interview with──決心変更サレリ──そして、未完のルポ(2004年度新春インタビュー)

(2004年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

管理人:明けましておめでとうございます。さて、兵頭二十八先生御婚約である。誰しもその人生には色々なイベントが用意されている。進学、就職、女子中学生の愛人を囲った、出産、死病を宣告された、そして何より婚約とかだ。
 「ロシアの文豪ばりの赤貧・禁欲生活を吹いておいて、今更そりゃねーだろ!?」とか「世間並みの幸せはすべて放擲してきたって書いてたやんか」という貴方の想いは深く理解するが、ともかくも新年である。おめでたいのである!そんなわけで(?)遂に2回目の新春インタビューである。
 去年も書いた事だが、函館に居を構える兵頭先生と福岡市内在住の管理人が何時どこでこんなに長々と話したのか──絶対に詮索してはいけない。

 

管理人:明けましておめでとうございます。

兵頭:ウッキ~!(いちおうさるどしということで……) おめでとうございます。

管理人:本日はお忙しいところを恐縮です。

兵頭:いや、私も、いつものような堅苦しい年頭挨拶よりはインタビュー形式の方が良いと思いますよ。

管理人:ところで昨年11月ごろから重大な噂を聞き及びました。

兵頭:この冬は雪が遅くてね。暖冬の予感がするね。しかし昨シーズンは私も「初転び」を体験していますから、こんどはぬかりのないように、滑り止めのミニ・スパイク付きの革靴を買いましたよ。海岸通りの安売り量販店で、1900円くらいでね。

管理人:なんとご婚約をされたとか……。

兵頭:この滑り止め装置は路面がアイスバーンになっていないところでは簡単に裏返すことができるんです。

管理人:ともかく、お相手は塾講師とか。それも、少し前までホンモノの「修道女」だったひとだとか……。

兵頭:ほら、このようにカチャッとね。ワンタッチですよ。

管理人:自分は詳しくないのですが、確か、カトリック修道会を退会するにはローマ法王の許可とかが要るのではなかったですか?

兵頭:これはしかし裏返した状態でも金具は少し地面に当たるので、一歩ごとに「ガリッ」という独特の音がします。私はこんな靴は北海道でしか見たことがない。

管理人:いずれにせよ、そう致しますと、当初の計画を大きく変更され、函館に永住するご決心ということで、これは私共、理解を致しても宜しいんでしょうか?

兵頭:こっちでしか見たことがないといえば、コンビニの「セイコマート」もあるね。

管理人:あるいは、ビジネスにも資料調査にもなにかと便利な札幌方面にご新居を……といったご計画でも?

兵頭:なんとイタリア製のスパークリング・ワインがフルボトルで380円だ。1年中、この値段だぜ。これはアル中普及運動かと思ったね。

管理人:下世話な話でございますが、女子修道院の下っ端は私有財産ゼロでしょう。入るときに「清貧の誓い」とかをするそうじゃないですか。だから退会の時点では私服すら一着も持たない筈ですね。そして兵頭先生もこれまで貯金はしない主義だったですよね。そうしますとですよ、いくら土地が安いとはいえ、北海道での新世帯はいきなり大変ですよね。だから貯金のための時間が1年くらいは必要というわけですか、つまりその、入籍とかまでの……?

兵頭:まあ俺も一人で酒を飲むのは貧乏人には許されぬ時間の浪費だと悟ったので昨年末からキッパリとやめたが、それで一向平気でいられるのも精神的に充実しているが故なのだろう。

管理人:「第二次大戦中の兵器の話はもうしないのか」とのファンの声が根強いのですけれども、これからご研究の方向性は微妙に変わってしまうのでしょうか。

兵頭:日本国民が重大な勘違い、思い違いをしているのではないか--と思うことがあれば、それについて言及することがあるでしょう。いまのところ、兵器その他についてそう思うことがコンスタントに減りつつあるのは幸いです。こんど、別宮さんの『坂の上の雲では分からない 旅順攻防戦』(仮題)という並木書房からの新刊の中でちょこっと対談をしているんだけど、これなんかも、これまで指摘してきたことの「まとめ」だね。

管理人:イラクへの自衛隊派遣では、論壇では真っ先に『新潮45』で「海外派兵大賛成論」をブチ上げられましたね。この場合、「大義」はどうなるのかな、と私共は思うんですよ。そのへん、兵頭先生の「まとめ」を伺っておきたいな~~、と思うのですが、如何がでしょうか。

兵頭:それはですね、「悪い団体に大金を持たすな」ってことに尽きるでしょうよ。悪い団体とは、原爆を作れるくらいの人材がよく組織されていて、ポテンシャルがある、しかもその企図を秘匿できるぐらいの国土の条件もある、しかも基本的に世界、あるいは海洋自由貿易秩序に対しては無責任である中小国です。また、大金というのは、まあここでは「百億円単位のカネ」と言っておきましょうか。この二つが結合すればですね、原爆ができてしまう可能性があるのですよ。しかもその原爆は、即興的に、西側の都市に対するテロの道具として使われる蓋然性が高い。それだから、世界経済の自由化に責任を持ち、自国民を心配する大国政府は、これを防ごうと思うわけです。バース党支配のイラクはこの「悪い団体」の条件を最も満たしていた。彼らの、世界第二の埋蔵石油をして、ロシアや支那や欧米からの武器資材輸入の「信用担保」とさせてはならなかった。バース党と石油利権を、どうしても切り離す必要があったのです。それが米英日の対イラク政策の基本ですよ。

管理人:それでアメリカはイラクを占領した?

兵頭:そうです。全土を占領統治しないと、バース党はけっきょく、石油資源を担保に、外国から核武装のための物資を買い付けてしまうと懸念されたのですよ。信用取引でね。占領統治をすることで、バース党から「悪い団体」の条件を取り去れると結論されたのでしょう。

管理人:それではなぜ北朝鮮よりも、イラクが先でなければならなかったのですか?

兵頭:北鮮は原爆を持っていないからですよ。これは過去に何度語ったことか知れないが……。1994年いらい、「北朝鮮は原爆をもう持った/もうすぐ持つだろう」といった噂が報道されてきました。だが、俺はその当時から今日までずっと、北朝鮮はじつは核兵器など持っていないのだろう--と思っているし、機会あるごとに、雑誌や書籍の中でも、そのように疑うべきだと主張してきた。北朝鮮はもちろん、原爆を持ちたいと思っている。それは間違いのないこと。彼らは、そのための最大限の努力もしているでしょう。しかし、にもかかわらず、連中は、これから何年も、最初の1発目の原爆を持てないであろうと俺は思うよ。これは、飛行機で運搬して投射したりできる「弾頭原爆」だけじゃない。「装置原爆」、すなわちとても大掛かりで重いためにほとんど「地雷」としてしか役立てられぬような原始的・初歩的な技術レベルの原爆すら、北朝鮮はまだ持つには至っていないね。なぜ俺がそんなふうに断言できるのかの根拠は、いろいろだ。が、世間を納得させる力が弱くて残念なことに、そのすべては「状況証拠」でしかない。その状況証拠の最大の有力なものは、北朝鮮じしんが、北朝鮮が原爆を持ったという証拠を、世界に対して、全く示せないでいることさ。つまり、彼らはこれまで一度たりとも、フルスケールの原爆実験をしてみせていないだろ。キミが、金正日という、虚勢を張りながらも怯えている、そして、配下の軍隊の能力を対外的に示威することについてはこれまでためらったことがない独裁者のキャラクターになりきってみれば、これが何を意味するのか、覚ることができるよ。つまり、彼らはまだ「それ」を持ち得てはいないことが、ね。

管理人:「彼らは小規模な実験を密かに、地下で行なったのだ」という人もいます。

兵頭:TNTなどの高性能な軍用爆薬を、平たい丸餅を何十枚も整然と貼り重ねるように配列して全体が球形になるようにし、それを外側から一斉に起爆させ、その爆発のエネルギーが中心の1点に同時に集中されていくような巧妙な超高圧実現装置……これは確かに、プルトニウムを中心素材とした「インプロージョン(爆縮)式」の原爆をこしらえるときに必要とされる装置だよ。しかしそうした起爆機構だけの発火試験を「核実験」とは呼びません。プルトニウム原爆は、1960年にフランスがサハラでそうしなければならなかったように、できれば大気圏内でフルスケール、つまり数十キロトンのイールド(出力)が実際に問題なく発生することをいちどでも実証してみないうちは、とても外国に対して任意のタイミングで行使することができる「兵器」ではないのだ。北朝鮮は、このような実験をしてみせられるような段階より、はるか手前の段階でここ十年間、停滞してきたという印象を、俺は受けている。それが、次の十年で、劇的に進捗するだろうとは、俺には思えない。

管理人:でも北朝鮮の人口はイラクと同じくらいあるし、ある程度教育を受けた人材プールもあるし、排他的な一定の広がりをもつ国土を内側から固めているシステムはバース党以上に堅固ですよね。そこに日本からのパチンコ資金や覚醒剤の売り上げ金が大量に流れ込めば、そっちの方が「悪い団体に大金を持たす」ことになるんじゃないですか。そうなったら、イラクよりは原爆保有によほど近い位置にあるのでは?

兵頭:原爆が1億円単位のカネでゼロから作れるのならばキミの今の話は正しいと言えるね。しかし原爆は、幸いなことに、科学先進国ではない小国がゼロから作ろうとすれば、百億円単位のカネを注ぎ込まなければ実現は不可能なのだよ。イラクならば、地下の莫大な埋蔵石油を信用にして外国からそのくらいの買い物をツケでできるんだが、北朝鮮にはその現金も信用もないわけだ。つまり米国としては日本の財務省をちょいと脅して総連を締め付けさせさえすれば、もともと核開発には十分ではなかった裏金の流れ込みもさらに限りなくゼロにできると見積もったので、イラクよりも北鮮は後回し。もちろん、日本国民としては平壌の有害性はとても無視できない。なにしろ具体的に国民を拉致されたり麻薬を持ち込まれたり、犯罪し放題をされているのだからな。しかしそのくらいは、日本も大国なんだから、自力対処ができなければ、本来おかしいだろ? 世界ぜんたいの面倒をみなきゃならんアメリカとしては、やはりイラクが先となるわな。

管理人:月刊『MOKU』の最終刊の対談記事にありましたように、海上保安庁を国交省と分離して、日本の真の「国境警備隊」にすれば、良いのでしょうか?

兵頭:無論、それは必要だ。国交省は旧田中派の牙城で、親中・親鮮だろ。しかも海保の長は防衛庁長官と違い、国交省の役人が出世をしていく途中のポストでしかないのだ。そんなんだから、海保庁ぜんたいで海自のイージス艦1隻とほぼ同額の年間予算しかないのを、もうちょっと増やしてくれ、と要求する事も、上級組織である国交省の本省の事務官に向かっては、とてもできやしない相談、となってしまっている。

管理人:イラクの石油収入……というか、埋蔵石油を担保にする信用は、北朝鮮が利用できる日本のパチンコ資金などとは比較にならないくらい、莫大なんですか?

兵頭:1996年12月から2003年3月まで、石油と食糧の交換を許すという国連決議のスキームのもとで、イラクは34億バレルの原油を輸出したことになってる。これはかなり制限された量だったが、それでも売り上げは、650億ドルだぜ。そのカネは国連が指定したフランスの銀行口座へ振り込まれ、バース党の手には渡ってはいないことになっているのだけれども、どうだい、巨大な埋蔵利権を担保にすれば、百億円単位の買い物も半ば「闇」でツケでできるのだという想像は、この数値から、キミには容易にできないかね。

管理人:サダムと9.11のアルカイダは関係があったんでしょうか?

兵頭:それは分からん。しかし、1993年4月にクウェートを訪問したブッシュ(父)元大統領に自動車爆弾テロを仕掛けさせたのは、サダムのシンパでないなら、誰だろうか? そいつらがもし核爆弾を手にすれば、それは西側自由主義国の大都市で試されるに違いないと疑うのは合理的だろう。

管理人:イスラエルも、一昨年までのイラクと同様の、国連決議無視の常習犯です。しかも核保有国ですが……。

兵頭:イスラエルが西側世界で核テロを起こす恐れはないと、西側大国では思っているんじゃないの。

管理人:別宮暖朗さんの御説では、平時のイラクの油田から得られる収益は、第三世界諸国の政府にとっては多額と言えても、米国の平時の国防費と比べたら、その足元にも及ばない、というわけですか。

兵頭:そう、だからイラク戦争は、米国にとって「持ち出し」となることは、もう開戦前から明らかだった。米国政府は、世界秩序のために、敢えてそのリスキーな作戦を決断したのだ。カネのリスクだけでなく、人命と政治的なリスクをすべて引き受けた。この米国を、日本政府が、資金でも、マン・パワーでも支援しようと決めたことは、わが政府としたら上出来さ。世界第二の経済大国が、国民がその政府を批判しても決して投獄されたりはしない自由主義体制の他の大国と共に「世界経営」に参画する。これは合格点だろ。「対支那」ではどうも赤点だけどね。

管理人:その兵頭先生の「お立場」は、西部邁さんらとは反対側、という認識で、よろしいですね。

兵頭:俺はまがりなりにも江藤淳の弟子だからね。馴らされない野良犬のままだったとしてもさ。江藤淳が米国を憎んだのにはまっとうな理由がちゃんとあってね。それは、占領期間中の情報管制・言論検閲が心底許せなかったのだ。国民に対する検閲は政府はしちゃなんねえなんていう御リッパな憲法を押し付けておいて、手前達はコバート(隠密裡)で新聞や出版物や個人の手紙の検閲をやってたんだ。そんな表裏あるアメリカのどこが自由の国だ、と怒っていた訳だ。俺はもちろんそこにも全然同意する次第だが、怒りの対象がちょっと違うのさ。その秘密検閲をやったGHQなんかよりもむしろ、そのマインド・コントロールの企図に気づいていながら、その罠にまさにかけられそうになっていた、当時の精神年齢12歳、平均学歴は小卒にすぎなかった日本臣民のためにだよ、カラダを張ってGHQに抵抗をするでもない、むしろ逆にそのGHQ様に積極協力しやがった、日本人の犬インテリの腐れド外道どもに、俺の怒りはどうしても向いてしまう。エリートに武侠精神が無いわけだよ。アメリカ国内では、新聞や雑誌で政府の政策を公然と批難しても、逮捕されたり監禁されたり流刑されたり銃殺されるかもしれないと恐れる必要はないだろう。これは昔も今も偉い。ただし、アメリカ政府が偉いのではない。アメリカ政府にそれを許さないアメリカのエリート達に、日本のインテリには無い武侠精神があるんだ。

管理人:中国や、サダム・フセイン体制下のイラクには、政府批判の言論の自由があるように思えませんもんね。

兵頭:イラクは中東産油国中では人口が多く、近代教育もできていた。しかし民主主義ではなかったし、法治国家でもなかった。とうぜん、報道や学問の自由などもないんだ。支那と同様。バース党の組織力は堅固で、専制体制下での近代化が進められていた。このサダム・フセイン体制と、巨億の石油収入が結びついたままにしておけば、いずれは核兵器を持ちかねない国だったよ。オシラク原発の話を思い出すことだ。対イラン戦争や、国内少数民族の抹殺のために、躊躇なく毒ガスを使わせたサダムなら、原爆だって出来次第に使っただろう。しかしこの点に関しては、もう世界は安心だ。だからアメリカさまさまだ。

管理人:イラクの次のターゲットはどこなんでしょうか? 9.11のアルカイダに資金を流していたのは、サウジアラビアではないのですか?

兵頭:そう疑われているね。しかもサウジはとんでもない専制国家だ。ここにアメリカが肩入れしているのは、かつてフィンランドやバルト三国やポーランドを侵略したソ連をF・ローズヴェルト政権が支援し、戦後はまた赤色支那と何代かの米国政権が裏同盟を結んでいるのと同じで、道義的にはとても汚れたことさ。しかしサウジアラビアは、人口があまりに少ないために、自国内で核・化学・生物兵器を開発する恐れは無かった。ここが、バース党のイラクとの大きな違いなのだ。米英の最大関心事はあくまで、無責任な小国が原爆を作って米英を攻撃してくるかどうか、だけ。とすれば、次はイランだろうね。シリアにはもう原爆は作れない。

管理人:自衛隊のイラク派遣は、世界や日本の何を変えるのでしょうか。

兵頭:いままで自衛隊は、いわばコタツに足をつっこんで寝ていたような状態だったのを、派遣後は、常に中腰でファイティング・ポーズをとらせておくことができるようになるだろう。徐々にね。ここが最大の国益だよ。

管理人:つまり、法制とかが整うのですね。極東の有事に即応できるように。

兵頭:そうとも。拉致問題で米軍を頼む前に、まず大国として自力救済だろう。いままでは、それができなかったのだ。こういう機会でもないとね。自衛隊には国会議員のパトロンは少ないから。

管理人:防衛庁は、初めは米英軍のための「ガソリンスタンド」をイラクに開設するとか言っていましたが、いつのまにか「給水」になりましたね。それも、米英軍に対してじゃなくて、イラク住民向けの。

兵頭:その理由は去年に『発言者』に詳しく書いたが、米陸軍は今次イラク戦争からは、もはや軽油燃料は使っていないんでね。陸自とは燃料兵站上のインターオペラビリティが無くなっているわけだ。内局はそんなことにも気づかず、9.11後のテロ特措法で洋上給油をやった、その陸上版で行ければ、何かと事務手続き上の都合も良いだろうと、当初はそう目算したのさ。たしかに海自と米海軍は同じ重油を使うよ。今もね。しかし陸自と米陸軍はもう燃料がぜんぜん違う。それに気づき、慌てて話を「給水」に切り替えた。しかしどの軍隊も水くらいは自前で補給ができるものだろう。それでしょうがないから「対住民」にしたわけだ。まあ絵に描いたような泥縄なんだけれども、こうやって法制とかいろいろなノウハウが整って、蓄積もされていくのさ。

管理人:大量破壊兵器の除去の手伝いをしに行くんだという項目は、イラク特措法には含まれなくなりましたね。

兵頭:しかし、せっかく給水部隊がいくのだから、この際だ、昔の防疫部隊のように、これからは「後方支援」部隊も対CBRの活躍ができる能力を備えて欲しいよね。これは良い機会ですよ。

管理人:お話は変わりますが、古い武器カンケイのご著書の改訂版は出ないのでしょうか。これはファンの要望が強いのではないかと思うのですが。

兵頭:う~む。俺も以前は収益構造というものを度外視して、純粋な事実窮理に打ち込んだりしたが、これからは態度を悔い改めたい。俺もようやく、同年代の評論家がどうしてあんなに記事をトバしまくるのか、納得できるようになったんだ。すべては扶養家族のためだったんだねえ。だから「調査著作」は減ると思う。この8年ほどで、インターネットで分かることがとても多くなった。当然、その先だ。評論家の本領は。いや、もちろん95年とか昔からのファンの皆様には深く感謝を致しておりますよ。まあ、お笑い芸人は古いネタを何年も後にまた出して使うというわけにもいくまいが、武器の面白い話は、一回しておいたら、8年以上も封を開けたままでも賞味期限が切れないらしいからな。釣り師がいちど「コマセ」を撒いておけば、次の朝きても、その次の朝きても、針に熱烈読者が食い付いておる。餌がなくなっても、彼らはそれを反芻できるようだ。1粒で8年おいしい兵頭本。ワシも「慈善事業」といってよい程な功徳を施したことになろうかのう……。しかし、作者はそれじゃちっとも儲からないことも、分かってくれ。

管理人:「武道通信」のデジタル復刊シリーズでもある程度「原典」に遡れますしね。

兵頭:とにかくあれらを書き直しても、労多くしてインカム少なしと想像がつくから、そんなビジネスにいまさら俺が首を突っ込むだろうなどとは期待しないで欲しい。それから実はだね、2003年秋にパソコンが2台続けて壊れ、古いデータが全部失われてしまったんだよ。

管理人:ハードディスクが壊れたんですか。

兵頭:そうなのだ。壊れた原因は、たぶん秋の地震だろう。電源の入っていないストーブの耐震消火スイッチが知らないうちに入っていたほど揺れたからねえ。それで、何年も前の著作のデータが消えたので、俺としてはまあ、サクッと忘れることにしたのさ。心機一転だ。

管理人:この新春にはいきなり『ニッポン核武装再論』という久々の書き下ろし単行本が書店に並ぶそうで、新しい展開に大いに期待をしております。並木書房さんですよね。

兵頭:管理人さんも、正月1日早々から、借金とりたてに大いに励んでくださいネ。

管理人:ウッキ~ッ。でも、きゃつらは電気・ガス・水道代・家賃滞納しまくり、あまつさえ無職で無収入の筈なのに、それでも私なんかより余程元気に生きてますから、お金がなくても、意外と楽しくやっていけるものみたいですよ。
 どうか先生もお元気でお幸せに。今日は本当にありがとうございました。

おしまい


管理人:如何だったろうか?秋に兵頭先生は心機一転。過去の著述からの演繹で今年の兵頭先生はもう測れないのかもしれない。
 まだまだ私は「兵頭二十八」から目が離せない。


interview with──2003年度新春インタビュー

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

管理人:日本で唯一人の軍学者であり兵頭流軍学開祖 兵頭二十八先生が函館へ御引越しされたのは周知の事実だ。兵頭流軍学界のわらしべ長者と呼ばれる不肖・管理人も御見送りさせていただいた一人なのだが、開祖は函館移住を機に遂にインターネットに加入された。
ネットにうずまく誹謗中傷罵倒論考意見提言批判奇声…etcを軍学者はどう見るのか?
また、一般の人があまり知らない(あんまり知る必要もない)ミリタリー業界とはどんな所なのか?
それを知る一助となればこれにまさる幸いはない。
尚、いつもの事ながら、川崎在住の管理人が一体何処でどうやって函館在住の兵頭先生に新春インタビューなど試みたのか──余計な詮索はしないように。
もういい加減皆わかってる筈だ。


兵=兵頭先生
管=管理人

管:新年おめでとうございます。

兵:おめでとうございます。管理人さんやファンの皆様には、今年は良いことがたくさんあるように、お祈りを申し上げます。

管:恐縮です。昨年末はバタバタしていまして、根本的な質問を兵頭先生にぶつけられなかったような気がする。正月で落ち着いたところで、少しそういうお話が戴ければと思います。

兵:バタバタしているのは私もいつも同じですよ。何でも聞いてください。

管:函館ご転出後の2002年の12月末にインターネットを開通されて、もうご承知になっているかもしれませんが、いろんなサイトでの「兵頭批判」に、いったいご本人はどうお考えなのかな……と。それをまずお聞きしたいです。

兵:うーん、自分の名前で検索してみて、ヒット数が60件ならば全部読みたいし読む体力はあるけれども、600件を超えているなんて正直なところ、もう読み抜く気は失いますよ。インターネットは便利なようだが、あれでは本当に大事な情報は、つまらないどうでもよい情報の洪水のために、すっかりマスクされてしまうでしょうなあ。そんなことも発見したが、……してる場合じゃないか。だが、いくら自分のことが書かれていると知っててもねえ。小さなノートパソコンの画面は本当に目が疲れるんですよ。遊び人のように見えて忙しいのがフリーライターなんで…。調査と執筆と、東京との打ち合わせの他に、家事も買い物も納税も、ついでにここでは雪かきも、全部己れ一人で片付けてるんですから。ただ幸いに、私のそのサーチ・コストを省いてくださる、間接的に要約した内容を時々教えてくれる有難い方がいたりしますので、これまでで、いったいどのような方面に批判があるのかは、かなり承知しているつもりですよ。そして勿論、あなたのような愉快なサイトもあることもね。

管:これは恐縮です。でも、絶版でもう誰も書店では買えない本なのにもかかわらず、いまだに無名な奴から内容を批判されて頭に来ないスか?
 どうせ学生でしょ、あの連中。

兵:いや、私の大先輩の批評家でいらっしゃる東大駒場の松原隆一郎さんは、自分の名前でネット検索してみると、それこそ全部悪口ばかり書いてあるので辟易すると、そんな話をどこかで漏らしておられましたっけ。たぶん多くの有名評論家の方が、この松原先生と類似のご感想をネットに対してはお持ちなのではないでしょうかな? 
 一市井人の方があるオピニオンを支持する場合は、それは、自分でネットに何かをわざわざ書き込んだりするエネルギーの熱源とは、なりにくいものですな。そこまでする熱源になるのは、欲求不満とか、憤懣とか、嫉妬心を大いに刺激されたときだ。まあ、これに加えて、ヒマつぶしもあるかな?
 ともかく、高等動物であるヒトは、誰しも嫉妬心を抱くことがあるはずですが、大人の男ならば理性でそれをパブリックには隠そうと考えます。つまり、その自分の卑しい本能を第二者に知られたら恥ずかしいと、第三者の目で自分の姿をチェックする、もうひとつの自我の打算が働くもの。
 それでたとえば江戸時代の戯作者のノリの中には、その嫉妬心の昇華もあったはずなんですよ。現在、「オタク」でちゃんとお金を稼いで喰って居られる方々も、パブリックなポーズとして、計算されたオチャラケができる方々です。
 ところが、自分の幼稚な顔がパブリックには見られる危険のない場所、たとえばこのネットのようなところでは、男のジェラシーのような、社会的には最も恥ずかしい表情が、そのままストレートに書き込まれることになるのですね。その人達は自分の知識でパブリックにお金を稼ごうとは思ってないので、自分の人格や文体を商品と考えない。だから頼まれもしないのにみずから幼稚さを全開にして「男を下げ」ても、平然たるわけです。

管:そういわれれば、岡田斗司夫さんは、あれでなかなか敵が多い人なんじゃないかと思ってますけど、絶対に公式の場では、崩れませんね。言語活動のスタイルが。

兵:だから私のとても尊敬できる知的“男”のお一人なのです。岡田先生は。もっと白状すれば、私が映画の観かたというものを学んだのも、岡田さんからタダで送って戴いた本からですよ。

管:それで、まあ人品の下った「荒ラシ」風情のようなのは、これは軽犯罪者と同じで全国どこにも居るとして、事実の間違いをあげつらってウザくつきまとってくる、ミリタリー・オタクの方面については、いかがなものでしょう?

兵:私がかつて1年以上もミリタリー出版の真っ只中に居て、多くのオタク達のやり切れぬ怨念のようなものをこの目で見、この耳で聞き、肌で承知していない訳はないでしょう。知っていて遠慮をできないのが私のスタイルなので、それも崩せないのですよ。

管:普通の人はミリオタに遠慮するんですか?

兵:あの業界は本当に嫉妬の巷でしてね。発展途上なのです。「文人相軽」と言って、文学とか評論とか学問の世界でも、センセイ同士はあまりお互いを高く持ち上げようとはしない……というかライバルの業績を偉いと思わなかったり、偉いと思ってもことさら無視したポーズをとることが多いのですが、それともレヴェルが違ってい る。私は元『戦マ』の三貴雅智さんをたまたま存じあげておりますが、あれだけ該博な洋書の知識をお持ちでありながらも、なかなか自分のお名前を堂々と冠した単行本は、出せないようですね。それはどうしてかと勝手に他人ながらに憶測を申せば、同業のオタクや読者からの、それこそオタッキーなジェラスに基づく事後バッシングが怖ろしいということもあるんじゃないでしょうか?
 どんな大家だって長いこといろいろ書いていけば、間違いも書くでしょ。私が校正のバイトをしなければならなかった貧乏時代、いや、今も貧乏なんだが、秦郁彦さんの航空戦に関する相当の旧著を文庫にしたのが回ってきて、それをじっくり読んでいったら、なんとあの秦御大ですら、ごく初歩的な誤記はなきにもあらずだと分って、私はびっくりしたことがある。あらかじめ、「このゲラには、疑問出しはしなくていい」とボスにクギをさされていたので、何も書き込みはしませんでしたけどね。秦さんも後から気づいても直さない方なんだと思いますが、同時に、活字になっていることの多少の間違いくらいで鬼の首でも取ったように騒ぐ者は、現代史の学会にはいやしないでしょう。
 「真」の上に「より真」が、少しづつ積み重ねられていく、そういうレフェリーの事務的手続きが成熟している世界だからです。ミリオタの世界はまだとうていその域ではなく、雑兵が侍大将に「一番槍」をつけようとして、熱中している感じかな。

管:つまり、兵頭本の悪口をネットで書いているようなミリオタも、活字の世界で自分から一歩前に出て何か新説体系を世に問おうとする度胸は無いってことですか?

兵:度胸というより、かれらを需要するマーケットがないですね。一つ確かなことは、私の本に間違いがあることを読んですぐ分る人は、日本にはきっと何十人もいらっしゃるでしょう。そして、自分が自分の研究を世に問い続けている人であったなら、それについて特別なご発言などなさりますまい。なぜかというと、真に有意義な男の仕事とは何かをご存じだから。人の間違いを指摘しても、自分の研究は進歩しないでしょ。それは編集者とか校正さんがやれば良い仕事でしょ。誰も気がつかないことに迫ろうとする仕事だけが、著述家を最先端に位置させるのですよ。読者も、そのジャンプの過程を追体験したいと思って、その著作を求めるのでしょう。

管:どっちでもいいような害のない間違いについては、ほっときやがれ、ということなんででしょうか?

兵:間違いはどこかで誰かにより指摘されるべきです。『地獄のX島』で私は鎖鎌の話を長々と致しましたね。読者ハガキによると、多くの人があの部分が余計だと思ったらしいけど、あそこはとても重要なメッセージなのです。現物、もしくは書き残された確かな「証拠」が図書館に保管されなければ、鎖鎌のようなフェイクに、一国の国民が、400年もひっかかり続けてしまうという話をしたのですから。是非そこに、もっと注意をしてくれなくては。
 まあ考えてみて下さい。私の書いたことに単純な間違いがあれば、じき絶版になるタイトルが残念ながら多いとは謂いじょう、私の活字は図書館にこれからずっと残るのですから、今すぐにではないにしても、いつかは誰かがきっと、間違った箇所に気づくでしょう。だから、広く深く研究をなすっている方は、他人の「いつかは露れる単純間違い」については、その本を読んだ瞬間に気づくのですけれども、特に何か指摘する必要は感じない。それはいずれ自動的にハッキリするものですし、正直、最先端の研究家には誰もそんなヒマはないんですよ。むしろ「筆者すら気づいていない正しいこと」を、その人の著作の中から一つでも発見しようとして、鵜の目鷹の目なんです。
 ご承知のように、ある単行本を、改版をして再発行できるような機会は、必ずしもすべての著者には与えられません。いちど図書館に収めてしまった初版本を、後から修正することも、当の著者には不可能ですよね。しかし、図書館に「証拠」を保存しておけば、鎖鎌のように400年も経たずして、いずれは真偽が明らかになる。だから日本をすぐにも破滅させてしまいかねないような大間違いでもない限り、活字媒体を図書館に残した著者は、後からそれを遡及して修正できなくとも安心なのです。これは、批判を受け付けないということではありませんよ。本を出すということが、すなわち、批判してくださいということなんです。言ってみれば、私の本の校正は、出版前ではなく、出版後に、オタク達に任せてあるのです。バイト料0円で申し訳ないですけど(笑)。ただ、批判も永久的継続的なものでないと世の中の進歩にならないから、理想を言えば、それは一過性のネットではなく、できるだけ図書館に収められる活字媒体の上でしてもらいたいところなのですがね。そういう批判の積み重ねによってこそ、過去の活字は正しく生きます。その信頼感なくして、本なんかだしませんよ。

管:批判者の本音は、兵頭先生のような有名な人に、「あなたの指摘はすごく正しくて、あなたは私よりも細かいことをよく知っている、偉い」と、公式に褒めてもらいたいんじゃないでしょうか?

兵:そんな酔狂な人がいるとは私には思えませんけど……。人に褒められたいと強く願う人なら、まず第三者の目で己れというものをチェックするわけです。とすれば、同じ批判でも何か「うまい」、アトラクティヴな文体を演出しようとするはずで、そういう心掛けのある人であれば、きっとマーケットの方で見逃さないでしょう。つまり、とっくにプロのライターとして自分の名前の単行本を大いに売っていらっしゃるはずです。もしも、社交性の破綻した、文体人格に自己研鑽の努力も工夫も厭がるオタクの鬱憤の捌け口にインターネットがなっているとしたら、インターネット以外のネットを別建てで何か考えなくちゃいけませんでしょうな。私などは早めに業界のコアからは足を洗いましたから、これで幸運かもしれません。

管:現実に活字のマーケットで、一人看板で商売ができているミリオタは、あんまし多くないですよね。

兵:今では関与の度合も薄いのであまり悪口もいいたくないが、つまり「大奥」のような雰囲気が、あの業界の全般にあるのです。陸・海・空ぜんぶそう。何かを発表しようとすると、先に身体が硬直してしまうというか、お互いに縛りあっているのだから不毛なものです。新しい体系的な「意味づけ」の試みがどんどん公表され、建設的な批判に曝されなければ、全体の研究がいつまでも進歩しないでしょう、それでは。
 早く成熟してくれないとね。その点、「戦前船舶研究会」の遠藤翁などは、偉大なものですよ。あのお歳でね。

管:具体的にどうなることが「成熟」なんでしょうか。

兵:これが学会だったら、どの情報源、どのオピニオンの引用元もハッキリとしていて、知識のヒストリーとしての「索引」が完成されているものです。ところが、そもそも洋書のパクリからスタートしている戦後の日本のミリタリー専門書業界では、その「索引」がほとんど整備できてない。パクリの連鎖の元をたどっていくと、洋書かどこかに行き着くわけだが、その洋書の信憑性がまず不明だったりするのですよ。だから誰もジャッジ不能。この調子では、あと半世紀たっても、日本の研究は毛唐に勝てません。索引の完備している学会でも、日本人の研究は遅れているんだから。

管:大目的として、外国に勝つということがあるのですね?

兵:もちろんです。おそらく私の本の間違いを指摘してくれる人の6割くらいは、日本が強くなり、日本が戦争に勝てる国になることを願っている人たちだ。ということは、「戦前の日本はどうしようもないだめな悪い国で、負けて当然だった」という司馬史観のアンチであるという点で私と立場は何も違わないじゃない。仲間よ、大いに頑張ってくれ、とエールを送りたいですよ。惜しむらくは、もっと核技術や宇宙技術や通信電子技術について共に語れる人が増えてきて欲しいね。戦車の話はかなりもう終ってると思うよ。後から勉強した諸君にはちょっと不憫ですけどね。誰も手をつけてない分野を、人に先んじて研究しな。老婆心ながら。さもないと毛唐に勝てねえぜ。

管:経済や政治の話が、これからは大事なんですか?

兵:「これからは」じゃない。最初から最後まで大事です。私の「おっかけテーマ」は知ってるでしょ。「権力」の問題ですよ。国の権力。人の権力。それは技術が左右することもあるが、政治はもっと左右する。たとえば、核物理学者たちが原爆を作ったんじゃないんだ。F・ローズヴェルトが原爆を作ったのです。あの主だった学者たちのうち、最初から米国籍だった者はほとんどいないのですからね。ところがこれを「米国だから原爆が作れたんだ」という人たちが、まだまだ日本には多い。つまり「日本には原爆は作れない」と言いたいわけです。これが戦後の「腐った精神」なのです。そしてそれは、司馬史観ととても近い。腐った精神から軍事技術を語る腐った軍事オタクを、見破らなければなりません。もっとも、そいつらは自分で頼まれもしないのに長い文章を書き、機会あるごとに自白してるんですけどね。

管:「腐った軍事オタク」は、矯正できるんでしょうか。

兵:できません。討議は成り立たないのです。言葉というのは便利なもので、永久に自説以外の他説を否定し続けることもできる。それはネットの歴史に詳しい貴方には、よくご存じじゃないですか? ただしディナイヤル(否認)によっては権力はとれない。いつまでも隅っこでクダまいてるだけ。それが日本国にとっては、僅かに救いです。

管:長々とありがとうございました。また読者の疑問なんかをぶつけたいんで、こうしたインタビューをお願いしても良いですか?

兵:いや悪いけどもう勘弁してよ。写真とか、いろいろやったじゃない。君たちに一を与えると次には十を要求してくるから困る。生活費をくれよ。そんなに私の時間をムダな、非生産的などうでもいい世間話に拘束したいなら。次の単行本がぜんぜん止まったままだよ。この調子じゃ、メシの食いあげだぜ。……というわけでスマンが、これからしばらく、調査と思索と執筆に専念したいから。質問等は控えるように。オレも人が善いから、質問されるとつい、答えてしまいたくなるんでな。じゃあね~、バッハハ~イ、ギロギロギロバチ(こんなん知らないか)。

管:本当にありがとうございました。私くらい幸運な兵頭ファンはいないと思います。

おしまい


interview with──E先生の手紙

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです。尚、『手紙』中の『草々頓首』等の位置がおかしい場合、全て管理人のミスです)

管理人:師弟関係…重い言葉である。一人ぼっちでは生きていけないもの。
さて、一人で生まれてきたような我らが兵頭流軍学開祖 兵頭ニ十八先生にも「師」と仰ぐ、「E」で始まるあの御仁がいる事は周知の事実だ。
しかし、その期間何が起こりまた何が始まったのか──についてファンは殆ど知らないのではないだろうか。私は知らなかった。
そんなわけで今回のインタビューである。
前回と同じく、「貴様一体何処でこんなインタビューが出来たんだ?」という余計な詮索はしないでいてくれるよう希求する。勘の良い人にはわかる筈だから。


兵=兵頭先生
管=管理人

管:今日は、兵頭先生の「論壇デビュー前史」の中でも未解明部分が濃い、故・E教授とのご関係とか、そのへんについて何か、お話しを願えませんか?
 「創作雑話」の番外編ということで。第2回目でいきなり番外というのもナンですが……。

兵:文筆業界の人間関係、師弟関係、派閥関係等は、雑誌の編集者ならカケダシの記者さんでもみんな知悉していることで、私としても何も皆さんになんら隠しだてしているわけではなかったのです。けれども、大学院卒後のE先生と私の間にはしばらく黙約のようなものがあったと思っています。私は、自分の戯作者または評論家としての地位を確立するまでは、E先生との関係を誰にも吹聴しない。そしてE先生も、裏ではいろいろ私に書かせるキッカケを作為してくださるけれども、表では一言も私が弟子だなどとは公言しなかった。私の方は、若い奴によくある、ケチな意地からでしたけどね(笑)。
 例の『東大オタク学講座』の中で、私は初めて公けにE先生のことを語りました。これは計算して語ったんです。それをE先生も間接的に、おそらくは慶應の学生経由でお聴き取りになった。その後、たしか『文学界』の桶谷先生との対談の中かどこかで、さりげなく、E先生は私の名前を「弟子」として初めて言及されたと記憶します。ちなみに、最後に先生が私について公的に触れられたのは、慶應大「最終講義」の中で、東工大の「教務補佐」--これは学内で院生が就任できるオフィシャルなアルバイト職名なんですが--として研究室の掃除を仰せ付けられる者として登場すると思います。台詞が無い「通行人A」みたいですけど。

管:そもそも、大学院ご進学前のご関係はどのような感じだったのでしょうか。

兵:ここに、ずっと筐底に保管していた手紙の束があるので、ひとつひとつをご紹介しながら、説明致しましょう。こんな機会にでもないと、記録に残しておくことができないかもしれないから。
 これが、私が持っている、E先生からの手紙のすべてです。少ないですよね。悲しいです。
 以下すべて、差出人アドレスは、E先生の印判によって押印されていますが、省略しましょう。それから、E先生の手では、撥音「っ」は表記が「つ」とほとんど紛う大きさに書かれているのですが、ここでは便宜上「っ」に表記統一しておいてください。
 まずこれが、私にとっては歴史的な、一枚目の御葉書です。横浜市白楽のアパート宛て。強い雨の日に配達されたために、万年筆の青インクがにじんでしまっております。
 官製はがき。千鳥/84[か?]/86.12.8.12-18/TOKYO/CHIDORIの消印。左隅にペンで「十二月八日」。裏の本文。


拝復、大変素晴しい感想文をお送りいただき、洵に有難う存じました。文字通り一読三嘆いたしました。コピーして「諸君!」編集部に読ませようと思いますので、何卆御諒承下さい。遅ればせ乍ら御礼迄に。一層の御研鑽を祈り上げます。

敬具

管:アホな訊ね方でしょうけど、これを受け取ったときのお気持ちは?

兵:福田和也さんは、まだ無名の時分、E先生が評価していたよと一人の編集者から知らされて電話ボックスで泣いたと告白されておられますけれども、私の場合は、E先生の偉さをこの時期にもまだ何も弁えなかった大馬鹿者、大迂濶者でしたから、『これで運が向いてきたのだろうか』と単純に喜んだだけだったと思います。しかし実際に東工大に呼ばれてナマのE先生に面晤を賜りましたとき、その超一流の人物であることは、2年間の自衛隊体験で人に対する驚きの感受性というものを失っていた私にすら、ほとんど衝撃的なほど歴然としていましたから、私も目黒からの帰路に頭を冷やしに立ち寄った東横線沿いの喫茶店で、思わず泣きそうになったのを覚えています。

管:その「超一流」とは、どんな感じなのでしょうか?

兵:私が言おうとしてうまく言えないことを、私の脳ミソに代わって、「つまりそれは……(中略)……なのでしょうね」とか、少しの遅滞もなく、ドンピシャの日本語に表わしてしまわれるのです。圧倒された体験でした。あのような理解力の持主には、その後、一人もお目にかかったことはありません。

管:で、「当世書生気質」の兵頭先生の御文章は、いま、どこにあるのですか?

兵:こっぱずかしくて残しておけるようなものでないから、捨てたと思います。しかしその骨子は、修論や雑誌寄稿その他に、これまでほとんど反映しました。というか、この直感的な「感想文」を理論めかして塗粧するために、私は2年間、東工大で遊ばせていただいたようなものなんですよ。

管:国立大の大学院で、しかも理数系のところに、言うては悪いが二流の私立の神奈川大から、簡単に進学できるのですか?

兵:「イチゲン」さんですと、これは簡単ではないが、指導教官が事前に確定しているという特殊なケースの場合は、話が簡単になるのです。要するに、数学のテストで0点さえとらなかったら、なんとかなると聞かされました。そこから、我ながら信じられないような、数学の特訓が始まったのですよ。高校の微分からやり直し。……今じゃ微積ももちろん、統計学の数式なんて、ぜんぶ笠の台のメモリーから揮発してますけどね。典型的な受験勉強というやつを、いい歳こいて体験しました。
 これは、その頃に頂戴しました、官製はがきです。表側。消印が、鎌倉/62/4.4/18-24とあり、表側左にペンで「四月四日」。宛先は、横浜市白楽の私の当時のアパート。裏側。


拝復、お便り有難う存じました。
日々御精進の由、心強く思います。数学と統計学は必須の関門ですから是非とも突破していただかなければなりません。部屋を片付けると頭も整理されて数学がよくできるようになります。余分なものを捨てることです。
お元気で!

匆々不一

管:なんで、部屋を片付けろ、とかの御説教が書かれているのでしょうか?

兵:じつは、黒電話のベルがうるさいので、靴かなにかが入っていた紙箱の中にふだんは突っ込んでおいたのです。あるときベルが鳴り、あわてて受話器をとりあげようとしたら、当時の電話は重いし滑る。ツルリと取り落として、断線させてしまったのです。直感したのですが、これはE先生からのお電話だったと思います。それで「部屋が乱雑なため、かくかくの出来事がありました」と、こちらから一筆したためたことがありまして、そのリスポンスなのです。

管:次のを拝見できますか。

兵:……これだ。封書ですよ。消印が、千鳥/8×/87.0××××12-18、となっていて、一部判読できません。裏側にペンで「六月七日」。宛先は、川崎市小杉御殿町の2軒長屋です。私は引越しマニアでしたのでね。


拝復、五月十六日付と六月三日付のお便りいずれも拝見しました。「諸君!」は残念でしたが、執筆者と編集者には相性というものもあるのであまり気にしないほうがよいと思います。五ヶ月間修業したと思えばよいでしょう。他の雑誌としては「正論」などは如何ですか?編集長への名刺を同封して置きます。
数学の進み方については三輪君からも報告を聴いています。どうか粘り強く頑張って下さい。毎日必ず一時間づつ数学をやる習慣をつけたらいいのではないかと思います。もし万一東工大の大学院入試に失敗した場合でも、私の研究室の研究生になり、実質的には東工大に通いながら、更に数学の勉強を続けて来年度の大学院入試に備えるという方法もありますから、くれ/\゛も短気な判断で諦めることのないようにお願いして置きます。
今年度は主任という役をやらされているのでひどく忙しいのですが、夏休み前(七月にはいったら)に一度研究室をお訪ね下さい。お電話を待っています。

敬具

  六月七日

○藤 ○

 斎藤 浩 様

管:これはどういう意味なんでしょう?

兵:後に『諸君!』に三連載されることになる核武装論文の原形が、このときは何ヵ月か保留された後に「没」になってるんですよ。まさにE先生の仰る通り、こういうのは「相性」だとしか思えません。一般に、雑誌の編集部の人事異同で、それまで書いていた人が載らなくなり、それまで載らなかった人が書くようになるという現象は、よくあります。私が『SAPIO』に書かないようになったきっかけも、担当編集者が『週刊ポスト』に移られたからでした。引き継ぎはないのですね。もちろん、その逆もあることなので、その呼吸をE先生は予め教えてくださっているわけです。
あと、今でもこの件で覚えていますのは、文藝春秋社のような立派な版元ともなると、没原稿にもちゃんと稿料をくれるんですよね。五万円くらいも貰って、そこから1割の税は天引きされている。そうしたことの一いちに、感動したのを覚えていますよ。

管:「三輪君」って、誰ですか。

兵:私は東工大のE教授の研究室では最後のたった一人の院生だったわけですけれども、じつは先輩が一人だけ居られまして、その方です。○井○之○先生の研究室に所属されてたんですが、○井先生が青山に「割愛」されました時に、E先生が博士課程から引き取られた形で……。この東工大はえぬきの三輪先輩に、田園調布の御下宿にて、私は数学の家庭教師になって戴きまして、入試0点は免れた。だから、やはり恩人の一人であります。
また、「短気を起こすなよ」というご警告にも、改めて恐れ入ります。私は「TANK短気たぬき」という異名もあるくらい、見切りが早いのです。

管:う~む。お次はこれですか。

兵:官製はがきで、消印が、鎌倉/62/7.27/8-12、となっている。表左側にペンで「七月二十五日」。川崎市小杉御殿町の長屋宛です。

拝復、出願手続きを終えられた由、なによりのことと思います。小生七月二十七日(月)より八月末日まで、軽井沢の山小屋で過します。住所と電話番号は次の通りです。

〒389-01
長野県軽井沢町○ヶ滝○○○
(〇二六七)○○-七七○○
なにか御連絡いただくときには、上記にお願いいたします。頑張って下さい。
身体を大切に! 

敬具

管:軽井沢の別荘ですか。

兵:私はその別荘とやらには一度もお邪魔したことはないです。が、軽井沢というのは、長野市のガキ共にとっては、学校のバス遠足でちょくちょく遊びに行くところでありまして、敢えて言わせていただければ、なにを好んでお金持ちの人々はこんなところに別荘を買うのか。もっと長野県には他に良い別荘地がありますぜ、と言いたいところなんですけど、E先生にいわせると、やはりそこは避暑地での「要人」との会合が一つの目的であったので、他のリゾートではダメだったのです。当時の軽井沢は、長野市からよりも、東京からの方が、時間的には近かったかと存じます。

管:次のは封書ですね。

兵:消印が、千鳥/87 11.2.12-18、と見えて、裏側にペンで「十一月一日」。宛先は川崎市小杉御殿町。この時期には、もう進学試験も合格だったでしょう。裏面の本文。

拝復、お便り拝見しました。
卒論に取り組んでおられるとのこと、洵に結構と思います。よいものを書き上げて、大学院での研究の基礎をつくって下さい。卒論が完成したら、一度是非御連絡下さい。本学大学院での研究の心得について、あらかじめお話して置きたいと思います。
そのほか、外国語、漢文等、研究の土台になる基礎学についても、気を許さずに御勉強下さい。大学院入学後に、あるいは学部一般教育の統計学を履修していただくことになるかも知れません。いずれにしても、工学修士になるコースを歩むわけですから、理工系の単位も取っていたゞかなければならぬだろうと思っています。
向寒の節、身体を大切にして入学に備えるようお願いして置きます。御連絡をお待ちします。

敬具

  十一月一日

○藤 ○

 斎藤 浩 様

管:エ~ッ、これによると、兵頭先生って「工学修士」なんですか?

兵:シーッ!それを大声で言うてはならぬ!
 いくら文系に近い研究のできる「社会工学」専攻じゃからとはいえ、数学のロクにできもせぬ工学修士を東工大が送り出したことがあると知れては、関係各位に障りもあろうからのう。国の文教予算を使って、三流の劇画原作者を製造したのかと突っ込まれてもマズい。故に、私も、この肩書は自分からは決して名乗ったりはせんのじゃ。

管:「卒論」は何ですか?

兵:これは国会図書館と防大図書館に1冊づつ寄贈されている『最近国際関係論叢』という、タイトルの古風で厳めしい割りには権威ゼロな、「神奈川大学国際関係論セミナー」(3~4年生対象のゼミナール)を著作権者とする、1988年2月にガリ版刷りを綴じて50部作った「ゼミ論文集」、そこに収めている数編の駄文のことであります。赤面の至りでございます。ちなみに当時はNEC「文豪」という、同じメーカーなのにPC -98とはぜんぜんシステムが異なる、しかも文豪のくせして少しも漢字を知らぬどうしようもないワープロを使っておりまして、この文集の活字になっている部分の多くは、私がボランティアで打鍵したものですから、なつかしい。

管:次のはまた、官製はがきだ。

兵:消印が、千鳥/63/88.2.1.12-18/TOKYO/CHIDORIとある。表左側にペンで「一月三十一日」。宛先は川崎市小杉御殿町の長屋。葉書の右下隅が欠損していて、表側に「この郵便物は、取扱い中に汚損しました。/誠に申し訳ありません。深くおわび申し上げます。/211 中原郵便局」とタイプされた付箋が貼付されている。

拝啓、奇妙に暖い冬が続いていますが卆業試験はもう終りましたか?二月中旬頃、一度ゆっくりお話する機会を得たいと思います。二月十六日(火)の正午頃は如何ですか。昼食をしながら論文のこと、今後のことを御相談したいと思います。


御都■【以下1~3字欠損】
御一報■【以下1~3字程度欠損】
ば幸甚です。

敬具

管:差出人が偉そうな御仁なので、郵便局でも気を遣ったのでしょうね。

兵:しかし宛先は木造平屋の貧乏長屋なのだから、コントラストだね。その長屋も引っ越して、私は目黒区大岡山のすぐ裏手に拡がる住宅地、世田谷区の奥沢に移るのだ。進学が決まってみると、もうこんな砂埃りだらけの川崎なんぞにゃ住んではいられねえ、と思ってね。

管:(私いま川崎に住んでるんですが…)奥沢といいますと、高級住宅街と聞きますが。

兵:高級住宅街の中にもスラムみたいなところがあるのが日本よ。廃品回収業のオッサンちの木造離れでね。ネズミとの連夜の「化学戦闘」を繰り広げたのは、そこなのさ。

管:そこに早速舞い込んだのが、次の官製はがきですか。

兵:そのようです。消印が、牛込/63/88 7.27.8-12で、表左側にペンで「七月二十三日」。

前略、岩島久夫、波多野澄雄両氏の住所等左の通りです。一筆お礼状をお出し下さい。要件迄に

匆々 不一

〒158
【※所番地、1行略】
【※電話番号と姓名、1行略】
〒305
【※所番地、1行略】
【※自宅電話番号、1行略】
【※勤務先電話番号、1行略】
【※姓名、1行略】

管:このお二方は?有名な方々ですよね?

兵:大学院生は何かの学会に所属する。そして、学会の中には、入会の手続きのために、複数の推薦人を必要とするところがあります。E先生がこのお二人に頼めと仰ったのは、「日本防衛学会」への入会でした。岩島さんといったら、防研の元所長ですぜ。この人一人でも充分すぎる!
 波多野さんは、私は残念ながら面識が無いものの、E先生の薫陶も受けた御方で、大東亞戦史についてはかなりなご権威。私のような小僧には本当にもったいなかったんで。……情けない話ですが、せっかくこうしてE先生のお蔭で入れたこの学会、『戦マ』の辞職後、たちまち年会費の払い込みが滞り、今では名簿からも抹消されている筈ですな。トホホ……、トホホホ……。

管:次は、その『○車○ガ○ン』時代の書簡ですか?

兵:そうなります。官製はがき。消印は、鎌倉/2/6.4/12-18と見える。表左側にペンで「六月三日」。宛先は、白山のマンションです。
本文。

拝復、「戦車マガジン」お贈りいただき、洵に有難う存じました。資料がお役に立てて何よりでした。当方三田、日吉、藤沢の三つのキヤンパスを駆けまわって愉しくやっています。どうかお元気で。取急ぎ御礼迄に認めました。

敬具

管:これは何の意味です?

兵:在米の日系人の、戦中~戦後の写真集をお持ちであったので、複写のためにお借りしたのです。私が東工大を出る直前にね。でもこの時点では、私はもう『戦マ』の正社員。E先生は慶應大学に移っておられた。しかしどうです!
 本当に文字が生き生きとしているでしょう。おそらく、E先生の得意絶頂の頃じゃないかと思うのですよ。私は「割愛」が本決まりとなった頃に、研究室で「これで先生は復讐ができるのですね」と申し上げたら、E先生はニンマリされていた。噫々しかし、その宿願成就が、E先生の寿命を縮めた気がしてならぬ。あのまま東工大におられたなら、今でもご健在であっただけでなく、学部長以上の公的ポストも得られた筈と思われるのに……。「そんなに慶應がいいんですか?」とお尋ね申したいよ。けれども、たぶん、そんなにいいんでしょうな。あのクラスの方々には……。不思議な一致ですけど、どうしたわけか、東工大を「割愛」されて、他所の大学で花が開いた教授というのは、あまりいらっしゃらない気が致しますですよ。

管:次のは……素っ気ないですねえ!

兵:ああ。これですか。平成3年元旦の年賀状ですか。宛先が、今はない神保町の戦車マガジン気付。裏側にペンで本文。

御活躍を期待します

 これは素っ気ない。確かに。しかし、この時期のE先生は、慶應大学内の「政治」をいっしょうけんめいやっておられたのではないでしょうか。賀状が短節なのは、大活躍中である証拠なのですよ。そして私はといえば、とにかくミリタリーオタクの専門知識の吸収に努めていました。一度は何かの専門家になってからでなければ、全国版のオピニオン誌に堂々と評論なんか書けないと思っていたのです。それで、早く論壇にデビューさせたいという親心であったE教授には、「こいつはもうダメだ」と見限られていたかもしれません。

管:次のも、神保町の「戦車マガジン」編集部気付、となってますね。

兵:官製はがき。消印は、鎌倉/3/11.7/18-24と見えます。表左側にペンで「十一月六日」。裏の本文。

拝復、「戦車マガジン」別冊お贈りいただき洵に有難うございました。編集人に学兄のお名前が記されているので感慨無量でした。小生、腰痛治療のために二ヶ月程入院し、一週間前に退院したばかりです。しかし厄介な病気ではなかったので、他事ながら御休心下さい。ご活躍を祈り上げます。

管:この別冊とは?

兵:調べてみてください。初版の奥付から判明するでしょう。……平成4年の賀状はありません。

管:それで、次は平成5年元旦の年賀状ですね。

兵:はい。文京区白山のマンション宛です。裏側にペンで本文。

お元気で頑張って下さい

管:……って、素っ気ないですなぁ!

兵:いいんです。偉い人が、何者でもない者に下される葉書は、この程度で。

管:おや、次は長めの文章ですね。

兵:これですか。消印が、鎌倉/5/9.4/8-12で、官製はがき。表側にペンで「九月二日」。白山のマンション宛ですね。本文。

拝復、お便り有難う存じました。
様々な新分野で御活躍の御様子、大慶至極に存じます。マスコミ界も不況の折からなか/\大変たろうと思いますが、どうか学兄の独創的な持味を生かして頑張って下さい。「さいとうひろし」の名が一層挙がる日を心より期待しております。

管:これは、劇画原作への激励ではないのですか?

兵:そうだったかもしれません。しかし、批評ではないのですよ。これは、完全な無関心なのです。私には、分ります。ちなみに「マスコミ界」とあるのは、平成5年4月に私は「S」という麹町にあった日テレ系の番組制作会社の正社員になって、そうしたことはE先生には逐一ご報告をしていたからです。「S」には8月までいました。そして9月には今度は恵比寿の「M」という会社に転職し、そこでは税理士向けの土地ビジネス関係の特別な月刊誌の編集に携わります。そしてちょうどその頃、「○ル○1○」の私の原作が作品化され始めているのですよ。で、私はサラリーマンがつまらなく感じられてならぬようになったのと、劇画原作に見込みが持ててきたのとで、平成6年2月からいよいよ本物のフリーターになってしまうのです。これは、ながい・みちのりさんという活模範が身近にいらしたので、私も決心することができたのです。

管:でも、原作では喰えなくて、またミリタリーに戻ってきた……。

兵:情けないのですがね。次の官製はがきを見てください。消印は、藤沢/7/95.4.17,12-18とあり、慶應の藤沢キャンパスから投函されたのかもしれませんな。そして宛先は、小石川の木造アパートだ。ここはなんと石川啄木が死んだ場所のすぐ近くですよ。いま私は函館にいますから、何か因縁を感じますよ。で、本文。


拝復、此度はお便りを添えて「日本の陸軍歩兵兵器」お贈りいただき洵に有難うございました。“兵頭二十八”というペン・ネームもなかなか風格があり学兄にピッタリだと感心しています。お元気で御精進の趣きなによりと存じます。修論の線に沿った三冊目を特に期待しています。くれぐれも御自愛下さい。

  四月十六日

敬具

管:こ、こんな葉書があるのですか。これではもう、ペンネームは変えられないですわね。

兵:一生変えられません。ちょっと幇間みたいなんですけどね。もう仕方ない。「修論の線に沿った三冊目」が何のことかは、分りますね?

管:分ります!

兵:それで次の封書。なんと内張りが金箔ですよ。消印は、鎌倉/7/11.20/12-18とある。裏側にペンで「十一月十九日」。小石川のアパート宛です。本文。


拝復、お便りと御新著「日本の防衛力再考」洵に有難うございました。早速拾い読みしたところ大変鋭い御論考で、御勉強の実が上っていることが感得され、嬉しく思いました。年内は無理かと思いますが、明年になったら私が主宰している研究会で御発表いただけないだろうかと考えています。その節は事務局から御連絡させますのでよろしく願上げます。
時節柄くれ/\゛も御自愛の上御研鑽下さい。        草々頓首

  十一月十九日

 兵頭二十八様                           ○ 藤○

管:久々に暖かいお手紙ですね。

兵:劇画とはぜんぜん反応が違ってますでしょう。

管:「研究会」って何ですか?

兵:半蔵門に近いPHPビルの某階で月に1回開かれていた、クローズドな、秘密の会合なのですよ。晩メシ付きで、しかも帰りがタク券使い放題だったので、貧窮のドン底にいた私は感激しました。誰がメンバーだったかは言わない方が善いのでしょう。ただ、私が初めて福田和也さんに面謁したのは、この会です。E先生が、引き合わせて下すったのです。

管:あれっ、それなのに、この賀状になると、はまた寂しい……。

兵:平成8年元旦のものですね。小石川のアパート宛。裏側にペンで本文。


御健硯を祈ります

管:ご多用なのですね。きっと。

兵:この葉書は冷たくはありません。平成8年から私がまず『SAPIO』、ついで『諸君!』にも書かせてもらえるようになったのは、もちろん、E先生の裏からのさしがねですよ。これらの編集者がまったく自主的に『日本の防衛力再考』を購読したはずがないですからね。きっとこれ以降の私については、管理人さんがむしろ詳しいのではないですか?
 そしてこの賀状は、私がE先生から貰った、最後から2通目の書簡ということになるのです。

管:すると、これが、最後の手紙ですか。

兵:封書であります。消印は、鎌倉/10/5.5/8-12とある。裏側にペンで「五月四日」。受け取りが6日であったと、兵頭が備忘記入しております。本文。


拝啓、鎌倉はつつじの季節になりました。御健勝の趣きは昨五月三日付「東京新聞」の紙面で確認し、益々御健硯の御様子にて大変心強く思っております。
「新潮」六月号本日落掌、早速拙著「南洲残影」の御書評を拝読、少からず嬉しう存じました。褒めていただいたのも勿論嬉しいのですが、さすがに細部まで一々お調べになった跡が歴然としており、テニソンと外山正一のくだりでは比較文学的手法まで援用されていて、さてこそ東工大のわが研究室の学風を継ぐ書き手と舌を巻いた次第です。
桐野については御指摘の通りで、最後になって漸くその正体がわかりかけて来ました。学兄が他日桐野と篠原をお描きになるのを愉しみにしています。
右、とり急ぎ御礼迄に認めました。時節柄くれ/\゛も御自愛下さい。貴文は必ずや文芸評論家諸君にも衝撃を与えたに違いありません。

草々頓首

 平成十年五月初旬

江藤 淳

 兵頭二十八様

           硯北

管:本当にありがとうございました。

おしまい


interview with──創作雑話

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

管理人:我らが兵頭流軍学開祖兵頭ニ十八先生とはいえ、生まれながらに「軍学者」の肩書きをもっていたわけではない。
小学生の頃もあったし、また編集者であったりした。
 ともかく、「軍学者」の前身である「劇画原作ライター」の頃、何を思い何を考えていたのか──把握してるファンは余程勘の良い人だけではないだろうか?
 それを少しでも解明できる──助けとなる──かもしれない某月、某日のインタビューの記録をここに残す。
 尚、神奈川在住の管理人が函館在住の兵頭先生に一体何処でインタビューをしたのか…など余計な詮索をしないよう希望する。勘の良い人にはわかる筈だ。


兵=兵頭先生
管=管理人

管:脚本書きの修業は簡単でしたか?

兵:最初は手探り、手当たり次第の勉強です。それで、ごく基礎的なところが抜けてしまったりする。たとえば、日本語のシナリオは「タテ書き」でなければいけないんです。常識なのですね。ところが「AK-93」は無謀にも、横書きのワープロ印刷で提出してしまった。受賞の決まった後から、○い○う・○か○先生から「ワシは横書きの日本文はいくら読んでもコマ割りやページ割りのイメージが浮かばんのじゃ。タテ書きにして提出し直せ」と、担当編集者を通じて命じられてしまいましたよ。

管:『○ル○1○』には、無数の原作者が存在するのですね?

兵:私が参入した時点で既に何十人も居られるのだということでした。『○ッ○コ○ッ○』に最初に掲載された作品の最後のページの下の方に、「原作(協力)」としてクレジットされている人こそが、シナリオを持ち込んだか、あるいは担当編集者から依頼されて書いた本人です。そのクレジットは、○イ○社で単行本になったときには、消える。つまり真の原作者には最初の原稿料が一度だけ○学○から支払われ、それでその著作権は買い取られてしまい、あとはどこからも印税等が支払われることはもうありません。

管:それじゃ、小池一夫さんが○い○うプロの脚本部をじきに飛び出して独立されてしまったわけですよね。

兵:これは「創業者利得」として許されているんですよ。このような分業システムを日本で最初に建設されたのが、○い○う先生なのですから。しかも、○学○が日本初の青年誌である『○ッ○コ○ッ○』を創刊するときに、三顧の礼で以て白土三平先生と二枚看板でお迎えしたのが、○い○う先生。それゆえ、○学○は、今でも、一番儲かる単行本を出す権利は、○イ○社に譲っている次第です。もう今後は考えられもしない「慣行」でしょうね。

管:で、兵頭先生がシナリオを書き始めるきっかけが、なぜその『○ル○1○』だったのですか?

兵:某『○車○ガ○ン』はオフセット印刷でして、それにはまず編集部において九州松下製のごく初歩的なDTP機で1ページづつのデータをつくり、それを20分くらいかけて8インチ・フロッピーに落として、それを神保町の、今は跡形もない「写研リスマチック出力センター」というところに持っていき、そこにある何千万円もする出力機で奇麗な文字やケイ線を印画紙上に出してもらわなければならなかった。この電算写植のシートをハサミで切り離し、裏にスプレーのりをぶっかけてトンボを合わせて台紙に貼り……という作業が編集室に帰ると待っているわけですが、印画紙出力にはエラい時間がかかった。1時間以上はザラでした。その間、何をしているか? 
 ちゃんと「写研」には待合室があって、マンガとかお茶が置いてあったのですね。そこで偶然に『○ッ○コ○ッ○』の原作募集が私の目にとまったというわけです。今はこの出力センターもすっかり場所が違ってしまっていると思いますけど、あの待合室で、私の運命はいささか変えられたようなのですよ。

管:シナリオが書けるんだった、小説もできるんじゃないですか?

兵:そう思っている人達が多いようなので強調しておきたいのですが、脚本と小説とは別世界です。たとえばテレビ用脚本でも劇画用脚本でも、ちょっと驚いた表情は決まり文句のように「ハッとして」という卜書きが入ります。「火サス」などの副音声サービスで、このト書きが全部ナレーションされているから、一度聴いてごらんなさい。それがそのエピソード中で何度目であっても、台本上では「ハッとして」でいい。というか、無闇に卜書きのパターンは改めぬ方が、作画家さんにも役者さんにも通じやすくて良いことなんです。歌舞伎の台本はもっとシンプルで、「ト、こなしあって、」のワンパターンで良いんです。じっさいにハッとしてみせるのは役者さんであり、あるいは作画家さんの描くキャラクターなんで。原作段階では必要最小限の指定があればよく、それに役者、監督、作画家が自由に微妙な味付けをするわけです。……ところが!
 これが小説だと、そうではないですよね。役者もしくは作画家さんに代わり、筆者がディテールを全部作って人物に生命を与えねばならなりません。それには、同じ描写フレーズを、一作中で二度使ったら絶対にダメなんです。実人生には同じ繰り返しは無いはずですから、たちまち作品がウソっぽくなる。それに気づかない読み手は、読み手が幼稚だ。もし小説で、人が驚く感じがすべて「ハッとして」などと表現されていたとしたら、どうですか?
 そんなの小説ではない。それで昔から小説家さんたちは、同じ表現を一作品で二度使わずに書けるように、長期間の苦しい修業を積まねばならないんです。近代フランスの小説家に至っては、1頁の中に同じ単語ができるだけ2回出ないように気をつけたともいう。私はそれは当然だろうと思いますよ。だから、小説は誰もが片手間仕事にできる修業じゃありません。
それにもかかわらず、往々にして、脚本家出身で急に思いついて小説を書いてみたといった方々が、十頁の中で同じ形容詞や副詞を十一回連発しているような稚拙な「亜小説」で自己満足されているのです。私にはそれは恥ずかしい。

管:自己基準が高いのですか。

兵:これは最低基準の問題です。「眼高手低」(批評眼のある文人が、自分の高い基準を満足させ得ぬ自分の創作物に逐一チェックを入れてしまい、筆の進みが最初から全く止まってしまっている状態)とは違いますよ。

管:『ヘクトパスカルズ』の最終回はどうされるつもりだったのですか?

兵:最後のシーンだけ、早くからイメージしていました。--歩いてきた風間の足先に水溜まりがある。その中に空と雲が反映している。風間は、『子供の頃、水溜りに映った空を踏むと、空に落ちて行きそうで怖かった…』と独りごちながら、靴の爪先をその水面にそっと漬けてみる。どうなるんだろう?
 そこで「チョン」です。--そこへ到着するまでの「幾山河」は、もちろんいきあたりで工夫するつもりだった。ざんねんながら「季刊」ペースですと、1話に60頁ぐらい頂戴しないければ、大人のドラマは存分に展開し難かったですね。こういう言い訳はプロには許されませんけど。

管:『ヘクトパスカルズ』の登場人物の名前は、兵頭先生が決めたのですか?

兵:主要登場人物については、若い担当編集者様がお好みでお決めになっています。私は、読者が一度見たら忘れられない特徴的な名前、たとえば女の名前を「橋立月見華」と三文字にする--などいろいろ考えてご提案はしたのですが……。名前は大事なのですよ。ですが、劇画の原作者の権力は小さいものです。それでストレスだらけになります。あの梶原一騎さんですら、自作の全世界をコントロールできたわけではない。印税だって、著者分の最大50%までしか貰えなかったと聞きます。つまり作画家と折半というのが、原作者に与えられるMAXの待遇なのですよ。あんなに貢献してもですよ!
 確かに、作画家さんがもししりあがりさんだったら、『巨人の星』には永久にならぬわけで、作画家さん頼みだという構造は理解できるのですがね。梶原さんが編集者を蹴飛ばして前歯を折ったとか報道されたときには、私も「怖い人なんだなあ」と思っていましたが、いざ自分がその漫画産業の中で原作稼業を体験してからは、「そのくらいで許してやったとは、梶原氏は偉い」と、内心密かに思い直しましたよ。ちなみに前歯を折られた方は、剣道劇画をやたらに愛好する剣道の達人だそうで、ガタイもかなり良い御仁です。私は、含むところは更にありません。念のため。

管:シナリオでは女性登場人物は、姓ではなくて名で表記するのですか?

兵:それが決まり事なんですね。ちなみに、小説でも、読者の覚え易さだけを配慮するならば、男の登場人物は姓が大切で名はどうでもよく、女の場合は逆に、名が大事で姓はどうでもいいのですよ。この原則を常に忠実に実行されるので感心させられてしまう小説家が、山崎豊子先生です。主要な男性の姓は短く、印象的な変な姓だ。名の方は印象希薄な、やっつけです。そして女はちゃんとその逆にしておられるんだ。あと、劇画のシナリオで苦労するのは、外人の名前です。カタカナとしたときに文字数の多い姓名は、フキダシの中をうるさしてしまうので、マンガでは不都合のように思います。ですから私は、短い毛唐の姓を見聞きするたびに「これは、いつか使える」とメモをとり、HDにたくさんストックしていたものです。

管:国籍や人種による名前の違いも、考慮されるのでしょうね?

兵:もちろんです。私はバイトでプルーフ・リーディング(校正)をやっていたときに、中公の『C☆ノベルズ』とかいう子供じみた“if戦記”を何冊も回されましたけども、毛唐の命名の原則が分ってない作者が多かったですね。たとえばロシア人の姓には、男の姓と女の姓とがあるのです。これは古代ローマ人以来の伝統。「ア」音で終る姓だと、女の姓になってしまうのですよ。「クルニコフ」なら男だ。その娘は必ず「クルニコヴァ」です。代表的ポーランド姓では「~スキー」が、「~スカヤ」になる。例外もありますけど、そういう例外を大衆向けの小説に用いたらいかんでしょう。

管:名前がキャラを反映することは、フィクション創作では必要ですか?

兵:江戸時代に愛読された支那小説の難しい術語で、「名詮自称[みょうせんじしょう]」といいますが、絶対に必要です。読者はヒマではない。読者に手間暇をかけさせたらダメです。それには、名前がキャラを反映するのが基本的に正しいサーヴィスになるはずです。

管:ノンフィクションのご著作では、「です・ます」調と、「だ・である」調のどちらでも書かれていますが……?

兵:私はまだ四十代ですから、敢えて自分の文体を固定する必要はない。いろんな一人称も使い分けて、遊んでいるだけですよ。

管:『「戦争と経済」のカラクリがわかる本』では「僕」を初めて用いておられますね。前例がないので、すこし驚いたのですが。

兵:これは、直前の作である『沈没ニッポン』が発売直後の売れペースとして芳しくなかったため、同じフォーマットだと企画会議でハネられそうでしたから、急遽、トーンが違って見えるよう工作した苦肉の結果です。ちなみに、これは過去にどこかで書いたと思いますが、江戸時代の儒学者は「僕」という一人称を好んで使ったのです。そして「私」は絶対に使いませんでした。なぜかというと、漢文では「私」には悪い意味しかないんですね。ひらがなで「わたくし」とすれば問題はなくなりますが、「こいつは能無しなものだから、すこしでも原稿用紙のマス目を多く埋めようとして“わたくし”などと表記しているんだ」と思われるのが小癪ですから、いろいろと取り混ぜることにしているのです。ただそれだけ。

管:1995年の『日本の陸軍歩兵兵器』というエポックメイキングな金字塔の執筆動機を、少しお話しくださいませんか?
 劇画原作から、ふたたび「造兵史」研究に復帰されるきっかけとなった一冊であると思いますが、単に劇画では喰えないから、認められないから、という動機からでは、こんなものは書けないと思います。

兵:あれですか……。あれは、もう故人となられた畏友・宗像和広さんのお導きなのですよ。私が『戦マ』退社後もお付き合いをさせていただいていた宗像さんから、ある日、電話があった。そして、十四年式拳銃と九四式拳銃をどう評価するか--という質疑応答になったんです。どうも、宗像さんはその頃に既にあの「泰平組合カタログ」を入手されていて、それを元に何かを書こうとされていたのではないかと思われます。

管:並木書房から1999年に刊行されている『日本陸軍兵器資料集』が、その宗像さんの最終決算報告書になったのですよね?

兵:ええ。私は、中学時代から自衛隊入隊前まではモデルガン一般には強い興味を持っていました。あの『X島』の表紙に起用したN君の影響でね。新聞配達のバイトをして最初に買い求めたのがハドソンのモーゼル大型で、死んだ親父に頼んでそのバレルにドリルで穴を……いや、そんな話はどうでもいいんですが、とにかく陸自で本物のライフルの「銃撃」がそんなに楽しくないということを知ってしまってから、この分野には冷めていたのです。それが、郡山に帰郷されてしまった宗像さんのため、「オレが国会図書館に数日通えば、こんなに新事実が分るんだぜ」というリサーチ能力を見せつけたいという稚気が勃然と湧き上がってしまった。そして、ちょっと調査してみた結果が、図らずも運良く、あの『日本の陸軍歩兵兵器』に結実致しました。ですから、私は依頼主である宗像さんを出し抜いたような形ともなったのですけれども、宗像さんはそれについてヘソを曲げるようなことはなかった。これを回顧するだに、有難い。あの1冊が出なければ、そして売れなければ、3冊目の『日本の防衛力再考』も無いでしょう。だから恩人ですね。合掌致すのみです。

管:つまり、兵頭二十八が単行本を年に何冊も書くようになったきっかけが、そもそも宗像さんなのでしたか。

兵:振り返れば、そう言えるのですよ。彼がいなかったら、私の「調査」はスタートしていません。ひょっとしたら、いまだに売れない劇画原作者のままでいたかもしれないんです。まだ浜松でインターネットもやらず、くすぶっている、ながい・みちのり氏のようにね。……オット、これは失言だ。

管:でも、ミリタリー系の出版業界に、E先生の口添え無しに独自に食い込んだのは、「財産」ですよね。

兵:一つの「足場」となりますからね。夜逃げされたり倒産されちゃったりすると、さすがに困っちゃいますけど、それまでに、少なくとも人脈は拡げられます。出版界は本当にフェイス・トゥ・フェイスの人脈図だけで動くしかないところなんで……。それと「運」ですね。東工大のE先生の研究室がいよいよ解散となるとき--といっても私と先生の二人しか構成員は居ないんですが--、先生が私に、2年間の「放任教育」の感想を求められた。どうも先生は、私を院生のうちに「論壇デビュー」させ得ずに慶應に移っていくことを自分で気に病んでおられるなぁと私は察したので、「私くらい幸運な人間はいないと思います」と、私は本心をお話し申し上げました。そして研究室内の最後の片付けを済ませて板橋区に引っ越す前日、ドア前に吊るされた連絡用の小さな黒板に「あとはご心配なく」とカッコ良い置き台詞を白墨で書きなぐって、去ったのです。その後もかなり「ご心配」はおかけした模様ですけどね。トホホ……。

管:もっと以前の話ですが、神奈川大学時代に『世界日報』という新聞に寄稿されていたというのは、どういう意味ですか?
 あれは「勝共連合」じゃないですか?

兵:ああそうでしょう。文鮮明でしょう。渋谷に編集部があるのですよ。今は知りませんけどね。昔は渋谷の大交差点から、でっかい看板が見えましたよ。当時、大新聞は、祭日を選んで「一斉休刊日」を設けていた。これは今もそうか。でも、『世界日報』は、そんな日にも出していた。街角のスタンドに置いてあるのですね。それを買ってから、注目するようになりました。とにかく「ライト」なのですよ。“R”の方。支那事変の敵前渡河演習で煙幕を使っている珍しくもない写真を、朝日かどこかで「毒ガスの写真を発掘!」とかでっちあげようとしたときに、「これは煙幕だろ」と旧軍の人が『世界日報』の上でズバリ指摘して収めたことがありました。旧軍と自衛隊にフレンドリーで、明白に「反ソ」でしたから、これは元自衛官として支持せんわけにはいかなかった。それである日投稿してみたら、すぐ載りましてね。載っただけじゃない。「面白いからもっと書いて下さい。同じ人ばかり立て続けではマズイから、ペンネームも使ってください」ときた。それで勢いづき、すごい日には、大枠のコラムと、投書欄と、テレビ批評欄とに、同時に3本の原稿が別々の名で掲載されたこともありますよ。それに全部、稿料を送ってくれた。「郵便為替」ってやつでね。この体験が私に『オレはいつか、フリーライターでも食えるのではないか』との予感を持たせたのです。それで、大学図書館の図書分類番号の000から999まで全部ランダムに読んでみる、という、自分に課していた「ライター修業」にも、一層の気合いを入れ直したもんですよ。

管:影響力はあったんでしょうか?
 誰か、注目してくれましたか?

兵:あえて断言しますが、岡崎久彦さんは確実に読んでいたと思う。「中国の台所にある包丁の数を数えたら、人類は何回殺されることになるのか」という、私が『世界日報』への投稿で初めて使った核戦略に関するレトリックを、岡崎さんはどこかでお使いになったことがあったと記憶します。「反ソ」の新聞だから、元駐モスクワ大使の人とかが常連で寄稿していて、おそらくそっちの興味から目を通されていたのかなと想像致しております。

管:その「稼ぎ」の場を、どうして2年くらいで離れられてしまったんですか?

兵:阿呆なんですよ。こんなに紙面を面白くしてやったこの私を、あの編集部は、連中の宗教にひきずりこもうとしたのです。既に「権力とは何か」を人類史的に一から考察していた私が、新興宗教の教義体系に共感するわけがないでしょう。「いいかげんにしろ!」でしたよ。きっかけはですね、「政府は対外援助なんかやめろ」という原稿を送ったことでした。これにどうしたわけか編集部が大反発して、「そんな考えではいけません。あなたは宗教に入りなさい」と求めてきたんですね。もちろん原稿は没ですよ。それで思い出すのは、神大の2年生のときと思うが、日本外交協会主催の外交フォーラムとかいうところで学生の論文コンテストの1次に通った。これもカネが目当てでね。ただし、外務省庁舎内で開かれる、1次に通った学生同士の2次の討議会で評価をされないと、ケチな賞品だけで、カネまでは貰えないのです。オレの配置された討議グループは、草柳大蔵さんが司会兼審査員でね。そこでオレはまた「政府は対外援助なんかやめて、その予算はぜ~んぶ自衛隊の増強に回し、ソ連を早く打倒すべきだ」と主張した。総スカンでしたよ。周りは全部東大3~4年生でね。
 「増達」とかいう若僧がいたのを覚えているが、確か、そのご外務省にお入りになり、今は岩手から自由党の代議士様じゃねえのかな?
 まあ兎も角、これはカネは取り損ねたなと、チャイナスクールもろ出しな現役官僚の講演を聴いてるうち、悟れたので、私は2時間後の結果発表も待たずにサッサと横浜の下宿に引き揚げてきてしまいました。そしたらあとでその外交協会様が、「あなたは××日……」という勿体つけた書き出しで、賞品があるから霞が関まで取りに来いという手紙を下宿へ寄越しやがった。こんな手紙を書いてる暇に、宅配便で送りゃ済むことだろう。その賞品とやらは、いまだに手にしておりません。草柳さんにはその後、『日本海軍の爆弾』をお贈りしたら、「こんなふうにして事実は少しづつ解明されていくのですね」という礼状を頂戴しましたけども、残念ながら2002年7月に逝去されましたな。

管:まだお尋ねしたいこともありますが、今日はこのへんで、まとめてみようと思います。 本当にありがとうございました。

おしまい


兵頭二十八先生からの、年頭のごあいさつ

(2003年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 皆様、いつもご贔屓になっております兵頭でございます。新年おめでとう存じます。2002年末の遠隔地転居を機に、わたくしも漸くインターネットで出版社の編集部へ原稿を届ける方法を学びましたが、不慣れなもので電話代わりにインターネットを活用するまでには至っておりません。申し訳ないことに、このせっかくのサイトもほとんど読んではいないのであります。
 そこで甚だ卒爾ではございますが、この文書をフロッピーディスクの形で当サイトの運営者の方にお預けし、皆様にあらためてごあいさつをさせて戴こうと存じます。

●過去の雑誌記事をまとめた単行本は出版するつもりがないことについて

 全国どこでも広く市販されておりますメジャーな雑誌の他に、わたくしは、『TOPJOURNAL』『CYBER SECURITY MANAGEMENT』といった、書店では売られておらぬ月刊誌、隔月『神奈川あけぼの』といった機関紙等にも書かせて貰っておりますが、それぞれ「その媒体でなければ語れない話」に努めております。
 読者が特定されているからこそ深く自由に展開できる内容というものもございます。たとえば警察官しか読まぬ雑誌で、腐れ精神左翼の読者その他に顧慮してやる必要など無い。差別問題に新視点を付け加えようとしますにつけても、専門紙ならば単刀直入な話が可能なのであります。
 また雑誌記事には時事性がございます。そして一回勝負の緊張があるはずです。
 小生が、雑誌公表論文は後日に単行本にまとめたりすべきでないと確信し、現在その所信を実践中でありますのも、ここに理由がございます。
 何度も繰り返すようですけれども、ほんらい、一度活字媒体にして公刊されたものは、誰でも図書館に行けば参照と引用が可能になる。一度しか活字にならないが、永久に記録され、参照される。そう思えばこそ、何を書くにも気合いが篭ってくるのではないでしょうか。社会性ある責任感が生ずるのではないでしょうか。
 この気合いも言語操作能力もない、ただ精神の腐った連中が、昔も今もこれからも常に、気取った言い訳で責任を回避し、体裁の良い論難を深夜に落書きして回り、重いこと、中心的なものと、軽いこと、周辺的なものとの区別を顛倒し続け、己れの浅薄さをインターネット上に遺憾なく記録して、それを情けないとも思わないのであります。

●過去の雑誌記事についてのわたくしの考え方

 わたくしは、雑誌公表論文は後日に単行本にまとめたりすべきでないと確信し、現
在その所信を実践中であります。また今後も継続する所存であります。
 昔の『太陽』や『改造』、あるいは『中央公論』の記事は、「後で単行本に入れよう」などと思って書かれてはいませんから、書く方も真剣でしたし、単行本に再録されずとも、日本中がそのオピニオンには注意を払いました。今は、雑誌記事は読み捨てです。誰も過去の雑誌記事を検索して参照しようとはしません。だから、とっくに終ったはずの古い論争がいつまでも繰り返される。著者たちの安易な単行本出版のために、戦前のような、雑誌記事の著者と読者との間の、真剣な関係がなくなったのです。これは、日本語のパワーにとっては、真の危機だと思います。ですからわたくしは、自分だけは雑誌記事で二度稼ぎはしないと、決意をしました。

 ひとつの例として、月刊『諸君!』1997年6月号の拙稿を振り返ってみます。
 この小論は、ワインバーガー氏著とされる小説を、面白可笑しく槍玉に挙げつつ、最新の戦争技術やアジアの近未来予測等について読者に情報を提供したものです。
 おそらく、日本のメジャーなオピニオン誌で「サイバー奇襲」について詳しく論じたのは本稿が初めてでしょう。また、イランの最初の原爆と「本物の乗客を乗せ」た民間旅客機のニューヨーク特攻、なんていう話を97年に於てしているのも、わたくしにとりましては密かな自慢であったのです。
 しかし、この文章をいま読み返せば、わたくしには、文章がひどく幼稚だと感じられます。無名の自分の知能をアピールしようとして、使わなくともいいような不自然な言い回しを多用しているところも鼻につく。
 言い替えますと、わたくしはすでに97年のわたくしと同じではない。成長してしまったのです。わたくしは今も勉強中で、成長中であります。もちろん当時はあった、さまざまな雑誌で好きなように書いてみたいという欲望も、かなり満たされ、薄らぎました。
 いまもし、そうした過去の論文を単行本に再録して出版したら、それはどういうこ
とになるのでしょうか? 現在のわたくしとは違った、古いわたくしを、あるいは幼
稚なわたくしを、今のわたくしが、売ることになるでしょう。日本のオピニオンは日々進化し、わたくしも日々成長しているのに--です。
 時事種が旬でないという不都合も、むろんあります。わたくしは、この記事を書くときに、現在は野村総研のニューヨークにいる経済アナリストの池田琢磨君(東工大大学院同期で、PC素人のわたくしにMS-DOSバッチファイル作成まで手取り足取り教えてくれた恩人)に、日米の銀行決済システム等について尋ねています。また“TIME”誌のバックナンバーの関連記事に当たるなどして、最新のサイバー戦争について稀少価値の十分に高い話を書いたつもりでしたが、「サイバー・アタック」なんて、今では誰でも知っていますね。けれども、将来もし誰かが、「日本における『サイバー戦争』の認知の変遷」といったテーマで『諸君!』のバックナンバーを調査したとしたら、「この時期にこんなことを書いている人もいたのか」と新鮮に驚くことができる。1997年の『諸君』6月号の他の記事の中に埋もれているからこそ、「時の文脈」が蘇るのです。
 またこの記事の中で、わたくしは、2007年のマレーシア首相は親日派のアンワル氏だろう、とも書いています。しかし、その後マレーシアには経済的にも政治的にも激動があって、アンワル氏は失脚したようです。このあたりの東南アジアの未来予測については、わたくしは、現地にとても詳しい阿羅健一さんにも聞いています(当時わたくしは、阿羅さんの経営する校正派遣会社「情報出版」でアルバイトをしていました)。アンワル氏は、この時点では、確かに有望株だった。この雑誌が出た時点では、この記事の内容には胸を張れるのです。しかし、今ではあまりにも明白に、この予測は「真」ではありませんね。あるいはひょっとして、この『諸君!』の無断英訳(これが見たい人はわたくしの核武装論文がどう訳されているか英語版インターネットで検索をしてみてください。著作権者であるわたくしはその機関からは何の連絡も受けていないのです)が米国の投資会社に危機感を与え、それでアンワル氏の芽を潰す陰謀が発動されてしまったのかもしれませんが、ともかく、記事を書いた当時は正しかったことが、今では正しくないことも、少なくはない。それを書き直しもせずに今の読者に売る行為が、著者として誠実と言えるでしょうか?
 同じように、評論家も日々学んでいるのですから、雑誌記事を書いた当時と今とでは、著者の考えそのものが、変わってしまっていることもあるはずですね。しかし、書いた時点ではそれは確信であったはずですから、過去に遡って自分のオピニオンを直すことも、やはり不誠実です。

 マイナーな媒体だからこそ書けるものも、あります。
 上記の『諸君!』の記事の中で、わたくしは麻酔ガスの解説もしています。間違ったことを書くとかなり責任が重大になります。これは、当時の『コミック ’97』の担当編集者の身近な人が麻酔医だというので、間接的に教えてもらった知識に基づいて書いています。その程度の専門的な話ならば『諸君!』に堂々と書いてもいい。しかし、もっとアングラ系の情報だとしたらどうでしょうか。その場合、あまり売れないがまじめな人はちゃんと読んでいる『発言者』などに書くことが良いと、“政治的に”判断されるものもあるのです。つまり著者としては、あまりにたくさんの人に読んで欲しくない、あとで証拠に利用できるように、活字にされたという事実だけ残ればよい、という記事もあったりする。逆に、ちょっと書いてみたくてたたまらないのだが、たとえば『あぶない28号』のような、かなりオフザケの許される媒体でないとこれは書けない--と判断されるテーマもあります。

 それから、わたくしの本の中で、××という兵器のスペックはしかじかであった……等と、数字ばかり羅列している箇所がありますが、あれらはみな、一般の読者が戦後の市販書をすべて探してもまず知る事はできない、マイナーな稀覯文書の中でわたくしがたまたま発見したデータなのです。それは、もし何らかの形で活字にして公刊しなければまず後の世に伝わることはない。それでは先人の貴重な経験が未来に活かされず、無駄になってしまうとの判断、義務感から、わたくしは無理矢理に本文中に挿入しているのです。もちろん、かなりの熱心な研究家でない限り、その数値が現在の市販書で紹介されていることの意義、貴重さは分っては貰えないのですが、それでいいのです。活字になって図書館に残していさえすれば、いつか、何十年後かの熱心な研究家がその情報を活用できるでしょう。こうやって、何世代もの多くの研究者の作業が、図書館に積み増され、比較参照ができる状態に置かれていくことが、あの大英帝国を可能にし、現在の米国の世界覇権を可能にしてもいるのです。 さて皆様ご承知のとおり、わたくしは、図書館のヘヴィ・ユーザーです。前人未踏、オリジナルの境地を開拓しようとする者には、同時代の友人はみつかりません。相談の相手、討論の仲間は、「古書の著者」の中にだけ存在するようです。そのような古書の著者に出合えたとき、わたくしは無常の高揚と充実を感じ、同時に、「この昔の著述家たちの列に連なりたい」と希求せずにはおれないのです。そして、わたくし自身も、わざわざ図書館にやってきて、どこにでもあるシロモノではない小生の文章を探して閲覧する、そんな未来の友人にだけ、知られる存在になることができればよいと、願望を致しております。
 わが国の地方の公共図書館が、情報ストック機関としてあまり充実していないのは残念です。(さらに残念なことに、インターネットも、比較的に少ない有益な情報が、あまりにも多い無益な情報に埋もれてしまっているように見えます。)しかし、日本のどこかには、わたくしの記事の載った雑誌を保管している図書館や大学があります。わたくしは、貴重な情報の詰まった古書がどこかの文書館にあると聞けば、千里の道も遠しとしません。友人に出会えるというのに、日本国内をちょっと旅行するぐらいが、何の障害でしょうか?

 わたくしはむしろファンの皆様の「リファレンス」の構築に、期待をかけたいと存じます。
 大学で論文の書き方を指導されたことがある人なら、「剽窃[ひょうせつ]」と「論文」の違いはご存じですね。要は、他人の発言や文章を引用しているのに、それがあたかも自分のオリジナルの見解であるように読者に受け取られかねない、そんな不明瞭な書き方をしたら反則なのです。常に、どこからどこまでが人の言ったことで、どこからどこまでが自分自身の思い付いた部分なのかを、截然[せつぜん]と読者に分らせながら書き進めなければなりません。(逆に、そのルールさえ守れば、かなりの量の引用も許される。論文としての評価は低くなりますが。)
 これは学術論文に限らず、雑文であっても、不特定多数に公示するものである以上はすべてそうでなければならぬずですが、大学3~4年生くらいのゼミナール等で最初の「しつけ」を受けなかった書き手には、自得することがかなり難しい習慣なのです。もし、そこがよく分らない人は、タイトルに「論文の書き方」とある本を探して今からでも自習すべきです。箸や鉛筆が正しく持てない青年や成人と同じで、それは歳とともに自然に直るものではありません。
 これはあまり賞揚できない例ですけれども、よく文学研究の論文などで、作家の短編の「長い要約」に「ブツ切りの引用」を加え、「詳しい解説」を附すことで、書いてあることの過半を伝達しているようなものがあります。(反則ではありませんがオリジナリティは乏しく、冗長。)
 しかし、もし雑誌記事のひとつひとつがそのような「剽窃ではない」リファレンス情報として整備されているものを誰でもオンラインで確かめられるとすれば、これはとても便利ですよね。そこに、当該雑誌の所蔵図書館の一覧表も備わっていれば、研究者のサーチ・コストは随分節約される。誰でもその図書館に赴き、「時の文脈」を正確に把握することができるようになるでしょう。

●HP画像データサービスについての事情のご説明

 すでに『武道通信』のHPでお知らせがあったかもしれませんが、このたび、わたくしが過去に上梓し、その後、絶版となってしまっております何点かの書籍を、『武道通信』の版元である杉山穎男事務所さんに画像データ化して貰い、さらにそれをオンライン・ダウンロードの形で頒布して戴けることになりました。
 この経緯と意図等につきまして、簡単にご説明します。

 かつて銀河出版という会社があり、兵頭二十八・宗像和広・三貴雅智・小松直之の4名の共著『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』が、1997年7月に同社から刊行されました。が、困ったことに、同社は印税を1円も支払わず、いつの間にか池袋のオフィスを無断で引き払ってしまったのです。
 3人の共著者に対して責任を感じたわたくしは、そこで銀河出版あてに内容証明郵便を送達し、『日本の陸軍歩兵兵器』『陸軍機械化兵器』『日本の海軍兵備再考』『日本の防衛力再考』『ヤーボー丼』に関する兵頭二十八の著作権は引き上げること、いずれも5年間有効となっていたこれらの単行本の出版契約の、5年後の自動更新はしないことなどを通告致しております。(『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』についてはそもそも出版契約書は成立しておりません。)

 ちなみに『日本の陸軍歩兵兵器』や『日本の海軍兵備再考』等は、契約書ではそれぞれ初版三千部しか印刷されていないことになっておりますが、全国の書店への出回り具合、そしてその期間の長さを考えますと、こうした契約内容が誠意を以て履行されているかどうか疑うに足る合理的根拠もあると判断しています。

 今回のオンライン復刻版から得られる印税は、当面、『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』の共著者への私的な弁済事業に役立てるつもりでおります。

 なお、宗像和広氏(故人)と兵頭二十八の共作である『陸軍機械化兵器』および『日本の海軍兵備再考』の2点につきましては、今回は兵頭執筆箇所だけが復刻されることとなります。予めご承知ください。

 内容は、画像取り込みですので、元のままです。直すべきところも直してありません。また、アップロードされるのは基本的に本文と本文頁中の図版だけで、書籍版にあった表紙、目次、奥付、著者紹介欄は画像データ化されません。その代わりにできるだけ廉価に入手できるようなプライス設定をと、杉山穎男事務所さんにはお願いしました。

 今後の予定ですが、次回は『日本の防衛力再考』になります(そろそろ、もうUPされているかもしれません)。
 ほんとうは全冊を一挙にアップロードしてしまいたいところですが、画像取り込み作業がかなり時間のかかる作業であるらしく、はかどっていません。誰かボランティアで手伝ってくれる人はいないでしょうか?

●四谷ラウンドさんのことなど

 『たんたんたたた』『有坂銃』『イッテイ』『日本海軍の爆弾』『日本の高塔』『地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法』『日本人のスポーツ戦略』の計7点を上梓してくれた (株)四谷ラウンドが、2002年末に倒産しました。
 このうち、いくつかのアイテムは、補訂のうえで、他社から文庫本にしてもらいます。また、いくつかのアイテムは、G出版のバックナンバーと同じように画像データサービスにすることを検討します。
 写真集である『日本の高塔』は、一時代の記念として、このまま絶版となるでしょう。
 『X島』と『スポーツ戦略』は、発売後間もないので、暫くは何もしません。今後、版元の在庫が債務のカタとして押えられて、ゾッキ本となって全国の古書店頭に大量に出回ることになるだろうと思われます。それらがすっかり市場から消えた後でどうするかを検討致すことになります。
 なお、『イッテイ』と『日本の高塔』の共著者である小松直之さんは、四谷ラウンドから印税を完全に貰っていないようなので、これもまた、旧G出版のオンライン復刻で得られた兵頭の収益の中から、弁済していくことにになろうと思います。

 おしまいになってしまいましたが、皆様の本年のご健勝とご多幸をお祈り申し上げまして、兵頭二十八からの年頭のご挨拶に代えさせていただきます。

【平成十五年・元日 謹識】


※改行箇所は管理人

管理人:私はもう二度と「コラム集出して欲しい」とか言いません。多分。それより、誰かリファレンスを作ってくれい!私に見せてくだされい!後、誰か「武道通信」に手伝いに行こうというファンの鑑はおらぬのか?
時間さえままなれば私が行くものを……と思ったけど、私なら「日本の防衛力再考」を盗んで逃走しそうだからダメか……。


川崎で正月を正月らしく過ごす方法について

(2002~2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(前略)

わたくしは大学時代の一時期、川崎市の武蔵御殿町に住んでいたことがあります。
(最寄り駅は武蔵小杉。)
 また、横浜居住時代にも、何度も川崎市を探険しました。
 そこで、京浜地区がガラガラとなってしまう正月松の内に、川崎近辺で正月気分に浸る方法について、知っていることを伝達します。

 まず「川崎大師」。これは正月三が日は本当に賑やかです。京急の「大師線」というやつで出掛け、駅についたらあとは人の流れに乗って行けばよいのです。帰りは、適当なバスに乗ってしまうのが良いかもしれません。正月の京浜地区は道路が空いているので、バスも快適なものです。
 わたくしは「川崎大師」に、正月7日目に行ったこともありますが、同じ場所とは思えぬくらい寂れていて、感心しました。テキヤが片付けをやっているだけなのであります。

 川崎からの初詣としては、鎌倉を落とすわけにはいきません。かなり地理に慣れてからでないと、鶴ヶ岡八幡宮に行って帰ってくるだけ、というパターンにしか、現地では思い付きようもないですが、鎌倉の中心部を囲繞[いにょう]する低山(「鎌倉アルプス」などと呼んでいる馬鹿なハイカーもいる)の尾根道をぐるりと歩きますと、一風変わった鎌倉体験ができます。薮の中の山道の途中で突然、甘酒を売っている茶屋が出現したりする。ロッククライミングのような箇所もある。別に危険はないのですが、迷子にならぬよう、いちおうトレッキングのガイドブックを購入して行かないと不安かもしれません。

 鎌倉周辺では、江ノ島に電車でいくのがかなり面白いでしょう。大船(※大船観音はつまらないので、立ち寄るのはおやめなさい)からモノレールで。無理に遠回りして江ノ電に乗るのも面白い。駅から有名な長い橋までは、人の流れを見てついていきます。
 江ノ島に到達したら、階段とエスカレーターを乗り継ぎ、植物園のようなところを経て島の裏側まで行き、洞窟を見学されると面白いでしょう。途中は、それこそ茶屋だらけです。

 この江ノ島観光の帰路か往路、何個か離れた駅まで、海岸をずっと歩いてみるのも面白いものです。わたくしは、2年もしないうちに、三浦半島の全海岸を歩いてしまいました。すっかり地形が分り、飽きてしまったので、房総半島に引っ越したのです。しかし、知り尽くすまでは、面白い土地です。

 八景島もかなり行楽気分に浸れるところ。入場は無料です。しかし園内では、カネがないとあまり遊べません。あくまで雰囲気が目的ですね。ちなみにまた、こっちのモノレールは、藤沢~大船のモノレールにくらべ、面白くはありません。

 ディズニーランドの一つ手前に、葛西臨界公園があります。ここはディズニーランドに入るのをあきらめた貧乏人が集うだけあり、ビールも買えるし十分な気分転換になるところです。わたくしは何度出掛けたか分りません。ここへの交通手段は、バスに限るでしょう。

 横浜の桜木町駅にはランドマークタワーがあります。このタワー内にはほとんど面白いものなどないのですが、その周辺にいろいろある施設やホテルの付属地が、かなり暇つぶしになるでしょう。これは一日では極められません。そして、桜木町駅から「かもん山公園」へ足を向けると、そこには神奈川県立中央図書館があります。その4階か5階にある「郷土室」に、たぶん『神奈川あけぼの』のバックナンバーが寄贈されているのではないかと思われます。
 さらにヒマと気力があったら、そこから歩いて10分ほどの、紅葉山の横浜市立中央図書館を目指しましょう。といっても中に入る必要はない。その図書館の裏山が、タダで入場できる動物園なのです。なごめます。

 動物園といえば、「ズーラシア」はいっぺん行かれるとよいでしょう。動物そのものより、公園のコンセプトが面白いのです。正月は混雑するかもしれませんが、それも一興。

 もうひとつ。遠いのですが「子どもの国」は、大人が一人で出掛けても、気分転換になります。旧軍の防空壕ぐらいしかないにもかかわらず、損した気分にはなりません。

 わたくしは川崎から横浜まで一挙に歩いたことはありませんが、二日に分けて、半分づつ歩いてみたことはあります。自転車なら、簡単に往復できるでしょう。このあたりも、慣れてしまえばつまらないのですが、最初は、興味は尽きないでしょう。

兵頭 二十八 拝
2002/12/26


(改行は管理人)管理人:キミは何処に住んでいる?川崎やその近辺に住んでるなら、私と同じくこの方法で過ごすべし!それが主命です。


up date

(2002~2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

これはある一人のファンが、”あるやんごとなき御方”に手紙で訊ね、さらにその後に、長時間の電話インタビューも試み、根掘り葉掘りいろいろと聞き出したことを書き留め、それを整理してみたメモである。“別に自由に載っけてもいいよ”との許諾を得たので掲載する。

尚、”あるやんごとなき御方”と直接的に利害関係が一致する方は、全て忘れてくれる事を期待する。
ある一人のファンにとっては「軍学考、最後のフツーの単行本宣言」が、多分、撤回されたようであるのが何よりも僥倖である。


■本人による主な著述の回想(媒体名・発行DATE・版元・内容。記事タイトルは略)

●単行本(単著)

『日本の陸軍歩兵兵器』1995年5月、銀河出版刊
 --ダメだダメだといわれるばかりの日本陸軍のハードウェアだが、ダメな兵器で
世界を相手に何年も戦争できた訳がないと、いかに事実誤認がまかりとおっているかを戦後初めて具体的に指摘。旧陸軍見直しブームのきっかけを作る。

『日本の防衛力再考』1995年12月、銀河出版刊
 --わが国の安全保障論の決定版「教科書」。巻末に「指導教官・江藤淳」時代の東工大修士論文を全文附録。

『ヤーボー丼--いかにして私たちはくよくよするのを止め、核ミサイルを持つか』1997年4月、銀河出版刊
 --宮本武蔵の兵法とは片手馬上刀術である。リデル・ハートの間接アプローチとは孫子の英訳だった。

『たんたんたたた--機関銃と近代日本』1998年1月、四谷ラウンド刊 
--日本人は目に見えない精度を軽視する民族的欠陥があり、それが対米戦争の敗因になっている。南部麒次郎の評伝。
 本書の書評として、発売直後の月刊『中央公論』の連載コラムにおける福田和也氏のものはかなりのインパクトがあったのではないか。また、だいぶ後の言及としては『週刊読書人』02-4-12号の可能涼介氏のものがある。

『有坂銃--日露戦争の本当の勝因』1998年3月、四谷ラウンド刊
 --三八式歩兵銃は司馬遼太郎が言うような粗悪兵器ではなかった。有坂成章の評
伝。※こういう本を出すので、司馬氏の人脈に連なる現在の書評家からは絶対に評価されることはないのである。

『日本海軍の爆弾』1999年5月、四谷ラウンド刊
 --日米両軍の使用した爆弾は、同じ重さでもまるで出来が違っていたことを、両軍の戦術思想面から解明。本書の眼目は、大西瀧次郎はじつは徹底合理主義者であったと見直したこと。

『「日本有事」って何だ? 「超カゲキ」VS「常識」問答』2000年2月、PHP研究所刊
 --シビリアンコントロールとは、軍人だけでなく宗教関係者にも戦争指導に関与させぬことである。だから公明党がシビリアンコントロールを言うのはおかしい。店頭発売は1月24日。

『武侠都市宣言! 戦後「腐れ史観」を束にして斬る』2000年2月、四谷ラウンド
 --日本のマスコミの自虐体質は何に拠るか。改めて司馬批判。脱稿は99年11月末。

『軍学考』2000年10月10日、中央公論新社(中公叢書)
 --この執筆では消耗虚脱し、担当の平林孝さんには、最後のフツーの単行本にするかもしれぬと宣言。しかし、やがてこのくらい苦労しないと一定水準の本は書けないと悟った。スポーツと同じなのだ。

『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』2000年11月10日、(株)教育システム
 --儲けるつもりなら絶対に採算は合わない企画。だから類書は無い。印税を先払いとしてもらい、それを取材費に使い尽くす方法で作った。1,000部の直販。貴重書。

『パールハーバーの真実』2001年7月5日、PHPビジネス出版
 --映画の公開(7.14)より9日早く店頭に並べるという、この版元ならではの早業。山本五十六がいかにして陸攻=日本版フライング・フォートレス中心の新日本海軍を作り上げたかを、20ミリ機銃の導入を中心に検証。
 ※8月3日に、細かい直しを入れた「二刷」出来。

『「新しい戦争」を日本はどう生き抜くか』2001年11月19日、ちくま新書
 --9月11日テロの翌日に決めた特急企画。3週間で入稿したが、その後がユックリしているのが老舗の筑摩書房らしかった。しかし、初刷りで1万5000部だから文句は言えない。

『地獄のX島で米軍と戦い、あくまで持久する方法』2001年12月、四谷ラウンド
 --もともとPHPビジネス出版で第二弾として出して貰うつもりで書き進めていたのに、下書きを見て断られてしまったための持ち込み。ならいっそ御礼奉公とばかり、増刷含めて6000部、ノーギャラ。表紙撮影では4万円以上持ち出している。
 本書の珍しい書評として、『週刊東洋経済』2002-3-23号の原田泰氏(エコノミスト)がある。

『日本人のスポーツ戦略--各種競技におけるデカ/チビ問題』2002年8月、四谷ラウンド
 --これもノーギャラ企画として持ち込んだ。担当は、いつもの齋藤祐也君が東南アジア放浪のため、浅利氏となる。並木本で小松氏がグズっている最中だったので、X島と異なり、表紙も四谷さんに丸投げ。

『軍学者が語る! 沈没ニッポン再浮上のための最後の方法』2002年9月、(株)PHPエディターズ・グループ
 --「対抗不能性」を経済のたとえ話で。さんざんせかされたので7月上旬に入稿したが、8月は売れない月だと店頭売りを9月13日に順延された。本文中「ネーミングがすべて」と教えているのにこのタイトルは酷かろう。自分の本が売れぬ理由をその本の中で解説しているという快著になってしまった。さらに、校了直前に、差別表現はいかんとやらで、あちこちを慌てて直す等しているのが却って不自然に目立つ。
結局この本は不振な成績に終り、同一スタイルでの第2弾はPHP本社の学芸出版部に託されることに。

『学校で教えない現代戦争学』2002年9月、並木書房
 --5月に出るはずのところ、なんと9月27日に店頭発売された。その間、テロと反米をめぐる論壇の議論にまったく貢献できぬ状態が続き、2つの教訓を得た。まず、100項目近い見開きの解説を1人で書くなどというフォーマットは条件として呑むべきでない。次に、この版元では以後は時事種は避けるのが正しいのだろう。

●単行本(共著)

『陸軍機械化兵器』1995年6月、宗像和広・兵頭共著、銀河出版刊
 --日本陸軍の戦車の開発が立ち遅れた背景には、貧農出身の歩兵科のエリート
が、金持ち階級である騎兵科を嫉妬したことがある。

『日本の海軍兵備再考』1995年8月、宗像和広・兵頭共著、銀河出版刊
 --荒っぽい本だが、日本人は燃料地政学に目覚めよという主張が、日本の国家戦
略を大きく考えている目黒の防衛研究所内に支持者を獲得したのは、以て多とすべきか。

『並べてみりゃ分る 第二次大戦の空軍戦力』1997年7月、三貴雅智・宗像和広・小松直之・兵頭共著、銀河出版刊
 --九七重爆はロッキード輸送機のコピーだ。一式陸攻のコンセプトはソ連の遠距離爆撃機だ。日本の鉄道が終戦まで止められずにすんだのは、米軍に双発爆撃機を飛ばす余地がなかったからだ。

『イッテイ--13年式村田歩兵銃の創製』1998年10月、原作/兵頭、作画/小松直之、四谷ラウンド刊
 --田原坂は大砲を通す道路としてではなく、弾薬を運搬するために確保する必要があった。薩摩士族にとっての熊本城天守に特別な意味があり、それを知っていた児玉源太郎が燃やしてしまった。

『日本の高塔 写真&イラスト』1999年11月、小松直之・兵頭共著、四谷ラウンド刊
 --煙突、送電鉄塔、灯台、電波塔からエレベーター試験塔まで、日本のあらゆる「高塔」を探訪し考察する。2002年に、長野県の某通信制高専の入試の論文用の選択課題書籍の一つに選ばれた。

●単行本(他著への寄稿)

『戦記が語る日本陸軍』宗像和広著、1996年5月、銀河出版刊
 --複数のコラムを執筆。戦争映画考、戦争マンガ考、疑似軍学ビジネス書考、ホンダの空冷エンジンは誤訳から生まれた、「烈風」神話の虚妄……等々。

『東大オタク学講座』岡田斗司夫著、1997年9月、講談社刊
 --ゲスト講師の一人として。兵頭軍学のダイジェストになっている。2001年
に全体のハングル訳が出た。その印税がなんと1,500円くらい。トホホ……。

『日本の論点2000』1999年11月、文藝春秋社刊
 --ガイドライン関連法案で何も変ったことはない。※この記事は、2002年から文春のHPで有料掲示され、同年9月に「印税」¥4千ナンボ也が入った。

『疫病最終戦争--Plague War』ビジネス社「One Plus Book」シリーズ最終企画、2001年12月
 --『諸君!』の記事を見てきたのかと思ったら、論点2000の住所録でアクセスしてくれたらしい。振り込まれた稿料は唖然とするほど安かった。

『カリスマ・ムック 石原慎太郎』、2002年1月、マガジンマガジン社
 --応援コラムを寄稿。諸君の福田氏との対談号が出た後、久々に桜木徹郎氏から声をかけられてビックリ。稿料も高くてビックリ。

●戦車マガジン(現・デルタ出版)編集者時代の別冊(編著)

『陸上自衛隊車両装備史;1950~1991』(戦車マガジン・91年11月号)
 --これを凌ぐ内容の総解説本をこれから誰が出すのか、興味がある。

『帝国陸海軍の戦闘用車両』(戦車マガジン・92年4月号別冊)
 --旧軍の戦車については学研さんが最近、良い本をたくさん出すようになったので、隔世の感。もう兵頭が日本軍戦車の弁護を買って出る必要もなかろう。

『第二次大戦のイギリス・アメリカ戦車』(戦車マガジン・92年7月号別冊)
 --なぜ連合軍が勝ったのかを知りたかったので作ってみた。2000年の秋に、写真を全部入れ替え、本文はそっくり生かした増補版が出ているが、それももう絶版だろう。

『ドイツ連邦軍の陸軍装備車両;1955~1991』(戦車マガジン・92年1月号別冊)
 --陸上自衛隊の装備にいかに西ドイツ軍の影響があるかをよく示すことができた。しかし、当時九州の大学生だったこの本文の執筆者よ、いまどこに?

●劇画原作シナリオ(『イッテイ』を除く)

『コンバット☆コミック』「ジョージの贈り物」、日本出版刊
 --原作者名を「兵藤二十八」とクレジットされてしまった。この誤記は今日なお、「伝統」的にしばしば起きるので、本人は楽しんでいる。ここでの仕事は一度きり。前・後に分けて掲載されたが、後半があまりに原作とかけ離れたのですっかり厭になった。劇画原作者には常にこのストレスあり。

『ゴルゴ13』「直線と曲線の荒野」(小学館『ビッグコミック』1993年7月25日号に前編初出、後編次号)
 --ゴルゴがなぜ小口径ライフルを使うのかを正当化したロシアもの(最近、加藤健二郎さんはもっと合理的な説明を考えたらしい)。これがきっかけで、さいとう・たかを氏に直接いろいろと質問ができたのは、カネに代えられぬ収穫となった。

『ゴルゴ13』「北緯九十度のハッティ」?年、小学館・リイド社刊
 --ミサイル搭載型ではない、攻撃型原潜の艦内を舞台としたアクションとしては世界的にもこれ一作ぐらいか? 米国の連邦政府の公安部局内には、戦争やテロや犯罪に関する外国語の「フィクション」をすべて翻訳する「新手口」研究センターがあるのは有名であるが、じつは民間にも、似たようなサービスをする機関がある。これは、ハリウッドのシナリオライターとプロデューサーだけが定期購読している「ネタ情報誌」とでもいうべきもので、海外の小説やマンガの粗筋を逐次的にぜんぶ速報するのだ。このような機関のおかげで、最新の米英映画は、過去の全世界のマンガや小説を全部参照した上で作られていることが、通の目には歴然と判るのである。さあ、この劇画のアイディアの一部が流用されている映画を、キミはいくつ指摘できるかな?

『ヘクトパスカルズ』1997年6月、作画/板橋しゅうほう、文藝春秋社刊
 --文藝春秋社の季刊『コミック’94/’95/’96』(のち『コミックBingo』)に連載した気象予報士の劇画。このラストをどうするつもりだったのかについては、いずれこのサイト上でご説明したい。
([創作雑話]参照)

●雑誌記事(月刊~隔月刊)

『SAPIO』1996年6月26日号
 --日本の軍国主義化は何も明治憲法のせいなどではない。外国には必ずある武装警察を敢えて作らず、国内暴力のバランスを欠いたための当然の帰結である。
(『ヤーボー丼』に収載。)

『SAPIO』1996年8月28日/9月4日・合併号
 --湾岸協力費より安く、日本は核武装できる。(『ヤーボー丼』に収載。)

『SAPIO』1999年5月12日号
 --君が代の歌詞はじつは最もラディカルで激越なのだ。

『SAPIO』1999年8月25日/9月8日・合併号
 --防衛庁長官は首相兼任としなければ来世紀の日本の安全保障は覚束ない。

『SAPIO』2000年2月9日号(平成12年1月12日店頭発売)
 --西村真吾氏は運動家であって政治家ではない。運動家は騒がれるほど得なのを知らない左翼マスコミの程度が興味深い。

『SAPIO』2000年 ?  号(平成12年3月8日店頭発売)
 --中国兵の長所と短所。己を知るが本、敵を知るは末。

『SAPIO』2000年5月10日号(平成12年4月26日店頭発売)
 --警官の拳銃の数は自衛官の小火器の数より常に多いというミョーな発見。

『諸君!』1996年10月号
 --核武装マニュアル。(『ヤーボー丼』に収載。)http://fas.org/ で英訳を見ることができる。

『諸君!』1996年11月号
 --石油動力時代の航空基地の意味をアメリカは分っているが、日本人は分ってない。(『ヤーボー丼』に収載。)

『諸君!』1996年12月号
 --筋論をいうなら、対ソ降伏こそ大間違いだった。日本人にマニュアルは作れない。(『ヤーボー丼』に収載。)

『諸君!』1997年3月号
 --北朝鮮は原爆は持っておらず、韓国が半島を統一することで日本が困ることはない。(この論文は外務省韓国大使館によってハングル訳された。)

『諸君!』1997年6月号
 --ワインバーガー氏の小説はトンデモ本だった。日本はTMDの謀略にひっかかるな。※原著を批判したのだが、さすがに邦訳では、直しまくっている。

『諸君!』1997年8月号
 --中学・高校の歴史教科書の図版とキャプションはこんなにムチャクチャだ。
※こっちは、ちゃんと直しているんだろうか?

『諸君!』1997年11月号
 --みんな勘違いしている。靖国神社は追悼の場ではない。日本で唯一の国家勝利祈念の場なのだ。

『諸君!』1999年2月号
 --足軽鉄砲はじつは百発百中であった。だから「砲術」は江戸時代のART。この小文の中で鈴木眞哉氏に言及していたのを鈴木氏が覚えておられて、逆にこっちが恐縮した。

『諸君!』1999年3月号
 --日本政府の判断などはない。クーデターならばアメリカに対して起せ。

『諸君!』2001年1月号
 --真珠湾攻撃60周年特集に寄稿。単冠湾出撃はリアルタイムで把握されていた?

『諸君!』2001年7月号
 --近現代史の参考文献として、私は「USSBS(太平洋)最終報告書」を推薦する。過去の邦訳はその5%しかカバーしていない。

『諸君!』2001年11月号
 --9月11日テロはWTCビルの北棟のアンテナが第一目標だったのではないか?

『諸君!』2002年1月号
 --水を「安全ピン」とする真菌個人テロの考えられる手口を初紹介。福田さんとの放談大会。

『諸君!』2002年2月号
 --怪しい言葉特集で、「後方支援」について論及。小沢一郎氏の国家観・国連観について名指しで批判。

『マガジン・ウォー』平成8年12月号~平成9年11月号、(株)マガジン・マガジン刊
 --コラムを12回連載して完結。第12回は書き下ろしの落語。

『本の話』平成9年8月号、文藝春秋社刊
 --ミリタリー雑誌で一番売れるジャンルは飛行機で、次が銃器。テーマは、一番人気がナチス・ドイツ。日本海軍がそれに次ぐ。

『新潮』平成10年6月号
 --『南洲残影』書評。「抜刀隊」の二番はテニソンの軽騎兵の詩の第二スタンザの翻案であることを指摘。

『文学界』平成10年7月号
 --ロシアのクビンカ戦車博物館と対比して日本人の記録整理は悪い。

『新潮45』1998年7月号
 --江戸幕府の遠島刑は、驚くほど英知に富んだ「絶対不定期刑」だった。
※あとで刑務官の人から手紙がきて、確かに改心しない人間は必ず一定割合いるとのことであった。

『新潮45』1998年8月号
 --インドとパキスタンの間には抑止要因は強く働いていない。鍵はサウジだ。

『新潮45』1999年4月号
 --北朝鮮がいつ暴発するかは太陰暦カレンダーで知れ。

『新潮45』1999年6月号
 --小渕首相は広告会社とタイアップしているが警察の宣伝力はその上を行く。

『新潮45』1999年7月号
 --アメリカは「空軍国家」であり、これからもそれは変らない。

『新潮45』平成11年11月号
 --私はいかにして人様から物や金を得ているか。

『発言者』平成10年9月号
 --座談会。日本刀の独特の形態は、それが首切り処刑の道具なのだ考えたとき、
初めて合理的に説明される。それを戦闘機の中にまで持ち込んでいた日本兵は、つまりはアメリカに対してすら「加罰」の発想で臨んだのである。

『発言者』平成10年9月号~連載継続中
 --コラム。第11、13、15、16回では、最先端の乃木希典論を展開。2000年1月号からいよいよ講談「ブチキレ奉行」不定期連載開始。

『発言者』1999年8月号
 --座談会。「公民」は、全国民が団結すれば外患に対処できた日本には成立したが、中国や韓国にはその条件が歴史上欠けていた。

『発言者』2001年12月号
 --座談会。テロルとは目的と手段のプロポーショナリティを失した力の行使である。

『ざっくばらん』平成10年10月1日号、並木書房刊
 --地雷は水に溶けるように作れば日本では除去の問題は生じなかった。

『voice』1998年11月号
 --山縣有朋公ありせばTMDなんていう詐欺には乗るまい。最も統制経済が得意なのはアメリカである。

『voice』1999年2月号
 --「プライベート・ライアン」で露呈したスピルバーグ監督の「無葛藤世界」の限界。

『voice』1999年3月号
 --福田和也氏との対談。株式会社の有限責任の前提が崩れた以上、新しい資本主義の仕組みが必要とされている。

『voice』1999年8月号
 --GPS誘導爆弾はアメリカに「無証拠爆撃」のオプションを与えた。

『voice』2000年3月号
 --劇画原作者「ながい・みちのり」氏と、韓国映画「シュリ」を褒める。
※ながい氏は今は浜松でくすぶっているが、こういう人こそインターネットをやってほしい。

『voice』2001年5月号
 --武器輸出をしなさい。憲法で明記して。

『voice』2001年6月号
 --イージス艦は長良川の鵜だった。

『正論』1999年6月号
 --北朝鮮の工作船侵入事件の真相をこう見る。

『正論』2001年9月号
 --ディズニー=ブエナビスタ映画『パール・ハーバー』の日本封切り(7.14~)から3週間経過した時点で、『ムルデカ』脚本の直しを指導。

『正論』2002年3月号
 --平成13年12月の奄美沖海戦の経緯を分析。

『武道通信』平成11年11月(通巻8)号~平成14年6月(通巻18)号、(有)杉山穎男事務所刊
 --中学生でも分る兵法を連載。最終回は第10回。この媒体、タテマエは隔月だが、じっさいは不定期刊。※ちなみに「nノ巻」と表記されている巻号はゼロからスタートしているので、通巻より一つ数字が小さい。

『武道通信』平成12年1月(通巻9)号
 --齊藤 浩という本名で、江戸時代の砲術がどうして西欧式の戦術論に発展しなかったか。また連載と別に兵頭の名で、国家はなぜ出来たのか、戦争はなぜ起こるのか、マルクスのどこが間違っていたか、を易しく。

『武道通信』平成12年3月(通巻10)号
 --宮本武蔵を論ずる。日本史は和歌文化と狩猟戦闘文化のせめぎあいである。
 --日本に弩が普及しなかった理由。

『武道通信』平成12年5月(通巻11)号
 --「鎖鎌」はフェイクだった。日本人は400年以上もだまされてきた。本名での寄稿。

『武道通信』平成12年9月(通巻12)号
 --体育学校第1科武道班格闘(徒手格闘)取材。日本初。冊子発売はちょうどシドニー五輪の開催(9月中旬)に同期。

『武道通信』平成12年12月(通巻14)号
 --原潜クルスク事故をあざわらうだけの日本の評論家こそ終わっている。

『武道通信』平成13年6月(通巻15)号
 --企画対談。元寇の勝因は、馬のストレスと和弓の意外な強さにこそあった。

『武道通信』平成13年9月(通巻17)号
 --編集長・前田日明氏との対談。
 --発行人・杉山穎男氏との対談。参議院選挙出馬の顛末。※この参院選期間中に一度、元タイガーマスクの佐山聡さんと一緒に同じ選挙応援カーの上に立って立川駅前で演説をぶったが、佐山さんの大声での話し方が小林よしのりさんとヤケに似ているなあ……との印象を持った。あとで知ったのだが、お二人とも九州のご出身なのだ。

『武道通信』平成13年12月(通巻18)号
 --爆弾テロ史の再発掘。真田幸村の地雷火とは英国 Gunpowder plot の伝聞が反映されているだろう。※実際の発売日は14年1月15日。

『武道通信』平成14年6月(通巻19)号
 --田中光四郎さんとの対談。右翼は民衆の公憤を代弁する行動を、テロでないやりかたで遂行せよ。また、山本常朝は1歳違いの柳沢吉保に倣おうとしたが、あまりの能力格差に絶望、しかも武道の心得もなかったので『葉隠』のようなキチガイめいた叫びでしか鬱憤を晴らせなかったのだ、との仮説発表。

『あぶない28号』第5巻(1999年11月25日)、(株)データハウス刊
 --「自虐」が言論テロである仕組みを対話体で述べる。夏休み前の入稿のため、話題が古いところも。

『TOP JOURNAL』1999年12月号、(株)教育システム刊
 --国家の最悪事態とは、国民の絶滅もしくは総奴隷化である。日本はアメリカの情報支配で後者に向かいつつある。

『TOP JOURNAL』2000年2月号
 --警官諸君は、北朝鮮ゲリラを.38口径で撃つときは必ず2発撃つように。犬を連れずに山の中を追いかけるな。非常線は特に広く張れ。

『TOP JOURNAL』2000年4月号
 --先込め単発長物でない銃器は米国独立精神である憲法に違反している。

『TOP JOURNAL』2000年5月号
 --連載開始。10月号から会話体に。12月号から倍増4ページに。連載は2001年12月号が最終回。

『TOP JOURNAL』2001年2月号
 --特集で井沢元彦氏との対談。発砲マニュアルを定めよ。連載では、橋爪大三郎先生の『天皇の戦争責任』を紹介・書評。

『CYBER SECURITY MANAGEMENT』2002年4月号
 --版元はTJと同じところ。短期3連載の初回。電子戦はメインカルチャーであるから、北朝鮮や中国に日本を攻略できない。そしてNTTの Main Distributing Frame の弛緩した警備からわかるように、日本は米国には勝てない。

『CYBER SECURITY MANAGEMENT』2002年5月号
 --短期連載#2。デジタル画像は拡大してもディテール情報は表れない。だから不審船への対応が停滞してしまった。

『CYBER SECURITY MANAGEMENT』2002年5月号
 --短期連載#3。陸自が持つと中朝に対して「対抗不能」になれる装備は暗視装置である。海保は、60km間隔で海上捜索レーダーを南西諸島に設置せよ。

『週刊ポスト』2000年?月?日号
 --新刊『タミヤ模型全仕事』【?】の書評。タミヤの写真に防衛功労章をくれてやれ。
※この記事の中で実際に撃ち合いのできるラジコン戦車を提案したら、なんとマルイが2001年中に実現していた!

『草思』2001年2月号
 --草思社のPR誌。ミッドウェー海戦の英訳資料が1冊しかないことを問題とす。

『草思』2001年7月号
 --憲法は暴力が作るもの。米国憲法は「単発ライフル」という幸運の産物だった。

『草思』2001年12月号
 --9・11テロについて、前号の鳥居民さんに続いて書いた。米の狙いはパキスタン駐留であることを指摘す。

『歴史読本』2001年7月号(5/24店頭売り)
 --東北地方には実は日本人のキャラを明るく変える可能性があった。少子化で、いよいよそれが証明されるかもしれない。

『小説新潮』平成13年10月号
 --靖国神社に8月15日に行っても仕方がないのだという以前の『諸君』の論を再説。

●新聞記事

“WASHINGTON TIMES”1997年3月23日号、Willis Witter 記者
 --直接インタビューに基づく。核武装論者兵頭がいかに孤立しているか。

『産経新聞』1997年1月6日朝刊
 --国にもキャラクターがあって、日本とアメリカでは一致しないのだ。

『東京新聞』平成10年9月25日夕刊
 --テポドンは騒ぐには及ばない。戦後政治こそが日本の不良資産なのだ。

『東京新聞』11年4月14日夕刊
 --北朝鮮工作船侵入事件は、それを報道したことは新事態だが、侵入そのものは昔からのことだ。

『東京新聞』10年11月8日夕刊
 --湾岸戦争後の無葛藤のアメリカ世相を、映画「プライベート・ライアン」は反映している。

『東京新聞』11年11月14日朝刊
 --保阪正康著『昭和陸軍の研究』評。危険から逃れることしか考えてこなかった日本の庶民の士気沮喪を防ぐためには、指導部は攻勢主義を掲げるしかなかったのかも。

『東京新聞』13年5月20日
 --吉田一彦著『暗号解読戦争』(ビジネス社刊)評。いちばん「人間」を知っている国民が、エスピオナージ戦争の勝者になるだろう。

『東京新聞』13年9月16日
 --ピーター・マース著、江畑謙介訳『海底からの生還』(光人社)評。えひめ丸の引き揚げに生身のダイバーを使うことの不道徳さを強調。入稿は、本が送られてきた翌日という早業であった。

『東京新聞』14年1月13日
 --マイケル・グリフィン著、伊藤力司、小原孝子、渡植貞一郎、浜島高而訳『誰がタリバンを育てたか』(大月書店)評。甘い地域ではないことが分かり、中国匪賊との異同を考えさせ、国際パイプライン競争が学べる。書評は褒める訓練だと開眼。

『東京新聞』14年9月8日
 --小倉利丸編『エシュロン』(七つ森書館)評。欧州議会の既公開リポートの全訳だが、NSAとエシュロンは単純に同一視できないことが呑み込める。米英当局は、巨額の商談をいとも簡単に掌握できた初期衛星通信時代の「ラクな仕事」の味が忘れられないのだ。

隔月『神奈川あけぼの』13年6月15日号
 --連載コラム第一回。なぜ部落差別は西高東低なのか? 日本を暗くしたのは実は西日本文化である。左翼に主導されない東日本独自の運動綱領が必要だろう。

☆大昔の寄稿・投稿には以下のものがある。

新聞:『世界日報』1985~昭和63年頃。
 --とにかく多数。ペンネーム稿もあり。いずれも有料稿。

月刊誌:『現代展望』1985~昭和63年頃。
 --頻繁に寄稿。ペンネーム稿もあり。すべて無料稿。兵頭理論の骨格はすでにこの時代から生まれつつあった。

●月刊誌

『自由』昭和60年5月号
 --貧乏には必然の由来がある。(※本名による投稿。以下同じ)

『自由』昭和60年9月号
 --先進国が肉食を止めてもアフリカの飢餓はなくなりはしない。

『自由』昭和60年11月号
 --ヘリコプターからロープで降りる訓練は全自衛官がやっておかないと日航機事故のような場合に役に立たない。

『自由』昭和61年2月号
 --モスクワに届かない核ミサイルを持っても抑止力にならない。

『自由』昭和61年10月
 --NHKはSW1波あればよい。

『自由』昭和61年12月号
 --山手線を地下鉄化すれば内需は拡大される。自動車車幅税を設けよ。

『自由』昭和62年6月号
 --国民の総合暴力が政府専管の暴力と釣り合わない国体は専制化するのが当然。
日本国憲法は成立していない。

『THIS IS』1987年3月号、読売新聞社刊
 --防衛情報が誰かによってコントロールされている。

『THIS IS』1989年1月号、読売新聞社刊
 --日本は己れの「フォーミュラ」を打ち出せ。ホンダはF1から撤退しろ。

『法学セミナー』1986年7月号
 --国家後援テロには「指名宣戦」の新概念導入が必要だ。

『ラジオライフ』?年6月号
 --匿名投稿。国家秘密法案では「できないこと」を隠すな。

『世界の艦船』1986年10月号
 --ソ連が空母を建造し始めたのは、政治局と軍部の思想の分裂だ。

『世界の艦船』1986年11月号
 --大災害に備えて、多数のヘリが離発艦できる大型救難艦を作れ。
※このへんの投稿を覚えていた若い人が、2000-11出席の「戦前船舶研究会」に居て、驚く。

『世界の艦船』1989年6月号
 --DASHを復活させて、火山偵察や救難や臨検に使え。

“Armd Forces JOURNAL International”1992年6月号、米国ワシントンD.C.
 --トヨタの高機動車は「ジャンビー」である。※あたりまえだが、英文寄稿。

“Armd Forces JOURNAL International”1992年8月号、米国ワシントンD.C.
 --クビンカで見た珍しいソ連試作戦車の報告。

『トランスポート』平成元年12月号、運輸省公報刊
 --飛行艇によるコミュータは難しい。

『週刊新潮』1985年10月3日
 --実名証言。自衛隊は核戦争を想定した訓練をやっていない。

『世代』24号、1987年、神奈川大学人文学会学生部会刊
 --真のヨーロッパ軍縮は戦車を引き離すことで達成されるのだ。

『ワールドアドバンスト大戦略~鋼鉄の戦風~世界新秩序建設マニュアル』1995年10月、セガ・エンタープライゼス刊
 --ゲームの背景説明で、海軍悪玉論。

●講演

・日大工学部・佐久田昌昭先生主宰の未来戦略研究会/エグゼクティブフォーラム
 (平成8年11月、平成9年1月、平成10年2月、平成12年3月)
 ※そのうち1997年1月21日のは、藤岡信勝氏との共同講演。

●テレビの只働き

・?年某日
スーパーモーニングだか何とかいう朝の番組のための録画。フジのお台場の本社までいって、自衛隊の匍匐について説明。じつは「第一~第三匍匐」などという言い方はすでにしていないのだが……。これが驚くべきことにノーギャラ。請負プロダクションだったのだ。「二度とテレビの誘いには応ぜん」と決意した体験だった。しかし群馬の軍事研究家・長浜康隆さんがこの放送を見たと言ってきたので、改めてTVの「数%」の視聴率の数字の意味する影響力を痛感はした。


旧友からのFAX

(2002/11/17に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

前略 ヤーボー丼 買いました。
まだ読みきっていませんが、相変わらずの切り口
昔から慣れ親しんでいるせいか、苦にならずに読めます。
読み進めていくと思うのは、少し、自棄になっているみたいですね。
学級新聞ではないのでもう少しまじめに取り組めば・・・と、思います。
帝国陸軍の小火器の訂正は、楽しく読めました。

 何もできませんが、創作活動に携われることをお祈りしています。
金を払う大衆は、結局、浪花節とか、友情とか、強さとかが好きみたいですね。
それを、どう奇抜なシチュエーションで描くかが、
クリエイターの仕事のようです。
今、はやっている、映画のほとんどがそうですからね。
僕も、相変わらずだなー、と思いながら、食傷気味になりながら、見ています。
また、会う日を楽しみにしています。

コンボイ鈴鹿(仮名)1997/5/5 夜


管理人注:当たり前ですが、「旧友」といっても管理人の旧友ではありません。コンボイ鈴鹿氏(仮名)がどのような方なのかは、このサイトの何処かに載ってます。


東京の歩き方

(2002/11/17に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(前略)

説明は省略し、手短に申しますが、”管理人”様は余暇を利用され、東京都内のバス路線を全部、試乗するといい。「路線図」は、バスの定期売場(たとえば渋谷駅ならば東口のバスターミナルの歩道橋下にある)でタダで呉れます。東京を知るには、一にバス、二に自転車、三に歩き—で究めることが必要だと小生は確信します。
鉄道/地下鉄にいくら乗っても、東京は理解できん。これを私は、何年もかかって悟りました。
 さらにまた結論だけ申します。
小生は、東京都区部では「江東区」がベストだと思いました。『戦マ』を飛び出した後、一時、警備員のバイトをした町であったことも関係があるかもしれません。とにかく今、懐かしく思い出せるのは、東京都では、江東区だけであります。
 それから、隅田川、荒川、江戸川の水上バスも、全部試乗されることをお薦めします。最初は、葛西臨海公園から日の出桟橋に行くやつに、天気の好い日に乗ってみて下さい。
 さらにそこから船を代え、隅田川を遡り、浅草の「花やしき」へフラリと立ち寄ってみて下さい。東京都についての考えが変わります。缶ビールは船内で買えます。
 それから、「博物館」も、しらみつぶしに全部回られると良い。地方でなく、東京にしかない価値あるものの一つです。そして、東京都民は案外、そういうところに行かないのです。
 これらの「探検」のためには、縮尺が「1万5000分の1」の都市地図帳が必要です。1冊数千円し、ちょっと高いと思われるかもしれませんが、これさえ持っていれば、決して道に迷うことはなくなる。未知の施設も分る。必需品です。
 なぜ小生が、「高搭」だとか「ロープウェイ」だとか「遊覧船」に興味を抱くか、東京探検を通じて、分って戴けるだろうとも思います。

不一 敬具

(後略)

兵頭 二十八 拝
(2002/11/某日)


管理人注:当然ですが「”管理人”」には本来私の名前が入ってます。返事の際、私が「東京はごはんも高くて、ゴミの分別も煩くて……だったら世のゴミみたいな連中をまずどっかに埋めてから言え!などと、思います」とかやたらにダメな厭東京な事を書いてたので、先生が東京の知り方を教えてくださったのでしょう。ありがとうございます。