外務省工作局が逆に国務省を操りだしているのではないか。反防衛省の目的で。

 『voice』の9月号を拝読しての偶懐。
 マッカーサーが日本の「セルフディフェンス」を認めたことなど一度もなかったのではないかという『正論』8月号での兵頭の質問に渡部教授は、『正論』9月号だけでなく『voice』の連載においても、お答えになる気はおありにはならないのだと拝見をいたしました。
 いかにも「自衛」の解釈権は各国にあるのでしたが、それを列国に説得する義務もまた各国に課せられていたのです。スターリンは、日本は侵略者であるとまず演説し、それに対して自衛するという論法で、自国も批准しているパリ不戦条約を尊重する姿勢を世界に示し、その上で対日開戦しました。やっていることは野性の熊と同じでも、言葉の上で、「近代」というものが分かっていたわけです。
 ところが対照的に昭和16年の日本は、その説得に失敗している……というより、12月8日の大本営発表が端的にあらわしているように、これが自衛戦争であるという自己説明の努力などまるっきり最初からしなくてもよいのだという態度でした。その、言葉を軽視する精神が、あまりにも不逞なのです。インドなどとは違ってレッキとした大国でありながら、その不逞精神を表出した。そこが、グロチウスいらいの近代啓蒙精神を大きく後退させるものだとして米国の法律家から顰蹙され、日本人は約束を破ることを恥じぬ反道徳的国民だとも判断され、市街地を焼き払う作戦までもが正当化されてしまったのです。帝国陸軍参謀本部がソ連に対して、また帝国海軍軍令部がアメリカに対して、それぞれ奇襲開戦による国防しか考えるつもりがなかったのが戦前の日本。ならば、統帥大権を名目的に有する近代天皇の名においてパリ不戦条約を批准すべきではありませんでした。大国が公的に約束したことは、外見的に尊重しなければ、シナなどの中小国はますます条約を尊重せず、世界の秩序と安全は減るばかりでしょう。渡部教授らには、ここがわからない。おそらく一生、おわかりにはなりますまい。イスラエルのオシラク原発爆撃は自衛であるとイスラエル政府によって説明されました。多くの日本人はそれには説得力があると感じました。12月8日の中立国民の立場になってみて、開戦詔勅の「自存自衛」に、誰が説得力を感じたでしょうか。誰がまず日本もしくは日本の同盟国を侵略したのか。誰がまず東京を毒ガス空襲しようとしていたのか。
 鳥居民氏の雑誌対談は、自著新刊のダイジェストにもなっているようですので、いつも有り難い企画です。今回、鳥居氏は、「本来なら、たとえば英国は海軍が強くて陸軍は付けたり。米国も第二次世界大戦前までは同じです」(p.120)と発言しておられますね。
 「戦争大臣」は英国では戦前から陸相のことを指し、海相ではありませんでした。「戦争長官」は米国では戦前から陸軍長官のことを指し、米西戦争やメキシコ戦争の前後でも、海軍長官は閣内で遥かに格下の若輩者用ポストでした。考えてみましょう。イギリス海軍だけでどうしてナポレオンの間接侵略を防げたはずがあるでしょうか。アメリカ海軍だけでどうして大英帝国から独立し、領土を何倍にも拡大できたはずがあるでしょうか。残念ながら鳥居氏もまた、統帥一元の本義を掴んではおられず、日本海軍だけがあまりに異常で特殊であったことを、掴んでおられないのです。日本海軍の宣伝に、旧陸軍がやられたように、鳥居氏も、やられているのです。
 またこれは鳥居氏が既著でも書かれていたことだと記憶いたしますが、昭和16年11月30日の時点で海軍(永野)の本心は対米戦をしたくなかったのだと鳥居氏は確信しているご様子。そして、木戸が、その避戦のチャンスを潰したのである、と。この見方を現在でも鳥居氏は、維持しておられることが今回の対談で分かります。兵頭の見方は逆です。高松宮は永野の口先に騙されたか、あるいは何かのアリバイ工作の必要を感じて、昭和天皇を混乱させたのでしょう。児玉源太郎の子孫である木戸は、永野の本心(=対米開戦奇襲をすぐやるべし)を完全に承知し、同意していたでしょう。
 昭和16年時点で、陸軍も海軍も、パリ不戦条約を無視する奇襲開戦戦争しか頭になかったこと、しかも、統帥二元制度のおかげで海軍が陸軍の対ソ戦争プランの発動を頭から拒否できるために、陸軍としてはまず海軍の対米戦争プランに協力してやる必要があったこと。これをいまだに掴めない歴史整理の典型が、猪瀬直樹氏の新刊『空気と戦争』でしょうか。もちろん、各雑誌の新刊紹介文だけで、わたしは現物は読んじゃいないのですが。
 他誌の新刊紹介文によれば、猪瀬氏は、支那駐屯軍や支那派遣軍は不良資産だったと言っているようです。兵頭は、満州国こそが不良資産だったと考える。日本海海戦でロシア海軍が消滅し、またポーツマス条約で南樺太を獲得できた時点で、ロシア軍が北の樺太と南の朝鮮半島から日本本土をうかがうという、幕末いらいの日本の防衛不能の最悪事態は、やっと避けられることになりました。その時点で、満州の確保も、朝鮮半島の確保も、日本にとっては必要ではなくなったのです。しかし極度に労働集約的な日本式水稲作の農村から兵隊を動員してしまった以上は、その銃後への大損害の埋め合わせとして、政治家は、外国の領土と資源を分捕ってトータルで得をしたのだという国内向けの宣伝の配慮が必要でした。また帝国陸軍は、対ソ奇襲開戦のために満鉄を日常支配している必要があったので、満州事変も起こされた。ところが満州国の後背にはシナがある。ソ連としては、満州の日本軍を「近-近」でトポロジカルに挟み撃ちすべく、北支を反日化orソ連化させようと、とうぜん努力します。日本陸軍は、そのソ連に対抗して満州を確保しつづけるために、北支分離工作をせにゃらならなくなった。これは空気なんかじゃなく、リアルな要請があったんです。東條が「防共駐兵」と叫んだのは、それをしないと満州が南北から挟み撃ちされ、逆に満州と北支の日本軍が外蒙経由でソ連軍から背面奇襲をくらい、包囲殲滅される立場に陥るという危機意識でした。しかし、かりに北支を「明朗化」できたとしても、そのさらに後背には南支がありますから、こんどはソ連は南支工作や西域工作を続けたことでしょう。オセロゲームのように際限がなかった。しかもWWI以降は、奇襲は鉄道より先に飛行機でするものになっていました。関東軍がシベリアのソ連空軍基地に奇襲をかけようと大々的に準備を整えれば、一瞬はやく、ソ連はそれを察して逆に先手をとって航空奇襲を満州の陸軍基地へ、かけてこられる。梅津が見るところ、ソ連には、それほど隙がなかった。満鉄も空から爆撃されてしまうでしょう。関東軍がいくら満鉄を確保していようと、対ソ奇襲開戦などはできなくなった。だから関特演も対ソ戦にはつなげられなかった。もう、満州そのものが、日本の国防にとっての不良資産になったのです。海軍は、それに海南島をつけくわえてくれた。日米交渉で、海南島からは絶対に出て行かないとゴネて、日米交渉がまとまらないようにしています。海南島には防共の意味もなく、誰が見ても「領土的野心」ですよ。阿呆なシベリア干渉の代わりに、北樺太に傀儡ロシア政権を樹てておけば、それは良い資産になったはずでしたが……。
 かくして、陸軍の対ソ航空奇襲はとうてい不可能になったものの、海軍の対米奇襲(それは航空奇襲と潜水艦奇襲からなる)は、ひきつづき、容易と見られました。ですから、ドイツと連合しての対ソ戦をやってみたくてたまらない陸軍は、まず海軍に対米奇襲してもらうことを歓迎したのです。
 ところで防衛省は、このままでは国務省と結託した外務省によって潰されるから、逆襲しなければダメだ。省内に、勝手に「スパイ調査班」をつくり、「○○党の××代議士はシナからカネを貰っているスパイだ」「△△省の▼▼課長は国務省と結託して日本を売った」と勝手に天下にバラしていくことだ。そこまでやって、はじめて米国防総省は、日本にもっと秘密を知らせてもよいだろう、と考え直してくれるだろう。


シーファー事件を風化させるな

 米下院決議は米行政府とは無関係ゆえ、日本の衆議院議員が何の反論もしないというなら、これは日本の有権者が招致した自業自得としか言えず、いまさら評論家風情が騒いでもとりかえしのつかぬことだが、その前の「シーファー発言」だけは看過してはならない。あれこそ「事件」でありスキャンダルでもあって、日本の行政府は、キッチリと落とし前をつけて行かなければならない。安倍氏はそれを片付けてから辞任すべきだ。
 そもそもコーノ談話を踏襲しろなどという大それた内政干渉をどうして小者のシーファー氏などに出来たか。これは御本人の発案/決心ではもちろんあり得ぬ。肱を曳き、背中を押した反日プロッター一味が存在する。
 いやしくも駐日大使に特種な発言をなさしめ得る者は、本国政府(大統領府・国務省)か、日本外務省以外にない。
 殊にシーファー発言のような驚くべき内政干渉は、この両筋が同意しなければ出されない。
 つまり、日本外務省が、これより参院選を戦わんとしていた安倍内閣を、裏切ったのだとしか推理はできないであろう。
 ではなんの理由で裏切ったのか? 外務省と関係がない日本人の有志が全米の一流紙に大きなカウンタープロパガンダ広告を打ったのが、彼ら無能役人のナワバリを冒す行為と受けとめられ、反感されたのも、一つの背景ではあろう。しかしそれは、理由としてはケチなものであろう。米国の一部政治グループとの、将来を計算した結託が進んでいるのか? 真相は深い霧に覆われている。
 1924年に駐米大使が上院に送った書簡の一形容詞を、ハースト系新聞と反日議員が〈これは脅迫だ。米国は威嚇された〉とフレームアップし、排日移民法の成立阻止のために、ぜんぜんならなかったことがある。
 こんかいの決議前に駐米大使館から米下院に送ったとかいうメッセージの文言を、仔細に検討してみるといい。どうせ、1924年の二の轍を避けるどころか、むしろ1924年の二の舞になることを密かに欲するかのように、意図的に下院を焚き付け、燃料を提供する、巧妙に挑発的な手抜き文章だろう。わたしは直感する。外務省の総意として、反安倍のサボタージュをやっているのだ。そして安倍氏は、それを厭でも知らされつつも、外務省を懲罰することはできなかった。ヘタレである。知らなかったとしたなら、タラズ(北陸方言)である。
 さすがに米国下院も大正時代よりはずいぶん体裁づくりが進化していて、駐米大使からのメッセージの言葉尻を捉えて、怒り狂ってみせるなどという稚拙なパフォーマンスは誰も演じなかったのみか、決議を参院選の後まで延期したのであった。大人である。これよりしてみても、いよいよもって、シーファー発言の異常性が、際立ってくるではないか。「事件」がたくらまれたのだ。そして戦犯グループは、誰一人、指さされてもいない。


なぜシーファー氏にペルソナノングラタを突きつけられないか

 慰安婦プロパガンダに反対する新聞広告の主旨に真っ向から反対する声明を駐日大使が出した以上、安倍内閣は直ちにシーファー大使に真意を公式に問い詰め、公式の撤回がなければ、すぐに続いて「好ましからざる人物」を宣告すべきであった。この小者級の大使が東京から消えたところで、日米関係が破壊されることなどなかったのは言うまでもないことであろう。
 そして次の駐日大使候補者に日本国政府としてアグレマンを出すかどうかは、このたびの慰安婦プロパガンダに反対するわれわれの新聞広告の主旨をその候補者が事前に公式に受け入れるのかどうかで判定する――とすべきであった。
 米国連邦議会の議員がカネまみれであることや、特にその下院が日本に関してイカレた決議を出す癖があるのは大正時代からのことで、こんなことに驚いていたら外交はできないはずだ。不愉快な決議が遂に出されてしまったのは、シナの工作に夙にドライブがかかっていることを1年前からさんざん警告されておきながら、なにゆえか安倍内閣が、内外の民間人にそのカウンタープロパガンダ工作を依頼せず、さいしょから対外宣伝は絶対にできない公務員組織であることが知れている、脛に大きな傷を持った外務省などに、全対応を丸投げし続けたせいである。こんどの選挙の負けっぷりを見ても、安倍氏は小沢民主党に対するネガティヴキャンペーンすら打てていない。安倍氏の戦闘的宣伝指揮官としての無能はいよいよ証明されてしまったのであり、彼の賞味期限はもう終わった。
 米国の行政府と議会は憲法上、完全に独立である。だから、日本政府から、対連邦議会工作を表立って大統領府に要求するのは、筋が違う。相手国の憲法を軽視しているとすらとられかねない。
 米下院の決議に真っ先に対抗する責任のあるのは、日本の内閣ではなく、日本の国会の下院たる衆議院なのだ。然るをわが衆院は、日本にとって不名誉な米下院の決議を聞きながら、何の対抗決議も、抗議行動もしなかった。その役に立たない衆議院議員たちは、民主的な選挙で選ばれているのだ。つまり今回の不祥事は、日本の有権者のヘタレが引き起こしている自業自得と言って過言ではない。
 日本国民の直接抗議の手紙攻勢やデモ攻勢が、アメリカ大使館に対してあるべきであった。しかしこれはあきれるほどに僅かなものであった。ヘタレ衆議院議員に仕事をさせている日本のヘタレ有権者が、米大使館に対する直接抗議など、するわけもない。
 米国の「五ヵ年計画」は、陸上自衛隊をシナ周辺地域に派兵して、シナ軍にバックアップされた敵勢力と戦闘させることが一つの目標である。この「五ヵ年計画」を呑んだ自民党リーダーは、米国政権から有形無形の長期のサポートがうけられ、参院選で大敗しても辞任しなくて済むのだが、そのかわり、今回のシーファー氏のような非理非道の干渉をこれからも受け続けると覚悟しなければならない。
 ユーラシア大陸での陸戦は、「歩兵の数×居座り時間」が勝負である。昭和十年代、100万の日本軍が永久にシナ大陸に居座るだろうと見られ、シナ大陸から一人の日本兵もいなくなるとは夢想すらもできなかった頃には、あの蒋介石すら、何度も屈服しかけた。しかし戦後の日本軍に、永久居座り戦争は戦えない。米軍が苦しんでいるイラクの軍政の肩代わりのようなマネは、したくともできないのだ。
 したがって、いくら装備や訓練がシナ軍よりも優れていようが、最後の敗北は日本軍の側にあるだろう。哀れな武器オタクと空自がこだわるF-22など、あってもなくてもこの結果を左右しない。
 海上紛争はどうか? シナの海軍兵器はいかにも天下のボロである。しかしシナ側には核兵器がある。飛行機や船で負けても、核の発射までエスカレートして行けるのだ。どうじに民衆暴動をいくらでも煽動できるのだ。日本軍には北京の天井なしのエスカレーションを日本のイニシアチブで抑止すべき、自前の核兵備がない。したがって、エスカレーションの最初の段階で、敗北の結果を予測して、投了するしかない。
 アメリカは、日本に核武装をさせずに、日本の陸海軍にシナ軍と戦闘させようと考えているのだが、これに応ずることは、日本の必敗であって、国益に反する。
 シナに関しては、日米同盟はどうやっても機能しない。「五ヵ年計画」で日本の憲法をどう変えても、ユーラシアでの陸戦および核エスカレーションのリアリティ、日本とアメリカのシナからの距離の不均等を、変更させることはできない。
 シナに関して日米同盟が機能するとしたら、それは日本が核武装したときだけである。これを米国の「五ヵ年計画」に書き込ませることのできる政治家が、兵頭の支持できる政治家である。


校正根性

 東中野修道氏著の8月の最新刊『再現 南京戦』の中に誤記を見出したので、2刷で修正されることを期し、以下に指摘したい。
 49頁。「R」や「i」などの軍隊符号が「英語表記」だとしてあるが、これは独語表記である。英語と独語の頭文字が偶然合致することもあけれども、当然、異なることもあります。
 たとえば「加農」は英語では頭文字がCになるが独語ではKだ。「騎兵」もまったく同様の違いが生ずる。
 本書79頁の「10K」は「独立野戦重砲兵第十五連隊のこと」ではない。これは「十糎加農」、すなわち105mmのカノン砲のバッテリーを示している。
 野戦重砲の火砲装備には、十五糎=152ミリ榴弾砲(十五榴、もしくは15H)と105ミリ加農(十加、もしくは10K)の二種類があったのです。
 砲兵部隊も、輜重と同様、自衛の小火器をほとんどもっていませんでしたから、それを知っていたシナ兵は、好んで襲い掛かってきたのです。それで、一部の砲兵隊も、しかたなく「竹槍」を装備していました。
 しかし最近の草思社は良い仕事してますね。惜しむらくは、南京の単行本は、タイトルがみな、類似品のようなものになってしまうため、ここ1~2年のあいだに、じつは「なかった派」「幻派」こそが正確であったのだという真相解明に近づいていることが、世間に伝わりにくいことでしょう。「ああまたか」と思われてしまっています。
 ところで今度の選挙にシナ政府はどんな干渉をしたのだろうか?
 2005の郵政選挙のときは、胡錦濤が投票日の2日前に、軍艦3隻をガス田に派遣し、小泉氏を金縛りにして靖国参拝を阻止しましたよね。もし参拝すれば北京とNYTと民主党(岡田党首)がコラボして大騒ぎにする手筈だった。では、果たして今回は、陰でいかなる術策を弄したのか。そろそろ、どこかから、リークが聞こえてきても良い頃だと思いますが……。


惨文

 まずオレが福田和也氏の文章を読むにあたって、他人の棚卸しをする公正さを維持できているかどうかは10日発売の文春文庫『乃木希典』の巻末解説を一読してもらおう。
 ついでに告白するがオレは福田氏の他の雑誌掲載記事は、もうまったくといっていいほど、読んでいない。理由は、最近はどこが面白いのか分からんからである。〈それは、兵頭が無能なのだろう〉と思う人、あなたは正しいかもしれない。
 できれば週刊新潮だったか週刊文春であったかの氏の時事系の連載コラムぐらいは目を通したいとかつては念じていたが、あいにくこうした週刊誌は、常連寄稿者でもないオレの家には、タダでは郵送されて来やがらないのだ。書店で買えば、北海道では東京よりも3日遅れくらいになるゆえ、このインターネット時代には、カネを出す気にならんのである。悪くとらんで欲しい。
 で、どうしてもこの欄で表明しておくべきことがあるので、以下に書きたい。
 『文藝春秋』『諸君!』『voice』『正論』の4つの保守系と分類される月刊誌に軒並み、福田氏の連載評伝小説が同時連載されている姿、これは異常であり、且つまたどうみても、現下の日本の出版業界の恥である。
 というのはオレのあくまで下司なグリーンな僻目であるが、福田氏は司馬や清張と互角の小説家とは評し難いのだ。日本に他に、もっと読んで楽しい文章が書ける、あるいはもっと驚くようなオリジナルな見解を抱懐する書き手はいないのか、という疑問を、中正の立場の読者も持っているのじゃないか。特に『諸君!』の「山本五十六」はひどいものだ。オレは『東京裁判の謎を解く』で最新の日本海軍悪玉論を呈示しているのに、それが全然スルーされっ放しで、えらい昔のオレの本から、何度も長い引用がなされている(と、一読者の人から知らされた。スイマセン、読んでなくて)。これは正直言って、迷惑だ。
 数ヶ月前に、『諸君!』の編集長が、内田さんという人に代わった。オレの若惚けの記憶にまだ間違いがなくば、内田さんは昔の「地ひらく」の担当もやっていた。「地ひらく」と「山本五十六」のあまりの段差(と想像で言うが、たいへん申し訳ないことに、オレは『地ひらく』も後半は読み通せなかった)に、あきれかえった内田さんは、目下、連載を休止させて、福田氏に強談判中なのではないか。つまり手抜きをやめてくれるか、さもなくば、連載を早期に切り上げると。
 『諸君!』の8月号を拝見すると、ナナメ読みで申し訳ないが、編集長が、情報のオリジナリティを重視しているのが窺え、好感できる。かなりハイブラウの読者層に照準を合わせ直していると感じた。
 連載の途中切り上げの前例としては、今の中瀬さんが、『新潮45』の編集長に就いた直後に、一本のじつにイライラするような海軍小説の連載を打ち切ったためしがある。
 評論を小説形式で世に問おうとするスタイルは、今のおちつかない世相には、マッチしなくなっているとオレは考える。妄想家の松本清張氏にとっては、小説形式と評論は、たぶん不可分であった。分析家の司馬遼太郎氏は、最後には小説形式など、わずらわしくてたまらなくなった。
 いまの世相にマッチするのは、読者の自由時間を拘束することの過度でない、短いオリジナルな評論だろう。すこぶるオリジナリティが高いのであれば、延々と続く雑誌連載としても、読者は、飽きないでついてきてくれるだろう。だが、オリジナリティが薄いものならば、それに合わせて全体の長さを縮めるべきである。オレはそのことをハードカバーの『乃木希典』の書評でも示唆したつもりだったが、福田氏にそれが伝わらなかったとしたなら、甚だ残念だ。が、分かっていて、稿料のために長い評伝形式を選んでいるのならば、オレが言うべきことは、ここで述べた以上には、もう無い。


歴史の進め方

 前々回の参院選で、いまはない徳田さんの自由連合が、個人としてはおそろしく潤沢な資金を突っ込んで、一挙に多数のタレント/無名候補を擁立して大バクチに打って出たものだ。(今にして思えば、徳田氏は自分の健康について予感があったかもしれない。)
 このときの選挙では、一水会が徳田氏に賭けて、文字通り粉骨の応援に出た。比較しては双方に悪いかもしれぬけれども、今回の選挙で瀬戸氏のよびかけた「新風連」が、維新政党・新風の応援を買って出たコラボの先蹤だ。
 プロレス系では、佐山聡氏(落選)の他に、前田日明氏にも徳田氏から誘いが行った。が、前田氏(被選挙権は既に有り)は固辞したので、懇意の週プロ元編集長の杉山さんが面白ずくの代打で立候補することになったのである。とうぜん、『武道通信』の仲間であるわたしは、政権放送原稿書き、マイクを握っての首都圏駅頭演説、桃太郎までをも含む、さまざまな応援をした。(ちなみにわたしが武通にかかわるようになったのも、一水会に呼ばれて講演したのが縁である。)
 開票の結果は1600票台ではなかったかと記憶する。
 杉山さんには申し訳ないが、「頴男」なんていう、週プロ/格通の平均的読者だって読めもしないし、もちろん書けもしないと思われる名前表記を、意固地にひらがなにすることを拒否し通した、わからず屋の真正泡沫候補者が、当時は今ほども注目されていなかった「武士道」だけを訴えて、全国の1600人以上の、たぶんは会ったこともない有権者に、おそらくは一度も聞いたことがない自分の名前を書かせたという事実が、たいへん印象的で、忘れられぬ。
 この前々回の参院選につきあってみて、わたしが学べたこと、考えを深めることができたことは、甚だ多い。それは、いまだに整理し切れぬほどである。
 まず、強力な集票マシーンたる特殊な組織にいっさい所属していない無名候補は、地上波のテレビ映像を味方につけない限り、万単位で票をあつめることは、できるわけがないのだと実感できた。(当時すでにインターネットはあったが、反朝鮮を露骨に打ち出さない右翼系に関してはインターネット宣伝の手応えはゼロであった。)
 したがって、「電波利権」構造のために東京のキーTV局数がごく限られている日本では、テレビが、国政選挙や地方選挙を簡単に左右できる。
 そのテレビを利用できるかどうかが、泡沫タレント候補の当落の分かれ目になるが、当選するタレントと落選するタレントの違いは、やはり「語力」である。
 ここぞという場面で、ちゃんとした日本語の演説ができない人は、テレビにもとりあげてもらえないのだ。やはり、面白くないのだ。
 思想がどうこうの前に、語る言葉に安定感があるかどうか、である。現に国会議員になっている「タレント議員」には、平均的日本人以上の日本語力が、やはり、ある。タレント議員/知事等を馬鹿にしている人こそ世間知らずである。タレント議員は、自分の語っている言葉が、視聴者にどのような感覚を発生させているか、語りながらモニターし、フィードバックできているのだ。確かにタレント=才能だ。テレビも、有権者も、そこでまず安心ができるのだ。
 次に、選挙カーに同乗して駅前から駅前と飛び回れば、誰にもじきに分かってくることは、わけのわからぬイヤガラセを仕掛けてくるのがたいてい、公明党か共産党、そのどちらかの組織構成員だということだ。これが、当該2党をのぞく、自民党以下のすべての議員および選挙スタッフの体験的心象だろう。
 であるから、苟くもじっさいに自分で選挙を戦って議会に席を得た者であるならば、この2党とのコラボなど、まったく考えられもしないのである。理屈の上ではあり得ても、感情の上で、そんなことは不可能なのだ。(共産党はワサビになる、などと好感している甘チャンは、選挙活動を自分でやったことのない万年アウトサイダーだけに違いない。)その心情は、政治的には、理性にも近いのだ。思想統制集団の非国体的・非日本的なおそろしさの一端に、体感が警告しているのである。
 ところがその不可能なはずのコラボを、小沢氏は始めてしまった。
 禁断の侵襲が加えられ、公明党の増殖が励起され、ついに異物は自民党に転移し、自民党を変異させようとしている。今回の参院選での自民党の低調の原因には、公明党という異物に全身を冒された自民党の活力低下もあるのだろう。早く切除して自力回復を計る良い潮だろう。公明党といっしょに改正する憲法なんて、誰が歓迎するものか。いいかげんにしてもらおう。
 維新政党・新風は、前々回の乱立選挙の前から参院選に参戦しており、今回の参議院選挙がチャレンジ4回目。全国に地方組織ができているから、次回の参院選の前に消えてしまうようなこともなかろう。
 新風は、過去3回は、テレビ局にもテレビ視聴者にもまったく無視された。(わたしも最初の2回は、聞いた覚えすらない。)政見放送は誰の印象にも残らず、注目区で候補者が他候補と対等の扱いを受けたこともないだろう。が、今回は、テレビ局には「無視」という逆の形で注目された。破られたポスターは、一番多いだろう。
 これは、瀬戸氏のキャラクターおよび、瀬戸氏が勝手連として呼びかけたインターネット活動の「新風連」のおかげである。「新風連」にとっては、今回が最初の参院選だったことに注目すべきである。新風の若手党員が、新風連と提携し、それが、魚谷氏ら幹部を動かしたものと思う。
 以下は兵頭の邪推だが、過去3回の新風(の謎のスポンサー氏たち)のスタンスは、次のようなものだったに違いない。
 ――議席なんかどうでもいい。票なんか増えなくてもいいんだ。三年に一度、全国放送のNHK-TVでオレたちの熱い思いを込めた政見放送の原稿を読み上げることができさえすれば、それが無上の価値である。そのために、三年に一度、比例区のある参院選に必要な一億円くらいはつくろうじゃないか――。
 おそらく、このように考える者が資金を担っていればこそ、新風のビラやポスターや宣伝カーのテープは、どうしようもない出来栄えのまま恒久不変なのであり、新風の綱領はアナクロのままで良いのである。外野の兵頭の提案など聞かれないのである。カネを出す者が、広宣する。それで文句はないはずだ。
 国会に議席を有していない新風は、衆議院選挙では、全国向けの政見放送をNHK-TVでする政党の権利が与えられないから、衆院選挙はスルー。また、参院選に使うくらいの資金を地方議会選挙に固めて投入すれば、1議席はとれるだろうが、それではやはり全国向けの熱い思いの宣伝ができないから、やはりスルー。
 つまり、過去3回は、議席を取ろうなんて気がなかった。議席を得ての「政治」ではなく、「政治運動」こそが最終目的だったのだ。
 ところが瀬戸氏の「語力」が絶妙にネット右翼にアピールし、ひょっとすると比例で1議席行けるんじゃないかという気運が若い党員にみなぎった。それが新風の幹部も動かして、今回、はじめて、本当に議席を取りにいく気で、参院選が戦われた。
 よくぞ「アノニマスのスポンサー」氏たちが同意したものだと思う。なにしろ、数千万円を賭けたNHKの政見放送で、瀬戸氏に半分しゃべらせようというんだから。
 だが、この路線変更はあまりに倉卒であった。新風連を組み込んだ選挙戦の準備時間がとれず、必要な票数には到達しなかった。たぶん、瀬戸氏とタッグを組んで3年準備していれば、結果はまったく違い、楽に1議席を決めることができたかもしれない。
 いかに党の方針転換が倉卒で素人臭かったか。わたしは瀬戸氏とは一面識もないので、もし以下のわたしの認識ならびに推定が間違っていたら、ただちに訂正しなければならぬが、魚谷氏以下の党の幹部は、瀬戸氏にすすめられて、例のT女史を新風から立候補させる気だったらしい。
 T女史は、それにいったん同意をした後、当初は納得していたはずの、維新政党・新風の党名や主張を変えてくれとか、いろいろな難題を要求してきたらしい。と同時に、この噂を聴きつけた、旧軍人系の支持者が、東條氏と松井大将系の旧軍将校との悶着のある事実も、魚谷党首に注進した。(わたしは同党のインサイダーではなく、T女史をかつぐという話は、決裂後に知らされた。)
 伊豆半島にある「興亜観音」は、松井石根未亡人らが出資した基本財産の金利で運営されている。松井未亡人が数百万を寄付し、別な方が数百万を寄付し、トータルで1200万円くらいだろうか。平成6年に「興亜観音を守る会」になっている。A級死刑7人のうち、他の6人の遺族は関係をもっていなかったのだが、そこに岩波女史があらわれ、山の中に福祉施設をつくるので出資がどうのという話になり……。
 まあ、詳しい事情は「興亜観音を守る会」に尋ねたら、裁判のことも含めてすべて説明してくれるのだが、T女史はわたしの僻目では、「東條英機」で世渡りをなさっている御方のように印象せられる。
 このT女史かつぎ出し案がポシャッたので、急遽、瀬戸氏みずからが出馬と決まったのである。なんという慌しさ。もちろんわたしは、新風が候補を立てるなら、勝てるのは瀬戸氏だけだと確信し、このニュースを歓迎した。
 議席を取りにいく選挙とするならば、次の点がただちに変更されるべきであった。
1.政見放送は100回くらいリハーサルすること。(かの有名な外山候補は、おびただしくカメリハを重ねてから収録に臨んだらしいぞ。)
2.ポスターは、特にキャラ立ちしている一部の候補を除いては、顔写真は使わせず、文字だけか、顔イラストにさしかえること。徹底してバーチャルイメージで勝負させるため。
3.比例区のポスターは、運動員の数からして、貼れる枚数はたかが知れているのだから、許されるいちばん大きなサイズとし、且つ、政策を文字でビッシリ表示しておくこと。
4.街宣テープは兵頭案を採用すること。(いや、もっとすごい原稿があれば、そちらでも良いのですよ。)
5・ビラのデザインや内容も一新すること。
 ……しかし、準備時間がまったく取れないために、けっきょく、議席を狙わない前回の宣伝選挙の諸道具のまま、告示を迎えてしまった。
 それでも、これまでの政治運動団体が、議席を取りに行く政党に、一瞬にして脱皮できたことは、愉快ではないか。
 その脱皮をさせたのは、瀬戸氏と、新風連と、維新政党・新風の若い党員たちの働きである。
 安倍氏はもうダメだろう。安倍氏の顔では、こんごのどんな選挙も戦えまい。自民党に「隠し玉」の後継人材がないのだとすれば、これから国政は大いに混乱するだろう。
 思想統制組織が、きょうびは、流行らないことも確認できたと思う。テレビによる国民衆愚化にもかかわらず、近代的自我は、まだ朽ちてはいないのだ。自由ばんざい。


そらだま注意報!

 支持部に箸立てを利用する場合。基部と筒部をつなぐ螺子の部分の緊度が弱いものは、強風で筒部から上が飛ばされます。接着剤で、螺子部分をスポット接着することで、この事故は防止できるでしょう。
 白票や無効票は、無意味なのか?
 いいえ。大いに意味があります。
 特に地方区における白票は、「好める候補者はないが、投票日にわざわざ投票場に出向いて自分の一票を投ずるだけの元気なモチベーションとフットワークを保持している有権者が、ここに一人いたぞ」という事実の、強烈なPRになるでしょう。
 その票数は、動かしがたい記録として残されて、選挙後の各党の国会での行動を、微妙に変更させる力を持ち続けます。
 なぜなら彼/彼女は、怒っているのか、不満であるかのどちらかに違いないからです。
 次の衆院選でその怒りの蒸気圧を解放する政党/候補者があらわれれば、その政治的エネルギーはまったくあなどれない――と考えられるからです。
 申すまでもなく、白票をわざわざ投じた有権者が、「組織票頼み」として世に知られている複数の古い政治団体の忠実な構成員などではないことは、特殊な選挙区でなかった場合、自明ですよね。つまり、組織票を頼まない or 頼めない諸政党としては、その数字を見て、「もっかの路線では、これだけの白票投票者の歓心を得られなかった」との反省が生まれなければなりません。
 逆に、組織票頼みの古い政治団体としましても、「この白票が次の衆議院選挙でライバル党の方に吸い上げられたら、どういうことになるのか」と気を回すはずです。
 ですから、あまり非常識な法律が、選挙後についたはずみでいきおいよく次々成立……というような流れになることは、防ぐことができるのです。
 かりにもし、「無効票にするのは損な気がするから、気乗りはしないのだが、どこかへ一票をいれておくか」という行動をすべての有権者がとり、白票がゼロだったとしましょう。選挙後の各政党は、次の国政選挙までの間、何を考えるでしょうか?
 党の既成路線について、自省をしてみるでしょうか? 日本国内の怒りと不満の蒸気圧の潜在について、なにか想像をするでしょうか? まったく新しい政策を創始しなくてはならないと覚らされ、工夫を凝らしてみるでしょうか? 
 また、「この白票の怒りと不満を代表できるのは、自分しかいない」と、未来の救国の大政治家をして、次の国政選挙にはじめて立候補しようという決心をさせることが、できるでしょうか。
 ヒキコモリの皆さん。今日は、テレビやモニターの前にいちにちじゅう座っていてはいてはいけません。
 選管から届いたハガキを失くしてしまった場合でも、最寄りの投票場に足を運びさえすれば、その場で有権者名簿と照合してくれ、投票ができる場合もあります。


ご連絡【善はいそげ】

 「ネットゲリラは潜水艦である」さま。
 『日本エロ本史』の企画書をいちど見たいものだと、荒木町の株式会社サン出版の出版部編集局長の安西さんが、おっしゃっていました。
 右、伝言します。
 以下、兵頭の感触ですが、サン出版の上層部では、其の方向の企画は、あまり好んでは居らぬ模様でした。
 まあ、あたってくだけろ、ということで……。
 不屈のご健闘を祈り上げます。
 (ご承知と存じますが、「サンマガジンビルII」の3階です。)


政策としての核武装

 ※以前に某機関紙に掲載された文章を、一部カットして中立化し、また一部を伏字として週末のパズル等としてお楽しみを戴き度く、ここに再掲する。なお、真の知的娯楽と分析を欲する方は「読書余論」の方でどうぞ。また「放送形式」の意味は、「放送形式」第一回に書いてあります。
――――(以下、記事抜粋)――――
 わが国の××として、日本国の核武装を主張しようとする場合には、その×なりに、世界に対する日本国としての「自己説明」を用意し、天下に明らかにする必要が当然にある。
 北朝鮮の「10・9」核実験は、GDPの小ささに比例して世界経済とのリンクも少ない専制小国が、核武装するのにもう何の口実さえも必要でないという時代を到来させた。これは不可逆的な変化だと思われる。
 しかし、世界に対する責任がGDPに比例して大である経済大国は、小国や後進国や反自由主義政府の真似をして、何の「自己説明」も無しに核武装するわけには行かぬ。日本国民が自由で公平な世界を理想と考えること、そして、その理想のための秩序の実現のために核武装が必要である旨を、堂々と説明できなくてはならぬ。
 核拡散防止条約の第10条には、「各締約国は、……異常な事態が自国の至高の利益を危うくしていると認める場合には、その主権を行使してこの条約から脱退する権利を有する」とあり、その通知において「異常な事態」について記載せねばならないと謳ってある。
 世界最貧国のひとつに分類されながら1980年代からテロ国家と公認されている北朝鮮の核武装は、もう十分に近隣に位置する日本国民の生命の安全にとっての異常事態だから、書式・手続きの上では話は簡単である。
 日本の原発のほとんどは「軽水炉」である。これは70年代に核拡散をおそれたアメリカが世界に普及させた型式で、炉内で天然ウランが変化してできるプルトニウム239を簡単には取り出せないように設計されている。取り出すには原発の運転を止めて炉全体をバラさなければならず、それは人工衛星から確認ができるのだ。プルトニウムは、炉からの取り出しが遅いと、同位体のプルトニウム240が増えてしまい、それを核爆弾にするのは至難である。日本にあるおびただしいプルトニウムのほとんどは、この品質の不純なプルトニウムなのだ。
 しかし「×××」や「××××」や「××」といった高速増殖炉・新型転換炉は、原子炉運転中にもプルトニウム239を取り出すことができる。そこで生産された核爆弾向きのプルトニウムのストックは、日本にはすでに原爆×××発分もある。
 核武装の最大のネックである原料問題は、だから、日本にはない。爆縮式起爆装置は、パキスタンや北朝鮮のような精密機械技術の下地のない国でも完成できた。
 実爆実験は無人島の地下で行なわれる。
 日本が核拡散防止条約を抜けると燃料ウランが買えなくなって原発が止まる――と騒いでいる「×××」がいるが、本末を顛倒した悪質なシナ寄りプロパガンダだろう。同条約からの離脱は、当然にアメリカの黙認が前提である。ウラン購入に支障が生ずることが×××にあっても、原発はそのまま最低×年間は運転でき、ウラン燃料にプルトニウム燃料を混ぜることで、その期間は数倍に増やせる。×年後には名目的「××」も有名無実となる。イスラエル、インド、パキスタンが現在、原子力発電用または研究実験用の燃料ウランの取得に特に困難を感じていないように、米国は日本のウラン取得を妨害しない。アメリカの国債を買い続けている日本の経済活力と日米関係の不可逆的な破壊を望むのはシナだけである。
 マッカーサー偽憲法の支配が続く限り、日本の国会の×××党は決して「戦って自由を守る」政策を打ち出すことはできない。
 米国政府から一目おかれるぐらいに「科学的・軍事合理的」に核武装を語ることだ。
 非科学的国防論は、高い意識を有する有権者の足を、投票場に向かわせる気持ちをそぐ。米国の政治エリート層からの注目も獲得できない。
 兵器解説で知られる××××氏は、地下核実験は活断層を刺激し地震を誘発するから日本では不可能だとNHKや文藝春秋で語っている。2005年にパキスタンとインドの国境で起きた地震を、東京/中日新聞が1998年の両国の地下核実験と強引に関連づけて報道した不可解な記事が論拠ではないかと疑われるのだが、地震学者で承認をする者はまずいない。
 米国政界地図に詳しい×××氏は、日本は潜水艦から発射する巡航ミサイルで核武装すればシナに対する核抑止が完成できる、と繰り返し主張している。××大学教授の××××氏は、日本が××から運用できる長射程の×××××××などを保有すれば、それは米国を攻撃できる可能性がある以上、米国は日本を敵視することとなり、日本の国益は損なわれると反対のようだ。
 こういった「自主規制」が、米国の政治エリート層から尊敬を受けることはない。もし戦略級ミサイルに搭載できるほどに洗練された核弾頭を日本が製造できるのならば、民航機などにそれを匿して遠隔操作で爆発させることは造作もない。これほど人や貨物の交流が日々おびただしい日米二国の間では、どちらかがその気になれば「大量破壊兵器の奇襲」は止められないのである。世界第一と第二の経済スケールを維持する日米両国は、どちらもそのようなテロ政策を考えもせぬという信頼関係の上にある。××氏や××氏は、その信頼関係が将来なくなるかもしれないという事態を想像しているわけで、それこそアメリカ人を不穏な気持ちにさせるだろう。
 NPT幹事国である米国は、核運搬手段である射程1000~3000キロメートル級の巡航ミサイルの技術を、非核国の日本に公然と渡すことは、国際信義上できない。日本のメーカーには、射程3000キロメートルを超えるような巡航ミサイルを開発できる技倆がない。
 北京と日本海との間には朝鮮半島が横たわる。韓国はその領空に入った日本の巡航ミサイルを撃墜するだろうから、わが軍による発射地域はごく限定されてしまい、対策は簡単にとられる。しかも射程3000キロメートルぐらいでは、シナの奥地はすべて核損害の聖域になってしまう。僻地の根拠地に移動するのが得意な中共政権にあらかじめ聖域を保証して成り立つ核抑止などあり得るだろうか。既核武装国の政治家や軍人が聞けば、×××の抑止論でしかない。これでは尊敬はされない。
 日本は、射程6000キロメートルの弾道ミサイルに水爆を搭載し、それを××地方の山岳地帯にトンネル式に配備することで、シナに対する核抑止手段とするのが合理的である。
 日本列島は山がちであり、平坦な可住地に、人口が集まっている。もし敵国から日本の都市に対する核攻撃を受ける場合には、大きな損害を予期しなくてはならぬ。損害を被るのは日本国民であって、アメリカ国民ではない。
 だからこそ、日本に対するシナからの「核の脅迫」は、人口密度の低いスウェーデンや、全国土が長崎市を上まわる山岳地形であるスイスに対するロシアの核の脅迫に比べ、何倍も効くわけだ。
 もし日本人が、核兵器の破壊殺傷力を後ろ盾としたシナ軍人やシナ政治家の言うなりとなると、日本国全体が北京の独裁政権の走狗にされる。具体的には、世界の他の自由主義圏を圧迫するための前衛軍や、貢納者とされるのだ。シナ人とその仲間が唱える「東アジア共同体」とは、日本をシナの奴隷または鉄砲玉に仕立ててアメリカと張り合おう、という計画に他ならない。
 明治維新と「五箇条のご誓文」でアジアに自由主義の未来を示した誇りある日本人が、どうしてシナ人の操り人形になどなる運命を甘受することができよう。
 シナからの脅迫を拒絶し、日本人の自由を守るためには、日本人が、アメリカ政府の口約束などに依頼することなく、自身で核武装することによって「核抑止」を成立させるしかない。NPT幹事国のアメリカは公然と日本に核武装を勧奨し得ない立場であるが、日本人が誠実に決意すれば、対シナの高等政治として、それを認め、密かに支援もする。
 核抑止とは、敵がわが国に対して一発の核弾頭も使用できないように強制する政治のことである。わが国の人口密度が高いからこそ、イスラエルやインドのように、わが国は核武装しなければ危うくなるのだ。
 ××××××は、この「核抑止」を「核戦争で勝利する」ことと混同する反論を、偽憲法を信奉する陣営から聞かされるであろう。それは不思議ではない。マッカーサー偽憲法は「自由を戦って守ることはせぬ」と誓わせた。これを受け入れた一部の日本人は、心から自由を捨てたのである。だから彼らは、抑止の理論など永久に理解はしない。核抑止とは、外国政府のあらゆる脅迫に動揺をせず、こちらも適宜に脅し返すことで、敵に一発の核兵器の発射もさせずに自由を保持していくという決意に基づく、政治家の言葉の戦いなのだから。自由を放棄すると宣言して平気でいる×××の信者たちに、そんな本気の政治外交を想像し得るわけもなかろう。
 マック憲法を否定できぬ××の言葉には、他国人に対する根本の信憑性がない。それではとても核抑止の外交など不可能なのだ。
 日本で核弾頭や核ミサイルを製造するのにも、ハード上の不可能は何もない。あるのは「偽憲法」という、精神の病い、心の支障だけなのである。偽憲法の不道徳性が、戦後の歴代内閣に、ありとあらゆる嘘を公然とつかせてきた。嘘の上に自由はなく、嘘の上には嘘しかありえない。したがって正気の議論が不可能なのが、×××××信者だ。
 偽憲法と自衛軍とは相容れぬものだ。人の道にも、歴史の常識にも背いているのは×××の方である。戦後の政治家は、それを認めるだけの正直さを失っている。
 米国大統領が、日本人のためにシナと核戦争をしてくれるわけなどないのに、×××信者は、その現実を受け容れる理性を持たない。
 彼ら、国民の運命に無関心な狂信の徒と抑止論争をしても、無意味であろう。彼らは、維新の志士たちが持っていた自由を、心から捨ててしまったのだ。
 しかし我々は、彼らなどといっしょにシナ人の奴隷になるつもりは断じてない。我々とともに自由を戦って守る意志を放棄しない有権者は、日本国の中にはまだまだ多いはずである。
 ――――――(記事抜粋おわり)――――――
 以下、つけたりの時評。
 7月なので「盧溝橋なん十なん年記念」と銘打って北京が大宣伝をしかけて来るかと思っていたら、日本の参院選に安倍氏有利のマイナス影響が出てしまうと先読みして、慰安婦ネタ工作に切り換えてきた。
 これに対して日本の総理大臣が、部下を使って対処させようとしていて、ぜんぜん成功していない。アメリカ政府からの根本の支持の約束がある以上、自分は「五カ年計画」だけを考えて、その余事では波風を抑えて邁進すればよいと錯覚しているのであるか。それとも「五ヵ年計画」の邪魔になるから、核武装や靖国や慰安婦の問題ではお前が表に出てくるなとアメリカから釘をさされてきたのか。
 小泉内閣時代に多数の国民が安倍氏に期待をかけたのは、彼が拉致問題で最強硬な有力閣僚と認められたからだ。表に出てきて喧嘩を買っているように見えたからだった。国民は、強力な「護民官」を求めていたのだ。ところが、はじめから成果などありえないと疑われた「6か国協議」にいつまでも丸投げをしていて単独制裁のエスカレートを遠慮している姿、朝鮮総連に破防法を適用できずにせいぜいジャブ1発くらいの痛撃しか与えられぬ姿、これを見て、国民は安倍氏の人となりを知ってしまったのだ。
 宋学以前の本来のシナ儒教では「知」とはギリシャ哲学とは無関係に「使える他者と使えない他者を見分けられる」という意味である。
 今日の日本国内閣総理大臣にとり、朝鮮問題で使える部下は、警察だけ。また、対米宣伝で使える部下は、民間人以外にはない。また、対支&対半島問題に限っては、〈日本の未来を設計するアメリカ人グループ〉は、頼りにならない。この「知」が、安倍氏にはないのではないか。
 とくに外務省は〈パリ不戦条約違反の対米英奇襲開戦を永野/山本/東條と合議して計画し実行にも加担していながら東京裁判でアメリカから海軍省ともども真相開示を猶予された〉〈国交断絶宣言を真珠湾空襲開始前に米国に伝達する気など組織を挙げてサラサラなく、野村大使は、もし伝達が早く行きすぎると思った場合には自分のイニシアチブで確実に攻撃開始後まで手交を遅らせることにつき、大本営との暗黙の了解があった〉という、うしろ暗すぎる過去があるゆえに、第二次大戦に関わる、いかなる史実の弁明活動にも、いまさら乗り出すことなどできはしないのだ。乗り出せば、真相を察知しているシナやロシアや台湾が、外務省の過去のスキャンダルすべてをバラす。
 条約改正がそもそもの組織のレゾンデトルであったのに、日本外務省は、日清戦争いらい一貫して、参謀本部のドイツ流奇襲開戦戦争のための奉仕者となることに、最高幹部レベルで同心し続けた。ハリマンの満鉄経営を児玉に言われて拒絶した背景も、単純にそれだ。だがそれが1929パリ不戦条約批准以降は、自己否定の外道となったのである。条約破りのための外務省になったのだから。近代国家の役所として、死んだのだ。海軍の豊田貞次郎が外相になった時点で、アメリカは日本の出方をむしろ予測し易くなっていた。
 安倍氏には、あと一回だけ、起死回生の演出の自由が残されている。部下に頼らず、じぶん一人で靖国神社に参詣して、シナ、朝鮮、そして米国連邦下院に対し、表に出て喧嘩を売ることだ。


そらだまは快調だ!

 25日配信の「読書余論」は、これまたテキスト原稿データ換算で200キロバイトに迫る分量となってしまった。見ない人はきっと損をします。ただし有料です。
 毎月一回の「読書余論」も、積もり積もると、イッキ読みなど不可能な総体になってしまいますでしょう。バックナンバーを適価で購読できるからと、油断をしていてはいけません。時評絡みのコメント、エクスクルーシフなトリビア種を、タイムリーに読めないのは、やはり損でしょう。
 ちなみに「読書余論」は1ヶ月に1回配信で、その1回分が200円。うち100円は配信係の杉山さんに管理事務費用として取ってもらっていますので、著者は100円の小遣いのために1ヶ月の労力を投入しているわけです。ですから「読書余論」を購読する人は、わたしの労働時間を大いに搾取していると思ってくださって良い。
 わたしは今では「読書余論」の労力の余りで、完全タダ働きである「放送形式」に書キコしているに過ぎません。タダ働きとなれば、いきおい、サービス精神も低レベル。けっきょく宣伝(もしくは知り合いの雑誌編集者に向けた公開的伝言板)。無料CMというやつは、それを読む人の自由時間を宣伝者の方が搾取している構造になっているのに気付く人は、いてもいなくても構わない。あくまでメインの娯楽と教養は「読書余論」の方でしっかりお客様にご提供いたしておりますと、正直に公示しておくのみです。誠実でしょ?
 無料の情報は頭に入らないが、カネを払った情報は頭に入るものです。このメカニズムを利用している他の例が、カルト宗教だ。カネを納めさせることによって、信者は信心しようという気が強まるわけ。それは、凡夫は「対価」を求めますからね。カネを納めたのだから、何か「ごりやく」があるだろう、いや、あるはずだ、あるんだ! ――と、信じたくなりますな。いい仕組みですよね。まあ、その結果、少なくない上納金を十年以上も払い込んでしまいますと、いかに阿呆らしいカルトだと後から成長して気付いても、もう遅い。その宗教からは縄抜けはできないでしょう。だって、過去十数年もの上納金が、ぜんぶ悪い幹部たちの贅沢と権勢欲のための無駄遣いだったなんて、自分では認めたくはないでしょう? 凡夫は決して自分が頭が悪いとは認めません。その現代大衆心理をうまく利用する。古い労組も同じです。くやしいから自分が幹部になって、投資を回収してやれと思い立つ。悪い組織の思う壺ですな。
 「読書余論」は1回200円。3ヶ月分まとめて払っても600円。その価値はないと思ったら、購読申し込みを更新しなければよいだけ。スッパリと縁が切れます。カルト宗教や日教組などと違い、誰も引き止めません。しかし、200円払ったという緊張感が、貴男の頭脳には非日常的な刺激になり、知的体験は、血肉化するでしょう。どうです、良心的でしょ?