「ビッグレスキューあづま2017」演習における米陸軍「LCU-2007」号の雄姿

(2017年7月15日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 南海トラフ地震で陸路救援がむずかしくなったときには、関東以北から物資を海路搬入する。
 しかし陸上自衛隊は汎用揚陸艇(ランディングクラフトユーティリティ=LCU)を持っていない。それを日本に常時置いている米陸軍輸送科(輸送重舟艇中隊)に頼んで、まわしてもらわねばならん。
 それを訓練してみたのが今回の演習だ。

 まず6月25日に横浜ノースドックで、「LCU-2000」級の「07」号に陸自車両複数を積載。車両はほぼ「空荷」だ。いちばん軽い状態だ。
 LCU「07」号は、14時間から16時間かけて、ノースドックから沼津沖まで移動。
 26日朝に、海兵隊が使っている沼津海浜訓練場(地元の人は今沢と言うそうだ。最寄駅はJR片浜)に達着して卸下。
 わたしは26日の取材に出掛けた。以下、その模様を写真でご紹介しよう。

沼津海岸

 ビッグレスキューには静岡県や電話会社の人たちも参加する。さいきんは陸自さしまわしのマイクロバス(白色)が自衛隊っぽくないので、とまどってしまう。しかし街中では、これがステルスだよね。

LCUがやってくる(1)
LCUがやってくる(2)

 施設科の架柱橋の関係部隊がビーチにあらかじめ特殊マットを敷いていたようだったが、その作業はわたしが到着する前にほぼ終わっていたので詳細不明。
 地元ご出身の「武道通信」の杉山さんによると、昔は海水浴シーズンが終ったころに「千本浜」に御殿場の陸自が水泳訓練によく来ていたそうだ。

LCUがやってきた(1)
LCUがやってきた(2)
LCUがやってきた(3)
LCUがやってきた(4)
LCUがやってきた(5)
LCUがやってきた(6)
LCUがやってきた(7)

 LCUにもいろいろタイプがある。東北震災のとき「気仙沼大島」への物資補給を分担してくれたのは、米海軍が強襲揚陸艦に内蔵して運用する「LCU-1651」「LCU-1634」だった。
 わたしはそのタイプがここにも来るのだろうと予期をしていたところ、遣唐使船みたいなデカいやつが沖に現れた。ラニーミード級汎用揚陸艇といい、米陸軍の所属である。ビーチングする前からもう船首のランプドアを半分倒していた。

 急いでスペックも紹介しよう。
 長さ174フィート、幅42フィート、吃水は軽荷で8フィート、満載で9フィート。艦首に4フィートの水深があるところまで接近できる。
 艦の排水量はロングトンで575トン。満載時には1087トンになる。
 デッキにはM1戦車×5両か、20フィート・コンテナを二段積みで24個(無理すれば30個)、積載できる。無理すれば40フィート・コンテナ×20個でも行ける。
 ペイロードは350トンで、これはC-17戦略輸送機の8機分に匹敵する。
 空荷なら巡航12ノットで1万海里、満載時なら10ノットで6500海里動ける。
 乗員は13名。うち2名が下士官。自動操縦システムあり。※将校は不要らしい。
 米軍で、これより1サイズ大きな揚陸艇となるとLCMだ。Mはメカナイズド。

おれたちゃドローン担当さ(1)
おれたちゃドローン担当さ(2)

 ビーチにくつろいだ姿勢で作業を見物している2人組がいたので、デジカメの倍率を上げてみたら、1人がリモコンを操っているではないか。クォッドコプター型のドローンで達着と卸下の模様を空撮していたのだ。一枚目の写真を拡大すると、ドローンが飛んでいるのがわかるはず。たしかにこれでは鳥よりも見つけ難い。ピントもドローンには自動では合わせ得なかった。

LCUがやってきた(8)
LCUがやってきた(9)
LCUがやってきた(10)
LCUがやってきた(11)
LCUがやってきた(12)
LCUがやってきた(13)
LCUがやってきた(14)
LCUがやってきた(15)

 このLCUは、行き脚をつけるために機関を吹かしたときには黒煙が出るので、この訓練ではビーチングをごく慎重にそーっとやっていることがよくわかった。船体寿命をむやみに縮めないための当然の配意だと思うが、おかげで接岸は実戦よりも甘くなり、最初にゆっくりと出ようとしたパジェロが汀にスタック。10人がとりついても脱出させられず、けっきょく陸側から高機動車でワイヤー牽引した。海軍いわゆる「ゲタ船」、旧陸軍いわゆる「大発」を使った上陸作戦では、何らかのウインチ設備の事前の用意は必須なのだとわたしは想像致しましただよ。なお2両目以降は、勢いをつけて降るようにし、スタックを回避していた。同じ失敗は繰り返さないのだ。

グッバイLCU(1)
グッバイLCU(2)
グッバイLCU(3)
グッバイLCU(4)
グッバイLCU(5)
グッバイLCU(6)
グッバイLCU(7)
グッバイLCU(8)
グッバイLCU(9)

 船尾を読めば「ブロードラン」号と書いてあった。
 わが陸上自衛隊にもこういう船舶装備が必要だというのが近年のわたしの持論だ。だから多数の写真でご紹介した。
 参考までに。海自の人によると、輸送用の小型の平底船は呉軍港にたくさんあるのだが、瀬戸内海であっても、波を上からかぶってたいへんだということだ。つまり、尖閣用を考えるならば「大発」サイズでは不都合。

3トン半の排気管(1)
3トン半の排気管(2)

 陸自の6×6トラック(通称3トン半)の排気管は、高さ80cmのところにあり、水害救助でも、ある程度までは頼りにできることがわかる。

軽装甲機動車(1)
軽装甲機動車(2)

 軽装甲機動車の燃料キャップがこんなところについていたとは知りませんでした。その上のボルトは、中東などへ派遣されたときに予備のジェリ缶などを増設できるようにしたもの。初期型車体にはついていない。この車体はいうならば「バージョン2.0」のようだった。
 半透明のチューブは、燃料タンクの上部空間と通じている、ガス抜きドレーン。熱地では膨張するでしょうからなあ。
 背後ドアの取っ手の上の方には、蓋付きの「鍵穴」があり、ドアを外から施錠することができる。

陸自のゴムボート

 水害の救助に出動するときなどに重宝するこのボート、エアーコンプレッサーが使えないときには、足踏み式ポンプで数十分かけて膨らませることもできる。空気袋は内部で細分化されていて、ひとつに穴が開いても浮力を保つ。船外機も取り付けが可能。

ガス栓まわし器具

 おおざっぱな釘抜きのように見える金具部分は、ガス栓を回せるようにできているのだという。災害出動用の工具キットのひとつ。

考えさせられるパジェロ

 米軍のトラック類は、排気管を高々と屋根付近まで直立させて、てっぺんにはシュノーケルのようなものまで取り付けている。気候の温暖化により、これから水害が毎年のようにあるだろうと予想しなければならぬわが国で、民間バージョンそのものの、こうした排気管レイアウトでいいだろうか? もちろん排気管から水が逆流しなくとも、エンジンルームの配線が水浸しとなれば車両は立ち往生するしかないだろう。日本の軍用車のエンジンまわりはぜんぶ、水密化するべきなのでは?


(管理人 より)

 海岸に座る兵隊は渋い。私は先日、世界で有数のゴキゲンなビーチ『パタヤ』の近郊ラン島に行った。
 ラン島のビーチで1人、朝から夕方まで寝ていた。禁酒日なのに朝からビールが呑めた。炒飯も美味しいしサイコー。そんな頃、こんな渋い事をしていた人々がいたのである。さて、3連休が明けたら一心不乱に働こう。

 ホテルの近所のビアバーに、昼夜いつ見ても座っている白人がいた。
『ベトナム戦争をはじめパナマ・グレナダ侵攻にも従軍しました』という面構えの老人だ。

 もとよりリタイアした白人が多いパタヤだが、毎日ビアバーで特に何をするでもなく呑んでいる。余裕があるからできるのだろうが──これが意識高いヒトが云う『理想のリタイア生活』なら、私にはとても真似できそうにない。

 何度かタイに一人で旅行している。
 色々あるんだろうがタイの人は東京の人よりquality of lifeが高そうに見えた。単なる旅行者の目線だが。もちろん、タイも広いし、その全てなんて私は知らないけど。
 パタヤかフィリピンのスービックあたりにいつか住みたいなあ。


2016年の裏庭観察

(2016年12月25日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より )

 「トリパラ計画」についてご説明する。中年を過ぎて北海道のようなクソ寒い土地で暮らしていると、毎年自力で越冬している生物には畏敬の念を抱くようになる。その生命力に率直にあやかりたいと願う心境に達するのだ。
 だが、目にこそつかないが、越冬できずに凍死してしまう小動物もいるはずで、それは同じ土地で暮らす人間にも「恐怖」を共有させる。
 そこで、もし人間の営為によって、そんな境界線上の野鳥個体の運命を好転させることができるとしたらどうだろうか。
 通信販売がここまで発達すると、そこにじゅうぶんな空きスペースさえあれば、実験には僅かなコストしかかからない。
 かかる興味本位から、わたしは2013年以降、裏の荒地に各種の鳥の「食餌樹」――すなわち「いつか実が成るはずの木」の苗を植えてみるようになった。
 しかしこれは一筋縄では行かぬとすぐに気付かされた。
 商品カタログ上の売り文句で「耐寒性が強い」とか「土を選ばない」とか「半日陰でも育つ」とか書いてあっても、2年以内に環境にマッチせずに枯死、衰弱、消滅してしまうものが過半なのだ。定着し、越冬できても、成長が遅くて、2年経っても開花しないものもある。北海道に自生しているはずの種類でも、そのようなケースがある。
 それは品種をミスったのか、ショップの差なのか、植える時期が悪かったのか、わずかな日照の違いが関係しているのか、ヘンな硫安臭い安物の培養土を投入したのがまずかったのか……? 皆目わからぬ。断定的なことを1~2年にして言えるようになることもまずない。
 さりとて無制限に大量の苗木を試してみることなど許されない。だから、偶然に大きく左右される、手探りのワンタイム試行となってしまう。
 知らない子供が春先に闖入して来て遊び半分に枝をヘシ折ったり、真冬に自治体が雇った除雪ホイールローダーが勢いよく突っ込みすぎて幹をボロボロにしてくれるといった撹乱も突発する(しかしこのアクシデントによって、御殿場桜の頑丈さや梅の復活力の偉大さは分かった)。

 テーマは最近では、秋に結実して冬まで実が残る種類の樹木をミックスして成長させた場合、そこは“鳥のパラダイス”になるのか――を確認することに絞られつつある。
 こんな実験を進めるにあたってはいくつか気をつけねばならぬこともある。
 まず、将来この貸家から引っ越して実験地も長期にわたって完全な放置状態になる場合であっても地域には迷惑がかからないように周到にアセスメントしないといけない。たとえば鋭いトゲがあるメギのようなものは最初から選べない(ノイバラは植えなくとも既にはびこっているので許されるだろう)。苦くないのに毒がある実が成る種類も避けた方がいいに決まっている。また2016年夏のかつてない強風を教訓とするなら、長期的にやたら喬木化するであろうヤマボウシやエゴノキのようなものを残置して行くのも無責任だということになるだろう。万一、予想外に高く伸びてしまったときは、それが脚立で届かぬレベルに達する前に主幹をカットすべきだろう。
 こんなことをあれこれ心配すると、場所は北国でもあるし、比べ見られるものも寂しい数に限られてしまうのである。
 だからまとまったリポートを書けるのもあと数年後になりそうだが、とりあえず途中経過を報告しておく。報告なくしては地上のパラダイスは近づくまい。

ガマズミ 1
ガマズミ 2
ガマズミ 3

 2015年4月にガマズミ2苗とミヤマガマズミ3苗を散らすように植えておいたところ、本年は3株(うち1株はミヤマガマズミ)が結実した。
 雌雄異株の虫媒花なのでどこか近くに雄樹があるのだと考えられる。近所では見たことがないのだが……。
 写真1枚目の症状は「サンゴジュハムシ」の食害。この被害がまったくない株もあった。場所の差なのか? 撮影後に殺虫剤を噴霧したら食害は止まり、この株は秋に結実した。しかし放置しておいたら開花すらしなかっただろうし他の株もいずれ害虫から襲撃されたかもしれない。これは考えさせられた。
 写真の2枚目は開花状況である。白いボサボサしたのが花。わたしのバカな鼻ではほとんど匂いは分からなかった。
 背景の青花は、毎年こぼれダネで更新される一年草のヤグルマソウ。左の巨大な豆科の蔓は、宿根スイートピー。これだけで密林を構成し、絡み付かれたヤマブキなどの潅木は埋没してしまう。ヤマブキは一重なのだが未だ結実を確認できない。

サワフタギ 1
サワフタギ 2
サワフタギ 3

 北海道にも自生するらしいが見たことのないのがサワフタギ。2015年4月下旬に大苗を定植。同年秋には結実しなかったが、2016年秋には、わずかばかり結実してくれた。それが3枚目。見にくくてすいません。
 雌雄異株の風媒花なので、どこかに雄樹があって、そこから飛来した花粉で受精したとしか考えられない。しかし、それはいったいどこにあるのだろうか?

ラージエルサレムセージ 1
ラージエルサレムセージ 2
ラージエルサレムセージ 3
ラージエルサレムセージ 4
ラージエルサレムセージ 5
ラージエルサレムセージ 6

 2014年4月中旬に定植。その年も、その次の年も、常緑のローゼットだけが越冬して、花茎が立ち上がる兆候はなかった。しかしローゼットの面積は確かに拡大した。耐寒性なのは間違いない。そして2016年。いきなり開花したのである。 3枚目背景左寄りのヤマハギ(植えて2年目)は、この夏の異常強風で地際から倒伏した。ところが、2m以上も直立する「タカアザミ」はビクともしないものが多かった。野生の底力を見た。
 ラージでないただのエルサレムセージは、北海道では冬を越せないと言われている。
 実は成らない。

コモンセージ

 何のケアもしていないのに年々大株化する常緑の植物だ。こんなものも特記する価値があると思い、写真を掲げる。
 全草から、人のバカな鼻でも分かるほどの香気が立ち上る。そのせいなのか、ほとんど虫には食害されぬように見える。
 花期は短いものの、ご覧の通り豪勢。
 実は成らない。

クコ

 2015年4月中旬に、異なるショップからクコを1株づつ取り寄せて定植してみた。
 たちまちその月の下旬に2株とも主茎が寒さで枯れかかり、ひこばえだけが小さな葉を付け、夏になっても元気は回復しなかった。
 写真の1株は枯れ木のように見えるけれども、これでもまだ生きている。越冬はできたのだ。そして夏には葉が出たし枝も伸びた(柔らかいトゲあり)。しかし勢いは弱い。生きているのに枯れているような感じなのだ。もちろん2016年も開花まで行かなかった。もう1株などは、買ったときよりも株が縮んでいる。
 まだ結論を出すのは早いかもしれない。しかし北海道の野外ではこいつは無理なのだという判断に私は傾いている。気候が合えば、秋になる実はいわずもがな、葉まで生食できるという奇跡の木本植物だと思ったのだが……無念。

ウメモドキ

 2015年3月中旬に定植した小苗のウメモドキは、いつのまにか「消滅」。これは定植が早すぎて寒さにやられたと思う。
 しかし同年4月下旬に定植したもっと大苗の別のウメモドキは、同年は開花して結実しなかったけれども、2016年9月には立派に結実してくれた。
 ウメモドキは北海道には自生していないのではないかと思う。しかしホームセンターで鉢植えを売っていたのを見かけたことがあるから、全く育たないわけでもなさそうだ。
 不思議なのは、これは雌雄異株の木で、しかも風媒花。どこかに雄樹があって、そこから花粉が飛んでこない限りは、結実しないはず。
 では、わざわざ実の成らない雄樹を買って植えている人が、近くにいるということか? それはどんな人なのか?

コトネアスター 1
コトネアスター 2

 2015年5月上旬に定植したコトネアスターは、最初から結実状態で、その年にも開花しまた結実している。矮性なので積雪期には完全に埋もれてしまう。そして翌年3月に確認すると、枝の下方の実はまだそのまま残っている。ナナカマドのような苦い味ではないのだが、なぜか鳥の間では、この実は人気がないように見える。
 2枚目の後ろで倒伏しているのは、夏の強風に負けたタンジー。ただし枯れることはない。

カーラント

 2014年10月下旬に定植したカーラント。たぶん土が悪すぎるのだろう、矮性のままでちっとも成長する感じもしないのだが、翌年6月、はやくも結実。7月中旬には人が食べられるくらいになった。しかしこの実は冬までには綺麗に消える。野鳥が気に入っているのだろう。冬に残る実ではないのが、残念である。
 夏に結実する庭木としては「ニワウメ」もある。接木で売られており、2015年3月上旬に植えたのが16年にはもう一定数の結実を見た。こちらはヒヨドリが毎日数個づつのペースで腹に収めるのを観察し得た。
 晩秋に結実するはずのハマナスは、なかなか大きくなってくれない。カマツカ、マユミも然り。はあと何年待てばよいのか、見当もつかぬ。

イボタノキ 1
イボタノキ 2

 2016年3月中旬に定植して、いきなりその夏に開花し、いきなり結実。こういうのは珍しい。越冬できるのかどうかは未確認だが、報告する価値があると思うので、掲載する。
 イボタノキは雌雄同株。近くに同種の樹が1本もなくても結実するとされる。
 実の直径はごく小さい。12月初め、この近くに雌雉がいたのに出くわして、互いにびっくりしたものだが、雉の目当てはこの黒い実ではなくて隣のワイルドストロベリーだったようだ。

キンギンボク

 これは川の土手の大木の枝の下に毎年勝手に生えくるのを、1~2年前、別な場所に試しに移植してみたものだ。つまり野生で実生。土地に合っていることだけは疑いもない。
 成長が旺盛なので、生垣のように強剪定しても耐えるかどうか2年続けて実験したが、やはり弱まらない。
 スイカズラのような小花が咲き、それに続いて夏に実ができる。赤いのと黄色いのが混じるのでキンギンボクと呼ばれる由。実は有毒とされるが非常に苦いおかげで人による誤食はまず起きぬそうだ。それはありがたい性能であるが野鳥がついばんでいるのもまた見たことなし。写真の実は秋にはすべて干からびた。
 しかし、これが自然に生えてきたということは、何かのトリが落としたに相違なかろう。

ムラサキシキブ

 2015年4月末に植えたムラサキシキブ。越冬して2016年秋に結実した。実の直径が小さいので最小サイズの鳥でもウェルカム。

沙棘

 沙漠緑化に役立つ棘のある潅木、すなわちサキョク――といっても日本では誰もわからないので「ロシアン・オリーブ」などという商品名で売られている。ユーラシアの東西に分布するようだ。
 写真の株は2016年3月中旬に苗を植えたもので、まだ一度も越冬していないわけだから、ほんらいならば来年までリポートは待つべきだろう。が、この土地では珍しく、すばらしく成長が早かったから、特筆の意味でその姿をご紹介しておく。このスピードは「アキグミ」に通じるポテンシャルを感じさせる。(残念ながらアキグミは1メートル半を越えたのにまだ開花に至っていない。)ツルウメモドキやゴミシのような蔓植物の苗よりも高速で延びるとは、どういうことだ?
 背景の白ボルトニアがほとんど枯れている晩秋にも、沙棘の葉の色は夏と変わっていない。このまま常緑で越冬するのかどうかは、観察を続けないと分からない。もし来年以降も調子がよければ、いずれ開花して結実してくれるかもしれない。
 いったいどんなトゲが出てくるのかも未確認なので、家の窓からよく見える場所を選んである。
 手前のゲラニウムは、今年数種類を植え比べてみたもののひとつ。これらは来年末まで待たないと、どれがよく土地に合っていたか、見極めはつけられない。いずれリポートしよう。

青色フジバカマ

 2015年春に定植してこれで2年目の青色フジバカマが今年は豪勢な大株になった。花期もじゅうぶんに長く優秀。春には何もなかったような地面から夏に急激に大きくなるところもおもしろい。ただし3年目はどうなるかはわからない。無肥料の放任でも年々増殖するなら、それは大したものだ。
 実は成らない。

ヤナギラン

 地下茎でやたらに増えるヤナギランの芽はこの春には裏庭の数割をカバーする勢いで、いかなることになるかと期待をしたが、不思議なことに今年はさっぱり開花せず、肩透かしを喰わされた。例外的に1、2株に印しばかりの開花が見られたのみでシーズン終了。
 多年草でも株によって咲く年と咲かぬ年があったりする。これは球根のカマッシアでも経験する。だが、すべての株が一斉に咲かない現象というのは初めて観察させてもらった。
 実は成らない。


(管理人 より )

 メリークリスマス!
 クリスマスでの更新である。この姿、まさに兵頭流軍学門弟の鑑である。もちろん一人前の兵頭ファンたる者ならば、盆暮れ正月は無論の事、ましてやクリスマスなどに心乱されるなど不心得者との誹りをまぬがない。
 ひたすら兵頭本を読み、寄稿記事を追跡し、新刊が早く発売されるのを.朝夕と神仏に祈るのが正しい、いや当然の生活である。いくらなんでも休んで良いのはラマダンくらいだ。

 改めて、メリークリスマスである。ちなみに私は来週からタイで酒浸りの1週間を送ってきます。

 当サイトをご覧いただいている皆様、どうか良いお年をお過ごしください。
 今年もありがとうございました!


『旅順攻防戦』余話

(2004年2月29日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 別宮暖朗先生の新刊の宣伝として、同書に載らなかった周辺的な雑談をしようと思います。

 この企画に関しましては28cm砲弾の写真収集等、皆様にもご協力を賜り、有難うございました。どうも版元の都合でせっかくの貴重な写真が掲載してもらえなかったようなのは残念ですが、まあ、よくあることでしょう。

 去年、私はスカパーのラジオ放送で、花火のお話をしました。そこからおさらいしてみたいと思います。

 今の日本の法律では、花火に仕込める火薬は80kgと決められています。直径90cmの2尺玉にも、それより多くは入れられません。

 打ち上げる火薬は「割り薬」といい、黒ゴマ状の粒に練られていて、500グラム。これで高度600mまで上がるのです。筒と玉の間には隙間があり、そこから点火用の千切れた火縄を投入します。

 どの角度からみても球状に多重の菊が咲く、日本の打ち上げ花火の技術は、塩素酸カリウムが輸入されだした明治7年頃から、大正末にかけて完成したものです。

 この日本型の花火玉、基本構造はナポレオン戦争時代の「曳火榴弾」に似ていました。もちろん鋳鉄ではなく、腰の強い和紙の重ね張りを、殻の素材にしたのです。

 黒色火薬は開放空間で火をつけても爆発しません。これが爆発するためには、火薬全体に火が回るまでの一瞬の時間、発生ガスの圧力が閉じ込められなくてはならないのです。そして、その外殻がいよいよ内圧に負けて破裂する際には、全方向に均等にはじけとぶようにこしらえておかなければ、花火は球状には散開しません。

 興味深いことに、欧米の打ち上げ花火では、その「三次元シンメトリー」の理想は、最初から諦めています。なんと、筒状の殻を打ち上げて、筒の一方から、すすきの穂状に飛び散るようなものしかない。おそらくは「曳火榴霰弾」の発想なのでしょう。

 このように祝祭用の洋式花火では西洋を早々と追い抜いた日本人だったのですが、肝心の戦争で用いる「砲弾」や「爆弾」の技術では、近代日本の陸海軍は甚だ苦戦しました。じつは、この分野ではいまだに西洋には追い付いてはいないのですけれども、それは防衛庁周辺ではなんとなく秘密にされている雰囲気です。

 追い付けない原因は、シミュレート能力に関係しています。

 砲弾は花火のように空中で勝手に自爆するものだけではありませんね。多くは、何かに当たってから爆発しなければなりません。

 当たる対象が柔らかい地面だけであるなら、信管を敏感にすれば良いだけの話で簡単ですが、そうでない場合がしばしばある。たとえばコンクリートの半地下室です。たとえば岩盤に掘られた満州の塹壕です。たとえば軍艦のぶ厚い砲塔や舷側です。

 これらの「ハード・ターゲット」に砲弾を貫入させるには、砲弾の殻は強靭に造らなくてはならない。ところが、殻を強靭にこしらえますと、その中に充填できる比較的に僅かな黒色火薬では、細かな均一な破片を無数に飛散させることができない。比較的少数の大きな塊に割れますので、密閉空間内に飛び込んだときには、十分な対人殺傷威力と焼夷力を揮うのですけれども、開放空間での人馬に対する危害力は思ったほどではない。また、ハードターゲットそのものを崩壊させるような爆圧も発生できません。

 日露戦争で旅順要塞を攻略するために、日本陸軍は、本土の海峡防備のために置いてあった「28センチ榴弾砲」を、東京湾と由良から取り外し、現地に送りました。これは有名な話ですね。

 この大砲は、明治20年代の軍艦の甲板(それは硬い材木を何重にも張ったものです)を上から射ち貫き、内部で爆発させて、あわよくば弾薬庫に火災を起こさせてやろうと考えていたもので、発射する砲弾は、ぶ厚い、しかもとても硬くなるように熱処理した鋳鉄製。中に充填された炸薬は、長期保存しても安全確実で、しかも燃焼時の発生ガス圧の大きな粒状黒色火薬でした(ちなみに花火の玉に入っている黒色火薬は粉状のまま使うので低威力です)。

 日露戦争では、日本陸軍は緒戦そうそうに、陣地攻撃に有効な「榴弾」を撃ち尽くしてしまって、内地の工場がフル操業で砲弾を量産しても間に合わないような状態でした。しかし好都合にも、この28センチ砲弾だけは、各地の海峡砲台におびただしくストックされており、工場に改めて増産をさせる必要がありませんでした。

 当時すでに「ピクリン酸」という、黒色火薬とは比較にならぬ猛烈な爆薬が、陸海軍で実用化されていました。開放空間でも付近の可燃物に火災を起こさせる高熱も、同時に生ずるものです。が、これは極く不安定な物質で、砲弾に充填するときにいろいろと気をつけねばならぬことがあり、巨大な28センチ砲弾は国内を列車で運ぶだけでも手間でしたから、陸軍省は、黒色火薬充填のまま、旅順に向け海送させたのです。ただし、最初に送った二千数百発については、その信管(各要塞内に、砲弾とは別な倉庫に保管されます)から「延期装置」を外させていたことが、防衛研究所に残っている当時の電報綴りから確認できるでしょう(これら公文書史料はインターネットを通じてデジタル画像を読むことができるようになっています。「函館」「信管」といった複数キーワードで検索が可能でしょう)。

 延期装置というのは、信管の中にあり、軍艦の表面では起爆させずに、内部の奥深くまで穿貫してから炸裂するようにタイミングを遅らせるための小部品です。しかし28センチ砲弾は弾頭ではなく弾底側に信管がついていたので、この延期装置を外しても理念的には「瞬発」とはなりません。ある程度の鈍感さはあり、百分の何秒かは遅れて轟爆します。

 これはどういうことだったかといいますと、別宮先生の本に書かれていますように、陸軍の最上級幹部には、この28センチ砲で旅順港内のロシア軍艦を撃沈しようという意図は無かったのです。明瞭に、二龍山や東鶏冠山北堡塁などのコンクリート天蓋陣地内の敵兵員を制圧させる目的であったのです。浄法寺朝美氏によれば、厚さ60cmのコンクリートの下に居たコンドラチェンコ少将は28cm砲弾の命中で戦死しました。

 おそらく、その時点でのストック砲弾の性能と対象物との間の「摩擦」が読めた者が、参謀本部や満州総軍ではなく、陸軍省の中に居たのではないか。私はその筆頭者が、技術系の少将だった有坂成章だろうと思うのです。

 この砲弾の人員殺傷効果が徐々に効いてきたので、まず「203高地」が陥落し、ついで他の敵陣地も守備努力が放棄されました。前後して28センチ砲による軍艦砲撃も試みられていますが、講和後にロシア艦を引き揚げて調査したところでは、やはり鋳鉄製の28センチ砲弾には、日露戦争当時のロシア戦艦を撃沈する威力は欠いていたことが理解されました。

 旅順のロシア軍艦は、副砲をすべて舷側から取り外し、山上に据えて日本兵を射撃しました。砲弾や火薬、そして水雷までも陸揚げし、陸戦兵器として活用している。むろん水兵も、塹壕の補充用員として次々に送り込んだのです。このため次第に艦内では、漏水をポンプで排水したり、火災を消火する「ダメージ・コントロール」が人手不足ゆえに不可能になって、窮余の策として、いっそ導水バルブを開き、浅い港内に自から着底して、艦を水中で保存するという手に出たのです。そして守備軍司令官が降伏することがハッキリすると、こんどは軍艦を日本に再利用させぬようにと内部で機雷を炸裂させたのでしたが、すでに弾薬庫すら空でしたから、小さな穴が開いただけに終りました。

 当時の機雷には、爆薬が30kg以上も入っています。これでなくては戦艦を沈没させることができなかった。しかるに、28センチ砲弾の炸薬は黒色火薬が9.5kgのみ。また当時の陸軍として最新のクルップ製15センチ榴弾砲でもピクリン酸2.6kg、15センチ加農砲だと同1.6kg、12センチ榴弾砲では同1.3kgというところでした。

 本来なら、これでは撃沈効果など無いのですが、撃沈したと同じ結果をもたらすことができましたのは、現地で敵の「士気」を観察した結果です。これはウォー・ゲーム式の机上理論では分らないことだったでしょう。

 それならば、日本海軍の砲弾は万全であったか?

 日露戦争頃の戦艦の主砲の寿命は、120発です。つまり、主砲が4門ある『三笠』でしたら、一海戦で30センチ砲弾を480発以上撃つことなど考えていない。タマも、その分だけ積んでいたら良かったわけです。ですから海軍の徹甲砲弾は、陸軍のように大量生産向きな鋳鉄ではなくて、贅沢な圧延特殊鋼を採用していました。中味の炸薬はピクリン酸です。

 信管は、とても敏感だったと言われますけれども、やはり弾底に装置されたものであって、タマ先が何かに触れて炸裂するまでの間には一瞬のディレイがありました。その間に強靭な弾殻が敵艦の装甲内部に貫通し、内部のピクリン酸が轟爆することになっていたのでしたが、日露戦争後の調査では、これも次のような事実が判明したといいます。

 すなわち、軍艦の舷側のような堅い金属表面に命中した砲弾の内部では、信管が作動するより前に、衝突衝撃で赤熱した弾殻がピクリン酸を自燃させ始めてしまい、結果として緩慢な爆発に終っていたというのです。

 道理で、さんざんに砲弾を撃ち込んで炎上させ、ついに降伏に追い込んだロシアの戦艦が、いっこう沈む様子もなく、内地の軍港まで簡単に連れ帰ることができ、やがて日本の戦艦になったりしているわけです。

 こういうディテール情報は、明治末期には軍の上層部に共有されていたのだと思われますが、大正末期には忘れられてしまい、特に陸軍では、佐藤鋼次郎中将の嘆いた「歩兵科」至上の空しい戦術主義(これについては『SAPIO』バックナンバーをごらん下さい)が横行して、昭和の国家防衛を破綻させてしまうのです。

 28cm砲の据付に関しては『偕行社記事』という雑誌に、その工事を指揮した将校・横田穣(有坂に抜擢された)の回想が載っているのですが、なぜか最初の砲撃開始の時点で、話が終ってしまっています。これは、今にして思いまするに、谷版『機密日露戦史』の「203高地攻め直前に児玉がさらに砲床を動かさせたのだ」説と、背馳してしまう内容だったために、編集カットされたのではないかとも疑えるでしょう。

 奉天では日露双方が観測気球を活躍させていますが、なぜ旅順ではあまり役に立たなかったのでしょうか? これは、旅順が海のそばで、しかも大陸の縁ですので、連日上空に強風が吹いていたからだと考えられます。またおそらく、要塞内から射程の長い重砲で榴霰弾による曳火射撃を受ければ、地表付近のデカい気球だけに、照準も付け易く、ひとたまりもなかったんでしょう。

 それから海軍がとにかく旅順攻略を急がせた理由ですが、戦艦の主砲身の内筒交換の必要があったためではないでしょうか。実射120発で寿命になるというのですから、これを新品に代えておかねば、摩耗したライフリングでは命中が期待できなくなります。(訓練は、内とう砲という、同軸固定の縮小射撃装置=豆鉄砲でやっていたんだろうと思います。)30cm砲の内張り交換が朝鮮あたりでできれば良いのですけれど、その設備はなかったのでしょう。

 もちろん、機関その他の整備もやりたかったのでしょう。当時の国内のドックがあまりに作業能力に余裕がなかったので、時間に余裕をもたせたかったのではありますまいか。
 昭和19年刊の佐野康著『闘魂記』には、アッツ島で将兵を殺したのは艦砲射撃でも地上火器でもなく、敵機の猛爆であった、と書いてある(矢野貫一編『近代戦争文学事典 第三輯』)そうですので、28Hの対塹壕射撃の効果の程も想像できるのではないでしょうか。それは、密閉空間で炸裂したときだけ、決定打となり得たのです。

 ちなみに、これは前にどこかで引用済みの数値と思いますが、日本は日清戦争で50万発の砲弾を補給したのに比し、日露戦争では105万発を補給。この日露戦費の起債が、旅順陥落までは難儀を極めたのです。また支那事変&大東亜戦争では7,400万発を補給していますが、すでに欧米列強はWWIの4年間で各国とも億発単位で発射していたことをご想像ください。ちなみに1941~45年の合衆国は、無慮4百億発を補給しました。

 『旅順攻防戦』にはフランスのシュナイダー社製75ミリ野砲が出てきますね。この諸元が大正5年の『各国各兵種使用兵器概見表』(by臨時軍事調査委員)に載っています。

 名称   1898年式野砲(※1897年に仏が初めて駐退機付きの75ミリ野砲を完成しましたが、それと同じものでしょうか)

 砲身素材 ニッケル鋼
 機構   ねじ閉鎖、気水圧式駐退、空気式復坐
 弾頭   7.2kg(榴散弾)
 炸薬   130グラム(榴散弾子放出用)+10g弾子×300個+濃煙剤
      またはメリニット700グラム(榴弾)
 仰角   最大12度
 初速   532m/s
 射程   榴散弾曳火200~5500m可変、榴弾Max8500m
 発射速度 20発/分(急射の場合)
 放列砲車 1150kg
 1中隊   4門 

 ちなみにドレフェス事件は、仏軍の最新の120mm砲の秘密漏洩の嫌疑がかかったものでした。


日本海軍の爆弾―大西瀧治郎の合理主義精神 (光人社NF文庫)


(管理人 より)

 以前スカパーで『Salon 28』という兵頭二十八先生がメインパーソナリティのラジオ番組が流れていました。実話ですよ!もちろん私は聴いていました。録音したCDを紛失した事は、痛恨の極みである!
 もう1回やってくれないすかね、藻岩山ラジオとかで……。マンガ『波よ聞いてくれ』は本当に面白いなぁ。
  (2020年2月)


28榴弾写真置場──大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物(report 4)

(2004年12月5日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

report 4:S/Y 様のレポート

 大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物です。
 高い所にあるのでこれで精一杯!


28榴弾写真置場──春日井駐屯地(report 3)

(2005年3月21日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

report 3:Masato-Shit 様のレポ-ト

1

 28cm砲弾(?)の全景(全周同じ状態なので、この一葉のみ)。銅帯の「ど」の字もありません。よ~く見れば、胴体上部には銅帯(溝)の痕跡のようなラインが看て取れますが、弾底部は見事に真っ平らです。表面は全面防錆塗料。背景の建物は、短SAM整備工場(!)

2

 全長測定。メジャーを持つのは、駐屯地の広報担当Y氏。

3

 「画像2」の接写。1m越えてます。ナんぼナんでも、15cm以上も誤差が出るなんてことは考えられませんが(喜久一丸稲荷レポートを参照)・・・。

4

 全周測定。(メジャーを持つ手はY氏)。ドンブリ勘定ですが、28cm砲弾ならば、全周は88cmになるはず。測定誤差を勘案しても、この砲弾、太すぎます。


結論。この砲弾は、旧軍の28cm榴弾砲のものではない。少なくとも、喜久一丸稲荷に在るものや、「日本の大砲」に写真が掲載されているものとは、別種である。


5

 米軍の1t(2000 ポンド GP)爆弾。Y氏によると、守山駐屯地の武器班が処理した不発弾とのこと。原型を留めている貴重な現物資料・・かと思いきや、これほどの大型爆弾は、近隣の被害を考慮して、不発爆処理は行わないそうです(守山の武器班担当氏による)。上部のリングは、Y氏によると、後から取り付けたもの。

6

 12吋砲弾。以上三点は、いずれも守山の部隊が処理したものを、春日井に持ってきたそうです。しかし、その時期等は守山でも把握していないようです。この三点、Y氏によると、駐屯地では誰も関心を持たないどころか、完全な邪魔者扱いだそうです。マスコミも、数年前に、地元紙が終戦関連企画のためにか、取材に訪れただけだそうです。むしろ、基地祭を訪れた戦争体験者が「こんなのあったんか」と驚いた顔をするとか。

7

 爆弾の弾頭部接写。

8
9
10
11

付記

防衛庁 url: https://www.mod.go.jp/

 一応、事前のアポをお忘れなく(一名ならば、当日でも可だそうですが)。尚春日井は、現在隊舎の引越し中とのことで、見学を断られる可能性があります。

wwwサイト「帝國陸海軍 現存兵器一覧」http://www.asahi-net.or.jp/~KU3N-KYM/list.html に、若干の記事と画像があります。

(2020年2月 管理人注:当時は防衛庁でした。URLは管理人が変更しています。)


 (管理人 より)

 これらのレポートをサイトで応募してもらっていたのである。今にして改めて思うがこの方々、凄くね?


28榴弾写真置場──岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾のレポート(report 1・2)

28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾] より継続


(2005年3月12日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

report 1:Masato-Shit 様のレポート

側面の全景

 この面の銅体は、完全に減失していますが、溝部には銅サビ(緑青)がべっとりと付着しています。弾頭のコーン部と円筒部分との境界部には、接合跡(?)があります。溶接跡のようなハッキリした盛り上がりがあり、少なくともワンピース削り出し、あるいは一体鋳造には見えませんでした。
(いずれにせよ旋盤仕上げ加工を行うはずですが・・・)。
 なお、胴前部の銅帯溝にある白いものは、鳥のフンです・・・。

斜め前方の全景

 こちらは日光が当たる面のためか、赤サビがひどいです。しかし、銅帯が一部現存しているのがわかります。

弾底部直径測定

 縁が丸く画取り加工されており、巻尺がうまくかかりませんで、定規と相成りました。中央の穴は信管穴。その上の突起部は、掲示板の投稿で触れた「リング」(左手で隠れている部分にもう一つあり)。
 これがホントーに妙なシロモノで、他のものがもげた形跡は無いし、後から取り付けたにしても用途不詳、意図不明です(二つのリングの穴が指し示す方向は、一直線上あるいは平行関係にはない)。吊下用にはそもそも小さすぎるし・・・。

『 弾底部直径測定 』の拡大図

 280ミリ以上ということは無さそうです。

弾底部銅帯の接写

 防錆のためか、黒い塗料が厚く塗られております・・・?
しかし、銅体がガスシールのためならば、この形状もナゾです。まさか、散弾銃のライフルスラッグではあるまいに・・・。

アングルを変えての接写

 黒塗料の下に、緑青がうかんでいます。

信管部の接写

 ねじ山はサビて、蛇腹ホースの内側の如し(?)です。縁の
加工からすると、信管は皿ビス様になっており、ねじこむとツライチになるのでしょうか?

奉納譜

 全文は以下のとおり。

 奉 納
 明  治  三  十  七  八
 年  日  露  戦  役  於
 旅  順  港  内  敵  艦
 バ  ー   ヤ   ン 命  中
 我  軍  二  〇  〇  山
 高  地  射  砲  二  十
 八  珊  砲  丸
 呉軍港廻航記念
 元海軍○信○兵曹
   勳七等矢木野新也

 ※原文旧字縦書、改行ママ。○は判読できず。なお、「矢」は「大」の、「木」は「水」の可能性あり。)

胴前部銅帯の接写

 寸法を計測し忘れました・・・不覚!

弾頭先端部接写

 欠損が見えますが、たとえ完全でもせいぜいが+10ミリでしょう。パーテーションラインは見当たりません。

 計測値は下図のとおりです。(手描きですみません・・・)

 スケールはほぼ1/10ですが、あくまで模式図ですので、形状の正確さは
保証できません。また、数値が食い違っている可能性もあります。御了承を。

全長(A-H)     835mm
弾長(A-G)     800mm
弾径(I-M)      274mm
信管穴径(K-L)  38mm
胴部溝幅(C-D)  9mm
弾底溝幅(E-F)  30mm
テーパー部(A-B) 321mm
信管穴加工(J-K) 12mm

付記:ご参考までに。

垂井町 http://www.town.tarui.lg.jp/

タルイピアセンター  http://www.town.tarui.lg.jp/docs/2014121200049/

 タルイピアセンターは、毎週月曜日及び月最終木曜日休館です。町立図書館が併設されているようです。また、学芸員が在籍しています(但し、電話で話した限りでは、現地を訪れたことは無い様ですが)。

※「垂井の文化財 第23集 (1999)」 p63~64 大岡明臣氏の記事によりますと、奉納譜の末二行は 「元海軍一等信号兵曹 勲七等 水野新也」となるようです(但し、この場合字数が足りませんが)。「矢木野」「水野」ともに地元にはよくある姓のようです(特に、前者は以前町長がでているそうです)。「不破郡史 下巻」によると、日露戦争の出征者に、前者に該当する名前は見出せませんでしたが、後者は、「会原村 歩一 勲八 水野新也」の名がありました(p110)。しかし、この人物は所属も勲位も食い違っております・・・


※管理人注  垂井町・タルイピアセンターのURLが投稿当時とは変わっているようですので、管理人が変更しています。(2020年2月)



(2003年8月22日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

report 2:読書公社 様のレポ-ト

実測値表

1:820mm
2:30mm
3:30mm
4:14mm
5:364mm

弾底部の外周長は874mm(”2”部分で測定)

1:275mm
2:39mm

1:430?mm

弾底部のリング(腐食変形しているのでおおまかな値です)
1:内径:42mm
2:内径:18mm

奉納譜

奉納
明治三十七八
年日露戦役於
旅順港内敵艦
バーヤ ン命中
我軍二〇〇山
高地射砲二十
八珊砲丸
呉軍港廻航記念
元海軍一等信號兵曹
勳七等矢木野新七

 砲弾弾底部の二つの「リング」の謎について────「戦場写真で見る日本軍実戦兵器」(あの悪名名高き「G」出版の本です。)で謎が解けました。日露戦争の旅順攻略戦で活躍中の28センチ榴弾砲の写真が載っていました。そこには、砲弾も写っていました。まさしく神社で撮影した砲弾と同じ物が写っており、「謎のリング」も弾底部に付属しています。と、いうことは神社の砲弾は間違いなく、旅順攻略戦で使用された砲弾だと思われます。写真からは、リングはクレーンで装填する時に使用されているように見えます。ミリオタ的、重箱の隅的な細かい問題でしたが、ご参考までにご報告いたします。


(管理人 より)

 このレポートをいただいたのも、もう15年以上も昔の話になりますか……。時間の流れは恐ろしいものです。改めて、ありがとうございました。
  2020年2月


28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾]

(2003年8月9日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

 皆様、暑中お見舞申し上げます。

 現在わたくしは、帝国陸軍が明治37年に内地から旅順へ持って行った「28cm榴弾砲」から発射された「堅鉄榴弾」についてできるだけ深く広く調べようとしております。
 それで岐阜県のお近くの方にお願いがあります。

 インターネット情報によれば、不破郡 垂井町 東2丁目 の「喜久一九稲荷神社」の境内に、旅順で鹵獲し日本まで回航してきたロシア軍艦『バヤーン』の船内から2発発見されたという(おそらく不発の)28cm砲弾のうち1発が展示されているとか。

 まことに勝手なお願いですが、この砲弾のディテールを、できるだけ鮮明な写真に収め、それをこのサイトの一隅にて公開して戴けないでしょうか?

 そのさい、次のリクエストがあります。

一、他の砲弾との間違いでは絶対にないことを確実に承知するため、直径、銅帯のない胴中の外周長、全長を、それぞれ実測してみてください。

二、弾底信管の螺部分の大きさが精密に分るように、そこに巻尺/モノサシを当てた写真も撮影してください。

三、弾頭部分に何かネジこまれていないかどうか、クロースアップもお願いします。
 この三つ目のリクエストの意味は、「28cm砲弾」にも数種類があって、弾頭に信管のついているものは、旅順で発射された「堅鉄榴弾」ではないのではないかと疑われるからです。
 じつは函館の「船魂神社」にも、函館要塞の重砲連隊が大正時代~昭和前期に奉納した28cm砲弾が現存するのですけれども、これは弾頭に信管のようにも見えるものがネジ止めされています。(ちなみに砲弾の外肌は赤錆びてはおらず、ナマリ色で、これは「一号釜石鼠色銑」、つまり南部鉄の鋳物であったという情報に合致するかもしれません。)

 この他、大連の博物館にあるというタマも、インターネットの写真を見るかぎりでは、明治37年に旅順で撃った「堅鉄弾」ではないのではないかという疑問が湧くのです。(日露戦後に旅順要塞の主となった重砲兵部隊が持ってきた、普通の榴弾、あるいは榴霰弾ではないか?)

 他にも、「近くの神社に直径28cmの砲弾がある」という情報がございましたなら、この掲示板にご一報くださいますと幸いに存じます。


28榴弾写真置場──岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾のレポート(report 1・2)

28榴弾写真置場──春日井駐屯地(report 3)

28榴弾写真置場──大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物(report 4)



28榴弾写真置場──おまけページ── これが現存する旧陸軍の迷彩ペンキだ!

(2007年3月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

これが現存する旧陸軍の迷彩ペンキだ!

(兵頭二十八先生 より)

 ここに掲げる写真は、函館市浜町の戸井高校(浜町717番地)のグラウンドと、公営住宅戸井沢団地(浜町921番地3)の間の雑木林にある、第二次大戦中の旧陸軍のコンクリート要塞の一部である。撮影DATEは、根雪が消えた直後の快晴日、2007年3月22日だ。
 2007年5月の函館ツアーでは、この珍しい遺跡にも、皆様をご案内するつもりである。

 現地は、汐首岬の、やや恵山寄り(太平洋寄り)に位置する。函館空港からは自動車で片道25分くらいなのだが、現地人の案内人なしでは、到達は至難だろう。

 なにしろ日教組最後の牙城とされる北海道では、こうした旧軍施設は教育界の研究保存対象としては意図的にスルーされている。現地に行っても見事に何の案内表示も無いし、観光ガイドブックに紹介されたこともない。

 汐首岬は、青森県の大間崎との距離がもっとも近い北海道の陸地だ。ここが、津軽海峡の太平洋側入り口のチョークポイントに当たっていた。そういう場所には、必ず要塞砲が置かれたのである。
 現在、この戸井要塞の砲台跡などは残っていないようだ。残されているのは、兵員の棲息部だと考えられる。

 とにかく塗装が貴重だ。対米戦争中の旧軍の迷彩塗装がそのまま残っている。しかしこれも、やがては時間とともに失われることは確実。よって小生は奮発してデジカメで撮影した。ツアーご参加の皆さんも、どうか高性能デジタル写真でこの色を永久に保存してやって欲しいと願うものであります。

 なお、現地に通ずる国道278号は、有名な「廃線」跡に並行している。
 函館市内から戸井要塞まで、旧軍は鉄道を繋げるつもりで、海岸に沿って、トンネルやコンクリート製アーチ橋をいくつも建設したのだ。だがそれは終戦までに間に合わず、けっきょく計画は放棄された。そして、トンネルと鉄道アーチ橋だけが、海岸に沿って、今も点々と残っており、道路から間近に、よく見えるのだ。
 例によって函館市は、この旧軍の近代遺産を、観光資源としては宣伝したくないらしく、観光ガイドブックにもほとんど紹介は載っていない。地元民も、それが何だかよく知らないのだ。
 ツアー参加者の中に、もしも熱心な廃線マニアがいれば、帰路の途中、その見学のための便宜も図りましょう!

 あと、観光名所となっている「元町公民館」を「お約束」として正規コースの中にてご案内致す予定ですが、もし、〈そんなものよりアイヌ人の武器が観たいのだ〉という方がいらっしゃれば、オプションとして、バス駐車場からすぐ近くの「北方民族資料館」を御覧いただけます。離頭銛、弓、矢、各種刀剣、木製制裁棒などの珍しい実物が展示されています。(残念ながら館内は撮影禁止です。)
 さらにまた、同じ時間を利用するオプションとして、これまた公民館から近い「船魂神社」の庭にある28センチ榴弾(砲ではなくタマ)に触りたいという方がいらっしゃれば、やはり、ご案内可能です。(北方民族史料館と船魂神社の両方を見学することはできません。方位が逆ですので。)

 では、皆様、5月19日にお目にかかりましょう。

☆☆☆平成19年5月19日~20日の函館・江差方面軍事史探訪ツアーの詳細は、下記までお問い合わせ下さい。

日本エアービジョン株式会社 担当:浅田均
〒104-0061 東京都中央区銀座1丁目3番先 北有楽ビル1階
電話:03-****-****
(2020年2月:管理人の判断で電話番号は伏せています)

(管理人 より)

 近代から現代の歴史を丸ごと満喫する北の大地ツアー『歴史パノラマ探訪iin北海道』──かつてこんなイベントが企画されたのである。
 一体何人集まったのか、私は知らない。行ってみたかったが行けなかった。
  (2020年2月)


28榴弾写真置場──函館山要塞が残した28cm砲弾

(2007年3月頃に最終更新された旧兵頭二十八ファンサイト『28榴弾写真置場』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

函館山要塞が残した28cm砲弾

 一連の写真は、函館山の麓にある「船魂神社」境内の池の脇に、半没状態で安置されている1発の28cm砲弾を、全周アングルからしつこく写したものである。撮影は、2003年7月の下旬だ。

 まさにその1ヵ月ほど前、HTV(北海道テレビ)のスタッフが、物好きにもこれを掘り出して全体を撮影していったらしい。しかし私が訪れたときは、はやこの原状。
 1発217kg(もし発射直前状態の堅鉄榴弾であったならばの話)もある砲弾だ。とても「ヨッコラショ」と抱え上げ、弾底などを観察するわけにもいかなかったのであった。

 だが、私はこの砲弾を見るや、『これはいかぬ』と内心思ったのである。なぜなら、ご覧の通り、先端に信管のようなものがついている。尖っていない。
 これは、アーマー・ピアシング用のタマではない。つまり旧陸軍で「破甲」と称し、海軍では「徹甲」と称した榴弾とは、別物だと知れたからだ。

 コンクリートや鋼鈑を貫通しようというAP弾は、弾頭を少しでも頑丈にしておくために、信管のための孔を弾頭に穿ったりはせぬものなのである。もしそんなスキのある構造にしていたら、弾殻が衝突の瞬間に自壊してしまいかねないだろう。

すでに優秀なるインフォーマー君によってUPされている岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾の写真と、よく見比べて欲しい。実際に軍艦に撃ち込んだタマは、先端が尖っていたことが分る。これぞ、私がとことん仔細に調べたい、当時のホンモノの堅鉄破甲榴弾だ。

 さて、ならば、破甲榴弾でないならば、船魂神社に置かれてあるこいつは一体何のタマなのだ、と問われると、とても困ってしまう。
 それは、目黒の防衛研究所の戦史部図書館に出掛け、タイトル中に「重砲」「弾薬」などとある所蔵史料を片端からめくっていけば、必ず図面付きですべて分ることなのである。
 が、その図書館に日参していた頃、この兵頭は、正直、有名すぎるこの28cm砲などに深い興味は抱かなかった。だから、その貴重な記述を見かけても、まったくメモ帳に書き取っておかなかったのだ。

 そこで関東在住の奇特な方々に呼びかける。誰か、目黒に行って、それを調べて来て欲しい。そして、そのリポートを当コーナーにUPして欲しいのだ。
 たとえば、最大射距離で発射したときの弾道の最高点は、本当に地上5000mくらいだったのかどうか、などだ。

 このコーナーは、世界で唯一の「28cm榴弾の写真博物館」にしようと、密かに私は目論んでいるのである。

 というわけで、愛知県の陸自の春日井駐屯地内にあるという、先の尖った28cm砲弾も、誰か撮影してきて欲しい。

 また、青山墓地などを仔細に探険すれば、きっと28cm砲弾が飾られている墓がある筈である。誰か網羅的に探険してリポートして欲しい。尚、くれぐれも「墓あらし」にはならないように。

 大連の戦争記念館にあるという28cm砲弾は、インターネットの公開写真を見れば、どうも先端が尖っておらず、船魂神社と同種の物であるように見える。
 つまり、それは古戦場から掘り出したものではなくて、日露戦争後に旅順を守備することとなった、日本軍の重砲兵連隊が、教育用か何かに用いていたタマなのだろう。

 ついでだから念を押しておくと、ナントカ群像というムックの舞鶴要塞特集の中
で、28cm榴弾砲をクルップ製であるかのように書いているのは、ヘンな話だ。この大砲がどこ製であったのかは、拙著『有坂銃』をお読みの貴男には今更説明する迄も無かろう。

 函館山要塞は、28cm榴弾砲を尾根線にズラリ並べた要塞として、明治31年6月起工、明治35年10月に竣工している。(日清戦争の賠償金を活用したという。)
 その放列の跡や弾薬庫などは比較的良好に、今日でも保存されているのだ。(観光ガイドブックに載っていないだけで、ロープウェイ山頂駅から歩けば誰でも苦もなく見物ができる。夏場は雑草もちゃんと刈ってある。さすがに冬の除雪はしていないが、通行は可能。)

 ところが、その放列から最も近い対岸となる青森県の大間岬まで、だいたい距離にして30kmもある。28cm榴弾砲は、日露戦争当時から綿火薬を装薬としているが、最大射距離は7650mしかない。(同砲には最短射程限界もあり、それは1500mであった。)

 津軽海峡が最も狭くなっている「汐首岬~大間岬」間でも、直線距離で20km近い。
 つまり、とうじの要塞の数的主力であったこの榴弾砲を仮りに両岸から射ったとしても、津軽海峡の中央までカバーできなかったわけである。

 こんなところからも明らかに、函館山要塞は、「北海道全体の弾薬庫」と位置付けられていた函館地区を、敵(ロシア)の上陸占領の企図から防衛するための備砲陣地であったらしい。

 さすがに遠隔地なので、この要塞の榴弾砲が明治37~38年に山東半島や満州に持ち出されることはなかったが、有り余る砲弾を弾庫から取り出して旅順に送っている。
 ちなみに、旅順を砲撃した計18門(三度に分けて6門づつ運送された)の28cm榴弾砲は、いずれも東京湾か由良(瀬戸内海)の要塞から外して持って行ったものばかりであった。

 28cm砲弾は、旅順戦で少なくとも二千数百発が発射されている。これらは内地で新たに増産したのではなく、すべてありあわせをかきあつめてそのまま送ったタマ。
 ただし、弾底の信管だけは交換した。
 (日本の要塞内では、28cm榴弾砲の砲弾と信管は、別々な場所に保管してあった。即応分だけが、初めから結合されて置いてあった。)

 日本の28cm榴弾には信管が2種類あった。ひとつは遅滞爆発するもので、海峡を通過する軍艦に上から命中させ、当時はまだロクに装甲されていなかった甲板を40度以上の大落角で貫いて、艦底近くで炸裂するように考えたものだ(明治31年刊『砲工学校砲兵要務教程 海防戦之部』)。

 この対軍艦用の信管を、陸軍省は、大阪砲兵工廠に集めさせ、そこですべて「遅延装置」を外させてから、旅順に送らせたのだ。この命令書は残っている。

 ただし砲弾は、そのまま各地の内地要塞から旅順へ直送させたものと思われる。それは何を意味するかといえば、内部の炸薬(なんと黒色粒薬がタッタの9.5kg、ちなみに2尺玉の花火には黒色粉薬がちょうど80kg使われている)を、たとえば黄色薬(ピクリン酸、海軍の下瀬火薬と同じ)や綿火薬には、敢えて詰め替えしなかったということだ。

 そこで改めて弾底信管の直径にご注目である。AP弾は孔は弾底にしか開いていない。(リフティング・アイは、孔にはなっていないだろう。)
 この小さな孔から、黄色薬を詰めた紙袋(ピクリン酸は金属に直接触れると変質し、クラッカーボールのように鋭敏化して甚だ危険なので)を詰めるなんて、できなかったことが確かめられるだろう。

 ではせめて綿火薬に詰め替えなかった理由は何か?
 たぶん、入念に試験をやってみる時間がない以上、技術者(有坂)の良心として、元のままで送り出させることに決めたのだろう。たとえるなら、五輪のマラソンの本番で、いままで一度も履いたことのない新考案のできたての靴を、選手は試せるか、ということだったと思う。大本営では一刻を争っていたのだ。

 もちろん、28cm榴弾砲持ち出し作戦のメリットは、「今あるものを利用できるので、内地にあらたな負担はかけない」ということが大きかったから、余計な面倒は極力回避したのである。黒色火薬は長期保存性では綿火薬を凌ぐのだ。それでも信管だけは、遅延装置を外させた。

 弾底信管というやつは、遅延装置がなくとも、瞬発とはならぬ。弾底信管のみの砲弾は、基本的に反応は遅れて起こり、インパクトからごく僅かにディレイして炸裂する。

 寺内にそのような命令を出させた有坂の意図は不明だが、軍艦よりも、コンクリート・アーチを強く意識していたことは、想像ができよう。

 なお、昭和4年刊の『明治工業史 7 火兵編』には、日露開戦するや寺内陸相が大阪砲兵工廠をおとずれ、堅鉄弾はすべてその底部を改正し、弾底信管を塞螺にうえこむよう命じた、との記述があるが、これは28cm砲弾のことではあるまい。

 28cm榴弾砲は、最大腔圧が1700kg/平方cmで、あまり高くはなかった。しかし、それが信頼性を高めていた。
 WWIの青島要塞砲撃では、新登場の24加の弾底信管が不良で腔発を起こし、けっきょく古手の28cm榴弾砲が安定した活躍をみせたという。また、満州事変では、こんどは24加の弾底信管が発射衝撃で圧壊してしまって、多くが不発弾になったという。
 国産信管はそれほど厄介なものだったのだ。特に陸軍はそれを1000発~1万発単位のロットで量産させねばならぬのだから、責任者の有坂の寿命は縮まったのも無理はない。

 函館要塞の28cm榴弾砲は、WWI中にロシアに数門が売られた他、昭和9年以降に、1門が旭川(護国神社)、1門が靖国神社、2門が三沢方面に送られて、それぞれ永久展示用とされた(これらはすべて終戦時に消滅したらしい)。

 さらに、ノモンハン事件の前後に、関東軍用に送られたものもあったらしい。
 そして函館に残された十数門も、すべて終戦時に“消滅”した。いったいどこへ行ってしまったのか、その末路は、地元の郷土史家ですら明らかにできてはいない。

 函館山の一角(薬師山)には、旧式な15cm臼砲も並べられていた。これは、港に上陸してきた敵兵を射撃するため使う備砲である。
 そしてまた、道南の戸井(汐首岬)や、白神岬(竜飛岬と、もう一対のチョーク点を成す)には、津軽海峡の真ん中まで届く15cm加農が置かれていた。
 (戸井には昭和3年から「長30cm榴弾砲」×4門も配備。大間には、『伊吹』からおろした30cmカノン×2も置いたとされる。)

 船魂神社に15cmのタマも1発奉納されている理由は、こんなところから説明されるだろう。

 もちろん、奉納された段階では、内部の炸薬や信管等の火工品は取り除かれていたのは言うまでもない。教育訓練用のタマだ。

 奉納したのは誰か、であるが、函館山要塞に布陣していた「津軽要塞司令部」ならびに「重砲兵連隊」(その前は大隊)だっただろう。

 明治33年の『砲兵学教程』によると、破甲弾には、堅鉄弾と鋼鉄弾があったそうである。後者はスチール、それも特殊鋼であって、海軍の砲弾はコレだ。陸軍の28cm榴弾砲のタマは前者であり、それは基本的に鋳物なのであった。

 昭和9年の、長谷川正道著『国民講座 兵器大観』によれば、鋳物の砲弾にもいくつかの種類があった。
 「鋼製銑」は、鉄の中に鋼屑を少しまぜたもので、強靭だ。
 「堅鋳銑」は、銑鉄の冷却の速度を加減して硬さとねばりの中間を出したもの。
 「特別銑」は、銑鉄にマンガン、クロム、タングステンなどを混ぜたものだ。
 もちろんこんなことをしても、炭素鋼にニッケルを混ぜた特殊鋼よりははるかに強度は劣ったはずである。

 それでも明治時代、砲弾を鋳物としていたのは、陸軍の大砲は、重砲といえども、バカスカ弾丸を発射しなければならないと分っていたからである。

 他方の海軍は実戦でもそんなにタマをたくさん消費することを予期しない。たとえば『三笠』の30cm砲(の内筒)の寿命はわずかに120発だったという。それ以上を一海戦で撃つつもりが初めから無いのである。だから高価なスチールで贅沢に砲弾をこしらえることが、海軍では昔から許されたのだ。

 28cmの堅鉄弾は、御影石を積んだ表層をやすやすと貫き、その下のコンクリートを1.20m貫入できたという。

 ここで説明が要るのだが、日清戦争当時の要塞にコンクリート(仏語ではベトン)を用いているところは滅多になかった。アーチ部分も煉瓦製というのがほとんどであった。
 これは地雷榴弾(地面に少しめりこんでから遅延信管により炸裂する榴弾)の無かった普仏戦争スタンダードの、瞬発の榴弾の爆発力は簡単に吸収できた。
 しかし、直径15cm以上のAP弾は、煉瓦の壁や天井などはいともあっさりと貫徹できたのであった。

 日露戦争当時にはコンクリートはやや普及していたが、まだ要塞全部をコンクリートで造ることはなかった。アーチ部分だけがコンクリート。しかも、無筋だった。
 鉄骨も鉄筋も、入っていないのだ。

 これは、鉄筋コンクリートの工法が、大正5年頃までフランスのアンネビック社が広汎な特許を押えていて、その使用権料がヤケに高かったからだとも言われるが、要はとうじ世界的に未だ信頼されていなかった新技術であったのだ。

 それで、ロシアの旅順要塞も、日本の各地の海岸要塞も、弾庫、砲具庫や棲息掩蔽部(砲員が敵の砲撃を凌ぐ空間)の天井は、すべて無筋コンクリートでアーチをつくってあった。

 函館要塞だとそのアーチ部の厚さはちょうど1mある。(他の内地要塞ではどうなっているか、手分けして調べてみて欲しい。これらのアーチは端面が垂直外壁の表面まで露出していることが多いので、簡単に厚さが測定できる。)
 旅順ではそれは60cmだったらしい(浄法寺による)。

 そして、そのバイタル・パートの天井コンクリート・アーチの周りは、単に煉瓦や切り石を積むのみという構造であった。これが日露戦争当時の「永久要塞」なのだ。

 明治31年時点で、世界の海岸砲の最大口径は、32cmだった。これのAP弾を近距離から直射されたら、側面にコンクリートを使っていない構造物などひとたまりもない。が、海岸要塞は半地下式が多く、真上から砲弾が落ちてこぬ限り、バイタル・パートは直射はされないはずだった。

 函館要塞遺跡の場合、棲息掩蔽部の表面には厚く土が被せてある。これはWWIの戦訓で、土壌の耐弾力が評価されたために後からそうしたのか、あるいは最初からそうだったのか、よく分らない。

 ひとつ確かなことは、明治37年のロシア軍は、旅順要塞の掩蔽棲息部にまったく土を被せていなかった。そのため、厚さ60cmの無筋コンクリートは、40度の落角で命中する28cmの堅鉄榴弾の運動エネルギーを、食い止めることができなかったのだ。

 9.5kgの黒色火薬の化学的エネルギーは、煉瓦層でも阻止できる程度のものであったろうが、217kgのマスの運動エネルギーが、薄いコンクリート・アーチの裏面を逆漏斗状に高速で剥離させ、その高速コンクリート片が、内部の人員を殺傷し、要塞内に居たたまれないように仕向けたのであろう。
 そして、狭い密閉空間内では、発熱量の比較的に小さな黒色火薬といえども、顕著な焼夷&殺傷威力を発揮したものであろう。

この角度からだと「銅帯」の跟跡がよく分る。

後方に「船魂神社」がみえている。函館山要塞のふもとに位置している。

柔術の兄弟子に巻尺の28cmの巾を示して貰っている。(他の写真も同様)

遠くの足は船魂神社の宮司さんである。手前のタマは15榴

頭部の信管のようなもの。これはアーマー・ピアッシング弾ではありえない。

手前が15榴(149mm)の砲弾。奥が28榴。

函館山 現況写真

ロープウェイ山頂駅から稜線をみる。駐車場のすぐ上が「第2砲台」だ。

函館山の稜線。遠くに青森県の山がみえる。(画面左寄りにうっすらと。)

ちょっと見づらいが、アーチ端面が露出しているのである。

アーチ端面(外壁面)のしっくいがはげ落ち、砂利をまぜた無筋コンクリートがむき出しになっている。

アーチの内側。

無筋コンクリートなので赤サビなどはみられない。

なかば埋まってしまった「棲息部」。

これはミニ・サイズのアーチだが、厚さはしっかりと1.0mある覆土はほとんどないことがよく分かる。

第2砲台。丸いのは28センチ砲座跡。壁のリセスは「即応弾薬」を置いたところ。

土砂が埋めてしまった「棲息部」の入り口。

砲員が敵艦砲をしのぐための「棲息部」はこんな構造。アーチ厚は1.0m。

砲座は青天井だが、海峡を通る船からは全く見えない。

函館港をみおろせるロケーション。霧でよく見えないが・・・。

右上の四角い石は通気孔で、下のアーチ・トンネルまでつながっている。

ここは「電話室」だったらしい。

覆土がないことが分る一葉。

人物との大きさ比較。このレンガは地元産らしい。

アーチの端面(壁面露出端)は、漆喰が「たたき」のようなもので表面を化粧されていた。
それが剥げている。

一連の写真は「千畳敷」砲台の半地下壕。背景にロープウェイ山頂駅が撮っている。
稜線ぞいに歩けばここに達する。

千畳敷砲台の先端の観測所。天蓋は鉄板だったが、無くなっている。覆土はなかった。

ロープウェイ駅から津軽海峡方向をみる。肉眼だと青森県がよくみえたのだが・・・。

アーチの厚さは例によって1mちょうど。入口前が広々としているのは人員だけでなく砲具も収容するからだろう。

これは函館山要塞の北側、薬師山ピーク(252m)の15cm臼砲砲台跡である。三つ並んだアーチに注意。

アーチのつながったところ、表面がくずれおちている。これは雨水の長年の作用だろう。

内側。古墳の棺室のようである。

中からみた、明り採りの窓。

内側からみるとよく分るのは、まずアーチを支える壁をレンガで積み、そこにコンクリートアーチを打ち、そこに土をかぶせ、表面に石を張っているという工程だ。

15cm臼砲はこのような広場に据えられていた。ハシゴは木製で、当時のものではない。

ロープウェイ駅(334m)から北東をみる。日本の要塞の中で最も眺めが良かったところだろう。

薬師山はこの少し下にあり、正面の函館港に上陸する敵兵を撃つ任務であった。

函館山ロープウェイの窓から「薬師山」をみおろす。植生のため臼砲陣地は隠れている。

このアーチは、観測壕の地表面まで一体でコンクリートを打設してある。

入江山の観測壕。鉄製天蓋は失われている。ヒビがひどいのは無筋のせい。アーチは圧縮力だけなので無筋でも良いが、地盤沈下の引っ張りに対抗するには鉄筋が要るのだ。

函館山主稜線から枝分かれした先にある「入江山」の観測所。入港する船を見張るには絶好の場所にある。

超めずらしい「88式海岸射撃具」(※)の台座。水ぬき穴があって水は溜まらない。観測所でポイントした地点に、ここから75ミリ砲弾が正確に発射されるのだが、2点は100mも離れている。

 ※「撃」の字がよく判読できなかったんですが、まぁ、間違ってはいないでしょう。・・・^^;このサイトさんに載ってる88式海岸射撃具砲(?)の事ですよねぇ・・・?
(管理人注 『このサイトさん』は2020年2月現在、既に存在しないようです)

おまけページ──これが現存する旧陸軍の迷彩ペンキだ!


28榴弾写真置場──虫のよいお願いシリーズ、其の二[堅鉄榴弾]

岐阜の喜久一丸稲荷神社の現存28cm砲弾のレポート

春日井駐屯地のレポート

大分県中津市奥平神社の正面に奉納されてる物

『旅順攻防戦』余話


『ひゅうが』型DDH 2番艦『いせ』の見学

(2016年7月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

伊勢

 2016年7月13日に室蘭港の岸壁でDDH『いせ』の中を見せていただけるというので朝からやって参りました。
 Dというのは駆逐艦デストロイヤーのことで、Hというのはヘリコプター運用艦を意味します。
 Dを二つ並べるのは、一つだと聞き間違えがあるので、重ねたまでと思います。
 たとえばBBは戦艦バトルシップ、SSは潜水艦サブマリンです。米海軍の流儀です。
 軽車両を出し入れできるランプが見えています。
 『おおすみ』だと岸壁の高さにアジャストできるのですが、本艦にはその芸当はできません。

伊勢(1)

 アイランド(艦橋)が右寄りにある空母は、岸壁に必ず右舷を接舷すると決まっていますため、左右対称の軍艦よりも入港や碇泊では制約が多くなります。本艦の、左絃へ余計に張り出している飛行甲板を岸壁から撮影することも、したがいまして無理です。

伊勢(2)
伊勢(3)

 前部の航空機用エレベーターです。
 後部の昇降機ですとSH-60のローターを畳む必要がないのですが、こちらはサイズが小さいので、畳まないと載りません。

伊勢(4)

 格納甲板です。
 いちどにヘリ10機ぐらい収容できる広さです。見てのとおり「柱」がないために、中央寄りの天井の構造は、上からの荷重に弱い。SH-60の重さにまでは耐えてくれますけれども、チヌークや掃海ヘリは中央部分に降りてはいけません。

伊勢(5)

 前部エレベーター上から艦首方向を見ています。昇降機エリアを囲繞する鉄柱とロープの柵は、機械駆動によって出てきたり引っ込んだりします。この動きがムダに格好良くて惚れ惚れします。

伊勢(6)
伊勢(7)
伊勢(8)

 前部エレベーターから艦尾方向を見ています。アイランドが高い。飛び降りたら命に係るでしょう。ちなみに旧海軍の空母『飛龍』(17300トン)は全長227m×飛行甲板幅27m、軽空母『龍驤』(8000トン)は全長180m×飛行甲板幅23mでした。本艦『いせ』はその中間サイズ(13950トン、全長197m、飛行甲板幅不明、船体幅33m)です。『赤城』ですら飛行甲板幅33.5mだったのですから、昔の軍艦の窮屈さに、改めて感じ入りました。

伊勢(9)
伊勢(10)

 前部エレベーターの深淵を覗きました。本艦には舷外エレベーターというものはありません。耐候性を重視したのか、まだ実験段階だからなのか……。航空機用昇降機の他に、弾薬用や貨物用のそれぞれ専用エレベータも複数、あるようでした。

伊勢(11)

 艦橋から前方を眺めるとこんな感じです。

伊勢(12)

 艦橋から右舷を眺めたら、廃用された「北斗星」の客車が並んでいました。

伊勢(13)

 第二煙突後方の後部アイランドの航空機発着艦管制室内から艦尾を見たところです。ヘリの着艦目標である「逆さ《不》の字」が二つならんでいますが、外舷寄りがオスプレイ専用スポットです。飛行甲板から水面までですら25mぐらいもあるそうで、もはや高飛び込みなんてもんじゃないレベルになってます。正規空母だともう想像したくないですね。

伊勢(14)

 同じく管制塔から艦尾を見ています。軍艦旗の横にVLS(16セル)が見えます。本艦にはRAMがないので、超音速対艦ミサイル迎撃は、このVLSからのスタンダードミサイルを頼りにするのでしょう。遠方の吊橋は「白鳥大橋」でしょう。ついでながら、室蘭の水族館はコンパクトながらいろいろなものがあって、まさにファミリー天国になっていて、感心しました。

伊勢(15)

 見えにくいんですが、右手にボイスレコーダーが4つ、設置されています。この管制塔から同時に4機のヘリと交信しなければなりません。そのすべての交信は、この機械が記録して、万が一の事故等の調査に役立てられます。前方艦橋の発令所と違って、航空管制室内での会話が録音されることはありません。

伊勢(16)

 後部アイランドは、艦首方向の視界も得るためにすこし張り出しています。思ったのですが、アラスカ等の原生林地帯で川岸の空き地を使ったりして自在に短距離離着陸している巨大タイヤの高翼単発レシプロ改造機があるでしょう? あれだったら碇泊中でもこの甲板から運用できますよね。この広さなんだから。

伊勢(17)

 『いせ』食堂のホンの一隅でございます。軍艦の食堂は乗員の三分の一のキャパシティを標準にしているそうですが、そうしますと、将校を除いてざっと100人ぐらい? 鉄柱には、荒天航海中に頭をぶつけても痛くないように、組紐みたいなものが巻いてありました。潜水艦ではないですが、厨房では生火を用いず、スチームと電気のみです。本艦の艦内照明はLED化されていません。大爆発があっても消えにくくて、しかも省エネなのですけどね。予算がもらえなかったそうです。

伊勢(18)

 艦首の近接ミサイル迎撃用の全自動ガトリング砲です。カタログではもう1門どこかにあるはずなんですけど、それがどこなのか、ちょっと見出せませんでした。これ、近寄ってみたら、なんか碇泊中なのに通電していてウィンウィン唸っていまして、『ロボコップ』の誤認射撃シーンを連想して怖かったです。しかし、こいつが旋回するときには、写真でも小さくみえる「21番砲塔旋回警報」というベルが鳴るそうですから、そのときに甲板に伏せたなら、被弾は免れるでしょう。

室蘭(1)

 室蘭港を一望できる「測量山」展望台からの眺めです。レンズのキレの良いカメラなら、左の方に『いせ』が見えるのですが、わがコンパクトカメラでは無理でございます。室蘭は地形的には天然の良港ですけれども、朝に霧が出るのが、軍港としては難があったみたいで、けっきょく北方の軍港としては大湊が栄えました。

室蘭(2)

 その測量山の頂上直下には、こんな旧陸軍要塞の観測所の跡が遺されていました。まだまだあるものなんですね。


(管理人 より)

 横須賀に遊びに行った時、自動車の窓から海上自衛隊の艦が見えて『でけえなぁ』と感嘆したものだが、その時見たものよりもたぶん遥かに大きな『いせ』である。
 『戦艦大和を引き上げて観光名所にしたら良い』とTVで誰かが言っていた。絵になる艦は観光名所になる。
(とはいえ、私は観光地は中心の『物』ではなく、周辺の飲食店等の配置が重要だと小田原城を見て思ったけれども)
 海外旅行や地元福岡、そして関西、今住んでいる関東でも私は軍港に一度も行った事がない。せっかく関東に住んでるので今度自衛隊のイベントにも足を運んでみようかと思った。