「核家族」が、より安全な社会をつくっていた。

 Axel Haverich 記者による2020-4-28記事「Germany’s Covid-19 Story」。
     ドイツ国内の新コロ伝播は、ちょうど、アルプス地方でのスキーを楽しみ終わった青年~中年が、自宅へ戻ったときに、同世代間で拡散したと思われる。彼らは老人層へは病気をうつさなかった。それが、ドイツの医療崩壊を防いでくれたのではないか。

 ドイツの都市域では、1軒の家に2世代が暮らしていることは、まずない。これがパンデミック抑制を楽にしている。

 ドイツでは、老人は老人夫婦だけで1軒屋に暮らす。そして、配偶者の片方に先立たれても、そのまま、単身で世帯を維持しようとする。
 この習俗がまた、老齢世代への疫病伝播を防いでくれている。

 ちなみに、「機動看護師」というシステムがあるので、独居老人世帯の家事が行き届き難くなったときには、ヘルパーが各戸を巡回してくれるのである。

 つまり、社会政策として、老人ホームに密集させていない。これがまた、初期アウトブレークから高齢者層を守った。

 げんざいドイツで、新コロにかかった人のうち、60歳以上の高齢者が占める割合は、25%未満である。

 ドイツでも、新コロで死ぬ確率が急増するのは80歳以上である。そこは、イタリアやスペインと変わらないことが、統計から読み取り可能だ。

 メルケル首相が科学者(量子化学が専攻)だったのは救いだった。彼女は疫学者たちの話を聞こうとした。閣僚たち、連邦各邦の長たちの姿勢も同様であった。

 国内のアウトブレークから12日目にして、彼らはスポーツ・イベントをすべてキャンセルさせた。同様、人が集まる文化イベントも。
 さらにその5日後、全国規模のシャットダウンが宣言され、学校もレストランも閉鎖させられた。
 他方で、病院と老人ケア・システムは稼働を続けている。

 次。
 Edward Watts 記者による 2020-4-28記事「What Rome Learned From the Deadly Antonine Plague of 165 A.D.」。
   西暦165年頃、ローマ時代のアナトリア地方の都市で記録された激烈な疫病。
 引かない熱、寒気、嘔吐、下痢は1週間で赤色から黒色へ……。
 全身に黒い斑点が生じ、それがかさぶたになり、治癒後にも醜い痕が残るという経過を辿る。

 このかさぶたは体内にもできるらしく、咳とともにそれが排出されたりした。

 自然治癒までには2~3週間かかった。しかしローマ帝国内で75万人が、治らずに病死したのではないかという。それは帝国人口の1割だった。

 これが、初流行の「天然痘」であった。
 当時未知だったこの疫病は、東方から、噂とともに、広まってきたのだ。

 古代建築を調査していると、こうした疫病に直面した人々が、小石などに彫り付けた魔除け、護符が、よく発見される。
 西暦189年にまた流行したときには、ローマ市内で、連日2000人が天然痘で死んだ。

 激甚度で比較すると、いまの米国内の新コロを越えていたのだが、ローマ帝国はこうした災厄も、あっさりと乗り越えている。



新年度学期が9月スタートに切り替わると、良いことが一つある。屋外で会食ができる。

 CAITLIN M. KENNEY 記者による2020-4-28記事「USS Roosevelt has nearly 1,000 virus cases after Navy reassesses how it determines who’s still sick」。
    米海軍は、空母『セオドア・ローズヴェルト』からおろした、いずれも「無症状・無自覚」の乗員をグァムの陸上で14日間の検疫隔離していたが、このたび、彼らに確認検査をしたところ、陽性者が続出。

 24時間前のテストで陰性と判定された者が、その24時間後の確認テストで陽性と出るケースは普通にあると分かった。体内でウイルスが増えたからだろうと想像されている。今後、海軍は、検査手順を見直す。

 28日時点で米海軍全体で1691人の新コロ患者がいる。米四軍全体だと4265人である。

 地上隔離されている『TR』乗組員たちが、検疫施設から出てよいという許可を貰うためには、14日経過したあと、24時間の間を置いて、連続2回、テストで陰性と出なければならぬ決まり。

 4800人の乗組員は4月27日までにその「連続2回テスト」をうけた。結果、罹患者総数は増えた。

 24日時点でTRの陽性者は833人と把握されていた。しかし27日にはその人数は955人に増えた。

 別報。日本において、空母『ロナルド・レーガン』に水兵を乗り組ませる前の、様子見の検疫期間(非公表)がこの週末に過ぎたのだが、複数の水兵(人数非公表)が、無症状ながら陽性であると判定されて、地上の隔離施設に入れられた。隔離期末のテストで陰性だった将兵はすでに『ロナルド・レーガン』に乗艦している。

 次。
 CAITLIN DOORNBOS 記者による2020-4-28記事「Asymptomatic Reagan strike group sailors test positive for coronavirus after sequestration」。
    米海軍が、乗員を乗船させる前に何日間の様子見期間を設定しているのかは、おおやけには秘密である。しかし、それは21日間であろうと推論されている。21日間の検疫を無事にパスした集団は、その98%がクリーンであると、統計学的に、言えるそうである。

 空母『ロナルド・レーガン』にクルーを乗せる前の〔21日間の〕様子見隔離は、厚木、ヨコタ、岩国、横須賀の計4つの米軍基地内の専用隔離施設内でなされていた。そのうち、厚木とヨコタで隔離していた水兵の中から、複数の陽性者が発見された。ただし、これら隔離施設と、基地のコミュニティとの接点はいっさい無いので、安心してほしい。

 『ニューヨークタイムズ』紙は4月22日に人数をスッパ抜いている。16人が陽性と診断され、『ロナルド・レーガン』に乗せられないことになったと。

 さいきん中共海軍が調子に乗って西太平洋域で悪さを重ねているが、これには理由がある。『TR』が新コロ騒ぎのためにグァムに碇泊したまま南シナ海を遊弋できなくなっていて、その穴を埋める『レーガン』も出航に手間取っているからだ。海上の力の真空に、敵は乗じているのである。

 ※もっか最大の謎は、シナ艦隊の内部の患者はどうなってんの? という話。まさか、片端から艦内冷凍庫で「氷柱」にされているんじゃないだろうな? 石炭焚きの昔と違って、ボイラーには投げ込めないからな。

 次。
 MATTHEW M. BURKE 記者による2020-4-28記事「About 50,000 service members in Japan ordered to maintain logs of personal interactions amid pandemic」。
    23日に在日米軍の司令官が命令を出した。総勢約5万人の現役米軍将兵は、1日ごとに、次のことを自分で記録せよ。

 何日の何時に、どこで、誰と、6フィート以内で10分間以上の接触をしたか。その相手の名前も。
 日常的に接触している、被保護者、同居者、交際者。
 誰かから咳やくしゃみを浴びせられた場合、その相手の名前。
 医療関連施設を訪れた場合には、その日付、何時から何時までいたか。病院だったら、待合室とそれ以外の場所の区別も。

 以上の記載義務を怠った者は、「米軍法92条」の命令違反行為として訴追対象になる。

 すべての在日米軍人が、過去にさかのぼって精密に「接触トレース」ができるようになっていなければならないのだ。この記録が、新コロ抑制のためには欠かせないと理解せよ。

 ちょくせつの命令対象ではないが、軍属、軍人の扶養家族、軍契約民間人、日本人の基地従業員らも、この記載を自主的にすることが強く推奨される。それをしない場合、その者は将来、在日米軍基地への出入りを制限されることもあろう。

 この記録は、医療関係スタッフ以外が目を通すことはない。その医療スタッフも、新コロの「接触トレース調査」以外の目的でこの記録を用いることはない。これも、命令である。

 嘉手納基地内では、空軍の軍人2名と、基地内の軍人扶養家族1名が、新コロ陽性である。そのうち2名は回復し、1名はいまのところ大丈夫だと。

 次。
 Joe Palca 記者による2020-4-24記事「Long-Lost U.S. Military Satellite Found By Amateur Radio Operator」。
   いま、地球の周りを2000個以上の人工衛星が周回している。中には「ゾンビ衛星」とよばれる、地上からの制御ができなくなった、半死衛星もある。

 カナダのアマチュア無線家、スコット・ティレイは、NASAが2005年に追跡できなくなっていた「IMAGE」衛星を、2018年に再発見した。おかげでNASAはその衛星との接続を復旧できたという。

 ティレイが再発見したいちばん古い衛星は「トランシット5B-5」といい、米海軍が1965年に打ち上げた極軌道衛星だ。同衛星にはアイソトープ電源が搭載されているので、今もナビゲーション用の信号を出し続けている。80年代にGPS衛星群が整ったので、米海軍としてはとっくに用がなくなり、忘れられていた。

 さいきんティレイは、「LES-5」を再発見した。これはMITのリンカーン研究所が製作して1967年に打ち上げた実験衛星である。UHF電波で宇宙と軍用通信ができるかどうかを、試験したものだ。

 彼の前に、やはりアマチュアが「LES-1」を再発見した(2016年)。それに刺激されたのである。

 「LES-5」は、静止軌道上に位置するゾンビ衛星として、いまだに信号(テレメトリー・ビーコン)を出し続けている、最古の衛星かもしれないというところが、ティレイにとっては、面白い。

 「LES-5」の電源は太陽電池パネル。それがまだ生きているのだ。公式にはこの衛星は1972年に役目を終えている。

 NPRはリンカーン研究所に、「LES-5」についての話はないかとリクエストしたが、〔軍との契約で守秘義務があるので〕、ノーコメントという返事だった。50年前の衛星にも、秘密があるようだ。

 次。
 Christine Romans 記者による2020-4-27記事「Great Depression comparisons are depressing but this time is different」。
      戦前の「グレート・デプレッション」には、滝局面が二度、あった。
 初回は、1923年から1933年まで。米国のGDPは27%減った。次の滝が1937年から38年だ。
 そしてけっきょく「大恐慌」は1940年までも克服できないで、1941年に経済がやっと「ノーマル」化したときは、すでに第二次世界大戦だった。

 前回の大恐慌と、今次の大恐慌には、大きな違いがある。
 今のアメリカには「セフティネット」があるのだ。戦前には、それは無かった。

 米連邦準備銀行は、無制限に証券市場を支える、と宣言している。そのような政府からの干渉も、戦前には、できなかったのである。

 連邦議会も、兆単位の「救恤援助金」予算にGoサインを出している。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-4-28記事。
   中共当局の捏造発表とは裏腹に、中共国内の失業率は20%はあるだろう。

 4-22に中共は、1隻の新造SSBNを就役させたと発表。おそらく「094型」だろう。
 この艦からは、レンジ9000kmの「巨浪3」SLBMを発射できる。

 4月21日にフィリピン海軍が公表。2月下旬に中共のコルヴェットが、主砲を比島海軍の警備艇(韓国が旧式の『ポハン』級を売ったもの)に指向した。場所は、スプラトリーのコモドア・リーフ。

 中共は4-19にスプラトリーの岩礁すべてに支那名をつけた。いままでは英語名だった。

 4月18日、イラクでシナ企業が石油を掘っている場所にゲリラのロケット弾が撃ちこまれた。怪我人なし。今月はこれで二度目であるという。

 4月4日、中共から3月に帰って来た4人のソマリア人が、新コロ陽性と判明。

 4月3日、4隻の太平洋の米空母がすべて機能停止状態にあるので、中共海軍は『遼寧』を暴れさせることにした。ところが問題がある。米太平洋艦隊の強襲揚陸艦×1隻が運用するF-35Bの数だけでも、『遼寧』の艦上機の威力を凌いでしまうのだ。また、ペルシャ湾で作戦中の米機動艦隊は、7日あれば、南シナ海まで移動して来られるのである。


旧資料備忘摘録 2020-4-28Up

▼阿部信夫『支那事変戦記海軍航空戦』S14-6 講談社
 我が荒鷲は落下傘のかはりに日本刀を携へて出掛ける。

 WWI以降のエア・レイドとしては、伊軍のエチオピア空爆と、スペイン内乱あるのみ。
 事変発生時、シナ側の一線機は650機、二線級機は150機くらいあったろう。

 前回の上海事変当時はその四分の一だった。

 メーカーは、米国製とイタリア製がすべて。
 伊は、シナ人の航空学生を受け入れ、教官も派遣していた(p.6)。

 事変2年目の再建で、今度は英・仏・ソ機を集めた。
 主要根拠地が、南昌と漢口だった。

 事変初期には、カーチス・ホーク、カーチス・シュライク、ボーイング戦闘機、ノースロップ重爆、マーチン重爆、ブレダ偵察機あり。

 ついで、イ-16が現れた。これをS12-12-2に南京上空で南郷大尉が初撃墜した。

 S13-4-13に、初めてグロスター・グラディエーター戦闘機が見参。
 S13-8-18、ドボアチン戦闘機、初見参。

 南京に対して海軍の航空機は160トンの爆弾を投下した。
 S12-12-31の統計で、南京除く中支に計900トンの爆弾投下。

 またS13-1-1~5-30の期間だと、中支全体で、海軍航空機は900トンの爆弾を投下。

 バイヤス湾上陸の10-12~10-31だけでも、対陸戦協力で、海軍機は爆弾560トンを落とした。

 英国の艦隊航空機は、1937-7に空軍省より海軍省へ移管された。

 リヒトホーフェンの愛機「真紅の鳥」は、写真では水冷2葉のアルバトロスで、フォッカーではない。

 32頁。支那戦線でマーチン爆撃機が搭載する爆弾の写真。
 マーチン39型は、機内に1000ポンドの爆弾を、片翼下に100ポンド爆弾×9を吊るせる。

 敵弾が命中するときはバラバラと聞こえる。20粍機銃弾が当たれば、ガーンと大きな音がして炸裂する(p.72)。

 爆撃の嚆矢は、1911~1912年の伊土戦争で、伊偵がたまたま爆弾を落とした。
 次は1914-8-30の独軍パリ空襲。
 ゴータによる英空襲は1917-5~18-5まで30回。

 大攻×3機が写っている写真(p.156)。
 排日デマの源泉地、上海近郊の眞茹無電台を空爆(p.171)。

 飛行機翼下に爆弾をとりつける支那兵の写真(p.182)。
 大攻の大写し(p.183)。

 上海楊樹浦に落下した敵軍の焼夷弾の写真(p.259)。

 S14-5-31までの撃墜一覧表が、巻末にある。

▼松永壽雄[としお]『雷撃機』S19-1
 著者はもと赤城艦長で、S11予備役。

 いまから20年前、華府会議直後の海軍航空隊で、既に教官の一少佐が「必殺捨身の攻撃精神」「奇想天外式戦法……例へば爆弾を抱えて舞下がり、敵艦へ逆落しに突入するとか、諸君〔学生〕が一列となって、一番機の後方へ二番機、そのまた次へ三番機といふ風に、魚雷を抱えて敵艦橋に体当りを喰はすかという位の意気込みでやれば、如何なる堅艦艨艟と雖もこれを撃沈し得るのである。」

 雷撃機が世界の注目を特にひいたのは、S16-5、アイスランド沖の独英海戦。

 雷撃機のはじまりは、1912に米海軍の少将フィスクが案の特許を取った?

 航空魚雷の初実験者は1911、伊人カッソニ。モーリスファルマン80馬力陸上機から150kgの小型魚雷を発射。

 1912、英はメイフラワー型の硬式飛行船から、魚雷を投下。1913には陸上機から投下。
 1914-7に、ショート184型水上機(160馬力)から投下。

 1914-11、水上機母艦ベン・メイ・クリー号から独の巡洋艦ゲーベンブレスラウを水雷攻撃。しかし成功せず。

 1915-8-12、初の実戦航空雷撃。英人エドモンド中佐、ショート184水上機で14インチ魚雷をトルコの5000トン貨物汽船に。エンジン切って、高度15フィートから投下した。命中したが、接岸していたので、沈没せず。

 1916には、独の雷撃機隊3機がテムズ河を襲い、汽船を沈めた。
 他にもいくつかあるが、沈んだのはすべて、低速商船のみであった。

 次はスペイン内戦で、ハインケルHe123が巡洋艦リベルダウドに2発発射。外れた。

 ミッチェルの登場で、日本以外では、爆弾論者が魚雷論者を圧倒。ドイツも途中で止めた。
 WWIIでは、1940-2-9に北海で独機が、英哨戒艦×2隻(290トンと351トン)を魚雷で沈めた。

 1940-4-10、英陸上雷撃機がナルヴィクで独駆逐艦を沈めた。

 1940-7-3、オラン湾からツーロンに移動せんとした仏BBストラスブールに英機が魚雷を命中させた。BBはこれ初。

 次にいよいよタラント。1940-11-11~12。まず爆弾でH=2500~3000mから攻撃。伊戦闘機が吸収されたところを、爆弾と魚雷で襲撃し、3機ほど落とされたのみで、BB×3を沈め、C×2を損傷させた。

 天候が悪いときのみか、薄暗いときも水平爆撃は不可能で、夜ともなると、もう航空雷撃しかできない。
 高々度投射は、イタリアが熱心で先に実験。

 なぜ英雷撃機は複葉かというと、それは空母から運用する都合上。

 15年前、アメリカは、「スリー・パーパス・プレーン」と称し、偵爆雷を1機で兼ねるグレンマーチンを作ってみた。
 雷撃機は特に座りが良いことが必要。
 米では、テレビ誘導空雷を研究中らしい。

 米でBBは7000万ドル。
 空母は2700万ドル。
 巡洋艦は2200万ドル。
 駆逐艦は850万ドル。
 潜水艦は650万ドル。

 H・ボールドウィンは、日本空襲はアリューシャン沿いしかない、と。

 1939チェコ問題が起こると英は、4000万個のガスマスクを頒布し、阻塞気球をロンドンにあげ、小学生を地方に避難させた(p.163)。

 ロンドンにはスチームヒーターは普及していない。あくまで石炭ストーブだった。

▼田村高『空征く人』S16-9
 アービング式落下傘
 「機銃掛」と「機附兵」が88式の出発準備をする。爆弾を装着する。
 「爆弾投下器の電鍵握把[ハンドル]」

 軍刀と拳銃で自動車に乗って、草原を自機へ。そこに始動車が来る。点火。
 機附兵が車輪止めを外す。

 支那人はトランクをたくしあげて小用をたすゆえ、前穴はないのだ。

 白地に紅く 日の丸そめて ああいさましい 日本の旗は(p.138)。

 88式は、爆弾が25kgか50kgか100kgかによって一定の弾道が計算される。表によって、投下角30とか28とかがすぐ出てくる。
 これが水平爆撃。
 これには「爆撃照準眼鏡」を使う。

 ダイブ爆撃では、目の子で狙う。
 他に、操縦席内から手で予備爆弾を投下することも。

▼牧島貞一『闘ふ航空母艦』
 著者は海軍の報道班員、しかも映画班員。元新聞記者だが、徴傭されて軍属に。

 九九艦爆さえ、その名称を書けない。「わが新鋭艦上爆撃機は」と書くしかない。これが海軍。
 97艦攻も、ご同様。

 罐室の横の居室は、北海道以南では「人殺し長屋」で、わりあてられた者は、顔を洗いに戻るのみ。常時、他の部屋に居候する。

 総隊長の○○中佐は、ヒトラー髭。※淵田しかいないのでは?

 掌飛行長が笛を吹く。発艦させろ、の命。わかった、も笛。それからパイロットに白赤旗で伝える。
 車輪止めを外す役は、抱えたまま、ぺったりと甲板にへばりつく。さもないと吹き飛ばされ、他機のペラに巻き込まれる。

 整備兵は夜、機体下に寝る。司令長官室より、涼しい。ただし後部格納庫は、蒸し風呂だ。

 機関室は、手袋着用。平時でも、熱くて、タラップの鉄棒が握れない。
 セ氏50~60度。重油が露状に噴射されて燃える様子が肉眼で見られる。
 「○時間交代」で働く。

 発電機室も暑い。タービンのある機械室は、涼しい。

 大型空母にはブリッジは必要。
 「俺も俺も」というのが海軍士官。基本、ヒマ。

 陸兵は、耳を慣らせば、危険を自分で避けられる。船乗りはそうではない。

 ハーミズ撃沈のあと「あの男は、いつも空中戦をやりたがるが、あれぢゃ、爆撃屋か、戦闘機屋かどうかわからんね」と艦攻の隊長が言ひ出した。
 99艦爆でブレニム×2機を墜としたらしい。

 次は場面が変わって、南太平洋海戦で空母に乗っているらしい。
 「田虫患者風呂に入れ」の号令あり。水兵は、陸兵よりも、水虫、タムシになるのだ。

 新鋭急降下爆撃機が続々と出てくる。整備員は「ワッショイ\/」といいながら、並べる。
 そして飛行甲板上で爆弾を搭載?(p.237)。

 「私はエレベーターの口から格納庫の中を覗いて見た。実に綺麗に片附いてゐる。もう何も燃える物はない」(p.239)。

 一番耳にこたえるのは〔25mmの〕AAMG。金の棒を力一杯に叩くような甲高い音で、鼓膜が破れるような物凄い気持。大砲の方が静か。

▼大本営海軍報道部ed.『ソロモン海戦』S18-6
 海軍士官は「ひどく」というところを「手荒く」と言い換える。

 2月の北洋は最もひどい。

 大正11年夏、軽巡『新高』は、ペトロ北方へ漁業保護に出ていたが、突風で艦長以下がほとんど飛ばされ、殉職した。

 艦内放送。「配置につけ」「教練配置につけ」「遊戯ゆるす」「酒保ひらけ」「煙草盆ひけ」(=待機命令)。

 ダッチハーバーを叩いて、出てこられないようにしてから、キスカを取った。
 鳴神島と名づけた。

 俘虜の半ばは、ハイスクールを出てゐたが、その思想程度は、日本の高等教育とだいぶおもむきを異にし、いはゆる高等常識にとどまり、いちおう政党を論じはするが、推理力は幼稚で、確固たる信念はなかった。

 米国民は与論調査の結果によって終始その意思をグラつかせてゐる。

 油を流したような静けさから突風が来る。
 飛行機は、まさかと思うような悪天でもやってくるし、潜水艦は濃霧の中から魚雷を撃ってくる。
 南方は自分の殖民地でないから遠慮していたのだろう。

 ※この本は主要な大本営海軍部戦果発表をまとめてくれているので、報道史の資料としても面白い。

 日清戦争のときは「チャンコロ」、日露戦争のときは「ロスケ」という言葉が自然にできたが、大東亜戦争で米英人をよぶ憎しみの呼称は17年末でも無かった(p.178)。

▼内務省防空研究所『フィンランドに於ける全体空襲戦 空襲に因る傷者の救護組織 及 治療 精神病学より見たる西牙班戦争』(防空研究資料 第五号)。※刊年不明。

 スイス人 G・サリスが1940-3にフィンランドを調査旅行した報告の和訳である。
 フィンランドは、Total Luftkrieg 下に曝された最初の国であった。

 ソ連軍は開戦時に600機。3月後、2500機で襲った。

 これに対しフィンランド側は、170機。外国からは130機が贈られた。
 スウェーデンは100門以上のAAGやボフォースを供給した。

 フィンランド軍はソ連機×687機を撃墜した。そのうち240機はAAの戦果である。

 人の背丈の1.5倍ある集束爆弾をソ連は落とした。尾翼は折り畳み式で、団扇状に開き、旋転力を与える。
 子弾は1.5kgで、焼夷弾の他に通常弾が混じる。写真あり。これをフィンランド人が「モロトフのパン籠」と綽名した。

 撃墜された「SB-2」の写真。空冷のように見えたエンジンが、じつは液冷であったと分かる。

 ソ連の航空基地は、エストニアのバルチスキ空軍基地。

 イ-153は、MG×4を有する。
 爆撃高度は、初め900~1500mだったが、AA熾烈化に連れ 4000~5000mとなる。

 後半は、スペイン戦争について、バルセロナ市の医師が調べ、1939-10-28の英医学誌に発表した内容。
 バルセロナの軍事施設に落とされたいちばん重い爆弾は、600ポンド。
 他は、2~3ポンドの焼夷弾がバラ撒かれた。

 軽爆弾をアルミで被覆したものがあった。市民に傷をつける精神的効果を狙って。

▼陸軍防空学校研究部『防空沿革史(第一編 案)』
 1932年頃? ガリ版。

 仏はWWI前に、自動車載AAG×2をつくっていた。
 独は、軍港や工場にAAを配しおえていた。

 1918後半における仏のAAは、7.5センチAAGまたは10.5センチAAGを2~6門でAA陣地をつくり、これを計45基地、パリの周りに築いた。

 エッフェル塔上にも、47ミリ加農を据えた。
 AAGは1陣地に2門では足りない。4門は必要(p.48)。
 75ミリならAA基地は相互に3~5km離す。

 仏軍の蜂の巣形聴音器。実用は5~6km。
 気球は3500mまでが実用高度。

 夜間有視界爆撃機は、高度1000~1800mまで降りてくる。
 独のゴータは、MG×3、50kg爆弾×7 + 12.5kg爆弾×6。
 ツェッペリンは、この10倍積める。

 「ギガント」は300kg爆弾を携行できた。
 独はWWI中から45口径長の88ミリを、AAとして配していた。

▼湯澤銀之助『御料林大観』S9-12、林野会pub.
  ※非売品の写真集だが、とにかくモノクロ写真がすばらしい。

 天然林では、ヒノキは峯筋に、その間の谷通りには濶葉樹〔むかしは広葉樹とはいわなかった〕、もっと下の方にサハラ(さわら)が来る。

 カウヤマキ(高野槙)は幼時耐蔭性強く、ヒノキの老木下にもよく稚樹が発達。

 ヒバはアスナロである。北海道の渡島地方に天然林。木曽と青森に最も多し。

 山梨のアカマツ異齢純林(天然)には垂直の良幹のものあり。樹高30m、齢200年。考証林として保護。
 異齢の反対語は「一斉」。ex.一斉混淆林。

 火災のあとは、残存老木を上木として天然更新によりて若木が一斉に生じ、二段林の形をなす。
 コナラは矮林として薪炭林化する。

 長野の150年杉、Max40m。
 静岡の120年杉、Max36m。

 このころ、ドイツ・タウヒ(とうひ)、ドイツ・アカマツの試植、はじまる。

 木曽の鋸による元伐り。昔は2~3方から斧で倒したという。
 足袋だけ、金具なしで、木に登る方法。麻縄の両端に棒を附したもので、2段梯子をつくっていく(p.120)。

 檜皮は、火縄の材料にする(p.122)。

 ノラ桟手。材木のすべり台装置(横木の上にハメ板、両サイドにガード丸太)。これを谷に設け、水をうって、丸太を山下まで滑らせ落とす。
 ハメ板のかわりに、編板(シガラミ様に編む)にすることもある。これを丹波桟手といい、木曽でも用いる。

 すべての丸太のすべり台は「修羅」という。
 山下の方の緩勾配は、これでないと滑らぬ。

 いよいよ里に近づくと勾配では落とせないので、ミニ堰をつくり、浮力を用いる。
 堰間は修羅でつなぐ。これを「小谷狩」という。

 一団の木材の先頭を 木鼻 といい、中間を 川通 といい、後備を 木尻 という。
 昔の発電用ダムには、流木路があった。

 材木は「○万石」と数える。
 増水で流失しないような「網場」を、ところどころに設ける。

 索道渡しには手旗信号が要る。「搬車」を「発車」させるのに。
 索道の支柱は、支線付きの丸太でOK。

 木馬インクライン。鳥居形でウインチ吊り上げ。22度の路面に。30度以下ならブレーキ不要。
 丸太のサイド面を長軸方向に細い巾で削いでいく処理を「玉切り」という。

 北海道では冬は馬橇。
 「バチ」という人力橇があった。前は引くが、うしろは2人で棒(土佐鶴)で押す。

 上川郡で使われていた、牽引力25馬力のトラクターの写真(pp.184-5)。
 特殊鋼の無限軌道式だが、冬のみ、しかも除雪した道でないとダメ。

 「キャタピラー・トラクター三十號機」。30馬力の写真(p.186)。

 森林鉄道の初めは大正3年、木曽の小川御料林である。
 絶峡地の架橋「八丁闇」。
 山によっては、コンクリート用の砂、砂利が得られぬ。そこで、基礎のみをコンクリートにして、20mの鉄製構脚を架設する。

 砂防植林は、アカマツ、クロマツの苗木群と、ニセアカシヤ、ヤマハンノキ、ヤシヤブシの苗木群を、交互に植栽する。

 静内は、明治5年に黒田が放牧地として選んだ。M10に米人・エドウィン・ダンが軌道に乗せた。
 燕麦の脱穀用のトラクターの写真(p.229)。

 三重県多気郡大杉谷村にある樹高46mの大杉。齢350年?
 今より三十余年前には、その付近に杉の大樹が多数、叢立していたという。



次シーズンの「再流行」の様態がどうなるか誰にも分からないのに「ノーマル化」なんてありえない。

 初回流行を無難に抑制した地域で、次年に大量の死者が出たり、初回流行が酷かった地域で、次年には打撃がマイルドだったりするのが、過去のグローバル・メガデス疫病のパターンだ。

 つまり、来年どうなるかは、誰にもわからない。

 パチンコ店のような、もともと廃業がふさわしい業種には、いま、まだ残余の体力のあるうちに、廃業を促して、わが国の産業構造の新陳代謝を進めていくのが、正しい政策だ。世の中を「元通りに戻す」なんてことは、考えないことだ。

 次。
 CAITLIN M. KENNEY 記者による2020-4-27記事「Coronavirus outbreak aboard USS Kidd increases to 47 sailors」。
    駆逐艦『キッド』の罹患者数が47人に増えた。
 総員330人のうち45%が、陽性テストを受けたところだ。

 『キッド』からすでに15人の水兵が、より充実した医療室のある強襲揚陸艦『マキン・アイランド』に空輸されて診断されたが、いずれもICUには入っていない。

 『キッド』には全員分のN95マスクなどが届けられている。そして同艦は、名称非公開の米本土の港へ向かって急行中である。

 次。
 Kirk Miller 記者による2020-4-27記事「What Bars Will Look Like After Coronavirus」。
    NYCタイムズスクウェア近くの人気カクテル店、「ラム・ハウス」の主席バーテンダー氏いわく、酒場が元通りになるまでには、何年もかかるだろう。
 でも、立っている客に向かって「すいません、ちょっと隣の方と近すぎるようなので、こちらへ移ってくださいませんか」なんてカウンター越しに、頼みたくはないよなぁ。

 まず間違いないこと。《コロナ後》には、バーの店舗数は、減るしかない。

 NY州は酒の宅配の規制法令を緩和してくれたが、臨時閉店を強いられている酒場の多くが、とても持続可能な収益は得られぬ状態だ。

 3月に州がパンデミック禁足行政をスタートする前、すでに州民の意識は《対コロナ重視》に切り替わっていた。67%の人が、レストランなどの人ごみでの飲食は、自発的に避けるようになっていたのだ。
 このお客側の意識が、短期間のうちに、昔に戻るはずがない。

 言い換えると、あなたの行きつけであった飲み屋は、もう、なくなってしまうだろう。もし《コロナ後》まで存続していたとしても、そこへ一緒に行ってくれる友達の顔が、前のように揃うことはない。

 カクテルを客の前でシェイクする時代は終わる。カクテルは最初から混合されていて、瓶詰め状態になっていて、真空パックのつまみが付いて、紙ナプキンとともにテイクアウトされるか、宅配される。次に来るのは、そんな時代になっちまう。

 店舗の外で飲んでもらう、というスタイルが、広まってしまうだろう。

 最新の中国からのリポート。レストラン内の空調が原因で、互いに近接して腰掛けていた9人の客が、新コロをうつされてしまった、という。
 このようなケースを《新コロ後》に回避して行くためには、飲食店舗は、テーブル相互の間隔をじゅうぶんに大きくし、店内の換気を進化させ、とうぜんまた、温度センサーによる監視を強化しなくてはならない。

 ひとつの参照基準は、2週間前、NYで酒場のシャットダウンがなされる前の指導だ。バーでは、客は全員、立たせろ。座席とテーブルは使わせるな。アウトブレーク前の店内客数を100としたら、それを25~50に制限しろ。

 行政指導では一切、サジェストされていないが、店側としては、「予約オンリー」のシステムに変えるのも一案だろう。これなら、ウイルスキャリアーの客がぶらりと入ってきてしまうリスクを最低限に抑制できるから。自主的に、考えるべきことだ。

 客が入店する前に、体温チェックさせてもらう、という経営方針も、常識化するだろう。店長も従業員も、これについては詳しくならなくてはならぬ。
 そして、従業員全員、マスクは常時装着、ということになるかもしれない。
  ※接客スタッフには、マスクよりも透明フェイスガードが選択されるだろうね。キッチンではマスク。

 店内の音楽生演奏は、ステージ上のパフォーマーの人数が「ソロ化」していく。ビッグバンドなんてあり得なくなるだろう。

 酒場のあらゆる部分で、人の「タッチ」が減るような設計が求められる。「タッチレス・テクノロジー」が歓迎される。

 新コロ流行以前から、飲み屋の隅っこで、ぼっちで酒を飲んでいた人。あなたに関しては、近未来の新事態は、何の問題もないでしょう。

 次。
 Tanya Lewis 記者による2020-4-24記事「How Blood Sugar Can Trigger a Deadly Immune Response in the Flu and Possibly COVID-19」。
     インフルや新コロに感染すると、人体には免疫システムが働く。抗腫瘍物質であるサイトカインが急にたくさん産生される。

 ところがそのサイトカインが多すぎると、肺の細胞にダメージを与え、臓器不全から死んでしまう。

 この機序には、グルコースのメタボリックが関与しているのではないか、という。
 つまり血糖値の高い人が危ない、というのだ。これはA型インフルエンザに関する一研究だが。

 ウィルスにとりつかれた細胞は、ウイルス複製のための燃料を余計に必要とする。それで細胞は代謝(メタボリズム)をブーストする。
 ウィルスにとりつかれる前の細胞も、防衛(免疫力強化)のために、代謝をブーストする。

 マウス実験により、どうやらグルコサミンが、サイトカイン分泌のトリガーになるのではないかと研究者たちは睨んだ。

 ※唐突ですが、どなたか、「タブレット」を譲ってくださいませんか。こちらの地方でも「リモート授業」に必要になりそうな空気なので……。

 次。
 Anna-Maja Rappard 記者による2020-4-26記事「Hollywood has gone dark, and it’s crushing thousands」。
     加州内には映画産業に就労している人が72万2000人もいる。そして2019年統計によれば、映画産業が、州内に24億ドルもカネを落としている(輸出は含まない)。

 州内の8人に1人は、直接または間接の形でクリエイティヴ業界から収入を得ている計算になるという。

 しかるに映画製作の仕事は、今年のさいしょの四半期において、前年より18%落ちた。

 撮影や製作の実務は、人が密集するので、自粛するしかない。トム・ハンクスも、エルビスプレスリーの伝記映画の撮影のために豪州にでかけていて、新コロをうつされてしまったのだ。いま、加州内のスタジオからは大量のレイオフが発生している。

 大きなカメラ・クレーンを組み立てるのに、ソーシャルディスタンスを守れなんて指示できない。

 舞台裏のスタッフたち(ユニオン登録者14万5000人)の9割の人がいま、無職無給状態に陥っていて、それがいつまで続くかもわからないのである。

 ユニオンは、ロサンゼルス地区のフードバンクにかけあい、この失業者たちに無料給食をしてくれるように頼んでいる。

 ジョージア州は、フィルム・エンタメ産業に対する課税を意図的に緩くしているので、多くの映像プロダクション企業がまっている。
 2018年にはそれらが4万5770人の雇用を生んでいた。

 同州では、知事以下、ビジネス再開に前のめりである。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-4-27記事。
   豪州空軍がリタイアさせたF-18Aを民間会社「エアーUSA」が46機、買い取って、軍事訓練サービスに使う。


旧資料備忘摘録 2020-4-27Up

▼十文字信介・著、村田経芳・増訂『銃猟新書』再版 M24~25
 管銃、一名 いれこ銃。

 村田序文。「……況や近来優柔の遊戯漸く衰へ尚武的勇壮の遊戯将に隆盛に趣く[ママ]時運なるに於てをや」。
 多くの遊戯は「一朝事変に際し万一を裨補するものなし、唯之れあるは銃猟を嗜む者のみ」。

 「況や近時銃器弾薬の製造は非常の進歩を徴し其弾道の低伸せしに依り我軍用小銃の如きは照尺を揚げざるも六百メートルを射撃し得るが故に……」

 「余、射撃術の隆興を祈る年あり、先年 故内務卿大久保公に謀るに此一事を以てするや 公之に答て謂へる事あり 曰、其 冀望 誠に可なり、余も亦 大に賛成す、然れとも余に治国の方針あり 此維新の大業を全ふする三十年を要す、日初期十年は特に文事を勤め士気を鎮定し以て国力を養ふべし、次期十年は大に武事を励まし民心を振作し以て国防を整ふべし、後期十年は国権を拡張し以て対外の政策を定むべしと、而して明治十一年に至るや余も(?)実に射撃会の世に興起するを見るを得たり、爾来年を重ぬる正さに十四、時期も亦熟せり、冀くハ銃猟の研究と共に射撃術講究の美事 続々邦内に隆起せんことを」。明治二十四年秋、村田経芳《花押》

 提銃荷鋤

 後進猟者中、危険、乱獲、荒亡等、厭悪すべき者少なからず。
 猟税は軽からず、狩猟法は整はず。
 毛種羽族は、蕃殖の時期にさへ妄獲し去らるるが為、早すでに其の形影をだに留めざる地方あるに至れるも……。

 四番銃=八分=24mm。
 八番銃=七分=21.4mm。
 10番銃=6分5厘=19.7mm。
  《中略》
 12番銃=6分強=18.1mm。
 20番銃=5分2厘=15.8mm。

 村田君いわく、砲兵工廠製村田式猟銃も右(4番~32番=13.2ミリ)と口径番号の割合を同じうすといえども、薬莢を少し長くし、弾薬が多めに入るので、24番銃で20番の働きがあり、16番で12番の役に立つ。

 世間並製[なみせい]の村田式猟銃には、12番+のものあるが、村田銃の機構そのままで耐えられるのは12番までで、10番より上にするには特別な強化が必要で、必然的に重くなり、却って不利である、と。

 「円筒銃」とは無チョーク(無狭縮)のもの。その反対が、「絞筒銃」。

 大倉組、宮田製造所、川口製造所、岡本、原、小佐井等の製造所で近来、チョークボール(絞筒銃)は2、3割遠射できるが、「実弾」を射つことができぬ。

 網弾[あみだま](散弾を網で包んでスラッグとす)も忌むべし。

 近来、村田少将、銃端[つつざき]三寸を螺子仕掛けにして、チョークとストレートを代えられるように工夫。

 初期の村田式猟銃は、砲兵工廠に於ける廃銃・損銃を再利用。
 むかしは粗悪なので、捨て値で売ったが、今は品質安定し、9円50銭で払下げている。ほとんど新調と言っていい。

 鳥打ちは、獣と違い、人家近くで撃つことが多い。ゆえに散弾にすべきだが、日本ではまだ、実弾を使う者が多い。

 洋製の水平12番2連元込めは、200余円する。
 鴨には2連が必要だけれども、雁、白鳥には、4番の単銃身が欲しい。

 いれこづつ とは、12番銃身に、もっと細い〔40番くらいらいしい〕内筒を入れるもので、村田が工夫した。二十間先の小鳥を狙える。
 余(村田)は、それを使って、十四~十五間も遠くの飛雉をさへ度々討ちし事あり。

 「安静器」。ハンマーレスの猟銃に付くsafetyである。
 自銃に安静器をつけたい人は、村田式セフティなら工廠へ、宮田式なら宮田へ持ち込めば、つけてくれた。

 また村田銃は、円筒把手[にぎり]を一段揚げ戻す位置があり、そこにしておけば、セフティ代りになる。「セフティ・コック」代わり。

 村田は国民皆兵化を促進するために、わざと猟銃に「てまえけんたう」(照尺)をつけた。

 村田実験によればL/D比は、40でOK。製造のMax値は、54だが、40以上は益なし、と。
 しかし筆者いわく、長いほど音が小さく、遠くの鳥が驚き逃げないので良い。多獲ができる。

 海獣猟には「2番」もあるが、頭痛がするという。

 M19の東京府下では、猟銃は、国産351丁、輸入65丁 であった。
 M20では、国産579梃、外国製106梃。
 M21では、国産661梃、外国製350梃。
 M22では、国産1098梃、外国製351梃。
 M23では、国産3285梃、外国製596梃。
    ※いずれも東京で売れた数のみ。全国統計ではない。

 前装銃は、雷管を除いても、雷粉が火門に残留することがある。危険なので廃止すべし。
 しかも、火門の近くの薬室が腐蝕して破裂することもある。

 村田はゲベールで飛走物を撃っても、必ず当てたと。

 雷管の発火で左手を焦がすことがある。
 ハンマーが強すぎると、銅が火門内にめり込んでしまうことあり。

 英国製猟銃は、欧州猟銃と違い、負い革がつかない。山がないので、藪漕ぎの用が無い。

 バックストックにピストルグリップ状の凸出のあるのは、引き付け易いし、右手の位置が自動的に決まるので安全だ、と村田は言う。

 散弾のサイズに、SSG、SS、AA、A、BB、1、2……10まである。「10」が最小。
 12月初旬からは鳥の力が極めて強くなる。

 村田君、鹿児島にては、鋸歯にて玉に傷をつけて用ひしが、巧あるものなりき。
 村田に言わせると、ホローポイント弾は、200m以遠を撃つときは穴を埋めた方がよい。
 猟銃の世界では、黒色火薬は遠射に向くのだという。
 朝霧あるときの有煙火薬が、最悪(p.39)。

 火薬は、晴れた日の午前10時から午後2時のあいだに干せ。
 しまうときは天日をさましてからにせよ。さもないと湿気る。

 コロッス(玉押し)は、タマをおくるためではなく、火薬の力を洩らさないためにある。

 このころ村田猟銃の薬莢は、散弾でも真鍮製で、再利用する。
 ただし重過ぎるので、紙製も半数、携帯する。
 紙型も高級品は何回も使った。

 村田かつてポーツマスで英艦の大砲射的を見て、勿体無いと思ったら、英人に諭された、と(pp.54-5)。
 児島大審院長も銃豪である。

 実体弾は、やや手前を狙うのだが、散弾は、まん中を狙え。

 著者は明治16年から村田の下で銃を習った。
 風のある日は、斜め風下がよい。真っ向だと、ガスをかぶる。

 軽舟で鳥猟するときは、舟夫も、ガナーも、犬も、けっして鳥の居る方に眼を向けてはいけない。すぐ逃げられる。

 デコイ=かた鳥。陸前の松島では、数十年前からデコイ猟がある。
 「最小口径のバラー銃」(室内用)

 ウサギ射ちは、見晴らしのよい所で待つと、何度射ち外しても犬が追い戻してくれる。ただし声をかけると、二度と近寄らない。砲声は、無関係。

 キツネは野鼠を獲るものなので、その猟法は、特に略す。
 養鶏農家にとっては、蛇と同じだが……。

 カワウソ猟は、小屋で夕方を待て。
 鮒を籠に入れて半ば河に沈め、数日間、勝手に食わせろ。

 犬は、前夜に多食させて、当朝は、小食させる。
 ただし、仕度を見られると、雀躍[こおどり]して食を為さず、ひる前にへばってしまうから、気をつけろ。
 鶏卵は犬の疲労を防ぐ。一度に2個。1日4個。
 村田は犬ごとに違う音の鈴をつけて、芦洲猟をした。

 村田いわく、鹿児島でカスミと称する、淡水中の寄生虫が、武州白子と富士裾野にいるから、犬は連れていくな(p.158)。

 散弾は、鉛百匁に、鶏冠石3分を混ぜ、火力を上げて溶かし、ソーロソロと洗手盆に注げば、できる。
 和鉛は不純物として銅と銀が混っているので、このように自製しやすいのだ(p.174)。

▼坂口一郎『独立機関銃隊いまだ猛射中なり』非凡閣 S16-7
 著者は横浜高商を出た富士紡の社員として応召した、陸軍中尉。皆伝部隊にいた。腹部に銃弾をうけ、東京の第一陸軍病院にいる間、百日でこの原稿を書いた。序文が菊池寛。

 菊地が、戦場のディテールにおいて、かつて読んだ『黄海海戦記』に匹敵すると思ったので、出版の世話をしたという。

 スタートはS12-10-25夜、大場鎮。
 ガチャガチャと音がする。敵がチェコ軽機に触れる音だ。

 九二式重機関銃の「九二」が伏字!

 中国軍は笛を戦闘指揮に使っていた。
 7.92ミリ弾は、飛来音も大。

 HMG射手は一等兵で、上等兵が弾薬装填手。
 5番以下の弾薬手は、円匙で土を盛り続ける。
 伍長が指揮す。

 笛の次にチャルメラ、太鼓。※ちなみにノモンハンの日本陸軍は、敵の空襲を喇叭で知らせた。

 大友少尉は○○○式拳銃を連射した。※コルトか十四年か?

 「活塞後退不足」の故障は、閉鎖はするが、単射でおわってしまう。
 いちばん多い故障は「突込」で、遊底が閉鎖しない。

 味方手榴弾はスーッと赤い火の尾を引いて飛んで行く。
 手榴弾には手榴弾で応えるのが一番なのに……。

 暗夜では、弾薬装填のさいに、つい土砂が入ってしまうものだ。
 しかし今回は、規制子に敵弾が命中したための故障であった。

 「機関銃も最新式の、驚異的威力を持つものだ」

 大西齋『支那の現状』に、伍延芳なる者が、瀬戸内海をみて、大きな河だと言ったと。
 タマの下で働いた人間は、目付きの殺気で判る。

 上海で電柱のおびただしい弾痕を見て、半年や1年では帰れないことを知った。

 浄水剤は効果に5分かかる。休憩10分の半分だ。
 鞍下毛布は、馬の毛付き。

 栄養状態、まさに「甲の上[じやう]」。
 蝿は赤く大きい。誰いうとなく「旅団長」。

 せんべいみたいに痩せた敵兵。此んな野郎の鉄砲でも、中りゃ死ぬぞ……。
 戦争に来ると、食ひ気一方になる。

 前線から担架が来る。腹部、顔面、そして白布……。
 指揮班の「沸水車」は、鉄製タンク。

 観測用の角型眼鏡。※蟹目鏡のことか。
 眞茹の「無電台」のアンテナ鉄塔には、敵の砲兵観測兵が登っていたので、こっちから高射砲で制圧していた。

 日本軍は階級章は皆外して戦っていた。指揮官から狙撃されるので。
 「夜光羅針」が頼みである。

 MGで射たれた者は「ボソリ」「ドタリ」と斃れる。余計なアクションは、一切ない。

 シナ軍服は、表が青で、裏は白の綿入れが多い。
 夏の青い軍服、カーキー色のもの、半ズボンもある(p.146)。

 シナ農民の布団は、綿を木綿糸で粗くからげてあるだけだ。
 「小十字鍬」(p.151)。

 突撃準備射撃の最終弾は、煙弾で知らす。
 1916のソンムでは仏軍が2千万発、独軍が1500万発の砲弾を撃った(pp.166-7)。
 シャンパーニュでは英軍が45分間に13万5000発の砲弾を撃った。

 ヴェルダン攻めの独軍は5時間で8万発の集中砲撃。objは巾1km、奥行き600m。
 ヴェルダンでは独仏両軍、200個Dが、合計5000万発の砲弾を射った。それでもヴェルダンはもちこたえた。

 WWI中、独軍は5億5千万発の砲弾を射った。

 工兵が架橋に成功すると、対岸から擲弾筒で「黒龍一発」を打ち上げる。

 HMGの射手は「四番」である。
 MGを「最高姿勢」にして撃つのは危うい。
 砲撃でMGの放熱筒の「連環状部」が四枚、欠ける。

 シナ軍には狙撃にたくみん「老兵[ラオピン]」がおり、軍閥が高給で雇っている。

 「我イマダ此敵ヲ猛射中ナリ」
 飯盒の掛子〔中蓋?〕と体[たい]。

 兵隊の一番嫌いな雨が降ってきた。
 雨で土が軟くなると、敵砲弾は不発が増える。

 戦場では、何人前も働く良兵ほど早く欠けてしまう。よって、優滅劣存となる。
 「『第二のアイヌ』となる勿れ!!」(p.211)。

 兵隊には「できたら~をやってくれ」という言葉は、何の力もない。「~をやれ」でなくばならぬ。
 工兵は、歩兵を渡してから、皆で相擁して泣く。

 細い一本橋をムキ出しで渡る歩兵は、ドブン\/と河へ落ち込み、櫛の歯が欠ける様に消えて行った(p.229)。

 石灰工場にはクラッシャーがあり、人間のカマボコができかねない。

 頑強な敵のMGネストを、後で調べたら、壊れたチェコ×5梃が転がり、血の海で、味方のタマは、銃眼内に何百発も飛び込んでいた。

 敵MGの保弾帯はズック製。※米国製の古い三脚付き重機関銃か。

 こちらのHMGの「前棍」は樫である。
 上海の日本人街は、白人街に比べ、ゴミゴミした汚い街だった。
 支那馬のことを「チャンマ」と呼んでいた。

 猫、豚までが、屍馬を食ふた。
 「緊定点射」を撃ち込んだ。
 MGは太陽を背にすると、発見されにくい。

 「微薙射[びちしゃ]」

 水陸両用の渡河できる戦車と、MG改良が急務だと言っているのが珍。

▼内田靖夫『馬部隊』S17-6
 ※著者は講談社の雑誌に児童漫画も描いていたプロなので、記憶のみで下描きもなしで1枚30分で描いたという挿絵に、写真並の参考価値がある。時代考証に適す。

 近代の日本軍のみが、戦役ごとに、軍馬の数が増加しているのである。

 碇泊場司令部の水上輸卒隊が、着船業務として、馬をおろす。沖仲士そのもので、髯ボーボーの真っ黒。

 遺棄重傷馬を収容する。銃創は軽く、治ることが多い。が、砲弾創は、まずダメ。

 馬のたてがみや尾に、細長い標布が結び付けられていることがある。これは「咬癖」と「蹴癖」を警告するもの。「カムケル」と兼備した馬もいた。

 馬を汽車や船に乗せるのは「馬匹登載」。※この字は「搭載」が正しいと思う。

 砲車をつなぐのは「輓索」。

▼相馬基『沸印進駐挺身隊記』大阪毎日&東京日日 S17-9
 陸軍中尉・萬尾武弘の遺稿にもとづくという。

 「朝鮮人」が「○○人」と伏字になっている。
 S15前後、青年将校は『戦争論』を少しづつ読もうと努力していた。
 リデルハートの『世界大戦――その戦略』も。

 軟い土地では、砲弾は無論、手榴弾の損害も、少なくなる。

 これはしまった。部署が悪い。下士官では指揮がとれぬ。
 支那事変中に櫻井忠温の『肉弾』を読んでも兵は感動しない。そこに、火野文学の需要があった。

 軍隊で電話に出るときは「○○少尉」と、じぶんの姓と官のみをまず云ふ。

▼中支従軍記念写真帖刊行会ed.『中支を征く』S15-12  ※三庚図書館蔵。
 未見写真。軍公路付近の迷彩89式TK、近景にHMGの托架のみ。
 装面で11LMG、カッコイイ。

 杭州湾上陸では、みな、ズボンを脱いでいた。さるまた半分、ふんどし半分と知られる。

 54頁、上海の国際無線台の写真。89式TK×2の前景シルエット付き。
 トラス柱で門状にした構造物がひとつ。
 4角トラス柱から木の枝状に、四方向に桁張り出し。それが2段。冠頂部分には2方向の桁。こういうのが3柱あった。

 その土地名を眞茹という。上海の西郊外で、人口1万足らず。
 華僑子弟を教育する滬南大学あり。

 南京占領は、S12-12-13夕刻。
 中山門には「仁」の下に「仇國復誓」とペイントしてあった。

 炎天の平射歩兵砲。いい写真。
 「8940」番の八九式戦車。遠景に磚の多層塔。
 山砲を分解している、いい写真。

 水冷の87軽爆と鏡餅。カッコよすぎる構図。

 盧山攻撃で、75ミリAAを使っていた。
 南昌戦で、3年式HMG。

 非装面で発煙している、貴重な写真。
 四塩化砒素とアンモニアを筒口で混ぜあわせる発煙筒だという。

 すばらしい一枚。「襄西方面における戦車隊の活躍」。

 「402」と判る、89TK。車外に鉄帽×3個、吊るしている様子もハッキリ。
 別に「361」号車も。ロングの写真をみると、車体に円い穴と三角の穴が開いており、丸い方はあきらかに弾痕とわかってしまうから、close up では修正してある。

 97重爆に迫るイ-15。
  ※とにかくわたしが通っていた頃の三庚図書館は戦前写真の宝庫であった。

▼大東文化大学 東洋研究所ed.『昭和社会経済史料集成 第四巻 海軍資料(4)』S57
 S12-8-24に、陸軍少将の喜多は、しゃんりくを評していわく。土嚢の築き方、甘い。弾を撃ちすぎる。兵数に比し、戦線過長。

 日本のスローガン政策、経典的文句ばかりで、具体的行動の規律にならない。

 1937-9-14の米政府の声明。日本への運搬を禁止されるものとして、.22口径以上の銃と銃身、サブマシンガン以上のMG、自動銃、砲、砲身。以上に用いる弾薬、薬莢、火薬。爆弾類、戦車、装甲車、装甲列車。航空機、航空機用エンジン。軍艦甲鈑。ケミカル〔おそらく4鉛化エチルのようなものが念頭〕。

 上海には、日本の民間人が、3~4万人いた。

 ニッケルは世界産額の88%を英帝国が占める。

▼『昭和社会経済史料集成 第五巻 海軍資料(5)』S58
 S13-1-26、宣傅省(または宣伝院)の設置が検討された。ナチスを参考にして。

▼『昭和社会経済史料集成 第六巻 海軍資料(6)』S58
 S13後半、宣伝院の検討は続いていた。

 こっちから世界に宣伝しないとダメ。
 ロイターは通州大虐殺や敵による黄河堤防破壊などは報道しない。
 共同租界爆撃は支那軍のしわざなのに、それを日本の責任に帰した。

 キャセイホテルや新世界迫撃の写真を載せ、それが日本のしわざのような印象を与えようとした。

 英国は、ワヂリスタン、アラビア、タンガニカで、近年、無辜の非戦闘員を意図的に爆撃殺戮している。それを宣伝しなければ。※これはドイツからの入れ知恵。

 S13-11-16、大島大使はゲーリングの談として、独から支那への飛行機輸出はゼロであること、しかしJu-86×20機の手付金は受け取っている、と。

▼『昭和社会経済史料集成 第七巻 海軍資料(7)』S59
 S14前半時点で、南洋に出ている邦人のなかばは沖縄県人。

 イタリアAAは、3インチ砲と、37.54ミリのブレダ連装砲の二段構え。
 イタリア砲兵は、75ミリの野山砲と、100ミリの榴弾砲。

 伊TKの火炎放射器はエチオピアで欠陥が分かり、その後、改正された(p.393)。
 これはファアットの火炎放射戦車とは別。こっちは、エチオピア、スペインで、心理的に成功。

 フィアットBR2Oは、1936から製作され、1トン半爆弾×1個を搭載(p.395)。
 以上は、S14-4-24のH.W.ボールドウィンの記事を海軍省が訳した。

 ソ連のLTKは装甲20ミリあったが、スペインで抗弾力不足。鉄の質がよくない。

 ソ連軍が馬に頼る比率は、ポーランドについで高い。馬格は、大戦前のロシアより悪い。

 イ-16はボーイングの戦闘機そのままだという。
 エンジンは、ニーム・ローヌか、ライト・サイクロン。

 イ-17は、ハインケルか、イスパノ。
 イ-15は、ライト・サイクロン。

 米はソ連に対し、ヴァルティー戦闘機、コンソリ飛行艇、セバスキー戦闘機、マーチン爆撃機のライセンスを与えた。

 航本による、今後5ヶ年の整備計画。※日付不明。
 S18年度までに150番爆弾を官で4983発、民で1560発。
 80番爆弾を官で6701発、民で1400発。
 25番爆弾を官で2万発、民で21256発。
 6番爆弾を官では造らず、民で87843発。
  ※徹甲爆弾はすべて官で造る。制式陸用爆弾は主として民間工場に任せる。

▼『昭和社会経済史料集成 第八巻 海軍資料(8)』S59
 パリ砲のことは、パリゼナー・カノネンという。

 シーリーは、パネー号撃沈を見て、中国人も、白人何物ぞという感情をもつようになった、といっている。

▼池田諭『代表的明治人』S43
 松蔭は、天朝も幕府もわが藩もいらぬ、と言った。

 乃木は、学習院で生徒から反発されているときに、劣っていると思っていた英仏国民の規律、風紀、克己心が日本人より上だと痛感したはずだ。

 乃木神社1号は、愛知県豊明村。ついで東京、京都、山口、栃木に。

 初任のとき、周囲は「せいぜい中尉」と見ていたのに、いきなり少佐だったから、皆驚いた。松蔭直系(玉木)の親類という配慮があった。
 寺内、児玉は、箱館戦争に従軍しているのに、少尉である。※児玉は初任が下士官のはず。寺内が箱館まで来たという話は他資料で裏づけられない。

 村田三介は、乃木と同じM4に少佐になったが、歳は4つ上だった。
 ※ともかく、初任で少佐などという長州閥の異常な贔屓が、逆に乃木の人生を不幸にしてしまったのである。
 岩国からは、長谷川好通が、やはり初任少佐になった。戊辰戦争で小隊長を務めている。

 22日の戦闘では、河原林ふくめ戦死は3名のみ。23日に22人死んでいるのに比べて、激戦ではない。しかも月明あり。
 乃木は、切腹できない自分を発見し、敵の弾に当たろうとし、断食しようとし、情け無いので大酒した。
 ※さらに病気にもなろうとしたのだろう。

 福澤は『学問のすすめ』の中で、討ち死にや赤穂浪士の切腹よりも、正しい道理を唱えて政治に迫って生命を捨てた者こそ世界中に対して恥ずることのない人だと説いた。

 M3~M6の農民一揆は、部落解放反対や、徴兵拒否も要求していた。
 秩父事件の鎮定には乃木の1Dも参加した。

 川上は、M4に中尉、M10に少佐、M17に大佐である。
 桂は、文民で留独し、M7に大尉。

 デュフェー一家を通じて独情を観察した。

 M20新設の監軍部(のちの教育総監部)の参謀長に乃木を就けず、第二旅団長とした人事。乃木としては不本意。ただし桂が次官だから仕方ない。監軍部の総監は山県、参謀長は児玉、川上は参本の次長だった。
 ※不満がさんざん綴られているので、M21日記は欠落しているのか。

 M23-7に東京の第二旅団長から名古屋の第五旅団長にされたのは、あきらかに左遷。だが、乃木伝記の多くは、それを指摘しない。

 M24-10-25、名古屋大地震のとき、3D長の桂は、独断で市民のために軍を動かし、あとで進退伺いを出した。

 松蔭は24歳で朝鮮、満州、支那を切り従えると言ったが、29歳以後、航海通商で西洋列強に対す、と意見を変えた。

 桂、川上に追い抜かれたと言っても、彼らもとより乃木より年上。

 日清戦争当時、旅順は10万人で半年囲まなければ陥ちぬ、といわれていた。
 乃木旅団は、聯隊レベルでの独断により、よく任を全うした。ドイツ式の鑑。

 台湾出陣中、乃木は部下に略奪をさせず、評価が高まった。
 児玉は台湾総督になると、官吏数百人を馘首した。

 日清役で実際に旅順を陥落させたのは長谷川好通と西寛二郎であり、日露役での3A長には、乃木よりもむしろ西が妥当だった。

 伊知地は、参本の第一作戦部長として、事実上の、対露作戦計画を立案した。

 7月14日に、後備歩兵第1旅団が到着。ついで9Dの後備歩兵第4旅団も。

 クロパトキンは、「3年間はどんなにしても落ちない」と豪語していた(p.158)。
 海軍の協力を謝絶したのは、満州総軍参謀の井口省吾少将である。

 スコットランドの農家は、日本の農家より衛生的だと観察。

 著者いわく、日露戦争後の乃木は、学習院院長ではなく、やはり教育総監になりたかっただろう、と。
 生徒との間に結びつきがあり、教育も成功していたなら、それをうっちゃって自決はできないはずだ。

 松蔭は、江戸送りになるときに、弟子の松洞に、肖像を描かせた。

 乃木いわく。人は歳をとると、小学校教師の名しか想い出せない。理由は、中学以上の教師が、いいかげんなやつらばかりだからだ、と。

 乃木いわく。家族同士の交通には、害あって益なし。

▼来原慶助『黒木軍百話』M38-10
 第一軍の体験したこと。

 北韓の道の悪さは、想像以上だった。歩兵が単独で歩くのすら困難を覚えた。
 融氷で、にわかに、泥が水飴状になる。
 天気が好いと、表面だけ皮のように乾くが、コンニャクの上を歩く心地。

 自転車はどうかとも試した。自転車ごと荷物となる区間の方が長かった。

 1石を積載できる輜重車に、各4~5人の補助輸卒を附せざるを得ない。
 雨天や悪路では、積荷を8斗に減ずるも、1日に2~3里しか進めぬ。

 1個師団×1日分の糧秣を、1日行程(6里)運ぶに4000人を必要とした。韓人夫は1叺[かます](=2斗入)を負担するが、1日以上は運ばぬ。また、雨が降っていたり、降りそうなときも、仕事をしない。

 韓人を「よぼ」という。
 鉄山半島の水路に辿り着くまでが最悪であった。満州より酷い。

 大同江は、15石積の韓船(10人で漕ぐ)で「順川」まで遡行ができる。
 清川[しんせん]江は、安州まで、200石積みの帆前船で遡行できる。

 朝たに越客を送り夕べに呉客を迎へる、彼ら辮髪民族。
 「天の時は地の利に若かず、地の利は人の和に若かず」、千古格言と思った。

 7月下旬の遼陽街道にあった敵は、数個の軽気球を飛揚した。
 福島安正少将の次男、次郎・歩兵中尉は8月30日、途家溝で受傷、陣没。26歳。

 「黒英台」では「爆弾戦」をやった。9月1日。
 ロシア軍は、逃げるときも壊乱はせず、1~2里うしろで一団となって後衛を収容する。それを繰り返す。
 しかも、末尾には予備隊も用意しておくから、追撃しようがない。

▼大石常松『陸軍人事剖判――陸軍士官が将軍になるまで』S5-2
 この時点でいちばん若い少将でも47歳。

 人は時代をつくらず時代が人を生む。必要なだけの人物は、時代の要求によってつくりだされる。
 寧ろ人物なきを以て、天下太平の瑞兆とみなすべし。

 日本の労働運動家にえらぶつが出ないのも、日本の労働事情は英国ほど酷くはないからである。

 実役停年。
 少尉1年。中尉2年。大尉4年。少佐~大佐・各2年。少将3年。中将4年。

 大佐から下は、歩・騎・砲・工・航空・輜重・憲兵に兵科が分かれている。
 兵科により所帯規模が異なる。小さい所帯では、やはり出世は遅くなる。

 加藤高明は30代で英国大使、40前後で外相。小村また40代外相だったことを考えると、50代でさへ若いといわれる今の時代は、進歩でなく退歩。※やはりそれも時代の要請さ。

 海軍では、省部でなく艦隊勤務ばかりのおちこぼれをデッキオフィサーという。

 日独戦には、第18師団と、第29旅団(静岡)だけ出征。
 シベリア出兵は、第3、5、7、11、12、13、14、16師団の計8コDを出した。

 上原元帥を除けば現役中第一の読書家は、渡辺錠太郎中将(航空部長)。かつて山県にも仕えている。
  ※2.26で殺された。

 上原はモーパッサンまで読むけれども、渡辺や、山梨半造は、兵書のみだ。

 工兵は、聯隊編制ではなく、大隊制。
 歩兵師団は総計17個ある。
 歩兵旅団は計32個ある。

 山本権兵衛の長女は財部に嫁いだ。おかげで財部の秀才に傷がついた。
 次女は山路一善がもらっている。ボンクラだが中将にまで昇進した。
 三女は川崎造船所取締役の山本盛正へ。
 四女は上村彦之亟の息子へ。
 五女は日本電気工業の松方乙彦(正義の子)へ。

 松井石根は「支那閥」の親分で、第二部支那課 直系。
 これに対するのが、第二部欧米課の、英米班出身者。

▼『昭和四年 陸軍特別大演習 並 地方行幸 水戸市記録』S6-8
 11月15日撮影、「水戸防空監視哨」。市役所構内。
 3角錐、山形鋼、避雷針まで30m前後。頂上のハウス部分はガラス窓付き。

 防空演習は、前年来、大阪、名古屋等の大都市を中心に行ってきた。
 これが、特別大演習の項目に入ったのは、今回からである。

▼林直人ed.『満蒙事変大写真帖』S6-12 ※三庚図書館蔵。
 曲射歩兵砲+テッパチという写真。
 HMGはまだ三年式。

 鹵獲兵器の写真。未見のもの。
 開脚スペード付きのプトー砲の如きもの。
 2輪付きの迫撃砲。
 2輪付きの重迫撃砲。
  ※いずれも珍。

 油崗子西方討伐の獨立守備司令官。※森中将か。
 ここで1兵が伏姿でベルクマンの垂直マガジン型を構えている。その背には30連直線マガジン×4個が入っている革ケースあり。

 「満洲派遣の準備を整へる世田谷自動車隊」
  ※超珍。例の初代ソリッド・トラックあり。ボンネットは前開きにも横タタミにもできることが分かる。

 士官学校支那留学生 陸軍省へ軍刀返上に押寄す。
  ※考えさせられる一枚。インパクト強い。

 「支那兵匪馬賊を討伐する装甲列車上の戦闘」。
 銃床付きのモーゼル拳銃を構えている。

 当時、支那側のポスターで「鮮人」と書かれていた。悪役である。
 日本人は「倭奴」か「日人」であった。

▼安川隆吉&大竹末吉『戦記名著集 第六巻 血烟 剣と筆』S4-11
 安川は陸軍中尉。初版はM44-11。大竹は特務曹長。初版はM45-5。

 M34の志願兵は、1年で軍曹となって出られる。翌年、3ヵ月の勤務演習で曹長となり、且つ、見習士官となる。それから将校試験。

 M37-2-16の話。義兄で鹿沼の人が、宇都宮~東京市の銃砲店を片端から隅々尋ねて廻ったが、どうしても精巧[きよう]なものはないので、やっと横浜の金丸[かなまる]で見つけてきた、と「自動十連銃の最新式拳銃[ピストル]」を革付ではなむけにくれた(pp.89-90)。

 以下、剣と筆。
 日清戦争を体験している後備兵の方が乱暴で、上官に抵抗し、酒狂で暴れ、殺伐を極めていた。

 予は小十字鍬でコツ\/と気長に岩を穿って……(p.360)。
 二〇三高地では、酷寒のために髯が凍って、触るるとポリポリ折れる。

▼浅田常三郎『国を守る科学』高山書院 S16-12-20pub.
  著者は大阪帝大教授、理学博士。※彼の下に八木らがいた。
 最近数年間に為した放送や、通俗講演の原稿をまとめたもの。

 核分裂動力の話。U235 を集める。

 赤血球を破壊する周波数(450Kサイクル以上)を水中に応用し、敵潜水艦の乗員を貧血にさせるという話。
 超音波で赤血球破壊……これは、大阪帝大の産業科学研究所における、雄山博士および医学部の笠原・巽 両博士 その他の研究だと。

 熱線探知技術について。

 エレクトロンとは、マグネシウムに少量のアルミと亜鉛を混ぜ、機械的に丈夫で錆びなくしたもの。この合金で殻を作り、中にテルミットを充填したのが、エレクトロン焼夷弾。

 日本の現用の訓練用の焼夷筒には、1瓩、2瓩、5瓩、10瓩の4種あり。稀に25kgまで使われる。
 2瓩のものだと、800グラムのエレクトロン円筒内に、1200グラムのテルミットが入っている。

 テルミットとは、米粒くらいの大きさの酸化鉄とアルミ粉末を、目方で3:1に混合、圧搾してから、水硝子・糊のようなもので固めるのである。
 この酸化鉄は、圧延工場の廃品を利用する。

 テルミットは、火薬利用の着火剤でないと燃え出さないが、いったんアルミに火がつくと、酸化鉄の酸素を取って高温となり、2000℃の熔けた鉄となる。
 水や砂をかけても酸素が内側から供給されているのでムダ。延焼を防ぎ、自然鎮火を待つしかない。

 濡れ筵の2枚掛けは有効。飛び散らなくなるので。
 強力なポンプ注水で冷やすことに成功すれば、消える。

 黄燐は必ず二硫化炭素に溶かせて糊状になっている。
 アルカリで皮膚を洗わないと、燐酸が毒。
 米国では、BB『アラバマ』に、黄燐爆弾を落としてみる実験をしている。

 焼夷カードとは、英国製で、2インチ(6~10cm)角のセルロイド二枚の中に、綿火薬と黄燐を詰めてあり、水に浸して投下。水が乾くと、自然発火するのである。

 初の焼夷弾は、1914-10にドイツが使った黄燐爆弾で、兵站基地を焼いた。
 1918に独はエレクトロン焼夷弾を実用化し、木造家屋に対して使った。

 英の焼夷カードは、1940-9初めに、独に対して使用されている。
 エレクトロンは、湿気があった方が、発火点が低くなる。

 テルミットは密着していなければ鉄板に穴をあけられない。5ミリの砂遮断層で、鉄板は無被害に。
 阪大理学部で、焼夷弾の消火実験をやっていた。

 サイクロトロンの話。
 湯川の話。
 浅田は若いときに長岡半太郎から、水銀灯をやれと言われて以来、18年間、その研究をしている。

 昭和火工(株)が2kgエレクトロン焼夷筒のメーカー。
 外径8センチ、高さ22センチ、肉厚1ミリ、全2050グラム、エレクトロン826グラム。

 エレクトロンは最大95%まで充填できる。
 その実験をS15-9-21~25に実施した。(財)塩見理化学研究所災害科学研究所と合同で。



酒類をその場で提供する飲食店舗に対して「新しい重税」を課す税政によっても、都内の「3密」は自動的に恒久的に緩和されるはずだよね。

 AP記者による2020-4-25記事「Navy destroyer USS Kidd reports rise in virus cases to 33」。
    イージス駆逐艦『キッド』の艦内陽性者が33人に増えた。総員は350人である。
 同艦は密輸船取締りのため太平洋側の南米沖にあり。重傷者2名がすでに合衆国本土の病院へ空輸された。

 艦隊の外科設備およびICU、ベンチレーターを艦内に有している揚陸艦『マキン・アイランド』が、『キッド』との洋上ランデブーのため急行中。

 次。
 Clint Carter 記者による2020-4-24記事「Inside a New York City Funeral Home’s Mission to Keep Bodies Out of Mass Graves」。
       死体用の冷蔵コンテナ(8×40フィート)の中には、段ボール製の棺に入れた30体を臨時に安置できる。

 2017年の統計によれば、NYCでは平均して1日に149人が死んでいた。
 現在それは、300人から400人である。四月前半のピークには500人を超えた日も。

 げんざい、新コロで死んだと確定されている死者はNY市内トータルで9900人。ただし、自宅病死者や老人ホームでの病死者は、死後の新コロテストは受けておらないケースが多いので、この数にはカウントされないことには注意が必要だ。

 市当局は、火葬の許可事務を、夜間も無休止で続けている。

 冷蔵コンテナ内での死体一時保管は、NYCでは最長15日まで認めている。15日が経過する前に遺族が葬式をしない場合、それらの遺骸は「ハート島」にある集合墓地に(火葬されずに)仮埋葬される。

 ハート島はブロンクス区にあり、過去150年以上、無縁仏や、家族が葬式費用を出せない死者を埋めてきた。島内の遺骸は累計100万体を超えているはずだ。しかしこの島には墓碑は1基もない。

 町の病院内にもモルグはある。しかしふつう、その安置キャパは、10体か12体までだ。こんにち、遺族は、すぐに葬儀屋を手配しなければ、余剰の死者はモルグの外に積まれることになる。

 葬儀屋が呼ばれてやってくると、ただちに「エンバーミング(防腐処理)」をしてくれる。これで遺骸はすくなくも2週間は腐敗を免れる。もし、2ヵ月くらいも遺骸を保ちたかったら、冷凍保管にする。

 通常は、死んで3日以内に、埋葬または火葬されてしまうので、長期遺骸保管の要求が顧客から出されることは稀だ。

 取材した葬儀屋でも、遺骸用の冷凍庫は、2体分しか保有しておらず、それで十分だという。

 NYCには墓苑は四箇所。クイーンズ区にふたつと、ブロンクス区にひとつ、ブルックリン区にひとつだ。
 ところがどの墓苑でも、1日に埋葬を受け入れられる新仏の上限が20体くらいなのである。まったく今の状況に対応できない。

 友人&親族が集まっての埋葬儀式は、手間のかかるものだ。まずバックホーが穴を掘る。葬儀スタッフが人工芝で泥を覆い、棺を地上に安置し、ディスプレイ。その後で参列者を現場に案内し、4人の男がナイロンの紐を持って棺を穴の中へ降ろし、儀式。人々が散会する。スタッフの第二チームがあらわれてディスプレイをすべて片付け、バックホーで土をかける。

 葬儀屋氏いわく。今日の大問題は、取り扱っている遺体の肺から出てくるガスや沈殿物が、会社スタッフを、新コロに感染させてしまうかもしれないこと。もちろん、会葬者も、遺骸にタッチすれば、危ないが……。

 そこで葬儀屋スタッフも今ではN95マスク、およびデュポン製のTyvek(超高密ポリエチレン)スーツで全身を防護する必要がある。

 エンバーミングのときには、アルコールをベースにした殺菌剤「ディス・スプレー」を、遺体の目、鼻、喉に、最初に吹きかける。

 新コロの死者を扱うようになってから、葬儀社スタッフは、遺体だけでなく、自身の衣服にもこの「ディス・スプレー」を吹きかけるようになった。感染予防のために。

 次に遺体の頚動脈をメスで切開し、金属チューブを差しこむ。
 そこから、慎重に、ホルムアルデヒド、アンチ凝血剤、湿潤剤などの混合薬剤を3ガロン弱注入。同時に心臓の近くから、同量の血がドレーンされる。

 エンバーミング薬液には、死者の皮膚の発色を良く見せる色素まで含まれている。
 その薬剤が手指や足先まで行き渡るよう、スタッフは遺体表皮をゆっくりマッサージする。

 これらはもちろん、解剖台のような専用の台の上で実施される。
 だいたい2時間がかりである。

 取材した葬儀屋には、繁忙期に非番の警察官が助っ人に来てくれる。少年時代からアルバイトしてきているので、腕は本職はだし。

 CDCの勧告により、葬儀参会者は10人までだ。屋内会場にはふつう120人が収容できるのに、さびしいものになる。
 ハグも握手も、ゆるされない。

 次。
 Stephy Chung 記者による2020-4-25記事「Dissident artist Ai Weiwei says virus has only strengthened China’s ‘police state’」。
   香港から脱出して今はベルリンに住んでいる芸術家のアイ・ウェイウェイが中共の真っ暗な未来を語った。
 西側諸国の政府は、中共が正しい新コロデータを隠していると騒ぐが、阿呆ではないか。
 「なぜ」そうであるのか、彼らは知らないのか。無知すぎる。

 シナ政権は決して災害予防について学ぶことはありません。死者数にも災害そのものにも関心などない。専制統治者として、事実をどのように都合よく歪曲することができるか。それだけが、彼らが学ぼうと努力することのすべてなのです。

 統治者と被治者の間に、また、人民相互の間にも、信頼関係は無いのです。
 したがって、だれも中国の未来など信じてはいない。

 こんどの新コロ騒ぎで、中共政体は、ますます国家全体の警察化に拍車をかけるのみでしょう。14億人をたったひとつの権力で統制していこうと思うなら、それ以外に道など無いからです。

 アイはプッチーニの「トゥーランドット」の舞台演出を1年以上準備してきたのに、ローマのオペラ座での初日は、新コロで延期されてしまったという。


都内の飲食店数を、永久「半減」に誘導するしかないだろう。

 5月中にすすんで廃業しようという飲食店経営者に、都が「廃業資金」を提供するべきだ。原状回復費用の半額分を譲与、のこり半額分を無利子貸与、では、どうか?
 「新コロ廃業者特別免税」も、併せて適用してやる。

 他方で、物理的に「3密」を回避できるような特殊な内装に改装ができるという自信満々の店舗のみ、改装仕上がり次第に、即時営業再開させたがいい(インセンティヴ)。そちらの方へは、改装資金を低利で「貸与」すればよいのではないか。

 では、廃業撤収により空いてしまったテナントスペースは、どのように、また埋まるのか?
 今回、わたしたちは、「兼用材」のありがたさを、痛感した。
 モノならば、本来は他のために使われているが、医療にも役立つ、そんな素材・資材・機材・システム。
 ヒトならば、本職は他にあっても、ヘルスケアも手伝えるよという人材。
 こうした「兼用材」を、極力平時から増やしておくことが、次のパンデミックを緩和するための意義ある心掛けになる、と分かったはず。

 スペースも同じであろう。
 たとえば、パンデミックが発生したときのために、ふだんは必要がない広々とした「予備用スペース」を平時から抱えることにしてくれた病院等には、優遇税制措置があっていいだろう。

 そうした、スペースの抱え方/抱えさせ方が、他にも考えられるはずだ。

 わたしたちはバーチャルな《焼け跡》を見ることになるのである。
 テロの犠牲を出す前に満員電車の危うさに気づくにも、そして、核爆弾が降ってくる前に一都市集中の脆さをわきまえるにも、わたしたち戦後日本人には、こんな《焼け跡》の現示が、必要であったのだ。


旧資料備忘摘録 2020-4-26Up

▼国会図書館pub.『寺内正毅関係文書目録』1971
 ※S39に寺内裕子から寄贈された寺内関係文書と、S45に岡一郎から寄贈された岡市之助文書の目録。
 ※残念ながら、自決直後の乃木邸から奪い去られた乃木日記や乃木書簡コピーは含まれていない。こうした隠蔽工作の最有力嫌疑者は寺内なのだが。
 ※以下、興味深い部分のみ。

 M37-11-25、秋山好古から書簡。機関砲充実要請。

 大3-7-6、後藤新平から。山内万寿治自殺未遂。

 M39-9-16、芳賀栄次郎から。ドイツ兵器進歩。

 M37-5-15とM38-12-13、長谷川好道から。乃木希典。
 M39-11-19、長谷川から。49Rn旗焼失。※常陸丸か。
 大1-12-31、長谷川から。乃木家遺産分配。
 大4-10-13、長谷川から。乃木家再興世評非。

 福原豊巧から。M27-12-11、乃木希典詩。

 藤井茂太から。M37-5-25、榴弾砲威力、重砲増強の要、力説。
        M37-9-17、露軍弱点所見。

 井口省吾から。大2-12-1、東條英教人物評。

 石黒忠悳から。M43-8-12/19、乃木手術経過報告。※中耳炎?
        M43-9-30、同じく。
        大1-10-15、乃木家あとしまつ。
        大4-9-19/24、乃木追憶会。
        大4-9-20、乃木家再興。
        大5-9-12、乃木神社遷宮式。

 上山満之進から。大4-9-26、再興問題世評。
         大5-4-4、遺墨表装。

 菊地慎之助から。大4-12-21、乃木神社宮司撰出。

 黒田久孝から。M18-5-30、兵器改良所感。

 村野山人から。大4-2-4~大5-8-18。乃木神社関係6通。

 長岡外史から。M45-7-16、軍隊精神の民間人への普及。

 西原亀三から。大6-2-25、軍器統一問題を青木宣純らが南方にて宣伝、遺憾。

 乃木元智から。大6-7-24、希典5年祭。

 大島義昌から。M27-11-13、捕獲銃器射的会開催。

 大山巌から。M44-2-5、乃木を英に派遣。

 小川平吉から。大6-2-12、高田商会紹介依頼。

 岡市之助から。大4-7-14、乃木大将親族調べ。
        大4-8-14、大舘集作書翰。
        大4-9-8、毛利元智。
        大4-10-6、乃木家親族決議。

 押上森蔵から。M40-2-10、伊勢神宮に鹵獲砲献納の絵葉書。
        大4-12-3、乃木神社に廃兵将校を使ってくれ。

 柴田家門から。大4-8-?、乃木再興問題。

 下田歌子から。M?-2-25、寺内進退伺提出遺憾。

 田村怡與造から。M27-12-4、長岡外史行跡非難。

 田中義一から。大7-8(?)-18、日支兵器統一端緒。

 立花小一郎から。M33-10-12、北清事変 各国軍紀。※鴎外はこれを聴いたのか。
         M36-9-17、袁軍輸入小銃試験成績比較、三十年銃好評。
         M36-9-17、高田商会小銃輸出破談。
         M36-10-2、支那は日本商社、三井、大倉、有馬、高田の対立を利用。
         M36-10-21、対支 拳銃輸出交渉。

 徳富猪一郎から。大1-12-25、山県暗殺説。

 上原勇作から。大1-12-22、山県と懇談し、沈憂一掃。
        大5-4-23、田中義一云々の件は心外。

 山県有朋から。M37-10-12、機関砲三四百梃至急買入れよ。
        M37-11-21、乃木は判決〔決心のこと〕躊躇タダ驚愕。※外野が二〇三のことを勝手に論じていた。
        M39-8-24、学習院長乃木大賀。

 山県伊三郎から。大2-1-16、トロール船取締につき逓相海相意見。
         大4-1-17、山県有朋人蔘効能賞讃。

 安永義章から。M18-8-20、英国兵器工場見学。

 袁世凱から。M?-5-7、速射砲購入教官聘用挨拶。

 以下、寺内年賦。
 M2-7-7、兵部省よりフランス式歩兵学修業のため西京へ出張申付。
 M4-8-4、任・少尉。
 M5-2-27、任・大尉。
 M10-3-17、近1・1Bn・1Co長として田原坂で負傷。
 M12-2-24、任・少佐。
 M15-10-14、閑院宮載仁親王補佐として渡仏。

 M16~M17、仏国公使附武官。大山も案内した。

 M17-9-19、任・中佐。
 M20-11-16、任・大佐。
 M29-6-28、欧州視察。
 M44-4-21、伯爵。

 以下、岡市之助宛書翰。
 明石元二郎から。大4-3-4、在天津の仏国人関係兵器廠につき。
         大4-?-?、在支兵器工場について。

 寺内から。大4-8-21、乃木家再興問題。
 寺内あて。大4-7-14、再興問題。

▼山本四郎ed.『寺内正毅日記――1900~1918』京都女子大学pub. S55
 謹厳実直な事務家で、政治かけひきなどできない。それを田中義一が補っていたのだろう。それがどうして大正期に何度も首相候補になったのか……。

 ※全く日記中に漢詩がない。和歌はちょびっと出る。

 1900-8-29、高田慎蔵の名が出る。

 1903-2-8、大倉喜八郎へのモーゼル銃弾の払い下げ。
 1903-3&7、ビッカース。

 1904-2-16、機関銃隊。
 3-5、佐々木房、スナイドル銃払い下げに奔走。
 3-9~10、高田慎蔵と大阪工廠。
 6-24、将官撰任人事の情実に憤慨。

 9-4、長男寿一戦死誤報。※乃木の勝典と保典の間のエピソード也。

 9-15、福島安正の英人記者待遇が悪く、公債下落に発展したと非難。

 1905-1、長岡は性格が派手で、後年、芳しからぬ行蹟あり。

 1905-2-3~。下田歌子はインチキ祈祷師の飯野吉三郎と不倫関係にあり、寺内に引き合わそうとする。

 6-11、長岡次長が樺太占領の意見をもってくる。

 8-23、台湾より帰還兵を乗せた金城丸が英船バラロング号と衝突。22夜に小堀少佐以下155人死亡。

 1906-1-5、韓国で英人と日本兵トラブル。
  ※日本は戦争中、満州市場は役後に開放すると約束していた。

 1907-末。将兵の射撃技能の低下。

 1908-3、辰丸事件。大倉が清国に不良兵器を持ち込んだとして船を抑留された。

 1910-2-16、皇族身位令。身体完全な皇族は陸海軍武官となる制度。

 4月、高田しきりに招宴。

 1911-9-7、箱根の高田別邸に滞在はじめ(朝鮮総督として)。

 1900(M33)-2-6、乃木中将の和協なりたる旨を大臣より承知す。

 M33-8-29、高田慎蔵氏を呼び、戦場と武器の事につき交渉せしむ。

 M35-5-6、乃木中将来訪。山鹿語類ならびに中朝事実の本を内閣より陸軍へ貸し渡す。

 5-8、シヤム(暹羅)政府より小銃2万梃の製造を引受け承諾の旨、南部へ返電の上、そのむねを外務大臣に談じおく。 ※35年式?

 M35-6-2、午后、南部〔丙辰〕中佐シャム国より帰る。同地の事情、概略を聞く。

 M36-1-24、午後乃木中将来訪 数刻談話して帰らる。

 M36-2-8、大倉払下出願モーゼル弾のこと。

 M36-3-3「ビーカス」の機関銃の事。

 M36-3-7、11時、英人ビーカース氏来訪。益田孝氏、之を伴ふ。

 M36-7-9、速射銃隊の編制。 ※MGのことか?

 M36-7-24、シャム送附見本騎銃の事。

 M36-7-24、将校の軍装を一定する事。拳銃および眼鏡の事。

 M37-1-19、近衛第一・第二・第三の不良銃、交換の事を決す。※近Dは30年式を最初に与えられていたので、もうガタが来ていた。対露開戦前にとりかえたい。

 M37-1-20、有坂〔成章〕少将に舞鶴&由良砲台 備砲検査の形況を伝ふ。

 1-31、乃木将軍来訪。服制のことに就き意見を陳べらる。

 M37-2-18、機関銃隊の編制……の件。

 2-24、押上少将が来て、小銃の腔内の形況を余に「検視せしむ」。

 M37-3-9、後藤中佐きたり、機関砲隊編成の件を承知す。

 M37-3-14、南部〔丙辰〕砲兵中佐きたり、修正の「三十三年式銃」を一覧せしむ。

 M37-5-30、金州攻撃者中、戦死者中、乃木勝典氏あり。夕、見舞を為す。

 M37-6-20、〔砲兵課長〕山口〔勝〕大佐より露国の分捕砲の試験成績を聞く。榴散弾体の破裂は難たるが如し。※ロシア製の野砲は肝心の榴霰弾に欠点があった。おかげで、射程の長いのも帳消し。

 M37-6-25、シャム小銃 50シルリンク値下げの事。 ※英国の勢力圏なので、シリングか。

 6-26、本庄〔道三〕大佐発明の小銃を持ち来たり示す。※徳島出身、砲工校教官、火薬研究所長。

 M37-7-21、高田に兵器輸入の件につき意見を聞く。

 M37-8-24、両工廠提理、有坂少将、および次官、ならびに山口を会し、砲兵弾薬製造の件を相談す。大阪の方を増産することに。

 M37-8-25、午前、有坂少将を招き、旅順攻撃の形勢を語り、大口径砲送附の件に就き意見を叩く。

 M37-8-26、御前8時半より有坂少将来たり、「二十八榴弾砲ノ件」意見を述ぶ。「之ヲ採用ス」。

 M37-10-16、多数の〔野砲用の〕砲弾製作の件、略見込み立てり。〔有坂らに〕直ちに製造に着手せしめんとす。

 10-20、有坂来て、火薬の試験を下志津にて為せしが、其の成績良しという報告あり。※75ミリ野砲用の榴弾の炸薬としてピクリン酸を詰め込もうとしていた。

 M37-11-8、大倉喜八郎とジナミット爆薬製造の件、内談。

 M37-11-23、砲兵工廠で技術審査部を巡視し、新式信管の製作をみる。

 ※寺内は仏語スクールなので、セントルイスを「サンルイ」と呼んでいる。

 M37-12-2、夕方、乃木宅を訪ひ、保典戦死を通知。

 M37-12-19、当月、西村工廠提理・有坂審査部長は、戦時、殊に兵器の製作研究に尽力の段、嘉尚あらせられ、絵画・手箱 各一個を恩賜あり。

 M38-2-8、砲弾は漸次 有余を生ずるに至れども、小銃弾は製作高 増加せざるを以て、将来大いに注意を要すべきなり。

 M38-2-22、本日、下志津に於いて 銑鉄榴弾の試検を行ふ。雷汞の充実せしもの、皆着発すと云ふ。試験の為め30発を費やせりと。 高田慎蔵きたり、龍動[ロンドン]より第七回陸送をもって弾丸を発送せりと。※高田商会に頼んで、英国から奉天会戦用の野砲弾をとりよせていた。国内生産だけではとても間に合わないので。高田は、商船に戦時保険が効かないというリスクを敢えて負った。途中で露艦に拿捕されたり、爆沈でもしたら、丸損となる。

 M38-5-29、工廠で雷汞製造所が爆発。120名死傷。うち死20名。

 M38-6-14、島川砲兵大佐〔技術審査官〕から、戦地実歴上の兵器意見を聞く。

 6-17、あらたに買った12Hと15Hを下志津で、有坂指揮下にテスト。後座よし。

 8-29、昨日、下志津で迫撃砲をテストしたら過早破裂。神尾大尉、死。他に重軽傷者あり。
  ※これも、有坂式のピクリン酸装填の結果かもしれないわけ。

 M40-4-5、午前11時参内、三八式野砲採用の件を奏上す。※クルップに設計させた。

 M40-4-11、西村・有坂・押上〔森蔵、兵器本廠長〕・山口を集め、400門の野砲半製品をクルップに注文することを決す。

 M40-末、将校射撃は、下士以下に比べて悪い。中隊附将校の兵卒の名を知らざる者多し。

 M41-1-22、乃木が来て、28Hを製作したグリローに叙勲すべき旨を謀らる。

 M41-3、クルップ社から、シチンゲル夫妻が来日中。

▼宮村堅彌『高砂義勇隊記』S18-9
 内タイトル絵、2種の蛮刀。無反りで片手握り。
 理蕃40年の努力。良順と奉公を混同するな。

 バターン、コレヒドール作戦から、「高砂挺身報国隊」が第一線に参加。密林啓開作業と弾薬糧秣と患者後送を担当。
 S17-2-29に、田中静壹中将の賞状が出ている。

 呂栄島の自動車道路の復旧にも努力。

 ノーミン、タロコ、オガン……族名。
 ワリス……人名。

 全高砂族、15万人。
 支那事変中にも、軍夫志願、志願兵志願は数百名いたが、ごく少数が志願兵に採用されただけ。

 顔に刺青ある者は、手術で除去しない限り、不採用だった。

 ララチ社、パイワン族。
 トアバル社(台東庁下)、トアカウ社。

 従軍は30歳以下。
 現地で「警手」という職についていた者が多い。

 クラリン君、サリルン家、クリュ君、サクングさん(妻)、サヨン・ハヨンさん(有名)、バツカンさん、プスリン社。 これらには皆、日本名をつけた。

 ジバジイ社、ウイラン君、サモハイ社、マイヤンさん。
 タオラカンスラ君。

 「高砂義勇隊」の命名者は本間中将。
 火野葦平の従軍記の中に、「耳をすまして鳥の声をきいてゐると、ふと、かすかではあるが、奇妙な唄声のやうなものが耳に入った。……それは、たしかに、台湾に行ったときに聞いたことのある唄であった」。

 ユーカン君、ウライ社、リヨヘン社、コロ社、シツク社。
 タイモ・ワリス君、タウリア社、オピン君、タイモ・チーライ頭目。
 アウイ・ビーライ君。

 モーナ・ルーダオ君とバカン・ワリスさん。夫婦異姓。※ルーダオは漢人ではないのか?

 ヴヌン社。アリマン・タイヤ君。

 当時、討伐隊が使用していた村田銃から、自分の子にムラタという名をつける者も多かった。あるいは、ヘイタイとつける者も。ex.ヘイタイ・ワタン(pp.175-6)。

 妻ヤブン・イツパイ。
 ジヨモル社、ルムルマンさん、トラパス君、ハイセン社、マイバラ社、カラパイ社、マジリン君、エフナン社。
 母ラルガンダナパン、父ラルグアンクルル。

 サオヌン・ロシン君、スクスク社、オマス・ワタン君。

▼長谷川直美『陸鷲南方作戦』S18-6
 著者は、『航空朝日』の副編集長。

 支那事変までは、従軍記者制度。大東亜戦では、報道班員制度、という。
 陸軍でも照明灯のことを「スペリー」と言っていた。

 コタバルには、複葉のグロスター・グラジエーターが十数機あった。ロッキード・ハドソンも。
 タイ湾は、コンソリの飛行艇が数機、哨戒していた。

 コタバルは、マレー語で、「新しい要塞」の意味。
 スピットファイアを皆で探したが、いなかった。誤報だった。

 バッファローは、イ-16を想はす。
 ただし「バッファロー」は、英国へ売るときの輸出名だったのだが。

 ショート・サンダーランド、ソードフィッシュ、ヴィルデビースト雷撃機、フェアリー・バトル軽爆、など150機の非戦闘機があった。

 ビルマはハリケーンとP-40が多く、てこずった。
 「地図ルーペ」で、煙草に火をつける。
 「燃料補給と爆弾の懸吊」。
 写真。ジャワの飛行場に、双発(2翅ペラ)の飛行艇で、タイヤもついてるやつ。

 バッファローは突っ込む。逃げ足だけは、箆棒に速い。
 A-20もバンドンで鹵獲された。

▼石山皆男ed.『不死鳥』S16
 戦死した、慶応経済出身の歩兵少尉、阿江一友の書簡を、実父がまとめた出版物。
 「編上靴の手入れ」

 麦と兵隊を読んで、リヤリズムの迫力を知った。
 土と兵隊はもっと良い。火野が早大出なのがたのもしい。
 当時、二〇三高地で突撃訓練などをやっていた。

 S13-12月時点で、幹部候補生のために、中隊が、満鉄刀を注文する場合、特価¥80-であった。しかし注文しても既に鉄が無く、なかなか届かない。だから三分の二の者は、実家から古刀を送ってもらった。

 名刀は、演習時にぶらさげるには惜しい(曲がってしまう)ので、できれば、量産刀を調達したいのだ。

 カーライルが某大学の総長だったとき、「学生生活は図書館にあり」と言った。
 嚠喨たる喇叭の音。
 「風紀衛兵」につく。
 S14に『風と共に去りぬ』を買い求め、読み始めで放棄。※原書か。

 「真毒体験×××××〔イペリット〕を右腕にぬる」。※ただの催涙ガス体験ではなく、糜爛ガスかよ!

 600頁に余る『キュリー夫人伝』(エーヴ・キュリー著)に、えらく感激。※事故死した旦那が中断した大学の講義を妻が引き継ぐ、その最初に黙って大きく板書した文字が「レディオアクティヴ=放射能」。映画の演出のようなラスト。

▼赤石澤邦彦『張鼓峰』S16-9
 列車から降りるとき「下車用意!」
 編上靴[へんじょうか]も巻脚絆も取らずに寝ろ。

 ※無内容。肉攻などウソあり。

▼大本営海軍報道部ed.『珊瑚海海戦』S17-12
 潜水艦の中に、油虫と鼠がいる。
 油虫は殺すが、ネズミは殺す気にならない。

 「休養札」は、拳大の木札で、交代で与えられる。これを持ってセイルの上に行き、喫煙できる。「空気を食べる」気がする。もちろん艦内は禁煙。

 潜水艦内は、食糧だらけである。その間で、身体を折り曲げて寝る。

 インド洋にはアルバコア機もいた。

 ※イギリスは空軍を独立させていたけれども、スピットが高速すぎて空母に載らず、海軍航空隊には遜色があった。それでWWIIに突入したから印度洋ではタジタジだった。

▼羽中田 誠『鐵鯨魂』S19-9
 著者は海軍報道班員。

 飛行艇では、尾部銃座ではタバコを吸ってよかった。眺め最高。ただし風が当たり、寒い。

 漂流したとき、古釘を曲げて針にして流していたら、5尺の鮫がかかり、その刺身を海水といっしょに呑みくだしたら、海水が飲めるようになった。

 海底でも、潜望鏡は使える。水族館のように見える。

 プリンスオブウェルズは、潜水艦で雷撃しようとしたのだが、速力差で果たせず、基地航空隊へ連絡した。

 潜水艦内でも、盲腸手術はできる。
 豪のニューカッスルを潜水艦の備砲で砲撃した。S17-6-8に。

 夜光虫は、クラゲのような体で、踏むと光る。

▼藤田實彦『戦車戦記』東京日日新聞社 S15-10
 著者は陸軍中佐。じつは戦場生活は1年そこそこしかない。その後、陸軍情報部附となり、たてつづけに戦車モノを執筆した。この本が、著述の第一号。

 S12-3まで天津TK隊附。3月に内地に転任。よって7月下旬の今田大佐の聯隊の動員では、戦時職務の命課に漏れた。

 12年6月の少壮士官の頭の中は、ソ連を討つべきか支那を討つべきか、ふたつにひとつ――というものだった。

 宇品港見送りで群衆とともに「天に代りて不義をうつ……」を歌った(p.13)。

 任務を終わって「原駐地」に帰還する。
 中国では小さな討伐戦なら数日、ちょっとした作戦だと数ヶ月の準備が要る。つまり1年のうち、1ヶ月が戦闘、11ヶ月は準備、のような感じになる。

 この長すぎるインターバルの間に、兵隊が無聊に苦しみ、逆宣伝に左右され、郷里が心配になり、良民とのあいだに芳しからぬ問題を起こす(pp.19-20)。※それは、現役部隊ではなく、召集された予備役兵が多かったことと関係があった。

 「即日帰郷」。これは郷里において歓送をうけ、多くの餞別まで貰ってきていながら、出征動員の部隊編成の身体検査場から帰されるのである。面目がない(p.22)。※新兵ではなく、応召者である。

 召集と入営とは違う。
 特別仕立ての軍用列車。沿線には、畔に土下座して頭を地につけるようにお辞儀している老人、家の窓や窓にのぼって旗を振る子ども……。

 TKは水に漬かるとエンジン点火できなくなる。

 常陸丸の輸送指揮官は「須知中佐」といった。
 最も芸達者なのは輜重隊で、本職のプロ芸人が集っていた。

 すれ違う関門連絡船のふなばたで、船客が、万歳斉唱。
 南米通いの貨物船の徴傭船だと、船員もひまつぶしのために芸を磨いていて、諸道具も揃っていた。

 水が黄色がかって、北支に近いと知られる。
 舳先で、外した戦車砲で試射。

 馬は乗船前によく運動させ、船中では特に水を多く与えないと死ぬ。
 輜重隊で死馬の水葬。
 胴を蓆で包み、頭に白布。
 デリックかクレーンでしずかに水面におろす。将士敬礼。そして下士官がロープを切る。
 TK隊は部室に帰る。輜重兵は甲板を立ち去ろうとしない。

 戦車は、団平で揚陸した。なんと、支那人が手伝う。

 シナのナショナリズムは、最初は反英だった。そこで英国は、漢口の租界を返還した。
 次に米国を抱きこみ、シナをとりこみ、反日へ誘導したのだ。※これはドイツが日本人に吹き込んだストーリーだよね。日本海軍に対英戦争を始めてもらいたくて。

 列車に「緩急車」という小型のものがあり、本部はそれで移動する。

 シナでは、道路外の畑は、湿っている場合は、戦車でも立ち往生する。※黄砂の泥。しかしこの「戦車」というのは、じつは「軽装甲車」であろう。

 燃料はガソリン。※藤田の乗車は戦車ではなく、エンジンの非力な94LTK。正面に「ふじ201」とペイント。ひらがなにすることにより、シナ人には読まれないようにしていた。

 排気管で生芋を焼くには、土を置かないと、黒焦げになってしまう。
 TK縦隊の先頭は、側車[サイドカア]。

 部隊長が部下である中佐に「是非仇をうって来てください」と慇懃に言う。
 「操向桿」

 連なりわたる高地に次々に日の丸の旗がひるがへって行くのは、絵にでもなりさうな光景であった。
 山地攻撃では水を汲めないので、コメの飯は無理。

 戦車の神様として部下に慕はれてゐた戦車隊長、藤田叶[かなふ]大尉の戦死。
 死後、少佐となって著者と同階級。よって、よく間違えられた。出身地まで同じなのだ。

 流弾が当たるとカーンという音が、頭の芯まで響く。
 軽戦車に轢かれると、骨は完全に砕けるが、あとは肉の弾力で膨らんで、ちょっと見たところでは大したこともなかったやうに見える(p.125)。

 動けない友軍傷兵のために、TK隊が通過できぬ葛藤!
 附近にあった電柱を少しづつ削って炊事。

 自分は支那人を見ると兵隊は勿論、男でも女でも子供でも一人残らず殺してやりたいと思います。……といいつつ、火宅より子供を救出。耳が焦げていた。

 民家から徴発した 酒[チュウ]。

 94LTKは、調子いいときは薄青の排ガス。
 LTK隊には、対空布板は無い。

 通常、攻撃前進中は、日の丸は戦車に掲げない。敵から目標になるから。
 「前進」の旗を、各車が掲げる。
  ※南京を圧迫したのは94LTKだったと察せられる。

 落橋するかもしれぬときは、戦車兵は、外套を着込む!
 比高二、三十mの丘阜地。

 道路が凸道で、おまけに狭く、半輪反転ができません。※信地旋回か。
 敵の弾が飛んでくるので、被牽引車を外すことも困難。

 馬でも飲みそうにない汚れた池の水。
 なんと歩兵部隊の行李のうちに支那人クーリーあり!

 藤田のLTK中には、東膳橋の待機位置を出発する時、たってと頼まれて許してやった大毎の松尾邦蔵君が、小さくなって乗っていた。 ※プロ野球選手ではなく、大阪毎日新聞記者。

 LTKに敵ATG弾受けるとガソリンが漏れ、ドライバーの足に火がついてしまう。
 命令要旨

 別のLTKには、同盟〔通信社〕の大鋸[おおが]時生が乗っていた。
 無精髯で内地に帰ったら子どもがびっくりして泣き出したので、とうとう剃り落としたという。
 焚き火の煤と、昼間の硝煙で、真っ黒な顔をして酒をあふっている処は、山賊そのままであった。 

 いたるところ、雨露にさらされている死体を野犬が……。
 シナ軍は、退却前には、かならずありったけの弾丸を撃ち尽くす。夜のうちに。

 南京城外に迫ったのは、藤田&井上のLTK隊。
 他に、頭師、前田、宮川隊あり。

 中華門の「誓復仇敵」は、青い字で書いてあった(p.233)。

 宮川TK隊は、発煙筒にミドリ筒を混ぜて投じ、敵を追い払った(p.237)。

 難民所に便衣に着換へて良民顔をぶら下げてすました顔をしてゐた支那兵が、後から毎日数千人づつも検挙された(p.344)。

 S13の8月に内地に帰ると、東京日日が、「髯の戦車隊長還る」と記事を載せ、全国的に有名となり、講演、座談が相次いだ。

 土堤を越すときTKがガクリと落ち、後頭部を天蓋に打ち付けて、視神経をやられた男。これはやがて、耳もダメ、口もモグモグという症状に進む。

 戦友たちは皆、無事でせうか。それだけが何時も心にかかってなりません。

 指揮官は戦後、部下の論功の証人となる大仕事あり。長が死ぬと部隊の功績も無しになる。

 君万歳の一声も 残さで死んだ戦友の 瀕死の深手負いながら この胸轢いて前進し ともを救へと招きたる……

▼藤田實彦[さねひこ]『髯はほゝ笑む――帰順工作と宣撫』S17-3
 戦車隊長を辞めてから、兵団幕僚として占領地の治安工作を担当した。

 留守宅に戦死公報を聯隊から届けるのはオートバイ。よってその音を、妻は恐れる。

▼本間楽寛『少年戦車兵魂』S17-11
 サブタイトルは、「壮烈原田敬一伍長」。
 ビルマ戦線で死んだ。

 写真。なんとラングーンに、95LTKの北満型が出ていた。

 昭和敦盛。
 護国の若桜と散って すがし姫百合の朱[あけ]

 「戦車神社」はこの時点ですでに在った(p.62)。
 武神 建御雷神[たけみかづちのかみ]、経津主神[ふつぬしのかみ]、そして少年戦車学校出身戦没者。

 七書の中では、六韜/太公望に出る。
 武王問、戦車は奈何と。大公曰、歩貴知変動、車貴知地形、騎貴知経奇道。

 写真。1号戦車が整列しているもの。未見。

 武装歩兵の接地圧は、1平方センチあたり0.5kgである。よって、日本のTKもそれに合わせてある。

 砲手、砲塔を旋回して敵を探せ。
 伝令戦車は、挺身、煙幕を張れ。

▼陸軍省情報部監修、同盟通信社ed.『鐵牛と荒鷲――支那事変三周年』S15-7-2
 歩兵の行軍は、長い場合は6~7里/day。
 戦車は、7~8里/day。

 「豆タンクが」
 豚や鶏は、初めて戦車を見ると、異様な声を出して逃げて行く(p.17)。

 日本の戦車のうしろの大ドラム缶には、ガソリン180リッターが入る。
 履帯のことを戦車兵は「ベルト」と言っていた? (p.49)。

 陸軍機は、S12-10-26から12-13のあいだに、330トンの爆弾を落とした。
 陸軍では「爆弾懸吊」という。

 スカンジナビア作戦で独は常識を破って Ju-87で英BBウォースパイトを沈めた。
 パイロットはメーブス空軍少尉。

▼矢矧佑一郎『西南戦争逸話』原M26-12、M27repr.
 桐野は、東京を征圧したら、兵を「トルコに出す」と言っていた(pp.16-17)。

 3月15日の白兵戦で、観戦していた新聞屋と高等文官が、「愉快」と叫んだので、山県がその頭髪を攫んで20分間、離さなかった。

 薩軍は禁酒。官軍はいつも酒があった。

 薩兵は有夫婦人には暴行しなかったので、地方では、子供も丸髷にし、歯を染めさせた。

 梁の常叡が竹如意 に倣ふて、上杉謙信が青竹を麾に代へた。篠原もそうした。※この話は桐野のこととして伝わっているようだが……。

 西南戦争の話柄中、最も人の喧伝する所のものは、野津少将聯隊旗奪還の快説なり。聯隊旗奪還の将校を野津とせしは乃木の誤伝にして、乃木はすなわち今の乃木少将なり(pp.94-6)。※野史 逸話を総合したと標榜しているが、なんのことはない、政府の捏造宣伝企画なのか。この本全体がまったく信用できない。

▼千秋恭二郎『日露戦役小話』S2-7
 開戦前の11月30日の星桜会の例会。幹事は、山口勝だった。※長州閥の凡庸な官僚。

 M37-10以降、糧食に麦が「3/4」加えられた(p.121)。それで脚気が減った。
 脚気の原因に手淫を挙げる人もいた。

 筆者は時事新報の海軍記事担当。

▼宮井佳夫『軍馬と火戦』S17-8
 ※軍馬系の本の中では最もテクニカルで、この著者の人柄が理系で真面目人間であることが分かる。

 廃役処分→廃役場。

 直腸の中に手を入れて、宿便を摘出する。
 または浣腸。石鹸水でやる。

 野繋する。

 長途の列車行では、人も客車より貨車がよい。自由に横臥できるから。

 炭疽は、人馬ともに罹る伝染病。
 暴れ馬を「権太馬」という。

 役後は、10分以上、曳馬すると、クールダウン良好。

▼佐々友房『戦袍日記』M24-5
 序文はM22-6に書かれている。ルビ皆無。
 はじめ、M17に数十部を刷って、親友知己に頒つ。

 ※薩軍側の手記はこの時期以降しか公刊できない。というのも憲法発布と大赦令が同時で、それ以前は隆盛も賊だから。

 ああ西南戦争から12年、青山の白骨がそろそろ朽尽する頃だ。それなのにじぶんは為すところなく余生を紅塵のあいだに貪っているとは……。

 銃器は、旧幕いらい、藩士の家に蔵せるもので、「皆雷フル銃ナリ」(p.27)。

 新製針打銃の如きは容易に得べからず。※つまりミニエー・ライフルはあった。後装銃スナイドルは無かった。

 硝薬はひそかに集められたが、鉛はそうもいかず、すべて、「毎家漁網の重り」(地元ではユラと言った)を鋳たのである。

 伝聞。夕方、敵の小倉分営兵が植木に進入したと薩本営が把握した。そこで、小隊長の伊東直次、おなじく村田三介が、おのおの部下を率いて急行した。向坂で会敵。激戦数次、ついに敵を敗った。追躡して、田原坂を下り、薩の別隊と挟撃して、大いに敵を木葉に破り、「其聯隊旗ヲ奪ヘリト云フ」(pp.54-5)。

▼奥宮正武『翼なき操縦士』S31-5 (株)出版共同社
 奥付に初版とあるのだが、真の初版はS26だという。それは国会図書館にあるのだが、出納できなかった。本文の写真のうち若干は、旧版と同じものを収載できなかった、と書いてある。
 著者の住所も書かれている。土浦市内に住んでいた。

 M42生まれ。S7、任少尉。S9、龍驤。S16、第11連合航空隊参謀、少佐。S17、アリューシャン作戦参加(4航戦参謀として)、南太平洋海戦に参加(2航戦の参謀として)。S19、大本営参謀、中佐。

 あとがき。ビスマルクの撃沈は真珠湾の半年前。英独ともに、500浬離れた陸上機を全く参加させ得なかった。

 サイパン戦当時の米艦偵は、進出距離が300浬であった。2式艦偵は640浬だった。

 「終戦直前に完成した艦上戦闘機の烈風等もまた、当時の世界の最高水準をゆくものであつた。」
 当時の軍用機は、日本人の名人気質が災いし、多くの天狗たちがよってたかっていじくりまわし、初めの良い着想を殺し、完成の時期を著しく遅らせた。
 ※自己実現と勝利とが一致せぬ日本の近代であった。

 メッサーとハインケル爆撃機を買った時、あまりにごつごつしているので、付き添ってきたドイツ人技師に尋ねたら「ババリヤあたりの百姓にはこれで結構です」「ドイツ人は少数の天才が、多数の凡人の使い易いものを作っていたのである。戦後私が数回同乗したアメリカの軍用機もまた、同様であるという感を深くした」

 三菱製の零戦の機体に、同一図面で作った中島製の部品が取り付かなかったことすらあった。

 トビラの、機上から見た雷跡の写真がおもしろい。
 奥宮は、終戦時、最後に呑龍を操縦して南方を回った。
 彩雲は、陸偵である。

 若いときから飛行機だけに捧げた半生だった。
 青島爆撃は、聞いた話では、12サンチ砲弾×6、または、8サンチ砲弾×10を、ナイフでゴム紐を切って落とした。武装としてモーゼル拳銃を持っていた。

 兵学校の1~2年で微積をやり、ついで流体力学。

 ゴム製伝声管の送話口を首に吊るす。径2センチ。
 それが2本で、パイロットとの間を結ぶ。

 S6の上海で、一三艦攻から800kg爆弾を呉淞へ落とした。
 斜路のことを「滑り」という。
 操縦桿は、傾き。バンク。
 フットバーは、機首の向き。

 水上機は、落下傘無しが基本だった。

 恩賜の銀時計組である。
 海の上の不時着は、陸上よりマシである(p.92)。

 S8時点で、航空隊は、艦攻9機を分隊とし、それにかかわる整備員は、准士官2、下士兵56。
 ただし分解手入れのためには整備将校の整備分隊が担当する。別に「雷機」という科がある。

 操縦者のじぶんに身を委ねて平然たる、偵察員、電信員の態度が、あらゆる訓示にもまして、未熟操縦者を鞭撻した。

 小隊は三角形をつくって飛ぶ。先端が1番機、その左後ろが2番機で、右後ろが3番機である。この2と3を「列機」というのだ。

 風速12mだと、吹き流しの尻尾が水平以上にバタついて上がり、複葉機は地上滑走が困難になる。
 秒速17m以上だと、人は歩けない。立っていられるだけ。

 魚雷をリリースすると、冬衣から浴衣に着替えた気分になる。
 なぜ機内食は寿司なのか。水分をあまり要せず、空中での小用を促進しないから(p.110)。

 大をやってしまった場合、士官だろうとさすがに洗濯は他人に頼めない。じぶんで洗う。

 S9にハインケルを買ったとき、米映画の『ヘルダイバー』は既に公開されていた。

 ダイブボミングは、風さえなければ百発百中。しかし風があると、降下中の修正が至難。※緩降下こそがババリアの百姓には向いているわけか。

 龍驤のエレベーターは、緊急時には人力でも動かせた(p.118)。

 発着艦指揮官は、赤白2旗を手にす。
 合成風速15mで、90艦戦は65m、94艦爆は90m、13艦攻で100mの滑走が必要。
 艦速1ノット増すごとに、発着艦距離は10m縮まる。

 連続収容、馴れると50秒間隔。

 編隊灯は点け放しだと列機を幻惑させるので、すぐ消す。

 航法目標灯は、ブリキ円筒が燃える。昼なら、白波のくだけ方で知る偏流を、暗闇のなかで目測するためのもの。一度変針して、二度落とせば、目測は完了。

 空母では、奥宮は、偵察員配置と操縦士の両方を掛け持ちしていた?

 霧中飛行で天上に小さな青空が見えても、それに向かってはならぬ。必ず抜け出せずに死ぬ。

 右手で胴体を叩く仕草。……燃料が無い。

 航空機から潜水艦を発見することがたやすいのは、まず小笠原近海。次が、三陸と北海道沖。最悪なのが黄海。

 12センチの高角砲弾が300m以内で爆発すると、450馬力エンジンの轟音を通して、それが聞こえる。

 高度1万mで、酸素無しだと、人は30秒で意識を失う。

 日本近海では、朝鮮沿岸と、北海道南部が、霧の名所。
 パイロットの葬儀は、格納庫でやる。

 逆宙返りをやると、2ヵ月ばかり、結膜が真っ赤。失明例もあるという。

 航空神経症……不眠、食欲が無く、気短かとなり、爆音を聞くのも厭になる。

 35歳が、一線機の限界といわれていた。
 飲酒をしてから3日間くらいは、引き起こしのとき、目が眩む。だから奥宮は、飲まない。

 S12の夏、最も損害が多かったのが、急降下爆撃担当の艦爆だった。
 パネー号をやったときは、操縦手だった。
 この時は、片翼づつ、60kg爆弾をリリースする方法。

 火災のときは、まず同乗者、最後に操縦者が飛び降りる。パラは6m/秒で降下する。奥宮は、手の爪が8枚、焼けはがれたが、助かった。あの世を体験した。

 ボイコーは仏式。ゲルツが独式。
 霞空教官になったとき、いまだに93中練で、これではいかんと思った。

 開戦前後3年、火傷治療で実戦を離れた。
 MI直前に、龍驤に。

 拡声器の号令も変わっていて、その意味すらわからないのがあった。

 首席参謀を除く4人の参謀は、航海中は、2時間交替で、常時、ブリッヂに立つ。

 隼鷹の作戦室はブリッヂの上から2段目にあるが、その下が煙路のため、夜間灯火管制で窓を閉めると40度以上。その4畳半が、大佐1人、少佐4人の居室・寝室・食堂・作戦室なのである。
 そこからブリッヂや電信室等に、多数の伝声管が伸びていて、1日じゅう、にぎやかだ。

 入来院[いりきいん]という大尉がいた。

 ニューギニアでは、金鉱の開発用に、英国人が、多数の小規模飛行場を造成していた。

 ガ島がいくら酷いと言っても、将兵の3割のみだ。

 S18-9に96陸攻でラバウルからトラックまで5時間15分かけて飛んだ。
 硫黄島から木更津までも、96陸攻で5時間かかった。

 S19-1のラバウルは雰囲気が一変していた。司令部全員、匙を投げ、気短かになり、一日も早く逃げたいと考えていた。

 一発勝負の海戦や、陣頭突入できる陸戦と違い、基地航空戦は、部下ばかりを殺すことになるので、幹部の精神負担が著しく、生ける屍となる。部下も、その感化を受ける。超人でない限り、勇気は2ヵ月で消耗し去る(p.252)。

 現地人を使うときは、必ず長を一人決め、彼を通さずにいかなる命令も賞罰もせぬこと。

 長崎の被害範囲は狭かったが、被害強度は大だった。



来年から、小学校の家庭科の最初の授業は、「ありきたりのものでとりあえずマスクを作る」になるだろうね。

 J.P. LAWRENCE 記者による2020-4-25記事「Air Force veteran’s firm is $100,000 winner of Army contest to develop ventilators」。
       もと空軍の救難隊員だったマイケル・マグワイヤーは、除隊後、救急医療機器のメーカーを立ち上げた。その会社が米陸軍のコンテストに4月前半に応募した、「手動式」のベンチレーター(挿管強制呼吸器)のアイディアがよさそうだというので、このたび、米陸軍が、プロトタイプ製作費用として償金10万ドルを贈った。

 この陸軍主催のコンテストは「xTech COVID-19 Ventilator Challenge」と称し、簡易型のベンチレーターを製造できる会社に3分間のプロモビデオを送ってもらい、優秀な案を褒賞しようという企画。150社強が応募してきた。
 もちろん優劣を審判するのは、緊急治療の専門家の審査員たちだ。

 コンテストは2段階。まず「企画売り込み」で候補を絞り込む。この段階を通過したメーカーには5000ドルが与えられる。そして最終審査で選ばれた企画に10万ドルが投じられる。その資金でプロトタイプを造れというわけ。

 今回償金を貰ったマグワイヤのベンチレーターは手回し式なので、救急隊員、衛生隊員が、どこでも即座に使える。新コロ重症肺炎患者が、モーター式ベンチレーターのある病院に搬送されるまでの、ツナギになるわけである。

 手回しで空気をどんどん送り込めばいいという単純なメカニズムではない。空気をオーバー・インフレーションで送り込んだら、患者は逆に死んでしまうからだ。手回しなのに、精密に、空気量が最初の瞬間から正しく制御される、という安全対策に、新機軸がある。

 マグワイヤいわく、量産に移した暁には単価3000ドル未満で市販します。軍用にも民用にもなります、と。

 次。
 LISA REIN AND JACOB BOGAGE 記者による2020-4-25記事「Trump says he will block coronavirus aid for US Postal Service if it doesn’t hike prices immediately」。
    トランプ大統領は、米国連邦郵便制度の小荷物郵送料が安すぎるのは大問題だと思っており、小包郵送料金は今の4倍に値上げされるのがふさわしいと考えている。
 特に大手通販会社に提供しているサービスが、送料をダンピングし過ぎているのがよくないと。

 外野の観測。トランプに批判的な『ワシントンポスト』紙のオーナーでもあるジェフ・ベソス(アマゾン創立者)への個人的な怨みもあるのではないかと。

 しかし事実として、UPSやFedEXのような民間の宅配業者の送料設定よりも、連邦郵便局の小包送料は遥かに低い。

 アマゾンの側ではもう手を打っている。自社抱えの宅配サービス網を構築にかかっているのだ。それは、もし今のパンデミックがなかったならば、2022年において UPS や FedEx を上回る荷扱い量に成長している予定だった。

 全米の小荷物輸送総量は前年同期に比べて53%も増えている。みんな自宅蟄居しているためだ。

 米国郵便局にとって、小包の扱い量は全郵便物のうちの5%なるも、収益ベースでみると30%をそこから稼ぎ出している。

 UPSやフェデックスもその郵便料金の安さに便乗し、「ラスト1マイル」の配送仕事をローカルの郵便局に頼んだりしているのだ。
 つまりトランプに言わせるとベソスは連邦機関に損害を与えることで大儲けしているのだ。

 次。
 Sara Toth Stub 記者による2020-4-25記事「Venice’s Black Death and the Dawn of Quarantine」。
       ベニスはもともと数十の小島から成るが、そのうちふたつ、「ラザレット・ヴェッキオ」と「ラザレット・ヌオヴォ」こそは、14世紀の黒死病流行後に「隔離」「検疫」の待機地に指定された無人島であった。

 この黒死病、欧州で2500万人を殺した。とうじの全住民の三分の一だった。

 ベニスは交易都市である。将来もどうしても疫病のリスクがある。そのリスクを制御しながら商売を継続する方法は、何か?
 病人や、保菌の疑いのある人を、ひたすら別な島へ隔離することしかない、と結論された。

 ラザレットヴェッキオは、15世紀前半、ペストに罹ったヴェニス市民を隔離療養させる島として指定された。

 ついで、ラザレット・ヌオヴォ(新隔離地)が、ペスト流行地からやってきた商船や、船内に病人が発生している商船が、40日間の検疫監視期間を過ごす場所として指定された。「40日」をイタリア語で「quaranta giorni」という。それが英語の「クォロンティーン」になった。

 ※長崎の「出島」は、そのまんま、ラザレットにもなっていたわけか……。

 商人の集団というのはすごいものである。だれよりも早く世界智を集結させる。疫病が目に見えない病原体の仕業だということがつきとめられるのは、それから400年も後なのだが、ベニス当局は、早々と、病原微生物への正しい対処法と情報収集システムを確立してしまったのだ。

 「ラザレット」(隔離病院・隔離島)も、その呼び名のままで、後世、米国政府によっても採用されている。


旧資料備忘摘録 2020-4-25Up

▼田辺平学『空襲下ドイツの工場防空』川崎商工会議所pub. S17-7-1
 戦時産業叢書の第一輯。

 S16-12の講演録である。
 著者は東工大教授だが、S16-4-17に東京を発ち、シベリア経由でドイツ入り。が、6-22独ソ開戦。やむなくリスボン→NY→米船に乗って上海→10月に東京着。

 途中、ハワイが防空設備に狂奔しているのを見た。
 米から帰る最後の日本人の船だというので、ハワイではサーチライトを集中したり、航空機の編隊で示威した。

 独では、イギリス軍の本物の焼夷弾を全国に回付して、実物教育をしていた。
 なんと空襲被害は全部、国費で復旧し、死者は戦死者扱いであった。
 これほど大衆に媚びる体制だったのかと驚く。

 英軍機は、毎晩空襲に来ていた。炸裂弾1に対して焼夷弾を8~10倍、混ぜて落としている。
 最多は125kg爆弾だが、稀に250kg爆弾や400kgも落とす。
 一発835kgの「空中魚雷」と呼ばれるものを、ベルリン、ハンブルク、ブレーメンに落としもした。時計仕掛けのものもあり。

 焼夷弾は工場地帯用は1発125kg。人の背位もある。油脂焼夷弾も。
 ベルリンに落としている焼夷弾は、1.7kgのエレクトロン、テルミット弾。

 ドイツでは人口4000以下の小さな町村には、警報を与えない。

 ドイツでは地下退避が原則なので、窓のテーピング等、みたことない。
 その代わり、1枚板のショーウインドウは、縦長のもの多数枚に、交換しつつあり。

 英は、トリノ、ミラノ、シシリー、ナポリを爆撃しているときも、まだローマには爆弾を落としていない。

 独政府は、旗屋にソ連の小旗をたくさん註文し、モロトフが来るという噂を撒いてから、開戦した。
 さすぎに独国民でその日、浮かれた顔をしている者はなかった。

 プランメーシッヒ=計画通り。独政府の戦果発表で、よく使う。

▼『Shanghai Under Fire』1937
 上海にあるPost Mercury Co., Federal INC.USA 刊。5刷。定価2ドル。
 防災専門図書館蔵。

 解説文は9月23日のことをもって止めている。

 例のT-26の写真。“A captured Chinese tank”. カステン破れ「危険ニ付触ルナ」の貼り紙がしてあったと分かる。
 しかし日本で流布している写真ではこの貼り紙は修正で消されていると思しい。

▼陸軍乗馬学校・抄訳『魯国騎兵学校ノ長途騎乗』M27-12
 ※原典はドイツ兵事週報。1891~92の学期における、ペテルブルク方面での研究をドイツが報じた。
 ※これを訳したのは、大陸の冬季の馬の扱いに興味があったためのようだ。

 長距離ほど、騎手は正しい姿勢を維持しなくてはならない。騎坐は静定していなければいけない。
 英式速歩のマネをして体を前傾させてはならぬ。馬の前脚の負担となり、馬がすぐに疲労する。

 馬種、いろいろ試した。
 ハズレがないのは「ウラル種」である。
 キルギス種は退化している。
 ドーニー種は持久力なし。

 カルパチアン種(カフカス北部産)は体型は良いが弱い。
 英種半血とヲルロートラーブ種は善い。

▼『相模海軍工廠』同刊行会pub. S59、非売品
 接収に来た米軍は、ウィルス濾過マスクにのみ関心を示し、他は何の調べもロクにせず。そもそも民間の化学工場だと思っていたようだ。

 大11、艦政本部一部に、化兵担当部員1名を置く。

 大12、本田海軍少佐が、艦政本部で化兵担当となる。

 大12-4-1、海軍技術研究所、誕生。化兵研もできる。「化学兵器研究室」。それまでは燃料研。担当所員はたった1人。

 大13、特殊化学兵器研究費、成立。

 S5-8-19、科学研究部第二科が平塚出張所に移転。
 S9-4-1、目黒に化学研究部が新設され、科学研究部を理学研究部に改む。

 S8、「特薬」製造実験工場、建設。
 S9、「化学研究部」に昇格。

 S17、寒川に土地・建物 買収。
 S18-5-1、相模海軍工廠に昇格。

 S19、長野県上田の高等蚕糸学校に、化学実験部を疎開。

 WWI後、陸軍の久村砲兵少佐が、独の毒ガスを研究。海軍では大11に本田少佐か、久村中佐の指導を仰いだのが始め。

 WWI後、英国は元首相バルフォアを委員長にして、ケミカルインダストリーを育成すべく、企業大合同をすすめた。それがICI。

 海軍の2号1式マスクは、陸軍のマスクより密着性があり、三角眼鏡で、吸収缶は大型。一酸化炭素除去用に、米国ホプカライトを真似た褐色剤を追加できる。おそらく世界最高性能。

 特薬研究は、陸軍と合同した。
 1、2、3号特薬の製造実験工場を、平塚出張所に建設。

 大口径徹甲弾への応用。
 この種の砲弾では、炸薬量を犠牲にすることなく、風帽内の容積および自爆防止間座の占める容積を利用することとして、一号および二号特薬を応用試製して、亀ヶ首で甲板貫通艦内打込み試験をおこない、いままでの徹甲弾威力に化兵効力が追加されたものを得た。

 ワシントン会議の結果、『石見』は相模湾にて航空機によって沈めたが、『生駒』にはイペリット砲弾の撃ち込みと除毒を、呉で実験した。

 発煙筒:陸軍より伝えられたベンゲル発煙筒を採用し、1瓩、10瓩、30瓩発煙筒、および 発煙浮筐 を制式化した。信号用の着色発煙筒も。

 1号煙薬甲:3タイプの比較実験の結果、無水硫酸式がよいと分かり、これを駆逐艦の艦尾にとりつけた。

 1号煙薬乙:米国が先駆けた、航空機によるスモークカーテン。技研が1号甲を改良した。

 焼夷剤は、テルミット、油、多硫化ゴムの数系を研究。兵器になったのは黄燐系とゴム系。特に多硫化ゴム系は、各種三式通常弾、潜水艦の十四糎砲用の焼夷弾、2式25番3号爆弾、1式7番6号爆弾、27号爆弾に使用。
 上海事変頃、平塚出張所で、1/2/3号特薬を試製開始。防毒面や発煙兵器も作り始めた。

 1号特薬は、クロルアセトフェノンの催涙ガス。
 2号特薬は、ヂフェニル青化砒素のくしゃみ剤。
 1&2号は、艦砲弾に充填する他、瓦斯訓練にも用いた。

 3号特薬甲は、イペリットの糜爛ガス。6番1号爆弾に充填した。
 3号特薬乙は、ルイサイトの糜爛ガス。実験のみ。性能は甲に劣ると判定された。

 4号特薬は、青酸ガスで、陸軍式を採り、陸戦用に実験した。実用はせず。

 1&2号は、いつでも艦砲の弾丸に充填できるように量産された。1発あたりの充填量はわずかなものなので、設備は小規模で済んだ。S13には、海軍技術研究所の化学部の生産量で間に合っていた。

 S19年度末に、特薬の整備は中止された。液体塩素の生産が急減したため、続けられなくなった。

 S2に2式防毒面をつくったが、性能は不満足であった。
 S8に、93式防毒面をつくった。COにも対応する。これが終戦まで整備された。

 97式防毒面、独立式呼吸用酸素防毒面、簡易防毒面もあった。

 S9に、94式防毒衣。
 その後、98式防毒衣と、そのバージョンである「軽防毒衣」が完成した。

 除毒剤には、3号~6号があった。これはガス型番に対応するものではない。

 焼夷剤チオコールは、「チャコール」とは無関係。ゴムと結合する可塑剤である。

 3式通常弾子と、25番3号〔エレクトロン系〕の弾子〔の中央部〕にテトリルと雷管を入れ、防弾タンク内で爆発させるものを実験したが、実用に至らず。特に3式弾としては耐圧上、無理があった。

 黄燐の融点が低いために、貯蔵に難がある。そこで黄赤燐にし、衝撃発火するものを考え、13糎焼霰弾と「ロサ弾」(中口径で低速)に実用された。径20ミリ、長さ50ミリ、60グラム。

 中口径砲弾に充填する、クシャミと催涙の小缶を、3万個作ったが、使用の機会なしと認め製造を中止せり。
 航空基地対航空基地の戦いが激しくなると、イペリット爆弾4万3000発を製造したが、原材料と戦局の関係からそこで中止。予定では10万個だった。

 3式焼散弾(中口径以上)、25番3号爆弾、7番6号爆弾は、特殊ゴム焼夷剤弾子を使う。
 4式焼散弾と、3番3号爆弾は、黄燐弾子を使う。

 クロルアセトフェノン(催涙)とイペリットは、S19末に製造を中止した。
 催涙弾は、弾丸および爆弾用の型薬缶に充填したが、完成弾の組立は行なわず。
 2号特薬は18年度で生産終了。

 6番1号爆弾2型の特薬缶は、S17年度に、実験用に2000個製造したのみ。

 8糎迫撃砲1号特弾。S19年度に500発つくる。実験用。

 中口径砲用の型薬缶(クシャミ剤と催涙剤)、S17年度で生産終わる。

 3番3号爆弾用焼薬は、17年度まで生産ゼロ。18~19年度に、計16000個(弾子入黄燐焼夷缶)。

 6番1号陸用爆弾(イペリット17kg装填)組立。S18年度までゼロ。19年度に4200個。20年度に600個。

 40kg発煙筐は、18~20年度に製造。
 30kg発煙筒は、18年度までで製造おわり。

 防空凧というのを19年度に500、20年度に2000個、作っている。

 6番1号爆弾は、S12に完成した。
 2式防毒面は、S2である。
 91式発煙器は、S6年。
 発煙筒は、S10年。
 発煙筐は、S17年。
 手投煙壜は、S18にできた。

 ゴム系焼夷剤(三式通常弾と爆弾用)はS17にできた。
 特殊燐(焼夷弾用)はS18に。
 4式防空気球はS19に。
 防空凧 1型、2型 ともにS19にできた。

 3号特薬に樹脂を加え、粘着持久を狙う研究もした。
 戦艦の主砲弾の四分の一は、3式弾(S17-6完成)とした。
 だからガ島砲撃も、じつは不徹底になってしまった。

 『金剛』の主砲で、規定の常装薬で発射すると初速は825m/秒。閉角16度、5~6秒間、スウィープ1000mとなる。零式時限信管を用う。

 S18年に「仮称」が取れた。
 12.7センチAAG用にまで、三式弾は造られた。弾子径は13ミリ。

 『大和』は3式弾を1発も使用しなかった?

 『陸奥』爆沈は、三式弾の自燃発火を疑われた。
 結論。沈没時の茶褐の煙から、原因は装薬であり、3式ではない。

 多硫化重合合成ゴムを、チオコールまたはチオナイトと呼んだ。

 2式25番3号爆弾は、初のテルミット系。完成するやただちに、連日10~15発が、爆弾輸送機で南方基地へ運ばれた。

 艦内火事は、COが多く出る。
 「型薬」は、通常弾の被帽と風帽の間などの空所に装填するもので、1号/2号特薬をベークライト&真鍮の2重容器に納めた。真鍮の方は、精工舎に特注。

 「小銃煙弾」は、ベンゲル煙薬を詰めた4翼小筒で、三八式歩兵銃の筒先に装填して木弾で発射すると自動点火。200m前方に煙幕を展張する。

 3番3号爆弾は、戦闘機から敵爆撃機を攻撃する爆弾。燐充填弾子は、日本精錬(株)の群山および三春工場製。初め黄リン、のち、黄赤半々。

 S17夏に「手投特弾」×1万本作れとの注文。
 4号特薬(青酸)をサイダー瓶に詰めた陸戦兵器だった。終戦時に、燃やした。

 桑原高雄が七科主任になって間もなく、6番1号爆弾の特薬缶に3号特薬甲改1を充填する作業命令が出た。
 甲はイペリット。改1は、イペリットに、メタアクリル酸樹脂(飛行機の風防材)と塩化ビニール樹脂を溶解して粘着性・附着性を付与したもの。

 特薬缶は、円錐形のタイプと、中心管を有する円筒形の二重套管タイプに大別された。
 3特は6科でつくった。

 S18-6、鹿島爆撃場で、「焼夷筒」を実験。5kgのテルミットを詰めたもので、不発弾を処理できるか。まず小型爆弾で試し、6月下旬に、1トン爆弾×2で試した。「仮称1号焼夷筒甲」。

 S19になると、東洋陶器(株)や大倉陶園で試作した陶器製の60キロ1号爆弾も研究した。

 S19末以降、4号特薬噴射器の試作あり。

 4式防空気球。アンモニアを分解した水素を詰めてある。それだけ。心理的に地上銃撃をやりにくくしてやる。S19に360個、S20に100個作った。

 そのアンモニアも無くなったので、「防空凧」をS19からこしらえたわけ。S19には500個、S20には2000個完成。複葉機型であった。

 鹿島海岸には米空母に模したコンクリート物があり、特薬兵器の効果をS17までそこで判定していた。

 4号特薬は揮発性が高いが、液体から気化すると非常に冷えて下に溜まることが分かった。また気化しそこなった液は固体のように冷えて附着した。困ったのは、酸素マスク以外に防禦方法がなかったこと。

 風船爆弾には陸軍の「ふ号」と海軍の「八号兵器」あり。後者は半有圧式だが、全備重量は同じ。放射は、陸軍に任せた。
 海軍の爆弾はそこには搭載されなかった。

 潜水艦から放流する「八号兵器2型」、コマンドー用バージョンの「仮称4式登攀具」があった。※水素バルーンの力で崖を速く登ろうというのか。これは映画に使えるね。

 不定期時限起爆装置として、アセトンと三酸化クロム(0.48%)の接触が最適と分かった。過マンガン酸カリ0.41%だと、もっと長時間にできる。アセトンは、隔離板のセルロイドを溶かし、3離化クロムと反応す。そして起爆部に点火する。数時間がかり。

 催涙ガスは、日本人に効くが、白人には効かない。くしゃみガスはその逆だと言われた。

 8号兵器は、二十匁の絹羽二重にゴムを塗った、贅沢なものだった。
 山人いわく。木の芽どきでなければ、どんなに火をつけても山火事にはならぬ。枯れ葉、枯れ枝も生きているので。

 空気に触れると燃えるエチル亜鉛をガラスに入れた焼夷弾を8号兵器に積もうとしたが、中止。
 3号特薬甲(改1)は、カレーライスに匂いが似ている。
 25番3号爆弾は、トラック島に野積みしておいたら、自然発火した。

 「スラバヤでは、初めはオランダ人は雑役なく抑留していたが、女子供はすぐ帰宅させていた。生活の程度を現地人並に落とす事の出来ない女達は、その邸やアパートに、ひそかに男達を迎えていた。海軍士官等の行くレスでは、一夜を明かして帰っても十円位で済んだが、彼女達は一夜二十円だった」(pp.196-7)。

 大15暮に実験。くしゃみガス筒は、黄緑色煙を噴出。アダムサイト?

 93式3号/4号防毒面。
 簡易防毒面の中に、仮称5式と、仮称3式があった。

 2号特薬は、6番1号陸用爆弾2型。
 3号特薬甲は、6番1号陸用爆弾。
 4号特薬で「4号機銃弾」というのも研究したらしい。

 6号特薬(中毒)というのがあり、小銃投射弾、手榴弾、謀略的用途も考えられた。
 11号特薬は、仮称4式3番7号爆弾に入れたほか、「1号兵器甲」「1号兵器乙」にも入れた。詳細不明。

 黄燐系焼夷剤は、99式3番3号爆弾、12糎ロサ弾(噴進弾)。

 可燃性ゴム系は、2式25番3号、1式7番6号。

 海上煙爆弾は、金属ナトリウムと黒色火薬。
 1キロ演習爆弾には、燐系とチタン系がある。

▼『相模海軍工廠――追想』S59 非売品。
 黄燐は、硫酸銅水溶液で洗う。

 レス……海軍士官専用の料亭の総称。

 S20-8頃、「最近入庫の細菌兵器報告」とかいう軍極秘図書もあった。

 相模では本土決戦用の木箱地雷、木製手投弾も作った。

 三号特薬甲は、陸軍の「きい剤」と同じ。イペリット。
 三号特薬乙は、ルイサイト。

 終戦近く、ヒマの種子から得られるリチン(粉末兵器用)、トリカブトのアコニチン(矢毒用)を、上田で研究していた。

 S19年4月以降、霞ヶ浦でイペリット爆弾実験。「ルチン」爆弾も試験。
  ※11号甲がリチンで11号乙がアコニチンなのか?

 S11-3に、ルイサイト系を合成。
 S16-2~、粘性イペリットを詰めた迫撃砲弾の実験。

 黄燐焼夷弾は、黄燐と二硫化炭素。
 テルミット焼夷爆弾には、カーリットを併填した。

 末期、「B11号室」というところあり。

 1キロ発煙筒はブリキで、マッチ薬付。導火線が出ていて、木製のスリ板で点火する。

 手投催涙弾。セルロイドに涙剤を滲みこませたものが詰まっていて、手で着火して投げる。爆発はしない。

 技大尉。4~5年前、京浜の製鋼ストリップミルを見学。思わず「これが戦争中にあればなあ!!」と呟いた。傍らにいた同年輩の同工場の技師が答えて、「こんどやれば勝ですよ」。で、二人で大笑いしたことがある。

▼(社)関東建設弘済会『不発弾処理』建設省関東地方建設局利根川上流工事事務所pub. S56
 16発、処理した。
 S54-8-1に川中1発爆発。これが発端。

 30年前の朝鮮動乱時の250キロ×16発。

 作業は、陸上自衛隊武器隊、1Dの第一武器隊(長は2佐)。
 16発のうち、長延期時限信管付きのものが7発。

 1DはS33から、400~500件、計20トンの処理を実施。

 S55-7-5、海中投棄。

 S26頃(S25-10とも)、米軍の故障機が投棄したものという。
 20~30発落とし、一部はすぐに爆発。一部は数日間、断続的に爆発した。1週間続いた。

 S54-8のは不完爆と思われる。完爆すれば破片はmax1500m飛ぶ。

 一斉誘爆により処理する場合、1個につき1.5~3.0kgの爆薬を密着させる。

 ブレードレス・ポンプでリモコン式に、弾頭方向を確認して掘り下げる。
 信管離脱防止装置がついている場合、水中信管抜き取りは不可能。

 信管抜きは1発につき1時間半かかる。1日に2発を限度とする。午前ひとつ、午後ひとつ。
 「化学時限信管」だった。

 代表的不発弾には、50、100、200kgと、1トン機雷がある。

 今回のやつは、径30~38センチ(36位)、L=120cm(尾翼入れると150cm)。
  ※ちなみにM64(500ポンド)は径360ミリ、全長1440ミリ。

 誘爆法は、破片防止上、上に180トンの土砂で負荷をかけねばならない。ただし振動で水道管やガス管の被害があり得る。

 時限式特有の信管離脱防止用ロックピンの抜き取りが難航。ドリルで径1ミリの穴をあけ、除去後、信管を四分の一づつ回転させていく。

 信管除去(離脱)したものはヒューイで河川敷へ移し、トラックで陸自弾薬庫に収め、海自が船で八丈沖の日本海溝(3000m)に投棄。

 時限式でないものは、機械式信管である。
 ロックピン、Aアダプター、Bアダプター。

 弾底に長延期時限信管が剥き出しになっており、尾翼の間にその安全解除翼がつく。8枚羽根。
 この安全解除翼の軸の長さが識別の決め手となる。

 10年前にも1発爆発したが、目撃者は、相手にされなかった。

 特殊スパナが必要だが、曲がってしまったので、それを唯一製作できる熊谷市に作らせに行く。

 埋没はみな0.8~1.5mだが、これは水流で穴が掘られて最終的に落ち着いた深さ。