▼永田実『ルーブル』
ソ連の工業製品が輸出に占める割合は3~4%だが日本は軽工業含めて97~98%である。
1979ソ連はチタンの輸出をとつぜん停止した。クロム、プラチナ、マンガンなどの国内蓄積を進めている節がある。
ソ連は欧州市場の軽油の60%を供給。
アジア・ドル市場はヨーロッパに比べ規模が小さいので操作しやすい。ソ連はまず大量のドル売りに出、相場を押し下げたところで買い戻して利ザヤを稼ぐ(p.71)。
ルーブルの発券量が公表されることはない。
米『タイム』誌85-6-17号によると、ソ連AWACSは米スペースシャトル初期モデルに似ていると。
ソ連東欧は技術文書に関しては公開主義で、西側へのライセンス輸出を欲しているが、翻訳困難であまり利用されていない。
85-6の米議会公聴会で米海軍は海外では最大規模の諜報員64人を日本に置いていることを明かす。
70’s以降、貿易政策上に国務省よりペンタゴンの発言力が強まる。
ソ連の対西欧ガスパイプが止まってもノルウェーがある。
1963の不作はフルシチョフの大処女地開拓計画の失敗で土地が荒れ旱魃にみまわれたため。ハードカレンシーないのでgold売却につながり失脚。米豪加アルゼンチンから小麦買い付けの始まり。
ソ連は81年から穀物の生産実績を発表しなくなった。※70’sにソの大量買付けでアメリカ飼料が値上がりし市場混乱が続いたので偵察衛星で作況を調べるようになった。
ソ連では魚料理の数は限定される。すずきの一種、ちょうざめ、こい、ふなしか食べない。さば、いか、くじらの食べ方をテレビで指導したが無駄だった。
ソ連の外貨準備は金準備ともどもスターリン以来非公開。
ソ連では石油生産&輸出の方が小麦生産より「比較優位」。百万トンの小麦を輸入し、その生産コストを石油業にふりむけると、7億ドルの輸出収益に。
ソ連は石油採掘と併行して新油田の探鉱をしなかった。しかも西シベリアでは機械採油ではなく自噴に頼っていた(p.42)。
ソ連は沖合い油田は未経験である。
ソ連は貨物輸出の半分を鉄道に頼る、世界一の鉄道王国。
圧延鋼材の鉄鋼製品全体に対する比率。1981においてソ連69%、米74%、日本87%也。日本では絶滅した平炉鋼がソは1980で28%もある。このため径100ミリ超の鋼管は輸入しなければならないのである。
アエロフロートの機長が千葉のスーパーで日用品を万引きして捕まった。
終戦直後のソ連原油生産は2500万トン。84年は61500万トン。
▼西村文夫『ゴルバチョフ』
レーガン再選の見通しが明確になるとソ連は米からの提案で顔を立ててもらって宇宙軍縮の話し合いに乗り出す決心をした。9-6のオガルコフ解任はその露払いだった(p.202)。
60’s末~70’sはじめ、クバン地方の収穫さがったのは「キーロヴェツ」トラクターが重すぎて土壌を過圧縮してしまうしてしまったから。空隙つぶれ浸透保水なくなり立ち枯れ。
ゴルビーはより軽いトラクターを別な工場でつくらせようとしたが戦車&トラクター工場を利権とする軍に阻まれた。
▼モルデハイ・アビール『中東に伸びるソ連戦略』1977
WWⅠまでロシアは米に次ぐ石油生産国。
WWII後、コーカサス油田が枯れかけたときに、ボルガとウラルの中間で第二バクーが発見され、1960には総生産の7割に。
ソ連油田が僻地に移るにつれて採掘は困難を増し、それがソ連をして国際原油価格の値上がりを歓迎させる。
石油収入はソ連の外貨獲得の第一位。
シベリアの石油をヨーロッパ・ロシアに運ぶためには精油と同じくらいコストがかかるため、ボルガ・ウラル石油に比べるとその価格は2倍になる。
チェコの対ソ石油依存度は99%である。
ロシアは19世紀末、鉄道をバンダルアッバスからアラビア海東岸まで延長する予定だった。
味方でない者は敵=ドグマ的態度。敵でない者は味方=実用主義的態度。
1959の米英のレバノン・ヨルダン介入では、ソ連はスエズに続いてふたたび脅しをかけはしたが、領内南部で軍事演習するにとどまった。
1962の米の対イラン軍事援助停止と、トルコIRBM撤去は、イランをしてソ連に接近せしむ。天然ガス輸出協定。
また1966-7にイラン・ソ連兵器供給協定。
1973-10にイランは石油危機に便乗して対ソガスを値上げ。ソ連は値上げの代わりに土地の割譲を提言した(p.146)。
1974にミグ23とスカッドが大量にイラクに送られた。
ソ連に支援された南イエメンがサウジと小戦闘。
米は1978高価格の中東石油を輸入し、アラスカ石油をより低価格で輸出した。
訳者。CIAリポートによるとソ連の汲み上げ技術は米の50’sのものであり、水攻法も含水率44%になってしまっていると。
▼旅順図書館 ed.『日露戦後三十周年記念 在旅順同役参加者座談会誌』第一回~第三回(S10-12、S11-11、S14-5 pub.)
36連隊長は二龍山からの47ミリ砲に腹部を直撃され、後送後に死亡。
とうじ「予備」はなく、現役→後備→国民軍。日清で現役だった者は日露では国民軍だった。
日清戦当時、一門の大砲を撃つには上等兵が三名と馭者3名は古い者でなければならぬ。他3名はシロートでよい。
日清では後備の騎兵がスペンサーカービン。また歩兵の後備はスナイドル。10~15発うつと新品でも遊底開かなくなり、みな腰に木槌をさげてこれで叩く。
日清では歩兵は近1のみ22年式、近2は単発銃、二連発銃(?)だった。
日露では後備歩は18年式。
この銃の話をしている第三軍弾薬中間廠附砲兵一等銃工長・駒井春太郎の談。
M38-8~10月に「遊底覆」を考え、槁本参謀長に認められ、1個大隊分つくって送ったと。
輜重車は、36式2輪輜重車→38式→39式→自動(貨)車。
蝿取り紙は、カナダ製?
日本の発明ではなかった。タングルフートとか言った。
日本兵のPOWは帰ってきたとき、やはり申し訳なさそうにしていた(第一回)。
焼夷弾という言葉はなく、延焼弾と言った(第二回)。
支那馬車は輪の接地幅が広い。日本のwheelは幅が狭く、泥に沈む。
素焼きの丼を「ごろ八茶碗」と言った。
ロシアのコンクリートに鉄筋は無かった。
鉄条網は3000ボルト通じていた。
▼吉田璋也『有輪担架』S15-3
キャンバス木骨担架の下に自転車のタイヤが一輪ついている。これを装備した隊があった。
▼毎日新聞社 ed.『海鷲隊長の手記』S19-11
十数人へのインタビュー。
ボルネオでは死体を一丈の大トカゲが食っている。
S17-5-7に小型空母喪失の報を知るや「断じて報復せん」と全員の敵愾心は熱湯のやうにたぎりたつた。
ビヤ樽に洗濯板を突きさした奴=F-4F
ミッドウェー参加の零戦隊長浅間大尉いわく、敵の搭乗員の顔をみたことはない。赤いか青いか、帽にメガネで分かるわけがない。白いマフラーをはっきりみたことはある。
▼エルンスト・ウーデット『戦乱の翼──大戦勃発から終局まで』坂部護郎 tr.S12-8
2人乗りボマーで部品欠陥のためスイスに不時着。ウーデットは上等兵だった。スイス人は親独だった。
「今は敵のプロペラーの廻転によつて起る風を感じる位に近づいた」
20mまで近づくと、敵のプロペラ風を感じる。そこから撃つと12発でおとせる。
航空兵は曹長から無試験で少尉に昇進す。
両手でMGを叩くと直ることがある。ギュヌメールが後ろからそれを見てこの機の状態を悟る。そして両手で「あばよ」と合図して去っていった。
※両手で、の意味は、どちらの手も引き金から放したよ、ということか。
リヒトホーヘンは騎兵大尉男爵でウーデットと会った日に68機撃墜しており「西部戦線の赤鷲」とか「紅の男爵」と云われていた。
リヒトホーヘンは10mで射っていた。
リヒトホーヘンは編隊中で臆病な行動をとった者は即日、追放した。
長靴を履いたままでは大便はできぬ。
すれ違いざまヒマシ油の匂い。
まわりで火を燃やすとガス対策になる。
末期はフォッカーD VII、階級は中尉。同じ中尉のゲーリングが最後の着任上官。
ウーデットは戦間期をいかに飛行機屋として過ごしたか。
▼滝口乙三郎『青嶋占領紀念写真帖』大4-5
騎銃(30/38)の一斉対空射。珍。
38式15榴のクリアな写真。
占領当時イルチス砲台上の写真。間違いなく38式歩兵銃。※つまり初陣でドイツ軍に勝った小銃なのだ。
独のソリ付き重機。
分捕せる敵の野砲。15榴くらい。
破壊されたビスマーク砲台の28cm砲。
独野砲は38式野砲に酷似。
▼『スターリン全集 第一巻』大月書店、1952
日露戦争中のアジ:「カフカーズの労仂者よ、復讐するときがきた!」
「どうだろう、同志諸君。専制政治は、われわれにむちのうなりや弾丸の音をわすれてくれ、何百人のころされた英雄の同志を、われわれのまわりをただよって『復讐しろ』とわれわれにささやく彼らの栄誉あるまぼろしを、わすれてくれとたのんでいるのだ!」
「復讐するときがきた! ヤロスラヴリ、ドムブロヴォ、……グーリア、バクーその他の場所でツァーリのバシブズーク兵にむごたらしくころされた栄誉ある同志の復讐をするときがきた!」
「復讐するときがきたのだ!」
以上、1905-1-8印刷の宣言文。
▼ジョージ・Marion『基地と帝国』新山健 tr.1954、原1948
第五艦隊司令長官、レイモンド・A・スプルーアンス大将は、沖縄に戦後も基地をもつのは「防衛」に合致しない、と。
デンマークはグリーンランドから米国人を追い出すことができず、逆に原住民100人を疎開させた。
グリーンランド撤退を米が拒否したことは1946~47のデンマーク内ではげしい議論をよんだ。
1985に米の銀行、鉄道会社は、ロシアに100%米資の「満鉄」をシベリア鉄道に連結させろと要求した(p.113)。
これを断って1896、ロシアは東新鉄道の権利を得た。
1916にはWWⅠに乗じでシナの通信界を支配できる取り引き。他の計画、特に鉄道は、欧州が日本をあとおしして潰させた。
▼片倉藤次郎『英米の空爆原理』S18-11
この版元・アジア青年社に、『獄中獄外』/児玉誉士夫あり。
「我々は敵国アメリカが先月(四月)迄に既に十一隻の航空母艦を進水せしめ更に五月下旬に新に一隻を進水せしめた事、そして其上に尚ほ六十隻の航空母艦の建造中であると告げられる」(p.5)。
また4月15日に首相官邸で開かれた地方長官会議で陸軍は「最近米国の与論、その戦備進捗の現況に鑑みるとき帝国本土に対する敵の空襲はこれが実現必至と予想せらる」と。
彼等は本年度末には12万5000の飛行機を有するに至ると我等は告げらる。
アリューシャンの飛行場は9月末~初夏は濃霧で使えぬ。
英の対独空襲は1939-9-4のウィルヘルムスハーフェン及びブルンスビュッテル等の要港に対するのが最初。
前日には偵察飛行とリーフレット撒き。
9-24にフリードリヒスハーフェンのエンジン工場を英仏が爆撃。
対人民爆撃は1940-1-12のシルト島ウエスヨーラントに対するのが最初。
1940-5-10~12、フライブルク市初空襲。
5-21~22、ボン、アーヘン初空襲。
独の対英爆撃は1939-9-29のヘリゴランド湾、10-16のスコットランドのフオラ湾が早く、40-6-20夜に至りようやく陸上都市を爆撃。
これに対し英はベルリン住宅地を8回爆撃。
独は遂に1940-9-6~7にロンドン大空襲。
1907の陸戦法規。第25条。如何なる手段に依るも無防備の都市、村落、住宅又は建物の攻撃または砲撃は禁ず。
海戦規約の第1条にも、無防備の港、都市、村落、住宅又は建物の砲撃は禁止せらる。 ともに英米も調印。
「この英米の焦土化テロ空爆原理が」(p.38)。
東京大阪の人口密集度はロンドン、ベルリンをしのぐ。
WWII緒戦でベルギーは7000余の戦死者を出して降伏したが、その後英米がアントワープを空襲したところ一挙2300人が死んだ。
ローマ爆撃を米に勧めたのも英。
1933-5-27、連盟委員総会で米代表ウィルソンは、空襲戦の全廃、空襲の例外なき違法化を唱えた。
空襲を警察行動と言い張ったのは1934頃の英政府。
▼関根伸一郎『飛行船の時代──ツェッペリンのドイツ』H5
アルミはバルト海~アルプスまで独国内で自給可能。WWⅠ中、銅など輸入金属の代用材として、ラインラント、バイエルンで量産。
英は戦前からツェッペリンを警戒し、チャーチルは1913に、英も建造せよ、と。
1915-1-20、初の英本土爆撃がL3とL6で。ウィルヘルム二世は自分の親戚を空爆したくなく、ロンドンは不許可。
200キロ爆弾を投下。
1915-6-6、1000キロ爆弾を投下。
新型のLZ40号(L10号)は、1915-6-4に、100キロ×2、50キロ×20、焼夷弾×90を投下。
また1915-6-16に2500キロの爆弾を投下。
1916には夜間空襲に切り替え。1916-9-2~3の16機による爆撃では事前に警告した。463発を投弾。
ロンドン往復30h、高度6000だからひどく体力を消耗する。航空心理学や航空病の研究が始まる。
ツェ伯じしん、1914には飛行船より固定翼と考え、ボッシュに巨大飛行艇をつくらせている。
ブルガリア→東アフリカ補給飛行では、エジプト上空で沙漠の照り返しに乗員が目をやられた。高度1000mを保つ。95h、6757km飛んでたどりつく。
WWⅠで海軍LZは64機投入、17機喪失。陸軍LZは50機投入、17機被撃墜、9機事故、19機老朽解体。
1915から3年間に出動した飛行船の英国爆撃ミッションは50回。それによる英人被害は556人。
▼岩田達『戦捷の哲学的基礎知識』S18-11
日蓮いわく、「夫れ一切世間の中にて國が亡ぶるが大事にて候」「須らく天下国家を祈りて己が一身に及ぶべし」。
吉川英治「死んだ偉人も国家の現在の宝」「世界の有する財産の中で、最も貴重な財産は人間」(スターリン氏)
プラトン「正に仮面の平和こそ戦時」
「我が民は智識なきによりて滅さるべし」(ホセア書 四ノ六)
フォッシュいわく総力戦下の国家は往時の包囲された都市市民と同じなのだと。
会津籠城では、鍋、釜、装身具、骨董品、仏具を弾丸にした。「仏法を鉄砲にする会津兵」
昭和14年までは工作機械用精密軸受けの「国産は絶無」で、総てテイムチンおよびSKF(スウェーデン)の供給に依存し、S15-8、米の工作機械禁輸と、S16-6独ソ戦にせまられて、S16-10にかろうじて国立機械試験所の手による円錐コロの製作法に一成案を得、政府の援助もあって17年初頭以後、ようやく国産精密軸受けの生産を見る(p.217)。
14、15、16年度の物動計画は、どうなるかも知れない米英の物資を頼りにして樹てられていた。
多田恵一は大8にボルネオ開発を説いた。田中義一陸相は明石台湾総督に南洋調査費を出させようとしたが、明石中将病没で頓挫。
シベリア出兵時、陸軍航空本部第二課長であった高橋常吉大佐がS12-9-1に講演したところによれば、シベリア出兵でいっしょに出て行った米英軍は、戦闘そっちのけで石油その他の資源地質調査を行なっていた。それを見、その目的の遠大なるに、却って感服した、と(p.228)。
仏印には無煙炭あり、日本の電力会社はこの石炭を最も使いたがった。
月: 2006年4月
靖国関係の疑問ある人は『大東亜戦争の謎を解く』を読みましょう
▼内田星美『近代日本の技術と技術政策』1986
陸軍からの留学は1870=M3桂太郎から始まる。
初めは組織・作戦を学ばせるためだったが、1879より、砲・工兵関係の技術留学が大宗に。
日露役直前の1903に工兵課の所管に軽気球が加わった。
M17にはオーストラリア政府から銃の依託生産を受注。
三年式重機には「レキザー」銃の長所がとりいれられている?(p.204)
▼フラウイウス・ヨセフス『ユダヤ戦記』I~III、新見宏・秦剛平 tr.1975~81、原B.C.75~9
著者は防衛隊長だった。
破滅の原因は僭主。この僭主よりはローマ軍が寛大だった。
ギリシャ歴史学は二次史料の羅列だけだ。
軍勢は……無数のらくだに踏みつぶされてしまった(I巻p.53)。
安息日でも自衛のためにだけはユダヤ人は戦う。
麦は夏に収穫されるので、夏こそ掠奪の秋。
ユダヤ人は体力に於いてギリシャ人にまさっていた(II巻p.11)。
ローマは中東の平坦地では槍騎兵を主用した。
命令はすべてラッパ(p.113)。
ローマ歩兵は両腰に長短2剣を帯びる。
フェンスには牛の生皮がよい。
動物には自ら望んで命を絶つものはない。だから自殺は神への冒涜である。よって投降も不名誉ではない。
アスファルトを船の防水材にしていた。
城壁の破壊部分を大きくすることは退却をsuggestする(p.69)。
ローマ兵は鋲を多数打った靴を履いていた。
▼『島崎藤村全集・13』「フランスだより」S31年
大正5年発表の談話によれば、フランスの新聞はゴシップ載せず、未決犯人は頭文字しか出さない。
シーメンス事件当時、筆者は仏人から仏製軍艦売り込みに協力するよう迫られた。『ニコニコ』大5-9-1号記事。
仏人は勲章に執着する。
▼濱口富士雄『射経』S54年
唐~宋にかけ『○○経』という本が百出する。酒経、香経、筆経……。
易経の繋辞下に出る弓は未だ丸木弓。これが周礼の考工記弓人になるや、現代とほぼ同じ合成短弓に。
決・ゆがけは、親指につける象牙の器具。遂・ゆごては、腕を保護する。蒙古式。
詩経の車攻に、車上射を描写。
趙王の胡服騎射採用は『戦国策』に載る。
押し出し射法を難じ、自然な離れを提唱しているところを徂徠が訳し、日置流に採用された。
解説。日本の弓は耳のうしろまで引く。シナの弓は顎の下まで。
弓をひきつがえた状態=持満。
倭寇の頃、和弓はシナ弓より威力があった。南方では膠が解けるので威力が落ちるせい?
実戦では練習用よりも弱弓を用いる。強いと狙いがつかなくなる(p.72)。
原始の形では、右手親指のハラと人差し指の第二関節脇で矢を締め付けつつ引く。
地中海形では、親指と小指を一切使わない。三本指の第一関節で弦をひっかけて引く。
蒙古形は、曲げた親指で引く。だから親指保護の「ゆがけ」が必要。
柳は根付きよく、成長も早いので、軍営の周囲に植えられた。よって柳営という。
シナの騎射は「居鞍」。日本式は「立透[たちすかし](p.164)。
▼筑摩『現代日本思想体系 4 ナショナリズム』1964
神風連は明治5~9年に進歩派が敬神党を嘲笑せんとしてつけた仇名。
神風=カミガカリという記号認識は明治初からあった。
神風連とは、オランダ学万歳派が、新世代の英仏その他派に叛旗をひるがえしたものとも言える。
M8の神風連は髷は残し、刀は袋に入れて手に提げて外出した。
熊本城では乱があろうとは察していたが、まさか洋式武器のある城に攻め寄せるとは予期せず。
このとき、与倉知実中佐邸が襲われ、本人は逃げたが、聯隊旗は奪われた。M9-10-24のこと。※人事総覧をみると与倉はその後将官になっていない。
保田与重郎は『馭戎概言』を精読すれば思想戦が書いてあると1942に。
中野正剛は、国家改造計画綱領の中で、金融は統制下に置けと。米では銀行反抗のため行き詰まっている。国有化や半官半民にする必要もないと。
日本はいまだ……高度精密工業……について先進国に譲るところのものが少なくない(p.323)。
▼G・ダニエル『文明の起源と考古学』1973、原1971
1950’sまでの成果を収録。
ジョンソン博士はcivilizationを彼の英語辞書に収録することを拒み、古くから礼儀を意味したcivilityを選んだ。
都市化は urbanizatin
E・タイラーの定義だと、野蛮→未開(農耕)→文明(文字)。
モーガンの区分。火→弓矢→土器→家畜→鉄→表音文字→文明。
トムセンの三段階。石器→青銅器→鉄器。
ラボック。Neolithic~Palaeolithic (lith- 石の)
炭素測定法により、文明はザクロス山麓でなく、最初の農耕民のあらわれた三日月地帯よりももっと南のメソポタミアで生れたと確定。「歴史はシュメールから始まる」。
創世記11章。人々は東のほうから移動してきて、シヌアルの地=シュメールに平地を見つけ、そこに定住した……。
アベルとカインは、ステップ沙漠民と灌漑流域農民とを代表。
旧約のバビロニア人とはカルデア人。ジェネシスのアブラハムはそのウルに住んでいた。
「カルデアの」は長いあいだ「賢人」を意味した。
日干しレンガの耐久年は75年。だからテルができる。
ヒッタイトは象形文字を使用。
プンジャブには古代車が残り、現用されている。
マルサスが1798にシナを世界で最も豊かな国と言ったのは当時の西洋のステロタイプに基づく。
『人口論』から25年でシナ観は地に堕ちた(p.120)。
ランケ、ゴールドスミス、ヘーゲル、コンドルセは口を揃えてシナを停滞不変の国と呼んだ。
黄帝は青銅期の直前か。
シルクロードはB.C.3000には開かれており、仰韶の成立と一致し、それより6000年前からある近東農業をうけついでいるかもしれない(p.127)。
商期、ほとんどの交通は水路によった。
ワトソンいわく、商社会は、戦車と弓を主に使う点、青銅器近東都市文明に似ると。
食料生産革命はエリオット・スミスが言った。
弩がシナから西に渡ったと主張したのはJ・ニーダム。
▼ロマン・ギルシュマン『イランの古代文化』
アゼルバイジャンは別名・メディア地峡。イラン山岳防御帯の裂け目であり、肥沃で人口稠密、メディア人からペルシャ人の出発地。
カスピ沿山地は雨が多い森林で、大食糧供給地方。
エラム象形文字は、魚を除けば既に漢字とは全く違う。
ギアン出土の三足土器は、鼎に似る。B.C.2000末。
B.C.860以前のアッシリアはチャリオットのみで騎兵なし。アッシリア彫刻に国王が戦車で山河を越えるところを描いているのは、それが大苦労だったから(p.78)。
旧約エレミア:見よ、かれは雲の如く来り、その車は旋風の如し、その馬は鷲より早し……。スキタイの地中海征服。
シナとうてつ文の仮面の「新ヒッタイト王国」様式の類似。
▼F・ギゾー『ヨーロッパ文明史』上・下
1828ソルボンヌでローマ崩壊から仏革命までをGuizotが講じたもの。
文明の科学的定義はしない。
文明とは社会と精神の進歩、発展で、物質的豊かさではない。だから文明のために蒙った損失ならば忘れることができる。
ヨーロッパ文明の秘密は、社会秩序の諸要素の多様性、それらの要素が互いに他を根絶し得なかったことに求められる。その反対がアジア的専制なのだ(p.51)。
初期ローマ時代、イタリアには耕地はあっても農村はなく、都市から田園に出かけていくのみ。
上位ヒエラルキーが下位者を任命し、思想を強制するカソリックが12世紀以降定まったのは不幸。
5~10世紀、農村優位化し、都市が衰微し、人口は減った。
封建制→再び都市が活性をとりもどす。常に都市内にある教会が、農村封土からの逃亡知識人を吸引。→市民。
領主の土地の中に、収穫対象としての都市が囲繞されることになった。
自治市と領主との「防壁権」をめぐる戦いは11世紀に本格化。市側が勝つ。
市民は領主をさしおいて、王に接近する。12世紀。
12~13世紀の市民は常に胸ヨロイをつけ、槍を手にしていた(下p.32)。
▼渡辺已之次郎『華盛頓に於る日本の敗戦』大11
米国海軍はWWⅠで活躍できなかったため、戦後、腕試しがしたくてたまらないのだ(p.15)。
ウィルソンの頃まで、米大統領は海外旅行しないとの不文律あり。またウィルソンは講和委員に上院議員や共和党員を含めず、議会対策をまったく怠った。
当時のフィリピン総督はウッド将軍。
デンビー海軍長官による米国艦隊編成替は、太平洋に最新の重油焚き艦、大西洋には石炭焚き艦を配せんとす。
ハワイ軍司令官には、WWⅠ指揮経験あるサマロール将軍が任ぜられた。
ヤップ島問題は大9の国際通信会議以来。
グアムにもヤップにも海底線。ヤップからはグアム、上海、メナドに線が繋がる。
海軍の秘密主義が陸奥の既成艦たることを米国に知らせないようにして置いた(p.139)。
グアムは米海軍の軍政下におかれ、アプラ港には外国商船立ち入り不可。ただし貯蔵は石炭のみ。
サモアも米軍政下。艦船修理施設あり。「ボロック」にも海軍根拠地。
ハワイは、カリフォルニア、アラスカ、サモアより等距離。東部太平洋の支配点(p.143)。
ターンバル、フィスクらの海軍人は、早くからフィリピンは空軍力で守るのが合理的であることを説いていた(pp.242-4)。
▼鈴木兼吉『ワシントン会議に際して』大10
全権は国内では後援を訴えず、出航はるか後、無電で支持を呼びかけた。
マーク・ケーア中将の9月論文。subは半径6マイル[ノーティカルマイル]しか見通せないが、クルーザーは20マイルみわたせるから、水上制海こそ完璧な洋上支配也という(p.100)。
また同将はairはsubに絶対有利なので護衛も空軍にやらせろという(p.105)。
ヤップ島電信はもともとドイツ所有。ガム、ミンダナオ、セレベス(メナド)に線がつながっており、ロケーションは比島とグアムの中間。
▼常田力『ワシントン会議と永久平和』大11
「事実現代を溯る五十回の海戦に於て、六割で勝ったのは漸く一割位である」(p.163)。だから七割に固執した。
4国協定とは、奄美や小笠原が日本本土であると否とに係わらずこの防備を現状維持するとしたもの。
▼外務省調査部第二課『ドイツと植民地問題』S16年
ニューギニア殖民は濠の猛反対あったが英の許可があったので実行。東半分の北側をとる。
スペインは米西役の負債を軽くするため、1899、カロリン、パラウ、マリアン(アメリカが占領したグアムを除く)諸島を1675万マルクで独に売却した。
ガダルカナルのあるサロモン諸島ははじめから含まれない。
連盟を脱した日本に連盟は委任統治の返還要求の態度が示せない。米はそれを望んだ。英は日本の抑制のためにこれを自分たちの統治領もあわせて、ドイツに返してもよいとすら言っている(p.162)。
▼田中広巳「東シナ海と対馬・沖縄」(防衛大学校紀要・第40輯・人文/社会科学編、S55年)
幕府が沖縄を1609の遠征以来、薩摩藩に任せていたのは、軍事的脅威の面で幕府がぜんぜん警戒していなかったことを示す。
ロシアに対して対馬を、砲台+海底ケーブルで守れと主張したのは榎本(大日本外交文書・巻8)。
『ペリー提督日本遠征記』S28訳には、英国未着手の沖縄に着目したのがペリーであったことを示す手紙載る。「太平洋の諸島」は、別の箇所から沖縄と推測できる。
またペリーは日支両方への拠点として台湾を最重視していた。この構想は南北戦争で実現せず(p.48)。
台湾征討論者の西郷隆盛も台湾を沖縄や南洋、シナを制握するところとみなしていた。南進政策は、薩摩系人士の沖縄ルートの発展策である。
李鴻章は沖縄を清国対外発展の門戸とみていた(p.50)。
井上毅は日清戦に臨み、朝鮮は一国で独占できないが台湾は違うと。
『沖縄縣治要覧』大10版によると、M29年7月に沖縄分遣隊は撤廃されてしまった。M31~35までは大隊規模のみ。戦闘力ほとんどなし。
沖縄は日清戦争で、対馬は日露戦争で、各々前線から回廊へと役割が変化した(p.56)。 沖縄基地は米中心にみて価値があるが、アジア中心にみると永遠の価値はない。
▼石井通則『小笠原諸島慨史(その一)』1967
欧米人の初来島は1823、米捕鯨船Transit号の漂着。船長はCoffin。
1855ペリーが父島に。
幕府はペリーの記事によって同諸島が外人に占拠されていることを知った。
硫黄島(火山列島)居住は、M20以降、日本人が最初。定住はM37から。
ペリーは母島を占領せしめたが、合衆国政府はそれを否認した。
南鳥島は19世紀後期よりマーカス島として周知さる。
ついに確認できない「中之鳥島」があるらしい。
沖ノ鳥島と硫黄島は370カイリ。南鳥島と硫黄島は689カイリ。
軍機関としては、父島要塞司令部、海軍通信隊。
S19-4-4から全島民のひきあげ始まり、6-15に艦上機の第一回空襲。
マッカーサーは島民を残す意向だったが、米海軍が反対して強制送還になったという(p.27)。
▼小笠原戦友会 ed.『小笠原兵団の最後』S44年
硫黄島で降伏勧告させたのはサイパン捕虜。
トラック島に対する機動部隊空襲で杉山参謀長と永野軍令部総長が、東條、嶋田に代わられる。東條は軍政と軍令を兼ねる。
S20-1-1時点で父島に陸軍9200人、海軍6000人駐留。
終戦前の1年間は、木造の小型船団すら父島に寄り付けず。
母島からは晴天のときだけ父島が見える。蚊と蟻と鼠がすごい。
▼望月小太郎『華府会議の真相』大11
著者は山縣有朋にも近い、英語で話せる代議士。
林大使はロイド・ジョージの演説当日まで日英同盟は継続される如く誤解して、本国に報告を送っていた。
中南米諸国はぜんぜん参加しないことに決した。
加藤友三郎は日本語で。ハーバード大の市橋教授が通訳した。
加藤は自分の口からではなく、海軍専門委員をして7割をいわせようとした。これが6割屈服の原因だ。
加藤は将来にわたっても米英との海軍対等は求めないと言った。
日本記者団は6割を支持し、海相に迫った。
11-8には出席代議士を前に海相みずから7割必要を説いた。
ここでも日本外交は軟弱で男性的率直を欠き、堂々と陸奥復活を要求しないで、7割の比率を要求すれば陸奥も自然に生かされるというが如き態度。これはじつに見え透いていたので、7割要求もかけひきのひとつとみなされてしまったと。
海相は新聞記者にもなぜ日本が7割を欲するのかの理由を2週間にわたり全く説明しなかった。だから米国新聞は、7割説は一種の駆け引きだと批評した。
海相ははじめから、もし7割が失敗したら、随行部下である海軍専門家の責任にしようとしていたのである。
加藤を抜擢した権兵衛いわく、あまりに妥協性に富むと。
政友会代議士応援団は、ワシントンで7割をプッシュしたが、加藤が6割を呑むと、それを成功と言い囃した。
アラスカ買収の際、英とのあいだで軍事防備せぬ黙約あったが、キスカに米国第二の根拠地を設けた。1898の比島併合の際にも星亨公使に併合しないと約しながら結局やった。グアムは潜水艦根拠地にする予定である(p.88)。
マハンは『米国海権の現在及び将来』の47頁で、ハワイを北太平洋死命の地と呼ぶ。ホーマーリーやバイウォーターも。
ハワイを海軍策源地にすることは1916米国将官会議の決定。
海大教官ニーブラック大佐は、アラスカ、ハワイ、ミッドウェー、グアムの根拠地化を説く。ナイトとロッヂは、ハワイ、ミッドウェーを強調。
加藤海相は、ヒリピン、グワムは我国の鼻先に在るから危険であるが布哇は脅威でないといふ。
大型subはミッドウェー~横浜2250浬を13hで航海している?(p.95)
現にドイッチェランド号はキールからニューヨークを往復した。
1912のヘリゴランド防備制限会議も独が応ぜず、英は占領に苦労した。
山梨陸相は3-12の貴族院で、国防の第一線なる奄美大島小笠原方面に制限を受けるのであるから多少の不安を免れぬ、と。
以前の高平・ルート協定では、ハワイ含む太平洋島の現状維持は約束済み。
ハワイ併合は1898、台湾割譲は1895。
フォッシュもついてきた。
▼小松緑『ワシントン会議の真相』大11
ヒューズ案を知っていたのは、全権4名の他に、デンビー海軍長官、クーンツ海軍大将、ルーズベルト海軍次官、フレッチャー国務次官。
市橋の通訳は声がよくなかった(pp.32-3)。
海軍専門委員は、ルーズベルト、英ビーティー大将、仏ルボン中将、伊アクトン中将、加藤寛治中将。各国とも部下3名づつ。
フィリピン、グアムと米本土間のケーブルはヤップを通らざるを得ず。
摘録とコメント
▼朝日新聞社『鉄の博物誌』S60年
1309の「春日権現記絵巻」に、焼け跡で竹火箸で焼け釘を拾うの図が。
1735英で石炭のコークス化に成功。これで製造した鋳鉄は薄手の鋳物にできた。これで機械の枠台をつくるようになり大発展。
※ギリシャの大理石に類似する加工性良好で強い素材を英は大量に入手した。
1779英コールブルックデールのアーチ橋が世界初の全鋳鉄構造物。
1820頃、炭素を減らしねばりのある錬鉄普及。
1855ベッセマー法でスチール量産に目処。
1860’sには錬鉄の構造物。錬鉄のつなぎは鋲接。
1880’sには鋼の時代に。
1894、日本の高炉製鉄がタタラ製鉄を量で上回る。
幕末大阪湾の砲台に「重い屋根」を支えた鋳鉄支柱ありと/松村貞次郎
M16~18、兵庫県生野鉱山に初の国産鋳鉄アーチ橋。
石炭の亜硫酸ガスが鉄をダメにするのでコークス必要。
石炭を燃やす蒸気機関のポンプで炭坑排水が容易になり、これが石炭を増産せしめ、大量の鋳鉄製造を可能にした。
B.C.2500アナトリアでニッケル含む隕鉄から初めて短剣がつくられる。
これがヒッタイトを経てエジプトへB.C.13~10世紀。
シナでは殷周時代、青銅器の他に、隕鉄の小型儀礼用の鉞と戈あり。
剣伝説。干将(陽で亀文)、莫邪(陰で浸理)。また楚に竜淵、太阿、工市の三剣。
鹿島灘には海砂鉄がうちよせる。それで古来製鉄していたことが『常陸風土記』に。
ムカデは金属神。俵藤太の大百足退治は、蒲生氏が製鉄に関与していたから。
犂先は鋳物。鍬は鍛造。
刃物、大工道具の地方特産品化は江戸後半から。
千葉の久留里(君津市)は戦中に海軍の短剣などをつくった。館山に近いため。もともと鎌の産地。
鹿児島の豚包丁。これは沖縄経由のシナ洋式だという。※蕨手刀もイノシシさばき用を兼ねていたのか。
▼宮崎市定・他『京大東洋史1 古代帝国の成立』S27初版
※もともと京大の支那学は、東大教養漢学に対抗した、西洋史式の東洋史研究。
新疆にはもとイラン・アーリア人いたが、そのごトルコ人が天山山脈を越えて来て、同地をウラル=アルタイ語化した。
広東からは東北貿易風を利用してマレーまで南下できる。
漢末の三国時代~唐末の五代まで740年間、割拠的傾向強いが欧式に封建諸侯化せず、豪族は朝廷における特権貴族であることで満足した。
春秋時代にはまず交通運輸のために堀や堤防を作る。のちに農業用に役立てられる。
※19世紀に河渠淤塞し内線不良となり、反面海外から汽船が高機動集中できるようになるともうOUT。
宋いらい、君主独裁の制度が完成し、簒奪おこりにくくなり、政権が2代以上安定するように。科挙が完成し、官僚制が機能しはじむ。
奴隷は狩猟者および採集者には実際に用がない(p.24)。
仰韶遺跡からは、男よりも女の方が人種的に多用な骨が出土。※先祖は父なくして生れた──の意味は?
北方新石器時代に武器出土せず、闘争少なかったと言える(p.25)。※佐原史観のヒント?
孔子に先立つ時代において、鉄器と牛耕法の発明あり。
殷代、男奴隷を臣、女奴隷を妾とよぶ。殷は山東を討伐し、凱旋するが、西方の周に亡ぼさる。
春秋の斉が富んでいたのは海岸に臨み魚塩を得ていた由。
戦国初、中央に位置した魏の文化が一番高かったが八方から侵されて弱くなり、優れた人材は秦に逃げた。
匈奴は西方スキタイから騎射を学び強大に。秦も戦車から騎射兵に代え、他国に抜きん出る。
私有財産の蓄積と所有を通し、家父長による強い家族統制おこる。これが孔子流の哲学になる。ただし相続は均分。
漢の民衆主食は粟で、西アジアの小麦粉文化とは大いに違う。
▼護雅夫 ed.『東西文明の交流1』
殷代の車は車制からみてオリエントわたりである(p.110)。
ユーラシア北部の半農半牧者のうち、もっとも早く純遊牧化したのがスキタイ。
アッシリアでは、戦用弓は馬を降りて射た。
直飛する三角ヤジリ(三翼)は、ヒッタイト・アッシリアの平面ヤジリと違って騎射可(p.131)。
黒海北岸スキタイは、物資欲しさに南岸ギリシャ植民民市を保護。
サルマタイはスキタイ風短剣を持たず、重矛と長剣を用いた。弓は2次的となる。
戦国時代の斉に槍騎あり。しかしスキタイは用いても短槍。
▼石母田正・他 ed.『古代史講座 13』
車両の発明は、高地から低地に鉱石を運ぶため。
青銅技術は初めメソポタミア、ついでインダスに伝わる。
インダス文明域の広さは同時期メソポタミアの4倍、エジプトの2倍。しかも域内等質。大都市はモヘンジョダロとハラッパだけで他は村落。しかして2都は設計酷似す。600km以上離れているのに……。その大きさは他文明を凌ぐ。
インダスではコブ牛、象が輸蓄とされ、農耕蓄はなかった。多人種都市(p.10)。
前2000に馬使用していたアーリア人のイラン周辺南下により、インダスとメソポタミアの貿易は途絶し、双方亡ぶ?
アケメネスペルシャの制度を、もともと西域に節する秦が採用した(p.15)。
下インダスは、前1000後まで「流風遺韻」の文化影響を残す。
フェニキアのシドン王は、アッシリアの攻撃を受け海上亡命を企てたが予知され捕えられ殺された。後の反乱では、アッシリアは島要塞をとれなかった。
フェニキア海軍は、ダリウス、クセルクセスのギリシャ遠征を導く。
亡びた東フェニキアはドリア山地人がギリシャを奪うや復活しカルタゴに継承。
ヘレニズムは前30ローマのエジプト占領をもって終わる。
インド洋直線横断航路はプトレマイオス朝末期に。紅海北部への航海は危険だったが、ナイル中流コプトスから海岸に出る道を整備。
アショカ王磨崖法勅第13章に、西方ギリシャ5王に仏教使臣を派遣したとある。
インドとローマの貿易はまったくローマの贅沢品入超。
北インド(ガンジス)はローマと交流せず。
淮南子によると始皇帝は今の広東付近の南越を攻めるために南嶺の一部に霊渠を開鑿し糧食を補給させたと。
ビルマルート北端で漢勢力の南端。漢は水系外の陸路支配に限界があった(p.164)。
安史の乱前後にアラブ人による南海貿易が、その効率のよさから陸送間接西方貿易を圧倒。
異民国が中国になつくことを「郷慕」と表記。
戦国時代に鉄製農具が普及し、水利土工が楽になり、水田限界が北上する。
成都は秦代に運河がつくられたことから、稲と魚で民に凶年の憂いがなくなったと、漢書・地理誌。
地溝はダムや池のことで、河から水をとりいれるに非ず。前漢~後漢に淮水でこの工事さかん。畿内で同様工事したのが4~5世紀。
20歳のアレクサンダーが35000の兵とともにB.C.334小アジアに上陸したとき、全軍の食糧はわずか10日分。
▼木村正雄『中国古代帝国の形成』
エジプトと違いシナでは洪水期がすなわち農耕期。だから低平広開で洪水の害を防ぎ得ないところは、農耕地にならなかった。
殷末に王位の兄弟相続制が父子相続制に代わる。周初には財産の長子相続が確立する。
春秋の鉄器普及以後、耕作地責任が単家族毎に分割さる。以後を古代、以前を原始とする。が、治水は個々の家族の管理能力に余ったので、ギリシャ的私有市民には発展しない。
晋の定公はB.C.451~3頃、晋陽城を水浸しにするため渠を掘る。後、農業用水となる。
呉王夫差は中原に兵・糧を送るため2本の溝を掘る。
漢書・溝洫志いわく、鄭国渠が秦に莫大な軍糧を得さしめ、その収入で秦は六国を統一し得たと。※欧州大陸は軍用輜重を運河に頼らず。よって興亡パタンがシナと異なる。
黄河の大堤防は戦国時代にまず斉がつくり、対抗して魏、趙もつくる。※長城のプロトタイプ?
江南では国家権力の背景がなくとも農地の開拓が可能であった。
メソポタミアの塔は洪水時の避難場所として神聖。
▼『海事史料叢書』第6巻・村上雅房「船行要術」永正2年
船は黄帝がはじめて作り、「烏江ヲ漕渡リ玉ト云リ」。
「司天ヨリ運ヲ尅スルヲ天刑ト云」
※千早フル 神ノ瞋恚ニ天道干シ 博ク晒サレ 行キナ止マリソ
防州の上ノ関より、長門関まで、東西に長い。春夏は東風が吹きやすい。秋冬は西風が吹きやすい。
「四季ノ乗様、北国ハ春夏ハ地ニ添ヒ乗リ、秋冬ハ沖ヲ乗、南前ハ春夏ハ沖、秋風ハ地ニ添フ」
「昔ハ沖乗尤禁タリ。其故ハ冬ノ日ハ猶更夏ノ日利ト云モ一日ノ始終ヲ見スベシ。乗リハ難成故也」※これが瀬戸内海である。
無風ニ船ヲ出シテ沖ノリハセサル事也。
陽中ナリトモ風強ク、横波ナラハ本櫓ヲ用ヘシ。瀬戸内也トモ大将貴人乗セタル船ハ本櫓ナルヘシ。
「遠灘ヲ渡ナラバ水ヲ煎シテ樽ニ入ヘシ。水変シ人損ス。唐渡ハ赤土ヲ入、是ハ七日\/ニ色変スル故也。亦潮ヲ水ニ用ルモ赤土ニテコシテツカフ也」(p.301)。
遠灘夜ニ入事夏ハクルシカルマシ。冬ハイム事也。
▼リデル・ハアト『英帝国崩潰の真因』江本茂夫 tr.S15年、原1939
“When Britain Goes to War”もしくは“The British Way in Warfare”の訳。
WWⅠ後にハートが造言「平和を求めんと欲せば、戦争を予知せよ」
自由の最高到達点は偏見よりの解脱である。
過誤や誤謬をなくすように努めることが消極的ではあっても正解への道だ。
W・マッケクニイ大佐の李鴻章伝を読んでいる。
本書のアメリカへの影響。“Nation”1939-10-14
本書のためにホア・ベリシャ前陸相が辞任した。
本書脱稿後、著者は神経衰弱に罹っている。
日独伊が国際連盟加入の小国に加えた連続的攻撃は、連盟の主桁である仏英への間接的接敵法だった。
WWⅠ後、フォッシュはライン国境を主張したがウィルソンに阻止され、英も見捨てる。クレマンソーは独に優しかったがポアンカレに代わられた。ポ氏はルール占領して失敗。再び緩和したときはナチが出ていた。
文明を完全に維持するためには次の戦争に於いては何人も勝利を得ないことが必要(p.12)。
クラウゼヴィッツの見解は、ナポレオンが兵員の優勢に屈服した戦闘にクラウゼヴィッツ自身が参加したことに、明らかに影響されている。
クラウゼヴィッツの時代には陸軍の装備に重要な変革がなかったから、兵員の優勢が戦闘毎に戦闘を決していくと主張し得たのだ。
クラウゼヴィッツから半世紀後、「武装国家」の著者フォン・デル・ゴルツは、防御が攻撃よりも強大であるという観念は単なる謬見と公言した。
戦車をもたなかった独軍は、ガス弾と発煙弾を多量に射つ新砲撃法に加うるに「各個前進」という新歩兵戦術を併用して、敵の最強拠点に向かって努力を集中せずに、抵抗力最少の線に沿って強襲することにより、正規戦術を覆した(pp.18-9)。
死体を埋めたり、便所をつくらぬ敵は、戦意完全喪失の証拠。
ルデンドルフは東部での楽勝の経験から、西部での攻勢所要兵力を楽観した。
大戦略とは戦争後の平和状態も考えること。
「電撃戦」という軍人の夢は実現の可能性を次第に減ぜられている(p.35)。AAの発達で air raid も無力になろう。
永続的安全保障の最大可能性は、集団保障の組織を育成するにあり(p.39)。
防御が有利になったから、集団安保が現実的だ(p.45)。
1937-11に発表した論文。各国は何をなし得ないか。それは攻勢だ。
フォン・ブロムベルグ元帥は守勢の有利を早くから認めており、ドイツは西部で攻勢に出たりしないだろう。
チェコをソ連が救援せんとしてもポーランドが妨害するだろう。
南欧の防衛力に関して楽観。1937。
ジブラルタル港は急に深いので錨地が狭く、スペイン側からの砲撃にひとたまりもあるまい。
WWⅠで独はなぜ英の中立を信じたか。要するにグレイがハッキリ警告しなかったからだと(pp.75~)。
近代戦では防御が強い。緒戦で占拠された国境地方からドイツ軍を直接行動によって撃退することは不可能だろう(p.81)。
ルーマニア政府はもしソ連と結べば農民暴動が起きてしまうだろうと懸念中。
戦艦建造はやめてSLOC防衛に回せ。
英空軍は目下、fighter中隊よりもbomber中隊をたくさん整備している。
いまの独軍は膨張しすぎて、戦間期ゼークトの軽量&奇襲指向を忘れている。※ハートは大陸軍削減論者。
ポーランド軍の楽観主義はその特殊な地形的条件からきている(p.109)。
スペインでのソ連製軽機は他国製より優秀だった。TKもおおむね優れる。重機は重すぎ、小銃は旧式だ。
ギベールは、国軍は国民性に即した戦術をもてといい、ナ氏はその書を座右に。
1918独作戦部長ヴェッツェルは、英軍には粘りがあるが仏軍にはないと。
長弓隊も杭柵をつくる間なく攻撃されたときは敗北した。於パテー、1419。
フォッシュは仏の針打銃が敗因とみた。→だから火器進歩=勝だと。
モルトケいわく、動かないで射撃する兵は、前進しながら発砲する者より有利。
マスタードガスはMGと同様、防御兵器。
ハートは戦略攻勢(先占待敵)、戦術守勢(MGの吸引殲滅)を説く(p.147)。
英の「地方軍」はナポレオン三世の脅威より生まる。
空襲は侵略ではなく襲撃にすぎない(p.157)。
限りある燃料積載量が、帆船時代に遂行された厳重封鎖を不可能にした。よって近年では封鎖艦隊は自国港にとどめておく遠隔封鎖。
日本は食糧自給できるので英国よりも爆撃に脆弱ではない。空襲損害は列強中で英国が最も心配される(pp.182-3)。
WWⅠ直後、英国は最大の空軍国だった。英家庭では末っ子が優遇されるのに、空軍は逆にまっさきに削減された。
ルール占領に英が抗議すると仏は126スコードロンの大部分を海峡沿いに集めた。
WWⅠで英に投下されたのはわずか74トン。これで死人859人出た。
飛行機は陸上では攻撃される心配から全速飛行する。それでガソリンを三倍消費する。海上では経済速度で巡航してくる。だから海岸都市の方が危ないのだ。※バトルオブブリテンは立証した。
今日では機速が大なのて夜間飛行場を爆撃できぬ(p.192)。
平時演習で75%当てられる海軍砲手も実戦では2%に落ちるものである。つまり1/40となる。
スペイン内戦2年後、英政府は爆撃の正当性を調査する委員を派した。この調査は、その後の空襲を抑制させる効果があった。
「クラウゼヴィッツ及びその門下がナポレオンの事蹟を讃仰して作り上げた『絶対戦』、即ち無制限戦争の理論」
国際規約は戦争の後期の段階において破られ易い。エチオピアでは、イタリー軍は戦争が長びいて雨期に入りそうになる頃まで毒ガスを使用しなかった。かれらはその使用を用心深く隠していた(p.236)。
ヒットラーが1935-5に提言したように爆撃を海上および陸上作戦の隣接地域に限定することは結構なこと。
勝利は博するが、戦争終結の後が何うなるかを見透すことの出来ない短見の戦略家のために、最もしばしば最大の損害を蒙った国は常に戦捷国(p.241)。
WWⅠ後の仏軍は、方針でも訓練でも主に発射弾数増加に心を注いだ。
1915ベルギーとロシアの要塞が脆くも陥落したので仏は自国要塞砲を撤去。それが1916のヴェルダンの窮状を招く。ドゥオーモンとヴオーのコンクリート要塞を奪回したとき、それらは砲撃によっては無傷だった。ここからマジノ線を着想。同一箇所に3発命中しても耐える。内気圧高いのでガスも入らない。
戦時塹壕勤務は半月交替シフト(p.260)。
アルデンヌを最近ハートが旅行した印象では、ここはティルモピレと見えた(pp.274-5)。
オランダ兵は民兵式のいいかげんな訓練しか受けていなかった。
バルフォアの青海諭。海軍第一主義で、陸軍は遠隔アンフィビアス用の素質優秀なものとする。
1937、ダフ・クーパー氏は完全機械化論者に。
ブレンが使われるようになり、重機はいらなくなった(p.371、原294頁)。
1936のソ連大演習に招待された英使節団は米国クリスチー型改良の高速軽中戦車の数と性能に多大の感銘を受く。
広い戦闘正面に、あたう限り多数の「尖兵」を同時に前進させる法によれば、敵線の強弱を同時に検知できる地点が多くなる。突破口の拡大は休んではならぬ(p.466)。
敵の薄弱点が発見され、報告されるまで予備隊を待機させておく普通の方法は無効。
敵はわが予備隊の到着前に、後方から援兵を繰り出して弱点を強化するから。
天才的な訓練者は有能な指揮者よりもよほど稀である(p.494)。
ある砲兵将軍は、歩兵を訓練するには3年かかるが、砲手を訓練するには2カ月で十分だ、と。
ウィトリンガム大尉の近著『英国の大尉』。歩兵の個人的自発性を重視している(p.544)。
▼E・H・カー『ナショナリズムの発展』大窪愿二 tr. 初版S27年、原1945
訳者いわくこれ以前の本のまとめ本。
アクトン1862いわく、ナショナリティーは自由をも繁栄をも目的とせず、民族をもって国家の鋳型と尺度にするという至高の必要のためにそのいずれをも犠牲にする。
19世紀のドメイストルは国家は主権者と貴族からなると論ず。
国際法の初期の歴史の大きな部分は非戦闘員の財産と通商を保護する規定を作りあげることから成っている。
18世紀は仏語が主権者の国際語だった。そして平民は戦争中でも自由に商取引できた。
ネーションとピープルは分けて考えられた。
19世紀型近代ナショナリズムの始祖はルソー。彼がネーションとピープルを同一視した。
ナポレオンは最初の民衆的独裁者。
夜警国家の昨日は大体において財産保護にあり。財産なき労働者には、この場合、祖国は無い。
19世紀パブリックスクールとリセは、ブルジョアジーに公共業務の訓練をする学校。
国際貿易を平和の保障と考えるのはコブデン流。
ナチ=ナショナル・ソシャリズム。これは1895の独で発明された概念。
ビスマルク時代の英でジンゴイズム=大衆のナショナリズムがつくられた。
摘録とコメント。
▼藤沢一孝『明治維新以降 本邦要塞築城慨史』S33年(防研図書館「本土/築城要塞/14」のカードケースを見よ)
山内静夫(元・築城本部長)いわく、築城部にいたとき、上原元帥から言われた。「……織田、豊臣時代に及んで、その進歩の極致に達した。かの文禄・慶長両役に於ける、作戦基地の築城編成、水軍根拠地、兵站主地、兵站線上の築城編成等は、大東亜戦争に於ける要塞の編成配置のそれと、全く、その軌を一にしている」
維新当時に招かれた仏教師は江戸城を称えた。
S15年に北千島要塞。S16年に中城湾と舩浮、S17年には麗水要塞を建設。
M5に仏から参謀中佐以下の教師を招いた。
奄美、千島の要塞の発想は、敵subと飛行機に対する抑制を考えた。大8上奏裁可。
S8~9年の日本海側要塞は、増強いちじるしいソ連subに対応して拡張整備。15加を主、7加(AA兼)との組み合わせ。
S16-9に砲台工事すべておわる。18-3には補備作業も終わらす。
大11年度から、南西諸島の中城、舩浮、狩俣の三臨時要塞建設計画を作製し始める。ところが前2者のじっさいの着手は、WWIIがはじまって1ヵ月後のS16-7だった。
宗谷はS5年度から臨時要塞地とされる。
大砲射程短く、瀬戸内海すら封鎖できなかった。
普仏戦では地雷榴弾[=破甲榴弾]がなかった。そんな仏の経験に基づいている仏式要塞では粗悪なのだった。ちなみに「爆裂榴弾」は1885に出現。
S18~19年の資料は全く残っていない。
1872にマルクリーを招く。1873ミュニエーがマルクリーを交替。1874、ルボン、ジュルダンを招く。1897、仏国築城工師ムージェン工兵中佐を招く。1900、普国工兵少佐レンネを招く。
▼佐用・森・共著『基地設営戦の全貌』S28年
※設営は海軍用語、設定は陸軍用語也。
巻頭写真でドーザー、ディパー、スクレーパー/キャリオール、10tローラー等。
ラバウルの地下移転はもっとも徹底的で、トンネル総延長は東京~大阪間に匹敵。
米式ランディングマットは無理だったが、鉄網舗装で代えた。
ソイル・コンクリート(表土コンクリート)も試されたが機械均しが必要で、非実用的。
キャリオールやブルはトラックDrを充てたので扱い下手。
酸素ガスとカイロ灰の混合物は桐ダイナマイトの60%威力。
工事現場で行き止まる道路=対空偽装上、最も悪い。自殺行為。
日本人のみの手によるドック第一号は呉の第一船渠でM24竣工。
油タンクは水を混ぜておけば下から漏れることはない(p.82)。
機械化設営隊を前線に繰り出し得るようになったのはS18年後半。
分散搭載の着想を欠いたため輸送船2隻のうち1隻が沈むと設営遂行不能に。
分散格納もしてなかったので被弾被害局限できず。
米海軍のC・B’s =Construction Battalions もS16-12の創設にすぎない。
ブル等機械化が遅れたのは、失業救済の考慮から(p.135)。※然らず。人夫斡旋親分=地方ボスに頼らないといかなる工事もできない江戸時代のシキタリを陸軍工兵隊が払拭できなかったため。鹿島建設の研究所がそんなこと知らないわけがない。じつに日本の闇。
▼宿利重一『メッケル少佐』S19年
佐藤賢了は、S18-3-1衆院決算委員会で、米将校の戦略・術知識は幼稚であると。※シバリョー引用。
M6、独帝は岩倉一行に二等勲章を天皇にとらせようともちかけた。婉曲に辞退した。
西郷従道は誰よりも仏贔屓だった(p.17)。
伊藤はビスマルクと会見して後、かんぜんにかぶれ、葉巻の持ち具合もそっくり似せた(p.114)。
メッケル着到時、日本将校は、Etapes(仏)、Etape(独)、兵站、の字のみ知り、意味は判らなかった(p.121)。
「大行李」「小行李」も形を弁えなかった(pp.121-2)。※直訳語では説明にも理解にもならぬ好例。
M21の参謀旅行では、欠点の一として、「言語の錯雑、不明瞭なること」を挙げられた。
日清戦役時の旅順要塞は、独工兵少佐フォン・ハイネッケンによって補強されていた。
支那では馬車は買い上げてはならない。賃借する。そうすると修理は自分たちでする。 独断専行=Initiative (p.288)。
渡欧した児玉に対し、「最も注意せねばならぬのは、防禦に絶対性のないことで、如何なる堡壘及び砲台と雖も、突破し得ざるなく、……。……我が作戦に敵を追従せしむることに依って目的を達し、光栄ある捷利たるが可能である」(p.339)。
南阿戦後、Buhrer-taktikなる戦術[要塞戦軽視思想?]を日本は輸入した(p.388)。これが旅順の難攻につながった。
旅順第三軍参謀・井上幾太郎の講演。日露役前は「一般に土工作業の効力を非常に軽く視て居りました。当時の築城教範はドイツの教範を翻訳したものでありまして……。併しながら歩兵隊に於ける築城の教意は極めて簡略でありまして……」それよりズット前[M23~4頃]……におきましては、工兵隊は仏国式の操典を使用して居った。此時代には反面射壕や坑道のことを稍々綿密に訓練して居ったのであるが、ドイツ式になってから廃れた。
これと先のメッケルの指導を併せ考えたため旅順をあなどった(p.391)。※つまりメッケルの指導が兵站に手厚く、要塞戦に手薄であった。
カネで買収できぬ金持ち貴族のドイツ将校も、外国勲章で釣ることができた(p.402)。
▼図書文化研究会『世界名著案内・戦争論・闘争論』
史記によれば孫武も孫ピンも共に山東省の出身。
マキアベリの参照した時代は隆盛期ローマ。しかしてその君主像は互選的「護民官」。
クラウゼヴィッツの「行軍」や「先進部隊」の項は、わずか12年後、モルトケによって改変された。時代が馬から汽車に変わった(p.87)。
1914~5の『戦争とロシア社会民主党』『社会主義と戦争』は、帝国主義戦争を内乱に転化せよと。
▼河辺正三『日本陸軍精神教育史考』
最初の兵学校には公家の子弟の入校をすすめた(p.11)。
M5の軍法で、除隊後3年間は、上官反抗罪が適用され得る。
戦利品盗は、死刑。
哨兵睡眠 or 酩酊は「徒」刑(p.32)。
将校の刑は、奪官、回籍、降官など。兵には、死、徒、放、杖、笞など。
停官もあり(p.47)。
入営して第一期末検閲おわらぬ者を新兵と称す。機動演習とは諸兵連合 or 大部隊の演習。
在郷軍人の演習はやはりズンダレていた(pp.70-1)。
S19に飛行機の体当たりで魚雷を阻止した?(p.121)
▼藤原彰『軍事史』
士官教育は、仏式の学科本位を、普式の術科本位に改む。
参本『明治廿七八年日清戦史』第一巻によれば、清国は黄海を制して陸軍を海路朝鮮に輸送するつもりだった。
イタリア技師から青銅砲を教えてもらったのは、イタリアだけがそれを現用中のため。
ロシア軍の斉射は、多く頭上を跳び超えるだけだった(p.103)。
183ページ写真キャプション:歩兵連隊砲(四一式山砲)は輓馬一頭引きであったが、馬が倒れ人力によって運ぶことが多かった。
服部『大東亜戦争全史』によれば、海軍の開戦前結論は「…対米作戦は、武力的屈敵手段なく長期戦となる覚悟を要し、……戦局は有形無形の各種要素を含む国家総力の如何及世界情勢の推移の如何により決せらるる所大なり」 ※つまり海軍もドイツ頼み。
米機動部隊はコラルシー後、母艦機の1/3をレコンにしていた。
202ページ写真キャプション:分解搬送する連隊砲の砲身と砲架は、どちらも100kg以上あった。
支那派遣軍は1945春から、米軍の上陸とソ連の参戦に備え、海岸に向かって戦線を収縮中に、敗戦を迎える。
林克也の『日本軍事史』は、38式重機がホチキスのコピーであるのをはじめ、砲、TKなどほとんどの陸軍兵器が外国のマネであることを列挙。
西南戦争において、守勢局面でのパニックの前例あるために、自軍兵士への恐怖から、ことさら退却を嫌った(pp.246-7)。プロシアと同じ。
たとえ軍司令官でも、上からの命令なくして退却を禁止された(作戦要務令)のは、世界唯一。
板垣退助ら反政府派は、海防と非常時用基幹常備軍、あとは民兵でよい、と唱えた。
日本国土上の防衛戦は、維新以来まったく考えられず(p.252)。
▼清水潔『商子』
土地に愛着する農民を主たる国土防衛力にする。そのために農民人口を増やす。→漢の屯田に通ず。
戦闘における首級数だけを賞爵任官の基準とした。※スキタイ的気風。
荀子議兵篇に「秦の衛鞅は、世のいわゆる善く兵を用うる者なり」と。
学者は所聞に溺る。
書経、詩経は農産、軍の役に立たぬ。
兵力を敵のあえて行動しようとせぬところに動かすものは強国となる。
五百畝でようやく一回の戦争の費用になる。
晋の文公は、衛に兵車を入れ易くする為、衛国の田畠の畝を東西向きにさせた。
太古の帝王は木は伐り放題、獣は殺し放題。黄帝の時代には獣の子や鳥の卵をとらぬようになり、棺は人民用には作れなくなった。
強国の婦女子は男を戦場に送るとき「勝たねば帰ってくるな」という。
脱走防止には5人組隊伍を組ませる。
▼マウロ・カペレッティ『手続保障の比較法的研究』
USAでは最高裁が違憲と断じた法律は、法令集には残るが、実際上は全く「死んだ法」となる。※だから早く9条は違憲と断ずるべし。
イギリスは欧州人権条約に国内法としての地位を認めていない。議会立法を最高のものにする思想から。
英裁判所に違憲立法審査権なし。
▼『孫ピン兵法』金谷訳
水を絶つ、とは渡河のこと。
天兵とは動物が生まれながらに与えられている歯、爪、角。人は天兵なきもの。
ゲイ(person)は弓弩を創造して、勢をそれに似たかたちで考え出した。
「移民」=民衆を君主のために駆使すること。
鈎行の陣とは、両翼が曲がった横陣。
飛び道具を使わぬ白兵戦を「接刃」という。
易なれば則ち車に利。険なれば則ち徒に利あり。
客とは侵攻側。主とは防禦側をさす(p.244)。
敵の軍隊を分散させることができ、敵の軍隊をおしとめることができれば、味方がいかに少なくても余裕ができる(p.262)。
余り有る所あり、足らざる所あり、形勢これなり(p.305)。
漢墓出土孫武は、宋刻本十一家注孫子と基本的に同じ(p.321)。
他に、六韜、尉繚子、管子、晏子春秋、墨子、他が発見された。
孫武との異句例を金谷氏解説。
そのおもむかざるところに出で → 必ずおもむくところ
よく衆を以て寡をうつ者は → 逆
守るは足らず、攻むるは余る → 逆
孫ピンの時代は、車戦→歩兵戦の時代で、そのあと、時代は騎射戦へ移行。
▼ハウスホーファー、マウル他共著『地政治学の基礎理論』玉城肇 tr.S16年
マウルは景観と生活の関連に特化。
1927にKrebsは、地政治学などいらぬ、政治地理学で事足りると。
ハ氏によれば政治地理学は国家の平面的分布と気候に触れるだけ。地政治学は未来の歴史観が主観的に入る。バンゼいわくそれはプログラムじゃないかと。
著者たちによる定義:地政治学は政治現象の地的制約性に関する理論である。
Suesが1888に大西洋の海岸と太平洋の海岸の古典的対比を書いた。
ハ氏はFaigrieveの『地理学と世界権力』を、大衆を動かすイギリス学問の平明性の典型と。ソ連は『近東』という地政治学的な年刊誌を出している。
ラッツェルいわく、アテネ、ヴェニス、英、日は、封鎖的人格体が防衛されると同時に、あらゆる外的刺激と印象をひろくとりいれることができるがゆえに、位置と空間が恩恵を施したと。
マッキンダーは、島国は辺縁国を襲うのが当然であると。日本がシナを襲わないのは不思議な例外だと。
モスコーは依然ヨーロッパにかたよりすぎているから、防禦間合いは小さい(p.176)。※けっきょくヒトラーを誤らせたのはハウスホーファーだったのか?
アンドリアス・ホーファーはチロル山嶽でナポレオン軍を撃退。
英人Faigrieveは、「ステップ + 沙漠 vs 森林」、「河川 vs 山嶽」、「大洋 vs 大陸」と、人類の対立を図式化。
▼アルブレヒト・ハウスホーファー『欧州事情叢書 第六冊 英国の支那侵入』S15年
著者は有名なハ氏の息子。
秦はアレキサンダー死後百年の国だ(p.4)。
支那はその理論上の主権を他の凡ての国土に対しては要求し、貫徹したが、日本に対しては実際上、一度も貫徹しようと試みなかった(p.5)。※そう、これは異常な例外なのである。ここに気付いた男は偉い。日本人はほとんど気付かない。
蒙古の海上遭難は、フェリペ2世がエリザベス朝を攻めようとしたときに似る。
著者は半島で日本と明が激突していることを知らぬ(p.6)。
プラシーの戦で阿片の産地ベンガルを得た英人は、ナポレオン時代に英に依存していたポルトガルの支那拠点より、アヘンを流し込んだ。
アヘン戦争の隠れたポイントは、支那軍備は伝統的に北を向いており、南からの攻撃は意表外だったこと。アロー号をきっかけとした砲艦による白河遡航、北京占領をみよ。
与論の一部は常に帝国の掠奪に反対を表明する。しかしその反対論ゆえに、その非道徳的行為の分け前にあづかれぬことはない。グラドストンは阿片戦争中、事件の支持を拒否したが、4期の首相在任中、香港を還附しようとしたことはない(pp.38-9)。※反英プロパガンダはやはり独人が巧くするという例。
支那内地での大麻栽培は有効に厳禁されていたが、天津条約後、自家栽培が行なわれるようになった。
▼『経済的ニ可能ナル戦争ノ規模ニ就イテ』
WWⅠや日露戦争を債券や貯蓄から分析。
S11年を基準として考えると、外国起債をゼロとみても、500万人召集し、3億円の入超いれ、100億円の資産を動員できる(p.38)。
S9年の映画検閲メートル数。18223908mなり。うち輸入は2901791mなり。
▼今井隆吉『国際査察』1971
潜在能力国から実際の核戦力まで二年という数字は遠からず非現実的でなくなるであろう(p.114)。
▼J・Steinmetzler『ラッツェルの人類地理学』訳1983
ラッツェルは人類地理学ということばを1882につくった。
人間の本質的特性は運動。
民族性と気候の相関を説いた先駆者。ヒポクラテス、ボーダン、モンテスキュー。
ラッツェルは文化の発端を「栄養と身体の保護をめぐる戦いの軽減」に見る。
※ドイツでは文化が文明よりエライ。シュペングラーは、文化が老年期になると没落の兆候たる文明に達するのだとした。
バックルの浅薄な書物に長時間を費やして後悔(p.202)。
▼ジュール・ロワ『大いなる失墜』S42年
自由仏軍の標識はロレーヌの十字架。キの字。
大臣官房員は大臣のスピーチのゴーストライターになるのは当然なのに、ドゴールはペタンに対しそれを拒んだ。
仏軍の軍法会議法典は野戦で降伏する司令官は死刑と定めていた(p.108)。
ヒトラーはスペインを通りジブラルタルを経てモロッコを占る意向だったが、1941にペタンが自ら北阿独軍の兵站を買って出て、それを防いだ。
ワシントン駐在のフランス大使は、日本から対支援助を中止するよう求められていたカトルー将軍に対し、アメリカが暗に日本の最後通牒を受諾するようにすすめているぞと知らせてきた。
カトルーはトンキン国境を閉鎖させた。ヴィシー政府はカトルーを非難した(p.196)。
死刑判決を受けたが、ドゴール特赦で終身禁錮になり、1951獄死。
▼H・Baldwin『ひしがれた巨人アメリカ』(上)、訳S48年
※(下)が出なかった模様。珍なり。
1965夏にベトナムに梃入れする必要があったのに、米政府はなぜ予備兵力動員をかけなかったのかと非難(p.17)。
ケネディ~ジョンソン政権はスタッフ・システムに慣れていない。個人的アドバイザーに頼った、と非難。
3~40年前の新聞編集長は、公正さのため、記者の原稿から副詞のみを削除した(p.30)。
北ベトナムは物資の98%を自国の船で運んだ(p.47)。※これはガセだが、アメリカと異なって、蘇支の側はベトナム戦争で末端輸送の負担が少なかったのは事実。生産ではなく、輸送配分の負担でアメリカは疲れた。
▼C・J・Hitch『戦略計画と意思決定』
米陸軍は米西戦争の後1821にコマンディングゼネラル・総司令官を任命したが、それは軍政軍令の2頭制となったので、ルート陸軍長官は総司令官を廃し、1903チーフ・オブ・スタッフにする。海軍も1915これに倣い、作戦本部を設立。
大統領はコマンダー・イン・チーフ=総軍司令官である。
WWII中にジョイント・チーフス・オブ・スタッフができる。1947法定化。
ソ連は『核時代の国防経済学』を1000部翻訳出版した。
A-7は登場当時でも最も安価、かつ低速だった(p.93)。
毎年春、三軍別所要兵力の研究がなされ、任務別計画は8月末までに終わらせ、国防次官は全部内要求を10月初旬にうけとり、大統領は次年度の予算案を1月に議会に提出する。
1959春、米民間防衛本部は400億ドル以上を要するシェルター計画をアイクに出すもNSCは却下。このときゲイサー委員会報告が出されたが、いまだに秘密。
コンバインドオペレーションとは2ヶ国軍協同作戦をいい、ジョイントオペレーションとは複数軍種の協同作戦をいう。
摘録とコメント
▼矢吹明紀『アメリカン・ポリスカー大図鑑』2003
密造酒は山の中で製造した。1933に禁酒法がなくなっても脱税目的で続いた。これを警察が峠で待ち伏せている。その追跡を振り切るためエンジン改造車が作られた。彼らがやがて賭けレースを始め、いまのストックカーレースとなる。
ビジネス・クーペのビジネスとはムーンシャイン・ビジネスのこと。
レーダー速度取り締まり機は米では1950年代に導入されている。
2ドア・セダンもボディの剛性ゆえに好まれる。
60年代までダイナモ(直流発電機)は残っていた。60年代なかばにオルタネーター(交流発電機)に替わる。
有鉛ハイオクと高圧縮エンジンの組み合わせによる大気汚染をストップさせたのが1970マスキー法。この施行後しばらくは低圧縮比エンジンの時代になる。大排気量だと中低速トルクが細くならない。
昭和28年に警視庁は「シボレー150」を多数輸入。パトロールカーに必要な性能を出してくれる普通乗用車は皆無だった(だからトラックが多用された)。※旧軍のスカウトカーは不整地仕様のため路上で高速が出せない。内地残存車数もゼロ。
1955にクラウン改造のトヨペットパトロールが警視庁に納入された。
1950以前は、回転しない赤い点滅灯だった。1950’sは茶筒型の回転灯。1970’s半ばに横に長い箱型の両端内臓回転灯に。1990’sは箱型のフラッシュ式に。
メトロポリタンは首都のことだがD.C.をメトロポリタンと呼ぶことはなく、シカゴ、ダラス、ベガス、デンバー、ソルトレイクシティの市警察がメトロポリタンポリスと呼ばれている。
州兵(ナショナルガード)も独自のミリタリーポリスをもっている。
ナイン・ワン・ワンをコールするとたとえ交通事故でもポリスカーの他に消防車と救急車も一緒にやってくる。基本的に3者が同時出動するのだ。
▼P・J・ヘルツォグ『戦争と正義』小林珍雄 tr.S30年
※東京裁判は正義だと説得していく本。シスコ講和後に誰が何の目的で訳刊したのか知りたいところだ。
オーストリアのカール帝はWWⅠ後、何の法手続きなくマデイラ島に流された。
WWII後の軍事法廷は「特殊国際法」と呼ぶしかない。
トマスによれば人間の人格的価値を傷つける行為が自然法的悪。
「自然権は、実定法によって与えたり除いたりすることはできない」(p.14)。※だから日本国憲法は違憲である。
自然法は国際秩序も支配するのが望ましい。※ヘルツォグは戦勝国が国際的公共善を知っていると疑わない。
戦犯処刑は自然法にかなっているのだ(pp.19-20)。
グロチウスは、聖書に戦争を禁じた箇所はない、と。
一種の国際的司法手続として戦争を見ることは、スコラ学の戦争観の基本的特徴の一つである。ヴィトリア:正戦を行なっている君主は敵国の判事たり。 スアレス:刑罰的正義の遂行としての戦争は、同一人を検事にもし、判事にもする。
Banezは正戦を認める。一市民は他の市民を勝手に罰することができないが、国家はできると。
ピオ2世や、あるドミニコ会士までがNBC戦を是認した。
ロマ書14-23、すべて確信によらざることは罪なり。
グロチウスの挙げるユダヤ人の戦いでは、彼等は果樹や家畜は寇せず。
グロチウスは、降伏した捕虜は、女子を含め殺してもよい、と(p.133)。
ヴィトリアいわく、戦争権でなされたものはみな、正戦にたずさわった人々の請求権に最も有利な方法で解釈される。よって、とったものはなんでも返さなくてよい。
法廷罪刑なくとも、自然法にもとづいていえば、犯罪があることだけで処罰をみとめるのに十分である(p.176)。
▼『防大紀要 第四十一輯』S55年・人文科学篇・豊福淳一「カントの国家論」
国際間の自然状態においては「戦争への権利は、ある国家が他の国家に対して、すなわち後者によって侵害されたと信ずる場合には、自身の威力によってみずからの権利を追求するために許容された方法である」(『人倫の形而上学』)。
なぜなら、自然状態では、こういう権利の追求は訴訟によっては行なわれ得ない。
カントは戦時国際法に人道の強い基準を持ち込もうとしなかった(p.18)。
▼ルヰ・レイノオ『近代フランスに及ぼしたるドイツの影響』佐藤輝夫 tr.S16年、原1921
ドイツ人は新聞などの利用が古来巧みだ。たとえば18世紀のグリム。
ルイ15世は歩兵学校に英語の課業を置くことを欲しなかった(p.43)。
フランス人は「社会」好きであり、それが個人の自然らしさを殺し、才能を萎縮させている──と既に18世紀の画家のフロレンが言ってた。
ゲーテのウェルテルは母親によって甘やかされた、訓練のできていない男ではないか。しかるにこの本は仏で大ヒットしたのだ。もっとも『新エロイーズ』が先行しているけどネ。サン・プルウは結局身を引くが(pp.78-9)。
ボナパルトはウェルテルをエジプトにもっていき、七度も読んだ。
この作品の模作が1800頃に無数に仏人により書かれた。
ボナパルトはルソーの弟子で「自然」派に属していたのだが、近東に近づく頃には「自然に従う人間は犬だ」と確信して述べた(p.102)。
フランス人論の最初期の仕事は、ベアド・ド・ミュラール『英国人及びフランス人に関する書翰』。
ピアノを即興的に弾ける田舎のドイツ人主婦。
ゴビノオは『人間種族の不平等論』1855の中で、ドイツ気質の純粋な代表者は英人とスカンジナビア人だと。
ナポレオン3世とは、「王座にあるドイツ主義的ロマン主義」なり(p.340)。
半世紀にわたるドイツの知的征服(p.340)。
1871にガブリエル・モノは『ドイツ人とフランス人』を著わした。
▼堀川武夫『極東国際政治史序説──二十一箇條要求の研究』S33年
1899に英露は、各々、揚子江、長城以北を鉄道権域とすることをとりきめた。
ハリマンは、日米共同で満鉄の整備充実を図ることが、ロシアの復讐に備える上からも得策であると説いた。
袁世凱は塩税を担保に外国から借款。
袁は1912にドイツと対支武器専売などの条件の借款を契約(p.54)。
スタンダード石油は北支に石油利権を得た。
山県は清朝存続の支那を望んだ(p.64)。
日支感情悪化の因は「志士」らの孫文援助(pp.69-70)。※殆んど倭寇に類す。
第五号希望条項は加藤の意に反するものをまとめてみたものだった(pp.96-7)。
日露役中の鉄鉱石は大治鉄山から来た。原鉱石と銑鉄(p.127)。
シナ人いわく「日本は平等の友邦として支那を遇すべき筈なるに何故に常に豚狗の如く奴隷の如く取扱むとするか」
袁が米に頼ったのは、英が欧州で忙殺されていたので。
日本はここでも秘密交渉でまとめようとし、ポーツマスと同じリーク戦術で返された。
シナ側「日本の兵器は欧米のそれに比して粗悪である」(p.231)。
対支武器供給は日独の実績が相半ばす。値は日本製が安い。
シナの対独参戦は1917-4で、青島戦は中立中に終わった。
▼広江源三郎『軍隊社会の研究』大14
著者は海軍機関大尉で任意除隊者。
陸軍は震災を契機に世間の評判がよくなった。ところが甘粕大尉事件でまたその評価を下げた。
機関科問題の根。英海軍は操帆を貴族の独占とし、機関は「相当官」と称して中流以下から採った。その後、重要度が逆転したのだ。
権兵衛の失脚後、海軍内の薩閥は解体した。
▼大村有隣『名古屋城 竝 尾張藩国防の研究』S12年
偕行社記事への投稿をまとめたもの。
がんらい城の北は人馬が立たない大沼であった。これに托して築いた。
城下は高台で、水を採りにくい。
「畠水練、兎兵法」(p.34)。
享保ころは日本には「足を練る」習慣が無かった?
天明期の伊藤直之進は、砲車による車戦を提案している。その当時の武士の体格は車夫に劣っていた(p.85)。
▼J・F・C・Fuller“The First of the League Wars”『全体主義戦争論』渋川貞樹 tr.S15年、原1936
Totalitarian War について。フラーは「イギリス・ファシズムの最も有力な闘志の一人」/訳者。
フラーは反共(p.4)。
機械化輸送機関の損傷破壊度は、一日の使用車両の5%に達す。
軍事目標から1km以内の病院は、爆撃免除を主張し得ないとフラーは信ずる。これを国際法で決めておくべきだと。
MGを防御に、Airを攻撃に使っただけで勝つ。山間移動中の側面防衛にはマスタードガスを用う。
罠地にガスを撒き、そこにMGやAirで追い込む。エチオピア兵は裸足だった(p.57)。※このような侵略と満州問題とを一緒にされてはかなわぬ。
Airによる追撃は山地戦では有効だ。ただし大軍に限る。
エチオピア軍は槍を中心としていた(p.100)。大部隊の正規戦は無理だった。だから後にゲリラ化した。
この数年、フラーは自動車ゲリラ隊の使用を主張。これは武装商船または私掠船の地上版だ。※Rat Patrole?
さらに、民間機によるテロ攻撃を主張(p.121)。
空襲はゲリラ隊には無効。かれらの村落、すなわち補給基地を爆撃汁。
「……切迫つまった敵が、自己防衛のために、同じ戦術を採らざるを得なくなるであろう。また、石油の輸入阻止を行うならば必ずや敵国をそうした情勢に陥入れることであろう」(p.125)。
※ドウエの最大の貢献は、ヒトラーにガスの使用を思い止まらせたことだろう。都市空襲報復の図が効いた。
ルイス・マムフォードは参考になる。歩兵の勃興とデモクラシーのリンケージはコンドルセ。
ナポレオン「余の軍隊の強さは、機械における力の如く、量を速度に乗ずることによって計られる」
クラウゼヴィッツの要約(pp.141-3)。
R.B.Fosdickの“American at War”の98ページに、「カイザーを釜ゆでにする教会決議」の模様が述べられる。
ナチ対ユダヤに関するフロイト的解釈(p.170)。
ロイドジョージは「イギリス最初のファシスト的首相」だ。
ヒトラー「……最も残忍な兵器は、もしそれがより速かな勝利に資するものならば、人道的である。……余は、予め数ヵ月間交渉を続け、長期にわたる準備を整えるだろう。だが……闇夜の電光一閃の如く、突如として、敵に躍りかかるであろう」※フラーはヒトラーがクラウゼヴィッツを読んだと見ている節がある。
「……もしムッソリーニが自己保存のために、戦争を敢行するという全体主義的方策[対都市空襲のこと]を採らなかったならば、彼は敗北を喫しただろう」(p.196)。
WWⅠにおける連合国の根本思想は「飢餓」による勝利であったが、イタリアは、敵の神経に対する攻撃をあみだして、それを無効にした。これが全体主義的戦争なのだ(p.203)。
※プロテスタンティズムは当該地域に独特の飢餓の記憶が動力だろう。間引きや捨て子のあり得た地域とそれは重なる。
パリがフランスにとって政治的に重要である如く、ロンドンはイギリスにとって糧食補給上、重要なのである(p.214)。
某人いわく、敵の側における革新ほど、軍人の精神的憤激を捲き起すこと確実なものはない。
「地下防空室よりも遥かに効果的なのは、防火建築物である。というのは、火災が一番危険だからだ」。当時独ではまいとし4億ライヒスマルクが火災で失われていた。
C・G・フィリップはV2開発を報告していた(p.233)。
フラーは反ユダヤ的傾向をみせる(p.241)。
空襲では防御の利は無い。その例証(p.247)。
WWⅠ中、飛行船は52回、固定翼機は59回、英を空襲した。死者は、前者計が556、後者計が857。1935の交通事故死者は6500人だ(p.253)。
フラーは戦艦2隻の起工に抗議する。
機械導入によって人間の徳性は向上する(p.296)。
貨幣を廃止汁(p.308)。
「自由」を骨子とするイギリス・ファシズムを説く(pp.340~)。
▼林屋友次郎『佛教の戦争観』S12年
上海仏教日報というメディアがあり、日本政府は仏教をも実利に協力させていると。
これに反論し、明和会(翼賛仏徒)は「一殺多生」だと(p.4)。
いかなるものにも「自性」がない。だから仏教は戦争そのものを悪いとも善いともしていない(p.10)。
イスラムの神は「攻め戦う者を憎めばなり」(p.17)。
『大般若理趣分』には「たとひ三界所攝の一切の有情を殺害するも、これに依りて地獄に堕ちず」と。
日本では平安朝いらい、天皇=金輪聖王だと解説する派がある。つまり如来の化身だと。
王道を説いた経典が無数にある。そのひとつは、三大徳を、有信・有力・有思だとする(p.26)。
王者の正法は、大慈悲と不放逸である。つまり仁愛と正義。
鎮護国家としての寺。奈良朝には7大寺。桓武朝には10大寺。天平13年の国分寺。華厳経に基づく。
護国思想をもつ三経典。法華経、金光明経、仁王経典。→正法護持。
阿含経のエピソードは、よく治まっている国への侵略をいましめる。
聖徳太子は慈悲を2つに分けた。攝受・しょうじゅ=愛撫と、折伏・しゃくふく=折檻。
仏教にいう平等は、バランスのとれる状態を指し、それが目的。国家を完成するとは、国家をこの世ながらの浄土とすることである(p.55)。
ローマ以前にもアッシリアやペルシャが、諸国民を征服することが地上に真の平和を実現する所以であると信じていた。
日露役の死者は75000人。大震災の死者は10万人だ。
バーナード・ショウは、毒ガスや空軍を中心に大軍拡競争をすれば先進国間では戦争は抑止されると主張。
英国セシル卿は、化学成分を共通知識にすれば化学戦は価値がなくなると連盟で演説。 米国の提案。化学戦の材料と器具の取り引きを国際的に禁止しよう。→化学工業国の独占になるとの反対うけて撤回。
曾我五郎に対し、工藤祐経の子からさらに仇討の願あり。やむなく斬首。四十七士も同じ理由で。無限復仇を止める為。
▼細野・他『中米・カリブ危機の構図』S62年
トリニダッド・トバゴは産油国。
ハイチの国民一人あたり所得はインドより低い。
10年後にはヒスパニックが米最大のマイノリティになる。
旧英領カリブ諸国では出生率低下傾向。※ここからパウエルが出た。
他は爆発。
▼東京裁判研究会『パル判決書』上下、講談社、S59年
パルは経歴上、主席だったが、色の関係でウェッブになる。
米人弁護人は日本側の要請。
重光と梅津はソ連の要求で追加した。
盧溝橋の第一発は共産軍ではないか(上p.91)。
大陸法には少数意見書の習慣ないが、仏蘭判事は書いた。
オランダとソ連だけが日本に対して先に宣戦した。
田中隆吉証人はなぜあんなに太っているのか。パルはこの証人に気分が悪くなった。※板垣日記によると他の判事も気分が悪くなった様子だと。
連盟で人種平等案を潰したのは豪州のW・M・ヒューズ。
世界の対日世論悪化は、1905頃のウィッテの宣伝による(下p.256)。
解説。インドは沖縄信託統治に反対し、日本とは単独で平和条約を締結。
再来日したとき広島の「あやまちはもう繰り返しません」を見て憤慨した。原爆犠牲者に捧げる言葉ではなかろう。
この判決書は英国でも公刊を禁ぜられた。
パルの戦後講演。「真理をさとったと見せかける誤りを避ける力が、人には与えられていないように見える」
パルは1967に死去。
▼田辺繁子『マヌの法典』S28年、原AD200頃。最古訳は1794英訳。
独には1797重訳でニーチェもこれをみて感激した。
名前の付け方にも4階級を反映せしめよ。
「真実は沈黙に勝る」(p.52)。
11の感覚器官:耳、目、舌、鼻、肛門、生殖器、手足、言語器官。※1830パリ印行の訳書でフロイトはこれを見たろう。
たとえ正当でも師を非難すればロバに生まれ変わる。
王は山獄の防塞の中に宮殿を建てなければならない。
戦利品は獲得者のもの。
狼の如く奪い、兎の如く危険を避けよ(p.191)。
六軍:象、馬、戦車、歩兵、将校、輜重兵。
敵からの逃亡者には特に警戒しろ。
林中では弓、丘陵では剣を使え(p.202)。
戦闘は予測不能だから、最後の手段。
▼クセノポーン『騎兵隊長・馬術』田中秀央 tr.S19年、原BC365
解説。この書以後、騎兵には歩兵がつくようになり、だく足で走れぬ馬は排除された。
当時、鐙が無いのに、飛び乗りや、騎上投槍を強調。蹄鉄もなし。
「若し人が飛行してみたいと思ってゐるとすれば、人間の行動のうち乗馬ほど飛行によく似たことはない」(p.36)。※坂井三郎は同意するだろう。
馬は放馬せんとする時には首をまっすぐ伸ばす。馬は怒ると鼻の孔をひろげる。
ギリシャ馬は咬み癖あるので口輪も用いた。
ペルシャの投槍は、より短く丈夫。
摘録とコメント(※)。
▼土屋元作『太平洋問題観瀾』大毎pub.大13
加藤(友)内閣のとき、ローマ法王庁への派遣大使の費用を議会が削除したのを、加州に多いイタリア人が怒った。アイルランド人も同様。
K.K.K.は排日に関わっていない(p.12)。
米国議員は議会で果物を齧る。
ピューゼット・サウンドは英人ジョージ・バンクーバーの命名。18世紀末の人で北米航路を発見しようとした。
本多利明はカムチャッカ遷都論を唱えた(p.119)。
▼荒木浅吉「太平洋戦争における潜水艦作戦について」(『海幹校評論』S41-1)
駆逐艦に対する浅深度発射法を日本subはついに実用化せず。米は13m潜望鏡と磁気魚雷でなんとか実用化。
戦艦はsubに対して何事も為し得ぬのは商船同様。
ミッドウェー後、過集中subの通過許しが多かったので、8-12に米はSJ・潜水艦搭載レーダーを『ハドック』に装置。
米は航空哨戒に重点をおき、基地から800浬まで毎日飛ばしていた。
日本subは20ノットの米戦艦用につくられているので、高速な空母を追いかけられなかった。
パッシブソナーは日本近海では効かないが、南海では非常によく聴こえる(p.47)。
※陸海の幹部学校の記事(大学紀要に相当するもの)をもれなくインターネット公開しないのはいかがなものか。稀に国会図書館に納入されている巻号を見るのは、寄稿者が一人でも多くの国民に見せたくて個人寄贈をしたものか。『新防衛論集』や『陸戦研究』もネット公開したら良いではないか。
▼月刊軍事問題研究 1966-12(pp.39-59)・勝山幸雄「新戦争論ノート,液体燃料問題と現代国家戦」
日本がインターウォーの20年間に人石やらなかったのに独は1941までに460万トン。
石油は同一熱量を得るのに石炭の50~30%容積で済む。質量も6割で済む。
ボイラーの熱効率も石炭は重油より数割悪い。
蒸気機関の熱効率は10%、ガソリンは27%、ディーゼルは33%になる。
積み込み能率は、石炭が毎時20トンに対して重油は40分で200トン。
WWⅠでドイツ=オーストリー側は820万トンの石油しか得ず。連合側は2800万トン。これは平時needsの各々80%と209%を意味した。
ドイツはAir、sub用の燃料は何とかなったものの、自動車用が決定的に不足し、西部戦線の帰趨を決した。
Ferdinand Friedensburg 氏の研究が参考になる。※ていうかほとんどその紹介?
車両数は、西部戦線で連合軍の20万台に比し、ドイツ=オーストリー側は4万台(全保有の四分の三)しか使えなかった。
ルデンドルフ“大戦の思い出”によれば、1918-9-15ブルガリア敗れると石油供給脅かされたため停戦要求したと。
railway network では仏より密だったが、それに頼りすぎたのが独の敗因。
1940-10にナチはルーマニアに「政変」おこさせて石油を制圧した。※日本学ばず。
▼『ザ・ジャーナル・オブ・ジオグラフィ』1972-9、(pp.363-9)
1962~64に沖縄のcivilミニストレイターだったS.McCune氏の寄稿。
沖縄は1944まで要塞化されなかった。
1950の朝鮮戦争で、沖縄は米軍にとっての a staging and supply base となった。
ベトナム戦争期を通じ、The Keystone of the Pacific である。
北京とグァムのちょうど中間にある位置関係。香港と東京のちょうど中間でもある。
奄美大島は1609に薩藩のものになり、1953-12-25に米から鹿児島県に返還された。
今日でもスーパータンカーは沖から油を陸揚げする。
▼週刊読売 S43-3-29号
戦中の空襲で焼けた城:名古屋、和歌山、大阪、松山、仙台城大手門。
石川、鳥取両県は無被害。京都、奈良、熱海は目標から外された。※なぜ熱海? 終戦の交渉予定者が疎開していた?
戦略爆撃調査団によれば、B-29のべ33000機参加中、喪失485機、搭乗員戦死3041人。
内地戦災死は50万人。
S20-5-26-0105に皇居正殿出火。4時間後に鎮火。皇居の大半を焼く。
二百数十機が日比谷公園、三宅坂に落とした15万発の焼夷弾が類焼したもの。
皇居炎上については『昭和史の天皇』vol.2が詳しい。
B-29はS19-5頃にインド経由でシナ奥地に50機駐留。19-6-15夜、成都から20機で北九州を爆撃。成都からはそれ以遠には届かない。
19-11-1、マリアナから単機東京偵察。11-24、70機が都内と中島飛行機を空襲。続いて名古屋の三菱系と神戸の中島系工場を空襲。20-1から一転、都市爆撃に。27日に銀座・有楽町一帯。
20-3-4に150機編隊による東京雲上盲爆。これでマリアナ基地整備が認識された。
東部軍管区参謀いわく、当時「何機撃墜」と発表していたのは、無線傍受によって帰途の海上墜落をモニターしていたのが根拠であると。
20-5-14に名古屋城と熱田神宮が焼け落ちる。
皇居内宮殿は5-25深夜(正確には26-0105)に焼かれた。
その頃には沖縄に700機、硫黄島に300機、マリアナに1000機のB-29が展開。にもかかわらず北海道はB-29で爆撃されなかった。函館、釧路が艦上機で、室蘭はミズーリ・アイオワ・ウィスコンシンの艦砲射撃でやられた。しかしターゲットは重要産業目標のみで市街地は助かった。小樽は山が迫った地形と海軍の艦載AAのおかげで特に小被害。※小樽は左翼の一大拠点でこの歴史を消したくてたまらない。
▼C・グラインズ『東京初空襲』
ノルデン照準器は敵手に渡せないので、自作となった(p.72)。
蒋は日本の報復を怖れ、シナ着陸を望まなかったが、無視された。
1939~41の東京の米大使館には爆撃用産業地図がなかった。ソ連海軍武官が豊富な情報を持っていた。
工業地帯の上を飛ぶ利点は、AA少ないこと、目印を失わないこと。
「ごく短い説明の中で……皇居がどこで、それをどうやって避けたら良いかも示しました」(p.112)。
「…神社やお寺──皇居を爆撃しようなどとは決して考えてはならない……」/ドーリトル(p.114)。
「ドーリトルは、天皇の宮殿を爆撃しないようにとの訓令を、何度も何度も繰り返した」
同伴エンタープライズは、偵察哨戒機を運用。
SBD爆偵は、日本のピケット船の発見を、無線ではなく、通信筒の投下によってエンプラ上のハルゼーに知らせた(p.135)。※このテフシの徹底は、逆に、日本側のいかなる些細な通信も米側では傍受ができていたことを物語る。真珠湾接近に気付かなかったなどあり得ない。
アメリカでは前の座席が上席。
21発の爆弾と1465発の焼夷弾を投下。死者45、負傷153を与えた。被撃墜ゼロ。
B-26は離陸距離が長すぎて不適だった。
J・ドゥーリトルは逆宙返りを最初にやった男。
天皇を殺そうとする企図はなかった(p.43)。
甲板は150mある。艦速は72km/hである。あと37km/h加速すれば離陸できた。風速は20ノット。
アーノルドのS-2副官がターゲットリストをつくる。鉄鋼、マグネシウム、アルミ工場、航空機産業、精油工場、海軍施設……。
FDRは1-26頃、モンゴルから重爆で日本空襲できないか、下問。アーノルドは、ソ連の協力なく、不可能と答申(p.55)。
各機は500ポンド爆弾×3、500ポンド分の焼夷弾を積んだ。1機に5人のクルー予定。無線はテフシ要求上、取り外され、230lb軽くなった。
尾部のキャリバー.30×1梃のみ残し、別に擬キャリバー.50×2をつけた。下部銃座は非実用的なので、取り外した。
▼イアン・ハミルトン『思ひ出の日露戦争』松本泰 tr. S10年
訳者序、日本軍部訳版は省略アリ。
第一軍には外人17人が観戦武官となっていた。
山県は野砲の機動性について熱心に語った。
児玉は日本語一点張りだ。
福島は外国語に通ずるが決して外国人とうちとけない日本人だ。
歩兵は草鞋も携行した(p.18)。
コメはビスケットよりはるかに消化が早く、たちまち空腹を感ずる。
現地給仕兵は日英混血。
ロシア軍は対岸河岸段丘の上に放列を敷いていた。※ノモンハン同様。ただし砲兵用の壕は無い。
日露とも、砲兵に機関砲を交えて配している。
日本軍の散兵突撃は、次第に密集してしまい、しかも途中で伏せ射を頻繁にさせるものであったようだ(pp.61-3)。※歩兵学校で大いに改善の余地があったわけである。
仙台兵の裸を見てたくましいのに感心する(p.90)。
露兵捕虜を日本兵が曳きたてて行くのを見、さすがにショックを禁じえない(p.104)。
ロシア兵の突撃は、剣付き鉄砲を初めから前に伸ばし、首を下げて走ってくるだけ(p.119)。。
規律悪く、住民を掠奪したのは軍夫(p.123)。軍夫の日給は6銭。増加食付き。
英国は南阿でまず軍用道路をつくって泥濘を克服したが、日本の兵站部にその着眼なかった。
露軍は暴露していることを勇気と履き違えている(p.140)。※cf.セバストポリ三部作。
ボーア役に日本から観戦武官行っている。
ロシア下士官は軍隊手帳も読めず(p.155)。
遼陽戦はモルトケのコーニグラッツ攻略のマネ、とみている(p.239)。※独語のケーニッヒと朝鮮古語の「王」はなぜ似ているのか。
大山は仏語を話す。
ロシア銃鎗は日頃、研いでいないので、先が丸くなっており、厚い生地を通らない(p.297)。
第一軍の負傷原因。砲弾20、小銃100、スパイク2。
コメ食は寒地ではカチカチに凍結し、絶対に砕けない。
ロシアは203高地でも砲を山嶺に露出させていた。15榴を直接射撃に用いた。
乃木は世界の軍事新聞を多量に読んでいた。
▼W.シャイラー『フランス第3共和制の興亡』井上勇 tr. S46年pub.原1969
offensive a outrace 徹底的攻撃。
attaque brusquee 奇襲。
アルダン・ド・ピック大佐「勝つためには、進まなくてはならない」
ペタンだけは、火力が優勢なときのみに攻勢を限定しようとしていた。
ジョフルはサンシール士官学校を出ず、エコル・ポリテクニク出。
ベルグソンの反主知主義が軍人含む全仏人に影響を与えた。
アングロサクソンと違い、利己主義的個人主義の仏には慈善ナシ(p.119)。※つまり教会任せ。
ガリニエは複数の外語に通じる最も知的な将軍。
WWⅠ中、急速昇進した将官が、戦間期の若手将校の昇進を甚だしく抑制した(p.194)。
▼村岡健次『ヴィクトリア時代の政治と社会』S55年
土木技師は、18世紀後半の道路・運河時代に、miliatry engineer から区別された技術職業部門の草分けで、1850~70年代にジェントルマンのプロフェッションにつぐ高い社会的地位を得た(p.149)。
だから土木技術者を civil engineer と呼ぶ(p.231)。
狐狩りは冬の風物詩。
はじめ軍医は無資格者がなり、除隊後、民間で開業が許された。これは1858の医師法で規制された。
▼“Makers of Modern Strategy”
ハートは1920年代後半の軍事評論界ではまだフラーのジュニアパートナーでしかなかった(p.601)。
フラーは艦隊のアナロジーを陸上にもってきた(p.602)。
▼陸軍技術本部『蘇軍兵器冩眞要覧』S7-12
スコープ付き小銃は、歩兵、騎兵聯隊に各一小隊分(20人)。
軽機は各i小隊に2梃。狙撃聯隊は合計54梃。軽機の火力は歩兵25名に相当とされている様子。
蘇軍に於る重機関銃の装備は著しく優良にして狙撃聯隊に54銃あり。
小口径砲には、大隊砲と聯隊砲がある。
大隊砲は、歩兵砲小隊に平射および曲射砲が各1門である。
その種類には……
グルューゼンベルグ 37ミリ歩 平射 3357mレンジ、これ、当時普及中。
ローゼンベルガ(クルップの主任技師の名、駐退砲架応力計算の泰斗) 37ミリ歩 平射 3200mレンジ。
マクレン、最も多数。37ミリ歩 平射 3200m。
ゴチキス 47ミリ 3200
エフ・エル 57ミリ 曲射 600歩射距離。当時の曲射砲の主体。外装式木台座。
リホニン 48ミリ 曲射 600歩射距離。
ゲー・エル 90ミリ 曲射 500歩射距離。
アーゼナ 75ミリ 曲射 500歩射距離。
聯隊砲は狙撃聯隊内の聯隊砲兵Bn(2コ中隊)に6門。
その種類には……
1927年式76ミリ聯隊砲。普及努力中。ゴム輪帯。レンジ7060m。
1902年式76ミリ野砲。
1909年式76ミリ山砲。共に過渡的に聯隊砲に代用中。
この他、31年型ボフォース(47ミリATGにも75ミリ曲にもコンバチブル)あり、その47mmタイプは新式対戦車砲としてS7-5のパレードに現る。初速560m、レンジ6600m。
※ここから参本がソ連のATGを47ミリと思い込んでいたことが想像される。とすれば1式47ミリはイタリア口径の真似ではなく、単純にソ連の同格品を作ろうとしたのかもしれない。
野砲はすべて1中隊が3門で、特異。
師団砲兵は12榴が計9門、野砲が計12門だった。
軍団砲兵は、10加が計9門、15榴が計18門だった。
師団砲兵のアイテムには……
新式76ミリ野。S7パレードに表れ、砲身長く、砲口制退機有り。
1900年または1902年式76ミリ野。レンジ8500m。
1909年または1910年式122ミリ榴。レンジ7600m曲射。すでに旧式。
軍団砲兵のアイテムには……
1910年式107ミリ加。レンジ12700mシュネデル製。※日本の14年式はコレの追随か。
1910年式152ミリ榴。7600m。
山砲には、1909年式76ミリ。レンジ7000m。
騎砲兵のアイテムには……
1902年式76ミリ騎砲。
1909年式76ミリ山騎砲。
重砲(諸元は参本調整の『蘇連邦軍要覧』を見よ)には……
ウィケルス式120加。※ソの122ミリはもともとヴィッカーズ?
1904年式155加。
シュナイダー式155加。以上は対砲兵戦用。
ウィケルス203榴。
シュナイダー280榴。以上はべトン陣地破壊用。
カネ式155加。
254ミリ海岸加農。以上は陣地砲兵。
オブホフスキー製305ミリ榴。陣地砲兵。特別強固目標。
高射のアイテムには……
1914/1915年式76ミリ高。現制式。高度5500m、トラクター牽引。
ボフォース80ミリ。試験中。トルコを通じて買った模様。高度9700m。
「ビ」式40ミリ機関砲。情況不明。高度4600m。
エリコン20ミリ両用機関砲。数十門購入。
探照燈は米「スペリー」式を輸入。電気FCSも米から購入、研究中と。
蘇軍は手榴弾を重要視し、歩騎兵は略々手榴弾嚢を有し、其内に最小限2発を携行す(p.61)。※やはりシナ軍の手榴弾主義はソ連譲りだったのか?
“1931年砲兵必携”によると……
76ミリの炸薬量は約0.785kgのトリニトロトリオール。
122ミリは地雷弾で4.312kgの炸薬。
107ミリはトロチルで2.048kgの炸薬。※日本の10加はまったく負けている。
152ミリは地雷弾で8.8kgの炸薬。
TKの新編成として、Ptは5、Coは16、Bnは50両に改編中。
現在蘇軍所要戦車数は1453両。ただし旧式豆式全部含む。
装甲自動車のアイテムには……
A.b27年型。
六輪型。
ブロネフォード型。以上新型。
オスチン型。
フィアット型。
蘇軍型半装軌。以上旧型。
牽引車のアイテムには……
ボリシェウィク型。高射砲用。トレーラー複数を引く。
コムナール型。20H、15H用。農業用に普及させて徴用する政策。
テイヤガチ。シトロエン・ケグレス型。1930-1建造。
ゲペウ自転車隊と、宣伝用印刷車が存在(p.94)。
▼S53年『防大紀要 第三十六輯 体育学篇』兼坂弘道「軍隊剣術の変遷(1)」
維新後の軍隊では槍術中心の銃剣用法が行われていた(p.145)。
山県の命名になる抜刀隊とは、剣術に自信なきため突撃発起できない官兵に勢を与えるために西南役中に選抜されたもと士族の警視ら。
同役では洋式片手剣に対する日本式両手[もろて]軍刀術の優秀さが立証された。
1660にフランドルの戦闘でルイ14世の兵士が短剣を銃口に縛着した。1670バイヨンヌ氏が実用化。さらにヴォーバンが装着法を改良。1703には槍は駆逐された。
M10前後、真剣勝負にて軍刀の不利あきらかとなり、銃剣が採用さる。
日本文献中の矛の初登場は古事記の「天の沼矛」「国平の広矛」。
日本書紀・皇極3年に、長槍[ながほこ]と見えるのが槍の字の初出。
建武元年の戦で「長柄」の負傷者が記される。槍の実戦投入(南部文書)。
次が太平記の建武3年の二井寺衆徒のもちものとして登場する。
宝蔵院流は、僧徒がはじめた。
▼諏訪哲郎『現代中国の構図』
人民公社は対ソ戦の要砦としてつくられ、農業的な意義は無かったと。
田中清行氏の出馬に驚く。
あーびっくりした。
摘録とコメント。
▼杉江重誠『ガラス』昭和15年・改訂四版(初版S8年)
内部に真空の空洞をもつガラス煉瓦。音と熱を伝えない。このガラス中空煉瓦だけで1933にシカゴでビルが建てられた。窓がないのに採光できる。
ヨハネ黙示録に「水晶に似たる玻璃の海」と出るのはガラスの海のこと。
石英質の砂、ソーダ灰、石灰石粉末をルツボで溶かすとガラスができる。
出雲の国司が朝廷に毎年献上した美富岐玉とはガラス玉。
日本のめがねは元和年間に浜田彌兵衛が東南アジアで学んできた。
明和年代まで諸大名は、ビール瓶のようなくだらない舶来ガラス製品の購入のために大金を使った。
日本の板ガラス生産高はS12年に世界一になった。重要輸出品。
ところが必須の原料である硼酸・硼砂は国内で採れない。これがないと耐熱ガラス(硼珪ガラス)ができない。※つまりは防弾ガラスができない。
ガラス製造はたぶん、エジプトで磁器のうわぐすり(釉薬)から発達した。
梵語の「ルリベイドリヤ」がポルトガル語のvidroになり、そこから「瑠璃」「ビードロ」になった。七宝流しとも。
ギヤマンはオランダ語のdiamantから。
玻璃はラテン語のpolireから。
ガラス製造屋は玉屋といった。
「硝子」は江戸時代には「びいどろ」と読んでいた。それが大正13年いらい常用漢字の選定がなされて、「がらす」としか読めないようにされた。昔は「ガラス」などとは決して読まなかったのだが……。
昭和6年からはケミカル/ファーマシーの分野で用語用字の統一平明化の作業が進められている。
ガラスは珪酸のアルカリの混合物だから基本的に水には溶ける。耐熱パイレックスでも一日煮沸すれば鱗状片が生成する。
だからガラス容器による化学実験ではアルカリ化を予期しなければならない。
どんなガラスでも苛性アルカリには侵されやすい。
ヂルコンをまぜると耐アルカリでは最強のガラスが作れるが、日本国内に産しない。
硼酸がガラスの膨張率を小にし、弾性を増す。つまり温度変化に耐えさせる。
1400度で溶ける。それを400~500度の雰囲気のなかで数時間かけて冷やす。
昔は鋳型だと表面がザラついてだめなので、水にぬらした木型でガラス製品をつくった。
ポンペイの廃墟の浴場に、厚さ半吋のガラス窓が使われていた。
スティンドグラスは12世紀から。
摺りガラス=マットグラスは人工的に傷をつけたものなので、きわめて割れ易い。
表面張力があって糸状に縮まろうとする溶けたガラスをいかにして板状のままひきあげていけるかが工業量産のブレークスルーだった。
ひきあげる速度を増せばガラスは薄くなる。写真乾板用の薄ガラスをこの方法で昭和7年から国産できるようになった。
凸凹模様をガラス製造段階でプレスによってつけてしまうのを「型板ガラス」と呼ぶ。これは摺りガラスとは逆に割れ難い。
昭和10年に2ミリ薄(世界最薄)の型板ガラスが国産化され、これが障子や住宅の戸に大量に利用されるようになっている。
シリカ、酸化アルミ、酸化マグネシウムを多くし、酸化ナトリウム(ソーダ/アルカリ)を少なくした板ガラスは、雨や大気中の湿気で浸食されにくい。よって国産ガラスはすべてこれ。外国のガラスはこの配慮がないので、日本で使うとすぐに光沢を失う。
古いガラスは素材中に鉄分が不純物として含有されており、そのために青緑色がかっていた。鉄分1%含有の厚さ4.5ミリの板ガラスは、太陽熱線のほぼ全部を吸収し、室内に熱を透過させないという特性がある。
その代り熱を吸収して膨張しやすいから網入りの天窓ガラスとしては甚だ不適。
支那事変直後に金属の代用品としてガスラ(グラス・ファイバー)が開発され、ネクタイやテーブルクロスをガラス綿だけで試作した。「ガラスの弾丸」も研究中(p.91)。※ホーローびきの拳銃弾ならば今日あるが……。
そもそもグラスファイバーは1904に工業化されている。溶けたガラスを引き伸ばせば糸になることは紀元前から知られていた。
WWⅠで石綿輸入が途絶したドイツがガラス綿を1914に大々的に工業化。また各国でも主に船舶の断熱用にガラス綿を試した。
1914にロシア軍艦セバストポール(長さ450呎)は艦内の熱絶材料にグラスウールを用い、それによって380トン軽くなり、喫水が4吋浅くなった。
しかし講和後は競争力がなく、また石綿が復活した。
グラスファイバーは細ければ細いほど引っ張り力に耐える。それを撚り糸にすれば、ピアノ線の三分の一の強度にはなる。
ロックウールは溶岩、玄武岩、安山岩を原料とした人工繊維。グラスファイバーは絹光沢の白色だが、ロックウールは茶褐色または灰緑色。ガラス綿より低廉。
割れても飛び散らない安全ガラスはフランスの化学実験室で偶然のことから1903に着想され、二枚の板でセルロイドを挟んだトリプレックスとなる。
非常に高価だが1924から箱型自動車の窓に採用された。自動車事故の怪我の半数がガラス切り傷によるものであったため。
1930からは挟むフィルムが酢酸繊維になる。目下はビニール系とアクリル系を試験中。
ガラスを製造工程で急冷すると表面が先に冷え、内部が後から収縮するので強力な引っ張り力が残る。これを叩いてもなかなか割れず、もし割れるときには一瞬に粉微塵になる。粒には鋭角がなく、手で掴んでも怪我をしない。これが強化ガラス。
強化ガラスは切断加工ができない(すれば全部が粉微塵となる)。だから最初から製品寸法にしておいて熱処理をするしかない。強度は普通のガラスの7倍。
カメラや望遠鏡に使うガラスは optical glass という。
他の製品との違いは内部に「筋」が無い。逆に「泡」がわずかに残る。泡がまったくなくなるほどゆっくり製造していると、坩堝の内壁から不純物が吸収されてしまうため。
鉄分含有は禁物。紫外線をブロックしてしまうので。
天体観測用の大形レンズは冷却に数ヵ月かける。1時間にコンマ数℃づつ下げていく。 新しく買ったセトモノやガラスを水で煮ても硬くなることはない。このような迷信がなぜか家庭にある。
スティンド・グラスは、断面がI字形、またはU字溝のある鉛のリボンでガラス板同士の境界をつないでいる。ガラス断面にもそれに対応した凹凸を彫る。日本では明治34年に製作された。
重いガラスほど屈折率が大きい。鉛成分を30%も加えてもガラスは透明である。しかも比重から屈折大となり、光輝燦然としてくる。バリウムも。
独のエナガラスのショット氏が紫外線を透過するガラスを1903に開発した。これで天文観測が飛躍的にパワーアップした。
鉄、マンガン、銅を多量に加えると黒色ガラスができる。これにさらにニッケルを多量に加えると、紫外線だけを通すガラスになる。厚さは1ミリ半。これで暗中信号機ができる。20燭光で8哩の遠距離に通信できる。艦隊の無灯火行動に使える(pp.186-7)。
紫外線写真は、証書の改竄痕を見破るのにたいへん重宝する。水の染み跡が可視化される。インキを消した跡も見える。
眼鏡レンズはいかに透明でも9%の光は反射しているから、裸眼より9%暗い世界を眺めているのである。
河原や砂浜に落ちている砂は鉄分が含まれているので、そこから造ったガラスは濃い緑青色にしかならない。
ビール瓶は昔から鉄とマンガンで黒くしたガラスを使う。昭和の初めころに一瞬だけ、無色透明のビール瓶が製造されたが、すぐ元にもどった。
大衆酒の瓶は大量に製造しなければならないので安い珪砂を使う。すると鉄分のため青いガラスになる(当時のふつうの一升瓶はコレ)が、これが面白くないのでさらにマンガンを加えて真っ黒にするのだ。
明治19年のコレラ流行で生水が飲めなくなり、ラムネが普及した。今の玉壜はM30頃に登場した。
普通のガラスで耐熱させようと思ったら、極力薄くするしか方法はない。
パイレックスはアルカリ土類と重金属元素を含まない硼珪ガラス。
体温計の計測時間を縮めるには水銀柱を細くするしかない。だが円形断面で細くすると目盛りが読めないので、楕円断面とする。その長軸でもなんと0.05ミリにする。
ガラスは経年変化する。そのため古い体温計は、初期設定よりも高めの温度表示をするようになる。
水晶の眼鏡(本玉眼鏡)はよくない。紫外線と熱線を全部通してしまうから。これはすでに文化3年に警告されていた。本玉でない江戸時代の眼鏡は、青みがかったガラスであった。
鏡は影見。天の香具山の銅から日像の鏡を鋳たのが八咫鏡。
現在のガラス鏡は銀メッキ。その以前は錫アマルガム。錫箔を貼り、水銀を塗り、1ヵ月後に水銀を除いた。
銀メッキ法は1843に外国で発明された。銀引[ギンビキ]という。最終工程でベンガラまたは鉛丹を、剥離防止剤として刷毛塗りする。
鏡の良し悪しは、表面に直角に掌をあて、それを横から見て像と比べて見ればわかる。
銀メッキを極く薄くすればマジックミラーになる。
模造真珠は太刀魚の鱗を溶かしてガラス玉に塗ったもの。
天然宝石はガラスよりも熱伝導率が大きいので、冷たく感ずる。判断センサーには舌先が一番である。ガラスより冷たいと感じたらホンモノだ。水晶はこれで確実に分かる。
科学的には紫外線を当てると蛍光の差で分かる。
天王星が発見された数年後に新元素がみつかり、ウランと名づけられた。ついで同じ硫黄属の新元素がみつかった。地球を意味するtellusからテルルと名づけた。その数年後にセレンが発見された。これはギリシャ語の月(selene)から。
日本の元素名はドイツ語系統が正式なのでウラン。ウラニウムは英語。
ガラス戸をガタンと開けると必ず隅の方で割れる。
熱湯でガラスが割れるときは曲線で割れる。ギザギザにはならない。
レンズに黴は生えない。生えているところを拡大観察すれば、必ずダニの死骸があるはずだ。
石英灯は大正13年に国産化された。2000度で溶かす。
光学ガラスは、ドイツのエナガラス、英のチャンスブラザース、仏のパラマントアからの輸入であったが、「日支事変勃発と共に日本光学、小原光学等の各会社も亦光学ガラス製造設備の拡充を計り、主要軍需資材供給の重責を分担してゐる」(pp.287-8)。
戦車、装甲自動車、装甲トラック、飛行機の窓ガラスには必ず安全ガラスや防弾ガラス(強化ガラス)が嵌込んである(p.288)。
1787創立のマサチューセッツのボストンクラウンガラス会社は、州議会から、従業員の兵役義務を免除された?(p.294)。
明治8年に『七一雑報』という雑誌があった。日本のプロテスタントがつくった最初の雑誌。この第一号の巻頭はガラスの記事である。※あるいは北海道開拓と関係があったのか。
板ガラスの反射を使った手品のたねあかしは、阿部徳蔵『奇術随筆』にある。
同じく西洋劇場の幽霊の出し方については、明治12年刊の『御伽秘事枕』。
川柳ではびいどろは美人の隠語。
十年ほど前に無色に近い透明なベークライト、正確に云って今のプラスチツクス(合成樹脂)ができたときに誰かがこれを有機ガラスとなづけた。
安物石鹸には水ガラスが入っており、いつまでも手がヌルヌルする。
明治40年頃まで汽車の窓ガラスには白ペンキで横線が太く引いてあった。窓があると知らずに頭を激突させる乗客が多かった。今でもまだ、ショーケースにガラス戸があることを忘れて横合いからさしのばした手を打ちつけ、きまりの悪い思いを苦笑にまぎらすことも度々である(pp.315-6)。
マタイはなぜ新しい葡萄酒を古い革嚢に入れるなと言ったのか。新酒は醗酵が続いており、そのガス圧で古い嚢は破れて使い物にならなくなり、酒もまたこぼれてしまうから。
明治5年9月に仁徳天皇陵の南の昇り口が崩壊して石郭があらわれた。その中に石棺があり、ガラス器が2箇あった。
幕末の国産無色壜はほとんど薬用に造られた。
▼W.F.Wilonguby “Government Organization War Time and After”『世界大戦における米国総動員概説』資源局 ed. S9年、原1919
WWⅠ中のロシア小麦はなお米市場を破壊し得た。
そのロシアに休戦後は食糧を供給する必要がある。
石炭は貯蔵に適さない。だからすぐ運び出せる鉄道のcapacityに生産量も制限を受けてしまう。
「合衆国内に居住するドイツの臣民と取引するに際しては……単に彼等の国籍がドイツ人たるの事実のみを以てしては……『敵国人』と為さず」(p.163)。
航空局は1917-6-30に「リヴァチー・モウター」を完成した。標準発動機。
▼C.G.Dawes『欧州戦に於ける連合軍軍需補給の実績』S2年
1914以前は、補給の如き特殊事項を担任する将校は、劣等部類に属する者と看做されたることも少なくない(p.11)。
1918-10-31時点の貨物自動車数。米29869、英31770、仏80044、白4192、以上在仏。伊28600(在仏+在伊)。
1918-10-31の在フランダースの獣数。米163795、英382927、仏642984、白38118、伊6804。
同日・同所、自動小銃&MG数。米68011、英52145(ビッカース、ルイス、ホチキス含む)、仏75500、白4333、伊444(本国分含まず)。
同日・同所の重砲弾薬(野砲クラスを含まない)数。米122431発(+さらに野戦軍より後方に310842発)、英3760896発(+216457)、仏2944400(+216457=英と同じ)、白33800(+225000)、伊14342(+225000=白と同じ)。
英でsuppliesといえば、糧秣、油脂のことに限定され、米のsuppliesと対応する語はstoreだった。
戦時中米国はFuel Administrationを設ける。
アルゴンヌ~ミューズの戦闘では米軍は毎日15万トンのガソリンを消費した(p.110)。
欧州各国にて使用せる鉄道用貨車平均で10t積載。平均速度は15~40km/hを超えない。
動物輓曳車は1200~1500kgを積む。トラックは平均3tだった。前者は1日25km推進した。後者は80km/day。
悪路の輓曳は300kgを毎時4km進められたのみ。
空輸は末期に僅かに実施。
恐怖心をおこさない騾が前線では100kgを運んだ。4km/hで30km/dayも。
仏軍のソンム戦傷者はすべて河川で後送された。200tを4km/hで推進できたが、夜は動かせず、また長距離には却って不利。米軍は河川は利用せず。
白、伊軍はTK遂に使わなかった(p.190)。
米第一軍の9-26の発射弾数。75ミリ砲を322438発、2805トン。95ミリ砲を1347発、19トン。105ミリ砲を19476発、351トン。120ミリ砲を4317発、99トン。145ミリ砲を3905発、155トン。155GPFLPを3470発、1768トン。155Hを76918発、3700トン。220Hを2836発、312トン。
▼ Stephen Possony『今日の戦争』大内愛七 tr. S15年
著者はオーストリア人。岩波刊なのでかなり多数の日本人が読んだ筈。
訳者序、事変目的達成のために努力しつつあるわが国の産業界は、計画性が不徹底で、産業界自体が現代戦争に必要な資材の大きさを知らない。
1934資料で、1梃のMGは前方2km、戦線13mを守り得るとされる。1km正面の防御には80~100梃いる。MGは6ヶ月ごとに取り換えを要する。
当時の兵員トラックは15人とその必要物資を運べる。
筆者はTKの最盛時は終わったとする。スペイン内乱より。
スペインではGunとTKと爆撃機を同時に使用した時のみ戦線突破できた。
WWⅠ中に爆撃で破壊された橋はない。
WWⅠ中、対空砲の命中率は11000発分の1発から、1500発分の1発に向上した(p.58)。
WWⅠ末のドイツで不足欠乏したのは、平時なら自給していた石炭や硝石であった。
農産物の平時大量貯蔵こそは戦時の値上がりを防ぐ(p.152)。
「総バーター勘定貿易」は、時の経過とともに、同一量の輸入を獲得するためにヨリ多くの財を輸出せねばならなくなる。これは1937に理論化されている。
農民は労働者以上に国を愛しもせず、健康でもない(p.183)。
▼M.Debney『戦争と人』S19年
※タイトルの「人」とは「器材」の対概念。
戦後、敗者の側には回想録が続出する。1871後の仏、1918語の独然り。
WWⅠの仏将校は、普仏敗戦を体験した教官に育てられた。
陸大卒業生は、「軍内貴族階級」「青年トルコ党」であった。
ヒンデンブルク線=ジークフリート線。
英軍は大会戦の後には詳細な会戦広報を出して国民を納得させた。フランスはこれをしなかった(p.34)。
「器材戦」は必然的に「期限付戦争」を指向せざるを得ない。
ルーデンドルフは自動車で麾下の徒歩旅団を誘導しつつ、リェージュ周辺の築城陣地に突然侵入した。
馬匹はWWⅠ中、1日30kmの速度で前線~後方を往復。自動車はその3倍の距離を無休止で走った。
1794仏将Pichegruは結氷に乗じ軽騎兵を以て北海テクセル島のオランダ艦隊を拿捕した。
下級幹部は近代戦に於いて初めて重要な存在となった。
フランス人は兵卒であっても指揮することが好きである(p.124)。
フレデリックは敵近く行進して、会戦を拒否して遠ざかることができた。火器射程の関係により。
仏軍操典の扉には「軍紀は軍の最も肝要な力……」と記してある。※これを真似して「承詔必謹」なのだな。
「緒戦で戦争に勝てるのだ」と、「成功が確認できた場所に予備を進出させる」──この1870戦訓を、独はWWⅠでも墨守した。戦略的な“方向”が無視された。
要塞は器材戦「兵器」であり、守勢をとる軍隊にあっては器材の価値が人間の価値を補い得る(pp.224-5)。※マジノ線の理由。
ソンムでは塹壕がきわめて早期に粉砕され、兵は砲弾孔に陣替えしなければならならかった。だから永久陣地で人を節約汁。
1882の仏教育改革いらい、百科事典主義が支配的。スペル、作文、判断の学力は低下。詰め込み式。「科学精神」をもつ若い世代をつくるという掛け声だが。専門教科がやたらに増やされ、膨張し、文部省に捨拾選択の自信はない(pp.275-6)。
1917の仏軍反乱は統帥部に対してであって直上将校にではない。1918末の独軍反乱は、異階級人たる将校団に向けられた。
デブネが戦場でみたのは、智者の崩壊と勇者の出現(pp.287-9)。
航空写真標定と迫撃砲により、塹壕と鉄条網を攻撃前に爆砕しやすくなった。1918頃。 しかしコンクリート要塞は別だった。※だからマジノ線。
仏政治家は会議冒頭では学のあるところをみせるが、やがてアングロサクソンの細部的、実証的な反論に尻尾を巻く(pp.300-1)。※フォッシュに欠けていたもの。
普仏戦の敗因はアフリカ植民地の戦争しか知らない将校(p.304)。
「La Paliceの真理」(p.333)。※1470~1525の仏将でPavieの戦いで戦死。最後まで勇敢に戦ったことを仏詩では「死ぬ前、元気だった」という。ここから「あたりまえ」の意に。
遅蒔きの名案は大破局の註釈でしかない。
フランス陸軍に於ては、参謀部が統帥(司令官)の代りをしたことはない(p.353)。独では皇太子を高級統帥者にしなければならないので、参謀がその無能を補う。
独断=Initiative (p.356)。
プロシアは自己の作戦計画は同盟国に知らせないが、同盟国の作戦計画に対しては閲覧の権を保有する(p.385)。
多くのフランス人が権威の体制を待望しているにせよ、それは当然権威の中にこそ自由の真の保証者があると見るからである(p.433)。
▼川越重昌『兵学者佐藤信深淵』S18年
信淵の没後3年目にペリー来着。
「兵法一家言」中に、狩りで鎗刀にて打ち止めたり高崖からおっこちたことがあるが、刀も脇差も思いの外にその身は曲がるものだ、と。
戦法の特色は、十分な楯によって敵陣に肉迫しようとすること。
斬馬刀とは6尺棒の先につけた太刀で馬の脚を薙ぐもの(p.34)。
ナポレオンは信淵と同年に生れた。
「ワッソク」……背へ斜めに掛ける負い方(p.305)。
▼『眞山靑果全集 第十四巻』S51年
附録の「月報」で福田恆存は激賞。西洋の作劇術を日本で最初にものにした人で、日本の近代演劇史に残る唯一の劇作家だと。菊池寛もかなわないと。
東北出身。松竹の座付きになった。しかし晩年は数万人に一人の病気にかかって病床。
M40の測量士は「××チェイン○○リンク」と測り回る。
M40の自費出版には3000円かかる。
「学派と学閥の闘争以外に何んの能も無い日本の学者達だ」
北極探検では犬ぞりに鎗をもって乗る。
M41の爪きりはハサミ
「私どもの若い時にや、思ふの考へるのと云ふことが無かつたものだ」
エスカリオテのユダが銀30枚でキリストを敵にわたした後、その罪を悔やみ、指を噛み、地を凝視して悄然と樹下に佇立する絵。
If he had not been born. ……これはキリストがユダを呪った言葉としてマタイ伝に見える。その方が幸せだったと。
※とかく指先が震える人物が出る。著者は書痙か?
M42、散弾の送蓋に「ワッパ」とルビ。
2連銃に35円は出すが40円は出さないと。
仙台藩では親不孝者は城下の芭蕉の辻で鋸引きにされた。
暴れ者をとりおさえるには、細引きではない綱のようなものを被せるとよい。
「財産を保護する為なら、法律上殺しても無論不論罪[ふろんざい]です」
電柱には「コールタ」を塗る
M40にお歯黒剥げした下女
縄鳴子を張って待ち構へていると
早稲田田圃に高圧電気の原導線を
肱木の下には金網。万一切れた用心
落合の火葬場の先にはまだ空地がある
郊外が開ける前駆者は、湯屋と理髪屋
石竹色=ピンク
※「大塩平八郎」大15雑誌『中央公論』発表。これほどクーデター決行者の緊張感になりきって表現しているフィクションは見たことがない。昭和の青年将校が刺激を受けたのは確実である。また、平八郎に対する河合のツッコミ、これは三島に対する森田のケシカケと同じではなかったのか。
一日一度は川べりを散策しないと気色が悪い
小前小者の貧民が御器をもたない新乞食となっていた
兵庫の豪商北風荘右衛門が大塩らの上司の役人としめしあわせて西宮に内密の米市場をたてて、大坂に入津する諸国米を関東にまわしている
檄文も配布してある(p.631)。※「檄文」はおかしいという人がいたが、実はおかしくなかったことがこれで分かる。檄は飛ばすものだが、撒くのは檄文で良いのだ。
刀は仕損じる、槍で突け
この混雑のなかに、常に知らない静かさがシインと聞えるやうな気がします。
「大小を差していては人目にかゝるだらう」平八郎、大小を河中に投ず。
真山の中学同級生が吉野作造。
最後に常に自己にかえろうとする人間を描いた。
▼田中・藤巻・星野共著『不動明王』
貴族の調伏合戦が、強そうな忿怒身像のファンを増やした。
道長は法成寺を建立したとき、1万体もの不動尊を造像供養した。
摂関期~平安末には修験道が不動信仰を庶民に広めた。
右手の宝剣は慧刀と呼ばれる。智恵を「智慧」と書くのは不動明王の効験にあやかろうとしたもの。
光背は迦楼羅炎と呼ばれる。
日本では大師様と十九観と2様式あり、後者は古代インドの奴隷を彷彿とさせる醜悪な姿。※左肩に1本だけ垂らす弁髪は奴隷の髪形なのか?
五大明王のうち3体は虎皮裙[こひくん]。また降三世明王の場合は獅噛[しがみ]の飾りも。※ある人いわく仁王の虎皮はヘラクレスなのであると。この場合は如何。
著者も新刊ゲット!(爆)
一部書店店頭に出るより遅く、著者のもとにも『大東亜戦争の謎を解く』の見本が届けられますた(昨日)。
おやっと思ったのがイラストです。当初計画では別宮先生のお知り合いの方が素敵な挿絵を描いてくださるというお話だったのでしたが……あれ、どうなっちゃったんですかね? しかし伝統ある『丸』風のイラストをこのようにサクサクッと付けてしまえるのですから光人社さんの実力はさすが凄いものです。また、装丁のソツの無さを御覧ください。装丁やレイアウトは本当にプロとアマの差が出てしまいますからね。やっぱり伊達に老舗じゃないですよ。
あとがきにも書きましたが、インターネット時代に百科事典みたいな用語解説書をつくってもしょーもないわけです。ですからこの本は用語解説書ではありません。論点提示書であり、仮説集成です。
どんな論説が載ってゐるか? それは買って読んでくだされとしか申し様は無い。
反近代的リベラリズムとは所詮、似非リベラルであることを、モダーンの文語を移植される前の頭でも理解できる日本人は、ミリタリー研究者だけのようですね。これは元禄時代に生きた徂徠、白石の頃からそうです。
戦前・戦中・戦後の日本を混乱させた共産主義は、80年代バブルに駆逐されました。そのバブル以後の日本人を納得させて引っ張っていく規範・指針を、誰もが求めています。
一時はフランス発の「ポストモダン」がそれではないかと有閑読書階級の一部が思い込んだことがありました。
が、湾岸危機(デザートシールド)のときに出した新聞広告声明で、もののみごとに彼等の前近代性がバレた。ミリヲタはみんなそれを直感しました。
元禄時代から日本人が理想と現実を把握する力は、あまり進歩していなかったのです。
近代(モダーン)の根本義は「公的な約束をしたら、それを破ることを誰もが恥と考える」に帰結します。その結果として社会の自由と平等が両立する。それ以外に、自由と平等への幹線などありはしないんです。
ところが儒者と共産主義者は、公的な約束を守ることが筆頭にくる大事な人の道なのだとは考えないのです。したがって、儒教徳治主義や共産主義の先には、自由と平等が両立する近代は、あり得ません。
日本のインテリはなかなかここを学習ができず、敗戦を挟んでなおまだ混乱をしているわけです。近代を理解もしていないのに近代後を論じようというのですから、幼児が自動車を操縦しようとするようなものです。危なくて見ていられない。
「公的な約束をしたら、それを破ることを恥と考える」かどうかと、その社会の家族構造とは、ある程度、影響し合うでしょう。自分の血族だけが大事な社会(シナ・朝鮮)では、血族外に対する嘘は許されてしまうでしょう。そこから変えない限り、彼等の国内では近代も無い。室町以後の日本は血族社会ではないので、個人が外国に脱出しなくとも近代があり得たのです。ところが内乱防止に役立つと思って教育勅語などという儒教への退行を是としたところから、日本はせっかく離れたシナ・朝鮮(および共産主義者)の同類に、再びなってしまいました。
新井白石は「国書復号経事」の中で、<いったいに朝鮮人は狡黠にして詐が多く、利の在るところ信義は顧みない。天性、狢の俗だ>と書いているそうです(上垣外憲一『雨森芳洲』)。白石はまた、朝鮮は明から助けられたのに、その明が清に攻められたときには一人の援兵も送ろうとはしなかった、と指摘しているのですけれども、これは公的な約束を破ったケースとは違う。しかし白石は、当時の朝鮮人の中に、デザートシールドの時の日本のポストモダンの連中を視たのでしょう。
たまたま中公新書の竹内洋氏著『丸山眞男の時代』をサラッと読みまして、うたた今昔の思いをあらたにできました。
丸山氏は1946年に「超国家主義の論理と心理」という論文を雑誌に載せ、そこでマルクス主義教条ではない「社会学」という舶載新型解剖刀の使い方の手本を日本人に示し、読書階級に大きな知的興奮を与えました。この丸山流の賞味期限はバブル前期まで長く保たれました。
やはり丸山氏の初期の論文に「軍国支配者の精神形態」というのがあって、東郷茂徳はジョセフ・グルーになぜ宣戦のことも真珠湾のことも一言も言わなかったのかを、自我の弱さから説明していたのですね。米内光政の話も出てきます。
そう、50年代とか60年代には、こんな固有名詞が読者には無理なく共有されたのです。2000年代の今は、日本がアメリカと戦争したことすら知らぬ日本人に、1945年以前の戦争について何が論点であるのかを説かなければならない。
丸山氏が把握した価値中立でない戦中日本の超国家主義は、朱子学(=教育勅語)への退行であって、日本人が罹り易いインフルエンザだとは言えても、体質ではありませんでした。
体質=自我意識の古層といえたのは、日本独特の水利灌漑共同体(それは1950年代末に半滅した)から来ていたものです。そのことは50年代から共産党員の玉城氏が指摘していたのに、丸山氏はじめ誰も理解できませんでした。
新兵しごきは各国にもありました。古兵にとって新兵はじぶんたちの命を託すにはあまりにも頼りなく見えますので、急いで鍛えなければサバイバルができなかったのです。ドリルサージ(教練軍曹)が率先垂範でそれをやるか、一等兵が事後罰的にそれを代行するかの違いはありました。各国軍のシゴキの実態はベトナム戦争以後の米国映画や80年代以降のルポルタージュで徐々にミリヲタには把握されました。
『ピンクパンサー』のクルーゾー警部は、ネットの映画予告編の発音を聴いたら「憲兵」だったのですね。この憲兵隊を内務省の機関とせず、陸軍省の機関としたために、明治政体は破壊されてしまったのだという話を、兵頭は1995年頃に雑誌に書いたと思います。そのとき、丸山氏はまだ存命でしたが、末期癌との闘病生活に入っていました(1996-8没)。
社会構造等を云々する前に、日本人は近代に関して単純に無知なのです。ミリヲタは多少、その無知を覚ることができる。その無知を自覚しなければ、誰にも未来は語れません。
丸山氏の対極に、「こんどこそはうまくやろう」という「悔恨共同体」の最初期バイブル:林房雄『大東亜戦争肯定論』(1964)がありました。これの延長が「if戦記」です。
丸山氏にしても林氏にしても、実際の戦争指導の内幕をほとんど理解せずに自論を組み立てていました。
新刊『大東亜戦争の謎を解く』が、もし1950年代か60年代に出ていたら、そのごの日本人はどうしていたでしょうか。皆様の読後感を承りたいところです。
摘録とコメント(※)
▼S.Glasstone編、武谷三男 tr.『原子力ハンドブック・爆弾編』1958、The Effects of Nuclear Weapons
弱い力→強い力に変わるとき、エネルギーが放出され、質量が減る。
1ポンドのウランまたはプルトニウムを完全に分裂させると9千トンのTNT爆破と同じ。
20キロトン出力を得たいなら理論上は原料2.2ポンドで良いことになる。
重水素1ポンドをすべて融合させると26千トンのTNT爆発と同じ。
火球半径以上の高度で爆発させるのが普通である。1Mtなら2900フィートである。
回折荷重:爆風波が構造物の裏にまわらぬとき、表裏の圧力差により働く力。円柱はこの回折時間が短いため荷重を無視できる(p.86)。※広島では風呂屋の煙突は立ったまま。病院や公共建物は円筒状に汁。
衝撃波面に続く、突風による動圧荷重を「牽引荷重」と呼ぶ。TNTが1000分のn秒しか続かないのに、1メガトンでは2秒も続き、破壊的。
巨大壁面構造物は主として回折力を、トラス橋などは牽引力を受ける。
回折に弱い構造物が特定の被害を受ける範囲は、爆発エネルギーの立方根に、また被害範囲は「三分の二」乗に比例する。
ex.エネルギーが1000倍になると、同程度の回折型被害の生ずる範囲は、およそ10倍ほどの割合で増加し、被害の起こる面積は約100倍の割でひろがる。
牽引型被害は、それぞれ上の、10倍以上、100倍以上、となる。というのも、爆心からの距離は、風圧持続時間を縮めず、エネルギーに比例するからである。
耐震を意図して建てられた現存する構造物で、その重量の10%に等しい横方向荷重に耐えられるようになっているものは、爆風による被害は少ないだろう(p.91)。※つまり今や日本の都市は他国の都市より核攻撃には強い。
爆風の力は力積impulseでも表わされる。正圧部持続tと、超過圧力の変化を加味したもの。
異なる出力で同じ被害が出る距離を求める算式(pp.96-7)。
この本が出た時点ではまだ広島も長崎も20ktとしている。
日本の鉄筋コンクリート建物の多くが爆風に強かったのは、1923震災後、高さ100ft、垂直荷重の10%の側圧に耐えるべしとの建築規制あったため(p.150)。
航空機は後上方からの爆風にも弱い。
地上破壊口の直径は、爆発エネルギーの立方根にほぼ比例して大きくなる。深さは4乗根に比例する(p.191)。
テフロンを溶かすには、平方センチあたり70カロリーが必要。
屋根瓦が泡立ったのは40カロリー。
広島の火災は焼夷弾1000トン分に相当。
長崎では市街の配置が不規則だったので、火災範囲は広島の四分の一で済んだ。
熱線がピークに達するまでの時間は、爆発エネルギーの平方根に比例して長くなるので、小型核ほど退避行動が不可能(p.317)。
1.25マイル以遠では、20キロトンからの初期ガンマ/中性子線は、無遮蔽でも被害を生じない。しかし1キロトン以下では、熱線を上回る到達範囲を有する。※中性子爆弾の明瞭な説明。
中性子は百分の一秒以内に到達するから、退避行動は無意味(p.345)。※無意味でないという異見も。
コンクリート、湿った土、酸化鉄鉱石や鋼鉄パンチングのような小さい鉄片を加えてつくった変性(重量)コンクリートは、中性子にもガンマ線にも有効である。※酸化鉄入りのテトラポッドが既にある。
硼素は遅い中性子をとらえるので、colemanite をコンクリートに混合する。
ガラスはナトリウムと珪素が主成文なので誘導放射体となる(p.382)。
木材、繊維は放射性にならない。
キロトン級から生ずる clouds は対流圏上層に達せず。
成層圏留分の半数落下は7年。
米国ではカルシウムの3/4を乳製品から摂る。ストロンチウム90はカルシウムと同じ消化のされ方をするために体内に定着し易い。
1tのTNT-HEによる標準死者は40人とされる。
三度の火傷は感染症の危機。ケロイドは通常の焼夷弾攻撃でも発生。
被曝後の受胎児は奇形にならないようだ。
ガンマ線を浴びると黒人は爪が青変する(p.464)。
脱毛には順番があり、睫毛と鬚が先行する。ただし永久脱毛は一例もなし。
放射線を浴びた海水も蒸留すれば飲料水として完全である(p.508)。※3Fの灰については触れていない。
▼H・トビン『アメリカ総動員計画』邦訳S16年
南北戦争のとき、北軍は運輸・通信を統制。南軍は経済全般を統制。
1917~8の経験では、米国の宣伝は主として広報委員会のうけもち。検閲は広報委員会の外、多数の機関によって行われた(p.59)。
米のWWⅠ参戦熱に着火成功したのは、広報委ジョージ・クリール配下の素人宣伝家(p.60)。
検事総長は25万人の志願者に政府の徽章を与え、破壊活動の狩り出し権をもたせた(p.71)。
事前検閲は出版、報道、映画界に浸透。
検閲に逆らい、榴霰弾の無効を公けにし、英陸軍にHEを採用させたのは、新聞。
英はWWⅠの初期でドイツ宣伝ラジオをJamせず、反対宣伝で臨むことを決心。
WWⅠ中の兵役拒否者は1500人だけだった。宗教者は除く(p.85)。
米にはヴィッカーズやクルップに相当する大手兵器私企業なし。
▼伊藤博文 ed.『兵政関係資料』S10年
鎮守府は、海軍の城郭たり。根拠地たり。
横須賀鎮守府だけでは、九州や北海道沖で損傷した船がたどりつけまい(pp.12-3)。
室蘭と舞鶴は対露用。佐世保は対支用。
独人イヤリング教授いわく、日本は島国なのだから皇子孫は海軍に従事させろ。ロシアは皇太子を陸軍、第二皇子を海軍に入れている。日本はその逆をやれ。兵学校は江田島ではなく東京に置け。
当時の三海峡は、紀井~淡路、伊予~豊後、長門~豊前。これ以外は封鎖できる実力がなかった。
アナポリス優等生は英仏に留学させていた。
北海道を防御したくば、本州から援助できる港湾に要塞をつくれ。函館と室蘭を考えろ(p.133)。
M24の有地中将意見。スエズ運河は喫水25呎以上の船は通れないから、ヨーロッパが日本を攻めるにはケープを回る他ない。しかるに英仏露伊西の戦闘艦は1艦あたり877トンの炭量。戦時全力一昼夜で302トン消費する。つまり877トンは2日強で尽きる。経済速力でも5日しかもたない(仏海軍が証拠)。いろいろ考えると敵艦隊は4日毎に積み込みの要あり。香港、上海に石炭を供給しているのは、他ならぬ日本だから、連中に勝ち目は無い(pp.198-9)。
▼アラン・ムーアヘッド『ガリポリ』
青年トルコ党の50%がユダヤ人で95%はフリーメイソンのメンバー(p.26)。ローマンカトリックは彼等を毛嫌いする。
破産の脅しは抑止力にならない(p.37)。
厳寒のダーダネルスには黒海から流氷が漂うことがある。
この作戦には観測水上機を除き航空機は不参加?
英のテストでは、透明度が良ければ機上から18フィートの深さの機雷を視認できる。
たとえ老朽艦であっても「艦は人間よりも大切であるというのが全海軍の伝統であり、艦長たるものはどれだけの人命を犠牲にしようとも、艦を守り抜くようにつとめなれければならないのであった」(p.121)。※この義務あるがゆえに英国では艦長は最後は必ず船と運命を共にしなければならないのである。水夫に死を命じている以上は。
▼コルマル・フォン・デル・ゴルツ元帥著、フリードリヒ・フォン・デル・ゴルツ大佐補『国民皆兵論』陸大 tr.大15
※ゴルツ元帥は少佐時代、1883に普仏戦を総括した本を書いている。本書はWWⅠ後の読者対象。
緒言、モルトケはクラウゼヴィッツの門弟だ。クラウゼヴィッツは近代におけるすべての軍事研究者の師だが、WWⅠを想像できなかった。
大口径モーターは遅発信管。
英の封鎖はハンニバル包囲の現代版だ。戦理は変わらぬ。
大戦開始の際に4000万の人口の仏国が6700万のドイツと同等の常備軍をもっていた。
参加総員の約半数の死傷者を出したボロジノ、アイラウの如き会戦は、大戦中に一度も見ることはできなかった。
スーパー新兵器をすべての国が持たない限り、世界平和は無い。
すべて新たにできた兵器はその法則をみずから作る。
1813年以降、普国に於いては兵役は国民の当然負担すべき名誉の責務なりとの意見が行わるに至った。
WWⅠの軍団の最後尾は1日行程分後方の路上にあるので、軍団が同時に戦闘に加入することはできなかった。稀に1日50km歩いたことも(p.47)。
WWⅠ中、独はDをもって最大の戦術単位にするに至る。
クラウゼヴィッツは、2単位制軍隊だと、その司令官は何もできなくなると警告す。
騎兵と輜重縦列は、特に敵航空機に対して脆弱。
以前は1000名よりなるBnが最小戦闘単位だったのに、今日では中隊~分隊も戦闘単位である。
普仏役において加農/榴弾砲が敵の榴弾で損傷することがまったくなかった。
WWⅠの偵察機は3機編隊で行動した。
運動性劣る重爆は夜のみ使用され、昼は軽爆が出撃。※飛行船も。
ベルサイユ条約は、観測気球や対戦車ライフルまで禁止してしまった。
WWⅠ型LTKは「特製の自動車に載せて運搬し得」(p.76)。
WWⅠ後、将校団は目の敵にされた。
WWⅠ中、15万人の新任将校が、凡らゆる社会、凡らゆる職業より採用された。
普仏戦時の仏軍将校の命令書は、詳細に過ぎた。ほとんどが9月革命で将校となった人々。
ナポレオンは41歳で、フリードリヒは48歳で年齢超過を自覚した。
「政策第一と云うナポレオンの金言」(p.198)。
クリーグスプラーン:作戦計画←→オペラチオンス・エントウルフ:策動案。
モルトケはもともと東西同時打撃を考えていたが仏要塞の発達により1878以降は西守東攻派となる。つまりオーストリーと共同でワルシャワあたりで露軍を合撃せむと(pp.258-9)。
シュリーフェンはなぜそれを変えたか(pp.-260)。
仏国新聞論調の好戦化は英仏協商後から。
~p.262までアロン引用の箇所と思われる。
ベートマンは参謀本部のベルギー計画を知らなかった(p.266)。
※独国内の戦況報道が宜しくなかったのは国内があまりに分裂していたから。
一等国ではじめて諜報勤務を整然と組織したのは仏(p.300)。
7年役では戦闘隊形で行軍したので前進に道路を使用することは稀。
夜行軍および夜間の部隊交替はWWⅠから(p.323)。
WWⅠ前には「防者は全正面に於て成功した場合にのみ勝利を得るが、攻者は長い戦闘正面の唯だ一点に於て成功すれば、勝利を得る」といわれてきた」(p.358)。
そこで小部隊による側面攻撃が多用され、常に成功した。
クラウゼヴィッツが長生きしていたら、攻撃を有利と書き改めたろう(p.361)。
フリードリヒ『戦争の一般原則』「故に攻撃を敏速に行うに従って、兵卒を失うことが益々少ない」。これは今日にもあてはまる(p.365)。
「攻者は側面及背面の警戒を……成るべく猛烈に前方に向って攻撃することに依って、之を期すべきである」(p.368)。
ドイツでは騎兵が軍隊の中でいちばん尊重され、国民の間に一番愛されたが、仏国軍隊では工兵および徒歩砲兵が優待された(p.414)。
連合軍は後半2年、必ず歩兵の総攻撃にTKを集団的に先導させた。
大量のガス弾の製造が普通の爆弾よりも容易かつ廉価(p.468)。
「勇敢なる国民は爆弾やガス弾を以てする空中攻撃のみでは、決して屈服せぬであろう」(p.469)。
フリードリヒからナポレオンになって、追撃が初めてできるようになった。
「独断専行」を論ず(pp.530-2)。
「精鋭な軍といえども、長い間劣悪な敵と戦って居れば、その能力が低下する」(p.541)。
野戦軍の移動式炊事車は、日露戦争で初使用(p.574)。
「如何なる史家といえども、支那人が長く存続するの故を以て、之をローマ人やギリシャ人の上に、置く者はあるまい」(p.616)。