」を気にする必要はまったくなかった。がっしりした体つきさえしていれば、シナンゴウとしては十分だったからである。彼らは、雑多な労働者層で、たぶんバベルの塔の建設資材を運んでいたのも、同じ種類の人間だろうと思うくらいだ。話す言葉の数も、それに劣らず多様だった。同じ顔が二度と雇われることはほとんどなかった――それは、仕事が特別に過酷だったからではない。むしろ、シナンゴウにとっては「すべての仕事が忌々しい」からだ。彼は労働世界の「浮浪者」であり、たまたま同じ人間が再び呼ばれたとしても、誰もそれに気づきもしなかったし、気にもしなかっただろう。我々は、可能な範囲で彼らに注意を払った――四方八方へと散って行く彼らの後をつけ、作業中の様子もじっと観察した。誰かがわざと貨物の中に紛れ込んでいないか、怪しい包みを持ち込んでいないかを見るためである。だが、見つかった「最も悪いもの」は、腰にさした小さな酒瓶くらいのもので、それ自体は、特定の犯罪計画を示すものではなかった。

カーカスウォルド号の爆弾を調べ始めて以来、我々は塩素酸カリと硫酸の販売経路も同時に追っていた。爆薬と化学薬品メーカーから提供された膨大な販売記録を調べ、薬局からの報告もいくつも洗ったが、これといって重要な情報は得られなかった。この二つの物質は、世の中で広く、かつ無害な目的にも利用されており、個人が少量を購入しても、それ自体では怪しいとは言い切れない。爆薬に関する市の厳格な条例のおかげで、「購入記録から捜査への橋渡し」は容易ではあったが、そもそも「捜査すべき対象」が見つからなければ、いかなる便宜も役に立たない。こうして9月、さらに10月の一部が過ぎていった。ちょうどその頃、爆弾事件には新味がなくなり、出航船の火災にもほとんど慣れっこになりかけていた我々に対し、フランス政府が伝統的な礼儀正しさをもって、ふたたび「助けの手」を差し伸べてきた。そして、その過程で、我々の「砂糖説」は粉々に吹き飛ばされることになる。

[挿絵: フェイ爆弾の材料

スーツケース内には、地図帳、港湾の地図2枚、製図器具、工具、かつら2個と付け髭2本、望遠鏡型爆弾、その他数包の薬品が入っていた]

フランス駐在のマルタン陸軍武官が電話をかけてきた。「爆薬を買おうとしている人物がいる。あなたたちの興味を引くと思う」とのことだ。どんな爆薬か。トリニトロトルオール、すなわち“TNT”――現代砲弾でも最も激しい推進剤の一つである。我々は、「ぜひ聞きたい」と答えた。

軍需品輸出業者の一人で、ヴェティックという男が、マルタン武官に訴えてきたという。彼と同じ事務所を使っている人物が、少量のTNT――試験用と言っていた――を入手してくれと頼んできたというのだ。この購入希望者は、ポール・ジーブス(Sieb s)ともカール・オッペガールデ(Oppegaarde)とも名乗っており、ホテル・ブレスリンに宿泊していた。彼はヴェティックに、「品物をニュージャージーのある住所へ届けてくれれば、そのとき支払う」と言っていた。
「手中の爆弾は、他人の懐の爆弾二つにまさる(a bomb in the hand is worth two in someone else’s)」――という格言めいた考え方に従って、我々はヴェティックと会い、爆薬の行方を追う計画を練った。10月21日木曜、バーニッツ刑事はヴェティックに同行して、ニュージャージー州パースアンボイの「ダイナマイト屋」へ行き、そこで彼はTNT約25ポンドを購入した。二人は荷物を持ってニューヨークへ戻った。そこで我々はオッペガールデ氏を探し出し、TNTを何に使うつもりなのか尋ねた。すると彼は、「本当のところ、何も知らない」と答えた。彼の説明によれば、彼の知人で戦時ブローカーをしているマックス・ブロイトゥングが、ヘルベルト・キーンツレ博士というドイツ人の時計職人を紹介してくれ、「爆薬の入手を頼める相手」として引き合わせたのだという。キーンツレ博士がこの注文を出し、「ウェーホーケンのメイン通りにあるあるガレージに届けてほしい。その場でフェイという人物に渡せば、代金は支払われる」と言っていた、と。
それ以上は何も知らない、というのである。誰も何も知らない――それにもかかわらず、ここには相当量の強力な爆薬があり、その入手に五人もの男が関わっていた。残る木曜いっぱいを費やして、我々はこの「TNTリレー競走」の参加者――キーンツレからブロイトゥング、ジーブス、ヴェティックを経てフェイへ――それぞれの人物について割り出せるだけの情報を集めた。

この事件には6人の刑事を配属した。マーフィー、ウォルシュ、フェネリー、ステレット、コイ、そしてバーニッツである。彼らは実に見事に任務を全うしてくれた。金曜日、バーニッツとコイの両刑事は、TNTを持ってウェーホーケンのガレージへ向かった。フェイはそこにはいなかったが、居合わせた男の一人が、「フェイは第五通り28番地に住んでいる」と教えてくれた。そこで爆弾班の二人は、荷物を抱えて28番地の下宿へ向かった。やはりフェイは不在だったが、彼らは下宿の女主人と話をすることができた。女主人によれば、「フェイさんはとてもやさしい紳士」で、一月ほど前から友人のショルツさんと一緒に住んでおり、家賃はいつもきちんと払い、雑誌も購読し、「何か発明の仕事をしているようだ」ということだった。図面を広げるための作業台を使っているのを見たから、という。社交的な人でもある――。

我々はTNTを彼のために残していった。読者には、「そんなに乱暴な」と思われるかもしれない。だが、TNTは、密閉されたり加熱されたりしない限り、比較的安全な物質である。適切な起爆薬がなければ、本格的な爆発は起こせない。下宿には気の毒だったが、我々はフェイに荷物を届けるためそこへ行ったのだ。ヴェティックはすでに、「荷物は届ける」と彼に伝えている(誰が届けるかまでは言っていなかったが)。たとえフェイが不在であっても、約束通り届けておく必要があった。

同じ時刻、ハドソン川の対岸では、コイ、ウォルシュ、ステレットの三刑事が、「なぜフェイが客を取らないのか」、その理由を突き止めていた。ホテル・ブレスリンにあるジーブスの部屋で、フェイと彼が一緒にいるのを見つけたのである。彼らは面会が終わるまで姿を隠し、その後でフェイを尾行し、ウェスト42丁目のフェリー乗り場から川を渡ってウェーホーケンへ、その長い坂道を上って町へ入り、メイン通り212番地のガレージまでついて行った。夕暮れどき、一台の自動車がガレージから出てきた。ハンドルを握っているのはフェイで、もう一人の男も乗っており、車はパリセイズ(断崖)沿いに北へ走り去った。その後を警察の車が追った。ウェーホーケンから数マイル北の、ローン払いの「ヴィラ」と映画撮影所と雑木林が点在するあたりで、フェイの車は道路脇に停まり、二人の男はやぶに消え、さらに森の奥へと姿を消した。警察の車はそこで待機し、彼らが戻ってくると再び尾行して、下宿まで追い、家の外で夜通し見張りについた。

ニューヨークの警官には、他州で逮捕権がない。どうやら我々は、ニュージャージー側で逮捕を行わねばならない状況に近づきつつあった。そこでフリン長官は、連邦秘密サービスのバークとサヴェジ両捜査官を事件に割り当て、彼らは我々と合流した。土曜の朝のことである。バーニッツ、コイ、ウォルシュ、ステレット、フェネリー、マーフィー各刑事は、ウェーホーケンの家を監視していた。正午頃、フェイとその連れが姿を見せ、グラントウッド行きの路面電車に乗った。爆弾班は適当な距離を保って彼らの後を追い、前夜に二人が森の中へ消えていった場所まで行った。指揮をとるバーニッツは、ステレットとコイを森の中へ差し向けた。しかし、自然は味方ではなかった。落ち葉が地面を覆い、足を踏み出すたびにパリパリと音を立てた。枝を一本踏み折るだけで、自分の居場所を森じゅうに「大声で告げる」ことになってしまう。フェイは二度も突然振り返り、木々の間を見通した。その両方で、二人の刑事は危うく発見されそうになった。やがて彼らは、「これ以上近づけば必ず感づかれる」と判断し、待機している自動車まで戻った。警察一行はさらに1時間ほど待ったが、フェイとその連れは、どうやら森の反対側へ抜け、別の道から町へ戻ったようだった。

バーニッツは瞬時に判断を下し、行動した。彼はすぐにステレットとコイをニューヨークへ戻し、キーンツレ時計会社(パーク・プレイス41番地)を張らせた。フェイがキーンツレと連絡をとる可能性に賭けたのである――望みは薄かったが、他に手はなかった。一方で、バーニッツ、マーフィー、フェネリー、ウォルシュは、フェイの下宿に戻って監視を続けた。2時間のあいだ、彼らの興味を引く動きは何もなかった。バーニッツが「もう二度とあの二人を見られないのでは」と思い始めた頃、一台の運送車がやって来て、第五通り28番地の前で止まった。運転手はやがて家の中からトランクを押し出し、それを荷台に載せると、また走り出した。警察の車も後ろからついて行き、ウェーホーケンの町を一マイルほど進むと、運送車は別の家の前で停まった。今度、運転手が家の中に入っているあいだに、粗末な身なりで身軽なフェネリーが、運送車の後ろからさっと荷台に飛び乗り、トランクを一目見て、すぐに仲間のもとへ戻ってきた。
「トランクに名刺が貼ってあります。『ヴァルター・ショルツ』と書いてありました」と彼は報告した。
運送車はさらに走り出し、一行を引き連れたまま、荷物保管倉庫の前で止まった。そこの倉庫にトランクを預けるのを確認したが、バーニッツはそれ以上そこに踏み込むことはしなかった。不審を招く恐れがあるからだ。トランクがその週末のあいだに引き出される可能性は低いと判断したのである。刑事たちは再び下宿へ戻り、見張りを続けた。

晩が過ぎ、コイとステレットからの連絡も、フェイからの「動き」もなかった。晩秋のウェーホーケンの夜は冷える。真夜中をかなり過ぎた頃、二つの人影が通りを上って来て、例の下宿に入って行くのが見えた。フェイとショルツだった。その数分後、ステレットとコイの二人が、そっと警察車に近づいてきた――「二人を見たときには、思わず抱きしめてやりたい気持ちだった」と、後でバーニッツは語っている。
二人はキーンツレ時計会社の事務所を張り込み、キーンツレ博士が出てくると尾行して、午後5時まで監視を続けた。博士がエクイタブル・ビル(ブロードウェイ120番地)のロビーに入ると、その中でフェイとショルツに合流するのを見た。三人はしばし立ち話をし、そのあとフェイが二人に断って電話ボックスに入った。ステレットは隣のボックスに入った。薄い仕切り越しに、フェイがガレージに電話をかけ、「品物は届けられたか」と尋ね、「まだだって?(it hasn’t, eh?)」と言って電話を切るのを聞いた。フェイは再びショルツとキーンツレのもとに戻り、三人はフルトン通りのレストランへ夕食に出かけた。刑事たちもレストランに行ったが、食事をとる余裕はなかった。三人がレストランを出て、キーンツレが他の二人と別れたあと、刑事はフェイとショルツをグランド・セントラル・パレス(ダンスホール)まで追跡した。二人は若い女性二人をナンパし、一緒に踊り、何杯か飲み、それから彼女たちと別れて、ウェーホーケンへ帰っていった。

トランクの件は、我々の神経を逆なでした。彼らが恐れを抱いて逃亡するつもりでいるのかもしれない――少なくとも「近く引っ越す」意図は明らかだ。そこで我々は、一気に事態を動かすことに決めた。日曜の朝早く、我々はヴェティックに指示を出した。彼はフェイに怪しまれていない。その彼に、「午前中にフェイの家を訪ね、TNTの試験について打ち合わせをするふりをしろ」と命じたのである。通りの角に停めた警察車から、刑事たちはヴェティックが玄関に入るのを見届け、数分後には彼がフェイとショルツを伴って外に出るのを見た。三人は路面電車の停留所まで出て、二台の電車を見逃してから――突然、三台目を止めて乗り込んだ。その電車は自動ドア式で、マーフィー、フェネリー、コイが慌てて追いついたときには、ドアはすでに閉まり、電車は動き出していた。
その少し前まで、ウォルシュは路地を見張っていた――下宿の裏庭へ通じる小径をカバーしていたのである。そのせいで、彼は一旦隊列から外れてしまった。彼を拾い上げている暇はなく、警察車はそのまま電車のあとを追ってグラントウッドへ向かい、例の森へと向かった。途中、電車が見えなくなりかけた場面もあり、刑事たちは「また見失ってしまうかもしれない」と覚悟した。しかし後方から遠く眺めていると、電車が森の向かいで停まるのが見えた。ドアが開き、最初に降りたのはウォルシュだった。そのすぐ後にフェイとショルツ、最後にヴェティックが続いた。ウォルシュは、ウェーホーケンで彼らが乗り込むのを目にすると、すぐさま先回り――一つ先の角まで全速力で走り、そちら側から電車に乗り込んでいたのである。それは実に見事な尾行技術だった。

ドイツ人二人は、すぐに藪の中へ姿を消した。バーニッツは、今度こそ彼らを取り逃がす気はなかった。そこで彼は部下を広く散開させ、三人を追跡し、最後には包囲網を閉じるよう指示した。爆弾班、連邦秘密サービス、さらにウェーホーケン警察から二名――総勢で森に入り、標的を囲む輪をじりじりと狭めていった。やがて接近したとき、フェイが森の奥深くにある小屋に入るのが見えた。彼はそこから包みを持ち出し、その中から少量の物質をつまんで岩の上に置いた。新しいハンマーで岩を強く叩くと、大きな破裂音がして、ハンマーの柄が折れた。その瞬間、刑事たちは包囲網を一気に縮め、バーニッツが「君を逮捕する!」と告げた。

「誰がこいつらの責任者だ?」とフェイが問うた。

「私だ」とバーニッツが答えた。

「それなら言っておくが、私は逮捕されるつもりはない」とフェイ。「もし私を逮捕すれば、“偉い人たち”が大変な目に遭う! 君たちは、きっと戦争に巻き込まれるぞ。そんなことは起きてはならない――不可能だ。ここから逃がしてくれれば、金ならいくらでも払う。」

この言葉は、金銭的な意味ではなく、「証拠」という意味で朗報だった。我々には、それまで「フェイの手元にTNTがある」という以外に有効な証拠が何もなかった。今や彼自身が、自分に対する我々の疑いを裏づけようとしているのだ。

「いくら出すつもりだ?」とバーニッツは応じた。

「君が欲しいだけ――いくらでも!」

「5万ドルか?」とバーニッツ。

「ああ、5万でも構わん。」

「今、持っているのか?」と鋭くたずねた。

「いや、全額は持っていない。だが、手に入れられる。今、保証として100ドル払う。残りは明日の正午に払おう。」

バーニッツは他の刑事を二人呼んだ。「よく聞いておけ」と彼は言い、フェイに向き直った。「よし、なら金はどこだ?」
フェイは100ドルを差し出した。刑事たちはその場でフェイをウェーホーケン署へ連行した。少なくとも賄賂未遂の現行犯である。バーニッツは、受け取った金を「証拠物件A」として提出した。

我々は彼が「爆薬所持」以上の、何か重大な秘密を隠していると疑っていた。そして実際、その通りだった。彼の部屋とガレージを捜索すると、巧妙な機械装置の部品が多数見つかった。それらは新種の爆弾であることが、一目で分かった。保管倉庫の木箱の中には、完成した爆弾四個も見つかった。爆薬を詰めればすぐに使える状態である。どうやらフェイは、爆弾の大量生産を計画していたらしい。彼は試験用のTNTだけでなく、ダイナマイト25本、塩素酸カリ450ポンド、雷管400個、そして爆弾筒200本を保有していた。さらに彼の部屋からは、装填済みのドイツ陸軍制式拳銃も押収された。
ニューヨーク港の海図が発見されたこと、そして後に分かったことだが、彼がウェスト42丁目対岸の入り江にモーターボートを持っていたこと――これらは、我々の「犯意の矛先」が港湾地区に向いていることを、決定的に示していた。長いあいだ待ち続けた後に、ようやく「当たり」を引いた形である。

フェイは自らの身の上を語った。彼はドイツ陸軍の中尉であり、「特別秘密任務」に就くために本隊から離されていた。彼によれば、自分が任務から外されたのは、自分の才覚によるものだという。彼は西部戦線に従軍中、「アメリカ製の砲弾を、フランスの75ミリ砲やイギリスの18ポンド砲が自分に向けて撃ってきているが、あれらをフランスに運ぶ途中で沈めてしまえば、祖国の兵士たちをそんなに悩ませずに済むのではないか」と気づいたのだという。そして、「この考えを最大限に推し進めれば、戦争の帰趨にも影響を与えられるはずだ」と悟ったのだ、と。
実際には、ベルリンの秘密情報部は、フェイの経歴、訓練、教育、語学力、性格などについて、十分すぎるほど承知していた。そして、「信頼できる、かつ無謀な男」をニューヨークのフォン・パーペン大尉の下に派遣する必要が生じたとき、彼らはフェイを選んだのである。彼がすでにアメリカで何年も暮らし、機械にも通じていることを知っていた彼らは、4千ドルと作戦計画を渡し、「西へ行け」と送り出した。

彼が上陸後まず義兄のもとを訪ねたのは、自然な成り行きだった。義兄ウォルター・ショルツは、コネチカット州のある邸宅で庭師をしていた。爆弾の材料を集め始めるにあたり、彼が真っ先に頼ったのが時計職人キーンツレ博士だったのも、また当然だった。博士は、爆弾のような機械仕掛けの仕事について、自らベルリンの秘密情報部に推薦状を書いていたからである。爆薬が必要になれば、博士が友人のマックス・ブロイトゥングを紹介したのも、同じく自然なことだった。その結果は、すでに見たとおりである。そして、キーンツレともブロイトゥングとも親しかったポール・デーチェ――彼は、1914年7月末、クロンプリンツェッシン・ツェツィーリエ号(Kronprinzessin Cecilie)がニューヨークを出てバー・ハーバーへ引き返した際、両名と共にドイツへ戻ろうとした男だ――もまた、フェイの計画や装置に興味を示し、協力することになった。デーチェはいわゆる「ビジネス慣行を学ぶ」ためにアメリカに来たと言う、よくあるタイプの「商業スパイ」であり、食べていくためなら何でもやるような男だった。

[挿絵:

Copyright, by Underwood and Underwood, N. Y.

フェイ中尉のモーターボート]

逮捕後のフェイは、意気消沈していた。彼が気に病んでいたのは、まず第一に、「ニューヨークから出航する弾薬船を一隻たりとも無事に連合国に到着させない」と約束して出てきたのに、その約束を守れなかったことを、祖国政府がどう評価するか、ということだった。第二には、自分の「弾薬船攻撃」の任務を明らかにすれば、ドイツが他の中立国から見て、極めて悪い印象を持たれるだろう、という懸念である。そして第三に、ワシントンのドイツ帝国大使館を巻き込んでしまうことへの恐れであった。彼は当初、大使館を守ろうとしたが、やがて、自分の計画はフォン・パーペンとボーイ=エドの「ゴーサイン」を待っていたにすぎないと認めた。彼の機雷は、すべて使用準備が整っていた。彼ら武官と会ったものの、その一言がついに与えられなかったのだ。彼の巧妙な職人仕事は、すべて水泡に帰したのである。

フェイの爆弾は、水中で船の舵柱に取り付けられるように設計されていた。内部には時計仕掛けの装置が仕込まれており、その機構が二発の小銃弾を、約90ポンドのTNTが詰まった主薬室内に撃ち込むことになっていた。ワズワース砦所属のロバート・S・グラスバーン中尉が、フェイ裁判で証言したところによれば、アメリカ政府は、「水深15フィートの水中で100ポンドのTNTを爆発させれば、戦艦一隻を撃沈するのに十分」と見積もっている。したがって、フェイの90ポンドでも、舵を爪楊枝のように引き抜き、船尾部分を丸ごと引き裂くには十分だったはずである。舵の回転そのものが、爆弾を起動させる仕掛けになっていた。時計仕掛けは、舵に取り付けられたワイヤーに連動しており、舵が通常どおり左右に振れるたびに、ぜんまいが巻き上げられ、ついには発火点に達するようになっていた。爆薬室にはゴム製のガスケットがはめ込まれ、水中浸水によって不発となることがないようになっていた。フェイは熟練の手先を持ち、組み立てはすべて自分で行っていた。ショルツは、ニューヨーク市内のいくつかの機械工場で部品を買い集め、キーンツレは時計機構を供給し、完成品を検査していた。ブロイトゥングは、ドイツ流のお祭り騒ぎのために塩素酸カリ400ポンドを提供し、デーチェは、ただそこらでうろうろしながら、みんなの手伝いをしていた。

フェイは、水側から埠頭に近づくのがいかに容易か、身をもって知っていた。彼は何時間も、釣り竿を垂らして川を眺めながら、そのことを確かめていたのである。軍事武官が「決行」の一言を発すれば、フェイとショルツは、夜のハドソン川へ高速モーターボートで漕ぎ出し、イギリス・フランス行きの船十隻を訪ね歩き、潜水服を着てそれぞれの舵に爆弾を取り付ける予定だった。最初に警察のパトロール艇にそっと近づき、そこから銃器を盗み出してしまえば、自分の高速艇なら追跡を振り切れる、と踏んでいた。さらには、港外の英哨戒巡洋艦に近づき、そこにも爆弾を仕掛けることすら考えていた――もっとも、これは彼にしても本気とは思えないが。
また別種の爆弾も作っていた。それは望遠鏡のような形をしており、内部には「一定時間で溶解する白い粉」が仕込まれていた。それが溶けると、撃針が解放され、多量の塩素酸カリが爆発する仕組みになっていた。この種の爆弾は、貨物の中に紛れ込ませるつもりだった。ニューヨーク港で充分な恐怖を撒き散らし、どの船も出航できない状態にしてからは、ボストンやフィラデルフィアに移り、同様の作戦を行う。その後は、シカゴ、バッファローへ向かい、五大湖航路を麻痺させ、さらにニューオーリンズ、サンフランシスコへと転戦し、最後にはニューヨーク経由かメキシコ経由で帰国する――それが彼の壮大な構想だった。「逮捕されたのは実に残念だ」と彼は言った。「この計画は、これでご破算になってしまった。もっと早く“やれ”という合図が来ていればよかったのに。爆弾の準備はだいぶ前からできていたのに、途中に間があったせいだ。」
その「空白期間」に、彼はデーチェをブリッジポートへ派遣している。ドイツのための「小さな付随任務」だ。目的はダムダム弾の入手だった。フェイは、それをフォン・パーペンを通じてベルリンへ送り、「アメリカが連合国へダムダム弾を供給している」という抗議を行わせる意図を持っていた。我々はそんなことはしていなかった。しかしフェイは、ブリッジポートにいるドイツ工作員に頼み、弾頭に切れ込みを入れた弾丸をいくつか入手させたのである。

我々は、彼が「やろうとしていたこと」と「その失望」について、じゅうぶん聞かされた。では、実際に何をやったのか。どの船を爆破したのか。
7月24日にクレイクサイド号(Craigside)の船倉で五度起きた火災は、彼の仕業だったのか。フェイは「違う」と断言した。7月27日にアラビック号(Arabic)から見つかった爆弾も、アスンシオン・デ・ラリナガ号、ロッテルダム号、サンタ・アナ号の火災も、ウィリストン号(Williston)の爆弾も――「自分ではない」と彼は主張した。

私は彼にカーカスウォルド号の爆弾を見せた。

「これは見たことがあるか?」

「ない」と彼。

「君が作ったのではないのか?」

「違う」と彼は答え、笑い出した。「こいつは冗談みたいな代物だ。今になって分かったが、奴ら(ベルリン)が俺をこの国に送った理由は、こんなオモチャじゃなくて、本当に“仕事”のできる爆弾を作るためだったんだな。これはお粗末な仕事だ。」

彼の返答は、事実だった。我々もそれを認めざるを得なかった。なぜなら、彼自身の自白を除けば、特定の爆破行為と彼を結びつける証拠は、一つとして存在しなかったからである。我々は、少なくとも彼が「河岸での恐怖作戦を、今後も継続する意図を持っていた」という点で有罪であることに、慰めを見出すしかなかった。ニューヨーク出航船に関して、我々がフェイを逮捕するまでに「爆弾が見つかるか火災が起きた」船は、実に22隻に上っていた――そのどれ一つとして、彼の“獲物”ではなかったのだ。彼はショルツ、デーチェとともに裁かれた。当時、彼に適用できた唯一の法律は、「特定船舶の積荷を保険した保険引受人(underwriters)を欺く共謀」というものであり、実際、彼はその罪で裁かれた。罪状が読み上げられたとき、フェイは無邪気に「アンダーライターって何だ?」と尋ねた。答えは、アトランタ刑務所の中で、8年にわたって彼に教え込まれることになった。ショルツには6年、デーチェには4年の刑が言い渡された。キーンツレとブロイトゥングは起訴されなかったが、我々が参戦した後、他の多くのドイツ人とともに抑留収容所行きを命じられている。フェイはアトランタに収監されて一か月後、脱走した。ドイツ人の仲間たちが衣服を与え、彼はボルチモアまで逃れた。そこでポール・ケーニッヒと会い、450ドルを受け取っている。その際、サンフランシスコに行けば、さらに金がもらえると告げられていた。しかし彼は、たとえ「偉い人たち」を守ったとしても、サンフランシスコでは自分の命が狙われているのではないかと恐れ、結局西へは向かわず、ただちにメキシコへ逃亡した。その後、スペインへ渡り、ようやく1918年の夏になって捕らえられた。

フェイは、自身の分野において、大胆で重要な犯罪者だった。我々は、彼を捕らえることができたことを喜んでいる。しかし、もし我々の「砂糖説」が正しいなら、彼は必ずしも「最大の標的」ではなかった。フェイ追跡劇は――たしかに我々を「路地裏」へと追い込んでしまった。そろそろ路地から表通りへ戻るべきときだったのである。

VII

海岸沿いにて

II

「やつのことは“フォン”リントレンじゃない、リントレンだ、くそったれ!」

ロバート・フェイを追う過程で、われわれは彼が実際に船に火をつけたという「一片の証拠すら」(裁判弁護士の好む言い方をすれば)つかむことができなかった。フェイが罰せられたのは、彼がやろうとしていたことに対してであって、ドイツの大義のために実際に成し遂げたことに対してではなかった。

それでも、彼は船に仕掛ける爆弾を実際に作って置いていた者を知っているはずだ、という考えはわれわれの頭から離れなかった。フェイは無知を装った。長い時間むだな尋問を続けたあとで、彼はこう言った。「これだけは知っている」と。「ある男が、別の男に1万ドル払って、その爆弾を作らせた、ってことだけはね。そいつが誰かは言わない。今ごろロンドン塔に囚われてると思うし、これ以上まずいことになるかもしれないからね。あとは好きなように解釈しなさいよ。」

われわれがそこから導き出した解釈は――当時ロンドン塔に収容されていた囚人でフェイが言及しているのは、おそらくフランツ・リントレンであろう、ということだった。彼は身分の高いドイツ人で、フェイとまったく同じような「幻視」を抱いていた――すなわち、アメリカの船舶輸送を妨害し、軍需品の洪水に堰を切らせるという幻視である。1915年初め、彼は十分な権限と、ドイツ帝国の資力の限度を除いては制限のない銀行信用を携えてアメリカにやって来た。そして6か月のあいだ、その権限を行使し、金を使い切ろうと、さまざまな策に手を出していた。彼はアメリカ政府からライフル銃を買い取ろうとし、平和デモを扇動し、ストライキをあおり、軍需品輸出の禁輸を求めてロビー活動を行い、そのほかにも無数の方法で忙しく、しかし役に立たない行動を取り続け、秋には本国に向けて船出し――その途中でイギリスの手に落ちたのである。

しかし、ここで挙げた嫌疑――そしていまではこの男に対して完全に立証されている嫌疑――は当時のわれわれは知らなかったし、フェイの「情報」もあまりにあいまいで、その場では役に立たなかった。フェイの逮捕後も、火災は止まらなかったのだ。フェイを森の中で捕らえた翌日、数日前に出港した汽船リオ・ラジェス号が、外洋上で火災を起こした。一週間後には、エウテルペ号の船倉で火の手が上がった。フランス船ロシャンボー号は11月6日に外洋上で出火し、その翌日にはアンコナ号で爆発が起こった。ティニンガム号は12月初めの東行き航海のあいだに2度の火災に見舞われた。出港する船という船が、まるで船倉に飢えたネズミと、軸木箱用のボロ布と、マッチと灯油だけを詰め込んでいるかのような、いらだたしい確実さがそこにはあった。その年、これほど多くの海難火災が港を襲ったことはかつてなかった。海上保険の料率はうなぎ登りで、われわれの忍耐は地の底に落ちていた。

汽船会社は特別の警備班を置き、船が入港してから再び出港するまで監視につかせた。われわれも変装して河岸の巡回を再開した。フェイの高速モーターボートは姿を消していたが、他にも船は十分にあり、爆発物係(ボム・スクワッド)の面々は、実にひどい悪天候のなかで苦行を強いられた。積み込まれる貨物一つひとつが見張られ、埠頭に姿を見せるよそ者はすべて尾行しているにもかかわらず、疑わしい点は何一つ見つからなかった。そこで、われわれはまた砂糖の仮説と「チェナンゴ」たちに戻ったのである。

先に、彼らがいくつもの意味で「漂流部族」であり、同じ男が二度と戻って来て雇われることはめったにない、と述べた。とはいえ、荷役に従事している群衆の中に、時おり見覚えのある顔を見つけることはできた。そこでわれわれは、この常雇い連中を丹念に調べてみたが、判明したのは、ほとんどが無害なスカンディナヴィア人だ、ということだけだった。

一度だけ来て働き、跡形もなく消える連中は、国籍もさまざまで、そのなかにはドイツ人も相当数含まれていた。彼らの一部はホーボーケンから来ており、消去法を用いることで、ホーボーケン組の中に、係留中の北ドイツ・ロイド社やハンブルク=アメリカン社の船の船員が混じっていることを突き止めた。われわれは彼らのあとを追い、また彼らについてあれこれ聞き回ったが、その結果は、文明国民ならどこであれ一冊の歴史を編めるほどの情報が集まった、というだけで、法廷で通用する証拠は何一つ得られなかった。ある友人が、財産破壊のためにヴィルヘルムシュトラーセ(ドイツ外務省筋)で教えられている手口をよく知っており、そんな男たちのあとを追ってもむだだろう、と言った。破壊行為を実行する者は、ふつうは上位の人物――本当の陰謀者――をほとんど知らないのだという。そうなると、たとえ「有罪」のチェナンゴを逮捕したとしても、爆弾システム全体の背景を描き出すのに必要なものは得られない、ということになりそうだった。

1916年初めのある日、バース、コレル、ゼンフの各刑事が出勤し、ホーボーケンへの配置を命じられた。彼らは、ドイツ船の士官や下士官がよく集まるレストラン、酒場、ホテルの周辺に出入りし、内密のドイツ側工作員を装って、彼らが釣り餌に食いつきそうな話をそれとなく流すよう命じられたのである。この3人は、ドイツ系の血を引く立派なアメリカ人であり、ドイツ語の運用も見事だったから、ホーボーケンの「シュトゥーベ」(ビール酒場)で出会う河岸の労働者たちともうまくやっていけた。彼らは、ときどきあいまいな調子で、自分たちは皇帝(カイザー)の特別な部下だとほのめかし、新しい知り合いたちの関心を引きこそすれ、疑いは招かなかった。どんな人間にも多少は「秘密捜査官」になってみたいという欲求がある。戦時中のアメリカでドイツ人が見せたあのてんやわんやの騒ぎをふり返ってみると、その活動のかなりの部分は、金銭欲や愛国心というよりも、むしろ芝居じみた本能に由来していたと考えてよいだろう。(ポール・ケーニヒなどはその誇張された好例である。)ボム・スクワッドの3人が話を向けた連中も同じだった。ここでうなずき、あそこでウインクし、小声でささやき、首を振ってみせると、彼らは急に自分が重要人物になったように感じるのである。

[図版:

 International Film Service, Inc. 所蔵・著作権

 フランツ・リントレン]

報酬は思いがけない形でやってきた。バースが知り合ったあるドイツ人が、ひそひそ声でこう持ちかけてきたのである。自分はドイツ政府(ドイツ側)のために働いている男を知っている。バースはその男に会いたくはないか、と。バースは「会いたい」と答えた。こうして、かなりもったいぶった手順を経て、バースは「フォン・ベルンシュトルフ公使の特別工作員」として、年老いた風采の変わった男に引き合わされた。その姿は、まるで旧プロイセン鷲を戯画にしたようだった。ホーボーケンのカール・フォン・クライスト船長である。3人はニューヨークのパーク・ロウにあるハーン・レストランで一緒に昼食をとり、フォン・クライストはすっかりバースを気に入った。「本物の工作員に会えてうれしい」と彼は言った。彼には、ホーボーケンに「ドイツ秘密警察の一員」を名乗る男がいて、その男に腹を立てているのだという。

「そういう連中には用心が肝心ですよ」とバースが言った。「ニセ者がうようよしているからね。そいつはあんたに何をしたんだ?」

「シーレという男だ。彼は研究所を持っていて、そこでいろいろなものを作っている。私は長いことそこの監督をしていたが、私に何百ドルも借りがあるのに、払おうとしないのだ。フォン・イーゲルに知らせるべきだと思うし、たぶんフォン・パーペン大尉ご自身にもね。」

「そりゃ、知らせたほうがいい」とバース。「私のほうから伝えておきますよ。フォン・イーゲルに近い男を知っているから、その男に会わせましょう。言っていることが本当なら、あんたは当然、受け取るべきものがあるはずだ。私がその男を連れてくるまで、待っていてください。」

数日が過ぎたのち、フォン・クライストは再びハーン・レストランに姿を見せ、「ディーン氏」に紹介された。バースによれば、彼はドイツ語を話せなかったが、「それでもいい男だ」と言われた。老化学者の顔に、かすかな疑念の色がよぎるのを見て、バースはあわてて付け加えた。「やつら間抜けなヤンキーどもをだますには、いろんな種類の人間を使わなきゃならないんですよ、ね?」この手の込んだ皮肉は、フォン・クライストを安心させたらしく、彼はディーンを気に入り、自分のシーレに対する訴えに興味を持ってくれているように思えた。彼はもう一度、話の筋を繰り返した。「もっと確かな証拠がいるなら、見せてあげますよ」と彼は締めくくった。「うちに来なさい」「ディーン」(本名ジョージ・D・バーニッツ。ボム・スクワッドの一員)はバースと一緒にフォン・クライストのホーボーケン、ガーデン・ストリート1121番地の家に行き、裏の泥だらけの庭から、老人が空になった爆弾容器を掘り出すのを見た。それは――「カークスウォルド号」の爆弾とほとんど瓜二つだった!「これがその一つです――こんなのを何ダースも充填しましたよ」と彼は言った。

「ドライブに行きましょう」とバースが提案した。「コニー・アイランドまで行って夕食を食べましょう――ホテルもオープンしている――そのときに今後のことを話しましょう。」老人は新しい友人たちにすっかり好意を抱いていたらしく、饒舌で、もてなしにも感謝しているようだった。3人はシェルバーン・ホテルで食事をとり、しばらくして、バーニッツがフォン・クライストの述べた「功績」を口述書として書き起こした。「これはまあ、形式のためだと思ってください。上(“主任”)に出すには書面の報告が要るんです。そうしないと、あなたが受け取るものも受け取れない。正式な供述書として、ここに署名してもらえますか?」

「いいだろう」とフォン・クライストは応じ、署名した。「で、いつごろになったら金をもらえるかな?」

「その点は心配しないでください」とバース。「じゃあ、こうしましょう。今から3人で主任に会いに行きましょう――あなたを紹介したいと思っていたところですし、ここに書き落としたかもしれない事実を、補足してもらったほうがいい。」

こうして、彼らは「フォン・イーゲル」のところではなく、私のところ――本部の私の執務室――へ連れてこられたのである。本部に足を踏み入れ、自分がはめられたことに気づいたときの彼の表情の変化を、バーニッツとバースはよく覚えている。「そうか」と彼は言った。「なぜ君たちがそんなに親切にしてくれたか、やっとわかったよ。」

囚人はおとなしかった。自分がつかまった以上、ほかの連中を捕まえるのを手助けしたい、と彼は言った。私は彼に「カークスウォルド号」の爆弾を見せ、それがどこで見つかったかを話した。「ああ、あれのことか」と彼は言った。「新聞でマルセイユで爆弾が発見されたと知ったあと、スタインブルク船長とボーデ船長が研究所に来て、爆発しなかったことについて、シーレ博士をさんざん怒鳴りつけたよ。4日以内に爆発するはずなのに、12日たっても爆発しなかったってね。」「いくつ作ったんだ?」と私は聞いた。「いくつかなんて、わからんよ」と囚人は答えた。「インチムーア号に仕掛けたものとダンクデール号に仕掛けたものは、ちゃんと爆発したし、ティニンガム号では2回火災が起こった。」「30個入りの箱を一つ、ニューオーリンズから来たアイルランド人2人、オライリーとオレアリーに渡した。彼らはそれを船に火をつけるために持っていったんだ。」

「残りはベッカーに渡したのか?」

「ああ。で、彼はボルペルト船長に渡した。ボルペルトはホーボーケンにあるアトラス・ラインの埠頭監督だ。ボーデ船長も、ハンブルク=アメリカン・ラインの埠頭監督をしている。スタインブルク船長についてはよく知らんが、今はドイツにいるよ。」

[図版:ヘンリー・バース(アメリカ陸軍)。フォン・リントレンの船舶爆破事件で、ドイツ秘密警察員を装った男]

私は彼の供述に礼を言い、謀略の始まりから現在までの全貌を、包み隠さず話してくれるかどうか尋ねた。彼はそうすると言った――これからはアメリカ合衆国に協力するのだ、と。私は一度失礼して、その場を離れた。

そのあいだに、フォン・クライストは、作業着姿の電気工が室内の照明を修理しているのを見つけて、話しかけた。電気工の英語にわずかなドイツ訛りがあったので、フォン・クライストはこう言った。

「Sie sind deutsch, nicht wahr?(あんたはドイツ人だろう?)」

「Ja(ああ)」と作業員は答えた。

そのままドイツ語で、囚人は作業員に頼みごとをした。「手紙を何通か届けてくれないか? 私はここから出られないので、何人かに知らせを送りたいのだ。」そう言って彼は2通のメモを書いた。一通はボルペルトとボーデ宛て、もう一通はシュミットとベッカー宛てである。内容は、どちらもほとんど同じだった。「ずらかれ――俺はつかまった。」――ゼンフ刑事は、電気工に変装してその部屋に待機し、囚人が口にする言葉を一言も漏らさず拾い上げるよう指示されていたのだ――通常は必要のない手段だが、この事件はきわめて重大だった。明らかに、アメリカ合衆国への忠誠を突然誓った彼の言葉は、「紙切れ一枚」にすぎなかったのである。われわれは彼を拘置した。

その夜、ウォルシュとマーフィーはニュージャージー州郊外のボーデ船長の自宅を見張り、ステレットとフェネリーは近所にあるボルペルトの家を張り込んだ。2人とも翌朝にはそれぞれの埠頭に出勤してきたので、刑事たちは「ちょっとした河岸の捜査をやっているので、協力してもらいたい」と言って、本部まで「ご招待」した。ゼンフは北ドイツ・ロイド社の埠頭にベッカーを訪ねた。埠頭の門衛が電話をつないでくれたので、ゼンフはベッカーに緊急の用件があると告げた。しばらくしてベッカーが埠頭門に現れると、ゼンフは柵越しにささやいた。「フォン・クライストが君に会いたがっている。トラブルが――」ベッカーはたちまち帽子を取って戻ると、本部へやって来た。その少し後、網はシュミットをも捕らえた。1年半にわたって待ち続けた末、24時間のうちに期待の囚人5人を網にかけたのである。

フォン・クライストが完全には信用できないことは、すでにわかっていた。ボーデはこの件に関する一切の関与を頑として否定し、その否認ぶりはむしろ「頑健」と言ってよかった。これに対し、青白い金髪の若者ベッカーは、全面的な自白を行った。そう――彼は爆弾容器を作った――シュミットの命令で何百個も作った。ホーボーケン、クリントン・ストリート1133番地にあるシーレ研究所で、塩素酸カリと硫酸でそれらを充填し、ウォルペルト船長がそれを引き取りに来るのを何度も見たのだ。その瞬間、それまで比較的饒舌だった巨漢のボルペルトは口をつぐんでしまい、その後の質問には一切答えようとしなかった。ベッカーは自らが「カークスウォルド号」の爆弾を製造したことを認め、後期型の容器はあれより大型だった、と付け加えた。

「ウォルペルト船長」と私は言った。「こんなことをやっていては、ドイツのためになるどころか、かえって害になっていると思いませんか?」

「ちくしょう!」と彼は爆発した。「6月1日にはもうやめてたんだ。だが、あんな石頭どもの命令には逆らえないだろうが!」

「ロバート・フェイを知っていますか、船長?」と私は尋ねた。

「ああ――一度シンメルの事務所で、リントレンと一緒に会ったことがある」と彼は答えた。

フォン・リントレンのことですか?」と私は聞き、リントレンが名乗っていた貴族風の接頭辞をわざと使った。

「違う!」とボルペルトは怒鳴った。「フォンじゃない、ちくしょう――リントレンだ!」

[図版:

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 エルンスト・ベッカー

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 カール・フォン・クライスト船長(左)とオットー・ボルペルト船長(右)]

4人に対する最初の取り調べの結果として、フリードリヒ・デア・グロッセ号の主任機関士カール・シュミットと、その助手3人――ゲオルク・プレーデル、ヴィリアム・パラディース、フリードリヒ・ガルバーデ――を逮捕した。研究所にも踏み込んだが、シーレ博士はすでにフロリダへ逃走していた。そこへ、「もうニューヨークに戻っても安全だ」という電報が届いたのである。彼はボルティモアまで北上していたが、途中で逮捕の報を受ける二通目の電報が届き、今度はキューバに逃亡した。その後1918年3月にハバナ警察に逮捕され、ニューヨークへ送還されるまで、行方をくらましていた。研究所は工場最上階の、天井のはね上げ戸からしか入れない秘密の部屋にあり、そのはね上げ戸には小さなのぞき穴がいくつも開いていて、中で作業する者は外に誰がいるかを確認できるようになっていた。そこから、爆発物と発火薬品の豊富な貯蔵――つまり爆弾に必要なすべての材料――を発見し、バスビー中尉が証拠として押収して戻ってきた。シーレは熟練の化学者であり、23年ものあいだドイツのスパイを務めていた。フォン・クライストが金ほしさに「密告」するとは、彼の想像の埒外だったらしい。彼がフォン・クライストを雇った1915年3月のこと、彼はこう尋ねている。「君はどれほど優秀なドイツ人かね?」(2人の最初の計画は、肥料に潤滑油を含ませ、その油をドイツへ密輸する、というものだった。)「あんたが今まで自称してきたどんなドイツ人にも負けませんよ」とフォン・クライストは答えた。「ウソだ」とシーレは言った。「もし本当にそうなら、ここで帰化申請などしていない。私はそんなことはしなかった」「いや、船長免許を取るには、そうしなきゃならなかったんだ」とフォン・クライストは答えた。

ドイツへの忠誠だけでは、フォン・クライストの食欲は満たされなかった。その夜、彼はシーレが誇らしげにひらひらさせていた小切手――「ハンセン」名義の1万ドルの小切手――を横目で見てしまったからである。シーレはそれを、ドイツが自分の船舶破壊能力をいかに評価しているかを示す証拠だ、と自慢していたのだ。リントレンがドイツから到着した際、多額の金を預けた、オーストリアが資本を出した大西洋信託会社(Transtlantic Trust Company)には、「ハンセン」名義の口座があった。ここに、フェイが言っていた「イギリスに囚われている友人」の正体を説明する鍵があったわけである。

ここまでで、かなりのところまではわかった。ベッカー、シュミット、その他の機関士たちが爆弾容器を作製し、ベッカーとシーレがそれを充填していたことは明らかだった。その証拠に基づき、4人は有罪となった。ベッカーとフォン・クライストは2年間アトランタ刑務所に送られ、他の4人は懲役6か月の判決を受けた。われわれは、証明こそできなかったものの、ウォルペルトとボーデが爆弾を最も効果的な場所に運び込んだ、と確信していた。無論、彼らが自分自身を罪に陥れるような供述をするはずもない。2人は友好的なドイツ人たちの用意した2万5千ドルの保釈金で釈放され、アメリカが参戦すると拘留された。4人の助手は刑期を終えたのち、「危険な敵性外国人」として抑留所での生活を許された。

ここまで、すべて順調に見えた。だが、蛇はまだ死んでいなかった――尾の一部を切り落としたにすぎない。もちろん、もはや以前ほど俊敏には動けない。2月まで続いていた船舶火災は止まり、その後に火災を起こした船の数は、指折り数えられる程度だった。われわれの仮説は、その役目を果たした――しかし、「上の連中」は誰なのか?

1915年12月末、ポール・ケーニヒを拘束したとき、彼のウエスト94丁目の自宅から、数百名にのぼる取引相手――どうやら彼が仕事で関わっていた人々の――名前が記された住所録を押収した。この手帳については本書の他の箇所で詳述するが、ここでは、ケーニヒという「好都合な人物」が残していったこのスパイ名簿を、われわれがどのように具体的に活用したか、という現在の事件に関わる点だけを示しておこう。その中に、次のような記述があったのである。

  「昼間は“ボニファス”――電話ワース3396番――を呼べ。

   夜は“ボニファス”――チェルシー1993番――

   いつも午後10時30分までは留守。」

われわれはこの手帳を系統的に調べ、そこに挙げられた人物それぞれについて自分たちの知っていることを照合していった。ケーニヒ、フォン・パーペン、ボイ=エド、そしてハンブルク=アメリカン社の利害が、ほかの予想もしなかった破壊行為に通じてはいないかを確かめるためであり、そうしてわれわれは、「いつも午後10時30分までは留守」のボニファスという人物を探していたのである。何か月も見つからなかったが、ホーボーケンの爆弾製造グループを逮捕した少し後になって、ようやくボンフォード・ボニファスと名乗る人物の所在を突き止めた。

彼は一間きりの下宿部屋に住んでいた。彼が外出していることを確かめたうえで、われわれはある日そこを訪ね、室内の物品を丁寧に調べた。まず気がかりだったのは、フォン・クライストらの逮捕を報じる新聞切り抜きが、束になって保管されていたことだ。どうやら彼はドイツ製爆弾に興味を持っているらしい。ただし、その興味がどんな理由によるものかはわからず、刑事たちは部屋を出て行こうとしたちょうどそのとき、2通の手紙を見つけた。署名は「カール・シンメル」、消印は一通がブエノスアイレス、もう一通はオランダからである。どちらも特にこれといった内容はなく、ボニファスの近況を尋ねるだけのものだった。

猫が王様を見たところで何も悪くはないし、一人の男がアルゼンチンやオランダの知人から手紙を受け取ったというだけで咎め立てされる筋合いもない。しかし、私はこのカール・シンメルという名に覚えがあった。彼は以前から疑わしい人物として浮かび上がっていた。まず、ブロードウェイ395番地に事務所を構えていた、いわゆる「ドウ=ドウ化学会社」が、同社重役カール・シンメルのブロンクス、コンコード・アヴェニュー127番地の敷地にダイナマイトを貯蔵する許可を消防署に申請してきたときである。申請は却下され、消防当局は爆発物係に、ドウ=ドウ化学会社とその役員についての調査を依頼してきた。ところが、この会社には工場もなければ、目に見える事業活動もなかった。さらに調べてみると、カール・シンメル本人も所在不明であることが判明した。彼はわれわれの捜査におびえ、メキシコへ逃れ、南米へ渡り、それからルクスブルク男爵の助力でドイツに戻ったのである。また以前、ボルペルトも、シンメルの事務所でリントレンと一緒にフェイに会ったと述べていた――もっともボルペルトはそれ以上話そうとしなかったが。こうした点から見て、シンメルの行動には合理的な範囲を超える疑念があった。そこで、バースにボニファスのもとへ行かせ、本部への出頭を求めさせることにした。

ボニファスの話によれば、シンメルはしばらくのあいだ、週給25ドルで彼を雇っていたという。では、彼は何をしていたのか? シンメルから求められたのは、ニューヨークからヨーロッパに向けて出港するすべての汽船について、その週ごとの出航予定と貨物内容を一覧にして渡すことだけであった。では、なぜシンメルのような弁護士が、そのような出航予定や貨物内容に関心を持ったのか? ボニファスは知らないと言った。では、その一覧表はどうやって作ったのか? 最初は、彼は河岸を歩き回り、あちこちの会話の断片を拾い集め、埠頭に向かうトラックを観察して情報を集めていたという。だが、桟橋警備員たちが彼の様子に気づきはじめたこと、ウォーターフロントはあまりに距離が長いこと、それに週給25ドルはしょせん25ドルにすぎないこと――しかもボニファスは、人種的な意味で言えば「倹約家」だった――などがあって、彼はもっと手っ取り早い方法を考えついた。つまり、毎朝、出航情報にそれなりの紙面を割いている新聞――当時はまだ1セントで買えた『ニューヨーク・ヘラルド』――を買い、そこに載っている出航日時や目的地を写し取り、貨物内容については自分の想像力で埋めてしまう、というやり方である。

作成した報告書はどこへ届けていたのか? シンメルの事務所――チェンバーズ・ストリート51番地である。そこでは誰に会ったことがあるか? 「一度だけ、リントレンに会った」と彼は言った。ただし、そのときリントレンがどんな用件で来ていたかは知らない、という。別の日には、ハーマン・エブリングという名の男にも会った。(のちにわかったことだが、エブリングはボルペルトから命じられ――もっと正確に言えば、ボルペルト自身がスタインブルク船長から命じられ――炭疽菌に似た馬の疫病・腺疫(グランダーズ)の病原菌が詰まった試験管一本と、浸し棒を持って、海外へ輸送される馬たちが集められている埠頭を回り、三頭に一頭の割合で、棒を鼻の穴に突っ込んで感染させ、大規模な伝染病を引き起こすよう指示されていた。エブリングの供述によれば、彼はその試験管を任務を果たさないまま海に投げ捨てた、という。)そのエブリングはいまどこにいるのか? ボニファスは知らないと言い張った。ほかに誰か見覚えのある人物は?――「別のドイツ人弁護士がいた。マルティン・イルセンといって、『ノイエ・ヨルカー・ヘロルト』(ドイツ語日刊紙)の顧問弁護士をしている。」

われわれはイルセンを呼び出し、シンメルとの関係を尋ねた。彼は、連合国への武器・弾薬輸出に反対する記事を書き、それを新聞数紙に送ったところ、シンメルから対価として100ドルを受け取った――それが彼の関与のすべてだ、と述べた。

[図版:トマス・ジェンキンス軍曹(アメリカ陸軍)。ブルックリンのドイツ・ターンフェラインのロッカーから、爆弾の一部を発見する手柄を立てた民間人]

「エブリングという男に、そこで会ったことはありますか?」と私は尋ねた。エブリングこそ、爆弾製造者と火災事件とを結ぶ、見えない鎖の一環かもしれなかったからである。「あります」とイルセンは答えた。「彼はいまどこにいる?」イルセンは知らないと言った。「ほかに、誰か心当たりの人物は?」――「リトグラフ印刷工がいた。名はウーデ。ブルックリンの住人だと思うが、どこにいるかは知らない。」

人探しはわれわれの仕事の一つであり、読者がこれまでの記述からすでにお気づきのとおり、目標に達するまでに千人に質問しようと、関係者から関係者へと足跡をたどっていくのも、われわれの職掌である。われわれはウーデの行方を追い始め、ニューヨーク市内に住むウーデ姓の人物という人物をしらみつぶしに調べた。数か月ののち、ようやく目的の人物――ヴァルター・ウーデ――を見つけた。われわれは予備面接などの手続きも省いて彼に飛びかかり、彼の部屋を捜索して、シンメルとの書簡の束と、ホーボーケン一味の逮捕と裁判を報じる新聞の切り抜きを発見した。こうした証拠と、それが彼の良心にかけた圧力とが相まって、ウーデはついに、爆弾陰謀の全体像を描き出すに足る証言を白状したのである。

それによれば、この陰謀は、船舶火災の多発がすでに物語っていたとおり、1915年初頭に始まっていた。ある冬の晩、ブルックリン・レーバー・ライシアム(労働者会館)のレストランで、秘密裏の会合が開かれた。個室の食堂には、化学者シーレ博士、埠頭監督ボルペルト船長、弁護士カール・シンメル、リトグラフ印刷工ウーデ、レストラン経営者オイゲン・ライスタート、そしてスタインブルク船長が集まっていた。この男こそ、合衆国の安寧にとってきわめて危険な存在だった。彼の本名はエーリヒ・フォン・シュタインメッツと言い、ドイツ海軍の大尉だったのである。当時、彼はウラジオストク経由でアメリカに入国したばかりで、女装して移民管理官の検査をごまかし、同じく腺疫菌の詰まった試験管をドレスのひだの中に隠して検疫官の目を逃れていた。彼は、その後エブリングに対してこの菌を渡し、連合軍向けに輸送される馬たちを感染させるよう命じている。シュタインメッツは、リントレンの最初にしてもっとも有能な助手であり、シンメルはその次の地位にあった。2人は、その晩餐会の席で爆弾を製造・設置する計画を説明した。船員たちが容器を作り、シーレがそれを充填し、グループ全体への支払役も務める。シンメルとボルペルトは出航予定と貨物の状況を把握し、ボルペルト、ウーデ、ライスタートが、砂糖袋やその他の貨物の中に爆弾を忍び込ませる役を担う下っ端の実行犯に、それらを引き渡す、という段取りである。

この計画がどれほど「成功」したかは、すでに述べたとおりだ。ボルペルトは、市内各所にあるドイツ側工作拠点に爆弾を配り、シーレ自身も一度、研究所から爆弾を詰めた箱をおがくずだけで緩衝して、レーバー・ライシアムまで運んだことがあった。ライスタートとウーデは建物の裏庭でいくつかの地獄機械を試験し、ウーデはそれがすっかり気に入ってしまい、記念として一つもらって帰り、ブルックリンのドイツ・ターンフェライン(体操協会)のロッカーにしまっていた。バースとジェンキンス刑事が後日それを発見したのである。陰謀が始まったのは3月。5月1日、ボルペルトは一人のチェナンゴに爆弾を手渡し、その男はそれを「カークスウォルド号」に密かに持ち込んだ――その顛末はすでに見てきたとおりだ。1915年5月7日、誇り高きルシタニア号が魚雷を受けて沈没し、その翌朝、シンメルが事務所に入ってくると、そこにはイルセンとボニファスがいた。すると彼はこう叫んだ。

「いやあ――あのUボートの艦長は見事な仕事をしたよ。しかし、奴は私から栄光をすっかり奪ってしまった。私はルシタニア号に“葉巻”を9本積み込んでおいたんだ。」(“葉巻”とあるのは、爆弾のことである。)「もしも魚雷が命中していなかったら、“葉巻”が仕事を果たしていたさ!」

彼が真実を語っていた可能性は十分ある。だが、その秘密は今や大西洋の底深く沈み、世界文明がドイツに対して抱きうるわずかな尊敬の念の名残とともに葬られている。シンメルが「葉巻」を同船に積み込もうとしたのは間違いない。というのは、ライスタートはウーデに100ドルを渡し、小柄な男クラインに爆弾の包みを持たせて、ホワイト・スター・ラインの埠頭近くのウェスト・ストリートにある酒場へ行かせたからである。そこで二人は第三の男と落ち合い、その男に包みを渡すと、その男が責任を持って船に持ち込む――そういう段取りだった。ところが、その男は約束の時間になっても現れず、二人は仕方なく、包みを酒場の主人に預けてから、その男のハーレムの自宅に行き、礼金だけを支払って戻ってきた。このクラインという男は、ある午後、サウス・フェリーから出る船に爆弾を置きに行けとシンメルから命じられた際、自分のポケットに爆弾を入れて歩いているうちに、それが発火してしまったことがある。彼がそれを投げ捨てようとする前に爆弾は衣服を焼き抜いてしまい、結局、シンメルは「新しいスーツ代」として20ドルを与え、その苦労をねぎらったのだった。そしてまた、われわれがついに逮捕に向けて彼の足取りを追いはじめたとき、クラインはすでに病死して病院に収容されており、法の手が及ばない場所にいることが判明した、という経緯もあった。

こうした犯人たちの供述を合わせると、過去2年間われわれを悩ませてきた船舶火災の大半は、彼らの仕業だったと考えざるをえない。もしそれ以外に証明するものがなかったとしても、火災の「鎮静」だけで十分だっただろう。われわれの長く曲がりくねった捜査の末に、関係者たちを有罪にして安全な場所に閉じ込めておきたいという思いは、特定の火災と彼らの犯行とを一件一件、厳密に結びつけることよりも強かった――というのも、そんなことは実際上ほぼ不可能だったからである。しかし、彼らの逮捕後に火災が止んだという事実だけでも、彼らの完全な罪責を示す証拠として十分である。われわれの長い追跡が終止符を打ったのは、アメリカ参戦から6か月後にあたる1917年10月17日のことであった。その日、ボニファス、ライスタート、ウーデ、そしてペーター・ツェッフェルトの4人を逮捕したのである。ツェッフェルトは、ある日の午後、シンメルの事務所で爆弾容器に薬品を詰めるのを手伝ったと自白した。そこにはライスタートもおり、出来上がった爆弾を3人でタクシーに積み込んで、河岸近くの酒場で待っているはずの「破壊工作員」と落ち合いに行った。だが、その実行犯はその日、姿を見せなかったので、シンメル、ライスタート、ツェッフェルトの3人はそのままチャンバーズ・ストリートの事務所に引き返し、爆弾筒を降ろした、という。

当時の法律が彼らを本来ふさわしいかたちで罰するには、あまりにも甘いものであったことを、私は本当に残念に思う。事件を担当したジェームズ・W・オズボーン連邦補佐検事は、見事な起訴理由を組み立てた。判事ハーランド・B・ハウも、被告たちに対してきわめて厳しい態度で臨んだ。既決犯であるウォルペルトは、この新たな罪状に対する裁きを受けるため、アトランタから引き出され、フォン・クライストとベッカーも同様に法廷に立たされた。機関士たちも抑留所から連行されてきた。そしてその先頭には、フランツ・リントレンがいた――イギリスから引き渡され、彼が多大の金と労力を費やして隠そうとしていた一連の罪状に答えるためである。われわれの、その時点での法律が、合衆国の「もてなし」を踏みにじり、国内で何百万ドルもの財産を破壊したこれらの男たちに対して成しうる最大の処罰は、アトランタでの懲役1年半だった。ハウ判事の永遠の名誉となるのは、リントレン、ウォルペルト、フォン・クライスト、ベッカー、プレーデル、パラディース、ガルバーデの7人全員に、最長刑期と2千ドルずつの最高額の罰金を科したことである。もしその後制定されたスパイ防止法(エスピオナージ法)を適用できたなら、それぞれ20年の禁錮と1万ドルの罰金を科すことができたはずだ。

世論に任せておいたら、これらの男たちの命は即座に断たれていたことだろう。しかし、公平な「正義」はあくまで彼らの裁判を取り仕切らねばならず、当時として不十分な法律の範囲内で、最大限の罰を科したにとどまった。より厳格な刑法があれば、アメリカ国内のドイツ・スパイたちをおおいに震え上がらせたことだろうし、実際、法網にかかったドイツ工作員たちは、もし本国で戦闘服(野戦服)を着ていたなら確実かつ迅速に死刑を言い渡されていたであろう罪について、合衆国の法律に認められた「技術的な条項」や種々の権利をさんざん利用し、あざ笑っていた。彼らは、自らの犯罪に見合った苦しみを味わってはいない。だが、彼らの祖国が、その代償を支払っている。

[図版:ボストンのノーマン・H・ホワイト。軍事情報部付きの民間人として、多数のドイツ陰謀を暴いた人物]

アトランタ刑務所で刑期を務めているリントレンの姿には――長期刑であり、彼はあらゆる小細工を弄してその執行から逃れようとした――いかにもドイツ人的なものがあり、彼の哀れな手先たちの境遇よりも、はるかに一般の「報復願望」を満足させるものがある。彼はアメリカにやって来たとき、傲慢で、金持ちで、挑戦的で、冷酷で、ずる賢く――われわれに対して「戦争」を仕掛けるつもりでいた。その最初の行動の一つが、船舶を破壊する爆弾を製造させるための1万ドルの小切手への署名であった。ところが、何人かのアメリカ人が彼の悪臭ただよう足跡を横切るや、彼は恐怖に駆られて逃亡したのである。幸運な巡り合わせのおかげで彼は捕えられ、正体を見抜かれ、引き渡された。そして、ボム・スクワッドが粘り強く手を緩めなかったおかげで、彼の数ある「仕事」のうちの一つの足跡が白日の下にさらされた。(彼には、ほかにも多くの企みがあった。)彼は、肉体労働者の手先にすぎない部下たちと一緒に裁かれるという、彼の言い分では「ひどい屈辱」を味わい、有罪となって刑務所送りとなった。彼は健康状態が悪いと訴えた――実際には頑健そのものでありながら――そして、より待遇の緩やかな刑務所へ移されようとした。彼は崩壊しつつあった自国政府の援助を仰ぎ、政府はワシントンに対して、「もし彼がドイツに引き渡されないなら、捕虜となったアメリカ兵の命を奪う」と通告した。あらゆる手が失敗し、フランツ・リントレン――本来なら合衆国に対する戦時行為として裁かれるべき行為を働きながら、戦時捕虜ではなく、平時の裁判所で、平時の寛大な法律によって裁かれたこの男――はいまや、祖国が戦争をあきらめ、寛大な処遇を請うたあともなお、アメリカの刑務所で刑期を務めねばならない。

リントレンは、自分は先の皇帝の非嫡出の親族だとほのめかしたことがある。それが真実かどうかはさておき、2人には共通点がある。皇帝は、ただの「ホーエンツォレルン」に成り下がり、アメリカ合衆国におけるドイツの主要な爆弾陰謀家は、ウォルペルトがあの日本部で怒りを込めて言ったように、「“フォン”リントレンじゃない、くそったれ――リントレン」にすぎないのだ!

VIII

ホルト氏の四日間

事実だけを並べれば、三つの出来事は互いに無関係に見えた。相互の関連を見いだすには、かなりの「想像力の飛躍」が必要であり、想像力は「おそらく何が起こったか」を推測するうえではしばしば有用ではあるものの、「実際に何が起こったか」を示す法廷証拠にはならない。出来事の順番に従えば、事実は次のとおりであった。

1.1906年4月16日、ハーバード大学でドイツ語を教えていたエーリヒ・ミュンターの妻、レオーネ・クレンブス・ミュンターは、第二子出産後まもなく死亡した。その死には不審な点があり、検視官は遺体の胃を切除し、ハーバード医学校で検査するよう命じた。その翌日、ミュンター博士は遺体をケンブリッジからシカゴへ運び、埋葬したいと申し出た。その許可は与えられた。博士は子どもたちを連れて、悲しみに満ちた西への旅路についた。亡き妻の遺体は火葬された。ミュンター博士はすぐにシカゴからニューヨーク・ライフ保険会社に手紙を書き、妻の生命保険の受取人を自分から妻の姉へ変更するよう依頼した。胃壁の検査では、微量のヒ素による緩慢な中毒が示され、すぐさま夫に対する逮捕状が出された。ところが、その逮捕状がシカゴに届いたときには、彼はすでに姿を消しており――行き先は誰にもわからなかった。

2.ワシントンの合衆国議会議事堂の上院翼1階の廊下には、以前、電話交換台が据え付けられていた。1915年7月2日(金)の夜、その近くで爆発が起こり、交換台の破片が隣接する電話ボックスの壁を突き破って飛び散った。その場には誰もおらず、これは幸運だったと言ってよい。というのも、破壊された交換台だけが被害ではなかったからである。周囲の壁や天井からはしっくいが降り注ぎ、近くのあらゆる扉(40年間一度も使われていなかった副大統領室の扉も含む)が吹き飛ばされ、東側の控室は完全に破壊され、石造りの壁に大穴があき、窓ガラス、鏡、クリスタルのシャンデリア、電話機の部品が四方八方に飛び散った。

3.ロングアイランドが湾に突き出てグレン・コーヴを形づくす、その先端部にあるイースト・アイランドにある自邸で、ジョン・ピアポント・モルガンは1915年7月3日(土)の朝、朝食をとっていた。時刻は9時半近くで、一家の者と数人の来客が、東側の翼にある朝食室に集まっていた。そこへ自動車が玄関前に乗り付けられ、執事が出てみると、みすぼらしい身なりの男が、ドイツ訛りを思わせる口調でモルガン氏に会わせてほしいと告げた。その男は、「サマー・ソサエティ・ダイレクトリー トーマス・C・レスター代理人」と印刷された名刺を差し出した。執事は、もっとはっきりした身分証明書を求めた。すると、男はポケットからリボルバーを抜き、執事に銃口を向けながら家の中に踏み込み、「モルガンはどこだ?」と問いただした。

執事は冷静な判断でこう答えた。「書斎におります」――書斎は屋敷の西側の翼にあり、朝食室とは反対側である――そして書斎の扉のほうへ歩き出した。不運にも、その扉は開いており、銃を構えて後ろからついてきた侵入者は、部屋の中に誰もいないのを見て、執事が嘘をついたのを悟った。同時に、フィジック執事自身も、自分の策略が失敗したことに気づいた。彼は叫んだ。「二階でございます、モルガン様! 二階です!」――その叫び声に込められた切迫した調子で、何かただならぬ事態が起きていることをモルガンに伝えると同時に、銃の射線から遠ざからせようとしたのだ。モルガンはすぐに裏階段を駆け上がり、何が起こったのか探そうとした。間もなくモルガン夫人も合流した。二人は部屋から部屋へと移動し、異常は見つからず、付き添いの看護師に何事かと尋ねた。やがて一行が大階段の踊り場にさしかかったとき、先頭に立って階下を見下ろしたモルガン夫人の目に、見知らぬ男の姿が飛び込んできた。男は両手に一丁ずつリボルバーを持っていた。レスターは正面の階段を上って来ていたのである。モルガンは、妻が自分と銃のあいだに立っているのを見て、彼女を脇へ押しやり、突進した。男は2発発砲し、2人がもみ合いながら床に倒れ込むと、さらに2度、リボルバーのハンマーがカチリと鳴ったが、その弾は不発に終わった。モルガンは腹部前面と左腿にそれぞれ一発ずつ被弾していたが、それでもなお、相手を取り押さえるには十分な力を残していた。モルガンは体重220ポンドの全体重を相手の体に乗せて押さえつけ、床に押し付けられたリボルバーを両方とも動けなくした。銃の一丁はモルガン夫人と看護師が男の手からもぎ取り、もう一丁はモルガンが奪い取った。そのあいだにフィジック執事は使用人たちを呼び集め、床に組み伏せられた侵入者の頭に石炭の塊を叩きつけて気絶させた。レスターと名乗っていた男の意識を失った身体は、縄で縛り上げられ、グレン・コーヴの留置場に運び込まれた。

以上が事件の概要である。モルガン襲撃の経緯をここまで詳しく述べたのは、侵入者の行為がどれほど絶望的であり、殺意に満ちていたかを示すためである。これは、強盗目的の犯行とはとても思えず、冷血な暗殺未遂以外の何物でもなかった。一方、合衆国議会議事堂での爆発は、幸いにして人的損害を伴わなかったが、当時、その原因は完全な謎だった。そして、ミュンター事件に至っては、私の記憶から久しく消え去っていた。では、どうやってこの犯罪の動機を立証し、全責任を特定の人物に帰し、しかるべき罰を与えることができるのか?

これほど、遠距離通信が迅速かつ有用な役割を果たした事件は、おそらくかつてなかっただろう。全国が「犯人狩り」に招集されれば、どれほど広大な範囲を一体となって追跡に加われるか――それを示すために、ここからは事態の推移を時系列どおりに追ってみることにする。

土曜の朝7時――レスターがまだモルガン邸の玄関先にも現れていない時刻――ワシントンの新聞各社に、一通のタイプ打ちのフォームレターが届いた。署名は「R・ピアース」。戦争当事国への軍需品輸出に、激しい抗議を表明する内容だった。第二段落には、こうあった。

 「上院で起こった件に関連して、われわれがいま何をしているのか、
  立ち止まって考えてみるべきではないか?」

書き手はさらにこう述べていた。

 「私も爆薬を使わざるを得なかったことを残念に思う
  (これが最後になるよう願いたい)。
  使ったのは輸出用の爆薬であり、
  戦争と血塗れの金を要求する声よりも
  大きな音を立てるはずだ。
  この爆発は、平和への私の訴えに付けた『感嘆符』である。」

また、こうも書かれていた。

 「ところで、この件をドイツ人やブライアン氏のせいにしないでほしい。
  私は昔気質のアメリカ人である……」

そして、ペン書きの追伸で、次の一文を添えていた。

 「ドイツ人に販売できる立場ではない以上、
  彼らがここで買うことができるようになれば、
  われわれは当然、彼らへの販売を断るだろう。
  これまで連合国側にしか売ってこなかったのだから、
  どちらの側も、われわれが輸出をやめても
  文句は言えないはずだ。」

午前9時半頃、ちょうど同じころ、グレン・コーヴで銃撃事件が発生した。一方、ワシントンでは、鉱山局の顧問専門家チャールズ・マンロー博士が、爆発の残骸を調査するため、議事堂に呼び出されていた。彼はほどなく、この衝撃が自然発火によるものではなく、相当量の高性能爆薬によって生じたものだと結論づけた。

博士が瓦礫の山をこじ開けているあいだに、レスターはグレン・コーヴの留置場に収容されていた。手足を縛っていた縄は緩められ、そのせいで足首と手首にはひどい痕が残っていた。額の傷には包帯が巻かれた。事情聴取を受けると、彼は次のような供述を行った。

 「私はニューヨーク州イサカ在住のフランク・ホルトであり、つい最近まで
  コーネル大学においてドイツ語の講師を務めていた。
  ここに、ジェイ・P・モルガン邸(ニューヨーク州グレン・コーヴ、
  イースト・アイランド)訪問の経緯につき、
  ウィリアム・E・ルイスター治安判事に対し、
  自由意思に基づいて以下の供述を行う。

  私はこの十日ほどニューヨーク市に滞在しており、
  先週すでに一度、モルガン氏の自宅を訪れている。
  今回ここを訪れた動機は、モルガン氏に会い、
  合衆国内の軍需品製造業者および戦時公債を支える大富豪たちに働きかけ、
  軍需品輸出に禁輸措置を講じるよう圧力をかけてもらうことにあった。
  そうすれば、ヨーロッパにおける何千もの同胞の死に、
  アメリカ国民が加担することを免れることができるからである。

  もしドイツがここで軍需品を購入できる立場にあるなら、
  われわれは当然、彼らへの販売を断るはずである。
  アメリカ国民がこれまで輸出を止めてこなかった理由は、
  この取引によって潤っているからのように思われる。
  しかし、非禁制品の輸出だけでも
  十分な繁栄を享受できるのではないか。
  ヨーロッパ人の殺戮を引き起こさないかたちで
  利益を得るほうが、はるかに望ましいのではないか。

  私は、モルガン家にこのような迷惑をかけざるを得なかったことを
  非常に残念に思う。しかし、もしモルガン氏が
  その影響力を行使してくれるなら、
  私の試みたことを十分に成し遂げることができるはずだと信じている。
  私は、自分にはできない仕事を、氏に代わって行ってもらいたかった。
  いずれにせよ、氏が自分の責務を果たしてくれることを願っている。
  われわれはヨーロッパ人殺戮への関与をやめねばならない。
  あとのことは神が取り計らうであろう。」

こうして、レスターなる男が、実はフランク・ホルトであることがわかった。

そのころ、私は何も知らなかった。その土曜の朝、私は、この日をゆっくり楽しむつもりで起床した。というのも、その日はグレイヴセンド湾で警察官大会が開かれる予定だったからである。競技場へ向かう途中、私は議事堂爆発の記事を興味深く読み、そしてすぐ忘れた。当時の新聞は午前1時ごろ印刷されており、爆発の「被害状況」の描写以外の情報は載っていなかった。しかも祝日であり、翌日もまた休日である。私は、この二日間を存分に楽しむつもりだった。

正午頃、ウッズ警視総監から電話が入り、彼は慌ただしく「モルガン氏が『ドイツ人』に撃たれた」と告げ、私にできる限り速やかにグレン・コーヴへ向かうよう命じた。「犯人の動機と、共犯者の有無を突き止めろ」と警視総監。「逐一、私に報告するように」と言い残し、電話を切った。私はボム・スクワッドのコイ刑事と、万が一ドイツ語の通訳が必要になったときのために、ドイツ語のわかる巡査を見つけて同乗させ、車を手配するのに少し手間取ったのち、急いで小さなグレン・コーヴの留置場へ向かった。

午後4時になってようやく、私はグレン・コーヴ側が把握していた事実を初めて知った。ホルトの身元品を調べたところ、リボルバー2丁、ダイナマイト3本、散弾銃の弾数発、フィラデルフィア紙から切り抜いた漫画、荷物の送り状、そしてモルガン氏の子どもたちの名前が鉛筆書きされた紙片が見つかったという。責任者のマッカヘイル巡査は、ホルトの供述書を見せてくれた。それによれば、ホルトは、モルガン邸の使用人の何人かから、木曜日――つまり二日前――にも屋敷の敷地内で目撃されていた、ということだった。グレン・コーヴの街は銃撃事件以来、大混乱に陥っていた。新聞記者と写真記者が留置場に押し寄せ、被疑者の写真を撮り、その写真はすでに全国の有力紙へ向けて発送されていた。彼の供述内容と人相書きも、AP通信やユナイテッド・プレスの電報網を通じて、あらゆる方向に打電されていた。私は、さっそく本人との面会を申し出ることにした。

彼は独房から連れ出され、われわれは留置場の廊下で、簡素なキャンプ用の椅子に向かい合って座った。彼は華奢で細身の男で、深く落ちくぼんだ眼窩、鷲鼻、引っ込んだ顎をしていた。発音には明らかにドイツ訛りがあった。名前はフランク・ホルトで、アメリカ生まれだという。彼は40歳であること、両親はともにアメリカ生まれだが、家系にはフランス人とドイツ人がいること、妻と2人の子どもはダラスにいることなどを話した。ここ数年はヴァンダービルト大学で教えており、直近の一年間はコーネル大学(イサカ)でドイツ語講師を務めていたという。2週間前にイサカを出て、ニューヨークのミルズ・ホテルに滞在したのち、グレン・コーヴに来たのだと述べた。

「なぜモルガン氏を殺そうとした?」と私は尋ねた。

「殺すつもりはありませんでした。彼に、ヨーロッパに向かう弾薬の輸出を止めるよう働きかけてほしかったのです。」

「しかし、ずいぶん強引な『働きかけ』方を選んだね。ダイナマイトは何のために?」

「彼に、『今起きている災厄の原因』――すなわち爆薬を――見せようと思ったのです。」

彼は率直に――しかし完全ではなく――答えた。モルガン家の子どもたちの名が書かれた紙片は、単なるメモであり、彼は子どもたちを人質にとり、モルガンが連合国への物資輸出を止めるために全力を尽くすと約束するまで、彼らを手元に置いておくつもりだった、と言った。ダイナマイトをどこで買ったのかについては、いくら問いただしても答えず、代わりに、リボルバーと弾薬を購入したおおよその店の場所については、あっさりと白状した。これらの情報は、われわれが捜査を進める材料として有用だったので、私は彼を再び独房に戻させると、外に出て電話をかけた。

そのころ、合衆国全土がこの事件に強い関心を寄せていた。ホルトの供述はAP電を通じてワシントンに届き、ワシントン警察のボードマン警部の手に渡った。ボードマン警部は朝からずっと、議事堂爆発事件について捜査の手を打っており、市内から投函されたR・ピアース名義の手紙の差出人を突き止めようとしていた。彼はピアースの手紙を何度も読み返し、書き手を示す手がかりを探していた。そこへ、ホルトの供述文が届いた。2通の文書の中で、次の文章が警部の目に留まったのである。

ピアースの手紙より:

 「ドイツがここで買うことができるようになれば、
  もちろんわれわれは彼らには売らないだろう。
  これまで連合国側にしか売ってこなかったのだから、
  どちらの側も、われわれが輸出をやめても
  文句を言うべきではない。」

ホルトの供述より:

 「もしドイツがここで軍需品を購入できる立場にあるなら、
  われわれは当然、彼らへの販売を断るはずである。」

ボードマン警部は、ただちに上司のプルマン本部長に電報を打った。本部長はたまたま、私やコイが行き損ねたあの警察官大会に出席するため、ニューヨークに来ていたのである。午後2時付の電報(ちょうど私たちがグレン・コーヴへ向かっていたころ)には、こう書かれていた。

 「ニューヨーク州グレン・コーヴでJ・P・モルガン射殺未遂で拘引中の
  F・ホルトについて、木曜および金曜の行動を確認されたし。
  金曜夜の議事堂爆破の犯人である可能性あり。」

この電報はフォーロー警視(Inspector Faurot)あてに発信され、彼からグレン・コーヴの私たちへと、代理のガイ・スカル警視を経て転送された。ただし、その前に、ワシントン支局から注意喚起を受けたAPの記者が、「同じ質問をホルトにしてみてほしい」と頼んでいた。ホルトは、ワシントンには行っていない、ときっぱり否定した。しかし、マッカヘイル巡査は、彼が木曜日にグレン・コーヴにいたことを知っていたので、午後5時にボードマン警部への返信電を打った。

 「F・ホルトは7月1日(木)午後、グレン・コーヴにいた。」

私はホルトのリボルバーの製造番号と、彼が店のあると述べたおおよその地域とを本部に電話で伝えた。本部からは、数名の隊員がさっそく出動し、質店を一軒ずつ回ってリボルバーの出所を突き止めようとした。同時に、「キーストーン・ナショナル火薬会社 ダイナマイト60% ペンシルヴァニア州エンポリアム」と刻印されたダイナマイト3本についても、販売経路を追跡しはじめた。

ホルトは、ダイナマイトの購入場所について、頑として口を割ろうとしなかった。彼は、この時点ですでに疲労困憊していた。この一日で散々に痛めつけられ、何度もインタビューや撮影を受け、矢継ぎ早の質問にさらされ、足首と手首は痛み、頭はズキズキし、もともとさほど安定していなかった精神状態も、明らかに疲弊の兆しを見せていた。こうした様子から、もしかすると彼はいま、われわれが必要とする追加情報を提供しやすい状態にあるかもしれないと私は考え、車で出かけて、前日にどこへ行っていたのか案内するよう提案した。すると彼はすぐさま抗議した。

「いやだ! 頭が痛いのに、君は私を車に乗せて、野次馬どもに見世物にしようとしているんだ。いまは話さない――あとでなら話すかもしれないが、いまではない!」

「わかった」と私は答えた。「あとでだ。」

それから私は、正式な取り調べ調書を作成することにした。

すぐに聴取が始まり、コイ、マッカヘイル、マインオーラ郡の刑事一人、保安官代理2人、巡査2人、速記係、それに私が尋問官として出席した。ここで、当時の聴取記録の一部を引用すれば、彼の態度の様子と、さらにどのような事実が明らかになったかがよくわかるだろう。

問:どこで生まれたのですか。

答:どういうわけか、頭がぼんやりしていて、思い出せない――ウィスコンシン州だったとはわかっています。それがどこだったかまでは、ちょっと。何が私に影響を与えたのか――内側で何かが起こっているのかもしれない――たぶん、先ほど受けたショックのせいでしょう。

問:あなたはドイツ訛りがありますね。ドイツか、ヨーロッパのどこかで生まれたのでは? 本当のことを言いなさい。

答:まあ聞いてください。さっきも言いましたが、「外国訛り」だとよく言われるんです。それは、私はいろんな言葉を話すからですよ。フランス語、ドイツ語、スペイン語、そのほかも。だから、そう聞こえるんです、わかりますか。

問:細かいことを一つひとつ聞かずに済むようにしましょう。生まれた町か都市の名前を教えてください。

答:ええ、いま考えているところです(沈黙)。残念ながら、お役に立てそうにありません。

問:ほかのことについては、ずいぶん記憶がはっきりしているようですが。

答:さっきから、ずっと横になって考え続けていたのです。

私は、彼の身元品から見つかった送り状について質問した。

問:1915年6月11日に、あなたはアメリカン・エクスプレス社を通じて、テキサス州ダラス、サウス・マーサリス・ストリート101番地のD・F・センザボーあてに箱を1つ発送しています。中身は何でしたか。

答:たしかタイプライターだったはずです。確信はありませんが、たぶんタイプライターです。

続いて、フィラデルフィア紙から切り抜かれた漫画をきっかけに、意外な事実が明らかになった。

問:フィラデルフィアには何回行ったことがありますか。

答:一度もありません。

問:イサカからニューヨークへは、どうやって来ましたか。

答:ニューヨークへ直接来ました。

問:イサカを出てから、一度もフィラデルフィアに行っていないというのは本当ですか。

答:一度もありません。

問:あなたの所持品には、フィラデルフィアの新聞の切り抜きがあります。それはどこで手に入れたものですか。

答:どこかに置いてあったフィラデルフィアの新聞から切り取ったんだと思います。たぶん漫画欄だったと思います。

問:その新聞を買ったとき、あなたはフィラデルフィアにいたのではありませんか。

答:買ってはいません。どこかに置いてあったんです。たぶんミルズ・ホテルでしょう。

問:昨夜はどこで寝ましたか。

答:ああ、そういえば。APの記者からワシントンの件について聞かれたとき、その男は、私をその事件と結びつけようとしていました。あなた方も同じことをしようとしているのでしょう。

問:私はあなたを何かに結びつけようとしているわけではありません。真実を知りたいだけです。私はあなたに対して正直かつ率直です。あなたの答えは、公平に検証します。

答:ええ、さっきから考えていましたが、そのほうがよさそうですね。R・ピアースの手紙を書いたのは私です。私は昨日ワシントンに行き、夜行列車で戻ってきました。そのことは言っておいたほうがいいでしょう。

これは大ニュースだった! マッカヘイルは部屋を抜け出し、ただちにボードマン警部あてに電報を打った。

「ホルトは金曜にワシントンにいた。詳細は追って電報する。」

そして部屋に戻り、ホルトのさらなる供述を聞いた。

彼は金曜の早朝ワシントンに向かい、午後2時に到着した。ユニオン駅近くで家具付きの部屋を借り、午後4時頃、議事堂まで歩いていった。上院側のウィングは人影がなかった。そこで彼は、電話ボックスの近くに爆弾を設置し、8時間後に爆発するようタイマーをセットした。夜はぶらぶらと時間をつぶし、R・ピアース名義の手紙を投函し、真夜中の列車でニューヨークへ戻った。ミルズ・ホテルに立ち寄って郵便物を受け取り、翌朝の早い時間にグレン・コーヴ行きの列車に乗った。その後の行動については、すでにわれわれは十分すぎるほど知っていた。ワシントンでの爆破を自白したことは、確かに驚くべき新展開だったが、われわれの仕事はまだ終わっていなかった。彼は、新たに幾つもの「可能性の路地」を指し示したからである。

午後7時までに、まず第一に、彼の最近の教師としての経歴のおおよその筋が判明した。これをニューヨークに電話で知らせ、そこからさらにイサカ、ダラス、ナッシュビル、フィラデルフィアへと電報で照会し、裏づけを取ることにした。ワシントンでの爆破についての彼の供述は、スカル代理総監がワシントンに電話で伝え、プルマン本部長は、より完全な自白を得るため、ただちにロングアイランド行きの列車に乗り込んだ。リボルバーの製造番号についてはすでに本部に連絡し、その手がかりに基づく捜査が始まっていた。ダイナマイトについては、商標以外には何の情報もなかったが、市内での販売がきわめて厳しく制限されていることを知っていた私は、この爆弾入手には共犯者が関与していると確信していた。また、彼がハンドルを握っていたダイナマイトの量は、議事堂の爆弾に使った3本と、身につけていた3本だけではないはずだ、とも考えていた。彼がミルズ・ホテルに立ち寄っていたことから、われわれは捜査員を派遣し、彼の借りていた部屋を捜索した。生まれた場所についての供述はきわめてあいまいで、彼自身がすでに一度それを翻しており、ドイツ的なアクセントの存在を裏づける材料にしかならなかった。最後に、爆弾を作る方法についての彼の説明は、ここでは「自明の理由」により詳述しないが、爆発物について多少の知識を持つ私には、明らかに事実と異なるものであることがわかった。彼がどのようにしてダイナマイトに習熟したのか、その詳細はまだ何一つ解明されていなかった。外国語教師としてはかなりの知力を備えているらしいこの奇妙な男が、一日にして重大犯罪を二つも実行し、そのうち一つを白状した――この事実は、動機をいっそう不可解なものにしていた。しかし、彼が比較的よくしゃべる、ということはわかった。それならば、意識してであれ、無意識のうちにであれ、彼はさらに多くの情報をもたらしてくれるはずだった。

午後7時半ごろ、ホルトはより安全なナッソー郡マインオーラの郡刑務所に移され、1時間後には、そこで再度の取り調べが始まった。プルマン本部長もその夜半に合流し、尋問に加わった。その時点までに、ニューヨークから「ホルト宛てにミルズ・ホテルに届いた電報が一通ある。差出人はD・F・センザボーで、詳細を問う内容だ」との報告が届いていた。これを共犯の手がかりと考えた私は、幾つかの切り口を変えながら、センザボー(彼の話では義父にあたる人物)に対し、自分の計画や意図を知らせていたのかどうかを、なんとか聞き出そうとした。また、事件前夜に彼が妻に宛てて書いたという手紙の内容についても問いただした。だが、それらの質問には、何ら有意義な答えは得られなかった。そこで、ワシントンでの行動を一つひとつ時系列に沿ってたどり直したが、これもまた目立った成果はなかった。話題を再び、軍需品輸出に関する彼の見解に戻し、その件について友人たちとどのような話をしたかを尋ねると、彼はこう答えた。

「友人たちとは話しませんでした。私の立場での友人というのは、その種の話をするような人たちではありませんから。大学教授がそんなことを口にすると思いますか? 少し考えてみれば、私が他の誰かと一緒にこのようなことをするはずがないとわかるでしょう。」

われわれがしぶしぶ行きつつあった結論も、まさにそれだった――彼には共犯者はいない。しかし、ダイナマイトの購入経路という謎は、依然として残されていた。ホルトは、その購入先を伏せている理由について、「君たちには決して当てられないだろう」と言った。たしかにその通りだった。私にも見当はつかなかった。だが、彼は、ひょんな応答のなかで、この謎を解く鍵となる一言を口にしたのである。プルマン本部長がこう尋ねたときのことだ。

「なぜ議事堂を選んだのかね?」

「単に、この国で最も目立つ場所だからです」と、痩せたその男は椅子に座ったまま答えた。「私の訴えに注目を集めたかったのです。」

この一点に関してだけは、彼の目論見は見事に成功していた。合衆国全体がこの事件に注目していたからである。ホルトがわずか2週間で約275ドルを使っており、その見返りとして手にしていた爆薬はダイナマイト6本だけであり、残りは50ドル分しか使い道を説明できないことがわかると、「彼がもっと多くの爆薬を買っていたに違いない」とするわれわれの「仮説」は、確信に近いものになった。彼はニューヨークのドイツ人クラブに出入りしていないと否定し、アメリカ生まれだと繰り返し主張したが、正確な出生地の名を告げることは避け、やがて「ミルウォーキー」という名を挙げた。テキサス時代に通っていた大学の名称についても、「どうしても思い出せない」と言い張り、ダイナマイト購入の手がかりになりそうな事柄に関しては、巧みに答えをはぐらかし続けた。そうして7月3日――本来なら休日として始まったはずの土曜日は終わった。私はホルトの看守として2人の隊員を残し、疲労困憊して家路についた。捜査の進展には、決して満足していなかった。

われわれが被疑者の取り調べに忙殺されているあいだにも、電信はボストンへ、列車はシカゴへ、淡々と新聞記事を運び続けていた。ケンブリッジのある警官は、ホルトについて送られてきた全国版の記事を読み、その中にあった「よろよろした歩き方」という文句に、ある人物の姿を重ね合わせた。この「よろよろした歩き方」という表現は、無数に存在するごくありふれた描写であり、日常生活の中で目にする多くの人がその特徴を持っている。しかし、この警官にとって、その言葉はただ一人の男――9年前に妻殺しの容疑を受け、その後消息を絶ったハーバード講師、エーリヒ・ミュンター――を思い起こさせるものだった。9年という歳月は長い。普通の人は、9年前に最後に見た人物の歩き方を、すぐに思い出せるものではない。だが、この二つの言葉は、おそらく、その警官の心の中で「逃亡中の殺人犯」を象徴するラベルとなっていたのだろう。翌日、事件写真がニューヨークからボストンに送られてくると、ケンブリッジの警察はそれを見て、確信が持てなくなった。なぜなら、ミュンターはかつて髭を生やしており、ケンブリッジ時代には頭に包帯を巻いていなかったからである。しかし、一度芽生えた疑念は、それだけで全国的な報道の火種となるには十分だった。イサカの記者たちは、コーネル大学でのホルトの同僚にこの話を裏づけようとしたが、失敗した。2千マイル離れたダラスの記者たちも、義父のセンザボーから確認を取ろうとしたが、困惑した返答しか得られなかった。しかし、ダラスからは彼のそれまでの経歴についての情報が寄せられ、それはまた電信で送られて、それぞれの都市で裏付け調査を受け、彼が過去に暮らしたあらゆる町で、追加取材が行われた。

7月4日(日)、独立記念日の朝、私は早くからマインオーラの刑務所に出向き、ホルトに再度の尋問を行ったが、得られた成果はほとんどなかった。その一方で、ニューヨークのボム・スクワッドは、ジャージー・シティで彼がリボルバーを購入した一軒の店を突き止めた。店主に告げた名前は「ヘンダーソン」、住所はロングアイランドのサイオセットであった――グレン・コーヴからそう遠くない小駅である。私はなぜ偽名と偽の住所を使ったのか尋ねた。彼は、時刻表でたまたま「サイオセット」という地名を見つけ、「ヘンダーソン」という名字が頭に浮かんだからだ、と答えた。そこから話題は再び私の「お気に入り」、ダイナマイトの件に戻り、ついにホルトは、購入場所については7月7日(水)になったら話す、と言った。なぜ7月7日なのか――その問いには一切答えなかった。いくら尋ねても、彼はただ混乱を深めるばかりだった。

この日は、それでもなお、収穫のない日ではなかった。午後、ナッソー郡の地方検事スミス氏が刑務所を訪れ、被疑者こそが、かつてケンブリッジで顔見知りだったエーリヒ・ミュンター本人であると確認したのである。ほぼ同じ時刻、シカゴの警察には、前日にニューヨークから発送された事件写真が届いていた。彼らはその写真を、ミュンターの姉である二人の独身女性に見せた。その結果、二人はためらうことなく弟だと断定し、「この知らせを聞いたら母はきっと死んでしまう」と言った。こうして、R・ピアース、レスター、ホルト、ヘンダーソン、ミュンター――この男の多重人格的な素顔は、ますます興味深いものになっていった。妻殺し、爆弾魔、ガンマン――次は何が出てくるのか?

「次に起こったこと」は月曜日の出来事である。二つ目の銃砲店も見つかり、そこでもやはり、「ヘンダーソン」という名とサイオセットの住所が使われていた。ホルトは翌朝も、前日と同じことを繰り返すばかりで、「7日になれば話す」という言葉をまるで呪文のように繰り返した。彼は自分がミュンターだという疑惑を否定し、その名前を聞いたこともないと主張した。私はいったんニューヨークに戻り、残りの昼間の時間を、爆薬メーカー各社を回る調査に当てることにした。キーストーン社の親会社であるエトナ社の記録を調べたところ、午後のうちに、「ヘンダーソン」という名の人物から、サイオセットにダイナマイト200本を配送するよう求める電話注文が入っていたことが判明した。私はちょうどサイオセット行きの準備を整えたところで、スカル代理総監と一緒に出発しようとしていた。そのとき――もしこれでもまだ事件が十分興味深くなかったとしたら――、われわれの「友人」たるアナーキストが、今度はニューヨーク市警本部に爆弾を仕掛けて爆発させたのである。奇妙なことに、この事件は足止めにはなったものの、ホルト事件の捜査を混乱させるほどの影響は及ぼさなかった。というのも、この爆破については、数週間前から匿名の脅迫状が届いており、前年の同じ日には、爆弾製造中のアナーキスト、ベルクが誤爆で死亡していたこともあり、ホルト事件とは何ら関係がないと見なされていたからである。幸い、負傷者は出ず、必要な対策を講じたのち、私は残り少ない夜の時間を睡眠に充てるため、家へ戻った。

火曜日がやって来た。

私はサイオセットに向かい、駅長のジョージ・D・カーンスに話を聞いた。カーンスは、「ヘンダーソン」という男を知っていると言った。ヘンダーソンを最初に見かけたのは約3週間前のことで、そのとき彼はニューヨークから送られてきた新品のトランクを受け取りに、駅に現れた。そのトランクは中身が空だったらしく、重さはわずか36ポンドだった。ヘンダーソンは受領書にサインをし、立ち去った。数日後、彼は再び駅に現れ、「ダイナマイトの箱2つと、導火線と雷管の箱2つが届いていないか」と尋ねた。彼は切り株を爆破するためにそれらを必要としていると言い、荷物の到着を数日にわたり確認し続けた。ついにそれらの箱が届くと、彼は荷物を受け取り、「フランク・ヘンドリックス」とサインして、フォード車で走り去った。これで、われわれはようやく正しい足跡をとらえたようだった。

彼が爆薬を受け取ったことはわかった。では、それをどこへやったのか? トランクの中に隠したのだろうか。トランクはサイオセットからどこかに発送されたのか? カーンスの答えは「ノー」だった。われわれは近隣の数駅にも電話を入れ、最終的にセントラル・パーク駅――サイオセットから数マイル西――で、新たな手がかりを得た。そこに残されていた手荷物記録によれば、7月2日(金)に、「ヘンダーソン」という人物がトランクを一つペンシルヴェニア駅(ニューヨーク)あてに荷物預かりとして送っていたのである。これは、本部で捜査員に引き継いで追跡させるには十分な情報だった。

私はその預かり証の番号を本部に電話で伝え、「もし可能なら、その番号からトランクの行方を追ってほしい」と頼んだ。田舎町では、見知らぬ人間についての情報は喜んで提供される。ほどなくして、ホルトが少年を一人雇い、その少年に手押し車でトランクを運ばせ、自分の使っていた林の中の小屋から駅へ向かったことがわかった。われわれはその小屋へ向かった。そこには、焼け焦げたダイナマイトの箱が転がっており、棒状のダイナマイト包みを包んでいた蝋紙の切れ端が、風雨に耐えて残っていた。爆薬そのものは見つからなかったが、近くで何本かを燃やした形跡がはっきりと残っていた。

[図版:ホルト夫人の謎めいた手紙

 テキサスから届いた最初の知らせ]

もし全部を燃やしていなかったとすれば、残りの200本のうち50本はトランクの中に入っているはずだった。日は傾きはじめていた。私はカーンスとともに急いでマインオーラに戻り、駅長にホルトを「ダイナマイトの男」として認識させた。そのうえで、私はホルトに同じ質問を繰り返した。彼は「7日になれば話す」と答えた。

「いいかい」と私は言った。「その預かり証の番号はこっちで押さえている。あのトランクの中にはダイナマイトが入っている。今この瞬間にも爆発して、大勢の人間を殺すかもしれない。預かり証から行き先を追うことはできるが、時間がかかる。すぐにでもトランクの所在を教えたほうが、君自身のためにもなるぞ。」

「わかりました」とホルトは答え、トランクは40丁目と7番街の近くに営業所のある倉庫会社に預けた、と述べた。私はバーニッツ中尉とともに、二分と経たないうちに刑務所を飛び出し、自動車でニューヨークへ急行した。

マインオーラから5番街と59丁目の角までは、20マイルの道のりを28分で走破し、そこから南へ曲がり、40丁目周辺へ向かった。そこで、例の倉庫会社の営業所を見つけたが、事務所はもぬけの殻だった。倉庫の本体は西38丁目342番地にあるとわかったので、われわれはそこへ急いだ。ちょうどそのとき、ペンシルヴェニア駅から預かり証番号を追跡していた刑事たちの一隊も、同じ建物に到着した。中にいたのは、何も事情を知らぬ年老いた守衛一人だけだった。だが、われわれが用件を告げると、彼の顔色は瞬く間に真っ青になった。バーニッツ、コイ、マーフィー、ステレット、ウォルシュ、フェネリーの各刑事が、トランクを捜すために薄暗い倉庫の奥へと上っていったあいだ、私は本部に電話をかけた。

「ちょうど今、ウッズ警視総監がハーバード・クラブから電話をくれとの伝言がありました」と、事務室から言われた。私はクラブに電話を入れ、ここまでの進捗を報告した。

「そのトランクを一刻も早く見つけて、中身を正確に確認しろ」と総監は言った。「ワシントンからさっき電話があった。ダラスのコルクイット知事から電報が入ったそうだ。ホルトの妻が7月2日付の手紙を受け取ったという。その手紙には、夫がすでにある船にダイナマイトを仕掛けたと書いてあり、その船は7日に沈没する、とある!」

5階の暗がりの中で、刑事たちは例のトランクを見つけ出した。そこにはほかにも十数個のトランクが積み上げられており、彼らはそれらをひとつずつどかし、問題のトランクを引き出し、ほかの山の上をずらしながら、暗闇の中で四階分の階段を下ろして事務所まで運んできた。バーニッツは斧を手に取り、錠前をたたき壊した。蓋を開けると、中にはダイナマイト134本が詰まっていた――そのうち100本は元の箱に入ったままで、残りは金槌、釘、ボルトといった道具類のあいだにぎっしり詰め込まれていた。硫酸と硝酸の入った瓶も数本あり、起爆用の雷管が197個――4階分の階段を暗い中で運び下ろし、斧でこじ開けたにしては、実に「見事な」荷物だったと言わざるをえない!

元の200本のうち50本の行方はわからないままだった。私はこの発見を総監に電話で報告し、その足で44丁目のハーバード・クラブへ向かった。爆発物検査官を呼び出して処理を委ねるよう、バーニッツに伝える一方で、私はクラブのラウンジにいるウッズ総監とスカル代理総監のところへ急いだ。私が詳しい報告を始めた矢先、総監は電話に呼び出され、その数分後に戻ってきて、開口一番こう言ったのである。

「ホルトがマインオーラで死んだ!」

これで、われわれの事件は根底から覆された。

マインオーラからの最初の混乱した報告では、「ホルトはドイツ人に撃たれた」と伝えられていた。ここに至って、これまで事件の周囲を漂っていた「国際的な意味合い」が、一気に具体的な姿を帯びてきた。つい先ごろのルシタニア号沈没でも、国民の怒りはいまだ収まっていなかった。そのさなかに、ドイツの工作員が合衆国議会議事堂を爆破し、国の重鎮の一人を暗殺しようとしたうえ、そのドイツ人がホルトを射殺したとすれば、アメリカ世論がそれを黙って見過ごすはずはなかっただろう。ホルトが本当にドイツの「代理人」だったとすれば、彼は、自分のさらなる自白がドイツ帝国政府の関与を暴きかねないことを察知した「本国の誰か」によって、口封じのために殺されたのではないか――そうした疑念が、バーニッツと私がクイーンズボロ橋を渡り、さきほど走ってきたばかりの道を引き返していくあいだ、われわれの頭をよぎっていた。

しかし、ホルトはドイツ人に撃たれたのではなかった。いや、そもそも「撃たれた」のではなかったのである。その夜、バーニッツと私が刑務所をあとにしたあと、彼の監視役として年老いた看守が一人残されていた。ミュンターと同一人物だと判明したことに絶望したホルトは、すでに一度、鉛筆の金具から抜き取った小さな鉄片で手首の動脈を切ろうと試みていた。そのため、われわれは彼が再び自殺を図るのを防ぎたいと考えていたのだ。ところが、その老人は、独房の檻の扉に鍵をかけ忘れただけでなく、ホルトの独房の扉まで半開きのままにしてしまっていた。囚人は、おとなしく眠っているように見えたため、看守は居眠りを始めた。やがて目を覚ますと、ホルトの遺体が、独房の廊下の真ん中にねじれた姿勢で倒れているのを発見した。後に判明したところでは、ホルトは眠ったふりをして看守を油断させ、看守がうとうとし始めると、独房からそっと抜け出して檻の上部までよじ登り、そこから頭からコンクリートの床へ飛び降りたらしい。

われわれが到着したとき、ちょうどその遺体が横たわっていた。男の頭蓋骨は、落下の衝撃で粉々に砕けていた。外から謎のライフル弾で撃たれたという風説とは裏腹に、ホルトの身体には、フィジックが石炭の塊で与えた打撲痕と、落下の結果生じた損傷以外の傷はどこにもなかった。もしホルトがドイツの工作員であったとしても、彼はその秘密を墓場まで持っていってしまったのである。

しかし、われわれにはその事実を検討する余裕はなかった。ホルトが妻に宛てた最後の手紙の中で、「ある船にダイナマイトを仕掛けた」と書いていたこと、そしてその船は7月7日に沈没する、と記していたことだけは、はっきりしていたからである。7月7日までには、あと2時間も残されていなかった。おそらく彼は、近くの駅から海外に向けて爆弾入りの小包を発送したに違いない――そう仮定して、スカル代理総監と私はその夜を徹底的な捜索に費やした。ナッソー郡内のすべての駅に電話をかけ、車を飛ばして回った。多くの駅長はすでに眠りについていたが、われわれは彼らを起こしてまで問いただし、夜明けまでにしらみつぶしの調査を行った。その結果、ホルトがダイナマイトを受け取ってからの数日のあいだに、ヨーロッパ向けに発送された荷物は2件しかないことがわかった。一つはサイオセットから、もう一つはオイスター・ベイからである。われわれは再びニューヨークに戻り、アダムス・エクスプレス社の事務所でサイオセットの荷物を開封したが、中身はダイナマイトではなかった。オイスター・ベイ発の小包はすでにヨーロッパ向けに出荷されていたが、差出人に電話で確認したところ、その中身はイギリスにいる貧しい親戚に送るための衣類にすぎないことがわかった。

どうやらホルトは、爆弾入りの小包を発送してはいなかったようだった。われわれが倉庫でトランクを開けているちょうどそのころ、政府はワシントンから全船舶あてに無線で通達を出し、積荷の中に爆弾が紛れ込んでいないかどうか、徹底的に検査するよう命じていた。過去1週間にニューヨークを出港した船からは、一隻また一隻と「異常なし」の報告が入り、そのたびにわれわれは少しずつ胸をなでおろしていった。しかし同時に、ホルトが「ダイナマイトの購入先は『水曜日』にならないと明かせない」と執拗に繰り返していたこと、その水曜日の日付と彼が妻に宛てた預言――「神の助けを借りて、7月3日にニューヨークを出港したある船は、7月7日に沈没するだろう」――とが、どうしても頭から離れなかった。結局、7月7日(水)の正午、外洋上を航行中だった汽船ミネハハ号の船倉で爆発が起こり、上甲板の一部が吹き飛ばされるという大事故が起きたのである。ミネハハ号がニューヨークを出たのは、7月3日のことだった。幸い、人的被害はなく、同船は無事に母港へ帰還した。

1足す1は2であり、2足す2は4である――とはいえ、いまこの時点で、軽々しく「合計」を口にすべきではない。ホルト――あるいは、完全かつ最終的に身元が割れたエーリヒ・ミュンター――が、ミネハハ号に爆弾を仕掛けていた可能性は十分ある。彼の予言は、ある意味では成就したと言えるのかもしれない。しかし、同じ爆発には、ポール・ケーニヒの小グループの活動という、別の可能性も存在している。ミュンターがミネハハ号に爆弾を仕掛け、それがケーニヒ一味の仕掛けた爆弾に誘爆されたのかもしれない。あるいは、彼はまったく別の船に爆弾を送り込み、それは不発のままイングランドに届き、架空の名義人か、もしくは共犯者の手に渡ったのかもしれない。その共犯者がドイツ人であった可能性もある。いずれにせよ、われわれは、当時あわただしく集められた糸を一つひとつ手繰り寄せて整理し直すまでは、軽率に「2と2を足して4」と結論づけるわけにはいかなかったのである。

イサカの警察がホルトの部屋を捜索したところ、一冊のスクラップブックが見つかった。その中身は奇妙なことに、兄弟殺し、父殺し、その他の殺人事件を報じた新聞記事ばかりで埋め尽くされていた。しかし、妻殺しやヒ素による毒殺についての記事は一切なかった。また、このスクラップブックには1906年以前の日付の切り抜きが一つも貼られていなかった。つまり、この記録から判断するかぎり、「ホルト」という人間は1907年以前には存在していなかったのである。彼がテキサスで出会い、愛し合い、結婚した妻――皮肉なことに、最初の妻と同じ「レオナ」という名を持つ女性――は、1909年以前に彼の人生がどのようなものであったかを、ほとんど何も知らなかったようだ。彼がドイツで生まれ、ドイツで教育を受けたことも、1906年にシカゴからメキシコへ逃亡し、そこから学生としてテキサスに戻ってきたことも、まったく知らなかったようである。1914年9月、彼がイサカから妻に宛てて、「コーネル大学を訪ねてきたマールブルク大学のエルンスト・エルスター教授と会って大変愉快だった。教授は、自分がゲーテについて書いた論文を非常に褒めてくれた」といった手紙を書いていたとしても、不思議ではない。だが、仮にそんな手紙が残っていたとして、それが何を意味するだろうか。もしかすると、エルスター教授は、ホルトの「別の過去」あるいは「今後ドイツ文化のために尽くす予定の功績」をほのめかす何かに対して、賛辞を送ったのかもしれない。興味深い発展として、1915年9月4日に、テキサス州ダラスからグリフィス倉庫あてに届いた一通の手紙がある。その中で、「フランク・ホルト夫人」と署名しているはずの人物が、実際には保管料1ドルを同封し、「7月2日に夫が預けたトランクの保管料」として支払っている。その署名はこう記されていた――「F・H・ヘンダーソン」。また、こんな噂もある。1915年7月2日、ある女性がニューヨークのJ・P・モルガン商会を訪れ、「翌日起こる出来事」についてモルガンに警告しようとしたが、面会は叶わなかった、というものだ。この女性は、リントレンの知人だったとも言われている。あるいは、リントレンが、いま一人のアメリカ人に対し、「モルガンとルートは始末されるべきだ」と語ったという話もある。

おそらく――いな、間違いなく――ここまでの推測は、すでに事実以上の領域に踏み込みすぎている。確かなのは、モルガン氏が負傷から回復したこと、そして「2と2を足せば4になる」という、ごく単純な算術だけである。

IX

ペテン師ナチュラリスト(The Nature Faker)

この物語を本当に書きこなせたのは、リチャード・ハーディング・デイヴィスくらいのものだろう。

1917年12月、アメリカは開戦から八か月が経っていた。
もしその時点でなお、ドイツのスパイがアメリカ合衆国内にいて、三年間続けてきた「アメリカ参戦妨害」と同じように、今度はアメリカが戦争を遂行するのをできるかぎり困難にしようと、その静かな仕事を続けていたことを認めようとしないとしたら――私たちは、世間知らずで、そしてわざと無知であろうとしている国民だと言わねばならないだろう。
同様に、今日に至るまで、戦争に参入した時点からずっとアメリカ国内に潜み、我々を弱体化させるためにあらゆる努力を払ってきたドイツのスパイが、一人もいないのだと仮定するのも、全くばかげたことだ。

しかし、そのうちの一人は、これから先いつまでもここに留まっているわけではない……

1917年12月、私は、マンハッタン西75丁目137番地に住むクロード・ストートン大尉から、貴重な書類が盗まれたという訴えを受け取った。大尉自身の言うところでは、何千人ものアメリカ兵の命が危険にさらされており、その書類が見つからないかぎり、彼も兵士たちも、心安らかに眠ることはできないという。
そこで、ボム・スクワッド所属のトーマス二人組――フォード軍曹(トーマス・J・フォード)とカヴァナ刑事(トーマス・J・カヴァナ)――を、盗難事件の捜査に向かわせた。

彼らの調べによると、ストートン大尉は西75丁目137番地の建物の二階にあるアパートに住み、その部屋をホーレス・D・アシュトン大尉と共有していた。
ストートンは、西オーストラリア軽騎兵隊の大尉――少なくとも、そういう話だった――ということであり、彼の軍服姿の写真には、袖に金色の負傷章が四本付いているのが見て取れた。それは、海外で非常に興味深く英雄的な経験をしたことを示唆していた。刑事たちが最初に抱いた推測は、失われた書類が、大尉がアメリカに派遣されて取り組んでいるイギリスの戦時業務に関わるものだろう、というものだった。
ところが、同じ部屋から、大尉がイギリス以外の諸国の軍服を着た写真が何枚も見つかった。そこで第二の推測が浮かんだ――彼は、戦争中ニューヨークのレストランや同情的な金満家の小切手帳の世界だけで「戦って」いた、あの厚顔無恥な「偽将校」一味の一人なのではないか、と。

アシュトンの郵便物は、42丁目西220番地にある「アルガス研究所(Argus Laboratories)」あてに転送されていることがわかった。刑事たちはアシュトンのもとを訪ね、彼の同居人について尋ねた。
アシュトンの話によれば、「デュケイン」は何の問題もない人物で、ダウンタウンにあるある工学会社で飛行機の検査官として雇われており、今はピッツバーグに出張中だが、ほどなく戻る予定だという。
デュケインが戻ってきたところを、われわれは逮捕した。現時点で使える罪名は他になかったので、ひとまず「同盟国の軍服を、正当な資格なく不法に着用した罪」であった。われわれの頭には、男に関する千の疑問がわき起こった。なぜ変装していたのか。どれくらい長く、この芝居を続けていたのか。どうやって、特に彼を雇っている由緒ある会社に気づかれずに、このはったりを押し通してこられたのか――などなど。
われわれは捜査を開始し、アシュトンや他の情報源から、この男の波瀾万丈な経歴の断片をつなぎ合わせていった。多くのピースは欠けており、中にはおそらく間違った場所にはめ込まれているものもあるだろうが、われわれが描き出した「全体像」は、だいたい次のようなものである。

彼は1917年9月18日に、J・G・ホワイト工学会社(J. G. White Engineering Company)に職を求める応募書類を出していた。そのやや詳細な「雇用申込書」の中で、氏名を「フレッド・デュ・ケーン(Fred du Quesne)」と記している。
さらに39歳、既婚、アメリカ合衆国市民だが、生まれはイギリス領植民地であると述べていた。最も近い親族としては、「A・ジョスリン・デュ・ケーン(A. Jocelyn du Quesne)」がロサンゼルス在住と書かれており、その姓の真ん中にあったらしい文字は、消して書き直した痕跡があった。次に近い親族として、「フランソワ・ド・ランコーニュ子爵(Viscount François de Rancogne)、戦争捕虜、ドイツ」とあった――すぐに真偽を確かめられない、じつにうまい住所である。最後の親族は「エドワード・ワートリー(Edward Wortley)、ジャマイカ英領植民地政府(B. W. I.)植民地大臣(Colonial Secretary)」となっていた。
この三つの名前は、それだけで人を感心させる響きがあり、ロサンゼルスはともかくとしても、残る二つの住所はいずれも、J・G・ホワイト社が即座に身元照会をかけるにはあまりに遠方だった。

彼は自分自身を「フランス陸軍士官学校サン・シール(St. Cyr)の卒業生」と記し、フランス語と英語の達者な使い手(ドイツ語やポルトガル語、スペイン語については何も書いていない)であり、これまでイングランド、フランス、アフリカ、オーストラリア、中米、ブラジル、アルゼンチン、合衆国(だがドイツは含まれていない)に住んだと述べている。
現在の職は特になく、希望職種としては「軍用装置の検査官、その購買係、もしくは陸軍物資輸送係」を挙げていた。もしあなたや私がカイゼルのために働いていたとしたら、まさに喉から手が出るようなポストである。
推薦人としては、ニカラグアの同社支店で雇われている親族トーマス・オコンネル(Thomas O’Connell)、アシュトン、ワシントンのロバート・ブロッサール上院議員(Senator Robert Broussard)、そしてランコーニュ侯爵――今度は子爵ではなく侯爵(Marquis de Rancogne)――「フランス騎兵中将」と記されていた。

さらに彼は、自らの過去の経験について、のちの出来事を念頭に置くと興味深い記述をしているので、そのまま引用しておこう。

「1898年から1899年。南アフリカにて軍用装置および契約の選定委員会書記。デ・ヴィリエ将軍(Genr. de Villiers)に報告。給料週10ポンド。

『1899年から1902年。南アフリカ戦争。軍用通信の検査官、および戦争大臣の書記として報告。』(どの国の戦争大臣かは書かれていない)給料週12ポンド2シリング6ペンス。

『1902年から1903年。合衆国に移住し、居住期間の起算を開始。地下鉄工事の「見張り」仕事を経験。25ドル。

『1903年から1904年。コンゴ自由国の視察旅行に出発。レオポルド王のため、本国に好意的な宣伝を行う目的。ジェラール・ハリー氏(Gerard Harry)がキャンペーン責任者。報酬として1万ドルと経費を受領。

『1904~5~6年。オーストラリアにてエルドゥ探検隊および産業調査隊を率いる。サー・アーサー・ジョーンズ(Sir Arthur Jones)が資金提供。年2000ポンドを受領。

『1907~8年。新聞『プティ・ブルー(Petit Bleu)』のためロシアを巡回。広報業務。週1000フローリン。

『1908~9~10年。英国西インド諸島に一連の劇場網を組織し建設。キングストン(ジャマイカ)のS・S・ワートリー社(S. S. Wortley & Co.)のため、水力発電所を資金提供・建設。歩合にて利益を得る。

『1911~12年。ニカラグアおよびグアテマラ在住。ニカラグアにてトーマス・オコンネル氏と一年間行動を共にする。特に鉱石、繊維、ゴムに関する産業および投資調査を実施。年額5000ドルと経費。ハイト氏(Mr. Hite)が資金提供。住所ニューロシェル。

『1913~14~15~16年。南米――ブラジル、アルゼンチン、ペルー、ボリビア――を自費で探検・旅行。また、ニューヨーク西42丁目220番地在住ホーレス・アシュトン氏のための特別遠征隊を指揮。』」

実に出来事の多い履歴である。われわれはアシュトンに、これに少し光を当ててもらうことにした。
アシュトンの話では、「フリッツ・ジュベール・デュケイン大尉」はボーア戦争における偵察兵――それも「第一の偵察兵」だとのことだった――だが、イギリス軍ではなくボーア軍側でのことだという。
「軍用通信の検査官」という肩書きには、多少の皮肉が込められていたのかもしれない。というのも、彼は英軍の戦線を行き来するあいだに八回か九回も捕縛され、そのたびに脱走に成功していたからだ――最後の一度を除いては。
最後のとき、彼はケープタウンで捕虜となり、スコットランドヤードの記録によれば「バミューダへ送致され、講和条約締結後に脱走した」とある。
同じ記録には、こんな記述もある。「かのデュケインは、ベルギー紙『プティ・ブルー』の通信員を務めていた。しかし、実際にはボーア側のために働いていた……」
デュケインは自分の写真を撮るのが好きだったらしく、ボム・スクワッドの隊員が彼の持ち物の中から見つけた古い印画紙には、足首に鉄の枷(かせ)をはめ、陰鬱な殉教者めいた表情を浮かべて、バミューダ監獄の中庭に立つ彼の姿が写っていた。

どうやらアフリカの魅力は、彼をやみつきにさせていたらしい。彼は再びアフリカへ戻った。
レオポルド王のためにコンゴを視察した、という自称を真面目に受け取る必要はないだろう。しかし、あの放埒な老王が、自身の放蕩の代償を支払うために植民地を金の成る木へと変えるにあたり、奴隷制を用いていたことが世界中の憤激を呼び、コンゴがいかに国際的な火種となっていたかを覚えている人なら、そこが国際スパイにとっていかにも格好の舞台であったことも思い出すだろう。
密林のなかで「広報の可能性」を調査していたあいだに、デュケインは自分自身のための「広報可能性」も思いついたらしく、アメリカにやって来たときには、すでに「大いなる狩猟家」としての肩書きを身にまとっていた。

「最初に彼に出会ったのは、1909年のことでした」とアシュトンは語る。「そのころ彼は『ハンプトンズ・マガジン(Hampton’s Magazine)』に『アフリカで大物猟をする』という記事を書いていました。雑誌掲載用に写真が必要だったので、彼はこちらにやって来たのです。私は彼の話に興味を持ち、『講演をしてみてはどうか』と言いました。そこで彼はポンド・ライシアム・ビューローに売り込みに行きました。彼はライシアムの講演ツアーを回り、その後はキース巡回公演(Keith circuit)のツアーにも出ました……」

彼の所持品の中に、そうした講演のプログラムが残っていた。表紙には狩装束のルーズヴェルト大佐の小さな丸い写真と、カーキ服にブーツを履き、拳銃を帯びたデュケインの大きなスタジオ写真があしらわれていた。彼は伝統的な「ライオン・ハンター」のイメージどおり、険しい表情でこちらを睨んでいる。
2ページ目には講演の概要が載っており、その中の一つの見出しは「ルーズヴェルトとの狩猟(Hunting with Roosevelt)」となっていた。また、同時に幾つかの新聞が『ハンプトンズ・マガジン』掲載の「ルーズヴェルトに先駆ける狩猟(Hunting Ahead of Roosevelt)」という記事の連載を始めている旨も再録されていた。
3ページ目では、デュケイン大尉が再び「図案」として登場する。そこには彼が横たわる「珍しい標本――『白犀(ホワイト・ライノセロス)』」のそばに立っている姿が描かれており、当然ながら、彼がこの獣を仕留めたのだと信じ込ませようとしている。
4ページ目(最終ページ)には、1909年1月26日付『ワシントン・スター』の風刺漫画が再録されている。そこにはルーズヴェルト大統領が象の絵を指さし、「こいつの急所を知りたいのだ!」と、毛むくじゃらの「デュケイン」とラベルされた狩人に熱心に尋ねている様子が描かれている。

[図版:講演旅行用に「クロード・ストートン大尉」として装ったフリッツ・デュケイン]

同じプログラムには、『ハンプトンズ・マガジン』からの引用文も載っており、1900年から1909年までの彼の経歴について、新たな「視界」を与えてくれている。どこまで真実かは別として、おそらく他のどの説明よりも「本当らしい」記述なので、そのまま引いておこう。

「イギリス軍がケーブル通信を遮断してボーア共和国と外界との連絡を断ったとき、デュケインはボーア軍の勝利の報をモザンビーク国境まで運んだ。そしてそこから、『プティ・ブルー』紙――ボーア政府の欧州における公式機関紙――に向けて電信記事を送った。彼は一度ポルトガル人に捕らえられ、ロレンソ・マルケス(現在のマプト)の監獄に投獄されたことがある。その後、イギリス政府の要請により、囚人としてヨーロッパへ送致された。彼と護送兵を乗せた船がナポリに寄港したとき、彼は熱病を患っていたため、イタリアの病院に収容された。回復後、彼は釈放された。彼はブリュッセルに向かい、ライツ博士(Doctor Leyds)のもとから、ケープ植民地に集結したボーア・コマンドーにケープタウン急襲の作戦計画を携え、再び前線に送り出された。

『都市占領の準備はすべて整っていたが、ある裏切り者が陰謀を密告したため、デュケインと他の者数名は、ケープタウンの英軍防衛線の内部で捕縛された。これが、いわゆる「ケープタウン陰謀事件」の頂点であった。囚人の中には銃殺された者もいれば、当初は死刑宣告を受けながらも、後に終身刑へと減刑された者もいた。デュケイン大尉は後者の一人である。十か月後、彼はバミューダ監獄を脱走し、石炭積みをしていた折にニューヨークのヨット『マーガレット号(Margaret)』に乗り込んで、ボルティモアに逃れた。

『その後、彼は再びヨーロッパへ戻り、『プティ・ブルー』紙の戦争特派員および軍事評論家として活動した。そこからさらにアフリカへ赴き、コンゴ植民地の任務に就いた。東アフリカでは、スポーツとして、また金銭目的でも大物猟に従事し、最終的に、新聞・雑誌記者としての仕事を得るためニューヨークにやって来たのである。』」

彼はアメリカで「狩人」として、ちょっとした名を上げた。1910年当時、議会がまだ気楽な娯楽で自らを楽しませていたころ――ホワイトハウスにはタフト大統領が、アフリカにはルーズヴェルト大統領がいたころ――合衆国の視線は、いやおうなくあの巨大な野生動物保護区へと向けられていた。
1910年3月24日、連邦下院の農業委員会が開会し、チャールズ・F・スコット議員が委員長席に着いた。ワシントンの三月末には春の気配が漂う。この木曜日も、たぶん特に重要な案件のない「手空き日」だったのだろう。というのも、委員会の議題は下院法案23261号――「野生動物および家畜にして、政府保有地や未利用の公有地と生息環境が類似するものを、合衆国へ移入することを認める法律案」であったからだ。
ただし但し書きには「当該動物が、その地において順調に繁殖し、食料または役畜として有用であると認められる場合に限る」とあり、この目的のために25万ドルを計上する、とされていた。この法案はルイジアナ州選出のブロッサール下院議員の提出であった。彼の念頭には、自身の選挙区に存在する使い物にならない湿地帯を、何かしら「幸福な家族」で再び満たしたい、という発想があった。
それは、外国産の羊やオウム、シラサギ、魚の家族ではなかった。そう、カバの家族である。

ルイジアナ選出の「紳士」たるブロッサール議員は、簡単な口上を述べた。彼はこの審議のために、野獣の件で三人の著名な専門家を招いたと説明した。すなわち、農務省植物局のアーウィン博士(Dr. Irwin)、リチャード・ハーディング・デイヴィスが『真の冒険的軍人(Real Soldiers of Fortune)』の中で描いた老開拓者フレデリック・ラッセル・バーンハム少佐(Major Frederic Russell Burnham)、そして「かつてボーア軍に所属し、この問題について講演や執筆活動を行っているフリッツ・デュケイン大尉」である。
アーウィン博士はカバ導入の賛成論を真剣に述べ、バーンハム少佐は、自ら知る野生動物の習性――かつてテキサスで追跡したラクダの群れ――について大変興味深い演説を行った。
そして、われらが饒舌で快活なフリッツ大尉は、カバの棲息地、その肉の美味しさ、その「温和な気質」、そして無節操な食欲について、委員会に驚くべき話を聞かせたのである。「少年時代のことですが」と、彼はあるくだりで述べた。「フランスの石鹸製造業者があそこへやって来ては、カバの脂肪を手に入れるためにお互い競争して、あらゆる値段を提示してきました。私たちはカバを一頭仕留めては、その脂を保存し、かなりの金を手に入れたものです。ボーア人たちは川へ行ってカバを一頭撃ち、その肉を持ち帰っては、その地区の各家庭に分配していました。とはいえ、4トン半の肉をさばくのは大変な仕事です。骨を利用する場合には、普通の木工用ノコギリで縦に切り、大鍋いっぱいのスープを作って、農場――私たちの言葉で言えばランチ――の大勢の人々や、カフィル人の使用人たちに振る舞ったのです。」
また、彼はこうも語った。「私の父は、アフリカからオーストラリアへのラクダの移入、そしてカラハリ砂漠への導入に尽力しました。現在ドイツ政府は、このカラハリ砂漠――ほとんどこの国の砂漠と同じ性質を持っています――における騎兵隊を、ラクダだけで構成しています。父は西オーストラリア政府のためにラクダを現地へ運ぶ契約を結び、私も彼に同行しました。今では、オーストラリアでアフリカ産のラクダとダチョウが飼育されています。」

チャップマン議員は尋ねた。「今あなたが列挙したような動物たちは、ここ(合衆国)でも苦労なく順応するとお考えですか?」
デュケインはこう答えた。「ええ。つい最近、ルーズヴェルト大佐が通過した場所を訪ねたのですが、そこで見た霜の厚さは、こうでしたよ(約一インチ分の厚さを示す)。彼はそこで、最高の獲物を得たのです……」
シマウマに関して語る際、彼はこう言った。「あの動物には何の問題もありません。アフリカにいるイギリス人たちは、何でも『マージン(取り分)』を欲しがるのです。動物を持ち込めば、その場で調教し、すぐに金を稼ごうとします。彼らがアフリカにいるのは、そうやって動物を手なずけ、その場で利益を上げるためなのです。ドイツ人のほうが、イギリス人よりも科学的です。ドイツ領東アフリカでは、今私が挙げた動物たちの家畜化や、シマウマとの交配が大成功を収めています……ドイツ本国やフランス、ベルギー、言うまでもなく合衆国のドイツ人研究者たちは、科学的手法を用いて、文字どおり『豹の斑点を変えよう』としてきました。」

彼の野獣に関する博識ぶりはたしかに並外れており、法案に色彩豊かな説得力を与えたのは、次の言葉だった。「川に水草があるかぎり、カバは決して川を離れません。ルイジアナにカバを導入して水草を食べさせれば、あなたがたは必ず、カバにそのままそこへ住んでいてほしいと思うようになるでしょう。水草は一定量の空気を必要とし、魚もまた一定量の空気を必要とします。空気がなければ、水草も魚も生きていけません。水草のほうが生命力が強いため、上から空気を取り込み、同時に下からも引き寄せます。結果として、魚のエラを通る水中の空気が不足し、魚は窒息してしまうのです。さらに、嵐が来て、水面に浮かんでいた水草が一方向へ吹き寄せられると、魚たちはその草の壁に押し寄せられ、一か所に閉じ込められて死んでしまうのです。これらの植物が、魚のエラを通る水中の空気を使い果たしてしまうからです。」

紙幅の都合で、公聴会の全記録をここに再録することはできないのが残念でならない――あれは歴史的な「ヴォードヴィル(軽喜劇)」である。
ドイツのスパイが、アメリカの下院議員たちにカバについて講義をし、さりげなく、ルイジアナの湿地帯用にカバの群れを購入する際には、その「捕獲統率役」を自分に任せてはどうかとほのめかしていたのである。もしそこにアメリカの金が動く可能性があるなら、彼は本当にやってのけただろう。

[図版:
1.戦争特派員としてのフリッツ・デュケイン
2.ボーア兵としてのデュケイン
3.デュケインの新聞切り抜きから
4.イギリスの戦争捕虜としてのデュケイン
5.デュケインの所持品から見つかった「囚人用銀行券」]

もっとも、アメリカの金は1911年には別の形で姿を現した。デュケインは、やや行き当たりばったりに映画の仕事を手伝っていたが、セントラルアメリカを映画カメラで探検する計画を、タンハウザー映画会社(Thanhouser Film Company)の幹部ハイト(Hite)に持ちかけ、興味を引いたのである。
アシュトンの話では、彼はまた、アクロンのグッドイヤー・ラバー社(Goodyear Rubber Company)のスポーツ愛好家フランク・サイバーリング(Frank Seiberling)からも資金提供を受けていたという。サイバーリングは、かつてウォルター・ウェルマン(Walter Wellman)が大西洋横断を試みた不運な気球「アクロン号(Akron)」の資金提供者でもあった。
デュケインは1911年、まずジャマイカに向けて出航し、そこで義父ワートリーからも資金援助を受け、その後グアテマラへ渡った。ところが、そこで彼は革命活動に関与していると疑われ、ワシントンへ電報で照会したのち、国務省からの回答が良好だったおかげで釈放され、ホンジュラスを経てニカラグアへと抜けた。
彼はニカラグアでしばらく滞在し、鉄道技師オコンネルとも顔を合わせた――鉄道全線のフリーパスを受け取るだけの付き合いはあったようだ。

1913年には再びアメリカへ戻ってきた。われわれが押収した書類の中には、最大8万ドル相当の映画フィルム――1フィート4ドル計算――を担保とする保険証書の記録があった。これは、デュケインが1913年12月17日にニューヨークのマンハイム保険会社(Mannheim Insurance Company)と結んだものである。
彼は新たな遠征に出るところであり、船上におけるフィルムの安全を、次のような危険から守ろうとしていた。

 「海難、火災、海賊、略奪者、襲撃を行う盗賊、投荷(jettison)、船長および乗組員の背信(barratry)、ならびに、かつて生じ、あるいは今後生じうるその他一切の災厄、損失、不幸により、右記貨物全体またはその一部が損害を被る事態に対して。」

さらに別個の証券により、会社は追加の危険についても彼を保険対象とした。すなわち、

 「本保険は、次に掲げる危険、すなわち交戦国間における敵対行為の遂行のため、権限ある国王、諸侯、および諸国民による拿捕、捕獲、または艦艇による破壊、私掠免許状(letters of marque)による攻撃、海上における拿捕、逮捕、抑留、拘束、その他一切の行為についてのみ、補償する。」

――といった具合である。そして、フリッツ・デュケインは、スペイン領西インド諸島と「海賊」および「襲撃を行う盗賊」がひしめく海へと、意気揚々と船出した。

1914年から1915年にかけての彼の動きについては、必ずしも明瞭ではない。ただし、1915年6月16日付で、パナマ駐在英国公使C・マレット卿(Sir C. Mallet)がロンドンの外務省に送った公信には、パナマ運河地帯でその日気づいた出来事が次のように述べられている。

「運河地帯の捜査官から秘密裏に知らされたところによれば、『F・デュケイン大尉(Captain F. Duquesne)』と名乗る乗客が、ブラジル・マナオスにある合衆国領事館発行のパスポートを携えて、14日付でR・M・S『パナマ号(Panama)』に乗り込み、トリニダードへ向かったとのことです。

『私の情報源が言うには、デュケイン大尉はアメリカの士官を装っていますが、実際にはドイツ政府の情報将校であります。

『私は、トリニダード総督宛に電報で警告を送り、デュケイン大尉の行動に対して監視を行うよう求めました。』」

狡猾な大尉は、カリブ海、地峡地帯、南アメリカをかなり活発に行き来していたようだ。
彼のパスポートはマナオスと彼を結びつけており、英国からの電報は、彼がパナマとトリニダードにいたことを示している。また、ドイツ総領事レーマン(Lehmann)がグアテマラから発した1915年12月20日付のドイツ軍公式報告は、彼がドイツ帝国の辺境前哨基地では歓迎される客人であったことを物語っている。
さらに、彼はパナマに入る前にニカラグアを訪れており、その証拠として、彼の所持品の中から次の手紙が見つかっている。

 ――1915年5月5日 マナグアにて。

 「ニカラグア帝国ドイツ領事館 御中

 『この書簡の持参人であるフリッツ・デュケイン氏――ボーア軍工兵大尉――を、同胞諸君に熱烈に推挙できることは、私にとって大きな喜びである。

『同氏は、我らが高貴なるドイツの大義に対し、幾度となく顕著な奉仕を行ってきた。

  「帝国ドイツ領事 ウーベルゼクシヒ(UEBERSEXIG)」」

封筒の中には、ウーベルゼクシヒ自身の名刺も同封されており、デュケインを正式なドイツ工作員として改めて推薦していた。

トリニダードは、熱帯の奥地に向かうには絶好の「飛び石」であり、アシュトンの言うように、デュケインがブラジル内陸部へ消え、「ブラジルとアマゾンの未開地を探検した」というのも、ありえない話ではない。
実際には、海岸から数マイルも離れれば、知られざるブラジルの地域はいくらでもある。ただ、彼がそれほど奥地まで入り込んだとは考えにくい。なぜなら1916年1月には、彼は早くもブラジル南部に姿を見せているからだ。

彼は「偉大なる探検家」として密林から姿を現し、雇った現地人の「運搬人」たちに、貴重な映画フィルムを運ばせていた。
ところが、バイーア港に近づくにつれ、デュケインの「人格」には目に見えて変化が生じた。デュケインは、突如として「ジョージ・フォードハム(George Fordham)」に変身したのである。
彼の書類の中には、あるブラジル人通関業者が用意した船積み申請書が見つかっている。その文面は次のとおりだ。

 「尊敬すべき監督官殿

『フランシスコ・フィゲレード(Francisco Figuerado)は、1916年1月28日出航予定の「ヴェルディ号(Verdi)」によりニューヨーク向けに、下記に記載する木箱1個を積み出す許可を申請いたします。

『1916年1月27日 バイーアにて
 ラウル・E・デ・オリヴェイラ(Raul E. de Oliveira)、税関通関業者

 内訳:重量80キロの木箱1個   手数料 00$500
 内容:粉末状陶土(見本)一箱  』」

陶土が木箱の中身の一部に含まれていた可能性はないではないが、かなり疑わしい。なぜなら、1916年10月4日付の宣誓供述書の中で、「アリス・デュケイン夫人」はこう述べているからである。

「私は、1914年春から夏にかけての中米旅行に、夫フリッツ・デュケイン大尉と行動を共にしました。その際の荷物の中には、映画フィルムやネガを運ぶために用いていた鉄製トランクがあり、これが、おそらく1916年1月にバイーアからニューヨーク行きのテニソン号に積み出されたトランクと同一のものであろうと思われます。
当該トランクは厚さ約1/2インチの鉄板で作られ、縦約45インチ、高さ30インチ、奥行き26インチほどで……蓋は蝶番で留められ、側板にかぶさるようになっており、二つの締めネジと錠前で固定されていました。トランク本体には二本の帯鉄が巻きつけられ、リベット留めされていました。蓋が側板にかぶさる部分には、内側に詰め物が施されていました。トランク全体は非常に頑丈な造りで、ほとんど黒に見える濃緑色に塗装されており、大人二人がかりでなければ持ち上げられないほど重たいものでした。」

陶土のための容れ物としては、明らかに不釣り合いである。
さらに、ジョージ・フォードハム――筆跡から見て、フリッツ・デュケインと同一人物であることは明らかだ――は、2月11日、バイーアのアメリカ領事館で署名認証を受けた送り状において、次のように厳粛に宣誓している。

「本書作成者は、ここに出荷する2万8千フィート分の映画フィルムおよびネガ4100枚が、自己の最善の知識と信念に照らし、アメリカ合衆国で製造されたものであり、1913年に合衆国から輸出された品であることを、真実かつ誠実に宣言する。」

[図版:
1.デュケインの所持品から見つかった意味深な新聞切り抜き
2.デュケインから押収されたドイツの通達文
3.「ジョージ・フォードハム」名義でデュケインが「フィルム」を積み出した際の、米国税関向け送り状]

テニソン号は、静かに河口を抜けて大西洋へ出帆し、デュケインもまた、同じように静かに姿を消した。
2月26日、この船がブラジルの森林沿岸を赤道方面へと航行していたさなか、船倉で激しい爆発が起こり、船員三名が死亡した。あの鉄製トランクがニューヨークに届くことは、ついになかった。
この惨事の報は南米のイギリス人社会に火をつけ、イギリス系の新聞は、われわれがデュケインの書類の中から切り抜きとして見つけた、アルゼンチン紙の記事のような文面で沸き立った。

 「リオ・デ・ジャネイロ発

『テニソン号爆破事件で逮捕された事務員バウアー(Bauer)の自白により、イギリス系の貸金庫会社から爆弾犯ドイツ人一味の書類と資金が発見されたが、これにより、中南米諸共和国の中立と、その国民の生命に危険をもたらす、広範囲な陰謀が明らかとなった。

『重要文書のほか、警察は6740ドル分のアメリカ紙幣を押収したが、それは「国王陛下の公用(On His Majesty’s Service)」と書かれた封筒に入っており、表書きは“ピエト・ナシウド(Piet Naciud)殿”宛となっていた。この名前が新聞に載るや、当地の連合国関係者の間には大きな衝撃が走った。というのも、この男は常日頃から連合国側の社交界に出入りし、慈善興行で詩の朗読をするような人物として知られていたからである。彼はいつもドイツ人を激しく非難しており、ボーア人――あるいは自称ボーア人――であると語っていたため、その態度はいっそう称賛され、人気を博していた。まさかイギリス人たちは、自分たちの周りに、これほどの大胆さを持つ大悪党のスパイをかくまっていたとは夢にも思わなかったのである。今や彼は、信じがたいほど大胆な数々の陰謀の首謀者の一人であることが判明した。貸金庫は彼自身の名義で契約されており、住所はケープタウンと記されていた。彼も、仲間のニーヴィルト(Niewirth)という名のエージェントも、今なお逮捕されていない。彼らは、ナシウドが所有していた強力なモーターボートで逃走したものとみられている。』」

キャプテン・フリッツ・デュケイン――別名フォードハム、別名ナシウド――は、中立国アルゼンチンの安全圏でこの美辞麗句を読み、大いにほくそ笑んだことだろう。
やがて彼はブエノスアイレスに姿を現し、さらに新しい大胆な企てに着手した――それは、失われたフィルムについて、8万ドルの保険金の支払いを受けようとするものであった。例の鉄箱に詰めて船積みしたと彼が主張するフィルムの損害賠償である。

ここから先は、アシュトンの証言に任せよう。

「……彼の妻は……保険金の支払いを受けようとしたが、彼が“姿を消した”ほうが支払いを受けられる可能性が高い、と助言されたのです。そこで、彼は“フレデリクス(Fredericks)”なる名に変えました。1916年、ニューヨーク『イブニング・ポスト』紙と『ニューヨーク・タイムズ』紙は、彼がボリビア奥地でインディアンに暗殺されたという記事を掲載しました。私は興味を引かれ、『ポスト』紙の編集長A・D・H・スミス氏のところへ行って、この報道を調べてもらいました。その結果、このニュースがAP(Associated Press)の配信記事であり、署名が“フレデリクス”となっていたことが判明しました。また、同時に“デュケイン大尉”の名で、“私はまだ生きている”と書いた電報も受信していました。報道記事の内容は、彼がインディアンの襲撃から唯一生き残った人物であり、ボリビア国内のどこかの病院で療養中だが、その所在地は不明といったものでした。“フレデリクス”の署名入り電報は、彼自身がブエノスアイレスから送信したものでした。

『その後、彼はアルゼンチンの教育委員会と関係を持つようになり、学校向けのフィルムを納入する仕事を請け負いました。ブエノスアイレスのある政治家は、自分が彼に2万4千ドルを渡し、教育用フィルムを購入させたと主張しています。彼はウィリアムソンという男と共にニューヨークに来て、現金2万4千ドルでフィルムを購入したのだと説明しています。』」

そのころ、デュケイン夫人はすでにニューヨークにおり、映画フィルム損害に関する「同情的評決(sympathy verdict)」について、ドイツ系のマンハイム保険会社から支払いを引き出そうと苦心していた。
デュケインは、購入したと主張する新たなフィルムを、ブルックリンのフルトン&フラットブッシュ倉庫(Fulton and Flatbush Warehouse, カールトン・アヴェニュー437番地)に保管した――ただし、荷受名義は「彫像(statuary)」としてである。
彼は倉庫を頻繁に訪れていたが、ある日、営業時間外にやって来て、門番の老人に賄賂を渡して中に入れてもらおうとしたことがあったが、門番はこれを拒んだ。
その後まもなく、彼はニュージャージー州エリザベスの小さなホテルに移った。そして、「彫像」と称してブルックリンの倉庫に運び込まれた荷箱が保管されてから、およそ二週間後、倉庫は原因不明の大火に見舞われたのである。

奇妙な偶然だが、デュケインが本当にフィルムを購入していたかどうかはいまだに判明していないにもかかわらず、その焼失したとされるフィルムに対して、「フレデリック・フレデリクス(Frederick Fredericks)氏」がスタイヴェサント保険会社(Stuyvesant Insurance Company)から3万3千ドルの保険を掛けていた。そして彼は、自身の財産が全焼したとして、この3万3千ドルの全額支払いを求めてきたのである。
もし夫婦の双方の請求がすべて認められていたとしたら、二人合わせて約11万3千ドルを手に入れていたことになる。しかし、保険加入と保険金支払いは別問題である。彼らは、保険に入ることと、実際に金を受け取ることとは、まったく違うのだということを思い知ることになった。時代は、もはやデュケインに微笑みかけてはくれないようであった。

1917年7月、アメリカ全体が「戦争に本腰を入れる」準備に大わらわで、ワシントンの街は急激に増えた戦時人口と業務で蒸し暑くなっていたころのこと、アシュトンはたまたま仕事で首都を訪れていた。
ついでにルイジアナ州ニューイベリア出身のロバート・F・ブロッサール上院議員のところへ顔を出した――1915年、あの「カバ法案」を提出した、同じブロッサールである。
アシュトンはルイジアナ州選出の連邦上院議員に、デュケイン大尉から連絡があったかどうか尋ねた。以下、アシュトンの言葉を続けよう。「彼の秘書――たいへん感じの良い若い女性ですが――がその会話を耳にしており、私はその晩、彼女を夕食に誘いました。五日ほどして、彼女から一通の手紙が届きました。その中に、『デュケイン大尉はワシントンにおりますが、そのことを知られたくないようです』と書かれていました。私は一気に興味をそそられ、『もしデュケイン大尉がワシントンにいるのに、特に私には知られたくないというのなら……これは調べる価値がある』と判断しました。そこで私はワシントンに引き返し……彼の居所や状況について、ある程度の情報を得ました。」

「ワシントンでこの話を聞いたあと」とアシュトンは続ける。「私は、この男が切羽詰まった状況にあることを知り、何らかの形で助けになろうと申し出ました……。ブロッサール上院議員は、彼にゴーサルズ将軍(General Goethals)のもとで職を得させようとしており……同時に、彼自身も海軍長官に提出している『港湾機雷を破壊する装置の発明』の図面に期待をかけていて、海軍省に職を得ることを望んでいました。私はジョージ・クリール(George Creel)から職を打診されており、デュケインを彼に紹介しました。さらにケンドル・バルネリ少佐(Major Kendall Barnelli)にも連絡を取り、デュケインの話を聞き、職を与えることを勧めました。その上で、私はバルネリに対し、『私はデュケインの話の真偽を調査中である』と伝えました。」

かくして、デイモン=アシュトンはピュティアス=デュケインをニューヨークに連れ帰り、ボム・スクワッドが最初に「書類盗難事件」の捜査に赴いたアパートに住まわせたのである。
デュケインは、保険会社との倉庫火災損害賠償訴訟がまだ係争中だから、本名を表に出さないでほしいと友人に懇願した。そのため、彼は引き続き「フレデリクス」なる偽名を名乗り続けた。健康状態が思わしくなかったため、すぐに職には就かなかった。
時おり、アシュトンの厚意がかえって彼の自尊心を刺激したのか、彼は電話で興行会社に連絡を取り、講演ツアーの可能性について話を持ちかけたりもした。
しかし、講演代理人の答えは、「いま儲かるのは戦争講演だけだ」というものだった。
この一言が、彼にとって真の「インスピレーション」となった。
数日かけて、西オーストラリア軽騎兵隊の軍服一式を、細部に至るまで本物そっくりに揃え終えると、彼はそれを身にまとい、「クロード・ストートン大尉」を名乗って講演会社に姿を見せたのである。
オーストラリアでラクダの世話をした経験がここで役に立ち、彼はロンドンの英国陸軍将校たちの中に混じっても、疑いを招くことはなかった。
ある晩、アスター・ホテルでオーストラリアの首相ジョージ・リード卿(Sir George Reid)と顔を合わせたときでさえ、彼は実によく打ち解けていたという。

ポンド講演会社(Pond Lyceum folk)は、彼をすっかり本物の英雄だと信じ込み、講演ツアーを組んでくれた。彼らは、彼を新しい軍服姿で撮影し、胸には三つの勲章の略綬を飾り、それを宣伝用パンフレットの表紙に大きく載せた。そこには、クロード・ストートン大尉が講演可能な演目が並んでいた。
パンフレットにはこう書かれている。「ストートン大尉は、現在公の場に立つどの人物よりも、おそらく戦争の全貌を見てきた男である……。彼の胸には五つの勲章を示すリボンが輝いている。そのうち二つは、ボーア戦争における功績に対し、七つの従軍章を伴って授与された国王・王妃両陛下のメダルであり、一つはナタール(Natal)での従軍章、残る二つは人命救助の勇気に対する勲章である。さらに六つ目のフランス勲章は、すでに叙勲は決まっているものの、まだ授与されてはいない。
ボーア戦争勃発当時、ストートン大尉(当時は中尉)は、オーストラリアの精鋭騎兵隊の一つであるマウントド・ライフルズ連隊(Mounted Rifles)の将校であった。同連隊とともにアフリカへ渡り、ケープ植民地、オレンジ自由国、トランスヴァール、ナタールおよびバソトーランドにて任務に就いた。彼はポール・クローンイェ将軍(Cronje)が捕らえられたパルデバーグの戦いではキッチナー元帥の部隊に所属し、またロバーツ卿とともにブルームフォンテイン占領、ヨハネスブルク陥落、プレトリア攻略にも従軍した。その後、デ・ウェット将軍(DeWet)の軍勢を追撃する際には、ノックス将軍(General Knox)の機動部隊に情報将校兼オーストラリア・ブッシュマン部隊の徴発将校として配属された。その後ケープ植民地軍に転じ、バソトーランド掃討戦や最後のナタール反乱鎮圧にも参加している。」

これは、パンフレットが描き出す「戦歴」のごく一部に過ぎない。
ニューギニア、ガリポリ、フランドル、ソンム、アラス――(彼はこれらを活動写真で示すと言っていた)――四度の毒ガス被害、三度の刺突銃(銃剣)による負傷、一度はドイツ兵の塹壕鉤で刺された――これらはすべて、パンフレットが描き出す彼の「経歴」のハイライトであり、そのすえに、世界で最も「怖れ知らずの聴衆」である合衆国の観衆と向き合うことになったのだと宣伝していた。
彼は、アンザック軍の物語、地下戦(坑道戦)の話、さらには「ドイツのスパイ手口」――彼は「エジプトでその多くを学んだ」と記されている――についても喜んで講演すると謳っていた。

その「ドイツのスパイ手口」の講演項目の一つには、こういう副題が付いていた。「ドイツは、我々に対するスパイ行為に、一銭も払っていない――すべて我々自身が払っている――我々はいつまでそれを容認するのか?」

実際、我々はかなり長いあいだ、それを容認していた――半分の期間でも長すぎるくらいだ。しかし、あまりに長くはなかった。少なくとも、ストートン大尉が多くの聴衆の前でこの問いを繰り返す時間は、与えなかった。
彼はいくつかの郊外の教会学校をうまく丸め込んだものの、逮捕によって、保険金目当ての「お小遣い稼ぎ」計画には終止符が打たれたのである。

というのも、汽船テニソン号はイギリス籍の船であり――この原稿を書いている現時点で――この絵に描いたようなペテン師は、大西洋を逆に渡る途上にあるからだ。彼は、英国人船員殺害の罪で裁かれることになっている。こうして、フリッツ・デュケイン物語の最終章が幕を開けたのである。

X

プロイセン人、ボルシェヴィキ、そして無政府主義者

聖パトリック大聖堂爆破未遂事件を扱った章で、われわれは無政府主義者たちの「平時の遊び」を垣間見た。彼らの集会場所や乱雑な思考回路を覗き込み、ニューヨーク市内に彼らがたむろしていた地域を知る者にとっては、彼らが活動していた薄汚れた環境が、かなりはっきりと眼前に描かれたことだろう。
戦争は、彼らに新たな機会を与えた。1914年以降、ボム・スクワッドが目撃した無政府主義者、I・W・W(世界産業労働者組合)、ロシア人活動家たちの「断片的な姿」には、おそらくいくらか読み物としての興味があるだろう。
もしそれが読み物としてそこそこ面白ければ、著者としては満足すべきなのかもしれないが、私はそれだけでは満足しない。戦争終結が開いたこの「再調整の時代」に向けて、何らかの警鐘となるような事柄を同胞に示せてこそ、初めて満足できるだろう。

1918年11月15日付――つまりドイツが休戦に署名してからわずか四日後――のニューヨーク発行の無政府主義者新聞の一面には、大きな活字で次のような見出しが掲げられていた。

 「戦争は死んだ――万歳、革命!」

この一文は、正統派無政府主義者たちが和平のニュースをいかに喜びをもって受け止め、そして彼らの目には、これが階級と法に対する無制限のゲリラ戦の始まりに見えていたことを端的に物語っている。
彼らは戦争を助けるために何一つしていなかったし、その運動の二人の主要人物――エマ・ゴールドマンとアレクサンダー・バークマン――は、アメリカ軍の徴兵を妨害した罪で投獄されていた。
それにもかかわらず、無政府主義者たちは一様に上機嫌だった。その理由の幾つかを、ここで振り返ってみることにしよう。

1915年10月25日、戦争勃発と同時にベルリンへ逃れ、そこでインド民族委員会の責任者に据えられていたハル・ダヤール(Har Dayal)は、オランダのアムステルダムからニューヨークのアレクサンダー・バークマンあてに一通の手紙を書いている。以下がその全文である。

 「親愛なる同志へ

『私は元気で、忙しく、そして悲しみの中にいます。
 インド革命運動を何らかの形で手助けしたいという、真摯で誠実な同志――男女を問わず――を、何人かこちらへ送ってもらえないでしょうか? 私は、非常に誠意ある同志たちの協力を必要としています。ニューヨークかパターソンで、そうした人々を見つけられるかもしれません。彼らは真の闘士であるべきです。I・W・Wまたは無政府主義者であれば理想的です。インド側の党が、必要な手配はすべて行います。

『もし何人かの同志が来ることができるなら、彼らはオランダへ来てください。私たちはアムステルダムに拠点を持ち、オランダ人の同志たちが一緒に働いてくれています。同志が来られるなら、ニューヨークから次の住所あてに電報を送ってください。

 “イスラエル・アーロンソン(Israel Aaronson)
  マダム・カーシャー(Madame Kercher)方
  オウデ・スヘフェニンゲルヴェフ116番地
  スヘフェニンゲン、オランダ”

『私の偽名は“イスラエル・アーロンソン”です。決してあなた本名で電報を打たないでください。“イエス(Yes)”という一語だけで十分です。私たちの側からロッテルダム=アメリカ・ラインに指示を出し、あなたが推薦する人数分の乗船券などを受け取れるようにしておきます。金銭的な手配はすべてこちらの党が行います。

『インドからの知らせは良好です。最近の小競り合いで、非常に勇敢な同志を幾人か失いました(?)。

『電報には、何人の同志が来るつもりかを、それとなく示してもらったほうが望ましいでしょう。たとえば、ある文の中に数字を入れてください。五人なら、“五か月の休暇で出発する”といった具合に。私はその意味を理解します。

『同志たちの助力は切実に必要とされています。どうか我々を助けてください。われわれは、非常に不利な情勢のもとで闘っているのです。

 愛と敬意を込めて。

   闘争においてあなたの同志
     ハル・ダヤール

PS.この件の一切を、厳密に“秘密”かつ“内密”に保ってください。同志たちが到着したら、いったんヒルフェルスム(Hilversum、アムステルダム近郊)のドメラ・ニウウェンハウス(Domela Nieuwenhuis)宅――ブルクメステル・スホックラーン20番地――を訪ねるように指示してください。彼が、私と落ち合う場所を教えてくれます。
電報は傍受される恐れがありますので、それに加えて、必ずスヘフェニンゲンの上記住所あて・偽名“イスラエル・アーロンソン”宛にも書面を送ってください。

          H・D」

[図版:スペンサー・エディ少佐(海軍中佐)、海軍情報部]

どうやらこの手紙が無事に届くかどうか、ハル・ダヤール自身も不安だったらしく、一週間後に、ほとんど同じ趣旨の第二信を送っている。内容は次のとおりだ。

 「宛先:イスラエル・アーロンソン
     マダム・カーシャー方
     オウデ・スヘフェニンゲルヴェフ116番地
     スヘフェニンゲン

 親愛なる同志へ

『私は元気で忙しくしています。今この節目に、我らのインド革命党を助けてくれる真摯で誠実な同志――男女を問わず――を数名、こちらへ送ってもらえないでしょうか。彼らは品行方正な人物である必要があります。もしタネンバウム(Tannenbaum)が拘置を解かれているなら、彼自身は来る気があるでしょうか?

『この件は厳密に“秘密”かつ“内密”に取り扱ってください。あまり多くの人に話さないようにしてください。

『これは、我々の党にとって大きな好機です。私は非常に重要な任務のために、誠実な同志たちの協力を必要としています。インドからも、心強い消息と伝言を携えた同志たちが、何人も到着しています。

『もし同志数名が来られるなら、上記住所の私の偽名“イスラエル・アーロンソン”宛に、電報と書面の両方で連絡してください。あなたが電報で送ってきた名義あてに、すぐに送金します。その名義は“B”で始まる名前にしてください。私にはそれで十分意味がわかります。くれぐれも、あなた自身の名前で電報を打たないように。

『電報の文面には、何人の同志がやって来るのかを、私にわかるような表現で盛り込んでください。仮に五人の同志が来るとして、その場合には、

 “五百ドルの仕事口ひとつ空きあり、来られたし(Five hundred dollars job vacant come.)”

 と電報を打ってください。“hundred”の前に来る数字が、同志の人数を表すことになります。その他の方法でもかまいません。

『また、デンマーク、フランス、ノルウェー、スウェーデン、スイス、イタリア、ドイツ、オーストリア、その他のヨーロッパ諸国にいる著名な無政府主義者同志たちの名前と住所を、私に送ってください。もし彼らを知っておられるなら、エマやあなた自身から彼ら宛ての紹介状も同封してもらえるとありがたい。』」

――と、まだまだ続く。
ここまでで十分、ヒンドゥー・ドイツ陰謀団がどのような「仲間」と付き合っていたかが見えてくるし、ベルリンのインド委員会が、アメリカの無政府主義者グループから傭兵を「買う」だけの資金を持っていたこともわかる。
もちろん、その取引を仲介したアメリカ側の人物が、報酬なしで働くはずもない。
リントレンは、1915年5月に合衆国へ到着してから一週間以内に、無政府主義者を雇って船を爆破させ、軍需工場でストライキを起こそうと試みている。
またこの二通の手紙からは、1915年10月のある週、ハル・ダヤールにある「妙案」がひらめいたこともわかる――つまり、もし自分がエマ・ゴールドマンやバークマンからヨーロッパ各地の無政府主義者への推薦状を手に入れ、なおかつ彼の片腕フランク・タネンバウムをアメリカの同志としてヨーロッパに紹介できれば、無政府主義者に「彼らのゲームをやっている」と信じ込ませつつ、実際には自分(つまりベルリン)のゲームに彼らを利用できる、というアイディアである。
このタネンバウムこそは、1914年にI・W・Wの一団を率いて聖アルフォンソ教会を襲撃し、「食い物をよこせ」と要求した男である。

ところが、タネンバウムはすでに別件で忙殺されていた。エマもまた然り。
そして何よりも、バークマン自身も忙しかった。彼はちょうど、サンフランシスコへ移って編集者になろうとしていたのである――これは決して新しい職業ではない。なぜなら彼は過去十年間、エマ・ゴールドマンと共に『マザー・アース(Mother Earth)』という雑誌を発行していたからだ。
バークマンは、そこでいくつかの過激で新奇な構想を実現しようとしていた。彼が紙面にどのような「考え方」を書きつけたのかを紹介する前に、その考えを生んだ彼自身の経験を少し振り返り、このアメリカ合衆国にとって彼がどのような「指導的価値」を持つ人物であったのかを、見ておくのも無駄ではないだろう。

アレクサンダー・バークマンはロシア生まれで、その当時およそ44歳であった。
二十歳の若者だったころ、彼はペンシルヴァニア州の有名なホームステッド製鉄所のストライキに関与し、1892年7月22日、ピッツバーグのカーネギー・ビル内にあった製鉄会社経営者ヘンリー・フリックの事務所に押し入り、この紳士の首に向けて発砲した。
この事件により、彼は西部州立刑務所に収監され、十四年間服役することになった。この長きにわたる獄中生活は、彼を無政府主義者の間で「稀有な殉教者」として神格化することになった。
出獄後も、彼は各地でしばしば逮捕された。というのも、彼が暴力的手段を標榜する運動の現場に現れると、たいがい何らかの騒ぎが起こったからである。
長期間の服役は彼に思索の時間を与え、彼は『無政府主義者の獄中生活(The Prison Life of an Anarchist)』と題する512ページに及ぶ著作を書き上げた。これは「マザー・アース出版会社」から1ドル15セントで刊行され、とても興味深い本であった。

こうして、彼は1915年秋、サンフランシスコへ向かった。
ニューヨークを発つ少し前、友人のビル・シャトフ(Bill Shatoff)が送別会を開いてくれた。
宴もたけなわになり、一行はセカンド・アヴェニューと5丁目付近へ繰り出してどんちゃん騒ぎを始めたが、バークマンとシャトフはふざけ半分に一人の巡査を殴りつけ、その警棒を奪ってしまったため、揃って逮捕された。
とはいえ、この事件がバークマンの西海岸行きを妨げることはなかった。そしてほどなくして、彼の旅の目的と、その「成果」が明らかになる。

その名は『ザ・ブラスト(The Blast)』。
自己紹介文によれば、『ザ・ブラスト』は「革命的労働週刊紙」であった。つまり、労働者の不満を煽り立て、雇い主に対して、あるいはそもそも雇用主を持たない者たちに対しても、「雇用」という概念そのものに対する深い軽蔑心を植え付ける媒体である。
編集兼発行人はアレクサンダー・バークマン、副編集長にE・B・モートン(E. B. Morton)、事務局長にM・E・フィッツジェラルド(M. E. Fitzgerald)の名が記されていた。一部5セント、まとめ買いの場合は半額であった。

1916年1月15日付の創刊号において、編集長は紙名の由来を説明している。
「あなたは破壊しようとしているのか? あなたは建設しようとしているのか? ――これらが、我々に寄せられた多くの質問の要点である。われわれの答えは率直かつ大胆である。我々は両方を目指している――破壊と建設を。社会的観点から言えば、『破壊』は『建設』の始まりにほかならない……。時は“今”である。不満の息吹は、この広大な国土に重く垂れこめている。それは、工場、鉱山、農場、そして作業場の隅々に浸透している。盲目的な反乱が大通りや路地裏を跋扈している。その不満に希望の火花を投じ、未来を見通す光で照らし、不満を“意識的な社会行動”へと昇華させること――これこそが、この時代の喫緊の課題である。それこそが、今まさに成し遂げられんとしている偉大な営みなのだ。さあ、仕事にかかろう――再生の道を妨げるあらゆる障害は、ことごとく吹き飛ばされるべきである!」
同じ号にはエマ(・ゴールドマン)からの祝電も掲載されていた。「『ザ・ブラスト』が海から海へと反響し、虐げられた者たちに力と勇気を吹き込み、臆病な敵ども――いまや我らが兄弟の一人を飽くなき怪物の犠牲として奪い去った連中――の心に恐怖を刻みつけるように。どうか『ザ・ブラスト』が、この社会の構造に凝り固まった無知と残酷さをえぐり取ってくれますように。爆破せよ! 未来は、大胆な者のものだ。」

『ザ・ブラスト』が掲げる「再生の方法」の一端は、次のような上品な社説の一節によって示されている。

 「――品位あるユダの誕生――

『イスカリオテのユダは、“ナザレの扇動家”をローマの地方検事の手に引き渡した。この卑劣な裏切り行為に対し、人々は“雇われ密告者”に激しく憤った。ユダは、わずかばかりの良心の呵責から、自ら首を吊ったのである。』」

これは、エマが電報の中で触れていた、ある人物――つい先ごろ「怪物」に屈したとされる人物――に対する当てこすりであることは明らかだ。

この新聞の基本的な方針は、無政府主義の敵に対する、徹底的な誹謗中傷と露骨な攻撃であった。
ロサンゼルスの新聞社主であり、1912年に『ロサンゼルス・タイムズ』紙の社屋爆破事件の標的となったハリソン・グレイ・オーティス将軍は、「腹ぺこ吠え将軍オーティス(General Hungry Growl Otis)」と呼ばれ、ルーズヴェルト元大統領は「人間爆弾(The Human Blowout)」とあだ名された。
第二号の表紙を飾ったロバート・マイナー(Robert Minor)作の風刺画は、巨大な労働者が小さく肥満した判事を盆に乗せて運んでいる姿を描いていた。判事は演説の途中らしく口を開け、椅子の周りには三人のずんぐりした象のような警官が控えている。労働者は、この“料理”を無政府主義者の晩餐会へ運ぼうとしている。マイナーの作品には「裁判所の命令――」と題が付けられていた。
どうやら裁判所が『ザ・ブラスト』に対して何らかの命令を出したらしく、バークマンはそれをたいそう気に入らなかったようだ。
同じ号では、イギリスにおける徴兵制、サンフランシスコで開かれたアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor)の大会、その会長サミュエル・ゴンパーズ、そして「国防強化運動(Preparedness)」に対し、辛辣な社説が掲載されていた。

これらの引用は、とりたてて面白いからというわけではなく、むしろ、無政府主義の掲げる「実践的綱領」の口調――不親切で、どこか「選民意識」に満ちた、いかにも鼻持ちならない調子――を感じ取ってもらうために挙げたものである。
セリグ・シュルバーグ(Selig Schulberg)はメキシコ情勢に関する記事の中で、穏やかにこう提言した。「アメリカの労働者諸君、もしハーストやオーティス、ロックフェラーたちがメキシコに所有物を持ち、それを守りたいと言うなら、それは彼ら自身で守るがよい!」
編集長はこう言う。「フォードも、ブライアンも、ジェーン・アダムズも、おそらく“誠実”ではあるだろう。だがもしそうなら、彼らは“盲人の指導者としての盲人”に過ぎない。」
L・E・クレイプール(L. E. Claypool)なる署名で載った「国防(Preparedness)は地獄だ」という記事には、われらが苦難の同盟国に対し、次のような「賛辞」が捧げられていた。

「(“ではベルギーはどうなのだ?”と)連呼するあんたら連中の大半は、この戦争が始まるまでベルギーの名前さえ聞いたことがなかったはずだ。この中には、『ベルギー人の言葉はフランス語だ』ということすら知らない奴も多いだろう。
それどころか、ベルギーがイギリスとフランスと条約を結んでおり、そのためにドイツ軍侵攻以前から戦争に巻き込まれていたという事実すら知らないかもしれない。フランスとイギリスの技師や軍事専門家が、ドイツよりずっと前からベルギー領を“戦場”に仕立てる計画を練り、調査していたことを知らないかもしれない。」

この種の主張は、かなり粗雑な部類に属するドイツ側宣伝の典型であり、『ザ・ブラスト』の読者層に向けて、「連合国も同じくらい悪い」という印象を与えようとするものであった。
要するに、この新聞の基本路線は「反対(Against)」である。

バークマンが活動の拠点としたカリフォルニアは、労働運動が活発な土地である。
当時、国内外ではロサンゼルス・タイムズ社爆破事件(1912年)への関心が冷めやらぬまま、三年後にはその関係者二名が再び裁かれ、世間の耳目を集めていた。
『ザ・ブラスト』の紙面にはこの事件への言及が何度も登場し、またマサチューセッツ州ローレンス(Lawrence)、コロラド州ラドロー(Ludlow)、オハイオ州ヤングスタウン(Youngstown)などでのストライキについても、盛んに取り上げられている。
アメリカ国内のどこであれ、資本家に対する暴力沙汰が起これば、それはバークマンにとって絶好のネタとなった。
もし一瞬でも話題が途切れれば、彼はすぐに友人エマの話題に切り替えた。エマはちょうどニューヨークで逮捕され、避妊情報パンフレットの配布容疑で拘留所行きとなっていたからである。
あるいは、国際情勢に飛びつき、ある記事ではビジャ将軍(Villa)とウィルソン大統領を比較し、後者にほとんど「慈悲」を示さなかった。
1916年4月1日号の第一面社説では、太平洋岸防衛連盟(Pacific Coast Defense League)――太平洋および山岳諸州の州兵を高い即応態勢に引き上げ、公立学校での「健全な体育および軍事訓練」の導入を提唱していた――に対する痛烈な批判が掲載されていた。
この社説には、トム・ムーニー(Tom Mooney)の署名があったが、彼はまもなく全く別の形で『ザ・ブラスト』に再登場することになる。

この新聞の存在は、郵政省の目に留まらずにはいなかった。
5月1日号で、バークマンは「政府なんぞクソ食らえ(To Hell With The Government)」という見出しの大論文を掲載し、普通の人なら髪の毛が逆立つような罵詈雑言を浴びせかけた。
彼が激怒した理由は、合衆国政府が、『ザ・ブラスト』の以後の発行号をすべて差し押さえる命令を出したからである。
同じ号の社説で、バークマンはその措置を激しく非難した。また、アイルランドの蜂起――複数のシン・フェイナー(Sinn Feiners)の命を奪ったイースター蜂起――を歓迎し、その支持を表明した。
国内の他の無政府主義系出版物も、同様の措置に見舞われていた。シカゴの『ジ・アラーム(The Alarm)』、ニューヨークの『リヴォルト(Revolt)』、ロサンゼルス発行のメキシコ革命派紙『レヘネラシオン(Regeneracion)』、そしてニューヨークのスペイン語紙『ヴォルンター(Voluntad)』などである。
これらは一様に発行停止となったが、バークマンはそれでもなお出版を続け、「報道の自由」を盾に政府を罵り続けた。
彼は差し押さえに対抗するため広く支援を求め、多少なりとも金を集めることに成功した。その支援者の一人が、ニューヨーク在住の作家ジョン・リード(John Reed)であり、彼は5ドルを寄附している。
その後、北ミネソタの鉄鉱床地帯でI・W・W主導のストライキが発生し、ビッグ・ビル・ヘイウッド(William M. Haywood)がバークマンに支援を求める手紙を送り、それが『ザ・ブラスト』紙上に掲載された。バークマンはヘイウッドを絶賛して、その嘆願文を大々的に取り上げた。
こうして紙面のネタに事欠かなかった『ザ・ブラスト』だが、やがて思いもよらぬ形で中断を余儀なくされる。

1916年7月22日、サンフランシスコで大規模な「国防強化」パレードが行われていた。その最中、何者かが行進中の群衆に爆弾を投げ込み、九人が死亡した。
次号の『ザ・ブラスト』は、ほぼこんな調子で書き出していた。「ふむ――こんなことが起こるのは、ある意味当然だ。」そして、実際にこう述べていた。「この爆弾惨事を無政府主義者やI・W・W、労働者階級全般、あるいは当日の平和集会参加者と結びつけようとするのは愚の骨頂だ。この行為は、明らかにある一個人の仕業であり、おそらくその人物は、『国防』への反対を、自分自身の方法で表明しようとしたのだ。その“弾薬”として、彼は“国防”そのものがもたらした爆薬を用いたに過ぎない。恐ろしい出来事ではあるが、これは“国防ヒステリー”が人々にもたらすであろう惨禍を、百万分の一スケールで前もって見せたに過ぎない。」
ノーラン(Nolan)とトム・ムーニーの二人が事件の容疑者として逮捕されると、『ザ・ブラスト』はすぐさま彼らの擁護に立ち上がった。
さらに、ウォーレン・ビリングス(Warren Billings)とイスラエル・ワインバーグ(Israel Weinberg)が被告人リストに加えられると、新聞はマイナーによる似顔絵を紙面に載せた。
この事件は無政府主義者グループにとって格好の話題であり、彼らは、この大事件が自分たちの小さなサークルのど真ん中で起こったことを、心の底から喜んでいた。
『ザ・ブラスト』は、もはやあちこちのニュースにランダムに弾丸を撃ち込むのをやめ、この爆弾事件ひとつに照準を定めて、一斉射撃を浴びせるようになった。
紙面は裁判の進行を逐一追い、シカゴで1886年に起こったヘイマーケット爆弾事件に関与し、のちに恩赦を受けたアナーキスト、フィールデン(Fielden)、ニーブ(Neebe)、シュワブ(Schwab)らの境遇と、サンフランシスコの被告たちの境遇を並べて論じた。

年の暮れに近づくにつれ、無政府主義者でいることは、ますます困難な仕事になっていった。
ロサンゼルス・タイムズ爆破事件の四人目の被告キャプラン(Caplan)は有罪判決を受け、十年の刑を言い渡された。
また、ユナイテッド・ステイツ・スチール社に対するストライキに関与し、暴力行為を働いた労働者の一団が、ピッツバーグの刑務所で服役していた。
メサバ鉄鉱床でのI・W・W主導のストライキに関連しては、カルロ・トレスカ(Carlo Tresca)とその仲間十人が、殺人罪でドゥルース(Duluth)の監獄に収監されていた。
メキシコの革命的アナーキストであるマゴン兄弟(the Magon brothers)も投獄されていた。そして、『ザ・ブラスト』自身も余命いくばくもなかった。
バークマンは秋にニューヨークへ戻った。彼の不在中、『ザ・ブラスト』は1917年1月号を最後に、マイナーの描いた毒々しい風刺画を掲載して、資金不足のために鳴りをひそめた。

[図版:A・R・フィッシュ中尉(海軍情報部)]

ニューヨークに戻ったバークマンが見たものは、健在で裕福なエマ・ゴールドマンの姿であった。
彼女は1916年3月にサンフランシスコを訪れ、続く6月と7月には、そこで二度にわたって避妊に関する講演シリーズを行っていた。
最初の訪問のあと、『ザ・ブラスト』紙は、新刊案内として「マザー・アース出版会社」が扱う書籍一覧を大々的に掲載した。
そこには、無政府主義、革命、サンディカリスムに関する古典的テキストが並び、バークマンに書評用として送られた本の中には、次のような題名が含まれていた。「イギリス支配下のインドに関する若干の事実――サンフランシスコ『ヒンドゥスタニ・ガダー(Hindustani Gadar)』発行」、「インドの『イギリスへの忠誠』――インド民族党(Indian Nationalist Party)刊」、「二十世紀インド警察の手法――『ヒンドゥスタン・ガダー』発行」。
ハル・ダヤールは、1914年までこの『ガダー(Ghadr)』紙の編集長を務めていた人物である。どうやら彼のバークマンとの縁は、バークレーにあるヒンドゥー陰謀拠点『ガダー』の後継者たちによって、巧みに維持されていたらしい。

しかし、バークマンがニューヨークへ戻ってみると、もはや避妊の話は「時代遅れ」になっていた。
地球の裏側で新たな「出来事」が生じ、無政府主義者たちの目にはそれが非常に魅力的な展開に見えたからである。
ここで一旦、エマとバークマンの話を中断し、その出来事を追うことにしよう。

1917年1月9日、ロシア帝国の首相が辞任した。その二週間後、ドイツ軍がリガ前線でかなりの重要拠点を奪回した、というニュースが流れた。
2月3日、アメリカ合衆国はドイツとの外交関係を断絶し、ベルンシュトルフ大使に国外退去を命じ、二週間後に彼を本国へ送り返した。
3月11日、ペトログラードで革命的デモが勃発し、その翌日には「全ロシアの皇帝」が王位を退き、皇位を放棄した。
新たな内閣が組織され、その外務大臣は連合国に対し、ロシアは戦争を続ける意志があると通告した。アメリカ合衆国はこの新体制を正式に承認した。
このニュースは、アメリカ国内ではかなりの友好感情をもって迎えられ、とりわけニューヨークでは熱烈に歓迎された。なぜならそこには、旧体制の迫害を逃れてヨーロッパから移住してきた大勢のロシア人がいたからである。

ニューヨーク在住のロシア人たちの一部は、ペトログラードで何が起ころうとしているかを事前に知っていた。
ボム・スクワッドは、1917年2月1日の時点で、すでに一人の無政府主義者と友誼を結んでいた。
その日、ちょうどシャトフとバークマンが一年前に警官を襲った場所からほど近い界隈で、プロトキン氏(Plotkin)がボグダノヴィッチ氏(Bogdanovitch)と出会った。
プロトキンはボグダノヴィッチに対し、軍国主義に対する抗議決議を採択するため、ニューヨーク市内の全ての革命組織の共同会議を招集すべきだと提案した。
しかし、比較的穏健なボグダノヴィッチはこう答えた。「我々のグループとしては、一体となって決議を出すか、あるいは第2グループのところへ行って、彼らがこの“戦争ニュース”についてどう考えているかを確かめるべきだろう。結論を急ぎすぎてはいけない。」
そこで二人は、第2グループの集会所を訪れた。その場には約50人のロシア人およびロシア系ユダヤ人が集まっており、夜の集会は、アメリカの新聞に載った戦争見通しを読むという、比較的無害な内容に終始した。結局、その夜には何の決議も採択されなかった。

しかし、翌晩には、5丁目東210番地にあるベートーヴェン・ホール(Beethoven Hall)で演説会が開かれた。
そこで講演者として紹介されたのが、「つい最近ロシアから戻ってきた“ボルンシュタイン氏(Mr. Bornstein)”」であった。
このボルンシュタインこそが、レオン・トロツキー(Leon Trotzky)だった。

トロツキーはロシア語で、革命計画がどのように進められているかを語った。「あなた方無政府主義者は、軍国主義や、労働者階級の助けにならないどころか、いつでも労働者に銃口を向ける用意のある政府など、望んではいない。そうではありませんか? そうした政府を、今こそ永遠に葬り去るべきときなのです!」
彼の演説が終わると、議長であった同志G・チュドノフスキー(G. Chudnofsky)が立ち上がり、会場に集まった約300人の聴衆に向かってこう語った。

「同志諸君の中には、英語を読めない方もいるでしょう。この国で何が起きているかを、ロシア語の新聞で見るまで知らずにいる方も多い。
私は今日になってようやく、警察委員(Police Commissioner)が、この情勢に対処するために動員可能な予備兵力をすべて招集する計画だという記事に気づきました。これは、ドイツがアメリカに対して通牒を出した直後のことです。
つまり、資本主義政府は“我々を恐れている”のです! 連中は労働者階級を恐れている。
このことを忘れないでください。いざ戦争となったとき、我々は軍国主義に抗議し、自らの戦争を始めることができるのです。
ここに、我々の忠実な仲間たちが軍隊に加わるのを防ぐための決議案があります。これを読み上げたいと思います。」
そして彼は、その決議文を朗読した。

翌日、ビル・シャトフはセカンド・アヴェニュー9番地で開かれる集会で演説することになっていたが、急遽ボストン行きの用件が入り、代役が壇上に立つことになった。
だが、その代役は、アメリカへの忠誠心をほのめかすような演説をしたため、聴衆の罵声によって演壇から追い下ろされる羽目になった。
聴衆は約75人のロシア人から成り、そのうち30人ほどはボム・スクワッドが以前から顔を知っている無政府主義者たちであった。
その夜、アメリカ合衆国はドイツとの外交関係を正式に断絶した。

2月4日、数名のロシア人無政府主義グループ代表者が、5丁目東534番地に集まり、前述の反軍国主義決議を採択する予定だった。しかし、意見がまとまらず、採択は延期となった。
出席した代表の大半は、その足で7丁目東64番地へと移動した(ここはワシントン・スクエアのアーチから歩いてすぐの場所である)。そこでは、チュドノフスキーが兵役拒否、警察、政府、戦争に対する猛攻撃の演説を行った。

こうした小さな集会は、2月いっぱいの間、ニューヨークの貧民街のあちらこちらでひっきりなしに行われていた。
チュドノフスキーやトロツキーのような煽動家たちは、自分たちの扇動を第5丁目の小さな貸間から、うわさ好きなロウワー・イーストサイド住民の耳へ、さらに最も奥まったスラム街の隅々へと伝播させていった。
やがて、「ロシアで何か大変なことが起きるらしい」という噂と期待が、徐々に高まっていき、3月12日の革命勃発のニュースを迎える「舞台装置」が整えられていったのである。
そして指導者たちは、すぐさま自らの勢力を糾合しようと動き出した。シャトフ、シュナーベル(Schnabel)、ローデス(Rodes)の指導のもと、革命の炎は一人からまた一人へと受け渡されていった。「ロシアは解放された。ツァーリズムと、そのもたらしたあらゆる圧政から取り戻されたのだ。」――という物語が、繰り返し語られた。

封じ込められていた蓋が外れ、あとは「早い者勝ち」の世界となった。
「暫定政府といえども、他のどんな政府と同じく、我々にとっては敵でしかない」と彼らは主張した。「ロシアは、我々のものになる。」
「どうやって?」と熱狂的な弟子たちが問う。「自分の手で取り戻すのだ」とシャトフたちは答える。「だが、費用をどうする?」と労働者階級は突き返す。「我々は懐が寂しいのだ。」
「それなら、3月26日にハーレム・リバー・カジノで開かれる、レオン・トロツキー送別会へ来るがいい」と、シャトフとシュナーベル、ローデスは言った。「そこですべてが明らかになる。」

このトロツキー送別会には、800人ほどが集まった。主催はドイツ語社会主義連盟(German Socialist Federation)であり、その中にはアレクサンダー・バークマンやエマ・ゴールドマンの姿もあった。
壇上に立った金髪のロシア人が、次のような演説を行った。「同志諸君の中には、ロシアに戻って、我々が思うべき形で革命を推し進めようとする者もいる。ここに残る者たちは、ここで行われるべき仕事を遂行する準備を整えねばならない。」
続いてトロツキーが立ち上がり、まずドイツ語で、次いでロシア語で先の演説を繰り返したうえ、「ここに留まる諸君は、ロシアの革命と手を携えて働かなければならない。そうして初めて、アメリカ合衆国における革命を達成しうるのだ」と付け加えた。
聴衆はこれを盛大な拍手で迎えた。

(いまだに、我々がなぜボルシェヴィキ政権を承認していないのか、不思議がる人々がいる。)

翌朝、ノルウェー=アメリカ・ラインの埠頭は奇妙な光景を呈していた。
トロツキーは妻とともに、チュドノフスキー、プロトキン、そして50人ほどのロシア人――ムーヒン(Muhin)、ラパポート(Rapaport)、ドニェプロフスキー(Dnieprofsky)、ヤロシェフスキー(Yaroshefsky)、ラシュコフスキー(Rashkofsky)といった名も含まれていた――とともに、ノルウェー行きの船に乗り込んだ。
小柄で、目をぎらつかせた、丸裸同然の「抜き羽鶏」さながらのこのロシア亡命者は、ホーボーケンから堂々と出航していった。
彼は、「暫定政府を打倒し、共和国の成立を阻止し、ドイツとの戦争を終結させ、他国政府の干渉を防ぐ」という、まさにその目的を公言していたのである。
そして、もしこのような使命に「成功」という言葉を適用できるならば、彼はそれを見事に果たした。

アメリカに残されたグループの指導者たちは、その日の午後からさっそく帰国希望者の審査を始めた。
彼らは5丁目東534番地に集まり、五人から成る審査委員会を選出した。委員会が審査するのは、旧ロシア政権の迫害から逃れてきた亡命者が、本国政府の費用負担による帰国援助――一人あたり20ドルから50ドル――を受ける資格があるかどうかであった。
無論、暫定政府は、この「帰国の渡り鳥」たちが、どれほど徹底的に祖国を「再占拠」しようとしているかなど、知る由もなかった。
審査に合格した者は皆、出航予定日を割り当てられた。

ノルウェー行きの船はハリファックスに寄港し、イギリス当局は全乗客を拘留した。
4月15日、無政府主義者、社会主義者、I・W・Wの代表者たちがマンハッタン・ライシアム(Manhattan Lyceum)に集合し、ドイツからの亡命者たちを拘束したイギリス政府に対する抗議集会を開いた。
ケレンスキーは彼らの釈放を求め、結果として彼らは旅を続けることを許された。そのころには、第二陣がすでに別ルートで出発していた。
4月3日、ジョージ・ブリューワー(George Brewer)、H・グリン(H. Gurin)、デヴィッド・ロリス夫妻(Mr. and Mrs. David Rohlis)、コッツ(Kotz)、シュミット(Schmidt)、ネミロフ(Nemiroff)ら27名は、ペンシルヴェニア駅から出発し、シカゴ、バンクーバー、日本、シベリアを経由してロシアを目指した。
4月23日には、ボグダノヴィッチ、ベンデツキー(Bendetsky)、アルバート・グリーンフィールド(Albert Greenfield)、ジョン(またはイワン)・ステパノフ(Stepanoff)、ミハイル・スミルノフ(Michael Smirnoff)、ヘンリー・シュクラー(Henry Shklar)らと、そのほか89人がエリー鉄道でシアトルへ向かい、日本とシベリア経由でロシアへ渡った。
5月12日、「ダイナマイト・ルイーズ」ことバーグ嬢――1914年7月4日に爆弾製造中の事故で死亡した無政府主義者バーグの妹――は、スカンジナビア=アメリカ・ラインの「ユナイテッド・ステイツ号(United States)」に乗り込み、クリスチャニア(オスロ)経由でロシアへ向かった。この船には、同様の無政府主義者および革命的要素を持つ乗客が、およそ百名ほど乗船していた。
さらに二日後には、ソコロフ(Sokoloff)という著名なI・W・W活動家を含む90人が、サンフランシスコへの陸路と日本経由の海路を使って出発した。
5月26日には、ビル・シャトフ夫人、アレクサンダー・ブロイデ(Alexander Broide)、J・ウィシュニェフスキー(J. Wishniefsky)ら、協同無政府主義組織(Coöperative Anarchist Organization)のメンバー18名がホーボーケンから「オスカー2世号(Oskar II)」に乗船した。
二日後、メイヤー・ベル(Meyer Bell)なる人物――彼もまた、政治的扇動で何度となくアメリカの刑務所に入った経験を持つ無政府主義者である――と、その妻ベル夫人、および110名ほどの仲間が、サンフランシスコ経由で極東へ向けて出発した。
さらにその後、最後から二番目の一団として、およそ90名の「将来のボルシェヴィキ候補」が6月24日に旅立っていった。

[図版:ジョン・B・トレヴァー大尉(陸軍情報部)]

シャトフとヴォリン(Wolin)は、一行がすべて出発したのを見届けると、自分たちも忽然と姿を消した。
誰も彼らの正確なルートを知らなかったが、シアトルに到着したことだけは確認されている。
こうして、約600人もの無政府主義者が「巡礼の旅」に出たのである。そのうちの何人かは、ロシアにたどり着くことができなかった。
ロシアに帰還した者たちの一部は、祖国の現状が、自分たちの期待していたほど「甘い」ものではなかったことを知った。
今日、中国や満州の港町には、そうした者たちが少なからず散在している――どこの国にも属さない人々。ロシアでは暮らせず、アメリカには戻ることが許されない流浪者たちである。

それでもロシア本土への帰還に成功した者たちは、ただちに組織に加わった。ペトログラードではすでに、レーニンがその計画をある程度まで進めていた。
表面的には、暫定政府は情勢を処理できるだけの力を持っているように見えたし、6月には、一時的とはいえ戦争継続の意思を示してもいた。しかし、その内側では亀裂が生じつつあった。
労働者・兵士代表ソヴィエト(Council of Workmen and Soldiers)が突如として結成され、ドゥーマや政府に対抗する組織となった。
ドゥーマがガリツィアでの即時攻勢を可決すると、ソヴィエトは「単独講和」に賛成票を投じた。
ケレンスキーは一時的にバランスを取り戻そうとし、6月には軍事攻勢を指揮したが、それは進撃どころか退却に転じ、最終的には潰走となった。
8月2日にはコルニーロフ(Korniloff)が軍総司令官に就任し、その翌日にはペトログラードの軍事総督が暗殺された。
退位した皇帝はシベリアに送られた。
9月2日、ケレンスキーは、自らの勢力を立て直す試みとして、モスクワで有力な反対者たちを逮捕するという強硬策に出た。
9月16日には新共和国の成立を宣言したが、そのような政治的枠組みが、迫り来るドイツ軍の軍事的脅威――すでにペトログラード近郊に迫っていたドイツ軍の進撃――や、国内に渦巻くドイツ側の宣伝活動の侵入を食い止めることはできなかった。
10月中旬には暫定政府は首都をモスクワに移し始めた。
10月21日、レオン・トロツキーはソヴィエトにおけるボルシェヴィキの代表として、「即時民主講和」を掲げた決議案を提出し、それを採択させると、党員を率いて議場を去り、歓呼の声で出迎えられた。
11月1日の市議会選挙では、ボルシェヴィキは敗北を喫したが、彼らはそれを認めなかった。そして11月7日(新暦では11月20日)、マキシマリスト(Maximalists)とも呼ばれた彼らは武力でケレンスキー政府を打倒し、政権を掌握した。レーニンが首相となり、トロツキーは外務人民委員となった。

ニューヨーク発の「遠征隊」メンバーの多くは、新体制下で要職に就いた。
あるアメリカ上院議員は、現在のロシア政府を「レーニンと、ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴから集まった無政府主義者の一団」に過ぎないと評したことがある。
ヴォリンは報道機関の一部門を掌握し、「虚偽情報担当人民委員」といった役割を担った。
アメリカでは一介のサンディカリストでありI・W・W活動家であったシャトフは、ペトログラードにおける「投機者および反革命勢力との闘争のための非常委員会」の委員長にまで上りつめた。
この委員会は、首都では「血と殺人委員会(Blood and Murder Committee)」あるいは「壁際へ!(To the Wall)委員会」と呼ばれている。
彼は余暇を利用して鉄道人民委員を兼務し、ロシア国内では、「皇帝とその家族を殺害したのはシャトフである」と広く信じられている。
彼の前任者ウリツキー(Ouritzky)は、その任期中に400万ルーブルもの財産を築いたが、暴力的な死を遂げた。
1918年10月の時点で、シャトフはまだその後を追ってはいなかった。

『ザ・ブラスト』に寄附をしていたあのジョン・リードは、ペトログラードに共感的な特派員として姿を現し、その後ニューヨーク総領事に任命された。だが――『マッシーズ(The Masses)』紙の編集者マックス・イーストマン(Max Eastman)らとともに、徴兵制妨害の疑いで起訴されていたため――彼はニューヨークへの帰国後、この地位に就くことはできなかった。
1917年の「遠征隊」に加わったニューヨーク出身の無政府主義者たちの多くは、ペトログラードの厳しい生活に何とか耐え抜いた者たちに限って言えば、ロシアの一億以上の民衆を支配する政府機構のあちこちに、確かな足場を築いている。
彼らの権力基盤が決して安定したものではないのは事実だが、少なくとも目下のところは、自らが倒そうとしていたはずの「権力」のうち、少なからぬ部分を享受している。それは彼らにとって、陶酔以外の何物でもない。
ニューヨーク系ボルシェヴィキにとって、これほど甘美なものはない――それがたとえ最初に憎悪していた「権力」であったとしてもだ。もはや問題なのは、「誰の権力であるか」、ただそれだけなのである。

エマ・ゴールドマンも、アレクサンダー・バークマンもロシアには戻らなかった。
出版や書籍販売の仕事が彼らをアメリカに縛り付けていたし、講演者としても常に引く手あまたであった。
二人とも長年にわたり合衆国における無政府主義の「旗手」を自任しており、自分たちよりも能力の劣る後継者にその象徴的な「王笏」を譲ることを望まなかったとしても、不思議ではない。
I・W・Wの指導者たちと違い、彼ら無政府主義者は、実際の「仕事」を避けていたわけではない。どちらも活動的な頭脳の持ち主であり、忙しく動き回っているときにこそ最も生き生きとしていた。
バークマンの文章には、ときおり大言壮語の陰に、どこか温かみのある優しさが垣間見えることもあったし、エマ・ゴールドマンも時として、かなり愛嬌のある皮肉を飛ばす話者であった。

二人はやがて、戦争参加に反対する平和主義者、徴兵制反対派、そしてアメリカの参戦を妨害することを唯一の目的とする諸派と行動を共にするようになった。
エマはこの問題についての講演を始めた。
5月18日の夜、彼女はハーレム・リバー・カジノで開かれた集会で演説を行った。演説は、「政府の密偵がこの場にいる」と前置きし、「暴力行為はご法度」であると聴衆に注意喚起するところから始まった。そのうえで、彼女は――おそらく自分では論理的な帰結だと思っていたのであろうが――次のように叫んだ。

「だから、みなさん。世間が私たちのことを何と言おうと、そんなことはどうでもいいのです。私たちが気にかけるのはたった一つ――今晩ここで、そして私たちが話すことのできるあらゆる場で、こう、声を上げることなのです。“アメリカが『民主主義のために戦う』などと言って戦争を始めたのは、卑劣きわまりない嘘だ!”――これを示すことだけが大事なのです。アメリカは決して民主主義のために戦争を始めたのではありません……。
これは『経済的独立のための戦争』ではない、“征服のための戦争”なのです。“軍事的優位”のための、“カネのための戦争”です。そして何よりも、“ここ三十年、二十五年、私たちが闘い抜いて勝ち取ってきた、自由の最後のかけらまでも踏みにじり、粉々にするための戦争”なのです。だからこそ、私たちはこの戦争を支持することを拒むのです。

『私たちは暴力を信じており、その暴力を行使します……。徴兵に応じないつもりの人間が、この会場にどれだけいると思いますか? 私はこう言いましょう――少なくとも五万人はいる。そしてもっと増えるでしょう……。彼らは登録しないでしょう! もし五十万人がそうしたら、どうしますか? それは簡単な仕事ではありません。そして政府はそのとき、初めて“目を覚まさざるを得なくなる”のです。だからこそ、私たちはありったけのカネと宣伝力を使って、“登録も従軍もしない”と誓うすべての人々を支援するつもりです。

『私は、今晩のこの集会が最後になるとは思っていません。実のところ、私たちはすでに“次の一手”を計画しています……。徴兵にも登録にも応じないすべての人々を集めて、ニューヨーク史上最大のデモンストレーションを行うのです――そして、世界中のどんな権力も、これを止めることはできません……。
もし絶望している者がこの場にいるなら、ロシアに目を向けてごらんなさい……。革命がどれほど素晴らしいことを成し遂げたかを見てください……。

『あなたは、どう応えるべきでしょう? あなたの戦争に対する答えは、“ゼネラル・ストライキ(総ストライキ)”であるべきです。そのとき、支配階級は本当に“手に負えない事態”に直面するでしょう……。』」

彼女は演説を、資金提供を求める呼びかけで締めくくり、自身の雑誌『マザー・アース』が、新たに署名された徴兵法に対する抵抗運動を全面的に支援すると表明した。
『マザー・アース』誌は、徴兵登録日前――6月5日――に発刊された次号において、徴兵に対するかなり露骨な非難を掲げた。しかし、ニューヨーク市が有史以来最大と言われる大規模デモ――エマが予告した「ニューヨーク史上最大のデモ」――を目にすることはなかった。
太陽は静かにニュージャージー州の地平線に沈み、そのあいだに起こったことといえば、「のちに英雄となる国民軍」が、静かに、そして喜々として、自ら進んで登録に赴いた、という事実だけであった。

6月15日、エマ・ゴールドマンとアレクサンダー・バークマンは、125丁目東20番地にあった『マザー・アース』編集室内で逮捕された。
6月27日には、二人の裁判が開かれた。
7月9日、陪審団は、二人が徴兵制を妨害しようとした罪において有罪であると評決を下した。
マイヤー判事(Judge Mayer)はただちに、バークマンを連邦アトランタ刑務所での禁固二年、ゴールドマンをミズーリ州ジェファーソン・シティの州刑務所での禁固二年とし、両名それぞれに対して1万ドルの罰金を科した。
これは、組織的無政府主義運動にとって大きな打撃であり、同法の範囲内で科しうる最大の刑罰だった。
さらに判事は、地区検事ハロルド・A・コンテント(Harold A. Content)に対し、労働省にこの判決を通告するよう命じた。これによって、二人が刑期を終えて出所したのち、「二回以上の犯罪で有罪となった外国人」として、彼らの祖国へと送還する手続きが講じられることになった。
こうして、彼らは「虐げられたアメリカ」に“啓蒙”をもたらす使命を、母国で続けることになるはずだった。

彼らの活動はその後、多少断続的ではあるが、一応は継続された。
二人の名は、すでにアナーキスト運動の「聖人リスト」に公式に刻み込まれている。そこには、ブレシアやヘイマーケット事件の殺人犯たち、そしてほか数十人の名も並んでいる。
戦時中も、こうした地下の反対運動は散発的に姿を現していたため、1918年10月25日には、アラバマ州出身の連邦地裁判事がニューヨークで開廷し、スパイ防止法(Espionage Act)に基づき、さらに三人の扇動家――ジェイコブ・エイブラムス(Jacob Abrams)、サミュエル・リプマン(Samuel Lipman)、ハイマン・ラフノフスキー(Hyman Lachnowsky)――に対し、最高刑を言い渡す必要に迫られた。
彼らは、ロシアへの武装干渉を糾弾し、ゼネラル・ストライキを扇動するビラを配布したグループの首謀者であった。
この三人には、それぞれ二十年の禁固刑が宣告され、さらに四人目の男には三年の禁固と一千ドルの罰金が科された。
同じグループの一員であった女性モリー・スタイナー(Mollie Steiner)には、十五年の禁固刑が宣告された。

アメリカに渡ってきた無政府主義者たちが用いた「デモンストレーション」の手段は、旧世界における同志たちに比べれば、見た目に華やかでもなく、大衆の間で歓迎されたわけでもなかった。
無政府主義は、アメリカという土壌には似つかわしくないのだ。
プロイセン主義はすでに、アメリカ合衆国から明確な回答を受け取っている。
ボルシェヴィズムは、よく教育され、大きく息を吸うことのできるわれわれのような国民のものではない。
そして、三者の中で最もみじめな存在である無政府主義は、この国の窓からではなく、別の国の窓から、その恐ろしい顔を覗かせるほうがふさわしい。
なぜなら、この国の人々は、これからもこの民主主義を自らの手で守り続けていくつもりだからである。

訳者注(Transcriber’s Notes に相当)

以下は、原書の電子版(Project Gutenberg 版)に付された「転記者注」の要旨である。

・句読点および綴りについては、原書の中で優勢な用法が確認できる場合には、それに合わせて統一した。それ以外の場合には、変更していない。ハイフンの有無についても、不統一が見られても原則として変更しなかった。

・明らかな単純誤植は修正した。開き/閉じカギ括弧の対応関係が崩れていた箇所については、どのように修正すべきか明白な場合に限り補ったが、それ以外は不均衡のままにしてある。

・電子書籍版では、図版はすべて段落と段落の間に配置し、引用文の外側に置いた。ハイパーリンク機能のある版では、「図版一覧」のページ番号から、対応する図版へジャンプできるようにしてある。

・一部の図版に含まれる数字は、読みやすさを高めるために画像上で補筆した。また、26ページ直後に挿入されていた「ランダムなページ」のテキストについては、読む流れが途切れないよう、転記された順序を入れ替えてある。

・タイトル・ページにあった出版社名「SMALLL, MAYNARD & COMPANY」の綴り誤り(Lが三つ)は、「SMALL, MAYNARD & COMPANY」と修正した。これは奥付ページにおける表記と一致している。

・第一章のタイトル直前に、書名が重複して記されていた箇所は、冗長と判断して削除した。

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍
『Throttled! The Detection of the German and Anarchist Bomb Plotters』 終 ***
《完》