案外簡単にいくらしいアメ基地の北転

米軍人は、韓国への駐留を厭がるのと同様に、沖縄勤務も好んでいないということです。
 つまり、人々に嫌われているところに、わざわざ居たくはない。
 まして、砲撃訓練すら満足にできぬ沖縄県には、そもそも地上部隊(海兵隊)の基地となるべき基礎条件が不備なのです。
 日本で最大レンジの砲撃訓練が行なえるのは、北海道の矢臼別演習場です。この近くにもし移転できるものならしたいものだと、米海兵隊は思っているのだと、防衛庁の人から聞きました。(米海兵隊の上層部やOBには別な執着があるのだろうとわたくしは見ていますが。)
 では当の北海道の事情はどうでしょう。
 たとえば道南の第11師団は、もうじき旅団化されます。人数で数割減、装備品は物によっては半減となる。近年、とっくになくなるはずであった倶知安駐屯地の消滅を回避して欲しいとの地元の懇望に応えるため、函館駐屯地の第28普連からわざわざ1コ中隊を分派して倶知安へ常駐させているのですが、いよいよ師団が旅団化されてしまうなら、この中隊もぜひ手元に置きたいと、連隊長ならば思っているに違いない。まあそうなれば、倶知安駐屯地などは、たぶん維持はできないでしょう。
 北部方面隊の他の師団でも、西方に人員器材が抽出されるにつれ、倶知安のように統廃合される駐屯地を複数、生ずることでしょう。いずれの地元も、これには大弱りです。
 なぜ、自衛隊がいなくなれば地元が困るか? 数百〜千数百人の隊員が、所在の市町村に、地方税や保険料を納めてくれているからです。
 もちろん数百人の元気のよい隊員の消費活動が、地元の商売人たちに寄与する面も小さくはないでしょうが、それは目立つようでいて、じつはメインの問題ではない。
 地方税や保険料や国からの特別な補助(自衛隊めいわく代金)は、人々の目にこそ見えませんけれども、一市町村の運勢を変えてしまうくらいに、巨額で多大なのです。
 さて他方で、米軍が地元におよぼす「迷惑度」は、同じ日本国民からなる自衛隊の比じゃありませんよね?
 そして、米軍人は、駐留している日本の自治体に、税金も保険料も支払いません。
 日本政府は「米軍めいわく料」として、やはり特別な補助金を当該自治体に交付しています。が、それは、駐留米軍人が地方税や保険料を納めない分を埋め合わせてお釣りが余る……というレベルではない。
 つまり、米軍基地を日本の自治体が抱えることは、純粋に会計上の「損」になる懼れが、払拭できないんです。
 地元にとっては、もうひとつ、とても大事なことがあります。選挙です。
 20歳以上の自衛官には選挙権があります。地元自衛隊に好意的な、地方/国会議員や、地方首長は、その数百〜千数百の票をあてにできるんです。市町村レベルでは、これは決定的な数になります。
 (大きな声では言えないが、「キミたちはこの候補/政党に投票するのが至当だろう(反自衛隊のアカマル候補などに投票するのは自分の首を絞めるロープを敵に売り渡すようなものだぞ)」との示唆が中隊本部以上のレベルからあり、その後に営内居住者も全員、引率外出にて投票場に向かう、というのが慣例。もちろん強制は無いのだが、これほど効率的で確実な「票のとりまとめ」もないだろう。)
 しかるに米軍人は、その選挙権も持ってないわけです。
 米軍を誘致してやったはいい。しかしその米軍人どもときたら、次の市町村長選挙において、誘致決定に尽力した前首長を、投票で助けてはくれないのです。逆に首長は、地元選挙民の反発を買って、浮動票が対立陣営に流れて、次期選挙で敗れることになるかもしれない。
 こう見て参りますと、地元議員や首長にとり、「自衛隊誘致」と「米軍誘致」では、いかにも雲泥の差があることが分かりますよね。ところが、どうもそこのところが、日本政府(財務省)には、ろくに認識されていないようなのです。
 ようするに話は簡単です。
 「米軍の移転を受け入れてくれる自治体には、自衛隊めいわく代金の最低でも1.5倍を毎年度、継続的に投下しますよ」と、政府が地元住民に約束しさえすれば、沖縄から北海道への米軍移転話はトントン拍子で進むでしょう。
 逆に、この「公平な措置」を講じない限りは、米軍基地の国内移転は、およそ夢物語です。受け入れる自治体などゼロに決まっています。
 米軍基地は日本全体の国益のために日本国内にあるのですから、国庫補助というかたちで国民全体の負担とするのは当然でしょう。
 そして、その場合の「公平」とは、「自衛隊めいわく代金」よりも「米軍めいわく料」の方を1.5倍以上、手厚く地元に盛ることが、まずは第一歩の基本なのです。
 防衛予算は既に削られすぎています。財源としては、ODAをリストラクションして浮かせた予算を廻すのが良いでしょう。

 



防衛庁長官官房のGJ

 今朝の読売新聞紙上に空自のF-15の那覇基地配備決定が報じられましたね。そして夜七時のNHK-TVで全人代直前とてシナの国防費の印象的な額が報道されましたね。
 もし前者の報道だけで後者の報道がありませんと、「シナを刺激する気か」「軍拡だ、ハンタイだ」という阿呆左翼の声が上がります。しかし後者の報道により、シナのスパイも声を上げられません。上げれば、いかにもシナの手先、売国奴のように見られるでしょう。
 これが、アメリカ仕込みの正しいマスメディア利用術です。とうとう、防衛官僚もこのくらいの小技が使えるようになってきたのですね。
 いうまでもなく、読売の報道は、「期日指定のリーク」です。一紙にだけ抜かせる。その代わりに、シナの軍事予算が明らかになる日の朝刊に確実に掲載させたのです。
 


「ほ」氏にお答えします

 ご推薦のサイトを拝見しました。
 なるほど、「清張氏のリアル推理はぜんぶ外れた」という話をどこかで読んだ記憶があるのですが、「朝鮮戦争が米軍の謀略」ですか。
 ご本人は死ぬまでそう信じていたんでしょうか。1980年代に古代史にのめりこむあたりでもそうだったんでしょうか。じつにますます興味深い作家に見えてきました。
 ところで藤原彰さんのエピソードをお知らせくださり、有難う存じました。60年安保の少し前は、オルグの成功が党員の大手柄となる時代だったようですね。
 便利なもので、インターネットを使いますと、藤原氏の略歴が知られます。まとめてみました。
 陸軍経理将校の息子さんとして大正11年に生まれる。大軍縮期ですね。そして東京の代表的な陸士予備校だった府立六中から士官学校へ進んだ。加登川幸太郎さんによれば、一般中学から士官学校に進むと、陸幼出身者の要領のよい暗記に一驚するんだそうですが、藤原氏の頃はもう陸士も短縮教育です。昭和16年、19歳で見習い少尉。
 そのご大東亜戦争で陸大どころではなく、隊付き将校コース。昭和19年にシナ大陸で大尉の歩兵中隊長として打通作戦に参加し、負傷(右肺盲貫銃創)。同キャンペーンは連合軍の飛行場を潰すという作戦目的は達成したんですが、部隊の給養は最悪で飢餓病死が多発したようですね。また北支では、後方の高級将官の贅沢三昧も目撃しました。
 1945年の復員後、東大に入りなおし、1949年文学部史学科卒。50年に歴史学研究会書記。アカマル教授の多かった一橋大でも教えました。
 歴研はアカマル集団で、1954年に『太平洋戦争史』(全5巻)を出してアカマル流帝国主義史観での開戦経緯説明の定番となっています。
 その1年前の服部卓四郎の『大東亜戦争全史』とくらべますと、当時のアカマルの水準というものが分かります。高級軍人の目よりも高いところから戦争を総括している。このような「社会科学的」な切り口は1976年くらいまではほとんどアカマルだけが持っていました。なにしろ岩波文庫のアダム・スミスの担当は小泉信三とかじゃなくて、マルエン専門家だった大内兵衛だったんですから恐れ入るしかない。つまり、才能があったのに、旧軍での待遇には不満だった藤原氏が、東大でアカマルに染まったのは無理がありません。また旧陸軍は大学関係者からはとことん嫌われました。富裕家庭の秀才君を、二等兵にしてしまって、内務班で私的制裁でイジめたんですからね。学生が予備士官に全員志願しなかったのも日本の町民特有の困った問題なんですけどね。
 1961年に藤原氏が書いた『軍事史』のどこが偉大であるのか。これは巻末の参考文献をみただけでも分かるでしょう。同書を最初にわたくしが読んだのは大学生時代でしたけど、さすがにこの文献一覧は量が多すぎて、メモを全部とるのを諦めたほどです。最新のUSSBSも見ているし、明治期の本までぜんぶ目を通している。東大図書館も空襲では焼けませんでしたから、国会図書館にも無い資料も混じっているのはうらやましかったですね。と同時に、何かを批判するならこのくらい読み込むのは当たり前なんだとも思った次第です。
 日露戦争で日本はマキシム機関銃を実用化できなかったとか、小山弘健氏や林克也氏の本に依拠している武器の話には間違いも混じってしまうんですが、逆に、これだけ資料を読んでもここは分からなかったのだなと見当がつくから良いわけです(後で大江志乃夫氏が防研史料を使ってこの間違いの修正にかかかる)。
 1984年に防大教官が『失敗の本質』というオリジナリティのあまりない水準の本を出してタイトルだけでバカ売れしたんですが、そこに書いてある要素は藤原1961本にほとんど書き尽くされていた話でしょう。ミッドウェー作戦は5分違いの不運などではない、依然戦艦中心だったから、偵察、通信、そして母艦掩護で手薄になったのだと、藤原本は真相をえぐっていました。「すべてを自分に都合よく楽観的に判断し、希望的観測のうえに作戦を立てるという非合理性が、最後まで抜けなかった」(p.215)──こんなことももう1961年に書かれていたわけです。
 常に「天佑神助」をあてにしただとか、後から司馬遼太郎が批判することになる要点も藤原氏は書いていました。
 「日本海海戦時代の大艦巨砲主義、日露戦争の白兵突撃を、兵器の質的変化がおこった第二次大戦に、いぜん金科玉条としていたことに、その[戦略戦術の]硬直性があらわれている」(p.215)なんてのは、まるっきり司馬&NHK史観に受け継がれていますよね。
 兵器関係の誤記があるので絶版なんでしょうけど、惜しいことです。まだ読んでいない人は、図書館で必ず読みましょう。
 藤原彰、小山弘健、林克也といった旧いアカマル先生たちは、「日本があんなふうに戦うしかなかったのは情けなく、悔しい」と思っていたのではないでしょうか。つまり心底は愛国者だったんじゃないでしょうか。
 ところが全共闘自爆以後、さらに日支国交回復直後から百人斬りとか重慶爆撃の話をしている新しいアカマル先生たちは違います。彼らは心底から「反日」ですね。そして、日本をどうする、ではなくて、自分が注目されることが執筆の目的です。
 よくわからないのが鹿砦社の人たちで、このグループは日本がソ連や中共に占領されれば良いと思っていたのでしょうか。冷戦終了と同時に大転向したようですが、チャンスがあったら昔話をぜひ訊いてみたいものです。
 1996年にP・デービス著『地雷に浮かぶ国カンボジア』という最初の「地雷本」が出まして、このネタに出版不況にあえぐライターと版元が飛びつき、以後毎年複数冊が刊行される異常事態となりました。こんなもの個人で買う人がいるとは到底おもわれない。点数のピークは98、2002、03年ですが、04年でガクっと減っています。その間には船橋市での「図書館焚書事件」が起きた。まあ、全国のアカマル図書館司書に買わせてシノギをしようというところまで志操は堕ちちゃったのです。
 ちかごろ石原東京都知事は「書店で売れている本から図書館は買いなさい」と指示を出したのでしょうか。そうだとしたら解せないことです。公立図書館として公平な蔵書整備は「くじ引き購入」以外にありえません。購入のための司書は要らないのです。


清張と遼太郎

2.26に信濃町で軍事学セミナーの一日講師を務むるべく、函館発羽田行き飛行機上の人となった「わたし」は、たまたま機内で消化するためセレクトした細谷正充著『松本清張を読む』を三分の二ほど読んでしまい、ほとんど驚愕する。
 「防衛庁が三矢研究をやっとった1963年に、松本清張は『現代官僚論』を書いていたのか…!」
 「わたし」の講演では、「なぜ司馬遼太郎は1967年に『殉死』を書き、翌年から『坂の上の雲』を書き、74年に『歴史と視点』を書き、86年から『この国のかたち』を書いたか」を、アカマル系の戦後ミリタリー関連書の出版史にフットライトを当てながら説明する予定であったのだが、松本清張という巨大なアカマルの存在はすっかり閑却していた。その清張という謎をかくも面白い摘録で知らされた「わたし」は、もはや当初の講演構想は抛擲するしかなかったのである。
 司馬遼太郎と対蹠的に貧乏であった松本清張は「敗因探求」の本は書かずに一足飛びに官僚研究に向かった。おそるべし、清張。
 そしてこれほど面白い要約の書ける著者細谷氏の前途は洋々としているではないかと思いつつ、「わたし」は、新橋のホテルで読み残しの頁を開くのであった…。

 



御礼。戦史研究家様。

 掲示板を拝見しました。ご教示賜りまことにありがとうございます。
 調子に乗ってもうすこし勉強させてもらっていいでしょうか。
 明治35〜36年の二等卒が最速で一等卒および上等兵になるには、何ヶ月かかったでしょうか。小生の見当では、ぴたり一年ではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
 伍勤と兵長の相違も初耳でためになりました。
 自衛隊もはじめは「上等兵」制度を買っていたんですね。
 余談ですが大岡昇平の小説の中に、フィリピンでの噂話として、兵隊が全員上等兵からなる援軍がやってくるという話があり、その意味するところがよくわかりませんでしたが、最近ようやく話が見えてきたところです。(お粗末。)
 現在は一般二士で入隊するとだれでも半年で一等陸士になれるのですか。小生と小生の同期は、きっちり一年間、二士でした。これは入隊月によって長短を生ずるもののようで、小生は偶然にも11月中旬、つまり昔の徴兵の入隊月と同じだったのです。
 戦史研究家様、今後も宜しくご叱正を願い上げます。


のらくろフラッシュバック!

 自分がいちばん詳しいと思っていることで大間違いをしでかすのが人の常であります。
 先日はこんなことがありました。
 日露戦争に従軍したある歩兵が入営一年目、まだ開戦前で平時なのに、一等兵から上等兵になった、と自分で書いているくだりが目にとまったのです。
 「これはおかしい。著者は記憶違いをしているのではないか」と、わたくしはその書籍の編集部に注意を促しました。じつは、その書籍は日露戦争当時の日記の翻刻で、わたくしは巻頭の解説文をひきうけていたのです。
 昭和2年以前の徴兵は陸軍の場合3年満期です。そこでわたくしは思った。常識で考えて一等兵には2年目で、上等兵には3年目でなるもんだろうと。2年目で上等兵になってたまるかと。だったら平時なのに半年で一等兵かよ、と。
 これが、ぜんぶわたくしの無知誤解なのであります。自衛隊の陸士長の感覚で旧軍の上等兵を語ることはできない。旧軍の上等兵は特別だったのであります。陸士長は2年いたら誰でもなれるものであります。ありがたくない。二者は似て非なるものなんであります。
 調べるほどにこういうことが判明しまして、冷や汗をかいたわけであります。
 そして突如、あるシーンが蘇りました。
 「のらくろ二等卒」の最後に、こんなエピソードがあったんです。新兵が一斉に昇進する日です。だいたい1年目ですね。その朝、ブル連隊長がモール中佐に「のらくろは上等兵にしてやろう」と言うんです。ところがその日、のらくろだけ起床してきません。耳元で喇叭を吹きならしてもぜんぜん起きないので、連隊長は怒り、三ツ星の上等兵にするのをやめてしまって、他の新兵同様、二ツ星の一等兵の階級章をつけてやる。誰かが言います。「こいつ、星をひとつ損したぞ」……。
 わたくしはこれを読みました当時、「二等兵から上等兵にしてやるというのはあくまで猛犬聯隊の世界のつくりごとで、帝国陸軍じゃありえないことなんだろ」と思っていた。別に旧陸軍の制度に詳しいわけじゃなかったんですけどね。
 ところが、この「のらくろ」の二等卒→上等兵は、全くアリだったのです。陸軍では、中隊の中の特に優秀な二等卒(昭和7年から卒が兵と呼びかえられる)は、一等卒になると同時に上等兵に任ぜられたんです。
 嗚呼、おそるべし、猛犬聯隊。
 だってそうでしょう。のらくろは新兵時代に早くも重営倉に入れられてるんですよ。これは軍隊手牒に記録されちゃってるでしょう。八丈帰りの前科者みたいなもので。そのあとどうリカバーしたって、もう模範兵じゃあり得ないわけですよ。それが2年後であるとはいえ、ちゃんと上等兵になるんですから。
 モノホンの兵隊だったらヤケおこしてますます素行が悪くなって、師団の陸軍刑務所、果ては姫路の懲治隊送りになる可能性すらありましょう。しかし猛犬聯隊では、失敗のリカバリーが可能なんですよ。大尉ですよ、最後は。さすがに親も分からぬ捨て犬じゃ、陸大は受験できなかったでしょうけどね。
 そこでまた思うわけです。このマンガがウケたのは当然であると。戦前の日本社会は、失敗には不寛容でした。内務班の新兵ともなりゃあ、息詰るような緊張に浸りきった毎日ですよ。工場の見習いや、商店の小僧も、程度の差こそあれ、そうだったんじゃないですか。
 それが、猛犬聯隊にはないんですよ。アナザー・ワールドなんです。
 田河水泡という人は、落語の新作もなさっていた真の文人です。デッサンもプロで、その腕でデフォルメしていたから、上手いし、技巧も各所に凝らしてあるんですね。
 こういう人は、たぶん江戸時代からいたんでしょう。
 「のらくろ」の戦後バージョンには、アナザー・ワールドの魅力はもうなくなりました。なんでかというと、敗戦で、日本社会そのものが「しくじり者」となった。みんなで重営倉にぶちこまれ、釈放されて、それじゃあ、やり直しのリカバーをしようと、面の皮を厚くしていた時代になったからです。現実世界の緊張が、すっかり砕けてしまったんですね。だから逆に猛犬聯隊に戻ると息苦しくてしょうがない。昔の秩序だけはある。が、将来の大事件は何もあり得ない世界。
 「のらくろ」の戦後版は、描くべきじゃありませんでした。でも芸術家も霞を喰っては生きられないですからね。


名演技者揃いで真に羨ましく思った映画:『Ray』

 役者バカという言葉が日本にはありますけども、演技はバカに務まる職業ではありません。表現者としての素質がもともとあり、その上に頭脳と肉体を巧みに用い続けて、人に観てもらえる役者になる。その最も信任された演技者が、時の民主主義制度下の国政最高長官となっているんです。
 下手糞な芝居しかない国には、つまらない政治家しかいません。これは観客が二流なのですから、ごく自然なのです。
 さて有名な音楽家の半生をトーキー映画に仕立てたら、誰もが観て感心する映画となるでしょうか? まあ、世の中そこまで簡単なわけはないでしょう。
 音楽のドラマ性と人生のドラマ性はそもそもサイクルは合いません。というのは、一人の作曲家は一生に一曲しか作らないわけじゃないですよね。そこが、建築家や冒険家や戦争ヒーローとは違っているんです。どちらかというと、彼らは若いときに名曲をヒットさせてしまう。それも複数、立て続けに。
 それはしかし、人々が馴染んでおり期待もしているドラマの「盛り上がり曲線」には、あてはまりません。
 もし、脚本の雑駁なところをBGMで補うなら、たちまち「メロドラマ」と呼ばれる安物に仕上がってしまうでしょう。ミュージカル映画でない以上、音楽に重点を置いたら「負け」なのです。映画の作り手側としての野心が、それではほとんど満たされない。
 他方で観客の側とすれば、有名な音楽家の映画と聞いたら、やはりその音楽家のレコードを堪能したいと思うでしょう。脚本家も演出家もそれには応えてやる義務がある。もちろん役者は、本物の演奏家のように演技できなくては観客はすぐ幻滅します。要求されるものが高い。
 こうしたことから、有名な音楽家を主人公にした映画は、そうでない人が主人公の映画よりも、チャレンジングになるでしょう。博打です。そして、まず間違いなく、観客の全員をフルに満足させることはできないのです。なぜなら一人一人の聴取体験はユニークなものであり、異なっていますから。それが制作する前から分かっている勝負なのです。
 『Ray』はどういう解決法を採ったか。テレビの『ER』方式です。つまり複数のエピソードの波状連打で構成してきました。エピソード群の節目と、有名な持ち歌の1曲づつを、カプリングさせた。これはミュージシャン映画の王道ではないかと思いました。そしてこの王道には小細工が効かない。『ER』が病院のリアリズムを再現した以上に、ディテールに凝った映画になっています。しかしエンターテインメントへの凝りは、観ていて楽しいものですね。
 もし皆さんの中で、いまから1ヵ月間に映画のために投じられる予算が¥1800-しかないという人がいたら、『アレクサンダー』ではなく、『Ray』をご覧になることを兵頭は推奨します。わたくしが近年に観た、ティナ・ターナーの自伝映画(1993米公開)の1.5倍、それからエミネムの自伝映画『8 Mile』(2002米公開)の2倍ほどは堪能できる音楽映画でした。なによりも、賞嘆すべき演技者が集まっています。この多士済々の演技を脳みその隅っこに書き留めておくだけでも、一生の財産でしょう。演技ができるということは「人間が分かっている」のです。人間が分かっていなくてノー・ルールの競争に勝つことなどできません。
 わたくしは『アレクサンダー』はネットで予告編しか観ていませんが、これはイラク戦争とオーバーラップさせた、ただの国策映画だな、と感じました。こういう国策映画は少々不満足な出来でも権威あるナントカ賞はとらせてやるというしきたりに、あちらではなっていますけれども、日本人のわれわれがそれにお付き合いすることはないでしょう。『アヴィエイター』も、ブッシュ政権の「よいしょ映画」臭いですねぇ。
 ところで『Ray』の感想として「暗黒面を描いた」とか書いている批評家がいるみたいですけど、正気ですか? クインシー・ジョーンズの伝記を一冊読んだだけでも、「音楽ビジネスの現実に善人は一人も居ない」ってことは、もうオトナの常識として呑み込めなきゃいけないでしょう。
 そういう汚い、残酷で気疲れのする世界でミリオネアになった彼等が凡人たる我々より激しく快楽を求めるのは当然だとは思えないんですか? 『Ray』の描写ごとき、暗黒面でもなんでもありゃしません。
 公園の「花時計」があるでしょう。ミュージシャンから音楽をとったら、花を全部むしりとった花時計の針がぐるぐる回っている、それだけの現実です。そんなリアリズムを、誰が映画で観たいんですか? あれは、せいぜいが「青い芝生」も見せた、というレベルですよ。


吉川英治に『宮本武蔵』後半のモチーフを指図した陸軍人は誰だ?

「シナ事変が自衛戦争であった」ことを戦前の日本政府がまともに説明できなかったのは何故なんでしょうか? これは、統制好き官僚たちの秘密主義が、真の宣伝の足を引っ張り、政府として闊達な主張を打てなくしたのでしょう。日本政府の情報統制によってシナ事変は「日本の侵略」になってしまったのではないかと思います。
 スペシャリストに過ぎぬ日本の官僚はいくら秀才であろうとも「宣伝」にだけは向いていません。否むしろその有能さが途方もなく見当外れな「自虐」の方向へ発揮され、日本人の近代精神をどんどん退行させて行くことがある。その事例は、近年の各政策分野にも見られましょうし、戦前には、かの吉川英治大先生の小説『宮本武蔵』という徒花を産んでいます。
 そもそも日本政府(なかんずく外務省)と日本陸軍のエリート官僚が対外・対内宣伝の必要に目覚めたのは、第一次大戦直後です。国際連盟には常任理事国として加入した、しかし尼港事件では世界の同情が集まらない、国内では普選が実施されて民間人の代議士が軍縮を決めてしまうかもしれない……そんな大正9年に、まず陸軍省内に「新聞班」が設けられました。これは世論工作機関で、今の小泉内閣のスピンドクターの先輩です。
 昭和11年7月、内務省がそれまでずっとしてきたような「検閲」中心の消極的情報統制ではなく、もっとアクティヴな情報操作に乗り出すべく、政府は「内閣情報委員会」を設けます。
 ついで昭和12年9月、つまりシナ事変の勃発を承けまして、この組織が「内閣情報部」に改まる。
 さらにドイツの電撃戦を承け、統制官僚たちのお御輿として発足した第二次近衛内閣は、15年12月にこれを「情報局」に改組。昭和18年7月に「一県一紙」を指導したのも、この情報局です。
 けれどもこれら組織の内部で終始一貫の活躍をしていたのは、やはり陸軍省の旧新聞班の系列だと思います。
 陸軍省新聞班が、キレる人材をしっかり集めていたことは、通州事件の際のエピソードからも窺えるように思います。通州事件というのは昭和12年7月、南京からの謀略放送に対して有効な手を打っていなかった陸軍の特務機関が、陸軍の軽爆の誤爆をきっかけに、飼い犬であった「冀東防共自治政府の保安隊」に寝返られた形で、けっきょく嬰児を含む邦人223名(うち半分は半島人)が虐殺されてしまった大不祥事件です。これに狼狽した支那派遣軍司令部の大佐や中佐たちは、出張してきた陸軍省新聞班の松村秀逸少佐に対して、間抜けにも、新聞に事件が載らぬようにしてくれ、と注文したといいます。松村は、すぐ近くの北京の外国人が見聞きして既に租界の無線で世界に通報されているはずだからダメだと撥ねつけ、激しい口論となりました。もちろん事件は内地の新聞で派手に報道され、国民の復仇心はかきたてられたのです。
 この、陸軍省新聞班の目立った活動は、満州事変の時から始まっているようです。一冊数十ページ(たまに数百ページ)の冊子の著述刊行でもって、国民に直接訴えようとした。たとえば古本屋のリストから拾えば、こんなタイトルが見つかるでしょう。
 『満州不安の実相』『満州事変に於ける嫩江河畔の戦闘に就て』『米国カリビアン政策と満蒙問題』『満蒙諸懸案に就て』(以上S6刊)。……アメリカもカリブ海で似たようなことやってるだろ、というパンチを繰り出したのでしょうか。
 『満州国の容相 正・続』『満蒙新建設に対する住民の意嚮』(以上S7)。
 『満州事変経過ノ概要』(S8)。
 『躍進日本と列強の重壓』(S9)。そう、この年でした。『國防の本義と其強化の提唱』という有名な「陸軍パンフレット」が日本中の図書館その他に撒かれ、統制好き官僚が文化や経済の領域にまで口を出すようになりましたのは。対国民の宣伝で、個人の「内面」をお上があからさまに指導しようとするんですから、共産党と変わりません。こんなのはまるで逆効果であろうと常識で考えられぬところに、今日までも変わり映えのせぬエリート官僚達の病弊があります。
 『満州国概観』(S10)。この頃には新聞班は、あの田河水泡に「のらくろ」の4コマ・バージョンを描かせて、兵隊向けの軍隊新聞『つわもの』に掲載していたということです。そして朝日新聞では吉川英治の新連載『宮本武蔵』が始まっています。これは「陸パン」とは大違いの顕著な効果がありましたけれども、昭和14年に完結したその効果の方向は「自虐」なのでした。
 『日露戦役の回顧と我等国民の覚悟』『支那共産軍に就いて』『陸軍軍備の充実と其の精神』『共産軍の山西侵入に就いて』(以上S11)。
 『空中国防の趨勢』(S12)。『事変と銃後』『北支経済及資源ニ関スル諸統計資料』(以上S13)。『支那事変下に再び陸軍記念日を迎へて』(S14)。
 あと新聞班の御仕事には「愛国歌」レコードのプロデュースもあります。つまらない歌を、東海林太郎や上原敏にSP版で熱唱させちゃうわけです。この国策音楽と、それから内地と満州の国策映画に関しては、どうも日本の陸軍省をはじめとする宣伝機関はパッとした仕事をしていません。とうぜんクリエイター頼みだったんですけれども、音楽界、映画界には「吉川英治」は居なかったようです。光っていたのは円谷英二の特撮だけでした。
 いや、写真本の『FRONT』(S17に第一号)などは良い仕事をしていたじゃないか──と思われる人がいるかもしれない。でも、量的に太宗を占めた報道写真はどうですか。
 わたくしは月刊『戦車マガジン』で毎月100点以上の写真をセレクトしていたことがあって、そのときあることに気付きました。シナ事変の初期の報道写真にはあまり修正の跡がありません。ところが事変が長引くことがハッキリした昭和13年から、戦車の大砲や機関銃がしばしば修正で消されてしまうようになったんです。これなど、まったく意味のない検閲です。情報の何が大事で何が大事でないかが、担当者に分かっていないと直感できました。この検閲をやっていたのも陸軍省の新聞班ですけども、組織の人数を増やしたことで却って宣伝下手になったのです。官僚化して「守り」に入ってしまったわけです。
 昭和13年7月に内閣情報部(内務省・外務省・陸軍省・海軍省から出向)は、軽薄なる日本国民が敵軍を軽くみて戦局や時局を楽観せぬよういましめること、かつまた国民には「長期持久」「堅忍不抜」の態度を植えつけていくこと、そして今のこの難局さえ突破すれば前途に光明がもたらされるんだと信じさせること、等の「新聞指導要領」をとりきめます。
 たちまちピンと来た人もいるのではないですか。これって、まるっきり吉川英治の新聞連載小説『宮本武蔵』の後半部、巌流島までのライトモチーフになってるのですよ。
 ではクロニクルを確認しましょう。
 吉川英治の『宮本武蔵』は、昭和10年8月23日から朝日新聞の夕刊の連載小説としてスタート。当初の著者の構想では全200回くらいの分量で、巌流島のラストシーンは早々に決めていたんだそうです。ところが新聞社の懇望によって、結局1013回もの大河小説になってしまう。こんな強引なリクエストに応えることのできた小説家の力量は、もう超人というしかないですよね。
 この間には休載期間が挟まっております。すなわち「風の巻」が終わった翌日の昭和12年5月21日から、「空の巻」が始まる前日の昭和12年12月31日までです。ちょうど折から、シナ事変が勃発し、蒋介石の首都南京も陥落した。しかし事変は決着しません。吉川英治は毎日新聞特派員として現地取材もさせられました。
 そして「円明の巻」の最終回が昭和14年7月11日に掲載されて、ついに大河小説は大団円になるんですけれども、なんと吉川英治は昭和13年にも「ペン部隊」として漢口作戦に従軍させられてるんです。「ペン部隊」というのはドイツのPK部隊に菊池寛がヒントを得たものでした。こうしたシナ体験が吉川版『三国志』に結実するんですね。後の話ですけど。
 ちょうどこの頃、新聞社には大きな事件がありました。昭和13年6月から「用紙統制」の脅しが始まっていたんです。それ以後、もう新聞は隅から隅まで、政府には決して盾つけなくなった。
 朝日新聞社は、昭和13年もしくは14年に、内閣情報部の陸軍人から「『宮本武蔵』の後半はこういうテイスト、展開にしなさい」と具体的詳細に指図をされ、それを小説の担当者がしかと承り、作者である吉川英治に巧みに取り次いでいたのではあるまいか。そして真面目な愛国者の吉川さんは体重を8kgも減らしつつ、それに見事に応えたのではなかったか──と、わたくしは疑います。
 ただし実際にはシナ事変はシナ側の侵略だったのですから、陸軍は事実を自由に調べさせて世界に明らかにしつつ、自衛の戦争と宣伝とをしぶとく展開していけばよかったんです。
 吉川英治氏に書かせる小説も、もっと他にふさわしい題材があった筈ですね。
 近代以前の禅に沈潜して己れ一人の決死の覚悟で局面を打開──。そんな求道的剣豪の謂わば自業自得と、近代的国際通義に立脚すべき現代の日本国を重ねられてはたまったものではないのです。この小説の直接の影響で多くの日本軍人が「政治」について思考停止しました。
 もし昭和前期にシナに関する調査や取材を陸軍が妨害・統制することがなければ、あの昭和15年の斎藤隆夫衆議院議員の寝惚けた質問演説なども、決してあり得なかったことでしょう。

 



『洗心』を読む

 中央乃木会がわざわざご親切から機関誌『洗心』(1、3、7月の年3回発行される)の最新号(平成17年1月刊 vol.146)を陋宅に恵与くださり、桑原嶽氏が昨年10月に逝去されていたことを迂闊にも初めて承知いたしました。謹んでお悔やみ申し上げます。
 平成2年の桑原氏の『名将 乃木希典』は、現在も第四版が中央乃木会から発行されているようです。陸士52期の桑原氏といえども、中央乃木会以外の版元からアンチ司馬遼太郎の言説を世に問うことは難しかったのですね。事情は今日なお大して違いません。
 桑原氏はその最晩年まで矍鑠として、「乃木は愚将」の俗論をただす健筆を揮われていたご様子です。NHKの「別枠大河」の出来を見届けることができなかったのはさぞお心残りでしたろう。というのはもう出版界は「ポーツマス条約百周年」の今年よりも、『坂の上の雲』の放映開始年に完全に照準を合わせて、今年以上に数多くの日露戦争モノの企画を進行させているところだと推定されるからです。
 じつはわたくしもそういった企画──ただし発売はたぶん今年中です──に一枚噛ませて貰っておりまして、その調査などで今たいへんです。桑原氏はじめ『洗心』の寄稿者の先生方には及びもつきませんけれども、ボウフラのように沸いてくる反日学徒がグラムシ浸透戦術を使って日本の歴史と日本の政治をねじまげんと策動しているのを黙って見てばかりはいられません。わたくしなりに微力を尽くそうと思っております。
 ところでたまたま同梱されてきました『洗心』138号に、佐竹義宣氏による興味深い記事を発見しました。乃木希典の若きみぎり、萩→長府間、片道18里(72km)を2日で往復(なか一泊)したというエピソードがあるんですが、これは 有り得たというのです。佐竹氏の曾祖母が幕末に「足の親指の付け根の膨らみで歩くつもりで歩けば一日歩いても疲れない」と父母から教えられたのだそうで、それに乃木大将の長靴の踵の拡大写真が添えてある。これが明らかに「水平に」磨り減っているんです。さらに、庶民も昔は「足半」という踵なし草履を用いていた、と。……いや、この踵の写真の話はずっと以前にもどこかで読んだような気もするんですが、すっかり忘れておりましたのを改めて再認識しました。
 「オシャレな乃木さんだから、靴屋に踵だけ新品に交換させていたんじゃないか」……といった突っ込みは控えておきます。高取正男氏はじめ、近世以前の日本人の歩行術について研究されている人々は、この乃木の乗馬靴の踵について何かコメントしておられるのかどうか、まずそれを承りたいものです。どなたかお詳しい方が居られましたならまたご投稿を願います。(白旗伝単についてお知らせ下すった方、どうも有難うございました。最も知りたかったことが貴男のおかげでようやく確認できました。)
 西洋の兵隊のパレードのように踵で地面をドンと踏まずに、足裏の「蹴りだし」のみを接地して長距離を歩くことは果たしてできるのでしょうか? 私見ですが、「空荷」だったらそれは可能でしょう。
 じつはわたくしは小学生高学年のとき、ある野球マンガ(もしかしてちばあきお?)の中に「大リーグの選手は脚力を鍛えるために立っている時も決して踵は地に着けない」と紹介されていたのに勝手に感動しまして、それを何年間か実践していたことがあるのです。自宅から小学校までだいたい1キロ強の道のりでしたが、その行きも帰りも爪先立ちで歩き通しました。校内でも自宅でも立っているときは爪先立ちです。その結果、中学三年くらいまで「お前は歩き方がヒョコヒョコして変」「いつも前傾姿勢で下を見て歩いているがカネでも落としたのか」と人から心配された代わりに、跳躍力はたしかに鍛えられました。走り高跳びは自分でビックリという感じです。しかし重い荷を負うての遠足や登山に、このスタイルは無理がありました。(あるいは爪先だけでなく、膝をやわらかく使えば良かったのかもしれませんが…。)
 昔のアメリカ・インディアンも名うての「遠足名人」で、尻の使い方が独特だったんだそうです。しかし何人であれ、軍隊並に重い荷物を持っていたら、やはり軍隊式の歩き方しかできないんじゃないでしょうか? つまり、近代以前の日本人の独特の連続長距離歩行は、本人が空荷に近かったときのみ、可能だったのではないかとわたくしは疑っております。
 これにつきましてはボランティアで物好きな人体実験をやる人が増えてサンプルが集積されるのを期待しましょう。


「島流し」におふざけの意味はないのです

 近頃立て続いております、反社会的な殺人事件、ならびにその裁判についてご不満のある方は、わたくしが1998年に『新潮45』の7月号に載っけておりますところの「江戸時代の島流し」再評価論文をご一読くださると、これから日本の「社会防衛」が目指すべき方向がしっかりと見えてくるだろうと思います。
 当該拙文ですが、これは単行本には収められておりません。ですから、みなさんは、お近くの大学図書館や国会図書館などで、古雑誌を検索して閲読をしてくださらなければなりますまい。
 けれども、わたくしの知る限り、社会防衛に関してこの論文を超えたものはまだ書かれていませんから、お手間を取らせるだけの価値はございます──と、ここで威張っておきましょう。
 わたくし自身、細かい論立てやテクニカルターム、列挙した歴史上の事例の数々についてはもう忘れてしまったんですが、内容の要点はこんなことです。
一、社会防衛のためには「絶対不定期の社会隔離刑」が必要である。更生などあり得ない罪人は昔からいた。また、遺族もコミュニティも二度とその罪人の地域徘徊を望まぬケースも、昔からあった。
二、ところが現代日本の司法にはそれがない。「無期懲役」がしばしば宥免されて事実上の有期刑になってしまう(裁判官の当たり外れにより、同類の罪状なのに死刑にされる犯人もいるから、著しく法の下の平等に反している憲法違反状態)。それゆえ日本で罪人を社会から永久に隔離するためには「死刑」判決しかない。「死刑」の既決囚となることで、初めて日本の罪人は「絶対不定期の社会隔離」に処されることになるのである。しかし死刑判決は気軽に出せないから、結果として 日本社会は、キチガイ犯罪者の天国になりつつある。
三、江戸時代はそうではなかった。各藩は犯人を気軽に死刑に処して治安を維持した。かたや江戸幕府は大都会の江戸市中の多くの犯罪に極刑を濫用していない。それは八丈島を代名詞とする伊豆諸島への「島流し」という、すこぶる合理的な「絶対不定期刑」が採用できたおかげであった。この刑罰のおかげで、江戸市中のコミュニティは死刑に依存せずしてキチガイから「社会防衛」されていた。
四、二十数年の年月が経過すれば、伊豆諸島の流人も赦免される場合があった。ただしそれには必須条件があった。地域コミュニティの代表や、殺された被害者の遺族からの、赦免の「嘆願書」が、奉行所に提出されていることである。これが揃わない罪人は、社会が永久に復帰を望まない者として、そのまま島で朽ち果てねばならなかった。つまり、江戸町奉行はいったん「絶対不定期刑」を申し渡すのだが、島流しに関しては、地域コミュニティもまた、量刑(刑期)を監視し、リアルタイムで左右できたのである。
 ……この論文の正確なタイトルは「一億総キチガイ時代のナイスな刑罰『島流し』」といいます。(今の編集長の中瀬ゆかりさんが考えて付けてくれたのだと思います。)
 本文中にも「キチガイ」という単語を数回使っています。当時わたくしは東京都内に暮らしていて、本当にこの町はキチガイだらけだな、と思いはじめていましたから、このタイトルには納得しています。
 ただ、このタイトルに「おふざけ」の印象がありますため、キチガイ犯罪者に関する社会防衛をまじめに考えている人たちに敬遠されてしまっているとしたら、残念なことです。
 あれから6年、日本は東京に限らずますますキチガイだらけとなりつつありますけれども、狭き門の弁護士資格の上にあぐらをかきたい法曹界の先生方は、キチガイ対策を真剣に考えてくれているんでしょうか? 「陪審制」などの前にやることがたくさんあるのではないでしょうか。
 かつて徴兵制があった頃も、じつは日本人の戸籍簿には「刑罰履歴」は記載されてはいませんでした。免許証のイメージから誤解があるかもしれませんが、「前科」は公式には戸籍に残らないんです。しかし軍隊は、かつての重罪人を兵隊にとらぬ方針ですから、村役場の戸籍係だけは、住民の誰が元重罪人であるのかを把握していなければなりませんでした。そのために戸籍とはまったく別の秘密ファイルがあって、それは村役場のみの部内資料として厳重保管されていました。
 これをデジタル方式で復活させようというのが「ミーガン法」でしょうか。
 しかし、そんなファジィな情報管理よりも、近代以前の江戸幕府による物理的な「島流し」の方が、ずっと叡智に富んでいたぞと、わたくしは現在も主張します。(江戸時代には諸藩による領民の遠島刑が別にありましたが、それはかなりムチャクチャないいかげんなものでしたので、混同しないでくださいね。)