代議士が国民感情を代表しない国

 この時期に靖国神社に参拝する国会議員が次々と現れないことが解せません。彼らの仕事はほんらい「人気取り」ではなかったのでしょうか? いまほどマスコミに注目される時も無かろうと思うのですが…。
 それほどにシナからの平常の「賂い」が巨額であるのだとしたら、おそろしいことですね。
 もはや中共のスパイであることが疑われるのは、外務省や閣僚の一部だけではないようです。


在支領事館の現状保存を望む

 壁面に鮮やかに痕された現代の紅衛兵の前衛芸術。あれを消してしまってはいけません。永遠に残しましょう。
 シナ人民の本当の心を後世の日本人が忘れてしまうようなことになっては不幸な歴史の改竄と同じです。ずっと、たいせつに守り伝えていきたいと思います。
 壁を見る度、大使・領事も記憶を新たにし続けてくれるに違いありません。これはとても大事なことですね。
 


閉ざされたシナ語空間

 今朝拝見した太田述正氏配信の英紙摘録記事は、現在までの日本国内の凡俗メディアには絶えて見られない事実指摘で、さすがジョージ・オーウェルを生んだ国は記者やデスクの関心の在り処も違うと驚かされました。
 中共の国内情報部がシナ国内の全プロバイダーに裏から強いることにより、「リアルタイム検閲」が、それも、検閲されていること自体を愚かなシナ学生どもには悟らせぬ「変換マクロ」により可能である……。考えてみれば当然な可能性でした。この、国家検閲の21世紀の最新進化型が、シナ本土では遂に実践されるようになっているのです。
 そうであるというのに、本朝のTV・新聞のコメンテイターなどは、依然十年以上前の「インターネット幻想」の孫引きに終始している。特にマスコミ関係者の惚けぶりは際立っているように思います。
 一連の騒動は、歴史上の位置づけではシナ軍閥が大正時代から反復してきた相も変らぬ古い手口ですけれども、戦前は日本の政治家が有能であれば可能であったかもしれないカウンター・プロパガンダは、今日のシナに対しては難しいでしょう。
 インターネットや携帯電話は、独裁国家によるニュース統制や、国民感情の操作、さらには統制された暴動指示……すなわち「マス」に対する「洗脳」そのものに、じつに有効に駆使されることが、ただいま現実に実験され、証明されつつあります。
 このシナ政府がやっていることを、日本の左巻きマスコミや将来の政権与党などが模倣したらどうなるのか、考えておくべきでしょう。
 北京は、自国内で洗練した手管を、対外的にも使ってくるでしょう。
 「反近代」のシナ・朝鮮に対峙する方法は、「近代」の外にありません。しかし残念ながら日本人大衆と知識人の8割の精神状態は「近代未満」なのです。これは戦前も戦後もあまり変わっていません。そこを「反近代」人たちに狙われて、いいように翻弄されてしまうのです。
 とり急ぎ日本の有識者が実行できる仕事の一つは、「シナ事変は蒋介石の侵略であった」「満州事変前夜も今とまったく同様のシナ為政者による破壊活動教唆が続いていた」「尼港事件にはシナ人と鮮人も関与していた」「シナ政府はかつてウソしか言ったことはない」などの正しい歴史事実を、日本の低能ヒキコモリどもに分かり易く教えておく著作でしょうか。


摘録とコメント──山田吉彦氏の二著作

 沖ノ鳥島に往復した8日間の間に蚕棚のような二段ベッドの中で雑多な読書をしました。余談ながら、他にすることがなかったせいか、連日豪華客船なみの食事内容であったにもかかわらず、出発時計測の体重70kgが、帰宅時には66kgに減っていました。ダイエットにはタグボートでの遠洋航海をオススメできます。
 さて山田氏は日本財団の「事務長」という肩書きで本船(航洋丸)に乗り込んでおられましたが、一フリーライターに過ぎぬ兵頭が今回テレビや新聞主力の調査団に混ぜてもらえましたのは、どうやら氏の「快諾」によるものなのです(『新潮45』編集部W氏の談)。
 このようにお世話になりながらご本人の著述を知らないままでは申し訳ないので、さっそく通読したのは言うまでもありません。
 以下にご紹介する二冊はいずれもエクスクルージブな内容を含み、広く人々に推挙できる良著でした。ただ残念なのが、タイトルや「宣伝コピー」に目新しさが欠けている点でしょう。類書との差異を市場にアピールできていない憾みがあると思いました。
▼『海のテロリズム』(2003年10月刊、PHP新書)
 江戸時代、加賀の米を大坂に運んだ北前船も、関門海峡の壇ノ浦と角島沖は、日和を見て潮を待って船出した。
 間切り航走術を発明したのはヴァイキング(p.88)?
 日本の輸入する原油の8割はマラッカ海峡を通過し、その量は毎日56万トンである。
 長さ300m、20万トンのタンカーが毎日3隻、日本に向かって通峡する。アラビア半島から日本までは14航海日。ペルシャ湾から日本までの間の海域を常時40隻の日本向け巨大タンカーが走っている。
 シンガポールには世界一の規模の石油精製所がある。
 なぜ15世紀にイスラムが東南アジアに普及したか。それは西方から海送される商品の魅力であった。改宗した現地人には、ダウの船長はこれらの商品を預け、「信用」を与えた。この功利を得んがため、現地人は競ってイスラムに改宗した。
▼『日本の国境』(2005年3月刊、新潮新書)
 現在のわが国の漁業従事者はたった30万人弱まで減った。外航船員は2003年で3336人、内航船員と漁船員などあわせると8万6208人。頼みは今やフィリピン人船員。
 03年の日本の海上貿易は9億1677万トン。
 日本の船会社は商船1873隻を支配するが、日本船籍なのは僅か103隻。日本船籍だと日本人船員を一定割合乗せねばならず人件費高のため、大概は便宜船籍(7割はパナマ)の選択となる。
 ただし船内では船籍国(旗国)の法律が適用され、便宜船籍船に日本の法律は適用できない。犯罪の捜査権も旗国の判断が優先される。しかしパナマ政府や警察が、日本の船会社のために骨を折ることなどありえようか。
 3浬領海を最初に主張し列国に強制し得たのはオランダで、英仏戦争から中立するための措置だった。18世紀前半の沿岸要塞砲の射程と一致。
 1977年以降も日本政府が宗谷、津軽、対馬(東水道、西水道)、大隈の4つの国際海峡に12浬領海を主張せぬのは、ソ連潜水艦を浮航させるガッツがなかったからだ(p.26)。※おそらくこれは平時の同盟国の潜水艦を隠してやるためで、有事には特例措置を停止してソ連潜に対してのみ通航拒絶する肚だったのだろう。
 大陸棚にコミットする省庁は、内閣府、海保、資源エネルギー庁、文科省で、一枚岩になりにくい。調査予算は各省からの掻き集めで04年度はたった150億円。1000億円用意しないと、200浬以遠の大陸棚の主権を国連委員会に認めさせるだけのデータは揃えられないというのに…。
 ある地質学者いわく、大陸棚に10兆円の資源が眠っているとしても、それを掘るには今の技術で10兆円以上かかる。
 04-12のシナ船のオキトリEEZ調査は、海中に音波を発信しながら航行していた。※ということは海中環境音の収拾ではなく、海底地形調査なのか。ちなみに先進国海軍の海中音響調査は、海域毎の常態バックノイズをデジタル化しようというもの。パッシブソナーのデータからこれをマイナスしてやれば、敵潜の音だけが浮かび上がる。シナはまだこのレベルに到達していない。※ただ、精密な海底地形調査もないがせにできないことは、05-1に米原潜『サンフランシスコ』がグァム島南方560kmを南下中、地図にない海山に衝突し死者を出した事故で再認識された。
 二月下旬の初鰹はオキトリEEZで獲れたもの多し。マグロの産卵地も、オキトリ=フィリピン=沖縄の三角形の中にあると推定されている。そこから三陸まで北上してくる。
 台風通過時のオキトリ近海の波高は17mになる。
 オキトリは護岸完工後10年しないうちに傷みはじめ、げんざい毎年2億円かけて補修している。
 旧海軍はS14〜16に10トンのコンクリート・ケーソン×500個を投入したが対米開戦により未成。そのあとが今の「観測所基盤」だ。
 やぐら組の「観測施設」は建設省が88年に組み立てた。
 04-11の日本財団による第一回視察団(団員45名)は、沖縄←→大東諸島に就航している貨客船『だいとう』をチャーターした。那覇からオキトリまでは1080kmで、船長はオキトリに行ったことがなかった。たまたま台風25、26号が発生し、終始荒天で、最悪日は波高6mだった。
 第一回視察では31名が東小島に3時間だけ上陸できた。
 日台間に海上犯罪に関するとりきめがないため、密輸・密猟事件の容疑者や証拠物件のとりあつかいは常に両国間の駆け引きになる。特に12浬以遠。台湾漁船も初夏に回遊する本マグロを追っており、石垣沿岸でかなり悪いことをしている。
 ただし台湾漁民は戦前から尖閣や先島群島の海域で漁業を営んでいたので、それを顧慮せずに締め出したままであるのは日本の落ち度ではないか。
 尖閣の久場島と大正島の米軍用射爆場は現在、使用されていない。
 ※解役巡視船『たまゆき』(1966竣工)がアルミ骨材で檜張り(p.133〜4)なのは、触発機雷対策ではなく、磁気機雷対策に非磁性材を使ったものと想像される。
 シナは1955にミスチーフ岩礁に漁民の退避施設と称する建屋を設け、いまやそれを定住施設に強化した。
 『つるぎ』は50ノット走行が可能(p.194)?


案外簡単にいくらしいアメ基地の北転

米軍人は、韓国への駐留を厭がるのと同様に、沖縄勤務も好んでいないということです。
 つまり、人々に嫌われているところに、わざわざ居たくはない。
 まして、砲撃訓練すら満足にできぬ沖縄県には、そもそも地上部隊(海兵隊)の基地となるべき基礎条件が不備なのです。
 日本で最大レンジの砲撃訓練が行なえるのは、北海道の矢臼別演習場です。この近くにもし移転できるものならしたいものだと、米海兵隊は思っているのだと、防衛庁の人から聞きました。(米海兵隊の上層部やOBには別な執着があるのだろうとわたくしは見ていますが。)
 では当の北海道の事情はどうでしょう。
 たとえば道南の第11師団は、もうじき旅団化されます。人数で数割減、装備品は物によっては半減となる。近年、とっくになくなるはずであった倶知安駐屯地の消滅を回避して欲しいとの地元の懇望に応えるため、函館駐屯地の第28普連からわざわざ1コ中隊を分派して倶知安へ常駐させているのですが、いよいよ師団が旅団化されてしまうなら、この中隊もぜひ手元に置きたいと、連隊長ならば思っているに違いない。まあそうなれば、倶知安駐屯地などは、たぶん維持はできないでしょう。
 北部方面隊の他の師団でも、西方に人員器材が抽出されるにつれ、倶知安のように統廃合される駐屯地を複数、生ずることでしょう。いずれの地元も、これには大弱りです。
 なぜ、自衛隊がいなくなれば地元が困るか? 数百〜千数百人の隊員が、所在の市町村に、地方税や保険料を納めてくれているからです。
 もちろん数百人の元気のよい隊員の消費活動が、地元の商売人たちに寄与する面も小さくはないでしょうが、それは目立つようでいて、じつはメインの問題ではない。
 地方税や保険料や国からの特別な補助(自衛隊めいわく代金)は、人々の目にこそ見えませんけれども、一市町村の運勢を変えてしまうくらいに、巨額で多大なのです。
 さて他方で、米軍が地元におよぼす「迷惑度」は、同じ日本国民からなる自衛隊の比じゃありませんよね?
 そして、米軍人は、駐留している日本の自治体に、税金も保険料も支払いません。
 日本政府は「米軍めいわく料」として、やはり特別な補助金を当該自治体に交付しています。が、それは、駐留米軍人が地方税や保険料を納めない分を埋め合わせてお釣りが余る……というレベルではない。
 つまり、米軍基地を日本の自治体が抱えることは、純粋に会計上の「損」になる懼れが、払拭できないんです。
 地元にとっては、もうひとつ、とても大事なことがあります。選挙です。
 20歳以上の自衛官には選挙権があります。地元自衛隊に好意的な、地方/国会議員や、地方首長は、その数百〜千数百の票をあてにできるんです。市町村レベルでは、これは決定的な数になります。
 (大きな声では言えないが、「キミたちはこの候補/政党に投票するのが至当だろう(反自衛隊のアカマル候補などに投票するのは自分の首を絞めるロープを敵に売り渡すようなものだぞ)」との示唆が中隊本部以上のレベルからあり、その後に営内居住者も全員、引率外出にて投票場に向かう、というのが慣例。もちろん強制は無いのだが、これほど効率的で確実な「票のとりまとめ」もないだろう。)
 しかるに米軍人は、その選挙権も持ってないわけです。
 米軍を誘致してやったはいい。しかしその米軍人どもときたら、次の市町村長選挙において、誘致決定に尽力した前首長を、投票で助けてはくれないのです。逆に首長は、地元選挙民の反発を買って、浮動票が対立陣営に流れて、次期選挙で敗れることになるかもしれない。
 こう見て参りますと、地元議員や首長にとり、「自衛隊誘致」と「米軍誘致」では、いかにも雲泥の差があることが分かりますよね。ところが、どうもそこのところが、日本政府(財務省)には、ろくに認識されていないようなのです。
 ようするに話は簡単です。
 「米軍の移転を受け入れてくれる自治体には、自衛隊めいわく代金の最低でも1.5倍を毎年度、継続的に投下しますよ」と、政府が地元住民に約束しさえすれば、沖縄から北海道への米軍移転話はトントン拍子で進むでしょう。
 逆に、この「公平な措置」を講じない限りは、米軍基地の国内移転は、およそ夢物語です。受け入れる自治体などゼロに決まっています。
 米軍基地は日本全体の国益のために日本国内にあるのですから、国庫補助というかたちで国民全体の負担とするのは当然でしょう。
 そして、その場合の「公平」とは、「自衛隊めいわく代金」よりも「米軍めいわく料」の方を1.5倍以上、手厚く地元に盛ることが、まずは第一歩の基本なのです。
 防衛予算は既に削られすぎています。財源としては、ODAをリストラクションして浮かせた予算を廻すのが良いでしょう。

 



防衛庁長官官房のGJ

 今朝の読売新聞紙上に空自のF-15の那覇基地配備決定が報じられましたね。そして夜七時のNHK-TVで全人代直前とてシナの国防費の印象的な額が報道されましたね。
 もし前者の報道だけで後者の報道がありませんと、「シナを刺激する気か」「軍拡だ、ハンタイだ」という阿呆左翼の声が上がります。しかし後者の報道により、シナのスパイも声を上げられません。上げれば、いかにもシナの手先、売国奴のように見られるでしょう。
 これが、アメリカ仕込みの正しいマスメディア利用術です。とうとう、防衛官僚もこのくらいの小技が使えるようになってきたのですね。
 いうまでもなく、読売の報道は、「期日指定のリーク」です。一紙にだけ抜かせる。その代わりに、シナの軍事予算が明らかになる日の朝刊に確実に掲載させたのです。
 


「ほ」氏にお答えします

 ご推薦のサイトを拝見しました。
 なるほど、「清張氏のリアル推理はぜんぶ外れた」という話をどこかで読んだ記憶があるのですが、「朝鮮戦争が米軍の謀略」ですか。
 ご本人は死ぬまでそう信じていたんでしょうか。1980年代に古代史にのめりこむあたりでもそうだったんでしょうか。じつにますます興味深い作家に見えてきました。
 ところで藤原彰さんのエピソードをお知らせくださり、有難う存じました。60年安保の少し前は、オルグの成功が党員の大手柄となる時代だったようですね。
 便利なもので、インターネットを使いますと、藤原氏の略歴が知られます。まとめてみました。
 陸軍経理将校の息子さんとして大正11年に生まれる。大軍縮期ですね。そして東京の代表的な陸士予備校だった府立六中から士官学校へ進んだ。加登川幸太郎さんによれば、一般中学から士官学校に進むと、陸幼出身者の要領のよい暗記に一驚するんだそうですが、藤原氏の頃はもう陸士も短縮教育です。昭和16年、19歳で見習い少尉。
 そのご大東亜戦争で陸大どころではなく、隊付き将校コース。昭和19年にシナ大陸で大尉の歩兵中隊長として打通作戦に参加し、負傷(右肺盲貫銃創)。同キャンペーンは連合軍の飛行場を潰すという作戦目的は達成したんですが、部隊の給養は最悪で飢餓病死が多発したようですね。また北支では、後方の高級将官の贅沢三昧も目撃しました。
 1945年の復員後、東大に入りなおし、1949年文学部史学科卒。50年に歴史学研究会書記。アカマル教授の多かった一橋大でも教えました。
 歴研はアカマル集団で、1954年に『太平洋戦争史』(全5巻)を出してアカマル流帝国主義史観での開戦経緯説明の定番となっています。
 その1年前の服部卓四郎の『大東亜戦争全史』とくらべますと、当時のアカマルの水準というものが分かります。高級軍人の目よりも高いところから戦争を総括している。このような「社会科学的」な切り口は1976年くらいまではほとんどアカマルだけが持っていました。なにしろ岩波文庫のアダム・スミスの担当は小泉信三とかじゃなくて、マルエン専門家だった大内兵衛だったんですから恐れ入るしかない。つまり、才能があったのに、旧軍での待遇には不満だった藤原氏が、東大でアカマルに染まったのは無理がありません。また旧陸軍は大学関係者からはとことん嫌われました。富裕家庭の秀才君を、二等兵にしてしまって、内務班で私的制裁でイジめたんですからね。学生が予備士官に全員志願しなかったのも日本の町民特有の困った問題なんですけどね。
 1961年に藤原氏が書いた『軍事史』のどこが偉大であるのか。これは巻末の参考文献をみただけでも分かるでしょう。同書を最初にわたくしが読んだのは大学生時代でしたけど、さすがにこの文献一覧は量が多すぎて、メモを全部とるのを諦めたほどです。最新のUSSBSも見ているし、明治期の本までぜんぶ目を通している。東大図書館も空襲では焼けませんでしたから、国会図書館にも無い資料も混じっているのはうらやましかったですね。と同時に、何かを批判するならこのくらい読み込むのは当たり前なんだとも思った次第です。
 日露戦争で日本はマキシム機関銃を実用化できなかったとか、小山弘健氏や林克也氏の本に依拠している武器の話には間違いも混じってしまうんですが、逆に、これだけ資料を読んでもここは分からなかったのだなと見当がつくから良いわけです(後で大江志乃夫氏が防研史料を使ってこの間違いの修正にかかかる)。
 1984年に防大教官が『失敗の本質』というオリジナリティのあまりない水準の本を出してタイトルだけでバカ売れしたんですが、そこに書いてある要素は藤原1961本にほとんど書き尽くされていた話でしょう。ミッドウェー作戦は5分違いの不運などではない、依然戦艦中心だったから、偵察、通信、そして母艦掩護で手薄になったのだと、藤原本は真相をえぐっていました。「すべてを自分に都合よく楽観的に判断し、希望的観測のうえに作戦を立てるという非合理性が、最後まで抜けなかった」(p.215)──こんなことももう1961年に書かれていたわけです。
 常に「天佑神助」をあてにしただとか、後から司馬遼太郎が批判することになる要点も藤原氏は書いていました。
 「日本海海戦時代の大艦巨砲主義、日露戦争の白兵突撃を、兵器の質的変化がおこった第二次大戦に、いぜん金科玉条としていたことに、その[戦略戦術の]硬直性があらわれている」(p.215)なんてのは、まるっきり司馬&NHK史観に受け継がれていますよね。
 兵器関係の誤記があるので絶版なんでしょうけど、惜しいことです。まだ読んでいない人は、図書館で必ず読みましょう。
 藤原彰、小山弘健、林克也といった旧いアカマル先生たちは、「日本があんなふうに戦うしかなかったのは情けなく、悔しい」と思っていたのではないでしょうか。つまり心底は愛国者だったんじゃないでしょうか。
 ところが全共闘自爆以後、さらに日支国交回復直後から百人斬りとか重慶爆撃の話をしている新しいアカマル先生たちは違います。彼らは心底から「反日」ですね。そして、日本をどうする、ではなくて、自分が注目されることが執筆の目的です。
 よくわからないのが鹿砦社の人たちで、このグループは日本がソ連や中共に占領されれば良いと思っていたのでしょうか。冷戦終了と同時に大転向したようですが、チャンスがあったら昔話をぜひ訊いてみたいものです。
 1996年にP・デービス著『地雷に浮かぶ国カンボジア』という最初の「地雷本」が出まして、このネタに出版不況にあえぐライターと版元が飛びつき、以後毎年複数冊が刊行される異常事態となりました。こんなもの個人で買う人がいるとは到底おもわれない。点数のピークは98、2002、03年ですが、04年でガクっと減っています。その間には船橋市での「図書館焚書事件」が起きた。まあ、全国のアカマル図書館司書に買わせてシノギをしようというところまで志操は堕ちちゃったのです。
 ちかごろ石原東京都知事は「書店で売れている本から図書館は買いなさい」と指示を出したのでしょうか。そうだとしたら解せないことです。公立図書館として公平な蔵書整備は「くじ引き購入」以外にありえません。購入のための司書は要らないのです。


清張と遼太郎

2.26に信濃町で軍事学セミナーの一日講師を務むるべく、函館発羽田行き飛行機上の人となった「わたし」は、たまたま機内で消化するためセレクトした細谷正充著『松本清張を読む』を三分の二ほど読んでしまい、ほとんど驚愕する。
 「防衛庁が三矢研究をやっとった1963年に、松本清張は『現代官僚論』を書いていたのか…!」
 「わたし」の講演では、「なぜ司馬遼太郎は1967年に『殉死』を書き、翌年から『坂の上の雲』を書き、74年に『歴史と視点』を書き、86年から『この国のかたち』を書いたか」を、アカマル系の戦後ミリタリー関連書の出版史にフットライトを当てながら説明する予定であったのだが、松本清張という巨大なアカマルの存在はすっかり閑却していた。その清張という謎をかくも面白い摘録で知らされた「わたし」は、もはや当初の講演構想は抛擲するしかなかったのである。
 司馬遼太郎と対蹠的に貧乏であった松本清張は「敗因探求」の本は書かずに一足飛びに官僚研究に向かった。おそるべし、清張。
 そしてこれほど面白い要約の書ける著者細谷氏の前途は洋々としているではないかと思いつつ、「わたし」は、新橋のホテルで読み残しの頁を開くのであった…。

 



御礼。戦史研究家様。

 掲示板を拝見しました。ご教示賜りまことにありがとうございます。
 調子に乗ってもうすこし勉強させてもらっていいでしょうか。
 明治35〜36年の二等卒が最速で一等卒および上等兵になるには、何ヶ月かかったでしょうか。小生の見当では、ぴたり一年ではなかったかと思うのですが、いかがでしょうか。
 伍勤と兵長の相違も初耳でためになりました。
 自衛隊もはじめは「上等兵」制度を買っていたんですね。
 余談ですが大岡昇平の小説の中に、フィリピンでの噂話として、兵隊が全員上等兵からなる援軍がやってくるという話があり、その意味するところがよくわかりませんでしたが、最近ようやく話が見えてきたところです。(お粗末。)
 現在は一般二士で入隊するとだれでも半年で一等陸士になれるのですか。小生と小生の同期は、きっちり一年間、二士でした。これは入隊月によって長短を生ずるもののようで、小生は偶然にも11月中旬、つまり昔の徴兵の入隊月と同じだったのです。
 戦史研究家様、今後も宜しくご叱正を願い上げます。


のらくろフラッシュバック!

 自分がいちばん詳しいと思っていることで大間違いをしでかすのが人の常であります。
 先日はこんなことがありました。
 日露戦争に従軍したある歩兵が入営一年目、まだ開戦前で平時なのに、一等兵から上等兵になった、と自分で書いているくだりが目にとまったのです。
 「これはおかしい。著者は記憶違いをしているのではないか」と、わたくしはその書籍の編集部に注意を促しました。じつは、その書籍は日露戦争当時の日記の翻刻で、わたくしは巻頭の解説文をひきうけていたのです。
 昭和2年以前の徴兵は陸軍の場合3年満期です。そこでわたくしは思った。常識で考えて一等兵には2年目で、上等兵には3年目でなるもんだろうと。2年目で上等兵になってたまるかと。だったら平時なのに半年で一等兵かよ、と。
 これが、ぜんぶわたくしの無知誤解なのであります。自衛隊の陸士長の感覚で旧軍の上等兵を語ることはできない。旧軍の上等兵は特別だったのであります。陸士長は2年いたら誰でもなれるものであります。ありがたくない。二者は似て非なるものなんであります。
 調べるほどにこういうことが判明しまして、冷や汗をかいたわけであります。
 そして突如、あるシーンが蘇りました。
 「のらくろ二等卒」の最後に、こんなエピソードがあったんです。新兵が一斉に昇進する日です。だいたい1年目ですね。その朝、ブル連隊長がモール中佐に「のらくろは上等兵にしてやろう」と言うんです。ところがその日、のらくろだけ起床してきません。耳元で喇叭を吹きならしてもぜんぜん起きないので、連隊長は怒り、三ツ星の上等兵にするのをやめてしまって、他の新兵同様、二ツ星の一等兵の階級章をつけてやる。誰かが言います。「こいつ、星をひとつ損したぞ」……。
 わたくしはこれを読みました当時、「二等兵から上等兵にしてやるというのはあくまで猛犬聯隊の世界のつくりごとで、帝国陸軍じゃありえないことなんだろ」と思っていた。別に旧陸軍の制度に詳しいわけじゃなかったんですけどね。
 ところが、この「のらくろ」の二等卒→上等兵は、全くアリだったのです。陸軍では、中隊の中の特に優秀な二等卒(昭和7年から卒が兵と呼びかえられる)は、一等卒になると同時に上等兵に任ぜられたんです。
 嗚呼、おそるべし、猛犬聯隊。
 だってそうでしょう。のらくろは新兵時代に早くも重営倉に入れられてるんですよ。これは軍隊手牒に記録されちゃってるでしょう。八丈帰りの前科者みたいなもので。そのあとどうリカバーしたって、もう模範兵じゃあり得ないわけですよ。それが2年後であるとはいえ、ちゃんと上等兵になるんですから。
 モノホンの兵隊だったらヤケおこしてますます素行が悪くなって、師団の陸軍刑務所、果ては姫路の懲治隊送りになる可能性すらありましょう。しかし猛犬聯隊では、失敗のリカバリーが可能なんですよ。大尉ですよ、最後は。さすがに親も分からぬ捨て犬じゃ、陸大は受験できなかったでしょうけどね。
 そこでまた思うわけです。このマンガがウケたのは当然であると。戦前の日本社会は、失敗には不寛容でした。内務班の新兵ともなりゃあ、息詰るような緊張に浸りきった毎日ですよ。工場の見習いや、商店の小僧も、程度の差こそあれ、そうだったんじゃないですか。
 それが、猛犬聯隊にはないんですよ。アナザー・ワールドなんです。
 田河水泡という人は、落語の新作もなさっていた真の文人です。デッサンもプロで、その腕でデフォルメしていたから、上手いし、技巧も各所に凝らしてあるんですね。
 こういう人は、たぶん江戸時代からいたんでしょう。
 「のらくろ」の戦後バージョンには、アナザー・ワールドの魅力はもうなくなりました。なんでかというと、敗戦で、日本社会そのものが「しくじり者」となった。みんなで重営倉にぶちこまれ、釈放されて、それじゃあ、やり直しのリカバーをしようと、面の皮を厚くしていた時代になったからです。現実世界の緊張が、すっかり砕けてしまったんですね。だから逆に猛犬聯隊に戻ると息苦しくてしょうがない。昔の秩序だけはある。が、将来の大事件は何もあり得ない世界。
 「のらくろ」の戦後版は、描くべきじゃありませんでした。でも芸術家も霞を喰っては生きられないですからね。