江戸人の優越感

 「核戦争」と「核抑止」は、同じ時間に同じ場所では存在できません。
 MD(ミサイルディフェンス)の迎撃ミサイルを発射する事態とは、核抑止が消えてなくなっている事態です。相手はもう核兵器をわが国に向けて投射しちゃってるんですからね。それは「核戦争」の事態そのものです。
 つまりMDとは、これは限定核戦争の道具なので、抑止の道具なんかじゃありません。抑止というのは、敵に1発目の核兵器をはじめから投射させないことです。敵には航空機内臓核爆弾もあり、宅配便の核爆弾もあるでしょう。その行使を抑止できるのは、何ですか? わが国による即時同害懲罰能力の担保、すなわち核反撃戦力のスタンバイとその運用の意志の宣伝──だけです。
 核武装をしていない日本にとっては大して役に立たぬMDを「あたらしい核抑止」などと強弁した米国政府の詐術にひっかかっている防衛庁と日本政府は、要するに言語操作能力が米国の政治家より劣っているために、日本国民の権力を危うくしているんです。
 前に2chにときどき得意気な質問をする人がいるのを見掛けました。「軍事力で世の中の何が解決されているか?」と一つ覚えの書き込みです。
 Answerは「右目を開け。左目も開け。そこにある。」
 つまりこの世の現実が答えそのものなのですがそれが見えないのでしょう。昔からあきめくらと申します。心の盲いた者を導ける理性の言葉は残念ですがあり得ません。
 核戦争と核抑止の違いが分からない人がいるのは一体なぜなのか。どうも、要するに暴力の効能を認めたくないらしいのです。
 司法や行政で解決されるよりも多くのことが日々、諸主体の暴力を背景とする「抑止力」によって解決されている。この現実が見えない。見ても、認知し得ない。
 暴力の効能を見たくないとすれば権力の実相は見えない。権力の姿形が見えなければ政治は分からない。政治が分からないのは人間が分からない。マキャベリは人間を誰よりも深く観察していましたから政治が分かった。しかし、それをそっくり文章に致しましても没理性漢にはとうてい理解不能だということまでもよく観察をしておりましたから、やさしいイタリア語で、話を極端に単純化しまして、以て代表的ルネサンス人に教えようとしたのです。しかし、十分にやさくし、単純化すればしたで、「一行罵詈」を止めない没理性漢はいつの世にも現れます。マキャベリにはそれさえ予測の範囲でした。
 核抑止の話も、単純化して説いてきかせれば理解されるわけでもないというのは、兵頭が10年も前に体験したことで、いまさら驚きはしません。
 けれどもさいきんこの兵頭が聞いて驚く、と申しますより、ほとほとあきれますのは、100年以上前の勝海舟の金言:「みんな敵がいい」の精神が、ぜんぜん民族の血肉とは化さないことですね。すなわち近代日本の個人がすっかり「近代人」とはなれないで、シナ人や朝鮮人といまだに五十歩百歩の迷走をし続けていることです。
 李登輝さんは日本人の耳に心地の良いことを仰いますが、それは大東亜戦争中に宋美齢の反日演説がアメリカのマスメディアの耳に心地よかったのと、そんなに違うんですか?
 台湾国はげんざい日本国の敵ではないが、将来いつか敵にならないと、誰が断言できるんでしょう。親日的であることと反近代的であることは困ったことに両立するんです。日本は近代の道を選択した以上、選挙一発で反近代に走るかもしれない他国は「みんな敵」と思っていなければならない。近代国家同士では核戦争は起きないでしょう。しかし、反近代国家のもつ核は「悪い核」になるんです。
 思うに勝海舟の自信は、人に嫌われることをあまり怖れなくて済む「江戸弁」のアドバンテージの上に乗っかっていたんでしょう。兵頭が日本核武装の当座目的のために「図書館」ですとか「国語教育」「出版界」さらには「2ch」の話もせざるを得ないのは、言語がひとたび衰えれば人間のすべてが衰えてしまうからに他なりません。
 以前に勝谷誠彦さんが何かでお書きになっていたように記憶しますが、反日アナキストの残党はなおまだ無知な大学生たちの取り込みに一部では成功している模様ですね。各種の工作員に仕立て上げられ、戦術を教えられて、たとえばネット工作にも出精している彼等。いっけん荒ラシでないような語り口で、ウィルスが自己の形を変えて細胞に侵入しようと試みるように、まことに疲れを知らぬ奉職ぶりと申すしかありません。ですが、その活動による言語力の深化は見られません。より強い言語力で、人間についてもっと知りたいのなら、現代においてもその方法は、ある限りの古典を読むしかありません。


某紙が報じた、少し既視感(w)ある記事について

 本日のウェブ版産○新聞にシナ原潜の航路その他について一見特だねのような調子のある解説記事が載っていましたが、何かあたらしい情報が入っているんでしょうか?
 普通人の揃えられない情報を力技でかき集められる筈の新聞記者さんがまとめた記事にしては、ずいぶん「浅いな」という印象を受けてしまいました。果たして東京新聞や朝日新聞の中の人たちにはどう思われてしまいますでしょうか。デスクの方もチェックが甘い。
 石垣島と多良間島との間の幅28kmある水道は、両島のリーフ外縁ですと、213mから223mといった「浅さ」なんですけれども、水道中心部の幅14kmくらいの帯をキープしていきさえすれば、水深が290mを切ることはありません。これは、海保で売っている海図を見さえすれば、誰でも知ることができます。シナ潜の中には日本の水路部謹製の海図はもちろん全部揃っています。
 仮りに水深290mの海底で「405号」が逆立ちしても、艦尾が水面に飛び出すようなことはないような気が兵頭はいたします。
 11月のシナ潜は石垣水道侵入直前に一回浮上して、アメリカ様のGPSによって慣性航法装置を規正しております。ですからINSに頼っただけでもこの14kmの中央の帯を外すことはまず無い。しかもシナ潜は始終前方にpingを打ちまくりなんですから、12ノットで左右のリーフの「断崖」を両睨みしつつ、その中間を維持して行くのは雑作もなかったのではないでしょうか。
 ちなみに日本国籍ある良い子の皆さんは『新潮45』はもう読んで呉れましたね? 操舵を誤ると珊瑚に突っ込む、というのは、ソナーの利かぬ高速で回避機動をしたときの話であります。なお今月はもういちど、月刊誌に兵頭の記事が載りますので(年末は特別なのだ)、某S経新聞のライターの方、こんどは「早刷り」に遅滞なく目を通せば、何もうろたえることはありませんよ。ますますのご健筆を祈り上げます。


日本の大学は「自由競争」ができないから後れをとる

 これも紹介すべき本なので紹介します。以下、その内容メモ。(内容メモというのは、「ここには翌日忘れてしまうには惜しい情報が含まれている」と兵頭が思った箇所です。「あらすじ紹介」じゃありませんので、興味をもった人は一冊読まないと損でしょう。)
▼川島レイ著『上がれ! 空き缶衛星』04-6
 1993から衛星設計コンテストを、九州大学の八坂哲雄や中須賀真一が立ち上げていた。
 99年時点で米はナノ・サットよりもっと小さいピコ・サットを大学主導で開発するという話が進む。
 トィッグス教授いわく、計画して、実行して、解析するまでの一連のプロジェクトのサイクルを学生に経験させるのが、完全な宇宙工学教育である。
 米ではアマチュアが高度4000mまでロケットを上げてよい。そこから物体を放出するとパラシュートで20分後に回収できる。ネバダ砂漠で年に数回の打ち上げ大会あり。ロケットじたい、回収利用するためパラ降下させるタイプも。径16センチ、全長3メートル。※それは空対空ミサイルのサイズではないか?
 東大1号機案は350ミリリットル缶に太陽電池パネルを張り、缶は自転させる。
 p.115 「こういうメカニズムを使いたいから、こういうミッションにしてみる」と考えるのが東工大で、「こういうミッションをしたいが、どんなメカニズムがいいだろう」と考えるのが東大。※公平な評と思う。日本のミリヲタはここで謂われる東工大生タイプが多いために抑止論・戦略論は遅々として深化をして参らぬのである。
 プロジェクトにおいて何をもって成功とするかは事前に討究し、数段階の「サクセス・レベル」を設定しておかねば無意義である。たとえば「ミニマム・サクセス」「ミッション・サクセス」「フル・サクセス」等がある。
 フライト・モデルの前にエンジニアリグ・モデルがある。電気や構造の妥当性を基本設計段階で検討できるもの。
 睡眠不足と疲労で爪が紫色になってもまだ大丈夫。黒くなったらちょっと危ない。
 カン・サット計画は2003で5回目となり、参加大学には東北大、九州大、日大、創価大もくわわった。操縦可能なパラフォイルで回収地点まで降下を指令誘導できるようにもなった。
 米ではカン・サットはじっさいに軌道に乗せられている。
 次にトィッグスが「キューブ・サット」を提案し、これも東大と東工大製の10センチ角サイコロがオービットした。そこから送られるCCD画像はアマチュア無線局で受信できる。
▼以下、兵頭のコメントです。先日ご紹介した『暗黒水域』と読み比べると分かると思いますが、一般人にとって無味乾燥な技術の話を「よみもの」にまとめるためには、機械ではなく人間にドラマを演じてもらわないといけません。米国のプロフェッショナルのリライターは、まあ手垢がついたような方法論なんですけれども、確立されたこの方法論を遵守して、面白い構成にしてみせてくれます。ずっと前に兵頭が書いていた武器の本も、焦点が当たっているのは人間です。たとえば『日本海軍の爆弾』だって爆弾のカタログ本じゃありません(構成はもろ、カタログですが、日本のミリタリー書籍市場にはその方が訴求する故です)。
 あの本は、大西瀧次郎という「日本海軍の爆弾男」の頭の中を想像してみた試みなのです。格好をつけまして自制をしてしまい、そこをサブタイトルで敢えて強調しなかったことは、著者として今さらですが、後悔をしております。


某衛星TVが晦日に「核武装討論」番組を検討中

 95年とか96年といったら、日本で「日本の核抑止」の話ができる人間は数人しかいなかったのではないか? 数名の核武装論者の人たちがいたが、全員まるで「核抑止」の意味が分かっていなかった。
 敵に一発目の核兵器を使用させないのが核抑止兵備なのであって、どちらかが一発目を使用してしまったらそのあとは「全面核戦争」と「民間防衛」の話に移行する。全面核戦争に勝利するための準備があり得るとしたらそれはプライスレスだろうが、それ以前の段階として、必要かつ小規模の「核抑止力」は、ソ連のような大国が相手の場合でも低コストで保有できると証明したのがフランスであった。そのさいのハードウェアの唯一の必要条件は「敵の首都に届くこと」であって、その要件を実現する手段は、それこそ飛行機だろうが弾道弾だろうがスーツケースだろうが何でも良いのである。
 興味深いことに、96年の『諸君!』の、極く単純化した核武装エッセイの段階で、以上の核抑止の意味が理解できなかった人は、現在もまだそれが理解できない様子だ。学者といわれる人がちゃんと文章を読み通した場合でさえも、人は既得の我執を捨て去ることにはしばしば堪えられないものであることは、文業家は肝銘しておかなければならない。まして最新の核抑止文献に一つも目を通さずにこの議論にネットで加わろうという無気力な青少年たちがおよそ10年間、入門レベル以前の話を飽きもせず繰り返している情けなさは怪しむに足りない。
 近代国家の競争力は大都市から発生する。大都市に人々が住めなくなってしまったら、農村やジャングルや山地に何人が無事暮らしていようと、近代国家としての競争力は担任し得ない。大都市の数はどんな大国も有限である。幾つかの中央集権国家のように、首都が脳と心臓を兼ねている場合は、その首都ひとつを焼き払われるリスクでも「ファースト・ストライク」をためらう十分な理由になる。
 ヤクザの喧嘩はいきなり拳銃で撃ち合ったりしない。まず口撃からいくのだが、これは相手の出方次第では腕ずくに移行すると相手に信じてもらわないと無効である。その腕ずくにも段階があって、いきなり相手の顔面に全体重を乗せた右ストレートパンチを繰り出したりはしないのだ。まず丸めた雑誌で相手の頭の上の方を、怒鳴りながらカスってやる。これでビビればよし、効き目がなければ、さらに軽い脛蹴り、胸倉掴み、ヒカリモノのチラつかせ、取り出しと、段階的に様子を見ながらエスカレートさせていくものである。このとき、もしも片方がたまたま刃物も拳銃も所持していなかったら、それを互いにチラつかせる段階にエスカレートする以前に、なんとか譲歩か逃走を図らねばならない。
 国家間の紛争もほぼ同じで、小紛争からいきなり水爆の投げつけあいになるわけがない。必ず通常兵備の小競り合いが段々にエスカレートして行く。
 そのとき、一方に水爆ミサイルがあり、もう一方が非核三原則の国であったならば、前者に最終譲歩の必要はない。後者は通常兵器による戦争の最後の最後の局面では必ず譲歩を強いられる。結果、後者は非理非道な原状変更を呑まねばならなくなり、これを平たくいえば、奴隷化である。
 要は前者は核兵備をバックにした通常兵力の脅しをかけられるのに対して、後者は核兵器が一発も無いがゆえに、通常兵力の反撃の切っ先も終始鈍らざるを得ない。核兵器は、このように、使わなくとも戦争の役に立つのである。
 その核兵器を、価値観のまったく相容れない隣国だけに持たせておくのは、自国の価値観を守らないと言っているに等しい。「近代的自由」は、そんなに簡単に「アジア的専制」の前に放棄できる価値観だろうか?


貰ってどうする、そんなモン

 「エイリアンvsプレデター」は、わたくしがまだ劇画の原作に関与していました時代、つまりマンガ出版のノウハウのない会社までがよってたかってマンガに手を出そうとしていたバブル末期に、たしかビクターの関連会社から、アメコミの翻訳版としてリリースされたと記憶します。
 その時点では映画の『エイリアン』も『プレデター』も「2」まで公開済みであったように思います。
 ちなみに俳優時代のシュワルツェネガー氏が「女のアクション映画は好きじゃない」とオーストリア男らしいホンネをつい漏らしたのは、まず『エイリアン2』が念頭にあっての発言とみて良いでしょう。あのキャラ創りは衝撃的でしたからね。
 その後、第二次大戦中の硫黄島を舞台にした『プレデター3』が出来るとか出来ないとかの噂が一瞬流れて、そのまま立ち消え状態でしたが、ついに『vs』の方が先に映画となりました。パワーのない女のアクション映画です。その代わり、野心的なキャラ創りは、一匹の「プレデター」の中の人(大男?)がしていました。
 脚本は、葛藤(コンフリクト)が弱いです。これは仕方無いかもしれません。元種のコミックもそうでした。エイリアンvsプレデターの狭間に人間が割り込んで三者の葛藤ドラマを100分では描けないでしょう。
 しかしこの『vs』が人気の中継ぎとなって、もっと面白い『プレデター3』が制作される、そんな流れになってくれるのではないかという期待も我々に持たせた、微妙な「中の人」のキャラ創りではなかったかと思います。


リッコーヴァー提督

 日本の核武装を考える人は、米国の原子力委員会と海軍の原潜計画の両方を一時は一人で引っ張りまわしていた人物のキャラクターについてよく研究しなければなりません。この種の大きな事業は、たった1人の優れた精力的なプロマネが指揮せぬ限り、うまくいくものではないんです。
 先日、『暗黒水域 知られざる原潜NR-1』を読みました。
 本書は原著が03年で、訳は04-1に出ていました。ぜんぜん知らなかったんですが、シナ潜事件で最近の関連書籍をググってたらこれが出てきましたので早速購読。満足しました。
 作者はヴィボニーという、米海軍の特殊任務の超小型原潜に乗り組みを許された数少ない白帽(水兵)出身者です。彼のモトゲンを、デイヴィスというプロのリライターが加工しているらしい。だから無味乾燥なノンフィクションなのに、うまく読ませます。そしてリッコーヴァーが裏の大役として暴れまくっています。以下、その内容メモとコメントです。
 『ナーワル』は自然循環冷却式の原子炉なので静か。
 米軍潜水艦と乗員の半分がWWIIで喪われた。
 平時の大洋の安全水域では原潜は水深100mで巡航か。速度は17ノット。p.15
 音響測深器=ファゾメーター
 1957当時、米は領海3浬しか認めず、ソ連は12浬主張。このグレーゾーンでソ連は米潜に爆雷を投下していた。ソ連側の説明は「演習で投下」。そして損害があってもどちらも公表しなかった。3浬内では本当に撃沈してよく、そして撃沈すれば公表されたはず。
 水中でも潜望鏡は見える。それによって敵潜水艦の艦底を気付かれずに撮影した。
 ジュリエット級はプロペラをダクトに納めて騒音を減らしていた。
 1960に『チャレンジャー』は水深11900mに米国旗を立てた。
 『スレッシャー』沈没原因は、機関室の海水パイプらしかった。
 1966-1-17、B-52が空中給油機と衝突してB28水爆×4発が落下。うち2発はスペインの海岸の村の畑でショックにより起爆用の高性能火薬が炸裂し(平時は安全措置をしてあるので核反応は起きない)、650エーカーにプルトニウム粉をぶちまけた。
 ※生のプルトニウムでテロを起すというフィクションがあるが、じつは大したことが無いことが分かる。長崎上空でも大半のプルトニウムは反応せずに撒布された由。
 NR-1は深度を狙うために船殻貫通の箇所は最少。よって潜望鏡も無し。
 ジミー・カーターも原潜士官だった。※だからあのスタンスでも許された。
 米軍艦でもっとも冴えないネーミングは「マッカレル」(鯖)。
 リッコーバーは海軍では一度も原子炉の事故を起させなかった。それが一度でも起きたら原潜艦隊に米国の予算はつかなくなると知っていた。そのために彼は必ず品質をコストに優先させた。
 武器メーカーから派遣されて軍艦に乗り組む民間人として「フィールド・エンジニア」と「テク・レップ」がいる。
 リッコーバは大尉時代に、独語のWWI潜水艦文献を余技で英訳した。また米国の教育問題についてもコンスタントに著作した。
 1965時点で米海軍は3メーカーの原子炉を使用。そのすべてに訓練施設があり、いずれも片田舎で、表向きは秘匿されていた。
 NR-1は士官×3+徴募兵×9の12名定員。艦長は「直」につかない。すると原子炉の機関当直は2名の士官が交替でするしかない。これでは不可能だから、水兵に士官の仕事をさせた。
 エレクトリック・ボートはWWI前に電動モーター付きヨットを造ってた会社。
 NR-1用の超小型原子炉は「やかん」サイズだ。
 冷却水に海水が混じっていないか、標本が取り出せるようになっていなければいけない。
 アポロ計画が終わったとき、3000人の技術者がレイオフされた。そしてめいめい勝手に再就職口を見つけた。
 1967年に米国でも字幕付きの「外国映画」が上演されていた。
 1968-1にノベンバ級原潜はエンプラを最高31ノットで数日間、追尾し続けてみせた。これすなわち技術力の誇示。
 最新特殊器材の故障対策はどうしたらよいのか。同じものを三つつくる。一つは艦上に、一つは港か水上のサポート船に、もうひとつはメーカーに置く。そして故障したらまずユニット全体を取り替えてしまう。
 原子炉区画は完成前の検査が大事である。ここで外部の検査官に徹底して欠陥を指摘させ、そこを直す。それが最終的に巨額のカネの節約となる。NR-1では1300箇所が指摘され、すべてを直した。
 真水は加熱蒸留によって得る。一日最大百ガロン。
 タービンは毎分3万回転で、これはジェットエンジンの二倍。
 艦の前後にショットタンクが2本あり、それぞれ数トンの鉛玉を入れている。緊急に浮力を得たいとき、投棄できる。
 初試験航海=アルファ・トライアルで、リッコーバはいきなり1000mまで潜らせ、着底までさせた。ただし150mごとに止まって船殻にかかる圧力を安定させる。鋼はHY-80であった。※潜水艦は潜るにしたがって船殻が縮むのである。つまり体積が変化するから、刻々と浮力も変わってしまうわけ。
 1969末から単独航海開始。今日なお現役。つまり艦齢36年か。
 浮上航行ではセイル上とて海面から2mにすぎない。
 隔壁内からセイルに出るには、いったん高さ90センチの「犬小屋」を経る。頭上のハッチの上に水が溜まっているかどうかは、赤青ランプで分かる。
 米本土でも、原子力船は特定の港にしか入港を許されない。避難でもダメ。
 ヴェント弁はドックでの不注意の沈没を防ぐため、港では鍵がかけられている。そのキーを忘れて外海に出ると、荒天を潜航で避けることができなくなり、セイル当直がとんでもないことになる。本艦のセイルは上下から水が出入りする非水密構造のため。
 激しく横揺れするとバラスト・タンク内の空気が艦底のフラッド・ポートから出ていってしまうことがある。
 海底走行(2輪を使用)では0.5ノット以上を出すと危険。またスラスターが持ち上げられないほどの海水をバラストに入れてはならない。
 武装は保管庫内の45口径のピストル一梃のみ。サメよけなどに持ち出す。なぜかメカジキが意図的に船体に体当たりしてくることがある。
 ミサイル原潜ならば3名のコックを乗せ、一度のパトロールに食糧45トンを積んで行く。
 水兵が「入港時特定甲板士官」の資格テストを受けることもできる。さらには「運航時甲板士官」もの資格も。これがあると操舵させてもらえる。また甲板士官のみが艦橋直につける。
 30センチ厚の鉛シールディングは、コンパクト化のため、前部隔壁にのみ使用。あとは放射能出放題なので、艦の後半は立ち入り禁止。特に入港係留時。
 ベトナム戦争で起きた「汚染」は、無能な司令官への士官たちの盲従。
 水上艦が嵐で揺れて空き缶が転がると、それをサブのパッシブソナーで聴ける。
 55ガロンのドラム缶が海底にあれば、艦首ソナーで300m先から探知できる。
 副長の仕事として乗組員の士気の鼓舞も。
 アゾレス諸島で水深900mから鉄塔を建てて、サブ用の航法電波塔にした。送信塔1、受信塔2で1986まで稼動。AFARという。基部からはケーブル。※衛星通信以前の何かか。
 リッコーバはチビなのでアメフトその他スポーツが嫌い。海軍兵学校卒も嫌っていた。なぜならアメフトをするところだから。
 旧ドイツの機雷を漁船が網でひきあげると爆発することがよくあった。
 米海軍は、ソ連の全艦艇の位置を4時間ごとに確認した。これがSLBM対策として必要なのである。
 シシリー海峡とメッシナ海峡にはなんとソ連がSOSUSもどきを仕掛けていた。
 NATO海軍基地はサルディニア北岸にも。
 ソナーにも合成開口式があり、映像が得られる。サイド・ルッキング。
 海底ケーブルの破断箇所は、ケーブルのどこかをつまみあげてずっと辿っていく。そして箇所がわかったら水上で待っている修理艦まで持ちあげていってやる。これができたのがNR-1。
 現在のケーブル敷設艦は、ジェッターによって溝を掘りながら埋めていく。
 ソ連海軍のオホーツクの通信ケーブルを1971に海底で盗聴したのは『ハリバット』。
 水銀はガスが有毒なのでサブのような密閉空間では使用禁止。
 フェニックスには核弾頭も装着可能であった。
 公海に沈んだモノは、海洋法の定めるところにより、誰でも引き揚げて所有できる。
 空母機は前脚が射出用に特に頑丈なので、ここにワイヤーをかけて引き揚げる。
 ある海底ではほぼ10時間おきに、5度も水温の低い水の塊が高速で通過する。突風の如し。
 1976-11にNR-1の情報が部分公開され、乗員は5人と説明された。ロシアが漁網で回収を試みるしかなかったモノを拾ってみせた。※ここから例のキャタピラ付きミニサブが意地で開発されたのか?
 原子炉の最初の加圧は外部電力(電池)とモーターによる。この電池が切れると原子炉はかからない。※不思議なことにアイソトープ電池を搭載する発想はなかったらしい。
 水酸化リチウムを撒いてCO2を除く。
 レーガンはもと戦闘機乗りのレーマンを海軍長官にしたのでリッコーバが反発した。馘になるときに、とんでもない暴言を吐いた。
 トム・クランシーの『レッドオクトーバ』は84年。ここにNR-1も少し出る。サブからトマホークうてるようになったのは88年。
 科学者ロバート・バラードが海軍の可潜ロボット『アーゴ』を使って次々と成果をあげる。スレッシャー、タイタニック、ビスマルク。※加賀も?
 95にNYタイムズの記者がNR-1の全貌を公式リポート。
 NR-1はイスラエルの沈没潜水艦『ダカール』も発見した。
 理論上の航続力は330人日。水中最大3.5ノット。


書店で「此一冊」と出遭える時代は去りました

 拙著『あたらしい武士道』を地方の書店で探すのは時間と労力のムダです。
 わたくし自身、函館市内では一冊も見たことがないほどです。横浜、札幌といった政令指定都市の最大級の書店でも初回入庫は3冊くらいだそうです。もう残ってないでしょう。
 よほどのメガヒットかロングセラーとならぬ限り、大型書店への二度目の入庫もありません。それは来年のいつになるやら分かりません。
 書店であらためて新刊を註文しますと、1〜2週間は待たされるでしょう。「取継店」が間に入っているのと、版元の倉庫はたいてい田舎にありますので、手間がかかるわけです。
 典型的な「多品種・少量」商品を、たった一度だけ、たった数冊づつという名目的な分量でも、全国の書店に流通させている現今のシステムがまだ成り立っているのが既に奇跡に近く思えます。
 わたくしが書いておりますような数千部しか刷らぬ書籍は、もう「書店を覗いて偶然見つけて立ち読みして面白かったので買う」などという時代ではないです。
 書籍はネットで注文して買うしかない時代に、わたくしたちが知らない間に、突入しました。
 現在、この方式で注文すれば、数日で宅配されてきます(あるいはセブンイレブンで受け取れます)。電車賃や「時間×体力」などの「サーチ・コスト」を計算に入れると断然こっちが「お得」です。いきおい消費者も版元も、このシステムを好む。するとますます取継店は地方書店からの返本率をゼロにしなければ経営が危うくなりますから、地方への配本数は極限まで絞ることとなります。
 もう「再販価格維持制度」も崩壊寸前と見て良いのではありますまいか。
 なお、みなさんには、最寄りの公共図書館で「購入リクエスト」のカードをお書きになり、数ヵ月待って、只で読むという手もあります。(ちなみにわたしは手持ちの著者分をすべて八重山列島の公共図書館に寄贈しました。この日本には、バスの「巡回図書館」しか無い島もあるんです。みなさんはまだ恵まれている方です。)
 どうしても書店で現物を確かめたい場合には、まずインターネットで書名を入力してググる。それで「昨日の在庫は××冊です」とすぐに出てくるような書店に行けば大丈夫です。東京都内ならば「ジュンク堂・池袋店」がgoogleにヒットしてきますね。ここは確か立ち読みどころか「座り読み」もさせてくれる太っ腹書店でしたよね。
「良い店はますます良くなり、悪い店はますます悪くなる」──誰の名言か忘れましたが、経験的に「真」ですね。
 ところで東京では『新潮45』(05-1月号)は書店に出てますか?


道義の軽重について

 国民がその政府に委託している第一の仕事は、国民全体の権力(=飢餓と不慮死の可能性からの遠さ)を維持・増進することです。このとき、特定の一人の国民の利害と、国の正しい仕事は、バッティングすることがあるでしょう。
 たとえばここにある社員Aがいて、戦争の役に立つとても優れたある技術を敵性隣国、たとえばシナに売らないと自分の女房を養えないという事情があったとする。Aはシナに技術を売ることで自分の権力のためになると思い込みます。そして輸出契約を結んでしまったとしましょう。Aは、これも自由貿易だ、商売の自由だと考えている。
 しかし日本国としてはAにそんなことをされたら日本国民全体の権力が減殺されてしまいます。日本とシナとでは「基本的人権」についての価値観が一致しません。シナ軍を強化することは、ひいてはA個人の安全保障のためにもなりません。だから日本国はAの行為を知ったらすぐに禁じなければならず、それは「日本国対A」の道義にも悖[もと]りません。
 当然しかしこれはシナの国益には反しますから、シナは日本国政府に文句を言ってくるかもしれない。それはシナの正義です。Aも文句を言うかもしれないが、Aは日本国籍を脱していない以上、日本国の安全を損なう行為は許されません。Aに正義はありません。
 このように、道義には軽重があり、契約(社会契約)にも軽重があります。何を最も重んずべきかは契約主体の立場によってほぼ決まるものです。
 1939年9月にドイツは、ポーランド国境でポ軍側から挑発があったとラジオで作り話の宣伝をしてから独軍を挙げてポーランド領内になだれこませ、これにかねて密約のあったソ連が東側国境から呼応して、ついにポーランドを独ソで分割占領してしまいました。ドイツのラジオ宣伝の意味は「これはパリ不戦条約で禁じられた侵略ではなく、自衛反撃ですよ」と一応の体面を取り繕おうとしたものに他なりません。
 しかし、ヒトラーのダンツィヒ割譲要求(3月)→英仏対ポーランド相互援助条約(4月)→ヒトラーの独ポ不可侵条約破棄(4月)→独ポ開戦と事態が推移しているとき、9月の事態を「ドイツの侵略」で無いと信じた英仏国民はいなかった。事実、ドイツがまずパリ不戦条約を破ったのです。
 言ったことは実行せぬと、将来の言葉による抑止も無効になってしまいますから、英仏両政府は、約束に従い、ドイツに宣戦布告しました。しかしこれは、ドイツが先にポーランドに侵略していることが前提ですので、パリ不戦条約の精神に背馳しないのです。仮りにもしもドイツのラジオの宣伝のように、ポーランド軍が先にドイツ領内に攻め込んだのであれば、英仏のポーランドへの軍事的左袒は、そもそも発動されません。したがいまして、英仏対ポの相互援助条約も、パリ不戦条約とはいささかも矛盾せぬのです。さらにまたもしこの相互援助条約が結ばれていなかったとしましても、英仏は「侵略者」と認定されたドイツに、後から経済制裁を加えたり宣戦布告することは全く合法で、パリ不戦条約も国際連盟もそれを禁じてはおりません。
 ここで日本人がつまづきますのは、では英仏はどうしてポーランド分割の共犯者であるソ連にもすぐ宣戦布告をせず、それどころか後では同盟を結んでいるのか、との道義問題かもしれません。
 パリ不戦条約および戦間期の国際連盟は、侵略者を第三国が直ちにこぞって懲罰し原状に強制的に戻させるというようなスキームではありませんでした。特に当時の大国がパリ不戦条約を破った場合、これを止めさせるには、他の大国の連合による、あらたな世界戦争の覚悟が必要だったのです。
 米国は戦間期にも南米諸国へ何度も軍隊を送り込み、パリ不戦条約の精神には明白に違反をしておりましたけれども、だからといって英仏が米国と戦争をしてまで南米諸国の主権を護持してやる価値は、南米諸国政府には無かったでしょう。同じことがフィンランドやバルト三国政府についても該当しました。フィンランドのケースでは、国際連盟がソ連を除名しました(11月)。しかし英仏にとってフィンランド政府とソ連政府とどちらが大事だったかといえば、ドイツと戦争中の当時としては、あきらかにソ連の方だったのです。ソ連軍を味方につければ、ドイツ軍の対仏攻勢に対抗できそうでしたから。
 ところで、ポーランド分割の直前には、第二次ノモンハン事件が起きています。これはスターリンには、絶対に勝ち負けを譲ることのできない紛争でした。というのは、スターリンはポーランド分割後の、独ソ両大国の直接対峙の後に起こることについて、当然の心配をしていたからです。スターリンは英仏との軍事同盟を切望していました。
 つまりこのとき、関東軍は「日本軍がシナ大陸へもっと討って出ても、ソ連はチョッカイなど出してこない。ソ連に対する北の防備は万全じゃから。ホレ、それを証明しちゃる」と内地の省部の方を向いて「威力偵察」をやっていたつもりだったのですが、モスクワは、あくまで英仏2政府の方を向いていた。
 そして、「英仏のみなさん、見ていてください。ソ連軍はモンゴルのあんな不利な辺地でも日本軍の最強部隊に完勝できます。ですからわが国を味方にすればきっとお得ですよ。ドイツを共通の敵にしてもいいですからね(だから多少の領土拡張や領民虐殺にも目をつぶってくださいね)」と訴えていたんです。
 もしソ連軍がノモンハンで負けたと海外に報道されたら、英仏政府は「ソ連を反独の同盟者としてたのんでも無駄だな」と思ってしまいます。「もともとあんな外道の国に援助を送る必要はない。将来ドイツと勝手に戦争をやって共倒れになってくれたら万々歳だ」と思うだけだったでしょう。
 だからスターリンは必死でした。遊び半分に手を出してきた関東軍には圧勝しておく必要があったのです。「ソ連が日本の出先軍に負けた。赤軍はまだ粛清で弱体化したままのようだ」と宣伝されてしまったら、それでソ連は英仏から見放され、ヒトラーと単独で対峙しなければならず、それはスターリンにとってソ連の終わりを意味したんです。
 日ソ両軍のこの「本気度」の違いが、弾薬の集積量の違いになりました。極東ソ連軍にとって、あれだけの弾薬と水と燃料を集めて、鉄道の通じていないモンゴルの前線まではるばる運搬するのは、容易なことではなかったんです。弾薬と燃料は、それこそシベリアじゅうから掻き集めてきたのです。
 こうして強さを証明できた国には、正義があとからついてくることが、国際社会ではよくあります。逆に言うと、一国の政府は、正義において自国とバッティングする隣国に、強さを証明させてはいけない。
 さいきん、シナ軍や朝鮮人のために異常な便宜を図ったり、米国から言われるままにMDに大金を拠出し核武装をあきらめることが、国民の負託をすっかり裏切る社会契約違反であるとも分からぬ、そんな道義の軽重を覚れぬ高級官僚ばかり増えておりますのは、日本の近代がまだ発展途上である証左でしょう。


東アジア共同体とは何の冗談だ?

 雑誌『中央公論』05年1月号に片山主計官の防衛庁+自衛隊への反論が載っているのを皆さんはお読みになったでしょうか。
 サイト上の記録を兼ねてご紹介すれば、こんな感じです(表現には兵頭の私見が混じっておりますから以下文責は兵頭にあります)。
 03-12にBMD導入をきめたときに、三自衛隊は他の装備を削減すると防衛庁が約束した。が、制服は納得していない。特に陸自。
 04-11に財務省は試算を発表。こんご10年で国債費以外の全経費を毎年2.9%づづ少なくして2/3にまで落とすか、さもなくば消費税を21%にしないと、プライマリーバランスは黒字にならないと。現実にはこの組み合わせ折衷を探る。
 防衛大綱は、哲学および、10年後の武器人員ストック水準を定める。これに対して中期防は5ヵ年のフロー。この二段構えが必要なのは、装備は「後年度負担」で発注〜調達していくから。
 ドイツでは陸海空の縦割りをなくして目的別に部隊を再編しているぞ。
 RMAで情報強化すれば兵力は減らせる筈だ。首都圏に中央即応集団(自衛隊の機動隊)を置くのもその方向性だ。
 陸自は、司令部・方面・後方支援だけで5万人もいる。ほとんど行政要員であり戦闘力になっていない。他の公務員なみに合理化せよ。(※兵頭が言い直すと、5コ方面隊を廃止して1コ総隊にしちまえということ。その結果、4つの方面司令部の高級幹部がポストを失うから、陸自としては全く取り合わぬわけ。)
 陸自は、全国124箇所の重要施設に北鮮から2500人のゲリラが上陸してくる、それに対処するには16万2000人要る、とまことに二流官庁らしく説得力に乏しい反論で削減に抵抗した。もっと頭の良い反論はできんのか。
 現場レベルでの統合がまるで進んでいない。代表が輸送ヘリ。なぜ英軍のように陸海空で同じものを使えないのか。
 財務省は駐屯地名を挙げて削減を促したことはない。それは陸自側が関係自治体首長に財務省へ陳情攻勢をかけさせるための反撃宣伝リーク。
 軍事力だけが抑止力ではない。何より外交力が大きい。日米安保とともに「東アジア共同体の確率[ママ]をも進めていくという両にらみのアプローチしか選択肢はないであろう」(このかぎカッコ内は片山氏の文章)。
 以下、兵頭のコメント。「1コ総隊」化には諸手を挙げて賛成です。しかし予備・後備まで含めた日本国の総兵力は大国として絶対的に不足しているのです。要は「新大綱」が自由貿易大国としてのビジョンを示し切れていません。
 片岡鉄哉さんは今度の新大綱は事実上の改憲を予期したものであるとして評価されているようです。
 たしかに次の中期防ではC-130に味方ヘリに対する空中給油の能力を付加するらしい。これはとりあえず極東有事の際のコンバット・レスキューを北鮮領内にまで及ぼす措置ですね。日本海側の空自基地の救難用UH-60はすでにロウ・ヴィジブル塗装に変えたようであります。頼もしい。
 しかし日本版のストライク・パッケージはあと10年くらいたたないと完成しないのです。今からレーダー・ジャマーの開発をするという呑気な話ですからね。ということはまだ10年間は米軍様が頼りだ。情けない話ですがね。
 問題は10年後です。米軍が中東にもっと注力するためには、極東は日本に軍事的に仕切らせなければならない。これは1922年のワシントン海軍条約の精神の再現でしょう。しかし当時と今の大きな違いは、シナが水爆を持っているのに日本は非核。これでは地域のバランサーにも抑止力にもなれるわけがないということです。
 つまり今度の新大綱を10年以内のある時点で改廃して、新たに日本の核武装が盛り込めるかどうかが分かれ目になります。それには「東アジア共同体」などという寝言を止めぬ高級官僚たちを今から5年以内にパージしてしまわなければ間に合いますまい。


良い店はますます良くなる

 わたくしはインターネットに加入する前は「誰もが利用する情報なら地上波TVと同じだ。そんなものはエクスクルージヴな情報の作り手であるオレには必要ない」と思っていました。
 しかし函館転居後に加入してみたら、そうでないことが分かりました。
 インターネットのたとえばgoogleのキャッシュ機能は、地球上の誰かが過去に書き込んだ(しかしほとんど誰にも読まれもせずに埋もれている膨大な)情報を、かなりの長期間、保存してくれている。これはわたくしがかねがね主張してきました「ストック情報の保存機関」たる理想の図書館の機能を果たしてくれる可能性が将来は有るぞ……と今では思っています。
 そこに04-12-15に、興味深い報道がありました。
 一館で数百万冊も蔵している英米の古い大学図書館とgoogleとが提携し、著作権切れの古書はすべてデジタル化して検索も閲読も可能にする──というのです。
 これは英文字の場合、印刷された活字をスキャナーにかけますと、文字の形を光学的に読み取ってバイト文字に自動変換してくれる(それを後で人間のプルーフ・リーダーが校正する)ソフト&ハードウェアがあるから可能なのだろうと想像します。さもなきゃ網羅的な単語検索などは不可能ですからね。人間が電子的カード(書誌分類データベース)の中にいくつかの内容キーワードとしてついでに入力しておいてくれるサービスならばとっくにあったわけです。
 日本では国会図書館と防研と国立公文書館で、戦前の資料を画像取り込みし、それをインターネットで誰でも読めるようにしようという作業が進行中ですが、著作権が切れていることがはっきりしない文献は放置されております。また作業は人手頼みなのに予算が乏しいため、馬鹿にゆっくりしたペースで行なわれております。もちろんバイト文字に変換するのではなく、あくまで1ページまるごとの写真画像です。本文中の単語検索などはできません。
 それは、ナナメ読みに適した日本語のデメリット面なので仕方ないんですが、許し難いのは、このせっかくのリモート閲読サービスは24時間アクセス可能ではないんです。深夜・早朝などは使えません。お役所です。まるっきり、研究者の波長と合っておりません。不便だから、したがって普及もしていない、誰も知らないという悪循環であります。悪い店はますます悪くなる。
 わたくしも地方在住者としてこのサービスには大いに期待していたのですが、なにしろ甚だしく疲労しますもので、今では利用することを考えないようにしています。残念なことです。