第一次大戦前の鉄道網と鉄道政策が、先進大国の勢力消長をどのように左右してきたかを、英国人の視点から手際よく説明している好資料です。日露戦争の話も勿論あり。
ドイツは当時のトルコ本国領土を植民地化してしまう気まんまんで、それで中東まで鉄道をつなげたのだという解説を、私はこのテキストで初めて承知しました。
例によってプロジェクト・グーテンベルグさま、ITに詳しい御方はじめ、関係の各位に、篤く御礼を申し上げます。
図版は省略しました。
以下、本篇です。(ノー・チェックです)
題名: The Rise of Rail-Power in War and Conquest, 1833-1914
著者: Edwin A. Pratt
発行日: 2013年3月30日 [電子書籍 #42438]
最終更新: 2024年10月23日
言語: 英語
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*** PROJECT GUTENBERG 電子書籍『THE RISE OF RAIL-POWER IN WAR AND CONQUEST, 1833-1914』開始 ***
戦争と征服における
鉄道力の勃興
1833–1914年
戦争と征服における
鉄道力の勃興
1833–1914年
書誌付き
著
エドウィン・A・プラット
(『内陸輸送史』『鉄道とその運賃』等の著者)
ロンドン
P. S. KING & SON, LTD.
ORCHARD HOUSE
WESTMINSTER
1915年
目次
章 頁
I 新たな要因 1
II 南北戦争における鉄道 14
III 戦争における鉄道破壊 26
IV 戦争における鉄道の統制 40
V 戦争における鉄道の防護 54
VI 兵員と補給品 62
VII 装甲列車 67
VIII 鉄道による衛生・負傷者輸送 81
IX 戦争に備えた平時の準備 98
X ドイツにおける組織 103
XI ドイツの鉄道部隊 122
XII フランスと1870–71年戦争 138
XIII フランスにおける組織 149
XIV イングランドにおける組織 175
XV 軍用鉄道 205
XVI ボーア戦争における鉄道 232
XVII 日露戦争 260
XVIII 戦略鉄道:ドイツ 277
XIX ドイツのアフリカ帝国 296
XX アジア・トルコへの企図 331
XXI 要約と結論 345
付録
インド辺境鉄道 357
オーストラリアの防衛 368
書誌 376
索引 398
序文
現在進行中の「諸国民の戦争(大戦)」において鉄道がどれほど利用されているかは、世界をすっかり驚かせてしまった。というのも従来の軍事史家たちは、過去の戦場において軍隊が何をなし、あるいは何に失敗したかを語る際に、軍隊がどうやって戦場に到達したのか、また補給や連絡線の維持といった輸送条件――良好であるか不備であるかを問わず――が戦役全体の経過にどのような影響を及ぼした可能性があるか、というような「細目」をしばしば無視してきたからである。
ところが今、この進行中の巨大な闘争においては、これらの細目が至高の重要性を持つことが判明した。鉄道がこの闘争において演じている役割は、まさに――その闘争自体の規模の巨大さに対応して――歴史上未曾有の規模に達している。とはいえ一方で、1914年8月に戦端が開かれた際に、連合国側がいかなる軍事的「不準備」の状態にあったかについては多くが語られてきたにもかかわらず、その瞬間から、戦争が宣言されたまさにそのときから、軍事輸送のあらゆる要求に即応する能力が鉄道に欠けていた、といった類いの指摘は(私の知るかぎり)まったくなされていないことは注目に値する。この点に関して言えば、イギリス・フランス双方の鉄道における組織、準備態勢、能力は、ドイツ鉄道のそれに十分匹敵するものであった。
とりわけイギリスの状況については、ロンドン・アンド・サウスウェスタン鉄道会社の元総支配人であったサー・チャールズ・オーウェンズ卿が、1914年10月12日にロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生に行った講演の中で述べた言葉が大いに興味をひく。彼は、5〜6年前にある社交の場で陸軍大臣と会い、食後にその大臣から脇へ呼び寄せられて次のように尋ねられたと語っている――「この国に非常事態が生じた場合、鉄道はそれに十分に対応できると思いますか?」。これに対しオーウェンズ卿はこう答えた――「私は鉄道マンとしての自分の名誉にかけて申し上げますが、この国は人員や資材を集中させるスピードにおいて、鉄道がそれを処理するスピードの半分にも達しないでしょう。ただし、一つ条件があります。鉄道の経営は鉄道マンの手にゆだねられなければなりません。」。ここには一つの断言と一つの但し書きがある。断言が正当であったことは、イギリス鉄道がこの非常事態において成し遂げたことから十二分に証明されている。なお、この但し書きの特別の意味は、本書において私が戦時における鉄道の統制について述べている事柄を読まれれば理解されよう。
いま、交戦国すべて――友邦であれ敵国であれ――の鉄道を取り上げて、議論の便宜上、各国の鉄道が例外なく軍事輸送において驚嘆すべき働きを成し遂げたと仮定するとしても、なお二つの重要な点を念頭に置いておく必要がある。
(1) 現在の紛争においては、全体として見た軍事目的に供される鉄道の規模が膨大であることとは別に、その大規模さにもかかわらず、現在の戦争は、鉄道の破壊手段として航空機が用いられている点を除けば、これまでの戦争における鉄道の利用に全く新しい要素を付け加えたわけではない、ということ。
(2) 1914年8月に戦端が開かれたときまでに、軍事輸送における鉄道利用の問題は、各国の鉄道および軍事の専門家の間で、すでに80年もの長きにわたって検討されてきていたという事実である。その間、莫大な研究、多くの経験、そして世界各地における幾多の戦争の中での数々の失敗を通じて、一定の原則が徐々に形成されるとともに、絶えざる修正を受けつつも包括的な一つの公認組織――先進諸国が、各国の事情や条件に合わせた修正を加えながらも、多かれ少なかれ受け入れていた――が作り上げられていたのである。それは、あらゆる不測の事態に備え、人間の予見し得るかぎりのあらゆる困難に対する手当を尽くし、必要が生じた瞬間に直ちに適用可能なものとして設計されていた。
現在もなお戦闘が続いているこの戦争において、ここまで鉄道が成し遂げたことをすべて語るべき時は、まだ到来していない。その物語は、ある鉄道関係者の言葉を借りれば、今のところ「封印された書物」である。しかしながら一方で、「封印された書物」がやがて開かれ、鉄道が――そして鉄道の助力を受けた限りで戦闘員が――これまでに成し遂げたこと、今後成し遂げるであろうことがよりよく理解されるためには、上で述べた第二の点で定義されるような状況が十分認識されていることが望ましい。
すでに述べたように、世界は鉄道がこれまでに成し遂げたことについて、既に知られている範囲だけを取ってみても、驚かされている。その世界はまた(本書が示すように)次のような事実を知らされれば、さらに驚くかもしれない。すなわち、戦略目的での鉄道建設は、早くも1833年にドイツで唱道されていたこと。1842年には、ドイツ全土を戦略鉄道網で覆う構想――その鉄道網は国土全域に奉仕しつつも、とりわけフランスとロシアという二つの戦線で同時に戦争を遂行し得るようにすることを意図したもの――が立案されていたこと。そして同じ1842年には、フランス議会においてすでに、ドイツがフランス方面に向けて建設している「攻勢路線」への注意が喚起され、さらにはドイツによる今後のフランス侵入はメスとストラスブールの間で行われるであろう、との予言までもなされていたのである。
さらにまた、本書において南北戦争にかなりの紙幅が割かれていることについて批判があるかもしれないが、その批判は次の説明によって和らげられるだろう。すなわち、アメリカの南北戦争は、戦争における鉄道の科学的利用という点で、事実上すべての「始まり」をなすものであり、多くの問題がそこで初めて提起され、あるいは実地で処理されたのであり、その結果として先例が打ち立てられ、世界の他の国々はそれを単に踏襲し、自国に合わせて適用または改良すればよかったにすぎない、ということである。単線・単路の鉄道路線であってもそれによって遠く離れた補給基地からの戦争継続が可能であること、鉄道の復旧・運転・破壊のために組織化された部隊の創設、鉄道の統制を鉄道側か軍側か、あるいは両者が共同で行うかという問題、鉄道を利用する方が有利な場合と、軍隊を徒歩行進させた方がよい場合の区別、装甲列車の使用、救急列車・病院列車の進化――これらすべて、そしてここで挙げた以外の多くの事項も、1861–65年のアメリカ南北戦争に遡ることができるのであり、本書ではそれらを、過度ではないと願うのだが、相当の詳細をもって扱っている。
その後ヨーロッパで構築された組織――本書では特にドイツ・フランス・イングランドを対象としている――についても、ある程度の詳細をもって記述せねばならなかった。その過程で、(1) しばしば語られるところの「フランスとの1870–71年戦争に臨んだドイツの手配は完璧であった」という話は、少なくとも鉄道による軍事輸送に関して言えば、歴史上の虚構にすぎないこと、(2) フランスはこのとき、自国の輸送制度――というより「無制度」と言うべき惨状――の痛ましい、否定し得ない欠陥から苦い教訓を学び直ちに、後に最も完全にして包括的な組織となるものの創設に着手したこと、(3) イングランドが戦争目的のために鉄道を利用し始めた「始まり」は、1859年、当時フランスによる早期の本土侵攻と見なされていた事態と、国防手段の不足が認識されて招来された半ばパニック的な状況から直接生じたものであること――が、併せ示される。
本書ではまた、クリミア戦争、アビシニア遠征、普仏戦争、露土戦争、スーダンにおける軍用鉄道を説明し、ボーア戦争および日露戦争における鉄道利用について詳細に記述する。その後に、周辺国の領土に対する戦争行為を容易ならしめるためにドイツで建設された戦略鉄道を説明する。
第19章および第20章では、明示的に戦略目的のために、あるいは私が「経済―政治―戦略的」と呼ぶ目的のために建設された鉄道について論じるが、これらは戦争の随伴の有無を問わず征服の目的を達成することを意図したものである。第19章は、鉄道の助けを借りてドイツがアフリカ大陸を自らのアフリカ帝国へと変貌させようと企図した過程を示すものであり、特に(311頁に引用するように)当時のドイツ領南西アフリカにいたドイツ将校が、「ドイツが戦争に赴く主たる目的はアフリカの征服であり、『フランスとイギリスを粉砕する』ことは、その過程における単なる『付随的事件』に過ぎない」と述べ、続けて、小国の領有地の奪取によってドイツはアフリカにおける最高権力となり、アフリカ大陸全体がドイツ領になるだろうとしたことを示す点で、注目に値するだろう。
また第20章からは、ドイツが、アジア・トルコだけでなく、エジプトやインドに対する企図をも推進するために鉄道を利用しようとしていたことがわかるであろう。
「インド辺境鉄道」と「オーストラリアの防衛」に関する付録の小論は、鉄道力発展の歴史という本書本来の主題に直接の関係はない。しかし、一般的観点から見てそれ自体興味と重要性を有すると信じるがゆえに、付録として収めた。戦略目的で建設されたシンド・ピシン国有鉄道は、アフガニスタン国境に至るまでの建設に際して直面した困難と諸条件において、鉄道史、戦争史のいずれにおいても比類がない。またオーストラリアについては、ケッチナー卿がその報告書の中で、内陸へ走る鉄道路線について「防衛のためにはほとんど役に立たないが、海の一時的制海権を握る敵にはおそらく相当の価値を持つであろう」と書いて、その立場の重大性を的確に示している。
巻末には、戦争目的における鉄道利用に関する書籍、小冊子、論評記事その他の書誌を付した。これは当初、アメリカ鉄道経済局(American Bureau of Railway Economics)が作成した「参考文献リスト」に拠って編纂したものであるが、そのリストの多くの項目を削除する一方、他の資料からかなり多くの文献を追加した。書誌は決して完全なものとは言えないが、本書で扱った歴史事項について、さらなる研究を行うことを望む学生にとっては、有益であろう。
本書の準備過程においてアメリカ鉄道経済局より受けた諸般の援助は、きわめて有益であった。また、アフリカ・小アジアに対するドイツの企図に関する章の執筆にあたって、王立植民地協会図書館の、よく整備され、見事な索引を備えた蔵書は大いに役立った。さらに、軍事目的のために本国鉄道がどのように組織されているかを教えてくださった、各主要鉄道会社の総支配人その他の幹部の方々にも、心から謝意を表したい。
エドウィン・A・プラット
1915年11月
戦争と征服における鉄道力の勃興
第1章
新たな要因
鉄道の本来の目的は平和の技芸を進展させることにあったのだが、その成功がまずイギリスで確立されるやいなや、戦争の技芸をも促進し得る、その広範なたる可能性がごく早い時期から認識され始めた。
すでに運河網は、大きな革新をもたらしており、それは英国民に強い印象を与えた。1806年12月、かなりの数の兵団が、ロンドンからリヴァプールへ向けてパディントン運河をはしる艀で輸送され、そののちダブリンへ赴いたが、運送を円滑にするため、各段階において船を曳く馬を交代させるようにしていた。これに関して『タイムズ』紙は1806年12月19日付けで次のように論じている――「この輸送方式をとることにより、兵士たちは比較的疲労も少なく、7日でリヴァプールに到着することができる。もし徒歩で行軍すれば、この距離を踏破するのに14日以上かかるだろう」。
ところが1830年、リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道が開通し、その上で英国の一連隊がわずか二時間で34マイルを輸送されたとき――徒歩であれば二日かかったであろう旅程である――先見の明ある人びとはさらに深い感銘を受け、将来の戦争遂行に強い影響力を及ぼすべく運命づけられた新たな要因の出現をはっきりと認識するようになった。
当時、イギリスはその地理的位置ゆえに、鉄道の戦略的・戦術的利点よりも、輸送手段としての便益により大きな重きを置いていた。したがって、1846年に陸軍省が「女王陛下の軍隊、その手荷物および軍需品の鉄道輸送に関する規則(Regulation Relative to the Conveyance of Her Majesty’s Forces, their Baggage and Stores, by Rail)」を公布したことは、この国の当面の状況に対しては満足すべき対応と思われたかもしれない。
しかし欧州大陸では事情が異なっていた。そこでは、互いに不確実または変動しやすい国境で隔てられた諸国が、なお近時の抗争の記憶に強く影響されており、その結果、新たな交通機関の可能性により一層の注意が払われることとなったのである。
最初に鉄道の戦略的使用を明確に提案したのは、1833年、ヴェストファーレン出身で、祖国で「老ハルコルト(Der alte Harkort)」としてよく知られるようになったフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハルコルトであった。彼はナポレオン戦争に参加したのち、ドイツにおける蒸気機関、水圧機、製鉄その他重要産業の発展に多大な精力と企業心を注いだ人物であり、1825年には、鉄道と汽船に関してイングランドが成し遂げつつあった進歩について、その国ではじめて報告を書いた人物であった。さらに1826年には、エルバーフェルト博物館の庭に鉄道の作動模型を設置した。このような諸活動に続けて、1833年にはヴェストファーレン州議会において、ヴェーザー川とリッペ川を結ぶ鉄道建設計画を持ち出した。同年後半には、『ミンデンからケルンまでの鉄道(Die Eisenbahn von Minden nach Köln)』を出版し、その中で提案路線の軍事的重要性を特に強調した。かりにそのような鉄道があれば、大部隊を街道行軍よりもはるかに早く所定の地点に集中させることができる、と彼は論じた。彼はまた、プロイセン軍を幾つかの特定センターから別のセンターへ移動させる場合に、時間および肉体的負担の上でどれほどの節約になるか、具体的な計算を行った。そしてこう続けている――
右岸に鉄道と電信線が敷設されていると仮定してみよう。すなわちマインツからヴェーゼルに至るライン右岸沿いにである。フランスによるいかなるライン渡河も、まず不可能となるであろう。なぜなら我々は、敵の企図が展開されるより前に、その地点に強力な防御軍を集結させることができるからである。
これらのことは、今日の目から見ると非常に奇妙に思えるかもしれない。しかし、まだ胎内に眠る未来には、鉄道に関する偉大な発展の種が宿されており、その結果がどのようなものになるかは、いまの我々の力をもってしては到底予見できないのである。
ハルコルトの提案は、ドイツ国内に激しい論争を引き起こした。官僚たちは彼の主張――軍隊輸送における鉄道の有用性に関するものだけでなく、鉄道一般の実用性に関するものまで――を「荒唐無稽な空想」として批判し、また当時の新聞・雑誌もこぞって彼を嘲笑の的とした。
にもかかわらず、鉄道の軍事利用についての賛否は、多数のパンフレットや論考で活発に議論された。フランスではすでに、ルイ・フィリップの副官であったリュミニー将軍が、鉄道を用いて国境に到達するドイツ軍による突然の侵入の可能性を予見していたのとちょうど同じように、ドイツでも一人の著者が次のように書いている――「心配性の者たちは、新たな移動手段のおかげで、ある晴れた春の朝、戦争を渇望する10万人のフランス人が鳥のような速さで、我々の平和な谷間になだれ込み、また例の『古い遊戯』(das alte Spiel)を繰り返すのではないかと身震いしている。」。一方、懐疑的な軍事論者も存在した。例えば1836年にベルリンで出版されたパンフレット『鉄道の軍事的利用について(Über die Militärische Benutzung der Eisenbahnen)』の著者は、当時の機関車性能の実績を根拠に、鉄道は補給品、大砲、弾薬の輸送には役立つとしても、兵員輸送については何の利点もないと主張したのである。彼らは、兵隊は歩いて行軍した方が早く目的地に着くだろう、と断じた。[1]
当時ドイツで発表された数々の出版物の中で、とりわけ注目すべきは、カール・エドゥアルト・ペーニッツ(署名は「Pz.」)による著作である。彼は1842年にザクセンのアドルフで、『作例により説明された、作戦線として観察された鉄道(Die Eisenbahnen als militärische Operationslinien betrachtet, und durch Beispiele erläutert)』という題名の本を出版した。この注目すべき書物(1853年には第2版が出ている)には、それ以前における鉄道発達および実際の鉄道兵員輸送の経験に照らしうる限りで、鉄道と戦争との関係に関する状況が包括的に概観されており、鉄道を軍事目的に利用することの利点が強く主張されていた。彼はさらに、機関車が不足している場合や重交通のために機関車が利用し得ない山岳地帯で戦闘行動を行わねばならない場合であっても、軍隊はなお自軍の馬を用いて客車や貨車をレールの上で牽引することができるはずであり、その結果、兵士たちは旅の終わりに、疲労することなく、直ちに戦闘に参加できる状態で到着することが可能だ、と提案している。
ペーニッツは、鉄道を発明以来印刷術に次ぐ最強の「文化推進の乗り物」と呼び、ベネルクスとザクセンが大陸ヨーロッパにおける鉄道建設の先駆であると指摘した; この点についての彼のベルギーに対する言及は、近時の出来事を考えれば、とりわけ想起するに値するものである。彼はこうした好例を示した「先見性に富み、精力的な」ベルギー王に注目し、次のように続ける――
革命の派閥間抗争によって引き裂かれた国土には多くの傷がなお血を流していた。新たに創設された王国は、内外の敵から脅かされ、抵抗手段の組織化も大変困難であった。それにもかかわらず、国全体を覆う鉄道網の建設計画が着手され、その網はとりわけフランスからの攻撃に対する防衛を容易にするものであった。そして現在すでに、その計画の大部分が実際に実現しているのである。このようにしてレオポルド王は、自らにひとつの記念碑を打ち立てた。その真価と意味は、もしかするとまだ生まれていない世代にしか十分には理解されないかもしれない。
ベルギーがこのような良き先例を示していた一方で、当時プロイセンに実際に存在していた鉄道は、(すでに着工済みだったベルリン–シュチェチン線およびベルリン–ブレスラウ線、ならびにその他の計画路線を除けば)ベルリン–ポツダム線とベルリン–マクデブルク–ライプツィヒ線のみであった。ただしザクセンにはライプツィヒ–ドレスデン線があり、バイエルンにはニュルンベルク–フュルト線およびミュンヘン–アウクスブルク線があった。しかしペーニッツは、なぜプロイセンが後れを取っていたかについてこう弁明している――すなわち、プロイセン政府が長らく、ある種の計画された鉄道路線の認可を拒否したり、それらに重い義務を課したりしたのは、偏見からではなく「先見に基づく賢明な措置」であったというのである――おそらくプロイセンは、他国が自前の費用で獲得しつつある経験から利益を得る時機を待っていた、という意味であろう。
ペーニッツは鉄道の軍事利用一般に関して主張し得るあらゆる論点を提示したのち、ドイツ全土に戦略線網を建設する構想を展開したが、その網は全ドイツをカバーする一方で、特にフランスやロシアからの攻撃に対して国境を守るために意図されていた。彼は、国際政治の秘密を知る立場にはないにせよ、ドイツが攻撃を恐れるべき方向はこの二つだけだと安全に推定し得る、と述べ、さらに、ヨーロッパの大国間の関係が当時平和的であったとはいえ、その状態が継続する保証はない、と付け加えた。そこで彼はこう続ける――
我々はこの二つの戦線に目を向けねばならない。そして、もし最初から重い損害を被る危険を避けたいのなら、最初から、そこで敵と対峙し得る圧倒的兵力を用意しておかねばならないというのは必然である。大軍の強さは、その移動が迅速であり、かつ兵が旅の終わりに疲労することなく到着し得るものである場合には、何倍にも増加することは周知の事実である。
ペーニッツは愛国心、国防、経済的利益の動機に基づき、同胞に対し自らの構想を支持するよう強力に訴えたが、その中で再びベルギーを指し示してこう言っている――
ヨーロッパ諸国のうち最も若い国家は、我々に何が成し得るかの一例を示した。ベルギー鉄道網は、その国の工業を発展させるのと同じだけ、その国をフランスからの攻撃に対する防衛に役立てるだろう。それはベルギーの繁栄と安全を同時にもたらすのである。そして、我々ドイツ人は自らの知性にそれほど高い価値をおいていながら、ベルギー人民の政治的独立をいまだ十分に認めようとしないというのに、自らの安全に何が必要かという点については、そんなにも盲目であり続けるのだろうか。
ペーニッツが1842年当時において、母国ドイツが後に自らの勧告に忠実に従い、フランス国境およびロシア国境のみならず、ベルギー国境にまでも戦略鉄道網を行き渡らせ、そしてベルギーに向かうこれらの路線を、かつて彼自身が寛大な同情の言葉と賞賛の言を用いていた小国を、容赦なく粉砕するために実際に使用するに至るとは、夢にも予見し得なかったであろう。
ペーニッツの思想と提案(彼の著作は、1844年にL. A. ウンガーによって『軍事作戦線として考察された鉄道に関する試論(Essai sur les Chemins de Fer, considérés comme lignes d’opérations militaires)』の題でフランス語に翻訳されている)は、この問題に関する議論を大いに刺激するとともに、ドイツ軍当局に対しても独自に調査を行う動機を与えた。その結果、1848年ないし1850年頃、ベルリンで「ドイツおよび隣接外国の鉄道に関する軍事目的上の交通および設備の概観――大参謀本部において収集された資料に基づく(Uebersicht des Verkehrs und der Betriebsmittel auf den inländischen und den benachbarten ausländischen Eisenbahnen für militärischen Zwecke; nach dem beim grossen Generalstabe vorhandenen Materialen zusammen gestellt)」という報告が発行されるに至った。[2]
フランスにおいても、新たな輸送手段が戦争のみならず平和のためにも果たしうる重要な役割を、非常に早い時期から予見していた人物がいた。
ラマルク将軍は1832年または1833年、フランス代議院の席上で、鉄道の戦略的使用は「軍事学に、火薬の使用がもたらしたものに匹敵するほどの革命を引き起こすであろう」と述べている。
1833年5月25日の議会において、ド・ベリニー氏は鉄道の「否定しえない」重要性を強調しつつ、こう述べた――
国防の観点から見て、鉄道が提供する利点はどれほど多大なものか!軍隊は、その装備一切とともに、わずか数日でフランスの北から南へ、東から西へと輸送され得る。我が国が、このようにして大規模な兵力を迅速に国境の任意の地点に送り得るならば、我が国は無敵となり、また軍事費の大幅な節約をも実現し得るのではないだろうか?
さらに1837年6月8日の別の討論では、デュフォール氏が、鉄道には産業に利便をもたらす以上の、また私的利益を超えた使命があると述べている。すなわち「一夜にして我々の軍隊を、パリからライン河畔へ、リヨンからアルプスの麓へ、フランスのあらゆる国境へと送り得る」こと――しかも、兵士たちが到着したとき、すぐに戦闘に参加し得る状態であること――が、重大事ではないと言えるだろうか、と問うたのである。
1842年には、マルシャル氏がパリからストラスブールへの鉄道路線建設を擁護する中で、新たなドイツ軍侵入が行われるとすれば、おそらくメスとストラスブールの間であろうと予言している。彼はさらにこう述べた――
まさにこの地域に、ドイツ連邦はケルン、マインツ、マンハイムから強力な鉄道網を収斂させつつあります……24時間あれば、隣国はプロイセン、オーストリアおよび連邦諸邦の兵力をライン河畔に集中させることができ、翌日には40万の軍勢を、チオンヴィルとローテルブールグとの間の40リーグにわたる突破口から、我が領土に侵入させることができるでしょう。その3か月後には、プロイセンと一部他のドイツ邦国で組織されている予備兵制度により、最初の軍と同数の第二の軍団を送ることができるでしょう。隣国がこれらの路線を『攻勢路線(lignes agressives)』と呼んでいることは、その意図についていかなる疑いの余地も残しません。ロレーヌおよびシャンパーニュ経由でパリへ進軍する作戦案が研究されているという事実は、友愛の感情を示すものとはとうてい見なせません。
しかし当時のフランスは、攻勢のためであれ、国防のためであれ、軍事目的の鉄道建設を行う気はなかった。その結果、後にドイツが約3,300マイルの鉄道を有するに至った頃、フランスが運行していた鉄道はわずか1,000マイル強に過ぎなかった。1844年4月13日付で、当時プロイセン第四軍団参謀本部の一員であったモルトケが弟ルートヴィヒに宛てた手紙は、その状況をよく物語っている――彼はそこで、ドイツが鉄道を建設している一方で、フランス議会はそれについて議論ばかりしている、と述べているのである。
リヴァプール・アンド・マンチェスター鉄道におけるごく小規模な経験を別とすれば、鉄道が大部隊の軍隊輸送にどれほどの役割を果たし得るかを最初に示したのは、1846年に行われたプロイセン第六軍団の移動であった。これは兵員1万2千人超、馬匹・砲・車両・弾薬を含む編成であり、鉄道2路線を利用してクラカウへ輸送された。1849年には、ロシア軍3万名が、ポーランドの駐屯地からモラヴィアのゲーディングへと鉄道で移動し、そこでオーストリア軍と合流した。1848–50年のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン紛争でも、ある程度の規模でドイツ軍の鉄道輸送が行われた。だがこれらよりも重要だったのは、1850年初冬に、オーストリア軍7万名・馬8千頭・車両1千台からなる軍勢が、ウィーンおよびハンガリーからシュレージエン国境へと鉄道で輸送された事例である。
このときは、単線路線、要員と車両の不足、悪天候、事前準備や輸送規則の欠如、想定外の様々な原因による遅延といった不利が重なった結果、わずか150マイルの行程に26日もの時間を要した。これは、徒歩行軍でも同じ日数で到達し得たという意味であった。それにもかかわらず、ヴェルネッケ参事官[3]が語るところによれば、かくも大部隊を鉄道で輸送したという事実は、特に教訓的な出来事と見なされたという。その結果、軍事目的における鉄道利用に対する一層の注意が喚起されるとともに、(1)オーストリア帝国内の戦略的要件という特別の観点から全国鉄道建設計画が1851年5月に立案され、(2)それまで採られていた軍隊鉄道輸送方法の再編成が行われた。後者の結果、1853年にオーストリアで行われた次の大規模な軍隊移動は、「前例のない規則正しさと効率性」をもって実行され、しかも関係路線の通常輸送は中断されなかった。
1851年にはさらに、クラカウからフラディシュまでの移動で、注目すべき模範例が示された。1万4500名・馬約2000頭・砲48門・車両464台からなる一個師団が、187マイルの距離を2日で移動したのである。大規模な縦隊が一切の輜重を伴って行軍する場合、一日の行程を12マイルとし、7日に1日の休養日を与えると仮定すれば、この移動は徒歩では15日を要したであろう。
戦争における鉄道の、戦略的かつ戦術的な顕著な役割が初めて明確に示されたのは、1859年のイタリア戦役であった。
「この戦役において」と、1861年に王立統合軍事研究所で二度の講演を行った測量参謀のミラー少佐(王立砲兵・V.C.)[4]は語る――
鉄道は、これまで軍隊が用いてきた通常の移動手段を助ける役割を果たした。鉄道により数千の兵士が日々フランス各地からトゥーロン、マルセイユ、モン・スニ峠の麓へと運ばれ、また鉄道は部隊を戦場そのものへ急行させるために用いられた。負傷兵もまた鉄道で迅速に後送され、負傷の最初の苦痛のさなかにありながら病院へ運ばれた。さらに、鉄道路線の切通し・盛土・橋梁は、地形上の通常の起伏に匹敵する、あるいはそれ以上の重要性を持つものとして戦場に登場し、その確保をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられた。マジェンタへ行けば、停車場のすぐ近くにある大きな掘り込みに、粗末な土饅頭と、そこで倒れた数百の兵士の墓を示す質素な黒い十字架を目にすることができる。こうした、広大な軍事行動と密接な関係を持つ形で鉄道が初めて用いられたことだけでも、軍事史上この戦役に独自の位置を与えるに足るものであろう。
とりわけフランス鉄道の達成は驚くべきものであった。4月19日から7月15日までの86日間に、合計60万4千の兵と12万9千頭超の馬が輸送された。うち22万8千名近くと3万7千頭の馬が、南東部の各路線を使ってクルーゾー、マルセイユ、トゥーロン、グルノーブル、エクスに送られた。最大の輸送は4月20日から4月30日の10日間に行われ、この期間パリ・リヨン鉄道会社は通常輸送を中断することなく、一日平均8421名の兵士と512頭の馬を運んだ。4月25日には一日あたり最大の1万2138名の兵と655頭の馬を記録している。同じ86日間に、同鉄道会社の路線では合計2636本の列車が運転され、そのうち253本は軍用臨時列車であった。パリから地中海沿岸またはサルデーニャ王国国境へ、4月20日から30日までに鉄道で輸送された7万5966名の兵士と4469頭の馬は、徒歩行軍であれば60日を要したであろう。つまり鉄道輸送は徒歩の約6倍の速度を達成しており、これはまた、当時までのドイツ鉄道で達成された最高記録のほぼ倍の速さであった。チュラン駅を出発したヴィンセンヌ猟兵隊は、旅の終わりに疲れも見せず即座に戦闘に参加し得る状態であったが、もし街道行軍をしていれば、そうはならず人数も減っていただろうと記録されている。
しかしこうして鉄道がもたらした兵員早期展開の利点にもかかわらず、その効用は行政組織の欠陥によって大きく損なわれた。鉄道で目的地に到達した兵士たちは、その後続として送られるはずの糧食その他の必需品を長時間待たねばならなかったのである。補給物資輸送の発車にも深刻な不備があった。6月25日、オーストリア軍が敗退した翌日には、フランス軍は24時間まったく糧食がなく、支給されたビスケットもあまりにカビていて誰も食べられなかった。また馬匹にも飼料がなかった。このような状況では、ミンチョ以遠でオーストリア軍の退却を追撃することは不可能であった。
つまり、フランス鉄道の能力は、軍事行政の無能によって多分に帳消しにされてしまったのであり、この点1895年のフランスは、1870–71年の普仏戦争において、はるかに悲惨な規模で繰り返される体験を、すでに予め1859年に味わっていたとも言えよう。
オーストリアの側も、1850年の低調な成績――その際には学ぶべき教訓を理解したかのように見えたにもかかわらず――を、ほとんど改善しなかった。政府も鉄道も等しく準備不足であり、平時において真剣な組織整備がほとんどなされていなかったため、オーストリア側には道路の停止や駅の過密、前送不能な補給品の山などが頻発した。ウィーンでは、貨車回送の大幅な遅れもあって車両不足が深刻となり、南方への軍用列車の多くは出発直前まで編成できなかった。しかも出発した軍用列車も、一列車あたりの兵員は平均約360名にとどまっていた。ライバッハでは配転命令を待つ部隊が滞留したため、深刻な交通障害が生じた。さらにセメリン峠の険しい勾配ゆえに、各列車は通過前に3つの区間に分割しなければならず、これも遅延の一因であった。またインスブルックからボーツェンまでの間は鉄道が未完成であったため、第一軍団(兵4万人・馬1万頭)はプラハからヴェローナまでの途上、この区間を徒歩行軍せねばならなかった。このような事情を踏まえても、彼らは徒歩で64日を要したと見積もられる行程を14日で済ませたと推計されている。ウィーンからロンバルディアまでは、第三軍団(兵2万人・馬5500頭・火砲・弾薬・車両300台)が14日で輸送され、この場合の移動速度は徒歩行軍の4.5倍であり、やはりフランス軍の列車運行実績より1.5倍ほど遅いにとどまっている。
両陣営とも、戦争の重要局面において、鉄道を通じて決定的な援軍を前線に送り込んだ。連合軍がカステッジョおよびモンテベッロに攻撃を仕掛けた事態について、オーストリア軍のギュライ伯爵はこう記している――「敵はすぐさま自軍より優勢な兵力を展開し、それは鉄道から次々と補強され続けた」。また『タイムズ』特派員は、1859年5月21日付パヴィアからの報告でこう書いている――
モンテベッロの高地から、オーストリア軍は戦争技術における新しいものを目にした。ヴォゲーラから次々と出発する列車が、一列車ごとに数百の兵を吐き出し、機関車は直ちに折り返して次の兵員を運んでくるのである。シュタディオン伯爵はいかなる努力をもってしても、自軍が増強されて圧倒されてしまうまでにこの部隊を撃破することができなかった。
また連合軍が、ヴェルチェッリにおいてオーストリア軍に対する重要な迂回運動を遂行するために鉄道を巧みに利用したことは、鉄道が戦争において、戦地への早期集中だけでなく、戦場そのものにおける戦略的展開の支援にも使われ得るということを、さらに明確に証明した。この点について『スペクタトゥール・ミリテール(Spectateur Militaire)』誌は1869年9月号で次のように論評している――
この集中において鉄道は巨大な役割を演じた。これほど驚異的な形で鉄道が利用され、戦略的計画の中に組み込まれたのは、軍事史上これが初めてである。
集中、増援、鉄道による戦術的運動に関しては、こうした評価は十分に正当化されていたが、この戦役はまた、最大限の効用を発揮させるには、即席の手配――つまりオーストリア側のように優勢が現実化してからあわただしく組織するやり方――ではなく、あらかじめ綿密に諸事を詰めておく必要があることを、これまでになく明確に示した。この点に関しては、鉄道を軍事目的で使用する場合に限らず、あらゆる局面において同様である。
これらの観点から見れば、1859年のイタリア戦役は、戦争における新要因としての鉄道利用の初期発展において、もう一つの重要な段階を画するものであった。とはいえ、この後すぐに続く1861–65年のアメリカ南北戦争こそが、同じ方向において、さらに決定的な進展を遂げることになる。現代戦における鉄道力の真の発展は、事実上この戦争に由来するのであり、この戦争は卓越した形で次の諸点を確立した――(1) 鉄道を用いることで、補給基地からかなりの距離を隔てた場所で戦闘行動を継続しうること、(2) 敵による鉄道破壊の復旧および敵の通信遮断に必要な、特別な組織の必要性、(3) 戦時に鉄道を運営する際、統制権をめぐって軍事要素と技術的要素(鉄道側)との間にいかなる困難が生じ得るか、という問題である。これらの点それぞれについて、以下別々の章を割いて論じることとする。
脚注:
[1] 1847年、ドイツの著名な軍事論者の一人が、小冊子を出版し、最もよく組織された鉄道であっても、1万人の歩兵を60英里に相当する距離だけ24時間で輸送することは不可能であると論じている。また騎兵および砲兵を列車で輸送することについては、彼はそれを「全くの不可能事」と断じた。
[2] 「Uebersicht des Verkehrs und der Betriebsmittel auf den inländischen und den benachbarten ausländischen Eisenbahnen für militärischen Zwecke; nach dem beim grossen Generalstabe vorhandenen Materialen zusammen gestellt.」
[3] 「Die Mitwirkung der Eisenbahn an den Kriegen in Mitteleuropa.」『Archiv für Eisenbahnwesen』1912年7・8月号。
[4] 『Journal of the Royal United Service Institution』第5巻 269–308頁。ロンドン、1861年。
第2章
南北戦争における鉄道
アメリカ南北戦争においては、鉄道の助けなしには、戦争そのものがほとんど遂行不可能であったと言ってよい。
戦闘行動の範囲は、最初から最後まで、ほとんどヨーロッパ全体の面積に等しかった。南北両軍を隔てる前線は、延長2000マイルに及んだ。この広大な地域は、当時まだ未開の土地が少なからず残されていた。都市部を除けば人口はどこもまばらであった。文明の進展はまだ浅く、進撃軍が「現地調達」で食料を賄えるとは限らなかった。食料や飼料などの現地供給が極めて困難であり、戦闘行動が時として、前線から数百マイルも隔たった補給基地に全面的に依存せねばならない場合もあった。
道路や通路はこの広大な地域全体で非常に少なく、しかも多くの場合、その大半は粗悪であったし、悪天候時や、大部隊が通過した後には言語に絶するほどの悪路と化した。特に低地帯では、排水されていない沖積土壌が冬季の洪水によってたちまち沼や湖へと変わった。さらに、まるでイングランドの一つの州ほどの広さを持つ道なき森林や、越えねばならない広大な河川や山脈が、軍隊の移動を一層困難なものにしていた。
このように道路が極めて乏しく、また整備もままならなかったため、交戦者たちの利用し得る輸送手段は、沿岸海運、可航河川、運河、鉄道に限られた。その中でも、とりわけ重要な役割を果たしたのは鉄道であった。
当時のアメリカ鉄道は、一般的に言えば、民間企業によって――もっとも、広大な土地の払い下げその他の優遇措置は受けていた――できるだけ安価に建設されていた。すなわち当面の需要を満たす何らかの鉄道を提供し、人口と交通量が増加し資金的余裕ができた段階で改良するといった考え方が支配的だったのである。多くの路線は単線であり、道床はしばしば不完全であった。レールは重量不足の鉄製で、すぐに磨耗し変形してしまった。枕木(アメリカでは「タイ(ties)」と呼ばれる)は、森から伐り出した原木をそのまま用いており、特に低地帯ではすぐ腐朽した。さらに1860年代初頭の時点でも、狭い渓流から大河、広大な谷筋に至るまで、鉄道を渡す橋梁や高架橋には、粗木のまま、あるいは両面のみを削った材木が用いられていた。
それでも、こうした鉄道は、将来の改善を待ちながらも長距離にわたって敷設され、各地の人口および生産の中心地を結ぶ、計り知れない利便を提供していた。多くの場合、軍隊や補給物資の移動に利用しうる唯一の実用的手段であった。戦略的観点から見れば、鉄道網は極めて重要な役割を担っており、実際多くの戦闘は、特定の鉄道路線、通信線の保全、あるいはとりわけ戦略的な鉄道結節点の支配を目的として戦われた。これらの結節点の中には、さらに遠方の作戦行動の基盤とされたものもあった。
合衆国は、単なる侵略ではなく、脱退した諸州を再征服することに没頭していたため、必然的に攻勢側となった。一方、南部連合は主として守勢の立場にあった。人口は北部が南部を大きく上回っていたが、輸送という観点から見た初期の利点は、むしろ南部の側にあったと言える。南部は鉄道を最大の同盟者として得ていたのである。北軍の将軍たちは当初、補給物資を依存する兵站拠点から遠く離れた場所に出て行くことに非常に慎重であったと言われているが、これは当然のことながら、鉄道通信線の防護が組織的に整うにつれて薄れていった。
かくして、またとりわけ戦争遂行において鉄道網が極めて重要な位置を占めるに至ったことから、連邦政府はまず、1861年3月31日にフィラデルフィア・ウィルミントン・アンド・ボルティモア鉄道を接収した。この予備措置に続いて、翌1862年1月、合衆国下院において「ある場合において、大統領が鉄道および電信線を接収する権限を与える法律、ならびにその他の目的のための法律(An Act to authorise the President of the United States in certain cases to take possession of railroad and telegraph lines, and for other purposes)」が可決された。
同法は、大統領に対し「公共の安全がそれを必要とすると判断したとき」、合衆国内の電信線の一部または全部を接収する権限を与えた。さらに、大統領は「合衆国内の鉄道線路の一部または全部、その車両、機関車、設備、付属建物およびその一切の附属物(appendages and appurtenances)を接収し、これを兵員・武器・弾薬・軍需品の輸送に必要とする期間、これを保持・使用する権限を有する」と定めていた。大統領はさらに、かくして接収した電信線・鉄道路線の保有・使用・維持に関する規則を制定し、防衛および国家の利益に最も資する方法でこれを延伸・修繕・完成させる権限を持つものとされた。さらに、大統領は、接収された電信線・鉄道路線に属する全ての役員・代理人・従業員を軍事指揮下に置く権限を持ち、これら鉄道および電信線はすべて、軍法規則に服する「郵便道路(post road)」であり、合衆国軍事組織の一部と見なされることとされた。政府による接収によって被害を被り、あるいは損失補償を受ける資格を有する鉄道・電信会社の損害額を査定・決定するために、委員が任命されることになっていた。さらに「合衆国内における兵員・軍需品・装備・軍事物資および補給物資の輸送は、すべて陸軍長官および彼が任命する代理人の直接の統制・監督下に置かれるものとする」とも規定されていた。
かくして同法は、政府が戦争目的のために必要とする鉄道全てを正式に接収し、その所有権および運用に関し完全な権威と統制を行使する、という先例を確立したのである。ただし実際には、陸軍省が接収したのは軍事目的で実際に必要な鉄道またはその一部区間のみであった。いずれの場合でも、接収された路線または区間は、軍事目的で不要となり次第、ただちに元の会社に返還された。戦争終結後には、大統領令(1865年8月8日付)によって、政府が接収していた全ての鉄道線が正式に元の所有者に返還された。
1862年1月31日の法律に基づき、合衆国において鉄道で実務経験豊かな最も有能な鉄道人の一人であったダニエル・クレイグ・マッカラム氏に向け、次のような命令が発せられた。彼はスコットランド・レンフルシャー州ジョンストンの生まれで、若くして両親とともにアメリカに渡り、鉄道業界に入り、長年にわたりエリー鉄道の総支配人を務めていた。
陸軍省
ワシントン市D.C.
1862年2月11日マッカラムD.C.を、ここに、合衆国における軍事鉄道の理事兼総監督に任命する。かくして大統領は、兵員・武器・弾薬・合衆国の軍事補給物資を輸送するために必要とされる限りにおいて、全ての鉄道路線・機関車・客貨車・設備・付属建物・附属物を接収し、保有し、使用する権限を同氏に委譲する。また、上記目的のために安全かつ迅速な輸送を行うために必要かつ適切な、一切の行為をなす権限を与える。
合衆国陸海軍総司令官たる大統領の命により。
エドウィン・M・スタントン
陸軍長官
マッカラムは当初、参謀大佐の階級で職務を開始し、その後准少将の位に昇進した。1863年には、権限がさらに拡大され、カンバーランド・オハイオ・テネシー・アーカンソー諸方面軍を合わせた「ミシシッピ軍管区(Military Division of the Mississippi)」において、連邦政府所有鉄道の全て、あるいは軍事権限により接収される全ての鉄道の総支配人に任命された。
戦争期間中、連邦政府が接収・運営した路線の総延長は2105マイルで、その内訳はバージニア州611マイル、ミシシッピ軍管区1201マイル、ノースカロライナ州293マイルであった。とはいえ、連邦政府にとってこれは、単に既存の鉄道線を戦争中だけ所有し運営する権利を移管するという以上の意味を持っていた。
南北戦争当時のアメリカ鉄道の最大の欠点の一つは、線路幅(軌間)の不統一にあった。各鉄道会社は、自社線の建設にあたり、他の路線からの直通運転をほとんど考慮せず、むしろ自社の事情や技師の見解に従って軌間を選択していた。そのため、当時は6フィート、5フィート6インチ、5フィート、4フィート10インチ、4フィート9インチ、4フィート8 1/2インチ(標準的なイギリス軌間)といった各種広軌が存在し、それに加えてさらに狭軌の線もいくつかあった。こうした状態は1866年まで続き、その年になってようやく各社が4フィート8 1/2インチへの統一に合意したのである。
南北戦争が行われていた間は、この不統一がそのまま残っており、それが軍事鉄道輸送を大いに複雑にした。接収・運営された路線のうち、過半数の軌間は5フィートで、残りは4フィート8 1/2インチであったが、ごく一部に5フィート6インチの短い路線もあった。ある軌間の機関車や車両は他の軌間では使えないため、合衆国軍事鉄道の理事兼総支配人には、5フィート軌間を採用していた幾つかの会社の線路を撤去し、接続路線と同じく4フィート8 1/2インチで敷き直すという任務も課せられた。
このように、アメリカ南北戦争は、同一国家あるいは同一大陸内での戦争において、鉄道の軌間統一がなされているか否かによって、戦争に及ぼす鉄道力の価値がどれほど変わり得るか、という教訓をもたらしたのである。
接収された路線の中には、軍用に供する前に、軌間統一とは別に、老朽や破損のため必然的に全面的敷き直しが必要なものもあった。ミシシッピ軍管区の鉄道総支配人にマッカラムが任命された当時、主力軍はテネシー州チャタヌーガにあり、その補給はナッシュビルからチャタヌーガ鉄道(Nashville and Chattanooga Railroad)の151マイルの路線によって行われていた。これはその後、チャタヌーガからアトランタ方面への作戦やノックスビルから南西バージニア方面への作戦の間、常に主たる補給線であったが、マッカラムは1866年に陸軍長官に提出した最終報告の中で、この路線について次のように述べている――
この路線はもともと非常に不完全な方法で敷設されており、重量の不足したU字形レールが木製の梁(ストリンガー)の上に載せられていたが、その梁がひどく腐朽しており、ほとんど毎日のように拡がってしまって、機関車や車両がその間に落ち込む事故が発生していた。
さらに、着工はされていたが完成していなかった路線を完成させねばならない場合もあり、他方では完全に新設する必要のある路線もあった。大規模な側線の整備も行う必要があり、これらを総合すると、連邦政府による鉄道利用は、単に既存の完全かつ良好な鉄道網を軍事目的で接収し使用する、というような単純な話では全くなかったことがわかる。
この上さらに問題だったのは、戦争中、両陣営の鉄道網が絶えず相手側の襲撃を受けたという点である。敵は、通信線を遮断するため、線路や鉄橋、車両設備や鉄道施設の破壊を企図し、その被害規模は莫大なものであった。
マッカラムは、当時のこうした一般状況を総括しつつ、最終報告において次のように述べている――
戦争初期において、軍事鉄道は一つの「実験」に過ぎなかった。1862年および1863年の作戦行動によって幾許かの知見が得られたとはいえ、なお十分とは言えず、シャーマン将軍軍を補給するため、前線の後方に鉄道を建設および再建し、その行軍の歩みに合わせて鉄道を延伸していくという試みは、その問題に最も通暁した最大の経験者たちから見ても、最大級の「実験」として受け止められていた。10万の兵と6万の家畜を、一つの石炭を焚く単線鉄道によって、全長360マイルにわたり、しかもそのほとんど全区間が、活動的かつ復讐心に燃える敵の勢力圏にあるという前提で、補給基地から前線まで補給し続けるという試みは、戦争史に前例を持たないものである。その成功には、膨大な労働力の投入と莫大な資材消費に加え、人間が為し得る限りのあらゆる予見力・精力・忍耐力・警戒心が必要であった。
このように、鉄道力の発揮には多大な投資・周到な準備・不断の努力が必要であった。これに対応するため、マッカラムは連邦政府から、二つの独立した部署を創設する権限を与えられた。これらの部署は、戦争における鉄道力の発展をさらに推し進め、その後世界各国が多少の差こそあれ自国の事情に合わせて採用する先例を築くものであった。
二つの部署は、それぞれ「輸送部(Transportation Department)」と「建設隊(Construction Corps)」と呼ばれた。前者は軍が使用する全ての鉄道路線の運転および日常保守を担当し、後者は敵の破壊行為によって荒廃した線路の修理、通信線の維持、および連邦軍の進軍に伴って占領した敵の鉄道の復旧を担当した。
建設隊と、その行った通信線維持の大事業については、次章で詳述する。
輸送部については、マッカラムはミシシッピ軍管区の全路線を統括する「合衆国軍用鉄道輸送総監(General Superintendent of Transportation on United States Railroads in the Military Division of the Mississippi)」を置き、その指揮下で各重要路線ごとに輸送監督(Superintendent of Transportation)を任命した。輸送監督たちは総監の統制に服し、自ら担当区間の全列車・全機関車の運行について責任を負った。さらに各輸送監督の下には、一人または複数の「輸送主任(Master of Transportation)」が置かれ、担当区間を常時巡回して、鉄道職員が職務を適切に遂行しているかどうかを監督した。
各主要駅には「機関配置主任(Engine Dispatcher)」が配置され、機関車を常に良好な状態に維持し、必要な時には即時に使用できるように整備し、また機関士および火夫を統制し、出発する各機関車に必要な乗務員(クルー)を割り当てる責任を負った。
線路および構造物の日常保守(敵の破壊行為を対象とする建設隊の業務とは別)については、「保守監督(Superintendent of Repairs)」が担当し、必要に応じて路線監督(supervisors)、保線主任(road-masters)、工事監督(foremen)等を指揮して作業員を統率した。車両の保守については、(1) 機関車の修理を担当する「主任機関工(Master Machinist)」、(2) 客貨車の修理を担当する「主任車両工(Master of Car Repairs)」に委ねられた。
これらの職位はすべて独立しており、全員が輸送総監に直接報告した。なおミシシッピ軍管区の輸送部において、最大時に雇用されていた人員は約1万2千名であった。
軍事鉄道運行に必要な十分な数の熟練鉄道員を確保することは容易でなかった。当時のアメリカに経験豊富な鉄道技術者がそもそも少なかった上、政府が接収していない鉄道に在籍する職員にとっては、自らの地位が非常に良好であったため、それを失うことに消極的であったからである。しかしマッカラムは、確保し得た人員たちを、最終報告において最大級の賛辞をもって評価している。
輸送部および建設隊を整備し終えたマッカラムは、次に、必要数の機関車と車両を確保し、それらを良好な状態に保つための工場・工具・資材を用意するという課題に直面した。この点においても、陸軍長官はマッカラムを支援し、1864年3月23日に機関車メーカーに宛てた通達を発した。その中で長官は、マッカラム大佐が、配下の鉄道路線に必要な機関車の即時調達を陸軍省から認可されていることを告げ、次のように続けた――
軍事省の需要に応えるため、貴社は、マッカラム大佐の指示に従い、他の顧客の注文を受けて製作中のもの、その他のものを問わず、彼が指定する機関車をその命令に従って引き渡さなければならない。政府は、貴社に対してその機関車の代価を支払う責任を負うものである。テネシー方面で作戦行動を行っている我が軍にとっては、通信線の装備として機関車が不可欠であり、そのため本通達をもって、貴社には「軍事的必要性」というあらゆる他の考慮に優先すべき緊急事態があることを認識されたいと願うものである。
――大統領の命により。
1864年1月時点で、マッカラムはナッシュビル発の各路線で使用するために、200両の機関車と3000両の車両が必要だと見積もっていたが、実際に利用可能だったのは機関車47両、車両437両に過ぎなかった。そこで不足分を補わねばならなかったが、メーカー各社は「熱烈な愛国心の精神」に鼓舞され、期待に応え、全能力を注いで、納入を急いだ。その結果、機関車生産の速度は、それまでの記録を上回るものとなった。
また機関車・車両の良好な状態を維持するため――とりわけ、敵側による破壊工作が絶えなかった状況を考慮し――連邦政府はナッシュビルおよびチャタヌーガに大規模な機関工場および車両工場を建設した。ナッシュビル工場――ここは南・東・西へ合計500マイルの路線を走る列車の終点であった――では、ときに100両もの機関車と1000両の車両が修理待ちとなっていた。
新線建設や破損・焼損によるレールの取り替えに必要な鉄材の調達も、大きな難題であった。新レール用の鉄を製造する工場は少なく、また双方の軍にとって鉄材の入手は困難であった。中でも南軍は、グラント将軍の南方および西方への進撃によって従来の供給源から遮断されていたため、レール用の鉄材不足は、北軍における金不足よりも深刻な悩みであったと伝えられる。
連邦政府は、こうした事情を踏まえ、製造会社から必要量のレールを調達できないと判断するや、軍事目的に不要と判断される路線のレールを撤去し、それを必要な路線の敷設に充てるという方策をとった。バージニアおよびミシシッピ軍管区において、合計156マイル超の線路のレールがこのようにして撤去され、他所で使用された。その後、連邦軍建設隊はチャタヌーガに「非常に優れた」圧延所を建設し、最新式の機械と装置を備えてレール製造に着手したが、その稼働開始は1865年4月1日であった。この圧延所は、開業後6か月間に新レール3818トンを生産し、それとは別に、連邦政府が購入により調達したレールは2万2千トン近くに達した。
これらの詳細は、当時の鉄道建設がどの程度まで進展していたかという背景を踏まえつつ、南北戦争における鉄道力の利用がいかなる問題を含んでいたかについて、一定のイメージを与えるであろう。莫大な支出と、マッカラムの言うところの先見性・精力・忍耐・警戒が必要だったにもかかわらず、その成果は連邦政府にとってきわめて有利であった。鉄道がなければ、連邦側が掲げた「合衆国の統一維持」という目標を達成できなかったであろうことは疑いない。
軍隊の遠方への移動について南軍の立場から見ても、鉄道は大きな役割を果たした。いくつかの軍隊移動において、物理的条件、車両不足、危険や困難を考慮すれば、鉄道で実現された輸送は、最も有利な条件を想定した場合であっても称賛に値する成果であった。
その一例として、1863年9月に実施された大規模な兵力移動が挙げられる。これは1887年3月号の『センチュリー・マガジン』に掲載された「スタントン陸軍長官の回想(Recollections of Secretary Stanton)」で次のように述べられている――
チカマウガにおけるローズクランズ将軍の敗退は、東テネシーを危機にさらしたとワシントンでは受け止められ、陸軍長官には、ポトマック軍から強力な増援を同地に送るよう求める声が高まった。ハレック将軍(合衆国陸軍総司令官)は、そのような増援部隊を間に合わせることは不可能であると主張し、大統領も、双方の意見を聞いた上でハレックの判断を受け入れた。長官は結論の公表を夕方まで先延ばしし、ハレックと自らの双方がそれぞれの結論を支えるための詳細を用意するよう求めた。そこで長官はマッカラム大佐を呼んだ。マッカラムは法律家でも戦略家でもなかったが、鉄道科学の大家であった。長官はマッカラムに対し、ラピダン河畔からテネシー川畔まで何名の士官・兵・馬と何門の火砲、およびどれだけの輜重を動かす計画であるかを示し、もし自身の生命がそれにかかっているとしたら、最短でどれほどの時間で輸送し得ると約束できるか、と尋ねた。マッカラムは素早く計算を行い、いくつかの計画案を走り書きすると、ハレックが「多分間に合う」と認めた時間内に収まる数字を提示した。しかもそれは、自身が管轄し得るものすべてを自由に統制できることを条件としていた。長官は大いに喜び、その輸送が完全に終了した日には准将に昇進させるとマッカラムに約束し、さらにハレックがこの輸送を「人間の力を超えたもの」と断じたことを伝えて奮起させた。そして計算や計画の最終案を練るよう促すとともに、自らの名と権限を最大限に利用して予備的措置に着手するよう命じた。最後に、のちほど陸軍省に呼び出した際にどうすべきか、何を言うべきかを指示した。協議が再開され、マッカラムが紹介されると、彼は自発的に見える形で、「不可能」とされたことがいかに容易かつ確実に行い得るかを説明し、二人の懐疑者を説得することに成功した。こうして輸送が命じられ、実行に移され、今日では軍事科学において「偉大な戦略の一挙」として記録されている。
このとき実行されたのは、約1万2千マイルの距離を、兵2万3千名と火砲・車輛等一切を含めて鉄道輸送し、それを7日で完了させるという壮挙であった。この鉄道輸送がなければ、軍隊は悪路を行軍しなければならず、その距離を踏破するのに3か月を要したと見積もられている。実際には、この行程を1週間で終え、東テネシーにおける危機的状況を救うことに成功したのであり、戦略上の大計画を鉄道輸送によって実現し得ることの最も説得力ある証明例となった。
1864年12月には、スコフィールド将軍の軍団1万5千名が、アイスと雪に覆われたナッシュビルでの戦いを終えたのち、西方の戦役終了を受けて、テネシー川流域からポトマック川岸へと移動した。この移動は河船と列車を組み合わせ、テネシー川を下り、オハイオ川を上り、雪に覆われたアレゲーニー山脈を越えるというもので、その距離は1400マイルに及んだが、11日という短期間で完遂された。1865年には、東テネシー州カーターズ・ステーションからナッシュビルまで第4軍団を移動させるのに373マイルの鉄道を使用し、1498両の車両が動員された。
要するに、アメリカ南北戦争が戦争における鉄道力の原理発展において果たした役割は、鉄道を利用することで、(1) 軍隊の戦闘力が増大し、(2) 助援部隊を最も危機的な地点に早期に到達させることで、鉄道輸送がなければ達成し得なかった戦略上の利点を獲得し得ること、(3) 補給基地からの距離が鉄道網により克服されることによって、従来の戦争では考えられなかったほど遠距離の作戦行動が可能になることを示した。このような利点の一方で、鉄道破壊と復旧の問題、戦時における鉄道の統制を巡る問題も生じたことは言うまでもない。この点については、次章以降で詳しく論じる。
第3章
戦争における鉄道破壊
軍事目的で鉄道を利用しようという考えが出た当初から、最も自明の批判の一つは、鉄道という「鉄の道」がきわめて脆弱であるという点を根拠とするものであった。橋梁を一つ破壊し、数本のレールを剥がし、あるいはトンネルを一つ塞ぐだけで、兵員や補給品の輸送が阻害され、その被害を被る側にとって深刻な影響を与え得るが、それは同時に敵側にとって対応する利益をもたらすであろう、と論じられたのである。そのような遮断を通じて、国境における兵力集中が遅らされるかもしれない。軍が二つないしそれ以上の部分に分断され、その結果逐次撃破される危険に晒されるかもしれない。危機的状況を救うために緊急に必要とされる増援部隊の到着が、もはや手遅れとなるまで妨げられるかもしれない。敵国領内を進撃する軍隊が、鉄道連絡を絶たれて兵站が途絶し、飢餓または無条件降伏の運命に追い込まれることもあるだろう。侵入軍は、追撃を逃れる自軍側の部隊が撤退時に自国の鉄道を破壊してしまうという事態にも直面しうる。あるいは逆に、国境に達するまで建設され、隣国への侵攻を容易にすることを期待された鉄道が、侵略者としてではなく侵略される側に立つこととなった場合、敵にとってきわめて有利な手段となるであろう――もし戦前に破壊されていなければの話だが――と。
これらの可能性――とりわけ1840年代のドイツでこの問題全般を巡って繰り広げられた論争の中で予見された諸点――は率直に認められつつも、軍事目的で鉄道を利用した場合、たとえ連絡線として脆弱であるにせよ、その防護に成功するか、あるいは破壊された場合でも迅速に修復ないし再建を行うことが可能であれば、一般に重大な支障なく輸送を継続できるはずだと論じられた。ただし、そうした防護や復旧を実現するには、予期し得るあらゆる修理・再建需要に対して、可能な限り迅速かつ最大限の効率をもって対応しうる、周到で徹底した組織が必要だということも、経験を通じて明らかになった。
敵軍の進撃を妨げる目的で、その鉄道通信線を遮断しようとする試みが初めて記録されたのは1848年である。ヴェネツィア市民はオーストリア軍の砲撃に晒されるとみるや、島の都市である自らの街と本土を結ぶ鉄道高架線のいくつかのアーチを破壊した。それに続く1859年のイタリア戦役では、連合軍とオーストリア軍の双方が、鉄橋を焼き払い、線路を剥がして破壊するなどの手段を講じた。ただし幾つかの事例では、連合軍はオーストリア軍による破壊行為を素早く修理し、必要なときには鉄道が再開できるようにしていた。
鉄道破壊と復旧を一つの「科学」へと高め、その科学に奉仕する目的で、世界の先進国がそれぞれの状況に応じて多少の修正を施しつつも後に踏襲しうる組織を確立したのは、アメリカ南北戦争である。
合衆国による南部連合諸州への侵攻に利用される恐れのある鉄道路線の破壊は、戦争初期から南部側の戦略の主要な柱であった。遠征軍が派遣され、襲撃が行われたが、その目的はバラストを焼き払い、レールを剥がして曲げ、枕木をかき集めて焚き木とし、駅を破壊し、敵に利用され得る機関車・貨車・客車を損傷させ、機関車用の水源を断ち、その他さまざまな手段で北軍の進撃を遅らせることにあった。後には北軍も、逆に追撃を阻止するため、あるいは敵の通信線を遮断するために、同様の戦術を積極的に容認するようになった。
こうした破壊行為の実行には、ふつう騎兵が民間人を伴って行動するか、あるいは民間人のみによる破壊隊が使われた。だが20マイル、30マイルにも及ぶ長区間の線路破壊が必要と判断された場合には、南軍は利用可能な全軍を投入することもあった。
当初の破壊方法はやや原始的であったが、実行と試行錯誤を通じて改良が重ねられていった。
たとえば、木造橋や高架橋を破壊するためには、まず周囲に藪木を集め積み上げ、それをアーチの周囲に配置し、タールや石油をかけて火を放った。後に北軍は、より効率的な方法として、長さ8インチの「雷管」(torpedo)に火薬を詰め、橋脚の主材に穴を穿ってそこに差し込み、導火線を使って起爆する方法を考案した。2〜3人ずつ各スパンに配置すれば、最大級の木橋でさえ数分で落とすことができるとされた。
線路破壊の一般的な方法は、枕木とレールを剥がし、枕木を積み上げ、その上にレールを直交する形で載せて火を放ち、レールが赤熱して変形し、あるいは馬や鎖で引っ張って木に巻き付けることができるようになるまで加熱する、というものであった。しかしこの方法は、多大な時間と労力を要する一方で、しばしば期待どおりの結果が得られないことがわかった。すなわち、レールがわずかに曲がった程度であれば、それを元の形に戻して再利用するのに、加熱・変形させるよりもはるかに短時間で済んだのである。そこで北軍の一人の専門家が、巧妙な破壊器具を考案した。これは鉄製のU字型「爪」であり、両端を上へ折り曲げた形で、2本のレールの両側にそれぞれ差し込み、そこに長い木製レバーとロープを掛けて、6人ほどで操作した。これによりレールは枕木から引きはがされるだけでなく、冷間のまま螺旋状――いわばコルク抜きのように――ねじり曲げることができるようになり、圧延工場で再圧延するまで再利用できないほどに変形させることが可能になった。この方法では、440人で1時間に1マイル、つまり2200人で同時間に5マイルの線路を破壊することができた。
機関車を使用不能にする最も効果的な方法は、ボイラーに砲弾を撃ち込むことであった。敵に利用される恐れのある客貨車で、持ち去ることのできないものは、火を放てば容易に破壊できた。ある半年間だけでも、北軍はこの方法で400両の客貨車を処分している。駅舎・給水塔・枕木・燃料・電信柱も、火災その他の手段で破壊または使用不能にされた。
戦争初年の1861年には、南軍はすでに北軍に対して、その後の展開を予示するかのような破壊行為を行っていた。たとえばバルティモア・アンド・オハイオ鉄道の48両の機関車を破壊し、ノース・ミズーリ鉄道の100マイルにわたる線路とその設備一切を完全に壊滅させたのである。
しかし戦略的観点からは、これら以上に重大だったのが、1862年4月に南軍がフレデリックスバーグ鉄道に対して行った大規模な破壊である。この路線はリッチモンドとワシントンを結んでおり、その時点で北軍が計画していたポトマックおよびラパハノック方面軍の連携を阻止する結果となった。北軍はどちらの軍も他方なしには行動できず、またいずれか一方が他方と合流するには鉄道を使う必要があったが、その鉄道が破壊されたのである。南軍の破壊工作はきわめて徹底していた。幾つもの不可欠な橋梁が爆破され、3マイルにわたる線路が剥がされ、レールは南方へ運び去られ、枕木は焼かれた。波止場や建物も焼失または破壊され、鉄道輸送網は完全な混乱状態に陥った。
そこで戦争省は急ぎ、復旧工事をヘルマン・ハウプト氏に依頼した。彼は橋梁建設で名を挙げていた鉄道技師であり、のちに鉄道と戦争の関係において大いに名を知られることとなる「建設隊(Construction Corps)」の先駆けを成し遂げた人物でもある。
ハウプトが復旧工事に着手した当初、彼の頼みとしたのは、北軍から配属された兵士だけであった。しかしこれらの兵士の多くは肉体労働に不慣れであり、病弱であったり能力が十分でなかったり、あるいはそれを兵士の任務と見なしていないため非協力的であった。陸軍将校たちは日々、新たな部隊を送り込んできたが、ハウプトの抗議によって、ようやく特定の兵士を「建設隊」に固定配属するようになった。道具の不足、時折の食糧欠乏、度重なる降雨にもかかわらず工事は急速に進捗し、アカキーク橋(単径間120フィート、高さ30フィート)は約15時間の作業で再建され、ポトマック・クリーク橋(延長414フィート、水面上82フィートの高さ)は、長さ計6.5マイル相当の粗木材を用いる大規模工事であったにもかかわらず、9日で完成した。[5] また3マイルの線路も、弛まぬ復旧作業により3日で再敷設された。その間に必要となった3000本超の枕木は、線路から1.5マイル離れた森林から伐り出された。マクドウェル将軍は、のちにポトマック橋について次のように述べている――
ナポレオン時代の戦役において、二階建て以上、比較的少しでも高い高さを持つ木橋は、普通の軍用道路にかかるものであってさえ、「実施不能」と見なされていたという事実を考えれば、かの地の人々が、アメリカ軍事工学のかくも大胆な作例に驚嘆したとしても、決して不思議ではない。この橋は、軍事工学の教本に記されたあらゆる規則や先例を無視する構造である。ここで用いられている主な構造材は、樹皮すらはがされていない森林から伐り出された丸太である。橋脚の筋交いにも丸太が使われている。三段の脚部と一段のケーソン(crib-work)からなる四階建ての構造なのである。
このように一見原始的な構造であったにもかかわらず、この橋は日々10本から20本の重貨物列車を双方向に通すことができた。また幾度かの大洪水や暴風にも耐え、何ら損傷を受けなかった。
こうして南北戦争の比較的早い段階で、戦略的にきわめて重要な鉄道網が簡単に破壊され得る一方で、驚くべき速さで復旧し得るということが証明され、続く経験によって、さらに壮大な事例が示されることになったのである。
1862年5月28日、ハウプトはラパハノック方面軍における「建設および輸送局長(Chief of Construction and Transportation)」に任命され、大佐の階級を与えられた。翌年には准将に昇進し、それ以降1863年9月まで、とくにバージニアにおいて多くの建設およびその他の業務をこなし、政府に大きく貢献した。彼の『回想録』によれば、連邦軍が建設隊の活動に備えて備蓄していた資材には、長さ60フィートの橋桁用部材が含まれていた。これらは互換性を持たせて加工され、平床貨車や牛馬の牽引などで現場に運び上げられ、そこからは専用に設計された機械装置によって架設された。現場では一切の追加加工を要せず、極めて迅速に組み立てることが可能だったという。ハウプトの監督下で働く一人の工事主任は、自分の方が犬よりも速く橋を架けられると言ったと伝えられている。マサポニックス橋(フレデリックスバーグから6マイル)は、ある月曜日の朝に焼き落とされたが、その代わりとなる橋は半日で架設された。これを目にした見物人の中には、「ヤンキーどもは、叛乱軍(Rebs)が橋を焼くよりも速く、橋を架けてしまう」と叫ぶ者もいたという。1862年5月には、グース・クリークに架かる5本の橋が反乱軍によって焼き払われたが、これらは一日半で再建された。同年6月には、60フィートから120フィートのスパンを持つ5つの橋が一日で再建されている。ゲティスバーグの戦いでは、リー将軍の軍はノーザン・セントラル鉄道の19本の橋を破壊し、ゲティスバーグに通じる支線にもひどい損害を与えたが、戦闘の最中から建設隊が復旧作業にあたり、その翌日の正午には、ワシントンおよびボルティモア両方との鉄道接続が回復された。
ある種の橋梁はたびたび破壊・再建を経験した。たとえばブール・ラン(Bull Run)川に架かる橋は、1863年6月までに7度も焼き払われ、そのつど再建された。多くの橋梁は洪水で流失したが、それが再建後二度、三度繰り返されることもあった。したがって建設隊は、人間の行為による破壊だけでなく、自然の力による破壊にも備える必要があったのである。
ハウプトの先駆的建設隊は、その後ミシシッピ軍管区の軍用鉄道総支配人としてのマッカラムが、より広範な規模で組織した建設隊に引き継がれた。この新たな建設隊は最終的に1万人規模となった。
マッカラムは最終報告でこう述べている――「建設隊の設計は、橋梁および軌道のあらゆる部門において熟練の作業員をまとめて、それぞれに有能な技師を配し、潤沢な資材・工具および機械装置を備えた一団を構成することであった」。この建設隊は、各地の状況に応じて必要な数の「師団(division)」に分けられた。ミシシッピ軍管区では最大時に6師団が編成され、それぞれ「合衆国軍用鉄道ミシシッピ軍管区主任技師(chief engineer of the United States military railroads for that military division)」の総指揮下にあり、全体では約5千名の人員を擁していた。建設隊に完全な機動性を持たせるため、また広範な地点で独立して作業を行い得るようにするため、各師団は一個の完結した単位として組織され、「師団技師(divisional engineer)」が指揮をとり、さらに「小師団(sub-division)」または「区隊(section)」に分けられ、各区隊には「監督官(supervisor)」が配置された。各師団において最大かつ最も重要な小師団は、軌道敷設隊と橋梁建設隊であった。さらに小師団は複数の「作業隊(gang)」からなり、各作業隊には「工事監督(foreman)」が配置された。そして作業隊は、さらに「班(squad)」に分けられ、それぞれ「副班長(sub-foreman)」が指揮した。[6] この種の組織構造により、師団全体またはその一部を、工具・キャンプ用品・野戦輸送手段とともに、どのような交通手段(鉄道・街道・車隊・徒歩)でも、必要なときに必要な方向へ随時移動させることが可能になった。
建設隊の活動を容易にするため、必要な資材の備蓄は、比較的安全が確保され容易に補給し得る地点、すなわち路線沿いまたはそこからさほど離れていない場所に計画的に設置された。破壊工作の恐れがとくに強い地点には建設隊の分遣隊が常駐配備され、通信断絶時には即座に活動を開始できるようにした。重要度の高い路線では、北軍・南軍を問わず、路線の両端に建設列車が待機し、復旧作業に必要なあらゆる資材を積載し、それぞれの機関車はいつでも出発できるよう蒸気を上げて待機した。敵による新たな破壊行為が電信で伝えられれば、ただちに現場へ向けて出発できる態勢をとっていたのである。
ナッシュビルおよびチャタヌーガには、広大な倉庫が建てられ、そこにはあらゆる種類の鉄道修理に迅速かつ大規模に対応しうるだけの資材が常時備蓄された。
ナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道においては、1864年2月から終戦までの間に、延長115マイルの線路が再敷設され、それ以外にも新しい側線として19マイル分が敷設された。これらの側線は8マイルごとに配置され、それぞれが5本から8本の長編成貨物列車を留置し得る規模であった。また45基の給水タンクも新設された。
この路線の再建は、特にシャーマン将軍のジョージアおよびカロライナにおける戦役と深く結びついていた。この戦役は、それまでに例のなかった鉄道力の可能性と、それに伴うリスク、およびそのリスクを組織の力によって克服し得ることを、最も直接的かつ明示的に示すものであった。
アトランタに向かう戦い――その後の有名な「海への行進」に先立つ戦い――において、シャーマンは10万の兵と2万3千頭の家畜を率いていた。アトランタに近づいた時点で、その補給基地は360マイルも後方にあり、食料・衣服・飼料・弾薬その他のあらゆる必要物資の供給、および病人や負傷兵、難民、解放奴隷、捕虜の後送は、彼自身が後に「粗悪に建設された単線鉄道」と記した一路線に依存していた。この鉄道のうち120マイルは、きわめて活動的な敵の勢力圏を通過していた。それにもかかわらず、シャーマンは背後の鉄道路線が時折の中断はあっても「大体大丈夫(all right)」だと、「完全な信頼」を抱いて前進したと言われている。そしてその信頼は、結果によって十分に裏付けられた。
1864年9月初めには、南軍のウィーラー将軍がナッシュビルとマーフリーズボロの間で7マイルの線路を破壊した。また同年12月には、フッド将軍が同区間で8マイルの線路と橋梁延長530フィートを破壊した。しかし連邦軍建設隊の迅速な対応により、いずれの場合も数日で列車運行が再開された。
チャタヌーガからアトランタまで延長136マイルを結ぶウェスタン・アンド・アトランティック鉄道は、戦争中、敵からの攻撃を最も頻繁かつ激しく受けた路線であった。しかし再び、修理および再建作業の迅速さが功を奏し、多くの場合運行の中断は数時間、長くても数日にとどまった。特に注目すべきは、アトランタ近郊のチャタホーチー橋の再建である。この橋は延長780フィート、高さ92フィートの大構造物であったが、これを4日半で再建し列車を通したのである。フッド将軍は、北軍の背後の鉄道通信線を絶つべく、軍をシャーマン軍の背後に迂回させ、鉄道網を襲撃した。彼は線路を2か所で破壊することに成功し、一つは10マイル、もう一つは25マイルに及び、さらに橋梁250フィートを破壊した。しかし連邦側総支配人マッカラムが報告するところによれば、復旧作業は再び迅速に実行された――
幸いにも建設隊の分遣隊は敵から逃れ得たため、それぞれがすでに効果的な配置についており、フッド将軍が線路を離れる前から、ビッグ・シャンティー付近の破壊区間の両端で大型の作業班が活動を開始できた。その結果、10マイルの切断区間はすみやかに復旧され、その後直ちに大きな25マイル区間――レサカ北方の線路――へ作業員が移動できた。フッド軍により補給庫が破壊されたため、我々はこの区間の再敷設に必要な枕木のほとんどを、新たに伐採せねばならなかった。また継ぎ足しに用いるレールも遠方から輸送する必要があった。枕木は線路沿いの樹林地帯で切り出され、多くは人力で線路上まで運ばれた。最初に予定されていた馬車隊は、工事がほぼ完了してから現場に到着したのである。南端区間に用いるレールの多くは、アトランタ以南の別の鉄道から剥がして運搬したものであり、北端区間用のレールの多くは、ナッシュビルから約200マイルもの距離を運んだものであった。
こうした不利な条件にもかかわらず、25マイルの線路は7日半で再敷設され、列車の運行が再開された。
それでもシャーマンは、自身の「海への行進」において、この鉄道通信線に依存し続けることは賢明でないと判断し、アトランタで自軍10万人と6万頭の家畜が一定期間活動できるだけの補給を鉄道によって集積したうえで、もはや軍の必要としない人員および物資をすべて後方へ送り返した。そしてサバンナに向けて出発する前に、自軍の背後60マイルにわたる線路を徹底的に破壊した。これにより、南軍が北軍の通信線を修復・再利用して追撃することは事 practically 上不可能となった。南軍はこの時点ですでに、レール・機関車・車両のひどい欠乏に苦しんでいたのである。したがってシャーマンにとっては、行軍初期には破壊された鉄道を急いで修復することが有利であったのと同じくらい、後半には背後の鉄道を徹底的に破壊することが有利であったと言える。
アトランタからサバンナまでの300マイルの道のり――そこから彼は連邦艦隊との通信を確立できた――の間、シャーマンはジョージア全土で同じ鉄道破壊戦術を続けた。そして軍を3個縦隊に分け、リッチモンドのグラント軍との合流を目指して北上を開始すると、ふたたび同じようなことを行った。
この北進において、シャーマンがチャールストンを直接攻撃する必要はなかった。サウスカロライナ鉄道上のブランチビル(Branchville)――ここはチャールストンからの線路がコロンビアおよびオーガスタ方面に分岐する地点であった――周辺約60マイルの線路を破壊するだけで十分だったのである。北軍の一個縦隊がこの地域を破壊すると、チャールストンは内陸の供給源から完全に切り離され、守備隊は降伏するほかなかった。この点についてヴィゴ=ルイシヨンは『アメリカ合衆国の軍事力(Puissance Militaire des États-Unis d’Amérique)』で次のように述べている――
かくして、長きにわたり北軍最強の艦隊にすら抵抗し続けた叛乱の砦たるこの都市が陥落するには、わずか数キロメートルの鉄道線路の破壊または掌握だけで足りたのである。ここに、現代戦においてかの貴重かつ脆弱な交通手段に託された役割の、鮮烈な一例を見ることができる。
シャーマン軍は、かつて敵の牙城と見なされていた地域を通過する中で、最終的に数百マイルにおよぶ線路を破壊した。一方で、北軍建設隊はノースカロライナ州内で約300マイルの鉄道を修復・再開通させ、さらにアトランティック・アンド・ノースカロライナ鉄道の海側終点に、総面積5万4千平方フィートの波止場を建設した。これはシャーマン軍が当地に到達した際に補給を容易にし、艦隊を通じて物資を得るためのものであった。鉄道がシャーマンの戦役成功に多大な貢献をし、それがまた連邦側の最終的勝利にも大きく寄与したことは明らかである。
北軍建設隊が戦争期間中に敷設または再敷設した線路は合計641マイルであり、建設または再建された橋梁の延長は合計26マイルに達した。鉄道部門(建設および輸送を含む)において、政府が戦争期間中に支出した純経費は、3000万ドルに近かった。
この南北戦争を契機に、鉄道通信線の遮断は全世界の戦争において公認された作戦手段となった。そしてその後、このテーマに関する論考は、さまざまな言語で多数執筆された。また鉄道の破壊と復旧を扱う専門部隊の創設は、軍事組織における重要かつ不可欠な要素となった。これらについては後の章でさらに詳しく論じるとして、ここでは一つの典型例としてメキシコの経験に触れたい。これは、かの国がこの種の実践に対応する有効な手段をほとんど持たなかったことを、特に鮮やかに示している。
『サイエンティフィック・アメリカン』誌1913年9月13日号に掲載されたG. E. ウィークス氏の記事「メキシコ叛乱軍はどのように鉄道と橋梁を破壊するか(How Mexican Rebels Destroy Railways and Bridges)」と、同年10月10日にセントルイス鉄道クラブでチャールズ・ハイン少佐が行った講演「メキシコにおける戦時鉄道運行(War Time Railroading in Mexico)」が、その事情を物語っている。ここで言う「叛乱軍」とは、その時点で政権を握る大統領に反対する一派を指す。1910年から1913年にかけて続いた革命期には、当時の「叛乱軍」は、北軍・南軍がそうであったように、追撃を避けるための通信線破壊だけでなく、国有鉄道の株式の約3分の2を保有する中央政府への嫌がらせとしても、鉄道破壊を積極的に行った。
この期間において、いずれかの派閥による破壊行為の結果として、数百マイルに及ぶ線路が破壊された。数百の橋梁が焼かれ、あるいは鉄橋はダイナマイトで爆破された。駅舎は破壊され、国有鉄道の車両の半数以上が失われた。
ウィークス氏は、実際に鉄道線路と橋梁の破壊が行われているところを目撃する機会を得て、その手法を次のように記している――
過去半年間までは、線路破壊には、まずクレーン車を用いてレールと枕木をまとめて持ち上げて積み上げ、燃やす準備をするか、あるいはバールやレンチ、ツルハシを使ったより遅い方法が用いられていた。しかし、このたび憲法派の専門家によって新しい方式が考案された。
まず二本の枕木の間に溝を掘り、そこに太い鎖を通して二本のレールを巻き付け、線路の中心で鎖を固定する。その一端に太い鋼索(スチールケーブル)を掛け、もう一端を機関車の前部カプラーに連結する。発車合図がかかると機関士は徐々に機関車を後退させるが、ここで使われる機関車はシリンダー径22インチ、行程30インチの220トン級「コンソリデーション」型であることを思えば、何が起きるかは想像に難くないだろう。レールは枕木に打ち込まれた犬釘から引き剥がされ、道床上のほぼ中央に寄せ集められる。枕木は道床から引き抜かれ、あちこちに積み上げられる。その際、多くのレールはその力でもってひどく曲げられ、ねじられる。こうして形成されたレール・枕木の山に、後続の作業隊が枕木を上に積み重ね、一部を下に残す。そしてそれらに石油をかけ、火を付ける。やがて枕木は燃え尽き、地面には曲がりくねり、歪みきったレールだけが残され、再圧延しない限り再利用できない状態になるのである。
橋梁については、木造橋には石油を浴びせて火を放ち、鉄橋については橋脚基部に水平の穴を並べて穿ち、そこにダイナマイトを詰め、メキシコの炭鉱で用いられるものと同種類の電気雷管で起爆した。
さらなる輸送妨害の手段として、彼らは列車を襲撃して停止させ、機関車を奪取し、客貨車に火を放つということもよく行った。
ハイン少佐もウィークス氏も、北軍・南軍のように高度に組織された建設隊がほとんど即座に修復に取りかかる、といった状況がメキシコにあったとは述べていない。むしろウィークス氏は、ディアス大統領に対する反乱以来、鉄道網を元の状態に復旧させるには何年もかかるだろうと考えていた。彼はまた、国有鉄道が破壊された車両・橋梁・駅舎等をすべて補うには、数百万ドルもの費用を要すると述べている。
脚注:
[5] 1864年5月、この橋が再び破壊された際、建設隊はわずか40時間の作業で再建し、列車を通した。
[6] 一個師団の完全編成は、将校および兵員777名から成り、その内訳は次のとおりである――師団技師(division engineer)1名、副技師(assistant engineer)1名、測量手(rodman)1名、書記(clerk)1名、伝令(messenger)2名(計6名)。第1小師団:橋梁および木工監督(Supervisor of bridges and carpenters’ work)1名、書記兼時間記録者(clerk and time-keeper)1名、給食係(commissionary – 配給と配分を担当)1名、輸送主任(quartermaster – 工具・キャンプ用品等を管理)1名、軍医(surgeon)1名、衛生下士官(hospital steward)1名、監督(foreman)6名(各50人に1名)、副監督(sub-foreman)30名(各10人に1名)、熟練工および労働者300名、鍛冶工および助手(blacksmith and helper)1組、炊事係(cook)12名(計356名)。第2小師団:軌道監督(Supervisor of track)1名およびその他の人員構成は第1小師団と同様(356名)。第3小師団:給水施設監督(Supervisor of water stations)1名、工事監督(foreman)1名、熟練工および労働者12名、炊事係1名(計15名)。第4小師団:石工監督(Supervisor of masonry)1名、工事監督1名、石工および助手10名、炊事係1名(計13名)。第5小師団:牛車隊監督(Foreman of ox-brigade)1名、牛方(ox-drivers)18名、炊事係1名(計20名)。列車乗務員(Train crew):車掌(conductors)2名、ブレーキ係(brakesmen)4名、機関士(locomotive engineers)2名、火夫(firemen)2名、炊事係1名(計11名)。
第4章
戦争における鉄道の統制
戦争中に鉄道の効率が低下する原因は、敵だけでなく味方にある場合も少なくない。そして時には、この二者のうち、より大きな混乱・支障・中断を引き起こすのは味方の側であることすらあった。
このような状況は、主として三つの要因から生じてきた――(1) 統制の問題、(2) 鉄道資材・車両の使用における不規則・乱用、(3) 軍事鉄道輸送のための組織の欠如または不十分さ、である。
戦争遂行において鉄道の使用が不可欠の要素となる場合、自国の利益を推進し、または防衛する任務を負う軍事当局が、関係政府を通じて、兵員その他軍事目的の移動に必要となるすべての鉄道路線の輸送施設を指揮する権限を持つべきだと考えるのは、いかにも当然に思われるかもしれない。
しかし、ここに含まれる原則の妥当性自体には何ら異論の余地がないとしても、軍事的統制を鉄道に対していかなる事情・条件の下で行使すべきかについては、多くの考慮すべき点がある。
まず第一に、鉄道という輸送手段は、通常の道路とは全く異なる観点から考えざるを得ないことを、特に銘記しておく必要がある。道路であれば、どのような種類の車両でも利用でき、必要とあらば代替する他の道路もたいてい存在する。これに対して鉄道は、レール上を走行するように造られた車両専用のものであり、その有用性の程度は、特定の目的地に到達するための経路の数、線路が単線か複線か、また勾配が緩やかか急峻かといった重要な細目、利用可能な機関車および車両の数、駅や側線の収容能力、積み卸しのための十分な施設があるかどうか、さらに戦時であれば、敵による特定区間または路線全体に対する損傷・破壊、といった要因によって制約される。一定時間内に特定地点間で輸送し得る交通量は、かくして当該鉄道の物理的条件によって完全に規定されてしまうことがあり、そうした条件は、たとえ鉄道側の職員が最大限の努力をしたとしても、急迫した事態に応じて直ちに変更し得るとは限らない。
次に、これらすべての物理的条件は、鉄道網全体の各系統間で、さらには同一系統内の各区間においてすら、互いに大きく異なり得る。したがって、ある路線またはある地域で満たし得た軍事上の要求が、全く異なる条件のもとにある他の場所でも同様に、あるいはそもそも満たし得るとは限らないのである。だがこの事実を理解し損ねた軍司令官や将校が、鉄道当局と直接折衝した際、自らの要求に応じてもらえないことにひどく腹を立て、「あちらでは出来たことが、なぜこちらでは出来ないのか」といった抗議を受けたときに、聞く耳を持たない可能性も想像に難くない。
さらに、鉄道は非常に繊細な輸送機械であり、簡単に支障を来たしやすい上、その機構に精通し、その複雑な運転の詳細を熟知した鉄道員によってのみ運転し得るものである。これは、軍将校が自らの専門的任務における技術的細目に精通しているのと、ちょうど同じ意味である。ある大鉄道の貨物部長が戦地で将軍と入れ替わろうと申し出れば、陸軍側はその人物を笑いものにするかもしれない。とはいえ逆に、将軍の方も、貨物部長として成功するとは到底思われないのも、同じくらいもっともな話である。鉄道開業のごく初期には、鉄道を管理し、また多数の要員を統制するに最も適任なのは退役将校であろうと想定されていた。実際、一定期間はその方針が採られたが、十分な試行ののち、責任ある鉄道職には、鉄道業務で訓練を積み、その根本原則と技術的細部の双方に実地で通じた人物を任命する方がよいとして、退役軍人起用の方針は放棄された。
こうした繊細かつ複雑な機械たる鉄道を運転する際には、最も経験豊かな鉄道員が運用したとしても、さまざまな要因により輸送の混乱を生じるおそれがある。それにもかかわらず、実務経験のない軍司令官や将校が、鉄道運転に実際的な知識を持たないまま、自軍の利益を思うあまり、責任ある鉄道管理者に対して、当人が技術的見地から不可能であると判断することを強制したり、資源が異常に逼迫している最中に線路運営を妨げたりする権限を持ってしまえば、輸送遮断や事故――人的損害や高価な資材の損失を伴う事故――の危険は、必然的に大幅に増大せざるを得ない。
さらにまた、戦時における軍事作戦用鉄道の軍事統制という原則の真の含意を取り違えた結果、幾つかの戦役では、司令官および下級将校の側に、次のような傾向が見られた――(1) 戦争が続く限り、鉄道および鉄道員は自分個人の命令――あるいは自分の気まぐれ・便宜――に服すべき存在と見なす傾向、(2) 自ら発したあらゆる命令は、他方面からの命令との抵触や、実行可能性の如何にかかわらず、直ちに実行されるべきだと考える傾向、(3) 命令が実行されなかった場合、容赦ない非難を浴びせ、場合によっては、それ以上に厳しい処置すら取ろうとする傾向、である。
これらの点は、その他もろもろの事情はさておくとしても、それ自体として、戦争遂行の手段たる鉄道の効率に直接関わる問題である。従って、ここで我々が扱うべき問題の本質に関わる事項として、これらの困難がどのように生じ、いかなる発展を遂げ、またそれを克服・予防するためにどのような措置が取られてきたかを検討することは、きわめて重要である。
この統制の問題が真に深刻な形で初めて表面化したのは、再びアメリカ南北戦争においてであった。
連邦政府が軍事目的で接収した鉄道を運営するうえで採用した基本原則は、鉄道は陸軍長官または現地・在外を問わず軍司令官が発する命令に従って運行される、というものであった。軍需部(Quartermaster’s department)は、すべての軍需物資を貨車に積み込み、それらがどこに運ばれるべきかを指定し、荷下ろしと引き渡しを手配する任務を負った。しかし、政府が鉄道を接収した「から」、軍需部が上記の任務を担う「から」、また戦争の間、鉄道は兵員および軍需物資の輸送に用いられる「から」という理由で、一部の将校は、自分の管轄下にある路線の運行全体を、自分一人、あるいは軍需部に任せるべきだと結論づけたのである。
こうした見解を抱いていた者の一人がポープ将軍であった。彼は1862年6月26日、ラパハノック方面軍の指揮を引き継いだ際、ヘルマン・ハウプトが同方面軍における「建設および輸送局長(Chief of Construction and Transportation)」の地位にあることを無視し、一切の指示を与えず、ただの鉄道屋に過ぎない彼の助力など無くても軍はやっていけるのだろうと、ハウプトに思わせる結果となった。そこでハウプトは自宅へ引き上げた。ところが十日後、彼は陸軍次官補から次のような電報を受け取った――「直ちに戻られたし。あなたなしではやっていけない。車輪が一本も回っていない。」ハウプトが復帰してみると、線路の運営は失態続きであり、そこに南軍の攻撃による損害も加わって、方面軍内の鉄道路線では文字どおり一つの車輪も回っていない状態であった。ところが、今度はハウプトが「ヴァージニア方面軍管内の全鉄道路線に対する排他的統括権」を与えられ、その立場が強化された結果、彼はまもなく再び列車を走らせることに成功した。それ以降ポープ将軍は、自分がよく理解しない鉄道輸送の細目に関しては、それを理解している人間に任せる、という賢明な自制心を示すようになった。
一方、ある日ハウプトが訪ねて行くと、彼を出迎えたスタージス将軍はこう告げてきた――「あなたを命令違反で逮捕するため、たった今あなたの事務所に護衛を差し向けたところだ。私の部隊を輸送せよとの命令に従わなかったからだ。」。確かに、ハウプトは将軍の命令に従わなかった。スタージスは、1万人の兵士とその馬および輜重を、わずか18マイルの距離を運ぶための特別列車を要求していた。しかしその鉄道は単線であり、使える機関車と車両の数は限られていた。さらに、他方面での至急の要請も予想される状況であったため、ハウプトは、18マイル先の想定戦場への輸送よりも緊急性の高い任務に輸送力を温存した方がよいと勝手に判断した。まして、兵士たちが列車移動中に攻撃を受ければ、彼らは比較的無防備な状態に置かれかねないのに対し、街道上で攻撃を受ければ――その距離は実質的に一日の行軍に過ぎない――即座に応戦できる。こうした事情を踏まえると、この二人のうち、戦略家としてより優れていたのは、むしろ鉄道屋の方だったと言えるかもしれない。
スタージスは、こうした事情を無視しつつ、さらに鉄道を軍事的に接収し、鉄道運転の最小限の知識があれば誰でも不可能だと分かるような命令を次々と発した。一方でハウプトは、電信で総司令官に訴え出た。すると総司令官から次のような返電があった――「いかなる軍将校も、あなたの部下に対して、あなたを通さずに命令を出す権限はない。また誰であれ、列車の運行に干渉してはならない。この電報をスタージス将軍に見せなさい。なお、それでもなお干渉を試みるようであれば、私が彼を逮捕しよう。」ハウプトからこのメッセージの内容を聞くや、スタージスは叫んだ――「そう言っているのか? よろしい。ではそのクソ鉄道を持っていけ!」。
ハウプトは翌朝早くには、スタージス将軍のために要求どおりの輸送手段を用意することができた。ところが午後二時になっても、車両はまだ空のままだった。その事実を指摘されると、スタージスは「確かに命令は出したが、それが守られなかった」と返答した。そこで、他方面での運行を妨げないよう、車両は回収され、別の任務に回された。結果として、将軍の介入がもたらしたものは、路線全体の運行が24時間混乱したこと、そして兵士1万人が、本来なら徒歩で参加できていたはずの戦闘に参加できなかったこと、であった。
同じ戦争において軍事鉄道として運行されていた路線では、上記のような出来事以外にも、数え切れないほど多種多様な不規則が発生していた。その一部を例として挙げておこう。
トラブルの多くは、路線の監督者に一言も断りなく、将校たちが勝手に列車を拘束または接収したことに起因していた。ある将軍などは、列車が必要になるたびに監督者に指示を仰いではいたものの、そのたびに何時間も待たせておいてから姿を現し、それまでの間、他のすべての列車運行が停止してしまうということを繰り返していた。
将校だけでなく、その妻たちまでが特別扱いを要求した例もある。あるとき、行軍に出る部隊に対して急を要する補給品を載せた列車がいつまで経っても到着せず、ハウプトが様子を見に線路沿いを遡って行ったところ、ある地点でその列車が停車しているのを見つけた。機関士に理由を尋ねると、「ある将校夫人からの指示で停車している」とのことであった。その夫人は翌日の戦闘の前夜、夫に会うために列車に同乗していたのだが、近くの町に立ち寄って自分用の宿を探す必要があると主張したのだという。ちょうどそのとき、その夫人が戻ってきたところだった。彼女が再び席に着くと列車は走り出したが、この「部屋探し」の寄り道のために、この列車と、その後ろに続く三本の列車に対して、合計三時間もの遅延が生じたのであった。
また、多くの将校は、貨車をあたかも自分専用の運搬手段であるかのように見なしていた。こうした乱用を抑えるため、ハウプトは1862年6月25日、次のような通達を出さざるを得なかった――
ラパハノック方面軍軍事鉄道のいかなる路線においても、補給将校および糧秣将校は、四半期(Quartermaster)および糧秣部(Commissary)の物資に厳密に、かつ正当に含まれるもの以外の貨物を貨車に積み込むことを、これを厳に禁ずる。
将校またはその他の人物が、いかなる階級・地位であろうとも、その私的使用のための品物を、積み込んだり、積み込ませたりしてはならない。
さらに一部の将校は、輸送上の事情を一切考慮せず、自分が乗車している列車について、終点や駅ではなく、線路上の任意の地点で停車するよう命じ、乗客の通行証や許可証を検査することもあった。また別の例では、ある会計将校が、貨物用有蓋車の一両を本線上に留置し、そこを自分の事務所に仕立てた。彼はそこに机や椅子、金庫、書類一式を持ち込み、線路脇の建物ではなく、そこが快適あるいは便利だという理由から、そこで全ての会計業務を行っていたのである。交通妨害になるので退去するよう求められても彼は拒否し続け、部隊が出動して彼の荷物を強制的に移動させるまで、頑として動かなかった。
補給品輸送の手配不備もまた、運行混乱の重要な要因であった。鉄道側は時として、最前線まで大量の物資を運ぶために最大限の努力を払ったにもかかわらず、それらの物資は需要を大きく上回るか、あるいはそもそもその地点では必要とされていなかった、ということが少なからずあった。こうした貨車は数日間線路を塞いだあげく、荷を降ろされることもなく後方へ返送されてしまうことがあった。オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道では、ある一日だけで、そのような空戻り車が142両もあったと記録されている。不必要な補給物資が前線で荷下ろしされた場合、軍が移動する際には再びそれらを貨車に積み直さねばならないし、また前線が露出した地点では、それらが敵に奪取されるか破壊される危険もあった。適切に組織された体制のもとであれば、需要に見合った量の補給物資だけを前線へ送る一方、一定量の在庫は後方の倉庫や側線に蓄えられ、そこから逐次補給が行われるべきであろう。
駅においても、利用可能な軍用列車をどの部隊が優先的に使うべきかをめぐって、各責任者の間で頻繁に争いが起きた。これに対しハウプトは、どの順番で部隊を送り出すか決定する権限を持つ人物を総司令官から指名してもらう必要があると進言した。
また、医官たちは、なるべく多くの負傷兵を後送しようとするあまり、列車を予定より大幅に長く停留させ、運行全体を混乱させることがよくあった。本来であれば、医官たちは時刻どおりに準備できている負傷兵だけを送り出し、その後に残りの負傷兵のための臨時列車を追加で申請すべきだった。
傷病者輸送に関する取り決めは、他の点でも杜撰であった。1862年8月22日、ハウプトは次のような電報を陸軍次官補に送っている――
今夜、非人道的と思われるかもしれない措置――つまり傷病兵を路上に置き去りにする措置――をとらざるを得なくなるのではないかと恐れている。軍医たちは、しばしば書類も付けずに傷病者を送りつけ、自らの手元から追い出そうとばかりしている。そして我々は、ワシントン行き列車を、荷下ろしに何時間もかかる傷病兵で埋めてしまったなら、部隊を前送することができなくなってしまう。私の第一の任務は部隊の前送であり、次に飼料と糧食の輸送である。
だが最も深刻だった不規則は、貨車の荷卸しの遅延および空車返却の遅れに起因するものだった。輸送需要に対して利用可能な車両数はもともと不足していたが、こうした遅延が重なった結果、その不足は一層深刻なものとなった。原因の一部は、補給列車を迅速に荷卸しするだけの人手がしばしば足りなかったことにある。しかしより大きな要因は、貨車が何週間にもわたって倉庫代わりに留置され続けたこと、および、鉄道運行の実務に不慣れな軍人たちが、「緊急時には車両から最大限の効用を引き出し、絶対に必要な時間以上は遊休状態に放置してはならない」という鉄道員にとっては自明の原則を理解していなかったことにあった。
こうした遅延が鉄道の効率に与えた悪影響について、ハウプトは頻繁に抗議しながら、次のように書いている――
もし、補給基地に到着した全ての貨車が直ちに積み込みまたは荷下ろしを行い、そのまま返送され、また列車がダイヤどおりに運行されるならば、状態が良好で設備も十分な単線路線であっても、20万人規模の軍隊を補給することが可能である。しかし、これらの条件が満たされない場合、その同じ路線は3万人すら十分に補給することができない。
1863年7月9日、ハウプトはメグズ将軍に対し電報で次のように報告している――
再びゲティスバーグへ向かう途中だ。現地はひどい混乱ぶりだ。線路は塞がれ、貨車は荷下ろしされておらず、ゲティスバーグへ送れと命じられた物資が――長時間にわたって荷下ろしされず、あらゆる車両の動きを完全に妨げたあげく――今度は荷下ろしされないまま返送されてきている。負傷者は長時間放置され、彼らを運び出すことすらできない。その全ては、貨車を即時に荷下ろしし返送する、という単純な規則が守られていないがために生じているのである。
こうした状況が軍事全体に与えた影響は、次の通達文によってよく示されている。これは、「鉄道員が軍将校に対し十分な敬意を払っていない」という苦情に答える形で、ハウプトが「合衆国軍事鉄道部門の代理人およびその他の職員各位」に宛てたものである――
私は、軍事鉄道の職員や代理人を、彼らが真に負うべき非難や処罰から免れさせようという意図は全く持っていないが、これまで調査した限りにおいて言えば、彼らに対する苦情の多くは、一般に正当な根拠を欠いていたと申し上げざるを得ない。要求が直ちに満たされなかった場合、その理由は、意欲の欠如ではなく、事前通告の不足に起因する能力不足によるものであった。
一つの駐屯地を任されている将校は、一定の局地的任務を遂行する責任を負っているが、その任務を可能な限り効率的に果たそうとするあまり、自身の狭い守備範囲の外側に目を向ける余裕や意欲を持たないことが少なくない。彼らは、鉄道代理人に対する自身の要求が、四半期将校、糧秣将校、軍医総監、軍医、兵器将校、司令官、陸軍省その他の多方面からの同時多発的な要求に加わるものであること、さらにそれらが定期列車運行や日常業務と並行して処理されねばならないことを考慮せず、自分の要求が直ちに満たされることを当然と期待するのである。
軍事鉄道は、ダイヤと既定の規則に厳格に従って運営された場合でさえ、その輸送能力の五分の一すら提供できないことがある。時間厳守と規律は、軍の行動においてと同様に、鉄道の運行においてもきわめて重要であり、むしろ後者においては一層死活的な意味を持つのである。
ここでハウプトが暗に示しているように、南軍側の襲撃隊や破壊工作員が行った破壊活動で、北軍鉄道の効率がここで言う五分の四も減少したとは到底考えられない。むしろ、その多くは北軍自身の不規則と不手際によって生じたものであった。こうして、戦争における新たな兵器たる鉄道力が、その潜在能力を十分に発揮するためには、敵だけでなく味方からも守られねばならないという事実が、これ以上なく明確に示されたのである。
ハウプトは、前章で見たとおり、ヴァージニア軍事鉄道に関わっていた期間に、さまざまな将校から多大な苦労を強いられた。総司令官は彼に強い同情を寄せ、あるとき(1862年8月23日)電報でこう伝えている――「いかなる軍将校も、あなたを通さずにあなたの部下に命令を与えてはならない。また誰であろうと、列車の運行に干渉してはならない。」また陸軍次官補も、ハウプトをなだめようと、次のようなメッセージを送っている――「将軍たちには、できる限り辛抱強く接してほしい。彼らの中には、敵よりもあなたを悩ませることになる者もいるだろう。」しかし、こうした支援にもかかわらず、生じた乱用は軍事上の立場そのものを危うくするほど深刻なものであり、従って抜本的な対策が必要とされた。その結果として、次の命令が発せられたのである――
陸軍省(War Department)
参謀総長室(Adjutant-General’s Office)
ワシントン
1862年11月10日特別命令(SPECIAL ORDER)
合衆国軍事鉄道沿線の全ての部隊指揮官は、貨車の積み込み・荷下ろしにおいて、いかなる遅延も生じないよう、鉄道担当将校および軍需将校に一切の便宜を提供しなければならない。貨車が補給基地に到着した場合、昼夜を問わず、直ちに荷下ろしを行うこと。あらかじめ、その任務に即応できる十分な作業班を編成し、到着した列車全体を、一度に荷下ろしできるようにしておかなければならない。
各部隊指揮官は、自らの指揮下にある区間において、線路、側線、薪置き場、給水塔その他一切を警備する責任を負うものとし、その結果について責任を問われる。
この義務を怠った軍将校がいれば、軍需将校および鉄道担当将校はその旨を報告し、その将校の名は陸軍人員名簿から抹消されるものとする。
ポトマック軍司令官の指示の下、適切な地点に補給基地が設置され、適切な警備が施されるものとする。
いかなる階級の将校であれ、鉄道監督官が指示した列車の運行に干渉してはならない。これに反する者は、命令不服従の罪により、軍務から免職されるものとする。
陸軍長官の命により。
J. C. ケルトン
この命令について、マッカラム将軍は自らの報告で次のように述べている。曰く、これは「軍または方面軍の司令官が、自ら鉄道を運営しようとした幾つかの試みがなされた結果、それらが例外なく著しい失敗に終わり、組織崩壊的な傾向とあらゆる規律の破壊を招いたこと」を受けて発せられたものである。そして彼は続けてこう述べている――
反乱(南北戦争)前後において、私はかなり広範な鉄道実務の経験を有しているが、その立場から見ても、この陸軍長官の命令こそが成功の基礎をなしたものであったと考える。この命令なしには、軍事行動において重要な要素と化した鉄道輸送体系は、莫大な費用を要するばかりか、滑稽な失敗に終わっていただろう。この事実から我々が理解すべきは、鉄道の運営は戦争術とまったく同様に、それ自体一つの独立した専門職であり、そのように扱われるべきだということである。
ヨーロッパに目を移せば、ドイツおよびオーストリア=ハンガリーは、戦争における鉄道輸送の実用性の根幹に関わるこうした問題の解決を最初に試みた国々であった。両国では鉄道および軍事当局によって、これらの問題に関する多くの詳細な研究が行われている。ここではとりわけ、ドイツの著名な鉄道専門家マクシミリアン・フォン・ヴェーバー男爵が、1870年に出版した『鉄道の訓練(Die Schulung der Eisenbahnen)』[7]の中で述べた見解に注目しておきたい。
ヴェーバーは、戦時特有の鉄道運行不規則を主として三種類に分類した――(i) 輸送計画の不備および車両運用の誤りに起因する遅延、(ii) 駅や側線における輸送物資の集中による一時的な交通遮断、(iii) 軍事任務に対する駅設備や輸送手段の不適合、である。彼はまた、第一の原因をさらに次の四点に分けている――(a) 軍当局と鉄道当局との間の相互理解の欠如、(b) 各鉄道当局が、自らの路線に対してのみ強制力を有し、それを越えて統制力を持たないという厳格な権限の限界、(c) 各路線の全職員が、隣接路線の詳細や運行規則について全く知らないこと、(d) 各路線で用いられている運行方式のうち、他路線に持ち出して適用することが不可能なものが多いこと、である。ただし、ここでの彼の批判は、1870年当時のドイツ鉄道制度の条件に関するものである点に留意すべきである。H. ブッデが『1870–71年戦争におけるフランス鉄道(Die französischen Eisenbahnen im Kriege 1870-71)』で述べたところによれば、当時ドイツには、国有鉄道を管轄する「ディレクション」が15、政府運営の私設鉄道のディレクションが5、会社運営の私設鉄道のディレクションが31あり、合計51の管理機関が存在していたが、それぞれ平均して約210マイルの線路しか運営していなかった。
ヴェーバーは、こうした一般問題について、次のように述べている――
軍当局と鉄道当局との間で、相互理解を深めることの実際的価値は、これまでのところ、あまりにも軽視されてきた。
軍当局からの輸送要求の中には、鉄道一般の性質や現存路線の個別事情から見て、物理的に不可能であるものが多く、その結果、鉄道当局や運転担当者に混乱や不快感を引き起こしてきた。一方で、鉄道側が不可能だと述べた要求の中には、実際には十分実行可能なものも少なくなかった。
このような事態はすべて、両者が互いの業務の本質や仕組みに対する理解を持たず、自らの権限を協調的なものではなく相反するものと見なすあまり、共同作業ができない、あるいはしようとしないことから生じているのである。
これに対してもし、地形・位置・輸送需要の組織形態の違いによって修正される鉄道運行の本質が、少なくとも一般的なレベルで軍将校にも理解されていたとしたらどうだろうか。すなわち、平坦線から山線へ、複線から単線へ、信号および電信装置のある路線から、それら安全・通信機構が破壊された路線へと移るときには、同じ輸送量でも全く異なる方法で行わねばならないことを彼が理解し、また駅の能力、線路延長、積み込み・列車整理・列車行違いの設備等を軍事的観点から判断できるならば、そうした知識を前提に命令を構成することで、鉄道実務者とはるかに迅速かつ容易に意思疎通を図ることができるだろう。これは、命令を後から否定・訂正する形で調整を行ったり、しばしば感情的な激情の中で、一方的な主張をぶつけ合ったりするよりも、はるかに望ましいやり方である。あるいは暴力によって命令を押し通そうとするようなやり方よりも、なおさらである。
同様に、多少なりとも軍事学に通じ、自らの路線だけでなく他路線の実地調査を通じて、路線や駅の軍事的能力を理解している鉄道職員は、このような知識を欠く鉄道職員よりも、軍当局との最初の交渉において、はるかに早く相互理解に達することができるだろう。その結果、彼は軍事当局に「強いられる」立場ではなく、「協力し得る」立場に立つことができるのである。
ここでヴェーバーが示唆しているのは、個々の軍将校および個々の鉄道管理者・職員が、それぞれ相手方の専門業務について十分な知識を身につけ、相互理解に基づいて関係を処理すべきだ、ということである。しかしこの構想を、軍全体および鉄道関係者全体に適用しようとするのは、いささか過大な期待と言えよう。
むしろ現実に必要とされていたのは、軍と鉄道の双方の要素を包含した一種の仲介組織であった。すなわち、軍と鉄道の間に密接な協力関係を築くための装置として、一方では鉄道の可能性と限界について軍を指導し、他方では軍から鉄道への命令を伝達する唯一の公式経路を構成するような組織である。そのもとでは、個々の司令官や将校が自らの判断だけで鉄道管理者や職員に直接命令を下したり、鉄道運営に干渉したりする権利は持たないことになる。ただし、敵による駅襲撃のような、極端な緊急時を除いてである。
こうした諸問題は、その後フランスをはじめとするさまざまな国――とりわけ1870–71年の普仏戦争中のフランス――において、さらなる論争と実践的経験の対象となった。そしてやがては、あらゆる不測の事態を可能な限り考慮しうる、精緻な組織システムの採用を通じて解決されるに至る。詳細については、後の章で述べることとする。
脚注:
[7] 書誌を参照のこと。
第5章
戦争における鉄道の防護
鉄道路線が攻撃を受け、中断または破壊される危険――これは、国境を越えて送り込まれ、広範な破壊を目的とする騎兵部隊によるもの、小規模な襲撃隊が前進する敵軍の背後で作戦することによるもの、あるいは敵地で単独行動する個人によるもの――は、鉄道時代のかなり早い段階から現実のものとなっていた。そのため、状況に応じてさまざまな性格と形式を持つ防護措置が必要とされ、それがまた現代戦に幾つかの新しい様相をもたらした。
アメリカ南北戦争において、ラパハノック方面軍に属する鉄道を防護するためにマクドウェル将軍が出した命令では、1マイルごとに12名の歩哨を配置し、各橋梁や踏切、その他適当な地点に小型の堡塁(ブロックハウス)を築き、要所には前哨(ピケット)を展開した。さらに線路沿いの薮や樹木を伐採・除去し、各監視所には信号用の旗とランタンを備えさせた。シャーマン将軍も、ナッシュビルからアトランタに至る鉄道通信線を守るために、同様の措置を講じた。
これらの予防措置は主として、野戦の敵に対するものであったが、一方で、軍事輸送の継続を図る上での鉄道通信の維持が、一般市民をして自発的に、あるいは不本意ながらも関与させることになる、という事例も早くから見られた。その一例をよく示しているのが、1863年7月30日、ポトマック軍司令部から発せられたG. G. ミード少将の布告である。当時、軍用列車を脱線させようとする試みは、ほとんど毎日のように起こっていた――
オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道沿い、かつ我が軍の占領線内で、一般市民または市民の庇護・隠匿を受けた変装中の反乱兵によって数多くの破壊行為が行われている。この状況は、迅速かつ模範的な懲罰を必要とするものである。ゆえに政府からの指示に基づき、これらの行為への関与を示す十分な証拠がある市民はすべて、逮捕・収監の上で処罰に処されるか、あるいは前線外に追放されるものとする。
鉄道から10マイル以内に居住する住民は、今後、線路・列車・補給基地・駅その他に対して市民・ゲリラ・変装中の者が加えたあらゆる損害について、自身および財産をもって責任を負うものと通告する。かかる損害が発生した場合、当該地域の住民は労務要員として徴用され、すべての損害の復旧作業に従事させられる。
もしこれらの措置をもってなお破壊行為が止まぬ場合、司令官たる私は、自らの職責にもとづき、鉄道沿い一帯の住民をすべて前線外へ追放し、その財産を政府用に収用することを命じざるを得なくなるだろう。
マナッサス・ギャップ鉄道においては、オーガー将軍が、ゲリラによる軍用列車襲撃を防ぐため、占領線内に住む有力な南部側住民をとらえて各列車の機関車上に乗せるという、さらに一歩踏み込んだ方策を用いた。こうしておけば、仮に列車に何か事故が起こった場合、これらの人質も被害者の一人となる危険を負うことになるからである。
1866年の普墺戦争では、鉄道攻撃に対して民間人に責任を負わせるという原則が、さらに一段と発展した形で適用された。ウェッバー大尉は、トルナウ、プラハ、パルドゥビッツを経てブルンへ至る路線について、次のように述べている[8]――「プロシア軍は、線路沿いに多数かつ強力な護衛部隊を配置したこと、そして一部には、彼らが『報復の恐怖』を住民に植え付けたこと、により、住民からの破壊行為に対してこの路線を無傷に保つことに成功した。」ウェッバー大尉は、活動的な敵軍と敵対的な住民を擁する国土においては、鉄道を主要な通信線として依拠することは不可能であったであろう、とも指摘する。ただしここで注目すべきは、彼が用いた「報復の恐怖(terror of reprisals)」という表現である。これは、プロシアがすでに1866年の段階で採用していた方針を示すものであり、その国が後年、同じ方針をさらに苛烈な形で「発展」させていったことを、我々はあまりにもよく知っている。
鉄道通信線1マイルあたりの警備に必要な兵力数は、その地域の戦術的地形や住民感情によって大きく変化する。アメリカのJ. ビゲロー大尉は『戦略原理(Principles of Strategy)』(フィラデルフィア、1894年)の中で、ヨーロッパ戦争の条件に基づくドイツ側の推計として、平均すると15マイルごとに約1,000名が必要であると述べている。この計算によれば、前線が補給基地から60マイル離れている場合、その軍隊は各通信線を守るために約4,000名を割かねばならないことになる。
こうした数字を念頭に置けば、冷酷な性格の総司令官が、軍の早期かつ成功裏の前進を図るべく、一人でも多くの兵を前線に留めておきたいと考える理由も、いくぶんか理解しやすくなるだろう。彼が民間人に対する「恐怖」を意図的に広めることで、鉄道通信線の警備に残さざるを得ない兵力を、可能な限り少数に抑えようとするのも、その一環である。
これらの考察は、1870–71年の普仏戦争中、ドイツ軍がフランス領土を占領していた期間、ドイツとフランスとの鉄道通信線を守るために、特に緻密なシステムを採らざるを得なかったという事実を思い起こせば、なおさらのこととして理解できよう。ドイツ軍は、各駅にランドヴェア(予備役兵)の分遣隊から成る守備隊を配置し、周辺の町や村にも小規模な分隊を置いた。各信号小屋には別個の部隊を駐屯させ、線路全体は、3〜4マイルおきに設けた警備哨からの巡邏で守られた。総計で、ドイツ軍は支配下に置いたフランス国内の約2,000マイルの鉄道路線の保護だけに、約10万名の兵士を投入したと言われる。それでもなお、遊撃隊(フラン=ティルール)による破壊工作は、しばしば通信線の中断を引き起こした。
1867年5月2日付のプロシア布告によれば、敵国領内で接収した鉄道路線を復旧したのち、さらに破壊行為が起こった場合には、当該地域を少なくとも500ターラーの罰金に処し、住民の財産を没収可能とし、また地方自治体の責任者を逮捕し得ると定められていた。
1870–71年戦争では、ドイツ軍はさらに、アメリカ南北戦争における北軍の先例にならい、自国がフランス領内で運行する列車の機関車に、通過する各地域の有力市民を一人ずつ乗せるという措置をとった。この慣行を擁護する形で、ドイツ参謀本部は『陸戦における戦時慣行(The Usages of War on Land)』[9]の中で次のように述べている――
この措置によって、平和的住民の生命が、彼ら自身に何の責任もないまま重大な危険に晒されるため、ドイツ国外のすべての論者は、この措置を万国公法に反するものとし、当該国住民に対して不当なものと非難した。
こうした否定的批判に対しては、この措置がドイツ側においてもしばしば苛酷かつ残忍なものと認識されていたこと、しかし占領当局による警告や通達が効果を上げなかったため、全く正当性を欠き、むしろ犯罪的とすべき狂信的住民の行為に対しては、当時の状況においてこの方法のみが有効な抑止手段たり得たこと、を指摘すべきである。ここにこそ、この措置が戦時法規の下で正当化され得る根拠があるが、さらに重要なのは、それが完全に成功したという事実である。すなわち、市民が機関車に乗せられた区間では……交通の安全が確保された、ということである。
ブッシュは、1870年12月16日付の日記で、同じくこの措置を次のように弁護している――
市民は、フランスの英雄的行為を妨げるために連行されたのではなく、卑劣な犯罪行為に対する予防措置として連行されたのである。鉄道は、兵士・弾薬その他、暴力の行使が許される戦争物資だけを運ぶわけではない。それはまた、多数の負傷兵、軍医、衛生兵、その他全く無害な人々も運ぶ。果たして一人の農民やフラン=ティルールが、一本のレールを外したり、線路上に石を置いたりすることで、何百という生命を危険に晒すことが許されるべきだろうか。我々はフランス人に対し、列車の安全がこれ以上脅かされないことを示すべきであり、その場合、これらの人質の機関車に乗る旅は単なる小旅行に過ぎないし、あるいは我々は、かかる予防措置そのものをもはや必要と感じなくなるかもしれない。
南アフリカ戦争においても、ロバーツ元帥は1900年6月19日、プレトリアで発した布告の一条において、英軍が占領した地域で運行する列車の機関車に、ボーア側の指導的住民を乗せる権限を認めた。しかしこの条項は、わずか8日後に撤回された。
この慣行に対するイギリス側の見解は、公式の『軍法便覧(Manual of Military Law)』第14章「戦争の法と慣行」第463段において、次のように定義されている――
かかる措置は、列車脱線という敵個人による違法行為だけでなく、交戦国の武力部隊が行う正当な襲撃行動に対しても、住民の生命を危険に晒すものである。ゆえにこのような慣行は、決して推奨されるべきものとは言えない。
オレンジ自由国およびトランスヴァールにおいて、英軍占領中になされた鉄道攻撃に対処するため、30フィートを超えるスパンの橋梁ごとに塹壕で囲まれた防御陣地が設けられ、それらの間を常時巡邏隊が行き来した。さらにキッチナー卿の導入(1901年)によるブロックハウスが、すべての鉄道路線に沿って約2,000ヤードごとに建設された。各ブロックハウスには約10名の守備隊が配置され、その周囲には鉄条網が張り巡らされた。これらの鉄条網と、各種の警報用柵は、それぞれブロックハウス間にも敷設され、敵の接近を困難にするとともに、守備隊へその接近を知らせる役目を果たした。
今日では、ブロックハウスは鉄道路線を攻撃から守る主要手段の一つと見なされている。その構造および装備については、米陸軍工兵隊のW. D. コナー少佐が『軍用鉄道(Military Railways)』(米陸軍工兵隊専門論文第32号、ワシントン、1910年)で詳述している。
このブロックハウス制度を補完するものとして、平時において、各国では重要な河川に架かる鉄道橋に隣接して、堅固な石造の恒久堡塁を建設する慣行がある。中には、鉄道線路そのものが堡塁の中心部を貫通する形で設計されているものもある。これらの堡塁は、通常極めて強固かつ質量ともに十分な構造を有し、防爆覆いや、ある程度長期の籠城が可能なだけの食糧備蓄を備えているケースも多い。また、必要に応じて最終的手段として橋梁を爆破するための仕掛けも、予め堡塁守備隊の管理下に置かれていると見てよいだろう。
こうした堡塁および守備隊は、戦争勃発時において、奇襲的侵攻を一時的にせよ食い止め、防衛準備を整えるための時間を稼ぐ上で特に重要な役割を果たすとされる。1870–71年戦争ののち、とりわけライン河を渡る主要鉄道橋の全てにこの種の堡塁を設けることは、プロシアにおいて強く推奨された。
同様の堡塁、あるいはドイツ語で「遮断堡塁(interrupting forts)」と呼ばれるものは、重要トンネル、鉄道ジャンクション、機関車工場や車両工場などの防護のためにも建設される。
鉄道路線を攻撃から守る別の方法としては、装甲列車の使用がある。ただし実際には、装甲列車は通信線の安全確保を目的とするだけでなく、敵に対する独立した攻撃手段としても用いられる[10]。
機関車や車両の防護――それらが敵に捕獲され、利用されることを防ぐ――という観点から見れば、最も効果的な方法は、敵が到達し得ない地点までそれらを移送してしまうことである。
1866年、オーストリアはプロシア軍の侵攻を阻止し得ないと悟ると、ボヘミアおよびザクセンの鉄道から、機関車1,000両および貨車1万6,000両をハンガリーへ移送した。同様の戦術は、南アフリカ戦争でボーア側が我々に対して用いたものである。英軍がケープ植民地からオレンジ自由国へと前進した際、退却する敵は、線路に多少の損傷を与えただけの鉄道を残して、すべての車両と駅勤務者を引き上げていた。その後英軍がプレトリアを占領した際には、確かに機関車16両と貨車400両を鹵獲したが、駅の日誌によれば占領前の48時間に、二重連結機関車に牽引されたものを含む70本もの列車が、東方のドラケンスタイン湾方面へと送り出されていたことが判明した。
機関車や車両を撤退させることが不可能な場合、それらを敵に利用させないための明白な代替策は、主要部品を取り外し、あるいは破壊を確実にする措置を講じることである。アメリカ南北戦争中に採られた幾つかの方法は、この目的を達成するうえできわめて有効であった。例えば、列車を走らせたまま機関士と火夫が機関車から飛び降り、そのまま列車を川へ突入させたり、破壊された高架橋から落下させたりした例がある。その他にも、多量の火薬を詰め込んだ二本の列車を全速力で互いに衝突させる、といったことも行われた。多くの機関車のボイラーが破裂させられ、貨車は可燃物で満載された上で放火された。
敵が占領した鉄道路線を利用できないようにする別の方法としては、線路の軌間を変えるというものがある。フランス、ドイツ、オランダ、ベルギー、デンマーク、オーストリア=ハンガリー、イタリア、スイス、ルーマニア、トルコなど大陸の主要鉄道は、イギリス・カナダ・アメリカの鉄道と同様、標準軌4フィート8.5インチ(約1,435mm)を採用しており、そのため車両は各国間を容易に直通運転できる。しかしロシアの鉄道は軌間5フィート(約1,524mm)であり、国境において列車から列車への積み替えが必要となる。同様に、スペインおよびポルトガルでは、標準軌は5フィート6インチ(約1,676mm)である[11]。
ロシアがこうした広軌を採用したのは、仮に侵略を受けた際、例えばドイツがベルギーやフランスの鉄道に対して行い得るように、敵が自国の車両をそのままロシア国内の線路に乗り入れできないようにするためであった。その意味では、ロシアは防衛の観点からは自らの立場を強化したと言える。しかし一方で、ロシア自身が侵略者となったり、他国領内を通過してさらに遠方の地点へ軍用列車を送ろうとする場合には、逆に不利を被ることになる。実際、1877–78年の露土戦争においてロシア軍がルーマニアを経由してトルコへ進軍した際には、ロシアとルーマニアとの鉄道軌間差のため、国境で兵員・物資・火砲・弾薬・魚雷艇などを乗り換えさせなければならず、大きな遅延と不便を招いた。
また工学的な観点から見れば、広軌を狭軌に改めることは、狭軌を広軌に変更するよりもはるかに容易である点も忘れてはならない。前者の場合、既存の枕木・橋梁・トンネル・ホーム等はそのまま使用可能であるが、後者の場合、新しい枕木を敷設し、橋梁やトンネルを拡幅・拡高し、ホームや駅構内を改造する必要があり、広軌車両を使用するためには線路全体をほぼ全面的に再建せねばならない。こうした事情を踏まえると、広軌を採用した国は、それだけで見ればむしろ不利な立場にあるようにも思われる。このことから少なくとも言えるのは、その国が自国領の防衛には強い関心を払っている一方で、隣国領への侵攻にはさほど積極的でない、ということである。
ドイツが、仮にロシアに侵攻しようとした場合に、この軌間差の問題をどのように克服しようとしていたかについては、第18章で述べることにする。
脚注:
[8] 「1866年ボヘミア戦役覚書(Notes on the Campaign in Bohemia in 1866)」ウェッバー大尉著。王立工兵隊論文集(Papers of the Corps of Royal Engineers), New Series, Vol. XVI, ウールウィッチ、1868年。
[9] 『ドイツ戦時法規集(The German War Book. Being the Usages of War on Land)』。ドイツ陸軍大参謀本部編。ロンドン、1915年。
[10] 装甲列車の詳細については、第7章および第16章でさらに詳述する。
[11] 『野外勤務ポケットブック 1914(Field Service Pocket Book, 1914)』151〜152頁参照。
第6章
兵員と補給
鉄道の軍事利用に関する初期の議論では、意見の大半が大部隊の移動、時間節約の度合い、それによって得られる戦略的優位といった問題に集中していた。こうした観点は理論上のものから実際のものへとすぐに移行し、例えばナポレオンの大陸軍20万が1805年、ドナウ河畔のウルムからフランスのブローニュ野営地まで、700キロ(約435マイル)の距離を行軍するのに42日を要したという事実などと鉄道の実績を比較してみれば、少なくともこれらの点に関して鉄道がどれほどの貢献をなし得るかについて、もはや疑う余地はなくなった。
しかし「より速い輸送」は一要素に過ぎない。鉄道による兵員輸送は、単に目的地への到着時間を短縮するだけでなく、兵士たちを長距離の道路行軍による疲労から解放し、より完全な充足状態のまま集中地点に到達させる、という重要な利点をもたらす。
ドイツの権威によれば、道路状態がよく、規律が保たれ、食料供給も十分な条件下で行軍する場合でも、歩兵・騎兵の落伍率は、気候が涼しく乾燥しているときで3%、暑さや降雨に見舞われるときで6%に上るという。道路・天候・補給の条件が悪化すれば、その損耗は途方もないものになり得る。例えば1799年秋、スヴォーロフが有名なサン・ゴタール越えを行った際、彼はわずか11日間で1万人の兵を、行軍の困難さのために失っている。1812年のロシア侵攻においても、ナポレオンは戦闘による損害をはるかに上回る数の兵を、行路の疲労と困苦の中で失った。ブリュッヒャーが「夜間行軍ほど恐ろしいものはない。敵よりも夜行軍の方が怖い」と語ったと伝えられるのも、このためである。
イギリスの権威R・ホーム中佐(王立工兵隊、C.B.)は、『通信線の組織(鉄道を含む)(The Organisation of the Communications, including Railways)』と題する論文の中で(王立統合軍事研究所誌第19巻、1875年)、次のように書いている――
仮に5万人程度の中規模な軍隊が、100マイルを単に行軍したとしよう。砲火を一発も交わさず、敵影を一度も見ずにである。その場合であっても、解消しなければならない傷病者の数は非常に大きくなる。
経験によれば、気候が良く、食糧が豊富で、行程がほどほどで、天気がよいという条件の下であっても、そのような兵力が10日間行軍した場合、通常の要因による損耗は2,000〜2,500名に達する。一方、擦り傷、蹄の損傷、疲労によって使用不能となる馬の数も非常に多くなる。数日の悪天候やちょっとした戦闘があれば、その数はさらに大きく増加する。前線において、能力を失った兵士や馬は、むしろ「足手まとい(positive disadvantage)」である。
同じく等しく重要な点として、鉄道による兵員輸送が、兵士と馬に対する補給の面で与える利点が挙げられる。
あらゆる時代を通じて、敵地において自軍を食べさせる、ということは軍司令官が解決しなければならない最も重大な問題の一つであった。実際、ある場合には巨大な軍勢が侵攻先から十分な物資を引き出すことに成功したが、他方では「現地調達」で生き延びようとした軍隊が、必要な食料を得られず、何千人もの兵を飢餓の結果として失った例も少なくない。紀元前513年、ペルシア王ダレイオスは70万の大軍を率いてボスポラス海峡を船橋で渡り、後退するスキタイ人を追ったが、草原地帯には兵を養う手段が全くなかったため、そのうち8万人を失った。紀元前325年にアレクサンドロス大王がインドから撤退したときも、バルーチスターンの砂漠において三分の二の兵が渇きと飢えで倒れた。また、ロシア戦役におけるナポレオンの悲劇的な敗北の主因も、補給線から完全に切り離されたがゆえの食糧不足にあった。平時には住民の需要を十分満たし得る肥沃な土地であっても、侵攻してきた軍勢が巨大であれば、その全員を養うことはできないかもしれない。あるいは退却する住民が、自らが携行できない食糧を焼き払ってしまうため、侵略軍を飢えさせる結果になることもある。
仮に侵攻軍が「現地調達」に成功したとしても、兵士を食料調達に任せきりにした場合、規律の崩壊を招くうえに、軍隊が略奪のために分散してしまい、本来なら集中しておくべき時に散開してしまうという戦略上の不利も生じ得る。
マセナ元帥の参謀長フリロン将軍は、ナポレオンのポルトガル遠征について次のように書いている――
兵士が、今後は自らの力に頼るしかないのだと確信した日、規律は軍隊の隊列から消え去った。将校は困窮の前に無力となり、自身の命をも支える糧を運んできてくれる兵を叱責する気には到底なれなかった。その兵は、数えきれないほどの危険と疲労をものともせずに獲物を手に入れ、それを兄弟愛の精神で将校と分かち合っていたのである。
ナポレオンのロシア遠征の、まさに出発点において、厳しい地理的条件と食糧不足の組み合わせが軍の戦闘力をいかに損なったかについては、チエルス(『執政および帝政史(Histoire du Consulat et de l’Empire)』)が見事に描写している。ナポレオン軍がネマン川――ロシア領への国境――に到達した時点で、兵士たちはすでに長い行軍で疲弊しきっていた。パンも塩も酒もなく、塩気のない肉と水で練った穀粉だけでは、もはや空腹を満たせなかった。馬もまた、適切な飼料が得られないために体力を消耗していた。軍の後方では、多くの兵士が隊列から脱落し、道に迷っていた。まばらな人口しかいない地域で彼らが出会った少数の住民は、ポーランド語しか話さなかったが、その言葉を疲れ果て飢えた兵士たちは理解できなかった。しかも当時までは、こうした何百マイルにも及ぶ行軍と、ほとんど飢餓に近い糧食で衰弱しきった兵士たちが、最も苛烈な肉体的負担を強いる戦闘に投入されていたのである。
「現地調達」がもはや不可能な状況において、軍が取り得る唯一の選択肢は、後方から補給物資を送ることである。しかしその補給が道路輸送に完全に依存している場合、(砲兵・弾薬・各種軍需品の輸送と合わせて)第一に、膨大な数の輸送車と輸送動物の使用を必要とし、軍の機動を著しく複雑にする。第二に、補給を自前の輸送力にのみ依存する軍隊が、作戦を展開できる距離に厳しい制限を課す結果となる。
この二番目の制限は、第一の制約の直接的な帰結であった。その理由は、ウィリアム・T・シャーマン将軍が1888年2月号の『センチュリー・マガジン』に寄せた記事(595〜596頁)で、次のように説明している――
ウェリントン公の言葉を借りれば、軍隊は足ではなく、腹で動くのである。輸送を貨車にのみ頼る軍隊は、補給基地から100マイル以上離れて行動することはできない。なぜなら、往復する輸送隊が、その荷台に積まれた物資を自家消費してしまい、前線で戦闘に専念している兵士と馬に行き渡る分がほとんど、あるいはまったく残らなくなるからである。
道路輸送に依存する場合、補給の道中が長くなることで、腐敗しやすい食糧が輸送中に傷んでしまう危険もある。また、悪天候にさらされることで、補給物資全体の質が低下し、その結果、実際に軍が利用できる食料の量が減少する。
こうした諸条件は、鉄道の登場によって一変した。鉄道は補給輸送の面においても、兵員輸送と同等――いや、それ以上と言ってよいほど――に重要な革新をもたらした。
鉄道のおかげで、軍隊は今や、自国の内地全域から補給を受けることができるようになった――もちろん、鉄道通信線を確保できることが前提ではあるが。また、定期列車のみならず、途中の補給基地・集積所をも活用することで、必要なだけの補給物資を、必要なときに、「前線基地(レイルヘッド)」まで送り届けることができるようになった。この条件の下では、作戦地の豊かさ貧しさや、自軍が補給基地からどれほど離れているかにかかわらず、前線の兵士を十分に食べさせることが、原理的には保証されるのである。
第7章
装甲列車
現在は廃刊となっているロンドンの雑誌『ワンス・ア・ウィーク(Once a Week)』1859年8月13日号に、「イギリス鉄道砲兵:侵略に対する安価な防衛(English Railway Artillery: A Cheap Defence against Invasion)」と題する記事が掲載された。その中で筆者は、次のように述べている――
我々はこれまで、鉄道を単なる輸送手段、すなわち、レール上を離れて初めて使用される物資を運ぶための道具としてのみ捉えてきた。だがひとたび鉄道を戦争の道具の一部として見なすならば、我々が商業目的のために既に手中にしている、そして即座に戦争用に転用可能な巨大な手段の存在に、驚かされることだろう。
この論文の筆者はウィリアム・ブリッジス・アダムス(1797–1872)である。彼は鉄道創成期から鉄道事業に携わり、現在もレールの接続に用いられているフィッシュジョイントを含む、多くの発明・改良を導入した鉄道技術の権威であり、鉄道・輸送その他諸分野に関する著作や論文を多数残している。この論文で示された彼の新提案は、主として侵略者からイギリス海岸を防衛するという観点から鉄道を活用しようとするものであり、その一環として、彼は世界で初めて「装甲列車」を用いる構想を明確に打ち出した人物と考えられる。
この記事および提案がなされた直接の背景には、1859年当時、イギリスがフランスからの侵略の危機にさらされているかに見えたことがある。当時、イギリスの国防体制に明らかな欠陥があることが認識されており、その結果として義勇軍(Volunteer Corps)が創設され、沿岸防衛問題を調査するためのロイヤル・コミッションが設置され、多数の専門家からさまざまな提案が相次いだ。その中で、アダムスは、どのような沿岸防衛システムが採用されるにせよ、それを補完するものとして、装甲で防護した貨車に砲を搭載し、それを機関車で牽引して沿岸鉄道を往復させるという構想を提示したのである。
アダムスによれば、重砲は現代戦における最も強力な兵器であるが、多数の馬による牽引を必要とするという欠点を抱えている。そこで問題となるのは、どうすれば馬を不要にできるか、という点である。彼はこれを、砲を「真の防衛線――すなわち鉄道」の上に載せ、それを機関車で牽引・推進することで解決すべきだと考えた。「20トンの重量を持つ砲を、回転砲座を備えた鉄道貨車に搭載し、重量100〜150ポンドの砲弾を、距離5マイル先まで発射し得るようにせよ」と、彼は書いている。「このような砲車は、8輪の貨車に容易に搭載でき、反動も発生しないだろう。」こうした砲台は「実質的に移動要塞」であり、「防衛線たる沿岸鉄道」に配備すれば、「最も安価な形で連続した要塞」を形成できる、と彼は考えた。ただし、すべての戦略的要地において沿岸鉄道への接続を確保するため、一般道路にもレールを敷設する必要があるとした。こうした一般道路用レール(軌道)と鉄道路線を組み合わせることで、「国内の鉄道体系全体が軍事目的に供し得るようになる」と、彼は言う。
さらに彼は、次のように続けている――
鉄道体系は、防衛には非常に適している一方で、侵略者にはきわめて利用しにくい。そのため、どのようにアームストロング砲その他の砲を鉄道に適用するのが最善かを、今すぐにでも研究の対象とすべきである。機関車の運転士を狙う歩兵の銃撃から彼らを守るため、機関車を弾丸を通さない壁で覆うことはきわめて簡単だ……。装甲された砲車を除けば、機関車や砲に損害を与え得るのは砲兵のみであるが、砲兵は、機関車や砲車が近づきたくないと思えば、そうした位置には容易に近づくことはできないだろう。
このような装備であれば、一門の移動砲で固定砲10門分の働きができるし、何よりも、要塞が攻略されることがない以上、捕虜となる兵士もいない。
このシステムについて考えれば考えるほど、「比較的わずかな費用で国土を侵略不可能にする、最も単純な方法」である、という確信が深まるはずである。
ここで提案されている構想は、三つの要素から成ることが分かる――(1) 鉄道を「戦争の道具」として用い、沿岸防衛に活用すること、(2) アームストロング砲その他の砲を鉄道貨車に搭載し、その上から発射できるようにすること、(3) 機関車を「弾丸を通さない壁」で守り、運転士を防護すること、である。砲兵の乗員については、まだ特に防護策が必要だとは考えられていないが、それでもここには明らかに「装甲列車」の萌芽が認められる。
この構想とほぼ同じ頃、鉄道を戦略的手段として用いる一般的な提案が他にもなされた。特にロンドン防衛の観点から、装甲列車の使用が唱えられた点は注目に値する。
1860年7月16日付『タイムズ』紙に「参謀将校(A Staff Officer)」名義で寄せられた手紙の中で、筆者は「ロンドンにとって、最も効果的かつ最も経済的な防衛線は、首都の中心から15マイルの距離に完全な輪を描く環状鉄道であり、その内側においては既存の諸鉄道路線が内側作戦線として機能するだろう」と述べている。この環状鉄道には、「アームストロング砲およびウィットワース砲を搭載した、大型の鉄板覆い付き貨車」を配備すべきであるとし、その貨車はアダムスの案に倣って旋回砲座を備える一方、貨車そのものにも「防弾盾」が装着されるべきだとしている。この環状鉄道は主として防衛目的のために建設されるが、平時には一般交通にも供されるだろうから、建設費の一部は運賃収入で回収できるはずだ、とも主張した。
この手紙の筆者は、79高地連隊(第79ハイランド連隊)の将校であり、当時フリートウッドにある射撃学校の参謀職に就いていたアーサー・ウォーカー中尉であった。彼はこの問題をさらに発展させ、『王立統合軍事研究所誌』1865年1月30日号で「沿岸鉄道と鉄道砲兵(Coast Railways and Railway Artillery)」と題する論文を発表した[12]。その中で彼は、鉄道と組み合わせた「移動砲台」を、全国の海岸線に沿って敷設された沿岸鉄道と結合して、海岸防衛手段として用いることを強く推奨した。彼の提案では、野戦砲を「側面に十分な厚さの装甲を施した貨車」に搭載し、機関車と炭水車もまた「鉄製の防盾で覆い、その両側に装甲塔を設ける」ことになっていた。彼は、「このような兵器の前で上陸作戦を試みることは、全く不可能であろう」と断じ、「この種の移動砲台こそ、最も安価な要塞である。我々はただ、鉄道に適した砲架を即興で作ればよいだけだ」とまで述べている。同じ会合で、T・ライト技師は、海岸・国境・内陸防衛用として10門・20門・40門の砲または迫撃砲を搭載可能な鉄道砲列車について、詳細な設計案を提示した。
1872年には、E・R・ウェザレッド大佐が陸軍省に手紙を送り、重砲を鉄道の任意の地点に移動できる特殊砲車に搭載すべきだと提案した。彼の見解では、この方法により、(1) 国土防衛のために鉄道網を最大限活用できる、(2) 任意の地点に圧倒的な火砲を集中させることが可能になる、(3) 搭乗員を砲車で移動させることで、彼らの危険を軽減できる、という三重の利点が得られるという。
ウェザレッド大佐はまた、1877年5月25日付『タイムズ』紙への寄稿「移動砲台(Portable Batteries)」の中で、次のように主張した――敵が上陸を試みる前に、イギリスがあらゆる沿岸の急所に圧倒的な火砲を確実かつ迅速に集中でき、しかも侵略軍の艦艇を上回る口径の砲を配備できるようになれば、敵艦艇は兵員を揚陸するのに必要な距離まで接近することが不可能になるだろう、と。そして彼は続けて言う――
私の提案は、我が国が既に有している鉄道網の利点を、島国という地理的特性と結びつけて最大限活用し、必要な地点に全装備の移動砲台を鉄道で直接送ることである。1881年の81トン砲実験は、最も重い大砲であっても、鉄道レールの上でそのまま移動・発射し得ること、しかもかなりの利点をもって移動・発射できることを証明した……。現在の幹線鉄道網に沿って、必要な地点には線路の強化を行いつつ、あらゆる海岸の戦略的要地および可能なすべての要塞内に、支線や側線を敷設し、必要な発射プラットフォームを整備すべきである……。こうした支線は平時にも、多少なりとも商業的価値を持つだろう……。我々は、可能な限り多くの最強砲を鉄道砲架に載せ、一方の戦線の側面から他方へ、あるいはある要地から別の要地へ容易に移動させられるようにすべきである。
彼はさらに、こうした砲を満載し常時即応態勢にある砲車を、ロンドン防衛にも利用し得る三つの大規模集中補給庫に分散配置すべきだと提案した。各補給庫には、砲の運用だけでなく、鉄道線路の建設・修理・破壊にも習熟した民兵および義勇砲兵を常駐させ、また戦時条件下での交通運営に習熟した特殊機関士部隊を配備すべきだとも勧めている。
1891年4月24日、E・P・ジルアール王立工兵大尉(現在のE・パーシー・C・ジルアール少将、K.C.M.G.)は、『王立統合軍事研究所誌』で「沿岸および港湾防衛のための鉄道利用(The Use of Railways for Coast and Harbour Defence)」と題する論文を発表し、当時まだ未知の点が多かったこの問題に重要な貢献をなした[13]。彼は、全国の沿岸鉄道を防衛目的に用いる詳細な計画を提示し、「沿岸防衛すべき面積と比較した、我が国の鉄道総延長」、「沿岸線の長さと、その近傍にある鉄道延長の比率」という二つの観点から、イギリスが有する「膨大な鉄道力」を、防衛上の最大の強みであると強調した。そしてこう問いかけている――「我々の保有する膨大な鉄道力を活かして、必要な地点に必要な時に、あらゆる砲を集中させることができるのに、なぜそれを活用しないのか。鉄道を適切に利用すれば、それによって我々の火砲戦力は事実上倍増、場合によっては4倍にすらなり得るのである。」
一方で、イギリス国内でこうした構想が議論されていた時期、アメリカでは南北戦争(1861–65)において、実際に装甲砲車を戦場へ導入することで、他国に先例を示していた。
1862年8月29日付で、陸軍次官補P・H・ワトソンは、当時ラパハノック方面軍の建設および輸送局長であったハウプト大佐に宛てて、次のように記している――「防弾の装甲車一両が到着した。これには大砲が搭載されている。この車両はアレクサンドリアへ送る予定である。」同日付の別電報では、次のようにも述べている――「防弾車を確認したら、その感想を知らせてほしい。あなたは直ちに装甲で保護された機関車を一両用意すべきだと思う。そのような工事はアレクサンドリアで、急いでかつ適切に行うことができるのか。それともフィラデルフィアかウィルミントンで施工した方がよいだろうか。」この装甲車は確かに受領されたが、ハウプトが『回想録』に残したコメントを見る限り、彼はこの新兵器にあまり感銘を受けなかったようである。彼はこう書いている――「ワトソン次官補が、私に防弾の装甲車を一両送ってよこした。親切心はありがたかったが、贈り物の正体は『ホワイト・エレファント(持てあまし物)』であった。私はそれを実際に使うことができず、結局アレクサンドリアの古い側線に留置するほかなかった。」
もっとも、その後他の装甲車は、南北戦争中に実戦で使用されている。
『レイルウェイ・エイジ・ガゼット(Railway Age Gazette)』1915年1月22日号で、ニューヨーク『エンジニア・アンド・マイニング・ジャーナル』編集委員のフレデリック・ホバート氏は、南北戦争中に使用された二両の装甲車について自身の体験に基づいて記している。それによれば、その一両は、ノースカロライナ州ニューバーン(Newberne)にあるアトランティック・アンド・ノースカロライナ鉄道会社の工場で1862年に建造されたもので、ニューバーンがバーンサイド遠征軍によって占領されてから約二か月後のことであった。この車両は、平床貨車の上に太い材木を積み上げて箱状構造を組み、その外側に古いレールを打ち付けたもので、側面には小火器用の銃眼が設けられ、前面には野戦砲一門を据える砲口が設けられていた。二両目も同様の構造であったが、こちらには海軍用小砲が搭載されていた。これらの車両は機関車の前に連結され、ニューバーン西方の鉄道沿いの偵察に用いられた。ホバート氏は、設計および建造に関わったことから、これらの車両に精通していたと述べている。
『センチュリー・マガジン』1887年9月号(774頁)には、「写真から」と注記された一枚の図版が掲載されており、そこには「連邦鉄道砲台(the Union Railroad Battery)」と案内された装甲車が描かれている。これは1864年7月30日、ピータースバーグ前面で爆破された地雷穴(クレーター)の作戦に使用されたものと見られる。図によれば、この車両は低い平床貨車で、一端には線路すれすれまで傾斜した装甲板が取り付けられ、その中央に砲口が穿たれている。砲はそのすぐ後方の車上に据えられていた。装甲板は側面にも延長されているが、背面は開いていた。この車両は、当然のことながら機関車の前に押し出される形で運用された。
さらにL・ロディアン氏は、アメリカの雑誌『レイルウェイ・アンド・ロコモーティブ・エンジニアリング(Railway and Locomotive Engineering)』1915年5月号に、「装甲鉄道車両の起源――その原型はアメリカ南北戦争に疑いなく求められる(The Origin of Armoured Railroad Cars Unquestionably the Product of the American Civil War)」と題する論文を寄せ、「我々自身の南北戦争がこうした車両の嚆矢である」と主張している。彼は次のように述べている――
ここに示すのは、旧フィラデルフィア・アンド・ボルティモア鉄道で使用されていた一両の写真である。この図版は、1864年5月18日付『フランク・レスリーズ・イラストレイテッド・ニュースペーパー』に掲載されたものであり、この種の車両が当時現役であったことについて、これ以上ない証拠を提供するものである……。今日使用されている装甲車両の設計は、おおむね半世紀前の最初の試みから大きく変化していない。現在、多くの雑誌にヨーロッパ開戦国が使用中の装甲車両の写真が掲載されているが、外観と形状の点で見れば、初期のものとほとんど同じである。大きな違いは、戦闘用機関車自体も装甲で覆われている点であり、1860年代のものは、機関車が前方を除いて全く無防備であった。その前方の防護も、装甲車を機関車の前に置いて戦闘に用いていたという、消極的な形にとどまっていた。
しかしこの指摘に対しては、南北戦争当時、通常の軍用列車や補給列車であっても、前面に装甲車が連結されていない状況を想定し、機関車自体に装甲を施す計画が存在したという反証がある。1862年10月8日付で、ハウプトは軍事鉄道総監マッカラムに宛てて、次のように書いている――
最近、私は機関車の件について考えを巡らせていたが、この問題は現在および将来において、とりわけ軍事輸送の需要を考えれば、特段の注意を要すると思われる。これまでの経験によれば、機関車上の乗務員は敵の格好の標的であり、通常彼らの座っている運転室(キャブ)は銃弾で蜂の巣にされてきた。彼らは走行板の上に伏せることで辛うじて難を逃れているに過ぎない。今後、我々が敵地深くへ進むほど、この状況は深刻になるだろうから、乗務員の士気を維持するためには、全て、あるいはほぼ全ての機関車に、防弾の鉄製運転室を設ける必要がある。
さらに、機構の中でも特に小さく繊細な部分については、現状よりも十分に保護されることが望ましい。この点に関して、先日お話しした設計案をぜひご検討いただきたい。これらの案は、軍事輸送の要求にきわめてよく適合しているように、私には思われる。
ハウプトは「その後間もなく、勧告どおり防護機関車および防弾運転室が多数製作され、装備された」と書き添えている。また別の箇所では次のように述べている――
防弾運転室は非常に有用であり、むしろ不可欠と言ってよかった。私は多数の防弾運転室を製作し機関車に装着したが、それによって運転手と火夫は、線路沿いの薮から発砲するゲリラの射撃から守られた。
1870–71年の普仏戦争においては、オルレアン鉄道会社の工場で、海軍工廠主任技師デュピュイ・ド・ロルムの監督のもとに製作された装甲貨車4両に砲を搭載し、パリ包囲戦中に合計4回使用する試みが行われた。4回の出動とは、ショワジー=ル=ロワにおけるシャンピニー出撃前の陽動、ブリエ=シュル=マルヌ付近におけるシャンピニー出撃支援、ル・ブルジェ奪還を目指す攻撃支援、およびモントルトゥ出撃支援のためのラ・マルメゾンへの出動である。貨車の防護は、厚さ2/5インチ(約1cm)の鍛鉄板5枚を重ね合わせ、合計2インチ(約5cm)の厚さとした装甲で行われた。使用された機関車2両も、装甲板で保護されていた。貨車数両が野砲弾の直撃を受けたが、装甲板にへこみを生じた程度で実害はなかった。機関車はいかなる損害も受けなかった。装甲貨車が出撃する際には、後方に別の防弾機関車を連結し、線路の損傷があった場合に復旧作業を行えるよう器具および資材を満載した作業員を乗せていた。しかし実際には、被害はごく軽微なものであり、約15分で修理が完了したという[14]。
1882年のエジプト遠征でも、さらなる装甲列車の活用が見られた。アレクサンドリアの防衛線で組み立てられた一列車は、『1882年エジプト遠征軍事史(Military History of the Campaign of 1882 in Egypt)』[15]の中で「きわめて有用であった」と評価されている。この列車では、鉄板および土嚢で防弾装甲を施した2両の貨車に、それぞれノルデンフェルト機関砲とガトリング砲2門を搭載していた。さらに9ポンド砲1門も貨車に搭載されており、クレーンを使って即座に地上へ降ろすことができるようになっていた。他の貨車も、防弾装甲を施され、小銃を持った200名の水兵を乗せていた。7月28日、この装甲列車は、アラビの前哨陣地近くで破壊された鉄道路線の被害状況を調査する偵察行動に出動した。敵からの射撃があったが、列車への命中弾は無く、この偵察によって必要な線路修理が行われ、アレクサンドリアとラムレ間に二本目の路線が使用可能となった。
列車の有用性が証明されたことで、これにさらなる改良が施された。40ポンド砲1門が鉄板製防盾つき貨車に搭載され、機関車は列車中央へ移動し、自身も土嚢およびレールで防護された。この形態で列車は、8月5日にアレクサンドリアから行われた大規模な偵察に参加し、公式記録によれば、「この戦闘における最も注目すべき出来事は、装甲列車上の40ポンド砲が見事な働きをしたことであった」とされている。
9月13日早朝、40ポンド砲に加え、クルップ砲1門およびガトリング砲1門を装備した5両編成の列車が、テル・エル・ケビールに対する攻撃を支援するために派遣された。これに続いて、線路修理用の資材と必要工具一式を満載した補助列車も出動した。しかし当日は光量が不十分であったうえに、戦闘による煙が視界を極端に悪化させたため、40ポンド砲は射撃に参加することができなかった。
1884–85年ナイル遠征におけるスアキン=ベルベル間鉄道建設の試みにおいても、敵による絶え間ない攻撃から線路を守るため、装甲列車が用いられた。この列車には20ポンド後装砲が搭載されていたが、その射撃方向は線路の延長方向、またはそこからわずかな角度内に限定されていた。
1886年1月、インドのデリー演習キャンプでは、通常の鉄道路線から直角方向に砲撃を行うことが可能かどうかを試す重要な実験が行われた。その結果、40ポンド施条後装砲が(a)空荷の4輪貨車、(b) 最大4トンまで荷重をかけた小型貨車、および(c) 空荷の8輪ボギー車の上から、完全に安全に側射できることが確認された。しかもこの実験では、反動のエネルギーをいかなる方法でも軽減しようとはしなかった点を考えると、その成功はとりわけ注目に値する。
同時期からの数年間にわたり、フランス政府および民間企業も、砲を鉄道貨車で輸送し、そこから発射する一連の実験を継続的に実施した。これらは特に、線路に対して直角方向への発射に関するデータを得ることを目的としていた。
イタリアでも、1891年にある著名な将校が議会でシチリア防衛の問題を取り上げ、沿岸鉄道および装甲列車を用いて防衛すべきではないかと提案している。
1894年にイギリス・サセックス州ニューへイブンで行われた一連の実験は、とりわけ興味深いものであった。これは義勇砲兵隊とロンドン・ブライトン・アンド・サウスコースト鉄道会社とが協力して実施したものである。
1891年の義勇軍動員計画によれば、第1サセックス砲兵義勇隊からは約300名が割り当てを受けていたが、彼らの任務はまだ特定されていなかった。一方ショアハムには、当時特に用途のない40ポンド・アームストロング後装砲が一門所在していた。これら二つの事実に着目した国防委員会書記は、ロンドン・ブライトン・アンド・サウスコースト鉄道会社と交渉し、この40ポンド砲を電車の一部として用いるトラックに搭載し、これを装甲列車の一部として運用することを提案した。そしてこの装備を用いて海岸防衛の実効性を検証するための射撃試験を、砲兵義勇隊が実施するという構想を示したのである。
鉄道会社の重役たちはこの提案を快く受け入れ、自社の機関車工場および車両工場でこのトラックの製作を行うことに同意し、費用の一部も負担した。同社の職員もこの計画に熱心に協力し、とりわけ機関車部長R・J・ビリントン氏は、砲を搭載するトラックに旋回砲座を設けるという「大胆な発想」を最初に提起した。この案は当時としては非常に斬新なものであり、きわめて有望な成果を期待させるものであった。なおこの鉄道会社の従業員の多くが第1サセックス砲兵義勇隊の隊員でもあったため、彼らは兵士としても、鉄道技術者としても、実験に強い関心を寄せていた。
これらの経緯について、第1サセックス砲兵旅団長C・G・ボクソール大佐は、1894年5月14日にニューへイブン砦で旅団の将校および下士官に行った講演「沿岸防衛用装甲列車(The Armoured Train for Coast Defence)」の中で次のように述べている――
鉄道会社は、慈善事業団体でも愛国団体でもないことを思い起こせば、我々の実験に対してイギリスでも有数の大企業であるロンドン・ブライトン・アンド・サウスコースト鉄道会社が示してくださった寛大な支援は、それ自体として、この取り組みが沿岸防衛および対侵略防護の観点からいかに重要であると彼ら自身が認識しているかを示す一つの証左と言えるでしょう。
5月5日に行われた予備射撃試験は大成功に終わり、ボクソール大佐は次のように結論づけた――「砲の反動による照準のずれを補正するために砲を再旋回させる必要がないこと、また砲口方向はブラスト棒を用いて30秒以内に全周のいかなる方向にも向け得ることが証明された。」彼はこれら初期成果に大きな誇りを見いだしていた。というのも、これはイギリス鉄道の本線上から重砲を側射した最初の例であり、またターンテーブル・反動吸収装置その他の新機軸を装備した最初の装甲トラックでもあったからである。彼は次のように書いている――
我々はこの実験によって、必要なときに全国の鉄道網の任意の地点に移動させることが可能な重砲を、列車に搭載し得ること、さらにその砲を、線路の方向、側面、その他任意の方向に安全かつ正確に発射できることを証明した。その際、列車が転覆する危険はなく、線路にも損傷は生じない。この事実に照らせば、我々は今後の砲兵運用の新しい道を切り開いたのであり、それが今後きわめて重要な結果へとつながることは間違いないと、自信を持って言うことができる。
これが、5月19日にニューへイブンで行われた本格的な試験の前に書かれた文章である。本試験は多数の軍人および一般の見学者の前で行われ、その模様は1894年5月21日付『タイムズ』紙に詳述されている。それによれば、砲および砲架は、トラック中央のターンテーブル上に据えられ、その下には中央支柱とレースウェイ(racers)が設けられていた。砲員は三方を囲む高さ6フィートの鉄板で防護され、その間から砲身が突き出る構造であった。砲車を牽引したのは通常型の機関車で、砲兵義勇隊員は後続二両の客車に乗車した。2,500ヤード離れた標的に対して数発の射撃が行われたが、「試験全体を通じて装甲列車が受けた衝撃は非常に小さく、線路上に置かれた小石一つ動かなかった」と報告されている。なお貨車にはトラック幅を広げて安定性を増すための横梁が装備されており、これは線路上に下ろした枕木に載せることができた。また、トラックをレールにしっかり固定するための強固なクランプも用意されていたが、実際にはこれらの装置を使用せずとも、貨車は十分な安定性を示した。
最後に、本書第16章で詳述するように、1899–1902年の南アフリカ戦争は、装甲列車が戦争の「兵器」として有用であることを決定的に証明した。さらにこの戦役は、装甲列車の運用に関する科学的かつ実践的な組織体制の整備、および用途・任務・運営・要員・武装・戦術その他重要な細部に関して、一定の原則が確立されるきっかけともなった。これらの原則は、1905年に王立工兵隊研究所(チャタム)から刊行された『南アフリカ戦争における鉄道の詳細史(Detailed History of the Railways in the South African War)』にまとめられており、アメリカ合衆国ではこれを自国の事情に合わせて修正した上で採用している。修正版は、先に触れたW・D・コナー少佐の『軍用鉄道(Military Railways)』(米陸軍工兵隊専門論文第32号)に収録されている。また技術的観点からの優れた論考としては、H・O・ナンス大尉の「装甲列車(Armoured Trains)」があり、これは『王立工兵隊論文集』第4シリーズ第1巻第4論文(チャタム、1906年)に、写真および図面とともに掲載されている。
脚注:
[12] 『王立統合軍事研究所誌(Journal of the Royal United Service Institution)』第9巻 221〜231頁、1865年。
[13] 同誌第35巻、1891年。
[14] ここで述べた装甲列車の詳細な記述および図面については、F・フレイザー中尉による「パリ包囲戦で使用された装甲鉄道貨車(Armour-plated Railway Wagons used during the late Sieges of Paris)」を参照。『王立工兵隊論文集』New Series, Vol. XX, 1872年。
[15] 『1882年エジプト遠征軍事史(Military History of the Campaign of 1882 in Egypt)』。陸軍省情報部作成。改訂版。ロンドン、1908年。
第8章
鉄道による衛生輸送
古代・近代を通じた戦争に関する統計によれば、戦場で負傷により死亡した兵士10人に対し、病気により死亡した兵士は35〜40人に達するとされている。フランス陸軍軍医モラッシュ博士は、『軍事科学雑誌(Journal des Sciences Militaires)』において、クリミア戦争に参加した戦闘員の死亡者総数9万5千人のうち、7万人はチフス・壊血病・コレラその他の疾病によるものであったと書いている。1859年のイタリア戦役では、フランス軍は5,498名を失い、そのうち2,500名が病死であった。露土戦争終結時、ロシア軍には5万1千名の病兵がおり、とりわけチフスの流行は甚大であった。
これらの状況は、多数の傷病兵が戦場およびその近傍に設けられた過密な病院に集められたことによって、一層深刻化した。そうした病院は、戦闘で用いられるいかなる致死性兵器よりも、人命にとってはるかに危険な、疾病と伝染病の温床と化す運命にあったのである。
犠牲となったのは軍隊だけではない。復員兵は、疾病の種を一般市民の間にまき散らし、何年にもわたって続くこともある流行病を引き起こし、戦闘員自身の犠牲に加えて、多数の非戦闘員の命を奪った。エドゥアルト・グルルト博士による『戦争における国際的および志願的衛生看護の歴史(Zur Geschichte der Internationellen und Freiwilligen Krankenpflege im Kriege)』(ライプツィヒ、1873年、全866頁)には、ナポレオン軍がロシアからの壊滅的退却の際に持ち帰ったチフスが、フランス・ドイツ・オーストリアでどれほどの惨禍をもたらしたかについての凄惨な記述が多数収められている。
これら種々の害悪を軽減し、あるいは回避するうえで最も実際的な手段は、戦場から傷病兵をできる限り速やかに後方へ移送し、それらを少数単位に分散させることである。しかもその分散は、周辺の幾つかの町にとどまらず、内陸の広大な地域にまで及ぶことが望ましい。この方策は、十分な鉄道施設が整って初めて実現可能となったものであり、さらに言えば、効率的な鉄道衛生輸送システムが最終的に確立されるまでには、鉄道が実用化されてからもなお長い年月を要した。
鉄道をこの目的に用いることによって達成されるべき目標は、人道的見地と戦略的見地の双方にまたがっていた。
前線の傷病兵にとって、迅速な後送と内地病院への広範な分散が意味するところは、(1) 戦線近くにある、前述のような過密かつ不衛生な病院に収容される危険を避けることができる、という点である。そうした病院では、軽傷でも容易に重篤な症状へと悪化し、伝染病が致命的な転帰を決定づけかねない。(2) また、これらの事情と別に、戦場から離れた多数の病院に傷病兵を分散させれば、一人ひとりに対してよりきめ細かい医療を施すことが可能となる。(3) 野戦病院や仮設病院では到底試みることのできない種類の手術――戦況の変化に応じて突如として移転を余儀なくされるおそれがあるため――を、内地の病院に到着するまで延期できるようになり、そこではより良好な設備と手段が利用でき、また手術後は治癒するまで落ち着いて療養させることができるため、より保存的な外科治療が実践可能となる。(4) こうした改善された条件は、とりわけ、それ以外では避けられないと考えられた切断手術を回避し得る機会を増やす。(5) 総じて、鉄道が利用できない場合に比べて、負傷兵はより迅速な回復、ならびに生命および四肢の双方を救う、はるかに大きな可能性を与えられる。
一方、前線の軍隊にとっては、傷病兵を迅速に後送できるようになったことにより、多数の「非戦闘有効者」[16]が軍隊に付きまとい、その扶養を要することから生じる大きな負担から解放されるという利点があった。中継および後方病院は、最小限の規模に縮小することが可能となり、その結果、もし退却や戦略上の変化によってこれらの病院が戦場の直近に巻き込まれたとしても、軍の行動に与える不便ははるかに少ないものとなる。また多数の傷病兵を内地の開業医に委ねることにより、師団・旅団・連隊の軍医を行軍中の部隊から引き離す必要性が減少し、補助医療要員の数も抑制できる。前線に常備しておくべき衛生資材の備蓄量も相当程度削減できるであろう。さらに戦略的見地からは、(1) 軍隊がより自由な機動の余地を得ること、(2) 疫病の発生によって戦闘有効兵力が削減される危険を抑えられること、(3) 多数の傷病兵が内地での迅速な治療により回復し、比較的短期間で戦列に復帰し得る見込みが高まること、などの重要な利点がある。
実際の戦闘地から傷病兵を鉄道で後送した最初の例は、クリミア戦争において見られた。セバストポリ前面の陣地とバラクラヴァ港を結ぶ小規模軍用鉄道(第15章で詳述)が、この目的で利用されたのである。当時の設備はきわめて原始的なものに過ぎなかった。前線への補給輸送に用いられていた貨車――すなわち「請負人のトラック」と呼ばれていた程度の粗末な貨車――しか利用できず、横臥位のまましか動かせない重傷者を運ぶために、それらを改造する術もなかった。したがって、座位をとれる傷病兵だけが輸送の対象となったのである。それでもなお、この時にはじめて、後に戦争の様相を一変させることとなる新機軸が導入された。
1859年のイタリア戦争では、フランス軍およびオーストリア軍の双方が、傷病兵の後送に鉄道を利用した。赤十字運動の「父」と称されるアンリ・デュナンは『ソルフェリーノの思い出』の中で、ブレシアからミラノへの負傷兵輸送が一晩に約1,000名の規模で行われたと記している。彼らの旅中の快適さを事前に配慮した設備は一切なく、戦争勃発後は戦況があまりに急激に変動したため、特別の設備を新たに用意する余地もなかった。行われたのは、貨物車や家畜車の床に藁を敷き詰め、最重症者をそこに寝かせた程度であった。その他の者は通常の三等客車に乗せられたが、彼らがミラノその他の地点に仮設された、細長いバラック風の臨時病院にたどり着くまでの道中で味わった苦痛は、実に甚大なものであったに違いない。それでも、前線の過密かつ不衛生な病院で負傷よりもむしろ熱病で命を落とした者たちの運命を思えば、鉄道による後送を受けた者たちは、それを免れたと見るべきであろう。実際、当時のぎりぎりの衛生資材の状況を考えれば、鉄道での後送によってもたらされた利益は「計り知れない」とされている。
1859年の戦役におけるこうした経験は、翌1860年、ドイツ人医師グルルト博士[17]による提言につながった。彼は、戦時に傷病兵を鉄道で輸送するために、特別に車両を準備すべきだと唱えたのである。彼自身が提案した方法は、貨車や客車の屋根にフックを打ち込み、そこに吊るしたハンモックの上に必要に応じてマットレスを敷いて患者を寝かせる、というものだった。これにより、傷病兵は、通常の客車に座って運ばれるよりも、あるいは貨物車や家畜車の床に敷いた藁の上に寝かされた場合よりも、はるかに快適に移送されるだろうと、彼は想定した。
グルルト博士の小冊子はこの問題に大きな関心を呼び起こし、その提案は実地試験の対象となった。しかし結果的には、二つの理由から失敗に終わった。第一に、貨車の屋根はあくまで風雨を避けるためだけに造られたものであり、博士の案が想定していたような人数の患者を吊り下げるに足る強度がなかった。第二に、列車の走行に伴う揺れにより、ハンモックが頻繁に貨車の側壁にぶつかってしまい、患者に深刻な不快を与えたためである。
同じ1860年11月、プロイセン陸軍大臣ローンは、戦時における傷病兵の処遇全般を調査する委員会を設け、その検討事項の一つに鉄道による輸送が含まれた。こうした調査の結果として、1861年7月1日に大臣名で一つの命令が発せられた。その要旨は、「比較的軽傷の者は、必要とされる快適さの程度に応じて、通常の一・二・三等客車に分乗させ、その際できる限り隅の席を与えること」とし、重症者や重病者については、「丈夫な麻袋に藁を詰め、その両側面に三か所ずつキャンバス製ループを取り付けて担架棒を通し、その上に患者を乗せる」こととした。この麻袋ごと患者を乗せたものを、予め指定された貨物車に出し入れするのである。この方式では、一両の貨物車に7人から8人を収容できた。麻袋が不足する場合は、代わりに藁を直接貨物車の床に敷くこととされた。換気のため、貨車の片側の扉は開けたままとし、各列車には必ず一人の軍医と数名の衛生兵を乗せ、包帯・薬品・その他必要な器具を携行させることとされた。その際、必携品として5品目が指定された。軍医は停車のたびに各車両を巡回診察し、車両に配置された衛生兵は旗を持ち、必要に応じて列車停止や軍医招集の合図を送れるようにした。
この程度が、1861年当時のプロイセンにおける準備の到達点であり、その時点ではこうした手配で状況に十分対処できると考えられていた。だが真の進歩は、むしろ大西洋の向こう側からもたらされることになった。
アメリカ南北戦争(1861–65)の初期において、東部諸州の戦場から大都市の病院へ傷病兵を鉄道で後送する手段は、まだきわめて原始的であった。座位を保てる者はそのまま通常の客車で輸送されたが、座位がとれない者、もしくは座位をとると状態が悪化する者は、一旦前線付近の仮設病院に収容されたのち、その病院で使用していたマットレスや担架に乗せたまま、人力で鉄道駅まで運ばれた。駅では、補給物資を前線へ運ぶのに使われていた貨車の床に干草や藁を厚く敷き詰め、その上にマットレスを並べた。換気のため、貨車の側面や妻面に大きな窓を切り抜いた。干草や藁が手に入らない場合には、松の枝や木の葉で代用したこともあった。床面しか利用できなかったため、一両あたり快適に収容し得る患者数は10名程度にとどまり、時には20名を無理に押し込んだこともあった。貨車の大きな扉は、ベッドを出し入れするにはきわめて便利であった。各列車には医師が乗り込み、必要な薬品を携行した。ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィア、ハリスバーグその他の町に到着すると、患者はそのまま元のマットレスや担架に乗せられた姿で、最終的な病院へ運び込まれた。
多くの傷病兵がこうした方法で鉄道輸送され、その作業は非常な迅速さで行われた。たとえば1863年6月12日朝から6月14日夕方にかけて、チャンセラーズヴィルにおける北軍の大敗で生じた負傷兵9,000名以上が、単線のアクア=クリーク鉄道を使ってアクア=クリークからワシントンへ輸送された。重症者の多くでさえ、「ほとんど不快を感じなかった」と証言している。ゲティスバーグの戦い(1863年7月1〜3日)ののち7月22日までに、戦場周辺の野戦病院からバルティモア、ニューヨーク、ハリスバーグ、フィラデルフィアなどへ鉄道で後送された負傷兵は、合計1万5千名を超えた。さらに、ウィルダネスやスポットシルヴァニアの戦いの後には、少数の例外を除き、数日のうちに前述の諸都市の病院へと分散収容することができ、後送のスピードはそれ以上に速かった。オルスティーの戦い(1864年2月20日)ののちには、重症者が松の枝・パルメットの葉・少量の藁を敷いた貨車でモービル鉄道を経て後送され、それぞれ毛布一枚を与えられていた。
これら初期の方法に対する改良として、貨車の両側に天井と床を結ぶ木製支柱を立て、その支柱に粗末な木製二段・三段ベッドを固定し、車内に中央通路を残すという工夫が採用された。こうして、床面に藁を敷く方式に比べてはるかに効率的に空間を利用できるようになった。さらに次の段階として、ベッドの代わりに担架そのものを支柱にしっかり固定できるようにした。続いて、支柱に木製のペグを打ち込み、そのペグに大きく丈夫なゴム製リングをはめ込み、そのリングに担架の持ち手部分を差し込んで吊り下げる方式へと発展した。このように改造された最初の車両は、1863年3月に運用を開始した。
一方、フィラデルフィア鉄道会社は1862年末、自らの費用で一両の救護車(アンビュランス・カー)を試作した。これは寝台車の原理を応用したもので、担架ごとスライドさせて木製の支柱に出し入れできるようになっていた。この車両一両で、患者51名を収容でき、両端には各1名の乗務員用座席が設けられていた。この車には、(1) スープの温めやお茶の沸かしができる小型ストーブ、(2) 給水タンク、(3) 収納用ロッカー、といった新機軸も備わっていた。
これらの改良を導入した人びとがとりわけ誇りとしていたのは、「患者が野戦病院で最初に寝かされた担架に、最終目的地の病院に到着するまで一度も移し替えられることなく、そのまま乗り続けることができる」という点であった。この原則を守るには、担架の寸法を統一し、常に救護車両の装備に適合するようにしておく必要があった。
次に重要な進展は、列車の中に一・二両だけ編成される救護車(例外的重傷者用)から、専用の「救護列車」全体を組成する段階へと進んだことであった。こうして列車単位での運用が始まると、さらなる工夫が施された。東部戦線で運用されたこうした列車は、9〜10両の「病棟車(ward-cars)」を主構成要素とし、これに薬局兼倉庫車、厨房車、軍医・衛生兵・車掌用の居住車などが加わり、旅程全体に必要な器具や物資をすべて搭載した。
この段階で目指されたのは、可能な範囲で列車そのものを「車輪のうえに乗せた病院」に近づけることであった。ワシントン方面軍の医療部長は「現在、傷病兵は、本来の目的には不向きで、他の緊急需要にも駆り出されている車両に乗せられて後送されている。その結果、道中でしばしば命を落とす者が出ているが、より快適で穏やかな輸送方法を用いれば、そうした生命はおそらく救うことができたであろう」と書いている。彼が設計させた列車は、寝台車10両、軍医・衛生兵用車1両、薬局・倉庫車1両、厨房兼倉庫車1両で構成されていた。改良された新型病棟車一両には、横臥患者30名と着座患者20〜30名を収容できた。この列車はオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道で定期運行され、戦闘地域とアレクサンドリアおよびワシントンの基幹病院との間を往復した。既存の藁敷き貨車方式を補完し、場合によっては置き換える役割を果たした。特に、もともと車両不足という大きな問題がある中で、一両に50〜60名を収容できる車両は、床面しか使えず10〜20人しか収容できない貨車よりも、傷病兵の迅速な後送と分散において明らかな優位を持っていた。
こうした設計の列車が数編成、北軍支配地域内のオレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道上で運行されるようになり、「病院列車(hospital train)」は近代戦における一つの確立された制度となった。
しかし病院列車の真価がも最もはっきりと示されたのは、西部戦線の主力軍、すなわちジョージ・H・トマス将軍の指揮するカンバーランド軍との関連においてであった。
西部戦線では、移動距離がさらに長く、敵地を通る区間も少なくなかったため、東部以上に病院列車の必要性が高かった。
『南北戦争医学外科史(Medical and Surgical History of the War of the Rebellion)』によれば、1863年秋から1864年冬にかけて、西部主力軍は主としてナッシュビル(テネシー州)からチャタヌーガ(同)を経て南西方面、さらにはアトランタ(ジョージア州)へと向かう鉄道路線沿いに集中していた。当初、比較的軽症の傷病者は、一般の旅客列車に乗せて北方の町へ送られた。重症者は、やむなく最寄りの病院集積地に留め置かれた。ところが、前者もまた、一般客車には重病者向きの設備がなく、また単線路線で補給列車の通過待ちのため度々長時間停車させられる、といった事情から、大きな不便を強いられていた。しかも停車した地点には、しばしば食料や快適さを得る手段が全くなく、仮に配給が受けられたとしても、車内にはそれを調理する設備がなかった。こうした実情から、「横臥患者・着座患者の双方を収容でき、旅程中に必要なすべてのケアを自給自足的に提供できる移動病院列車」を整備する決断が下されたのである。
1863年8月11日、軍医総監代理からカンバーランド軍の医務長官に対し、「あらゆる快適さを備えた特別病院列車を即時整備すること。その列車はナッシュビルとルイビル(ケンタッキー州)間を運行するものとする」との指示が発せられた。トマス将軍は、最良の機関車と客車を軍用鉄道総監の裁量で選定し、必要であれば新造車を手配することを全面的に承認し、さらに最も熟練した機関士・車掌その他の鉄道員を、この病院列車勤務に充てるよう命じた。
こうして1864年春までに三編成の病院列車が整備され、それぞれの列車が全行程472マイルのうち一部区間を担当しつつ、アトランタとルイビルの間を定期的に往復した。これらの列車は、おそらく新造車と改造車の混成であり、内部構造の少ない大型のアメリカ式客車は、その柔軟性ゆえに改造に特に適していた。改造客車では、担架を車端の扉から出し入れする手間を省くため、側壁の窓2枚とその下の腰板を外して幅約6フィートの開口部を設け、そこに引き戸を取り付けた。各列車は、横臥患者用病棟車5両(改造客車)、軍医・衛生兵用車1両(座席を外し、居住区としたもの)、薬局兼倉庫車1両(薬品・器具を常備)、着座患者・回復期患者用客車1両、厨房車1両(厨房・食堂・倉庫に区画)、車掌車1両で構成された。厨房車には小型レンジ、湯釜その他の調理設備が備えられ、175〜200名の患者の食事を賄えるようになっていた。冬期には全車暖房・照明が完備し、換気にも特段の注意が払われたため、アメリカ陸軍F. L. タウン医師は「病院列車を訪ねると、空気は爽やかで、病棟は清潔で居心地よい。多くの常設病院と比べても、患者はしばしば同等かそれ以上に快適で、より良い食事と看護を受けていると言ってよい」と報告している。列車には特別の識別標識が付けられ、南軍側もそれを認識していたため、列車が砲撃や襲撃を受けることは一度もなかった。
これらの列車のうち少なくとも一編成は、前線野戦病院付近からほぼ毎日出発した。戦争最後の18か月間におけるこれらの働きは、きわめて大きな価値を持った。総じてみれば、傷病者の迅速な後送と回復のために講じられたあらゆる措置――その中でも特に鉄道による即時輸送と広域分散――の結果として、北軍は実質的に「10万規模の一個軍」に相当する戦力を保持し得た、とさえ言われる。この事実ほど、鉄道による衛生輸送の戦略的価値と人道的価値の両面を雄弁に物語るものはない。
ここに示した南北戦争中の実績は、「床に藁を敷いた貨物車」という初期段階から、現在に通じる「車輪の上の病院」への進化が、本質的な段階のほぼすべてにおいてアメリカ合衆国で段階的に達成されたことを明らかにしている。したがって、「病院列車」は広く信じられているようなイギリスの発明ではなく、その原形は明らかにアメリカに求めるべきである。ただし、その構造・装備・運営をさらに洗練させるうえでは、イギリスも多大な貢献をした。
アメリカがこのような具体的経験を積んでいる間、1864年のデンマーク戦争は、プロイセンにとって自国が1861年に承認したシステム――軽傷者は通常の客車で輸送し、重症者は麻袋入りの藁床を敷いた貨車に載せる――を実地で試す機会となった。その結果はきわめて不満足なものであったため、戦争終結後、再び一連の調査と実験が開始された。その矢先に、プロイセンとオーストリアとの戦争が勃発したのである。
1866年戦役中における傷病兵の処遇は、実に悲惨なものであった。パリ在住のアメリカ人医師T・W・エヴァンズ[18]は、戦場を訪れて救護活動に従事した経験をもとに、アメリカの水準に比して全く進歩が見られなかったばかりか、アメリカの先例から何一つ学ぼうとしなかったと、両交戦国を厳しく批判している。
サドバの戦いのあと、数千人の負傷兵が戦場に放置され、多くはたった一種類の輸送手段――すなわち荷馬車や農家の荷車――しかなかったため、その場に三日三晩も横たわったまま搬送を待たねばならなかった。五日もすると、四リーグ(約16キロ)の範囲内にある全ての村々は負傷兵で溢れ返った。ドレスデンやプラハに後送された傷病兵でさえ、通常客車または貨物車で輸送されたが、戦時輸送で線路が混雑していたために、途中の駅で何日も足止めされることが多かった。なかには、車内で二日間も傷の手当てを受けられないまま放置された者もいた。オーストリア側が頼みにしていた藁も、結果的には不十分であることが分かった。患者は貨車の床に散在していた藁を押しのけて板の上に出てしまうほど激しく揺さぶられ、十分なクッション効果が得られなかったのである。しかも、その藁でさえ常に十分に確保されていたわけではなかった。総じて、この戦役の負傷兵は「前例のないほどの苦痛(unheard-of tortures)」を味わったと表現されている。
戦争終結後まもなく、プロイセンでは再び軍医および軍事当局からなる委員会が設置され、傷病兵の処遇と輸送に関する調査が再開された。同委員会は1867年3月18日から5月5日まで審議を行い、その結果として、簡便さと快適性の観点からは、依然として藁入り麻袋(側面に担架棒用キャンバスループ付き)方式が最も有効であると結論づけた。ただし、麻袋には側板を設けて「パイアス(paillasse)」の形にすることが推奨され、その方が患者への支持が増すとされた。アメリカ式の、木製支柱に打ち込んだペグからゴム製リングを吊り、そのリングに担架を二段・三段に懸架する方式は、否定的な評価を受けた。その理由は、一つには常時揺れ続ける懸架担架が患者に与える不快感であり、もう一つには下段患者のすぐ上に他の患者が重なっているという心理的・衛生的な問題であった。報告書はさらに、次の三原則を提言している――(1) 同一列車で傷病兵輸送に用いられる全車両間には連絡通路を設けること、(2) 重症者向けには、バネ付きベッドまたは車両の屋根もしくは側壁から吊り下げる寝台を用意すること、(3) 医師・看護人のための車両および外科器具・医薬品・炊事用具その他を収納する追加車両を用意すること。
これらの原則はさまざまな実地試験にかけられた。その中で、既存車両で最も用途に適しているのは四等車であることが明らかになった。四等車には内部の仕切りや座席が一切なく、乗客は車内で立っているか、自分の荷物の上に座っていることが前提とされていたからである。構造上の改造は、側面扉を妻端扉に変更し、列車通しの通路を確保することだけでよかった。端部の扉を開き、小さな渡り板を渡せば、すべての四等車を容易に相互連結できたのである。こうした理由により、プロイセンの四等車は今後すべて端扉式とするよう命じられた。この方式は、南ドイツではすでに採用されていたものである。さらに、仮に第四等車だけでは需要を満たせない場合には、貨車や馬匹輸送車を傷病兵輸送用に改造し得るよう、あらかじめ準備を進めることとされた。
戦時における傷病兵保護への関心の高まりは、ヨーロッパ全域に波及していた。1867年のパリ万国博覧会では、展示場内に敷設された短い鉄道路線と、西部鉄道会社の提供した貨車一両を利用して、多様な輸送方式の公開実験が行われた。この際、アメリカ式のゴムリング懸架担架方式を備えた模擬車両も展示されている。
当時、そしてそれ以降長年にわたり、大陸ヨーロッパにおける理想案と見なされていたのは、「前線に兵や補給物資を運んできた車両を、帰路には傷病兵輸送用に容易に転用できる」ような仕組みであった。そのため、ドイツ・ロシア・フランス・オーストリア・イタリアの各国では、既存の客車・荷物車・郵便車・貨車などを二重用途に転用するためのさまざまな内部装備――たとえば、貨車天井に渡したロープと、それに垂らした輪で担架を吊るすザヴォドフスキー方式、床上のバネに載せた担架、屋根から強力なスプリングで吊るした担架、側壁ブラケットに部分支持させた担架、折り畳み式ベッド架など――が、長年にわたり激しい実験と議論の対象となった[19]。こうした議論と同様に、救護列車・病院列車の使用と装備については、1869年以降に開催されたすべての赤十字国際会議でも、定例の討議事項となった。
1867年パリ博における実験に続いて、プロイセンではさらに新たな調査委員会が設置され、その勧告に基づき、プロイセン政府は「グルント方式(Grund)」と呼ばれるシステムを正式採用した。この方式では、貨車や四等車の中で横臥している患者の担架を、床から垂直に延びる支柱に取り付けたポールに載せ、そのポールを、床に固定された積層バネ(ラミネートスプリング)の頂部上の溝に乗せるようになっていた。バネの一端は床にネジ止めされ、他端は自由端となっていてローラーが付いており、患者の体重変動に応じて前後に滑動できるよう配慮されていた。グルント方式は、1870–71年の普仏戦争において、ドイツ軍の「衛生列車」に主として用いられた。だがこの方式は、(1) 患者が受ける揺れや衝撃が、通常の座席乗客と変わらない点、(2) 相変わらず床面しか活用しておらず、一両あたりの収容人数が非常に少ない点、(3) 医師や看護人が患者に処置を施すには、常に膝まずいて作業せざるを得ない点、などから批判を受けた[20]。もっとも、これらの欠点を除けば、ドイツ軍の衛生輸送体制は戦争全般を通じてよく組織されていた。完全な移動病院として装備された「衛生列車(サニタールツーク)」は21編成運用され、鉄道により後送された傷病兵は合計8万9千名以上にのぼったとされる。
パリ包囲軍からベルリンへの負傷兵輸送には、列車運行の混乱もあって最長6日を要したが、これらの移送は、戦争後期に整備された特別衛生列車によって行われており、その中には食事提供・看護・その他の快適さが十分に保証されていた。こうした長距離輸送が可能になったという事実は、サドバの戦いのとき、多くの負傷兵が近隣の農家や村の家々にしか運び込めなかった状況と比べて、著しい進歩を示すものであった。
1899〜1902年の南アフリカ戦争では、専用に新造された車両か、既存の客車・貨車を徹底的に改造した車両のみから成る「病院列車」が用いられ、戦争期間中はそれ以外の用途には使われなかった。英中央赤十字委員会のために、サー・ジョン・ファーレイおよびW・J・フィールドハウスの設計に基づいてバーミンガム鉄道車両会社が特別に製造し、1900年初頭に南アフリカへ送った「プリンセス・クリスチャン病院列車」は、ケープ植民地の3フィート6インチ軌間用に、長さ約36フィート、幅8フィートの客車7両から構成されていた。それぞれの構成は、I号車:(a) リネンおよび一般物資用倉庫区画、(b) 看護婦2名用寝室、(c) 士官患者2名用寝室、II号車:(a) 軍医2名用寝室、(b) 食堂、(c) 調剤室、III〜VI号車:三段ベッドを備えた患者用病棟車、VII号車:厨房・配膳室・車掌室、であった。この列車は、患者・乗務員を合わせて二〜三週間外部からの補給なしで活動し得るだけの装備を備えていた。
同戦争のために、ケープ植民地およびナタールの既存車両を改造して整備された病院列車は、さらに7編成あった。そのうちの一編成(第4列車)は、英中央赤十字委員会の費用でサー・ジョン・ファーレイの指揮の下に装備された。残る列車は、陸軍医療部が、ケープタウンおよびナタールの政府鉄道当局と協力しながら改造設計を行った。また、英軍が占領した鉄道路線上の適当な地点ごとに、少人数の傷病兵を収容してピックアップするための特別車両も配置された。これらの車両は通過列車に連結されて傷病兵を最寄りの病院まで運び、あるものは特定区間で定期運行も行った。一部の車両には軍用担架を支える鉄骨フレームが設けられ、他の車両は病院列車の病棟車と同様の内部装備を持っていた。快復期の患者や軽症者で、特別な設備を必要としない者は、通常の旅客列車を利用した。
現代の条件を前提にすると、戦場から傷病兵を後送する列車は、大別して次の四種類に分類される――(1) 専用に新造された恒久的な病院列車、(2) 戦時期間を通じて専ら傷病兵輸送に充てられる、改造車からなる臨時病院列車(改造車のみ、あるいは新造車・改造車の混成)、(3) 前線の鉄道終点で臨機応変に編成される「即席救護列車(ambulance trains)」で、兵員・物資を前線へ運搬してきた車両を利用し、「横臥患者」用の内装を着脱可能な形で設けるもの、(4) 軽傷者・回復期患者を輸送するための通常旅客列車、である。
このように改善された条件の下では、軍隊にとっての戦略的利得も、個々の兵士にとっての恩恵も、いずれも疑う余地のないものである。仮に鉄道が戦争において果たした役割が、これら二重の成果を保証することだけであったとしても、その貢献はなお計り知れない価値を持つと言えよう。さらに言えば、非戦闘有効者を迅速に除去することにより戦争遂行を助けるだけでなく、傷病兵本人の苦痛を大幅に軽減することで、戦争という行為から少なくとも幾分かの惨禍を取り除く役割をも果たしているのである。
脚注:
[16] ナポレオンの言葉として、「自分は負傷兵よりも戦死者の方を好む」という一節が伝わっている。
[17] 「戦時の重傷者および病者の輸送について――鉄道利用に関する提案を添えて(Ueber den Transport Schwerverwundeter und Kranker im Kriege, nebst Vorschlägen über die Benutzung der Eisenbahnen dabei)」全33頁。ベルリン、1860年。
[18] 「普墺伊戦争中の衛生施設(Les Institutions Sanitaires pendant le Conflit Austro-Prussien-Italien)」トマス・W・エヴァンズ著。パリ、1867年。
[19] ドイツ・フランス・オーストリア・イタリアという四つの主要大陸軍において定められた鉄道による傷病兵輸送規定の要点を比較するには、C・H・メルヴィル軍医大尉(英国陸軍医療部)による「大陸諸国における鉄道傷病兵輸送規定(Continental Regulations for the Transport of Sick and Wounded by Rail)」を参照のこと。同論文は『王立統合軍事研究所誌』第42巻(1898年)560〜594頁に掲載。
[20] 『レイルウェイ・ガゼット(The Railway Gazette)』1914年12月4日号掲載の「軍用病院列車――その起源と発展(Military Hospital Trains; their Origin and Progress)」という記事には、次のようにある。「1870年におけるドイツ軍の負傷死亡率が比較的小さかったのは、彼らが当時としては驚くほど精巧とされた傷病兵後送体制を戦前から整えていたことによる。……列車は、比較的軽傷者用の一等客車と、重傷者用の有蓋貨車とから構成されていた。……この種の貨車には、板をばねの上に渡した簡易ベッドが設置されていた。一両あたり4〜5名を収容し、貨車には一人の修道女が同乗した。」しかし今日の感覚からすれば、一両にわずか4〜5名の患者しか収容できない有蓋貨車を用いるやり方を「驚くほど精巧」と評価することは難しいだろう。
第9章
平時における戦時準備
実際の戦争における鉄道力の適用経験が増え、その潜在能力に対する理論的研究が深まるにつれ、鉄道から最大限の利得を得るには、平時からの準備と組織こそが不可欠であることが、ますます明らかになっていった。この結論は、地理的・政治的条件から「常に何らかの重大な国家的非常事態に備えておくべき」と自認する国々に、とりわけ強く当てはまった。確かにアメリカ合衆国連邦政府は、1860年代初頭、戦争勃発後にきわめて優れた軍用鉄道輸送組織を作り上げることに成功したが、現代戦の様相を考えれば、軍事目的の鉄道利用に関する手配は、可能な限り、戦争勃発のはるか前、平時のうちに計画・整備・用意しておくことが本質的に求められる。
この見解を裏づける要因として、特に次の点を挙げることができる。
I. 近年、軍隊が鉄道輸送に全面的に依存する度合いは一層高まっている。その理由として、(a) 昔日に比べて戦争に動員される兵力が飛躍的に増大していること、(b) 敵よりも早く兵力を集中し、主導権を握るためには、時間という要素が決定的な意味を持つこと、(c) 戦場における膨大な兵力を日々維持するために必要な補給・弾薬その他の物資は、相当距離離れた後方基地から鉄道で運搬する以外に確実な手段がないこと、などが挙げられる。
II. 通常の輸送需要を満たすために設計された鉄道に、予め準備もなく突然最大限の軍事輸送要求が課されれば、その資源は一挙に極限まで酷使され、複雑化・混乱・さらには完全な麻痺状態を引き起こすおそれがある。
III. 適切な権限を有する中間組織の統制が不在であるか、あるいは不十分である場合には、鉄道の実務に不案内な軍将校が、鉄道運行上の制約や技術的限界に無理解のまま、互いに矛盾し合う、あるいは実行不可能な命令を次々に発し、軍事要請に不慣れな鉄道員がこれらに直接対応せざるを得なくなる。その結果としてさらなる混乱が生じることは必至である。
IV. 補給物資などの輸送について、周到に組織されたルールがなければ、駅や路線がたちまち輻輳し、詰まり切ってしまう。反対に、よく組織された輸送システムは、必要な物資を適正な数量で、適所に、所定の時間に確実に到着させることを可能にする。
V. 戦争において鉄道が果たし得る役割の重要性を考えれば、線路の修復・新設あるいは破壊など、必要な一切の工事を迅速・的確に遂行し得るよう、平時から組織化された鉄道兵および鉄道作業員部隊と、豊富な資材・器具を準備しておくことが絶対的に必要である。
こうした目的を達成するための平時準備においては、処理すべき課題の量は実に膨大である。
動員命令の発令とともに鉄道が平時体制から戦時体制へと移行した瞬間、その能力は一挙に極限まで酷使される。その際に備え、軍事当局および鉄道当局は、軍事輸送に直接・間接に寄与し得る国内すべての路線について、その物理的条件・資源・輸送能力に関する最も詳しい情報を掌握していなければならない。路線が複線か単線か、勾配はどの程度か、利用可能な機関車・客車・貨車・馬匹輸送車その他の車両数、重要拠点駅におけるプラットホームや側線の本数・延長、水の供給設備、積み卸しや保管施設の有無・規模、といった詳細が、入念に調査・整理され、常に最新状態に保たれていなければならない。車両については、戦争時に軍事輸送を担当しないと見なされる路線であっても、他路線の需要を補うために客車や貨車を供出することが可能である。従って、すべての路線について情報を集約しておけば、追加車両が必要になった際に、どの路線からどれだけ借り出せるかを即座に把握できる。さらに、各種客車・貨車の積載能力も明確にしておく必要がある。必要に応じて、勾配の緩和や曲線区間の改良、異なる幹線同士を結ぶ連絡線の建設、駅プラットホームの延長、積み卸し設備の拡充なども行われるべきであろう。
これらの情報に基づき、次のような詳細な計算が事前に行われる――(1) 人員・馬匹・砲・弾薬・物資・車両などから構成される特定兵力を輸送するのに必要な車両数(歩兵部隊・騎兵部隊・砲兵部隊それぞれに応じて車両の割り振りを最適化する)、(2) 特定の経路で一列車あたり何両の車両を連結し得るか、(3) 特定単位の部隊を乗降させるのに必要な時間、(4) 同一路線上で複数の軍用列車を連続運転する際に必要な列車間隔、(5) 軍用列車の運転速度、(6) 異なる起点から出発する複数軍用列車が同一駅に到着する際に、駅構内の混雑と遅延を避けるために必要な到着間隔、などである。
こうした計算結果を踏まえて、平時の時刻表に相当する「軍用時刻表」が作成される。これには、戦時に動員命令が下れば、どの駅から・何時何分に・どの経路で・どの目的地へ・どのような列車を走らせるべきかが、明確に記されている。これらの時刻表の作成にあたっては、事前準備を徹底させるとともに、国家全体の輸送能力を最大限に活用することが最大の目標とされる。
長距離輸送を行う部隊に対して食事を提供する駅、ならびに補給品集積・配分のための補給基地とする駅も、事前に選定され、そのための準備が整えられる。
部隊動員と集中という鉄道網に対する初期の大負荷が一段落した後も、戦役の全期間を通じて膨大な輸送業務が続く。一方向には増援部隊・糧食・被服・弾薬その他の補給物資が前線へ向けて絶えず送り出され、逆方向には、傷病兵・捕虜・前線で不要となった装備などが本国へ送り返される。そして戦争終結時には、全軍の復帰輸送という最後の大事業が控えている。
各補給線上の要所には、前線へ向かう輸送・後方へ戻る輸送の双方を効率よく処理するため、必要な業務が迅速かつ的確に行われるよう、責任権限を明確に付与された統括者のもとで組織が整えられていなければならない。そうでなければ、些細な摩擦が列車の遅延・輸送の停滞その他の複雑な問題へと直結しかねない。
また、本国の基幹部と戦線最前部を繋ぐ通信線全体に、一律の組織を適用することはできない。ある地点を境に、それまで民間当局が管理していた鉄道の指揮権、あるいは運行そのものが、軍事当局へ移行しなければならないため、その区間にはそれまでと異なる監督体制・運行方式を用意する必要がある。
さらに、仮に軍が敵に押されて退却する事態となった場合には、軍の進路を遮り、増援が到着するまでの時間を稼ぐために、鉄道線路・橋梁・高架橋・トンネルその他の鉄道施設を迅速かつ効果的に破壊し得る専門部隊が十分に整備されていなければならない。一方で、軍が敵国領内へ進撃する場合には、今度は逆に、敵が自らの鉄道に施した破壊・妨害行為を迅速に復旧し、その時々の戦局に応じて軽便鉄道その他の新線を急造できるよう、鉄道工兵隊が前線に随伴していなければならない。これらの任務が完了し、さらに敵国深くへ進軍が続けば、その時点で占領した鉄道路線を、戦時条件下で運行し、前線との通信を維持しつつ増援・補給を送り続けるための運行要員と指揮組織が必要となる。
以上に述べたような多岐にわたる準備は、いずれも平時のうちに、将来の戦争の可能性とは無関係に、周到に計画されていなければならない。実際、こうした準備作業は、特別任務を与えられた軍将校や、軍事的輸送要求を迅速・的確に満たし得る技術的知見を備えた鉄道経営者たちによって、絶えず研究・検討され続けている。
さらに実践的な意味での「平時の戦時準備」は、戦略鉄道網の建設を含む場合に、いっそう明確な形をとる。こうした戦略鉄道網は、動員や国境への兵力集中を容易にし、戦線の複数地点間での迅速な部隊転用を可能とする目的で、最初から軍事的要請を念頭に置いて敷設されるものである。
第10章
ドイツにおける組織
世界のどの国よりも早く、平時に軍事鉄道輸送の準備を整えておく必要性を認識したのはドイツであった。そしてまた、平時におけるこうした準備を、より周到に、より粘り強く追求してきた国もまたドイツである。
第1章で見たとおり、軍事目的での鉄道利用に関する具体的な構想は、早くも1833年にドイツで提示され、議論の対象となった。それ以来、1914年の世界大戦勃発に至るまで、ドイツでは軍事当局のみならず、多くの論客が「当面の重要課題」としてこの問題を繰り返し論じてきたのである。その際、議論はとりわけ「ドイツの勢力拡大」との関連において行われた。
しかし、歴史家・新聞人・一般世論のいずれもが、大きな誤解を共有してきた。それは、1870–71年普仏戦争に際してドイツが行った準備が「ほとんど完全無欠」であったかのように、ドイツに過剰な評価を与えてしまった点である。少なくとも軍事鉄道輸送という観点から見れば、当時のドイツは、後世にしばしば語られるほどの「完璧さ」を備えてはいなかった。また、後年ドイツが戦時鉄道輸送の組織をきわめて高度な水準へと発展させることになるが、その過程は、半世紀以上にわたる研究・調査・試行・実験(実戦経験を含む)の中から徐々に淘汰・洗練されてきたものである。しかもその間には、幾多の法律・規則・内規が洪水のごとく公布され、それぞれが先行のものを部分的に修正・補足しつつ、ドイツ国民特有の「組織化の天才」によって、きわめて精巧でありながらも、時に極めて複雑な機構が築き上げられていったのである。
この精緻な機構に対する最終的な「大試験」は、1914年に行われることになったわけだが、ここではむしろ、この機構がどのように生まれ、最終的にどのような形をとったのかを見ていくことにしたい。
1861年以前、プロイセンが軍用鉄道輸送の組織として行ったことは、大軍の移動に関する一連の訓令(オルドナンス)を公布した程度であった。これらは当時の欧州諸国が競って整備していた規定と大差ないものである。しかし南北戦争の展開に直接触発されて、プロイセンは1864年、自軍参謀本部の一部として「鉄道部(Railway Section)」を新設した。この新組織は、同年のデンマーク戦争において活発に活動し、軍用鉄道輸送の利点――行軍なら16日を要する距離を鉄道なら6日で済ませ得ること――を改めて確認させることになった。
この1864年に比較的小規模に導入された組織は、1866年の戦役(普墺戦争)においてさらに発展することとなる。
この戦役に際して、プロイセン軍の動員と兵力集中は、その大部分が鉄道によって行われた。その指揮は、参謀将校1名と通商省代表1名から成る「実行委員会(Executive Commission)」が担った。この実行委員会はベルリンに常駐し、各路線ごとに配置された「線路委員会(Line Commissions)」の協力を受けた。これにより、道路行軍なら所要時間の3分の1で大軍を移動させることができた。プロイセンは、こうした鉄道輸送の迅速さによってオーストリアに対して大きな優位を得、国境を越えてからわずか7日で敵の連合軍を撃破し、1か月後には講和条件を提示できるに至った。
とはいえ、このきわめて短期間の戦役中でさえ、プロイセンの鉄道輸送計画には深刻な欠陥が表面化した。その最たるものは、補給物資の前線輸送に関わる問題であった。補給部・契約業者・基地将校たちは、軍需物資を前線へ「一刻も早く送り出す」ことだけに関心を集中させ、受け入れ側の能力をほとんど考慮しなかった。鉄道会社側も、平時と同様に「持ち込まれた貨物は全て受け取って指定された場所へ運ぶ」という責務に縛られていたため、前線基地の受け入れ能力とは無関係に物資を送り続けた。物資は大量に部隊の直後まで運ばれたが、その荷下ろしに当たる人員は明らかに不足しており、駅務係は荷役作業を自分の職務外と考えた。その結果、前線の駅や側線はほどなく貨車で埋め尽くされ、その一方で後方では車両不足によって輸送活動全体が停滞してしまった。貨車が荷下ろしされても、それが長い「空車列車」として線路上に放置され、必要な場所へ戻されないこともしばしばであった。各鉄道会社は自社の車両についてのみ勝手にやりくりし、他社線で起きている状況に配慮しようとしなかった。場合によっては、わずか数百名の兵士や数百キロの物資を運ぶだけのために特別列車が運行されることすらあった。あるべき命令系統も混乱し、本来であれば責任者から責任者へ直接伝達されるべき指示が、複数の経路をたらい回しにされ、その結果、重大な遅延や誤送も多発した。たとえば東プロイセンのある大隊は、列車で本来行くべき方向とは全く逆の方向へ輸送されてしまった。
これらすべての問題は、明らかに「全体計画を統括する中央機関」の欠如に起因していた。そのような中央機関は、(1) 軍用鉄道輸送計画全体を統括し、(2) 補給物資の送り出しを適切に管理し、(3) 車両の適切な配分・効果的な活用を保証し、(4) 貨車の迅速な荷下ろしと返送を徹底させ、(5) 軍当局と鉄道管理者・運行要員との間を結ぶ公式な連絡窓口として機能すべきものであった。
戦争終結直後、モルトケの監督のもと、参謀本部将校および鉄道当局者から成る混成委員会が設置され、次の戦争時に同様の過誤を繰り返さないためにどのような制度改革が必要か、調査・審議が行われた。当時、普墺戦争の次には、遅かれ早かれ対仏戦争が避けがたいと見なされていた事情も、平時からの入念な準備の必要性を一層際立たせていた。
この委員会の検討を経てまとめられたのが「路線勤務規程(Route Service Regulation)」であり、これは1867年5月2日に国王の裁可を受けるとともに、他の多くのドイツ諸邦にも採用された。ただしこの規程は、実戦で適用されるまでは極秘扱いとされ、実際に運用されたのは1870–71年戦争のときであった。
同規程の骨子は、「路線監督(Etappen Inspektion:エタッペ監督)」という制度を参謀本部の一部門として設けることであった。路線監督部の任務は次の三つに要約される――
I. 前線軍の損耗分を補うための兵員・馬匹・糧食・弾薬・その他軍需物資を補充・輸送すること。
II. 戦傷・病気による傷病兵および捕虜・戦利品などを、占領地から本国内部へ後送すること。
III. この任務の遂行にあたり、路線監督付け部隊および鉄道工兵隊の協力を得て、通信線(鉄道・道路・橋梁・電信線・郵便)の維持・補修を行うとともに、占領地の行政を引き受け、その他の付随任務を執行すること。
こうした任務を遂行するための具体的計画の立案は、「中央委員会(Central Commission)」に委ねられた。この委員会は参謀本部および陸軍省の将校と、当時鉄道を統括していた商工公共事業省および内務省の高級官僚から構成された。この中央委員会のうち、参謀将校1名と商工省鉄道担当官1名の計2名が「実行委員会(Executive Commission)」を構成し、軍用鉄道輸送全般の運行監督を行った。ただし、大本営がベルリンを離れて前線に移転した場合には、この実行委員会に代わって「補助実行委員会(Auxiliary Executive Commission)」が設置され、国内における補給路線の運行を監督するものとされた。
戦時には、中央委員会の下部機構として各交通拠点に「線路委員会(Line Commissions)」が設置された。それぞれの線路委員会には軍将校と鉄道官僚が共同で参加し、その任務は、(1) 管轄区域内の各鉄道会社に対し、部隊・砲・弾薬・馬匹・補給物資等を輸送するための必要な指示を伝達し、(2) 軍用列車の運行時刻表案を作成・調整すること、(3) 軍用列車の運行経路を決定すること、(4) 行軍中の食事やコーヒーの配給に適した停車駅を定めること、などであった。要するに、軍用輸送に関する細目を、当時としては考え得る限りの詳細さで決定する役割を担ったのである。
補給輸送については、各軍団が他の軍団とは独立した専用の通信線を持つことが原則とされた。その目的は、複数軍団が同一鉄路を使用することによって生じうる混乱や秩序の崩壊を避けることにあった。
こうした通信線は、まず大規模な鉄道駅――ここは当該軍団向けの補給物資を集中的に集積し、前線へ送り出す基地であり、また逆方向に送られてくる傷病兵・捕虜・不要物資を受け入れて国内に再配分する地点でもある――から始まる。このような駅は「エタッペ起点(Etappenanfangsort:エタッペ開始地点)」と呼ばれた。
通信線上には、おおよそ100〜125マイル(約160〜200キロ)ごとに「中間拠点駅」が設けられた。これらは、部隊や馬匹への飲食物供給、傷病兵の一時収容、車両の修理その他の目的で利用された。毎日鉄路で到達し得る最先端の駅は「線路前進拠点(Etappenhauptort:エタッペ本拠点)」と呼ばれ、ここから先の戦線との通信は道路輸送に依存した。さらに、その道路上には約一日行程ごとに「エタッペ地点(Etappenörter)」が設けられ、補給・宿営・通信などの役割を果たした。
この精巧な組織全体――すなわち、前述のような広範かつ多様な義務と責任を、単一の組織が一元的に負うという仕組み――は、すべて「通信線総監(Inspector-General of Communications)」の最高指揮下に置かれていた。彼は、軍のあらゆる必要を満たす「総合供給責任者(Universal Provider)」のような存在であり、その職掌の中で軍用鉄道輸送は、数多くの業務の一項目に過ぎなかった。彼の役職の特筆すべき点は、師団長級の指揮権を持ち、常に総司令官および陸軍大臣との密接な連絡を維持することで、各種部門や兵科の活動を統合・調整できると想定されていたことである。原理としてはこれ自体妥当な構想であったが、実際には彼の部署が負う任務はあまりにも多岐にわたり、鉄道輸送の面でも戦争中に生じた行き詰まりは、制度設計段階で予見可能だったと言わざるを得ない。
戦争勃発とともに、通信線総監は戦線へ向かう部隊や馬匹に食糧を供給する各種駅の設営を指揮し、その後、自らも戦線から一〜二行程ほど後方の地点に本部を置いて、日々の「線路前進拠点(Railhead Station)」を指定しつつ、自身の本部も必要に応じて前後へ移動させることとされていた。そこから彼は、自身の権限のもと次のような多様な業務を指揮した――参謀長を通じた各部門の統合と統一的指揮、遅滞なく前線へ向かうすべての部隊の輸送とその到着後の再配置、補給物資の輸送、部隊の人事・行政に関わる全般、日誌や各種帳簿の作成、大本営・陸軍省との通信、軍馬の調達と配分、捕虜輸送とその管理、隊内秩序維持、砲兵弾薬補給の保障、兵舎・バラック・仮設病院の建設または手配、道路・電信線の維持、戦地における電信および郵便業務の統制、道路通信線の監督、前線へ送られる各種補給物資の確実な配分・輸送、そして病院・救護所・療養所の設営およびそこへの傷病兵後送手配、などである。
鉄道に関する業務について、通信線総監は「野戦鉄道監督(Director of Field Railways)」の補佐を受けた。野戦鉄道監督の職務は、きわめて広範である。彼は、総監の名で各線路委員会に補給輸送の優先順位を指示し、軍関係者および鉄道関係者と協議しながら軍用列車の時刻表を作成する。ただし、すべての草案は最終的に通信線総監の承認を得ねばならない。作成された時刻表に基づく、実際の部隊・物資の鉄道輸送――その詳細な原理は平時のうちに練り上げられている――も、基本的には野戦鉄道監督の監督下に置かれる。もし戦争中に鉄道路線が破壊されれば、復旧工事は彼の責任となり、通信線総監を通じて、必要な追加要員(兵士・民間人いずれも)を動員する権限が与えられている。復旧した路線は、そのまま彼の所管となり、陸軍運転部隊および商工省から派遣される鉄道職員の助力を得て軍用運行が行われる。なお、戦時における鉄道運行のための鉄道員派遣は、通信線総監が商工大臣に正式要請を行うことで実現した。
以上が、プロイセン参謀本部(モルトケ自身を頂点とする)によって平時に、かつ極秘裏に構築され、対仏戦争の「避けがたい」勃発に備えて用意された精緻な機構であった。
世間一般の通念では、ドイツの対仏戦争準備はあまりに完璧で、あたかも「ボタン一つ押せば」あるいは「レバー一本引けば」全計画が即座に動き出すかのように語られがちである。しかし、少なくとも鉄道輸送計画という観点から見て、この通念がどこまで真実に近かったかは、改めて検討に値する。
戦争開始時、ドイツ軍の三個野戦軍それぞれに、前述の構成に基づく「路線監督部(Etappen Inspection)」が置かれ、各軍には独自の通信線総監が配された。後にはザクセン皇太子率いる第四軍にも同様の組織が加わった。
動員および国境への兵力集中に関して言えば、ドイツ側の計画は概ね見事に機能した。ただし、完全無欠というわけではなかった。当時、兵力集中用に準備されていた鉄道路線は全9本で、そのうち6本が北方軍、3本が南方軍用に割り当てられていた。7月24日から8月3日にかけて、これらの路線を通じて約1,200本の軍用列車が運行され、その輸送した兵力は兵35万人、馬8万7千頭、砲および車両8,400台に上った。しかし一部の列車には大幅な遅延が生じ、この時点から既に、精巧な機構にいくらかの摩擦が生じていたことがうかがえる。たとえば「C線」と呼ばれたルートでは、ギーセンに向かう部隊輸送列車が予定時刻から11時間も遅れて到着した。この部隊は、21時間に及ぶ鉄道移動の後、初めて温かい食事にありつけた。ホンブルク・イン・デア・プファルツおよびノインキルヒェンへの輸送には、時刻表上40時間が見込まれていた。1本目の列車は予定どおりに到着したが、2本目の列車は実に90時間もかかったと『戦術(Taktik)』の著者バルク(Balck)は記している。
しかし真に重大な支障が発生したのは、補給物資の輸送、すなわち兵站の面においてであった。この点でドイツは、1866年戦役で露呈した欠点を、周到な平時準備にもかかわらず十分に克服しきれていなかった。
前述の精巧な計画にもかかわらず、最前線への補給輸送を体系的に管理し、部隊の一日ごとの必要に見合った量――それ以上でも以下でもない量――を、適切な条件で・適切なタイミングで届ける組織は十分に整っていなかった。補給集積所(マガジン)は確かに設けられていたが、その数は十分でなく、またその位置も必ずしも適切ではなかった。それに加え、それらを運営する制度自体が不完全であった。1866年当時と同様に、将校・契約業者・鉄道会社のいずれもが部隊の補給を思うあまり、補給列車を必要以上に前線へと次々に送り出した。その結果、前線に近い駅では側線がすぐに満杯となり、荷下ろしに必要な人員も不足した。補給物資は平時と同様の手続きで鉄道へ引き渡され、「できるだけ早く発車させれば、必要な部隊へ自動的に届くはずだ」という安易な発想が支配的であった。
一方で、受け入れ側の駅に十分な側線と荷下ろし設備がある場合であっても、補給担当将校は、「積み荷の入った貨車は、格好の移動式倉庫であり、中身が真に必要となるまであえて荷下ろしを急ぐべきではない」と考えるようになった。こうした貨車が線路上に長期にわたって留置されると、路線全体の運転が滞るだけでなく、その貨車が他の輸送に使えないため後方で車両不足が一層深刻化した。もしこの「貨車=倉庫」方式への依存に歯止めをかける措置がとられていなければ、その弊害は実際に報告されているものよりもさらに甚大であったであろう。とはいえ、こうした不適切な運用にもかかわらず、ドイツの補給輸送はフランス側ほど完全な破綻には至らなかった。
それでも現実として、フランス側と同様に、ドイツ側の鉄道輸送にも深刻な支障が頻発したことは否めない。プロイセン軍の集中が完了するや否や、補給物資と軍需品は余剰といってよいほどの量で前線へ送られ、ほどなく左岸ライン沿いの路線――ケルン方面からフランクフルト方面まで――は、まさに「完全な行き詰まり」状態に陥った。このため、一時的にせよ部隊の糧食補給が全面的に停止してしまったのである。プロイセンの実行委員会・商工大臣・各線路委員会の共同努力をもってしても、当初はこの混乱と混雑を解消することができず、1870年8月11日になってようやく、今後一切の補給物資輸送は、軍需監(Intendant-General)または通信線総監の明確な命令があった場合に限る、という指示が出された。それでもその後も度々、ドイツ側には補給列車の滞留が発生した。たとえば9月5日には、5路線合計で2,322両もの積載貨車が線路上に立ち往生しており、その総積載量は1万6,830トン、第二軍を26日間にわたり養うのに十分な物資量であったと報告されている。
また、前線の部隊へ補給物資を届けるにあたっては、道路輸送の面でも問題が頻発した。必要となる馬車が絶対的に不足していたうえ、本来補給用に割り当てられていた車両が、弾薬輸送など他の任務に転用されることも多かった。たとえば第一軍の通信線総監は当初2,000台の輸送車を保有していたが、10月17日時点でなお手元に残っていた車両はわずか20台であった。この問題は、後退するフランス軍が自国鉄道を破壊していったためさらに深刻化し、侵攻ドイツ軍の通信線維持は一層困難なものとなった。
こうした状況の帰結として、ドイツ軍の糧食はしばしば鉄道上で滞留し、あるいは貨車内の高温や、荷下ろし後の野晒しによって劣化してしまった。その一方で、多くのドイツ兵は、十分な食糧を得られずに深刻な欠乏に苦しんだのである。メス・フォルバッハ・ヴェルダン・ドール・ル・アーヴルその他で鹵獲されたフランス軍の補給列車や物資がなければ、その苦境はさらに深刻なものになっていたはずだ。もしフランス軍が、前線近くまで必要以上の物資を送り込まず、持ち出せない分についてはきちんと自ら破壊していたならば、侵攻ドイツ軍は一時的にせよ「飢餓線上」に立たされていたであろう。実際のところ、ドイツ軍は度々、支給されていた「鉄の割当(eiserne Portion:非常食)」に頼らざるを得なかった。
特に、パリ包囲戦中のドイツ軍占領軍に対する糧食補給は重大な問題であった。本国から鉄道で到着する物資は、必要量の半分にも満たなかった。占領地に対する食糧徴発も期待したほどの成果は得られず、当初、将兵一人ひとりに毎日現金を支給して自前で市場から食糧を調達させるという手法も、十分な成果を収められなかった。包囲戦およびその前後の期間を通じて、兵站部門の責任者たちが全身全霊をもって補給任務にあたったからこそ、ドイツ兵はようやく「飢餓そのもの」から救われたと述懐されている[21]。
これほどまでに入念な準備が行われていたにもかかわらず、なぜこのような欠陥や混乱が生じたのか。その主な理由として、(1) 計画自体は原則として健全であったが、その実施によって通信線総監部にかかる負担があまりにも重くなり、鉄道輸送のみならず道路行軍・電信・郵便その他の多様な業務を同時並行的に処理しなければならなかったこと、(2) 1866年戦役に比べて軍団数が大幅に増加し、各軍団ごとに専用鉄路を割り当てることが不可能となったため、通信線総監部が自前の組織だけで鉄道交通を管理することが困難になったこと、(3) 複数の線路委員会や、軍・民双方の鉄道関係者の間で調整・連携を図り、全体交通を俯瞰して渋滞・混乱・遅延を予見・防止し、補給物資を適切に配分し、車両を最適に活用する「中央的管理機関」が存在しなかったこと、などが挙げられる。
戦争後半、とりわけ通信線総監部への負担が過度に大きくなったことを受けて、この部門のうち鉄道に関わる業務をすべて切り離し、その職務と指揮権を王立大本営(Royal Headquarters)に設置された実行委員会へ移管するという措置が取られた。これにより、軍用鉄道輸送能力をより有効に活用し、衝突や遅延の危険を減らし、中央組織を通じて輸送需要を各鉄道間でより均等に配分することを意図したのである。この暫定的改革により、戦争後期における鉄道運営は若干改善された。しかし本格的な再編を戦時中に行うことは不可能であり、鉄道輸送をめぐる摩擦は、(1) 十分な再編が実行され得なかったこと、(2) 正当な権限を持つ複数の当局から相互に矛盾する命令が発せられたこと、に起因して依然として頻発した[22]。
前線への補給物資を過剰な量で送り込もうとする問題に対しては、戦争中に追加の鉄道補給基地(マガジン)を設けることで一定の対処がなされた。これにより、前線への補給輸送がある程度まで統制されるようになったが、ドイツ軍全体への補給がようやく安定した状態に達したのは、1870年末になってからのことであった。
戦争終了後、陸軍大臣および参謀本部は、露呈した欠陥を改めるべく直ちに改革に着手した。1871年10月1日の鉄道大隊の常設化に続き、1872年7月20日には、戦時中に用いられていた1867年5月2日付規程を廃止し、それに代わる新たな規程が公布された。
1872年の新規程では、中央委員会という原則は維持されたが、「路線監督機構」が担っていた鉄道輸送および戦場近傍における鉄道復旧・運営の責任は、新設の軍部局に完全移譲された。これにより、戦時において鉄道は民間当局から独立した軍事組織の管理下に置かれ、かつてのように9つの商工省および約50の鉄道会社と個別に交渉する必要を回避することができるようになった。同時に、新たに任命された「鉄道および通信線総監(Inspector-General of Railways and Lines of Communication)」が、両部門――鉄道とそれ以外の通信線――でそれぞれ以前よりはるかに効率的な組織を統括し、しかも参謀本部総長の指揮の下で全体統括者および両部門の仲介役として機能することが期待された。
新規程のもう一つの重要な特徴は、「戦場に近く、通常の鉄道職員では運営できないため軍が直接運行を担うべき路線」と、「戦場後方に位置し、平時とほぼ同じように運行を続け得るが、軍事輸送に柔軟対応するため一定の軍事要素を組み込むべき路線」との間に、明確な区別が設けられたことである。
1872年以降、さらに1878年および1888年には、複数の追加規程が制定され、それに伴って組織構造は一層拡張・修正された。こうしてあらゆる不測事態への対応を意図した種々の改正を重ねた結果、ドイツの軍用鉄道輸送組織は、きわめて精緻であると同時に途方もなく複雑なものとなった。公布された規則や命令は、平時にのみ適用されるもの、戦時にのみ適用されるもの、平時・戦時双方に適用されるもの、自国線に適用されるもの、戦地近傍線に適用されるもの、軍人に向けられたもの、鉄道員に向けられたもの、など、対象や範囲が多岐にわたっていた。理論上は、これらすべてを総合したこの組織は、以前にも増して包括的かつ完備したものとなったが、一方で、「人間的要素」が十分に考慮されていないのではないかという懸念も生じた。実際、これらの極めて複雑な規程を平時のうちによく読み込み、戦時に備えておくべき軍人や鉄道員の中で、そこまでの労を厭わない者は限られていたのである。
こうした問題を是正するため、1899年1月18日、新たな規程が公布された。この規程は、一部旧規程を廃止し、残る有効規程を整理・要約・構造化し、誰にとっても理解しやすく、参照しやすい形にまとめることを目的としていた。その目的は十分達成され、この時点でのドイツの軍用鉄道輸送組織(戦争における最終試験はまだ受けていなかったとはいえ)は、平時からの組織準備という観点ではまさに「傑作」と呼びうる出来となっていた。この規程の特に有用な点は、鉄道運営に関わるあらゆる軍事・民間当局の任務・責任・権限を明確に定義していたことである。
これら諸規程は、その後も適宜「野外勤務規程(Field Service Regulations)」によって補完された。最初の野外勤務規程は、1887年5月23日に公布され、1861年に制定されていた大軍移動規程に代わるものと位置付けられた。この1887年版野外勤務規程は、ドイツ軍事史上の一つの画期をなすものであり、当時として最新のモルトケの思想の要約と見なされ、またヴィルヘルム1世治世における軍事組織の「集大成」として高く評価された。それはまた、ドイツ軍事文献に強い影響を与え、多数の派生・改訂版を生むことになった。その後の改訂作業を経て、1900年1月1日には、14人の委員から成る特別委員会の綿密な検討に基づく新版本が刊行され、さらに改訂が進められた結果、1908年3月22日にはさらに新しい版が公表された[23]。
このように、ドイツが平時から戦時準備にいかに熱心に取り組んできたかは明らかであり、各種規程が示すとおり、軍用鉄道輸送は、ドイツの軍事関係者にとって最重要事項の一つと認識されていた。1908年版野外勤務規程では、「鉄道は戦争全般の遂行に決定的な影響を及ぼす。軍の動員および集中、戦力の維持にとって最大の重要性を持ち、作戦中にも部隊を一地点から他地点へと輸送する手段を提供する」と明記されている。野外勤務規程の役割は、かくのごとき原則を具体的運用に落とし込むにあたり、日々の野外任務に関わる実務細目を簡潔に提示するという点にある。
これまで見てきた諸資料に基づいて、ドイツが長年にわたる研究と経験の末に築き上げた軍用鉄道輸送組織の構造を、要点だけまとめておこう。
平時には、軍用鉄道輸送の成功に向けて準備を整える責任を負う当局として、(1) 陸軍大臣、参謀本部総長、参謀本部鉄道部、線路委員会および駅委員会、補給物資の発送・輸送・受領に関わる諸当局、ならびに軍需(Commssariat)部門の代表者、(2) 皇帝宰相、帝国鉄道局、帝国郵便・電信局、各鉄道会社の経営陣、などが挙げられる。
「陸軍大臣(Prussian Minister of War)」は、鉄道の軍事利用に関するあらゆる問題について、陸軍側の最高代表者としての地位を占める。
「参謀本部総長(Prussian Chief of the General Staff)」は、平時において軍用鉄道輸送に関わるすべての軍当局をその指揮下に置き、必要な指示を与える。彼は帝国鉄道局との緊密な連絡を保ち、同局と陸軍大臣との仲介役を務める。戦時における鉄道利用に関する基本方針を定め、またそのための平時準備を広範に指示するのは、彼の責務である。戦争勃発と同時に、鉄道および通信線総監が正式に職務に就くまでの間は、彼自身がその職務を代行し、その後も状況に応じて引き続き指示を発する。
「参謀本部鉄道部(Railway Section of the Great General Staff)」は、他の任務に加えて、鉄道輸送能力と設備に関するあらゆる情報を収集し、常に最新かつ完全な形で保持する責任を負う。そのために同部は各鉄道会社と、またあらゆる鉄道行政を統括する帝国鉄道局と密接に連絡を取り、必要に応じて自らの将校を現地調査に派遣して、帝国鉄道局から毎年提供される情報を補完する。この鉄道部は、戦時の軍用鉄道輸送に関する多数の細目と事前準備を担当する。
戦争勃発時には、戦域ごとに「鉄道および通信線総監(Inspector-General of Railways and Lines of Communication)」が任命される。彼は参謀本部総長から直接命令を受け、鉄道部門とその他通信線部門の二つを統括し、その協調ある運用を確保する。
軍事目的での鉄道運行については、「野戦鉄道監督(Director of Field Railways)」が任命され、総監の指揮下で鉄道輸送全般を統括する。彼は、配下の線路委員会および線路司令官を通じて、軍用輸送に関する各種要求や指示を鉄道側へ伝達し、また上級軍当局と協議しつつ、平時運行を継続する路線と軍事運行へ切り替えるべき路線の境界を決定する。彼自身および配下の将校・技術者はすべて、軍人と鉄道専門家の双方から構成される。輸送業務に関連するすべての要職には、それぞれ代行者が指名されており、不測の事態にも中断なく任務が遂行できる体制が整えられている。
「線路委員会(Line Commissions)」は、特定地域内の鉄道路線を軍事目的で管轄し、戦時には「線路司令部(Line Commandants)」となる。1899年改正規程に基づき、線路委員会は20設置され、1904年には21へ増員された。その本部はベルリン・ハノーファー・エアフルト・ドレスデン・ケルン・アルトナ・ブレスラウなど、主要交通拠点に置かれている。線路委員会は、上級軍当局と所轄鉄道会社との間の公式な仲介役として機能する。通常一つの線路委員会は、現役の参謀将校と鉄道幹部職員から構成され、それぞれに下士官・書記、鉄道職員・書記が補佐として付く。
さらにその下位機関として、「駅委員会(Station Commissions)」がある。彼らは線路委員会からの指示を受け、自駅または管轄線区における軍事輸送任務の実施を直接指揮する。
このように鉄道輸送の効率化を目指して軍事的要素が充分に取り込まれている一方で、かつてのような指揮権の曖昧さや責任の不明確さ、特に軍将校による鉄道路線の運行への不適切な干渉が再発しないよう、平時から厳格な制限が設けられている。1900年版野外勤務規程第496段には次のように書かれている――
鉄道が戦時において、その重要かつ困難な任務を完全に遂行するためには、部隊の行動によって運行管理に対する重大な障害を生じさせないことが不可欠である。
さらに1908年版では、第527段において次のように規定されている――
戦争において鉄道が担う重要な役割を考えれば、各級指揮官は、部隊の遅延等による輸送への妨害が決して生じないよう、最善を尽くさなければならない。鉄道職員および輸送指揮官は、鉄道当局が定めた輸送計画に拘束される。
輸送指揮官(conducting officer)は、自らの指揮下にある部隊または物資の管理に責任を負う。その職務の範囲内では、鉄道職員が発する指示に従わなければならない。
鉄道運行への一切の干渉は禁じられる。
重要な駅には、「鉄道連絡将校(Railway Staff Officers)」が任命され、輸送指揮官と鉄道当局との連絡役を務める。
「通信線」に関して、1908年版野外勤務規程は次のように述べている――
各軍団には、それぞれ本国基幹鉄道上の「エタッペ起点(Etappenanfangsort)」となる駅が指定される。このエタッペ起点から、戦場からそう遠くない地点に設けられる「集積補給基地(Sammelstationen)」へ向けて補給物資が送られる。
戦域内には、各軍ごとに「前線基地(Field Base)」が指定される。その位置は作戦の進展に応じて変化する。軍団は、この前線基地と「通信線道路(Etappenstrassen)」によって結ばれ、その道路上には一日行程(約13.5マイル)ごとに「通信線宿営地(エタッペ地点)」が設けられる。
これら各種規程には、軍用鉄道輸送に関して想定しうるあらゆる事態への詳細な対処方法が網羅されており、全軍を一度に動かす場合から、各駅における飲料水の供給や、軍用伝書鳩の輸送に至るまで、あらゆる条件が事前に検討されていると言って過言ではない。
脚注:
[21] エルンスト・シェーファー『ドイツ陸軍の兵站隊(Der Kriegs-Train des deutschen Heeres)』(ベルリン、1883年)で、1870–71年戦争の輸送およびそれがドイツ軍兵站に与えた影響を論じる中で、著者は1870年8〜9月の状況について「それにもかかわらず、当時の部隊はかなりの欠乏を強いられた(Immerhin wurden den Truppen damals nicht unerhebliche Entbehrungen auferlegt)」と書いている。またフランス占領軍の状況については「いずれにせよ、兵站当局は広範な措置を講じて、部隊が真の欠乏に陥ることを防がねばならなかった。特に徴発が思うように上がらず、当初は自由市場での購入もうまくいかなかったことを考えればなおさらである(Immerhin erforderte es umfassender Massregeln seitens der Intendantur, die Truppen vor wirklichem Mangel zu schützen, namentlich da die Requisitionen wenig ergiebig ausfielen, und anfänglich auch der freihändige Ankauf keinen rechten Erfolg hatte)」と述べている。
[22] 『外国軍事評論(Revue militaire de l’Étranger)』1872年11月27日号。
[23] 『ドイツ陸軍野外勤務規程1908(Field Service Regulations (Felddienst Ordnung, 1908) of the German Army)』。英国陸軍総参謀本部訳。ロンドン、1908年。
第十一章
ドイツにおける鉄道部隊
アメリカ合衆国の連邦政府が、戦争の遂行において多くを依存することになる鉄道の修理・破壊・運転を兼ねる大規模な建設軍団(Construction Corps)を組織したことは、近代戦争における一つの革新的な試みであり、ヨーロッパ、なかんずくドイツにおいて大きな注目をひきつけた。ドイツは、大西洋のこちら側にあってこのアメリカの先例に最初に追随した国であり、その方式は、その後、鉄道と常備軍をともに有するあらゆる国によって、多かれ少なかれ全面的に採用されるにいたっている。
南北戦争の時期まで、ヨーロッパではこの種の軍団の必要性は認識されていなかった。しかし、その軍団から得られうる利点があまりに明白な形で示されたため、1866年にプロイセンとオーストリアとの間に早期の衝突が不可避とされるに至ったとき、前者がまず最初に取った措置の一つは、1866年5月6日の勅令により、野戦鉄道隊(ドイツ語原称 Feldeisenbahnabteilung)を設けることであった。この部隊は、前述のアメリカの軍団にほぼ近い原則に基づき、組織・運用されることが構想されていた。とくに想定された目的は、敵によって破壊された鉄道路線を迅速に修理すること、および敵に利用させたくないと判断される鉄道を破壊することであった。同隊は、軍または軍団の参謀本部の命令下に置かれることとされた。ただし、その部隊は、実際にそのサービスが必要とされる時点まで実体を持たず、戦争の期間中のみ活動するものとされた。
戦闘が勃発すると、5月25日および6月1日の勅令により軍団の三個大隊が動員され、それぞれが戦域の異なる部分で行動する三つのプロイセン軍の各一軍に配属された。同軍団の構成は、一部が軍事、他の一部が民間であった。軍事要員は、工兵将校(うち一名が司令官を務める)、下士官、および先に述べたようなパイオニア中隊から供給され、パイオニアは大工または鍛冶で構成されていた。民間要員は、線路、橋梁等の建設・修理に精通した鉄道技師、工事主任の役割を担う助役技師、上級線路工(ヘッド・プレートレイヤー)、職長、機関士、機関車・車両・ポンプ・給水タンクの修理工などから成っていた。民間部門の要員は、商務大臣によってプロイセン国有鉄道の職員から選出され、その服務は戦争大臣の処分に委ねられた。三つの各大隊は、それぞれ完全な一単位をなしていた。
これに対して、オーストリア側には当時、同種の部隊は存在しなかった。三年前、ウィーンでオーベルスト・フォン・パンツ(Oberst von Panz)による『軍事的観点から見た鉄道事業』(原題 Das Eisenbahnwesen, vom militärischen Standpuncte)という書物が刊行されており、その中で著者は、平時のうちに以下のような鉄道に関する諸点について詳細を収集し、必要時に参照できるよう分類しておくべきだとの見解を示していた。すなわち――
- 軌道(Permanent way):方式と構造、軌間および線路数、単線か複線か。
- 駅(Stations):規模と構造、うちいずれが兵站拠点として最適か。
- 橋梁(Bridges):基礎工事等、どれが最も容易に破壊しうるか、また破壊された場合、もっとも速やかに修理可能か、あらかじめ爆破準備がなされているか否か。
- 盛土(Embankments):規模、造成方法、法面、暗渠の有無とその規模。
- 切通し(Cuttings):長さと深さ、法面、地質、水量の多寡、地すべりの危険の有無。
- トンネル(Tunnels):寸法と構造、煉瓦等による巻立てか、岩盤掘削か、両端の切通しの形状と、閉塞の可能性。
- 大橋梁および高架橋(Large bridges and viaducts):構造方式、アーチスパン、橋脚が地雷室を備えているか否か[24]。
- さらに、必要な人員・工具・資材をどこから、どの程度入手しうるか。
これらの提言は当時、大きな関心を引いた。ハインリヒ・L・ヴェストファーレンは、著書『鉄道利用下の戦争遂行』(ドイツ語原題 Die Kriegführung unter Benutzung der Eisenbahnen, ライプツィヒ1868年)においてこれらの提言を引用している。同書はフランス語にも翻訳され、『戦時における鉄道の使用について』(仏題 De l’Emploi des Chemins de Fer en Temps de Guerre, パリ1869年)として出版された。それにもかかわらず、プロイセンとの戦争勃発直前にオーストリア北軍総司令官が建設軍団の編成を進言した際、陸軍大臣は「鉄道の修理は、関係鉄道会社が行うべき仕事である」と答えたのであった。
とはいえ、プロイセン軍の前進を遅延させるため、鉄道連絡を遮断することはオーストリア側の重要な戦術の一つとなり、その実行にはきわめて積極的であった。橋梁や高架橋は破壊され、レールは引き剥がされ、枕木は焼かれ、分岐器や転車台は持ち去られ、トンネルは閉塞され、給水柱やポンプは使用不能にされた。たとえば、リベナウとジフラウの間で、鉄道が深い切通しを通っている箇所では、両側の法面上部に設置された地雷を爆破することにより、大きな岩塊を切り崩し、それらが線路上に落下して切通しを約250フィートにわたって高さ6〜8フィートにまで埋めてしまった。この岩塊は、さらに発破で細かく砕いてからバラスト車で運び出すまで撤去できなかった。
しかし、プロイセン側の準備はきわめて周到であり、多くの場合、きわめて迅速な復旧が可能であった。前記の切通しの例でさえ、50名の工兵と20名の労働者の手によって、破壊のあった当日の深夜までには列車運行が再開できる状態にまで復旧された。
建設軍団の各大隊は、それぞれ二両の機関車と、三十両の有蓋貨車または無蓋貨車を保有していた。これにより、侵攻先の道路で使用するための軽馬車六台(必要に応じて現地で馬を徴発)、工具、爆破用火薬または火薬綿、レール・枕木・ボルトなど250ヤード分の軌道資材を輸送することができた。さらに、別途の中間補給所には四分の一マイル分の予備資材が置かれ、作戦基地には無制限の予備が備蓄された。建設列車はまた、小橋梁の即時補修用として材木、ロープ、釘、足場材、クランプなどを搭載し、大橋梁や高架橋用の資材は適宜な中心地に保管された。
敵の破壊工作を受けた可能性のある線路の偵察がどのように行われたかについては、王立工兵隊のC・E・ウェバー大尉が『1866年ボヘミア戦役覚書』(Notes on the Campaign in Bohemia in 1866)に次のように記している。
偵察隊は、行軍前衛とともに出発し、妨害を受けない限り、前衛と歩調を合わせて進む。その進行は、線路の両側に配置された騎兵斥候によって掩護される。
部隊の管理下にある列車の大部分は、前後に一両ずつ機関車を付けてゆっくり前進する。その前方約500歩の位置には、将校一名、線路を駆動する兵四名、および喇叭手一名を乗せたトロリーが先行する。何らかの障害物に遭遇した場合、トロリーは喇叭で列車に合図し、列車は特別の注意を払いつつ障害物に近づく。敵と接触した場合、斥候がトロリー上の将校に警告を発し、将校は列車に戻り、列車全体が後退する。後部の機関車は切り離して、伝令や追加資材の輸送に用いることができる。
アメリカ合衆国における連邦軍の成功例がなければ、プロイセン建設軍団――つい先ごろ組織されたばかりの部隊――による修理の迅速さは、驚嘆すべきものとみなされたであろう。実際、重要な橋梁であっても、その破壊後1日半から3日以内に通信が回復された例は少なくなかった。
しかし実際には、オーストリア側が橋梁を破壊する場合、レールを引き剥がすだけで同じ目的を達成できたであろう箇所で、必要以上の熱心さを見せて橋を落としてしまった一方で、エルベ川にかかるロブコヴィッツ橋の橋脚に設置された地雷については、爆破の決断を下すことをためらった責任将校の逡巡が、プロイセン軍にとって大きな利益をもたらした。というのも、このためにプロイセン軍は、7月18日から27日まで、トゥルナウからプラハ、パルドゥビッツ、ブリュンへの鉄道路線を使用することができたからである。同27日に至り、テレジーン(テレージエンシュタット)総督の命により、ついに橋は破壊された。この橋は戦略上きわめて重要なものであり、ウェバー大尉によれば、もしプロイセン軍が渡る前にオーストリア軍が橋を爆破していたならば、仮設橋の建設でさえ少なくとも六週間は要したであろうという。また、オーストリア軍がプラハから撤退する際、同市に残置されていた鉄道車両を撤去も破壊もせず、プロイセン軍の手に委ねたことも、後者にとってさらなる利益となった。これらの例は、臨界の瞬間における迅速な破壊行為が、一方にとっては、他方における最短時間での復旧を可能とする効率的な組織と同じくらい重要であることを示している。
建設軍団はこのようにして、その存在意義を十分に証明したが、特定の戦争のため、しかもその期間中のみを対象として突然に編成される軍団というあり方は、大規模な常備軍を有し、必要とあらばいつでも即応態勢を取らねばならない国としては不十分であると考えられた。そのため、プロイセンには、恒常的かつ十分に組織された野戦鉄道隊が必要とされたのである。さらに、この決定には別の理由もあった。すなわち、パイオニア部隊は、ほとんど全員が予備役兵で構成されており、鉄道作業に関する特別な訓練を受けていなかった一方で、鉄道技術者たちは、平時の公共利用を前提とした堅固な線路敷設に慣れていたため、軍が一時的に利用することのみを目的とした粗雑かつ迅速な工事を強いられたとき、不利な立場に置かれることになったのである。
また、この軍団は民間要素の比率が高かったため、軍用鉄道輸送の全般を統制する職務を担っていたベルリンの軍事鉄道委員会の監督や統制から逸脱しがちであった。さらに、建設兼破壊軍団は、戦域において――とりわけ敵から奪取した鉄道の――運行を担当する運転軍団としての性格を欠いていた。プロイセン軍はオーストリア国内で押収した鉄道の運行に、オーストリア鉄道従業員のサービスを利用することができたが、将来の戦争において、同様の方法をとれるかどうかは不確実であった。
この頃までに、鉄道線路の破壊と復旧という問題は、近代戦争における重要な要素としてドイツの軍事当局や著述家たちの間で注目を集め始めていた。マッカラムの報告書の翻訳が出版され、さらに多数の技術論文、小冊子、単行本――たとえばヴィルヘルム・バッソンの『鉄道と戦争――前回戦役の経験に基づく』(独題 Die Eisenbahnen im Kriege, nach den Erfahrungen des letzten Feldzuges, ラティボール1867年)――などが続々と刊行され、戦時における鉄道の迅速な破壊と復旧の技術、ならびにそのいずれの目的を達成するために最も効果的な手段が何であるかが論じられた。
これら諸要因と諸展開が、プロイセン国王が1869年8月10日付の勅令を発して恒久的な鉄道部隊(Railway Troops)の基幹(カドレ)を創設するに至った理由であることは、まず間違いない。この部隊は工兵から成り、鉄道の建設・破壊・運転に関するあらゆる事柄について恒常的な訓練を受けることになった。このため、新たな工兵大隊が編成され、その全計画は1871年中に実施されることとなった。
1870年に対仏戦争が勃発したとき、この恒久軍団の創設準備はなお進行中であった。しかし、プロイセン軍はそれでもなお、四個の鉄道部隊中隊(のちには六個に増加、うち一つはバイエルン中隊)をもって戦役に臨むことができた。各中隊は工兵、パイオニア、鉄道職員ならびに補助労務者から成り、全員が肩章に「E」(Eisenbahntruppen=鉄道部隊)の文字を付した制服を着用し、小銃を携行していた。すなわち、プロイセンは1866年の戦役と同様に、再び鉄道建設軍団を掌握しているという利点を味方にしたのである。フランスには当初、この種の部隊は存在せず、開戦後になって急遽自前の建設軍団の創設に取りかかったものの、同軍団が実際に行ったことは、主としてメスおよびシュトラスブールに大量の鉄道資材を集積することにとどまり、その資材は後にプロイセン軍の手に落ちて、彼ら自身の作戦に利用されたのであった。
もっとも、こうした優位性にもかかわらず、ドイツ軍が実際に得た利益は、最終結果に影響を及ぼすうえで重要ではあったものの、軍指導部が期待し、また望んだほど大きくはなかった。フランス軍が退却の際に自国鉄道に施した破壊は、1866年のオーストリア戦役でプロイセン軍が経験したものよりはるかに深刻であった。たとえば、パリ包囲のためドイツ軍にとって最重要路線であったパリ=シュトラスブール線の復旧工事は、9月17日から11月22日にまで及んだ。フランス軍はナントイユ・トンネル内に六個の地雷を爆破して坑壁を崩し、その西側坑口を約4,000平方ヤード分の砂で完全に埋没させた。崩落物の除去を試みたものの、悪天候による新たな崩落が相次ぎ、結局、建設軍団はトンネルを迂回するループ線を新設することで通信を回復したのである。主要路線の一部が要塞によって守られていたことも、侵攻軍の作業を困難にする要因となった。他方、もしフランス軍が、よく組織された専門部隊を有しており、鉄道連絡遮断のために常に最善かつ最も科学的な方法を採用していたならば、ドイツ軍の困難はさらに深刻なものとなっていたであろうこともまた確かである。
たとえば、ナンシーとトゥールの間に位置するフォンテノワ=シュル=モゼルには七アーチから成る橋梁があり、これを効果的に破壊しえれば、ドイツとパリを結ぶ主要路線の通信にきわめて重大な支障をもたらしたはずであった。しかし、破壊任務を委ねられた部隊は、橋の中央ではなく側部の二アーチを落としたにとどまり、その結果、ドイツ軍は石材と土砂で空隙を埋めることで約十七日で通信を回復することができた。また、ヴォージュ山地の数本のトンネルには地雷が設置されていたものの、装薬はなされておらず、トンネル爆破の命令を待っていた担当者たちのもとに指示が届く前に、ドイツ軍が現地に到達してこれらを占拠してしまった。
一方で、フランス側に組織的な建設・破壊部隊が存在しなかったことは、非正規民兵 フラン・ティルール(francs-tireurs) の各隊による、きわめて大胆かつ成功した作戦行動を妨げるものではなかった。彼らは鉄道通信の重要性を十分に理解し、その妨害に卓越した技量を発揮したのである。
なかでもとくに注目すべきは、「ムーズのフラン・ティルール隊」と呼ばれる一隊が成し遂げた作戦である。
彼らは、1870年10月26日に、ランノワ(ランノワ:ラン=モンス間の線路上)を通過する予定のプロイセン軍輸送列車を破壊することを決意した。彼らの行動については、まもなく現地に到着した王立工兵隊のフレイザー中尉[25]が、作戦に参加した者たちから聞き取った話を基に以下のように記している。
線路上に目に見える障害物を置けば発見されてしまう。そこで、彼らは別の方法をとった。まず、線路が高さ12フィートの盛土上を通っており、その片側斜面にはよく茂った森が広がっている地点を選んだ。フラン・ティルール隊は二本のレールを外し、枕木を取り外し、線路を横断する深い溝を掘ったうえで、その底に鉄片を敷き、その上に30キロ(2クォーター10ポンド)の火薬を詰めた箱を載せた。そして箱の蓋にはフランスの野戦砲弾を取り付け、レールを元に戻した際、その信管頭部がレールの下フランジ直下に来るようにした。彼らは線路を元通りに戻し、注意を引くものが残らぬようにするため、あえて枕木を一つだけ省き、通過する機関車の重みでレールがたわみ、その結果信管の頭が押しつぶされて起爆するように仕掛けたのである。その後、約75名から成る一隊は森の中に退き、事態の推移を待った。
やがて、40両編成の列車が、危険をまったく察知しない機関士に操られ、通常の速度で近づいてきた。機関車が仕掛け地点に到達した瞬間、爆発が起こり、大量の土砂とレール、枕木が吹き飛ばされ、機関車と数両の客車が盛土の下へと転落し、列車は大破した。残骸から這い出たプロイセン兵たちは、樹木の陰に隠れたフラン・ティルール隊によって射殺された。その数は約400名に上ったと言われる。
全般的に見ても、フランス側は侵入軍の鉄道運動を妨害しようと努力する中で、多数の線路を破壊し、大規模な橋梁およびトンネルだけでも七十八箇所に上るほか、無数の小規模破壊を行った。これらの修復・再建はプロイセン鉄道部隊に膨大な労務負担を課し、仮設工事用の資材不足のみならず、工事に携わる人員側の能力不足もたびたび問題となった。鉄道部隊の各中隊は編成から日が浅く、隊員はなお十分な訓練を受けていなかった。1870〜71年においても、1866年と同様に、軍人・民間人を問わず、建設軍団の構成員は、戦時の緊急条件下で求められる特殊な鉄道補修・再建作業に不慣れであった。実際のところ、この種の訓練は、本来であれば最高度の効率が求められるべき戦場で完成されねばならなかったのである。
さらに、ドイツ軍は、占領したフランス鉄道路線2,500マイルの運行においても多大の困難に直面した。
まず第一に、機関車・車両の不足があった。フランス軍は後退に際し、可能な限り自国の車両を伴って撤退するか、敵の利用を阻むべく破壊した。ドイツ軍は、ドイツ本国から機関車や貨車をたえず増援として送り込むことでこの難局に対応しようとしたが、それでもなお、車両運用を含む輸送管理の組織が不十分であったため、自軍部隊を確実に鉄道輸送しようとする各級指揮官が、線路の定期運行用に割り当てられていた機関車や客車を平然と徴用する事態が頻発した。そのため、定期運行を全面的に停止せざるを得ない場合さえあった。
次に、人的要因に関する問題は、資材面の問題に劣らず深刻であった。ドイツ軍がパリ方面へ進撃するのに比例して、フランス人の住民の大半は退避し、残留者に対して行われた脅迫と高給の提示のいずれも、占領された鉄道の補修・運行のために協力を得るうえでほとんど効果を持たなかった。このような状況下で、ドイツ軍は鉄道部隊とは別に、3,500名もの鉄道作業員をドイツ本国から送り込まざるを得なかったのである。
しかし、この措置は新たな問題を生んだ。ドイツ各地から集められた鉄道員たちは、それぞれ装備や運行方法が大きく異なる複数の鉄道会社の出身であった。そのため、彼らが一体となって――それも外国の路線上で、規律の緩みや意思疎通の欠如という事態を抱えながら――業務にあたらねばならなくなった結果、甚だしい軋轢が生じたのである。
こうした一連の経験は、すでに1870〜71年の戦役以前から抱かれていた結論――すなわち、鉄道部隊の真の有効性は、平時のうちに組織化しておき、戦時に即応できる体制を整えない限り得られない――をいっそう明確かつ強固なものとした。この結論はもはや疑う余地のないものとなり、プロイセンはその実行にあたって特有の素早さを見せた。
1871年5月19日の勅令に基づき、同年10月1日付でプロイセン陸軍に鉄道大隊(Eisenbahnbataillon)が新設された。その主たる目的は、(1) 隊員が平時のうちに鉄道工事に必要な技術訓練を受け、戦時にあっては鉄道のあらゆる工事を遂行し、被害を迅速に修復するとともに、連絡線上の全鉄道交通を担当しうる能力を持つこと、(2) 平時のうちに、戦時に必要となると思われる全ての設備・資材・工具等を調達、または準備すること、(3) 戦時に必要となるあらゆる鉄道編制の中核を構成することであった。大隊は、鉄道部隊中隊が解隊されるまでに、なお兵役義務の残る元隊員の下士官および兵から成り、さらに、三年志願兵およびプロイセン戦争省管轄地域全域から募集された新兵によって補充された。ただし、採用されるのは、それぞれの鉄道業務に適した職業的素養を有する者に限られた。将校は主として、ただし専らではなく工兵隊から選抜された。工兵将校および機械技師としての職業資格を有する者は、一年志願兵として受け入れられた。
平時編成において、大隊は本部および四個中隊から成り、各中隊は100〜125名で、独自の輸送手段を備え、さらに補充隊を有していた。そのうち一個中隊は線路工および監視員のみで構成されていた。動員時には各中隊が二個の建設中隊と一個の運輸中隊に拡張され、戦時編成では合計八個の建設中隊と四個の運輸中隊となる。また、大隊には本部・二個中隊・鉄道職員の一分遣隊から成る予備大隊も置かれた。1870〜71年戦役において鉄道勤務経験を有していた将校は、すべて予備役に編入された。
大隊の訓練は工兵総監の指揮のもとに行われた。訓練は、(1) 将校に対し、鉄道建設・修理・破壊の全分野に関する理論的かつ科学的教育を施すとともに、軍用輸送に役立つあらゆる鉄道学分野の研究を課すこと、特に各鉄道会社の職員との緊密かつ恒常的な交流を重視すること、(2) 鉄道建設および運転に関する実地訓練を行うこと、の二つから成っていた。実地訓練は、(a) 大隊の演習場において行われ、主として線路を迅速に破壊する技術についての教育が実施された。(b) 一方で、ドイツ国内の国有鉄道および私鉄の多くにおいて――軍事的組織原理を維持したまま――橋梁補修、軌道敷設、駅拡張等の作業に従事させる形でも行われた。(c) さらに、鉄道部隊自身が建設し、その完成後は公共輸送に供した短距離鉄道路線の建設・運転・管理を通じても訓練が行われた。訓練期間は一年または三年とされ、大隊はおよそ500名という標準規模を保つよう、新兵を継続的に補充した。志願者は一般に質の高い者が多く、大隊への入隊は、そこから得られる経験が民間に復帰した後の鉄道就職に有利に働くため、好ましいものとみなされていた。
こうした実地教育においては、可能な限り実戦時の条件を想定し、それに備えることがとくに重視された。たとえば、鉄道部隊が敷設する新線のレール敷設にあたっては、作業速度が極めて重要な要素とされ、作業に要した時間の記録は厳密に管理された。
また、一群の将校には、国内外における鉄道学および運用法の発展を調査し、その成果を訓練中の隊員に伝達する任務が与えられた。さらに重要な施策として、軍事的観点から見た鉄道に関する教科書シリーズの刊行が開始された。また、戦時に備えて大量のレールや橋梁部材などの資材を集積する作業も始められた。
1872年12月には、バイエルン王国も同様の鉄道大隊を創設し、第一バイエルン軍団に付属する単一中隊から構成された。その構成および活動は、プロイセンの先例にほぼ忠実に倣った。
ドイツ最高軍事当局はこれら鉄道部隊の編成をきわめて重視し、1899年に至るまで、大隊創設以来一貫して、参謀総長がその監督官(Inspector-General)を兼ねていた。
1875年12月30日には、鉄道大隊は鉄道連隊(Eisenbahnregiment)に改編された。旧来の大隊の枠組みでは軍用輸送の需要に十分応えられないと判断され、連隊本部48名、各大隊502名から成る二個大隊の連隊に拡張された。1887年には、プロイセン鉄道連隊は二個大隊から四個大隊へと増強され、バイエルン大隊も一個中隊から二個中隊へと拡張された。1890年には、プロイセン鉄道連隊は二個連隊から成る鉄道旅団(Brigade)へと再編され、それぞれ二個大隊を有する形となったため、部隊数自体は変わらなかったものの、1893年にはさらに二個大隊が追加され、プロイセン鉄道旅団は三個連隊・各連隊二個大隊・各大隊四個中隊という編制となり、合計二十四個中隊を擁するに至った。そのうち一個はヴュルテンベルク中隊、二個はザクセン中隊であり、バイエルン大隊も二個中隊から三個中隊へと拡大された。
1899年、プロイセンは、鉄道・電信・航空(気球等)に関わるすべての技術部隊を通信兵(Verkehrstruppen)として一括編成する新たな方針を打ち出した。この新兵科は、師団長級の将官の指揮下に置かれ、皇帝から直接命令を受けることとなった。また、ベルリン=ユーテボーク鉄道(単線・全長70キロ=44マイル)の扱いにも変更が加えられた。同線はもともと鉄道部隊が主として建設し、その運行を経験獲得のために鉄道部隊自身が行っていたが、1899年3月25日法律制定以前は旅団から運行要員が供給され、その頻繁な交代が不便の原因となっていた。新法の下では、同線の運行専用に三個プロイセン中隊と一個ザクセン分遣隊から成る一個分隊が新設され、中佐一名がその管理者を務めることとなった。
全体として、鉄道部隊は三十一個中隊、将校180名、下士官および兵4,500名から構成されていた。ただし、この数字には、鉄道経験を有し、なお兵役義務を負う予備役要員の精密な名簿(頻繁に更新)が含まれていない。旅団・連隊・大隊・中隊は、戦時に鉄道業務の一切を担うことができるとみなされた相当数の人員を指揮する、いわば「小さな軍隊」の幹部組織に過ぎなかった。
ドイツ国内でさえ、こうした大規模な鉄道部隊の必要性については、数年前から議論があった。主な論拠は二つであった。(1) 軍に付随する非戦闘要員の数は、可能な限り最小限に抑えることが望ましいこと、(2) フリードリヒ・フォン・デル・ゴルツが『戦争指導論(Kriegführung)』の中で主張したように、鉄道部隊が担う多くの建設作業は民間請負業者に任せるべきであり、特殊目的の新部隊を増やすことで軍を過度に肥大化させるべきではない、という見解である。
これに対して示された反論の要点は、おおむね次のようなものであった。(1) 将来の戦争では、大規模な部隊の移動は直接的に十分な鉄道施設の整備・維持と結びつく。(2) 平時から編成されている鉄道部隊のみが、戦時における損傷線路の迅速な復旧や新線建設を確実に行える。(3) 極度の時間的制約の下で、しかも一時的な目的のために行われるこの種の工事は、平時に普通の請負業者が手掛ける鉄道工事とは本質的に異なる。(4) ドイツは、その地理的条件から多大な鉄道部隊を必要としており、西はフランス、東はロシアという二方面、あるいは同時に両方面の敵に対処しなければならない可能性がある。とりわけロシアとの戦争に際し、ドイツ軍が鉄道を利用してロシア領内に軍を送り込む必要が生じた場合、ロシアの5フィート・ゲージをドイツの4フィート8½インチ・ゲージに改軌してドイツ側機関車・車両をロシア領内で使用可能にするか、あるいはロシア線路の代替として専用軍用鉄道を新設しなければならず、そのいずれにせよ多人数の鉄道部隊が不可欠となる。
これら双方の議論の妥当性はさておき、事実として残るのは、ここまで述べてきたような経緯のもとで創設されたドイツの鉄道部隊が、その後も規模を着実に拡大し続けるとともに、教育機関として機能する鉄道学校と、戦略鉄道建設やその他あらゆる鉄道建設・破壊・運行分野での豊富な実務経験のおかげで、常にその能力を向上させてきたということである。
さらに、ポール・ラノワが『ドイツのスパイ制度』(The German Spy System) において述べているように、これら軍所属鉄道員には、将来別の使命を担う可能性もあった。彼は、悪名高いシュティーバー長官が1880年に構想した計画について語っている。それは、フランス国鉄網のあらゆる部分――とりわけ重要な接続駅や戦略拠点――に、鉄道作業員として勤務可能なドイツ人スパイを配置するというものだった。彼らは、将来ドイツとフランスの間に戦争が勃発した際に所定の指令を受け取り、あらかじめ立案された計画に従って主要地点の鉄道線路を破壊または遮断し、一定期間、交通を麻痺させることでフランス軍の動員に重大な遅延を生じさせようとするものであった。その間にドイツ軍は自軍を前線へと急行させるのである。「宣戦布告の瞬間に、戦闘軍の不可欠な補助者として、我が国の鉄道員に課せられる極めて重要な役割は、この時点ですでに完全に認識されていた」とラノワは付言している。
このシュティーバーの計画はビスマルク侯に上申され、彼の承認を得た。鉄道員としての採用という点に限れば、1883年末までに、フランス鉄道各社においてシュティーバーの手先たちが静かに雇い入れられていた。しかし、偶然の出来事からラノワ自身がこの陰謀を発見するに至った。その一週間以内に、ラノワから報告を受けたカンボナ将軍(当時の陸軍大臣)の措置により、鉄道会社各社には極秘通達が発せられ、全ての外国人職員に対し、即時にフランス市民権の取得を求めることが命じられた。市民権取得を拒否する者は、直ちに解雇されねばならなかった。当時、鉄道会社の外国人雇用者数は1,641名であったが、そのうち1,459名が帰化に同意した一方で、182名のドイツ人がこれを拒否した。これら182名は即座に解雇され――彼らこそが、鉄道作業員としての資格を持ちながら、ひとたび命令が下されれば交通破壊任務を遂行するはずだったスパイであると推定されたのであった。
注
[24] アンリ・ド・フォルマノワール大尉は『戦時における鉄道について』(Des Chemins de Fer en Temps de Guerre, ベルギー軍事講話、ブリュッセル1870年)の中で、フランスおよびオーストリアではすべての鉄道橋に地雷室が設けられており、必要に応じて容易に破壊できるようになっていると述べている。
[25] 「1870年10月26日に鉄道列車の破壊に用いられた魚雷(torpedo)についての報告」(”Account of a Torpedo used for the Destruction of a Railway Train on the 26th of October, 1870.”)フレイザー中尉著。王立工兵隊紀要(Papers of the Corps of Royal Engineers)新シリーズ第20巻、ウーリッジ、1872年。
第十二章
フランスと1870–71年戦争
フランスが1870–71年にドイツと戦争状態に入ったとき、その軍事鉄道輸送は、1851年および1855年に採択された規定によってなお運営されていた。これらの規定は、軍隊と鉄道会社のあいだの会計取極め、軍用列車の長さ等の細目に関するものにすぎず、戦時に大兵力を輸送するための組織については、何らの規定も設けていなかったのである。フランス軍が1859年の戦役に際し、イタリアへ輸送されたときも、確かにこれらの規定が適用されていた。しかし、当時すでに明らかになっていた欠陥と、1866年の普墺戦争が教えた教訓とによって、これら初期のフランス規定を、近代戦の条件と要求に合致するよう改訂する必要があることが示されていた。
こうした事情に心を動かされたうえ、自国が陥っていた不利かつ危険な状況を認識したフランス陸軍大臣ニエル元帥は、1869年3月、「中央鉄道委員会」(Commission Centrale des Chemins de Fer)を任命した。同委員会は、陸軍、公共事業省、主要鉄道会社の代表者から構成され、その任務は軍事輸送に関する既存の規定を改訂するだけでなく、それらに代わる新規定を作成することにあった。
委員会は29回の会合を開き、すでにドイツおよびオーストリアで採用されていたものにきわめて近い線に沿って、一つの暫定的な案を作成した。この案はとくに、軍事要素と鉄道技術要素の調和という原則に立脚していた。この暫定案は、恒久的な制度とする前に、各種の試験と実験によって完成度を高めることが予定されていた。
しかしニエル元帥は死去し、新しい規定は採択されず、構想されていた計画は半ば忘れられた。予定していた実験を早期に完了するには時間が足りず、その間にも政治的・軍事的な出来事がめまぐるしく続いたため、1870年に戦争が勃発した時点では、もはや計画を実施する余地がなかった。こうして、1869年の委員会による研究は空しく終わり、フランスは、すでに1859年イタリア戦役でも軍隊を苦しめた、時代遅れで重大な欠陥をもつ規定しか持たぬまま、巨大な戦いに踏み出したのである。
フランス軍人の才覚なら「うまく切り抜ける」(se débrouiller)──英語で言う “to muddle through(とにかくやり過ごす)” ことくらいはできるだろう、という楽観もあった。しかし、状況それ自体が絶望的であり、その結果として、ほどなくしてもたらされたものは、ほとんど混沌と呼ぶべき状態であった。
純粋に兵員輸送そのものに関して言えば、鉄道会社自身は驚嘆すべき働きを示した。「ドイツの数的優位はパリですでに知られており、フランスは大胆さと迅速さによってこの優位を打ち消そうと考えた」と、フォン・デル・ゴルツは『国民皆兵』(Nation in Arms)の中で述べている。「この考えはよかった……しかし……それには、兵力集中の迅速さにおいてドイツを凌駕しなければならなかった。」この目標達成のため、鉄道会社とその職員が全力を尽くしたことは、全く疑いの余地がない。
1870年7月15日、公共事業大臣は東部(Est)、北部(Nord)、パリ=リヨン(Paris-Lyon)の各社に対し、必要とあれば旅客・貨物の通常運行を停止してでも、あらゆる輸送手段を戦争大臣の処分に委ねるよう命じた。また、西部(Ouest)およびオルレアン(Orléans)の両社には、自社の車両を前記三社の使用に供するよう要請した。最も重い任務を負うことになる東部鉄道は、すでに戦争勃発を予期して種々の準備を講じていた。そして、各社が発揮したエネルギーは、命令受領からわずか24時間後の7月16日17時45分に、最初の軍用列車がパリを出発するほどであった。7月16日から26日にかけて、合計594本の軍用列車が運行され、これによって18万6,620名の兵士、3万2,410頭の馬、3,162門の火砲および車輛、さらには弾薬・糧秣その他の物資を満載した貨車995両が輸送された。全体の集中期間19日間(7月16日〜8月4日)には、30万名の兵士、6万4,700頭の馬、6,600門の火砲および車輛、4,400両分の弾薬・物資が輸送されている。
しかし、このように鉄道会社側が示した活動ぶりは、軍当局側における交通整理その他の運用面での組織が全く不十分であったために、かなりの程度まで無に帰した。
7月16日にパリを出発した最初の連隊は、17時45分発の列車に乗るため14時に駅に到着した。兵士たちは通りを進む間、「ベルリンへ!(À Berlin!)」と叫ぶ巨大な群衆に取り巻かれており、出発までの時間が余ったため、駅構内をふさぐか、あるいは友人知人に連れ出され、周辺の居酒屋へ向かった。その結果、列車が出発するころには、大半の兵士がひどく酔っていた。また、その途中で多くの兵士が弾薬を失っていた──たぶん「歴史的な機会の記念」として取り上げられたのであろうが、その一部はのちにコミューン暴動で悪用されることになる。
当初こそ、このように兵士が3時間も前に駅に到着していたが、そのうち、今度は部隊が3〜4時間も列車を待たせる事例が生じるようになった。
さらにドイツでは、兵力を国内の安全な地点に集結し、そこから国境へ向けて完全な編成単位ごとに鉄道輸送するという過程が、別個の作戦として行われていた。だがフランスでは、この二つの動きは同時並行で進められた。このこと自体が、鉄道上の混乱と無秩序の大きな原因となった。部隊は平時編成のまま、またさまざまな規模の状態で駅に集結した。ある連隊は、同じ日の早い時間や前日に出発した他の連隊の3分の1の兵力しかなくても、鉄道会社側は両者に同じ両数の車輛を用意していた。したがって、(1) 車輛の2/3を外して出発させる(しかし時間や駅の設備上それができない場合も多い)、(2) 列車を空気輸送に近い状態で出す、(3) 余ったスペースを他部隊の兵員や、たまたまその時点で利用可能な物資で埋める──という三つの選択肢のいずれかを取らざるを得なかった。実際、ほとんど空に近い状態で出た列車もあったが、一般には三番目の方法が採用された。
この結果、歩兵・騎兵・砲兵といった異なる兵種、動員済み部隊と予備役兵、あるいは自隊の将校からはぐれ、他部隊の将校の命令には従いたがらない兵士たちが、一緒くたに輸送されることになった。そこにさらに、馬匹や資材、糧秣その他の物資が適当に積み込まれたのである。逆に、危険なほど過密に詰め込まれた列車もあり、そのために本来乗るべき兵士が乗り切れず置き去りにされる事態も生じた。
兵員の乗車手続きにおける混乱と遅延は、鉄道職員が軍当局から十分な支援を受けられなかったことで、さらに拡大された。1855年の規定(このときもまだ有効であった)の一条には、「乗車に関連する所定の行動については、将校が責任を負い、規定の遵守を確保するため、その職務を身をもって遂行しなければならない」とあった。しかし、エルヌフ男爵(『普仏戦争におけるフランス鉄道史』Histoire des Chemins de Fer Français pendant la Guerre Franco-Prussienne の著者)によれば、パリ東駅において、乗車に関して一切関与することを頑なに拒否した将校たちもいたという。彼らは、そうした仕事は鉄道職員が、必要なら下級将校の助けを借りて行うべきものだと主張した。
このような状態のもとで、部隊指揮官は自隊の兵士から完全に切り離されることが多くなり、兵士のほうも、自分たちの目的地を知らされないまま輸送されることがあった。ある将軍は7月21日、パリに次のような電報を送っている。「ベルフォールに到着した。自分の旅団が見当たらない。師団長も見当たらない。どうすべきか。自分の連隊がどこにいるか分からない。」兵士の側も同様で、ほどなくして前線に向かう途中の駅には、「迷子」の兵士の群れがあふれるようになった。名目上は自部隊を探していることになっていたが、実際には駅の食堂で地元の愛国者のもてなしを受けているほうが、はるかに心地よいと感じていた者も多かった。この悪習はきわめて深刻な規模に達し、1870年8月には、ランス駅を4,000〜5,000名の「迷子」の兵士が取り囲み、前線宛の物資を積んだ貨車からの略奪を試みるのを防ぐ必要が生じたほどである。
混乱はまた、鉄道職員をほとんど狂乱させたと思われるほど大量で、矛盾し合い、あるいは実行不可能な命令が、雨あられのように鉄道側に押し寄せたことによって、一層悪化した。命令は、わずかでも何らかの軍事権限を持つ者なら、誰からでも直接に出された。すなわち、戦争省、参謀本部、管理局、兵站総監部、糧食部、さらには歩兵・砲兵・工兵の将兵に至るまで、各人が自らの担当分野や自分の部隊の便宜だけを考慮に入れて命令を出し、全体状況や他の部署の必要、あるいは鉄道職員が同時に多数の命令に対処している現実をまったく顧みることがなかった。さまざまな部隊の指揮官たちは、とりわけ自分の歩兵・砲兵・物資の輸送を優先させるよう鉄道当局に迫り、各々が自分の命令を即座に最優先で実行しない場合には重大な結果を招くと脅した。しかし、物理的に不可能な指示が山積している状況で、鉄道側はそれらをどうにかこうにか捌かねばならなかったのである。
そのうえ、一切の準備を整え、多くの他の輸送を妨げつつようやく一つの命令を実行に移せる段になって、最初の命令が取消されたり、別の時期へ延期されたりすることも頻繁にあった。
これらすべての雑多な軍事命令に加え、鉄道会社は地方当局からも悩まされることになった。たとえば、彼らは十数マイル先の訓練キャンプに向かう郷土後備隊(garde mobile)の部隊に徒歩行軍をさせたくないがために、特別列車を要求したりした。中には、郷土国民軍(garde nationale)の宿舎として貨車を使わせろと要求する地方当局もあった。
東部鉄道総裁ジャックマン氏は、その著『戦争中の鉄道』(Les Chemins de Fer Pendant la Guerre de 1870–71)の中で、次のような一例を紹介している。すなわち、東部鉄道会社がブルバキ軍の輸送に対応し、かつパリの再糧食補給の準備をしていたまさにその時、ローヌ県知事が、ローヌ左岸ヴェニシュー平原に集結した動員国民軍の兵舎建設資材の到着が遅れたことを理由に、同兵力を収容するための貨車の提供を要求してきたのである。会社側がこの要求を拒否すると、県当局との間で激しい論争になったが、最終的にはボルドー政府が、地方当局側に非があるとの判断を下して決着した。
パリだけでなくフランス国内各地で広く見られた状況を典型的に示す例として、シェルブールからアランソンへと輸送された第十九軍団(兵力3万2,000名、馬3,000頭、火砲300門)のケースが挙げられる。兵力は駅への到着に遅れ、将校は兵士を監督しなかった。兵士たちは貨車で旅することを拒み、命令と取消命令が入り乱れ、一列車の出発ごとに2〜3時間を要し、線路全体の運行計画を混乱させるような遅延が生じた。
出発地での混乱も大きかったが、列車が、積み荷を迅速に卸せるかどうかをまったく考慮せずに送り込まれた着駅での混乱は、それをはるかに上回るものだった。中継駅を設けて、最前線で直ちに、ないし近く使用される物資だけをそこから先へ送る──それ以外の物資は必要に応じて順次転送する──といった仕組みは事前にまったく準備されておらず、軍・民いずれの荷送人も、すべての物資をできるだけ前線に近い地点まで一括して送るべきだと決め込んでいたのである。
その結果、国境近くの多くの駅では、線路が何マイルにもわたって貨車で埋め尽くされる事態となった。さらにそこへ、新たな列車が不断に到着してはその列に加わった。これら多数の貨車の多くは、いわば車輪の上に作られた倉庫(マガザン)の役割を果たしていた。同様のことはドイツ側鉄道でも一定の範囲で起きていたが、決定的な違いは、ドイツの駅には、貨車の迅速な荷卸しを強制する任務を持った鉄道司令官(ルート・コマンダント)が配置されていたのに対し、フランスにはこれに相当する権限をもつ者がいなかった点である。担当将校や各部署にとっては、物資を貨車に積んだままにしておく方が都合がよかった。この方法は、戦況の推移に応じて部隊が前進し、あるいは後退せざるをえないとき、貨車ごと簡単に追随移動させることができるため、彼らの立場からすればとくに魅力的に見えたのである。
このため、多くの将校や部署は、貨車を荷下ろししてはならないというきわめて厳格な命令を出した。彼らにとっては、自らが占有する貨車が他所で求められており、その不足のため他の部隊が補給難に苦しむ可能性がある、という事実は重要ではなかった。
貨車が意図的に満載状態のまま留め置かれていない場合でも、荷下ろしのための兵員が不在で、作業自体が不可能なケースもたびたびあった。膨大な貨車群の中から、特に必要な物資を積んだ1両を見つけ出そうとすれば、その作業に要する手間は、最初から荷下ろしをして倉庫に収めておく場合よりも、よほど大きくなったであろう。
駅構内も同様に過密状態となった。兵站部は駅を補給拠点に変えたがり、砲兵部は同じ駅を兵器庫にしようとした。その結果、どのプラットフォームも利用不能となり、新たに到着した部隊は、かなり離れた場所で列車から降りなければならず、その列車が移動可能になるまで、数日間もその場から動くことができなかった。そうした駅でさえ、列車が数時間遅れて到着したり、歩兵大隊を受け入れる準備しかしていないところに騎兵中隊が到着したりといった混乱が続いた。
ある場合には、ある将軍が、夜間に目的地へ到着した部隊を貨車から降ろすことを拒否したという。彼は「兵士たちは雪の中よりも車内の方が快適に過ごせる」と言った。確かに、兵士の快適さという点ではそうであったかもしれないが、その列車がそこに止まり続ける限り、他のどんな列車も通ることができなかったのである。別の例では、部隊に対する宿営地が決まっていなかったために、列車が線路上で何時間も待機せざるをえなかった。またある事例では、一人の連隊長が、自部隊がどこへ行けばよいのかを駅長に尋ねなければならない羽目に陥った。
物資の大半は、メスとシュトラスブールへと送られた。そして、すぐさま混沌状態に陥ったメス駅の有様は、歴史に残るものとなった。
メス駅は大規模な駅であり、八つの優れた倉庫と四マイルにおよぶ側線を備え、組織的に運営されていれば、24時間で930両の貨車を荷下ろしする能力があった。ところが、最初の歩兵輸送列車が到着したとき、将兵は行き先に関する命令が出ていなかったため、4〜5時間も構内で待機させられた。将兵は列車から降ろされ、将校の荷物や車輛を積んだ貨車は荷下ろしされないまま側線へ押し込まれた。その後も、兵員や物資を満載した列車が引きも切らずに到着し続け、構内の詰まり具合は次第に深刻な状態へと向かった。
鉄道側は、側線を空けるために貨車の荷下ろしをしてほしいと、現地の兵站要員に懇願した。しかし彼らは、「いまだ命令を受け取っていない」と答えてこれを拒否した。師団の兵站部もまた、「配属部隊がメスにとどまるかさらに前進するかが不明である」との理由で、荷下ろしを拒否した。
その後数日間にわたって、上級軍当局の命令により、貨車の荷下ろしは完全に停止された。彼らは鉄道側に対し、3万名の1個軍団輸送の準備を命じた。これを受けて40本の列車が各所に配置されたが、その後「部隊を直ちに出発させるため、列車をメスに集結させよ」という命令が下った。4時間以内に全列車が準備を完了し、機関車はすべて蒸気を上げて待機していた。しかし、部隊は現れなかった。命令は取り消された。その後、命令は再度出され、そして再度取り消された。
この間にも、物資と弾薬を満載した新たな列車がメス駅に到着し続けた。その結果、すでに荷下ろしされずに側線を占めていた貨車群はますます膨れ上がり、ついには機関区へ通じる線路をふさぎ、さらには本線そのものまで塞ぐに至った。すべてが完全な錯綜状態に陥ったのである。誰もどの物資がどの貨車に積まれているのかを把握できず、仮に知っていても、それを数千両にもおよぶ貨車の塊から切り離して動かす方法が分からなかった。
「メスにはコーヒーも砂糖もない。米もブランデーも塩もない。あるのは少量のベーコンとビスケットだけだ。チオンヴィルへ最低でも100万口分の配給を送ってくれ」と兵站総監はパリに電報を打っている。だが、もし彼がどこに何があるかを知り、目的の貨車を取り出す術さえ持っていれば、必要とする物資はすでにここに存在していた可能性が高いのである。
鉄道側はできうるかぎりの対応を試みた。彼らはいくつかの貨車を荷下ろしし、物資をかなりの距離だけ陸路で運搬した──ところが、その物資は再びメス駅に戻され、再度他所へ輸送するために再び積み込まれる始末であった。駅で荷下ろしされた干草は、メス市内の倉庫へ送られたが、その同じ倉庫から、別の目的地向けとして干草が鉄道へ送り返されていたのである。最後の手段として、また同時に線路の詰まりを少しでも緩和し、貨車を再利用できるようにするため、鉄道側は貨車を片端から荷下ろしし、貨物を線路脇の地面に積み上げ始めた。結局、メス陥落後に敵の手に落ちた貨車と物資は、実に膨大なものとなった。
類似の状況は、他の多くの場所でも見られた。たとえばドール(ジュラ県)では、荷積み貨車が側線を埋め尽くしたばかりか、本線のかなりの部分までふさいでいた。撤退が決定すると、まず移動させるべき貨車を選別するのに多大な時間が浪費された。1時間前に出された命令が、次の1時間には取り消されることもあり、やっと組成した列車もすぐ進発させるのではなく、前後に何度も入れ替えた挙句、結局移送可能だったはずの大量の車輛が残された。
パリ=リヨン鉄道では、同時期に7,500両もの荷積み貨車がたまってしまい、ひどい車輛不足に直面していたにもかかわらず、これらの貨車と、その中の糧秣・資材は丸ごとドイツ軍の手に落ちた。メスその他各地で拿捕されたものを含めると、ドイツ軍が鹵獲した貨車の総数は16,000両に達した。これら貨車はまず戦争の残り期間中、自軍の軍事輸送に用いられ、その後はドイツ国内の通常輸送に投入され、ついにはフランスに返還された。つまり、フランスはこれら16,000両の貨車から本来得られるべき利益を全く享受できなかったばかりか、自国の路線をそうした貨車で塞ぎ、それを救出不能な状態にして敵に鹵獲させることで、敵に糧秣や資材を提供し、自軍への攻撃に利用させるという、きわめて不利な結果を招いたのである。
ドイツ軍による貨車の鹵獲は、なおさらに多くなっていたことであろうが、敵の進撃を見て取った一部のフランス鉄道会社が、自主的判断により自社線の運行を停止し、車輛を安全地帯へ退避させたことから、一定程度抑制された。これは、敵の攻撃目的に利用されることを防ぐため、防衛の道具たるべき鉄道車輛を敵手から遠ざけるという、先例と慎重さの双方に基づいた措置であり、完全に正当化される行動であったと言えよう。
第十三章
フランスにおける組織
前章で見たように、普仏戦争が終結すると、ドイツは自国の軍用鉄道輸送組織の欠陥を是正しようとしたが、フランスもこれと同じく、いやおそらくそれ以上の決意と粘り強さをもって、まったく欠如していた自国の軍事輸送システムの構築に取り組んだ。
自国の欠陥を認め、将来起こりうる事態への備えの絶対的必要性と、次に自国が巻き込まれるであろう大戦争において、鉄道がその役割をさらに重要なものとするであろうことを理解したフランスは、平時から、自国防衛計画の不可欠な要素として、広範な範囲をカバーし、運用細目に至るまで完備し、偶然や成り行きに一切を委ねない軍事輸送システムを創り上げることを決断した。すべてが予め想定され、準備され、可能な限り事前に試験されねばならなかったのである。
その際の出発点として、公然と、またジャックマンによる提言に従って、1870–71年当時のプロイセンの組織が採用された。また、その後プロイセンにおいて軍事輸送に関して新しい規定が制定されたり、制度に重要な変更が加えられたりするたびに、その全文はフランスの軍事専門誌に迅速に紹介され、賞賛あるいは批判の対象となった。ただし、フランスが自国の制度を築くにあたって、単純にプロイセンの例をなぞるようなことは決してなかった。採用に値すると認められたものは確かに取り入れられたが、長年にわたる粘り強い努力の末に出来上がった組織は、実のところフランス特有の事情と必要、そしてフランス軍事科学の最先端の理念に基礎を置くものであった。彼らはまた、ひとたびその気になれば、組織化の才能においてドイツ人に少しも劣らないことを示したのである。
1870–71年の出来事を回顧しながら、ジャックマンは、「戦時における鉄道利用についての教育は、フランスにおいてなお完了してはいないが、その教育の基礎はすでに1869年のニエル元帥の中央委員会によって築かれていた」と述べた。彼によれば、必要とされる条件は二点である。(1) 軍隊の輸送であれ物資の輸送であれ、軍事目的での鉄道利用における統一的な指揮命令系統の確立、(2) 軍事要素と技術(鉄道)要素の結合であり、この結合はあらゆる段階において恒常的であるとともに、命令が下される前に必ず、それが技術的に実行可能であり、またすでに出されている、もしくは将来必要となる他の輸送命令を損なわないものであるという保証が得られるような形で運用されねばならない、という点であった。
これがまさに、フランスが自国の組織を作るうえで採用した基本条件であった。
1872年11月には早くも、陸軍省の附属機関として「高等軍事鉄道委員会」(Commission Militaire Supérieure des Chemins de Fer)が設置され、陸軍省、海軍省、公共事業省、および大手鉄道会社の代表12名から構成された。同委員会の最初の任務は、1869年のニエル元帥の委員会が作成した提案の再検討であった。
以後、軍事輸送と鉄道の軍事組織に関して、1872年から1883年の間に実に17件もの法律・勅令・訓令が相次いで発布された。もっとも、これらは全体としては試行的・部分的な措置であり、その多くは鉄道会社と協力して行われた。鉄道会社は、議会と行政当局に対して最大限の協力を行い、数多の難問に関して、自らの技術的知識と経験の全てを提供した。
1884年には、7月7日および10月29日付の二つの勅令が発布された。これらは、これまでに採られてきた各種の立法・行政措置を整理・修正・発展させる形で、包括的な制度の基本原則と主要細目を定めたものであり、その後の経験に基づく修正を経て、今日フランスに存在する軍用鉄道組織の基礎となるものであった。
後年における制度の修正は、とくに1888年12月28日法にもとづいて出された三つの勅令によって進められた。それぞれ、(1) 高等軍事鉄道委員会の構成と権限、(2) 野戦鉄道隊および鉄道部隊の創設、(3) 鉄道軍事業務の組織、に関するものである。
高等委員会は、1872年の創設以来すでに1886年に一度再編されており、1889年2月5日の勅令に加えて、その後もさらに変更が加えられた。最終的な形においても、この委員会は軍事要素と技術(鉄道)要素の双方の代表を含むという原則を保持している。委員会は参謀総長が議長を務める。参謀総長は、参謀本部の一つの専門局の援助を受けつつ、戦争大臣の権限下で軍事輸送サービス全体の最高指揮権を行使する。委員会は、六名の将軍または高位の軍人と、公共事業省代表三名、および各大鉄道会社と国有鉄道「エタ」(Chemin de Fer d’État)に設置される線路委員会の委員で構成される。
委員はすべて戦争大臣によって任命される。その職務は純然たる諮問的なものである。彼らは、軍の鉄道利用に関するあらゆる問題について、大臣が諮問する事項に意見を具申し、とくに以下の事項について審議する。
- 軍事輸送に関する準備。
- 新線・接続線の計画、既存線の改良計画、および駅・プラットフォーム・給水設備・機関庫等の鉄道施設に関するあらゆる企画の検討。
- 軍事上の要求を踏まえた車輛の要件およびそれへの改造。
- 各兵科の部隊が列車移動を行う際に遵守すべき特別の指示。
- 軍隊・糧秣・その他輸送に関して、鉄道会社と戦争省の間で締結される協定。
- (鉄道の修理等のための)特別鉄道部隊の編成・訓練・運用に関する事項。
- 鉄道およびその接近経路の監視・防護を確保するために取るべき措置。
- 鉄道路線の破壊および迅速な修復の手段。
陸軍省各局の長は、自所管事項に関する議題については、諮問的立場で委員会への出席を認められる。また委員会側からも、大臣に対し、必要と認める人物の出席を要請することができる。
動員以降の兵力集中、補給、後送に関する輸送計画や、その実施に関わる全ての調整は、可能な限り平時において準備され、検討される。実際、1913年12月8日に公布された「鉄道による戦略輸送規程」(Règlement sur les transports stratégiques par chemin de fer)第8条には次のように明記されている。
動員、集中、再糧食補給および後送のための輸送の組織ならびに実施に関する一切の準備は、平時に研究・検討される。大臣はこの目的のため、参謀本部、各軍団司令官および諸業務部局に対し、必要なすべての指示を与える。戦域内線路における軍事輸送の条件に関する研究についても、平時に同様の手順が採られる。
1875年3月13日法による野戦鉄道隊および鉄道部隊の創設は、戦場において鉄道の建設・修理・破壊・運転等の任務を遂行しうる組織化された部隊を、平時から育成しておく必要性が明白となった結果である。ここでもフランスは、アメリカ合衆国に倣いつつ先行していたドイツの例を追随したのであった。
1889年2月5日の勅令によれば、「野戦鉄道隊」(Sections de chemins de fer de campagne)は、戦時において鉄道部隊と協働し、民間鉄道会社では運行を担えない路線の建設・修理・運転を担当する恒久的な軍事部隊と定義された。その人員は、鉄道会社および国有鉄道局の技師・職員・作業員の中から、志願あるいは兵役義務に基づいて採用されることとなり、一個独立部隊として、それ自体に司令部(corps 指揮官)を有する組織とされた。平時には九個の隊が置かれ、各隊は、その編成元となる鉄道網ごとに番号を与えられた。戦時にあっては、戦争大臣は必要に応じて新たな隊を編成する権限を持つ。1906年には、地方鉄道・トラム等を含む「第二次鉄道群」からなる第十隊が加えられた。これは、戦時におけるこれら地方鉄道・トラムの軍用輸送業務を直接担当し、またはその補助を行うためであった。
平時において、各隊は戦争大臣の命により、検閲・点検・閲兵・召集に服する。また前記1889年勅令の別条項には、「各隊の動員に関する一切の準備は、平時から研究し、計画されるものとする。各隊は常に、最も完全な形で戦争大臣の命に応じうる準備を整えていなければならない」と記されている。
後続の勅令や訓令により、各隊は次のような完全な単位として定められた。(1) 中央本部、(2) 「運転」(mouvement)「線路」(voie)「牽引」(traction)という三つの独立した部門、(3) これら三部門および中央本部に共通の中央補充隊、(4) 同じ三部門別の区域別補充編成であり、これらは中央補充隊に所属する。区域別補充編成は、既存の隊の補充・強化に充てられるほか、必要であれば独立の新隊として編成される。各隊の総兵力は、中央補充隊に配属された141名を含めて1,466名とされた。
各隊の管理は、部隊長および各部門長から成る管理会議によって行われ、平時には少なくとも3か月に一度、戦時には週に一度の会合を開く。各隊は、その所属する野戦鉄道委員会[26]の指揮下に置かれる。
野戦鉄道隊の現役兵で、なお兵役義務を負う者は、通常の軍事訓練への参加を免除されるが、鉄道業務に関する視察・演習・訓練課程に召集されることがある。区域別補充編成に属する者は、平時においても戦争大臣の命により鉄道業務に関する「訓練期間」へ召集される可能性がある。なお、1910年のフランス鉄道ストライキの際、スト参加者が軍人として従軍し、軍の指揮下で鉄道業務に従事するよう求められたのは、この権限が活用された一例である。
鉄道部隊(Troupes de chemin de fer)は、現在では1899年7月11日勅令に基づいて編成された鉄道連隊、すなわち工兵第5連隊(5e régiment du génie)を構成している。その平時編制は、各四個中隊を有する三個大隊である。
連隊への新兵供給源は、以下三つのカテゴリーである。(1) 入隊前にすでに鉄道勤務に従事していた若年兵、(2) 大会社5社および国有鉄道の各鉄道当局が提出した候補者名簿から、戦争大臣が毎年選抜する鉄道職員(最大240名)。その配分は北部42名、東部18名、P.L.M.(パリ=リヨン=地中海)54名、オルレアン42名、南部(Midi)15名、国有鉄道69名である。(3) 歩兵連隊に1年間在籍した後、鉄道連隊へ転属させられる兵士。これには、可能なら、鉄道業務に適した職業的背景を持つ者が優先して選ばれる。
鉄道当局はまた、自社職員の中から一定数の将校・下士官を指名し、連隊予備役の一部として提供する義務を負う。
教育内容はきわめて周到かつ体系的である[27]。教育は(1)軍事訓練と(2)技術訓練に二分され、そのうち技術訓練の目的は、戦場において、後方総監(通信線監督官)[Directeur Général des Chemins de Fer et des Étapes] の権限下で、鉄道路線の修理ないし破壊に必要な工事を行い、必要に応じて鉄道路線の暫定的運転に従事しうる能力を鉄道部隊に与えることと定義されている。
平時において、鉄道部隊の編成・教育・運用に関する一切の事項について助言を与えるのは、高等軍事鉄道委員会の任務である。この任務を遂行するため、委員会は、参謀総長経由で、鉄道部隊の技術訓練に関するあらゆる教育計画・提案・報告を受け取り、その内容について見解を述べ、所要の勧告を行う。
技術訓練は、(a) 全隊員に対して一律に行われる一般教育、(b) 特定分野の鉄道業務に関する少数対象の専門教育、(c) 中隊単位またはそれ以外の群単位で行われる訓練、(d) 通常の鉄道線区で行う実務訓練、に区分され、さらに(i) 理論教育と(ii) 実地教育に分かれる。
この包括的計画の成功を確実にするため、さまざまな措置がとられている。たとえば、鉄道に関する特別教科書の刊行、国有鉄道網のうちシャルトル〜オルレアン間約40マイル(重要な接続駅を含む)の運行を連隊が日常的に担当させること、さらに鉄道当局と次のような取り決めを結ぶことなどがあげられる。(1) 毎年、連隊所属の複数中隊を、2〜3か月の期間、各鉄道網に付属させて訓練を行う。(2) 鉄道当局が自社線の補修や工事に鉄道部隊を雇用できるようにする。これにより、双方にとって利益が生じる。
最後に「鉄道学校」(École de chemins de fer)があり、これは鉄道部隊の技術教育に用いる資材・工具等を一括管理するほか、連隊長の指揮のもとで実習計画を作成し、以下の諸機能を担っている。(1) 軍事・鉄道・科学・歴史に関する書籍や雑誌、ならびに軍事鉄道運用に関連する地図・図面・勅令・規則等を備えた図書館、(2) 各種工具・計器・模型のコレクション、(3) 写真および石版印刷設備、(4) 訓練用鉄道建設資材の備蓄、(5) 戦時使用を想定した鉄道建設資材の備蓄、(6) 鉄道補修等の実習に用いる作業場、(7) 鉄道部隊専用の訓練場。
野戦鉄道隊および鉄道部隊という、これほど実際的かつ包括的な基盤を持つ二つの組織体を備えたことで、フランスは次の戦争において、その威力を十二分に発揮しうる重要な手段を手に入れたと言える。この一点だけを取っても、1870–71年以降、フランスがいかに熱心かつ精力的、徹底的に、自国防衛のための軍用鉄道輸送体制の改善に取り組んだかを示す十分な証拠となる。しかし、制度が「完成」と呼べる段階に達するまでには、なお多くの作業が必要であった。そしてまた、ここでも膨大な研究と予見と努力が注がれた。
1889年までに公布された法律・勅令・規則・命令・訓令の後にも、さらなる改正が重ねられた。こうした改正の中には、その組織を完成させる過程で、ある一つの特定局面に係るきわめて細部にまで及ぶものもあった。1902年時点で有効であった規定をまとめただけでも、その分量は700ページを超える1巻本となった[28]。その後もさらに変更が加えられ、制度全体は1913年12月8日の勅令によって最終的に整えられた。
こうした長年にわたる立法・行政措置の全ての段階をつぶさに追うことはここではしないが、1914年の戦争勃発時点で運用されていた法律・規則・実務を基礎に、フランスの軍用鉄道輸送組織の概要を示すこととしよう。
大手鉄道網ごとに、一つの常置「線路委員会」(Commission de réseau)が設置されている。これは、(1) 技術委員──実際には当該線区の総支配人──と、(2) 軍事委員──陸軍参謀本部所属の将校──から成る。前者は鉄道当局が戦争大臣の承認を得て指名し、後者は戦争大臣が直接任命する。各線路委員会は、技術と軍事の両要員から成る共同事務局を抱え、各委員には、必要時にその職権を代行できる代理が配される。軍事委員は、とくに軍事上の措置に責任を負い、鉄道委員は、自ら代表する鉄道網のあらゆる資源を、必要かつ可能な限り軍に提供する職務を負う。
各鉄道網の線路委員会の権限は、その区域内に存在する中小の「第二次鉄道線」にも及ぶ。ただし、これら小規模会社は、自社代表者を委員会に派遣する権利を有する。
線路委員会が平時に果たす主な職務は次のとおりである。
- 当該鉄道線区における軍事輸送が生じうるあらゆる問題の調査。
- 軍事上の必要に照らし、鉄道網の人的・物的資源の全体像を把握するための調査研究。
- 部隊輸送等に関する計画・積算・その他諸資料の作成。
- 線路延長・車輛保有数・駅設備・交通施設等に関する報告の検証。
- 鉄道職員に対する特別教育。
- 線路・橋梁等の視察。
- 軍事輸送の便宜を図るための、あらゆる実験・試験の実施。
複数の線路委員会が関係する軍事輸送上の問題がある場合、参謀総長はこれら委員会を招集し、必要なだけ合同会議を開くことができる。線路委員会の委員が高等委員会のメンバーでもあるという事実は、国内鉄道全体に関する研究の調整を保証し、また中央機関が特定の鉄道網またはそのグループについて情報を入手するための容易な手段を与える。
線路委員会の地区単位の執行機関として、必要数の「副線路委員会」(Sub-Line Commissions)が置かれている。各副線路委員会もまた、戦争大臣が任命する軍事委員と、線路委員会が指名する技術委員で構成される。さらに、地方単位の執行機関として、各重要交通拠点には「駅委員会」(Commission de gare)が設置されており、これは一名の軍人将校と一名の駅長から成る。駅委員会は、線路委員会または副線路委員会から送られてくる、当該駅を発着または通過する軍事輸送に関するすべての命令・指示を受け取り、その実施と秩序維持・能率確保の責任を負う。
各線路委員会、副線路委員会、駅委員会には、ともに軍と鉄道の双方の要員から成る事務局が配置されている。これら軍事・技術要員の役割分担について、1913年12月8日付「軍事鉄道輸送規程」第10条は次のように規定している。
委員会および副委員会に属する軍事要員と技術要員の各自の職務は、業務遂行にあたって、最も厳密な意味で維持されなければならない。同時に、彼らは、自らの協力関係が、軍事的要請と鉄道輸送上の要請とのあいだに調和をもたらし、状況に応じて一方を他方に従属させることによって、その統一を確保するためにこそ存在することを、決して見失ってはならない。
動員が開始されると同時に──あるいは必要ならそれ以前に戦争大臣の命令により──高等委員会の委員は全員、陸軍省内の持ち場に常駐し、その一方で線路委員会・副線路委員会・駅委員会の委員たちは、平時から指定されていた担当駅に赴任する。その瞬間から各駅委員会は、所属する線路委員会または副線路委員会と電信で絶え間なく連絡を取り合い、さらに毎日書面による報告を送る義務を負う。駅委員会の職務には、部隊の乗車・下車、物資の積み込み・荷下ろしの監督、輸送に必要な列車の手配、線路や駅周辺の混雑防止、駅および一定半径内の線路の警備確保などが含まれる。
戦争勃発と同時に、鉄道会社は自社線路と車輛およびその他輸送手段のすべて、もしくはその一部を、兵員・糧秣・物資輸送のために国家に提供しなければならない。その時点から、動員・集中・増援・補給および戦場からの後送といった一切の「戦略輸送」に必要とされる区間では、平常の旅客・貨物輸送は、大臣が許可する範囲に限り行われる。
動員命令の発出後、戦争大臣は総司令官と協議のうえ、国内の鉄道路線を二つのゾーンに分割する。すなわち「内地ゾーン」(Zone de l’Intérieur)と「方面軍ゾーン」(Zone des Armées)である。前者は戦争大臣の最高統制下に置かれ、後者は総司令官の指揮下に入る。二つのゾーンを画する「分界駅」(Stations de Transition)の位置は、戦局の推移に応じて、戦争大臣が総司令官との協議のうえ、随時変更することができる。
内地ゾーンとは、戦場ではないが、部隊・糧秣・火砲・弾薬その他の物資を前線へ送り届ける任務のために、軍の統制を受ける鉄道路線を指す。この区域では、通常の鉄道職員による運行が続けられるが、戦争大臣の命ずる軍事輸送は参謀総長が調整する。命令の具体的執行は、動員初日から線路委員会に委ねられ、各委員会は戦争大臣の権限下に、担当区域内のあらゆる鉄道路線の軍事輸送を掌握する。
方面軍ゾーンはさらに二分される。(1) 戦線に近く、軍が直接鉄道運行を掌握する必要がある「前線ゾーン」(Zone de l’avant)と、(2) なお通常の鉄道職員による運行が可能であり、線路委員会および駅委員会によって内地ゾーンと同様の方式で管理される「後方ゾーン」(Zone de l’arrière)である。
方面軍ゾーンにおける輸送に関する総司令官の命令は、「後方監督官」(現行名 Directeur de l’Arrière)と呼ばれる将校の最高統制下で実施される。この重要職の歴史的経緯は、全制度がどのように発展してきたかを示す好例である。
1874年7月1日に公布された「一般規程」(Règlement général)は、1870–71年戦役で露呈した軍用鉄道輸送の困難を緩和する最初の試みの一つであったが、道路輸送や後方業務(Services de l’Arrière)といった、鉄道輸送と不可分の関係にある重要分野には適用されなかった。この欠陥を補うため、1878年に「中継業務」(Services des Étapes)制度が導入されたが、鉄道と道路輸送が全く別個の組織に分かれており、それらを結びつけ統制する枠組みが存在しなかったため、やはり十分ではないことが判明した。
この問題に対処するため、1883年にフェイ将軍(General Fay)を議長とする委員会が設置され、その結果として、1884年7月7日付勅令により「鉄道および中継業務総監」(Directeur Général des Chemins de Fer et des Étapes)の職が創設された。この職務の内容は1900年2月21日勅令によってさらに明確化され、1908年には名称が「後方監督官」(Directeur de l’Arrière)へと改められた。その後も数次の改正を経て、最終的には1913年12月8日の規程により、その権限と責任の範囲が確定された。
後方監督官は総司令官司令部に位置し、参謀総長を通じて戦争大臣とも緊密な連絡を保つ。その特別な役割は、鉄道輸送と道路輸送の完全な調整、および内地ゾーンと方面軍ゾーンのあいだにおける諸業務の統一を確保することにある。彼は、大臣および総司令官から、予定・進行中の作戦と、軍の人的・物的必要についての情報を受け取る。そのうえで、優先順位に関する指示に従い、あらゆる可能性とあらゆる偶発事態に対応しうる条件のもとで、こうした需要を満たさねばならない。後方監督官は、他のことのなかでも、とくに兵站線(communication lines)を決定し、道路輸送部門と密接に連絡するとともに、方面軍ゾーン内の鉄道路線に関しては完全な権限を与えられた指揮官として、内地から前線への輸送、また前線から後方への輸送にかかわる一切の問題について最終判断を下す。また、戦争大臣・総司令官とのあいだで、軍用列車の時刻表等に関する情報交換を継続的に行う。
後方監督官は、軍事と技術要員双方から成る参謀の補助を受けるが、鉄道・道路いずれの輸送業務の直接運行責任も負わない。
方面軍ゾーンにおける鉄道輸送は──後方監督官の最高権限に従いつつ──鉄道監督官(Directeur des Chemins de Fer)の管理下に置かれる。彼には(1) 軍と鉄道の共同参謀、(2) なお通常職員で運行可能な区域を担当する線路委員会、(3) 軍が直接運行を行う区域を担当する一つまたは複数の「野戦線路委員会」(Commissions de chemins de fer de campagne)および鉄道部隊が配属される。
調整を重視した制度の趣旨に従い、鉄道監督官は、内地ゾーンおよび方面軍ゾーン双方の鉄路を利用する輸送、または鉄道および道路輸送の双方を含む輸送についてのあらゆる要求を後方監督官に付託する。また、後方監督官から受け取る輸送命令・指示を、方面軍ゾーンを構成する両区域の担当委員会に伝達する。これら委員会が作成した軍用列車のダイヤ作成およびその他の輸送計画は、鉄道監督官の承認を要する。彼はまた、総司令官の命により、自らの権限下に置かれた車輛および鉄道要員の方面軍ゾーン内での配分を決定する。
野戦線路委員会(Commissions de chemins de fer de campagne)は、鉄道監督官の命を受けて、戦場において軍が直接掌握する鉄道路線の運行および工事を担当する実行機関である。これら委員会の数は後方監督官が決定し、その活動開始日時は鉄道監督官が定める。各委員会は、参謀将校1名と鉄道技師1名から成る。そのうち前者が軍事委員長であり、最終決定権を持つ。彼が自らの責任に加え、技術委員の責任もあわせて負うことを決意した場合、技術委員は彼の見解と命令に従わなければならない。委員長には副官として、必要に応じてこれを代行できる別の参謀将校が付く。委員会はまた、戦争大臣が定める規模の書記・伝令等から成る事務局を有する。委員会の配下には、鉄道部隊(鉄道工兵「Sapeurs de chemins de fer」および野戦鉄道隊「Sections de chemins de fer de campagne」)、電信部隊、駅委員会、列車および駅構内の警備任務を担う憲兵隊が含まれる。
野戦線路委員会は、戦場で軍が直接管理する鉄道路線の運行に責任を負うだけでなく、必要とあらば線路の建設・修理・保守・破壊の一切を担当する。
内地ゾーンと方面軍ゾーンを貫通し、内陸部と戦線のもっとも前進した地点とのあいだに直接通信を確保する「兵站線」(Lignes de Communication)上では、経路上の主要駅が多様な軍事目的に使われる。ただし、そのいずれにおいても、運営責任は軍事要員と技術要員双方から成る委員会にゆだねられ、その委員会が全体的な指揮を行う。
兵員輸送の観点から見ると、まず「動員駅」(Gares de mobilisation)と「連絡駅」(Gares de jonction)があり、一定区域内の兵力はここに集結する。そこから「乗車駅」(Gares d’embarquement)へ送られ、ここで前線行きの完全編成部隊となる。その先には、兵と馬に対して給食を供する「食事停車駅」(Stations haltes-repas)が設けられることがある。こうした「駅」は、しばしば貨物上屋や機関庫など、多数の兵を収容できる施設が利用される。鉄道路線が部隊輸送に利用可能な最終地点となるのが、「下車駅」(Gares de débarquement)である。
物資と装備の輸送に関しては、最初の要素として「基底補給駅」(Gares de rassemblement)がある。これは、戦域外の特定区域から一個軍団に送られる一切の補給物資が集結すべき場所であり、ここで物資は点検され、完全な列車単位にまとめられるなど、以後の輸送を容易にするよう処理される。
場合によっては、基底補給駅へ到着した編成貨物列車が、そのまま最終目的地へ通過することもあるが、一般的には、これらの駅から出る貨物は「補給補給所駅」(Stations-magasins)へ送られる。ここは、基底から送られた物資と現地調達した物資を蓄え、必要に応じて適切な数量とタイミングで前線へ送り出すための貯蔵地である。補給所駅は、騎兵・工兵・砲兵・衛生・電信といった各兵科や、食糧・家畜・被服・幕舎装備等、用途別に編成される。その数・性格・配置は、平時に戦争大臣によって決定される。戦争勃発後、方面軍ゾーン内にあるものは、そこでの鉄道路線とともに総司令官の統制下に移る。後方監督官は、総司令官の承認を得て、その配置を変更したり、新たな補給所駅を設けたりすることができる。
各補給所駅は、駅委員会の軍事委員が指揮をとる。彼の特別の任務は、前線から届く要請にもとづき、補給所内から必要な物資を供給することである。彼はこの要請を補給所各部門に振り分け、貨車の積み込み完了期限を指示する。また駅長と連携し、列車の組成・積み込み・出発のために必要な手配を行う。ただし、駅の内部管理や鉄道業務の技術的な指揮・実務に介入してはならない。
補給所駅に物資を送る列車についても、直ちに荷下ろしされることが原則であり、軍事委員は駅内とその近辺での線路閉塞を防ぐ責任を負う。積み荷を一時的に保留して再送する場合や、軍の現時点での弾薬需要に応じて早期に前線へ送らねばならない場合は、この限りではない。
補給所駅から先、物資は「調整駅」(Gare régulatrice)へ送られる。これは、前線への物資送達を最終的に調整しうる地点であり、同時に戦線に近すぎて、その先で定時運行の保証ができない線路上に位置する。したがって、調整駅の位置は、戦況の推移に応じて日々、あるいは適宜変更される。
調整駅は、「調整委員会」(Commission régulatrice)の管理下に置かれ、その組織は副線路委員会と同様の構成を持つ。この委員会は、前線部隊から求められる物資の種類と量に関する命令・指示を受け、それらを補給所駅から引き出し、常に必要分を確保しておかねばならない。また、当面の状況に適合した輸送手段を用いて、これら物資を前線へ送るための手配を自由に行う権限が与えられている。
通常の慣行として、補給所駅は、特別の指示を待たずに毎日一列車分の食糧列車を調整駅へ送り、調整駅はやはり毎日一列車分の食糧列車を前線へ送る。ただし、常に一日の余剰分を調整駅またはその近辺に留保しておく。必要に応じ、補給所駅からあるいは調整駅保有の貨車を用いて、追加列車を編成することができる。
これを補完するため、調整委員会は、道路輸送監督官の要請に応じて、自らの行動区域内に一定数の食糧貨車を配置し、非常時用の移動備蓄(en-cas mobiles)として常時待機させることができる。また、後方監督官の希望により、弾薬を積んだ貨車を方面軍ゾーン内の任意の駅、または戦争大臣との合意のもと内地ゾーンの駅に待機させることも許される。ただし、線路や駅構内の混雑を避けるため、こうした待機貨車の数は最小限に抑えられねばならない。
調整駅のさらに前方に位置するのが「鉄道頭」(Railhead)であり、これは当面、鉄道輸送が可能な最前線の地点である。同時に、ここは鉄道と道路輸送の最終的な接続地点であり、この先は道路輸送部門が責任を持って戦場までの通信を継続する。
野戦鉄道委員会がその職務を開始すると直ちに、また必要に応じて適宜、当該路線を利用する軍の指揮官と道路輸送監督官に対し、鉄道頭となりうる駅の候補と、そこにおける貨車の収容・荷下ろし・積み込み能力を通知する義務を負う。これを踏まえ、各軍の指揮官は、その日の戦況や将来の見通しに応じて、輸送上「鉄道頭」として利用すべき駅を決める。決定後、彼は調整委員会と道路輸送監督官にこれを通知し、あわせて同駅への物資輸送に関する希望を伝える。
このようにして築かれた、内地から前線に至る兵站線全体の効率維持を目指す綿密な体系は、戦場から内地へのあらゆる輸送にも、同様に適用される。原則として、軍からの負傷者・病人・捕虜・余剰物資等の後送は、鉄道頭から調整駅へ戻る日々の補給列車を利用して行われ、ここで調整委員会が引き継ぎ、補給所駅やさらに奥の内地へ向かう列車に載せ替える。負傷者多数の移送などで特別列車が必要な場合、道路輸送監督官は調整委員会に要請し、委員会は手持ちの車輛で特別列車を編成するか、それが不可能であれば鉄道監督官に追加車輛を求める。
負傷者・病人の取扱いに関しては、戦争大臣および総監督(鉄道・中継業務総監、のち後方監督官)の権限のもと、勅令に詳細に規定された極めて包括的な準備が行われている。その一つとして、調整駅のすぐ近傍、あるいは場合によっては鉄道頭そのものに「後送病院」(hôpitaux d’évacuation)を設置することが定められている。さらに後方の一定の駅には、「駅救護所」(infirmaries de gare)が置かれ、ここでは内地への輸送途上にある負傷者・病人が、緊急の場合に限り、規定に則って治療を受けられるようになっている。「配分駅」(gares de répartition)からは、負傷者・病人は指定された内地の病院へと送られる。
このように精緻な組織は、1870–71年戦争における軍用鉄道輸送の諸欠陥が再発しないことを目指している。
通信線のあらゆる重要な節目に委員会を置き、その任務として輸送の規則性と能率の確保を課すことで、混乱・渋滞・遅延を防ごうとするのである。
各委員会において軍事要素と技術要素の協力体制を敷き、それぞれの権限と責任を明確にすることにより、利用可能な輸送能力が、技術的に実行可能であり、かつ他部署との軋轢も生じない条件のもとで、最大限に活用されるよう配慮されている。その結果、個々の将校が自己判断で矛盾したり実行不可能な命令を出すことによって、鉄道業務が妨げられる危険が減少する。
通信線上に補給所駅と調整駅を設けたことにより、(1) 過大な分量の物資が、一挙に最前線まで送り込まれること、(2) 駅や線路が列車と貨車で飽和状態になること、(3) ある地点で物資が過度に蓄積される一方で、他地点では深刻な不足が生じること、(4) 膨大な備蓄が敵に奪取され、そのまま敵軍の利益に供されること、といった事態が回避されるはずである。
貨車を「車輪付き倉庫」として過度に利用することを制限し、迅速な荷下ろしを徹底するための措置は、切迫した事態のもとでの車輛利用効率を、大いに高めることにつながるであろう。
最後に、指揮権の一元化、多数の部門にまたがる業務の協調、そして内地と戦場を結ぶ通信線全体における各節点の円滑な連携が、輸送体制の完成度を極限まで高め、前線軍にとって多大な利点をもたらすであろう。それはすなわち、実戦での戦闘力の増大を意味する。
こうした点を総合すれば、この制度がフランスの軍事的地位に及ぼす影響がいかに大きいかは自明である。もしフランスが1870–71年当時に、このような軍用鉄道組織──すなわち現在彼女が持つ制度──を備えており、一方ドイツ側の組織が、前章で見たような不完全なものでしかなかったならば、普仏戦争の結果もまた、その後のヨーロッパの歩みも、まったく異なるものとなっていた可能性が高い。
もっとも、ここで構想された平時の備えを完全に戦時下で試すことは、もちろん不可能であったが、その多くは日常の業務として既に運用されていた。また、部分動員や大規模閲兵など、大兵力の鉄道輸送を伴うあらゆる機会を利用して、軍・鉄道当局が綿密な研究にもとづいて作成した諸規則・諸訓令の試験と検証が繰り返された。1892年の試験結果は驚くべきものであり、同年に出版されたドイツ軍人ベッカー中尉の著書『次の戦争とドイツ鉄道当局』(Der nächste Krieg und die deutschen Bahnverwaltungen, ハノーファー1893年)のなかで、彼自身もその印象を率直に語っている。とくに彼は、1888年12月28日法による新制度を検証するために、フランスで行われた1892年の動員演習に深い感銘を受け、鉄道組織という、ドイツ人が自国の得意分野とみなしてきた領域において、フランスが自らを凌駕しつつあるのではないかとの懸念さえ示している。彼の本から次の一節を引用しておこう。
1892年9月中旬、臨時に設けられた軍用駅から、8時間足らずの間に、2万5,000名から成る一個軍団を輸送するための42本の軍用列車が発車した。
1887年の有名な動員演習の際、フランスはトゥールーズ駅から150本の軍用列車を、通常の営業運転を一切妨げることなく、しかも事故を起こさずに運行した。
これらの数字は、きわめて雄弁な語り口を持っている。鉄道が、いかに巨大な兵力をわずか数時間で一点に集中しうるかを明瞭に示しているからである。
もし私が隣国の鉄道網で得られた成果に言及したのだとすれば、それは次の戦争の最終的結果を少しでも恐れているからではない。むしろその逆である。しかし、この事実は、なぜドイツ陸軍は、自国の鉄道に対して、隣国がそれぞれ自国鉄道に抱いているのと同じ程度の期待をかけることができないのか、という問いを投げかけずにはおかない。
フランスが軍用鉄道組織の創設において、ほとんどゼロからの出発を余儀なくされながらも、次第にドイツをもしのぐ完成度に近づきつつあるという、このドイツ側の観察は、のちの試験・演習・実務経験によっても裏付けられ、そのたびごとに細部の改善が加えられた。だが、ベッカー中尉の言う「次の戦争」こそが、四十年以上にわたる平時の努力によって構築されたフランスの軍用鉄道輸送体制の真価を測る真の試金石となる運命にあったのである。
いずれにせよ、フランスはドイツに先行の利を許しながらも、最終的には、伝統的な敵国のそれと比較しても遜色のない、むしろ肩を並べうる軍用鉄道輸送システムを築き上げたとみてよいだろう。そして、この組織は、侵略ではなく国防の手段として練り上げられたものであり、鉄道戦力という問題がいかに重大性を増してきたか、またその有効な活用のために、近代の大陸国家がどれほど包括的な措置を不可欠と考えているかを、実に鮮やかに示すものとなっている。
防御用鉄道(Defensive Railways)
フランスが採った措置には、軍事的情勢の要求に合わせて鉄道網を改善することも含まれていた。当時、フランス鉄道網は軍事的観点から見ても大きな改編と拡張を必要としていたのである。
第1章で見たように、1833年にはすでにフランスでも鉄道が戦争において果たすべき重要な役割が認識されていた。また1842年には、ドイツがすでにフランス国境に向かって「攻勢線」と呼ぶべき鉄道を建設しつつあることが警告されていた。それにもかかわらず、1870–71年戦争以前のフランス鉄道網は、主として経済的・政治的・地方的利害の観点から発展しており、戦略的観点はほとんど顧みられていなかった。それは、自ら「攻勢的」な姿勢をとらなかったばかりか、国防のためにさえ十分な構成とは言いがたいものであった。
この時期のフランスが近隣諸国の領土に対して何ら野心を抱いていなかったことに加え、こうした状況の主因となったのは、フランスにおけるパリの圧倒的な地位であった。パリは政治と文化と経済の中心であり、生活と移動のすべてがそこに収斂していた。一方のドイツは当時、多数の邦国から成る連合体であり、それぞれが独自の主要都市を抱え、自邦の利益のために鉄道を建設していた。他の邦国との連携を大きく考慮することは稀であり、時に互いに嫉視する関係さえあった。それに対し、フランスは一つの国家と一つの首都を持ち、パリを中心として主幹線を四方に放射状に延ばす方針を採用していた。その結果、首都と内陸主要都市、国境や沿岸の重要地点とのあいだには鉄道が整備されたものの、これら地方中心地同士を結ぶ横断連絡線はきわめて貧弱であり、パリ経由以外の連絡は著しく不便であった。
こうした不便を是正するため、1868年の法律により、全長1,840キロ(1,143マイル)に及ぶ17本の新線建設が認可された。しかし1870年に戦争が勃発した時点では、この計画はほとんど実現しておらず、フランスは東部国境方面の鉄道網が、北・西・南に比して一層貧弱なまま戦争に突入した。東方への兵力集中に利用可能な路線はわずか三本、そのうち複線で全通していたのは一本のみであった。重要なヴェルダン=メス間の路線でさえ、まだ完成していなかったのである。
戦争が終結するや否や、フランス政府は将来の軍事的必要に備え、もはや二度と不意を突かれないよう、鉄道網の整備・拡張に着手した。そして軍用鉄道輸送組織の再編と並行して、この事業においても類を見ないほどの熱意と徹底ぶりを示した。ペルノ大尉(A. Pernot)は『軍事輸送業務の歴史概観』(Aperçu historique sur le service des transports militaires)のなかで、休戦からわずか五年の間に行われたフランス鉄道網の拡張は、短期間にこれほどの増強が可能だった国は他にほとんどないだろうと評している。彼が1894年に著書を執筆した時点での状況についても、こう述べている。「巨大な組織の中において、命令一下ただちにその能力の強さを証明しうる準備が、すでに整っているといってよい。」
ここではその全貌を細部にわたって紹介することは避け、主な原則を概略するにとどめたい。
もっとも重要な点の一つは、パリとその周辺の輸送条件を改善することであった。
この地域においては、とりわけ次の二つの目標が掲げられた。(1) 首都から放射状に伸びる各幹線同士を連結する環状連絡線を増設すること、(2) 南部や西部から北部・東部へ向かう輸送が、必ずしもパリを通過しなくても済むようにすることである。
これを達成するため、「環状鉄道」あるいは「環状環」という構想が打ち出された。既存の幹線同士を結ぶ複数の環状路線を建設し、軍用列車が一方の幹線から他方の幹線へ、パリ市内に入ることなく乗り入れられるようにしようというものである。内側の環状鉄道(Chemin de Fer de Petite Ceinture)は、すでに1870年以前にパリ城壁内に建設されていたが、これに続いて1879年には「外環状線」(Chemin de Fer de Grande Ceinture)が完成した。これは市外約20キロ(12½マイル)の位置に広く環を描く路線で、多くの郊外区を相互に結ぶとともに、各幹線をさらに郊外で連結し、パリ防衛のために建設された諸堡塁とも鉄道連絡を確保した。
この内外二重の環状線に続いて、さらに一連の連絡線が建設され、パリからさらに遠い地点での環状連絡を完成させた。その環の中に含まれる主な都市は、ルーアン、アミアン、ラ・フェール、ロン、ランス、シャロン=シュル=マルヌ、トロワ、サンス、モンタルジ、オルレアン、ドルーなどであり、ルーアンへと再びつながる。
さらにこの「最外環」内部には、オルレアン、マルスルベール、モントロー、ノジャン、エペルネー、スワソン、ボーヴェ、ドルーを結ぶ路線が新設され、パリから北部・東部へ延びる諸幹線が互いに補完しあい、オルレアンに到着した南西方面の部隊をパリへ回送せずに、直ちに北部・東部方面へ振り向けることが可能になった。これにより、部隊は首都から約40マイル以内に近づく必要すらなくなったのである。
オルレアンは部隊輸送の観点からきわめて重要な戦略的拠点と認識され、多数の新線が放射状に建設されて他路線との連絡を強化された。トゥールその他の軍事上重要な中心地にも、同様の補強が施された。トロワ(シャンパーニュ)などの主要ジャンクションでは、部隊列車が完全停止や入換、機関車の付け替えをすることなく、直通で一つの路線から他の路線へ移行できるよう、連絡線や渡り線が敷設された。
東部国境方面では、前述のヴェルダン=メス間の路線が完成し、1899年までには、1870–71年当時わずか三本しかなかった国境への鉄道路線は十本に増加していた。これらの多くは全線複線であり、いずれも互いに独立した経路をとりつつ、横断連絡線によって相互に結合されていた。
新路線の中には、東部および北部国境の各堡塁を直接連絡するものも多数あった。また、主要港湾同士や、それぞれの港と内陸の戦略的中心地とを直結し、海上からの攻撃に対する防衛能力を高めるために建設された軍事路線もある。さらに、アルプス防衛のための新線も敷設された。
こうした新線の建設とは別に、軍事輸送の便宜を図るために、既存線路の複線化や、場合によっては四線化(複複線化)も広範に行われた。兵器庫の近辺や重要戦略地点にある駅には、長大なプラットフォームが新設され、部隊や物資の迅速な乗降・積み込みを可能にした。
また純粋に商業や旅行の便を目的として建設された多くの新線や改良工事も、結果として軍事輸送の能力総体を向上させることになった。
こうして追求された主な成果は、(1) 地方間の横断連絡の改善による迅速な動員、(2) パリにおける交通集中の回避、(3) 国境への迅速な兵力集中──特に各軍団が専用の複線路線を使用できるようにすること──(4) 重要地点の防衛態勢の強化、などである。
ここでいう政策の基本は、侵略のための「戦略線」の建設ではなく、あくまで国土防衛を目的としたものであった。1894年にペルノ大尉が「すでにすべての準備が整っている」と書いて以来も、この方針は一貫して継続され、軍事輸送組織の「完全性」を追求するフランスの努力に呼応して、鉄道網は絶え間なく増強・改良されてきた。1914年に至るまでの長年の工事によって、その備えはいっそう盤石なものとなったのである。
注
[26] 野戦鉄道隊の各部門と区域別補充編成の職務・権限等の詳細については、『移動および輸送──野戦鉄道隊』(Mouvements et Transports. Sections de chemins de fer de campagne. Volume arrêté à la date du 1er septembre, 1914. アンリ・シャルル=ラヴォーゼル刊、パリ)を参照。
[27] 『陸軍省官報──工兵──鉄道部隊』(Bulletin Officiel du Ministère de la Guerre. Génie. Troupes de chemins de fer. Volume arrêté à la date du 1er décembre, 1912.)参照。
[28] 『鉄道による軍事輸送(陸軍および海軍)──1902年10月までに有効となったすべての法令の集成版』(Transports militaires par chemin de fer. (Guerre et Marine.) Édition mise à jour des textes en vigueur jusqu’en octobre, 1902.)。その後、軍用鉄道輸送組織の各部門ごとに分冊で刊行された文献の一覧については、本書巻末の文献目録を参照のこと。
第十四章
イングランドにおける組織
ブリテン諸島の地理的条件が、ヨーロッパ大陸主要国のそれとは異なっていたため、軍事目的の鉄道輸送の体系的組織化が、イギリスにおいて本格的に着手されたのは、とくにドイツの場合と比べて、かなり遅い時期であった。ここには、侵略用の路線や、隣国国境への大兵力集結を容易にする路線を敷設するという問題は存在しなかった。イングランドで問題となったのは、もっぱら次の諸点であった──
(1) 平時および戦時を通じて、軍隊と軍需品の輸送に関して、国家と鉄道会社とのあいだにどのような関係を定めるか。
(2) 侵略に抗するため、また海外派遣軍を乗船港まで送り出すために、鉄道をいかに活用するか。
(3) 戦時条件下でも鉄道が能率的に運行されることを確保するため、いかなる方策を採用すべきか。
(4) 侵略を受けた場合の国内での鉄道建設・修理・運転・破壊、あるいは海外遠征において軍用鉄道を建設・運営することを可能にするため、いかなる陸軍工兵部隊を創設すべきか。
以下、これら諸点を、ここに掲げた順序に従って検討する。
国家と鉄道
1842年鉄道規制法(5 & 6 Vict., c.55, 題名「鉄道のよりよき規制および軍隊輸送のための法」)の第20条には、次のように規定されていた――
陛下の常備軍の将兵のいずれかを鉄道により移動させることが必要となった場合には、その鉄道の取締役は、荷物、軍需品、武器、弾薬その他の必需品および物件とともにこれを、通常の発車時刻において、戦争省大臣と当該鉄道会社とのあいだで契約された運賃または条件により、輸送することを許可しなければならない。かかる輸送は、しかるべき当局者の署名した通行証または命令が呈示された場合に行うものとする。
これは、イギリスにおいて鉄道による軍隊輸送に関してなされた最初の立法であった。その後1844年、さらに別の法律(7 & 8 Vict., c.85)が成立し、第12条により、鉄道会社は、法律中に掲げられた上限運賃を超えない料金で、軍隊輸送用の車輌を提供する義務を負うとともに、公用荷物・軍需品・弾薬(火薬および爆発物に関しては一定の例外あり)・その他軍用必需品の最大運賃も定められた。1867年には、この規定は陸軍予備役にも拡張された。運賃および料金のさらなる改定は、1883年の安価列車法(46 & 47 Vict., c.34, 題名「鉄道旅客税に関する法律を改正し、女王陛下の軍隊の鉄道輸送に関する法律を改正・統合する法」)によって行われた。
戦時における鉄道の国家統制は、1871年軍隊規制法(34 & 35 Vict., c.86, 題名「王冠の常備軍および補助軍の規制ならびにその他関連目的のための法」)によって定められた。同法第16条は次のように規定する。
女王陛下が枢密院令により、緊急事態が生じており、その際、公共の利益のため、女王陛下の政府が英国の鉄道、またはその一部を統制することが適当であると宣言したときは、内務大臣は自らの署名する認可状により、当該認可状に名を挙げられた者に、女王陛下の名において、または女王陛下の代理として、英国のいかなる鉄道およびそれに属する設備、またはその一部を接収し、鉄道路線そのものを接収することなく設備のみを接収することができるものとし、また内務大臣の指示する時期および方法により、これらを女王陛下の用に供する権限を付与するものとする。そして、かかる鉄道の取締役・職員・従業員は、かかる鉄道ないし設備の女王陛下の用への供用に関し、内務大臣の指示に従わなければならない。
内務大臣が本条の規定に基づいて発行するいかなる認可状も、その効力は一週間に限られる。ただし、内務大臣の判断において緊急事態が継続している限り、かかる認可状は一週ごとに更新しうるものとする。
関係当事者に対しては、「完全な補償」を支払う旨も規定されている。
こうして政府が取得した統制権は、詳細な規定という点ではアメリカ合衆国における先例(本書16ページ参照)ほど精緻ではないものの、その趣旨においてはほぼこれに倣うものであった。他方、イギリスの法律では、「政府は鉄道路線そのものを接収することなく、設備のみを接収することができる」との規定が、より強く強調されている。このことは、軍事輸送の目的で特定の路線が必ずしも必要でない場合でも、英国のいかなる地域のいかなる鉄道についても、その機関車および車両を接収しうる権利を政府に与えるものである。
1888年国防法(51 & 52 Vict., c.31)の規定により、民兵(Militia)招集令が発せられている期間中は、王立海軍および陸軍の目的のための輸送が、英国の鉄道における他の一切の輸送に優先するものとされた。
1914年に戦争が勃発した際、イギリス政府が英国の鉄道を統制下に置いたのは、まさにこの1871年法第16条の規定に基づくものである。
1842年および1844年の初期立法は、主として平時の軍隊輸送に関わる国内法であり、戦時を直接の対象としたものではなかった。戦時における軍事鉄道輸送組織の端緒はむしろ、侵略の可能性および、ある時期におけるイングランドの国防上の弱点が認識されたことに端を発している。
侵略の可能性と本土防衛
1847年、当時の総司令官ウェリントン公爵は、ジョン・バージョイン卿宛の書簡の中で、彼がいかに連続する内閣に対し、この国の無防備な状態に注意を喚起しようと努めてきたかを語っている。彼は、我が国には海軍以外には何らの防備手段も、防衛の僥倖の望みもないと述べ、とくに、早急に必要な防衛措置に着手しなければ確実に失敗すること、しかもそのような失敗が「国辱、しかも消しがたい国辱」となることを痛感していると述べた。そして、国民に強烈な印象を与えた次の言葉を記している。
私はいま七十七歳に手が届こうとしており、これまで名誉のうちに歳月を過ごしてきた。願わくは、私の同時代人たちに、その悲劇を回避するための措置を講じるよう説き伏せることができないがために、自らその悲劇を目の当たりにすることから、全能の神が私をお守りくださるように。
この痛切な警告、1852年にチャールズ・ネイピア卿がパンフレットとして公表した「義勇兵団と民兵によるイングランド防衛に関する書簡」、さらに1857年のインド反乱(セポイの反乱)が、帝国全体の無防備な状況に注意を向けさせたことの結果として、防衛目的の義勇兵団創設を求める不断の運動が起こった。12年間にわたり、こうした努力は一貫して冷遇され、試験的に編成された狙撃兵部隊に対しても政府は正式な承認を拒否し続けた。しかし1859年、この国がフランスの近接侵略の脅威にさらされる見通しが生じると、世論は大いに沸騰し、同年5月12日、当時の陸軍大臣ピール将軍は、1804年に制定された法律に基づき義勇兵団を編成しうる旨を、グレートブリテン各州の副統監(Lord-Lieutenants)に通達した。この法律は、ナポレオンによるイングランド侵攻の脅威に対する予防措置として、同様の手段が採られた際に成立したものであった。
義勇兵団の編成は、ここに至ってたいへんな熱意をもって着手され、1860年末までに、グレートブリテン全土で登録された義勇兵の数は実に12万人に達した。1859年のこの国民的覚醒の他の帰結としては、(第7章で触れた)沿岸防衛と装甲列車の問題が公に論じられるようになったこと、および1860年に、ポーツマスやプリマスの要塞をはじめとする沿岸防衛の改善に750万ポンドの借款が充当されたことが挙げられる。
工兵および鉄道参謀部隊
すでに1859年12月には、義勇兵に対する本格的な工兵教育の必要性が指摘されており、1860年1月には、第1ミドルセックス義勇工兵隊(1st Middlesex Volunteer Engineers)の名の下に、最初の義勇工兵部隊が創設された。類似の部隊が各地で組織され、1867年までに登録された義勇工兵の数は6,580名に達した。
1860年初頭、さらに別の提案がなされた。それは、著名な土木技師、主要鉄道の総支配人、そして主要な鉄道請負業者やその他の労働雇用者から構成される一団を結成し、国防上不可欠と考えられる種々の任務を引き受けさせようというものであった。
第一に問題となったのは、閲兵や沿岸防衛のための鉄道輸送であり、それは義勇兵だけでなく正規軍にも関わるものであった。鉄道が、その運営において自社の幹部によってのみ効率的に動かされうることは明らかであるが、大兵力、ことに馬・砲・弾薬・物資を伴う軍隊の移動方案については、それが実際に必要となるまで放置しておくのではなく、ずっと以前から十分に検討し、準備しておかなければならないこともまた、同様に明白であった。
第二に、国内の土木技術者を動員し、その知識と技能をもって王立工兵隊の働きを補完しうるようにすることが提案された。具体的には、敵の進撃を阻止する目的で、鉄道線路・橋梁・道路の破壊、防御工事としての築堤、低地帯の浸水などの各種防御工事に、彼らの力を活かそうというものであった。
最後に、大請負業者をもこの構想に組み入れることで、これらの民間土木技師の指揮下、さらにその上位に立つ軍司令官の命令のもとに、これら防御工事に必要な労働力を提供させることが企図された。
こうして、三つのグループがそれぞれの専門性に応じた役割を担い、かつこれら三者を連携させることで、侵略に対する国の防衛力を大きく高めようとする組織案が構想されたのである。
この構想の提唱者は、チャールズ・マンビー技師(Charles Manby, F.R.S., 1804–1884)であった。彼は著名な土木技師であり、ほぼ半世紀にわたって土木技師協会(Institution of Civil Engineers)の書記を務め、多くの有力土木技師・請負業者・鉄道関係者と緊密な関係を有していた。彼は自らの構想を協会評議会の複数のメンバーに提示したが、当初、この計画は好意的には受け取られなかった。その後、ある程度の賛同を得ることができたため、1860年8月、第2次パーマストン内閣で陸軍大臣を務めていたシドニー・ハーバート卿に自案を提出した。ハーバート卿はこの計画を熱心に支持し、戦争省を代表して、この構想に基づく組織は公共の利益に資すること疑いないと保証した。しかしマンビーはなお、土木技師協会評議会の一部メンバーから、強い反対ないし不承不承の賛成に直面し、また鉄道会社側からも、鉄道輸送の手配は自らで十分行えるのであって、少なくとも自分たちに関する限り、提唱されているような新組織は不要であるとする見解が示されるなど、困難に悩まされた。
このような状況のもと、マンビーは当初ほとんど前進を見なかった。しかし彼は、土木技師や鉄道会社に対し、自らの提唱する組織が公共の立場からどれほど実際的な利益をもたらすかを繰り返し説き、1864年には、再び自案を戦争省に提示するだけの自信を得るに至った。これを受け、当時の陸軍省長官グレイ伯爵は、義勇兵総監マクマードー大佐(後にウィリアム・マッケンジー・マクマードー卿、C.B.)に対し、この件を調査し報告するよう命じた。
その結果、1865年1月、「技師および鉄道義勇参謀部隊(Engineer and Railway Volunteer Staff Corps)」と呼ばれる組織が創設された。同部隊は規則において、「熟練労働力および鉄道輸送を国防の目的に供すること、ならびに平時のうちに、当該任務を遂行するための体系を準備すること」を目的とする、と定められていた。部隊は将校のみで構成され、構成員は土木技師・請負業者・鉄道会社やドック会社の幹部、そして特別な場合には鉄道監督官(Board of Trade Inspectors of Railways)とされた。主要鉄道やその他重要工事の建設を指揮した経験を持つ高名な土木技師、主要鉄道および商業港湾の総支配人、鉄道監督官のみが中佐(Lieutenant-Colonel)の資格を有し、その他の鉄道関連工事に従事する土木技師・請負業者や、総支配人以外の鉄道幹部は少佐(Major)の階級を得るものとされた。マクマードー大佐は1865年2月9日付で本部隊の名誉大佐に任命された[29]。最終的な構成は、名誉大佐1名(現職:D.A.スコット少将、C.V.O., C.B., D.S.C)、中佐30名(うち1名は司令官、現職:サー・ウィリアム・フォーブス中佐、ロンドン・ブライトン・サウスコースト鉄道総支配人)、および少佐20名であった[30]。
任務と目的
こうして創設された部隊が、第一には義勇兵運動、さらにさかのぼれば、侵略の予期および当時の国防体制の脆弱さから1859年に生じた半ばパニック的な状況の直接的な産物であったことは、もはや明白である。1869年、マクマードー少将(1868年に昇進)は、「野外任務におけるライフル義勇兵」(Rifle Volunteers for Field Service)というパンフレットを発行し、その中で本部隊について「義勇兵のみならず、国の全ての防衛戦力のために活動する用意がある」と述べている。
同パンフレットにおいて、マクマードー少将は本部隊が担うべき任務と目的の概要を説明している。まず義勇兵運動に触れ、国内のある地域から別の地域へ移動する際には、鉄道車両が義勇兵を輸送し、また宿営させる役割を担うことになると述べ、続けて次のように言う。
ブラッドショーの鉄道路線図を注意深くご覧いただきたい。すると、国内の重要地域に広がる鉄道網全体を通じて、いわばその「網目」のいずれもが、線路と線路のあいだで15マイルを超えていないことに気づかれるだろう。そして視線を首都や各商業中心地に近づけるにつれ、これらの網目はさらに縮小し、他の地域の約半分の面積しか持たないようになる。
続いて、こうした鉄道路線に沿って軍隊を移動させる際に必要となる諸作業について論じ、次のように続ける。
かかる精妙な作戦を成就させるための鉄道計画は、技師および鉄道参謀部隊評議会(Council of the Engineer and Railway Staff Corps)から発出されることになるであろう。
平時において、本部隊の鉄道部門は仮想作戦計画の立案に従事しており、その中では、国内のすべての車両および鉄道資源を理論上操作し、それを特別な時刻表と技術報告書として体系化している。
土木技師が担う役割は、戦時に発生しうる鉄道工事(建設・破壊・再建)に限られない。彼らは軍用工兵に対し、情報・助言・労働力を提供する。たとえば、ある地域を通過する鉄道を建設した技師以上に、その地域の地形や特性に通じた者はいない。また、彼が再三にわたり「締め出す」任務を負ってきたもの、すなわち海水氾濫を「流入させた」場合の帰結について、これほど熟知した者もいない。あるいは、国内における労働力の分布状況や、それを特定地点に集中させて防御工事を建設する方法についても、彼以上の見識を持つ者はいないのである。要するに、我が国の膨大な資源を、その防衛のために安全かつ効果的に行使するために必要な、あらゆる要素が、いまやこれら高名かつ愛国的な人々によって静かに検討され、戦略的作戦計画に織り込まれつつあるのである。彼らの無償の奉仕の真価は、侵略者の撃退がこの人々の働きによって成し遂げられるその日まで、十分には理解されず、また評価されることもないだろう。
同じマクマードー少将は、後に『ブリタニカ百科事典』(第9版)の「義勇兵(Volunteers)」項目において、この技師および鉄道義勇参謀部隊について次のように記している。
この有用な部隊が即座に動員しうる労働力は、工具・手押し車・糧食供給を完備した1万2,000〜2万人のナヴィ(工事人夫)と見積もられている。同部隊はすでに、侵略の可能性に備えた6通りの大規模兵力集中計画について、完全な時刻表と特別報告書を作成・印刷するという重要な任務を、莫大な私費を投じて遂行してきた。また同部隊は、イギリス国内すべての鉄道について、保有車両の全容をまとめた(最初の類例となる)特別報告書を作成した。この重要な報告書は、毎年修正・再刊されており、各種軍用列車を編成するために必要なあらゆる種類の車輛が、どこで、どれだけ確保できるかを示している。
戦争省図書館の公刊図書目録には次の項目が見える。「『軍用特別列車等の時刻表』──鉄道会社による編纂。311ページ、八折判。ロンドン、1866年。」これは、おそらく前掲『ブリタニカ』記事で、本部隊によって編纂されたとされる最初の完全な時刻表を指すものであろう。日付からして、この部隊が1865年の創設後、すぐに活動を開始したことは明らかである。
一時は、技師および鉄道義勇参謀部隊が、前記の任務にとどまらず、さらに広範かつ重大な職責を担う機関へと発展することが期待された。この点については、ロンドン・ノースウェスタン鉄道会社の元総支配人であり、本部隊の中佐でもあった故ジョージ・フィンドレイ卿の証言がある。
ロスウェル大佐(J.S. Rothwell)は、いくつかの論考[31]の中で、イギリス鉄道の物的資源は事実上無尽蔵であると認めつつも、数時間前の通告のみで、敵の侵攻が予想される沿岸の任意の地点に、大軍を輸送してロンドンへの進撃に対抗しうるかどうかについて疑問を呈し、さらに、こうした問題がいまだ十分な検討を受けていないと指摘した。ロスウェル大佐は次のように述べている。
鉄道の実際運行は、当然ながら鉄道の正規職員の手に委ねられなければならないが、それは、軍事輸送に関わる計画立案までも、専ら彼らに任せるべきだということを意味しない。しかし現状では、こうした計画は「技師および鉄道義勇参謀部隊」と呼ばれる組織の構成員に委ねられているようである ……。これら紳士たちの、それぞれの専門領域における有能さは疑う余地がないが、彼らが自ら時間を割いて、大規模な鉄道による兵力集中の細部を練り上げる余裕が本当にあるのか、そして軍事輸送の特殊な要求が、彼ら自身または彼らが雇用するであろう部下によって十分に理解されるのかどうかは、なお疑問の余地があるように思われる。
ロスウェル大佐は、我が国がある侵略者に備えるにあたって、なお多くの準備が必要であると論じ、次のように結んでいる。
もしもイングランドへの侵攻が、可能性の範囲内にある出来事と見なされるならば、そのような事態に備えるため、綿密な検討を要する予防措置が、実際に必要となる以前に徹底的に整えられているべきだと要求するのは、決して不当ではあるまい。鉄道による軍隊輸送の組織は、まさにそのような予防措置の一つである。
この批判に対し、フィンドレイ卿は1892年4月号『ユナイテッド・サービス・マガジン』に掲載された「軍隊輸送におけるイギリス鉄道の利用について」(”On the Use of Railways in the United Kingdom for the Conveyance of Troops”)と題する論文で応答した。彼は、国内を覆う完全な鉄道網が、設備の優秀さと運営の効率において、国防計画において課せられるいかなる役割をも十分果たしうるであろうと述べた。そして、これまでの政府の取り組みに関して次のように記している。
戦争省は、この問題をいささかも等閑視してきたわけではなく、むしろ多大の注意を払ってきた。その結果、戦時の輸送目的に鉄道を運用するための完備した計画が立案されており、もし悲しいかな、その必要が生じるような事態となれば、直ちに実行に移されうる状態にある。
続いてフィンドレイ卿は、技師および鉄道義勇参謀部隊の構成・任務を説明し、その構成員が本部で会合して、鉄道組織の詳細その他、戦争省から付託された諸問題を随時審議し、その結論を報告していることを述べたうえで、国家的危機または緊急事態の際に、国有鉄道を政府の統制下で運行するためには――
草案としての計画がすでに準備されており、細部に至るまで検討が進められている。そして不幸にも必要が生じた場合には、おそらくこの計画が採用され、実行に移されるであろう。
この計画の骨子は、現在想定しているような時期に際し、イギリスおよびアイルランドの主要鉄道の幹部がただちに国家の役人となり、技師および鉄道義勇参謀部隊に属する主要鉄道会社の総支配人に加え、主要鉄道会社の技師長・車両部長・旅客部長・貨物部長およびアイルランド主要鉄道の支配人に、何らかの軍階級が与えられることを定めている。
国内の鉄道は複数の区分(セクション)に分けられ、各区分については、そこに含まれる鉄道会社の総支配人、および主要な技師長・車両部長その他幹部から成る委員会が設けられる。鉄道の運行と軍事目的での利用は、これら区分ごとの委員会が担い、各委員会には技師および鉄道義勇参謀部隊の中佐が議長として配置される。議長は、その委員会の管轄区域における軍隊および軍需品輸送の責任を直接負うことになり、もし実施すべき作戦が複数区分にまたがる場合には、当該区分の委員会同士が連携して行動する。この場合、兵站総監(Quartermaster-General)から出される輸送要求は、出発地点を含む区分の委員会議長に対して行われ、この議長と委員会がイニシアチブを取り、他区分の委員会と協議しつつ、輸送任務の実行を手配することになる。
各区分または区分群ごとに、一定の階級を持つ軍人が配置され、移動中の部隊や馬に対する食糧・飼料・給水の手配を一任されるとともに、自区分内の乗車・下車地点において、荷物・軍需品等の積み下ろしを補助する兵員ないし労働者を必要数指揮する権限が与えられる。また、この軍人は、臨時のプラットフォームやランプの設置、仮設線路の敷設を支援するため、王立工兵隊や義勇工兵隊の助力を要請しうる立場に置かれ、担当区分の委員会と協力し、その業務をあらゆる面で助けるよう指示される。ただし、線路の運行や列車・輸送の動きには、一切口出ししてはならない。
この計画で想定された区分数は九つであった。各区分の範囲を定めたのち、フィンドレイ卿はさらに続けてこう述べている。
いま論じているような国家的危機の期間においては、技師および鉄道義勇参謀部隊の評議会は本部に常駐し、実行すべき作戦の内容と規模を完全に把握したうえで、影響を受ける地域全体にわたる車両の供給と配分を調整する権限を持つものと想定される。その際、国内の車輛はすべて、当該期間中は共通の備蓄として扱われるのである。
ここで述べたのは、この計画のごく概略にすぎない。細目にまで立ち入る必要はないが、これまで述べたことだけでも、この問題がロスウェル大佐の想像するように放置されてきたのではなく、慎重に検討され、綿密に構想されてきたことは、十分にお分かりいただけるものと思う。
もしこの計画が、ここで述べられた通りに完成し採用されていたならば、当時、世間一般にはほとんど知られていなかったこの部隊――その主要な任務が、当局の要請に応じて調査を行い、報告書・統計・諸表を作成することであり、それらが一貫して戦争省と陸軍省(Horse Guards)の域を出なかった部隊――の地位と役割は、さらに重みを増したであろう。この部隊が提供したサービスの真価は、まさにそこでこそ最もよく理解され、評価されていたからである。
しかしこの計画案は、結局のところ棚上げとなった。後に採用された政策は、むしろ次の二つの原則に基づいていた。(1) 戦時におけるイギリス鉄道は、複数の区分や群に分けてではなく、一つの統合体として運用されるべきであること。(2) その運用は、この目的のために新たに創設される専門機関に委ねるべきであること。ただし、この後者の方針が実際に採用される前に、別の方向でさらなる発展が見られることになる。
戦時鉄道審議会
技師および鉄道義勇参謀部隊は、(個々の鉄道会社を別とすれば)戦争省が軍事輸送の観点から鉄道の技術的運用や輸送能力について助言を得ることのできる唯一の組織として、1896年まで活動を続けていた。しかし、この部隊を補完する必要があると判断され、その年に、当初「陸軍鉄道審議会」(Army Railway Council)、後に「戦時鉄道審議会」(War Railway Council)と呼ばれる小規模な組織が設立された。
この審議会は、何らの行政的・執行的権限を持たず、純然たる諮問機関として構想され、最終的に次のような構成とされた。すなわち、副兵站総監(Deputy Quartermaster-General)を議長とし、イギリス鉄道会社を代表する六名の鉄道支配人(彼らは技師および鉄道義勇参謀部隊のメンバーであってもなくてもよい)、鉄道監督官一名、技師および鉄道義勇参謀部隊所属だが鉄道支配人ではない者二名、副副兵站総監一名(Deputy-Assistant Quartermaster-General)、動員担当将校一名、海軍将校二名、王立工兵隊将校一名、そして兵站総監部(Quartermaster-General’s Department)の代表者一名を事務局長とする構成であった。
この審議会は、その性格において、第9章で述べたフランスの「高等軍事鉄道委員会(Commission Militaire Supérieure des Chemins de Fer)」にきわめて近いものであった。また、ドイツ陸軍における参謀本部鉄道課が通常担う業務の多くを引き受ける一方、その一部業務は技師および鉄道義勇参謀部隊から継承し、その機能と重要性を相応に縮減した。
平時において、この審議会は次の任務を負った。
(1) 一般的に、軍事鉄道輸送に関する事項について陸軍大臣に助言すること。
(2) 戦争省から提供される資料に基づき、関係各鉄道会社と協力して、動員時における軍隊移動に関する詳細な計画を策定すること。
(3) こうした軍隊移動に必要な列車の編成を事前に定めること。
(4) 鉄道会社から求めるべき情報の種類[32]を決定し、軍隊移動に関する必要な規定および訓令を準備すること。
(5) 鉄道駅に配置される鉄道輸送将校(Railway Staff Officers)の組織および任務を定める規定を作成すること。これら将校は審議会が選定した駅に常駐し、鉄道職員と軍隊との仲介役を務める。
(6) 軍事輸送を円滑に行うために必要な側線・積込用プラットフォーム・傾斜路・防柵等の増設について各鉄道会社と協議し、その設置方法を決定すること。
これら一切の情報は、詳細に整理・編集され、説明図とともに記録され、必要時に参照できるよう保管された。
動員または国家的緊急事態の発生時には、審議会はなお、鉄道による軍隊移動に関する事項について陸軍大臣に助言し、戦争省と鉄道会社との連絡役として活動し、かかる移動に関連する一切の手配を行うこととされた。
平時に検討すべき他の課題としては、鉄道が攻撃・破壊を受ける可能性、それに対する防護、および被害を受けた鉄道の迅速な修理、必要とされる線区における装甲列車や衛生列車の装備などが挙げられた。
こうした諸問題は、審議会で定期的に開催される会合の場で検討され、同審議会は、その諮問機能の範囲内において、戦争省に大いに貢献した。しかし同省は、鉄道会社各社と直接接触し、個別の手配や詳細事項を調整せねばならない状態のままに置かれていた。
鉄道輸送将校
前述のように、戦時鉄道審議会の任務の一つとして、軍隊輸送における軍と鉄道側の仲介役を務める鉄道参謀将校(Railway Staff Officers)の組織・任務規定の作成が含まれていた。
ここで我々は、軍事輸送の統制および組織に関する問題──それは、以前の戦争、とくに1870–71年戦争におけるフランス鉄道上での大混乱の重要な原因であった──に直面することになる。イギリス軍の鉄道輸送について、同様の経験を繰り返す危険を避けるため、予防措置として、あらかじめ十分な準備を行っておこうとする試みがなされたことは、きわめて賢明であったと言えよう。この試みの結果として生み出された制度は、後年きわめて優れた成果を挙げることになる。
当初、この制度で任命された将校は「鉄道管制将校」(Railway Control Officers, R.C.O.)と呼ばれ、その長は「鉄道長官」(Director of Railways, D.R.)と称され、組織全体は「鉄道管制組織」(Railway Control Establishment)と呼ばれていた。その後、これらの名称はそれぞれ「鉄道輸送将校」(Railway Transport Officers, R.T.O.)、「鉄道輸送長官」(Director of Railway Transport, D.R.T.)、「輸送組織」(Transport Establishments)へと変更された。
1913年版野外勤務規程第II部第23節によれば、鉄道輸送長官の職務は次のように定義されている。
鉄道輸送の確保および鉄道輸送要員の管理。すべての鉄道路線の統制・建設・運行・保守。鉄道回線用電信要員の手配。鉄道業務に供される電話および電信の統制と運用。軍が運行する鉄道路線上のあらゆる電信回線の設置および保守については、陸軍通信監督官(Inspector-General of Communications, I.G.C.)の命により、鉄道輸送長官の本部に陸軍通信監督官の代表が付属し、必要な通信部隊が配属される。
鉄道輸送組織に関して同規程第62節は、次のように規定している。
鉄道に関する限り、各輸送組織に属する将校は、自らが任務を負う鉄道路線区間において、第一義的権限を持つ。
鉄道技術職員は、軍隊からの鉄道輸送に関する要請を、常に鉄道輸送組織を通じて受け取らなければならない。
戦闘が差し迫っている、あるいは進行中の場合を除き、輸送組織に属する将校が命令を受けるのは、鉄道輸送長官またはその代表者からに限られる。
鉄道輸送組織に属する将校のうち、左腕にR.T.O.と記した腕章を着用する者が、常時乗車・下車・途中停車が行われる地点ごとに配置される。その主要任務は以下の通りである。
- 部隊・馬匹・資材の輸送を円滑に行うこと。
- 軍当局と鉄道技術者との連絡窓口として行動すること。
- 鉄道の輸送力および可能性について、現地軍当局に助言すること。
- 軍事目的のために鉄道の輸送力を増大させうるあらゆる手段について、鉄道輸送長官に報告すること。
軍隊の乗車・下車、物資の積み込み・荷下ろし等の詳細は、鉄道技術職員と協議のうえ、鉄道輸送組織が取り決める。同組織は、乗車のために到着するすべての部隊を出迎え、乗車時刻と乗車地点を指揮官に伝え、車両と貨車を部隊単位で割り当てる。また、鉄道職員が必要な車両を用意したかを確認し、定められた量を超える荷物が積載されないよう監視し、無許可の者が列車に乗車することを防止する。さらに、到着するすべての軍用列車を出迎え、部隊と物資が最大限の迅速さで下車・荷下ろしされることを確保する。
これらの規定から分かるように、鉄道輸送将校は、上級輸送将校から受けた指示の範囲内で、たとえ自らの軍階級がいかなるものであれ、担当駅においては、その権限をいかなる将軍であっても疑問視したり、覆したりすることはできない。すなわち、将軍といえども駅職員に直接命令を下すことは許されず、R.T.O.のみが軍と鉄道側を結ぶ「唯一の連絡窓口」となるのである。R.T.O.は鉄道側と協議しつつ、乗車・下車に関わるあらゆる細部を調整し、その円滑な遂行を保証する。その結果、駅職員の業務は、彼らの協力、およびこれまで複数存在したかもしれない軍の指揮系統が、一人のR.T.O.に統一されたことにより、たいへん行い易くなった。
義勇兵閲兵
こうした各種の発展が進む一方で、技師および鉄道義勇参謀部隊の創設以来、鉄道会社は、大規模な義勇兵部隊の搬送について、度重なる実績を示してきた。とりわけ、時折行われた大規模義勇兵閲兵の際には、その能力を遺憾なく発揮した。
ジェームズ・ウォルター少佐(第4ランカシャー砲兵義勇隊)は『イングランドの海軍および陸軍の弱点』(”England’s Naval and Military Weakness”, ロンドン、1882年)の中で、1881年に行われたエディンバラおよびウィンザーでの閲兵の際に鉄道が果たした役割を高く評価している。とくにウィンザー閲兵について、次のように述べている。
鉄道に関する限りにおいて、この一連の作業は、全国各地から5万人の兵士を24時間以内に集中させることが、完全に実現可能であることを証明した ……。このウィンザー閲兵で最も多く関わった二つの路線、すなわちグレート・ウェスタン鉄道とサウスウェスタン鉄道は、スコットランド行き夜行列車の運行に匹敵する規則正しさと迅速さをもって、この大事業をやり遂げた。
ウォルター少佐は、この成功が主として技師および鉄道義勇参謀部隊の功績であると解釈している節がある。彼は次のように述べている。
1881年のウィンザーおよびエディンバラ閲兵の最大の成果の一つは、「技師および鉄道義勇参謀部隊」の必要不可欠な働きを、しかるべき形で公衆の目に印象づけたことであった。これらの閲兵が、その国民的意義を証明するまでは、陸軍名簿に列記された将校名を除き、この部隊の存在や職責について知る者はほとんどいなかった ……。義勇兵が組織されて以来、技師および鉄道輸送部隊は常に、緻密で、しかも支障のないサービスを提供してきた ……。1881年閲兵においても、この部隊の諸将校は、自らの任務にふさわしいやり方で輸送業務に取り組み、自らの部隊が現実的かつ不可欠な存在であることを、この国に証明してみせたのである。
1893年刊『大英帝国陸軍便覧』(”Army Book for the British Empire”)の著者たちは(531ページで)次のように書いている。
英国における軍事力が、本土防衛のために動員され、国内のあるいくつかの地域に集中し、侵略に備え、また侵略軍と対峙する必要が生じた場合、その鉄道輸送計画は満足すべき成果を上げるであろうと考える十分な理由がある。全国各地から招集された大部隊の義勇兵が、何度か行われたいくつかの軍事的行事や閲兵のために集中させられた際に、鉄道網が見せた驚異的な輸送能力は、英国の鉄道システムが、大規模な軍事輸送に対応しうることを実証している。車両は豊富にあり、イングランドの主要路線の多くは複線で、一部には四線以上の線路を持つものもある。勾配も一般に緩やかであり、これは重い軍用列車の運行にあたって非常に重要な点である。
これらの結論に異議を唱える者はほとんどいなかったが、同時に、ライフルのみを携行した大量の義勇兵を輸送することと、戦争そのものに備え、あるいは戦時下において、馬・砲・弾薬・輜重車・物資とともに大規模な正規軍部隊を、きわめて短時間のうちに輸送することとは、まったく性格の異なる問題であることも明らかであった。したがって、英国内の鉄道がその組織能力を真に試されるのは、侵略の有無を問わず、実際の戦争条件下においてであるとされていた。1900年前後の南アフリカ戦争は、その意味で一定の試金石となった。
南アフリカ戦争
このとき、軍事輸送の大部分はロンドン・サウスウェスタン鉄道に集中した。全国各地から集結した部隊が、各種の経路・各鉄道を経てサウサンプトンへと輸送され、そこからケープへ向けて軍人と物資が乗船したのである。この輸送量は実に膨大であり、戦争勃発から翌1900年末までのあいだに、ロンドン・サウスウェスタン鉄道を通りサウサンプトンから出航したのは、将校6,160名、兵士229,097名、馬29,500頭、車両1,085両であった。この輸送を行うために、特別列車1,154本が運行され、その他にも多数の列車が荷物や物資を運んだ。ときには非常な過密運転となった。例えば1899年10月20日には、輸送船5隻がサウサンプトンを出航し、167名の将校と4,756名の兵士、さらに砲・馬・輜重車を乗せた。しかしこれほどの作業も、鉄道設備や港湾施設に過度の負担をかけることなく、きわめて円滑に実施されたのである[33]。
この円滑さの多くは、戦争省が戦時鉄道審議会の原則に従い、サウサンプトンに一人の鉄道輸送将校を配置したことに負っている。この将校は、鉄道・港湾・軍当局・海軍当局のあいだの連絡役として行動し、各方面の要請を調整し、列車到着の監督を行い、部隊とその装備を、割り当てられた輸送船に秩序正しく乗艦させ、さもなければ生じていたであろう混乱を防いだのである。同様の将校は、全国各地の主要駅にも配置され、軍と鉄道職員の協力を確保し、摩擦や混乱の可能性を排除しつつ、軍事輸送の処理が円滑に進むように努めた。
第16章で述べるボーア戦争における鉄道運営についても、戦争期間中、南アフリカでほぼ同様の方針が採られたことを、そこで見ることになる。
1912年東イングランド演習
英国鉄道の輸送能力に関するさらなる証拠は、1912年にイースト・アングリアで行われた陸軍大演習の際に提供された。この演習は、従来の義勇兵閲兵よりはるかに厳しい試練となった。なぜなら、演習地に4個師団の正規軍と数千の領土軍を集結させるだけでなく、多数の馬・砲・輜重車と大量の物資を、短時間で輸送しなければならなかったからである。
輸送の一部はグレート・ノーザン鉄道およびロンドン・ノースウェスタン鉄道が担当したが、大部分はグレート・イースタン鉄道によって処理され、約200本の軍用列車(総車輛数約4,000両)が運行された。これら列車のうち約半数は定刻どおり、あるいはそれ以前に発車し、その他も数分程度の遅れにとどまった。輸送作業はきわめて規則正しく、能率的に行われ、その結果、国王陛下はケンブリッジにおける将官への訓示の中で、通常の民間輸送を妨げることなく、部隊を迅速に鉄道集中させたことを、この演習の特色の一つとして取り上げられた。演習終了後の部隊解散も2日余りで完了し、これもまた見事な手際であった[34]。
鉄道執行委員会
上述の諸証言と実際の成果に照らせば、英国内における鉄道組織の充実と、その物的・人的資源の豊富さを前提に、国家的緊急事態が発生した際、鉄道会社自体が迅速かつ有効に対応しうるという点について、疑いの余地はなかった。
しかしながらなお特異な事実として残っていたのは、1871年に政府が鉄道統制権を取得して以来四十年を経ても、戦時に国家が鉄道を統制する際、その権限を実際に行使するための行政機構が、一種の予防的措置としてさえ整備されていなかった、という点である。この種の機構はドイツ・フランスその他の諸国においてはすでに整えられていたが、イングランドではなお欠如していたのである。1871年法第16条は、事実上死文化したままであり、その存在は、著名な鉄道支配人であったフィンドレイ卿ですら知らなかったようである。少なくとも、彼が『英国鉄道の運営と管理』(”Working and Management of an English Railway”)および1892年4月号『ユナイテッド・サービス・マガジン』への寄稿の中で、戦時において国家が鉄道を統制すると述べる際、根拠としたのは1871年法(彼はこれに言及していない)ではなく、一定条件下で軍事輸送に優先権を与える1888年法であった。
また、前述のフィンドレイ卿の草案において、非常時の鉄道運営が技師および鉄道義勇参謀部隊に委ねられるべきだとされていたにもかかわらず、同部隊および戦時鉄道審議会は、依然として純然たる諮問機関にとどまっていた。
こうした状況のもと、国家が1871年法に基づいて鉄道統制権を発動した場合、(1) 政府各部局と鉄道会社経営陣との連携を確保し、(2) 各鉄道系統を全国的見地から運用し、(3) 全国各地に対する海軍・陸軍部隊の移動、艦隊用石炭供給、弾薬輸送、民間の生活必需品輸送などの諸要請を調整するための中央執行機関が、どうしても必要であることは明らかであった。こうした機構は、一朝一夕に創設できるものではない。1911年秋、こうした必要性は一層痛感され、その欠落を補うための措置がとられることになった。
このような経緯を経て、1912年に戦時鉄道審議会は「鉄道執行委員会(Railways Executive Committee)」に改組された。同委員会は主要鉄道会社の総支配人で構成され、その職務は「1871年法の円滑な実施を促進するための計画」を準備することと、同法に基づき政府が英国の鉄道を統制下に置いた場合に、国家を代理して鉄道運営を行う執行機関となることであった。すなわち同委員会は、(1) 軍事および海軍の輸送要請に関する政府各部の指示を受け取り、(2) 各鉄道会社を通じてこれを実行に移すための措置を講じる、公認の仲介者となるものとされた。ただし、各社は委員会から受ける指示に従う限り、自社線の管理を引き続き行うものとされた。
実際、政府が1914年の戦争勃発時に、1871年法に基づき英国の鉄道を統制下に置いたのは、この鉄道執行委員会を通じてであった。同年8月4日付で戦争省から発された告示には、次のように記されている。
1871年軍隊規制法第16条に基づき、英国の鉄道に対して政府が統制権を行使することが適当であるとする枢密院令が発布された。この統制は、しばらく以前から設置され、同法の実施を容易にするための計画を準備してきた、鉄道総支配人から成る執行委員会を通じて行使される。
執行委員会の告示(委員長は通商大臣であり、実務委員長はロンドン・サウスウェスタン鉄道総支配人ヘルベルト・A・ウォーカー氏[のちのサー・ヘルベルト・ウォーカー]であった)には、さらに次のように述べられている。
鉄道の統制は、部隊・物資・食糧の輸送という国家の最善の利益のために、鉄道線路・機関車・車輛および職員を、一つの完全な統合体として使用する目的で、政府によって掌握された。……各鉄道の職員は、従来通りの指揮系統のもとで勤務を続け、これまでと同じ経路を通じて指示を受けることになる。
委員会の最終的な構成は以下の通りであった。すなわち、カレドニアン鉄道D.A.マセソン氏、グレート・セントラル鉄道サー・サム・フェイ氏、グレート・ノーザン鉄道C.H.デント氏、グレート・ウェスタン鉄道F.ポッター氏、ロンドン・ノースウェスタン鉄道路線ガイ・カルトロップ氏、ランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道J.A.F.アスピナル氏、ロンドン・サウスウェスタン鉄道サー・ヘルベルト・A・ウォーカー氏、ロンドン・ブライトン・サウスコースト鉄道サー・ウィリアム・フォーブス氏、ミッドランド鉄道サー・ガイ・グラネット氏、ノース・イースタン鉄道サー・A.K.バターワース氏、サウスイースタン・アンド・チャタム鉄道F.H.デント氏の各総支配人であり、事務局長としてG.S.スルンパー(Gilbert S. Szlumper)氏が任命された。
1860年と1914年
以上に見てきたように、1860年に個人の提唱から始まった一つの運動は、当初フランスによるイングランド侵攻という想定に端を発していたが、その後、半世紀近くにわたる漸進的・継続的な発展を経て、1914年には、まさにそのフランスがイングランドの大切な同盟国となり、自らの国土に侵入した敵に抵抗するのを助けるための重要な役割を担うに至ったのである。
このとき英国軍隊の輸送がいかに円滑に行われたかについては、まだ詳細を語る時期に至っていない。しかし、本章で述べた事柄から、達成された成功が、主として3つの重要な要因に負うものであることは十分理解されよう。すなわち、(1) 鉄道組織の効率性、(2) 1871年法に基づき鉄道を統制下に置いた際にも、その運営を鉄道専門家の手に委ねるという政府の姿勢、(3) 軍事鉄道輸送の各段階において、軍事要素と鉄道技術要素との仲介役を置き、その相互の要請を調整し、命令・指示の唯一の伝達経路として機能させることで、アメリカ南北戦争以来の一連の戦争が教えてきた基本原則を、鉄道側・政府側双方が迅速に受け入れたことである。このようにして初めて、きわめて繊細かつ複雑な機械たる鉄道システムの、ほぼ完全な作動が保証されるのである。
鉄道部隊
アメリカの例に触発され、ドイツが1866年に特別な鉄道部隊の編成に着手したのに対し、イングランドが同様の道を歩み始めたのは1882年になってからであった。それ以前は、敵の侵攻を受けた場合の国内鉄道の破壊・復旧については、技師および鉄道義勇参謀部隊の労働部門で十分対応できると見なされていた可能性がある。しかし同部隊の組織は、海外遠征の際に敵国領内での鉄道建設・運行を担当するだけの人員を供給するには不十分であった。
この不足を補う必要から、1882年夏、王立工兵隊第8中隊が第8(鉄道)中隊R.E.へと改編された。これは、ガーネット・ウォルズリー将軍(のちのウォルズリー卿)指揮下のエジプト派遣軍が、いくつかの鉄道工事を要すると予想されたことに対応するものであった。この最初のイギリス鉄道部隊は、将校7名、准尉1名、ラッパ手2名、下士官・工兵97名で構成されていた。こうした構成は、民間鉄道員の集団よりも、実戦環境における鉄道作業に適していると考えられたのである。
確かに、第8中隊の隊員たちは当初、鉄道業務に習熟してはいなかった。しかし出発前に、将校と兵士はロンドン・チャタム・アンド・ドーヴァー鉄道の線路を自由に見学し、機関部門および運輸部門の業務から学びを得る機会を与えられた。さらにロンドン・サウスウェスタン鉄道およびサウスイースタン鉄道では、短期間ながら線路敷設の実地訓練も行われた。
同中隊はエジプトへ、4両の小型タンク機関車、1等客車2両、2等客車2両、3等客車6両、家畜車40両、制動車4両、移動式クレーン車2両、救援車2両、そして付属品と工具を含む5マイル分の軌道一式を携行した。彼らは、定期列車運行、損壊した線路の補修、装甲列車の運行、補助短距離線路の敷設、部隊や傷病兵および物資の輸送などにおいて、きわめて優れた実績を挙げ、こうした部隊が陸軍工兵戦力に加わることの実用性を完全に立証したのである。
1885年1月には、第10中隊R.E.が第10(鉄道)中隊へと改編され、同年に計画されたスアキン=ベルベル鉄道(第15章参照)の建設に従事するため、エジプトへ派遣された。両中隊は南アフリカ戦争においても大いに活躍した。
1889年3月1日付陸軍命令で発行された『軍用鉄道教範』(”Manual of Military Railways”)によれば、王立工兵隊が鉄道に関して担うべき任務は次のように列挙されている。(1) 二地点間を結ぶ軍用鉄道の敷設・運行・維持。(2) 敵によって損壊・破壊された既存路線の復旧。(3) 一定人数と一定時間内で、既存路線を可能な限り破壊すること。(4) 既存路線の運行・維持。
同教範にはまた、鉄道の建設・保守・破壊・運行に関する詳細な技術情報が含まれていた。この教範は1898年に『軍事工学教育』(”Instruction in Military Engineering”)第VI部として戦争省から再刊され、チャタム工兵学校における鉄道科目の一部を成すとされた。1905年に参謀本部が編纂した『軍事工学教範』(”Manual of Military Engineering”)では、第17章第238〜244節において、「爆薬を用いない簡易破壊」(”hasty demolition, without explosives”)の方法が説明されている。対象は鉄道線路・駅舎・建物・車両・軌道・給水設備などである。また第23章「鉄道および電信」(”Railways and Telegraphs”)では、次のように述べられている。
野戦部隊が鉄道について果たすべき任務は(大規模な鉄道計画を除き、これには特別の手配が必要となる)、おおよそ次の三つに分類される。すなわち、短区間の仮復旧または切断地点をつなぐ短い路線の敷設、軍用目的に合わせるための仮設プラットフォーム等の建設、そして既存路線の破壊である。
同教範には、王立工兵隊将校のために、鉄道建設・補修・再建に関する詳細な情報と、軍事目的においてその作業を行う際の基本原則が示されている。迅速な修理を行うための最良の方式としては、「建設列車」(construction trains)の運用が推奨されている。
建設要員はこれら列車内に居住し、線路の復旧に応じて前進しつつ、必要な資材を運搬する。
王立工兵隊鉄道各中隊の平時訓練[35]には、鉄道路線の偵察・測量・最終ルート決定、駅構内配線計画、迂回線計画、狭軌「軍用」路線の迅速敷設、各種鉄道橋の建設、信号設備の敷設、給水設備、建設線路運営に必要な電信・電話の修理、電気式閉塞装置の操作、装甲列車の装備、仮設プラットフォームの建設、建設列車の運行・維持などが含まれている。
将校には本部勤務中に偵察・測量の訓練が施され、一定数の下士官・兵士も鉄道測量の教育を受ける。各中隊は、将校指揮のもと複数の班に分かれ、約40マイル離れた二地点間に、地図の存在しない未踏の土地であるとの想定のもと鉄道を計画し、完全な地図と縦断・横断図を作成する訓練を行う。またこれら中隊は、ウールマー演習場軍用鉄道(Woolmer Instructional Military Railway)の建設・維持を担当してきた。これは、ボードン駅(ロンドン・サウスウェスタン鉄道)とロングモア野営地を結ぶ約6マイルの標準軌軍用線である。ロングモアには鉄道作業に必要な一切の設備と、車両修理のための工場が備えられている。
戦時において鉄道中隊が担う主な任務は、鉄道路線の測量・建設・補修・破壊、および建設列車・装甲列車の運行である。
南アフリカ戦争において、軍が敵国の鉄道を接収し運行せねばならなかった際、軍隊内部から十分な鉄道要員を確保することには困難が伴った。この状況を踏まえ、1903年には戦争省と国内の幾つかの鉄道会社とのあいだで協定が結ばれた。それによると、鉄道会社は自社の機関区および工場において、一定数の下士官・兵士を機関士・火夫・機関工として訓練し、彼らが将来、戦場において鉄道任務をより適切に遂行できるようにすることになった。この取り決めは1914年の戦争勃発まで続けられた。訓練期間は6〜9か月であった。労働組合との摩擦を避けるため、すでに兵士として俸給を受けている軍人には賃金は支払われなかったが、訓練終了時に、所属部署長から能力証明書を受け取った者には、鉄道会社から賞与が支給された。
戦略鉄道
戦略鉄道の問題は、一般論およびドイツにおける建設を中心に、第18章で改めて扱う。ここでは、グレートブリテンに関する立場を、フィンドレイ卿が1892年4月号『ユナイテッド・サービス・マガジン』の記事でどのように説明しているかを簡単に述べるにとどめたい。
彼によれば、大陸諸国は国境防衛(あるいは場合によっては隣国領土への侵攻)のための戦略鉄道建設に多額の資金を投じてきた。これに対し、グレートブリテンはより幸運であった。国内の鉄道網は純然たる私企業によって建設されたにもかかわらず、仮に国防目的を念頭に置いて敷設されたとしても、これ以上うまく配置することはほとんど不可能なほどであった。すなわち、人口集中地および軍事行動の中心から、国内のあらゆる海岸要地へと複々線を含む複数の幹線が延びており、さらに北・東・南・西の各方向に沿って、海岸線に並行する路線が走っているのである。
かつて一部の批評家は、一般鉄道が直接サービスしていない海岸線に沿って、国防上の観点から戦略鉄道を建設すべきだと推奨した。しかしこのような路線の実際的必要性には疑問が呈され、さらに、その種の路線でカバーされる距離が短い場合には、部隊が鉄道駅まで行軍し、乗車・下車に要する時間を考慮すると、むしろ徒歩行軍のほうが早いのではないか、あるいは少数部隊であれば、自動車輸送の方が海岸まで迅速に到達できるのではないかとの見方も示された。
ただし、部隊移動に関して一つ問題となりうる点は、北部や中部から南部港湾へ移動するなど、横断的な移動を行う際に、部隊を車輛から降ろすことなく、ある鉄道系統から別の鉄道系統へ移送するための設備の有無である。
フランスでは1870–71年戦争後、多数の連絡線が、明確に戦略的な理由に基づいて建設された。しかしグレートブリテンでは、同様の目的は、主として商業輸送の便宜を図るために、数年前に鉄道会社同士の物理的な連結が各所で進められたことによって、結果的に達成されることになった。したがって、短時間での動員や、国内の任意の地点から任意の港への軍隊輸送を行う必要が生じた場合でも、すでに最短時間で直通輸送を行うだけの施設が整っていたのである。
純粋な意味での戦略鉄道にもっとも近いものは、おそらく軍事キャンプと一般鉄道を結ぶ連絡線であろう。しかしこれらは、たとえ軍事目的で建設されたとしても、ドイツで理解されている意味での真正の戦略線というよりは、大規模工場や鉱山が、自社のために建設する専用支線・側線に類するものである。
全般に見て、議会およびイギリス当局は、戦争省自身が支持した場合でさえ、戦略鉄道建設の提案に対しては、決して好意的ではなかった。この傾向は、とくに1913年、下院特別委員会で審議されたノーザン・ジャンクション鉄道計画をめぐる議論において顕著に現れている。
同計画では、ロンドン西部のブレントフォードから北部のウッドグリーンまで、アクトン、イーリング、ウェンブリー・パーク、ハムステッド、フィンチリーを経由する新線を建設し、既存の複数の幹線鉄道との乗入れ接続を設けることが提案された。この点に関しては、1870–71年戦争後、パリ防衛強化のためにフランス政府が建設した外環状鉄道に類似する。
ノーザン・ジャンクション計画は、「軍事上の観点から見て、ロンドン市内を通過させることなく、部隊の迅速な東西移動を可能にする」という理由を含めて、特別委員会に付託された。陸軍評議会の一員であり、部隊輸送に責任を持つ兵站総監(Quartermaster-General)コーエンズ中将(Sir J.S. Cowans)は、陸軍大臣の委任を受けて証言に立ち、次のように述べた。
本線が完全に建設されれば、非常時にはきわめて大きな利点を生むであろうと、陸軍評議会は見ている。本線は、南イングランドとイースト・アングリアおよび北部とのあいだに重要な連絡路を提供するからである。現在、アルダーショットからの部隊列車は、サウスウェスタン線でクラパム・ジャンクションまで来て、そこで分割され、さらに混雑した市内線を経由してグレート・ノーザン線へ転送されている。提案された新線によって、軍用列車は分割されることなく、また混雑した市内線を経由することなく、グレート・ノーザン線やグレート・イースタン線に直接送ることができる。
しかしこの計画には、ハムステッド・ガーデン・サバーブ(Hampstead Garden Suburb)の景観・環境に「取り返しのつかない損害」を与えるとの強い反対が起こった。特別委員会は数日にわたる審議の末、法案を否決し、委員長はのちに、「ハムステッド・ガーデン・サバーブからの異議に大きく影響された」と認めている。
1914年には、ルートを修正した上で、再び同計画が下院に提出された。新ルートはハムステッド・ガーデン・サバーブを通過せず、その近傍を通るのみであった。ある議員は、「自ら本法案の提出に協力したのは、この鉄道が非常時の部隊動員にとって極めて重要だと確信しているからだ」と述べた。一方、別の議員は、「鉄道に対する軍事上の必要性など、まったくの見せかけである」と断じた。また、今回の審議では、フィンチリー地区の良好な住宅地としての性格が、この路線によって損なわれるとの批判も多く出された。結局のところ、本案は再び戦略的観点を退け、多数77票の差で否決されたのである。
注
[29] マクマードー大佐は、この地位にふさわしい特別な経歴を有していた。彼は1853年10月に陸軍中佐となり、1854年5月から1855年1月までダブリンで副官(Assistant-Adjutant-General)を務めた。1855年2月2日には、新設された陸上輸送軍団(Land-Transport Corps)の総監(Director-General)に任命され、現地中佐の階級でクリミアに派遣され、当時極度に欠陥のあった輸送業務の再編を命じられた。彼はこの任務を精力的かつ成功裏に遂行したとされる。戦役終結までに、彼の軍団は1万7,000名の人員と2万8,000頭の馬・ラバ等を擁するに至っていた。また、彼はクリミアにおける軍用鉄道の運行も引き継いだ。1857年、陸上輸送軍団はミリタリー・トレイン(Military Train)に改編され、マクマードー大佐は軍団長に就任した。1860年初頭、義勇兵運動が恒久的な性格を帯びるに至ると、マクマードー大佐は義勇兵総監(Inspector of Volunteers)に任命され、同年6月には義勇兵総監(Inspector-General)に昇格し、1865年1月までその地位にあった。彼は1865年1月23日、インズ・オブ・コート義勇兵連隊の連隊長に選出され、続いて1865年2月9日に、新設の技師および鉄道義勇参謀部隊の大佐に任命された。1881年にはK.C.B.、1893年にはG.C.B.の爵位を授与され、1894年に没した。
[30] 現在の部隊構成員名簿は『ハート陸軍名簿』(Hart’s Army List)に掲載されている。1907年の領土軍および予備軍法(Territorial and Reserve Forces Act)により、本部隊は領土軍の一部となり、その名称から「Volunteer」の語が削除され、以後「技師および鉄道参謀部隊(Engineer and Railway Staff Corps)」と称されている。
[31] J.S.ロスウェル大佐(王立砲兵隊、陸軍大学軍政学教授)による「鉄道による軍隊の輸送」(”The Conveyance of Troops by Railway”)第1・第2部。『ユナイテッド・サービス・マガジン』1891年12月号および1892年1月号。
[32] 英国保有車両の輸送能力、戦時定員部隊に必要な列車編成、軍用車輛の占有貨車スペース、既存鉄道線に関する標準報告書式などについての詳細な情報は、『戦時鉄道教範』(”Railway Manual (War)”)と呼ばれる公式出版物にまとめられている。
[33] 『レイルウェイ・マガジン』1901年5月号。
[34] これら成果を実現した組織の詳細については、『グレート・イースタン鉄道マガジン』1912年11月号に掲載されたH.J.プライザーク(H.J. Prytherch)による「東イングランド陸軍演習とグレート・イースタン鉄道」(”The Great Eastern Railway and the Army Manoeuvres in East Anglia–1912″)を参照。また『グレート・ウェスタン鉄道マガジン』1909年11月号の「軍隊輸送」(”The Transport of an Army”)では、同年の陸軍演習におけるグレート・ウェスタン鉄道の軍事輸送について、次のような概略が示されている。輸送されたのは、将校514名、兵士14,552名、将校馬208頭、軍馬2,474頭、砲25門、弾薬車34両、輜重車・馬車581両であった。「軍当局および軍需業者は、当社職員がこの任務を非常に見事に遂行したことに満足の意を表した」と記されている。
[35] 「王立工兵隊の一般原則・組織および装備」(”General Principles, Organisation and Equipment of Royal Engineers”)『王立工兵隊ジャーナル』1910年2月号参照。
第十五章
軍用鉄道
ここで言う「軍用鉄道」とは、民間の公共輸送を目的とした通常の鉄道とは異なり、専ら軍事目的のために設計・建設された路線を指す。戦争中、既存の一般鉄道路線が、戦場への直接輸送や乗船港までの軍隊輸送に用いられたとしても、その路線は、たとえ一時的に軍事輸送に多用されたとしても、本来の「軍用鉄道」とは言えない。その路線は依然として商業鉄道であり、その性格を変更することなく使用されているに過ぎないからである。このような路線を「軍用鉄道」と呼ぶのは厳密には誤りである。
真の意味での軍用鉄道は、主として二つのグループに分類できる。
(1) 「野戦鉄道」あるいは「攻城鉄道」(field or siege railways)──戦場において、攻城砲や砲座材料を陣地まで運搬し、弾薬や補給物資を攻城砲台・弾薬庫・前進壕・防空壕に届け、敵の出撃に備えて増援部隊を迅速に前線へ送り込み、作業部隊を現場との往復に輸送し、負傷者や病人を後方へ搬送する、といった用途に供されるもの。荷重は一般に動物、ガソリン機関車、あるいは人力によって牽引される。
(2) 「補給鉄道」(supply railways)──戦時において、基地から前線へ軍隊・物資等を輸送するため、あるいは平時において一般幹線から軍用キャンプや補給基地までの連絡線として使用されるもので、一般の地方鉄道が利用できない地域に新設されるもの。
これら二大グループにはさまざまなタイプの路線が含まれ、その範囲は、非常に軽量な簡易軌道から、標準軌でしっかりと建設され、通常の機関車を用いて最大限の兵員・貨物輸送を行う本格的な路線まで多岐にわたる。簡易軌道は、緊急時に極めて迅速に敷設され、小型機関車・ラバ・馬などによって運行されることが多い。
いずれにせよ、軍用鉄道の設計・装備・運行の詳細は、商業鉄道のそれとは異なる。前者は特定の、しばしば一時的な目的を達成するために用いられ、速度よりも迅速な構築や柔軟性が重視される。一方、後者は恒久的な施設として、高速運行を可能にし、不特定多数の利用者に対して十分な安全性を保証しなければならない。
また軍用鉄道の建設は多くの場合、「鉄道部隊」と呼ばれる専門部隊によって行われ、彼らは鉄道の敷設・運行・保守・修理・再建および破壊の一切を担当する。軍司令官は、目的とする路線が十分な速さで完成し、所期の軍事目的を果たしさえすれば満足しうるのであり、民間鉄道に求められるような高度な技術的洗練は必ずしも必要とされない。
あらゆるタイプの軍用鉄道の活用によって、鉄道戦力から引き出しうる利点の幅は大いに拡大した。本書の範囲内で、こうした実績を余すところなく記録することは困難であるが、ここではその代表的な事例をいくつか挙げることとする。必ずしもすべてが成功したわけではないが、それぞれに重要な教訓を含んでいる。
クリミア戦争
純粋な軍用鉄道が戦役のために建設された最初の例は、クリミア戦争において見られる。このとき建設された路線は、今日の目からすれば鉄道と呼ぶにはあまりに粗末なものであったが、当時としては画期的な戦争上の革新とみなされた。その後の軍用鉄道建設の先例として、大いに注目されたのである。
セヴァストポリにおける連合軍の野営地と、補給基地バラクラヴァとの距離はわずか7〜8マイルにすぎなかった。しかし1854〜55年の冬、配給・衣類・燃料・兵舎材・弾薬その他の必需物資を受け取りに派遣された疲労困憊の作業部隊は、往復に12時間も費やすことがしばしばであった。その理由は、彼らがその大部分の時間を、海のような泥濘の中でのたうち回っていたからである。クリミアの土壌は塩分を含む粘土であり、厳しい気象条件と激しい交通の影響のもとで、野営地と基地のあいだの路は完全な泥沼と化していた。
当初、輸送に用いられたのは馬・ラバ・荷車のみであった。周辺地域には多くの家畜がいたにもかかわらず、飼料が不足していたため、使用できる頭数は限られていた。イギリスから送られた飼料の量は、まったく不十分であった。使用された動物たちが、これらの過酷な行程と餌不足、そして極寒によってどれほどの苦しみを味わったかについては、ハムリー将軍(Sir Edward Hamley)が『クリミア戦争』(”The War in the Crimea”)の中で次のように述べている。
各師団の後方には、痩せ細ったポニーやラバがわずかばかり群れをなし、その背が鞍から解放されることは決してなく、震えながら空腹のまま日々死んでいった。
彼らは行路の途中で次々に倒れ、その姿は路傍に死骸として横たわった。飼料にたどり着くための行程自体が過酷であり、たとえそこに達しても、それをバラクラヴァから野営地に運び上げる体力は残されていなかったのである。
軍隊もまた、基地には豊富に存在していたにもかかわらず、野営地に届く配給品と燃料の欠乏により、極めて大きな苦難を味わった。路と呼ぶにも値しない路線状況に加え、遠征の開始時には輸送組織そのものがまったく存在していなかった。1799年に設立された英国陸上輸送軍団(Royal Wagon Train)は1833年に解散され、それに代わる組織は節約上の理由か、あるいは平時に戦備を整える必要性が理解されていなかったためか、設けられていなかったのである。
したがって、クリミアに派遣された部隊は、当初、自ら輸送業務を行わねばならず、多くの場合、兵士が馬やラバの代わりをさせられた。1855年1月24日にようやく、様々な兵科からの志願兵で構成される陸上輸送軍団(Land Transport Corps)がロイヤル・ワラントによって編成され、この間隙を補うこととなったが、それまでに連合軍(とくにイギリス軍)は、度重なる補給不足により苛烈な艱難を舐めさせられていた。セヴァストポリ前面の本営に補給庫を設けるという当初の計画は、補給路の困難さのために、必要な量の食糧を前線に輸送すること自体が不可能であったため、断念されざるをえなかったのである。
こうした状況を打開するために、史上最初の軍用鉄道が建設されることとなった。1855年1月、イギリス人請負業者が労働者と資材を伴ってクリミアに到着し、非常にゆっくりとした速度ではあったが、鉄道建設に着手した。路線は単線で、軌間4フィート8½インチであった。バラクラヴァから最初の2マイルは機関車運転区間であり、その先では貨車を8両ずつ連結し、固定機関によって斜面を牽引した。次の斜面では、6頭立ての馬が2両ずつ貨車を牽引した。その後は比較的平坦な区間が続き、さらに二つの谷間では、貨車を一両ずつ切り離し、下り勾配の勢いで谷底を駆け下り、そのまま反対側を登る方式で運行した。最後に馬が再び連結され、終点である高台上の野営地まで貨車を牽引した。
提供された機関車は5両で、重量は12〜18トンであった。また、横傾斜式のバラスト貨車が約40両用意されたが、いずれも軍用鉄道に適したものとは言いがたかった。
当初、路線の運転は請負業者の社員──ナヴィおよびその他の労働者──に委ねられた。当時、彼らの能力を他方面で活用できないかとの議論もあった。マンビーは、彼らを塹壕や砲台の建設に従事させるだけでなく、セヴァストポリへの攻撃において工兵隊の一員として投入することも検討されたと記している。王立工兵隊史において、ポーター少将は、ブルゴイン卿が鉄道部門主任技師ビーティー氏に宛てた書簡を引用し、次のように述べている。
ブルゴイン卿は、彼らが配置された地点で防御行動をとれるよう訓練すべきかどうかを問い、ビーティー氏は次のように答えた。
ロンドンを出発する前に、この問題は十分かつ慎重に検討されており、最終的に、彼らに武装させないことが決定された。彼らは兵士として用いるにはあまりに貴重であり、決して戦闘に参加させられることはないと、はっきり告げられていたのである。
しかし、こうした期待は、鉄道運行においてまったく裏切られることになった。彼らは規律感に乏しく、もっとも彼らの労働が切実に必要とされる時期に、繰り返しストライキを行ったため、結局は解雇せざるをえなかったのである。
その後、彼らに代わって陸上輸送軍団および陸上作業軍団(Army Works Corps)の人員が運転業務に就き、この新しい、規律ある部隊は見事な活躍を見せた。1855年3月にこの路線の交通管理者となり、その7月には総監督に昇進したパウエル少佐は、後に次のように述懐している[36]。
多くの者が、自らの任務を遂行する中で命を落とした。セヴァストポリ攻略という大決戦に備えて、補給品を前方に送り込むため夜昼を分かたず働くよう命じたとき、彼らの中には実に72時間連続で勤務にあたった者もいた。
運べる弾薬や物資の量は、包囲作戦に従事している部隊の必要量には届かなかったが、セヴァストポリに対する最後の砲撃時には、要員を約1,000名(うち400名はトルコ兵)に増強し、24時間体制で運行した結果、路線の輸送能力は、請負業者の非規律的な作業員による運転時には1日200トンが限度であったものが、700トンまで増大した。戦役終結後の撤退時にも、この鉄道は部隊の再乗船に際して大きな役割を果たした。
南北戦争
アメリカ南北戦争では、既存鉄道路線のほかに、しばしば「地表鉄道(surface railroads)」と呼ばれる路線が敷設された。これは、正式な路盤工事を行わず、地表上に直接まくら木とレールを敷設した非常に簡易な形態の路線であったが、その粗雑さにもかかわらず、実用上はかなりの役に立った。
アビシニア遠征
道路のない未開地で、かつきわめて困難な地形条件のもとで実施される「小戦争(little war)」において、軍用鉄道が軍事行動をいかに助けうるかを示した例として、1867–68年のアビシニア(エチオピア)遠征を挙げることができる。ただし、このときの路線建設が行われた事情自体は、当局の対応の不手際を物語るものであった。
マグダラにおいて英人捕虜を監禁していたテオドロス王(King Theodore)から彼らを救出するため、ロバート・ネイピア将軍(のちのマグダラ卿)の指揮する遠征軍が派遣された。この遠征は、軍事作戦であると同時に、一大土木工事であった。マグダラは紅海のアンネスレー湾から300マイルも内陸にあり、海抜9,000フィートを超える高原上に築かれた要塞であった。そこに至るには、三つの区間に分かれた道路建設が必要であった。第一区間は、一部が山腹を切り通して形成されるもので、63マイルのあいだに7,400フィートの高度差を克服しなければならなかった。第二区間は荷車が通れる程度の道路でしかなく、第三区間はラバや象以外の輸送手段が利用できない山道にすぎなかった。
1867年10月、先遣旅団がズーラ港(Annesley Bay内)に上陸した際、彼らはまず、桟橋と内陸1マイルに設けられる予定の物資集積所とを結ぶ短距離トラム線敷設用の資材を携行していた。しかし11月には、計画が変更され、港からソルー峠(Soroo Pass)の入口であるクメイレ(Koomayleh)まで、全長12マイルの鉄道を建設することとなった。この峠は、遠征軍がアビシニア高地へ向かう際に通過すべきルート上にあった。資材一式はボンベイ政府が提供することになり、労働力も同政府が供給すると約束されたが、実際に工事が本格化したのは1868年1月中旬であった。
王立工兵隊中尉ウィランズ[37]が遠征に従軍し、その報告で述べているように、その後の工事の進捗は甚だしく遅かった。インド各鉄道会社から調達されたレールは五種類もあり、長さは不揃いで、1ヤードあたり30〜65ポンドと重量もまちまちであった。一部はカラチ港湾工事で長年使用されており、何度も敷設・撤去を繰り返され、急曲線に合わせて曲げられたり、路線に合わせて切断されたりしていた。片側フランジ付きのレールの一部は、ボンベイ工廠で継目板とボルトを取り付けられていたが、継目板とレールの孔位置が一定せず、ボルトが孔にぴったり嵌まり遊びがないため、施工・調整に大きな手間がかかった。
さらに、レールが到着した際、枕木固定用のスパイクが一緒に届いておらず、このためレールを敷くことができなかった。後日スパイクが届いたものの、今度は枕木に孔を開けるためのオーガー(錐)がボンベイに置き忘れられていたことが判明した。この困難は、パンジャブ第23先駆兵連隊の職工たちが自らオーガーを製作することで克服された。
レールが苦心の末敷設されたとしても、しばしば二つの枕木のあいだで折損し、機関車を脱線させた。
機関車と車輛も、また別の問題を引き起こした。
ボンベイから機関車6両が発送されたが、荷揚げの困難さと組立作業の煩雑さから、実際に使用されたのはそのうち4両のみであった。1両はタンク機関車で、ボンベイ鉄道工場を出たばかりにもかかわらず、わずか2週間の運行で動輪の交換が必要になった。別の1両はボイラー管が摩耗しており、ズーラ港で交換を行わなければならなかった。残り2両は、いずれもカラチで長年使用されてきた4輪タンク機関車であった。いずれの機関車もきわめて軽量で、石炭と水を積んだ状態で16〜20トンにすぎず、最良のものでさえ、1/60勾配で満載小型貨車15両を牽引するのが精一杯であった。
到着した貨車60両は、いずれもバネ・バッファー・潤滑箱を持たない簡易な台車であった。軸箱は鋳鉄製で、砂塵の多い環境下で使用した結果、2週間で磨耗して使用不能となった。路線が使用され始めると、各貨車は最大限の荷重で運行されることになり、粗雑な路線状態における大きな衝撃と横揺れが重なって、出発の際に連結鎖が切れるか、連結棒が貨車から引き抜かれる事態が頻発した。
新たな連結鎖を要請すると、それを収めた箱はボンベイに置き忘れられているか、あるいは船倉の数百トン分の貨物の山に埋もれていることが判明した。結果として、全貨車の少なくとも40%は、常に修理中であるか、使用不能として留置されていた。5月になってようやく、バネとバッファーを備えた無蓋貨車がボンベイより到着し、その一部を改造して旅客車として使用した。
さらに別の困難もあった。
提供された資材は、インド標準軌(5フィート6インチ)用であり、きわめて重く、荷揚げや取扱いが難しかった。今日ならば、このような遠征には、もっと軽量で取扱い容易な狭軌鉄道が用いられるであろう。
当初、線路建設に投入されたインド人労働者は不適格であることが判明し、彼らはボンベイで雇い入れた中国人作業員に置き換えられた。中国人はよく働き、問題を起こすこともなかった。
線路の敷設された地域には木材がなく、またほとんど水もなかった。機関車および作業員のための水を確保するには井戸の掘削が必要であった。
気温は過酷であり、日中の気温が華氏180度に達することもあった。イギリス人ナヴィがこの環境で工事を行うことは到底不可能であったであろう。
物資の荷揚げが可能な二つの桟橋は、たちまち過密状態となり、鉄道資材を陸揚げすること自体が大変な困難を伴うようになった。
線路の一部が完成すると、すぐに使用が開始され、海岸寄り区間ではたちまち混雑が生じた。その結果、建設区間の先端部に資材を送り届けることが困難となった。現場監督を行うべき将校も、運行管理や車輛修理の詳細にかかりきりになることを余儀なくされ、建設作業を直接指揮する余裕を失った。
こうした諸条件を考えれば、工事の進捗が極端に遅れたとしても、むしろ完成にこぎつけたこと自体を驚くべきであろう。結果として、11マイルの本線および1マイル分の側線を含め、全12マイルの鉄道を完成させるのに4か月を要した。工事中、なお約1マイル分の線路が未敷設であったが、この時点でマグダラ陥落の報が届き、遠征の目的は達成されたとされた。このため、その先への延長を断念し、帰路における部隊・荷物・物資輸送の準備に全力を注ぐことになった。
5月中旬から6月中旬にかけて、路線は最大限に酷使されたが、運行体制は大いに改善されており、これほど多くの困難を伴って建設された鉄道は、最終的には非常に大きな実用価値を示した。ウィランズ中尉は次のように書いている。
アビシニア鉄道は、その路線が遠征をどれほど支援したか、荷揚げと集積所への運搬がどれほど迅速・円滑に行われたか、そして部隊とその荷物がどれほど素早く、しかも負担少なく帰還し、ただちに再乗船できたかという点から判断するならば、大成功であったと言える。
遠征の補助手段として、そして追加輸送手段として、本路線に関わった者で、その極めて大きな有用性を疑う者は、誰一人としていなかったであろう。
したがって、この遠征においては、路線建設に関わる条件がきわめて不適切であったにもかかわらず、軍用鉄道が、アビシニアのような遠隔地における軍事行動と補給の円滑化に、きわめて有効でありうることを明確に立証したのである。
同時に、このアビシニアでの経験は、将来軍用鉄道建設の必要に迫られるであろう国に対し、戦争の大小を問わず、緊急時に対応できる組織をあらかじめ整えることの重要性を教えることになった。すなわち、資材の不備・労働力の問題・管理上の欠陥といった事態に悩まされることなく、迅速に軍用鉄道を整備できる体制を、平時から用意しておく必要性が痛感されたのである。
同じ教訓は、その後イギリスが関与した他の遠征においても繰り返され、我が国の軍用鉄道体制が整備されるまでは、しばしば厳しい批判を招いた。1882年、王立工兵隊のマクエイ大佐(J.P. Maquay)は『王立工兵隊専門論文集』(”Professional Papers of the Royal Engineers”, チャタム)に寄せた「戦場通信における鉄道」(”Railways for Military Communication in the Field”)において、それまでの経験を次のように総括している。
過去30年間にイングランドが行ってきたほとんどすべての戦争において、基地から前線への物資輸送のために鉄道が建設されてきた。イングランドの地理的条件からして、この基地は必然的に海岸となる。こうした鉄道は、戦争勃発後に、その場しのぎで集められた資材によって建設され、かつ何ら組織立った方式に基づかずに施工されたため、成功した試しがない。我が国の軍用鉄道が、実際に部隊の役に立つ前に戦争が終わってしまったのは、まったくもって不思議ではない。
普仏戦争
1870–71年戦争では、ドイツ軍は2本の軍用鉄道を建設した。
(1) ザールブリュック鉄道のレミエイ(Remilly)と、メス=フルーアール線のポン・ア・ムッソン(Pont-à-Mousson)を結ぶ全長22マイルの路線。
(2) ナントイユ(Nanteuil)トンネル(フランス軍が爆破)を迂回する全長3マイルのループ線。
これら二つの路線がとくに注目されるのは、それらが戦争準備段階ではなく、実際の戦闘行動の最中に建設されたこと、そしてプロイセンがまさにこのような事態に備えるため編成した建設軍団(Construction Corps)の能力を、世界に示す機会となったからである。
戦争開始時、プロイセン参謀本部は(リュストウの記述によれば)、メスが長期にわたる抵抗を示し、守備側がドイツ本国と前線とのあいだの鉄道通信を妨害しようとすることを想定していた。この危険に対処するため、参謀本部はポン・ア・ムッソンからレミエイまで、メスを迂回してザールブリュック線に接続し、ドイツとの鉄道連絡を維持するための野戦鉄道を建設することを決定した。
1870年8月14日、ボルニィ(Borny)での後衛戦と同じ日に測量が開始され、3日後には工事が始まった。総勢約4,200名が従事し、その内訳は、野戦鉄道中隊2個所属兵400名、要塞工兵中隊4個所属兵800名、そして戦争によって職を失い、この鉄道工事に雇われたザールブリュック炭鉱地帯の鉱夫約3,000名であった。建設隊は、貨車・荷車など合計330両から成る資材運搬隊を使用し、騎兵1個中隊が巡察および徴発任務を担当した。
これほど多数の作業員を投入したにもかかわらず、22マイルの鉄道建設に48日を要し、路線が運行可能となったのは10月4日であった。この成績は決して優れているとは言えず、南北戦争における北軍建設軍団の実績と比較すると見劣りする。確かに路線は起伏の多い地形を通過しており、多数の切土と築堤、そして2本の橋と2本の高架橋が必要であったが、切土は深さ3フィート程度であり、築堤も5フィートを超えるものはほとんどなかった。高架橋・橋梁はいずれもスパン約16フィートの木造構造であった。技術的観点から見て、この工事は決して難度の高いものではなかった。
さらに、この22マイルを建設するのに4,000名超の作業員がほぼ50日を要したばかりか、工事の質も劣悪であった。秋の雨が始まると線路は多くの場所で沈下し、運行はきわめて危険となった。洪水により橋の一つが流失し、建設時と同じくらい多数の人員が修理に動員されねばならなかった。列車は1両の機関車が貨車4両を牽引する程度の、ごく控えめな輸送しか行えず、その運行はわずか26日間にとどまった。その後、メス周辺の戦況の進展により、この路線は軍事的必要性を失い、使用されなくなった。
ナントイユ・トンネルに仕掛けられたフランス軍の地雷爆破により、交通が中断された路線の復旧に、9月17日から11月22日までの期間を要したことについては、すでに本書128ページで述べた通りである。
露土戦争
ある英国人軍事評論家は、普仏戦争で建設された短距離軍用線について、「工事の速度も成果も、長距離路線の戦時建設を鼓舞するほどのものではなかった」と評している。しかし、1877–78年の露土戦争において行われた軍用鉄道建設の記録は、まったく異なる印象を与える。
ロシアは対トルコ戦争を、短期決戦で終えることを企図して開戦した。彼らは1877年4月24日の宣戦よりもはるか以前、1876年11月の時点で動員を開始した。ロシアはトルコ軍を侮り、トルコ側からの本格的な抵抗を予期せず、むしろ電撃的前進によって敵を麻痺させ、コンスタンチノープルへ凱旋し、オスマン帝国支配下のキリスト教徒保護の保証を取り付け、夏が終わる前に戦争を終結させるつもりであった。
ロシアが戦争を早急に終わらせたいと望んだ理由の一つは、後方連絡としての鉄道が不十分であり、かつ不安定であった点にある。1877年4月16日にルーマニアとの間で結ばれた協定により、ロシア軍はルーマニア領を自由に通過する権利を得るとともに、ルーマニア鉄道およびその輸送施設を使用する権利を認められた。しかし当時ルーマニアを縦断する鉄道は、ロシア=ルーマニア国境のガラツィ(Galatz)からブカレストを経てジュルジ(Giurgevo)に至る路線と、そこからドナウ川を挟んで南岸のルセ(Rustchuk)へ渡り、黒海岸の軍事補給基地ヴァルナ(Varna)へ通じるトルコ側線路の接続に限られていた。
ルーマニア鉄道網は路線延長こそ少ないだけでなく、線路構造は粗雑で、保守も不十分であり、職員は不足し、車両と終端設備も著しく不足していた。さらに、ロシア国内の鉄道は広軌(およそ5フィート)であったのに対し、ルーマニア(および多くのヨーロッパ諸国)の鉄道は標準軌であった。このため、国境で20万の兵士、850門の野戦砲と400門の攻城砲、弾薬、その他膨大な量の物資を積み替える作業は、大変な遅延を招いた。鉄道を使わない代替手段は、雨天にはまったく通行不能となる道路であった。
しかしロシアの計画を本格的に頓挫させたのは、オスマン・パシャによるプレヴナ(Plevna)の頑強な防衛であった。彼は7月19日に同地に入り、たび重なるロシア軍の攻撃を撃退し、12月10日の降伏まで抵抗を続けた。この包囲戦において、ロシア軍は5万5,000名、ルーマニア軍は1万名の損失を被った。
プレヴナでの行き詰まりが戦争長期化を避けられないことを示すと、ロシアは戦争遂行中に、一連の新線建設に着手した。主な路線は次の三つである。
- ドニエストル川沿いのベンデル(Bender)から、ルーマニア国境のガラツィまでの路線。これはオデッサ方面の鉄道とルーマニア国境を結び、戦地への増援輸送に大きな便宜を与えるものであった。
- ブカレスト=ジュルジ線上のフラテシュティ(Fratesti)から、ドナウ北岸のシムニッツァ(Simnitza)までの路線。ロシア軍は6月26–27日の夜、ここに橋を架けてドナウを渡り、南岸への渡河を果たした。
- ドナウ南岸のシストヴァ(Sistova)から、プレヴナの南東約30マイル、シプカ峠北約25マイルに位置するティルノヴァ(Tirnova)までの路線。
これら三路線のうち、最初のベンデル=ガラツィ線(延長189マイル)は、1877年7月末に着工された。当初計画では、この鉄道は戦争期間中だけ使用されることを想定していたが、オデッサとルーマニア国境を恒久的に結ぶことで、戦略上および商業上の利点がともに得られることが認識され、本格的な恒久線として建設されることになった。路線は単線で、所要の駅と列車交換設備を備え、一日当たり各方向7本の列車運行を可能とする規格で建設された。工事は請負方式で実施され、複数の木橋と、全長3マイルを超える築堤を含む多数の土木工事を必要とした。
作業上の最大の困難は労働力の確保であった。とくに、労働者たちが日曜日および多数の聖人祭日に一切働こうとしなかったことが大きな問題であった。それにもかかわらず、建設開始から100日以内に列車運行が開始され、そのうち実働日はわずか58日に過ぎなかった。
この数字を、1870年にプロイセン軍が、4,000名を超す建設軍団を投入しながら、ポン・ア・ムッソン=レミエイ間22マイルの鉄道建設に48日を要した事例と比較すると、ロシア軍が請負方式によって189マイルの路線をわずか2倍強の期間で完成させたことの印象的な対比が浮かび上がる。
フラテシュティ=シムニッツァ線は、ロシア軍の主補給線が、ブカレスト=ジュルジ線から橋梁地点までの約40マイルに及ぶ劣悪な道路に依存しており、この道路が重交通のため急速に破壊されつつあったことから、不可欠と見なされた。主要土工事としては、長さ1マイル半、高さ14フィートの築堤が必要であった。橋梁は全長420フィートの大橋1本と210フィート長2本から成っていた。この場合の難題は、ルーマニア既設鉄道が軍事輸送で逼迫し、また道路事情と軍用輸送に馬匹がほぼすべて動員されていたため、工事用資材の輸送がきわめて困難であった点にあった。そのため、工事の進捗は鈍く、9月中旬に着工された40マイルの路線は、12月初頭まで運行開始にこぎつけられなかった。
シストヴァ=ティルノヴァ線(延長75マイル)についても、事情は同様で、むしろそれ以上に厳しかった。この路線では、鉄道用路盤の造成までしか完了できず、線路敷設には至らなかった。
それでもなお、戦争終結時点までに、(1) 新規路線229マイルが完成し、さらに75マイル分の路盤が完成したこと、(2) 各国から新造機関車120両および貨車2,150両を購入したこと、(3) ドナウ川に鉄道連絡用の蒸気フェリーを設けたこと[38]は、特筆に値する成果であった。
こうして露土戦争では、それまでのどの戦争よりも多くの軍用鉄道が、戦闘継続中に建設された。これにより、鉄道が戦争において果たしうる役割の重要性が、改めて世界に示されたと同時に、緊急時における迅速な鉄道建設が現実に可能であるという鮮やかな実例が提供されたのである。
他方で、これら三路線のうち、総延長229マイルのうち189マイルを占める路線が、敵の妨害を受けないロシア本土上で建設されたこと、そして既設鉄道の輸送能力逼迫のため、二つのルーマニア側軍用線に必要な資材供給が大幅に遅れたことは、次の二点を示唆している。(1) 予定される戦役の成否にとって重要な鉄道の建設を、戦争勃発まで先送りすれば、既設鉄道の混雑によって必要資材の輸送が妨げられる危険があること。(2) この種の路線は、可能な限り平時のうちに建設しておくことが、賢明であるということである。
スーダン
スーダンに目を向けると、我々はまた別種の軍用鉄道の典型、すなわち、戦争目的のために設計され、その一部が戦闘行動中に建設されながら、最終的には恒久的な政府鉄道網へと発展し、平和時の経済発展においても、戦時に劣らぬ著しい成果を収めた例を見出すことができる。
エジプト副王サイード・パシャ(在任1854〜63年)の時代、カイロからハルツームまでの単線鉄道を敷設し、そこから紅海沿岸のマッサワ(Massowa)までの支線を分岐させて、エジプトとスーダンを結ぼうとする構想が持ち上がった。この計画が実現していれば、鉄道という「鉄の道」によるスーダン開発は、後の同地の歴史を大きく変えていたかもしれない。しかし、当時の財政事情から、この壮大な計画は一時棚上げとされた。
その後、イスマイル・パシャが総督となった1871年、改めて計画が見直され、ワディ・ハルファからナイル川沿いにマテメ(シャーンディ、Shendy)まで、延長558マイルの路線を建設する案が浮上した。ここはハルツームの北約100マイルに位置していた。1875年には、この鉄道建設が開始され、軌間3フィート6インチの単線として、レール重量50ポンド/ヤード、枕木長7フィートの仕様に従って敷設が始まった。しかし1877年までに、ワディ・ハルファから約33.5マイル離れたサラス(Sarras)まで工事が進んだところで、資金不足のため工事は中断された。この時点で、すでに40万ポンドが投じられていた。
1884年秋、ゴードン将軍がマフディー軍に包囲されていたハルツーム救出のため、イギリス政府はナイル河畔を経由する遠征軍派遣を決定し、その際、遠征軍の進行を助けるため、サラスから先へのスーダン鉄道の延長が定められた。
延長工事のための線路敷設は、当初、イギリスおよびエジプト歩兵と土着労働者から成る作業隊によって行われ、後にエジプト陸軍第4大隊および王立工兵隊第8(鉄道)中隊が加わった。サラスには前回工事時の資材が残っていたが、延長区間用のレールを載せた貨車は機関車不足のため押し車で前線まで運ばねばならず、枕木はラクダ300頭の背に載せて搬送された。工事労働に従事した土着労働者は700名であったが、その多くが老人と少年であり、10月末までに大半が脱走してしまった。そのため10月末にはレール敷設が中止され、この時点で延長区間は39マイル地点にまで達していた。サラスからこの地点までの線路は、12月4日に営業運転を開始した。
1885年1月にハルツームが陥落し、ゴードン将軍が戦死すると、イギリス政府は、同年秋に予定していたさらなる戦役に備え、鉄道をフィルケット(Firket、103マイル地点)まで延長することを決めた。延長は2月末に認可され、イギリスから50マイル分の軌道が発注された。同時に、インドから線路工や鉄道技師計300名が送り込まれ、既存の工事部隊を補強した。8月7日には、延長工事はアカシャ(Akasha、87マイル地点)まで完了した。
しかし、その時までに政治情勢は一変していた。コルティ(Korti、ナイル大湾曲部の南端)まで遠征軍が撤退した時点で、その南の一帯はすべてマフディー軍の支配下に入り、当時のイギリス政府はスーダン再征服の大事業に着手することを躊躇し、最終的に同地を放棄する方針を固めた。ウォルズリー卿は1885年5月、ドンゴラ以南のすべての駐屯地からの撤退命令を発し、ドンゴラ自体も6月15日に放棄された。英軍の後退はさらにアカシャまで続いたため、鉄道延長工事はこの地点で打ち切られた。フィルケットまでの路盤は完成していたにもかかわらずである。
その後、英軍の撤退はワディ・ハルファまで継続し、ここがエジプトの南限国境となった。アカシャ以南の駐屯地はすべて放棄され、ワディ・ハルファからアカシャへの鉄道延長も同様に放棄された。
それでも、この間に鉄道が果たした役割は、きわめて大きなものがあった。
鉄道の運行は王立工兵隊第8(鉄道)中隊が担当し、当初は使い古された機関車5両と、無蓋貨車50両、有蓋貨車5両、制動車6両のみを使用していた。兵士たちは無蓋貨車に乗せられたが、1884年末までには作戦開始に必要なすべての物資を前線に送り届けることができた。1885年中には、ケープ地方から追加の機関車と車輛が供給された。
ナサン中尉(M. Nathan, R.E.)は、「スーダン軍用鉄道」(”The Sudan Military Railway”)[39]の中で、同路線の成果を次のように総括している。
(1) 既設の33.5マイルの鉄道の修理・維持。
(2) ほとんど水のない砂漠地帯において、資材の配分手段として線路自体しか利用できない条件のもとで、53.5マイルの新線建設。
(3) 南進時は第2瀑布の最悪部分、北進時にはほぼ全区間を迂回しつつ、限られた、しかも性能の劣る車両を用いて、約9,000名の兵士を輸送。
(4) 平均36.5マイルの距離を、合計4万トンの物資で輸送。
こうした成功とは対照的に、紅海側では失敗があった。
ハルツーム陥落後の1885年初頭、イギリス政府がナイル渓谷鉄道の延長を決定した際、ウォルズリー卿率いる遠征軍の補給線を二重化するため、スアキンからナイル河畔のベルベルまでの軍用鉄道建設も決定された。この路線は、遠征軍にとってきわめて重要な第二の連絡路を提供するはずであったが、その建設は組織上の不備と敵の妨害により挫折した。
フィルケット、アカシャ間の鉄道延長と同様、スアキン=ベルベル線の建設についても、アンドリュー・クラーク卿(Sir Andrew Clarke、要塞総監)は、軍工兵隊による施工が最善であると主張したが、その意見は退けられた。工事は民間請負業者に発注され、「民間の手に委ねる方が、必要な資材をより迅速かつ容易に調達できる」と考えられたのである。
もっとも、王立工兵隊第10(鉄道)中隊は、スアキン周辺の局地工事と請負業者の補助作業のため派遣され、この軍事要素は、インドからのクーリーおよびイングランドの工兵義勇連隊から志願入隊した39名の補強を受けた。後者はみな鉄道工事や関連職種での経験を持つ者たちであった[40]。その結果、民間・軍双方の組織が併存するという、クラーク卿の言うところの「非科学的かつ非経済的な折衷案」が生じた。
工事はマフディー軍からの絶え間ない妨害を受けた。建設中の線路と作業員は頻繁に襲撃され、複数の戦闘が行われ、中でもスアキン近郊のトフリク(Tofrik)では多数の英軍死傷者を出した。工事の進捗に合わせて沿線に防御拠点が築かれ、先に第7章で触れた「防弾列車」が夜間線路の哨戒に用いられた。しかし、さまざまな困難に直面した結果、最終的にこの計画は放棄され、全長20マイルの路線が完成したところで工事は中止された。
1885年6月、英軍は撤退し、未使用の鉄道資材はイギリスへ輸送された。その後、スアキン(およびポート・スーダン)からアトバラ・ジャンクション経由でベルベルを結ぶ路線がようやく開通したのは、1906年になってからであった。
再びナイル谷鉄道に話を戻すと、同線の成功は、その後のさらなる発展の前奏曲にすぎなかったことが分かる。
マフディー軍がエジプト侵攻を企図しているとの情報を得たイギリス政府は、1896年初頭、エジプトに対しナイル渓谷沿いの旧領の再占領を認め、3月12日には、1892年以来エジプト軍を指揮していたハーバート・キッチナー卿(後のキッチナー伯)に対し、ワディ・ハルファから南進する命令が下された。3月20日、アカシャが占領され、マフディー軍はフィルケットまで後退した。
キッチナー卿は、遠征目的達成のため、鉄道によるナイル谷ルートの延長を決意した。しかし、そのためには、新線建設に等しい作業が必要であった。マフディー軍はワディ・ハルファ=アカシャ間87マイルのうち50マイル超を完全に破壊し、枕木を焼き、レールを曲げて使用不能にしていたからである。残りの区間も全面的な改軌を要した。
鉄道建設は、ロイヤル・エンジニアのギルーアール中尉(現少将サー・E・パーシー・C・ギルーアール)率いる工兵隊に委ねられた。工事は極めて迅速に進められ、カイロ方面からの物資輸送を円滑化するうえで、鉄道の延伸は不可欠であった。ナイル河には多数の瀑布帯が存在し、航行に大きな障害となっていたからである。
鉄道の復旧区間を最大限に活用しつつ、キッチナー卿は9,000名の兵力をアカシャに集中させ、6月初旬にはフィルケットへの進撃を成功させた。マフディー軍はドンゴラまで退却したが、キッチナー卿は、さらなる追撃の前に、鉄道の延伸を待つことが得策だと判断した。8月4日までに、線路はワディ・ハルファから116マイル地点のコーシャ(Kosha)まで完成した。
しかし8月下旬、3日間に及ぶ豪雨により大規模な洪水が発生し、わずか数時間のうちに新設線路12マイル分が流失した。修復には約1週間を要し、同月にはまたコレラが発生し、多数の作業員が命を落とした。
それでも、鉄道をコーシャまで延長したことによって、キッチナー卿は戦力をナイル第3瀑布の北、フェレイグ(Fereig)に集中させることができた。その後、さらにドンゴラまで前進したが、マフディー軍は同地を防衛することなく撤退した。
こうして、当初の遠征目的は達成された。しかしその間に、キッチナー卿はカリフ・アブドゥッラの勢力を打倒し、ハルツームを再征服するためのさらなる戦役を決意した。これを実現するため、鉄道はコーシャからさらに100マイル延びてケルマ(Kerma)に到達し、1897年5月に完成した。約13か月間で216マイルの鉄道が建設されたことになるが、その間5か月間は洪水・疫病・軍事輸送のため工事が停滞していた。さらには、工事は常に軍需物資輸送と並行して行われたことも考慮すると、この成果は非常に顕著なものである。
ケルマ到達前、キッチナー卿はギルーアール中尉ら工兵隊に対し、ヌビア砂漠の調査を行い、ワディ・ハルファからアブ・ハメッド(Abu Hamed)へと直通する砂漠横断鉄道(232マイル)の建設可能性を検討するよう命じた。この路線は、ナイルの大湾曲部をショートカットし、ハルツームへの直通ルートを提供するものであった。
1896年末に実施された調査により、このルートは技術的にも実現可能であり、また井戸の掘削によって水不足も克服できることが判明した。唯一の不確定要素は、砂漠地帯における工事が、依然として活発な敵軍による妨害を受けずに進められるかどうかであった。
しかしこの砂漠鉄道が、戦略的にも政治的にも、ナイル谷線のケルマ以南延伸よりはるかに重要であることは明らかであった。ナイル大湾曲部を完全に無視したこのショートカットは、遠征軍にとってきわめて大きな利点をもたらすものであった。こうして、キッチナー卿は一定のリスクを承知の上で、この砂漠鉄道建設と、その最速完成を命じたのである。
建設作業は1897年5月15日に着手され、ケルマ線の工事を終えた工兵隊はワディ・ハルファへ戻って砂漠路線に着手した。7月末までに、232マイルのうち115マイル分が完成した。この時点で、キッチナー卿はケルマ線を通じてアブ・ハメッドへの部隊派遣を決意し、ナイル谷沿いに軍を進めて同地を攻撃させた。8月7日、アブ・ハメッドは陥落し、砂漠線建設隊はより安全な状況下で、一層の速度で工事を続けることが可能になった。
1897年10月31日、ついにワディ・ハルファとアブ・ハメッドのあいだに鉄道が開通し、ナイルの大湾曲部両端が直通路線で結ばれた。この232マイルの建設は、酷暑期を含むわずか5か月半で完了し、1日平均1.25マイル、最高で1日3.25マイルの線路が敷かれた。工事はきわめて高い品質で行われ、50トン級機関車が200トンの貨物を牽引し、時速25マイルで砂漠を走行できた。
アブ・ハメッドから先、鉄道はただちにベルベルに向けて延伸され、その軍事的重要性はすぐに証明されることになった。1897年末、キッチナー卿はマフディー軍がベルベル攻撃を計画しているとの情報を得ると、カイロから1個英旅団を呼び寄せ、現地のエジプト軍とともに攻撃に備えさせた。この英旅団は、砂漠鉄道を通じてアブ・ハメッドだけでなく、さらに南方20マイルの最新線区まで輸送され、1898年1月に到着した。その後、3月初旬までに、英・エジプト連合軍はベルベルとアトバラ川の間に集結し、4月のアトバラ会戦でマフディー軍を撃破した。この戦いは、カリフがベルベルからエジプト軍を駆逐しようとした企図を完全に粉砕するものであった。
なお、オムドゥルマンにはなお5万のマフディー軍が残されていたが、キッチナー卿はさらなる前進に先立ち、鉄道をアトバラまで延伸するとともに、ナイル水位が上昇し、砲艦や補給船が前進に参加できることを待つこととした。
ギルーアール中尉とその部隊は再び最大限の努力を傾注し、鉄道は7月初頭にはアトバラに達した。これにより、2万2,000名から成る英・エジプト軍をワド・ハメッド(Wad Hamed)に集結させることが可能となり、9月2日のオムドゥルマン会戦において2万人の敵を殺傷し、ハルツームを占領するに至った。これにより、マフディー国家は崩壊し、スーダン再征服は完了し、文明の勝利は決定づけられた。
王立工兵隊史第3巻において、チャールズ・M・ワトソン卿(Colonel Sir Charles M. Watson)は、この18年に及ぶ反乱の終結について次のように述べている。
キッチナー卿は、その卓越した指導力と断固たる意思によって作戦を成功裏に導いたことにより、その主要な功績を認められるべきである。しかし、この戦役の多くの部分が、とくに鉄道建設と維持を担当した王立工兵隊将校たちによって遂行されたことも忘れてはならない。砂漠鉄道がなければ、この戦役はそもそも遂行不可能であったと言っても過言ではないだろう。
この最終的な勝利は、同時に大きな危険を秘めてもいた。ローマー卿(Lord Cromer)は『近代エジプト』(”Modern Egypt”)の中で、砂漠鉄道の戦略的リスクについて次のように述べている。
アブ・ハメッド占領からハルツーム進撃までの期間は、きわめて不安の多い期間であった。キッチナー卿の軍隊は、完全に砂漠鉄道に依存しており、その補給路が断たれれば、たちまち窮地に陥る恐れがあった。私が最も懸念していたのは、インドにおける18世紀のような「欧州人冒険者」がハルツームに現れ、マフディー軍に対し、アブ・ハメッド以南のドナウ沿岸で頻繁な奇襲を行い、ハルファとの連絡を断つよう進言する可能性であった。これは、軍事的に見て明らかに正しい作戦であり、さして困難でもなかったと思う。幸いにもマフディー軍は、この機会を利用しようとはしなかった。私としては、彼らがこの危険な期間を何事もなくやり過ごしてくれたことに、心から安堵したと言ってよい。世間一般は、この間、キッチナー卿の軍がいかに危うい立場に置かれていたかを、ほとんど理解していなかったように思われる。
オムドゥルマン会戦から2か月足らずで、鉄道はアトバラからハルツームまでの延伸計画に取りかかり、1899年末までにブルー・ナイル北岸のハルツーム北駅に達した。後にブルー・ナイルに橋梁が架けられ、列車は直接ハルツーム市内へと進入するようになった。
今日、この鉄道はハルツームからさらに南へ430マイル延伸されている。路線はブルー・ナイルに沿ってセナール(Sennar)に至り、そこから西へ転じてホワイト・ナイルをコスティ(Kosti)で渡り、終点のエル・オベイド(El Obeid、コルドファン州都)まで達している。これにより、広大な内陸地帯が開発と交易のために解放された。
エル・オベイド周辺はアラビアガムの一大産地であり、スーダン全体は何よりも牧畜国である。その牛・羊・山羊の数は「数百万頭」と推定されており、綿花栽培地としても数千平方マイルにおよぶ潜在的能力を有する。綿花は何世紀にもわたりこの地で栽培されてきた作物であり、他にも多くの産業可能性が存在するが、牧畜と綿花だけでも、スーダンは将来きわめて裕福で重要な商業地域となる素地を備えていると言える。
直通鉄道から外れた地域についても、ナイルや支線鉄道を活かした包括的な道路網によって、順次幹線と結ばれる計画である。エル・オベイドを起点として、道路はスーダン全周の国境へと放射状に延び、各方面の町村を結ぶ形で整備される予定である。これらの道路においては、従来の動物輸送に代わり、順次自動車輸送への移行が計画されており、ツェツェバエをはじめとする害虫による家畜被害の問題も、これによって解消されると期待されている。
こうした計画は、スーダンの面積が100万平方マイル、すなわちインド全土と同規模であることを考えると、きわめて野心的なものである。しかし現在までのところ、その前途は非常に有望である。
ムハンマド・アフマド(自称マフディー)による反乱後の12年間、ハルツーム市は完全な廃墟と化し、人口5万人の都市だった面影を全く残していなかった。今日、そこは、美しい市街地と官庁・大聖堂・モスク・学校・病院・ホテル・広い街路・公園・並木道・壮麗な商館・上水道・電灯・路面電車・渡船など、進歩的な首都にふさわしい施設を備えた大都市となっている。ハルツームの人口は約3万人、ブルー・ナイル対岸のハルツーム北には約2万人、オムドゥルマンには7万人が居住し、三都市合計の人口は12万人に達する。
元来の住民は圧政下の恐怖から解放され、平和な生業に就いているだけでなく、多数の移民が西アフリカからスーダンへ流入している。これは、アフリカ各地の部族が、イギリス統治下の公正さと安全性にいかに信頼を寄せているかを示す、きわめて印象的な証拠である。同時に、家畜・羊肉の輸出を中心とするスーダンの商業活動も、近年著しい拡大を見せている。
こうした広大な地域と多くの人々に、平和と繁栄をもたらした諸発展において、スーダン軍用鉄道が果たした役割は決定的であった。これらの路線は、まずスーダン再征服を可能にし、その後(ワディ・ハルファ=ケルマ線を除き)、新たな支線や改良工事とともに、現在の「スーダン政府鉄道網」を形成するに至った。今日では、アトバラから紅海岸のポート・スーダンおよびスアキンへの支線、アブ・ハメッドからナイル大湾曲部南岸のカレイマ(Kareima)への支線を持ち、そこからさらに第3瀑布のケルマまで河川交通が通じている。将来の輸送量増加に備え、鉄道延伸と並行して、ハルツーム以北460マイルの既設線路は、当初の50ポンドレールから75ポンドレールへと全面的に改軌された。ハルツームからエル・オベイドまでの全線も同様に75ポンドレールで敷設されている。
このように、軍用鉄道は、戦争を遂行するためだけでなく、戦後の平和と経済発展においても、恒久的な交通機関として大きな役割を担い得ることが、スーダンの例から明らかである。アフリカにおけるイギリス統治の歴史には、同様の事例が他にも存在するが、ここではスーダンの記録だけで、その主張を十分裏付けるものと言えるであろう。
注
[36] C.E.ルアード大尉(Capt. C.E. Luard, R.E.)による「野戦鉄道および戦争における一般的応用」(”Field Railways and their general application in war”)。『王立連合軍事研究所雑誌』第17巻、1873年。
[37] ウィランズ中尉(Lieut. Willans, R.E.)による「アビシニア鉄道」(”The Abyssinian Railway”)。『王立工兵隊任務関連論文集』新シリーズ第18巻、1870年。
[38] M.T.セイル大尉(Captain M.T. Sale, R.E.)による「露土戦争における軍用鉄道建設」(”The Construction of Military Railways during the Russo-Turkish War of 1877–8″)。『王立連合軍事研究所雑誌』第24巻、1881年。および、ロシア政府技師P.レッサール(P. Lessar)による『戦時における鉄道建設──1877–78年戦役中にロシア軍が建設した路線』(”De la Construction des Chemins de Fer en temps de guerre. Lignes construites par l’armée russe pendant la campagne 1877–78.”)L.アヴリル(L. Avril)仏訳、パリ、1879年。
[39] M.ナサン中尉(Lieut. M. Nathan, R.E.)による「スーダン軍用鉄道」(”The Sudan Military Railway”)。『王立工兵隊専門論文集・特別号』第11巻、1885年。
[40] 1885年5月30日付の報告書において、スアキン遠征軍司令官ジェラルド・グラハム卿(Sir Gerald Graham)は、これら義勇工兵について次のように述べている。「戦役がもっと長引いていれば、彼らの働きは非常に大きな価値を持ったであろう。実際のところ、義勇兵たちは王立工兵隊の戦友とよく協調して働いた ……。これは、義勇兵部隊が正規軍の戦闘兵科とともに実戦に参加した最初の試みであったと見なすことができよう。」
第十六章
ボーア戦争における鉄道
1899~1902年の南アフリカにおける戦役は、大ブリテンおよび大英帝国の利益にとって、当時までに得た中で最大、最も教訓に富み、かつまた最も不安の多い経験を与えるものであった。それは、戦争の遂行において鉄道が提供しうる役務のみならず、その使用、とくに軍事輸送のために鉄道に依存することから生じうる困難と複雑さの双方についてであった。しかし結局のところ、鉄道の提供した役務は、イギリス軍によって実施された軍事行動が最終的に勝利を収めるうえで、重要な要因となったのである。
1899年10月にボーア側が開戦を布告した時、南アフリカにおける各鉄道系統は互いに直接連絡しつつ運行され、その総延長は4,268マイルに達していた。すなわち、英領南アフリカ3,267マイル、トランスヴァール918マイル、オレンジ自由国388マイル、ポルトガル領内55マイルである。これら鉄道はすべて単線かつ狭軌(3フィート6インチ=約1,067mm)であり、そもそも軍隊とその膨大な随伴物資を輸送するような重交通を想定して建設されたものではなかった。しかし最初から、これら鉄道が戦役において第一級の重要な役割を果たさざるをえないことは明らかであった。兵員・軍需品・補給物資等をイギリス本国からケープへ運ぶことにまつわる一切の問題とは別に、我が軍の主たる基地であったケープタウンから、最終目的地であったプレトリアまでの距離は1,040マイルもあったのである。ポート・エリザベスからは740マイル、ダーバンからでさえ511マイルであった。このような行程は鉄道によってのみ可能であり、したがって鉄道そのものの必要性に加え、部隊・物資の移動など軍事鉄道輸送を監督して輸送の能率を確保し、さらに破壊された線路の迅速な修理・再建や、占領地における鉄道線の運営を可能にするような組織の存在が、絶対不可欠であると見なされた。
トランスヴァールにおける情勢の不透明さにかんがみ、予防的措置として、王立工兵隊第8(鉄道)中隊が1899年7月にケープへ派遣された。その後、イギリス政府が一個軍団の派遣を決定した際、「軍用鉄道部」(Department of Military Railways)を創設することが決まり、スーダンにおける軍用鉄道で大きな功績を挙げ、当時エジプト鉄道管理局長であった王立工兵隊のギルアード少佐(のちの少将サー・E・パーシー・C・ギルアード K.C.M.G.)が、「南アフリカ野戦軍鉄道監督官(Director of Railways for the South African Field Force)」としてその長に任命された。インドその他大英帝国内各地で鉄道業務の経験を有する他の工兵士官も、助監督官や各種の幕僚として選抜された。さらに第10(鉄道)中隊のほか、第6・第20・第31・第42堡塁中隊が第8(鉄道)中隊に合流し、鉄道業務に従事することとなった。
組織と統制
このように南アフリカにおける軍用鉄道部が創設されたことにより、先に見た合衆国・ドイツ・フランスにおいて既に重大な問題を提起していた「組織と統制」の諸問題は、さらに一段と発展することとなった。
公式刊行物『南アフリカ戦争史 1899–1902』(History of the War in South Africa, 1899–1902)によれば、鉄道監督官およびその幕僚は、(1)軍隊と鉄道の技術的運営管理との間の仲介者となること、(2)鉄道の通常運行を、軍事的能率を最大限確保する方法で維持させること、(3)鉄道系統全体の運行を混乱させることなく、軍の鉄道需要を満たすこと、という任務を負っていた。
同書はさらに「戦時において、これらの役務は不可欠である。なぜなら、民間鉄道管理当局の職員は、軍の各部・各部署から出される要求の違いを識別し、その緊急度の順序に従って分類することができないからである」と述べている。これは民間鉄道管理当局に関してはまったくその通りであり、通常の鉄道業務には十分通暁しているものの、軍事問題には通じておらず、また通じていることを期待すべきでもない鉄道員が、複数の軍司令官から出される、時に相互に矛盾する指示の優先度を、自らの責任で決定する立場に置かれるべきでないのも、当然のことである。
とはいえ、この問題には別の側面もあった。この点については、ギルアード卿がその『南アフリカ戦争における鉄道史』(History of the Railways during the War in South Africa)において詳しく論じている。同書において彼は、戦時の鉄道輸送条件について次のように述べる。
「鉄道運行の仕組みを事前に研究していない軍司令官は、自分の近くにある線路の一部を押収して運行しようとし、鉄道系統全体については配慮しない。彼らはしばしば、貨車を一種の糧秣隊馬車のようなものとみなし、無期限に積荷を載せたままにしてよいと思っている。列車が本線上で停車して荷役を行うことを当然のことと期待する。場合によっては、必要となるかもしれないという理由で、荷済みまたは空車の列車を、常時何本も用意しておきたがる。彼らはしばしば、ある地点からの大規模な乗車・下車を命じるが、その地点にどのような鉄道設備があるかにはまるで頓着しない。すぐ近くに適切な場所がある場合でも、である。彼らはまた、乗車の命令を、貨車の集中が既に始まっているにもかかわらず、平気で取り消すことがしばしばある。ひとたびある場所に車両を集中させる手配を行ったならば、その手配を変更するには時間がかかり、混乱を必ず招くという事実に思いを致さないのである。多くの者は、鉄道輸送において兵員に対する便宜をきわめて厚く取るべきだと考え、鉄道に近い場所にいる場合には、手荷物や糧秣の量を切り詰める必要などまるでないと思い込んでいる……。
鉄道線上の陣地指揮官は、しばしば駅に配置されることから『駅指揮官(station commandant)』と呼ばれるが、こう呼ばれるがゆえに自分が鉄道駅の責任者であり、鉄道職員に対して列車運行その他について命令を発することができると考えがちである……。
ある民間鉄道職員は、敵による攻撃よりも、味方の将軍の到着の方が、交通にとってはるかに妨げとなる、と語っていたのが聞かれている。」
このような事情のもとでギルアード卿は、戦争の継続期間中、南アフリカにおいては、その任務が(a)軍司令官に対して鉄道の輸送力と可能性について十分な情報を与え、その命令・要請を民間鉄道職員へ伝達すること、(b)軍司令官や線路沿いの陣地指揮官による民間鉄道管理への干渉から、同管理を保護することであるような士官団を置く必要を、当初から認識していた。すなわち、軍隊と民間鉄道職員との間の仲介者として行動することが求められたのである。
かかる結論に達するに際し、ギルアード卿がとくに強い印象を受けたのは、1870~71年の対プロシア戦争におけるフランスの鉄道輸送経験であった。彼は自らの報告において、ジャクマン(Jacqmin)の事実と勧告の要旨を掲げ、自らが採った措置を正当化している。彼は、鉄道監督官の幕僚が、鉄道上においては最高権限を持つことが絶対に必要であり、実際にその場所で戦闘が行われている場合を除き、いかなる士官も鉄道幕僚将校その他の鉄道職員に命令を発する権限を持つべきではないと考えた。彼は次のように付言する。「これはドイツ軍が採用し大成功を収めた制度であり、その欠如はフランス鉄道に大混乱をもたらした。この制度の正しさは、本戦争の経験によって完全に立証された。もし南アフリカでこれを採用していなかったならば、混乱は想像を絶するものとなっていただろうといっても過言ではない。」
このような原理と方針に従い、鉄道監督官のもとで技術的運行要員と協力するために創設された「軍用鉄道統制幕僚(Military Railway Controlling-Staff)」は、次のように編成された。
I.ケープ植民地担当の「鉄道助監督官(Assistant-Director of Railways)」一名。この者は鉄道監督官とケープ植民地連絡線司令官(General Officer Commanding Lines of Communication, Cape Colony)の双方の幕僚に属した。彼の任務は、ケープ政府鉄道の総合交通支配人(General Traffic Manager)との協力であり、その事務室内に執務場所が与えられた。この二重の地位において、彼は鉄道輸送能力について連絡線司令官および鉄道監督官の双方に情報を提供し、また司令官から命令を受け、それを最善の形で実行する方法について助言する義務を負った。さらに鉄道職員に対し何が求められているかを伝達し、ギルアード卿がその詳細を述べるにあたり付言するように、「権限なき軍士官による干渉から鉄道職員を保護する」こともその任務であった。また鉄道助監督官は、(a)乗車・下車の能率的な実施、(b)物資の発送、(c)軍事目的のための鉄道路線使用に関する会計の保持、について適切な規程が軍隊側に公布されるよう取り計らう義務も負った。連絡線司令官と総合交通支配人とのあいだの連絡は、鉄道助監督官を唯一の経路とするものとされた。
II.四名の「鉄道副助監督官(Deputy-Assistant-Directors)」。それぞれが特定区間の鉄道系統について、上記と同様の任務に従事した。
III.主要駅に配置され、重要な全ての移動を監督する「鉄道幕僚将校(Railway Staff Officers)」。彼らは軍隊と駅長との唯一の連絡手段であった。駅長は軍の要求に関する命令を他のいかなる者からも受けてはならず、また鉄道幕僚将校は、権限なき他の士官が駅長に直接命令を与えることから、駅長を保護する義務を負った。
この制度の最初の欠陥は、鉄道幕僚将校の位置付けにあった。軍用鉄道統制幕僚を構成する者のうち、鉄道幕僚将校は、陸軍規程によれば連絡線司令官の幕僚に属し、鉄道監督官の指揮下にはなかったのである。これら将校は乗車・下車等を監督する任務を負っていたが、列車の入換・編成や、一般的な輸送計画にはいっさい干渉してはならなかった。このため、陸軍規程の立案者たちは、鉄道幕僚将校には鉄道運営の知識は不要であり、そのような知識を有する他の者の指揮下に置く必要もないと想定したのである。
しかしオレンジ自由国鉄道併合後、参謀長は、当該国における鉄道幕僚将校を、鉄道監督官の副助監督官を通じてその指揮下に置くことに同意した。程なくしてケープ植民地の鉄道幕僚将校についても同様の措置が採られた。この結果、責任の一元的な連鎖が確保され、統制と実際の運行の双方において、はるかに高い能率が保証されることとなった。
ギルアード卿は、副助監督官について、彼らが鉄道職員にとって大きな助けとなり、職員がその働きを高く評価し、心から協力したと記している。他方で、副助監督官たちは、自身の地位を将軍や参謀将校に理解させるのに苦労した。というのも、このような制度は彼らにとって全くの新機軸であり、その趣旨を当初理解していなかったからである。
当初、このような軍事統制の原則は、とくにケープ植民地の線路に適用され、ナタールにおける線路は、修理に関する一定の支援を除き、なおナタール政府鉄道局によって運営されていた。しかし18か月の戦争経過後には、ケープ植民地で最初に確立された軍事輸送制度が、英領南アフリカ全域にわたり一様に適用されるに至った。
輸送条件
このような精緻な組織が創出された必要性は、軍事輸送の遂行に責任を負う者たちが直面した困難の大きさを考えれば、いっそう明らかである。
1899年11月の段階で、ケープ植民地およびナタールの線路の相当部分がボーア側の手中にあり、それ以遠で英国軍が線路を利用しようとすれば、その一マイル一マイルを戦い取らねばならなかった。また英領領土内でボーア側が支配していた線路を奪回したのちには、敵領内の線路をまず攻略し、ついで運営しなければならなかったが、このいずれの場合にも、敵が英国軍の進撃を妨げるために線路に加えたであろう破壊を修復する準備が必要であった。他方で、戦域への部隊・物資の輸送や、軍事上必要となる諸戦略移動を行うために、可能な限り交通を維持しつつ、同時に線路の十分な防護を確保しなければならなかった。実際のところ、戦役の全帰趨が、英国側が鉄道の確保に成功するか、あるいは代替的に、敵の破壊に対して同等かそれ以上の速さで線路を修復できるか否かにかかっているように思われた局面すら存在したのである。
さらに言えば、かくも精緻な組織体制が整えられたとはいえ、それをアフリカの戦争条件に適合させるためには、なお多くの作業が必要であった。初期の誤りは矯正されねばならず、旧来の弊害は新たな形で再現し、経験に応じて規則を制定あるいは修正しなければならなかった。そして輸送が全面的に破綻することこそなかったものの、部分的な失敗は確かに存在した。開戦時にボーア諸国に多くの貨車が存在し、さらにキンバリーとマフェキングに多数の貨車が閉じ込められていたため、貨車の供給は不十分であった。にもかかわらず、貨車は積荷を降ろさずに長時間留め置かれ、本来なら他所で使用するために直ちに空車として解放すべきところを、そのまま放置された。こうして積荷のままの貨車が臨界的な時期に線路を深刻にふさぎ、大規模な兵員移動においては混乱寸前となったが、これはケープタウンの施設を鉄道監督官の幕僚が掌握していたこと、および鉄道副助監督官が主要な各地点に特別将校を配置できたことによって、かろうじて回避されたのであった。
制度の実際の運用
戦時中の鉄道「運行」について、ギルアード卿は次のように述べている。
「これは純粋な鉄道問題というよりはむしろ大本営事務の問題かもしれないが、きわめて限られた単線鉄道による兵站線の資源を、いかなる方法で配分して軍全体の要求に公平に応じたかについて、一言触れておくべきであろう。
鉄道輸送力の配分は、前線への輸送に関しては、例外なく軍参謀長の専権事項とされた。このため参謀長の命令がなければ、いかなるものも前線方面へ鉄道で送り出すことはできなかった。上り方向(前線行き)で一日に牽引可能な列車数――より正確には貨車数――は鉄道当局からキッチナー卿に通告され、そのうち一定数(これは日々変動しうる)は糧秣および補充馬部署の処分に委ねられた。これは同部署の兵站基地の維持全般、あるいは特定の輸送を目的とするものであった。
病院・兵器・工兵・特別物資に割り当てられた列車数は、さらに厳密に算出された。これらの部署の需要は、極めて詳細な内容まで、承認のために提出されねばならなかった。すべての認可は総司令部の鉄道代表者に送られ、代表者の任務は、前進基地からの発送命令の未処理総量が、当面の配分方式のもとで妥当な期間内に処理可能な輸送力を超えそうな場合に、その旨を通知することであった。この場合、許可の発給は一時停止されるか、あるいは未処理リストが、その時々の必要に応じて見直された。小分隊を除いては、かかる権限なくして貨車を積荷することも、部隊を鉄道で送り出すこともできなかった。小分隊・少人数の移動の場合は常に、積荷済み補給列車に便乗させて輸送した。別個の列車を必要とする大規模な鉄道兵員移動案は、それによって排除される補給輸送との関係で慎重に検討され、時間的余裕があれば、通常は道路輸送に切り替えられた。この制度こそが、各部署の鉄道需要を調整し、単線鉄道によって維持しうる戦闘兵力の限界について従来一般に受け入れられていた数値を、大きく覆したのである。」
帝国軍鉄道
以上のような、軍事行動の範囲内にある英領領土の鉄道運営に関する諸問題の次には、敵から奪取し、帝国軍鉄道(Imperial Military Railways)の一環へと転換されたボーア諸国の鉄道に関する諸問題が続いた。これらについても、軍用鉄道部が責任を負うこととなった。
ブルームフォンテインの占領によって、当時3万5千名から、後に10万名まで増加すると見込まれた軍隊の糧秣基地が同地に置かれることとなった。また最終的に帝国軍鉄道は総延長1,130マイルに達した。したがって、その能率的な運営はきわめて重大な問題となり、とくに鉄道運行のための要員を新たに組織しなければならなかったという事情を考えれば、その任務は相当に大規模なものであった。輸送および機関区部門だけでも、白人労働者3,000名が必要とされたのである。
オランダ=南アフリカ鉄道会社(Netherlands Railway Company)の従業員の多くは、英国側に敵意を示す危険を承知のうえで、そのまま雇い続けられた。しかし、利用可能な人数は信頼できる者ばかりであったとしてもなお全く足りなかった。ケープ政府鉄道は職員を可能な限り提供し、南アフリカにいた鉄道中隊および堡塁中隊の王立工兵隊員は線路の運営に従事した。英国からは鉄道特別予備員(Special Railway Reserve)の鉄道員が召喚され、残るポストのうち800~1,000名分は――総司令官の承認を得たうえで――軍務に就いていた兵士および予備役のうち、民間生活で鉄道業務経験を有する者に対し、帝国軍鉄道の要員に加わるよう募集して充足された。この際、王立工兵隊と同一水準の給与が保証された。重要度の低いポストについては、それまで鉄道経験を全く持たない者が充てられた。鉄道幕僚将校も主として軍隊から選出されたが、その多くは鉄道運行の詳細に不案内であったため、それぞれの任務を遂行しうるようになる前に、特別な訓練を受けねばならなかった。
1900年9月30日時点で、帝国軍鉄道に雇用されていた将兵の総数は1万8千名近くに達していた。これら鉄道が英国軍の統制下に置かれた時から1900年8月31日までに、同鉄道は乗客177,000名、家畜86,000頭、貨物52万トンを輸送した。
敵から奪取した鉄道の運営要員を、かくも特異な困難のもとで編成せねばならなかった経験から導かれる教訓として、ギルアード卿は次のように述べている。
「南アフリカ戦争は、平時において一定数の鉄道輸送要員を登録し、少額の待機手当を支給する代わりに、国内外の戦争発生時には召集義務を負わせる体系を整える必要性を、十分に示した。この制度が存在しなかったために、南アフリカの鉄道監督官は、敵側に雇われていた多くの人物をやむなく採用せねばならず、また戦闘部隊から、入隊以前に鉄道経験を有する多くの兵士を引き抜かねばならなかった。そして、資格のわからない人々からなる異質な大集団によって鉄道を運営せざるをえなかったのである。こうした人々が、南アフリカ各地やさまざまな部隊から集められた結果、勤務条件・給与・配属等に関する書類事務は膨大なものとなった。登録制度を採用すれば、これら鉄道要員を軍法の適用対象とすることもできるが、その必要性が明確に示されたのである。」
鉄道の修理
以上のように、運行と輸送に関するあらゆる手配が整えられる一方で、敵によって破壊された鉄道路線の「修理・復旧」のために、同様に完全な組織を整える必要性が生じた。
アメリカ南北戦争以来、鉄道破壊の技術はダイナマイトの使用によって大きく進歩していたが、ボーア側はこれをきわめて積極的に用いた。彼らはダイナマイトで橋梁、あるいは橋梁の構造上重要な部分を容易に爆破し、別の方法としては、交互のレール継目の下にダイナマイト装薬を爆発させるという単純な手段で、長大区間にわたって線路を破壊した。また彼らは暗渠・ポンプ・給水タンクを打ち壊し、持ち去る時間や機会がない機関車については、徹底的な損傷を与えた。そのほか、地雷による機関車・貨車の脱線、重量2~3トンにも及ぶ巨岩を線路の堀割へ落として通行を阻止、電信線の切断、駅の電信器・電池の破壊、駅舎そのものの破壊、多数の貨車の焼却または使用不能化、燃料の山への放火、さらにダイナマイトが手に入らない場合には、機関車の重要部品を取り外して無力化し、相当区間にわたるレールを引き剥がすなどの行為が行われた。
1899年12月までには、当初ケープに派遣され最大戦力まで増員された鉄道中隊および堡塁中隊の王立工兵隊のみでは、予想される情勢に対応しきれないことが明らかとなった。そこで構成された鉄道兵団(Railway Corps)は、鉱夫・職工・労務者からなる「鉄道開拓兵連隊(Railway Pioneer Regiment)」によって増強された。この連隊はケープタウンやヨハネスバーグで雇用されていた人々から編成され、さらに鉄道経験を有する兵士から志願者を募り(鉄道経験者を優先)、オレンジ自由国鉄道の従業員も加えられた。敵国の鉄道運営要員を引き継ぐための基幹要員として創設されていた「野戦鉄道区分隊(Field Railway Sections)」は、実際には建設隊となり、修理のみを行い、鉄道輸送については前線終端(railhead)以外に権限を持たなかった。これらに加え、多数の原住民がデ・アール、ブルームフォンテイン、ヨハネスバーグに設置された原住民労務補給所(Native Labour Depôts)を通じて雇用され、その数は最大時で2万人ほどに達した。
ボーア側が最も活発に鉄道破壊を行ったのは、オレンジ自由国およびトランスヴァールにおいてであった。彼らはノーヴァルズ・ポントおよびベチュリーにおいて、ケープ植民地とオレンジ自由国を分かつオレンジ川に架かる橋梁を破壊した。彼らは、英軍がブルームフォンテインに進入する前に(英軍が同地を占領したのは1900年3月13日)、その背後にある鉄道上の橋梁・暗渠の全てを破壊し、数マイルにもわたり軌道を吹き飛ばし、鉄道をほとんど完全な廃墟とした。ブルームフォンテインより北では、180マイルに及ぶ線路上で同様の戦術をとり、その区間にある橋梁50基を、多かれ少なかれ徹底的に破壊した。その中には、ヴァール川に架かる7径間・各径間130フィートの高架鉄橋も含まれていた。また線路がヨハネスバーグまで復旧した直後、デ・ウェット指揮官が襲撃をかけ、30マイルにわたって修理隊の作業を振り出しに戻させた。英軍がプレトリアとの鉄道連絡を再開した直後には、ボーア側はトランスヴァールおよびオレンジ自由国の線路に対して、再びゲリラ的攻撃を開始した。こうした攻撃は、その破壊力が最終的に抑え込まれるまで、すなわち事実上戦争が終結するまで、数か月にわたり続いたのである。
このように、英軍の進撃と安全保障にとって死活的に重要な修理・復旧作業を行うにあたり、鉄道監督官が採用した方針は、まず王立工兵隊によって迅速な仮修理を実施し――いかなる形であれ最短時間で通行可能な線路を確保する――そのうえで恒久的または半恒久的な修理を鉄道開拓兵連隊に任せる、というものであった。戦域全体の鉄道上の適宜の側線には、「建設列車(construction trains)」が配置され、その指揮は保線監督官および王立工兵隊の一部隊に委ねられた。各側線には白人と原住民からなる作業員300~1,000名(事情に応じて変動)が配属され、また可能なところでは歩兵作業隊も投入された。
線路巡視は夜明けとともに始まる。破損や異常の情報は、最寄りの軍事駐屯地に伝えられ、さらに補修業務副監督(Deputy-Superintendent of Works)宛てに電報で送られた。これを受けた副監督は、報告内容や懸念がまだ確認されていなくとも、直ちに建設列車を現場に派遣する命令を出した。
このよく組織された制度は、大きな成果を上げた。たとえば1901年1月1日午前2時30分、ブルームフォンテインの補修業務副監督に、63マイル先のウォルフェフックで線路破損があったとの情報が届いた。建設列車は直ちに出発し、午前8時までに修理を完了した。ボーア側が広範な破壊を行ったにもかかわらず、ロバーツ卿のヨハネスバーグ到着後11日以内に、同市までの鉄道連絡は復旧された。プレトリアについても、英軍の占領から16日以内に鉄道が回復された。西部方面においても、オレンジ自由国と同様に敵の活動が激しかったが、マフェキング救援から13日以内に同方面の鉄道も再開された。
『南アフリカ戦争における輜重(Field Transport)』の公式報告では、鉄道部門について次のように記している。
「ケープ植民地・トランスヴァールおよびオレンジ川植民地における仮修理は、ごく少数の例外を除き、すべて軍用鉄道部によって実施された。1900年10月31日までに行われた仮修理は、橋梁75基、暗渠94基、線路37マイルを含む。ブルームフォンテインからヨハネスバーグまでの265マイルにおよぶ大進撃の詳細は、修理がいかに迅速に行われたかをよく示すであろう。この進撃は1900年5月3日から6月11日の間に実施されたが、この間に次の仮修理が行われた。橋梁27基、暗渠41基、線路10マイル(うち7か所は長さ200ヤードから2マイルにおよぶ迂回線である)。
1900年6月6日から11月15日までの間に、帝国軍鉄道は敵によって115回にわたり多少とも深刻な損害を受けた。しかしそのすべてが迅速に修復され、鉄道運行に重大な支障をきたすことはなかった。唯一の影響は、夜間の列車運行を停止せざるをえなかったことである。同期間中に、損壊した橋梁と暗渠の60パーセント以上が恒久または半恒久的な修理を受けた。」
橋梁に関して言えば、戦争中に破壊されたものは、径間長9フィートから130フィートに及ぶ200基以上に達した。しかし、ここでも交通の迅速な回復は、通常のところ、それほど重大な困難を伴わなかった。南アフリカの事情に合致した一般的方針は、破壊された橋梁の修理に直ちに着手するのではなく、当面の緊急をしのぐため、橋梁の脇に小規模な低位置橋を備えた「迂回線(diversionまたはdeviation line)」を建設するというものであった。これら低位橋は枕木とレールで構築された橋脚上に設けられた。[41] 迂回線は、急曲線・急勾配・豪雨時の流失しやすさといった大きな欠点を有した。また、流量の多い深い川に仮橋を架ける作業には、必然的な遅れが生じた。しかしそれでも、恒久橋梁の再建が可能となるまでの間、迂回線は十分に目的を果たしたのである。より恒久的な工事の必要性を見越し、鉄道監督官は英国出発前に、南アフリカで使用されているものと同型の桁材一式、およびオレンジ自由国における鉄道橋梁をすべて再建するのに十分な数量の角材の送付を手配していたが、実際にそれらを用いる必要が生じたのであった。新品レールについては、一時期には総延長300マイル分を手元に確保していた。
1900年10月までには、敵から奪取した全線に施されていた応急修理は、帝国軍鉄道工事部によって恒久または半恒久的な再建へと徐々に置き換えられつつあった。しかし、敵のゲリラ攻撃は絶えず続き、夜間に列車を走らせることは依然として不可能であった。このような事情から、「ブロックハウス(blockhouses)」制度が採用されるに至った。これは最初、ラディスミス救援のための進撃時にナタールの鉄道橋防衛のために建てられ、その後ロバーツ卿がブルームフォンテインからトランスヴァールへ進軍する際、背後に長大な鉄道路線を残すことになったため、広く用いられた。その後さらに拡張され、トランスヴァールおよびオレンジ川植民地内の全鉄道路線が、ブロックハウスによって防備されるに至った。[42] これらブロックハウスは非常に有効であり、1901年4月までには鉄道通信維持の最大の難点はほぼ解消された。もっとも、平和が回復されるまでにはなお一年を要したのである。
軍事輸送
ここまで述べた諸条件のもとで、軍用鉄道部が成し遂げた業績のうち、とくに顕著なものの一つは、ロバーツ卿がモッダー川からブルームフォンテインへ進軍する際の兵力集中である。この移動は、線路の修理が完了した1900年1月21日から開始され、3週間以内に2万人の兵員、13,590頭の馬、2万4千トンを超える物資が、単線鉄道によって輸送された。
戦時中にケープ政府鉄道およびナタール政府鉄道が輸送した軍事輸送量を総計すると、次のような膨大な数値となる。
ケープ政府鉄道(1899年10月1日~1901年3月31日)
士官・兵卒その他の旅客:1,247,000人
補給物資等:1,058,000トン
馬その他の家畜:540,321頭
(このほか多数の輜重車および大砲)
ナタール政府鉄道
士官・兵卒・捕虜・傷病者・婦女子(ボーア難民を含む)・原住民およびインド人:522,186人
手荷物・軍需物資・補給食料・乾草・飼料等:861,000トン
弾薬箱:9,784箱
大砲:454門
車両:6,430両
舟橋:48基
トラクション・エンジン:84台
馬その他の家畜:399,000頭
雑多な役務
ここに掲げた軍事輸送量の数字は、戦争期間中に南アフリカの鉄道が行った仕事の全体像を示すものではない。鉄道が提供した様々な補助的役務にも目を向ける必要があるが、これらは、兵員・軍需品輸送という基本的役目にとどまらず、戦役の遂行において鉄道がそれ以前のいかなる戦争よりも幅広い援助を提供しうることを示しており、その点でとくに注目に値する。
ナタール政府鉄道の提供した役務一覧を見ると、同鉄道局は上記の輸送業務に加え、次のような活動を行っていることがわかる。すなわち、装甲列車6本の製作、6インチおよび4.7インチ砲用の特製砲車の準備、病院列車3本の改造と装備(これにより、平時の通常輸送に用いる最良の旅客車両の約4分の1が軍医部の専用に転用された)、4か所の病院に対する電灯設備一式の敷設・電力供給、電気探照灯装置および機関車・発電機その他の設置、コレンソでの3万名の兵員への給水、ラディスミス包囲の4か月間における2万人分の飲料水のためのコンデンサー設備・燃料の提供、ダーバンの貨物上屋の一部を基幹医療倉庫(Base Medical Stores)として割り当て・整備し、軍隊に同行する予備医療資材用の貨車を装備する、などである。
技術部門の職員は、ナタール管内および英軍支配下に入ったトランスヴァール鉄道の100マイル区間において、長さ10フィートから600フィートにおよぶ橋梁・暗渠72基、路盤32か所、給水タンクその他多数の設備の復旧・仮設を迅速に行った。また彼らは、ボーア側により爆破されたランズ・ネック・トンネルを7日間で開通させ、さらに数マイルにおよぶ新線・側線および迂回線を建設した。
ナタール鉄道開拓兵要員はブラー将軍に随伴して進撃し、トランスヴァール系統のグレイリングスタットまで(チャールスタウン――トランスヴァール系統との接点――より100マイル)オランダ鉄道を運営したが、同線は1900年8月15日に帝国当局に引き継がれた。
「ラディスミス救援までの約6か月間」について、C・W・フランシス・ハリソン氏(公式刊行物『ナタール:公式鉄道案内および便覧』編纂者)[43]は、次のように述べている。「ナタール線は、その総延長の40パーセントと、多数の車両を戦争によって奪われていた。敵がナタールおよび南東トランスヴァールから一掃されると、ニューカッスル、フォルクスラスト、スタンダートンその他中間地点に大規模兵站基地が設けられた。英国軍の二大軍集団がハイデルベルクで合流すると、その後はほとんどの軍需品がナタール経由で輸送されるようになり、戦闘終結までこの輸送は絶え間なく続けられた。」
装甲列車
南アフリカ戦争では、線路警備および敵攻撃の両目的において、装甲列車の運用が、それまでにない規模で実施された。しかし当初、その実用性と効果的な運用条件が十分理解されていなかったため、その有効性に疑念が抱かれ、ほとんど役に立たない、あるいはまったく無用とさえ見なされる時期があった。
将来的な需要を見越し、ケープタウンの機関区工場では事前に装甲列車5本が製作され、さらにナタールでも1本が組み立てられていた。その後も別の列車が順次製作されたが、ケープの列車1本は戦争初夜にボーア側に破壊され、ナタールの列車2本はラディスミスに閉じ込められた。残りの列車は、戦争初期の偵察任務に用いられた。しかし、当時はまだ装甲列車の運用方法が正しく理解されておらず、しばしば何の支援部隊も伴わずに遠距離へ派遣された。その結果、ナタールの列車1本は1899年11月15日にチーヴリー(Chieveley)でボーア側に破壊され、ケープの列車も幾度となく同じ運命をたどる寸前まで追い込まれた。
英国軍がブルームフォンテインを占領すると、同市の鉄道工場でさらに多数の装甲列車が製造され、その数は最終的に20本に達した。改善された統制・運用制度の下で、そして砲の搭載によって実質的に「車輪の上の砲兵隊」となった結果、これら列車は戦時に実用的価値を持つ装備として認識されるようになった。
ギルアード卿は、王立工兵隊協会誌(Royal Engineers Journal)1905年7月号に掲載されたチャタム王立工兵隊研究所での講演「戦争における鉄道(Railways in War)」で、次のように述べている。
「南アフリカ戦争はある時期、プレトリア包囲戦という、一種の攻城戦を生み出す恐れがあった。同市には、近代的な砲を備えた比較的新しい要塞が存在するとわかっていた。また、その頃モッダー川では敵の重砲によって我々は少なからぬ苦戦を強いられていた。海軍は重砲を車輪に載せたBL砲で我々を救ってくれた。それと同時に、鉄道自体を活用できないかという観点から、鉄道局は砲の架台を製作する工場と熱意を有しているため、必要であれば重砲を搭載しうるとの提案がなされた。この申し出は認められ、数週間で、これまで野戦で用いられたことのないほど重い2門の攻城砲が完成した。架台は、機関区責任者およびケープ政府鉄道主席機関区長の知恵を結集した見事な作品であり、老朽機関車およびテンダーの枠が基礎として利用された。搭載された砲は、6インチBL砲1門と、なんと9.2インチBL砲1門という巨大なものであった。6インチ砲はモッダー川で実戦に投入された。当初、この砲を線路中心線に対し左右16度以上の角度で固定するのは危険と考えられたが、いわゆる「射撃用曲線(firing curve)」上に設置することで、より広い射界を確保した。砲の性能はあらゆる点で非常に良好であり、その後、線路に対して直角方向にも発砲されたが、砲自身にも線路にも何ら損傷は生じなかった。
9.2インチ砲も試射では良好な結果を示し、砲架に載せたままプレトリアまで運ばれたが、残念ながら敵に対して発砲する機会はなかった。」
ギルアード卿はその『鉄道史』においても、「これらの実験は、攻城戦において大口径砲を何ら困難なく使用することが可能であることを示した。唯一の制約は、鉄道橋梁が支えうる重量によって決まる砲の口径である」と述べている。
こうした「車輪上の砲兵隊」がもたらす有用性とは別に、戦争初頭には、装甲列車本来の有用性が、統制制度の欠陥により損なわれるのではないか、という問題も生じた。
当初、装甲列車は鉄道路線各区間の司令官の専属となっていたが、この制度は不首尾に終わった。列車はしばしば運輸部門の規則を無視して無造作に出動させられ、「閉塞許可(line clear)」の電報すら得ないまま走らされることがあったからである。さらに、列車を自由に使用できる状況にあったため、区間司令官たちはしばしば線路各駅の陣地点検に列車を用い、その間の一般列車の運行をすべて停止させた。あるときなどは、多数の牛がプレトリアへ送られることになったが、これを護衛する騎兵がいなかったため、苦肉の策として装甲列車を護衛にあてたことがあった。この際、列車は線路沿いを歩く牛の速度に合わせて進行速度を落とさねばならず、他の全輸送が阻害され、その結果デラゴア本線上は、牛群が目的地へ到着するまで完全に麻痺した。すなわち、「敵の妨害を防いで輸送を円滑にする」べき装甲列車が、ギルアード卿の言葉を借りれば「敵以上に交通の妨げとなった」のである。
この種の問題に対処するとともに、列車のより良い活用を図るため、「装甲列車助監督官(Assistant-Director of Armoured Trains)」の職が新設され、彼を総司令官および鉄道監督官の双方の幕僚に属する者とし、南アフリカにある全装甲列車をその統制下に置くことになった。この役職には、鉄道業務と規則および装甲列車について実務的知識を有するH・C・ナントン大尉(王立工兵隊)が任命された。彼は大本営と連絡を取り、敵の脅威が最も大きい線路区間について情報を得る立場にあったため、列車をどこへ派遣すべきかを決定することができた。特定区間に派遣された装甲列車は、その区間の指揮官たる将軍等の指揮下に入るが、装甲列車助監督官には、他でより緊急の需要があると判断した場合、その列車を回収する権限が与えられた。彼には、各区間司令官との協調に努める義務が課せられたが、司令官の側は、配備された列車を私的な移動手段として用いてはならず、その守備兵力・装備を変更してはならない。また一般指示の趣旨に反する命令を列車指揮官に与えてはならないとされた。装甲列車助監督官はまた、列車指揮官に対して適切な戦術・巡察方法等について指導し、「鉄道職員と協調して行動し、交通の妨げではなく助けとなる」ようにする責務を負った。
こうした改善により、装甲列車の運用は一定の体系を備えるに至り、その任務と目的は最終的に次のように定義された。[44]
1.野戦部隊と協同し、同部隊が線路方向へ追い立てる敵を挟撃すること。
2.単独の部隊、あるいは複数部隊からなる戦列の側面に位置どりし、列車を十分前方に進出させて敵の側面突破を阻止すること。
3.敵の脅威を受ける鉄道駅・陣地を増強すること。
4.通常の輸送列車を護衛すること。
5.偵察を行うこと。
6.昼夜を分かたず巡察すること。
7.一般に、輸送路の防衛にあたること。
装甲列車の守備兵力は、歩兵護衛隊、砲兵分隊および工兵分隊から構成された。工兵分隊は、鉄道修理および脱線車両の復旧に熟達した下士官1名および工兵6名、電信線作業員2名、電信係1名、機関士2名および火夫2名から構成された。戦闘時には、機関士と火夫を除く全員が有効射手とみなされ、また機関士と火夫も機関室内にライフルを備え、敵が機関車の奪取を試みた際にはこれを使用した。
守備兵力の練度に関する責任は装甲列車助監督官に委ねられた。また列車の集中運用が決定された際には、彼自身がいずれかの列車に乗り込み、全列車の統一行動を指揮することとされた。
C・M・グラント大尉は、装甲列車の運用について次のように記している。[45]
「列車指揮官には、的確な判断力と強靭な神経が不可欠であった。彼はしばしば、自らの責任で行動することを求められた。強力な武装と防御力によって、彼は自軍より優勢な敵を攻撃することも可能であった。しかし一方で、列車には多くの脆弱点があった。彼は常に、敵が自分の背後で線路を切断しないよう警戒していなければならなかった。彼は目に見える敵のみならず、戦時の輸送に常につきまとうリスク、巧妙に設置された自動・観測式地雷にも対処せねばならず、先頭の貨車がダイナマイト装薬の上を通過した際に生じる轟音の中でも平静さを保ち、その後ほぼ必ず続くであろう攻撃に対処しなければならなかった。したがって、列車指揮官には並外れた人物が選ばれたのである。接触地雷による危険は、一定程度、『各列車は重量貨物を満載したボギー車1両を先頭に押して進行する』という常設命令によって軽減された。この種の貨車は側板と妻板が低く、視界や射界を妨げない。地雷を爆破させると同時に、鉄道および電信資材を搭載するのに適していた。この無人ボギー車の必要性は、幾度となく証明された。」
線路の防衛という点では、装甲列車はきわめて貴重な役割を果たした。とくにブロックハウス制度が十分に発達し、同時に敵の砲兵が不足してきた局面では、その効果は絶大であった。ギルアード卿は「敵は装甲列車を非常に嫌っていたことは間違いなく、装甲列車の存在は大きな心理的効果をもたらした」と述べている。
装甲列車の編成や運行に加え、可能な限りすべての通常列車には、台座付き速射砲を搭載した特別砲車が組み込まれ、その守備兵が護衛についた。列車の両端には機関銃が備えられ、左右へ射界を振ることができ、列車の両側50~80ヤードの距離で射線を交差させるよう配置された。また、機関士室の両側には装甲板が吊り下げられ、毎朝最初に走る列車の先頭には、万一夜間に地雷が仕掛けられていた場合に備え、機関車の前に貨車2~3両が付けられた。
救護・病院列車
本書95~96ページで既に述べた南アフリカ戦争における救護・病院列車について、ここで若干補足しておく。ケープおよびナタール両政府鉄道の既存車両から改造された7本の病院列車のうち、3本は開戦前に準備されていた。すなわちケープで2本、ナタールで1本であり、これら3本は直ちに使用可能であった。
『タイムズ南アフリカ戦争史』によれば、「ケープ植民地では、9月に準備された2本の病院列車に英国から派遣された完全な医療要員が乗り組み、常時メチュエン卿の前進部隊と連絡を保った。多くの場合、これら列車はほとんど前線の射程圏内まで進入し、ベルモント・グラスパン・モッダー川・マゲルスフォンテインの戦闘では、戦闘部隊から傷病者を信じがたいほど短時間で収容し、一部をデ・アールおよびオレンジ川へ、残りをケープタウンの総合病院へと搬送した。」病院列車のこのような活動は、戦争の最初の3か月間における戦闘がほとんどすべて鉄道上またはその近傍で行われたことにより、大きく助けられた。そのため野戦病院から負傷者を速やかに後送する手配が容易に整えられたのである。
この2本の列車は、ケープ植民地の連絡線に沿って運用されたのち、1900年4月初めにブルームフォンテインに到着した。同市では腸チフスが大流行し、5月末までに患者数4,000人というピークに達し、すべての病院はもとより利用可能な建物がことごとく患者であふれた。病院列車2本は、それでも需要を満たしきれず、現地で急造されたり通常列車を転用したりした多くの臨時列車が、傷病者や快復者の輸送にあたった。
ナタールについて『タイムズ南アフリカ戦争史』は、「戦争に関連する医療手配のうち、レッドヴァース・ブラー卿のナタール方面作戦期間中のものが、もっとも満足すべき内容であった」と記している。
ナタールでは連絡線が短く、十分な数の病院列車によって支えられていた。開戦前に編成された車両に加え、1899年11月には同型の2本目の列車が準備された。さらに「プリンセス・クリスチャン」号病院列車が英国で建造され、主としてクリスチャン王女殿下の尽力とウィンザー市の多額の寄付による14,000ポンドの資金によって賄われた。同列車は1900年2月初めにケープタウンへ到着し、その後分解されてダーバンに送られ、ナタール政府鉄道の工場で再組立された。列車の改造を監督したサー・ジョン・ファーリーは、その運用にも指揮官として従事した。同列車は、ボーア側によって破壊されたコレンソのトゥゲラ川橋梁の代替として設けられた仮設トレッスル橋を最初に渡る列車となり(1900年3月18日)、同時にラディスミス包囲解除後最初に同市へ入った列車でもあった。1900年3月18日から1901年9月5日までの間に、同列車は主としてナタール方面およびプレトリア=クマティプールト線で108往復運行し、走行距離42,000マイル、輸送した傷病者数は将兵合計7,529人(将校321人、下士官および兵7,208人)で、そのうち途中死亡はわずか3名であった。1901年6月、同列車は中央赤十字委員会から南アフリカ軍のための完全な病院列車ユニットとして戦争大臣に正式に寄贈された。しかし、その後もはや病院列車としての使用は必要ないと考えられたらしく、最終的に車両は原状復帰された。
他の病院列車の活動規模を示す資料として、ここに第2号列車の実績を挙げておく。同列車は1898年11月22日から1902年8月末までの間に、226往復、総走行距離114,539マイルを記録し、その間輸送した傷病者は将校471人、下士官および兵10,325人、計10,796人であり、そのうち途中死亡は7名にとどまった。
トランスヴァール鉄道と戦争
以上、英国側による戦争中の軍事目的の鉄道使用の概要を述べてきたが、ここでオランダ=南アフリカ鉄道会社書記長テオ・シュタイネッツ氏(Th. Steinnetz)がプレトリアで1900年4月に作成し、1900年7月14日および21日付の『デ・インヘニウール(De Ingenieur)』誌に掲載された「オランダ=南アフリカ鉄道会社とトランスヴァール戦争(The Netherlands South African Railway Company and the Transvaal War)」という報告書に基づき、ボーア側の経験について若干触れておくことは興味深いであろう。[46]
トランスヴァール共和国政府がオランダ=南アフリカ鉄道会社(Nederland Zuid-Afrikaansche Spoorweg Maatschappij)に与えたコンセッションの条項によれば、戦争発生または戦争の危険が生じた場合、政府は鉄道およびその運行に必要なあらゆる設備・人員に対し、完全な統制権を有するものとされていた。ただしコンセッション保持者への一定の補償支払い義務が付帯していた。この権限に基づき、行政会議(Executive Raad)は1899年9月13日に布告を出し、鉄道線路に対する政府統制の確立を宣言するとともに、次のように述べた。「鉄道の適切な使用を確保するため、会社の全職員は……現職の職務において鉄道上の任務に徴用され、総司令官(Commandant-General)およびその指名する軍事官吏ないしその他の官吏の命令下に置かれる。」実質的に政府は、軍事輸送の目的で鉄道会社の全線・車両・工場その他の資産を接収し、同時に職員に対しても、共和国軍が占領する可能性のある英領領土の線路をも含め、その運営を確保するための管理権を行使したのである。
トランスヴァール侵攻の可能性――「英国側が装甲列車の存在を喧伝したことから、その可能性については大きな懸念が抱かれていた」と報告書は述べる――に備え、共和国政府は鉄道南東部区間にあるいくつかの橋梁に破壊準備を施すという手段を取った。また国内にまだ多数存在すると見なされていた「親英派(Anglophiles)」による攻撃も懸念されていたため、共和国政府は鉄道各地の橋梁およびその他重要地点に番兵を配置し、そうした破壊工作を防止しようとした。しかし報告書は、英国側が実際には破壊機会をあまり活用しなかったらしいことを、小規模な試みの少なさから窺わせている。
トランスヴァール軍の輸送に関しては、まず徴募された市民兵(バーガー)、馬、および荷馬車の輸送規模について、最も粗い見積もりすら存在しなかったことから、最初から困難が生じた。そのため軍事ダイヤを作成することは不可能であり、要求が出される都度、可能な範囲で対処するしかなかった。南東支線は単線であり、駅および列車交換設備はおよそ一時間ごとにしか存在しなかったため、一日の運行本数は上下各11本が限度であった。輸送量についてシュタイネッツ氏は、次のように述べている。
「徴募地への軍事輸送は、国民の一部しか武装していなかったにもかかわらず、予想ほど多くはなかった。多くの地区では、従来通り、バーガーたちは騎乗し、荷馬車を連ねて集合地点へ行進した。鉄道輸送を利用していれば、人馬双方にとって時間と労力を節約できたであろうにもかかわらずである。しかしトランスヴァール人にとって鉄道を戦争に利用する機会は、これが初めてではなかった。ジェームソン侵入事件およびマガト戦役の折には、彼らは鉄道を最大限に活用していたのである。」
共和国側が破壊準備を施していた鉄道橋の中には、長さ116フィートの鉄橋も含まれていたが、これを爆破すれば、英国軍によるランズ・ネック経由のトランスヴァール侵攻を阻むことができただろう。しかし英国軍がダンディーおよびラディスミス方面に兵力を集中させた結果、ボーア軍は何の抵抗もなくナタールに進入することができた。そして英軍の進撃とともに、ナタール鉄道の運営は、占領の進展に応じて断片的に共和国側の手に移っていった。北ナタールの諸駅には、英国側が事前に大規模な兵力移動、特に騎兵の乗降に対応するため、長大なホームやその他の施設を建設していたが、これらの改良は連邦軍にとってきわめて有用なものとなった。鉄道要員は「大急ぎで退却しており」、線路に対して破壊工作を行うこともなく、修復容易なごくわずかな損傷を与えたにすぎなかったという。ランズ・ネック・トンネルも「全くの無傷」であった。シュタイネッツ氏は続けてこう述べる。
「しかしボーア側自身が、装甲列車による奇襲を恐れてか、あるいは他の理由からか、保線隊に多くの仕事を残す結果となった。ボーア側は長大区間にわたって電信線を破壊し、線路をはがし、二つの橋梁を損傷した。ダンディーからのユール将軍の退却を妨害するため、アイルランド旅団はダンディー支線上の径間30フィートの二径間橋梁の中央橋脚にダイナマイトを装填して爆破した。しかし被害は大きくなく、容易に修復された。同様の拙劣な手法が、ワッシュバンク近くの小さな支流にかかる同型橋梁にも適用され、こちらはより大きな被害を受けた。しかしこの場合も修理は困難ではなかった。」
このように、ボーア側の破壊工作の多くが簡単に復旧可能であったことは、ギルアード卿の報告書とも完全に一致する。フェアを期すなら、シュタイネッツ氏が「英国側が行った橋梁破壊も、同様に速やかに修理された」と主張している点も、認めねばならない。
戦争後期のボーア側による破壊工作の中には、より重大なものもあった。トゥゲラ川にかかるコレンソ橋梁の爆破――同橋梁は100フィート径間5つを持つ鉄製格子桁橋であり、石造橋脚に支えられていた――は、共和国軍当局から鉄道会社の監督官(オランダ工兵隊の経験を有する者)に委ねられた。彼はシーメンス・ハルスケ製雷管発火装置に接続された40個のダイナマイト装薬を同時起爆させ、橋梁を「完全に粉砕した」。オレンジ川にかかる三径間ノーヴァルズ・ポント橋の破壊には、約3.5箱、すなわち198ポンドのダイナマイトが使用された。ラディスミス包囲解除後に英国軍の追撃を阻むため、ボーア側が橋梁に対して行った一連の爆破について、シュタイネッツ氏は次のように述べる。「爆薬に不足はなく、節約する必要もなかった。」
オランダ鉄道会社の中央工場は、砲・小銃・荷馬車等の修理、および軍需品製造のために共和国政府によって使用された。また負傷したバーガーのために、完全装備の救急列車4本が同工場で改造された。
鉄道輸送はすべて共和国政府の命令によって行われ、その費用はすべて政府に請求された。私的な輸送は一切行われなかった。このため鉄道収入は存在せず、鉄道会社には何の責任もなかった。
鉄道力の発展
いずれにせよ、1899~1902年の南アフリカ戦争は、軍事目的の鉄道使用に関して生じうる最も複雑な問題の多くを、その一形態または別の形で含んでいた。[47]
またさまざまな面で、鉄道力(rail-power)の性質と可能性に関する問題全体を、さらに一段高い段階へと押し進めた。
この戦争は、とくに著しい条件のもとで、既にアメリカ南北戦争が立証していた事実――すなわち、単線であっても、敵の占領下または敵領内を通過する鉄道線によって、補給基地からの距離が鉄道なしでは事実上戦争遂行不可能と思われるほど遠い地域においても、戦役を遂行できる――を再確認した。
また、適切な条件のもとで鉄道を重要な戦術機動に利用しうる可能性についても、さらなる証拠を示した。
さらに、軍事輸送の能率を確保するうえで、組織がいかに不可欠であるか、そしてとりわけ軍事と技術の両要素の統制および調整に関わる組織が重要であることを、再び明らかにした。
装甲列車の用途と、その構造および運用において採用すべき最善の方法を、明確に定義された基盤の上に位置付けた。
またおそらくそれ以前のどの戦争よりも明瞭に、救護列車および病院列車(新造されたものか既存車両から改造されたものかを問わず)が果たす有益かつ慈善的な役割を示した。
最後に、鉄道連絡線がいかに危険にさらされやすく、執拗な敵の攻撃がいかに破壊的であろうとも、強力かつ良く組織された鉄道部隊が前進軍の直後に随行し、加えて有効な線路防衛制度が整備されていれば、修理・再建はきわめて迅速に行われ、遅滞は比較的小さく抑えられ、戦役の最終的な結果が必ずしも左右されるわけではなく、戦争の道具としての鉄道力の価値はなんら減殺されない、ということを立証したのである。
注
[41] 王立工兵隊研究所(チャタム)刊『南アフリカ戦争における鉄道詳細史(Detailed History of the Railways in the South African War)』第2巻には、破壊された橋梁およびその代替として建設された低位迂回橋梁の写真が45葉、全頁大で収録されている。
[42] これらブロックハウスの記述については、チャールズ・M・ワトソン大佐(のちのサー)の『王立工兵隊史(History of the Corps of Royal Engineers)』第3巻125~126ページを参照。王立工兵隊研究所、チャタム、1915年。
[43] 『ナタール:公式鉄道案内および便覧(Natal: An Illustrated Official Railway Guide and Handbook)』C・W・フランシス・ハリソン編纂。公刊許可により発行。ロンドン、1903年。
[44] 『南アフリカ戦争史 1899–1902』第4巻付録10「南アフリカ軍用鉄道制度覚え書(Notes on the Military Railway System in South Africa)」。国王陛下政府の命により編纂。ロンドン、1910年。
[45] 前掲公式『戦史』第4巻付録10。
[46] 英訳は『王立連合軍事研究所雑誌(Journal of the Royal United Service Institution)』1902年1月号を参照。
[47] アメリカ合衆国工兵隊メジャーW・D・コナーの標準的著作『軍用鉄道(Military Railways)』序文に次の記述がある。「軍事面については、英国軍E・P・C・ギルアード卿(K.C.M.G., R.E.)の報告を参照した。同氏のエジプトおよび南アフリカにおける業績は、今後戦場において鉄道問題の解決を求められるすべての技術将校にとって、高い水準を提示するものである。これら報告は、現地で実際に試みられた多数の解決策を示すとともに、我が南北戦争における軍用鉄道史から学びうる主要な教訓を裏付けている。」(文献目録参照)
第十七章
日露戦争
1904~1905年の日露戦争は、両交戦国の軍事的実力そのものというよりも、むしろそれぞれの通信・集結手段の試練であった。
モスクワから旅順までの距離は5,300マイルに達するが、ロシア側はバルト海・北海・大西洋・インド洋経由の海上航路を別にすれば、満洲への兵員・物資輸送を、その時点で自国が掌握していた、実に貧弱な鉄道網に依存するほかなかった。他方、日本は自国艦隊と相当程度発達した商船隊を頼みとすることができた。そして開戦後わずか二日でロシア艦隊を麻痺させ、自国の制海権を確立するや、戦域の海岸線上のほとんど任意の地点に、随時軍を上陸させることが可能となった。
この状況は、クリミア戦争当時のロシアが置かれていた、さらに悪い立場をある程度想起させる。その時ロシアは、いかなる鉄道の便も欠いていたため、軍隊は行軍によって、また補給・軍需品は貧しいステップ地帯を何百マイルも運ばねばならず、「北部および内陸東方から出発した大部隊は、セヴァストポリの姿を望む頃には、わずかな壊滅した大隊にまで縮小してしまう」とまで言われた。他方連合軍は、自軍をすべて海路クリミアまで輸送することができたのである。
ロシアの対日敗北には、その他にも多くの原因が指摘されている――将校団の個人的欠陥、戦略・戦術上の誤り、軍制の不備、戦争に対するロシア国民全体の無関心などがそれである。しかし状況を決定的に左右した要因は、シベリアおよび満洲における鉄道の輸送力不足であった。
アジア横断の大戦略線としてシベリア横断鉄道(Trans-Siberian Railway)を建設し、広大な領土の開発を促進すると同時に、何よりも極東におけるロシアの野心実現を助けるという構想は、1860年ごろ初めて議題に上った。1875年には大臣委員会によって詳細な調査が行われたが、最初の鍬が入れられたのは1891年になってからである。
軍事および政治上の考慮が最優先された結果、建設工事はきわめて迅速に進められ、1896年までには西部線がイルクーツクを経てバイカル湖(Lake Baikal)に達し、その東岸からシトゥリエテンシク(Strietensk)まで伸びていた。また東部線――ウスリー鉄道(Usuri Railway)として知られる――もロシア沿海州のウラジオストクからハバロフスクまで完成していた。もともとの計画では、この全線をウラジオストクまでロシア領内を通して敷設する予定であったが、この場合シトゥリエテンシクからアムール川に沿って、ロシア南境界線が大きく北方に屈曲する部分を回り込まねばならず、ロシア政府はより直線的な経路を求めた。
ロシアは1896年末、中国と日本の戦争において自らが中国に対して大きな便宜を図ったと認識していたことから、その見返りとして、バイカル以東200マイルほどに位置するチタ(Chita)を起点に、満洲を通過してウラジオストクに至る鉄道敷設権を獲得した。これにより、アムール川の大きな屈曲を避けることができたが、一方で、幹線の重要区間がロシア領外を通過するという不利な条件も生じた。中国政府と露清銀行との間に結ばれた契約に基づき、中国東清鉄道会社(Chinese Eastern Railway Company)が設立され、同線の建設と運営を担うことになったが、実際の手配はロシア財務大臣を通じて行われ、この鉄道はロシア国家の直接支配下に置かれた。
1898年3月の旅順(Port Arthur)占領を受けて、翌年春には東清鉄道の南支線――ハルビンから遼東半島の突端まで――の建設も開始された。
こうしてシベリア鉄道および東清鉄道の二本が、ウラジオストクと旅順をそれぞれの終点とする形で完成し、1904~05年の戦争に特別な意味を持つことになった。とりわけシベリア鉄道は、ドイツ参謀本部の公式戦史が指摘するように、ロシアにとって軍の集中と維持のみならず、その大部分の部隊の編成・動員をも依存せざるをえない存在であった。
シベリア鉄道建設にあたり、全線建設には膨大な経費を要するうえ、その利子を賄うに足る収益はほとんど望めないと考えられたことから、節約策が採られた。しかしその節約は、鉄道の輸送力をきわめて大きく制約する結果となった。すなわち、線路は単線にとどめられ、盛土の幅員は極限まで削られ、曲線半径は速度と安全性の観点から許容できる限度を超えて急であり、勾配も危険なほど変化に富み、あるいは列車を分割せざるをえないほど急峻であった。レールは1ヤードあたり42~47ポンド程度の軽量なものに限られ、それすら敷設状態が悪かった。小河川に架かる橋梁は木造にとどめられ、列車交換用の待避線や駅はきわめて少なく、それ以外の附属施設もほとんど最低限の水準で建設された。
これらの事情から、開通当初に運行できる列車本数は、上下各3本に制限されていた。列車長も60軸に制限されていた。この輸送力では、平時の通常輸送需要を満たすことさえ不可能であり、戦時軍事輸送など論外であった。そのため、1898年に主要区間が完成すると、すでに3億5千万ポンド以上の経費を要していた鉄道に対してさらに913万ポンドが追加計上され、これを用いて良質のレールと枕木への交換、危険区間の改築、駅や車両の増強その他の改良が実施されることとなった。これら追加工事は1904年までに完了し、その時点で上下各13本の列車を運行できる能力を持つはずであった。
しかし1900年に東清鉄道が未完成であった時点で、ロシア鉄道の状況を報告したクロンプキン将軍(当時陸軍大臣、後に満洲軍総司令官)は、なお重輸送に対応することは不可能であると断言していた。
日露間の関係は1903年末に緊張を増したが、ロシア政府は、開戦が自国の準備完了以前に生じることを望まなかった。クロパトキン将軍は自著『ロシア軍と日本戦争(The Russian Army and the Japanese War)』に当時の情勢を次のように記している。
「我々の不備はあまりにも明白であった。当時の見通しとしては、2、3年の継続的努力によって、極東における我々の地位を強化し、鉄道・艦隊・陸軍および旅順とウラジオストクの要塞を改善しうると考えられた。その場合、日本が我々に対して成功を収める見込みはきわめて小さいであろうと思われた。」
戦争自体は不可避と考えられ、またロシアに体制強化の時間を与えるつもりのなかった日本は、1904年2月6日に外交関係を断絶し、ほどなくして戦端が開かれた。
露日関係が断絶する可能性を見越し、ロシアは既に兵員・物資の一部を海路極東へ送っていた。しかし実際に戦争が勃発した際には、陸路による大規模増援の送致に全く準備ができていなかった。極東にあった部隊は、バイカル湖からウラジオストク、旅順からニコラエフスクに至る広大な地域に分散していた。動員令もまだ発せられておらず、軍は装備更新と再編成の最中にあったうえ、鉄道の未整備のために部隊集中のための時刻表を作成することもできなかった。開戦から10日後、ロシア政府は公式声明で次のように述べている。
「戦闘地域の遠隔性と、ツァーリ陛下が平和を維持しようとされたご意向の結果として、戦争に備えるための準備を、長期間にわたってあらかじめ進めることは不可能であった。」
さらに、戦場が本国から5,000マイルも離れていたうえに、前述のような単線の貧弱な鉄道しか陸路輸送の手段がなかった。しかも輸送におけるきわめて重大な障害として、バイカル湖による鉄道連絡の中断という問題も存在した。
バイカル湖(Lake Baikal)は長さ380マイル、幅は18マイルから56マイルに及び、平均水深は850フィート(一部では最大4,500フィート)に達し、総面積13,000平方マイル以上を有する世界有数の淡水湖である。アメリカ合衆国および中部アフリカの大湖群に次ぐ規模であり、実際には湖というより内海と見なすべきである。さらに不運なことに、この広大な水域がシベリア鉄道の直線ルート上に位置し、極東へ向かうロシア増援部隊にとって、湖の横断は通信線の鎖における致命的に弱い輪となっていた。
標高1,360フィートに位置する同湖は、暴風・濃霧・厳寒にさらされ、とくに真冬には水面が10フィートもの厚さに凍結することもある。4月末から12月末までの期間、鉄道で到着した兵員・旅客は旅客船によって湖を横断して反対側へ渡った。貨物車はフェリー船によって運ばれ、これらは冬期初頭および末期には砕氷船としても機能し、航路が維持できる限り運航された。冬季に氷が十分厚くなれば、輸送そりによって輸送が行われた。しかし、氷がフェリー船の通行を妨げるほど厚くなりながら、まだそり輸送には耐えられない時期――通常年に約6週間――には、輸送は完全に中断せざるをえなかった。
では、鉄道建設者たちはなぜ、これらの不利を避けてバイカル湖を迂回しなかったのか、という疑問が当然生じるであろう。その答えは、開戦前にこの問題に対処しなかった理由が、土木工学上の困難の大きさにあったという点に求められる。
バイカル湖の南岸――将来の環バイカル鉄道(Circum-Baikal line)が通る予定のルート――には、湖岸から垂直に4,600フィートにも達する山々がそびえている。鉄道をこの山岳地帯、岩の多い湖岸、そして間に挟まる谷間を通して敷設するには、湖を回り込む160マイル区間を建設しなければならなかった。この工事は技術的にきわめて困難であると同時に、コストも莫大であり、シベリア鉄道全体の平均建設費に比べて著しく高額となることが予想されていた。そのため、戦争勃発時点でも、環バイカル線のうち112マイルが未着工のままであった。
こうした事情により、環バイカル線が完成するまで、ロシアの欧州部から極東への増援軍は、湖自体を横断せざるをえなかった。そして戦争が2月に勃発したことは、とくに輸送の面でロシアを大きな不利に追い込んだ。
フェリー兼砕氷船は1904年1月27日にその冬の最終航行を終えており、当初は兵士たちが氷上を徒歩またはそりで渡るしかなかった。兵士たちはイルクーツクで一日休息した後、鉄道で湖畔のバイカル駅まで輸送され、早朝4時頃に到着した。そこから対岸のタンチョイ駅まで、およそ25マイルの行程を一日かけて踏破するのである。氷上のルートは標識柱で示され、夜間はランタンが補助として用いられた。また多数の労務者が常に路面整備にあたった。氷の割れ目には小型の仮橋が設置された。沿道には4マイルごとに休憩所が設けられ、それぞれ電話で相互に連絡しあっていた。これら休憩所では、連隊の野外炊事班が調理した食事が支給されたが、一日の主食は、より大規模な炊事設備と良好な宿舎を備えた中間の休憩所で供された。夜間には、この中間休憩所の周囲に石油ランプが焚かれ、遠くからでも位置が分かるようにされた。濃霧や吹雪の際には、すべての休憩所で鐘が鳴らされた。気温が華氏零下22度にも下がることがあることを思えば、これら休憩所が大いに歓迎されたであろうことは想像に難くない。手荷物はそりで運ばれ、その通常備蓄は3,000台増強された。また兵士の一部も、1台のそりに4人ずつ乗って移動した。砲兵部隊は、自らの馬を使って砲を牽引して氷上を通過した。
氷の厚さが4フィート半ほどに達すると、対岸の鉄道線路用機関車および貨車を運ぶため、氷上にレールを敷設するという方法が採られた。レールは特別に長い枕木に載せられ、重量をより広い氷面に分散した。それでも、きわめて厳しい寒気、暴風、時折の氷の移動や亀裂、さらには地震による線路破壊により、線路の維持は容易ではなかった。ある区間にレールを敷き終えた直後に、その区間が破壊されて再敷設を迫られるということもあった。この氷上鉄道は2月10日に着工され、同月29日に完成した。3月1日から26日までの間に、この方法でバイカル湖を横断した車両は、解体された機関車65両(対岸で再組立)、客車25両、貨車2,313両に及んだ。輸送に用いられた馬は約1,000頭であった。
このように、バイカル湖を横断する25マイルの鉄道路線は、純粋に軍事目的のために建設されたものであり、疑いなく「軍用鉄道」に分類される。また「軍事用氷上鉄道」という点でも、戦史上ユニークな位置を占めるものである。
季節が進むにつれ、湖上の氷が列車やそりを支えられなくなると、再びフェリー輸送に頼らざるをえなくなった。しかし貨車を積載できる船は2隻しかなく、いずれも最大27両の貨車を搭載可能であったが、24時間に3往復以上はできなかった。
このように、満洲戦域へ軍隊を送り込むための輸送能力は、明らかに不十分であった。この状況を根本的に改善する唯一の方法は、湖の南岸に鉄道を敷設して湖上輸送を回避し、途切れのない鉄道連絡を確保することであった。環バイカル線によるこの連絡線の必要性はすでに認識されており、工事は最大限の努力をもって急がれた。
前述のように、同線の建設は土木工学上きわめて困難であった。より具体的に言えば、この160マイルにおよぶ連絡線には合計34本、総延長6マイルを超えるトンネルが必要であり、また無数の谷や開けた地形を越えるため200本もの橋梁が架けられた。加えて多数の切通しと大規模な暗渠も設けられた。工事費は1マイルあたり5万2千ポンドという莫大な額に達し、軍事目的を主眼として建設された鉄道としては恐らく史上最高額であった。またこれは、それまでのロシア全鉄道の平均建設費(1マイルあたり1万7千ポンド)を3万5千ポンドも上回るものであった。さらに労働争議その他の理由による遅延も重なり、その結果、環バイカル線が完成し、鉄道が湖を迂回して連絡されるようになったのは、開戦から7か月以上を経た1904年9月25日のことであった。
その間、機関車と車両の不足は、シベリア鉄道のバイカル以東区間および東清鉄道の輸送能力を著しく妨げる要因となっていた。氷上鉄道やフェリーによって湖を越えて送られた機関車や貨車は有用ではあったが、東清線が十分な効率で運行できるようになるまでには、6か月を要した。
その他にも「輸送の障害」となる要因はいくつかあった。バイカル以東からハルビンにかけての各河川は、冬季には完全に凍結し、その底まで氷に閉ざされるため、当初は機関車用の水を得ることさえ難しかった。西シベリア区間の水供給は、河川に含まれる高い塩分濃度のために劣悪であった。満洲では燃料備蓄が不十分であり、下級鉄道職員のうちで信頼できるのは兵士だけであった。鉄道工場の設備は貧弱で、機関区の数もまったく足りなかった。レール、継目板、枕木、道床材の大量供給が必要であり、列車交換用側線やその他附属設備の増設工事にも多大な労力を要した。これらすべての不備を是正するために、戦争の最中にも工事を進めなければならなかったが、そのために必要となる資材や機械は、すでに兵員・弾薬・糧秣輸送で過負荷の単線鉄道を通じて送らねばならなかった。
鉄道で運行可能な列車本数も、きわめて限られていた。全体としての連絡線の輸送能力は、チタとハルビンの間の東清鉄道区間の能力によって規定されていた。開戦から3か月後の時点でも、24時間あたり、西向き・東向きそれぞれ3本の軍用列車(兵員・糧秣・軍需品および補充馬を輸送)、1本の軽量郵便列車、および必要に応じて1本の救護列車しか運行できなかった。その後になって、ようやく状況は改善された。
列車の走行速度――駅や交換所での停車時間を含む――は時速5~11マイルの範囲であり、平均時速7マイルが「良好な成績」とされた。ワルシャワから奉天までの軍用列車の所要日数は40日であり、その間600~700マイル走るごとに兵士に1日の休息を与えた。1904年4~5月には、露独国境のヴィルバレン(Wirballen)から遼陽(Liao-yang。奉天と旅順の間に位置)までの所要日数は50日に達し、平均時速5.25マイルに過ぎなかった。
輸送上のこうした種々の困難のため、開戦後3か月間は極東方面のロシア軍への増援は全く届かず、欧州ロシアから派遣された3個軍団が満洲野戦軍に合流し終えるまでには7か月を要した。
この間、日本側は海路で自軍を戦域へ送り込み、遥かに迅速に集中させることができたため、開戦当初の優位は明らかに日本側にあった。ロシア軍の増援は少数ずつ到着し、その都度各個撃破されるか、1905年5月14日から10月14日までの戦闘に関して言えば、損耗10万名に対して補充2万1千名を送るにとどまった。これに対し日本側は、自軍の損耗を補うための増援を継続的に送り込み続けることができた。
クロパトキン将軍は、開戦当初から輸送条件がもっと良好であれば、戦局全体の展開は全く異なるものになっていただろうと考えている。彼の試算では、たとえ一日1本でも、追加の直通軍用列車が運行できていれば、状況は大きく変わっていた。さらに、一日6本の軍用列車を最初から運行できていれば、ロシアは主導権と勝利の双方を手中に収め得たと信じている。彼はシベリア鉄道と東清鉄道について、次のように述べる。
「もしこれら鉄道がより有効であったならば、我々は兵員をより迅速に前線へ送り込み、結果として15万の兵力を当初集中することができただろう。ところが実際には、9か月かけて30万の兵力をじわじわ集結させただけであり、それも逐次投入の形で失われてしまった……。もし我々により良い鉄道があって、遼陽に前記兵力を集結し得ていたならば、我々は犯した誤りにもかかわらず、確実に勝利を収めていただろう。」
クロパトキン自身は、輸送条件の改善に全力を注いだ。彼は1904年3月7日付でツァーリに提出した答申において、「ロシアとシベリアを結ぶ鉄道連絡を改善することこそ、あらゆる急務の中でもっとも重要である」と述べ、「たとえ莫大な経費を要するとしても、直ちに着手しなければならない。費やした金は無駄にならず、むしろ戦争期間を短縮させるという最高度の生産的効果をもたらすであろう」と付言している。
シベリア鉄道バイカル以東区間では新たに6駅が設置され、他区間でも列車交換のための待避線が多数整備されたため、5月までには一日あたりの列車本数が若干増加した。6月には、ロシア政府はシベリア鉄道と東清鉄道の輸送能力を、それぞれ上下各7本に、南支線を上下各12本に増強するための大工事を命じた。これらの改良工事に要する費用は440万ポンドと見積もられた。
1904年11月、クロパトキンはツァーリに対し、両鉄道全線の複線化を直ちに実施すべきであると建議した。彼は「補充兵はなお少数ずつ到着するにすぎない。春に発送された補給物資はまだシベリア側にある。夏用に送られた雨具は冬になってから届き、防寒着は今度は雨具が必要になる頃に到着する」と述べ、不十分な輸送能力を嘆いている。
また前線軍に対する食糧備蓄も必要であった。軍が比較的小規模であった間は、現地調達にある程度依存することができたが、兵力が増大するに従い、欧州ロシアからの補給にますます依存せざるを得なくなった。しかし一か月分の糧秣備蓄を集めるだけでも、一か月間にわたり一日5本の追加列車を運行する必要があった。ある地点で十分な補給物資が存在したとしても、輸送手配の不備と非能率により、別の地点の兵士たちが不必要な欠乏に苦しめられることもあり得た。
財政その他の理由からか、ロシア政府は単線を複線とする案を実行には移さなかった。しかし輸送施設の改善(列車交換設備69か所の増設を含む)により、1905年9月5日に講和が成立するころには、一日あたり上下各10本から12本の長大列車を運行できるようになっていた。これは開戦6か月前に運行可能だった一日2本、さらには開戦後9か月時点の3本と比較すると、実に4倍の輸送能力である。しかしそれでもなお、ドイツ参謀本部歴史部が公式戦史『鴨緑江会戦(The Russo-Japanese War. The Ya-Lu)』において次のように評している状況には変わりなかった。[48]
「鉄道改良のために払われた努力にもかかわらず、極東におけるロシア軍の本国との連絡は、軍司令部の判断において、常に不確実かつ信頼しがたい要素にとどまった。たとえどれほど精力的な措置を講じたとしても、この不確実性を完全に除去することはできず、満洲軍自体の兵力増強と集中、および鉄道工事の進展に伴って、総司令官の行動の自由は徐々にしか増大しなかった。それでもなお軍全体は、その需要と補給を含め、シベリア鉄道と東清鉄道に依存し続けたのである。」
しかし鉄道が成し遂げたこともまた驚異的であった。すなわちロシア軍は、戦争終結までに兵員100万名――その3分の2はまだ戦闘に参加していなかった――、機関銃・榴弾砲・砲弾・小火器弾薬・野戦鉄道・無線電信・補給物資およびあらゆる種類の技術用品を含む一大軍を、戦域に集中させることに成功したのである。クロパトキンは次のように述べている。
「陸軍省は、他省庁との協力のもと、まさに空前絶後の任務を成功裏に遂行した。数年前なら、誰が一本の貧弱な単線鉄道によって、補給・装備の面でも5,400マイルも離れた地点に、100万の大軍を集結させ得ると認めただろうか。驚くべき偉業が達成されたが、それは遅きに失した。陸軍省の責任とは無関係のロシア国内の事情が、軍事的にはまさに決戦が始まろうとする時期に、戦争を終結させる原因となったのである。」
事実、ロシアは、それまでの戦争期間中よりもむしろ勝利の見込みが高まっていた時期に、講和に応じたのである。しかし日本もまた、その望んでいた成果を完全には達成できなかった。英国『公式日露戦史(Official History of the Russo-Japanese War)』はその理由について、「旅順が予想以上に長く持ちこたえたことと、シベリア鉄道が、当初想定以上の兵力をロシアに前線へ送り込ませることを可能にしたこと」と述べている。[49]
このように鉄道の観点から見れば、ロシアは依然として、単線鉄道によって、本国から5,000マイル以上も離れた戦場に、前代未聞の規模の軍隊を送り込むという驚異的な偉業を成し遂げたのである。戦局を不利に導いた運命の女神はともかくとして、ロシアは、「補給基地から5,000マイルを超える遠隔地で戦われる戦役において、もし鉄道連絡線が当初から要求に見合う能力を備えていたならば何が可能であったか」という新たな教訓を、世界に示したのである。
この主要な問題とは別に、日露戦争には本書の観点から興味深い幾つかの側面が存在した。
前掲の「野戦鉄道(Field railways)」は、狭軌鉄道網として総延長250マイルに達し、ロシア軍が中国人労務者の助力を得ることもありながら、自軍で建設し運営したものであった。これらは東清鉄道という太い動脈に対して、次の目的を持つ補助血管として機能した。すなわち、(1)同鉄道から前線への兵員・補給の輸送、(2)攻城砲や弾薬の砲兵陣地への輸送、(3)傷病兵の後送、である。牽引には馬・小馬・ラバが使用された。三つのロシア軍それぞれに専用の狭軌線グループがあり、道路事情が原始的で現地輸送手段も不十分な地域において、これら狭軌線はきわめて有用な役割を果たした。
一例として、東清鉄道から内陸へ25マイル延びる広軌支線が、戦争中に建設された。この支線の終点に補給基地が設けられ、そこからさらに狭軌線が各方面へ張り巡らされ、該当地域の各部隊への輸送に供された。
第二軍に属する狭軌線は、東清鉄道上の旅順に近い地点から19マイル延びるルートであり、その建設には6本の橋梁と3か所の盛土が必要であった。1905年1月に着工された三本の線路は、いずれも遼陽の陣地に付属する攻城戦用のものであったが、1905年3月初めに奉天を放棄した際に、すべて廃棄された。しかし奉天撤退後、ロシア軍は狭軌線建設において最大限の熱意を示した。運行に供された250マイルに加え、なお100マイル分が完成していたが、このうち多くは貨車不足のため使用不能であり、さらにその一部は日本軍によって接収された。[50]
戦争中、これら軍用狭軌線で輸送されたものは、食糧・物資等5万8千トン以上、傷病兵75,132人、およびその他の兵員24,786人であった。
こうした建設と運行のために、また満洲鉄道およびウスリー鉄道の運営のために、ロシアは24個鉄道大隊(総員約11,431人)を保有していた。当初は東シベリア鉄道大隊6個を投入し、その後作業量の増加に応じて欧州ロシアから追加大隊を送り込んでいる。
日本軍は鉄道部隊には十分恵まれていなかったが、それでもロシア軍の連絡線破壊にできる限りの努力を払った。たとえば、1904年5月6日午後11時、日本軍は鴨緑江会戦後間もない瓦房店付近で旅順線を遮断した。ロシア軍は線路を修復し、5月10日までには弾薬満載の列車を旅順へ送り込んだ。しかし3日後、日本軍は別の地点で線路を再び切断し、以後旅順は孤立したのである。
シベリア鉄道および東清鉄道の「運営」について、W・H・H・ウォーターズ大佐は次のように述べている。[51]
「シベリア西端のチェリャビンスクから奉天まで、およそ4,000マイルに及ぶ路線全体として見ると、鉄道は私が予想していたよりも良く機能した。しかし致命的な欠点は、ロシアの鉄道関係者、軍人・民間人を問わず、重い駅構内の貨物交通を適切にさばく能力を欠いていたことにある。もしロシアが、ロンドンのナイン・エルムス駅のような大貨物駅の主任係員に、いかに高額であれ給与を支払い、自身の補佐陣を連れてきてもらえるなら、極東の鉄道運営は驚くほど改善されるに違いない。」
またチャタム王立工兵隊雑誌1905年8月号に寄稿したC・E・ヴィッカーズ大尉(王立工兵隊)は、「戦時における鉄道専用の管理幕僚」を、作戦計画・補給配分・軍需品管理その他軍務担当幕僚とは別に設ける必要性を強調している。
ウォーターズ大佐やヴィッカーズ大尉の言うような個人的能力不足や、別個の管理機構の欠如によるものであれ、事実としてシベリア鉄道と東清鉄道の運営には、ロシア側の苦境を一層悪化させるような混乱が生じていた。
たとえば1904年9月、遼陽からの撤退後、奉天で予備役兵が緊急に必要とされた際、鉄道運営が杜撰であったため、ハルビンから奉天までの337マイルを移動するのに7日もかかり、平均時速わずか2マイルであった。12月5日には、ハルビン分岐駅が四方から押し寄せる列車で完全に麻痺し、入線も出発もできなくなったため、12時間にわたり運行を全面停止して構内整理を行わざるをえなかった。さらに1905年1月2日の旅順陥落後、日本軍の第3軍が満洲方面軍に合流して戦力を増したにもかかわらず、ロシア側では編成された増援部隊の前線到着が1か月以上も遅れた。その原因は、線路上に大量に滞留していた物資列車の輸送を優先したためであった。
運行上の困難や遅延の一部は、ひとまず現場責任者に任せるべきであった「鉄道運行」への将校個人の「干渉」によって引き起こされたことは疑いない。この種の干渉は、既にアメリカ南北戦争および普仏戦争でも顕著な問題であった。ウォーターズ大佐は次のように記している。
「興味深いのは、ポート・アーサーの強化と満洲軍の編成が至上命題であった時期に、連絡線の運行が、とりわけ優先的に鉄道を利用すべきではない立場の人々によって妨げられていた事実である。
副王の参謀長は、アレクセイエフ提督とクロパトキン将軍の間の連絡役であった。前者は奉天に、後者はそこから37マイル離れた遼陽に駐在していた。両者の間ではたびたび会談が行われたが、参謀長は常に専用列車で遼陽へ赴いた。そのため、鉄道は不確定時間にわたり専用列車のために空けておかなければならず、その結果、他の列車運行計画は大きく乱された。この点については、当時の鉄道主任自身がそう証言している。
1904年5月初め、副王とボリス大公はポート・アーサーに滞在していたが、包囲される前に退去する必要があったと言われている。両者は実際、3本もの専用列車を用いて退去した。すなわち、副王と大公にそれぞれ1本ずつ、残る1本は荷物と物品輸送用であった。これにより、軍用列車・補給列車・弾薬列車の運行は完全に麻痺したが、その頃の要塞では重砲弾薬が極度に不足しており、その1週間後にはクロパトキン将軍が、弾薬満載列車を旅順へ走らせるため志願鉄道員を募集する有様であった。かろうじて、包囲完成の数時間前に列車を突入させることに成功したにすぎない。
1904年を通じて、他にもさまざまな人物のために専用列車が頻繁に仕立てられ、側線の占有も長期化した。その結果、軍の組織と維持は大いに妨げられた。」
これらの経験は、他国がすでに採用していた次のような措置の妥当性を裏書きするものである。すなわち、(1)軍事と技術の両要素から成る専任幕僚によって戦時の鉄道運行を統括し、(2)運行の詳細については、軍事要素による干渉を排して技術要素に一任する、という方針である。
日露戦争当時、ロシアはこの点で西欧諸国に明らかに後れを取っていた。この戦争の経験を通じて、ロシアは自国の軍用鉄道輸送制度をより健全な基盤に置く必要性を痛感し、その後これを実行に移したのである。
注
[48] ドイツ参謀本部歴史部編『日露戦争 鴨緑江会戦(The Russo-Japanese War. The Ya-Lu)』。カール・フォン・ドナート訳(公認訳)。ロンドン、1908年。
[49] 英国帝国防衛委員会歴史部編『日露戦争公式史(Official History of the Russo-Japanese War)』。ロンドン、1910年。
[50] 『1904~05年の満洲戦域における畜力牽引鉄道の建設と運営(Construction et exploitation des chemins de fer à traction animale sur le théâtre de la guerre de 1904–5 en Mandchourie)』、『軍事工学評論(Revue du Génie Militaire)』1909年4・5・6月号。パリ。
[51] 『日露戦争 日本軍およびロシア軍に付属した英軍将校報告(The Russo-Japanese War. Reports from British Officers attached to the Japanese and Russian Forces in the Field)』第3巻。「総括報告(General Report)」W・H・H・ウォーターズ大佐(1905年3月付)。ロンドン、1908年。
第十八章
戦略鉄道:ドイツ
「戦略鉄道(strategical railways)」と「軍用鉄道(military railways)」との間には、また両者と通常の商業鉄道との間にも、いくつかの基本的な差異が存在する。
戦略鉄道は、一部・主として、あるいは場合によっては専ら軍事目的に供するよう設計される点では軍用鉄道と共通しているが、いわゆる軍用鉄道とは異なり、それが建設される国の通常の鉄道体系の一部を成す。建設・装備・運営の点で商業線に近く、また商業線との連絡のもとで、通常の商業・旅客輸送に用いられる。ただし戦略鉄道の場合、その輸送が採算に合うかどうかといった考慮は、本来の目的――すなわち、いずれ必要となるであろう軍事輸送を確実に行いうる能力を備えているかどうか――さえ満たしていれば、問題とならない。平時には実際に通過する交通量は比較的わずかであるか、場合によっては事実上皆無であるかもしれない。また、彼らが必然的に備えるべき特殊設備――たとえば広大な側線設備や、軍用列車の積み降ろしに必要な長大なホームなど――が最大限活用されるまでには、長年を要するかもしれない。しかしそれでも、これらはなお、その国の鉄道体系と軍事体系の双方の不可欠な一部を構成しており、いったん建設されれば、必要とされるときには常に軍事目的に供し得る。
ただし、ここでも改めて強調しておかなければならないのは、商業・旅客の通常需要を満たすために建設された鉄道が、戦時に兵員・補給・軍需品輸送にいかほど用いられようとも、そのことだけで「戦略鉄道」あるいは「軍用鉄道」になるわけではない、という点である。各場合における本質的要素は、その線路がいかなる用途に供されているかではなく、それがどのような、あるいは少なくとも主としてどのような目的のために建設されたか、という点にある。同様に、商業線は軍事輸送に用いられようとも、やはり商業線であり続けるし、逆に戦略線は平時にどれほど民間輸送を担おうとも、やはり戦略線であり続ける。
もっとも、このように一般鉄道と戦略鉄道とを区別することが十分に正当化される一方で、前者の増加は、国内輸送施設の改善と、戦時に軍事目的に転用しうる車両の増加という観点から、後者の運用に重要な影響を及ぼしうる。「軍事的観点から言えば」とモルトケ(von Moltke)は1876年3月26日、プロイセン貴族院(Herrenhaus)で述べた。「あらゆる鉄道は歓迎すべきものであり、1本よりも2本の方がさらに歓迎すべきである」。そして彼は、1879年12月17日の別の演説で、この考えを次のように発展させた。彼はこのとき、主要プロイセン鉄道の国有・国営化が軍事上望ましいとする趣旨を述べている。[52]
鉄道は、現代において、戦争遂行に最も不可欠な道具の一つとなっている。大部隊を特定地点へ輸送することは、極めて複雑かつ包括的な仕事であり、不断の注意を払わねばならない。鉄道の新たなジャンクションが一つ増えるだけで、状況は変化する。我々は、建設されたあらゆる鉄道路線を利用する必要はないかもしれない。しかし、利用可能な全車両を活用したくなることはありうるのである。
軍用鉄道と戦略鉄道のもう一つの重要な違いは、前者の建設が主として軍事的要請に基づいて決定されるのに対し、後者の建設は、根本的には国家政策上の考慮から生じる場合が多い、という点である。戦略鉄道は、国防または、逆に国家的膨張の目的に資するために求められる。これらはとくに、国境への迅速な兵力集中を保証するために設けられ、隣国からの侵入を防ぐか、あるいはその隣国ないしはその向こう側の領土に対する侵攻を容易にすることを意図している。戦略鉄道が建設されたという事実は、ときに、軍事輸送手段の増強によって、その国を以前よりもはるかに手強い敵国たらしめることにより、結果として平和の維持に資することさえあるかもしれない。他の諸国や地域の政策判断に影響を与えうるからである。
熱帯植民地においては、「実効的占有(effective occupation)」を示す実際的証拠としての鉄道建設は、軍事征服よりも好ましいものとしばしば見なされる。というのも、多くの場合、鉄道建設は征服と同等の政治的効果をもたらすのみならず、他にも多くの利益をもたらすからである。西アフリカには、こうした種別の鉄道のみならず、将来北中部アフリカからムスリム部族が侵入してくるという、決して不可能ではない事態への予防措置として設計された線路も存在する。このような路線はすべて戦略鉄道に属しつつ、同時に、関係領土の経済的開発を大いに促進する役割を担うこともある。
戦略鉄道は、防御用であれ攻撃用であれ、さらに大別して二つの主な群に分けることができる。(1)一群の線路網を構成するもの、および(2)短距離・長距離を問わず、独立の単一路線として存在するものである。
戦略鉄道のネットワークは、一般に国境と直接関連して存在する。単一の戦略線は、さらに次のようないくつかの群に分類される。(1)国境上あるいはその近傍の一点に向かって伸びる短距離線・支線。(2)しばしば大陸全体を横断するような長距離の単線。(3)動員・集中時に兵力移動を容易にし、また侵攻時の防御目的に資するため、異なる鉄道系統同士を連絡する環状線または短い連絡線。(4)軍用列車の遅延を避けるために都市や大都市を迂回する線。(5)沿岸防衛用の線路。
戦略鉄道網の「理想条件」は、既に1842年のドイツにおいて議論の対象となっていた。その際、ペーニッツ(Pönitz)は、ドイツが自国用の戦略鉄道体系を整備すべきだと提案している。彼によれば、理論家たちは、紙の上で、共通の中心点から放射状に国境の各点へ一直線に伸びる鉄道を設計し、さらにそれらを、幾何学的図形――あるいは彼が付け加えたように蜘蛛の巣――の原理に則った平行線や交差線によって互いに連結する、といった案を描いていた。ペーニッツはこうした構想の優秀さを認めつつ、次のように示唆した。すなわち、もし国境へ向かう複数の線路群が、交通の完全な相互融通を可能とする横線によって連結されているならば、敵はどの点から突然大兵力の前進が行われるかを知ることができないであろうし、また全体系の連結は運行を著しく容易にするだろう、と。
しかし彼は続けて、実際にはこの理想体系を全面的に採用することはできないと指摘した。その理由は一部には、鉄道計画は国土の地形に影響されるものであり、幾何学的な「鉄の道」の設計が許されない場合もあるからである。また一部には、国内の幹線鉄道路線が、すでに民間資本の手によって、軍事や政治よりも社会経済的需要への対応と投下資本に対する利子の回収を主目的として敷設されていたからである。
ペーニッツ自身がドイツに完全な戦略線網を提供するために提出した案においては、彼は可能な限り商業原則と軍事原則の調和を図ろうとした。しかしその後ほとんどの国において、鉄道一般に関する経済的要素の優越がますます顕著になるにつれ、理想的体系が必ずしも実行可能な体系ではないという彼の主張は、いっそう説得力を増した。それでも、前述の幾何学的設計の構想は完全に忘れ去られたわけではなく、状況の許す限り、少なくとも戦略鉄道については採るべき計画として、なおも考慮され続けた。
この問題を扱ったヨーゼフ・ヨーステン(Dr. Josef Joesten)は、その著書『戦時における鉄道利用の歴史と体系(Geschichte und System der Eisenbahnbenutzung im Kriege)』(ライプツィヒ、1896年)の中で、戦時の必要に鉄道体系を応えさせるために理論上・実務上備えるべき条件として、次のような点を挙げている。
- 国家領域の各戦略正面には、それぞれ可能な限り多数の鉄道路線が設けられるべきであり、それらは互いに独立していなければならない。
- 集結基地に終端する収斂線――とりわけ海岸や大水路に至る線――は、数多くの横断線によって交差されるべきであり、これによって各集結線から別の集結線への兵力の迅速な移動が可能となる。
- 戦略的価値を認められている陣地や地点は、これら二種類の線が交差する場所として選定されるべきであり、これらの交差点が国境に近い場合には、それ自体を要塞化して、前進または後退の運動に対する「支点(points d’appui)」として機能させるべきである。
もし、ドイツにおける鉄道建設が最初から完全に国家の手に委ねられていたならば、こうした原則は多くの場合踏襲されていたかもしれない。しかしプロイセンにおいては、1872年以降の国有化政策によって買収された私鉄――その総延長は現在では約1万マイルに達する――は、元来戦略的目的ではなく、西ファーレンやラインラントの産業利益といった経済的目的に奉仕するよう建設されていた。他方、国家は民間資本に見捨てられた東プロイセンに、戦略線のみならず、経済的には魅力の乏しい需要に応える路線を提供する役割を担わされていた。したがって、プロイセン――ひいてはドイツ――の鉄道全体が軍事目的に奉仕するよう設計された、と言うのは誤りである。それにもかかわらず、国有原則の採用は、プロイセンおよび他のドイツ諸邦に対し、戦略線を、あたかも通常の鉄道体系の一部であるかのような形で建設し、また必要とあれば既存線を軍事目的に適合させるうえで、大きな利点をもたらした。
このような事情から、理想的体系に厳格に従うことは実際には困難だった。それでも、ドイツにおいて新設あるいは改造された戦略鉄道路線の規模と範囲が、紛れもなく非常に大きいことには疑問の余地がない。
とくにこの種の活動が顕著になったのは、1870~71年の普仏戦争以降である。実際、過去25年のあいだ、西ファーレンおよびラインラントの商業界は、同地方の鉄道網はいかに多数存在するように見えようとも、産業需要に見合うものではないと繰り返し主張してきた。こうなった理由は、鉄道「利益」を追求する行政当局が、線路の改良・拡張・複線化や車両増備に十分な投資を怠ったことにあった。しかし、プロイセンが国境において大兵力を迅速に集中させるための戦略路線建設に、いささかの消極性も示さなかった、と考える者はまずいないだろう。ゴルツ(von der Goltz)は『戦争指導論(The Conduct of War)』でこう書いている。「隣接国家間の覇権争いは、純粋に軍事的理由から全く新しい鉄道路線を建設させる結果となった。戦略鉄道は、我々の時代の特筆すべき特徴をなしている」。そしていかなる国よりも、この事実をより明確に認識し、より徹底的に実行に移した国は、ドイツであった。
しかし、通常のドイツ鉄道地図――と最近はイギリスの新聞にしばしば転載されている――に基づいて、戦略的観点から情勢を正確に判断しようとするのは、誤りである。これら地図は、しばしば絶望的に旧式である場合がある。たとえば、ある軍事雑誌が1914年秋に掲載した地図には、1900年以降プロイセンがベルギー方面への兵力輸送のために建設した戦略線が一切記載されていなかった。また、それら地図には、軍事輸送に利用される国家所有線と、農業その他の地方目的のためだけに使われる線――多くの狭軌線を含む――との区別が全く付されていない。後者の多くは、国家が一般利益の観点から買収する必要なしと考え、なおも私企業の所有にとどめているものである。
ドイツ鉄道の軍事・戦略面での実態を、より正確に把握するには、1911年にプロイセン公共事業大臣が皇帝に提出した報告書『1900年から1910年におけるプロイセン公共事業の管理(Die Verwaltung der öffentlichen Arbeiten in Preussen, 1900 bis 1910)』に添付されている大型地図(「Kartenbeilage I」)を参照するのがよい。この地図では、国家所有線と会社所有線が明確に区別されており、さらに色分けにより、当該10年間に新線建設または既存線の買収によって国家鉄道体系に追加された路線が示されている。
この地図がとくに強く印象づけるのは、国境向けに建設された無数の鉄道路線、ならびにそれらの相互連絡や交通交換を図る線路に加え、ポメラニアおよび東プロイセンの海岸線に沿って、ほぼ切れ目なく伸びる一連の鉄道が存在するという事実である。この線は、そこからさらに南へ向かい、ロシアおよびロシア領ポーランドとの国境に沿って全域を走っている。かくして、ドイツ側は複数のルートを通じて、バルト海岸またはロシア国境の各所へ兵を送り込めるだけでなく、そのような海岸・国境地点の一つから別の一つへも、望むところへ直行で兵力を移動させ得るのである。
この配列の戦略的意義は、誰の目にも明らかであるが、ヨーステンがこの点に関して行っているコメントを読めば、狙いとした目的について残るかもしれない疑問はすべて解消されるだろう。彼は前掲著書『戦時における鉄道利用の歴史と体系』で、次のように述べている。
「一般的に言えば、最高水準の鉄道は軍隊にとっても優秀な連絡線となる」というのは真実である。しかし同時に、「優れた、あるいは非常に優れた戦略線が、すべての場合において、優秀な商業線であるべきでもなければ、またそうでありうるわけでもない」ということも、同様に真実である。この主張を裏づけるものとして、ポメラニア海岸における膨大な鉄道網を挙げることができる。これらの線路は、戦略的観点からは第一級の重要性を持つが、商業上の観点から見れば、その価値は中程度にとどまる。というのも、それらは国内のどの貨物・旅客輸送の主要供給地とも結ばれておらず、また同程度の需要しか持たない地点同士を結ぶだけの連絡手段に過ぎないからである。
ポメラニア沿岸鉄道についてここで認められていることは、東プロイセン・西プロイセン・シレジアの多くの国境線にも同様に、いやほとんどの線に当てはまる。
さらに、国境へ至ってそれ以上延びない線路の数は、国際交通を提供する線路の数に比べて、明らかに過剰である。先の地図によれば、1900年から1910年の間にプロイセン国有鉄道に追加された路線には、(1)ロシア国境に向かう既存線を相互に結ぶ横断線、(2)国境への代替ルートを提供する線、(3)国境から数マイル内陸を走る線を補完し、そこから国境上の戦略地点へ分岐する支線、などが含まれている。
こうして、東方におけるロシア国境方面に対する精緻な戦略鉄道網の整備が進められる一方で、ドイツはロシア領内へ侵攻する場合に別種の問題にも直面していた。というのも、前者の手段によって国境まで大軍を迅速に集中させる能力は得られるものの、国境を越えた先では、自国の機関車と車両をそのまま走らせられないからである。その最大の理由は、言うまでもなく「軌間の相違」にあった。東方戦線における大兵力侵攻の方法は、このため、西方戦線――そこではベルギー、ルクセンブルク、フランスの鉄道軌間がドイツと同一である――の場合とは全く異なった問題設定を呈していた。
戦争が起これば、ドイツ軍がロシア領内に侵攻し得る段階に達したとき、ロシア側は自軍の機関車と車両を奥地へ退避させるか、さもなくば敵の利用を防ぐために破壊するであろうことは確実であった。したがって、ドイツ側がロシア国内の既存線を利用したければ、あらかじめロシア軌間(5フィート)用の機関車と車両を建造するか、ロシア側の線路をドイツ軌間(4フィート8½インチ)に改軌し、自国の列車を国境の向こう側へ直接乗り入れられるようにする必要があった。既に第61ページで述べたように、広軌を狭軌に縮小する工事は、狭軌を広軌に拡大するよりも技術的困難が少ない。しかしそれでも、相当区間にわたってこの作業を行うとなれば、多大な時間を要する。そのうえ、ロシア軍が退却の際に予想通り線路や橋梁を徹底的に破壊するようなことがあれば、所要時間はなお一層増大する。
さらに、たとえ改軌・復旧の問題を別としても、国境を越える既存線だけに依存していては、ドイツ側にはロシアへの侵攻ルートがごく少数しか与えられず、しかもそのいずれもが、敵の抵抗がとくに激しくなる恐れのある地点に集中してしまう。
これらの事情を踏まえ、ドイツがロシアとの戦争を想定して明らかに計画していたのは、国境を越えた自軍の進撃と同時に、国境線に沿って自国側に敷設した戦略線を、ロシア領内の道路上あるいは開削地上に敷設する軍用軽便鉄道で補完することであった。これにより、ロシア側の通常鉄道に依存する必要がなくなるとともに、(1)この狭軌軍用線は、粗削りな工法で当面の目的さえ果たせればよいものであるだけに、ロシア幹線の改軌・復旧にかかる時間より遥かに短時間で敷設でき、(2)これら軍用線は、ドイツ戦略線から直接到達可能であり、既存道路があるか、あるいは容易に道路を開削できるような国境上のあらゆる地点から、ロシア領内へ向けて敷設を開始しうる、という利点があった。
この推測に照らしてみれば、ロシア国境から数マイル内陸を並行して走るドイツ戦略線から分岐し、国境に達したところで突然途切れる短距離線の存在理由が、より明瞭に理解できる。おそらく、これらの終端地点こそが、ロシア領内に敷設される軍用鉄道の起点となるはずであった。
用いられる鉄道路線の型式と、それを供給・建設するために事前に行われた準備については、アメリカ人作家ロイ・ノートン(Roy Norton)の証言がある。彼はオックスフォード大学出版局刊行の「オックスフォード・パンフレット 1914–15」の一つ『平和の男(The Man of Peace)』の中で次のように述べている。
今年(1914年)2月14日、私はケルンにいて、うっかり足を踏み入れてはならない場所――軍需品置き場だと後で知った――に迷い込んだ。そこには、他の興味深い品々と並んで、小さな機関車がボギー貨車の上に積まれていた。それらは、我々アメリカ人がレールと呼ぶ金属製の巧妙な仕掛けを使って、その貨車からすぐに走り降りることができるようになっていた。また、他のボギー車には、地表にそのまま敷くことのできる枕木(cup ties)で固定された線路のセクションが積まれており、別のボギー車には小型橋梁のセクションが積まれていた。必要な人員さえいれば、どこにでも信じられないほどの短時間で、臨時鉄道路線――橋梁を含め――を敷設できることを、私は目の当たりにした……。私が詳しい観察を終える前に、そこが「立入禁止(verboten)」区域であることに気づかされたが、私を外へ導いた役人は、私が見たものは「建設用装備一式(construction outfits)」だと教えてくれた。
ノートンはさらに、戦争勃発時にドイツに足止めされていたオランダ人難民から最近届いた手紙の一節を引用している。このオランダ人は1914年8月30日に帰国した。
私は、ある国がこれほどまでに徹底的に戦争の準備をした例を知りません。私が目にした最も奇妙な光景の一つは、戦場の背後で行われていた鉄道敷設でした。ドイツ人たちは、小さな機関車と、ボルトで繋ぎ合わせられるセクション状のレールを持っており、さらには、谷間を一瞬にして渡れるような橋まで持っていました。手で運んで線路に載せられるフラット・カーが、何両もの列をなしていました。通常の鉄道によって、この小さな鉄道一式が、戦場の至近距離まで運ばれてくるのです……。私には、何百人もの男たちがこの任務のために訓練されているように思えました。わずか数分のうちに、その小さな可搬式列車が、自前の小さな可搬式線路の上を、物資や補給を運んで頻繁に行き来し始めたのです……。戦場では、こうした頑丈な小さな列車が、時速20マイルほどの速度で、部隊を重要地点や危険な地点へ移動させることができるだろうという印象を私は持ちました……。戦場用の可搬鉄道というものは、私がこれまで耳にしたものの中で、戦争を「機械化」するという観点から、最もそれに近いもののように思われました。
こうした証言から、ロシア=ドイツ国境に関して、次のような結論を合理的に導きうる。(1)ロシア鉄道の広軌は、いざドイツ軍がロシア領内へ侵入する段になっても、何ら実質的な障害とはならない。(2)ドイツ側は、事前の準備により、ロシア領内の通常道路に沿って、あるいは新たに開削した路線に沿って、あらかじめレールと枕木を一体化したセクションとして用意された狭軌軍用線を敷き並べ、それらセクション同士をボルトで接続するだけで直ちに使用可能にすることができる。(3)このように、ロシア領内に建設される可搬軍用鉄道は、ドイツ東部国境沿いの戦略鉄道網を補完し、その効率をさらに高める意図をもって設計されていた。
南シレジア(southern Silesia)では、1900~1910年のあいだにオーストリアとの鉄道連絡が大きく改善された。国境線へ至る路線との新たな接続が設けられ、内陸諸点からの代替ルートが整備されたほか、従来国境まで到達していなかったいくつかの路線も延長され、国境を越えてオーストリア側の線路と接続された。
フランスとの関係において、ドイツが同国の東および北東国境への鉄道連絡をさらに改善しようとした努力は、1870~71年の戦争以来一貫している。普仏戦争に際し、ドイツは既に大きな優位に立っていた。なぜなら彼女は東部国境へ自軍を9本の異なるルート――すなわち北ドイツに6本、南ドイツに3本――で集中させることができたからであるのに対し、フランス側は利用可能な鉄道路線を3本しか有していなかったからである。ドイツがその後採ってきた方針は、(1)フランス国境へのルート数を増やすこと――たとえば南ドイツの3本の線を6本に増やすこと――。(2)国境に通じ戦略的重要性を持つ線路に複線を敷き、あるいは単線を複線に置き換えること。(3)フランス国境へ向かう直行線を横断する線路を建設し、相互連絡と輸送の振替を可能にすること。(4)戦時における軍事輸送を容易にする目的から、国内鉄道網全体を改善することであった。ヨーステンは「我々の鉄道はライン川を19か所で横断しており、東西方向の兵士輸送には16本もの複線が利用できる。これは、1870年の集中時に利用可能だった9本と比べれば大きな差である」と述べている。
フランスのただ中にある国境でこの種の活動を展開する一方で、ドイツは新たなフランス侵攻のための代替ルートの整備にも熱心であった。この追加方針の採用は、フランス自身が北東国境の防備強化に見せていた精力的努力に明らかに刺激されたものであった。
こうした代替ルートの一つがルクセンブルク(Luxemburg)であった。ドイツはルクセンブルクの北・南・東に自国線を持っていただけでなく、大公国域内の線路そのものもドイツの管理下に入っていた。そのため、ドイツが条約義務を無視して戦略的目的にこれらの線路を利用することを決意した場合、ルクセンブルクにはそれを防ぐ力がなかった。
別の代替ルートはベルギー(Belgium)を経るものであった。1908年以降、ベルギー国境におけるドイツ鉄道政策における諸展開は、ドイツが同国への侵攻を周到に準備していたことを、極めて明白な形で示している。それはまた、要塞化の著しい北東隅を避け、より脆弱なフランス領へ抜ける手段として通過路として利用する目的であったか、またはベルギー自体に対する作戦のためであったか、あるいはその両方であった。
こうしたドイツの活動経過については、デメトリウス・C・ボルジャー(Demetrius C. Boulger)氏が『フォートナイトリー・レビュー(Fortnightly Review)』誌に執筆した一連の論文の再録本『イングランドの宿敵――過去16年間のドイツ政策に対する弾劾を成す諸論考(England’s Arch-Enemy: A Collection of Essays forming an Indictment of German Policy during the last sixteen years)』(ロンドン、1914年)[53]に詳細に記されている。
物語は、1896年ごろにドイツがエルゼンボルン(Elsenborn)に演習キャンプを設置したところから始まる。エルゼンボルンはマルメディー(Malmédy)の北東約10マイルに位置し、後者はベルギー国境にほど近く、ベルギー領スタヴロ(Stavelot)から約4マイルの地点にある。当初このキャンプは小規模で、設置当時、プロイセン当局はその立地について戦略的意味はないと説明していた。しかしその後、規模・重要性ともに着実に拡大していき、その位置・性格・周辺状況から、それが防御ではなく、むしろ攻勢のための施設であることが強く示唆されるに至った。
初めキャンプへ向かうには、アイフェル地方のケルンとトリーア(Treves/Trier)間の線路と接続する軽便鉄道上の駅ヘレントハール(Hellenthal)から、約14マイルの道のりをたどる必要があった。しかし1896年、アイフェル地方を通るアイスラー・シャペル(Aix-la-Chapelle、現アーヘン)発の軽便鉄道が、ベルギー国境に沿って50マイル南東のサン・ヴィト(St. Vith)まで建設された。この線路の主目的は、エルゼンボルン・キャンプへのソウルブロート(Sourbrodt)経由の接続を改善することだと説明された。しかしやがてこの線はトロワ・ヴィエルジュ(Trois Vièrges、独名ウフリンゲンUflingen)まで延長され、そこでルクセンブルク大公国鉄道およびベルギー本線――ペパンステル(Pepinster)からスパ(Spa)、スタヴロ、トロワ・ポン(Trois Ponts)およびグヴィ(Gouvy)を経てトロワ・ヴィエルジュに至る線――と接続した。トロワ・ポンからはリエージュ(Liége)への直通ルートがあり、グヴィはトロワ・ヴィエルジュからわずか数マイルの地点にあるが、ここからはブリュッセルからメスおよびアルザスへ向かう本線上のリブラモン(Libramont)、およびディナン(Dinant)からルクセンブルクへとフランス国境にほぼ並行して伸びるベルギー線の中央ジャンクションであるベトリクス(Beatrix)へ向かう分岐が出ている。
ベルギー国境に沿って延びるこの単線――ならびにヴァイスムス(Weismes)からマルメディーへ至る軽便支線――は、人煙まばらで開発の進んでいない地帯にあって、わずかな交通需要を満たすには十分であった。しかし1908年、プロイセン政府は突如として、何ら明白な理由も見当たらないのに、まずヴァイスムスまで、ついでサン・ヴィトまで、この線路を複線化することを決定した。複線化には、もともと単線用に設計・築造されていた高い盛土の拡幅も含まれており、当地域の交通量はほとんど増加していないことを考えれば、数年前には複線の必要など想像もしていなかったことが分かる。さらに注目すべきは、第二線路の敷設に加え、中継駅の側線設備が極めて大規模に設けられたことである。それら駅はわずか十数軒の小屋しかないような集落にあるにもかかわらず、その総延長は一個軍団をまるごと収納し得るほどの列車長を収容できるものであった。ある駅には長さ約500ヤードの側線が3本設けられ、別の駅には、少なくとも半マイルに及ぶ2本を含む、完璧な側線網が構築され、そのうちいくつかには転車台[54]まで装備されていた。
列車本数の少ないこれら地元駅――普通貨物といえばたまに到着する石炭車程度――に、これほどまでの側線設備が必要となる用途は一つしかない。それは明らかに、Aix-la-Chapelle(アーヘン。動員時にはプロイセン軍の重要な集中拠点)やその他の地点からの大兵力を、マルメディー支線の分岐点であるヴァイスムス近傍に集結させ、ベルギー侵攻に備えることであった。ヴァイスムスまでの複線化は1909年5月に完了し、その後サン・ヴィトおよびトロワ・ヴィエルジュまで延長された。
しかしここまでに述べたのは、あくまで物語の「第1章」に過ぎない。第2章は、プロイセン政府が、ヴァイスムス=マルメディー支線を、国境を越えてスタヴロまで延長する「軽便鉄道」として新たに敷設しようとしたところから始まる。スタヴロはトロワ・ポンから東へ3マイルの地点にあり、この延長によって、アーヘンおよびエルゼンボルン・キャンプからリエージュ、ナミュール(Namur)、ルーヴァン(Louvain)、ブリュッセルへの短絡ルート、およびリブラモン、ベトリクス、フランス北部方面へ向かうグヴィへの第二ルートが得られるはずであった。
ドイツ人たちは、強力な働きかけを行った結果、ベルギー政府に対しヴァイスムス=マルメディー支線のスタヴロまでの延長に同意させただけでなく、その連結区間の大部分を自ら建設させ、さらにスタヴロ北方にトンネルを掘削させることにまで成功した。このトンネルがなければ、鉄道は同市へ到達しえなかったはずである。
当然のことながら、この連絡線――1913年10月開通――が通常交通の利益のために必要とされていたとは到底言えない。というのも、同区間の需要は、マルメディーとスタヴロとの間を一日二往復する乗合馬車で十分に満たされていたからである。実際に狙われていたのは、ベルギー鉄道網との連絡路の方であり、これによって、先に述べたアーヘン=サン・ヴィト線の長大な側線群に集結した部隊を、ベルギーあるいはルクセンブルク国境、ひいてはフランス北部国境に向けて、連続的な大軍輸送が行えるようにすることにあった。
こうしてドイツの要求を飲み、この連絡線の建設を助けたベルギーは、その後の展開が示したように、自らの墓穴を掘らされたも同然であった。しかし記録によれば、「ベルギーはこの件その他諸般の問題で、支援のないまま抵抗することはできず、またいかなる支援も得られなかったために屈服した」のである。マルメディー=スタヴロ間連絡線を「軽便鉄道」と呼ぶことで、潜在的な疑念を和らげる試みがなされたことも確かである。さらに、その基底となるヴァイスムス=マルメディー支線の線路条件からして、そこが大量輸送に適さないことも明らかであった。しかし、このいわゆる「軽便鉄道」は、国境の両側の幹線と同じ軌間で建設されており、その運転規程上、線路上での最高速度は、本来の軽便鉄道に認められる時速16マイルに対し、40マイルまで許容されていた。そしてこの連絡線が開通するや否や、ドイツは軍用輸送に際して、欠陥の多いヴァイスムス=マルメディー支線を捨て、マルメディーからウェイヴェルツ(Weywertz)――ヴァイスムスの北または北東に位置する駅――への新線を建設した。このマルメディー=ウェイヴェルツ線は、専ら軍用輸送用に使用されると理解されており、ウェイヴェルツ駅は、両方向に軍用列車を大規模に収容できる長大ホームと側線群を備えるに至った。
物語の第3章では、ベルギー国境至近で生起していたこれらの動きが、実はより広範な計画の一環に過ぎなかったことが明らかになる。ただし、その最終的目的は依然として同一であった。すなわち、ドイツ軍によるベルギー侵攻を、可能な限り円滑かつ短時間で実現することである。
ウェイヴェルツからは、ベルギー鉄道全体への新たな接続点であるスタヴロ方面と連絡するジャンクションとして、ユンカラート(Jünkerath、ゲロルシュタインGerolstein北方)までの新線が敷設された。ゲロルシュタインは、ケルンとトリーアを結ぶ路線のアイフェル地方にある駅である。さらに、ユンカラート北方のブランケンハイム(Blankenheim)、およびその南方のリッセンドルフ(Lissendorf)から、既存のレーマーゲン=アーデナウ線(Remagen–Adenau line)上のディュンペルフェルト(Dümpelfeld)で合流する複線新線が、1912年7月に開通した。これによって、ライン河畔からアイフェル地方を横断しウェイヴェルツへ、さらにスタヴロ経由でベルギー、ルクセンブルク、あるいはフランス北部国境方面へ兵力輸送できる直通ルートが形成された。
このライン河畔からベルギーへの直行ルートには、兵をケルン市内経由で輸送する必要がなくなるという追加利点もあった。さもなければ、同市周辺で大きな混雑が生じかねなかったからである。この新ルートは、アーヘン=ウェイヴェルツ線を、ケルンおよび西ファーレン方面からの兵力輸送専用に明け渡す効果ももたらした。また、レーマーゲンにおけるライン横断施設がさらに改善された結果、中央ドイツ各地からベルギーおよびその先への輸送にとって、同地点はますます利用しやすくなった。
プロイセン国有鉄道の公式地図を見ると、さらに次の点が分かる。(1)コブレンツ(Coblenz)からマイエン(Mayen)までの新線が敷設されている。マイエンはライン河畔アンデルナハ(Andernach)からアイフェル地方のゲロルシュタインへ至る既存線上の駅であり、ここからベルギー国境へはユンカラートおよびウェイヴェルツ経由、あるいはラマースヴァイラー(Lammersweiler)およびルクセンブルク領トロワ・ヴィエルジュ経由の二つのルートが利用できる。(2)コブレンツ=トリーア線上のヴィットリヒ(Wittlich)で終わっていた短い支線が、アンデルナハ=ゲロルシュタイン線上のダウン(Daun)まで延長されている。(3)アイフェル地方に他にも小規模な新線がいくつか建設され、ベルギー国境への兵力集中をより容易にしている。
こうしてマルメディー=スタヴロ「軽便鉄道」は、ベルギー方面へのドイツ新線群すべての存在を踏まえれば、きわめて重大な戦略的意義を持つ路線となった。物語の第4章(本書では詳述しない)が示すのは、この精力的・徹底的に整備された戦略線網が、1914年の開戦直後からどのように稼働を開始し、それ以降、ドイツ軍によるベルギーおよびフランス北部への大規模兵力往来の主動脈の一つとなったか、という点である。
オランダ(Holland)との関係では、ユーリッヒ(Jülich、ケルン=アーヘン本線上デューレンDürenからの支線で到達)の駅から、ケルンからライド(Rheydt)を経てロールモント(Roermond)に至る直通線上のドイツ国境駅ダルハイム(Dalheim)へ向かう新線が建設された。ロールモントはマース川右岸に位置し、同地では2本の橋が川を渡っている。その先、線路はベルギー領モル(Moll)とヘレンタルス(Herenthals)を通り、平坦なカンピーネ(Campine)高原を抜けてアントウェルペン(Antwerp)へ至る。
この線は、ケルンおよびアーヘンからダルハイムへの部隊輸送にとって明らかな代替ルートを提供する。しかしそれ以上に重要なのは、ボルジャー氏が前出『フォートナイトリー・レビュー』論文で述べているように、この新線がダルハイム自体にもたらした変貌である。すなわち、ダルハイムは「重要性の低い停車場」から、「オランダ国境上のきわめて重大な戦略的集中地点」へと姿を変えたのである。
ダルハイムからロールモント、さらにアントウェルペンへの線路は既に複線化されていたため、ダルハイムでの工事は、おもに側線設備の大幅拡充に限られた。ベルギー国境の場合と同様、ここでも多数の兵力を集結させ、必要とあればオランダ本土侵攻、あるいはオランダ南東隅を迂回してベルギーへ侵入するための出発点としうるようにすることが目的であった。
ダルハイムでは、長さ約4分の1マイルの側線が高い築堤上に設けられた。そして他の交通を妨げることなくこの側線に出入りできるよう、ダルハイム駅の東方で本線が通過する橋梁は、第三線路を渡せるよう拡幅された。ダルハイム駅隣接の他の側線には、なんと10本もの平行線が敷かれ、さらに同駅西方、オランダ国境方向にも追加側線が設けられた。ダルハイム東方のウェークベルク(Wegberg)とライドにも側線が増設され、それらもまた純軍事的目的以外には到底必要とは思えぬものであった。
ボルジャー氏は1914年2月号の論文で、ベルギーおよびオランダ両国境の状況を次のように総括している。
「トリーアからナイメーヘンに至る弧(メス背後ザール地方における主集中線と呼ばれるものは論外として)において、ドイツ陸軍省は、オランダ・ベルギーおよびルクセンブルク大公国を横断する14本の別個のルートに沿って、同時進撃を行えるよう準備している。」
以上の事実を踏まえれば、ドイツが1914年に自ら引き起こした戦争のために、長年にわたりどれほど綿密かつ広範な準備を重ねてきたかについて、疑いの余地はないだろう。だが、ここでわれわれがとくに注目すべき点は、その準備の中で、戦略鉄道の新設または既存線の戦略目的への転用が、いかなる比重を占めていたか、ということである。
ベルギーおよびオランダを離れ、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)地方のプロイセン国有線に目を向けると、1910年時点で建設済みまたは建設中の新線が公式地図上に示されている。この線は、バルト海に面するカイザー・ヴィルヘルム運河(Kaiser Wilhelm Canal)河口のホルテナウ(Holtenau)を起点に、短距離でキール(Kiel)に達し、そこで西に向きを変え、デンマークへ向かうノイミュンスター=ヴァンドルップ(Neumünster–Vandrup)本線と接続したのち、運河を横断してフーズム(Husum)へ至る。フーズムはアルトナ=エスビャウの西海岸ルート上のジャンクションである。この新線は、明らかにキールからの部隊輸送を容易にし、カイザー・ヴィルヘルム運河防衛や、その北方への上陸侵攻への対抗に戦略的利点をもたらすものであった。
さらに、キールからエッカーンフェルデ(Eckernförde)を経てフレンスブルク(Flensburg)に至る既存線――ノイミュンスター=ヴァンドルップ線上の駅であり、キールからトンデルン(Tondern)、ホイヤー(Hoyer)へと西海岸に通ずる――は、「国有化」されてプロイセン鉄道体系に編入された。そしてフレンスブルク北方の二駅からトルスビュル(Torsbüll)で合流し、リトルベルト(Little Belt)西岸のアルゼナー・ズント(Alsener Sund)へ至る短距離新線が敷設された。これらは、バルト海北隅およびデンマーク領フューネン島(Fünen)近傍においてプロイセンの戦略的位置を強化するうえで、一定の価値を持ちうるものと考えられる。
最後に、近年ドイツ本土内の国有鉄道体系には多数の新線が追加された。これらの多くはドイツ国民の増大する経済・社会的需要に応える目的で提供されたものと推測されるが、その中には、次のような目的を持つ戦略線と見なすべきものも少なからず含まれている。すなわち、(1)戦争勃発時の兵力動員を容易にすること。(2)予め詳細に計画されたルートに沿って、帝国内のあらゆる方面から前線への兵力集中を図ること。(3)複数の戦線で同時に作戦を行う場合に、兵力をある国境から別の国境へ迅速に横移動させることである。
ドイツがアフリカその他の地域において、世界政策(Weltpolitik)の推進手段として戦略鉄道をいかに活用したかについては、次章および次々章で扱うこととする。
注
[52] 『モルトケ全集(Gesammelte Schriften)』ベルリン、1891年ほか。
[53] ここで特に問題となる論文は、「エルゼンボルンの脅威(The Menace of Elsenborn)」(『フォートナイトリー』1908年7月)、「ドイツの計画に関する一つの教訓(An Object Lesson in German Plans)」(1910年2月)および「ドイツの計画に関するさらなる教訓(A Further Object Lesson in German Plans)」(1914年2月)である。
[54] それらは「油圧転車台(hydraulic turntables)」であった、とスチュアート=スティーヴンス少佐は述べている。『イングリッシュ・レビュー』1915年6月号参照。
第十九章
ドイツ=アフリカ帝国
南西アフリカにおける戦略鉄道は、ドイツがイギリス領南アフリカを征服するという企図を実現するための手段として建設された。しかしこれらは、アフリカ大陸全域を一つのドイツ=アフリカ帝国へと変貌させ、それをインド帝国に匹敵する、あるいは輝きにおいては及ばずとも価値においては比肩しうる存在たらしめようとする、はるかに大きな計画の一部に過ぎなかった。
ドイツにおいて植民協会(Kolonisationsgesellschaften)が設立され始めたのは、早くも1849年のことである。ただし当初、彼らが目標とした地域は、主としてブラジル、テキサス、モスキート海岸(Mosquito Shore)、チリおよびモロッコなどであった。しかしこのような土地はいずれも、そこに移住したドイツ人が、既に領有している「ある程度文明化された」列強のもとで外国人居留民として生きることしかできない、という欠点を持っていた。[55] 19世紀60年代から70年代にかけて、ドイツ国内の関心は、次第にアフリカ大陸そのものへと向けられるようになった。そこには、まだいかなる文明国の支配下にもない、広大な土地が残されており、そこに植民地を建設し、さらには領土として獲得することが可能であると見なされたからである。こうして次々とドイツ人探検家がアフリカ各地を踏査し、その旅の記録を公にした。これらは単に地理学への貢献としてのみならず、当時はやや冷淡とも言える態度をとっていたドイツ世論に対し、アフリカ大陸に「足場(footing)」を築くことの重要性を説く目的も持っていた。1873年には、「赤道アフリカ探検ドイツ協会(Deutsche Gesellschaft zur Erforschung Äquatorial-Afrikas)」が創設され、その後1876年には「ドイツ・アフリカ協会(Deutsche Afrikanische Gesellschaft)」が結成された。後にはこの二団体は統合され、「ベルリン・アフリカ協会(Berliner Afrikanische Gesellschaft)」の名を冠するようになった。
しかしほどなくして、アフリカにドイツ人移住者を定住させ、ドイツ国家に「足場」を持たせるというだけではない、はるかに野心的な計画が水面下で進められている兆候が現れ始めた。
1880年当時、ケープ植民地総督兼南アフリカ高等弁務官であったバートル・フレア卿(Sir Bartle Frere)は、エルンスト・フォン・ヴェーバー(Ernst von Weber)が『地理学ニュース(Geographische Nachrichten)』誌に寄稿したばかりの記事の翻訳を、キンバリー卿へ送付した。そしてその際、「この記事は、普仏戦争以前からドイツの商業・政治界で頻繁に議論されていた『南アフリカにドイツ植民地を建設する』という計画に賛成する、明快で説得力のある論考であり、さらには1870~71年の『科学調査団』名目で南部および東部アフリカを訪れたドイツ使節団の、直接的動機の一つであったとも言われている」と書き添えた。
しかしフォン・ヴェーバーの構想[56]が目指していたのは、単なる「ドイツ植民地」ではなく、「ドイツ帝国 in Africa」とも呼ぶべき存在の建設であった。彼はこう書いている。「おそらくはインド帝国にも劣らぬほど価値と栄光に満ちた新帝国が、中央アフリカの新発見領域には待ち構えており、それを獲得しうるのは、それだけの勇気・力・知恵を備えた大国のみである」。そして彼は続けて、(1)なぜその大国がドイツでなければならないのか、そして(2)ドイツはいかなる手段によって、最終的に全地域の支配権を得ることができるか、を論じた。
その手順は、まずトランスヴァール北方一帯にドイツ商館を設置して足掛かりを築くことであった。次いで、ドイツ移民を南アフリカ全域に大量に流入させる。南アフリカ各地に広がるボーア人は、すでに言語や生活習慣においてドイツ人と近い関係にあり、彼らは英国の支配を嫌っている。そのため、フォン・ヴェーバーの見立てによれば、彼らは北方へ移住し、ドイツ植民地の保護下に入ることを選ぶに違いない、というのである。いずれにせよ、「ドイツ人の継続的な大規模移住は、やがてドイツ人がオランダ系住民に対し人口的優位を占める結果をもたらし、それ自体が平和的かつ自然な形で、同地域のドイツ化をもたらすだろう」。彼はさらにこう述べる。「北方における、この自由で制限なき併合余地、すなわちアフリカの中心部への開かれた通路こそが、今から4年以上も前、私に『ドイツはデラゴア湾を獲得し、その後トランスヴァールへのドイツ移民の流入を継続することで、この国に対する将来の支配権を確保し、それによって将来のドイツ=アフリカ帝国の礎を築くべきだ』という構想を抱かせた主たる原因であった」。
この計画においてとられるべき方策は、(1)中央アフリカであれ沿岸部であれ、ドイツが獲得しうるかぎりの領土をアフリカで獲得すること。(2)ボーア人と協調し、その共和国群をドイツ宗主権下に置く方向へ誘導すること。そして(3)イギリスの影響力を打倒し、その代わりにドイツの覇権を打ち立てることであった。
これらの理念はドイツ国内で広く受け入れられるようになり、帝国政府の植民政策の根幹となるとともに、同政策の展開が背負うことになる巨額の負担に対して、国民をある程度納得させる役割も果たした。
ドイツ領南西アフリカ
これら長期的願望の達成に向けた最初の実際的な一歩は、ブレーメンの商人アドルフ・リューデリッツ(Adolf Lüderitz)によって踏み出された。彼はドイツ植民協会の後援を受け、また外務省から保護の約束を取り付けたうえで、1883年4月、ナマクアランドとダマラランドの間、南アフリカ西岸のアンゴラ・ペケーニャ湾(Angra Pequeña)に商館を設立した。同地はオレンジ川(Orange River)――ケープ植民地北境――の北約150マイルに位置している。リューデリッツは、アンゴラ・ペケーニャの背後地215マイルにわたる領域をあるホッテントット酋長から取得し、植民地にドイツ旗を掲げた。こうしてドイツ初の海外植民地が誕生した。続いて追加の土地譲渡が行われ、1884年9月には、ドイツ政府は、南緯26度からケープ・フリオ(Cape Frio)に至る西海岸――1878年にイギリス領と宣言されたワルフィッシュ湾(Walfisch Bay)を除く――が、ドイツ皇帝の保護下に入ったと通告した。1890年の英独条約により、ドイツ南西アフリカ保護領の境界は、南はオレンジ川およびケープ植民地、西は大西洋、北はポルトガル領アンゴラ、東は英領ベチュアナランドと定められ、さらに北東隅からザンベジ川(Zambezi)へ通じる「カプリヴィ広東(Caprivi Strip)」――ヴィクトリア瀑布北方の一地点までの細長い通路――が付加された。[57] この保護領の総面積は約322,200平方マイルであった。
新保護領は当初、余剰人口をドイツ国旗の下で繁栄させる入植地としては、あまり魅力的なものとは見なされなかった。なぜなら、その900マイルにわたる海岸線には、英領ワルフィッシュ湾以外に良港と呼べる場所がなく、ドイツ人植民者が頼るべきスワコプムント(Swakopmund)やリューデリッツブヒト(Lüderitzbucht)は、当時ほとんど外洋路湾(open roadstead)にすぎなかったからである。内陸の広い部分は、干ばつに悩まされる砂漠が広がっていた。ダマラランドとナマクアランドにおける年間平均降雨量はおよそ3インチにすぎない。ある地域では、5年から6年にわたり一滴の雨も降らないことが知られている。沿岸の一部における年間降雨記録では、12か月間に合計0.2インチ(1/5インチ)しか降らなかった例もある。ワルフィッシュ湾の英居留地は、飲料水をケープタウンから輸入していた。カラハリ砂漠へと徐々に高度が増す一連の高原の上部では、気候条件はやや良好であり、北東部では降雨も比較的多く、穀物の栽培が可能であり、また他の地域では牧畜にも適していた。さらに後年、オタヴィ(Otavi)地区――スワコプムントから約400マイル内陸――では銅鉱床が発見され、1908年にはリューデリッツブヒト東方でダイヤモンド鉱床が発見され、その初年度収益は100万ポンド近くに達した。しかしドイツ国内では、この保護領は主として、アフリカにおける将来のドイツ=アフリカ帝国建設に向けた基地としての利点ゆえに、望ましい獲得地と見なされたのであった。
ヘレロ人蜂起
このような大きな目的の達成は、1903年から1907年にかけてのヘレロおよびホッテントットの反乱鎮圧に関連して、さらに一歩前進するかのように見えた。鎮圧のため本国から派遣された増援部隊は次第に大規模なものとなり、ある時期には保護領内に1万9千名に及ぶ兵士が武装していたとされる。彼らは、ポンポン砲、山砲、野砲および各種マキシム機関銃を豊富に伴っていた。『外国軍事評論(Revue Militaire des Armées Étrangères)』誌は、「ドイツ軍縦隊は通常よりも異常に大きな砲兵比率(概ね騎馬歩兵3個中隊に対し砲兵2個中隊)を有しており、ヘレロ人がまったく砲兵を持っていなかったことを考えれば、これほどの砲が必要だったとは到底考えがたい」と評している。[58] 同誌はさらに、「砲兵はおそらく完全に省略することも可能であったろう。そうすれば縦隊の機動性は一層高まったはずである」と付け加えた。
鎮圧に要した軍事措置は、戦場の地形が険しく、ドイツ側の損失も約5千名に達したことを勘案しても、やや過剰であったように思われる。しかしこの政策の真の意義は、蜂起がドイツ流の徹底した手段によって鎮圧された後も、なお相当数のドイツ兵が同植民地に留め置かれた点にあった。
この措置は、ドイツ国内においてすら注目と批判を浴びた。鎮圧に3千万ポンドもの費用をかける価値があるのか、という疑問が既に持ち上がっていたからである。しかし、なおも同植民地に残された多数のドイツ軍は、別の方向――すなわち、英領南アフリカ征服と、最終的にはアフリカ大陸全体からの英国勢力の駆逐――に用いる機会が訪れたときのために、現地に常備されているのだ、ということが明らかになった。
この種の継続的な野望と、その実現に向け現地兵力が期待されたことについての証拠は、いくつかの方面から得られている。
1905年に『新南アフリカ(Das neue Südafrika)』という題で刊行された416ページの著書において、パウル・ザマッサ博士(Dr. Paul Samassa)は、南アフリカ開拓におけるドイツ人の役割を強調し、ドイツ人とボーア人との近縁関係と感情的親和性を指摘した。そして彼は、南アフリカが「ドイツ民族の将来の移住地」として開かれていくことを、両者が共に期待すべきだと述べたうえで、さらに次のように記している。
「ドイツ領南西アフリカは、現代の世界政策(Weltpolitik)の観点から見て、我々の手に握られた強力な切り札(starke Trampffkarte)である。イングランドでは、近ごろわが艦隊が手に負えなくなる前に撃滅してしまえば、彼らにとってどれほど有利か、という議論が盛んに行われている……。我々としては、これに対抗して、イングランドにおける好戦派の熱を冷まし、平和派を強めるために、こう指摘してやることができる。たとえドイツにとってこの戦争がどれほどの損害を伴うものであっても、イングランドはそれ以上の危険――すなわち南アフリカ喪失の危険――を冒すことになる、ということである。ドイツ領南西アフリカには、今日すでに約1万2千の部隊がおり、その半数はかなり長期間同地に留まるだろう。ドイツとイングランドの間に戦争が起きた場合、南アフリカ沿岸は当然イギリスによって封鎖されるであろう。そのときわが部隊に残された選択肢は一つ、補給のためにケープ植民地へ進むことである。」
彼の論理によれば、その際には、南アフリカ戦争終結時点で対英兵力1万4千名を擁していたボーア側の支持を当てにできる。これに対し、英領南アフリカの英国軍駐屯兵力は2万名を超えない。このようにザマッサ博士はイギリス国民に向かって、「英独戦争がいかに計り知れない冒険であるか、海軍優勢にもかかわらず、よく考えるべきだ」と警告している。
1906年2月、ライヒスターク(帝国議会)での演説において、レーデボウア議員(Herr Ledebour)は、ドイツ領南西アフリカ軍司令官であったフランソワ少佐(Major von François)が、3か月前に刊行した著書『ナマおよびダマラ(Nama und Damara)』の中で、「同植民地の治安維持には1千名未満の部隊で十分である」と述べている点に言及し、次のように付け加えた。「過去2年間、想像力豊かな汎ドイツ主義者たちは、『世界政策』の名のもと、南西アフリカに大兵力を常駐させる必要がある、という考えを広めてきた。英本国に圧力をかけ、最終的にはケープ植民地侵攻に備えるためである。」
また『ロンドン・マガジン(The London Magazine)』1910年11月号に掲載された「英国企業におけるドイツ人事務員(German Clerks in British Offices)」という記事の中で、「ある英独二重国籍者」は、次のようなエピソードを語っている。
つい最近ドイツを訪れた際、私は、通商防衛同盟(Commerce Defence League)の中心的人物であることを知っている人物から、彼の友人として紹介された。その友人は、ドイツ領南西アフリカから戻ったばかりであった。後日、この紳士と再会した折、私は彼に話しかけ、その地域でのドイツの進展状況についていくつか質問した。彼は率直に答えた。開発はほとんど進んでおらず、今後も大きな進展は期待されていない。人と金は惜しげなく投じられているが、現時点では何の見返りも得られていない。南西アフリカの海岸線で唯一の良港(ワルフィッシュ湾)は英国領であり、その沿岸に点在する価値ある島々もまたすべて英領である。
「では」と私は当然の疑問を口にした。「なぜドイツ人は、そんな場所の占領を続けているのですか。」
彼はずるそうに微笑んだ。
「我々ドイツ人は、ずっと先を見ているのです、友よ」と彼は答えた。「我々は南アフリカにおける英国の没落を予見し、現地に陣取っているのです。我々の優れた同盟の先駆者たちのおかげで、我々の計画はすでにすべて整っている。同盟は計画に資金を供給し、帝国政府は軍事力を提供している。割譲によってであれ、別の形であれ、ワルフィッシュ湾はほどなくドイツ領となるだろう。しかしその時が来るまでは、英国の自由貿易が我々の進出を妨げることはなく、我々は誰にも邪魔されずに目的を追求できるのだ。」
「しかし、その目的とは何ですか」と私は、彼の話をもっと引き出すべく尋ねた。
「あなたほどの方が、説明を要するほど鈍感だとは思いませんがね」と彼は答えた。「ドイツは長らく南アフリカを将来の自国領と見なしてきたのです。いずれ必然的なことが起こり、英国が他の場所で手一杯になる時が来れば、我々は合図とともに直ちに行動を起こす準備ができています。その時、ケープ植民地、ベチュアナランド、ローデシア――これらすべての国境地帯は、熟した果実が落ちるように、我々の手の中に転がり込むでしょう。」
しかし、ドイツがこうした行動にいつでも着手できるようにするには、現地兵力の駐留に加えて二つの要件が不可欠であった。すなわち(1)同植民地に、ケープ、ベチュアナランドおよびローデシアのいずれにも十分接近した位置に鉄道網を整備すること。(2)軍事的準備全体を、いかなる緊急事態にも即応できるほど完全なものとしておくことである。
ドイツ領南西アフリカの鉄道
鉄道が必要不可欠であった理由は、単に移動すべき距離が相当の長さに及んだというだけでなく、兵員や補給物資の輸送にとって重大な障害となる砂丘地帯や砂漠が存在したからである。鉄道は、全計画のうち、まさに生命線ともいうべき存在であった。
ダマラランドとグレート・ナマクアランド両地を併合してドイツ領南西アフリカ保護領とした直後、ドイツ人技師および測量技師から成る一団がスワコプムントに上陸した。彼らの目的は、そこから植民地首府ヴィントフック(Windhoek)を経てカラハリ砂漠を横断しトランスヴァールに至る鉄道路線の調査であった。同時期、ドイツ人とボーア人は、ともにあまり目立たぬ形で、ベチュアナランドの一部を自分たちの影響下に置こうと画策していた。この計画が実現していれば、ドイツはアフリカにおける全計画を推進するうえで大きな利点を得ただろう。しかし、英国が1885年9月にベチュアナランドを併合したことにより、この企図は挫折した。この英国の措置により、ドイツ領南西アフリカとボーア共和国群の間に、楔のごとき英領が打ち込まれたからである。
この結果、この時点で考えられた鉄道は、ヴィントフック――植民地の首府――まで、スワコプムントから内陸237マイルの地点で途絶えることとなった。
一方向での企図が失敗に終わると、ドイツは別の方向に活路を求めた。トランスヴァール共和国政府が1887年に発給したコンセッションのもと、オランダ・ドイツおよびその他の資本家から成る一団が、「オランダ=南アフリカ鉄道会社(Netherlands South African Railway Company)」を組織し、デラゴア湾からプレトリアに至る鉄道を建設した。こうして今度は、ドイツはこの線路を利用し、東海岸側からトランスヴァール――およびその先――へ進出することを企図したのである。
この事実は、A・E・ハイヤー氏が著した『トランスヴァール秘密諜報制度の略史――その創設から現在に至るまで(A Brief History of the Transvaal Secret Service System, from its Inception to the Present Time)』(ケープタウン、1899年)において裏付けられている。著者はトランスヴァールの政府機関に在職しており、この制度の実際の運用に関する多くの興味深い事実を知る立場にあった。彼はその一つとして、リスボンにおいて、デラゴア湾の一港を確保すべくあらゆる努力がなされていたことを語っている。さらに、「ドイツの支援を受けたレイツ博士(Dr. Leyds)が、デラゴア湾をトランスヴァールへ割譲させる目的で、何度もリスボン政府を訪れた」と述べている。しかしポルトガル当局はこれを拒否し、1884年ロンドン条約により、南アフリカ共和国(トランスヴァール)は、イギリス女王の承認を得る前に、いかなる外国(オレンジ自由国を除く)とも条約や協定を締結することはできない、と念押しされたに過ぎなかった。
ドイツがトランスヴァール共和国への「支援」を行ったのは、トランスヴァールのためというより、自らの企図を進めるためであったことは疑いない。ハイヤー氏は、さらに、ポルトガルとの交渉が失敗に終わると、ドイツとトランスヴァールは共同で「電撃作戦」によって目標を達成しようとする計画を練ったことを示している。彼はこう述べる。
「私は、1892年8月24日付けの文書の写しを手元に持っている(原本はいまだにプレトリアの某政府機関に保管されている)。この文書には、プレトリア=ベルリン間で策定された計画が詳細に記されており、その題名は『プロシア歩兵数連隊をデラゴア湾に上陸させ、トランスヴァール領内に突入させること。そして彼らがひとたび「内部に入り込めば(once in)」、英国の宗主権を無視し、永遠に「英国の覇権問題(paramountcy)を棚上げ(hang … on the nail)」にしてしまうこと。』というものである。この文書には、当時プレトリア駐在ドイツ領事であったヘル・フォン・ヘルフ(Herr von Herff)の名が記されている。この巧妙に練られた『デラゴア襲撃計画(Descent on Delagoa)』を読めば、ドイツ軍によるデラゴア領土への襲撃がいかに容易かつ成功裏に行われうるものであったかを、誰しも即座に納得するであろう。」
この計画もまた頓挫し、デラゴア湾を得られなかったドイツは、引き続き、将来「ケープからカイロまで」のイギリス勢力を一掃するための基地として、自らの南西アフリカ保護領と、そこに敷設された鉄道および駐屯兵力に頼らざるをえなかった。
1914年の戦争勃発時にドイツ領南西アフリカに存在した主要鉄道路線は、(ここでは考慮対象とならない小路線を除くとして)概ね次の通りであった。
- 北線(Northern Railway)
- オタヴィ線(Otavi Railway)
- 南線(Southern Railway)
- 南北連絡線(North-to-South line)
軌間別の延長は以下のようである。
| 路線 | 2フィート軌間 | 3フィート6インチ軌間 |
|---|---|---|
| 北線 | 121マイル | 119½マイル |
| オタヴィ線 | 425マイル | ― |
| 南線 | ― | 340½マイル |
| 南北連絡線 | ― | 317マイル |
| 合計 | 546マイル | 777マイル |
北線がスワコプムントと植民地首府ヴィントフックを結ぶ交通手段として必要であり、オタヴィ線が元来オタヴィ地区の銅鉱山から産出される銅の搬出路として計画されたことを認めたうえでなお、南線および南北連絡線については、その設計目的が主として、あるいは専ら戦略的であったことは否定し難い。
南線の最初の区間――リューデリッツブヒトからアウス(Aus)まで――の建設費予算がライヒスタークで審議されていた際、ラットマン議員(Herr Lattmann)は、その予算案を委員会付託なしに通過させるべきだと主張した。その理由として、彼は次のように述べた。
「このような形で予算を通過させることは、国民全体にとって特別な重要性を持つだろう。なぜなら、その場合、この鉄道は我々の部隊に食糧を供給するための手段とか、あるいはこの植民地の収支採算性という観点からではなく、もっと重大な問題――すなわち、この鉄道が他国との紛争発生時にどのような意味を持つか――という観点から評価されることになるからである。そう、この鉄道は、海岸から内陸への輸送以外の目的にも用いることができる。たとえば我々の部隊を内陸から海岸へ容易に輸送し、そこから他地域へ送ることも可能である。たとえば、イングランドとの間に戦争が起こったなら、我々はこの鉄道を利用してケープ植民地へ兵力を送り込むことができよう。」
アウスからの延長工事は1908年に着手され、リューデリッツブヒトから内陸へ230マイル離れたケートマンスフープ(Keetmanshoop)に達した。同地は南西アフリカのうちケープ州に最も近い地区に位置し、保護領主要港から鉄道による補給が行えることもあって、やがてドイツ領南西アフリカにおける最大の軍事基地へと発展した。
ケートマンスフープには、各軍団の主要司令部が置かれた。ここは陸軍医療部、兵器廠、工兵・鉄道部隊、情報部など南部方面軍司令部に属する諸部隊の本部所在地であった。また同地は南部方面軍全軍の動員地点でもあり、大規模な駐屯兵力を有していた。さらに、2年前に同地を訪れ、同地における軍備状況について多くの情報を集めた『トランスヴァール・クロニクル(Transvaal Chronicle)』紙特派員[60]によれば、ケートマンスフープの兵器廠は面積においてヴィントフックの4倍、その収蔵品の規模においても4倍に達していた。同地の兵器廠には次のような物資が保管されていた――砲架47基、16ポンド砲14門、救急馬車18両、被覆輸送車82両、トレック・オックス(貨車曳き牛)用を主とする車輪3,287個、大型移動式弾薬庫となる天幕3基(うちに軍用小銃2万8千丁を収蔵)、弾帯・雑嚢その他装具一式、弾薬庫3棟、膨大な量の飼料、など。さらに、ドイツ本国から輸送船でリューデリッツブヒトに送り込まれた軍事物資が、絶えず鉄道でケートマンスフープに届いていた。兵器廠隣接の工場では、多数の職工が、軍用らくだ500頭から成る「キャメル・コープス」用の鞍や水嚢1千個など、一連の軍需品の製造に従事していた。キャメル・コープスは、鉄道の終点からケープ州国境までの砂漠地帯を迅速に横断する部隊として養成されていたのである。
このように、南東地区に集中的に配備された軍備は、ケープ州およびベチュアナランドへの接近性という意味でとりわけ重大であった。加えて、この地区一帯は、ドイツ軍の主要な演習・機動の舞台ともなっていた。
戦略的観点からさらに重要だったのは、上述の南線から分岐する支線である。シーハイム(Seeheim)から約40マイル西行し、その後南東に向きを変えるこの支線は、ケートマンスフープから南へ約80マイルのカルクフォンテイン(Kalkfontein)に達していた。同地はオレンジ川上のラマンズ・ドリフト(Raman’s Drift)から北に80マイルの地点に位置する。ラマンズ・ドリフトは侵攻軍がケープ州側へ渡河するうえで好都合な場所であった。また、カルクフォンテインからさらに南へ約30マイル進んだヴァルムバート(Warmbad)には、軍隊および軍病院が設けられていた。さらに国境を挟んだ内陸側には、ウカマス(Ukamas)にドイツ軍哨所が設置されていた。ここはナコブ(Nakob)から約5マイル、ケープ州ウッピントン(Upington)から約40マイルの地点にあり、ベチュアナランド国境のすぐそばに位置していた。
南北連絡線は、ケートマンスフープの軍司令部とヴィントフック、あるいはその逆方向への兵力移動を容易にするものであった。当初の計画によれば、同線の完成は1913年以前には予定されていなかった。しかし、特別な緊急事情――これが何を意味するかについては想像に難くない――から、1912年3月8日という早期に開通を見ることとなった。また、ヴィントフックからは、東へ約100マイル進みベチュアナランド国境から約40マイル内陸にあるゴバビス(Gobabis)へと兵力が送り込まれた。ゴバビスは1895年にドイツ軍の駐屯地となり、よく装備された砦を備え、ドイツ領南西アフリカの東部国境における主要戦略拠点となっていた。同地とヴィントフックを結ぶ鉄道は、1915年に着工される予定であった。
ヴィントフックからは、前述の通りスワコプムントへの鉄道連絡が存在する。
スワコプムント=オタヴィ線の東端であるグロートフォンテイン(Grootfontein)は、1899年以来軍事基地でもあった。同地の特別な意義は、スワコプムント=オタヴィ=グロートフォンテイン線上でもっとも「カプリヴィ広東(Caprivi Strip)」に近い地点であったことにある。この細長い領域を通って、グロートフォンテインまで鉄道で運ばれたドイツ軍は、隣接する英領ローデシアへの侵攻を行う手筈となっていたのである。この方面への部隊移動は、カリビブ(Karibib)においてスワコプムント=オタヴィ=グロートフォンテイン線とヴィントフック経由ケートマンスフープ行きの南北連絡線を連結することで、さらに容易になった。カリビブ自体も軍事基地であり、そこには大きな鉄道事務所と工場が置かれていた。
このように、いくつかの小線を除けば、ドイツ領南西アフリカの鉄道体系は、ケープ州・ベチュアナランド・ローデシアという三方向からの英領南アフリカ攻撃を基本構想とする計画に従って設計・整備されていた。とくに南線および南北連絡線は、将来ドイツが英領南アフリカにおける覇権を掌握した際、ケープ州鉄道を引き継ぎやすいよう、最初から「ケープ標準軌(軌間3フィート6インチ)」で建設されていた。リューデリッツブヒトからケートマンスフープへ至る線は、やがてキンバリー(Kimberley)へと延伸され、この区間が開通すれば、ヨーロッパからブーラワヨ(Bulawayo)への距離は、ケープ経由よりも1,300マイル短縮されるものと指摘されていた。さらに路線延伸計画として、(1)ケートマンスフープからハズール(Hasuur)経由でユニオン(南ア連邦)国境リートフォンテイン(Rietfontein)近傍に至る線、および(2)カルクフォンテインから国境上のウカマスを経てユニオン領ウッピントンに至る線が測量されていた。これらはいずれも当初構想の前進となるものであったが、「あの日(der Tag)」が現実に到来するまでは建設を控えるべきだと判断されたようである。
これら諸鉄道に対し、ドイツ領南西アフリカ政府が投じた支出額は、入手可能な数字によれば、概算で840万ポンドに達し、その一部は帝国政府からの補助金、一部は保護領の歳入から賄われた。この総額には、政府がスワコプムントからオタヴィおよびツメブ(Tsumeb)鉱山までの路線を建設していた南西アフリカ会社(South-West Africa Company)から同線を買収した代金も含まれる。しかし、スワコプムントからヴィントフックまでの元来の狭軌国鉄線の建設費は含まれていない。同線のスワコプムント=カリビブ区間は、オタヴィ線がカリビブ経由で買収された際に廃止され、残ったカリビブ=ヴィントフック区間は、前述のケープ規格軌間に改築された。これら開通済み区間の多くでは週2~3本程度しか列車が走らず、一部支線では週1本の列車しか運行されていなかった。[61]
軍事的準備
こうした軍事的野望の実現に向け、ドイツがどれほど精緻な準備を進めていたかについては、J.K.オコナー氏が1914年末にケープタウンで出版したパンフレット『我らが背後地に潜む野蛮人――ドイツ領南西アフリカの脅威(The Hun in our Hinterland; or the Menace of G.S.W.A.)』に、さらに詳しい記述がある。オコナー氏は戦争勃発直前、同植民地を視察旅行して回ったが、その際自らを「農業資源調査のためのジャーナリスト」と称していた。しかし彼が得た情報は、単に農業に関するものにとどまらなかった。
彼によれば、当時植民地内に駐在していたドイツ軍は、騎馬歩兵・野砲兵・機関銃中隊・情報部隊・工兵・鉄道部隊・野戦鉄道隊・エタッペン編成部隊(Etappen-Formation)・キャメル・コープス・警察隊および予備兵力からなり、総計約1万人の訓練されたヨーロッパ人兵力(原住民を除く)を擁していた。この全兵力について、戦時における任務と配備場所は予め詳細に定められていた。
また彼は、鉄道輸送を補完するため、原住民から成る強力な輸送隊が編成されており、牛車およびラバ車の豊富な供給が確保されていたことも確認した。
さらに彼は、前述の軍事基地群とは別に、ドイツが植民地全土にわたりブロックハウス網を構築し、所々に砦を設け、それらを中心に武器庫や倉庫を設置していたと述べている。これらの拠点は1,600マイルにおよぶ電信・電話線および無線電信(「Funken-telegraph」)によって相互に連絡されており、軍司令部や主要都市とも結ばれていた。[62]
ケートマンスフープについて彼は、「同地を領内最大の軍事基地へと変貌させたことこそ、ドイツの『ゲーム』における第一歩であった」と記している。
また、当局の認可を受けて発行される雑誌『植民地年鑑(Das Koloniale Jahrbuch)』が、「英領南アフリカのボーア人には、常に彼らが低地ドイツ系(Low-German)の起源を持つことを思い出させるべきである。ドイツ学校やドイツ教会を通じてドイツ思想を浸透させねばならない」と論じていたことも指摘し、「30年もの間、ドイツ思想は『友好』という仮面のもと、英領南アフリカのボーア人口に押し付けられてきた。30年もの間、ドイツは南アフリカからアングロサクソン要素を排除するという陰謀を、友好国のふりをしながら進めてきたのだ」と述べている。
オコナー氏はさらにこう書いている。
私が見聞きしたところによれば、ドイツ人の軍事計画は、ユニオン(南ア連邦)領への侵攻について完全に整えられており、彼らは単にヨーロッパの大使館から平和の女神(Peace)がその翼を広げて飛び立つ合図――すなわち大戦勃発の時――を待っているだけであった。ただ、彼ら自身も、それが1914年8月に訪れるとは予想していなかったようだ。
彼らは成功に自信を持っていた。私が現地将校たちと交わした会話から明らかになったのは、アフリカ大陸の領有こそが、彼らドイツ人の最大の悲願である、ということであった。
フランスやイギリスを叩き潰(smashing up)すことは、アフリカ全土をドイツ領とするという最終目的に至るための一つの「事件」にすぎなかった。そしてドイツは、植民地列強として舞台に登場するのが遅かったにもかかわらず、この目標を必ず成し遂げると信じていた。というのも、ドイツは30年という短期間で、イギリスやフランスよりも多くの成果をアフリカで挙げる、と考えていたからである。イギリスやフランスは、ドイツよりはるかに前から植民活動を始めていたにもかかわらず、というわけだ。
こうしてフランスとイギリスを打ち破り、彼らのアフリカ植民地を獲得することが、ドイツにとって最優先の目標となった。そしてこれが達成されると、ドイツはその矛先を、より小さな列強のアフリカ植民地へ向けるつもりであった。イギリスやフランスに頼ることのできなくなったそれらの諸国は、やむなく自らの植民地を手放す他なくなり、その結果、アフリカにおける最高権力がドイツに移ることになる――と彼らは考えていたのである。
オコナー氏は、自らの見聞およびドイツ将校たちから直接聞き取った話を総合し、次のように結論づけている。
ドイツ人が南西アフリカの地を踏んだその日から、彼らは英領領土への襲撃に備えて準備を進めてきた。この目的のために、ライヒスタークは長年にわたり毎年200万ポンドもの予算を計上してきた。この巨額の資金が、もし南西アフリカの開発に費やされていたならば、同地は今日、どの国であれ誇りうる植民地となっていただろう。しかしその支出の成果として、彼らは何を示すことができるのか。軍事キャンプ以外には何もない。
要するに、ベルリンの人々は、この領域を植民地とは見なしておらず、英領南アフリカへの侵攻に向けた「踏み台(jumping-off ground)」としか考えていなかった、ということである。
ここに見られるのは、これまで本章でたびたび言及してきた理念を、より具体的に敷衍したものである。すなわち、ドイツは長年にわたり、こうした構想を抱き続け、それを現実に移そうとあらゆる策謀や準備を積み重ねてきたのである。ドイツが建設した戦略鉄道網および精緻な軍事準備が、単に将来の原住民蜂起に備えるための慎重な防御策にすぎない、などと主張するのは、全くのナンセンスであろう。
アンゴラへの鉄道連絡
オコナー氏が記した、「ドイツの視線は、より小さな欧州諸国のアフリカ植民地にも向けられていた」という指摘は、さらに一つの報道にも重要な意味を与える。すなわち、1914年5月31日付『ライプツィガー・ノイエステ・ナハリヒテン(Leipziger Neueste Nachrichten)』紙に掲載された、ドイツ領南西アフリカ沿岸部に鉄道を敷設し、ポルトガル領アンゴラと連結する計画に関する記事である。この計画は、ドイツ国内の有力海運および銀行資本によるコンソーシアムが、5,000万マルク(250万ポンド)の初期資本をもって、「長年にわたる帝国政府との協議」の末、同保護領内に鉄道網を建設するという構想の一環であった。その第一段階として、ドイツ領南西アフリカ沿岸を北上し、アンゴラの鉄道網と接続する線路を建設することが予定されていたのである。さらに1914年初頭、南西アフリカ総督が同保護領北部を視察し、アンゴラのタイガー湾(Tiger Bay)まで赴いたとの報道もあったが、それも「近い将来に予定される鉄道建設の可能性」に関連した視察であったと伝えられている。
アンゴラは、ドイツ人拡張主義者にとって魅力的な獲得対象の一つであった。同地は15世紀半ば以来ポルトガルが占有してきたが、あるドイツ人旅行家が1914年6月にアンゴラから帰国後、『ケルン新聞(Kölnische Zeitung)』紙に寄せた記事には、同地を次のように論じている。
「この『ゲーム』は、それだけの『蝋燭(candle)』の価値がある。工業製品にとって巨大な市場であり、豊かで手つかずの鉱物資源を有し、農業・牧畜・入植いずれにも適した肥沃で健康的な土地であり、西アフリカ沿岸で最良の港湾を擁する――これが、我々を待ち受ける『戦利品』なのである。」
ドイツから見れば、このような恩恵をもたらす領土を得ることは、それ自体としても大きな成果であったろう。アンゴラの面積は約48万4千平方マイルに及び、その内陸は約1,500マイルも奥深く、両洋のほぼ中央に位置している。しかし同地は同時に、(1)ドイツ領南西アフリカの北方延長として、(2)そしてさらに、ドイツの支配下におかれる一連の交通網――すなわち西海岸から東海岸へアフリカ大陸全土を横断する大動脈――の出発点として、ドイツにとって一層大きな意味を持っていたのである。
前述の沿岸鉄道計画は、ドイツ領南西アフリカとアンゴラを連結するものであり、ドイツ資本はアンゴラ国内で鉱山や農業の大規模コンセッション獲得をも狙っていた。これは、彼らお得意の「平和的浸透(friedliche Durchdringung)」――商業や鉄道建設を通じての浸透――政策の一環であり、やがては政治的支配につながる経済的利権の確立を目指したものであった。すなわち、将来「我々を待ち受ける戦利品」を獲得するための地ならしであった。
またドイツは、ベルギー領コンゴのカタンガ地区開発に関連して後述するロビト湾(Lobito Baai)またはベンゲラ鉄道(Benguela Railway)の東方延長に対する融資を申し出たこともあった。しかし、その際提示された条件――すなわち同鉄道の支配権をドイツに委ねること――および、他の方面で見せていた怪しげな政策[63]のために、このドイツ側の鉄道提案は、ポルトガル政府によって丁重に謝絶された。
ドイツ領東アフリカ
こうして、アフリカ大陸に対するドイツの長期的野望の全貌を理解するには、西海岸のみならず東海岸における鉄道網についても考慮に入れなければならない。それらもまた、全体計画の不可欠な一部であったからである。
ドイツ領東アフリカに敷設された鉄道のうち、とくに重要なのは、インド洋岸の首都ダルエスサラーム(Dar-es-Salaam)からタンガニーカ湖畔のキゴマ(Kigoma)――ウジジ(Ujiji)の北に位置――へと至る全長1,439マイルのタンガニーカ鉄道(Tanganyikabahn)である。もしこの鉄道の唯一の目的が、38万4千平方マイルと推定される同保護領の経済開発であったならば、この「東アフリカ中央鉄道」は、ドイツ植民活動における顕著な事業として称賛されるべきものだっただろう。しかしここで問題となるのは、同線が東アフリカ自体の開発に加え、中央アフリカに対するドイツの野望――すなわち前述した大陸征服計画の一環――を推し進める目的をも有していたのではないか、という点である。
この鉄道の第2・第3区間の建設が異様なまでの急ピッチで行われたこと自体、背後に何らかの別個の狙いがあるのではないかという疑念を呼び起こした。第1区間(ダルエスサラームからモロゴロ(Morogo)まで136½マイル)は、ドイツの銀行シンジケートが政府保証付で建設し、1905年2月に着工、1907年9月に完成した。第2区間(モロゴロからタボラ(Tabora)まで526½マイル)は、当初1914年7月1日までに完成する予定であったが、1910年にライヒスタークが特別予算を可決し、この区間の早期完成と第3区間(タボラからキゴマまで、長さ776マイル)の測量に資金を提供した。その結果、第2区間は予定より早い1912年2月26日に完成し、第3区間についても完工予定であった1915年4月1日を大きく前倒しして、1914年2月1日にはインド洋からタンガニーカ湖までの直通鉄道が開通してしまった。すなわち、予定より1年2か月も早く完成したことになる。
ここで我々は二つの疑問に直面する。(1)タボラからタンガニーカ湖畔までの西方776マイル区間は、経済的にはほとんど輸送需要の見込みがない地域を通過していたにもかかわらず、なぜそこまで延伸する必要があったのか。[64](2)また、なぜそれほどまでに急いで工事を完了しなければならなかったのか。
「タンガニーカ湖の西岸」
第1の疑問に対する答えは、概ね次のようなものである。(1)タンガニーカ鉄道西方区間が輸送収入を期待していた主たる貨物は、ベルギー領コンゴからの積出し貨物であった。(2)同線のもとでベルギー貿易の相当部分を掌握・支配することは、タンガニーカ湖西岸のベルギー領コンゴを最終的にドイツが併合するための前提条件と見なされていた。(3)類似の条件のもと、フォン・ヴェーバーが1880年に思い描いた構想――アフリカ大陸全域をドイツ帝国領とするという夢――を現実へと近づける手段としても期待されていた。
1914年2月、タンガニーカ鉄道のキゴマ延伸完了の報がドイツに届くと、国内では大きな熱狂が巻き起こった。『植民地新聞(Kolonial Zeitung)』4月4日号は、「我々が当然のこととして『タンガニーカ湖の西岸(die andere Seite von Tanganyika)』に視線を向けていることは、改めて言うまでもない」と論評している。
タンガニーカ湖の「反対側」には、ドイツが羨望の眼差しを向けざるをえない多くの資源が存在した。中でも、ベルギー領コンゴ南東部における鉱物資源は、とくに強い魅力を放っていた。
ベルギー領コンゴのカタンガ地区には、前述のような巨大な銅帯が存在する。[65] これは、英領南アフリカの国境ポスト、ンドラ(Ndola)――コンゴ国境から約12マイル南――の北西約100マイルの地点から始まり、その後北西へ180マイルにわたって延び、その平均幅は25マイルに達する。「遠くない将来、開発上の種々の問題が解決されれば、カタンガ銅帯は世界の銅供給における支配的要素の一つとなるだろう」と、J.B.ソーンヒル氏[66]は述べている。南アフリカ会社が1914年3月31日までの年度について株主に提出した報告書によれば、カタンガの銅産業は相当の規模に達し、月産1千トンの能力を持つ溶鉱炉が稼働しており、さらに設備の大規模増設も進行中であった。
カタンガには銅のみならず、錫帯・石炭・金・鉄その他の鉱物資源も存在する。
ドイツ領東アフリカのタンガニーカ湖東岸にも確かに鉱物資源は存在するが、その規模は西岸のベルギー領に比べればはるかに小さい。しかしドイツ領東アフリカは、小麦・米その他の食糧を大量に生産する潜在能力を有しており、それはカタンガ鉱山労働者の糧食供給にとって不可欠なものであった。そしてドイツ人の見方によれば、タンガニーカ湖の東西両岸は互いに補完し合う存在であるべきであり、タンガニーカ鉄道を通じてドイツ領東アフリカ内陸から湖畔へ食糧を輸送し、それを湖上汽船で対岸へ渡して鉱山へ送り込む一方、鉱山から産出された鉱石を同じルートでドイツ領東アフリカの港へ輸送し、そこからインド洋経由で世界市場へ搬出すべきだとされた。さらに、カタンガおよびムウェル(Mweru)地区へヨーロッパから輸入されるあらゆる物資も、ドイツ東アフリカ中央鉄道経由のルートをたどるべきだとされ、ドイツの商社は同地区に支店を設立するよう強く推奨された。[67] こうしてドイツは、「タンガニーカ湖西岸」の貿易と輸送の双方を事実上支配する構想を抱いていたのである。
ドイツ東アフリカ保護領の南西部の発展は、ドイツにとって「生存に関わる問題(Lebensfrage)」となっていた。[68] というのも、同地域はその産品の販路をベルギー領コンゴにしか求められなかったからである。中央鉄道の採算が取れるかどうかといった問題は、ドイツにとっては二次的なものであった。しかしこの鉄道は、タンガニーカ湖およびその向こう側の貿易を掌握し、東アフリカ植民地をより繁栄させることで、経済的に重要な役割を果たすことになっていた。さらに、ベルギー領コンゴにおけるドイツの商業的利権を拡大し、その支配力を強化することで、政治的にも重大な意義を持ち得ると考えられていた。そして戦略面では、中央アフリカにおける兵力の迅速な集中を可能にすることで、戦時におけるドイツ軍の行動範囲を著しく広げるものと期待されていた。
この最後の目的をさらに推し進めるため、タボラからヴィクトリア湖(Victoria Nyanza)南岸のムワンザ(Mwanza)へ向かう純然たる戦略線を建設する計画も存在した。この線が完成すれば、ドイツ軍は必要に応じて英領東アフリカの背後を突くことが可能となるはずであった。
中央アフリカ
しかし、ドイツがタンガニーカ鉄道を通じて中央アフリカにおける地位を強化しようとした構想は、ベルギーおよびイギリスの企業が同時期に進めていた複数の鉄道計画によって、深刻な打撃を受けた。それら計画は、(1)タンガニーカ鉄道が獲得すると期待されていた貨物輸送の多くを、競合ルートへと奪い去る危険をはらんでいた。(2)ベルギー領コンゴに対するドイツの経済的・政治的支配の拡大を著しく妨げる可能性があった。(3)ドイツ東アフリカが地理的孤立状態から脱却することを、さらに困難にするおそれがあった。(4)中央アフリカおよび大陸全域に対するドイツの野望の実現自体を、大きく阻害しうるものであった。
これら種々の状況は、ドイツのアフリカ政策全体に重大な影響を及ぼしたと考えられる。というのも、それはドイツの野望がきわめて危機的な局面に差し掛かり、もはや早急に何らかの積極策を講じなければ、その実現の可能性が完全に失われかねない、という認識を同国指導層に抱かせるに十分なものであったからである。
ベルギー国王レオポルドがコンゴ自由国の開発に着手した当初の基本方針は、コンゴ川の航行を補う形で、急流地帯を迂回しうる、あるいは河川交通の連鎖を補完しうる地点に鉄道を建設する、というものであった。その後、ベルギー政府が統治を引き継いだ際にも同じ方針が維持され、こうして最終的には、下流から上流までを結ぶ一連の鉄道リンクが整備された。その最後の一片は、1915年3月に開通したカバロ(Kabalo)からアルベールヴィル(Albertville)までの線(165マイル)であり、これによりコンゴ川流域とタンガニーカ湖が直結された。実際、タンガニーカ鉄道のキゴマ延伸工事を急いだ理由として、ベルギー側が湖畔まで先に到達し、同地域の貿易と輸送を掌握するのではないか、というドイツ側の懸念が挙げられていた。
このような、河川および鉄道を組み合わせた輸送ルートを用いる場合、コンゴ流域から西海岸へ向かう貨物は、依然としてコンゴ川の蛇行した本流をたどらねばならず、多数の積み替えを必要とした。もしタンガニーカ鉄道が対抗すべき唯一のルートがこれだけだったなら、ドイツはさほど神経質にならずに済んだであろう。しかし実際には、カタンガ地区と密接に結びついた複数の鉄道計画が進行中だったのである。
コンゴ自由国の南端部と英領ローデシアとの国境に位置するエリザベスヴィル(Elizabethville)から、コンゴ領内のカンボブ(Kambove)に至る鉄道は、コンゴ下流鉄道会社(Compagnie du Chemin de Fer du Bas-Congo)によって建設された。これはローデシア鉄道の延長線にあたる。この線をさらにルアラバ川(Lualaba)の河港ブカマ(Bukama)まで延長する工事も進行中だった。この延長線により、(1)カタンガ産品がより短く、より良好な経路でコンゴ川航路に接続されることになり、(2)南アフリカ全鉄道網とコンゴ河口との間に、鉄道および水路を組み合わせた一貫輸送ルートが形成されることになる。
実際、カタンガ産の鉱石は既に、東海岸のポルトガル領港ベイラ(Beira)を経由するローデシア鉄道ルートを通じて輸出されるのが常態となっており、タンガニーカ鉄道およびダルエスサラーム港を経由するルートは、ほとんど用いられなくなっていた。この意味で、ローデシア鉄道ルートは、カタンガ鉱物輸送の「既定ルート」となっており、ドイツが最も期待していた貨物の多くを事実上奪われた形になっていた。カンボブからブカマまでの延長線は、戦争勃発時にはまだ完成していなかったが、その完成はタンガニーカ鉄道にとっていっそう深刻な脅威となることが予想された。
さらに他にも野心的な鉄道計画が存在した。
ブカマからは、中央アフリカを横断してマタディ(Matadi)へ至る新線が計画されていた。コンゴ川本流は河口からマタディまで大型船舶が航行可能であり、この新線が完成すれば、西海岸への輸送はコンゴ川の大きな蛇行を避ける、はるかに短い直線ルートを通じて行われることになる。同線はまた、コンゴ川南岸の広大な未開発地方の開発を促し、中央アフリカに新たな経済圏を創出するものと期待されていた。
もう一つの大規模な計画は、カンボブからベルギー領コンゴ南西国境へ線路を延ばし、そこからさらにポルトガル領を横断して、ロビト湾鉄道(Lobito Bay Railway)の東端と接続するものであった。この路線が完成すれば、カタンガ鉱物資源は西海岸の優良港ロビト湾へ、最短距離で輸送されることになる。また、カンボブでローデシアおよび南アフリカの鉄道路線と接続することにより、この線自体がヨーロッパへの新たな短絡ルートとしての国際的重要性を持つことになる。ドイツ金融資本は、かつてロビト湾鉄道東方延長工事に対する融資と引き換えに、沿線ポルトガル領内での権益確保を図ったが(前掲314ページ参照)、同線のカンボブ=ロビト湾区間は、現在ではイギリス資本によって建設されることになっている。
最後に、ケープからカイロに至る「縦貫鉄道(Cape-to-Cairo Railway)」計画がある。この線はカタンガ鉱業地帯を通過する予定であったため、ドイツがタンガニーカ鉄道および中央アフリカにおける政治的野望の実現を期待していた貨物の一部を、さらに北方へと引き寄せてしまう危険性があった。
カメルーン・チャド湖・スーダン
上述の諸計画と並行して、カメルーン(Cameroons)における鉄道計画も進行していた。
ドイツでは1897年頃から、カメルーンに鉄道を敷設すれば国家にもたらされる莫大な利益について、さまざまな期待が語られるようになった。これら計画の主たる対象は、既存保護領内の経済開発にとどまらず、その領域を越えて、隣接地域にまでドイツの影響力を拡大することにあった。
中でも重要な計画の一つは、カメルーン最大の港ドゥアラ(Duala)からチャド湖(Lake Chad, Tsâd)へ鉄道を建設するというものであった。同湖は約7,000平方マイルの水面を持ち、スーダン西端に位置している。湖岸はドイツ・イギリス・フランスの三か国が分割支配しており、カメルーン保護領北端におけるドイツ領の外縁をなしていた。
当初の計画によれば、この「チャド湖鉄道(Tsâdsee-Eisenbahn)」の全長は約1,000キロ(621マイル)に達するはずだった。1902年9月、ドイツ帝国政府は「カメルーン鉄道シンジケート(Kamerun-Eisenbahn-Syndikat)」に建設コンセッションを付与し、同シンジケートは1902~03年にかけて測量隊を現地に派遣して、路線調査を実施した。続いて、資本金1,700万マルク(85万ポンド)の「カメルーン鉄道会社(Kamerun-Eisenbahn-Gesellschaft)」が設立され、その株主にはドイツ国内の複数の銀行および実業家が名を連ねた。この会社は路線の第1区間建設を担うことになっていた。
1903年12月、ドイツ皇帝はライヒスターク議長を接見した際、こうした植民鉄道計画を全面的に支持する旨を表明した。「我々のアフリカ植民地が繁栄するために不可欠な条件(Lebensbedingung)の一つは、鉄道建設を真剣に推し進めることである」と述べたのである。1905年にはチャド湖鉄道計画が順調に進んでいると見なされ、工事着手が近いと公表された。しかし、その後さまざまな困難が生じた。とりわけ現地労働力の確保に多大な問題があり、結果として路線は海岸からわずか160キロ(100マイル)内陸の地点にまでしか延びなかった。
計画自体は完全には実現しなかったが、その意図していた目的については疑う余地がない。シンジケートの専務取締役カール・レネ(Carl René)は、公的な詳細報告書[69]の中で、「チャド湖鉄道」構想の意義を次のように説いている。この書は、約250ページにわたり、テキスト内挿図37点と1902~03年に行われた路線調査隊撮影の写真図版22葉を収めるなど、その綿密さと説得力において出色のものである。
「私の見解では、カメルーンの経済的利害を十分に発展させ、同時にドイツに対し中央アフリカにおける最も富裕な地域への通路を保証し得るのは、スーダンと大西洋を結び、チャド湖から西海岸まで延びる『大鉄道(grosse Eisenbahn)』以外にありえない。」
もし同線がチャド湖まで完成していたなら、スーダンの広大な地域――その将来の商業的可能性は計り知れない――からの貨物は、ローレンスや紅海を経由するイギリス鉄道網ではなく、カメルーン鉄道ルートを通じて大西洋へと出荷されていたかもしれない。その場合、ドイツは中央アフリカ西半部で経済的優位を占めることになり、いずれは政治的支配の獲得につながっていったであろう。レネ氏はさらに、「チャド湖鉄道は、完工すれば、とりわけ中央アフリカ全体に対して第一級の文化事業(Kulturwerk)となるであろう」と述べている。
仮にチャド湖沿岸一帯がドイツの影響下に入れば、さらにフランス領サハラおよび北アフリカに対する野心も膨らんだであろう。フランスでは既に、チャド湖からアルジェリアへ至る縦貫鉄道の構想が存在しており、これは地中海沿岸とコンゴ、さらにはローデシアおよび英領南アフリカの鉄道網とを連結する「横断アフリカ鉄道」として計画されていた。[70] この路線の敷設は技術的困難が比較的少ないとされており、もしドイツがその一部を掌握することになれば、中央アフリカにおける軍事・経済上の影響力は飛躍的に高まるはずであった。
カメルーンとコンゴ
カメルーンにおけるもう一つの野心的鉄道構想は、ドゥアラから内陸高地を横断し、コンゴ支流の一つへ至る「中央線(Mittellandbahn)」を建設するというものであった。この線は当初、ンジョン川(Njong)を渡ってさらに内陸へ進み、最終的にはコンゴ川の支流網に合流する予定であった。しかし実際に建設されたのは、海岸から約300キロ(186マイル)までにとどまり、その後長らく計画は半ば放棄されたかに見えた。
ところが1911年のアガディール事件に続き、フランスとの間で結ばれたカメルーン領土拡張条約によって、情勢は一変した。その結果生じた新たな状況を踏まえ、先に触れたエミール・ツィンマーマン氏は、『新カメルーン(Neu-Kamerun)』[71]において次のような見解を示している。
1913年時点で、彼は、ドイツがタンガニーカ鉄道に約700万ポンドも投資したにもかかわらず、その採算が危ぶまれていること、ならびにベルギー領コンゴに対するドイツの野望が挫折したおそれがあることを懸念していた。そして1911年11月4日の独仏条約によってドイツ領カメルーンに追加された新領土――約10万平方マイル――に関し、この旧フランス領内に通じる鉄道網を整備することで、中央アフリカの経済開発においてベルギーとドイツが互恵関係を築くよう提案したうえで、ベルギーに次のような警告を発している。
ベルギーおよびドイツは中央アフリカにおける二大勢力であり、両国が協力して広大な大陸内陸部の開発を進めることは、双方の利益にかなうであろう。だがベルギー側には、重大な財政負担がのしかかっている。すなわち、(1)コンゴ本流および支流の河川輸送改善、ならびにその接続鉄道の増強に要する費用、および(2)カタンガ鉱業地帯の整備に必要な投資である。ベルギー単独ではこれらの資本調達は困難だが、ドイツは喜んでその一部を肩代わりしよう。しかしその代わりとして、ベルギーはタンガニーカおよびムウェル地区、さらにはコンゴ中流以東から発生する貨物のすべてが、その「自然な出口(natürlicher Ausweg)」たるタンガニーカ鉄道を経由して海へ向かうことを保証しなければならない。
もしベルギーがこの提案に応じず、高関税によって依然としてドイツ領内への貨物流入を妨げるならば、ドイツには西海岸からコンゴ支流またはコンゴ本流へ通じる鉄道線を建設する選択肢が残されており、それによってコンゴ盆地の要所々々でベルギーの輸送ルートから貨物を奪い、同国に甚大な経済的損失を与えることができる――と彼は脅している。
ツィンマーマン氏は、ドゥアラからンジョン川を越えてコンゴ支流へ向かう「中央線」の建設を再び提唱する一方で、1911年独仏条約の下で得られた新領土のうち、スペイン領ムニ(Muni)南方の楔状地域にも注目している。条約締結時、この地域の東端部については、スペイン領とフランス領カメルーンとの境界の間に、道路または鉄道を敷くのに十分な幅の「隙間」が残されるよう配慮されていた。彼は、この「隙間」を利用し、スペイン領ムニ・ベイ(Muni Bay)から独領カメルーンを横断してサンガ川(Sangha)とコンゴ川の合流点に至る、およそ1,000キロ(621マイル)の鉄道を建設できると指摘している。あるいは、フランスとの合意のもとで、出発点をリーブルヴィル(Libreville)とすることも可能だ、としている。「このような鉄道が、コンゴ・サンガ・ウバンギ(Ubangi)一帯の交易を、最も有利な地点で『吸い上げる(anzapfen)』ことになった場合、それが何を意味するかは、ベルギー人自身がもっともよく知っているはずだ」と彼は結んでいる。
ツィンマーマン氏は、こうした鉄道計画がドイツ自身にとって経済的に大きな利益をもたらすかどうかには言及していない。しかし、タンガニーカ鉄道に関する問題を自国に有利に解決するための政治的・経済的圧力手段としては、きわめて有効だと主張している。彼の論調全体からは、1911年条約によって領土拡張とともに得られた「相互通行権(互いの領内を鉄道で通過する権利)」が、実のところベルギー領コンゴと中央アフリカに対するドイツの主導権を強化するための重要な一手であったことがうかがえる。言い換えれば、アガディール事件やフランスからの領土譲渡、さらにはカメルーン鉄道をフランス領内まで延伸する権利の確保は、表向きの外交上の譲歩にもかかわらず、その真の狙いはベルギー領コンゴおよび中央アフリカに対するドイツの地位強化にあったと考えられるのである。
ツィンマーマン氏は、翌1914年に刊行した別の小冊子『我々にとって中央アフリカとは何か?(Was ist uns Zentralafrika?)』[72]において、国内で起こりつつあった「反中央アフリカ運動(Anti-Zentralafrika agitation)」を鎮めようと試みている。同運動は、「コンゴの沼地をこれ以上獲得するのは危険だ」「アフリカにおけるドイツの計画は際限がない」といった批判を唱えていた。ツィンマーマン氏はこれに対し、「ドイツにはアフリカにおけるいかなる領土拡張計画も存在しない。我々の願望は純粋に経済的なものである」と述べている。そして、1911年条約のおかげでカメルーンは中央アフリカ開発に大きな役割を果たすことが可能となり、かつその権利は、西海岸における優れた港ドゥアラを有する国として、当然のものであると強調している。
ドイツ外相による公式な認識
しかし、ツィンマーマン氏のこうした鎮静化を意図した発言とは別に、ドイツ外務大臣自身による、ドイツのベルギー領コンゴに対する本当の関心を示す明白な証拠が存在する。
1915年8月に刊行されたベルギー第二灰色書(Second Belgian Grey Book)『1914~15年戦争に関する外交書簡集(Correspondance Diplomatique relative à la Guerre de 1914–15)』の冒頭(2~3ページ)には、ブリュッセル政府駐在のベルギー公使・ベーイエンス男爵(Baron Beyens)が、ベルリン駐在フランス大使ガンボン氏(M. Cambon)から聞いた話を書き送った1914年4月2日付書簡が収録されている。それによれば、独仏大使間で最近交わされた会談の中で、ヤーゴー外相(Herr von Jagow)は、アフリカ鉄道建設およびその連絡に関し、ドイツ・フランス・イギリスの三国間で協定を結ぶことを提案したという。ガンボン大使はこれに対し、「ベルギーもコンゴに鉄道を建設しているのだから、当然この協議に参加すべきだ」と答え、協議の開催地としてブリュッセルを挙げた。これに対しヤーゴー外相は、「いや、それは困る。我々の協定はベルギーの犠牲の上に築かれるべきものだからだ」と答えたという。そして彼は続けて、「レオポルド王はベルギーにあまりに大きな重荷を負わせすぎたとは思わないかね? ベルギーはあの広大な領土を開発するだけの富を持っていない。あれは、その財力と成長能力をはるかに超える企業なのだ」と述べた。ガンボン大使がこれに異議を唱えると、ヤーゴー外相は、植民地経営能力は大国にしかないと主張し、「ヨーロッパにおいて経済力と交通手段の発達によって最も強大な民族に有利な構造変化が進行している以上、小国がこれまで享受してきた独立を今後も維持することはできない。彼らはやがて消滅するか、大国の軌道に取り込まれる運命にある」と述べている。ベーイエンス男爵は、この会話を次のように要約している。
「彼(ヤーゴー外相)は、真に植民能力を持つのは大国のみであると主張した。さらに彼は、自らの真意を隠そうともせず、小国はもはや独立した存在として存続しえないと断言した。ヨーロッパでは、経済力や交通手段の発達によって、最も強大な民族に有利な変革が進行している。こうした変革の中で、小国はこれまで享受してきた独立をもはや維持できず、いずれは消滅するか、または大国の軌道に取り込まれる運命にある、と彼は述べた。」
「あの日(der Tag)」とその計画
本章で述べてきたドイツのアフリカに対する野望の歴史は、アフリカ大陸のほぼ全域を俯瞰している。最後に残された問題は、これらの野望が、パン=ゲルマン主義者たちの夢想や扇動にとどまらず、いかにして現実の行動計画となり、長年にわたり着々と進められた準備――すなわち、他の列強(大国・小国を問わず)をアフリカから一掃し、ドイツの長年の目的を成就しようとする計画――の中核に位置づけられたのか、という点である。
オコナー氏が戦争勃発直前に南西アフリカのドイツ将校たちと交わした会話によれば、ドイツが「アフリカにおける覇権国家」となるために、「あの日(der Tag)」が訪れた際に実行する予定だった計画は、大要次のようなものであった。
ベルギーは「一飲みに(at one gulp)」してしまう。その結果、ベルギー領コンゴをドイツが接収するのは、きわめて容易になる。
フランスは無力化され、その結果、彼女のアフリカ植民地をドイツが奪うのを妨げる力を失う。
ダルヴィッシュ(Dervishes)がエジプトで反乱を起こし[73]、同時期にアイルランドやインドでも反乱が起こると予想されていた。
イギリスがこれら諸方面で手一杯になっている間に、アフリカーナー(Afrikanders)が一斉に蜂起し、英領南アフリカをアフリカーナー共和国として独立させる。
ドイツ領東アフリカの部隊は、英領東アフリカに対して奇襲攻撃を仕掛ける。度重なる攻勢により同地を併合し鉄道を掌握したのち、彼らはローデシアへと進撃する。その際には、ローデシア東方からドイツ軍が侵入すると同時に、ドイツ領南西アフリカからも、前述のグロートフォンテインおよびカプリヴィ広東経由でザンベジ川へと進撃する部隊が加わる。
これと並行して、ドイツ軍部隊は(1)ゴバビス駐屯地からカラハリ砂漠を横断し、ベチュアナランドに侵入してブライボーグ(Vryburg)を制圧し、(2)ケートマンスフープやシーハイム支線沿いの他の地点からオレンジ川沿いのラマンズ・ドリフト、シュイト・ドリフト(Schuit Drift)、および領土東南隅を越えてケープ州北部へ侵入する計画になっていた。
ローデシアを制圧すれば、それまで同地に拘束されていたドイツ軍は自由となり、今度はケープ州・トランスヴァール・オレンジ自由国で蜂起した「アフリカーナー軍」の支援に向かうことができるものとされていた。ドイツ側は、アフリカーナー住民が有利な戦況を見て蜂起することを、当然の前提としていたのである。こうした「援助」の代価として、ドイツはトランスヴァール領およびズールーランド沿岸の一部を獲得する予定であった。
ベルギーとフランスが十分に打ちのめされ、またイギリスの南アフリカにおける支配力が崩壊した暁には、これら諸国はもはやポルトガルのアフリカ植民地を守る力を持たなくなる。ドイツはこの機を捉え、アンゴラの併合に乗り出す計画であった。アフリカーナー共和国には「デラゴア湾」を与えるが、その共和国自体はドイツの「保護(guardianship)」のもとに置かれる予定であった。オコナー氏によれば、「宗主権(suzerainty)」という語は意図的に避けられ、「保護」という表現が好まれたようである。しかしいずれにせよ、イタリア領ソマリランドについては何も言及されていないものの、アフリカ大陸のほぼ全域が、大なり小なりドイツの直接支配あるいは間接支配下に置かれることになっていた。
世界大戦の真の目標
1914年に勃発した世界大戦について、その本当の目的が何であったかという点は、今日までさまざまな議論の的となっている。
本章で明らかにしてきたドイツのアフリカ政策史を踏まえれば、この問題に対する解答の一端が浮かび上がってくるのではないだろうか。
私たちは、ドイツがアフリカに対してどのような野望を抱いていたか、それを実現するために長年にわたりどれほどの努力を傾注してきたか、そしてその実現のためにどれほど巨額の資金を投じたかを見てきた。
私たちは、ドイツがアフリカ植民地を、自国民のための開発地というよりは、むしろ周辺地域を吸収し、支配し、また経済的に従属させるための拠点として見なしていたことを見てきた。
私たちは、中央アフリカにおける競合する鉄道路線の発展が、ドイツがタンガニーカ鉄道およびベルギー領コンゴに期待していた支配の夢をどれほど脅かしていたか、そしてこのことがかえってドイツに「猶予のない果敢な行動」を迫る状況を生み出していたかもしれないことを見てきた。
私たちは、ドイツ外相自身が、小国の存在意義を否定し、強大な国民国家の拡張のために「小国は消滅するか大国の軌道に入るべきだ」と公然と宣言していたことを見てきた。
また私たちは、ドイツ領南西アフリカの将校たちによれば、彼らが待ち望んでいた「戦争(the war)」の真の目的とはアフリカ征服であり、そのためにフランスとイギリスを「打ち砕き」、ベルギーを解体し、ポルトガル領を奪い、さらにはボーア人共和国をも事実上従属させることが必要不可欠な前提条件と見なされていたことを見てきた。その最終目標は、フォン・ヴェーバーが1880年に「インド帝国にも劣らぬほど価値と輝きを持つ『新帝国』」と呼んだもの――すなわちアフリカ大陸全土のドイツ化――であった。
これら多くの事実と、これまで本書で述べてきたすべての証拠を総合すれば、次のような結論を下しても差し支えないのではないだろうか。すなわち、ドイツが1914年に大戦争を引き起こすにあたって、その隠された主目標の一つは、アフリカ大陸そのものの獲得であった、ということである。[74] フランスおよびベルギーへの侵攻は、ベルギーの併合やフランス北東部の領土割譲といった単なる領土拡張以上の意味を持っていた。むしろ、ドイツは西欧本土で「手元に何かしらの担保(something in her hand)」を確保することで、講和交渉の際にアフリカにおける大幅な譲歩を引き出そうと企図していたと考える方が自然ではないだろうか。ドイツは、自らの軍事力が圧倒的であると高をくくっており、戦争の初期段階で既にこれらの目的を達成できると信じていた可能性すらある。
上述の結論が妥当であるとすれば、それはさらに、ドイツ側から伝えられてきた「和平条件」の中で、アフリカにおける領土譲渡が繰り返し盛り込まれているという事実によって裏付けられる。
『タイムズ』紙1915年9月4日号に掲載された特派員電報によれば、シカゴ・トリビューン紙は「ドイツ大使館と緊密な関係にある筆者」の名で、ドイツが受諾してもよいと考えている和平条件の概要を掲載したという。その中には、次のような項目が含まれていた。
- ベルギーからドイツへのコンゴ自由国の割譲(ベルギー撤退の代償として)。
- 北フランスからのドイツ撤退の代償として、フランスがアフリカ植民地の一部をドイツに譲渡すること。
さらに1915年10月24日付『ニューヨーク・アメリカン(New York American)』紙には、ハンス・デルブリュック教授(Professor Hans Delbrück)に対する長大なインタビューが掲載されている。そこにおいてデルブリュック教授は、もしウィルソン大統領とローマ教皇が仲介役として動いてくれるならば、ドイツは次のような条件で講和に応じる用意があると述べている。
「ウガンダ(Uganda)のドイツへの割譲、ならびにフランスおよびベルギーに属するコンゴ領のドイツへの割譲――これを、北フランスおよびベルギーからのドイツ撤退の『身代金(ransom)』とする可能性は十分にありうる。」
仮にこのような譲歩が実現したとしても(この可能性を真剣に考えることは難しいが)、それはドイツをしてその「アフリカ計画」の一部を実現させるにとどまり、彼らが長年夢見てきた「ドイツ=アフリカ帝国」構想の全体像にはほど遠いものであっただろう。しかし、このような条件が繰り返し和平条件として提示されてきたこと自体、ドイツのアフリカ政策全体と完全に符合しており、大戦争勃発時における同国の真の動機の一端を鮮明に示すものである。
本書の目的は、こうした政策や計画の道徳的評価を下すことにはない。ここでわれわれが関心を持つのは、ヴィルヘルム時代のドイツが、フォン・ヴェーバーの1880年の提言以来抱き続けてきた「アフリカ帝国」構想を現実のものとするにあたり、その基盤を鉄道網の拡張と輸送力の活用に置いていた、という歴史的事実に他ならない。
注
[55] ロバート・ブラウン著『アフリカ物語(The Story of Africa)』第3巻、ロンドン、1894年。
[56] エヴァンズ・ルーイン著『ドイツ人とアフリカ(The Germans and Africa)』王立植民地協会図書館司書。ロンドン、1915年。
[57] 1900年7月1日条約により、ドイツは南西アフリカ保護領北東隅から、ザンベジ川への通路として「どの地点においても20英マイル未満とならない幅」の回廊を獲得した。
[58] ヘレロ人(ダマラ族)は本来好戦的な民族ではなく、蜂起当時マウザー銃やリー・エンフィールド銃を多数保有してはいたものの、「ライフル射撃にはあまり長じておらず、彼らの『自然な武器』はむしろアサガイ(assegai)である」と評されている。ドイツ政府白書によれば、反乱の原因はドイツの支配に対するヘレロ人の独立心にあった。「ドイツ人の支配が日に日に強まることが我慢ならず、自らを白人よりも強いと信じていたからである」という。H.A.ブライデン氏[『フォートナイトリー・レビュー』1915年7月号、「ドイツ領南西アフリカ征服(The Conquest of German South-West Africa)」]によれば、真の原因は白人商人の横暴、一部役人の専横、そして部族土地の押収にあったという。戦争は反乱部族のほぼ絶滅戦に発展し、ヘレロ人2万から3万人が殺害されたか、あるいはカラハリ砂漠へ追い込まれ餓死した。ホッテントット族もまた多大な犠牲を払った。
[59] 通商防衛同盟(Commerce Defence League)とは、ドイツ人事務員に海外就職のための補助金を支給し、彼らを通じて各国の商慣行やドイツ貿易・産業の進出余地に関する情報を収集する組織である。集めた情報に基づき同盟は代理店開設や競合企業設立を行い、その利益を出資者間で分配する。
[60] 『サウス・アフリカ(South Africa)』1914年11月14日号参照。
[61] 「ドイツ領南西アフリカに関する覚書(Memorandum on the Country known as German South-West Africa)」――南アフリカ連邦政府が利用可能な情報に基づき編纂。プレトリア、1915年。
[62] 同植民地は、トーゴランド(Togoland)経由でベルリンと無線電信による連絡を持っていた。
[63] ドイツ人の「技師」や「鉱山調査員」を装った政治工作員による、一連の事実上のポルトガル領侵入事件については、ジョージ・ベイリー氏「アンゴラ侵略(The Invasion of Angola)」(『ユナイテッド・エンパイア(United Empire: The Royal Colonial Institute Journal)』1915年10月号)を参照。
[64] カミーユ・マルタン「タンガニーカ鉄道とドイツ領東アフリカの進歩(Le Chemin de Fer du Tanganyika et les progrès de l’Afrique orientale allemande)」。『植民情報(Renseignements coloniaux)』第3号、『フランス領アフリカ(l’Afrique française)』1914年3月号別冊。パリ。
[65] カタンガはベルギー領コンゴの一地区で、約11万5千平方マイルの面積を持つアフリカ随一の多雨地帯である。アフリカ大陸のほぼ中央、太西洋とインド洋の中間に位置する。
[66] J.B.ソーンヒル著『英国・ベルギー・ポルトガル支配下におけるアフリカ冒険譚(Adventures in Africa under the British, Belgian and Portuguese Flags)』ロンドン、1915年。
[67] エミール・ツィンマーマン「コンゴ開発に対するドイツの利害(Welches Interesse hat Deutschland an der Erschliessung des Congo?)」『植民地回覧(Koloniale Rundschau)』1911年5月号、ベルリン。
[68] 同「タンガニーカ交通の征服(Die Eroberung des Tanganyika-Verkehrs)」『植民地回覧』1911年1月号、ベルリン。
[69] カール・レネ著『カメルーンとドイツ・チャド湖鉄道(Kamerun und die Deutsche Tsâdsee-Eisenbahn)』1905年、ベルリン。前掲。
[70] 『マルセイユ地理・植民研究協会会報(Bulletin de la Société de Géographie et d’Études coloniales de Marseilles)』第36巻第1号、1912年第1四半期。
[71] エミール・ツィンマーマン著『新カメルーン――旅行記と経済政策的考察(Neu-Kamerun; Reiseerlebnisse und wirtschaftspolitische Untersuchungen)』1913年、ベルリン。
[72] 同『中央アフリカとは我々にとって何か(Was ist uns Zentralafrika?)』1914年、ベルリン。
[73] ドイツとトルコが連携し、アジア小国(小アジア)鉄道を用いてエジプトを侵攻・制圧する計画については、次章で述べる。
[74] なお、戦争が続くさなかにあってさえ、ドイツ社会民主党機関誌『ノイエ・ツァイト(Die Neue Zeit)』は率直に、「ドイツは主として植民地領有拡大の目的から戦争を開始した」と認めている。同紙は1915年10月8日付『デイリー・エクスプレス』紙によって次のように引用されている。「パウル・ロールバッハ氏は、中央アフリカ全域の獲得を唱えているが、彼によれば、この地域は広大ではあるものの、今後半世紀のうちにドイツが必要とする『生活空間』をすべて供給しうるものではない。デルブリュック教授は、ロールバッハ氏と同様に中央アフリカならびにアンゴラおよび英領東アフリカ全域の重要性を認めたうえで、さらに現在フランス領となっているスーダンおよびサハラ南部の取得を強く主張している。我々はこれら有力な指導者たちと完全に意見を同じくする。すなわち、我々も自前の『インド』を持たねばならず、そのためにはアフリカ大陸の大部分が必要だということである。一たびこの新たな帝国に堅固に根を下ろしたならば、我々はトルコ・アジアおよび中国とも連携し、両者の政治的・経済的基盤を科学的ドイツ的原理に則って再構築するであろう。」
第二十章
アジア・トルコに対する策謀
アフリカにおける、明白に戦略的目的をもって敷設された鉄道線がドイツ・アフリカ帝国の成立への道を開くべきものであったのと全く同様に、いわゆる「バグダッド鉄道」計画に含まれる経済的・政治的・戦略的鉄道線の体系もまた、ドイツの中近東帝国を樹立することを目的として構想されたものであり、地中海からペルシア湾に至る全地域をドイツの支配下に置くとともに、一方ではエジプトへ、他方ではインドへと前進するための、格好の跳躍台を提供しようとするものであった。
このさらなる計画の構想は、次の二つの時期にわたって展開された。(1) ドイツの野心が、アジアにおけるトルコ領の相続に限られていた時期、そして (2) その相続が、さらに大きな世界政策(ヴェルトポリティーク)上の目的を実現するための手段とみなされるようになった時期である。
半世紀以上にわたり、アジア・トルコはドイツにとっての「約束の地」と見なされてきた。アナトリアは、ドイツの余剰人口を収容するに最も望ましい領土であると考えられていたのである。その全域を、ドイツの影響下で開発し――とりわけバビロニア式灌漑制度を復活させることによって――、莫大な商業的繁栄の可能性が開かれると期待された。とくに小麦、綿花、タバコは驚くほどの量で栽培しうるはずであり、さらに、バクーに匹敵する石油産業を興す見通しもあった。トルコは衰退しつつある国民であり、「瀕死の病人」が、そのほとんど避けがたい運命に屈するや否や――あるいは情勢が許せばそれ以前にでも――、ドイツはただちにその地位を引き継ぐ用意を整えていたのである。
このような野望が、実際に長いあいだ抱かれてきたことは、容易に証明しうる事実である。
1848年、ドイツ歴史学派経済学の第一人者ヴィルヘルム・ロッシャーは、トルコ領の分割がいつの日か行われる際には、小アジアこそがドイツの取り分であると指摘した。また、いわゆる科学的社会主義のドイツにおける創始者ヨハン・カール・ロベルトゥス(1805–1875)は、トルコがドイツの手に落ちるのを、そしてドイツ兵がボスポラス海峡の岸辺に立つのを見るまで生きていたいと願っている、と述べた。
もっと近い時代に目を転じると、ドイツ人東洋学者アロイス・シュプレンガー博士が1886年に、『バビロニア――過去において最も豊かな土地、そして現代において最も有望な植民地化の対象』[75] と題するパンフレットを発表していることがわかる。同書で彼は、バビロニアの歴史・自然条件・資源を論じたのち、世紀が終わるまでには、形式的な併合はともかくとしても、バビロニアだけでなく、それと切り離しがたいアッシリアも、いずれかの欧州列強の支配下に置かれるだろうと予言している。アッシリアとシリアは、バビロニアよりもさらに植民に適している、と彼は断言した。彼はこう続けている――
東方こそは、野心あるいずれの国民によっても、いまだ占有されていない地球上唯一の領域である。そこには植民のための最良の機会が存在する。もしドイツが、この好機を逃すことなく、コサックがやって来る前に行動するなら、世界分割において最上の取り分を獲得できるだろう……。数十万の武装したドイツ人植民者が、これら有望な土地を耕作に付した暁には、ドイツ皇帝は小アジアの運命を自らの手中に収めることになり、そして彼は――また必ずやそうなるだろうが――アジア全体の「平和の保護者」となるのである。
旅行家にして経済学者でもあるカール・ケルガー博士は、その著『クライナジエン――ドイツ植民の場』(ベルリン、1892年)において、多くのドイツ人と多額の資本がアングロ・サクソン諸国へ流出していることによって、ドイツが被っている莫大な損失を嘆いている。しかし彼によれば、ドイツ人入植者が自らの国民性と本国との商業的関係の双方を維持したまま移住できる国は、わずか二つしかなかった。その二つとは、アフリカと小アジアである。彼はとりわけ、旅行中に目の当たりにしたアナトリアの将来性と可能性に強い印象を受け、大規模な植民計画と広汎な土地開墾を組織するため、そこに大ドイツ企業を設立することを勧めている。こうして設けられた植民地は自治権を持ち、十年間の税免除を受け、生活必需品を無税で輸入する権利を持ち、その他さまざまな特権を享受すべきだとされた。その代償として、トルコは入植者に対するこのような譲歩を行うことで、「ドイツによる対外的攻撃からの保護」を保証されることになる。数十万どころか、数百万の入植者が、あの広大な平原に第二の故郷を見いだしうる。ドイツ自身も、経済的利益と政治的利益という二重の利得を得ることになる。政治的利益についてケルガー博士はこう述べている――
ドイツ帝国が、オーストリアおよびイタリアとの友好関係――これはいかなる事情のもとでも、欧州の政治状況が疑いなく要求するものである――を維持しつつ、移民の流れをトルコの肥沃な領土へと向けることができ、さらに同国と、より緊密な関税協定を結ぶことができるならば、ドイツの経済的将来――ひいては政治的将来も――は、現在のように、毎年何十万もの国民と数百万の資本が、年ごとに増大する割合で、経済的に我々に敵対的な諸国へと流出し続ける場合に比べ、はるかに広く、堅固な基盤の上に置かれることになろう。
ケルガー博士がとりわけ懸念したのは、小アジアに対するドイツ自身の構想が、ロシアやイギリスに先取りされはしないかという点であった。もし、これらの国のいずれかがトルコからさらに領土を獲得するか、あるいは何らかの形でトルコの対彼ら依存度を高めるようなことがあれば、その結果は、1870年以来前例のないほど深刻に、欧州の現状を動揺させることになるだろう、と彼は述べている。
こうした諸構想の発展は、ついには1895年、『汎ドイツ新聞(Alldeutscher Blätter)』が、ドイツは小アジアにおけるトルコ領に保護国を樹立すべきだと提言するところまで行きついた。翌1896年には、汎ドイツ同盟(Alldeutscher Verband)が『ドイツのトルコ遺産に対する請求権』(“Deutschlands Anspruch an das türkische Erbe”)と題する宣言書を発表し、トルコ継承に関するドイツの権利なるものを正式に主張したのである。
このころまでに、ドイツはすでに、アナトリア鉄道によってアジア・トルコの地に足場を築いていた。同鉄道の第一区間――マルマラ海北東岸、コンスタンティノープル対岸に位置するハイダル・パシャからイズミットまでのおよそ七十マイル――は、1875年にドイツ人技師によってトルコ政府の委嘱で建設されたものである。1888年には、同線はドイツ銀行の名義人であるドイツ人シンジケートに譲渡された。ここで権限を与えられた同シンジケートは、1892年には東方のアンゴラまで、1896年には南方のコニアまで延長を開通させ、路線の総延長はこうして633マイルに達した。
1898年のドイツ皇帝のコンスタンティノープル訪問の結果として、その後に行われたオスマン帝国政府とドイツ銀行頭取との交渉により、新たなドイツ会社――帝国オスマン・バグダッド鉄道会社――に対し、1889年、1902年、1903年の各協定に基づき、既存のアナトリア鉄道をコニアから、アダナ、ニシビン、モスル、バグダッドを経てペルシア湾に至るまで延伸する権利が与えられた。この延長線が、いわゆる「バグダッド鉄道」本線を構成することになっていたが、同社はまた、すでに開通していた支線の大部分をも掌中に収めた。その一つが、フランス資本のスミルナ=アフィオン・カラヒサール線であり、この線はスミルナとアナトリア鉄道が通じる諸地方とを結ぶ直通交易路となっているほか、マルマラ海南岸のパンダルマへ延びる支線も有していた。もう一つは、アダナとメルシナとを結ぶ短い路線で、これによって地中海へのアクセスが確保されていた。これは、フランスの利権がドイツのそれに置き換わったことを意味すると同時に、ボスポラス海峡からアダナに至るアナトリア=バグダッド鉄道路線の走行経路によって、スミルナからアイドゥン、エギルディル(コニア西方)を経て内陸へと延びうるイギリス系スミルナ鉄道の延長可能性が封じられることにもなった。
ついで1911年、同社はアレクサンドレッタにおいて、新港――埠頭、ドック、保税倉庫等を備えた――を建設する権利と、そこからアダナ東方のオスマニエでバグダッド本線に接続する短い鉄道路線を敷設する権利を獲得した。この結果、ドイツは、地中海東岸でもっとも重要な港湾の一つ――すでに取引額三百五十万ポンドに達する貿易が行われている港――と、バグダッド鉄道がサービスの対象とすることを企図していたアジア・トルコ広域とのあいだの交通を、実質的に支配し、少なくとも独占に近い形で掌握することになったのである。
アレッポ北方の小都市ムスリミエからは、ダマスカスとメディナを結び、いずれはメッカまで延長される予定であったヘジャーズ鉄道とバグダッド鉄道とを結ぶ短い支線が分岐している。また、ダマスカス北方のライヤクからは、南西方向に建設された支線が、エジプト国境のごく近くまで延びる計画であった。
アレッポ支線との分岐点から本線は、メソポタミア平原を横断してバグダッドへと延びることになっており、そこからはペルシア国境のハーニキーンまでの支線が計画されていた。さらに本線は、ペルシア湾に面したバスラまで続くはずであった。
このように、「バグダッド鉄道」という名称のもとに計画された事業は、アジア・トルコにおける三つの別個の地域――(1) アナトリア、(2) シリア、(3) メソポタミア――を包含していた。言い換えれば、構想の第一段階では、トルコ領に対するドイツの野心は、アナトリアへの入植によって得られる経済的利点に基礎を置いていた。アナトリアは、それ自体として、そこに入植を望む全てのドイツ人を収容しうるほどの広大な地域であった。しかし第二段階では、こうした野心は、バグダッド鉄道を一方ではエジプト方面へ、他方ではペルシア湾方面へと延長するという構想に基礎を置くようになったのである。この二方向への延伸の意図は、タウルス山脈を突破するために、総計ほぼ百マイルに及ぶ発破・トンネル工事を施さねばならず、路線の一部区間では一マイル当たり三万五千から四万ポンドという建設費が見込まれていたという事情からしても、いっそう顕著なものとなる。したがって、この延長は、きわめて費用のかかる事業となるはずであった。アナトリア鉄道系統を除いた、いわゆるバグダッド鉄道本線の計画総延長はおよそ一千三百五十マイルとされたが、そのうち1915年6月の時点で実際に開通していたのは約六百マイルに過ぎなかったのである。[76] メソポタミアを商業的・農業的発展のために開放することの望ましさは認めるにせよ、なおこう問うことができよう。すなわち、この初期構想の拡張には、別の動機――しかも、さらに大きな重みを持つ動機――が存在していたのではないか、と。
アブデュル・ハミドがこの鉄道敷設権を与えた理由としては、路線をペルシア湾まで延ばすことがトルコの軍事的地位を大いに強化すると考えられたからだと言われている。すなわち、それによって、平原や山岳地帯を徒歩で踏破するのに何カ月もかかるのに比べ、ボスポラス海峡とペルシア湾、あるいはその中間の地点とのあいだで、軍隊を迅速に移動させることが可能になるからである。
ドイツが、既定計画の全範囲にわたってバグダッド鉄道とその支線・連絡線の建設を企図した理由は、世間に信じ込ませようとした一部の「啓発的説明」が主張するような、新しい貿易路の開拓だけではなかったし、その他の種々の経済的利益の獲得だけでもなかった。真の理由は、第一に、トルコに対するドイツの影響力を増大させること、すなわち、トルコの軍事力その他の資源を強化して、最終的にはそれらをドイツ自身の利益増進のために利用し、やがてはトルコに対する保護国支配を実現して、同国を事実上ドイツの一属州に変えてしまうことにあった。第二には、イギリスもまた衰退しつつある国であり、その領土は、もはや有効に防衛できなくなった暁には、ドイツが自らのものとすることが十分に期待できる、とドイツが考えていた点に関連して、ドイツの対英目標を推し進めることにあった。すなわち、トルコ軍の兵力を集中してこれを援助軍として用い、ドイツが大英帝国の最も脆弱な地点のいくつかを射程内に収める位置に進出してさえいれば、帝国解体の兆候が現れた場合にせよ、その他のいかなる好機が到来した場合にせよ、すぐさまそれを利用できるよう備えておこうとしたのである。
トルコに対する影響力を一層拡大しようとするドイツの努力に関する証拠には事欠かない。
第一に挙げられるのは、1882年、コルマール・フォン・デア・ゴルツ男爵将軍を中心とするドイツ軍事顧問団が派遣され、ドイツ軍事学の原理に則ってトルコ軍の訓練にあたったという事実である。その結果、トルコ軍は、自国自身の目的を達成するための道具であるだけでなく、ドイツ自身の目的達成のための、より有効な手段ともなったのである。
皇帝は、ルター派教会の最高首長であり、自国には一人のムスリム臣民も有していなかったにもかかわらず、一般にイスラーム教徒の擁護者、彼らの信仰の守護者としてふるまおうとした。1898年11月のダマスカス訪問の際、彼はこう宣言している――「スルタンよ、そして全世界に散在しつつ、その人物に自らのカリフを仰ぐ、三億のムハンマド教徒たちよ、ドイツ皇帝は常に、諸君の友人であることを確信してよい。」[77]
アルメニア人・マケドニア人虐殺事件やクレタ島の反乱などの結果として、トルコに政治的危機が降りかかろうとするたびに、欧州列強の中でトルコの擁護者を買って出たのは、常にドイツであった。
トルコにおけるドイツの通商を促進し、同国との商業的関係を一層緊密なものとするために、考えうるかぎりあらゆることが行われた。やがてトルコ帝国の重要都市という都市はすべて、「ドイツ人銀行家、ドイツ人書記、ドイツ人セールスマンであふれかえっている」と言われるに至ったのである。
さらにまた、新規鉄道敷設の特許取得に奔走したのがドイツ人技師であったばかりでなく、既存路線の掌握を図って同様に活動したのもドイツ人金融業者であった。チャールズ・サロレア博士が『英独問題』において指摘しているように、バグダッド鉄道会社とオスマン政府とのあいだで結ばれた諸協定の中には、最終的にはトルコを、名目的庇護者であるドイツの意のままにさせてしまうに違いない金融条項が含まれていたのである。「トルコにおいては、ドイツのみが絶対的に支配権を握るだろう」とされ、スルタンをドイツの臣下とするトルコ保護国構想にかねての野望は、かくして実現の運びとなるはずであった。
1903年当時の状況について、アンドレ・シェラダム氏は『東方問題(La Question d’Orient)』の中でこう述べている――
ドイツ人はますます、トルコ人の土地を自分たちの私有財産と見なしているように思われる。トルコに関する最近のドイツ語文献はすべて、この傾向の証拠を提供している。普通の旅行記にさえ『ドイツ鉄道で行く小アジア』といった題名が付けられているのである。パウル・ラングハムスは、その『汎ドイツ地図帳(Pan-Germanischer Atlas)』の中で、『小アジアにおけるドイツ鉄道』という地図を掲げている。かくも、ここにあるのは、まさしく組織的なトルコ征服の問題なのである。あらゆる場所で、あらゆる面において、トルコはドイツというタコの触手にからめ取られつつある。
次に、イギリスに対するドイツの目的の性格と、その達成においてバグダッド鉄道が果たそうとした役割に目を向けると、この点については、ドイツの世界政策(ヴェルトポリティーク)の専門家であり、小アジアを四度訪れた旅行家でもあるパウル・ロールバッハ博士による率直な告白が存在する。同博士は『バグダッド鉄道(Die Baghdadbahn)』(第2版、1911年)において、小アジアをドイツ人入植に適した場所として最初に指摘したのは、アナトリア事情に通じていたハレ大学教授ルートヴィヒ・ロスであったと述べている。初めのうちは、問題は専ら経済的考慮に限られており、ビスマルク時代には、ドイツの対英関係はその対外政策において大きな役割を果たしてはいなかった。しかし、ドイツの利害が発展し、その国土がもはや国民を養うに足る食糧や、工業のための原材料を供給しきれなくなっていくにつれ、ドイツは不足分の供給を求めて海外に目を向けざるをえなくなったのである。だが、その際、海外におけるドイツの利害は、英国艦隊によって危険にさらされるおそれがあった。そこでドイツ艦隊の必要性が生じたわけだが、ドイツの海軍力は、それ単独ではイギリスを攻撃し征服するに足るほど強力ではなかったとしても、イギリスの政策に対しては一定の考慮を強いることができるはずであった。ロールバッハ博士はこう続けている――
もしもイギリスとの戦争という事態になれば、それはドイツにとって、まさに生きるか死ぬかの問題となるだろう。ドイツにとって戦争を有利に終わらせることができるかどうかは、ただ一つの要件、すなわち、われわれがイギリス自身を危険な立場に追い込むことに成功するか否かにのみかかっている。この目的は、北海を越えた直接攻撃によって達成することは、いかなる意味においても不可能である。ドイツ軍がイギリス本土に侵攻しうるなどという考えは、純然たる幻想にすぎない。したがって、イギリスをその弱点において攻撃するためには、別の組み合わせを追求しなければならない。ここで、ドイツとトルコとの関係、およびトルコにおける諸条件が、ドイツの対外政策にとって決定的に重要であることが明らかになる。実際、イギリスによる侵略戦争に対してドイツが抵抗しうる唯一の手段は、トルコを強化することなのである。
ヨーロッパから陸路でイギリスを攻撃し、致命傷を与えうる場所はただ一つ――エジプトである。もしイギリスがエジプトを失うならば、スエズ運河の支配権とインドおよび極東との連絡を失うだけでなく、おそらく中央アフリカおよび東アフリカにおける領有地も失うことになるだろう。トルコのようなムスリム国家によるエジプト征服は、加えて、インドに住む六千万人のムスリム臣民に危険な影響を与えうるし、アフガニスタンやペルシアにおけるイギリスの地位をも損なうおそれがある。
しかしトルコは、小アジアおよびシリアにおいて発達した鉄道網を掌握し、アナトリア鉄道をバグダッドまで延長して、イギリスによるメソポタミア攻撃に抵抗しうるようになり、その軍隊が増強・改善され、経済的・財政的状況が全般的に進歩しないかぎり、エジプト奪回という夢を抱くことは決してできない……。トルコが強くなればなるほど、英独衝突の際にトルコがドイツ側に立つならば、イギリスにとっての危険は大きくなる。そして、エジプトという獲物が視野に入るならば、トルコがドイツとともにイギリスと戦う危険を冒すだけの価値は、確かにあるといえよう。他方、トルコが軍事力を増大させ、経済的地位を改善し、十分な鉄道網を備えたという事実だけでも、イギリスはドイツへの攻撃をためらうようになるはずである――そして、これこそがドイツが目指すべき点である。現在ドイツが遂行している、トルコを支援するという政策は、イギリスとの戦争の危険に対する強力な抑止策を講じること以外の目的を持たないのである。
このほかにも、同様の証言が各方面から寄せられていた。
社会主義系新聞『ライプツィガー・フォルクスツァイトゥング』は、1911年3月、「まもなく小アジアに生じるであろう新情勢は、すでにぐらつき始めている(schwanken)大英帝国の崩壊を早めることになるだろう」と述べている。
1911年6月2日付『ディー・ノイエ・ツァイト』紙上で、カール・ラデック氏は次のように述べている――
ドイツ帝国主義の強化――その最初の、あれほどの努力をもって達成された成功こそがバグダッド鉄道である――、トルコにおける革命党の勝利、インドにおける近代的革命運動の可能性――これはもちろん、これまでのような個々の部族による散発的蜂起とはまったく異なるものと見なされねばならない――、エジプトにおける民族運動、同国における改革の端緒――これらすべてが、バグダッド鉄道問題の政治的重要性を、驚くべき程度にまで高めている。
バグダッド鉄道は、イギリス帝国主義の利害に対する一撃であるがゆえに、トルコがその建設をドイツ企業にのみ委ねることができたのは、ドイツ陸海軍が自国の背後に控えていると知っていたからである。この事実は、トルコに対してあまりに鋭敏な圧力を加えることは得策ではない、とイギリスとロシアに思わせるものとなっている。
1911年6月1日付『アカデミッシェ・ブレッター』誌上で、ドイツの政策と政治の公認の権威であるR・マンゲルスドルフ教授はこう記している――
組織化された鉄道網がトルコに与える政治的・軍事的力は、全くもってドイツの利益にかなうものである。というのも、トルコが独立していなければ、ドイツは現実の経済発展において何らの分け前も得ることができないからである。加えて、いずれにせよ過大ともいえるイギリスの権力と野心を、これ以上増大させようとするいかなる試みも、このことによって効果的に妨げられる。ある程度においては、トルコによる鉄道網建設はイギリスに対する脅威でもある。なぜなら、それは、イギリス世界帝国の「身体」の中でもっとも脆弱な部分――すなわちエジプト――への攻撃が、十分に現実的可能性の範囲内に入ってくることを意味するからである。
これらの声明や認識は、ドイツがトルコの友邦を自称し、同国がより強大な国となることを望んだ理由を、きわめて明瞭に示している。また、バグダッド鉄道南西支線が本来果たそうとした真の目的についても、もはや疑念の余地を残さない。すなわち、ドイツ・トルコ連合軍によるエジプト征服こそが、鉄道を一方ではエジプト国境へ、他方ではメッカへと延ばすことによって達成されるべき第一の目標であったのである。さらに、ロールバッハ博士が、イギリスのエジプト喪失は中央および東アフリカにおける領有地の喪失をも伴うだろうと示唆したことは、前章で述べた、アフリカ全土にわたるドイツの野望と深く関係している。ドイツ領南西アフリカにおける戦略鉄道、情勢が許せばそれらの延伸計画、ドイツ領東アフリカの鉄道路線、そしてエジプト方面に向かうバグダッド鉄道南西支線――こうしたすべてが、やがてはケープからカイロに至るドイツ・アフリカ帝国を創設するための一構成要素として機能するはずであった。
ここで、バグダッド鉄道南東支線に目を向ければ、ドイツがペルシア湾までの鉄道建設を望んだのは、もっぱら商業的理由によるものであったと、再三にわたって抗議していることに行き当たる。しかし、こうした抗議に対しては、ドイツのこの方面における目的が決して純粋に経済的なものだけではなかったことを、疑いの余地なく示す種々の具体的事実を突きつけねばならない。しかも、バグダッド鉄道が間違いなく果たしたであろう経済的役割でさえ、最終的にはドイツの政治的地位の強化につながり、それがまた軍事的・戦略的目的の達成を助けることになったはずなのである。
当初の計画では、メソポタミア貿易の商業的中心地であり、チグリス川とユーフラテス川の合流によって形成される大河シャット・アル=アラブ河畔に位置し、海から六十マイル内陸にあるバスラ港――世界中の船舶が出入りできる――が、バグダッド鉄道の終点となるはずであった。そして、もし本当に商業的配慮のみが目的であったならば、この終点で必要はすべて満たされたであろう。
バグダッド鉄道を、トルコ領内でバスラまで建設することに対しては、イギリス政府は、また政府としても当然ながら、何ら異議を唱えることができなかった。ところが、その後の計画の展開において、ドイツとその相棒たるトルコは、自然な商業的終点であるバスラから、ペルシア湾岸のクウェートという、政治的・戦略的終点までの路線延長を確保しようとしたのである。ベルリンの『アーベントポスト』紙は、クウェートを「バグダッド鉄道の唯一可能な出口」と呼ぶことで、ドイツ側の見解を代弁した。
しかし、ドイツ色の明確な鉄道線をクウェートまで延長することは、ペルシア湾における覇権を自認していた大英帝国への、直接の挑戦となるであろう。それは、東洋におけるイギリスの政策・利害・威信と衝突することになる。また、それは、クウェートにおいて埠頭・ドック・倉庫などを備えた港湾を建設し、それを貿易・商業とは全く別種の目的――すなわちインドへの新たな進攻路――に奉仕しうる海軍・軍事基地へと転用しうる口実を、ドイツとトルコの同盟国に与えることになるであろう。さらに、ドイツ銀行がすでに欧州トルコの鉄道に対して行使している支配権と結びつけば、ドイツは、自国の海軍部隊ないし陸軍部隊を、補給・弾薬とともに、ペルシア湾へと直接送り込む手段――艦隊を増強し、あるいは極東における世界政策の分野で抱くさらなる構想を実行に移すための手段――を確保することになる。それは少なくともペルシア湾頭に至るまでは、自国の行動が海軍力の行使に依存する度合いを、鉄道力によって軽減しうることを意味し、また同湾に至るまで、イギリスの海上権力をも無力化しうることになるのである。
かかる根本的な戦略上の地位の変化が何を意味するかについては、著名にして公正な権威であるA・T・マハンが『回顧と展望(Retrospect and Prospect)』(1902年)の中で、次のように述べている。
相当な海軍力を有する外国国家がペルシア湾を支配し、強固な軍港を基盤として、そこに「存在する艦隊(fleet in being)」を配備することになれば、それは、地中海におけるカディス・ジブラルタル・マルタと同様の関係を再現することになるだろう。その場合、極東・インド・オーストラリアへのあらゆる航路――最後の二つは、政治体制としての帝国の内部に属するものである――は、その側面から脅かされることになる。そして、現時点ではイギリスは、疑いなくそのような艦隊を牽制しうるとしても、そのためには、イギリス海軍全体の戦力に深刻な影響を与えるほどの大規模な分遣隊を必要とするかもしれない……。ペルシア湾における譲歩――それが積極的な正式協定によるものであれ、現在政治的・軍事的支配の基盤となっている現地の通商上の利益を単に等閑視する形でのものであれ――は、極東におけるイギリスの海軍的地位、インドにおける政治的地位、両地域における商業的利害、そしてイギリス本国とオーストラリアとの帝国的紐帯をも危険にさらすことになるであろう。
このように考えると、バグダッド鉄道南東支線の終点として、ボンベイからわずか四日という距離に位置するクウェートは、イギリスの利害にとって、南西支線の終点がエジプトからおよそ十二時間の位置にあるのと同じくらい重要な拠点となるはずであったことがわかる。そして、ドイツがこのさらなる利点を手にすることは、ロールバッハらが唱えた「イギリス自身を危険な立場に追い込む」ためにドイツが採用すべき政策路線という命題と、まさに完全に合致するものであった。
イギリスの利害が、このような状況に陥ることを防ぐ目的から、数年前、ペルシア湾に関しては、バグダッドからクウェートまでの鉄道は全面的にイギリスの管理下に置かれるべきだ、という主張が提出された。ドイツは、この提案に同意する道を見いださなかったが、1911年、バグダッドからバスラまでの区間の建設権については放棄し、その最終区間はトルコが完成させるものとする、と表明したのである。ただし、こうしてイギリス側の見解に譲歩した見返りとして、ドイツは一定の金融上の利得とともに、アレクサンドレッタ延長線の建設権およびアレクサンドレッタ自体を、事実上地中海におけるドイツの港と化す権利を確保した。
しかし、ドイツがこうして行った「譲歩」の真の価値については、大いに疑問の余地があった。もしドイツが、長年抱きつづけてきた、トルコに対する事実上の保護国支配の確立という目的に成功していたならば、バグダッド鉄道の最終区間がドイツではなくトルコによって建設されたという事実は、ドイツの実際の支配に大して影響しない、些末な問題にすぎなかったであろう。バスラまでの路線は名目上トルコのものかもしれないが、その運営方針はドイツの意向によって決定されるに違いない。同様の事情は、イギリスが、トルコ――ただしドイツではなく――にバスラからクウェートまでの鉄道延長を認めていた場合にも生じたであろう。
その侵略的目的の広がりにおいて、バグダッド鉄道およびそれに関連する諸路線は、最もよく、かつてローマ人がその全盛期――やがて衰亡に先立つところの驕り高ぶりの時代――に、世界征服の目的をよりよく達成するために建設した街道網に比することができる。ここで問題となっている道が鉄道であり、機関車が戦車に取って代わったという事実を別にすれば、ローマ人とドイツ人との主な相違点は、前者が征服しようとした世界が、後者が欲した世界よりもはるかに小さかった、という点に見いだされるであろう。
ドイツの諸計画に包含されていた世界政策のプログラムは、諸国ばかりか諸大陸をも視野に収めていた。ヨーロッパに関する野望に加え、このプログラムは、トルコ帝国、インド帝国、そして新たに「ドイツ・アフリカ帝国」と称されるべき第三の帝国という、三つの帝国を最終的にドイツ帝国に併合することを目指していたのである。さらにこの計画は、軍事力をドイツの統制下に置いたトルコ軍と協同してペルシアに対する作戦を行う可能性に備え、ドイツ本国からコンスタンティノープルとバグダッド鉄道を経てペルシア国境まで直接軍隊を送り込む手段を確保しようとするものであった。同様にして、バグダッド鉄道そのものも、同様の支援を受けつつ、ペルシアおよび南カフカスにおけるロシアの利害を脅かす手段をドイツに提供することになっていた。それは、イギリスの地中海における海上権力を――少なくとも、インドの門口に新たな強国を樹立することによって、極東におけるそれをもある程度まで――無力化しようとするものであった。マハンが示したように、それはまた、オーストラリアとの連絡路の側面を脅かし、もしアジアとアフリカがドイツの野望を満たしえなかった場合には、この方向でもドイツに利点を与えることになるはずであった。
諸民族の運命、政治勢力の均衡、世界の諸力の再編成に対して――すべて一民族の増長のために――与えようとした影響という観点から見れば、この完全なプログラムは、人類史において記録されてきた世界征服計画のうち、最も野心的かつ最も無節操な企図と見なさざるをえない。
もっとも、この目標の達成は、武力に劣らず鉄道輸送に依存していたことは明らかである。そしてこの点において、それは、八十年にわたる研究・試行・組織化を通じて追求してきた「鉄道力」の原理を、実際に適用しようとするドイツ最大の試みを体現していたのである。
脚注:
[75] “Babylonien, das reichste Land in der Vorzeit und das lohnendste Kolonisationsfeld für die Gegenwart”(『バビロニア――古代における最も豊かな土地、現代における最も有望な植民地化の対象』)。全128頁。ハイデルベルク、1886年。
[76] その後、重要な延長工事が実施されている。
[77] ディロン博士『コンテンポラリー・レビュー』1906年4月号。
第二十一章
要約ならびに結論
すでに前諸章から明らかであろうように、1914年の大戦勃発以前、世界各国において長年にわたって行われた検討・準備・実践の結果、鉄道と戦争一般との関係について、いくつかの明確な事実と基本原則が確立されていた。ここでは、それらを一括して、(A) 利点、(B) 能率発揮のために不可欠な条件、(C) 有用性の限界、(D) 欠点および不利益――という四つのグループに要約しておくことにしたい。
A――利点
(1) 戦争勃発時の軍事的状況の要求をすべて満たしうる鉄道網があらかじめ整備されているか、あるいは (2) 戦闘の進行中に軍用鉄道を建設することが可能である、という前提に立つならば、そのような鉄道は、次のようなことを可能にするはずである。
――軍隊の動員および国境あるいは戦場への集中を、従来の条件下では到底不可能であった速度で行うこと。
――国内各地を横断する複数の経路を同時に利用し、国境上、あるいは敵の妨害を恐れることなく兵力集中を完了しうる、国境からやや離れた地点に軍を集結させること。
――敵に察知されることなく国内奥地の諸地点に集結させておいた軍隊を、次々と続行する列車で直接前線に送り出し、隣接領土へ突然侵入させること。これは、意図を早期に露呈してしまうような大規模兵力を、あらかじめ国境上に集結させておくやり方に代わる手段となる。
――これらの目的のために、国内資源の全能力を迅速に動員すること。すなわち、国境上または国境に直接接続する鉄道線ばかりでなく、内陸部の鉄道もあらかじめその用途に適合させておくことで、国家の攻勢力・防御力をそれに比例して増大させること。
――機動性と迅速性の向上に加え、鉄道が利用できない場合には、装備などを携行しての長距離行軍による試練と疲労の結果として不可避的にもたらされる兵力の減耗を回避し、兵士の体力にかかる負担を軽減すること。
――その結果として、軍隊の戦闘力をさらに増大させること。
――自国領内であれ敵領内であれ、戦略的重要地点に大兵力を早期に集中させることにより、主導権を獲得しうる可能性を得ること。[78]
――従来ならば実行不可能であった規模や性格の戦略的組み合わせを行うこと。
――戦争遂行中に、戦術的目的のため鉄道を利用すること。これには、(a) 戦場の一部から他の部分への部隊移動――大規模な戦線転換を行う場合であれ、その他の場合であれ――、(b) 同一の軍団を、ごく短時間のうちに次々と別々の戦線に転用すること、(c) 通常なら失われかねない、圧倒的攻撃にさらされた地点に、危急の際に迅速に増援を送り込むこと、(d) 敵への奇襲、(e) 大兵力を遠隔地点に投射すること、(f) 戦線中の弱点部を強化すること、(g) 兵員・火砲・弾薬・補給物資によって、攻撃のおそれにさらされた要塞を強化すること、(h) 包囲された要塞の救援、ならびに (i)状況が許す場合には、敗北後の部隊を鉄道により後退させること――などが含まれる。
――根拠地と戦略的作戦中心との間の鉄道通信線を掌握し、軍の背後で維持しなければならない膨大な量の往復輸送を容易にすること。そこでは、速度・安全性・規則正しさといった要素が、死活的な重要性を持つことがありうる。
――鉄道のおかげで、前線への補給基地を特定の一地域に設けられた拠点――そこでは、供給源の範囲が限られ、弾薬庫・倉庫・工場・輸送部隊駐屯地などが要塞や野戦築城その他の防御手段によって護られている――のみに依存する必要がなくなり、国土全体の内陸部を、前線に対する補給基地と見なすことができるようになること。
――通信線に沿って補助的・区画的・前進基地を設置し、鉄道運行を、野戦軍の当面の必要を満たしうる適正量の補給物資を、日々、必要な各地点に送り届けられるように調整すること。これによって、欠乏にも過剰にも陥る危険を避けることができる。
――このような条件のもとでは、(a) 荷卸しできず、(b) 他の用途のための線路利用を妨げ、(c) 急激な退却の際には敵に放棄せざるをえないような過剰補給物資を積んだ列車や貨車が、軍隊直後方の鉄道路線をふさぎ込むといった事態を回避できる。
――食糧などの輸送において、道路輸送に代えて鉄道輸送を用いることにより、(a) より高い速度と規則性、(b) 風雨その他による劣化のおそれの軽減、(c) かつてのように多数の馭者・護衛兵・監視兵・馬・馬車を要した場合に比べて輸送費が低減すること、(d) 目的地に発送量がそのまま到着すること――すなわち、長距離を道路輸送する輸送車隊では、随伴する人馬が途中で相当量の物資を消費してしまう必要がないこと――といった、具体的な利益を得ること。
――必要な食糧――たとえばパン――の多くを、遠隔地の都市や他の基地であらかじめ調製し、鉄道で定期的に送り届けることができるため、野戦用かまどその他の野戦厨房器具の必要性を減らすこと。
――かつて一般的であった、「進撃する軍隊は現地で食いつなぐべし」という義務から、多少とも解放されること。今日のように軍隊の規模が巨大化した状況では、たとえ侵略を受ける側の住民が、侵略軍の進撃に先立って家畜・車両・食糧を退避させなかったとしても、この義務を果たすことは不可能である。
――さらに、敵地進撃中の軍隊の需要をこのように賄うことによって、兵士たちが、ナポレオン戦争の折にしばしば見られたような、食糧を求めて広域をさまよい、見つけしだい略奪する、規律なき盗賊集団と化す危険から守られる。補給の継続について、兵士も指揮官も不安から解放されていれば、軍紀の維持と、軍隊が所期の軍事目的のために集中した一体としての有用性を保つことはいっそう確実になる。
――軍隊・増援部隊・補給・軍需物資を遠隔地まで送り届ける手段が確保されることにより、根拠地から遠く離れた場所で戦争を遂行できるようになること。この目的の達成には、単一路線の鉄道であっても、その価値が疑う余地なく証明されている。
――戦略鉄道による国境防衛を実現すること。この種の鉄道はまた、一般輸送にも利用しうる。
――占領地内の都市や要塞を包囲する際、周辺地域に食糧が不足している、あるいは存在しないため、包囲軍が、その大部分、もしそうでなければ全面的に、自国の基地から鉄道で運ばれてくる物資に依存しているような状況に対応すること。[79]
――都市を包囲する前に食糧を補給し、包囲解除後に再補給すること。[80]
――自動車牽引・畜力その他で運行される、迅速建設可能な狭軌包囲鉄道によって通信線を延長すること。これには、(a) 塹壕からの負傷兵搬出、(b) 包囲砲の塹壕前線への輸送、(c) 砲兵隊への弾薬供給――などを目的とする塹壕用トラムウェイも含まれる。
――単体としてであれ全体としてであれ、通常の道路では運搬が事実上不可能な大きさ・重量の重砲・迫撃砲・弾薬その他の物資を輸送すること。この点において、鉄道は、重量物輸送の便宜という点で汽船に匹敵し、しかも多くの場合、砲などを、まさに必要とされる地点またはその近傍まで運び込めるという、さらなる利点を備えている。
――他に交通手段を欠く諸国への遠征に際し、軍用鉄道の建設によって実質的援助を与えること。
――装甲列車の運用。これは、鉄道防衛のために有用であるだけでなく、移動要塞として、対敵作戦において重要な役割を果たしうる。
――負傷者や病兵を戦場から後送し、後方あるいは国内各地の病院に分散収容すること。これにより、(a) 前線やその付近の病院が過密状態となり、軍隊の行動を妨げるとともに、多くの危険や弊害を生じることを防ぎ、(b) 負傷者や病兵がより早く回復し、速やかに戦列に復帰する機会を与え、(c) これら二つの利点の相乗効果によって、軍の戦闘力を増強することができる。
――病気や負傷には至らないまでも、激務のために相当に疲弊し、休養や気分転換を必要としている将兵に対し、短期休暇を与える便宜をもたらすこと。これによって、彼らはのちに、より一層の奮戦ができるようになる。
――増援部隊や補給を前線に運んできた列車に、復路で捕虜を乗せて後方へ送還すること。これにより、軍は、さもなければ作戦行動の妨げとなりかねない捕虜の処理から、迅速に解放される。
――もはや前線で必要とされず、できるだけ早く処分したい輜重類を後方へ送り返すこと。
――占領した町や都市から得た、戦利品――略奪品をも含む――を国内へ運搬すること。
――講和成立後、占領地から部隊を撤退させること。
B――能率発揮のために不可欠な条件
鉄道建設の面では、次のような条件が必要である。
i. 軌間の統一と、各鉄道系統・各区間相互の物理的連結。これにより、(a) ある路線の機関車や車両を、他のいかなる路線においても軍事輸送に使用できるようにし、(b) 想定される、あるいは可能性のある任意の発駅から直通列車を運転することによって、動員・集中・補給および軍需物資の輸送を容易にし、(c) 攻撃または防御目的で、ある戦線から別の戦線へ、あるいは海岸線の一部から他の部分へ、部隊を迅速に移動させることを可能にする。
ii. 内陸部と国境・海岸線・主要港湾とを、複数の経路で結ぶ鉄道路線、ならびに、それら相互を横方向に連絡する路線。
iii. 国境に直接通じるすべての路線の複線化。
iv. 大陸横断線などの単線区間においては、運転されうる最長編成の軍用列車を停車させられるだけの容量を持つ待避線を、多数設置すること。
v. すべての路線および主要駅に、十分な側線を設けるとともに、軍事輸送が必要となった際に速やかかつ能率的に取り扱えるよう、必要な各種設備をあらかじめ設置しておくか、迅速に設置しうるよう備えておくこと。
事前準備としては、次のような事項が含まれねばならない。
i. 次の諸原則の認識に立脚した組織計画を実施すること。すなわち、(a) 鉄道は、戦争遂行において極めて大きく、場合によっては計り知れないほどの奉仕をなしうる手段であるが、その運営は高度に専門的な業務であり、必要な経験を備えた者にのみ委ねられるべきであること。(b) 鉄道運行の詳細や限界について必要な技術的知識を持たない軍人が、その運行に干渉すれば、混乱と破局を招くおそれがあること。(c) 一方、鉄道技術者や職員は、軍事的条件や要求の技術的側面について十分な知識を有しているとは限らず、またいかなる場合であれ、互いに矛盾しうる複数の軍当局からの要請のどれを優先すべきかを判断する責任を負わされるべきではないこと。(d) 以上の理由から、組織計画のあらゆる細部にわたって、軍事要素と鉄道技術要素とが調整され、権限の衝突を回避し、作業の調和を確保し、鉄道の輸送力と、安全かつ能率的な運行への配慮が許す範囲内で、あらゆる軍事的要求が満たされるという最大限の保証を提供すべきであること。(e) そして、これら諸条件を最もよく実現しうるのは、軍事および鉄道という二つの要素を代表し、戦争継続中の軍事鉄道輸送に関する指示や要請を行う権限を唯一有する仲介機関を設置することである、という点である。
ii. 自国領内および、戦争行動が及ぶ可能性のある他国における鉄道の、物理的特性・資源・輸送能力に関する資料を収集すること。
iii. 戦争勃発時に必要となりうるすべての部隊移動について研究し、軍用列車運行のための特別ダイヤを作成し、軍事輸送一般に関するあらゆる重要な細部を検討しておくこと。
iv. 戦時における鉄道の建設・破壊・修理・運転を担当しうる鉄道部隊を編成し、訓練しておくこと。
C――有用性の限界
戦争における鉄道の有用性は、とりわけ次のような点によって制約を受ける。
鉄道は、「大量の貨物を同時に輸送する能力においては船舶に劣る」(フォン・デア・ゴルツ)ものである。このため、インドへの陸路は、軍事輸送という点において、スエズ運河を経由する海路と競い合うことは決してできない。また、この種の陸路は、外国領を通過することから、とくに攻撃や遮断を受けやすい。もっとも、シベリア鉄道の場合のように、陸路が全区間自国領内を通過し、代替となる海路に関して、所要時間や安全性の面で不利が予想されるときには、上述の劣位にもかかわらず、鉄道が船舶より優先されうる。
鉄道は、河川や運河と同様、敷設位置が固定されているという点で、道路に劣る。したがって、その利用に依存する部隊は、既設あるいは迅速に敷設できる鉄道線の方向にしか移動できないが、道路を行く場合には、より多くの代替ルートを選択できる可能性がある。
このため、集中地域や「決戦点」の選定は、今日では(ナポレオン戦争期のように)政治・軍事・地理的理由にのみ左右されるのではなく、利用可能な鉄道路線の方向・延長・輸送力に大きく依存することになっている。
大兵力を鉄道に乗せることができるのは、そのための設備があらかじめ整えられている駅に限られる。これらの設備は、とくに騎兵や砲兵の場合、歩兵以上に必要とされる。したがって、大部隊の移動は、特定の路線に制約され、その乗車・下車も特定の大駅に限られることがある。道路行軍の場合には、この種の制約は存在しない。
鉄道では、その目的のために特別に造られた車両のみが使用できる。それらの供給が不足すれば、必然的に遅延を生じることになる。
部隊が鉄道で移動しているあいだ、その攻撃への抵抗力は、道路を行軍している場合に比べてはるかに制約される。部隊は、鉄道線自体を守るためにできることがほとんどなく、敵が鉄道線に到達しさえすれば、列車の進行を阻止し、その中の兵士を不利な状況で捕捉しうる立場に立つことができる。
こうした諸理由から、とりわけ敵地における戦場では、鉄道による部隊移動には一定の危険が伴い、そのため一時的には鉄道利用を見合わせるほうが望ましい場合がありうる。
鉄道は、敵軍による破壊にとくにさらされやすい。事前の準備が、迅速な修理や復旧を可能にするとしても、軍隊集中の最中や重大な局面において、たとえ一日、半日の交通途絶であっても、きわめて重大な問題となりうる。
退却する側の部隊が、敵の追撃を遅らせるために鉄道線を破壊した場合、敵軍を撃退したのち、その部隊自身が利用したくなるであろう路線を自ら不通にしてしまうという不利益を被ることになる。
二十、二十五、三十マイルといった短距離の移動において、大部隊の輸送を鉄道に依存することは得策ではない場合が多い。その理由は、移動に要する時間は、列車に乗っている時間だけでなく、兵士が駅に集合する時間、乗車・下車に要する時間(場合によっては、十分なホームや側線設備のない場所で行われることもある)、到着駅から最終目的地までの行軍時間なども含めて考えねばならず、その合計時間は、上述の「行軍のほうが攻撃に対して優位である」という点を別にしても、道路を行軍したほうが短くて済むことが十分ありうるからである。この問題については、各国の専門家が、自国の事情を踏まえつつ、「どの距離までは鉄道ではなく道路行軍を選ぶべきか」という限界距離を定めようと研究を重ねてきた。
ここで述べたのと類似の理由に、近年の自動車輸送の大幅な発展が加わった結果、純粋な防衛目的から見れば、入り組んだ海岸線に沿って戦略鉄道を敷設することが格好の条件を備えているにもかかわらず、本国においてその種の戦略鉄道建設構想が取り沙汰されることは、近頃ではあまりなくなっている。
長距離移動に関して言えば、道路を行軍する軍隊は、しばしば脚気・疲労その他の理由で落伍する兵士によって、その規模を大きく減じてしまうことがある。その一方で、戦場に到達した兵士たちは、いわば「適者生存」の結果であり、負担の少ない鉄道輸送によって移動した場合と異なり、その過程で身体運動と鍛錬を積んでいるため、その後の作戦における試練や疲労に、よりよく耐えうるのである。[81]
さらに経験によれば、きわめて長距離の鉄道輸送は、軍紀維持の観点からも、部隊に有害な影響を及ぼしうることが示されている。[82]
戦争において鉄道が果たす役割は、戦術よりもはるかに戦略に関するものである。国内各地から集結した大兵力や弾薬は、鉄道によって戦場の特定地点まで容易かつ安全に輸送しうるが、対峙する両軍が実際に接触している戦場において、一つの地点から別の地点へ鉄道で部隊を移動させることは、多くの制約に服し、はるかに困難な作業となる。
長大な鉄道通信線――とりわけ占領地内のそれ――の防衛が不可欠であるために、本隊から相当数の兵士を割かなければならず、その分だけ戦闘に投入可能な兵力が弱まることにもなる。
D――欠点および不利益
ここまでに述べたような諸条件や制約が存在するとしても、軍事的・政治的観点から見れば、戦争遂行において鉄道がもたらす利点のほうが圧倒的に大きいように思われるかもしれない。しかし、世界全体という観点からは、考慮に入れねばならない、より暗い側面が存在する。
鉄道が、ある国が侵略に対して自国を防衛する力を高めたとすれば、それは同時に、侵略者が行使しうる攻撃力もまた、途方もなく増大させたことを意味する。
鉄道は、軍事大国に対し、隣接諸国――それ自体が多少とも不準備の状態にあるかもしれない――への電撃的攻撃を行うための、はるかに大きな便宜を提供する。
鉄道は、国内奥地で動員・集中された大軍を、一昼夜という短時間のうちに、次々と続行する列車によって国境線上またはその向こう側へと送り出すことを可能にし、それによって弱小国を圧倒する機会をもたらす。
鉄道による軍事輸送手段が存在しなければ、戦争遂行が事実上不可能となるような遠隔地においても、戦争を行えるようにしてしまう。
鉄道は、複数の国々が同時に戦争を行うことを可能にし、その結果、現代の戦闘が広がりうる範囲を拡大してしまう。
鉄道は、世界制覇や普遍的征服という野望を抱くことを、ある意味で助長する。
鉄道は、最も恐るべき戦争の機械を輸送・使用することを容易にすることによって、戦争の惨禍をいっそう増大させた。
また、もし侵略軍が輸送手段として通常の車両に頼らねばならなかったとしたらとても不可能であったような規模で、占領地から略奪品を持ち去ることを可能にした。
鉄道通信線の維持が侵略軍にとって最優先の問題であるがゆえに、侵略軍は、鉄道線の安全を確保するため、現地住民全体を威嚇する手段として、きわめて苛酷な措置をとることがありうる。こうして鉄道は、一般市民に新たな危険と脅威をもたらしたのである。
一方において「利点」と見なされるものが、他方においては、きわめて重大な不利益となりうるのである。
* * * * *
攻撃であれ防御であれ、善であれ悪であれ――ここに述べてきたのが、戦争における鉄道力の本質と、その可能性である。八十年にわたる不断の発展ののち、1914年に人類に課せられた「諸国民の戦争」において、この鉄道力は、世界がかつて一度も目にしたことのないほど広大で、壮観にして、しかも恐るべき規模での発展と適用を遂げることになったのである。
脚注:
[78] モルトケは、かつて帝国議会で次のように述べたと伝えられる。「我々の大参謀本部は、戦争開始時に主導権を握ることで得られる利点をあまりにも確信しているため、要塞を築くよりも、鉄道を建設するほうを好んでいる。国土全体を横断する新たな鉄道一本によって、軍隊の集結時間は二日短縮され、それに応じて作戦開始も早まるのだ。」 また、フォン・デア・ゴルツは『戦争の指導』の中で、「軍隊の集中においては、我々はほとんど時間を時間単位で勘定する」と述べている。
[79] 「鉄道がなければ、パリ包囲戦は不可能だったと言われている」(ビゲロー『戦略原則』)。「パリ包囲中、ある一時期には、一本の鉄道線が約二十万人の[ドイツ]軍を食べさせ、包囲戦用資材と、一日平均二千から三千人の増援を前線に運び、さらには、一時的には、戦場地帯が疲弊していたため、ごくわずかな支援しか得られなかったフリードリヒ・カール王子の軍までも養っていた」(ハムリー『戦争の作戦』)。
[80] 包囲開始前の三十五日間に、西方鉄道(Western Railway)だけで、パリには七万二千四百四十二トンの食糧と六万七千七百十六頭の家畜が到着した。これらの補給がなければ、パリはそれほど長期にわたる包囲に耐えられなかったであろう。包囲解除後の再補給においても、ドイツ軍による厳しい制限があったにもかかわらず、鉄道は二十日のあいだに十五万五千九百五十五トンの食糧と四万二千五百八十頭の家畜を市内にもたらした。
[81] 「鉄道は兵士たちの疲労を軽減する」と、工兵中佐トヴィーは『戦略の要素』の中で述べている。「だが、その結果として、のちに徒歩で移動しなければならなくなったときには、落伍したり遅れたりする者が、かえって増えるかもしれない。」 バルクは『戦術(Taktik)』において次のように言う。「鉄道輸送が徒歩行軍よりも優先されるのは、重要な考慮事項たる速度の点においてのみである。かつては一般的であり、『もみ殻から小麦を選り分ける』効果を持ち、兵士を戦闘の労苦に備えさせた徒歩行軍の真の利点は、軍隊がその数を減らすことなく戦場に到着するという事実によって、相殺されるものではない。時間が許すならば、徒歩行軍のほうが望ましい。なぜなら、それによって兵士は新しい装備と、大部隊での行軍の両方に慣れることができるからである。長い鉄道旅の後では――その間、足がむくみ、とくに新しい軍靴が厄介の種となるため――行軍は非常に苦痛なものとなり、足を痛めて脱落する者の数はきわめて多くなる。それにもかかわらず、兵士たちが鉄道旅行を終えるやいなや、直ちに行軍を開始するというのが、ほとんど例外のない規則である。というのも、下車駅をできるだけ早く空けることが、きわめて重要な問題となる場合があるからである。」
[82] 日露戦争中、ロシア軍増援部隊が満州へ送られた際の状況について、クロパトキン将軍は『ロシア軍と日本戦争』の中で次のように記している。「かつては、戦場に到達する前に、兵士たちは完全装備で長距離行軍を行わねばならなかった。適切に指導された行軍は、兵士を鍛え、部隊に落ち着きを与えた。余計な荷物はすべて処分され、体力の弱い者は後方に残され、将校と兵士は互いをよく知るようになった。しかし今日では、鉄道輸送の結果はまったく異なる。極東へ向かう際、我々の兵士は、しばしば四十日に及ぶ長期間、将校とは別の区画に押し込められ、彼らの統制から外れたまま、鉄道車両の中に詰め込まれていた。古くから存在し、規律のゆきとどいた部隊においては、とくに害はなかったが、新編成の部隊では……その影響はきわめて有害であった。」
付録
インド国境鉄道
インド北西国境において、パンジャーブの平原は、アフガニスタン中央大盆地およびバルーチスターン砂漠、さらにはその北に位置するロシア帝国とを隔てる山脈――あるいは別の表現を用いれば、「驚異的なまでに巨大な稜線と谷の格子縞」――によって分かたれている。これらの山脈には、インド帝国でもっとも脆弱な地点と長らく見なされてきた峠道が通じている。そして、記録に残る最古の時代から、こうした峠を通って、インドの計り知れない富――恵まれぬ地に住む人々の羨望を掻き立てて余りある富――に駆り立てられた侵入者たちが、幾度となく押し寄せて来たのである。[83]
この点だけを見ても、インドに覇権を行使する列強が、かの重要な峠道を有効に掌握しておく必要性は十分に理解されよう。しかし、現在その覇権を握る英国民に課されているこの義務は、近年になってさらに二つの要因――(1) 国境部族との紛争、(2) かつてはインドとイギリスを大いに悩ませた「中央アジア問題」の発展(もっとも、今日ではもはや急を要する問題ではない)――によって、いっそう重いものとなっている。国境紛争は、折に触れてアフガニスタンへの幾度かの遠征を招き、また、一般情勢の重大性は、ロシアがインドに向けて一歩一歩着実に前進して来た事実によって増幅された。ロシアの目的が、インドそのものの征服にあったのか、あるいは別の可能性として、三百年来抱いてきた「南方海への出口」を求める悲願――ダーダネルス海峡における失望の代替として、ペルシア湾方面を目指す――にあったのかはともかく、そのいずれにおいても、イギリスの利害が直接関わっていたのである。
こうした事情の組み合わせ――一時期には、二大欧州列強の衝突においてアフガニスタンが戦場となる可能性すら存在した――は、インド北西国境における鉄道路線の整備、すなわち、主要な峠に至る、あるいは実際に峠を貫通する鉄道敷設に、格別の関心と重要性を付与した。これによって、必要に応じて、国境線上またはその彼方のいかなる地点にも、英印軍を迅速に集中させ得る手段が確保されるはずだったのである。
この観点から、とりわけボラン峠とカイバル峠――前者はクエッタおよびカンダハールへ、後者はカブールへ通ずる――が、「インドの二つの門」として重要視されてきた。
これらの峠を貫く鉄道建設案が最初に提示されたのは1857年のことである。当時、シンド・パンジャーブ・デリー鉄道会社の会長であった(のちにサーの称号を得る)W・P・アンドリュー氏が、パーマストン卿を訪れた陳情団の代表を務め、(1) 地中海とペルシア湾を連絡してインドとの交通を改善するエウフラテス川流域鉄道、(2) ボラン峠およびカイバル峠を通過する鉄道――を建設すべきだと強く訴えたのである。彼の主張によれば、これらの鉄道は部隊の国境への移動を容易にするばかりでなく、二本の線の外側またはその中間地帯で行動する敵の側面または後背を脅かす「迂回路」としても利用し得るはずだった。アンドリュー氏はその後も多年にわたり、情熱と粘り強さをもってこの構想を擁護し、多くの書物やパンフレットを出版し、新聞にも幾通もの書簡を寄せた。
しかし、こうした熱心な提唱にもかかわらず、現実の成果にはつながらなかった。また、エウフラテス鉄道計画を支持した当初の論拠の多くは、スエズ運河開通によってその説得力を失った。他方、北西国境との交通手段を十分に整えなかったことによる帰結は、1878~79~80年の紛争において、まざまざと示されることになった。
すでにカブールにおいてロシア使節団を華々しく歓迎していたアフガニスタン国王が、英使節の受け入れを拒否したことから、1878年、英軍三個縦隊にアフガニスタン領への進撃命令が下された。その進路として選ばれたのは、(1) カイバル峠、(2) クラム峠、(3) ボラン峠――の三経路であった。しかしこのとき、長年唱えられてきた国境鉄道網は、まだほとんど計画の域を出ていなかった。アフガニスタンに最も近い鉄道路線の終点は、インダス河畔のサッカルであった。サッカルからボラン峠の入り口まで、シンド砂漠を横切る延伸線の測量は終わり、ごく短い区間の敷設も始まっていたが、スチュワート卿(サー・ドナルド・スチュワート)率いる軍がカンダハールへ進撃した際には、インダス川から終始徒歩で行軍せざるを得ず、その途上に広がる砂漠の横断において多大の苦難に直面し、数多くの兵士が命を落としたのである。一方、工学上は特段の困難を伴わないこの砂漠鉄道の建設は、ここに至ってようやく本格的に着手され、その後、部隊の帰還時には利用できる状態となっていた。
1878年の遠征は、シール・アリーの逃走、スチュワート卿によるカンダハール占領、英軍によるインドとアフガニスタンを結ぶ三大幹線道路の支配、およびガンダマク条約の締結――といった成果をもたらした。しかし、1879年9月、カブールでルイ・カヴァニャーリ卿とその幕僚が殺害されるという事件が起こり、これに対処すべく、新たな遠征軍が必要となった。フレデリック卿(のちのロバーツ卿)将軍に対し、英国軍を率いてクラム経由でカブールに進撃するよう命令が下されたのである。
これを機に、輸送施設に関する問題は再び全面的に浮上した。遠征自体はきわめて成功したものの、鉄道施設がより充実していれば避けられたであろう遅延や糧食補給上の困難が生じた。[84] 当時、パンジャーブ国鉄の終点はジェラムにあり、ラワルピンディまでは70マイル、ペシャーワルまで180マイル、クラム峠の国境哨所タールまでは260マイルの距離があった。1878~80年のあいだ、路線の延長に向けて多大な努力が払われたにもかかわらず、数え切れないほどの峡谷に阻まれる深刻な工学的難題のせいで、延伸できたのはわずか20マイルにとどまり、ジェラムは遠征期間中を通じて実質的な鉄道基地であり続けたのである。1879年10月13日付の『タイムズ』紙は、カイバル縦隊の「痛ましいほど遅い」前進ぶりを批判し、次のように述べている――
シンド鉄道会社の会長が、カイバル峠およびボラン峠をインド鉄道網に結ぶ構想を初めて唱え出してから、すでに四半世紀が過ぎ去った。この四半世紀以上ものあいだ、彼は惜しみなくこの構想を擁護し続けてきた……。アンドリュー氏がかくも執拗に唱え、われわれも繰り返し紙上で取り上げてきた構想が、昨年十月の紛争勃発当初に採用されていたならば――当時われわれがあえて主張したように――輸送手段の雇い上げに要した巨額の出費は大幅に節約され、また、「実戦行動中」と名目上される英国軍が、わずか七十マイル足らずを進むのに五週間も費やしたという、屈辱的な事態を味わわずに済んだであろうに。
インドにおける最重要軍事拠点の一つであるラワルピンディに鉄道が到達したのは、1880年10月――すなわち1878~80年アフガン戦争終結ののち――になってからであり、戦略上きわめて重要なもう一つの地点であるペシャーワル(カイバル峠の入口から10マイル、カブールから190マイル)への延伸が成ったのは、1883年5月のことであった。
しかし、当時の軍事的観点からすると、なおいっそう重視されたのは、ボラン峠を通じてクエッタおよびピシンに至る鉄道連絡を確保することであった。これは、もしロシアがインド侵攻に乗り出すとすれば、必ずやこのルートを選ぶであろうと信じられていたためである。
スッカル=シビ間砂漠線からピシンへの延伸計画に向けた測量は、同線建設と並行して実施されていた。1880年初頭、政府は延伸工事の着手を正式に指示したが、その際、シビからはボラン峠経由ではなく、フルナイ峠(Hurnai Pass)経由で路線を敷くとの決定が下された。フルナイ経路の方が、5フィート6インチ軌間の広軌線(いわゆる「カンダハール国有鉄道」)に適していると判断されたためである。
必要な資材集積と、可能な限りの迅速施工に向けた体制整備は直ちに進められたが、1880年7月のマイワンドの惨敗によって、工事進捗はふたたび足止めを食らうことになった。同年10月、ビアコンスフィールド内閣の後を継いだグラッドストン政権は、前任者のインド政策を完全に覆す決意を固めていたものと見え、カンダハール撤収の意向を早々に表明したのち、シンド=ピシン鉄道建設の中止命令を出した。マイワンドの敵は討たれ、いくつかの反抗的部族も平定されると、1881年4月末までに、アフガニスタンからの英軍全面撤退が実施され、インド国境鉄道建設の構想は、ひとまず棚上げとなったのである。
1883年半ば、事態の再検討が行われた。ロシアがメルヴ方面で活動を活発化させていた当時、英国政府は、1880年にカンダハール国有鉄道計画を中止したのは、いささか軽率であったと悟ったらしい。そこで建設再開を命じたが、その際、自らの政策転換があまりにも露骨に映らぬよう、いくつかの「粉飾」を施した。すなわち、当の事業を「フルナイ道路改良計画(Hurnai Road Improvement Scheme)」と称し、世間の注目を必要以上に集めぬよう、ひっそりと作業を進めよと指示したのである。この「道路改良案」を装うため、技師たちが、資材や橋梁用材料を基地から峠まで運ぶにあたって、一時的な仮設レールを敷くことすら許されなかったという。こうした「厳命」のために、資材類はすべてラクダの背に積むか、あるいは車輪付きの車両で川筋を遡って運ばざるをえず、その結果、生じた時間的損失に加え、この愚策によって浪費された資金は100万ポンドを下らないと見積もられている。ようやく後になって、この仮設レール禁止令は撤回された。
工事は1883年10月に着手された。ちょうどその頃、ロシア軍はすでにメルヴに迫っており、いつ何どき大軍での急襲に踏み切るか分からぬ情勢であった。こうした事情は、工事を最大限の勢いで推し進めなければならないという圧力を、いやがうえにも高めた。1884年2月、ロシアが実際にメルヴを占領すると、主任技師に対する圧力はいっそう苛烈となった。同年5月には、ロシアの侵食を理由に、当該路線を建設する旨を英政府が正式に表明した。それまでの「フルナイ道路改良計画」という虚構は、ここに至って放棄され、建設中の線路は以後「シンド=ピシン国有鉄道(Sind-Pishin State Railway)」と称されることになった。
しかし、計画のごく初期段階から、この事業を任された技師、すなわち鉄道および土木工事の豊富な経験を持つ王立工兵隊のブラウン大佐(のちのジェームズ・ブラウン卿)を襲った難題は、工事進捗にとって決して好ましいものではなかった。すでに実施済みとされていた測量は、まったく価値がないどころか、むしろ誤解を招くような代物であることが判明した。初期に配属されたスタッフは鉄道工事に不慣れであり、英国から呼び寄せた人員と交替させる必要があった。さらに、かつて集積しておきながら、1880年の工事中止の折に「屑鉄価格」で処分されてしまった機材や資材を、今度は急を要する事情のもとで、法外な価格を払って新たに調達せねばならなかったのである。
もっとも、これらは、克服すべき物理的条件の前には、まだ「些末な困難」に属するものだったと言える。
シビにおける標高300フィートから出発した路線は、シビからカチ(Kach)に至る120マイルのあいだに、実に6,200フィートの高低差を克服しなければならなかった。
さらに、路線全長224マイルの大部分を占める沿線地域は、岩石と礫ばかりの不毛の荒野――木材も燃料も乏しく、草一本見つからぬ場所すらあり、ある区間では数マイルにわたって水もない――であった。この地に人の住むところはほとんどなく、わずかな住民も、「野蛮かつ血に飢えた盗賊の種族」であり、日常的に略奪および部族間抗争に明け暮れていた。彼らは自分たちの口を賄うのがやっとで、とても余剰の食糧など生産していなかった。したがって、1万5,000~3万人に及ぶ作業員の糧食を含め、必要なもののほとんどすべて――線路用資材から生活物資に至るまで――を、遠く離れた外部から搬入せねばならなかったのである。
この荒涼たる地域をいっそう住みにくくしていたのは、極端な気候条件であった。低地部は、地球上で最も暑い場所の一つだと評されている。ナリ渓谷では、華氏124度(摂氏約51度)という気温が記録されている。一方、高地部では、冬季に華氏マイナス18度(摂氏マイナス28度)にまで冷え込む、ほとんど北極圏並みの寒さが襲う。低地と高地の中間には温帯に近い気候帯もあるが、ここでは、他地域の酷暑や酷寒に劣らぬ災厄として、常在する伝染病が恐れられていた。
このような事情から、工事は一年を通じて同じ区間で継続することはできず、季節に応じて作業員を別のセクションへと順次移動させなければならなかった。この「前線の移動」は、大量の資材・道具・事務所に加え、数千人規模の人間を伴う大移動となる。「この大規模な『出エジプト記』の管理は、相当の不安と困難を伴う仕事であった」と、王立工兵隊のスコット=モンクリーフ大尉は、「インド国境鉄道(The Frontier Railways of India)」[85] と題する論文の中で述べている。「このような多数の人間が、荒涼たる不毛の地に突然流入した結果、当然のごとく、飢饉状態が生じた。周囲のものはあらゆる物が食い尽くされ、数日にわたって、糧食の確保が喫緊の問題となった……。工事現場では、一日あたりラクダ900頭分の食糧が消費された。」ラクダ一頭あたりの通常積載量は400ポンドであったが、中には800ポンドもの荷を峠道で運んだものもいた。
工学的難題は、大きく四つの区分に分類できる――すなわち、(1) ナリ峡谷、(2) グンダキン渓谷、(3) チャッパー裂谷(Chuppur Rift)、(4) マッド峡谷――である。[86]
シビのすぐ先から始まる全長約十四マイルのナリ峡谷は、「鉄道が敷設された経路としては、世界でも屈指の奇観」と形容されている。岩山は全くの裸地で、谷底から数千フィートの高さまで、奇怪な尖峰と絶壁がそびえ立っている。ここは、まさに「最も荒涼たる景観」である。峡谷を流れるナリ川は、三つの支流が合流して形成され、ふだんは水量の乏しい川であるが、ひとたび洪水が起これば、何マイルにもわたって峡谷全体を満たす奔流となり、水深は十フィート、流速は毎秒五フィートに達する。この川を、鉄道は五度にわたって渡らねばならなかった。橋梁だけではなく、大規模な築堤・切り通し・トンネル工事も必要となった。とりわけ危険なトンネルが一つあり、その天井や側壁がたびたび崩落して多数の事故を引き起こしたため、ついには労働者たちが、すでに高水準であった日給の五倍を支給されない限り、誰一人中に入ろうとしない事態になった。この区間では、築堤や橋梁の建設途中に洪水によって流失し、工事全体が何カ月も中断されることが幾度となく繰り返された。しかも、この部分が完成しない限り、先の区間に必要な資材類を送ることができないのである。
全長八マイルのグンダキン渓谷でも、非常に不安定な地盤を掘り抜いて二本のトンネルを通し、さらに四本の橋梁を設置しなければならなかった。
チャッパー裂谷は、まるで絶壁のような山塊の支脈に穿たれた、全長三マイルの巨大な亀裂であり、文字どおり「越えがたい障壁」を成していた。洪水時には、この谷を流れる川の水位は30~40フィートにも達する。こうした地盤条件から、山腹に棚状の「レッジ」を切り開いて線路を敷くことは不可能であった。そこで技師たちは、裂谷の片側と反対側にそれぞれ連続トンネルを掘削し、谷をまたぐ鉄骨桁橋で両者を接続するという方針を採用した。ただし、通常のトンネル建設のように、両端から同時に掘り進む方式――これは多くの時間を要する――を採らず、谷壁の側面に一定間隔で横坑(アディット)を掘り込み、それぞれから左右へとトンネルを延伸し、最終的に各区間を接合するという工法を用いたのである。谷壁に横坑を穿つには、崖上から何百フィートもの高さをロープで作業員を吊り下ろすしかなく、彼らは所定の地点に到達すると、垂直の岩肌にバールを打ち込んで足場兼作業プラットフォームを設え、そこから発破作業を行った。一方の谷壁には六つ、反対側にも六つの横坑が設けられ、各横坑に別個の作業班を割り当てることで、数カ月のうちに全工事を完成させることができた。裂谷内のトンネル総延長は6,400フィートに及び、これに加えて、全高75フィート・四十フィート径間七連の高架橋一本、および河床から250フィート上に架けられた橋梁――中央径間150フィート、両側四十フィート径間八連――が設けられた。
延長二十五マイルに及ぶ峠頂上部には、全長五マイルのマッド峡谷がある。これは、険しい山々の間に挟まれた狭隘な谷であり、路床となる土壌はほとんど乾燥した泥と変わらない性状であった。そのため、路盤の大規模な崩落が何度も発生し、線路全体が流される事故が起こった。
このような物理的・気候的・工学的困難の数々に直面した建設担当者に対しては、これ以上の難題を課さないのが当然と思われるかもしれない。だが、現実には、さらに深刻な試練が待ち構えていた。
1884年8~9月、鉄道の下部区間で作業に従事していた兵士や現地人労働者の間に、インドでも前例を見ないほど激烈な熱病および壊血病が発生したのである。多数の者が命を落とし、ある200人編成の作業班では、一日に平均十人が死亡するという惨状となった。生き残った者の大半も極度に衰弱し、まともに働けない状態に陥った。工兵隊の約六割が病院に収容されたとされる。
そこで新たに三個工兵大隊が投入されたが、彼らが到着して間もなく――1884年11月――今度は激甚なコレラの流行が起こった。この知らせを受けるや、アフガン人労働者は「一人残らず逃げ出し」、あらゆる地方から苦労して集めた熟練工たちも多くが後に続いた。追加の労働力を東パンジャーブ地方から調達せねばならず、そのためにも貴重な時間が失われた。
こうして技師たちが幾重もの困難に抗しつつ工事を進めている間にも、政治情勢は刻々と緊迫の度を増していった。その頂点とも言える出来事が、1885年3月30日のペンジ=デ(Penj-deh)事件である。クシュク川とムルガブ川の合流点近くに位置する、この重要な戦略拠点を、コマロフ将軍率いるロシア軍が占領したのである。1885年4月27日、グラッドストン首相は庶民院において、ロシアとの不可避と思われた戦争のために1,100万ポンドの軍事費を支出すべしとの動議を提出した。予算案はその日のうちに可決された。
ここに至って、1880年の中止がなければ、すでに使用可能であったはずの路線を一刻も早く完成させなければならないという急務は、これまでになく切迫したものとなった。インドには「季節を問わず路線全線で工事を継続せよ」との厳命が送られた。しかし、ウェストミンスターで戦費が承認されてからわずか数週間後、インドの工事現場では再びコレラの猛威が襲いかかり、5月末までにはまさに「燃え広がる炎のごとく」蔓延した。そこに、耐え難い酷暑が重なり、もっとも熱心な作業員ですら、作業継続に耐えられない有様となった。
コレラと酷暑という二重苦の下、路線下部区間の工事は――政府命令やロシアの動向にもかかわらず――一時的に全面中断を余儀なくされた。流行の鎮静化に向けて可能な限りの対策が講じられたものの、死者数は恐るべき勢いで増加していった。ヨーロッパ人とインド人を問わず、もっとも重要な責任を担っていた有能な人材が次々と倒れていった。6月ひと月だけで、1万人中2,000人が命を落としたとされる。生存者の多くは、我が身を守るべく現場から逃亡した。電信局員や郵便局員など、政府の下級職員も集団で職場を離れた。
このように疾病が工事宿営地を荒らしている最中、自然災害という新たな難題が襲いかかった。1885年初頭、この地域は過去六十年間で最悪と言われる一連の大洪水に見舞われたのである。わずか三カ月のあいだに累計19.27インチもの降雨が記録され、これは平年値の六倍にあたる。多数の橋梁が流失し、多くの仮設道路が破壊された。事故も頻発し、宿営地は壊滅的被害を受け、連絡路は断たれ、食糧の入手はほとんど不可能となった。その結果、「急げ」と繰り返し督促されていた工事の進捗は、著しく遅れることになった。洪水がようやく引いたのは、5月末のことである。
ここまで自然が工事の進行を妨げた以上、あとは政治家や官僚が、いかにしてこれに「倣う」かを示す番であったと言える。
すでに触れたように、資材運搬に仮設レールを用いることを禁じた初動方針は、多大な時間と資金の無駄を招いた。また、これに劣らず馬鹿げた例として、主任技師ブラウン大佐が、路線北方のビャクシン林から枕木材を調達する手配を整えたところ、これは部族間争いを引き起こす「おそれ」があるとして政府の横やりが入り、撤回を余儀なくされたという一件がある。当該地域で入手可能な木材はそこしかなかったにもかかわらず、である。結局、枕木用材はインド本土から取り寄せねばならず、そのためにもまた遅延が生じた。
さらに、当初、主任技師との間では、工事はインド政府軍務省の所管のもとで行われ、急務であることを考慮して、彼に広範な裁量権が与えられることになっていた。ところが途中で方針が変更され、新たに公共事業省の一員が監督官として任命され、工事はその管理下に置かれることになったのである。この監督官は、多くの細部にまで干渉し、その「未熟かつ不適切な統制」によって、さらなる遅延と多大な混乱・出費を招いたと伝えられる。たとえば、ブラウン大佐は、ごく基本的な測量機器を入手するだけでも、相当の時間を浪費せざるを得なかったようである。主任技師の直属上司は、とりわけ「詳細見積り」を繰り返し要求し続けたが、工事中の路線においては、工事内容やその他の要因の不確実性ゆえに、そうした見積りを事前に作成することは不可能だったのである。
とはいえ、これら数多の困難と障害にもめげず、施工側が示した精励ぶりは実に驚嘆すべきものがあった。主任技師が当初から「資金が潤沢に供される」という条件付きで提示していた「二年半以内」完成の目標は、ついに達成されたのである。1887年3月27日、一両の機関車がシビからクエッタまで全線を走破し、フルナイ鉄道は正式に開業と相成った。
一方で、ペンジ=デ事件に象徴されるロシアの南下により、戦争の危険が高まると、もう一つの鉄道敷設計画が浮上した。1885年4月、シビからボラン峠を抜けクエッタに至る軽便鉄道の建設に着手するよう命令が下されたのである。これは、より直接的で工期の短い代替ルートとして、予想されたインド軍部分動員の際に、前線への兵力集中に利用し得ると考えられた。
この軽便鉄道の建設も、また一つの顕著な工学的偉業となった。
インドでも屈指の険しい山岳景観の中を貫くボラン峠は、全長約六十マイル、幅は場所によって一マイルから、わずか二十ヤードほどにまで狭まる。周囲を取り巻く険しい山壁がこの狭隘部をなす地点では、峠道は単なる「隘路」に過ぎない。実際、ボラン峠はほぼ全区間がボラン川の河床そのものであり、年間の大半は涸れ川に近い状態だが、時に激しい洪水に襲われる。この河床を通しつつ、かつ1882~84年にクエッタまで建設された軍用道路の機能を阻害しない形で、仮設狭軌線を敷設する必要があったのである。
最初の四十マイルほどは勾配も比較的緩やかだったが、その先では峠の頂上まで一気に高度を稼ぐ厳しい上り坂が続いた。この区間では、メートル軌間以上の路線を敷くことは到底不可能であった。ボラン峠を通して鉄道を建設できるかどうかは、長らく技師たちの頭痛の種であり、こうした事情から、広軌のクエッタ線にはボラン峠経由ではなくフルナイ峠経由が選ばれたのである。さらに悪いことに、ボラン峠での工事は、工学的難題以上に過酷な気候条件にも直面した。峠下部の酷暑は「筆舌に尽くしがたい」ほどであり、コレラやその他の疾病が数千人もの作業員の命を奪った。
こうして二本の路線を手中に収めたことで、1887年春までには、もし必要とあらば、アフガニスタンに英印軍を集中させ得る態勢が整っていた。しかしその頃には、ロシアとの国境画定交渉が進展したおかげで、情勢は大いに好転していた。1877年4月、英露両国の国境委員がペテルブルクで会合を持ち、その後も折衝が重ねられた結果、かつては不可避と思われた武力衝突を回避し、諸問題は平和裡に解決されたのである。
1892年、ボラン軽便線のうち最初の約五十マイルは別ルートに付け替えられた。この新ルートは峠の前半部を迂回し、シビからクエッタを経てボスタン分岐点に至る広軌線の敷設を可能にするもので、同分岐点で現在「フルナイ=ピシン・ループ」と呼ばれる路線と接続する。また、クエッタからセイスタン交易路上のムシュキまで延びる全長九十マイルの支線が、1905年に開通した。
今日、シンド=ピシン鉄道は、ボラン経由とフルナイ経由の二ルートを併せ持ち、その終点はアフガニスタンとの国境内に位置するニューチャマン(New Chaman)にある。ここからカンダハールまでは、わずか七十マイルに過ぎない。全線広軌であるこの路線は、インド鉄道網の一部を成し、ルク(Ruk)分岐点でインダス川北岸を通ってカラチへ向かう線と接続している。また、インダス川に架かる橋によって、対岸の路線にも連絡し、一方はカラチへの別ルートを提供し、他方はカルカッタやその他主要都市と接続している。シンド=ピシン線は、実際、インド各地から集結した大兵力と、カラチに上陸した欧州からの増援とを、カンダハールの近傍たるアフガン国境に、可能な限り短時間で集中させるうえで、きわめて貴重な手段を提供しているのである。したがって、この鉄道は戦略線として、インドおよび英国の利害全般にとって、きわめて重要な存在となっている。もっとも、純然たる防衛目的以外にこの路線が用いられることを、示唆する余地はまったくない。
さらに、1901年以来「北西辺境州(North-West Frontier Province)」と呼ばれる地域でも、近年、国境鉄道が大幅に延伸されているが、これらはいずれも重要な戦略目的に資するものとなっている。カルカッタから1,520マイルの位置にあるペシャーワルからは、広軌線が十二マイル延伸されて、カイバル峠の入口に位置するジャムルード堡に達している。ペシャーワルの真東27マイルの地にあるナウシャラ駐屯地からは、狭軌線がマラカンド峠の麓たるダルガイまで伸びている。また、このほかにも、クラム谷を通って北アフガニスタンとの交易拠点となる英領最前線の軍事前哨タール(Thal)や、1848年にハーバート・エドワーズ卿が政治的意図から選定した地に築かれた駐屯都市バヌー(Bannu、コハート南方79マイル)に至る線路が敷設されている。
インド北西国境には、このほかにも多くの鉄道建設案が浮上している。これらの新計画が今後どのような形で実現をみるかは未知数であるが、すでに完成した路線だけを見ても、1878年当時の軍事輸送条件と比較した場合、アフガニスタンおよびその先の地域に対する英軍の戦略的位置が、どれほど一変したかは明らかであろう。
オーストラリアの防衛
総面積294万8000平方マイル、人口450万に満たず、海岸線延長1万1300マイル――こうした条件を備えるオーストラリア大陸は、きわめて攻撃にさらされやすい状況にある。侵略、あるいはその試みの可能性は、近年オーストラリアで頻繁に議論されており、このことは、戦略鉄道の建設や既存路線の軍事利用への転用などを主要要素とする陸上防衛計画を生み出す契機ともなっている。
現在の状況では、西オーストラリアおよび北部準州(Northern Territory)は、鉄道通信という点で他の連邦諸州から切り離されており、万一、英海軍による阻止を受けずに敵がそこへ上陸し得た場合には、事実上、無抵抗で明け渡すほかない立場にある。
しかし1912年秋以来、西オーストラリア鉄道網の東端カルグーリー(Kalgoorlie)から出発し、直線で1063マイルを進んで南オーストラリア鉄道網に属するポート・オーガスタ(Port Augusta)に至る鉄道が建設中である。この路線により、西オーストラリアのパースからクィーンズランド鉄道網の最東端まで、約4000マイルにおよぶ大陸横断鉄道が貫通することになる。この第一の大陸横断線が完成すれば、中部および東部諸州から西オーストラリアへ部隊を送る際に、海路だけでなく、海から十分内陸を走る鉄道でも輸送できるようになるため、敵艦隊による攻撃の危険を免れることができる。したがって、部隊が無事に目的地へ到着する蓋然性は高まるが、もし海路に頼らざるを得ない場合には、輸送船が敵に捕獲される危険を無視できない。こうした事情から、カルグーリー=ポート・オーガスタ線は、たしかに純軍事的用途以外にも利用されると期待されてはいるものの、本質的には、まず戦略的観点から検討されてきた路線であると言える。
北部準州について、オーストラリア問題の権威F・A・W・ギスボーン氏は、1910年5月号の The Empire Review 掲載の論文で次のように述べている――
この広大な地域は52万3620平方マイルの土地を包含し、世界でもっとも人口の多い大陸であるアジアに近接している。現時点での人口は、先住民を除けば、白人がわずか1000人足らず、中国人がその倍ほどであるに過ぎない。本土の定住地域とを結ぶ鉄道は存在せず、完全に孤立した状態にある。その壮麗な港湾は、現存するどの大型船舶とも合致する水深を有し、熱帯オーストラリアへの自然な玄関口とも言えるが、英海軍の存在を別にすれば、まったく防備を欠いている。その背後には、何百万エーカーにも及ぶ肥沃な平原が広がっているが、いまだ耕されたことがなく、また白人の手によって耕される見込みもほとんどない。この地域で繁栄している産業はほぼ皆無であるが、その潜在力は、きわめて多数の農民や労働者を養うに十分なものである。
人口過剰に悩むアジアの諸民族が、いつの日か、自らにとって理想的な土地である北部準州――熱帯気候下で活動し得る人々にとっては、まさに絶好の機会を提供する――に、余剰人口の移住先を求めるかもしれない、という可能性は、オーストラリアにおいて広く認識されてきた。また、その際に生じるであろう二つの問題――(1) たった1000人の白人が、面積52万3000平方マイルの地域に居住しているだけで、その全域に対する「実効支配」を主張し、排他的所有権を主張しうるかどうか、(2) もしアジア人が北部準州への侵入を試みた場合、それを阻止し得るか、あるいは侵入後に彼らを駆逐することができるか――も、当然のごとく議論の俎上に載せられている。
後者の問題は、海上兵力と鉄道力とがそれぞれどのように機能しうるか、というきわめて興味深いテーマを提起する。
北部準州を侵略から守るには、いうまでもなく海上兵力――すなわちイギリス海軍――に頼らざるを得ない。なぜなら、連邦政府にとって、総延長1200マイルに及ぶ熱帯の海岸線の全潜在的上陸地点に、常時十分な兵力を駐屯させ、いつ現れるとも知れぬ侵略者を撃退することは、事実上不可能だからである。したがって、こうした侵攻を食い止めるには、(1) 侵入者を海上で阻止し、(2) 万一上陸を許してしまった場合には、その補給線を遮断し、あるいは(3) 敵国本土に直接攻撃を加える――という形で、英艦隊の行動に頼らざるを得ないのである。
他方、北部準州へのアジア人入植――これは、通常の意味での「侵略」とは性格を異にする――が、英艦隊の出動を必要としないような条件下で進行した場合、その「追い出し」を、たとえ大陸縦断鉄道が完成していても、必ずしも確実に実行できるとは限らない。この場合、問題となるのは、単一路線の輸送能力ではない。アメリカ南北戦争、南アフリカ戦争、日露戦争などの例を見ても、単線であっても大陸を横断するほどの長距離鉄道が、軍事輸送においてきわめて大きな利点をもたらすことは、十分に証明されている。オーストラリアにおいて問題となるのは、むしろ次の二点である。すなわち、(1) 南方からパイン・クリーク(Pine Creek)ないしポート・ダーウィンに到着した部隊は、北部準州の52万3000平方マイルに及ぶ広大な領域内で、アジア人入植地に到達するまで、非常に長く過酷な行軍を強いられるかもしれず、その補給は遥か彼方の鉄道基地に依存せねばならないこと、(2) 連邦政府は、南東部諸州の防衛――これは、北部準州におけるアジア人集落の問題よりも、はるかに重大である――も考慮に入れねばならず、その必要兵力を差し引いたうえで、はたして十分な規模の軍隊を北部準州派遣に割く余力があるかどうか、という点である。このような事情を踏まえ、もし将来、兵力衝突には至らない形でアジア人の大規模入植が北部準州で進行した場合、オーストラリアは単に、その既成事実を受け入れ、事態と折り合いをつけるしかないだろうと考える向きもある。
こうした諸点は、オーストラリアが、東西だけでなく南北にも、直接的な鉄道連絡を確立しようと望んできたことに対し、鉄道力という観点から見た際の真の意義に、一定の疑念を投げかけるように見えるかもしれない。とはいえ、この種の構想に向けて、これまでにどのような努力がなされてきたかを確認することは、依然として重要である。
オーストラリア本土のほぼ中央を縦貫し、北部準州を南部および東部諸州と結ぶ南北大陸縦断線の建設構想は、約四十年にわたって議論されてきた。1910年の「受諾法(Acceptance Act)」によって状況は前進したかに見えた。この法により、南オーストラリアから北部準州を引き継いだ連邦政府は、同州鉄道網北端のウードナダッタ(Oodnadatta、アデレードから688マイル)と、北部準州鉄道網南端のパイン・クリーク(ポート・ダーウィンから145マイル)を結ぶ大陸縦断線を建設することに合意したのである。この連絡線の全長は、奇遇にもカルグーリー=ポート・オーガスタ線と同じ1063マイルと見積もられている。
ところが、南オーストラリア州政府と連邦政府との間でこの「取引」が成立して以降、別の代替案――あるいは補完案として――が主張されるようになった。それは、南オーストラリアから北部準州へ、中央砂漠地帯を真っ直ぐに突っ切るルートではなく、ビクトリア、ニューサウスウェールズ、クィーンズランド各州の鉄道網と、西側で結節するルートである。この「東方迂回ルート」案によれば、各州が必要に応じて新路線を敷設することで、全体として北部準州と東部三州を結ぶ別経路が形成されることになる。提唱者たちは、この迂回ルートは、中央砂漠経由の直接ルートに比べ、戦略的利点がより大きいと主張する。というのも、北方に部隊を派遣する際、アデレード経由よりも、人口の四分の一以上を擁するメルボルンおよびシドニーからのほうが、兵站上はるかに容易だからである。逆に、クィーンズランド・ニューサウスウェールズ・ビクトリア各州から集結させた部隊を、まず南オーストラリアに送り、そこからウードナダッタ経由で北部準州へ向かわせるとすれば、事実上の遠回りとなり、緊急時には致命的な遅延を招きかねない。たとえば、東方ルートを採用した場合、ブリスベンからポート・ダーウィンまでの距離は約2234マイルで済むが、従来ルート――シドニー・メルボルン・アデレード経由で中央砂漠を抜ける――では、実に3691マイルに及ぶと試算されている。
こうした相反する主張が最終的にどのように調停されるかは、まだ定かではない。加えて、カルグーリー=ポート・オーガスタ大陸横断線の完成後、その路線とビクトリア・ニューサウスウェールズ・クィーンズランド各州の州都とを、より直接的に結ぶ新たな戦略鉄道計画も浮上している。これにより、東部・南部・西部諸州が、非常時に互いをより迅速かつ効果的に支援し得るようにする意図がある。ただし、この案は、すでに言及した大陸縦断路線を補完するものであり、それに取って代わるものではない。
東部諸州および「中央」に位置する南オーストラリア州に関しては、アジアからの侵攻を想定する必要はないだろう。しかし、長年にわたり、もしイギリスが海上においてその優位を争える非アジア系列強と戦争状態に陥った場合、敵は、おそらく、北部準州のような明らかに脆弱な地域――ヨーロッパ人のための植民地としても、オーストラリア全土征服のための足掛かりとしても望ましいとは言えない――ではなく、クィーンズランド州ロックハンプトンから南オーストラリア州アデレードに至る約2000マイルの海岸線のうち、いずれかの地点を主な攻撃目標に選ぶであろうとの見方が強かった。なぜなら、この海岸線の背後200マイルほどの内陸部には、オーストラリア全土の中でもっとも人口稠密で、もっとも富裕で、(非アジア人にとって)もっとも魅力ある地域が広がっているからである。
たしかに、第一に検討すべき国――すなわちドイツ――は、オーストラリアを併合するよりも、アフリカを「ドイツ帝国」に仕立て上げることに、はるかに熱心であるように見える。しかし、オーストラリアの脆弱性をドイツが認識していたことを示唆するものとして、世界政策(Weltpolitik)の理論家の一人であり、『世界諸民族のなかのドイツ(Deutschland unter den Weltvölkern)』などの著作で知られるロールバッハ博士が、連邦の防衛力を論じるなかで、「海岸近くに位置する主要四都市のいずれもが敵に占領されれば、オーストラリアは抵抗し得ない」と述べていることを挙げることができる。[87]
これら四都市のうち、あるいは先ほど述べた2000マイルの海岸線上のどの地点を、侵略者が主攻地点として選ぶか――陽動攻撃を別にすれば――は、まったく予測がつかない。しかし、この不確定性こそが、オーストラリア防衛の責任を負う人々にとって、州境を越えて、あるいは同一州内であっても、必要に応じて任意の地点へ、できる限り短時間で部隊を移動させることのできる体制を整える、という課題を、いっそう切迫したものとするのである。
この観点から、オーストラリアに現存する鉄道路線の軍事的利用について検討するとき、もっとも注目すべき言及は、1910年に連邦政府の要請を受け、オーストラリア防衛態勢の調査を行ったキッチナー卿が、その結果として提出した「覚書」の次の一節に見出される――
鉄道建設は国土開発に資する一方で、オーストラリア防衛よりも、むしろ侵略者に利する路線配置をもたらしてしまったように見受けられる。各州で軌間が異なるため、それぞれの鉄道網は相互に孤立している。また、内陸部を結ぶ体系的連絡線が欠如している結果、内陸へ伸びる現行路線は、防衛目的にはあまり役立たないものとなっている。これらの路線は、むしろ、一時的とはいえ海を制する敵にとって、大きな価値を持つのである。
「軌間の違い」は、オーストラリア鉄道が軍事輸送、特にここで主題としている戦略的運用に関して抱える、もっとも深刻な欠陥の一つであることは疑いない。
鉄道輸送に関する戦略的配慮は、部隊を単に国内・大陸内のある地点から別の地点へ容易に移動させることだけにとどまらない。動員された兵力に応じて、鉄道車両もまた動員される必要がある。軍事輸送に利用される見込みの薄い路線で運行されている機関車や客貨車は、必要に応じて他の路線に転用できなければならない。すなわち、可能なかぎりすべての鉄道車両を、国家規模で有事における最重要輸送路線または最も逼迫した方向に集中投入できる体制――これが、恐るべき非常事態における絶対条件なのである。
この原則の重要性を最初に認識したのはモルトケであった。しかし、オーストラリアで鉄道建設が進められた当初、各州は、自州のニーズ・地理的条件・財政的余力といった局地的観点からのみ路線計画を立て、将来、大陸全体の軍事輸送に対応し得る統一的鉄道網が必要になるという発想をほとんど持ち合わせていなかった。
その結果、クィーンズランド・南オーストラリア(ただし同州にはさらに600マイルの5フィート3インチ軌間線が存在)・西オーストラリア・北部準州では3フィート6インチ軌間が採用され、ニューサウスウェールズでは4フィート8½インチ軌間(これは英国および世界鉄道総延長の65%以上で採用されている標準軌間)、ビクトリアでは5フィート3インチ軌間が採用されている。多くの場合、州境に達すると、乗客・郵便・手荷物・貨物などは、片側の鉄道から他方の鉄道へ積み替えなければならない。
西オーストラリアから東部各州へ向けて建設中の大陸横断鉄道(軌間は4フィート8½インチ)を例に取ると、仮に現在すでに全通しているとした場合、パースから南オーストラリア・ビクトリア・ニューサウスウェールズ・クィーンズランドを通過して旅をする乗客は、軌間の違いのために少なくとも五回は列車を乗り換えなければならないだろう。これは極端なケースかもしれないが、その弊害は、連邦国防省が最近試算した、30,000人規模の騎兵部隊をメルボルンからブリスベンまで鉄道で移動させるのに要する時間からも、如実に示されている。この試算によれば、現在のように州境ごとに軌間が異なる状況では、全行程に63日を要するが、途中で軌間が変わらなければ、その所要日数は23日に短縮される。つまり、軌間の不統一は、わずか30,000人を移動させるのに40日もの遅延をもたらすのである。この40日のあいだに、もし敵が一時的に制海権を握っていれば、アデレードからブリスベンまで、それよりも長い距離をたった五日で自軍を海上輸送できるだろう。そうなれば、ブリスベンは、援軍がなお州境で列車を乗り換えているうちに、敵の手に落ちてしまうおそれが十分にある。
ここで興味深い対比として挙げられるのが、かつてアメリカ合衆国でも、オーストラリア以上に複雑な軌間混在が存在していたという事実である。1885年、アメリカの鉄道会社各社は、こうした混乱の弊害を解消するために軌間統一を決議し、一年後の1886年、周到な準備のもと、ほぼ全米の鉄道を4フィート8½インチ標準軌へと、わずか二日間で一斉に改軌したのである。戦略的観点からすれば、今日のアメリカ連邦政府は、自国の広大な国土のいかなる地点にも、鉄道輸送によって部隊を迅速に派遣し得るだけでなく、非常時には事実上すべての鉄道車両を軍事輸送に充てることができる体制を備えていると言える。[88]
軌間統一は、過去の近視眼的政策のツケとして、膨大な出費を伴うため、オーストラリアにとってはきわめて深刻な課題となっている。[89]
ニューサウスウェールズ州の4フィート8½インチ軌間線およびクィーンズランド・南オーストラリア・西オーストラリア・北部準州の3フィート6インチ軌間線を、すべてビクトリア州の5フィート3インチ軌間に統一改軌するには、5,165万9,000ポンドもの費用を要すると見積もられている。逆に、3フィート6インチおよび5フィート3インチの全路線を、ニューサウスウェールズの4フィート8½インチ標準軌に統一する場合も、その費用は3,716万4,000ポンドと算出されている。また、各首都を結ぶ幹線のみを4フィート8½インチに統一し、その際、現行路線の迂回や急勾配はそのままにしておく――という最小限の案でさえ、およそ1,200万ポンドの支出を伴うとされている。
この「軌間戦争」に加え、オーストラリア鉄道網には戦略的観点から見て、なおいくつかの欠点が指摘されている。その一つは、単線区間が多すぎることである。そのため、平時であっても、少し輸送量が増えただけでたちまち線路が飽和状態に陥り、そこへ鉄道延伸や新線建設が加わると、幹線の輸送能力不足がさらに顕在化するおそれがある。もう一つは、「行き止まり線」の存在である。とくに、他州との州境に至る前に意図的に路線を打ち切り、その沿線地域で発生する貨物を、自州のより長い路線を通じて自州の港へ誘導しようとする例が少なくない。本来ならば、州境を越える鉄道連絡さえあれば、より近くの隣州の港へ短距離で輸送できる輸送需要が、政治的意図のために遠回りを強いられているのである。
自国の鉄道網および軍事輸送能力を改善すべく、すでに実施されている、あるいは今後計画されている取り組みに加え、オーストラリアは、組織面の整備にも力を注いできた。世界各国の経験が示すように、この点をおろそかにすると、有事の際に指揮系統の混乱や権限争いが生じ、重大な局面で取り返しのつかない事態を招きかねないからである。
この分野での取り組みは、キッチナー卿が連邦政府に提出した覚書における、次のような勧告に基づいている。すなわち――
動員準備は、第一義的には参謀本部の責務である。参謀本部は、おおまかな方針を立案し、各部隊の武器弾薬をどの地点に、どの程度の量保管すべきかについて助言を与える。軍の集中展開は、鉄道当局と軍当局とが最も緊密に連携し、完全な協調体制を築いている場合にのみ、円滑に実施し得る。かかる連携を確保するため、英国と同様に、各州の鉄道総裁と市民軍司令部(Citizen Forces)の兵站総監(Quartermaster-General)から成る「戦時鉄道評議会(War Railway Council)」を設置し、議長には兵站総監を、事務局長には本部参謀の一員を据えることを提案する。(第85項)
この勧告に基づき、連邦レベルの戦時鉄道評議会が1911年に正式発足した。同評議会は、連邦国防省の付属機関であり、その構成メンバーは、議長を務める兵站総監、連邦および各州の鉄道網に対応する「技術鉄道部隊(Engineer and Railway Staff Corps)」の高級将校(この「高級将校」とは、各州の鉄道総裁または副総裁を指す)、連邦顧問軍事技師、および海軍と陸軍から選出された二名の代表者であり、事務局長には軍人が任命される。平時における評議会の任務は、一般的には国防大臣に鉄道問題に関する助言を行うことであり、とりわけ、(a) 各鉄道当局からの情報入手および情報提供の方法を定めること、(b) 部隊移動に関する規則や指針案を作成すること、(c) 鉄道当局と部隊側との橋渡し役を務める戦時鉄道担当将校の組織方法を提案すること、(d) 追加側線や積込用ホームなどの設置に関する問題、さらには軌間統一構想を検討すること、(e) 鉄道部隊の編成および訓練方針を提案すること――である。有事においては、これに加え、動員に関する諸問題について国防大臣に助言することも任務に含まれる。各州レベルでの軍事鉄道輸送体制は、英国ですでに採用されている体制――『野戦勤務規定(Field Service Regulations)』に定められた方式――に準拠して構築されることになっている。
脚注:
[83] 紀元前約2000年にまで遡るインド侵入は、合計26回記録されており、そのうち実に21回が征服で終わっている。
[84] 1878~80年の諸遠征において、劣悪な鉄道連絡事情を補うため輸送に投入されたラクダの総数は、シンドおよびパンジャーブ国境州における供給をほぼ枯渇させるほど膨大であり、そのうち3万~4万頭が、過酷な労役と困難な条件のために死亡したとされる。その結果、財務省が被った損失は20万ポンドと見積もられている。
[85] “Professional Papers of the Corps of Royal Engineers,” Vol. XI, 1885.
[86] “Life and Times of General Sir James Browne, R.E., K.C.B., K.C.S.I.” by General J. J. McLeod Innes, London, 1905.
[87] J・ホランド・ローズ著『戦争の起源(The Origins of the War)』参照。ケンブリッジ、1914年。
[88] 1911年6月18日付 New York Sun に、「もし急ぎ部隊を輸送しなければならない場合、この国の鉄道は一日25万人を動かし得る」という見出しの記事が掲載された。
[89] 三つの軌間別に見ると、開業・建設中・認可済み路線の延長は次のとおりである――5フィート3インチ軌間:4979マイル、4フィート8½インチ軌間:6160マイル、3フィート6インチ軌間:1万1727マイル。
書誌
本書の目的および範囲は、1914年の大戦勃発に至るまでの鉄道力の進化と発展の過程を跡づけることのみに限定されている。以下に掲げる書籍・パンフレット・論文等の一覧は、当初、米国ワシントンD.C.の「鉄道経済局(Bureau of Railway Economics)」が作成した「戦争における鉄道利用に関する参考文献目録(List of References on the Use of Railroads in War)」から抜粋したものである。同局の目録には、米国議会図書館をはじめ、主要大学・カレッジ・学術団体・技術団体の図書館、各州立図書館、公立図書館、民間鉄道会社の私設図書館、さらには同局自身の図書館など、米国内の主要図書館が幅広く網羅されており、ドイツ公共事業省図書館、ベルン国際鉄道会議図書館など、欧州の複数の図書館に所蔵される資料も含まれている。
本書の書誌編纂にあたっては、米国側目録から多くの貴重な示唆と情報を得たが、その収録項目のうち、とくに世界大戦そのものに関する文献の大部分は、ここには再掲していない。他方、本邦では国防省図書館所蔵目録、英国博物館、王立植民地協会(Royal Colonial Institute)、特許庁図書館、王立統合軍事研究所(Royal United Service Institution)誌、王立工兵隊協会(Royal Engineers’ Institute)出版物、その他英国およびフランス等の公的・民間出版物をはじめ、さまざまな資料源から多数の追加文献を採録した。その結果、ここに掲げる書誌はほとんど新たな独自編纂物と言ってよく、米国鉄道経済局による優れた目録を有益に補完し得るものと考えられる。
最初期の文献(1833〜50年)
HARKORT, FRIEDRICH WILHELM. Die Eisenbahn von Minden nach
Köln. Hagen, 1833.
[軍事的観点から見た鉄道の重要性と可能性を初めて説いた著作とされる。]
Ueber die militärische Benutzung der Eisenbahnen. Berlin,
1836.
Darlegung der technischen und Verkehrs-Verhältnisse der
Eisenbahnen, nebst darauf gegründeter Erörterung über die
militärische Benutzung derselben. Berlin, 1841.
"Pz." (CARL EDUARD POENITZ). Die Eisenbahn als militärische
Operationslinien betrachtet und durch Beispiele erläutet. Nebst
Entwurf zu einem militärischen Eisenbahnsystem für Deutschland.
Adorf [Saxony], 1842.
---- II. Aufl. Adorf, 1853.
Essai sur les Chemins de Fer, considérés comme lignes
d'opérations militaires. Traduit de l'allemand par L. A. Unger.
Paris, 1844.
[上掲ポーニッツ著作のフランス語訳。訳者による序文と、1842年当時のドイツ・オーストリアにおける既設鉄道および著者の構想した「軍事鉄道システム」を示す地図を付す。]
Uebersicht des Verkehrs und der Betriebsmittel auf den
inländischen und den benachbarten ausländischen Eisenbahnen
für militärische Zwecke; nach den beim grossen Generalstabe
vorhandenen Materialen zusammengestellt. Berlin, 1848-50.
HOFFMANN, C. Amtlich erlassene Vorschriften über Anlage und
Betrieb der Eisenbahnen in Preussen. Berlin, 1849.
戦争・遠征
クリミア戦争(1854–55)
HAMLEY, GEN. SIR EDWARD. The War in the Crimea. London, 1891.
LUARD, R.E., CAPT. C. E. Field Railways and their general
application in war. _Journal of the Royal United Service
Institution_, Vol. XVII, 1873.
[クリミアで建設・使用された軍用鉄道に言及。]
イタリア戦争(1859)
BARTHOLONY, F. Notice sur les Transports par les Chemins
de Fer français vers le théâtre de la guerre d'Italie. 71 pp.
Paris, 1859.
MILLAR, R.A., MAJOR, Topographical Staff. The Italian
Campaign of 1859. _Journal of the Royal United Service
Institution_, Vol. V, pp. 269–308. London, 1861.
[冒頭で鉄道利用への言及あり。]
アメリカ南北戦争(1861–65)
Abhandlung über die Thätigkeit der amerikanischen
Feldeisenbahn-Abtheilungen der Nordstaaten; bei den Directionen
der Staatseisenbahnen. Durch das Königl. Ministerium in
Circulation gesetzt. Berlin.
BACON, E. L. How railroads helped save the Union.
_Railroadman's Magazine_, July, 1909.
HAUPT, HERMAN. Reminiscences of General Herman Haupt, Chief
of the Bureau of United States Military Railroads in the Civil
War. 321 pp. Illustrations. Milwaukee, Wis., 1901.
HENDERSON, LIEUT.-COL. G. F. R. Stonewall Jackson and the
American Civil War. Second edition. Two vols. London, 1899.
PORTER, W. E. Keeping the Baltimore and Ohio in Repair in
War Time was a Task for Hercules. _Book of the Royal Blue_,
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United States Military Railroads. Report of Brev.-Brig.-Gen.
D. C. McCallum, Director and General Manager, from 1861 to 1866.
Executive Documents, 39th Congress, 1st Session. House. Serial
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VIGO-ROUISSILLON, F. P. Puissance Militaire des États-Unis
d'Amérique, d'après la Guerre de la Sécession, 1861–65. IIIe
Partie; chap. viii, Transports généraux. Paris, 1866.
普墺戦争(1866)
COOKE, R.E., LIEUT.-COL. A. C. C. Short Sketch of the
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WEBBER, R.E., CAPT. Notes on the Campaign in Bohemia in
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アビシニア遠征(1867–68)
WILLANS, R.E., LIEUT. The Abyssinian Railway. Papers on
Subjects Connected with the Duties of the Corps of Royal
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普仏戦争(1870–71)
BUDDE, LIEUT. H. Die Französischen Eisenbahnen im Kriege
1870–71 und ihre seitherige Entwicklung in militärischer
Hinsicht. Mit zwei Karten und zehn Skizzen im Texte. 99 pp.
Berlin, 1877.
[1870年および1877年当時のフランス鉄道網の地図を掲載。]
---- Die französischen Eisenbahnen im deutschen
Kriegsbetriebe, 1870–71. 487 pp. Berlin, 1904.
ERNOUF, LE BARON. Histoire des Chemins de Fer français
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JACQMIN, F., Ingénieur en Chef des Ponts et Chaussées. Les
Chemins de Fer pendant la Guerre de 1870–71. 351 pp. Paris, 1872.
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エジプトおよびスーダン(1882–99)
History of the Corps of the Royal Engineers. Vol. II. By
Maj.-Gen. Whitworth Porter, R.E. The War in Egypt, 1882–85, pp.
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---- Vol. III. By Col. Sir Chas. M. Watson. The Sudan
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NATHAN, R.E., LIEUT. M. The Sudan Military Railway.
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WALLACE, R.E., MAJ. W. A. J. Railway Operations in Egypt
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フィリピン戦争(1898)
COLSON, L. W. Railroading in the Philippine War. _Baltimore
and Ohio Employés' Magazine_, Feb., 1913.
Soldiers Running a Railroad. _Railroad Telegrapher_, Sept.,
1899.
[フィリピン蜂起の折、カンザス第20連隊がマニラ=ダグパン鉄道の四マイル区間を運営した経緯を記す。]
南アフリカ戦争(1899–1902)
Detailed History of the Railways in the South African War,
1899–1902. Two vols. Royal Engineers' Institute, Chatham, 1905.
Vol. I――ケープおよびナタール政府鉄道の軍事管理・運行・修理、帝国軍用鉄道の管理部門・技術部門ほか各部局、鉄道開拓連隊、装甲列車の組織・装備・運用、軍労務隊などを扱う。
Vol. II――写真61点、図面93点を収録。
GIROUARD, R.E., LIEUT.-COL. E. P. C., Director of Railways,
South African Field Force. History of the Railways during the
War in South Africa, 1899–1902. 149 pp. Maps. London, 1903。
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MCMURDO, GEN. SIR W. M. 「Volunteers」項、_Encyclopædia Britannica_ 第9版。
[295頁に「技術および鉄道輸送軍団(Engineer and Railway Transport Corps)」への言及あり。]
WALTER, MAJ. JAMES, 4th Lancashire Artillery Volunteers.
England's Naval and Military Weakness. The Volunteer Force.
London, 1882.
[1881年の義勇軍大演習において、エンジニア・アンド・レイルウェイ・ボランティア・スタッフ軍団が果たした役割に触れる(p. 305)。]
〔公式刊行物〕
Army Service Corps Training. Part III, Transport. Section
VI, Conveyance of War Department Stores. 1――Rail. Appendix III,
Acts of Parliament relating to Transport Services. 1911.
Field Service Pocket Book. Section 30, Transport by Rail.
General Staff, War Office. 1914.
Field Service Regulations. Part I, Operations. 1909.
(1914年改訂版再刷。)第III章「鉄道による移動」pp. 62–6。Part II, Organisation and Administration.
1909. (1913年改訂版再刷。)第VIII章「鉄道輸送」pp. 91–96。参謀本部、陸軍省刊。
Instruction in Military Engineering. Part VI, Military
Railways. War Office, 1898.
[チャタムの軍事工学学校における鉄道関連講習の一部を法文化したもので、初版は1889年3月1日付陸軍命令に付属する「軍用鉄道教範(Manual of Military Railways)」95頁として発行された。]
Manual of Military Engineering. 第XVII章:爆薬を用いない鉄道の即時破壊。第XXIII章:鉄道(建設・修理・復旧の技術的詳細)。計144頁。参謀本部、陸軍省、1905。
Manual of Military Law. War Office, 1914.
[部隊輸送に関する国家と鉄道との関係について簡単な説明があり(184–5頁)、関連法令の条文も収録している。]
Notes on Reconnaissance and Survey of Military Railways
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[ブラウン卿が主任技師を務めたシンド=ピシン鉄道建設の詳細な記述を含む。]
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Britain and Russia in Central Asia. 232 pp. Maps. Madras and
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[英領インド国境およびロシア中央アジア鉄道に関する情報を要約して提供。]
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Eisenbahnen dabei. 33 pp. Berlin, 1860.
[病傷兵輸送用として鉄道車両を特別に改装することを初めて提唱した文献とみられる。]
LOEFFLER, DR. F. Das Preussische Militär-Sanitätswesen und
seine Reform nach der Kriegserfahrung von 1866. Two parts.
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[第II部付録には、1861年7月1日付「鉄道における負傷兵・病兵輸送の実施要領(Anleitung zur Ausführung der Beförderung verwundeter und kranker Militairs auf Eisenbahnen)」が収録されている。]
LONGMORE, SURG.-GEN. SIR T. A Manual of Ambulance Transport.
2nd edition. Edited by Surg.-Capt. W. A. Morris. Chap. vi, Class
V, Railway Ambulance Transport, pp. 347–89. Illustrations.
London, 1893.
[初版は1869年、『負傷兵・病兵輸送論(A Treatise on the Transport of Sick and Wounded Troops)』として刊行。]
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etc. U.S.A. Dept. of War. Surgeon-General's Office. Washington,
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[南北戦争における病院列車の進化過程を詳細に記述。英国博物館図書室に所蔵(請求記号 7686 i. 4)。]
MELVILLE, A.M.S., SURG.-CAPT. Continental Regulations for
the Transport of Sick and Wounded by Rail. _Journal of the Royal
United Service Institution._ Vol. XLII, pp. 560–92. London, 1898.
Military Hospital Trains: Their Origin and Progress. _The
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NIEDEN, J. Der Eisenbahn-Transport verwundeter und
erkrankter Krieger. 2 Aufl. 271 pp. Berlin, 1883.
OTIS, GEORGE A. A Report on a Plan for Transporting Wounded
Soldiers by Railway in Time of War. Surgeon-General's Office,
War Department, Washington, 1875.
[本報告の主要部分は『南北戦争の医療・外科史(Medical and Surgical History of the War of the Rebellion)』にも再録されている。]
Report by the Central British Red Cross Committee on
Voluntary Organisations in aid of the Sick and Wounded during
the South African War. Part VII, Hospital Trains, pp. 32–5.
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Report on the Medical Arrangements in the South African War.
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RIDDELL, J. SCOTT. A Manual of Ambulance. Section on Railway
Ambulance Wagons and Ambulance Trains, pp. 168–76. 6th edition.
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装甲列車
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アメリカ南北戦争における装甲貨車(ペータースバーグ「ユニオン鉄道砲台」)。_Century Magazine_, 1887年9月号 p. 774 に挿図。
BOXALL, CHARLES GERVAISE, Col. Commanding 1st Sussex
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Britain, The. Paper read at a meeting of Officers and N.C.O.'s
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CONNOR, MAJ. W. D. Military Railways. Section on Armoured
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(1914年改訂版再刷。)第40節「鉄道防衛」。参謀本部、陸軍省、ロンドン。
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GIROUARD, R.E., LIEUT.-COL. E. P. C. History of the Railways
during the War in South Africa, 1899–1902. Section V, The
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HOBART, FREDERICK. The first Armoured Train. _Railway Age
Gazette_, Jan. 22, 1915. Chicago, U.S.A.
LODIAN, L. The Origin of Armoured Railroad Cars
unquestionably the Product of the American Civil War. _Railroad
and Locomotive Engineering_, May, 1915. New York.
[1864年5月18日付『レズリーズ・ウィークリー』からの転載挿図を掲げ、「フィラデルフィア=ボルチモア鉄道の鉄道砲台」を紹介。車体全体を装甲板で覆い、前後および側面に砲用銃眼を設け、無防備の機関車の前に連結した「ボックスカー」を描く。]
Military History of the Campaign of 1882 in Egypt. Prepared
in the Intelligence Branch of the War Office. Revised edition.
London, 1908.
[装甲列車の運用に関する記述あり。]
NANCE, CAPT. H. O. Armoured Trains. Lecture delivered at the
Royal Engineers' Institute. 52 pp. Photographs and drawings.
Professional Papers, fourth series, Vol. I, Paper 4. Chatham,
1906.
[(1) 装甲列車の用途、(2) 構造・装備・乗員、(3) 組織および管理――の三部構成で論じる。]
Railway Manual (War). 第VI章, 第15節「装甲列車」。ロンドン, 1911.
WALKER, LIEUT. ARTHUR. Coast Railways and Railway Artillery.
_Journal of the Royal United Service Institution_, Vol. IX, pp.
221–23. Plates. London, 1866.
索引
ABYSSINIA 遠征:
軍用鉄道の建設と運行, 210–14.
ADAMS, WILLIAM BRIDGES:67–9.
鉄道利用による利点:345–50.
アフリカに対するドイツの策謀:
フォン・ヴェーバーの提案, 297;
ドイツ領南西アフリカ, 298–300;
ヘレロ蜂起, 300–1;
鉄道, 304–10;
軍事準備, 307, 310–12;
アンゴラとの鉄道連絡, 312–14;
ドイツ領東アフリカ中央鉄道, 314–17;
カタンガ地区, 316;
中央アフリカ, 318;
競合する鉄道計画, 319–20;
カメルーンにおける鉄道計画, 320–5;
公式の認諾, 325–6;
「デア・ターク」とその綱領, 326–30.
アガディール危機:324.
侵略目的での鉄道利用:355–6.
アレクサンドロス大王:63.
アレクサンドレッタ、ドイツと:334, 343.
ALEXEIEV, 提督:275.
救護列車:_参照_ 鉄道救護輸送。
アメリカ南北戦争:
それが確立したもの, 13;
鉄道路線, 15;
連邦政府と鉄道, 16;
接収延長マイル数, 18;
軌間, 18;
線路状態, 19;
輸送部(Transportation Department), 20–1;
機関車, 21–2;
ローリング・ミル, 23;
部隊移動, 23–5;
鉄道破壊, 27–8;
建設隊(Construction Corps), 29–37;
鉄道の管掌, 43–50;
鉄道防護, 54–5;
装甲車, 72–4;
病傷者後送, 86–91;
欧州で踏襲されたアメリカの先例, 104, 122, 153, 177;
「サーフェス・レイルロード」, 210;
南北戦争と南アフリカ戦役, 258 (_n._).
アナトリア:331, 335.
アナトリア鉄道:334.
アンゴラ:299, 312–14, 320.
装甲列車:
鉄道路線の防護, 59;
最初の提案, 67–9;
A. Walker 中尉の提案, 69–70;
Wethered 大佐の提案, 70–71;
E. P. C. Girouard 中尉の提案, 71–2;
南北戦争, 72–4;
普仏戦争, 75;
エジプト遠征, 75–6, 224;
デリー, 76;
フランスでの実験, 77;
サセックス州ニューへブンにて, 77–9;
南アフリカ戦争, 79, 248–52.
小アジア:
トルコ分割に関するドイツの「取り分」, 332;
ドイツの植民地化対象, 332–3;
ドイツ保護国案, 333.
ASPINALL, J. A. F. 氏:197.
大西洋およびノースカロライナ鉄道:36, 73.
オーストラリアとバグダッド鉄道:342, 344.
オーストリア=ハンガリー:
早期の鉄道による部隊移動, 8–9;
戦略鉄道計画, 9;
1859年イタリア戦役, 11–12;
鉄道部隊, 123;
ドイツ鉄道連絡, 287.
普墺戦争:
鉄道防護, 55, 59;
病傷者後送, 91–2;
プロイセン軍の動員, 104;
不備な輸送手配, 104–5;
鉄道線の破壊と復旧, 124–6。
バビロニア、ドイツと:332.
バグダッド鉄道:
コンセッション, 334;
支線, 334–5;
ドイツの狙い, 336;
エジプト征服, 338–40;
ペルシア湾, 341;
インド, 342;
Mahan 大佐の見解, 342;
クウェートへの延長要求, 343;
鉄道に期待された役割, 344.
BALCK:110.
ボルティモア・アンド・オハイオ鉄道:29.
BASSON, WILHELM:127.
BECKER, 中尉:169–70.
ベルギー:
初期の鉄道, 4–5;
ベルギー国境におけるドイツ戦略線, 288–294;
ドイツの策謀, 323–4, 325–6, 327, 329.
BÉRIGNY, M. DE:7.
BEYENS, BARON:325.
BIGELOW, J. 大尉:56, 348 (_n._).
BILLINGTON, R. J. 氏:78.
ビスマルク侯:136, 338.
鉄道防護用のブロックハウス:54, 58, 245.
BOULGER, D. C. 氏:288, 294.
BOXALL, C. G. 大佐:78.
英国中央赤十字委員会:95, 254.
英領東アフリカ:317, 327.
英領南アフリカ:
これに対するドイツの策謀, 301, 302, 303, 308, 312, 327.
BRYDEN, H. A. 氏:300 (_n._).
BUDDE, H.:51.
BULLER, Sir REDVERS:254.
BURGOYNE, Sir JOHN:178, 209.
BUTTERWORTH, Sir A. K.:197.
CALEDONIAN 鉄道:197.
CALTHROP, GUY 氏:197.
カメルーン:320–5.
CAMPENAU, 将軍:137.
運河と部隊輸送:1.
ケープ政府鉄道:237, 240, 246, 253.
ケープ=カイロ鉄道:320.
中央アフリカ:318–20.
CHÉRADAME, ANDRÉ 氏:338.
CHRISTIAN 王女:254.
CLARKE, Sir ANDREW:224.
沿岸防衛:67, 179.
コマース・ディフェンス・リーグ(ドイツ):303 (_n._).
コンゴ(ベルギー領コンゴ):315–320, 322–6.
能率発揮のために必要な条件:350–2.
CONNOR, W. D. 少佐:58, 80, 258 (_n._).
建設隊:
米国, 20, 21, 23, 29–37;
プロイセン, 122–3, 124–8, 132–6, 215–6, 219;
オーストリア, 123–4;
バイエルン, 127–133;
フランス, 128, 152–4;
イングランド, 198–202;
南アフリカ戦争, 242–5;
日露戦争, 273–4.
鉄道建設:
軍事的要件, 350–1.
戦時における鉄道管制:
運行条件, 40–3;
南北戦争, 43–50;
M. M. フォン・ヴェーバー男爵の見解, 50–2;
仲介機関の必要性, 52;
平時組織, 99;
普墺戦争, 104–5;
1870–71年のドイツ方式, 106–115;
新規定, 115–7;
現行制度, 118–121;
1870–71年フランスにおける軍事管制の不備, 139–147;
新組織の創設, 149–170;
英国における国家統制, 176–7;
国家運営案, 185–7;
鉄道輸送将校, 189–191;
南アフリカ戦争, 233–7, 238–9, 249–52;
日露戦争, 274–5;
一般, 351.
COWANS, Sir J. S. 中将:204.
クリミア戦争:
疾病・病気による死者, 81;
鉄道による病傷者輸送, 83;
輸送事情, 207–8;
軍用鉄道の建設, 208;
運行, 208–10;
日露戦争との類似, 260.
CROMER 卿:229.
デンマーク戦争(1864):91, 104.
デラゴア湾:304–5, 327.
DELBRÜCK, Hans 教授:330.
DENT, C. H. 氏:197.
DENT, F. H. 氏:197.
鉄道破壊:
脆弱性, 26–7;
初期事例, 27;
南北戦争, 27–37;
メキシコ戦争, 37–9;
普墺戦争, 124, 125–6;
普仏戦争, 128–30;
南アフリカ戦争, 241–5, 256–8;
日露戦争, 274.
鉄道の短所:355–6.
DUFAURE, 氏:7.
DUMANT, Jean Henri:84.
東プロイセンにおける戦略鉄道:283.
エジプト:
反乱に関するドイツの予測, 326;
エジプトに対する狙い, 338–9;
鉄道により容易化される征服, 340.
エジプト遠征:
装甲車, 75–6;
王立工兵隊鉄道中隊, 199.
エイフェル地方:
ドイツ戦略鉄道, 289–292.
ELSENBORN におけるドイツ軍キャンプ:288–9.
エンジニア・アンド・レイルウェイ・スタッフ軍団:
創設, 179–182;
構成, 181–2;
職務と実績, 182–7, 192;
戦時鉄道評議会により補完, 187.
イングランドにおける組織:
部隊輸送に関する初期規定, 2;
立法措置, 175–7;
侵略の懸念と義勇軍創設, 178;
エンジニア・アンド・レイルウェイ・スタッフ軍団, 179–187;
陸軍省の姿勢, 180;
陸軍省と防衛計画, 185–7;
戦時鉄道評議会, 187–9;
鉄道輸送将校, 189–191;
鉄道執行委員会, 195–7;
王立工兵隊鉄道中隊, 200–2.
ERNOUF, BARON:141.
EVANS, Dr. T. W.:91.
FAY, Sir SAM:197.
FIELDHOUSE, W. J. 氏:95.
FINDLAY, Sir GEORGE:184–7, 195, 196, 202.
FORBES, Sir WILLIAM:182, 197.
FORMANOIR, A. DE 大尉:124 (_n._).
鉄道防護用要塞:59.
フランス:
仏議会における初期の言及, 6–7;
1842年当時のドイツ侵略線への苦情, 7;
初期の鉄道, 7;
1859年イタリア戦役と鉄道, 9–11;
初期規定, 138;
ニエル元帥の委員会, 138–9;
普仏戦争での経験, 139–148;
仏国境におけるドイツ鉄道路線, 287–8;
ルクセンブルク経由のドイツ代替ルート, 288;
ベルギー経由, 288–93;
アフリカにおけるフランス領のドイツによる奪取計画, 326;
「賠償」として要求される予定, 329.
フランスにおける組織:
初期規定, 138;
普仏戦争後の措置, 149–50;
高等陸軍委員会, 150, 151–2;
野戦鉄道中隊, 153–4;
鉄道部隊, 154–6;
現行組織, 157–168;
試験, 169;
ドイツ当局の見解, 169;
防衛鉄道, 170–4.
普仏戦争:フランス側:
装甲貨車, 75;
鉄道輸送規定, 138;
ニエル委員会, 138–9;
鉄道による輸送, 139–40;
軍事組織の欠如, 140;
混乱と無秩序, 140–2;
相反する命令, 142;
地方当局, 143;
荷役, 143–4;
駅の輻輳, 145–7;
敵による車両接収, 147.
普仏戦争:ドイツ側:
鉄道路線の防護, 56–8;
病傷者後送, 94–5;
鉄道輸送状況, 106–115;
鉄道部隊, 127–8;
線路破壊等, 128–30;
仏鉄道の独軍による運行, 130–1;
軍用鉄道建設, 215–6.
フラン=ティルールと鉄道:57, 129–30.
FRASER, R. E., 中尉:129.
フレデリックスバーグ鉄道:29.
フランス横断アフリカ鉄道計画:322.
FRERE, Sir BARTLE:297.
FRIRON, 将軍:64.
FURLEY, Sir JOHN:95, 96, 254.
GAMBON, 氏:325.
軌間:
各国の状況, 60;
これに関するロシアの方針, 61;
露土戦争での経験, 61, 217;
ドイツとロシア路線, 284–6.
ドイツ領東アフリカ:314–5, 316–7.
ドイツ皇帝:
アフリカ鉄道, 321;
コンスタンティノープル訪問, 334;
ダマスカス訪問, 337.
ドイツ領南西アフリカ:298–312.
ドイツとエジプト:338–40.
ドイツ:
早期の戦略鉄道提案, 2–3;
初期の鉄道建設, 5;
二方面からの攻撃の可能性, 5;
「攻撃的」路線, 7;
初期の部隊輸送, 8;
戦時の鉄道管制, 50–52;
鉄道救護輸送, 84–6, 91–3, 94;
_また参照_ ドイツにおける組織。
ドイツにおける組織:
南北戦争の影響, 104, 122;
参謀本部鉄道課の創設, 104;
デンマーク戦争(1864), 104;
普墺戦争, 104–6;
通信線規定, 106–9;
普仏戦争, 110–15;
追加規定, 115–6;
野戦勤務規定, 117;
現行組織の基礎, 118–121;
鉄道部隊, 122–37.
GIROUARD, Sir E. PERCY C.:71, 225, 228, 233–7, 238–9, 240–1, 248–9, 252, 257, 258 (_n._).
ゴルツ(VON DER GOLTZ):135, 139, 282, 346 (_n._), 352.
GORDON, 将軍:221, 222.
GRAHAM, Sir G.: 223, 224 (_n._).
GRANET, Sir GUY:197.
GRANT, M. H. 大尉:251.
GRANT, 将軍:22.
グレート・セントラル鉄道:197.
グレート・イースタン鉄道:194, 204.
グレート・ノーザン鉄道:194, 197, 204.
グレート・ウエスタン鉄道:192, 195 (_n._), 197.
GREY, Earl DE:180.
GRUND 式鉄道救護装備:94.
GURLT, Dr. E.:81, 84, 85.
GYULIA, COUNT:12.
HALLECK, 将軍:23–4.
HAMLEY, Sir E. 将軍:207, 349 (_n._).
HARKORT, F. W.:2–3.
HARRISON, C. W. F. 氏:247.
HAUPT, HERMAN:
米国建設隊の先駆者, 29–30;
橋梁再建, 31–2;
管制問題, 43–9;
装甲車, 72.
ヘジャーズ鉄道:335.
HERBERT, SIDNEY 氏:180.
HERFF, Herr von:305.
HEYER, A. E. 氏:305.
HINE, CHARLES 少佐:37.
HOBART, F. 氏:73.
オランダ:
オランダ国境におけるドイツ戦略線, 293–4.
HOME, R. E., R. 中佐:63.
HOOD, 将軍:35.
病院列車:_参照_ 鉄道救護輸送。
インド:
反乱に関するドイツの予測, 326;
バグダッド鉄道とインド, 342, 344.
イングランド侵略:
それに対する懸念, 67, 177–8, 182.
イタリア戦役(1859):
鉄道による部隊輸送, 9–13;
鉄道線路破壊, 27;
鉄道による病傷者輸送, 84.
JACQMIN, 氏:143, 148, 235.
JAGOW, Herr von:325–6.
JOESTEN, Dr. JOSEF:281, 283.
KAERGER, Dr. KARL:332–3.
カタンガ地区(中央アフリカ):316–20.
KELTON, J. C.:50.
KITCHENER 卿:58, 225, 226, 227, 228, 229, 239.
KUROPATKIN, 将軍:263, 269–70, 271, 275, 355 (_n._).
LAMARQUE, 将軍:6.
ランカシャー・アンド・ヨークシャー鉄道:197.
陸上輸送軍団(クリミア):181 (_n._), 208, 209.
LANGHAMS, PAUL:338.
LANOIR, PAUL 氏:136–7.
LATTMANN, Herr:306.
LEDEBOUR, Herr:302.
LEOPOLD 王:318, 325.
鉄道の有用性の限界:352–5.
リバプール・アンド・マンチェスター鉄道:1, 8.
ロビト湾鉄道:314, 319–20.
LODIAN, L. 氏:73.
ロンドン・アンド・ノース・ウエスタン鉄道:194, 197.
ロンドン・アンド・サウス・ウエスタン鉄道:192, 193, 197, 199, 201.
ロンドン・ブライトン・アンド・サウス・コースト鉄道:77–8, 197.
ロンドン・チャタム・アンド・ドーヴァー鉄道:199.
ロンドン防衛:71.
LORME, DUPUY DE 氏:75.
LUARD, R. E., C. E. 大尉:209.
LÜDERITZ, Adolf:298.
ルクセンブルク鉄道:288, 289, 292.
McCALLUM, D. G.:
米国鉄道の軍事監督官就任, 17–18;
状況に関する見解, 19;
輸送部および建設隊の創設, 20, 32–37;
部隊移動, 23–4;
管制問題, 50;
報告書のドイツ語訳, 127.
McDOWELL, 将軍:30, 54.
McMURDO, Sir W. M. 将軍:180, 181, 182–3.
MAHAN, A. T. 大佐:342, 344.
MANASSAS GAP 鉄道:55.
MANBY, C. 氏(F.R.S.):180.
MANGELSDORF, Prof. R.:340.
MAQUAY, R. E., J. P. 大佐:214.
MARSCHALL, M.:7.
MASSÉNA 元帥:64.
MATHESON, D. A. 氏:197.
MEADE, G. G. 少将:54.
MEIGS, 将軍:48.
メキシコにおける鉄道破壊:37–9.
ミッドランド鉄道:197.
戦時の軍事鉄道運行:
南北戦争, 20–1;
普仏戦争, 130–1;
英国組織, 175;
南アフリカ戦争, 239–41;
日露戦争, 274.
軍用鉄道:
概要, 205–6;
クリミア戦争の先駆的軍用線, 206–10;
南北戦争, 210;
アビシニア遠征, 210–14;
普仏戦争, 215–6;
露土戦争, 216–20;
スーダン, 220–231;
日露戦争, 272–3;
一般, 349.
MILLAR, R. A., 少佐:9.
モルトケ:8, 106, 109, 278, 346 (_n._).
MORACHE, Dr.:81.
ムニ(スペイン領):324.
NANCE, H. O. 大尉:80.
NANTON, R. E., H. C. 大尉:250.
NAPIER of MAGDALA 卿:210.
NAPIER, Sir CHARLES:178.
ナポレオン:62, 63, 64.
NASHVILLE・アンド・チャタヌーガ鉄道:33, 34.
ナタール政府鉄道:237, 246–8, 253.
ナタール鉄道開拓スタッフ:247.
NATHAN, R. E., M. 中尉:223.
1888年国防法(National Defence Act, 1888):177, 195.
ネーデルラント南アフリカ鉄道:240, 254–8.
NIEL 元帥:138, 139.
NORTON, ROY 氏:286.
ノース・イースタン鉄道:197.
ノース・ミズーリ鉄道:29.
O'CONNOR, J. K. 氏:310–12, 326–7.
オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道:46, 55, 88.
OSMAN PASHA:218.
PANZ, OBERST VON:123.
PEEL, 将軍:176.
PERNOT, A. 大尉:172, 174.
フィラデルフィア・ボルチモア鉄道:73.
フィラデルフィア鉄道:87.
ポメラニアにおける戦略鉄道:283.
PÖNITZ, C. E.:4–6, 280.
POPE, 将軍:43.
PORTER, WHITWORTH 少将:209, 224.
POTTER, F. 氏:197.
POWELL, 少佐:209.
平時の準備:
必要性, 98–102; 106, 123, 138, 149, 178–180, 184, 351–2.
戦時の鉄道防護:
南北戦争, 54–5;
ブロックハウス, 54, 58;
民間人を機関車または列車に乗せる措置, 55, 57–8;
普墺戦争, 55–6;
普仏戦争, 56–8;
南アフリカ戦争, 58;
恒久要塞, 59;
装甲列車の使用, 59;
車両の撤去, 59;
破壊, 60;
軌間差, 60–1;
民間人への威嚇, 356.
プロイセン鉄道部隊:
野戦鉄道隊の創設, 122;
普墺戦争での活動, 123, 124–6;
常設幹部, 127;
普仏戦争, 127–8, 130–1;
鉄道大隊, 132–4;
鉄道連隊, 134;
通信部隊, 134;
鉄道部隊の必要性, 135–6;
鉄道員のスパイ活動, 136–7;
軍用線建設, 215–6.
RADEK, Karl 氏:339–40.
鉄道救護輸送:
疾病・病気による死者, 81;
病傷者速やかな後送の重要性, 82–3;
クリミア戦争, 83;
イタリア戦争, 84;
Gurlt 医師の勧告, 84–5;
第一次プロイセン委員会, 85;
南北戦争, 86–91;
デンマーク戦争, 91;
普墺戦争, 91–2;
第二次プロイセン委員会, 92–3;
1867年パリ万博, 93;
第三次プロイセン委員会, 94;
普仏戦争, 94–5;
南アフリカ戦争, 95–6, 253–4;
現行方式, 96–7.
王立工兵隊鉄道中隊:
創設, 199;
エジプトでの任務, 199;
職務, 200;
訓練, 200–2;
スーダンでの任務, 221–9;
南アフリカ戦争, 233, 240, 242, 243, 251.
鉄道開拓連隊:242, 243.
鉄道執行委員会:195–6.
鉄道輸送将校:189–191, 193–4.
鉄道貨車の荷降ろし:
南北戦争, 46, 47–8;
普墺戦争, 105;
普仏戦争, 111–2, 144, 145;
南アフリカ戦争, 234, 238, 239.
1871年軍隊規制法(Regulation of the Forces Act, 1871):176, 177, 195, 196, 197.
RENÉ, CARL 氏:321–2.
報復措置、プロイセンと:55–6.
ローデシア:320, 322, 327.
ROBERTS, 卿:58, 245.
ROBERTUS, J. K.:332.
ROHRBACH, Dr. PAUL:338–9, 340.
ROON, VON:85.
ROSCHER, WILHELM:332.
ROSS, Prof. LUDWIG:338.
ROTHWELL, R. A., J. S. 大佐:184.
RUMIGNY, 将軍:3
ロシア:
初期の鉄道部隊輸送, 8;
軌間に関する方針, 61, 135–6, 217;
対トルコ戦における軍用線建設, 216–220;
ロシア国境におけるドイツ戦略線, 284–7.
_また参照_ 日露戦争。
日露戦争:
戦域からの距離, 260;
シベリア鉄道, 261, 262–3;
東清鉄道, 261, 262;
ロシアの不準備, 263;
バイカル湖, 263, 264–7;
氷上鉄道, 266–7;
バイカル湖迂回線, 267;
交通障害, 268;
列車本数, 268;
速度, 268;
ロシア増援の小出し投入, 269;
鉄道改良, 270–1;
鉄道への依存, 271;
達成された成果, 271–2;
野戦鉄道, 272–3;
鉄道部隊, 273–4;
運行, 274;
管制, 274–6, 355 (_n._).
露土戦争:
軌間, 61;
軍用鉄道建設, 216–20.
SAÏD PASHA:221.
SAMASSA, Dr. PAUL:301–2.
SAROLEA, Dr. CHARLES:337.
SCHÄFFER, E.:113 (_n._).
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン:
ドイツ戦略線, 294.
SCHOFIELD, 将軍:24.
SCOTT, D. A. 少将:181.
SHERMAN, W. T. 将軍:19, 34–6, 54, 65.
戦時の病傷者:
後送病院, 167;
一時収容駅, 167;
配置駅, 167;
一般, 349–50.
_また参照_ 鉄道救護輸送。
南アフリカ戦争:
機関車・車両の撤去, 59–60;
病院列車, 95–6, 253–4;
乗船のための部隊輸送, 193;
南アフリカ鉄道, 232–3;
軍用鉄道部の創設, 233;
管制問題, 233–5;
組織の基礎, 235–7;
輸送事情, 237–8;
制度の動き, 238–9;
帝国軍用鉄道, 239–40;
平時組織された運転要員の必要性, 240–1;
線路等の破壊と修理, 241–5;
鉄道開拓連隊, 242;
ブロックハウス, 245;
軍事輸送, 245–6;
雑多な業務, 246–8;
装甲列車, 248–52;
ボーア側によるネーデルラント南アフリカ鉄道の運行, 254–9;
戦争と鉄道力, 258–9.
サウスカロライナ鉄道:36.
サウス・イースタン・アンド・チャタム鉄道:197.
サウス・イースタン鉄道:199.
SPRENGER, Dr. A.:332.
STANTON, 氏:23, 29.
STAVELOT–MALMÉDY 線:288–292.
STEINNETZ, T. 氏:255–8.
戦略的移動(鉄道による):12, 25, 245–6, 346.
戦略鉄道:
ドイツにおける早期提案, 2, 5–6, 7;
フランス, 7;
オーストリア, 9;
フランスにおける防衛線, 170–4;
英国の状況, 202;
連絡線, 203;
議会の態度, 203;
北部接続線, 203–4;
戦略鉄道の性格, 277–80;
理想条件, 279–81;
ドイツの状況, 281–4;
ポメラニアおよび東プロイセン, 283–4;
ロシア国境, 284–7;
南シレジア, 287;
フランス国境, 287–8;
ベルギー国境, 288–93;
オランダ国境, 293–4;
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン, 294;
ドイツ領南西アフリカ, 304–9;
アンゴラ, 312–4;
ドイツ領東アフリカ, 314–5;
カメルーン, 320–4;
バグダッド鉄道, 334–344.
STUART-STEPHENS, 少佐:290 (_n._).
STURGIS, 将軍:44.
スアキン=ベルベル線:199, 223–5.
兵站補給:
南北戦争, 15–16, 46;
「現地自活」, 63, 64, 65;
鉄道以前の条件, 63–4;
規律, 64;
道路輸送, 65;
鉄道輸送の利点, 65–6;
普墺戦争の不備な組織, 105;
ドイツにおける新制度, 107;
普仏戦争, 110–113, 143–6;
現行フランス制度, 164–6;
一般, 347–8.
南北戦争におけるサーフェス・レイルロード:210.
スーダン:
初期の鉄道計画, 221;
ワディ・ハルファ=サラス線, 221;
1884年遠征のための延伸, 221–2;
放棄, 222;
成果, 223;
スアキン=ベルベル線, 223–5;
ナイル渓谷線の再建と延伸, 225–6;
ヌビア砂漠線, 226–7;
アトバラへの延伸, 228;
ハルツーム, 229;
エル・オベイド, 229;
軍事的成果, 228;
文明への貢献, 230–1;
ドイツとスーダン, 321–2.
SUVÓROFF:62.
SZLUMPER, G. S. 氏:197.
戦術的鉄道移動:346.
THIERS, 氏:64.
THORNHILL, J. B. 氏:316.
THOMAS, G. H. 将軍:89.
TOVEY, R. E., 中佐:354 (_n._).
TOWN, Dr. F. L.:90.
シベリア鉄道:_参照_ 日露戦争.
トランスヴァール、ドイツと:304, 305, 311, 327.
鉄道による部隊移動:
初期, 8;
1859年イタリア戦役, 9–12;
南北戦争, 23–5;
より迅速な輸送, 62;
より完全な兵力, 62–3;
1864年デンマーク戦争, 104;
普墺戦争, 104;
普仏戦争, 110, 139–140;
義勇軍閲兵および陸軍演習, 192, 194;
南アフリカ戦争, 193, 245–6;
日露戦争, 269, 271;
一般, 345–6, 352–4.
トルコ(アジア領):ドイツの「約束の地」, 331.
トルコ:ドイツの対トルコ策謀, 331, 336–40.
UNGER, L. A.:6.
VICKERS, R. E., C. E. 大尉:274.
VIGO-ROUISSILLON, 氏:36.
英国義勇軍:67, 178–9, 182, 191–2.
WALKER, ARTHUR 中尉:69.
WALKER, Sir HERBERT A.:197.
WALTER, J. 少佐:191–2.
戦時鉄道評議会:187–9, 193, 196.
WATERS, W. H. H. 大佐:274, 275.
WATSON, Sir CHARLES 大佐:228.
WATSON, P. H. 氏:72.
WEBBER, R. E., C. E. 大尉:55, 125, 126.
WEBER, Baron M. M. VON:50–2.
WEBER, ERNST VON:297, 330.
WEEKS, G. E. 氏:37–8.
WELLINGTON 公:65, 177.
世界政策(Weltpolitik):331, 342, 344, 356.
WERNEKKE, Regierungsrat:8.
ウェスタン・アンド・アトランティック鉄道:34.
WESTPHALEN, H. L.:124.
WETHERED, E. R. 大佐:70.
WHEELER, 将軍:34.
WILLANS, R. E., 中尉:211, 213.
WILSON, 大統領:330.
WOLSELEY 卿:199, 222, 223.
WRIGHT, C. E., T. 氏:70.
ZAVODOVSKI 式鉄道救護装備:94.
ZIMMERMANN, EMIL:322–5.
P. S. KING & SON, LTD., Orchard House, Westminster, London, S.W.
エドウィン・A・プラット著作一覧
ENGLAND における内陸輸送および通信史
(A HISTORY OF INLAND TRANSPORT AND COMMUNICATION IN ENGLAND)
内容:
章
I 序論(INTRODUCTORY)
II ブリテン最古の道路(BRITAIN'S EARLIEST ROADS)
III 道路と教会(ROADS AND THE CHURCH)
IV 初期の交易条件(EARLY TRADING CONDITIONS)
V 初期の道路立法(EARLY ROAD LEGISLATION)
VI 初期の乗り物(EARLY CARRIAGES)
VII 積載量・車輪・道路(LOADS, WHEELS AND ROADS)
VIII 乗合馬車の時代(THE COACHING ERA)
IX 悪路の時代(THE AGE OF BAD ROADS)
X 有料道路制度(THE TURNPIKE SYSTEM)
XI 有料道路時代の貿易と輸送(TRADE AND TRANSPORT IN THE TURNPIKE ERA)
XII 科学的道路建設(SCIENTIFIC ROAD-MAKING)
XIII 河川と河川輸送(RIVERS AND RIVER TRANSPORT)
XIV 河川改良と産業拡張(RIVER IMPROVEMENT AND INDUSTRIAL EXPANSION)
XV 河川航行の不利(DISADVANTAGES OF RIVER NAVIGATION)
XVI 運河時代(THE CANAL ERA)
XVII 産業革命(THE INDUSTRIAL REVOLUTION)
XVIII 鉄道の発達(EVOLUTION OF THE RAILWAY)
XIX 鉄道時代(THE RAILWAY ERA)
XX 鉄道拡張(RAILWAY EXPANSION)
XXI 鉄道と国家(RAILWAYS AND THE STATE)
XXII 運河の衰退(DECLINE OF CANALS)
XXIII 有料道路の衰退(DECLINE OF TURNPIKES)
XXIV 乗合馬車時代の終焉(END OF THE COACHING ERA)
XXV 鉄道運賃および料金(RAILWAY RATES AND CHARGES)
XXVI 今日の鉄道体系(THE RAILWAY SYSTEM TO-DAY)
XXVII 鉄道が果たした役割(WHAT THE RAILWAYS HAVE DONE)
XXVIII 国家産業としての鉄道(RAILWAYS A NATIONAL INDUSTRY)
XXIX 路面電車・自動車バス・無架線電気牽引(TRAMWAYS, MOTOR-BUSES AND RAIL-LESS ELECTRIC TRACTION)
XXX 自転車・自動車・地下鉄(CYCLES, MOTOR-VEHICLES AND TUBES)
XXXI 今後の展望(THE OUTLOOK)
参考文献(AUTHORITIES)
索引(INDEX)
xii + 532頁. 6シリング net. 郵送費込み 6_s._ 4_d._
アメリカの鉄道(RAILWAYS IN AMERICA)
AMERICAN RAILWAYS. 310頁. 2シリング6ペンス net. 郵送 2_s._ 10_d._
[『タイムズ』紙に掲載された一連の記事に加筆して再録。]
ドイツの鉄道(RAILWAYS IN GERMANY)
GERMAN v. BRITISH RAILWAYS: With special reference to Owner’s Risk and
Traders’ Claims. 64頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 2_d._
GERMAN RAILWAYS AND TRADERS. 46頁. 6ペンス net. 郵送 7_d._
[通商省鉄道会議の「ドイツ鉄道報告」の要約。]
鉄道と国家(RAILWAYS AND THE STATE)
THE CASE AGAINST RAILWAY NATIONALISATION. 264頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 3_d._
[“The Nation’s Library” 叢書の一冊として刊行。]
RAILWAYS AND NATIONALISATION. 456頁. 2シリング6ペンス net. 郵送 2_s._ 10_d._
IRISH RAILWAYS AND THEIR NATIONALISATION. 44頁. 6ペンス net. 郵送 7_d._
[副王委員会報告に対する詳細な批判。]
STATE RAILWAYS. 108頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 2_d._
[マルセル・ペショー(Marcel Peschaud)の「ベルギー国有鉄道(Les Chemins de Fer de l’État Belge)」記事訳を含む。]
鉄道と荷主(RAILWAYS AND TRADERS)
RAILWAYS AND THEIR RATES. 362頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 3_d._
運河(CANALS)
CANALS AND TRADERS. 124頁. 地図・図表9点、写真43点。上製 2シリング6ペンス net. 郵送 2_s._ 10_d._
並製 1シリング net. 郵送 1_s._ 3_d._
[王立運河・水路委員会報告に対する「図解による論証」。]
農業(AGRICULTURE)
THE ORGANISATION OF AGRICULTURE. 474頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 3_d._
AGRICULTURAL ORGANISATION: Its Rise, Principles and Practice Abroad and
at Home. 270頁. 3シリング6ペンス net. 郵送 3_s._ 10_d._
廉価版 163頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 2_d._
SMALL HOLDERS: WHAT THEY MUST DO TO SUCCEED. 248頁. 1シリング net. 郵送 1_s._ 2_d._
[上記いずれの書籍も、P. S. KING & SON, Ltd., Orchard House, Westminster, London, S.W. に直接申し込めば、表示価格(郵送費込み)で送付される。]
翻刻者注(Transcriber’s Notes)
明らかな句読点およびダイアクリティカル・マークの誤りを修正した。
注:「Liége」は、現在「Liège」と書かれる都市名の、当時としては正しい綴りである。
以下の語ではハイフンを削除した:
“break-down”(p. 108), “earth-work”(p. 219), “inter-communication”(p. 173),
“plate-laying”(pp. 221, 222), “rail-head”(pp. 66, 97, 108), “re-built”(p. 266),
“re-organisation”(p. 264), “South-African”(p. 402), “station-master”(p. 145),
“store-houses”(pp. 144, 164), “text-books”(p. 133), “turn-tables”(p. 124),
“wide-spread”(pp. 15, 82)。
以下の表記揺れは頻出するため、統一せず原文どおり残した:
block-house / blockhouse, head-quarter(s) / headquarter(s),
sub-division(s) / subdivision(s).
p. 5: “Leipsig” を “Leibzig” に変更(Leipzig–Dresden line に関して)。
p. 15: “seceeded” を “seceded” に変更(the States which had seceded)。
p. 17: “Ctiy” を “City” に変更(Washington City, D.C.)。
p. 31: “Goose Greek” を “Goose Creek” に変更。
p. 105: “(3)” を “(4)” に変更((4) secure the prompt unloading)。
p. 185: “Mazagine” を “Magazine” に変更(United Service Magazine)。
p. 195: “Raliway” を “Railway” に変更(Great Western Railway Magazine)。
p. 218: “dependance” を “dependence” に変更(to dependence on the railway)。
p. 246: “in.” を追加(4·7 in. guns)。
p. 273: “de” を “des” に変更(des chemins de fer)。
p. 273: “Juni” を “Juin” に変更。
p. 284: “½” を追加(4 feet 8½ inches)。
p. 290: “moblisation” を “mobilisation” に変更(on mobilisation, or elsewhere)。
p. 290: “pursuading” を “persuading” に変更(persuading the Belgian Government)。
p. 296: “promotor” を “promotors” に変更(the aims of their promoters)。
p. 303: “enlightment” を “enlightenment” に変更(not so blind as to need enlightenment)。
p. 306: “between” を “between” に変更(communication between Swakopmund and the capital)。[訳注:原文自体の重複綴り修正。]
p. 315: “Renseignments” を “Renseignements” に変更(Renseignements coloniaux)。
p. 321: “Expediton” を “Expedition” に変更
(Kamerun–Eisenbahn–Expedition)。
p. 328: “possesssion” を “possession” に変更(into a German possession)。
p. 350: “tranverse” を “transverse” に変更(transverse lines connecting them)。
p. 355: “diciplined” を “disciplined” に変更(old and well-disciplined units)。
p. 355, 脚注82: “no” を追加(no harm was done)。
p. 373: 軌間表記を一貫して 3 ft. 6 in., 5 ft. 3 in., 4 ft. 8-1/2 in. に統一。
p. 377: “Eröterung” を “Erörterung” に変更(gegründeter Erörterung über die militärische Benutzung)。
p. 377: “militärischen” を “militärische” に変更(Eisenbahnen für militärische Zwecke)。
p. 378: “militärische” を “militärischer” に変更(in militärische Hinsicht)。
p. 387: “Heidelburg” を “Heidelberg” に変更。
p. 388: “Fielddienst” を “Felddienst” に変更(Felddienst Ordnung)。
p. 389: “Lehrer” を “Lehre” に変更(Kurze Lehre ihrer wichtigsten Grundsätze)。
p. 393: “Revista Technica” を “Rivista Tecnica” に変更。
p. 401: 索引用 “Germany, Organisation in, present basis of organisation” のページ参照を 188–121 から 118–121 に修正。
*** THE PROJECT GUTENBERG EBOOK『THE RISE OF RAIL-POWER IN WAR AND CONQUEST, 1833-1914』終わり ***
《完》