パブリックドメイン古書『ガラスのなぞ』(1908)を、AI(GPT-5.1 Thinking High)で訳してもらった。

 原題は『Glass Manufacture』、著者は Walter Rosenhain です。
 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさま、ITに詳しい御方はじめ、各位に深謝いたします。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** PROJECT GUTENBERG 電子書籍「GLASS MANUFACTURE」開始 ***

翻刻者注記(Transcriber’s Note)

本電子書籍のプレーンテキスト版では、上付き文字は ^{}、下付き文字は {} で示し、 イタリック体は 二重のアンダースコア_ で、太字は =等号で囲んで= 表している。
巻末の広告における下線は 二重のアンダースコア で示されており、
イタリック体との区別はしていない。

「ウェストミンスター」叢書

ガラス製造

ガラス
製造

著者
WALTER ROSENHAIN B.A. B.C.E.

国立物理研究所
冶金学および冶金化学部
監督官

[挿絵]

ニューヨーク
D. VAN NOSTRAND COMPANY
23 MURRAY および 27 WARREN ストリート
1908年

BRADBURY, AGNEW, & CO. LD., 印刷所
ロンドンおよびトンブリッジ

序文(PREFACE)

本書『Glass Manufacture(ガラス製造)』は主としてガラスの使用者の便宜のために
書かれたものであり、したがってガラス製造そのものに従事している人々に対する、
十分な指針または助けとなることを主張するものではない。そのため、本書における
製造工程の記述はできるだけ非技術的なものにとどめてあり、設備や装置の詳細な
図面は掲げず、また、長々しい言葉による説明を避ける目的で、わずかないくつかの
説明用の図を挿入したに過ぎない。各工程を記述するにあたっては、既知あるいは
理解されている範囲で各段階の道理(ラショナーレ)を示し、それによって個々の
操作の詳細な技術的手引きを与えるというよりも、むしろ、その工程およびそこから
得られる製品の可能性と限界を示すことを目的としている。本書の実用的な目的は、
ここで記述される諸工程が、廃止されたと明記されているものを除き、著者が明確に
把握している範囲において、現時点で商業的に使用されているものである、という事実
によって、さらに保証されている。このため、既往のガラスに関する書籍に記述されて
いる、見たところ巧妙で美しい多くの工程は、本書ではまったく言及されていない。
というのも、著者はそれらが実際に用いられた痕跡を、関係する諸特許の記録以外には
見い出せなかったからである。

一方で、読者はガラス製造業界の特異な事情を念頭に置かなければならない。すなわち、
製造業者が自らの工程を可能なかぎり秘密にしておくという慣行が存在するためである。
そのため、ある特定の部門で使用されている最新かつ最良の工程について、正確な記述を
与えようとする著者の仕事は、きわめて大きな困難にさらされることになる。著者は
このような事情のもとで取りうる最善の道を歩もうと努めてきたが、英語で書かれた
ガラスに関する文献が乏しいという事実そのものが、ここで述べた困難を裏づけるもの
であると考えている。

こうした主として商業的配慮から生じる困難に加えて、ガラスに関する書物の著者は、
決して小さくない技術的困難にも直面する。すでに述べたように、本書の著者の目的は、
諸工程を単なる経験則や「我流」の製造操作の記述として示すのではなく、原理や方法の
観点から説明することであった。しかし、その際、科学の側面から見ると、ガラス製造の
分野の大部分がいまだ“terra incognita(未知の土地)”である、という事実に、
あらゆる場面で行く手を阻まれることになる。このように述べるにあたって、著名な多くの
科学者たちの努力が忘れられているわけではない。とはいえ、この分野全体は、あまりにも
広大であり、また実験上の困難があまりにも大きい。そのため、Fraunhofer や Faraday、
Stokes、Hopkinson、Abbé、Schott といった名を含む長大な研究者の一覧に挙げられる人々の
労苦をもってしても、なお経験的データの蓄積以上の成果は得られていないのである。
それらのデータは直接的な実用面において大きな成果をもたらした一方で、ガラスの科学は
いまだきわめて初歩的な段階にとどまっている。

この事実を例示するために二つの例を挙げよう。ひとつは、屈折や分散といった光学的性質と、
ガラスの化学組成との関係の問題であり、もうひとつは、より機械的な側面に属する問題、
すなわち、圧延や成形といった、高温のガラスと金属との接触を伴うあらゆる工程が、
なぜガラス表面の粗化を生じるのか、という問題である。前者については、上述の研究者
のうち数名によって研究され、とりわけ Schott と Abbé は、この問題の研究に莫大な労力と
資金を投じた。しかしその科学的観点から見た成果は、期待を裏切るものであった。これらの
研究者は、長期にわたる実験と、試行錯誤という高価な方法を用いて、重要で新規な有用ガラス
の一連の系を生み出すことに成功したが、特定の化学組成をもつガラスの光学的性質を予測できる
ような法則はいまだ見い出されていない。既知の事実を総括する段階になっても、特定の性質を
もったガラスを製造しようとする者にとっての指針となりうるのは、きわめて漠然とした一般原則
にすぎないのである。他のほとんどの性質についても、状況は同程度であり、おそらく密度と熱膨張
だけが例外と言える。限られた種類のガラスについて得られた既知データから一般化を試みようと
すると、多くの場合、完全な失敗に終わる。われわれが認めざるを得ない結論は、ガラスの本性や
構成を支配する基礎原理は、いまだ発見されていないということである。

上述の知識の限界を示すもうひとつの例として、先に挙げた別の問題を考えても同じ結論に至る。
すなわち、圧延機や鋳型がガラスに及ぼす粗化作用を克服するために、ほとんど果てしない数の
発明家がさまざまな工夫を凝らしてきたにもかかわらず、真に成功した例はひとつとしてない、
という事実である。同様の例はほかにも多数挙げることができる。ガラス製造の過程で遭遇する
多くの現象に関わる物理的・化学的原理について、われわれの知識は嘆かわしいほど不十分なのである。
したがって、現時点でガラス製造について真に科学的な記述を行うことは不可能であるということを、
読者には理解しておいていただきたい。そのうえで、本書における化学的あるいは物理的説明が、
望まれるほど頻繁でなかったり、十分でなかったりする場合があるとしても、それを容赦して
いただきたい。

ここまで、ガラス製造に適用されるわれわれの科学的知識の限界をやや強調して述べてきたが、
この状況が、今さら改めて述べるまでもなく、この分野全体に対するさらなる研究の最強の動機と
なるべきことは明らかであろう。とはいえ、そうした研究は、通常の研究室におけるボランティア的な
研究者によって遂行できる性質のものではなく、ガラス製造者が自らの工場において積極的に関与して
初めて可能となる、という難点もある。ガラスは本質的に、少量では満足に取り扱うことのできない
物質であり、とりわけ、ガラスが高温の間に生じるあらゆる現象に関してはそれが顕著である。
容器の材質、炉内ガス、急冷といった要因は、実験に用いるガラスの量がオンス単位か、
あるいはハンドレッドウェイト(百ポンド)やトン単位かによって、その影響が極端に誇張される。
しかも、これらの影響や、それと同種のほかの影響は、小規模な実験室での操作の結果すべてに
本質的な影響を与える。したがって、ガラスに関する科学的知識の進歩――そして現在なお
「経験則」と「実務経験」が過度に支配的であるこの産業を、その状態から発展させること――
は、業界関係者自身の手に委ねられていると言ってよい。

もちろん、このような研究に着手することは、製造業者にとって多大な時間と費用の負担を
意味する。また、この分野はあまりにも広く、問題はあまりにも複雑であるため、
即時的な 見返りを十分に約束することはできない。一方で、この分野の広大さと問題の困難さ
そのものは、究極的な報酬の偉大さをも意味している。ガラスに関して真に重要な科学的発見が
なされれば、その結果として、どこまで発展するか予測できないほどの産業上の展開が
連なって生じることは確実であろう。イエナの Schott のガラス工場の産業上の成功は、
まさにこの分野における純粋な科学研究の成果が商業的成功に結びついた、輝かしい実例として
しばしば引用される。さらに規模の大きい例としては、ドイツのアニリン染料工場が挙げられる。
これらは純粋な科学的達成の上に築かれたものである。現代生活における絶対必需品の一部を
供給している産業である以上、ガラス工業は大きな成功報酬を提供しうるはずであり、
他の産業の例からも、適切に行われ、粘り強く続けられる科学研究には、最終的な 成功が
必ず報いることが示されている。ガラス製造の分野ほど、そのような研究が切実に求められて
いる分野はほかにないと言ってよい。

なお、本書の著者は、本書の校正および内容に関するさまざまな提案について、
W. C. Hancock 氏から貴重な助力を得たことをここに記しておきたい。

目次(TABLE OF CONTENTS)

                                                                ページ

序文 v

第 I 章

ガラスの物理的・化学的性質

「ガラス」という語の定義――すべてのガラス質物体に共通する
無晶質構造――ガラスは凝固した液体であること――ガラスは
明確な化学的化合物ではなく、複雑な溶液であること――
ガラス製造に用いられうる化学組成の範囲――化学組成を
決定する際の考慮事項――物理的性質に及ぼす組成の影響――
ガラスの化学的安定性――ガラス表面の恒久性――
ガラスに対する水、酸、アルカリの作用――光のガラスへの
作用 p. 1

第 II 章

ガラスの物理的性質

機械的性質:引張強さ、圧縮強さ、弾性、延性、および硬さ――
ガラスの熱的性質:耐熱衝撃性、膨張係数、熱伝導率――
温度計用ガラス――ガラスの電気的性質――ガラスの透明性と
p. 18

第 III 章

ガラス製造の原料

一般的考察――化学的純度、水分および物理的状態、品質の
一定性――シリカの供給源、砂および砂岩――長石――アルカリの
供給源:ソーダ灰(炭酸ナトリウム)、ソルトケーキ(硫酸ナトリウム)、
パールアッシュ(炭酸カリウム)――アルカリ硝酸塩――
アルカリを含む天然鉱物――その他の塩基の供給源:石灰、
白亜、石灰石、消石灰――石膏(硫酸カルシウム)――
バリウム化合物――マグネシアと亜鉛――酸化鉛、鉛丹――
アルミニウム、マンガン、ヒ素――炭素――コークス、木炭、
無煙炭 p. 35

第 IV 章

ガラス溶融用るつぼおよび炉

耐火粘土および珪石れんが――ガラス溶融用ポットの製造――
ポットの乾燥および初回加熱――タンク炉およびその他の
炉用ブロック――珪石れんがの用途――炉――石炭焚き炉と
ガス焚き炉――ガス発生炉――蓄熱炉、シーメンス炉の原理と
構造――熱交換式炉――現代のタンク炉の一般的構成――
タンク炉とポット炉の相対的長所 p. 54

第 V 章

溶融の工程

原料の手混ぜおよび機械混合――装入作業――炭酸塩混合物および
硫酸塩混合物の溶融時に生じる化学反応――反応に及ぼす炭素の
影響――清澄(ファイニング)の工程 p. 73

第 VI 章

ガラスの加工に用いられる諸工程

ひしゃく取り、巻き取り、および鋳込み――ひしゃく取りの限界――
圧延ガラスにはひしゃく取り、吹きガラスには巻き取りを使用――
ガラスの圧延――吹きの工程と操作――鋳型の使用――
プレス成形――型押し p. 84

第 VII 章

ビン用ガラス(ボトルガラス)

原料――炉――タンク炉の優勢――手吹きによるビンの製造工程――
巻き取り、マーヴァリング、吹き――耐火粘土および金属
製鋳型の使用――口部の形成――改良された装置、鋳型および
工具――機械によるビンの製造――「ブーシェ(Boucher)」型
ビン吹き機――ビンの徐冷(アニーリング)――大型ビン、
カービョイ――吹き工を助ける器具――Sievert の工程――
浅くて大きな器、浴槽 p. 95

第 VIII 章

吹きガラスおよびプレスガラス

原料――ボヘミアガラスとフリントガラス――巻き取りと吹き――
「椅子仕事(chair work)」――「手仕事(hand work)」――
手作業によるタンブラーの製造――吹き製品への色ガラスの
適用――吹きの補助としての鋳型の使用――鋳型の粗化効果――
再加熱による火炎研磨――圧縮空気の使用――プレスガラス――
鋳型とプレス機――プレス成形工程の能力と限界 p. 108

第 IX 章

圧延またはプレートガラス

圧延プレートガラス――炉――原料――ひしゃく取りの工程――
圧延テーブル――徐冷――切断と選別――圧延ガラス上の模様――
「模様入り(figured)」圧延プレート――二重圧延用機械――
研磨プレート(ポリッシュド・プレート)――原料――
溶融ポットからの鋳込み――鋳込み専用ポット――圧延テーブル――
平坦度の重要性――徐冷窯――研磨および光沢出し工程――
研磨に用いる機械――ガラスの保持方法――研磨剤および
研磨材料――研磨工程の理論――研磨プレートの大きさの限界――
研磨プレートの均質性――プレートガラスの用途――曲げ
研磨プレート――鏡――面取り(ベベル加工)、工程および機械――
ワイヤー入りプレートガラス(圧延・研磨)――困難および
限界――ワイヤー入りガラスの利点 p. 122

第 X 章

シートガラスおよびクラウンガラス

シートガラスと研磨プレートの比較――シート用原料――炉:
各種タンク炉――吹きの工程――巻き取り、ブロック上での
巻きの成形、シリンダーの肩の成形、シリンダーの吹成、
シリンダー端部の開口、シリンダーの吹き棹からの離脱――
「キャップ」の切断――シリンダーの割り開き――シリンダーの
平開および徐冷――シートガラスの切断と選別――シートガラスの
欠点――工程の変法――圧延によって「シート」ガラスを製造
しようとする試み――Sievert の工程――直接引き上げ工程――
アメリカ式シリンダー引き上げ法――Fourcault の諸工程――
困難および限界――クラウンガラス――吹きの工程――限界 p. 149

第 XI 章

色ガラス

色ガラスの定義――色の物理的原因――着色物質:銅、銀、金、
炭素、スズ、ヒ素、硫黄、クロム、ウラン、フッ素、マンガン、
鉄、ニッケル、コバルト――得られる色調の範囲と濃さ――
高度に着色されたガラス――「フラッシング」の工程――
「フラッシュ」ガラスの性質――ガラス上に絵付けすることに
よって得られる色:着色「グレーズ」を絵具として用いる――
古代のステンドグラスと現代のガラス――色ガラスの技術的用途、
写真、鉄道および海上信号 p. 178

第 XII 章

光学ガラス

光学ガラスの性質と特徴――均質性――溶液およびガラス中に
生じる縞(ストリエーション)の形成と除去――透明性と色――
「脱色」ガラスにおける光吸収――屈折および分散――
定義――屈折率、分散、平均分散、量 ν――特定のスペクトル線
による光学特性の規定――代表的光学ガラスとその光学定数
の表――クラウンガラスとフリントガラス――旧来のガラスと
新種ガラスにおける屈折と分散の関係――Abbé と Schott の
研究――新種ガラスの応用――各種ガラス間における分散の
非比例性――その結果としての色消しの不完全さ――ガラスの
相対部分分散――完全な色消しを与えるガラスの組合せは未だ
十分には利用可能でない――Schott の天体望遠鏡用クラウン
ガラスおよびフリントガラスの定数――光学ガラスの範囲の狭さと
それに伴うレンズ設計上の限界――この範囲が狭い理由――
拡張の可能な方向――光学ガラスの化学的安定性――不完全な
徐冷に起因する光学ガラスの複屈折 p. 205

第 XIII 章

光学ガラス

光学ガラスの製造――原料――混合――炉およびるつぼ――
ポット加熱用窯――窯から溶融炉へのポットの移送――カレットと
原料の装入――清澄(ファイニング)工程、その困難および
限界――攪拌工程――ガラスの最終冷却――ガラス片の粗選別――
成形および成形ガラスの最終徐冷――検査用の板および円板の
研磨と光沢出し;得られる歩留まりの低さ――完全なガラス
大塊を得ることの困難 p. 223

第 XIV 章

雑多な製品

ガラス管――通常管の巻き取りおよび引き出し――特殊種類の
管――燃焼管――ガラス状シリカ管――ガラス状シリカの
種類――透明でガラス状のシリカ器具――製造コストの高さ――
電気的に製造される半透明「乳白」シリカ器具――ガラス状
シリカの優れた耐熱衝撃性――高温において、すべての塩基性物質
に対する化学的作用への感受性――ガラス棒および繊維――
グラスウール――石英繊維――ガラスビーズ――人造宝石――
貴石を模倣するために着色された高屈折フリントガラスの使用――
模造品を見分ける手段――人工的手段で製造される宝石――
急冷ガラス(チルドガラス)――急冷ガラスの高い強度と脆さ――
ルパート雫(Rupert’s drops)――Siemens による「焼入れ
(tempered)」ガラスの製造――De La Bastie の工程――
建築および舗装ブロックに用いられる大塊ガラス――水ガラス
(ケイ酸ナトリウムまたはカリウム)、タンク炉による製造――
灯台レンズおよびサーチライト反射鏡用ガラス――鉄製鋳型への
ガラス鋳込みによる製造――製造されるレンズおよびプリズムの
大きさと種類 p. 238

付録――ガラス製造に関する書誌 p. 253

ガラス製造

第 I 章

ガラスの物理的および化学的性質

「ガラス」という語は、いくつかの明確で特徴的な性質を共通にもつ一群の物体を
指すものであるが、その語自体の満足な定義を与えることは困難である。たとえば、
「ガラス」という言葉からただちに連想される性質は透明であることだが、実際には
透明でない真のガラスが多数存在し、その中には半透明ですらないものさえある。
硬さやもろさもまた、多少ともガラスに特徴的な性質ではあるが、この点についても
きわめて広い差異が見られ、鉱物や金属の中には、ガラスよりも硬いものも、また
ガラスよりもはるかにもろいものも存在する。おそらく、ガラスに真に普遍的と
言いうる唯一の性質は、非晶質構造をもつことであり、その意味でガラス質の物体全体は
「構造をもたない」固体の典型と見なすことができる。すべての物体は、液体であれ
固体であれ、最終的にはなんらかの構造――それが原子状であれ、分子状であれ、
あるいは電子状であれ――をもたねばならないが、ここで言う構造とは、個々の分子の
構造そのものではなく、むしろ分子どうしの集まり方・集合の仕方を指している。

鉱物その他の無機物の大多数においては、固体相における分子は一定の配列をとって
おり、その物体は結晶構造をもつと言われる。この構造の証拠は、たいていの場合、
肉眼でも認められ、あるいは顕微鏡によって明らかにすることができる。これに対し、
ガラス質の物体は、そのような構造がまったく存在しないことを特徴とし、この種の
物体の機械的・光学的・化学的挙動は、その分子が液体に見られるのと同じ配列――
あるいはむしろ配列の欠如――をもっていると仮定してはじめて首尾一貫して
説明できる。

ガラス質の物体と真の液体との間の密接な類似は、真の液体が多くの場合、結晶性の
物体の凝固に際して見られるような、挙動の不連続や臨界的変化をまったく示すこと
なく、ガラス状態へと移行しうることを理解すると、いっそう強く印象づけられる。
後者の種類の物質では、液体から結晶状態への移行はある一定の温度で起こり、この
変化はかなりの熱の発生を伴うため、物体の冷却は一時的に停止する。これに対し
ガラスの場合、液体から見かけ上固体状態への移行は、きわめて緩やかで完全に
連続的であり、もっとも精密な計測器を用いても、熱の発生や冷却の遅れは観測され
ない。したがって、ガラスを「凝固した液体」と呼ぶことは正当である。この場合の
凝固過程には、構造の変化も分子の再配列も伴わず、単に液体がしだいにこわばって
粘度がきわめて大きくなり、その物体が固体のようにふるまうようになる、という
意味にすぎない。しかしながら、まさにこの、常温まで冷却されたときにきわめて
硬く、あるいは粘性が非常に高くなりうる性質こそが、ガラス質物体の存在を可能に
しているのである。すべてのガラスは、適当な温度に十分長時間保たれると、結晶状態
へと変化しうる。このとき起こる過程は「失透(devitrification)」として知られており、
しばしば製造上重大な困難の原因となる。

溶融ガラスは、多数の化学物質――通常はケイ酸塩やホウ酸塩――の相互溶液と見なす
ことができる。通常の方法で冷却された場合、これら諸物質は互いに溶け合ったまま
残り、したがって普通のガラスは単なる凝固した溶液にほかならない。しかし、
溶けている諸物質にはそれぞれ固有の凝固点があり、もし溶融体がそれらの凝固点の
一つよりわずかに低い温度に、ある時間保たれると、その特定の物質が結晶として
別個に固まり始める。その起こりやすさは、構成成分の性質およびそれらがガラス中に
存在する割合によって左右される。ある場合には、この失透がきわめて容易に始まり、
ほとんど防ぐことができないほどである一方、別の例では、結晶化を起こさせるために
ガラスを適当な温度に何時間も保つ必要があることもある。いずれの場合でも、
結晶化を防ぐのに十分な速さでガラスを冷却したとすると、その後の冷却過程で起こる
事象の順序は次のようになる。すなわち、温度が、溶けているある物質の自然の
凝固点からさらに下がるにつれて、その物質が結晶として分離しようとする傾向は
最初は急速に増大する。しかし温度が下がるにつれ、液体が分子運動に対して示す抵抗は、
それよりもなお急速に増大する。したがって、一方には結晶化への傾向の増大という力が、
他方にはあらゆる変化に対する抵抗のいっそう急激な増大という力が存在し、二つの
相反する力が働くことになる。したがって、どのガラスについても、結晶化の力が
内部抵抗にうち勝つ傾向が最大となる、ある臨界温度範囲が存在する。この範囲を通過
するときには、失透を避けるために比較的速い冷却が必要となる。それより低い温度に
なると、結晶化の力がなんらかの目に見える効果を生じるためには、ますます長い時間が
必要となり、ついには常温に近づくにつれて、内部抵抗の力が結晶化のあらゆる傾向を
完全に阻止する。

以上に述べた現象は、実際にはガラス状態で得ることのできる物質の範囲に対する自然の
限界をなすものである。この限界に近づくにつれ、そのガラスは臨界温度範囲をより急速に
冷却することを必要とし、それだけ製造工程中に失透しやすくなる。ついには、どれほど
急速に冷却しても、その物質をガラス状態に保っておくことが工業的には不可能となる点で、
限界が定まる。

ガラス状態で得られる物質の範囲はきわめて広いが、工業用のガラスに通常取り入れられる
物質はごく少数である。光学レンズや温度計、あるいは特殊な処理に耐える容器の製作
など、ある種の特殊な科学用ガラスを除けば、すべての工業用ガラスは、少数の塩基――
すなわちアルカリ金属ナトリウムとカリウム、アルカリ土類金属カルシウム、マグネシウム、
ストロンチウム、バリウム――および鉄とアルミニウムの酸化物(通常はごく少量)、
ならびに酸化鉛の混合ケイ酸塩である。これら種々の元素が互いにどのように結合し、
溶け合うかという点は多く研究されており、その一般的な結論の多くはすでに前述の内容に
含まれている。ガラスは明確な化学的化合物ではなく、むしろ一連の明確な化合物が、
さまざまな割合で互いに溶け合った溶液である、ということは疑いなく明らかである。
多くの場合、工業用ガラスの実際の組成はきわめて複雑であり、少なくとも現時点では、
それを化学式で十分に表現することは不可能である。

ガラスのありうる組成範囲を制限する要因の一つはすでに述べたが、これからさらに
二つの要因について述べなければならない。工業的観点からすると、原料のコストと希少性が、
ある段階で致命的な制約となる。たとえば、リチウムやタリウムといった元素の使用は、
あまりに高価で事実上不可能である。別の方向では、ガラス製造者は炉の到達温度によって
きわめて有効に制約を受ける。シリカ、石灰、アルミナなどが過度に多量に存在すると、
ガラスを自由に溶融させるために必要な温度が上昇し、その温度が 1600℃ を大きく上回る
ようになると、通常の炉ではそのガラスの製造は不可能になる。たとえば、純粋なシリカは、
非常に価値の高い性質をもつガラスへと転化させることができるが、ガラス製造者が通常使用
するような蓄熱式ガス焚き炉では、その溶融に必要な温度を得ることができない。したがって、
この種のガラスの製造は、もっぱら実験室用の炉――酸素‐アセチレン炎で加熱する炉――に
よって小規模に行われてきたにすぎない。近年では、やや完全さに欠ける種類のシリカ
ガラス器具が、電気炉の助けによって大規模に製造されるようになっている。しかしこの種の
方法は当然ながら、特別な価格を許容できるごく特殊な製品に限られる。

化学成分の選択に対するさらなる制限は、ガラスの実際の化学的挙動――製造中と使用中の
両方――によってもたらされる。製造中の化学的挙動に関しては、ガラスが化合物という
より溶液であるとはいえ、これらの溶液が飽和状態へ傾くという事実を念頭に置かねばなら
ない。すなわち、シリカに富み塩基に乏しいガラスは、接触するあらゆる塩基性物質を容易に
溶解する。一方、塩基に富み、シリカ、ホウ酸、アルミナといった酸性成分に乏しいガラスは、
周囲から酸性の物質を容易に取り込む。溶融工程では、ガラスは普遍的に耐火粘土製のるつぼに
保持される。これらは自らの化学組成が、溶融ガラスに対し、そのガラスが欠いている
少数の成分だけを与えるように選ばれている。しかしこの点にも限界がある。光学用に
製造される非常に高密度の鉛ガラスやバリウムガラスのように塩基にきわめて富むガラスは、
接触するあらゆる耐火粘土を急速に侵食してしまうからである。完成したガラスもまた、
接触する大気中の水分や炭酸ガスなどの作用に対する化学的挙動によって、その化学組成を
露わにする。たとえば、アルカリを過度に含むガラスは、著しく吸湿性が高く、とくに湿気の
多い大気中では急速に分解を起こすことが知られている。

以上のような制約の範囲内で、ガラス製造者は、そのガラスが意図される用途に応じて化学
組成を選ぶ。ごく一般の工業製品に対しては、所要の外観をもつガラスが得られるかぎりで
もっとも安価で入手しやすい原料が用いられる。一方、特殊な目的に対しては、可能なかぎり
物理的性質の化学組成への依存性が利用され、当該の要求に特に適したガラスが得られるよう
工夫される。たとえば、卓上用品や装飾用品に用いられるフリントガラスやバリウムガラスは、
鉛やバリウムの高密度で屈折力の強い酸化物に由来する光輝性と重量感をその特徴としている。
また、これらの塩基の存在によってガラスに与えられる融けやすさと軟らかさは、製造工程で
必要となる複雑な操作を容易にすることによって、用途への適合性をいっそう高めている。

ほとんど正反対の極にある例として、赤熱に加熱しても目立った軟化を起こさずに耐えることを
意図した、もっとも硬い「燃焼用ガラス管」を挙げることができる。この種の管は、ガラス中の
塩基の含有量、とりわけアルカリの含有量を可能なかぎり低く抑え、石灰、マグネシア、
アルミナといったもっとも耐火性の高い塩基をできるかぎり多量に用いることによって製造される。
当然ながら、このようなガラスは溶融が困難であり、その製造には特殊な炉が要求される。
しかし一方で、この材料は、通常のソーダ石灰ガラスやフリントガラスの管では到底満たすことの
できない要求を満たすことができる。こうした耐火性ガラスの別の例は、イエナ製の特殊温度計用
ガラスや、フランス(Tonnelot)の「Verre dur(硬質ガラス)」に見ることができる。これらの
うち最良のものは、500℃ に近い温度でもほとんど、あるいはまったく塑性を示さず、これにより
水銀温度計の測定可能範囲をかなり広げることが可能になった。さらに化学組成を修正することに
よって、温度計用ガラスとして用いられた場合に、普通のガラスに見られるような徐々の変化――
初期の温度計の精度を損ねていた変化――に、はるかに影響されにくいガラスが生み出された。
化学組成を望ましい物理的性質の達成に合わせて改変した、さらに広範な例は、主として
Schott と Abbé の光学ガラスに関する研究の成果として得られた。これら両氏の研究と、
彼らがイエナに創設した工場およびその他の場所における、その後の発展は、ガラス質物体の
クラスが包含する可能性の範囲に関するわれわれの認識を根本的に変革し、「ガラス」という語が
かつてもっていた狭く限定的な意味を、現在からは想像することすら難しいものにしてしまった。
ガラスの光学的性質の化学組成への依存については、第 XII 章「光学ガラス」で詳しく述べるが、
ここでの性質と組成の関係の概略は、これらドイツ人研究者による先駆的業績に触れずして終える
ことはできない。

すでに言及したガラス表面の化学的挙動は、あらゆるガラス使用者にとってきわめて重要である。
ガラスの相対的な化学的中性は、実際、そのもっとも有用な性質の一つであり、透明性に次いで、
多くの用途における採用の決定因子となっている。たとえば、卓上用品へのガラスの全面的な利用は、
ガラスが接触する食物や飲み物の組成や風味に、無視しうる程度以上の影響を与えないという事実に
第一義的に依存している。この性質は、貴金属でさえ、ごく部分的にしか共有していないものである。
また、風雨にさらされる場所で窓ガラスが用いられることも、窓ガラスが水や大気中のガスによって
目立って侵されないという事実がなければ不可能であろう。これら一般的な目的に関しては、確かに
ほとんどの普通ガラスは十分な耐性を示す。しかしこの水準に到達するまでには、実際のガラス職人が
その背後に数世紀にわたる経験を積み重ねてきたことの結果にほかならない。

ところが、熱帯の湿潤な気候への暴露に耐えねばならない場合や、腐食性液体の容器として用い
られる場合のように、特殊用途のためにより高い化学的耐性が要求されると、通常の要求に応える
ための経験則だけではもはや十分でなくなる。とくに、ガラスにほかの厳しい条件も同時に
求められる場合にはそうである。実際、ガラス職人が、色調を改善しようとしたり、欠陥のなさや
表面の光沢といった品質を高めようとして努力するうちに、その製品の化学的耐久性を台なしに
してしまった、ということはしばしば起こってきた。その理由は、一般的な意味では古くから知られて
いるが、アルカリ含有量の増加はガラスの化学的耐性を低下させる一方で、ガラス職人が他の点で
自らのガラスを改良するため――すなわちガラスをより融けやすくし、あらゆる操作を容易にするため――
もっとも手っ取り早い手段が、まさにアルカリを増やすことだからである。

ガラス表面の化学的安定性の問題は、19 世紀の後半にかなりの注目を集め、特にシャルロッテンブルクの
ドイツ帝国物理研究所(Reichsanstalt)で綿密な研究が行われた。この分野でも Schott と Abbé の
業績は有益なものとなり、今日ではイエナ社が実験室用器具の製造に用いているガラスや、
その他の同種の特殊ガラスが、きわめて厳しい要求にも応えうるものとなっている。

アルカリをおおむね 15% 以上含むような劣悪なガラスを除くと、主要な化学試薬に対するガラス表面の
挙動は、おおよそ次のように要約できる。純水は程度の差こそあれ、どのガラスも侵す。もっとも良質の
ガラスでは、冷水が長時間作用しても、ごくわずかなアルカリ分を抽出するにとどまるが、品質の劣る
ガラスでは、常温で長時間さらすと抽出量はかなり多くなり、温度が上がればその進行は急速に深刻に
なる。過熱水――すなわち蒸気圧下の水――は、強力な腐食剤となり、最良のガラスでさえ、その作用に
耐えうる時間は限られている。現在一般的な高圧で運転される蒸気ボイラーの水面計用ガラス管には、
特に耐久性の高いガラスが必要であり、実際に入手可能でもあるが、市販の水面計用管の多くは、
ここで問題としている化学的耐性の点から見ても、また強度や「耐熱衝撃性」の点から見ても、
この目的にはまったく不適当である。

ある種のガラスでは、とくに高温の水の作用が、表面のみにとどまらず、ガラスの内部への
ある程度の深さまで及ぶ。こうした作用の正確な機構はわかっていないが、著者は、ガラス中に存在する
シリカまたはケイ酸塩の一部が部分的に水和されることに由来すると考える傾向にある。この種のガラスを
通常の方法で乾燥してから加熱すると、表面は微細な亀裂でびっしりと覆われ、ときにはガラスが
はがれ落ちることすらあり、全体として表面は曇ってしまう。このような浸透的作用は、劣悪なガラスに
おいては、ガラスが単に湿った場所に保管されているだけでも、大気中の水分によって起こるため、
しばしば「失透」と誤解される。しかし、後者の現象が常温で起こることは知られておらず、ガラスを
炎で加熱したときにしばしば観察されるとはいえ、それは先ほど述べた表面の「腐食」とはまったく別個の
現象である。アルカリ物質を溶かし込んだ水は、すべてのガラスに対して比較的急速に作用する。まず
ガラスからシリカを取り去り、その後になってアルカリや石灰が溶解または機械的に除去される。
これに対し、酸性物質を溶かし込んだ水――すなわち希酸――は、ほとんどの種類のガラスに対して、
純水よりもむしろ作用が弱く、アルカリ性溶液と比べると格段におとなしい。この特異な挙動は、
おそらく酸がシリカの水和を妨げる傾向をもつことに依存しており、その結果、シリカが、水による
ガラス中のアルカリ成分への溶解作用に対する障壁として働くことができるのだと考えられる。
良質なガラスはまた、強酸の作用にもほとんど侵されない。ただし、リン酸やフッ酸のような一部の酸は、
あらゆる種類のガラスに対して急速に作用する。塩基成分を過剰に含み、さらにホウ酸やリン酸のような
物質を多量に含むごく一部の特殊ガラスだけが、塩酸や硝酸のような強酸によって完全に分解されうる。
この場合、塩基成分は酸と化合し、ケイ酸やその他の酸は遊離する。

酸によるガラスへの作用に関連して、実用上重要ないくつかの特殊な作用に触れておかねばならない。
ガラスに対するフッ酸の溶解作用は、もちろんよく知られている。実用上は液体および気体の両形態、
さらには(フッ化アンモニウムやフッ化ナトリウムのような)容易にフッ酸を放出する化合物の形で
用いられ、ガラスの「エッチング」や、化学分析のためのガラスの分解に利用される。これに次いで重要
なのが、二酸化炭素ガスの作用、とくに水分が存在するときの作用である。この作用はおそらく間接的な
性格のものである。すなわち、まず大気中の水分がガラス表面に凝縮し、その水分が溶解作用を及ぼして、
ガラスから一定量のアルカリを引き出す。このときアルカリは、最初はほぼ確実にアルカリ水酸化物
(ヒドロキシド)として溶液中に入る。しかしこのアルカリ性溶液はすぐに空気中から二酸化炭素を
吸収し、アルカリ炭酸塩が生成する。ガラスが乾くと、この炭酸塩はガラス表面にごく小さな結晶の被膜を
形成し、表面に曇った、くもりガラスのような外観を与える。この現象は、通常ソーダガラスにおいてのみ
見られる。というのも、炭酸カリウムはきわめて吸湿性が高く、普通の大気中では乾いた固体の状態を
保つことができないからである。カリガラスは、それ自体としてはソーダガラスより化学的に安定という
わけではないが、上述の理由から、表面の曇りを示す傾向は少ない。ソーダガラスの場合に、この曇りが
あまりひどく進行していなければ、表面を水で洗うことによって、その光沢をほぼ元どおり取り戻すことが
できる。水により炭酸ナトリウムの微小な結晶は容易に溶解し、分離したシリカも機械的に洗い流される
からである。同じ曇った表面を乾いた布などでこすって「掃除」しようとすると、結局は表面を完全に
台なしにする結果にしかならないだろう。鋭い小さな炭酸ナトリウムの結晶が表面の上をあちこち
引きずり回され、あらゆる方向に細かい傷をつけてしまうからである。

劣悪なガラスの場合、曇りの過程はアルカリ炭酸塩の生成にとどまらない。ガラス表面に形成される
アルカリ溶液の薄い被膜は、ある種の細菌や菌類にとって格好の繁殖地となり、それらの生育は部分的に
ガラスそのものを犠牲にして行われる。これらの作用の正確な性質はまだ十分には研究されていないが、
ケイ酸塩鉱物――ガラスもその一つに数えられる――が細菌による分解を受けることは、ほぼ疑いない
ところである。別の例としてよく知られているのは、粘土を暗所に保存することによる「熟成」であり、
このとき粘土の変化にはアンモニアガスの発生が伴う。ガラスについては、有機性の塵埃の小さな斑点が
表面に落ちると、その部位に局所的な分解が生じることが示されている。この点に関連して、ガラス中に
少量のホウ酸が存在する場合の効果は興味深い。ホウ酸が少量含まれていると、ガラスは大気の作用に
対してより抵抗性を増し、とりわけガラス表面に付着した有機性塵埃の影響に対して敏感でなくなることが
知られている。ホウ酸が表面の水分被膜中に溶け込み、そのよく知られた防腐作用を発揮して、細菌や
菌類の活動からガラスを守っているのだろう、と考えられており、おそらく正しいであろう。

大気の作用に対するガラスの耐久性は、それほど重要な問題であるため、この性質を実際に、悪条件下で
使用した経験を待つことなく把握できるような、満足な試験法を確立しようとする試みが、これまでに
数多くなされてきた。最初期に提案された試験法の一つは、ガラス表面を塩酸の蒸気にさらすというもの
であった。すなわち、強い塩酸をガラスまたは磁器の皿に入れ、その上に試験対象となるガラスの細片を
何本か渡し、その全体を鐘形ガラスで覆うのである。数日後にガラスを取り出して観察すると、一般に
耐久性の低いガラスほど、耐久性の高いガラスと比べて、表面がより強く曇っていることがわかる。
より満足のいく形の試験法は、水‐エーテル溶液が、耐久性の低いガラスと容易に反応するという事実に
基づいている。ヨウ素エオシンのような適当な染料をこの水‐エーテル溶液に溶かしておくと、試験対象の
ガラスを浸したとき、耐久性の低いガラスの表面には強固に付着したピンク色の膜が形成される。その色の
濃さをもって、ガラスの安定性の尺度と見なすことができる。もっとも良質なガラスでは、長時間浸しても、
ほとんど着色膜が形成されない。やや性格を異にする試験法として、イエナガラス工場の Zschimmer 博士が
考案したものがある。これは、湿った空気による分解作用が、ガラス周囲の空気の湿度と温度の両方を大きく
上げることによって、非常に加速されうるという事実に依拠している。この方法では、試験片を約 80℃ に
保たれた飽和湿り空気の流れの中に、一日あるいはそれ以上さらす。これには、一定の湿潤空気流を通し続ける
ための特別に工夫された恒温槽が用いられる。この暴露の後で――表面の拭き取りやその他の清掃を一切行わずに――
ガラス面を調べると、ガラスの種類によってきわめてさまざまな外観を示すことがわかる。もっとも良質で
安定なガラスはまったく影響を受けず、安定性のやや劣るものは小さな斑点を示し、さらに不安定なものでは、
これらの斑点が互いに融合して、全体として曇った表面となる。この試験法が、ガラスを鋭く分類しうることは
疑いないが、その分類が実際の使用条件における真の相対的耐久性と一致するかどうかは、まだ証明されていない。
著者は、必ずしもそうではないのではないかと考えている。というのも、この試験によって安定性に劣る
グループに分類された幾種類かのガラスが、世界各地での実用において、この点できわめて満足のいく性能を
示しているからである。

ガラスの化学的挙動の話を終える前に、光やその他の放射線の作用によってガラスが受ける変化についても
触れておかねばならない。強い光、とくに日光、さらには紫外線や高地における強い日光に長期間さらされると、
事実上あらゆる種類のガラスが、一般に色調の変化という形で現れる変化を受ける。マンガンを含むガラスは、
とくにこのような条件下で紫色ないし褐色の色合いを帯びやすい。また、ラジウムから放射される線の強い作用は、
マンガンを含まないガラスでも同様の変色を引き起こしうる。これら後者の効果については、まだほとんど何も
わかっていないが、それはさておき、光の作用がガラス内部に化学的変化をもたらすことに疑いはない。
しかし、その変化の真の性質を明らかにすることは容易ではない。それらの変化は、おそらくガラス中に存在する
酸化物どうしの間で酸素が移動することから成り立っていると考えられる。ガラスがこれらの変化の過程で、
なんらかの構成元素を失ったり得たりすることは、まだ決定的に証明されたわけではないものの、きわめて
考えにくい。日光の作用によってガラスが受ける変化の好例は、天窓にしばしば見られる。もっとも古いガラス板は、
設置当初にはなかった明瞭な紫色の色合いを示すことがある。また、気象観測所で日照時間を記録するのに用い
られる装置のガラス球も、光による変化を示す。これらの球のガラスは、新品のときには淡い緑色味を帯びて
いるが、長期間の使用後には明らかな黄色へと変化する。ステンドグラス窓に用いられている色ガラスもまた、
長期にわたる光の暴露の結果として、色調が変化した痕跡を示す。古い窓から取り外されたガラスでは、
鉛の桟によって光の直接作用から守られていた部分のほうが、それ以外の部分よりも濃い色調を示すのが普通で
ある。そして古いガラスの美しさが、少なくとも一部は、図柄を構成するいくつかの色調に対する光の「熟成効果」
に負っているのではないか、という点については、いまだ議論の余地がある。このガラスの感光性は、写真乾板の
製造に関連しても重要である。濃いネガのガラス板を洗浄すると、ガラスには以前の像の明確な痕跡が残り、
同じガラスを再び感光乳剤で被覆して再度露光・現像を行うと、その旧像が「ゴースト」として再び現れることが
ある。優良な乾板メーカーはこの事実を十分承知しており、一度ネガの製作に用いたガラスを再び乳剤で被覆する
ことはしない。

第 II 章

ガラスの物理的性質

ガラスの機械的性質 は、多くの面でかなり重要である。ガラスが、重大な機械的応力を直接受け持つような
形で使用されることはまれだが、大型窓や天窓のガラス張りにおける、ガラスの通常の用法は、その強度にかなり
大きく依存している。たとえば、もっとも大型の板ガラスを取り扱う際には、その板の機械的強度に相当程度
頼らざるをえず、このことが安全に取り扱い・据え付けのできる板の大きさを、実際に制限している。同じ制約は
シートガラスにも当てはまる。シートガラスは重量が軽いぶん自重で破損するおそれは小さいが、その断面が
薄いため、偶発的な破損を受けやすいのである。特殊な場合には、ガラスの機械的強度にかなり大きく依存せざるを
えない。高圧ボイラーの水面計用管、船舶の舷窓ガラス、地下採光窓に挿入されるガラスプリズム、フランスで
ある程度用いられているガラスレンガ、さらにはシャンパン瓶や炭酸飲料瓶、サイフォン瓶などは、いずれも
ガラスが直接応力にさらされる用途の例である。したがって、金属や木材、その他あらゆる材料の機械的性質が、
可能なかぎり詳細に研究されてきたにもかかわらず、ガラスの機械的性質については、少なくとも公表された
データに関するかぎり、ほとんど注意が払われてこなかったという事実は、やや意外である。このような状況の
一因は、おそらくガラスのようにもろくて硬い物体の強度を測定することが、決して容易ではないという点に
あるのだろう。その結果、現時点で利用可能なわずかなデータでさえ、第一近似と見なすほかない。以下に挙げる
数値は、ガラスに期待しうる強度のおおよそのオーダーを示すことだけを目的としている。

引張強さ(Tensile strength):
1~4 トン/平方インチ (Trautwine)
1/3~1 1/4 トン/平方インチ(Henrivaux)
2~5 1/2 トン/平方インチ (Winkelmann および Schott)
5~6 トン/平方インチ (Kowalski)

圧縮強さ(Crushing strength):
9~16 トン/平方インチ (Trautwine)
3~8 トン/平方インチ (Winkelmann および Schott)
20~27 トン/平方インチ (Kowalski)

上記の数値のうち、Winkelmann および Schott による実験が、おそらくもっとも信頼性が高い。
しかしそれらのデータは、化学組成が機械的性質に及ぼす影響を調べる目的で特別に選定された一連の
イエナ製特殊ガラスについてのものであり、残念ながら、この系列には通常の実用に供されるガラスに
近いものはまったく含まれていない。引張強さや圧縮強さを化学組成と結びつけようとする試みも、ごく
部分的な成功にとどまった。しかしその結果から、ガラスの機械的強度が化学組成にきわめて大きく
依存していることは明らかであり、系統的な研究を通じて、現在知られているものよりもはるかに高い
機械的強度をもつガラスを生み出すことが、おそらく可能であろうことが示されている。この点に関連して、
ガラスの機械的性質が、その試験片が受けた冷却速度にかなり大きく依存することを指摘しておく必要が
ある。急冷、すなわち焼き入れによって、ガラスの硬さがかなり増大することはよく知られているが、
同様の処理によって引張および圧縮の両方に対する強度も増大し、この効果を実用に供しようとする方法が
多数提案されてきた。不幸なことに、このようにして得られた「硬化」ガラスは、きわめて小さな傷に対しても
非常に敏感であり、一度表面が傷つけられて、常に存在していた大きな内部応力が解放されるや否や、
粉々に砕け散ってしまう。こうした特性の程度は、もちろんガラスがどれほど急速に冷却されたかによって
左右されるため、この分野の発明家たちは、焼き入れによる強度増加と、それに伴う脆さの増大との間で
最適な妥協点を与えるような急冷法を工夫しようとしてきた。たとえば、蒸気噴流中で冷却したり、熱い油や
グリース浴で冷却したりすることによる「焼き戻し(tempering)」法が提案されている。しかし、この種の
ガラスはある程度製造されているものの、きわめて広範な実用には到っていない。

ガラスの弾性および延性.――Winkelmann および Schott が調査した一連のガラスでは、
弾性率(ヤング率)は 3500~5100 トン/平方インチの範囲にあり、その値はガラスの化学組成に
大きく依存していた。通常の条件下では、測定可能な延性はガラスには認められていないが、
シャンパン瓶の内圧試験の場合だけは例外である。この試験では、瓶を破裂させるに至らない内圧――
およそ 18~30 気圧程度――をかけることによって、容量が数 10 分の 1 立方センチ程度恒久的に増加する
ことがわかった。この小さな永久変形は、ガラスに微細な亀裂が生じ始めたことに起因すると考えられて
おり、おそらく正しい説明であろう。一方で、著者の見解では、ガラスは比較的小さな力であっても、
長時間 作用すれば、かなり顕著な流動を生じうる可能性が高い。加工された大径光学ガラス円板の挙動は、
そのような作用の存在を示唆しているが、この見解はまだ十分な実験的裏付けを欠いている。

硬さ は、ガラスの多くの用途において重要な性質である。取り扱いを受けたり、定期的な清掃にさらされる
ガラス製品の耐久性は、おおむね、ガラスが傷付きにくいかどうかに左右される。これは板ガラスの窓や鏡、
眼鏡レンズその他のレンズ類についてとりわけ重要であり、卓上用品にも多少は当てはまる。一方で、
硬さの厳密な定義やその測定手段は、いまだ十分に確立されていない。たとえば、二種類のガラスが硬さに
おいて大きく異なる場合でも、条件を適切に選べば互いに相手を明確に傷つけることができる点が示すように、
直接的な引っかき抵抗を測定する試みは、実験者にとってきわめて困難である。そのため、硬さの測定には
別の方法が採用されてきた。実験的な観点からもっとも満足な方法と思われるのは、Hertz によって原理が
示され、Auerbach によって実験的に精緻化されたものに基づいている。これは、同じガラスから作った球面
レンズを、平板ガラスに既知の荷重で押し付けたときに生じる円形接触面の大きさを測定するものである。
Auerbach 自身、このようにして求められる「圧痕係数」とガラスの実際の硬さとの正確な関係を決めることに
苦労している。この方法はしたがって、硬さの理論的研究には興味深いが、実用上の硬さ試験としては
あまり役に立たない。より実用的な試験としては、試験対象のガラス片を回転する鋳鉄円盤に押し付け、
この円盤にエメリなどの研磨材を供給しながら摩耗させ、既知の接触圧力のもとで一定時間研磨した結果生じる
重量減少を測定する方法がある。複数のガラス試料を同時にこの試験にかければ、摩耗に対する抵抗力を
非常によく比較することができる。この試験がガラスの実際の「硬さ」を測っているかどうかは必ずしも
明らかではないが、少なくともその摩耗抵抗についての情報を与えてくれる。そして多くの用途にとっては、
この摩耗抵抗こそが重要な要素なのである。

以上のように硬さという用語そのものがやや曖昧であるため、化学組成がガラスの硬さに及ぼす影響について、
精密な記述を与えることはできない。一般的に言えば、シリカと石灰に富むガラスは硬く、アルカリや鉛、
バリウムに富むガラスは軟らかいと考えてよい。ただし、急冷や、あるいは適切な徐冷(アニーリング)の
欠如は、もっとも軟らかいガラスでさえも、その硬さを非常に大きく増加させることを忘れてはならない。
したがって、特定のガラス試料の実際の挙動は、その化学組成と同じくらい、あるいはそれ以上に、
それが受けた加工工程の性質に依存することになる。

ガラスの熱的性質 は、機械的性質ほど普遍的に重要というわけではないが、多数の実用的用途において
かなりの関心を引くものである。おそらくこれらのうちもっとも重要なのは、「耐熱衝撃性」と呼ばれる
性質であり、これはガラスが破損の危険なしに耐えうる、急激な加熱や冷却の程度を示すものである。
白熱ガス灯用のガラス煙突、ボイラーの水面計用ガラス、実験室用器具、さらには食卓用や家庭用の器具でさえ、
ときに急激な温度変化にさらされることがあり、多くの場合、そのガラスの価値は、破損することなく
そのような扱いに耐えうるかどうかにかかっている。「耐熱衝撃性」そのものは、多少とも独立した多数の
要因に依存しており、急激な温度変化がガラスに応力を生じさせ、時として破壊を引き起こす仕組みを追って
いけば、その影響を容易に理解できる。冷たい器に熱い液体を注いだとしよう。器の材料に対して最初に
起こるのは、内面の温度上昇である。この温度上昇の影響で、内層の材料は膨張しようとするが、依然として
冷たい中央および外側の層の抵抗によって、その膨張が妨げられる。その結果として、内層は圧縮状態に、
外側および中央の層は引張状態に置かれる。したがって、このようにして生じた引張応力が十分に大きければ、
外側の層は引張に耐えきれず破断し、その亀裂が広がって器全体が粉砕されることになる。以上の説明から、
膨張係数が大きいこと、および弾性率が低いことが、破壊を助長することがわかる。一方、引張強さが高いことは
破壊を抑制する方向に働く。また、ガラスの熱伝導率も結果に影響する。というのも、冷たい層に生じる
引張応力の強さは、ガラス内部に存在する温度勾配に依存するからである。したがって、もしガラスが良導熱体
であれば、隣り合う層どうしに破壊を生じさせるほど大きな温度差をつくり出すことは決してできないだろう。
同じ理由から、きわめて薄いガラスの器は、肉厚の器よりも温度変化による破損を起こしにくい。薄い器の内外層
の間には、どれほど急激な温度変化を与えても、非常に大きな温度差は生じえないからである。また、冷えた
ガラス器を両側から同時に加熱あるいは冷却すれば、一方の側だけから加熱する場合に比べて、はるかに急激な
温度変化に安全にさらすことができることも、ここから理解できる。一方、きわめて大きな塊のガラスを加熱する
場合には、加熱を非常に徐々に行う必要がある。というのも、外側に加えられた温度上昇が中心部に達するまでには、
どうしてもかなりの時間を要するからである。さらに、ガラスの熱伝導率に加えて、その熱容量すなわち比熱も、
この問題に関わってくることに注意しなければならない。というのも、自身の温度上昇により多くの熱を吸収する
ガラスほど、熱が内部へ浸透するのに時間がかかることは明らかだからである。このように、「耐熱衝撃性」は、
膨張係数、熱伝導率、比熱、ヤング率、および引張強さという、上述の要因に依存する複雑な性質であることが
わかる。

熱膨張係数は、ガラスの種類によってかなり変化し、ここでは通常観測される上下限値のみを述べるにとどめる。
下限は 37×10^{-7}、上限は 122×10^{-7} である。これらの数値は、ガラスの単位体積あたりの 1℃ 当たりの
体積膨張(立方膨張)を表しており、鋼および黄銅についての対応する値は、それぞれ約 360×10^{-7} と
648×10^{-7} である。適切な成分の選択によって、極端に膨張性の低いガラス質物体を得ることも可能であるが、
そのうちのいくつかは白色不透明体であり、またいずれの場合も、化学組成からアルカリや石灰を避けねば
ならないため、製造上大きな困難を伴う。

耐熱衝撃性の問題とは別に、ガラスの膨張特性が重要になる場合がある。たとえば、「フラッシュ」色ガラスの
製造工程のように、複数の種類のガラスを接合しなければならない場合、それらの熱膨張係数ができるかぎり一致
していなければならない。そうでないと、赤熱状態で接合されたガラスが冷却される際に、かなりの応力が発生する。
一方、このような二種類のガラスの熱膨張の違いによって生じる相互の応力を利用して、特別な強度をもつ管や
その他のガラス製品を作ることも行われている。膨張係数が互いにかなり異なる二層から成るガラスで管を
引き延ばし、適切な冷却を行うと、内層と外層の両方がかなりの圧縮応力を受けているような管を作ることが
できる。ガラスは、前にも見たように、引張に比べて圧縮に対してははるかに大きな強度を示すだけでなく、
圧縮応力下にあるガラスは、はるかに靭性の高い材料であるかのようにふるまい、傷や打撃による損傷を受けにくく
なる。さらに、このような状態の管を加熱し、ついで急冷すると、冷却の最初の効果は表層の収縮であり、
結果として当初存在していた圧縮応力の状態が緩和されることになる。したがって、これらの管は急冷には
きわめて強く、一方で急加熱にはむしろ敏感である。この点で、それらは普通のガラスとはまったく異なっている。
通常のガラスは、冷却が急激な場合のほうが加熱が急激な場合よりも、特に物体のすべての表面に同時に熱や冷気が
作用するときに、破損しやすいのである。上述のような二層ガラスから作られた特殊な管は、イエナガラス工場で
製造されており、もっとも重要な用途はボイラーの水面計用ガラス管である。また、ガラス質シリカの顕著な
耐熱衝撃性――赤熱に加熱した後に冷水に投入しても破損の危険がほとんどないこと――は、その非常に低い
膨張係数に主として起因することも、ここで述べておくべきであろう。

別の観点からは、ガラスの膨張特性は、ガラスが金属に剛結されるあらゆる場合に重要となる。今日では、白熱
電球や「ワイヤー入り」プレートガラスなど、いくつかの工業製品において、この種の接合が行われている。
ある種の白熱電球では、金属線がガラス球に封入されており、この目的に使用できる金属は(少なくとも最近まで)
白金だけであった。白金は、ほとんどの金属と比べて膨張係数が小さいうえ、高温に加熱しても酸化されにくく、
ガラスと金属との間に清浄な接合を形成するのが容易だからである。近年では、ニッケル鋼のある種の合金を
用いる方法に特許が与えられている。ニッケル鋼合金は、「インバー」として知られる合金のように、
普通の鋼に比べて膨張がほとんど無視できるものから、さまざまな値の膨張係数をもつものまで作ることが可能で
ある。したがって、その系列から適切な合金を選べば、接合しようとするガラスとまったく同じ膨張係数を
もつ金属を得ることができる。ガラスと接合するのに必要な高温に加熱したときのニッケル鋼の酸化は、
気密な接合部を得るうえで大きな障害となり、これを避けるためのいくつかの工夫が特許化されている。
白熱電球では、ガラスと金属との接合部には完全な気密性が要求されるものの、両者が接触する長さはごく
短いだけである。他方、ワイヤー入りプレートガラスでは、ガラスの二層の間に金網が一面に挿入され、
圧延工程の途中でワイヤーが埋め込まれる。この場合、ワイヤーの酸化は多少生じても深刻な問題ではなく、
むしろいくつかの気泡ができるだけであるが、それらの存在はガラスの強度や実用性を損なうものではない。
しかし、熱膨張係数にかなりの差があると、相互に長い距離にわたって接合されたガラスと金属の間に、
きわめて重大な結果が生じる。この点を軽視しているメーカーもあり、そのため市販のワイヤー入りガラスの
多くは、製造者の手を離れてしばらく経ってから自発的にひび割れを起こしやすく、また製造工程中にも多くの
破損が発生している。

熱膨張は、ガラスのもう一つの用途においてもきわめて重要な因子である。われわれの日常的な温度測定器具で
ある水銀温度計は、ガラスの膨張挙動に非常に大きく影響される。水銀温度計を加熱すると、ガラス球および
管よりも水銀のほうが大きく膨張するため、管内の水銀柱は上昇する。ガラス製水銀温度計の目盛りの付け方や
補正の問題はきわめて広範なものであり、本書の範囲をやや超えるが、この問題に関連して発見されたガラスの
挙動の特異性については、ここで触れておくべきであろう。その一つは、温度計の球部が吹き上げられた直後には、
最終的な体積に達するまでにかなり長い時間を要するという事実であり、その結果、新しく作った温度計に
目盛りを刻んでも、しばらくすると零点がかなり変化してしまう。通常、その変化は球部の体積がわずかに増加した
ことを示す方向で起こる。特別な徐冷、すなわち「エージング」処理を施すことで、この変化を温度計に
目盛りを付ける前の比較的短時間のうちに完了させることができる。しかしなお、いくつかの温度計には
顕著に見られ、最高級の現代ガラスにおいてもごくわずかしか抑えられていない、さらなる特異性が存在する。
これは、温度計を高温にある時間さらしたのちに零点の明確な変化として現れ、その零点は時間の経過とともに
徐々に元の位置に戻っていく。こうした現象を示しやすいガラスで作られた温度計では、ある温度に対する
指示値が、その温度計が直前にどのような温度履歴をたどったかに大きく依存する。だが、イエナ工場の
おかげで、このような欠点をほとんど完全に免れた温度計用ガラスが現在では入手できるようになっている。
この問題に関連して興味深い事実として、カリとソーダの両方のアルカリを含むガラスは、いずれか一方のみを
含むガラスに比べて、上述の熱的異常をはるかに顕著に示すことが観察されている。

熱伝導率 は、耐熱衝撃性に及ぼす影響を除けば、それ自体としては実用上きわめて大きな重要性をもつ
わけではない。しかし、ガラスが常に比較的不良な熱伝導体であるという事実は、たとえば温室や温室栽培施設の
建設など、その多くの用途において利用されている。とはいえ、この場合でさえ、ガラスが長波長の熱放射に
対して不透明であるという性質のほうが、低い熱伝導率よりも重要である。同様のことは、さらに強い意味で、
ガラスの比熱の問題にも当てはまる。

ガラスの電気的性質は、はるかに大きな実用的意義をもつ。ガラスは電気器具においてしばしば絶縁媒体として
用いられるからである。ガラスの絶縁性および比誘電率と呼ばれる性質は、材料の化学組成によって大きく
変化する。一般に、もっとも硬いガラス、すなわちシリカと石灰にもっとも富むガラスが、もっとも優れた
絶縁体であり、一方、鉛やアルカリに富む軟らかいガラスは、この点でかなり劣る。実用上、とくにガラス絶縁物
が多少とも湿った大気にさらされる場合には、ガラスの種類は別の意味でも絶縁性に影響する。ほとんど
すべての種類のガラスは、その表面に大気中からかなり明瞭な水分の薄膜を凝縮させる性質をもち、そして前に
見たように、この吸湿性の程度はガラスによって非常に大きく異なる。軟質ガラスは硬質ガラスに比べて
ずっと吸湿性が高く、その結果生じる表面の水膜は、ガラスの絶縁性を低下させ、ときには完全に破壊してしまう。
電気はこの水膜に沿って漏洩してしまうのである。きわめて高い電圧を扱う静電気用装置では、この漏洩を
防ぐため、ガラス表面にシェラックなどのワニスを塗布する試みがなされることがあり、ある程度の範囲までは
有効な手段となる。ごく最近、比較的低い電気抵抗をもち、ある種の用途向けには導体として用いることのできる
ガラスが開発された。このガラスはそれ自体興味深いが、電気伝導性をもつガラスに対して想定されうる限られた
用途でさえ、あまり役に立つとは思えない。というのも、このガラスはアルカリに非常に富んでおり、大気だけの
作用に対してさえ化学的に不安定である可能性が高いからである。

ガラスのもっとも価値ある、そして多くの点でもっとも興味深い性質――透明性――については、まだ触れて
こなかった。光学ガラスに関する章(第 XII 章)でガラスの光学的性質全般をより十分に扱う予定であるため、
この話題への言及を本章の末尾まで意図的に先送りしてきたのであり、ここではごく簡単に触れるにとどめる。

実用上のほとんどすべての用途において、ガラスが他のより強い、あるいはより安価な材料ではなく用いられる
のは、その透明性という基本的かつ本質的な性質によるところが大きい。この意味でいう透明性の中には、
単なる半透明性も含めておきたい。というのも、しばしば妨げのない視界を避けることが、採光を確保することと
同じくらい必要とされるからである。実際、ガラスが広く用いられている用途で、光を透過させる機能が実用上
あるいは審美上の目的の達成に大きく関わっていないものを見つけることは難しい。ごくわずかな例外としては、
壁面の被覆に使われる現代的なオパールガラスや、まだ広く普及してはいないが、レンガや舗装石として用いられる
プレスガラスブロックが挙げられる。これらの場合、ガラス質物体が他の材料に優れるのは、その硬さと表面の
滑らかさによる。しかしこれらの特殊な例を除けば、世界で使用されるガラスの 95% 以上が、光の透過が
所望の結果――実用上であれ、美観上であれ――を達成するために不可欠であるような目的に用いられている
という事実が残る。光を透過させる能力は、多くの固体が共有する性質ではないことは興味深い。ゼラチンや
セルロイドのようなコロイド性有機物の一部は、ガラスに匹敵する程度の透明性をもつが、石英や蛍石のようないくつかの
鉱物結晶は、もっとも高品質のガラスさえ上回る透明性を示すことがある。また、ガラスのほかの光学的性質の
いくつかは、ダイヤモンドやルビーのような天然物質によってはるかに凌駕される。しかし、このような例が
きわめて少数であるという事実そのものが重要である。なぜなら、透明性はガラス質物体に共通する唯一の特性
では決してないからである。

ガラスの透明性がそれほど価値ある、そして実際不可欠な性質であるにもかかわらず、完全に透明なガラスは
一種として存在しないことを忘れてはならない。どれほど完全に研磨されたガラス表面であっても、その表面に
入射する光の相当部分は入射面で反射され、またガラスから出ていく際にも再び反射によって失われることは別として、
光がガラスを通過する間には、ガラス内部によって一定割合の光が吸収され、透過光はそれだけ弱められる。
もっとも純粋で優れたガラスでは、この吸収はごくわずかであり、適当な厚みの試料であれば、きわめて高感度の
測光器を用いない限り、光量の減少を示すことはできない。しかし、どれほど優れたガラスでも、厚さ 20 インチ
以上を通して観察すれば、光の吸収の影響が明らかに認められる。さらに、すべてのガラスは光を吸収するだけでなく、
光の色によって吸収の程度が異なる。したがって、白色光がガラスを通過すると、その構成成分のうちある色は他の色
よりも強く弱められ、その結果、出射光はわずかに着色される。もっとも純粋で白いガラスであっても、非常に厚い
塊を通して観察すれば、常に明らかな青または緑の色調を示すが、この色調は数インチの厚みを通して見る場合には
まったく認識されない。ところが、通常の市販ガラスは、このような完全な透明性からは程遠い。もっとも良質な
板ガラスでも、熟練した観察者が、適当な厚さの 1 枚の板を白い紙の上に置いて見たとき、かすかに緑がかった
青味を帯びているのがわかる。こうしたガラスの板を横から見て、光がかなりの厚みを通過するようにして観察すると、
ガラスの緑がかった青みは、いっそうはっきりと認識される。長さを揃えたさまざまな種類のガラス片の端面を
並べて観察することで、「無色」に見えるガラスの色を比較する簡便な方法が得られるが、こうしてみると、
ガラスの種類によって色がいかに著しく異なるかがわかる。シートガラスは通常、研磨板ガラスよりも明らかに
色が濃く、圧延プレートガラスはたいていずっと緑色が強い。この種のガラスでは、多くの場合、板を普通に
透して見るだけでも、その色がはっきりわかる。

ガラスの色が、透過する光の価値にどの程度の影響を与えるかという問題の答えは、その光が照らす空間が
どのような用途に供されるかによって決まる。色の微妙な比較が行われる場合や、色覚を駆使する繊細な作業が
行われる場合には、入射光にいかなる着色も生じさせないことが不可欠であり、もっとも無色のガラスを用いるのが
望ましい。また、写真スタジオでは、日光に含まれる化学的に有効な光線(とくに短波長光)が、できるかぎり
吸収されずに透過するガラスを用いることが重要であり、そのための特殊ガラスが市販されている。現状では、
この種のガラスの価格が、スタジオの天窓全体のガラス張りに用いるには高すぎるかもしれないが、人工光を
もっとも有効に利用しようとする場合には、その使用がきわめて有利であることがわかっている。一方、日常的な
用途においては、普通のシートガラスや板ガラス、さらには緑がかった圧延プレートガラスによる、わずかな色調の
変化は、光の質にまったく悪影響を与えない。大多数の人は、その存在にまったく気づかないだろう。ガラスによる
光の透過、吸収、屈折、分散などは、総称してガラスの「光学的」性質と呼ぶのが適切であり、光学用ガラスの
製造に関する章において、これらを一括してより詳しく扱うことにする。

第 III 章

ガラス製造の原料

ガラス製造のあらゆる部門における原料の選択は、きわめて重要な問題である。
一般に、一度ガラス溶融用ポットや炉の中に投入された「固定」物質は、最終的な
ガラス中にすべて現れるが、揮発性または可燃性の物質は、溶融の過程で多少とも
完全に除去されてしまう。したがって、化学工業においては、製品をろ過や結晶化、
その他の分離操作によって精製することができるのに対し、ガラス製造者は、望ましく
ない成分を炉に投入する前にすべて除去しなければならない。そして、ガラスの透明性の
ために、色や品質に関する欠陥の検出がきわめて容易であることから、この条件の厳格さは
さらに増すのである。したがって、最高級のガラスを製造する場合には、原料として
用いる物質に対して、きわめて厳しい純度の規準が適用される。製品の品質が低くなるに
つれて、原料の純度に対する要求も低くなり、やがて、最も粗悪な緑色ビンの製造とも
なれば、玄武岩質岩石のようなきわめて不均一な物質や、他のガラス工場から出る破片、
欠陥品、半溶融ガラスなどの雑多な残滓といったものまで、多少とも満足に利用されるに
至る。

したがって、最高級ガラスに対して原料にもっとも望まれる性質は、商業的条件の許す
かぎり純粋に近いことであり、その次に、組成の変動ができるだけ少ないことである。
たとえば、1 トンの砂に含まれる水分量は、得られるガラスの組成に明瞭な影響を
与えるので、砂を完全に乾燥した状態で入手できない場合には、少なくとも常に一定割合の
水分を含んでいなければならない。そうでないと、日々使用する砂について、その都度
化学分析によって水分百分率を決定し、その結果に応じて使用量を調整しなければならず、
このような手順は、もちろん全工程を著しく複雑にする。他の場合には、組成の変動を
ここまで容易には補正できず、その結果として、ガラスの組成に制御不能な変動が生じる。
そのため、ときには品質が理由もなく低下したり、ガラスが通常の温度では自由に溶け
なくなったりする。原料および各種製品の両方を化学分析によって系統的に管理すれば、
この種の好ましくない事態の原因を、しばしば製造者が突きとめられるようになる。
しかし、このような管理がいかに必要であるにせよ、組成や物理的性状の変動が大きすぎる
原料を使用することによる欠点を、完全に補うことはできない。ガラス製造においては、
化学組成だけでなく、原料の物理的状態や物性もまた重要である。したがって、ガラス溶融に
用いる原料は、適度に細かい粉末の状態で入手できなければならないが、この点に関連して、
きわめて硬い物質も柔らかい可塑性物質も、粉砕が非常に困難であることを忘れてはならない。
さらに、ある物質が天然に粉末として産出する場合、その粉末は粒度が均一で、しかも細か
すぎないことが望ましい。とりわけ、その物質が融剤というより耐火性成分に属する場合は、
そうである。この場合、粗い粒子が多く含まれていると、それらは炉内で溶解しきれず、
完成ガラス中に未溶解のまま残ってしまい、それを避けるには、これらを溶かすために
過度の高温と長時間の「溶融(ファウンディング)」を行わなければならない。このことは、
主として珪酸質および石灰質成分に当てはまるが、硬化したソルトケーキ(硫酸ナトリウム)
の団塊も同様の挙動を示すことがある。

原料選択においては、貯蔵の容易さもまた考慮すべきである。たとえば、石灰石を、大きな
石塊の形で貯蔵しておき、必要に応じて粉砕する場合には、その保管はきわめて容易であり、
風雨にさらされたとしても有害な変化は生じない。一方、硫酸ナトリウム(ソルトケーキ)は、
比較的乾燥した場所に貯蔵した場合でさえ、急速に固まって硬い塊となり、その際、一定量の
水分も吸収する。このような性質は、必ずしも常に避けられるわけではなく、たとえば
ソルトケーキは、現在多くの種類のガラス製造において不可欠な原料である。しかし、その
ような事情で、ある物質の価値が実際上かなり低下してしまう場合もある。

ガラス製造に通常用いられる原料は、つぎの三群に分けることができる。――

(1) シリカの供給源。
(2) アルカリの供給源。
(3) アルカリ以外の塩基の供給源。

(1) シリカの供給源.――シリカの主たる供給源は砂である。この物質は、地質学的な堆積物
として天然に産出し、その分布面積や層厚が非常に広大なものも少なくない。こうした砂の
堆積物は、つねに珪酸質岩石の風化・崩壊によって形成されたものであり、こうして生じた
破片は、水の作用によってふるい分けられ、運搬される。その結果、これらは河川によって
海(海成堆積物)あるいは湖(湖成堆積物)に運び込まれて沈積する。運搬中または堆積後に
おいて、水の作用により、個々の粒子が丸みを帯びた粒状に磨かれていることが多い。

このような成因のため、砂の化学組成は、その堆積をもたらした母岩の性質によって大きく
変化する。シリカに非常に富む岩石、あるいはほぼ純粋なシリカから成る岩石が浸食を受けた
場合、そこから生じる砂はしばしば非常に純粋であり、シリカ含量が 99.9% に達する堆積物も
知られている。しかし、より一般的には、その砂には、ある程度風化した長石の破片が含まれ、
そのためアルミナ、鉄、アルカリが組成中に導入されている。最後に、前述の純粋な砂から、
鉄とアルミナに非常に富む粘土質マールに至るまで、あらゆる組成範囲の「砂」が知られて
いる。

光学ガラス、フリントガラス、もっとも白色度の高いシートガラス、および最高級のボヘミア
ガラスといった最高級ガラスの製造には、非常に純粋な種類の砂が必要であり、できれば鉄を
0·05% 未満、アルミナ、石灰、アルカリなど他の不純物を合わせても 0·05% を超えない
ものが望ましい。実際問題として、このように鉄の少ない砂には、測定可能な量の不純物として
アルミナ以外はほとんど含まれない。ヨーロッパでもっともよく知られたこの種の砂の鉱床は、
パリ近郊のフォンテーヌブローにあるが、同等の良質砂がドイツのリッペでも産出し、そこからは
シリカ含量 99·98% を保証した砂が市販されている。このような砂ほどではないにせよ、
きわめて良質な砂が、ドイツ(ザクセン)のホーエンボッカや、ヨーロッパの他の数か所でも
得られる。イギリスでは、現在のところ、このような高純度砂の鉱床は開発されていない。

これらきわめて純粋な砂に次いで価値の高いものは、ベルギー産のガラス用砂、なかでも
エピナルの砂である。これらは通常 0·2~0·3% の鉄と、やや多めのアルミナを含んで
いるが、シートガラスやプレートガラスの製造に非常に広く用いられている。さらに品質基準を
緩めれば、利用可能な砂の鉱床は多数存在し、各地域の製造者は、より局地的な供給源を
多少なりとも利用している。たとえばイギリスでは、ベッドフォードシャーのレイトンや、
東海岸のリンの砂が広く使用されている。最後に、もっとも低廉なビンの製造には、鉄を
2% まで含み、その他の物質もかなりの割合で含有する砂が用いられる。

シリカは、さまざまな純度状態で、砂以外にも多くの形で自然界に存在する。これらのうち
もっとも一般的なものは、「砂岩」と呼ばれる、ある程度緻密な堆積岩の形である。化学組成の
観点から言えば、これらの石の中には、最高級ガラスの製造にきわめて適したものもあるが、
一般に、良質な砂層に比べると岩石はそれほど均質ではないという欠点がある。さらに、岩石を
ガラス製造に用いるには、あらかじめ粉砕して粉末にしなければならないが、その粉砕産物は、
通常きわめて微細な粉から、粉砕機に付属するふるいを通過しうる最大粒径の粒子に至るまで、
あらゆる大きさの粒子が混在することになる。ガラス職人の立場から言えば、このような
ごく微細な粒子の存在は明らかな難点であり、おそらく水洗によってこの粉塵を除去する必要が
あるだろう。この操作自体が粉砕石のコストを増大させると同時に、材料のかなりの割合を失う
原因となる。同様の異議は、粉砕した石英や火打石をガラス製造用のシリカ源として用いる
場合にも当てはまるが、こちらのほうが状況はさらに悪い。しかも、これらの物質はきわめて
硬く、粉砕が困難であるため、その価格はガラス製造用としては到底容認しがたいものとなる。
したがって、粉砕石英や火打石の使用は、現在では陶磁器工業にほぼ限られており、そこで
これらは素地および釉薬双方のシリカ源として用いられる。しかし、かつては粉砕火打石が
最高級ガラスの製造に広く用いられており、その名残として現在も「フリントガラス」という
名称が残っている。

長石類の鉱物は、本質的にはアルミナと一種またはそれ以上のアルカリのケイ酸塩から成り、
ガラス製造に広く用いられている。その高いシリカ含有量(70% に達することもある)が、
有効なシリカ供給源となるためである。ただし、シリカ源としてみれば、多くの長石は
あまりに高価であり、その使用はもっぱら、それに含まれるアルミナとアルカリを目的と
するものである。

(2) アルカリの供給源.――もともとガラス中のアルカリ成分は、植物や海藻――いわゆる
「ケルプ」――の灰から得ていた。いずれの場合も、アルカリは炭酸塩の形で得られ、通常
きわめて不純な状態のまま用いられていた。しかし現在では、工業用アルカリの原料は、主に
ナトリウムおよびカリウムの塩化物の天然鉱床その他の供給源に求められている。現在のところ、
塩化物の自然な形のままでアルカリをガラス原料に導入することは、工業的にはまだ不可能で
ある。最大の難点は、塩化物がガラス溶融炉の温度で揮発しやすく、また熱いシリカによって
分解されるのは水蒸気の存在下に限られるという点にある。したがって、通常のガラス炉に
これらの塩を投入すると、望まれる二重ケイ酸塩の形で他成分と結合する前に、蒸気として
追い出されてしまうだろう。

そのため、アルカリは、より揮発しにくく、より容易にシリカの作用を受ける形でガラス原料に
導入される。これらのうち、炭酸塩は歴史的に古く、現在工業的に遥かに重要なのは硫酸塩で
ある。炭酸ナトリウム(ソーダ灰)は、いくつかの特殊ガラスの製造に用いられ、また
イギリス製フリントガラスの原料でもあるが、これは二つのよく知られた化学的製法のいずれかに
よって生産される。その一つは「ブラックアッシュ」または「ル・ブラン(Le Blanc)法」であり、
この方法では、まず塩化物を硫酸の直接作用によって硫酸ナトリウムに変え、ついで、これを
炭酸カルシウムと石炭の混合物とともに焼成して炭酸塩に変える。こうして生成した炭酸ナトリウムは、
溶解とその後の蒸発によって分離される。より純粋な炭酸ナトリウムは、「アンモニアソーダ法」
によってきわめて安定した品質で得ることができる。この方法では、塩化ナトリウム溶液にアンモニアと
炭酸ガスを圧力下で作用させる。現在、この方法で製造されたソーダ灰は、ガラス製造用として、
きわめて高い純度と一定した組成の状態で、定期的に供給されている。その大きな利点は、まさにこの
性質にあるが、その比較的高価なことから、用途は特殊なガラスにほぼ限られている。このような用途では、
前述の性質がきわめて重要となる。

シートガラスや各種プレートガラスの製造のような、ほとんどのガラス製造においては、アルカリは
ソルトケーキ――すなわち 硫酸ナトリウム――の形で導入される。この製品は、ル・ブラン法
の第一段階、すなわち塩化ナトリウムに硫酸を作用させる工程の結果として得られる。したがって、
ソルトケーキは比較的粗悪な製品であり、その使用は、ガラス製造に利用しうるアルカリ源として
圧倒的に安価であるという事実に基づいている。しかし、その使用にはいくつかの欠点がある。
その最大のものは、シリカがソルトケーキを分解するには、還元剤の助けを要するという事実である。
かかる還元剤は、炉内気相――炎のガス――によって部分的に供給されるが、これに加えて、コークス、
木炭、無煙炭などの形の炭素を、ソルトケーキを含むすべてのガラス原料に一定割合加えなければならない。
この目的のために用いる炭素量がわずかにでも誤ると、悲惨な結果を招きうるし、最良の条件下でさえも、
この方法で作られたガラスから硫黄化合物の痕跡を完全に取り除くことは容易ではない。さらに、ソルト
ケーキに関しては、その製造法の如何を問わず、ある程度有害な不純物を必ず含んでいるという点からも、
トラブルの危険が生じる。製造法の細部によって、ソルトケーキには、未反応の塩化ナトリウムか、あるいは
遊離の硫酸、もしくは硫酸カルシウムの形で硫酸が、常にわずかな過剰として残存する。とはいえ、良質の
ソルトケーキは、少なくとも 97% の無水硫酸ナトリウムを含み、塩化ナトリウムまたは硫酸はいずれも
1·0% を超えてはならない。純粋な硫酸ナトリウムは水に容易に溶けるが、通常のソルトケーキは必ず
不溶性残渣を残し、それは多くの場合、製造炉のライニングや取扱いに用いた道具から混入した微小な
粘土粒やその他の物質から成る。このような不純物が多量に存在すると、ガラスにとって有害になりがちで
ある。不溶性残渣は 0·5% を超えてはならず、良質のソルトケーキでは通常 0·2% 未満である。

ソルトケーキには、ガラス製造原料として扱ううえでやっかいな性質がいくつかある。たとえば微粉砕した
ソルトケーキは、長期間、とくに湿った空気にさらすと、大気中の水分を吸収し、「芒硝(Glauber 塩)」
と呼ばれる結晶性形態へと部分的に変化する。この過程の結果として、きわめて硬い塊が形成される。
したがって粉砕済みソルトケーキは、長期にわたる貯蔵には適さず、再粉砕の必要に迫られる。また、この
凝集作用は、ソルトケーキを一成分として含むガラス原料混合物を貯蔵する際にも生じる。実際上、ソルト
ケーキは必要に応じて粉砕するほかなく、その物性のため、細かい粉末にまで挽くこと自体が困難である。
さらに、粉砕の際に生じる粉塵は、健康に重大な害を及ぼすものではないにせよ、特有の強い刺激性をもって
いる。

カリウムは、ガラス製造にはほとんど専ら炭酸塩の形、すなわち一般に「パールアッシュ」と呼ばれる
炭酸カリウムとして用いられる。もともと木材やその他の陸上植物の灰に由来していたが、現在では、
原料となる塩化カリウム(スタスフルトなどの天然鉱床から得られる)に、前述のソーダと同様の方法を
適用して製造される。市販のパールアッシュはかなり純粋な物質ではあるが、その使用は、この物質が
強い吸湿性をもち、大気中から水分を急速に吸収するという事実によって複雑になる。一定組成のカリ
ガラスを製造しようとする場合には、パールアッシュの水分含有量を頻繁に分析によって測定し、その
結果に従ってガラス原料の配合比率を調整する必要がある。

アルカリはまた、硝酸塩の形(硝酸カリウム=硝石、および硝酸ナトリウム=チリ硝石)でガラスに
導入されることもある。しかし、これらはガラス中のアルカリ源として働くとはいえ、その本質的な目的は、
それらに含まれる酸素にある。この種の酸化剤は、もちろん硫酸塩および炭素を含むガラス原料に加えられる
ことはなく、炭酸塩を含む原料、特にフリントガラスを酸化し精製するために用いられる。これらの物質は
ごく少量しかガラス原料に加えられないため、その極端な純度はガラス職人にとってそれほど重要ではなく、
どちらの硝酸塩についても、通常の「精製」品であれば、もっとも高度な要求にも十分応えうる純度を備えて
いる。

アルカリを相当量含む天然鉱物のうち、ガラス製造の原料として利用されるものが若干ある。その中でもっとも
重要なのは、すでに述べた長石類の鉱物である。ただし、これらはかなりのアルミナを含み、もっとも純粋な
種類を除けば、たいていは多かれ少なかれ鉄も含んでいる。アルミナを望ましくない成分とみなすガラス職人も
いれば、その逆の見解をとる者もおり、長石質鉱物の利用可否は、こうした見解に左右される。もっとも安価な
種類のガラス、たとえばビンガラスなどでは、長石質鉱物や花崗岩、玄武岩のような岩石が原料として自由に
用いられている。アルカリとアルミナの両方を含む別の鉱物にクリオライトがある。この鉱物は、ナトリウムと
アルミニウムの二重フッ化物であり、とくにオパールガラスおよび乳濁ガラスの製造にきわめて有用な性質を
示す。ただし、単なるアルカリ源としてみれば、クリオライトはあまりに高価である。

(3) アルカリ以外の塩基の供給源.――この中でもっとも重要なのは石灰と酸化鉛であり、前者は
各種プレートガラスおよびシートガラス、ならびにビン、さらにかなりの割合のプレス・吹きガラスの製造に
必要である。一方、鉛はすべてのフリントガラスに欠かせない成分である。ガラス製造に関連して商業的に
意味をもつその他の塩基としては、酸化バリウムがもっとも重要であり、酸化亜鉛やマグネシアその他いくつかの
物質は、科学的・光学的・技術的用途に供される特殊ガラスの製造に使用される。着色ガラスの製造に用いられる
金属酸化物も、もちろん塩基性物質である。これらについては、マンガン酸化物を除き、色ガラスの項で扱う。
マンガン酸化物は、多くの普通の「白色」ガラスの製造に大量に用いられるので、ここで取り上げておく。

酸化カルシウム(石灰)は、一般に炭酸塩あるいは水和酸化物(消石灰)の形でガラス原料に導入される。
炭酸塩は天然起源のものか、あるいは化学的に製造されたものであり、水酸化物はつねに、炭酸塩を焼成して
石灰を得たのちに、その石灰を「消化(スレイキング)」することで得られる。天然の炭酸カルシウムは、
チョークおよび石灰岩の形で多量に産出し、両者ともガラス製造に用いられている。チョークは柔らかく
もろい物質であり、とくに天然の産物が多少湿っているのが普通であるため、粉砕工程で目詰まりを起こし
やすい。チョークの大部分はしばしば非常に高い純度で産出するが、その一方で、火打石の散在塊によって
しばしば汚染されている。化学的には、これはガラス職人にとってあまり問題となる不純物ではない。というのも、
ごく少量のシリカを導入するだけであり、その存在を配合計算で特に考慮する必要はないからである。
しかし、火打石の破片が混合物中に残ったまま炉に投入されると、非常に耐火性が高く、最終ガラス中に不透明な
包有物として現れやすい。天然石灰岩も、世界の多くの地域で非常に高純度のものが得られる。一般に硬く、
やや脆い岩石であり、所要の細かさまで容易に粉砕することができる。この物質では、火打石のノジュールが
混在することはそれほど多くないが、その一方で、マグネシアや鉄による汚染がしばしば見られる。マグネシアは
少量であってもガラスを硬く粘稠にする傾向があるため、とくにプレートガラスやシートガラスなどの硬質ガラス
には、マグネシア含有量ができるかぎり低い石灰岩を用いなければならない。白色ガラスを得たい場合には、
石灰岩中の鉄分も低く抑える必要があるが、同じ重量のガラスを製造するのに用いる石灰岩の量は、砂の量より
少ないので、砂と比べればやや高い鉄含有率も許容される。それでもなお、良質なガラスに用いる石灰岩では、
鉄は 0·3% を超えてはならない。

消石灰は、炭酸ガスの発生を避けることが工程上望ましい特殊ガラスでは、石灰源として用いられることがある。
すなわち、炭酸塩を加熱しシリカの作用を受けさせると炭酸ガスが発生するが、消石灰を用いると、水和物中の
水蒸気が放出されるだけであり、これははるかに低い温度で起こる。消石灰を得るには、まず十分に純粋な石灰岩を、
できれば大きな石塊の形で、炭酸ガスが完全に追い出されるまで焼成し、冷却したのち、その石灰を手作業で
消化する。このようにして得られる生成物は、しかし、水分および炭酸ガス含有量の両面で変動しやすい。
炭酸ガスは、大気から容易に吸収されるからである。このため、この材料を用いて一定品質のガラスを得ようと
する場合には、石灰含有量を頻繁に分析により確認し、その結果に対応して原料配合を調整しなければならない。

石灰を、石膏あるいは硫酸カルシウムの形でガラス原料に導入することも理論上は可能であるが、この化合物の
分解も硫酸ナトリウムの場合と同様に還元剤――炭素など――の介在を必要とし、そのためソルトケーキ使用に
伴う困難が、カルシウム化合物の場合にはさらに増大する。かなりの純度の石灰岩は多くの地域で少なからず
産出するので、ガラス製造用としての硫酸カルシウムの商業的価値は、きわめて低いと考えられる。

バリウム化合物 は、化学的にきわめて石灰化合物に近縁であるので、この段階で扱っておくのがよい。
バリウムは、天然に重晶石(barytes, heavy spar)およびウィゼル石(witherite)としてかなり大量に
産出する。前者は本質的に硫酸バリウムであり、後者はバリウム炭酸塩である。硫酸塩の利用は、上で述べた
硫酸カルシウムの場合と同じ理由で問題があるが、バリウム化合物のほうが石灰化合物よりもはるかに容易に
還元・分解される点は異なる。天然鉱物であるウィゼル石は、バリウムガラスの製造にかなりの程度で用いられ、
これらのガラスは、用途によっては鉛ガラスの代替として有用であることがわかっている。一方、光学用のような
最高級バリウムガラスには、バリウムは人工的に製造された塩の形で導入される。その中でもっとも重要なのは
炭酸塩であり、商業的には「沈澱炭酸バリウム」と呼ばれる。この沈澱物は、しかし、通常は化学的に純粋な
物質ではなく、多少とも硫黄化合物を含んでいる。こうした不純物が有害か否かは、製造しようとするガラスの
種類に大きく依存するため、個々の場合ごとに決めるほかない。バリウムの硝酸塩および水酸化物も市販されて
いるが、もっとも高価な種類のガラスの製造に用いる場合でさえ、これらはきわめて高価な原料である。
もっとも、これらはかなりの純度で入手可能ではあるが、水酸化物のほうは、大気中から炭酸ガスを急速に
吸収して炭酸塩に変化してしまうというやっかいな性質をもつ。

マグネシア は、化学的にはカルシウムやバリウムと近縁の、もう一つのガラス形成塩基である。この
元素は通常、炭酸塩または酸化物の形でガラス原料に導入される。炭酸塩は、天然ではマグネサイトの形で
ある程度純粋に産出し、これを焼成することで酸化物が得られる。天然鉱物およびその焼成品は、もちろん
もっとも安価なマグネシア供給源であるが、この元素は比較的少量しか用いられないので、人工的に沈澱させた
炭酸マグネシウムや焼成マグネシアが好まれることも多い。マグネシアは、特別な価値をもたらす特性が
期待される特殊ガラスにのみ、意図的にかなりの量が添加される。通常の石灰ガラスでは、すでに述べたように、
この元素は望ましくない不純物とみなされる。

酸化亜鉛 は、化学的には、一方ではこれまで述べた塩基群に、他方では酸化鉛に挟まれた位置にある。
この元素は、特殊な光学ガラスにのみ添加される。特別な「亜鉛クラウン」ガラスが、ある程度用いられている。
化学的に製造された酸化亜鉛が、ほとんど唯一の供給形態であるが、ガラス原料に導入する際には、この物質が
非常に揮発しやすいことを念頭に置く必要がある。

は、ガラス原料の中でもっとも広く用いられる成分の一つである。この物質を相当量含むガラスは、
いずれも多かれ少なかれ共通した性質――高い密度と大きな屈折力――を示し、一括して「フリントガラス」
と呼ばれる。鉛は現在、ガラス原料にはほとんど例外なく鉛丹(レッドリード)の形で導入されており、他の
酸化鉛もほぼ同様に使用可能ではあるが、ほとんど用いられない。鉛丹は、2 種類の酸化鉛(PbO および
Pb_{2}O_{3})の混合物であり、その割合は、おおよそ Pb_{3}O_{4} という式に相当する。この物質は、
適切な炉で金属鉛を焙焼することによって製造され、そこで溶融鉛が熱い空気流にさらされる。製品はかなりの
純度で得ることができ、炉床から混入するシリカや、鉛を取り扱う際に用いる道具から混入する鉄が、良質な
鉛丹に見られる主な異物である。銀は望ましくない不純物であるが、近年の鉛脱銀法がきわめて完全である
ため、鉛製品中にこの元素が見出されることはまれである。鉛丹を原料として使用する際には、分析による
管理とそれに基づく配合調整が必要であり、一定品質のガラスを得ようとする場合には不可欠である。
この必要性の理由は、酸素含有量、したがって酸化鉛(PbO)含有量が、製造ロットごとにかなり変動すること、
さらに納入された実際の材料には、ときにかなりの水分が含まれていることにある。

鉛丹の取扱い方法については、ここで一言触れておくべきだろう。というのも、この物質の粉塵を吸入することが、
作業者に有害な影響を与えるからである。ガラス製造用としては、陶工が用いるように、まず鉛を「フリット化」
して、それを比較的不溶性かつ無害なものに変える方法は採用しがたい。仮にそうしたとしても、問題は単に
一段階前に移動するだけであり、そのフリットを製造する者が、同じ困難に対処しなければならないだろう。
著者の見解では、この問題の正しい解決は、鉛粉塵の発生自体を適切に防ぐか、少なくとも作業者がそれを
吸入する危険から守ることにある。毎日取り扱う鉛ガラスの量が少なく、一度に取り扱う鉛の量も少ない
場合には、この作業に従事する労働者に、作業中は常時着用する有効な防塵マスクを支給し、さらに清潔の
保持や適切な食堂の設置など必要な予防措置を講じて、鉛粉塵が食物を直接・間接に汚染する危険を避ければ、
十分であるだろう。しかし、毎日大量のフリントガラスを製造する場合には、適切な混合・輸送機械を備えた
設備を設け、鉛を他の成分と混合するときには、粉塵が外部に出ないよう密閉された状態で機械的に取り扱う
ことが、可能であり、かつ当然求められる。公正を期すために述べておくと、ガラス製造業者は本国において、
自主的な取り組みと当局からの圧力の双方によって、こうした要件をおおむね適切に満たすようになっている。

アルミニウム.――アルミナをかなりの割合で含むガラスにはいくつかの種類があり、その代表的な例が、
ある種の光学ガラスや多くのオパールガラスである。一方、ほとんどの普通ガラスにも、この物質は多少なりとも
含まれている。後者の場合、アルミナは、溶融ガラスを保持する耐火粘土製のるつぼや炉壁から、不可避な溶解
作用によって導入されるが、場合によっては、長石を原料の一成分として用いて、意図的に少量(Al_{2}O_{3}
として約 2~3%)加えることもある。より多量のアルミナが必要な場合には、市販されている水和物を用いる。
これはほぼ化学的に純粋な状態で入手できるが、当然ながら対応する高いコストを伴う。オパールガラスでは、
アルミナは部分的ないし全量が長石から、あるいは場合によっては鉱物 クリオライト から供給される。
クリオライトは、アルミニウムとナトリウムの二重フッ化物であり、主としてグリーンランドに大きな天然鉱床が
存在する。しかしこの鉱物は高価であるため、その組成と性質がほぼ同一の人工代用品が開発され、ガラスおよび
ホーロー工業で成功裏に用いられている。

マンガン.――この元素の酸化物は本来、着色成分の範疇に属するが、普通の「白色」ガラスの製造にきわめて
広く用いられているため、ここで扱うのが適当である。マンガンは通常、二酸化物(MnO_{2})の形でガラス原料に
導入されるが、下位酸化物(Mn_{3}O_{4})も使用可能である。市販の材料は通常、主としてロシアで採掘される
天然マンガン鉱石である。もっとも純粋な鉱石は、ほとんど完全に二酸化物から成るが、「褐色」鉱として知られる、
より低次の酸化物を多かれ少なかれ含む鉱石も、実際に用いられており、良好な結果を与えている。これらの鉱石は
かならず少量の鉄やシリカを含んでいるが、鉄が多量でないかぎり、その価値は含有するマンガン量によって
決まる。マンガンの着色および「脱色」作用については、後の章で述べる。この目的に関して、マンガンの代替
もしくは改良材料として提案されている物質として、ニッケル、セレン、金などがあり、ここではその名を挙げる
にとどめる。

ヒ素 もまた、「白色」ガラス原料にしばしば加えられる物質である。この元素は、商業上の白色ヒ素――すなわち
亜ヒ酸(As_{2}O_{3})――の形で普遍的に導入され、これは昇華によって純粋な状態で得られる。この物質は
きわめて毒性が高いので、ガラス製造の原料として使用する場合には、中毒の危険を避けるために特別の注意が
必要である。

炭素.――すでに述べたように、ある種のガラス原料には、適切な形の炭素を混合することが不可欠である。
この目的のための炭素は、木炭、コークス、無煙炭のいずれかの形で用いることができる。このうち、木炭は
疑いなくもっとも純粋な炭素源であるが、本国ではきわめて高価である。コークスの品質は、原料とした石炭の種類
によって大きく変動するが、いずれの場合も鉄に富む灰分をかなり含み、またいくばくかの硫黄も含む。
無煙炭は、きわめて純度の高いものが得られ、多くのコークスに比べて灰分も少ない。そのため、この用途には、
おそらくもっとも扱いやすい炭素源と言えるだろう。

第 IV 章

ガラス溶融用るつぼおよび炉

溶融によって生成される物質を成功裡に製造するには、適切な耐火材料の使用がきわめて重要である。
ガラス製造では、炉やるつぼを形成する物質に、二重の難題が課せられる。すなわち、炉の高温下で長時間に
わたって軟化や溶融に耐えるだけでなく、溶融ガラスそれ自体の溶解作用にも耐えなければならない。
ガラス製造に用いられる耐火材料は、このように二つの明確な群に分けられる。一方の群は、上述の両条件を
満たし、溶融ガラスと直接接触する位置に用いることができる材料であり、他方は、熱や炎のガスの作用には
耐えるが、ガラス自体の溶解作用には耐えない材料であり、当然ながら、溶融ガラスが触れない位置にのみ用い
うる材料である。まず前者の群から扱うことにしよう。

溶融ガラスに触れるガラス溶融設備の部分は、ほとんど例外なく、ある種の耐火粘土(fire-clay)で作られて
いる。この目的にもっとも適した耐火粘土の組成や性質を詳細に論じるには、本書全体の分量を費やしても足り
ないほどであるから、ここでは主要な原則だけを述べるにとどめる。まず、るつぼまたは「ポット」の製造に
用いる粘土を考えると、その成形に用いる粘土は、湿っている間に一定の可塑性をもち、乾燥後にかなりの強度を
示すことが必要である。乾燥および焼成後の材料は、ガラス溶融で用いられる高温に耐え、溶融や顕著な軟化を
起こさないほど十分な耐火性を備えていなければならない。化学組成や物理的性質の異なる各種粘土は、
溶融ガラスの化学的侵食に対する抵抗力にも非常に大きな差がある。いかなる粘土も、この条件下では多かれ
少なかれ溶解するが、その速度だけでなく、その溶解の「仕方」も重要である。そのため、しばしば、速やかに
ではあるが一様に溶解する粘土が、より遅くはあるが不規則な溶解を示す粘土よりも好まれる。後者では、
未溶解の粒子が剥離しやすく、それが不透明な包有物――いわゆる「ストーン」――としてガラスを汚すから
である。また、最良の結果を得るには、用いる粘土を、そのるつぼで溶融しようとするガラスの種類に応じて、
慎重に選び分けることが不可欠であることにも注意すべきである。イギリスでは、この問題は十分な関心を
払われてきたとは言いがたいが、ドイツやアメリカでは、国内に存在する耐火粘土資源が系統的に研究・利用
されてきた。その結果として、ガラス製造者は、物性・化学的性質が正確に知られた多くの材料の中から選択
できるようになっている。そして、これらの性質と炉内での「ポット」の実際の使用結果とを慎重に照合する
ことにより、製造者はもっとも適切な材料を選定できるだけでなく、現在の良好な銘柄の供給が途絶えた場合に、
改良や代替を求めるべき方向をも、ある程度見通すことができる。

ここで、耐火粘土製のポットまたはるつぼの製造工程を簡単に追ってみよう。るつぼの大きさと形状は、
それが用いられる目的によって決まる。容量 4 cwt. から 2½ トンまで、さまざまな大きさのるつぼが
各種ガラスの製造に用いられているが、もっとも普通の大きさは、直径 30 インチから 50 インチの範囲に
ある。多くのガラスにおいては、ポットの形は単純な開放型の鉢状――平面形は円形または楕円形で、縁の
直径が底の直径より大きい――をしている(図 1)。しかし、フリントガラスや、炎や炉内ガスとの接触から
保護すべきその他のガラスを製造する場合には、いわゆる「覆い付き(covered)」ポットが用いられる。
この場合、鉢部分――こちらはより円筒に近い形状をしている――はドームで覆われ、小さな庇付きの開口部
(フード)のみが設けられている(図 2)。覆い付きポットは、折りたたみ可能な木製型の上に築き上げられ、
ポットの乾燥を始める前に型を取り外す。

[図 1(FIG. 1)――ガラス溶融用の開放「ポット」またはるつぼ。]

[図 2(FIG. 2)――フリントガラスおよび光学ガラスに用いられる、覆い付きガラス溶融用ポット。]

ポット製造用の材料は、まずきわめて注意深く準備される。適切な種類の粘土を選定したのち、それを
適当な粉砕機で細粉に砕き、慎重にふるい分ける。この細かな粘土粉に、あらかじめ焼成した耐火粘土を
粉砕したものを、正確に定められた割合で混合する。工場によっては、この焼成材料を、使用済みポットの
破片をそのまま粉砕して得ることもあるが、よりよい方法は、この目的のために特に選んだ耐火粘土を
別途焼成して用いることである。この焼成材料の添加量は、使用する生粘土の化学的性質、とくに可塑性に
よって決まり、いわゆる「脂性(fat)」すなわち非常に可塑性の高い粘土には、焼成材料を最大 50% まで
加えるが、イングランドのストウブリッジ地区に産するような「痩せた(lean)」粘土には、はるかに少量しか
加えない。この焼成材料(シャモット)を加える目的は、完成ポットの安全な乾燥を容易にするとともに、
塑性粘土を乾燥させたとき、さらにその乾燥物を焼成したときに生じる収縮量を、全体として希釈することに
ある。焼成材料は、これらの収縮過程をすでに経験済みであるため、全体量を希釈する中性成分として働く
だけでなく、全体の骨格として働いて強度を高め、亀裂の発生傾向を抑制する。

生粘土とシャモットを十分に混合したのち、適量の水を加えて「練り起こし」、通常は適したペグミル中で、
長時間にわたり力強く練り合わせる。この工程を経て出てくる粘土は、かなり固いものの塑性をもった
練り土であるが、この種の粘土混合物のもつ本来の強靭さと可塑性は、湿った塊の状態で長期間貯蔵することに
よってはじめて十分に発達する。つぎの段階で、この可塑粘土は太い棒状にまとめられ、「ポット職人」に
渡される。職人は、この棒状粘土を用いて、最下部が上部を支えられる程度に乾いていくのを見計らいながら、
日ごとに少しずつポット(るつぼ)を築き上げていく。こうして大型ポットを築造する作業には数週間を要し、
その間、ポットのいかなる部分も早く乾燥しすぎないよう、十分な注意を払わなければならない。完成後は、
まずはゆっくり、それから亀裂の危険が小さくなってからはより強く乾燥を進める。使用に供する時点で、
ポットは通常すでに数か月が経過しており、十分に空乾きしている。ただし、この時点でも粘土はまだ水和
状態にあり、すなわち化学的に結合した水を含んでおり、これは焼成工程の初期段階でようやく追い出される。
焼成は、溶融炉の近くに設けられた比較的小さな炉または窯で行われる。ここでポットは、温度をきわめて
徐々に上昇させながら加熱され、最終的に明るい赤熱に達する。この工程はきわめて繊細であり、とりわけ初期
段階では、温度をゆっくりかつ均一に上昇させるのに大きな注意が必要である。そうしないとポットに亀裂が
入り、使用に耐えなくなってしまうからである。最後に、明るい赤熱状態を少なくとも 1 日維持したのち、
ポットは炉内に据え付ける準備が整う。通常これは、ポットと炉の両方が赤熱状態にある間に行われ、一度焼成
されたポットは、二度と冷却されることはない。

耐火粘土はまた、ガラス溶融炉の建造に必要な、さまざまな大きさのれんがやブロックの製造にも用いられる。
ここでは、溶融ガラスが触れると予想される部分――たとえばタンク炉の「タンク」または槽の壁や、ポット炉の
ポットまたはるつぼより下の部分――にのみ耐火粘土が使用される。後者の位置では、破損したポットからの
ガラスの漏れやあふれが起きた場合に、床や炉壁、通路などに溶融ガラスがたまりやすい。こうした位置に用い
られる耐火れんがは、通常ポット製造に用いるものよりはるかに質の低い耐火粘土から作られているが、これは、
るつぼに求められる条件の一部がここでは不要だからである。しかし一方で、より耐火性の高いれんがを用いれば、
炉の寿命は長くなるだろう。なお、この種のれんがは炉の建造に際してモルタルで積み上げるのではなく、水に
溶かした耐火粘土の薄いペーストの上に据え付けられ、継ぎ目はできるだけ薄く保たれることにも注意すべきで
ある。「シージ(siege)」と呼ばれる炉の部分――すなわちポットを載せる炉床(フランス語で「座」を
意味する「siège」に由来)――は、通常きわめて大きな耐火粘土ブロックで構築され、これには高い強度を得る
ために粗い材料が用いられる。炎が炉内に入る位置の近くでは、これらのブロックは急速に摩耗するが、その
原因は部分的には溶融であり、主としては摩耗作用による。すなわち、高速で流れる炎は、きわめて顕著な
研磨作用を示すようである。

タンク炉において溶融ガラスを保持する実際のタンクまたは槽も、同じく大型の耐火粘土ブロックで造られる
が、ここでは可能なかぎり最高品質の材料が用いられ、その扱いも、少なくともるつぼと同程度の注意を払って
行うべきである。というのも、その形状や大きさから、こうしたブロックはるつぼよりも大きな強度をもつ
一方で、平均的なるつぼよりもはるかに長期間、溶融ガラスとの接触に耐えることが期待されるからである。
タンク・ブロックに必要とされる条件を理解するには、次節の内容を少し先取りしておく必要がある。
すなわち、タンク炉では、溶融、精製、作業の各段階を通じて、ガラスは大型ブロックで組まれた槽の中に
保持される。このブロック同士は、いかなる接着材でも接合されておらず、「空積み」の状態で組まれ、外側
から鉄棒やタイロッドのシステムによって支持される。溶融ガラスは、ある程度までブロック同士の隙間に
浸透するが、ブロックの外側は意図的にできるだけ冷たく保たれているため、ガラスはこれらのすき間を
進むうちに急速に粘性を増して固くなり、こうして固まったガラスがブロック同士を強固に結び付け、漏れを
防いでいる。このように、ブロックは内側からは炉の高温とガラスの腐食作用にさらされ、外側からは冷却される
ことがわかる。この状態は、亀裂の発生を促す傾向があるので、ブロックにはやや粗い材料が用いられる傾向が
ある。他方で、ブロックの素材は、内外両面から加熱されるるつぼ壁ほど高温にはならないので、極端な耐火性は
それほど必須ではない。

タンク・ブロック用材料の選択について、詳細に立ち入る余裕は本章にはない。この問題については、まだ最終的に
満足のいく結論には至っておらず、上に述べたことから、選択の基礎となるべき考慮事項の性格が理解されれば、
ここでは十分であろう。

つぎに、溶融ガラスと接触しない位置に用いられる第二種の耐火材料――すなわちガラス溶融炉の構造材――を
簡単に考察しよう。ここでは、機械的強度と耐火性がほとんど唯一の要件であるが、タンク炉の天井アーチ
(「クラウン」)や、開放ポットを用いてガラスを溶融する炉のクラウンでは、れんがの材料が有色酸化物を
相当量含まないことも重要な条件となる。というのも、小さなはく片などが溶融ガラスの上に落下してガラスを
著しく着色させる危険があるからである。したがって、クロム鉱れんがのような材料は、この用途には不適当で
ある。実際には、何らかの形の「珪石れんが」が普遍的に用いられている。「ディナスれんが」として知られる
この材料(最初に産出したウェールズの地名にちなむ)は、およそ 98% のシリカ(SiO_{2})から成る。
純粋なシリカは、それ自体では成形や焼成によって一体化したれんがにすることができない。湿らせても可塑性を
示さず、焼成しても結合力をもたないからである。しかし、約 2% の石灰と少量のアルミナを混合することで、
湿潤状態で成形し、焼成によってかなり強固な一体ブロックとすることが可能になる。この材料は、工業用の
ガス焚き炉で到達しうる最高温度でも十分に耐えうる耐火性をもち、その機械的強度も、かなり大きなスパンの
アーチを築くのに足りる。しかしその一方で、この材料は加熱を非常に徐々に行わねばならず、炉温が大きく
上昇または低下する際には、常に注意深い監視が必要となる。というのも、珪石れんがは加熱中に非常に顕著な
膨張を示すため、これで築いたアーチに横方向の膨らみ余地を与えなければ、アーチが大きく持ち上がったり、
ひどい場合には完全に崩壊したりするからである。この危険は、アーチを締め付けているタイボルトを徐々に
緩めることで回避され、炉を止めてアーチが冷却するときには、逆にボルトを締め直して「ゆるみ」を取る。
局所的な急熱も、この材料には破滅的であり、激しいはく離を引き起こす。きわめて高温に耐え、かつ機械的
強度が要求される位置には、珪石れんがはきわめて価値ある材料であるが、その化学組成のため、溶融ガラスや
塩基性成分を多量に含む物質に急速に侵食されるので、珪石れんがはガラスに触れない位置にのみ用いることが
できる。

ここで、代表的なガラス溶融炉の一般的な設計と配置を、きわめて簡単に検討しよう。もっとも古く、単純な
形式の炉は、本質的には、耐火れんがで築かれた箱で、その中心にるつぼが置かれ、両側に薪や石炭の火床を
設けたような形である。しかし、このような手段で高温を得ようとする場合には、箱(炉室)の大きさ、とくに
火床の大きさを、るつぼの寸法と、それぞれ互いに適切に比例させる必要がある。火床は一般に広く深く造られ、
炉室全体を覆う背の高い円錐形の煙突が設けられ、小さな開口部を通じて炉室と連絡している。さらに洗練された
炉では、炉室自体が二重構造となっており、炎はまず内室の中でるつぼのまわりをめぐってから、外室と内室の
間の空間を通って煙突やコーンに向かう。これら原始的な炉は、現在では実質的に使われていないので、それ以上
詳しく述べる必要はないだろう。現代の炉では、燃焼過程は二つの明確な段階に分けて行われる。第一段階は、
「ガス発生炉(ガスプロデューサー)」と呼ばれる補助装置において行われ、そこで燃料が本来発生しうる熱の
一部が、可燃性ガスの生成に利用される。このガスは、そのまま、すなわちプロデューサーを出たときの高温の
状態で、またはある程度運搬されたのちに炉の廃熱で再び加熱されてから、本炉に送られる。いずれの場合にも、
ガスは本炉に入るときには高温であり、ここで同じく炉の廃熱で予熱された空気流と出会う。高温のガスと高温の
空気は、急速かつ完全に燃焼し、適切な割合で混合されれば、きわめて高温を生じる。この方式では、燃料の
燃焼によって発生する熱の一部が補助装置で生じ、その分だけ炉に供給される熱が損なわれるにもかかわらず、
旧来の、燃料をすべて炉内で燃やす「直火式」方式に比べて、はるかに高い効率が得られることは、一見すると
意外に思われるかもしれない。しかし、この新しい方式の利点は、燃料を気体の形で扱うことにある。第一にして
もっとも重要な利点は、炉から熱い燃焼生成物(煙道ガス)として逃げていく熱を、炉に入る未燃ガスと空気に
移し、その熱を炉に戻すことができる点である。この熱交換がどのように行われるかは後で述べるが、ここで
指摘しておくべき点として、いくつかの炉では、炉から出る燃焼生成物がこれほどまでに徹底的に冷却されるため、
炉の煙突に十分なドラフト(通風)を生じさせることができないことがある。ガス燃料使用のもう一つの利点は、
固体燃料を完全に燃やす際に必要とされるほど大量の空気を用いなくても、完全燃焼が得られることである。
このため、ガス燃料でははるかに高い温度を容易に得ることができ、またガスと空気を予熱することも高温達成を
助ける。さらに、適切なバルブを用いることでガスおよび空気の流量をきわめて容易に調節できるため、炉の
運転をはるかに安定させることが可能となる。最後に、近代的なガス発生炉では、そこで生成され、したがって
炉には戻せない「顕熱」の量を非常に低く抑えるよう工夫されている。すなわち、プロデューサーにおける
石炭の部分燃焼によって発生する熱の大部分が、水蒸気の分解、すなわち水蒸気を水素と一酸化炭素に変える
反応に吸収されるようになっている。その結果、プロデューサーから出るガス自体の温度はそれほど高くなく、
この段階で失われる熱の割合は、旧式のガス発生炉に比べてはるかに小さい。

本章の分量の制約上、ガス発生炉の構造や運転の詳細に立ち入ることはできない。ここでは、多くの近代的
プロデューサーが、厚い燃料層を満たした塔状構造をしており、その中で燃料が一部燃焼し、一部は空気と
水蒸気の混合流の作用でガス化される、という事実を述べるにとどめる。ここで起こる化学反応は複雑であるが、
最終的な結果として、炭酸ガス 2~8~10%、水素 10~20%、一酸化炭素(CO)8~25%、メタン(CH_{4})
1~3%、窒素 45~60% を含み、さらに水蒸気、タール状物質、アンモニアなどを含むガスが生成する。
良質なプロデューサーガスでは、可燃成分(水素、一酸化炭素、メタン)の合計は、全体の 30~48%(体積比)
であるべきだが、期待される正確な組成は、プロデューサーの型式と用いる燃料の種類に大きく依存する。
中には、きわめて低品位の燃料を扱うことが可能なプロデューサーもあり、それらから得られるガスでも、
最高温度を達成するのに十分である。これは、こうした燃料を直接炉内で燃やそうとすれば不可能だったであろう。

[図 3(FIG. 3)――蓄熱炉の配置を示す概略図。]

プロデューサーを出たガスは、耐火れんがで囲まれた煙道を通って本炉へ送られるが、その通路は炉の形式に
よって多少異なる。現代のガス焚き炉は、炉から出る燃焼生成物の熱を、炉に入るガスと空気の加熱に再利用
する方式に応じて、「蓄熱式(regenerative)」と「熱交換式(recuperative)」という二つの明確な型式の
いずれかに属する。蓄熱式炉では、炉室本体を出て煙突に達するまでの間に、燃焼生成物は、内部が耐火れんが
でゆるく充填された室を通過する。これらの室(レジェネレーター)は、ガスの熱を吸収して急速に高温に
なる。これらの室または「蓄熱室」が十分高温になったところで、ガス流の経路が変更される。すなわち、
炉ガスは第二の蓄熱室群へ送り込まれ、これを加熱し、一方、炉に入るガスと空気は、すでに熱せられた
蓄熱室群を通って炉室本体へと導かれる。流入するガスと空気は、通過の際に蓄熱室のれんがに蓄えられた
熱を吸収して予熱される。明らかに、二組の蓄熱室があれば十分である。一方の組は、炉から出る燃焼生成物に
よって加熱され、他方の組は、炉に入るガスと空気に熱を与える。これらの過程がある程度進行したところで、
適切なバルブ操作により両組の役割を入れ替えればよく、この切り替えを繰り返すことで、理論上、無期限に
運転を続けることができる。図 3 に、この方式の概略が示されている。

熱交換式炉(レクペレーティブ炉)では、同じ原理がやや異なる形で利用される。すなわち、炉から出る
燃焼生成物は、耐火粘土ブロックの内部に設けられた管状の通路を通過し、炉に入るガスと空気は、同じブロック
の外側を流れる。こうして、出口側ガスの熱が、耐火粘土の壁を介した伝導によって入口側ガス・空気に
移されるのである。両方式の優劣は、しばしば激しく論争されてきた。蓄熱方式の利点は、熱交換において
耐火粘土の熱伝導にあまり依存しないこと、そして、熱交換式で必要となるような複雑な管状ブロックを必要と
しないことである。一方、熱交換式では、「切り替え(リバース)」バルブや、その定期的な操作が不要であり、
また必要とする設置面積もいくぶん小さい。いずれの方式でも、ガラス溶融に必要な温度を十分に得ることが
できる。

どちらの方式においても、予熱されたガスと空気は別々の耐火れんが製煙道を通じて炉に導かれ、炉室本体に
入る直前で混合される。炉の省エネ性と効率は、ガスと空気の混合のされ方に、大きな程度で依存する。もし
急速かつ完全な混合が行われれば、炎はきわめて激しく高温だが、短く局所的なものとなる。一方、混合が
ゆっくりであれば、炎は長くなり、炉室全体に熱が行き渡る傾向がある。しかし、混合が遅すぎると、ガスが
炉を通過する短い時間の間に燃焼が完了せず、燃焼が炉出口の煙道や蓄熱室で継続したり、通路が狭すぎて
燃焼が妨げられ、未燃ガスが煙突まで達したりするおそれがある。ポート(開口部)の寸法が適切に設計され、
煙突のドラフトが適切に調整されている場合、燃焼は炉室を出る直前でちょうど完了するのが理想的であり、
そのときには炉のすべての開口部から、小さく鋭い炎の舌が噴き出すのが観察されるだろう。ガス焚き炉から
大きな煤けた炎が立ち上るのは、不完全燃焼を示すものである。

[図 4(FIG. 4)――覆い付きポットを用いる蓄熱式ポット炉の断面概略図。]

すでに述べたように、ガラスはさまざまな形と大きさのポットまたはるつぼか、開放型のタンク炉において
溶融される。覆い付きるつぼを用いるポット炉の一般的な構成は、図 4 に示されている。この炉では、ガスと
空気が炉室に入るポートは炉床に設けられているが、これらの開口は、側壁や端壁、さらには中央の柱に設け
られることも少なくない。いずれの場合も、すべてのポットをできるかぎり均一に加熱し、特定のるつぼに
集中した局所的な高温を避けることが目的である。局部的な高温は、その位置のるつぼを危険にさらすだけで、
炉本来の仕事にはほとんど寄与しないからである。ただし、より耐火性の高い種類のガラスを溶融するポット炉
では、炎がポットの下部をもっとも強く加熱するように、炉内の炎の回り方を意図的に調整するのが一般的に
望ましいとされている。ガス焚き炉内の温度分布の均一性に関連して、蓄熱式炉では、バルブを切り替えるたびに
炎の流れの方向が反転し、実際にはおよそ 30 分ごとに切り替えが行われることにも触れておくべきだろう。
この操作は、炉の両側の温度を均一にするのに大いに役立つ。一方、熱交換式炉では炎の向きは変えられないため、
しばしば「ホースシュー(馬蹄形)」炎と呼ばれる、環状の炎の流路が採用される。これは、炉の片側(片端)
に、入口ポートと出口ポートを並べて設けることで得られる。燃焼中のガスの運動量と急速な膨張によって、炎は
炉の向こう側まで押し出され、最後には煙突のドラフトによって入口側に引き戻されて出口ポートから出ていく。
炎の形状は図 5 に示されている。

[図 5(FIG. 5)――「ホースシュー」炎をもつ炉の概略図。]

ガラス溶解用タンク炉の全体配置は、平炉製鋼用のオープンハース炉とよく似ている。すでに述べたように、
タンクまたは槽は大型耐火粘土ブロックで組み上げられ、その内部に深さ 20 インチから 42 インチ(炉の設計と
溶融するガラスの種類によって異なる)の浴槽を形成する。ガスと空気の入口ポートおよび燃焼生成物の出口
ポートは、ほとんどの近代的炉では、ガラス面のすぐ上の側壁に設けられ、全体は珪石れんがで組まれたアーチで
覆われる。図 6 および図 7 は、圧延プレートガラスの製造に用いられるような単純な形式のタンク炉の一般的
配置を示すものである。図の炉は、炎の方向を交互に切り替える蓄熱式運転を想定して描かれている。熱交換式
タンク炉では、常にホースシュー炎が用いられ、瓶製造などの分野では、この図と同種のポート配置が、蓄熱式
タンクにも採用されることがある。シートガラス製造用のタンク炉では、炉が通常二つ以上の区画に分割され、
不純物をせき止め、清澄なガラスだけが次の区画に進めるようにするため、さまざまな絞りが設けられているが、
煙道やポートの配置という観点から見れば、この種の炉には非常に多くの共通点がある。

[図 6(FIG. 6)――タンク炉の縦断面概略図。]

[図 7(FIG. 7)――タンク炉の横断面概略図。蓄熱室およびガス・空気通路を示す。]

本書の範囲を超えるので、タンク炉とポット溶解炉の相対的な優劣を詳しく論じることはしない。一般に、
用途に応じて十分な品質のガラスをタンク炉で製造できる場合には、その圧倒的な経済性が、ほかの方式を
一掃してしまう傾向がある。たとえばビン用ガラスは、現在では専らタンク炉で製造されているし、普通の種類の
圧延プレートや、シートガラスの大部分についても同様である。他方で、比較的少量しか必要とされない特殊な
ガラスや、品質に対する要求が極めて厳しいガラスを製造するには、ポット炉が依然として不可欠である。
光学ガラスや色ガラスがその代表例であるが、中には需要量が多く、小型タンク炉を用いて製造する価値のある
有色ガラスも存在する。タンク炉がより経済的である理由は多岐にわたり、個々の製品の詳細な要求によっても
左右されるが、そのもっとも重要な要因をまとめれば、次のようになるだろう。――

(1) タンク炉では、炎の熱をより効率的に利用できる。すなわち、タンクではガラス浴が炉の全床面を覆っている
ため、ガラスが炎に全面的に曝されるが、ポット炉では、炉内に空いた未使用空間が多く存在する。

(2) タンク炉では連続運転が可能であり、一端から原料を投入しながら、他端から溶融ガラスを取り出して加工
することができる。したがって、炉に火が入っているあいだ、休止期間がなく、炉各部は常にほぼ一定の温度に
保たれる。同じ規模の設備で比較すると、タンク炉は、燃料消費量が相対的に少ない一方、はるかに大きな
生産量をあげることができる。

(3) タンク炉では、コストと手間のかかるポットやるつぼを必要としない。これらは、製造が面倒なだけでなく、
早期に破損する危険があり、定期的な交換が必要で、そのたびに炉の停止による大きな時間的損失を招く。

(4) 最後に、タンク炉の溶融ガラスは、常にほぼ一定のレベルに保たれ、吹き竿やひしゃくでの取り出しに常に
都合のよい状態にある。

一方ポット炉では、ガラスの組成をより正確に調整できる上、溶融ガラス自体を、炉内ガスの作用や落下物に
よる汚染から、より効果的に保護できる。また、ポットでは、タンクの開放浴槽では充分な時間接触させておく
ことのできない原料同士を、実際に融着させることも可能である。

第 V 章

溶融の工程

すでに述べたように、ガラス製造に用いる原料は、適度に細かく粉砕された状態であることが求められる。必要とされる細かさの程度は、成分の性質によって大きく異なり、おおまかな原則として、より耐火性が高く化学的に安定な材料ほど細かく粉砕する必要がある。一方、ソーダ灰やソルトケーキのように、容易に溶融・反応する物質は、それほど微細に挽く必要はない。

原料が適切な粒度で用意されていると仮定すると、溶融工程の第一段階は、これらを所定の割合で混合することになる。この混合は、完全に手作業で行う場合、手作業と機械の併用で行う場合、完全に自動的に行う場合がある。手作業による混合作業は、比較的少量の原料に対してのみ適用可能であり、不十分な混合を避けるには非常に注意深い監督が必要となる。多くの場合、実際の「はかり取り」は手で行われ、混合は機械によって行われる。この方法では、各原料を一輪車(barrow)やスキップから量り取りし、大きなホッパーに投入する。ひとたび一回分のバッチが揃うと、それは混合機の混合室へ送られる。混合機は、鋼製のかくはん腕が回転して内容物をかき混ぜる円筒室に過ぎないこともあるが、より新しい装置では、軸を傾けて設置した回転ドラムやシリンダーの形をとり、その内部には適当な棚やバッフルが設けられている。この中で原料はよく振り混ぜられ、十分に混合される。手作業による混合を採用する場合には、各バッチの原料を大きなビンに投げ入れ、スコップで何度もひっくり返して混ぜ合わせ、最終的には適当な目の金網ふるいで全量をふるい分ける。いずれの場合でも、得られた混合物は色調・手触りともに完全に均一でなければならず、異なるサンプルの分析結果は、ごくわずかな変動しか示さないはずである。このようにして混合された原料に、再溶融する「カレット(cullet)」すなわち破砕ガラスを加える。理想的には、これも均等に分散させるべきであるが、大規模な実際の現場でそこまで行うことはほとんどない。

次の段階は、この混合物を炉内に投入することである。タンク炉の場合、この作業は比較的簡単である。タンク炉では、炉温ができるだけ一定に保たれており、原料はほとんどいつでも投入できるからである。投入量は、溶融ガラス、すなわち「メタル」の液面ができるだけ一定に保たれるよう調整される。実際の投入は、炉の「溶融端(melting end)」と呼ばれる側に設けられた大きな開口部(ドア)から行われる。通常、この開口部は鎖で吊った大型の耐火れんがブロックでふさがれており、チェーンは滑車を介してカウンターウェイトに接続されている。装入を始める際には、このブロックを引き上げて開口部を開く。原料は、長柄のスコップを用いて人力で投入するか、あるいはまず長いスコップ状の容器に原料を満たし、それを機械的に炉内奥まで送り込んでから半回転させて内容物をあけ、すみやかに引き抜く方法で投入する。

この装入操作は、30 分ごとに繰り返す場合もあれば、4 時間ごとにより大量を投入する場合もあり、炉ごとの慣行によって異なる。

ポット炉の場合、装入作業はそれほど単純ではない。ここではまず、作業工程でほとんど空になったポットに、最初の原料を投入しなければならず、その時点で炉の温度もかなり低下している。新しい原料を投入する前に、炉温を十分に回復させておかなければならない。そうしないと、溶融の過程は異常な経過をたどり、きわめて不完全な結果を招くことになる。さらに、一度に投入する原料の量は、ポットの容量に慎重に見合うように調整しなければならない。溶融の初期段階では、多くのガラス原料混合物が大きな泡立ち(フォーム)の塊を形成し、もし装入量が多すぎると、この泡がポットからあふれてしまう。その結果、貴重な原料が失われるだけでなく、炉床や通路がガラスでふさがれてしまう。もっとも、ある程度のあふれ出しと、欠陥ポットからの漏れは避けられないため、この目的で各ポット炉には必ず、あふれたガラスが流れ込む「受け」室が設けられている。こうして、ガラスが蓄熱室や、もし入り込めば炉の運転に支障をきたすその他の部分に侵入するのを防ぐのである。ただし、これらの受け(“pockets”)にたまったガラスは、ときどき炉外から取り除かなければならず、これはガラス製造に付随する作業の中でもっとも骨の折れる仕事のひとつである。泡立ちが起こること、そして原料がガラスに比べて体積を大きく占めることから、一度に大量を装入できないため、新しい原料バッチでポットを満たす作業を何度も繰り返さなければならない。原料がまだ大量に残っている段階では多く装入できるが、次第にその量を減らしていく必要がある。この「埋め(filling)」を何回行うかは状況によって異なるが、ガラスの種類やポットの大きさに応じて、4 回から 8 回の埋めが一般的である。また、新しい原料バッチをどの段階で投入するかも、慎重な注意を要する問題である。用途によっては、前のバッチが完全に溶けきるまで待たなければならない場合もあれば、前のバッチの一部がまだポット内のガラス表面に浮かんでいる段階で、新しい原料を追加してもよい場合もある。

ここで、熱した炉内に投入された原料混合物の中で起こる化学反応を考えてみよう。これらの反応の正確な経過は、さまざまな条件の下で生じる中間生成物の性質を詳細に研究しなければ分からないような問題であり、その意味で十分には知られていない。この種の研究が行われれば、溶融過程全体について多くのことが明らかになるであろうが、それ自体がきわめて困難な課題であるため、まだ十分にはなされていない。したがってここでは、最終生成物と、いくつか知られている中間生成物から推測される範囲でしか、化学変化を説明できない。もっとも単純な場合として、砂、炭酸石灰、および炭酸ソーダを適切な割合で混合した原料を考えてみよう。このような場合、単に熱を加えるだけで二つの変化が起こることが分かっている。すなわち、炭酸ソーダは溶融し、炭酸石灰は炭酸ガスを放出して「焼かれ」、苛性石灰に変化する。したがって、溶融初期段階では、おそらく砂粒と、分解しつつある炭酸石灰粒子が、溶融した炭酸ソーダによってセメント状に結び付けられた状態の塊が形成される。この塊の内部は泡で満たされている。泡の一部は、元の原料粒子の間に存在していた空気が、塊の溶融によって閉じ込められたものであり、他の一部は、炭酸石灰の分解によって放出される炭酸ガスから成る。ところがこの温度では、シリカは強酸として振る舞い、たとえば室温における塩酸のように炭酸石灰を攻撃するだけでなく、単独の加熱ではほとんど分解されない炭酸ソーダに対しても作用する。これらの反応の正確な順序は、炉の温度と、原料混合物の混合の良否によって変わる。時間が十分に経てば、最終的な化学組成そのものは、どのような経過をたどっても同じになると考えられるが、技術的な成功の多くは、反応がどの順番で進むかに依存しているに違いない。というのも、それがガラス内に形成される泡の数や大きさ、および泡が抜け出さなければならない塊全体の流動性を支配するからである。しかし現時点の知識では、最終的には、存在する化合物から炭酸ガスが完全に追い出され(ただしガラス中に泡として閉じ込められたまま残ることはある)、石灰およびソーダのケイ酸塩が生成される――このケイ酸塩は、完成ガラス中では、相互に化学的に結び付いた状態と、相互に溶け合った状態との混合物として存在する――ということしか言えない。

いま述べた溶融過程の説明は、普通の石灰ガラスと同様、フリントガラス原料の溶融にも、多少の修正を加えればそのまま当てはまる。ただし、石灰ソーダガラスの炭酸石灰が、フリントガラスでは鉛丹に置き換えられ、鉛丹の分解で生じるガスが炭酸ガスではなく酸素である、という点のみ異なる。石灰ガラスとフリントガラスの双方において、上記の主成分以外にも、通常はいくつかの物質が少量ずつ添加される。これらの物質は、最終的な化学生成物に大きな影響を与えるわけではないが、溶融過程の中間段階には大きな影響を与えるため、化学変化の経過を好ましい方向に導くことで、所期の目的を果たしている。こうした目的に用いられる代表的な物質は、ヒ素とソーダまたはカリの硝酸塩である。ヒ素の作用機構は非常に不明瞭であり、ここで詳しく論じることはできないが、その主な要因は、ヒ素の揮発性と、条件に応じて酸素を吸収したり放出したりできる性質にある。硝酸塩の作用は、おもに熱分解によって放出される酸素に依存している。この酸素は、場合によっては他の原料成分に一時的に取り込まれ、ずっと後の段階になってから放出されることがある。そのようにして遅れて放出された酸素ガスは、ガラス中に残っている最後の微小な空気泡や炭酸ガス泡を追い出す助けとなる。また硝酸塩の酸化作用は、おもに有機物を分解し、原料中の鉄を完全に酸化する働きをする。これらはいずれもガラスの色調を改善する方向に働く作用であり、とりわけフリントガラスの場合には、鉛が還元されてしまう危険を避けるために、こうした酸化性添加物の存在が不可欠である。鉛が還元されると、ガラス全体が完全に黒化してしまうからである。

ソーダ石灰ガラスのアルカリを、部分的または全量、硫酸ナトリウム(ソルトケーキ)の形で導入する場合には、反応はさらに複雑になる。すでに述べたように、ソルトケーキの急速な分解を達成するには、熱とシリカの作用だけでは不十分であり、還元剤の介在が必要である。この目的のため、ソルトケーキを含むすべての原料混合物には、コークス、木炭、無煙炭などの形で一定量の炭素が加えられるが、炉内大気(炎のガス)の還元性もまた、そこで起こる反応に重要な役割を果たす。ここでも、起こる現象を完全に説明することはできず、不完全な記述にとどまらざるをえない。この過程の理論的骨子は、おそらく、亜硫酸ナトリウム(Na_{2}SO_{3})は、硫酸ナトリウム(Na_{2}SO_{4})自体よりも、熱いシリカによってはるかに分解されやすい、という事実にある。したがって、還元剤の本質的な働きは、硫酸塩から酸素の一部を奪ってこれを亜硫酸塩の状態に還元し、ケイ酸の攻撃を受けやすくすることにある、と考えられるだろう。しかし、このような反応を通常の化学方程式で表し、必要な炭素量を計算してみると、実際に必要とされる炭素量は、この理論から得られる値よりもはるかに少ないことが分かる。そのため、この非常に大きな還元作用を、炉ガスのみによるものと考えるか、あるいは実際に起こっている反応は、ここで述べたような単純なものではない、と考えるかのいずれかになる。実際には、両方の説明が一部ずつ当てはまっているのであろう。実務上、ある種の混合物と炉に対してどれだけの炭素を用いるべきかは、類似の型式の炉から得られた結果を参考にしつつも、最終的には実験によって見いだすほかない。最終的な生成物はやはりケイ酸塩の混合物であるが、この種のガラスには必ず、ある程度の未分解の硫酸塩が残存し、また硫黄酸化物ガスが大量に炉から排出される。例外的な場合には、ガラス中にナトリウムまたはカルシウムの硫化物、さらには懸濁した炭素が含まれることさえあるが、これらは異常な成分であり、ガラスを著しく着色してしまう。

このように、還元剤として炭素を含む混合物に対しては、硝酸塩のような酸化剤を添加することはできない。しかし、ヒ素や二酸化マンガンは、酸化剤としての不利を補って余りある有用な性質をもっているため、少量添加される。

ここまで、溶融そのものの過程を簡単に見てきたので、次にガラス溶融の第二段階に移る。管理の行き届いたガラス炉では、未分解の原料の最後の痕跡が消えた時点で、ガラスは全体として透明な塊となっているが、その内部にはガス泡が密に分散している。多くの用途において、最終的な加工に移る前に、このガラスをできるだけ気泡から解放しておく必要がある。この気泡除去、すなわち「清澄(fining)」の工程は、溶融ガラスをさらに強く、かつ長時間加熱することで行われる。これによりガラスはより流動性を増し、内部の気泡が上昇して表面に抜けやすくなる。これは、泡が大きいほど容易に起こる。ごく微小な泡は、実際には粘性塊の中を上昇しようとする傾向をほとんど示さない。したがってガラス職人は、原料配合を工夫して、できるだけ大きな泡が生じるようにするか、それが難しい場合には、溶融塊に大量の大きな泡を発生させる物質を添加する。その上昇過程で、これらの大きな泡が小さな泡を巻き込んで運び去ってくれるのである。添加物としては、ヒ素のような揮発性の無機物を用いることもあるが、より一般的には、水分を多く含む植物性物質を溶融ガラス中に導入する。もっとも普通の方法は、フォーク状の鉄棒の先にじゃがいもを刺し、それを溶融ガラス中に差し込むやり方である。熱によってじゃがいもの水分はすぐに蒸発し始め、同時にじゃがいも自体も分解するため、溶融ガラス全体に激しい沸騰現象が起こる。この「ボイルアップ(boiling up)」工程は、清澄を大いに助けると同時に、ポット内のガラス全体を非常に良くかき混ぜる働きもするが、一方でいくつかの欠点も伴う。たとえば、この操作に使う鉄棒から酸化鉄がガラスに入り込み、また、ポットの内壁に付着していた汚染物が、強いかき混ぜ作用によってはがれ落ちてガラス全体に混ざってしまう、などである。また、こうした処理はポットで溶かしたガラスにしか実施できないという事実も、重要な制約である。タンク炉の溶融ガラスの大部分は、このような方法ではまったく手の届かない位置にあるからである。したがって、タンク炉で溶かす配合物は、そのような外的援助なしに、自力で気泡を抜くことができなければならない。実際、タンク炉における溶融過程全体は、炉温が意図的に変化されることは決してないという点で、ポット炉の場合とはかなり異なった様相を呈する。その代わり、溶融中のガラスは炉内を移動し、各区域で行われる溶融過程の段階に応じて温度が調整された領域を順次通過するようにされている。全体として言えば、ポット炉の運転条件は、溶かそうとする配合物に合わせてかなり自由に変えることができるのに対し、タンク炉では炉自体の「ラン(run)」は容易に変えがたく、むしろ配合物のほうを炉の要求に合わせて厳密に調整しなければならない、という事実は疑いようがない。

清澄工程の完了は、通常、ポットやタンクからガラスを採取し、その中に残る気泡を検査することで判断される。試料の採取方法はいろいろあるが、もっとも一般的なのは、平らな鉄棒を溶融ガラスのごく表面下に差し入れ、そのまま垂直に引き上げる方法である。そうすると、棒を浸した瞬間にその位置にあったガラスが、平らな面に付着して持ち上げられる。この試験片(“proof”)を注意深く観察し、気泡がまったく認められなければ、一般にガラスは「清澄した(fine)」と見なされる。しかし、こうしたごく小さな試料に気泡が見当たらないからといって、大量のガラス全体が完全に気泡を含まないと言い切ることはできない。その点については、溶融作業者の経験によって、「proof」がどの程度信用できるかを判断することになる。ガラスが清澄すると、しばしば溶融面が異物の斑点で汚染されていることがある。これを取り除くために、作業に取りかかる前には必ずガラス表面を「すくい取る(skim)」操作を行う。これは、適当な形状の鉄棒に小さな溶融ガラスの塊をまず「巻き取って(gather)」から、それを使って表面の薄いガラス層を引きはがすことで行われる。最後に残されたのは、溶融および清澄の際に保たれていた高い温度から、実際の加工が行われる、より低い作業温度まで、ガラスの温度を下げる工程である。ポット炉では、炉全体の温度を下げることでこれを達成し、タンク炉では、清澄したガラスをあらかじめ作業温度に保たれているタンクの作業室へと流し込む。

第 VI 章

ガラス加工に用いられる諸工程

前章では、ガラスの溶融および清澄(ファイニング)の過程を概略的に追い、その結果得られた溶融物が最終形状へと加工される準備が整うところまでを見てきた。その段階までは、個々の工程において用いられる炉やポット、道具類、あるいは各段階で加熱される温度こそかなり異なるものの、ガラスの種類によって工程は非常によく似ている。しかし、加工工程そのものは、製品の種類ごとにまったく異なっている。プレートガラス板を製造する工程が、ワイングラスを製造する工程とほとんど共通点を持ちえないことは、言うまでもない。一方で、加熱したガラスの加工方法そのものは、実際に生み出される製品の種類ほど多くはないため、産業のさまざまな部門において、きわめてよく似た装置や操作が繰り返し現れることになる。そこで本章では、ガラス加工の主な方法そのものをまとめて説明し、それぞれの方法が特定の製品にどのように応用されるかという詳細については、各製品に関する章で述べることにする。

すべてのガラス加工の第一段階は、炉から適量の溶融ガラスを取り出すことである。実際には、利用できる方法はたった三つ――すなわち、ひしゃく取り(ladling)、注ぎ出し(pouring)、および巻き取り(gathering)――しかない。物性がガラスにいくらか似た身近な物質として、たとえば濃い糖蜜を瓶や壜に閉じ込めたものを想像してみよう。これを瓶から取り出す方法としては、三つの明らかな方法がある。すなわち、スプーンで汲み出すこともできるし、瓶全体を傾けて注ぎ出すこともできるし、あるいはスプーンやフォークを濃い液体の中に差し入れて、ゆっくりと引き上げながら回転させることで、スプーンやフォークに丸く付着した「巻き取り(gathering)」状の糖蜜塊を引き出すこともできる。溶融ガラスの場合、操作としてもっとも簡単なのは、圧倒的にひしゃく取りであるが、この方法には非常に明確な制限および欠点が存在する。その主な原因は、ひしゃくを溶融ガラスの中に差し入れると、少なくとも多数の気泡によってガラス全体を汚染してしまう、という事実にある。ひしゃくの金属面には、かなりの量の空気が密着して付着しており、これが熱いガラスと接触している間に部分的に剥がれ落ちるため、ひしゃくの中身だけでなく、炉内に残ったガラスまでもが気泡によって汚染されてしまう。このような泡は、もし熱したひしゃくを用いればある程度防げるかもしれないが、その場合にはガラスが金属表面へ強く付着し、ひしゃくを使うたびに入念な清掃が必要になってしまう。したがって実際には、ひしゃく取りは、ある程度の気泡(“air‑bells”)の存在が害にならない種類のガラスの製造にのみ用いられ、ひしゃくは使用のたびに水へ浸して冷却される。しかし、この冷えたひしゃくを使うことにはさらに別の欠点がある。すなわち、ひしゃくで汲み上げたガラスの一部が、冷たい金属との接触によってかなり冷やされてしまい、その部分は加工工程を満足に受けられないほど硬くなってしまう、という点である。この「冷えた」ガラスは、したがって各ひしゃくごとに廃棄せざるをえず、これは単にガラスの損失を意味するだけでなく、その不良片と良品とを分別する手間も必要とする。

圧延(ローリング)の一般的な工程自体は、ここで詳細に述べる必要はほとんどない。原理的には二つのまったく異なる方法が用いられる。ひとつは、ガラスを平板の上に流し出し、その上を可動ローラーが移動して転がし延ばす方法であり、もうひとつは、ガラスを二本の回転ローラーの間を通し、その後にシート状になったガラスを可動テーブルまたはスラブの上で受け取る方法である。前者は、通常の圧延プレートガラスの製造に用いられる。テーブルおよびローラー双方の表面が滑らかであれば、ガラスも比較的滑らかな表面をもつが、それでも表面は決して平坦ではなく、不規則性からもほど遠い。実際、ローラーやテーブルと接触するガラスが、鉄の面に押しつけられた際に「座屈(buckling)」を起こすことから、こうした不規則性は完全には防ぎ得ないことが分かっている。圧延の温度では、ガラスは表面張力の作用によって自ら完全に滑らかな表面を回復できるほど柔らかくはないため、ローラーおよびテーブルの痕跡をそのまま保持してしまうのである。しかも、ローラーを完全に滑らかに仕上げることもできない。というのも、そのようなローラーはガラス表面の上を滑ってしまい、ガラスをきちんと延ばすことができないからである。したがって、今日一般に用いられているような材料でテーブルやローラーを作るかぎり、直接圧延によって真に平滑な表面をもつガラスを得ようとするあらゆる試みは、ことごとく失敗してきており、今後も失敗に終わるものと思われる。もっとも、固定テーブル上での圧延工程自体は、プレートガラスの製造に用いられている。しかしこの場合も、圧延された直後の板は、通常の「圧延プレート(rolled plate)」と同様に粗い不整な表面をもっており、この表面は、後の機械的な研磨および光沢出し工程によって削り取られ、真に平滑な研磨面に置き換えられる。第二の圧延法、すなわち「静止」した二本以上のローラーと可動テーブルを用いる方法は、特殊な表面模様やパターンをもつ圧延プレートガラスの製造に用いられる。「フィギュアード・ロールド・プレート(figured rolled plate)」として知られる、深いレリーフ模様をもつ圧延ガラスは、この方法によって作られる。この方式には、はるかに複雑な機構が必要であり、その一部は現在も特許権で保護されている。

このように、ひしゃく取りは本質的に比較的粗悪なガラスの製造に限られるため、より良質なガラスの製造には、巻き取り(gathering)または注ぎ出しのいずれかに頼らなければならない。巻き取り法は、一度に扱えるガラス量という点で制約があるものの、一本のパイプで驚くほど大量のガラスを巻き取ることができる。それでも現代の研磨プレートガラス製造に必要とされるような巨大なガラス塊は、この方法ではとても扱えない。そのため、この場合には注ぎ出し法が採用される。注ぎ出しでは、溶融が行われたポットそのもの、またはそのために特別に設計され、溶融ガラスがそこへ移し替えられた別のポットを、強力な機械装置によって炉から丸ごと引き出す。こうして吊り出されたポットは、オーバーヘッドクレーンによって圧延台のある場所まで運ばれ、そこでポットを傾けて溶融ガラスを流し出し、圧延テーブル上に溜まったガラス溜りを形成させる。最後に巨大なローラーを通過させることで、ちょうどめん棒で生地をのばすように、この溜りを板状に圧延する。この方法は、当然ながらポットやるつぼの大きさに適切な範囲があるうえ、温度変化が非常に激しいためポットにとって非常に過酷な方法でもある。タンク炉の場合には、適切な大きさの堰(sill あるいは weir)の上からガラスを流れ出させ、そこから直接圧延や引き上げを行って板を形成するための、多くの装置が特許化されてきたが、著者の知るかぎり、これらの装置のいずれも実用化には至っていない。その理由として、おそらく、流れ出すガラスに対して滑らかな面を提供できる材料を見つけるのが難しいことが挙げられる。たとえば耐火粘土を用いれば、はく離した微片によってガラスが汚染されやすくなり、一方、金属を冷やして用いると、ガラスが局所的に冷やされてしまうのである。したがって、炉から直接シート状ガラスを引き出す各種プロセスに、今後きわめて大幅な改良が加えられないかぎり、窓ガラス板のような大型製品の製造においてさえ、手作業による巻き取りが重要な位置を占め続けるだろう。

本質的には、巻き取り工程とは、加熱した鉄の棒または管をガラス中に差し入れ、その先端に少量のガラスを付着させる操作である。棒とガラスは一緒に炉から引き出され、先端に付着した小さなガラスの球は、自重を支えられる程度に十分硬くなるまで冷やされる。その後、棒と付着ガラスを再び炉に差し入れると、棒にすでにあるガラス球の表面に新たなガラス層が付着する。再び引き上げて冷まし、また炉に戻す――こうして必要量のガラスが棒または管に付着するまで、この一連の操作を繰り返す。とくに 30~40 ポンドものガラスを巻き取らなければならないような場合、これらの操作には高度な技能と注意が求められる。というのも、巻き取りをガラス中に差し入れるたびに気泡が入り込み、ひとたび気泡が混入すると、その塊全体が台無しになるだけでなく、るつぼ内のガラスまでも汚染するおそれがあるからである。また、その後の工程では、棒またはパイプに付着した高温ガラス塊が自重で流れ落ちたり、適切な回転操作を怠ると、完全に脱落してしまう危険もある。さらに、作業者が負担する体力的労働と熱への曝露は、この作業のコストを押し上げる要因となる。そこで、各種の機械的補助装置が考案され、実際に一部では使用されているが、それらは主として、巻き取りの後期段階におけるガラス塊の重量を作業者から軽減するためのものである。

このように、ひしゃく取りがほとんど常に圧延の前工程であるのと同様に、巻き取りは通常なんらかの吹き作業の前工程であり、またしばしば、あるいは場合によっては吹き作業を機械的なプレス加工が完全に置き換えることもある。吹き作業を行う場合には、巻き取りは必ずガラス職人用の吹き竿(ブロウパイプ)上で行われる。このパイプは 4~6 フィートの鉄製の中空管で、一端には木製の柄(ハンドル)が付き、他端には吹き込み用の口金が設けられている。パイプの下端(“butt”)の形状は、吹き上げる製品の種類や大きさによって異なる。小物を作る場合には、パイプは細く軽い必要があるが、大型のシートガラスを作る場合には、パイプの「尻(butt)」は直径 2~3 インチの円錐形突起に延長される。また、パイプの内径も、用途によって両端で異なる。すべての吹き作業の最初の段階は、パイプに息を吹き込み、圧力で付着ガラス塊を膨らませて中空球を形成することである。通常は、人の息の圧力だけで、このホットなガラス塊が徐々に膨張する。こうして得られた原初的な中空球から、さまざまな形状の吹き製品が、一連の操作によって作り出される。この一連の操作は、製造部門ごとに大きく異なるが、一般的には、ガラス塊を、手道具または特別な型やブロックで押し当てたり転がしたりすることで、段階的に形を変えていく――このとき、パイプ内部から息を吹き込む場合もあれば、吹き込まずに行う場合もある――というやり方がとられる。こうした木型や金型・ブロック類への依存度は、高級な手吹き花瓶や飲みグラスの製作から型吹きボトルの製造まで、ほとんど連続的なグラデーションをなしている。前者では、仕上がり製品の形と直接的な類似をもたない手道具だけがほぼ専用されるのに対し、後者では、細長く中空になったガラス塊を型の内部へ入れ、内圧――空気圧や蒸気圧――を利用してガラスを型内面に押しつけ、その形状をそのまま最終製品の外形とする。

吹き職人の技術はさらに、高温で粘性の高いガラス特有の物理的性質を最大限に利用している。すなわち、ガラスは重力や遠心力の作用の下で流動し、人の息の圧力と相まって、頭上に掲げられたり、回転させられたり、振り回されたりすることで、さまざまな形状に成形される。こうした多くの用途では、作業者の巧みな手さばきだけで十分であるが、より重労働となる工程を助けるため、各種の機械的補助装置が用いられ、さらに、ボトルのように単純な形の製品が大量に必要とされる分野では、全工程が自動機械によって行われるようになっている。吹き職人が利用できる機械的補助のうち、もっとも一般的なものとしては、先に述べた手道具、ブロック、および各種型(モールド)がある。これらに次いで重要なのは、大型あるいは重量物の吹き製品に用いられる圧縮空気である。人の息で得られる圧力には限界があり、供給できる空気量もさほど多くないうえ、胸郭と肺を酷使するため、作業者にとって大きな負担となる。こうした理由から、多くの工場では吹き作業台に圧縮空気が供給されており、必要に応じて吹き竿をフレキシブルな接続具を介して空気供給源に接続できるようになっている。主な困難は、用途ごとに最適な空気圧をどのように正確に制御するか、という点にあるが、この問題は、各作業者の手元に設けられた精巧なバルブ機構によって解決されている。吹き職人は、このバルブを用いて、自分の作業に最適な圧力に微調整することができる。この種の設備を使いこなすには、作業者側にも多少の慣れが必要だが、一度操作に習熟してしまえば、その結果は口吹きによって得られるものよりも、はるかに良好で、かつ安定したものとなる。上述のような圧縮空気の供給方法以外にも、吹き職人が中空製品の内部圧力を生じさせるのを助けるさまざまな工夫が行われている。そのうちもっとも単純なものは、加熱によって中空体内部に閉じ込められた空気の膨張力を利用する方法である。たとえばシートガラス用シリンダーを吹上げる場合、吹き竿の口元を親指でふさぎ、シリンダーの閉じた端を「吹き穴」と呼ばれる加熱口に近づけると、その部分のガラスを軟化させる熱は内部の空気にも作用し、急速な膨張によって軟化したシリンダー端を破って開口させる。この方法は、実際にシリンダーの両端を開く手段としてよく使われている。もちろん、この目的には空気以外の膨張性流体を用いることも可能であり、実際いくつかの吹き作業では古くから、中空体内部に少量の水またはアルコールを注入し、それが熱ガラスによって急速に蒸発する際の蒸気の膨張力を利用して、内部圧力を生じさせている。この、熱ガラス自身の熱によって生じる蒸気膨張力の利用という考え方は、ドレスデンの P. Sievert によって大きく発展させられており、その方法については第 VII 章で述べる。

いかなる機械的補助を用いるにせよ、ガラス吹きはいずれも、かなり高度な技能を要する一連の操作で構成されており、また、狭い口をもつ瓶やフラスコの製造の場合をのぞけば、材料利用の面では本質的にかなり「ぜいたく」な加工法でもある。このように言う理由は、吹き作業では、完全に閉じた、またはほぼ閉じた中空体しか直接的には作り出せない、という事実にある。たとえば、吹き製ワイングラスやタンブラーは、そのままでは、飲み口を覆う「フード(hood)」またはドームで閉じられた形で成形され、このフードやドームは、その後、強い局所加熱や研削などの補助工程によって切り落とされ、切断面はさらに滑らかに仕上げられる。小物のグラス程度であれば、こうした余分部分に起因する材料損失もそれほど大きくはないが、浅く広いボウルや皿のような大型器物を吹き上げて製造しようとすると、その上部を覆うドーム部分の損失はきわめて大きなものとなる。このような無駄は、プレス加工によってほぼ完全に避けることができる。すでに瓶の製造に際して型を用いる方法について述べたが、こうした場合に最終製品が中空容器であるのは、ガラスを型に密着させる際、内部の空気や蒸気圧を利用することができるからである。これに対してここで取り上げているプレス法では、熱ガラスを内側から押す「プランジャー」を用い、高い力でそれを押し下ろして型に押し付ける。この方法を用いれば、完全に閉じた器をまず作ることなく、平板や浅い器物を直接成形できるうえ、適切な形状の型を用いれば、非常に複雑で精巧な形状も容易に作り出せることは明らかである。もちろん、プレス製品には、吹き製品に特有の、火炎によって自然に形成される滑らかな光沢面(いわゆる「火炎研磨面」)が見られないという事実はあるし、この方法で容易に適用できる華美な表面装飾の存在は、意匠上の洗練をむしろ損なう方向に働いてきたかもしれない。それでも、多数の安価で実用的な家庭用ガラス製品を、一般大衆の手に届くものとしてきたのは、このプレス工業の発展によるところが大きい。

通常のプレスガラスは、溶融状態から直接成形される。溶融ガラスは、巻き取りによって、あるいはひしゃくを用いてプレス機に供給される。ただし、特殊な用途では、一度いったん固化させたガラスを再加熱し、機械的圧力を加えて、プレスまたは型押しによって最終形状に仕上げる場合もある。これは主として最高級の光学ガラスに対して行われる。こうした場合、ガラスはまず、溶融したままるつぼの中で冷却され、その後、適当な大きさの塊に砕かれる。その際、品質の劣る部分は選別によって取り除かれ、品質の良い部分だけを特別な焼成炉で再加熱し、手道具または強力なプレス機を用いて所定形状の型に押し込むことで、目的の形状を得る。小型レンズについては、求められる品質がそれほど厳しくない場合もあり、そのようなレンズは、るつぼ内の溶融ガラスから小さな巻き取りをとり、直接プレス成形されることもある。

第 VII 章

ビン用ガラス(ボトルガラス)

ビンは、ある意味ではガラス製品の中でもっとも安価で粗野な部類に属するが、その用途は数え切れないほど多く、生産量も膨大であるため、その製造はガラス産業におけるきわめて重要な一部門を成している。

通常のビンを製造する際には、原料の選択にあたって、必然的に第一に考慮されるのは「安さ」である。天然鉱物や他産業からの副産物、そしてもっとも粗悪な薬品類が、適切な割合に配合することで、ビン用途に求められる、やや粗い要求水準を満たすガラスが得られるかぎり、広く利用される。これらの要求のうち、もっとも重要なものは、ビンが、発酵液や炭酸飲料の保存に伴って内部から受ける圧力、ならびに日常使用で生じる衝撃に十分耐えられる強さをもつこと、そしてガラスそのものが、内部に収められる、ある程度の「腐食性」をもつ液体の作用に耐えうる化学的耐久性をもつことである。また、ビン製造者の立場からすると、ガラスが低温でよく溶け、加工しやすく、かつ徐冷(アニーリング)しやすいことも望ましい。ガラスの他の部門では、ガラスの融点を下げるためにアルカリ含有量を増やすことがしばしば行われるが、ビン作りではこれは認められない。というのも、高価なアルカリを多量に使うことはコスト面で不利であり、またアルカリ含有量が増加すると、ガラスは化学的攻撃を受けやすくなってしまうからである。一方、多くの種類のビンにおいては、ガラスの「色」はほとんど、あるいはまったく問題にならない。このため、酸化鉄を比較的多量に含ませることが許容される。酸化鉄は融剤として働き、アルカリ含有量の少ないガラスでも、十分に溶けやすく加工しやすい組成にする助けとなる。ボトルガラスに含まれる少量のアルカリは、多くの場合、長石質鉱物に由来するが、これらの鉱物には通常、かなりの量の鉄も含まれている。また、これらを用いることで、アルミナも相当量ガラスに導入される。特定の種類のビン、なかでも高級ワイン用のビンでは、特定の色調が求められることもある――よく知られた「ホックボトル(Hock bottle)」の色がその一例である。ガラス中の鉄は、緑または緑がかった黄色を呈し、その量が非常に多くなると黒色不透明にまで至る。こうした緑色の比較的淡い色調は、ガラスにマンガンを加えることで「中和」でき、その結果、淡いアンバー色から紫まで、さまざまな色合いが得られる。また、ニッケル酸化物が着色剤として用いられることもある。

通常ビンの製造には、現在では、連続式タンク炉が完全に旧来のポット炉に取って代わっている。この種の製品の性格は、とりわけタンク炉による連続的な生産方式に適している。近代的なビンガラス用タンクは、一般に片端が半円形の長方形の槽である。炎はしばしば「ホースシュー(馬蹄形)」型をなし、タンクの平らな側(装入側)からガスが入り、同じ側から燃焼生成物が出ていく。原料はタンクの四角い端から投入され、ガラスは連続的に炉内を流れて、より低温の半円形端へと向かう。そこには作業孔(ワーキングホール)が設けられている。この位置には耐火粘土製のリングがガラス面に浮かべられており、ギャザー(巻き取り)作業者は、このリング内からガラスを巻き取る。リングは、溶融ガラスとともに流れてきた比較的粗大な不純物を、この部分にとどめる役割を果たす。こうした炉の生産能力は、ビンが手吹きで作られる場合ですら、かなり大きい。たとえば、作業孔が 10 個あり、通常約 85 トンの溶融ガラスを含む炉では、年間約 400 万本のビンを生産することができる。さらに大容量の炉も実際に稼働している。

ビン製造の方法は、現在まさに転換期にあるといってよいだろう。19 世紀半ばまで、実用されていた工程は中世の技法とたいして変わらなかった。その後の近代的発展の第一歩は、古来の手作業工程そのものは温存しつつ、それを補助する道具や器具の改良という形で始まった。さらに最近では、ビンをまったく別の、純機械的な工程で製造し、熟練作業という不確定要素そのものを排除しようとする、多くの発明が行われている。こうした発明の初期のいくつかは、非常に巧妙ではあるものの、華々しい失敗に終わったことを認めなければならないが、他の多くの製造工程におけると同様、ここでも最終的には機械製品が手作業製品に取って代わることは、ほぼ間違いないと思われる。実際すでにアメリカやヨーロッパでは、機械による製造工程が多数の工場で実用化されており、近年のいくつかの博覧会では、品質のあらゆる点で、最良の手作り品よりも優れているとも言える機械製ビンが展示されている。

手作業によるビン製造および多くの機械製造法に共通する第一段階は、必要量のガラスを巻き取ることである。ビン吹き職人の吹き竿は 5~6 フィートの長さをもち、先端には「ノーズ」と呼ばれるわずかに膨らんだ部分が備えられており、ここにガラスが巻き取られる。通常のビンの製造には 3 回の巻き取りで十分であるが、特別に大きなビン、とくにカービョイ(大型薬品壜)の場合には、より重い巻き取りが必要であり、その際にはギャザー(巻き取り)担当者は 4 回、5 回、さらには 6 回も炉へ足を運ばなければならない。吹き竿に必要量のガラスが集まったら、その塊をいわゆる「マーヴァー(marver)」と呼ばれる平らな金属板、あるいは木製(まれに金属製)の半球状ブロック上で転がし、整形する。こうして、ガラス塊はよく丸い、対称な洋梨形の塊に成形される。次に吹き手(ブロワー)は息を吹き込みながら竿を振り、ガラス塊を徐々に膨らませていく。このときの動作によって、ガラスの大部分が下方へ引き伸ばされ、パイプに近い部分には、ビンの首部の原型となる、より薄く冷えた部分が残る。最も古い形の工程では、次の段階として、出来上がりのビンの外径に相当する直径をもつ円筒形の耐火粘土製型を用いる。洋梨形のガラス塊は、この工程のために再び溶融炉へ入れて加熱され、その後、耐火粘土製型の中に差し込まれる。力強い吹き込みと素早い竿の回転によって、ガラス塊は型の円筒形状へと押し広げられる。この段階では、ビンの首部を形成するガラスはすでに十分冷え硬くなっており、これ以上変形しない。続いて行われるのが、ワインやビールのビン底部に見られる「凹み(キックアップ)」の成形である。これは、型から出したばかりの、まだ軟らかいビン底のガラスを、別の作業者が「ポンティル(pontil)」と呼ばれる鉄棒を用いて押し上げることで作られる。ポンティルには、あらかじめ小さなガラス塊が巻き取られており、このガラスはビン底に付着するため、ビンは一時的にポンティルおよび吹き竿の双方に支えられた状態になる。続いて吹き手は、「ウェッティング・オフ(wetting off)」と呼ばれる局所的な冷却操作を行い、ビンを吹き竿から切り離す。これは、ビンの首部が終わる位置を狙って行われる。こうして未完成のビンはポンティルにのみ支えられた状態となる。首部を再び炉上で加熱して軟らかくし、特別な形のトングを用いて、所望の形状に整える。最後に、「リム」と呼ばれる首の厚みを作るため、首の先端にガラスの糸を一巻き巻き付ける。こうして完成したビンは、まだポンティルに付着した状態で徐冷窯へ運ばれ、所定位置に置かれた後、ポンティルの根元を鋭く一撃することで、ポンティルに付いていたガラス塊をビン底から切り離し、完全に分離する。

上記の形で説明したこの工程は、すでに何十年も前から実用的には廃れており、その後、工程の各段階を容易にする改良器具が徐々に導入されてきた。もっとも重要な改良点は、古い時代に用いられていた耐火粘土製の型を金属製型に置き換えたことである。これら金属型は、ペダル操作によって自在に開閉できるようになっており、底の凹みが別工程で付けられる場合を除き、ビン全体を最終形状まで成形できるよう設計されている(底の凹みも、場合によっては型底部に設けられた凸状部によって同時に成形される)。首部のリムを成形する工程でも、重要な機械的補助がほぼ普遍的に用いられている。これらは、ローラーを備えたトングであり、全体が軸回りに回転できる構造となっていて、その軸端にはビンの首の内部に差し込む円錐形のスパイクが付いている。トングを握ってローラーを首の外側に押し当てた状態で全体を回転させると、ローラーが首部をなぞりつつ回転するため、首部のリムが短時間で正確に形成される。

以上のような改良によって、古来のビン吹き工程は大きく改善されたが、それでも依然として、この方法には大きな欠点が残されている。それらは工程の経済性および作業者の健康に直接かかわる問題であり、したがって、多くの発明家が「純機械的」なビン製造を追求してきたのも不思議ではない。ビン製造機械に関しては、じつに多数の特許が出願されている。その中で最初に一定の成功を収めたのはアシュレー(Ashley)の考案によるものであったが、当時は大きな期待が寄せられたにもかかわらず、その方式は広く普及するには至らなかった。今日では、実際に機械によるビン製造を行っている工場が相当数存在し、その中でもっとも成功しているものの一つが、コニャックのブーシェ(Boucher)による機械である。1900 年のパリ博覧会に出品されたこの機械の製品は、最良の手作業製ビンと比べても遜色がないどころか、むしろ優れているとさえ言えるものであった。ブーシェの機械は、完全自動機械というわけではないものの、各種レバーを適切な順序・タイミングで操作する作業者一名を除いて、高度な技能をもつ労働者を必要としないという特徴をもつ。

特許明細書その他の公表資料に示されたこの機械の構造はやや複雑であり、機種によって細部は異なるが、基本原理および作動方式はすべての型式に共通しているので、ここではその概略を簡単に述べるにとどめる。

ブーシェの方法では、最初に炉からガラスを巻き取る点は手作業と同じだが、吹き竿を用いないため、巻き取りは軽い鉄棒の先端で行う。これにより、重い吹き竿を運ぶ手間が省け、ギャザー担当者の労力が大幅に軽減される。こうして得られた所要量のガラスは、まず機械の最初の型、すなわち「計量(measuring)」モールドに落とし込まれ、作業者が手で「糸(thread)」を切り取ることで、適切な量だけが型に残る。つづいて、この計量型からガラスは「首」モールドへと送られる。ガラスは自重でこのモールドに流れ込み、さらに上方から圧縮空気を作用させることで、モールドの形に押し込まれる。この段階で、まだ内部は充実した「固まり」であるが、外形はすでにビンの首部の形をしている。次に、首内部の空洞を形成する工程へ移る。これは、首モールド内を満たしている「固体状」のガラス塊の中に、プランジャーを押し込むことで行われる。プランジャーは首の中心部分を「打ち抜き」、首内部の通り道を形成する。プランジャーが引き抜かれるとすぐに、形成された空洞内に圧縮空気が送り込まれ、同時にガラス塊全体が反転されて、ボトルの「肩」に相当する部分が下方へ垂れ下がるようにしながら、内部からの圧力で膨らませていく。この膨張はある程度のところで制限され、ついで第三のモールドが近づいてきて、これに接触することでガラス塊に目的の輪郭を与える。この際、ボトル肩部の外側には、一列に並んだ圧縮空気ノズルからの噴流が当てられ、所定の延伸に達したガラスが、すみやかに十分な硬さに冷やされるようになっている。この段階で、ガラス塊は手吹き瓶製造でいうところの「パリソン(parison)」に非常によく似た形状となり、かなり硬さも増している。最後に、このパリソンを仕上げモールドに挿入し、強い空気圧で吹き広げてモールド内面に完全に密着させることで、胴部および底部の最終形状を得る。なお、底の凹み(キックアップ)は、別個の機械またはプレスで成形される場合もある。これらの操作の間、首部は一貫して首モールドにしっかり固定されており、前述した各種の動作はすべて、首モールド全体を動かすためのレバー機構を介して行われる。当然ながら、モールドの動きに合わせて、首に固定されたガラス塊もともに移動する。仕上げモールドからビンを解放する最後のレバー操作では、首モールドも同時に開き、こうしてビンは完全に完成した状態で解き放たれる。

この機械では、各工程が手作業のビン吹き工程をできるだけ忠実になぞるように構成されていることが分かるだろう。ただし、実際の手作業工程の中核をなす、熟練吹き職人による重労働かつ難易度の高い操作は、すべて機械による規則的な動作に置き換えられている。一台の機械は、1 本 1¾ ポンドのビンを 1 時間に 120 本生産できる能力をもつが、これは、一部のモールドを二重構造にし、それらを交互に使用するような配置を採用してはじめて達成される。機械には、操作レバーを扱う「モルダー」一名と、完成したビンを徐冷窯へ運ぶ少年一名が付くほか、もちろんギャザー担当の作業者も必要である。この種の機械を備えたビン工場の光景は、手吹き工場のそれと著しく対照的である。手吹き工場では、各作業孔の周りに多くの男たちがひしめき、過酷な温度と悪い空気環境のもとで重労働に従事している。一方、ブーシェ機械による工場は、はるかに整然とした環境となる。最後に強調しておくべき点として、ブーシェ機械の用途は、もっとも粗末な安価ビンの大量製造に限られているわけではなく、むしろ高い内圧に耐えなければならないシャンパンボトルその他のビンの製造に、特に適しているという事実がある。この機械製ボトルは、圧力試験の結果が非常に良好であることが示されている。また、この機械は白色ガラス製のモールド・ガラス器物の製造にも使用されており、実際には、型吹きによって作りうるあらゆる種類のガラス容器の製造に応用することができる。

ビンの徐冷(アニーリング)は、かつてはきわめて単純な構造の大きな窯または炉室で行われていた。そこでは、あらかじめ所定温度まで暖めておいた窯の内部に、ビンを製造順に積み上げていき、窯が一杯になったところで、簡易な方法で入り口をふさぎ、そのまま自然に冷却させることで、窯内に積まれたビンを徐冷していた。しかし、この分野でも連続式徐冷炉が旧来の方式に取って代わっており、現在ではビン製造にはほぼ例外なく連続式徐冷炉が用いられている。これらの炉は長いトンネル状構造をしており、一端は高温、他端に向かうにつれて徐々に温度が下がるようになっている。ビンは、台車(トラック)の上に積み上げられ、このトンネルを高温側から低温側へとゆっくり通過する。低温端に到達したところで台車は荷降ろしされ、その後、炉外の経路を通って再び高温端へ戻される。ただし、ビンを積み上げるのは、台車がトンネルの高温端へ入り、その地点の温度に十分暖まってからでなければならない。やや異なる形式の炉では、ビンは鉄板で作られたコンベヤーベルトに載せられ、トンネルを通過するが、その原理は他の種類のガラスに用いられる場合も含め、いずれも似通っている。

以上に述べたビン製造の説明では、主としてワイン、ビール、蒸留酒などの貯蔵に用いられるごく一般的なビンの製造方法に焦点を当ててきた。つぎに、これと密接に関連した他の部門についても少し触れることにしよう。

ガラス工業の重要な一部門として、大型容器の製造がある。一般ビンともっとも関係が深いのは「カービョイ(carboy)」と呼ばれる容器で、これは化学薬品、特に酸類のバルク貯蔵および輸送に用いられる。かつては、これらも普通のビンとほぼ同様の方法で手吹きで作られていたが、ギャザーおよび吹き手が扱うガラス塊の重量はきわめて大きく、また吹き手の肺活量だけでは必要な膨張量を得ることができない。以前、吹き手が利用できた唯一の補助手段は、工程の早い段階で、中空ガラス体の内部に少量の水またはアルコールを注入することであった。この液体はガラスの熱で瞬時に蒸発し、吹き手が吹き竿の口元を親指でふさいでおけば、生じた蒸気の膨張力が、ガラスを所望の大きさまで吹き広げるのに役立つ。より近年になってからは、大型容器の製造に対し、まずガラス塊と吹き竿の重量負担を軽減するための機械的装置――吹き竿とガラス塊全体を支持しつつ、吹き手の操作自由度を損なわないような支持腕など――が導入され、さらに必要に応じて吹き竿に接続できる圧縮空気供給が用意されるなど、いくつかの機械的補助手段が利用できるようになっている。

しかし近年、ドレスデンの P. Sievert によって、純粋に機械的手段だけで非常に大きな中空ガラス器を製造する方法が開発された。この発明により、成人男子が余裕をもって入浴できるほどの大きさのガラス浴槽など、従来は考えられなかったような巨大容器の製造が可能になっている。この方法では、まず大きな鋳鉄板の表面にガラスを広げる。鋳鉄板には多数の小さな孔が設けられており、必要に応じてそこから蒸気または圧縮空気を吹き出すことができる。粘性の高いガラス板がこの鋳鉄板上に適切な厚さに広がった時点で、その外周部のガラスは、適当な形状の鉄製カラーで鋳鉄板に押し付けられ、気密に密着した状態に固定される。こうしてガラスを気密に固定した鋳鉄板全体を、今度は裏返しに反転し、ガラスが鋳鉄板の下面から垂れ下がるような姿勢にする。ガラスはただちに自重で垂れ下がり始め、その変形を助けるために、鋳鉄板とガラスの間隙へ蒸気または空気を吹き込む。浴槽をこの方法で成形する場合には、ガラスが所望の深さまで下方に膨らむのを待ち、所定の深さに達したところで、ガラスの下側へ平らな支持板を押し付ける。このとき、ガラスは内部からの空気圧によって支持板に押しつけられるため、浴槽の平底部が形成される。この工程では、容器の外形は、鋳鉄板上でガラスを押さえつける際に用いるクランプバーまたは固定枠の形によって決まり、この枠の形を工夫することで、比較的単純な形状の容器であれば、ほぼ任意の平面形状を与えることができる。

この方法はまた、中空体の外側に任意形状のモールドを配置し、そのモールドにガラスを押しつけて正確な外形を与えるためにも用いることができる。ただし、小さな容器の場合には、外部から別途生じさせた蒸気を吹き込む必要はなく、ガラス自体の熱によって生成される蒸気を利用することができる。そのためには、まず適量のガラスを濡れたアスベスト板上に落とす。ガラスは、このアスベスト中の水分が熱によって連続的に蒸発することで生じる蒸気層の上に、文字どおり「浮いた」状態で存在する。この方法に用いるモールドの縁には鋭い刃またはリップが設けられており、ガラスが十分な大きさの板に広がったところで、モールドをひっくり返してその縁をガラスに押し付ける。モールドの鋭い縁は、その部分のガラスをアスベスト面にしっかり押しつけ、モールドの輪郭どおりにガラスとアスベストが密着する。こうして、モールド縁で囲まれた領域内では、ガラスと濡れたアスベストとの間に閉じ込められた空間が生じる。ガラスの熱は、その後もアスベスト中の水分に作用し続けるため、その空間内では蒸気が急速に発生するが、いまや蒸気はガラスとアスベストの境目から外へ逃げることができない。したがって、蒸気はガラスをモールド内部へと吹き上げ、最終的にはガラスはモールドの内面に密着するまで膨らむ。ここまで達すると蒸気圧はさらに急激に高まり、ついにはモールドとガラス全体をわずかに持ち上げるようになる。この瞬間、余分な蒸気がモールド縁から外へ逸散し始め、それが「吹き上がり」が完了したしるしとなる。工程全体に要する時間は、ほんの数秒にすぎない。この方法は、適切な組成のガラスと適切な形状のモールドを用いるかぎり、非常に良好な結果をもたらすことが示されている。もちろん、この方法で一般的な狭口ビンを製造することは不可能であるが、広口ビンや壺などはこの方法で作ることができる。そして、このプロセスの主な有用性は、むしろプレス加工には適さないような、比較的浅い形の器物の製造にあると言えよう。

第八章
吹きガラスおよびプレスガラス

瓶の製造に用いられる工程は、型の有無にかかわらず吹きガラスによって作られるあらゆる中空ガラス器の製造に用いられる工程と、多くの点で非常によく似ている。
しかし製品そのものの形状は別として、瓶と、より上等な種類の中空ガラス器との主な相違は、ガラスそのものの組成と品質にある。この点で、医薬瓶に用いられる淡い緑色ないし青色のガラスから、最も完全に無色で輝きの高い「クリスタル」またはフリントガラスに至るまで、あらゆる製造等級が存在する。このガラスの完全さの段階差は、そのまま、原料の選択やガラスの溶融における諸操作に注がれる注意の度合いの段階差を表している。

すでに見たように、色や品質が問題にならないごく一般的な瓶の場合には、あらゆる種類の融けやすい材料が利用され、シルト分や鉄分を含んだ砂や、あらゆる種類の屑ガラスが用いられる。やや高い要求を満たさなければならない場合には、シリカ源としてより純粋な砂を用いなければならず、石灰とアルカリもより純度の高い形で導入されねばならない。アルカリは最も安価な品質のソルトケーキの形で、石灰は鉄とマグネシアをあまり含まない石灰石の形で導入される。最後に、ガラスの最高級品には、入手しうる最も純粋な砂が用いられ、しばしばシルト分を完全に除去するために特別に洗浄される。一方アルカリは、その良質品では有害な不純物を実質的に含まない化学製品である炭酸塩の形で導入される。

これら高級品においては、性質のまったく異なる二種類のガラスが見られる。一方のクラスは、ボヘミアン・クリスタルがその最高の例であり、化学的にはアルカリ・石灰シリケートに属し、ボヘミアガラスの場合、アルカリとしてカリ(ポタッシュ)が用いられる。他方の種類のガラスには石灰が含まれておらず、その代わりに鉛が用いられ、その代表的な例が英国のフリントガラスである。ガラスの一部の種類では、鉛がバリウムによって部分的または全体的に置き換えられるが、この材料は主としてプレスガラスの製造に用いられる。

原料により高い精製度を要求するこのような高品位ガラスは、その溶融に用いられる炉や設備についても、より高い精製度を要求する。瓶の製造において主流であるタンク炉は、より上質な中空ガラス器の製造にはほとんど用いられない。医薬瓶やその他中程度の品質の品物であればタンクで生産することも可能であるが、そのような用途に必要なガラスの量は、そのための大規模な設備投資を正当化するほど大きくないことが多い。最高級の無色ガラス器に関しては、タンク炉は、色調および欠陥のなさという点の両方で、その製品がポット炉の最良品には決して及ばないため、使用することができない。とりわけフリントガラスに対しては、炉内のガスの還元作用や塵埃による汚染から溶融ガラスを十分に保護するため、ふた付きのポットまたはるつぼを用いなければならない。ポットの材料も、そこから着色性またはその他有害な不純物が持ち込まれる危険を避けるという観点から選ばれる。

すべての中空ガラス器製造工程では、前に述べた「ギャザリング」の操作によって、ポットからガラス(「メタル」)が取り出される。プレス製品とは異なり吹き製品を作る場合には、初期段階として、必ずガラス吹き工のパイプの先端に小さな中空球またはバルブを形成することから始まる。その後の操作は、製造すべき品物の性質に依存する。品物は、全面的に手作業、より正確には、通常「チェア・ワーク」と呼ばれる椅子仕事によって作られるか、あるいは型を利用して作業を容易にし、製品を安価に――もちろん、その性格も変えて――することもできる。型は、製品を所定の形に成形し、さらに一定の装飾的なモールディングや模様を押し付けるために用いられる。すでに見たように、普通の瓶は現在ではすべて型を用いて吹かれており、同じことが医薬瓶、ランプ・チムニー、電灯用バルブについても当てはまる。ランプ・チムニーについては、平底とドーム形の頂部をもった円筒形瓶として型吹きされ、端部は後で切断されることを付け加えておかねばならない。

安価な種類のタンブラーやグラスの多くも型を用いて吹かれるが、手作業で作ることも可能であり、実際にそうされることもある。そしてその製造法は、あらゆる手吹き中空器物の製造法の代表例であるから、この種の仕事の一例として、ここでやや詳しく説明することにする。

この仕事にガラス吹き工とその助手が用いる道具は、数も少なく単純である。最大の道具は、ガラス吹き工の作業台または「チェア」であり、これは、二本の突出した側桟(アーム)を備えた、粗末な木製のベンチにすぎない。仕事の仕上げの際、吹き工はこのベンチに腰掛け、パイプはその前方にある二本の桟の上に渡される。こうして、パイプを桟の上で前後に転がすことで、パイプに緩やかな回転を与え続けることができる。通常の吹き竿(ブローパイプ)と、作業中の品物を保持するために少量のガラスを付着させる「ポンティル」または棒のほか、吹き工の使う道具は、種々の形状の鋏やピンセット数本のみであり、これらは、必要に応じてガラスを切断し、押し込んだり、広げたりするために用いられる。さらに、ガラスの成形には平らな木板と、石または金属の板、すなわち「マーヴァー」も用いられる。

すでに述べたように、タンブラーのような物体を製造する最初の段階は、パイプに適量のガラスを巻き取って小さなバルブに吹き広げることである。このバルブを適当な大きさまで吹き広げ、次にパイプを軽く振り子のように振って細長くする。次に行うのは、バルブの下端を、「マーヴァー」と呼ばれる平板上で軽く押し当てて平らにする操作である。このようにしてグラスの平底が形成され、バルブは仕上がりのグラスと同じ形になるが、肩と首の部分でなおパイプに付いている状態である。

古い方法では、タンブラーを所定の長さになる位置でパイプから切り離し、残る操作は、いったんポンティルに付け替えてから炉に差し入れ、割れ口の縁を加熱することであった。こうすることで縁が丸くなり、グラスを回転させたり、木片を押し当てて内外に押し広げたりして、飲み口を広げたり形を整えたりすることができた。しかし現代の方法では、これは通常行われず、ガラスは肩より十分上でパイプから切り離され、その形のまま徐冷(アニール)される。その後、グラスは仕上げ室または作業場に送られ、所定の位置で切断され、吹管バーナーの炎で粗い縁を丸めて仕上げられる。切断操作には多くの方法があるが、もっとも普通なのは、局部的かつ急激な熱作用を利用する方法であり、特別な形の扁平な吹管炎や、電熱線によって行われる。こうした切断と、続く縁取りの自動仕上げを行う機械も使われているが、しばしばこの後の工程は、縁を軽く研磨して光沢を出す方法で代用される。

[図8.—コップの生成過程を示す断面図。]

いま述べた、図8に模式的に示されている普通のコップの生成過程は、中空ガラス吹き全体の典型例である。しかし、器物の形が複雑になるにつれて、工程の数も、各段階に要求される注意と技能も急速に増大することは言うまでもない。最高級の仕事では、作業者の側にもかなり高度の芸術的な感覚と判断が必要になる。というのも、物体の形や色彩および装飾の選択はデザイナーが行うものの、吹き工はデザイナーの図面をガラスに翻訳しなければならないからである。吹き工の技能はかなり忠実な再現を可能にするものの、それでも細部にはなお彼の裁量に任される点が多く残り、その適切な処理は作品全体の成功に少なからぬ役割を果たす。

この点に関連して、この種のガラスに施される色彩やその他の装飾について触れておくべきであろう。この方面で現在ガラス工が利用できる効果の範囲は非常に広い。まず第一に、対象となる品物の本体ガラスそのものを、溶融ガラスや原料に適当な着色剤を加えることで着色することができる(第十一章参照)。しかしこの方法には、きわめて明白な制約がある。たとえば、普通のワイングラスのように、ボウル・脚・台座の三部がそれぞれ別々のギャザリングで作られる場合には、これら各部分に異なる色のガラスを用いることができ、実際に、ボウルをルビー色や緑色にし、脚と台座を白にしたワイングラスは一般に作られている。

さらに色彩応用を変化させる方法として、同じパイプに二度以上ギャザリングを行い、小さな色ガラスのギャザリングの上に、より大きな白ガラスのギャザリングを重ねることがある。これは第十章で述べる「フラッシング」板ガラスの製法に類似しており、この方法を使うと、対象物上の有色層をほぼ任意の方法で分布させる種々の操作が可能になる。しかしこの方法の主な難点は、吹き工が同時に使用したいすべての色の溶融ガラスのポットを手元に用意しておかねばならない点であり、これは経済的に見てそう容易なことではない。そのため、また操作も簡単であることから、吹きガラス器に応用する有色ガラスは、あらかじめ作っておいた短い棒状で用いるのが通例である。この棒を適当に加熱して、作業中の器物の任意の場所に、必要な量だけ有色ガラスをつけることができる。このとき、互いに接触する二種のガラスが、その化学組成および物理的性質に関して適切な関係を保っていれば、両者は容易かつ完全に融け合い、その結果は、溶融状態の有色ガラスを直接用いた場合と全く遜色のないものとなる。

その他の装飾としては、完成したガラスに施される金彩や他の金属光沢、さらにはさまざまな種類の虹色光沢(イリデッセンス)がある。金属光沢は、実際の金属微粒子の層をガラス表面上に置き、軽く融着させることで得られる。場合によっては、まだ熱いガラス器を目的の金属箔の塊の中で転がし、十分な量が容易に付着するようにする。別の場合には、還元されやすい金属化合物を多量に含むフラックスまたは釉薬の形で金属を塗布し、その後、熱の作用によって、時には煙やその他の還元性ガスの助けも借りて、金属状態に還元する。酸性蒸気の腐食作用によって、特定の種類のガラス表面に虹色光沢を生じさせることもできる。実際、硫黄を含む煙で汚染された地域では、普通の窓ガラスの表面に虹色の光沢が見られることはごく普通である。

吹きガラスやその他のガラスの装飾には、このほかにもカット、エングレービング、エッチング、銀引きなど数多くの方法があるが、これらはもはやガラス製造そのものの範囲を超えるため、本書の範囲外の問題としてここでは扱わないことにする。

手作業による中空ガラス器の製造において、ガラス吹き工は、ガラスのもっとも特徴的な性質、すなわち適切に加熱するとペースト状あるいは粘稠な状態をとる性質を十分に活用する。材料の温度を上げ下げすることで、吹き工はガラスを必要に応じて固くも流動的にもすることができる。吹くことによりガラスを膨らませ、重力や遠心力の助けで引き伸ばし、さらに適当な形の棒や鋏で成形することもできる。また、ガラスを上方に保持したまま自重で垂れ下がらせ、房状に垂らすこともある。こうした操作を自在に操る熟練工は、ガラスを意のままに扱い、多種多様で美しい器物を作り上げることができる。

しかしこのような手作業で作られた器物には、その製造工程の痕跡が必然的に残る点に留意しなければならない。すなわち、それらは機械製品に見られるような寸法や形状の極端な規則性を持つことがない。曲線や房飾りの正確な形状にはある種の自然な揺らぎがあり、それは機械的工程の産物には見られないものである。ある目的にとっては、この揺らぎは欠点となることがあり、またある人々の目には欠陥と映るかもしれない。このため、ガラス吹き工の仕事を補助する目的で、型を利用して形状の厳密に揃ったガラス器を製造する方法が考案されてきた。こうした手作業補助法は、純粋に芸術的な観点から見れば製品の価値と美しさを損なう面があるのは否めない。しかし一方で、型の使用によって比較的技能の低い作業者でも外見の整ったガラス器を生産できるようになり、産業全体の大規模な拡大が可能になったのである。

前に述べた手吹きによる瓶製造の説明の中で、すでに吹き工が望みの大きさと形に品物を成形する際に型を用いる例を見てきた。しかし、型を用いることで、もっとはるかに複雑で装飾的な品物を作ることもできる。たとえば、軽くて適切な形状である限り、ガス、油、電気などのランプ用グローブやシェードのような品物は、ガラスのバルブを型に吹き込むことで作るのが普通である。型の内部で、これらは最終的な外形だけでなく、将来目にすることになる詳細な装飾模様までも獲得する。この場合も本体は閉じた中空容器のままであり、吹きや成形のすべてが終わった後、最後の段階で開口され、所定の形に縁を整えられる。

このような方法で吹かれた品物には、多くの場合「型痕」が残る。これは、熱いガラスが比較的冷たい型の表面に触れることで、ロール成形の場合とよく似たシワやざらつきがガラス表面に生じるためである。この効果は、型の内面に適当な油脂性の塗布剤を塗ることである程度軽減できる。塗布剤に求められる主な性質は、熱いガラスに付着せず、型の中で徐々に焼失する際にも残渣をほとんど残さないことである。型の適切な手入れと維持は、この工程およびプレスガラス工業全般において、成功の第一条件である。もっとも好条件の下であっても、型に吹き込まれたガラスの表面は、冷たい材料に触れることなく冷却された手吹き品の表面に比べて劣っており、したがって溶融状態から自由に固まる際に自然に生じる「火磨き」の輝きを完全には保持できない。

このような型成形品やプレス品の表面に、手吹き品と同様の輝きを与えようとする試みとして、最終形状に達した品物を炉内の熱にさらし、その表面をわずかに軟化させてから、表面張力の支配のもとで再び静かに固化させる方法がしばしば行われる。これは、最初から自由に固化させた場合とほぼ同様の効果を狙うものである。残念ながら、この方法を用いると、品物全体が多少なりとも軟化せざるを得ず、そのため、対象物の深刻な変形を防ぐには高度な熟練が必要となる。また、すべての鋭い角や稜がある程度丸くなってしまうことは避けられない。

大きく、場合によっては複雑な形のガラス片全体を型の表面にしっかり押し付けるために必要な空気圧は、時として非常に大きくなる。吹き工の肺の力だけでは往々にして不十分であるため、多くの工場ではこの目的のために圧縮空気を供給している。パイプの口元を空気主管につなぐ装置が用いられ、作業者はこれを素早く接続できるようになっている。また、適当なバルブによって圧力を精密に調節できるようにもなっている。蒸気圧を用いたジーヴェルト(Sievert)の型成形法については、すでに前に述べた。

産業の発展の歴史が必ずしもこの順路をたどったわけではないにせよ、粘稠なガラスを空気圧で型に押し当てる方法から、適切な形の固体プランジャーの圧力でガラスを押し出す方法へと発展することは、それほど大きな飛躍ではない。これこそが、広く用いられているガラス・プレス法の本質である。第一に、この製法は、球状バルブからの発展では作りにくい、固体または平坦で浅い形の品物に明らかに適している。一見したところ、プランジャーが容易に出入りできる凹部形状の品物にしか適用できないようにも思われる。しかし、閉じた、またはほとんど閉じた容器の二つの半分を隣接する二つの型の中で同時にプレス成形し、その後まだ十分に高温であるうちに二つの半分を押し合わせて一体化するという巧妙な方法によって、完成品にはプランジャーを到底挿入できないような水差しなどの器物も、プレスだけで製造することが可能になっている。

プレス工程は純然たる機械的操作であり、非常に複雑な設備も高度な技能もほとんど必要としない。このため、市場には安くて極めて実用的な品物が大量に供給されるようになり、ガラスの用途範囲を著しく広げる結果となった。他方で、この方法は、手吹きやカットガラスなど他の工程の製品を模倣する品物の製造にも、ある程度用いられてきた。その結果、美的観点から到底美しいとは言い難く、実用性も乏しいガラス製品が大量に作り出されることになった。

すでに述べたように、ガラス・プレス法の本質的特徴は、機械的に作動するプランジャーの圧力によって、ガラスの層を型の内面に押し付ける点にある。このためには、適切な型とプランジャー、そして前者を保持し後者を駆動するためのプレス機が必要である。型は通常、特別な品質の緻密な鋳鉄で作られ、吹きガラス用の型とほぼ同様の方法で修整・整備される(ただし吹きガラス用型は木製である場合もある)。完成品の取り出しを容易にするため、型は一般に複数の部品から成り、それらは互いに組み合わさり、蝶番によって分割できるようになっている。これらの型で非常に重要なのは、各部品どうしが正確に密着することである。そうでないと、わずかな隙間にもガラスの薄い「バリ」が押し出され、完成品の表面にその痕跡が残るからである。こうしたバリの発生を完全に防ぐほど完全な嵌合は、実際には、新品の型の場合を除けばほとんど達成し得ない。そのため、あらゆるプレス製品には一般にバリの痕跡が認められ、上級ガラス器を模倣しようとする製品を容易に見分ける手掛かりとなる。

プレス機は一般に手動レバー式である。動力プレスも理論上は使用可能であろうが、手動プレスには、作業者が手応えによって十分な圧力がかかったかどうかを判断できるという大きな利点があるとされる。これはきわめて重要な点である。過度の圧力をかけると、ガラスが型からはみ出してしまうか、あるいは型を破損またはひどく痛めてしまう恐れがあるからである。実際のプレス機は、プランジャーの動きを制御する垂直ガイドとレバー、型を載せるテーブルから構成され、一部の機械では型の開閉を行うクランクとレバーの機構も備えている。

プレス工程自体はきわめて単純である。まず固い鉄棒に必要量のガラスをギャザリングし、それを型の中に落とし込む。型内のガラスと棒に残ったガラスとをつなぐ「糸」の部分は、鋏で切り離す。次にプランジャーを型内に下げて所定位置まで押し込み、ガラスが形を保てる程度に固まるまでそのままにしておく。その後プランジャーを引き上げる。この過程では、ガラスは比較的冷たい型とプランジャーの表面に密着させられており、その間、ガラスは型の形状に容易に追随できる程度に十分な可塑性を保っていなければならない。そのため、プレス法が成功裡に用いられるのは、この目的に特別に適合した種類のガラスに限られることは少しも不思議ではない。特定の種類のフリントガラスや一部のバリウムガラスがこの用途に用いられるが、とりわけ大陸において生産されるプレスガラスの大部分は、ソーダとポタッシュの両方を多量に含み、石灰分が比較的少ないアルカリ石灰シリケートから作られている。このガラスは、ほとんどの用途に対して十分な耐久性を持ちつつ、粘稠状態では特に柔らかく成形しやすい。

比較的冷たい金属にガラス表面が触れると生じる有害な影響については、すでに上で述べた。これこそが、ガラス・プレス法が直面する主要な困難である。この問題は、前述の再加熱法を用いることである程度軽減されるものの、それでも完全な解決には程遠い。大多数のプレス製品では、表面全体を溝、螺旋模様、リブなどのレリーフ装飾で覆い隠すことによって、この問題を可能な限り避けようとしている。カットガラスの外観を模倣しようとする試みも時折行われるが、再加熱の際に角が丸くなってしまうため、鋭いカットの印象は失われ、模倣であることが容易に見破られてしまう。さらに、型による装飾が非常に安価で済むことから、しばしば過度の装飾が施される結果となり、そのため多くの製品が美的価値を完全に失ってしまっているのである。

第九章
ロールドガラスまたは板ガラス

本章では、第一段階としてガラスをロールによって板または板状スラブに成形する、すべての製法について扱うことにする。すでに、ロール成形工程の一般的性格について述べ、熱く粘稠なガラスはシートやスラブに容易に延ばすことができるが、その表面を平滑に、完全に平らに仕上げることはできないことを見た。実際、ロールドガラスの表面は常に、テーブルやロールの表面に存在する微細な凹凸との接触によって多少なりとも曇るし、シートのあちこちで起こる座屈によって、より大きな表面の乱れが生じる。

こうした制約は、ロールを伴う製造法で生産しうるガラスの種類を決定し、ある一見奇妙な結果をもたらした。すなわち、最も安価で粗末な種類の板ガラスと、最も高価で上質な板ガラスの双方が、ロール成形によって製造されているのである。一方の極端な例は、作業場や鉄道駅の天窓に使われる、普通の粗い「ロールド板」であり、他方の極端な例は研磨板ガラスである。この一見した矛盾は、研磨板ガラスの製造においては、ロールを通ったばかりのガラス表面の状態がきわめて重要性の低い要素であることに注目すれば理解できる。というのも、その表面は、その後の粗研磨、スムージング(細研磨)、およびポリッシングの工程によって、完全に消し去られてしまうからである。

粗い「ロールド板」と研磨板ガラスとの中間には、ロールされた表面に、ロール工程中に印された模様によって、その見た目を完全または部分的に隠した各種のガラスが存在する。たとえば、縦リブ模様や菱形模様のついたロールド板、あるいは「ムラネーズ(Muranese)」の名でも知られる、きわめて複雑で深く刻まれた模様を持ち、きわめて華麗な効果を示す「フィギュアード・ロールド」板ガラスなどがそれである。

ロールド板ガラスは、実用上ほとんどもっとも粗く安価な板ガラスであり、その主な用途は外観がさほど問題にならない場所である。その最大の要件はしたがって低価格であるが、ガラスが通す光の量と性質に影響するため、色調と品質もやはり重要である。低価格という要件から、第四章で述べたとおり、そのようなガラスを経済的に生産できるのは、大型タンク炉だけであることは明らかであろう。実際、この用途には例外なくタンク炉が用いられている。この種のガラスでは、小さな異物や空泡(エアベル)が含まれていないことに対する要求はそれほど厳しくないため、炉の形もごく単純であるのが普通である。ガラスを完璧に精製(ファイニング)するため、炉内各部の温度を精密に調整するような工夫は不要であり、原料を一端から投入し、他端に設けられたいくつかの開口部から、柄杓(ラドル)でガラスを汲み出すだけの、長方形の炉室またはタンクで足りる。もっとも、経済的に運転するためには、炉を高温で操業できることが必要である。というのも、安価なガラス配合は必然的にやや溶けにくい――少なくとも色を重視する場合にはそうである――からである。ガラスの融けやすさはそのアルカリ含有量に依存し、アルカリはそのようなガラスの成分のうち最も高価であることを思い出せば、この点は理解できるであろう。

ロールド板ガラスの製造に用いられる原料は、砂、石灰石、ソルトケーキであり、これに必要量の炭素や融剤・精製剤を加える。こうした材料は、完成品の低価格が許すぎりぎりの範囲内で、できるだけ高い純度と組成の一様性を目標に選択される。これらの材料はきわめて大量に扱われ、一基の炉から週に60〜150トンのガラスを生産することも決して珍しくない。そのため、原料の取り扱いと炉への装入には、可能なかぎり機械的な手段が採用される。

ガラスは大型の鉄製ラドルで炉から汲み出される。これらのラドルには大小さまざまな容量のものがあり、求める板のサイズに応じて、必要量のガラスを収容できるように使い分けられる。大きいサイズが求められることもあり、180〜200ポンドものガラスを収めるラドルが用いられることもある。ラドルはガラスで満たされると、手で運ばれるのではなく、頭上のレールに取り付けられたトロリーに吊り下げられて運ばれる。

ラドル係の作業者は、体をフェルト製の前掛けで覆い、顔は緑色ガラスをはめ込んだ覗き穴付きの面をかぶって保護している。まず、冷却のため水槽に浸しておいた空のラドルを取り出し、炉前の開口へと続く緩やかな傾斜路を上って行き、そこでラドルを溶融ガラスの中に差し入れる。そしてラドルを半回転させて、「固まり」として十分な量のガラスをすくい取る。その後、ラドルを2、3度すばやく上方にしゃくり上げることで、ラドルに入ったガラスを、炉内から伸びてきている板状・糸状のガラスからできるだけ切り離す。次に、ラドルの碗部付近の柄を頭上トロリーのフックに載せ、柄の反対側の端に自分の体重をかけて引き下げることで、ラドル全体を溶融浴から引き上げ、作業口から外へと引き出す。この操作は数秒で完了するが、その間ラドル係は強い熱にさらされる。というのも、作業口からはしばしばかなり激しい炎が吹き出し、それが炉のフードの下へと吸い上げられて行くからである。炉から出たラドルは、通常助手の少年に手伝われながら、ロールテーブルへと運ばれ、そこでロールのすぐ前方のテーブル上にガラスを注ぎ出す。

このとき二つの明確に異なる方法がある。一つは、ラドルを徐々に傾けて完全に流動状態にある部分だけを注ぎ出し、ラドルの壁に接して冷め始めたガラスは中に残し、その後まだ温かいうちに炉へ戻す方法である。他方は、ガラスの冷却をできるだけ最小限に抑え、ラドルを素早く一挙に反転させて中身をすべてテーブル上にあける方法である。後者では、最も冷えている部分が、他の部分から十分離れた位置へ飛んで行くようにこの動作が調整される。シートがロールされた後、この冷えた部分は、その色が他の部分より暗いことですぐに見分けられ、シートの一端全体にまとまって存在するので、次の工程に進む前に切り離される。どちらの方法にも、これといった決定的な優劣はないようである。

[図9.—ロールド板ガラス用ロールテーブル。]

ロールド板のためのロールテーブルは、本質的には、予定される最大サイズのシートを受けるに足る大きさの鋳鉄製スラブであり、その上を、手動または動力――もっとも今日ではほとんどすべて動力――で回転させる重い鉄製ロールが動く構造になっている。ロールされる板の厚さは、テーブルの両側に取り付ける鉄製スペーサー(スリップ)の厚さによって調節される。これらのスペーサーは、ロールがテーブル表面にそれ以上近づかないようにするストッパーの役目を果たす。ガラスの層がスペーサーより厚い間は、ロールの全重量が柔らかいガラスにかかってそれを押しつぶすが、所定の厚さまで達するとロールの重量はスペーサーに支えられ、それ以上ガラスは薄くならない。

シートの幅は、図9に示すように、ロールの前面とテーブル面にぴったり合う形の一対の鉄製ガイドによって決められる。ロールが前進すると、これらのガイドを押しながら進み、その間にガラスが閉じ込められて幅が規定される。ロールがガラスの上を通過し終えると、シートは赤熱状態で柔らかいままテーブル上に残されるが、安全に移動できる程度に冷え固まるまで、しばらく待たなければならない。この間に、もし冷えた部分がある場合には、それを長い鉄製のナイフ状の道具でシートに切れ目を入れて部分的に分離する。次に、平らな鉄板の刃を持つ工具で、テーブルとシートの間にすばやく滑り込ませて一気に引き抜くことで、シートをテーブルから剥がす。このシートは、まず石板の上に引き出され、その後アニール炉または「リア(lear)」の口へと押し込まれる段階へと移される。このとき、冷えた部分は、先に入れた切れ目に沿って一撃で完全に折り取られる。

ロールド板用のアニール炉は、本質的には、片端が高温に保たれ――そこで焼きたてのシートが投入される――もう一端が冷たく、その間の温度が炉の長手方向に沿って徐々に下がっていく、長くて低いトンネルである。シートはこのトンネル内をゆっくりと移動しながら冷却され、切断などの工程に耐えうる程度に焼きなまされる。このように原理は単純だが、これら「リア」炉の適切な設計と運転は決して容易ではない。成功は、炉の長さに沿った温度の正しい分布と、シートの適切な移動速度にかかっており、またシートを支え運ぶ方法によって、その平坦さと無割れが大きく左右されるからである。

シートの実際の移動は、炉の長手方向に沿って走る可動グリッド(格子)によって行われる。シートは通常、炉床を構成する石板の上に平らに横たわっており、その下にはグリッドバーを収めるための溝が切ってある。一定の間隔ごとに鉄製のグリッドバーが持ち上げられ、シートが石床からわずかに浮き上がると、グリッド全体が炉の長手方向に少し動いてシートを前方へ運び、その直後に再び石床の上にシートを降ろす。グリッドは、その後炉床面より低い溝の中で元の位置まで戻される。

アニール炉(リア)から出てきたロールド板ガラスのシートは、切断および選別室へ運ばれる。ここでシートは寸法どおりに切断され、縁を整える。ロールテーブルから出たままのシートでは、縁がやや不規則で、ところどころビーディング(玉縁)状に膨らんでいることもあり、端部は必ずきわめて不規則である。そのため、端と縁はカッティングダイヤを用いて直角に整えられる。この作業では、シートを平らなテーブルに載せ、より平滑な面を上にして置く。熟練した作業者が、十分な大きさと品質のよいダイヤモンドを使い、長さ6〜8フィート、幅わずか半インチの長い細片を切り出すこともある。最終的な分離は、ガラスの裏側を、切れ目の真下から軽くたたくことで助けられ、必要であれば、適当なトングで折り取る。

ロールド板ガラスについては、特に精巧な選別はほとんど必要ない。ただし、ガラスの色合いは時にわずかに変動することがあり、特定の注文を満たす際には、一つの色調のガラスにそろえるのが望ましいことが多い。この点を除けば、ロールド板の切断工は、ガラスの有用性を著しく損なうような大きな欠陥を切り落とすだけでよい。すでに述べたように、この種のガラスでは、気泡や微小な不透明異物はそれほど問題視されない。しかし大きな不透明塊は、見た目が粗悪であるだけでなく、自発的な亀裂の発生危険をはらんでいるため、一般に切り取られて廃棄されねばならない。事実、大きな「ストーン」と呼ばれる異物の周囲には、ほとんど常に目に見える亀裂が存在する。これらの異物は、原料の不完全な溶融や、原料への不融性不純物の混入など、さまざまな原因から生じ得るが、この点で最もやっかいなのは、炉内張りの崩壊である。耐火煉瓦の小片が部分的に融けた状態でガラス中に混入するのである。

適切に構築され、適切に操業されているロールド板用タンク炉では、この種の異物のために切り落とさなければならないシートの割合は、炉が古くなって内張りの崩壊傾向が強まるまでは、きわめて小さく抑えられるべきである。

ここでロール工程に話を戻すと、わずかな変更で、一方の面に模様を押し付けたロールド板ガラスを作ることができることがわかる。この変更とは、ロールテーブルの鋳鉄製ベッドプレートの表面をインタリオ(沈み彫り)で彫り込み、ガラス上に浮き出しで現れる模様を刻むことである。実際には、この方法で作られる模様は、ごく単純なものに限られる。たとえば、密な平行縦リブや菱形模様などである。その理由は、おそらく、こうしたテーブルのベッドプレート全体に複雑な模様を刻むコストが非常に高くつくためであろう。さらに、これらのテーブルやベッドプレートは非常に重く、容易に取り換えたり、使用しないまま置いておいたりすることができない。そのため、この方法が経済的に成り立つのは、ごく大量に需要のある模様に限られる。

こうした不利は、ダブルロール機の導入によってかなりの程度まで克服されている。この機械では、やや複雑な構造の詳細には立ち入らないが、ガラスは、固定軸のまわりに回転する二本のロールの間を通過することで、所定の大きさと厚さのシートに成形される。出来上がったシートはもう一本のロールの上を通って外へ出て行き、その際、シートが送られていくのと同じ速度で前進する石板の上に載せられていく。

この機械では、模様を刻んだ第四のロールを用いて、柔らかいシートが最後のロールを通過する際に、容易に模様を押し付けることができる。模様ロールをシートの上から押し付けると、その模様が鮮明かつ深く刻み込まれる。この機械のロール配置の概要は、図10の断面図に示されている。

[図10.—「フィギュアード・ロールド」板ガラス用ロール機の断面模式図。]

この機械から出てきた「フィギュアード・ロールド」板ガラスは、その後の工程が、普通のロールド板とまったく同じである。ただし、フィギュアード板には通常やや柔らかい種類のガラスが用いられるため、アニール炉の温度調整が多少異なる必要がある。切断作業にもいっそうの注意が必要であり、この種のガラスは、ダイヤモンドによる切断が平滑な側にしか効かないことに注意しなければならない。凹凸模様がレリーフになっている側は、ダイヤモンドで傷をつけてもほとんど影響を受けないからである。この点が、両面に模様を施したガラスの製造が実用的でない理由の一つである。

フィギュアード・ロールドガラスは、本質的に装飾用の材料であり、通常、きわめて白く輝くガラス、あるいは特別な色合いのガラスで作られる。それぞれに用いられるガラス配合は、当然ながら各メーカーの企業秘密である。とはいえ、白さを得るには、きわめて純度が高く、したがって高価な材料を用いなければならないことは明らかである。着色板ガラスの製法一般については、第十一章で述べる。

研磨板ガラスの製造は、ここまで述べてきた諸製品とはかなり性格を異にしており、共通するのは最初にロール成形を行うという点だけと言ってよい。

板ガラス用の原料は、可能な限りの注意を払って選ばれ、その純度と組成の一様性が確保される。というのも、板ガラスでは、かなりの厚みのガラスが用いられることもあり、またシートの線寸法が大きく、内部反射が多数起こり得るため、ガラスの色が少しでも濃いと、その色調が不快なほど目立ってしまうからである。実際に用いられる原料は、工場によって多少異なるが、一般的には、砂、石灰石、ソルトケーキに少量のソーダ灰を加え、さらにヒ素、マンガンなどの融剤・精製剤を通常どおりに加えたものが用いられる。ガラスは一般にポットで溶融され、溶解と精製(ファイニング)の各段階では細心の注意が必要である。というのも、この種のガラスでは、ごく微細な欠陥でも仕上がり後には容易に目立ち、その価値をきわめて大きく損なうからである。

溶解ポットからロールテーブルへガラスを移す方法は、工場ごとに多少異なっている。多くの場合、大きな溶解ポットそのものを炉から丸ごと取り出し、そのままロール機のベッドプレート上にガラスを注ぎ出す。他の工場では、まずガラスを小さな「鋳造用」ポットに移し、この中で再び加熱して、移し替えの際に混入した気泡を抜いてから、これら小型ポットを用いてロールテーブル上にガラスを流し込む。後者の、より複雑な方法の利点は、おそらく、大きな溶解ポットが、溶解初期の高温と化学作用にさらされるだけでなく、さらに炉外に持ち出されて冷たい外気に長時間さらされるという追加の負担を負わずに済む点にある。機械的な破損の危険に加えて、このような扱いは、巨大な温度差に伴う不均一な膨張収縮のために、ポットを破損させる深刻なリスクを招く。

一方、鋳造用の小型ポットは、炉内でそれほど長時間高温にさらされず、原料が与える化学的攻撃にもさらされない。そのため、これら補助ポットには、溶解ポットに必須の高級耐火粘土とは別種の、急激な温度変化によりよく耐える材質を用いることもできるであろう。他方で、溶解ポットから鋳造ポットへのガラスの移し替えは、ラドル作業という重労働と、それに続く再精製、そしてそれに伴う時間と燃料の消費を必要とする。最後に、タンク炉で板ガラスを生産するには、こうした鋳造ポットを利用し、タンクからラドルで汲み出したガラスをポット内で再び精製しなければならないが、これはタンク炉の経済性を著しく損なうことになるうえ、タンク炉で溶かしたガラスの色と純度を、ポット炉の最高級品に匹敵する水準にまで高めることは、決して容易ではない。

溶融ガラスを満たしたポットを炉から引き出す作業は、今日では例外なく強力な機械装置によって行われる。ポットの外面には突起が設けられており、適切な形状のトングやクレードルでつかめるようになっている。炉壁の一部は、操業ごとに仮設で築かれており、その部分を崩して取り外す。次に、テコを使ってポットを炉床(シージ)から持ち上げ、強力なフォークで全体を持ち上げて炉外に出す。ポットはクレーンによって吊り上げられ、ロールテーブルの上方の所定位置まで運ばれる。そこでポットを傾け、ガラスを気泡が入り込まないよう注意しながら、一定の流れでテーブル上に注ぎ出す。ポットが空になると、できるだけすばやく炉内へ戻され、その間にガラスは機械でスラブ状にロールされる。

板ガラス用ロールテーブルは、サイズと重量が大きいことを除けば、すでにロールド板のところで述べたものと同様である。ガラスがポットから直接流し込まれるため、冷えた部分を取り除く必要はない。さらに、大型のシートが求められることが多く、ロールテーブルのベッドを一枚の鋳鉄板で作ることは実用的でない。むしろ、丁寧に継ぎ合わせた複数の板で構成する方が、熱いガラスによる反りが少ないという利点がある。

ロール設備全体を設計する際の最重要事項は、できるだけ均一な厚さを持つ、平坦なガラス板を作る必要があるという点である。粗ロールシートの最も薄い部分の厚さより、最終的な研磨板の厚さをわずかでも小さくしなければならない。したがって、厚さに大きなばらつきがあると、研磨工程でシート全体の一部ではきわめて厚い層を削り取らねばならないことになる。もしシート全体が湾曲したり反ったりして平面から大きく外れていれば、この問題はいっそう深刻になる。この二つの場合を、図11に誇張された断面図で示す。上図が研磨前、下図が研磨後のシートを表す。

[図11.—湾曲または不規則な板ガラス研磨時のガラス損失を示す断面図。]

ロールテーブルを慎重に設計すれば、このような望ましくない形状のシートの発生傾向をある程度まで抑えることはできるが、アニール工程や、ロールテーブルからアニール炉へシートを移動する間の変形を完全に防ぐことは、はるかに困難である。扱うガラス板の寸法が非常に大きく、さらに平坦さに対する要求がきわめて厳しいため、ロールド板で用いられるような、熱端から冷端へガラスが連続的に移動するトンネル式アニール炉は、板ガラスの焼きなましには採用されていない。その代わり、他の種類のガラスにトンネル式アニール炉が導入される以前に使われていた古い形式の焼きなまし炉と、本質的に同じ方式の炉が、現在も板ガラスには用いられている。

これらの炉は、熱いガラス板を内部に密閉し、比較的長い時間をかけてゆっくり均一に冷却する、単純な炉室から構成される。板ガラスの場合、スラブは炉の床の上に平らに置かれる。この炉床は、綿密に削った石材か、砂を介して敷設した耐火レンガのブロックから成り、横方向(面内方向)に自由に膨張できるように敷かれている。もしブロック同士をすき間なく固く組み合わせると、加熱による膨張で床が隆起してしまうからである。

炉室全体はあらかじめ、ガラスがまだわずかに可塑性を保つ程度の温度にまで熱せられている。ロールテーブルから来た熱いガラス板は、この炉床の上に並べて置かれ、通常一つの炉室に数枚ずつ収められる。最初の数時間のうちに、板は徐々に炉床の形になじみ、それ以後、完全に冷めて取り出されるまで、その形と位置が乱されることはない。現代では、炉の冷却には4〜5日をかけるのが普通である。この程度の冷却速度であっても、炉のすべての部分が均一に冷えるよう注意を払わなければならない。そのために、炉壁や炉床の下に特別な通風路を設け、そこに空気を通すことで、炉全体がほぼ同じ割合で冷却されるようにしている。もしこうした配慮をしなければ、炉の上部は下部よりもはるかに速く冷え、ガラス板の下面の方が上面よりもずっと高温に保たれることになってしまうであろう。

アニール炉から取り出された板ガラスのスラブは、外見上、ロールド板とよく似ており、透明度も十分であるため、おおまかな検査を行い、最も顕著な欠陥部分を取り除くことができる。より微細な欠陥は、ガラスを研磨した後でなければ発見できないが、この予備検査を行うことで、労力のかかる研磨作業を、無駄なガラスに費やさずに済む。

板ガラスの研磨・ポリッシング工程は、大きく三つの段階から成る。第一段階では、ガラス表面を研削して、できるだけ完全な平行平面にする。この作業をできるだけ迅速に行うため、粗い研磨材が用いられ、その結果、ガラス表面にはザラザラした灰色の面が残る。第二段階、いわゆるスムージングでは、いくつかの段階に分けて、より細かい研磨材でこの粗い灰色面を研ぎ進め、最終的にきわめて滑らかな灰色表面を残す。第三段階の最終工程では、この滑らかな灰色表面を、私たちがよく知るあの鏡のような光沢面に変えるため、ポリッシング剤が用いられる。

もともと、研磨とポリッシングの各段階はすべて手作業で行われていたが、今日では、これと同じ作業を手作業よりはるかに速く、かつ完全にこなす一連の巧妙な機械が開発されている。現在なお用いられている研磨・ポリッシング機械の各種構造を、ここで詳細に説明することは到底できないので、その設計と構造を左右する主要な要件を概観するにとどめることにしよう。

まず第一に、板ガラスの表面に力強い機械的作業を加える前に、その板を機械装置に対して確固とした位置に固定しなければならない。しかし、局所的な破損を避けるには、板はその全面にわたって支持されなければならないため、この固定は決して容易なことではない。ロールテーブルから出たばかりの板の表面はまだ凹凸が激しく、その状態ではしっかりと据えつけることが難しいため、まず石膏(プラスタ)に埋め込まなければならない。この作業では、石膏とガラスの間に気泡が入り込まないようにしなければならない。もし気泡が残れば、そこはガラスが支持されていない箇所となるからである。研磨やポリッシングの間に、これらの未支持部位は、かかる重圧に耐えきれず局所的にたわみ、その結果として、仕上がった表面に不規則が生じる。

ガラスと石膏の最も確実な密着は、ガラス板の表面を上に向けて置き、その上に石膏ペーストを塗り広げてから、研磨テーブルの鉄製ベッドプレートをその上に降ろすことで得られる。その後、板と石膏を付着させたままベッドプレートを反転させ、研磨機に据え付ける。一方の面をポリッシュし終えた後は、板を湿った布の上に置くことで十分な固定が得られることが多い。布に板がしっかりとくっつき、さらにテーブルの縁に取り付けた数個の当て木が、ガラス板の側面を押さえて横滑りを防ぐからである。しかし多くの工場では、第二面の研磨とポリッシュにも、第一面同様に石膏による据え付けを用いている。

研磨・ポリッシング工程は、いまなお多くの板ガラス工場で、「荒研ぎ(ラフ・グラインディング)」「スムージング」「ポリッシング」という三つの別個の工程として扱われている。古くは、この三段階は完全に別々に行われ、最初は手作業で、のちには三台の別々の機械で行われた。だが最新の工場では、荒研ぎとスムージングは同一の機械で行われ、必要なのは、段階ごとに前段階より細かい研磨材に切り替えることだけである。ただしポリッシング工程では、研磨具そのものを別種のものに替えなければならない。荒研ぎとスムージングには普通、鋳鉄製の「ラバー」(研磨盤)が用いられるのに対し、ポリッシングにはフェルト貼りのパッドが用いられるからである。そのため、ガラスを取り付けるテーブルは可動に作られ、荒研ぎとスムージングが終わると、テーブルごとポリッシング装置の下へ移動し、装置全体を上昇させてポリッシングパッドをガラスに押し付けるようになっている。

最初期の研磨機は、テーブル側に往復運動を与え、ガラスを載せたテーブルを前後に動かす方式であった。あるいは逆に、テーブルを固定し、研磨具の方を前後に動かす方式もあった。その後、回転式の機械が導入され、その優位性を急速に実証した結果、現在では、事実上すべての板ガラスが回転テーブルで研磨されている。中には直径30フィートを超えるテーブルもある。研磨「ラバー」は重い鉄板、または鉄板を張った木箱であり、テーブルに比べるとずっと小径である。ラバー自体も回転し、その駆動には、下のテーブルの回転に伴う摩擦駆動を用いる場合と、別個の駆動機構を用いる場合がある。いずれにせよ、ラバーとガラスとの相対運動が、ガラス板のどの部分においてもほぼ同一になるように設計しなければならない。さもなくば、平面ではなく曲面が形成されてしまう。この条件は、ラバーの回転軸をテーブル直径上の適切な位置に配置することで満たすことができる。

研磨材は水で溶いたペーストの形でガラス上に供給される。一つの等級――すなわち粗さの段階――で必要な仕事を終えると、テーブル全体を水でよく洗い流してから、次のより細かい等級へと切り替える。最初の、もっとも粗い研磨材の役割は、表面の凹凸を削り取り、粗いながらも平面な面を作り出すことである。通常、この工程には鋭い砂が用いられる。ただしこの段階の初期には、テーブル上のラバーが、周囲より高く突き出した比較的小面積のガラス部分だけで支えられることがあるため、加えられる圧力は比較的軽く抑えなければならない。突出部分が削られ、ラバーがより大きく均一な接触面を取るようになると、より大きな圧力をかけられるようになる。

その後の細かい研磨材の各段階の目的は、粗研ぎで残った深いピット(くぼみ)を消し去ることだけである。より細かい研磨材は、前の段階の深いピットを、より浅いピットに置き換え、これを何段階か繰り返して、きわめて滑らかな「灰色面」が得られた時点で、スムージング工程が完了する。次に、回転テーブル(プラットフォーム)を駆動装置から切り離し、専用のレールに敷かれた車輪上を移動させて、ポリッシング装置の下へと持って行く。そこで新たな駆動装置に接続し、テーブルを持ち上げてガラスをフェルト貼りのポリッシングラバーに押し付けるか、またはラバー側を下げてガラスに接触させる。

ポリッシングラバーは、木または鉄製の大型板にフェルトを貼ったものであり、相当な力でガラスに押し付けられる。その運動様式は研磨ラバーのそれに非常によく似ているが、研磨材のかわりに、ルージュ(酸化鉄)と水の薄いペーストが供給される。ポリッシングに必要な時間は、スムージングの出来ばえに大きく左右される。条件がよければ、2〜3時間で灰色面を完全な鏡面に仕上げることができる。しかし、ガラスにやや深めのピットが残っていると、ポリッシングに必要な時間は大幅に長くなり、得られる光沢もそれほど完全なものではなくなる。

ルージュのようなポリッシング剤の作用機構は、今日では、最も細かい研磨材のそれともまったく異なる性格を持つことが認識されている。研磨材の粒子は、その硬さと鋭い縁によってガラスを微小に欠き取り、研磨の進行とともにガラスは一定量ずつ重量を失う。これに対し、ポリッシング工程では、ガラスの重量はほとんど減少せず、表面の微細な凹凸のうち、突出した部分のガラスが引き伸ばされて周囲に「塗りつぶされ」、ピットやくぼみが徐々に埋められていくと考えられている。ポリッシング剤の役割は、おそらく化学的作用と物理的作用の両方を含んでいるが、その結果として、ラバーの圧力と相まって、ガラス表層の分子に、粘性液体の分子に似たある程度の自由な動きを与える。これにより、ガラス表面の層は、ポリッシャーの作用のもとで流動し、静止した液体表面に特有のあの見事に滑らかな平面が形成されるのである。

このようなポリッシング過程の説明から、ポリッシングペーストの適切な濃度や、ラバーの回転速度と加圧力の適切な調整が、成功の鍵を握る理由が理解される。また、ガラス表面が摩擦によってわずかに温められ始めたときにこそ、ポリッシングが急速に進行するというよく知られた事実も、これで説明できる。

平均すると、板ガラスのスラブは、研磨・ポリッシング工程で元の重量の3分の1を失うと推定されている。これほど大量のガラスを削り取るには、多大な機械エネルギーが必要であり、そのため設備費と保守費も比例して大きくなる。この製造においては、完成した1平方ヤードあたりのガラスから削り取る必要のある重量を少しでも減らす、あるいはその除去コストを低減するあらゆる要素が、きわめて重要である。アニール炉から出てくる板の平坦さについてすでに触れたが、研磨やポリッシングの工程に関しても、なぜ無数の特許が出願されてきたのか、その理由は明らかであろう。近代建築における板ガラス使用の急速な拡大と、板ガラス価格の着実な低下とは、この分野における発明家と製造業者の努力が成功したことの証左である。

現在では、板ガラスは非常に大きなサイズで製造されており、長さ26フィート、幅14フィートに達するものもある。厚さも、普通用途には3/16インチ程度から、特殊用途には1½インチ以上までさまざまである。同時に、今日のガラス品質は、過去に比べてはるかに高い水準にある。この高品質は主として、原料の選別がより慎重になったことと、溶解・精製過程で生じる欠陥が大幅に減少したこと、そして仕上げ後のガラスに対する厳格な検査が行われるようになったことに起因する。検査では、暗室の中で板を立て、斜めから光を当てたランプの光線によって、あらゆる微細な欠陥を可視化する。発見された欠陥はチョークで印を付け、その後ガラスはこれらの欠陥を避けるように切り分けられる。

現代の板ガラス品質のうちで、おそらく最も注目すべき点は、その相対的に高い均質性であろう。第一章で見たように、ガラスは化学的に均質な物質ではなく、異なる密度や粘度を持つ多種類の物質の混合物である。この混合が十分に細かく行き渡っていないところでは、光線が異なる密度の媒質の境界で屈折するため、その存在はストリエとして現れる。特別な攪拌工程を経たガラスを除き、ストリエがまったく存在しないガラスはない。しかし、ガラス職人の腕は、これらをできる限り少なく、かつ微細に抑え、その位置と方向をできるだけ目立たないように制御することにある。板ガラスでは、この点がきわめて巧みに達成されており、通常の観察――すなわちガラスをその最も薄い方向から普通に覗いた場合――では、ストリエはまったく見えない。ところが、同じガラスを横方向から、すなわちエッジを研磨してその方向から透かしてみると、ガラス全体が無数のストリエで満たされているのがわかる。これらのストリエは一般に、研磨された表面に平行な、細い線状に走っている。

ストリエのこのような一定方向性は、一部は、ガラスが最初にスラブに成形される際、ロールの作用によってガラスがその方向に流されたことから生じるものである。しかし、この工程だけで、溶解直後にガラスに存在していた深刻な密度不均一が完全になくなるわけではない。したがって、良好な結果を得るには、ガラスの溶解過程の段階から、できる限りの均質性を確保するべく、最大限の注意を払わねばならないのである。

今日、おそらく板ガラスの大部分は、各種窓ガラス――とりわけ店舗のショーウィンドウ――として用いられている。この用途では、ガラスは研磨後に所定寸法に切断された時点で完成品となる。唯一の追加処理として、しばしば特定の曲率に曲げる加工が求められることがある。曲げられた板ガラスのウィンドウは、非常に頻繁に目にすることができる。この曲げ加工は、ガラスが完全に研磨された後、すなわち完成ガラスに対して行われる。ガラスは特別な炉で慎重に加熱され、柔らかくなったところで、所望の曲率を持つ石製または金属製の型に、そっと押し付けられる。この操作では、ガラスを傷つける危険が非常に大きい。型や炉床、またはガラスを扱う道具の表面に不規則な凹凸があると、そこへ接触した部分のガラス表面が荒れ、修復不能となるからである。また、あらゆる塵埃を完全に排除しなければならない。というのも、熱いガラス表面に落ちた微粒子は、そのまま表面に「焼き付け」られ、二度と取り除くことができないからである。小さな欠陥であれば、その後局所的な手磨きで取り除くことも可能であり、曲げ加工のように、完成ガラスを再加熱する必要がある場合には、この作業がほとんど必ず行われる。

板ガラスは、通常の意味での窓ガラスとしての用途のほかにも、さまざまな目的に用いられる。その中で最も重要かつ頻繁な用途は、上等な鏡の製造である。この用途では、ガラスの縁を面取り(ベベル)することが多く、鏡の表面にある程度のカット装飾を施すこともある。面取りは、専用の研磨・ポリッシング機で行われ、現在では多種多様な機械が用いられている。作業の本質は、ガラス板の角を削り取り、切断ダイヤモンドが残した粗い垂直の側縁を、表面から下の縁まで45〜60度の斜面で滑らかに磨いた面で置き換えることである。除去すべきガラス量は比較的少ないため、小型の研磨ラバーのみが用いられる。最新の機械の中には、高速回転するエメリーホイールやカーボランダムホイールを用いるものもある。これらの研磨ホイールは、最も硬い金属の研削にも成功していることから、ガラス工業での用途が、主として高級フリントガラスや「クリスタル」ガラスのカット作業にほぼ限定されているのは、やや意外に思われるかもしれない。

その理由は、おそらく、この種のホイールでは局所的にかなりの熱が発生するという事実にあるだろう。ガラスは熱伝導率が低いため、この効果はいっそう強調される。試みに、回転中のエメリーホイールにガラス片を軽く押し当ててみると、その接触部分が目に見えて赤熱してくることがわかる。この局所加熱は、ガラスの欠けやひび割れを誘発しやすく、これは実際に大きなガラス片に対してエメリーやカーボランダム研磨を試みたときに経験されるトラブルでもある。ただし、少なくとも一種の最新式面取り機では、作業全体を水中で行うことにより、こうした局所加熱の悪影響を完全に防いでいると主張されている。

鏡として用いるために、板ガラスにはしばしば銀引き処理が施される。この処理はきわめて大規模に行われており、今日ではガラス製造そのものとは本質的に別個の、独立した一大産業を成すに至っている。そのため、本書ではこの問題に立ち入らないことにしよう。ただし、ガラスそのものの性質と品質が、各種銀引き法の容易さと成功に大きく影響することだけは付け加えておきたい。普通の板ガラスは、どの種の銀引き被膜もきわめて容易かつ均一に受け入れる。しかし、この点はあらゆる種類のガラスに当てはまるわけではない。とはいえ、実用に耐えるだけの安定性を持つガラスであれば、おそらくどんな種類であっても、適切な銀引き法さえ選べば、満足な被膜を施すことができると言ってよいであろう。

着色ガラスを研磨板の形で用いる需要はほとんどないが、完全に不透明な板ガラス――黒色および白色――は特定の用途に用いられている。たとえば、店舗のファサード上部に掲げる看板板、カウンターや陳列棚の天板、さらには墓碑などにも、黒または白の研磨板ガラスが用いられることがある。ガラス製造の観点から見ると、これらの品物は、白または黒の不透明性を得るために原料に特定の添加物を加えている点を除けば、通常の板ガラスと変わるところはない。後の処理工程も、一般の板ガラスと同一であり、唯一の違いは、これら不透明ガラスが両面研磨を要求されることは稀であるため、その分だけ工程が簡略になるという点である。

粗ロールド、フィギュアード、研磨仕上げを問わず、あらゆる種類の板ガラスの用途には、かつて特定の制約が存在した。すなわち、火災時にガラス製の間仕切りがひび割れ、粉々に砕けて周囲に飛散し、自身の破壊以上の被害をもたらしながら、火の進行に対して無防備な通路を開けてしまうという問題である。この欠点を克服するため、ガラス内部に金網やワイヤメッシュを埋め込んだ製品が考案された。ガラスと金網とが適切に結合するように作ることさえできれば、この種の補強ガラス(ワイヤー入りガラス)は、きわめて有用な特性を示すはずである。たとえ何らかの原因――火災や強打など――で破損しても、ガラスはひび割れこそすれ、その破片はワイヤーメッシュがしっかりと保持し、板全体としては元の位置に留まる。したがって、飛散片による被害を起こさず、火災や、場合によっては侵入者に対する防御壁としても機能し続けるのである。このような材料の有用性は、すぐに広く認識されたが、その製造には大きな困難が伴う。

最大の問題は、ガラスと埋め込む金属線の熱膨張係数の差がかなり大きいことである。ワイヤーは、ロールや鋳造の際、赤熱したガラスの中に挿入される。その後、ガラスとワイヤーはともに高温から室温へと冷えていかなければならないが、その過程でワイヤーはガラスよりもはるかに大きく収縮する。その結果、即座に破損を生じるか、あるいはガラスを強い残留応力状態のまま残し、のちの自発的なひび割れを誘発するおそれがある。この問題を克服しようとして、熱膨張係数がガラスに非常に近いニッケル鋼合金線を用いる試みもなされた。しかし、実際には、この膨張係数の一致が確認されているのは、ごく限られた中程度の温度範囲にすぎず、合金を赤熱温度まで加熱した場合にもこの関係が保たれるという保証はない。

別の方向からの解決策としては、冷却時に生じる応力に対して十分に塑性変形し得る、きわめて延性に富んだ金属線を用いる方法がある。理論的には、銅線などはこの目的に適していると思われるが、銅の高価格が実用化を妨げる大きな障害となっている。

ワイヤーメッシュをガラスに埋め込む際には、もう一つの困難がある。それは、ガラスと金属との界面で良好な接着を得ることが容易ではないという点である。大半の金属は、加熱されるとかなりの量のガスを放出する。このガスが、金属がすでにガラスの中に埋め込まれてから放出されると、無数の気泡が生じる。その結果、ガラスは非常に見苦しい外観となるだけでなく、ワイヤーとガラスの付着も著しく弱くなる。この問題は、最初の熱膨張の問題ほど深刻ではなく、金属表面を清浄に保ち、ワイヤー内部に含まれるガスをあらかじめ加熱で追い出すことで、かなりの程度まで解決できる。

とはいえ、総じて見れば、ワイヤー入りガラスは、いまだ発展途上の製品とみなすべきであろう。製造法がさらに改良されれば、この材料にはきわめて大きな可能性が秘められていることは疑いない。

第十章
シートガラスおよびクラウンガラス

前章では、窓開口部のグレージングなどに用いられる、もっとも粗末なものからもっとも完全なものまでの平板ガラスの製造法を扱った。これから取り扱う製品は、その中間的な性格をもつものであり、シートガラスは、研磨板ガラスの多くの性質を備えているが、きわめて重要な性質のいくつかを欠いている。すなわち、シートガラスは、観察者がほとんど乱れなく、あるいはまったく乱れなく、その向こう側を見ることのできる程度には十分透明であり――最良の種類のシートガラスでは、その不規則さが引き起こす光学的ゆがみはきわめて小さく、ガラスはほとんど研磨板ガラスと同じくらい完全に見える――一方、ごく一般的な窓のグレージングに用いられる安価なガラスでは、見える物体に非常に不快で、時にはきわめて滑稽なまでの歪みを生じさせるような板がしばしば用いられている。興味深いことに、こうした劣悪なガラスの使用が、かなり良質な住宅においてさえ何の異議もなく容認されていることである。一般大衆は、この点について驚くほど無頓着であるように見える。

別の観点では、シートガラスは板ガラスに対して大きな利点を持つ。それはシートガラスの方がはるかに軽い――少なくとも、より薄く、したがってより軽く作ることができる――という点である。しかしこの利点には、それに伴う不利益がある。つまり、シートガラスは通常板ガラスよりもずっと弱く、そのため、はるかに小さな寸法でしか用いることができない。とはいえ近年では、比較的薄い板ガラスの製造が大いに進歩し、今日ではほとんどあらゆる建築用途に十分薄く軽い研磨板ガラスを得ることが可能になっている。最後に、シートガラスのもっとも重要な利点であり、多くの場合に板ガラスよりも優先的に使用されることを保証している唯一の利点は、その安価さである。普通のシートガラスの価格は、同じ寸法の板ガラスのおよそ 4 分の 1 である。

シートガラス製造用の原料は、砂、石灰石、ソルトケーキ(硫酸ナトリウム)、およびヒ素、酸化マンガン、無煙炭またはコークスといった少数の補助物質からなり、これらは工場ごとの慣行によってかなり異なる。これらの材料については、一般的な説明をすでに第三章で行ったので、ここでは、シートガラス製造者が、明らかに相反する二つの考慮事項を念頭に置かねばならないことを付け加えるだけでよいであろう。一方では、シートガラスに要求される色と純度の条件から、原料の厳格な選択と、少しでも疑わしいものの排除がきわめて望ましい。他方、この製品に関するもっとも重要な商業的考慮は、その安価さであり、低い販売価格を維持しつつ利潤を上げるためには、製造者は高価な原料を厳しく排除しなければならない。

このため、ベルギーやドイツの一部のように、工場近くに純粋な砂の大鉱床を有するシートガラス工場は、そうでない土地にある工場に比べて非常に大きな利点を持つ。というのも、砂はガラス全体のきわめて大きな割合を占めており、運賃がしばしば砂そのものの価格を上回り、場合によってははるかに上回ることさえあるからである。同じことは、石灰石やソルトケーキのような他のかさばる材料についても、程度の差こそあれ当てはまる。しかしこれら二つの材料は、シートガラス製造に十分な品質を備えたガラス用砂に比べると、一般にもっと容易に、そして適正な価格で入手できる。

普通の「白色」シートガラスは、現在ではほとんど例外なくタンク炉で生産されており、そのために用いられる炉には非常に多くの種類が存在し、また推奨されてもいる。これら各種炉の構造を詳説し、それぞれの相対的な長所短所を論じることは、本書の範囲を超えるであろう。ここでは、もっとも重要な形式のシート用タンク炉の主要な特徴だけを簡単に概説するにとどめる。

シート用タンク炉は、いくつかの重要な点で互いに異なっている。それは、タンクが一つ、二つ、あるいは三つの、多少とも分かれた炉室に区分されているかどうか、溶融ガラス浴の深さと炉室天井(クラウンまたはボールト)の高さ、ガスと空気を炉内に導入する開口部(ポート)の形状と位置、それに伴って決まる炎の形と分布、そして最後に、排ガスから熱を回収して炉へ戻すための蓄熱装置(レジェネレータ)の位置と配置などである。

これらの主要点を順に見ていくと、ある種のシート用タンク炉では、炉全体が一つの大きな炉室となっていることがわかる。この形式の炉では、ガラスの溶融と精製(ファイニング)の全過程がこの単一の炉室内で行われる。原料を溶かさねばならない高温側の端から、ガラスを吹き竿に巻き取れるだけの粘稠さを保たねばならない低温側の端まで、炉温を適切な形で勾配をつけて制御しようというわけである。だが、このような単一室型炉における温度制御は、炉が分割されている場合ほど完全なものにはなりえないことは明らかである。

実際のシートガラス製造では、このような分割炉の方がはるかに多く用いられているが、その分割方法と程度については、工場ごとに大きな差がある。極端な形式では、ガラスはほとんど三つの独立した炉を順々に通過し、それぞれの炉は比較的小さな開口部によってのみつながり、その開口を通ってガラスが流れ移るようになっている。もし熱と溶融ガラスの作用に無期限に耐えうる材料で炉を築くことができるならば、この極端な形式こそもっとも優れたものとなるだろう。というのも、この形式では炉の操業者は、溶融炉室から精製炉室へ、また精製炉室から作業炉室へとガラスが流れる際、溶け残りの原料が精製炉室へ流入することのないよう、また十分に精製されていないガラスが作業炉室へ出ていくことのないよう、ガラスの流れを制御できるからである。

しかし現実には、このような極端な分割は、大量の炉壁の存在を伴い、それらが熱と溶融ガラスの両方に曝されることになるため、非常に重大な不利を招く。すなわち、炉の建設・保守・更新に要する費用が大きく増加し、また炉壁の侵食によるガラス汚染の危険も増大するのである。このような理由から、もっとも成功しているシートガラス用炉は、構造上、単純な開放型炉と完全に分割された炉との中間に位置しているのは当然のことである。ある場合には、作業炉室が、溶融・精製炉室と、ガラス面より上方に設けられた横方向の壁によって仕切られている。この横壁のすぐ下、溶融ガラス中には、浮遊する耐火粘土ブロックが配置されており、これが仕切りを補完するとともに、炉内を流れてくる表面不純物を捕えて留める役割を果たす。

タンク内ガラスの深さについても、実際の運転慣行は大きく異なっている。深い浴を用いる利点として挙げられるのは、炉底の耐火粘土がより低い温度に保たれるため、ガラスからの侵蝕が少なくなり、この部分の炉が多年にわたって使用に耐えるようになるということである。他方、適度な温度の巨大なガラス塊が存在すると、その部分で結晶化、すなわち「失透(デヴィトリフィケーション)」が生じやすくなり、その領域から上方の高温ガラスへと広がって、ガラスを汚染するおそれがある。また、何らかの理由でタンクの内容物の一部または全体を取り除く必要が生じた場合、深い浴を持つタンクでは、その大量のガラスが大きな障害となる。しかし総じて言えば、近代の慣行は、より深い浴の採用を支持しているようであり、2 フィート 6 インチ(約 75 cm)あるいは 3 フィート(約 90 cm)の深さがきわめて普通であり、4 フィート(約 1.2 m)に達するものも用いられてきた。

炉天井(クラウンまたはボールト)の適切な高さの問題は、タンク炉を適正に操業する上でかなり重要である。もっとも完全な燃焼を得るためには、現在では大きな自由炎空間が必要であると考えられている。初期のガラス溶解タンクは、初期の製鋼炉と同様、非常に低いクラウンで造られ、炎を溶融ガラス表面に押しつけるようにしていた。これは、炎とガラスとを直接接触させて直接加熱を強めることを目的としたものである。しかし近代の傾向は、明らかにより高いクラウンの方向に向かっており、ガラスの加熱を伝導ではなく主として放射によって行わせようとしているのである。ある限度までは、炎空間を拡大することによって、作業の清浄さが増し、燃料の一定の節約がなされることに疑いはないが、炉天井が過度に高くなれば、経済性はかえって低下する。ガラス面からクラウン頂部まで 6 フィート(約 1.8 m)に達する炎空間が用いられた例もあるが、より一般的な高さは 2〜5 フィート(約 60〜150 cm)の範囲である。

予熱したガスと空気を炉内に導く開口部(「ポート」)の形状も、炉によって大きく異なる。ある場合には、ガスと空気を炉に入れる直前の小さな燃焼室内で合流させるが、他の場合には、ガスと空気は完全に別個の開口から炉内に入り、炉室内で初めて混合される。後者の方式では、強い還元炎が生じやすく、ソルトケーキの還元には有利であるが、燃料消費の点から見れば決して経済的ではない。他方、前者の方式のポートでは、炉に入るガスと空気を適切な割合で十分に混合させることができるため、炉内にほとんど任意の性質の炎を作り出すことが可能であり、一般により酸化性の炉内雰囲気を作りやすい。細部には種々の変形があるものの、この後者型のポートは、今日ではシート用タンク炉でほとんど例外なく採用されている。

近代のタンク炉はすべて、炉から出る高温燃焼ガスから熱を回収し、その熱を利用して炉に入るガスと空気を予熱するという「蓄熱(regenerative)」原理に基づいている。しかし、この原理を実現する手段は、設備の種類によってかなり異なっている。おそらくもっとも広く用いられている炉形式は、シーメンスの原始的な蓄熱炉の直接の子孫であり、四つのレジェネレータ室を備え、ガスと空気の流れを交互に切り替える仕組みを持つ。これにより、二つ一組の室が、交互に排ガスの熱を吸収し、つぎにはその熱を、片方の室を通る入気(空気)と、他方の室を通る入炉ガスに戻すようになっている。この種の炉では、レジェネレータ室は通常溶解炉の直下に設けられ、耐火レンガで造られ、その内部は積み上げられたレンガで満たされている。これらレンガが、熱を吸収し、また放出する役割を果たす。

この型の炉のもっとも近代的な形式では、ガス用レジェネレータは完全に省略され、空気のみがレジェネレータで予熱される。その一方で、ガスは発生炉から直接炉内に送られ、燃料のガス化の際に発生炉で生じた熱を携えてくる。この構成は、疑いなく経済的ではあるが、とくにシートガラスの製造においては重大な不利を伴う。すなわち、ガスが発生炉から直接炉内に噴き込まれるため、ガスは大量の塵や灰を運び込むが、旧来の炉型式のように長い煙道内でそれらを沈降させる機会がないのである。

一般的な蓄熱炉型式におけるもっとも深刻な不利は、レジェネレータ装置そのものがかなり大きな寸法を必要とする点に由来する。そのため、建設費の高い構造となり、多くのスペースを占有する。また、排ガスと入気とを交互に流すために、バルブの切り替え操作を周期的に行う必要があり、炉の運転に従事する作業員に特別な注意を要求するとともに、高温と埃という機械装置にとって好ましくない条件の下で、バルブ機構の建設と維持を行わなければならない。

こうした不利のすべてが、いわゆる「レクペレーティブ(recuperative)炉」と呼ばれる種々の炉型式によって、かなりの程度まで克服されていると主張されている。これらの炉では、ガス流の方向切り替えは行わず、レジェネレータ室は「レクペレータ」に置き換えられる。レクペレータは、耐火レンガで構築された塊を、互いに直交する二方向に貫通する多数の小さな煙道またはパイプから構成される。片方の方向に走るパイプ内を排ガスが煙突へ向かって流れ、もう一方の方向のパイプ内を、入炉ガスと空気が流れる。二つのガス流のあいだで、耐火レンガ内部を通じて熱の移動が起こり、かくして排ガスは連続的に冷却される一方、入炉ガスは加熱される。この熱移動は、蒸気機関のサーフェスコンデンサ内で起こる熱交換に、ある程度類似している。

理論的には、これは独立したレジェネレータ室を用いる方式よりずっと簡単な構成であり、実際にもある程度まで有利であることが見いだされている。しかし、この方式には、レクペレータの材料として耐火レンガを用いざるをえないことに起因する、いくつかの欠点が存在する。第一に、耐火レンガの熱伝導率はあまり高くないため、十分な効率を得るには、大型のレクペレータが必要となる。また個々のパイプの内径は小さく抑えなければならないが、全体としての通過断面は、ガスが比較的ゆっくり流れられるよう十分な大きさでなければならない。次に、耐火レンガは、高温に長時間さらされることで、反り・収縮・亀裂などを生じやすい。その結果、一方のパイプ群から他方のパイプ群へガスが漏洩するのを防ぐことが難しくなる。もし漏洩が軽度にとどまるなら、燃焼可能なガスの一部が煙突へ直接逃げることと、炉へ入るガスが、排ガス側からの燃焼生成物によって希釈されることといった影響が出るだけである。これはもちろん炉の効率を大幅に低下させ、炉温を所定水準に保つためには燃料消費を増やさざるをえなくなる。

しかし、もし漏洩がさらに深刻になり、その性質いかんによっては、入炉ガスと空気が煙道内で混合するような事態になれば、重大な爆発を引き起こすおそれがある。これらの点から、レクペレーティブ炉は、構造的にはやや簡単で安価ではあるものの、むしろ従来型の蓄熱炉よりも、いっそう注意深い保守管理を必要とするという結論が導かれる。

本国(英国)でシートガラスを生産するタンク炉は、通常、月曜日の早朝から土曜日の夜遅くまで連続運転され、日曜日には吹きガラス作業を中止するものの、炉温自体は維持される。一方、大陸、とくにベルギーでは、これらの炉に関する作業は日曜日にもまったく中断されない。英国内のやり方は、望ましい慣行であるかもしれないが、同じ能力を持つ炉の出力を、およそ 10 パーセントほど不利にしていることになり、その際、作業経費はほとんど軽減されない。

イギリスのガラス工場におけるシートガラス吹きの作業は、一般に三人一組で行われる。すなわち「パイプウォーマー(pipe-warmer)」「ギャザラー(gatherer)」「ブロウアー(blower)」である。ただし、仕事の正確な分担は、事情に応じて変わる。パイプウォーマーの仕事は、まず吹き竿を、副炉から取り出すことにある。吹き竿は、厚い「鼻」端部をあらかじめ温めておくために、事前にこの副炉へ入れておかれている。シートブロウアーのパイプ自体は、長さ約 4 フィート 6 インチ(約 1.35 m)の鉄管であり、一端には木製の外套(柄)とマウスピースが備えられ、他端はがっしりとした円錐状に肥厚し、丸い先端を持つ。

パイプウォーマーは、パイプをタンク炉の作業開口へ差し入れる前に、熱い端部にスケールや汚れが付着していないかを確かめ、パイプ内に閉塞がないかどうか、息を吹き込んで検査しなければならない。その後、パイプの根元(柄側)を炉の開口部に置き、溶融ガラスとほぼ同じ温度にまで温める。この状態になったら、パイプをギャザラーに渡すか、あるいは通常は若者であるパイプウォーマー自身が、さらに一段階先の作業まで行ってから、より熟練した作業者に手渡すこともある。その次の段階とは、パイプに最初のガラスを巻き取る(最初の「ギャザリング」を取る)ことである。

そのために、熱くなったパイプの鼻部を溶融ガラス中に差し入れ、1~2回ゆっくり回転させてから引き上げる。この際、パイプが持ち上がるとガラスが糸を引くが、その糸状の粘稠ガラスは、作業開口前方に溶融ガラス上を浮いている耐火粘土製のリングにこすりつけて切り取る。こうして、パイプ先端には少量のガラスが残って付着する。この第一のギャザリングは、その後かなり固まるまで冷却され、その間、パイプ全体を回転させて、この最初のガラス塊がきれいな球形を保つようにする。同時に、パイプに弱く息を吹き込み、ガラス塊の内部にごく小さな空洞をつくることで、パイプの孔がふさがれないようにしておく。

第一のギャザリングを構成するガラスが十分に冷え、扱える程度に固まったら、ギャザラーは二度目のギャザリングをその上に取りに行く。パイプを再び炉内に差し入れ、徐々に溶融ガラス中へ浸していくが、このとき、すでにパイプについているガラス層と、新たに取り込む高温のガラス層とのあいだに空泡が入り込まないよう、きわめて注意深く操作しなければならない。熟練したギャザラーは、パイプをガラス中へ下ろす際に徐々に回転させることで、この空泡の発生を防ぐ。こうすることで、二つのガラス層は、ゆっくり「転がりながら」互いに接触し、間に挟まれた空気が逃げる時間を与えられるのである。パイプを完全に浸したのち、数回回転させ、それから引き上げ、再び糸状のガラスを切り取る。

パイプ端部のガラス塊は、先ほどよりもかなり大きくなっており、ほぼ球形に保つために、より注意深い操作が必要になる。ここで再び冷却工程が続くが、この間パイプは、水でなみなみと満たされた鉄製の溝の上に渡して置かれる。この溝はパイプ自体を冷却する役目を果たし、同時に、パイプを溝の上で前後に転がすことで、簡単に回転させることができる。ガラス塊全体が、急激に変形するおそれなく扱える程度まで再び冷えたら、第三のギャザリングが、先ほど第二回目を取ったのとまったく同じ方法で行われる。必要なガラス量が多い場合や、ガラスそのものが非常に高温で流動性が高く、一度のギャザリングで付着するガラス量が比較的少ない場合には、さらに四回目、あるいは五回目まで繰り返すこともある。しかし、パイプと付着ガラスの全重量は、ギャザリングのたびに増加するため、作業は次第に重労働となる。また、ガラス塊がより大きな球面をなすようになると、高温のガラスはより流れ落ちやすくなるので、ギャザリングを「落として」しまわないよう、いっそう高い熟練が要求される。

これらギャザリング作業をどれだけ注意深く、熟練して行うかが、出来上がるシートガラスの品質をかなり大きく左右する。ギャザリングの形が少しでも不規則であれば、シートの部分によって厚みが変わるのは必然であるし、また、注意を欠いたギャザリングは、気泡や「ブリスター(blister)」その他の模様を生じさせる。冷却途中の段階では、ガラスはあらゆる種類の塵や汚れから保護されなければならない。というのも、熱いガラスの上に落ちる小さな微粒子は、そこでガスを発生して微小な泡となり、選別室でははっきりと目につくものになるからである。

最後のギャザリングを取り終え、その塊が十分冷えて、落下の危険なく持ち運べるようになると、ガラスはおおよそ球形の塊となり、その中心付近にパイプの鼻端がある状態になる。次の段階では、このガラス塊の形を予備的に整え、ガラスの大部分がパイプの先端よりも外側へ出るようにする。その後、パイプの先端直下の位置に、所要の径を持った筒状のガラスを吹き出すための、薄くてより冷たい「肩」部分を形成する。この作業は、ガラスを図 12 に示すような形へと順次変形させながら進められる。成形には、特別な形をした木製ブロックやその他の成形具を用い、その中でガラスを回転させ、また吹き広げる。最終的に得られる形は、ガラスの大部分を下端部に含むずんぐりとした筒であり、その上部は、前述のように薄くてより冷たい首・肩部分を介してパイプに接続している。

[図 12.—シートガラス用円筒成形の初期段階。]

この段階に達すると、パイプとその先端に付いたガラス塊は、本職のブロウアーに引き渡される。この作業者は、「ブロウイングホール(blowing holes)」と呼ばれる小炉の前に設けられた特別な作業台の上で仕事をする。ただし、工場によってはこれら小炉を使わず、溶解炉の前に直接作業台を設けるところもある。シートブロウアーの作業台は、吹き竿と円筒を腕いっぱいに振り回すための空間を確保するよう、適当な深さのピット(穴)の上または脇に設けられたプラットフォームである。

吹きの工程そのものは、実のところそれほど多くの「吹く」という行為を必要とせず、むしろ重力と遠心力の作用に依拠して、ブロウアーが開始時に持っている短い円筒から、細長い大きな円筒を形成する。作業は、円筒の厚い下端部を加熱炉内に差し入れて十分に熱し、その後炉から取り出して、作業ピット内で振り子運動をさせることによって行われる。こうして、円筒は自重で引き伸ばされていく。潰れようとする傾向は、必要に応じて口から空気圧を加えることで抑えられ、また時には、パイプをその軸のまわりに急速に回転させることもある。このような円筒下端部の再加熱は数回繰り返され、最終的にガラスは全体にほぼ均一な厚さをもつ長い円筒となる。ただし、下端は丸くドーム状に閉じている(図 13 参照)。この丸い端部を、次に開かねばならない。

[図 13.—シートガラス吹きの後期段階。]

比較的薄く軽い円筒の場合、この端部の開口は次のようにして行う。まず、パイプのマウスピースを親指でしっかり塞ぎ、完全な気密状態にする。そのうえで、円筒の先端をブロウイングホール内で加熱する。熱によって、円筒端部のガラスが柔らかくなると同時に、内部の空気が大きく膨張するので、その結果として円筒端部が破裂して開く。その後、円筒端部のガラスが非常に柔らかくなって、波打ったカール状を呈するまで、さらに少し加熱を続ける。そこでブロウアーは円筒を炉から引き出し、作業ピット内で円筒を垂直に下向きに保持しつつ、その長手軸のまわりに高速回転させる。すると、端部の柔らかいガラスは遠心力によってただちに外側に開き、ブロウアーは、柔らかいガラスが円筒残部の真の延長となるよう十分に開くまで回転速度を高める。この位置でガラスを静置して固化させる。

厚く重い円筒の場合、端部を開く最初の操作は別のやり方で行われる。助手が鉄棒に少量の熱いガラスを取り、その塊を円筒の閉じた端の中央に置く。この熱いガラス塊の熱によって、円筒のガラスが柔らかくなり、作業者は特別な形の鋏を用いて、この柔らかくなった部分から小さな円形の片を切り取ることで、端部に穴を開ける。開いた端部を真っ直ぐに広げる最終操作は、軽い円筒の場合とまったく同じ方法で行われる。

完成した円筒は、まだパイプに付いたまま、吹き場から運び出され、木製の棚の上に横たえられる。その後、ブロウアーは冷たい鉄片を手に取り、円筒とパイプとをつなぐガラスの首部に当てて亀裂を生じさせ、次いで短い鋭い一振りで、パイプを完全に円筒から切り離す。少年がパイプを引き取り、それを冷却台のスタンドに持って行き、そこで付着ガラスが自然に割れて落ちるのを待つ。その後、パイプは再びパイプウォーマーの元に戻され、次の使用のために加熱される。

木製の棚の上で、円筒は一定程度まで冷却され、その後、図 13 に見られる円筒上端の首・肩部分が取り除かれる。この作業は少年が行い、軟らかい熱ガラスの糸を、切り取りたい位置で円筒のまわりに一周巻き付けることで行われる。この熱ガラスの糸は、局部的な強い加熱を行うためだけに用いられ、糸自身は十分に固くなったら押し外される。その後、糸が当たっていた部分に、冷たい、あるいは湿った鉄を当てる。通常、この操作をすると、熱線に沿って円筒の周りを一周する亀裂がただちに走り、「キャップ」部分が取り除かれる。こうして、両端が開いた均一な円筒形のガラスが得られるが、これを平板に開いて、初めて私たちにおなじみのシートガラスの形にしなければならない。

開板工程の第一段階は、円筒の「縦割り(スプリッティング)」である。そのために、円筒は専用の台へ運ばれ、そこに水平に横たえられる。ここで、円筒の母線(縦方向の直線)に沿ってひと筋の亀裂または切れ目を入れる。この操作は、熱した鉄棒を当てて、その後必要に応じてわずかに湿らせることで行うか、あるいは、円筒の内側に沿って、重いダイヤモンドを巧みに引き下ろして切り線を付けることで行うこともできる。

ここまでの工程からわかるように、ガラスはまだ本格的なアニール(焼きなまし)を受けていない。ただし、ブロウアーは、円筒が棚の上で自己の内部応力によって割れない程度には、「吹き」の工程の間にも、できるかぎり急冷を避ける形で「アニール」することが求められている。この程度の焼きなましであれば、内部応力による破壊は防げることが多い。しかしガラス表面は、特に外側が、急冷されたため、明らかに硬化している。そのため――このほかにも理由はあるが――縦割りの切れ目は、常に円筒の内側から入れられる。

円筒の外側と内側の冷却速度の差は、さらに別の影響をもたらす。それは、円筒を割った瞬間に顕在化する。外側がまだ内側が比較的柔らかい間に硬化したため、冷えた円筒では外層のガラスは圧縮状態、内層は引張状態にある。ところが、円筒に縦に切れ目を入れると、これらの応力はある程度解放され、内層は自由に収縮し、外層は自由に膨張できるようになる。その結果、円筒の曲率は増し、直径はわずかに小さくなって、切れ目の両縁が互いに重なり合う。もし円筒がやや急激に冷却されていたり、ガラス自体の膨張係数が高かったりすると、この内部応力の解放はきわめて顕著となり、円筒一本一本が、小さな爆発音を立てて割れることもある。内部応力がさらに激しい場合には、縦割り線を入れたとたんに円筒全体が粉々に飛散することさえある。

シートガラス製造における次の段階は、平坦化とアニールである。そのために、縦割りされた円筒は、通常「リア(lear または lehr)」と呼ばれる特別な炉へ運ばれる。ここで、まず円筒は鈍い赤熱状態まで加熱される。その後、円筒は一枚ずつ、ガラスが柔らかくなるのに十分な高温が保たれた炉室内の、平滑な石板または鉄板の上に持ち上げられる。ここで、円筒は割れ目を上にして置かれ、木製の道具を用いて、ガラスをゆっくりと左右に広げていく。最終的には、「ラグル(lagre)」と呼ばれるこの平板の上に、完全に密着した平らな板状へと押し広げられる。

この平板から、いまやシート状となったガラスは、平坦化炉と連通したアニール炉へ送られる。ここも他の種類のガラスについてすでに述べた連続式アニール炉と同様、長いトンネル状で、一端は平坦化炉と同じ温度、他端はほぼ室温に保たれている。シートは、このトンネル内を一定の低速で移動していくが、その移動は、格子状の鉄棒からなるグリッドの働きで行われる。グリッドは一定の間隔ごとに持ち上がってシートを炉床からわずかに浮かせ、短い距離だけ前進させた後、再び炉床上にシートを下ろす。グリッド自体は、その後炉床の下に設けられた溝の中を後退して元の位置に戻るため、シートの位置には影響しない。

アニール炉を出たシートガラスには、炉内の燃焼生成物とガラス自身との相互作用から生じた白い堆積物が付着していることがある。この堆積物は、単純な機械的摩擦によっても取り除けるが、通常は、弱い酸浴にガラスを浸す方法がとられる。酸が白い膜を溶解し、ガラスは透明で輝く状態となり、使用に供することができる。

アニール炉から出た完成シートは、選別室へ運ばれ、そこで良好な光源を背に黒い背景にかざして検査され、用途別に選別される。

シートガラスに見られる欠陥は、原料から完成シートに至るまでの長く複雑な工程を思い起こせば予想されるように、きわめて多種多様である。そのすべてを技術用語とともに列挙する必要はないだろうが、主要で頻度の高いものについて説明しておくことは有益である。欠陥は、その発生源となる工程段階に応じて分類するのが便利である。

第一の分類は、炉の作業側(ワーキングエンド)におけるガラスの状態から生じる欠陥である。このうちもっとも重要なのは、「ストーン(stones)」と呼ばれる白色不透明の包有物である。これは、原料中に不融性不純物が混入していた場合や、溶解温度や時間が不十分で原料の一部が溶け残った場合、あるいは炉内張り(耐火レンガ)の状態が悪く、小さな耐火レンガ片がガラス中に混入した場合など、炉内部のさまざまな原因から生じうる。さらに、炉の一部が低温に保たれすぎていたり、ガラス組成が不適切であったりすると、ガラス中で結晶化が起こり、白い結晶性の斑点が生じ、これが最終的なシート中に入り込むことがある。

炉内ガラスの状態から生じるもう一つの欠陥は、「シード(seed)」と呼ばれる無数の小さな気泡である。これらはブローイングの過程で引き伸ばされ、とがった楕円形となり、シートガラスから完全に消し去ることはまれである。これらの気泡は、炉内における精製(ファイニング)の不十分さ、またはギャザリングの最中にガラスが微細な塵粒と接触することによって生じる。

ガラスそのものに起こりうる別の欠陥としては、色が濃すぎる場合が挙げられる。これは、ある程度の大きさのシートを側面から観察してはじめてよくわかる。というのも、普通のシートガラスは、通常の見方で透かしてみるだけでは、ほとんど無色に見えるからである。この事実から、実際の用途、すなわち光が常に一枚分の厚さだけを通過するような場合においては、わずかな色の違いは、他の欠陥に比べればごく小さな問題とみなすべきであることがわかる。

ギャザリング工程もまた、別の欠陥群の原因となる。ギャザリングに起因する欠陥のうち、たとえば汚れたパイプを用いることから生じるものなどは、選別室で決して合格品として通されることがないため、ガラス使用者にとってはほとんど問題とならない。それでも、使用されうるガラスに痕跡として残る欠陥としては、「ブリスター(blisters)」と「ストリング(string)」がもっとも重要である。ブリスターは、ギャザリングを重ねる際に層と層のあいだに空気が入り込むことで生じる、やや大きめで扁平な気泡である。「ストリング」は、あらゆるシートガラスにきわめて一般的に見られる欠陥である。その一部は、ガラス自体の不均質性から生じることがある。もしガラスが、密度と粘度の異なる層からなっていると、ギャザラーはそれらをひとまとめに巻き取り、最終的には円筒全体、したがってシート全体にわたって走る厚い筋(リッジ)を形成する。こうしたストリーエ(striæ)は、ガラス内部の不均質性に由来し、フリントガラスではよく見られるが、シートに用いられるソーダ石灰ガラスにも皆無ではない。

しかし、仮にガラスができる限り均質であっても、ギャザラーはなお、耐火粘土製リングの端近くからガラスをすくい取ることによって、こうしたストリーエを生じさせることがある。ガラスは常に耐火粘土に対して化学的に作用し、その表面に、炉内容物全体よりはるかに多くのアルミナを含む厚いガラス層を形成する。このような層は、シート用タンクの各リング表面に形成されるが、ギャザリングをリングの中央付近から行うかぎり、この粘稠でアルミナに富んだガラス層は動かされずに残る。しかし、ギャザラーがパイプをリングの側面に近づけすぎると、ガラスはこの異なる層の一部をギャザリング上にひきずり出すことになる。このガラスは、シートのあちこちに厚い筋やストリーエを形成してしまう。ギャザラーが一般に責任を負うべき別の欠陥は、一枚のシート内で厚さが不均一になることである。ただし、この欠陥は、ブロウアーの操作によっても生じうる。

吹きの工程そのものにおいても、さらに別の欠陥が持ち込まれる。とくに問題となるのは、工程のある段階で生じた小さなガラス片が、円筒の熱い表面に落ちて付着してしまう場合である。これらの片は、そのまま円筒に融合し、永久的な突起や筋として残る。より重大で、かつ頻度の高い欠陥は、円筒自体の形崩れである。ブロウアーの手を離れたガラスが、真円筒以外の形をしていると、平坦化炉で完全な平板に広げることは不可能になる。実際には、円筒が一方の端で他方より太くなっていたり、さらに悪いことには、膨らみとくびれが交互に現れる不均一な直径を持っていたりすることがある。このような円筒をラグルの上で広げようとしても、完全に平らにすることはできず、あちこちに凹みや盛り上がりが残り、シートの平坦性を損ない、使用時に光の規則的な通過を妨げる。

最後に、平坦化の工程自体も、それ固有の欠陥を生じがちである。もっとも一般的なのは、平坦化用の道具が残す擦り傷である。実際、すべてのシートガラスについて、その表面を注意深く観察すれば、平坦化用の道具がどちら側で使われたかを見分けることができる。シートガラスには、必ず一方の面が他方よりも明らかに光沢があり、表面状態のよい側が存在し、そのよい側とは、平坦化の際にラグルの上に接していた面である。他方、ラグル自体が完全でなかったり、その上に異物が載っていたりすると、その面にはそれに対応した傷や跡が残る。

以上述べてきたシートガラス製造法の説明は、一つの代表的な工程を概略したものであるが、実際にはほとんどすべての段階が、工場ごとの慣行や条件に応じて種々の変形を受けうる。ここでは、一般的に重要性の高い一、二の特別な変形について述べることにする。

まず溶融工程についてである。普通のシートガラス生産には、タンク炉がほとんど完全にポット炉に取って代わったとはいえ、特別な事情のもとでは、ポット炉にもなお優位を保ちうる分野が残っている。たとえば、ある特別用途のために、ガラスそのものに起因するすべての欠陥――とくに色に関する欠陥――が、可能なかぎり少ないシートガラスが要求される場合には、ポットでの溶解が有利であることがわかっている。きわめて特別な用途のためには、被覆(フード)付きのポットが用いられることさえある。このような特別な用途向けには、原料から硫酸ナトリウムを完全に除き、その代わりに炭酸ナトリウム(ソーダ灰)を用いることが多い。着色シートガラスの製造においても、ガラスを全体に着色する場合であれ、薄い着色層で覆う「フラッシュ(flashed)」ガラスを作る場合であれ、タンク炉よりもポット炉での製造が一般にとられている。ポットの場合の方が、ガラスの正確な性質と組成を遥かに良く制御できるからである。

吹きの工程もまた、実際には多くの変形を持つ。そのもっとも重要な差異は、円筒の形状と寸法に関するものである。イギリスおよびベルギーの工場では、円筒の長さが最終シートの長辺となり、円筒の直径が短辺となるような寸法が選ばれる。一方、ドイツの一部では、その逆の方式が採られており、円筒をより短く、かつ非常に太く吹き上げ、その周長が最終シートの長辺となるようにしている。しかしこの後者の方法には重大な欠点があることが、ほぼ一般に認められている。ただし、この方法により、いくぶん完全に近いガラスが得られるとも主張されている。

「ブロウンプレートガラス(blown plate glass)」として知られる特別な種類のガラスの製造には、この短く太い円筒を吹く方法がいまなお採用されている。これは非常に純粋なシートガラスであり、厚く小さなシートとして吹かれ、その後で板ガラスと同様に研磨される。この用途では、厚さが非常に大きいため、長い円筒を吹くことが非常に困難であり、やむなく後者の形式が採られているのである。これに対し、もっとも良質の普通シートガラスを研磨して作るイギリスの「パテントプレートガラス(patent plate-glass)」では、ここまで詳細に説明してきた通り、長く細い円筒からガラスを吹き上げる方式がとられている。

前述の吹き工程は、わずかな変更を加えることで、普通シートガラスの平滑な面とは異なる表面を持つガラスをも作り出すことができる。たとえば、フルーテッドガラス(溝付きガラス)や「マフド(muffled)」ガラスは、ほぼ同じ方法で製造される。ただし、それぞれのガラスに特徴的な溝模様や不規則な表面パターンは、工程の比較的初期段階で円筒表面に押し付けて刻み込まれる。

ここまでの概略説明から明らかなように、シートガラス製造法は、長く、複雑で、労力を要する工程であり、高度な熟練労働を必要とし、ごく単純な形――すなわち平板――を得るために、まずはるかに複雑な形――閉じた円筒――を作らなければならない。このため、直接機械的手段によって、少なくとも普通シートガラスと同等の「火磨き(fire polish)」を持つ平板ガラスを製造する方法を見いだそうと、多くの発明家が取り組んできたし、今なお取り組んでいることは、少しも不思議ではない。

初期の発明家たちはほとんど例外なく、ロール成形法の改良を通じて、満足すべき表面を持つロールシートを得ようと試みてきた。われわれはすでに、こうした試みがなぜ成功してこなかったのか、またそれが今後も成功を収める見込みが薄い理由を述べた。これとはまったく異なる路線を採ったのが、ジーヴェルト(Sievert)であり、機械的な吹きガラス製品の製造に関する発明の項で前に言及した人物である。この発明家は、大型ガラス製品の蒸気吹き法を利用して、平板ガラスを直接生産しようと試みた。彼の方法は、別章で述べた蒸気法によって、大きな立方体の容器を吹き上げるものである。その側面の平坦さは、平らな側面を持つ型の中へ、あるいはその型に押しつけながら吹くことで確保される。この平坦な側面を持つ容器を、最終的には五枚の大きなシートに切り分けようというのである。

しかしこの方法もまた、ガラスを炉から吹き装置のプレートへ移送する手段に関して、ロール成形における主要な困難のいくつかをはらんでいるように見える。実用上も、発明者はシートガラス用途として十分良好な表面を持つガラスを、まだ生産できていない。

別の系統に属する方法群は、溶融ガラスを炉から機械へいったん移動させる手段を完全に避け、溶融浴そのものから直接作業する点に特徴がある。こうした方法の中には、実際にアメリカで実用運転されているものもあり、ヨーロッパで実験されつつあるものもある。ただし、その完全な技術的・商業的成功は、いまだ証明されていない。しかし、これらの方法が、機械によるシートガラス生産の前途を阻んでいた数多くの困難のうち、もっとも大きなものを克服したことには、ほとんど疑いの余地がない。そのため、近い将来、問題を完全に解決することになるのは確実と思われ、その場合、これらの方法は当然、手作業の工程を急速に駆逐していくであろう。

これらの直接法のごく初期のものの一つでは、溶融ガラスを炉から外へ流し出し、タンクの側壁や底に設けた狭いスリットを通して、下方へと引き出そうとした。しかし、こうした狭い開口部を開いたまま維持しつつ、同時にガラスの流量を制御することは不可能であることがわかり、この提案は実行不能であった。ただし、最近のあるプロセスでは、この種の引き抜き開口の使用が復活している。

アメリカで実用運転されていると言われるプロセスも、完全な意味で満足のいくものとは言えない。というのも、これは平板の直接製造ではなく、円筒を機械的に製造する方法であるからであり、そのため、縦割りと平坦化という補助工程は、従来どおり必要とされるのである。この方法では、炉の上方から、鉄製リングを溶融ガラス浴の中へ降ろす。ガラスがリングに付着したところで、リングを機械でゆっくり引き上げると、それとともにガラスの円筒が引き上げられる。放っておけば、表面張力の作用でこの円筒はすぐにすぼまり、ちぎれてしまうが、アメリカ方式では、円筒が形成されるそばからその箇所を急冷することで、この作用を抑えている。これは、槽から現れたばかりのガラスに、両側から空気流を吹き付けることで行われる。こうして、任意の長さと直径の円筒を、浴から直接引き抜けると主張されている。この操作に付随する機械的困難は、たぶん克服されているのであろうが、そのために装置の単純さは犠牲になっていると思われる。このプロセス全体が、手作業による工程と比較してどれほど経済的であるかは、まだ十分には示されていない。

フォルコー(Fourcault)の発明は、ヨーロッパで現在、あるガラス製造業者の組合によって開発が進められているが、より直接的な方法を目指している。ここでもガラスは、溶融浴から直接、鉄製の引き上げ具によって引き上げられるが、この場合、浴に浸されるのはただの真っ直ぐな棒であり、目標は平板の引き上げである。この場合、表面張力の作用により、ガラスは細糸状にすぼまろうとする傾向がある。単純に出てきたガラスを急冷するだけでは、この作用を十分に抑えられないようであり、付随的な装置が追加されている。特許化されている装置の一つには、連結した金属棒を用いた機構が含まれている。これは、縦方向に引き上げられるシートと一緒に、ガラス中に浸されては連続的に引き上げられるように配置されており、そのことでガラスの縁を支持し、横方向への収縮傾向に対抗するのを助けるのである。別の装置は、溶融ガラスの表面に浮かべた大きな耐火レンガに開けられたスリット(またはオリフィス)を用いる。このスリットを通して、所望の厚さと幅のガラスが引き上げられるわけである。

しかし、このスリットの利用は、製品の完全性に明らかな悪影響を及ぼす。この方法でつくられたガラスのすべてには、スリットの縁の不可避な不規則性に起因する、長手方向のストリーエ(縞模様)がはっきりと現れる。また、この方法では、薄いガラスを引き上げることが実用上不可能なようであり、厚さ 2.5~3 mm(約 1/8 インチ)が、破損の少なさから見て許容しうる最小限である。このプロセスは、現在の開発段階においては、たしかに有望ではあるものの、シートガラスの機械製造という問題を解決したとは言い難い。というのも、シートガラスの利点がもっとも顕著に現れるのは、薄く軽い種類のガラスにおいてだからである。

一方で、この引き上げ法――あるいはそこから派生する何らかの発展形――が、研磨板ガラスの製造において、鋳込み法に取って代わる可能性は十分ありうる。ただし、この用途でも、もっとも大きなサイズの製品に対しては、関連する重量物の取り扱いの困難と危険が、重大な障害となるかもしれない。

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クラウンガラス(Crown Glass)
この製造分野は、ほとんど廃れたとはいえ、ここで簡単に触れておく価値がある。その理由は、一つには、特定の品物の製造にはいまだに用いられていること、もう一つには、ガラスの利用と操作に関する興味深い可能性を示しているからである。

クラウンガラス吹きの工程は、おおまかには次のように要約できる。まず、おおよそ球形の中空球を吹き、その後その一側に開口を設け、大きな加熱炉の開口前で高速回転させることによって、遠心力を利用して平板状の円盤にまで広げるのである。もちろん、実際の工程では、シートガラス製造とほぼ同じ要領で、適量のガラスをギャザリングするという前段階がある。このギャザリングは、中空の球状器に吹き出される。その後、この器物は、パイプとは反対側の一点に、小さな量の熱いガラスを付着させることで、副次的な鉄棒に取り付けられる。この棒は、ポンティル(pontil または punty)と呼ばれる。つまり、器物は一時的にパイプとポンティルの両方に付いている状態となる。その後、元のガラスの首部を割り取ってパイプから切り離し、ポンティル側には、開口部を持つボウル状のガラスが残る。

次に、このボウルを、特別な炉の大きな開口前で、きわめて強く再加熱する。開口部を火に向けて構え、ポンティルを水平に保ちながら回転させる。ガラスが軟化すると、その回転によって縁が次第に広がっていき、最終的には、炉口の前で高速回転している単純な平板状の円盤となる。この平板、すなわちクラウンガラスの「テーブル(table)」は、ある程度冷やされたのち、鋭い一振りでポンティルから切り離され、その後、簡単な炉でアニールされる。アニール炉では、ガラス円盤を積み重ねて入れ、炉を密閉し、自然な冷却に任せる。

この方法では、非常に大きな寸法の板ガラスを作ることはできないのは明らかである。直径 4 フィート(約 1.2 m)のテーブルは、すでにかなりの大きさであり、しかもその中央には、ポンティルに取り付けられていた痕跡として、ガラスの塊(「ブリオン(bullion)」)が残るため、テーブル全体を一枚のシートとして使うことはできない。したがって、テーブルは必ずずっと小さなシートに切り分けられる。装飾目的、特に「アンティーク」な外観が求められる場合には、この中央のブリオンがかえって好まれることがあるが、実用上は、このブリオンはガラスの使用を著しく妨げる要因である。実際、中央のブリオンから数インチほど離れた部分でさえ、クラウンガラスには同心円状の波紋が現れるのが普通であり、古い建物の窓に用いられたガラスを見分ける有力な手掛かりとなるものの、ガラスの完全性という点では明らかに欠点である。

他方で、クラウンガラスは、顕微鏡用スライドやカバーガラスなど、特定の用途ではいまなお高く評価されている。これらの用途では、平坦化工程に起因するような表面の傷がまったくない、完全に滑らかな表面が望まれるからである。したがって、普通のシートガラス用途という意味では、この製法はもはや歴史上の関心事にすぎないが、特殊な場合には、いまなお用いられている。

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第十一章
着色ガラス

これまでの各章で、ガラスの色とそれに影響する要因について、折にふれて言及してきたが、そこでの議論は主として、可能なかぎり無色に近いガラスを得るという観点からなされてきた。当然のことながら、ガラスが使用される用途の大部分では、目に見える着色がないことが望ましく、あるいは不可欠でさえある。しかし一方で、明確な着色が求められる用途も数多く存在する。

工業的・技術的用途としての着色ガラスには、鉄道信号灯、車両の尾灯、自動車の赤色尾灯、さらには港湾灯や灯台の赤・緑セクターなどに用いられるルビーガラス・グリーンガラス・紫ガラスがある。また、写真術においても、ルビー、グリーン、イエローなどの着色ガラスが広く用いられている。色の正確さに対する要求が比較的ゆるやかな用途としては、公共建築や住宅建築における建築・装飾目的での使用があり、ここでも着色ガラスは非常に広く使われている。さらに、ステンドグラス工芸においては、着色ガラスが芸術的創作の土台そのものとなっている。また別の方向では、装飾品や、ある種の食卓用器物にも着色ガラスが用いられる。

今日、ガラス職人が持つ色彩資源が、多くの場合、残念ながら無駄な方向に使われていることは認めざるをえないが、真に芸術的な手に委ねられた場合、他にこれほど美しい成果をもたらしうる材料はほとんど存在しないと言ってよい。

ガラスの「色」とは、ふつう、そのガラスを比較的薄い板状にして透過光で見たときに観察される色調を指す。したがって、実際の色は、ガラスの種類一般に帰属する性質というよりも、同一溶解回から取られた各個別片の厚みによって左右される性質である。同じ溶解回から採られた厚い片と薄い片とでは、見える色が異なる。すでに述べたように、シートガラスや板ガラスのように、通常の見方ではほとんど無色透明に見えるガラスでも、かなりの厚みを通して見ると、はっきりした緑色を呈する。また、「フラッシングルビー(flashing ruby)」と呼ばれるガラスは、ごく薄い層では鮮やかな赤色を示すが、1/16 インチ(約 1.5 mm)の厚みに達すると、透過光でも反射光でも、ほとんど黒く見えるほど不透明になる。同様に、コバルトブルーガラスを薄層について分光器で調べると、かなりの割合の赤色光が透過していることがわかるが、厚い片ではこれらの赤色光が完全に遮断される。

これらの現象は、透明媒体における色が、その媒体が異なる色の光に対して異なる吸収力を持つことに起因することを思い出せば、容易に理解できる。すべての透明物質――そしてガラスももちろん――は、実際には「部分的」にしか透明ではない。そうした物質を透過する光波はすべて、媒体内部で徐々に吸収されていき、その吸収の程度は、波長によって異なる。常に、ある特定の波長に対して、その物質が入射光のエネルギーを吸収し、自身の分子または原子の熱振動に変換する能力を持つ領域が存在する。もっとも透明で無色に近いガラスの場合、可視光の波長範囲に限って言えば、この吸収は無視しうる程度に小さい。しかし、可視光の範囲を超え、スペクトルの紫よりもさらに短い波長領域に目を向けると、普通の無色ガラスであっても、そこで強い吸収を示すことがわかる。たとえば、黄色光を生じさせる波長のおよそ半分の長さを持つ光波に対しては、普通のガラスは、金属が白色光に対してそうであるのと同じ程度には不透明である。

このような広い意味では、すべてのガラスは「着色されている」と言ってよい――すなわち、すべて選択的吸収の能力を持っている。しかし、通常の意味でほとんど無色と見なされるガラスでは、この吸収が当てはまるのは、われわれの目が感じ取れる可視範囲より、かなり短いか、あるいはかなり長い波長に限られる。一方、通常の意味で「有色」に見えるガラスは、その吸収能力が可視スペクトルの領域にまで及んでいるがゆえに、そのように見える。たとえば、青または紫のガラスは、赤色光に対してほとんど不透明であり、逆に赤色ガラスは、青・緑・紫の光に対して不透明である。

このことを印象的に確かめるには、濃い青色または緑色ガラスの片と、濃いルビーガラスの片とを、それぞれ単独で見て透明であることを確かめたうえで、二枚を重ねて見ればよい。そうすると、この組み合わせは、ほとんど完全に不透明に見えるはずである。

ここで自然に生じる疑問は、たとえば、白色ガラスと赤色ガラスとの本質的な違い――言い換えれば、後者が青色光を吸収する能力を持つ理由――はいったい何か、ということである。現在の知識の段階では、完全に満足のいく答えを与えることはできないと、著者は考えている。しかし、ある程度までは、この違いを説明することができる。この違いは、第一に、無色ガラスに特定の化学元素を追加導入することによって「生み出される」。こうした物質は、一般に「着色酸化物」と呼ばれているが、必ずしも酸化物の形で導入されるとは限らず、しばしばガラス中では全く別の形で存在している。これらの元素や化合物は、可視スペクトルの特定の領域の光波を強く吸収する能力を持つ。

こうした着色物質は、おおまかに二つの群に分けることができる。第一の群(おそらくもっとも大きな群)は、ガラス中に真の溶液として存在するものであり、金属元素はケイ酸塩(シリケート)やその他の化合物(ホウ酸塩、リン酸塩など)として結合した形でガラスに溶解している。この場合、ガラスに与えられる色は、その元素固有のものであり、たとえば硫酸銅を水に溶かしたときに生じる水の着色と同じように説明できる。

第二の群は、全く違った挙動を示す。これらは、ガラス中で極めて微細な粒子として存在し、真の溶液状態ではなく、むしろ「コロイド溶液」と呼ばれる状態に近い、機械的懸濁として保持されていると思われる物質である。ジーデントプフおよびシグモンディ(Siedentopf & Szigmondi)の超顕微鏡的粒子に関する研究のおかげで、次のことは疑いなく知られている。すなわち、ルビーガラスをもっともよい例とする特定の着色ガラスにおいて、着色物質(たとえそれが金であれ、一酸化銅であれ)は、ガラス中に微小ではあるが分子や原子よりはるかに大きな粒子として存在し、その形で懸濁されているということである。これらの粒子の存在は、光学的手段によって証明されているが、それらが「見える」とまでは言えない。いずれにせよ、これらの懸濁微粒子は、それぞれが一つの単位として、ガラスに与える色に対応する波長の光を吸収していると考えるのが自然である。

このように考えると、なぜこれらのガラスの色が、加熱や冷却の速度といった操作によって、きわめて容易に変化したり損なわれたりするのかが理解しやすい。冷却が速すぎると、たとえば懸濁微粒子の分布や大きさ、形状が変化し、その結果、色調が大きく変わったり、あるいは懸濁状態が完全に消失してしまうこともありうる。その場合には、着色元素が再びガラス中に真の溶液として入り込んでしまい、もはや特有の色を与えなくなるのである。

本書の目的からすれば、ここでさまざまな着色ガラスの配合レシピを列挙することは、まったく適切でない。しかし、通常ガラスに添加される各元素が、どのような色または色の範囲を生じうるかを大づかみに述べておくことは、有用であろう。一般的に言えば、軽い元素は、通常、ガラスに顕著な着色を与える傾向がなく、逆に、重い元素は、ガラス内に溶け込むか懸濁状態で保持されさえすれば、きわめて強力な着色効果を持つ。鉛元素は、この規則からの顕著な例外のように見えるが、これは次の事実による。すなわち、他の多くの重元素のケイ酸塩が多少とも不安定なのに対し、鉛のケイ酸塩は非常に安定であり、還元剤の作用を受けない限り分解されないということである。しかし、鉛ケイ酸塩がこのように分解されると、そのガラスはただちにきわめて濃い色を呈するようになり、不透明な黒に変化する。薄い層では、むしろ濃い褐色に見える。

他方、鉛を多量に含むガラスは、常に明らかな黄色味を帯びており、この着色は、不純物によるものではなく、鉛ケイ酸塩そのものの色に起因することが示されている。ここまで述べたことは、稀金属タリウムとその化合物にも、わずかな修正を加えるだけでほぼそのまま当てはまる。タリウムは特殊目的のためにガラスに導入されることがある。

これら二つの例外的物質をひとまず脇に置き、以下では元素を化学的分類に従って順番に見ていく。稀元素については、実務上影響を及ぼす場合(たとえば微量混入が結果を左右する場合)を除き、考慮しないことにする。

アルカリ金属――ナトリウム、カリウム、リチウムなど――およびその化合物は、それ自体として特有の着色効果を持たない。ただし、ソーダやポタッシュの存在は、マンガン、ニッケル、セレンなどの色に影響を与える。

銅は、その多くの化合物が濃く着色していることからも予想されるとおり、ガラスに強力な着色効果をもたらす。二価銅(Cu²⁺)のケイ酸塩は、強烈な緑色から緑がかった青色までの色調を与える。銅を金属または酸化物の形でガラスに添加すると、通常はこの緑色が生じる。しかし、銅の完全な酸化が還元性物質の存在によって妨げられ、かつガラスをゆっくり冷却したり、再加熱と徐冷を繰り返したりすると、強烈なルビー(赤)着色が得られる。実用上は、この色は銅に加えてスズを混合することで得られ、溶融条件を酸化より還元が優勢になるよう調整する。こうすると、銅はガラス中に微細で均一な懸濁状態で残る。粒子の大きさと分散状態がちょうどよい場合、美しい赤色が得られる。しかしこのガラスは、きわめて着色力が強いため、非常に薄い板でしか使用できず、通常は無色ガラスの表面に「フラッシュ」して、実用上必要な強度と厚みを確保する。

また、銅の配列状態をわずかに変えるだけで、たとえば粒子をやや大きく成長させるなどすると、その結果、色はにごった不透明の縞状物質となり、シーリングワックスに似た色と外観を持つ。このような製品は、ガラス製造者の観点から見れば、もちろん役に立たない。さらに、極めてゆっくり冷却し、その他の有利な条件が揃った場合には、銅粒子(一酸化銅粒子であれ金属銅粒子であれ)が成長して、目に見えるほどに大きくなり、きらめく微細な鱗片として現れることがある。こうして、アベンチュリン(aventurine)として知られる美しい物質が生じる。

銀は、ガラス混合物に添加されることは決してない。というのも、あらゆる銀化合物から銀が非常に容易に金属状態へと還元されるため、ガラス中に溶解させて保持することができないからである。その結果、微細な金属銀の懸濁体となって、ガラスを、フリントガラスにおける鉛の還元の際に見られるのと同様、黒く金属的な外見にしてしまう。一方、銀はガラス表面に塗布して焼き付けることで、美しい黄色のステインを与えるため、その用途では広く用いられている。

金は、鮮やかなルビー色を与える目的でガラスに導入される。金の挙動は、基本的に銅とよく似ているが、この貴金属は、還元剤を加えなくとも、容易に金属状態へ戻る傾向を持つ。そのため、銅ルビーの場合のようにスズを併用する必要はないが、溶融時の加熱と冷却の速度を適切に調整しなければならない。急冷した金含有ガラスは、特別な着色を示さないが、その後再加熱して徐冷することで、濃いルビー色が現れる。金による着色は、銅に比べて明らかに安定で均一であり、そのため、より淡い赤色の陰影を得ることが可能である。「ゴールドルビー」は、ふつうのシートガラスの厚みにおいても利用できる程度の色深度で作ることができ、銅ルビーのように必ずしもフラッシングを必要としない。

第 2 族元素であるマグネシウム、カルシウム、ストロンチウム、バリウム、亜鉛、カドミウムなどの化合物は、カドミウムを除けば、ガラスに特有の強い着色を与えることはない。カドミウムも、硫黄と結合した硫化カドミウムの形で存在する場合に限って、かなりの着色力を持つ。この化合物は、ガラスに豊かな黄色を与える。硫化バリウムもまた、濃い緑色や黄色をつくりやすく、多量のバリウムを含むガラスでは、これらの色の発生を避けることが非常に難しい。亜鉛に着色効果を認める記述も見受けられるが、実際には事実と合致しない。

第 3 族元素のうち、ガラス中に顕著な量で存在しうるのは、ホウ素とアルミニウムだけである。ホウ素はホウ酸またはホウ酸塩として存在し、この形では着色効果を持たない。また、遊離のホウ素がガラス中に分離して存在する傾向も見られない。アルミニウム化合物も同様に、固有の着色力を持たない。ただし、ある種のアルミニウム化合物は、特定用途向けの白色不透明ガラス(いわゆる「オパール」ガラス)を作るために利用される。この場合の作用は、スズ酸化物やアルミニウムフッ化物の場合とよく似ており、これらの物質はガラス中に完全には溶解せず、微小粒子として懸濁される形で残ると考えられている。

第 4 族元素は、ガラスとの関係でより重要である。炭素は、ガラス中に導入されると、二種類の大きく異なる着色効果をもたらす。一つは間接的なものであり、炭素が他の物質に対して還元剤として働くことに由来する。もう一つは直接的なものであり、微細な炭素粒子や炭化物自体がガラス中に分散することに由来する。この後者の効果は、銅、金、鉛などの微細粒子が存在する場合と同種であるが、炭素粒子は比重が小さいため、赤や黒よりも、むしろ黄色や褐色系の色を生じやすい。また、炭素の化学的性質から、これらの色は急冷にも比較的影響されにくい。つまり、ガラス中の炭素粒子の着色は、冷却速度にあまり敏感ではない。

他方、炭素の還元作用は、ガラス中にごくわずかな割合で存在するだけでも顕著な影響を発揮しうる。前章までに見たように、ソルトケーキを含むガラス配合には、コークス、木炭、無煙炭などの炭素源が、還元剤として定期的に加えられる。この目的に対して、もしわずかにでも過剰な炭素が用いられると、ナトリウムおよびカルシウムの硫化物や多硫化物が生成し、これらの硫化物は、すべての硫化物がそうであるように、ガラスに緑がかった黄色の色調を与える。その際、他にも有害な結果を伴う。

ケイ素は、ケイ酸(シリカ)およびその化合物として、あらゆる種類のガラスの基本成分を構成しており、この形では着色物質ではない。しかし一方で、特定の条件下では、通常のガラス炉内温度でも金属状態のケイ素が生成されうることは疑いなく、もしガラス中にこうした状態で存在すれば、ケイ素はガラスを着色するものと思われる。したがって、強力な還元剤――固体炭素であれ、炉内ガス中の炭素成分であれ――が、普通ガラスに見られる特有の着色をもたらす場合、その一部はガラス中でのケイ素の還元に起因している可能性がある。

スズは、それ自体としてガラスに特別な着色効果を持たない。酸化スズは、微細な懸濁状態で存在する場合に、オパール様の乳濁や、大量に用いれば白色不透明を生じさせる。しかし、スズは銅と組み合わせて銅ルビーを作るために用いられる。

鉛とタリウムについてはすでに触れたので、ここでは、それらが他の物質の着色効果を増強することを付け加えるだけでよいであろう。これは、おそらく、一般に密度が高く屈折率の大きいガラスほど、低屈折率・低密度のガラスに比べて着色剤に対して敏感であるという事実の一例に過ぎない。同じことはバリウムについても当てはまる。すなわち、鉛・タリウム・バリウムを含むガラスは、いずれも着色剤に対して敏感である。

リンは、リン酸の形でごく少数のガラスに存在するが、この形では着色効果を示さない。リン酸カルシウムは、ガラスにオパール様の乳濁を与える目的で用いられることがある。その作用はおそらく、前述の酸化スズやアルミニウムフッ化物と類似しており、これらもまた、完全にはガラス中に溶解せず、微細粒子として懸濁する。

ヒ素は、ガラスそのものの着色には寄与しない。また、その揮発性のため、特別な条件下を除けば少量しかガラス中に保持されない。ヒ素には「脱色」作用があるとされることがあるが、もしそのような作用が存在するとしても、それはヒ素化合物が酸素のキャリアとして働き、ガラス内に酸素を供給することで、他の不純物の酸化を助けることに帰せられよう。ヒ素に関するこの点については、後述するマンガン化合物の項で再び触れる。

アンチモンは、特殊なガラス配合によく加えられるが、これ自体、顕著な着色効果を示すことはない。ただし、多量に含めれば白色不透明を生じさせる可能性がある。硫化アンチモンには着色力があるが、その揮発性と不安定さのため、その効果は一定しない。

バナジウムは、稀少であるため着色目的でガラスに意図的に添加されることはないが、ごく微量であっても、鮮やかな黄色や黄緑色の色調を生じさせる能力がある。一方、バナジウムは、スタウアブリッジ地区を含む多くの耐火粘土に微量含まれており、そのため、こうした粘土で作ったポットでガラスを溶かすと、ポットからガラスにバナジウムが移行し、色を損なう危険がある。

硫黄は、そのさまざまな形での存在が、ガラスの色に多様な影響を及ぼす元素である。すでに述べたように、ナトリウム・カルシウム・カドミウム・アンチモンの各硫化物は、いずれも着色作用を持つ。硫黄は、おそらくガラス中に遊離元素として存在することはないと思われるが、硫黄やその酸化物は、炉ガス中にしばしば含まれており、高温ガラスに対して顕著な作用をおよぼすことがある。ブロウイングホールやアニール炉の雰囲気に硫黄ガスが含まれると、ガラス表面付近に、特有の黄味がかった乳濁が生じるが、これはガラス内部のかなりの深さにまで浸透し、その後いかなる処理を施しても除去できない。とくに、ソルトケーキを原料に用いたガラスでは、硫黄の溶融体や蒸気との接触によって、ガラス器物が徐々に劣化することがある。これらの作用の正確な機構はいまのところ不明であるが、おそらくガラス内に硫黄化合物が形成され、それに伴って微小な気泡が発生するのではないかと推測される。

セレンは、化学的には硫黄にきわめて近い元素であり、比較的稀少ではあるが、着色および脱色剤としてガラス製造に利用されつつある。適切な条件のもとでガラス混合物にセレンまたはその化合物を導入すると、特有の黄味がかったピンク色の着色が生じるか、あるいは生じる傾向を持つ。生成される色の強さは、ガラス全体の化学的性質と、当然ながら、溶融工程終了時にガラス中に残存するセレンの量に依存する。後者は、溶融工程の時間と温度によって決まる。セレンガラスのピンク色は、とくにバリウムを塩基成分とするガラスでよく現れ、また鉛ガラスでも見られるが、ソーダ石灰ガラスでは色が出にくい。脱色剤として用いる場合、セレンの作用は、ガラスの緑色または青色の色調を「覆い隠す」ために、補色の色を付加するという形で現れる。覆い隠すべき元の色調の深さが小さい場合、セレンはこの用途に非常にうまく用いることができる。ただし、この用途にしてはかなり高価な物質であることは否めない。セレンやその化合物には、酸化剤としての「洗浄」作用は認められない。

クロムは、ガラス職人にとってもっとも強力な着色物質の一つであり、広範に利用されている。その利点は、比較的安価であること、純粋な化合物の形で容易に得られ、その着色効果を事前に正確に見積もることができること、さらにクロムによって得られる着色は、酸化的・還元的条件や、溶融の長さや温度にほとんど影響されず、非常に安定していることである。実際に色に大きく影響する要因は、おそらく冷却速度だけである。クロム単独で得られる色は、明るい緑色のさまざまな深さであり、その濃さは、ガラス中のクロム含有量と、ガラス自体の純度に応じて変わる。クロムはしばしば、鉄や銅と組み合わせて、いわゆる「冷たい青」や「セラドングリーン(青磁色)」といった中間色を作るのにも用いられる。

クロムは、通常、二クロム酸カリウムとしてガラス配合に導入される。ほかの化合物を使うことも理論的には可能だが、この物質はいくつかの利点を持つ。まず第一に、クロムの着色力は非常に強いため、ごく微量しか加えることができない。もしクロム酸化物そのものを用いるとすると、配合ごとの秤量はきわめて厳密に行わねばならない。これに対し、二クロム酸カリウムには有効成分であるクロムの割合がずっと小さいため、より大きな重量を扱うことができ、その分だけ秤量誤差への許容範囲も広がる。もう一つの理由は、クロム酸化物がきわめて難融であり、ガラスに溶け込みにくいこと、そしてその存在がガラスを粘稠で溶けにくいものにしてしまうことである。この点、二クロム酸塩を用いれば、一緒にアルカリ分がガラスに供給されることになり、これが溶解中のクロムの溶解を助けるとともに、最終的なガラスの流動性と柔らかさを回復させるのに役立つ。ただし、クロムの溶解過程には一定の時間が必要であり、クロムを含むガラスは、溶融時間が不十分だと、まだら模様を呈することがある。

ウランは、高価で稀な元素であるが、ごく少量加えるだけで、美しい蛍光性の黄色を与えるため、特殊用途のガラスに用いられる。この黄色はきわめて特徴的で紛れがなく、そのため他の黄色ガラスをウランガラスの代用品とすることはできない。しかし、その高価さゆえに、使用範囲は広くはない。ウランは、通常、酢酸ウラニルや硝酸ウラニルなどの化合物の形で配合に加えられる。これらはどちらも、小さく鮮烈な黄色結晶として得られる。

フッ素は、多くのガラスにアルミニウムフッ化物などのフッ化物として存在する。フッ素自体は本質的な着色物質ではないが、アルミニウムフッ化物は、いわゆる「オパールガラス」をつくるためのもっとも一般的な手段である点で、ここで触れておく価値がある。このフッ化物は、しばしばフッ化カルシウムと長石を組み合わせて導入されるか、あるいは天然の氷晶石(クリオライト――ナトリウムとアルミニウムの複フッ化物)として導入される。

マンガンは、ガラス職人にとってもっとも重要な着色元素の一つである。マンガンを、他の着色剤を含まないガラスに加えた場合、マンガン化合物は、淡いピンクがかった紫からスミレ色にわたる色調を作り出す。その正確な色合いは、ガラスが鉛を塩基とするか、石灰を塩基とするか、あるいはバリウムを塩基とするかによって変わり、またアルカリ成分としてソーダを用いるかポタッシュを用いるかによっても変化する。しかし、一定割合のマンガンが与える色の性質と強さは、混合物に含まれる塩基の種類だけでは決まらない。溶融(「ファウンド(found)」)の温度と持続時間、およびその間の炉内雰囲気――酸化的か還元的か――が、色に大きく影響する。たとえば、マンガンによってわずかにピンクまたは紫の色調を帯びたガラスであっても、還元性ガスを作用させたり、一片の木片のような還元剤を加えたりすると、完全に無色透明に戻ってしまうことがある。

このように、マンガンはガラス職人にとって非常に有用な元素ではあるが、その使用には高度の技術と注意が必要であり、多くの場合、希望する色を得るために何度かの試行錯誤的操作を伴う。

実務上、マンガンは、他の着色剤と併用して「複合」色を作る目的で用いられることが多い。この場合、マンガンは「暖かい」成分――すなわちピンクまたは紫の成分――を提供する。こうした用途の一つとしてもっとも重要なのが、マンガンを「脱色剤」として用いることである。ガラス職人が「脱色剤」と呼ぶのは、原料の性質や溶融条件のために、望ましいよりも緑がかった色になってしまうガラスの色を改善するために用いる物質のことである。もっとも完全で満足のいく方法は、もちろん、より純度の高い原料を用い、ガラスを汚染しにくい溶融法を採用することである。しかし、費用の点からこの根本策がとれない場合には、望ましくない色を、それ自体同じくらい望ましくない補色の色で「覆い隠す」という、やや妥協的な方法をとらざるをえないことが多い。

この手法の理屈は、人間の目が、ごくわずかな光の吸収であれば、それが可視スペクトル全体にほぼ均一に分布する限り、ほとんど感知しないという事実に基づいている。言い換えれば、透過光の色がほぼ中性であれば、総吸収量が多少増えても目にはほとんどわからない。ところが、同じ程度の吸収がスペクトルのある一部分に集中していると、実際にはより多くの光が通っているにもかかわらず、透過光に色がつくために、目にはすぐにわかってしまうのである。

さて、マンガンをごく微量加えたガラスに生じる色は、通常の、やや不純なガラスに見られる青緑色の色調に対して、ほぼ補色関係にあることが知られている。そのため、このようなガラスに適量のマンガンを加えると、透過光の色はほぼ中性――わずかに黄色味を帯びることも多い――となり、全体としての吸収は少し増えるものの、それは厚い板で見た場合にかろうじてわかる程度にとどまる。このようにして、元の緑がかった色調が視覚的に覆い隠されるのである。この「カバー」は、ソーダフリントガラス(硝子食器用の透明ガラス)でもっとも完全に成功するが、シートガラスや板ガラスに用いられるソーダ石灰ガラスについてもある程度用いられている。

マンガンをこの目的で加える場合、通常は天然鉱石として十分な純度で入手できる黒色酸化マンガン(マンガン二酸化物)の粉末として配合に導入される。この形で加えられたマンガン化合物は、二重の作用を行う。一方では、二酸化物の分解によりガラス溶融中に酸素が放出される。この酸素は、有機物を酸化して除去し、冷却後に還元剤として悪影響を及ぼすことを防ぐとともに、ガラス中に存在する鉄化合物を、より高次の酸化状態(フェリック状態)に変える。この状態の鉄は、より低次の状態(フェラス)に比べて、着色力がはるかに弱い。これらの作用が、酸化剤が持つ「洗浄」効果の一部である。他方で、マンガン自体の着色作用が後から現れ、前述のような結果をもたらす。

鉄やその他の化合物による緑がかった色調をこのようにマンガンで覆い隠せるのは、それらの不純物がごく微量しか含まれていない場合に限られる。より多量の鉄化合物などがガラス中に含まれると、マンガンを加えても全体の色は変化するものの、もはや中和することはできない。鉄とマンガンの比率を変えることで、非常に広い範囲の色調を得ることができるが、そのもっともよく知られたものが、「ホックボトル(hock-bottle)」と呼ばれる暖かな褐色である。これと、鉄だけによる明るい緑、マンガンだけによる紫とのあいだのあらゆる中間色が、適切な比率で得られる。マンガン色が溶融条件に敏感であるという点は、こうした混合色ではいっそう顕著である。ここでは、鉄化合物とマンガン化合物の両方が酸化状態の変化を受けやすく、その変化が色調に強く影響するからである。銅とマンガン、クロムとマンガンの組み合わせによる色も用いられる。実際、ほとんど任意の数の着色物質を同時にガラス配合に加えることができ、通常、その結果として現れる色は単純な加成的合成である。

鉄は、地殻を構成する物質の中に広く分布しているため、どのようなガラスからも完全に排除することは非常に困難である。もっとも純粋なガラスには、ごくわずかな痕跡しか含まれていないが、安価なガラスには常に測定可能な量の鉄が含まれており、最も安価なガラスでは相当に多く含まれている。鉄の着色効果については、これまでの節やマンガンの項などで断片的に触れてきた。ここで付け加えておきたいことは多くない。低次の酸化状態(フェラス)の鉄化合物が常にはっきりした緑色を呈するように、ガラスもまた、一般的なガラス炉の還元性雰囲気のもとで鉄を含んでいる場合には、明瞭な緑色の色調を示す。その強さは、ガラス中の鉄の量に応じて変わる。ただし、マンガンなどの「脱色剤」が加えられていない場合に限る。

フェラス化合物は、硝酸塩などの酸化剤により、容易により高次の酸化状態(フェリック)へと変換されるが、同様の変化は、溶融ガラス中でも起こりうる。フェリック化合物は、対応するフェラス化合物に比べると、ずっと弱い黄色味を呈し、その濃さもずっと控えめであるが、同じことがガラス中の鉄にも当てはまる。そのため、ガラスに酸化剤を導入することの「洗浄」効果が生じるのである。ただし、酸化されるのは鉄化合物だけではないことを忘れてはならない。多くの種類のガラスでは、有機物、炭素、硫黄化合物などの酸化も、色調の改善にきわめて重要な役割を果たしていると思われる。

ニッケルは、その多くの化合物が濃く着色していることからも予想されるように、ガラスに対して強い着色力を持つ。その正確な色合いは、ガラスの種類とニッケルの酸化状態によって変化するが、通常は緑がかった褐色調が多い。ただし、特別な条件のもとでは、より鮮やかな色彩も得られる。実用上、ニッケルは着色剤として広く用いられてはいないが、「脱色剤」として用いることが提案されたことがある。しかし、著者の知るかぎり、この目的で成功裏に使用された例はない。実際、ニッケルが生じさせる色は、通常のガラスの緑や青の色調に対して、補色関係にあるとはとても言えない。

コバルトは、ガラスに対してもっとも強力な着色剤の一つであり、あらゆる種類の青色ガラスの製造に広く用いられている。コバルトによって得られる青は、おそらくガラス職人が利用できる色のうちでもっとも「確実な」ものであり、他の色を変化させるような多くの要因にもほとんど影響されない。コバルトの唯一の難点は、その着色力が非常に強いため、ほとんどの場合、ごく微量しかガラス配合に加えることができないという点である。かつてコバルトは「ザフル(zaffre)」という不純な酸化コバルトの形でガラスに加えられていたが、現在では、より高価ではあるものの、はるかに望ましい純粋な酸化コバルトがほぼ例外なく用いられている。この物質はきわめて一定した組成を示し、正確な秤量によって、ガラス職人は配合ごとに必要な量のコバルトを精確に導入することができる。

こうして見てきたように、現代のガラス製造者が利用しうる色調の範囲は、ほとんど無限とも言える広さを持つ。各色素を単独で用いることもできるし、いくつかを組み合わせて中間色を作り出すこともできる。そのため、実務上もっとも大きな困難は、特定の色調を再現する――すなわち、同じ種類のガラスについて、異なる時期に製造したロット同士でも自由に組み合わせて使えるように、色をできる限り一定に保つ――ことである。この理想は完全には達成されていないかもしれないが、特別な技術用途向けのガラスでは、きわめて高い程度まで実現されている。

また、ガラス職人は、多数の異なる色調を作り出すだけでなく、同じ色調についてさまざまな濃さを作り分けることも求められる。多くの場合、これは単純に着色物質の添加量を変えることで容易に実現できる。着色力がそれほど強くない物質であれば、この方法によって色の濃淡を比較的自在に調整できる。しかし、銅ルビーのように、きわめて強い着色力を持つガラスでは、この方法が利用できない。銅ルビーガラスを、一般的なシートガラスと同じ厚さで使用できる程度まで薄い赤色にすることは、事実上困難である。

このような場合にとられる手段が、「フラッシング(flashing)」と呼ばれる方法である。これは、濃い色のガラスを極めて薄い層として、普通の無色ガラスの表面に被覆する方法である。通常は、フラッシュガラス用の溶解ポットを、無色ガラスのポットのすぐ横に置き、吹き竿で最初に少量のルビーガラスを取り、その上に後続のギャザリングとして無色ガラスを巻き取る。このようにして得られた複合ギャザリングを、前章で述べたように円筒に吹き上げると、ルビーガラスは円筒の内面に薄い層として分布する。ギャザラーとブロウアーには、この層を均一な厚さに保ち、ちょうど望ましいルビー色になるように分布させるために、高度な注意と技能が要求される。着色層が極めて薄いので、厚みのわずかな不均一が色の濃さに大きな差となって現れ、実際、成功度の低い円筒では、色むらがしばしば見られる。

このようなフラッシュガラスでは、ルビー層と無色層の化学組成をうまく選んで、両者の線膨張係数をできるかぎり一致させておく必要がある。もしこの条件を満たさないと、ガラス内部に大きな残留応力が生じ、破損を招きやすくなる。また、ルビーガラスの膨張係数が無色ガラスより大きいと、平坦化後のシートはフラッシュ側から反り上がる傾向を持ち、アニール炉から完全に平らな状態で取り出すことができなくなる。

フラッシング法は、もっとも頻繁には銅ルビーに適用されるが、他の色にも広く用いられる。このようなフラッシュガラスは、エッジ方向から見るとすぐに見分けがつく。側面から透かして見ると、シートのほとんど全厚が、普通のシートガラスに特有の緑がかった色を示し、着色層はごくわずかな厚みしか占めていないことがわかる。同様に、このようなフラッシュガラスを、表面の着色層が部分的に除去されるように切断したりエッチングしたりすると、白い地色に色付きの地が現れる。これは、特定の装飾効果を得るために用いられる。なお、ここで説明したフラッシング法は、ギャザリングから吹き上げられるあらゆるガラス器物に適用することができ、着色層を器物の内側に置くことも、外側に置くことも可能である。

ガラス職人が供給する色付きガラスの「パレット」に加えて、ステンドグラスの芸術家には、さらにもう一つの色彩源がある。それは、ガラス表面に塗布され、その後「焼成(firing)」によって発色と半永久的な定着を得るステインや透明色である。こうして得られる色もある意味では一種のガラス――より正確にはガラス質の釉――であり、その原料は絵付師の筆によってガラス上に塗られ、加熱によって初めてガラスと結合し溶け合う。

ただし、この場合に適用しうる温度には、いくつかの制約がある。まず、母材となるガラス自体が軟化しすぎないよう、温度を制限しなければならない。また、多くの顔料自体が高温に耐えうるものではない。そのため、これらの焼き付け色に含まれるフラックス(溶融剤)は、極めて融点の低いものでなければならず、その結果、ガラス自体に比べて化学的安定性が大きく損なわれることは避けられない。

ガラス絵付けを、審美的側面を抜きにして技術的観点からだけ見ても、その全体像はきわめて広大であり、本書の範囲を超える。したがって、ここではこの問題に踏み込まず、ただ一点だけ、ステンドグラスとガラス絵付けに関する技術的な事項に触れておく。それは、技術的に「完全」であるということが、必ずしもすべての用途にとって望ましいわけではない、という一例である。

近代において技術的に優れた着色ガラスが生産されるようになったことは、一見意外なことに、ステンドグラスの芸術的品質の著しい低下を伴った。そのため、かつてのステンドグラスの技法は「失われた技術」とされ、ガラス職人は、昔のような鮮やかで美しい色を再び作り出せないと非難された。しかし、より綿密な研究により、問題の本質は、現代のガラスの色彩が、少なくとも古いガラスと同じくらい鮮やかで多彩であるにもかかわらず、その内部構造があまりにも完全に均質であることにあると判明した。すなわち、現代のガラスは、改良された設備と方法のおかげで、気泡やストリーエなどの不完全さをほとんど完全に排除してしまっていたのである。

窓ガラスや食器用ガラスのような一般用途では、この純度の向上が製品の美観を大いに高めるのは言うまでもない。そのため、ガラス職人が、芸術用の着色ガラスについても同様の「改良」を試みるのは自然なことであり、実際にはおそらく、ステンドグラス職人自身が、より「よい」ガラスを求めてこの改善を促したのかもしれない。しかしながら、より詳細な検討が進むにつれ、このような完全に近い近代ガラスが、芸術的用途、少なくともステンドグラスという用途には、むしろ適さないことが明らかになった。

完全に平滑な表面と、内部にまったく不規則のないガラス片に当たった光は、色が変化するだけで方向はほとんど変えられずに通り抜ける。そのため、そのようなガラス越しには、外界の物体がはっきりと見え、ガラス自体の神秘的な魅力は大きく損なわれてしまう。他方、表面が不規則であり、内部にもストリーエや気泡、さらには微小な固体の包有物まで含んでいるガラスに光が当たると、光はあらゆる方向へ散乱され、屈折され、偏向される。その結果、光がガラス自体の内部から発しているかのような印象が生じ、ガラス全体が自ら光を放っているように見える。外界の物体はほとんど見分けがつかなくなり、窓全体が、一つの光り輝く自照体のように感じられる。

この事実に気付かされて以来、近代のガラス製造者たちは、より安定したガラス組成と広い色彩範囲を維持しながら、古いガラスの望ましい性質を再現する努力を行い、かなりの成功を収めてきた。古いガラスの不規則な表面は、普通の吹きガラスではなく、ロールドガラスや「マフド」ガラスを用いることで模倣される。また、内部組織を均一でない状態にするために、固体や気体の包有物を意図的に導入し、さらにはガラスを異なる密度の層として残すような操作を行う。その結果として現れる層状構造は、完成したガラスではストリーエとして目に見える。このような工夫により、現代のカラーガラス職人は、少なくとも古典期のステンドグラス工芸家が利用できたものと同等、あるいはそれ以上に適した材料を手にしていると主張しても、あながち誇張ではないであろう。

着色ガラスの技術的用途については、すでにいくつか触れたが、なお検討すべき点が一、二残っている。鉄道や船舶用信号のような用途では、経験則の積み重ねにより、特定の色――とくに赤と緑の特定の色調――がもっとも適しているとされている。他方、写真術に関連するさまざまな用途においては、ガラス職人はまだ十分に新たな要求に応えていないようであり、そのため、写真暗室用ランプの被覆や、オルソクロマチックあるいは三色分解写真用の光学フィルタとして、本来なら着色ガラスで作るべきところを、むしろゼラチンやセルロイドに有機染料を染み込ませた薄く頼りないスクリーンが使われている。

これらの用途では、特定の波長範囲の光だけを透過させる、きわめて厳密な透過・吸収特性を持つ透明着色媒体が求められる。ガラス職人は、着色媒体として限られた種類の元素しか使えないという制約を受けており、このような厳密なスペクトル特性を持つガラスを作るのは容易ではない。他方で、ガラスの着色に関して、この観点から系統的に研究された例は、いまのところほとんどない。唯一広範な研究が行われたのは、イェーナのショット社に関連してであり、彼らは分光特性が正確に知られた一連の着色ガラスを市場に送り出している。

しかし、この分野には、まだ大きな拡張の余地が残されていることは疑いない。ガラス職人が、吸収スペクトルの観点から着色ガラスを徹底的に研究するならば、この分野はさらに広がるであろう。ただし、実際のところ、ゼラチンにアニリンその他の染料を染み込ませて得られるフィルタの性能を、着色ガラスが完全に再現できるかどうかについては、相当の疑問が残ると言わざるをえない。

第十二章
光学ガラス

光学ガラスは、他のあらゆる種類のガラスときわめて大きく性質を異にしており、その製造はほとんど独立した一つの工業と見なしてよいほどである。実際、そのためだけに一冊を割いた専門書があってもよいくらいである。本章では、光学ガラスのもっとも重要な性質の概要を述べ、次章でその製造に用いられる工程の主要な特徴を説明することにする。

光学ガラスの価値を左右する性質は、おおまかに二つの群に分けることができる。第一は、狭い意味での「光学的」性質――すなわち、光がガラスを通過する際の挙動に直接影響する性質――であり、第二は、より一般的な性質のうち、光学用途に用いられるガラスにおいてとくに重要となる性質である。

ガラスの光学的性質――この点に関してもっとも本質的な性質は、「均質性」である。すでに述べたように、ガラスは決して一つの一定した化学物質・化合物とは見なせず、通常は各種の複雑なケイ酸塩、ホウ酸塩などが互いに溶け合った「相互溶液」から成っている。溶液というものは、本質的に二種以上の物質の混合物であるから、完全な混合が行われたときにのみ真の均質状態に達することができる。身近な例として、砂糖を水に溶かす場合を挙げることができる。砂糖の近くにある水は砂糖で飽和され、その他の水とは密度が異なるようになる。ここで液体を軽くかき混ぜると、非常に特徴的な現象が現れる。すなわち、純水と濃い砂糖溶液とは、すぐには完全には混ざり合わず、より密度の高い液体が、より粗いあるいは細かい線・層・渦の形で液全体に拡がった状態のまま、しばらく存在する。このとき、まだ完全には混ざっていない二つの液体が、光に対して異なる作用を及ぼすために、それらが目に見えるのである。

ただし、砂糖水の例では、扱っているのは非常に流動性の高い液体なので、ティースプーンで数回かき混ぜれば混合は完全となり、しばらくの間にごくわずかな濁りを示していた液も、やがて均一で透明な状態にもどる。

ガラスの場合、原料が溶融されると、砂糖水の場合と同様、密度の異なる液体からなる混合物が形成される。しかし、溶融ガラスは、通常の水のように流動性の高い液体であることは決してなく、また製造の通常の過程では、水の入ったグラスをスプーンでかき回すような徹底した「混合作用」を受けることもない。したがって、通常の製造法によるガラスにおいては、溶融時に生じた不均質性が、最後まで持ち越されることは、少しも不思議ではない。厚いガラス片を注意深く調べれば、その内部に、密度の異なる細い糸状あるいは層状の部分がところどころに存在することが認められるが、これがその証拠である。これらの欠陥は「ストリエ(striæ)」または「ヴェイン(veins:すじ)」と呼ばれ、このような欠陥が、上等な光学作業に用いるガラス中に存在する場合、そのガラスは使用に適さない。

後述するように、光学ガラスの製造においては、ガラスをできる限り均質にするための特別な手段が取られる。実際、光学ガラス製造の初期の歴史は、この欠陥――すなわちストリエ――を克服しようとする試みの歴史そのものであったと言ってよい。しかし、この問題は、化学的にも物理的にも容易ならざる困難を伴い、現代のもっとも優れた製造技術においてすら、一溶解、すなわち一つのポットいっぱいのガラスのなかで、完全にストリエやヴェインを欠く部分は、ごく一部に限られている。多くの場合、これらの欠陥は非常に微細であり、完成したレンズの段階に到るまで気付かれないことさえある。しかし、その段階に至ると、像のシャープな結像を著しく妨げるため、その存在はきわめてはっきりと現れる。このような場合には、結果として役に立たないガラス片を研磨・ポリッシングするために、時間と費用を無駄にしたことになる。

そこで、ガラスを加工する前に、その中にごく細かいストリエが存在しないかどうかを検査する方法が用いられる。これらの方法は、平行光束が均質なガラス板を通過する限り何の乱れも受けないが、ストリエが存在する部分に当たるところでは、その部分で光束が平行性を失う、という原理に依拠している。したがって、このような照明条件の下では、ストリエは暗線または明線として現れ、容易に検出される。一例として用いられる装置の一形式を、図 14 に示す。

[図 14.—ストリエ検査装置の概略図。

L:光源、S:スリット、A および B:単純な凸レンズ、G:被検ガラス、E:観察者の目。矢印は光線の経路を示す。]

透過性およびも、ガラスの本質的に重要な性質である。ある意味では、均質性は透過性の前提条件であるが、ここで問題にしているのは、ガラスを規則的に透過する光が、どれだけ吸収されるか、という点である。まず最初に断っておくべきことは、どのようなガラスも完全に透明ではなく、言い換えれば、完全に無色ではない、という事実である。もっとも優れた光学ガラスにおいてさえ、光の吸収はごくわずかではあるものの存在し、かなりの厚みを通して見ると、緑がかった黄色あるいは青みがかった色調を示す。他方、現在もっとも優秀なレンズにも用いられているある種の光学ガラスは、光の吸収が非常に強く、あるいはそれ自体が非常に濃く着色されているため、数インチの厚みがあれば、その欠点がはっきりとわかるほどである。

この点については、やや一般の嗜好・世論にも責任の一端があるように思われる。というのも、わずかにでも「緑がかって」見えるガラスが、高級な光学器械に用いられることを、世間が好まないからである。実際には、ガラス職人がごくわずかに緑味を帯びたガラスを作ることは十分可能な場合が多いが、そうした緑色を打ち消すために、あえてガラスに着色酸化物を加え、もとの緑色とおおよそ補色関係にある色をわずかにつけることがしばしば行われる。その結果、一見中性に近い色調のガラスが得られるが、これは本来の緑がかったガラスに比べて、光をずっと多く吸収してしまう。しかも、そのようなガラスはしばしば写真用レンズに用いられるため、この「緑」を避けるために犠牲にされている光線は、スペクトルの青側の端付近にある波長の光であり、その結果としてレンズの写真用感度は、明らかに低下してしまうのである。

屈折および分散――ガラスが入射光・透過光に与える作用を支配する量的な性質は、光学用途においては言うまでもなく基本的な重要性を持つ。各種光学ガラスのもっとも基本的な光学定数は、その「屈折率」と呼ばれる数値である。この数は、本来、光波がそのガラス中を伝わる速度と、自由空間中を伝わる速度との比を表すものである。この比は、ガラスの化学組成と物理状態が変化するごとに変わるだけでなく、光波の波長そのものによっても変化する。言い換えれば、青色光のような短い波長の光は、赤色光のような長波長の光とは異なる速度でガラス中を伝わる。その結果、白色光の光束をプリズムに通すと、スペクトルを構成するあらゆる色の光に分かれ、それぞれが本来の順序で広がっていく。青色光は元の進行方向からもっとも大きく偏向を受け、赤色光はもっとも小さな偏向しか受けない。

このようなときに、さまざまな色の光線がどれだけ、また互いにどのような割合で偏向されるかは、当該ガラスの性質に依存する。したがって、ある種類のガラスの光学的性質を完全に特徴づけるには、ただ一つの屈折率を示すだけでは不十分であり、スペクトル全域にわたって適切に分布する、複数の波長に対する屈折率を示す必要がある。

この目的のために、スペクトル中のいくつかの明瞭な線が基準として選ばれているが、今日一般に用いられている具体的な線群を定め、その体系的使用を始めたのは、イェーナのアッベおよびショットである。彼らは、ガラスの光学的性質をこの方式で規定する体系を導入した。実際に選ばれているのは、波長 0·7677 マイクロミリメートルに対応する A′ 線、および C, D, F, G′ と呼ばれる線であり、それぞれの波長は同じ単位で 0·6563, 0·5893, 0·4862, 0·4341 である。ただし、A′ 線はスペクトルの赤端に近すぎるため、そのデータが必要となることはあまり多くない。

実際のところ、多くの光学ガラスの表では、ナトリウム光(D 線)に対する屈折率だけが記載され、ガラスの分散特性は、他の線に対する屈折率との差を並べることで示される。すなわち、表には C-D, D-F, F-G′ という欄が設けられ、それぞれ C 線と D 線、D 線と F 線、F 線と G′ 線の屈折率の差が記されている。これらの値は、通常、ガラスの「C から D への分散」「D から F への分散」等と呼ばれる。

これらとは別に、ガラスの「平均分散」と呼ばれる量を表に併記するのが普通である。これは、C 線と F 線に対する屈折率の差、すなわち C-F の値であり、視覚上もっとも重要なスペクトル部分を代表する間隔として採用されている。さらに、アクロマートレンズの計算に際してとくに重要となる定数が、D 線の屈折率から 1 を引いた値を平均分散で割ることによって得られる(通常 (C-F)/(n_{D}-1)=ν と書かれる)。この量は、まだ適切な名称が見いだされていないが、ガラスの分散力と全体としての屈折力との比を表すものであり、慣例的にギリシア文字 ν で表される。

次ページの表は、バーミンガムにあるチャンス社(Messrs. Chance)によって製造された光学ガラスの一覧であり、1905 年光学会議のカタログから採録したものである。この一覧は、フランスやドイツの光学ガラスメーカーが公表しているリストに比べればそれほど長くはないが、現在利用可能な光学ガラスの代表的な種類をひととおり含んでいる。ただし、レンズ計算に実際に用いるデータとしては、光学ガラスメーカーの最新版カタログを参照することを勧める。というのも、入手可能なガラスの種類の範囲や、一部ガラスについての数値自体が、時々刻々変化しうるからである。


光学特性表

(1905 年 Optical Convention カタログより。Messrs. Chance 社製品)

  --------------+------+----+------+-----------------------------------
                |      |    |      |            Partial and
                |      |    |Medium|   Relative Partial Dispersions.
                |      |    | Dis- +------+----+------+----+------+----
      Name.     |n_{D}.| ν. | per- |      |C-D |      |D-F |      |F-G′
                |      |    | sion.| C-D. |--- | D-F. |--- |F-G′. |---
                |      |    | C-F. |      |C-F.|      |C-F.|      |C-F.
  --------------+------+----+------+------+----+------+----+------+----
  Extra Hard    |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Crown       |1·4959|64·4|·00770|·00228|·296|·00542|·704|·00431|·560
  Boro-silicate |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Crown       |1·5096|63·3|·00803|·00236|·294|·00562|·700|·00446|·555
  Hard Crown    |1·5175|60·5|·00856|·00252|·294|·00604|·706|·00484|·554
 *Medium Barium |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Crown       |1·5738|57·9|·00990|·00293|·296|·00697|·704|·00552|·557
 *Densest       |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Barium      |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Crown       |1·6065|57·9|·01046|·00308|·294|·00738|·705|·00589|·563
  Soft Crown    |1·5152|56·9|·00906|·00264|·291|·00642|·708|·00517|·570
 *Medium Barium |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Crown       |1·5660|56·3|·01006|·00297|·295|·00709|·704|·00576|·572
  Barium Light  |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Flint       |1·5452|53·5|·01020|·00298|·292|·00722|·701|·00582|·570
  Extra Light   |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Flint       |1·5316|49·0|·01085|·00313|·288|·00772|·711|·00630|·580
  Extra Light   |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Flint       |1·5333|48·5|·01099|·00322|·293|·00777|·707|·00640|·582
  Boro-silicate |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Flint       |1·5623|47·4|·01187|·00343|·289|·00844|·711|·00693|·584
 *Barium Light  |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Flint       |1·5833|46·6|·01251|·00362|·288|·00889|·711|·00721|·576
  Soda Flint    |1·5482|45·8|·01195|·00343|·287|·00852|·713|·00690|·577
  Light Flint   |1·5472|45·8|·01196|·00348|·291|·00848|·709|·00707|·591
  Light Flint   |1·5610|43·2|·01299|·00372|·287|·00927|·713|·00770|·593
  Light Flint   |1·5760|41·0|·01404|·00402|·286|·01002|·713|·00840|·598
  Light Flint   |1·5787|40·7|·01420|·00404|·284|·01016|·715|·00840|·591
  Dense Flint   |1·6118|36·9|·01657|·00470|·284|·01187|·716|·01004|·606
  Dense Flint   |1·6214|36·1|·01722|·00491|·285|·01231|·715|·01046|·608
  Dense Flint   |1·6225|36·0|·01729|·00493|·286|·01236|·715|·01054|·609
  Extra Dense   |      |    |      |      |    |      |    |      |
    Flint       |1·6469|33·7|·01917|·00541|·285|·01376|·720|·01170|·655
  Densest Flint |1·7129|29·9|·02384|·00670|·281|·01714|·789|·01661|·678
  --------------+------+----+------+------+----+------+----+------+----

上の表の最初の列には、各種ガラスの通称(商品名)が記されている。これらの名称はやや恣意的ではあるが、そのガラスのおおまかな化学的性質を示している。たとえば「フリント(flint)」という語は、必ず鉛を含むガラスを意味し、その結果、比較的高い屈折率と小さな ν 値を持つ。これに対し「クラウン(crown)」という語は、本来は石灰ケイ酸塩ガラスだけに用いられていたが、現在では ν の値が大きいガラス一般に用いられる。

次の列には、D 線に対する屈折率 n_{D} が、三列目には ν の値が示されている。表を見ればわかるように、ガラスはこの ν 値の大きいものから順に並べられている。この二列をざっと眺めると、多くのガラスについて、屈折率が高くなるにつれて ν の値が小さくなる、という関係が成り立っていることに気付くだろう。この関係の例外に当たるガラスには、表中で * 印が付けてある。

実際のところ、この関係は、イェーナのアッベおよびショットによる現代的な光学ガラス製造の進歩がもたらされる以前、すなわち商業的に利用可能だったすべてのガラスに対し、おおよそ成立していた。屈折率と ν の値とのあいだに、ほぼ単純な反比例関係がある、というのが、旧来のクラウンガラスおよびフリントガラスに対して成り立つ法則である。光学器械設計に必要な条件を洞察したアッベは、この比――すなわちガラスの分散力と屈折力との比――がこのような単純な関係に縛られていることが、大きな制約となっているのを理解し、それを打破する必要性を認識したのであった。

ショットとの協力のもとで、彼は従来知られていなかった一連の光学ガラスの新種を生み出すことに成功した。これらのガラスでは、n_{D} と ν のあいだに、旧来のクラウンおよびフリントガラスに見られたような単純な反比例関係は成立しない。そのなかでももっとも価値が高く、また多くの点でもっとも典型的なのが、「バリウムクラウン(barium crown)」と呼ばれる一群である。これらは、軽フリントあるいは場合によっては高屈折フリントガラスに匹敵する高い屈折率と、通常のクラウンガラスに相当する高い ν 値とを兼ね備えている。

これら新しいガラスの出現によって、レンズ設計にどのような可能性が開かれたかを、ここで詳しく述べるのは、話が光学系設計の領域に深入りしすぎるので控えるが、ごく簡単に言えば、アポクロマート顕微鏡対物レンズ、アナスチグマート写真レンズ、現代の屈折望遠鏡対物レンズなど、19 世紀末から 20 世紀初頭にかけての光学上の大躍進は、いずれもこれら新しい光学媒体の利用を土台としている、ということである。そして、現在では、フランスやイギリスの光学ガラス工場においても、イェーナ工場と同等以上の品質と量で、こうした新種の光学ガラスが生産されているにもかかわらず、これらの偉大な光学的成果は、アッベとショットの先駆的業績の永続的な記念碑として残っている。

上記光学ガラス表の最後の六列には、それぞれのガラスがスペクトルの各部分をどのような割合で分散させるかを特徴づける数値が記されている。C-D, D-F, F-G′ の各列は、すでに述べたように、それぞれ C 線と D 線、D 線と F 線、F 線と G′ 線に対する屈折率の差を表している。これに対し、列の間に挿入された小さな数値は、それぞれの差を平均分散 C-F で割った値――すなわち「相対部分分散(relative partial dispersions)」――を示している。もし、あらゆるガラスがスペクトル各部をまったく同じ割合で分散させ、ただ全体としての分散量だけが異なるのであれば、これらの比はすべてのガラスについて同じ数値になるはずである。実際には、表からもわかるとおり、これらの値はガラスの種類によって大きく異なっている。

ここで少し考えてみれば、二種類のガラスを組み合わせてレンズを作る際――すなわち、お互いの分散を打ち消し合う(アクロマート化する)目的で用いる際――に、完全なアクロマート性を得るためには、この相対部分分散の比が、二つのガラスで一致していなければならないことがわかるであろう。より具体的に言い換えると、あるガラスによって生じるスペクトルが、赤側の端で比較的長く引き伸ばされ、青側の端で比較的圧縮されている一方、もう一つのガラスが、これとは逆に青側で長く、赤側で短いスペクトルを与えるならば、その二つのスペクトルを完全に重ね合わせて互いに打ち消し合うことは決してできない、ということである。どちらか一方のスペクトルが、青側の端では優勢となって残り、逆に他の一方が赤側の端で優勢になって残る。こうしたガラスでアクロマート化されたレンズでは、像の輪郭部分にごくわずかな色縁(色収差)が常に残ることになる。

アッベとショットが新種の光学ガラスを生み出す際に掲げた目標の一つは、この相対部分分散ができるだけよく一致しつつ、ν の値ができるだけ大きく異なる、という一対のガラスを得ることであった。イェーナの研究者たちは、当初、この方向である程度の成功をおさめたと報告していた。しかし残念ながら、この点でもっとも有望と思われた一部のガラスは、実用上の安定性に欠けることが判明し、最終的には製品から外さざるをえなかった。現在、イェーナ社が提供している、真に完全な意味で相互にアクロマート化しうるガラス対は、下表のものだけである。表からわかるように、この二つのガラスは、相対部分分散の値こそきわめてよく一致しているが、ν の値の差はせいぜい 10 に過ぎず、少なくともその一方は、実用上満足できる光学品質で入手することが難しい。

一方で、実際には、ほぼ完全にアクロマート化されたレンズ(一般に「アポクロマート」と呼ばれる)が、とくに顕微鏡用としてツァイス(Zeiss, Jena)によって製造されている。これは、上述の意味で適切に組み合わせられた複数のガラスを用いた結果である。この問題の解決は、こうしたレンズでは二種類以上のガラスを相互補償のために用いることができるうえ、天然鉱物である蛍石(フッ化カルシウム)も併用されているという事情によって、いっそう容易になっているとも言える。しかし、ガラス職人の立場から見れば、依然として「互いに完全にアクロマート化しうる満足な一対のガラス」を生み出すという問題は、いまだ解決されてはいないのである。

イェーナ社が提供するこの「望遠鏡用クラウン」と「望遠鏡用フリント」のデータを、参考までに次表に示す。

  ---------+------+----+-------+------+------+------+------+------+-----
           |      |    |       |      | c-d  |      | d-f  |      | f-g′
    Name.  | n_{D}| ν  |  C-F. | C-D. | ---  | D-F. | ---  | F-G′.| ---
           |      |    |       |      | c-f. |      | c-f. |      | c-f.
  ---------+------+----+-------+------+------+------+------+------+-----
  Telescope|      |    |       |      |      |      |      |      |
    Crown  |1·5254|61·7|·00852 |·00250| ·292 |·00602| ·707 |·00484| ·568
  Telescope|      |    |       |      |      |      |      |      |
    Flint  |1·5211|51·8|·001007|·00297| ·294 |·00710| ·705 |·00577| ·573
  ---------+------+----+-------+------+------+------+------+------+-----

上掲の光学ガラス表は、フランスやドイツの光学ガラスメーカーのリストに比べれば簡略ではあるものの、実際に利用可能なガラスの範囲をほぼ網羅している。そして、ざっと見ただけでも、その範囲がいかに狭いものであるかが、ただちにわかるだろう。屈折率は、およそ 1·49 から 1·71 の間にしか変化しておらず、仮に一部メーカーが供給しているごく極端な品種――この範囲を一方に 1·40、他方に 1·80 まで広げうるとされている品種――を実用的と見なすとしても、この議論の本質は変わらない。

もちろん、屈折率 1·0 や 1·10 のようなガラスは、理論的に存在しえない。というのも、物質の密度そのものがその屈折率を左右する因子の一つであり、水(屈折率約 1·3)より軽い密度を持つガラスというのは、ほとんど考えられないからである。他方、高い屈折率の方向では、ガラスで見られる上限は、一部の天然鉱物によって大きく超えられている。たとえばダイヤモンドは屈折率 2·42 を持ち、ざくろ石(ガーネット)は 1·75 から 1·81 の範囲の屈折率を示す。ν の値について見ると、表中の光学ガラスの範囲はさらに狭く、67 から 29 の間に収まっているが、蛍石のような鉱物は 95·4 という値を示す。

これらの事実は、現在われわれが持っている光学ガラスがカバーしている狭い範囲を、はるかに超えた光学定数を持つ透明物質が、物理的には十分可能であることを示している。そして、そのように拡張された範囲の材料が利用可能になれば、光学器械設計者の手には、はるかに広い可能性が開かれるであろうことは、わざわざ述べるまでもない。したがって、現時点で光学ガラスの範囲がなぜこれほど限定されているのか、その実際の原因を問うことは、たいへん興味深い問題である。結論から言えば、その限界はガラスという物質そのものの性質によって定められている。

平均的な光学特性を持ち、分散力が旧来のクラウンおよびフリントガラスについて成り立った逆比例則におおよそ従うような、比較的一般的な種類のガラスは、化学的に安定であり、冷却中に化学変化を起こしたり結晶化したりする傾向はほとんど示さない。ところが、より極端なガラスでは、このような好ましくない性質が、現在利用可能な範囲の端に近づけば近づくほど、ますます顕著になる。特定の光学特性を異常な方向へ押し進めるために、特殊な物質をガラスに添加して組成を「無理に」変えれば変えるほど、ガラスの化学的・物理的安定性は急速に低下していくのである。

極端な組成のガラスは、実質的に活性の強い化学物質のように振る舞い、周囲の比較的不活性な物質に対しても容易に反応・結合しようとする。すなわち、それらは溶融中に、それを収める耐火粘土製のるつぼに対して激しい作用を及ぼし、完成品になってからも、酸、湿気、さらには温かい空気にさえ容易に侵される。また、多くのガラスは、冷却時のある臨界温度範囲を急速に通過させないと、結晶性(かつ不透明)の集合体の状態へと移行してしまう。その傾向が一定の限度を超えると、ガラスの自己破壊的な性質を抑えることが現実的に不可能となり、生産そのものが成り立たなくなる。したがって、現在われわれが持つような系統のガラスに関しては、光学媒体の範囲を大きく拡張することは、あまり期待できないように思われる。

他方で、透明な結晶性鉱物に知られている光学特性が示しているように、もし十分な大きさと純度を持つ人工結晶を光学用途に供しうるようになれば、光学定数のとりうる範囲は、はるかに広くなりうる。著者は、こうした方向――すなわち人工鉱物結晶の製造――こそが、将来の光学材料の進歩が最終的には進むべき道であると考えている[1]。

[1] 現著者による論文 “Possible Directions of Progress in Optical Glass”
  (光学ガラスにおける進歩の可能な方向)参照。
  Proceedings of the Optical Convention, London, 1905.


必要な光学定数、良好な色調(すなわち実質的な無色)、完全な均質性に加えて、優れた光学ガラスには、さらにいくつかの性質が不可欠である。これらは、一般によいガラスに要求される物理的・化学的性質であるが、光学ガラスにおいては、その要求水準が他のいかなる種類よりも厳しくなる。

まず、化学的安定性はきわめて重要である。たとえ光学性能がどれほど優れたレンズであっても、大気中の湿気に対して弱い性質を持っていれば、短期間のうちに役に立たなくなってしまう。ポリッシュされた表面はすぐに曇り、やがてレンズ全体が使用不能になる。ガラスの化学的安定性を左右する要因や、その試験法については、すでに第一章および第二章で述べた。上記表に挙げた「ハードクラウン(Hard Crown)」や「ボロシリケートクラウン(Boro-silicate Crown)」のような硬質光学ガラスは、おそらくあらゆるガラスの中でももっとも耐久性に富み、化学的にも安定したグループに属する。しかしすでに触れたように、極端な光学特性が要求される場合、そのために必要となるガラス組成は、常にある程度この化学的安定性を犠牲にすることを意味し、ついには、いかに優れた光学特性を持っていても、その急速な崩壊傾向によって長所が相殺されてしまうような限界点に達する。そうなれば、そのガラスは実用的には採用できない。

特殊な場合としては、そのように不安定なガラスで作ったレンズを、安定なガラスで作ったレンズで挟み込むようにセメント貼りすることで、ある程度保護することも理論上は可能である。しかしこの方法は、光学系の設計上、さまざまな制約を伴うため、実際にはほとんど用いられない。いずれにせよ、レンズ設計者は、使用するガラスの相対的な安定性を十分考慮に入れ、光学系のどの位置にどのガラスを配置するかを決めるべきである。言うまでもなく、もっとも外側で大気の湿気に直接さらされ、また扱う人間の不注意な「手入れ」にもさらされる位置には、硬くて耐久性の高いガラスを配置するのが望ましい。

後者の要因――すなわち人間の手入れによる影響――は、レンズの寿命にとってきわめて重要である。まず、ガラス表面は、たとえ「清潔な」指で一度軽く触れただけでも、その指紋として残る極薄い有機物の膜によって、きわめて大きな影響を受ける。ガラスの品質が悪いと、こうした指紋は簡単に虹色の斑点へと発達し、やがて黒いシミとなることさえある。同様に、ガラス表面に降り積もった微細な塵粒も、後に同様の作用を及ぼしうる。したがって、レンズ面を鏡筒やハウジングの内側に機械的に封じ込めておくことは、それだけで表面保護の上で非常に有効である。

しかし一方で、光学器械の内部金属面が、製造後かなり長い間蒸発性の気体を放出するようなニスで塗られている場合もある。そのような例では、内部レンズがその蒸気によって曇らされる危険がある。他方、外側のレンズは、取り扱い時の機械的損傷や、「掃除」と称する不適切な擦り拭きにもさらされる。しばしば、ソーダを含むガラスでは、湿った場所に長時間放置すると、表面にごく薄い曇りが生じることがある。この曇りは主として、表面に析出した微小な炭酸ナトリウム結晶によるものであり、これらの結晶は、ガラス面の上でこすり動かすと、ガラス自体を傷つけるほど硬く鋭い。こうしたレンズを、たとえどれほど清潔で柔らかい布であっても、乾いた布でそのままこすると、研磨面に回復不能なダメージを与えることになる。これは、レンズをきれいな水で一度洗い流すか、あるいは最初の拭き取りだけでも濡らした布を用いることで、容易に防ぐことができる。

ガラスの機械的硬さは、この種の有害な取り扱いや、固く鋭い物体との偶発的接触に対する耐性を大きく左右する。ガラスの硬さについては、すでに第二章で一般的な議論を行ったので、ここで付け加えることは多くない。大まかに言えば、屈折率が低いガラスほど、硬度が高い傾向がある。この傾向は、硬さの差がかなり大きい場合――たとえばハードクラウンと高屈折フリントを比較する場合――には、確かに成立している。しかし、屈折率や密度の差が小さい場合には、軽いガラスの方が必ずしも硬いとは限らない。

「硬さ」という性質に関与する諸要素は、ガラスを研磨・ポリッシングする際の挙動にもきわめて大きな影響を及ぼす。良好な光沢を得る難易は、ガラスの種類によって大きく異なり、もっとも硬いガラスと、もっとも柔らかいガラスの両極端が、いずれも磨きにくい傾向を示す。硬いガラスは、研磨中に偶発的な傷を受けにくく、一般にきれいに作業が進む利点はあるが、その分、分子が移動に抵抗するため、満足なポリッシュを得るまでに要する時間はかなり長くなる。したがって、最良の結果を得るためには、研磨作業中の速度や押し付け圧力を、そのガラスの性質に合わせて注意深く調整しなければならない。

最高級の光学ガラスに欠かせないもう一つの性質は、内部応力の欠如である。この問題は、光学ガラス製造におけるアニール工程の項であらためて取り上げるので、ここでは簡単に触れるにとどめる。ガラス中の内部応力は、偏光器(ポラリスコープ)によって容易に検出できる。完全にアニールされ、内部応力をまったく持たないガラスは、偏光された光束を通しても何の影響も与えないが、わずかな応力を持つガラスも、顕著な複屈折性を示すようになる。多くの光学用途において、このような複屈折は望ましくない、あるいはまったく許容できないことが多い。というのも、複屈折はガラス塊の部分ごとに有効屈折率にわずかな差を生じさせてしまうからである。さらに、観測される複屈折がかなり大きい場合には、それはガラスが破壊寸前の応力状態にあることを意味し、とくに研磨工程の初期段階や、衝撃にさらされたときに、簡単に割れてしまう危険がある。

後に見るように、完全にアニールされたガラスを得ることは可能であるが、そのためにはきわめて特殊な手段が必要であり、光学ガラス製造にとってはかなりの負担となる。そのため、光学設計者の側でも、アニールに関して不必要に過剰な要求を行わないことが望ましい。優良な光学ガラスにしばしば見られるごくわずかな複屈折は、ほとんどの目的に対してはまったく無害である。


第十三章
光学ガラス

最高級光学ガラスの製造工程は、ごく簡潔に言えば、「もっとも純粋で均質なガラスで満たされた一つのるつぼを得て、それをその場(in situ)で徐冷・凝固させる」ことに尽きる。こうして得られたガラス塊の中から、もっともよい部分を選び出し、光学用途に応じた形状に成形するのである。

ここからすぐにわかるように、この工程には、本書でこれまで述べてきた他のどの製造法とも本質的に異なる点が一つある。それは、ガラスが溶融状態にある間は、決して溶解ポットから取り出されることがなく、ギャザリング、注ぎ出し、圧延、プレス、吹きなど、これまでに説明したいかなる加工も施されない、という点である。一見すると不合理に思えるこのやり方がとられる理由は、光学用途に必須の完全な均質性を得るには、非常に手間のかかる方法が必要であり、いったん達成された均質性も、ガラスを乱さずにそのまま凝固させない限り保つことができないからである。もしパイプやラドルを差し込んでガラスを動かせば、ほぼ確実にストリエやその他の好ましくない欠陥を生じてしまう。

特定の光学特性を持つガラスを製造する際に選択される原料とその配合比は、所望の光学定数を与える化学組成が、実験によってあらかじめ決められていることによって支配される。そのため、光学ガラスの配合は、炉の条件に合わせて調整したり、溶融や精製を容易にするために変えたりすることができない。要するに、通常のガラス製造でガラス職人が用いる多くの「手段」は、もっともその助けが欲しいはずの光学ガラスの分野において、ほとんど利用できないのである。

他方で、製造者には、同じ化学成分をどのような形で配合に導入するかについて、ある程度の選択の余地が残されている。たとえば、ある成分を酸化物として用いるか、炭酸塩として用いるか、硝酸塩として用いるか、水酸化物として用いるか、といった選択である。この選択は、溶融の初期段階において、ガラス全体にどのような挙動をさせたいか――たとえば、どの程度の酸化力・還元力を持たせるか、どの程度の発泡作用を期待するか――などによって決められる。また、各物質が市販されている状態での純度も、選択を決定づける重要な要因である。原料の純度が高ければ高いほど、ガラスの良好な色――すなわち、ほぼ完全な無色――を得ることが容易になるからである。

均質性が最終製品にとってきわめて重要である以上、光学ガラスの原料は、他の種類のガラスよりもはるかに念入りに混合されなければならない。そのため、原料は一般のガラスよりもずっと細かく粉砕した状態で用いられることが多い。通常、光学ガラス一回分の配合量はそれほど大きくないので、機械的混合装置を用いるほどの規模にはならず、きわめて注意深い手混ぜが行われるのが普通である。

理論的には、原料のみから直接ガラスを溶かしても、十分成功した溶解が得られる。しかし実際には、前回の同種溶解から得られた「クレット(cullet:屑ガラス)」を一定割合で混ぜる方が好ましい。こうして用いるクレットは、まず目視検査で選別され、はっきりした不純物を含んでいる片は取り除かれる。ただし、ストリエの見られる片は、通常この段階では除外されない。クレットの大部分は、原料と均一に混合されるが、その一部は、後に述べる別の目的のために残しておく。

光学ガラス製造に用いられる炉の形式は、工場ごとに大きく異なる。ある工場では、旧式の円錐形石炭炉がいまだに用いられているが、その欠点よりも、構造の単純さと調節の容易さの方が勝る、と製造者たちは考えている。他方、別の工場では、最新式のガス焚き蓄熱炉が設置されており、その中でも最高品質の光学ガラスを生産することができる。

もっとも、光学ガラス用炉は、一般のポット炉と比べて一つの顕著な違いがある。すなわち、通常のガラス工場では、一つの炉に 4 〜 12 個、多いときには 20 個近いポットを同時に収めるのに対し、光学ガラス用炉は、たいてい一つのポット(るつぼ)だけを収めるように設計されている。こうした容量の制限は、光学ガラスでは配合を炉の条件に合わせて自由に変えられない以上、炉の方をできる限り溶解すべきガラスの性質に合わせて運転する必要があり、その結果、各ポットごとに加熱温度と加熱時間を細かく調整しなければならない、という事情によって説明される。複数のポットを同一炉で加熱する場合、これを完全に満たすことは、困難どころか事実上不可能である。また、光学ガラスの溶解には、他のガラスに比べてはるかに多くの注意と手間がかかるので、たとえ一つの炉に多くのポットを入れたとしても、結局はそれぞれに専任の作業員をつけなければならず、炉を大型化するメリットはほとんど得られない。

光学ガラス工場の設備のうち、単一ポット溶解炉のほかに、とくに重要なのが、複数の加熱窯(キルン)である。これらは、各種るつぼの予備加熱や、場合によっては最終冷却にも用いられる。類似の窯は他の分野のガラス工業でも使用されているが、その場合、いったん炉に入れたポットは数週間から数ヶ月にわたって使用されるのが普通である。これに対して光学ガラスでは、一つのポットは一度の溶解にしか用いられない。したがって、新しい溶解のたびに新しいポットが必要となり、予備加熱用の窯は頻繁に稼働することになる。これらの窯は、通常、十分な火格子と煙道を備えた耐火レンガ製の炉室であり、4〜5 日かけて徐々に赤熱状態まで温度を上げることができる。また、冷却の際には、研磨板ガラスのアニール窯と同様に、炉口を密閉して自然冷却に任せることができる。

光学ガラスの溶解に用いられるポット(るつぼ)は、通常、第二図に示したフリントガラス用の蓋付きポットと同じ形状をしている。ただし光学ガラス用ポットは、フリントガラス用に比べて壁をかなり薄く作る。というのも、光学ガラス用ポットは、フリントガラス用ポットのように、長期間にわたり溶融ガラスにさらされるわけではないからである。他方で、この用途に用いる耐火粘土は、鉄分その他の不純物がガラス側へ移行するのを極力避けるため、とくに慎重に選定しなければならない。特殊な一部ガラスの製造には、普通の耐火粘土では間に合わず、特別な材料から作られたポットが必要となることもある。というのも、それらのガラスは溶融時に、普通の耐火粘土に対して急速な化学的攻撃を行うからである。

すでに述べたように、溶融ガラスはつねに耐火粘土に対してある程度溶解作用を及ぼすため、ポットのアルミナ分は少しずつガラス中に取り込まれていく。このようにして汚染された部分のガラスは、一般にポット内の他の部分よりも粘稠であり、そのため通常は、るつぼの内壁付近にある程度まとまって付着したまま残る。しかし、溶解および精製(ファイニング)過程に伴う種々の撹乱によって、この粘稠なガラスの一部は、ストリエとなってるつぼ全体へと拡散してしまう。このストリエは、後述の「攪拌(stirring)」工程の際にようやく除去される。しかし一方で、ガラスが溶融状態にあるかぎり、こうした粘稠層の生成は絶えず続いているため、工程後半で撹乱を十分に抑えないと、凝固直前になって新たなヴェイン(すじ)が生じてしまうおそれがある。

光学ガラスの実際の溶解操作は、まず上述の予熱窯内でポットを徐々に昇温することから始まる。ポットが十分な赤熱状態に達すると、窯の扉が開けられ、車輪付きの長い重い鉄製フォークによって、ポットが引き出される。このフォークを窯口から差し入れ、先端のツメをポットの下に差し入れて持ち上げ、そのまま窯から引き出すのである。

この間に、溶解炉の温度は、予熱窯が達していた温度とほぼ同じになるように調整されている。したがって、ポットをできるだけ素早く予熱窯から溶解炉へと移動させるとき、急激な加熱による大きな温度差を与えずに済む。もし、新しいポットをいきなり完全な溶解温度にある炉へ入れようとすれば、耐火粘土は急激に収縮し、るつぼ全体が崩壊してしまうであろう。もっとも慎重に運んでも、ポットがこの段階――あるいは少し後の段階――で亀裂を生じ、破損することを完全に避けることはできない。とくに後者の段階で破損が生じるときは、すでにポットは溶融ガラスで満たされていることが多く、その場合ガラスはすべて流出して失われてしまう。

空のポットを所定の位置に据え付けたら、溶解炉の前面は、大形の耐火レンガを積み上げた仮設の炉壁で慎重に封じられる。このとき、ポットの蓋(フード)の口だけは、炉壁に設けた開口によって外からアクセスできるようにしておく。この開口部は、一枚または複数枚の耐火板で閉じることができ、これを取り外すと、原料の投入やその他の操作のための作業口が現れる。

ここまで準備が整うと、あらかじめ混合を終えた原料を積んだ台車が、通常炉の前まで運び込まれる。ただし、原料をポットに投入し始めるのは数時間後であり、その間に炉を強く焚いて、溶解温度に近い状態まで上げる。

炉とポットが必要な温度に達したら、原料投入の前に、まず先に残しておいたクレットの一部だけをポットに投入し、溶かす。この操作を経てはじめて、最初の原料配合がポットに入れられる。この手順の目的は、ポットの底部と壁の一部を、薄い溶融ガラスの層で予め覆っておくことである。こうしておけば、原料が炉の高熱にさらされた際に起こる激しい化学的・物理的作用から、ポットの内壁をある程度保護することができる。

その後、ポット内を溶融ガラスで満たす作業は、原料配合を少しずつ追加投入することで進められる。配合物は、それが変化してできるガラスよりも体積が大きく、また溶融の際にはかなり泡立つため、ポットから半溶融ガラスが噴きこぼれないように、それぞれの投入量を慎重に加減しなければならない。ポット内のガラスが増えてくると、未溶融配合物を加えられる空きスペースもどんどん減ってくるため、後期に投入される配合量は、初期に比べてかなり少なくなる。

最終的に、ポットをほぼ満たすだけの原料を投入し終えると、工程は次の段階へ進む。最後の原料が溶けきった後のポット内には、大小さまざまな泡を大量に含んだ、やや粘稠な液体状態のガラスが満たされている。この泡をすべて追い出して、ガラスを純粋かつ「ファイン(fine)」な状態にすることが不可欠であり、そのためには、炉温をさらに上げてガラスをより流動的にすることが必要となる。温度の上昇は、泡内部のガスを膨張させるため、泡を大きくし、浮き上がりやすくもする。このように、温度上昇は、泡の離脱を二重の意味で促進する。そのため、炉温は可能なかぎり高温まで上げられ、この極端な高温状態が、泡が消失するまで維持される。

より融けやすい種類のガラスでは、この目的のために必要な温度は、それほど極端に高いわけではなく、むしろ他の不都合を避けるために、あまり高温になりすぎないよう注意しなければならない。一方、硬いクラウンガラスなどの場合には、十分な温度を得ること自体が困難である。というのも、炉やポットの寿命を脅かすことなく、それだけ高い温度を維持するのが難しいからである。泡の除去の困難さは、光学ガラスの範囲を一方向に制限する要因の一つである。もっと硬いガラスを溶かすこと自体は不可能ではないが、それらを「ファイン」な状態に保つのに必要な流動性を得るほどの高温を、長時間維持することは現実的でないのである。

別種のガラスでは、ガラスを非常に高温で完全に流動的にしても、溶融塊から泡を完全に取り除くことが不可能になる場合がある。その正確な原因はまだ知られていないが、ある種のガラスでは形成される泡が非常に微細であり、たとえガラスが完全に流動的であっても、泡が浮き出る傾向をほとんど示さないようである。また別の種類のガラスでは、温度を上げて既存の泡を取り除こうとすると、そのたびに新たな微小泡が絶えず発生するような挙動を示す。しかも、このような性質は、もっとも価値の高い新種光学ガラスの一部に見られるため、光学設計者やユーザーは、これらのガラスから作られたレンズやプリズムの中に、ごく微小な泡が存在することを、事実上受け入れざるをえなくなっている。

ただし、これらの泡はきわめて小さいため、光学性能に与える影響はごくわずかであり、泡に当たった光のうちごく一部が吸収・散乱されるにとどまる。そのため、この欠点は、むしろ避けがたい小さな不利として、十分に上回る利点と引き替えに容認されている。

再び溶解工程にもどると、泡を取り除くために必要な高温は、場合によっては 30 時間にも及ぶ長時間にわたって維持される。この間、ガラスはときおり抜き取り検査され、泡の残存状況が調べられる。検査は、ポットから少量のガラスを取り出し、それを観察して泡が残っているかどうかを調べることで行われる。ある工場では、細いパイプの先端にごく少量のガラスを取り、そのまま小さな球状フラスコに吹き広げる方法を採る。こうしたフラスコを適切な光の下で観察すれば、ごく微小な泡であっても容易に検出できる。他の工場では、より簡単な方法が用いられ、小さな鉄棒の平らな端に、ポットから少量のガラスをすくい取り、そのまま棒の上で冷やす。このガラスを棒から押し出すと、長さ 8〜10 インチ、幅約 1 インチほどの小さなガラス棒が得られ、これを透かして見れば、泡の存在はすぐにわかる。このような検査片は、ガラス職人の間で「プルーフ(proof)」と呼ばれている。

このようにして得られたプルーフが、泡の消失を示すようになれば、炉の極端な高温状態は徐々に和らげられ、ポットの口を覆っていた耐火板が取り外される。次の工程は、ガラス表面の「スキミング(skimming)」である。汚染源となりうる物質の多くは、溶融ガラスよりも比重が小さいため、ポット内ガラスの表面に浮いている。そこで表面層を取り除くことで、偶然混入したが溶けずに残っている物質や、ガラス全体に溶け込まず表面に残っている物質を除去するのである。

続いて行われるのが、溶融ガラスの攪拌(stirring)であり、ガラスをできるかぎり均質にし、ストリエを取り除くことを目的とする。このために用いられる撹拌棒は、あらかじめ焼成・予熱された耐火粘土製の円筒である。その一端には深い四角い穴が設けられており、最初はこの穴に小さな鉄棒を差し込んで保持する。この状態で赤熱した耐火粘土円筒をポット口から差し入れ、やがて溶融ガラスとほぼ同じ温度になるまで炉内に保つ。その後で、円筒をガラス中に差し入れると、やがてガラス中に浮かぶようになる。

攪拌を開始するときは、長い鉄棒の先端を L 字に曲げ、その四角い先端を耐火粘土円筒の上端にある四角穴に差し込む。こうして、耐火円筒はガラス中で垂直に支えられ、その状態でゆっくりと回転運動を与えられる。これが攪拌動作である。このために用いる長い鉄棒は、上方に設けた滑車(スイベルホイール)の上を通るように設置されており、作業者は棒の端に取り付けられた大きな木製ハンドルを操作して、円筒を一定速度で回転させる。この作業は、常に重労働かつ過酷なものである。作業者はポットの開口部から放射される強烈な熱に直接さらされるため、交代要員が短い間隔で交互に作業にあたらなければならない。

攪拌の初期段階では、ガラスはまだ高温で流動性が高い。しかし攪拌は、ガラスが次第に冷えて粘稠になり、もはや撹拌棒をほとんど動かせなくなるまで続けられる。この頃には、ガラスが撹拌棒の動きにほとんど抵抗しない初期とは違い、棒を動かすだけでもかなりの力を要する。実際に必要となる攪拌時間は、ガラスの種類やポットの大きさによってさまざまであり、4 時間程度で十分な場合もあれば、20 時間に及ぶ場合もある。

ガラスが十分に粘稠になり、これ以上攪拌できない状態に達したら、最終的な冷却の準備に入る。耐火粘土製の撹拌棒をガラスから引き抜くこともあるが、この作業は大変な労力を伴い、粘ついたガラスが円筒に多量にまとわりついて、貴重なガラスが無駄に取り除かれてしまう。そのため、通常は撹拌棒をガラス中に埋め込んだままにしておく。

次に達成すべき目的は、ガラスが完全に「セット」するまで、すなわち明らかに固体状になるまでの間、できるだけ早く、しかし安全な範囲内で急冷することである。その目的は、対流やその他による内部流動によって、ストリエが再び生じるのを防ぐことにある。この急冷は、工場ごとにさまざまな方法で行われる。一つの方法では、炉自体に多数の開口部が設けられており、それらを開くことで外気を炉内へ引き込み、ポットとガラスを、それらを動かすことなく冷却する。この方法の利点は、ポットを動かさずに済むため、粘稠なガラス塊が乱される危険が最小限に抑えられる点にある。しかし、炉の内部で得られる冷却速度には自ずと限界があり、炉自体も冷やされてしまう。また、ポット内のガラスがある程度冷えた時点で、急冷を停止しなければならない。さもなければ、ポットの中身全体が亀裂を生じ、粉々に砕けてしまうからである。

ポットを炉内に残したまま急冷を行った場合、冷却速度を落とすには、炉全体を一時的なレンガ積みと耐火粘土の目地で密封し、炉全体を一種のアニール窯として用いなければならない。この状態で、ガラスが常温近くまで冷めるのを待つことになるが、その所要時間は、溶解の大きさに応じて 1〜2 週間におよぶ。こうした長期間にわたる炉の「遊休」は、経済的観点からはきわめて好ましくない。

そこで一般には、攪拌終了後、ポット全体を炉から引き出して冷却する方式がとられる。この方法では、急冷段階を経たのち、ある温度までガラスが冷えたら、別に用意したアニール窯へ移し替えることで、炉をすぐに次の溶解に使えるようにすることができる。

ポットを炉外へ取り出すには、まず炉前面の仮設レンガ積みを取り壊す。その後、長いバールでポットの底をこじ上げ、炉床(シージ)から切り離す。炉床には、溶融ガラスや半溶融耐火粘土がこびりついているため、ポットは強く貼り付いており、これを引きはがす作業はかなりの力を要する。ポットが一時的に持ち上がったら、その下に耐火レンガ片を差し込んで支え、その間に、車輪付きの重い鉄製フォークのツメをポットの下へ潜り込ませる。次に、長いハンドル付きの鉄製締め輪(バンド)をポットの周囲に巻きつけ、滑車装置を使ってポットを前方へ引く。続いてフォークのツメを少し持ち上げると、ポット全体がフォークに載せられ、そのままフォークを押して炉外へ運び出し、適当な支持台の上に降ろす。この位置で、ガラスが完全にセットするまで十分に冷却される。つぎに再びフォークで持ち上げ、あらかじめ適温に温めておいたアニール窯へ移す。

こうして、灼熱した大きな質量の物体を何度も移動させる作業は、大きな労力を要するだけでなく、ガラスがまだ十分固まる前にポットに亀裂が入れば、ガラスが一挙に失われる危険も伴う。そのため、この種の事故を防ぐためにあらゆる注意が払われる。たとえば、ポットの外周を鎖で巻き締めたり、外側から補助支持を与えたりして、小さな亀裂が即座に大きな破断に発展しないよう工夫する。

このような溶解が炉またはアニール窯内で十分に冷却され、取り扱い可能な温度にまで下がったら、ポット全体が取り出される。その外側を包んでいる耐火粘土の殻は、たいていすでに多数のひび割れが入っているので、ハンマーで比較的容易に打ち砕くことができる。順調な場合には、内部のガラスが一つの巨大な塊として残っており、その重量は半トンを超えることもある。しかし特別な注意を払わない限り、ガラスはある程度亀裂を生じており、比較的大きな塊がいくつかと、それに混じって大量の小片とが得られるのが普通である。

次にこれらの破片を選別し、目に見える欠陥を含まない片、あるいは小さな欠陥部分をチッピングハンマーで容易に切り落とせる片だけを取り分ける。

続く工程では、この粗い破片を、光学的用途に必要な形――たとえば板状、ブロック状、円板状など――に成形する。ここで用いられる成形装置は工場ごとに異なるが、いずれの場合も、ガラス片を徐々に加熱して軟化させ、あらかじめ用意された型の形に忠実に従わせる、という点で共通している。型は耐火粘土で作られることもあり、この場合はガラスを自重でゆっくりと沈み込ませて形をとる。他の場合には鉄製の型が用いられ、木または金属の成形工具で軽い圧力を加えながら、ガラスを型の形状に沿わせていく。さらに、比較的小さく薄い円板や、中凸・中凹のレンズに近い形にあらかじめ成形したい場合には、プレス機を用いることもある。

いずれの成形方法にしても、その後には必ず最終的なアニール工程が続く。これは、成形時の赤熱状態から、常温に至るまで、ガラスをきわめてゆっくりと冷却する工程である。この冷却に要する時間は、対象物の大きさと、残留内部応力をどの程度まで取り除きたいかによって、大きく変化する。一般的な用途であれば、大きな窯の中で 6〜8 日かけて自然冷却させるだけでも十分なことが多い。しかし、完全な複屈折の除去が求められる特殊用途向けには、さらに高度なアニールが必要である。その場合、温度を精密に制御・維持できる特別なアニール窯が用いられる。こうした窯では、1℃の温度低下に数時間を要するような、非常に緩やかな冷却速度を維持することができるため、大型の円板やブロックであっても、きわめて完全にアニールされたガラスを得ることができる。

アニール窯から取り出された光学ガラスの板や円板は、研磨・ポリッシング工場へ送られる。そこで、必要に応じて特定の面や縁が研磨・ポリッシュされ、前章で述べたような方法――すなわち透過光やストリエ検査装置を用いる方法――によって、泡、ストリエその他の欠陥がないか詳しく検査される。ガラスがまだ粗い破片の状態にある段階で行いうる選別はごく限られているため、成形・アニールを終えた後の最終検査で、かなり多くのガラスが不合格となり、廃棄されることになる。したがって、一つのポットから得られる完全な光学ガラスの量は、ポット内容積全体の 10〜せいぜい 20 パーセント程度にとどまるのが普通であり、それより少ないことも決して珍しくない。この事実を念頭に置けば、光学ガラスの価格が、他の種類のガラスに比べて相対的に高い理由も、自然と理解されるであろう。

完璧な光学ガラス片の製造に関わるさまざまな要素を考え合わせると、そのコストと困難は、作りたいガラス片の重量が増すにつれて急激に増大することがわかる。したがって、大型の天文望遠鏡用レンズに必要なような巨大な単一光学ガラス円板の価格が、ある大きさを超えると事実上「天文学的」な値に達し、事実上製造不可能になってしまうのも、それほど驚くべきことではない。たとえば、一回の溶解から、5〜6 ポンドずつの比較的小さな片に分けて用いるのであれば、総計 100 ポンド分の良質ガラスを得ることは、さほど難しくない。しかし、単一ブロックとして 100 ポンドの完全無欠なガラス塊を得ることは、はるかにまれである。

前者の場合には、もっとも良い部分だけを選び取り、粗い破片の段階で大きな欠陥をチッピングで取り除き、さらにその後の成形段階でも、必要に応じて不良部分を切り落としたり研磨で削り落としたりすることができる。しかし、大型の単一ブロックが必要な場合には、そうした「やり直し」がほとんど利かない。一筋の細いヴェイン――肉眼では見えないほど細い場合もある――が、ブロック全体を貫通するように走っていることがあり、その場合、この筋を完全に取り除くには、ブロック全体を割るか切るかしなければならない。そのような事態は、ブロックの体積が増えるほど高い頻度で起こりうる。さらに、再加熱や成形に伴う困難は、ガラス片の大きさとともに飛躍的に増大し、大型片を加熱・冷却するときには、偶発的破損の危険も非常に大きくなる。

これらの事情を考え合わせれば、現代の屈折望遠鏡の口径がほぼ限界に達しているように見えるのは、決して不思議ではない。むしろ、1 メートル径にも達する光学ガラス円板がすでに製作されているという事実の方こそ、人間の技術と意欲の見事な成果として驚嘆に値するのである。

第十四章

雑多な製品

ガラス製造の分野はきわめて広く、その製品の数と種類もまた非常に多いので、本書の限られた紙幅の中でそれらをすべて完全に列挙することは到底不可能である。とはいえ、その中には、それ自体きわめて重要でありながら、前諸章のいずれの見出しにも容易には含めがたい製品が若干存在する。本章では、そうした製品のいくつかについて、簡単に述べることにする。

ガラス管(Glass Tubing)――
もっとも広く利用されているガラスの形のひとつは、大小さまざまな管である。これは、温度計の製作に用いられる極細の毛細管から、排水その他の目的に用いられてきた重い引き抜き管ないしプレス管に至るまで、あらゆる寸法と形状に及ぶ。製造に用いられる工程は、必要とされる管の大きさや性質によって異なる。

たとえばランプ・チムニーは、短い長さで用いられる一種のガラス管であり、比較的口径が大きく、かつ肉が薄い。もっとも、これらは通常、長い管を作ってから短く切断して作るのではなく――すでに述べたように――薄肉の円筒形びんを型に吹いて成形し、そののち胴部の所定の長さを残して頸部と底部を切り取ることによって作られる。この方法によれば、油ランプ用チムニーに見られるような、長さの途中にくびれた形状も容易に得られる。

より厳密な意味で「ガラス管」と呼ばれる製品は、しかしながら、実際の吹き作業がごくわずかしか関与しない工程により製造される。まず、適当な大きさのガラスを吹き竿に巻き取り、竿からわずかな内空を吹き込んで作る。その後、吹き竿を適当な方法で振り回しながら、この塊を細長く伸ばす。こうして伸ばしたガラス塊のうち、竿から最も遠い端を、第二の作業者が持つ棒(「ポンテ」)に付ける。すると二人の作業者は互いに離れる方向に動き出し、その間に挟まれたガラス塊を引き延ばすのである。

必要とされる管の内径と肉厚に応じて、二人は離れる速度を調節する。より薄い管を作る場合には、ガラスが冷え固まってしまう前に十分に引き延ばせるよう、二人はより速く動かなければならない。もちろん、引き延ばし速度は使用するガラスの性質にも合わせなければならず、この性質は種類により大きく異なる。細い内径の管を製造する場合、作業者たちはかなり早足で離れていかなければならないが、ゲージグラス用のような肉厚の硬質管を引き出す際には、非常にゆるやかな動きで足りる。場合によっては、管が所定の厚さに達した段階でガラスの「据わり」(硬化)を早めるため、送風機による送風を行うか、あるいはもっと原始的な方法として、少年たちに団扇で熱いガラスをあおがせることもある。いずれにせよ、引き延ばされた管を受け止めるための適当な槽が用意されており、そこから管を取り出して、必要不可欠な作業である徐冷(アニール)のために徐冷炉へ送る。

管の製造に用いられるガラスの種類は、用途に応じて非常に幅広い。一般的な種類のガラスであれば、ほとんどいかなるものでも容易に管状に引き延ばすことができるため、どのガラスを使うかの選択はもっぱら他の条件によって決まる。ガラス細工師――すなわち、ガラス吹き用ブローパイプを用いて器具や諸製品を作る「ランプワーカー」――に供給するための管では、繰り返しの加熱・冷却に耐え、結晶化(失透)を起こさないことが要求され、また炎の中で適度なやわらかさを示すことも必要である。さらに、この用途には鉛を含むガラスは適さない。鉛ガラスはブローパイプの炎の作用のもとで黒変してしまうためである。この目的には、アルカリ分に比較的富むソーダ石灰ガラスがもっともよく用いられる。しかしその化学組成の結果として、この種のガラスは、特に湿気の多い場所で長期間保管されると分解しやすい傾向がある。しばしば、この分解は、ガラスを炎で加熱したときにはじめて明らかになる。その際ガラスは砕け散ったり、あるいは表面がくもってざらついたりする。この種のガラスはしばしば「失透した」と言われるが、実際にはそうではない。実際に起こっているのは、大気中の水分がガラスの内部にいくらか浸透し、おそらくシリカの一部を水和させる現象である。加熱すると、この水分が追い出される結果として、数本の大きな亀裂、あるいは無数の微細な亀裂が生じる。後者の場合、ガラスを軟化させてもこれらの亀裂は容易に消失せず、そのため最終的に表面が鈍く粗い状態になってしまう。

高温にさらされる用途には、いわゆる「硬質ガラス」で作られた管が用いられる。これは実質的にはボヘミア・クリスタルの一種であり、その化学組成は石灰分に比較的富むカリ石灰ガラスである。このボヘミア硬質ガラスは、ある程度まで、イエナのショット社が製造する特殊な「燃焼管用ガラス(combustion tube glass)」によって置き換えられている。このガラスはマグネシアを含む非常に耐火性の高いホウケイ酸ガラスであり、硬質ボヘミアガラスよりも高温に耐え、また温度変化に対していくぶん鈍感である。その一方で、一度加熱されると白濁した乳光を呈し始め、やがて完全に不透明化してしまうという不便な性質を持っている。

耐熱性が主として要求される多くの用途において、現在では普通ガラスにとってきわめて手強い競争相手が現れている。それが、商業的に満足できる品質で供給されるようになった「ガラス状シリカ(vitreous silica)」である。この物質の大きな利点は、大部分の通常の用途において、完全に不溶融物とみなしうる点にある。すなわち、シリカを軟化ないし溶融させるには、酸素を供給した炎による非常に強い高温が必要となる。さらに、ガラス状シリカは熱膨張係数がきわめて小さく、また熱伝導係数も比較的高いように思われる。その結果として、この材料で作られた管や他の製品は、驚くべき熱的耐久性を備えている(第II章参照)。

この材料で作られた白熱状態の管や棒は、何の問題もなく冷水中に投じることができる。また、特に大きな寸法や肉厚の品物でない限り、この物質で作られた製品を加熱・冷却する際に特別な注意を払う必要はない。もしそのような大形・肉厚品であっても、ほんの少しの注意が必要なだけである。このような大きな利点に対応して考慮すべき短所は、製品の比較的高い価格と、ある種の化学的作用に対する感受性の高さにある。価格についていうと、現在ガラス状シリカ製品は二つの異なる形で市販されている。第一の形態のものは、外観がごく普通のガラスによく似ており、この種の管や容器の形状や仕上げは、近年著しい向上を遂げている。この種のシリカガラスは、実際には溶融したシリカから、普通ガラスとおおよそ類似した方法で成形されたものであり、その製造費が非常に高くつく理由の一部は、シリカを溶融・加工するために必要となる極度の高温にある。通常、この種のシリカ製品の製造では、その高温を得るため、酸素ガスを惜しみなく――したがって非常に高価に――消費する。

これと対照的なのが、同じくガラス状シリカではあるが、外観がまったく異なる第二の形態である。こちらは、特殊な電気炉でシリカを溶融することにより得られる一連の製品である。石英をいかなる形で溶融する場合でもごく容易に生じる微小な気泡が、この種の製品ではほとんど除去されず、そのまま残っている。しかもそれらの気泡は、しばしば極度に引き伸ばされた毛細状の空孔の形をとり、このために当該製品特有の乳白色の外観が生じる。この種の製品は、主として管の形で使用されるが、相当な大きさの洗面鉢、るつぼ、さらにはマッフル炉用容器なども入手可能である。この第二の種のシリカ製品の価格は、透明な第一種に比べればかなり低く、実際、一級陶磁器よりもはっきり安価である。ただし、その価格でさえ、一級ガラス管よりもかなり高い。

価格の問題とは別に、シリカ製品の用途は、塩基性物質すべてに対して敏感であるという点によっても制約を受ける。したがって、この物質にアルカリ溶液を接触させることはできない。とりわけ温度が高い場合、アルカリ溶液は激しくシリカを侵すからである。高温下では、あらゆる塩基性物質がシリカ製品に対して急速な侵食作用を示し、シリカは事実上、赤熱以上の温度で強い酸性物質として振る舞う。たとえば、酸化鉄や酸化銅のような物質を、加熱されたガラス状シリカに接触させると、その攻撃はきわめて急速に進み、管は数分のうちに完全に破壊される。これは、シリカがケイ酸塩を形成する過程で、全面的な亀裂や崩壊を招くためである。このように、ことに安価な種類のシリカ製品は、確かに大きな利点と可能性を有しているものの、その使用にあたっては、その化学的性質に十分留意しなければならない。

ガラス状シリカは、上述した用途や利点に加え、光学的な観点からも興味深い物質である。というのも、これは、通常のガラスでは完全に不透明である短波長(紫外線)光に対して透明だからである。ごく最近、イエナ工場では、通常のガラスに比べて紫外線に対する透過性の高い特殊ガラスが製造されているが、それでもなお、この点においてガラス状シリカには遠く及ばない。この紫外線透過性の性質は、二つの大きく異なる方面で利用されている。一つは、医療その他の特殊目的のために紫外線を発生させる用途である。ガラス状シリカ製の管の内部で水銀蒸気アークを発生させると、きわめて強力な紫外線源が得られる。もう一つは、顕微鏡学における紫外線の光学的性質を活用する用途である。ここでは、水晶レンズの使用によってこれが可能になる。結晶質の石英は複屈折性を有するため、完全な光学系を構成する目的には利用できないが、この問題は、ガラス状シリカ製レンズを用いることによって解決された。たとえばイエナのカール・ツァイス社が製作する「紫外線顕微鏡」においてである。しかしながら、光学用途に十分なほど気泡の少ないガラス状シリカの大きな塊を製造することは、現在のところきわめて困難であり、実際に光学用途に用いられているのはごく小さなピースのみである。この困難の主因は、単に石英を溶かすこと自体ではなく、その内部に閉じ込められた気泡を除去する点にある。ガラスの場合に一般に行われるように、温度を上げて気泡が表面に浮上するまで待つという方法は、この場合には適用できない。ガラス状シリカでは、融点をやや上回る程度の温度まで昇温すると、シリカそのものが気化しはじめ、激しく沸騰さえしてしまうからである。しかし、ごく最近になって、二人のアメリカ人研究者が、この困難を克服する方法を提案している。それは、溶融初期と後期の段階で、それぞれ真空および高圧を利用することにより、気泡を除去しようとするものである。これが成功すれば、近い将来、気泡もなく完全に透明な、大型のガラス状シリカブロックが製造可能になるかもしれない。

すでに述べたように、ガラス管およびガラス棒は、ガラス工がブローパイプ(あるいは「ランプ」)を用いてさまざまな製品を作り出す際の基本材料となる。このようにして作られるものの中には、とりわけ化学の分野で用いられる多数の科学用器具・装置が含まれている。別の方面では、ガラス管はある種のガラスビーズ製造の基材としても用いられる。これは、適当な直径と色を持つガラス管を加熱し、それを切断して、短いほぼ球状の小片にすることによって作られる。ビーズの色は、必要な色調のガラスそのものを用いることで得られる場合もあるし、無色ガラスのビーズを作って、その内部に着色物質を封入する場合もある。

実心のガラス棒も、またさまざまな目的に用いられる。その製造方法は、中心部に空洞を吹き込まずに、巻き取ったガラス塊をそのまま引き延ばすという点を除けば、管の場合とまったく同じである。ガラス棒が極度に細く引き延ばされたものが、ガラス糸ないしガラス繊維である。これは、熱いガラスを非常に高速で引き延ばすことによって作られ、その結果生じた糸状物は大きな車輪に巻き取られる。かつてはこの材料がかなり広く用いられたことがある。極細のガラス繊維を紡いで織物にすることができ、その布地が衣装用途に利用されていたからである。しかし、この流行がさほど広がらず、かつ長続きもしなかったことは、むしろ歓迎すべきことであろう。というのも、これは健康に対して明らかに重大な害をもたらしうるものだったからである。人体の咽喉や肺に吸入されうる物質の中でも、微細なガラスほど有害、あるいは危険なものはほとんど存在しないことがよく知られている。さらに、ガラス繊維は、絶え間ない屈曲や摩耗にさらされると、必ず頻繁に破断を起こす。その結果、たとえば数着のガラス繊維製ドレスが着用されている舞踏室の空気は、ほどなく無数の細かく鋭利なガラス片で満たされ、それを吸い込んだ人々に有害な影響を与えることになったであろう。現在、ガラス繊維の用途は、おおむね化学実験室で特殊目的に用いられる「グラスウール」に限られている。

溶融石英またはシリカから作られる極細の繊維は、相対的には非常に高い強度を持ち、多くの科学機器に用いられている。その極度の軽さと完全な弾性、そしていわゆる「弾性疲労」がまったくない点は、きわめて貴重な特性である。これらの繊維は、ガラスの場合のように溶融シリカの塊から直接引き出されるのではなく、酸素供給式ブローパイプを用いてシリカを溶かして作った小さな玉に、釘やボルトを付着させておき、その釘やボルトを弩(クロスボウ)で長い通路の先へ向けて一気に射出することにより作られる。その際にシリカのきわめて細い繊維が引き出されるのである。ただし、この操作でもっとも難しいのは、こうして作られた繊維を実際に見つけ出し、扱うことである。

人造宝石(Artificial Gems)――
適切に着色したガラス片は、外見上、しばしばかなりもっともらしい形で宝石に似せることができる。この事実は、あらゆる種類の模造宝石の製造へとつながってきた。この目的に用いられるガラスは、通常きわめて高密度のフリントガラスであり、その高い屈折率が、意図される模倣を容易にしている。宝石の外形は、もちろんガラスを切削・研磨することによって容易に模倣できるし、所要の色彩は第XI章で述べた各種の着色剤によって得ることができる。カジュアルな観察者には、高密度フリントガラス(屈折率約1.8)と、各種鉱物(屈折率1.7~2.2)の間に存在する屈折率の違いから生じる輝きやきらめきの差を見分けることは、そう容易ではない。しかし、少し注意して観察すれば、その差はすぐにわかる。屈折率計を用いて光学定数を測定すれば、模造品であることはたちどころに明らかとなるが、さらに手軽なのが硬度試験である。高密度フリントガラスは本質的にやわらかく、大半の硬い鉱物によって容易に傷つけられる。一方、宝石、特にガーネット、ルビー、ダイヤモンドは非常に硬い。普通の窓ガラスを引っかいてみれば、大抵の真正宝石は容易に傷をつけることができるが、フリントガラス製の模造宝石は、かろうじて表面にわずかな痕跡を残せる程度であり、その痕跡も傷というよりは「こすれ跡」に近い。比重測定もまた、当然ながら有効な試験手段である。フリントガラスは比重が4を超える高密度であり、この点でたちまち正体を現してしまうからである。

カットしたフリントガラスで作られた模造宝石とはまったく別の範疇に属するのが、自然界の宝石とまったく同じ本質と組成を持ちながら、人為的な過程によって生産された「人造宝石」である。筆者の知る限りでは、この種の人造宝石が相当量生産されているのは、ルビーの場合だけである。しかし少なくともルビーに関していえば、人工結晶の生産費は、天然石の購入費より安価というわけではなく、少なくとも同程度に高価であるとされている。とはいえ、溶融および結晶化に関する技術がよりよく知られ理解され、ケイ酸塩鉱物の化学がさらに発展すれば、少なくとも中程度の大きさの鉱物結晶を人工的に生産することは、ますます可能になっていくであろう。その際には、これら鉱物の真に価値ある特性が、人類の役に立つ形で提供されるところまで、その生産技術が完成されることが期待される。

急冷ガラス(Chilled Glass)――
本書で取り上げたあらゆるガラス製造工程において、アニール(徐冷)はつねに重要な役割を果たしてきた。すなわち、熱を用いた最終工程を終えたガラスは、そのままでは内部に残留応力を抱え込んでおり、その応力は通常、ガラスの存続を危うくし、その使用を妨げるおそれがある。そのため、ガラスは必ず段階的な冷却工程にかけられ、内部応力を除去するのである。しかし一方で、表層に圧縮応力を生じさせるような内部応力を負ったガラス表面は、損傷を受けにくく、アニールされて応力を取り除いた状態よりも、見かけ上強くなることが知られている。これに対して、引張応力を負ったガラス表面はきわめて繊細で壊れやすい。したがって、ある観点からいえば、アニールしていないガラスの方が、アニールしたものより強く見える場合もある。

この種の例としてよく知られているのが、いわゆる「ルパートの滴(Rupert’s drop)」である。これは溶融ガラスを水中に滴下することによって作られ、一般に、ほぼ球形の頭部から、糸状に細くなった長い尾が伸びている形をとる。このルパートの滴は、かなり重いハンマーで叩いても、同じ形状・大きさのアニールガラス製の物体なら粉々に砕けてしまうような打撃に耐えることができる。しかしながら、その表面にわずかな傷がつけられたり、尾の先端が折られたりすると、滴全体が、しばしばかなり激しい破裂を伴って、微小な破片へと崩壊してしまう。

デ・ラ・バスティ(De la Bastie)やジーメンス(Siemens)をはじめとする多くの発明家は、このような急冷ガラスの性質を実用化しようと試みてきた。ただし、彼らが目指したのは、ルパートの滴に見られるような極端な内部応力状態そのものではなく、より穏やかな冷却によって内部応力をある程度まで軽減した「強化(tempered)ガラス」である。そこでは、内部応力による硬化の利点を一部残しつつ、アニールガラスにかなり近い安全性を得ようとしたのである。かつては、この種の強化ガラスが珍品としてしばしば目にされた。たとえば床に落としても割れないタンブラーなどがその例である。しかし、こうした製品はえてして、やがて表面にわずかな傷や欠けを生じ、その途端に粉々になってしまうのが常であった。

とはいえ、実際にジーメンス社では現在も、特別な用途向けに一部の強化ガラスを製造している。デ・ラ・バスティの方式もイギリスで試みられ、ある程度の成功を収めたとされるが、現在では商業的に実施されておらず、また大きな重要性を獲得したこともないようである。

質量ガラス(Massive Glass)――
ガラス使用の拡大に熱心な人々は、この材料を実にさまざまな用途に適用しようと試みてきた。その中には、建築物の構築や道路舗装も含まれている。前者の例は、1900年のパリ万国博覧会に見られた。ここでは、素材が光を透過するという特性を利用し、大型のガラスブロックを鋳造して建物を構築したのである。完成した建築物は、見た目にもそれなりに魅力的であったが、この種の用途がその後大きく広まるには至っていない。

道路舗装への応用では、ガラスの硬さと耐久性だけが有用な特性となる。この用途においても――フランスでいくつかの試験的な舗装が行われたものの――新製品が広く普及している形跡は、現時点では見られない。前述の、ガラス粉が有害であるという点は、ガラス舗装にも当てはまる。舗装材の自然な摩耗は、かなりの量のガラス粉の発生を招くだろうからである。ガラス舗装の推進者たちは、しかしながら、ガラスの高い硬度のおかげで実際の摩耗量は大きく減少し、その結果としてガラス粉の発生は大幅に抑えられるだろうと主張する。この点については、長年にわたる使用経験によってのみ判断できることであるが、ガラスブロックが、たとえば優良な花崗岩製の石畳よりも摩耗が遅いと考える明確な根拠はないように思われる。一方で、ガラスブロックは、所定の寸法どおりに鋳造されるため、切断加工の手間が不要となり、その分だけ製造費が安くなる可能性は高い。

「水ガラス(Water-glass)」、すなわちケイ酸ソーダまたはケイ酸カリは、おそらく「ガラス製造」の範疇に含めるにはいくぶん無理があるかもしれないが、いくつかの点でガラスと密接な関係をもっている。たとえば、水ガラスの製造法のひとつとして、ガラス製造用タンク炉に類似した炉で、砂とアルカリを溶融する方法があるし、また溶融したケイ酸塩が冷却するとガラス状の固体となるという点でも、ホウ砂などの物質と同様にガラスに似ている。しかし、ケイ酸ソーダおよびケイ酸カリの用途は、ガラス製造の分野からはかなり隔たっているため、本書ではこれ以上触れないことにする。

本章を締めくくるにあたり、ガラス工場の製品の中から、もう一つだけ取り上げたい。それはガラス工芸のうちでも、とりわけ壮観で豪華な例を含むものである。それが、灯台や探照灯から発せられる強力な光線を支えている巨大な鏡およびレンズである。これらは「鏡」および「レンズ」と呼ばれてはいるものの、その機能としては確かに光学器官としての働きを果たす一方で、その本質や製造方法は、他種のレンズ製造に用いられるガラスとは大きく異なっており、「光学ガラス」の範疇には含めがたい。

光学ガラス製造の特徴は、各るつぼ(あるいは一回の溶解)ごとに、ガラスをそのまま冷却し、不規則な破片に砕けさせたのち、それを再び所定形状に鋳造する点にある。もし灯台用に必要とされる大型ガラス体を、同じ方法で製造しようとすれば、そのコストは天体望遠鏡用対物レンズに用いられる大口径ディスクの価格に近づいてしまうであろう。それではもちろん、まったく実用的でない。さらに、灯台用レンズに求められる色調、均質性、その他の欠陥のなさに関する要件は、良質な一般光学用途において不可欠とされる要件ほどには厳しくない。この違いの理由は、灯台レンズや探照灯用鏡が、あくまで光束に所定の方向性を与えるためだけに用いられ、鮮明な像を結ばせる用途には用いられない点にある。したがって、ガラス中に多少の不均一が存在しても、それはそれほど重大な問題にはならない。

このような事情から、灯台用ガラスは、光学ガラスほど精緻な工程を経ずに生産することができる。もちろん、ガラスを可能な限り完全なものにするための配慮は払われるものの、そのおおよその形状は、溶融ガラスを目的の形をした鉄型に鋳込むことによって与えられる。このようにして鋳型から取り出し、徐冷したガラスは、大きな回転テーブルに固定され、灯台用フレネルレンズの各種形状に応じて、円輪状レンズまたは円環レンズ部材となるよう、研磨・光沢出しが行われる。この方法によって、直径48インチまでの完全なリング状円環レンズを作ることができる。それ以上の大きさのリングは、通常複数のセグメントを組み合わせて作られ、こうして構成されたリングは、ときには半径7フィートにも達することがある。大部分の灯台レンズには、屈折率1.50〜1.52の硬質ソーダ石灰ガラスが用いられるが、特殊な用途には、屈折率1.63の高密度フリントガラスが使用される。

探照灯用鏡の形状および大きさはきわめて多様である。その形は、多くの場合、設計された光束の形状に大きく依存する。たとえば、多くの用途では放物面形状が必要とされるが、扇状の平たい光束を投射することが求められる場合には、水平方向には楕円断面、垂直方向には放物線断面を持つ形状が必要となる。こうした鏡の多くは、あらかじめ必要な温度まで加熱したガラス板を、所定の形状を持つ型の上に載せて曲げ、その後、曲げ加工によって生じた表面の粗さを除去するために再研磨・再光沢出しを行うことで製造される。

別種の鏡としては、「マンガン型(Mangin)」と呼ばれるものがある。これは、中心部が周辺部よりもかなり薄くなるよう、二つの球面を偏心させて配置した形状を持つ。マンガン型鏡では、背面の反射作用が前面の屈折作用によって修正されるが、背面・前面ともに球面であるため、通常の機械的方法によって高精度に研磨・光沢出しを行うことができる。この種の鏡は、単一ガラス片から直径6フィートまでの大きさのものが製造されている。

付録

文献目録(BIBLIOGRAPHY)

ガラス製造に関する既存の文献は非常に少なく、その全体を挙げても、ほとんど一枚の紙で事足りるほどである。とりわけ英語で書かれた書籍や論文はきわめて少ない。フランス語およびドイツ語による文献は、いくぶん数が多い程度である。本書の執筆にあたり、著者が参照した文献を中心に、その内容の範囲と、ある程度その価値についても示しておけば、学生が、目的とする情報がほとんど含まれていないような、入手しにくい文献をわざわざ探し求める手間を省くことができるであろう。

ガラス製造に関する英語の書籍および論文

The Principles of Glass Making(George Bell & Sons)
Powell & Chance 共著。
主としてフリントガラスおよび板ガラスに関する、旧来の工程を明快かつ簡潔にまとめた入門書。

“Glass.” Encyclopædia Britannica 第9版 所収記事。
分野全体をほぼ網羅する詳細な工程解説であるが、記述されている工程の多くは、現在ではほとんど用いられていない。

“Glass.” Encyclopædia Britannica 第9版 補遺 所収記事。
Harry J. Powell 著。
比較的最近の発展についての簡潔な要約。特に英国製美術フリントガラスに関する記述が有用。

Jena Glass Hovestadt 著(J. D. & A. Everett 訳)。
ショット社イエナ工場において行われた、ガラスに関する科学的研究およびその実際的応用について、詳細な記述を含む。とりわけ本書第I章、第II章、第XII章および第XIII章に関連して興味深い。書名が示すとおり、本書はイエナ側の立場から書かれており、他所で行われた業績には十分な評価を与えていないきらいがある。もっとも、本書は訳者たちの手によって、内容面で大いに補強されている。

“Some Properties of Glass.” W. Rosenhain 著。
(ロンドン光学協会会報 1903年)
ガラスの光学用途に関わる諸性質について、簡潔にまとめたもの。

“Possible Directions of Progress in Optical Glass.” W. Rosenhain 著。
(ロンドン光学大会議議事録 1905年)
本書第XII章において本文中で引用した。

Optical Convention Exhibition Catalogue, London, 1905.
光学および灯台用ガラス、ガラス加工機械などに関する歴史的・一般的な解説を含む。

“Glass for Optical Instruments.” R. T. Glazebrook 著。
(英国工芸協会におけるカントール講演)
近代光学ガラス製造についての概説。

Old English Glasses Albert Hartshorne 著。
イングランドにおけるガラス製造史について述べる。

The Methods of Glass Blowing W. Shenstone 著。
実験目的――すなわちランプ作業――のためのガラス吹き操作を記述。

ガラス製造に関するフランス語書籍

Guide du Verrier G. Bontemps 著。
同時代における第一級の専門家による古典的著作。ただし内容の多くは、現在では完全に時代遅れとなっている。この書は、光学ガラス製造技術をイングランドに導入した人物による著作として興味深い。

Verres et Emaux L. Coffignal 著。
本書第VIII章の主題に関連する内容が中心。

Le Verre et le Crystal J. Henrivaux 著(P. Vicq Dunod et Cie., Paris)。
豊富な挿絵を備えた大著で、詳細な情報が大量に盛り込まれている。著者は、当時ヨーロッパ最大級の板ガラス工場の総支配人を務めた人物であり、そのため板ガラス製造の記述はとくに貴重である。本書のかなりの部分は、歴史的・美学的事項に割かれている。

La Verrerie au XX^{ième} Siècle J. Henrivaux 著(Paris, R. Bernard et Cie., 1903)。
実質的には前掲書の続編とみなせる。ただし、記述されている工程や製品の中には、実用性に乏しいものも含まれている。主として板ガラスおよび瓶ガラス製造における近年の発展に関して有用。

ガラス製造に関するドイツ語書籍

Die Glasfabrikation R. Gerner 著(A. Hartleben’s Verlag, Wien und Leipzig, 1897)。
主要なガラス製造工程の大部分について、簡潔で明快な説明を与える。内容はきわめて実務的であり、記載されている情報は信頼できるものと思われるが、必ずしも網羅的ではない。

Die Herstellung Grosser Glaskoerper および
Die Bearbeitung Grosser Glaskoerper C. Wetzel 著
(いずれも Hartleben’s Verlag, Wien und Leipzig, 1900年および1901年)。
大型ガラス製品の製造・加工に用いられる、多数の特殊工程および装置について記述している。ただし、これらの説明の一部は、実際には特許明細書のほとんど逐語的な引用にすぎないように見受けられる。

Glasfabriken und Hohlglasfabrikation R. Dralle 著(Leipzig, Baumgaertner, 1886)。
ドイツでは古典とみなされている書籍。工場全体――炉および付属設備を含む――の詳細な平面図や図面を示し、主として瓶製造を扱っている。

Die Glasfabrikation Dr. E. Tscheuschner 著(Weimar, B. H. Voigt, 1888)。
当時知られていたあらゆる工程について、きわめて詳細な記述を行っている。しかし近年の実務の急速な進歩により、本書の内容の一部はすでに時代遅れになりつつある。

Jenaer Glas Hovestadt 著。
英訳版についてはすでに言及した。

Der Sprechsaal(Schmidt, Weimar)。
ガラスおよび陶磁器産業に関する技術的課題を扱う業界誌。ガラス製造に関する技術的・科学的な内容を含む論文や抄録が、時折掲載される。

  *   *   *   *   *

上記の書籍や論文のほかにも、世界各国の技術誌・科学誌には、きわめて多数の論文や短報などが散在している。しかし、その中で真に興味深く重要なものは、すでに産業界に何らかの形で影響を与えており、本書の各製造分野に関する記述、あるいは上記に挙げた書籍の中で紹介または引用されているであろう。

索引

A.

Abbé(アッベ), 8, 10, 210, 218

光のガラス中での吸収, 32, 179

酸, ガラスに対する作用, 11
ホウ酸, ガラスに対する作用, 11, 186
炭酸, ガラスに対する作用, 12
フッ化水素酸, ガラスに対する作用, 12
リン酸, ガラスに対する作用, 11

空気, 圧縮空気, 91, 105, 117

アルカリ塩化物, ガラス製造における使用, 41
潤湿性ガラス中の含有量, 6
金属, 184
硝酸塩, 44, 78
供給源, 40

アルカリ性液体, ガラスに対する作用, 11

アルミニウム, 51, 186

アンモニアソーダ, 41

無歪写真レンズ(アナスチグマティック写真レンズ), 213

古い窓ガラスの色, 16, 202

焼きなまし(アニール), 瓶, 103
窯, 103
光学ガラス用, 235
板ガラス用, 135
ロールド板ガラス用, 127

無煙炭, 42, 53, 79

アンチモン, 188

アポクロマート対物レンズ, 213

ヒ素, 52, 78, 105, 117, 188

人造宝石, 246

Auerbach, 22

アベンチュリン, 185

B.

細菌, ガラスに対する作用, 13

バリウム化合物, 47, 186
バリウム・クラウンガラス, 212
バリウムガラス, 7

重晶石(バライト), 48

アルカリ以外の塩基, 供給源, 45

ビーズ, 244

ガラスの化学的挙動, 6

板ガラスの曲げ, 144

面取り(ベベル仕上げ), 145

ブラックアッシュ, 41

気泡(ブリスター), シートガラス中の, 160, 168

耐火粘土ブロック, 58
タンクブロック, 59

吹き工, シートガラス用, 158

吹き工の椅子, 111

ガラス吹き, 89
孔開け, 91, 161, 189
シートガラスの吹き作業, 161

吹きガラス, 装飾, 114
板ガラス, 171

ボヘミアガラス, 109, 240

沸き立ち(ボイリング・アップ), 81

瓶, 焼きなまし, 103
吹き作業, 改良, 99
機械, 100
色, 96
製造, 炉, 97
吹き用型, 98
手作業による製造, 98
原料, 95
強さ, 18

ホウ酸, 11

ホウ素, 186

ホウケイ酸クラウン, 212

Boucher の瓶吹き機, 101

耐火れんが, 58
シリカれんが, 60

光学ガラス中の気泡, 230
除泡, 81

ポットの焼成, 58

C.

カドミウム, 186

炭酸カルシウム, 46
酸化カルシウム, 45, 186
硫酸カルシウム, 47

炭素, 53, 79, 186

炭酸ソーダ, 41

炭酸(炭酸ガス), ガラスに対する作用, 12

大瓶(カーボイ)の吹き作業, 104

板ガラスの鋳込み, 132

椅子, ガラス吹き工用, 111

チョーク, 46

シャモット, 57

Chance, 211

木炭, 42, 58, 79

炉への原料装入, 75

ガラスの化学的挙動, 6
化学組成, 5
光学ガラスの, 217
溶融中の化学反応, 76

急冷ガラス, 247

ガス灯用チムニー, 23
ランプ・チムニー, 238

クロム, 着色作用, 190

レンズの清掃, 220

石炭, 無煙炭, 42, 53, 79

コバルト, 着色作用, 197

コークス, 42, 53, 79

古い窓ガラスの色, 16
ガラスの色, 32
色の理論, 181
光学ガラスの色, 208
シートガラスの色, 167

色付き吹きガラス, 113
色ガラス, 178
技術的用途, 203

燃焼管(コンバスションチューブ), 7, 241

圧縮空気, ガラス吹き用, 91, 105, 117

電気伝導度, ガラスの, 30
熱伝導度, ガラスの, 24, 29

銅, 着色作用, 184
コッパー・ルビー, 184, 188, 198

ガラスの腐食, 11

被い付きポット, 56, 109

クラウン, ホウケイ酸, 219
クラウンガラス, 175, 211
硬質クラウン, 212, 219
軟質クラウン, 212
望遠鏡用クラウン, 215

炉頂(クラウン), 60

るつぼ, 製造, 56
ガラス溶解用, 54

ガラスの圧縮強さ, 19

蛍石, 52

ガラスの結晶化, 3

結晶(鉱物), 218

屑ガラス(カレット), 74
光学ガラス用, 224

ロールド板ガラスの切断, 128

円筒, シートガラス, 161, 171

D.

脱色, ガラスの, 52, 188, 190, 193, 197

吹きガラスの装飾, 114

欠陥, ロールド板ガラス, 129
シートガラス, 166

ガラスの定義, 1

De la Bastie, 248

失透, 3, 11

ダイヤモンド, 屈折率, 216

ガラス面のくもり(曇り), 12

ディナスれんが, 61

シートガラスの浸し作業(ディッピング), 166

分散, 光学ガラスの, 209
部分分散, 214

複屈折, 光学ガラス中の, 221
ローリングマシン(二重圧延機), 130

管の引き出し, 239

ガラスの延性, 20

ガラスの耐久性, 試験法, 14

ほこり, レンズへの作用, 220
ガラス粉塵, 245

E.

ガラスの弾性, 20, 24

ガラスの電気的性質, 29

Epinal, 39

ガラスのエッチング, 12

熱膨張係数, 24, 25

F.

長石, 40, 44

繊維, ガラス, 245
シリカ繊維, 245

模様入りロールド板ガラス, 87, 130
その切断, 131

レンズ上の指紋, 219

精製(ファイニング), ガラスの, 81
光学ガラスの, 229

耐火粘土, ガラスへの作用, 6
ポット用, 55
練り上げ(ウェッティング・アップ), 57

ファイアポリッシュ, 117

フラッシュドガラス, 25, 199

フリント(珪石), 40
ホウケイ酸フリント, 212
高密度フリント, 212, 246
最高密度フリント, 212
超高密度フリント, 212
フリントガラス, 7, 49, 78, 108, 211
軽フリント, 212
ソーダフリント, 212
望遠鏡用フリント, 215

蛍石, 屈折率, 216

Fontainebleau, 38

光学ガラスの溶解(ファウンディング), 227

Fourcault 法, 174

フレネル, 251

炉頂(クラウン), 60
ガス炉, 63

炉, 瓶製造用, 97
ガラス溶解用, 54, 62
光学ガラス用, 225
板ガラス用, 133
ロールド板ガラス用, 122
シートガラス用, 151, 170
ポート(出炎口), 67
エコノマイザー付き(回収式)炉, 66, 156
蓄熱式炉, 66, 155
タンク炉, 59, 69
経済性, 72

溶融, プロセス, 73
ガラスの融点(溶融温度), 5

ガラスの「凍結」(固化), 2

G.

ガス灯, チムニー, 23

ガス発生炉, 62, 64

掬い手(ギャザラー), 158

ガラスの巻き取り(ギャザリング), 85, 88, 158

ゲージ管, 10, 18, 23, 26

宝石, 人造, 246

幽霊像(ゴースト), 写真の, 16

芒硝(グラウバー塩), 43

金, 着色作用, 185

板ガラスの研磨, 137

石膏(ギプス), 47

H.

強化ガラス(ハードンドガラス), 20

ガラスの硬さ, 21
試験法, 22

重晶石(ヘビースパー), 48

Henrivaux, 19

Hertz, 22

ホックボトル色, 195

Hohenbocka, 38

中空ガラス器, 108

ホースシュー炎, 69

フッ化水素酸, ガラスに対する作用, 12

潤湿性ガラス, アルカリ含有量, 6

I.

圧痕弾性率, 22

屈折率, 216

ガラスの絶縁性, 29

鉄, 96
着色作用, 196
ガラス中での酸化, 195

圧延による不規則性, 86

J.

イエナ(Jena), 7, 10, 14, 26, 29, 203, 210, 213, 241

K.

ケルプ, 40

Kowalski, 19

L.

実験室用器具, 10, 23

ガラスの汲み出し(ラドリング), 85
ロールド板ガラスのラドリング, 124

ラグレ(Lagre), 166

ランプ・チムニー, 110, 238

ランプワーク, 240, 244

大型容器, 製造, 105

鉛, 49, 183, 188

リアー(徐冷炉), ロールド板ガラス用, 127
シートガラス用, 165

Leighton, 39

レンズ, 清掃, 220
指紋, 220
小レンズのプレス, 94

光, ガラスに対する作用, 15

灯台用ガラス, 178, 250

消石灰, 45

石灰石, 46

ガラス体の限られた範囲, 4

Lippe, 38

Lynn, 39

M.

機械, 面取り用, 145
二重圧延機, 130
研磨機, 139
ポリッシングマシン, 141

マグネシア, 48, 186

マンガン, 15, 52, 80

マンガン鏡, 252

マーバー, 111

質量ガラス, 249

ガラスの機械的性質, 18

金属, ガラスへの付着, 26

鉱物, 結晶性, 217

鏡, 145
探照灯用, 251

原料の混合, 73

吹きガラス用型, 90, 110, 116
プレスガラス用型, 119

Muffled glass(マッフルド・ガラス), 172

ムラノ(ヴェネツィア)ガラス, 123

N.

ニッケル, 96
着色作用, 197
ニッケル鋼, 27, 148

硝酸塩, アルカリ, 44, 78

O.

対物レンズ, アポクロマート, 213
望遠鏡用, 218

オパールガラス, 45, 52, 186

不透明板ガラス, 146

開放ポット, 56

光学ガラス, 焼きなまし, 235
化学組成, 217
冷却, 233
コスト, 237
精製(ファイニング), 229
溶解(ファウンディング), 227
炉, 225
硬さ, 220
成形(モールディング), 235
プレス, 93
屈折率・分散の範囲, 216
原料, 223
選別, 235
安定性, 219
応力, 221
撹拌(スターリング), 231
収率, 236
光学的性質, ガラスの, 205

P.

ガラス絵(彩画), 201

パラゾン(中間塊), 102

パテント・プレートガラス, 171

舗装石, ガラス製, 249

パールアッシュ, 43

リン酸, 11

リン, 188

写真のゴースト像, 16
レンズ, 無歪写真レンズ, 213
色, 209

パイプ, ガラス職人用, 89
シート吹き用, 158
ウォーマー, 158

板ガラス, アニール窯, 135
曲げ, 144
吹き板ガラス, 171
鋳込み, 132
色, 33
模様入りロールド板, 87
平坦度, 134
炉, 133
研磨機, 139
研磨, 137
鏡, 145
不透明板, 146
ポリッシングマシン, 141
研磨, 137
原料, 132
ロールド板, 86, 123
銀引き, 146
寸法, 143
強さ, 15
条痕(ストリア), 143
網入り, 27, 147

白金, 27

研磨, 理論, 141

ポンテ, 98, 176, 239

カリ(ポタッシュ), 43

ジャガイモ, ガラス溶解時の使用, 81

ポート(出炎口), 炉の, 67

ポット, 焼成, 58
被い付き, 56
乾燥, 58
フリントガラス用, 109
光学ガラス用, 226
製造, 56
開放ポット, 56

ガラスの注ぎ出し, 85, 87

プレスガラス, 92, 118
組成, 120

プレス機, ガラス用, 119

試料(プルーフ), 82, 231

原料の純度, 36

Q.

石英, 40

R.

ガラス体の限られた範囲, 4

回収式炉(レクーペレーティブ炉), 66, 156

鉛丹(レッドリード), 49

屈折, 複屈折, 光学ガラス中の, 221
光の屈折, 光学ガラス中の, 209

屈折率, 216

蓄熱式炉, 66, 155

Reichsanstalt, 10

結晶化に対する抵抗, ガラスの, 4

灯台レンズ用リング, 251

棒(ロッド), ガラス, 245

ロールド板ガラス, 86, 123
焼きなまし, 127
切断, 128
欠陥, 129
模様入り, 130
炉, 123
ラドリング, 124
原料, 124
圧延, 126
選別, 129
表面, 122

ガラスの圧延(ローリング), 86

ルビー, 人造, 247

ルビー, 銅ルビー, 184, 188, 198
フラッシュド・ルビー, 184
金ルビー, 185

ルパートの滴, 248

S.

ソルトケーキ, 37, 42, 79, 189

砂, 38

砂岩, 39

Schott, 8, 19, 203, 213, 241

シートガラスの傷(スクラッチ), 169

探照灯, 250

シートガラス中の種(シード), 167

Siedentopf, 182

包囲ブロック(シージブロック), 59

Siemens, 248

Sievert, 92, 105, 117, 172
法, 105, 117

信号用ガラス, 203

シリカれんが, 61
シリカガラス, 5, 26, 241
シリカの供給源, 37

ケイ素, 着色作用, 187

銀, 着色作用, 185

板ガラスの銀引き, 146

板ガラスの寸法, 142

ソーダ灰, 41
炭酸ソーダ, 41
硫酸ソーダ, 37, 42, 79
硫化ソーダ, 80
亜硫酸ソーダ, 79

ガラスの固化, 1

溶液, ガラスとの類似, 206

ロールド板ガラスの選別, 129

比熱, ガラスの, 25, 29
誘電率(比誘電率), ガラスの, 29

染み(ステイン), 有色, 200

Stassfurth, 44

ロールド板ガラス中の石(ストーン), 129
シートガラス中の石, 167

原料の貯蔵, 37

応力, 光学ガラス中の, 221

ガラスの強さ, 19

条痕(ストリア), 色ガラス中の, 203
光学ガラス中の, 206, 227
板ガラス中の, 143
試験装置, 207

糸状筋(ストリング), シートガラス中の, 168

ストロンチウム, 86

ガラスの構造, 1

硫黄, 着色作用, 189

表面, ガラスの化学的挙動, 8, 10

Szigmondi, 182

T.

テーブル, 圧延台, 126

タンクブロック, 59
タンク炉, 59, 69
経済性, 72
シートガラス用, 152

望遠鏡用対物レンズ, 213

ガラスの融点(溶融温度), 5

強化ガラス(テンパードガラス), 20, 248

ガラスの引張強さ, 19

タリウム, 183, 188

色の理論, ガラスの, 181
研磨の理論, 141

ガラスの耐熱性(熱的耐久力), 23
熱的性質, 23

温度計用ガラス, 7, 8, 28

スズ, 着色作用, 187

Tonnelot, 7

透明性, ガラスの, 31
光学ガラスの, 208

Trautwine, 19

管類, 238
燃焼管, 7
管の引き出し, 239

タンブラー, 111

U.

紫外線顕微鏡, 243

V.

バナジウム, 着色作用, 189

ベイン(筋状不均質), 光学ガラス中の, 206, 227

W.

水, ガラスに対する作用, 10
水ガラス, 250

粘土の練り上げ(ウェッティング・アップ), 57

Winkelmann, 19

網入り板ガラス, 27, 147

ウィザライト(炭酸バリウム鉱), 48

ウール, ガラス, 245

Y.

ヤング率, 20

Z.

ザフル(青色顔料), 197

Zeiss, 213, 244

亜鉛, 着色作用, 49, 186

Zschimmer, 14

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(宝石――人造石に関する一章を付す)W. Goodchild, M.B., B.Ch. 著。

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=ELECTRO-METALLURGY.=(電気冶金学)J. B. C. Kershaw, F.I.C. 著。

=PHOTOGRAPHY.=(写真術)Alfred Watkins 著(1907年写真協会会長予定者)。

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=BREWING AND DISTILLING.=(醸造および蒸留)James Grant, F.S.C. 著。

出版社・書籍商

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転記者注(Transcriber’s Notes)

句読点・ハイフンおよび綴りは、この本の中で優勢と見なされた用法がある場合には、それに合わせて統一した。それ以外の場合には変更していない。

単純な植字上の誤りは修正したが、ときおり見られる閉じ忘れの引用符はそのまま残した。

行末のあいまいなハイフンは保持した。

目次の体裁は、若干変更してある。

索引については、アルファベット順やページ参照の正確さを検証していない。

索引において、一部の字下げが下位項目を示すのか、あるいは「同上」を意味するのか、転記者には判然としなかったため、ここでは字下げを複数レベルの下位項目として扱った。

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍『GLASS MANUFACTURE』終わり ***
《完》


パブリックドメイン古書『ザ・男飯』(1922)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 原題は『The Stag Cook Book: Written for Men by Men』、著者は Carroll Mac Sheridan です。
 多数の著名男性が、みずからのレシピを公開しています。
 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまに御礼を申し上げる。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「THE STAG COOK BOOK: 男性による男性のための執筆」の開始 ***

[私]

鹿の料理本
C. マック・シェリダン
[ii]

[iii]

雄鹿の料理本
男性によって男性のために書か

れたもの 編集・編者

C. マック・シェリダン

序文:
ロバート・H・デイビス

紋章:四つ割りの盾の上に鹿の頭

ニューヨーク
ジョージ・H・ドラン社

[iv]

著作権1922年、
ジョージ・H・ドラン社

ザ・スタッグ・クックブック II
———
アメリカ合衆国で印刷

[動詞]

独身者と祝福された
大勢の人々に捧げる

彼らは一度か二度は「何かを料理」しようと試みたが、その試みの中で、女性的な嘲笑や皮肉の炎に弱り果て、より良い状況であれば傑作となったであろうものを台無しにしてしまった。
[vi]

[vii]

「彼らは家も本も持たずに生きるかもしれない」
この諺は時代を超えて受け継がれてきました。
「しかし、文明人は料理人なしでは生きていけない」
これらのページで証明されているように、それは名誉毀損です。
小さなキッチンに一人で残されたとき、
鍋、スプーン、やかんで、
男は決して忘れられないものを作ることができる—
それはどんな料理人でも勇気を奮い立たせるでしょう。
静かな夜空にキャンプファイヤーが灯る場所で、
グリルが電気で光っているところでは、
キッチンは広く、白いタイルで仕上げられており、
ストーブが非常に小さいところでは、
人々が飢えているところでは、場所を問わず、
人間は1分で生産できる
疑いの顔に笑顔をもたらす料理、
芸術と本物の食品価値が詰まっています!
レンジで、オーブンで、(ささやき声で!)静かに、
男は間違いなく主人である。
彼の料理は雰囲気と技術で作られ、
彼は女性として確実で、しかもより速い!
彼は皿を割ったり床を散らかしたりするかもしれない、
そしてもし彼が称賛されるなら―彼はそれに値する―
彼は退屈になるまで自分の能力をひけらかすかもしれない…
しかし、彼が何を出すか、いつ出すかは、本当にすごい!
[viii]

[ix]

ロバート・H・デイビス著序文
料理は芸術ではなく、贈り物です。食べることは芸術であり、贈り物ではありません。その組み合わせによって、優雅さが育まれます。どんな偉大な料理の勝利も、偶然に生まれることはありません。

チャールズ・ラムのローストポークに関するエッセイは、19世紀イギリス全土を席巻した「焦がし豚」ブームのきっかけとなりました。ラム氏は飢えた帝国に、放火行為によってのみ乳豚を珍味に変えられると信じ込ませました。しかし実際には、黄金色に焼き上がり、火で炙られていない完璧なローストポークは、オーブンでしか実現できませんでした。

ローマの美食家ルクルスは、ミントで料理を調理した。彼は傑作を金銀水晶の上に盛りつけ、ラピスラズリのテーブルに並べることを要求した。彼のために用意されたソースは、それがかけられた料理そのものよりも価値があった。彼は贅沢と贅沢の最高司祭だった。一食で莫大な富を得た。彼は料理よりも費用を重視していた。彼の死は消化不良によって早まったと言われている。

1970年代初頭、バルビゾン地区に住むフランス貴族が、スープ皿に顔を突っ込んだ状態で食卓に座っているのが発見された。背中の左側、第4肋骨と第5肋骨の間に肉切り包丁が刺さっていたため、彼は非常に[x] 死んだ。手がかりはどこにも繋がらなかった。それは謎の一つとなった。

それからずっと後になって、一人の老人がよろよろと知事室に入ってきて、告白したいと告げた。

「進め」と役人は言った。

「この私です」老人は答えた、「35年前、ラ–公爵に致命傷を与えたのは私です」

「この告白をするきっかけは何だったのですか?」

“誇り。”

「理解できません。詳しく教えていただけますか?」

「本業は料理人でした」と自称する男は言った。「公爵は法外な値段で私を誘惑して仕えました。最初の依頼は、完璧なコンソメを作ることでした。ほら!三日間かけて完璧なコンソメを作り上げました。自分の手でスープの器を公爵の前に置き、自分の手でそれをすくい上げました。公爵はその神聖なエッセンスを吸い込み、そして、裁判長、 塩に手を伸ばしました。さあ、神よ!私は彼を滅ぼします!」

知事は芸術家を抱きしめ、昼食に連れ出した。こうして芸術の正当性が証明され、事件は終結した。料理の化学においては、「十分すぎるほど」が正解なのだ。

本書にレシピを提供してくれた不滅の達人たちは、銀のスプーンを口ではなく手に持って生まれてきた。彼らが演じる衣装は、帽子と鈴ではなく、帽子とエプロンだ。世代を超えて受け継がれてきた秘密が、本書を構成するページに惜しみなく散りばめられている。南部のソース、ニューイングランドのチャウダー、バーベキュー…[xi] 西洋の傑作、野山や川で採れた伝統のグリル料理、ラグー、シチュー、デザート、ドレッシングなどが、まるでチャンスの垂木から摘み取ったニンニクのように、手の届くところに吊るされています。どうぞお召し上がりください。

このシンポジウムに散りばめられた陽気なフレーズに惑わされないでください。きっと、その裏には風味や味わいが隠されているのでしょう。長い段落の最後には、美食の夢の構造に関する詳細な記述が添えられているかもしれません。メニューの豊富さに圧倒されないように、ゆっくりとページをめくってください。

故エドワード国王は、後のポルトガル国王カルロス1世に故国への帰還を祈るとともに、こう尋ねました。「英国諸島を訪問した際に最も感銘を受けたことは何ですか?」

「ローストビーフだ」カルロスはうっとりとした表情で言った。

「他には何があるの?」とエドワードは尋ねた。

「まあ」とカルロスは言った。「ゆでた牛肉はそんなに悪くなかったよ。」

料理を調理することと、それを食べることは別物です。この感動的な大著は、自業自得を恐れない料理人たちの作品です。ここに掲載されている料理の多くは、その名前が庶民の口に上りますが、その料理そのものはそうではありません。本書は、これまで誰にも知られていなかったあらゆる機会を、手の届く範囲に広げてくれます。一流のコンロ、シンプルな材料、そして本書があれば、英語が読める場所ならどこでも、飢えを克服できるのです。

[12]

音楽家でシェフでもあるロッシーニは、 「セビリアの理髪師」の楽譜を書いたあと、指揮者からすぐに前奏曲が必要だと告げられた。ロッシーニは台所に行き、完璧な夕食を作り、それをひとりで食べ、ベッドに横たわり、楽譜を周囲に広げながら、このすばらしいオペラのすばらしい序曲を書いた。突然、窓から突風が吹き込んできて、貴重な楽譜が部屋中に飛び散った。数枚は格子戸から消えた。料理の天才としての成果に重きを置いていたロッシーニは、より新しく、より良い前奏曲を書き直し、それを肥満した体に押し込んで、最後の昼寝のために寝返りを打ち、その後、傑作を持ってオペラハウスへ急いだ。彼の最高の作品は満腹の状態で作られたのである。

『美食芸術としての美学』の著者ブリア=サヴァランは、やや気まぐれにも「ガステリア」をミューズの中で10番目で最も美しい存在と名付けている。本書の著者たちは、彼女を最初のミューズと呼んでいる。

右ハンドル

[13]

コンテンツ
パート1:貢献者
ページ
私 メレディス・ニコルソン 31
ワバッシュバレーステーキ

II レックスビーチ 34
オニオンクラムチャウダー

3 ハドソン・マキシム 35
スパゲッティ

IV ウォーレン・G・ハーディング 36
ワッフル

V エリス・パーカー・バトラー 31
ブイヤベース ジョー・ティルデン

6 ジュールス・J・ジュセランド 38
大根サラダ

7章 ブルース・バートン 39
ライスプディング

8章 リチャード・ベネット 40
フージャーのリーダークランツ

9 ウォルト・ラウダーバック 41
コーンチャウダー

X ロバート・A・バートレット大尉(米国) 42
タラ

XI ジョージ・F・ワーツ 43
[14]サツマイモポーネ

12 ゲレット・バージェス 45
パンドウディ

13 ウィリアム・アレン・ホワイト 46
野菜サラダ

14 アーヴィン・S・コブ 48
豚のあご肉とカブの葉(パデューカ風)

15 リチャード・ウォルトン・タリー 49
ハワイアン・コロッケ「鳥の楽園」風

16 ウィリアム・ジョンストン 51
オイスター・ペシュール

17 チャールズ・M・シェルドン博士 52
パンと牛乳が好き

18世紀 ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ 53
「ジェームズ・モンゴメリー・サッズ」

19 ロイ・L・マッカーデル 54
「エッグス・マッシュルーム」

XX ベン・B・リンジー判事 56
ブランマフィン

21 オーティス・スキナー 57
アーティチョーク、ミスター・アントニオ

XXII ダン・ビアード 58
バーグー

XXIII デ・ウルフ・ホッパー 60
ラズベリーショートケーキ

XXIV チック・エヴァンス 61
[15]トマトスープ

XXV ジョシュア・A・ハットフィールド 63
ナスのソテー・アレキサンダー
ポテトスティック アレクサンダー
コールドソースアレクサンダー
チキンの至高、アレキサンダー
装飾品
フォンデュ オー フロマージュ ア ラレクサンダー
ポーチドエッグ アン クロスタード ア ラレクサンダー
ロメインレタスのサラダ Á L’Alexander
ロニョン ド ヴォー ア ラレクサンダー
ストロベリータルトレット アレクサンダー
焼き牡蠣 アレクサンダー
エミンス・オブ・チキン・アレキサンダー

XXVI スチュワート・エドワード・ホワイト 69
マリガン

XXVII オリバー・ハーフォード 70
エルダーベリーの花のフライ

XXVIII リード・スムート 71
ピーチコブラー

XXIX レイ・ロング 72
シャッドの卵巣
[16]デザート

XXX ケネス・C・ビートン 73
ロブスター

XXXI ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ医学博士 75
チーズマカロニ
風味豊かなポテト

XXXII クレア・ブリッグス 77
ワッフル

XXXIII エドワード・W・ボック 78
アスパラガス

XXXIV チャールズ・ハンソン・タウン 80
コーンプディング

XXXV ジェローム・D・カーン 81
テラピン

XXXVI ダニエル・ウィラード 82
コテージプディング
ストロベリーソース

XXXVII フーディーニ 83
スカロップマッシュルームとデビルドエッグ
きのこ料理

XXXVIII チャールズ・P・スタインメッツ 84
ミートローフ

XXXIX チャーリー・チャップリン 86
ステーキとキドニーのパイ

XL フランク・クレイン博士 87
ラウンドステーキ

41条 ロバート・H・デイビス 89
[17]ウスターシャー風クリームソース

42 ジョン・A・ディックス 90
フライドトラウト

43 ガイ・ベイツ・ポスト 91
「テントメーカーのオマール」風ラムカレー

44章 ドン・ラファエル・H・エリザルデ博士 93
サンコチョ
ヤピンガチョ

45章 バイド・ダドリー 95
トマトソップ

46章 ウィリアム・ヘイル・トンプソン 96
ローストビーフ

47章 ブース・ターキントン 97
コーンフレーク

48章 TA ドーガン 98
チリコンカルネ

49章 ウィリアム・デ・レフウィッチ・ドッジ 99
ラグー・ド・ムートン

L モンタギューグラス 100
ブイヤベース

リー ジョン・フィリップ・スーザ 103
ポルトガル風ペロタス
スパゲッティ

52 ウィル・ヘイズ 105
チキンピラフ

53 フランク・ワード・オマリー 106
ラム・タム・ティディ

LIV チャールズ・エヴァンス・ヒューズ 108
[18]コーンブレッド

左 ウォルター・プリチャード・イートン 109
ミンスパイ
フィリング

56章 WTベンダ 113
ポーランドの特産品
バルシュクとウシュカ
ウシュカ
ブラチキ

LVII エドワード・A・ソールズベリー大尉 118
スパゲッティソース
ソールズベリー風エッグス
フィッシュ・ア・ラ・コモドール
マスを調理する
鹿肉ステーキ
ガチョウ
マヨネーズとサラダドレッシング
アヒルと大型鶏
コガモ、ヤマウズラ、小鳥

イタリアンライス
ステーキソース

LVIII トーマス・H・インス 126
チキンハリバット
オニオンスープグラタン
マンハッタン風ライス

リックス ジョージ・エイド 128
「スコロップ」オイスター

LX ライマン・アボット 130
[19]ディープアップルパイ

61 テリー・ラムゼイ 131
レタス(レッドクリーク風)

LXII RL(ルーブ)ゴールドバーグ 133
ハッシュ

63 チャニング・ポロック 134
コーンブレッド

64章 フセイン・カーン・アライ 135
チリン・ポロウ

六十五 ウィリアム・J・ブライアン 138
フライドオニオン

66 ウィル・アーウィン 139
ハムエッグ

67 ダグラス・フェアバンクス 140
ブレッドタルト

68章 ジュリアン通り 141
マルゲリー風味のソールと鴨肉、オレンジ添え
ソーレ・ア・ラ・マルグリー
ダック・ビガラード

69 SS マクルーア 143
オムレツとパイ

七十人訳 バジル・キング 145
ロブスター・アラ・キング

七十一 ジョン・A・モロソ 146
スパゲッティ・フォー・ザ・ギャング

72 FXライエンデッカー 148
ヴォー・ソテー・マレンゴ
[xx]ヴォローヴァン・フィナンシエール

73 エディ・カンター 150
牛肉とホースラディッシュの煮込みソース

七十四 フレイザー・ハント 151
詰め物入りセロリ

七十五 W・M・スラヴィンズ・マクナット 152
オレンジのコンポート

76章 スティーブン・ヴィンセント・ベネット 154
ジテリのマカロニシチュー

77章 ジェームズ・R・クィルク 155
トマトウィグル

78章 チャールズ・W・エリオット 156
お気に入りのメニュー

79章 HSカミング 158
バージニアエッグブレッド

80年代 ジョセフ・サントリー 159
ココアクリームケーキ

81 A. ハミルトン ギブス 160
キャセロール風スズメ

82 リチャード・バーセルメス 161
スパイス入りブドウ

83 ドン・ファン・R・イ・ガヤンゴス 162
ナスのグラタン

84 サミュエル・G・ブライス 163
トリップ・アラ・モード・ド・カーン・ラ・ロイ・カラサーズ

85 チャールズ・H・テイラー 165
[21]クラムチャウダー

86 サイラス・HK・カーティス 167
ベイクドビーンズ

87 フレデリック・アーノルド・クマー 169
スパゲッティ・ディアボリケ

88 アルバート・D・ラスカー 170
チキンパプリカ

89 ヘンリー・ヴァン・ダイク 171
フィッシュチャウダー

XC マックリン・アーバックル 172
サザン・ガンボ・ア・ラ「カウンティ・チェアマン」

XCI ジョン・テインター・フット 174
モレルソテー

XCII モーリス・フランシス・イーガン 176
ウェルシュラビットに対する外交官の領収書

93 リビングストン・ファランド 178
ソーセージとグリドルケーキ

1944年 F. ジーグフェルド・ジュニア 179
小さなチキンタルト

XCV ハロルド・ロイド 181
レモンレイヤーケーキ

XCVI ルーサー・バーバンク 183
ターキー・ア・ラ・バーバンク

972年 レイモンド・マッキー 185
ウサギを調理する

983年 ウィル・デミング 187
バージニアハム
レモンパイ
[xxii]ドレッシング

20世紀 チャールズ・W・チェッサー 189
ステーキのヒント

C アーサー・T・ヴァンス 191
トルコ風サラダ
パンドラフレンチドレッシング
ウェールズウサギ・ラ・モーガン・ロバートソン

CI バロン・ド・カルティエ 195
ウォーターゾイ・ドゥ・ヴォライユ

CII ディーン・コーンウェル 197
スパゲッティ・マイスタイル

パート2:レシピ
パン、マフィン、ワッフルなど
ブランマフィン 56
パンと牛乳 52
コーンブレッド 108、134​​
コーンフレーク 97
グリドルケーキ 178
サツマイモポーネ 43
バージニアエッグブレッド 158
ワッフル 36、77​​

卵料理
デビルドエッグ 83
ソールズベリー風エッグス 119
卵「マッシュルーム」 54
[xxiii]アスパラガスに使う卵 79
ハムエッグ 139
オムレツ 143
ポーチドエッグ アン クロスタード ア ラレクサンダー 65

スープ、マリガン、ブイヤベース
バーシュク 113
バルシュクとウシュカ 113
豆のスープ 124
バーグー、A 58
ブイヤベース ジョー・ティルデン 37
ブイヤベース 100
コーンチャウダー 41
クラムチャウダー 165
フィッシュチャウダー 171
マリガン 69
オニオンクラムチャウダー 34
オニオンスープグラタン 126
サンコチョ 93
トマトスープ 61
ウォーターゾイ・ドゥ・ヴォライユ 195

魚、カキ、ロブスター、卵など
焼き牡蠣 アレクサンダー 67
チキンハリバット 126
タラ 42
冷たいソース・アレクサンダー(冷製サーモン用) 64
フィッシュ・ア・ラ・コモドール 119
フライドトラウト 90
[xxiv]ハワイアン・コロッケ・ア・ラ・バード・オブ・パラダイス 49
ロブスター・アラ・キング 145
ロブスター(KCB) 73
オイスター・ペシュール 51
「スコロップ」オイスター 128
シャッドの卵巣 72
ソーレ・ア・ラ・マルグリー 141
蒸しハマグリ 97
マス、調理用 120

家禽(家畜および野生)
チキンパプリカ 170
チキンピラフ 105
チリン・ポロウ(ペルシャ語) 135
ダック・ビガラード 142
アヒルと大型鶏 122
エミンス・オブ・チキン・アレキサンダー 68
ガチョウ、最高の調理法 121
小さなチキンタルト 179
サザン・ガンボ・ア・ラ「カウンティ・チェアマン」 172
キャセロール風スズメ 160
チキンの至高、アレキサンダー 64
至高のチキン Á L’ALEXANDER GARNITURE 65
コガモ、ヤマウズラ、小鳥 123
ターキー・ア・ラ・バーバンク 183

肉料理とソース
チリコンカン 98
ウスターシャー風クリームソース 89
[xxv]ハッシュ—新しい方法 133
ハムエッグ 139
豚のあご肉とカブの葉 48
ホースラディッシュソース 150
「テント職人オマール」風ラムカレー 91
ミートローフ 84
ポルトガル風ペロタス 103
ウサギ、調理する 185
ラグー・ド・ムートン 99
ローストビーフ、調理のコツ 96
ロニョン ド ヴォー ア ラレクサンダー 66
ラウンドステーキ—本当に美味しい 87
サンコチョ(エクアドル出身) 93
スパイス入りブドウ 161
ステーキとキドニーのパイ 86
ステーキソース 125
ステーキのヒント 189
テラピン 81
カーン風トリッパ 163
ウシュカ(ポーランド語) 114
ヴォー・ソテー・マレンゴ 148
ヴォローヴァン・フィナンシエール 149
鹿肉ステーキ 120
バージニアハム 31
ワバッシュバレーステーキ 187

野菜など
アーティチョーク ミスター・アントニオ 57
アスパラガス 78
豆(様々なスタイル) 123 , 167
BURACHKI(ポーランド語) 117
[xxvi]ナスのグラタン 162
ナスのソテー・アレキサンダー 63
フライドオニオン 138
イタリアンライス 124
モレルソテー 174
ポテトスティック アレクサンダー 63
マンハッタン風ライス 127
風味豊かなポテト 75
「スコロップ」マッシュルーム 83
トマトソップ 95
カブの葉 48
ヤピンガチョ(エクアドル出身) 94

スパゲッティ・マカロニなど
マカロニシチュー、ジテリズ 154
チーズマカロニ 75
スパゲッティ 35
スパゲッティ・ディアボリケ 169
ギャングのためのスパゲッティ 146
スパゲッティ・マイスタイル 197
スパゲッティソース 118、146、154​​​​
ペロタ入りスパゲッティ 103

サラダとサラダドレッシング
ドレッシング(詰め物トマト、コールドミート、ポテトサラダ用) 188
レッドクリーク風レタス 131
マヨネーズとサラダドレッシング 122
パンドラフレンチドレッシング 192
大根サラダ 38
ロメインレタスのサラダ Á L’Alexander 66
トルコ風サラダ 191
[xxvii]野菜サラダ 46

デザート – ケーキ – パイ – プリン
ブレッドタルト 140
ココアクリームケーキ 159
コーンプディング 80
ストロベリーソースのコテージプディング 82
ディープアップルパイ 130
デザート、A 72
エルダーベリーの花のフライ 70
インディアンプディング 156
ジェームズ・モンゴメリー・サッズ 53
レモンレイヤーケーキ 181
レモンパイ 187
ミンスパイ 109
オレンジのコンポート 152
ピーチコブラー 71
パンドウディ 45
パイ 143
パイ生地 111、144​​
ラズベリーショートケーキ 60
ライスプディング 39
ストロベリータルトレット アレクサンダー 67

チーズとチーズ料理
チーズ詰めセロリ 151
フォンデュ オー フロマージュ ア ラレクサンダー 65
フージャーのリーダークランツ 40
ラム・タム・ティディ 106
トマトウィグル 155
ウェルシュラビット(外交官のレシピ) 176
ウェールズウサギ・ラ・モーガン・ロバートソン 193
[28]
[29]

雄鹿の料理本
[30]

「この肉料理は
、釣り人か非常に正直な人以外には食べられないほど美味しいです。」
アイザック・ウォルトン。
[31]

メレディス
・ニコルソン
ワバッシュバレーステーキ
男は自分の台所でヒーローにはなれない。家庭の平和を少しでも気にかける男なら、よそ者がいないところで妻に料理をするところを見せるはずがない。その心理は明白だ。夫が社交の達人で、あらゆる接待の技に長けていることを見せようとすることに妻は我慢できないかもしれないが、客の前では夫の振る舞いにささやかな誇りを示すだろう。あるいは、多少軽蔑的な態度を見せたとしても、それが全体の好感度を高めるような冷やかしの態度をとろうとするだろう。独身クラブでチェーフィングディッシュの達人のような男と混同しないようお願いしたい。私は常にそういう男たちを疑念の目で見てきた。彼らの芸は少なく、簡単にこなせるものだ。キノコを使った芸とか、ディナーコートを着て気楽に作るキングサイズのチキンとか。私はそういう人たちを激しく憎んでいる。

私のやり方は、コートとベストを脱ぎ、エプロンを着けて、謝罪も、いや、[32] 結果がわからないなんて、馬鹿げた言い訳だ。わからない!ただし、黒人女性の料理人の場合は別だ。彼女たちはひらめきを信じて、どうやって作るのかさえ知らないかのように奇跡を起こす。だが、そういう場合、料理は精密科学なのだ。きちんとしたルールに従い、火加減を調節し、確かな目と鋭い嗅覚を持っていれば、失敗という言葉は辞書から消え去る。

さて、私のシナリオです。これはある女性から盗んだもので、その女性もおそらく料理本から盗んだのでしょう。私が発明したかのように見せかけても構いませんが、違います。私が主張したいのは、これがオリンピック級のごちそうになるということです。特に、温かいビスケットを添えればなおさらです。正直に言うと、私にはその手の込んだ料理は無理です。

レシピ
厚さ5cmに切ったラウンドステーキに小麦粉1カップを混ぜ込みます。大きめのフライパンを熱し、ラードが底に約2.5cmほど敷き詰められるまで熱します。ステーキを入れ、すぐに蓋をして、一度ひっくり返しながら約5分焼きます。

次に、次のように作ったソースをかけます。

大きなトマト4個
玉ねぎ4個
グリーンマンゴーペッパー4個
熟したピメント4個
グラインダーにかけるか、できれば木製のボウルにチョッパーを入れてよく刻んでください。この手間は惜しみません。[33] 手間のかかる作業です。丁寧に切り刻まなければなりません。塩で味付けし、ステーキにかけ、2時間かけてじっくりと焼きます。焼き上がったら、大きな皿に盛り付けて、熱々のうちに召し上がってください。

[34]

II
レックスビーチ
オニオンクラムチャウダー
パイオニアブランドのミンチクラム 10 オンス缶 1 缶につき、スライスしたスペイン玉ねぎまたは白玉ねぎ 1 ポンドを使用します。

大きめのチャウダーを作るには、大きめの玉ねぎ(白)を6個、1インチの長さに切ります。アサリの煮汁を鍋に入れ、玉ねぎと少量の水を加えて、玉ねぎに火が通り柔らかくなるまで十分に煮込みます。次に、缶詰から取り出してお皿に移したアサリを加え、玉ねぎが柔らかくなる5分前に煮込みます。次に、シチュー鍋に生クリーム約1パイント、または生クリームと牛乳を半分ずつ入れて沸騰させます。アサリを玉ねぎと一緒に3分ほど煮込んだら、熱い牛乳を注ぎ、塩コショウで味を調えます。スープ皿に盛り付ける場合は、刻んだパセリを少し加えると、料理がより美味しくなります。お召し上がりください。

(牛乳やクリームの代わりにカーネーションの缶入り牛乳を薄めて使うこともできます。牛乳2/3に対して水1/3の割合で薄めてください。スープはとろみがあって、水っぽすぎないものにしてください。牛乳の量で調整できます。)

[35]

III
ハドソン・マキシム
スパゲッティ
春雨またはスパゲッティ1袋を鍋に入れ、手で潰してから熱湯に入れ、好みの塩を少し多めに入れて1時間茹でます。

春雨またはスパゲッティを茹でている間に、牛乳1クォート(約450ml)の4分の3(約750ml)を沸騰するまで温めます。次に、冷たい牛乳8オンス(約230ml)に小麦粉をすりきりカップ1杯(または大さじ2杯)ほど、山盛りにして加え、さらにとろみがついた牛乳を沸騰した牛乳に加え、10分間ゆっくりと加熱します。

次に、良質で熟した古いアメリカンチーズを450gとバターを約1.5kg加えます。次に、バーミセリまたはスパゲッティの水気を切り、トマト缶を1.5パイントから1クォート(約3.7リットルから4.8リットル)ほど加えます。バーミセリまたはスパゲッティを沸騰させます。チーズ、バター、牛乳、小麦粉の混合物がまだ熱いうちに、これらを混ぜ合わせ、温かいままにして温かいうちに盛り付けます。それ以上沸騰させないでください。それ以上沸騰させると、トマトが牛乳を凝固させてしまうからです。私は、スパゲッティだけ、またはバーミセリだけを使うのではなく、スパゲッティとバーミセリを混ぜて使うことを好みます。

[36]

IV
ウォーレン・G・ハーディング
ワッフル
卵2個
砂糖大さじ2杯
バター大さじ2杯
塩小さじ1杯
牛乳1パイント
薄い生地を作るための小麦粉
ベーキングパウダー小さじ2杯
卵の黄身を溶き、砂糖と塩を加え、バターを溶かし、牛乳と小麦粉を加えます。最後に、焼く直前に溶き卵の白身とベーキングパウダーを加えます。

熱したワッフルメーカーで焼きます。

編集者注:ワッフルに合うドレッシングについては、様々な議論があります。ワッフル好きの流派によって様々なグレービーソースが使われる一方、蜂蜜、メープルシロップ、そして様々な風味の砂糖粉が好まれる人もいます。

ハーディング大統領はグレイビーソース派の熱心な支持者であり、クリームチップビーフのグレイビーソースを好む。

[37]

V
エリス パーカー バトラー
ブイヤベース ジョー・ティルデン
スープ鍋に大さじ4杯の純正オリーブオイルを入れます。十分に熱くなったら、スライスした大きな玉ねぎ2個とみじん切りにしたニンニク2かけを炒めます。白身で歯ごたえのある魚(どんな魚でも)を2ポンド(約900g)ほど細かく切り、鍋に入れ、鍋全体が浸るくらいの温水を加えます。

今、憲法修正第 18 条を廃止し、白ワイン 1 カップ、レモン半分の果汁、大きなトマト 2 個 (皮をむいてカット)、コショウ、塩、月桂樹の葉 1 枚か 2 枚を混ぜ合わせたものを加えます。

これを12分間、勢いよく煮詰めます。煮詰める頃には液体の3分の1が蒸発しているはずです。刻んだパセリを大さじ1杯加えます。ジョー・ティルデンはサフランをひとつまみ加えていましたが、私は好きではありません。さらに2分ほど煮詰め、フランスパンに盛り付けてお召し上がりください。

編集者注:モキンズでは長年、ランチの定番メニューとしてブイヤベースを提供しています。ロブスターとウナギを加えることもあります。ぜひ一度、お試しください。楽しく、そして美味しくお召し上がりいただける、素晴らしい一品です。一度、二度お試しいただくと、きっと美味しくお召し上がりいただけます。クセになる一品ですので、お気をつけください!

[38]

VI
ジュール・J・ジュスラン
(フランス駐米大使)
大根サラダ
フランス大使は賛辞を述べ、ラディッシュを非常に薄くスライスし、通常のサラダドレッシングで味付けしたラディッシュのサラダよりおいしい料理や食べ物はないと思うと述べてほしいと懇願しました。

編集者注:このサラダは、薄切りにしたラディッシュを乗せる土台に、小さくてシャキシャキとしたロメインレタスの葉を使うと最高に美味しくなります。通常のドレッシング(もちろんフレンチドレッシング)は、このように作ります。

レモンまたは酢大さじ1杯に、最高級オリーブオイル大さじ3杯、黒コショウ少々、塩小さじ半分を加えます。銀のフォークでよく混ぜ、赤みがかった色と豊かな風味が出るまでパプリカを加えます。サラダにニンニクをすり込んでも、この混合物に大きな害はありません。

[39]

VII
ブルース・バートン
ライスプディング
私はSRRRP(ライスプディングへのレーズン復活協会)の会長です。

私はニューヨークのホテルとクラブのリストを作成し、ライスプディングに入れるレーズンの数に応じて次のように評価しました。

Dクラス – レーズンなし
クラスC—レーズン1個
クラスB – レーズン3個以上
クラスA – レーズンたっぷり
私の考えでは、レーズンなしのライスプディングは卵なしのハムレットのようなもの。

米1カップ
牛乳4カップ
卵3個
砂糖 1/2カップ
塩小さじ1杯
種なしレーズン1袋
バニラ小さじ1杯
熱したオーブンで1時間焼きます。天板を、熱湯を入れた別の天板の中に入れます。

ホイップクリームを添え、ヒトコブラクダのナツメヤシを添えてお召し上がりください。

編集者注: 米を23分間炊きます。

[40]

VIII
リチャード・ベネット
フージャーのリーダークランツ
走り回って本当においしいリーダークランツ チーズを見つけ、次のように処理して 4 人分のチーズを作ります。

チーズとバター約4分の1ポンドを混ぜ、ペースト状になるまでよく混ぜます。塩、コショウ、フレンチマスタード、パプリカ、ウスターソースを混ぜながら、お好みで加えます。

ペーストが滑らかになったら、細かく刻んだ小さなピーマン 1 個、小さな玉ねぎ 1 個、またはチャイブを加えます。

よく混ぜてください。

ライ麦パンにたっぷり塗って召し上がれ。厳密に言うと、「お好みで塗ってください」と言った方がよかったかもしれません。

編集者より:チーズの組み合わせを工夫すれば、素晴らしい時間を過ごし、名声を得ることも可能です。普通のクリームチーズでも、オリジナルのミックスを作るのに最適です。細かく刻んだピメント、セロリ、オリーブ、チャイブ、ピーマン(緑と赤)を組み合わせてみてください。その他にも、相性の良いものなら何でも試してみてください。

[41]

IX
ウォルト・ラウダーバック
コーンチャウダー
私のお気に入りのレシピはコーンチャウダーだと思います。

この料理への食欲は、早春の岬の風の強い側から、肩甲骨の間に60ポンドのパックを背負って近づかなければなりません。前述のパックには、気の合う二人のために、ベーコン1ポンド、乾燥タマネギ1ポンド、コーン2缶、コンデンスミルクの大きな缶1つが入っています。

ベーコンを1.5センチ角に切り、炒め始めます。同時に玉ねぎもスライスし、火にかけます。この2つの香りが漂い始めたら、火に落としてしまいたくなるかもしれません。そんな時は、コーンと牛乳を沸騰させましょう。玉ねぎに火が通り過ぎてしまう前に、ベーコンに混ぜ込みます。この頃には、食欲をそそる香りの覇権争いに、あなたの注意は集中しているでしょう。

次に、ベーコンと玉ねぎをコーンポットに入れて、材料が互いに完全に馴染むまでできるだけ長く待ちます。

もしあなたが老人になるまでその日のことを覚えていないのであれば、家に帰ったらすぐに私に手紙を書いてください。

これを非常にプロフェッショナルに聞こえるようにするには、「好みに合わせて味付けしてください」と付け加えるべきだと思いますが、誤って少量の灰が混ざっても気にしないでください。

[42]

X
ロバート・A・バートレット大尉(アメリカ)
タラ
これが私のお気に入りの一品です。キャプリンスクールで獲れた新鮮なラブラドールタラです。この時期の魚は最高の状態です。

レシピは次のとおりです。

小さな鍋を薪火にかけ、脂の乗った豚肉を数枚切り、細かく切って鍋に入れます。豚肉の脂が溶けたら、魚を小さく切り分けて鍋に入れます。約20分で魚が焼き上がります。鍋から取り出し、木のスプーンで食べてください。

[43]

XI
ジョージ・F・ワーツ
サツマイモポーネ
真の南部人を見分ける確実な方法が二つあります。一つは「デキシー」を演奏することです。バンドがスウィングするアンセムを演奏すると、北部人、あるいは偽南部人は立ち上がり、高揚感と誇らしげな表情を浮かべますが、真の南部人、あるいは南部人はめったに立ち上がりません。たいていはただ立ち上がり、片方のブーツを揺らし、その人の性格に応じて、嬉しそうに、あるいは感傷的に見えます。これが真の南部人を見分ける方法の一つです。もう一つ、そしてより確実な方法は、震える声で「ゲンメン、ポテト・ポーン・アム・ダン・セット」と宣言することです。

サツマイモのポーンは、まさに南部の料理です。メイソン・ディクソン線の南側では、熱々の煙を上げて提供されます。料理人としてそれほど経験は必要ありませんが、「練習」の後に「完璧」を重視するという古いルールは当然当てはまります。9回目のポーンは、3回目よりも美味しくなります。作り方は以下の通りです。

生のサツマイモをミートチョッパーで1クォート(約1.5リットル)になるまですり潰します。すり潰したサツマイモをボウルに入れ、糖蜜を加えてよく混ぜます。糖蜜は、柔らかく粘り気のある、またはスポンジ状になるまで適量加えます。

大さじ山盛り一杯のラードを混ぜます。

[44]

オールスパイスを小さじ1杯加えます。

生地をケーキ型に入れ、弱火で加熱するオーブンに入れます。濃い茶色になるまで絶えずかき混ぜ、ナイフかスプーンで表面を滑らかにならし、まろやかな茶色の皮ができるまでゆっくりと焼きます。

オーブンから取り出し、少し冷ましてからスライスしてお召し上がりください。ロバート・E・リー将軍は、このパンを一切れ食べるために10マイルも歩いたそうです。

[45]

XII
ゲレット・バージェス
パンドウディ
1 クォートのプディング皿に、スライスしたリンゴとパンを交互に並べます。各層にバターを少量、砂糖を少々、シナモン、クローブ、オールスパイスの粉末をひとつまみずつ入れます。

皿に材料を入れたら、糖蜜と水を半カップずつ注ぎ、よく混ぜます。パン粉をまぶします。

熱湯を入れた鍋に皿を入れ、45 分ほど、またはリンゴが柔らかくなるまで焼きます。

温かいうちに、クリームまたは軽いプディングソースを添えてお召し上がりください。

レーズンや刻んだアーモンドが加えられることもあります。

[46]

XIII
ウィリアム・アレン・ホワイト
野菜サラダ
私にとって美味しい食べ物とは、野菜サラダです。どんな野菜サラダでも美味しいですが、種類によって好みは分かれます。レタスサラダにフレンチドレッシングをかけるレシピをご紹介します。ミートグラインダー、ポテトマッシャー、麺棒など、どんな調理器具でも試してみてください。

シャキシャキとしたレタス一個を用意し、外側の緑の葉を取り除き、内側の黄色と白の葉だけを残します。よく洗い、葉をほぐした後、布巾で一枚一枚拭いて水気を切ります。大きなボウル、深さ15cmほどの大きなボウルに入れます。それを脇に置き、人差し指の第二関節から切り落としたくらいの量の玉ねぎを取り出します。それをみじん切りにします。ボウルの底に入れます。大さじ1杯の大きめのレタスに、塩とパプリカを好みの量加えます。塩辛くなっても大丈夫です。次に、油と酢を3対1~4対1の割合で加え、スプーンで玉ねぎにとろみがつくまで混ぜます。塩、パプリカ、油、酢をみじん切りにした玉ねぎのボウルに注ぎ入れ、サラダフォークで混ぜながら、玉ねぎが十分に潰れて玉ねぎの風味が油と酢の混合物に染み込むまでかき混ぜます。[47] 塩とパプリカは、この瞬間、材料の一部になった。一瞬たりとも放置せず、乾いたレタスの入ったボウルに素早く注ぎ、猛烈にかき混ぜる。かき混ぜ続け、さらにかき混ぜ、できるだけ早く盛り付ける。

チーズは、オイルと酢とパプリカと塩を加える前に、玉ねぎに潰してもいいでしょう。トマトを加えたいなら、レタスにかき混ぜフォークを最後の 3 回突き刺すまで待ってから、トマトを 4 等分し、レタスを最後の 2、3 回ひっくり返す直前にトマトをひっくり返します。これは、トマトの水っぽい汁がレタスの葉に付いたオイルに広がってしまわないようにするためです。トマトを早めにかき混ぜると、水っぽくてドロドロしたぐちゃぐちゃになってしまいます。キュウリを加えてもいいですが、レタスの葉とドレッシングを混ぜるトマトよりもかなり前にかき混ぜる必要があります。ピーマンはひも状に切って加えてもよいですが、余計な付け合わせが多すぎると、私にとってはサラダが台無しになります。トマトは、賢明に取り入れられる限界です。

[48]

XIV
アーヴィン・S・コブ
豚のあご肉とカブの葉
パデューカスタイル

食べ物とその喜びについてこれほど多く著述してきた私ですが、料理の技術については、おそらく他のどの生き物よりも乏しいでしょう。お気に入りのレシピを挙げることはできません。なぜなら、私にはレシピがないからです。しかし、私のお気に入りの料理を二つ挙げることはできます。それは、次のとおりです。

1番目—豚の頬肉とカブの葉—パデューカ風
2番目—同じものをもう一度。
編集者注:—パデューカ風豚の頬肉は次のように調理します。

頬肉を選びましょう。骨付きで調理して食べる人もいれば、骨を取り除いてから食べる人もいます。たっぷりの塩水で30分茹で、カブの葉を加えてさらに30分茹でます。ドレッシングにはたっぷりのバターを添えます。気難しい人には、少量の酢とセミコロンのマスタードを加えるのがおすすめです。

ビートの葉も使えますが、一般的ではありません。また、ほうれん草を使うのは絶対に失礼です。

[49]

XV
リチャード・ウォルトン・タリー
ハワイアン・コロッケ「鳥の楽園」風
約15年前、私は戯曲『鳥の楽園』の題材を探しにハワイ諸島を初めて訪れました。滞在中、私は先住民と多くの友人を作り、しばしば人里離れた村で何週間も彼らと暮らしました。彼らの料理は、内容や作り方において私たちのものとは根本的に異なっていましたが、どれも口当たりがよく、驚くほど美味しいものが多かったです。先住民の料理のほとんどには、ここでは手に入らない食材が使われていました。しかし、私は友人の何人かが「鳥の楽園」風ハワイアン・コロッケとあだ名を付けている料理の作り方を学びました。材料は簡単に手に入ります。そして、それはあまりにも食欲をそそる料理で、私は美食家たちの客のためにいつも作っています。

まずココナッツの実を半分すりおろし、牛乳1カップを加えてよく混ぜ、布巾で濾します。バター大さじ2杯を弱火で溶かし、スプーンの裏で小麦粉大さじ5杯をすり込み、滑らかになるまで混ぜます。濾したココナッツと牛乳の液をゆっくりと加え、とろみがつくまで絶えずかき混ぜます。その間に味を調えます。[50] 塩小さじ1.5杯、パプリカ小さじ1杯、すりおろした玉ねぎ小さじ1杯を加えます。最後に、冷たく茹でてほぐしたボラ、または他の白身魚(硬めのもの)2カップと、冷たく茹でて刻んだロブスター2カップを加え、かき混ぜて冷まします。

コロッケまたはボールの形にし、各ボールに大さじ 1 杯の丸いカップ 1 杯分を入れます。クラッカーの細かい粉をまぶし、軽く溶いて 1/4 カップの水を加えた卵に浸し、再びクラッカーの粉をまぶします。

40 を数える間にパンを黄金色に揚げられるくらい熱した油のたっぷり入った深めのフライパンで、コロッケを 1 分ほど焼きます。その後、紙の上で油を切り、オリーブを添えて提供します。

[51]

XVI
ウィリアム・ジョンストン
オイスター・ペシュール
新鮮な牡蠣1樽を午後8時までにスクーナー船のデッキに積み込む

牡蠣の上に100ポンドの氷を置きます。

午前 5 時に漁場へ向かう途中に殻をむき、塩を味付けして食べ、時々熱いコーヒーを飲みます。

[52]

XVII
チャールズ・M・シェルドン博士
パンと牛乳が好き
私のお気に入りの料理のレシピはとてもシンプルです。パンと牛乳にアメリカンチーズを砕いて加えるだけです。毎日1回この料理を食べていますが、体に良くて栄養満点です。特別な調理法は必要ありません。ただ、食欲と、この食材への好みがあれば十分です。もしアップルパイがあれば、それを添えても構いません。

体にとって、食べ物はシンプルで素朴であればあるほど良いというのが私の原則です。一年を通して、牛乳一杯、焼きたてのパン、濃厚なアメリカンチーズ、そして「母が作ってくれたような美味しいアップルパイ」で締めくくれば、私にとって昼食はこれで十分です。午後中ずっとこの食事に取り組んでも、7品コースのディナーを食べた後よりも気分が良いのです。

[53]

XVIII
ジェームズ・モンゴメリー・フラッグ
「ジェームズ・モンゴメリー・サッズ」
これはデザートです。スウェーデンの料理人が、何か変わったデザートを提案しようと奮闘すると、しばらく考え込んでから、満足げな笑みを浮かべ、「スノープディング」と答えます!これがスウェーデンの掟です。デザートのラインで独創的なアイデアを聞かれたら、スウェーデン人はスノープディングを提案しなくてはならないのです。

だから、私のこのデザートは抗議だったんです。

とっても難しい材料が一つあります。ワインゼリーです!ゼリー自体は簡単ですが、ワインはどこで手に入れるのでしょうか?

ワインゼリーがなければ、何も始まりません。ワインが手に入るなら、オレンジを刻んでワインゼリーに入れ、その上に溶き卵白を2.5cmほど重ねて軽く焼き色をつけます。各皿にゆるめのカスタードをかけていただきます。ちょっとパンクで「レディース・ホーム・ジャーナル」っぽい感じに聞こえますが、実はとても美味しいデザートです。

[54]

XIX
ロイ・L・マッカーデル
「エッグス・マッシュルーム」
これは朝食料理の女王であり、もちろん、朝食料理の王様である焼きハム、熱々のバター付きトースト、そして、香りがよく、風味を十分に引き出すのにちょうどよい濃さの淹れたてのパーコレーターコーヒーを数杯添えてお召し上がりください。

レシピ
新鮮なマッシュルームを半ポンド(約250g)皮をむき、スライスします。昔ながらのフライパンでバターをひき、ほぼ火が通るまで炒めます。フライパンが十分に熱くなっているはずです。火を弱め、新鮮な卵を3個入れ、マッシュルームを炒めていた熱いバターを卵の表面に絶えず塗りながら、ゆっくりと丁寧に焼きます。くっついているマッシュルームが、プリンの中のプラムのように卵白にしっとりと馴染むまで、じっくりと丁寧に焼きます。完全に火が通ったら、焼いたハム、淹れたてのコーヒー、そしてバターを塗った温かいトーストを添えてお召し上がりください。

ここで説明されているように、この料理は 1 人用です。他の人とシェアするにはあまりにも美味しいからです。

追伸:卵は白身が固まるほど早く焼いてはいけません。ゆっくりと加熱してください。[55] 指示通りに、確実に、徹底的に、熱いマッシュルームバターを塗りつければ、エッグス・マッシュルームエットができあがり、詩を食べたことになるでしょう!

[56]

XX
ベン・B・リンジー判事
ブランマフィン
リンジー裁判官のお気に入りのレシピは、次のブランマフィンのレシピです。

牛乳1パイント
卵1個
小麦粉 1/2ポンド
ふすま粉 3/4ポンド
糖蜜大さじ2杯
ピーカンナッツ2オンス(1/2個または1/4個)
砂糖2オンス
バター2オンス
塩 1/4オンス
サルタナレーズン2オンス
ベーキングパウダー1オンス
マフィン18個分になります。

十分に予熱したオーブンで30分焼きます。

編集者注: レーズンにピーカンの果肉を加えると、マフィンができます。いや、このセリフはこう締めくくったほうがよかったかもしれません。「マフィンができます!」

[57]

XXI
オーティス・スキナー
アーティチョーク、ミスター・アントニオ
テーブルの上でアーティチョークの頭を軽く叩き、小さな穴を開けます。次に、中央に少量の塩とコショウを混ぜたオリーブオイルをデザートスプーン一杯注ぎます。これにニンニク1/4片を加えます。

アーティチョークをひっくり返さないよう置き、冷水で覆い、蓋をして静かに30分ほど茹でます。

これはイタリアの方法で、これに従えば、アーティチョークが茹でた干し草のように味気ない味である必要がない理由が分かるでしょう。

[58]

XXII
ダン・ビアード
バーグー
スッポン、ニシキガメ、カメ、その他ほとんどの種類のカメの肉をきれいにし、下ごしらえしましょう。ウサギ、ライチョウ、ヘラジカ、ヘラジカ、シカ、ヒツジなど、どんなジビエでもきれいにし、下ごしらえしましょう。肉は数インチ角くらいの大きさに切りましょう。骨、特に骨髄は肉と一緒に入れるので取っておきます。塩漬け豚肉を角切りにしてあれば、それを加えてもよいでしょう。

気を利かせて、臭いはするけれど美味しい乾燥野菜を仲間に用意しておけば、バーグーに風味が加わります。材料をすべて鍋に入れ、鍋の半分まで水を満たします。豆やジャガイモは肉と一緒に入れないでください。底に沈んで焦げてしまいます。鍋に入れた材料が沸騰している間、または弱火で煮ている間に、玉ねぎの皮をむいて4等分にし、ニンジンの皮をむいて薄切りにし、ジャガイモの皮をむいて約2.5cm角に切ります。鍋が沸騰し始めたら、新鮮な野菜を投入します。野菜が水を冷まし、沸騰を止めます。再び沸騰させず、弱火で煮込みます。[59] 野菜が浸るくらいの水を用意してください。トマト缶を加えると風味が格段に良くなります。ビーツやサツマイモのような甘い野菜は避けてください。塩コショウは火からおろす直前に加えましょう。バーグーが煮えたら、ブリキのカップに濾します。オリーブの瓶から煮汁を煮ている間に注ぐと、風味が格段に良くなります。キャンプでオリーブやレモンといった贅沢な食材を使えるなら、カップにレモンのスライスとオリーブを添え、煮汁を注げば、どんな王様でも喜ばれる一品になります。

バーグーの美味しさは、二つの要素にかかっています。一つは材料、もう一つは調理の際の丁寧さです。バーグーは二つとして同じものはなく、私が今まで食べたものはどれも非常に美味しかったです。肉屋や八百屋で買えるような文明的な材料で作ったスープは美味しいですが、「グー」という部分が欠けています。つまり、バーグーと呼ぶことはできません。

[60]

XXIII
デ・ウルフ・ホッパー
ラズベリーショートケーキ
ラズベリーショートケーキ、裕福で気立ての良い牛の助けを借りて、つまり乳汁と一緒に食べること、それが私の最大の放蕩です!

レシピ(2人分)
カップ 1 杯の小麦粉に、小さじ平らに 1 杯のベーキングパウダーと小さじ半分弱の塩をふるい入れます。よく混ぜ合わせます。ラードまたはバター (バターが最適) を小麦粉に、指の下で崩れるまでよく混ぜ込みます。指でよく混ぜます。次に、ごく少量の牛乳を加え、打ち粉をした台の上で簡単に伸ばして平らにできる生地になるまで混ぜます。伸ばして、ケーキ型にぴったり合うように丸く切ります。ケーキの厚さは約 1.5 cm にします。中火のオーブンで、うっすらと黄金色になるまで焼きます。盛り付ける際に、たくさんのベリー (半分ほど) を砕いておきます。ショートケーキを半分に切り、お好みでバターを塗ります。何よりも、濃厚でリッチなクリームをたっぷりとかけます。この料理は、ケーキが冷めているときよりも、オーブンから取り出したばかりのときの方が本当においしく仕上がります。

同じことはストロベリーショートケーキにも当てはまり、本物の昔ながらのショートケーキを作ることができます。

[61]

XXIV
チック・エヴァンス
トマトスープ
トマトスープと、グリズルのないステーキが大好きです。ステーキを焼くのは誰でもできるので、今回は割愛して、クリームトマトをキッチンコースでパーにする方法をお教えします。

完熟したトマトを切って煮込み、濾すのもいいでしょう。スープストックや調味料などを少し加えてもいいですが、一番簡単な方法は、ミスター・キャンベルのトマトスープに水の代わりに牛乳を加えることです。一人当たりのスープの量は、缶のラベルに記載されている量よりも多めにしてください。

沸騰させないでください。スープが十分に温まったら、軽く味付けをして、たっぷりの固めのホイップクリームを加えて混ぜます。各皿の中央に大さじ1杯分を添えられるくらいの量のホイップクリームを残しておきましょう。

1番ティーで缶切りを使えば、運が良ければ3打で夕食のテーブルに着くでしょう。大きめのスプーンでスープ皿からパー4を打てば、もう完璧!

詳しい説明がなくても、クリームを泡立てることができるようになります。重要なのは、適切な泡立て器やクリームホイッパーなどを選ぶことです。次に重要なのは、クリームを泡立てる際の姿勢です。[62] ベストの前面に何度か水をはねかけ、長いものを壁紙に引っ掛けたりしながら、徐々に慣れていきましょう。クリームを泡立てる安全装置もあるようですが、そのせいでスポーティさや興奮が半減してしまいます。

[63]

XXV
ジョシュア・A・ハットフィールド
ナスのソテー・アレキサンダー
約12人分

大きめのナス2本を皮をむき、約3.5cm角に切ります。コショウと塩で味付けし、小麦粉をひいて熱したフライパンで焼き色がつくまで炒めます。細かく刻んだナスを黄色になるまで炒め、フレンチエシャロット6個とニンニク2粒を加え、ナスに加えます。中火で約3分間かき混ぜ続け、野菜皿に盛り付け、刻んだパセリを振ります。

ポテトスティック アレクサンダー
茹でたジャガイモを6個取り、水気を切ってふるいにかけ、シチュー鍋に入れて火にかけ、卵黄4個、新鮮なバター大さじ1杯、パイ生地大さじ1杯、ピーマン1個、ピーマン1個、茹でたハム2枚とパセリを細かく刻んで加え、コショウと塩で味を調えます。

火にかけて5分ほど混ぜたら冷まします。

この生地を直径1/2インチの棒状に伸ばし、[64] 長さ1.5インチに伸ばし、小麦粉、溶き卵、白いパン粉をまぶしてフライパンで焼き、揚げたパセリを添えてナプキンに盛り付けます。

コールドソースアレクサンダー
(インディアハウスでは冷たいサーモンと一緒に提供されます)
12人分

良質のマヨネーズに、みじん切りにしたチャイブ、パセリ、チャービル、大さじ 2 杯のフレンチ マスタード、少量のウスターソース、パプリカ、コショウ、塩を加えてよくかき混ぜます。

至高のチキン・アレキサンダー
4ポンドのローストチキンの胸肉(鶏肉、クリーム、新鮮なマッシュルームを卵白と混ぜ合わせた具材をごく薄く詰める)をバターとチキンブロスで茹でる。茹で上がったら、スープレムを取り除き、ソースを4分の1の量まで煮詰める。まず大さじ1杯のスイートバター、細かく刻んだフランス産エシャロット6個、白ワイン1/2杯、ブラウンソース(デミグラスソース)大さじ2杯を加え、コショウと塩でよく味を調え、3分ほど茹でて目の細かいふるいにかける。

揚げたカナッペを形に切ってソースをかけ、料理を盛り付けます。

[65]

ガルニチュール
揚げナスを千切りにする
ピーマンをバターでソテーする
フレッシュトマトのソテー
野菜をそれぞれ別々にし、スープレムの周りに大皿に並べ、ソースは別々に盛り付けます。

フォンデュ・オー・フロマージュ・アレキサンダー
バター大さじ2杯を溶かし、小麦粉大さじ3杯を加えて薄茶色になるまで混ぜます。牛乳1パイントを加え、絶えずかき混ぜながら5分間沸騰させます。すりおろしたスイスチーズまたは国産ロックフォール1/2ポンド、少量の塩、パプリカを加え、卵黄6個と混ぜ合わせ、冷まします。

これを直径 3/4 インチ、長さ 1 1/2 インチの棒状に切って丸め、小麦粉、溶き卵、パン粉をまぶして、熱したフライパンでカリッと揚げます。

揚げたパセリを添えてナプキンに盛り付けます。

ポーチドエッグ アン クロスタード・アレキサンダー
小麦粉 1/2 ポンド、バター大さじ 1 杯、全卵 2 個、塩少々を混ぜて生地を作ります。このパイ生地を直径約 3 インチのタルトレット型に切り、型に入れて中火のオーブンで焼きます。

[66]

大さじ2杯の新鮮なバターを溶かし、みじん切りにしたエシャロット12個、みじん切りにした新鮮なマッシュルーム1/4ポンド、コショウ、塩を加え、絶えずかき混ぜながら弱火で煮込み、完全に火が通るまで煮込みます。最後にみじん切りにしたパセリを加え、大さじ2杯のデミグラスソースとよく混ぜ合わせます。タルトレットの底にこの材料を敷き詰め、その上にポーチドエッグを乗せ、濃厚なクリームソースをかけ、すりおろしたパルメザンチーズを振りかけ、溶かしバターを少々加え、中火のオーブンで約5分焼きます。

揚げたてのパセリをナプキンの上に盛り付けます。

ロメインレタスのサラダ・ア・ラ・アレクサンダー
ロメインレタスの半分を、スライスしたグレープフルーツ、スライスしたオレンジと白ブドウ(種を取り除いて割ったもの)、または大きなブラックチェリーで飾ります。

ドレッシングの作り方は、以下のとおりです。フレンチドレッシングに、細かく刻んだチャイブ、フレンチマスタード、小さじ1杯のレッドカラントゼリーを加えてよく混ぜ、上記のサラダのドレッシングとして使用します。

ロニョン・ド・ヴォー・アレキサンダー
新鮮な子牛の腎臓を 6 個取り、皮と脂肪を取り除き、非常に小さな立方体に切り、非常に細かく刻んだ新鮮なマッシュルーム 0.5 ポンドを加えて脇に置きます。

大さじ2杯のバターとみじん切りにしたエシャロット12個を溶かし、黄金色になるまで炒めます。[67] 腎臓とキノコを加えて、8分ほど煮込みます。煮込み過ぎないように注意し、腎臓が固くならないようにしてください。この器具にデミグラスソース1パイント、パン粉1カップ(とろみをつけるため)、刻んだパセリ、コショウ、塩を加えて冷まします。

直径 3 インチ、厚さ 1/2 インチの丸いカナッペパンを切り、バターで皮がつくまで揚げ、油を切ります。次に、この調理したもので皮を半分のボール状になるまで覆い、溶き卵にくぐらせ、パン粉とすりおろしたパルメザンチーズの混合物をスプレーし、溶かしバターを少量上部にかけ、中火のオーブンで約 10 分間焼きます。

揚げたパセリをナプキンに盛り付け、デミグラスソースを別添えしてお召し上がりください。

ストロベリータルトレット アレクサンダー
小麦粉 1/2 ポンド、砂糖 1/4 ポンド、バター大さじ 1 杯、全卵 2 個、塩少々を混ぜて生地を作ります。

生地を楕円形または丸形のタルトレット型に切り、中火のオーブンで焼きます。冷めたら、タルトレットの底にカスタードクリーム(クレーム・パティシエール)を詰めます。クリーム全体を、厳選した新鮮なイチゴの層で覆い、軽く薄めたレッドカラントゼリーをデコレーションブラシで塗ります。表面には、細かく刻んだピスタチオをスプレーします。

焼き牡蠣 アレクサンダー
大きな牡蠣を6個開け、深めの殻に入れ、[68] ローストパンに入れて、次のようにソースアレキサンダーで覆います。

ミックス: チリソース大さじ2杯
西洋わさびソース大さじ1杯
フレンチマスタード大さじ1杯
ウスターソース少々
細かく刻んだチャイブ、塩、コショウ
牡蠣全体にソースがかかったら、パン粉をふりかけて8分ほど焼きます。

チキン・アレキサンダーのエミンス
5 ポンドの鶏肉を厳選し、茹でて薄切りにして置いておきます。

鍋にバター 1/4 ポンドと小麦粉 2 杯を入れて、きれいな黄色になるまで炒め、これにチキンブロス 1 クォートを加えて、かき混ぜながら数分間沸騰させます。このソースに卵黄 6 個とレモン 2 個分の果汁を加え、常にかき混ぜますが、沸騰させすぎないように注意してください。目の細かいふるいにかけ、湯煎で温めておきます。

新鮮なマッシュルーム 1/2 ポンドをフレーク状に切り、バターでソテーします。次に、ゆでたバージニアハムのフレーク 1/4 ポンドと、細かく刻んだタラゴン 1 束を、十分に温めたソースの中でチキンフレークと混ぜます。塩、コショウ、パプリカで味付けし、耐熱皿に入れて提供します。焼きたてのトーストまたは温かいそば粉ケーキの上にのせます。

[69]

XXVI
スチュワート・エドワード・ホワイト
マリガン
これは焚き火で調理するキャンプ料理です。コンロでの調理については保証しません。コンロのことは全く知りませんし、かなり怪しいと思っています。作り方: 冷水を半分ほど入れたやかんに、フィッシュマリガン、クラムマリガン、ジビエマリガンのどれにするかによって、(a) ぶつ切りにした魚、(b) 2、3 個のハマグリ、または (c) テニスボール大の鹿肉の塊 6 個を入れます。また、手持ちの材料によっても変わります。皮をむいたジャガイモ 6 個と大きな玉ねぎ 3 個も入れます。塩コショウで煮込み、塩豚またはベーコンをひとつかみ加えます。ジャガイモが崩れるまで弱火で煮ます。コーンの缶詰の残りや冷めたご飯の残りなどがあれば入れます。次に、交通量に応じて古くなったパンや乾パンをすべて入れます。大さじ1杯の小麦粉を少量のぬるま湯に溶かし、混ぜてとろみをつけます。我慢できなくなるまでじっくり煮込み、最後には食べちゃいましょう。

[70]

XXVII
オリバー・ハーフォード
エルダーベリーの花のフライ
これは冗談のように聞こえるかもしれないが、まったく真面目な料理である。私はボーデン湖畔の南バーデンにある小さな宿屋のテーブルでこの料理に出会った。

まず、エルダーベリーの茂みが満開になるまで待ちます。それから、大きめの束を摘み取り、小さな茎が主茎と合流するすぐ下の花を一つずつ切り取ります。

これをアップルフリッター(おそらくもっと軽い)のような軽い卵液に浸し、花と茎をできるだけ多く覆うように注意しながら食べます。出来上がったらすぐにフリッターのようにお召し上がりください。

[71]

XXVIII
リード・スムート
ピーチコブラー
私の好きな料理の一つはピーチコブラーです。南部発祥と言われていますが、その名声はメイソン・ディクソン線をはるかに超えて広まっています。作り方はこうです。

深さ約8.5cmの耐熱皿かフライパンに、風味豊かなペストリーを敷きます。ペストリーに破れがあってはなりません。次に、桃を皿の縁まで詰めます。熟した甘美な桃を皮をむき、半分に切るのではなく、砕いておきます。砂糖をたっぷりと振りかけ、桃の種を6~8個ほど残しておきます。桃の種だけが持つ独特の風味が加わります。

桃を破れていないパイ生地で覆い、側面をしっかりと閉じて、果汁や香りが漏れないようにします。弱火でオーブンに入れ、焼き色がつくまで焼きます。表面に粉砂糖を振りかけると、プロが作ったようなツヤが生まれます。その後、焼き色を付ける作業は完了です。

1クォート(約1リットル)の桃が入ったコブラーは約1時間焼く必要があります。

編集者注:ピーチ・コブラーをこよなく愛するのはスムート上院議員だけではありません。ヴォルステッド以前の時代には、有名なコブラーは、上記のように、桃1クォートにブランデー1カップを加えることで作られていました。もちろん、それはずっと昔の話です。

[72]

XXIX
レイ・ロング
シャッドの卵巣
卵巣を溶かしバターまたはベーコンの脂によく浸し、高温のブロイラーで両面を5分ずつ焼きます。油を塗った耐熱皿に入れ、塩、タバスコ、ウスターソース、パプリカで味付けします。さらにバターまたはベーコンの脂を少量塗り、少量の熱湯を加え、蓋をしてオーブンで柔らかくなるまで約15分焼きます。カリカリに焼いたベーコンを添えてもよいですが、ベーコンは別に焼いておきます。

デザート
新鮮なパイナップルをスライスし、砂糖をまぶして氷の上に数時間置きます。レモンウォーターの氷と一緒にお召し上がりください。

[73]

XXX
ケネス・C・ビートン
(「KCB」)
ロブスター
ロブスターを何匹か買ってきてください。
分割して洗浄しました。
そしてフライパンに入れます。
そして各ピースに点をつけます。
バターを少々添えて。
そしてフライパンを置きます。
非常に熱いオーブンで。
そして10分間焼きます。
そしてその後。
殻から肉を取り出します。
加熱した皿の上へ。
ソースをかけてお召し上がりください。
ボウルで作ります。
マスタードを少々添えて。
水に混ぜます。
そして塩をひとつまみ。
そしてパプリカ。
ほんの少しだけ。
そして、小さじ一杯分も足りない。
クルミケチャップ。
[74]そして大さじ一杯。
ウスターソースの。
そしてそれらをすべて混ぜます。
半カップで。
溶かしたバター。
それはただ加熱されただけだよ。
そして茹でません。
そしてそれをすべて提供します。
ジャガイモたっぷり。
焼いたり茹でたり。
そして、ああ、ああ、すごい!
お皿があります。
神々にふさわしい!
感謝します。
[75]

XXXI
ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ医学博士
チーズマカロニ
マカロニ1.5カップ
カッテージチーズ 1カップ
ゆで卵2個
バター大さじ2
牛乳2カップまたはマカロニが浸るくらいの量
マカロニを塩水で柔らかくなるまで茹でます。耐熱皿の底にマカロニを敷き、その上にチーズ(1/2カップ)、スライスしたゆで卵、マカロニとチーズを敷きます。チーズとマカロニの間と上にバターを少量かけ、クラッカー、パン粉、またはPEP(ポリフェノール)を散らします。クリームまたはバターで湿らせます。マカロニがちょうど浸るくらいの量の牛乳を注ぎ、弱火で約45分焼きます。

風味豊かなポテト
スライスしたジャガイモ1パイント
小玉ねぎ1/2個
バター大さじ1
水1カップ
塩小さじ1.5杯
[76]

耐熱皿の底に薄切りにしたジャガイモを並べ、その上にスライスした玉ねぎを乗せ、残りのジャガイモを加えます。バターと塩を入れた熱湯を全体に注ぎます。弱火のオーブンで2時間焼きます。

[77]

XXXII
クレア・ブリッグス
ワッフル
キッチンで最も素晴らしい製品の一つに、シンプルだが効果的なレシピがあります。

小麦粉1¾カップ
ベーキングパウダー小さじ3杯
塩小さじ1/2
牛乳1カップ
卵黄2個分
卵白2個分
溶かしバター大さじ1杯
粉類を混ぜてふるい、牛乳を少しずつ加え、よく溶いた卵黄を加えます。次に溶かしバターを加え、最後に固く溶いた卵白を加えます。油をたっぷりひいた熱したワッフルメーカーで焼き、メープルシロップをかけてお召し上がりください。

編集者注:ハーディング学長はワッフルのドレッシングとしてクリームチップビーフを好みますが、ブリッグス氏は甘党派の熱心な支持者です。

甘いものが好きな人には、プレーンなメープルシロップのこのバリエーションは試してみる価値があります。

濾した蜂蜜1/2ポンドをダブルボイラー、または水を入れた小鍋に入れます。弱火で加熱し、あらかじめシナモンパウダー小さじ2杯とキャラウェイを混ぜておいた純粋なメープルシロップ1/2パイントを加えます。加熱しながらよく混ぜ合わせますが、沸騰させないでください。温かいうちにお召し上がりください。

[78]

XXXIII
エドワード・W・ボック
アスパラガス
私が好きな食べ物は?

私が本当に食べたい料理は?

私が生涯毎日食べるものは何ですか?

見たことも、持ったこともない。

なぜ?

ボク夫人は、その中には消化しやすい料理はないと言うからです。

しかし、私はよく彼らのことを思い出します。物憂げに、ああ、とても物憂げに!

以下がそれです:

熱いオリーブオイルで調理したソフトシェルクラブ、またはデビルドしたハードシェルクラブ。
マヨネーズを添えたロブスター。
フィレミニョン。ブラウンバターで焼きます。
子牛のパン。
ローストポークテンダーロイン。
揚げたウナギ。
ソーセージ、いくら食べても飽きない、スクラップルも同様!
熱々のロールパンを軽く巻いたカラント。
熱々焼きたてのドーナツ。
ガーゼのように薄いフランスのパンケーキ。
濃いブラックコーヒー。
チョコレートメレンゲグラッセ。
しかし、私は上記のことを知る幸運に恵まれなかったため[79] 食べ物を直接食べたことがないので、そのレシピをうまく教えることはできません。

おそらく、私の故郷であるオランダで覚えているオランダ風の、我が家でのアスパラガスの食べ方を知りたい方もいるかもしれません。

アスパラガスの束を二重鍋に立て、先端が湯面から出るようにして蒸気で加熱します。テーブルでは、アスパラガスと一緒に、ライサーで漉した固ゆで卵、少量の細かく挽いたナツメグ、そして熱々の溶かしバターが配られます。ゲストには必ず説明が必要ですが、一度説明が終われば、すっかり虜になります!

[80]

XXXIV
チャールズ・ハンソン・タウン
コーンプディング
このように作ったコーンプディングより好きな料理はありません。

すりおろしたトウモロコシ2カップ
牛乳1/2カップ
クリーム1/2カップ
小麦粉大さじ1杯
塩大さじ1/2杯
砂糖小さじ1杯
バター大さじ1杯
ベーキングパウダー少々
30分ほど煮込んで、すぐに盛り付けてください。表面はこんがりと焼き色がつき、深めの皿に盛り付ければ、男なら誰もが望む最高にジューシーな一品になります。ぜひみんなとシェアしたいですね。毎晩、これをメインにパーティーを開きたい!

編集者注: この料理の起源についてタウン氏は、「最初に作ったのは、私の素晴らしい黒人の家政婦、ハッティー・ジェファーソンでした」と述べています。

[81]

XXXV
ジェローム・D・カーン
テラピン
私の好きな料理はスッポンの煮込みです。レシピは次のとおりです。

茹でた子牛のレバーを適当な大きさに切り、たっぷりの新鮮なバターを入れたシチュー鍋に入れてよく煮込みます。

別のフライパンで、禁酒法以前のシェリー酒またはマデイラ酒のソースを作り、溶きほぐした卵黄 1 個、粉末ナツメグ、メース、ひとつまみのカイエンペッパー、塩少々で味付けし、大きな塊のバターで味を整えます。

禁酒法以前のシェリー酒が入手できない場合は、71 人の密造酒製造者の名前と住所を提供することができます。

ソースをよくかき混ぜ、沸騰する直前に火から下ろします。

亀の卵の代わりに、固ゆでにした鶏卵を3~4個使い、熱々のままチェーフィングディッシュでテーブルに出します。

重要:ソースは別添えにしてください。シェリー酒の風味を好む人は、スッポンをよく無視します。私もその一人です。

[82]

XXXVI
ダニエル・ウィラード
コテージプディング
バター大さじ1杯
砂糖1カップ
卵2個
牛乳半カップ
ベーキングパウダー小さじ1杯
小麦粉1.5カップ
四角い型で焼いて、イチゴソースを添えてお召し上がりください。

ストロベリーソース
大さじ1杯のバターをクリーム状になるまで泡立てます。粉砂糖1.5カップと溶き卵白1個分を少しずつ加えます。軽く泡立て、盛り付ける直前に、小さく切ったイチゴ1パイントを加えます。

[83]

XXXVII
フーディーニ
スカロップマッシュルームとデビルドエッグ
きのこ料理
この用途には、きめ細かくて固いものを選びましょう。摘み取り、洗い、拭き取り、皮をむいたら、バターをたっぷり塗った深めのプディング皿に並べます。コショウと塩で味付けし、少量の玉ねぎを加えます。それぞれの層に丸めたパン粉をまぶし、バターを細かく刻んで散らします。この作業を、パン粉が上層になるまで繰り返します。中火のオーブンで焼きます。


卵を固ゆでする。殻をむき、半分に切り、端を少し切り落として立てる。黄身を取り出し、溶かしバター、カイエンペッパー、少量のマスタード、少量の酢を加えて滑らかなペースト状になるまですり込む。くり抜いた白身にこれを詰め、刻んだレタスまたはクレソンの上に盛り付け、胡椒、塩、酢、少量の砂糖で味付けしてテーブルに出す。

[84]

XXXVIII
チャールズ・P・シュタインメッツ
ミートローフ
これまで色々な相談を受けてきましたが、食に関する相談を受けるのは初めてです。そこで、キャンプ経験から、私のお気に入りの料理をご紹介します。

牛肉、子牛肉、豚肉(サーロインステーキとチョップ)をそれぞれ1/2ポンド用意します。牛肉と子牛肉は骨と脂身を取り除き、豚肉は脂身だけ残しておきます。これらを肉挽き器にかけ、適度に細かく刻みます。生卵2個と薄切りベーコン(ブナの実のベーコンを約2.5cm四方に切る)を加え、よく混ぜ合わせます。塩コショウを適量加え、できればセロリソルトを加えます。丸いパンの形に成形します。

鋳鉄製または鋳アルミ製のフライパン(熱をうまく分散させ、焦げ付きを防ぐのに十分な重さの金属でできたフライパン)にバターを溶かし、パンを入れて蓋をします。弱火で加熱し、しばらく経ったら裏返します。パンに火が通るまで、長時間加熱します。パンにバターが吸収されたら、1~2回バターを加えます。蓋を外し、火を強め、しばらく経ったら裏返して両面に焼き色がつくまで焼きます。

[85]

パンを取り出し、温めた大皿かお皿に盛り付けます。鍋に生クリームか濃厚な牛乳を1カップ注ぎ、鍋の中の沈殿物が溶けるまでかき混ぜ、茶色く色づくまで温めます。このグレービーソースをパンにかけ、茹でたミーリーポテトを添えてお召し上がりください。残ったソースは冷めても美味しく召し上がれます。スライスしてバターを塗ったトーストにのせてお召し上がりください。

[86]

XXXIX
チャーリー・チャップリン
ステーキとキドニーのパイ
私のやり方は次のとおりです。

得る 赤身ステーキ2ポンド
牛の腎臓1個
小さな玉ねぎ1個。
ステーキと腎臓を5cm角に切り、小麦粉をまぶします。コショウと塩で味を調えます。バターを塗った深めのパイ皿に、濃厚なパイ生地を敷きます。中央に卵カップを逆さまに置き、肉とみじん切りにした玉ねぎを詰めます。皿のほぼ上まで水を加えます。生地を厚さ1.5cmほど伸ばし、全体を覆います。蒸気が抜けるように生地に小さな穴をいくつか開けます。中火のオーブンで3時間焼きます。召し上がれ。

編集者注:ステーキ&キドニーパイは、あの偉大な映画コメディアン以外にも多くの人に愛されています。チャップリン氏のレシピには、興味深いバリエーションがいくつかあります。

牛の腎臓の代わりに羊の腎臓。

上部のクラストのみ。

パイに入れる前に肉の塊を揚げます。

[87]

XL
フランク・クレイン博士
ラウンドステーキ
ジョンソンという、非常に素晴らしい響きを持つ名前の人物が私に手紙を書いてきました。彼は、私が記事を書くために雇い人を一人か二人雇っているという噂を聞いたにもかかわらず、以前私の名前で掲載された記事は私が自分で正直に書いたものだと信じているそうです。その記事では、私はラウンドステーキをフライドチキンと同じくらいおいしく柔らかく調理できると書いていました。

「もしハッタリでなければ」と彼は言った。「レシピを印刷してくれたら、たくさんのハウスキーパーやスタッグクラブに大いに貢献できるだろう。筆者は、ラウンドステーキが鶏肉と同じくらい柔らかいと信じ込もうとして、歯のエナメル質をすり減らしてしまった。手伝ってくれよ、相棒」

そこで、呼ばれたので、私は自分のカードを表向きにテーブルの上に置きます。つまり、次のとおりです。

肉屋にラウンドステーキを薄く切ってもらいましょう。鉛筆より少し厚めです。彼はもっと厚く切ろうと言い張り、ジューシーになるなどと主張します。リボルバーを構えて、彼に従わせましょう。ステーキは厚すぎないようにしてください。

ステーキを切った後、切り分けてもらいます[88] ステーキを手のひらくらいの大きさに切り分けてください。ステーキを丸ごと焼こうとしないでください。フライドチキンも一切れずつ別々に焼いた方が美味しいのと同じように、小分けにして焼く必要があります。

肉屋に鋭い包丁(家にある包丁よりもずっと良いでしょう。肉屋は研ぎの技術を熟知していますが、あなたは知らないからです)を用意してもらい、それぞれの肉を両側から、必ず十字に切るように刺してください。こうすることで、肉はボロボロになり、今にも崩れそうな状態になります。

フライパンに良質で甘いラードをたっぷり入れます。バターは使わないでください。焦げてしまいます。ドーナツのように油で揚げるのではなく、フライドチキンのようにたっぷりの油で揚げてください。

生のステーキの各部位に小麦粉をすり込みます。よくすり込みます。熱したフライパンに入れ、蓋をしてそのままにしておきます。こうすることでステーキに火が通り、柔らかくなります。

時々ひっくり返しながら、きつね色になるまで揚げます。この手順は、南部風フライドチキンと全く同じです。

肉を取り出したら小麦粉を入れ、少し焦がしてから、フライパンに残った熱い油と肉片に水と牛乳を混ぜたものを注ぎます。適切な量は、実際に試して確かめてください。沸騰させてから煮詰め、かき混ぜ続け、適度な濃度になるまで煮詰めます。調理前に塩コショウで味を調えてください。もしうまくいかなかったら、指示通りに調理しなかったことが原因です。

ラウンドステーキは安いだけでなく、無駄が最小限で良質な肉が使われており、適切に調理すれば牛肉のどの部分よりもおいしいです。

[89]

XLI
ロバート・H・デイビス
ウスターシャー風クリームソース
この比類のない調合は、揚げたハムとともに神聖な結婚の絆で結ばれ、フードをかぶった熱いベーコンの上で厳粛に行われる儀式です。

マイルドな塩漬けハムを厚切りにし、熱したフライパンでハム自身の脂で両面が黄金色になるまで焼きます。大きめのクッキングスプーンにウスターソースをスプーン1杯、濃厚なクリームを山盛り大さじ1杯入れます。フライパンにクッキングスプーンを置き、ウスターソースとクリームが温まるまでハムの横に置きます。ソースが温まっている間にハムの脂を数滴加えます。ハムにソースをかけ、ベーキングシートの上で完璧な組み合わせを完成させます。

メンデルスゾーンの結婚行進曲のディスクを蓄音機に入れて、食卓で新婚旅行を締めくくりましょう。

編集者注: このソースは、1915 年にチャールズ R. フリント氏がイギリス海軍のガイ・ゴーント提督とアメリカ合衆国のアーヴィン S. コブにロングアイランドのワイアンダンチ クラブで提供した朝食会でデイビス氏が考案したものです。

[90]

XLII
ジョン・A・ディックス
フライドトラウト
私のお気に入りの料理は、迷わず、田舎風ベイクドビーンズとポークです。

私のお気に入りのレシピは、たくさんの調味料を必要とします。中でも、山のマスのいる渓流、森の香りのインスピレーション、早朝の活力と追跡です。必要なのは、マスがちょうどいい量と少しです。パックバスケットから豚肉かベーコンを取り出し、フライパンで火を注意深く起こしてよく焼きます。魚を準備し、塩コショウで味付けした細かいパン粉をまぶします。魚が黄金色に焼けたらフライパンから取り出し、先住民のやり方で指でつまんで食べます。王様でさえ、これ以上のことはできなかったでしょう。

[91]

XLIII
ガイ・ベイツ・ポスト
「テントメーカーのオマール」風ラムカレー
玉ねぎ1個(さいの目切り)
ストック1カップ
米ぬか水 1/2カップ
あらかじめ茹でてさいの目に切ったジャガイモ1カップ
ラム肉2カップ(冷製ローストが望ましい)をドミノサイズに切る
カレー粉大さじ2杯(クロス&ブラックウェルズ、または他の輸入品。国産​​品は避けてください)
レモン1個分の皮
塩少々
上記の材料をいただければ、何よりも風味豊かで美味しい肉料理をお作りします。私の考えでは、これが一番美味しいと思います。8年前、「テント職人オマール」を初めて演じた時、ペルシャ大使館の方々と知り合いになりました。彼らは舞台がペルシャであることから、この劇に特に興味を持っていました。そして、その中の一人の紳士の家で食事をした時に、ラムカレーの素晴らしさを初めて知りました。まさに、ラムカレーの正しい作り方です! 主人にレシピを懇願して作ってもらったラムカレーは、それ以来、我が家の定番料理となっています。

[92]

まず、深めの鍋にオリーブオイルをひき、玉ねぎを炒めます。次に、ストック、米のとぎ汁、塩、カレー粉を加えます。カレー粉は、滑らかなソースにするために少量の米のとぎ汁と混ぜておきます。油とカレーが黒い塊になるまでゆっくりと煮込み、ラム肉を加え、盛り付ける直前まで煮込みながらかき混ぜます。最後にレモン汁を少し加えます。

ラムカレーは必ず温かいご飯と一緒にお召し上がりください。フォークにご飯とご飯を同じ量ずつ取り、辛すぎると感じた場合はご飯の量を増やしてください。カレーと一緒に水を飲むのは絶対に避けてください。カレーの辛さが増すからです。上記のレシピで使用しているカレー粉の量は、お好みに合わせて増減してください。ラム肉の代わりに、冷製のエビ、ロブスター、子牛肉、鶏肉を使用しても構いませんが、牛肉は絶対に使用しないでください。個人的には、ラム肉を使ったカレーが最高に美味しいと思います。

[93]

XLIV
ドン・ラファエル・H・エリザルデ
博士(エクアドル大臣)
サンコチョ
4 ポンドのロース肉を 2 インチ四方に切ります。

大きめサイズのジャガイモが8個。

2インチの長さに折られた緑のトウモロコシの穂が5~6本。

必要な量のスープを作るのに十分な水。

牛肉とジャガイモが柔らかくなるまで煮て、次にトウモロコシを加えて火が通るまで炒めます。

玉ねぎ—

大きな玉ねぎ3個を薄切りにして、30分ほど茹で、水気を切って冷まします。オリーブオイルをかけます。

バナナペースト—

ダブルボイラーに牛乳 1 クォートを入れ、バナナ粉を山盛り大さじ 2 杯加え、少量の牛乳を加えて滑らかなペースト状になるまで混ぜ、30 分から 1 時間ほど煮ます。

盛り付け方—

スープをザルで濾し、肉、ジャガイモ、トウモロコシ、玉ねぎ、バナナを盛り付けて盛り付ける。[94] 各人が自分で取れるように、別々の個別の皿にペーストを盛り付けます。

(南米では、この料理にユッカやオオバコが使われます。)

ヤピンガチョ
通常のレシピでポテトケーキを作りますが、形を整える前に、それぞれのケーキの中央にクルミ大のクリームチーズを置き、少量の油で茶色になるまで揚げます。

ソース—

牛乳 1 クォートと細かく砕いたピーナッツ 1/2 ポンドを、塩、パプリカ、バターで味付けしながら、とろみがつくまで煮ます。

ポテトケーキを目玉焼きと一緒に盛り付け、両方にソースをかけます。

[95]

XLV
バイド・ダドリー
トマトソップ
固く熟したトマトをスライスし、小麦粉をまぶし、ラードとバターを同量加えて両面がきつね色になるまで炒めます。数枚を皿に移し、残ったトマトに小麦粉とバターの小塊を加えて混ぜ合わせます。牛乳でとろみをつけ、味を調えます。

パンやトーストにつけてお召し上がりください。

編集者注:これは良いですね。しかし、料理の芸術性の観点から、増粘剤は牛乳ではなく小麦粉であることを明記しておく必要があります。

ぜひお試しください。「トマトソップ」の作者に感謝することになるでしょう。

[96]

XLVI
ウィリアム・ヘイル・トンプソン
(シカゴ市長)
ローストビーフ
私の好きな食べ物は、レアのローストビーフか、美味しいアメリカ産サーロインステーキです。これらは、レシピがなくても簡単に作れると思います。

提案:

  1. ローストを、あまり厚すぎない薄切りベーコン 2~3 枚の上に立てます。
  2. ローストの上に、レモンの薄切りを 3 ~ 4 枚乗せます。特に「外側のカット」がお好みの場合は、この方法が効果的です。
  3. ステーキがまだ少し新鮮そうに見える場合は、レモン汁を両面に塗り、数時間置いてから焼くか揚げてください。少し黒くなっても心配しないでください。喜んでください。
  4. フライパンにニンニクをすり込むこともできます。
  5. ステーキは厚くなければなりません。特に焼く場合はそうです。

[97]

XLVII
ブース・ターキントン
コーンフレーク
私の好きな料理はコーンフレークです。小皿かくぼんだ皿にコーンフレークを入れ、両手で持ち上げて少し転がしてから、また皿に戻します。その後、クリームをたっぷりかけてスプーンで食べます。他に何をテーブルに並べたらいいのか、私にはわかりません。ケネバンクポート流の最高の蒸し方は、以下の通りだと思います。

1ブッシェルのハマグリ
ロブスター4ダース
スイートコーン4ダース
サツマイモ4ダース
卵4ダース
荷車一杯の海藻、岩の上で6時間焚き火を燃やし、そして流された。ロブスターやハマグリなどを海藻の中に入れて、海藻を熱い岩の上に置き、BBBの帆布で覆う。海藻が悲鳴を上げるまで蒸す。それから、食べるものには気をつけろ!

[98]

XLVIII
T. A. ドーガン
チリコンカン
自然な

飼料袋に入れるお気に入りの具材は何でしょう? 正直に答えると…チリコンカンです。

テラピン・メリーランド、または他のリッツィー料理を言ったかもしれないが、自然なものを言ったほうがいいと思った。

カリフォルニア(私の生まれた場所)で出されるチリコンカンとタマーレは、私が今まで食べたどの料理にも負けません。

レシピ
例えば、良質の牛肉2ポンドを指の第一関節くらいの大きさに切り分けます。刻んだ脂身を少し加えて混ぜ、塩を加えます。

深めの鍋にラード大さじ2杯を入れ、火にかけます。みじん切りにした玉ねぎを加えます。玉ねぎが半分ほど火が通ったら、肉を加えます。肉汁が煮詰まるまでよくかき混ぜます。肉が炒め始めたら、熱湯約1.5パイント、ゲブハルトのイーグルチリパウダー大さじ3杯、みじん切りにしたニンニク数粒を加えます。弱火で煮込み、肉が柔らかくなるまでよくかき混ぜます。

[99]

XLIX
ウィリアム・デ・レフトウィッチ・ダッジ
ラグー・ド・ムートン
私の一番好きな料理は「ラグー・ド・ムートン」だと思います。というか、私が作る料理の中で一番美味しい料理だと思います。

やり方は次の通りです:

ラム肉を細かく切り、フライパンで炒めます。ニンジンと玉ねぎを3~4本スライスし、一緒に炒めます。焼き色がついたら鍋に入れ、水をたっぷり注ぎ、1時間ほど弱火で煮ます。その後、ジャガイモとカブ(細かく切ったもの)を数個加え、火が通るまで煮ます。お好みで味を調えてください。

[100]

L
モンタギューグラス
ブイユベース
ブイユベースは私の一番のお気に入りの料理です。数年前に住んでいたニースの料理人、ヴァレンタインのブランのレシピに従って作っています。ヴァレンタインは読み書きもできず、物語を語ることさえできませんでしたが、彼女のブイユベースはマルセイユで(そしておそらくサッカレーの昔のレストランでも)作られるブイユベースよりずっと美味しかったのです。

ソースパンにバター約250gを溶かします。マルセイユでは油を使うのは知っていますが、バレンタインはバターを使っていました。バターを焦がさないように注意してください。大きめの玉ねぎ2個(細かく刻んだもの)と、ニンニク2個(これも細かく刻んだもの)を用意します。

これらをバターで柔らかくなるまで、焦げ付かないように炒めます。スズキ3匹とハドック1匹を用意します。つまり、頭と尾を切り落とします。ハドックの代わりにウナギを使う人もいますが、私はウナギが大嫌いです。大きな鍋にスズキの頭と尾を切り、約1クォート(約450ml)の水を加え、弱火で30分ほど、よく火が通るまで煮込みます。頭と尾を濾して猫に与えます。

調理した玉ねぎとニンニク、バターなどを、頭と尾から濾したブイヨンに加え、味を調えてさらに30分煮込みます。[101] 塩と白コショウで味付けする。シャブリ、コート・デュ・ローヌなど、どんな種類の辛口の白ワインでも1ジルほど加える。安いほどよい。次に、小さめのロブスターを2匹、生きたまま用意する。勇気があれば、一切れに切り、ハサミを外してさらに一切れに切る。捌いたロブスターを上記の液体、リキュール、またはブイヨンで約15分煮込み、全体を 一緒に煮ている間に、塩小さじ1杯の乾燥スペイン産サフランを加える。ムール貝が手に入るなら、それも全部、1ダースほど、殻付きで、あらかじめ殻をよく洗っておくと、一緒に煮る。この工程のどこかで、みじん切りにしたパセリを大さじ1杯ほど加える。最後に、使いやすい大きさに切った魚を加え、火が通るまで煮る。ただし、魚が崩れるほど長く煮込まないように注意すること。激しく沸騰させないことを覚えておこう。

盛り付ける前に、ほとんどの液体を濾し取り、まずスープとして、皿の底にトーストを敷いて盛り付けます。トーストが良質のバターで事前に焼いてあればなお良いですが、必須ではありません。殻以外の固形物はすべて食べ、残ったグレービーソースはパンで吸い取ります。フォークではなく指で吸い取りましょう。少しも残さないようにしてください。

このシチューは4人分くらいあるはずですが、妻のちょっとした手伝いがあれば、たいてい一人で全部できます。食事にはワイン、良質のブルゴーニュ・ボーヌかシャンベルタンを合わせましょう。その後はアーティチョークの冷たいビネグレットソース、フルーツとチーズ、そして小さめのブラックコーヒーを2杯食べます。その後は[102] あまりマイルドではないコロナを吸い、コアントロー・セックを小さなグラスで飲む。パンはフルートグラスのパン・リッシュがおすすめ。フルーツは新鮮なアプリコット、グリーンアーモンド少々、そしてグリーンガーリックなど。

コーヒーを飲み、葉巻を吸うのは庭で、場所はグランド・コーニッシュのボロン山付近、あるいはパルク・アンペリアルでもいい。食事中か食後に神に感謝し、庭が少し寒くなったら、小さなリビングルームで火を焚き、寝る時間までサマーヴィル&ロスの『アイルランド人RMの思い出』、ニール・ライオンの『シンプル・シモン』 、ベロック の『ローマへの道』、あるいはリチャード・フォードの『スペインからの集い』などを読むのがよい だろう。

次の金曜日にこのプロセス全体を繰り返します。

ああ!なんてお腹が空いているんだ。

[103]

LI
ジョン・フィリップ・スーザ
ポルトガル風ペロタス
「これは6人から8人分で、私の
お気に入りの料理です。」

トマト缶1クォート。やかんでコンロにかけ、弱火で煮るか、1時間半ほど煮立たせます。コショウ、塩、薄切りにした玉ねぎ2個、オールスパイス4個、クローブ4個を加えます。クローブとオールスパイスは沸騰してから加えます。2時間半後、以下の材料を加えます。

牛ひき肉2ポンドに、みじん切りにした玉ねぎ1個、パン粉2カップ、パセリ少々、塩コショウを加えます。プラム大のミートボールを作ります。ソースに入れて1時間半、じっくり煮込みます。これでソースは3時間じっくり煮込んだことになります。

スパゲッティ
スパゲッティはマカロニではなく、1パックか1ポンド(約450g)を使用してください。大きめの鍋に大さじ1杯ほどの塩を入れたお湯を沸かします。スパゲッティを湯に浸します。折らないように注意し、ちょうど20分茹でます。柔らかく、硬すぎず、生地がもったりしていない状態が理想です。

[104]

ストーブから降ろす1時間前に、ソースに月桂樹の葉を3枚加えます。

スパゲッティは大きな皿に盛り、トマトソースをかけます。ペロタは小さめの皿に盛り、ソースが少し残る程度にしておきます。

すりおろしたパルメザンチーズを添えて。すりおろすチーズは瓶詰めのチーズではなく、実物のチーズをご使用ください。

[105]

LII
ウィル・ヘイズ
チキンピラフ
「太った鶏を飼いなさい。太っているほど良い。」

このレシピは南部の料理人によるものなので、正確な分量はありません。

サムはいつも「太った鶏」を勧めていました。「太っているほどいいよ」そして「ご飯はたっぷり、コショウもたっぷり」

これだけは分かっています。鶏肉を切って、柔らかくなるまで水で茹でます。大きめの平底の鍋で茹でます。鶏肉が柔らかくなったら、鶏肉の周りにスープがたっぷりと出ますが、鶏肉を覆い尽くすほどではありません。次に、鶏肉と一緒に、よく洗った米を約1パイント(約450ml)加えます。サムによると、一度かき混ぜ、1時間ほどじっくり蒸らします。コショウをたっぷり使い、塩で味を調えます。米一粒一粒がふっくらとジューシーであるべきです。うまく作れば、とても美味しくなります。

編集者注:ヘイズ氏がお勧めするチキンピラフは絶品です。ライスの代わりに、砕いたスパゲッティやバーミセリを使うと、同じくらい美味しくなるかもしれません。

[106]

LIII
フランク・ワード・オマリー
ラム・タム・ティディ
「——最高のウェルシュラビットをストーブから下ろしました。」

ニュージャージーの田舎の家を一つ。頼りになるアップルジャックの密造酒業者が一人。村の娘を毎晩七時半に訪ねなければ出て行くと脅す料理人が一人。

シェフがステーキを焼き始めようとしているまさにその時、3、4人の知り合いがアップルジャックカクテルを飲みに立ち寄ったとしましょう。そして、あなたと奥様、そして特に遅れてきたシェフがヒステリー寸前になるまで、ゲストにカクテルシェーカーのそばに長居してもらいましょう。

「ここに泊まらない?」とあなたは絶望しながら客に告げる。「みんなで酒を飲みましょうか?」

感謝の気持ちでいっぱいの料理人に、食事の支度はもうやめとけと言い聞かせる。次に、フライバーを1枚取り、急いで村の娘の家へ車で送る。そして村で、アメリカンチーズを1.5ポンド、キャンベルのトマトスープを1缶、そしてビールを12本買う。本物のビールが手に入るなら、そうでなければヴォルステッドビールだ。

今:-

ゲストをカクテルシェーカーから引き離し、[107] キッチンに運び込む。ここからは、ピーマンを刻むボウルで刻んでいない人は、アメリカンチーズを2.5cm四方の角切りにするのに夢中だ。残りの人は、新鮮な卵2個を白身と黄身を混ぜて泡立てる。

焦げ付きを防ぐため、バターを鍋に少し落とします。角切りチーズを1.5ポンド(約450g)入れ、焦げ付かないように混ぜながら溶かします。チーズが十分に溶けたら、トマトスープの缶詰と溶き卵2個を注ぎ入れます。ビールを3分の1ほど加えて混ぜます。細かく刻んだピーマンも加え、滑らかになるまで混ぜ続けます。

温かいディナープレートを用意し、それぞれの皿にバターなしの温かいトーストを大きめに盛り付けます。それぞれの皿の横に、少なくともビール1本(本物のビールなら2本)を置きましょう。

「準備完了!」と大声で叫び、トースト1枚1枚に、ラム酒がお皿の上にピンク色に溢れるくらいの量のソースパンの中身を注ぎます。

それだけだ。準決勝のカクテルをシェイクして、すぐにフライバーで村に戻り、チーズをもう1ポンド半、胡椒をもう1つ、ビールをもう1つ買って、最初のラム酒がなくなったらすぐにもう一杯作る。2杯、いや3杯も必要になる。

できればキッチンで召し上がってください。脚を動かしたいなら、キッチンから離れた部屋で召し上がってください。お腹いっぱいになるまでお召し上がりください。

[108]

LIV
チャールズ・エヴァンス・ヒューズ
コーンブレッド
「私の好きな料理はコーンブレッドとハチミツです。」

コーンブレッドのレシピはこちらです。

小麦粉2カップ
コーンミール3カップ
ベーキングパウダー小さじ4杯
よく溶いた卵2個
塩小さじ1杯
砂糖大さじ1杯
牛乳1パイント
溶かしバター大さじ2杯
小麦粉、ベーキングパウダー、塩、砂糖を混ぜ合わせます。卵を白っぽくなるまで泡立て、卵と牛乳を粉に加えます。軽く滑らかになるまで泡立て、溶かしバターを加えます。油を塗った浅めのフライパンで約25分焼きます。

熱いうちに食べて、新鮮なバターと蜂蜜をたっぷり使ってください。

編集者注:コーンブレッドには白粉と黄色粉があります。コーンブレッドの専門家は、白粉の方が好ましいと述べています。それでも、熱々のコーンブレッドの黄金色は、決して軽々しく見逃してはいけません。

[109]

LV
ウォルター・プリチャード・イートン
ミンスパイ
「他の方法で作ったらミンスパイではない。」

私の好きな料理、そして世界で一番美味しい食べ物はキング・クヌート・プディングですが、作り方は誰にも教えません。それは家系の秘密だからです。私はクヌートの子孫で、彼がこのプディングを食べてとても気分が良くなり、外に出て潮の満ち引き​​を止めるよう命じたほどです。私の一族では、このレシピは代々受け継がれています。このレシピを伝えたのは父方の祖母でした。彼女は素晴らしい料理と気難しい性格のおかげで、99歳まで生きました。彼女のミンスパイはソネットになるほどのものでした。世界で2番目に美味しい食べ物でした。ニューヨークに行ってから10年間、私はそのパイの記憶で生き、同じ名前を装ったひどい料理を出されたことに身震いしました。

それからニューイングランドに戻り、神の恵みと正しい育てられ方のおかげで、あのパイのような料理を作ることができるようになりました。6年間、私は再び幸せを味わいました。そして、比類なきケイトを失いました。唯一の希望は妻でしたが、それは実にかすかな希望でした。[110] 彼女はパイ・ベルトではなく、ニューヨーク生まれだった。料理をしたことは一度もなかった。聖公会の信者だった。私は次の感謝祭の朝食を、暗い予感とともに迎えた。

しかし、奇跡が起きた。それは正統派のミンスパイだった。ケイティのミンスパイだった。おばあちゃんのミンスパイだった。つまり、ミンスパイだったのだ。作り方はこれだ。他の方法で作ったら、ミンスパイにはならない。

フィリング
ミンサーをテーブルの端にしっかりと固定します。芸術家にとってのパレットのような存在が、ミンスミートを作る人に対するミンサーです。次に、以下の材料をミンサーに通し、大きな鍋に入れます。そして、その素晴らしい内容物を午前中の大部分の間、ストーブで煮込みます。頻繁にかき混ぜて、どの部分も残さず、すべてをひとつの香り豊かな全体にまろやかにする心地よい熱と密接に結合しないようにします。ストーブから取り出し、石の壷またはガラスの瓶に入れて暗い場所に保管し、しっかりと蓋をします。パイを作るときは、肉を好きなだけ取り出し、沸騰させたリンゴ酒と、可能であれば新鮮なリンゴ酒で湿らせて、固くならないようにし、以下の材料のパイ皮の間で焼きます。温かいうちに、柔らかい乳製品のチーズとコーヒーと一緒にお召し上がりください。

ひき肉を作る前日に肉をしっかり茹で、サイダーは買わずに自宅で煮詰めて、[111] 糖蜜。冬の間ずっと使える量を煮詰めて、ガラス瓶に詰める。さて、残念ながら酒は手に入らないので、新鮮なサイダーを瓶詰めして涼しい場所に保管しておくといいだろう。そうすれば、3月に最後のパイのために最後の瓶を削り出す時も、まだ新鮮な状態を保っているかもしれない。ただし、開ける時は注意が必要だ。さもないと、パイではなく天井が濡れてしまうかもしれない。

調理済みの牛肉5カップ;挽いた後
牛脂2.5カップ
リンゴ7.5カップ
サイダー3カップ
酢 1/2カップ
糖蜜1カップ
砂糖5カップ
シトロン 3/4ポンド
レーズン2.5ポンド
小さなレーズン 1.5 ポンド(グラインダーにかけないでください)
塩少々
レモン2個分の果汁と皮
オレンジ2個分の果汁と皮
メースとナツメグ大さじ1杯(またはすりおろしたナツメグ2杯)
シナモン、クローブ、オールスパイス各大さじ2杯
レモンエキス大さじ2杯
アーモンドエキス小さじ1杯
牛肉を煮た酒3カップ
ワインやブランデーがある場合は、火から下ろした後にカップ1杯分入れてください。

クラスト
ふるいにかけたペストリー用小麦粉 2 カップと小さじ 1 杯の塩。
ラード 1/2 カップ (たっぷり) を指先で細かく粉状になるまで混ぜます。
[112]

冷水で濡らし、ナイフで混ぜながら、生地がボウルにくっつかずに取り出せるまで切ります。半分に分け、小麦粉をまぶした大理石の板の上で軽く叩き、薄く伸ばします。下生地を慎重に持ち上げ、型に入れ、端を切り落とします。切り落とした生地から1.5cm幅の帯状に伸ばし、下生地の上に、端から冷水で軽く濡らしながら乗せます。フィリングを入れ、上生地を乗せ、縁の端を冷水で軽く濡らし、フォークの先で押して、はみ出した上生地を切り落とします。上生地に大きなTM(小さな穴)を開け、高温のオーブンで焼き色がつくまで焼きます。

(TM は「’Tis Mince」の略で、「’Tain’t Mince」のTMと書かれたパイと区別するためです。)

[113]

LVI
W. T. ベンダ
ポーランドの特産品
私のポーランド語レシピに従えば、学生時代に学んだ幾何学の実用性がきっと見つかるでしょう。ユークリッドの公理を忘れてしまった方は、「ウシュカ」に挑戦する前に通信講座を受講しましょう。

一度マスターすれば、それはシンプルです。そして、驚くほど素晴らしいです。B Dのラインを忘れないでください。すべてはそこにかかっています。

バルシュクとウシュカ
バルシュク(ポーランド風ビーツスープ)
勇気があるなら、皮をむいて4等分した大きなビーツ3個をガラス瓶に入れ、水1クォート(約4.7リットル)を注ぎ、小さじ1杯の塩とライ麦パン1枚を加えます。これを暖かい場所に5日間ほど置いておきます。表面に白っぽいカビの皮が付いた、酸味のある赤ワインのようなジュースができます。勇気を失わずに、この皮を剥いてジュースを注ぎましょう。

次に、牛肉、豚肉、野菜のスープを1クォート(約1.5リットル)用意し、熱いうちに、ビーツジュースと、小さじ1杯の小麦粉で泡立てておいた生クリーム1本を加えます。沸騰直前まで温め、かき混ぜます。[114] ポイントまで煮立たせますが、沸騰させないでください。「ウシュカ」は付けても付けなくてもどちらでもお召し上がりいただけます。「ウシュカ」については次の段落で詳しく説明します。

ウシュカ
バルシュクは「ウシュカ」なしでは完成しません。ウシュカは非常に簡単に作れる料理なので、絶対に外さないでください。

「ウシュカ」を作るには、まず半ポンドのゆでた豚肉と牛肉、小さな玉ねぎ1個、大さじ1杯の小麦粉、塩、コショウを細かく刻んで用意します。

図1
バターと小麦粉と少量の水でホワイトソースを作り、ハッシュと混ぜてしばらく煮込んだ後、生卵を 1 個加えて激しくかき混ぜます。

小麦粉半クォート、卵1個、水大さじ2杯、砂糖小さじ半分を使って生地を混ぜます。[115] 塩、クルミ大のバターを加え、30分ほど、または滑らかになるまで力強くこねます。

図2
図3
生地を厚さ1/8インチ(約3.3cm)のシート状に伸ばし、2.5インチ(約6.3cm)の正方形に切ります。それぞれの正方形にハッシュを小さじ1杯ずつ乗せ、線BD(図1)に沿って斜めに折り、端を合わせてABとCB、ADを繋ぎ合わせます。[116] CDまで曲げます。こうして、ハッシュを内側にした直角三角形ABD(図2)が得られます。次に、この三角形を斜辺BDに沿って、45度の角Dが45度の角Bと交わるまで曲げます。これら2つの角を[117] 角を少し重ねて、くっつくまで押し付けます。この操作によって得られる形は、図3に示すように豚の耳に似ています。

ビーツの1/3サイズ
豚の耳、またはウシュカを沸騰したお湯に入れます。沈みますが、気にしないでください。浮き上がるまでそのまま置いておきます。ウシュカを皿に盛り、パン粉をまぶしたブラウンバターをかけ、バルシュクを添えて付け合わせとしてお召し上がりください。

ブラチキ
(ビーツ・ア・ラ・ポロネーズ)

小さなビートを 8 個茹でて皮をむき、みじん切りにします (あまり細かく切りすぎないように)。

バター大さじすり切り1杯と小麦粉大さじ1杯を用意します。きつね色になるまで炒めます。これに酢カップ1/2杯、砂糖大さじ2杯、塩小さじ1/2杯、こしょう少々を加えて混ぜます。沸騰したら、ビーツと混ぜ合わせます。

[118]

LVII
エドワード・A・ソールズベリー大尉
スパゲッティソース
このスパゲッティソースはまさにイタリア流の味で、絶品です。イタリアで習った作り方をご紹介します。

カップかボウルに乾燥 キノコをティーカップ半分ほど入れます。熱湯を注ぎ、完全に柔らかくなるまで、例えば30分ほど置いておきます。

その間に、フライパンかスキレットの底にバターかオリーブオイル(私はバターがおススメです)を敷きます。大きな玉ねぎ1個をみじん切りにし、頻繁にかき混ぜながらゆっくりと炒めます。別のフライパンかケトルにトマト缶2個を入れ、30分ほど煮込みます。次に、ハンバーグステーキか細切り牛肉を3つ作り、玉ねぎと一緒に炒めます。よく炒めます。同時に、柔らかくして細かく刻んでおいたマッシュルームを加えます。

肉に火が通ったら、フォークでケーキを潰し、玉ねぎとマッシュルームとよく混ぜます。

煮込んだトマトを加え、ふるいかざるで濾しながらよく混ぜます。

ストーブの後ろに置き、イーグルチリパウダーを小さじ2杯(入手可能な場合)加えて1時間蒸らします。[119] または、Lea & Perrins ソース小さじ 2 杯と、溶かしたビーフブイヨンまたはチキンブイヨン キューブ 5 個を混ぜます。

スパゲッティを茹でるには、折らずに、たっぷりの塩を入れた沸騰したお湯に入れます。端から入れ、ちょうど23分茹でます。湯切りをします。冷水で1~2秒ほど冷やし、再び湯切りをします。食べるまでコンロで温めておきます。この冷水処理は重要です。こうすることで、スパゲッティのベタつきがなくなり、完璧な状態になります。輸入スパゲッティが手に入る場合は、使用してください。

ソールズベリー風エッグス
簡単に作れて美味しい料理をご紹介します。

必要な数の卵を固まるまでポーチドエッグにします。そして、熱々のカリカリトーストの上にのせ、きれいに焼いたベーコンで覆います。

その上に、卵が浮くまで熱いクリームを注ぎます。

塩、コショウ、パプリカで味を調える。

朝食にこれをお試しください。

フィッシュ・ア・ラ・コモドール
たとえば、6 ポンドのスズキやそれに似た魚を調理する場合、変化のために次のようにします。

魚に塩コショウをよくすり込みます。恐れることはありません[120] こすり合わせます。次に、果肉を3か所開き、それぞれの開口部にニンニク1かけを差し込みます。

次に、大きな玉ねぎ6個、小さなピーマン6個、大きなトマト6個をスライスします。ダッチオーブンまたは天板の底にマツォーラオイルまたはオリーブオイルを塗り、バター大さじ1杯を加えます。

熱くなったら魚を入れ、スライスした野菜で覆います。野菜に塩コショウを振ります。

野菜に火が通るまで、または約1時間煮込みます。野菜が焦げないように、頻繁にソースをかけます。半分火が通ったら、ソースにリー&ペリンズのソース小さじ2杯とシェリー酒をワイングラス半分ほど加えます。

盛り付ける際は、それぞれの部位にたっぷりの肉汁とソースをかけ、さらに美味しく召し上がってください。このレシピは、様々な大型魚に応用できます。

マスを調理する
マスを溶き卵、塩コショウに浸し、小麦粉をまぶして、熱々のマゾラ油に浸します。きつね色になったら取り出します。マスから油が抜け、繊細なマスの風味が余すことなく閉じ込められます。ぜひお試しください!

鹿肉ステーキ
鹿肉ステーキは、せいぜいまずいステーキだ。しかし、それを過去のすべてを忘れさせる調理法がある。[121] 鹿肉を使った経験。そして、これが鹿肉を本当に美味しく調理する唯一の方法だということを覚えておいてください。

鹿肉を取り出し、筋肉や赤身の間にある白い筋をすべて取り除きます 。この白い部分をすべて剥がして切り取ります。次に、鹿肉を指の太さほどの細切りにします。これで準備完了です。卵を1~2個割りほぐし、塩コショウを少々加えて混ぜます。細切りにした鹿肉を卵に浸し、小麦粉をまぶします。バターで揚げてすぐに盛り付けます。

これを試したハンターやガイドは皆、この方法に固執しています。鹿肉を調理する唯一の方法です。

ガチョウ
人間であろうと、誰であろうと、ガチョウを調理する方法は一つしかありません。いいですか?決してガチョウをむしってはいけません!皮を隅々まで剥ぎ取るのです。

次に、鋭利なナイフで胸骨に沿って両側から切り込みを入れます。胸肉を両側からきれいに剥がします。胸肉の両側を、(大きなガチョウの場合は)薄いステーキ状に2枚に切り分けます。

ステーキを溶き卵、塩コショウに浸し、小麦粉をまぶして中火で焼きます。ガチョウのステーキとしては、ほとんどの人にとって初めての調理法ですが、一度食べればガチョウに対する新しいイメージが湧くはずです。

[122]

マヨネーズとサラダドレッシング
卵黄2個分をよく混ぜ、オリーブオイルを少しずつ加えます。とろみが強すぎる場合は、レモン汁か酢を少し加えて軽くしてください。

次に、このマヨネーズ 1/2 パイントに、チリソース 3 杯、ブルー ラベル ケチャップ 3 杯、細かく刻んだピメント 1 杯、湯がいたピーマン 1 杯を入れます。

これに小さじ半分の塩、コショウ、ハンガリーパプリカを好みに合わせて加えます。

次に、タラゴン酢を好みに合わせてゆっくりと加えます。大さじ 1 杯半程度です。

エビ、ロブスター、レタス、またはトマトのサラダと一緒にお召し上がりください。

アヒルと大型鶏
マガモ、カンバスバック、アカアシガモなどのアヒルは、オーブンで焼くのがおすすめです。ダッチオーブンで焼く方法を一度覚えれば、キャンプ料理を成功させる秘訣が分かります。

例えばマガモを例に挙げましょう。塩コショウをすり込み(ここで付け加えておきますが、乾いた状態で摘み取り、乾いた状態に保ちましょう。アヒルの近くに水は絶対に近づけないでください!)、タマネギを体腔の奥深くまで入れます。残ったスペースには、野生のものでも家畜のものでも、セロリを詰めましょう。

鴨肉を入れる前に、オーブンまたはダッチオーブンを十分熱しておいてください。油や水は使わず、乾いたフライパンかオーブンだけで調理してください。大きなマガモなら、このオーブンで完璧に調理できます。[123] 20分。焼き始めたらオーブンを開けたり、ダッチオーブンの蓋を外したりしないでください。カラントゼリーを添えてお召し上がりください。

コガモ、ヤマウズラ、小鳥
皮を破らないように、中身を取り出してください。背の部分を切り開き、平らに割ってグリルまたはブロイラーで焼きます。骨側を火にかけて8分間焼きます。溶かしバターを頻繁にかけてください。

ひっくり返し、肉の面を火に向けて4分間焼きます。バターを多めに使用してください。ひっくり返す際に、塩コショウをたっぷり振ります。

カラントゼリーを添えてお召し上がりください。


豆を煮るには深めの鍋を買ってください。重めの鉄製の鍋が特におすすめです。

塩豚を半ポンド(約1.5kg)用意し、細かく切ります。焼き色がつくまで炒めます。

豆を洗い、少なくとも2時間、あるいはそれ以上水に浸します。豆を2時間煮たら、豚肉とメキシカンチリソース1缶を加えます。もし手に入らなければ、塩豚と一緒に炒めて自家製のチリソースを作りましょう。トマト4個、玉ねぎ3個、ピーマン2個、赤ピーマン1個をすべてみじん切りにします。

これで混合物ができました。全て混ぜ合わせたら[124] ビーフブイヨンキューブを6個入れ、塩コショウで味を調える。

豆が煮えたら、食べる前に美味しいスープができるように、鍋に十分な水を入れておくのがおすすめです。豆を最高の状態に仕上げるには、合計3~4時間の煮込みが必要です。

イタリアンライス
まず、ご飯の炊き方について少しお話します。一番良い新米を買いましょう。よく洗い、6回水に浸します。たっぷりの塩を入れた沸騰したお湯に米をゆっくりと落とし、23分間茹でます。4分の3ほど水を切って、冷水の蛇口にしばらく当てます。こうすることで、一粒一粒がしっかりとした完璧な状態になります。よく水を切ります。

ソースを作りましょう。フライパンにオリーブオイルを底までひたひたになるまで入れ、バター大さじ1杯を加えます。大きめのスペイン産玉ねぎ1個をみじん切りにします。フライパンに入れ、弱火で炒めます。よくかき混ぜてください。

10~15分後、手のひらから指4本分くらいの大きさの白身魚(できればヒラメ)を、手のひらから下にかけて入れます。玉ねぎが黄金色になったら、みじん切りにしたニンニク1かけを加えます。魚に火が通ったら、フォークで潰してよく混ぜます。30分以上じっくり煮込んだトマト缶を1~2缶加えます。ざるにあげ、スプーンで押してとろみを取り除いて、よく混ぜます。

これをストーブの後ろに置いて煮る[125] 1時間ほど煮込みます。サフランまたはタイムをひとつまみ加え、塩コショウで味を調えます。

このソースは数時間で酸っぱくなるため、1回の食事のみにご使用ください。お好みに合わせて、各自でソースを最後までかけてください。

ステーキソース
大きな皿に盛られた料理を、とてもとても熱々、本当に熱々召し上がってください。

ステーキが焼き上がったらすぐに大皿に盛り付け、手早く作業を進めます。ステーキの上に少量のドライイングリッシュマスタードを振りかけます。次にレモンを1~2絞ります。次にバターを薄くスライスしたものを数枚、少量のウスターソース、塩、コショウ、パプリカを加えます。これらを幅広のナイフでよく混ぜ込みます。ステーキを裏返し、同じ作業を繰り返します。次に大皿を傾け、フォークを使ってソースを素早く泡立てます。ステーキ1枚につき大さじ2~3杯のソースを添えます。

[126]

LVIII
トーマス・H・インス
チキンハリバット
(焼き上げ、パルメザンチーズ添え)

オヒョウの薄切りをコートブイヨンで煮込み、耐熱皿にポテトコロッケ(固めでも手で形を整えたものでも可)を縁に敷きます。皿の底にベシャメルソースを塗り、その上にほぐした魚を一枚、ベシャメルソースをもう一枚、さらに魚を一枚ずつ重ね、最後にベシャメルソースを塗ります。パン粉とパルメザンチーズをすりおろして振りかけます。バターを少量かけ、オーブンで焼き色をつけます。

パルメザンチーズを混ぜる。バターとパルメザンチーズ、パプリカ少々を混ぜてペースト状にする。よく混ぜ合わせ、厚さ3.5cmほどに伸ばす。最後のベシャメルソースをこのペーストで覆い、オーブンで焼き色をつける。

ベシャメルソース。バターと小麦粉でルーを作り、かき混ぜながら数分間加熱します(色がつかないように)。弱火にして15分ほど煮込みます。その後、半沸騰させた牛乳を少しずつ加えます。

オニオンスープグラタン
中くらいの玉ねぎ2個を1/8インチの正方形に切り、バターで炒め、小麦粉2杯と[127] 2クォートのスープで湿らせ、パセリの束を加え、チャービル、ローリエ、クローブ、ニンニクを添える。塩、コショウ、肉エキスを少々加え、20分煮る。その後、スープを取り出す。金属製のスープ鍋に薄切りパンを並べ、間にパンとチーズ(パルメザンチーズ)を重ね、スープを注ぐ。最後にパルメザンチーズをかけ、スープの上に軽く振りかける。温めたオーブンで焼くか、10分茹で、生卵2個分の黄身をクリームで薄めて加え、とろみをつける。

マンハッタン風ライス
玉ねぎ2個をみじん切りにし、バターで炒め、米450gを加えて混ぜ合わせます。十分に熱くなったら、3倍の量になる量のスープを加え、沸騰させてから弱火のオーブンで20分煮込みます。煮えたら、すりおろしたパルメザンチーズ175gを加えます。この2/3をキャセロールに流し込み、中央に穴を開けてエビと刻んだマッシュルームを詰めます。周囲にヒラメの切り身を並べ、マッシュルームのエキスで煮詰めたスペイン風ソースをかけ、よく混ぜ合わせ、残りの米で全体を覆います。熱したオーブンで15分焼いて出来上がりです。

ソース: ストック 1 クォート、バター 1/4 ポンドを溶かし、同量の小麦粉を加えてかき混ぜ、透明なペーストを作り、ストックを加え、ゆっくりと茶色になるまで炒めます。

[128]

LIX
ジョージ・エイド
「スコロップ」オイスター
もし決断を迫られるとしたら、エスカロップド・オイスターに投票せざるを得ないでしょう。故郷では「スコロップド」と呼びますが、レストランやホテルで売られているのは本物ではありません。量は少なく、牡蠣は身動きが取れなくなる程度に加熱され、明らかに食品として包装された乾燥した袋に埋め込まれています。家庭で調理されるエスカロップド・オイスターは、強火で加熱された深鍋で提供されます。牡蠣は惜しみなく使われ、クラッカーの粉かコーンミールで調理され、二枚貝の旨味が料理全体に行き渡るまで煮込まれています。牛乳かクリーム、そして本物の国産バターが惜しみなく使われ、全体がしっとりとしていて、味付けも程よく行き届いており、私としては大成功でした。どういうわけか、本物の「スコロップ」牡蠣は、30歳以上の女性が調理したものだけ、完璧になります。

レシピを教えるつもりはありません。おそらくそれは秘密の何かで、誰にも理解できないものなのでしょうが、この料理自体はあらゆる賛辞に値するものです。

[129]

編集者注:—作り方は次のとおりです。まず、深めのフライパンか耐熱皿の底と側面にバターを塗り、その底に小さくて丸い昔ながらのカリカリで塩味のオイスタークラッカーを敷きます。次に、生牡蠣またはコーヴ牡蠣を一層に並べます。コーヴ牡蠣が何か分からない場合は、中西部で育った人に聞いてみてください。次に、砕いたクラッカーを一層に並べ、さらに牡蠣を並べ、フライパンがいっぱいになるまでこれを繰り返します。それぞれの牡蠣の層に塩とコショウで味を調えます。クラッカーの層全体にバターを少しずつ塗ります。次に、牛乳と生クリームに少量の牡蠣汁を加えてフライパンを満たします。砕いたクラッカーで上をしっかりと覆います。フライパンに蓋をして、オーブンに入れます。牛乳と生クリームに小さじ一杯のウスターソースを加える人もいます。肉汁が泡立つまで焼きます。焼きすぎて水分が飛びすぎないように注意してください。最後に皿の蓋を外して上部を焼き色をつけます。

クリームとバターが豊富であればあるほど、結果は良くなります。

この料理は、エイド氏が信じさせようとしている以上においしく、素人の男性料理人でも作ることができます。だからこそ、エイド氏が公言している極度の異端にもかかわらず、彼の寄稿が印刷されているのです。

[130]

LX
ライマン・アボット
ディープアップルパイ
ライマン・アボット博士のお気に入りの料理は、イギリスでよく食べられている濃厚なフルーツタルトに似たディープアップルパイです。

アボット博士の特製パイを作る、とびきり満足のいく方法をご紹介します。深めのパイ皿に厚手のパイ生地を敷き、酸味が強くジューシーなリンゴを薄くスライスして並べます。砂糖と少量のシナモンを振りかけます。リンゴの上にバターを大さじ1杯ほど散らします。水も大さじ1杯振りかけます。砂糖は大さじ4~5杯使います。上生地で覆い、30分、あるいは45分ほどじっくりと焼きます。

本格的なディープディッシュパイを作るには、りんご、砂糖、バター(上記の割合)をディープディッシュに入れ、トップパイ生地で覆います。同じように焼きます。スパイスはお好みで加えてください。

[131]

LXI
テリー・ラムゼイ
レタス(レッドクリーク風)
私のお気に入りの飼料である、6月に新しく芽吹く柔らかい葉レタスを、人間の体内に最大限に効果的に導入する方法をご紹介したいと思います。

しおれたレタス:この料理はヘッセン人から伝わったと言われています。もしこれが反逆行為ならば、最大限に活用しましょう。

畑から採れたての若くて柔らかいレタスを、まだ固まる前に摘み取って、バケツの冷水に放り込んでシャキシャキさせます。

キッチンへ行き、熱したコンロの上にフライパンを置き、大きめのカップ1杯分の刻んだベーコンを放り込みます。よく炒めます。塩を大さじ1杯、マスタードをひとつまみ、グラニュー糖を大さじ2杯、そして良質のリンゴ酢をベーコンの脂より少し多めに加えます。よく混ざるまで弱火で煮込みます。その間に、レタスを盛り付ける皿に山盛りに盛り付けます。ネギをひとつかみ刻みます。少し葉っぱの部分でも問題ありません。最後にフライパンの材料に混ぜ込みます。

全体が勢いよく沸騰している間に、[132] レタスの上に混ぜ合わせたものを乗せ、スプーンを使ってベーコンの細切れを散らし、すぐに盛り付けます。

この方法により、驚くほどの量のレタスを摂取することができます。この穏やかなハーブは、適量を摂取すると夏の倦怠感に大きく貢献するという事実を考慮すると、これは非常に望ましいことです。

[133]

LXII
R. L. (ルーブ) ゴールドバーグ
ハッシュ
冗談はさておき、私の好きな料理はハッシュです。

私は実際にキッチンに立ち、ハッシュが美食の発展のさまざまな段階を経ていくのを見たことはありません。しかし、ハッシュは次のように製造されるのだと想像しています。

まず父親は昼食をたっぷり食べなければならず、母親は午後にケーキをお腹いっぱい食べなければならず、子供たちはお腹を空かせていなければならない。この状況は夕食を完全に台無しにし、翌日のハッシュ用に大量の肉が残ってしまう。

コックは牛肉でも子牛肉でも何でも、それを電気ファンの中に放り込む。飛び散る肉片は卓球のラケットで専門家がキャッチし、大量のマッシュポテトが入った鍋に叩き落とす。それから火が点けば、コックは午後の映画に出かけることができる。

ハッシュの美しさは、どんな味でも、それでいいと思えることです。ハッシュには定番の味はありません。ハッシュは根本的に偶然の産物なので、従うべき伝統などありません。

[134]

LXIII
チャニング・ポロック
コーンブレッド
子供の頃、時々キャンプに出かけていた頃、私の大好物はコーンブレッドでした。当時はいつも、まず泥かまどを作ることから始めました。今ではポータブルかまどは便利で安価だと思っています。さて、私のレシピは以下の通りです。

小麦粉2カップ
コーンミール3カップ
ベーキングパウダー小さじ4杯
よく溶いた卵2個
塩小さじ1杯
グラニュー糖大さじ1杯
たっぷり1パイントの牛乳
溶かしたクリスコまたはラード大さじ2杯
コーンミールを火傷させないでください。
小麦粉、ベーキングパウダー、塩、砂糖を混ぜ合わせ、卵を白っぽくなるまで泡立て、牛乳と卵を他の材料に加えます。全体を滑らかで白っぽくなるまで(約1分)混ぜます。最後に溶かしたクリスコまたはラードを加え、油を塗った浅めの型に詰め、熱したオーブンで25分焼きます。

[135]

LXIV
フセイン・カーン・アライ
(ペルシャ出身の駐米公使)
チリン・ポロウ
必要な材料: 米 1 ポンド (カロライナ米が最も適しています)、若鶏 1 羽、オレンジの皮 4 個、砂糖 4 オンス、塩 0.5 ポンド、スペイン産サフラン 2 グラム、アーモンド 2 オンス、バター 0.5 ポンド。

ご飯の炊き方:1時の昼食会でこの料理が必要な場合は、前夜に米を水で3回すすぎ、そのたびに手のひらでよくもんでください。そのたびに水を交換してください。

次に、米をぬるま湯に浸し、米から7.5cmほど水が浸かるようにします。米に塩を1.5kg振りかけ、翌日の午前11時までそのまま置いておきます。

2ガロンの大釜に6クォート(約1.8リットル)の水を入れ、沸騰させます。沸騰したらすぐに、前夜から米を浸していた水をゆっくりと注意深く捨てます。米を沸騰したお湯に空けます。大釜に蓋をして火を強めます。米を入れた大釜が沸騰し始めたらすぐに蓋を外し、平らなスプーンで米を優しくかき混ぜます。その後、再び鍋に戻します。[136] 蓋をして大釜の中身を再び沸騰させます。かき混ぜる作業を 3 回繰り返します。次に、米をふるいにかけ、振って塩と澱粉の付着物をすべて取り除きます。次に、大きなカップ 1 杯の水で 4 分の 1 ポンドのバターを溶かします。溶かしたバターの半分を 1 ガロンの大釜に入れ、米を大釜に静かに空け、おにぎり状にくっつかないようにします。大釜を熱いオーブンに入れます。オーブンの蓋を閉じ、5 ~ 6 分後に大釜が熱くなっているかどうかを確認します。熱くなっていたら、静かに取り出し、残りの溶かしバターを米に注ぎ、オーブンに戻します。次に、大釜を指で叩いたときに空洞の音がするまで火を弱めます。これは、米が十分に炊けたことを示します。

アーモンドの準備:アーモンドを数分間茹で、皮が剥けて白くなるまで茹でます。アーモンドを縦に4等分に切ります。

オレンジの皮の準備:皮の白い部分を、両面が同じ色になるまで取り除きます。取り除いたら、皮を細長い紐状に切ります。これを2種類の湯で煮沸し、苦味を完全に抜きます。その後、濾します。

アーモンドとオレンジの皮を混ぜる:アーモンドとオレンジの皮を混ぜ、砂糖シロップで10分間煮ます。濾して、使用するまで温かい場所に置いておきます。

鶏肉の調理:朝8時から鶏肉をゆっくりと茹で始めます。[137] 皮膚と骨が肉から離れることを意味します。

サフランの準備:サフランを温めて水分をすべて取り除き、乳鉢で粉末になるまですりつぶします。その後、大さじ3杯の冷水に溶かします。

ポロウの盛り付け:大釜から米の半分を取り出し、ボウルに入れてオレンジの皮とアーモンドを加えて混ぜます。サフラン水を大さじ3杯振りかけて色を良くします。溶かしバターを大さじ2杯ほどかけます。

次に、鍋から残りのご飯を取り出し、食卓に出す準備をします。皮と骨を取り除いた鶏肉をご飯の上に乗せ、アーモンドとオレンジの皮を混ぜ合わせ、サフランで色付けしたご飯を全体にかけます。

こうすると、おいしくて風味豊かな料理、「チリン ポロウ」(「甘いポロウ」の意味)が出来上がります。

[138]

LXV
ウィリアム・J・ブライアン
フライドオニオン
玉ねぎは私の許可された食品リストに載っており、様々な方法で食卓に並べられています。私が知る限り最高の調理法は、フレンチフライドオニオンです。私が初めてこの玉ねぎを食べたのが、ノースカロライナ州アッシュビルの有名なグローブパークインでした。それ以来、食堂車や多くの家庭でこの料理を紹介してきました。

バミューダオニオン(他の大きな玉ねぎでも構いません)を輪切りにします。輪切りにした玉ねぎを輪切りにし、たくさんの輪切りにします。輪切りを輪切りにし、薄い衣をつけてフライドポテトのように揚げます。輪切りにした玉ねぎは小さなドーナツのように見えます。この料理は誰からも絶賛されると思います。

大根について一言付け加えさせてください。私は大根が大好きです。長い白つらら大根は、私の判断では最高の品種です。塩にバターを加えると、大根の味がさらに良くなることに気づきました。

[139]

LXVI
ウィル・アーウィン
ハムエッグ
フライパンとハムを用意します。フライパンにハムの脂をひき、ハムにこんがりと焼き色がつくまで、あるいは十分に火が通るまで焼きます。それから卵を割り入れます。ハムを取り出し、熱した大皿にのせ、卵を入れます。熱したハムの脂を少し塗ります。フライパンに蓋をして、火を止めて卵を焼きます。1、2分で十分です。ハムと一緒に卵を盛り付ければ…うわぁ、最高!

最高の結果を得るには、入手できる最高級のハムと、たっぷりの一日経った卵を使用してください。

[140]

LXVII
ダグラス・フェアバンクス
ブレッドタルト
新鮮なパン粉1カップ
砂糖1カップ
刻んだナッツの肉 1カップ
ベーキングパウダー小さじ1.5杯
卵5個
ぶどうジュース大さじ2杯
レモン1個
充填
卵1個
クルミの実を刻んだもの 1/2カップ
砂糖 1/2カップ
レモン1/2カップ
パン粉をグレープジュースと濾したレモン汁に浸します。卵黄と砂糖を白っぽくなるまで混ぜ合わせ、ナッツ類、ベーキングパウダー、パン粉、溶き卵白を加えます。バターと小麦粉を塗ったレイヤー用の型に入れ、中火のオーブンで20分焼きます。フィリングを混ぜ合わせます。卵を溶き、砂糖、レモン汁、クルミを加えます。お好みでフロスティングをかけても美味しくいただけます。

[141]

LXVIII
ジュリアン ストリート
マルゲリー風味のソールと鴨肉、オレンジ添え
私の好きな料理は 2 つあります。どちらもフランス料理の最高峰の例です。

一つは「ソール・ア・ラ・マルグリー」(ヒラメでも作れます)で、パリの有名レストランで老マルグリー氏が考案したものです。ワインベースのソースに、エビと小牡蠣が入っています。

ソール・ア・ラ・マルグリー
舌平目をバターを塗った皿に並べ、白ワインをグラス一杯ほど加え、味付けして茹でます。

例えば、約15分間煮沸した後、煮汁を捨て、生卵の黄身と約50mlの甘いバターを混ぜ合わせます。オランデーズソースのようなとろみがつくまでゆっくりと混ぜ、エビ、カキ、ムール貝、マッシュルームを数個加え、舌平目も一緒に炒め、サラマンドソースで2~3分ほど艶を出して盛り付けます。

もう一つは、オレンジで調理した鴨肉です。セントレジスとブレヴォートでは頼み方は分かりますが、綴りが分かりません。「Duck “Bigarade”」のように聞こえます。ブレヴォートではよくやってくれます。ポテトが添えられている場合は[142] どちらの料理にも、ポテトのゴーフレットを別皿で添えてください。

ダック・ビガラード
ロースト:若くてとても柔らかい鴨を選び、下ごしらえをして縛り、ロースト用にします。大きさと火力に応じて、串焼きまたはオーブンで15~25分焼きます。

国産鴨は、血抜きをせずに、かなりレアな状態でお召し上がりください。骨をほどいてからお皿に盛り、グレービーソースを少しかけてください。

ソース・ビガラード:オレンジの皮を白い部分に触れないように剥き、皮を細かく千切りにする。沸騰したお湯に入れて柔らかくなるまで茹でる。湯切りをし、蓋をした鍋にエスパニョールソースまたはブラウンソースを4ギル分入れて包む。盛り付ける直前に、カイエンペッパー少々、ミートグレーズ、オレンジジュース、レモン果汁を加え、タミスで濾し、良質のバター2オンスを加える。

[143]

LXIX
S. S. マクルーア
オムレツとパイ
2 つの料理を最高においしく調理する方法についてヒントをお伝えします。

1 つ目はオムレツです。フライパンを斜めに持ち、下部をすぐに中火にかけ、絶えず加熱された卵をこそげ落とし、液体部分をフライパンに流し出します。オムレツが 3 分の 2 ほど加熱されたら、火から下ろして皿に盛り付けます。

最高の対称性と硬さを持ち合わせたオムレツを、同時に美味しく作ることは不可能です。ある程度の対称性を保つために硬すぎると、美味しくない状態になります。私はこのようにして、卵を18個も使ったオムレツを作ったことがあります。オムレツの作り方は、ヨーロッパで最も有名なオムレツ職人の一人、ノルマンディーのモン・サン・ミッシェルのマダム・プーラールから学びました。

私はパイ作りが特に得意です。ある時、兵員輸送船リヴァイアサン号の士官185名のためにパイを作りました。パイを作るには、最高品質のバターと最高品質の小麦粉が必要です。2ポンドにつきバター1ポンドを使用してください。[144] 小麦粉を適量加えます。バターはかなり固めにし、小麦粉と手でよく混ぜ合わせます。テーブルの上に生地がひとかたまりになったら、真ん中に小さなくぼみを作り、少量の冷水を注ぎ、手首くらいの厚さのロール状に伸ばせる程度に混ぜます。パイ皮を作るには、約5cmの厚さに伸ばす必要があります。パイを焼くための型に少量の小麦粉をふり、30分で焼ける温度のオーブンに入れます。果物の選択には重要な秘密があります。パイ皮の上部には、蒸気が逃げるように小さな穴を開けます。完璧なパイを作るのは、他のどの料理よりも簡単です。

[145]

LXX
バジル・キング
ロブスター・アラ・キング
中くらいのロブスターを茹でます。冷ましてから身を取り除きます。大きめのバターと大さじ1.5杯の小麦粉をダブルボイラーに入れます。クリーミーになるまでかき混ぜます。牛乳1パイントを加え、約5分間煮ます。小さく切ったロブスターを加え、約15分間煮込みます。盛り付ける直前に、大さじ3杯のクリームとシェリー酒またはブランデー1.5杯を加えます。

注意:ブランデーまたはシェリー酒を加えない限り、この料理に挑戦するのは無駄です。

[146]

LXXI
ジョン・A・モロソ
スパゲッティ・フォー・ザ・ギャング
幼い頃、私はピエモンテ出身の高名な祖父が料理人に威厳ある指示を出すのを何度も見ていました。我が家のスパゲッティソースはこうして作られていました。牛もも肉を3~4ポンド(約1.4~1.8kg)ほど買い、厚切りにします。「牛の目」を頼んでみてください。安いです。そこに小さなポケットを切り込み、脂身の多いベーコンの切れ端を挟みます。また、セージ、タイム、パセリ、ローリエを詰め、塩コショウで味を調えます。時には、市販のマスタードを薄く塗って上から覆います。ウォップ(ウォップ族)の血を引く人なら、ニンニクを一かけ添えて調味料として加えるのも良いでしょう。肌の色が白い人は玉ねぎを使います。でも、どちらか一方を使うのは間違いありません。

深めの鉄製フライパン(鉄蓋付き)に油をたっぷり塗ります。グレービーソースが垂れ始めたら、少量の水を加えますが、多すぎないようにしてください。蒸気で肉が柔らかくなり、小さなポケットに閉じ込められた旨味が全て引き出されます。時々、煮立った香りを嗅ぎ、食欲をそそるように、ソースをかけましょう。1時間20分ほど焼いたら、小さな針金をローストに刺して、柔らかくジューシーになっているかどうかを確認します。

大きな鍋に水をかけて、お湯を沸かします。大きめのスプーン1杯分の塩を加えます。[147] 水を適量加えます。イタリア産スパゲッティ…ファリーナスパゲッティを1ポンド入れます。美味しいマカロニを作るには、特定の種類の小麦が必要です。20分茹でて、水を捨てます。

ローストが溶け込んだ濃厚なグレービーソースに、小さなトマトペースト缶を加え、ゆっくりと混ぜ合わせます。これをスパゲッティにかけて、すりおろしたローマチーズを加えます。2本のフォークを使ってスパゲッティの筋を持ち上げたり落としたりすることで、全体にしっかりと味が馴染むでしょう。熱々のうちに提供し、自動拳銃を手元に置いておけば、スパゲッティを切った人がすぐに処分できます。スパゲッティをフォークに絡ませる人もいれば、スパゲッティを顔に近づけて、その場で好きなだけ噛み切る人もいます。

小さな商店では必ずと言っていいほど、店主がサラミをスライスしながら高く細い声でサンタ・ルチアを歌っている。そんな店でも手に入る、美味しいサラダとイタリアのパンは、ローストによく合う。この盛り付けなら、独身の老夫や捨てられた夫でも2、3日は持ちこたえられるだろう。ボイラーで温めると、さらに格別だ。

[148]

LXXII
F. X. ライエンデッカー
ヴォー・ソテー・マレンゴ
パリ時代(学生時代)に、私は二つの料理が大好きになり、今でもそれが私のお気に入りです。

1番はヴォー・ソテ・マレンゴ。美食家向けというわけではないが、実に美味しい。仔牛肉のラグーは、茶色い鍋で提供されるのが定番だ。小ぶりの玉ねぎとマッシュルーム、オリーブ、そして美味しいソースで味付けされている。パリほど丁寧に調理された料理に出会ったことはなかった。

子牛肉を小さめに切り、油で炒めます。みじん切りにした玉ねぎ1個と潰したニンニク1個を加え、よく焼き色がついたら濾し、白ワインをグラス1杯加えて煮詰めます。ブラウンソース1クォートで味を調えます。新鮮なトマト2ポンドとハーブを加え、1時間半かけてじっくり煮込みます。

別のフライパンに肉を入れ、バターで炒めた小さな玉ねぎ数個と、すでに炒めておいた小さなマッシュルーム数個を加えます。

ドレッシングをかけ、バターで焼いたトーストにのせてお召し上がりください。

No.2 ヴォローヴァン・フィナンシエール。きのこ、角切りチキン、その他様々な具材、そして美味しいソースが詰まったペストリー生地です。これもパリ以外ではなかなか見かけないようです。

[149]

ヴォローヴァン・フィナンシエール
鍋にバター 4 オンスを入れ、調理した胸腺 4 オンスを 3/16 インチ四方に切り、鶏の白身の小片、トリュフ、オリーブ、マッシュルーム、腎臓および鶏のとさかを加えます。

マデイラソース 1 パイントで湿らせ、沸騰させて泡を落とします。ソースが完成したらタミスで濾し、ペイストリーの皮に詰めて提供します。

編集者注:—レシピはフランス風で、適切に調理され、提供されるので、キオクックでもカルチェラタンでも本物であることが証明されます。

[150]

LXXIII
エディ・カンター
牛肉とホースラディッシュの煮込みソース
私はゆでた牛肉とホースラディッシュソースが大好きです。世界中のどの料理よりも好きです。

牛肉の煮込み方は誰でも知っています。そして、美味しいホースラディッシュソースもこの方法で作れます。

上質のバターを適当な大きさの塊(卵とほぼ同じ大きさ)として溶かします。これに大さじ2杯ほどの小麦粉を加え、火からおろします。小麦粉とバターを完全に滑らかになるまでかき混ぜ、次に冷たい牛乳を加えます(半パイントより少し多く、1パイントより少し少ない程度)。ソースパン、または安全のためにダブルボイラーで弱火にかけます。ソースが好みの濃度になるまでゆっくりと調理し、次にホースラディッシュを加えます。ソースを非常に辛いのが好きな場合は、ホースラディッシュを多めに入れます。中辛が好きな場合は、ホースラディッシュを少量加えます。最も良い方法は、小さじ1杯から始めて、適切になるまで追加して味見をすることです。もちろん、塩コショウで味を調えます。お好みで、セロリソルトを少々加えてもよいでしょう。

[151]

LXXIV
フレイザー・ハント
詰め物入りセロリ
食べるのが好きです。ほとんどどんな食べ物でも好きです。大都市から世界の辺鄙な場所まで、ありとあらゆるものを食べてきました。そして、お腹が空けば食べられないものは何もありませんでした!

でも、何より好きなのは、詰め物をしたセロリです。簡単に作れて、ちょっと変わった料理で、一緒に食事をしている人に見下されることなく、たくさん食べられます。だって、みんな詰め物をしたセロリをたくさん食べるんですから。

ロックフォールチーズ半ポンドにバター4分の1ポンドを加えます。ロックフォールチーズを含むあらゆる混合物の中で、可能な限り滑らかになるまでクリーム状に混ぜ合わせます。次に、デザートスプーン一杯、あるいはお好みで大さじ一杯のウスターソースを加えます。少量の塩とパプリカを、混合物にほんのりと色づく程度に振ります。そして…

セロリの茎を用意しましょう。真っ白でシャキシャキとした、新鮮なもの。中身が空いている部分に、ロックフォールチーズの混合物を詰めて膨らませます。夕食と一緒に、あるいは食後に、あるいはサラダと一緒に、あるいは単独でも。いつ、どこにセロリを盛り付けるかは問題ではありません。セロリがメニューの主役になること間違いなしです!

[152]

LXXV
ウィリアム・スレイヴィンズ・マクナット
オレンジのコンポート
オレンジのコンポートは私の一番のお気に入りです。4杯目になると、自分が人間であることを忘れてしまいそうになります。6杯目になると、至福の昏睡状態に陥り、7​​杯目を求めるだけの力しか残っていないのを感じます。

オレンジのコンポートは、コーヒーが美味しくて、料理がそれほど汚くないトルコ料理やアルメニア料理の小さなレストランならどこでも、最高の状態で食べられます。家で作ると、なぜか全く同じ味にはなりません。でも、これは私が思いつく限りの最高の代用品です。

体内で吸収できる量のオレンジを用意し、皮をむきます。内側の薄い白い皮と、オレンジを区画分けしている膜状の組織をすべて取り除きます。オレンジは大きく、甘くてジューシーで、種がないものが良いことをお伝えし忘れていました。オレンジを個別の皿に盛り、熱いうちにこのソースをかけます。

オレンジ約6個分を作るには、中くらいのオレンジマーマレード1瓶とハワイアンパイナップルの小缶1缶が必要です。マーマレード、角切りにしたパイナップル、パイナップルジュースをダブルボイラーに入れ、とろみがつくまで強火で加熱します。[153] 生のオレンジにかけ、デザートの時間までそれぞれ別々の皿に入れたまま冷蔵庫で冷やしておきます。盛り付ける直前に、松の実か塩味のアーモンドを少々振りかけます。松の実がおすすめです。

[154]

LXXVI
スティーブン・ヴィンセント・ベネット
ジテリのマカロニシチュー
本物のイタリアンマカロニを半ポンド(約1.5kg)用意し、たっぷりのお湯で軽く塩を加え、柔らかくなるまで(約20分)茹でます。トマトを1クォート(約1.2リットル)、水を半パイント(約1.5リットル)、そして細かく切ったベーコンを2オンス(約60グラム)用意します。次に、玉ねぎ1個とパセリを少々加えます。これら全て(マカロニ以外)を一緒に30分茹で、ざるにあげます。バター大さじ1を加え、塩コショウで味を調えます。

再び火にかけ、5分間沸騰させます。マカロニとソースは十分に熱くなっているはずです。ターリーンにマカロニを敷き、すりおろしたチーズをかけます。その上にお玉一杯のソースをかけ、これを繰り返して全量を提供します。一人分ずつ、深めのスープ皿に盛り付けてください。

[155]

LXXVII
ジェームズ・R・クィルク
トマトウィグル
角切りアメリカンチーズ1ポンドにキャンベルのトマトスープ缶1缶を加えます。とろみがつき、なめらかになるまで弱火で加熱します。そして…

溶き卵1個を加え、すぐに生クリームか濃厚な牛乳を1カップ加えます。ウスターソースをデザートスプーン1杯と、程よい辛さになるまで塩を適量加えて混ぜます。

温めたソーダクラッカー(大きめのソーダクラッカー)にのせてお召し上がりください。

名前?それは難しくするためだよ。

[156]

LXXVIII
チャールズ・W・エリオット
お気に入りのメニュー
「好きな料理」と呼べるほどではありませんが、ランチやディナーのお気に入りのメニューは、クラムスープ、コンビーフハッシュ、ベイクドインディアンプディングです。

注記: Dr. Eliot のメニューを試してみたい場合は、Rex Beach のハマグリ料理はいかがでしょうか。

次に、コンビーフハッシュを作るために、良質の赤身のコンビーフをたっぷり用意し、それを 1/8 インチの大きさに切ります。

小さめの玉ねぎ1個を細かく刻みます。冷えたゆでたジャガイモ(やや硬め)を切るか刻みます。

溶かしバターを用意し、ウスターソースを数滴、塩コショウで味付けします。次に、肉、ジャガイモ、玉ねぎ、溶かしバターを混ぜ合わせます。小さく平らな楕円形の塊(一人分)に成形し、軽くバターをひいた熱したフライパンで焼きます。両面に焼き色がつくまで頻繁にひっくり返します。刻んだパセリを散らしてお召し上がりください。

焼き上げたインドのプディングを添えて。

牛乳 1 クォート、卵 3 個、最高級の種抜きレーズン 1/2 カップ、塩小さじ 1 杯、コーンミール山盛り大さじ 2 杯、砂糖山盛り大さじ 4 杯、バター山盛り大さじ 1 杯が必要です。

[157]

ダブルボイラーで牛乳を沸騰させ、コーンミールを振り入れて絶えずかき混ぜながら12分間煮ます。

卵を溶きほぐし、塩、砂糖、小さじ半分のショウガパウダーを加えます。この混ぜ合わせたものとバターを牛乳と小麦粉に加え、レーズンを加えてよく混ぜ合わせます。湯煎から外し、1時間焼きます。

あなたもエリオット博士に同意するでしょう。

[158]

LXXIX
H. S. カミング
(米​​国公衆衛生局長官)
バージニアエッグブレッド
私はこの料理が特に好きです。私の一番のお気に入りだと思います。この料理をすでにお気に入りに挙げている人たちと同じように、他の人にも満足して美味しいと思ってもらえることを願って、このレシピを紹介します。

水1カップ、コーンミール(白)
熱湯2.5カップ
甘い牛乳1カップ
卵3~4個
塩小さじ1杯
バター大さじ2杯
砂糖小さじ2杯
ふるいにかけた粉に熱湯を加え、牛乳を加えます。冷めたら卵を割り入れ、よく混ぜます。塩、砂糖、溶かしバターを加えます。バターをたっぷり塗った耐熱皿に入れて、熱したオーブンで焼きます。

[159]

LXXX
ジョセフ・サントリー
ココアクリームケーキ
ココアクリームケーキなんて、美食家気取りで軽薄な食べ物が好きだって言うなんて、「ピンクのスポンジケーキ」みたいな言い方になるのは認める。でも、ココアクリームケーキは私が何よりも好きな料理なんだ。正直に言って、もう一度言うけど、私の一番のお気に入りはココアクリームケーキ! それを公言することで、どんな恥をかくことになるとしても、私の愛する母が責任を取らなければならない。だって、母が作るんだから。そして、その作り方の秘密を母から教わったんだから。

レシピは次のとおりです。

卵4個、砂糖1カップ、ココア1カップ、バニラ小さじ1杯、ベーキングパウダー小さじ1杯を用意します。卵黄と砂糖をよく混ぜ合わせ、バニラを加えます。ココアとベーキングパウダーをよくふるい、卵と砂糖に加えます。最後に、溶きほぐした卵白を加えて混ぜます。2層に分けて約10分間焼きます。冷めたら、濃厚な生クリーム1パイント(約450ml)にバニラ小さじ1杯と砂糖を好みの量加え、泡立てます。半分は層の間に、残りの半分は層の上にのせます。

ああ、すごい!

[160]

LXXXI
A. ハミルトン ギブス
キャセロール風スズメ
キャセロールに、たっぷりの薄切り玉ねぎ、薄切りトマト2個、マッシュルーム2カップ、ポテトボール2カップ、少量の生パセリをソテーする。(野菜はすべてバターで炒める。)その上に、鶏むね肉または1ポンドの鶏肉を胸肉を上にして並べる。一人につき1枚ずつ。胸肉1枚につき、カリカリに揚げたベーコンを1枚ずつ乗せる。全体に、よく味付けした濃厚なブラウンソースをかけ、キャセロールの4分の3まで鶏むね肉を詰める。できれば最後に、地下室にシェリー酒がまだ残っていれば、シェリー酒を1カップ加えるのがおすすめです。

キャセロールを蓋をせずに熱したオーブンに入れます。胸肉が焼き色がついたら、オーブンを中火に下げ、キャセロールに蓋をして2時間焼きます。その後、キャセロールを取り出し、皿に盛り付けます。

その結果、美食の傑作が誕生しました。

[161]

LXXXII
リチャード・バーセルメス
スパイス入りブドウ
この料理を見ると、いつもニューイングランドの緑のブラインドがかかった低い農家を思い出す。道路からずっと奥まったところに、背の高い木々に囲まれ、庭にはタチアオイやローズゼラニウム、昔ながらのピンクの花が咲いている、そんな農家のことだ。そんな家を見ると――時々、目を閉じるとわかるのだが――いつも、清潔なキッチンコンロで調理されているスパイスの効いたブドウの、ピリッとした香りが漂ってくる。

これはスパイスグレープを作る際のルールです。ニューイングランドのほとんどの家庭が従っているルールのようです。

7 ポンドのブドウに、グラニュー糖 3 ポンド、酢 1 カップ、シナモンパウダー 2 杯、クローブパウダー 1 杯を加えます。

ブドウの重さを量り、洗って果肉をほぐします。果肉は種がほぐれるまで煮込み、ふるいにかけて絞ります。皮も果肉と同じように煮ます。皮と果肉を同じコンロで加熱しますが、別々の鍋で煮ます。濾した果肉を皮に加え、酢、砂糖、スパイスを加えます。とろみがつくまで煮込みます。

これを冷たい肉と一緒に食べると、ありふれた残り物の夕食がごちそうに変わります。

[162]

LXXXIII
ドン・ファン・イ・ガヤンゴス
(スペイン出身の駐米大使)
ナスのグラタン
ナスの皮をむきます。

塩水で白くして乾燥させます。

各ピースに塩をふりかけ、バターで揚げます。

すりおろしたチーズ、トマトソース、小さく切ったマッシュルームをナスの間に厚く挟んだものと一緒に皿に盛ります。

中火のオーブンでよく火が通るまで焼きます。

[163]

LXXXIV
サミュエル・G・ブライス
トリップ・アラ・モード・ド・カーン・ラ・ロイ・カラサーズ
カーン風トリッパは、芸術家だけが作れるもの。詩人の魂、画家の精神、そしてヴァイオリンの名手が持つ崇高さが、この料理の前提条件となる。もちろん、庶民も食べられるかもしれないが、彼らにはもったいない。まさに知識人のための料理なのだ。

アメリカ合衆国には、必要な気質と感覚を備えた人は12人ほどしかいない。その一人がロイ・カラザーズだ。そこで、私のお気に入りのレシピとして、この芸術作品を生み出すための複雑ながらも必要な手順を記しておこう。

新鮮なハニカムトリプ4ポンドと、新鮮なマンプライトリプ(一番厚い部分)1ポンドを用意し、何度も新鮮な水でよく洗います。よく水を切り、完全にきれいにすすぎます。子牛の足2本を用意し、それぞれの足を丁寧に骨から外し、5cm四方に切り分けます。大きな土鍋を念入りに洗い、側面と底に豚肉の薄切りを敷きます。トリプと切り分けた足を入れます。

[164]

小さめの赤ニンジン2本、クローブを2つ刺した白玉ねぎ2個、種を取ったピーマン半分を加えます。リーキ2本、セロリ2枝、パセリ3枝、タイム1枝、マジョラム1枝、メース1枚、ベイリーフ1枚(1枚だけ)でブーケを作ります。このブーケを鍋に入れ、白ワイン1/2パイント、サイダー1パイント、コンソメまたはホワイトブイヨン1クォートを注ぎます。塩小さじ1杯と黒コショウ1/2杯で味を調えます。

次に、白い小麦粉 1 ポンドと水 2 ジルで硬い生地を作り、鍋を覆うのに十分な量になるまでテーブルの上で伸ばし、蒸発しないようにしっかりと蓋をします。

鍋を弱火のオーブンに入れて15時間調理します。

次に蓋を持ち上げて脂肪を取り除き、ハーブのブーケと野菜を取り出します。

エシャロット6個(エシャロットが手に入らない場合はネギ)、ニンジンの赤い部分1本、ニンニク1粒、生ハム50g、生豚赤身1オンスをみじん切りにする。このハッシュを鍋に入れ、溶かしバター大さじ1杯を加え、弱火で5分間軽くかき混ぜながら煮詰める。その後、コニャックを半ジル注ぎ、水分がほぼなくなるまで勢いよく煮詰める。

鍋の中身を鍋に移し、純粋なトマトジュースを 1 ジル加えて、木のスプーンで軽く混ぜ、45 分間ゆっくりと調理します。

次に、深めの熱い皿に胃袋を盛り、新鮮な刻んだパセリを少々振りかけ、トーストしたフランスパン 12 枚とともに熱々のままテーブルに出します。

これが本物のカーン風トリッパです。他は全て模造品です。

[165]

LXXXV
チャールズ・H・テイラー
クラムチャウダー
塩豚を試してみてください。残り物を取り除きます。玉ねぎをみじん切りにして、豚脂で黄金色になるまで炒めます。アサリの殻をむき、アサリの水分はすべて取っておきます。(多くのシェフは、アサリを扱いやすいように最初に蒸しますが、アサリ本来の風味を味わいたいなら、殻をむき、身を丁寧に洗い、アサリの水分を沈めてから取り出します。砂が出ないように、鍋に流し込むのではなく、そのまま取り出してください。)

玉ねぎが浸るくらいのお湯を加え、あさりの茹で汁とあさりの腹を加えます。あさりの腹がほとんどなくなるまで(約 2 時間)煮ます。その後、必要なだけお湯を加え、あさりの頭の黒い部分を切り落とした残りの身を加え、肉挽き器の最も粗い刃で肉を挽きます。あさりがほぼ火が通るまで煮たら、スライスしたジャガイモを加えます。ジャガイモに火が通るまでもう一度煮ます。次に、加えた牛乳を加えて沸騰させます。ボストン クラッカーと呼ばれるものをチャウダーに入れます。ウォーター クラッカーのような形をしていますが、柔らかいです。半分に割ります。すぐに柔らかくなるので、チャウダーとして出すことができます。

[166]

とろみをつけるために小麦粉は使わないでください。チャウダーを作る際に、上記のようにアサリの腹身を調理すると、スープにとろみがつきます。

[167]

LXXXVI
サイラス HK カーティス
ベイクドビーンズ
(私の好きな料理)

カーティス氏の好物である料理を準備することは難しいことではなく、独創的なものからそうでないものまで、さまざまな方法を採用することができます。

最良の結果を得るには、蓋付きの大きな豆鍋を用意すれば、あとは簡単です。

良質の白豆または黒豆を選び、よく洗い、きれいな水に数時間浸します。多くの人は一晩浸します。

鍋に豆と塩豚(脂身付き)を数切れ入れ、軽く塩を加えた水を注ぎます。蓋をして、中火のオーブンで焼き色がつくまで焼きます。これでプレーンなベイクドビーンズの出来上がりです。

好みに応じてチリソースやトマトケチャップ、刻んだトマトなどを加えてもよいでしょう。

時々豆の様子を見て、乾燥しすぎているようであったり、焦げそうであれば水を加えてください。

素晴らしい結果をもたらすもう一つの方法は、豚肉とトマトの下ごしらえを省き、バターとブラウンシュガーをたっぷり加えることです。さらに良いのは、本物のソルガム糖蜜を加えることです。この方法で作ると、[168]焦げ付かないように、少量ずつ適量の水を加える ように特に注意してください。

豆は必ず丸ごとオーブンから取り出してください。焼きすぎると豆が崩れてしまいます。焼き時間はオーブンの温度と豆の浸漬時間によって異なります。

[169]

LXXXVII
フレデリック・アーノルド・クマー
スパゲッティ・ディアボリケ
牛肉1.5ポンド(約450g)を沸騰したオリーブオイル半カップで1時間、頻繁にひっくり返しながら焼き色をつけます。ピーマン4個、セロリ1束、パセリ1束、大きな玉ねぎ3個、ニンニク2かけの皮をみじん切りにし、タイムパウダー(塩小さじ1杯)、塩小さじ1杯、黒コショウ1杯、赤コショウ1杯を好みの量加えます。トマト1クォート(約450g)を加え、牛肉にかけ、1時間煮込みます。その後、水1パイント(約450ml)を加え、さらに2時間、じっくりと煮込みます。

スパゲッティの作り方:小麦粉1クォート(約1.2リットル)を計り、卵黄3個分を割り入れ、卵の殻半分分(約3個分)分の氷水を加え、適度な硬さになるまで混ぜ、伸ばして細切りにします。水気がなくなったら、沸騰した塩水で20分間茹でます。

スパゲッティをお皿の中央に置き、その周りにソースと細切り肉をかけてお召し上がりください。

編集者注:本書で紹介されているスパゲッティの「好物」の数々から、この特定の食材は男性に特に好まれているように思われます。クマー氏は、その極限まで踏み込んで、スパゲッティの作り方そのものを解説しています。

[170]

LXXXVIII
アルバート・D・ラスカー
チキンパプリカ
たとえば 5 ポンドの鶏肉をこの方法で調理して、気に入るかどうか確認してください。

小さめの玉ねぎを4個スライスします。フライパンにバター1/6ポンドを入れ、玉ねぎを加えて火にかけて柔らかく薄茶色になるまで炒めます。パプリカ小さじ2杯を加え、鶏肉を鍋に入れながら少しずつ入れます。塩大さじ1 1/4杯を加え、しっかりと蓋をして柔らかくなるまで(2時間以上)煮込みます。鶏肉を取り出し、グレービーソースに缶詰のトマト大さじ1 1/4杯を加えます。小麦粉大さじ1杯を振り入れてよく混ぜ、サワークリーム3/4パイントを加え、火にかけてよく混ぜます。鶏肉に濾し、再び温めて盛り付けます。

[171]

LXXXIX
ヘンリー・ヴァン・ダイク
フィッシュチャウダー
私は、次のようなレシピの料理を作るのが好きです(そして運が良ければ食べるのも好きです)。

まず釣り針と釣り糸を使って、鮭、マス、スズキ、タラ、ハドック、青魚などの魚を捕まえます。それから大きめの鍋を用意し、その中に最初に薄切りにしたジャガイモの層を入れ、次に薄切りにした玉ねぎを散らし、次に小さな角切りにした豚肉の層、次に皮をむいて薄切りにした魚の層、最後にクラッカーか薄いパイロットビスケットの層を入れます。それぞれの層に塩とコショウを好みに合わせて振ります。鍋の大きさに応じて、この層を3回から5回繰り返します。鍋に適度な量まで水を入れ、火にかけて弱火で煮ます。水が少なくなったら補充します。ジャガイモや魚をフォークで刺して味見すれば、料理の出来上がりがわかります。原則として、調理には約1時間かかります。調理終了の直前に牛乳を2、3カップ入れます。外の世界との接触で味覚が少し鈍っている場合は、辛いソースをスプーン2杯分加えてもよいでしょう。しかし、私としては、チャウダーは自然のままが一番好きです。

[172]

XC
マックリン・アーバックル
サザン・ガンボ・ア・ラ「カウンティ・チェアマン」
一羽の鶏です。揚げるのと同じように切り分けてください。

ストーブの後ろに冷たい水を入れたスープ用のケトルを用意します。

そしてフライパンは

最高級のベーコンを薄切りで6枚ほど。これは後で鍋で煮込むために取っておきます。

フライパンにベーコンの脂をひき、鶏肉をこんがりと焼き色がつくまで炒めます。鶏肉が焼き色がついたら、すぐに鍋に入れ、火にかけて沸騰させます。

小さめの玉ねぎ6個、または大きめの玉ねぎ3個を加えます。スライスしてベーコンの油で炒めます。

玉ねぎがきつね色になるまで揚げました。

次に、玉ねぎにトマト缶 1 缶分、またはスライスしたトマトと同等の量を加えます。

焦げ付かないように底からかき混ぜ続けます。

すべてがとろみがつくまで煮詰める必要があります。

調理中、細かく切った唐辛子、ピーマン、オクラも加えます。

大きな月桂樹の葉を 1 枚か 2 枚加え、塩とコショウで味を調えます。

[173]

玉ねぎ、トマト、ピーマンは、鶏肉が十分に火が通ったら、鍋に入れて加えます。

新鮮なオクラが手に入らない場合は、缶詰のオクラを使用してください。

ガンボが完成する約10分前に、

ゴールデンバンタムコーン1缶。

ガンボには、完璧に炊き上げたご飯を添えましょう。カニガンボやオイスターガンボにも同じレシピで作れます。ガンボに合うのは、コンビネーションサラダくらいでしょう。戦前に輸入されたクラレットワインを一杯飲み干すのもいいかもしれませんね。助けて!!!!

[174]

XCI
ジョン・テインター・フット
モレルソテー
ペンで表現することさえできない、美食の至福とも言える一品がある。フォークこそが、モレルのソテーの独特で、この上なく崇高な風味を、初心者に伝えることができる唯一の道具なのだ。

モレルとは、田舎の言葉で言うとスポンジ状のキノコのことです。リンゴの木が花を咲かせ、ミツバチがピンクと白の花びらを舞い散らす、パステルカラーの春の時期に、古くから耕作されていない果樹園でよく見かけられます。

太いリンゴの木の近くには、年月とともにかさかさになり、無数のキツツキのくちばしで穴だらけになったアミガサタケが、冷たく湿ったチョコレート色の土の中から時々顔を出し、2週間ほど恥ずかしそうに繁茂する。

果樹園を次々と歩き回れば、春のエッセンスを吸い込んだ小さなスポンジが2ダースほど手に入るかもしれない。冬枯れした草に隠れて、綿のように絡み合ったスポンジとほぼ同じ色をしており、よほど注意深く探さない限り、なかなか見つからない。2ダースごとに丸一日分の報酬が支払われるが、一日分の報酬がこれほど豊かで、これほどまでに満足感に溢れたことはない。

[175]

苦労して手に入れた2ダースを家に持ち帰り、敬虔な心で静かに料理人に渡してください。彼女は――神の恩寵により、前の春からずっとあなたと共にいたとすれば――どうすれば良いか、よく知っています。彼女はアミガサタケをたっぷりの塩水に沈め、一晩そのままにしておきます。朝になったら、ザルに入れて30分ほど水を切ります。それから、熱したバターを入れたフライパンに移し、20分間、パチパチと音を立てながら炒めます。その20分の間、あなたが朝刊を読んでいるという哀れなふりをしているリビングルームに、天国の厨房から漂ってくるような匂いが漂ってくるのです。

新聞を投げ捨て、鋭い目でダイニングルームに飛び込んでくる。テーブルに着席し、ナイフとフォークとスプーンを乱暴にいじり回す……。数年後、ウェイトレスが料理を持って現れた。その時――私は気を失い、気を失い、もう何もできない!

[176]

XCII
モーリス・フランシス・イーガン
ウェルシュラビットに対する外交官の領収書
私のウェルシュラビットのレシピは、これまで考案された中で最高のものだと、私はためらうことなく断言します。国際的な評価を得ています。ロシア人、トルコ人、そして不思議なことに、著名なグルメであるイギリス人にも、このレシピは絶賛されてきました。フランス人の中には、この料理を賞賛するのに控えめすぎる人もいたかもしれませんが、ウェルシュラビットはフランス人の気質に合わないことを忘れてはなりません。フランス人は、 タンバル・ド・フロマージュを好みます。

大きなチェーフィングディッシュを、沸騰したお湯の入った鍋の上に置きます。一瞬たりとも火の温度を変えてはいけません。そのため、大きなアルコールランプが望ましいです。普通のチーズをすりおろすか、さいの目に切ります。クルミ大のバターを一塊入れます。鍋にニアビールまたはニアバドワイザーを1パイント注ぎます。軽く温めます。昔はカビの生えたエールが全てでした。今日では、ビールというシンボルだけで十分です。濃い赤唐辛子を小さじ半分、次にパプリカを大さじ1杯入れます。パプリカは単なる風味付けであり、調味料ではありません。ビールを温めたまま、ウスターソースを大さじ2杯入れます。[177] ソース、大さじ1杯のケチャップ、小さじ半分のマスタードを混ぜます。沸騰したらチーズを加え、クリーム状になるまで一方向にかき混ぜます。

デパートで売られているウェルシュ ラビット専用の厚手の皿を使う。チーズが皿に触れるとジュージューと音がするように熱しておく。トーストしたパンを十分な数用意し、耳を丁寧に切り落とす。チーズが十分に柔らかくなったら、トーストをその中に浸し、少し置いてから熱い皿に移し、すぐにフライパンの中の混合物をトーストの上にきちんと素早く流し込む。ウサギを食べるまで会話を禁じれば、前例のない成功となるだろう。人の声が聞こえると温度が下がる。食べかすを片付けるまでは、コーヒーや紅茶を飲んではならない。食べている間は、本物のバドワイザー(カビ臭いエールやドッグス ヘッド)の代わりにバドワイザーを飲む。

[178]

XCIII
リビングストン・ファランド
ソーセージとグリドルケーキ
寒い冬の朝に食べるソーセージとグリドルケーキが、私の一番のお気に入りです。ソーセージは皮ではなくケーキ型、グリドルケーキは小麦粉で作るべきだということをぜひお伝えしたいです。きっと何百万人ものアメリカ人が、私の意見に賛同してくれるはずです。

編集者注: ここでは、試した 12 種類のケーキのレシピの中からベストのものを紹介します。

ヘッカーズ小麦粉、または良質なセルフレイジングフラワー(パンケーキ用ではありません!)1カップに、牛乳半カップと溶き卵を混ぜ合わせたものを加えます。この時点で少量のクリームを加えると風味がよくなりますが、必ずしも必要ではありません。

大きなクルミ大のバターを溶かし、生地に加えて混ぜます。少し混ぜ、もし生地の硬さが物足りないようであれば、牛乳か小麦粉を少し足してください。生地は冬場の糖蜜くらいの硬さになるはずです。

完璧な結果を得るには、ケーキを石膏のグリドルで焼き、入手可能な最高のメープル シロップを添えてください。

このレシピは何度でも、そしてそれ以上でも、安心して作れます!上記の通り、2人分ですが、もっとたくさん作りたい場合も、すぐに簡単に再現できます。

[179]

XCIV
F. ジーグフェルド・ジュニア
小さなチキンタルト
これは私が大好きな料理で、本当に簡単に作れます。タルト型は既製品でも購入できるので、生地作りが面倒な場合は少し楽になりますが、もし入手できない場合のために、ここで全工程をご紹介します。仕上がりは保証できます。

調理済みの鶏肉のみじん切り2カップ、またはチキン・ア・ラ・キングの大きな缶詰1缶
エバミルク 1/2カップ
卵2個
玉ねぎ1個
ふるいにかけた小麦粉2カップ
ショートニング 1/2カップ
水 1/2カップ
塩小さじ1杯
ペッパー
パセリ
氷水
塩と小麦粉を混ぜ合わせ、冷やしたショートニングを2本のナイフで切り込み、粉状になるまで混ぜます。刃の広いナイフで氷水をゆっくりと加え、生地がナイフの周りにボール状になるまで混ぜます。ボウルの側面は完全に閉じた状態にします。[180] きれいに洗ってから、小麦粉をひいたパン台に生地を広げます。麺棒に小麦粉をひき、ごく薄く伸ばします。麺棒は小麦粉をしっかりひいた状態にしておきます。パティパンやゼリー型の外側にショートニングを少量塗り、生地を滑らかに広げ、縁まで覆うようにします。ひっくり返して、熱したオーブンで約10分焼きます。チキン・ア・ラ・キングをフィリングに使う場合は特別な準備は必要ありませんが、どうしても調理したい場合は、冷めた鶏肉を使ってください。以下の手順に従ってください。

鶏肉を細かく切るが、みじん切りにしない。玉ねぎをみじん切りにして少量のバターで軽く茶色になるまで炒める。大さじ 1 杯の小麦粉を加えてかき混ぜ、牛乳と水を加える。滑らかになったら鶏肉を加え、味を調える。泡が出てきたら火からおろし、軽く溶いた卵を加えてかき混ぜる。冷ましてからパイシートに詰める。残りのパイ生地は冷蔵庫に入れておくべきだった。それを取り出し、前と同じように薄く伸ばす。タルトの上部を覆うように丸く切る。タルトの縁を冷水で濡らし、蓋を押して、焼くと少し縮むので縁をしっかり下げる。乗せる前に上部に切り込みを入れる。フォークの歯で縁を押してパセリを飾る。

[181]

XCV
ハロルド・ロイド
レモンレイヤーケーキ
適度にグミ状になれば、コメディアンが投げるにはカスタードパイと同じくらいうってつけだ。ただ、そんな扱いを受けるにはもったいない。まるでアイルランドの雄牛みたいだ!

レイヤーケーキには特に興味がありません。結局のところ、フロスティングを塗るための言い訳に過ぎません。どんなレイヤーケーキのレシピでも答えは出ます。それに、私が知る最高の料理人である祖母によると、そんなレシピは100種類もあるそうです。私が重要だと思うのは、中身です。ルールはこうです。簡単すぎて信じられないくらいです!

溶き卵1個、砂糖1カップ、レモン1個分の果汁とすりおろした皮を用意します。これらを混ぜ合わせ、出来栄えに関わらず、ダブルボイラーに入れて強火で加熱します。とろみがつき始めるまで、絶えずかき混ぜながら加熱します。その後、火から下ろし、全体がクリーミーな質感になるまで混ぜます。どんなケーキの層の間にも塗ってください。このレシピで、薄い層2つ分、または厚い層1つ分(私は厚い層1つが好みです)のフィリングができます。ケーキの層数に応じて、2倍、3倍など、無限に量を増やすことができます。

編集者注:これはレイヤーケーキの美味しい、そして珍しいレシピです。よく溶いた卵2個にグラニュー糖1カップを少しずつ加えます。ふるいにかけていない小麦粉1カップに、[182] クリーム・オブ・ターター小さじ1杯とソーダ小さじ半分を混ぜ合わせ、ふるいにかけます。沸騰した牛乳半カップに溶かしバター小さじ1杯とバニラエッセンス小さじ1杯を加えます。生地のような状態になり、2層に焼くのが理想的です。

[183]

XCVI
ルーサー・バーバンク
ターキー・ア・ラ・バーバンク
「これまでで最高です。」[あ]

通常の10ポンド(約4.5kg)の七面鳥なら、脚の筋肉がフォークで簡単に刺さるまで、2時間半蒸します。蒸し器を火から下ろし、七面鳥をローストパンに慎重に移します。

その間に、ドレッシングを以下のように準備します。普通のパン屋サイズのパン1斤、または同量の他のパンをスライスし、ゆっくりと、しかししっかりとトーストして、うっすらと黄金色になるまで焼きます。熱いうちに、お腹を空かせた少年が好むように、各スライスにバターを塗ります。深皿に盛り付けます。調理した内臓、レモン1個分の果汁、大きな玉ねぎ3個分を、肉挽き器で一緒に挽きます。

塩小さじ1杯
カイエンペッパー小さじ1/2
粉末セージ小さじ1杯
サマーセイボリー小さじ2杯
砂糖大さじ2杯
これらはよくふるいにかけてから、 [184]すりおろした野菜と内臓、そして蒸し焼きの際に残った肉汁をパンとよく混ぜ合わせ、切り分けてドロドロになるまで潰します。詰め終わったら、七面鳥をあまり熱くないオーブンに入れ、1時間以上かけてゆっくりと焼きます。

上記のように調理すれば、ソースはほとんど、あるいは全く必要ありません。ただし、鶏肉の上に薄切りベーコンを数枚乗せると風味が増します。牡蠣、卵、栗などの忌まわしいものは入れないでください。

[185]

脚注:
[A]バーバンク氏自身がそう言っています。七面鳥をカワマスのような見た目と味にできると言ったら、おそらくできるでしょう。

XCVII
レイモンド・マッキー
ウサギを調理する
私は一流の料理人だと自称しているわけではありませんし、四流や九流の料理人だと自称しているわけでもありません。しかし、ウサギ料理となると、国内のどんな料理人(アマチュアでもプロでも)にも負けず劣らずキッチンエプロンを着けます(経営者の皆様、ご注意ください!)。そして、ウサギ肉の審査員の判断には、どんなものでも従います。

カリフォルニアでは、私はたいてい山岳ヨットで暮らしていますが、上手に撃てばウサギはたくさん手に入ります。でも、買う方が簡単で、味も同じです。

ウサギを正しく調理するには、まずウサギを取り出し、きれいに洗って6つに切ります。切り身を塩水に数時間浸します。私は通常、一晩中、そして調理する直前まで浸けておきます。こうすることで肉が白くなり、味が良くなります。

調理する準備ができたら、ウサギの皮を乾燥させ、溶き卵に絡め、クラッカーの粉をまぶします。たっぷりのバターを熱したフライパンにウサギの皮を入れ、きつね色になるまで焼きます。焼き色がついたら、ウサギの皮が半分浸るくらいの水を入れます。蓋をしっかり閉め、水分がなくなるまでゆっくりと蒸します。出来上がりです。

[186]

さて、最初に述べた塩水の代わりに普通のクラレットを使うことができ、揚げたウサギを蒸すためのクラレットがもっとあれば、完璧な料理が完成するかもしれません!

[187]

XCVIII
ウィル・デミング
私はこれらすべてを保証できます:

バージニアハム
8ポンドのハムを冷水で覆います。リンゴ酢1パイント、ブラウンシュガー0.5ポンド、シナモンスティック6本、クローブ山盛り大さじ1杯を加えます。4時間煮込みます。火を止めて一晩置きます。翌朝、皮を剥き、熱したオーブンで30分焼きます。

レモンパイ
フィリング:カップ1杯の砂糖に大さじ山盛り1杯と小麦粉1/2杯をよく混ぜます。レモン1個分の皮をすりおろし、果汁を加えます。次に、卵2個分の黄身と水1カップ、塩ひとつまみを加えます。全体をよく混ぜ合わせます。ダブルボイラーに入れ、とろみがつき滑らかになるまで加熱します。焼き上がったパイ生地に流し込みます。卵白に小さじ1杯の水と塩ひとつまみを加え、固まるまで泡立てます。パイをこの混合物で覆い、メレンゲの上にグラニュー糖を振りかけます。[188] 砂糖とメレンゲを混ぜ合わせ、オーブンで焼き色がつくまで焼きます。

クラスト:ラード大さじ2杯と小麦粉1.5カップを混ぜ合わせます。指でよく混ぜ、コーンミールのような感触になるまで混ぜます(ただし、かなり大きいです)。氷水を加え、生地がまとまるまで混ぜます。生地がまとまったら、打ち粉をした台の上で伸ばします。レモンパイのクラストを焼く際は、フォークでクラスト全体に穴を開けるか、パイ皿の外側に付けて焼きます。こうすることで、クラストが広がるのを防ぎます。

ドレッシング
(詰め物トマト、冷製肉、ポテトサラダ用)

大さじたっぷりのバターを溶かします。卵黄2個に酢を小さじ1杯加えます。次に、乾燥マスタード小さじ1杯と砂糖小さじ1杯を加えます。砂糖と卵を混ぜ合わせたものを酢に加え、コンロで溶かしたバターに加えます。とろみがつくまで混ぜ続けます。冷めるとさらにとろみがつきますのでご注意ください。ポテトサラダに使う場合は、あまりとろみをつけすぎないように注意してください。

[189]

XCIX
チャールズ・W・チェッサー
(「ビーフステーキ・チャーリー」)
ステーキのヒント
「なぜ家で食べるときに、こんなステーキが食べられないんだろう?」この8年間、「ビーフステーキ チャーリー」というあだ名に本当の意味を与えてきた中で、何千人もの人々からこの質問を受けました。

そして、その質問に対する私の正直な答えは常にこうです。「肉屋があなたの牛肉を4、5週間吊るして置いてくれるなら話は別ですが、そうであれば見た目のせいで買いたくなくなるでしょう。」

ステーキの焼き方をよく聞かれます。作り方に秘訣はないのですが、ほとんどの家庭料理人は冷たいままのブロイラーにステーキを入れて火をつけてしまいます。これは命取りです!火がついたばかりでも、同様に命取りです。ブロイラーはしばらく全開で、燃え盛るまで焼くべきです。それからステーキを入れ、ブロイラーの強烈な熱で瞬時に焼き上げます。もし秘訣があるとすれば、まさにこれです!

しかし、覚えておいてください。牛肉が新鮮すぎると、どんなに丁寧に焼いても意味がありません。本物の牛肉を求めるなら、新鮮な牛肉は絶対にダメです。サーロインやポーターハウスなど、最高級の部位を選ぶには、吊るして焼いた牛肉を選びましょう。[190] 少なくとも4週間、私が説明した方法で焼けば、ディナーのゲストはきっとまた招待したくなるような、丁寧なヒントをたくさん覚えてくれるでしょう。付け加えると、牛肉が良質であれば、ソースの心配は無用です。バター、塩、コショウだけで、世界最高級のステーキも完璧に味付けできます。

[191]

C
アーサー・T・ヴァンス
トルコ風サラダ
料理が得意だとは言いません。誰かに作ってもらう方がずっと好きなのですが、たまに自分でアレンジしたいものもいくつかあります。

何年か前、テネシー州ナッシュビルで百年祭博覧会のようなものがありました。何を祝ったのかは覚えていませんが、とにかく見に行かなければなりませんでした。私は誰一人知り合いがいなかったのですが、昨年亡くなったあのヘビ男のアル・ウィリアムスが、ミッドウェイでフーチー・クーチー・ショーを運営していたトルコ人への紹介状をくれました。私が紹介状を効率的かつ楽しく使ったのは、この時だけです。ちなみに、このトルコ人は私が今まで見た中で最もハンサムで教養のある人で、両手を広げて私を歓迎してくれました。まず何よりも私はショーを見る必要があり、豪華な美女たちの回転に夢中になっていたので、彼は私を家族と食事に招待するという大変光栄なことをしてくれました。素晴らしい経験でした。フーチー・クーチーのダンサーたちが全員、舞台衣装を着て、両親と義母、母の大叔父、そして大小さまざまな人々と一緒に集まっていた。私たちはたくさんの面白い食べ物を食べたが、特に気に入った料理が一つあった。彼らはこう言った。[192] それを「サラダ」と呼んで、私はあまりにも大量に食べたので、トルコ人の友人は作り方をどうしても見せてほしいと言い出しました。それ以来、少なくとも自分の楽しみのために何度も作っています。そして、一度食べた人はたいていまた試すでしょう。

完熟したトマト、キュウリ、玉ねぎを使ったサラダです。ポイントは、スライスするのではなく、玉ねぎ、キュウリ、トマトの皮をむいた後、そのままチョッピングボウルに入れ、包丁で粗みじん切りにすることです。粗みじん切りは親指の先くらいの大きさにしてください。切ったら、全体を氷の上に置いてよく冷やし、汁を切ります。

ピリッとしたフレンチドレッシングをかけ、大きなスプーンとお皿を用意して、さあ食べよう。もし美味しくなかったら、自分で食べよう。

パンドラフレンチドレッシング
フレンチドレッシングの秘訣は、私なりに、たっぷりの塩を使うことだと気づきました。家で作るときは、例えば5、6人分なら、普通の塩皿か小皿を用意し、底にたっぷりの塩を敷きます。黒コショウと、テキサス産のチリパウダーを少々加えます。このチリパウダーはパプリカよりも風味が良く、玉ねぎのような風味がありますが、使いすぎには注意が必要です。次に、たっぷりのオリーブオイルをかけて、フォークで固まるまでよく混ぜます。オリーブオイルは冷やしておくのがおすすめです。最後に酢を加えます。[193]昔ながらの良質なリンゴ酢です。最近はよく見かけます。甘いリンゴ酢を硬いリンゴ酢にするのは簡単ですが、硬いリンゴ酢を酢にするのはずっと簡単ですから。酢の量はお好みで。サラダの種類によっても大きく変わります。アスパラガスには少し酸味のあるドレッシングが好きです。レタスにはそれほど酸味は控えめに。でも、これはお好みに合わせて簡単に調整できます。

ウェールズウサギ・ラ・モーガン・ロバートソン
このページを読んでいる人の中で、モーガン・ロバートソンのことを覚えている人はどれくらいいるだろうか。かわいそうなモーガンはもう亡くなってしまったが、生きていた時代には、英語で書かれた最高の海物語をいくつか書いた。ニューヨーク市六番街から少し入った25丁目の、風変わりな小さなアトリエで独身寮を経営していた。友人たちが訪ねてきた時の彼の特別な楽しみは、ウェルシュラビットだった。彼は私にその作り方を教えてくれたので、私はそのレシピを伝授しようとしている。ロバートソンのラビットの素晴らしいところは、決して筋っぽくならないことだった。

まず、大きめのバターをチェーフィングディッシュに入れ、ジュージューと音を立てるのを待ちます。コールマンのマスタードとパプリカを加えて軽く混ぜます。6人分なら、チーズは2ポンド(約900g)使います。ニューヨーク州産の、あの臭いの強い輸入物ではなく、本物のクリームチーズです。昔、農場で作られていたようなチーズです。チーズを細かく切って、フライパンに少量のビール(ニアビールでもいいです)と一緒に入れます。牛乳でも代用できます。チーズが溶けてきたら、少しずつビールを足してください。[194] お好みでウスターソースを少し加えてください。よく溶けたら、コーンスターチを大さじ山盛り 1 杯と少量の水を加えて混ぜ、混ぜ合わせます。その間にかき混ぜ続けます。泡が立つまで待ち、パンケーキの生地くらいの濃度になったら (その間もかき混ぜ続けます。かき混ぜすぎてもいけません!)、出来上がりです。トーストしたパンに添えてお召し上がりください。私が疲れるのは、ウェルシュ ラビットをクラッカーに乗せて食べることです。これは全く違います。ラビットが筋張る心配はありません。筋張ることはありません。コーンスターチを水で溶かずに、乾いたまま入れる人もいます。どちらの方法でも大丈夫です。お好みで味付けしてください。でも、お願いですから、卵を溶きほぐさないでください。それは全く別の種類の問題です。

[195]

CI
バロン・ド・カルティエ
(ベルギー出身の駐米大使)
ウォーターゾイ・ドゥ・ヴォライユ
ベルギーで最も人気の国民食は、間違いなくウォーターゾワ・ド・ヴォライユでしょう。鶏肉を使った、実に美味しくて満足感のあるスープです。ブリュッセルでは、ヨーロッパのほぼすべての国の料理愛好家に知られる有名レストラン「フィレ・ド・ソーレ」のシェフの魔法によって、この料理は完璧な仕上がりになります。

「フィレ・ド・ソーレ」の作り方をお教えしましょう。まず、もちろん良質の若鳥(鶏)を用意します。きれいに洗って下ごしらえをした後、レモンのスライスをよくすり込みます。そして、揚げるときと同じように切り分けます。

次に、スープを作るキャセロールまたは容器の側面と底にたっぷりとバターを塗り、準備します。容器の底に、細切りにした白セロリ(繊維や筋はすべて取り除く)の3分の1、リーキの白い部分の3分の1、白玉ねぎの3分の1を敷きます。これに、ローレルの葉半分と、パセリの根を数本(根はよくこそげ取って洗っておく)にタイムを少量挟んだブーケを加えます。

このベッドの上に鶏肉を置き、[196] 全体に白ワインと仔牛のブイヨンを1クォート強(約3分の1ブイヨン、2分の2ワイン)注ぎます。ブイヨンの代わりに水でも代用できますが、後者の方が好ましいです。食塩、挽きたての白コショウ、クローブひとつまみで味を調えます。

混合物を沸騰させ、しっかりと蓋をして少なくとも 35 分間煮て蒸します。

花束を取り出し、根を金属製の濾し器で濾します。抽出液はスープに加えます。パン粉をひとつまみ加えます。

この時点で、スープを大きなスープ鍋に移し、素早く溶いた卵 4 個の黄身、ワイングラス 2 杯分の極厚クリーム、指ぬき一杯分ほどの上質なバターを手早く加えます。

最後に鶏肉を加えて混ぜ合わせ、最後に刻んだパセリを散らせば、ウォーターゾイはテーブルに並べられ、美味しく召し上がれます。

[197]

CII
ディーン・コーンウェル
スパゲッティ・マイスタイル
自分が好きな料理をいろいろ考え、一番のお気に入りを探した結果、定番のスパゲッティに戻ってきて、これが一番のお気に入りだと認めざるを得ませんでした。

スパゲッティ自体の作り方はご存知だと思いますので、私が数年前に考案したソースの作り方をお教えします。きっと気に入っていただけると思います。

大きな鉄鍋を用意し、細かく切った牛肉、細かく刻んだベーコン、乾燥マッシュルーム(イタリアの小さな店でよく売っているもの)、トマト缶、スライスした玉ねぎを入れます。乾燥マッシュルームは調理する前に1~2時間水に浸しておきます。

材料をたっぷりの水で浸し、塩、ブラウンシュガー、メキシカンチリパウダーで味付けします。一日中じっくり煮込みます。長ければ長いほど美味しくなると思います。

お腹が空いてもう待てない時は、熱々のスパゲッティにソースをかけて、本格的な食事をお楽しみください。個人的には、2日目に温めた方がソースがさらに美味しいと思います。

転写者のメモ:
明らかな句読点の誤りを修正しました。

À LA の代わりに、Á が頻繁に使用されています。これは目次全体といくつかのレシピに当てはまります。印刷されたままの形で残されています。

FINANCIÉRE は 2 回使用され、FINANCIÈRE は 1 回使用されました。

xiページ、「architecture」を「architecture」(美食の建築)に変更

15 ページ、「SUPREMÊ」を「SUPRÊME」(チキンの至高)に変更

xvページ、「A」を「Á」に変更し、目次の残りの用法と一致させました(CROUSTADE Á)

xxii ページ、「COMMADORE」が「COMMODORE」 (Á LA COMMODORE) に変更されました。

xxivページ、「エミンス」を「エミンス」(エミンス・オブ・チキン)に変更

xxv​​ ページ、「SAUTÈ」を「SAUTÉ」 (VEAU SAUTÉ) に変更

xxv​​i ページ、「SAUTÈ」を「SAUTÉ」に 2 回変更 (EGGPLANT SAUTÉ) (MORELS SAUTÉ)

100ページでは、より一般的な「Boullabaise」が「Bouillebaisse」と複数回印刷されていますが、印刷されたままです。

*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「THE STAG COOK BOOK: 男性による男性のための執筆」の終了 ***
《完》


パブリックドメイン古書『食物の長期保存の手引き』(1812)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 19世紀前半の知見であることにご注意ください。
 原題は『The Art of Preserving All Kinds of Animal and Vegetable Substances for Several Years』、著者は仏人の M. Appert です。

 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまに深謝します。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「あらゆる種類の動物性および植物性物質を数年間保存する技術、第 2 版」の開始 ***

保存の芸術、など
など。

あらゆる種類の動物や植物の物質を数年間 保存
する技術 。

フランス内務大臣の命令により出版された作品、
芸術製造局の報告書について、
著者
:アペール氏。

フランス語からの翻訳です。

第2版​​。

ロンドン: リーデンホール通り の東インド会社書店主、
ブラック、パリー、キングズベリーのために印刷。

1812年。

グレート・クイーン・ストリートの Cox and Baylis 社により印刷されました。

目次。
ページ
プレートの説明 8
広告 9
内務大臣の手紙 21
芸術委員会の証明書 23
保健評議会からカファレッリ将軍への手紙 24
§ 1. 保存の芸術など 1

  1. 私の部屋の説明など 11
  2. ボトルと容器について 18
  3. コルクの 20
  4. コーキングの 22
  5. 不良ボトルなどを区別する手段 37
    著者のプロセスの説明 41
    §7. ゆで肉 41
  6. グレービー 43
  7. スープまたはゼリー 46
  8. 牛もも肉、羊のフィレ肉、鶏、若いヤマウズラ 47
  9. 産まれたばかりの卵 50
  10. 牛乳 52
  11. クリーム 55
  12. 乳清 56
  13. 野菜 57
  14. グリーンピース 58
  15. アスパラガス 60
  16. ウィンザービーンズ 61
    §19. 皮をむいたウィンザービーンズ 63
  17. フレンチビーンズ 63
  18. アーティチョーク 65
  19. カリフラワー 66
  20. 栗色 68
  21. ホウレンソウ、サッカリー、その他のハーブ 69
  22. ジュリエンヌと呼ばれるスープ 71
  23. 野菜スープ 73
  24. ラブアップル 74
  25. ハーブと薬用植物 75
  26. ハーブジュース 77
  27. 果物とそのジュース 78
  28. 白と赤のカラントの束 79
  29. 白と赤のカラントの皮をむいた 80
  30. チェリー、ラズベリー、マルベリー 80
  31. レッドカラントジュース 81
  32. イチゴ 82
  33. アプリコット 83
  34. 桃とネクタリン 85
  35. グリーンゲージとプラムのプルーン 86
  36. あらゆる種類の梨 88
  37. 栗、トリュフ、キノコ 89
  38. ブドウまたはブドウ果汁 91
    保存された物質の利用方法について 93
    §42. 肉、狩猟肉、鶏肉、魚 93
  39. 肉や鶏肉で作られたゼリー 97
  40. 牛乳とクリーム 98
  41. 野菜 99
    §46. フレンチビーンズ 100
  42. エンドウ豆、豆など 101
  43. ホウレンソウとサッカリー 106
  44. 野菜スープ 107
  45. トマトとハーブ 108
  46. 保存されたフルーツ、マーマレードなど。 109
  47. カラントジャム 113
  48. カラントシロップ 114
  49. 氷 116
  50. コーディアル 117
  51. 栗、トリュフ、キノコ 120
  52. グレープジュース、またはグレープマスト 121
    グレープシロップの作り方 122
    シロップとラタフィー 125
  53. 一般的な観察 130
  54. 実践的なコメント 135
    産業振興協会事務局長からの手紙 142
    協会の報告 145
    プレートの説明。
    図 1. 2 本の鉄棒が付いたリールを使用してワイヤーを 2 倍にし、2 倍にしたワイヤーをボトルのコルクを固定するのに必要な長さの 2 倍に切断します。
    図2図1で2倍にされたワイヤを長さの3分の1にねじるための小型機械。
    図 3.コルクを一番細い端から始めて、長さの 4 分の 3 まで圧縮する(いわば噛む)ための器具。
    図4.藁を詰めた椅子。木製の台が付いており、ボトルを乗せて縛ることができる。コルク詰め作業中は、同じ椅子に座ることになる。
    図5.ボトルブーツ(Casse-Bouteille)と呼ばれる中空の木片。コルクを詰める際にボトルをセットする。このボトルブーツには、コルクを打ち込むための丈夫なバットが付いている。
    図6.コルクを固定するためのワイヤーをねじったり、余分なワイヤーの端を切断したりするために使用する、先の尖ったペンチの正面と側面図。私はこの作業に平らなペンチとハサミを使用します。

ニール・SC・ストランド
ロンドン1811年2月25日Black & C o . Leadenhall Str.発行
広告。
パンフレットの冒頭に付された広告(以下の部分は翻訳である)で、著者は住所を「パリ、シテのコロンブ通り4番地、ナポレオン河岸」と公表し、そこで保存された食料品を販売している。その販売については、ここで説明する。[x] 本書自体が著者自身の財産の推薦であるため、著者自身の記述に、著者自身の発言を裏付ける権威ある文献や証言の翻訳を加えることが適切であると判断された。ただし、重複は認められる。フランス大使によるこの手順の推薦は、このすぐ後に続く。パリの「芸術家協会」によるより詳細な報告書は、[xi] 産業奨励については、この作品の最後に記載されています。

著者が、動物性食品や植物性食品を新鮮に保つための単純で安価な方法から得られる利点を予測する必要はない。もしこれが、豊作の季節から不作の季節まで、たった1年間しか実現できないとしても、例えば卵、クリーム、野菜以外の食品を保管できないとしても、[12] 長い冬の間、その風味と美しさを余すところなく保つことができるこれらの品々を蓄えるほど裕福で、かつ家庭の節約を軽視するほど裕福でもない、王国の家庭の主婦なら、ここに提示された小さな作品を読むことで恩恵を受けないはずはない。そして、著者のこの部分の記述が正しいと疑う余地はない。しかしながら、これは本書のより明白な恩恵の一つに過ぎない。[13] このプロセス。そして、もしこれだけのことが解明されれば、資源の無限の見通しが開け、個人以上に国家がそれを活用することが求められるようになるだろう。

著者は、この方法から得られる利点を列挙する中で、砂糖の消費量の削減を最優先に挙げている。この方法に、近年のブドウシロップ製造技術の進歩が加わることで、著者は次のように述べている。[14] 苦境に立たされたフランスのブドウ園経営者にとって、救済の見通しとなるだろう。この発言は、フランス政府にとって、大いに満足のいくものであっただろう。フランス政府は、大陸全土に自国の生産物で生活するよう強制し、より贅沢な大西洋横断の産物を放棄させる決意を、これ見よがしに公言している。しかしながら、わが国はその土壌と気候から、この恩恵をほとんど、あるいは全く受けることができない。[15] 著者のプロセスの応用分野。

一方、それは我々の艦隊の装備と食糧供給、そして国の海上防衛部隊の健康と快適さ、そして国の繁栄の多くを担う数多くの功績ある人々の健康の維持において計り知れない恩恵をもたらしてくれる。大洋で生活するあらゆる階層の人々の生活水準の向上を約束するものは、[16] 国家の関心事として扱われるべきではない。フランス政府は、少なくともその下級行政機関の一部の議員が、著者の取り組みを公務員に推奨する率先的な役割を果たしてきた。この国の人々の優れた活動とより賢明な識別力から、著者の取り組みが政府と国民の双方の関心を等しく喚起するであろうことが期待できる。[17] 国全体、そして政府の契約業者や委員、軍艦の会計係、商船の船務員らが、著者の有望な発言を自ら検証する最後の人ではないと信じている。

公開文書から、本書で説明されている手続きに従った規定を保存するために特許が取得されたことがわかった。この特許が、他の適用における適用をどの程度妨げるかを判断するつもりはない。[18] 工場や貿易業など、この同じ工程に従事する人々はたくさんいますが、単一の家族のために備えが確保されるような小規模な場合には、この書籍で紹介されている指示を誰でも自由に利用できることは確かです。

一部の読者にとって有益または興味深いと思われるものを省略するよりも、不必要な内容を挿入する方が問題が少ないと考えられました。そのため、すべての内容を翻訳し、コピーも行いました。[19] ボトルにコルクを詰めるのに使用する機械の図解版ですが、機械技術が進歩した現在では、読者の大半はその助けを必要としません。同様の機械がワイン樽職人などによって一般的に使用されているからです。

[xxii]

内務大臣、帝国伯爵、アペール氏等宛
パリ、1810年1月30日。

第二部。

芸術製造委員会。

私の芸術と製造の委員会[A] は、果物、野菜、肉、スープ、牛乳などの保存方法について調査した結果を報告してくれました。その報告から、この方法が成功していることは疑いようもありません。動植物の保存は、航海、病院、家庭経済において極めて有用である可能性があるため、あなたの発見は政府の善意の表れと見なすべきものです。したがって、私は[xxiii] 私は評議会があなたに12,000フランの補償を与えるように勧めたことに同意し、[B]そうすることで、有用なプロセスの発明者に与えられるべき報酬をあなたに与えるとともに、施設の設立やプロセスの成功を確立するために必要な実験に要した費用を補償することを意図していました。国庫へ行き1万2000フランを受け取れる時期については、直ちにお知らせします。

保存方法の知識を広めていただくことは、私にとって重要なことだと思います。ですから、ご自分の提案に沿って、詳細かつ[xxiv] 御社の工程を詳細にご説明ください。この説明書は、私の美術製造委員会に送付していただき、審査後、御社の費用負担で印刷いたします。その後、200部を私に送付してください。この200部を送付することが、1万2000フランのお支払いに対する唯一の条件ですので、速やかにご対応いただけると確信しております。この手紙を受領した旨をお知らせいただければ幸いです。

保証などを受け入れます。

(署名)モンタリヴェ。

芸術製造委員会。

内務大臣付属芸術製造委員会の下記署名メンバーは、閣下から、[xxv] アペール氏による食品保存に関する報告書は、その詳細、ならびにプロセスの実施方法および結果が、閣下の命令によりアペール氏が行ったさまざまな実験と完全に一致していることを証明します。

(サイン入り)ボーデル、ゲイ=リュサック、シピオン=ペリエ、モラール。

パリ、1810年4月19日。

12年ブリュメールの日付で保健評議会がブレストの海事長官カファレッリ将軍に宛てて書いた手紙のコピー。

市民アペールの手続きに従って準備され、海洋大臣によってこの港に送られた食料は、[xxvi] 道路に3か月放置された後、以下の状態で発見されました。

瓶入りのスープ(ブイヨン)は美味しかったです。容器にブイヨンを入れた ブイヨンも美味しかったですが、味が薄かったです。ブイヨン自体はとても食べやすかったです。

肉と野菜のスープと一緒に調理された豆とグリーンピースは、最近収穫された野菜の新鮮さと風味をすべて備えていました。

(署名)デュブレイユ、ビラール、デュレ、ピション、ソーマー。

忠実なコピー。

J. ミリエル、秘書。

[1]

保存の芸術、など
など。

§ 私。
食品や医薬品を保存するためにこれまで使用されてきたすべての手段は、主に 2 つの方法に要約できます。1 つは乾燥する方法、もう 1 つは発酵や腐敗を妨げる目的で多かれ少なかれ異物を混ぜる方法です。

前者の方法によって、燻製や吊るし焼きにした肉、干し魚、果物、野菜が供給され、後者の方法によって、[2] 砂糖漬けにした果物やその他の植物性物質、シロップやエッセンスに濃縮した植物のジュースや煎じ液、あらゆる種類の漬物、塩漬けの肉や野菜。しかし、これらの方法にはそれぞれ特有の欠点がある。乾燥によって香りが失われ、ジュースの味が変わり、繊維質または果肉質(孔組織)が硬くなる。

砂糖は、その強い風味ゆえに、他の風味を部分的に隠したり、破壊したりしてしまいます。多くの果物の心地よい酸味など、私たちが本来味わいたい風味でさえもです。二つ目の不都合は、少量の植物性食品を保存するために大量の砂糖が必要になることです。そのため、砂糖の使用は非常にコストがかかるだけでなく、多くの場合有害です。[3] 例えば、特定の植物の汁は、ほぼ2倍の量の砂糖を加えなければシロップやエッセンスにすることはできません。その結果、これらのシロップやエッセンスには、あらゆる薬効成分よりもはるかに多くの砂糖が含まれており、多くの場合、砂糖は薬の作用を打ち消し、患者に有害となります。

塩は物質に不快な刺激を与え、動物繊維を硬くして消化を困難にします。また、動物の実質を収縮させます。[C]一方、[4] 使用した塩の大部分を水によって除去することが不可欠です。冷水に溶ける成分のほとんどすべては、塩が除去されると失われます。繊維質、つまり実質だけが残ります。そして、すでに述べたように、それさえも変化します。

酢は、特定の食品の調味料として使われる場合を除いて、あまり利用されません。

これまで述べられてきたことや公表されたことに関する詳細は述べない。[5] 食品の保存技術について。ただ一つ付け加えておきたいのは、私の知る限り、古今東西を問わず、私が提案する方法の根底にある原理を指摘した著者はおらず、ましてやその疑念を抱かせた著者もいないということである。

パリと各県において、ある時期、砂糖の消費量を減らす手段、すなわち土着の物質から抽出した様々なエキスやエッセンスの使用が、いかに人々の関心を集めたかは周知の事実である。あらゆる有用な目的に慈善的な視点を向ける政府は、芸術と科学を追求するすべての人々に、我が国の土地の産物から最大限の利益を引き出す手段を探求するよう、絶えず呼びかけている。[6] 我が国の農業と製造業を最大限に発展させ、外国製品の消費を減らすこと。

同じ目的を達成するために、国民産業振興協会は[D]は、国家と人類に大きな利益をもたらすような発見に才能と労力を注ぐすべての人々を、魅力的な報酬の提供によって刺激する。この称賛に値する熱意に突き動かされた農業協会は、1809年6月21日の決議と翌年7月15日の公式通知によって、全国民に呼びかけ、次の条項の作成に寄与しうるあらゆる情報と文書を収集した。[7] あらゆる種類の食物を可能な限り最良の方法で保存する技術に関する作品。

非常に重要な招待を受けた後、私はこの目的を達成する方法を公表しようと決心しました。この方法は実行が非常に容易で、同時に非常に安価であり、それが許容する拡張によって社会に多くの利点をもたらす可能性があります。

この方法は根拠のない理論ではありません。熟考、調査、長年の注意、そして数々の実験の成果であり、10年以上にわたるその成果は驚くべきものでした。繰り返しの実践によって食料を2年、3年、そして6年も保存できることが証明されているにもかかわらず、いまだにこの事実を信じようとしない人が多くいます。

[8]

私は、伝統的な方法で食品を保存する仕事に育てられ、シャンパーニュの食料貯蔵室、醸造所、貯蔵庫、セラー、また菓子屋、蒸留所、食料品店の店舗、製造所、倉庫で日々を過ごし、45年間この種の施設の監督に慣れており、その過程で、食料保存技術に専念する大多数の人々が持っていない多くの利点を活用することができました。

私は、広範囲にわたる実践、そして特に長年の忍耐力によって、次のような確信を持つに至りました。

  1. 火には、組み合わせを変えるだけでなく、[9] 植物や動物の生産物の構成成分を破壊するだけでなく、同じ生産物の分解に向かう自然な傾向を、破壊しないまでも、少なくとも長年にわたり遅らせる効果もある。

2d. 様々な物質にそれぞれ適した方法で火を用い、最大限の注意を払って可能な限り完全に空気との接触を遮断した後、それらの産物をその自然の性質すべてとともに完全に保存する。

私のプロセスの詳細を述べる前に、それは主に以下の通りであることを述べておくべきである。

  1. 保存する物質を瓶に詰める。

[10]

2d. ボトルにコルクを詰める作業は細心の注意を払って行います。この作業の成功は主にコルクの詰め方にかかっています。

3d. これらの封入物質を、その性質に応じて、またそれぞれの物質の種類に応じて指示された方法に従って、湯浴(BALNEUM MARIAE)で水を沸騰させる。

  1. 記載された期間内にボトルを水槽から取り出す。

[11]

§ II.
プロセスを大規模に実行するために確保した私の部屋の説明。[E]
私の研究室は4つの部屋から構成されています。最初の部屋には、保存する動物性物質を調理するために必要なあらゆる種類の調理器具、ストーブ、その他の器具が備え付けられています。また、レンガ造りの180パイント(フランスサイズ)のブイヨンやグレービーソースなどを作るための釜も備え付けられています。この釜には、スキマーのような穴が開けられ、容器を仕切るための仕切りが付いています。[12] 様々な種類の肉や鶏肉を煮込むことができます。この鍋はケトルに出し入れしやすいです。ケトルには幅広のコックが付いており、その内側にはじょうろのような小さなバラが取り付けられており、布巾で覆われています。こうして、澄んだスープやグレービーソースを作ることができ、すぐに瓶詰めできます。

2 番目の部屋は、牛乳、クリーム、ホエイの調製に使用されます。

3番目は、ボトルや容器にコルクを詰めて縛り、袋に入れるのに使用されます。

4番目の部屋には、レンガ造りの石の上に設置された3つの大きな銅製のボイラーが設置されています。これらのボイラーにはすべて頑丈な蓋が取り付けられており、[13] 内部の容器に水を流すためである。各ボイラーの下部には、適切なタイミングで水を排出するための広いコックが設けられている。これらの大型ボイラーは、一般的に、保存対象となるあらゆる物品を収容し、適切な方法で熱作用を与えることを目的としており、このようにして多数の水浴を構成している。[女性]

[14]

準備作業のために3番目の部屋に設置されている道具は以下のとおりです。

  1. 部屋の周囲にボトルラックが何列も並んでいる。
  2. 瓶やその他の容器の首を縛るのに使用する鉄線用のリール。(図1)
  3. コルクを締めるための鋏とペンチ。(図6)

[15]

  1. 鉄線を適当な長さに分割・切断した後、さらにねじり加工する機械。(図2)
  2. 2つの器具がてこを形成し、コルクを圧縮して噛むのに使用されます。(図3)
  3. 3本の脚で立つボトルブーツまたはブロックで、コルクを詰めるための強力なバットが付いています。(図5)
  4. コルクを結ぶための5本の脚で立つスツール。(図4)
  5. ボトルやその他の容器を覆うための十分な量のリネンバッグ。
  6. 革で覆われ干し草が詰められた椅子が2つあり、その上で瓶を振って[16] より多くのエンドウ豆やその他の小さな物質を瓶の中に押し込みます。
  7. 植物、果物、ハーブのジュースを搾るための圧搾機。鍋、容器、ふるい、その他これに付随するすべてのもの。

これらの品々から成る私の研究室のほかに、私は三つのアパートを造りました。

1 つ目は、野菜を調理するためのもので、周囲にドレッサーが備え付けられています。

2つ目は、あらゆる種類の果物を保存し、調理するためです。

3 つ目は、倉庫のようにボトルやその他の容器を洗ったり置いたりするためのボトルラックを備えた地下室です。

[17]

必要な瓶やその他の容器は、念のため洗って手元に置いておきます。また、既に説明した器具で圧縮して噛み砕いたコルクもいくつか用意してあります。このようにすべての準備が整えば、作業は半分完了です。

あらゆる食品を保存し、鮮度を保つ原理は、その効果において不変である。個々の実験における結果は、保存対象となる物質の特性に応じて、その原理を個々の適用方法にどの程度適合させるかによって決まる。しかし、いずれの場合も、空気の遮断は操作の成功にとって最も重要な予防措置である。食品を空気と接触させないためには、瓶詰めに関する十分な知識が不可欠である。[18] 使用する容器、コルク、およびコルク詰めは必須です。

§ III.
ボトルと容器について
私はガラスを空気を最も通さない素材として選び、他の素材でできた容器で実験する勇気はなかった。一般的な瓶は、一般的に首が小さすぎて粗雑である。また、バットの打撃や火の作用に耐えるには弱すぎる。そこで私は、自分の用途に合わせて、より幅広の首を持つ瓶を作った。そして、その首には、内側の縁、つまりリングが下方に突き出ていて、形状は上部の縁に似ているようにした。[19] ボトルの首の外側の表面を、コルクが既に述べたように、その長さの4分の3まで押し込まれた後、中央で圧縮されるようにすることが私の目的だった。こうすることで、ボトルは内側だけでなく外側からも完全にコルクで塞がれる。こうすることで、ボトル内の物質に熱が作用することで生じる膨張、つまり膨張を阻害するのを防ぐことができる。このボトルの首の形成方法は、たとえ2本の鉄線を交差させて閉じ込めたとしても、膨張が非常に強く、3本または4本のコルクを押し出すことを何度も経験しているため、なおさら不可欠である。ボトルと容器は丈夫な素材(de matière liante)で作られるべきであり、前者は25~26ポンドの重さである。[20]1リットル あたりオンス[G]ボトルの中身。ガラスはどの部分も均一な厚さでなければなりません。そうでないと、湯煎中に割れてしまう可能性があります。シャンパンボトルの形状は非常に使いやすく、見た目も美しく、強度も高く、梱包にも最適な形状です。

§ IV.
コルクについて
コルクの節約は一般的に非常に賢明ではありません。コルクの価格をほんの少し節約するために、本来保存されるべき貴重な商品を失うリスクを負うことになるからです。コルクは[21] コルクは、空気との接触を一切遮断することで、特定の品物を保存し、品質を向上させるために用いられる。そのため、コルクの品質にはいくら注意を払っても足りないことはない。コルクは18~20本の長さで、最高級のものでなければならない。経験からこの点については十分に納得しており、私は極細コルク以外は決して使わない。極細コルクは結局のところ最も安価だからである。さらに、私は用心深く、既に述べた器具(図3)を用いて、コルクの細い端から、長さの4分の3まで圧縮し、いわば噛み砕くようにする。コルクはより柔軟になり、コルクの気孔は狭まり、長さがいくらか長くなり、ボトルの口に差し込む端の厚さが大幅に減少するため、大きなコルクを作ることができる。[22] ごくわずかな隙間からでも入ります。容器内の熱作用によりコルクが内部で膨張し、完璧なコルク栓が完成します。

§ V.
コーキングについて。
ここまで述べてきたことから、ネックの周囲全体に均一な厚さの突出した縁を持つ良質のボトルが絶対に必要であることは明らかです。また、楽器の長さの4分の3まで圧縮された、極細のコルクも不可欠です。

コルクを打つ前に、酒が入ったボトルが[23] ボトルの縁から7.5cm以内まで水を入れてください。そうしないと、熱によって泡が出て膨張し、破裂する恐れがあります。野菜や果物などを入れる場合は、縁から5cm以内まで水を入れてください。

すでに述べたボトルブーツの上に満杯のボトルを置き、その前に座ります。この器具には、丈夫な木製のバット、水を満たした小さな鍋、そして少量の牛脂か石鹸を塗った鋭利なナイフが必要です。このナイフはコルクの口を切り落とすためのもので、コルクは決してボトルの口よりあまり高く上げてはいけません。これらの準備ができたら、ボトルブーツを両足の間に置き、適当な大きさのコルクを取り、半分を小さな鍋の水に浸します。こうすることで、コルクが入りやすくなります。[24] 端を拭いてから、瓶の口に当て、同時に回転させます。瓶がまっすぐ立つように、左手でこの位置を保ちます。右手にバットを持ち、力を入れてコルクを打ち込みます。

バットの一撃か二撃でコルクがいくらか入ったのがわかったら、コルクから手を離し、ボトルの首をしっかりとボトルの蓋に固定します。そして、何度も叩き続け、コルクをその長さの4分の3まで押し込みます。バットの二度叩きにもそれ以上は押せ​​なくなったボトルの上部に残ったコルクの4分の1は、まず第一に、ボトルがしっかりと固定されていることを私に保証してくれます。[25] 完全にコルク詰めされ、この同じ残留物は、コルクをしっかりと固定するために必要な二重交差鉄線を保持する役割も果たします。これにより、水浴の熱作用に耐えることができます。もう一度繰り返しますが、コルク詰めには細心の注意を払いすぎることはありません。保存対象物から空気を徹底的に排除するためには、どんなに些細なことでも無視してはなりません。空気は最も破壊的な要因であり、処理過程において最も注意深く対処しなければならないものだからです。[H]

[26]

ボトルがしっかり閉まったら、交差させた鉄線でコルクを固定します。これは簡単な作業で、一度見たことがあれば誰でもできます。

次に、それぞれのボトルを、専用のキャンバス地または粗い麻布の袋に入れます。この袋は、ボトル全体をコルクまで包める大きさです。この袋はマフ型で、両端が同じように開いています。一方の端には、溝に沿って紐を通し、クラウンピースほどの幅の開口部を残します。もう一方の端には、ボトルの首に袋を巻き付けるための細い紐を数本付けます。

これらの袋のおかげで、水槽の瓶を詰める際に干し草や藁を使う必要がなくなり、瓶が割れても破片は袋の中に保存されるので、かなりの手間が省けます。[28] 以前私が利用していた藁や干し草の中から瓶の破片を拾い集めるという面倒と数々の不便を経験した。

ボトルの形状と品質、ストッパーとそれに使われる上質なコルクの長さ、コルクの詰め方と結び方、バッグの形状と実用性について述べたあと、次に、鶏肉、狩猟肉、肉、魚などの固形物やかさばる物質を保存するために私が使用する、首の大きい容器、つまりガラス瓶について説明したいと思います。

これらの壺の首の直径は2、3、または4インチで、サイズは大小さまざまです。瓶と同様に、突出した縁が付いており、首を強化するだけでなく、[29] コルクを固定するための鉄線です。これらの瓶の首の内側には、瓶の首の内側にあるのと同様の突出した縁がまだ温室から入手できていません。このため、これらの容器を完全にコルクで塞ぐのはより困難になり、特別な注意が必要です。

コルク自体にも、もう一つの障害がありました。それは、コルクの薄さ(特にコルクが非常に細い場合)と、上向きの気孔が木目と逆向きになっていることでした。そこで、長さ20~24列のコルク片を3~4枚、木目と平行に並べ、気孔が水平になるように、以下の手順で準備したアイシングラスを使って栓を作らざるを得ませんでした。

[30]

よく泡立てたアイシングラスを4ドラム、水8オンスで火にかけて溶かした。溶けたら上質のリネンに通し、再び火にかけて体積を3分の1にまで減らした。その後、良質のフルプルーフブランデーを1オンス加えた。全体を火にかけて、約3オンスになるまで煮詰めた。こうして作った接着剤を小さな鍋に入れ、燃える炭の上に置いた。コルク片を注意深く温めた。それから、ブラシでコルク片に軽く塗りつけ、接着した。栓を構成する各部分がしっかりと固定され接着されたら、栓の両端にしっかりとした糸を結び付け、2週間ほど天日か弱火で乾燥させた。この作業の最後に[31] 私はいつもコルク職人のナイフを使って、適切な形の栓を切り、それを瓶の口にぴったりと合わせているので、一度も不良品になったことはありません。

瓶にコルクを詰め、バットで栓を打ち込み、瓶は常に瓶蓋に立てて置いてから、複合接着剤を使用しました。この接着剤(バーデル氏から教えてもらいました)は生石灰でできており、空気中で水をかけながら消石灰を粉末状になるまで乾燥させます。この粉末は、コルク栓をした瓶に入れて保管し、すぐに使える状態にしておきます。この生石灰を脱脂乳で作ったチーズ(フロマージュ・ア・ラ・パイ)と混ぜてペースト状にすると、急速に硬化する接着剤になります。[32] 沸騰したお湯の熱にも耐えます。

私はこの接着剤で栓の外側全体を塗りつけ、瓶の縁を、栓の上と近くに置いて縁まで垂らした麻と亜麻の細片で覆います。

さらに、鉄線が栓を押さえるのに十分な力を持つように、高さ7~8列、直径16~18列のコルクを、大きな栓の中央に置きます。この大きな栓自体は、鉄線が影響を及ぼさないほど大きいです。この2つ目のコルクを大きな栓の中央に置くことで、鉄線がコルクをしっかりと掴み、栓に十分な強度と堅牢性を与えることができます。

[33]

このようにすべての準備とコルク栓の設置、結束、袋詰めが済んだら、あとは保存の原則、つまり加熱を適切に整えた物質に適用するだけです。これが作業の中で最も簡単な部分です。

瓶や壷などの容器を全てボイラーの中に立てて置き、冷水を容器の口まで満たします。そして、容器の上に載せる蓋をボイラーにかぶせます。蓋の上部を濡れたリネンで覆います。蓋の側面がぴったりとフィットし、湯浴からの蒸発を可能な限り防ぐためです。

ボイラーに燃料が充填され調整されたら、その下で火をつけます。[34] 湯煎が沸騰し始めたら、その影響を受ける物質の必要時間に応じて、同じ熱さを維持するように注意します。この時間が経過したら、すぐに石炭消火器(エトゥフォワ)で火を消します。

火を消してから15分後、コックを使って浴槽の水を抜きます。水を抜いてから30分後、ボイラーの蓋を外します。蓋を外してから1、2時間はボトルを取り出さず、これで作業は終了します。

翌日、あるいは二週間後(それは重要ではないので)に、私はワインと同じように、瓶を棚の上、涼しく日陰の場所に置きます。[35] 遠くまで送るので、棚に置く前に一度空けておく価値があると思います。そうでなければ、この最後の作業は必ずしも必要ではありません。今、階段の下に3年間放置されていたボトルがあります。中身はまるで淹れたてのワインと同じくらい風味を保っていますが、一度も空けていません。

これまで述べてきたことから、食品を保存するには、例外なく、すでに述べた方法と予防措置に従って、空気との接触を徹底的に排除した後、水浴で加熱する必要があることがわかりました。

保存原則は、私が言うように[36] すでに述べたように、その効果は不変です。したがって、品物が損傷したために私が被った損失はすべて、原理の誤った適用、またはすでに指摘した準備過程における不注意や省略以外の原因はありませんでした。今でも、私の作業が完全に成功しないことが時々起こりますが、どんな芸術、あるいは自然哲学のどの分野でも、失敗することなく実験を行う人はいません。したがって、私のような方法に従事する人は、容器やコルク内部の欠陥によって商品が損傷することがないなどとは思わないでしょう。しかし実際には、十分な注意を払えば、このような損失はめったに起こりません。

[37]

§ VI.
ボイラーから取り出されたボトルや瓶を識別する方法。準備過程における不注意、事故、または火災の影響により、ボトルや瓶の中に入っている物質が損失したり、腐敗したりする危険があるボトルや瓶を識別する方法。
どのような種類の作業であれ、作業が完了すると、私はボイラーからボトルや瓶を取り出すときに、すべてのボトルや瓶を一つずつ検査するように最大限の注意を払います。

いくつかのガラスには、水浴中の熱作用によって生じた星やひび割れなどの欠陥、または容器の口が弱すぎる場合の結び付けによって生じた欠陥があることに気づきました。

[38]

他のボトルでは、栓の周りの湿気や、口の近くの小さな斑点に気づきました。これは、水浴の熱によって生じた膨張または拡張中に、封入された物質の一部がにじみ出たのではないかと推測しました。これらは、私が通常思いつく 2 つの主要な観察です。ボトルにこれらのいずれかの外観が見られるときはいつでも、私は常にそのボトルを脇に置き、何も失われないように、その物質をすぐに使用します。

指摘された欠陥の最初のものは、ボトルの品質と元々の構造の悪さから生じています。しかし、2番目の欠陥は、次の4つの原因のいずれかから生じている可能性があります。1. コルクの不良、2. コルクの締め付け不良、3. ボトルの縁に近すぎる位置まで詰めすぎたこと、4. 結び目の不良。これらのうちの1つでも、[39] 欠陥はボトルをダメにするのに十分であり、したがって、欠陥が複雑になると、ボトルがダメになりやすくなります。

湯煎に熱を加える際、私は様々な障害に遭遇しました。特にエンドウ豆を保存する際には困難でした。エンドウ豆はあらゆる物質の中でも最も完全に保存するのが難しいからです。この野菜は、若すぎる、あるいは柔らかすぎる時期に収穫すると水に溶けてしまい、結果として瓶が半分空になってしまい、その半分さえも保存に適しません。そのため、このような状況になった場合は、瓶を脇に置き、すぐにその材料を使用します。エンドウ豆を収穫してから2、3日経つと、熱によって風味が失われ、固くなり、作業前に発酵してしまいます。また、湯煎中に瓶が割れてしまうこともあります。[40] 爆発します。最初の熱に耐えたものはその後壊れるか、または欠陥があります。これは、ボトル内の液体が濁っていることで簡単にわかります。一方、よく保存されたエンドウ豆は液体が透明のままです。

食品の調理において、迅速かつ極めて清潔に調理することを推奨する必要はありません。これは絶対に不可欠です。特に、保存すべき食品そのものに関しては重要です。

私は、プロセスを開始する前にすべての準備を整えるように注意しています。そうすることで、待つ必要がなくなり、プロセスの実行に費やされる時間を最大限に活用できるようになります。

[41]

保存を意図したさまざまな物品に適用した私のプロセスの説明。
§ VII.
茹でた肉。
(ポトフ・ド・メナージュ。 )
鍋に肉を入れ、普通に煮込んだ。4分の3が煮えたら、半分を取り出した。骨は取っておいた。保存しておくためだ。肉が完全に煮えたら、煮汁を濾し、冷めたら瓶に詰め、しっかりとコルクを閉めて紐を結び、袋に包んだ。4分の3が煮えたら取り出した牛肉を瓶に詰め、同じ煮汁を少し入れた。コルクを閉めて、[42] これらを縛り、袋に包み、スープの入った瓶と共に​​大釜かボイラーの中に立てて入れた。このボイラーに冷水を瓶や壷の縁まで満たした。ボイラーに蓋をして、中の容器の上に載せ、水浴からの蒸発をできるだけ防ぐため、濡れた麻布で周囲を覆った。ボイラーを加熱し、水浴が沸騰したら、そのままの火力を1時間保ち、ちょうど1時間後に消火器で消火した。30分後、ボイラーの底にあるコックから水を抜いた。さらに30分後、蓋を外した。1、2時間後、瓶や壷を取り出した。(ただし、この作業の時間は、[43] 翌日、私はコルクにロジン(松脂)を塗り、ボトルや瓶を別の港に送った。

一年と一年半が経った後、スープと煮た肉は、食べたその日に作ったのと同じくらいおいしくなっていました。

§ VIII.
グレービー
12年、すでに港で行われていたいくつかの実験の結果、陛下の船上で病人に栄養補給食を供給するために私が雇われることを期待する理由があった。[44]海洋植民地大臣閣下 のご命令により、私の方法に従って保存された食料生産物について、私は当然期待していた注文に応えるために必要な準備を整えました。その結果、瓶や容器をあまり多く必要とせず、8メス分の物質を1リットルの瓶に凝縮できるようにするために、次のような実験を行いました。一般に、蒸発は凝縮対象物を犠牲にしなければ起こらないため、[私]グレービーソースを作りました。良質の肉と鶏肉2ポンドを1リットルの割合で混ぜました。グレービーソースが出来上がり、[45] 濾して冷ましたものを瓶に入れた。瓶にしっかりとコルクをし、結び袋に包んでから、ボイラーに入れた。牛肉と鶏肉の一番良い部分を4分の1ほど切り分けて取り出した。これらが冷めたら瓶に入れ、同じグレービーソースを瓶に詰めた。これらの瓶にしっかりとコルクをし、紐を結び袋に包んでから、グレービーソースの瓶と同じボイラーに立てて入れた。瓶と瓶の縁まで冷水を満たし、ボイラーの蓋を濡れたリネンの布で覆い、湯煎を温めた。沸騰したら、同じ火力で2時間保温し、前の作業と同じ操作を完了した。

牛肉と鶏肉はよく見つかった[46] 調理され、グレービーソースと同様に2年以上保存されました。

§ IX.
ブロスまたはゼリー。
私はこのゼリーを、医師の処方箋に従って、子牛の足と穂先、赤キャベツ、ニンジン、カブ、玉ねぎ、ネギをそれぞれ適量ずつ使って作りました。火からおろす15分前に、砂糖菓子とセネガルゴムを加えました。出来上がったらすぐに濾しました。冷めたら瓶に入れ、コルクを栓をして紐を結び、袋に包んで湯煎にかけ、15分ほど沸騰させました。こうしてこのゼリーは保存され、[47] 作られたその日と同じように良かった。

§ X.
牛もも肉、羊のフィレ肉、鶏および若いヤマウズラ。
私はこれらの品々を、まるで普段使いのように準備しましたが、調理したのは4分の3だけで、若いヤマウズラはローストしました。冷めたら、それぞれを十分な大きさの瓶に分け入れました。しっかりとコルクを詰め、糊付けし、縛って包み、すべてを湯煎にかけ、30分間沸騰させました。これらはブレストに送られ、そこから4ヶ月と10日間、野菜、グレービー、保存食とともにシー島に送られました。[48] ミルクはすべて箱の中にきちんと詰め込まれています。

開封すると、18 種類の保存食品が試食されましたが、そのすべてが新鮮さを保っており、海上で少しも変化していない物質が 1 つもありませんでした。

これら4種類の食材を使った実験に加え、私が作った2つの料理も加えましょう。一つは鳥のフリカゼ、もう一つはウナギ、コイ、カワカマスのマテロットです。これに甘いパン、キノコ、玉ねぎ、バター、アンチョビを加え、白ワインで味付けしました。フリカゼとマテロットは完璧に保存されていました。

これらの結果は、同じ原則を同じ準備プロセス、同じ注意と予防措置で適用すれば、一般的に[49] あらゆる動物性食品を保存します。ただし、各品目の事前調理では、最大でも4分の3程度までしか調理しないでください。残りの調理は湯煎で済ませることができるためです。

ブロス、グレービー、ゼリー、肉、鶏肉、ハムのエッセンス、ブドウや植物の果汁など、湯煎でさらに1時間煮沸しても何の問題もない食品も数多くあります。しかし、15分、あるいは1分でも煮すぎると大きなダメージを受ける食品もあります。したがって、結果は常に作業者の器用さ、知性、そして判断力に左右されます。[J]

[50]

§ XI.
新しく産まれた卵。
卵が新鮮であればあるほど、湯煎の熱に長く耐えることができます。[51] そこで私は、産まれたその日のうちに卵を取り出し、瓶に入れ、パンのすりおろしを詰めて空洞を埋め、遠くへ持ち運んでも割れないようにした。瓶にコルクをしっかりと詰め、紐を結び、糊付けするなどして、適切な大きさのボイラーに入れた。[K] 75度の熱を与えます。[L]撮影後[52] 湯煎を火か​​らおろし、水が指を入れられるくらい冷たくなったらすぐに卵を取り出した。それから卵を取り出し、6ヶ月間そのままにしておく。6ヶ月経ったら卵を瓶から取り出し、冷水に入れて火にかけ、75度まで温めた。トーストしたパンに浸して食べるのにちょうど良く、調理した時と全く同じ新鮮さだった。スライスしてフリカーゼにする固卵については、湯煎を80度まで温め、沸騰し始めたらすぐに火からおろす。

§ XII.
ミルク
私は牛から搾ったばかりの牛乳を12リットル取り、それを湯煎で濃縮した。[53] 牛乳を3分の2の量まで煮詰め、頻繁に上澄みを取り除いた。それから布巾で濾した。冷めたら、冷却中に浮いてきた上澄みを取り出し、通常の方法で瓶詰めした。その後、湯煎にかけて2時間煮沸した。数ヶ月後、クリームが分離し、瓶の中で薄片状に浮いていることに気づいた。この不都合を回避するため、湯煎で濃縮した同量の牛乳で2回目の実験を行った。前回の3分の1ではなく、半分に減らした。次に、このように煮詰めた牛乳に、産みたての卵8個分の黄身をよく溶きほぐしたものを加えた。全体を火にかけて30分ほどよく混ぜ合わせ、完成させた。[54] 前回と同じ実験を行った。この方法は見事に成功した。

卵黄がすべての粒子を完全に融合させたため、1年後、いや18ヶ月後でも、牛乳は瓶詰めした時と同じくらい新鮮な状態を保っていました。最初のものも2年以上保存できました。フレーク状のクリームは火にかけると消えてしまいました。どちらも同じように沸騰に耐えました。その後、どちらからもバターとホエーが得られました。様々な実験と化学分析を行った結果、ホエーの方がはるかに優れており、パリでコーヒーと一緒に飲むための最高級クリームに匹敵することがわかりました。

[55]

§ XIII.
クリーム。
前夜の牛乳から丁寧に抽出したクリーム5リットルを用意した。湯煎で4リットルに濃縮し、上澄み液は取り除かなかった。上澄み液は、後で濾布で濾すため、取り除き、冷ました。冷却中に浮いてきた上澄み液も取り除いた後、通常の手順で半分ずつ瓶に入れ、湯煎で1時間煮沸した。

2年後、このクリームはまるでその日に作ったかのように新鮮でした。それで美味しいフレッシュバターを作りました。半リットル のクリームから4~5オンスのバターができました。

[56]

§ XIV.
ホエイ
通常の方法でホエーを少し作りました。澄ませて冷ましたら、瓶などに入れて、沸騰させた湯煎に1時間入れておきます。ホエーがどれだけ澄んでいても、湯煎にかけると熱によってチーズの粒子が剥がれ落ち、沈殿してしまいます。この方法で2~3年保存しましたが、使用する前に濾して非常に透明になるようにしました。緊急の場合は、ホエーを丁寧にデカンターで濾すだけで十分です。

[57]

§ XV.
野菜について
気候の違いにより、異なる国の農産物の収穫時期が早かったり早かったりし、品質、種類、名称も異なるため、[M] オペレーターは自分が住んでいる場所の状況に注意を払います。

パリとその近郊では、6月と7月はグリーンピース(petits pois verts)、小豆(petites fèves de marais)、[58] アスパラガス(アスペルゲ)も保存します。これらの野菜は、後期になると暑さと乾燥に非常に弱くなります。8月と9月には、アーティチョーク(アーティショー)、インゲン豆(インゲンマメ)、カリフラワー(シューフルール)を保存食にします。

一般的に、保存する予定の野菜は、できる限り最近収穫したものを使用し、できるだけ早く準備して、いわば花壇から水槽まで一歩で済むようにする必要があります。

§ XVI.
グリーンピース。
(プティ・ポワ・ヴェール)
クラマートとクロシューは私が特に好きなエンドウ豆の2種類です[59] 後者は最もジューシーで甘く、最も早く収穫できるエンドウ豆です。ただし、ミショー(ヘイスティングス)は最初のエンドウ豆ですが、この種は保存には適していません。私はエンドウ豆があまり若く柔らかくないうちに収穫します。なぜなら、作業中に水に溶けやすいからです。中くらいの大きさのエンドウ豆を収穫します。その頃はより完璧な状態になり、はるかに素晴らしい味と香りがします。収穫後すぐに殻をむきます。大きなエンドウ豆を分けて瓶詰めします。瓶は前述の台の上に置きます。瓶を振ることで、できるだけ多くのエンドウ豆が瓶に入るようにするためです。瓶にコルク栓をして、涼しく湿った季節であれば、1時間半ほど沸騰させた湯に入れます。[60] 乾燥した暑い季節に数時間、そして私は以前と同じように手術を終了します。

大きめのエンドウ豆と、より繊細なエンドウ豆を分けて瓶に入れ、これも湯せんにかけ、季節に応じて2時間、あるいは2時間半ほど煮沸しました。

§ XVII.
アスパラガス。
(アスペルガー。 )
アスパラガスは、茎ごと、あるいは芽だけを、普段使いのようにきれいに洗います。瓶や瓶詰めする前に、沸騰したお湯に浸し、その後冷水に浸して、この野菜特有の辛味を取ります。[61] 茎は頭を下にして細心の注意を払って瓶に入れ、蕾は瓶に入れます。両方とも十分に水を切った後、瓶にコルクを詰め、湯煎にかけます。沸騰するまでそのまま置いておきます。

§ XVIII.
ウィンザービーンズ。
(プティ・フェーヴ・ド・マレ)
フェーヴォール(小さな乾燥豆)も、それに似たジュリエンヌも、保存には適していません。私はウィンザー豆、つまり熟すと親指ほどの太さと幅になるソラマメを使います。小指の先くらいの大きさに小さく摘むのは、[62] 皮ごと保存します。皮は空気に触れると茶色く変色するので、私は豆を殻から取り出したらすぐに瓶詰めするようにしています。瓶がいっぱいになったら、豆を台座の上で優しく振り落として瓶の隙間を埋め、それぞれの瓶に少量のセイボリーを加えます。そして、すぐにコルクを閉めて、湯煎で1時間煮込みます。この野菜は、素早く収穫、下ごしらえ、保存すると白く緑がかった色になりますが、作業が遅れると茶色く硬くなります。

[63]

§ XIX.
皮をむいたウィンザービーンズ。
( Fèves de marais dérobées )
ウィンザー豆を皮を剥いて保存するために、私は豆を大きめに、せいぜい1.5センチくらいの長さに収穫します。皮を剥き、少量のセイボリーなどと一緒に瓶詰めし、湯せんにかけて1時間半煮ます。

§ XX。
フランス産の豆。
(インゲン豆)
スイスの豆に似たバヨレットという名前で知られる豆は 、保存に最も適した種類である。[64] 緑色で、鞘付き。均一性と最高の味を兼ね備えています。豆は普段使いと同じように収穫します。紐を通し、瓶に詰めます。瓶の隙間を埋めるように、台で丁寧に振ってください。瓶にコルクを詰め、湯煎にかけます。1時間半煮沸します。豆がかなり大きい場合は、縦に2~3等分に切ります。そうすれば、湯煎に1時間以上入れる必要はありません。

種子や豆そのものを保存するインゲン豆の種類の中で、ソワソンインゲン豆は当然優先されるべきです。それがないため、私は入手できる他の種類のインゲン豆の中でも、最良のものを選びます。殻が黄色くなり始めたら収穫します。そして[65] すぐに殻をむいて瓶詰めし、湯煎して2時間煮ます。

§ XXI。
アーティチョーク。
(アーティショー。 )
アーティチョークを丸ごと保存するには、中くらいの大きさに切ります。不要な葉をすべて取り除き、皮をむいた後、沸騰したお湯に浸し、すぐに冷水に取ります。水気を切ったら、コルクなどで蓋をした瓶に入れて、1時間ほど茹でます。

カットしたアーティチョーク(en quartiers)を保存するには、(良い標本を採取して)分割します。[66] 8つに切り分けます。芯を取り除き、葉はごくわずか残します。沸騰したお湯に浸し、その後、新鮮な水に浸します。水気を切ったら、鍋に入れ、新鮮なバター、調味料、上質なハーブと一緒に火にかけます。半分ほど味がついたら火から下ろし、冷まします。瓶に入れ、コルクを栓で塞ぎ、紐で縛り、蓋をして、湯煎にかけ、30分ほど煮ます。

§ XXII.
カリフラワー
(シューフルール)
カリフラワーもアーティチョークと同じように沸騰したお湯に浸し、[67] 摘み取った後、冷水でよく洗います。よく水を切ったら、コルク栓をした瓶などに入れます。湯煎して30分ほど煮沸します。

季節は変化し、乾燥した時期もあれば湿潤な時期もあるため、季節に応じて必要な火加減を検討し、調整する必要があることはすぐに明らかになります。この状況への配慮は決して無視してはなりません。例えば、涼しく湿潤な年には、野菜はより柔らかくなり、火の作用に対してより敏感になります。この場合、湯煎の時間は7~8分短くする必要があります。一方、乾季には野菜がより硬くなり、火の作用をよりよく吸収するため、7~8分長く茹でる必要があります。

[68]

§ XXIII。
栗色。
(オセイユ)
オセユ(カタバミ)、ベルダムを集めます[N] ノワレ(ビート)、レチュ(レティス)、セルフイユ (チャービル)、シブール(青ネギ)などを適量加える。これらを丁寧に摘み、洗い、水気を切り、みじん切りにしたら、全体を錫メッキした銅の容器で煮込む。これらの野菜は、保存食として家庭でよく行われるように、乾燥させて焦がしてはならない。この程度の煮込み量が最も適している。このようにしてハーブを準備したら、土器か石器に入れて冷ます。その後、[69] 口の広い瓶に詰め、コルクなどで栓をして、スイバを湯煎で煮沸します。この時間で、スイバは10年間そのままの状態を保ち、まるで庭から採りたてのように新鮮に保たれます。この方法は、家庭や病院、民間、軍人にとって、間違いなく最良かつ最も経済的な方法です。とりわけ海軍にとって非常に有利です。こうして調理されたスイバは、まるでその日に調理したかのように新鮮で風味豊かな状態でインドから持ち帰ることができるからです。

§ XXIV.
ホウレンソウ、サッカリー、その他のハーブ
(エピナールとチコリー)
スイバとサクソリーは、まるで日常的に使うかのように調理されます。新鮮な状態では、[70] むしり、湯通しし、冷まし、搾り、細かく刻んで瓶詰めし、湯煎で15分ほど煮るなどしました。

ニンジン、キャベツ、カブ、パースニップ、玉ねぎ、ジャガイモ、セロリ、カルドン・デ・エスパーニュ(Cardons d’Espagne)、赤ビート、そして一般的にすべての野菜は、単に湯通しするか、スープで調理して容器から取り出してすぐに使えるようにするか、同じように保存することができます。前者の場合、私は野菜を湯通しし、少量の塩を入れた水で半茹でにします。その後、水から取り出して濾し、冷まします。その後、瓶に入れて湯煎します。ニンジン、キャベツ、カブ、パースニップ、赤ビートは湯煎したまま1時間煮ます。玉ねぎ、ジャガイモ、セロリは[71] など、30分ほど煮ます。野菜をスープにする場合は、肉入りでも肉なしでも、普段通り調理します。4分の3が茹で上がり、下ごしらえと味付けが終わったら、火から下ろして冷まします。その後、瓶などに入れて、湯せんで15分ほど煮ます。

§ XXV.
ジュリエンヌと呼ばれるスープ。
ニンジン、ネギ、カブ、スイバ、インゲン豆、セロリ、グリーンピースなどを使ってジュリエンヌを作ります。これは、ニンジン、カブ、ネギ、インゲン豆、セロリを通常の方法で切ります。[72] 野菜を丸いものや長いものなど、小さく切ったもの。よくむしって洗った後、大きめの新鮮なバターと一緒に鍋に入れ、火にかけます。半分ほど火が通ったら、スイバとグリーンピースを加えます。全体が煮えたら、このために用意した美味しいグレービーソースと、良質の肉や鶏肉で野菜を湿らせます。全体を30分煮ます。その後、火を止めて冷まします。ジュリエンヌを瓶などに入れて、湯煎で30分煮ます。このようにして作ったジュリエンヌは、2年以上保存できます。

ジュリエンヌ・オ・メグルも同様の方法で調理しますが、グレービーの代わりに、野菜をよく煮込んだら、インゲン豆か野菜スープで湿らせます。[73] レンズ豆、または大きなグリーンピースを保存しておき、同じように湯煎で30分ほど煮ます。

§ XXVI。
野菜スープ。
(クーリス・ド・ラシーヌ)
いつもの方法で野菜スープを作ります。スープは濃厚なので、1リットルの瓶に2リットルの水を加えて12人分の料理を作ります。スープが冷めたら瓶に移し、湯煎で30分ほど煮ます。

[74]

§ XXVI.
愛のリンゴ。
(トマテ、オ・ポム・ダムール。 )
熟しきったラブアップルを、美しい色に染まった頃に摘み取ります。洗って水気を切った後、細かく切り、錫メッキした銅の容器で火にかけて溶かします。よく溶けて3分の1の量になったら、粒が残るくらいの目の細かい篩で濾します。全体が濾れたら、煎じ液を再び火にかけ、最初の量の3分の1になるまで濃縮します。その後、石鍋で冷まし、瓶などに入れて、湯煎で一度だけよく煮詰めます。

[75]

私はまだラブアップルの花で実験をしていませんが、この新しい方法が、わずかな費用でラブアップルの花からも大きな価値を引き出す手段を提供することは間違いありません。

§ XXVIII。
ハーブと薬用植物。
( Plantes Potageres et Médicinales )
枝と花がいっぱいに咲いたミント(メンテ・ポワヴレ)を瓶に詰めました。瓶にもっとたくさん入れられるように、棒でかき混ぜました。しっかりとコルクを閉め、湯煎で軽く煮沸しました。完璧な保存状態でした。

同じことがすべての[76] 束ねて保存する植物。実験者は、実験対象となる各植物に与える必要のある熱量を計算する。[お]

[77]

§ XXIX.
ハーブのジュース
私はレタス、チャービル、ボリジ(ブーラッシュ)、野生のサッコリー(チコレ・ソバージュ) 、クレソン・ド・フォンテーヌなどの植物のジュースを非常に良く保存することに成功しました。通常の方法で準備・精製し、コルク栓をして湯煎で一度煮沸しました。

[78]

§ XXX.
果物とそのジュース
果物とそのジュースは、準備プロセス、特に湯煎に熱を加える際に最大限の迅速さを必要とします。

果実を丸ごと、あるいは四つ割にして保存する場合、完全に熟したものは避けるべきです。水に浸すと溶けてしまうからです。同様に、季節の初めや終わりに収穫するのも避けるべきです。収穫の最初と最後は、季節の盛り、つまり各種の収穫の大部分が同時に熟している時期に収穫されたもののような、上品な風味も香りもありません。

[79]

§ XXXI。
束になった白と赤のカラント。
(グロセイユ ルージュ エ ブランシュ アン グレープ)
白スグリと赤スグリを別々に、そして熟れすぎないものから摘み取ります。一番良いものを、一番細い房のまま集め、瓶詰めします。瓶の隙間を埋めるために、台座の上で丁寧に振り落とすように注意します。それからコルク栓をして、湯煎にかけます。湯煎は注意深く見守りながら行います。沸騰したらすぐに火を止め、15分後にコックなどを使って湯煎の水を抜きます。

[80]

§ XXXII.
白と赤カラントの皮をむきます。
(グロゼイユ ルージュ エ ブランシュ エグルネ。 )
白と赤のカラントを剥ぎ取ります。すぐに瓶詰めし、房のまま保存するのと同じ注意を払って作業を終えます。茎は必ずカラントジュースにエグミを与えるので、房のままよりも剥ぎ取ったカラントを多く保存します。

§ XXXIII.
チェリー、ラズベリー、桑の実。
(セリーズ、フランボワーズ、ミュール、カシス)
私はこれらの果物が熟しすぎる前に収穫します。そうすれば、搾り取られる可能性は少なくなります。[81] 作業中は、別々の瓶に入れ、椅子の上で瓶を軽く振る。コルクを詰めるなどして、カラントと同じ手順で、同じ注意を払って仕上げる。

§ XXXIV.
レッドカラントジュース
熟した赤スグリを集め、目の細かい篩で絞ります。篩に残った皮を圧搾機にかけ、皮に含まれる果汁をすべて抽出し、これを先ほどの果汁と混ぜます。全体に少量のラズベリー果汁を加えて香りをつけ、この煎じ液を以前よりも目の細かい篩で濾します。果汁は瓶詰めなどします。[82] そして、皮をむいたカラントなどと同じ注意を払って、水浴にさらします。

ホワイトカラントとバーベリー(エピーヌ・ヴィネット)のジュース、ザクロ、オレンジ、レモンのジュースについても同様の手順で進めます。

§ XXXV.
イチゴ。
(フレーズ)
私はイチゴについて様々な実験を試みましたが、その香りを得ることができませんでした。砂糖に頼らざるを得ませんでした。そこで、イチゴを絞って濾し、[83] まるで氷を作るかのように、ふるいにかけて濾しました。1ポンドのイチゴに、半ポンドの粉砂糖とレモン半分の果汁を加えました。全体を混ぜ合わせ、煮出した汁を瓶に入れてコルクで蓋をしました。沸騰するまで湯煎しました。この方法は、色を除けばあらゆる点で非常にうまくいきました。ただし、色はかなり薄くなっていましたが、それは補うことができます。

§ XXXVI。
アプリコット。
(アプリコット)
食卓では、野生のアプリコットと庭のアプリコット(l’abricot commun, et l’abricot péche)が、どちらも野外で自由に立っている木から採れた最高の種類です。[84] 保存用:私は通常、この2種類を混ぜて使います。前者は後者の糖分を補い、後者は熱による溶解度が高いからです。ただし、注意点として、庭桃は野生桃よりも湯煎に数分短く浸けておくようにしてください。つまり、湯煎が沸騰し始めたらすぐに庭桃から火を離し、野生桃は湯煎が完全に沸騰するまで火を放っておきます。

アプリコットは熟しているものの、やや固い状態で収穫します。指で軽く挟んで種が実から離れる感覚がわかる程度です。収穫したらすぐに半分に切り、[85] 種を取り除き、ナイフでできるだけ丁寧に皮を剥きます。瓶の口の大きさに合わせて、半分または四分の一に切り分けて瓶に入れ、便器の上で振って空いた穴を埋めます。瓶1つにつきアーモンドを12~15個入れます。コルクを詰め、湯煎して一度だけ沸騰させます。カラントなどを準備するときと同じ注意を払って、すぐに火を止めます。

§ XXXVII。
桃とネクタリン。
(ペッシュ、ブルニョン。 )
グロス・ミニョンヌとカランデは 、最も風味と香りが調和した桃の2種類です。[86] これらが足りない場合は、入手できる最善のものを入手します。

ネクタリン(ブルニョン)は桃よりも熟したものを摘みます。熱に強いからです。一方、保存性を高めるため、皮はそのままにしておきます。ネクタリン、桃、アプリコットの保存にも、同じ手順で行います。いずれの場合も、カラントの房を保存するときと同じように、湯煎の様子を注意深く見守ります。

§ XXXVIII.
グリーンゲージのプルーンとプラム。
(プルーン・ド・レーヌ・クロード・エ・ミラベル)
私は種も茎も含めた緑の果実を丸ごとプルーンにしました。[87] 他の大きなプラムも同様に、そしてペルドリゴンやアルベルゲも非常にうまくいきました。しかし、大きな果実を丸ごと保存するには、いくつかの不都合があります。大きなプラムは、たとえ大きな瓶に入れても、ほとんど入ることができません。なぜなら、果実を振っても完全に潰してしまうので、空洞を埋めることができないからです。また、湯煎の熱を加えるとプラムが縮んでしまい、瓶は半分空っぽになってしまうのです。

その結果、私は費用がかかりすぎるこの方法をやめ、種を取り除いた大きなプラムを半分に切って保存するようになりました。これは最も簡単で経済的な方法です。大きなものを入れるのに十分な大きさのコルクは非常に高価で、コルクが非常に良質な場合は希少です。容器も[88] 首が細いものや中くらいのものはコルク栓をしっかり締めやすく、結果的に作業も確実になります。ミラベル(小さな白いプラム)やその他の小さなプラムは、茎を取り除いた後、種を入れたまま準備します。こうすることで瓶を振って閉じやすくなり、瓶の中に隙間がほとんど残りません。一般的に、これらのプルーンを保存する際は、丸ごとでも半分に切っても、アプリコットや桃の項で述べたのと同じ手順、注意、そして配慮を守っています。

§ XXXIX.
あらゆる種類の梨。
梨の皮をむき、4等分に切り、種と[89] 殻をむき、瓶などに入れて湯煎にかけます。加える熱量には細心の注意を払います。普段生で食べる種類の梨の場合は、湯煎が沸騰するほどの熱量にならないように注意します。普段煮込んだり茹でたりする梨の場合は、湯煎で5~6分煮込みます。木から落ちた梨の場合は、15分ほど茹でます。

§XL。
栗、トリュフ、キノコ。
(マロン、トリュフ、シャンピニオン。 )
私はナイフの先で栗の先端を刺し、まるでローストするつもりであるかのように[90] それを瓶に入れて、湯煎で一度煮沸します。

トリュフをよく洗い、ブラシで 土をすべて取り除いた後、ナイフで上部を優しく切り落としました。それから、首の直径に合わせて、丸ごと、またはバラバラにして瓶に入れました。残りはバラバラにして瓶に入れました。全体をしっかりとコルクで塞ぎ、湯煎で1時間煮沸しました。トリュフは健全で、最近収穫されたものである必要はありません。

キノコは、形が整っていて、しっかりとした、新鮮なものを苗から取ります。皮をむいて洗った後、バターか上質なオリーブオイルを少量加えた鍋で火にかけ、キノコから水分を出します。[91] 煮詰まった液体が半分になるまで火にかけておく。取り出して鍋に移し、冷ましておく。その後瓶詰めし、湯煎で一度しっかり煮る。

§ XLI.
ブドウまたはブドウ果汁
1808年の収穫期に、私は黒ブドウを注意深くブドウの木から摘み取り、腐ったブドウと緑のブドウを取り除き、残りのブドウを茎から剥がした後、細かいふるいにかけて絞り、その後、ふるいに残った果皮を圧搾機に入れて残りの果汁を抽出しました。そして、ふるいと[92] 圧搾して一つの樽に詰め、24時間そのまま置いてから瓶などに入れ、湯煎で一度煮沸した。作業が終わると、瓶をボイラーから取り出した。火の作用で、醸造中にわずかについたブドウジュースの色が沈殿し、真っ白になっていた。それから、ワインのように棚に並べて実験室に置いた。

私は1809年9月10日に、内務大臣閣下によって指名され、業界で最も著名な人々から構成された特別委員会の前で、これらすべての実験を繰り返しました。

私が始めた新しい実験は、[93] 私がさまざまな目的について作成しようとしている他の研究と同様に、その結​​果について話すことができるようになったらすぐに出版する予定の回想録で詳細を説明するつもりです。

保存された物質の利用方法について。
§ XLII.
肉、狩猟肉、鶏肉、魚介類。
下味をつけ、湯煎で茹でた肉は、適度に加熱調理すれば、使うときには適度に温めるだけで、スープと肉(ポタージュ・エ・ブイユ)の両方が出来上がります。

[94]

より経済的に、そして必要な瓶や容器の数を減らすためには、私が既に指摘したように、まずは良質のグレービーソースを作るのが良いでしょう。牛肉とグレービーソースは温めるだけで、グレービーソースに水を半分か3分の2加えるだけで美味しいスープが出来上がります。

このように、1リットルのグレービーソースが入った瓶に 、使う時に2リットル の熱湯を注ぎ、少量の塩を加えるだけで、12杯分のグレービーソースを作ることができます。このように、非常時や暑い天候に備えて、特に田舎では食料の調達が非常に困難な場合でも、わずかな費用で食料を備蓄しておくことができます。

すべての肉、鶏肉、狩猟肉、魚、[95] すでに述べたように、調理過程で4分の3のドレッシングがかけられ、残りは湯煎で煮込まれた状態であれば、容器から取り出してすぐに食卓に出せる程度に温めることができます。例えば、瓶や壷から取り出した材料に、十分なドレッシングがかけられていなかったり、湯煎で十分な熱が与えられていなかったりした場合は、すぐに火にかけて不足分を補います。したがって、調理者が適切な味付けとドレッシングを施して調理に十分な注意を払っていれば、その後の使用はいずれにせよ簡単で便利です。温めるだけで済み、必要であれば冷たくして食べることもできます。

[96]

このように調製・保存された物質は、想像されるほど開封後すぐに消費する必要はありません。容器から取り出した食料は、抜栓後8~10日経っても消費できます。[P]必要な量の食料を取り出したらすぐにコルクを締め直すように注意する。また、予想される消費量に応じて、容器のサイズを1リットルから25リットル以上まで簡単に調整できる。

[97]

§ XLIII.
肉および鶏肉から作られたゼリー。
良く調理され保存されたゼリーは、注意深く小分けして瓶から取り出し、冷たい料理の付け合わせに使用できます。また、ゼリーが入っている容器の栓を抜いてから、湯煎に溶かすこともできます。その後、ゼリーを皿に注いで再び凝固させてから使用できます。

様々な状況下で、料理人はソースを作るのに必要な材料が不足することがある。しかし、肉、鶏肉、ハムなどのエッセンスと、よく保存・調理されたゼリーがあれば、あっという間に材料を揃えることができる。

46ページで指摘されているように調製され保存されたスープまたはゼリーは[98] 瓶の中に入っているまま冷たいまま食べるか、または、経験者ならそれぞれの状況に応じて適切だと判断できる割合で熱湯を多めまたは少なめに薄めて食べる。

§ XLIV.
牛乳とクリーム
すでに指摘した方法で準備され保存されたクリーム、牛乳、ホエイは、新鮮なときと同じ方法、同じ日常的な目的に使用されます。

クリームと牛乳がこのように完璧に保存されるので、デザートクリームやアイスクリームに使われるものも同様の方法で保存できるのは間違いありません。これらは、よく準備され、[99] 瓶詰めする前に、ボトルの栓を抜いた状態で湯煎で軽く温めるだけで、容器からスムーズに取り出せます。こうすることで、クリームやアイスをすぐに作ることができます。

§ XLV.
野菜
前述のように、野菜を水洗いせずに瓶詰めし、湯煎で完全に加熱した野菜は、瓶から取り出してすぐに使えるように下処理をする必要があります。この下処理は季節や、各自の好みや好みに合わせて行います。瓶の洗浄には注意が必要です。[100] 野菜を瓶から取り出すときに、野菜が柔らかくなるように、取り出しやすくするために、瓶にぬるま湯を入れ、最初の水を切った後、野菜をもう少し熱い2番目の水で洗い、水を切ったら、肉または野菜のスープの準備をします。

§ XLVI.
インゲン豆
(インゲン豆)
インゲン豆(インゲン)は、保存過程で十分に茹でられていない場合は、少量の塩を加えて、新鮮な水で茹でるように茹でます。アーティチョーク、アスパラガス、カリフラワーなど、インゲン豆によく起こります。十分に茹でられていれば、鍋から取り出すとすぐに[101] 瓶はお湯で洗うだけで、あとは野菜スープや肉スープを作るときに使えます。

私は白インゲン豆を同じ方法で茹でます。十分に煮えたら、火から下ろして沸騰したお湯に30分、あるいは1時間ほど置いて、より柔らかくします。その後、スープ用に準備します。

§ XLVII.
エンドウ豆、豆類など
グリーンピースは様々な調理法で調理されます。旬の時期に調理がまずかったら、料理人が責められます。しかし、冬に美味しくなかったら、保存した人が責められます。[102] 最も頻繁に発生するのは、使用される材料、つまり質の悪いバター、あるいは油や脂の劣化です。油や脂は、不注意や節約によって使われます。また、調理時間が2時間も早すぎる場合もあります。火にかけている間に鍋の底にこびりついてしまい、焦げた油に変わってしまったバターの匂いを漂わせながら出されることもあります。あるいは、不注意に、あまりに多くの作業を強いて行う場合もあります。このようにして、グリーンピースが水に浮いている状態で食卓に運ばれてくるのを目にすることになりますが、人それぞれ好みがあります。以下は私の例です。

エンドウ豆を洗ってすぐに水切りをします(この野菜もウィンザー豆も水に浸したままにしておくと、[103] 風味を損なわないように、まずは豆を鍋に入れ、良質の新鮮なバターを少量加えて火にかける。パセリとチャイブを少々加える。バターで数回炒めた後、小麦粉を少々まぶし、すぐに豆の深さまで熱湯を注ぎ、水分を補給する。こうして15分ほど煮込み、ソースがほとんどなくなるまで煮る。塩と少量のコショウで味を調え、火にかけたまま煮詰める。煮詰まったらすぐに火から下ろし、ナッツ大の新鮮なバターを1かけ、豆1本につき大さじ1杯の粉砂糖を加える。火に戻さずにバターが溶けるまでよく混ぜ、よく温めた皿にピラ​​ミッド型に盛り付ける。[104] 徹底的に。火にかけている時に豆に砂糖を加え、一度だけ茹でると、豆が固くなり、ソースが流れ出して豆をまとめることができなくなるのを何度も経験しました。ですから、砂糖と最後のバターは盛り付ける直前まで入れないように細心の注意を払うべきです。これが豆を美味しく仕上げる唯一の方法です。夏でも冬でも、豆の中にソースが混ざってはいけません。

グリーンピースには、多くの人に好まれる別の食べ方があります。それは、グリーンピースを水で茹でるだけです。茹で上がったら水を切って、良質の新鮮なバター、塩、コショウ、砂糖を混ぜ合わせ、弱火で炒めて出来上がりです。[105] 非常に熱い皿に直接盛り付けます。豆が調味料と一緒に沸騰しないように注意してください。沸騰するとバターが油に変わり、グリーンピースが水に溶けてしまいます。

私は、グリーンピースを調理するときと同じ手順と注意で、皮つき、皮なしを問わず、小豆のウィンザー豆を調理します。

私は、肉入りスープにも使える大きな塩漬けグリーンピースを使った、素晴らしいスープ・メグルを作ります。アスパラガス、アーティチョーク、カリフラワーなどは、洗った後、通常の方法で下ごしらえをします。グリーンピース、インゲン豆、インゲン豆、そしてあらゆる種類の野菜は、すぐに使う場合と同様に、4分の3を茹でて同時に味付けをし、冷めたら瓶などの容器に移します。[106] コルクなどで密封し、湯煎で30分煮沸します。こうすることで野菜は保存状態が良くなり、すぐに食べられるようになります。温めるだけですぐに食べられます。また、冷めても食べられる場合も少なくありません。こうすることで、陸路や水路での旅行におけるあらゆる困難を解消できます。

§ XLVIII.
ホウレンソウとサッカリー
ほうれん草とサクサクはいつものように、野菜スープか肉スープに使います。1リットル入りのボトル1本に、ほうれん草かサクサクの辛さに合わせて2~3品入っています。一部だけ使いたい時は、コルクを詰め直します。[107] 別の日まで取っておくボトル。

§ XLIX.
野菜スープ
保存したジュリエンヌ1リットルの入ったボトルを空にし 、少量の塩を入れた熱湯2リットルを加えると 、12 人または 15 人分の料理が出来上がります。

ジュリエンヌだけでなく、レンズ豆、ニンジン、タマネギなどのスープであるクーリ・ド・ラシーヌも上手に調理すれば、非常に経済的で、あっという間に素晴らしい料理が出来上がります。

オートミール、米、スペルト小麦、セムリア小麦、春雨などのすべての澱​​粉質物質、そして一般的にペースト状にできる栄養価の高いものすべて[108] 消化が容易で、保存処理をする前に、野菜や肉のスープ、さらには牛乳で調理して味付けすることができ、海上や軍隊で必要なときに使用できるようにします。

§ L.
トマトとハーブ。
保存したトマトやラブアップル も、旬の新鮮なものと同じように使います。瓶から取り出したら、適度に温めて味付けするだけで十分です。

指摘した方法で保存したスイバは、瓶から取り出した時点では、6月の新鮮なスイバと全く変わりません。私も同じように使っています。

[109]

ミント( menthe poivrée)や束にして保存できるその他の植物については、料理人はハーブのジュースと同様に、それらの適切な使用法を知っています。

§ LI.
プリザーブドフルーツ、マーマレードなど
私が指摘した方法で保存した果物を活用する方法は、まず、果物を瓶詰めのまま、砂糖を加えずにそのままフルーツ瓶に入れることです。多くの人、特に女性は、果汁そのままの果物を好むからです。同時に、果汁入りの果物を好む人のために、グレープシロップや粉砂糖を入れた別の瓶も用意します。[110] 経験から、グレープシロップは砂糖よりもはるかに果物の香りと心地よい酸味を保つ効果があることがわかりました。これは、果物の保存食を作るための非常にシンプルで経済的な方法です。果物と砂糖の配合は、それぞれの好みに合わせて調整できるので、より便利です。

  1. 砂糖漬けのコンポート(コンポート・シュクレ)を作るには、保存した果物を1ポンド用意します。果物の種類は問いません。瓶から取り出し、果汁とともに漉し器に入れ、火にかけて、グレープシロップ4オンスと混ぜます。沸騰し始めたら火から下ろし、表面に当てた茶色の紙で泡を取り除きます。漉し終わったら、果物を取り出します。[111] シロップを優しく濾してフルーツ瓶に入れます。火にかけてシロップを半分まで煮詰めた後、瓶の中のフルーツにかけます。こうして保存したフルーツは十分に甘く、旬のフルーツで作ったジャムと同じくらい上品な風味です。

3d. チェリー、アプリコット、グリーンゲイジ、洋ナシ、桃、ミラベルなどをブランデーで保存するには(コンポート・ア・ロー・ド・ヴィー)、保存した果物1ポンドを果汁ごと鍋に入れ、火にかけ、さらにブドウシロップ1/4ポンドを加える。沸騰したら、しぼりかすを落とす。その後、果物をシロップからそっと取り出し、瓶に入れる。シロップが4分の1の量になるまで火にかける。その後、火から下ろし、良質のワインを一杯加える。[112] ブランデーを加え、全体を混ぜ合わせたら、瓶の中の果物に熱いシロップを注ぎます。果物にシロップがよく浸透するように、瓶はしっかりと閉めます。

塩漬けした梨や桃は、シナモン風味のブルゴーニュワインのコンポートやコンポート グリルを作るのにも使えます。

4.アプリコット、桃、グリーンゲージ、ミラベルなどを使ったマーマレードを、以下の手順で作ります。保存した果物1ポンドに対し、グレープシロップ0.5ポンドを用意します。全体を弱火で煮詰め、沸騰させないようにスプーンでよくかき混ぜます。マーマレードが少しとろみがついたら、取り出します。煮詰めの少ないものが一番美味しいからです。[113] 保存された果物は、必要なときにすぐに菓子を作ることができるので、少し煮るだけでいつでも新鮮で優れた品質の果物が手に入ります。

§ LII.
カラントジャム
この保存された果物の果汁を使ったカラントジャムの作り方は至ってシンプルです。カラントジュース1ポンドに砂糖0.5ポンドを加え、少量のラズベリーで香り付けします。砂糖を澄ませて溶かした後、カラントジュースを加え、3~4回沸騰させます。スキマーから小さな塊となって落ちてきたら、[114] レンズ豆を火から下ろして瓶などに入れます。

§ LIII.
カラントシロップ
カラントシロップを作るには、まずこの果物の果汁を沸騰するまで温めます。その後、布で濾します。こうすることで、粘液質を取り除いた透明な果汁が得られます。濾した後、果物1ポンドにブドウシロップを半ポンド加え、全体を火にかけます。軽くシロップ状になるまで煮詰めたら、火から下ろし、冷めたら瓶詰めします。

非常にシンプルで経済的な利用方法があります。[115] カラントジュースではなく、酸性飲料を作るのに使われるすべての果物のジュースです。

この方法は、グレープシロップで軽く甘くしたグラスの水に、保存したカラントジュース、あるいは手元にある他の果物のジュースを大さじ一杯入れ、それを別のグラスに注いで飲み干すだけです。この方法の方が便利です。保存したジュースはいつでも簡単に手元にあるし、少額で手に入れることもできるからです。私の家族は15年間、このようにカラントジュースを使う習慣があり、砂糖もシロップも入れずにレモネードの代わりによく作っています。

[116]

§ LIV.
氷。
私は果物の季節によく使われる方法で、私が指摘した方法で保存したカラント、ラズベリー、アプリコット、桃、そしてイチゴのアイスを準備し、作りました。

これらの実験は、ブドウシロップ製造技術の最近の進歩以前に行いました。しかし、現在ではこの技術はほぼ完成に近づいており、メゼのプリヴァ氏が製造する酸性ブドウシロップは、フルーツアイスの製造においてサトウキビジュースの代わりとなるでしょう。すでに述べたように、ブドウシロップはあらゆる果物の香りを保ちます。[117] 砂糖よりも優れています。砂糖は果物の味をあまりにも圧倒してしまうため、フルーツアイスにはレモンを加えて香りを引き立たせる必要があります。酸味のあるブドウの果汁を使えば、レモンは不要になり、フルーツアイスはより濃厚になります。ブドウの甘いシロップは、あらゆるアイスクリームによく合います。

§ LV.
コーディアル。
(リキュール)
私は、保存したフルーツの果汁とグレープシロップで甘みをつけたリキュールやラタフィを作りました。これらは[118] 準備は、最高の自家製リキュールにはまったく及ばなかった。

私が指摘した、あらゆる種類の果物を日常的に保存するための簡単で簡単な方法は、この方法が有用であると同時に、サトウキビ生産物の消費を最も節約できることを十分に証明しています。消費者、特に製造業者は、夏の間、シロップ、リキュール、菓子、そしてあらゆる医薬品のためにこの外国産品を相当量備蓄しなければなりませんが、この備蓄は不要です。なぜなら、季節ごとに果物を十分に備蓄し、指摘した方法で調理すれば、緊急時や特別な場合を除いて、砂糖を加えて調理する必要がなくなるからです。[119] 実際に必要とされる量。結果として、これらの果物の大部分は、砂糖を全く加えず、あるいは少なくとも少量の砂糖を加えて保存されることになるでしょう。その多くはブドウシロップで調理され、サトウキビから得られる砂糖は、必要不可欠な用途、あるいは昔からの習慣に従い、少数の人々の贅沢を満たすためにのみ利用されるでしょう。

すると、豊作の年には、不作の季節に備えて砂糖は必要なくなり、わずかな出費で、2年、3年、4年保存した産物から、豊作の年と同じ楽しみが得られることになる。

[120]

§ LVI.
栗、トリュフ、キノコ。
栗を保存容器から取り出したら、冷水に浸し、少量の良質な塩を振り、フライパンで強火で焼きます。こうすると、栗は最高の味になります。水に浸したり塩を振ったりする手間は省けますが、必ず強火で焼かなければなりません。

私は最近収穫したものと同じように、保存しておいたトリュフやキノコも使います。

[121]

§ LVII.
グレープジュース、またはグレープマスト。
私がブドウジュースを新鮮な状態で保存する最初の実験を行ったとき、私はパルマンティエ氏の「医療と家庭経済における砂糖の主な用途において砂糖の代替品を提供する手段に関する情報」を知りませんでした。[質問] この貴重な情報のおかげで、私は新たな実験を行う手段を得ることができ、6か月前に私が保存しておいた200本のブドウジュースを利用することができました。

  1. パルマンティエ氏の製法に従って、非常に美味しいグレープシロップを作りました。その製法は以下のとおりです。

[122]

グレープシロップの作り方。

「24 [フランス] パイントのぶどうジュースを取り、その半分を火にかけたボイラーに入れます。沸騰させすぎないように注意してください。ボイラー内のジュースが蒸発したら、新しいジュースを加えます。蒸発を促進するために、すくい取って表面をかき混ぜます。ジュースをすべてボイラーに入れたら、すくい取り、ボイラーを火から下ろし、布にくるんだ灰汁、またはホワイティング (ブラン デスパーニュ、スペイン、またはトロイ ホワイト)、または粉末にしたチョークを少量のぶどうジュースで薄めて加えます。泡がなくなるまで、または、いわば、振った液体の中で沸騰するまでです。」

「この方法により、ブドウに含まれる酸が分離され、中和されます。[123] 液体を確かめるには、青い紙を入れ、赤く変色しなければ、もはや酸性ではないと判断できます。沸騰したお湯を少し冷ました後、再びボイラーを火にかけ、溶き卵の白身を2個入れます。12~15平方インチの木枠に固定した毛糸の布で濾し、液体があまり場所を取らないようにします。その後、再び沸騰させ、蒸発を続けます。

「シロップが十分に濃縮されているかどうかを知るには、スプーンから皿の上に少し垂らします。滴がはじけたり広がったりせずに落ちる場合、または分割したときに半分がゆっくりと再び互いに流れ落ちる場合、適切な濃度になっていると推測できます。

[124]

「ニスを塗っていない土器に注ぎ、完全に冷めたら、中くらいの大きさの、清潔で乾燥した、しっかりとコルクを詰めた容器に移し替え、地下室に保管してください。一度開けたボトルは、半分しか残さないようにしてください。使用する際には、ボトルの首を下にして持つように注意してください。」

必要なチョークや灰の量を正確に決めることはほぼ不可能です。南部では北部よりも少量で済みますが、いずれにしても必要以上に使用しても害はありません。なぜなら、それらは他の不溶性塩や上澄み液とともに濾布の上に残るからです。

[125]

これらのシロップを長持ちさせようとして、煮詰めすぎてしまうと、それは間違いです。シロップは容器の底で結晶化し、中身は薄まってしまいます。一方、シロップの蒸発が不十分だと、すぐに発酵してしまいます。このシロップを二度も作ったことがある主婦なら、シロップの適切な煮詰め具合を、規則で教えるよりもよく理解しているはずです。

シロップとラタフィー。

この同じシロップを使って、私はジャムや菓子、シロップ、飲み物、さらには私が話したあらゆる種類の果物のリキュールやラタフィを作りました。

2d. 同じブドウジュースから同じ手順でシロップを作りました。[126] ただし、後者は前者の4分の1ほど煮詰めすぎた。前述のように湯煎に熱を加えても保存できるかどうかを確認したかったからだ。シロップを調合し、冷めたら3つの半分の瓶に分けた。1つはシロップを満タンにし、もう1つは4分の1空けた。瓶にコルクを詰めて密封し、沸騰するまで湯煎に浸けておくなどした。満タンの瓶と半分空けた瓶に違いはなく、3つとも完全に保存されていた。

3d. 保存したグレープジュース6パイントに、古き良きブランデー2パイントと、私が用意しておいたグレープシロップ2ポンドを加えました。この調合物をよく混ぜて、私は[127] 以前に私が作ったアプリコットの核、ミント、オレンジの花、バジアンの煎じ液による4種類のリキュール。よく濾したこれらのリキュールは非常に美味しく、十分に甘かった。

  1. 保存したブドウジュースを2本取り、別の2本のボトルに注ぎ入れました。これらのボトルにコルクを詰め、紐を結び、10日間立てて置いておきました。その間に、最高級のシャンパンのようにコルクが破裂し、同じようにマントが剥がれ落ちました。

5番目。この最後の実験を同じ方法で繰り返した。12日か15日後、瓶の中で発酵の兆候が見られなかったため、空気を入れるためにコルクを抜き、[128] 大さじ一杯のラズベリーの保存果汁を加え、再びコルクを詰めて密封し、さらに8日間立てて置いておきました。8日経つと、白と赤(ル・ブランとル・ロゼ)の果汁のせいでコルクが飛び出しました。ワインは完全にマントで覆われ、味も非常に良く、特に赤はラズベリーの香りがしてとても美味しかったです。

マッシー種のブドウ( セーヌ県とオワーズ県)で行われたこれらの実験の後 、南部の優れたブドウ園では、この方法を用いることで、はるかに貴重な結果が得られる可能性が非常に高い。そこでは、ブドウジュースを凝固させることで、酸味を取り除いて甘いシロップにした後、シロップの濃度まで自由に調整することができる。あるいは、[129] ジュースを火で濃縮する場合、シロップを濃縮するために利用される沸騰の量は、あらゆる準備プロセスにおける水浴中の熱の作用によって、シロップを数年間保存するのには重要ではなくなります。[R]

この方法は簡単に実行でき、実行にかかる費用もほとんどかからず、透明で白いシロップ(黒ブドウから作られたものでも)と、これまで得られなかった糖蜜や焦げた砂糖の風味のない純粋な甘さのシロップが得られます。[130] 通常の方法で煮沸した場合、ブドウシロップは保存に十分な量を保つことができることが分かりました。

このように、この貴重な生産物は、あらゆる大きさの瓶や容器に保存され、ベルジュラック、メーズ、そして南部のすべての製造所から、四季を問わず遠くまで輸送され、私たちの小さなブドウ園の生産物を向上させ、社会のあらゆる階層がこの有用な資源の享受を共有できるようにします。

§ LVIII.
一般的な観察
この実験の詳細から、動物や植物の物質を保存するこの新しい方法は、次のような単純な原理から来ていることは明らかです。[131] できる限り外気との接触を避けた上で、各物質に適度な熱を加える。

この問題の第一印象では、生の物質、あるいは予め火で処理された物質を瓶詰めした場合、瓶内を真空にし、完全にコルクを詰めれば、湯煎で加熱しても同様に良好に保存できると思われるかもしれない。しかし、これは誤りである。なぜなら、私が行ったあらゆる実験から、外気との接触を完全に遮断すること(内部の空気は加熱によって影響を受けなくなるため)と、湯煎による加熱は、どちらも食品の完全な保存に不可欠であることがわかったからである。

[132]

私の目的は、ブルドーの化学者たちのように、動物性物質の構成要素を分離し、動物ゼリーを分離した状態で得ること、そして動物繊維をその汁を取り除いてなめし革に似たものにすることではない。また、携帯用スープを作るのに多額の費用をかけて、胃に栄養を与えるというよりはむしろ胃を荒らすのに適した粘り気のあるペーストや糊を作ることも私の目的ではない。

私の課題は、あらゆる栄養物質を、その特異性と構成特性すべてとともに保存することです。私の実験は、この課題を解決したことを証明しています。[S]

[133]

この問題の解決に、私は全財産と20年間の労力と思索を捧げてきました。同胞と人類に貢献できたことを嬉しく思います。そして、有益な発見を常に奨励する賢明な政府の公正、寛大さ、そして知性に頼ります。その政府は、この保存法の発明者が、その発明自体からその労力と費用の補償を得ることは不可能であることを理解してくれるでしょう。この方法の最大の意義は、それが…に従属している点にあります。[135] 民間および軍の病院、特に海軍のニーズに応えます。これらの公務部門においてこそ、私の活動が国家にとって有益な形で活用され、私の労働の正当な報酬が得られるでしょう。大臣の慈悲深いご見解には万全を期しており、その期待は裏切られることはないでしょう。

§ LIX.
実践上の注意
食品の保存に適したあらゆる種類の瓶やその他の容器は、一度にわずかな費用で済みます。空になったらすぐに洗うように注意すれば、いつでも再利用できます。良質のコルク、紐、針金はそれほど高価ではありません。[136] 方法が判明すれば、製造業者からは適切なボトルや瓶が提供されるようになり、コルクカッターからは、あらゆるサイズがあり適切に準備されたコルクと、使用に適した鉄線が提供されるようになる。

ボトルよりも先にコルクを入手しておくことを常にお勧めします。その場合、コルクのサイズに適した首を持つボトル以外は購入する必要はありません。というのも、私は望むようなサイズのコルクを入手できないことがよくあるからです。

クールシー=ル=シャトー近郊のラ・ガレ、セーヴ、そしてデ・プレモントレの温室では、保存に必要なコルクや瓶の製造が既に行われています。私は特に瓶に満足しており、ここ4年間は瓶を使っています。

[137]

良いコルク栓の締め方は、少しの練習で十分です。12本ものボトルを丁寧に、そして正確にコルク栓を締めれば、その方法に慣れるでしょう。毎日、ワインや蒸留酒が瓶詰めされ、陸路や水路で辺鄙な場所へと輸送されています。40リットルから80リットルもの容量を持つガラス容器でさえ、硫酸やその他の液体を満載して遠くまで運ばれてきました。十分な注意と配慮を払えば、動物や植物の産物をガラス瓶や瓶に保存する場合も同様です。これが最も大切なことです。しっかりとコルク栓を締めなかったために、どれほど多くの貴重な酒類やその他の物質が失われたり、腐ったりしたことでしょう。

私が詳細に述べたすべての実験の後では、誰も疑うことはないだろうが、[138] ご覧のとおり、この新しい方法を採用すると、これまで予想されていなかった最高の経済性と完璧さが融合され、次のような利点が保証されます。

  1. サトウキビから作られる砂糖の消費を大幅に削減し、ブドウシロップの製造工場を最大限に拡張すること。
  2. すべての国とすべての季節で使用するために、いくつかの食用および薬用の生産物を保存すること。これらの生産物は、特定の季節に特定の場所では非常に豊富であるため、価値がないとみなされて無駄になります。一方、同じ物質が別の状況では非常に必要とされるため、2倍、さらには4倍の価値になり、バターや卵のように、いくら払っても入手できないこともあります。

[139]

  1. 民間病院、軍病院、さらには陸軍に最も貴重な援助を調達すること。その詳細はここでは省略する。しかし、この方法の大きな利点は、主に海軍への応用にある。この方法により、長期航海に出る陛下の艦艇に、50%以上の節約で新鮮で健康的な食料を供給することができる。船員は病気になった場合、スープ、様々な清涼飲料水、野菜、果物を供給される。つまり、彼らは様々な栄養剤や薬用物質を摂取することができ、それだけで海上で罹る病気、特に最悪の壊血病を予防または治療するのに十分なのだ。これらの利点は、塩漬けの食料が、[140] そして、何よりも、その悪い性質により、難破や海戦よりも多くの海上での人命損失が発生しています。
  2. この方法により、医学は、あらゆる場所、あらゆる季節に、動物性物質、あらゆる種類の野菜、およびそのジュースを、その天然の性質と効能をすべて保った状態で入手することで、人類を救う手段を見出すでしょう。同じ方法で、医学は、遠い地域の産出物の中で無限に貴重な資源を、新鮮な状態で保存して入手するでしょう。

5.この方法により、フランスの生産物に関連する新たな産業部門が生まれ、それは国内での流通と、生産物の海外への輸出によって、[141] さまざまな国に恵みを与えてきた自然。

  1. この方法により、多くのブドウ園のワインの輸出が容易になります。その場所から移動させなくても 1 年も保存できないワインも、今後は海外に送れば何年も保存できるようになります。

最後に、この発明は化学の領域を拡大し、すべての国々の共通の利益となり、最も貴重な成果を得られることになるでしょう。

非常に多くの利点、そして読者の想像力が容易に想像できる他の無数の利点が、一つの同じ原因によって生み出されるというのは、驚きの源です。

[142]

国民産業奨励協会。
パリ、1809年4月7日。

国民産業奨励協会事務局長より、マッシーの経営者アペール氏へ

お客様、

ギトン=モルヴォー氏、パルマンティエ氏、ブリアット氏が、貴社が保存した植物性および動物性物質について、奨励協会に提出した報告書のコピーを送付いたします。貴社の発見に関する委員会の判断には一切変更はありません。委員会は、いかなる実験も行う権限がなかったと発表しています。[143] あなたが準備した物質がどの程度保存できるかを彼らが検証できるほど十分に正確であったり、十分な時間継続されていたりするわけではありません。しかし、彼ら自身が観察したものは、あなたの成功を証明する数多くの決定的な証言によって、彼らが以前から抱いていた意見を形成するのに十分です。

協会は、これほど有益な発見を、それにふさわしい賛辞とともに広く世に知らしめることは、祖国と人類への貢献であると考えています。協会の願いは、皆様の活動が広く社会に受け入れられ、皆様の労働に見合うだけの報いが与えられるよう貢献するならば、実現するでしょう。

[144]

先生、私はあなたに敬意を表し、心からお礼を申し上げます。

MATH. MONTMORENCY、
秘書、その他

[145]

1809 年 3 月 15 日水曜日の行政評議会会議議事録からの抜粋。

植物性および動物性物質に関する特別委員会の名で Bouriat 氏が作成した報告書。Appert 氏が保管。

評議会は、ギトン・モルヴォー氏、パルマンティエ氏、そして私からなる委員会に、アペール氏が提出し、同氏の方法で 8 か月以上にわたって保存された植物性および動物性物質の検査を委託しました。

これらの物質は、

[146]

1.ポトフ[肉や鶏肉などを煮込んだフランスの定番料理]
2.コンソメ、グレービーソース。

  1. 牛乳。
  2. ホエイ。
  3. グリーンピース。
  4. 小さなウィンザービーンズ。
  5. さくらんぼ。
  6. アプリコット。
  7. カラントジュース。
  8. ラズベリー。
    これらの品々はそれぞれ、密閉された土器に収められており、コルクは鉄線で固定され、投石されていた。我々は調査を系統的に進めていく。

ポトフの中には、かなり濃厚なゼリーが入っていて、真ん中に牛肉と鶏肉が2切れ入っていました。全体を適度な温度まで温めると、スープは美味しく、切り分けられた肉は[147] とても柔らかくて、風味もよいです。

コンソメは私たちにとっては素晴らしいものに思えました。15か月前に作られたにもかかわらず、その当時の状態と、同じ日に作りたての場合とでほとんど違いが見られませんでした。

ミルクは黄色がかった色で、初乳や蜂の巣に似ており、普通のミルクよりも濃厚で、甘く、風味豊かでした。これは濃縮によるものです。この種のミルクは、9ヶ月も前に作られているにもかかわらず、パリで売られているクリームの大部分の代わりをすることができると断言できます。しかし、さらに驚くべきことは、この同じミルクが[148] 1ヶ月前に抜栓したパイントボトルに一部を移し、その後ほとんど手を加えずに再栓したのも、ほとんど変化なく保存されていました。最初は多少とろみがついたように見えましたが、軽く振るだけで通常の流動性に戻りました。私がこのボトルのままここに掲載するのは、私が聞いただけでは到底信じ難い事実を、皆さんに納得していただくためです。

その後調べたホエーは、驚くべき特異な外観を呈していた。それは、最近調製したホエーと全く同じ透明度を備えていた。色は濃く、味はより強く、ややとろみが増していた。そして、変化が起きたのだ。[149] 二週間後に空気にさらされると、その速さは鈍くなりました。六週間前に開けた瓶は、時々振られ、コルクの締め方が悪かったため、二週間後まで透明度は失われませんでした。一ヶ月以上経つと、表面はやや厚いカビに覆われていましたが、丁寧に取り除くと、残った部分にはまだホエーの風味が残っていました。

アペール氏の指示に従って丁寧に茹でたグリーンピースとウィンザー豆は、2 つの素晴らしい料理になりました。これらの野菜の通常の旬が遠いため、料理はさらに上品な風味とおいしさになっているようです。

丸ごとのチェリーや4つに切ったアプリコットは、[150] 収穫時の風味は格別だった。アペール氏は、保存用のガラス瓶の中で形が崩れないように、完熟する前に収穫せざるを得なかったのは事実だ。

カラントとラズベリーのジュースは、そのほぼすべての特徴を享受しているように見えました。ラズベリーの香りとカラントのほのかな芳香酸味は完璧に保たれており、色が少し褪せているだけでした。

アペール氏の製法で調製された物質を8ヶ月以上、中には1年以上、あるいは15ヶ月前に調製されたものもあった。例えばホエーなどである。前回の調製時期については、アペール氏の説明しか得られなかった。[151] これらの品物は協会に寄託されてからわずか2ヶ月しか経っていません。しかし、この短い期間でさえ、著者の製法について好意的な評価を与えるには十分です。アペール氏の主張を信頼するのは、より正当です。なぜなら、非常に信頼できる人々が、自らの実験によって、同様の物質が1年以上保存できることを確信しているからです。アペール氏は、私が列挙した品物のサンプルを評議会に提出したに過ぎませんが、彼はさらに多様な栄養物質を調製しています。彼はその製法を私たちに伝えませんでした。

観察。

野菜や動物性物質を自然が作り出した状態でより良く保存する技術は、[152] 薬学と化学の双方の目的を達成するために、様々な手段が用いられてきました。乾燥、アルコール度の高いアルコール、酸や油、糖類や塩類などが利用されてきました。しかし、これらの手段は多くの製品の性質の一部を失ったり、あるいは変化させたりして、もはや香りや風味が認識できなくなることを認めなければなりません。この観点から、乾燥に頼らずに保存したいものに余分な物質を加えないのであれば、アペール氏の方法の方が優れているように思われます。彼が扱う物質は、目立った変化なく非常に高い温度に耐えることができるため、彼の方法の方がはるかに優れていると信じるに足る理由は十分にあります。

[153]

様々な港の知事の依頼により、数名の著名な功績者がアペール氏の製法を検証した。これらの知識豊富な人々による報告書を読むだけで、著者の製法の優秀さを確信できる。

例えばブレストでは、1807 年 4 月 14 日に、海事長官によって任命された委員会が次のように表明しました。

「今述べたすべてのことから、18番の栄養物質はすべて、 1806年12月12日にステーションネア号に積み込まれ、1807年4月13日に下船し、海兵隊員の議長の下、その特別な目的のための委員会によって検査されたことが証明されます。[154] 病院に所属する患者は乗船中に何ら変化がなく、乗船および下船の数回にわたって同じ状態であった。

「アペール氏が検査対象品の保存のために採用した方法は、彼自身が約束した通り成功を収めた。また、彼が非常に容易だと考えている改良と、使用される船舶の数を減らす手段の発見により、これらの措置は国王陛下の船舶やその他の船舶に大きな利点をもたらすだろう。」

県知事によってボルドーで任命された委員会は、次のように断言する。

[155]

アペール氏が準備した品々について、先ほど詳しく説明しましたが、それらは完璧な保存状態にあったこと、使用された手段が異物を加えることなく、アペール氏が発明または改良した方法に基づいており、その影響を受けるものの香りや風味を損なうことがないことをご指摘ください。

アルマンド少将はアペール氏に手紙を書きました。そのコピーを添付します。

「あなたの手紙を私の指揮下にある大尉たちに伝えました。彼らは一昨日、私が14ヶ月前にあなたから購入した野菜を試食しました。その野菜のうち1本は、私のマネージャーが誤って倉庫に置き忘れていたものです。[156] エンドウ豆と豆の収穫が始まったばかりです。役人たちは、あなたが保存した野菜が新鮮だと確信していました。あなたは見事に成功していたので、大量の保存野菜と、瓶詰めのスープ、果物、肉を買おうとしています。私もシーズンの終わりにかなりの量を持っていくつもりです。

船上の病人のための物資を大量に提供することのメリットは計り知れないと確信しております。もし海洋植民地大臣閣下が光栄にも私の意見を伺う機会を頂ければ、政府と病人のために、そして閣下のためにも、この意見を躊躇なく確認させていただきます。この件について閣下とできるだけ早く話し合う機会を設けます。私の深い敬意をご理解ください。

[157]

「エクス島沖に停泊中の帝国軍艦ル・マジェスチュー号に乗艦中。 」

(署名)「アレマン」
「1807年3月7日」

海事長官マーティン中将がブレストのアペール氏に宛てた手紙のコピー。

閣下、昨年4月27日付の貴書を受領いたしました。ご意向に従い、貴書の手順に沿って作成された各種規定の検討結果を海洋・植民地大臣閣下に報告いたしました。

「船員にとって興味深いだけでなく、国家にとっても有益な発見と思われるこの発見を、私はいかなる機会も逃さず公表いたします。敬意を表し、敬意を表します。」

「海軍副提督、海事総督、
(署名)「マルタン」 。
「ロシュフォール、1807年5月22日」」

[158]

これらの報告は、互いに遠く離れた町々で、異なる時期に、異なる人物によってなされたにもかかわらず、ほとんど同じように見える。アペール氏の方法は確実かつ有用であることは明らかである。この方法により、帝国全域で一年中、非常に便利に、その一部にのみ属する産物を楽しむことができ、遠くへ運ばれたり、生育時期が遠く離れたりすることで、変化してしまうことを心配する必要がない。この観点からだけでも、その利点は大きいように思える。そして、料理の技を謳う詩人や愛想の良い作家たちの目に留まった。アペール氏は、[159] 彼らに最も喜ばしく、当然の賞賛を与えました。[T]

この製造法は、果物の使用時に砂糖を節約する点でも同様に価値がある。砂糖を使わずにジュースを消費する瞬間まで保存するため、消費時には少量の砂糖を加えるだけで済む。砂糖を消費する瞬間まで保存するには、2倍の量が必要だっただろう。[160] 同じ果物です。さらに付け加えると、アペール氏の製法は、砂糖で保存するために通常用いられる煎じ液よりも、物質の風味と香りをより良く保存します。毎年、この植民地の産物がいかに膨大な量で様々な果物とその果汁の保存に使われているかを考えると、これは非常に大きな利点と言えるでしょう。アペール氏の設立は、裕福な資本家たちには十分に評価されていないかもしれません。彼らは、もしアペール氏が自らの資源に頼るならば、この事業が徐々にしか得られないであろう望ましい発展をもたらしていたかもしれません。

すでに達成した成功は彼の熱意を高め、彼の見解をさらに推し進める。彼は、最も喜ばしいものを、変わらず伝えることを約束する。[161] 境界線を越えた我が国の土地の産物。彼は、インディアン、メキシコ人、アフリカ人、そしてラップランド人の享受を増大させ、我々が自然の状態で受け取りたいと願う無数の物質を遠隔地からフランスに輸送することを意図している。

すでにいくつかの船上で行われた実験により、船員の中の病人はアペール氏の調理法に十分満足するだろうことが証明されている。この調理法は、病人に必要に応じて良質の肉やスープ、牛乳、酸味のある果物、さらには壊血病予防のジュースまでも入手する手段を提供する。アペール氏はこれらも保存できると保証している。

乗組員全員に必要な肉の積み込みに関しては、[162] 長い航海では、必要なボトルの数が多いことが少々難点のようです。しかし、アペール氏は、より壊れにくく、より大きな容器を選ぶことで、この不便さを回避する方法を見つけるでしょう。

アペール氏が保存し、当協会に送付された資料について、当協会は、いずれも良質であり、何ら不都合なく利用できると評価しました。植物および動物の保存技術をこれほどまでに進歩させた著者に、協会は深く敬意を表します。目的達成のために尽力された彼の熱意と無私無欲の姿勢に、心から敬意を表します。

商業関係がより容易になると、アペール氏は[163] 彼自身の才能と忍耐力以外何も必要とせず、彼自身にとっても祖国にとっても有益な商業の一部門を確立するだろう。しかし、現時点では、彼の同胞が彼の労働に報いるには、彼の製造業の生産物を利用すること以外に方法はない。

注記:アペール氏は、貴委員会の招待に応じて今後取り組む予定の新たな取り組みの結果を協会に報告するため、協会との関係を維持したいと考えています。

評議会は委員会の意見に同意し、本報告書とその結論を採択し、決議する。[164] それを協会の議事録に掲載するものとする。

(サイン入り)ガイトン・モルヴォー、パルマンティエ、ブーリア。

(忠実なコピーです。)

数学。モンモランシー、秘書。

終了。

印刷:Cox and Baylis、75, Great Queen Street,
Lincoln’s-Inn-Fields。

書籍は、 BLACK、PARRY、KINGSBURY (東インド会社名誉書店、No. 7、Leadenhall Street)
が印刷し販売したものです。

農業擁護—「バッキンガムシャーの副牧師ルーク・ヘスロップ牧師が出版した『耕作地と草地から生産される食料の比較報告書、最近の囲い込みに関する所見付き』に対する回答」グレートブリテンおよびアイルランド連合王国の土地所有者に宛てた切手収集家による署名。8巻3ページ。

アジア年次記録。―アジア年次記録、あるいはヒンドゥスタンの歴史、およびアジアの政治、商業、文学の概観。第11巻。1809年。E.サミュエル著。1ポンド2シリング、半綴じ。第12巻。1810年版は印刷中。

完全なセット、11 巻、9ポンド、 14セント、半綴じ、または任意の 1 巻を入手できます。

ブルック著『セントヘレナ島の歴史 ― ポルトガル人による発見から1806年までのセントヘレナ島の歴史。付録付き。許可を得て、イギリス東インド会社総務局長殿に献呈。セント ヘレナ政府書記官THブルック著。8巻10ページ、 6ページ。

ロイヤル 8vo. 15 sのコピーがいくつか。

ウィリアムソンの農業機械論。農業機械論、すなわち、農業に関連する乗り物、用具、機械の様々な特性と力の解説。これまで公に紹介されたことのない、様々な改良点や発明も掲載。これにより、多くの不便が解消され、欠陥が修正される。全体を分かりやすく構成し、20枚の銅版で図解入り。バース・アンド・ウェスト・オブ・イングランド協会に献呈。トーマス・ウィリアムソン大尉(名誉会員)著。『東洋の野生のスポーツ』『数学の簡略化』『東インド航海術』の著者。8巻、10ページ、 6ペンス。

ウィリアムソン著『東インド会社の軍人のための完全ガイド』—東インド会社の文民、陸軍、海軍に勤務する紳士のための『東インド会社の軍人のための完全ガイド』。『東洋の野生のスポーツ』の著者、トーマス・ウィリアムソン大尉著。全2巻、全8冊、1ページ、 8ページ。

ブキャナンのマイソール紀行― マドラスからマイソール、カナラ、マラバール地方を巡る旅。インド総督ウェルズリー侯爵の命を受け、マイソール国王の領土、および東インド会社がティプー・スルタンから戦後および戦前の戦争で獲得した地域における農業、芸術、商業の状況、宗教、風俗、慣習、自然史、民俗史、そして古代遺物の調査を主な目的として遂行された。著者はフランシス・ブキャナン(医学博士)。王立協会会員、ロンドン古物協会会員、カルカッタ・アジア協会会員、ベンガル植民地の東インド会社医療部会員。東インド会社取締役閣下のご厚意により出版。地図および多数の版画による図解入り。全3巻、4~6ポンド、 6シリング。

ロイヤル 4to. 9 l. 9 s のコピーが数部あります。

バーダーの村の説教集、あるいは家族、学校、宗教団体のための短く平易な説教集。ジョージ・バーダー牧師著。全6巻。各2シリング。すべて別売り。

同じく、8声部でそれぞれ3秒ずつ。

脚注:
[あ]月芸術・製造局の相談窓口。

[B]約500ポンドです。

[C]船員に与えられる塩漬けの肉は、壊血病の主原因の一つであると思われる。肉の発酵を妨げるのと同じ原因が、消化を困難にするのである。少量の塩は腐敗を阻害するかもしれないが、過剰かつ頻繁な塩の摂取は、体内の小血管に大きな閉塞を引き起こすに違いない。そして、こうした閉塞は、高齢の船員が必ずしも完全に噛み切れるわけではない乾燥野菜やビスケットを消化しなければならない人々の胃に、必ず過度の負担をかけることになる。消化不良と小血管の閉塞は、時に口内潰瘍や斑点を引き起こし、壊血病の兆候となることがある。—デュアメル著『サンテ・デ・マリン』

[D]La Société d’Encouragement pour l’Industrie Nationale。

[E]個人の家庭での使用や小規​​模な処理の実施には、冬の間家族の消費用に食料を熟成させる国内のどの家庭にも見られるような容器やその他の便利な設備以外は何も必要ないことは明らかです。

[女性]大型ボイラーに広口コックが必要な理由は、常に加熱されたストーブの上に置かれる大量の水を冷ますには時間がかかりすぎるからです。また、一方で、物質を長時間熱にさらしておくと、物質に大きなダメージを与えることになります。したがって、一般家庭では、水が瓶の縁まで達する限り、大鍋や土器を湯煎として問題なく使用できます。十分な高さの容器がない場合は、瓶を湯煎に横にして入れ、瓶が割れないようにしっかりと詰めるようにしてください。私はこの方法で多くの実験に成功しました。コルクは外側に破裂しやすいですが、瓶がしっかりとコルクで塞がれていれば、何も心配する必要はありません。たとえば、さまざまな物質の断片でできた栓で塞がれたボトルやその他の容器を横向きに置くのは、この種の栓に対する火の作用がより強力であるため、お勧めできません。また、容器がいかにしっかりとコルクで塞がれていたとしても、危険を冒すのはお勧めできません。

小型のウォーターバスは、どこにでも設置でき、いつでも取り外せるので便利です。すぐに冷たくなります。指を入れられるくらいまで水が冷めたらボトルを取り出し、操作を終了します。

[G]フランスの1 リットルは、英国の計量単位ではワインの約 2 パイント半に相当します。

[H]多くの人は、コルクをボトルの口まで押し込めば、うまくコルクが閉まったと考えますが、これは大きな間違いです。逆に、コルクがバットの打撃に耐えられず、ボトル内に押し込まれてしまった場合は、コルクを引き抜いて新しいものと交換することをお勧めします。つまり、ボトルの口を下にして回しても酒が漏れないからといって、コルクの深さが非常に浅いボトルはうまくコルクが閉まっていると考えるのは誤りであり、粗悪なコルクの使用と相まって、多くの損失をもたらします。注意深く判断力を持ってコルクを閉める人は、コルクがバットの打撃に耐えることで作業がうまく行われたと確信し、ボトルの口を下に向けて回すことなど考えません。さらに、コルクにできた穴や、どんなに上質なコルクであっても内部に存在する可能性のある隠れた欠陥についてよく考えてみてください。そうした欠陥によって空気が入り込む可能性があるのです。最高級のコルクだけを使用し、その目的のために機械で十分に圧縮した後、さらに中央が非常に圧縮されるよう密にコルクを詰めることの妥当性を確信するためです。

こうすることでのみ、頻繁に起こる損失を防ぐことができます。損失の原因は、多くの場合、コルクの締め方が悪かったこと以外にありません。なぜなら、不注意にコルクを締めてもすぐにボトルが動かない場合は、空気がコルクの内側の隙間に浸透する時間がなかったためです。実際、同じ樽から汲んだワインの品質はどれほど異なることでしょう。そして、内容物が多少なりとも失われたボトルに、私たちはどれほど多く出くわすことでしょう。

[私]ゼリー、肉のエキス、氷の実、携帯用スープなどは、動物の柔らかい部分や白い部分から作られ、高価な蒸発法と、鹿角やアイシングラスを使ったストーブでの乾燥法で保存されるが、風味はなく、焦げた味やカビの生えた味以外の何物でもない、単なる人工的な食物である。

[J]有名なチャプタルは、その著書『化学元素 序論』の第cxxxi ページで次のように述べています。「工場では実験の気まぐればかりが聞かれますが、この漠然とした言い回しの起源は、職人たちがその技術の真の原理を知らないことにほかなりません。自然はいかなる識別原理にも従わず、不変の法則に従うからです。工場で使用している死んだ物質は、意志の及ばない必然的な効果を発揮し、したがって気まぐれを持つこともありません。手作業の技術者に言いたいのは、自分が作業する物質をよく理解し、自分の技術の原理をより深く研究しなさい、そうすればすべてを予見し、予測し、計算できるようになるだろう、ということです。作業を暗闇の中での手探りにし、成功と失望を繰り返す落胆させるものにしているのは、まさに自分の無知なのです。」

実際、自らの技の原理とその適用結果を完全に理解した上で作業を進める作業者は、作業の失敗を決して気まぐれのせいとは考えず、むしろ原理の適用において不可欠な予防措置を怠ったためと考えるだろう。そして、その失敗は、より適切な計算を行い、準備工程を改善するための指針となるだろう。自らの原理から生じる結果は不変であると確信している作業者は、あらゆる種類の損失と損害は、原理の適用における誤りからのみ生じることを理解している。

[K]この操作を大規模、つまり大型のボイラーで実行すると、非常に高い正確さが要求されます。なぜなら、このようなボイラーでは、必要に応じて設定したり取り外したりできる小さな水浴よりも、適切な熱度を正確に制御することが困難になるからです。

[左]つまり、リアミュールの80 、または華氏の 200は、同様に、リアミュールの 80、または下記の沸点は華氏の 212 です。T.

[男]このため、翻訳者は言及されている野菜の本来の名称を付記しています。著者が言及している果物や根菜類の中には、この国で同一とみなされているものと必ずしも一致しないものがあるかもしれません。品物自体にどのような特徴があったとしても、保存処理にはほとんど影響しません。T.

[N]フランスのスープの材料として非常によく使われるベラドンナの一種。T.

[お]水を使って植物の果汁を抽出する方法は、多かれ少なかれ不便です。揮発性が高く蒸発しやすい成分を含む果汁は、温水であっても無限に失われます。特に、水温が高すぎる場合や、植物が長時間消化された場合には、その損失はさらに大きくなります。

香りの強い野菜を浸出させるのは、その香りを保つためであり、植物が持つ抽出成分を水に吸収させないためではありません。したがって、お茶やコーヒーは浸出法で作られます。しかし、コーヒーの香りを捉え、保持するために用いられる古今東西の理論や新しい器具は、依然として非常に不十分です。

蒸留によって植物の香りを抽出するためにしばしば用いられる沸騰法は、密閉状態を保つために用いられるあらゆる装置にもかかわらず、ほとんどの場合、生成物の性質を破壊します。

水によって抽出された成分は、この最初の操作によって損なわれるだけでなく、エッセンスを形成するために通常行われる蒸発の後も、ほとんどその力を保持しません。したがって、抽出物は植物性および動物性物質の可溶性および栄養成分の外観を示すだけです。蒸発によってエッセンスを形成するために必要な火は、それを含む物質の香りとほぼすべての特性を破壊してしまうからです。

[P]委員会の名においてブリアット氏が全国産業振興協会に提出した報告書を参照のこと。牛乳とホエイのハーフボトル2本は、20日から30日間抜栓された後、少量のコルクで再栓されていたが、それでも両物質は全ての特性を保持していた。

[質問]“ L’instruction sur les moyens de suppléer le sucre dans les principaux uses qu’on en fait pour la Médecine et l’économie domestique ; par M. Parmentier .”

[R]原文はより正確で、フランスで酒類の密度を確かめるために使われていた計器、Aræometer について言及していますが、少なくともブドウシロップへの応用についてはこの国では知られていません。その文言は、“ les degrés de cuisson de 25, 30, ou 33 à l’aréométre, devient indifférent pour conserve ces sirups ,” &c. T.

[S]賢明な理解力を持つものの、おそらくは体系化と偏見の精神に陥ってしまった一部の人々は、私の方法に反対し、不可能であるかのように主張しました。しかし、健全な自然哲学の原理に基づけば、私の方法によって食物が保存される理由を説明することは難しいのでしょうか?水浴に熱量、つまり熱を加えることで、発酵成分が穏やかに融合し、発酵の支配的な作用が破壊されると考えるべきではないでしょうか?この作用は、少なくとも発酵がある程度速やかに起こるためには不可欠な条件です。さらに、空気がなければ発酵は起こりません。私の方法では空気も排除されているため、発酵が成功する理由は二つあります。その理論は、実際に用いられる手段から自然に導き出されるものと思われます。

実際、私たちがよく知っている古代と現代の食物の保存に利用された方法や実験や観察を参考にすれば、植物や動物の物質の自然な保存でも人工的な保存でも、どこでも火が主役であることがわかります。

ファブロニは、ブドウジュースまたはマストに熱を加えると、この植物動物、特に酵母の発酵が破壊されることを証明した。テナールは、サクランボ、グーズベリー、その他の果物で同様の実験を行った。故ヴィラリス氏と、ブルドーの博学な化学者カザレス氏による、炉を用いて肉を乾燥させた実験も、同様に、熱を加えることで腐敗因子が破壊されることを証明している。

乾燥、煮沸、蒸発、また食物の保存に用いられる腐食性物質や風味物質はすべて、カロリーがさまざまな方法で使用され、同じ効果を生み出すことを示しています。

[T]これらの詩人や文学者は、人を楽しませるために歌を歌う愛すべき人々であり、魅力的な詩『美食』の作者であるベルシュー氏と、 『グルメ年鑑』の著者である。この年鑑は無限のウィットとユーモアで書かれた年刊誌で、革命以来フランスで出版された他のどの趣味の作品よりも高い評価と幅広い人気を誇っている。この2つの作品については、『文学のパノラマ』第7巻、661ページと719ページを参照されたい。『食いしん坊年鑑』は、帝政フランスにおける詩的才能の基準ではないとしても、少なくとも現在の才能が向かっている方向を示している。ナポレオン政権の法律と文学警察は、この方向を必ずや効果的に維持するであろう。T.

転写者のメモ:

テキスト バージョンでは、斜体は アンダースコア で表されます。

欠落または誤った句読点は修正されましたが、古いスペルや珍しいスペルはそのまま残されています。

以下の項目は校正時に指摘され、場合によっては修正が行われました。

トマト 印刷されたままの状態で、本全体にわたって使用されています。
図6の説明。平らなペンチとハサミ 印刷されたままの状態です。
p. xi. 安価なプロセス 印刷されたままの状態です。
p. 2. 髄質(孔組織) これは parenchyma の誤字かもしれませんが、印刷されたまま残されています。
p. 20. シャンパーニュボトルの形状 シャンパンに変更しました。
p. 31. ボトルブーツ これは他のすべての箇所でハイフンで区切られており、変更されています。
p. 47. 4分の3 これは他のすべての箇所でハイフンで区切られており、変更されています。
p. 57. ウィンザービーンズ ウィンザー ビーンズとウィンザー ビーンズの両方が使用され、印刷されたままになっています。
p. 60. アスパラガスをきれいにするのは を as if に変更します。
p. 68. 成分 材料に変更しました。
p. 86. グリーンゲージ タイトルには 2 つの単語がありますが、その他の部分ではハイフンで区切られており、印刷されたとおりに残されています。
p. 95 4分の3 4分の3に変更しました。
110ページ。2. 最初の段落にはラベルが付いていませんが、以降の段落には3番目と4番目とラベルが付けられています。印刷されたままです。
p. 133. 実質的に 実質的に変更されました。
p. 139. 民間の調達 民間調達に変更しました。
*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「あらゆる種類の動物性および植物性物質を数年間保存する技術、第 2 版」の終了 ***
《完》


パブリックドメイン古書『肉抜きレシピ 600選』(1907、1912)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 20世紀冒頭に「菜食主義」運動があったことを本書は教えてくれます。
 西洋先進工業国における人口爆発は、食肉処理場の規模も桁違いにし、その内部の風景が、偶然の目撃者をして、嫌悪を催させていたらしいと見当がつくでしょう。

 原題は『The Golden Rule Cook Book: Six hundred recipes for meatless dishes』、著者は M. R. L. Sharpe です。

 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまに御礼をもうしあげる。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「黄金律の料理本:肉を使わない料理のレシピ 600 選」の開始 ***
[コンテンツ]
新しくデザインされた表紙。
[コンテンツ]
肉食動物とその獲物
肉食動物とその獲物

ステレオ写真より。著作権はUnderwood & Underwood, New York

[コンテンツ]
オリジナルのタイトルページ。
黄金律クックブック
肉を使わない料理のレシピ600選。MRLシャープが考案、収集、編集。新版はリトル・ブラウン社(ボストン)より1912年に出版。
[コンテンツ]
著作権1907、1910、
MRLシャープ
ロンドンのステーショナーズホールで登録

無断転載を禁じます

ケンブリッジ大学出版局(米国)[動詞]

[コンテンツ]
「世界は教えられることよりも、思い出させることが必要なのです」と言ったのはマーガレット・モアです。この本が、多くの人々に、すべての生き物に対する愛を思い出させてくれますように。[ vi ]

[コンテンツ]
そして神は言った、「見よ、わたしは全地の面にある種をもつすべての草と、種をもつ木の実をもつすべての木をあなたたちに与えた。それはあなたたちの食物となる。」

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地を這うすべての生き物に、食物としてあらゆる青草を与えた。そのようになった。

創世記1章29節、30節[ 7 ]

[コンテンツ]
コンテンツ
ページ
導入 11
キッチン 29
ダイニングルーム 35
示唆的なコメント 39
スープ 45
野菜 79
野菜の組み合わせ 167
ナッツ料理 177
ライス、マカロニなど 185
コロッケ 197
ティンバレスとパティ 209
ソース 217
卵 231
チーズ 249
サラダ 257
セイボリー 273
サンドイッチ 281
ペストリー、パティケースなど 287
温かいパン 293
プラムプディングとミンスパイ 299
メニュー 303
索引 315
[ 9 ]

[コンテンツ]
自分が正しいと考える者は、動揺してはならない。

エイブラハム・リンカーン。[ 11 ]

[コンテンツ]
導入
肉食をしない男女が呼びかける、より高次の人道主義への呼びかけに従おうとする人々のために、このような援助を手配することは、愛の労働であった。それは、「道を行く女が間違えないように」領収書を書くという真剣な努力の結果であり、習慣や慣習の流れに逆らうという決して容易ではない仕事と、言葉の使用を汚す動物性によって人間が殺して食べることに慣れてしまった無数の穏やかで従順な生き物のために個々の努力を促すという点で、その誠実さに疑問の余地はない愛である。

ベジタリアンという名称は、動物の肉を食べない人を意味するようになり、何らかの呼称が必要なので、おそらく十分に適切な呼称でしょう。ただし、この用語は元々、無血食をとる人々を指すものではなく、ローマ人にとって強くて精力的な男性を表すラテン語 Homo Vegitusに由来しています。トーマス・ホリヨークのラテン語辞典に与えられているVegitusの定義は、「完全、健全、素早い、新鮮な、活発な、力強い、勇敢な、引き締まった、勇敢な」であり、 Vegitoの定義は「元気づける、再創造する」です。イングランドのメイヤー教授はこれらの定義に次のように付け加えています。「ベジタリアンという言葉は有名な家族に属し、その母と呼ばれてきた野菜は、実際には姪にあたります。」[ 12 ]

残念ながら、この言葉はさまざまな食事理論と混ざり合っていますが、何らかの理由で良心が肉食を非難しているために菜食主義者となった人は、単に身体の病気を治すために肉食を控えている人とは倫理の世界でまったく異なる位置を占めています。

実際、よくあるベジタリアンレストランに通う消化不良の人は、野菜を食品としてどう扱うかを知る機会がほとんどありません。メニューには、いわゆる「肉の代替品」とされる様々な混合物が溢れており、純粋でシンプルな野菜はほとんど置かれていないからです。本書には肉の代替品そのものは掲載されていませんが、多くの人が「生の食品」と呼ぶものを美味しく調理するためのレシピが掲載されています。生の食品とは、血を流さず、したがって食べる前に死んでしまうことのない食品のことです。

また、索引には「ベジタリアン ハンバーグ ステーキ」や「ベジタリアン風ピジョン パイ」などの料理が載っていないこともわかるだろう。これらは、バーナード ショーが生々しく語った「焦げた死体」を思い起こさせ、惹きつけるどころか、むしろ遠ざけるはずである。

私自身と私の家族によって、肉食は健康や体力を害することなく 1 日で安全にやめられることが証明されました。また、この本のレシピで作られた食卓は、その食べ物を与えられた人々を、食べ物がもたらす限り健康で強くすることができることも証明されました。

思慮深く、清潔で、人道的な人々が動物を食べるべきではない理由は数多くありますが、人道的な慈善活動に携わる人々の大多数は、この事実に驚くほど耳を傾けません。何百人もの献身的な働き手が会議を開き、動物のための法律制定に全力を尽くしているのを見ると、驚かされます。[ 13 ]車や船で屠殺場へ運ばれる牛たちの苦しみを和らげるというのに、彼らは偽りの食欲に苦しめられた犠牲者たちの死体から得られる食料を買うために、いまだに精肉店に通っている。ちょっとした思いやりのなさが、どんなに親切な行為でも残酷な矛盾に変えてしまうことがある。かつて私は、エグレットの着用を反対する集会で、ボンネットにエグレットの束を飾って議長を務めている女性を見たことがある。これはまるで、窃盗を非難しながら盗品を受け取っているかのようだ。

私たちの食卓に辿り着くまでの道のりで、怯え、渇きに狂い、苦しむこれらの生き物たちへの、より良い、より優しい扱いを求めて文書を書き、法律を制定し、祈るのは良いことだが、助けるための最も確実で迅速な方法(そしてこれは彼らの苦しみを軽減するための活動を続けながらでも実行できる)は、彼らを餌として食べるのを止めることだ。

人道問題を扱う新聞の最新号には、ある市場で鶏が檻に入れられて苦しんでいることに対する憤慨した抗議記事が掲載され、また別の記事では同じ場所で亀が受けている残酷な扱いを嘆いている。しかし、これらの抗議記事を書いた人々が今でもこれらの生き物を食卓で利用していることを考えると、彼らの優しさを全面的に信じることは必ずしも容易ではない。別の同様の新聞には、毎年「千の丘の上の牛」の優しさと美徳を称える感傷的な絵や詩が掲載されている。一方で、同じ紙面には、牛を最も人道的に殺す方法が書かれており、突然の苦痛のない死の理由として、苦しみが「肉を毒する」と述べられている。

「私たちの四つ足の友達」というお気に入りのフレーズは、食べる側と食べられる側という私たちの認識された関係からすると、むしろ時代錯誤に思える。なぜなら、このフレーズは相互の友情の約束を示すからである。[ 14 ]彼らによって支えられているものは、人間によって不名誉とされている。なぜなら、人食い人種でさえ、敵を食べることより低い地位にはいないと言われているからだ。

私が肉を食べないからといって、肉屋の肉への需要が物質的に減ったようには見えないかもしれませんが、それでも減っているのは事実です。過去7年間、肉食を控えてきたおかげで、屠殺数が少しでも減ったことを嬉しく思います。そして、あの血の海の深さを一滴でも減らすことができたことを嬉しく思います。人間は全地を支配するべきであるという聖書の言葉が、下等動物を食べることの正当化として引用されるのを聞いたことがあります。いつの日か私たちは文明化され、支配とは破壊する権利ではなく、世話、保護、そして守護を意味するという偉大な真理を認識するでしょう。

菜食主義に対する最初の反対意見は、通常、その原則ではなく、その実践に対するものです。肉食を拒否することは不便を招き、「良心のために何も聞かずに、目の前に出されたものを食べる」のが最善だと教えられています。この教えを文字通り信じ、一貫して実践している人の立場は尊重しますが、キリスト教世界でそのような人はどこにいるでしょうか?ペットの子羊の肉を食べたり、馬肉を故意に食べたり、犬を食べる人々やいわゆる人食い人種とこのような食事を共にするよう求められたり、そう感じたりできる人はほとんどいません。主人は、寛大なもてなしの精神で、自分の味覚に最も合う特定の死体だけを確保したかもしれません。しかし、礼儀として、私たちは自分の習慣が慣れ親しんだ種類の肉以外の肉を食べることを強いられることはめったにありません。

田舎でベジタリアンの両親に育てられたアメリカの政治家の有名な話があります。彼はまだ幼い頃、近所の家に食事に連れて行かれました。食事が進むにつれて、大きな皿が運ばれてきました。[ 15 ]部屋に入ると、そこにはこれまでどんなテーブルにも見たことのないものが置いてあった。彼は驚いてじっと見つめ、ついにその類似点を見つけ出して叫んだ。「お母様、あれは死んだ鶏じゃないですか!」 死んだ鶏が食べ物として出されるのをずっと見てきたなら、その死んだものを食べることへの恐怖は習慣では克服できなかっただろう。

友人たちの食卓で私が迷惑をかけることに関しては、たとえ一人でも屠殺場で血に膝まで浸かりながら私の欲求を満たそうと働いている子供がいるという事実に比べれば、取るに足らないことであり、二の足を踏む必要もありません。肉食でない客のために特別な準備がなくても、周到に計画された夕食で誰も飢えることはありません。しかし、もし私の女主人が私が肉を食べないことを事前に知っていて、特別な料理を用意したいと希望しているなら、私は彼女に疑いの余地を与え、彼女が彼女の立場だったら私がするのと同じくらい喜んでそうしてくれると信じています。私たちは友人をもてなすために少しばかりの手間をかけるのが好きです。そして、他人を喜ばせるために費やされる心遣いこそが、もてなしの真の喜びなのかもしれません。

野菜を食べたり、飲んだり、呼吸したりする時、私たちは命を奪っているのだ、と言いたがる別のタイプの反論者もいる。ある友人は、毎日何千もの生き物が不必要かつ残酷に殺されることを冗談のネタにするのはもうやめてしまったのだが、かつて私に、ベジタリアンの利己的な欲求を満たすためにキャベツが受けた悲惨な死を描いたソネットを揶揄して送ってきたことがある。私はこの件に関して良心に何の呵責も感じないが、もし私がこれらの過敏な人々が主張するような気持ちになったなら、その時は「無垢なキャベツ」さえ食べないようにしたい。

繰り返しますが、私たちが飲む水や呼吸する空気中の細菌が、私たちが飲んだり呼吸したりすることによって死ぬのであれば[ 16 ]私は自己非難に耐えません。いかなる善の原理も、人間に不可能なことを要求することはできません。毎日、できる限りの善を行い、避けられる悪を避け、あらゆる困難において二つの悪のうちより小さいと考える方を選ぶこと。これこそが、今日、神の愛でさえ人間に期待していることなのかもしれません。

現代の発展段階においては、蛾やネズミなどを自衛のために殺さざるを得ない場合もあるという不快な事実を直視するのは賢明なことです。しかし、このような状況においても私たちは「最善を尽くす」ことができ、「天使にもそれ以上のことはできない」という言葉は的を射ています。家庭内での配慮によって、こうした必要性は大幅に軽減できます。そして、たとえ私たちの財産を破壊したり、盗みを働いたりする生き物であっても、死ぬことで苦しむことがないように常に気を配ることができます。この点に関して、この記事を読むすべての人に、粘着性のあるハエ取り紙を決して家に持ち込まないように強く勧めます。なぜなら、あらゆる残酷な破壊方法の中でも、このゆっくりとした方法は、不運なハエが必死に逃げようと試みる中でほとんど自らをバラバラにしてしまうほど、最も残酷に巧妙に考案されたものだからです。

菜食主義の提唱者は、「肉食が肉体的な力と勇気と結びつかないのと同じように、野菜食は弱さや臆病とはほとんど関係がない」と真実を述べています。菜食主義者が肉体的に弱いわけではないことは、単なる意見の問題ではなく、日本の巨漢レスラー、古代ギリシャのレスラー、イギリス軍のインド連隊の勇敢さ、肉を買う余裕のない世界の農民、そして何よりも、肉食人間が弱すぎてできない仕事、つまり馬、牛、ラクダ、象を相手に世界中を行進する有名な菜食主義者たちによって証明されています。私たちの最も有名な料理教師であり食品専門家の一人が、つい最近次のような声明を発表しました。[ 17 ]「肉はアメリカ人の急速な発展に必要と思われるが、厳選された野菜の食事は、より大きな健康、肉体的活力、そして精神的強さをもたらすと私は主張しなければならない」これは矛盾しているように思える。なぜなら、アメリカ人であっても、最大の健康、肉体的活力、そして精神的強さをもたらすもの以外の食べ物は必要としないと思われるからである。

ケレスの食卓に着く客たちの精神状態を恥じる必要はない。そこには立派な人々が勢ぞろいしている。「ベジタリアン・マガジン」の表紙を囲む名前のリストには、「アダム、ヘシオドス、ゴータマ、イザヤ、ダニエル、プラトン、ゾロアスター、アリストテレス、セネカ、オウィディウス、プルタルコス、ローマ教皇、スウェーデンボルグ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ヴォルテール、フランクリン、ウェストリー、リンネ、シェリー、トルストイ、そしてオスカル2世」とある。他にはバーナード・ショー、モーリス・メーテルリンク(趣味の登山に耐えるため、持久力をつけるために肉食をやめたと言われている)、リヒャルト・ワーグナー、ブース将軍などがいる。

しかし、結局のところ、肉抜きの食生活を支持する唯一の大きな論拠は人道的なものであり、食卓に並ぶロースト肉を可能にした過程を目にすれば吐き気を催すような男女が肉を食べるために、毎時間行われている残虐行為の恐ろしさを知らない人がいるとは考えにくい。しかし、彼らは畜産場で気絶する子供や、肉屋で虐待される男たちを雇い、肉を買うたびに彼らの賃金を支払っている。真の屠殺者とは、その動物に致命傷を与える者であり、実際にその打撃を与える者ではない。

最近いくつかの畜産場を訪れた男性はこう書いている。「トールの男が[ 18 ]かわいらしい雌牛を。彼の最初の一撃は彼女を倒すことができず、彼女はよろめき、驚きと哀れみの目で彼を見つめた。頭がそのままの姿勢のままでは彼は彼女を攻撃することができず、さらに二、三回、無駄な打撃を与えた後、彼女はまるで「なぜ私をこんなに残酷に扱うのですか?私があなたに何をしたというのですか?」と訴えるように、彼を非難するような目で見つめた。ようやく彼は彼女を倒し、その苦しみから解放した。私はステーキをフォークに乗せるたびに、あのかわいらしい雌牛がぎこちないパウンダーに呆然と頭を上げる姿を目にするだろう。

おそらく、この筆者が豚の屠殺について述べたことほど、忌まわしいものは他にないだろう。しかし、その言葉はまさに真実である以上、読むに値する。なぜなら、肉が食物であるという真実を語る言葉が耳にふさわしくないのであれば、肉 そのものが口にふさわしくないからだ。彼は豚の刺身、皮剥ぎ、そして豚肉へと変化する過程を描写し、こう付け加えた。「豚は冷却室に入り、そこから先は、虫に侵されて再び塵と化さないように全力を尽くす。塩と塩水、煙と冷気が、死体が完全に分解するのを防ぐ。冷蔵庫は一種の煉獄であり、獣は最終的に人間の消化管に墓地を見つけるまでそこに留まるのだ。」それでも、この男は再び「フォークにのった」肉を期待しているのだ!

「コスモポリタン」は、ある屠殺場を毎日通り過ぎる驚くべき行列について次のように注意を喚起している。「1万頭の牛が2頭ずつ15マイルの列をなして行進するのを想像してみてほしい。2万頭の羊がそれに続き、12マイルの道を鳴き声をあげながら進む。その後ろに2万7千頭の豚が16マイル追い立てられる。そして3万羽の鶏が6マイルにわたってコッコッ、ガーガー鳴き、ゴボゴボ鳴きながら後を追う。この隊列はほぼ50マイルに及び、[ 19 ]ある地点を通過するのに二日かかるのに、たった一日で——&Co.の食肉処理場で動物たちが死に追いやられるのを目にすることになる。仏教徒なら、その施設の責任者には相当の責任があると考えるだろう。世界の歴史上、これほどまでに途方もない規模で、これほど科学的なシステムを用いて、無辜の民を虐殺した例はない。

人々は、食用とされる運命にある動物たちの苦しみに対して、驚くほど無関心である。最近、身なりの良い、行儀の良い男たちが、西部訪問から東部へ帰る列車に乗っていた。列車が何らかの理由で停車した時、彼らの会話が同乗者に聞こえてしまった。彼らは畜産場への訪問について話し合っていたのだが、そのうちの一人が、笑い転げながら叫んだ。「旅行中に見た最も滑稽な光景、いや、人生で見た最も滑稽なものの一つは、湯気の立つ豚小屋から逃げ出した豚の悪ふざけだ!」と。豚の尻拭いをしていた男も、あの可愛い雌牛を逃した男と同じくらい、明らかに気まずい思いをしていたようだ。

頭なしの七面鳥や鶏を買うのは、日に日に難しくなっています。昔ながらの斧(我々卑しい男や女は感謝祭のテーブルカードに載せる美しいシンボルだと思っていました)を使わずに、鶏の足を吊るすことで、その繊細な死がもたらされます。想像を絶する恐怖の中、口蓋に切り込みを入れ、血を抜いて死なせた後、子牛や仔牛肉の場合と同様に、しっかりとした白い肉が確保されます。そして、ハエを殺すことさえ耐えられないような可憐な女性たちの食料として、そして悲しいことに、動物虐待防止協会の一部の会員たちの食料として提供されるのです!

鶏の箱一つには私より多くの苦しみが詰まっている[ 20 ]私にとって耐え難い苦しみ。まず捕獲された時の恐怖、次に足を縛られ、狭くて過密な木箱に押し込まれる苦しみ、そして悲鳴を上げる列車での旅、そして太陽の下で喉の渇きに苛まれながら過ごす何時間も、最後に首を捻じ曲げられたり斧で叩きつけられたりするまでの時間。多くの場合、自然死で鶏が販売できなくなる直前に行われる。そして、恐怖と苦しみで毒されたそのような食べ物は、最も繊細で、病人に与えるのにふさわしいと考えられているのだ!

すべての鶏が死ぬ前に同じ苦しみを味わうわけではないからといって、それを食べる言い訳にはなりません。なぜなら、鶏肉が食料である間は、一部の鶏はそれに耐えなければならないからです。機械詰め法によって鶏を肥育するという現代の発明は、イギリスでは「サリー鶏」と呼ばれ、アメリカでは様々な洒落た名前で呼ばれていますが、その真実の記述を読むと気を失いそうになるほど不快です。私たちは、こうした事実を知ると、下等な生き物は私たちと同じ苦しみを味わっていないと考えて、利己的に自分を慰めようとする傾向があります。実際、肉体的であろうと精神的であろうと、どの生き物も全く同じ苦しみを味わうことはありません。しかし、下等な動物や鳥や魚は、恐怖と死の中で、その者が耐えうる限りの苦しみを味わいます。そして、私たちには、自分の快楽のために、いかなる生き物にもこれを強いる権利はありません。

E・ベル氏はこう記している。「人道的な人々が、個人的な安楽や心の平穏を脇に置き、動物の苦痛と流血の深淵を探ろうとした事実は、実に恐ろしい。生きたまま皮を剥ぎ、息を引き取る前に動物を解体する行為は、民間の屠殺場では決して珍しいことではない。」

馬は最も愚かな人でも軽視する財産であるにもかかわらず、街頭で馬が虐待されているのを目にすると、[ 21 ]自然に世話をしようとする動物たちを前に、キリスト教世界に雇われてその最も邪悪な仕事をさせられるという悲惨な運命を背負った冷酷な男たちの手によって、すでに死刑を宣告され、ただ食べ物としか見なされていない不幸な生き物たちに何が起こるかは、私たちには想像することしかできない。

「菜食主義の縮図」という小冊子の中で、CPニューカムは次のように書いている。「我々の反対者は、人間の犬歯と肉食動物の犬歯の類似性を指摘するが、類人猿、馬、ラクダでは犬歯がさらに顕著であることを忘れている。我々は、この挑戦​​を受け入れ、科学の巨匠たちに事実に関する権威ある声明を求める。彼らの間では、コレージュ・ド・フランス自然史教授キュヴィエ男爵が『動物界』第1巻88ページに書いた次の言葉に完全に同意している。『果物、根、そして野菜のその他の多汁な部分は、人間の自然な食物であるように思われる。人間の手はそれらを集めるのに便利であり、短く比較的弱い顎、他の動物と変わらない短い犬歯、そして結核性の頬歯は、人間が草を食べることも肉を食べることも、もしそうならない限り不可能である。 「これらの食物は、以前は調理法によって準備されていました。」同様の意見は、サー・チャールズ・ベルFRS、ウィリアム・ローレンス教授FRS、サー・リチャード・オーウェンKCBFRS、チャールズ・ダーウィン博士、その他多くの人々によって表明されています。

これは、事例を述べる上では興味深いが、議論としてはあまり興味がない。なぜなら、もし私たちが肉食動物として造られ、私たちの知性、私たちの心、私たちの愛と慈愛の能力、そして私たちが最終的に神の子としての完全さを現すという大きな希望を持っているならば、私たちは依然としてより高い法則によって私たちの性向を制御し、もはや肉食動物ではないはずだからだ。[ 22 ]私たちは猿や略奪者、あるいは霊的進化によって高められた他の精神的または肉体的顕現ではありません。

しかし、この人道主義は、屠殺される動物だけでなく、この忌まわしい労働に従事する男女や子供たちも考慮に入れています。西部のある食肉加工場は、1万8千人以上の従業員を雇用していると広告を出しています。これを数千倍にすれば、このように屈辱を受け、残虐な扱いを受けている人間の数を推計することができます。私自身は、家庭において、自分が喜んで引き受けない仕事は要求しないことを誇りとしています。体力が衰えることはあっても、道徳的に、自分が要求する仕事なら何でも喜んで引き受けます。そして、肉を食べることで他人に何を要求するのかに気づいた日から、私は肉を断つようになりました。なぜなら、自分が喜んで引き受けない仕事を他人に要求する道徳的権利は私たちにはない、というより確かな倫理的真実を述べることができるからです。

ヘンリー・ソルト氏はこう書いている。「認められている職業の中で、(絞首刑執行人の次に)最も嫌悪されるのは屠殺者である。数え切れないほど多くの無害で高度に組織化された生き物を、筆舌に尽くしがたい汚さと残忍さの光景の中で殺すという職業が、社会の忌まわしい虐殺者の階級に委ねられ、こうして彼ら自身が悲惨な社会的不正の犠牲者となっているのである。」

今日の殺人者の大部分は、彼ら自身、あるいは彼らの父親が屠殺者であったため、この統計だけでも菜食主義を支持する十分な論拠となります。

肉食という問題における人間の非人道性は、世界中の肉検査官、食品専門家、そして何百人もの医師によって急速に明らかにされつつあります。[ 23 ]結核、ガン、虫垂炎などに関して肉食人種と非肉食人種を比較した統計は、健康だけでなく身体の清潔さだけを気にする人々にとって非常に興味深いものです。

B・W・リチャードソン博士は、『病の分野』という著書の中でこう述べています。「ユダヤ人社会には、動物の食物の検査官として任命された人が数人います。彼らは屠殺場に出向き、動物が屠殺され解体された後、検査にかけます。そして、病気がないことを示す印を付けない限り、その動物はユダヤ人の家庭に入ることが許されません。しかし、ユダヤ人社会以外の家庭にもその動物は入り込んでしまうので、私たち非ユダヤ人は、ユダヤ人が病気の食物として拒絶した食物を、実際に体内に取り入れているのです。」

あるユダヤ教聖職者会の書記が発表した、2つの小規模屠殺場から1年間に得られた統計は次のとおりです。

殺された牛の総数 22,308
病気の 7,885
殺された子牛の総数 3,330
病気の 705
殺された羊の総数 41,556
病気の 13,019
これによると、キリスト教徒の家庭に売られる肉のほぼ3分の1は寄生虫病に汚染されている。動物が癌や結核などで死んだ場合、私たちの法律は死骸から私たちを守ってくれるが、屠殺された場合、病変部は切り取られ、残りは食用として売られる。こうした血が牛肉から絞り出され、愛情深い手によって結核患者や貧血患者の口にガロン単位で注がれているのだ![ 24 ]

真の菜食主義者は、死体から得た獲物、それが羽毛であれ毛皮であれ、それらを飾る姿を目にすることはないでしょう。なぜなら、それらは、心の中でそれらを見る者の目には美しくなく、完全に浄化されることは決してない血で滴っているからです。

ラクダを飲み込みながら「ブヨを濾す」ような者たちは、菜食主義者のキッドグローブと革靴を批判する。しかし、菜食主義者の原則を絶対的に一貫して実行するための完璧な条件はまだ整っていない。菜食主義者の努力は、原則の実現に貢献することであり、まだすべてを実行できないからといって、始めるのをためらうわけではない。革の適切な代替品は作られており、実験によってその価値が証明されているが、まだその製造を正当化するほどの需要はない。

大量虐殺が廃止されれば、地球は下等な動物で溢れかえるだろうと多くの人が懸念している。しかし、人工的で不自然な繁殖が中止されれば、動物の創造物も、すべてのものと同じように、創造主である支配する精神の導きのもと、世界で適切な場所を見つけるだろうと安心して信じることができる。

もし世界がベジタリアンだったら、今日の世界はどんな感じになるだろうか、少し立ち止まって考えてみよう。もし世界がベジタリアンだったら、終わりのない滅びゆく生き物たちの隊列が修羅場へとのんびりと歩いていくこともないだろう。何百匹ものおとなしい生き物が毎日虐殺されるという残酷な仕打ちを受ける男もいないだろう。解剖された死体から食べられる部分を選別し、周囲を真っ赤にする女もいないだろう。死体の内臓の奥深くに立って、役に立つ部分を探す子供もいないだろう。「同情があれば残酷さはあり得ない」のだから、犬が虐待されることも、猫が身勝手に飢えに見捨てられることも、馬が残酷に殴られることも、動物実験を行う者もいないだろう。[ 25 ]地上には見当たらない!下等動物に対して公正であることを学んだ者たちは、人間に対する義務を怠ることはないだろう。そして、 イザヤ書第11章第9節に預言されているこの千年王国には、屠殺場も輸送車も家畜輸送船も空っぽになり、澄み切った空の下、畑や牧草地は人々の食糧を供給するために土地を耕す労働者で満たされるだろう。

MRLS

プロビデンス ハウス、マサチューセッツ州チェスナット ヒル。[ 27 ]

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これほど多くの善良な人々が肉食を続けることがどうして可能なのか私には理解できません。

レオ・トルストイ伯爵。

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キッチン
家の中でキッチンほど念入りな準備を必要とする部屋はありません。適切なものが適切な場所にあれば、キッチンで多くの時間を節約できます。「悪事をするための手段は、悪事を成し遂げさせる」のと同じように、物事をうまく行うための手段は、物事が行われるように導くからです。

家を建てる方には、白いホーロー製のシンクにすることを強くお勧めします。また、砂入り石鹸や研磨石鹸は絶対に使用しないでください。これらの石鹸は仕上げをはがし、清潔に保つのが難しくなります。洗剤の粉末を1箱、シンクの近くに置きましょう。メイドさんが最初に洗剤を探すときに便利です。また、シンク上の小さなフックに、形の異なるシンクブラシを2、3本掛けておきます。シンクの上にホーロー製の石鹸皿を固定し、その左側に、洗った食器を置くための溝付きの少し傾斜した水切り板を設置します。この水切り板の下には、ホーロー製の食器洗い桶と、その後ろにワイヤー製の水切りを掛け、どちらも壁から吊るします。

どのキッチンにも椅子用のレールを取り付け、この幅10インチの板に小さなフックを10~12インチ間隔で取り付けます。これらのフックにホーローのスプーン、ストレーナー、泡立て器、小さな水差し、鍋などを掛けます。これらの底は常に見えるようにし、食器棚の中で見えなくなることのないようにします。ヨーロッパ人は昔から調理器具を[ 30 ]調理器具をキッチン家具の一部として展示すると、調理器具の絶対的な清潔さを無視する誘惑が少なくなります。

私のキッチンの便利さの一つは、鍋蓋用のホルダーです。まさにそんなホルダーを作ろうとしていたところ、6枚ほどの素敵なお皿を飾るために作られたワイヤー製のホルダーがぴったりだと気づきました。このホルダーの一つをコンロの横に掛けておけば、必要な時にすぐに蓋を取り出せます。

キッチンに備え付けられた奥行き16インチ、幅6フィートの戸棚には、キャセロール、ベーキングパン、スパイス缶など、一般的な家庭で必要な物がすべて収まります。私の戸棚もこの信念に基づいて作られたので、もし物が溢れかえっているなら、そこには本来あるべきではない物が入っていると分かっています。少し時間をかけて整理すれば、必要なスペースは必ず確保できます。

図に示されたテーブルは、アメリカのキッチンではよく知られるようになっています。小麦粉などを入れる深い引き出しは、簡単には計り知れない便利さですが、2 つのサイズのペストリーボードが天板の下にぴったり収まるのが一番の特徴です。

小さなハサミが取り付けられたホルダーに掛けられた糸玉、きちんと整えられたカレンダー、注文用の洗えるタブレット、燃えたマッチホルダー、ストーブの近くに固定されたマッチ箱ホルダー、ドアの上または目立たない隅にある小さな鏡、壁掛け時計は、若い家政婦さんに、居間に絵を掛ける前に、台所にしっかり置いておくようにアドバイスするものです。

皿ラックは、古風で装飾的なだけでなく、非常に便利で労力を節約します。すりこぎ棒とすり鉢は、野菜ミルや小さな堅い木の板と同様に、どの台所にも必需品です。[ 31 ]スライスする果物や野菜などを切るためだけにこのナイフを使用すると、通常使用される皿は滑りやすい作業に適した形状や質感ではないため、指を切るリスクを回避できます。

7×9インチくらいの厚いガラス片を、縁を厚手の糊付けした紙か麻布で綴じたものを、料理本の開いたページに置くと便利です。これは、必要なページで本を開いたままにしておくという目的と、小麦粉やバターをつけた指から本を保護するという目的の2つを果たします。

キャセロール、マーマイト、ラメキン、グラタン皿などと呼ばれる小さな土器の皿を豊富に用意しておくと、ベジタリアンのキッチンで特に役立ちます。

家を建てる際は、ストーブを設置する場所に適切なタイルを敷き詰め、ストーブの周囲60センチ以上を覆うようにしてください。床自体はリノリウムで覆うのが最適です。この部屋に色彩豊かなホーロー製品が溢れる昨今、リノリウムを選ぶことでアクセントをつけることができます。こうしてキッチンは、家の他の部屋と同様に、その用途にふさわしい美しい空間に仕上がります。[ 33 ]

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私は15年間、同胞と食事を共にしていません。—バーナード・ショー[ 35 ]

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ダイニングルーム
朝食ルームが使用されていない場合は、ダイニングルームの日の当たる隅、または出窓のある窪みに小さな翼付きテーブルを設置して朝食テーブルとして使用すると、大きなダイニングテーブルで朝食をとるよりも良い方法となり、ほとんどどのダイニングルームにも配置できます。

この部屋に絵を飾るなら、壁に飾るにふさわしい題材として通常選ばれるもの以上にふさわしいものは考えられません。おとなしい鹿が狩り殺され、その肉に犬の牙が既に食い込んでいる様子を描いた版画、同じ鹿の剥製の頭部、足元に吊るされた死んだ魚、アヒル、ライチョウの絵などは、人道的な人々に喜びや食欲を刺激するものではありません。絵を使うなら、残酷さ、流血、死ではなく、生命、喜び、優しさ、美しさを描いたものにしましょう。

ダイニングルームの暖炉
ダイニングルームの暖炉

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国中の最も高貴な人々の中で、

彼は自分を最も小さい者だと思っているかもしれないが、

私が尊敬し崇めるあの男

偏見もなく、恐れもなく、

大都市に敢えて立ち向かう

友のいないすべての獣の友。

ヘンリー・ワズワース・ロングフェロー。[ 39 ]

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示唆的なコメント
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調味料
味付けというテーマは料理においてまさに聖域であり、熟考と試行錯誤を重ねた結果、若い主婦たちが忌み嫌う「味付けは好みで」という表現は、結局のところそれほど悪くないと判断しました。当初はこの料理本にそのような不正確な指示は載せるつもりはありませんでしたが、私より先に料理を手がけた多くの賢明な料理人たちと共に、正確な分量の調味料は成功の妨げになるという結論に至りました。味覚は人それぞれであるだけでなく、調味料を加えるタイミングや調理の速さなどにも大きく左右されます。このことを念頭に置き、また前述の古い表現に対する長年の偏見から、私は妥協し、塩とコショウの分量を明記したくなる誘惑に駆られることが何度もありましたが、たいていは後悔しています。真実は、 「味付けは好みで」できなければ、美味しい料理は作れないということです。そして、このテーマに関する私の結論は、塩とコショウは必要量よりも少し多めに使い、盛り付ける直前にさらに少し加えるのが良いということです。

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測定
これらのレシピでは、量を測る手段としての重量の使用は避けてきました。重量を使用するシステムには利点がないと思えるからです。[ 40 ]イギリスの料理人でさえ、秤は台所の必需品ではないと考え、台所のカップを基準にするという簡素な方法にすっかり夢中になっている。カップは1/2パイント入るので、2カップで1パイント、4カップで1クォート入る。そして、この古い連句には何の欠点も見当たらない。

「1パイントは1ポンド

「周りの世界。」

たいていの場合、それはそうであり、あたかもそれが常にそうであったかのように行動しても、それほど間違うことはないでしょう。

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増粘
ソースやスープにとろみをつけるには、普通の小麦粉はもちろん、コーンスターチも使えます。原則として、これらのレシピでは「小麦粉」とだけ書いていますが、アメリカで入手できない方を混乱させてしまう可能性があるため、必ずしもジャガイモ粉を使うことを推奨していません。ドイツではジャガイモ粉は常に使用されており、入手できる場合は、他の小麦粉よりも野菜ソースやスープにとろみをつけるのに非常に便利です。

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ハーブガーデン
小さなハーブガーデンほど、少しの手間をかけるだけで報われるものはありません。タラゴンを2、3株買って、冬は覆い、秋には葉を摘んで酢を作り、乾燥させます。チャービル、パセリ、タイム、チャイブ、ローズマリーを植えましょう。

窓辺のプランターにパセリやチャイブを保管しておけば、市場で買ったチャイブを鉢に植えて時々水をあげれば、何週間も育ちます。[ 41 ]

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ゼラチン
通常のゼラチンの代わりに、クズウコンまたは純粋に植物性であると宣伝されているゼラチンを使用してください。大さじ1杯を液体1パイント(約450ml)に混ぜるのが一般的ですが、実験が必要です。通常はパッケージに使用方法が記載されています。

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揚げ物用油
ベジタリアンなら、節約に不安のある調理用バターを使わなくても大丈夫です。普段の揚げ物には良質のバターを、揚げ物には良質の食用油かココナッツバターを使いましょう。

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缶詰
缶詰野菜の使用を非難する人は多いようですが、缶詰なしで生活している家庭はほとんどないと思います。私の経験では、最高級の缶詰野菜は、街の市場で買える野菜よりもはるかに甘く、美味しく、実際、より新鮮です。主婦は、自分が好むブランドを把握し、どこで入手できるかを確認することが大切です。小売店で取り扱っていない場合は、通常、保存業者から直接2ダース入りのケースを入手できます。秋に少し手間をかけて貯蔵庫にストックしておけば、「エンドウ豆の缶詰」を時々無作為に注文する代わりに、最終的には時間と手間を節約できます。一流業者が収穫したその日に保管・密封する缶詰野菜には、ビート、エンドウ豆、トウモロコシ、ほうれん草、インゲン豆、トマト、インゲン豆などがあります。[ 42 ]ワックスビーンズ、マッシュルーム、ピメント、オクラ、オクラトマト、アスパラガスなど。特に豆、ほうれん草、ビーツの調理にかかる時間と労力の節約は、検討する価値があります。缶詰は温めるだけですぐに食べられるという間違いを犯しがちですが、缶を開けた瞬間から、家庭で茹でた時と同じように味付けをして仕上げるだけで済みます。美味しい缶詰野菜は簡単には改良できません。私は、いわゆる「新鮮な」野菜ではないという私の主張をなかなか信じてくれないような人たちに、しょっちゅう缶詰野菜を出しています。[ 43 ]

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私はいかなる生き物も不必要に殺したり傷つけたりせず、またいかなる美しいものも破壊しません。しかし、すべての優しい命を救い、慰め、地球上のすべての自然の美を守り、完成させるよう努めます。

ジョン・ラスキン。[ 45 ]

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スープ
ほとんどの澄んだスープは、少量の野菜スープ用着色料(カラメル)を加えることで、色を格段に良くすることができます。ただし、濃すぎると風味が損なわれるので、使い過ぎにはご注意ください。クリームスープはすべてダブルボイラーで調理してください。

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野菜ストック
肉のスープ自体よりも、野菜のスープ、つまり野菜を茹でた水ほど風味豊かなものはほとんどありません。米、玉ねぎ、ネギ、セロリ、豆、キャベツなどを茹でた水は、ベジタリアン料理において貴重なものであり、賢い料理人はスープやソースの風味を高めるために様々な方法で活用します。

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シンプルなコンソメまたはストック
濃厚で透明なコンソメを簡単に作る方法は、ドイツ産レンズ豆1/2カップをよく洗い、水気を切って、大さじ1杯のバターを溶かした鍋で10分間煮込みます。次に冷水5カップを注ぎ、強火にかけ、30分ほど煮立たせます。水気を切り、細かい布巾で濾し、きれいな鍋に戻します。ローリエ1枚、玉ねぎ1枚、クローブ2個、小さじ1/2の塩を加えます。[ 46 ]セロリシードを15分間ゆっくり煮込み、塩とコショウで味付けし、お好みでシェリー酒を少し加えます。

レンズ豆を長く煮ると、スープが濁って濃くなりますが透明ではなくなります。

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透明なブイヨンまたはコンソメ
市販の様々な野菜エキスを薄めて作ると、美味しいだし汁や澄んだスープが作れます。もし入手できない場合は、以下の手順で澄んだ野菜スープを作ることができます。

乾燥豆またはレンズ豆を3カップ洗い、蓋付きの土鍋に10カップの水を入れ、12時間ほど浸します。その後、同じ水をやかんに移し、沸騰するまでゆっくりと加熱します。こまめに泡を取り除き、沸騰させないでください。透明になり、これ以上泡を取り除く必要がないようであれば、玉ねぎ、ニンジン、カブをそれぞれ1カップずつ、パセリ大さじ1杯、塩大さじ1杯、ニンニク1かけ、タイム小さじ1杯など、セロリシード大さじ1杯、ベイリーフ1枚を加えます。

一度沸騰させたら、コンロの後ろで弱火で2時間煮込み、目の細かいザルで濾すと美味しいスープができます。豆などは、パイ生地にしたり、クラストカップにブラウンソースやホワイトソースを添えたり、カレーにしたり、その他様々な料理にお使いいただけます。

濃厚で透明なスープを作るには、鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶かしたら、みじん切りにした玉ねぎ、ニンジン、カブ、セロリをそれぞれ1/2カップ、クローブ2個、パセリ少々を加えます。軽く焼き色がつくまで炒め、その後、スープ6カップを注ぎ、弱火で2時間煮込みます。こまめにアクを取り除き、水を切り、冷ましてから取り出します。 [ 47 ]表面についた油脂を取り除き、澄ましのために、冷めたら軽く溶いた卵黄1個分と卵白3個分を加えます。火にかけて勢いよくかき混ぜ、沸騰の兆候がないか確認します。沸騰したら、沸騰しない程度に温かい場所に移し、30分ほど置いてから、きめ細かな清潔な布巾で濾します。カップで提供する場合は、シェリー酒をグラス一杯加えてもよいでしょう。

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アーティチョーククリーム
キクイモをこそげ取って薄切りにし、カップ 2 杯分作ります。冷水で覆ってください。15 ~ 20 分置いてから、鍋に冷水か牛乳 2 クォート、またはそれぞれ 1 クォートを入れ、1 時間、または完全に柔らかくなるまで煮ます。次に、キクイモを煮たスープ 2 カップで篩にかけ、再び火にかけます。沸騰したら、バター大さじ 1 杯と小麦粉大さじ 1 杯をこすり合わせ、塩小さじ 1 杯とコショウ小さじ 1 杯を加え、約 10 分間煮てから、熱い牛乳 2 カップ、または牛乳 1 カップとクリーム 1 カップを加えます。よくかき混ぜ、一度沸騰させてから提供します。小さじ 1 杯のみじん切りにしたパセリまたはチャイブを加えると、ほとんどのクリームスープの見た目と味が向上します。

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ナスタチウム入りアーティチョーククリーム
前述のレシピのようにプレーンなアーティチョークのクリームスープを作り、濾す前にナスタチウムの葉と花を 1 つまみ加えます。または、代わりに、細かく刻んだこれらを大さじ 1 杯スープに加えてから提供します。[ 48 ]

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アスパラガススープ
アスパラガス1缶分の先端を切り落とし、脇に置いておきます。茎を切り、冷たい牛乳4カップ(または水と牛乳を半々で)を注ぎ、ダブルボイラーで30分ほどじっくり煮込みます。その後、湯切りをし、アスパラガスをしっかりと押して風味を引き出します。鍋に戻し、砂糖小さじ1杯とバター大さじ1杯を加えます。バター大さじ1杯には小麦粉小さじ1杯を加えて滑らかにし、塩コショウで味を調えます。アスパラガスの先端、牛乳1カップを加え、盛り付ける直前にホイップクリーム大さじ1杯を添えます。調理中に、バターで10分間炒めたみじん切りにした玉ねぎ大さじ1杯を茎に加えることもあります。

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大麦とトマトのスープ
トマト缶1缶とみじん切りにしたスペイン産玉ねぎ1個を15分ほど煮込み、金網でこす。パールバーリー大さじ3杯、バター大さじ1杯、コショウ少々、塩少々を加え、パールバーリーが柔らかくなるまで1時間煮込む。盛り付ける前に味を調える。

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黒豆スープ
豆2カップを12時間以上浸し、水を切り、冷水8カップに入れる。クローブ3個、オールスパイス3個、胡椒3個を加え、塩をしっかり振り、弱火で2時間煮る。濾し器でこすり、再び温める。とろみをつける小麦粉大さじ1、バター大さじ1、水を混ぜ、沸騰したらスープに加える。味を整え、器に注ぎ、きれいにスライスしたゆで卵1個と半分の卵を入れる。 [ 49 ]レモンの種を取り除いたスライスを12枚。このスープはシェリー酒を1杯加えるとさらに美味しくなります。トマトチャツネやウスターソースを数滴加えても美味しくいただけます。

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ベルギースープ
さいの目に切ったカブ 4 カップをバター大さじ 2 杯とともに鍋に入れ、弱火で 10 分間かき混ぜます。次に、水 2 カップ、ブラウン シュガー小さじ 2 杯、たっぷりのコショウと塩を加えてかき混ぜ、さらに 10 分間煮込みます。小麦粉大さじ 1 杯でとろみをつけた牛乳 2 カップを加え、絶えずかき混ぜながら沸騰させ、クルトンを添えて提供します。

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プレーンビーンズスープ
乾燥豆を2カップ洗い、12時間以上冷水に浸します。使う前に濾し、8カップの冷水で覆ってください。火にかけて弱火で4時間煮込み、濾し器で濾して豆のストックに加え、塩大さじ1、コショウ小さじ1/2、バター大さじ1で味を調え、さらに10分煮込みます。1.5cm四方のトーストを添えて、サーブします。

[コンテンツ]
ブラウンビーンズスープ
ブラウンビーンズ1カップとドイツレンズ豆1/2カップをよく洗い、鍋にたっぷりの冷水、みじん切りにした玉ねぎ2~3個、セロリ1本、ローリエ1枚を入れ、3時間煮込み、濾します。サラサラとしたスープにしたい場合は、果肉を潰さないでください。[ 50 ]濾し器で濾しますが、とろみがお好みであれば、とろみをつけてください。濾したスープを鍋に戻し、とろみをつける小麦粉小さじ1杯でとろみをつけます。これで美味しいスープストックの出来上がりです。そのままでも、グリーンピース、さいの目に切ったニンジン、スパゲッティ、ソース数滴、シェリー酒、トマトケチャップ、カレー粉などを加えてアレンジしても美味しくいただけます。盛り付ける前に塩コショウで味を調えてください。

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小豆スープ
小豆2カップを8時間以上浸し、大きめの鍋に入れます。冷水8カップ、牛乳1カップ、玉ねぎ2個(半分に切り、それぞれにクローブ4片を刺したもの)を加えます。2時間煮込んだら、ざるで濾し、再加熱します。盛り付ける直前にクラレットワイン1杯と塩コショウで味を調えます。ゆで卵1個を細かく刻んで加えると、スープがさらに美味しくなります。

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リマ豆クリームスープ
乾燥リマ豆 2 カップを数時間水に浸し、冷水 1 カップと牛乳 1 カップを入れた鍋に入れ、2 時間煮ます。半分火が通ったら塩を加えます。フライパンにバター 1 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ 1 個を加えます。焦げ目がつくまでゆっくり煮たら、フライパンの中身を豆の入った鍋にこそげ落とし、トマトケチャップまたはチャツネ 1 杯を加えてふるいにかけ、出す前に再度味を調えます。少しとろみがほしい場合は、小麦粉 1 杯を牛乳かクリーム 1/2 カップで滑らかにしてとろみをつけます。スープチューリーンにホイップクリーム 1 杯を入れると、クリームスープがさらに美味しくなります。[ 51 ]

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オランダ風キャベツスープ
コッキー・リーキースープと全く同じように作ります。キャベツを茹でたお湯をストックとして使い、濾したスープに戻す際に大麦の代わりに、細かく刻んだキャベツを1/2カップ加えます。キャラウェイシードがお好きな方は、スープに小さじ1杯加えると美味しくいただけます。キャラウェイシードを使う場合は、他の調味料を取り除いた後、刻んだキャベツと一緒に加えてください。

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カルカッタビスク
鍋にトマトの果肉1カップとローリエ1枚を入れます。温まったら、重曹小さじ1杯を加え、泡立ってきたら、牛乳3~4カップ、カレー粉小さじ1杯、バター小さじ1杯、塩小さじ1杯をゆっくりと加え、かき混ぜます。沸騰したらクルトンを添えてお召し上がりください。

牛乳の代わりに米を茹でた水や野菜のスープを使うとソーダは省略できます。

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カントンシチュー
細かく千切りしたキャベツ2カップを沸騰するのに十分な量の水に入れ、柔らかくなるまでゆっくりと煮込みます。約45分かかります。キャベツが30分煮えたら牛乳1カップを加え、ほぼ火が通ったら牛乳2カップを加えます。沸騰したら塩と黒コショウで味を調え、熱した鍋にバター小さじ1杯を入れます。ミルクシチューにオイスタークラッカーを添えるのがお好きな方は、このスープに添えても良いでしょう。このスープはオイスターシチューによく似た風味です。[ 52 ]

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ニンジンブロス
大きめのニンジン 3~4 本 (または小さめのフランス産ニンジンならもっと) を、縦に 8 等分に切り、柔らかくなるまで茹でます。バター大さじ 2 杯を鍋に入れ、溶けたらオートミールを半カップ弱加えます。一度に大さじ 1 杯ずつ加え、バターがなくなるまで木のスプーンで注意深くかき混ぜます。次に、ニンジンを茹でたスープをひしゃく 1 杯入れ、かき混ぜ続けます。次に、スープをもう 1 杯加え、これを 10 分間じっくりと煮込み、スープが 1 カップ半になるまで続けます。次に、スープをもう 1 カップ入れ、10 分間煮込みます。スープが濃くなりすぎそうであれば、スープをもう 1 カップ追加し、オートミールが完全に煮えるまで、スープを追加して薄めていきます。クエーカー オーツ麦を使用する場合、スープは約 40 分間煮込むだけで済みます。スープは提供する前に濾すのが最適です。上質なスコッチミールは時間はかかりますが、濾す必要がなく、とろみも多少つきます。

スープが半分ほど煮えたら、塩小さじ1杯、コショウ小さじ1杯、ナツメグ少々を加えます。(ニンジンはプレーンソースでいただくか、翌日「ニンジン」の項で紹介した方法で温めてお召し上がりください。)

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ニンジンとオニオンのクリーム
すりおろしたニンジン2カップとみじん切りにした玉ねぎ1個をバター大さじ1で10分間炒め、冷水4カップを加えて沸騰させます。塩コショウを加え、20分後に小麦粉大さじ1を溶かした牛乳1カップを加えます。[ 53 ]

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クリーム・オブ・キャロット
すりおろしたニンジン2カップと冷水1パイント(2カップ)をダブルボイラーに入れ、沸騰したらバター大さじ2と砂糖小さじ1を加えます。1時間煮込んだ後、古くなったパン粉1/2カップと水2カップを加え、さらに30分煮込みます。ダブルボイラーの中身を細かいふるいにかけて濾し、温めた牛乳1 1/2カップ、塩大さじ1、塩小さじ1杯のこしょうを加え、再びボイラーに戻します。卵黄2個を牛乳1/2カップで溶き、スープが再び沸騰したら加えて混ぜます。1分間強くかき混ぜてお召し上がりください。

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クリームチーズ
ダブルボイラーに牛乳1クォート(4カップ)を入れ、すりおろしたチーズ3/4カップ、すりおろした玉ねぎ小さじ1、ピリ辛ソース小さじ1、塩小さじ1/4、カイエンペッパー少々、小麦粉大さじ1とバター大さじ1をすり混ぜたものを加えます。滑らかになるまで混ぜ、卵黄2個分と牛乳大さじ2を加えて溶きほぐし、鍋に入れます。沸騰したスープを注ぎ、かき混ぜながら煮込みます。塩を少々加え、クルトンを添えてお召し上がりください。

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カリフラワークリーム
大きめのカリフラワーを1個取り、軽く塩を加えた冷水に30分ほど浸します。その後、水を切り、頭を上にして大きすぎない鍋に入れ、蓋をせずに30分ほど煮ます。ダブルボイラーに牛乳1クォート(4カップ)、玉ねぎ1個、ローリエ1枚を入れ、カリフラワーが沸騰している間に一緒に煮込みます。[ 54 ]カリフラワーが茹で上がったら水を切り、頭の部分の小さな芽を1/2カップ分取っておき、残りを木製のボウルで潰します。カリフラワーを茹でた時のスープ2カップと沸騰した牛乳を加え、よくかき混ぜて5分間煮込み、濾し器で濾してから再び火にかけます。小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯をすり合わせ、とろみをつけます。軽く塩コショウとナツメグ少々で味付けし、カリフラワー1/2カップを飾りとして加え、さらに10分間煮込んでから盛り付けます。最後にホイップクリーム大さじ1杯を加える場合は、添え物として加えます。

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栗のスープ
イタリア産栗1クォートの皮をむき、湯通しして細かく刻み、水2クォートで30分煮ます。栗を濾し、すり鉢で細かく砕きます。栗を茹でた出汁1クォートを少しずつ加え、全体をざるでこすります。鍋にパン粉1カップ、塩大さじ1、コショウ小さじ1を加え、再び火にかけます。30分煮て再び濾し、牛乳2カップ、ナツメグのすりおろし、焦がしバター大さじ1を加え、沸騰するまで再加熱します。

[コンテンツ]
セロリクリーム
セロリを洗って皮をむき、1/2インチ(約1.5cm)の角切りにして、1カップ分を作ります。沸騰した塩水1クォート(約4.7リットル)に入れ、約1時間、または柔らかくなるまで茹でます。その後、茹で汁でつぶします。みじん切りにした玉ねぎ小さじ1杯、ベイリーフ2枚、メース少々、そして[ 55 ]クローブを牛乳2カップに加え、10分間煮込み、セロリの果肉に加えます。濾し器で濾し、牛乳を煮たダブルボイラーに戻します。バター大さじ1を溶かし、小麦粉大さじ1を加えて滑らかになるまで混ぜ、沸騰したスープに加え、塩コショウで味を調えます。5分間煮込み、バター1かけとホイップクリーム大さじ1を入れた熱いチューリーンに濾します。刻んだチャイブ大さじ1を加えると、見た目も味も良くなります。お好みでパセリを使っても構いません。

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栗のクリーム
イタリア産栗2カップ(約450g)の殻をむき、湯通しして4等分に切り、熱湯2カップを注ぎます。玉ねぎ1枚(または玉ねぎの汁を1滴)、みじん切りにしたセロリ1/4カップ(またはセロリシード小さじ1)、月桂樹の葉1枚、パセリ1枝、パプリカ塩小さじ1を加えます。蓋をして、栗が柔らかくなるまで約30分煮ます。すり鉢で砕くか、ざるや野菜ミルで押し固め、牛乳1クォート(約4カップ)、バター大さじ1、小麦粉大さじ1をすり混ぜたものを加え、3分間加熱します。塩小さじ1を加え、細かいふるいで押し固め、食べる前に再加熱します。

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クリームオブコーン
ダブルボイラーに牛乳 1 クォートとコーン 1 缶を入れて沸騰させます。バター小さじ 1 杯とコーンスターチまたはポテトフラワー小さじ 1 杯を混ぜてコーンに加えます。塩とコショウで味付けし、1 分間かき混ぜます。その後、ふるいにかけて、みじん切りにしたピーマン大さじ 1 杯を加えます。[ 56 ]

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コッキー・リーキー
鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたら、スプーン1杯ずつパールバーリー1カップを加え、10分かけてかき混ぜます。次に、ニンジンまたは玉ねぎのスープ8カップ(または水)を注ぎ、月桂樹の葉2枚、クローブ4個を刺した玉ねぎ1個、ハーブとパセリの束、セロリ1本を加え、1時間半弱火で煮込みます。濾し、大麦の一部を取っておきます。ネギは洗って5cmの長さに切り(緑の部分も使用)、縦にスライスしてスープに加えます。大麦を加え、25分煮込み、塩コショウで味を調えます。

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クレオールスープ
トマト缶1缶、水または野菜ストック1クォート、薄切りにした玉ねぎ1個、薄切りにしたニンジン1本、みじん切りにしたピーマン1個を鍋に入れ、30分ほど煮込んだ後、目の細かい濾し器で濾します。濾した材料を再び湯煎鍋に戻し、ご飯大さじ2弱、塩小さじ1、パプリカ小さじ1/8、砂糖大さじ1を加えます。バター大さじ2と小麦粉大さじ1を混ぜ合わせ、スープに混ぜ込みます。一度沸騰させてから盛り付けます。

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クリームオブカレー
ダブルボイラーに1クォート(または4カップ)の牛乳と4つのクローブを刺した玉ねぎ1個を入れ、熱くなったら大さじ1杯の増粘剤入り小麦粉を大さじ1杯とすり混ぜてとろみをつけ、大さじ2杯の茹でた米を加えます。[ 57 ]細かく刻んだゆで卵1個と、カレー粉またはカレーペースト小さじ2杯(お好みで増量)を加えます。玉ねぎを取り除き、クルトンを添えてお召し上がりください。刻んだチャイブまたはピメント大さじ1杯をスープに加えてもよいでしょう。

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フィレンツェ風スープ
鍋にバター大さじ2杯を溶かし、みじん切りにした玉ねぎ3/4カップを入れ、中火で約5分間かき混ぜます。次に、非常に薄くスライスしたカブ2カップを加えます。これらを玉ねぎと一緒にさらに5分間かき混ぜ、小麦粉大さじ2杯を加え、沸騰させた牛乳2パイントを徐々に加えて全体をよく混ぜます。沸騰するまで見守り、玉ねぎが十分に柔らかくなるまで20分または30分間頻繁にかき混ぜながら弱火で煮込みます。さらに牛乳2カップを加え、沸騰したらトマトピューレ(缶詰のトマトスープまたは缶詰のトマト)1カップ、またはスライスした新鮮なトマト1 1/2カップを加え、凝固を防ぐためにソーダをひとつまみ加えます。次に、鍋の中身を細かいふるいにかけ、バターを山盛り小さじ1杯加え、再加熱し、クルトンとホイップクリーム大さじ1杯を添えて提供します。

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ハイルブロンスープ
野菜(できれば玉ねぎかネギ)を茹でた水3クォート(約1.2リットル)を用意し、弱火で煮込みます。別のホーロー鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたら木のスプーンで大麦を1/2カップずつ加え、バターが十分になじむまでゆっくりとかき混ぜます。絶えずかき混ぜながら5分間加熱します。[ 58 ]次に、熱いスープを(一度にお玉1杯ずつ)6~8杯ずつ加え、10分間かき混ぜながら加えます。残りのスープの半分、塩、コショウ、ナツメグ少々を加え、20分間煮込みます。残りのスープを加えてさらに30分煮込みます。マッシュルーム1/4ポンドの皮をむき、それぞれ4~6等分に切ります。バターで5分間炒め、食べる10分前にスープに加え、味を調えます。

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ジュリアンスープ
透明な野菜スープを濾し、スープ 2 カップごとに乾燥した「ジュリエンヌ」を 1/2 カップ加え、塩、コショウ、焦がしバター大さじ 1 杯で味付けします。

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赤レンズ豆のスープ
エジプトレンズ豆 2 カップを水に 8 ~ 10 時間浸し、水を切り、振って水気を切ります。バター大さじ 2 を鍋に入れ、溶けたらレンズ豆の 1/3 を加え、平らな木のスプーンでよくかき混ぜて、ごく弱火で加熱します。次に残りの 1/3 を加え、少しかき混ぜてから残りを加えます。ネギまたはタマネギを茹でて冷ました水 6 カップを注ぎ、1 時間またはレンズ豆が柔らかくなるまで煮込みます。ザルで押し、再び火にかけて温めます。小麦粉小さじ 1 杯とバター小さじ 1 杯を滑らかにならし、スープに加え、塩、コショウ、ナツメグ少々で味を調えます。小麦粉とバターの代わりに、火から下ろしたスープによく溶きほぐした卵 1 個をよくかき混ぜ入れてもよいでしょう。

エジプトのレンズ豆が手に入らない場合は、缶詰または乾燥の赤インゲン豆で代用できます。[ 59 ]

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レンズ豆のクリーム
エジプト産レンズ豆2カップを洗い、2クォート(約2.7リットル)の水に12時間以上浸します。同じ水にレンズ豆を入れ、弱火でじっくり煮込みます。フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたら、スライスした大きな玉ねぎ2個、ニンジン2本、さいの目に切ったカブ1個を加え、きつね色になるまで炒めます。これらをレンズ豆に加え、約2時間じっくり煮込みます。ざるで濾し、再び火にかけ、牛乳2カップと、盛り付ける直前にホイップクリーム大さじ1杯を加え、塩コショウで味を調えます。

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ハンガリースープ
鍋にドイツ産レンズ豆1カップと冷水または野菜ストック2カップを入れ、1時間煮込みます。レンズ豆が柔らかくなる前に水分が吸収されてしまった場合は、少し水分を追加します。1時間後、熱湯またはストック6カップを注ぎます。

フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした小玉ねぎ1個、小麦粉大さじ1杯、ニンニク1かけを加えます。きつね色になったらスープに加え、同時にさいの目に切ったジャガイモを1/2カップ加えます。弱火で30分ほど煮込み、ざるで濾して再び火にかけ、塩コショウで味を調え、レモン汁または酢を大さじ1杯加えて盛り付けます。

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ピューレモンゴル
鍋にトマト缶1個と濃い野菜スープ2カップ、セロリ1本、玉ねぎ1枚を入れ、 [ 60 ]ベイリーフ1枚、オールスパイス3個、クローブ3個、塩コショウを加え、30分ほどじっくり煮込みます。煮汁を濾し器で濾し、トマトをできるだけ濾し取り、セロリは残しておきます。鍋に戻し、煮詰めた酢大さじ1、ゆでたグリーンピース大さじ1、半分に割った缶詰のインゲン大さじ1、茹でたセロリの茎を5cmの長さに細切りにして加えます。5分間煮込み、塩コショウで調味し、バター大さじ1を加え、火からおろし、よく溶いた卵1個をスープに加え、勢いよくかき混ぜます。

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マッシュルームビスク
銀色のナイフで新鮮なマッシュルーム約1カップを切り、洗って水気を切り、溶かしバター大さじ2杯で10分間混ぜ合わせます。次に、少量の牛乳で滑らかにした小麦粉大さじ1杯を加えて混ぜ、牛乳1クォート(約3.5リットル)を加えて30分弱火で煮込みます。塩とパプリカで味を調え、ざるで濾します。マッシュルームの半分は取っておきます。これらをスープに加え、クルトンを添えてお召し上がりください。

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きのこスープ
新鮮なマッシュルーム 1/4 ポンド、小さめの白インゲン豆 3/4 カップ、レモン半分の皮、クローブ 5 個を刺したスペイン産タマネギ 1 個、メース小片、パセリとタイム少々を用意し、調理の準備をした後、水 2 クォートで 1 時間以上煮ます。次に、数個を除くすべてのマッシュルームを金網のこし器で濾し、鍋に戻し、バター 2 杯、コショウ、塩、スープ用ブラウン パウダー小さじ 1/2 を加え、いくつかに切ってから、取っておいたマッシュルームを加えて出します。[ 61 ]

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きのこのシチュー
白くて硬くて小さいキノコを選び、一つずつ丁寧に手で洗い、山盛り1カップを牛乳4カップに入れ、沸騰させないように15分間温めます。バター大さじ1杯、たっぷりの塩コショウを加え、温かいサービングに盛り、クラッカーを添えてお召し上がりください。

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麺またはアルファベットスープ
いずれかの野菜スープを濾してストックを作り、食べる15分前に麺または「アルファベット」を1/2カップ加えます。

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クリームオブオニオンスープ
玉ねぎをみじん切りにして4カップ分作り、大きめの鍋にバター大さじ2杯を入れ、5分間炒めます。次に、クローブ4個を刺した小さめの玉ねぎ1個、パセリの小枝1本、ベイリーフ1枚を加え、6~7カップの水で覆い、塩コショウで味付けし、45分ほど弱火で煮込みます。全体をざるで濾し、煮汁を鍋に戻します。小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯を混ぜ合わせたもの、牛乳2カップ(またはハーフクリーム)を加え、沸騰させてから盛り付けます。刻んだチャイブ大さじ1杯とホイップクリーム大さじ1杯を加えてもよいでしょう。

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オクラスープ
オクラ2カップ(1缶)を細かく切り、グリーンピース1缶、グリーンコーン1缶、インゲン豆1カップ、玉ねぎ2個、ニンジン1枚、カブ1枚、トマト2個、[ 62 ]セロリを少々加えるか、セロリソルトを使用してください。フライパンにバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ、ニンジン、カブを加えて10分ほど炒めます。オクラ、セロリ、豆類と一緒に水4カップに入れます。1時間煮込んだら、塩コショウで味付けし、トマト、コーン、グリーンピース、セロリを加えて30分ほど弱火で煮込みます。濾さずに盛り付けますが、濃すぎる場合はストックか水で薄めてください。

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オニオンスープ・オ・フロマージュ
普通の玉ねぎ 6 個、またはスペイン産の大きな玉ねぎ 3 個をスライスし、山盛りの大さじ 2 杯のバターとともにフライパンに入れ、玉ねぎが濃い茶色になるまで約 15 分ほどじっくり炒めます 。その後、フライパンの中身を大きめのマーマイト ボウルにこそげ落とし、大さじ 1 杯のバター、少々のコショウと塩を加え、ぬるま湯、または玉ねぎを茹でた水をキャセロールのほぼいっぱいまで注ぎます。蓋をして、30 分ほどじっくりと煮込んだら、スープ用ブラウニング小さじ 2 杯を加えてかき混ぜます。乾燥したライ麦パンを厚めに 4 枚切り、すりおろしたチーズを厚く塗り、スープ鍋に入れます。蓋を外してさらに 5 分ほど煮込み、マーマイトに浸して提供します。

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新グリーンピーススープ
エンドウ豆半ペックの殻をむき、サヤを洗います。サヤを大きめの鍋に入れ、沸騰したお湯をかぶるくらいまで注ぎます。30分ほど弱火で煮込み、濾し器で濾したサヤを取り出し、サヤを柔らかくなるまで煮ます。煮る時間はエンドウ豆の鮮度によって異なります。サヤを1カップ分取り分け、残りは絞ります。[ 63 ]水と野菜を全て濾し、牛乳1パイントを加えて火にかけます。小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯をすり混ぜ、沸騰したスープに混ぜ込みます。取っておいたグリーンピース1カップを加え、塩コショウで味を調えて盛り付けます。ミントの風味がお好みなら、ミントの葉3~4枚、または刻んだミント小さじ1杯をスープに加えます。ミントを使わない場合は、刻んだパセリを少々加えます。

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グリーンピースのクリームスープ
鍋にグリーンピース1缶、みじん切りにした玉ねぎ1個、水1カップを入れ、20分煮ます。同時に、ダブルボイラーに牛乳1クォートを火にかけてください。牛乳が熱くなったらバター大さじ1杯を加え、沸騰したら牛乳1/4カップに溶かした小麦粉大さじ1杯を加えます。グリーンピースを細かいふるいにかけて牛乳に加え、塩コショウで味を調え、みじん切りにしたパセリ小さじ1杯を加えて盛り付けます。パセリの代わりに、お好みでみじん切りにしたミントを使っても構いません。また、スープを注ぐ前にミントの葉を1~2枚敷き詰めておくと、繊細な風味が加わります。

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グリーンピーススープ
エンドウ豆2カップを12時間以上水に浸し、水気を切って鍋に入れ、バター大さじ1とみじん切りにした玉ねぎ大さじ1を加えて10分間炒めます。その後、熱湯4カップを加えて2時間煮込み、茹で汁で濾します。牛乳1カップ、みじん切りにしたミント(生または乾燥)小さじ1、ホイップクリーム大さじ1を加えます。塩コショウでよく調味します。[ 64 ]

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プリンセススープ
玉ねぎ3個をスライスし、バターを半カップ弱入れて10分炒めます。温めた牛乳1クォートを加え、さらに10分弱火で煮込みます。湯せん器に濾し入れ、小麦粉小さじ1杯を少量の牛乳で溶いてとろみをつけます。盛り付ける直前に、細かく刻んだ缶詰のピメント小さじ2杯、塩コショウを加えます。盛り付け時にクリーム大さじ1杯を加えます。

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ポテトスープ
6~9個のジャガイモを洗い、沸騰したお湯に入れ、大きさに応じて20分~30分ゆでます。4等分に切った大きな玉ねぎ1個、クローブを刺したもの、セロリ2本(またはセロリソルトかセロリシード小さじ1/4)、メース少々、月桂樹の葉1枚、胡椒6粒を湯煎器に入れ、牛乳1クォート(小さじ半分は取っておきます)を入れます。取っておいた牛乳に大さじ1杯の小麦粉を混ぜ、沸騰したら牛乳にゆっくりとかき混ぜ、さらに10分ほど煮ます。ジャガイモが茹で上がったらお湯を捨て、皮をむいて白っぽくなるまでマッシュし、沸騰した牛乳に加え、よくかき混ぜ、塩コショウで調味し、全体をふるいにかけてください。再び湯煎器に戻し、バター大さじ1杯、パセリのみじん切り小さじ1杯を加え、一度沸騰させてから盛り付けます。

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ドイツ風ポテトスープ
ドイツのポテトスープは、よく茹でたジャガイモ6~8個を、スープが十分にできるくらいの量の茹で汁と一緒にふるいにかけて、刻んだチャイブ大さじ1杯(または[ 65 ](エシャロットまたは玉ねぎ)、刻んだパセリ小さじ1、レモン汁少々を加えたサワークリーム1/2カップ、またはサワークリームの代わりに、酢大さじ1杯と生クリーム1/2カップを加えても構いません。15分間弱火で煮込み、クルトンを添えて熱々をお召し上がりください。

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ポテトスープフローラ
鍋にバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした大きな玉ねぎ 1 個を加え、きつね色になるまでかき混ぜます。次に薄切りにしたジャガイモ 3 カップと冷水 6 カップを加えます。ジャガイモが柔らかくなるまで煮えたら、ザルで押し、バター小片、コショウ、塩、みじん切りにしたパセリ小さじ 1 杯を加えます。

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クリームライススープ
1.5パイントの沸騰したお湯に米1/2カップを入れ、4つのクローブを潰した玉ねぎ2個、セロリ1本(またはセロリシード小さじ1/4)、ベイリーフ1枚、パセリ1枝、胡椒4粒、メース少々を加える。1時間弱火で煮込み、スープを大きなボウルに移し、目の細かいふるいにかけて、できるだけふるいに通す。ボウルの中身を鍋に戻し、牛乳1パイント、塩小さじ1、バター大さじ1、少量の牛乳で溶いた小麦粉大さじ1弱を加える。刻んだスペイン産ピメント大さじ1、細かく刻んだチャイブ小さじ1を加え、5分間煮込み、ホイップクリーム大さじ1を加えて出す。

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ライスとトマトのスープ
米1カップを水2クォートで茹でる。トマト缶1缶の中身とベイリーフ1枚、[ 66 ]玉ねぎを15分ほど茹でた後、ザルで濾して湯せん器に入れ、米を茹でた水450mlを加えます。温まったら、バター小さじ1、コショウ少々、塩、セロリソルト少々、そして炊いた米大さじ2を加えて盛り付けます。茹でた米はそのまま料理に使うことも、後で使うこともできます。

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ライスオクラスープ
大きめの鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらスライスした玉ねぎ1個を加え、5分間弱火で煮込みます。次に小麦粉大さじ1杯を加えて混ぜ、滑らかになりきつね色になったら水6カップを加え、よく調味して45分ほどじっくりと煮込みます。別の鍋に米1/4カップとスライスしたオクラ2カップを入れ、熱いスープを濾して米とオクラにかけ、塩コショウでよく調味し、蓋をして弱火で1時間煮込みます。生のオクラが手に入らない場合は、缶詰のオクラで代用できます。缶詰を使う場合は、火からおろす20分前まで米とスープに加えないでください。

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オイスタープラント(サルシファイ)スープ
サルシファイはスライスすると4カップ分になる量を用意します。冷水に1時間浸した後、皮を剥いてレモン汁を少し加えた新鮮な水に15分浸します。サルシファイは水から出さないでください。水に浸すと色が濃くなります。薄切りにして、水4カップと牛乳1/2カップを入れた鍋に入れ、弱火で煮ます。[ 67 ]約1時間、ゆっくりと煮込み、半分ほど煮込んだら塩小さじ1杯を加える。サルシファイを1/4カップ分取り分け、残りはストックと一緒に濾し器で濾す。鍋に戻し、牛乳1.5カップ、生クリーム1カップ、バター大さじ1杯と小麦粉大さじ1杯(スープが濃いのが苦手な場合は少なめに)をすり合わせたものを加える。塩少々、パプリカとコショウ少々を加え、小さなクラッカーを添えて温めて出す。

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ほうれん草とトマトのスープ
フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個を加え、10分間じっくりと炒めます。冷えたほうれん草1カップをバターと玉ねぎに加え、トマトソースまたはトマト1カップを加えて火にかけます。牛乳2カップをダブルボイラーに入れ、小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯をすり合わせます。トマトとほうれん草の混合物に重曹をひとつまみ加え、濾し器で濾します。沸騰したらピューレ状のものを牛乳に混ぜ込みます。塩コショウで調味し、生クリーム大さじ1杯を加えます。

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クリームほうれん草
ほうれん草1缶分の中身をチョッピングボウルに入れ、細かく刻みます。次に、玉ねぎの汁(すりおろした玉ねぎ)大さじ2杯、塩コショウ少々、牛乳5~6カップと一緒にダブルボイラーに入れます。20分間煮込み、ザルにあけて、ほうれん草を押しながら汁を絞ります。スープをダブルボイラーに戻し、バター大さじ1杯を加え、塩コショウとナツメグ少々で味を調えます。 [ 68 ]メースとセロリソルトを少々加えます。最後に大さじ1杯のホイップクリームを加えるとさらに美味しくなります。または、固ゆで卵の白身と黄身を細かく刻んだ大さじ1杯を加えても美味しくいただけます。ほうれん草自体は、上記のほうれん草の盛り付け方のいずれかで翌日調理できます。

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フレンチスイバのスープ
スイバ1クォート(約450ml)を洗い、冷水で茹でます。10分後に火から下ろし、水気を切って細かく刻みます。鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした小さめの玉ねぎ1個を炒めます。そこにスイバを加えて3~4分かき混ぜ、冷たい牛乳2カップを加えて5分間煮込みます。牛乳1カップ、砂糖小さじ1杯、じゃがいも粉(または他のとろみ付け剤)大さじ1杯に溶かし、沸騰したスープに加えます。濾して再加熱し、ホイップクリーム大さじ1杯を添えてお召し上がりください。

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ドイツスイバのスープ
ドイツ人は、上記のスープに卵2個分の黄身を溶いた牛乳1/2カップを加えて、さらに濃厚なスープを作ります。この手順を逆にするとスープが固まってしまうので、注意が必要です。

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セントジャーマンスープ
エンドウ豆の缶詰2つ(カップ半分残して)をダブルボイラーに入れ、玉ねぎ1個(4つに切り、それぞれにクローブを刺す)、塩大さじ1、コショウ塩大さじ1、砂糖小さじ1、ベイリーフ1枚、[ 69 ]パセリを加え、蓋をして30分ほど煮込みます。その後、ダブルボイラーの中身をポテトマッシャーで潰し、水6カップを加えます。沸騰したら、バター大さじ2と小麦粉大さじ2をすり合わせたものを加えます。よくかき混ぜ、15分煮込み、濾し器でこします。ダブルボイラーに戻し、牛乳2カップと水気を切ったエンドウ豆1/2カップを加え、再加熱します。クルトンを添えて、味を調えて盛り付けます。

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スパゲッティスープ
大きめの鍋にバター大さじ1杯を溶かし、薄切りにした玉ねぎ1個、ニンジン2枚、カブ2枚、みじん切りにしたセロリ1/2カップ(またはセロリシード小さじ1杯でも可)を加え、弱火で煮込みます。頻繁にかき混ぜ、10分経ったらクローブ2個、胡椒10~12粒、シナモン小片1個、大きなローリエ1枚、冷水8カップ(または2クォート)を加えます。鍋に蓋をして、45分ほどじっくり煮込み、丁寧に濾して鍋に戻します。塩小さじ1杯で調味し、2.5cmの長さに切ったスパゲッティ1/2カップを加えます。鍋に蓋をして、 1時間ほど煮込みます。急激に沸騰させるよりも、スパゲッティの風味をより引き出すことができます。スープを作る際は、具材の風味を引き出すのがポイントなので、この方法が最適です。すりおろしたチーズやパルメザンチーズを添えると、スープの味がさらに引き立ちます。

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スコッチブロス
やかんに2クォートの水を入れ、沸騰したらフライパンで5分間熱したバターで炒めたパールバーリーの1/2カップを加え、調理します。[ 70 ]ゆっくり煮込みます。ニンジン2本、カブ2個、大きめの玉ねぎ3個をみじん切りにし、大さじ2杯のバターで炒めます。パセリの小枝を細かく刻み、他の野菜と一緒に大麦と水を加えます。2時間ほどじっくり煮込み、コショウと塩で味を調えて盛り付けます。スープ用の焦げ目をつける小さじ1/2を加えると、スープの見栄えが良くなります。

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スペイン風トマトスープ
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたら薄切りにした玉ねぎ3個を加えて10分間弱火で煮込みます。その後、トマト缶1個分の汁とトマト2個分の汁を加え、20分間弱火で煮込みます。濾し器で濾し、再び火にかけ、バター大さじ1杯、コショウ少々、塩少々を加え、よく溶きほぐした卵2個を加えて混ぜます。卵を加えた後は、沸騰させないでください。

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トマトタピオカスープ
ダブルボイラーに水2クォート(約2.7リットル)を入れ、沸騰したらタピオカを1/2カップ加えます。大きめのトマト6個(または水切りした缶詰のトマト2カップ)をスライスし、玉ねぎ2個をみじん切りにします。大さじ1杯のバターで、軽く茶色になるまで炒めます。鍋の中身を鍋に移し、1時間半ほど弱火で煮込みます。味を調えて盛り付けます。

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トマトクリームスープ
缶詰のトマト2カップをジュースごと取り、大きな部分を潰してパルプ状にし、1.5カップの熱湯とバター1かけらを鍋に入れます。[ 71 ]卵、コショウ少々、塩小さじ1/2、ローリエ1枚を加えます。沸騰したら炭酸ソーダ小さじ1/4を加え、1分間かき混ぜます。牛乳2カップを加えます。沸騰したら、細かく砕いたクラッカーの粉を1/2カップ入れたチューリーンに注ぎます。普段はこの方法で、または濾してカップに盛り付けてお召し上がりください。

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トマトとコーンのビスク
ダブルボイラーに牛乳1クォートとコーン缶1缶を入れ、15分弱火で煮ます。その後、バター小さじ1を加え、塩コショウで味を調え、ざるで濾してから再びダブルボイラーに戻します。ざるで濾した茹でたトマト1/2カップを加え、混ぜ合わせ、再加熱してお召し上がりください。

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トマトマカロニスープ
鍋にトマト缶1缶、パセリ1本、クローブ4個を刺した玉ねぎ1個、塩大さじ1杯、胡椒6粒、冷水6カップを入れ、45分ほど弱火で煮ます。その後、濾して鍋に戻し、再び沸騰したら、細かく砕いたマカロニ1/2カップを加え、蓋をして30分ほど煮込みます。盛り付ける前に再度味を調えます。マカロニの代わりにスパゲッティや麺類でも代用できます。

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トマトスープ
トマト1クォート缶、水2カップ(またはライスストック)、パセリ1本、ベイリーフ1枚、玉ねぎ1個を15分間煮込み、ふるいにかけて濾します。[ 72 ]再び火にかけて沸騰させます。バター大さじ1と小麦粉大さじ1をすり合わせ、沸騰したスープに加え、滑らかになるまで混ぜます。塩、コショウ、少量のソーダを加え、クルトンを添えてすぐに盛り付けます。米を茹でたお湯を使用する場合は、小麦粉とソーダは入れないでください。

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トマトとオクラのスープ
沸騰したお湯1.5クォート(6カップ)に米1/2カップを入れ、蓋をして15分煮ます。次に「トマトオクラ」缶詰1缶の中身を加え、さらに10分煮ます。オクラの鞘2個、トマト2個、米大さじ1杯を取り分け、残りはすべてざるで濾します。再び火にかけ、塩コショウで味を調え、米、トマト、薄切りにしたオクラを加えます。

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マリガタウニースープ
上記と同じように作りますが、濾して、後ほど加える少量の米と少量のトマトを残しておきます。大さじ 1 杯のカレーペースト (または粉末) をスープに加えてかき混ぜ、再加熱して提供します。

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野菜スープ。第1号
ジャガイモ1個、玉ねぎ1個、カブ1/2個、ニンジン1本、セロリ1本を小さめの四角に切ります。フライパンにバター大さじ1を溶かし、ジャガイモ以外の野菜を加え、きつね色になるまで炒めます。フライパンの中身を、冷水2クォート、塩小さじ1、米大さじ3、ローリエ1枚、スープ用ハーブ少々を入れた鍋に移します。1時間半ほどじっくり煮込み、ジャガイモを加えます。[ 73 ]さらに20分煮る。コショウ、少量の塩、小さじ1杯のスープ用ブラウンソースを加える。サラッとしたスープがお好みなら、野菜と米の大部分を濾す。ブラウンソースを添えて、オーブンで温めた個別のクラストカップに入れて出すこともできる。

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野菜スープ 2号
季節に応じて、別の野菜スープを作ることもできます。上記の手順で、ニンジンなどの代わりにカリフラワーと若玉ねぎを加え、温めた牛乳1.5カップで薄め、最後に茹でた若エンドウ豆1/2カップを加えます。バター、コショウ、塩、そして大さじ1杯のクリームを加えてお召し上がりください。

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野菜スープ 3号
大きめの鍋にたっぷり大さじ1杯のバターを入れ、バターが溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1/2カップを加えて炒めます。玉ねぎがきつね色になったら、小麦粉大さじ1杯を丁寧に混ぜ込み、滑らかになったら熱湯または野菜ストック2カップをゆっくりと注ぎます。次に、みじん切りにしたニンジン、カブ、パースニップをそれぞれ1/2カップ、セロリ1カップを加え、コショウと塩でよく揉み込み、沸騰したお湯を注ぎ、1時間弱火で煮込みます。次に、湯切りしたジャガイモ2カップを加え、野菜が柔らかくなったら、茹でたストックで篩にかけます。

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野菜スープ 4号
もっとシンプルですがとても美味しい野菜スープは、さいの目に切ったニンジン1カップとパースニップ1カップ、エンドウ豆1缶(またはエンドウ豆の数は少なくても可)で作ることができます。[ 74 ]冷水で覆い、1時間煮た後に牛乳2カップを加え、沸騰したらじゃがいも粉または他のとろみ剤小さじ1杯を加え、食べる前にコショウ、塩、少量のバターを加えます。

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野菜スープ 5号
カブ1個、ニンジン1本、サツマイモ1個、トウモロコシ1本分のトウモロコシ、または缶詰のトウモロコシ大さじ2をスライスして好きな形に切り、グリーンピース缶詰の半分、または生のグリーンピース1/2カップを濾します。鍋に水3クォート(約1.3リットル)を入れ、沸騰したら米大さじ1とニンジンを加えます。30分ほど煮込み、その後他の野菜を加えてさらに30分煮込みます。盛り付ける前に刻んだパセリ大さじ1を加え、塩コショウで味を調えます。

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クリーム野菜スープ
鍋にバター大さじ 3 杯を溶かし、みじん切りにしたセロリ、カブ、ニンジン各大さじ 3 杯、みじん切りにしたタマネギ大さじ 1 杯、ローリエ 4 枚、メース 4 枚を加えます。20 分間、焦げ付かないように頻繁にかき混ぜながら、一緒に弱火で煮込みます。次に小麦粉大さじ 3 杯を振り入れ、混ざったらフライパンの中身をダブルボイラーで温めた牛乳 3 パイント弱に入れます。さらに 20 分間煮込んだら、塩コショウでよく味を調え、卵黄 2 個と生クリームか牛乳 1/2 カップを溶きほぐした鍋に注ぎます。スープは濾して、野菜を全く入れないか、少しだけ入れて出すこともできますが、濾さずに出しておいしく召し上がれます。いつでも都合の良いときに作って、出すときに温め直すことができます。[ 75 ]

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野菜マロウ(夏カボチャ)のピューレ
玉ねぎ3個をスライスし、冷水2クォート(約2.7リットル)を注ぎます。沸騰したら、薄切りにした大きめの野菜の髄を加えます。2時間ほど弱火で煮込み、ざるで全体をこすります。鍋に米粉大さじ1、牛乳1カップ、バター大さじ1を入れて混ぜ、温まったらスープに加えます。茹でたフラジオレット(またはエンドウ豆)大さじ2を加え、塩コショウで味を調えます。[ 77 ]

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銃を使わずに鳥の名前を全部言えますか?

ウッドローズが気に入ったので、茎をつけたままにしてしまったのですか?

金持ちの食卓ではパンや豆類が食べられるのでしょうか?

ああ、私の友達になって、私にあなたの友達になる方法を教えてください!

ラルフ・ワルド・エマーソン。[ 79 ]

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野菜
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バター漬けのエルサレムアーティチョーク
アーティチョーク1クォート(約450ml)を洗い、よく皮をむき、変色を防ぐために塩水に浸します。次に、少量の牛乳を加えて白くした沸騰したお湯に塩を加え、20~25分茹でます。湯切りをし、バターを塗った耐熱皿に並べます。溶かしバター大さじ3杯をかけ、表面にきつね色に焼いたパン粉を細かくまぶし、オーブンで5分焼きます。

この料理は、グラタン皿に盛り付けると上品なアントルメになります。その場合、各皿にアーティチョークを2~3個ずつ盛り付けます。小皿に盛り付け、紙製のドイリーを添えてください。

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エルサレムアーティチョークのグラタン
上記のレシピに従ってアーティチョークを準備し、大きな耐熱皿、または小さな個別の皿に並べ、ホワイトソースをかけ、上からすりおろしたチーズとパン粉を振りかけ、オーブンで数分間焼いて茶色にします。

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トマトソースのエルサレムアーティチョーク
最初のレシピと同じようにアーティチョークを準備しますが、溶かしバターの代わりにトマトソースを少し使用し、アーティチョークに茶色のパン粉をまぶして、[ 80 ]オーブンで少し温めてからお召し上がりください。スープの後にグラタン皿に盛り付けてお召し上がりいただくのもおすすめです。

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フレンチソースのエルサレムアーティチョーク
指示通りに準備し、アーティチョークを茹でているお湯に、大きな玉ねぎ1個と細かく刻んだセロリ1本を入れます。アーティチョークを取り出した後、ソースを作るのに十分な量のストックを取り、軽く味を調え、卵黄でとろみをつけ、濾して熱々のアーティチョークにかけてお召し上がりください。

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エルサレムアーティチョークのフリッター
アーティチョークを15分以内で茹で、厚さ1/4インチの細切りにして乾燥させ、小麦粉につけて衣をつけ、上質のバターで黄金色になるまで揚げます。

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揚げアーティチョーク
指示通りに茹でますが、完全に調理し終わる前に冷ましてからスライスし、溶かしたバターで炒め、フライパンから取り出す直前に、みじん切りにしたパセリを小さじ 1 杯加えます。

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フレンチフライドエルサレムアーティチョーク
エルサレムアーティチョーク1クォート(約450ml)を皮をむいて洗い、縦にスライスします。フライパンに熱した植物油か油を入れ、黄金色になるまで揚げます。レモン汁をふりかけるか、オランダ産バターと焼き色のついたパン粉を添えてお召し上がりください。[ 81 ]

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エルサレムアーティチョークのタルタル
小さめのアーティチョークを選ぶか、特許取得済みのカッターで丸く切り、卵黄をまぶし、細かいパン粉をまぶします。フライパンに入れ、熱した植物油で黄金色になるまで揚げます。パセリを添え、タルタルソースを添えて、十分に熱々のうちに召し上がってください。スープの後、そのままお召し上がりください。

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トマトソースのアーティチョークフライ
前述のレシピに従ってアーティチョークを炒め、熱いトマトソースを添えてお召し上がりください。

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エルサレムアーティチョーク リネーズ
アーティチョークは表示通りに茹でますが、完全に火が通るまで茹でないでください。その後、スライスします。フライパンに大さじ1杯のバターを入れ、溶けたら大きな玉ねぎ1個をスライスまたはみじん切りにして加えます。玉ねぎが透明になり、焦げ付かないようにしたら、アーティチョークを加えて弱火で炒めます。刻んだパセリまたはチャイブを散らします。

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エルサレムアーティチョークのピューレ
アーティチョーク1クォートを指示通りに茹で、水気を切り、つぶして細かいふるいにかけ、溶かしバター大さじ2杯を加えて混ぜます。弱火で水分がなくなるまで混ぜます。火からおろし、冷めたらよく溶きほぐした卵4個を加え、勢いよく混ぜながらピューレにゆっくりと加えます。さらにホイップクリーム大さじ1杯を加えて混ぜます。よく混ざったら[ 82 ]よく叩いて軽くなったら、大きな型か個別の型に入れ、型の半分まで水を入れて蒸すか茹でます。ひっくり返して、トマトソースやオランデーズソースなどのおいしいソースを添えてお召し上がりください。アーティチョークを茹でた水で作ったとされるソースも使用できます。これに、細かく刻んだパセリを小さじ 1 杯加えます。

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エルサレムアーティチョーク ニューバーグ
牛乳2カップ、バター大さじ1杯と小麦粉大さじ1杯、卵黄2個分、こしょう、塩を混ぜてソースを作ります。とろみがついたら、シェリー酒大さじ2杯、スライスした茹でアーティチョーク3カップ、皮をむいて刻んだアーモンド1/2カップを加えます。トーストにのせて、またはケースに入れてお召し上がりください。

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フレンチアーティチョークまたはグローブアーティチョーク
アーティチョークはベジタリアンメニューにとても美味しく加わりますが、食べられることが知られていないからではなく、多くの人が食べ方や盛り付け方を知らないため、アメリカではあまり見かけません。私はヨーロッパのほぼすべての国で、そしてアメリカのレストランでもしばしばアーティチョークを振る舞われてきましたが、調理後にテーブルへどのように出すべきかを知っている料理人と、テーブルに運ばれたアーティチョークをどのように盛り付けるべきかを知っているウェイターに出会ったことは一度もありません。アーティチョークは、通常、周囲に葉が落ちた状態で半分冷えた状態で提供されます。これは、アーティチョークの「アザミ」、そして通常は一番良い部分が厨房で不注意に取り除かれているためです。そのため、アーティチョークは丸ごと提供されるべきです。そうすることでのみ、アーティチョークは十分に温まり、美味しく食べられるのです。 [ 83 ]熱い平らな皿に茎を下にして置き、底の部分を小さなテーブルナプキンで巻きます。サーブする人はナプキンに包んだまま裏返し、小さく鋭い銀色のナイフで底の部分のアーティチョークを鋸で切るように切り込み、サーブフォークを使って「アザミ」と中央の密集した小さな葉をほぐします。アーティチョークが非常に大きいものでない限り、1個半分でも一人当たりに出すのに多すぎることはありません。「アザミ」はサーブする人が取り除きます。これは、葉が生えている肉質の部分である「フォンド」または基部から注意深く引き離すことによって行います。葉は乾いた先端を指で1枚ずつ取り、基部から引き抜いた肉質の部分を提供されたソースに浸し、柔らかい部分を前歯で引っ張って取り除きます。葉を食べ終わったら、基部をフォークで切り、ソースと一緒に食べます。

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グローブアーティチョークを蒸す
上記のレシピに従って調理の準備をし、蓋付きの蒸し器に入れて、40 分間、または葉を引っ張ったときに簡単に根元から離れるまで蒸します。

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アーティチョークを茹でる
アーティチョークは、購入時に乾燥してしわしわになっていないこと、そして緑色で新鮮であることが重要です。冷たい塩水と少量の酢に15分間浸し、虫を取り除いて清潔にしてから、塩を入れた沸騰したお湯に移し、葉を引っ張ると簡単に根元から外れるまで茹でます。約30分で十分です。 [ 84 ]ただし、時間はアーティチョークの年齢と大きさによって異なります。その後、水を切り、茎を切り落として、サービング皿の上にまっすぐ立つようにします。

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きのこを詰めたアーティチョーク
新鮮なアーティチョークの茎を切り、葉を均等の長さに切り揃えて、20分間、またはアーティチョークやアザミがきれいに取り除けるまで茹でます。フライパンにバター大さじ1を入れ、溶けたら、みじん切りにしたエシャロット2個(またはチャイブや玉ねぎの葉)、みじん切りにしたパセリ小さじ1、みじん切りにした生または缶詰のマッシュルーム1カップを加え、塩コショウで味付けし、5分間炒めます。アーティチョークにこれを詰め、葉を束ねて、ストック1カップ(または水)、バターまたはオリーブオイル大さじ2を入れたフライパンに入れ、30分間焼きます。このとき、5、6回全体をしっかり焼き付けます。筋を取り除き、立てて、オランダバターまたは好みのソースをかけて熱々をお召し上がりください。

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アーティチョークのビネグレット
半分に切って「アザミ」を取り除いた冷えた茹でアーティチョークを、少量の刻んだタマネギかタマネギジュース、そして刻んだパセリを加えたフレンチドレッシングであるソースビネグレットと一緒にお召し上がりください。

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フォンド・ダルティショー
アーティチョークの底の部分、つまり中身が詰まったものは、瓶詰めで購入することができます。それを瓶詰めした液体で加熱し、水を切り、温かい場合はオランデーズソースを添えて、冷たい場合はソースビネグレットやマヨネーズを添えてお召し上がりください。[ 85 ]

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アスパラガス
アスパラガスは丁寧に洗い、テープで束ねます。すべての穂先を水平にし、鋭利なナイフで茎を2~5cmほど均等に切り落とし、束がまっすぐ立つようにします。深めの鍋にアスパラガスを入れ、先端が水から十分に出るように立てます。小さじ1杯の塩を加え、蓋をして30分から25分ほど茹でます。こうすることで、茎が茹でられる頃には先端が十分に蒸されているので、水に浸けたときのように茎がバラバラに茹で上がることはありません。

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ホワイトソースのアスパラガス
指示通りにアスパラガスを茹でた後、底から2〜3インチのところに鋭いフォークを差し込んで取り出し、コンロの上の熱い皿の上に置き、テープで切って、トーストの細長いストリップの上に4〜5本ずつ並べ、それぞれに味付けしたホワイトソース大さじ2杯をかけ、アスパラガスの頭を一方向に向け、長い皿にきれいに並べます。

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オランダバターのアスパラガス
上記のレシピとまったく同じように進めますが、ホワイトソースの代わりに、溶かしたバターを全体に少しかけ、小さなチューリーンにオランダバターを添えてお召し上がりください。[ 86 ]

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ホットアスパラガスのヒント
アスパラガスの穂先1缶を水切りし、溶かしバター大さじ2杯とパプリカ少々を振り入れた鍋に入れます。温まったら、ダイヤモンド状に切ったトーストを添え、塩を振ります。

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ホワイトアスパラガス
缶詰のアスパラガスは底から開け、水気を切った後、先端を傷つけないように優しく缶から取り出します。浅めのホーロー鍋に茎を均等に並べ、熱湯または缶詰の汁を注ぎ、弱火でじっくりと加熱します。10分ほど茹でたら、熱した平皿に移し、ザルを使って茎を水から引き上げます。焼き色がつくパン粉を少々混ぜ込んだダッチバターを添えてお召し上がりください。パン粉の代わりに刻んだチャイブでも代用できます。アスパラガスはトマトソースでいただくこともできます。

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アスパラガスのビネグレット
使用するアスパラガスの缶詰を氷の上に30分ほど置き、缶を開けて水を切り、冷水で丁寧にすすいでください。シャキシャキとしたレタスの葉の上に、5~6本ずつ乗せ、ソースビネグレットをかけてお召し上がりください。

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オニオンバターで揚げたチップス
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらすりおろした玉ねぎ大さじ1杯と、水気を切ったアスパラガスの缶詰1缶分の中身を加えます。5分間、ゆっくりと炒め、塩コショウで味を調えます。[ 87 ]

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ホワイトソースのアスパラガスの先端
アスパラガスの穂先1缶分を溶かしバター大さじ1杯で温め、固ゆで卵1個分の白身を細かく刻んで混ぜた、味の濃いホワイトソースを3/4カップかけて盛り付けます。濾し器で濾した黄身を上に散らし、四角く切ったトーストを添えてお召し上がりください。

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パンケースに入ったアスパラガス
アスパラガスの穂先 2 カップを塩水で 15 分間茹で、水を切ります。茹でている間に、牛乳 1 カップをダブルボイラーに入れ、沸騰したらその一部を軽く溶いた卵 2 個に加えて勢いよくかき混ぜます。次に卵を牛乳と一緒にダブルボイラーに入れ、とろみがつくまでかき混ぜます。バター小さじ 1 杯、塩小さじ 1/2 杯、コショウ塩小さじ 1/2 杯を加えて火から下ろします。アスパラガスの穂先を 1.5 インチの長さに切り、ソースに加えます。古くなったロールパンを 5 つ用意し、穂先を切り落とし、中身を取り除いてオーブンで乾燥させます。カリッと熱くなったら、ソースをかけたアスパラガスを各ロールパンに詰め、穂先を戻して提供します。

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エスカロップアスパラガス
新鮮なグリーンアスパラガス、または缶詰のアスパラガスを使用します。5cmの長さに切り、新鮮なアスパラガスを使用する場合は、沸騰したお湯で10分間茹でます。フライパンにバター大さじ2杯を入れ、パン粉1/2カップと細かく刻んだローストピーナッツ1/2カップを炒めます。アスパラガスを1切れずつ溶き卵に巻き、パン粉とピーナッツを混ぜ合わせます。[ 88 ]バターを塗ったグラタン皿に、濃厚なホワイトソースを交互に重ね、各層に少量のコショウと塩で味を調えます。上からパン粉をまぶし、すりおろしたチーズを散らし、オーブンで焼き色をつけます。

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焼きリンゴ
大きめの酸っぱいリンゴの皮と芯を取り、厚めにスライスしてバターをたっぷりひいたフライパンに並べ、薄茶色になるまで焼きます。裏返して反対側も焼き色をつけます。

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アップルフリッター
酸っぱいリンゴを必要な数だけ皮をむき、芯を取り、塩を振り、衣をつけ、熱した油で黄金色になるまで揚げます。茶色の紙の上で油を切ってから盛り付けます。

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ゆでバナナ
皮をむかないバナナを沸騰したお湯に入れ、10分間茹でてから皮をむき、半分に切って溶かしバターを添えます。

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トマトとバナナ
バナナ3本の皮をむき、縦または横にスライスし、大きめのトマト3~4個をスライスします。フライパンにバター大さじ2杯を入れ、溶けたら[ 89 ]バナナとトマトを加え、塩、コショウ、大さじ1杯の砂糖を振りかけます。弱火でじっくり焼き、底がこんがりと焼き色がついたらひっくり返し、さらに砂糖を振りかけ、さらに焼き色がつくまで焼きます。熱々をお召し上がりください。

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バナナフリッター
必要な数のバナナの皮をむき、それぞれを横半分に切り、さらに半分に割ります。塩をふり、衣をつけ、熱した油で黄金色になるまで揚げます。茶色の紙で油を切り、熱々をお召し上がりください。

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ボストンベイクドビーンズ
乾燥したカリフォルニア豆、または小さめの白い豆を 3、4 カップ冷水で覆い、一晩浸します。翌朝、水を切り、たっぷりの水を入れた大きな鍋に入れてコンロにかけ、ソーダ小さじ 1/4 を加えながら 30 分間ゆっくり煮ます。豆鍋、または深めの耐熱皿にバター大さじ 2 杯を入れ、豆の水を切り、バターに入れます。その上に黒糖蜜大さじ 4 杯、塩大さじ 1 杯をゆっくりと注ぎ、バター大さじ 1 杯を加えます。次に、豆鍋の上部まで熱湯を満たし、非常に弱いオーブンで 6、7 時間焼きます。水分が蒸発したら、新しい水分を補給します。焼いている間に、この作業を 3 回ほど行う必要があります。調理した皿に盛り、黒くピクルスにしたクルミを添えて提供します。[ 90 ]

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グリーンインゲン
生豆を使う場合は、選別し、端と筋を取り除き、30分以上茹でます。その後、湯切りをし、バター大さじ1と牛乳大さじ2を加え、塩コショウで味を調え、10分ほどじっくり煮込んでから盛り付けます。缶詰の豆を使う場合は、最初の長時間の茹でを省略してください。

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ゴールデンワックスビーンズ
生豆を使う場合は、洗って端と筋を取り除き、塩水で45分ほど、または柔らかくなるまで茹でます。その後、水を切り、バター大さじ1と牛乳大さじ2を加えて10分間じっくり煮込み、塩コショウで味を調えます。缶詰の豆を使う場合は、最初の茹でを省略してください。

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フレンチビーンズ(フラジョレ)
ガラス容器に入ったものが一番美味しいです。湯切りをして、バター大さじ1、コショウ、塩大さじ1、クリーム大さじ1と一緒に湯煎してください。よく熱々になったらお召し上がりください。

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乾燥豆 ドイツ
乾燥豆を1.5カップ以上選び、水に浸し、10時間以上浸します。水を切り、沸騰したお湯(または玉ねぎやネギのスープが煮えているお湯)に入れ、柔らかくなるまで、または崩れずに2時間ほどじっくり煮込み、水を切ります。フライパンにバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個を加え、10分間じっくりと煮込みます。豆を加え、塩コショウで味を調え、大さじ2杯の塩コショウをかけます。 [ 91 ]レモン汁大さじ1杯または「濃縮酢」大さじ1杯を加え、10~15分ほどゆっくりと加熱し、全体がよく混ざってから盛り付けます。

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白豆のフィレンツェ風
白インゲン豆4カップを10時間水に浸し、その後2時間茹でます。皮をむき、鍋に入れ、ブイヨン1カップ、ハーブ少々、ベイリーフ1枚、マルサラ酒またはシェリー酒大さじ2を加えます。蓋をして30分ほどじっくり煮込みます。ハーブを取り除き、バター大さじ1と小麦粉大さじ1をよくすり合わせたものを加え、滑らかになるまで混ぜます。次に、卵1個を溶きほぐした生クリームまたは牛乳1カップを注ぎ入れます。かき混ぜ続け、レモン汁大さじ1と刻んだパセリ大さじ1を加え、すりおろしたチーズを添えてお召し上がりください。

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豆とコーンのエスカロップ
グリーンインゲンまたはリマ豆の缶詰1缶とスイートコーンの缶詰1缶を用意します。耐熱皿にバターを塗り、インゲンを並べます。バターを点々と塗り、コショウと塩で味付けします。さらに、コーンを1.5cmほどの深さで並べ、味付けをします。これを繰り返し、皿いっぱいになるまで焼きます。最後に牛乳を1/2カップかけ、パン粉を振りかけ、15分、またはパン粉が焼き色がつくまで焼きます。

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イタリアンビーンズ
白インゲン豆3カップを数時間浸し、塩水で2時間茹でて水を切ります。鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたら1カップを加えます。[ 92 ]大きめの玉ねぎをみじん切りにし、ローリエを2枚加えます。8分間じっくりと煮込み、茹でた豆を鍋に加え、塩コショウで味を調えます。火が通るまで軽くかき混ぜながら温め、火からおろす2分前にトマトソース1カップを加えます。

缶詰の茶色または赤の豆を使用すれば、実質的にはるかに少ない手間で同じ料理を作ることができます。

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スペイン産豆
大きめの乾燥豆を8~10時間水に浸し、水気を切って沸騰したお湯に2時間以上、または火が通るまで入れます。火の通り具合を確認するには、豆を数個取り出して息を吹きかけます。皮が割れたら出来上がりです。水気を切ったら、豆鍋かキャセロールに入れ、みじん切りにした玉ねぎ大さじ2杯と濾したトマト2カップを振りかけ、塩をしっかり振りかけます。蓋をして1時間ほどじっくり焼きます。取り出す15分前に溶かしバター大さじ1杯をかけ、蓋を外します。

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リマ豆
リマ豆は殻をむいた後、1時間ほど冷水に浸けておきます。茹でる際は、豆4カップにつき水8カップを使用してください。沸騰した塩水にリマ豆を入れ、1時間茹でます。採れたてでない場合は、さらに長く茹でてください。水を切り、茹で汁1/2カップ、牛乳1/2カップ、バター大さじ1を加え、塩コショウで味を調えます。

乾燥豆は10~12時間浸して調理する必要がある[ 93 ]2時間。缶詰のリマ豆は、温め直して水を切り、牛乳とバターを少し加えて調味料を加えるだけで大​​丈夫です。

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リマ豆のオランデーズソース
豆1クォート(約450ml)を柔らかくなるまで茹で、半分茹で上がったら塩をしっかり振ります。大さじ1杯のバターを泡立ててクリーム状にし、卵黄1個分、みじん切りにしたパセリ大さじ1杯、黒コショウ小さじ1杯、レモン汁小さじ2杯を加えて混ぜます。ソースがしっかり混ざったら、豆を崩さないように注意しながら混ぜ合わせます。

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クリームリマ豆
茹でたリマ豆 2 カップをクリーム 1 カップ弱で覆い、ダブルボイラーで 10 分間煮込みます。その後、バター小さじ 1 杯を加え、塩、コショウ、ナツメグ少々で味付けします。

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リマ豆のソケタッシュ
摘みたてのリマ豆2カップを水1クォート(約4.7リットル)で30分煮ます。豆を湯切りし、牛乳1カップ、バター大さじ1、そして芯から切り取ったグリーンコーンを2カップ分加えます。よく味を調え、15分間弱火で煮込み、盛り付ける前に塩を再度加えます。

缶詰のコーンや缶詰の豆を使用する場合は、10 分間だけ調理する必要があります。[ 94 ]

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ビーツ
ビートを洗う際は、小さな根茎が折れたり、皮が傷ついたりしないように細心の注意を払ってください。汁が漏れると、味も色も損なわれます。都会では、2~3時間以内で茹でられるビートはほとんど手に入りませんが、本当に若くて小さなビートなら、1時間以上茹でる必要はありません。茹で上がったら水を切り、冷水に浸します。その後、皮は手でこすり落とすことができます。ただし、ビートを焼いたり蒸したりするのを好む人もいます。その場合、茹で時間は多少長くなります。缶詰のビートは非常に便利です。

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クリームビーツ
中くらいのビーツを6~7個、柔らかくなるまで茹でます。鍋から取り出し、冷水に入れます。手で丁寧に皮を剥き、1.5cm角に切ります。バター大さじ2杯、小麦粉大さじ2杯、ビーツを茹でた湯1/2カップ、生クリーム大さじ2杯、酢大さじ2杯、砂糖小さじ2杯、塩小さじ1/2杯、こしょう小さじ1杯を加えてソースを作ります。熱々のビーツにソースをかけ、温めた深皿に盛り付けます。

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バージニアビーツ
茹でたビートの皮を丁寧に剥き、鋭利なナイフで薄く均等にスライスし、温めた野菜料理にスライスした状態で並べます。底に層ができたら、バターをたっぷり塗り、軽く味付けします。[ 95 ]塩を加え、大さじ1杯のグラニュー糖を振りかけます。次に、バター、塩、砂糖をまぶしたビーツをもう一層重ね、皿いっぱいになるまでこの作業を繰り返します。この料理は熱々のまま提供するため、ビーツが冷めないように、作業は火の近くで行います。調理中にビーツが冷めてしまった場合は、数分間オーブンで焼き、スプーンで皿の中でひっくり返してジューシーに仕上げます。

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ピカントビーツ
熱々の調理済みビートの皮をむき、スライスして、大さじ 3 杯のバターに小さじ 1 杯の普通の酢、またはタラゴン数滴、クローブ 2 個、小さじ 1 杯の砂糖を加えた鍋で 3 ~ 4 分間炒めます。

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ドイツ産ビーツ
大さじ 1 杯のバターでソースを作り、バターが溶けたら、大さじ 1 杯の小麦粉、小さじ 2 杯の玉ねぎジュース、小さじ 1/2 杯の塩、大さじ 1 杯の砂糖、大さじ 1 杯のレモンジュース、ソースが適切な濃度になるまで十分な量のお湯を加えます。次に、新鮮なスライスした調理済みのビーツを加え、3 ~ 4 分ほど一緒に調理してから提供します。

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ビーツのピクルス
冷たいビートのスライスを磁器製またはガラス製の深めの容器に入れ、その中に胡椒の実とオールスパイスを少々入れ、マイルドな酢をかけて、10 ~ 12 時間置いてから使用します。[ 96 ]

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芽キャベツ
芽キャベツは、切り口を切り、中身を軽く確認した後、レモン汁を少し加えた塩水に10分間浸すと美味しくなります。その後、水を切り、塩と少量の重曹を入れた沸騰したお湯を入れた大きな鍋に入れます。この10分間で下茹でし、ザルで濾して蒸し器に入れ、沸騰したお湯の上に置きます。蓋をして30分蒸らし、調理完了です。

もやしを蒸すのではなく茹でる場合は、鍋に蓋をせずにそのままにしておくと、臭みを抑えることができます。塩を入れたお湯で20~30分茹で、柔らかくなったらすぐに湯切りし、溶かしバターを添えてお召し上がりください。

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オランダ産バターの芽キャベツ
茹でた芽キャベツを溶かしバター大さじ2杯とレモン汁大さじ1杯を入れた鍋に入れ、熱くなるまでかき混ぜ、コショウと塩を加えます。

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芽キャベツとセロリ
芽キャベツ1クォート(約450ml)を切り落とし、流水で洗います。鍋に入れ、沸騰したお湯を注ぎ、5分間茹でます。水を切り、塩小さじ1杯を入れた新しい熱湯を注ぎます。蓋をせずにさらに25分間茹で、水を切ります。セロリは1.5カップ分(約2.5cm)の長さに切り、バター大さじ3杯と一緒に鍋に入れ、よく混ぜ合わせます。[ 97 ]小麦粉大さじ2杯を含む熱した牛乳1.5カップを加え、とろみがついたらもやしを加え、塩コショウで味付けし、熱いうちに盛り付ける。

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栗と芽キャベツ
芽キャベツ 1 カップにつき、15 分間茹でた栗を 1/2 カップ加えます。芽キャベツと栗を一緒にして、さらに 40 分間茹で、水を切り、ホワイト ソースを添えて提供します。

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芽キャベツのリヨネーズ
鍋にバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ 1 杯を加えます。玉ねぎが茶色くなり始めたら、ゆでたもやし 4 カップを加え、3 ~ 4 分間かき混ぜます。もやしが冷たい場合は、バターと玉ねぎと一緒に熱くなるまでかき混ぜます。

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クリームブリュッセルスプラウト
茹でたての芽キャベツに、牛乳のみで作ったホワイトソース、または芽キャベツを茹でた時のスープに大さじ 1 杯のクリームを加えたホワイトソースをかけます。

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パンケースに入った芽キャベツ
古くなったパンを3インチの正方形に切り、鋭利なナイフで中央を切り取り、箱のように底と4つの側面を残します。溶かしバターを塗り、焼き色をつけます。[ 98 ]オーブンで調理します。上記のいずれかの方法で調理したスプラウトを添えてください。クリーム状にしたスプラウトは、おそらくこの方法で食べるのが一番美味しいでしょう。

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キャベツ
キャベツは半分に切った後、丁寧に洗い、たっぷりの塩を入れた熱湯で 5 分間茹でます。このお湯を捨てて、再び新しい熱湯を注ぎ、30 分間茹でます。その後、小さじ 1 杯の塩を加え、中くらいの大きさのキャベツであればさらに約 30 分で茹で上がります。

キャベツを茹でている間は絶対に蓋をしてはいけません。蓋をすると調理中の臭いが強くなります。

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ニューイングランドキャベツ
キャベツを4等分に切り、よく洗い、塩水で5分間下茹でします。水気を切り、ニンジン2本とカブ2個と一緒に、大さじ1杯のバターを加えた濃い野菜ストックで1時間、または柔らかくなるまで煮込みます。水気を切り、少量のストックをかけて盛り付け、塩コショウで味を調えます。

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西洋キャベツ
千切りにした白キャベツ4~5カップを、大さじ1杯のバターを溶かしたフライパンに入れます。キャベツをフライパンに押し込み、塩コショウをふりかけ、酢1/2カップと水1/2カップを注ぎます。[ 99 ]水をたっぷり入れ、蓋をして弱火で30分ほど煮ます。

赤キャベツも同じように調理でき、同量の赤キャベツと白キャベツを使うときれいな料理になります。

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キャベツサルマ
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個を加え、10分間弱火で煮込んだら、ご飯1カップ、刻んだナッツ類1/2カップ、塩小さじ1杯、塩小さじ1杯のこしょう、溶かしバター大さじ1杯を加えて混ぜます。小さめのキャベツを15分間下茹でし、葉を1枚ずつほぐします。それぞれの葉にすりおろし肉大さじ1杯を巻き込みます。浅い鍋にしっかりと詰め、塩こしょうをふりかけ、キャベツを茹でた水で覆うようにして、月桂樹の葉2枚を乗せ、15分間弱火で煮込みます。溶かしバターまたはトマトソースを添えてお召し上がりください。

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キャベツ・リヒテンシュタイン
大きなキャベツ1個を茎を使わずに細かく切ります。よく洗い、沸騰したお湯に小さじ1杯の塩と大さじ1杯のキャラウェイシードを入れた鍋に入れます。蓋をせずに30分煮込み、皮をむいて4等分した大きなジャガイモ4個をキャベツに加え、塩で味を調え、さらに20分煮込みます。フライパンに大さじ2杯のバターを入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個と大さじ1杯の小麦粉を加えます。全体が茶色になるまで炒め、フライパンの中身をキャベツにかき混ぜながら、さらに20分、またはスープがほぼなくなるまでゆっくりと煮込みます。[ 100 ]

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レディキャベツ
硬めのキャベツを15分茹で、沸騰したお湯を注ぎ足します。さらに30分、または柔らかくなるまで茹で続け、湯切りをして冷めるまで置いておきます。キャベツを細かく刻み、コショウと塩で味を調え、よく溶きほぐした卵1~2個、バター大さじ1、濃厚な牛乳1/2カップを加えます。全てよく混ぜ合わせ、バターを塗った皿で焼き色がつくまで焼きます。オーブンは中火で予熱し、カスタードを焼くのと同じように丁寧に焼きます。耐熱皿に入れてお召し上がりください。

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コールドスロー
鍋に酢大さじ2杯を入れて沸騰させ、沸騰したら、軽く溶いた卵2個を入れたサワーミルク、牛乳、または生クリーム1/2カップを加えます。かき混ぜ、バター大さじ1杯、塩、コショウを加え、深めのボウルに千切りキャベツ4カップを盛り付け、その上に注ぎます。冷やしてお召し上がりください。

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ドイツ産赤キャベツ
鍋に千切りにした赤キャベツ 3~4 カップ、バター大さじ 1 杯、みじん切りにしたリンゴ 1 個、レモン半分の果汁を入れ、軽く砂糖を振りかけ、塩とコショウで味付けし、蓋をして 30 分~ 45 分ほど煮込みます。

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ハンガリーキャベツ
赤キャベツを4等分し、茎の部分を取り除き、よく洗います。キャベツが浸るくらいの熱湯を入れた鍋に入れ、45分ほど茹でます。[ 101 ]柔らかくなるまで炒め、軽く水気を切って水を切ります。フライパンにバター大さじ2を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個と小麦粉大さじ1を加え、滑らかになるまで混ぜ、きつね色になるまで炒めます。次に、ブラウンシュガー1/2カップ、酢1/3カップ、塩をよく混ぜ合わせます。千切りキャベツを加え、15~20分弱火で煮込んでから盛り付けます。

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赤キャベツのピクルス
キャベツを2クォート(8カップ)分だけ刻むか千切りにし、みじん切りにした大きな玉ねぎ1個と大さじ1杯の塩を加えてよく混ぜ、蓋付きの瓶に入れて一晩置きます。翌日、ざるで水気を切り、キャベツを瓶に敷き詰め、マスタードシード少々とクローブ2~3個を振りかけます。キャベツを使い切るまでこの作業を繰り返します。キャベツを押さえつけないでください。リンゴ酢で覆い、24時間経過後であればいつでも使用できます。

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クリームキャロット
さいの目に切ったニンジンが4カップ分になるように、ニンジンを洗い、牛乳と水を半々で混ぜた沸騰した湯せん器に入れます。40分、または柔らかくなるまでじっくりと煮込み、湯切りをして、コンロの脇の温かい皿に移します。ニンジンの煮汁1カップ、バター大さじ1、小麦粉大さじ1、たっぷりの塩コショウでソースを作ります。ソースをかけてお召し上がりください。[ 102 ]

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クリーム状のニンジンとジャガイモ
ゆでて冷えたジャガイモ1クォート(約450ml)をさいの目に切り、ゆでてさいの目に切ったニンジン1カップを加えます。これをダブルボイラーに入れ、玉ねぎの汁大さじ1と細かく刻んだパセリ大さじ1を加えた、味付けの濃いホワイトソース1.5カップを注ぎます。一度沸騰させてから盛り付けます。

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ニンジンのソテー
ゆでたニンジンをさいの目切りまたは好きな形に切り、熱したバターで5分ほど炒めます。塩コショウで味を調え、刻んだパセリを少々加えて、熱々のうちに召し上がってください。

新鮮なニンジンの代わりに、ガラス瓶に入った、形が凝ったドイツ産のニンジンを使うこともできます。

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栄光のニンジン
さいの目に切ったニンジン2カップを、軽く甘みをつけたお湯で約30分、または柔らかくなるまで茹で、冷まします。鍋にバター大さじ1杯を入れ、すりおろした玉ねぎ小さじ1杯を加えて混ぜ合わせ、熱々になるまで混ぜます。さいの目に切ったニンジンと、よく練ったホワイトソース1カップを加えます。小さなグラタン皿にバターを塗り、ニンジンの混合物を注ぎ、軽く焼き色をつけたパン粉を軽く振りかけ、刻んだチャイブを散らします。オーブンで5分焼きます。小皿に盛り付け、紙製のドイリーを添えて、そのままメインディッシュとしてお召し上がりください。

この料理は、ニンジンに混ぜるチャイブをもっと多く使用し、玉ねぎを省くことで変化をつけることができます。チャイブがない場合は、[ 103 ]一方、玉ねぎを使用する場合は省略でき、代わりに細かく刻んだパセリを上に飾ることもできます。

ここで示した量を 2 倍にして、大きな耐熱皿でニンジンを調理し、昼食や夕食のメインコースに加えることもできます。

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グレーズドキャロット
このレシピでは、ニンジンを円錐形または楕円形に均等に切ります。ガラス瓶入りの輸入ニンジンを使用すると便利です。瓶入りの輸入ニンジンを使用する場合は、既に茹でてあります。生ニンジンを使用する場合は、皮をむいて洗い、特許取得済みのカッターで小さな形に切り抜きます。柔らかくなるまでじっくり茹でますが、完全に火が通るほどではありません。フライパンに溶かしたバター大さじ2杯を入れ、2~3カップのニンジンを入れます。上白糖を振りかけ、強火でニンジンが茶色になるまでかき混ぜます。次に、ニンジンを茹でたスープ大さじ2杯を加え、かき混ぜ続けます。必要であればスープを追加し、ニンジンに良い艶が出るまでかき混ぜ続けます。そのままでも、付け合わせとしてもお召し上がりいただけます。

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キャロット デルモニコ
小さな耐熱皿にたっぷり入る量のニンジンを皮をむき、さいの目に切ります。沸騰したお湯に大さじ1杯の砂糖と大さじ1杯のバターを入れ、柔らかくなるまで30分ほど煮込みます。湯切りをして冷まし、耐熱皿に並べ、以下のソースをかけます。バター大さじ3杯を溶かし、小麦粉大さじ3杯を加えます。滑らかになったら、ニンジンを煮込んだスープ1カップと、乳製品1/2カップを少しずつ加え、混ぜ合わせます。[ 104 ]卵黄2個分を溶きほぐし、滑らかになったらレモン汁大さじ1/2を加え、塩コショウでよく振る。表面に細かく丸めたパン粉を散らし、オーブンで焼き色をつける。

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にんじんのスフレ
茹でてつぶしたニンジン2カップ、みじん切りにした玉ねぎ大さじ2杯をバター大さじ1杯で5分間炒め、牛乳または生クリーム1カップで卵黄3個分を溶きほぐしたもの、ナツメグ小さじ1/2、塩コショウを加え、よく混ぜ合わせたら、フォークで軽くほぐした卵白3個分を加えます。パン粉をふりかけ、15~20分ほど焼き色がつくまで焼きます。

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カリフラワー
カリフラワーの新鮮で美味しそうな緑の部分はすべて残し、洗って15分から30分ほど塩水に浸します。その後、茎を下にして鍋に入れ、上部がかろうじて浸る程度まで沸騰したお湯を注ぎます。鍋があまり大きくなければ、カリフラワーが倒れずに済むので、緑の茎が柔らかくなる前に繊細な上部が崩れてしまうことはありません。小さなカリフラワーは30分ほど茹で、下部をフォークで刺して柔らかくなっているか確認しましょう。カリフラワーを茹でる際は鍋に蓋をせずに置いておくと、茹で汁の臭いがかなり抑えられ、カリフラワーの味もより繊細になります。

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クリームカリフラワー
カリフラワーを茹でて水を切り、ホワイトソース 1 カップをかけてお召し上がりください。[ 105 ]

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カリフラワーのグラタン
大きめのカリフラワーを茹で、水を切り、茎をほぐします。バターを塗った耐熱皿に層状に並べ、各層にチーズを散らし、コショウと塩で味を調えます。皿に詰め終わったら、ホワイトソース1カップをかけ、上にパン粉とチーズを散らし、15分焼いて焼き色がつくまで焼きます。

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ドイツ風カリフラワー
カリフラワーを茹でて水を切り、塩コショウをふり、白い部分に溶かしバターを塗り、茶色く焼いたパン粉をまぶします。その上にオランダ産バター 3/4 カップを注ぎ、浅いグラタン皿に入れてオーブンで 5 分間加熱します。

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イタリアンカリフラワー
カリフラワーを茹でて水を切り、表面にコショウと塩をまぶし、すりおろしたチーズを散らし、溶かしバターを少量かける。オーブンで5分ほど焼き色がつくまで焼き、トマトソースをかけて出す。

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カリフラワーフリッター
カリフラワーを25分、または柔らかくなるまで茹で、水気を切って冷まします。冷めたら、葉をほぐし、塩コショウをまぶし、衣をつけて油で揚げ、黄金色になるまで揚げます。水気を切って、熱々をお召し上がりください。[ 106 ]

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クリームセロリ
セロリを3~4本、根は残し先端を切り落とし、茎をそれぞれ縦半分に切り、長さ5インチに切ります。流水で丁寧に洗い、沸騰したお湯で10分間ゆでます。水気を切って茎をアスパラガスの束のように束ね、水2カップ、牛乳2カップ、ニンジン1/2本、クローブ2個を刺したタマネギ1/2個、塩小さじ1、コショウ少々を入れた鍋に入れ、45分以上、またはフォークで刺して柔らかくなるまで煮込みます。セロリを取り出し、ストックを濾し、そのストック1カップを使ってバター大さじ1と小麦粉大さじ1でソースを作ります。セロリの束をほどき、ソースをかけながらトーストに均等に並べます。

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ブラウンソースのセロリ
セロリを上記のように準備し、45 分ほど柔らかくなるまで茹でて水を切り、下記のブラウン ソースをかけ、ワインを省いて、普通の野菜料理として提供します。

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セロリのキャセロール
セロリを10cmの長さに切り、茎は縦半分に切り、根は残しておきます。よく洗い、塩水か牛乳で10分間下茹でします。四角い鍋に並べ、蓋をします。鍋にバター大さじ2杯を入れ、きつね色になったら小麦粉大さじ2杯を加えます。よく溶けるまでかき混ぜ、水2カップを加えます。[ 107 ]セロリを茹でたソース、塩小さじ1弱、こしょう小さじ1、ローリエ2枚を加えます。滑らかになるまで混ぜ、濾してセロリにかけ、シェリー酒またはマデイラ酒小さじ1を加えます。蓋をして、浅い鍋に少量の水を入れ、オーブンで30分煮込みます。キャセロールに入れてお召し上がりください。

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焼きセロリ
セロリ2束を5cmの長さに切り、よく洗い、沸騰したお湯と牛乳(それぞれ同量)で15分間ゆでます。セロリを取り出して冷まします。牛乳と水のスープ1カップに、バター大さじ1杯と小麦粉大さじ1杯、こしょう少々、塩少々を加えて混ぜます。滑らかになったら火からおろし、卵2個を加えて勢いよくかき混ぜます。バターを塗った耐熱皿にセロリを並べ、ソースをかけ、パン粉を厚くまぶしてオーブンに入れます。20分ほど蓋をして、蓋を外し、焼き色がつくまで焼き色がついたら盛り付けます。

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ブラックバターのセップ
フランスのセップは缶入りまたはガラス入りです。フライパンにバター大さじ3杯、ローリエ2枚、セロリシード少々、ニンニク1かけを入れ、じっくりと焼き色がつくまで炒めます。濾してセップを加え、バターで温めます。塩とパプリカで味を調え、熱々のうちに召し上がってください。[ 108 ]

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アメリカンスイートコーン
使用の 24 時間以内に収穫された穂軸付きのスイートコーンは、軽く塩を加えた沸騰したお湯に入れて、8 ~ 10 分以内で茹でます。

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ローストコーン
スイートコーンをローストするには、穂軸に皮をつけたまま、弱火のオーブンで30分焼きます。皮と筋を取り除き、すぐに盛り付けます。この調理法は、この繊細なアメリカ産野菜を茹でる通常の方法よりも、コーン本来の風味をよりよく保つと考える人もいます。

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コーンプディング
スイートコーンを6~7本用意し、鋭利なナイフで各列の真ん中を切り、穂から実を切り取ります。牛乳2カップ、塩小さじ1、コショウ塩小さじ1、砂糖小さじ1、溶かしバター大さじ1、軽く溶いた卵2個を加えます。耐熱皿に入れ、カスタード状に弱火で30分焼きます。加熱しすぎたり、熱くなりすぎたりしないように注意してください。固まらないように注意してください。新鮮なコーンが旬でない場合は、缶詰のコーンを使っても構いません。

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トマトまたはペッパーケース入りのコーンプディング
大きくて中身が詰まったトマトから中身の大部分をくり抜いて作ったケース、またはくり抜いた緑のピーマンに入れて、上記のものを焼きます。[ 109 ]

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コーンクレオール
鍋にコーン缶1缶、みじん切りにしたピーマン大さじ1杯、牛乳1/2カップを入れ、10分間じっくりと煮込みます。塩コショウで味を調え、バター大さじ1杯を加えて盛り付けます。耐熱皿に移し、パン粉をまぶして15分焼いても構いません。

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コーンとトマトのパイ
プディング皿にバターを塗り、ゆでたまたは缶詰のコーンとトマトを交互に重ねて詰め、塩、こしょう、バターで味を調えます。パイ生地で覆い、中火に予熱したオーブンで15分焼きます。生地が不要な場合は、パン粉をまぶして焼き色をつけてください。生のトマトとコーンを使用する場合は、パイの焼き時間が2倍かかります。前半は皿に覆い、後半はそのままにしてください。

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コーンチャウダー
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらスライスした玉ねぎ1個を加え、5分間じっくりと煮込みます。その後、5分間下茹でして小さく四角く切ったジャガイモ4カップと熱湯2カップを加えます。ジャガイモが柔らかくなるまで20分間煮込み、スイートコーン缶1缶、温めた牛乳4カップ、バター大さじ1杯、たっぷりの塩コショウを加え、火を通します。深皿にクラッカー8枚を割り入れ、チャウダーをかけて出来上がりです。[ 110 ]

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ロードアイランド産エスカロップ
中くらいのサツマイモ4個を30分ほどオーブンで焼き、中身をこそげ取って細かく刻みます。グリーンコーン2本を10分ほど茹で、鋭利なナイフを粒の列に沿って滑らせて2つに切ります。次に、コーンを芯から切り離し、刻んだサツマイモと混​​ぜ合わせます。グラタン皿6枚にバターを塗り、混ぜ合わせたコーンとサツマイモを詰め、塩を振りかけ、溶かしバター大さじ1杯をそれぞれにかけ、パン粉をまぶしてオーブンで8~10分焼きます。同じ材料を耐熱皿に詰めることもできます。溶かしバターはサツマイモが十分に湿るくらいの量を使用します。

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キュウリの煮込み
きゅうり4~5本の皮をむき、4等分に切り、沸騰した塩水に浸し、20~30分茹でます。茹で汁は取っておき、水を切ります。バター大さじ2と小麦粉大さじ2をすり合わせ、きゅうりを茹でた水2カップを加えてソースを作ります。滑らかになるまで混ぜ、沸騰したらレモン1個分の果汁、塩小さじ1、パプリカ少々を加えます。トーストにきゅうりを並べ、ソースをかけながら盛り付けます。

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詰め物入りキュウリ
きゅうりの皮をむき、長さ約5cmに切り、中心部分を半分ほどくり抜いてカップ状にし、そこにみじん切りにした玉ねぎを入れ、[ 111 ]細かく刻んだマッシュルームをバターで炒め、表面にパン粉をまぶしてオーブンで焼き色がつくまで焼きます。

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揚げナスとタルタルソース
ナスの皮をむき、1.5cm幅にスライスします。塩コショウをさっと振り、溶き卵黄をまぶし、細かいパン粉をまぶして熱した植物油で揚げます。茶色のペーパータオルで油を切り、熱々を盛り付けます。タルタルソースを添えるか、ナスの輪切り1枚に1杯ずつ添えてください。クレソン、セロリの葉、またはパセリを添えて飾り付けます。

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トマトソースの揚げナス
前述のレシピ通りに炒め、ナスと一緒に風味豊かなトマトソースをかけてお召し上がりください。ナスを塩水に浸さないでください。シャキシャキ感が失われます。

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クリームエンダイブ
エンダイブの外側の葉を切り落とし、エンダイブをよく洗います。水を切り、沸騰した塩水に15分間浸します。再び水を切り、冷水で数分間浸します。刻んで鍋に入れ、エンダイブ1株につき大さじ1杯のバターを加えます。蓋をして10分間弱火で煮込み、塩をしっかり振り、クリームで湿らせ、パプリカを振ります。トーストにのせるか、三角形に切ったトーストを添えてお召し上がりください。[ 112 ]

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コールラビ
卵ほどの大きさの若いコールラビを使うととても美味しいです。30分ほど下茹でし、半分に切ってフライパンに入れ、溶かしバターで15~20分焼きます。茹でたバターをかけ、塩コショウを振ります。コールラビの茹で時間は、もちろん収穫時期によって大きく異なります。

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コールラビのグラタン
コールラビをスライスし、20分ほど、または柔らかくなるまで茹でます。耐熱皿にクリームソースを層状に並べ、重ねます。各層にコショウと塩を振りかけ、上からパン粉と粉チーズを振りかけ、20分焼きます。

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レンズ豆のパイ
鍋にバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ 1 個を加え、10 分間ゆっくり炒めます。次に、茹でたドイツまたはエジプトのレンズ豆 2 カップとブラウン ソースまたはジャーマン ソース 1/2 カップを加え、温まったら深めの皿に移し、コショウと塩をまぶし、パイ生地で覆い、オーブンで茶色になるまで焼きます。

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エジプト風レンズ豆
レンズ豆2カップを洗い、2~3時間浸し、使う前に水を切ります。沸騰したお湯に塩をたっぷり入れ、柔らかくなるまで約40分茹でます。[ 113 ]再び水を切ります。鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした大きな玉ねぎ1個を加えます。弱火で10分ほど炒め、レンズ豆と2カップ弱のご飯を加え、大きなフォークでよく混ぜて熱々になるまで炒めます。塩コショウを振り、盛り付けます。

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ドイツレンズ豆
レンズ豆2カップを冷水で覆い、2~3時間浸します。水を切り、沸騰した塩水にネギ1本(または玉ねぎ1個)を入れ、柔らかくなるまで、ただし崩れない程度に30分ほど煮ます。フライパンにバター大さじ2を入れ、溶けたら小麦粉大さじ2を加えて炒め、きつね色になるまで炒めます。次に、みじん切りにした玉ねぎ2個、酢大さじ2~3、レンズ豆を茹でた水大さじ2を加えます。このソースを水切りしたレンズ豆と混ぜ合わせ、塩、コショウ、ナツメグ少々を加えてダブルボイラーでじっくり15分蒸らしてから盛り付けます。

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ネギ
ネギを白い部分だけでなく柔らかい緑の部分も使って3インチの長さに切り、流水でよく洗い、小さな鍋に入れて沸騰した塩水で覆い、20分間煮ます。

大さじ1杯のバターを溶かし、大さじ1杯の小麦粉でとろみをつけ、ネギを茹でるときに必要な量の水を大さじ1杯ずつ加えてソースを作ります。[ 114 ](約1カップ)を加えて適切な濃度のソースを作り、コショウと塩で味付けし、ネギの水気を切って、ソースをかけます。

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キノコ
きのこは、完全に新鮮でしっかりとした状態のものだけを使用してください。皮を剥く際は、小さなナイフを使い、きのこの端にある繊細な縁をナイフの刃と親指で挟み、紙のような皮をきのこの中心に向かって引っ張るように剥いてください。茎はカップを割らないように切るか折り取り、もし茎が残っている場合は削って使用してください。きのこが白くて小さく、採りたての場合は、さっと洗って皮を剥かずに使用できます。

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きのこの煮込み
約450gのマッシュルームの皮をむき、鍋に入れます。バター大さじ2、塩小さじ1杯のコショウ、塩小さじ1杯、牛乳1/4カップに加え、小麦粉大さじ1杯を混ぜたものを加えます。蓋をして5~6分煮込み、生クリーム1カップを加えてよく混ぜ合わせ、蓋をして弱火で10分煮込みます。このマッシュルームは、イタリアンキャセロールとしても調理できます。

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ドイツ風キノコの煮込み
きのこ1ポンドの皮をむき、鍋に入れ、レモン1個分の果汁を振りかけ、牛乳1カップを加え、蓋をして弱火で10分煮込みます。とろみをつけます。[ 115 ]小麦粉山盛り小さじ1杯を少量の牛乳に溶かし、バター大さじ1杯とナツメグのすりおろしを加え、さらに10分ほど弱火で煮込んでからお召し上がりください。ドイツではレモン汁と牛乳の代わりにサワークリーム1カップを使うことが多く、これも代用として適しています。

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きのこと栗のラグー
皮をむいたマッシュルームと茹でたイタリア産栗を同量使い、濃厚なブラウンソースで温めます。トーストを添えて、またはケースに入れてお召し上がりください。あるいは、ビスケット生地を上に乗せた深めのパイ生地に挟んでお召し上がりください。

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マッシュルーム ニューバーグ
マッシュルーム450gの皮をむき、牛乳2カップをかけて弱火で10分間煮込みます。マッシュルームをザルで濾し、牛乳に小麦粉大さじ1、バター大さじ1、溶きほぐした卵黄2個分、シェリー酒1杯、塩少々、パプリカ少々を加えてソースを作ります。ソースにとろみがついたらマッシュルームを戻し、2分間加熱します。トーストまたはパティケースに入れてお召し上がりください。

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トーストにのせて焼いたマッシュルーム
必要な数の大きなキノコを選び、皮をむいた後、カップを上にして丸いトーストの上に並べます。トーストはトーストした後、熱湯にさっと浸して湿らせます。キノコを乗せたトーストをバターを塗った浅いフライパンに入れ、各キノコのカップに少量のバターを入れます。 [ 116 ]塩コショウを振り、同じ大きさの別のフライパンで蓋をして8~10分煮込みます。パセリまたはクレソンを添えてすぐにお召し上がりください。

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グリルしたマッシュルーム
キノコの皮をむくか洗って、カップを上にして細い網のグリルに入れ、強火で5~6分焼きます。カップ1つにつきひとつまみの塩を入れます。温まったらすぐにグリルから取り出し、熱いお皿に盛り付けます。カップに溜まった肉汁をこぼさないように注意してください。クレソンまたはパセリを添えます。

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マッシュルーム・シュール・クロッシュ
丁寧に洗ったマッシュルームを、カップを上にしてグラタン皿に並べ、それぞれに塩を振り、カップにバターを少量入れ、熱したオーブンで10分焼きます。盛り付ける際は、それぞれの上にガラス製の「ベル」を乗せます。ベルは市販のもので代用できます。こうすることで、盛り付けている間もマッシュルームの熱が保たれます。

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キャセロールのきのこ
フレンチキャセロールまたはイタリアンキャセロールに良質のバターを1/2カップ入れ、溶かしたら皮をむいたマッシュルームを3/4ポンドまたは1ポンド加えて混ぜ、コショウと塩を振ります。キャセロールに蓋をしてオーブンに入れ、5分焼いたらマッシュルームを混ぜてバターとよく混ぜ合わせ、蓋をしてさらに5分焼きます。さらに10分焼いて、丸いトーストに乗せてキャセロールから取り出してお召し上がりください。[ 117 ]

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詰め物入りマッシュルーム
1.5ポンドのマッシュルームから、最も大きくてカップ型のものを10個選びます。皮をむき、カップ側を上にして浅い鍋に入れます。きれいに洗った茎と残りのマッシュルームを細かく刻み、カップに入れます。溶かしバター小さじ1杯、コショウ、塩をそれぞれ加え、10分、または火が通るまで焼きます。クレソンを添えてトーストにのせて、または前述のガラスのベル型に入れてお召し上がりください。

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トリュフ入りマッシュルーム
熱したフライパンにバターを入れ、トリュフを5分間炒めます。カップに入れたマッシュルームにコショウと塩をふりかけ、トリュフを詰めて、蓋をしたフライパンで10分間、熱したオーブンで焼きます。パリパリのレタスの葉にパセリバターを添えてお召し上がりください。

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きのこ&エンドウ豆
大きめのマッシュルームのカップに、熱したバターで5分間炒めたフランス産の缶詰グリーンピースを入れます。味付けをして、蓋をしたフライパンに入れ、熱したオーブンで10分焼きます。お好みでホワイトソースまたはブラウンソースをかけてトーストに盛り付けます。

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玉ねぎとマッシュルーム
中くらいの玉ねぎ2個を皮をむき、細かく刻んでキャセロールか鍋に入れ、大さじ1杯の[ 118 ]溶かしバターを加え、10分間じっくりと加熱します。その後、丁寧に洗うか皮をむいたマッシュルーム約450gとバター大さじ1杯を加え、蓋をして10分間加熱します。塩コショウで味を調え、熱々をお召し上がりください。

このように調理したキノコは、深めの耐熱皿に入れ、パイ皮で覆い、パイ生地にして焼くことができます。

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卵入りきのこ
磁器製のキャセロールか鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたら皮をむいた、または洗ったマッシュルーム450gを加えます。弱火で10分間煮込み、薄切りにしたゆで卵2個と生クリーム半カップを加えます。このレシピは、厚めのパイにも使えます。耐熱皿に入れ、パイ皮をかぶせて、軽く焼き色がつくまで焼きます。

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缶詰のマッシュルーム
缶詰1缶分のマッシュルームを水切りし、半分に切ります。缶詰の煮汁に、必要であれば水を加えてブラウンソースまたはジャーマンソースを作ります。マッシュルームを鍋に入れ、ソースを加え、コショウと塩で味を調え、トーストに乗せて熱々を召し上がってください。

マッシュルームは、水気を切ってパセリバターで熱くなるまで炒め、塩とコショウで味付けしてトーストにのせて食べるだけでも調理できます。

このように調理したマッシュルームは、ピーマンやトマトの詰め物に最適です。缶詰のマッシュルームも購入できます。[ 119 ]トリュフが添えられており、さまざまな料理にバラエティを加えています。

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缶詰マッシュルーム ツァリーナ
マッシュルームの缶詰を開け、水気を切り、マッシュルームが大きければ半分に切り、煮汁を取っておく。鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらすりおろした玉ねぎ大さじ1杯、ローリエ2枚、クローブ2個、胡椒2粒、オールスパイス2粒を加える。5分間じっくりと煮込み、マッシュルームの煮汁と牛乳を2カップ分加え、塩で調味し、10分間弱火で煮る。次に、バター大さじ1杯でクリーム状にした小麦粉大さじ1杯を加え、一度沸騰させて濾す。ソースとマッシュルームをイタリアンキャセロールに入れ、オーブンで5分間加熱する。三角形に切ったトーストに乗せて皿から出す。

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マッシュルームローフ
よく濾した透明な沸騰した野菜ストックを、溶かした植物性ゼラチンまたはクズウコンに注ぎます。液体2カップにつき大さじ1杯程度の割合で加えます。塩コショウでよく調味し、ゼリーが少し固まったら、マッシュルーム缶詰1缶を半分に切って加えます。マッシュルームが均等に散らばり、形が崩れにくくなります。刻んだパセリとクルミのピクルスのスライスを型に敷き、ゼリーを流し込みます。固まったら、冷たく冷やした状態で、お好みの冷製ソースやピクルスを添えてお召し上がりください。お好みで、刻んだナッツを少々加えても構いません。[ 120 ]

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オクラの煮込み
若いオクラの鞘の端を切り落とし、塩水で 1 時間茹でてから水を切り、溶かしたバターと一緒に鍋で再加熱します。

オクラはご飯の付け合わせとして使えます。缶詰のオクラは5分茹でて水を切り、味付けをして、フライパンで熱したバターと2~3分炒めるだけで出来上がりです。

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オクラとグリルトマト
しっかりしたトマトを半分に切り、よく味付けして焼き、煮込んだオクラを添えてお召し上がりください。

[コンテンツ]
トマトソースで煮込んだオクラ
生のオクラを使用する場合は、煮込みオクラのレシピと同様に調理します。缶詰のオクラを使用する場合は、水気を切り、沸騰した塩水で加熱します。フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたらオクラを沸騰したお湯から取り出し、フライパンに入れます。塩コショウでよく味付けし、トマトソース1カップをかけます。十分に温まったら、盛り付けます。

[コンテンツ]
オクラとトマトのエスカロップ
バターを塗った耐熱皿に、スライスした缶詰のオクラとトマトを交互に並べ、その間に塩と塩で味付けしたご飯を層にして入れます。[ 121 ]胡椒を振り、バターを散らします。表面に細かいパン粉をまぶし、オーブンで15分、または焼き色がつくまで焼きます。

[コンテンツ]
ゆで玉ねぎ
玉ねぎの皮を冷水でむけば、目に涙は出ません。皮をむいた玉ねぎは、沸騰したお湯に入れます。最初の5分後に沸騰したお湯に戻し、塩を加えて30分から40分ほど茹でます。玉ねぎを蓋をせずに茹でると、臭いが目立ちにくくなります。

茹でた玉ねぎをパセリバターと一緒に出すか、水気を切った後に牛乳を注ぎ、バター、コショウ、塩を加えて一度沸騰させてから出します。

[コンテンツ]
クリームオニオン
柔らかくなるまで、ただし崩れないように煮た玉ねぎを使用し、水気を切った後、同量の牛乳と玉ねぎを煮たスープで作ったホワイトソースまたはパセリソースを添えてお召し上がりください。

[コンテンツ]
ブラウンソースで煮た玉ねぎ
柔らかくなるまで煮込んだが、崩れないようにした小さめのゆで玉ねぎを、トマトソース、ブラウンソース、マッシュルームソースなどのホットソースと一緒にお召し上がりください。[ 122 ]

[コンテンツ]
玉ねぎのグラタン
クリームオニオンを作るのと同じように、牛乳、または牛乳と水で玉ねぎを煮てホワイトソースを作ります。玉ねぎはそのままでも、少し砕いてソースに入れても構いません。バターを塗った耐熱皿に玉ねぎとソースを入れ、上からすりおろしたチーズを振りかけ、オーブンで5~6分加熱します。瓶詰めのパルメザンチーズは便利ですが、すりおろしたフレッシュチーズほど繊細な味わいではありません。

[コンテンツ]
チーズ入り玉ねぎ
茹でて崩れていない玉ねぎをバターを塗った耐熱皿に並べ、溶かしバターをたっぷり塗り、すりおろしたチーズをまぶしてオーブンで数分間焼き色がつくまで焼きます。そのままの状態で出すか、小皿に移してグリーンを添えるか、他の野菜料理の付け合わせとして使ってもよいでしょう。マッシュポテトを山盛りに盛り(サラマンダーで表面を焼き色をつけるか、ガスオーブンで直火で焼く)、玉ねぎを囲むと、見た目も美しくなります。

[コンテンツ]
エスカロップドオニオン
エスカロップオニオンはオニオングラタンのように作られますが、チーズが省かれ、代わりに細かいパン粉がまぶされます。

[コンテンツ]
栗入り焼き玉ねぎ
必要な数の玉ねぎの皮をむき、塩水で10~15分ほど下茹でします。水気を切り、乾燥させます。[ 123 ]少し冷めたら中身を取り出し、刻んだ栗を熱いバターで15分ほど炒めて詰めます。塩コショウで味を調え、お好みでセージを少々加えます。バターを塗った耐熱皿に並べ、最初の15分は蓋をして30分焼きます。もし乾燥しすぎているようであれば、少量のクリームまたはオニオンストックと溶かしバターを塗ってください。

[コンテンツ]
オニオンスフレ
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたら小麦粉大さじ1杯を加え、滑らかになるまで混ぜます。牛乳1カップを少しずつ加え、パプリカと塩で調味します。沸騰させたら、古くなったパン粉1/2カップ、みじん切りにしたパセリ小さじ1杯、冷えたゆで玉ねぎ1 1/2カップ(みじん切り)、よく溶いた卵2個分の黄身を加えます。よく混ぜ合わせ、固く溶いた卵2個分の白身を加え、フォークで玉ねぎの混合物に優しく混ぜ込みます。バターを塗った耐熱皿に入れるか、個別に細かく砕いたパン粉を上に振りかけ、約15分、軽く焼き色がつくまで焼いてからお召し上がりください。

[コンテンツ]
ボルドーオニオン
小さめの玉ねぎ6~8個を皮をむき、塩水で15分ほど下茹でします。鍋または耐熱皿にバター大さじ2、みじん切りにしたパセリ大さじ1、みじん切りにしたセロリ大さじ1、クローブ2個、ローリエ1枚、クラレット1/4カップ、ブラウンソース1カップ、レモン1個分の果汁、コショウ、塩を加えます。玉ねぎをこの鍋に入れ、蓋をして弱火で30分、または柔らかくなるまで煮込みます。ローリエを取り除き、ソースを添えてお召し上がりください。[ 124 ]

[コンテンツ]
玉ねぎとトマトのエスカロップ
バターを塗った耐熱皿に、スライスした玉ねぎと新鮮なトマトを交互に並べ、パン粉、バター、コショウ、塩をまぶします。水を1.5カップ加え、弱火で約1時間焼きます。または、ゆでた玉ねぎと缶詰のトマトをトマトの汁で湿らせて20分焼きます。

[コンテンツ]
オニオンズ・ベアトリス
大きめの豆鍋(または高さのある陶器で蓋をしたマーマイト瓶)に、直径 2 インチの小さめのバミューダオニオンを入れます。玉ねぎは丸ごと入れますが、鋭利なナイフを使用して各玉ねぎの上部に十字の切り込みを 2 つ入れると、中心まで火が通ります。玉ねぎを瓶に並べながら、塩をたっぷり振り、黒コショウも振りかけ(または代わりにコショウの実を 6 粒使用)、月桂樹の葉を 3 枚入れ、ハーブミックスを小さじ 1 杯散らします。熱湯を注ぎ、蓋をして、コンロの後ろ側または弱火で加熱するオーブンに入れます。玉ねぎは火が通りきらず、適切な火力であれば約 2 時間で完全に火が通ります。この時間は規則ではなく目安です。玉ねぎを調理したマーマイトに入れて提供します。

[コンテンツ]
詰め物入り玉ねぎ
玉ねぎを15~20分茹で、芯を取り除き、外側は詰め物を入れるためのケースとして残しておきます。パン粉またはクラッカーの粉と玉ねぎの芯を混ぜて詰め物を作ります。[ 125 ]塩コショウ、そして少量の刻んだトマト(またはトマトソース)、または刻んだピーマン、缶詰のピメント、あるいはトマトとピーマンの両方を使います。玉ねぎの皮をむき、バターを塗った耐熱皿に並べます。溶かしバター大さじ2を振りかけ、鍋を水に浸して30分焼きます。耐熱皿は最後の5分まで蓋をし、玉ねぎが乾かないように注意します。玉ねぎが乾いてしまう場合は、バターを追加したり、少量の熱湯や野菜スープを加えてもよいでしょう。耐熱皿のまま、または小皿に移してパセリの小枝を添えて盛り付けます。

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フライドオニオン
玉ねぎの皮をむき、薄切りにします。フライパンにたっぷりの大さじ 1 杯のバターをゆっくり溶かしたら、玉ねぎを入れて弱火で煮込み、よくかき混ぜて、玉ねぎが透明になり、黄金色になったら盛り付けます。

フライドオニオンは、そのままでも、山盛りのマッシュポテトの付け合わせとしても楽しめます。ありきたりすぎると味が薄まりがちですが、グラタン皿に盛り付け、高さ2.5cm以下にし、パン粉か粉チーズをふりかけて、オーブンで3~4分焼くと、さらに美味しくなります。

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フライドオニオン
中くらいの玉ねぎの皮をむき、丁寧に横にスライスします。スライスした玉ねぎを輪切りにします。これを植物油か油にくぐらせ、カリッとした濃い茶色になるまで4~5分炒めます。茶こしで茶紙に移し、少し油を切ってから盛り付けます。[ 126 ]

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ポテトクレードルの玉ねぎ
指示に従ってポテトクレードルを作り、塩をまぶし、揚げた玉ねぎまたはフレンチフライした玉ねぎを詰めます。

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小玉ねぎ
小さく丸いピクルス用玉ねぎの皮をむき、10分ほど下茹でして水を切り、小麦粉をまぶして油で揚げます。他の野菜の付け合わせとして、またはシチューの具材としてお召し上がりください。

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グレーズドオニオン
他の料理(野菜コロッケ、マッシュポテトなど)の付け合わせとして、または単体で美味しくお召し上がりいただけます。小さめの玉ねぎ、または芯の部分を使い、完全に火が通る前に水から取り出します。ホーロー鍋に大さじ1杯のバターを入れ、ゆっくりと溶かします。玉ねぎを混ぜ合わせ、粉砂糖を振りかけます。玉ねぎが茶色くなり始めたら、茹で汁大さじ1杯を加えます。茹で汁がなくなるまでさらに少しずつ加え、こしょうと塩を加えます。玉ねぎに焼き色がつき、ツヤツヤとした食感になります。熱々のうちにお召し上がりください。

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玉ねぎとリンゴ
フライパンにバター大さじ1を入れ、溶けたらスライスした玉ねぎ3個とスライスしたリンゴ3個を入れ、茶色になるまでゆっくり炒め、トーストに添えてお召し上がりください。[ 127 ]

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茹でたパースニップのソース煮
パースニップ6~7本を洗って皮をむき、縦半分に切り、冷水に30分ほど浸します。水を切り、小さじ1杯の塩を入れた沸騰したお湯を鍋に入れ、約45分煮ます。茹でている間に、バター大さじ1杯と小麦粉大さじ1杯をすり合わせたソースを作り、弱火で鍋にかけます。溶けて滑らかになったら、パースニップを茹でているスープをスプーン1杯ずつ加え、約2カップになるまで混ぜます。ペースト状にならない程度にとろみがつくまでかき混ぜ、塩コショウで味を調え、水切りしたパースニップにかけてください。

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バター漬けパースニップ
パースニップを皮をむいて洗い、縦に8等分に切り、さらに半分に切ります。沸騰したお湯に入れ、塩をたっぷり振り、約45分茹でます。湯切りをして、溶かしバター1/2カップ(刻んだパセリ大さじ1杯を含む)をかけ、盛り付けます。

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フライドパースニップ
冷まして茹でたパースニップを縦にスライスし、塩をまぶし、バターを塗ったフライパンかグリドルで、パンケーキのターナーでひっくり返しながら、黄金色になるまで焼きます。

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フライドパースニップ
冷めたパースニップを茹でて、お好みの形(ボール状、細長いものなど)に切り、フライパンに入れ、熱した油で焼き色がつくまで揚げます。油を切り、塩をふりかけてお召し上がりください。[ 128 ]

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焼きパースニップ
茹でたパースニップを縦に3枚に切り、溶かしバターに浸し、茶色になるまで焼き、塩をふりかけて盛り付けます。

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グリーンピース
採れたてのグリーンピースは殻をむき、湯せん鍋に入れ、少量の塩と小さじ1杯以上の砂糖を加え、水は入れません。蓋をしっかり閉めて、鍋の下に水を張ったまま約45分間沸騰させます。盛り付ける前にバターを少し加えます。

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グリーンピースのペイザンヌ
上記のレシピに従ってエンドウ豆を調理し、洗って細切りにしたレタスを数枚加えます。水気を切ってバターと塩を加えます。

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缶詰のエンドウ豆
缶詰のエンドウ豆は、豆本来のスープで10分間ゆっくり煮て、水を切り、バター、コショウ、塩で味付けし、少量の牛乳かクリームを加えます。

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玉ねぎ入り缶詰エンドウ豆
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ1杯を加えて弱火で煮る。[ 129 ]5分間煮込み、その後、水気を切ったエンドウ豆1缶と、クリームまたは牛乳1/4カップを加え、塩とコショウでよく味付けし、10分間じっくり煮込んでから盛り付けます。

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詰め物入りピーマン
ピーマンの茎の部分を切り落とし、中身をくり抜き、細かいパン粉1カップ、すりおろした玉ねぎ1個、刻んだナッツ類1/2カップ、塩小さじ1、溶かしバター大さじ2を混ぜ合わせたものを詰めます。少量の水と溶かしバターを入れた鍋に入れ、20分から30分ほど焼きます。時々バターを塗ります。

ピーマンは詰める前に 10 分間下茹ですることができますが、柔らかくなるとはいえ、ある程度色が抜けてしまいます。

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きのこ詰めピーマン
ピーマンの茎の部分を切り落とし、中身を取り除いて、トマトソースのきのこであるツァリーナきのこを詰め、調理したフライパンに少量のバターと水を入れて 20 ~ 30 分焼きます。

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ピーマンとライス
ピーマンのヘタの部分を切り落とし、中身を取り出し、ご飯と刻んだトマトを同量ずつ詰め、コショウと塩で味を調えます。刻んだマッシュルーム、オリーブ、ゆで卵などを少々加えてもよいでしょう。バターと水をたっぷりかけ、20~30分焼きます。[ 130 ]

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卵入りピーマン
ピーマン 6 個を 5 分間下茹でします。まず、ヘタを切り落とし、種を取り除きます。フライパンにバター大さじ 2 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ 1 個を加え、10 分間じっくりと炒めます。次に細かいパン粉大さじ 3 杯を加えて混ぜ、塩、コショウ、ケチャップで味を調えます。ピーマンを沸騰したお湯から取り出し、浅い鍋にカップ状に並べ、各ピーマンにこの混合物を大さじ 1 杯入れます。各ピーマンに卵 1 個を割り入れ、用意しておいたパン粉をさらに少しまぶし、卵が半熟がお好みなら 10 分間、固めがお好みなら 15 分間焼きます。トーストに、すりおろしたチーズ大さじ 2 杯を含むホワイトソース 1 1/2 カップを添えてお召し上がりください。

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コーン入りピーマン
ピーマンの端からスライスして中身を取り除き、塩をしっかり振った缶詰のコーンを詰め、端を戻して焼きます。

トマトと同様、ピーマンも非常に多くの方法で詰め物にすることができるので、その方法を数え上げるのは無駄である。なぜなら、巧みな料理人なら、その方法を際限なく増やすことができるからである。

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ピーマンとコーンのエスカロップ
スイートコーンを芯から切り取り、3カップ分作ります。ピーマン2~3個を芯から取り出し、ごく薄く輪切りにします。バターを塗った耐熱皿にコーンを並べ、塩を振ります。さらにピーマンを輪切りにし、さらにコーンを並べます。[ 131 ]これを皿いっぱいになるまで繰り返し、最後にピーマンを添えます。生クリーム(または牛乳)1カップに溶き卵1個と溶かしバター大さじ2を加え、全体にかけ、予熱したオーブンで30分焼きます。缶詰のコーンを使うこともできます。その場合はクリームの量を減らしてください。

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フライドペッパー
ピーマン6個から種を取り除き、さやを直径約1.5cmの四角に切ります。フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたらスライスした玉ねぎ1個を加え、弱火で2~3分煮込みます。次に、カットしたピーマンをフライパンに加え、10分ほど炒めます。ブラウンソースまたはトマトソースを1/2カップ加え、ご飯を添えてトーストにのせるか、平たい餅にのせてお召し上がりください。

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クリームピメント
ピメント缶1缶分をホワイトソース2カップに加え、ダブルボイラーで10分煮込みます。刻んだパセリ大さじ1杯、コショウ少々、塩少々を加え、トーストにのせてお召し上がりください。

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ロールドピメントス
缶からピメントを取り出し、鋭利なナイフで片側を切り開きます。平らにしたピメントを、内側を上にして大きめの皿かまどに並べ、みじん切りにした玉ねぎを塗り、塩とセロリソルトを振りかけ、しっかりとしたロール状に巻きます。バターをたっぷり塗った型に入れ、 [ 132 ]少量の熱湯を加え、蓋をして、予熱したオーブンで10分焼きます。蓋を外し、大さじ1杯のバターを加えます。バターが溶けたら、ピメントに塗りつけます。さらに5分ほど加熱し、溶かしバターをかけ、またはパセリバターを添えてお召し上がりください。

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ピメントスとオクラ
鋭利なナイフでピーマンを割り、内側に塩をふり、茹でたてのオクラまたは缶詰のオクラの鞘に巻き付けます。バターをたっぷり塗ったフライパンに入れ、少量の熱湯を加え、蓋をして10分、蓋を外して5分茹でます。最後の5分でバターを追加し、ロールパンにソースをかけ、バターをかけ、またはトマトソースをかけてお召し上がりください。

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トマトとピメントス
缶詰の大きめの平たいピメントを皿に並べ、塩とセロリソルトをふりかけたトマトスライスを挟みます。蓋をしたフライパンで5分ほど炒め、そのまま、またはケッパーソースをかけてお召し上がりください。

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ジャガイモ
ジャガイモは茹でてもきちんと「茹でられた」とは言えないと主張する料理上手な人、蒸し器でジャガイモを茹でる人、または実際に沸騰しないように注意深く見守りながら冷水にジャガイモを入れて柔らかくなるまで茹でる人、そして急速に沸騰する塩水にジャガイモを入れて、[ 133 ]硬くなるまで茹でる場合は、個人の好みにより幅があります。白くて粉っぽく、中まで火が通ったジャガイモを食卓に出すことがない方には、上記のいずれかの調理法をキッチンで実践してみることをお勧めします。ジャガイモを沸騰したお湯に入れるか、蓋をした蒸し器に入れて勢いよく沸騰させたお湯で茹でると、20分から30分で茹で上がります。もちろん、茹で時間はジャガイモの大きさや古さによって異なります。必ず丁寧に洗い、皮付きのまま茹で、茹で上がったら皮をむいてください。

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マッシュポテト
必要な数のジャガイモを茹でるか蒸したら、できるだけ早く皮をむき、熱い鍋で砕きます。つぶしてから木のスプーンかフォークで勢いよく叩き、たっぷりのバターを加え、塩と少量のコショウをまぶして、白っぽくなるまで叩きます。次に、ほんの少しの熱い牛乳かクリームで軽く湿らせ、さらにしばらく叩いて、非常に熱い状態で提供します。

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ポテトスフレ
鍋に温かいマッシュポテト3~4カップとバター大さじ1を入れます。卵黄2個分、生クリーム(または牛乳)大さじ2、塩コショウを加え、火にかけてよく混ぜます。火からおろし、よく溶きほぐした卵白を加えます。バターを塗った耐熱皿に盛り、オーブンで表面がこんがりと焼き色がつくまで焼きます。[ 134 ]

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マッシュポテトスフレ(ケース入り)
大きめのジャガイモを選び、洗い、粉っぽさがなくなるまで焼きます。30分から45分経ったら、縦半分に切り、ジャガイモの中身を丁寧にこそげ取ります。皮はケースとして取っておきます。針金で作ったジャガイモ潰し器でジャガイモを潰し、ジャガイモ5個につきバター大さじ1杯を加え、塩コショウで味を調えます。卵白をジャガイモ5個につき2個の割合で固く溶き、フォークでジャガイモに軽く混ぜ込みます。ジャガイモの皮に混ぜたものを山盛りにします。出す前にオーブンで軽く焼き色をつけ、盛り付けた皿にパセリの小枝を添えます。ジャガイモ5個でケース6~7個分になります。

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ライスポテト
よく茹でた乾燥したジャガイモをフォークで砕き、塩とコショウをまぶし、ふるいまたはいわゆる「ライサー」で押して、温かい皿に盛り付けます。

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ライスポテトフリッター
大きめのジャガイモ6個を茹で、ざるで押しつぶします。軽く溶きほぐした卵3個、小麦粉小さじ2杯にバター大さじ1杯、塩小さじ1杯、牛乳2カップを加えます。よく混ぜ合わせ、大きなスプーンで熱した油に落とします。出来上がると、ジャガイモは表面に薄茶色に浮き上がります。お好みで、刻んだチャイブやパセリを加えてもよいでしょう。[ 135 ]

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玉ねぎ入りマッシュポテト
マッシュポテト 4~5 カップに、茹でてみじん切りにしたタマネギ 1 カップ、バター大さじ 1 杯、クリーム大さじ 1 杯、コショウと塩少々を加え、軽く混ぜ合わせ、出す前にオーブンで表面を少し焼き色をつけます。

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ベイクドポテト
大きさが均一なジャガイモを選び、よく洗い、指で押すとへこむまで高温のオーブンに入れます。ほとんどの場合、約45分でへこみます。焼き上がったジャガイモはそのまま放置せず、オープンディッシュに盛り付けてください。指でこすりながら手で何度かひっくり返すと、軽くて柔らかくなります。

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ローストポテト
小さめの丸いジャガイモの皮をむき、冷水に浸します。浅めの耐熱皿に大さじ2杯のバターを入れ、オーブンで溶かします。ジャガイモの皮を拭き、フライパンに並べ、熱いバターにジャガイモを一つずつ絡めます。中火のオーブンで30分から45分ほど焼きます。焼きながら5、6回バターを塗ります。盛り付ける前に塩を振ります。

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デンバーポテト
滑らかな楕円形のジャガイモを数個皮をむき、縦半分に切ります。滑らかな面の中央に小さな穴を掘り、丸い部分を平らにして、均等に並べます。[ 136 ]それぞれにバターを一塊ずつ入れ、少量の水を入れたフライパンに入れ、最初に塩とコショウをまぶし、約 25 分間または茶色になるまで焼きます。

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焼きジャガイモ
冷めたゆでたジャガイモを縦に1/4インチ(約6mm)の厚さに切り、小麦粉をまぶして折りたたみ式のブロイラーに入れます。両面が均等に焼き色がつくまで焼き、塩コショウを振ります。温かいお皿に盛り付け、少量のバターを塗ってお召し上がりください。または、他の野菜の付け合わせとしてもお召し上がりいただけます。

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フライドポテトのスフレ
必要な数のジャガイモの皮をむき、均一な大きさに切りそろえ、両端をまっすぐに切り、約 1⁄1​6 インチの厚さにスライスし、冷水に 30 分ほどつけて布巾で拭きます。揚げるには油釜が 2 つ必要で、そのうち 1 つは完全に新鮮なものでなければなりません。ジャガイモを使用済みの油か油に落とし、半分ほど火が通るまで揚げます。ただし、焦げ付かないようにしてください。完全に油を切り、冷まします。提供する 5、6 分前に、煙が出そうなくらい新鮮な油にジャガイモを落とし、フォークで軽く動かすと、かなりの大きさに膨らみます。黄金色になったら、茶色の紙の上に載せてオーブンでしばらく焼き、すぐに提供します。

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丸ごと揚げたジャガイモ
極小の新じゃがいもを茹でた後、卵とクラッカーの粉をまぶし、熱々の油で揚げます。そのままでも、ベイクドトマトの付け合わせとしてもお使いいただけます。[ 137 ]

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フライドポテト
中くらいの大きさのジャガイモの皮をむき、縦に8等分に切ります。冷水に15分ほど浸し、清潔な布巾に挟んで水気を拭き取り、揚げざるに入れます。熱した油にゆっくりと浸し、きつね色になるまで揚げます。すぐに油を切り、塩をまぶします。

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サラトガチップス
じゃがいもカッターで薄切りにし、冷水に20分浸して水気を切り、熱した油でカリッとするまで揚げます。油を切ったら茶色の紙の上に取り出し、塩をふりかけて、熱々を盛り付けます。

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パリジャンポテト
作り方はフライドポテトと全く同じですが、ジャガイモを小さな球形に切る小さな野菜カッターを使って形を整えます。完璧な丸いボール状に切るには、カッターに十分な力を入れる必要があるので、注意が必要です。

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ポテトストロー
ジャガイモ4~5個の皮をむき、特許取得済みの野菜カッターで筋状に切ります。冷水に20分ほど浸し、油を切ってフライパンに入れ、熱した油にゆっくりと浸し、黄金色になるまで揚げます。油を切り、塩を振って盛り付けます。[ 138 ]

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ポテトクレードル
大きさと形が揃ったジャガイモの皮をむき、洗って乾かします。縦に二つに切り、中身をくり抜きます。ジャガイモの皮を油で揚げ、焼き色がつくまで揚げます。油を切って塩を振ります。それぞれのクレードルに熱々のエンドウ豆を山盛りにし、ミントまたはパセリを添えて盛り付けます。

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ポテトリヨネーズ
冷えたゆでたジャガイモを5~6個取り、スライスします。フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたら薄切りにした中サイズの玉ねぎ2個を加えて炒め、10分間弱火で煮込みます。その後、コショウと塩で味付けし、スライスしたジャガイモを加え、ナイフで返しながら黄金色になるまでゆっくりと炒めます。最後にコショウと塩で味付けし、盛り付ける前に細かく刻んだパセリ大さじ1杯を加えます。このジャガイモには塩とコショウをたっぷりかけます。

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ドイツ風フライドポテト
フライパンにバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたらスライスした冷たいゆでたジャガイモ 5~6 個を加え、塩とコショウで味付けし、ナイフで裏返しながら約 12~15 分ほど火が通るまで炒めます。ほぼ火が通ったら、かき混ぜるのをやめ、フライパンの底のジャガイモが茶色になるまで待ちます。茶色くなったスライスを上にして温かい皿に盛り付けます。[ 139 ]

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フライドポテトセイボリー
冷たいスライスまたはダイスカットのジャガイモを炒め、焼き色がついたら小さじ1/2の玉ねぎの汁かエキスを加えます。バターを塗った耐熱皿に重ね、すりおろしたチーズ、コショウ、塩、バターを各層に振りかけます。上から軽くブラウンクランブルをまぶし、刻んだパセリまたはチャイブを添えて、オーブンで数分間加熱します。お好みで、刻んだチャイブをジャガイモの層に添えても美味しくいただけます。

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クリームポテト
鍋にバター大さじ 2 杯を入れ、溶けたらパセリのみじん切り大さじ 1 杯、コショウ、塩を加え、十分に熱くなるまでかき混ぜます。次に、小麦粉小さじ 1 杯と重曹少々を入れた牛乳を 1 カップ弱加えます。沸騰したら、角切りにした冷たいゆでたジャガイモを加え、十分に温まったら盛り付けます。

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エスカロップポテト
中くらいのジャガイモを皮付きのまま10~12個茹で、皮をむいた後、厚さ1.5cmにスライスします。茹でている間に、牛乳2カップ、玉ねぎ1個分の汁、塩コショウ、バター大さじ2、増粘剤大さじ1を混ぜてソースを作ります。耐熱皿にバターを塗り、ジャガイモを並べ、ソースをかけ、さらにジャガイモを重ねます。この工程を、皿がいっぱいになるまで繰り返します。次に、ゆで卵2個をきれいにスライスし、上に並べ、クラッカーの粉と細かく刻んだパセリを少々振りかけ、オーブンで10~12分焼きます。[ 140 ]

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ポテトデルモニコ
大きめの耐熱皿には、ゆでて冷えた角切りジャガイモが4カップ必要です。耐熱皿にバターを塗り、底に2.5cmほどの深さまでジャガイモを敷き詰めます。その上に、よく練ったホワイトソースをかけ、軽く塩コショウを振ります。さらにジャガイモを敷き詰め、ホワイトソースとシーズニングを重ね、この工程を皿いっぱいになるまで繰り返します。最後に、すりおろしたチーズを振りかけ、熱したオーブンでこんがりと焼き色をつけます。

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オークヒルポテト
耐熱皿にバターをたっぷり塗り、薄切りにした冷えたゆでジャガイモと固ゆで卵を交互に並べ、それぞれに味を調えます。そして、すりおろしたチーズを溶かしたホワイトソースをかけます。皿の表面にクラッカーの粉をまぶし、オーブンで焼き色がつくまで焼きます。

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ハイルブロンポテト
深めの鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたら平らな木のスプーンで小麦粉大さじ2杯を加えて混ぜ、茶色になるまで炒めます。次に酢大さじ2杯を加え、熱湯または野菜ストック2カップで滑らかなソースを作ります。玉ねぎ1/2個(スライス)、クローブ2個、オールスパイス2個、レモンの皮1枚(薄切り)、レモン汁大さじ1杯を加え、かき混ぜながら10分間弱火で煮込みます。その後、野菜ストックまたは熱湯をさらに加えてサラッとしたソースを作り、濾します。再び火にかけ、薄切りにしたジャガイモ5~6個(パーボイルド)とケッパー大さじ2杯を加え、弱火で10分間煮込みます。[ 141 ]15 分間、頻繁にかき混ぜます。その後、鍋に 1/2 カップのクリーム (酸味のあるクリームが望ましい) を注ぎ、深めの熱い皿に盛り付けます。

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風味豊かなポテトケーキ
冷えたゆでたジャガイモを6個切り、ポテトマッシャーで潰します(または冷たいマッシュポテトを使用します)。これにミックスハーブ大さじ1、みじん切りにした玉ねぎ小さじ1、コショウ、塩、溶かしバター大さじ1、溶き卵1個を加え、平らなケーキ型に成形し、溶かしバター大さじ1を入れたフライパンに入れ、焼き色をつけ、パンケーキターナーで裏返して反対側も焼き色をつけます。

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ポテトハッシュ
冷えたゆでたジャガイモ8個と中くらいの玉ねぎ2個をチョッピングボウルに入れ、みじん切りにします。大きめのフライパンに大さじ1杯のバターを溶かし、ジャガイモと玉ねぎを入れ、フォークで表面を滑らかにします。塩コショウで味を調え、中火にかけます。ハッシュが焦げないように、時々フライパンを激しく揺すりながら焼きます。かき混ぜるのではなく、揺すりながら焼くと、底面がきれいに焼き色がつきます。焼き色がついた面を上にして、熱した皿に盛り付け、塩コショウを振ります。

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ポテトオムレツ
フライパンに小さじ1杯のバターをひき、スライスした冷えたゆでたジャガイモをフライパンの底に敷き詰める。数分間炒めたら、上からかける。[ 142 ]よく溶いた卵 2 個と、みじん切りにしたパセリまたはチャイブ大さじ 1 杯を加え、塩とコショウで味付けし、焼き色がついたらフライパンから取り出します。

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カレー風味のポテト
大きめの玉ねぎ1個を細かく刻み、大さじ2杯のバターで透明になり、火が通るまで炒めます。ただし、焦げ付かないように注意してください。玉ねぎの大部分をザルで濾し、汁をバターに絞り出します。そこに、冷めたゆでジャガイモを4~5個スライスして加えます。カレー粉と塩コショウを振りかけ、頻繁にひっくり返しながら火が通るまで炒めます。カレーの量は小さじ1~2杯で調整できます。

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ポテトフリカッセ
鍋にたっぷり大さじ1杯のバターと1カップの牛乳を入れます。温まったら、冷たいジャガイモをさいの目に切って加え、コショウ、塩、玉ねぎの汁を数滴加えて味を調えます。十分に温まったら、溶きほぐした卵黄2個を加え、とろみがつくまで絶えずかき混ぜます。煮込みすぎるとソースが固まってしまうので、注意が必要です。盛り付ける前に、刻んだパセリを少々加えます。

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ポテト・レネカン
ジャガイモを6個茹でて皮をむき、ストーブの上の暖かい場所で乾燥させます。

鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらスライスしたジャガイモを入れます。[ 143 ]大さじ1杯の水、少々の塩、コショウ、大さじ1杯の刻んだパセリを加え、十分に温めてから大さじ1杯のレモン汁を加え、非常に熱いうちに召し上がってください。

[コンテンツ]
ジャガイモとチーズ
皮をむいた生のジャガイモ5~6個を細かく刻むか、みじん切りにします。大さじ2杯のバターを入れた鍋で、火が通るまで炒めます。バターを塗った耐熱皿にジャガイモを並べ、塩コショウで味を調え、粉チーズを振りかけます。さらにジャガイモを重ね、皿がいっぱいになるまでこの作業を繰り返します。溶かしバターをかけ、オーブンで焼き色がつくまで焼きます。

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エスカロップポテトと玉ねぎ
中くらいのジャガイモ5~6個と玉ねぎ3~4個を皮をむき、ごく薄くスライスします。バターを塗った耐熱皿に重ねて並べ、バターを散らし、こしょうと塩を振ります。全体に牛乳を1/2カップ、または全体が浸るくらいまで注ぎ、耐熱皿を浅めの鍋に入れ、少量の水を入れます。エスホタテを約1時間じっくりと煮込みます。最初の30分は蓋をしたまま、その後は蓋を外して焼き色がつくまで煮込みます。耐熱皿に盛り付けてお召し上がりください。

[コンテンツ]
バター漬け新じゃがいも
小さな新じゃがいもを硬いブラシで洗い、25分間茹でるか蒸し、溶かしバターに小さじ1杯以上の細かく刻んだパセリを加えて盛り付けます。[ 144 ]

[コンテンツ]
新じゃがいものクリーム煮
硬いブラシで小さな新じゃがいもをこすって皮を剥き、約 25 分間茹でるか蒸します。その後、濃い味付けのホワイトソースをかけます。

[コンテンツ]
焼き新じゃがいも
小さめの新じゃがいもの皮をこすり落とし、塩を入れた熱湯で約20分、または柔らかくなるまで茹でます。小麦粉大さじ1、バター大さじ1、牛乳1カップを混ぜ合わせ、塩コショウで味を調えたホワイトソースを作ります。茹でたじゃがいもを耐熱皿またはキャセロールに並べ、ソースをかけ、その上によく溶きほぐした卵1個を流し込みます。オーブンに入れ、卵が固まるまで焼きます。食卓に出す前に刻んだパセリを散らします。お好みで、卵をホワイトソースの上に置く代わりに、ソースの中に加えても構いません。

[コンテンツ]
偽の新じゃがいも
必要な数の大きな古いジャガイモの皮をむき、パリのジャガイモ切り器で小さなボール状に切ります。これを沸騰したお湯に入れ、出来上がったら、味付けの濃いホワイトソースをかけ、ごく少量の刻んだパセリを加えます。[ 145 ]

[コンテンツ]
ゆでたサツマイモ
サツマイモの皮は調理後なかなか剥がれないので、焼いたり茹でたりする前に剥いておくのがベストです。

大きめのサツマイモを選び、沸騰したお湯に入れて30分から45分ほど茹でます。皮をむき、温かい皿に並べ、溶かしバターを1/2カップかけます。

[コンテンツ]
焼きサツマイモ
サツマイモを洗って皮をむき、オーブンに入れます。中くらいの大きさのサツマイモなら、約40分焼きます。

[コンテンツ]
マッシュスイートポテト
サツマイモを6~7個皮をむいて茹で、水をすべて切り、茹でた鍋でワイヤー製のポテトマッシャーでつぶします。熱いうちに上質のバター大さじ2杯と混ぜ、塩をたっぷりとまぶして、熱々のまま提供します。

[コンテンツ]
サツマイモのスフレ
少し冷めたら、マッシュしたサツマイモに溶き卵2個分の黄身と固めの白身を混ぜ合わせます。バターを塗った耐熱皿に盛り、オーブンで焼き色がつくまで焼きます。[ 146 ]

[コンテンツ]
エスカロップドスイートポテト
冷えたゆでサツマイモを4~5カップ分スライスし、耐熱皿にバターを塗り、底に厚さ2.5cmのサツマイモを並べます。塩コショウを振り、バターを適量塗ります。さらにもう一層並べ、同じように繰り返し、皿がいっぱいになるまで繰り返します。最後に、大さじ2杯の砂糖を溶かした水1/2カップを全体に注ぎます。皿をオーブンに入れ、10分後に大さじ2杯の水をかけます。さらに5分、または表面に焼き色がつくまで焼きます。

[コンテンツ]
詰め物入りスイートポテト
必要な数のジャガイモを皮付きのまま焼き、半分に切って中身をくり抜き、みじん切りにしたセロリ、みじん切りにした玉ねぎ、溶かしバターと混ぜ合わせます。ジャガイモ1個につきセロリ大さじ1杯と玉ねぎ小さじ1/2杯を加えます。塩コショウで味を調え、皮に詰め物を戻し、オーブンで焼き色をつけます。

[コンテンツ]
サザンスイートポテトパイ
大きめのサツマイモ4個を焼き、中身をこそげ落とし、バター大さじ2、砂糖大さじ2、よく溶いた卵3個、温めた牛乳1カップ、塩小さじ1杯、ミックススパイスひとつまみをフォークで軽く混ぜ入れます。耐熱皿にパイシートを敷き、サツマイモを詰めて20分焼きます。[ 147 ]

[コンテンツ]
テキサススイートポテトパイ
サツマイモ4~5個を30分、または火が通るまで茹でます。大きめの耐熱皿にパイ生地を敷き、熱いうちに縦にスライスしたサツマイモをパイ生地の上に重ね、細長く切ったペストリーで覆います。砂糖を振りかけ、バターを少量塗り、ナツメグを少々加えます。さらにサツマイモをもう一枚、ペストリーをもう一枚と重ね、皿がほぼいっぱいになるまで繰り返します。熱湯を皿いっぱいになるまで注ぎ、他の厚切りパイのようにペストリーで覆います。蒸気が抜けるように、ところどころに切り込みを入れます。約20分、または生地が少し焼き色がつくまで焼きます。

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メリーランド産サツマイモ
中くらいのサツマイモを6~8個皮をむき、縦に4等分し、側面が丸い大きめの鍋に入れます。ジャガイモにバター大さじ山盛り2杯、グラニュー糖大さじ山盛り3杯、水大さじ2~3杯を加え、砂糖とバターが溶けるまでかき混ぜます。蓋をしっかり閉めて4~5分そのまま火にかけ、その後木のスプーンでかき混ぜます。この際、シロップが底に張り付いていないか注意し、再び蓋をして、今度は数秒ずつ火にかけ、再びかき混ぜます。水分はすぐに蒸発しますので、ジャガイモが柔らかくなるまで熱いシロップで素早く煮込み、その後火の弱い場所に移し、火が通るまでじっくりと煮込みます。調理時間は15~20分以内とし、濃い茶色のソースは鍋からきれいにかき出し、サツマイモにかけてください。[ 148 ]

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砂糖漬けサツマイモ
皮をむいたサツマイモをスライスし、バターを塗った蓋付きの耐熱皿に並べます。それぞれの層にブラウンシュガー、塩コショウ、シナモンを振りかけ、バターを少量散らします。ジャガイモ6個につき熱湯1/2カップを注ぎ、茹でながらソースをかけます。オーブンの温度にもよりますが、30分から45分ほど、柔らかくなるまで弱火で焼きます。シナモンが苦手な場合は、省略しても構いません。

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焼きサツマイモ
冷めたゆでサツマイモを縦にスライスし、バターを塗ったグリドルに並べます。片面に焼き色がついたら、パンケーキのターナーでひっくり返し、反対側も焼き色をつけます。塩をふり、熱々をお召し上がりください。

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揚げサツマイモ
冷めたゆでたサツマイモを1.5cm角に切り、溶かしバターで炒めます。塩をしっかり振り、ナイフでかき混ぜながら、焦げ付かないように、できるだけ焼き色がつくまで焼きます。

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フライドスイートポテト
冷めたゆでたさつまいもを縦に6等分に切り、フライパンに入れて約5分、または焼き色がつくまで揚げます。水を切り、塩を振ります。[ 149 ]

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グレーズドスイートポテト
サツマイモはほぼ火が通るまで茹で、水気を切って冷まします。冷めたら、厚さ2.5cmのスライス、または特許取得済みのカッターで輪切りにします。溶かしバターと砂糖(バター1/2カップにつき砂糖大さじ2杯)をよく混ぜ合わせ、深めの皿に入れて熱したオーブンで10分、またはこんがりと焼き色がつくまで焼きます。

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クリームサルシファイ(オイスタープラント)
サルシファイ2束のヘタを取り除き、皮をむいて形を整え、白さを保つためにレモン汁を少々加えた冷水を入れたボウルに入れます。水気を切り、サルシファイが浸るくらいの量の熱湯に入れ、約45分煮込みます。最後の30分は塩を加えます。水気を切ったら、サルシファイを茹でた湯で作った濃い味のホワイトソースまたはパセリソースに少量の牛乳またはクリームを加えて添えます。

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イングリッシュサルシファイ
サルシファイを上記の指示に従って茹で、水を切り、ブレッドソースを添えて、細かく焼いたパン粉をソースと一緒に添えてお召し上がりください。

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コキールのサルシファイ
サルシファイを指示通りに茹で、ふるいにかけて、大さじ 1 杯のバターを加えて混ぜ、しっかり味付けし、バターを塗ったコキーユまたはラメキンに並べ、上からすりおろしたチーズを振りかけて、オーブンで焼き色をつけます。[ 150 ]

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エスカロップサルシファイ
サルシファイを表示通りに茹で、完全に火が通るまで茹でます。スライスし、バターを塗った耐熱皿に並べ、軽く焼き色をつけたパン粉をバターで散らし、コショウ、塩、パプリカを振りかけます。牛乳かクリームを1/2カップかけて湿らせ、上からパン粉をまぶして約15分焼きます。お好みで卵を牛乳と混ぜて溶きほぐし、コクのある味わいに仕上げることもできます。

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マッシュした黒サルシファイ(シュヴァルツヴルツェル)
通常のサルシファイと同じように調理しますが、この種のサルシファイは茹で上がるまで皮をむいたり切ったりしない方がよいでしょう。茹で上がったら皮をむき、白い部分を潰します。サルシファイ1カップにつき大さじ1杯のクリーム、小さじ1杯のバター、コショウ、塩を加えて混ぜます。個皿またはケースに並べ、パン粉を振りかけ、10分ほど焼いて焼き色をつけます。

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サルシファイのタルタル揚げ
冷めたサルシファイを茹で、お好みの形に切り、卵とパン粉にくぐらせ、熱した油で焼き色がつくまで揚げます。よく水を切り、塩をまぶして、タルタルソースを添えてお召し上がりください。

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ほうれん草
ほうれん草は葉っぱを一枚一枚丁寧に選別し、複数の水で洗い、毎回異なる鍋で洗います。こうすることで、洗うたびに砂が残らないようにするためです。そして、大きめの鍋にほうれん草1ペックにつき1カップ弱の水を入れ、[ 151 ]弱火で柔らかくなるまで煮込みます。こうすることでジャガイモ本来の肉汁が抽出され、水煮よりも美味しくなります。その後、水を切り、極限まで細かく刻むか、できるだけ果肉状になるまで刻み、すり鉢かポテトマッシャーで潰します。これで、お好みの調理法で食卓に出すことができます。

おいしいほうれん草は缶詰で入手できます。これを使用する場合は、細かく刻んでマッシュし、味付けして、次のいずれかの方法で調理するだけです。

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ドイツほうれん草
鍋にバター大さじ 1 杯を溶かし、大きめの玉ねぎ 1 個を細かく刻んで入れ、10 分間弱火で煮込みます。次に、茹でて刻み、つぶしたほうれん草 4 カップを加え、よくかき混ぜ、塩とコショウで十分に味付けします。仕上げにナツメグのすりおろし小さじ 1/2 杯とホイップクリーム大さじ 1 杯または 2 杯を加え、温めた皿に高く盛り、その上に固ゆで卵 2 個の刻んだ白身とライス状の黄身を乗せます。

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ホワイトソースのほうれん草
上記のレシピと同じように、クリームの代わりに濃い味付けのホワイトソースを 1/2 カップ使用し、最後にレモン 1 個分の果汁または濃縮酢大さじ 1 杯を加えます。

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ルバーブとほうれん草のドイツ風炒め
ほうれん草を調理するもう一つのドイツ風の方法は、ルバーブの葉や花(あるいは両方)をほうれん草と一緒に調理することです。[ 152 ]ピューレにチャイブを加えます。缶詰のほうれん草を使用する場合は、ルバーブの葉を茹でて刻み、缶詰のほうれん草を漬け込む前に加えてください。

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イタリアンほうれん草
ほうれん草1/2ペックを洗い、水なしで25分茹でる。水気を切り、細かく刻んですり鉢で滑らかになるまで潰し、バター大さじ1、塩、こしょうで味付けし、すりおろしたチーズ大さじ2を加えたスクランブルエッグを添える。

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ノベルティほうれん草
ほうれん草の缶詰1缶の水気を切り、細かく刻んで滑らかになるまで潰します。鍋に刻んだチャイブまたはすりおろした玉ねぎ大さじ1杯、塩コショウを加え、すりおろしたナツメグを全体に振りかけます。卵3個を固ゆでし、黄身を取り除き、ほうれん草とよく混ぜます。白身を刻み、トーストにほうれん草を並べます。1枚につき大さじ2杯のほうれん草を乗せ、卵白を添え、チーズソース大さじ2杯ずつかけます。トーストに並べたくない場合は、チーズソースをほうれん草と混ぜてから盛り付けてください。

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ほうれん草のスフレ
調理した刻んだほうれん草2カップを潰し、ホワイトソース1カップと固く溶いた卵2個分の白身を加え、よく味付けし、軽くティムバレに盛り付ける。[ 153 ]カップに生地を入れ、水を入れた鍋に入れ、中火のオーブンで15分ほど焼きます。盛り付ける前に、生地の上に固ゆで卵の黄身を散らします。

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焼きカボチャ
カボチャまたはスクワッシュを直径約7.5cmの三角形または正方形に切り、種などを取り除き、塩コショウを振り、バターを塗ります。中火のオーブンで30分、または焼き色がつくまで焼きます。パセリの小枝を添えてお召し上がりください。殻から取り出し、バターをたっぷりかけてお召し上がりください。

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カリフォルニアスカッシュ
夏カボチャ(皮をむく必要のないほど若いもの)を1個取り、小さく切ります。玉ねぎ半分を大さじ1杯のバターで炒め、透明になり、茶色くなり始めたらカボチャを加え、塩コショウで味を調えます。10分ほど煮込んだら、熱湯を1/4カップ加え、カボチャが柔らかくなるまで煮ます。

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トマト煮込み
ダブルボイラーにトマト缶1缶と、皮を剥いたパン1カップを入れ、よく混ぜ合わせ、コショウと塩で味付けし、蓋をして30分ほど、時々かき混ぜながら煮込みます。[ 154 ]盛り付ける前に、クルミ大のバターを添えてください。トマトは30分ほど茹でればすぐに食べられますが、1時間ほど茹でるとさらに美味しくなります。冷ましてから温め直すとさらに美味しくなります。

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エスカロップドトマト
トマト缶1缶分の汁を切ります。耐熱皿にバターを塗り、底にトマトを敷き詰めます。バターを点々と塗り、コショウと塩をまぶし、きめ細かなパン粉をたっぷりと振りかけます。さらにトマトとパン粉を重ね、皿がいっぱいになるまで繰り返します。トマトの汁を全体にかけ、よく湿らせ、最後にパン粉をまぶして仕上げます。中火のオーブンで20分焼きます。

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パン粉をまぶしたトマト
大きめのトマトをスライスし、両面に塩コショウをふり、溶き卵にくぐらせ、パン粉またはクラッカーのきめ細かな粉をまぶします。フライパンに並べ、熱した油に1~2分ほど入れて焼き色をつけます。水を切り、パセリを散らすか、他の野菜の付け合わせとしてお使いください。

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フライドトマト
フライパンに大さじ1杯のバターを入れ、溶けたら厚切りにしたトマトを卵とパン粉で巻いて並べます。片面に焼き色がついたら、パンケーキのターナーでひっくり返し、もう片面も焼き色をつけます。コショウと塩で味を調えます。盛り付けます。[ 155 ]パンケーキのターナーで皿にひっくり返し、最初に焼いた面に味を調えます。お好みで、バターに小さじ半分の玉ねぎの汁を加えて焼いても構いません。そのままでも、ホワイトソースをかけてでもお召し上がりください。

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デビルドトマト
おいしい固めのトマトを半分に切り、3~4 個焼き、次のように作ったソースを添えて提供します。固ゆで卵 4 個の黄身をフォークで潰し、乾燥マスタード小さじ 1 杯弱、塩山盛り 1 杯、パプリカを数回振りかけるか、カイエンペッパーを少々加えます。これらの乾燥した材料をよく混ぜ合わせ、溶かしバター大さじ 5 杯、酢またはレモン汁大さじ 2 杯を加え、ダブルボイラーで加熱します。とろみがつき始めたら火から下ろし、よく溶いた卵 1 個を加えてかき混ぜます。ゆで卵の白身を刻み、刻んだパセリ小さじ 2 杯を添え、提供する前に各焼いたトマトの中央にこれを飾ります。

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クリームトマト
中くらいの大きさのトマトを用意し、茎の端を円形に切り取って中身の大部分をくり抜き、半インチの長さに切った湯通ししたセロリを詰め、同量の缶詰のエンドウ豆と混ぜてホワイトソースで湿らせます。各トマトの上にエンドウ豆を小さじ1杯ずつ盛り付け、20分以上焼き、それぞれに濃い味付けのホワイトソースをかけます。[ 156 ]

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きのこ入り焼きトマト
良質なトマトを洗い、中身を丁寧にくり抜きます。コショウと塩をまぶし、ソテーしたマッシュルーム(生でも缶詰でも可)を詰め、バターで炒めます。約20分、または火が通り、崩れない程度に火が通るまで焼きます。

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ナッツ入りトマトのミートソース
大きめのトマト6個からヘタの部分を切り落とし、中身をくり抜いて、パン粉1カップ、刻んだナッツ類1/2カップ、塩小さじ1、コショウ塩小さじ1、溶かしバター大さじ1、すりおろした玉ねぎ大さじ1/2、卵1個で作った肉詰めを詰めます。トマトのヘタをトマトの上に戻し、約20分焼きます。オーブンが高温になると皮が破れてしまうので、注意が必要です。

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卵とピーマンを詰めたトマト
大きめのトマトの中身を切り取り、ゆで卵とピーマン(またはピーマン)を同量ずつ混ぜ合わせたものを詰めます。溶かしバターと玉ねぎの汁でよく湿らせ、塩で味付けします。耐熱皿に入れて蓋をし、中火のオーブンで20分焼きます。

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ピーマン入り焼きトマト
トマトの中身をくり抜き、中心から切り取ったトマトの果肉と甘いピーマンを小さじ1杯の水で満たします。[ 157 ]トマト1個につきコショウを少々、クラッカーの粉またはご飯を小さじ1杯加え、コショウと塩で味付けし、トマト1個につきバター小さじ1/4杯を入れてから上に乗せ、中火のオーブンで約20分焼きます。

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卵入りトマト
非常に大きく中身が詰まったトマトを選び、小さく鋭いナイフで茎の端を丸く切り取り、内側に小さな卵が入るくらいのスペースを切り込み、浅い鍋に並べます。塩コショウを振り、すりおろしたタマネギを小さじ半分加え、高温のオーブンで 5 ~ 6 分焼きます。トマトを取り出し、トマト 1 個分の黄身と、端から流れ落ちない程度の白身をトマトに割り入れます。塩、コショウ、刻んだパセリを少々振りかけ、オーブンに戻して、卵が固まるまで 15 分ほどじっくり焼きます。トマトを割らないように注意しながら、個別の皿に盛り付けます。クレソンまたはパセリを添えます。

トマトは、揚げたキュウリ、トマト、みじん切りにしたタマネギを詰めたり、セージ入りのパンドレッシングをかけたりと、さまざまな方法で詰めることができます。

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ほうれん草を詰めたトマト
大きめのトマトの上部に切り込みを入れ、中身をスプーンでくり抜き、「ジャーマンほうれん草」を詰めて、熱したオーブンで約20分焼きます。オーブンから取り出したら、トマトの上にゆで卵を1枚乗せるか、白身の縁に黄身ライスを詰めて盛り付けます。そのままでも、他の野菜の付け合わせとしてもお召し上がりいただけます。[ 158 ]

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マカロニを詰めたトマト
大きめのトマト6個分の中身をくり抜き、ベイリーフ1枚と溶かしバター少々を加えてトマトソースを作ります。これにゆでたマカロニ(スパゲッティやライスでも可)1/2カップを加え、塩コショウでよく味を調えたら、トマトにマカロニを詰め、各トマトの上に小さじ1杯の粉チーズを乗せます。中火のオーブンで約20分焼き、クレソンまたはパセリを添えます。

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アメリカンレアビット
フライパンに少量の水と大さじ 1 杯のバターを入れ、溶けたら大きめのスペイン産タマネギ 1 個、またはみじん切りにした普通のタマネギ 3 個を加え、10 分間弱火で煮ます。トマト缶からジュースを濾し、トマトをダブルボイラーに入れます。トマトに火が通ったらタマネギをこそげ落とし、すべてを一緒に 30 分間煮込みます。塩とコショウで味付けし、提供する直前に 2 ~ 3 個のよく溶いた卵を加え、ややとろみがつくまで数分間置いてから、トーストにのせて提供します。タマネギの風味がお好みであれば、みじん切りにしたタマネギの量を増やしてもかまいません。また、量を増やす場合は、このルールに他の変更を加えずに、さらに 3 ~ 4 個の卵を追加できます。チェーフィング ディッシュを使用する場合は、卵を追加する時点まで事前に準備し、チェーフィング ディッシュで再加熱した後で卵を追加します。

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トマトと玉ねぎ
卵を加えずに、前のレシピと同じように進めます。[ 159 ]

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トマトカジノ
大きくて中身が詰まったトマトを選び、切らずに15分間茹でます。皮を剥き、半分に切ります。トマトと同じ大きさのトーストの上に、切り口を下にして並べます。上から温かいオランデーズソース、ベルネーズソース、またはメートル・ドテルソースをかけ、中央にトリュフのスライスを乗せ、クレソンを添えます。

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トマト・インデエンヌ
大きくて中身が詰まったトマトを半分に切り、浅い鍋に切り口を上にして並べます。塩コショウを振り、カレー粉と玉ねぎの汁を少々かけます。オーブンで10分、またはガスコンロのオーブンのガスバーナーで焼きます。トマトが柔らかくなりすぎないように、すぐに盛り付けてください。トマト単体でも、ご飯の付け合わせとしてもお使いいただけます。

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卵入りトマト
トマト缶 1 個を濾して鍋に入れ、よくかき混ぜ、コショウと塩、大さじ 1 杯のバターで味付けし、15 ~ 20 分調理した後、よく溶いた卵 3 ~ 4 個を加えてかき混ぜ、さらに 2 ~ 3 分調理してからトーストにのせて提供します。

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カレー風味のトマト
大きくて中身が詰まったトマトのヘタの部分から薄くスライスし、中身を少しくり抜きます。中身をくり抜いたトマトと少量のカレー粉(小さじ1/2~米1カップ)を加えたご飯を詰めます。[ 160 ](適量)塩で味を調え、蓋をして15分焼きます。お好みで、フィリングにカレー粉を入れず、トマトにカレーソースを添えても構いません。

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風味豊かなトマト
大きめで中身が詰まったトマトを半分に切り、一人当たり2個ずつ用意します。切り口を上にして浅めの缶に並べます。切り口にケッパーを押し込み、セロリソルトをたっぷりまぶし、塩コショウを振りかけ、ガスオーブンで表面が黒くなるまで焼きます。火は強火にして、トマトが熱で柔らかくならないように、できるだけ早く焦げ目がつくようにします。また、ブロイラー室の扉は開けたままにしておくことも重要です。

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トマトクレオール
トマト5~6個を横半分に切り、バターを塗ったフライパンに、半分を上にして並べます。ピーマン1~2個をみじん切りにし、みじん切りにした玉ねぎ小さじ1杯と混ぜ合わせ、トマトの上に散らします。半分に切ったトマトの上にバターを少量ずつ乗せ、塩とパプリカを振りかけます。約20分焼いたら、トーストまたはご飯の上に取り出し、ホワイトソースをかけます。

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トマトローフ
トマト缶1缶分のジュースを、種がなくなるくらいの目の細かいふるいにかけて濾し、ホーロー鍋に入れて沸騰させます。塩とコショウで味を調え、[ 161 ]沸騰したら、水に溶かしたゼラチンの上に注ぎ、固めます。ゼラチンの量は、植物性ゼラチンやクズウコンなど、種類によって固まる力が異なるため、一概には言えません。液体1パイントあたりの適切な量に関する説明は、各パッケージに添付されています。ゼリーを冷ましておきます。カスタードカップか小さな型の底に、固ゆで卵のスライスを並べ、その周りにオリーブの詰め物、クルミのピクルス、トリュフ、マッシュルームなどのスライスを並べます。ゼリーがある程度冷めて、これらの飾りを注いだときに押さえられるくらいの濃さになったら、カップに半分まで入れます。固まって冷めたら、レタスの葉の上にのせて出します。

[コンテンツ]
トマトとホミニー
冷えたホミニー 2 カップと茹でたトマト 2 カップを鍋に入れ、バター大さじ 1 杯を加え、塩とコショウでたっぷりと味付けし、十分に加熱したら深皿に盛り付けるか、バターを塗った耐熱皿にパン粉を乗せて (好みに応じて、すりおろしたチーズを少々)、焼き色がつくまで焼き色をつけて盛り付けます。

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カブの煮込み
カブの皮をむき、洗い、縦に8等分、またはさいの目に切ります。沸騰した牛乳とカブが浸るくらいの水に浸します。蓋をせずに30分ほど煮込み、取り出してコンロの脇の熱い皿に盛り付けます。カブを茹でた時のスープ1.5カップに卵1個分の黄身を加えてかき混ぜ、ソースを作ります。[ 162 ]レモン汁小さじ1/2を加え、コショウと塩で味を調え、カブにかけます。カブのスープで普通のホワイトソースを作っても構いません。

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マッシュしたカブ
大きめのカブ 2 個を皮をむいて 4 等分し、沸騰したお湯をかけて柔らかくなるまで 30 分から 45 分ほど茹でます。ザルに入れて水を切り、ワイヤー製のポテトマッシャーで軽く押してできるだけ水分を取り除きます。次に、バター大さじ 2 杯、塩小さじ 1 杯、コショウ塩小さじ 1 杯を加えてかき混ぜながら、よく潰します。

[コンテンツ]
マッシュしたカブとジャガイモ
マッシュしたカブを作るときと同じようにカブを準備し、同じ量のゆでたジャガイモと一緒にマッシュします。バター、コショウ、塩を加え、軽く混ぜてから盛り付けます。

[コンテンツ]
カブのグラタン
茹でたカブを薄切りにし、バターを塗った耐熱皿に2.5cmの厚さに重ねて並べます。各層に溶かしバター、コショウ、塩、すりおろしたチーズを振りかけます。最後にチーズを乗せて20分焼きます。

[コンテンツ]
カブのラグー
鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ1杯とさいの目に切ったカブ4カップを加え、茶色になるまでかき混ぜます。[ 163 ]塩小さじ1、こしょう塩小さじ1、砂糖小さじ1を加え、小麦粉大さじ1を滑らかにした野菜ブイヨンまたは牛乳1カップをゆっくりと加えます。30分ほど弱火で煮込みます。

[コンテンツ]
テルタワー・ルーブヒェン
輸入された「リュープヘン」と呼ばれるとても繊細な小さなカブを購入し、それを自身のお酒で温めてから水を切り、スペイン風ソースをかけてお召し上がりください。

[コンテンツ]
パリジャンカブ
パリジャンポテトカッターでカブを小さな輪切りにし、柔らかくなるまで30分ほど茹でます。茹で時間はカブの生育状況によって異なります。湯切りをし、みじん切りにしたパセリ大さじ1杯を加えた、濃い味付けのホワイトソースをかけます。[ 165 ]

[コンテンツ]
動物に対する優しさは単なる感情ではなく、ごく普通の教育でさえ必須の要件です。算数や文法において、人間性ほど子供が学ぶべき重要なものはありません。

ボストン教育ジャーナル。[ 167 ]

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野菜の組み合わせ
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チャプスイ
玉ねぎ1カップ(茶色になるまで炒めた)、セロリ1カップ(5cm角に切って千切りにし、野菜ストックで30分煮込んだもの)、炒めたマッシュルーム1カップ、ご飯2カップを鍋に入れ、薄めたブラウンソース1カップを加える。10分ほど加熱し、塩コショウで味を調える。

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コルカノン
これは、2種類以上の野菜を茹でて混ぜ合わせたものです。マッシュポテトと細かく刻んだもやし(または葉野菜)を同量、お好みですりおろした玉ねぎを加え、ニンジンかカブ(あるいは両方)をマッシュして加え、塩コショウで味を調えます。卵2個を4~5カップの野菜に混ぜ込み、型に押し込んで30分茹でるか蒸します。盛り付け時に取り出し、そのままでも、ブラウンソースをかけても美味しくいただけます。

[コンテンツ]
野菜のマセドワーヌ
小さめのカリフラワー1個を茹で、水気を切っておく。次に、さいの目に切ったニンジン2カップを茹で、柔らかくなったら水気を切る。ただし、スープは取っておく。カリフラワーを細かく切ったニンジン、茹でたエンドウ豆2カップ、または調理済みまたは缶詰のフラジオレット1カップ、水1/2カップを加える。[ 168 ]ニンジンストック、塩小さじ1と1/2、こしょう小さじ1、砂糖大さじ1を加えます。温まるまで弱火で煮込み、みじん切りにした玉ねぎ1個、ローリエ2枚、バター大さじ1を加えます。お好みで、バター大さじ1と小麦粉大さじ1をニンジンストックで薄めて濃いめに味付けしたソースを作り、野菜にかけてから盛り付けてください。

[コンテンツ]
缶詰の野菜マセドワーヌ
エンドウ豆、形を整えたニンジン、フラジオレットなど、様々な野菜を組み合わせた美味しい組み合わせが瓶詰めされています。水気を切り、鍋に入れ、バター大さじ1杯、コショウ、塩少々を加えます。温まったらそのまま、またはクリーム1/2カップを加えてお召し上がりください。飾りとして、あるいはそのまま、あるいはピーマン、トマト、パテの具材としてお使いいただけます。

[コンテンツ]
野菜チャウダー
じゃがいもは皮をむいて厚めにスライスし、4カップ分作ります。また、同量の千切りキャベツと薄切りタマネギを用意します。鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらタマネギを加えて10分間煮ます。大きなキャセロールにバターを塗り、底に薄切りしたじゃがいも、キャベツ、タマネギの順に並べ、それぞれにコショウと塩で味を調え、刻んだゆで卵を散らして、皿に詰めます。大さじ1杯の小麦粉を加えて滑らかにした牛乳2カップをチャウダーに注ぎ、浅い鍋に水を入れて、1時間弱火で焼きます。牛乳が蒸発してしまったら、調理中に少しずつ足してください。同じ料理を鍋で作ることもできます。その場合は、じゃがいもを半分に切って45分ほど煮ます。[ 169 ]

[コンテンツ]
ベジタブルパイ(セントジョージズハウス)
ニンジン、カブ、大玉のインゲン豆を、冷ましてから刻むかスライスするとそれぞれ1/2カップ分になるくらい茹でます。また、スライスすると1/2カップ弱になるくらいのジャガイモを茹でます。バミューダオニオンをスライスして1/2カップ分にし、バターで黄金色になるまで炒めます。玉ねぎと下ごしらえした野菜を混ぜ合わせ、缶詰のグリーンピース、インゲン、トマトをそれぞれ1/4カップずつ加えます。塩コショウでよく味を調え、刻んだパセリ小さじ1杯を加えて混ぜ合わせ、インゲン豆を茹でた水で湿らせます。深めの耐熱皿に山盛りにし、しっかりした皮を被せて、軽く焼き色がつくまで焼きます。

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野菜ハッシュ
中くらいのジャガイモ 5 個、ピーマン 2 個 (種を丁寧に取り除く)、新鮮なトマト 5 個、ゆでたビーツ 1 カップ (缶詰の半分)、生の玉ねぎ 2 個を別々に切ります。

フライパンにバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎを加え、5分間弱火で煮込みます。トマトを加え、さらに5分間弱火で煮込み、ジャガイモ、ピーマン、ビーツを加えます。塩コショウをまぶし、時々かき混ぜながら、肉汁がほぼなくなるまでじっくりと炒めます。ハッシュの下の部分が茶色く色づいたら、上に焼き色がつくようにひっくり返します。四角く切ったトーストを添えます。

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野菜シチュー
大きめの鍋にバター大さじ4杯を入れ、溶けたらスライスした玉ねぎ1/2カップ、 [ 170 ]さいの目切りにしたニンジン、千切りにしたセロリ 1 カップ、長方形に切ったカブ 1/4 カップをバターで 15 分間炒めます。次に、冷たい野菜ブイヨンか水 6 カップを注ぎ、塩小さじ 1 杯、月桂樹の葉 2 枚、半分に切った小さな玉ねぎ 6 個、4 等分に切ったニンジン 4 本、小さく四角に切ったカブ 6 個を加え、30 分間弱火で煮込みます。次に、半分に切ったジャガイモ 5 個を加え、さらに 30 分間煮込み、野菜が浸かるように野菜ブイヨンを追加します。団子を作り、沸騰しているシチューに入れ、しっかりと蓋をしてさらに 10 分間煮込み、塩とコショウでよく味を調え、小麦粉とバターを少し加えてとろみをつけたスープをかぶるくらいの量かけて提供します。

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野菜キャセロール
この料理を最高の味と見た目で調理するには、直径 8 ~ 10 インチのイタリア風キャセロール皿で調理し、盛り付けます。中サイズの玉ねぎ 8 個の皮をむき、中心部の直径が約 7.5 cm になるまで層をはがします。中心部を熱いバターで焼き色がつくまで炒め、外側を切ります。中サイズのピーマン 3 個を縦に半分に切り、各半分にパン粉、みじん切りにしたトマト、みじん切りにした玉ねぎ、塩コショウをたっぷりと詰めます。中サイズのトマト 6 個に、詰め物のトマトの項で説明したいずれかの方法で詰め物をします。鍋にバター大さじ 2 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ 2 杯を加えます。これらを 10 分間炒め、小麦粉大さじ 2 杯を加えてかき混ぜ、野菜ストックまたは牛乳をそれぞれ 2 カップ使用してソースを作ります。月桂樹の葉 1 枚と、濃い色になるまでスープを焦がす量の粉末を加えます。詰め物をしたピーマンをキャセロール皿に入れ、玉ねぎと一緒に炒める[ 171 ]ハートとソースを加え、蓋をして10分間煮込みます。次に、詰め物をしたトマトをキャセロールに並べ、半分に切ったマッシュルーム缶の半分と、フラジオレットまたはグリーンピース缶の半分を混ぜ合わせます。蓋はせずに、15分間じっくりと煮込みます。このキャセロールは、ピーマンとトマトの詰め物を変えたり、ソースにトリュフ、インゲン、または新鮮なマッシュルームを入れたりと、様々なアレンジが可能です。ソースはとろみがつきすぎないように注意してください。

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野菜のラグー
1インチ四方に切ったカブ3カップ、ジャガイモ1 1/2カップ、ニンジン1 1/2カップ分の材料を茹でる準備をします。ニンジンを軽く塩と甘みを加えたお湯に入れ、10分間沸騰させます。その後、カブとジャガイモを加えてさらに10分間煮ます。鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ2杯を加え、軽く焼き色がつくまで炒めます。次に小麦粉大さじ2杯を加え、滑らかになるまでかき混ぜます。そこに野菜を茹でたスープ2カップをゆっくりと注ぎ入れます。砂糖小さじ2杯、塩小さじ1杯、コショウ小さじ1/2杯、さいの目に切った野菜を加え、蓋をして弱火で30分煮込みます。最後にみじん切りにしたパセリ大さじ1杯を加えて盛り付けます。

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ボルドーパイ
カップ1/4杯分に相当する量のスペイン産玉ねぎをスライスし、バターで軽く焼き色がつくまで炒めます。ニンジンをさいの目切りにして1/2カップ分、ジャガイモをカップ3/4杯分、マッシュルームを2カップ分茹で、少量のバターをひいたフライパンで中火で10分ほど炒めます。[ 172 ]卵4個を固ゆでし、ホワイトソース1カップを作る。野菜を細かく切り、卵をスライスし、缶詰のグリーンピース(または茹でたて)1/4カップ、刻んだパセリ小さじ1、塩コショウをしっかり振り、ナツメグ少々とレモン汁小さじ1を加え、ホワイトソースとよく混ぜ合わせる。大きめの耐熱皿(または小さめの耐熱皿)に薄いパイ生地を敷き、材料を流し込み、上をパイ生地で覆って、軽く焼き色がつくまで焼く。

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ニューオーリンズシチュー
玉ねぎ 3 個をスライスし、大さじ 1 杯のバターで 5 分間炒めます。次に、みじん切りにしたピーマン 3 個を加え、よくかき混ぜて、さらに 5 分間一緒に調理します。次に、フライパンの中身を二重鍋に移し、スイートコーン 3 本 (またはコーンの缶詰の半分) から切り取ったトウモロコシ、スライスしたトマト 3 個、水 1 カップ、塩小さじ 1、砂糖小さじ 1 を加えて、すべてを一緒に 1 時間調理します。提供する前に再度味を調えます。

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インドカレー
フライパンにバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ2個を加え、15分ほど弱火で煮込みます。カレー粉大さじ1杯、みじん切りにしたサワーアップルまたはタマリンドチャツネ大さじ1杯、塩小さじ1杯、ペースト状になるまで野菜ストックを混ぜ合わせます。玉ねぎがきつね色になったら、このペーストを加え、よくかき混ぜてから、茹でたインゲン豆1カップ、茹でた栗半分1カップ、半分に切ったマッシュルーム缶詰1缶を加え、10分ほど煮込みます。以下の材料で作ったストックを用意しておきましょう。[ 173 ]ボウルに乾燥ココナッツ大さじ2杯を入れ、熱湯1カップを注ぎ、野菜を湿らせます。野菜ブイヨン1カップを加えてさらに10分煮込みます。西洋人はチャツネを添えて食べるのが好きですが、インドでは濾し器で濾してピューレ状にし、よく溶いた卵2個を加えて盛り付けます。ご飯を添えてお召し上がりください。

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レンズ豆のカレー
ドイツ産またはエジプト産のレンズ豆を2~3カップ、2~3時間浸します。水を切り、沸騰したお湯に入れ、45分ほど、または柔らかくなるまで(ただし崩れない程度)茹でます。茹で上がったら軽く塩をふり、茹で上がったら水を切り、塩を振りかけ、丸い平皿にピラミッド状に盛り付けます。ゆで卵を半分に切った3個を添え、周りをご飯で囲み、レンズ豆だけにカレーソースをかけます。残ったカレーソースはソースボートに盛り、インドのチャツネを添えてお召し上がりください。

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サコタッシュカレー
リマ豆 1 缶とスイートコーン 1 缶を加熱し、熱くなったら水を切り、平らな皿に盛り、カレーソースをかけ、ポテトコロッケとインドのチャツネを添えて提供します。

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クレオールカレー
米1カップを沸騰させ、炊いている間にオクラ2カップ、トマト2カップ、半分に切った小さな玉ねぎ2個、バター小さじ1杯をダブルボイラーに入れ、熱くなったら1カップの熱湯を加え、そこに1カップの砂糖を溶かします。[ 174 ]山盛りの小さじ1杯のカレー粉を加え、30分ほど一緒に煮込みます。玉ねぎを取り除き、米を加え、たっぷりと塩で味付けし、インドのチャツネを添えて提供します。

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各種野菜カレー
ほとんどどんな野菜でもカレーに合います。フラジョレット、ニンジン、エンドウ豆、マッシュルームなど。ご飯かライスコロッケを添えると美味しいです。スペイン産のピメントを添えると見栄えがよく、カレーソースはたっぷりかけてください。ゆで卵を半分に切るとカレーによく合います。インドのチャツネも添えると美味しいです。[ 175 ]

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「『動物の友だち』の中で動物の不死性について語ったチャールズ・ワーグナーはこう言う。『生命から生まれたものが混沌に戻ることはできるのか? 神の業に終わりはあるのだろうか?』」[ 177 ]

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ナッツ料理
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イタリア産栗
栗は、ローストするか茹でるかのどちらかで調理できます。ローストする場合は、栗に付着している薄い茶色の皮を外殻と一緒に取り除きます。茹でる場合は、内皮を剥くのに手間がかかることがよくあります。ローストする場合は、栗を高温のオーブンで8~10分ほど焼き、小さくて鋭いナイフを使って先端から剥きます。

栗を茹でるには、殻付きのまま冷水に入れ、沸騰してから5~6分茹でるか、沸騰したお湯に10~12分入れます。丁寧に皮をむき、ローストまたは茹でて、ブラウンソースまたはマッシュルームソースを添えて、そのままでもケースに入れても美味しくいただけます。

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栗のピューレ
イタリア産栗6カップをローストまたは茹で、殻と内皮を取り除き、細かく刻むか、野菜ミルで挽いてください。ダブルボイラーに栗を入れ、栗が浸るくらいの牛乳を加え、15~20分、または牛乳が完全に吸収されるまでゆっくりと煮ます。頻繁にかき混ぜ、バター大さじ1、生クリーム大さじ1、たっぷりの塩、少量のこしょうを加えます。ピューレはマッシュポテトくらいの硬さになるはずです。[ 178 ]

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ピーナッツピューレ
ピーナッツ3~4カップ分の殻をむき、内側の皮を取り除き、野菜ミルにかけます。ダブルボイラーに牛乳を入れ、ピーナッツが浸るくらいまで煮込み、塩で味を調え、柔らかくなるまで30分ほど弱火で煮ます。頻繁にかき混ぜ、牛乳がピーナッツに吸収され、ピーナッツピューレがマッシュポテトのような硬さになったら盛り付けます。調理の最後の瞬間に大さじ1杯のホイップクリームを加えると、さらに美味しくなります。

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ミカエルマスローフ
細かく砕いたクルミ(またはその他のナッツ類)1カップ、細かく砕いたローストピーナッツ1カップ、塩小さじ1、コショウ塩小さじ1、細かいパン粉2 1/2カップ、ミックススイートハーブ(タイム、セージ、サマーセイボリー)大さじ1、大きな玉ねぎ1個またはみじん切りにした小さめの玉ねぎ2個を混ぜます。よく混ぜたら、軽く溶いた卵2個と混ぜ合わせ、手でパンの形に成形し、バターをたっぷり塗ったローストパンに入れ、中温のオーブンで10分間焼きます。次にバター大さじ1と熱湯1カップを加え、30分間焼いている間頻繁にソースをかけます。パンにしっかり焼き色がついたら、熱い皿に注意深く取り出します。パンを焼いたフライパンでブラウンソースを作り、このソースと冷たいアップルソースを添えて出します。

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クリスマスローフ
上のレシピと同じように作りますが、みじん切りにした玉ねぎは入れず、スイートハーブを大さじ半分(またはそれ以上)加えます。クランベリーソースを添えてお召し上がりください。[ 179 ]

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ローストナッツと大麦のパン
オリーブオイル大さじ2杯、きな粉1/2カップでブラウンソースを作り、水か野菜ストックで薄めます。大きな玉ねぎ1個をみじん切りにして、大さじ1杯のオイルかバターで炒め、玉ねぎとソースを冷えたパールバーリー2カップ、細かく挽いたローストピーナッツ1カップ、細かいパン粉1カップ、塩小さじ1、塩小さじ1杯のコショウと混ぜます。手でパンの形に成形し、バターをたっぷり塗ったローストパンに入れ、オーブンで10分間焼きます。次にバター大さじ1杯と熱湯1カップを加え、30分間5分ごとにソースをかけます。同じフライパンでブラウンソースを作るか、ケッパーソースを添えます。ブラウンソースを使用する場合は、イギリスの風味豊かなコロッケを添えます。

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蒸しナッツと大麦のパン
上記のレシピ通りに作りますが、型に詰めて沸騰したお湯に入れ、1時間半から2時間蒸します。型に入れたまま冷まし、型から取り出して冷やしてお召し上がりいただくか、スライスしてお召し上がりいただくか、ナッツハッシュにお使いください。

レンガ型の型は、注文に応じてブリキ職人が作ってくれます。また、大きなベーキングパウダーの缶を使ってパンを蒸すこともできます。

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ローストナッツローフとホミニー
ナッツ類(ピーカンナッツ、クルミ、ローストピーナッツなど)2カップをすりつぶすか、ピーナッツのみを使用し、冷えた茹でホミニー2カップ、パン粉1/2カップ、3カップを混ぜます。[ 180 ]細かく刻んだゆで卵、みじん切りにしたパセリ大さじ1、すりおろした玉ねぎ大さじ1、生卵1個を混ぜ合わせます。大きなロールパン1個、または小さめのロールパンを数個作り、バターを塗った型に入れ、クイックオーブンで30分焼きます。少量のバターと水を数回に分けて加えます。レモンのスライスを飾り、ブラウンソースを添えてお召し上がりください。このパンは、大麦パンの作り方に従って蒸し、温めても冷やしても、ハッシュにしても美味しくお召し上がりいただけます。

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ナッツとフルーツのローフ
ミックスナッツを2カップ分刻み、細かく刻んだバナナ6本と塩小さじ1/2を加えてよく混ぜ、プレーンな型に押し込みます。型を蒸し器に入れ、3時間蒸します。冷やしてスライスし、ピクルスまたはケチャップを添えてお召し上がりください。

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ファンデーションローフ
このパンは、焼いた型に入れたまま蓋をして涼しい場所に保管すれば数日間は新鮮な状態を保つことができるので、すぐに使えるように作って保存しておくことができます。鍋に水2カップを入れ、沸騰したら細かく挽いた穀物1カップ(グルテン入りの小麦粉か穀物ミール、またはスコッチオートミールが適しています)を加え、とろみがつくまでかき混ぜます。次に、塩小さじ2、コショウ小さじ1/2、バター大さじ1、野菜グラインダーで2回ひいた殻付きピーナッツ1カップを加えます。パン型の型、または蓋がしっかり閉まる大きな丸い型に生地を詰め、水に浸かるくらいまで浸し、2時間蒸します。冷めてから、または冷凍のままお使いください。[ 181 ]ナッツハッシュやコロッケ、または同量のパン粉と調味料を加えてミカエル祭用またはクリスマス用のパンを作ることもできます。

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ナッツハッシュ
冷えた蒸しナッツローフと、同量の冷えたゆでジャガイモを用意します。ジャガイモとローフを別々に刻み、混ぜ合わせた後、みじん切りにした玉ねぎの1/4を加えます。溶かしバターを敷いたフライパンにハッシュを入れ、底までしっかり覆うように入れ、塩コショウをまぶします。最初の10分間は、ナイフで頻繁にかき混ぜながらじっくりと加熱します。その後、時々フライパンを激しく揺すりながら、ハッシュの底に焼き色がつくまで待ちます。最後に再度味付けをし、焼き色がついた部分を上にしてハッシュをひっくり返します。お好みで、みじん切りにしたピーマンを1~2個加えてもよいでしょう。[ 183 ]

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命を奪うこと、つまりその目的のために太らせること、動物に病気を起こさせること、憎しみを抱かせること、さらに残酷なことをすることについては何も言いません。それは人食い行為の第二段階の一形態として見られ、振り返られるでしょう。—ジョージ・メレディス[ 185 ]

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ライス、マカロニなど
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ご飯
米1カップをざるで洗い、水を通してからめます。大きめの二重鍋に入れ、沸騰したお湯をたっぷりと注ぎます。塩小さじ1杯を加え、蓋をしっかり閉めて25分間煮ます。蓋をしたまま米の水を捨て、再び鍋の上に置き、さらに20分間蒸らします。すると、米粒が一つ一つバラバラになっているのが分かります。フォークを使って軽くかき混ぜ、盛り付けます。

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焼きご飯
米1/2カップを2カップのぬるま湯に数時間浸します。水を切り、耐熱皿に入れ、小さじ1/2杯の塩を加えた牛乳3カップを注ぎます。耐熱皿に蓋をして、牛乳が米に吸収され、米粒が柔らかくなるまで、または1時間ほどゆっくりと焼きます。

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インド米
ダブルボイラーにバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個、トマト缶1缶分の汁、ご飯大さじ6杯、カレー粉小さじ1杯、塩コショウ少々を加えます。蓋をして45分ほど煮込みます。[ 186 ]

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スペインライス
鍋にバター大さじ 2 杯を入れ、溶けたら米 1/2 カップを加えて 15 分間かき混ぜます。次に、みじん切りにした玉ねぎ 1 個、みじん切りにしたトマト 1 個、ニンニク 1 片を加え、熱湯または野菜ストックを注ぎ、塩とコショウで味を調えます。よくかき混ぜてから蓋をして、米をゆっくりと 40 分間炊きます。

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ライストマトシチュー
冷えたご飯 1 カップ、バター小さじ 1 杯、スライスしたトマト 3~ 4 個 (または水切りした缶詰 1 カップ)、ベイリーフ 1 枚、セロリソルト、コショウ、塩を鍋に入れてよくかき混ぜます。焦げないように注意しながら 10 分間ゆっくりと調理します。ベイリーフを取り除き、厚めに切ったトーストにのせて提供します。

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炒飯
炊きたてのご飯を深さ2.5cmの鍋に押し込み、重しを乗せて冷まします。5cm角に切り、熱したバターで焼き色がつくまで炒めます。トマトソースまたはカレーソースを添えてお召し上がりください。

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エスカロップライス
耐熱皿にバターを塗り、その底にご飯を敷き、その上にゆで卵を並べる。バターをたっぷり塗り、塩コショウをふりかけ、さらにご飯と卵を交互に並べる。[ 187 ]皿いっぱいになるまで、パン粉をまぶし、溶かしバター大さじ2杯を全体にかけ、牛乳1/2カップで湿らせ、20分ほどゆっくりと焼きます。

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ライスとチーズ
耐熱皿にバターをたっぷり塗り、底に茹でた米を厚さ1.5cmほど敷きます。塩コショウで味を調え、バターをたっぷりと塗ります。次に、すりおろしたチーズをたっぷり敷き、水で溶いたイングリッシュマスタードを振りかけます。さらに米を敷き詰め、皿がいっぱいになるまで繰り返します。最後に牛乳1/2カップ、または米を茹でたお湯を注ぎ、オーブンで20分ほどじっくりと焼きます。

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焼き米とトマト
耐熱皿にバターをたっぷり塗り、底に米を敷き詰めます。その上にトマトのスライスを並べます。バターをたっぷり塗り、コショウ、塩、セロリソルトをたっぷり振りかけ、さらに米を敷き詰めます。この工程を、皿がいっぱいになるまで繰り返します。缶詰のトマトジュースを1/2カップほど米にかけ、上からすりおろしたチーズを振りかけ、20分焼きます。

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イタリアンライス
鍋にバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたら、ご飯 2 カップとトマトソースまたはトマトチャツネ 1 カップを加え、塩とコショウでよく味付けし、温まるまでかき混ぜ、すりおろしたチーズをたっぷりふりかけて提供します。[ 188 ]

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ライスグラタン
ダブルボイラーに牛乳 1 カップを入れ、熱くなったら小麦粉 1 杯にバター 1 杯、すりおろしたタマネギ 1 杯 (またはタマネギエキス数滴)、塩 1/2 杯を混ぜたものを加えます。これに茹でた米 2 カップを加えてかき混ぜ、5 分間調理します。次にバターを塗った耐熱皿に入れ、すりおろしたチーズ 1/2 カップを上に乗せ、パプリカをまぶし、パン粉をふりかけ、オーブンで焼き色がつくまで焼きます。

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ライスオムレツ
卵2個分の黄身と白身を別々に溶きほぐし、黄身に牛乳1/4カップ、冷えたご飯1/3カップ、溶かしバター大さじ1、塩コショウ少々を加え、最後に固めの白身を加えます。バターを塗ったオムレツパンに入れ、通常のオムレツの作り方と同じように、弱火でパンを激しく揺すりながら焼きます。塩と少量のパプリカを振りかけ、固まったらひっくり返します。お好みでソースをかけ、クレソンを添えてお召し上がりください。

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ライス・ツァリーナ
耐熱皿にバターを塗り、底に2.5cmほどの深さで茹でたご飯を敷きます。その上に、細かく刻んだ生トマトまたは缶詰のトマトを散らし、塩コショウで味付けし、バターをたっぷりと塗ります。さらに、少し薄めにご飯を敷き、その上に細かく刻んだピーマンを敷きます。このように、トマト、ピーマン、ご飯を交互に並べ、ご飯がたっぷりになるまで重ねます。中央に薄切りのトマトを飾り、縁を薄く輪切りにしたピーマンで囲みます。[ 189 ]ピーマン全体に溶かしバター大さじ2杯をかけ、軽く天板に蓋をして弱火で20分焼きます。食べる直前に溶かしバター大さじ2杯を加えます。

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風味豊かなご飯
耐熱皿にバターを塗り、炊きたての米を半分まで入れ、塩、コショウ、セロリソルト、そしてウスターソースを数滴振りかけ、水で溶いたマスタードを散らし、トマトソースを1/2カップ均等に注ぎます。残りの米を皿に流し込み、同じ材料で味付けし、すりおろしたチーズ(できればセージチーズ)を1/2カップ加えます。トマトソースをかけた後、薄くパン粉をまぶし、弱火のオーブンで15分焼きます。

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玄米
玄米は稲作国で広く使われており、独特の風味を持っています。玄米が手に入ると、心地よい変化をもたらし、米料理のどの調理法でも美味しくお召し上がりいただけます。

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パールバーリー
パール大麦はたっぷりのお湯に入れて 1 時間ほど茹で、水を切り、ご飯の盛り付けで説明したいずれかの方法で調理します。[ 190 ]

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アメリカンマカロニ
マカロニ1袋の1/4を5cmの長さに折り、沸騰した塩水に落とします。25分茹でた後、湯切りをし、バターを塗った耐熱皿に、すりおろしたチーズを交互に並べます。各層にコショウと塩を振り、皿に詰め終わったら、小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯を混ぜて滑らかにした熱い牛乳1カップを全体に注ぎます。表面にパン粉をまぶし、焼き色がつくまで20分焼きます。

マカロニメーカーによっては、茹でた後15分ほど冷水につけて、調味料などを加えて再加熱することを推奨しているところもあります。

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マカロニグラタン
マカロニ1袋の1/4を5cmの長さに折り、沸騰した塩水2クォート(約2.5リットル)に入れます。25分間、沸騰させたら湯切りをします。耐熱皿にバターを塗り、マカロニを1.3cmの厚さに敷き詰めます。すりおろしたチーズをたっぷり振りかけ、塩コショウで味を調えます。さらにマカロニをもう1枚重ね、マカロニが上に乗った状態で、皿が十分に満たされるまで、同じように焼きます。バターを均等に塗り、約15分、またはきつね色になるまで焼きます。

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マカロニビアンカ
マカロニの半分のパックを2インチの長さに折り、沸騰した塩水2クォートにゆっくりと落とします。15分後に1カップを残して残りのマカロニを捨てます。[ 191 ]水を加え、熱い牛乳を1/2カップ加え、フォークでよくかき混ぜながら、10~15分ほど煮詰めて、ほぼ水気を切るか柔らかくなるまで煮詰めます。茹で上がったらすぐにザルにあげます。耐熱皿にバターを塗り、マカロニを敷き詰めます。塩コショウをまぶし、すりおろしたチーズを軽く振りかけます(1皿につき1カップ)。ミックスマスタードを散らし、ウスターソースを振りかけます。このようにしてマカロニを並べ、牛乳を1/2カップ注ぎ、クイックオーブンで15~20分、または焼き色がつくまで焼きます。

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イタリアンマカロニ
マカロニ1/4ポンドを4インチの長さに折り、沸騰した塩水に入れて25分間茹でます。湯切りをし、溶かしバター大さじ1とトマトソース1 1/2カップを入れた鍋に入れます。塩コショウで味を調え、熱した平皿に盛り、すりおろしたチーズをたっぷり振りかけてお召し上がりください。

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トマトとオニオンソースのマカロニ
マカロニ1袋の1/4を、沸騰した塩水で25分間茹でます。茹でている間に、以下のソースを作ります。鍋に大さじ1杯のバターを入れ、溶かしたらみじん切りにした玉ねぎ1個とみじん切りにしたパセリ大さじ1を加え、塩コショウで味を調えます。6~7分ほど炒め、小麦粉大さじ1と煮込んで水切りしたトマト1カップを加え、5分間よく混ぜます。耐熱皿にバターを塗り、マカロニを敷き詰め、さらにソースを敷き詰め、この工程を皿全体に行き渡るまで繰り返します。オーブンで10分焼いてからお召し上がりください。[ 192 ]

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焼きマカロニイタリアン
マカロニ 1/4 ポンドを 2 インチの長さに切り、25 分間茹でてから水を切り、バターを塗った耐熱皿にトマト ソース 1 カップとともに入れます。塩とコショウでよく味付けし、その上に厚さ 0.5 インチのすりおろしたチーズを乗せ、15 分間焼きます。

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メキシカンマカロニ
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらトマト缶1/2個、小さめのピーマン1個(種を取りみじん切り)、大玉ねぎ1個(みじん切り)、塩小さじ1/2を加えて混ぜます。蓋をして、約40分間、弱火で煮込みます。粗いふるいにかけてから、湯せんにかけて保温します。マカロニ1袋の1/4を25分間茹で、湯切りをし、ホットソースをかけます。

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プレーンマカロニ&チーズ
沸騰したお湯にマカロニ1 袋の 1/4 を入れ、25 分間茹でます。湯切りをして、温めた牛乳 1 カップ、バター大さじ 1 杯、塩、コショウ、パプリカを加えます。沸騰したら、すりおろしたチーズ 1/2 カップを加え、さらに 5 分間茹でてから提供します。

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マカロニレアビット
鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらすりおろしたチーズ1カップを加え、チーズが溶けるまでかき混ぜ、塩小さじ1/2杯、 [ 193 ]マスタード小さじ1/2杯のパプリカ、大さじ1杯の小麦粉を1/2カップのクリーム(または牛乳)に溶かし、軽く溶いた卵3個を加えます。すべてをよく混ぜ、茹でたマカロニ1カップを入れ、トーストと一緒に出します。

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スパゲッティ
スパゲッティはマカロニのどの方法でも調理できますが、本物のナポリ風スパゲッティは次のように調理されます。1 ポンドのスパゲッティを 3 ~ 4 インチの長さに折り、塩をたっぷり入れた沸騰したお湯を大きな鍋に入れ、30 分間茹でます。同時に、良質のオリーブオイル 1 カップをフライパンに入れ、熱くなったら種を取りみじん切りにしたピーマン 2 個を入れ、きつね色になるまで弱火で煮込み、みじん切りにしたニンニク 4 ~ 6 片と皮をむき、4 等分にして薄切りにした大きなトマト 4 個を加えます。約 30 分間、またはオイルがすべて吸収されるまで調理し、頻繁にかき混ぜます。とろみがついたソース状になったら、塩とパプリカをふりかけ、スパゲッティの水気をよく切り、ソースを混ぜ合わせ、大皿に盛り、すりおろしたばかりのパルメザンチーズをふりかけて提供します。

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麺を作るには、軽く溶いた大きめの卵1個に、小さじ1/4杯の塩を加えたふるいにかけた小麦粉1/2カップを加えます。フォークでよく混ぜ、生地が十分に固まったら指でこね、パテのような滑らかな状態になるまで混ぜます。布巾に包んで30分ほど置いておきます。パン板に小麦粉をたっぷりと振り、その上で生地を5~6回伸ばします。伸ばすたびに薄く伸ばしていきます。 [ 194 ]最後に、できるだけ薄く伸ばし、ゼリーケーキのロールケーキのように軽く巻きます。鋭利なナイフで、端から切り込みを入れ、スープに使う場合は約1/8インチ幅、ソースに使う場合は約3/8インチ幅に切ります。指でリボンがほぐれるまで振り、約30分乾燥させます。

麺の約5分の1を細かく切り、乾いたら熱い油に入れてカリッと茶色になるまで揚げ、茹でた麺の上に散らして提供します。

麺を茹でるには、沸騰した塩水に麺を入れ、蓋をして20分間茹でてから、よく水を切ります。

ゆでた麺はブラウンソースやトマトソースと合わせて食べるとおいしく、マカロニやスパゲッティにもそのまま使えます。

非常においしい麺がすでに作られて購入することができます。

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ドイツ麺
乾麺2カップを沸騰した塩水に入れ、20分間さっと茹でます。湯切りをし、バター大さじ1とブラウンソース1カップ(煮詰めた酢大さじ1と、お好みでケッパー少々を加えたもの)を鍋に入れます。十分に温まったら盛り付け、盛り付けたら塩コショウを少々振ります。

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イタリアンヌードル
乾麺2カップを沸騰した塩水に入れ、20分茹でて湯切りし、鍋に移してバター大さじ1とトマトソースまたはチャツネ1カップを加えます。コショウと塩で味を調え、温かい皿に盛り付け、上からすりおろしたチーズをたっぷり振りかけてお召し上がりください。[ 195 ]

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人間が罪に染まっていた場所

ロバと牛が招き入れられました。

天使が来るにふさわしくない場所

これらの謙虚な人々は聖なる世界に入ったのです。

馬小屋で獣と一緒に

クリスマスの子供が祝宴を開きました。

これらの崇拝者たちは以前

王たちと羊飼いたちが戸口に群がりました。

そして天使がひざまずかないところにひざまずいた

野原の無邪気な生き物たち。

キャサリン・タイナン・ヒンクソン。[ 197 ]

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コロッケ
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豆のコロッケ
乾燥豆2カップを洗い、12時間以上水に浸します。その後、同じ水で約1時間、または柔らかくなるまで茹でます。湯切りをし、ざるで押し固め、塩小さじ1、コショウ塩小さじ1、バター大さじ1を加えます。よく混ぜ合わせ、コロッケの形に整え、溶き卵とパン粉をまぶし、植物油で揚げます。トマトソースまたはホースラディッシュソースを添えてお召し上がりください。

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チーズコロッケ
卵1個分の白身をよく泡立て、細かいパン粉1カップ、すりおろしたチーズ1カップ、塩小さじ1/2、パプリカ塩小さじ1を加えて混ぜます。ボール型またはコロッケ型に成形し、溶きほぐした卵黄とパン粉をまぶしてフライパンに入れ、沸騰した植物油で黄金色になるまで揚げます。茶色の紙を敷き、オーブンで3分焼きます。その後、ペーパードイリーの上に山盛りに並べ、すりおろしたチーズをふりかけ、クレソンまたはパセリを添えます。

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スイスチーズコロッケ
バター大さじ3杯を溶かし、玉ねぎの汁を数滴、小麦粉¼カップ、牛乳½カップ、卵黄2個分、すりおろしたアメリカンチーズ1カップ、スイスチーズ½カップを加える。 [ 198 ]細かく切ります。ダブルボイラーでチーズが溶けるまで煮込み、塩とカイエンペッパーで味付けします。冷ましてからコロッケの形に整え、パン粉をまぶして油で揚げます。

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栗のコロッケ
イタリア産栗の皮をむき、湯がいて細かく刻み、2カップ分を作ります。栗がかぶるくらいの水か牛乳で45分、または栗が柔らかくなり牛乳が吸収されるまで茹でます。少し冷ましてから、パン粉1カップ、溶き卵1個、塩小さじ1/2を加えます。コロッケの形に整え、卵とパン粉をまぶして揚げます。マッシュルームソースを添えるか、付け合わせとしてお召し上がりください。

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卵コロッケ
卵10~12個を固ゆでし、刻んだパセリ大さじ1杯を加え、細かく刻んで強火で味付けします。牛乳かクリームで湿らせます。形を整え、卵とパン粉をまぶして熱した油で揚げます。ご飯やトマトの付け合わせとして、または単独で、あるいはカレーソース、ホースラディッシュソース、トマトソース、デビルドソースを添えてお召し上がりください。

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ファリーナ コロッケ
ダブルボイラーに牛乳2カップを入れ、温まったらファリーナ1カップと塩少々を加えます。とろみがつくまで加熱し、溶き卵1個を勢いよく混ぜ入れます。冷ましてからコロッケの形に成形し、パン粉をまぶして熱した油で揚げます。風味豊かなソースを添えるか、クリーム状に溶かしたゼリーを添えてお召し上がりください。[ 199 ]

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ホミニーコロッケ
鍋に茹でたホミニー1パイントを入れ、大さじ2杯のクリームまたは牛乳を加えて火にかけ、熱々になるまでかき混ぜます。火からおろし、塩で味を調えます。軽く溶きほぐした卵2個分の黄身を加え、コロッケ状に丸め、パン粉をまぶして、こんがりと焼き色がつくまで揚げます。風味豊かなソースを添えたり、スクランブルエッグや目玉焼きの付け合わせとしてお召し上がりください。

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レンズ豆のコロッケ
よく洗ったレンズ豆 1 カップを、沸騰した水または野菜スープ 3 カップに入れ、1 時間または柔らかくなるまでゆっくりと煮て濾し、水の中でつぶして冷まします。

鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個を加え、10分間煮込みます。これをレンズ豆に加え、牛乳によく浸したパン2枚、溶き卵2個、そしてコロッケの形にできる程度のとろみがつくまで細かいパン粉を加えます。塩コショウをたっぷり振り、コロッケの形に整え、卵とパン粉をまぶして揚げ器に入れ、油で揚げます。ホースラディッシュソースまたはオニオンソースを添えてお召し上がりください。

レンズ豆のコロッケにはケッパーソースが添えられることもあり、それぞれのコロッケに種を取ったレモンのスライスが添えられます。

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マカロニコロッケ
塩を入れた沸騰したお湯をやかんに用意し、マカロニを1/2カップ振り入れて30分ほど強火で茹でます。その後、湯切りをして小さく切ります。[ 200 ]マカロニが茹であがったら、温めた牛乳1カップにバター大さじ1と小麦粉大さじ2を加えてすり合わせ、とろみがついたら、よく溶いた卵黄2個、塩小さじ1、塩小さじ1、刻んだマカロニを加えてソースを作ります(卵を加えた後はソースに火を通さないでください)。冷ましてからピラミッド型のコロッケの形に整え、卵とパン粉をまぶして揚げます。トマトソースと少量の粉チーズを添えてお召し上がりください。

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イタリアンコロッケ
鍋にバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ 1 個を加え、5 分間ゆっくり加熱します。次に、ゆでたマカロニ 2 カップ、牛乳 1 カップを加え、蓋をして頻繁にかき混ぜながら、牛乳が吸収されるまで 30 分間ゆっくり煮込みます。水切りした缶詰のトマト 1 カップ、またはみじん切りにした新鮮なトマト 2~3 個、すりおろしたチーズ大さじ 1 杯、ミックスマスタード小さじ 1 杯、濃い味のケチャップ大さじ 1 杯、塩、こしょうを加えます。さらに 10 分間加熱し、パン粉 1/2 カップとみじん切りにしたパセリ小さじ 2 杯を加えます。ボウルに移し、少し冷めたら溶き卵 1 個を加え、混合物全体によくかき混ぜます。冷えて固まったら形を作り、卵を塗り、パン粉をまぶし、揚げ油で黄金色になるまで揚げます。そのままでも、トマトソースやカレーソースでもお召し上がりください。

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トマトコロッケ
煮込んだトマトの3/4カップを、火にかけた鍋に入れ、バター大さじ1杯、マッシュポテト1カップ、すりおろした [ 201 ]パン粉、塩コショウ少々を加えてよく混ぜ、軽く溶きほぐした卵1個を加えます。火からおろし、深皿に移し、冷めたらコロッケの形に整えます。卵とパン粉をまぶし、焼き色がつくまで揚げ、ソースをかけてお召し上がりください。

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乾燥エンドウ豆のコロッケ
乾燥エンドウ豆1カップを冷水またはスープに入れ、1時間半、または柔らかくなるまで煮込み、濾してつぶします。玉ねぎ1個を細かく刻み、大さじ1杯のバター、塩、こしょう、大さじ2杯の小麦粉、卵2個、パン粉を加えて10分間炒め、コロッケやフラットケーキの形にできる硬さになるまで炒めます。パン粉をまぶし、油でこんがりと焼き色がつくまで揚げます。玉ねぎ、トマト、またはミントソースを添えてお召し上がりください。

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ナッツとポテトのコロッケ
ミックスナッツ2カップを刻むかすりつぶし、マッシュポテト2カップ、すりおろした玉ねぎ小さじ1、塩小さじ1、ナツメグ少々、生卵黄2個分を加えて混ぜます。コロッケの形に整え、卵とパン粉をまぶし、熱した植物油で揚げます。

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サルシファイ入りナッツコロッケ
挽いたピーカンナッツとクルミをそれぞれ1/2カップずつ使い、茹でてつぶしたサルシファイ2カップ、塩小さじ1、すりおろした玉ねぎ大さじ1、みじん切りにしたパセリ大さじ1、パン粉大さじ2を混ぜ合わせ、コロッケの形に整え、卵とパン粉をまぶして揚げ焼きにします。トマトチャツネを添えてお召し上がりください。[ 202 ]

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ココナッツ入りナッツコロッケ
ナッツ類を1カップすりおろし、パン粉2カップ、すりおろしたココナッツ1/2カップ、ピーナッツバター大さじ4、セロリシード小さじ1/2、塩小さじ1、よく溶きほぐした卵1個を加えます。よく混ぜ、コロッケまたはボール状に丸め、卵とパン粉にくぐらせ、植物油で揚げます。

ナッツコロッケは、ナッツローフの材料を混ぜて卵とパン粉をまぶし、揚げて作ります。

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ポテトコロッケ
マッシュポテト 2 カップに、軽く溶いた卵 2 個、塩小さじ 1/2 杯、パプリカ少々、刻んだチャイブまたはパセリ大さじ 1 杯を加えて混ぜ、コロッケまたはロールパンの形にし、卵と細かいパン粉をまぶして揚げます。

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チーズ入りポテトコロッケ
冷たいマッシュポテト 2 カップに、溶きほぐした卵 1 個の黄身、すりおろしたチーズ大さじ 1 杯、牛乳またはクリーム大さじ 1 杯、玉ねぎエキス数滴を加え、コショウと塩で味付けし、形を整えて油で揚げます。

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風味豊かなポテトコロッケ
冷えたマッシュポテト2カップに、溶き卵1個、みじん切りにした玉ねぎ1個、みじん切りにしたパセリ大さじ1、ミックススイートハーブ大さじ1、生クリーム大さじ1を加えます。形を整え、卵と細かいパン粉をまぶし、油で揚げます。[ 203 ]

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マッシュポテトとエンドウ豆のコロッケ
冷えたマッシュポテト2カップに卵1個、コショウ、塩を加え、平らな小さな丸い形にします。それぞれの中央に缶詰のグリーンピース小さじ1杯を乗せ、その上にマッシュポテトのミックスを乗せてボール状にします。卵とパン粉にくぐらせ、油で揚げます。

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クレオールポテトコロッケ
マッシュポテト 2 カップに、溶き卵 1 個、コショウ、塩、みじん切りにしたピーマン (またはみじん切りにした赤ピーマン) 大さじ 2 杯を加え、バターで 10 分間炒めます。形を整え、卵とパン粉をまぶし、油で揚げます。

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サツマイモのコロッケ
マッシュしたサツマイモ 2 カップに溶き卵 1 個、コショウ、塩を加え、形を整えて卵とパン粉をまぶし、油で揚げます。

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甘いライスコロッケ
米1カップを温水に3時間浸し、水を切り、沸騰した牛乳1パイント(約450ml)と一緒にダブルボイラーに入れ、30分ほど煮ます。砂糖大さじ1、溶かしバター大さじ1、塩小さじ1/2を加え、さらに10分弱火で煮ます。少し冷ましてから、溶きほぐした卵3個をゆっくりと加え、とろみがつくまでかき混ぜます。レモン1個分のすりおろした皮を加え、皿に盛り付けて冷まします。冷めたら [ 204 ]かなり硬めに丸めて、または楕円形のコロッケ状にし、クラッカーのきめの細かい粉をまぶして油で揚げます。ソースをかけてそのまま、または付け合わせとしてお召し上がりください。

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カロライナ・クロケット
卵を10分茹で、殻をむき、黄身をザルかポテトライサーで押しつぶし、白身を細かく刻んで同量のご飯と混ぜ合わせます。溶かしバターを少量ふりかけ、コショウと塩で味付けし、ボール状に丸めて卵とパン粉をまぶし、油で揚げます。きつね色になったら湯切りし、風味豊かなホットソースを添えるか、カレーの付け合わせとしてお召し上がりください。

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プレーンライスコロッケ
冷えたご飯2カップ、塩小さじ1/2、溶かしバター大さじ1、小麦粉大さじ1、溶き卵1個を混ぜ合わせます。ボール状に丸め、小麦粉をまぶして揚げます。カリッとしたうちにお召し上がりください。

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ピンクライスコロッケ
上記と同じようにコロッケを作りますが、砂糖を省き、炒める前に米にパプリカ小さじ1/4とトマトケチャップ大さじ2を加えます。

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カレーライスコロッケ
鍋に卵大のバターを入れ、牛乳3/4カップを入れて沸騰させます。そこに、塩水で20分茹でた米1カップを加えます。カレー粉小さじ1杯と玉ねぎの汁を数滴加え、[ 205 ]塩を適量加えます。牛乳が沸騰したら火からおろし、溶き卵を加えて勢いよくかき混ぜます。冷ましてからコロッケの形に整え、熱した油で揚げます。アップルソースまたはオニオンソースを添えてお召し上がりください。

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イングリッシュセイボリーコロッケ
細粒パン粉1カップにつき、ミックススイートハーブ大さじ1杯とみじん切りにした玉ねぎ小さじ1杯を加え、軽く溶きほぐした卵1個と混ぜ合わせます。塩小さじ1/2、こしょう小さじ1/2、セロリソルト小さじ1/2で味を調え、ボール状に丸め、卵にくぐらせ、パン粉をまぶして、きつね色になるまで揚げます。ブラウンソースを添えるか、ナッツローフの付け合わせとしてお召し上がりください。

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ミックスベジタブルコロッケ
にんじん10本とカブ3個、じゃがいも5個を別々に茹でてみじん切りにし、つぶしてバター大さじ1と温めた牛乳大さじ3を加えます。フライパンにバター大さじ1を入れ、溶けたらみじん切りにした大きな玉ねぎ1個をゆっくりと10分間、または茶色くなり始めるまで炒めます。これをつぶした野菜に加え、みじん切りにしたパセリ大さじ1を加え、塩コショウで味を調えます。冷めたらコロッケまたは平らなケーキの形にし、卵にくぐらせ、細かいパン粉をまぶして揚げます。コロッケを作る場合は、熱した油で揚げます。ケーキを作る場合は、フライパンでパンケーキのように揚げ、片面をこんがりと焼き、反対側を焼きます。そのまま、または他の野菜の付け合わせとして、あるいはスペイン風ソースを添えてお召し上がりください。

コロッケの材料はどれも平らなケーキ状に成形でき、グリドルまたは浅いフライパンでバターをひいて茶色になるまで揚げることができます。[ 207 ]

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与えることのできない命を奪ってはならない。

すべてのものは平等に生きる権利を持っているからです。

ドライデン。[ 209 ]

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ティンバレスとパティ
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エッグティンバレス
牛乳1カップに小麦粉山盛り大さじ1杯をすり混ぜ、滑らかになるまで混ぜ合わせます。バター大さじ1杯(溶ける前に計量)、軽く溶いた卵黄4個分、塩小さじ1/2、こしょう塩小さじ1、セロリソルト同量を加えます。卵白をしっかりと泡立て、フォークで他の材料と混ぜ合わせます。バターを塗ったティンバル型に入れ、型の縁まで熱湯を入れた鍋に入れます。中火のオーブンで15~20分、またはよく固まるまで焼きます。熱した平らな皿に盛り、トマトソースまたはブレッドソースを添えてお召し上がりください。

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風味豊かなエッグティンバル
上記のレシピを作りますが、みじん切りにした玉ねぎ大さじ 1 杯とみじん切りにしたパセリ大さじ 1 杯を加えるか、みじん切りにしたエシャロット、チャイブ、または玉ねぎの葉で代用してください。

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卵とトマトのティンバレス
プレーンなエッグティンバルを作りましょう。牛乳の代わりに、缶詰のトマトジュース1カップを使用します。お好みで、刻んだパセリまたはチャイブ大さじ1杯を加えます。[ 210 ]

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エンドウ豆のティンバレス
茹でたエンドウ豆1.5カップをライサーで潰すか、すり潰します。冷めたら、軽く溶きほぐした卵2個、刻んだミント小さじ1、すりおろした玉ねぎ(または刻んだチャイブ)小さじ1、溶かしバター大さじ2、塩小さじ1/2、塩小さじ1杯のこしょうを加えます。ティンバル型に流し込み、熱湯を入れた鍋に入れ、中火のオーブンで15~20分、またはよく固まるまで焼きます。取り出してソースを添えてお召し上がりください。

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コーンティンバレス
缶詰のコーン1カップに、軽く溶きほぐした卵4個、塩小さじ1/2、パプリカ少々、玉ねぎの汁小さじ1/2、砂糖小さじ1/2、牛乳1 1/4カップを加えます。バターを塗ったティンバル型、または大きめの型に流し込み、熱湯に浸します。オーブンで約20分、または固まるまで焼きます。ひっくり返し、焼いたトマトのスライスを添えます。

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ポテトとチーズのティンバル
大きめのジャガイモを6~7個用意し、茹でて潰し、バター大さじ4杯と卵2個を加えて混ぜ合わせます。すりおろしたチーズ1カップ、塩小さじ1杯、パプリカ少々を加え、小さな型かカップに押し込み、上記の指示に従って約20分間加熱します。型から外し、溶かしバターにすりおろしたチーズ、パプリカ、刻んだパセリを少々加えたソースを添えてお召し上がりください。[ 211 ]

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ポテトティンバレス
卵3個(黄身と白身を一緒に)を溶きほぐし、生クリーム1/4カップ、マッシュポテト2カップ、すりおろした玉ねぎ小さじ1、コショウ少々、塩小さじ1、ナツメグ少々を加えて滑らかになるまで混ぜ、底にバターを塗った紙を敷いたティンバル型に押し込みます。沸騰したお湯を入れた浅い鍋に並べ、オーブンで約20分焼きます。薄いナイフで側面をほぐし、温めた平らな皿に慎重にひっくり返します。エンドウ豆やマセドワーヌ風野菜を添えるか、そのまま飾りとしてお使いください。

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ライスティンバル
ご飯1カップに、みじん切りにしたゆで卵1個、トマトケチャップ大さじ1、塩小さじ1/2、塩小さじ1、溶かしバター大さじ2、よく溶いた卵2個を加えます。バターをたっぷり塗ったティンバル型にこの材料を入れ、ぬるま湯を入れた鍋に入れ、弱火で20分、またはよく固まるまで焼きます。

ティンバルケース、ペストリーケース、ラメキン、またはパティに次のいずれかのレシピを詰めて、ランチまたはディナーで別のコースとして提供することができます。

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アーティチョークパティ
指示に従ってエルサレムアーティチョークを茹で、1.5cm角に切り、濃い味付けのホワイトソースをかけ、パテやケースに詰めて使います。[ 212 ]

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アスパラガスパティ
白または緑の缶詰アスパラガスの柔らかい端の部分のみを使用し、ホワイトソースで加熱してケースやパテに詰めます。

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セロリパテ
セロリはクリームセロリと同じ調理法で、茎の部分だけを2.5cmほどの長さに切ります。温めたパイカップやパテに混ぜ合わせたものを詰めます。

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ケース入りの栗
イタリア産栗2カップの皮をむき、熱湯をかけて皮が簡単に剥けるまで湯通しします。次に、栗を4等分に切り、熱湯に入れて30分、または柔らかくなるまで茹でます。茹でている間に、鍋にバター大さじ1杯を入れ、濃い茶色になるまでゆっくりと炒めます。小麦粉大さじ1杯を加え、滑らかになるまで混ぜます。牛乳1.5カップとキャラメルソースまたはスープ用ブラウニング小さじ1杯を加え、塩コショウで味を調えます。栗をソースに入れ、パイ生地に詰めます。

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新鮮なグリーンピースのパテ
新鮮なグリーンピースを記載通りに茹でるか、缶詰のグリーンピースをホワイトソースで温め直し、パテやティンバルケースの中身としてお使いください。お好みで、細かく刻んだミントを少量ソースに加えても美味しくいただけます。[ 213 ]

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エッグパティ
必要な量の卵を固ゆでし、冷めたら細かく刻み、パセリソースで再加熱し、加熱したケースやパテに詰めるか、またはニューバーグ卵を詰め物として使用します。

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マセドワンパティ
輸入野菜マセドワーヌを使用し、ホワイトソースとともにダブルボイラーで加熱し、加熱ケースにパティフィリングとして使用します。

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マッシュルームパティ
新鮮なマッシュルームを4等分に切り、溶かしバターで5分間炒め、ホワイトソースまたはブラウンソースをかけ、温めたケースまたはパティに盛り付けてお召し上がりください。マッシュルームのレシピはどれもパティに詰めることができますが、特にニューバーグマッシュルームは最適です。

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缶詰のマッシュルームパティ
マッシュルームボタンを熱いバターに5分間炒め、ホワイトソースをかけ、温めたパテに詰めます。[ 215 ]

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「屠殺場から急いで立ち去ろうとしていたとき、男が長く輝くナイフを持って三匹の美しい子羊を連れてきた。私は恐怖と憤りに満たされ、こう言った。『どうしてあんな小さな、罪のない子羊を殺すなんて、そんなに残酷なことができるんですか?』男は言った。『奥様、まさか生きたまま食べないでしょうね?』」[ 217 ]

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ソース
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着色用キャラメル
小さな鍋に粉砂糖を 1/2 カップ入れ、ごく弱火で溶かし、木のスプーンでかき混ぜて濃い茶色になるまでかき混ぜ続けます。2 カップの温水を加え、 15 ~ 20 分間煮込み、浮いた脂肪を取り除き、濾して瓶詰めし、スープやソースに濃い色をつけるために使用します。

良質な濃い色の既製の野菜エキスは購入することができ、自家製の製品よりも優れていると思われる数少ないものの 1 つです。

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酢を減らす
これは、様々なソース、野菜、スープなどに風味を加えるものです。酢、少量の塩、コショウを鍋に入れ、沸騰させて煮詰めます。酢大さじ2杯、塩小さじ1杯、コショウひとつまみを小さじ1杯になるまで煮詰めます。使用前に濾してください。

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ソース・ベルネーズ
大さじ1杯の濃縮酢に、大さじ2杯の冷水を加えた卵4個分の黄身をゆっくりと混ぜ、よく混ぜたら小さな鍋に入れます。[ 218 ]弱火で加熱し、少量のバターを加え、溶けたらさらにバターを加えて混ぜます。大さじ1.5杯分になるまで繰り返します。ソースが滑らかでクリーミーになったら、塩コショウまたはパプリカで味を調え、タラゴンビネガー小さじ1/2杯、または刻んだタラゴンの葉小さじ1杯を加えます。ソースは熱すぎると固まってしまうため、温めすぎないようにしてください。冷やしてお召し上がりください。

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ブラックバターソース
鍋にバター大さじ3~4杯、塩小さじ1杯、コショウ少々を入れ、茶色になるまでゆっくり炒めます。その後、煮詰めた酢またはレモン汁小さじ1杯を加え、温かいうちに召し上がってください。

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ブレッドソース
厚さ2.5cmに切った大きめのパン1枚を、クローブ4個を刺した玉ねぎ1個と一緒に牛乳2カップに入れ、コショウ、塩、バター小さじ1を加えます。パンが柔らかくなるまで弱火で煮込み、玉ねぎとクローブを取り出し、フォークでよく混ぜて盛り付けます。きつね色になるまで細かく砕いたパン粉をソースと一緒に添えてください。パン粉はソースによく合います。

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ブラウンソース
鍋にバター大さじ1杯を入れ、きつね色になったら火からおろし、小麦粉大さじ1杯を加えて滑らかになるまで混ぜます。次に、野菜ストックまたは牛乳1カップを少しずつ加え、全体が滑らかになりとろみがついたら、ブラウンカラー小さじ1/2杯、塩コショウを加えます。使用するストックにローリエ1枚と玉ねぎ1/2個を加えて10分間弱火で煮込むと、風味が良くなります。[ 219 ]

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ブラウンソースのバリエーション
みじん切りにしたマッシュルーム、みじん切りにした揚げピーマン、小さなパールオニオン、ゆで卵などを加えて、ブラウンソースに変化をつけます。

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ボルドレーズソース
ブラウンソース1カップに、すりおろした玉ねぎ小さじ1、みじん切りにした生マッシュルーム3個(または刻んだ缶詰マッシュルーム大さじ1)、みじん切りにしたパセリ小さじ2、塩コショウを加えます。弱火で5分ほどかき混ぜてからお召し上がりください。

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ドローイングバター
バター大さじ 4 杯を溶かし、小麦粉大さじ 2 杯を加えて滑らかになるまでかき混ぜます。次に、沸騰した野菜ストック 2 カップ、塩小さじ 1 杯、カイエンペッパーまたはパプリカ少々をゆっくりと加えます。

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カレーソース
鍋にバター大さじ 1 杯を入れ、溶けたらみじん切りにした大きな玉ねぎ 1 個を加えてかき混ぜ、6 ~ 7 分間弱火で煮ます。次に、みじん切りにした酸っぱいリンゴ 1 個 (または、手に入る場合はタマリンド チャツネ大さじ 1 杯) を加え、3 ~ 4 分間かき混ぜます。次に、濃い野菜ストックか水 1/2 カップを加えて弱火で 5 分間煮込みます。さらに野菜ストック 1/2 カップと、デザート スプーン 1 杯のカレー粉を加えて滑らかになるまでかき混ぜた牛乳 1 カップを注ぎます。一度沸騰させたら、ふるいにかけてよく絞り、汁を取り、火に戻します。とろみをつけるために、小麦粉大さじ 1 杯を使用します。[ 220 ]液体1カップにつきバター大さじ1杯を加えて混ぜます。濃厚なクリーム状になるまでかき混ぜ、盛り付ける前に少量の塩を加えます。ここで指定した量のカレー粉で、マイルドなカレーソースが出来上がります。

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ケッパーソース
フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたら小麦粉大さじ1杯を加えて滑らかになるまで混ぜます。次に、野菜ブイヨン2カップを少しずつ加え、沸騰させて滑らかになるまで混ぜます。ケッパー山盛り大さじ2杯と、刻んだゆで卵1個を加え、塩コショウで味を調えます。お好みで、最後に生クリーム大さじ1杯を加えてソースにコクを加えてください。

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チーズソース
味付けの濃いホワイトソース 1 カップを作り、それにすりおろしたチーズ 1 カップ弱を加えます。ダブルボイラーでチーズが溶けるまでかき混ぜ、黄色の着色料エキスを数滴、塩、パプリカを加えます。

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フレンチキュウリソース
キュウリ 1 本をすりおろしてよく水を切り、塩小さじ 1/2 杯、カイエンペッパー少々、酢大さじ 1 杯を加えます。

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オランダ産バター
溶かしたバター大さじ1杯につきレモン汁小さじ1杯を加え、塩で味付けします。[ 221 ]

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デビルドソース
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ1杯を加え、5分間じっくりと炒めます。次に、みじん切りにしたパセリ大さじ1杯、酢大さじ2杯、クルミまたはマッシュルームのケチャップ大さじ1杯、イングリッシュマスタード大さじ1杯、塩小さじ1/2杯、黒コショウ小さじ1杯、カイエンペッパー少々を加えます。小麦粉大さじ1杯でとろみをつけ、滑らかになったらクリーム状になるまで野菜ストックを加えます。ソースはそのままでも、濾して濾しても美味しくいただけます。

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卵ソース
よく作ったホワイトソース 1 カップに、細かく刻んだゆで卵 2 個、刻んだパセリ 1 ティースプーン、少量の塩とパプリカを加えます。

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フレンチソース
小麦粉大さじ 1 杯とバター大さじ 1 杯をすり合わせて鍋に入れ、溶けたら熱湯または野菜ストック 1 カップをゆっくりと加え、絶えずかき混ぜながら沸騰させます。その後火から下ろし、少し冷めたらレモン 1 個分の果汁、タラゴンまたはチャービル酢大さじ 2 杯、軽く溶いた卵黄 2 個、塩コショウを加えます。

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ジャーマンソース
ブラウンソースを作り、半分に切ったマッシュルームの缶詰の半分と濃縮酢大さじ1を加え、塩コショウで味を調えます。[ 222 ]

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ドイツ風卵ソース
溶きほぐした卵黄3個分、小麦粉小さじ1、生クリームまたは牛乳1カップ弱、バター大さじ1、レモン汁大さじ1を混ぜ合わせ、塩コショウで味を調え、強火でとろみがつくまで勢いよく混ぜます。ソースが沸騰しないように注意してください。盛り付ける前に、細かく刻んだゆで卵1個と、みじん切りにしたパセリ大さじ1を加えます。

[コンテンツ]
ハーブソース
良質なホワイトソースを作り、ソース2カップごとに、以下の手順で用意したハーブを加えます。葉をひとつかみ取り、よく洗った後、少量の塩を入れた沸騰したお湯を入れた鍋に入れます。5分間茹で、水を切り、布巾で拭いてから、すり鉢に大さじ1杯のバターを入れ、滑らかになるまでよく混ぜます。これをホワイトソースに加えます。このようにして、パセリ、ミント、タラゴン、チャービルなどのハーブソースを作ることができます。

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オランデーズソース
大さじ1杯の煮詰めた酢に、卵4個分の黄身と大さじ2杯の冷水を加え、よく混ぜ合わせます。固まらないように弱火で加熱し、バター大さじ2杯を加え、少しずつ混ぜながら使い切ります。塩コショウで味を調え、温めても冷やしてもお召し上がりいただけます。

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ホースラディッシュソース
バター大さじ1杯と小麦粉大さじ1杯をすり合わせ、鍋に入れます。かき混ぜて溶けて滑らかになったら、温めた牛乳1.5カップをゆっくりと加えます。[ 223 ]じっくり煮込んでとろみをつけ、すりおろしたわさび大さじ3杯を入れてよくかき混ぜ、塩で味を調え、バター小さじ1杯を加えてコロッケなどに盛り付けます。

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メートル・ドテル・ソース
これはオランデーズソースを使用し、レモン汁大さじ1杯と細かく刻んだパセリ大さじ1杯を加えて作ります。

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ミントソース
ミントを洗い、葉を 1/2 カップ取り、細かく刻んで乳鉢でよく混ぜ、熱い酢 1 カップをかけ、砂糖小さじ 1 杯を加えて、数分間置いてから使用します。

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マッシュルームソース
ブラウンソースを作り、マッシュルーム缶詰の半分を半分に切って加えます。温めてからお召し上がりください。

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ナッツソース
ピニョーラ(松の実)、アーモンド、栗など、どんな種類のナッツでも使えます。殻をむき、沸騰したお湯で湯がいて中の皮を取り除き、細かく刻みます。フライパンにバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ1杯を加えて5分間炒めます。次に、みじん切りにしたナッツを1/2カップ加え、茶色になるまでかき混ぜます。フライパンの中身をすり鉢にすくい入れ、よくすりつぶします。小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯を鍋に入れ、混ぜ合わせます。[ 224 ]溶けて滑らかになったら、牛乳1/2カップとナッツの半分を加え、2~3分ほどゆっくり煮込みます。さらに牛乳1/2カップと残りのナッツを加えます。塩をしっかり振り、少量のコショウを加え、ごく弱火で煮込みます。ソースが適度な濃度になったら、生クリーム大さじ1杯を加えて混ぜます。

ソースは茶色の着色料を使ったり、バターでとろみをつけた小麦粉を茶色くしたりして、色を濃くすることができます。

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オニオンソース
玉ねぎ4個を細かく刻み、バター大さじ3で炒めます。小麦粉大さじ1を加え、こちらも炒めます。スープ、水、または牛乳1カップで薄めます。コショウと塩を加え、卵黄1個分を加えて溶きほぐしてから盛り付けます。濾しても濾さずに盛り付けても美味しくいただけます。

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パセリバター
鍋にバターを入れ、溶けたら細かく刻んだパセリと塩を加えます。大さじ1杯のバターにつき小さじ1杯のパセリを加えます。ゆでたジャガイモやアスパラガスなどに添えてお召し上がりください。

[コンテンツ]
パセリソース
ホワイトソース 2 カップに溶き卵 1 個と細かく刻んだパセリ大さじ 2 杯を入れて混ぜます。

[コンテンツ]
プロヴァンス風ソース
スペイン風ソース1カップに、白ワイン大さじ1、トマトソース大さじ2、刻んだチャイブ大さじ1を加え、10分ほどじっくりと煮込んでからお召し上がりください。お召し上がりの前に塩コショウで味を調えてください。[ 225 ]

[コンテンツ]
ピリ辛ソース
鍋に酢大さじ 4 杯とみじん切りにしたエシャロットまたはタマネギ大さじ 1 杯を入れ、大さじ 1 杯だけになるまでゆっくり煮込みます。これにスペイン風ソース 1 カップを加え、沸騰したら、みじん切りにした酸っぱいピクルス小さじ 2 杯、みじん切りにしたパセリ小さじ 1 杯、塩コショウ少々を加えます。コロッケや野菜を添えて提供します。

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ソースラビゴット
ラビゴテとは、このソースに使われるハーブと香料の混合物の名称です。チャイブ、クレソン、バーネット、チャービルを同量ずつ混ぜ合わせます。ミックスハーブ大さじ2杯をタラゴンビネガーで熱湯で茹で、水気を切って細かく刻み、プレーンマヨネーズ1カップに加えます。

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ソース・ロバート
スペイン風ソース1カップに、白ワイン大さじ2、玉ねぎの汁小さじ1、マスタード小さじ1.5杯とタラゴンビネガー小さじ2杯を加えて作ります。味付けをし、ダブルボイラーで温めながら、10分ほどじっくりと煮込みます。

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スペイン風ソース
これは多くのソースのベースとして使われる濃厚なソースで、暇な時に作って数日中にいつでも使えます。野菜を煮込んだスープなら何でも使えますが、一番美味しいのは[ 226 ]作り方は以下のとおりです。小豆またはレンズ豆を4~5カップ洗い、2クォート(約2.7リットル)の水に10時間以上浸した後、同じ水とともに鍋に入れ、玉ねぎ3個(半分に切る)、パセリ3本、ニンジン1カップ(4等分)、カブ1/2カップ(さいの目に切る)、塩大さじ1、セロリ2本(短く切る)、タイム小さじ1、ベイリーフ2枚、クローブ6個、ピーマン6個(ホール)、オールスパイス小さじ1を入れた小袋を加えます。1分間強火で沸騰させ、その後コンロにかけ、2時間ほど弱火で煮込みます。煮汁を細かいふるいにかけて濾し、野菜はシチュー、パイ、カレーなどに使います。スペイン風ソースの仕上げに、鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたら小麦粉大さじ2杯を加えて絶えずかき混ぜながら茶色になるまで炒めます。その後、ストックを少しずつ加え、約2カップ使用し、ソースが濃厚なクリーム状になるまで煮詰めます。茶色の着色料小さじ1杯で色を濃くし、シェリー酒大さじ1杯、コショウ、塩を加えます。

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ほうれん草ソース
茹でたてのほうれん草、または缶詰のほうれん草1カップ(汁を絞ったもの)をボウルかすり鉢に入れ、みじん切りにするかつぶしてペースト状にします。鍋にバター大さじ1杯を溶かし、みじん切りにした小さめの玉ねぎ1個を加え、5分間じっくりと煮込みます。その後、ほうれん草を加えてさらに10分間煮込みます。牛乳1カップをダブルボイラーに入れ、ベイリーフ1枚、セロリ1本(またはセロリシード)を加えます。沸騰したら、小麦粉大さじ1杯とバター大さじ1杯を混ぜ合わせたものを加えます。塩コショウで味を調え、とろみがついたらほうれん草を加えて混ぜ、すりおろしたナツメグを振りかけ、10分間一緒に煮込みます。ザルで濾してから盛り付けます。[ 227 ]

[コンテンツ]
タルタルソース
プレーンなマヨネーズソースを作り(サラダを参照)、各カップに、きゅうり小さじ1杯とケッパー小さじ2杯をそれぞれ細かく刻んで加えます。食べる前に、ソースにカイエンペッパーを少し振りかけます。

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トマトソース
新鮮なトマトを6個用意し、洗ってから皮ごとスライスします。鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ大さじ2杯を加え、5分間じっくりと煮込みます。その後、トマト、ローリエ2枚、ニンニク1かけ、砂糖小さじ1杯、コショウ少々、塩少々を加え、15分間弱火で煮込みます。濾し器で濾し、再び火にかけて、適度な濃度になるまで煮詰めます。

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トマトソースとその他の野菜
トマトソースを作るときは、熱いバターで10分間炒めておいたセロリ、ピーマン、またはマッシュルームを刻んで加え、ソースを濾した後に加えます。

[コンテンツ]
ナッツ入りトマトソース
皮をむいたナッツ大さじ2杯をみじん切りにし、溶かしたバター大さじ1杯で10分間炒め、濾したトマトソースに加えます。[ 228 ]

[コンテンツ]
卵入りトマトソース
濾したトマトソース 1 カップごとに、細かく刻んだゆで卵 2 個を加えます。

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ビネグレットソース
フレンチドレッシング1カップごとに、みじん切りにした玉ねぎ大さじ1杯と、すりおろしたパセリ大さじ1杯を加えます。

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ホワイトソース
鍋にバター大さじ2杯を入れ、溶けたらすぐに小麦粉大さじ3杯を大さじ1杯ずつ加え、ゆっくりと混ぜます。次に、温めた野菜ストックまたは牛乳2カップをゆっくりと加え、絶えずかき混ぜます。次に、塩小さじ2/3とコショウ小さじ1を加え、絶えずかき混ぜながら5分間ゆっくりと加熱します。バター大さじ1杯を加え、さらに1分間かき混ぜます。小麦粉の種類によってとろみがつきやすいので、ソースが 濃すぎる場合は、少量のクリームまたは牛乳で薄めてください。

ホワイトソースは、タマネギジュース、マッシュルームケチャップ、刻んだチャイブなどを使用することで、さまざまな方法で変化させることができます。

ホワイトソースはダブルボイラーで作ることができます。上の容器に牛乳を入れ、沸騰したら少量の冷たい牛乳で溶いた小麦粉、そしてバターなどを加え、とろみがつくまで10分ほど煮込みます。[ 229 ]

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生きている間に毎日見たり、親しんだりしていた生き物を、口にするのを決して許さない人がいる。こうした行動には、罪悪感のようなものが現れているように私には思える。彼らは、罪の原因を自分からできるだけ遠ざけることで、罪の責任追及(それがどこかにくっついていることはわかっている)から逃れようとしているかのようだ。

ダグラス・ジェロルドのエッセイより。[ 231 ]

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ゆで卵
卵は沸騰したお湯に入れて3分から3分半茹でるととても美味しくなりますが、料理人の中には「ゆで卵」は茹でるのではなく、沸騰したお湯を張った大きな鍋に入れて火からおろすのがよいと勧める人もいます。指示には、卵を水に入れた後、鍋に蓋をしっかり閉めてコンロの後ろに置いておき、半熟にしたい場合は10分、しっかり固めにしたい場合は20分後に取り出す、とあります。この方法で固ゆで卵を作ると、通常の方法で10分茹でるよりも断然美味しくなります。

[コンテンツ]
卵焼き
小さめのフライパンにバターを少量入れ、溶けたら卵を小皿に割り入れ、熱いバターの中にそっと滑り込ませます。白身が完全に固まるまで焼きます。必要な分だけ、別々に同じように焼きます。卵を入れる際にフライパンにしっかりと蓋をすると、焼き上がりの黄身はポーチドエッグのようにピンク色になります。盛り付ける前にコショウと塩で味を調えます。フライパンで温めたウスターソースかクルミケチャップを少量、目玉焼きにかけても美味しくいただけます。[ 232 ]

[コンテンツ]
ポーチドエッグ
深めのフライパンに熱湯を 2/3 まで入れ、酢小さじ 1 杯と塩小さじ 1 杯を加えてかき混ぜます。お湯が沸騰したら、卵を 1 個ずつ慎重に割り入れます。フライパンを強火から下ろし、蓋をして、白身が固まるまで茹でます。お湯が浅いと卵は広がって平らになります。その場合は、スプーンで沸騰したお湯を黄身にひたひたにくぐらせてピンク色にします。お湯が深いと、卵は平らというより丸みを帯びます。茹で上がったら、穴あきザルを使って卵を水から慎重に引き上げ、お湯を完全に切り、熱々のトーストにのせて提供します。

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グレービーソースのポーチドエッグ
ポーチドエッグにソース・ベルネーズまたはピリ辛のソースを添えてお召し上がりください。

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ポーチドエッグインディア
必要な数の卵をポーチし、トーストにのせて薄いカレーソースをかけます。

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エッグス・ウォルドルフ
トーストにポーチドエッグを並べ、それぞれの黄身の上に、茹でたてのマッシュルームをかぶせます。トーストの周りには、四つ切りにしたマッシュルームが入ったブラウンソースをかけます。[ 233 ]

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スクランブルエッグ
6個以上をボウルに割り入れ、フォークで軽くほぐし、大さじ1杯のバターを溶かしたフライパンに入れます。弱火で絶えずかき混ぜながら、よく固まるまで炒めます。その間に胡椒と塩で味を調え、さらに大さじ1/2杯のバターを細かく刻んで加えます。小さな三角形に切ったトーストを添えてお召し上がりください。お好みで、盛り付ける前に大さじ1杯のクリームを加えても構いません。牛乳でスクランブルエッグを作る場合は、卵4個につき牛乳1/2カップを使用し、上記の手順で調理してください。

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チーズ入りスクランブルエッグ
プレーンなスクランブルエッグを作り、ほぼ固まったら、卵6個につきすりおろしたチーズ大さじ2杯と、刻んだパセリ大さじ1杯を加えます。トーストにのせてお召し上がりください。

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マッシュルーム、グリーンピースなどを加えたスクランブルエッグ
卵6個をスクランブルエッグにし、火からおろす2~3分前に、縦にスライスしたマッシュルームの缶詰と、細かく刻んだパセリ大さじ1杯を加えます。同様に、グリーンピース、トマト、アスパラガスの穂先、刻んだピーマンなども使えます。

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風味豊かなスクランブルエッグ
プレーンなスクランブルエッグを作り、火からおろす直前に、みじん切りにしたチャイブ大さじ 2 杯 (または若いタマネギの緑の茎やエシャロットでも可) と、細かく刻んだパセリ大さじ 1/2 杯を加え、熱いトーストにのせてお召し上がりください。[ 234 ]

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スクランブルエッグインディア
プレーンなスクランブルエッグを作り、食べる直前に、カレー粉小さじ1と玉ねぎの汁小さじ1/2を混ぜた生クリーム大さじ1を加えて混ぜます。熱々のトーストに添えてお召し上がりください。

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スペイン産卵
卵6個分には、大トマト1個と小玉ねぎ1個を使用します。玉ねぎを細かく刻み、大さじ1杯のバターで5分炒めます。次に、刻んだトマトを加え、さらに1分火にかけて炒めます。卵を流し込み、塩小さじ1杯と塩小さじ1杯のこしょうを加えてスクランブルエッグを作ります。小さな三角形に切ったトーストを添えます。

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シャーリングエッグ
グラタン皿にバターを塗り、お好みで卵を1~2個割り入れます。塩コショウで味付けし、細かく刻んだパセリを散らします。オーブンで5分、または卵が固まるまで焼きます。各グラタン皿を小皿に盛り、紙製のドイリーを敷きます。

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トマト入りの巻き卵
人数分の浅いグラタン皿を用意し、各皿にバターを塗ってから卵を1個割り入れます。黄身を割らないように注意します。ミニトマトを半分に切り、半分を切った面を上にして各皿に並べます。全体にコショウと塩を振り、オーブンで10分以内で焼きます。[ 235 ]

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焼き卵
グリドルを熱し、バターを薄く塗り、卵を3~4個割り入れます。黄身を崩しながら、卵黄を崩します。片面が少し焼き色がついたら、ケーキターナーでひっくり返し、反対側も焼きます。

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プレーンオムレツ
ボウルに卵3~4個を入れ、フォークで10~12回勢いよくかき混ぜます。フライパンに大さじ1杯弱のバターを入れ、溶けたらすぐに卵を加えて弱火でかき混ぜ、固まるまで加熱します。塩コショウで味付けし、フライパンから滑り落ちるオムレツを裏返し、温かい皿に盛り付けます。大きなオムレツ1個ではなく、小さなオムレツをいくつか作り、白いペーパードイリーにのせてパセリを添えてお召し上がりください。オムレツをかき混ぜるコツは、美味しいオムレツを作る秘訣です。卵液はフライパンに1.3cm以上の深さまで入れないようにしてください。

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オムレツスフレ
新鮮な卵を4~6個用意し、黄身と白身を分けて、それぞれをできるだけ白っぽくなるまで泡立てます。深めのフライパンにバターをひき、黄身と白身をフォークで軽く混ぜ合わせます。熱したフライパンに入れ、フォークで表面を滑らかにならします。表面にコショウと塩を振り、弱火でオムレツの底がほんのり焼き色がつくまでかき混ぜます。ひっくり返し、温かい皿に盛り付けます。[ 236 ]

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ハーブオムレツ
普通のオムレツと同じように作ります。卵 4 個につき、粉末タイム、スイートマジョラム、セージ、みじん切りにしたタマネギの葉またはチャイブ、パセリを小さじ 1 杯ずつ加えて混ぜます。

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チーズオムレツ
卵 6 個で作るオムレツ スフレの場合は、卵黄に 1/4 カップのすりおろしたチーズを加え、溶きほぐした卵白に 1/4 カップを加えて混ぜ合わせます。

チーズ入りプレーンオムレツを作る場合は、卵4個をオムレツパンに入れた後、1/4カップのチーズを加えます。おろしチーズを振りかけ、クレソンまたはパセリを添えてお召し上がりください。

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ラムオムレツ
オムレツのスフレを作り、温かい皿に盛り付け、温めたラム酒を1/2カップ注ぎ、マッチで火をつけます。小さじ1杯にラム酒を入れ、火のついたマッチをスプーンの先で挟めば、簡単に燃え上がります。スプーンに残ったラム酒で、皿の上のラム酒に簡単に火がつきます。

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焼きオムレツスフレ
卵6個分の白身と3個分の黄身をしっかりと泡立てます。フォークを使って白身と黄身を混ぜ合わせ、レモン半分の果汁と粉砂糖大さじ3を加えて混ぜます。バターを塗った耐熱皿に山盛りにし、予熱したオーブンで約15分焼きます。[ 237 ]

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カルメル会の卵
茹でたほうれん草1カップを細かく刻み、バター小さじ1杯とナツメグのすりおろし塩小さじ1杯を加えて温かい場所に置いておきます。卵を6~8個固ゆでし、それぞれを縦に2つに切ります。黄身を取り出し、ほうれん草に加えてよくつぶし、黄身がほうれん草と完全に混ざるまで全体をよく混ぜます。塩コショウで味付けし、卵白の半分にほうれん草をきれいに詰めます。牛乳2カップ、バター小さじ1杯、小麦粉大さじ2杯、パプリカ少々、すりおろしたチーズ1カップでソースを作ります。とろみがついたら、各グラタン皿に半分に切った卵を 2 ~ 3 個並べ、その周りにソースを少しかけ、オーブンで 5 分間焼いて十分に熱くするか、大きな皿に小さな三角形のトーストを添えて提供します。

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マッシュポテト入り卵
細長いグラタン皿に、冷えたマッシュポテトをスプーンで溝をつけて並べ、表面に3~4つのくぼみを作ります。それぞれのくぼみに卵を割り入れ、オーブンで卵が固まるまで焼きます。トマトソースまたはホワイトソースを添えてもよいでしょう。

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エッグス・ニューバーグ
卵6個を固ゆでし、冷水にしばらく浸してから殻をむき、冷めたら半分に切ります。切り口が崩れないように、生クリーム(または牛乳)1カップと塩大さじ3杯でソースを作ります。[ 238 ]バターを熱々にし、シェリー酒大さじ2、ブランデー大さじ2(ブランデーは省略可)、こしょう小さじ1、塩小さじ1を加える。3分間加熱し、溶きほぐした卵黄4個分を勢いよく加え、とろみがつくまでかき混ぜ、パプリカを少々加え、固ゆで卵を乗せたトーストの上に盛り付ける。

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エッグス・リヨネーズ
フライパンにバター大さじ2杯を入れ、溶けたらみじん切りにした玉ねぎ1個を加え、8~10分ほど弱火で煮込みます。次に小麦粉大さじ1杯を加え、滑らかになるまでよく混ぜます。これに牛乳1/2カップ、塩小さじ1/2、こしょう小さじ1/2を加え、3~4分だけ加熱します。深めのグラタン皿に流し込み、卵6個を割り入れます。パン粉1/2カップを振りかけ、中火のオーブンで約5分、または卵が固まるまで焼きます。同じ皿に盛り付けます。

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デビルドエッグ
必要な数の卵を固ゆでし、半分に切って、トーストにデビルドソースをかけて盛り付けます。

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日本の卵
必要な数の卵を固ゆでし、半分に切って黄身を取り除き、少量のバター(卵6個につき大さじ1杯)、コショウ、塩、少量のトマトチャツネまたはハーヴェイソースと混ぜ合わせます。半分に切った白身にこれを注ぎ、卵をご飯2カップに添えます。1カップのホワイトソースまたはパセリソースをかけてお召し上がりください。[ 239 ]

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ゴールデンロッドエッグス
卵 5 個を固ゆでし、殻をむいて黄身と白身を分けます。白身は細かく刻んで黄身はふるいにかけて、白身と黄身を分けておきます。ダブルボイラーに牛乳 1 カップを入れ、沸騰したら、すり合わせたバター 1 杯とコーンスターチ 1 杯を加えます。ソースにとろみがついたら、たっぷりとコショウと塩で味付けし、刻んだ卵白をその中に混ぜ込みます。ソースが煮えている間に、トースト 5 枚を準備し、温かい皿に置きます。トースト 1 枚ごとにホワイトソースを塗り、その上に黄身を塗り、さらにホワイトソースと残りの黄身を振りかけ、塩とコショウで味付けして、オーブンで 1、2 分焼いてから提供します。

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泡立てた卵
必要な数の卵の黄身と白身を分け、黄身は殻ごと、または別の容器に入れます。白身をしっかりと泡立て、バターをたっぷり塗ったカスタードカップに卵白を半分ほど入れます。中央に穴を開け、塩、コショウ、レモン汁を振りかけ、各カップに卵黄を1つずつ落とします。蓋をして浅めの鍋に湯を沸かし、卵が固まったらバターを塗ったトーストの上にひっくり返します。パセリバターを添えます。

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目玉焼き
卵6個を固ゆでし、丁寧に半分に切り、黄身を取り除きます。黄身をふるいにかけて、よくこすり合わせます。[ 240 ]溶かしバター大さじ1、塩、コショウ、生クリームまたは牛乳1/4カップを混ぜ合わせ、ペースト状にする。少量ずつ加え、半分に切った卵白を詰める際に適度な濃度になるまで混ぜる。卵黄を取り除いた部分にも丁寧に詰め、半熟の卵を溶き卵とパン粉に絡め、熱々の油で揚げる。ホワイトソース2カップを添え、さいの目に切ったビーツのピクルス大さじ2杯を加えると、ソースがピンク色になる。

ゆで卵をそのまま使用して目玉焼きにし、同じソースか、ケッパー大さじ 1 杯を加えたホワイト ソースを添えるだけでも、ある程度同じ効果が得られます。

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スイスエッグトースト
浅い皿または平らな皿にバター大さじ1を溶かし、その上にすりおろしたチーズ大さじ1.5杯を振りかけます。卵3個をバターに割り入れ、黄身を崩さないように注意しながら混ぜ込みます。塩コショウを振りかけ、すりおろしたチーズ大さじ1.5杯と細かく刻んだパセリ小さじ2杯を混ぜたものを振りかけます。オーブンで卵が固まるまで焼き、型を使って卵を丸く切り、トーストにのせて盛り付けます。

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エッグス・カロライナ
4人分の場合、卵6個を固ゆでし、冷水に1分間浸します。2個は殻をむき、白身を刻み、溶かしバターと刻んだパセリ大さじ1杯と混ぜ合わせます。4枚の温かい「コーンブレッド」の上に、卵の巣を作ります。残りの卵4個も殻をむき、それぞれの巣に1個ずつ縦に並べます。それぞれにパセリバターを少量かけ、塩コショウで味を調えます。[ 241 ]

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ミュンヒナーエッグ
卵 6 個を固ゆでし、殻をむいてレタスまたはキャベツの葉の上に置き、すりおろした西洋わさびで囲みます。酢に塩と乾燥マスタードを加えたソースをかけてお召し上がりください。

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マリネ卵
必要な量の卵を固ゆでし、殻をむき、1個につきクローブ4片を刺します。酢2カップを沸騰させ、少量の酢、小さじ1/2のマスタード、小さじ1/2の塩、小さじ1/2のコショウを混ぜ合わせ、沸騰した酢に混ぜ込みます。卵をガラス瓶に入れ、沸騰した酢を注ぎます。2週間ほど保存でき、半分に切ったりスライスして付け合わせやサラダに添えることもできます。

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エッグス・パリジェンヌ
必要な数のティンバル型にバターを塗り、内側に刻んだパセリをまぶします。それぞれの型に卵を割り入れ、塩コショウを振ります。浅めの鍋に水を入れ、型を並べます。オーブンでよく固まるまで焼きます。平らな皿、または個別の皿に取り出し、ブレッドソース、またはお好みのソースを添えます。

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エッグス・ペリゴール
小さな型やカップにバターを塗り、刻んだパセリを散らします。底(型から外すと上になる部分)に、カットしたビーツとトリュフ、またはクルミのピクルスを左右対称に並べます。[ 242 ]型に卵を1個ずつ入れ、塩コショウをふり、沸騰したお湯を入れた鍋に入れます。蓋をして、固まるまで焼きます。トーストにのせ、温かいトマトソース、またはお好みのソースをかけてお召し上がりください。

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チーズ入り卵
浅い丸型または楕円形のグラタン皿、あるいは小さめの個皿に、溶かしバターを底まで敷き詰め、その外側を薄くスライスしたややドライチーズで囲みます。その中に卵を割り入れ、皿の底が覆われるくらいの量を割り入れます。黄身を割らないように注意してください。塩コショウで味付けし、卵白が完全に固まるまでオーブンで焼きます。

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エッグス・モルネイ
バターを塗った耐熱皿に卵を入れ、卵黄(ソース1/2カップにつき卵黄1個分)を加えた濃い味付けのホワイトソース、塩、パプリカを全体にかけます。上からすりおろしたチーズを振りかけ、オーブンで卵が固まるまで焼きます。

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クリームエッグ
浅い皿にバターを塗り、牛乳を1カップ弱注ぎ、温めます。温まったら表面に卵を乗せ、蓋をしてコンロで固まるまでポーチドエッグを作ります。セロリソルトを振りかけ、生クリームを注ぎ、オーブンで5分焼きます。仕上げに、細かく刻んだセロリの葉を散らします。大きな皿で焼いても、グラタン皿にそれぞれ分けて焼いても構いません。[ 243 ]

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エッグス・オマール・パシャ
グラタン皿にバターを塗り、卵を2個割り入れます。黄身が割れないように注意します。小さめの玉ねぎを輪切りにし、卵の上に皿の縁に並べます。塩コショウを振りかけ、粉チーズを振りかけ、弱火で卵が完全に固まるまで焼きます。

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トルコの卵
大きなグラタン皿1枚、または小さなグラタン皿数枚にバターを塗り、底が覆われるくらいの卵を割り入れます。黄身を割らないように注意し、中火のオーブンで白身が固まるまで焼きます。その後、グラタン皿の縁に大さじ数杯のご飯を乗せ、薄切りにしてブラウンソースで和えたマッシュルームと交互に盛り付けます。盛り付ける直前に塩コショウで味を調えます。

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エッグス・ブール・ノワール
これらは、直径約10cmのグラタン皿にそれぞれ盛り付けるのが最適です。鍋にバター大さじ2杯を入れ、弱火で焦げ目がつくまで、焦げないように炒めます。レモン汁小さじ1杯を加え、グラタン皿の底にバター(黒)を塗ります。卵を1個、必要であれば2個割り入れ、黄身を割らないように注意しながら入れます。塩コショウで味付けし、各皿にケッパーを8~10個ずつ並べます。オーブンで8~10分、または卵がしっかり固まるまで焼きます。小皿に敷いたドイリーに各皿を乗せ、パセリの小枝を添えて盛り付けます。[ 244 ]

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エッグスクレオール
必要な卵が入る大きさの浅いグラタン皿を用意し、一人当たり卵 2 個ずつにします。グラタン皿にバターを塗り、卵をそっと割り入れます。黄身を割らないように注意します。コショウと塩で味付けし、中火のオーブンで卵白が固まるまで焼きます。焼いている間に、卵 6~8 個分となる以下の付け合わせを準備します。バター大さじ 1 杯を鍋に入れます。溶けたら薄切りにした玉ねぎ 1 個を加え、3~4 分ほどかき混ぜます。次に、皮をむいて刻んだトマト 1 個、非常に薄切りにしてそれぞれ数個に割ったスイート グリーン ピーマン 1 個、水気を切って洗った後、縦に 3~4 等分に切ったマッシュルーム缶の半分を加えます。8~10 分ほどゆっくりと加熱し、注意深くかき混ぜ、必要であればバターを追加します。ほぼ火が通ったら、たっぷりのコショウと塩を振り、トマトソース大さじ1杯を加えます。卵をオーブンから取り出したら、この飾りを卵の縁に乗せ、周りを囲みます。この飾りの量は、トマトや玉ねぎの量など、お好みに合わせて調整してください。1皿に卵2個ずつ使用し、それぞれ別のグラタン皿に盛り付けるととても美味しく仕上がります。

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風味豊かなバター卵
セイボリーバターは、良質のバターを溶かし、刻んだハーブ(チャイブ、パセリなど)を加えて作ります。グラタン皿に少量ずつ入れ、お好みで卵を1~2個割り入れます。卵の上にもセイボリーバターを少量かけ、塩コショウで味を調えます。[ 245 ]卵が完全に固まるまでオーブンで焼きます。新鮮なタラゴンが手に入る場合は、形の良い葉を2枚、卵黄の上に交差させて飾ると美しく仕上がります。または、レモンバーベナの葉を2枚使ってもよいでしょう。

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野菜用卵型
エッグティンバルを作るのと同じ卵液を作り、バターを塗ったリング状の型に流し込みます。鍋に水を張ったままオーブンで20分、または固まるまで焼き、熱した丸くて平らな皿に移します。中央に、トマトソースで和えたホットマッシュルーム、またはエンドウ豆(ソースの有無は問いません)を詰めます。

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カナックエッグトースト
焼きたてのトーストにクルミ、マッシュルーム、またはお好みのケチャップを散らし、牛乳で和えたスクランブルエッグをたっぷり乗せ、その上にたっぷりのチーズを乗せます。コショウと塩で味付けし、ガスコンロで焼きます。チーズが焼き色がつくまで焼き色がついたら取り出し、上に黒クルミのピクルス、ケッパー少々、または細切りにしたピメント、もしくは刻んだチャイブを飾ります。

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エスカロップドエッグ
卵8個を固ゆでし、白身は中くらいの大きさに切り、黄身はザルかライサーでつぶします。湯せん器に牛乳1カップと、みじん切りにした玉ねぎ、エシャロット、またはチャイブ大さじ1杯を入れます。牛乳が沸騰したら、溶かしたとろみをつける小麦粉大さじ1杯を加えます。[ 246 ]少量の牛乳を加え、とろみがつくまでかき混ぜます。塩小さじ1/2、コショウ小さじ1/4、パプリカ少々で味を調え、すりおろした卵黄と角切りにした卵白を加えて混ぜます。小皿に盛り付けたり、パン粉をまぶしてオーブンで焼き色をつけたり、丸いトーストにのせてお召し上がりください。ピーマンを1~2個、細かく刻んで添えると、さらに美味しくなります。[ 247 ]

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洗練されたマナーと優れた感覚を備えていても、分別のない人、つまり、不必要に虫を踏みつけるような人は、私の友人リストには入れません。—カウパー[ 249 ]

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チーズ
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チーズラメキン
パン粉1カップと牛乳1カップを滑らかになるまで混ぜ合わせます。溶かしバター大さじ2、マスタード小さじ1弱、すりおろしたチーズ大さじ6を加えます。火にかけて1分間かき混ぜ、火からおろし、塩とカイエンペッパー、軽く溶いた卵黄2個を加えます。その後、フォークで泡立てた卵白を加えて混ぜます。ラメキン皿に流し込み、中火のオーブンで15分焼くか、耐熱皿に入れて焼き上げます。

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焼きチーズとパン
パン粉1カップを牛乳2カップに2~3分浸し、よく溶いた卵2個分の黄身とすりおろしたチーズ1カップを加え、最後に固めに泡立てた卵2個分の白身を加えて混ぜます。バターを塗った耐熱皿に入れ、表面にバターを塗り、パン粉を振りかけ、20分から30分ほど焼き色がつくまで焼きます。

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チーズフォンデュ
鍋にバター大さじ1杯を入れ、溶けたら牛乳1カップ、または好みでクリーム、細かいパン粉1カップ、すりおろしたチーズ2カップ、塩小さじ1/2を加えます。 [ 250 ]乾燥マスタード小さじ1/2とカイエンペッパー少々を加えます。よく温まるまで絶えずかき混ぜ、軽く溶きほぐした卵2個を加え、トーストにのせてお召し上がりください。

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チーズレリッシュ
ダブルボイラーに牛乳 1 カップを入れ、コショウと塩で味付けし、熱くなったらすりおろしたチーズ 1 カップを加えてかき混ぜ、5 分間加熱します。その後、砕いたクラッカー 3 枚を加え、トーストにのせてパプリカをふりかけて提供します。

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チーズメレンゲ
卵 2 個分の白身を泡立てて固くし、フォークで混ぜて、パルメザンチーズまたはすりおろしたチーズ大さじ 2 杯、タバスコ 2 滴、塩少々、パプリカを加えます。大さじ 1 杯ずつ熱い油に落とし、茶色になるまで炒めます。その後、水を切り、新鮮な塩とパプリカを振りかけて提供します。

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クリームチーズ
よく味付けしたホワイトソース 2 カップを作り、黄金色の着色料を数滴加え、さいの目に切ったチーズ (またはお好みですりおろしたもの) 1/2 カップを加えて混ぜます。チーズが柔らかくなって熱くなったら、トーストにのせてパプリカをふりかけてお召し上がりください。

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チーズパンケーキ
牛乳1カップ、卵1個、小麦粉を適量加えて小さなパンケーキを作り、溶かしバターを少し加えたチーズを塗り、[ 251 ]チーズの上にパセリと混ぜた刻んだチャイブをのせ、お好みで風味豊かなケチャップを少々加え、塩コショウで味付けし、焼き上がったらパンケーキを巻いて、軽食またはランチ料理としてお召し上がりください。

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カッテージチーズ
2クォート(約2クォート)以上のサワーミルクまたはクリームに、同量の沸騰したお湯を加え、濾し袋に入れて吊るし、乾燥するまで置いておきます。使用する際には、袋から取り出し、滑らかになるまで揉み込みます。塩コショウで味付けし、少量のスイートクリームを加えます。白っぽくなるまで泡立て、冷たく冷やしてお召し上がりください。お好みで、クリームを少しかけてお召し上がりください。

これは、水を使わずに酸っぱい牛乳やクリームを加熱して作ることもできますが、牛乳は沸騰するほどではなく、分離する程度に加熱する必要があります。

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ウェルシュ・レアビット
アメリカンチーズ 1 ポンドを非常に小さく薄く切り、耐熱皿に入れて溶けるまでかき混ぜます。次にマスタード小さじ 1 杯と塩少々を加え、ビールかエールの半分のグラスをゆっくりとかき混ぜ、トーストに乗せて出す直前にカイエンペッパーまたはパプリカで味付けします。

[コンテンツ]
バチェラーズ・レアビット
ウェルシュ レアビットを作り、食べる 5 分前に、みじん切りにしたピーマン 1 杯とみじん切りにしたスペイン産ピメント 1 杯を加えて混ぜます。[ 252 ]

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デルモニコ・レアビット
アメリカンチーズ1ポンドを細かく切り、耐熱皿に入れて溶けるまでかき混ぜます。次に、ビールかエールをグラス半分、塩少々、カイエンペッパーかパプリカ少々、乾燥マスタード小さじ1、卵1個分の黄身、そして泡立てた卵白を加え、トーストにのせてすぐにお召し上がりください。卵白は、特定の種類のチーズを調理する際に生じがちな「糸引き」を抑えてくれます。お好みで、ビールの代わりに少量の牛乳を使用しても構いません。

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ピンクレアビット
トマト缶 1 缶の水を切り、大さじ 1 杯のバターを入れた鍋に入れます。コショウと塩でよく味付けし、15 ~ 20 分調理した後、薄くスライスした新鮮なアメリカンチーズ 1 ポンドを加え、溶けるまでかき混ぜます。塩とコショウをたっぷりと振り、トーストにのせて提供します。

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リプタウアーチーズ
アメリカで手に入るどのクリームチーズよりも本物のリプタウアーに近い、一番小さなヌーシャテルクリームチーズの紙をはがし、皿の中央に置きます。周囲にパプリカ小さじ1、塩小さじ1/2、フレンチマスタード小さじ1、チーズの半分の大きさの新鮮なバター1かけ、みじん切りにした玉ねぎ小さじ2、ケッパー小さじ1を添えます。「リプタウアー」はテーブルで銀のナイフを使って混ぜ合わせます。まずバター、次にケッパー、玉ねぎ、そして調味料を加え、クリーム状にします。茶色のパン、白いパン、またはクラッカーに添えてお召し上がりください。[ 253 ]

[コンテンツ]
ロックフォールチーズグルメ
ロックフォールチーズ 1/2 ポンドをバター大さじ 1 杯、塩少々、シェリー酒大さじ 1 杯でクリーム状にし、ウォータークラッカーに載せて提供します。

[コンテンツ]
カマンベールチーズ
カマンベールチーズを美しく出す方法は、箱と包装から取り出したチーズを、大きな皿の上の丸い紙製のドイリーの上に置き、その周りにクレソンと大根を花のように切った重々しい花輪を飾ることです。

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チーズの「夢」
フレッシュチーズを薄くスライスし、マスタードを塗り、パプリカをふりかけ、切り取ったパン2枚の間に挟み、弱火で両面をこんがりと焼き色がつくまで焼きます。

[コンテンツ]
すりおろしたチーズ
乾燥したチーズのかけらを捨てる代わりに、すりおろして口の広い蓋付きのガラス瓶に入れましょう。[ 255 ]

[コンテンツ]
「もしプルタルコスの助言、『自分は生まれながらに肉食をするようにできている』と主張する者は、『食べたいものは自分で殺すべきだ』という助言に常に従えば、この問題は大多数の人にとって別の様相を呈するだろう。屠殺場の恐ろしい光景に心を動かされずに耐えられる人はほとんどいないだろう。ましてや、屠殺に加わることなどできるはずがない。」[ 257 ]

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サラダ
サラダ用の野菜の組み合わせは無限にありますが、ここで紹介したものは私が試した中で最高のものです。ドレッシングは、使う直前まで新鮮なグリーンサラダにかけてはいけません。ジャガイモや豆などの他のサラダは、置いておくと美味しくなることがあります。サラダ用のレタスは注意深く調べ、泥がついていない限り、きれいな内側の葉は洗わないでください。しかし、洗った葉はすべて、ドレッシングを加える前に完全に乾かしてください。フランスでは、サラダバスケットは最もよく使用されるキッチン用品の 1 つであり、洗ったサラダの葉は、このバスケットの中で完全に乾くまで振られます。ドレッシングは野菜と十分に混ぜ、サラダを出すときに少量の乾燥塩とコショウを加えます。

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フレンチドレッシング
美味しいサラダドレッシングを作るための絶対的なルールは、ほとんど不可能です。なぜなら、料理の世界では、適切な分量を「推測」することが許されるだけでなく、むしろ推奨される唯一の分野であるように思えるからです。以下は、一見するとほぼ正確なように思えるほどです。ボウルに塩小さじ1弱と黒コショウ塩小さじ1を入れ、木製のフォークでゆっくりと混ぜ合わせます。大さじ3~4杯の新鮮な油を加え、酢を半分かそれ以下加えて油とよく混ぜます。[ 258 ]

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タラゴンビネガー
良質のタラゴン酢はどの街でも手に入りますが、自宅で簡単に作れるので、ぜひ作ってみてください。1クォート瓶にタラゴンをひとつかみ入れ、冷えた酢、または温めた酢で覆います。瓶を密閉し、暗い場所に1ヶ月ほど置いてから使いましょう。

同じ方法でチャービル酢を作ります。

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プレーンマヨネーズドレッシング
冷やした卵黄 2 個を冷たいスープ皿に入れ、銀のスプーンを使用して、塩小さじ 1 杯とマスタード小さじ 1/2 杯をかき混ぜます。これらがよく混ざったら、冷えたオリーブ オイルを 1 カップ弱から一滴ずつ滴下し、卵がそれ以上濃くならない程度まで続けます。その後、残りのオイルをゆっくりと加えます。この最初のプロセスが適切に行われないと、どれだけかき混ぜてもソースにとろみがつきません。フォークまたは泡立て器を使用して、かき混ぜを仕上げることができます。オイルを加えたら、酢大さじ 1 杯、レモン汁大さじ 1 杯、カイエン ペッパー塩小さじ 1/2 杯をゆっくりと加えて混ぜます。好みの濃さになるまで氷の上に置いておきます。

タラゴンマヨネーズは、普通の酢の代わりにタラゴン酢を使って作ります。

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マヨネーズの緑色の着色料
ミックスハーブやほうれん草を使っても構いません。ハーブを使う場合は、パセリ大さじ1杯、クレソン大さじ1杯、チャービル大さじ1杯を沸騰したお湯に入れ、8分間茹でます。その後、水を切り、すり鉢でつぶします。[ 259 ]果肉を細かいふるいにかけて絞ります。マヨネーズと混ぜると、淡い緑色になります。

ほうれん草を使用する場合は、みじん切りにしたほうれん草大さじ 1 杯をふるいにかけて、ソースに色を付けます。

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サラダチーズボール
ヌーシャテルチーズとアメリカンチーズ(またはパルメザンチーズ)を同量すりおろし、カイエンペッパーを振りかけ、溶かしバターを少量加えます。小さなボール状に丸め、冷やしてサラダの付け合わせとしてお召し上がりください。

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アメリカンサラダ
薄くスライスしたセロリ1カップ、角切りリンゴ1カップ、刻んだクルミ1/2カップ、種を取り除いた白ブドウ1/2カップを用意します。マヨネーズとよく混ぜ、大きく丸めたレタスの葉の上に盛り付けます。

[コンテンツ]
アーティチョークサラダ
冷えた新鮮なアーティチョークを使用し、アザミを取り除き、細かく刻んだタマネギ、リンゴ、ビートをグリーンマヨネーズと混ぜたものをアーティチョークに詰めます。余ったマヨネーズにアーティチョークの葉を浸します。

[コンテンツ]
グリーンビーンズサラダ
良質な「さやなし」豆の缶詰を、食べる1時間前に氷の上に置いて開け、水気を切り、サラダボウルに盛り付けます。すりおろしまたはみじん切りにした玉ねぎ小さじ2杯とフレンチドレッシング1カップを加え、よく冷やしてお召し上がりください。[ 260 ]

[コンテンツ]
ワックスビーンズサラダ
玉ねぎのみじん切りの代わりに、チャイブやエシャロットのみじん切り、またはネギの葉を大さじ 1 杯使用して、前述のように作ります。

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セロリ入りビーツサラダ
茹でたビーツを薄切りにし、野菜カッターを使って好きな形に切ります。ビーツ1カップと薄切りにしたセロリ1カップを混ぜ合わせ、マヨネーズでよく混ぜ、レタスを添えて盛り付けます。

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キャベツサラダ
固めのキャベツをできるだけ薄くスライスし、横に切ってマヨネーズドレッシングと混ぜ、小さなキャベツの葉の上に盛り付けます。

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セロリとパイナップルのサラダ
セロリの細切りとパイナップルの千切りを同量用意します。完熟したパイナップルを選び、セロリとパイナップルをそれぞれ別々に氷の上に置きます。盛り付ける際にマヨネーズと混ぜ合わせ、セロリの葉を添えてすぐにお召し上がりください。

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チェリーサラダ
新鮮なチェリーが手に入る場合はそれが一番ですが、ガラス瓶に入った大きなチェリーでも美味しくいただけます。新鮮なチェリーの種を取り除き、代わりに湯がいたヘーゼルナッツまたはヘーゼルナッツを置きます。カールしたレタスの葉を添え、一枚につき大さじ1杯のグリーンマヨネーズを添えます。[ 261 ]

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キュウリのサラダ
皮をむいていないキュウリ2本を氷水に20分以上浸します。皮をむき、特許取得のスクレーパーで側面をギザギザに切るか、銀色のフォークをキュウリの縦方向にしっかりと引いて切ります。こうすることで、スライスしたキュウリの縁がきれいに仕上がります。スライスしたら、サラダボウルに白いレタスの葉を添えます。フレンチドレッシングをかけ、盛り付ける前にサラダ自体にパプリカを振りかけます。お好みでスライスしたラディッシュを添えても構いません。

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カントリーサラダ
細かく切った硬い白キャベツ、角切りのセロリ、みじん切りのリンゴをそれぞれ 1 カップずつ使用し、マヨネーズ ドレッシングでよく混ぜ、キャベツの内側の葉を添えて提供します。

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ロシア風キュウリサラダ
普通のキュウリサラダと同じように作りますが、スライスしたキュウリに、薄切りにした小さめの玉ねぎ1個を加えます。玉ねぎのスライスは省きます。チャイブ大さじ1杯を加えるか、チャイブの量を増やして玉ねぎのスライスを省いても構いません。

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ダン・ド・リオン・サラダ
タンポポの若い葉を取り、葉の下の茎をすべて切り落とし、玉ねぎの汁か刻んだチャイブを加えたフレンチドレッシングと混ぜます。ドレッシング1カップにつき、どちらかを大さじ1杯ずつ加えます。このサラダの付け合わせには、ゆで卵をスライスまたは刻んで添えることもあります。[ 262 ]

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ピンクエッグサラダ
卵6~8個を10分間茹で、冷水に2~3分浸した後、皮をむき、酢をたっぷりかけたビーツのピクルスの瓶に入れます。数時間置いてから、ビーツと一緒に盛り付けます。

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エンダイブサラダ
エンダイブを洗い、シャキシャキとした白い軽い葉の部分を使う。水気を切ってフレンチドレッシングをかける。ドレッシングをかける前に、みじん切りにした玉ねぎ小さじ1杯を加える。

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フェティカスまたはコーンサラダ
フェティカス 2 カップを洗って葉をよく乾かし、フレンチ ドレッシングをかけ、すりおろしたタマネギ 1 杯を加えます。

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ガーデンサラダ
スイバをひとつかみ、チャービルを2枝、タラゴンの葉を4枚(またはタラゴンビネガー)、刻んだチャイブを小さじ1杯、レタスの芯の部分から取った小さな葉を用意します。フレンチドレッシングでよく混ぜ合わせます。

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グレープフルーツサラダ
レタスの細い葉を洗って水気を切って、グレープフルーツの薄切りを重ねて盛り付けます。フレンチドレッシングとよく混ぜてから盛り付けます。[ 263 ]

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イタリアンサラダ
きれいなレタス2個を用意し、種なしオレンジ2個と一緒にサラダボウルに並べます。オレンジは皮をきれいにむき、鋭利なナイフで薄切りにします。塩コショウで味付けし、フレンチドレッシングでよく混ぜ合わせます。オレンジとレタスは冷やしておくと、サラダが冷たく仕上がります。

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レタスサラダ
新鮮なレタスを茎から葉をきれいにちぎり、必要な分だけ洗って水気を切ります。サラダボウルに入れ、フレンチドレッシングまたはビネグレットソースをかけ、よく混ぜてお召し上がりください。

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マセドワーヌサラダ
輸入野菜のマセドワーヌ(グラスまたは缶)を開け、水気を切り、フレンチドレッシングをかけます。レタスの葉をボウルまたは別の皿に盛り付けます。みじん切りにしたチャイブ、エシャロット、パセリを大さじ1杯加えると、爽やかな風味が加わります。

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スペシャルミックスサラダ
みじん切りにしたトマト1カップ、みじん切りにしたキュウリ1カップ、薄切りにしたラディッシュ1/2カップ、みじん切りにしたリンゴ1/2カップ、ドイツ産パールピクルスオニオン大さじ2杯を用意します。これらをマヨネーズ1カップと混ぜ合わせ、サラダボウルにレタスと一緒に盛り付けます。レタスはサラダを盛り付ける際に、サラダを浮かべる際に使用します。[ 264 ]

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マッシュルームサラダ
新鮮で硬めの小さめのマッシュルームを選び、皮をむかずに丁寧に洗い、普段よりオイルを多めにしたフレンチドレッシングで和えます。お皿にシャキシャキのレタスを1枚ずつ盛り、マッシュルームを詰め、塩と少量のパプリカを振りかけ、よく冷やしてお召し上がりください。

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ナラガンセットサラダ
エンダイブまたはチコリの細かい白い芯を洗って振って乾かし、皮をむいたトマトを4等分して添えます。みじん切りにしたパセリ大さじ1杯、みじん切りにしたタマネギ小さじ1/2杯、みじん切りにした卵1個を加えたフレンチドレッシングをかけてお召し上がりください。

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フィラデルフィアサラダ
大きめのトマトを選び、熱湯で皮をむき、中身を切り取ります。パイナップル、セロリ、リンゴを同量ずつ細かく刻み、プレーンマヨネーズとよく混ぜ合わせたものを詰めます。レタスを敷いた別の皿に盛り付けるか、レタスの代わりにクレソンを使ってください。

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チーズボール入りピメントサラダ
ヌフシャテルチーズ2個とすりおろしたチーズ1カップを混ぜ、クリーム状になったら、種を取り細かく刻んだオリーブ6個と刻んだピメント小さじ1杯を加え、塩とコショウで味付けし、クリームで湿らせ、[ 265 ]2.5cmほどの深さまで丸めて成形します。ピモラ(ピメントを詰めたオリーブ)を使うのが手軽であれば、もちろんそちらでも構いません。また、玉ねぎエキスを数滴、または玉ねぎの汁をほんの少し加えると、チーズボールにピリッとした風味が加わります。冷水に浸してシャキシャキとしたレタスを振り、水気を切ります。そこに、1.5cmほどの細切りにしたピメントを並べ、フレンチドレッシングでよく混ぜ合わせ、チーズボールを添えます。

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ポーランド風サラダ
茹でたビーツをスライスしてフレンチドレッシングと混ぜ、ゆで卵の白身のみじん切りを全体に散らします。

すりおろした西洋わさびを少し加えると、ビートのサラダに効果的であることがあります。

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ドイツ風ポテトサラダ
中くらいのジャガイモを6個茹で、水気を切った後、火にかけて1~2分ほど水気を切る。温かいうちに皮をむき、スライスする。塩小さじ1、黒コショウ塩小さじ1、刻んだパセリ大さじ1、刻んだ玉ねぎ1個、油大さじ5、酢大さじ3を混ぜたドレッシングをかける。混ぜ合わせ、氷上で1時間ほど置いてから、シャキシャキのレタスと一緒にサラダボウルに入れ、茹でたビーツまたはピクルスにしたビーツを添える。

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アメリカンポテトサラダ
ゆでた冷たいジャガイモをスライスし、マヨネーズドレッシングと混ぜ、ケッパー大さじ1杯を加えます。[ 266 ]

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レッドポテトサラダ
茹でたビーツ(缶詰が便利)と茹でたジャガイモを同量用意します。両方をさいの目切りにしてよく混ぜ、酢大さじ1杯を加えます。ジャガイモが赤くなるまで置いておき、すりおろした玉ねぎ大さじ1杯を加え、フレンチドレッシングでよく混ぜ合わせ、ゆで卵のスライスを添えます。サラダボウルに、細切りのキャベツまたはシャキシャキのレタスと一緒に盛り付けます。

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ロメインレタスのサラダ
シャキシャキしたロメインレタスの穂先を摘み取り、数分間冷水に浸し、水気がなくなるまで振ってから、すりおろしたタマネギを加えたフレンチドレッシングをかけて、ドレッシング 1 カップにつきタマネギ 1 杯ずつ加えてお召し上がりください。

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サザンサラダ
冷えたご飯2カップに、みじん切りにしたゆで卵2個を加え、マヨネーズとよく混ぜ合わせます。シャキシャキのレタスの上に盛り付け、卵のスライス、ビーツ、スライスしたオリーブを添えます。

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スイバのサラダ
自生するスイバで爽やかなサラダを作ることができます。よく洗い、茎を切り落とし、塩、コショウ、セロリソルトをまぶし、オイルと混ぜ合わせ、タラゴンビネガーとすりおろした玉ねぎを少々振りかけます。[ 267 ]

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スペイン風サラダ
大きめのトマトと小さめのキュウリ1本の皮をむき、小さめのピーマン1個から種を取り、小さめのスペイン産玉ねぎ1個を皮をむき、すべて薄切りにします。ピーマンは極薄切りにします。刻んだナスタチウムの葉、茎、または種を大さじ1杯加え、フレンチドレッシングで覆い、よく混ぜます。食べる1時間前に氷上で冷やします。チーズボールを添えてお召し上がりください。

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日曜夜のサラダ
パリパリのレタス1個を洗って、葉をはがし、完全なもの以外はすべて取り除き、振って水気を切ります。大きなサラダボウルに入れ、みじん切りにした玉ねぎ1個、スライスしたトマト5個、クレソンの葉3〜4枝を加えます。テーブルでサラダにたっぷりと塩をまぶし、黒コショウを全体に振りかけます。次に、オイルボトルから大さじ3〜4杯のオイルを野菜にゆっくりと注ぎ、続いて大さじ2杯の酢を加えます。大さじ1杯のタラゴン酢を加え、セロリソルトをまぶし、少量のカイエンペッパーを加え、木製のフォークとスプーンで全体を10回以上ひっくり返しながら混ぜます。ボウルにニンニクをすり込み、玉ねぎは省いてもよいでしょう。

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ロシア風トマトサラダ
極小トマトを5~6個スライスし、玉ねぎ2個をスライスして輪切りにする。フレンチドレッシングをかける。[ 268 ]

[コンテンツ]
スライストマトとチャイブ
トマト4個をスライスし、刻んだチャイブ大さじ3杯を加え、フレンチドレッシングをかける。レタスを添えて出す。

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ウォルドルフサラダ
殻付きクルミ(砕くか刻む)1カップ、酸味のあるリンゴ1カップ(角切り)、シャキシャキとしたセロリ1カップ(細かく切る)をマヨネーズドレッシングでよく混ぜ合わせます。カーリーレタスの葉に添えてお召し上がりください。

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クレソンとオレンジのサラダ
鋭利なナイフを使ってクレソンの束の底を2インチほど切り落とし、氷水でクレソンをよく洗い、水を切り、薄切りにした種なしオレンジ3個と一緒にサラダボウルに並べ、タラゴン酢、オリーブオイル、ブランデーを大さじ1杯ずつ混ぜたドレッシングで混ぜ合わせ、塩コショウで味付けして、よく冷やして提供します。

オレンジの代わりにグレープフルーツを使うこともできますし、オレンジとグレープフルーツを同量使用することもできます。

[コンテンツ]
横浜サラダ
氷で冷やして皮をむいた新鮮なキュウリ2本を小さめの角切りにし、さいの目に切ったサワーアップル1個、千切りにしたピメント大さじ1杯、クレソン小束1束(葉のみ使用)、刻んだミントの葉大さじ2杯を加えます。フレンチドレッシングで和え、レタスの葉を添えてお召し上がりください。[ 269 ]

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サラダサパー
大きめのディナープレートを使い、各皿にレタスの内側から取った大きな明るい緑の葉を 6 枚並べ、そのうち 5 枚は茎の方を皿の中央に向けて置き、もう 1 枚は中央に小さい葉を置きます。中央の葉にラディッシュ (バラの形に切ったもの) とオリーブを詰め、他の葉には次のように詰めます。1 枚目には缶詰のグリーンビーンズを大さじ 2 杯入れ、葉を置く前にすりおろしたタマネギ少々とフレンチ ドレッシングでよく混ぜます。2 枚目にはトマトを 3~4 枚スライスし、マヨネーズ小さじ 2 杯を入れます。3 枚目には缶詰のアスパラガス (白が望ましい) を 3 本、フレンチ ドレッシングに浸し、刻んだチャイブを散らします。4 枚目には、食べるときに塩に浸すキュウリを 2 本半分に切り、5 枚目に小さなドイツ産パールオニオンを大さじ 1 杯、ピクルスのクルミ 2 個、ガーキン 2 個を入れます。ナッツパン、プレーンパン、クリームチーズサンドイッチ、あるいはその両方をお出しください。この夕食は様々なアレンジが可能です。例えば、豆の代わりにポテトサラダやビーツと卵を使うこともできます。これは緊急事態で、6人が急遽遅い夕食を摂ることになり、準備が全くできていなかったため、このような形になりました。保存食が豊富に備蓄された貯蔵庫と小さな家庭菜園があれば、この状況は乗り越えられました。[ 271 ]

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谷間を自由に動き回る群れはいない、

虐殺を私は非難する。

私を憐れむ力によって教えられて、

私は彼らを哀れむことを学びます。

オリバー・ゴールドスミス。[ 273 ]

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セイボリー
セイボリーは食前酒として、また遅い夕食にも便利な一品です。その種類はほぼ無限で、ここで紹介したものはいくらでもアレンジしたり追加したりできます。

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フレッシュマッシュルーム「カクテル」
小さな取っ手のないカップかグラスを皿の中央に置き、周りに一番小さな白いレタスの葉を6枚並べます。それぞれの葉に、小さくて硬い白いマッシュルームを2個ずつ置きます。マッシュルームは新鮮なうちに丁寧に洗っておき、皮はむいておきます。カクテルグラスに、トマトチャツネ1/2カップ、レモン汁小さじ1、タバスコ2滴(辛いのがお好みならもっと)、塩小さじ1/2を混ぜたソースを4分の3まで注ぎます。皿を冷蔵庫で30分冷やします。美味しく調理できる「カクテル」ソースはボトル入りで販売されています。

[コンテンツ]
缶詰マッシュルーム「カクテル」
カクテルグラスにマッシュルームを8~10個入れ、カクテルソースで全体を覆います。または、缶詰のセップ茸を使い、ピーマンのケースに入れて盛り付けます。

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ピメント「カクテル」
スイートピメント(缶詰)を 1 インチ角に切り、グラス 1 杯につき 8 ~ 10 個入れます。カクテル ソースをたっぷりかけて、セロリを添えて冷やしてお召し上がりください。[ 274 ]

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ビーツセイボリー
大きめの酢漬けビーツ 1 個を、四角いパンの上にきれいにスライスして並べます。ビーツの中央に、固ゆで卵を輪切りにして置き、その中に卵黄を詰め、四隅に刻んだチャイブを詰めます。

[コンテンツ]
ビーツと卵のセイボリー
ビーツのピクルスとゆで卵の白身を同量ずつ刻み、トーストかパンの中央に、刻んだチャイブかパセリを少々混ぜた卵黄を添え、円錐形に盛り付けます。味をしっかり調えます。

[コンテンツ]
ブラウンブレッドセイボリー
ブラウンブレッドを形に切り、バターを塗り、塩を少し加えたクリームチーズをたっぷりと塗ります。パン1枚につき、均等に切ったピメントを2枚重ねます。ピメントの継ぎ目にピモラを1枚ずつ、チーズの上のスペースにも1枚ずつ置きます。パプリカを振りかけ、ケッパーを数粒ずつ散らします。

[コンテンツ]
キュウリのセイボリー
パンを輪切りにし、きゅうりをきれいにスライスして並べます。切り口をギザギザにしてから、銀色のフォークで縦に切ります。塩とパプリカを振りかけ、それぞれのスライスに小さく切った玉ねぎを輪切りにして乗せるか、または小さなドイツ産のパールピクルスをきゅうりのスライスの間に挟みます。 [ 275 ]仕上げにレモン汁を少々かけます。刻んだチャイブだけを使ったり、玉ねぎの輪切りにチャイブを詰めたりと、バリエーション豊かに楽しめます。

[コンテンツ]
クレオールセイボリー
形を整えたパンの片面をトーストし、トーストしていない面にはバターを塗り、その上に刻んだトマト、刻んだピーマンの半量、塩少々を混ぜたものを乗せます。オーブンまたはガス火で5分焼き、取り出したら、それぞれのパンの中央に細かく刻んだ玉ねぎを円錐形に並べます。

[コンテンツ]
エッグセイボリー
軽くトーストした焼きたてのパン、またはトーストしていない柔らかすぎないパンを使います。四角、ひし形、または丸に切り、ウスターソースかお好みのソースをかけます。次に、塩をしっかり振った固ゆで卵の白身を刻んできれいに覆い、その上に卵黄をライス状に盛り付けます。四隅に黒クルミのピクルスを輪切りにして乗せ、ケッパーを散らし、パプリカを振りかけます。

[コンテンツ]
ホースラディッシュセイボリー
細長いパンに薄くマスタードを塗り、細かく刻んだゆで卵の白身と少量のすりおろした西洋わさびを混ぜたものを重ね、パンの横にケッパーを細長く並べます。その間に、ライス状にした、または篩にかけたゆで卵の黄身を散らします。四隅と中央に、薄くスライスしたキュウリを並べます。[ 276 ]

[コンテンツ]
マスタードセイボリー
パンを形に合わせて切り、マスタードを塗ります。刻んだゆで卵と少量の刻んだチャイブを混ぜたものを乗せます。ケッパーを線状に、または好きな模様に並べます。よく味を調えます。

[コンテンツ]
ヌーシャテル・セイボリー
ヌーシャテルチーズをバターの1/4量と混ぜてクリーム状になるまでこね、チューブから塩を振った熱々のクラッカーに絞り出し、星型のロゼット状にする。パプリカを振りかけ、ケッパーを添える。

[コンテンツ]
オニオンセイボリー
パンを形作り、薄くバターを塗り、細かく刻んだスペイン産タマネギと刻んだパセリを混ぜ、トマトソースで軽く湿らせたものを 1/4 インチの厚さに並べます。それぞれの中央に、固ゆで卵のスライスを輪切りにして入れ、ピクルスのクルミのスライスをはめ込みます。

[コンテンツ]
ピクルスセイボリー
細長いパンにお好みのソースとクリームチーズを塗り、その上に薄くスライスした小さな酸っぱいピクルスを縦に並べます。パプリカを散らします。

[コンテンツ]
詰め物入りオリーブ風味
トマトやタルトソースを塗ったパンの上に、固ゆで卵の黄身のライスを並べる。[ 277 ]パンの両側に四角形を作り、それぞれにゆで卵の白身を輪切りにして入れ、中央にピモラまたは他の詰め物をしたオリーブのスライスを詰めます。

[コンテンツ]
ケッパーセイボリー
ケッパーを使って上記と同じように卵リングに詰めます。

[コンテンツ]
トマトマヨネーズセイボリー
トマトを刻み、プレーンまたはハーブ風味の濃厚なマヨネーズと混ぜ合わせます。形を整えたパンに塗り、薄く輪切りにしたピーマンを添えます。

[コンテンツ]
トマトセイボリー
使用するトマトの大きさに合わせてパンを丸く切り、片面をトーストします。反対側にもバターを塗り、トマトスライスを並べます。塩、コショウ、ドライマスタードをまぶし、マッシュルームケチャップまたはクルミケチャップを振りかけます。ガスコンロで5分、または柔らかくならない程度に温めます。クレソンを添えてお召し上がりください。

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リプタウアーセイボリー
成形したパンに「リプタウアーチーズ」を塗り、ピクルスのスライスを添えます。

[コンテンツ]
スイートピメントセイボリー
焼きたてのパンを軽くトーストし、形に切って片面にバターを塗り、その上に缶詰のスペイン産ピメントの小口切りを乗せ、セロリ塩をふりかけ、ガスコンロの火で 5 分間加熱します。[ 278 ]

[コンテンツ]
トーストの輪切り
丸いパンやトーストを作るには、必要な大きさの空の缶を用意し、パンのスライスにしっかりと押し付けて、丸く均等にきれいに切ります。

野菜を好きな形に切れるカッターは、お料理に便利です。[ 279 ]

[コンテンツ]
ある農夫は私にこう言った。「植物性食品だけでは生きられない。骨を作る材料が何もないからだ。」そして彼は、植物性骨でできた牛の後ろを歩きながら、障害物を無視して彼と重々しい鋤を揺さぶりながら、骨という原料を体に補給することに日中の一部を捧げて話し続けるのである。

ここ数年、私は自尊心を少し失わずに釣りをすることはできないと何度も感じてきました。

ヘンリー・デイヴィッド・ソロー。[ 281 ]

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サンドイッチ
「おいしいお料理」の項で紹介したレシピはサンドイッチを作るときにも使えます。繊細で食欲をそそるおいしいお料理を作るときに、独創性を十分に発揮することができます。

[コンテンツ]
風味豊かなバターサンドイッチ
無塩または軽く塩を加えたバターを使用し、銀色のナイフでお好みの風味(玉ねぎの汁、パプリカ、各種ソース、刻んだピーマン、ケッパーなど)を混ぜ込みます。バター大さじ1杯につき、みじん切りにしたハーブなどを小さじ1杯加えます。サンドイッチに挟んでお召し上がりください。

[コンテンツ]
プロビデンスハウスクラブサンドイッチ
焼きたてのパンを中くらいの厚さにスライスし、四隅を切り落とし、温めて少し柔らかくしたバターを塗ります。隣り合う2枚のスライスの片側に、薄くスライスした皮をむいたトマトを並べ、パン全体にフィリングを詰めます。トマトの水分の多い部分に、クルミのピクルスを4~5枚スライスしたものを挟み込み、ケッパーも6~7個並べます。さらに、小さなドイツ産パールオニオンのピクルスを小さじ半分ずつ、各サンドイッチに挟みます。塩、コショウ、セロリソルトを振り、マヨネーズを塗ります。もう片方のパンをしっかりと押さえ、ワックスペーパーで包んでピクニックに出します。

刻んだチャイブ、タラゴンの葉、フレンチドレッシングなどで味を変えます。[ 282 ]

[コンテンツ]
アップルサンドイッチ
薄くスライスした芯抜きリンゴを、バターを塗ったパンの皮を切り落とし、間に挟みます。塩をふり、砕いたナッツを少々混ぜたマヨネーズを塗ります。

[コンテンツ]
クレオールサンドイッチ
パンを四角く切り、バターを塗り、薄切りにしたトマトを乗せ、薄いマスタードを塗ります。ピーマンは薄くスライスし、輪切りにしたトマトのところどころに並べます。チャイブ、エシャロット、玉ねぎを少々刻み、塩コショウ、レモン汁、またはソースで味付けします。

[コンテンツ]
ボンベイサンドイッチ
四角く切ったパンにカレーペーストを塗り、刻んだトマトを乗せます。トマトの上に、少量の刻んだ玉ねぎと同量の刻んだ酸っぱいリンゴを加えます。塩で味を調えます。

[コンテンツ]
ピーナッツバターサンドイッチ
パンの耳を切り取った小さな長方形の部分に、クリームを混ぜたピーナッツバターを塗り、しっかりと押さえます。

[コンテンツ]
卵サンドイッチ
溶かしたバターを少し入れたフライパンに卵2個を割り入れ、卵が広がるようにする。フライパンに入れた後、スプーンで卵黄を砕く。端が焦げ始めるまで焼く。[ 283 ]焼き色がつくまで焼き、塩コショウで味を調え、刻んだチャイブを散らします。使用するパンのスライスに合わせて切り分け、パンの端を切り、バターを塗ってから、サンドイッチの片側に並べます。何もつけずにそのまま、またはウスターソースやマスタードを添えてお召し上がりください。ピクニックにはワックスペーパーで包んでお召し上がりください。

[コンテンツ]
ナッツサンドイッチ
刻んだナッツを濃厚なクリームかマヨネーズに混ぜ、レタスを挟んでも挟まなくても構いません。カイエンペッパーを振りかけます。

[コンテンツ]
レタスサンドイッチ
長方形に切ったパンにバターを塗り、間にレタスを挟んで大きさに合わせて切り、プレーンマヨネーズまたはグリーンマヨネーズを塗ります。

[コンテンツ]
ピモラサンドイッチ
小さな四角いパンにバターを塗り、スライスしたピモラや詰め物をしたオリーブを並べ、レモン汁をふりかけたり、マヨネーズを塗ったりします。

[コンテンツ]
ピクルスサンドイッチ
大きめのピクルスをスライスし、バターを塗ったパンの間に挟みます。ドイツ産のディルピクルスやドイツ風味がお好みの場合は、キャラウェイシードを振りかけ、ライ麦パンを添えてください。[ 284 ]

[コンテンツ]
チーズサンドイッチ
アメリカンチーズまたはスイスチーズを非常に薄く切り、マスタードを塗り、使用するパンのサイズに合わせて切り取ったチーズを、バターを塗った白パンまたはライ麦パン2枚の間に挟みます。

[コンテンツ]
ドイツのサンドイッチ
ライ麦パンまたは「黒」パンにキャラウェイシードを入れて焼き、2 枚のスライスに無塩バターを塗り、片方にスイスチーズの薄切りを並べます。これにドイツまたはフランスのマスタードを塗り、ディル ピクルスを 2 ~ 3 枚並べます。

[コンテンツ]
ホノルルサンドイッチ
リンゴ3個分の皮と芯を取り、ピーマン2個分のヘタと種を取り、野菜ミルにかけます。2種類のヌーシャテルチーズと混ぜ合わせ、ブラウンブレッドまたはホワイトブレッドのサンドイッチのフィリングとしてお使いください。[ 285 ]

[コンテンツ]
よく愛する者はよく祈る

人も鳥も獣も;

最も愛する者が最もよく祈る

大きなものも小さなものもすべて。

私たちを愛してくださる愛しい神のために、

神はすべてのものを創造し、愛しておられる。

コールリッジ。[ 287 ]

[コンテンツ]
ペストリー、パティケースなど
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パイクラスト
ショートパイ生地は、パイ1個分につき小麦粉2/3カップ、ベーキングパウダー小さじ1/3、塩小さじ1/4を混ぜ合わせます。これをココナッツバター1/2カップ、またはバター1/2カップ、あるいは両方を同量ずつ加え、氷水で湿らせて5~6回伸ばします。使用するまで冷蔵保存してください。

[コンテンツ]
簡単パフペースト
ペーストを混ぜるにはチョッピングボウルを使用し、その中にふるいにかけた小麦粉 4 カップ、砂糖大さじ 1 杯、塩小さじ 1 杯を入れ、スプーン 1 杯ずつ加えます。バター 2 カップを使用し、できるだけ細かく刻んで小麦粉に加えます。卵 2 個を 5 分間溶きほぐし、レモン 1 個分の果汁と非常に冷たい水 1/2 カップを加え、これをペーストに徐々に混ぜ込みます。混ざったら、ペーストを小麦粉をたっぷりふったペストリーボードに移し、長方形に伸ばし、4 辺から折り込み、もう一度伸ばし、この工程を 4 回繰り返します。次に、薄いリネンの布に折りたたみ、冷蔵庫の氷の近くの皿に置き、30 分以上放置します。もう一度伸ばして、パテまたはパイ皮に使用します。[ 288 ]

[コンテンツ]
ティンバレスケース
小麦粉3/4カップ、卵1個を溶いた牛乳1/2カップ、砂糖小さじ1、塩小さじ1を混ぜて生地を作り、最後にオリーブオイル大さじ1を加えます。ティンバルアイアンを生地に浸し、次に熱した植物油に浸します。生地がフライパンの底に触れないように注意してください。きつね色になったら取り出し、ペーパーの上に置いて油を切ります。これを十分な量になるまで繰り返します。ソースをかけた栗やキノコなどを詰め、オーブンで再加熱します。

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フリッターの衣
ティンバルケースを作り、その中に揚げたい野菜や果物を浸し、熱い脂で黄金色になるまで揚げます。

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パティパンまたはケース用のペストリー
ティンバルケース用の生地を揚げる代わりに、小麦粉1.5カップ、卵黄1個、バター大さじ3杯をよく混ぜ、冷水1/2カップほど加えて適度な濃度になるまで湿らせたペーストを作ることができます。生地を約1/16インチほど薄く伸ばし、バターを塗った小さな型に押し込みます。生地をきれいに切り、バターを塗ったティッシュペーパーを1カップ分ずつ押し込みます。生地の中に米を入れて、熱から守り、底が平らになるようにします。弱火でオーブンで焼きます。冷めるまで生地を型から出さず、必要な量になるまで生地を詰めないでください。

通常のペストリーは、パティケースやティンバルなどの型の裏地としても使用できます。[ 289 ]

[コンテンツ]
ポテトクラスト
大きめのジャガイモを皮付きのまま茹で、熱いうちに皮をむき、ライサーかふるいにかけて押し固めます。同量の小麦粉または全粒粉と少量の塩を混ぜ合わせ、生クリームで湿らせます。軽く押さえて伸ばし、野菜パイの皮を作ります。

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エセックス・ペストリー
マッシュポテトと小麦粉のペストリーを同量混ぜ、小さな四角形に焼いて飾りとして、または濃厚な野菜パイのカバーとして使用します。

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餃子
小麦粉2カップをふるいにかけ、ベーキングパウダー山盛り小さじ1杯と塩小さじ1/2杯を加え、さらにふるいにかける。これに牛乳を1カップ弱、または指にくっつかずに扱える程度の生地になるまで混ぜる。沸騰した野菜ストックかシチューに入れ、10分間強火で沸騰させる。餃子を取り出す直前まで鍋の蓋を開けないように注意する。シチューに入れて、またはブラウンソースをかけてすぐに出す。

[コンテンツ]
クルトン
古くなったパンを厚さ1.5cmほどに切り、ナイフで両側に小さな四角形を作ります。少し乾燥させたら、熱したバターを少し加えて焼き色がつくまで焼き、温かいうちにお召し上がりください。[ 290 ]

[コンテンツ]
パン粉
パン粉の瓶は常に手元に置いておきましょう。古くなったパンを細かく砕き、オーブンで軽く焼き色をつけます。その後、ローラーかすり鉢で砕き、粉状にします。薄いパン粉と黄金色のパン粉をそれぞれ瓶に1つずつ用意しておくと、とても便利です。[ 291 ]

[コンテンツ]
小さな不親切は大きな侮辱となる。

ハンナ・モア。[ 293 ]

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温かいパン
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ベーキングパウダービスケット
大さじ 2 杯のバターに、山盛りの小さじ 1 杯のベーキングパウダーを混ぜた小麦粉 2 カップを軽くふるいにかけて、洗ったばかりの冷えた手で小麦粉とバターをよく混ぜ合わせ、木のスプーンでかき混ぜながら牛乳 1 カップをゆっくりと注ぎ入れます。ほとんどの小麦粉では、この 1 カップかそれより少し少ない量の牛乳でビスケット生地の粘度が適切になりますが、薄すぎたり厚すぎたりする場合は判断が必要です。生地は、小麦粉をたっぷりつけた手ではほとんど扱えない程度で、素早く動かすとロール状になり、小麦粉をたっぷりつけたパン板に置いたときに形が崩れない程度にする必要があります。次に、ローラーで 3/4 インチの厚さに軽く伸ばし、使用する前に端を小麦粉に浸しておくビスケット カッターで素早く円形に切り取り、バターを塗った浅い鍋にすぐに入れてオーブンに入れます。18 分から 20 分で適切に調理されるはずです。最も小さいサイズのベーキングパウダー缶は、ビスケットカッターにぴったりのサイズです。

同じレシピで、餃子、イチゴのショートケーキ、野菜パイのトッピングも作れます。

[コンテンツ]
ポップオーバー
小麦粉1カップに塩小さじ1杯を混ぜ、滑らかになるまで牛乳1カップをゆっくりと加えます。[ 294 ]ペーストをよく混ぜ、残りの牛乳と溶き卵黄1個分を加え、さらに卵白を加えて泡立て器でしっかり泡立てます。バターを塗ったジェムパンまたは陶器のカップに生地を入れ、オーブンで約25分、または焼き色がつき、高く浮き上がるまで焼きます。すぐに盛り付けます。

[コンテンツ]
グラハム・ジェムズ
全粒小麦粉2カップ、塩小さじ1/2、砂糖大さじ1を混ぜ合わせ、これに卵2個分の溶き卵黄を加えた牛乳1カップを加えて混ぜ合わせます。さらに溶き卵白を加え、バターを塗った熱したジェムパンに入れます。約25分焼きます。

[コンテンツ]
テネシーコーンブレッド
ボウルに卵2個を割り入れ、グラニュー糖山盛り小さじ1杯と牛乳1カップを加えます。小麦粉1/2カップ、コーンミール1カップ、ベーキングパウダー小さじ3杯を混ぜ合わせ、牛乳にふるい入れながら絶えず混ぜます。生地は、深さ2.5cmの天板に流し込んだときにスムーズに広がる程度にサラサラとしています。生地を流し込む直前に、天板にバター大さじ1杯を入れ、溶けたら生地を混ぜ込みます。これが、カリッとした焼き色の底の生地を作る秘訣で、昔の黒人料理人から教わったものです。20分から30分、または焼き色がつくまで焼きます。

[コンテンツ]
サザンライスマフィン
1カップのご飯に、1カップの牛乳、大さじ1杯のバター、2個の溶き卵の黄身、1.5カップの小麦粉、大さじ1杯の砂糖、小さじ1/2杯の塩、1杯の砂糖を加えます。 [ 295 ]山盛りのベーキングパウダー小さじ1杯を加えます。よく混ぜたら、よく溶きほぐした卵白を加え、バターを塗った熱したジェムパンに流し込み、クイックオーブンで20~25分焼きます。

[コンテンツ]
ライスグリドルケーキ
卵2個、牛乳2カップ、塩小さじ1/2、砂糖大さじ1、小麦粉2カップ、ベーキングパウダー小さじ2、ご飯1 1/2カップをよく混ぜ合わせます。バターを塗った熱したグリドルで両面を焼き色がつくまで焼きます。

[コンテンツ]
コーンケーキ
サワーミルク1.5カップに、ソーダ小さじ1、溶き卵1個、砂糖大さじ1、塩小さじ1、小麦粉1.5カップ弱を入れ、薄い衣になるまでイエローコーンミールでとろみをつけます。バターをひいた熱したグリドルで、きつね色になるまで焼きます。

[コンテンツ]
小麦ケーキ
卵2個を軽く溶きほぐし、牛乳2カップを注ぎます。ベーキングパウダー小さじ2杯、小麦粉2カップ、塩小さじ1/2杯を混ぜ合わせ、牛乳に軽くふるい入れ、絶えずかき混ぜます。バターをひいた熱したグリドルで、小さなパンケーキ状に焼きます。

[コンテンツ]
ジンジャーブレッド
卵2個分の黄身を軽く溶きほぐし、バター1/2カップを溶かして卵に加え、牛乳1/2カップ、ソーダ小さじ1、黒糖蜜1 1/2カップを加えて混ぜます。そして、ゆっくりと加えていきます。 [ 296 ]ふるった小麦粉3カップと生姜大さじ1を加え、卵白を泡立てて固めにした後、フォークで混ぜ入れます。深さ2.5cmの天板に生地を入れ、弱火で45分ほど焼きます。

[コンテンツ]
日曜の朝のワッフル
卵 2 個をよく溶きほぐし、牛乳 2 カップと塩小さじ 1 杯を加え、小麦粉 2 カップにベーキングパウダー山盛り小さじ 2 杯を牛乳にふるい入れ、絶えずかき混ぜます。小麦粉によってはとろみのつきやすいものがあり、さらに加える必要がある場合は、混ぜる前にふるいにかけます。ワッフルを美味しく焼く秘訣は、生地を厚くしすぎないことです。生地は焼き型に載せると簡単に伸びますが、流れ出てはいけません。バター大さじ 1 杯を溶かし、最後に生地に加えます。熱したワッフル焼き器にバターを塗り、幅 1 インチほどの剛毛ブラシを使用します。生地を焼き型に半分以上入れ (大きなスプーンを使用)、片面がこんがりと焼き色がついたらひっくり返し、もう片面もこんがりと焼き色をつけます。焼き器のサイズで 4 つに分け、メープル シロップをかけてお召し上がりください。[ 297 ]

[コンテンツ]
神はすべての生き物を作った

そして彼らに愛と恐怖を与えた。

私たちと彼らが

神の子供たちは、ここに一つの家族がいるのです。

ロバート・ブラウニング。[ 299 ]

[コンテンツ]
プラムプディングとミンスパイ
[コンテンツ]
プラムプディング
アーモンド 1 カップとブラジルナッツ 1/2 カップを湯がいて、細かいグラインダーにかける。これに湯がいて刻んだクルミ 1 カップを加え、これに非常に細かいパン粉 2 カップ、バター 1/2 カップ、ブラウン シュガー 1/2 カップ、レモン 3 個分のすりおろした皮 (すりおろす前によく洗う)、種なしレーズン 2 カップ、カラント 2 カップ、ライト サルタナ レーズン 2 カップ、細かく刻んだ砂糖漬けピール 1 カップを加えてよく混ぜる。よく混ざったら、軽く溶いた卵 6 個と塩小さじ 1 杯を加えてかき混ぜる。プディング用容器に入れ、蒸すか 8 時間茹でる。使用する日に数時間茹でて温め直す。ブランデー ソースと修道女のバターを添えて出す。

[コンテンツ]
プラムプディングソース
卵 1 個を白っぽくなるまで溶き、砂糖 1 カップを加えてかき混ぜます。混ざったら熱湯大さじ 3 杯を加え、沸騰したお湯で 5 分間加熱します。加熱の最後の 2 分間にブランデーをワイングラス 1 杯加えます。

[コンテンツ]
尼僧のバター
バター1/2カップをクリーム状になるまで混ぜ、粉砂糖(またはグラニュー糖)1カップをゆっくりと加えます。バニラ、レモン、またはブランデー大さじ1杯と、すりおろしたナツメグを少々加えます。[ 300 ]

[コンテンツ]
ミンスパイ
大きなリンゴ 3 個を焼き、ふるいにかけて皮と芯を取り除きます。レモン 3 個分の皮をすりおろし、レモンの果汁とリンゴの果肉を加えます。カラント 1 カップを洗って選別し、乳鉢でつぶします。レーズン 2 カップは種を取り、スライスします。これらをすべてよく混ぜ、バター (またはココナッツ バター) 1 カップ、塩少々、ブラウン シュガー 4 カップ、レモンの皮の砂糖漬け大さじ 1、シトロンの砂糖漬け大さじ 1、オレンジの皮の砂糖漬け大さじ 1 を細かく刻んで加えます。よくかき混ぜた後、オレンジ マーマレード大さじ 2 と上質のブランデー 1/2 カップを加えます。密封できるガラス瓶に入れ、瓶の蓋をする前にワックスまたはブランデーを染み込ませた紙で覆い、2 週間後にパイに使用します。[ 301 ]

[コンテンツ]
「汝は神々の本質に近づこうとするのか?慈悲深く神々に近づきなさい。慈悲の心こそが、高貴なるものの真の証である。」—シェイクスピア[ 303 ]

[コンテンツ]
メニュー
料理本のメニューは、必ずしもその紙面を割く価値があるとは限らないが、ベジタリアン初心者にとっては、慣れた料理の提供方法からあまり逸脱しないようなメニューの組み立てが、自分に課した課題の中で最も難しい部分であることが多いため、ここではいくつかのメニューを示す。これは、絶対に従うという考えよりも、アントルメ、ピエス・ド・レジスタンス、アントレとしてどの料理が最も適しているかを示すという目的が主である。なぜなら、もちろんメニューはさまざまな方法で変更することができ、普段使いのために大幅に簡素化し、フォーマルな場向けに充実させることができるからである。

[コンテンツ]
感謝祭ディナー
フレッシュマッシュルームカクテル

ピモラ セロリ

アーティチョーククリーム

クラッカー 大根

オランダバターのアスパラガス

ミカエルマスローフ

マッシュポテト ローストサツマイモ
クランベリーソース 焼きセロリ

マヨネーズ入りトマトサラダ

フローズンクランベリーパンチ

ミンスパイ パンプキンパイ
ナッツとレーズン フルーツ
コーヒー[ 304 ]

[コンテンツ]
クリスマスディナー
ピメントカクテル
オリーブ

きのこのシチュー

クラッカー セロリ

揚げナスとタルタルソース

クリスマスローフ

ポテトスフレ グレーズドオニオン
冷やしたアップルソース

クレーム・ド・メンテ・パンチ

ウォルドルフサラダ

プラムプディング

ブラントソース ハードソース

ナッツ レーズン フルーツ
コーヒー

[コンテンツ]
イースターディナー
カップ入りグリーンピースクリーム

フレッシュマッシュルームパティ

ローストナッツと大麦のパン

新じゃがいものクリーム煮 ミントソース
ニューピースペイザンヌ

フルーツシャーベット

デザート[ 305 ]

[コンテンツ]
12種類のディナー
黒豆スープ オリーブ

バター漬けのエルサレムアーティチョーク

詰め物入りトマト
ドイツほうれん草
デルモニコポテト

レタスサラダ

デザート

ビーツセイボリー

トマトとオクラのスープ

小さなクラッカー セロリ

栄光のニンジン

バター風味のアスパラガスの先端

ポテトケース エンドウ豆

デザート

クリーム・オブ・キャロット

パティケース入りグリーンピース

栗と芽キャベツ
カブとジャガイモ
クリームオニオン

ナラガンセットサラダ

デザート

[ 306 ]

カルカッタビスク

トマトカジノ

ケッパーソースの蒸しナッツローフ

バターネギ ローストポテト

セロリサラダ

デザート

ハイルブロンスープ

ティンバレスケース入りマッシュルーム

セロリのキャセロール

ポテトコロッケ ほうれん草のスフレ

ピメントサラダ

デザート

クリアコンソメ クルトン

オランデーズソース添えアーティチョーク

詰め物入りピーマン ポテトストロー
グリルトマト

クレソンサラダ

デザート

グリーンピースクリーム

新鮮なアスパラガスのトースト

詰め物をしたキュウリ。

新じゃがいも、クリーム煮 デビルドトマト

ケース入りキノコ

デザート[ 307 ]

マリガタウニースープ

ラメキン入りキャベツ

栗のピューレ

偽の新じゃがいも クリームビーツ

フェティカスサラダ

デザート

ジュリアンスープ

クリームサルシファイパティ

キャセロールのきのこ

マッシュポテト グリーンインゲン

バナナフリッター

デザート

セロリクリーム

オリーブ 大根

ケース入りの栗

芽キャベツのクリーム煮

ローストポテト フレンチビーンズ
クレオールコロッケ

セロリサラダ

デザート

コックリーキースープ

揚げアーティチョークのタルタル

イタリアンカリフラワー ライスポテト
ナッツコロッケ

ロシア風キュウリサラダ

デザート[ 308 ]

ピューレモンゴル

オリーブ

エスカロップポテト 野菜キャセロール

セロリパテ

ロメインレタスのサラダ

デザート

[コンテンツ]
ランチ12品
カップ入りクリームオブコーン

トマトソースのエッグティンバル

アーティチョークのビネグレット

デザート

ペッパーケース入りマッシュルームカクテル

焼きセロリ

ケース入りエンドウ豆 ポテトナッツコロッケ

イタリアンサラダ

デザート

クリームほうれん草

トマトソースの揚げナス

パティケース入りほうれん草とチーズ

ポテトグラタン

グレープフルーツサラダ

デザート[ 309 ]

ブラウンブレッドセイボリー

カップ入り透明コンソメ

カルメル会の卵
フライドポテトのスフレ
カリフラワーフリッター

レタスとピメントのサラダ、チーズボール添え

デザート

トマトコーンクリーム

詰め物入りマッシュルーム
詰め物入りピーマン
クリームトマト
ジャガイモとチーズ

チェリーサラダ

デザート

トマトマヨネーズ風味

クリームオブライス

トマトソースのゆでバナナ

マッシュルームローフ

フィラデルフィアサラダ

デザート

クリームピメント

コキールのサルシファイ

マッシュルーム・シュール・クロッシュ

パイナップルとセロリのサラダ

デザート[ 310 ]

カントンシチュー

ナッツコロッケ(ソース添え)

ライス・ツァリーナ ゆりかごの中のジャガイモ

ピンクエッグサラダ

デザート

ピメントカクテル

トマトケースに入ったトウモロコシ

マカロニビアンカ

スペシャルミックスサラダ

デザート

ケッパーセイボリー

アーティチョーククリーム

チャプスイ
イタリアンコロッケ

ポーランド風サラダ

デザート

フレッシュマッシュルームカクテル

カップ入りリマ豆クリーム

ボルドーパイ
パリジャンポテト

アスパラガスのビネグレット

デザート[ 311 ]

クレオールセイボリー

デルモニコニンジン(ケース入り)

キャセロールのきのこ

詰め物入りトマト ポテト・デュシェス

アーティチョークサラダ

デザート[ 313 ]

[コンテンツ]
狼は子羊とともに住み、豹は子やぎとともに伏し、子牛と若いライオンと肥えた家畜は共にいて、幼子がこれを導くであろう。

牛と熊は草を食い、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食べる。

乳飲み子はまむしの穴で遊び、乳離れした子はコカトリスの巣に手を入れるであろう。

彼らはわたしの聖なる山のどこにおいても、害を及ぼすことも、破壊することもない。水が海を覆っているように、地は主を知る知識で満たされるからだ。—イザヤ書 11章6~9節。[ 315 ]

[コンテンツ]
索引
導入、 11
キッチン、 29
ダイニングルーム、 35
調味料、 39
測定、 39
増粘、 40
ハーブガーデン、 40
ゼラチン、 41
揚げ物用油、 41
缶詰、 41
スープ

野菜ストック、 45
シンプルなコンソメ、 45
クリアブイヨン、 46
アーティチョークのクリーム、 47
ナスタチウムと 47
リマ豆、 50
ニンジンとタマネギ、 52
ニンジン、 53
カリフラワー、 53
セロリ、 54
チーズ、 53
栗、 55
トウモロコシ、 55
カレー、 56
レンズ豆、 59
タマネギ、 61
グリーンピース、 63
米、 65
ほうれん草、 67
トマト、 70
野菜、 74
スープ、アスパラガス、 48
大麦とトマト、 48
黒豆、 48
ベルギーの、 49
プレーンビーン、 49
ブラウンビーン、 49
あずき、 50
オランダキャベツ、 51
カルカッタビスク、 51
広東シチュー、 51
にんじんスープ、 52
栗、 54
コッキー・リーキー、 56
クレオール語、 56
フィレンツェ、 57
ハイルブロン、 57
ジュリアンヌ、 58
赤レンズ豆、 58
ピューレモンゴル、 59
ハンガリー語、 59
マッシュルームビスク、 60
キノコ、 60
きのこシチュー、 61
麺、 61
オクラ、 61
オニオン・オ・フロマージュ、 62
ニューグリーンピース、 62
スプリットピー、 63
お姫様、 64
じゃがいも、 64
ドイツのポテト、 64
ジャガイモ(フローラ)、 65
米とトマト、 65
ライスオクラ、 66
サルシファイ(オイスタープラント)、 66
ほうれん草とトマト、 67
スイバ(フランス語)、 68
スイバ(ドイツ語)、 68
セント・ジェルマン、 68
スパゲッティ、 69
スコッチブロス、 69
スペインのトマト、 70
トマトタピオカ、[ 316 ] 70
トマトとトウモロコシ、 71
トマトマカロニ、 71
トマト、 71
トマトオクラ、 71
マリガタウニー、 72
野菜No.1、 72
野菜2号、 73
野菜3号、 73
野菜4号、 73
野菜5号、 74
野菜の骨髄、 75
野菜

バター漬けアーティチョーク(エルサレム)、 79
グラタン、 79
トマトソース添え 79
フレンチソース添え 80
フリッター、 80
揚げ物、 80
フライドポテト、 80
タルタル、 81
トマトソースで炒め、 81
リヨネーズ、 81
ピューレ、 81
ニューバーグ、 82
アーティチョーク(グローブ)、 82
蒸す、 83
沸騰させる、 83
キノコ入り、 84
ビネグレット、 84
基金、 84
アスパラガス、 85
ホワイトソース添え 85
オランダ産バター入り、 85
ヒント、 86
白、 86
ビネグレット、 86
フライドチップス、 86
ホワイトソースのヒント、 87
パンケースでは、 87
エスカロップ、 87
りんご、焼きりんご、 88
アップルフリッター、 88
茹でたバナナ、 88
トマト入り、 88
バナナフリッター、 89
ボストンビーンズ、 89
豆、グリーンストリング、 90
ゴールデンワックス、 90
フランス語、 90
ドイツ、 90
フィレンツェ、 91
そしてトウモロコシ、 91
イタリア語、 91
スペイン語、 92
リマ、 92
リマ・オランデーズ、 93
リマクリーム、 93
リマ・サウケタシュ、 93
ビーツ、 94
クリーム、 94
バージニア州、 94
ピリッとした、 95
ドイツ語、 95
漬物、 95
芽キャベツ、 96
オランダのバターでは、 96
セロリ入り、 96
栗入り、 97
リヨネーズ、 97
クリーム、 97
パンケースでは、 97
キャベツ、 98
ニューイングランド、 98
西洋、 98
サルマス、 99
リヒテンシュタイン、 99
レディ、 100
コールドスロー、 100
ドイツレッド、 100
ハンガリー語、 100
ピクルスレッド、 101
にんじん、クリーム煮、[ 317 ] 101
ジャガイモ入り、 102
ソテー、 102
栄光に満ちた、 102
釉薬をかけた、 103
デルモニコ、 103
スフレ、 104
カリフラワー、 104
クリーム、 104
グラタン、 105
ドイツ語、 105
イタリア語、 105
フリッター、 105
セロリ、クリーム、 106
ブラウンソースで、 106
キャセロールでは、 106
焼き、 107
セップス、 107
ゆでたトウモロコシ 108
ロースト、 108
プリン、 108
ケースでは、 108
クレオール語、 109
トマトパイ、 109
チャウダー、 109
ロードアイランド産エスカロップ、 110
きゅうりの煮込み、 110
詰め物、 110
ナスのタルタルソース添え 111
トマトソース添え 111
エンダイブ、クリーム、 111
コールラビ、 112
グラタン、 112
レンズ豆、エジプト、 112
ドイツ語、 113
レンズ豆のパイ、 112
ネギ、 113
キノコ、 114
煮込み、 114
ドイツ語、 114
ニューバーグ、 115
トーストに、 115
グリル、 116
シュール・クロッシュ、 116
キャセロールでは、 116
満たされた、 117
トリュフ入り、 117
エンドウ豆入り、 117
玉ねぎ入り、 117
卵と一緒に、 118
缶詰、 118
ツァリーナ、 119
きのこと栗のラグー、 115
パン、 119
オクラの煮込み 120
オクラとグリルトマト、 120
トマトソース添え 120
トマトエスカロップ、 120
玉ねぎ、ゆでたもの、 121
クリーム、 121
ブラウンソース添え 121
グラタン、 122
チーズ入り、 122
エスカロップ、 122
栗を焼いたもの 122
スフレ、 123
ボルドー、 123
トマトエスカロップ、 124
ベアトリス、 124
詰め物、 124
揚げ物、 125
フライドポテト、 125
ポテトクレードルでは、 126
小さい、 126
釉薬をかけた、 126
そしてリンゴ、 126
パースニップ、茹でたもの、 127
バターでは、 127
揚げ物、 127
フライドポテト、 127
焼き物、 128
エンドウ豆、グリーンピース、 128
ペイザンヌ、 128
缶詰、 128
玉ねぎ入り、 128
ピーマン、詰め物、 129
キノコ入り、 129
ライスと、 129
卵と一緒に、 130
トウモロコシ入り、 130
コーン入りエスカロップ、 130
揚げ物、 131
ピメントス、クリーム、 131
巻かれた、 131
オクラ入り、 132
トマト入り、 132
ジャガイモ、 132
マッシュ、 133
場合によっては、 133
スフレ、 134
ライスド、 134
玉ねぎとマッシュした 135
焼き、[ 318 ] 135
ロースト、 135
デンバー、 135
焼き物、 136
揚げスフレ、 136
丸ごと揚げ、 136
フライドポテト、 137
パリジャン、 137
リヨネーズ、 138
ドイツフライド、 138
クリーム、 139
エスカロップ、 139
デルモニコ、 140
オークヒル、 140
ハイルブロン、 140
カレー風味、 142
レネキン、 142
そしてチーズ、 143
玉ねぎ入りエスカロップ、 143
バターの新商品 143
クリームニュー、 144
焼きたて、 144
モックニュー、 144
ポテトフリッター、 134
ストロー、 137
ゆりかご、 138
風味豊かな、 139
ケーキ、 141
ハッシュ、 141
オムレツ、 141
フリカッセ、 142
サラトガチップス、 137
ゆでたサツマイモ 145
焼き、 145
マッシュ、 145
スフレ、 145
エスカロップ、 146
詰め物、 146
メリーランド州、 147
砂糖漬け、 148
グリル焼き、 148
揚げ物、 148
フライドポテト、 148
釉薬をかけた、 149
サツマイモパイ、 146
テキサス州、 147
サルシファイ(オイスタープラント)、 149
英語、 149
コキーユでは、 149
エスカロップ、 150
タルタル、 150
黒、 150
ほうれん草、 150
ドイツ語、 151
ホワイトソース添え 151
ルバーブ入り、 151
イタリア語、 152
目新しさ、 152
スフレ、 152
スカッシュ、焼き、 153
カリフォルニア州、 153
トマト煮込み、 153
エスカロップ、 154
パン粉をまぶした、 154
揚げ物、 154
デビルド、 155
クリーム、 155
きのこ焼き、 156
ナッツフォースミート入り、 156
卵とピーマンを詰めた、 156
ピーマン焼き、 156
卵入り、 157
ほうれん草を詰めて、 157
マカロニと一緒に、 158
そしてタマネギ、 158
カジノ、 159
インディエンヌ、 159
卵入り、 159
カレー風味、 159
風味豊かな、 160
クレオール語、 160
そしてホミニー、 161
パン、 160
アメリカンレアビット、 158
カブの煮物 161
マッシュ、 162
ポテト入り、 162
グラタン、 162
のラグー、 162
パリジャン、 163
テルタワー・リュープヒェン、 163
[ 319 ]
野菜の組み合わせ

チャプスイ、 167
コルカノン、 167
野菜のマセドワーヌ、 167
缶詰、 168
野菜チャウダー、 168
ハッシュ、 169
シチュー、 169
キャセロール、 170
ラグー、 171
野菜パイ セントジョージ、 169
ボルドー、 171
ニューオーリンズシチュー、 172
カレー、インド料理、 172
レンズ豆、 173
スコタッシュ、 173
クレオール語、 173
様々な、 174
ナッツ料理

栗、イタリア産、 177
ピューレ、 177
ピーナッツピューレ、 178
ミカエルマス・ローフ、 178
クリスマスローフ、 178
ナッツと大麦のローフ(ロースト) 179
ナッツと大麦のパン(蒸し) 179
そしてホミニーローフ、 179
そしてフルーツローフ、 180
ファンデーションローフ、 180
ナッツハッシュ、 181
ライス、マカロニなど

ご飯、炊いたもの、 185
焼き、 185
インド人、 185
スペイン語、 186
トマトシチュー、 186
揚げ物、 186
エスカロップ、 186
そしてチーズ、 187
トマトの焼き物、 187
イタリア語、 187
グラタン、 188
オムレツ、 188
ツァリーナ、 188
風味豊かな、 189
研磨されていない、 189
パールバーリー、 189
マカロニ、アメリカン、 190
グラタン、 190
ビアンカ、 190
イタリア語、 191
焼きイタリアン、 192
トマトと玉ねぎ入り、 191
メキシコ人、 192
そしてチーズ、 192
レアビット、 192
スパゲッティ、 193
麺類、 193
ドイツ語、 194
イタリア語、 194
コロッケ

コロッケ、豆、 197
チーズ、 197
スイスチーズ、 197
栗、 198
卵、 198
ファリーナ、 198
ホミニー、 199
レンズ豆、 199
マカロニ、 199
イタリア語、[ 320 ] 200
トマト、 200
乾燥エンドウ豆、 201
ナッツとポテト、 201
そしてサルシファイ、 201
そしてココナッツ、 202
じゃがいも、 202
チーズ入り、 202
風味豊かな、 202
マッシュ、 203
クレオール語、 203
甘い、 203
米、 204
甘味料入り、 203
ピンク、 204
カレー風味、 204
カロライナ、 204
イングリッシュセイボリー、 205
ミックスベジタブル、 205
ティンバレスとパティ

ティンバレス、コーン、 210
卵、 209
エッグトマト、 209
エンドウ豆、 210
じゃがいも、 211
そしてチーズ、 210
米、 211
風味豊かな卵、 209
パティ、アーティチョーク、 211
アスパラガス、 212
セロリ、 212
栗、 212
グリーンピース、 212
卵、 213
マセドワーヌ、 213
キノコ、 213
缶詰、 213
ソース

着色用カラメル、 217
還元酢、 217
ソース・ベルネーズ、 217
ブラックバター、 218
パン、 218
茶色、 218
各種ブラウン、 219
ボルドー、 219
カレー、 219
ケイパー、 220
チーズ、 220
キュウリ、 220
デビルド、 221
卵、 221
フランス語、 221
ドイツ語、 221
卵、 222
ハーブ、 222
オランデーズソース、 222
ホースラディッシュ、 222
メートル・ドテル、 223
ミント、 223
ナット、 223
タマネギ、 224
パセリ、 224
プロヴァンス風、 224
ピリッとした、 225
ラヴィゴット、 225
ロバート、 225
スペイン語、 225
ほうれん草、 226
タルタル、 227
トマト、 227
他の野菜と一緒に、 227
ナッツ入り、 227
卵と一緒に、 228
ビネグレット、 228
白、 228
ドローイングバター、 219
オランダバター、 220
パセリバター、 224
サラダドレッシング、 257
マヨネーズ、 258
[ 321 ]

ゆで卵、 231
揚げ物、 231
ポーチド、 232
グレービーソース添え 232
インディエンヌ、 232
ウォルドルフ、 232
スクランブル、 233
チーズ入り、 233
キノコなどと一緒に 233
風味豊かな、 233
インディエンヌ、 234
スペイン語、 234
シャーリング、 234
トマト入り、 234
グリル焼き、 235
カルメル会、 237
ポテト入り、 237
ニューバーグ、 237
リヨネーズ、 238
デビルド、 238
日本語、 238
ゴールデンロッド、 239
泡立った、 239
揚げ詰め、 239
カロライナ、 240
ミュンヘナー、 241
マリネでは、 241
パリジェンヌ、 241
ペリゴール、 241
チーズ入り、 242
モルネイ、 242
クリーム、 242
オマール・パシャ、 243
トルコ語、 243
ブール・ノワール、 243
クレオール語、 244
風味豊かなバターで、 244
エスカロップ、 245
オムレツ、プレーン、 235
スフレ、 235
焼き、 236
ハーブ、 236
チーズ、 236
ラム酒、 236
スイスエッグトースト、 240
カナックエッグトースト、 245
卵型、 245
チーズ

チーズラメキン、 249
パンと一緒に焼いて、 249
フォンデュ、 249
レリッシュ、 250
メレンゲ、 250
クリーム、 250
パンケーキ、 250
コテージ、 251
リプタウアー、 252
カマンベール、 253
夢、 253
ロックフォールグルメ、 253
すりおろした、 253
レアビット、ウェールズ語、 251
学士号、 251
デルモニコ、 252
ピンク、 252
サラダ

サラダ、アメリカン、 259
アーティチョーク、 259
グリーンビーン、 259
ワックスビーン、 260
ビーツとセロリ、 260
キャベツ、 260
セロリとパイナップル、 260
チェリー、 260
キュウリ、 261
キュウリ、ロシア産、 261
国、 261
デント・デ・リオン、[ 322 ] 261
ピンクの卵、 262
キクヂシャ、 262
フェティカス、 262
庭、 262
グレープフルーツ、 262
イタリア語、 263
レタス、 263
マセドワーヌ、 263
混合、 263
キノコ、 264
ナラガンセット、 264
フィラデルフィア、 264
ピメント、 264
ポーランド語、 265
ジャガイモ(ドイツ語)、 265
ポテト(アメリカ産)、 265
ジャガイモ(赤)、 266
ロメインレタス、 266
南部、 266
栗色、 266
スペイン語、 267
日曜日の夜、 267
トマト(ロシア) 267
チャイブ入り、 268
ウォルドルフ、 268
クレソンとオレンジ、 268
横浜、 268
サラダの夕食、 269
フレンチドレッシング、 257
マヨネーズドレッシング、 258
マヨネーズの緑色の着色料、 258
タラゴンビネガー、 258
セイボリー

フレッシュマッシュルームカクテル、 273
缶詰マッシュルームカクテル、 273
ピメントカクテル、 273
風味豊かな、ビート、 274
ビートと卵、 274
ブラウンブレッド、 274
キュウリ、 274
クレオール語、 275
卵、 275
ホースラディッシュ、 275
マスタード、 276
ヌーシャテル、 276
タマネギ、 276
ピクルス、 276
詰め物オリーブ、 276
ケイパー、 277
トマト、 277
マヨネーズ、 277
リプタウアー、 277
ピメント、 277
トーストの輪、 278
サンドイッチ

サンドイッチ、アップル、 282
ボンベイ、 282
チーズ、 284
クレオール語、 282
卵、 282
ドイツ語、 284
ホノルル、 284
レタス、 283
ナット、 283
ピーナッツバター、 282
ピモラ、 283
ピクルス、 283
プロビデンスハウス、 281
風味豊かなバター、 281
ペストリー、パティケースなど

パイクラスト、 287
簡単パフペースト、 287
ティンバレスケース、 288
フリッターの衣、 288
パティケース用ペストリー、 288
ポテトクラスト、 289
エセックス・ペストリー、 289
餃子、 289
クルトン、 289
パン粉、 290
[ 323 ]
温かいパン

ベーキングパウダービスケット、 293
ポップオーバー、 293
グラハム・ジェムズ、 294
テネシーコーンブレッド、 294
サザンライスマフィン、 294
ライスグリドルケーキ、 295
コーングリドルケーキ、 295
小麦グリドルケーキ、 295
ジンジャーブレッド、 295
日曜の朝のワッフル、 296
必須のデザート2つ

プラムプディング、 299
プラムプディングソース、 299
尼僧のバター、 299
ミンスパイ、 300
メニュー

感謝祭のディナー、 303
クリスマスディナー、 304
イースターディナー、 304
12のディナー、 305
12のランチ、 308
[コンテンツ]
ケンブリッジ大学出版局(米国)

奥付
可用性
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メタデータ
タイトル: 黄金律の料理本
著者: モード・ラッセル・ロレイン・シャープ(1867—1949) 情報
言語: 英語
初版発行日: 1912
キーワード: ベジタリアン料理
菜食主義
カタログエントリ
関連するWorldCatカタログページ: 60823286
関連する Open Library カタログページ (ソース): OL23301884M
関連する Open Library カタログページ (仕事用): OL1141543W
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訂正
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19 驚いたことに 驚くべきことに 1
178 ピューレ ピューレ 2 / 0
192 マルカロニ マカロニ 1
197、198、199​​​​ 西洋わさび ホースラディッシュ 1
228 に あまりにも 1
303 アントレ アントレ 2 / 0
307 マリガタウニー マリガタウニー 1
316 マリガトーニー マリガタウニー 1
318 ゆでた 焼き 3
*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「黄金律の料理本: 肉を使わない料理のレシピ 600 選」の終了 ***
《完》


パブリックドメイン古書『英軍砲兵少尉読本』(1804)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 数字が満載の、渋すぎる資料だ。1804年というと、もともと砲兵将校だったナポレオン・ボナパルトが遂に皇帝になり上がった年で、翌年にはトラファルガー海戦が起きてはいるものの、陸上では仏軍の勢いが盛んでした。そんな当時の野戦砲兵について、本書は定量的なイメージを喚起させてくれます。
 幕末のわが国で、洋式砲術について学びたいと思った人々には、まさに必要な参考書だったかもしれません。あいにく、オランダ語ではなくて英語で書かれていたがゆえに、本書は開港前の日本人に知られることもなかったのでしょう。

 原題は『The bombardier, and pocket gunner』、もちろん「爆撃」という意味ではなくて、「砲撃」です。著者は Ralph Willett Adye とクレジットされている。
 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまには御礼を申し上げます。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「爆撃手とポケット ガンナー」の開始 ***
ボンバルディア

ポケット
ガンナー。
による

ラルフ・ウィレット・アダイ

王立砲兵連隊大尉。

『First American』、第2ロンドン版より。

チャールズタウンのウィリアム・グリーンオーによって、ボストンのコーンヒル
No.47のE.ラーキンのために印刷されました。

1804年。

王立砲兵連隊 の
下級将校の皆様へ:同軍団の上級将校 の承認も得られることを 期待して。

RW アダイ。

索引。
ページ。
序文、 私
弾薬—小火器用 —携行方法 7
—砲兵については、「砲兵」を参照してください。
アムゼット—長さ、重量など 8
鉛製エプロン- 重量と寸法、 8
小型武器- 重量と寸法
ボールの証明、サービスなど。
砲兵隊— 第1野戦砲兵隊
—大隊砲、公園砲、騎馬砲に分かれ、 10
—各種類の野砲1門分の弾薬と物資、 11
—弾薬と物資の運搬方法 15
—一般的な砲兵弾薬車の積載量、 16
—馬砲弾荷車の積載量、 17
—砲兵、弾薬、車両の割合
フランス軍4個分、 18
—フランス砲兵隊が搭載する弾薬の割合、
そして他の大国と 20
—大隊砲の動きと位置、 21
—公園の砲兵の動きと位置、 24
—野戦砲兵3個旅団の行軍線、 28
—2ペンス包囲戦用の大砲と弾薬—
推定の際の考慮事項 29
—リール包囲戦に要求される割合、 31
—包囲戦における配置と位置、 33
—3ペンス防衛のための砲兵と弾薬
要塞の— それらを評価する方法、 37
—砲兵の配置、 39
—弾薬費、 42
軸木—木製または鉄製の寸法 44
鉛のボールの詰め方 45
—直径と重量の測定方法
火薬樽の寸法と内容物
—動けよ。 46
バスケット、バラスト- 寸法 46
砲、迫撃砲、榴弾砲の寸法 46
—跳弾射撃の場合、 48
—海岸の防衛のために、 49
—材料の数量を見積もる方法、 50
—建設に必要なツール 52
—除去できる土の量推定
与えられた時間内に、 53
ベッド- 迫撃砲および銃の寸法と重量 54
弾薬箱- 寸法および重量
満たされた状態と空の状態、そして含まれるラウンドの数 55
爆弾処理班- 実際の運用管理に関する指示 56
—店舗の割合、 58
違反—違反を形成する方法と必要な時間
それを実践可能にするために、 60
橋— ポンツーンを敷設する方法。重量は
クマ;そしてそれを通過する際に必要な注意、 62
キャンプ—前面のレイアウト方法、
歩兵と騎兵のために、 65
—深さの分布、 66
—閉じ込められた状況では、 69
死体—作曲、 70
—ヴァランシエンヌの貝殻作りのための作品
目的に答える
—寸法と重量、 71
—爆発による破壊を防ぐ方法
カロネード砲—寸法と重量、 72
—ショットと砲弾の射程範囲
車両— 野外活動用の重量、 73
—車軸の寸法、 75
—車輪の直径、 76
—スタンディングの寸法と重量 77
カートリッジ—重量と寸法、
銃、迫撃砲、榴弾砲用 78
—小火器の場合 79
—各国のマスケット銃について 79
チャンバーズ- モルタルの最良の形態に関する実験 80
料金— 銃とカロネード砲の異なる性質について 81
—シリンダーパウダーを使用すると軽減されます 81
—フランスの銃 82
CHEVAUX DE FRIZE —寸法と重量 82
構成— キット向け; 火、煙、光のボール;
窒息する壺、火の輪、矢、そして
槍; ファシン電池を燃やすためのケース 84
—混合時の一般的な注意事項 84
護送船団—行軍の線の長さ 84
—同行率と同行方法 85
DISPART —銃の 86
距離— 実用的な測定方法
数学機器 87
—カヴァロの測定用マイクロメーター 92
—異なる角度における1フィートの角度表 95
ドラッグロープ- 重量と寸法 95
乗船—兵器と物資の 96
—軍隊について 99
砲兵演習
—野砲や榴弾砲に配属された兵士の任務、
完全な補数と削減された数 100
—野戦砲兵の前進と退却の方法
ドラッグロープなし 104
—前進と退却における兵士の義務
牽引ロープを備えた野戦砲兵 109
—異なる砲台に搭載された重火器について
男性の補完 112
—トライアングル・ジンについて 115
—スリングカートについて 117
束草— さまざまな性質の寸法と用途、
必要な注意を払って 119
消防船- 可燃物の割合 120
—艤装方法 122
—外部からの火をより多く発生させるための新しい装備方法 124
フリント—半バレルに詰められた数。
重量など。 126
要塞化— 野戦工事における実践的な格言
次元とともに
—パーマネント; さまざまな部分に関する観察、
主な次元 131
—場所の防御を強化する手段に関する考察
外壁などによって、また高所から場所を汚すことによって 133
—ヴォーバンによれば、主要な次元 140
—高さ10~50フィートの壁の寸法 142
FUZES —構成—寸法 143
—任意の範囲の長さを求める方法 144
蛇籠—寸法と製作上の注意 145
ジントライアングル—寸法と重量 146
重力—比重表 146
—重さから物体の大きさを求めるルール
そしてその逆 147
グレープ ショット—ショットを参照してください。
手榴弾— 投擲可能な距離 147
砲術— 抵抗のない媒体で
—善の助けを借りて実践にどこまで応用できるか
実験表 147
—水平面上 148
—傾斜面上 149
—振幅表 151
—自然正弦、自然接線、自然正割の表 152
銃—イギリス軍と外国軍の口径 153
—英国製真鍮の長さと重さ 154
—ディットー・フレンチ・ブラス 155
—イギリスとフランスの鉄についても同様 155
—真鍮からの一撃で射程 156
—ディットー・ツーショット 157
—同上 小さな料金から 157
—大隊からのケースショットの影響 158
—鉄からの範囲 159
—24 Pr からの 5½ インチ シェルも同様です。 160
—Ditto 4⅖ インチ Ditto 12 Pr. 161
—フランス語から 162
火薬— 異なる原料の割合
ヨーロッパの勢力 162
—パースリートでの証明方法 163
—樽のマークによって品質の違いがわかる
区別される 164
—フランスの証明 165
ヘアクロス—寸法と重量 166
手押し車—同上 166
ハンドスパイク—同上 166
ハーネス—馬と人間にも同じことが言える 166
馬— 軍用歩様および馬に関するその他の詳細 166
—引くべき重量を調整する方法 166
—砲兵車両の数 167
榴弾砲—イギリスとフランスの榴弾砲の寸法と重量 168
—異なる権力の性質と権力による性質 169
—範囲 170
レベル調整— 実際の
および見かけのレベル 172
—この表を高さと距離の測定に適用する方法 172
積載量—砲兵車両の積載量規制 174
マガジン— 粉末用 —一時的なマガジンの寸法
バッテリー用 175
—要塞化された場所のための恒久的な 175
マッチ、スロー—構成と作り方
—燃え尽きる時 177
—クイック—綿または梳毛 178
行軍—騎兵と歩兵の歩兵率 178
—3月に圧縮された馬車に支払われる料金 179
—行進中の軍隊のために酒場の経営者に支払われる税金 179
測定単位—イギリスの重量と 180
—古フランス語、Do。 181
—フランス人による新しいシステムとその割合
老人とイギリス人に 182
—フランスの度量衡を英語に換算するための規則 184
—ドイツ語、そして重み 184
—英国フィートとポンド・アヴォアの比率
ヨーロッパの主要都市の 185
—粉末の場合;寸法 185
メカニクス— 異なる力と利点
それぞれが得た 186
マイル—各国のマイルの比較 189
MINE —生産する適切なチャージを見つけるためのルール
必要な発掘または効果 190
—鉱山の規模と建設に関する考察
とそのギャラリー 193
—事前に準備された通常の対地雷システム 197
—一時的な地雷 198
迫撃砲— イギリスの真鍮と鉄の寸法と重量
迫撃砲は射程が非常に長いため 200
—21°で10インチ海上サービスからの範囲 201
—同上 13 インチおよび 10 インチ海上サービス、45° 201
—ディットー・フレンチ、45° 202
—同上 English Land Service、45° 203
—鉄の同上 203
—同上、英国陸務局、真鍮の45° 205
—Ditto Land Service、5½インチ真鍮、15° 205
—Ditto Land Service、10インチと8インチ、10° 206
—Ditto Land Service、10インチと8インチ、15° 206
海軍—各艦艇の兵器の数と性質
陛下の 207
—軍艦の主な寸法、人員、
水の供給 208
兵器—真鍮と鉄の価値 209
PACE —共通および幾何学的長さ 210
平行線—トレンチと樹液を参照
給与表(役員、下士官)
陸軍の将校および兵士 211
PARK —その状況と分布 213
振り子—砲兵用に作られた方法 215
—秒、1/2秒、1/4秒の適切な長さ 215
—任意の数を作るための適切な長さを見つけるためのルール
1分間の振動とその逆 215
PETARDS —寸法と保管場所 216
プラットフォーム —砲と迫撃砲の寸法と材質 216
ポイントブランク—何 217
ポンツーン- 寸法、重量、および1人あたりの装備 217
ポートファイアーズ—作曲—「Time they will Burn」
—ジブラルタルでの作り方 218
規定—配給に関する規則、
海上および陸上サービス向け 219
鉄銃の証拠とその受容の限界 219
—真鍮製です。 220
—榴弾砲、迫撃砲、カロネード砲 221
—水辺で 222
—金属を分析することによって 223
—廃棄された兵器の痕跡 224
配給—陸海軍の食糧 225
—発行に関する規則 226
—兵士の給与から控除されるもの 227
階級—海軍士官と陸軍士官の間 228
反動—野戦用馬車の真鍮製銃、鉄製銃
立っている馬車と荷台に乗った迫撃砲 229
偵察—準備 230
偵察で注目すべき対象—
1 道路 — 2 浅瀬 — 3 洪水 — 4 泉
井戸 — 5 湖沼 — 6 森
森林—7 ヒース—8 運河—9 河川—
10の峠—11の渓谷—12の耕作地—
13 果樹園—14 橋—15 山と
丘陵 — 16 海岸 — 17 要塞 — 18 城
城塞—19 村—20 要塞化されていない都市—
21の要塞都市—22の陣地
リコシェ—射撃ルール 243
ROCKETS —スカイロケットのための作曲 245
—棒付き一般寸法表 245
—彼らが登る高さ 246
ロープ— どのように区別されるか — 重さを求めるルール 247
土嚢—寸法—必要数 248
SAP —それを継続する方法 248
SECANTS —自然正割表 248
砲弾—迫撃砲および榴弾砲の寸法と重量 249
—銃とカロネード砲のために 250
—銃から砲弾を投げる方法
ボアに適合しない 251
—フランス語とドイツ語 251
—粉末の重量と量を求めるための規則
含まれるもの 252
SHOT —山積みの数字を見つけるルール 252
—重量と寸法を求めるためのルール
鉄と鉛の弾丸 253
—イギリスとフランスの鉄球の直径表 255
—さまざまなサービスの英語のケースショット表 256
—海上および陸上任務におけるブドウ弾の表 257
—ブドウの小さな貝殻をキルティングする方法 257
—ホットショットの発射時の注意 258
SINES —自然正弦表 259
音速—距離を計算するための規則 259
スパート―砲兵の給料から、週刊 260
接線—自然接線表 261
—あらゆる兵器に接線尺度を作る方法 262
—イギリス野戦砲兵の1°接線表 262
—ディットー・フレンチ 262
テント— 様々な種類のテントの重量と寸法 262
トン数—船舶のトン数を調べる方法 263
—兵器庫のトン数表 264
—輸送船に搭載可能な士官の手荷物のトン数 266
輸送—船内規則 266
塹壕—包囲戦における接近路の塹壕の寸法 266
—塹壕と平行線の開通と実施の方法 267
TROU DE LOUP —寸法 269
チューブ—錫管の寸法と組成 269
制服—軍隊の主要色
ヨーロッパの各国の制服 271
速度—初期値に関して確認された主要ポイント
異なる長さの銃からの発射速度、および
ウーリッジでの実験により、異なる電荷で 272
—イギリスとフランスの砲兵の初速度 273
通気口—直径 275
重み付け表- 英語とフランス語の表 276
風圧—イギリスとフランスの砲兵の 276
木材—砲兵車の製造に使用 277
[ページ i]

序文。
著作の分量が膨れ上がることを恐れて、多くの有用な情報を却下せざるを得なかったと言いながら、序文という形で自ら数ページを割くスペースをなんとか確保しようとする者は、いくぶん虚栄心の強い人物と映るに違いない。しかし、この小著の編纂者が意図した目的を誤解されることのないよう、その目的について少し説明を加えることが絶対に必要であると考えた。この軍事メモの小集は、もともと編纂者自身の懐具合を満足させるため、職務遂行の助けとするためだけに作られたものであった。しかし、多くの軍人の友人も同様にこうした援助を必要としており、集める手間をかけない分には喜んで数シリングを払うだろうと、編纂者は考えた。砲兵連隊に初めて入隊した若者たちが、この小著で提供される情報のごく一部しか含まれていない原稿に1ギニーを支払うのを、編纂者は目にしたことがある。そのメリットの大部分はその携帯性から得られるという確信から、 [ページ ii]限られた範囲に多くのことを詰め込む努力が払われました。しかし、この力があまりに発揮されて全体が理解不能になっていないことを願います。しかし、編纂者は未教育者に教えを伝えることではなく、事実に関する参考資料をいくつか作成することを目的としているだけであることをご理解ください。これは、すでに軍事分野に精通している人であれば適用できる知識を持っているものと想定されます。したがって、これらの事柄について全く無知な人には、彼は何も言うことはありません。彼らはより分厚い文献を参照する必要があります。アルファベット順の配列は、この目的に最も適した方法であるとして採用されたに過ぎません。軍事辞書のような形式は意図されていないため、編纂者の意図に反して、すべての用語は省略されています。同様に、図版への参照も一切避けられています。図版はコストを大幅に増加させるだけでなく、本の分量も増やすからです。編纂者がこの小規模なコレクションを作成するにあたり、主に困難に直面したのは、当初の計画の範囲内に収めることでした。掲載を強く求めた大量の有用な情報は、不本意ながら却下された。引用したのは、一般的に最も優れているとされる著者の著作のみであり、編纂者は経験豊富な友人から収集できた情報を最大限に活用したが、自らの見解は一切提供しなかった。フランス軍 [ページ iii]わが国の軍事システムに直接限定されないあらゆる主題については、主に著名な著者の助言を参考にしました。彼らの兵器に関する記述は、わが国の兵器との比較に役立ち、また彼らの軍事関係の著作を読む習慣のある人にとっても参考資料となるでしょう。編纂者は、いかなる場合も、自らが改良点を思いついたり、わが国の軍事システムの欠陥と呼べると思われる点を指摘したりしようとはしていません。ただ、わが国の軍事における現在の慣行に基づいてあらゆる情報を提供しています。しかしながら、いつの日かこの小冊子が完全に時代遅れとなり、より簡素なシステムに基づき、あらゆる戦争においてこの国が最も期待するであろう特定の軍事活動により適した、より優れたものとなることを期待せずにはいられません。

我が軍が戦場を見つけるのは、願わくば海の向こう側だけだろう。それゆえ、敵の海岸に大量の兵器やその他の軍需品を積み込む際にしばしば起こる、乗船に伴う不便や混乱に常に晒されることになる。だからこそ、我が軍の軍事体系が最も簡素で、かつ最もよく整備されたものであることが、いかに重要か。フランスの砲兵体系は [4ページ目]1765年という遥か昔に確立され、国のあらゆる秩序を覆し、政府自身でさえ耐えられなかった激動の時代においても、厳格に守られてきました。それゆえ、我々はこの制度に利点があると結論づけ、たとえ敵国であっても、その利点を活用すべきです。彼らは制度を策定した際に、最も詳細な点において最も正確な対応が必要であることを理解しました。そして、この原則を非常に厳格に守ってきたため、馬車やその他の軍用機械を製造する複数の兵器庫を有していても、馬車の様々な部品は、国の対極にあるこれらの複数の兵器庫から集められ、まるですべて同じ工場で製造され、取り付けられたかのように、結合して馬車を形成することができます。改良を行ったと想像するすべての人が、それを我々の軍隊に導入することが許されている限り、我々にはそのようなことはあり得ません。

近年、コングリーブ大佐の指導の下、火薬は著しく改良されたため、古い火薬を用いた実験は今ではほとんど役に立たなくなっている。そのため、改良された火薬が使用されるようになってから確認された、様々な種類の兵器の射程表が掲載されているだけである。実験は日々行われているので、 [ページ v]ウーリッジやその他の場所では、兵器のそれぞれの種類の後に白紙のページを綴じ、その要約を挿入することがあります。

編纂者は、特に二つの種類の人々に語りかける必要があると考えている。おそらく彼らは読者の全員に当てはまるだろう。第一に、この小冊子はもっと充実した内容にできたはずだと考える人々。第二に、こうした事柄に関する情報が公に提供されるのは不適切だと考える人々。前者に対しては、その指摘の正当性を認めつつも、ウーリッジで情報を収集する際に彼ら自身が経験したであろう非常に大きな困難を思い起こさせる必要がある。後者に対しては、敵にも味方にも情報を与える可能性のある出版物に対する反対意見は十分承知しているが、この小冊子にそのような害を及ぼすほど重大な内容が含まれているとは考えていない、と述べるにとどめておく。そして、ヨーロッパで最も強力で組織化された軍事国家たちも、このような秘密主義は無知の確かな証であるという見解を支持している。

初版が絶版となったため、編集者はあらゆる訂正や、友人たちが親切にも必要に応じて提案してくれたいくつかの追加によって、本書を改善するよう努めた。しかし、彼が貴重な情報の多くを無視したとしても、 [ページvi]彼がこの本を勧められたのは、その価値が理解できなかったからではなく、彼の小さな本に載せるスペースよりも物事の詳細に踏み込んだからである。なぜなら、その本は教えるのではなく、ただ思い出させるだけだと主張しているからである。

編纂者は本版に、目次に短いアルファベット順の索引を付記した。主題のアルファベット順の配列を考えると、これは不要と思われるかもしれない。しかし、本書のある部分から別の部分への参照が多用されることは避けられない。加えて、編纂者は友人が所蔵する写本のいくつかに、(その目的のために綴じられた紙に記された)手書きの注釈が見られ、それらは本書本文にも見られることに気づいた。編纂者はこれを、読者が一目で内容全体を把握できるようにすることで、おそらく解消できる原因であると考えている。

[7ページ]

弾薬 —イギリス軍の小火器用弾薬は、通常、半砲身に詰められており、各砲身にはマスケット銃1000発、またはカービン銃1500発の弾薬が収められています。弾薬貨車にはこの半砲身が20発、弾薬カートには12発積載されます。これらの重量は1丁あたり約1 cwt(約1キロワット)です。

歩兵の弾薬箱は様々な形や大きさがあり、どのような弾薬が入るか正確には分かりませんが、ほとんどの弾薬箱は60発の弾薬を装填できます。 「カートリッジ」の項を参照。また、「砲兵弾薬」については、 「砲兵」の項を参照。野戦、包囲戦、要塞の防衛に用いられる。

フランス軍は、箱や砲身を使わず、木製の仕切りを使ってすべての弾薬を荷車に積み込んでいる。12ポンド砲と8ポンド砲の荷車にはそれぞれ14,000発のマスケット銃弾が積載されるが、4ポンド砲の荷車にはそれぞれ12,000発しか積載されない。

AMMUZETTE — 「Guns」という単語を参照してください。[8ページ]

エプロン—銃用の鉛製—

 ポンド。    オンス。     

大きい(長さ1フィート) 幅10インチ 8 4 重さ。
小—6インチ”— 4½インチ 1 12 ”
武器—小型

自然。 バレルの長さ

ボア の直径 。 ボールの重量
証拠。 サービス。
フィート で。 インチ。 オンス。 博士 グラム オンス。 博士 グラム
壁のピース 4 6 .98 2  8  8 2  5  7
マスケット 3 6 .76 1  6  11.5 1  1 12
カービン 3 0 .61 0 14 13 0 12 11
ピストル、一般 1 2 .58 0  8 15 0  7  4½
” カービン銃 1 0 .66 0 14 13 0 12 11
砲兵隊— 野戦で軍隊に随伴し、要塞を包囲し、あるいは防衛するために必要な砲兵隊と弾薬の比率は、非常に多くの状況に依存するため、この種の小著で、この問題に関するガイドとして満足のいく規則を定めることはほとんど不可能である。しかし、以下の原則は最も権威のある人々から引用されている。

1.野戦砲兵隊。

野戦砲兵は大隊砲、公園砲、騎馬砲に分かれています。[9ページ]

大隊砲には、戦列連隊に配属されるすべての軽砲が含まれ、すべての機動に随伴して連隊を掩蔽および支援します。

ヨーロッパのさまざまな国では、歩兵大隊に次のような野戦兵器を装備させています。

フランス語 二 4 氏。 あたり 大隊。
英語 二 6 ” ” ”
デンマーク人 二 3 ” ” ”
オーストリア人 三つ 6 ” ” ”
プロイセン人 二 6 最前線の一個大隊に配属。
” 二 3 第二線の大隊に配属。
ハノーヴァー人 二 3 大隊あたり数名。
パルク砲兵隊は、あらゆる種類の野戦兵器から構成される。それは陣地砲台を形成すること、すなわち、大隊砲のように軍の機動の細部にまで従うことなく、軍全体の動きを支援する上で最大の効果を発揮できる有利な位置を占めることを目的としている。野戦において軍に配属される砲兵隊は、通常、軍の大隊数の2倍の数の、活動する国に応じて異なる種類の砲で構成される。グリボーヴァルは、砲兵隊と大隊の比率を次のように提案している。 [10ページ]公園または予備用の砲兵には、それぞれ異なる種類の砲兵、すなわち12連装砲の5分の3、8連装砲の5分の2、4連装砲の5分の3、あるいは大隊砲用の予備砲が配備される。困難な状況では、12連装砲の1/4、8連装砲の1/2、4連装砲の1/4といった具合になることもあると彼は言う。また、大砲100門につき榴弾砲4門を割り当てるとしているが、この榴弾砲の割合は一般に与えられている割合よりもはるかに少ない。

騎馬砲兵隊。フランスの騎馬砲兵隊は、8 門の砲と 6 インチ榴弾砲で構成されています。

イギリスの軽12連装榴弾砲、軽6連装榴弾砲、軽5.5インチ榴弾砲。

オーストリアとプロイセンの騎馬砲兵は、6門のPrs. 榴弾砲と5½インチ榴弾砲を保有しています。[11ページ]

野戦砲兵用の弾薬。

野戦兵器の種類ごとの弾薬と物資の割合、すなわち、中型12連装砲1門[1]、 重型6連装砲1門、軽型6連装砲2門(これらは常に歩兵大隊に配備される)、および5.5インチ榴弾砲1門。これはイギリス軍の規定による。

A = 12ポンド中砲、
B = 6ポンド重砲、
C = 2門の6ポンド軽砲、
D = 5.5インチ榴弾砲。

弾薬と物資の割合
。 あ B C D
木の底に固定されたショット— 場合 24 30 68 24
” ”  ” ” ” ラウンド 120 120 188 —
貝殻 修理済み — — — 24
” 空の — — — 120
死骸 修理済み — — — 4
 粉末を
 詰めたフランネルのカートリッジ。
4ポンド 120 — — —
3.5インチ 24 — — —
2¼インチ — 120 — —
2」 — 30 — —
1.5インチ — — 188 —
1¼インチ — — 68 —
10オンス — — 125 —
1ポンド — — — 144
12オンス — — — 28
カートリッジ、フランネル、空 12 12 100 12
破裂紙10オンス — — — 120
錫管—NP 172 178 560 190
ポートファイアー – 長い小さい 18 18 62 18
信管—駆動 — — — 132
粉末、砕いたポンド。 — — —[12ページ] 1/2
移動用馬車と荷馬車 1 1 2 1
鉛のエプロン 1 1 2 1
スポンジ(譜表とヘッド付き) 2 2 4 2
ワッドフック、ステーブ付き 1 1 2 —
ハンドスパイク – トラバース 2 2 4 2
タンピオン(カラー付き) 1 1 2 1
トラック—ハノーバー — 1 2 1
サイドアームを縛るためのストラップ — 3 8 —
防水シート—銃 1 1 2 1
”柔軟 — 1 2 1
雄鶏付きリンストック 1 1 2 1
ピン付きの引きロープ—Prs. 2 2 4 2
南京錠、鍵付き 2 3 5 4
マッチ—スロー—ポンド。 28 28 56 28
スパイク  春 1 1 2 1
一般 2 2 4 2
通気孔用パンチ 2 2 4 2
樽が動く 1 1 1 1
チェーントレースのカップル — 6 12 6
スペアヘッド – スポンジ 1 1 2 1
 ” ” —ランマー 1 1 2 1
ハンマー、爪 1 1 2 1
プライミングアイロンセット 1 1 2 1
ドラフトチェーン(ペア) 2 1 3 2
火薬庫—NP — 1 — —
水バケツ – フランス語 1 1 2 1
塹壕掘り道具 – 斧、伐採 1 1 2 1
” ” ”  選ぶ 1 1 2 1
” ” チラシ 1 1 2 1
” ” スペード 2 2 4 2
マーリン、タール塗り、かせ 1 1 1 1
より糸、「 —する」。 — 1 — —
ハンブロのライン — してください。 1 1 1 1[13ページ]
パックスレッド —ポンド。 — 1 — —
グリース ファーキンス 1 1 1 1
” 箱 3 2 3 3
牛脂 ポンド。 1 1 2 1
ランタン、暗い 1 1 1 1
ジャッキ、持ち上げ 1 1 1 1
”ハンドスクリュー 1 — — —
輪と塗装されたカバーを備えたワゴン、
フランドル模様 2  1  1  2 
ワッドミルティルツ 2 1 1 2
なめし皮 2 1 1 2
メンズハーネス 12個セット 1 1 — —
馬具

新しい
パターン ロープ(6本)セット 1 — — —
チェーン(6個)セット — 1 — —
トレース(4回)セット 2 1 1 1
一般的な
パターン ティル — — 2 —
トレース — — 4 —
ビットホルター — — 6 —
欲しいもの 2 1 3 2
麻のホルター 14 10 10 12
鞭、長い — — 2 —
” 、 短い 7 5 2 6
鼻袋 14 10 10 12
トウモロコシの袋 3 2 3 3
飼料用コード、セット 3 2 3 3
ロープ、タール塗り、2インチ、ファゾム — — 10 —
ワゴン用 リンチピン 2 1 1 2
クラウツ – ボディ 4 2 2 4
 ” —リンチ 4 2 2 4
クラウトネイル、6d。 64 32 32 64
予備のレードルの棒 1 1 1 1
銃の代わりに馬 6 6 6 4[14ページ]
 ” 、ワゴン用 8 4 4 8
銃の運転手 3 3 2 2
 ” 、ワゴン用 4 2 1 4
チューブボックス(ストラップ付き) 2 2 4 2
ポートファイアスティック 2 2 4 2
切断ナイフ 1 1 2 1
絵を描くこと。 — — — 1
はさみ、ペア 1 1 2 1
梳毛、オンス 1/2 1/2 1 1/2
針(大) 2 2 4 2
革のカルトゥーシュ 2 2 4 2

粉末用の銅製計量器。 4オンス。 1 1 2 —
2」 — 1 — —
1」 1 1 2 —
4ポンドから¼オンスのセット — — — 1
親指ストール 2 2 4 2
垂直 — — — 1
真鍮の四分円 — — — 1
対角スケール — — — 1
銅製の塩入れ箱 — — — 1
引き抜き信管用ペンチ、ペア — — — 1
シープスキン — — — 2
銅の漏斗 — — — 1
鋼鉄製コンパス、ペア — — — 1
見た、テナント — — — 1
ヤスリ、四角 — — — 3
半円形やすり — — — 2
亜麻、オンス。 — — — 8
牽引、オンス。 — — — 4
のこぎりセット — — — 1
木槌 — — — 1
セッターはそうします。 — — — 2[15ページ]
この割合の弾薬と物資は次のように運搬されます。

 12 Pr.
Medium、 荷馬車は備えていないが[2] 、2台の荷馬車が連結されている。
弾薬と物資は彼らの間で分配された。

 6 Pr.
ヘビー、 36発の弾丸と14発のケースショットをリンバーボックスに収納し、
小さな物資は1台の荷馬車に積まれ、残りは1台の荷馬車で運ばれます。

 6 Pr.
ライト、 34発の弾丸と16発のケースショットを携行し、
小規模店舗は即時のサービスのために、また、別々に活動する場合は、
小規模店舗は即時のサービスのために、また、別々に活動する場合は、
残りの荷物を運ぶために荷馬車が連結されている必要がある。しかし2台の6
大隊に配属された拿捕兵は、荷車を 1 台だけ持っています。

5½ハウアー
ライト、 砲弾22発、ケースショット4個、砲弾2個がリンバーボックスに収納されており、
即時のサービスに必要な小規模な店舗などがあり、
残りを運ぶために2台の荷馬車が連結されていました。
[16ページ]

一般的な弾薬運搬車には、それぞれの性質に応じた以下の数の弾薬が積載されています。

自然。
ラウンド数
12 名様用。ミディアムサイズ。 72 
 6 Prs. ヘビー。 120 
 6 Prs. ライト。 156 
 3名様 288 
 5½ ハウル。 72 
 8 ハウアー。 24 
マスケット銃。 20000 [3]
しかし、イングランドのさまざまな砲兵隊に所属する荷馬車は、古い制度から変更されておらず、次の人数だけを積んで 3 頭の馬に引かれています。[17ページ]

自然。
ラウンド数
12 名様用。ミディアムサイズ。 66
 6 Prs. ヘビー。 120
 6 Prs. ライト。 138
 5½ ハウル。 60
特殊な荷車を持つ騎馬砲兵は、次のように弾薬を運搬します。

 ショット。    貝殻。     死骸。    

各ピース の合計数 。
ラウンド。 場合。
12 Prs. 軽量、リムバー 12  4  4 —  92
1台のワゴンに「」を 52 10 10 —
6 Prs. ライト、リンバー 32  8 — — 150
1台のワゴンで 97 13 — —
5½インチ。リンバーはどうですか — 5 13 —  73
1台のワゴンで — 10 41 4
3 Prs. ヘビー、カリキュラム   6  6 — — 136
弾薬カート 100 24 — —
[18ページ]異なる戦力レベルで、非常に異なる国で活動する 4 つのフランス軍に必要な砲兵、弾薬、車両の割合は次の通りで 、グリボーヴァルの著書『砲兵に関する書』から抜粋したものです 。

軍隊。 フランダース。 モーゼル。 ライン川。 イタリア。
大隊数 80 28 32 48
大隊砲 160 56 64 94
公園または
保護区 12 名様 32 12 12 16
8人 72 24 32 48
4名様 40 16 16 24
6インチ榴弾砲 8 4 4 8
兵器の総数 312 112 128 192

予備品
を含む
兵器の運搬 12 名様 36 14 14 18
8人 81 27 36 54
4名様 215 78 90 129
6インチ榴弾砲 9 5 5 9
総兵器搭載量 341 124 145 210
弾薬
車 12 名様 96 36 36 48
8人 144 48 64 96
4名様 200 72 80 120
6インチ榴弾砲 24 12 8 24
ムスク弾薬用の貨車 120 42 48 72
公園用の大型ワゴン 10 6 5 8
弾薬貨車の総数 594 216 241 368[19ページ]
スミスの鍛冶場 大きい 14 3 3 8
小さい — 3 3 4
合計鍛冶場数 14 6 6 12
ワゴン
​ 塹壕掘り
用具 砲兵 27 10 12 16
軍隊 20 10 12 16
車両
​ 新しい鉄 6 3 3 6
スプリングキャリッジ用の木材 9 3 3 7

 ポンツーン用のアンカーなど 4 2 2 4
店舗台数合計 66 28 32 49
馬車の上のポンツーン 36 18 18 36
予備のポンツーン客車 4 2 2 4
ポンツーン客車総数 40 20 20 40

要約。

兵器——個 312 112 128 192
馬車 弾薬 594 216 241 368
兵器車 141 124 145 210
店 66 28 32 49
ポンツーン 40 20 20 40
鍛冶場 14 6 6 12
車両総数 1055 394 144 679
[20ページ]この表には、各軍の兵器の搭載割合に加え、各兵器に搭載される弾薬の量、そして歩兵が携行するマスケット銃弾の弾数も記載されている。フランス軍の各荷馬車にはそれぞれ弾薬と物資の搭載割合が決まっており、各種類の荷馬車の数を知るだけで、各軍の弾薬と物資の量を算出できる。以下は、フランス軍の各野戦兵器に通常搭載される荷馬車の数と、各荷馬車に搭載される弾薬の量である。

兵器の性質とそれぞれに搭載される
貨車の数。
ショット。
各ピース の合計です。
ラウンド。 場合。
12 Pr. のキャリッジ 9 — 213
3台のワゴン(それぞれに 48 20
8 Pr. のキャリッジ 9 — 193
2台のワゴン(それぞれに 62 30
4 Pr. キャリッジ上 18 — 168
1台のワゴン( 100 50
6インチ榴弾砲(砲台搭載) — 4 160
3台のワゴン(それぞれに シェル 3
49
[21ページ]フランスの砲兵馬車は、ウルストと呼ばれ、8 ポンド砲の場合は 57 発、6 インチ榴弾砲の場合は 30 発を搭載します。

以下は、ヨーロッパの各国の各種野砲 1 門あたりの弾薬の割合です。

自然。 オーストリア人 プロイセン人 デンマーク人。 ハノーヴァー人。
場合。 ラウンド。 場合。 ラウンド。 場合。 ラウンド。 場合。 ラウンド。
 3 Pr. 40 184 20  90 58 177 50 150
 6インチ 36 176 30 150 53 166 48 144
12インチ 44  94 20 130 44 128 50 150
榴弾砲 16  90 20  60 25  76 30 120
野戦砲兵の動きと位置について。

大隊砲。以下は、大隊砲が所属する大隊の最も重要な機動において通常とる位置である。しかし、イギリス軍における歩兵の移動に関する規定では、所属する砲兵の相対的な位置関係がほとんど考慮されていないため、この点に関する指針となるものは存在しない。閲兵式においては、両砲とも連隊の右翼に整列し、砲架を下ろして戦闘準備を整える。砲は10ヤード(約10メートル)間隔で配置する [22ページ]左の大砲は擲弾兵の右側から10ヤード離して配置する。第7、8大砲は連隊の最前列に沿って整列する。士官は整列命令に従い、自分の大砲の間の間隔の前に立ち、連隊の士官たちと整列する。連隊が縦隊に分かれて隊列を組むとき、大砲は櫂櫂を起こし、2丁ずつ左に旋回する。兵士たちは行進隊列を作り、士官は大砲の前を回る。単一大隊の閲兵式では、2度目に行進した後、大砲のうち1丁が後方に行き、縦隊の最後尾につくのが通例である。連隊が左に旋回して隊列に入るとき、大砲が離れている場合は右側に櫂櫂を起こすが、両方が右側にある場合は、右に旋回させてから櫂櫂を起こさなければならない。その後、手で引き上げます。こうすることで、ピボットの視界を遮ってラインの正しい形成を妨げないようにします。

整列中の砲兵の射撃参加は通常、連隊の射撃に先立ち、各砲から2発ずつ発射する。しかし、これは通常、閲兵式の前に指揮官によって指示される。閲兵式中の連隊と共に整列している砲兵は常に間隔をあけて射撃を行うが、より重要な状況においては、敵をより効果的に攻撃できる有利な地点があれば、それを利用すべきである。 [23ページ]縦隊の場合、前進時は砲は前線に、後退時は後線に配置する。複数個大隊からなる縦隊が開かれた縦隊を形成する場合、中央の砲は師団間に配置し、縦隊が閉じられた場合は、これらの砲は所属連隊を率いる師団の外側の側面に移動させる。戦線変更、あるいは縦隊から戦列を形成する際に、新たな戦列を形成する大隊の側面に砲が配置されている場合は、隊列を援護するために射撃を開始する。

交代翼または師団で退却する場合、砲は常に敵に最も近い部隊と共に配置されなければならない。つまり、前半部隊と共に退却するのではなく、後半部隊が退却するまでその位置に留まり、その後は前半部隊の側面までのみ退却する。そして、後半部隊が再び退却すると、砲も同様に退却するが、その距離は後半部隊までに限られ、以下同様に退却を続ける。

方陣の場合、大砲は最も弱い角度に配置され、砲兵は方陣の中央に配置されます。前方の橋や隘路を通過する際は、大砲が最初に通過します。ただし、特定の位置からより効果的に隘路を側面攻撃し、歩兵の進路をより容易に確保できる場合は除き ます。一方、隘路を通って退却する際は、大砲は退却の援護のために最後まで残ります。[24ページ]

一般規則。—砲は、大隊のあらゆる動きに、特に所属する部隊にほとんど例外なく従うべきである。このようにして砲の動きを連隊の動きに合わせる際には、砲が戦列の部隊と絡み合ったり、旋回軸の視界を妨げて戦列の正しい形成を妨げたりしないように細心の注意を払うべきである。常に敵を最も悩ませ、所属する部隊を守れる位置を狙うべきである。

いつでも、いくつかの連隊の大隊砲が統合されて旅団に編成された場合、その動きは公園の砲兵の動きと同じになります。

公園の砲兵隊。

公園砲兵は、軍の戦力と前線の規模に応じて、通常4個または6個旅団と予備に分割されます。予備は公園の約6分の1で構成され、最前線の後方に配置されます。軍の前線が広範囲にわたる場合は、予備を分割する必要があります。

以下は砲兵旅団の移動と配置に関する主な規則です。そのほとんどは 、新しい軍事著作 である「アイド・メモワール」から翻訳されたものです。[25ページ]

防御陣地においては、敵を最も遠くから発見でき、かつ敵の前線全体を見通せる地点に、最大口径の大砲を配置する必要がある。

攻撃陣地においては、戦線の最も弱い地点を最大口径の大砲で強化し、敵から最も遠い地点にしなければならない。前進する軍隊が側面を守れる高地は大砲で守らなければならず、そこから敵に斜めから砲撃しなければならない。

大砲はできる限り遮蔽物の下に設置すべきである。高所では、大砲を後方に置き、砲口が上からしか見えないようにすれば簡単に実現できる。適切な注意を払えば、土手や溝など、この目的のために利用できる状況はどこにでもある。

野戦の砲台は、砲撃開始の瞬間まで敵に発見されてはならない。砲台は少し後退させれば隠蔽できるし、特に騎兵などの部隊に援護されれば隠蔽できる。

砲兵指揮官が野戦砲兵隊の適切な配置を決めるためには、当然のことながら、意図する効果、支援する部隊、攻撃する地点についてよく知っておく必要がある。そうすれば、砲兵指揮官は野戦砲兵隊の適切な配置を決めることができる。[26ページ] 砲兵隊は歩兵の支援にあたるが、歩兵の邪魔にならないように配置すること。また、戦列がより有利に占領できるような状況に砲兵を配置しないこと。砲台をあまり早く、また露出させすぎないこと。地形を利用して前面と側面を防御すること。そして、何らかの決定的な効果を期待しない限り、部隊の守備からあまり遠く離れないこと。

大砲は、敵の位置と、敵が攻撃時に通過するすべての地面に十字砲火を生じるように配置する必要があります。

敵の砲火を分散させるために、砲台は多数の小さな砲台に分かれていなければならない。同時​​に、これらすべての砲台からの砲火は、いつでも統合して、特定の地点に対して決定的な効果を生み出すことができる。

これらの地点は敵のデブーシュであり、縦隊の先頭であり、最前線における最弱点である。敵陣地への攻撃においては、砲撃の十字砲火が部隊の前進を阻害する前に、直接的に行われる必要がある。また、攻撃地点に最も近い敵陣地を妨害し、その地点への砲撃を継続することがもはや安全ではなくなるようにする必要がある。

砲兵からの射撃は、常に敵をその最大の大きさの方向に撃つべきである。したがって、斜めまたは側面の線ではなく、正面の縦隊を撃つべきである。[27ページ]

砲兵隊は、敵の砲台によって斜め、側面、または後方から占領されるような状況に決して配置してはならない。ただし、このような状況下で、砲が破壊されるか戦闘不能になる前に、最も決定的な効果を生み出す見込みがある位置に配置する場合は別である。

最も高い位置は砲兵にとって最適ではないが、約 600 の距離で 30 または 40 ヤードの高さから、また 200 の距離で約 16 ヤードの高さから最大の効果が得られる可能性がある。

戦列の後方の陣地は砲兵にとって不利である。なぜなら、兵士たちに警戒心を抱かせ、敵の砲火に二重の標的を与えるからである。

移動しそうにないが、戦闘中ずっと効果を発揮できる位置が好ましい。そのような位置では、車両を覆うために 2 フィートまたは 3 フィートの高さの低い胸壁を張ることができる。

敵軍が包囲され、砲兵隊が露出している場合、または敵軍の砲火による被害が自軍の砲火による被害より大きければ、砲兵隊は砲兵隊に対して決して発砲してはならない。

最後の最後まで銃を手放してはならない。最後の一撃こそが最も破壊力を持つ。もしかしたらそれがあなたを救い、栄光の冠を授けるかもしれない。[28ページ]

イギリスの砲兵部隊は、中型 12 ポンド砲 4 門、デサグリエ 6 ポンド砲 4 門、軽量 5.5 インチ榴弾砲 4 門で構成されています。

以下は、1798 年に決定された、3 個旅団が異なる部隊と行動する場合の行軍ルートの提案です。

12ポンド。 6ポンド。 榴弾砲。
銃4丁。 銃4丁。 榴弾砲4門。
弾薬貨車8台。 弾薬貨車4台。 弾薬貨車8台。
1 台のフォージカート。 1 台のフォージカート。 1 台のフォージカート。
1 ストアワゴン、 1 ストアワゴン。 1 ストアワゴン。
少量の
備品および予備品。
予備ワゴン1台。 予備ワゴン1台。 予備ワゴン1台。
パンを運ぶ荷馬車1台 パン用のワゴン1台 パンを積んだワゴン1台
そしてオート麦。 そしてオート麦。 そしてオート麦。
マスケット銃を積んだ荷車2台 マスケット銃を積んだ荷車2台 マスケット銃を積んだ荷車2台
ボールカートリッジ。 ボールカートリッジ。 ボールカートリッジ。
合計18 合計14 合計18
[29ページ]

2d.包囲戦用の大砲と弾薬。

このサービスの見積りを作成する際に必要な考慮事項。

包囲される場所の勢力、位置、状況。複数回の攻撃を受ける可能性があるかどうか。包囲線や反包囲線が必要かどうか。高台、岩だらけの土地、良い土地、湿地などに位置するかどうか。川によって隔てられているか、それとも川のすぐ近くにあるか。川が氾濫を起こす可能性があるかどうか。川の大きさと深さ。森の近くにあるかどうか、そしてその森から束石や蛇籠などの資材を調達できるかどうか。包囲戦に必要な物資を補給するための集積所を設置できる他の場所の近くにあるかどうか。これらの状況はそれぞれ、包囲戦に必要な物資の配分などに非常に大きな違いを生む。2回の攻撃を受ける可能性のある場所には、1回の攻撃しか受けない場所よりも多くの砲兵が必要となる。後者の場合、兵器の数は少なくなるが、各兵器の弾薬はより多くなければならない。防衛線が必要な場合、大量の塹壕掘り道具と多数の野砲部隊が必要となる。包囲された町の近隣に駐屯地があり、そこから容易に補給を受けられる場合は、これを第二の選択肢とみなすべきである。 [30ページ]公園:包囲された場所に一度に大量の物資を運ぶ必要はない。包囲された場所に展開する砲台の数に応じて、必要な兵器の数が決まる。そして、その兵器の量に応じて、砲兵隊が使用する各種の物資の割合が決まる。

包囲すべき城壁のあらゆる側面を側面から攻撃し、攻城兵の接近を妨害する砲台がなければならない。これらの砲台、少なくとも砲兵に割り当てられる部分は、側面攻撃する城壁の幅よりも大幅に長くする必要はない。したがって、5門から6門の重砲を配備するだけで十分である。これに、隠蔽通路の反対側の分岐を側面から攻撃するための2門を加えると、跳弾砲台1門あたりの砲の数が決まる。突破砲台はその位置から、最初の、あるいは跳弾砲台からの砲火を効果的に隠蔽するため、通常は同じ砲兵が両方の砲台を兼ねる。このように重砲の数を確定した後、残りの兵装は、それに対する以下の比率で配備される。

迫撃砲。 —8インチから13インチ、約1/3。
小型迫撃砲。—約1/4インチ。
重榴弾砲。—約 1/8。
要求される兵器の種類が少ないほど、さまざまなものから生じる混乱を大幅に防ぐことができるので、 [31ページ]弾薬と物資の性質が結びついています。

兵器の運搬車は一般的に次のとおりです。

24 Prs. 5/6 銃の数。
迫撃砲の場合、迫撃砲の数の⁸/₉。
榴弾砲の場合、榴弾砲の数の3/4。
石製モルタルの場合、モルタルの数×⁶/₇。
兵器用の弾薬。

24連装 – 銃1丁あたり1000発。
迫撃砲、榴弾砲、石臼砲、
兵器1個あたり800発。
ダートゥビエ。
1794 年に予定されていたリール包囲戦に備えて、非常に有能な将校が次の割合の砲兵と弾薬を要求しました。リールは 2 度の攻撃を受ける可能性があると考えられていました。

64-24連装砲(砲架付き)、砲1門あたり50発の射撃、
包囲戦全体にわたって1日あたり半分が跳弾され、
2ポンドの火薬を入れ、残りの半分はフルチャージ
8ポンド。
ケースとグレープショット、銃1丁につき1発、1日1発
各: 1 回の充電につき 6 ポンド。[32ページ]
銃用の砲弾、2発入ります。
ケース、グレープ、シェル用のフランネル カートリッジ。
ケースとブドウ用のブリキのチューブ。
丸い弾を発射するためのクイルチューブ。
スペア、⅒。
28〜10インチ迫撃砲、鉄製の台座、1日あたり50発
包囲戦全体にわたって、3 ポンドの火薬量、つまり 2 ポンド 10 オンス。
破裂するため。
ポンド弾— 1回の装填につき100発、迫撃砲1門につき50発
1日あたり10個の迫撃砲を7日間使用。各迫撃砲の火薬は2ポンド。
手榴弾— 1回の装填につき25発。ポンド弾と同じ。
死体、丸ごと— 1 日あたり、乳鉢 1 個につき 1 個。
8インチ榴弾砲(移動式車両搭載)
包囲中、1日あたり各30発の砲弾。
ケースショット- 1日あたり5ラウンド。
死骸— 1 日あたり 1 個。
火薬- 1 回の充填につき 1 ポンド。破裂時は 1 ポンド 14 オンス。
20〜5½インチの迫撃砲、木製ベッド上。
包囲戦全体にわたって、1日あたり各50発の砲弾。
破裂には8〜12オンスを充填します。
フランネルカートリッジ、弾数は 1/3 です。[33ページ]
同じ割合の錫管。
ポートファイア、チューブ付き弾の数が半分。
信管、余裕が1/5。
マッチ、50 cwt。
24人乗り用予備車両7台。
悪魔の馬車2台。
スリングカート6台。
ブロック車両6両。
鍛冶カート3台。
3 貨車に鉄と石炭を積んでおく。
3つの三角形のジンが完成しました。
実験用テント6つ。
小さな爆竹2枚。
ショットを加熱するための4つの格子。
包囲戦における砲兵の配置について。

包囲戦における砲兵の最初の配置は、第一線付近に築かれた各砲台に砲撃を集中させ、攻撃を受ける前面の陣地の正面を側面から攻撃し、接近路から砲撃を行うというものである。これらの第一砲台が有利な位置にある場合、砲兵は包囲戦のほぼ全期間、そこに留まることができ、包囲軍が斜面の頂上に到達するまで、他の砲台を設置する手間を省くことができる。しかしながら、地域的な事情により、包囲軍が第一砲台にとって最も有利な位置を利用できないことがしばしばある。第一砲台には4つの状況がある。 [34ページ]これにより、どの面の防御も破壊できるが、すべての面から同じように容易に破壊できるわけではない。最初の砲台にとって最適な位置は、側面攻撃する敵の面の延長線に対して垂直である。この位置に到達できない場合、次に考えられるのは、延長線上で面を逆にたどる側であり、角度はできる限り小さくすることである。これらの両方の位置から、砲は跳弾射撃を行う必要がある。しかし、地形やその他の状況により、跳弾砲台をこれらのどちらかに配置することができない場合は、面の火災を破壊する砲台は延長線の外に配置し、面の外側に斜めに射撃する必要がある。有利な点として最後の位置は、面と真平行である。これらの最後の 2 つの位置から、砲は全弾射撃を行う必要がある。

包囲戦における第二の、あるいは突破砲台は、通常、斜面の頂上、隠蔽通路から15フィートまたは18フィート以内に配置されます。この空間は肩章として機能します。しかし、この位置から掩蔽通路の基部が見えない場合は、溝のカウンタースケルプから15フィート以内の隠蔽通路に設置する必要があります。これらの砲台は、防壁の底と同じ高さまで埋め込む必要があり、実際には斜面または隠蔽通路に設置するために敷設された砲台を拡張したものに過ぎません。斜面の頂上に砲台を建設する際には、防壁が斜面に直接開かないように注意する必要があります。 [35ページ]隠蔽通路の横断線。これらの砲台は少なくとも4門の大砲で構成する。横断線間の幅が4門の大砲を収容できない場合は、通常の距離で、大砲同士を15フィートまたは12フィートに近づける必要がある。

迫撃砲は通常、まず第一砲台に隣接して、あるいは陣地の柱頭の延長上に、砲台として配置されます。この位置であれば、迫撃砲は最も露出が少ないことは間違いありません。半平行線が確立されると、その末端に榴弾砲の砲台が配置され、隠蔽通路の分岐を縦射します。さらに第三平行線が確立されると、榴弾砲と石造りの迫撃砲の砲台が堡塁の側面を縦射し、隠蔽通路にいる包囲された敵を妨害します。斜面の陣地には、石造りの迫撃砲やその他の迫撃砲が配置され、包囲された敵を防御陣地から追い出します。これらの砲台配置における重要な目的は、互いの砲火、特に跳弾砲台からの砲火を可能な限り遮断しないように配置することです。これは、斜面の頂上に陣取るまでは防ぐことができるが、ある程度は避けられない。しかし、斜面上での作戦行動でも、突破砲台がかなり前進するまで跳弾砲台を隠さないようにする。これは非常に安全な方法である。 [36ページ]塹壕内の兵士が頭上をすり抜ける砲弾に驚かないようにするための最も効果的な方法は、塹壕の後方、攻城側の砲台からの砲火が塹壕を横切る部分にパラドス(胸壁)を立てることである。この件に関する詳細と砲台の建設方法については、「砲台」の項を参照のこと。また、 「跳弾」、「突破」、 「弾薬庫」、「プラットフォーム」などの用語も 参照のこと。[37ページ]

3d.要塞防衛用の大砲と弾薬。

要塞防衛用の大砲と弾薬の見積もりでは、通常、次の 8 つのクラスに分類されます。

クラス。 1 2 3 4 5 6 7 8
駐屯地 12000 10000 8000 5000 3500 2500 1600 400
大砲 100 90 80 70 60 50 40 30
トライアングルジン 4 3 2 2 2 1 1 1
スリングカート 4 3 2 2 2 1 1 1
サイズの異なるジャック 4 3 2 2 2 1 1 1
トラック車両 6 6 4 4 2 2 2 2
弾薬車など 12 12 12 6 6 6 2 2
パイオニアのためのツール 9000 6000 5000 4000 3500 3000 1000 1000
” ” 鉱夫たち 300 200 100 100 100 100 50 5
⅓軸用ツール 1200 900 600 500 450 300 150 150
 ⅔の札鉤を切る
鍛冶場完成 6 4 2 2 2 2 1 1
[38ページ]砲の口径は以下のとおりです。18ポンド砲の1/3、12ポンド砲の1/3、そして24ポンド砲、9ポンド砲、4ポンド砲の1/3を同数ずつ。当該施設に特別な防衛手段がない場合、大口径砲2門につき800発、その他の口径砲1門につき900発の弾薬が、十分に供給されます。

砲車— 大砲の数の 1/3 多く。

迫撃砲— 最初の3つのクラスの砲の約1/4、その他のクラスの砲の約1/5または1/6。このうち7/5は13インチまたは10インチの迫撃砲で、残りは小型の迫撃砲となる。

榴弾砲— 迫撃砲の 1/4 の数。

石臼砲— 大砲の5分の1の数。

砲弾—10 インチおよび 13 インチの迫撃砲はそれぞれ 400 個、小型の迫撃砲はそれぞれ 600 個。

迫撃砲のベッド- 余裕は 1/3 です。

榴弾砲の台車— 1/3 が余っている。

手榴弾— 最初の 2 つのクラスでは 4 または 5000、次の 3 つのクラスでは 2000、最後の 3 つのクラスでは 1500 から 600。

ランパート グレネード— 最初のクラスでは 2000 個、次の 4 つのクラスでは 1000 個、6 番目のクラスでは 500 個、最後の 2 つのクラスではなし。

信管— 砲弾の数の 1/4 多く必要です。

石のモルタル用の木の底— モルタル 1 個あたり 400 円。

土嚢— 大きい場所では兵器 1 個につき 500 個、小さい場所では 1/4 未満。[39ページ]

ハンドスパイク— 1 個あたり 10 個。

ジンを買うならタックルフォールズへ。余ったら10個につき1個。

マスケット銃— 兵士 1 人につき 1 丁、予備として同数。

ピストル、2丁 – マスケット銃の半分の数。

フリント- マスケット銃あたり 50、ピストルあたり 10。

小火器用の鉛または弾丸- マスケット銃 1 丁あたり 30 ポンド。

小火器用の火薬- 予備のものも含め、駐屯地内のマスケット銃 1 丁につき 5 ポンド。

上記の比率は、デュルテュビの『Manuel De l’Artilleur』から引用したものです。

砲兵の運用を統制し、要塞の防衛における弾薬の予想消費量を見積もる以下の方法は、最近ベルリンで出版された要塞に関する貴重な著作から抜粋したものである。この方法は特に正六角形に適用され、包囲戦は3つの期間に分けられる 。

  1. 最初の叙任式から塹壕の最初の開放まで、約5日間。

2日。塹壕の開設から斜面への砲撃の完了まで、約18日間。

3日。この時から降伏まで約5日間。

第一期。各堡塁の砲座と [40ページ]門の前のラヴェリンのバルベットは、半分が24 Prs.、残りの半分が18 Prs.です。[4] 他のラヴェリンのバルベットにはそれぞれ9 Prs.が3つあります。

予備として 12 門の 12 連装砲と 12 門の 4 連装砲があります。

各要塞に13インチ迫撃砲1門。

隠れ道の突出角に 8 インチの 6 つ。

やってください。予備で。

石臼10個。

予備の12門の砲は、必要に応じて幕の後ろに配置され、4門の砲は外壁に配置され、全て胸壁越しに跳弾射撃を行う。この配置により、攻撃側が決定されるまで、全ての砲台砲はどの方向に対しても攻撃準備が整っている。予備砲を加えると、敵が塹壕への攻撃を開始する最初の夜から、49門の砲弾を敵に向けて発射することができる。

塹壕が開かれ、攻撃する側が決定された夜の翌日には、砲兵隊の配置を新たにしなければならない。24連装砲と18連装砲はすべて攻撃する前線へ移動させ、必要に応じて他の塹壕にも12連装砲を補給する。この前線にある塹壕の砲座にはそれぞれ5門の砲を装備できる。 [41ページ]12門の18ポンド砲は幕の後ろに配置できる。予備の6門の迫撃砲は、この戦線の隠蔽通路の突出角に2門ずつ配置し、既存のものと共に榴弾砲として配置し、[5] 柱頭の延長部分を砲撃する。攻撃された戦線のラベリンの武器の突出部に3門の4ポンド砲を配置し柵越しに射撃し、この戦線のラベリンに5門の9ポンド砲を配置する。この配置により、最初の夜以降、接近路に対して47門の大砲と18門の迫撃砲が射撃することになる。そして、多少のバリエーションを伴いながら、包囲戦の第二期の砲兵の配置は次のようになる。敵の砲台が十分に陣地を確立したら、 砲台で砲撃を続けるのはもはや安全ではなくなり、砲眼[6] を開けなければならない。敵の砲火が激しくなるにつれ、砲撃痕は時折隠蔽され、砲は新たな方向へと向けられる。しかし、状況次第では再び利用される可能性もある。敵が三度線に近づくと、砲兵隊は隠れた通路から溝、あるいは乾いていれば溝へと撤退しなければならない。 [42ページ]あるいはその他の有利な状況において、そして敵が前進するにつれて徐々に陣地本体へと進撃する。包囲のこの期間中、側面、それらを結ぶ幕、そして前線掩蔽壕の溝を挟む堡塁の正面に、砲撃口を準備しなければならない。敵が斜面への陣地構築を試みる瞬間に、これらの砲撃口はすべて開門準備を整え、重砲をそこに設置しておかなければならない。

敵が自らの攻撃で以前の砲台を隠蔽し、新たな砲台を開放する前に、この好機を逃さず利用するためにあらゆる努力を払うべきである。

弾薬の消費量はおおよそ次のようになります。

包囲戦の第一期- 一日につき大砲一門につき5発の射撃、全装填量の半分、または砲弾の重さの1/6のみ、作動可能な大砲のみ。

第 2 期間- 1 日あたり、銃 1 丁につき 20 発、弾丸の重さは 1/6 です。

第三期- 一日あたり、銃一丁につき、フルチャージで、または弾丸の重さの 1/3 で 60 発。

迫撃砲 – 塹壕が最初に開かれてから降伏するまで、1日あたり20発の砲弾が発射されました。

石製迫撃砲- 半平行線の確立から降伏まで、24時間ごとに迫撃砲1門あたり80発の発射。約13日間。[43ページ]

光と火の玉- 塹壕の入り口から8日目まで、毎晩、迫撃砲1門につき5発、それから終わりまで3発

これらは銃で約700、
迫撃砲で400、
石砲で1000になります。

しかしながら、この比率と配置は、その場所には包囲軍の進軍を上記以上に遅らせるための対抗地雷がないという仮定に基づいている。しかし、同じ著者は、同様の場所では、事前に適切に隠れた通路に対抗地雷を敷設し、それらの対抗地雷を適切に排除することで、包囲を少なくとも 2 か月遅らせることができると見積もっている。また、他の工事も同様に効果的に対抗地雷を敷設し防御すれば、包囲はさらに 1 か月延長できる可能性があると見積もっている。

したがって、上記の割合は、これらの手段やその他の手段によって拠点の強度が強化されるにつれて、さらに調整される必要がある。要塞化された拠点の包囲に必要な弾薬と物資の見積もりを作成する際にも、これらの考慮事項に同様に留意する必要がある。「砲車」「プラットフォーム」「公園」、 そして「大砲」 「 迫撃砲」 「榴弾砲」などの様々な種類の砲兵については、以下を参照のこと。

小火器の弾薬については、筆者は次のように推定しています。[44ページ]

通常の警備員全員に、1人当たり1/4ポンドの火薬、または1日10発の火薬。

臨時警備員全員につき、1人あたり12時間あたり1 1/4ポンドまたは50発の弾丸。

任務期間中、哨戒中の兵士 1 人につき 5/8 ポンド、または 25 発の弾丸が支給されます。

AXXETREES — 「Carriages」という単語を参照してください。

[45ページ]

鉛の塊、性質の異なるもの。

自然。
1ポンド までの数字 。 直径
(インチ)。
1トンの鉛 から作られた数字。
壁のピース  6¾ .89 14,760
マスケット銃 14.5 .68 32,480
カービン 20  .60 44,800
ピストル 34  .51 78,048
7連装砲 46½ .46 104,160 
鉛玉は1cwtずつ箱に詰められています。1cwtあたり約4ポンドの鉛が、通常、鋳造時に失われます。ショットを参照してください。

火薬用樽—その寸法。

 樽ごと

。 ハーフ
バレル。 クォーター
バレル。
フィート で。 フィート で。 フィート で。
深さ 1 9.61 1 5.13 1 2.25
上部の直径 1 3.61 1 0.37 9.35
膨らみ  ​ 1 5.36 1 2.   10.71 
 下部の 「 1 3.51 1 0.31 9.41
[46ページ]全樽には100ポンド、半樽には50ポンドの火薬が入るようになっていますが、最近では樽には90ポンド、半樽には45ポンドしか入れられていません。そのため、火薬室を移動できるようにしておくことで、火薬室をよりよく保存することができます。

Budge バレルには 38 ポンドが入っています。

バレルの重量— 銅の輪— 10ポンド
 ” ” ヘーゼルの輪—  6
銃身の長さ 10½インチ。
直径  1フィート1インチ。
バスケット。バラスト、1/2ブッシェル、重さ5ポンド、直径1フィート6インチ、長さ1フィート。

バッテリー。 —バッテリーの寸法。

1.砲台。砲台は通常、砲1門あたり18フィート(約5.5メートル)です。主な寸法は以下の通りです。

溝。幅12フィート。
深さ 8
注:これらの寸法は、2門の砲台に3456立方フィートの土量を与える。また、砲座に必要な量に応じて変更する必要がある。

肩章。— 幅 下部 23 足。
” 上部 18
身長 内で 7
” それなし 6 フィート4インチ
スロープ、 インテリア ²/₇ 高さの。
” 外観 1/2 高さの。[47ページ]
注:上記の上部と下部の幅は、土壌の状態が悪い場合のものです。土壌が良好な場合は、基礎の幅は20フィート(約6メートル)以上必要ありません。その場合、上部の幅は15フィート(約4.5メートル)になります。この寸法の砲2門用の砲座囲いには約4,200立方フィート(約4,200立方フィート)の土が必要です。砲座囲い1つにつき300立方フィート(約300立方フィート)を差し引くと、砲座囲いに必要な土量は3,600立方フィート(約3,600立方フィート)になります。限られたスペースでは、砲座囲いの幅はわずか12フィート(約3.8メートル)になる場合があります。

Embrazures。—​ 距離 中心間の 18 足。
オープニング、 インテリア 20 インチ。
” 外観  9 足。
プラットフォーム上のソールの高さ 32 インチ。
注記:肩甲帯の幅が狭く作られる場合、内側の銃眼の開口部は通常の幅で作られるが、外側の開口部は比例して狭くなる。銃眼の間隔は12フィートしかない場合もあり、地面が非常に狭い場合はそれよりも狭くなる。小火器で防御しない場合は、肩甲帯の上部の傾斜はごく小さくて済む。銃眼の底面の傾斜は、射撃目標の高さに応じて決定する必要がある。土手は通常3フィートの幅で作られ、土壌が緩い場合はこの幅は4フィートに広げられる。

2.榴弾砲砲台。榴弾砲砲台の大きさは [48ページ]銃の銃と同様ですが、銃眼の内部の開口部が 2 フィート 6 インチで、銃眼の底面が内側に約 10 度傾斜しています。

3.迫撃砲台― 砲台と同じ寸法で作られていますが、必ずしも砲台と同じ寸法である必要はありません。砲座には銃眼がありません。迫撃砲は通常、互いに15フィート(約4.5メートル)、肩章から約12フィート(約3.8メートル)離して設置されます。

注記:一般的には、迫撃砲は45度の角度で固定し、肩章から12フィートの距離に設置するのが慣例となっているが、より低い角度で発射する方が多くの利点が得られる場合が多い。これは、迫撃砲を肩章からより離れた場所に移動させることで実現できるが、その場合でも安全性は同等である。迫撃砲を肩章から下記の距離に設置した場合、以下の角度で発射できる。

で 13 フィートの距離 発砲のため 30 度。
21 ” ” 20
30 ” ” 15
40 ” ” 10
高さ8フィートの肩章の上に。
フランスの著者は、榴弾砲や大砲の跳弾砲台はすべて、この原理に従って、砲座の不便さなしに作ることができると主張している。 [49ページ]外側ではなく内側に向けることで、この発射モードが非常に容易になります。

状況が許せば、砲台を掘割溝の底まで深く掘るだけでも、多大な労力を節約できる。掘割溝のない砲台では、ほぼ常にこの方法を採用できる。また、状況によっては、肩甲骨用の土を確保するために絶対に必要となる。なぜなら、斜面の頂上や溝の傾斜面の縁に砲台を建設する場合、砲台後方以外を掘削することはできないからである。

4.海岸の砲台は、一般的には肩甲骨のみで構成され、堀にはあまり注意が払われない。しかし、一般的な砲台のように、砲架が備え付けられることもある。しかし、砲はより一般的には旋回台上に設置され、肩甲骨の上から射撃する。この場合、砲同士の距離は3.5尋(約1.3メートル)以内に設置されることは稀である。一般に軍事評論家は海岸砲台を低い位置に配置することを好むが、グリボーヴァル氏は海岸砲台の高さについていくつかの規則を定めており、それによって砲台は安全性が確保され、最大の効果を発揮できるとしている。彼によれば、この種の砲台の海面からの高さは、それが守るべき、あるいは妨害すべき主要目標までの距離によって決まる。砲台からの砲弾が効果的に跳弾するには、 [50ページ]砲台は、200ヤードの距離で約4度または5度の角度で水面に面している。したがって、物体までの距離は半径で、砲台の高さはこの4度または5度の角度の接線で、上記の200ヤードの距離では約14ヤードになる。この高さであれば、砲台は完全に安全に船舶を跳弾できると彼は言う。跳弾は4ヤードまたは5ヤードの高さからのみであるため、砲台には効果がないからである。砲台の前方の地面は、敵の跳弾を効果的に阻止するために、段階的に切り崩すべきである。船が砲台に接近し、砲台の上部からマスケット銃を発射できる場合、岸の高い位置にいくつかの軽量の砲台を配置しておけば、ケースショットを数回発射するだけで、すぐにその位置から兵士を追い出すことができる。また、船が常に恐れている死骸やその他の火の玉によって船を遠ざけることも容易です。

ダートゥビーは、適切に配置された4、5門の大砲の砲台が一流の軍艦に匹敵すると見積もっている。

バッテリーの材料を見積もる。

9フィートの長さの束は、持ち運びが容易で、切断することなく砲台の大部分を収容できるため、砲台を編成するのに最も便利です。しかし、エンブラズールは裏打ちされている方がよいでしょう。 [51ページ]18フィートの束。2門の大砲または榴弾砲からなる束砲台に必要な数は、おおよそ以下のとおりです。

長さ 9 フィートの花房 90 本。

18 フィートの花束 20 束 – 装飾用。

この数は、肩章の内側だけでなく外側にも向けられます。地盤が硬い場合は、必ずしも必要ではありません。少なくとも、外側のエンブラズールの底よりも高くする必要はありません。この場合、上記のマーロンより短い1メートルにつき、9フィートの5フィートが必要になります。

迫撃砲台は、胸壁の内張りに長いファシンを必要としません。迫撃砲台、あるいはその他の平らな胸壁のファシンの数を算定する最も簡単な方法は、ファシンを張る作業の長さ(フィート)を各ファシンの長さ(フィート)で割り、1層に必要な数を求めることです。この数に必要な層数を掛ければ、当然のことながら、全面を覆うためのファシンの数が得られます。砲台が露出しているため、側面を覆うために肩部を必要とする場合は、肩部ごとに9フィートのファシンが約50枚必要になります。

それぞれ 束状 の 18 足 意思 必要とする 7 ピケット。
” ” ”   9 足 ” ” 4 ”
通常、各砲には前衛兵 12 名と砲兵 8 名が割り当てられます。

上記の材料の割合など、2門の砲兵隊の場合、 [52ページ]追加の大砲ごとに、9 フィートの大砲 30 束と 18 フィートの大砲 10 束を追加し、作業員を 12 人配置すれば、任意の数の砲台を編成するのに十分な数量を簡単に確保できます。

作業員は通常、このように配置されます。前線の半数は溝の中に3フィート間隔で立ち、土塁に土を投げ入れます。4分の1は溝の上に6フィート間隔で立ち、肩甲骨に土を投げ入れます。残りの4分の1は肩甲骨の上に立ち、土を平らにならし、叩き固めます。砲兵はファシン作業を行い、プラットフォームのために内部を平らにします。この人数の作業員は36時間で砲台を完成させることができ、溝の中で1人あたり24時間で216立方フィートを掘削し、土を投げ入れることができます。

バッテリーを構築するためのツール。

溝掘り— 必要な作業員の数は 1.5 倍。土壌に応じて、半分はツルハシ、残りの半分はシャベルまたはスペードを使用します。

マレット— 銃 1 丁につき 3 個。

アース ランマー— 銃 1 丁につき 3 個。

クロスカットソー— 銃 2 丁につき 1 丁。

チラシまたは手斧— 銃 1 丁につき 2 個。

この道具と作業員の見積もりには、ファシネを製作したり、その他の材料を準備したりするために必要なものは含まれていません。 [53ページ]しかし、それらは既に準備されているものと想定しています。これらの物品については、「束石(Fascine)」、 「ガビオン(Gabion)」、「プラットフォーム(Platform )」など の用語を参照してください。また、砲台用の野戦弾薬庫の構築については、「弾薬庫(Magazine)」という用語を参照してください。

注記:一定数の作業員が一定時間内に除去できる土の量に関する以下の推定値は、あらゆる種類の工事に必要な時間を把握するのに役立つだろう。一般的な手押し車500台には2立方トワーズの土が積まれており、夏季には1人の作業員が1日で、斜面を登る場合は20ヤード、平地を登る場合は30ヤードの距離を移動できる。この移動の際、作業員は往復で、斜面を登る場合は約4リーグ、平地を登る場合は約6リーグを移動することになる。しかし、ほとんどの作業員は1日に1.75トワーズ以上は移動させないだろう。4人作業で同じ量の土を4倍の距離移動させる。

掘りやすい土壌であれば、1 人の作業員が 1 日で 500 台の手押し車を埋めることができます。しかし、地面が固い場合は、手押し車の作業員のペースに合わせて、埋め立て機の数を増やす必要があります。[54ページ]

モルタルのベッド。

自然。 重さ。 トン数。 レン。 ブレ。 高さ。
ク。 qʳˢ。 ポンド。 tⁿˢ。 ク。 qʳ フィート で。 フィート で。 フィート で。
海 38 3 13 3 3 2
13 ランドウッド 21 2  7 1 6 0 7 0 2 6 2 3
” 鉄 50 0  0 2 10 0 6 3 3 1 1 6
海 32 2 14 2 2 2
10 ランドウッド 10 0 20 0 4 2 6 6 1 8 1 10
” 鉄 23 0  0 1 3 0 4 8 2 4 1 1.5
5½ウッド  1 0 22 0 2 0 2 9 1 4 0 10
4⅖ ウッド  0 3 11 0 1 2 2 4½ 1 2 0 9

銃用のスツールベッド。
インチ。 で。
42 パウンダーズ 0 1 20  0 1 0 2 10  11~8¾ 3¾
32 ” 0 1 14  0 1 0 2 10  10 5½ 3¼
24 ” 0 1 14  0 1 0 2  9 10¼ 6½ 4
18 ” 0 1 12  0 1 0 2  8  9½ 6½ 3¾
12 ” 0 1 10  0 0 2⅔ 2  8 10 6½ 4
 9 ” 0 1  4 0 0 2 2  7  9½ 5½ 3.5
 6 ” 0 1  0 0 0 1¾ 2  6  9 4¾ 3.5
 4 ” 0 1  0 0 0 1 2  6  8¼ 5¼ 3

弾薬箱— 一般的な弾薬箱の寸法は、弾薬をしっかりと詰めるために、収容する弾薬に応じて異なります。ただし、この違いは数インチに制限されており、次の数値を超えることはありません。[55ページ]

弾薬箱の一般的な寸法表。

 外観。  空のときの重量 


長さ。 幅。 深さ。
足 インチ。 足 インチ。 足 インチ。 ポンド。
から 2 2 0 10 0 8½ 20
に 2 9 1  6 1 6 30
充填時の重量と、それぞれに含まれる個数。

弾薬の性質。 弾薬を詰めた
箱の重量 。

各ボックス
に含まれる ラウンドの数 。
ク。 qʳˢ。 ポンド。 いいえ。
粉末
で 固定したショット
12 名様 ラウンド 1 1 10  8
場合。 0 3 15  6
6人 ラウンド 1 2  7 12
場合。 1 0 15 12
3名様 ラウンド 0 2 25 16
場合。 0 2 23 14
B 火薬を使用せずに木の底
に 固定されたショット。

24 名様 ラウンド 1 1 26  6
o 場合。 2 0  0  6
× 12 名様 ラウンド 1 2 20 12
e 場合。 1 2 22  8
s 6人 ラウンド 1 2 20 24
場合。 1 1 12 18
f 3名様 ラウンド 1 1  0 30
o 場合。 1 1  0 30
r 調子はどうだい。
ケース。 8 1 1  2  3
5½ 1 2 12 10
4⅖ 1 2 22 20
貝殻。 元気?
シェルズ。 8フィート 1 2 26  3
5½ i 1 2 12 10
4⅖ x 1 2 22 20
e
d
[56ページ]一般的な弾薬貨車には、1 段に 9 〜 13 個の箱が積まれます。

箱に入った弾薬のトン数はその重量に等しく、約 12 箱で 1 トンになります。

爆弾ケッチ。 旧式の爆弾ケッチは、13インチ迫撃砲1門と10インチ迫撃砲1門を搭載し、さらに自艦の直接防御として、旋回砲の他に6ポンド砲8門を搭載しています。現代の爆弾ケッチは、10インチ迫撃砲2門、68ポンド砲4門、そして18ポンドカロネード砲6門を搭載しています。迫撃砲は20度の低角度から発射可能です。ただし、これらの迫撃砲は海上で使用するものではなく、非常に特殊な状況でのみ使用されます。低角度での使用は、主に上陸部隊の掩蔽壕を掩蔽し、沿岸部と港湾を守ることを目的としています。爆弾ケッチは通常、船首から船尾までの長さが60フィートから70フィート、喫水は8フィートから9フィートです。母艦は通常ブリッグで、砲兵隊は爆弾ケッチで任務を遂行するまで、ブリッグに乗艦します。

実際の管理とセキュリティに関する手順。

  1. 水を満たしたオランダ式ポンプを各丸屋根に設置し、船首楼に 1 台、主甲板に 1 台、後甲板に 1 台設置する。また、新鮮な水を供給するために革製のバケツも備え付ける。[57ページ]
  2. 防水シートと迫撃砲のハッチを取り外す前に、ポンプでブームを濡らさなければなりません。また、通気口からの火を受け止めるために、5 フィート四方の木製のスクリーンを迫撃砲の上のブームの下に吊るします。
  3. 防火窓が適切に固定され、確実に固定された後、防火窓は防火窓の底で覆われる程度まで下げなければならない。防火窓を下げる前に、防火窓にスパーを掛け、防火窓を再び上げるためのタックルを固定しておく必要がある。このスパーは、タックルを爆発から遠ざけるために役立つ。
  4. 迫撃砲は、20 度未満の角度で銃眼を通して発射してはならない。また、5 ポンドを超える火薬を装填してはならない。
  5. 発射前に、爆発によって船室が損傷するのを防ぐために、後甲板下の隔壁のドアを閉めなければなりません。
  6. モルタルを打ち込んだらすぐに、反動を防ぐため、ベッドを円形の縁石にくさびで固定します。最初のくさびをしっかりと打ち込んでから、後ろのくさびを締めます。これにより、テーブルとベッドの背面に十分な支持力が得られます。ドッグボルト用の穴は、火花が入らないようにコルクで塞ぐ必要があります。
  7. 爆弾に砲弾を使用する場合は、固定する必要がある。 [58ページ]補給船に積み込まれ、そこから箱に入れて長いボートに積まれ、必要になるまで爆弾船の横に保管され、慎重にカバーされた。
  8. 旧式の爆撃艇では、発射前にブームを引き揚げ、船べりに並べる必要がありましたが、新しい爆撃艇では、砲尾窓が付いているため、ボートを引き揚げるだけで済み、その後は 10 分で迫撃砲を発射準備できます。

低角度および 45 度の角度で射撃する 10 インチ迫撃砲 2 門、68 連装カロネード砲 4 門、および 8 連装カロネード砲 6 門を搭載した爆撃船の兵器と弾薬の割合。[59ページ]

自然。
爆弾 船の中で
。 入札。 合計。
モルタル、海上用、ベッド付き、その他 10インチ 2 — 2
ドームの隅石。45°の場合は2つ、20°の場合は2つ。 4 — 4
キャップスクエア、キーなど予備 2 — 2
ハンドスパイク(大) 4 — 4
スポンジ、ランマーヘッド付き 4 — 4
手ネジ(小) 2 — 2
手錠レバー – 6フィート 4 — 4
ハンドスパイク、一般 6 — 6
雄鶏付きリンストック 4 — 4
火薬角、新しいパターン 4 — 4
マッチ cwts。 1 — 1
マーリン かせ — 12 12
銅製の輪形バッジ樽 1 1 2
ランタン、モスクワ 2 2 4
 ”暗い 2 2 4
カロネード、68 Prs. 4 — 4
  ” 18 Prs. 6 — 6
スライドキャリッジ、昇降スクリュー、
スポンジ、ランマーなどが完備。
ガンタックル、完了   4 —  4
旋回迫撃砲、12門
ワッド、68 Prs。 270 270 540
”、18 Prs. 480 180 660
マスケット銃 明るい 32 — 32
黒 8 — 8
ピストル、ペア 15 — 15
剣 40 — 40
極軸 6 — 6
パイクス 40 — 40
マスクトゥーン 2 — 2
フリント、マスケット銃 900 — 900
” ピストル 150 — 150
弾薬カートリッジ、マスケット銃 2000 — 2000
” ” ピストル 2000 — 2000
ショット、マスケット銃、 cwts、qrs、lbs。 1.0.0 — 1.0.0
「ピストル、 ” ” ” 0.1.1 — 0.1.1
丸太の死体、固定、 10インチ 48 152 200
空の殻、 10インチ 48 352 400
アイアンショット、 1ポンド 1000 4000 5000
固定砲弾、 10インチ 48 — 48
ケースショット、68 Prs。 カロネード砲 20 20 40
空のシェル、8インチ。 カロネード砲 52 100 152
ショット、ラウンド、68 Prs。 50 50 100
死体、do。68 Prs。 96 104 200
ショット、ラウンド、18 Prs。 300 — 300[60ページ]
ケースショット、18 Prs。 30 30 60
死体、固定、18 個。 150 150 300
ハンドシェル、固定、 海上サービス — 150 150
信管用。予備 — 15 15
カート用の紙カバー、 10インチ 106 609 715
 ” ” ” ” 、 68 Pr. 293 301 594
 ” ” ” ” 、 18ページ 258 198 726
フランネルカートリッジ、空 5ポンドを保持します。 106 — 106
10インチ迫撃砲用 10ポンド — 609 609
フランネルカートリッジ、空 5ポンドを保持します。 293 151  594
68門のカロネード砲 4ポンド — 150
フランネルカートリッジ、空 528 148 726
18 Prs. で 1½ ポンドを保持できます。
破裂用紙カートリッジ — 352 352
10インチ、空
紙カートリッジ、破裂用、8インチ、空 — 100 100
10インチに2ポンド10オンスを充填します。 48 — 48
8インチの場合は1インチ14インチで埋めます。 52 — 52
信管、運転、 10インチ 57 388 445
 ” ” 8」 57 110 167
原子価組成
10 インチ シェルの場合は 200 ポンド (14 オンス/ 個)。 — 175 175
10 インチ シェルの場合は 768 (各 9 オンス、 ポンド)。 — 42 42
チューブボックス、ブリキ 12 — 12
死体プライミング用の信管組成物、ポンド。 — 10 10
パウダーバッグ — 6 6
ポートファイアーズ — 200 200
クイックマッチ、コットン。 ポンド。 — 20 20
ワインのスピリッツ、 ギャルたち。 — 4 4
キット ポンド。 — 80 80
木の底、 10インチ。 10 40 50
シグナルロケット、1ポンド。 ダース。 — 2 2
ブルーライト、 ” — 3 3
迫撃砲用の火薬と   72   150  222
カロネード砲、半砲身
下塗り用のパウダーを塗ります。 — 1 1
破裂用の粉末、やります。 — 28 28
通常は
あらゆる礼拝に迫撃砲を出席させ、
サービスに必要な物品
海上のカロネード砲。
実験室のチェスト、 4フィート — 2 2
” ” 3フィート — 2 2
索具などを濡らすためのハンドポンプ。 6 — 6
レザーバケツ 24 — 24[61ページ]
突破口— 突破口を作る砲台は、まず、突破しようとする範囲をできるだけ近くに線を引くことから始めるべきである。まず、乾いた溝では護岸の底から1ファゾム以内、濡れた溝では水辺近くに水平線を引く。次に、この線に垂直な線を、互いに短い間隔で、防波堤の高さまで引く。そして、これらの切り込みを深くしていく。 [62ページ]壁は一斉に崩れる。最大の効果を上げるには、砲は可能な限り近くから一斉射撃または一斉射撃を行うべきである。突破口は、中央から側面角に向かって、壁面の長さの1/3の長さとする。壁が崩れた後も、突破口の傾斜が通行可能になるまで射撃を継続しなければならない。

秘密通路の陣地から4門の24ポンド砲が4、5日以内に突破口を開くだろう。これはさらに3日で実行可能になるかもしれない。

突破口を作るもう一つの方法は、2、3人の鉱夫が通れるくらいの深さまで壁に穴を開けることです。鉱夫たちは溝を渡り、夜間に壁の中に侵入し、突破口を作るのに十分な2、3個の小さな地雷を設置します。—「包囲戦における砲兵」を参照してください。また「砲台」も参照してください。

橋—川に舟橋を架ける方法。

橋の両端となる両側の土手は、束石などを用いて堅固に造らなければならない。ケーブルの一端は川を渡り、杭などの堅固なものに固定し、キャプスタンでしっかりと引き締め、ボートの先端を横切るようにする。次に、2人の乗組員と必要なロープなどをボートに乗せ、等間隔でリングと細ロープで両端を縛り付けたケーブルの下 を流れ下る。[63ページ] ケーブルは、船体の幅ほど離して設置する。必要な強度に応じて、その間隔は増減する。川の流れが非常に速い場合は、最初のケーブルと平行に、船の長さと同じ距離を置いて、2本目のケーブルを川に渡して張る。そして、このケーブルに船のもう一方の端を縛り付ける。スプリングラインは、船から船へと斜めに縛り付けられ、しっかりと固定される。そして、必要に応じて、アンカーを川上まで運び、川を渡るケーブルまたはシアラインに固定する。次に、橋の両端の土手に、チェスを1本ずつ下から上に敷く。これは、支え材の端を載せるためのもので、橋を覆うチェスに合うように、支え材を適切な間隔で配置するための指示となる。支え材は、船体にわたって敷き詰め、鍵で留める。支え材の数は、橋に必要な強度に比例する。船の船尾と船首に、川の片側から反対側までギャングボードを架ければ、残りの作業を行うための足場が確保されます。桟の上に、桟を一つずつ、端同士が合うように架けます。桟の下側では、桟の間に桟を通します。そして、橋の両端にある桟の端にギャングボードを架けます。

船橋通過時の注意事項。

橋の大きさがどんなに大きくても、歩兵が [64ページ]馬車や騎兵と同時に橋を渡ってはならない。馬車は常に一定の間隔を空けて走行し、過積載による橋の揺れを防ぐ。馬は橋を速歩で渡ってはならない。騎兵は馬から降りて馬を先導して渡る。牛の大群は一度に渡らせてはならない。

ポンツーンの寸法、重量、装備については、 「ポンツーン」を参照してください。

包囲戦において、進入路の異なる部分間の連絡を容易にするために橋を架ける場合、可能であれば町の上空に設置するべきです。さもないと、包囲された側は流れを利用して大木やその他の物体を流し落とし、橋を破壊するでしょう。同じ橋を渡ったり戻ったりする混乱を避けるため、このような橋は常に2つを近接して設置する必要があります。片方は往路用、もう片方は復路用です。浮橋は一般に4,000~5,000ポンドを超える重量を支えることはできません。浮橋が橋として一体化されている場合、個別に作用する場合よりも比例して多くの重量を支えることは間違いありません。しかし、浮橋が支えられる重量は、必要な深さまで沈むまで水を張り、その水が何立方フィート入っているかを計算することで簡単に算出できます。この計算から、特定の深さまで沈めるのに必要なポンド数を算出できます。[65ページ]

キャンプ —多少の違いはあるものの、どの国でもキャンプは同じような方法で形成されます。この原則は一般的で、前方の部隊のキャンプは、戦闘隊形を敷設した際の戦列の幅を超えてはならず、その範囲は広くなければなりません。ただし、歩兵大隊同士の間には前線の約8分の1の距離、騎兵大隊同士の間には30~40歩の距離が確保されるのが一般的です。軍隊は2列で陣取る場合もあれば、3列で陣取る場合もあります。戦列間の距離は地形によって異なり、200ヤードから600ヤード、あるいはそれ以上です。

陣地の正面配置においては、歩兵の縦隊ごとに通常2フィート、騎兵の縦隊ごとに3フィートの間隔が設けられる。地形が許せば、歩兵は通常、正面に対して垂直な列に配置される。各列には1個中隊のテントが配置される。騎兵も同様の位置に配置される。各列には1個中隊の馬が配置される。

擲弾兵と軽歩兵は通常、側面に一列に並び、大隊中隊は二列に並びます。[66ページ]

旧式の長方形テント(1列につき5人しか収容できない)で編成した場合、1列(1個中隊)は前方9フィート(約2.7メートル)、2列(​​2個中隊)は21フィート(約6.4メートル)のスペースを確保する必要がある。しかし、新型ベルテントを使用する場合は、1列で15フィート(約4.5メートル)、2列で30フィート(約9メートル)のスペースを確保する必要がある。

騎兵隊では、隊列または部隊は次のように前方に配置されます。

   古いテント。    新しいテント。

テント 3 ヤード。 5 ヤード、
フロントポールから  3 3
テントから杭まで
馬のために 6 6
糞のために 2 2
14 ヤード。 16 ヤード。
歩兵であれ騎兵であれ、前線の列の幅に列数を掛け、その積を歩兵大隊または騎兵中隊の前線全体から差し引くと、通りのためのスペースが残ります。通りは一般に次のように分割されます。

歩兵の場合、 59½ それぞれ 1 フィート。
騎兵隊の場合、 30 テントの間にはそれぞれ 1 フィートの間隔があります。
” ” ” 46 足” ”馬。
[67ページ]以下は地形が許す場合の歩兵または騎兵の陣地の深さの配分です。

キャンプの深さの分布。 歩兵。 騎兵。
ヤード ヤード
クォーターガードパレードから 大隊の行進の列
大隊の行進の列 62
この最初のパレードの列から

  • の正面 軍曹のテント 16
    補給官 — 24
    注意:これらのテントは前面に開きます。
    最初の馬のピケットへ — 5
    歩兵:テントごとに深さ
    ” 古いパターン、9フィート
    「新しいパターン、15フィート
    騎兵:馬1頭につき3フィート
    歩兵のテントが開く
    街路へ。騎兵隊のテントが前線に
    馬の頭に。
    歩兵が12テントの深さで o. パット。 36 60
     騎兵隊、60頭の馬
    最後の歩兵のテントから、あるいは
    騎兵隊の最後の馬、前線へ
    少尉のテントの 15 12
    これらのテントは後方に開きます。 [68ページ]
    船長の列の先頭へ 15 15
    これらは前面に開きます。船長と
    部隊の後方にいる下級将校たち
    または企業。
    野戦将校たちの前に 10 15
    外側の反対側、前面に開く
    大隊の通り。
    大佐の 10 10
    メインの反対側の正面に開きます
    大隊の通り。
    参謀たちへ 14
    メインストリートの隣の道路を開放する 10
    バットマンのテントの最前列へ 10
    バットマンのテントはその馬の前にあります。
    バットホースのピケットの最前列へ  2 15
    同じ2行目 10
    2列目の打者へ  2
    大きな補給品係のテントの前に 10
    大補給官は大佐の後ろにいます。
    キッチンの中央へ 15 20
    キッチンの直径は16フィートです。
    下級商人の前に 15 15
    キッチンのすぐ後ろには
    8ヤードの深さで6ヤードの前方を許した。
    後衛へ 15 15
    後方に開きます。
    必要な総深度 ヤード 253 220
    [69ページ]野営地の背後に沼地があるなどの事情により、各部隊または中隊が正面に垂直な一列に並ぶことができない場合は、大隊または中隊の正面の配置を上記よりも縮小し、次のように配置する必要があります。大隊または中隊の人数を、その土地が一列に収容できる人数で割ることで、垂直に並ぶ列の数を求めます。次に、列の数に正面の一列の幅を掛けると、列が占める正面の部分が得られます。この差と、大隊または中隊に許される正面全体の差が、道路に割り当てられます。道路の幅が等しい場合は、道路の数で割って各道路の幅を求めます。そうでない場合は、簡単に不等幅の道路に分割できます。大隊に2門の大砲が配備されている場合、大隊の右側から最初の大砲の中央まで4ヤード、そこから2番目の大砲まで6ヤードの順番で配置されます。大砲の銃口は軍曹のテントと一直線になります。

砲兵少尉がいる場合は、歩兵少尉と一列に並ぶ。—砲兵テントの後部は、大隊テントの後部と一列に並ぶ。[70ページ]

キャンプの適切な位置については、 「偵察」という単語を参照してください。また、砲兵隊の野営地については、「公園」という単語を参照してください。

死体。—構成。

硝石 50 部品。
硫黄 25
アンチモン 5
ロジン 8
ピッチ 5
オーストリア軍がヴァランシエンヌの包囲戦で使用したことからヴァランシエンヌの構図と呼ばれるこの構図は、砲弾が炸裂した後に死骸の役目を果たすようにする効果がある。

硝石 50 部品。
硫黄 28
アンチモン 18
ロジン、またはスウェーデンピッチ 6
この組成物は、長さ6インチの円筒形の銅鋳型で鋳造されます。使用する砲弾に応じて直径が異なります。信管の押し下げを妨げない大きさに切り分け、炸裂する火薬とともに砲弾に投入する必要があります。[71ページ]

死体。—その寸法と重量、1796年。

自然。 重さ。
それぞれの時間

燃える。
空の。 構成の
。 完了。
ラウンド、 ポンド。 オンス。 博士 ポンド。 オンス。 博士 ポンド。 オンス。 博士 分。
迫撃砲

砲台。 13 194 10 11 18 14 — 213 8 16 11
10 89 13 11 7 8 11 97 6 11 8½
8 44 9 5 4 4 11 48 14 — 5½
銃について 42 27 3 — 2 7 11 29 10 11 5
32 20 13 5 1 14 5 22 11 11 4½
24 14 12 — 1 9 11 16 5 11 4
18 11 13 11 1 1 5 12 15 — 4
カロネード
砲 68 — — — — — —
42 26 — — 2 7 — 28 7 — 4½
32 21 10 — 1 13 — 23 7 — 4
24 14 5 — 2 5 — 16 10 — 3.5
18 10 4 — 1 2 — 11 6 — 3
長方形、
迫撃砲

砲台。 10 36 7 5 35 10 — 72 1 5 12
8 16 5 5 18 2 — 34 7 5 10
5½ 1 12 2 6 15 — 8 11 3 6
4⅖ 1 0 6 3 11 7 4 11 13 4
注記:ケベック包囲戦では、町に死体を投げ込むのに必要な量の火薬が常に死体を破壊してしまうことがわかったため、火薬と死体の間に泥炭を詰める方法が採用され、死体を保護し、あらゆる望ましい効果を生み出すことがわかった。[72ページ]

カロネード砲。その重量と寸法。

自然。
ボアの 直径 。 長さ 重さ。
ショット砲
とカロネード砲 の比率。
フィート で。 カリブ。 cwt。 qr。 ポンド。
68 氏。 8.05 5 2  7.702 36 — — 59対1
” 4 0  5.962 29 — —
42 ” 6.84 4 3.5 7.518 22 1 — 58対1
32 ” 6.35 4 0½ 7.679 17 — 14 62対1
24 ” 5.68 3 7.5 7.656 13 — — 56対1
3 0  6.336 11 2 25
18 ” 5.16 3 3  7.587  9 — — 56対1
2 4  5.447  8 1 25
12 ” 4.52 2 2  5.778  5 3 10 56対1
注:カロネード砲は砲身ほど風圧は大きくありません。「風圧」の項
を参照してください。

1798年、カロネード砲の射撃場。装填量は砲弾の重さの1/1₂で、1発の砲弾と1つのワッドが装填されている。射線は水面から6~9フィート上空。

自然。 68 42 32 24 18 12
充電。 5ポンド8オンス 3ポンド8オンス 2ポンド10オンス 2ポンド 1ポンド8オンス 1ポンド10オンス
ヤード
P. ブランク  450 400 330 300 270 230
1度  650 600 560 500 470 400
2」   890 860 830 780 730 690
3」  1000  980 900 870 800 740
4」  1100  1020  970 920 870 810
5」  1180  1170  1087  1050  1000  870
注記:カロネード砲の最大装填量は砲弾の重量の 1/8 です。最小装填量は ¹/₁₆ です。[73ページ]

射程範囲は 8 インチ砲弾、68 連装カロネード砲から。

シェルの
重量 充電。 フライト。 標高。 最初の
放牧。 極端な
範囲。
ポンドオンス
43 11 3ポンド 1.5 PB  302 1365
3」 — 5度 1140
4」 1.5 1」  358 1843
” ” 5 5」 1137 1250
” ” ” 11.5インチ 1767
馬車 —現在使用されている野戦馬車の重量。

馬砲兵車。 cwts。 qrs。 ポンド。 cwts。 qrs。 ポンド。
12連装砲と砲台一式 — — — 45 0 14
2人の男性と彼らの
彼らのリムバーでの任命、
弾薬は16発。
do.complete用の弾薬ワゴン、 — — — 33 3 0
2人の男性が荷台に乗って
スペアホイール1個、スペアシャフト2本、
弾薬78発
6丁、上記装備、42発 — — — 34 1 21
弾薬車(上記と同じ)、108発 — — — 39 0 21
5.5インチ榴弾砲、上記装備、 — — — 35 3 0
20ラウンド
弾薬運搬車用。上記の通り。 — — — 39 2 0
52ラウンド
鍛冶屋の荷馬車、旅行用に完成 — — — 19 2 14
傾いた大きな荷物車、空 — — — 18 3 0[74ページ]
携行する装備 — — — 12 0 0
12連装中戦車砲、砲架、箱なし 16 1 21 42 — 7
柔軟に行う。 7 2 14
銃 18 — —
12連装軽銃 12 — — 36 2 21
キャリッジ完了 12 3 7
柔軟で、空の箱付き 12 3 14
6 プリースト デサグリエ 12 — — 34 1 13
キャリッジ完了 11 — 14
柔軟、行う。空のボックス 11 — 27
6連装軽大隊砲 6 — — 24 1 21
箱なしの客車、鉄の車軸 9 2 —
柔軟で、空の箱付き 8 3 21
5½インチ榴弾砲、軽量 4 3 7 24 — 14
箱なしのキャリッジ 10 — 7
柔軟で、空の箱付き 9 1 —
24人乗りプラットフォーム移動車 22 3 — 84 2 16
立っている馬車。鉄製の台車、
 馬車の荷台 13 3 16
鉄銃 48 — —
ボールカートリッジワゴン、リッチモンド公爵の
 型、予備のポールとスイングル​​ツリー付き 16 1 17 36 1 17
マスケット銃弾の容疑 20 — —
一般的なパターンの弾薬貨車、改造 16 2 — 36 2 —
弾薬の料金 20 — —
新しい歩兵弾薬カート 9 1 14 21 1 14
弾薬の料金 12 — —
共通スリングカート、完全版 — — — 17 1 14
一般的なトラック車両 — — — 12 2 21
一般的な手押し車 — — — 4 1 —
鍛冶場の荷馬車、完成品 — — — 13 2 14[75ページ]
車両の特定の部品の寸法。これを知っておくと、降車時やその他の同様の状況でさまざまな部品を配置する際に多くの間違いを防ぐことができます。

車軸 —現在、野戦用馬車のほとんどは 鉄製の車軸で作られており、その寸法は次のとおりです。

鉄の
車軸。
アームの直径。 腕の長さ。

の部分。 ポイントで
。 ボックス、または
本堂部分。 ワッシャー
部分。
リンチピンまでの 全長 。
インチ。 インチ。 インチ。 インチ。 インチ。
6 Pr. ライト
3 Pr. ヘビー
5.5インチ榴弾砲
アムニ。ワゴン
ボールカートリッジはそうします。 2¾ 1¾ 13 ⅝ 13⅝
馬かどうか
砲兵隊または
公園、かどうか
荷車または馬車
ライト12ポンド 3¼ 2¼ 16 ¾ 16¾
しなやかで
ミディアム 12 Pr. 3.5 2.5 16 ¾ 16¾
柔軟に行う。 2¾ 2 13 ⅝ 13⅝
[76ページ]

木製の
車軸。 キャリッジ。 柔軟。
腕のDi。
身廊の長さ
。 腕のDi。
身廊の長さ

肩の部分
。 ポイントにて
。 肩の部分
。 ポイントにて

インチ。 インチ。 インチ。 インチ。 インチ。 インチ。
24 Prs. ヘビー 7 4.9 18 6 3.3 16
12 博士医学 6 4 16 6 4 12
6 デス氏 5½ 3.5 13.5 5½ 3.5 13.5
6人乗りライト 5 3 13 5 3 13
3 Prs. Des’rs. 2.5 1¼ 2.5 1¼
3人乗りライト
榴弾砲、8インチ 6½ 17 5½ 15
 ”、5½インチ。 5½ 13 4¼ 11.5
 ” 、4⅖インチ。 4½ 12 4 10

 フォア ヒンド

弾薬 5 2.9 14 5 2.9 13
ワゴン、
折りたたみ式の側面
クローズボディ 5 3.3 14 5 2.9 14
弾薬車
現在使用されている野戦車両の車輪の直径:

     直径。

全ての馬砲車、荷馬車、 5 足。
そして荷馬車、重い6ポンドと長い
3人のPrs.とその荷車; 車両
6連装大隊砲と軽機関銃
5.5インチ榴弾砲の後輪は
一般的な弾薬車
6 Pr.と5½榴弾砲を軽量化し、 4フィート 8インチ[77ページ]
Med. 12 Pr.—リンバー、4 ft. 6 in.—キャリッジ、 4フィート 8インチ
スリングカート 5フィート 8インチ
弾薬車の前輪、 4 足。
ポンツーン馬車 フォア 3 足。
ヒンド 5フィート 6インチ
8インチ榴弾砲 柔軟 4 足。
キャリッジ 5 足。
弾薬カート 5 足。
24人乗りプラットフォームキャリッジ フォア 4 足。
ヒンド 4フィート 2インチ
直立式砲架の寸法と重量。

自然。 32 24 18 12 9 6
フィート で。 フィート で。 フィート で。 フィート で。 フィート で。 フィート で。
車軸、長さ 4 9 4 7 4 3 3 9 3 6½ 3 4
サイドピース、長さ 6 4 6 0 5 9 5 6 5 3 5 0

 トラニオンベッドまでの全高 2 9 2 7 2 6 2 3 2 1 2 0
運送重量、 ct. qr。 ct. qr。 ct. qr。 ct. qr。 ct. qr。 ct. qr。
ベッドとコイン 9 0 8 0 7 0 6 0 3 3 2 3
行進中の馬車。 「行進」を参照。

馬車に使用される木材については、 「木材」という単語を参照してください。[78ページ]

銃用のカートリッジ。

紙の。
1ダースの重量
。 長さ。 トン数。¾トンVAT
で梱包された番号。
パウンダーズ。 ポンド。 オンス。 博士 フィート で。 番号。
42 ” 3 0 0 2 4 1000
32 ” 3 0 0 2 4 1100
24 ” 3 0 0 2 4 1400
18 ” 2 14 0 2 4 1500
12 ” 2 4 0 2 4 1600
 9 ” 2 4 0 2 4 1800
 6 ” 1 5 0 2 0 2000
 4 ” 1 1 0 1 7 2200
 3 ” 1 1 0 1 7 2200
フランネルの。
42と32 2 2 0 2 3 トン数
24 重い 1 12 0 1 10 フランネルの
中くらい 1 6 0 1 5 カートリッジは
ライト 1 1 8 1 0 1/5以上
18 —— 1 6 0 2 3 紙のもの。
12 重い 1 3 0 1 6
中くらい 0 11 0 1 2
ライト 0 8 0 0 10
 9 —— 0 10 0 1 4
 6 重い 0 14 0 1 1
中くらい —— ——
ライト 0 5 0 0 9½
 3 —— 0 6 0 0 8
13 インチモルタル 1 2 8 1 6
10 ” ” 0 10 8 1 1.5
 8 ” ” 0 7 0 1 0
 5½ ” ” 0 4 0 0 9
 4⅖ ” ” 0 3 0 0 7
 8 榴弾砲 0 10 8 1 1.5
 5½ ” ” 0 4 8 0 9½
 4⅖ ” ” 0 4 0 0 9½[79ページ]
小火器用のカートリッジ。

(A) = 各カートリッジに含まれる粉末。
(B) = 1 つの束に結ばれたそれぞれの数。
自然。 (あ) (B)
1バレルに 含まれる数。 1
バレルの重量 1枚
の紙

全体。 半分。 全体。 半分。
drms いいえ。 いいえ。 いいえ。 コート qr。 ポンド。 qr。 ポンド。 いいえ。
壁のピース 10  6 1400  500 2 2 19 3 24  6
マスケット  6 10 2100 1000 1 3 10 3 24 12
カービン  4 10 2853 1500 1 3  7 3 26 16
ピストルをする  3 10 4400 1500 1 3 17 3 21 24
コムピストル  3 10 2000 3 11 24
7バール銃 1.5 14 1000
樽入り
ヨーロッパのさまざまな勢力によるマスケット銃弾。

 重量

粉 カートリッジ、
完了
オンス。 博士 グラム オンス。 博士 グラム
英語。 0 6 0 1 9 11 
ヘッセン。 0 7 10  1 7 2
オーストリア人。 0 6 13  1 6 4
オランダ語。 0 10  10.5 1 12  4
フランス語。 0 7 4½ 1 6 0[80ページ]
ケースショット。ショット を参照してください。

迫撃砲室。 1787年と1789年に、ウーリッジで、どの形状が最も長い射程距離をもたらすかを確認するために、4つの可動式迫撃砲室を備えた8インチ迫撃砲を使った実験が行われました。

薬室はすべて同じ容量、すなわち63.7立方インチで、2ポンドの火薬が収容されていた。その形状は以下の通りである。

1つ目 円形の底を持つ一般的な円錐形のチャンバー。

2d. 同じことを逆にした。

3d. 円形の底を持つ円筒形のチャンバー。

4番目。球形の部屋。

射程距離は6発分の中程度であった。このことから、球形薬室に火薬を充填した場合、球形薬室は射程距離の点で有利であることがわかる。しかし、より少量の装薬を使用した場合、その射程距離は他の形状のものよりも短くなることがわかる。本施設の円錐形(No.1)薬室は、他の状況下では最も長い射程距離を示す。[81ページ]

料金。

野砲の料金。

   ポンド。

12 氏。 中くらい そして 重い のために ラウンド ショット 4  
” ” ” ” ” ” 場合 ” 3.5
12 氏。 ライト ” ラウンド ” 3  
” ” ” ” 場合 ” 3  
6 氏。 デサグリエ ” ラウンド ” 2¼
” ” ” ” 場合 ” 2  
6 氏。 中くらい ” ラウンド ” 2  
” ” ” ” 場合 ”
6 氏。 ライト ” ラウンド ” 1.5
” ” ” ” 場合 ” 1¼
3 氏。 重い ” ラウンド ” 1  
” ” ” ” 場合 ”
3 氏。 ライト ” ラウンド ” 12オンス
砲撃の際の装薬量は、実弾の場合は実弾の重量の 1/3、ケース弾の場合は実弾の重量の 1/4 です。

カロネード砲の装薬量は通常、砲弾の重量の¹/₁₂です。最高は⅛、最低は¹/₁₆です。

1801年3月にウーリッジで行われた実験では、実戦で円筒型火薬を使用する場合、実弾を装填した野砲の装薬量を通常のケースショットの量まで減らすことが推奨されている。また、同じ実験では、木製の底板の厚さや長さを変えることで弾頭の位置を変え、銃身を保護することも推奨されている。さらに、実戦では通常捨てられる紙製のキャップは、弾頭を装填する前に被せることも推奨されている。[82ページ]

小火器の料金については、「カートリッジ」を参照してください。

フランスの銃の装薬量をフランスの重量で表したもの。

   ポンド。           

24 名様  8    包囲 
16 名様 5½
12 名様 4   分野
ケースショットの場合は1/4減額 。
 8人 2.5
 4名様 1.5
フリーズ騎馬像— フリーズ騎馬像の本体、または梁は槍は 33本あり、それぞれ重さ2ポンド、長さ5フィート、一辺1 1/4インチです。槍の間隔は9 1/2インチです。

構成。信管、砲口、 信管、砲身の構成については、各項を参照してください。

キットのための作曲。   1794年の『Fire Balls』より。
ポンド。 ポンド。 オンス。
ロジン 9 ロジン 5 8
ピッチ 6 硫黄 3 0
蜜蝋 6 アルミニウム粉末 1 8
牛脂 1 デンプン、 0 8
硝石 4 6
粉末 8 0
亜麻仁油 ¼パイント。
スパイクオイル 1パイント。
[83ページ]

ベンガルライト。

最初の作曲。
ポンド。 オンス。
硝石 7 0
硫黄 1 12
赤い黄黄 0 8

第二作文。
ポンド。 オンス。
硝石 2 4
硫黄 0 8
アンチモン 0 4
黄黄 0 1.5

光のボール。
硝石 40 部品
硫黄 15
アンチモン 3
ピッチ 3
この組成物は注意深く溶解され、球形に鋳造され、冷えると小さな乳鉢で焼成できるほど十分に硬くなります。

窒息する鍋のための構成。
硫黄 6 部品
硝石 5
この組成物はよく混ぜ合わせた後、木箱に詰めて通常の方法で下塗りします。

この組成物は燻蒸に効果があります。

中国語またはホワイトライト。
硝石から  50~60 部品
硫黄 16~20歳
アンチモン 5
黄黄 8~10

スモークボール用。
ポンド。
コーンパウダー  10
硝石 2
ピッチ 4
シーコール 3
牛脂 1
火の輪、火の矢、火
の槍用。

 ポンド。    オンス。

粉末 1 0
硝石 3 0
硫黄粉  0 8
亜麻仁油 1/2パイント。

ファシン電池に火をつけるためのケースを充填する組成物。

 ポンド。    オンス。

粉末  1 4
硝石 6 0
硫黄 1 8
[84ページ]すべての乾燥組成物は、まず手でよく混ぜ、次に細かい毛のふるいに数回通して成分が完全に混ざり合うようにしなければなりません。火力を必要とする組成物を混ぜる際は、特に火薬が入る場合は、最大限の注意が必要です。一般的に、組成物の乾燥部分を最初に混ぜ合わせ、残りの成分が流動性である間に、徐々に大釜に投入します。投入中は常によくかき混ぜてください。乾燥成分が可燃性の場合は、大釜を火から降ろすだけでなく、底を水に浸して、混合中の事故を防ぐ必要があります。

R.ラボ

護送隊――4頭立ての荷馬車は約16歩を占有するため、1マイルには約117台の荷馬車が収容できる。ただし、各荷馬車間の移動距離を短くすると、1マイルには100台の荷馬車が収容できると言える。護送隊の荷馬車は、道路状況やその他の状況に応じて、時速1~2マイルで走行する。 護送隊の重要な目的は、馬をできるだけ疲労から守ることである。この目的のため、護送隊が数百台の荷馬車で構成される場合、各隊は500台以下の隊に分割する必要がある。 [85ページ]数千人規模の護送船団の場合は、それらを大隊 に分割し、さらに500人ずつの小隊に分割するのが賢明です 。この方法と、出発時間を以下の規則に従って計算することにより、各隊は移動時間の直前まで休止状態を維持できます。これにより、大規模な護送船団の後半部分が移動する順番が来る前に、長時間にわたって妨害される必要がなくなります。

規則 1. 任意の数の荷馬車を追い出すのにかかる時間を求めるには、荷馬車の数を 100 で割り、1 マイルの移動時間を掛けます。

規則 2. 任意の台数の荷馬車が任意のマイルを走行するのにかかる時間を求めるには、荷馬車が走り出すのにかかる時間に、荷馬車のうち 1 台がその距離を走行するのにかかる時間を加算します。

護送隊の各部隊には番号が振られ、毎日行進の順序を変えることが義務付けられる。

貨車列の進行が、いずれかの貨車が故障したり、その他の遅延により停止した場合は、停止した貨車列の後方の貨車はすべて、最初の空きスペースに、その空きスペースに収まるだけ多く、直ちに前進する必要があります。これにより、護送隊の結束が保たれ、護衛の監視が強化されます。[86ページ]

護送隊の護衛は、前衛、中衛、後衛に分けられなければならない。側面部隊は、マスケット銃の射程距離以内、あるいは最大でも400ヤード以内に配置しなければならない。護送隊全体が1時間以内に集結できないほど離れてはならない。敵に対する適切な警戒態勢の下では、いかなる規模の護送隊も1日あたり5~7マイル(約8~11キロメートル)以上は移動してはならない。

テンペルホフト。[87ページ]

銃の偏差 。銃の偏差とは、銃口のベースリングにおける直径と銃口の膨らみにおける直径の差の半分です。すべての銃の一般的な偏差は、銃の長さのおよそ¹/₅₆です。フランスとイギリスの銃の偏差については、「Tangent Scale」の項を参照してください。

図1.

距離— 測定できない距離を測定する方法はいくつかある。最も正確な方法はもちろん適切な数学的機器を使用することだが、現場で必ずしも入手できるとは限らない。

機器が入手できない場合、複数の著者によって次のさまざまな方法が規定されています。[88ページ]

I. 物体 A から物体 B までの距離を知りたい場合 (図 1 )、B に杭を 1 本、C にもう 1 本、数ファゾムの距離を置いて杭を立て、A と BC が直角になるようにし、BC を 4 つ、5 つ、または任意の数の等しい部分に分割します。物体から一定の方向に C で同様の角度を作り、線 CD に沿って歩き、物体 A と線 B C の任意の分割点 ( oとします) とが一直線になるまで進みます。すると、C o : CD :: B o : BA となります。

ヴォーバン。

図2.

II. 線CD上の任意の点Aから2つの物体CとD(図2)の間の距離を求めるには、垂線AEを立てる。その垂線をAからEに、点CとDの間の距離に応じて1フィートまたは200フィートずつずらす。 [89ページ]AE の延長、つまり AE の 1/8 または 1/3。G で垂線 GF を上げ、I の方向に伸ばします。E と G に杭を立て、GF 上の別の杭を E と D の線になるまで移動します。垂線 FG の延長上で、I に別の杭を E と C の線上に置きます。FI を測定すると、GE : AE :: FI : CD になります。

図3.

ランドマンの
地上における実用幾何学。

III. 要塞の正面のアクセスできない長さAB(図3)を得るには、両方の点が見えるCに杭を立てます。先ほど示した方法(手順1)でCAとCBの長さを求めます。 [90ページ]CE を 1/4 または CB の任意の部分にし、CD を CA と同じ比率にします。DE を測定すると、CD : DE :: CA : AB になります。

注意。ほぼ同じ方法で、点Bにアクセスできる場合、BからAまでの距離を確かめることができます。線分CBを測定し、角度CEDをCBAに等しくすると、CE:DE::CB:BAとなります。

IV. 砲台やその他の物体までの距離は、砲身の接線目盛りで測定できる。しかし、この場合、距離を測りたい物体の高さを知る必要がある。まず、砲身の金属線を物体の頂部として置き、接線目盛りを、目盛りの頂点と砲口のノッチが砲身の底部と一直線になる まで上げる。[91ページ] オブジェクトを測り、必要な接線スケールの長さを書き留めます。次に、銃のベース リングの上のスケールの長さがベース リングから銃口の膨らみまでの長さに等しいとすると、オブジェクトの高さは銃の銃口からの距離に等しいといえます。

ロンバードの表。

V. 川幅やその他の短い距離は、次のようにして測ることができます。長さの異なる杭を 2 本用意し、短い方の杭を土手の端近くに打ち込みます。そこから数歩後ろを測り、もう一方の杭を打ち込みます。両方の杭の上から視線が反対側を切るまで、杭を打ち込みます。次に、最初の杭を引き抜き、2 番目の杭から最も水平な方向に同じ距離を測り、前と同じ深さまで杭を打ち込みます。その結果、もう一度杭の上を見て、視線がどこに落ちるかを観察すると、必要な距離がわかります。

ティルク。

VI. 川幅を確かめる次の簡単な方法は、場合によっては十分正確であるかもしれない。一方の岸に立って、帽子の角を下げ、もう一方の岸に接するところまで下げる。次に、手を顎の下に置いて頭を安定させ、ゆっくりと地面の平らな場所まで向きを変える。 [92ページ]そして、あなたの目と帽子の端が再び地面に接する場所を観察してください。その点からの距離は、川の幅とほぼ同じになります。

ティルク。

VII. 真レベルと見かけレベルとの差によって測定される距離。水準測量を
参照。

VIII. 音で測る距離。「音」
を参照してください。

IX. 以下に挙げる単純なマイクロメーターは軍事用途に非常に有用であるため、カヴァッロが解説している1791年の『哲学論文集』から逐語的に引用する。このマイクロメーターは、薄く細い真珠層を細かく分割したもので、望遠鏡の接眼レンズの焦点、つまり像が形成される位置に配置される。望遠鏡が反射型か屈折型かは関係なく、接眼レンズがガリレオ式のような凹レンズではなく凸レンズであればよい。マイクロメーターを固定する最も簡単な方法は、絞りに貼り付けることである。絞りは通常、鏡筒内にあり、接眼レンズの焦点に位置する。このように固定すると、接眼レンズを通して見ると、目盛りの目盛りが非常に明瞭に見える。ただし、絞りが正確に焦点に合っていない場合は、絞りを前後に動かして目盛りを正確に焦点に合わせる必要がある。 [93ページ]可能であれば、円形の紙片や厚紙、あるいは封蝋を挟むことで、絞りの片面から目盛りを他の面へ容易に移動させることができる。—この構造は、望遠鏡を常に同じ人が使用する場合には十分である。しかし、異なる人が使用する場合には、マイクロメータを支持する絞りは、容易に前後に動かせるように作られていなければならない。ただし、その動きは1/10インチまたは8/1インチ程度である必要はない。これは、同じレンズの焦点距離が、人によって異なるように見えるためである。したがって、望遠鏡を使って角度を測定する人は、まず接眼レンズとマイクロメータが入っている筒を望遠鏡の残りの部分から外し、接眼レンズを通して、マイクロメータの目盛りが自分の目に最もはっきりと見える位置にマイクロメータを配置しなければならない。真珠母貝の目盛りの幅は約1/24インチで、その長さは絞りの口径によって決まる。厚さは筆記用紙ほど。目盛りは1/200インチで、目盛りの端から中央あたりまで伸びる。5番目と10番目の目盛りはそれぞれ少し長くなり、10番目の目盛りは横幅いっぱいに伸びる。望遠鏡の倍率が30倍を超えない場合、 [94ページ]多くの場合、目盛りはそれほど細かくする必要はありません。三角法に詳しくない人のために、目盛りの値を決定する簡単な方法を以下に示します。壁などの場所に6インチの長さを印します。次に、望遠鏡をその前に置き、6インチがそれに直角になり、望遠鏡の対物レンズから正確に57フィート3.5インチ離れるようにします。これを行ったら、望遠鏡をのぞき、マイクロメーターの目盛りが何目盛りに相当するかを確認します。同じ目盛りの数は、半度、つまり30度に相当します。目盛りの値を確認するには、これだけで十分です。この方法が採用された理由は、57フィート3.5インチの距離に6インチを延長すると、30度の角度になり、これは三角法で簡単に計算できるからです。計算の手間を省くために、目視だけで済む目盛りを作ることもできます。このように、望遠鏡の視野の直径に等しい線を引き、その下側をマイクロメートルの目盛りと同じ数に分割します。そして、壁で上記の操作を行って、目盛りの 16 分割に対応すると仮定した 30′ の値を決定したら、線の反対側に 30′ をマークします (下側の 16 の反対側、8 の反対側に 15 をマークします)。

次の表から、検査によって結果を確認することができます。 [95ページ]のみ: したがって、表によって 1 フィートの延長が 22 フィートの角度を占めるとすると、距離は 156.2 になります。また、距離 171.8 のところに物体が 20 フィートの角度を占めるとすると、その高さは 1 フィートになります。または、高さ 6 フィートの物体が 20 フィートの角度を占めるとすると、距離は 171.8 に 6 を掛けて 1030.8 になります。

さまざまな距離における1 フィートの角度の表。

分。 距離は
フィートで表します。 分。 距離は
フィートで表します。
 1 3437.7 31 110.9
 2 1718.9 32 107.4
 3 1145.9 33 104.2
 4 859.4 34 101.1
 5 687.5 35 98.2
 6 572.9 36 95.5
 7 491.1 37 92.9
 8 429.7 38 90.4
 9 382.0 39 88.1
10 343.7 40 85.9
11 312.5 41 83.8
12 286.5 42 81.8
13 264.4 43 79.9
14 245.5 44 78.1
15 229.2 45 76.4
16 214.8 46 74.7
17 202.2 47 73.1
18 191.0 48 71.6
19 180.9 49 70.1
20 171.8 50 68.7
21 162.7 51 67.4
22 156.2 52 66.1
23 149.4 53 64.8
24 143.2 54 63.6
25 137.5 55 62.5
26 132.2 56 61.4
27 127.3 57 60.3
28 122.7 58 59.2
29 118.5 59 58.2
30 114.6 60 57.3
ドラッグロープ—

 重さ      長さ

と 5ピン 6ポンド 8オンス 21フィート。
4」 5 6 13
3」 5 0 12[96ページ]
乗船​

1.兵器および物資について。まず最初に、積載するすべての物品とその重量を記載したリストを作成する必要があります。このリストには、備考欄を広く設ける必要があります。かさばる物品に必要なトン数は、通常、実際の重量の1/3増しとなります。ただし、兵器、砲弾、散弾などのトン数は、その重量と同量となります。船舶の積載トン数に応じて料金が支払われる場合、船長は当然、船に積めるだけの量を積み込みます。しかし、航海中に船に積み込みすぎることを避けたい場合は、海軍士官は常に船が適切に積み込まれていることを確認する必要があります。

兵器や物資は、単に別の場所へ輸送するため、あるいは軍事遠征のために積み込まれる。前者の場合、各船には輸送可能なだけの物資を積み込み、特定の種類の兵器やサービスに関連するすべての物品を同じ船に積み込まなければならない。こうすることで、一隻の船が失われた場合でも、他の船は完全な状態で残ることができる。もちろん、この原則は、他の船舶への積み込みにおいても同様に考慮されなければならない。 [97ページ]遠征では、船上で物資をより綿密に配分する必要がある。各兵器には、その運用に必要なすべてのもの、すなわち、副砲、台車、荷馬車、弾薬などを載せ、必要に応じてすぐに取り出せるようにしなければならない。攻城戦のために兵器などを積み込む場合は、兵器の運用に必要なすべてのものだけでなく、それらが搭載される砲台の構築に必要なすべてのものも一緒に用意する必要がある。この場合、同じ船に、必要な運用に応じた割合で異なる種類の兵器を積むのが賢明である。一般に、重いものを最初に積み、軽くて取り外しやすいもの、または最初に必要になりそうなものを上に積むのが最善である。乗船前に、大砲、台車、荷車 などを準備しておく。降ろす前に、まず以下の番号を振る。そして、リストに記載されている各品目の番号を備考欄に記入する。各兵器とその運搬車には同じ番号を振る。弾薬運搬車やその他の運搬車には、兵器運搬車とは異なる番号を振る。次に、兵器運搬車、弾薬運搬車、荷馬車など、すべての荷車に、それぞれの運搬車の番号を振る。単純な輸送の場合は、小型の物資、携行武器 などをそれぞれの用途に応じて配置する。遠征の場合は、 [98ページ]各兵器に付属するすべての物品はまとめて集め、それらを収納するケースまたは箱には、それらが属する兵器の番号、性質、および説明を記さなければならない。砲架の各部品が本質的に不可欠な統一性を持って作られていることに疑問が生じた場合は、分離したすべての部品に、その砲架の番号を記さなければならない。少なくとも、同一の容器に異なる性質の兵器や砲架が収納されている場合、この予防措置は有効である。

車軸は、船が固定された状態で車軸を収容できる大きさであれば、取り外す必要はありません。なぜなら、作業員と面倒な作業なしには容易に交換できないからです。車軸を降ろす際には、昇降ネジ、リンチピン、ドラグワッシャー、キャップスクエアなどの小物はすべて慎重に集め、箱に保管し、物資の内容と所属する車軸の番号を記してください。車軸を固定した状態で積載されたすべての車軸または貨車は、船内で前後交互に並べて配置する必要があります。車軸が互いに干渉してスペースを取りすぎないようにするためです。遠征のために兵員や物資を輸送するすべての輸送船やその他の船舶には、船尾と船首に番号を付けてください。 [99ページ]帆には、2フィートから3フィートほどの大きな数字を記し、遠くからでも識別できるようにしなければならない。船の番号、船名、トン数、船長の氏名は、船に積載されている物資のリストに記載しなければならない。

兵器や物資を陸揚げする際は、輸送時と逆の順序で、正確に陸揚げしなければならない。車両や荷馬車はできるだけ早く積み込み、混乱を避けるため、あらゆる備品は可能な限り岸から離れた場所に配置する。敵の存在下で陸揚げを行う場合は、当然のことながら船舶にそれに応じた積載を行う必要がある。また、野戦兵器、その荷馬車、弾薬などは、最初に陸揚げできるよう、かつ可能な限り容易に陸揚げできるよう配置する必要がある。この場合、塹壕掘り道具も常に準備しておく必要がある。— アイド・メモワール

2.軍隊について。国王陛下の御用となるすべての輸送船は、輸送委員会および国内外の様々な港におけるその代理人の指揮下にある。輸送船に兵士その他の人物を乗せたり、食料を補給したりできるのは、委員会またはその代理人の命令による。輸送船または軍艦に乗船する兵士(海兵隊員を除く)には、水兵の配給量の2/3しか与えられない。(「配給」の項を参照。)したがって、兵士を6人ずつの食事に分ける必要がある。女性6人に対して男性100人が乗船する。 [100ページ]海外勤務には食料が支給され、国内勤務では男性100人に対して女性10人までが許容される。輸送船の船室は、通常6フィート四方で作られ、一度に4人の男性が入れるが、1799年の陸軍規則に従い、男性の3分の1は常に甲板上にいなければならない。したがって、各船室に6人(または1人の食事係)が配属され、そのうち1/3は常に当直する。輸送船に乗船している部隊の指揮官には、船のチャーター契約書を閲覧する権利があり、そこには船上の部隊の使用のために船が見つけることになっている火、ろうそく、ボート、用具など、あらゆる異なる品目が示されている。同様に、士官、船長、航海士、および代理人(船上にいる場合)に割り当てられる船の部分も示されている。

砲兵演習。野砲1門につき9人の砲兵が配置され

野戦で15人の兵士が砲兵として配置された場合、彼らは1から15までの番号を振られる。しかし、砲兵が前進しない場合は最初の6つの番号は省略され、残りの9人は7から15までの番号を振られる。重砲の運用は軽砲の運用とほとんど変わらない。一方に配属された兵士が異なる任務を遂行する場合でも、可能な限り他方の砲兵にも同列に並べるべきである。そうすることで、軽砲から重砲へ兵士が移動する際に兵士の数が変わることで生じる混乱を防ぐことができる。 [101ページ]各部隊の任務は同じであるが、以下はあらゆる種類の野戦兵器を扱う9人の配置である。

1.行進の線。

7、9、12、15 番は大砲の左側、8、10、13、14、11 番は右側。7 と 8 番は大砲の銃口の反対側、9 と 10 番は砲尾の反対側、12 と 13 番は砲尾の反対側、14 番は砲身の車軸の反対側、11 番は砲身の反対側、15 番は大砲の馬を先導し、御者は前部を先導します。

  1. 行動準備時の9 人の位置と任務。

軽銃。 —7 がスプレーし、8 が装填し、9 が通気孔を担当し、10 が発砲し、11 が指示を出し、12 がマッチと水の入ったバケツを運び、13 が 14 から弾薬を 8 に渡し、14 はカルトゥーシュと一対の引き綱を持ち、15 が牽引馬を持ち、カルトゥーシュを持ちます。

位置。7右の車輪と銃口の間。8 左の車輪と銃口の間。9 右の車輪の後ろから離れて。10 左の車輪から離れて、両方とも通気口と一直線。11 ハンドスパイクの左側。12 9 から離れて右側。13 左の車輪をカバーし、後方 5 ヤード。14 右の車輪をカバーし、後方 10 ヤード。 [102ページ]後方。砲架は砲の真後ろ25ヤードのところにあります。

重砲。これは軽砲と同じですが、7 と 8 が車輪の外側に立ち、必要に応じて 8 が 7 を支援して突撃します。

榴弾砲。—位置は重砲と同じだが、任務が異なっている。7 はスポンジで泡を出し、信管のキャップを外し、薬莢を入れる。8 は羊皮を砲から取り出し、ウールの面を上にして地面に置き、薬莢を装填し、薬莢の底を拭き、(7 がそれを持ち上げたら) 再び羊皮を入れ、左手で「準備」の文字の上で羊皮を引き抜く。砲が発射されたら直ちにそれで銃口を押さえる。9 は通気口に手を添える。10 発砲する。11 命令を出す。12 はマッチとバケツを持っていく。13 はカートッシュから薬莢を 8 に渡す。14 はリンバーから薬莢を 7 に渡し、羊皮の上に載せる。15 はリンバーに付き添う。避けられない事故により、銃に配属される兵士の数が減る可能性があるため、最も重要な任務に就いている兵士に欠員が生じた場合は、最も従属的な任務に就いている兵士で直ちに補充する必要がある。[103ページ]

より少数の人員に任務を分配する以下の方法は、あらゆる種類の野戦兵器に等しく適用できます。

男性の数
。 自然。 数字は保持されます。 空席、
供給状況。
9 銃 7 8 9 10 11 12 13 14 15 完了。
ハワー 7 8 9 10 11 12 13 14 15
8 銃 7 8 9 10 11 13 14 15 いや。 12 がドロップされました、
Nᵒ。 11は自分の義務を果たします。
ハワー 7 8 9 10 11 13 14 15
7 銃 7 8 9 10 11 13 15 No.14のポーチは
地面に置かれており、
13は移動時にそれを持ち歩いています。
ハワー 7 8 9 10 11 14 15 No. 8は
カートリッジを自ら手に取る
6 銃 7 8 9 11 13 15 No.9は
左手で銃口を操作し、銃を発射する。
左側に銃弾発射箱がある。
ハワー 7 8 9 11 13 15
5 銃 7 8 11 13 15
11 番は、前回の変更 と同様に、9 番のすべての義務、自身の義務、および
12 番の義務を遂行します。
ハワー 7 8 11 14 15
4 銃 7 8 11 15 No. 8 は自分で弾薬を取りに行き、
7 は自分で砲弾を扱います。
ハワー 7 8 11 15
3 銃 7 11 15 No. 7 はすべての弾薬の補給と装填を担当します。
—No. 7 と No. 15 は
時々任務を交代する必要があります。
ハワー 7 11 15
[104ページ]

3.準備する。 —軽砲と榴弾砲。

全員が大砲の方を向き、11 が横移動用のハンドスパイクを外し、15 が大砲の右側まで荷馬車を上げ、左に向きを変え、12 と 13 が荷馬車の上に載せます。この作業は、7 と 8 が砲口を押さえ、9 と 10 が車輪を操作して手伝います。11 が荷馬車に鎖をかけます。

重野砲、または榴弾砲。 —上記との唯一の違いは、9 と 10 が 12 と 13 を補助して砲架を上げ、14 と 15 が砲の車輪のそばに立っていることです。

4.砲を解く。—軽砲と榴弾砲。

全員が大砲の方を向き、11が荷馬車の鎖を解き、12と13がピンテールから馬具を持ち上げ、地面に置く。7、8、9、10が荷馬車を上げるのを手伝う。11が横行用のハンドスパイクを渡し、全員が戦闘態勢に入る。荷馬車は15が先導し、御者は25ヤード後方に進み、そこで左に向きを変える。先頭の馬は御者によって馬具が外され、荷馬車の後部に繋がれる。

重野砲と榴弾砲。軽砲と同じだが、9と10は12と13を援護して砲台を高くし、14と15は [105ページ]砲の車輪に立つ。重砲には通常騎手が乗っており、その場合、先頭の馬は外されない。

単に砲を砲架に載せる、または砲架から 外すということは、砲の方向を変えずに砲を砲架に載せるか、または砲架から外すことを意味することを理解する必要があります。ただし、砲は、いずれかの方向に進む予定であれば、前方、右、または左に砲を砲架に載せることができます。また、前方への戦闘の準備として 後方に砲を下ろし、右への戦闘のために左に砲を下ろし、左への戦闘のために右に砲を下ろします。これらのいずれの状況でも、砲を砲架に載せる、または砲架から外す手順は、すでに示した手順とまったく同じです。ただし、最初の手順では、砲を砲架に載せる前に、必要に応じて 12 番の補助を受けて、砲道が指令語で指定された方向に旋回され、砲架がその方向に対応するようにその側まで移動されます。 2 番目では、砲弾を砲台から外した後、砲弾を地面に置く前に、命令の言葉に従って砲弾を後方、 右、または左に回します。その後、砲弾を砲台から外し、砲弾を砲の後方に回します。

ここで注意しなければならないのは、砲、砲列、あるいは砲縦隊の前方とは、砲や砲架の位置に関係なく、砲の前方にいる兵士が向く方向であるということ。砲架の後方への移動、あるいは砲架の後方への移動、あるいは砲架の撤収など、砲の前方への移動は、常に砲の前方へ向かって行われなければならない。 [106ページ]右に進み、砲を前進させたり後退させたりするために牽引車や馬を移動させる場合は、常に右側から移動させ、左側から移動させなければならない。また、牽引車を方向転換させる場合は、必ず左側に回さなければならない。これらの注意を払うことで、最大の混乱は避けられる。

銃を前進させるその他の方法。

  1. 砲が射撃姿勢になったら、ゆっくりと前進する準備をする。7 と 8 は外側に 3 ヤード進む。9 と 10 は車軸と一列に並び、12 と 13 (それぞれ 14 から引きロープを持ってくる) が自分たちと車輪の間を通れるようにする。12 と 15 は通り過ぎるときに引きロープのチェーンの端を 9 と 10 に渡し、2 人はそれをワッシャーに引っ掛ける。12 と 13 は前方のピン、7 と 8 は中央、9 と 10 は後方を担当する。

これはライトガンでのみ実践されます。

戦闘準備。7、8、9、10はピンを離し、12 と 13 は後方に進みます。9 と 10 は、12 と 13 が通過したらすぐに牽引ロープを外します。12 と 13 はそれらを 14 まで運びます。13 は弾薬を手に入れます。

6.馬で前進する準備をします。

軽いピース。 —7はスポンジを9に渡します。7と8は馬車の胸からチェーンの紐を外し、馬車のスポークの上に置きます。 [107ページ]車輪。御者は馬を右前方に連れてくる。7と8は馬の足かせを後ろのバンドから外し、短い銃の足かせに引っ掛け、車輪の外側に立つ。7はスポンジを取る。

重砲。これは 2 頭の馬を使って行います。1 頭は他の馬の前に立ちます。7 と 8 が馬にフックをかけ、御者は後ろの馬に乗り、9 と 10 が後ろの馬を短砲の轍にフックします。

行動の準備をします。 – さまざまな数字が、たった今実行した操作を正確に元に戻します。

7.リンバーで前進する準備をします。

これと馬で進むことの唯一の違いは、荷馬車を前方に持ってきて、15 で牽引ロープを持ってきて、その中央をピンの尾に置き、7 と 8 でその端を馬車の短い牽引チェーンに引っ掛けることです。

砲の退却方法。

8.ゆっくりと後退する準備をする。7と8は、車両の車軸を両側にして一列に並ぶ。9と10は、トレイルに沿って一列に並ぶ。12と13は、14から牽引ロープを1本ずつ受け取り、チェーンの端を7と8に渡し、牽引ワッシャーに引っ掛ける。7と8は、 [108ページ]後部のピン:9と10はセンターピン、12と13はフロントピン、10はリンストックを支え、15はリンバーを回転させる。これは軽量の駒でのみ行う。

行動準備。7と 8 はフックを外し、9 と 10 はピンを離し、12 と 13 は牽引ロープを 14 まで運び、14 は弾薬を手に入れ、15 はリンバーを前方に向け、全員が行動場所に戻ります。

9.馬で撤退の準備をします。

軽い駒。7、8、9、10はゆっくりと後退する姿勢をとる。13 は 14 から引き綱を受け取り、それを 9 と 10 に渡す。9 と 10 は引き綱の中央を横切るハンドスパイクの上部に渡してから、引き綱フックの下に通す。12 と 13 は、御者が引き上げた馬の足かせを引き綱の端に引っ掛ける。15 は荷馬車を回転させる。

重砲。これは同じ方法で行いますが、2頭の馬を使用します。9と10は後ろの馬に引っ掛け、12と13は先頭の馬に引っ掛けます。

行動の準備をします。—同じ数字が、たった今行ったことを元に戻します。

10.リンバーで退却の準備をします。

荷馬車は馬車の後部に運ばれ、12と13は [109ページ]それぞれにドラグロープを取り付け、チェーンの端をリンバーに引っ掛けます。9 と 10 は、もう一方の端をトレイルフックに引っ掛けます。

11.馬で退却しながら射撃の準備をします。

これは、 「馬とともに退却する」の記事とまったく同じように行われますが、2 本の引き綱を 12 番と 13 番が持ってきて、鎖の端を馬の足跡に引っ掛け、9 番と 10 番がもう一方の端をトレイル フックに引っ掛ける点が異なります。

12.リンバーを使用して退却しながら射撃の準備をします。

この場合の砲架は、砲を後退させる場合と全く同じように固定されますが、牽引ロープ 2 本分の距離に置かれます。したがって、2対の牽引ロープが使用されます。射撃および後退の際、砲が装填された状態で後退する場合、10 番は左舷の射撃を行ってはならず、11 番は命令が出るまで砲を向けてはなりません。「停止」の号令とともに、7 番は砲弾と全面を撃ち抜いて砲弾を撃ち込まなければなりません。これらのいずれかの位置から戦闘の準備をする場合、同じ隊員は直前に行った操作を元に戻し、直ちに戦闘位置に着きます。任務は、重野砲でも軽野砲でも同じです。

15人による野砲の訓練。

軽機関銃に6人の牽引ロープマンが取り付けられている場合、 [110ページ]立っている番号、つまり 7 から 15 までの番号は、前述のすべての演習で同じままですが、ドラグロープによって銃の動きも補助します。

行進隊形において、1、2、3 は 7 の後方の大砲の左側に位置し、4、5、6 は 8 の後方の右側に位置します。

アクションポジションでは、1、2、3は右の牽引ロープを、4、5、6は左の牽引ロープを持ち、車軸と一直線になるようにします。「Load(装填) 」の合図で、3と4は牽引ロープをドラグワッシャーから外します。3は左手にフックを持ち、4は右手にフックを持ちます。 「Cease fire(射撃停止)」の合図で、ロープを再びドラグワッシャーに掛けます。

「早く前進せよ」という合図とともに、2、3、4、5 は引き綱の下をくぐります。2 と 5 は内側のループの端を操作します。3 と 4 は内側の最初のピンを操作します。7 と 8 は内側の 2 番目のピンに移動します。1 と 6 はそれぞれのピンに留まります。9 と 10 は外側の 2 番目のピンに移動し、12 と 13 は外側の後ろのピンに移動します。14 は 11 のトラバース ハンドスパイクを補助します。13 は 11 がトラックに載せられるようにトレイルを持ち上げます。12 は 10 にマッチを渡します。—そして合図が、

行動の準備をしてください。

2、3、4、5 は再び牽引ロープの下に戻り、全体が活動場所に戻ります。[111ページ]

一言 – 2 組のドラッグ ロープを使用して、
迅速に退却する準備をします。

3と4はドラグワッシャーからフックを外し、後方へ進む。2と5が続き、1と6はドラグロープのループ端をトレイルフックに引っ掛ける。12はリンストックを地面に突き刺し、13と共に14から予備のドラグロープを取り出し、チェーンの端を7と8に渡してドラグワッシャーに引っ掛ける。7、9、12は右のドラグロープを、8、10、13は左​​のドラグロープを操作。再び行動を開始するには、

言葉—行動に備える。

7 と 8 は予備のドラッグ ロープを外し、12 と 13 はそれを 14 に戻します。1 と 6 はトレイルから外し、3 と 4 はもう一方の端をドラッグ ワッシャーに引っ掛けます。

言葉 – 撤退行動に備える。

牽引ロープの手は退却時のように交代する。 「装填」の合図で1と6を牽引ロープから外し、 「射撃中止」の合図で再び牽引する。

ここで注意しなければならないのは、15人による訓練では、追加された任務のみが詳細に述べられているということである。前進または後退する行動中の待機隊員の任務は、牽引ロープ隊員がいないときと同じである。荷揚げと荷下ろしの際には、牽引ロープ隊員は [112ページ]任務はありませんが、牽引ロープの補助は可能です。トラックは常に牽引ロープで牽引されており、「Load(積載) 」の合図で降ろされます。

砲台内で重火器を使った訓練。

32ポンド、または42ポンド。
10人の男性。 9人の男性。
スポンジ1個、2回分。 スポンジ1個で2回分。
3と5が銃を持ち上げます。 3と5が駆け上がる。
4と6が駆け上がって上昇します。 4 駆け上がって上昇します。
7 はベントに機能し、トラバースし、
 プライミングし、上昇します。 6 カートリッジを持ってきて、走り上がっ
 て持ち上げます。
8 は駆け上がり、横断し、
 発砲します。 7 はベントに機能し、上昇し、横断し、
 プライミングします。
9はカートリッジを持ってきます。 8 は駆け上がり、横断し、発砲します。
10ポイントとコマンド。 9つのポイントとコマンド。

8人の男性。 7人の男たち。
1 スポンジ、2 ロードして実行します。 1 スポンジして駆け上がる。
3ランアップ。 2 荷を積んで走り上がります。
4と5が駆け上がって上昇します。 3 駆け上がって上昇します。
6 はカートリッジを運び、上昇し、
 移動します。 4 はカートリッジを持ってきて、走り上がっ
 て持ち上げます。
7 はベントに機能し、上昇し、
 横断し、プライミングします。 5 はベントに役立ち、上昇し、
 横断し、プライミングします。
8つのポイント、発砲、コマンド。 6 は駆け上がり、横断し、発砲します。[113ページ]

6人の男性。
1 スポンジを泡立てて駆け上がる、
2 荷物を積み、上昇し、上昇します。
3 駆け上がって上昇します。
4 はカートリッジを持ってきて、走り上がって
 移動します。
5 はベントに役立ち、上昇し、
 横断し、プライミングします。
6 人が走り、指し示し、発砲し、
 命令する。

24ポンド砲など
8人の男性。 7人の男たち。
スポンジ1個で2回分。 スポンジ1個で2回分。
3と4が駆け上がって上昇します。 3 駆け上がって上昇します。
5 はベントに役立ち、上昇し、
 横断し、プライミングします。 4 はカートリッジを持ってきて、走り上がっ
 て持ち上げます。
6 は駆け上がり、横断し、発砲します。 5 はベント、トラバース、プライムに役立ちます。
7はカートリッジを持ってきます。 6 は駆け上がり、横断し、発砲します。
8つのポイントとコマンド。 7つのポイントとコマンド。

6人の男性。 5人の男性。
1 スポンジする、駆け上がる、上昇する。 1 スポンジする、駆け上がる、上昇する。
2 荷物を積み、上昇し、上昇します。 2 カートリッジを持ってきて、装填し、
 上昇して、持ち上げます。
3 はベントに機能し、上昇し、
 横断し、プライミングします。 3 サーブベント、ランアップ、トラバース、
 プライム。
4 駆け上がり、横断し、発射します。 4 駆け上がり、横断し、発射します。
5はカートリッジを持ってきます。 5つのポイントとコマンド。
6つのポイントとコマンド。 [114ページ]

4人の男性。 3人の男性。
1 スポンジして、駆け上がって、ポイントします。 1 スポンジして、駆け上がり、ポイントして、発砲します。
2 カートリッジを持ってきて、装填し、
 上昇して持ち上げます。 2 カートリッジを運び、装填し、
 上昇し、上昇し、移動します。
3 サーブはベント、ランアップ、トラバース、
 エレベート、プライムを行います。 3 サーブはベント、ランアップ、エレベート、
 トラバース、プライムを行います。
4 駆け上がり、横断し、発射します。

4⅖、または 5½ インチの迫撃砲。
男性2名。 3人の男性。
1 スポンジをし、駆け上がり、砲弾を持ってきて、
 砲弾を入れ、移動し、
 プライミングします。 1 スポンジをし、走り上がり、横断し、
 貝殻を持ってきて入れます
 。
2 は通気口を担当し、走って行き、
  弾薬を持ってきて、弾を入れ、向けて、
  発砲します。 2 カートリッジを持ってきて、装填し、
  通気孔を作動させ、始動し、
 プライミングして、発砲します。
3 ポイント、昇格、コマンド。

8インチ迫撃砲、
または榴弾砲。
5人の男性。 4人の男性。
1 スポンジ、駆け上がる、浚渫する。 1 スポンジ、駆け上がる、浚渫する。
2 人が走って来て、カートリッジを持って
 きて入れます。 2 が走って来て、カートリッジを持ってきて、
 それを入れます。
3 走って、砲弾を持ってきて、
  砲弾を入れ、トラバースして、プライミングします。 3 は通気孔に勤務し、砲弾を持ってき
  てそれを入れ、駆け上がり、
  横断し、発砲する。
4 駆け上がり、横断し、発射します。 4 走り上がり、ポイント、コマンド。
5 はベント、ポイント、コマンドを提供します。 [115ページ]

10、または13インチの迫撃砲。
10人の男性。 6人の男性。
1 スポンジで拭いたり、駆け上がったり、貝殻を入れたり、
 浚渫したりします。 1 スポンジで掃除し、駆け上がり、貝殻を入れ、
 浚渫し、横断する。
2 が走って来て、カートリッジを持ってきて、
  それを装填し、薬莢を入れます。 2 が走って来て、弾薬を持ってきて、
  それを装填し、砲弾を装填して、
  旋回します。
3はカートリッジを持ってきます。 3 と 4 が駆け上がり、貝殻を運び、
 横断します。
4と5は貝殻を持ってきます。 5 が上昇し、ベントを提供し、プライミングします。
6、7、8、9 は、駆け上がって横断します。 6 人が走り、指し示し、発砲し、
 命令する。
8人分はベントしてプライミングします。
9発の射撃、10点のポイント、そしてコマンド。
ジンの練習。

ジンの人員は通常、下士官 1 名と兵士 10 名で構成され、兵士には 1 から 10 までの番号が振られ、下士官は 11 番です。

ジンを持ち歩く。

1 と 2 はプライポールを持ち、3 と 5 は右頬、4 と 6 は左頬、7 はウィンドラスとフィド、8 と 9 はブロックとタックル、10 はハンドスパイクなどを持ちます。[116ページ]

ジンをセットアップします。

1と2は、プライポールの根元付近のリングに共通のハンドスパイクを通し、そこから持ち上げます。3と4は、それぞれハンドスパイクを下の横木に当てて頬を固定します。5、7、9は右頬を持ち上げ、6、8、10は左頬を持ち上げます。11は指示を与えます。ジンを持ち上げる前に、タックルをフックに掛けておく必要があります。

ジンを働かせる。

1と3はジンの右ハンドスパイクを、2と4は左ハンドスパイクを、5、6、7、8はフォールを握り、たるみを引っ張ります。9と10は砲を安定させます。9は砲口、10は砲尾です。タックルフックは、ドルフィン(ある場合)の真上、または砲尾筒の少し後ろに固定します。

投げ上げの際、1と4のハンドスパイクの先端が膝の高さまで来たら、2と3はウィンドラスの上部の穴にハンドスパイクを入れ、3が「取ってこい」と言い、1と4はウィンドラスからハンドスパイクを外し、1が「持ってこい」と言い、2と3はハンドスパイクを下ろし、1と4が新しいスパイクを手にするまでその姿勢を保ったまま、1が「取ってこい」と言い、2と3がハンドスパイクを外し、3が「持ってこい」と言い、交互にこれを繰り返し、銃が適切な高さになり、ハンドスパイクが上部の穴まで達したら、 [117ページ]穴は上部のクロスバーに当てるように作られており、5 は下部のクロスバーへの落下を固定します。また、銃を下ろす必要がある場合は、ウィンドラスからの落下を緩和します。5、6、7、および 8 は、必要に応じて銃の下でキャリッジを移動します。

スリングカートの練習。

スリングカートの作業員は1から7の番号が振られ、下士官は7番、1番と2番が銃を吊るす。銃は、1つの銃耳が地面に接するように置かなければならず、スリングは銃の周りを斜めに、一方の銃耳の前ともう一方の銃耳の後ろを通るようにする。銃の下側に回るスリングの端は、ウィンドラスで操作する端でなければならない。こうすることで、銃を上げたときに銃耳が水平になる。1番、3番、5番が右レバーを、2番、4番、6番が左レバーを担当する。下士官の合図で彼らは一緒に銃を吊るす。下士官は次に「左レバーを握れ、右レバーを取ってこい」と指示する。右レバーで新たな掴みを取る。次に「 右レバーを握れ、左レバーを取ってこい」と指示する。左レバーで新たな掴みを取る。そして再び一緒に銃を吊る。銃が十分に高くなったら、7は棺を置き、1と2はレバーを取り出し、 [118ページ]銃尾柱。3 と 4 は 2 本の共通のハンドスパイクで銃尾柱を持ち上げ、5 と 6 はそれを銃尾柱に縛り付けます。1 と 2 は梃子を銃尾柱の横に置き、3 と 4 はハンドスパイクをその上に置き、5 と 6 はそれをすべて一緒にしっかりと縛り付けます。[119ページ]

Fascines —サイズと用途に応じてさまざまな名前があります。

1.ソーシソンは通常、長さ 18 フィート、直径 10 ~ 12 インチで作られ、胸壁の護岸や胸壁の角に使用されます。

2.砲台の束— 長さ 8 ~ 12 フィート、厚さ 10 ~ 12 インチで作られ、胸壁などの護岸として使用されます。

3.塹壕束— 長さ 4 ~ 6 フィート、厚さ 4 ~ 9 インチ。包囲戦で使用。

4.水束— 長さ 6 フィート、厚さ 1 ~ 2 フィート。沼地や湿地を覆うのに使用します。沈むように石を詰める必要があります。

5.被覆束— 集積所や樹液貯蔵庫の頂部を形成するために使用される。したがって、十分な重量に耐えられるように、最も丈夫な枝に数本の支柱を加えて構成する必要がある。

6.樹液束— 長さ 3 フィート、厚さ 8 インチ。[120ページ]

束木を作る際の注意点— 束木は、樺、ハシバミ、またはその他の柔軟な木材を25~30cm間隔でよくねじり合わせて作る必要があります。束木は、結ぶ前に必ず絞め縄でしっかりと引き締めてください。

束木を形成するために木材を敷き詰める際は、最も短く小さな木材を内側に敷き詰めます。通常、各架台には3人の作業員が配置され、そのうち2人が木材の回収を担当します。

一般的に、18 フィートのソーシソンは各架台で 30 分で完成します。

この作品の主材は白樺とモミです。

束木は砲台の角度に合わせて曲げられることがあります。プロイセン人は束木の一部を二重にして束木の端に輪を作り、角で重ね合わせ、輪に杭を打ち込むことで非常に強固にしています。

消防船。150トンの消防船の可燃物資の割合 。

 いいえ。

組成物が詰まった火樽 8
鉄の部屋、港を吹き飛ばす 12
プライミング用組成物、 バレル 3.5
クイック、マッチ、 ” 1[121ページ]
カーテン、 浸した 48
葦、 長さ、 シングルディップ 150

” 短い、 二重に浸した 75
シングルディップ 75
バビンズ、 シングルディップ  250
火樽は高さ約 2 フィート 4 インチ、直径 1 フィート 6 インチです。各樽の側面には、約 6 インチ四方の穴が 4 つ開けられていなければなりません。これらの穴の上に、正方形のキャンバス地をぴったりと釘付けにしなければなりません。次に、胴体と同じ組成物を充填し、直径約 1 インチ、長さ約 3 インチのプラグ 4 つを、よく油を塗って、上部に差し込み、乾燥させます。乾燥したら、これらのプラグを取り外し、穴に信管組成物と、上部に速射火薬を充填します。これを 1 つの穴から他の穴まで行います。この後、上部に、ワインの蒸留酒を混ぜた粉末を塗ります。再び乾燥したら、茶色の紙を 1 枚か 2 枚上に置いて、キャンバス地のカバーの 1 つを、樽の上部の輪で固定します。[122ページ]

リード、バビン、カーテンを浸すための構成。

 ポンド。

ロジン 120
粗い硫黄  90
スウェーデンのピッチ 60
牛脂 6
粉末 12
この割合で約 100 本のリードと 25 本のバビンを浸すことができます。

各カーテンには 1 平方ヤードのバラスが含まれています。

火樽用カバー1個につき袋1枚。

カーテンやカバーなどを浸したら、すぐに、混合物が冷めてしまう前に、細かい硫黄をその上に撒き散らす必要があります。

火口を吹き開けるための鉄製の薬室には、9~11オンスの火薬が収容されます。薬室は、火薬の反動を防ぎ、火口を確実に吹き開けられるよう固定されています。通常、火口はコルクで塞がれ、起爆が必要になるまでバラ材で覆われます。

消防船の艤装。—火室の幅全体を9つの部分に分け、部屋の全長にわたって樋を設置する。樋の間には、長い樋に垂直に、各列に約20本の連絡樋を設置する。これらの樋は [123ページ]通常、幅4インチ、奥行き4インチです。両側に2つの火口と2つの火口があり、その下に8つの火樽が設置されます。

葦とバビンは溝に縛り付け、カーテンは梁に釘付けにし、火室まで均等に打ち付ける。船は艤装時には点火せず、点火予定時のみ点火する。

プライムへ。

プライミング用組成物。

硝石を粉砕した  22ポンド。 8オンス
ロジン  2 11
硫黄 18 —
粉末 45 —
亜麻仁油  1パイント。
すべての葦とバビンを引き上げ、上記の配合物を少量、溝の底に振りかけます。その後、葦などを再び優しく縛り付けます。6~8本の糸を二重にした速射材をすべての葦などの上に敷き詰め、その上に点火材を撒き散らします。また、火室全体にも散布します。すべての火樽の蓋を切り開き、樽の側面に垂らします。強力な速射材の導火線を、火樽の底から敷き詰めます。 [124ページ]リードを銃身と薬室に繋ぎ、抜け落ちないように通気口にしっかりと固定する。リードから発射口まで、速射用の強力な導火線を4~5重に重ねて敷き詰める。発射口は速射用の導火線で繋ぎ、全体が同時に発火するようにする。

火室で得られる内部の火に加えて外部の火を発生させる以下の方法が現在採用されています。

骨材組成物を充填した火室は、3本のマストを持つ船では次のように配置されます。

1 それぞれのキャットヘッドとダビットから吊り下げられた 4
船首の両側に
8 バウスプリットに吊り下げられた 8
4 後部のアウトリガーのそれぞれに 8
2 それぞれのグラップリンから 12
下部ヤードアーム
1 両側のデッドアイから 6
3つの丸いトップ
1 メインの内側の真ん中から、前方、 6
ミゼンの覆い
44
箱はチェーンとフックで吊り下げられ、バウスプリットとアウトリガーに掛けられた箱はステープルで固定されている。内側の2つの箱は [125ページ]火箱には、即座に点火する速射砲の先導、または一定時間燃焼する舷側火砲が備え付けられている。これらは、バウスプリットとアウトリガーに縛り付けられたリードによって外側の火箱と連通している。デッドアイとシュラウドから吊るされた箱は、シュラウドから吊るされたカーテンによって点火され、その下の箱は大きな火樽の 1 つの真上に吊るされている。各ヤードアームの 2 つの箱は、もう 1 つに重ねて吊るされており、上の箱には、シュラウドからヤードに沿って運ばれる速射砲の先導が付いており、燃焼すると下の箱に間違いなく点火する。箱のほかに、火樽が次のように配置されている。半火樽 2 つが船首楼に、主甲板の後方に 2 つ、主甲板上に 4 つ。各ラウンドトップに 2 つずつマストに立てかけてあり、火樽トランクの下に 4 つの大きな火樽があり、シュラウドのカーテンに火を運んでいる。これらの火筒と火箱はすべて、速射砲または舷側火筒の別々の先導火線から点火する。これにより、船の接近時に煙で覆うために船の任意の部分を点火し、残りの部分は船を離れると同時に点火することができる。実験により、舷側火筒に火をつけた2人の作業員が、甲板上の先導火線、バウスプリット、キャットヘッド、アウトリガーなどすべてに1分以内に点火できることがわかった。したがって、全体を1つの主先導火線に頼るリスクを回避できる。

リーダーは、この目的のために作られた塗装されたキャンバスのホース内に置かれます。[126ページ]

フリント—通常は半樽に詰められます。

 重さ。
  Qrs.    ポンド。 

半バレルには マスケット、 2000 2 14
カービン、 3000 2 10
ピストル、 4000 2 15
最も透明で鉱脈のないものが最高級のフリントとみなされます。

  cwts。   qrs。    

28樽 マスケット銃 火打ち石 取る 18 0 トン数
10樽 ピストル ” ”  3 2 ”
要塞化。—野戦工事の建設における実践的な原則。

  1. 建築物が建設される場所によってその形状が決定されるべきであり、土地を有効活用しない規則的な形状を維持することに注意を払うべきではない。

2d. 各戦線は、丘の斜面の周囲からその麓に至るまで守備隊の小火器が通れるように配置しなければならない。また、各部は少なくとも500歩の距離から発見可能でなければならない。

3d. 隘路の防衛のために築かれた工事は、常にマスケット銃の射程範囲内になければならないが、その距離は200ヤードを超えてはならない。

  1. 側面を囲まれた防御壁、つまり一方が他方の砲火によって防御されている防御壁の場合、最も効果的な防御は直角で形成される防御壁である。[127ページ]
  2. 突角は60度未満であってはならず、また、再進入角は90度未満であってはならず、120度を超えてはなりません。
  3. 作業場への入口は、常に攻撃を受けにくい部分、できれば再進入可能な角度で開ける必要があります。
  4. 可能であれば、敵が攻撃を行う際に占有できるよりも広い前線を敵に提示するよう努めます。
  5. 前方、側面、後方を問わず、高所から見下ろすすべての地面を避ける。
  6. 敵が回頭できるほど、陣地の後方を露出したままにしないこと。
  7. 作品の角度は常に攻撃を受けにくい方向に向け、結果として最も攻撃を受けやすい方向に正面を向けるようにします。
  8. 守備隊は2列以上並んではならない。各列の間隔は通常2フィート、各兵器からは6~8歩とする。
  9. 陣地が1個大隊または2個大隊で守るほど大規模な場合は、その人数の約6分の1に相当する予備兵力を確保する必要がある。
  10. 陣地内のスペースは、兵士が移動したり横たわったりするのに十分な広さが確保されていなければならない。兵士1人につき少なくとも18平方フィート(約1.8平方メートル)、野砲1門につき少なくとも216平方フィート(約23平方メートル)のスペースが必要である。
  11. 線が長くなりすぎない程度に、内側のスペースが広いほど良い。[128ページ]
  12. 大砲の弾丸に耐える胸壁の厚さは12フィート以上、マスケット銃の弾丸に耐える胸壁の厚さは6フィート以上とする。
  13. 欄干の高さは、工事の状況と隣接する土地の状況に応じて調整されなければならない。このことを考慮して、欄干からの高さは4.5フィートを超えてはならない。
  14. 溝の深さと幅は、欄干と長椅子に必要な土の量によって調整されなければならない。
  15. 兵士の乗船口や河川の通過口を覆うための堤防(テット・ド・ポン)は、可能であれば、河川や海岸線が一種の後退角を形成する場所に建設するべきである。これにより、部隊の側面だけでなく堤防の側面もカバーすることができる。

作業の遂行。作業員の数は、作業に割り当てられた時間、労働量、そして同時に雇用できる人数に比例していなければならない。溝が広い場合は、作業員は2列に並んで配置できるが、狭い場合は1列にしか配置できない。溝が広い場合、溝の外側にいる作業員は2列目に土を投げ、さらに2列目からは欄干にも土を投げることになる。そのため、2列目は1列目の人数に合わせるために、2倍の人数でなければならない。 [129ページ]作業員同士は2歩(4フィート)以上離れて配置してはいけません。シャベルを持った2人の作業員の前には、つるはしを持った1人が配置されます。通常よりも迅速に作業する必要がある場合は、シャベルを持った6人または8人に、手押し車またはかごを持った1人を加えます。また、欄干の上にも作業員を1列配置し、盛り土した土を広げ、叩き潰します。

束木を固定するには、作業の 24 フィートごとに 3 人の作業員で十分であり、作業員には木槌 2 本、のこぎり 1 本、ビラまたは手斧 1 本が支給される必要があります。

畑仕事の完了時間を概算するには、掘削する土の立方フィート数を計算します。溝の上部と下部の幅の合計の半分に深さを掛けると、断面の平方フィート数が得られます。これに作業員間の距離(フィート)を掛けると、各作業員が掘らなければならない立方フィート数が得られます。また、溝の長さを掛けると、溝の容積が得られます。さて、夏の間、1人の作業員が1日に216立方フィートの土を移動できるとされていますが、必ずしもそうとは限りません。畑仕事が24時間で完了すれば、最も勤勉な作業員でも作業を完了できることになります。 [130ページ]作業員が対応できる範囲です。一般的に、この時間は弱いプロファイルの形成に使用されます。より強いプロファイルの形成には、束状の覆いを付けて48時間、最も強いプロファイルの形成には72時間かかります。

工事の勾配は、土壌の性質と工事を構成する材料に応じて異なります。胸壁の内側勾配は、たとえ束石で覆われるとしても、その高さの1/6、外側勾配は約2/3とします。バンケットの勾配はその高さと等しくなります。溝の傾斜面または逆傾斜面の勾配は、土壌の状態に応じて、その高さの半分から全高までとします。胸壁の上部勾配は、工事の状況と周囲の地形に完全に依存します。胸壁の内側勾配は、通常、土を保持するために束石で覆われますが、土壌がかなり硬い場合は、外側勾配に束石を必ずしも覆う必要はありません。エンブラズールは通常、内側で20インチ幅、外側で9フィート幅に作られます。必ず土を保持するために何らかのもので覆われなければなりません。束石は燃えやすいため、芝が一般的に好まれます。

畑仕事のための資材の作り方は、束石、蛇籠、障害物などの見出しの下で見ることができます。また、この種の仕事のための資材の量を見積もる方法は、バッテリーという単語の下で見ることができます。[131ページ]

強化 – 永続的。

大砲に耐える胸壁は、土壁で18フィート(約4.5メートル)、石壁で8フィート(約2.4メートル)以上の厚さを確保する必要があります。マスケット銃撃に耐えるには、石壁の厚さは2フィート(約6メートル)あれば十分です。胸壁は、長椅子からは常に4.5フィート(約1.4メートル)、城壁(またはテール・プレイン)から7.5フィート(約2.4メートル)または8フィート(約2.4メートル)の高さに設置する必要があります。

城壁は、プラットフォームと2台の車両が行き交うのに十分な幅を確保する必要があります。高さは約9ファゾムです。土壁の胸壁は、より多くのスペースを必要としますが、高くできる場合は石造りの胸壁よりも常に優れています。ただし、石造りの唯一の欠点は、発生する破片の数です。

同じ理由から、護岸全体を石積みにすることも好ましくありません。護岸の石積みは、遠くから見えたり、崩れたりするほど高くすべきではありません。土手は自然な傾斜を形成するため、土手は無駄に崩れてしまいます。

最良のエスカルペは石積みで作られ、湿地でも乾地でも、土積みであればよく砕石や柵で囲まれている。土積みであれば、強襲しても破れ目は生じない。エスカルペの高さは30フィートから35フィートが望ましい。

カウンタースカルペも石造で、高さは12フィート以上である必要があります。土壁や低いカウンタースカルペには以下のような不便さがあります。 [132ページ]隠蔽通路を最後まで守り切ることは不可能である。敵は溝に降り、再び隠蔽通路を登り、こうして横断路の背後に回り込む可能性があるからである。敵は土塁の自然な傾斜に沿って進路を見つけることができ、溝に潜り込むという面倒な作戦で進軍を遅らせることはない。さらに、土塁の終端の自然な傾斜は、隠蔽通路を効果的に覆うことを妨げている。

溝は一般的に15~18トイズの幅を持つ。乾いた溝は、兵士たちに安全な隠れ場所を提供し、橋梁のような煩わしさや危険がなく、外堡との連絡が容易なため、湿った溝よりも常に好ましい。

隠密通路の幅は 5 トイズ必要です。幅が狭いと兵士が密集し、幅が広いと敵が砲台を設置できる余地ができてしまいます。

前面防壁の全体は、胸壁の頂上からだけでなく、胸壁の柵からも見えるはずです。

テネイルの高さは、一方の堡塁の側面の砲から、もう一方の堡塁にできた突破口が見えなくなるほど高くしてはならない。

ラヴェリンは側面攻撃をしないのがベストです。正面は稜堡の肩から 10 メートル離れたところに向けます。[133ページ]

城郭本体の胸壁の頂上は、15 または 20 トイズの溝越しに見渡すことができるように、斜面の頂上より 8 フィート上になければなりません。

ラヴェリンの胸壁の頂上は、その場所からより効果的に監視できるように、その場所の本体より 3 フィート低くなっています。したがって、ラヴェリンの胸壁がそれ自身の傾斜面を監視できるようにするために、溝は 10 トアズだけ作られ、この傾斜面は、その場所の本体より 1 フィート低くなっています。

要塞化された場所のあらゆる正面には、防御の均衡が確立されていなければならない。なぜなら、他の正面の弱点が露呈したままでは、特定の正面を強化する必要はなくなるからである。以下の考察は、適切な適用と配置によって得られる特定の工事の価値を、観察者が理解するのに役立つであろう。

塹壕は防御力を大幅に高めます。側面が鈍角の大きな塹壕では、最も効果的な塹壕は、要塞の正面、または側面と塹壕が形成する角を繋ぐ2つの半塹壕と幕で形成されます。塹壕が塹壕の肩まで築かれ、側面を含むようになると(よくあるケースですが)、側面に面する対砲兵隊からの砲火によって、後方から陥落させられる可能性があります。しかし、側面が鋭角の塹壕では、 [134ページ]この種の塹壕に十分なスペースを確保するため、コルモンテーニュは、正面と側面が塹壕のそれらと平行な騎兵塹壕の形を提案している。前者の塹壕は、堀を越えるまでは塹壕の防衛には機能しない。それまでは塹壕は完全な状態を保ち、非常に強力な防御力を発揮する。後者の塹壕は、包囲開始当初から塹壕の支えとなるが、そのため遠距離から防御が破壊される可能性がある。また、その防御力は後者の塹壕に匹敵するものではない。

対抗防御壁は、以下の3つの特性を備えるべきである。1. 対抗防御壁は、設置される主防御壁を効果的に覆わなければならない。少なくとも、主防御壁のうち、破壊によって破壊される可能性のある部分を覆わなければならない。2. 対抗防御壁は、主防御壁よりも低くなければならないが、主防御壁の護岸が見えるほど低くてはならない。3. 対抗防御壁は、包囲側が対抗防御壁内に砲台を築ける余地を与えない程度に狭くなければならない。したがって、包囲側は陣地を選択できない。コーホーン方式の対抗防御壁は土のみでできており、主防御壁を破壊する前に、土に開口部を設ける必要がある。

角や王冠の作品は、重要なポイントを占領したり、弱い側を強化したり、 [135ページ]限定された守備隊は、その場所に対する強力な武器というよりはむしろ弱い武器である。これは特に、それらが覆う場所本体の部分よりも小さく、したがって弱い前面で構築されている場合に当てはまる。なぜなら、それらは占領されると、場所本体への接近を容易にするからである。これは、それらが覆う前面と同じ強度で前面を構築することによって改善される。また、それらの枝が向けられている工作物の護岸が、枝の溝に沿って破壊される可能性があるため、場所の占領を容易にする。これは外塁にとっても大きな害であるが、それらが場所本体の上に設置されている場合には深刻な結果をもたらす。この欠点は、これらの工作物を隠れた通路の外側に完全に配置して、それらの溝が後方の溝と連絡しないようにすることで改善されている。この場合、それらの峡谷は転覆を防ぐために非常に堅固にする必要がある。

高度な隠蔽通路は、場所の防御を強化する最良の手段の一つとして高く評価されています。通常の隠蔽通路に共通する利点に加え、独自の利点も数多く備えています。しかし、(適切な柵の設置に加えて)多くの利点を享受するためには、後部に湿式溝を設けることが唯一の防御策として必要と思われます。 [136ページ]接近不可能なカウンタースカルペを守り、同時にその地のマスケット銃兵の砲火から守る。この種の隠蔽路は、通常、堡塁やラヴランの首都に築かれた堡塁によって支えられているが、その位置からでは城壁の砲火を隠すことはできず、また砲兵隊も配備されているため、包囲軍は遠距離から攻撃を開始し、作戦範囲をかなり拡大せざるを得ない。さらに、この隠蔽路に陣取ることで最初の砲台からの砲火を効果的に隠蔽しなければならないため、その労力は著しく増加する。これらの堡塁からの退却は、地下通路によって確保されなければならない。

対地雷は、間違いなく場所を強化する最初の手段の一つです。この記事では「地雷」という言葉を使用します。

分離堡塁は、状況が有利な場合には、大きな効果を発揮します。通常、堡塁は堡塁から独立しており、隠蔽通路やその他の地上工作物によって堡塁のいかなる構造物とも全く繋がっていません。堡塁の目的は、占領地点における包囲軍への更なる障害となること、あるいは接近路からの縦射や逆射によって隣接する前線への接近を不可能にすることです。また、堡塁の峡谷は、出撃のための絶好の集合場所や退却場所となります。 [137ページ]国を占領し、秘密の道という障壁を突破して軍隊を派遣するという困難も生じません。

しかし、分離した陣地(単数または複数)にこれらの利点をすべて確保するためには、浸水や泥沼など、立地条件の自然的な困難さによって包囲側が全くアクセスできないようにするか、あるいは、強襲による陥落を巧みに防ぎ、通常の接近手段によってのみ攻撃可能とする必要がある。分離した陣地は周囲の砲火の掩蔽下に置かれるべきであるが、距離が遠すぎてそれが不可能な場合は、中間の陣地を設けて援護する必要がある。最良の形態は、側面を後退させた堡塁であり、強力な対地雷敷設は抵抗を長引かせる最も効果的な手段である。

概説― 陣地の側面角が大きいほど、その砲火と、その隠れ道からの砲火は接近路に対してより直接的となる。包囲軍は、より広範囲に陣地と砲台を占拠せざるを得なくなり、攻撃を受ける側の戦線に隣接する戦線の砲火に晒される可能性も高まる。跳弾砲台による側面攻撃を受けない、河川や湖沼などの接近困難な場所に陣地を向けた陣地は、戦線の強度を著しく高める。

ラベリンの側面の角が逆に見えるほど進んでいる場合 [138ページ]斜面の頂上や堡塁の隠れた通路に砲台を築けば、その前線の強度は増す。なぜなら、包囲軍は堡塁を攻撃できる陣地を築く前に、まずラヴリンを占領しなければならないからである。これはコルモンテーニュのシステムにも当てはまる。このように防備が固められた場所では、包囲軍は二つのラヴリンを攻撃して確保し、その間にある堡塁に入らなければならない。さらに、このシステムを直線や多角形に適用すると、堡塁の面の延長線がラヴリンの側面の角に遮られ、その結果、縦射砲台を敷設することが非常に困難になる。遠距離から突破口を開けるような陣地(特に堡塁本体)は、その攻略を非常に容易にする。裂け目の溝は、包囲軍が裂け目の反対側の斜面から堡塁正面に突破口を開ける開口部となるため、この欠点が生じる。堡塁の前に対抗防御壁を設けることで、突破口を堡塁本体から裂け目の方へ移すことで、この弊害を軽減できる。しかし、この弊害を効果的に解消するには、裂け目の前にも対抗防御壁が必要となる。冠状構造や角構造もまたこの弊害をもたらすが、その対策については、これらの構造について述べた際に既に述べた。[139ページ]

砲兵の射撃に関しては、陣地の側面や面の方向はそれほど重要ではなく、むしろマスケット銃の射撃においては重要である。なぜなら、砲兵は照準を合わせずに射撃されることは決してないが、マスケット銃は機械的に、そして胸壁に対して垂直に射撃され、攻撃対象にあまり注意が払われないからである。

高台付近の工事は、その高台から遮蔽されなければならない[7]。 つまり、水平面上に建設するのではなく、工事内部のどこかから高台の最も見晴らしの良い地点を通る仮想の傾斜面上に建設しなければならない。そして、工事のすべての部分は、平地の水平面に対するのと同じ関係をこの傾斜面に対して持たなければならない。

したがって、高台に近いからといって、必ずしもその工事が非難されるべきではない。なぜなら、もしその高台から適切に穢れを取り除けば、傾斜路を下って攻城兵が攻城に近づく際に、大きな利点が得られるからである。しかし、高台に近い場所に適切に建設されるべき工事は、 [140ページ]それらの頂上がすべて同じ高さにある場合を除き、それらの高所から均一に同じ距離を保ちます。しかし、それらの最も低い部分でそれらの高所に近づき、それらが上昇するにつれてそれらの高所から遠ざかる必要があります。このようにして、必要な汚れの平面は、全体にわたってほぼ同じ程度の傾斜を保つことになります。

次の Vauban 表の寸法
が適用されます。

砦は主に広場用です。

リトルは城塞を表し、通常は五角形です。

六角形以上のすべての要塞の平均。

グレートは、不規則な要塞、特に川沿い以外ではほとんど使用されません。[141ページ]

ヴォーバン による要塞の主な寸法。

多角形 の側面
垂線 の長さ
要塞 の顔
ラヴェラン の首都
砦。 80 10 22 25
90 12 25 28
100   12.5 28 30
110 14 30 35
120 15 33 38
130 16 35 40
ちょっとした 
要塞。 140 20 40 45
150 21 42 50
160 23 45 50
170 25 47 52
平均 180 30 50 55
190 31 53 55
素晴らしい。 200 25 55 60
260 22 60 50[142ページ]
壁とそのカウンターフォートの寸法は、
高さが 10 フィートから 50 フィートで、高さの 1/5 の傾斜があります。

壁。 カウンターフォート。
身長。
上部の厚さ。 底部の厚さ

それらの間の 距離
。 幅。 長さ。
足。 足。 インチ。 足。 インチ。 足。 足。 インチ。 足。 インチ。
10 4 0  6 0 8 2 8  4 —
15 4 3  7 3 10 3 4  5 —
20 4 6  8 6 12 4 0  6 —
25 4 9  9 9 14 4 8  7 —
30 5 0 11 0 16 5 4  8 —
35 5 3 12 3 18 6 0  9 —
40 5 6 13 6 20 6 8 10 —
45 5 9 14 9 22 7 14  11 —
50 6 0 16 0 24 8 0 12 —
上記の表の高さは溝の底からのみ測定されており、基礎部分は含まれていません。

城壁の一部が壁で覆われ、一部が芝で覆われている場合、表に示されている壁の上部の幅に、芝で覆われた部分の高さの 1/5 を追加する必要があります。

地球のすべての内向き斜面の底面は、その高さと等しいか、それ以上でなければなりません。

地球のすべての外側斜面の底辺は、その高さの 2/3 になります。[143ページ]

すべての胸壁の上側傾斜は、その幅の 1/6 とする。

すべての壁または護岸の勾配は、その高さの 1/5 です。

野戦工事の建設に関する上記の原則は、その任務に就く将校の記憶を助けるかもしれないが、恒久的な要塞に関する覚書はそのような目的を意図していない。しかし、将校が要塞を訪問した場合に、その基本的な必要条件を思い出させるのに役立つかもしれないし、工事現場を巡回する際に観察するのに役立つかもしれない。

FUZES。—構成。

硝石 3ポンド。 4オンス。
硫黄 1 —
粉末  2 12
自然。 信管直径。 構成。
1日に 1人の男性が運転しました。

カップ の下。 一番下に
あります。 カップで
。 直径。 長さ。 燃える時間

インチ。 インチ インチ。 インチ。 インチ。 インチ。 ″  いいえ。
13 2.1 1.575 2.49 .5 8.4 35 25
10 1.8 1.35 2.13 .438 7.2 33 25
 8 1.3 1.25 1.78 .375 6.37 29 30
5½ 1.1 .825 1.3 .275 4.4 18 50
4⅖ 1.0 .75 1.18 .25 3.5 15 700
手榴弾 0.8 .6  .9 .2 2.25 1000
[144ページ]カップ内部の直径はボア直径の3倍です。

カップの深さは1½です。

穴の底の木材の厚さ、直径の 2 倍。

任意の範囲の信管の長さを見つけます。

同じ長さの13インチと10インチの信管は、燃焼時間がほぼ同じであるため、8インチ、5.5インチ、4.5インチの信管と同様に、共通の長さで両方の信管に対応できます。したがって、任意の距離における信管の長さを求めるには、13インチと10インチの場合は飛翔時間に0.22を、8インチ、5.5インチ、4.5インチの場合は0.24を掛けます。これは、信管が1秒間に燃焼するインチの小数点以下の部分です。信管は塗装することでより長持ちすると考えられており、野外での使用では、秒と0.5秒の黒線で目盛りが付けられることがよくあります。[145ページ]

ガビオン —高さ3フィート、直径2フィートの小型ガビオンは、最も簡単に作ることができ、持ち運びも簡単です。これらのガビオンの杭は、厚さ1.5インチまたは2インチ、長さ4フィートでなければなりません。大型のガビオンは高さ6フィート、直径3フィートで、2人で運ぶ必要があります。最小のガビオン、またはバスケットは、厚さ1インチ、長さ1フィートの杭でできており、上部の直径は12インチ、下部の直径は10インチです。小型のガビオンは杭が7本または8本、大型のガビオンは杭が9本または10本あります。

作り方:まず、杭を地面に円形に打ち付けます。杭は、設置予定の蛇籠の底部と同じ大きさにします。次に、上端に数本の小枝を編み込み、飛び出さないようにします。その後、下端から上に向かって作業を進めます。全体を木槌でしっかりと打ち込んだら、縁を小枝で上下に編み込み、固定します。この作業には、柳、樺、ハシバミ、ハンノキ、ポプラ、ブナの小枝が適しています。蛇籠の上部は、完成時に底部となるため、非常に平らに仕上げる必要があります。通常、蛇籠1つにつき4人の作業員が雇用されます。 [146ページ]鎌、木槌、鋤、そして斧2本を用意します。2人が木材を集め、残りの2人が蛇籠を組み立てます。3フィートの蛇籠なら30分で作れるはずです。

ジン・ トライアングル。ジンのアームの長さは16フィート4.5インチ。ローラーの長さは6フィート。タックルフォールは78フィート、長さ3インチの白いロープ。スリングは6インチの白いロープ。

ジンのさまざまなエクササイズについては、「エクササイズ」という単語を参照してください。

重力—いくつかの固体および流体の比重表。

プラチナ 23400 硝石 1900
純金 19640 象牙 1825
標準ゴールド 18888 ブリムストーン 1810
クイックシルバー 11325 固体火薬 1745
純銀 11091 砂 1520
標準シルバー 10535 石炭 1250
銅 9000 ツゲ 1030
銅の半ペンス 8915 海水 1030
ガンメタル 8784 共通の水 1000
鋳造真鍮 8000 オーク 925
鋼鉄 7850 火薬、密集積 937
鉄 7645 ”ゆるい山積み 836
鋳鉄 7425 灰 800
錫 7320 メープル 755
クリスタルガラス 3150 エルム 600
大理石 2700 モミ 550
一般的な緑色のガラス 2600 木炭
フリント 2570 コルク 240
一般的な石 2520 空気 1.232
粘土 2160 レンガ 2000
共通の地球 1984
[147ページ]数種類の木材は乾燥していると思われます。

この表には、各物体の 1 立方フィートの重量も常温オンスで記載されています。そこから次の規則が導き出されます。

1.重さから物体の大きさを求める。

物体の比重は常温オンスで表した重量に比例し、1 立方フィート (1728 立方インチ) は、それぞれフィートまたはインチで表​​した内容量に比例します。

2.物体の大きさからその重さを求める。

1 立方フィート、つまり 1728 立方インチが物体の内容物に相当するのと同様に、物体の比重も物体の重さに相当します。

ぶどう弾。—「ショット」という単語を参照してください。

手榴弾。—手榴弾は13ファゾム(約1.3メートル)まで投げることができます。寸法については「シェル」の項を参照してください。

砲術。—優れた練習表、振幅、正弦、接線、正割の表の助けを借りて、 [148ページ]抵抗のない媒体での砲撃は簡単に解けるかもしれない。そして、弾丸の初速度が空気抵抗をかなり大きくするほど大きくなければ、おそらくその解は実践には十分正しいかもしれない。

兵器の射程表については、 砲、迫撃砲などのさまざまな性質を参照してください。また、振幅、正弦、接線、正割の表については、151ページと 152ページを参照してください。

水平面上。

  1. 最大範囲はほぼ 45° です。
  2. 同じ電荷を持つ異なる仰角の範囲は、仰角の 2 倍の正弦のようになります。
  3. 任意の角度とその補角はほぼ同じ範囲になります。
  4. 飛行時間は仰角の正弦と同じです。
  5. 任意の標高における曲線の高度は、次の比率で求められます。

半径: 仰角の接線:: 範囲 :高度。
4

  1. 45°での飛行時間は、フィートで表した距離の平方根を4で割った値、またはそれに近い値である。

= √ 商 ²
フィートで表した距離を 16.1 で割った値、つまり重力によって最初の 1 秒間に通過した空間です。[149ページ]

標高と電荷が与えられた最初の放牧地がある場合、他の最初の放牧地と標高の電荷を決定するには、既知の電荷と標高を提案された最初の放牧地と掛け合わせ、また提案された標高を既知の最初の放牧地と掛け合わせ、最初の積を最後の積で割って、必要な電荷を算出します。

傾斜面では 45° の仰角です。

ケース1。

飛行機の電荷と傾斜角がわかれば、
距離を求めます。

水平距離に、この与えられた電荷(距離表に記載)を掛けて、飛行機が地平線より上に傾斜している場合は振幅表の乗数の最初の列の「上昇」の項目の下にある飛行機の傾斜角の反対側にある数値を掛け、地平線の下にある場合は「下降」の項目の下にある数値を掛けて、必要な距離を求めます。

ケース2d。

飛行機の距離と傾斜角がわかれば、
料金がわかります。

上記の表の、飛行機の傾斜角の反対側にある数値(乗数の 2 番目の列、見出し「上昇」または「下降」の下、地平線より上か下かによって異なる)に、指定された距離を掛けます。水平面上で 45° の距離については、距離の表から料金を見つけることができます。[150ページ]

傾斜面、
あらゆる高さ。

常に 2 つの仰角があり、これを使用して任意の範囲 (最大のものより小さいもの) を作成できます。これらの仰角は常に互いの補完関係にあります。水平面上の最大範囲は 45°、つまり方向が水平面と垂直面によって形成される角度を二等分するときです。また、任意の平面上の最大範囲は、平面と天頂の間の角度を二等分する方向で作成されます。この方向と等しい角度を形成する他のすべての方向 (その各側) も、前述の平面上で等しい範囲を形成します。任意の平面と天頂の間の角度を二等分する方向は、その平面に関して、45° の方向が地平線に対して同じであるのと同じだからです。

規則。第1条:与えられた上昇角で最大範囲を与える仰角は、上昇角に90°を加えた合計の半分に等しい。

2d. 与えられた上昇において等しい範囲を与える標高は、その上昇に互いの補数として加えられたものである。

3d. 降下時に最大範囲を与える仰角は、降下量の半分に等しい。

距離と傾斜角が与えられれば、到達できる最小の電荷は [151ページ]オブジェクトの正確な高さは、次のようにして求められます。電荷が必要な水平範囲について、適切な仰角の接線を提案された範囲に掛けます。

ウィリアムズの 砲術。

振幅の表。

度。 上昇。 降下。
乗数。 乗数。
1階 2d. cl. 1階 2d. cl.
 1 .983 1.02 1.02 .983
 2 .966 1.03 1.04 .966
 3 .949 1.06 1.05 .950
 4 .932 1.07 1.07 .932
 5 .916 1.09 1.09 .916
 6 .900 1.11 1.11 .900
 7 .884 1.13 1.13 .884
 8 .868 1.15 1.15 .868
 9 .852 1.18 1.17 .853
10 .836 1.20 1.19 .836
11 .821 1.22 1.22 .821
12 .805 1.24 1.24 .805
13 .789 1.27 1.27 .789
14 .774 1.29 1.29 .774
15 .758 1.32 1.31 .763
16 .742 1.35 1.34 .745
17 .726 1.38 1.37 .730
18 .711 1.40 1.39 .720
19 .693 1.45 1.42 .704
20 .677 1.48 1.45 .690
21 .660 1.52 1.46 .675
22 .643 1.56 1.52 .662
23 .625 1.60 1.55 .645
24 .607 1.64 1.58 .633
25 .589 1.70 1.62 .617
26 .570 1.76 1.66 .603
27 .550 1.82 1.69 .592
28 .530 1.86 1.73 .578
29 .510 1.96 1.78 .562
30 .488 2.05 1.82 .549
31 .466 2.14 1.87 .534
32 .442 2.26 1.92 .526
33 .418 2.41 1.97 .508
34 .393 2.55 2.02 .495
35 .366 2.73 2.08 .488
36 .338 2.96 2.13 .470
37 .309 3.24 2.20 .455
38 .278 3.60 2.26 .443
39 .245 4.09 2.33 .430
40 .210 4.80 2.40 .417
41 .173 5.78 2.48 .404
42 .134 7.46 2.56 .390
43 .092 10.90 2.64 .380
44 .045 22.22 2.73 .370
45 .000 無限 2.83 .360[152ページ]
自然正弦、正接、正割の表。

度。 正弦。 接線。 割線。
 1 .018 .018 1.000
 2 .035 .035 1.000
 3 .052 .052 1.001
 4 .070 .070 1.002
 5 .087 .087 1.004
 6 .105 .105 1.006
 7 .122 .123 1.008
 8 .139 .141 1.010
 9 .156 .158 1.012
10 .174 .176 1.015
11 .191 .194 1.019
12 .208 .213 1.022
13 .225 .231 1.026
14 .242 .249 1.031
15 .259 .268 1.035
16 .276 .287 1.040
17 .292 .306 1.046
18 .309 .325 1.051
19 .326 .344 1.058
20 .342 .364 1.064
21 .358 .384 1.071
22 .375 .404 1.079
23 .391 .424 1.086
24 .407 .445 1.095
25 .423 .466 1.103
26 .438 .488 1.112
27 .454 .510 1.122
28 .469 .532 1.133
29 .485 .554 1.143
30 .500 .577 1.155
31 .515 .601 1.167
32 .530 .625 1.179
33 .545 .649 1.192
34 .559 .675 1.206
35 .574 .700 1.221
36 .588 .727 1.236
37 .602 .754 1.252
38 .616 .781 1.269
39 .629 .810 1.287
40 .643 .839 1.305
41 .656 .869 1.325
42 .669 .900 1.346
43 .682 .933 1.367
44 .695 .966 1.390
45 .707 1.000 1.414
46 .719 1.036 1.440
47 .731 1.072 1.466
48 .743 1.111 1.494
49 .755 1.150 1.524
50 .766 1.192 1.556
51 .777 1.235 1.589
52 .788 1.280 1.624
53 .799 1.327 1.662
54 .809 1.376 1.701
55 .819 1.428 1.743
56 .829 1.483 1.788
57 .839 1.540 1.836
58 .848 1.600 1.887
59 .857 1.664 1.942
60 .866 1.732 2.000
61 .875 1.804 2.063
62 .883 1.881 2.130
63 .891 1.963 2.203
64 .899 2.050 2.281
65 .906 2.145 2.366[153ページ]
66 .914 2.246 2.459
67 .921 2.356 2.559
68 .927 2.475 2.669
69 .934 2.605 2.790
70 .940 2.747 2.924
71 .946 2.904 3.072
72 .951 3.078 3.236
73 .956 3.271 3.420
74 .961 3.487 3.628
75 .966 3.732 3.864
76 .970 4.011 4.134
77 .974 4.331 4.445
78 .978 4.705 4.810
79 .982 5.145 5.241
80 .985 5.671 5.759
81 .988 6.314 6.392
82 .990 7.115 7.185
83 .993 8.144 8.206
84 .995 9.514 9.567
85 .996 11.430 11.474
86 .998 14.301 14.336
87 .999 19.081 19.107
88 .999 28.636 28.654
89 .999 57.290 57.299
90 1.000 無限 ——
銃—英国および外国の銃の口径を英国インチで表​​したもの。

英語。 フランス語。 スペイン語 オランダ語。 ロシア。 ポルトガル。
教授 インチ。 教授 インチ。 教授 インチ。 教授 インチ。 教授 インチ。 教授 インチ。
42 7.018 — — — — — — 36 6.86 48 7.49
32 6.41  36 6.9  36 6.84 32 6.4  30 6.47 36 6.8 
24 5.823 24 6.03 24 6.03 24 5.92 24 6.   24 5.93
18 5.292 16 5.26 18 5.52 18 5.45 18 5.45 18 5.4 
12 4.623 12 4.78 12 4.8  12 4.76 12 4.76 12 4.7 
 9 4.200  8 4.18  9 4.2   8 4.13  8 4.17  9 4.3 
 6 3.668 — — — —  6 3.78  6 3.78  6 3.75
 4 3.204  4 3.315 — — — — — — — —
 3 3.913 — — — — — — — — — —
 1 2.019 — — — — — — — — — —
[154ページ]

イギリスの真鍮製銃の長さと幅。

自然。 長さ 重さ。
キャリバー。 フィート で。 コート qrs。 ポンド。
42 パウンダーズ 16.244 9 6 66 — —
32 ” 18.721 10 0 55 2 —
24 重い 19.574 9 6 53 0  9
中くらい 16.483 8 0 41 3  2
ライト 10.302 5 0 16 3 13
 ” 新しい 13,000 6 3 16 3 13
18 ライト ” 13,000 5 9 18 0 —
12 重い 24.659 9 0 31 2  8
デサグリエ将軍の 19.468 7 6 22 1 21
中、古い 16.872 6 6 21 3 —
中、新品‡ 16.872 6 6 18 — —
ライト 12.978 5 0  8 3 4
 ” 新しい‡ 13,000 5 0 12 — —
 6 重い 26.112 8 0 19 1  6
ジェネラル・デサグ・メディカル‡ 22.876 7 0 12 — 24
中級新 18,500 6 0  8 3 27
” 削減 17,000 5 6  8 0 22
ベルフォード将軍‡ 16.342 5 0  5 2 21
軽い、普通 14.706 4 6  5 — 18
 3 重い 28.836 7 0 11 3 19
デサグリエ将軍の‡  24.717 6 0  6 — —
軽度、普通‡ 14.418 3 6  2 2 27
軽歩兵 12.358 3 0  1 3 16
パティソン将軍の 12.358 3 0  1 2 19
 1 アムゼット教授 29.7 5 0  2 2 12
する。 35.6 6 0  3 0 11
する。 41.5 7 0  3 1 12
注: (‡)印のついた砲は現在一般任務で使用されている唯一の砲です。[155ページ]

フランス製の真鍮製銃の長さと重量(それぞれの重量と計測単位)。

自然。 長さ 重さ
口径。 フィート で。 李。 ポンド。
24 氏。 包囲 — 9 11 5 5628
16 ” — 9 7 — 4111
12 ” ギャリソン — — — — 3184
 8 ” — — — — 2175
12 ” 分野 18.0 6 6 — 1808
 8 ” 18.  5 8 — 1196
 4 ” 18.  4 6 — 590
 1 ” — — — — 266
イギリスの鉄銃の長さと重量。

自然。 長さ 重さ
ショットと銃の比率
。[8]
口径。 フィート で。 CT.. 質問..
42 氏。 17.098 10  — 67 —
16.244 9 6 65 — 170
32 ” 18.721 10  — 58 —
17.725 9 6 55 — 193
24 ” 20.604 10  — 52 —
19.574 9 6 49 2 231
18.542 9 — 47 2
18 ” 21.542 9 6 42 —
20.408 9 — 40 — 249
12 ” 24.659 9 6 34 —
23.361 9 — 32 —
22.063 8 6 31 2
19.468 7 6 29 1 294
9 ” 21.4 7 6 24 2 305
19.9 7 — 23 —
6 ” 26.2 8 — 22 —
19.6 6 — 16 2 411
4 ” 22.4 6 — 22 1 343
20.6 5 6 11 1
3 ” 18.6 4 6  7 1 270
[156ページ]

フランスの鉄砲、イギリスの重量など。

自然。 長さ 重さ
口径。 フィート で。 CT.. 質問.. ポンド。
36 パウンダーズ。 16.18 9 8 74 3 —
24 ” 18.18 9 1.5 51 — —
16 ” 21.01 9 7 42 — —
18.45 8 4 43 2 —
16.92 7 8½ 35 — —
12 ” 21.54 8 7 31 2 —
20.5 8 2 20 3 —
17.14 6 10 28 — —
8 ” 24.64 8 7 24 1 —
17.22 6 — 16 — —
4 ” 17.19 4 9 — — —
真鍮製の銃の射撃場と一発の射撃。1793 年。

自然。 充電 ショットの最初のかすめまで
PB 1° 2° 3° 4° 5°
ポンド。 オンス。 ヤード。 ヤード。 ヤード。 ヤード。 ヤード。 ヤード。
24 重い 8 0 473 781 1032 1405 1585 1710
中くらい 8 0 488 757 1103 1425 1557 1745
ライト 3 0 162 364  606  722 1390
12 重い
中くらい 4 0 705  973 1189
ライト 3 0 601  816 1063
6 デサグリエ 2 0 646  966 1325
6フィート 2 0 683  948 1327
5 : 6 メディ 2 0 775 1003 1444
5 : 6 赤くなりました。 2 0 642  976 1150
5フィート 1 8 587  825  950
4:6フィート 1 8 628  804  991
3 デサグリエ 1 0 679  883  918
5フィートのアミュゼット 0 8 604  800
7 フィートの 0 8 656  830 1000
[157ページ]

2 発のショットを備えた真鍮銃の射程範囲。1793 年。

自然。 充電 標高。 まずはミディアムのグレイズ。
ポンド。 オンス。 1° 30′ 1発目。 2Dショット。
12ポンド、ミディアム 4 — 1 30 607 706
6:デサグリエ 2 — 1 30 621 739
6:5フィート 1 8 1 30 586 732
3:デサグリエの 1 — 1 30 523 638
小型の装薬を備えた真鍮製の野砲の射程範囲。1798 年。

自然。 充電 まず、異なる標高で Graze します。 極限範囲。
1° 2° 3° 4° 5° 6° 7° 8°
12 ページ 10オンス 199 290 390 385 597  716  695  788 800から1000まで。
1ポンド 280 416 729 777 966 1090 1054 1295 1200年から1500年まで。
6 Pr. 5オンス 111 222 376 432 618  625  650  788 800から1000まで。
8オンス 277 401 754 826 925  980 1103 1100 1000から1300まで。
注:上記は12 Pr. ミディアムと6 Pr. デサグリエのものです。
距離はヤードで示されています。[158ページ]

大隊銃からのケースショットの効果。軽量 6 Pr。長さ 5 フィート。重量 5 cwt。3 qrs。21 ポンド。高さ 8 フィート、長さ 90 フィートのターゲットに対して。

ターゲットまでの 距離

料金の性質
。 標高。 No. 6フィート
の高さ
、または 歩兵
の高さに入れます。
No. 8 フィート
の高さ
、または 騎兵
の高さに相当します。
ヤード。 度。
 500 ボール12個、各8オンス、 1 3 3
3層、  1.5 3 4
1¼ポンドの粉末。 2 3 4
 400  同じ料金です。 1 6 6
 1.5 4 5
2 4 5
 300  同じ料金です。  1/2 6 7
1 3 3
 1.5 4 6
 400 34個のボール、各3オンス、 PB 10  12 
7つの層、  1/2 9 10 
1¼ポンドの粉末。 1 6 8
 300  同じ料金です。 PB 11  13 
 1/2 12  15 
1 7 9
注:交代ごとに 3 発の弾丸が発射されましたが、すべて非常によく似ていたため、そのうち 1 発だけを記録すれば十分だと考えられていました。—1802 年。[159ページ]

海軍の鉄砲を備えた射撃場。1796 年。

32 ポンド砲、24 ポンド砲、18 ポンド砲の性質。
標高。 粉末の割合
。 ショットの性質。 範囲。
度。 ヤード。
2 ⅓ 最初のかすめには単発ショット。 1200
2 ¼ やれ。やれ。 1000
2 ¼ 2発のショット、近距離から  500
4 ⅓ シングルショット 1600
4 ¼ する。 1500
7 ⅓ する。 2150
7 ¼ する。 2020
2 ¼ 1ラウンドのショットと1ラウンドのブドウ、  600
効果は一緒に範囲を広げ、
4 ¼ ぶどう弾一発だけで 1000
2 ¼ ダブルヘッド、またはバーショット1つ、  800
最初の放牧地までの範囲[160ページ]
24 ポンド鉄砲の 5½ インチ砲弾の射程、砲の長さ 9½ フィート、重量 49 セント、26 ポンド。

標高。 2ポンド。 2ポンド8オンス 3ポンド。
フライト。 範囲 フライト。 範囲 フライト。 範囲
最初の
放牧。 過激。 最初の
放牧。 過激。 最初の
放牧。 過激。
度。 秒。 ヤード。 ヤード。 秒。 ヤード。 ヤード。 秒。 ヤード。 ヤード。
1 1 213 1139 2¾ 562 1456 1 277 1424
2 1¾ 384 1267 1.5 442 1413 1¾ 526 1464
3 2¾ 565 1413 2.5 647 1553 2¼ 740 1600
4 2¼ 750 1479 3¾ 896 1639 3.5 880 1679
5 3¾ 836 1670 4 915 1510 5 1182 1733
6 4 896 1495 5 1140 1657 6¼ 1384 1787
7 6½ 1180 1492 6 1205 1481 6¼ 1410 1749
8 6¾ 1305 1526 6½ 1259 1544 7 1520 1744
9 7.5 1329 1527 7 1341 1561 7¾ 1722 1938
9½ 6¾ 1229 1453 — — — 8½ 1748 1881
[161ページ]

12 ポンド中型砲の 4⅖ 砲弾の射程範囲。

標高。 8オンス。 12オンス。 1ポンド8オンス
フライト。 最初の
放牧。 過激。 フライト。 最初の
放牧。 過激。 フライト。 最初の
放牧。 過激。
度。 秒。 ヤード。 ヤード。 秒。 ヤード。 ヤード。 秒。 ヤード。 ヤード。
1 1.5 156
2 2 293 2.5 350 707
3 2.5 363 から 3.5 355 から 758 から
4 3.5 462 800 4 679 1100 849 1400
5 4 587 に 3.5 641 に 1075 に
6 4 621 1200 5 941 1300 1150 1600
7 4½ 898 6 1020 1300
8 5 781
[162ページ]

フランス製の真鍮製野砲
と実弾を備えた射撃場。

自然。 充電。 標高。 範囲は
トワーズ単位です。
接線
。スケール。 度。 分。
12 ページ 4ポンド LM — 58 300
2 1 3 350
10 1 39 400
14 1 49 450
16 1 56 480
8 Pr. 2.5ポンド LM — 58 300
6 1 24 350
12 1 51 400
16 2 8 450
20 2 24 480
4 Pr. 1.5ポンド LM — 58 250
4 1 20 300
8 1 40 350
12 2 — 400
16 2 20 450
18 2 40 480
上記はフランスの度量衡です。

火薬—ヨーロッパ各国における火薬製造用の各種原料の割合:

  英語      フランス。   スウェーデン。     ポーランド。      イタリア。   ロシア。 

硝石 75 75 75 80 76½ 70  
硫黄 10 9½ 9 8 12.5 11.5
木炭 15 15½ 16 12 12.5 18.5
ポンド 100 100 100 100 100 100
[163ページ]火薬の試験。王室の製粉所における火薬の最初の検査は、手でこすり、不規則な固まりがないか調べることです。次に、各種類の火薬を2ドラムずつ銅板に吹き付け、承認された火薬と比較します。この試験では、火花が出ず、銅板に玉や汚れが残ってはなりません。次に、直径8インチの乳鉢から2オンスの装填量で64ポンドの鉄球を発射し、承認された火薬と比較します。最良の円筒形の火薬は通常約180フィート、ピットは150フィートの射程距離を誇ります。しかし、最も弱い火薬、あるいは再乾燥された火薬などは、107フィートから117フィートしか飛距離が伸びません。

商人の火薬は、王の御用となる前に、王の製粉所で作られた同種の火薬と照合されます。そして、比較対象となる王の火薬よりも1/20低い値を示す場合、王の御用とされます。この比較は、両種の火薬を同じ日に、同じ時間に、全く同じ状況下で行います。

細粒の、またはマスケット銃の火薬の試験は、マスケット銃の銃身から4ドラムの弾薬を装填し、一定数の1/2インチの湿ったニレ板を3/4インチ間隔で置き、銃身から最初の39フィート10インチのところに鋼球で穴を開けるというものである。王の火薬は通常15または16個を貫通し、再加熱された火薬は9から12個を貫通する。 [164ページ]粉末は、正確に計量した各種類の粉末約 1 ポンドを 17 ~ 18 日間大気中にさらすことで生成されます。この間、材料が純粋であれば、大気中の水分を吸収して重量が増加することはありません。

この暴露では、良質の火薬 100 ポンドが 12 オンス以上、つまり 1 パーセント未満を吸収することはないはずです。

火薬のマーク。 — 火薬の種類は、銃身の頭部にある以下のマークによって区別されます。

番号 ½  シリンダー   赤でマークされています。
LG
No. 2  シリンダー 
SG
No. 3  シリンダー 
FG

SA —No. 3およびFGシリンダーからのダスト。
RA —ライフル武器用。

⁴/₇ シリンダー 混合—白L Gとマークされています。
³/₇ 修復済み

青色の LG または FG は、ピットコールから作られた粉末です。

  番号 ½ LG       黄色でマークされているもの

は復元されています。
 No. 3 FG
赤いLG、FG、またはSGは、シリンダー炭のみで作られた粉末を示し、現在ではサービスで常に使用されています 。[165ページ] ホワイトLGは混合粉末であるため、他の粉末ほど均一ではありません。そのため、通常は砲弾の充填や、それほど精度を必要としない用途に使用されます。すべての実用粉末は、その強度に応じて混合され、可能な限り平均的で均一な力になるように作られています。

フランスの砲力。―フランスのプルーフ弾は真鍮製で、重量は60ポンド(フランス基準)。迫撃砲の直径は7インチ9ポイント(1ラインの3/4)で、風偏は1ラインである。薬室の容量は正確に3オンス(約94g)である。また、最高品質の火薬は90トワーズの射程を、再生産された火薬は80トワーズの射程を持たなければ、軍に採用されない。しかし、現在製造されている火薬は新品でも100トワーズから120トワーズの射程を持つ。ロンバード氏は、エプロベットで125トワーズの射程を持つ火薬を用いた実験結果に基づいて、すべての表を算出している。―上記の寸法と重量はすべてフランス基準である。

ガンメタルは、錫8~10ポンドと銅100ポンドで構成されています。錫の大部分はモルタルに使用されます。[166ページ]

Hエアクロス- 重量 30 ポンド – 長さ 15 フィート – 幅 11 フィート。

手押し車。重さ13ポンド、長さ5フィート4インチ。

ハンドスパイク。—一般的な、重さ11ポンド、長さ6フィート。

馬具男性用、1セット、26ポンド、長さ12フィート。砲兵隊で使用される2頭の馬用の車輪付き馬具、約1cwt。

馬 —杭に立っている馬の幅には通常 3 フィートの余裕が見られ、馬の長さには約 9 フィートの余裕が見られます。

完全な装備と騎乗を備えた軽竜騎兵は、飼料なしで約 2 cwt、1 qr、14 lbs の重量を運ぶことができます。

砲兵隊に所属する馬は、馬車の重量のほかに、1 頭あたり 3 cwt を超える重量を牽引してはならない。

この任務に就く馬は、14 3/4ハンド(約14.75cm)未満であってはなりません。請負業者は政府にこの高さの馬を提供する義務があります。—馬1頭は一般的に5人の人間に相当するとされています。[167ページ]

軍用馬は4分半で約400ヤードを歩きます。

同じ距離を速歩で2分3秒かけて走り、疾走 で約1分かけて走ります。

大きな荷を背負う場合、中くらいの荷を背負う場合よりも、馬一頭あたりの牽引重量を少なくしなければなりません。なぜなら、8頭立ての馬のチームでは、先頭の馬が馬車に近い馬と同じだけの牽引力を発揮できるとは考えられないからです。そして、この不利な点は、チームの長さが長くなるにつれて増大します。

 4 馬 5月 描く 6 cwt。 各—合計 24 cwt。
車両も含みます

 6 ” ” ” 5 ” ” ” 30 ”
 8 ” ” ” 4½ ” ” ” 36 ”
12 ” ” ” 4 ” ” ” 48 ”
Loadという単語も参照してください。
大型車両の場合、12 cwt を超える重量はすべて積荷の一部として計算するのが一般的です。

野戦砲兵車の牽引に馬の使用が許可されました。

砲兵馬車はすべて4頭立てですが、12ポンド砲車は6頭立てです。パークキャリッジ(中型砲車12ポンド、重砲6ポンド、それぞれ6頭立て)、軽砲6ポンド、5.5榴弾砲は、新設計ではそれぞれ4頭立てですが、旧設計ではそれぞれ3頭立てです。

弾薬 ワゴン、 一般的なパターン、 3 馬。
” ” フランダースパターン、 4 ”
鍛冶カート、 2 ”
弾薬 カート、 [168ページ] 2 ”
榴弾砲。 —真鍮榴弾砲の寸法と重量。

自然。 長さ 重さ。
ボアの 長さ
。 チャンバー。
長さ 直径。
含ま
れる粉末
上部 底
インチ。 直径。 フィート インチ cwt qrs ポンド インチ インチ インチ インチ ポンド オンス
10 3 11.5 25 3 14 29.9 12.6  5.776 4.12 7 0
 8 3 1  12 3 12 24.7  8.61 4.6   3.40 3 8
5½ 重い 10 0  0 3 0
5½ ライト 2  2¾  4 0  2 18.47  6.02 3.2   2.45 1 0
4⅖ 1 10   3 0 13 15.21  4.52 2.73  2.24 0 8
フランスの榴弾砲、独自の重量と寸法で表示。

  フィート    で。         ポンド。        ポンド。    オンス。     

8インチ 直径。 1110 重さ。 1 12 充電。
6インチ 2 3 長さ。 670 1 12 満杯。

ヨーロッパのさまざまな国で使用された榴弾砲の性質を示す表。

 国家。   自然。   貝殻。 
重量
(ポンド)
プロイセン 25 Pr. [9] 62
10 — 27
 7 — 14
デンマーク語 18 — 36
10 — 20
サクソン人 16 — 32
 8 — 16
ハノーバー 30 — 61
16 — 33
英語 4⅖インチ  8
または 4 Pr.
5½インチ 16
または 8 Pr.
8インチ 46
または 23 Pr.
フランス語 6インチ 23
または 12 Pr.
8インチ 43
または 22 Pr.[170ページ]
軽量の 5½ インチ榴弾砲を備えた射撃場。1798 年。

標高。 4オンス。 8オンス。 12オンス。 1ポンド。
フライト。 最初の放牧
までの範囲。

極限
範囲。 フライト。 最初の放牧
までの範囲。

極限
範囲。 フライト。 最初の放牧
までの範囲。

極限
範囲。 フライト。 最初の放牧
までの範囲。

極限
範囲。
度。 秒。 ヤード。 秒。 ヤード。 秒。 ヤード。 秒。 ヤード。
PB 1   96 1.5 140 1   159
1 1   66 1.5 143 2  334 1.5  325
2 1   85 から 1.5 184 から 2  351 から 2   490 から
3 1.5 100 400 2  258 700 2.5 506 1000 3   668 1100
4 1.5 110 に 2.5 307 に 3  500 に 4   728 に
5 2  115 600 2.5 376 1000 3  509 1350 5½  918 1400
6 2  168 ヤード。 3  408 ヤード。 3.5 581 ヤード。 5   823 ヤード。
7 2  194 3.5 529 5  872 6   975
8 2.5 226 4½ 630 6½ 975 7  1044
9 2.5 282 5  645 7  911 8  1049
10 2.5 279 5  642 7  1021  8  1104
11 2.5 260 5½ 697 7.5 1177  8  1173
12 3  315 5½ 715
[171ページ]

5.5インチ榴弾砲の射撃場。1793年。

標高。 2ポンド。 3ポンド。
フライト。 最初の 放牧
までの範囲。

極限
範囲。 フライト。 最初の 放牧
までの範囲。

極限
範囲。
度。 秒。 ヤード。 ヤード。 秒。 ヤード。 ヤード。
1 2  453 3  479
2 4  595 5  722
3 4  666 5  921
4 5  847 5 1000
5 5  957 から 7 1325 から
6 7 1173 1400 8 1530 1400
7 9 1449 に 9 1577 に
8 8 1355 1900 9 1721 2000
9 8 1585 9 1801
10  10  1853 9 1791
11  9 1793 12  1013
12  10  1686
[172ページ]

レベル 分け—実際のレベルと見かけのレベルの違いを示す表。

距離。
レベルの 違い 。 距離。
レベルの 違い 。
ヤード。 インチ。 Mls. フィート で。
 100 0.026 ¼ 0 0½
 200 0.103 1/2 0 2  
 300 0.231 ¾ 0 4½
 400 0.411 1 0 8  
 500 0.643 2 2 8  
 600 0.925 3 6 0  
 700 1.260 4 10 7  
 800 1.645 5 16 7  
 900 2.081 6 23 11  
1000 2.570 7 32 6  
1100 3.110 8 42 6  
1200 3.701 9 53 9  
1300 4.344 10  66 4  
1400 5.038 11  80 3  
1500 5.784 12  95 2  
1600 6.580 13  112 2  
1700 7.425 14  130 1  
15  150
16  175
この表はいくつかの便利な目的に答えます。

まず、任意の距離における真のレベルからの見かけのレベルの高さを求める。与えられた距離が表に含まれている場合、レベル補正はそれと同じ行にあります。しかし、正確な距離が表に含まれていない場合は、 [173ページ]表にある距離の平方にヤードで 2.57 を掛けて 1,000,000 で割ります。または、小数点以下の 6 桁を切り捨てます。残りはインチです。または、距離の平方にマイルで 66 フィート 4 インチを掛けて 100 で割ります。

2番目—海上などの水平面上で、見える地平線の範囲、または任意の高さからどれくらい遠くまで見ることができるかを知ること。観測者の目の高さが地平線から既知であれば、見える地平線の範囲は反対側の列の「距離」という単語の下に表示されます。

第三に、物体の高さが分かっている場合、その物体が初めて視界に入ったときにその距離を求める。物体までの距離は、観測者の視界の地平線の長さと、観測点の視界の地平線の長さを足したものになる。この場合、観測者は地球儀の曲線によって視界から隠されている物体の部分の高さだけを知ればよい。物体までの距離が分かれば、同じ方法でその高さを求めることができる。

高さまたは距離が表の制限を超える場合、まず距離が与えられている場合は、それを2、3、または4で割り、商が表の距離の範囲内に入るようにします。次に、商に対応する高さを取り出し、必要な高さの除数の平方を掛けます。ただし、高さが与えられている場合は、商が表の距離の範囲内に入るまで、4、9、16、25などの平方数で割ります。 [174ページ]表の限界を超え、商に除数の平方根を掛けます。

積荷 —砲兵用の馬車、あるいは荷馬車は、通常、馬3頭で14 cwt、馬4頭で20 cwtの荷物を積載します。これは、イギリスの道路では問題ないかもしれませんが、一般用途にはあまりにも多すぎます。同じ重量であれば、ある構造の馬車の方が他の構造の馬車よりも走行しやすいことは間違いありません。そして、こうして得られる機械的な利点が最も大きい場所では、同じ馬数で最大の重量を積載できます。しかし、通常砲兵用に作られる馬車の場合、1頭 が牽引できる最大重量です。

4 頭の馬に引かれるフランスの弾薬貨車には、常に 1,200 ポンドしか積まれていません。

1798年の国内任務規定では、パンを積んだ荷馬車の積載重量は2,400ポンド、塹壕掘り道具を積んだ荷馬車の積載重量は400ポンドと定められています。荷物運搬係など、荷物を運ぶ作業員は150ポンドから250ポンドを運びます。

馬は約 300 ポンド、ラバは約 250 ポンドを運ぶことができます。— 「馬」という単語も参照してください。[175ページ]

弾薬 庫— 現在、砲台用の大型の火薬庫は作られておらず、砲台後方の約6~7ファゾム(約1.8~1.9メートル)の小型弾薬庫に、火薬や薬莢を散在させて配置するのが 一般的です。これは、一発の砲弾が弾薬庫に落ちて砲台全体が破壊される危険を冒すよりも、時々少量ずつ弾薬を落とす方が賢明だからです。これらの小型弾薬庫、つまり塹壕は、約1~2トンの火薬を収容でき、大きさは約8~9フィート四方です。これらは砲弾庫の背後に設置し、砲弾の直射日光から十分に保護する必要があります。地面に埋め込むことができない場合は、砂袋や蛇籠で固定する必要があります。弾薬庫は注意深く設置する必要があり、砲台への連絡も同様に重要です。6門砲台には、この種の弾薬庫が2つ必要です。

恒久的な火薬庫。—ヴォーバンの設計図によると、火薬庫は一般的に長さ10ファゾム、幅25フィート(平地)に作られる。最長の側面の基礎は、地形に応じて厚さ9フィートまたは10フィート、深さ6フィート以上となる。側面は [176ページ]これらの上に建てられた壁の厚さは 8 フィートまたは 9 フィートで、上層階がない場合は、基礎から 8 フィートの高さがあれば十分です。こうすることで、床を地面から湿気のない高さに上げることができ、床からアーチの根元まで 6 フィートの余裕ができます。アーチはレンガの層で作られ、上下にアーチ状になっており、上部の厚さは 3 フィートである必要があります。アーチの外部表面は、屋根のように上部が角度をつけて終わっています。この角度は、アーチのキーストーンの上に 8 フィートの厚さになるようにする必要があります。切妻端の基礎は 5 フィートの厚さで、側面と同じ深さです。これらの端は、基礎から屋根の上部まで 4 フィートの厚さで構築されています。長い側面は、厚さ 6 フィート、長さ 4 フィートのカウンターフォートによって支えられており、12 フィート間隔で配置されています。通気口はカウンターフォート間の各スペースの中央に1つずつ設置されており、幅1.5フィートの型枠で作られています。これらの通気口も鉄板で塞がれています。弾薬庫の採光は、両端の高い位置にある窓から得られ、梯子を使って開閉します。これらの窓はそれぞれ2つずつ、厚さ2~3インチの板で作られたシャッターで固定されています。外側の窓は鉄板で覆われ、両方とも頑丈なボルトで固定されています。弾薬庫への入口は [177ページ]弾薬庫は二つの扉で閉じられており、一つは内開き、もう一つは外開きです。外開きの扉は鉄板で覆われています。弾薬庫の入口は、可能であれば南側に配置してください。弾薬庫の周囲には、厚さ1.5フィート、高さ10フィートの壁が、12フィートの間隔で築かれています。上記の寸法の弾薬庫には、約94,800ポンドの火薬が3連装で積まれます。3連装を超えると、弾薬庫が破損し、火薬が損傷し、事故につながる可能性があります。

マッチ。—イギリス人が使うスローマッチは契約に基づいて作られ、1ヤード(約1.2メートル)で約8時間燃えます。フランスのスローマッチは通常、軽く撚った白いロープを濃い灰汁に3日間浸して作られます。約90センチ(約90センチ)を6時間で燃やします。

ジブラルタルでは、前回の包囲戦中に、緩効性マッチが次のように作られました。8オンスの硝石を1ガロンの水に入れ、弱火で沸騰させる。次に、丈夫な青い紙をその液体で湿らせ、吊るして乾燥させます。乾いたら、各シートをしっかりと巻き、外側の端を糊で留めて、開かないようにします。こうして作ったシートの半分は、3時間燃焼します。[178ページ]

クイックマッチ。

作曲。
ウーステッドマッチ。
梳毛 10 オンス。
粉末 10 ポンド。
ワインのスピリッツ 3 パイント。
水 3 ”
雲母 1/2 パイント。

コットンマッチ。
コットン 1ポンド12 オンス。
硝石 1 8
粉末  10 —
ワインのスピリッツ 2 クォート。
水 3 パイント。
梳毛または綿を土鍋か他の鍋に均等に広げ、その上にさまざまな材料を注ぎ、粉末の約半分を加えます。しばらく浸した後、リールに滑らかに巻き取って乾燥させ、残りの粉末の半分をその上にふるいにかけます。乾燥すれば使用できるようになります。

注記:フランス人は最近、ロープを鉛の砂糖と雨水の溶液に浸すという遅い方法を採用した。その割合は、鉛の砂糖3/4オンスと水1パイントである。そして彼らはこれを従来の方法よりも優れていると評価している。

行進。クイックステップ1分間に108歩1270フィート 。

車輪ステップ、 1 分あたり120 回、各 30 インチ、1 分あたり 300フィート。[179ページ]

サイドステップ。12インチ、毎分75回。

通常のステップ。1分間に75 歩、各 30 インチ。

ダンダス。

騎兵隊の通常の行軍速度は 6 時間で 17 マイルですが、同じ時間で 21 マイル、さらには 28 マイルまで延長されることもあります。

ダントーニ。

行進時に支払われる馬車料金。

1馬車につき1マイルあたり1シリング
5頭の馬、または
6頭の牛、または
牛4頭と馬2頭を連れて;
馬4頭を牽引する荷車は1マイルにつき9ペンス、これ以下の荷車については比例して同額。または、馬5頭、牛6頭、牛4頭と馬2頭を牽引する荷車は1マイルにつき4ペンスを超えない額、馬4頭を牽引する荷車は1マイルにつき3ペンスを超えない額、これ以下の荷車については比例して同額。これは治安判事の定めるところによる。荷車等は30 cwtを超える荷物を積載してはならない。

定期フェリーの料金は、通常料金の半額で、乗船時にのみお支払いいただきます。

反乱法。

行軍資金。宿屋の主人は行軍中の兵士に、行軍当日の食事と少量のビールを供給する義務がある。 [180ページ]入城日とその翌日の二日間。ただし、二日間のうちの一方が市場の日である場合を除く。この二日間の収入として、1800年3月17日付国王令状により、酒場主は16ペンスを受け取ることとなり、その支払いは以下のとおりとする。

有料 政府によって、 騎兵 9d. 歩兵 11日。
” 兵士によって ” 6d. ” 4d。
兵士のビール代 ” 1d. ” 1d.
合計 16 16
対策。

ロングメジャー。
12インチ 作る 1フィート。
3フィート ” 1ヤード。
5½ヤード ” 1 ポール、または止まり木。
40人のポーランド人 ” 1ハロン。
8ハロン ” 1マイル。
4インチ ” 1手。
6フィート ” 1 ファゾム、またはトアズ。
3マイル ” 1リーグ。
60 海里、または ” 1度。
地理的マイル、または
69.5法定マイル。
平方測定。
144平方インチ 作る 1平方フィート。
9平方フィート ” 1 平方ヤード。
30¼平方ヤード ” 1 四角いポール。
40本の角柱 ” 1 平方メートル。
4 スクエアルード ” 1平方エーカー。[181ページ]

実体、または立方体単位。
1728立方インチ 作る 1立方フィート。
27立方フィート ” 1立方ヤード。
251立方インチ ” 1ガロン、ワインの計量単位。
281 ” ” ” 1ガロン、ビールの計量単位。
168⅗ ” ” ” 1ガロン、乾燥量。

ドライメジャー。
8パイント 作る 1ガロン。
2ガロン ” 1ペック。
4ペック ” 1ブッシェル。
4ブッシェル ” 1 クーム
2 クームズ ” 1 四半期。
5四半期 ” 1 ウェイ。
2 ウェイズ ” 1 最後。

体重。
16ドラム 作る 1オンス。
16オンス ” 1ポンド。
25ポンド ” 100 の 1/4。
4四半期 ” 100。
2000 ” 1トン。
14ポンド ” 1 ストーン。
フランスの度量衡。

トワーズはフランスで軍事目的で一般的に使用されており、6フィートに分割されています。各フィートは12インチ、各インチは12ライン、各ラインは12ポイントです。ペースは通常2.5フィートと計算されます。[182ページ]

Poids de Mare , ou de Paris .
24グレイン 作る 1 デン。
3 デン ” 1 グロス
8グロス ” 1オンス。
8オンス ” 3月1日
2 マークス ” 1ポンド。
フランスは最近、まったく新しい度量衡システムを確立した。以下は、ニコルソンの『自然哲学』から抜粋した、そのシステムと、従来のフランスおよびイギリス標準の度量衡システムとの比率に関する短い説明である。[183ページ]

の割合 最初の部分
の対策 その名前
それぞれの種に を示します
その校長 比例する
尺度または統一。 校長
尺度または統一。
10,000 ミリア
1,000 キロ
100 ヘクト
10 デカ
0 ———
0 .1 デシ
0 .01 センチ
0 .001 ミリ
(A) = 主要尺度間の比率
子午線の長さ。
(B) = 古代フランスの計量単位における主要な計量単位の値。
(C) = 英語の単位での値。
主要な測定単位、または単位。
長さ。 容量。 重さ。 農耕民。 薪用。
メートル。 リットル。 グラム。 は。 ステレ。
(あ) 10,000,000番目 重量
の一部 あ センチメートル 100 1つ
からの距離 の一部 立方体の 四角 キュービック
ポールから キューブ。 蒸留 メートル。 メートル。
赤道。 水。
(B) 3フィート 1パイントと 18粒 2平方 1 demi voie、
11行 1~20、または 841,000 止まり木 または1/4
そして半分 リトロンと 部品。 des eaux cord des eaux
ほぼ。 ほぼ1-4。 et toret。 et fore.
(C) 6.083インチ、
インチ それは 22,966 11.968
39.383 より多い 穀物。 四角
ワイン ヤード。
& 少ない
よりも
ビール1クォート。 [184ページ]
古いフランスの度量衡を
英国の度量衡に縮小すること、およびその逆。

1位。 に 減らす イギリスの常用体重からパリの常用体重まで:
常用ポンド16オンス パリの穀物。
または7000トロイオンス。 = 8538
その オンス = 533.6250

2d. に 減らす パリのランニングフィートまたはインチ 1.065977
英語、掛け算
” ” 英語のランニングフィートまたはインチ
パリ、割る

3d。 に 減らす パリ立方フィートまたはインチ 1.211278
英語、掛け算
” ” 英語立方フィートまたはインチ
パリ、割る

4番目。 に 減らす パリのパイントはイギリス人に、 2.0171082
掛ける
” ” イギリスのパイントをパリに、
割る
ラヴォアジエ Ch.
ドイツの計量単位。—ラインラント・ルードは、ドイツ、オランダ、そして北部諸州の大部分で、あらゆる軍事目的で広く使用されている計量単位です。12フィートに分割されます。ラインラント・ルードは10分の1、つまり10分の1フィートに分割されることもあり、その場合の歩幅は20分の1フィート、つまり1ルードの2分の10に相当します。[185ページ]

イギリスの度量衡
とヨーロッパの主要都市の度量衡の比率。

場所。 足の部分。 パーツごとにポンド。
ロンドン 1000 100
パリ 1068 108
アムステルダム  942  93
ラインランド 1033  96
アントワープ  946  98
ロヴェイン  958  98
ミドルバーグ   991  98
ストラスバーグ  920  93
ブレーメン  964  96
ケルン  954  97
フランクフォート  948  93
ライプジヒ — 117
ハンブルク —  95
ヴェネツィア 1153 151
プラハ 1026 106
コペンハーゲン  965  94
ニュルンベルク 1006  94
バイエルン  954 —
ウィーン 1053  83
マドリード 1001  99
トレド  899 100
ボローニャ 1204 127
ナポリ  861 —
フィレンツェ — 123
ジェノヴァ — 142
マントヴァ 1569 143
トリノ 1062 —
ダンツィヒ  944 119
対策— 火薬用。

1 〜 15 オンスまで収容可能な
円筒形粉末計量カップの直径と高さ。

オンス 0 1 2 3 4 5
0 0 1.256 1.583 1.811 1.994 2.148
1 2.706 2.793 2.876 2.953 3.027 3.098 [186ページ]
1 ~ 15 ポンドまで収容可能な
円筒形粉末計量器の直径と重量。

ポンド 0 1 2 3 4 5
0 0 3.165 3.988 4.565 5.024 5.412
1 6.890 7.039 7.245 7.442 7.628 7.805
上記はインチと小数点です。

力学。運動する物体の運動量、すなわち力の量は、物質量と運動速度の積で決まる。そして、任意の二つの物体における物質量の積とそれぞれの速度の積が等しいとき、運動量も等しい。この単純な原理に力学の全体は依存しており、二つの物体が互いに反対方向に作用するように機械に吊り下げられている場合、機械を動かし、一方の物体の垂直上昇量とその重量の積が、もう一方の物体の垂直下降量とその重量の積に等しいという普遍的な真理が成り立つ。これらの物体は、たとえ重量が異なっていても、互いに釣り合う。 [187ページ]あらゆる状況において、片方の上昇ともう片方の下降は同時に行われるため、それぞれの速度は通過する空間と同じでなければならない。そして、一方の重量の超過は、もう一方の速度の超過によって補われる。この原理に基づけば、単純型エンジンであれ複合型エンジンであれ、あらゆるエンジンの出力を計算するのは容易である。なぜなら、必要なのは、出力が重量よりもどれだけ速く移動するか(つまり、同じ時間でどれだけ遠くまで移動するか)を求めるだけであり、エンジンの助けによってどれだけの出力が増加するかは、まさにそれだけだからである。

通常、機械力と呼ばれる単純な機械は、てこ、車輪と車軸、 滑車、傾斜面、くさび、ねじの6 種類です。

てこには 4 つの種類があります。1 つ目は、支柱が重りと力の間にあるものです。2 つ目は、てこの一方の端に支柱があり、もう一方の端に力があり、その間に重りがあるものです。3 つ目は、支柱が一方の端にあり、もう一方の端に重りがあり、その間に力がかかるものです。4 つ目は、曲がったてこで、最初のてことは形が異なりますが、特性は同じです。

第一種および第二種の場合、てこの作用によって得られる利点は、支柱からの出力と重量から支柱までの距離に等しい。第三種の場合、出力と重量が釣り合うためには、出力の強さが重量の強さを上回らなければならない。 [188ページ]重量は、支柱から重量までの距離が、支柱から動力までの距離を超える分だけ大きくなります。このようなレバーは動力伝達に不利となるため、あまり使用されません。

車輪と車軸。—ここでは、車輪の円周と車軸の円周の関係と同様に、動力の速度と重量の速度の関係があります。

滑車。軸を中心に回転するだけで、所定の位置から動かない単一の滑車は、力の方向を変えるだけで、機械的な利点はもたらさない。この機械で得られる利点は、常に可動滑車の数の2倍であり、滑車システムを構成する固定滑車は考慮されない。

傾斜面。—傾斜面によって得られる利点は、その長さが垂直方向の高さを超えるほど大きくなります。転動体が傾斜面上を降下する力は、その絶対重力の力に比例し、傾斜面の高さはその長さに比例します。

くさび。これは、2つの等傾斜面が底部で接合されていると考えることができる。木材がくさびの手前で割れていない場合、くさびを押し進める力と木材に作用する抵抗力との間には釣り合いが保たれる。 [189ページ]木材がくさびの手前で割れる場合(通常はそうなりますが)、くさびを押す力は木材の抵抗力に比例し、くさびの背面の厚さの半分が、両側の長さに比例します。なぜなら、その場合、抵抗はくさびの側面に垂直に作用するからです。しかし、両側の抵抗が背面に平行に作用する場合、両側の抵抗を釣り合わせる力は、くさびの背面全体の長さが垂直の高さの 2 倍に比例します。木材がくさびの手前で割れる場合(通常はそうなります)、くさびを押す力は木材の抵抗力に比例し、くさびの背面の長さの半分が、くさびの先端、つまり作用部分から見積もった割れ目の両側の長さに比例します。

スクリュー。—ここで得られる利点は、ウインチのハンドルによって描かれる円の円周が、スクリューの螺旋間の間隔または距離を超える分だけです。

複合エンジンはほとんどありませんが、部品同士の摩擦のため、負荷がかかった状態でエンジンを動作させるには、出力と重量のバランスをとるために必要な電力の 3 分の 1 以上の電力が必要になります。

ファーガソンの 自然哲学

マイル。—比較 [190ページ]異なるマイルを幾何学的な歩度で表したもので、各マイルは 5 フィート フランス ロイヤル、5.6719 フィート ラインランド、または 6.1012 フィート イングリッシュ フィートに相当します。

マイルの スウェーデン = 5761 幾何学的なペース。
” ” ” スイス 4512
” ” ” デンマーク 4071
一般的な、の ドイツ 4000
” ” オランダ 3158
リーグの フランス 2400
”  ” スペイン 2286
”  ” スコットランド 1500
マイルの イタリア 1000
” ” イングランド 868
ヴェルステの ロシア 575
地雷。—地雷の爆破によって形成される掘削孔は、実験によりほぼ放物面となることが確認されている。従来、掘削孔の直径は常に最小抵抗線の2倍に等しいと考えられていたが、実験により、掘削孔の直径は最小抵抗線の6倍まで、また圧縮球の直径は8倍まで増加できることが証明された。これは最大値 、あるいは圧縮球によって生み出される最大効果と呼ばれる。この範囲内で効果を生み出すことを意図した地雷であれば、その効果は爆薬量とほぼ同程度となる。[191ページ]

球体は互いに半径の立方体の関係にある。その半径は直角三角形の斜辺であり、その最小抵抗線と掘削の半径は、他の2辺である。したがって、必要な掘削直径を得るための充填量を求めるには、半径が上記のように求められている場合、以下の規則に従う。

次の表の圧縮球の半径の3乗として(要求される球と同じ最小抵抗線を持つ)、

必要な地球儀の半径の3乗です。

次の表の対応する料金も同様です。

必要な料金まで。

[192ページ]

ヴァリエールによる鉱山の料金表。

最小抵抗線

鉱山 の料金を請求します 。
最小抵抗線

鉱山 の料金を請求します 。
足。 ポンド。 オンス。 足。 ポンド。 オンス。
 1 0 2 21 868 3
 2 0 12 22 998 4
 3 2 8 23 1140 10
 4 6 — 24 1296 —
 5 11 11 25 1558 9
 6 20 4 26 1647 12
 7 32 2 27 1815 4
 8 48 — 28 2058 —
 9 68 5 29 2286 7
10 93 12 30 2530 4
11 124 12 31 2792 4
12 162 — 32 3072 —
13 205 15 33 3369 1
14 257 4 34 3680 22
15 316 4 25 4019 8
16 384 — 36 4374 —
17 460 9 37 4748 11
18 546 12 38 5144 4
19 643 — 39 5561 2
20 750 — 40 6000 —
この表は、鉱山の掘削が放物面であり、底辺が最小抵抗線の2倍であるという仮定に基づいて計算されており、10ポンド10オンスの火薬で十分に掘削できると仮定している。 [193ページ]必要な地球の最小抵抗線を圧縮地球の半径と等しくすることで、地球の 1 立方ファゾムを実現します。

この表によって求められた料金は、表の計算対象となる軽い土と砂という 1 つの性質の土壌についてのみなので、次の Vauban の表に従って、求められた料金の 1/11、4/11、5/11、7/11、または 9/11 ずつ増加させる必要があります。

土壌に応じて
1 立方ファゾムを上昇させるために必要な粉末の量の表。

1 砂を混ぜた軽い土 11ポンド。
2 共通の地球 12
3 強い砂 15
4 粘土、または肥沃な土 16
5 古くて良い石工 18
6ロック 20
しかし、地雷が最大または最大の効果を発揮することを意図している場合、次の規則がベリドールによって定められ、一般的に採用されています。フィートで表された抵抗が最も少ない線に 300 を掛けると、その積がポンドでの充填量になります。

どのような種類の地雷を作る場合でも、以下の注意事項が役に立つかもしれません。

火薬室の最もよい形は球形であるが、その構造の難しさから、火薬を入れる箱より 1 インチ大きい寸法の立方体として作られる。[194ページ]

土壌が乾燥している場合は、チャンバーを鉱山の枝の延長上に作らず、片側に、枝の高さより低く作らなければなりませんが、土壌が湿っている場合は、枝の高さより高く作らなければなりません。

1立方フィートには75ポンドの火薬が入ります。この原則に基づいて、火薬を収容するケースのサイズを規定する必要があります。オージェットは通常、内寸が1インチ四方で、その先端は薬室の中央まで届く必要があります。ソーシソンは中央で固定し、簡単に抜け落ちないようにする必要があります。

作動させる地雷の支線は、支柱でしっかりと固定された扉で最強の方法で閉じられなければならず、直線で最小抵抗線の 1.5 倍に等しい距離まで土やゴミで止められなければならない。

ソーシソンの長さを比例して計算する場合、任意の数の地雷を同時に発射できるようにするために、直角の戻りは、通常、直線で 4 インチに等しいと計算されます。

機雷を造る最初のステップは、攻撃用であれ防御用であれ、坑道の底まで縦坑道を掘り、その2つの側面を坑道の側面の方向に向けることである。縦坑道は坑道が交差する場所、あるいは坑道の長さの中央に掘るべきである。縦坑道の間隔は40ファゾムから50ファゾム以上あけてはならない。なぜなら、空気は坑道の底まで届くからである。 [195ページ]大きい坑道では坑道から 25 ファゾム以上離れると呼吸に適さなくなります。中くらいの坑道では 20 ファゾム、最小の坑道では 15 ファゾムを超えると呼吸に適さなくなります。

坑道を掘る際に用いられる長方形の枠は、通常4フィート間隔で設置されますが、坑道では3フィート間隔です。石積みで内張りする坑道は、完成時に高さ6フィート、幅3フィートとなるように、高さ7フィート、幅6フィートが必要です。

仮設ギャラリーは、高さが 4.5 フィート、幅が 2.5 フィートまたは 3 フィートでのみ作られます。

枝の先端に部屋が設けられますが、枝の高さは 2.5 フィートまたは 3 フィート、幅は 2 フィートまたは 2 フィート 3 インチのみです。

最初の掘り方は膝をついて行います。2 番目の掘り方は座った状態または横になった状態で行います。

鉱夫たちは4人ずつの小隊に分かれ、各小隊の作業量は4時間で仮坑道3フィートを掘ることです。最初の小隊は4時間作業するか、1つのフレームを敷設すると、2番目の小隊に交代します。そして、同じ時間になると、2番目の小隊は再び最初の小隊に交代します。

最も作業しやすい場所では、鉱夫の音は地下14~15ファゾム(約4~5.5メートル)まで聞こえることがあります。坑道の枠を固定する音は、20~25ファゾム(約6~8メートル)まで聞こえることもあります。地面に立てられたドラム缶に、エンドウ豆などの丸い棒を数本置いて支えます。 [196ページ]頭に付着した物質は、接近する鉱夫の影響を受けやすい。

対地雷の入口を敵の奇襲の届かないところに配置することが最も重要です。

敵が対機雷の坑道を占拠するのを防ぐため、15ファゾムごとに強固な扉を設け、しっかりと封鎖する必要がある。これらの扉はマスケット銃による貫通を防ぐ必要がある。

適切に対地雷を敷設し、包囲軍の進撃を遅らせるためにあらゆる利点を活かせば、適切な運用によって包囲を少なくとも2ヶ月延長できる。さらに、残りの堡塁にも対地雷を敷設し、適切に防御すれば、包囲をさらに1ヶ月延長できる。対地雷の敷設体系は、適用される要塞システムに依存する。その配置に関する一般原則は、櫓は包囲軍の砲台や接近路の最も可能性の高い地点の下から支線を最も容易に展開できる位置に設けることである。事前に準備された堡塁に一般的に用いられる対地雷の一般的なシステムは以下の通りである。主櫓、すなわち主櫓は堡塁の周囲を全周し、隠蔽通路の長椅子の下、武器庫を横切り、武器庫への再進入地点に入口を設ける。これにほぼ平行して、20、25、または30ファゾムの距離に別の櫓が設けられる。 [197ページ]エンベロープ と呼ばれる。これら二つの坑道は、斜面の入口部分の溝の下、および突出部分の尾根の下を通る連絡坑道によって繋がれている。エンベロープからは、工廠の頭頂部に平行な方向に約15または16ファゾムの坑道が伸びており、互いに23ファゾムの間隔を置いている。これらはリスナーと呼ばれる。

時には、これらの竪穴の端から竪穴が掘られ、それらを繋げることで第二の城壁が形成される。各堡塁の崖の背後にも、同様に堀の底の高さに回廊が築かれる。そこから枝を城壁の土台に、あるいはその下まで伸ばすことができる。堀が乾いている場合は、そこからマギストラル回廊へと連絡する回廊が築かれる。さらに、そこから連絡枝を部屋へと伸ばし、堀を通り抜ける包囲軍を妨害する。崖の回廊への入口は、城壁の内側の斜面の背後から降りる小門を通る。

事前に対地雷が敷設されていない場合、包囲後であっても、対地雷によって包囲を長引かせるために多くのことが行われます。この場合、包囲後すぐに行うべき最初のことは、各陣地に竪穴を掘ることです。 [198ページ]隠蔽通路の武器の場所。隠蔽通路の各支線に 1 つずつ、堡塁の突破口となる可能性が最も高い部分の反対側に 1 つずつ、各堡塁の側面の角に 1 つずつ。隠蔽通路の武器は長椅子の上に設置し、溝の底から約 18 インチ下に埋める。堡塁の武器は溝の底から約 12 フィート下に埋める。このように準備して、攻撃する側が判明した時点で、攻撃する側の縦穴から柱頭に沿って、架構または二重の T 字型の通路を建設し、時間の許す限り奥地まで前進させる必要がある。同様に、隠蔽通路のこれらの異なる工事の間、およびそこから堡塁の工事まで連絡通路を掘削することで、敵が入口を占拠するのを防ぐことができる。これらの工事はすべて、その場所を包囲した後に行うことができる。敵が第三線に到達するまでに十分な前進力を確保しなければならない。

ヴォーバンは、フーガス(小規模坑道)について、掘削直径が最小抵抗線の2倍に等しい場合について、以下の規則を提示した。空洞の側面は坑道の深さのちょうど6分の1でなければならない。火薬を収容する箱の側面は坑道の深さのちょうど9分の1でなければならない。[199ページ]

地雷に関するこれらのコメントは、主に、前述のフランス語で書かれ、1799 年にベルリンで出版された「要塞に関する一般論文」から抜粋したものです。[200ページ]

迫撃砲—イギリス製迫撃砲の重量と寸法。

自然。 重さ。 長さ。
チャンバー内に 粉末が入っている
。[10] 範囲
は45°です。
ct. qr。 ポンド。 フィート で。 ポンド。 オンス。 ヤード。
13 真鍮 シーS。 82 — 8 5 3 32 — 4100
鉄 82 1 — 20 —
真鍮 土地 25 — 10 3 7.5 3 12 2100
鉄 36 2 12 9 8
10 真鍮 シーS。 33 — — 4 8 12 8 3800
鉄 41 — — 10 —
真鍮 土地 10 1 25 2 9 4 10 1900
鉄 16 — 6 4 8
8 真鍮 土地。 4 4 8 2 1¾ 2 — 1600
鉄 8 — 11 2 4
5½ 真鍮 土地。 1 — 20 1 4¼ — 9 1200
4⅖ 真鍮 土地。 — 3 11 1 1.5 — 4½ 1000
フランス製迫撃砲(独自の重量と寸法)。

      ポンド。                        

12 インチ 2060 3 7 2400
10 長距離用 2000 7 4 2800
10 ” 短い ” 1560 4 — 2200
 8 ” ” ”  595 1 4¾ 1160
石臼[11] 1100 2 8
12 インチ ゴマーズ 2750 12 — 2700
10 ” 2000 6 8 2800
 8 ”  600 2 — 1400[201ページ]
10 インチの海上迫撃砲の射程範囲は、
水平面で 21 度です。

モルタルの重量
。 シェルの重量
。 充電。 標高。 フライト。 範囲。
ct. qrs。 ポンド。 ポンド。 オンス。 ポンド。 オンス。 度。 秒。 ヤード。
34 2 14 86 — 5 8 21 14¾ 2335
87 — 16  2510

鉄製迫撃砲を水平面上に45度配置した、海上装備を備えた射撃場。1798年

13インチ。 10インチ。
充電。 フライト。 範囲。 充電。 フライト。 範囲。
ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。 ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。
2 — 13  690 1 — 13  680
4 — 18 1400 2 — 18 1340
6 — 21 1900 3 — 21 1900
8 —  24.5 2575 4 — 24 2500
10 —  26.5 2975 5 — 26 2800
12 — 29 3500 6 — 27 3200
14 —  29½ 3860 7 — 29 3500
16 — 30 3900 8 — 30 3800
18 —  30.5 4000 9 —  30¼ 3900
20 — 31 4200 9 8  30.5 4000[202ページ]
フランスの迫撃砲を使用した射撃距離(45 度、
フランスの度量衡単位)。

12インチ。 10インチ。
長い範囲。 10インチ。
短距離。 8インチ。
充電。 範囲。 充電。 範囲。 充電。 範囲。 充電。 範囲。
ポンド。 オンス。 ヤード。 ポンド。 オンス。 ヤード。 ポンド。 オンス。 ヤード。 ポンド。 オンス。 ヤード。
1 —  388 1 —  450 1 —  658 — 5  316
1 8  632 2 — 1080 1 8  964 — 10  794
2 —  862 3 — 1536 2 — 1280 — 15 1112
2 8  954 4 — 2070 2 8 1428 1 4 1280
3 — 1292 5 — 2206 3 — 1432
3 8 1390 6 2.5 2304 3 10¼ 1920 [203ページ]
中距離射撃場、地上軍鉄製迫撃砲、
45 度。1798 年。

13インチ。 10インチ。
充電。 フライト。 範囲。 充電。 フライト。 範囲。
ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。 ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。
— 14   6½  245 —  8   6½  235
1 —   7.5    318 — 10  8  358
1  4   8½  412 — 12  9  464
1  8   9½  523 — 14 10  534
1 12   10.5  613 1 —   10.5  638
2 — 11  697 1  2   11.5  749
2  4   12.5  840 1  4 13  873
2  8 13  906 1  6   13.5  956
2 12 14 1054 1  8 14 1028
3 — 15 1132 1 10 15 1123
3  4 16 1244 1 12 15 1226
3  8   16½ 1317 1 14 16 1325
3 12 17 1424 2 —   16½ 1357
4 — 17 1490 2  2 17 1480
4  4   17.5 1580 2  4   17.5 1532
4  8   18.5 1656 2  6   17.5 1571
4 12 19 1744 2  8   18.5 1700
5 —   19½ 1824 2 10 19 1780
5  4   19½ 1900 2 12   19½ 1825
5  8 20 1950 2 14 20 1880
5 12   20½ 2062 3 — 20 1916
6 — 21 2095 4 — 25 2485
7 — 24 2510 4  8 26 2536
8 — 25 2706 [204ページ]
8インチ。 5½ インチ、真鍮。
充電。 フライト。 範囲。 充電。 フライト。 範囲。
ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。 ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。
—  5 6  225 1 8 5½  155
—  6 7.5  328 1 12 6  198
—  7 8½  428 2 — 6½  255
—  8 9½  474 2 4 7.5  316
—  9 10  560 2 8 8  380
— 10 11  664 2 12 8½  426
— 11 12  762 3 — 9½  470
— 12 12.5  801 3 4 10  540
— 13 13.5  859 3 8 10.5  590
— 14 14  960 3 12 11  630
— 15 14.5 1011 4 — 11.5  725
1  0 14.5 1115 4 4 12  746
1  1 15 1156 4 8 12.5  800
1  2 16 1262 4 12 13.5  910
1  3 16½ 1320 5 — 13.5  935
1  4 17 1380 5 4 14 1016
1  5 17.5 1446 5 8 — —
1  6 18 1530 5 12 — —
1  7 18.5 1600 6 — 15 1175
1  8 19 1660
1  9 19½ 1720 [205ページ]
真鍮の迫撃砲を備えた中距離射撃場、
角度 45 度。1780 年。

13インチ[12] 10インチ。 8インチ。
充電。 範囲。 充電。 範囲。 充電。 範囲。
ポンド。 オンス。 ヤード。 ポンド。 オンス。 ヤード。 オンス。 博士 ヤード。
2 12  862 1 10  823 10 8 580
2 14  939 1 11  852 11 — 635
3 —  998 1 12  783 11 8 711
3  2 1003 1 13  758 12 — 708
3  4 1090 1 14  823 12 8 701
3  6 1139 1 15  888 13 — 777
3  8 1165 2 —  892 13 8 825
3 10 1209 2 1  940 14 — 870
3 12 1270 2 2  941 14 8 853
3 14 1322 2 3 1041 15 — 866
4 — 1309 2 4 1128 15 8 899
4  2 1331 2 5 1103 16 — 921
4  4 1391 2 6 1221 16 8 987
4  6 1363 2 7 1258 17 — 987
4  8 1324 2 8 1215 17 8 1062 
5½ インチの真鍮モルタルを使用した
15 度の射撃場。

充電。 フライト。 最初の放牧。 ロールに
オンス。 博士 秒。 ヤード。 ヤード。
2 8 3  209 303
3 — 3.5 256 330
3 8 4  375 443
4 — 4½ 457 501
4 8 5  530 600
5 — 5½ 561 627
5 8 6½ 667 715
6 — 7  709 780[206ページ]
中距離射撃、地上軍鉄製迫撃砲、
仰角 10 度。—薬莢内の火薬。

10インチ。 8インチ。
フライト。 充電。 最初の
放牧。 極限
範囲。 フライト。 充電。 最初の
放牧。 極限
範囲。
秒。 ポンド。 オンス。 ヤード。 ヤード。 秒。 ポンド。 オンス。 ヤード。 ヤード。
3 — 12 198 415 3 —  8 202 403
3 1 — 278 458 3 — 10 266 461
4 1  4 366 564   3¼ — 12 351 614
  4½ 1  8 451 685 4 — 14 413 630
4 1 12 432 686   4¾ 1 — 468 754
  4¾ 2 — 559 938 5 1 2 562 811
5 2  4 602 798 6 1 4 664 950
  4¾ 2  8 597 976   6½ 1 6 700 1028 
5 2 12 664 1121    6½ 1 8 768 1064 
  5¼ 3 — 764 1169 
上記の迫撃砲を使用した中距離、射程
距離 15 度。

10インチ。 8インチ。
充電。 フライト。 範囲。 充電。 フライト。 範囲。
ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。 ポンド。 オンス。 秒。 ヤード。
1  4 5   464 — 11 4½  427
1  6 5½ 543 — 12 4½ 485
1  8 6   590 — 13 5    513
1 12 6¾ 685 — 14 5½  559
1 14 7   765 1 — 6½  690
2 — 7   805 1  2 7    822
2  4 7.5 884 1  4 7    827
2  8 7¾ 960 1  6 7¾ 1004
2 12 8   1070  1  8 8½ 1012
3 — 8½ 1154  1 10 8½ 1196
1 11 9   1337[207ページ]
海軍 —​

陛下の海軍の各艦船の兵器の数と性質。

料金。
銃 の数 各種類の銃の数。 カロネード砲。
42 32 24 18 12 9 6 32 24 18 12
!st. 100  28 — 28 — 30 — 18 2 6 — —
2d. 98 — 28 — 30 40 — — 2 — 6 —
3d。 80 — 26 — 26 — 24  4
74 — 28 — 28 — 18 — 2 6 — —
70 — 28 — 28 — 14 —
64 — — 26 26 — 12 — — 2 6 —
4番目。 60 — — 24 — 26 — 10 — — — —
50 — — 22 — 22 —  6 — 6 — 6
5番目。 44 — — — 20 22 —  6 — — 8 —
36 — — — 26 2 8 — 8 — — —
32 — — — — 26 —  6 — 6 — —
6番目。 28 — — — — — 24  4 — 6 — —
24 — — — — — 22  2 — 2 6 —
20 — — — — — 20 — — — 8
スループ。 18 — — — — — — 18 — — — 8[208ページ]
船の大きさ、乗組員の数、
喫水。


の 数

ガンデッキ上の長さ
。 極めて
幅広い。 補数 それぞれに
必要
な 水深。
船員たち。 海兵隊員。
フィート で。 フィート で。 いいえ。 役員。 足。
110  190 — 53 — 875 24
100  186 — 52 —
98 180 — 50 — 750 1 キャプテン。 23
90 177 6 49 — 3 Subalt の。
80 182 — 49 6 650 18
74 182 — 48 7
74 169 — 46 11 
64 160 — 44 6 1 キャップ。2 サブ。
50 146 — 40 6 420 中尉2名。
44 140 9 38 8 300 1 サブアルト。 16
38 144 — 39 —
36 142 — 38 —
32 126 — 35 4
28 120 — 33 6 200 15
24 114 7 32 3
20 108 — 30 —
18 110 — 29 6 125 軍曹。 13
16 106 — 28 —
注:通常、海兵隊の配置は
船内の銃 1 丁につき 1 人です。[209ページ]
兵器 —真鍮製のすべての兵器の価格は 84 ポンドです。金属 (つまり銃の重量) は 1 トンあたり17シリング、廃棄物は 100 ポンドあたり 12 ポンドです。これに鋳造の費用 (使用した金属の 総 重量) が加算され、軽い砲の場合は 1トンあたり64 ポンド、中くらいの砲の場合は 54 ポンド、重い砲の場合は 44 ポンドになります。

鉄兵器は1トンあたり20ポンドかかります。 「銃」「 迫撃砲」「榴弾砲」などの用語も参照してください。

各種兵器の証明については、「証明」という語を参照してください。[210ページ]

ペース —一般的なペースは決まった長さではありませんが、ほとんどの軍事著述家によって測定単位として使用されています。

ドイツおよびほとんどの北方列強では、この歩みはラインラント ルードの ²/₁₀ に等しいと考えられています。

フランスでは、そのペースは一般的に 2 フィート半と見積もられています。

イギリスでは通常 2 フィート半と計算されます。

幾何歩度は5フランス・ロイヤル・フィートに相当し、そのうち60,000は赤道の1度に相当します。したがって、幾何歩度は6.102イギリス・フィート、5.6719ラインランド・フィートに相当します。

軍隊の歩調については、「行進」を参照してください。

パラレルズ― 包囲戦における武器の配置場所。 「塹壕」 と「樹液」という言葉を参照。[211ページ]

給与—陸軍の将校、下士官、および兵卒の給与総額表。

ランク。 ライフ
ガード。 騎兵。 フット
ガード。 歩兵隊の
戦列。 砲兵。
馬。 足。
£。 秒。 d. £。 秒。 d. £。 秒。 d. £。 秒。 d. £。 秒。 d. £。 秒。 d.
大佐 1 16 — 1 12 10 1 19 — 1 2 6 — 2 3 6
二等大佐 — — — — 1 9 8 1 3 9
中佐 1 11 — 1 3 — 1 8 6 0 5 11 1 5 8 — 19 9
2等中佐 — — — 0 15 11 — — 16 10
1位 メジャー 1 6 — — 19 3 1 4 — 0 14 1 1 — 9 — 14 10
2d. メジャー — — — — —
キャプテン — 16 — — 14 7 — 16 6 0 9 5 — 15 4 — 9 11
キャプテン中尉。 0 11 — — 9 — — 7 10 0 5 8 0 10 — — 7 —
1等中尉 0 9 — — 6 —
2d. 中尉 — — — — — 8 — — 5 —
コルネット — 8 6 — 8 — — — — —
少尉 — — — 5 10 — 4 8 — —
ペイマスター — — 15 — — — 15 — — —
補給官 — 6 — — 5 6 — 5 8 — 5 8 — 6 — — 6 —
副官 — 11 — — 5 — — — 5 — — 5 — — 5 —[212ページ]
外科医 — 12 — — 12 — — 12 — — 9 5 — 11 10 — 9 11
外科医助手 — — 5 — — 7 6 — 5 — — 6 — — 5 —
獣医 — — 8 — — — — —
曹長 — — — — — 3 4 — 3 2
補給官” — — — — — 2 10 —
軍曹 — — 2 2 — 1 10¾ — 1 6¾ — 2 4 — 2 2
伍長 — 2 6¼ — 1 7¾ — 1 4¾ — 1 2¼ — 2 2¼ — 2 2¼
ボンバルディア — — — — — 2 2¼ — 1 10¼
1st. 砲手 — — — — — — 1 7
2d. 砲手 — — — — — 1 5¼ — 1 3¼
プライベート — 1 11¼ — 1 3 — 1 1 — 1 — — —
ファリアーとスミス — — — — — 3 4¾ —
首輪メーカー — — — — — 2 4¾ —
ウィーラー
トランペッター — 2 6 — 1 7 — 1 2¼ — 1 1¼ — 2 1¾ — 1 3¼
ドラマー[213ページ]
砲兵公園は、可能であれば常に水運河から至近距離に配置し、軍の戦列のあらゆる部分と容易に連絡が取れるようにするべきである。その形状は配置場所によって異なる。通常、1両の砲台とその間隔は前方に10フィート、最前列の後輪から2両目の前輪までは約50フィート確保する。この間隔は、馬を砲台に乗せるのに十分なスペースと、戦列に沿って自由に移動できるスペースを確保するべきである。即時使用を予定していない公園では、砲を砲口前方に向けて配置するのが慣例である。しかし、砲が急遽必要になる可能性がある場合は、外観を気にせず、砲台は砲身を前方に向けて駐車し、馬が到着するのを待つようにしなければならない。公園の前には四方衛が配置され、側面には下士官と砲兵のテントが、約20歩離れて後方40歩のところに下士官が、さらに後方10歩のところに大尉と指揮官が配置されています。食堂のテントは士官の後方15歩のところにあります。全体の後方、都合の良い距離に馬が一列または複数列に繋がれ、御者がその側面にいます。馬は正面に対して垂直に繋がれることもあります。 [214ページ]馬車の側面、兵士と馬車の間。「キャンプ」と 「野戦砲兵」の項を参照。

振り子— 軍事用途の振り子は、マスケット銃の弾と絹糸、あるいはその他の細い糸で作るのが最適です。振り子の長さは、弾の中心から振り子が振れる輪の端まで測る必要があります。円筒、あるいは他の均一な角柱や棒の場合、振り子の中心(そこから長さを測る必要があります)は、底面から3分の1の距離、つまり運動中心から3分の2下にあります。

ロンドンの緯度における振り子の長さ、振れる

2 秒 39⅛ インチ。
1/2 秒  9.8
¼ 秒  2.45[215ページ]
振り子の長さは
緯度の 5 度ごとに 2 秒間振動します。

緯度
。 振り子の長さ

インチ。
 0 39.027
 5 39.029
10 39.032
15 39.036
20 39.044
25 39.057
30 39.070
35 39.084
40 39.097
45 39.111
50 39.126
55 39.142
60 39.158
65 39.168
70 39.177
75 39.185
80 39.191
85 39.195
90 39.197
規則。—任意の振動数を実行する振り子の長さを求め、その逆も行います。

振り子を例に挙げ、60回の振動を標準の長さとします。すると、与えられた振動数の2乗は60の2乗に等しく、標準の長さは求める長さに等しくなります。振り子の長さが与えられ、1分間の振動数が求められているとします。与えられた長さが標準の長さに等しく、1分間の振動数が60の2乗に等しく、求める回数の2乗に等しくなります。この平方根が、1分間の振動数となります。[216ページ]

ペタードには 4 つのサイズがあります。第 1 弾は 12 ポンド 13 オンス入り、第 2 弾は 10 ポンド 11 オンス入り、第 3 弾は 1 ポンド 10 オンス入り、第 4 弾は 1 ポンドです。

ブラインド信管の構成 粉末 7ポンド。
爆竹用。 木灰 3オンス
One Petard の店舗。
爆竹を吊るすフック 2
ギンブレット 2
真鍮信管 1
信管を締めるためのレンチ 1
青い紙のポートファイア 6
遅い試合 ヤード 4
支柱またはフォーク 2
銅製の漏斗 1
牛脂 オンス 8
カートリッジ 1
プラットフォーム。—砲台用の一般的なプラットフォームには、それぞれに次の資材が必要です。—枕木または根太 5 本、6 インチ四方、長さ 14 フィート。—ハンター 1 本、8 インチ四方または 10 インチ四方、長さ 8 フィート、板 14 枚、幅 1 フィート、長さ 11 フィート、厚さ 2.5 インチ。—杭 20 本。

砲台の通常の傾斜は1ヤードあたり1インチです。

迫撃砲台用のプラットフォームは8インチの枕木3本で作られている [217ページ]台座は正方形で、同じ厚さの木材約11本で覆われている。台座は完全に水平に配置され、間隔は約15フィート、肩甲骨から12フィート離れている。これは仰角45度の射撃でのみ一般的に行われる距離である。しかし、台座を肩甲骨から下記の距離に設置すれば、対応する角度で迫撃砲を射撃することができる。

で 13 足 距離 のために 発砲 で 30 度。
21 足 ” ” ” で 20
30 足 ” ” ” で 15
40 足 ” ” ” で 10
高さ8フィートの肩章の上に。
「バッテリー」という単語も参照してください。

至近距離 —各種兵器の至近距離については、各種兵器の性質を参照してください。

フランス語で「ポイント・ブランク」または「ブトゥ・アン・ブラン」とは、イギリスの砲兵が金属仰角の線と呼ぶもので、ほとんどの大砲では 1 度から 2 度の間です。

ポンツーン。—

長さ トップ 21 フィート 6 で。
底、 17 2
幅、  4 足 9 インチ。
深さ、  2 足 3 インチ。
[218ページ]

ワンポンツーンの装備。
フィート で。 フィート で。 で。
4 ボークス 22 8 長さ 1 0 広い 4 厚い。
1 ギャングボード。  22 0 ” 1 0 ” 2.5 ”
6つのチェス、 11 6 ” 2 4 ” 1.5 ”
オール2本。 ケーブル1本
アンカー1個。 1 シアーライン。
1 グラップリン。 ボートフック1個。
1セッター。 1 モール。
鉄ボルト4本、鍵付き。  ピケット4個。
取り付けバー2本。 小型ポンプ1個。
バインディングスティック4本。 ウインドラス1個。
4本のスプリングライン。 ポンツーン船 1 台、完成品。
4 フォークス。
コングリーブ大佐の木製ポンツーンの寸法。

     足。  インチ。

長さ 上部 26
” 下部  23
深さ  2 8
幅  2 3
一般的なポンツーンは4,000ポンドから5,000ポンドの重量を支えます。通常、ポンツーンは橋を形成する際に、それぞれの幅とほぼ同じ間隔で配置されます。「橋」という単語の項を参照してください。

ポートファイア。

組成。硝石60部、硫黄40部、粉末20部。各長さ16.5インチ。

1本あたり12〜15分間燃焼します。

1ダースの重さ、3ポンド12オンス。

ジブラルタルではポートファイアは次のように作られました。2オンスの [219ページ]硝石を1ガロンの水に溶かし、その溶液に柔らかい茶色の紙を浸しました。これを乾燥させて、一般的な砲火と同じくらいの大きさに巻き上げました。

食料。— 「配給」という言葉を参照してください。

証拠—兵器の。

あらゆる種類の兵器は、国王陛下の軍需品として採用される前に、数種類の検査を受ける。第一に、内外の各種寸法、砲身、砲室、砲通気口、砲耳などの位置の正確さが検査される。

2d. 規定の量の火薬と弾丸で発射し、その後、発射によって生じた凹凸や穴がないか調べます。

3d、エンジンによって水を強制的に流す努力がなされ、

4番目に、鏡から反射した光を使って内部を検査します。

鉄砲。まず、砲の適正寸法が検査される。いかなる場合も1/30インチ以上の差異は認められない。砲身の直径は、42ポンド砲から18ポンド砲までは1/30インチ、12ポンド砲から4ポンド砲までは1/40インチまでとする。ただし、砲身の位置は、42ポンド砲から18ポンド砲までは砲身の軸から1/2インチ、12ポンド砲から4ポンド砲までは1/3インチまで許容される。その後、2回射撃を行う。 [220ページ]下記の表の装薬を用いて、1発の弾丸と2発のジャンクワッドを装填し、各発射ごとに検査員による検査を受ける。この検査では、最初の補強リングの後ろ、またはこの補強リングの前の1/4インチの深さの銃身に、深さ2/10インチの穴や空洞があってはならない。

自然。 証拠料金。
氏。 ポンド。 オンス。
42 25 —
32 21 8
24 18 —
18 15 —
12 12 —
 9  9 —
 6  6 —
 4  4 —
 3  3 —
 2  2 —
  1.5  1  8
 1  1 —
鉄製の銃は、弾丸の重さの ¹/₁₂ でスケールされます。

真鍮砲。1ポンド砲から12ポンド砲までは、砲身の直径は1/10インチを超えて変化してはならず、また、いずれの寸法も2/10インチを超えてはなりません。以下の規定の炸薬は、その証明のために定められたものです。重砲および中砲は、装弾重量と等しい炸薬を使用します。ただし、中型12ポンド砲は9ポンドで証明されます。軽砲は、装弾重量の半分の炸薬を使用します。しかしながら、近年、真鍮砲はこのような重い炸薬ではなく、以下の炸薬で証明されています。[221ページ]

3 Prs. ライトを 3 回、各ラウンドで 1 ポンドずつ。
6 Prs. ライト、3 回、各 2 ポンド。
12 Prs. ライト、2 回、各 4 ポンド。
12 Prs. Med. 2回、各5ポンド。
破口と最初の補強リングの間で、砲身の上方向または横方向に 0.15 インチの深さの穴、または砲身の底で 0.1 インチの深さの穴、または最初の補強リングの前で砲身の上方向または横方向に 0.2 インチの深さの穴、または砲身の底で 0.15 インチの深さの穴があれば、それらを非難するのに十分です。

真鍮製迫撃砲及び榴弾砲。外形寸法は、8インチ榴弾砲では1/10インチ、ロイヤル及びコーホーン迫撃砲及び榴弾砲では1/20インチを超えてはならず、砲身及び薬室は、真の直径又は位置から1/40インチを超えてはならず、また、砲身及び薬室は、真の直径又は位置から1/40インチを超えてはならず、かつ …

真鍮製の迫撃砲と榴弾砲は、薬室に火薬を満杯に充填し、鉄製の砲弾を装填して2回発射する。迫撃砲は砲台に載せ、仰角約75度で、榴弾砲は砲台に載せ、仰角約12度で発射する。鉄製の迫撃砲は鉄製の砲台に載せ、薬室に満杯の火薬と砲弾の直径と等しい鉄製の弾丸を装填して発射する。

ロイヤルまたはコーホーン迫撃砲は、薬室の深さが 0.1 インチ、または砲尾の深さが 0.15 インチの穴があるため、拒否されます。ロイヤル榴弾砲も同様です。8 インチ榴弾砲は、薬室の深さが 0.15 インチ、または砲尾の深さが 0.2 インチの穴があるため、拒否されます。[222ページ]

カロネード砲。銃身と薬室の直径と位置は、1/20インチ(約2.7mm)以内でなければなりません。弾丸2発、薬室に火薬を満タンにし、1発の弾丸と1つのワッド(詰め物)を装填して試験を行います。銃身に1/20インチ(約2.7mm)の深さの穴、または薬室に1/10インチ(約2.7mm)の穴が開いた場合、その砲は無効となります。

証拠料金。

68 名 42 32 24 18 12
13ポンド。  9  8  6  4  3
この検査とそれに続く検査を経たすべての兵器は、耐水検査を受ける。これは、砲口にパイプまたはホースを取り付けた圧送ポンプを用いて行われる。砲身に蜂の巣状の穴や欠陥がある場合、2、3回水を押し通した後、乾燥させる。そして通常、翌日、鏡の反射光で検査する。以前の検査で発見されなかった小さな穴や欠陥が砲身に存在していたとしても、この検査によって容易に発見できる。砲身の固体部分が完全に乾燥しても、穴からは水が滲み出続ける。不良品と疑われる兵器は、より厳しい検査を受けることが多い。それは、30発の速射射撃であり、 [223ページ]手数料と2発の射撃料金がかかります。また、金属の純度が疑われる疑わしい場合には、化学試験と分析に頼ってきました。錆びていない鉄製の銃の一部から採取したきれいな削りくずを希硫酸に溶かし、溶解中に発生したガスの量を正確に調べます。溶解後に残った石墨も濾過して分離し、慎重に秤量します。鉄が純粋であればあるほど、得られる可燃性ガスの量が多くなり、溶解後に残る石墨の割合が少なくなることはよく知られています。したがって、この2つの部分から、金属の品質について妥当な判断を下すことができます。石墨が4.5%を超えると、鉄は常に強度不足であることがわかります。そして、石墨が3 %を超えない場合 、つまり、金属100グレインから3グレイン以上の石墨が残らない場合、銃が破裂した例はありません。鉄鉱石の色にも注意を払う必要がある。茶色や赤みがかっている場合は、硬い金属であることを示す。一方、量が多く、石炭と混ざっている場合は、鉄が大砲には柔らかすぎることは間違いない。

火薬の証明については、その単語を参照してください。

鉄の殻の証明。—殻の大きさと重量を測り、検査した後、よく削り取り、 [224ページ]内部の底にある鉄のピンは、打ち込むか折るかして取り除かなければならない。次に、全体をハンマーで叩き、鱗を削ぎ落とし、欠陥を見つけ出す。大型の砲弾には、深さ3/4インチを超える穴があってはならない。次に、空の信管を信管穴に打ち込み、砲弾を水槽に吊るす。この際、砲弾が水に浸かる程度に、かつ信管に水が入らないようにする。この状態で、一対のふいごの先端を信管穴に差し込み、ふいごで数回強く吹き付ける。水中に泡が出なければ、砲弾は使用可能と判断される。

上記のいずれかの理由で使用不能と判断された兵器には、次のようにマークが付けられます。

XD、またはXS、またはXW。

1 つ目は、デサグリエの機器によって寸法に欠陥があることが判明したことを意味します。2 つ目は、調査員によって、3 つ目は防水性能によって、寸法に欠陥があることが判明したことを意味します。[225ページ]

配給 —将校または兵士向け。

小型種の完全配給。

小麦粉、またはパン 1.5ポンド
牛肉 1
または豚肉 1/2
エンドウ豆 ¼パイント。
バター、またはチーズ 1オンス
米 1オンス
小型種が支給されない場合、1.5 ポンドの小麦粉またはパンに 1.5 ポンドの牛肉、または 10 オンスの豚肉を加えると完全な食糧となります。また、3 ポンドの牛肉、または 2 ポンドのチーズ、または 0.5 ポンドの米を加えると完全な食糧となります。

海上では配給が異なります。以下の表は、兵士6人、または船上の水兵4人に対する、週1日あたりの配給量を示しています。女性には兵士の配給量の半分、子供には4分の1が支給されますが、ラム酒は支給されません。[226ページ]

(A) = ビール、ガロン、または半パイントのスピリッツ、
またはワインのパイント。
(B) = オートミール 1 パイント。
(C) = バターの重量(ポンド)
(D) = バターの重量(ポンド)
曜日
。 パン。 (あ) 牛肉、8ポンドの
塊。
豚肉、 4ポンドの
塊。
エンドウ豆1パイント
。 (B) (C) (D) 酢。
ポンド。
日曜日、 4 4 1 2
月曜日、 4 4 — 4 1/2 1
火曜日、 4 4 小麦粉1ポンドまたは6ポンド、または 牛脂
1/2ポンド とレーズン1ポンド


水曜日、 4 4 — 2 4 1/2 1 1クォート
木曜日、 4 4 1 2 一週間。
金曜日、 4 4 — 2 4 1/2 1
土曜日、 4 4 1 —
または上記と同じ
上記は完全な重量と寸法で提供されます。

小麦粉、牛脂、干しぶどうを船上に載せる場合は、牛肉と同量、すなわち牛肉の日に半分を牛肉、残り半分を小麦粉、牛脂、干しぶどうと一緒にして出すものとする。

小麦粉 4 ポンド、または小麦粉 3 ポンドとレーズン 1/2 ポンド (またはカラント 1/4 ポンド)、および牛脂 1/4 ポンドは、牛肉 4 ポンド、または豚肉 2 ポンドとエンドウ豆に相当しますが、やむを得ない場合を除き、後者の代わりに発行してはならず、その場合は数量を証明しなければなりません。

米 1/2 ポンドはオートミール 1 パイントに相当します。砂糖 1/2 ポンドはバター 1/2 ポンドに相当します。米 1 ポンドはチーズ 1 ポンドに相当します。油 1 パイントはバター 1 ポンド、またはチーズ 2 ポンドに相当します。つまり、バターとチーズの割合で油 1 パイントになります。[227ページ]

ワイン 1 パイント、またはブランデー、ラム酒、アラックの 1/2 パイントはビール 1 ガロンに相当します。新鮮な牛肉 1 ポンドは塩漬け牛肉 1 ポンドに相当し、新鮮な牛肉 1 1/2 ポンドは豚肉 1 ポンドに相当します。

ビールが全て消費されるまで、港にいる間も海上にいる間も、軍隊にワインや蒸留酒は支給されない。

輸送船長は、乗船兵の指揮官が消費した食料の量を証明する証明書を提示しなければならない。食料の総重量に疑義が生じた場合は、指揮官、船長、航海士の立会いのもと、樽の重量を計量しなければならない。船長は、指揮官の証明書と航海士の宣誓に基づき、不足分を補うだけの牛肉と豚肉を発行することができる。

それぞれの重量は次の通りです。8 ポンドにカットされた牛肉 14 ピースを樽から取り出し、膨らませて塩を振り落とした場合、重量は 112 常重量ポンドになります。4 ポンドにカットされた豚肉 28 ピースも同様の状況で 112 常重量ポンドになります。

将校、下士官、兵士の給与から差し引かれる食料費は、英国外で食料が公給されている基地に勤務する場合、すべての階級、すべての軍団において、同様の勤務状況であれば同じである。また、輸送船やその他の船舶に乗船する場合も同様である。 [228ページ]船舶(海兵隊員として勤務している場合を除く)および戦争捕虜の場合も、英国の費用で維持され、国内外を問わず一般病院にいる​​場合も、1日あたり6ペンスの控除を受ける。

ジャマイカ、ニューサウスウェールズ州、またはジブラルタルに所在するすべての下士官および兵卒の給与から3ペンス半ペニーを控除する。海兵隊員として勤務する下士官および兵卒は、食糧等の支給を理由として給与全額から控除されることはない。

1796 年に国内勤務の馬 1 頭に与えられた配給量: 干し草 14 ポンド、オート麦 10 ポンド、麦わら 4 ポンド。これに対して6 ペンスの差し押さえが行われます。

陸軍規則、1799年。

階級:陸士官と海軍士官の間。

 海軍。 軍。
  1. 提督、または司令官 陸軍元帥。
    陛下の艦隊
  2. 旗を掲げた提督たち 将軍たち。
    メイントップマストヘッド
  3. 中将 中将。
  4. 少将 少将。
  5. 幅広のペンダントを持つコモドアーズ 准将。
  6. 駐屯艦の指揮をとる艦長、 大佐達。
    3年後
  7. 指揮艦の艦長全員 中佐達。
  8. 艦長が任務に就かない 専攻。
  9. 中尉たち 船長達。
    [229ページ]上記の階級における海軍士官の階級および順位は、それぞれの海上任務における年功序列に従って決定される。艦艇または役職を授与されない船舶を指揮する役職長は、当該船舶を指揮している間は少佐の階級のみを有する。

この規定は、陸軍士官が国王陛下の艦隊を指揮する口実を与えるものではなく、海軍士官が陸上で指揮を執る口実を与えるものでもなく、また、実際の勤務によらない限り、それぞれの階級にふさわしい軍事栄誉を要求する権利も持たないものとする。

反動—楡の木の板の上に置かれた移動用馬車に積まれた野砲の反動。

自然。 充電 1ショット、 仰角
1°30′
2ショット、 仰角
1°30′
ケースショット、 標高
3°45′
ポンド。 オンス。 足。 足。 足。
12 Pr. Medi. 4 — 12 25 8½
6 Pr. ヘビー 2 —  7 11 7.5
6 Pr. ライト 1 8 12 21 10  
3 Pr. ヘビー 1 —  7  5 3.5
[230ページ]水平プラットフォーム上の船上兵器、鉄砲の反動。

火薬と砲弾の装填
。 標高 32 ページ 24ページ 18ページ
度。 フィート で。 フィート で。 フィート で。
粉末1/3とショット1 2 11 — 11 — 10 6
粉末1/3とショット2 4 19 6 18 6 18 —
粉末1/4とショット2 7 11 6 12 — 12 —
鉄の台座の上の陸軍の反動、鉄の迫撃砲。

 フィート    で。

13インチ、 と 担当 6ポンド 4 2.5
10インチ、 ” ” 3ポンド。 2 10
8インチ、 ” ” 1ポンド9オンス 3 10
偵察。軍事的観点から国を調査する際に必要な以下の観察は、主に「アイド・メモワール」が、ランドマン氏の偵察の序文からの賢明なコメントによって改善されています。

士官が国を偵察しに出発する前に、入手できる最良の地図でその国の主要な特徴を描き出す必要があります。これは、士官が観察の対象となる主要な部分を進む際のガイドとして役立ち、全体を 1 つの壮大な計画に結び付けることができます。[231ページ]

彼の観察は、筆記とスケッチによって表現されるべきである。この目的のために、スケッチブックを用意し、右ページにはスケッチでその土地の様相を描き、左ページには特定の地域に関する所見、町の名前、町と町の間の距離などを、スケッチへの適切な参照とともに記す。この目的に最も適した縮尺は1マイルを2インチとする。したがって、スケッチブックの幅を6インチとし、そのページを線で3等分すれば、それぞれの区画は1マイルとなり、この目的には十分な縮尺となる。

第一に、道路。軍事目的の道路を調査する際には、主に次の点に注意する必要がある。道路の方向、通過する村、国、河川、横断する道路、道路の名称と最も良好な状態にある季節、そして通行不能な場合は、その幅が一定か一定か、底部は主にどのような形状か、上り坂と下り坂はあらゆる種類の車両が通行可能かどうか。囲いは生垣、溝、壁、柵などでよい。砲兵やその他の重量車両の輸送のために道路の補修が必要な場合は、以下の点に注意する。 [232ページ]必要な資材は手元にある。河川を越える場合は、橋か浅瀬か、沼地を通る場合は土手道かその他の方法かに注意する。同じルートを進む2つ以上の道路が、異なる隊列が行進する際に、どこかで合流したり交差したりする場合は、隊列の行進が妨げられるかどうかを観察する必要がある。隊列が単に交差するだけであれば、窪地を利用して最も深い部分に仮の橋を架けることも可能である。これにより、一方の隊列が橋の上を通り、もう一方の隊列が橋の下を通行しても、互いの行進を妨げることはない。

2.浅瀬。騎兵の浅瀬は4フィート以上、歩兵の浅瀬は3フィート以上深くあってはならない。浅瀬の両側の岸、形状、傾斜、高さ、川の曲がり角に対する位置、底が馬車が通行可能かどうかなどを観察しなさい。浅瀬を容易に見つけられる目印、浅瀬を守るためのポイントを観察しなさい。水の流れの速さ、水位の変化の有無、流れの方向、幅、そして浅瀬を破壊したり通行不能にしたりする手段にも注意しなさい。

3.洪水 —水門の操作方法、洪水が発生する可能性のある時間、その範囲と深さについて学習する。ダムの保護方法、高さと堅牢性、 [233ページ]容易に築城できるか、あるいは容易に破壊できるか。遠方の陣地から指揮できるか、そして洪水を他の方法で排水できるか。隣接する国に注目してください。

4.泉と井戸。水質と水量に注意せよ。歩兵だけでなく騎兵にも使えるか、そしてその汲み上げ方法にも注意せよ。泉の位置と水源、そして守られ、敵に水を遮断されないよう守られるかに注意せよ。

5.湖沼、湿地、沼地。その原因を調べよ。湿地が湿った土壌から生じているのか、河川の氾濫から生じているのか、あるいは泉から生じているのか。沼地の位置と周囲の地形を観察し、横断する最良の方法を調べよ。沼地が土手道で分断されている場合は、その幅と状態に注意せよ。分断されていない場合は、土手道を容易に設置できるかどうか、沼地の排水が可能かどうか、そして一年を通して通行可能かどうかに注意せよ。敵の部隊の通過を阻止するために土手道を守ることができる地点を観察しよ。沼地が霧に見舞われるかどうか、そしてどの季節に最も被害が大きいかを調べよ。

6.森と森林について。その広さ、位置、密度、木々の高さ、下草の有無を観察しなさい。それぞれの群落が開けた場所や通路になっているかどうか観察しなさい。 [234ページ]森林の地形と範囲、森林の側面が密林か低木か、幅が均一か、あるいは特定の場所で広がっているかに注目してください。森林の地面が平地か丘陵か、湿地か乾燥しているかに注目してください。道路の性質と状態を観察してください(これらについては「道路」の項を参照してください)。また、森林が塹壕を掘ったり、集落や灌木を作ったりする手段についても観察してください。森林の周囲の地形、耕作地か牧草地かにも注意してください。立地条件が整っているか、小川、湿地、峡谷が交差しているかに注目してください。

近隣の城、村、町など、そしてそれらが森の端からどのくらい離れているかに注目してください。

森を巡って、その主な起伏のある地形を調べてください。そこから流れ出る峡谷、小川、道路などを観察し、それらの方向を学びましょう。

7.ヒース地帯。どのような種類の部隊に最も適しているかに注目してください。生垣や灌木の性質。中には良い胸壁を形成するものもあります。小川、道路、渓谷の方向を観察してください。ヒースの地面が普通の色であれば、道路は概して良好です。しかし、黒っぽく白い砂が混じっている場合は、冬季には通行不能になることが多いです。

8.運河。—この記事については、河川に関する考察も参照のこと 。運河の目的、運河のある土壌の性質を観察しよう。 [235ページ]それらが掘られた場所、その幅と深さ、その錠前、そこに見つかった技術、それらを守るか破壊するかの最良の方法、それらが通過する国々について学んでください。

9.川。―川がどの国に源を発し、どこに流れ込むのか、どの国を流れるのか、そして敵国のものかを学びなさい。川がどの程度航行可能か、凍結した場合、兵士や車両を通すのに十分な強度があるかどうかを学びなさい。水質、流路、流れ、深さ、幅に注目しなさい。川の両岸と川床。川を航行する船の種類と数、そして川岸にある風力か水力かの水車を観察しなさい。橋や浅瀬を訪れ、その性質と状況について適切な意見を述べなさい。川が氾濫するかどうか、またその季節はいつか、そしてそれが洪水を引き起こすかどうかを学びなさい。川を渡るのに最も適した地点と、そこに至る道路を観察しなさい。川の曲がりくねった形状、半島の形状、そして橋を渡すのに最も適した状況を観察しなさい。岸に埠頭がある場合は、そこにどのような船舶が停泊できるか観察してください。

川に島がある場合は、その大きさ、両岸、人が住んでいるか、耕作されているか、森林が生い茂っているか、不毛であるか、そして水路に面しているかどうかに注目してください。[236ページ]

川沿いの山や高地を観察し、川岸からの距離、そしてそれらがもたらす利点や欠点に注目してください。上流または下流に他の川の支流や合流点があるのか​​、そして川を渡るのに最適な場所を調べてください。隣接する国が川の航路を守るために軍隊に与えている位置、それが垂直方向か平行方向かを調べてください。また、3列または4列の部隊がその場所に到達できる経路を調べてください。

10.峠。その幅、長さ、位置、隣接する地域の性質を観察し、退却を援護するのに最適な陣地、あるいは峠を制圧するのに最適な陣地を探る。部隊の配置は最適であり、そのために必要な兵力はどれくらいか。

11.渓谷。土壌の性質を観察しましょう。岩だらけか、それともフリント(火打ち石)が散らばっているか。斜面が険しく急峻であれば、簡単に削り取ることができるでしょうか。渓谷の起伏の激しい地点、嵐や洪水の危険性があるかどうか、そしてどの季節に最も発生しやすいかなどです。

12.耕作地。耕作状況、生産量、収穫時期に注目してください。住民の生活必需品に加えて、小麦、ライ麦、大麦、オート麦、その他の穀物がどれだけ生産されているかを調べてください。1エーカーあたりどれだけの干し草が収穫できるかを調べてください。[237ページ]

13.果樹園。—植物が密集していて、周囲をうまく覆っているか、生垣、溝、壁などで囲われているかを観察します。

14.橋の位置、長さ、幅、建造材料、砲撃に耐えられる強度があるかどうか、橋に至る道路、川の曲がり角に対する橋の位置、橋の目的、町や村を結ぶ目的であれば、橋に至る道路の性質、方向、幅などに注意せよ。周囲の地形を観察し、平坦か高低差があるかを見極めよ。橋頭堡を強化する最良の方法を検討し、必要であれば橋を破壊するための最善かつ最も迅速な方法も検討せよ。

15.山、丘陵。アルプス山脈のような高山では、道路は非常に稀で、人が住み、軍隊が通行できるのは谷間に限られます。谷の斜面が急峻であったり、険しかったりする場合は、注意深く観察してください。陣地、山頂への登頂手段、谷間の耕作状況、牧草地、飼料、小屋、村、城、道路、小道、峠などを調べてください。主要な丘陵地帯とその方向を区別してください。それぞれの相対的な高さ、防衛線を形成するのに十分な広さがあるかどうか、連絡路、拠点、陣地などを調べてください。 [238ページ]砲兵隊などに適しているか。騎兵隊や砲兵隊にも使用可能か。

16.海岸。海岸の性質、丘陵に囲まれているかどうか、接近を危険にする岩に囲まれているかどうか、あるいは接近を不可能にする浅瀬があるかどうか。停泊地、港、港湾、その他のアクセス可能な場所を守るための砦や砲台に適した岬や岬に注目する。隣接島があれば、敵の攻撃を阻止するための前方砲台を建設するのに役立つかもしれない。海岸、湾、船舶航路などの性質、港湾への出入りに必要な風、そしてアクセスの容易さ、長所と短所、大きさ、水深などを考慮する。川が海岸に流れ込む場合は、その特定の航路と、いずれかの砲台で防御できるかどうかを考慮する。海岸が既に要塞化されている場合は、海岸の防衛や停泊地などの保護のために設置されたすべての砲台、砦、塹壕に注目する 。主要な地点と内陸部をカバーする野営地やその他の軍事拠点を調査しなさい。下山中に遭遇するあらゆる危険と克服すべきあらゆる障害を見積もり、それらに対処する手段を示しなさい。 [239ページ]海岸に接近するのに最も有利な潮流を把握せよ。海岸に常時配備されている砲兵その他の部隊の数、短期間で集結可能な兵力、そして攻撃対象となる特定の地点にどれだけ迅速に集結できるかを確かめよ。採用されている防衛体制を検証し、改善に努めよ。

17.砦、堡塁。その形状、古代か近代か、恒久的なものか仮設か、高台か低台か、護岸で囲まれているか半護岸か、石、レンガ、芝で覆われているか。堀は湿っているか乾いているか、すり切れているか柵で囲まれているか、自然か人工か。砦の位置、隣接する地形、峠を効果的に制圧しているか、あるいは意図した地域を守っているかを観察しなさい。現在の状態で砦、堡塁が果たせる防御力、そしてどのような改良が可能かを観察しなさい。

18.城塞、城塞。その位置、形態、規模、目的、都市への防御、都市とのつながりと交通。現在の防衛状況、そして改善の余地。地下 構造。

19.村落。その状況を観察し、そこに含まれる家族の数、土地の性質、作物の質と量、市場、これらの市場に供給する郊外を調べなさい。 [240ページ]彼らの荷役動物:羊、牛、家禽など。かまどの数、水質、家屋、納屋、馬小屋、羊の散歩道の様式。教会の位置、教会の庭とその囲い地の性質。風車と水車。村が生垣、溝、土手、壁に囲まれているかどうか、容易に塹壕を掘れるかどうか。村の通り、村に通じる道路、そして周囲の地形。

20.要塞化されていない都市。その位置、人口、商業、商品、製造物、人員、馬など、そこから得られる援助。広場と主要な建物。防御力、城壁、古い塔、堀などで囲まれているかどうか。門とそこへ通じる道路。周囲の地形。

21.要塞都市。その位置、および近隣の他の都市との関係(第一線か第二線か)。相互に援助できる範囲。包囲された場合に、そこから引き出せる、あるいは投入できる支援。攻撃側に応じて、人員または物資の救援がどの方向に送られるべきか。補給所または病院として機能するかどうか。要塞の状態(「要塞」の項を参照)。 [241ページ]アルファベット順で、それぞれの戦線の性質、それぞれの戦線の強さ。近隣の河川、砲の射程圏内の周辺地域。包囲形態、地域の状況と陣地を考慮した上でどのような戦線が必要となるか、そしてその地域がそれを遂行する手段。斜面と戦線の間の地形が、包囲側と包囲される側の両方にもたらす利点、軍の各方面間の最も確実な連絡を確立する手段、そしてそれらを遮断する手段。

22.陣地。あらゆる軍備は、決定的な有利な地形を備え、その前面、側面、後方のいずれの地域も占領されてはならない。すべての占領地は大砲の射程圏内にあってはならない。陣地の選択においては、四つの主要な目的を考慮する必要がある。第一に地形の優位性、第二に軍への補給、第三に達成すべき目標、第四に後方との連絡。陣地の前面は、河川、峡谷、起伏のある地、あるいは敵の戦闘隊形を崩し、敵にフィレ(防壁)を通過させるような障害物によって遮られているべきである。しかし、前面が障害物で覆われ、軍隊が前進したり、敵の攻撃を阻止したりできない場合、陣地は無用となる。 [242ページ]必要に応じて陣地から退却するが、側面の障害物は大きすぎることは許されない。陣地を覆う障害物、あるいはそこへ通じる峠はすべて砲兵の射程内になければならない。さもないと敵は妨害を受けずに通り抜けてしまう。地形が優位に立たない平坦な地域においては、陣地が障害物に覆われて守られているかどうかで、その適性は多少異なる。障害物とは、道路がほとんどない深い森、橋なしでは渡ることも通ることもできない大きな小川、狭い道路、深く崩れた峡谷、生垣や溝などが点在する地面などである。しかし、これらすべての障害物が砲兵の射撃下にあることが不可欠である。後方が沼地で覆われ、川や峡谷が横切っているなどして軍の退却が困難な陣地を占領するのは常に危険である。軍隊が退却できる通路の数を精査し、確保する必要があり、5~6個以上あってはならない。陣地前方の川や小川などは、敵に遮断される可能性があるため、水源として頼るべきではない。陣地の敷地は、生垣、溝、峡谷などであまりに分断されてはならない。これらは戦線に大きな隔たりを生じさせ、陣地内の連絡を阻害するからである。

攻撃的な立場では、軍隊は [243ページ]防御陣地は、障害物によって過度に制限されるべきではなく、あらゆる方向に自由に行動できるものでなければならない。しかし、防御陣地においては、接近可能な地点が少ないほど良い。前面および側面の自然の難所が敵の攻撃を危険にさらすのに十分でない場合は、堡塁、塹壕、緩衝地帯、浸水などによって難所を増やす必要がある。側面の障害物は、敵が容易に迂回できない程度の大きさでなければならない。そうしないと、敵は大きく迂回することになる。その結果、自軍の側面が露出し、連絡線が弱まる。敵が後方の防御陣地を攻撃するために部隊を派遣する場合、前線は十分に強固でなければならず、将軍は自軍から強力な部隊を派遣して敵の派遣に対抗しなければならない。つまり、敵はいかなる機動によっても、その軍をその陣地から撤退させることが不可能でなければならない。木材や水、あるいは軍隊にとって絶対的に必要なその他の物資の不足は、陣地の他のあらゆる利点を無意味にする。また、補給所から遠く離れ、中間地点が敵の攻撃から完全に安全でない陣地は、長く維持することができない。陣地に関する詳細な説明については、「野戦 砲兵」を参照のこと。

跳弾- 射撃は特定の装薬や仰角に限定されず、それぞれ異なる [244ページ]砲弾の跳弾角度は、射撃目標までの距離と高低差、特に砲弾が最初に跳弾する地点によって異なる。砲弾が跳弾する角度が小さいほど、跳弾した地面に沈み込む深さが少なくなり、弾の粘り強さによって当然砲弾の進撃に対する抵抗も少なくなるため、その威力を維持し、長く効果を発揮する。いかなる種類の要塞の跳弾においても、砲弾を砲台の高さより少し高い胸壁越しに投げ出すために、仰角は10度以下とすることがほとんどである。要塞が並外れた高さにある場合、砲弾をこの高度、または少なくとも13度または14度以下の高度で目標に到達できる位置に移動し、装填しなければならない。さもなければ砲弾は跳弾せず、砲車は大きな被害を受ける。跳弾砲台の最初の砲は、敵陣の城壁の全長を掃射できるよう、胸壁から3~4フィートの距離に配置するべきである。残りの砲は胸壁に対して可能な限り小さな角度で配置するべきである。この目的のため、砲は城壁の表面から約4ファゾム内側に向けるべきである。野戦における跳弾砲撃の場合、射撃目標は主に歩兵と騎兵であるため、砲は3度以上仰角に向けるべきではない。角度が大きくなると、弾丸が跳ね返る傾向があるからである。 [245ページ]跳弾の練習には、大砲、 迫撃砲、榴弾砲 といった様々な兵器を参考にしてください。

ダートゥビエ。

「プラットフォーム」 および「バッテリー」という単語も参照してください。

ロケット。—作曲。

古い比率。  新しい比率。
ポンド。 オンス。 ポンド。 オンス。
硝石 4 0 — 4  4
硫黄 1 0 — 0 12
木炭 1 8 — 2  0
星のための作曲。
粉末 0 ポンド 8オンス 雨のための作曲
硝石 8 0 打ち上げロケットの先頭に立つ
硫黄 2 0 と同じです
アンチモン 2 0 ロケットについては上記をご覧ください。
アイシングラスは解散した 0 3.5
ワインのスピリッツ 1パイント。
酢 1クォート。
スカイロケットの総合表。

  2ポンド。   1ポンド。   1/2ポンド。     ¼ポンド。 
 インチ。    インチ。    インチ。    インチ。

場合
外径 2.13 1.69 1.34 1.06
内径  1.529  1.214  0.961  0.761
運転前の長さ 15.97  12.67  10.05  8.25
チョークゲージの長さ 1.5  1.25 1.0  0.75
見出し用のシリンダーです
。 直径 2.84 2.25 1.79 1.39
長さ 4.26 3.38 2.68 2.12
ヘディング用のコーン
。 直径 2.84 2.25 1.79 1.39
身長 4.26 3.38 2.68 2.18
打ち込み用の木槌。—重量 4ポンド 3 8オンス 2 1 1 10
画数 31 21 18 13[246ページ]
スカイロケットを充填するための銅製のおたま。

長さ、ケースの外径の1.5倍。
直径はケースの内径に等しくなります。
円周、ケース内径の¾。
ロケットは、チョークからケース外径の4.5倍まで、そしてその上方1/5倍まで良質な粘土で構成された構成で打ち出されます。そして、直径3.5倍まで穴あけとリーマ加工が施されます。

ロケット用スティックの寸法。—一般的な規則。

1/2オンスから1ポンドまでのロケットの場合、棒の長さはロケットの直径の60倍、1ポンド以上のロケットの場合は直径の50倍または52倍にする必要があります。棒の上部の厚さは直径の約1/2、幅は直径よりわずかに大きい必要があります。底部の正方形は上部の厚さの1/2に相当します。

ロケットの性質
。 6 Pr. 4 Pr. 2 Pr. 1 名様 ½ Pr. ¼ Pr. ⅛ Pr.
フィート で。 F. 私。 F. 私。 F. 私。 F. 私。 F. 私。 F. 私。
円錐の
先端からの平衡距離
4 1.5 3 9 2 9 2 1 1 10.5 1 8 1 3
直径 3 ~ 4 インチのロケットは 1,000 ~ 1,200 ヤードまで上昇することが観測されていますが、一般的なロケットの高度は 450 ~ 600 ヤードで、飛行時間は通常 7 秒未満です。

ジョーンズ、ロビンズ、ラボ。[247ページ]

ロープ— 常に円周によって区別されます。つまり、2 インチのロープは円周が 2 インチのロープを意味します。

ロープの重さを求めるための規則。

円周(インチ)の2乗にファゾム(長さ)を掛け、その積を480で割ると、重量(cwt)が算出されます。 ドラッグロープも参照してください。[248ページ]

Sとバッグは長さ約 27 インチ、直径 15 インチで作られ、砲台 1 ファゾムあたり 250 個、または大砲または迫撃砲 2 門あたり約 1,680 個必要です。—トン数を参照してください。

工兵の配置。工兵の配置は、通常、北緯2度線付近から始まるが、それより早く始まることもある。包囲側の砲火がかなり弱まっている場合は、昼夜を問わず作業が進められる。工兵は通常、8人からなる旅団に分かれ、さらに4人ずつの分隊に分かれる。これは、同時に工兵を配置できる最大人数である。先頭の工兵は、深さ18インチ、幅同幅の溝を掘削する。2番目、3番目、4番目の工兵は、順番にそれぞれ6インチずつ溝を深くし、幅同幅の溝を掘削する。こうして4人は、幅3フィート、深さ3フィートの溝を掘削する。その後に一般の作業員が続き、他の溝と同じ幅と深さの溝を掘削する。工兵の配置は、24時間で80ファゾムの速度で進められる。この作業は非常に過酷であるため、半旅団は1時間ごとに交代し、各工兵が交代で先頭に立つ。旅団全体は6時間後に交代する。この危険な任務では、戦死者の賃金を生存者に支払うのが慣例となっている。工兵は通常、ヘルメットと胸当てを装備している。塹壕、平行線を参照。

SECANT —Gunneryという単語の末尾にある表を参照してください。[249ページ]

砲弾—迫撃砲および榴弾砲用。その寸法、重量など。

自然。 重さ。 直径。 貝殻に
含まれる 粉末。

燃焼用の粉末

信管孔の直径。
金属の 厚さ 。
外 内部
コート qr。 ポンド。 オンス。 インチ。 ポンド。 オンス。 ポンド。 オンス。 インチ。 インチ。 インチ。
13インチ 1 3 2 12¾  10  4 6 12 1.837 1.696 2.05
10」 3 9 9¾ 4  5 2 10 1.57  1.45  1.575
8」 1 11.5 7¾ 2 12 1 14 1.219 1.127 1.2  
5½インチ 15¼ 5¼ 1 12 0.894 0.826 0.822
4⅖” 8 4⅕  7  5 0.832 0.769 0.653
手 3 11 3.49
グレン。 1 13 2.77 1.5
フランスの貝殻、フランスの度量衡で表記。
インチ。 ポンド。 ライン Po。 ライン Po。 線
12インチ 150 12 17 5 15 9 15 16
10」 100 10 10 3 15 9 15 16
8」  43  8  4 1 1 12  11 10
6インチ  23  6  2 8 12 11  10 6 10[250ページ]

同じ厚さの金属で作られた銃およびカロネード砲の砲弾の寸法。

自然。 42 ページ 32 24 18 12
インチ インチ インチ インチ インチ
銃 殻の直径 — 外観 6.684 6.105 5.547 5.04 4.4
インテリア 4.404 4.005 3.767 3.4  2.8
金属の厚さ 1.14  1.05  0.89  0.82 0.8
信管孔の直径 — 外観 0.894 0.894 0.894 0.832 0.832
インテリア 0.826 0.826 0.826 0.769 0.769
破裂用粉末 オンス。 14 11 12 9 5½
カロネード砲 殻の直径 — 外観 6.64 6.05 5.48 4.935 4.295
インテリア 4.36 3.95 3.48 3.235 2.695
金属の厚さ 1.14 1.05 1. 0.85 0.8
シェルの重量 ポンド。 22 12
粉末入り オンス。  12.5 9
破裂用粉末 オンス。 10 7 [251ページ]
以下の砲弾も銃から発射される可能性があります。

手 手榴弾 から  6 氏。
4⅖ 貝殻 ” 12 氏。
5½ 貝殻 ” 24 氏。
8  インチ ” 68 カロナデス教授。
必要に応じて、砲弾を短距離に投射することもできます。ただし、砲身の直径が砲弾を通すのに十分でない場合もあります。この目的のために、砲は砲口に砲弾が留まる程度の高さまで持ち上げることができます。これは、砲弾の耳から砲首にかけて細い線を引くことで補助できます。より大きな効果を得るには、砲弾と装薬の間の空間に詰め物などの物質を詰めることもあります。

ロンバード。

貝殻も同様に、ブドウの形にキルティングされることがあります。 「ショット」という言葉を参照してください 。

シェルの証明方法については、「証明」を参照してください。

鉄の殻の重さを測ります。

シェルの重量は、外径と内径の3乗の差の ⁹/₆₄ をとります。

シェルを満たすパウダーの量を調べます。

砲弾の内径の 3 乗(インチ)を 57.3 で割ると、火薬の重量(ポンド)がわかります。[252ページ]

指定された重量の粉末を収容するシェルのサイズを調べます。

粉末の重量(ポンド)に 57.3 を掛けると、その積の立方根がインチ単位の直径になります。

ドイツ軍は砲弾の名称を、砲身の直径ではなく、砲弾と同じ砲身に装填できる石弾の重量で命名した。例えば、7ポンド榴弾砲は、その重量の石弾を装填できる。この砲弾の重量は15ポンドで、イギリス軍の5.5インチに相当する。30ポンド榴弾砲の砲弾の重量は60ポンドで、直径は8インチをはるかに超える。

注記:最近まで砲弾は信管孔よりも底部が厚く作られていましたが、現在は全体が同じ厚さで鋳造されており、その結果、より多くの破片に破裂することが判明しています。

SHOT. —任意の山から数字を見つけるためのルール。

三角形の杭。

底数に底数 + 1 を掛け、その積に底数 + 2 を掛け、6 で割ります。

スクエアパイル。

一番下の行に一番下の行 + 1 を掛け、その積に一番下の行 + 2 の 2 倍を掛け、6 で割ります。[253ページ]

長方形の杭。

底辺の幅にそれ自身+1を掛け、これに底辺の長さと幅の差の3倍を掛け、幅の2倍+1を足して6で割ります。

不完全な杭。

不完全な山は円錐台だけなので、上部に同様の小さな山が必要な場合は、まず山全体を完全なものとして計算し、さらに上部に欠けている小さな山も計算します。そして、一方の数値からもう一方の数値を引きます。

ショットの寸法と重量を調べるためのルール。

砲弾や砲弾の重量と寸法は、比重(重力を参照)から求めることができますが、さらに簡単に求めることができるのは、特定の大きさのボールの実験的な重量を、直径の 3 乗などの既知の相似図形の比率から求める方法です。

1.鉄球の直径から重さを求める— 直径4インチの鉄球の重さは9ポンドです。重さは直径の3乗なので、64(4の3乗)は9になります。他の鉄球の直径の3乗も重さに等しいです。[254ページ]

2d.鉛の球の重さを求める.—直径4 1/4インチの鉛の球の重さは17ポンドです。したがって、4 1/4の3乗は17に比例し(9は2に比例する)、鉛の球の直径の3乗も重さに比例します。

3d、鉄球の直径を求めるには、重さに 7¹/₉ を掛けると、その積の 3 乗根が直径になります。

4番目、鉛の球の直径を求める。重さを9倍し、その積を2で割り、商の3乗根を取って直径を求めます。[255ページ]

英国製鉄丸弾の直径表。

自然。 68 42 32 24 18 12 9 6 3 1
インチ。 8. 6.684 6.105 5.547 5.040 4.403 4.000 3.498 2.775 1.92 
フランス製鉄製丸型ショットの直径
(英国インチ単位)。

自然。 36 24 16 12 8 7
インチ。 6.648 5.808 5.074 4.610 4.027 3.196 [256ページ]
さまざまなサービスの英語のケースショットの表。

 海上サービス。 カロネード砲。

自然。

ショットの重量。
各ケースの 番号

充填された各
ケースの重量
。 自然。

ショットの重量。
各ケースの 番号

充填された各
ケースの 重量

氏。 オンス。 いいえ。 ポンド。 オンス。 氏。 オンス。 いいえ。 ポンド。 オンス。
32 8 70 33 8 68 8 90 46 2
24 8 42 22 15  42 8 66 32 8
18 6 42 16 8 32 8 40 21 4
12 4 42 11 5 24 8 32 16 1
 9 3 44 8 9 18 6 31 12 2
 6 2 40 5 2 12 4 32  8 2
 4 2 28 4 —
フィールドサービス用のティアショット。
 3 2 20 2 15 
 1  1¼ 12 2 2¼
コモン・ランド・サービス。 オンス。 いいえ。 ポンド。 オンス。
12 ページ 18 15 18  8
メッド。 6½ 42 17 11
氏。 オンス。 いいえ。 ポンド。 オンス。 6 Pr. 8½ 15  9 —
24 4  84 21 11 メッド。 3.5 42  8 14
12 2  84 12  1 3 Pr. 4½ 15  4 10
6  1.5   55 5 10.5 メッド。 1.5 42  4  6
12 ページ 14 12 14 14
ライト 6½ 34 14 11
6 Pr. 8½ 12  7  3
ライト 3.5 34  7  7
3 Pr. 4½ 12  3 10
ライト 1.5 34  3 11[257ページ]
迫撃砲用。 榴弾砲。
自然。

ショットの重量。
各ケースの 番号

充填された各
ケースの重量


ショットの重量。
各ケースの 番号

充填された各
ケースの 重量

インチ。 オンス。 いいえ。 ポンド。 オンス。 オンス。 いいえ。 ポンド。 オンス。
10 8 170 91 8 — — — —
8 6  90 38 4 6 90 33 8
5½ 3  55 12 6 3 55 12 8
4⅖ 2  55  8  1¼ 2 55  8 2

海上および陸上任務用のブドウ弾の表。

 自然。 
各ショット の重量 。
ブドウ の総重量
が完了しました。
ポンド。 オンス。 ポンド。 オンス。
42 パウンダーズ。 4 0 46 6
32 ” 3 0 34 1
24 ” 2 0 25 5
18 ” 1 8 19 15½
12 ” 1 0 10 15 
 9 ” 0 13   7 6
 6 ” 0 8  5  8½
 4 ” 0 6  3 14.5
 3 ” 0 4  2 10.5
 1/2 ” 0 ⅗リード  8¾
ジブラルタルでは、4⅖インチ砲弾や手榴弾が13インチ迫撃砲のグレープ弾にキルティング加工された。信管は内側に向けられていた。[258ページ]鉄製のタンピオンと、信管に火を伝達するための速射マッチの導線は、木底に開けられた穴から差し込まれ、グレープの中央、信管にできるだけ近い位置に設置された。これらは近距離では非常に効果的であった。

シャンド。

ホットショット。ホットショットで射撃するための火薬は、穴のな​​い丈夫なフランネル製の薬莢に詰めなければならない。そうしないと、薬莢を装填する際に、銃身内に薬莢の粒が残ってしまう可能性がある。火薬の上に、まず乾いた綿、次に湿った綿、そしてホットショットの順に詰める。銃が窪みにあれば、その上に綿を置き、それを押し込んで撃ち込むことができる。上記の注意事項を守れば、装填後、銃を向けても全く危険はない。よく知られているように、弾は銃の中で冷えていき、隣接する綿は数本しか燃えない。これはホットショットの装填方法として一般的に教えられている方法ではないが、ジブラルタル包囲戦中に実践された方法である。ダートゥビー氏は、事故を防ぐ効果的な方法として、加熱した弾をブリキの缶に入れることを提案している。

通常、ショットを加熱するために作られた格子は、通常 3/4 時間で赤熱します。[259ページ]

正弦波。–「Gunnery」の語尾にある「自然正弦波」の表を参照してください。

音速。音の媒質速度は、約 4 2/3 秒で 1 マイル (5,280 フィート) を移動します。または、14 秒で 1 リーグ (1 分で 13 マイル) を移動します。ただし、海里は陸マイルとほぼ同じ 7 対 6 です。したがって、音は海里を約 5 3/4 秒で移動します。または、16 秒で海里を移動します。

ハットン。

音は1秒間に1142フィート飛びます。

フレイムステッド。

健康な人の手首の脈動は 1 分間に約 75 回であることがよく観察されています。したがって、75 回の脈動で音波は約 13 陸マイル、または 11¹/₇ 海里を飛行します。これは、6 回の脈動で約 1 陸マイル、7 回の脈動で 1 海里、または 20 回の脈動で 1 リーグに相当します。

ハットン。

音速は、風に沿うか風に逆らうかに関わらず、ほとんど変化しません。音は風よりもはるかに速く移動するため、それによって受ける加速度はごくわずかです。そして、風の影響として私たちが感じることができる主なものは、音がより遠くまで運ばれることです。風の強さに比例して、音は大きくなります。 [260ページ]空気の凝縮によるものです。水は音の伝導率が最も高いものの一つで、陸上のほぼ2倍の距離まで音が届きます。

ハットン。

支給停止 — 砲兵の給与(ビール代を含む)から、週5シリング1ペンスが支給され、彼の食事代(野菜などを含む)に充てられる。週1シリング6ペンスを超えない金額は、 通常通り毎月精算される必需品のために留保される。残額である週3シリング10.75ペンスは、 洗濯代など、あるいは衣服や装備の清掃のための通常の控除を除いた上で、兵士に支払われる。人馬の配給のための支給停止。 「配給」の 項を参照 。[261ページ]

接線 — Gunneryの語尾にある自然接線の表を参照してください。

接線尺度。0.21インチは、銃のベースリングから銃口の膨らみまでの銃の長さ1フィートごとに1度の接線角度を表します。したがって、この2点間の距離(フィート単位)に0.21を掛けると、その積は1度の接線角度になります。この距離から距離を差し引くと、その銃の仰角1度におけるベースリング上の接線尺度の長さが得られます。この尺度を銃のクォーターサイトに適用する場合は、もちろん距離を差し引く必要はありません。

次のオードナンスに対する 1 度の接線。

 長さ。  接線、1°   解散。 
  足。   で。    インチ。    インチ。

12 教授 中くらい 6 6 1.365 1.475
12 教授 ライト 5 — 1.05  1.    
 6 教授 重い 7 — 1.47  1.32 
 6 教授 ライト 5 — 1.05  1.    
 3 教授 重い 6 — 1.26  1.08 
10 インチ 榴弾砲 3 11.5 .84 —
 8 ” ” 3 1   .64 —
 5½ ” ライト 2 2¾ .47 —
 4⅖ ” ” 1 10 .384 —
[262ページ]

次のフランスの銃に対する 1 度の接線。

兵器の性質
。 包囲。 分野。

1°の接線 解散。
1°の接線 解散。
で。 李。 P. で。 李。 P. で。 李。 P. で。 李。 P.
24 パウンダー 2 1 5 1 2 4 — —
16 ” 2 — — 1 1 — — —
12 ” 1 10 6 1 — — 1 4 — 1 3 2
8 ” 1 8 3 1 — — 1 2 — 1 2 —
4 ” — — 1 — — 1 — —
6 入って、ハウル。 — — 0 5 6 —
フランスの接線目盛りはインチと線で記されているので、上記の寸法も同様に記されています。これにより、フランスの標高を度に簡単に変換し、その範囲をイギリスの範囲と比較することができます。

実験室作業用のテント。ポール、ピンなどを含む重量は 3 cwt、24 ポンド。棟木の長さは 18 フィート、ポールの長さは 14.5 フィート。

ベル テントは現在、歩兵または騎兵隊に使用されています。重量はポールを含めて 43 ポンド、ポールの長さは 9 フィート、1 つにつき 12 人の兵士が入り、40 本のペグが必要です。

歩兵用一般テント。棟木の長さ7フィート、旗の長さ6フィート。各テントは5人のみ収容可能。重量は27ポンド。[263ページ]

マーキー。重量は全部で 1 cwt。17 ポンド。リッジ ポールは 7 フィート、標準は 8 フィート。

トン数— 船のトン数を求める通常の方法は、次のとおりです。竜骨の長さと船幅を掛け合わせ、その値に船幅の半分を掛けます。そして、その最後の値を 94 で割ると、その商がトン数になります。

船の竜骨の長さ 72 フィート、船幅 24 フィート。

(72×24×12) = 220.6トン。
94
商品や物資のトン数は、重量で計ることもあれば計量で計られることもあります。最もトン数の多い船舶には重量トン数が認められます。重量トン数では、20 cwt で 1 トンです。計量トン数では、40 立方フィートで 1 トンです。トン数を計量する必要があるすべての車両やその他の物資は分解され、船上で場所をとらないように梱包されます。真鍮製であれ鉄製であれ、すべての兵器は実際の重量でトン数が計られます。樽または箱に入ったマスケット銃の薬莢、箱に入ったすべての弾薬、およびその他の重量のある品物は、実際の重量に応じてトン数が計られます。—「 乗船」という語も参照。

以下は、最も重要な兵器庫のいくつかに必要なトン数です。[264ページ]

兵器のトン数。

自然。 いいえ。 T. ct. qr。

柄付きの 斧 ポール 264 — 10 0
選ぶ 100 —  9 0
伐採 176 — 14 0
バローズ— 車輪 満員 20 2  2 0
” 開梱 7 1  0 0
手、 シングル 20 0 18 0
バッジバレル 32 1  0 0
レンガ 1000 2  5 0
革のバケツ 20 0  2 0
ポンツーンと馬車、
その付属品一式 11   0 0
カービン銃。— 25スタンドのチェスト
は11フィート立方です
客車。— 立っている 42 名 1 13 0
32 名様 1 10 0
榴弾砲 10インチ。 1 10 0
24 名様 1  9 8
榴弾砲 18 名様 1  7 0
8インチ。
12 名様 1  4 0
9 名様 1  3 0
6人 1  0 0
4名様 0 17 0

馬車。移動用
で、荷馬
車、ひしゃく、スポンジ
、ラムマーを装備している。 24 名様 5 10 0
12 名様 4 10 2
9 名様 4  7 2
6人 3  7 2
3名様 2 19 0
中くらい 24 名様 2  9 2
12 名様
6 Pr. 軽機関銃、弾薬箱付き 2  3 0
5½インチ榴弾砲、 「 」
10 cwt の 5½ 榴弾砲。 馬車 3  2 0
8インチ榴弾砲 3  7 2[265ページ]
スリングカート、完成品 3  0 2
鍛冶カート(荷台付き) 4  0 0
弾薬車 4 18 1
砂利車 2 16 2
リッチモンド公爵の胴体付き馬車 5  0 0
側面が垂直の道路用ワゴン 7 10 0
ジン; 三角形 0 14 0
ショット加熱用格子 0  4 2
ハンドスパイク 120 1  0 0
5フィートの手錠レバー 120 1  0 0
手ねじ、 大きい 15 1  0 0
小さい 17 1  0 6
ヘルベス、 摘み取りまたは伐採 300 0 14 0
” そり 300 1  0 0
” ピンモール 360 1  0 0
ジャンク 20 cwt。 1  5 0
リンストックス、 コックなし 1000 1  0 0
雄鶏付き 600 1  0 0
マスケット銃。— 25 の入ったチェストは 16 フィートです。
” ”  20 で 11 フィートになります。
マッチ 6 cwt。 1  14 0
粉 11樽 1  0 0
22ハーフ 1  0 0
ピッチまたはタール。1 バレルは 7 フィートです。
ピストル。—50 または 60 = 10 フィートのチェスト。
公園のピケ 40 0  9 1
パイクス 12ダース 1  1 0
羊皮 280 1  0 0
鉄のシャベル 100[266ページ] 1  0 0
鉄の靴を履いたシャベル 138 1  0 0
土嚢
ベール ブッシェル 500 0 12 0
½” 500 0  7 1
2ブッシェル 250 0  8 1
海外任務に就く軍将校に、駐屯地装備および手荷物として許可される兵器のトン数は次のとおりです。

現場の将校の場合 5 トン。
船長にとって 3 ”
下級将校の場合  1.5 ”
1799年6月12日。
輸送手段。—「乗船」という単語を参照してください。

塹壕。要塞化された場所を包囲する際のあらゆる進入路を指す一般的な用語。

包囲戦における進撃は、通常、付属の陣地の首都から行われる。これは、築かれた首都が陣地前面の他のどの位置よりも、大砲やマスケット銃の射撃にさらされる鉛であり、包囲側と包囲側の砲台の間の射線上で最も距離が短いためである。しかし、特別な事情により、これらの利点やその他の利点が首都からの進撃に伴わない場合でも、首都からの進撃が他の位置よりも優れているというわけではない。[267ページ]

連絡用の溝、つまりジグザグの溝は、深さ 3 フィート、底部の幅 10 フィート、上部は 13 フィートで、土盛りが 1 フィートあり、その先は土を投げ入れて胸壁を形成している。

塹壕の平行線または塹壕の塹壕線は深さ3フィート、底部の幅は12フィート、上部の幅は17フィートまたは18フィートで、幅は約3フィートの長椅子があり、傾斜もほぼ同じです。 「Sap」という単語を参照してください。

塹壕を掘り始める最初の夜は、敵が攻撃側を知らないという状況を最大限に利用しようと最大限の努力が払われる。そして、通常は最初の平行線まで、時にはその作業の完了まで、作業が続けられる。作業員たちはそれぞれ6フィートの束、つるはし、シャベルを持ってこの作業に出発する。束は互いに1フィートずつ重なるように敷き詰められるため、各人が掘る塹壕の幅は5フィートになる。

塹壕やジグザグの方向を決める通常の方法は、日中に陣地の突出部と一直線上にある近くの物体を観察することです。これは夜間の方向を示すのに役立ちます。また、夜がそれほど暗くない場合は、地平線の上に陣地の角を見ることもできます。しかし、これらの方法はどちらも不確実性を伴うため、あらゆるケースに対応するために、次の方法が提案されています。攻撃計画を策定した後、前線の陣地の側面の角の正確な位置を決定します。 [268ページ]攻撃される場所、特に左右に最も伸びている場所については、ジグザグの最初の部分の起点、すなわち柱頭を横切る点、そして柱頭の反対側に伸びる点を図面に記す。この最後の点が二番目の枝の起点となる。次に、この枝が柱頭を横切る点と反対側への伸びる点を記す。これが三番目の枝の起点となる。他の枝についても同様に記す。このようにして、図面に印を付けておけば、どんなに暗い夜でも、ジグザグが柱頭を横切る点と、そこから先にジグザグが伸びる点を定めるのは非常に容易である。最初の平行線は通常、その場所から約600ヤードの地点から引かれ、塹壕に向けて発砲するすべての陣地の面の延長線を包含する長さとなる。そして、それぞれの端は約30~40ヤードの戻りとなる。

二番目の平行線は最初の平行線と同じ原理で、同じ範囲で、隠蔽通路の突出角から約300ヤードの距離に建設されます。この平行線は通常、蛇籠で作られ、作業員はそれぞれ蛇籠、束石、シャベル、つるはしを携行します。その後の溝は通常、樹液で掘られます。—「」という単語を参照してください。[269ページ]

半平行線は隠れ道から約 140 または 150 ヤードのところにあり、隠れ道の枝の延長を囲むのに十分な長さで両側に伸びています。

3本目の線は装甲板の下部より近くに引いてはいけません。そうでないと跳弾砲台が隠れてしまいます。通常、他の線よりも幅が広く設定されます。

塹壕の騎兵は隠れ道から 28 ヤード以内にいてはいけません。そうしないと手榴弾の攻撃を受ける可能性があります。

同様に、 「アプローチ」、 「樹液」、「バッテリー」という単語も参照してください。

トゥル・ド・ルー— 逆さにした円錐台。底面の直径は4フィート6インチ、深さは6フィート。杭の長さは6フィート、杭の面積は4~5インチ。土は3/4立方ファゾムで、通常は2/3ファゾムに設置される。

チューブ— ブリキ板製のチューブが最適です。チューブは直径1/2インチのゲージを通す必要があります。粉末状の粉末を蒸留酒で固く混ぜ合わせたものが原料です。100本ずつ束ねて製造されます。[270ページ]

ブリキ管の長さ。

長さ。 兵器の性質。
重い。 中くらい。 ライト。 榴弾砲。 陸上迫撃砲。 海上迫撃砲。
インチ。 教授 教授 教授 インチ。 インチ。 インチ。
12.2  — — — — — 13
8.8 24 24 — — — —
8.2 18 18 — — — —
 7.75 12 12 — — 13 10
6.8  9  9 — — — —
6.5  6 — 24 8 10 —
5.9  3  6 12  5½ — —
5.0 — — — —  8 —
 4.75  1.5  1.5  6 — — —
4.2 — — —  4⅖  5½ —
3.6 — — — —  4⅖ —
注:ブリキのチューブが濡れて損傷した場合は、中身を取り除いてから新たに充填することができます。蒸留酒が手に入らない場合は、良質のラム酒やブランデーで代用できます。[271ページ]

Uユニフォーム—

ヨーロッパの列強の軍服の主要色。

国家。 騎兵。 歩兵。 砲兵。 備考。
インペリアル 白 白 グレー
ロシア 青 緑 緑 黒い花飾り。
デンマーク人 — 赤 —
英語 青 赤 青
フランス語 青 白 青 ナショナル。花飾り。
ポーランド 青 青 青
プロイセン 白 青 青 ドラッグ。水色。
サルデーニャ 青 青 青
スウェーデン — 青 — 黄色の花形帽章。
バイエルン — 白 グレー
ハノーバー 青 赤 ミックスブルー 緑の花飾り。
マイエンス — 白 ”
パラティーノ クリムゾン クリアブルー —
サクソン人 白 白 緑 竜騎兵は赤、
 雄鶏は白。
アンスパッハ 青 青 青
バーデ — 青 —
ブランズウィック — 青 —
ヘッセン 白 青 青
ナッソー・サールズ — 青 —
ザクセン・コーバーグ — 青 —
ザクセン・ゴータ 青 青 青
ザクセン・ヒルデブルク — 青 —
ザクセン・メーミンゲン — 青 —
サックス・ヴァイマー 青 緑 緑
ヴュルテンブルク — 青 青
オランダ 白 青 青
ベルン 赤 青 青 黒と赤の
 花飾り。
メクレンブルク 青 青 青 [272ページ]
速度 – 1788年、1789年、1790年にウーリッジで行われた弾道振り子実験によって確認された軍用弾の初速度。これらの実験は、同じ直径の弾丸、同じ強度の火薬、そして気圧計の平均高度の下で行われた。そして、

  1. 長さが同じでも重さが異なる銃から発射された砲弾の速度にはほとんど差がなく、一方が有利になることもあれば、他方が有利になることもある。
  2. 異なる量の火薬で発射した場合に生じる速度は、火薬の量または重量の平方根にほぼ比例します。
  3. 距離が長くなるにつれて、速度は低下します。これは、弾丸の進行を妨げる空気の抵抗によって生じ、その割合は速度の二乗よりもいくらか大きく、変化はわずかです。
  4. 射程距離の点では、わずかな利点しか得られない。 [273ページ]目的を達成するのに必要な量以上に装填量を増やすと、大きな装填量によって生じる速度はすぐに中程度の装填量によって生じる速度まで低下します。たとえば、弾丸の重量が半分のときに生じる速度は、わずか 200 フィートの空間を通過した後には、3 分の 1 の装填量によって生じる速度と同等に低下します。
  5. このわずかな利点は、砲の長さを長くすることによっても得られます。22口径の長砲身の速度は、次の空間を通過した後、同様の装薬を持つ15.5口径の短砲身の速度と同等に低下します。

と 1/2 その ショットの 重さ 285フィート。
⅓ ” ” 200
¼ ” ” 150
⅙ ” ” 115

  1. 等速で異なる直径の球に対する空気抵抗は、ほぼ球の直径の二乗、つまり球の表面積に比例する。
  2. 速度は、電荷の圧縮度合いや、部品の加熱度合いによって影響を受けません。
  3. 風圧の減少により速度が大幅に増加する。確立された風圧¹/₂₀では、⅓から¼の力が失われることがわかる。[274ページ]
  4. また、異なる部分で弾を発射したり、銃の重量を変えて反動を軽減したり、あるいは反動を完全に止めたりしても、弾丸の速度に目立った変化は生じないことも判明した。
  5. 砲弾の速度は各銃に特有のある一定の点までしか増加しないが(火薬をさらに増やすと速度は減少する)、装薬量の増加により砲の反動は常に増加する。
  6. 軽量 6 Pr. の速度 (長さ 4 フィート 8 インチ、装填量 1/3 で砲弾の重さ)、毎秒1558 フィート。重量 6 Pr. の速度 (長さ 4 フィート 8 インチ、装填量 1/3 で砲弾の重さ)、毎秒 1673 フィート。

長さ 3 Pr、3 フィート 4 インチ、電荷 ⅓—1371 フィート/秒の軽量 3 Pr の速度 。

やれ。重い3Pr。長さ5フィート9½インチ、チャージの1/3ショット、つまり1584フィート。

ハットン。

フランスの兵器の速度。

24 Pr. の充填量が 8 ポンドのエプロベット迫撃砲で 125 ファゾムの場合、初速度は毎秒 1425 フィートです。エプロベットが 90 の場合には 1209 フィートです。充填量が 12 ポンドで、エプロベットが 125 の場合、初速度は 1530 になります。[275ページ]

     充電。  エプロベット。        速度。

16 教授 5ポンド 125 1415
” ” 8 ” 1510
12 教授 4 ” 長銃 1520
8 教授 2.5 ” 1418
” ” 3 ” 1460
4 教授 1 ” 1335
” ” 1.5 ” 1508
12 教授 4 ” 野砲 1442
8 教授 2.5 ” 1422
4 教授 1.5 ” 1446
8 インチ 元気ですか。 1 ”  390
” ” ” 1 2オンス ”  516
6 インチ 元気ですか。 1 ”  532
” ” ” 1 12 ”  704

ロンバードの表。
通気孔。イギリスの大砲の通気孔の直径はすべて 2/10 インチです。「速度」の記事の注釈 9 を参照してください。[276ページ]

重量 —「測定基準」を参照してください 。

風偏— イギリスの銃の通常の風偏は口径の¹/₂₀です。実験によると、この風偏によって火薬の威力の1/4、つまりほぼ1/3が失われることが判明しています。—「速度」という語の注釈8を参照。

大砲とカロネード砲の風圧。

自然。 68 42 32 24 18 12 9 6 4 3 2 1
銃 — .33 .30 .27 .25 .22 .20 .17 .15 .14 .12 .09
カロナ。 .15 .15 .15 .14 .12 .12
迫撃砲と榴弾砲の風偏。

13 インチから 5½ インチまでの風偏は 0.15 インチ、4⅖ インチでは 0.2 インチです。

フランスの銃の風偏。

野砲。—すべて風偏は一直線。8ポンド砲では約¹/₅₀。
攻城砲。—すべて1.5列式。24連装砲で約¹/₄₈。
迫撃砲。— 12インチ; 4行 風圧の。
10インチ; 1行、 5ポイント ”
8インチ; 1行、 ”
榴弾砲。— 全て; 2行 ”[277ページ]
木材— 砲兵の台車は一般的にニレ、トネリコ、オーク材で作られています。海上用迫撃砲の台座と砲室はオーク材、ボルスターはニレ材で作られています。陸上用迫撃砲の台座の底部はオーク材、上部はニレ材で作られています。

車両— 船。 – 楡の頬、欄間、および幹。
オークの車軸木。
” ギャリソン。— 全体はオーク材、トラック、鉄製。
” 分野。 – 重い24と12 Pr。頬と
欄間はニレ、車軸の木はトネリコ。
車輪の中には身廊と通路があり
ニレの; トネリコのスポーク; 柔軟な
シャフト、バー、車軸木は
灰。軽銃、3から12 Prs。
頬と欄間はニレ材でできており、
弾薬箱はモミ材でできています。
車輪、身廊はニレ材、スポーク
オークの葉とトネリコの葉。
トネリコの柱と棒を柔らかくします。
終わり。

脚注:

[1]12 連装砲には砲身に小さな箱が付いており、6 発の実弾と 2 発の薬莢、6 発の 4 ポンドの薬莢、2 発の 3 1 ~ 2 ポンドの火薬を搭載しており、これは上記の割合よりも多い。

[2]中型12連装機関銃には最近、小型のリンバ​​ーボックスが追加されました。このリンバーボックスには、6発の実弾と6発の薬莢、そして少量の小型弾薬が収納されています。11ページの注を参照。

[3]荷馬車には20,000発の弾薬が積まれますが、通常は1000発の半砲身18個と火打ち石の半砲身2個だけを積むのが通例です。

[4]フランスの文献の 16 Prs. について、編集者は 18 Prs. (8 Prs.)、9 Prs. (12 インチの迫撃砲、13 インチ) と述べているが、これはほぼ一致している。

[5]我々の鉄製迫撃砲は、鉄製の台座の上に設置されており、低い角度で発射することができます。

[6]ドイツの著者は、砲が砲座から射撃できるようにする土塁は、その間の銃眼が開くように配置すべきだと提案している。そして、砲が銃眼まで降りるときに、砲座が横射器の役割を果たすことになる。

[7]編纂者は、英語でこの主題が扱われているのを見たことがないため、defiladedという語を造語したことをここでお詫びしなければならない。しかし、フランス語ではdefileをenfileとは逆の意味で用いる。enfiladeとenfiladedが後者から派生していることを認めている以上、defiladeとdefiladedという語が前者から派生していることを否定することはできない。

[8]この列は、砲弾 1 ポンドあたりの銃に含まれる金属のポンド数を表します。

[9]ドイツ人が砲弾を砲塔に分類する原則については、「Shell」 という単語を参照してください。

[10]最良の形式に関する実験については、Chambers という単語を参照してください。

[11]石製迫撃砲は 250 ヤードを超える距離で発射しないでください。

[12]5½ インチの真鍮を使用した射撃場については、鉄製迫撃砲を参照してください。

転写者のメモ:

表紙画像は転写者によって作成されたもので、パブリック ドメインです。

この電子書籍に含まれる新しいオリジナルの表紙アートは、パブリック ドメインとして認められています。

古いスペルは修正されませんでした。

図は、段落を分割せず、説明しているテキストの隣に表示されるように移動されています。

誤字や句読点の誤りは黙って修正されています。

*** プロジェクト グーテンベルク 電子書籍「爆撃手とポケット ガンナー」の終了 ***
《完》


パブリックドメイン古書『砲弾工場でフルタイム労働した女たち』を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 刊年不明ですが、第一次大戦の直後あたりでしょう。
 原題は『The Woman’s Part: A Record of Munitions Work』、著者は L. K. Yates です。

 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまに御礼をもうしあげます。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「女性の役目:軍需品作業の記録」の開始 ***

電子テキストは、 インターネット アーカイブ   から提供されたページ画像から、 David Edwards
と Online Distributed Proofreading Team
  によって作成されました。

注記: オリジナルページの画像はインターネットアーカイブからご覧いただけます。

4.5インチカートリッジケースの製造:
絞りプレスの操作

女性
の役割

軍需品作業の記録

L.
K. イェーツ著

ニューヨーク
ジョージ・H・ドラン社

[ページ iii]

コンテンツ
章 ページ
私。 エンジニアリング業界における女性の台頭 7
共通のタスクを共有する 9
希釈 11
工房での英雄主義 12
II. 軍需労働者の訓練 14
作品の真髄 15
指導工場 17
産業生活への第一歩 18
III. 仕事中—I. 20
砲弾と砲弾ケース 21
ヒューズショップにて 23
カートリッジと弾丸 25
IV. 仕事中—II. 28
航空機の製造 28
光学機器 30
造船所にて 33
V. 快適性と安全性 37
福祉監督 37
防護服 41
トイレと救急室 42
女性警察官 43

  1. 福祉外 45
    レクリエーション 45
    母性 47
    工場の保育園 48
    七。 産業食堂の成長 52
    一般原則 54
    労働者のオアシス 55
    八。 ハウジング 57
    分宿 58
    一時宿泊施設 59
    恒久的な宿泊施設 61
    [4ページ目]

[ページ v]

イラスト
4.5インチカートリッジケースの製造:絞りプレスの操作 口絵
ページ
9.2インチの高性能爆薬砲弾の銅帯を回転させる 16
ヒューズに安全ピン用の穴を開ける 16
ヒューズの検査と測定 17
9.2インチの高性能爆薬砲弾の外側を旋削し、先端部を形成する 17
ヒューズの組み立て 20
冷却シェル鍛造 20
ラムズデンプレーングラインダーの操作:8インチの高爆薬カッターの再形成 21
コンパス用金属部品の彫刻 28
飛行機の着色 28
ポータブルツールによる鋳鉄プロペラブレードのチッピングと研削 29
水上飛行機のフロートを作る大工の助手を務める女性 29
ほつれたテープを切る 36
タービンローターセグメントのろう付け 36
ドライコンパス用取り付けカード 37
足踏み式研磨機(レンズ平滑化用) 37
光学ガラスのスリット加工と粗加工 44
食堂のキッチンの眺め 44
分析のためのフェロクロムの計量 45
バルサミングレンズ 52
楽器のスケールを作る 53
乾ドックでの船体側面の塗装 60
航空機用ファブリック製造に携わる女性たちの概観 61
食堂 61
[ページvi]

[7ページ]

女性の役割

第1章 エンジニアリング業界における女性の登場
共通の課題を共有する – 希釈 – ワークショップでの英雄的行為

巨大な出来事が次々と起こる時代において、一連の出来事を一つ一つ特別な意味を持つものとして特徴づけることは困難である。しかし、戦争終結の暁には、英国は国内産業を戦争目的に転換させたことを、これまで成し遂げた最大の偉業の一つとして振り返るであろう。自由の理念のために命をかけて戦うために国民が立ち上がることは、間違いなく人間ドラマの中で最も心を揺さぶる光景の一つであり、歴史を通して繰り返されてきた。しかし、近代文明がその物質的支えと実用性のためにゆっくりと、そして苦労して築き上げてきた国家産業が、このような激動の真っ只中に完全に再編されるのを目撃するのは、今世紀になってからのことである。

開戦以前、イギリスは自国の工場の製品を世界に供給していたが、これらの製品は主に平和国家が必要とする製品だった。ノーサンバーランドの炭鉱、ミッドランド地方の鋳物工場、ランカシャーの紡績工場は、膨大な数の人々の日々の生活を支えていた。しかし、1914年に膨大な戦争需要が求められた時、イギリスは備えがなかった。40年にわたる密やかな戦争準備のおかげでドイツには可能だった産業の即時的な戦争への再編は、ヨーロッパの大災害を想定してもいなかった国にとっては考えられないことだった。イギリス国民が現代戦争の現実に目覚めるまでに、8ヶ月から9ヶ月を要した。

その時になって初めて、大衆は、このヘラクレス級の闘争が単なる陸軍と海軍の間の闘争ではなく、イギリスの科学とドイツの科学、イギリスの化学者とドイツの化学者、イギリスの工場とドイツの工場の間の闘争であることを認識した。こうした事実の認識は、1915年5月に軍需省が設立され、産業と産業環境の急速な再編につながった。戦前、イギリスには3つの国立工場があった。[8ページ]かつての軍需品生産量は、戦争に必要な生産量を満たすには十分でした。今日では、150以上の国営工場と5,000以上の管理施設が全国各地に点在し、軍需品を生産しています。事実、北部地方全体とミッドランド地方全体が巨大な兵器廠となっています。

北部の高台に立つと、昼間は400から500の軍需工場から立ち上る煙を眺めることができ、夜になるとミッドランド地方の多くの地点から、戦争の工廠の煙突から噴き出す炎の周囲一帯を見渡すことができる。これらの工場の大部分は、戦争以前、銃、砲弾、薬莢を製造したことはなかった。今日では、農業機械や繊維機械メーカーは軍需品の製造に従事し、鉛筆メーカーは榴散弾を生産し、蓄音機メーカーは導火線を製造し、宮廷宝石商は光学機器の製造に従事し、クリーム分離機メーカーは今やプライマーを生産している。それだけではない。新たな産業が興され、衰退していた産業が復活した。

再編作業は膨大なものであり、平和な時代にイギリスの戦争への関与の歴史が記されることになったとしても、現在のような圧倒的な軍需品を生産するためにどれほどの努力が払われたかを後世に伝える記録は残らないだろう。原材料の十分な供給を確保するという膨大な課題と並行して、適切な機械や工作機械の十分な量、化学研究のための実験室の設備、新しい「工場」を収容するための施設の建設または改修、そして適切な労働力の継続的な供給が進められた。海軍と陸軍の需要の増大に直面して、この労働力問題は極めて重要な試練となった。この問題が最初から解決策を見出したことは、国民全体の「勝利への意志」の証である。軍需労働者の需要の重要性が広く理解されるや否や、労働者が工場に絶え間なく流入してきた。現在、海軍省の仕事を除いて軍需産業に従事している人は 200 万人おり、そのうち 3 分の 1 が女性です。

女性が工場に登場し、新たな職種で成功を収めたことは、深い意味を持つ前兆と言えるだろう。この国では、機械が家庭の炉床から糸車を奪い去った瞬間から、女性が工場生活にその地位を確立してきたのは事実である。そして、ランカシャーの多くの家庭では、女性の工場労働者、あるいは工場の「娘」が裕福なパートナーとなっていることが多い。確かに、戦前の女性たちも工場生活に参加しており、そこではそのような女性が活躍していた。 [9ページ]繊維、衣類、食品、家庭用品などの商品が生産されていましたが、女性と男性の両方の意見の一致により、戦前の時期には、単なる日常的な作業やいくつかの繊細な工程を除いて、エンジニアリング工場に彼女がいることは不適切であり望ましくないと考えられていました。

共通の課題を共有する

開戦時、先見の明のある少数の雇用主は、男性の兵役徴募による労働力不足を懸念し、女性を工廠のあらゆる単純反復作業に雇用できるのではないかと大胆な意見を述べた。しかし、その楽観主義者でさえ、それ以上のことは考えなかった。また、女性が長時間労働と夜勤が蔓延する世界に踏み込む気配もなかった。平和な時代には、厳格な工場法によって女性はこうした弊害から守られていたのである。事実が証明しているように、英国の女性たちは男性と同様に、大義のためには快適さや個人的な都合を犠牲にする覚悟ができており、彼女たちの力が必要だと知られるや否や、数十万人もの女性が名乗り出たのである。

彼女たちはオフィスや工場、家事代行や仕立て屋、高校や大学、そして裕福な人々の豪邸の静寂からやって来た。イギリスの遠く離れた場所から、オーストラリアやニュージーランドの農家から、南アフリカやカナダの寂れた農場からやって来たのだ。社会のあらゆる階層から、何らかの理由で「自分の役割を果たす」ことに意欲的な女性労働者が輩出されてきた。

軍需工場に女性が進出し始めた初期の頃でさえ、伯爵の娘、店主の未亡人、ガートン高校の卒業生、家政婦、そして夫が軍隊に入隊したローデシアの寂れた農場出身の若い女性が、隣り合って働いているのを目にした。戦前のこの国では、社会的身分という非常に堅固な壁が工場でも塹壕でも忘れ去られ、彼女たちは皆、まるで結束した家族の一員のように幸せに共に働いていた。

雇用主と元従業員は、戦時中の工場でしばしば共通の仕事を分担しました。例えばウールウィッチでは、かつてのメイドを伴い、華奢な家庭に育った女性が毎朝早くに兵器廠に出勤する姿が見られることがありました。二人は共に国家に雇われた「手先」でした。有名な南極探検家の未亡人であるスコット夫人が私的な利益を全て放棄して兵器工場で働き始めたことや、ガートルード・クロフォード夫人がどのようにして官僚となり、監督官になったかは、一部の人々の間ではよく知られています。[10ページ] 造船所における女性の労働、そしてアバコーン公爵の長女メアリー・ハミルトン夫人(現在はケニオン・スレイニー夫人)とドラモンド将軍の娘ステラ・ドラモンド嬢が、軍需品生産の「高度な」工程に従事する労働者としていかに名声を博したか。

これらは、社会階層を問わず、全く慣れていない仕事で思いがけない成功を収めた女性たちのほんの一握りの名声に過ぎません。この名もなき大勢の女性たちの中には、工学や化学、電気工事、造船、台所女中、洋裁、家庭教師、乳母といった分野での驚くべき功績が時折注目を集めてきました。

しかしながら、戦時状況によって引き起こされた、女性の労働の潮流を新たな、馴染みのない職業へと転換させた根底にある動機は、一般に考えられているよりも多様である。疑いなく、愛国心と経済的圧力という二つの主要な原動力があり、中でも愛国心、祖国愛、帝国への誇りは、女性入隊者の大部分を占めている。しかし、他にも作用する動機がある。家族愛や自己犠牲、プライド、怒り、憎しみ、そしてユーモアといった、古き良き人間的力である。旋盤、ドーピング室、充填工場、木工所の労働者に質問した結果、軍需工場における新たな労働力の大部分は、それぞれ異なる個人的な理由から生じていることが判明した。労働問題における新たな要因への対応を成功させるには、これらの力をすべて認識する必要がある。一人か二人の軍需労働者の経歴を例に挙げれば、この点がよく分かるだ​​ろう。

ロンドン近郊の工場で働く、工具セッティングの少女の事例を紹介しよう。彼女は旧軍人の家庭に生まれた一人娘だった。戦争が勃発すると、彼女は何世代にもわたって初めて、一族が国のために戦うために代表を送ることができないことを悟った。彼女の父親は老齢で、兵役年齢をとうに過ぎていた。彼女は故郷で多くの依頼を受けていたにもかかわらず、フランスの基地の病院で働き始めた。しかし、1年後、過労で倒れ、イギリスで6ヶ月間の休養を命じられた。2ヶ月で回復したが、再び、国家の危機に際して何もしないのはもったいないという思いに駆られ、軍需工場に一般労働者として入社した。9ヶ月間働き、失った時間はわずか5分だった。

もう一人の工場労働者は7人の息子を持つ母親で、誇り高く、有能で、家族をまとめることに慣れていました。7人の息子たちが入隊したことで、彼女は家長としての自分の立場が危うくなったと感じました。彼女は軍需工場に入り、プライドを慰めるため、毎週、息子たちに工場での仕事の詳細な記録を送りました。ついに長男は、息子の[11ページ]母はおそらく家族の中で誰よりも多くのドイツ人を殺していたのだろう。それ以来、彼女は心の平安を得ていると言う。

イングランド西部の別の工場には、長時間労働を休みなくこなす、骨の折れる軍需品製造者がいる。産業界に入る前、彼女は客船の客室乗務員だった。その船はドイツの潜水艦の魚雷攻撃を受け、彼女は数少ない生存者の一人となった。彼女は毎日、キャプスタン旋盤で憎しみを振り払い、訪問者たちに語るように、いつかあの忌々しいフン族と対等になれることを夢見ている。

軍需品製造の仕事を通して人生の小さな皮肉を学んだ妻の典型的な例があります。彼女の夫は老船員で、戦前は同じ会社で働いていました。彼は毎日家に帰ってきては、自分の運命の厳しさを嘆いていました。「犬の生活だ」と繰り返し言い、妻は家でその埋め合わせをしようと気を配っていました。

戦争が勃発し、海軍予備役の兵士が海に召集された。労働力不足に悩む会社は、妻に協力を依頼した。仕事の厳しさを耳にしていた妻は最初は断ったが、説得の末、試しにその仕事を引き受けた。一週間後、彼女は思ったほど大変ではないと悟った。そして一ヶ月後、その仕事の大変さを実感した。この仕事は、家庭内の不手際を許してもらうための絶好の口実だったのだ。妻は、ある種陰鬱な気分で夫の帰りを待っている。

いかなる動機に駆り立てられようとも、工学職に就いた女性軍需品製造者は、彼女の大義を支援した先駆的な雇用主たちの期待をはるかに上回る成果を上げた。労働組合が、戦時中は労働組合の規則と戦前の工場慣行を停止することに合意すると、女性たちは砲弾の製造と砲弾の充填といった単純な反復作業に速やかに慣れた。機械は新人向けに改造され、熟練した男性労働者は工場に分散され、熟練した労働者にしかできない作業を担った。

希釈

こうして、プラトンの『国家』と同じくらい古く、アダム・スミスによって理論として英国の学生たちに再導入された希釈化の原理が、戦争という緊急性を通じて広く実践されるようになった。女性は新たな職業群にうまく導入され、男性は「昇格」し、多くの半熟練男性が熟練労働者へと昇格した。そして熟練労働者は、熟練労働に完全に割り当てられた。

軍需工場に配属されると、女性たちはすぐに「旋盤加工」「フライス加工」「研磨」といった反復作業や、砲弾充填に関わるより単純な作業を習得した。最も熱心な[12ページ]当時、彼女たちの中には、正確さ、優れた判断力、そして巧みな操作性が不可欠な、より「高度な」仕事に適している人々がいた。例えば、工具やゲージの製造に関わる工程では、人間の髪の毛の太さの何分の一かという極めて微細な精度で仕上げなければならない。また、出力の目視検査や検品作業にも求められる。そして、航空機製造や光学ガラス製造といった多くの工程では、女性たちの雇用が増えている。

彼女たちはまた、体力を要する作業も請け負っています。これは戦前であれば、女性の能力には全く不向きだと考えられていたことです。しかしながら、戦争の必要性が昔からの偏見を打ち破り、女性が体力の範囲内でどんな作業にも容易に適応できることを証明しました。例えば今日、北部の造船所では、女性たちが船の甲板を削ったり掃除したり、船体を修理したり、イギリス軍の戦艦に電線を敷設したりと、懸命に働く姿を見ることができます。工場のアーチ型の屋根を堂々と横切るガントリークレーンの高いところでは、女性たちが高い位置に座り、溶けた巨大なインゴットの動きを誘導しているのを見ることができるでしょう。鋳造工場では、女性鍛冶屋に出会うかもしれません。飛行機工場では、女性溶接工がゴーグルを着けて金床で作業しています。

今では、工場の作業員のほとんどが女性の「手」で占められていることも珍しくありません。工場の中央で機械を操作する女性オペレーター、一角で工具セッティングを行う女性、そして別の場所で計測を行う女性たちが、女性たちの共同作業の成果である製品を検査している光景は、もはや珍しくありません。梱包室では、よりたくましい体格の女性たちが完成した砲弾を出荷している姿が見られ、工場の作業台では、チュニックスーツにガーターを締めた女性たちが、荷物を積んだ台車を、前線へ運ぶため待機している貨車まで押している姿が見られます。この国における戦争で最も驚くべき発見の一つは、まさに、女性の工学作業能力であり、その発見に最も驚き、最も感激したのは女性たち自身でした。

工房での英雄的行為

実際、この仕事は、女性には普通は異常だと考えられているような個人的な資質を要求してきた。しかし、工場で働く女性たちは、そのような推測を否定してきた。労働者に肉体的な勇気が求められる場面では、平均的な男性と同様に、平均的な女性からもその美徳が湧き出てきた。気概と忍耐力が求められる状況では、工場で働く男女を問わず、大多数の作業員が怠ることはなかった。戦場における英雄的行為は、工場で働く一般市民(男女を問わず)によってしばしば引き継がれてきた。時には、工場における女性の勇気に関する出来事が、[13ページ]報道では驚くべき出来事として報じられている。これらは、英国の労働者大衆を動かす精神の典型的な例に過ぎない。

いくつか例を挙げて説明しましょう。最近、ある女性がプレス機で金属片が挟まって左手の人差し指と親指を失いました。彼女は6週間の休業の後、職場に復帰し、すぐに以前よりも生産性が向上しました。

もう一つの例は、爆発物工場で発生した重大事故に関するもので、数人の女性が死亡し、多数の負傷者が出ました。数日のうちに、残っていた女性作業員のかなりの数が別の工場の危険区域の職に応募し、採用されました。北部の化学工場でも別の事故が報告されています。バルブを操作する鍵が外れて下のピットに落ち、担当の女性は蒸気を制御できなくなりました。事故は差し迫っていると思われましたが、女性は自分自身に危険が及ぶ可能性を承知でピットに降り、鍵を取り戻し、大惨事を回避しました。

北東海岸の造船所で、23歳の女性が大型戦艦の電気配線作業に長年従事していました。ある日、頭上で作業中、甲板からドリルが突き刺さり、綿帽を突き破って頭部に入り込んでしまいました。彼女は会社の救急室で手当を受け、帰宅させられました。関係者全員が驚いたことに、彼女は翌日午前6時に職場に戻り、頭を失うより髪の毛が少し抜ける方がましだと笑いながら言いました。

もちろん、より頻繁に起こる些細な事故の際には、女性たちは同様の冷静さを示し、砂や金属片が目から取り除かれる間、あるいはしばしば自身の不注意による小さな傷の手当てや包帯を巻かれる間も、ひるむことなく立ち尽くします。軍需品生産の初期、休日を自主的に放棄し、日曜日も働き、長時間の残業を強いられた時期に示された忍耐力は、男性と同様に女性にも顕著なものでした。軍需省は、残業時間の削減、日曜労働の廃止、労働者の福祉の促進に向けて継続的に対策を講じていますが、女性軍需品製造者の熱意と勇気がなければ、前線に立つ兵士たちの勇敢さはしばしば無駄になってしまうでしょう。

首相は最近の演説でこう述べました。「もし女性たちが前に出て、それぞれの役割を果たしていなかったら、男たちが戦場を去らなければならなかった時、この国はどうなっていたか想像もつきません。この国の女性たちが戦争に注ぎ込んだ技術と情熱、熱意と勤勉さがなければ、我々が戦争に勝利することは全く不可能だったでしょう。」

[14ページ]

第2章 軍需労働者の訓練
仕事の真髄—教育工場—産業生活の第一歩

砲弾の需要と更なる砲弾の需要に応えて工場が建設されたり、戦争の要請に合わせて工場が改修されたりすると、最大の生産量を維持するためには、適切な労働力の供給を確保しなければならないことがすぐに明らかになった。少年が徒弟から熟練工へと段階的に成長していく従来の工廠の慣行は、効率の異なる数千人の従業員を緊急に必要とする状況では明らかに不可能だった。海軍と陸軍の需要は、あらゆる技能レベルの労働者を工場から戦場へと撤退させることで、問題をさらに複雑にした。

女性の労働力という未開拓の労働力の蓄積が発見され、より多くの機械が「フールプルーフ」規格に適合したことで、状況は確かに緩和されましたが、依然として問題は残っていました。工場の雇用主は当初からこの状況を認識しており、工場内での新人研修のための措置を直ちに講じましたが、経営者は生産性向上に必死で、工場内での研修のための広範な計画を策定することはほとんど不可能でした。こうして、英国全土で、多くの大学レベルの教育機関の理事会、地方教育当局、そして様々なフェミニスト団体の間で、既存の専門学校や専門学校をエンジニアリング分野の新人研修に活用しようという運動が起こりました。

この取り組みは当初、主に男性への初歩的な機械作業の指導に限られており、ロンドン郡議会はこの点で先駆者であったと自負している。しかし、1915年8月という早い時期に、全国婦人参政権協会連合(元郵政長官の未亡人であるフォーセット夫人が会長を務める)に所属する女性グループが、女性のための訓練計画に資金を提供することを決定した。[15ページ]女性酸素アセチレン溶接工の育成を目的に、女性銀細工師が運営する小さな工房を改造しました。

軍需省はすぐに、これらの散発的な取り組み――時には予想以上に成功し、時には資金不足や訓練場と工場の雇用主との親密さの欠如のために失敗する――を、戦時状況によって課せられた増大する課題にうまく対処するためには、調整する必要があることに気づいた。軍需省内に工場労働者のための訓練課を設けるという構想が生まれ、定着した。この課は1915年の初秋に設置された。

同年10月、新設された省庁に、全国で承認された研修制度への資金提供権限が付与されました。独自の研修制度を実施していた約50の大学や学校が省庁と連携し、既存の制度の発展に向けた措置が講じられました。これにより、設備が改善され、学生の募集が促進され、ニューヨークのマンハッタン校が以前に国内の社会調査員に導入していたような、研修中の生活費を支給する制度が確立されました。研修コースは、単純な工程の指導から、鉛焼き、工具のセッティング、ゲージ製作といった高度な工学技術へと拡張され、精密測定の計算方法に関する必要な理論指導も行われました。

作品の真髄

これらの上級クラスは、当初は男性のみが受講資格があり、女性は作業の初歩的な部分のみを指導されました。初期の頃、女性たちは「自分の役割を果たす」よう求められ、穴あけ、削り、かんな掛け、成形、そして何よりも寸法通りに作業する方法を学びました。女性指導におけるトレーニングセンターの主な課題は、当時も今も、リボンやレースを1/4ヤード程度の誤差で測ったり、材料を当て推量で混ぜて料理をしたりすることに慣れた人々に、正確さへの感覚を植え付けることでした。女性向けのトレーニングコースの初めに、大都市のセンターのインストラクターが「新入生の99%は正確さの意味を理解していない」と述べ、彼女たちの心に「仕事の真髄」を植え付けることがいかに難しいかを詳しく語ったのを覚えています。

しかし、科学的な教育法は、女性たちの比類なき忍耐力にも助けられ、数週間の集中的な訓練で学習を習得できるようにした。コースはわずか6~8週間で、段階的に設定された課題を終えれば、[16ページ] 女性たちの成功は、圧倒的多数のケースにおいて、教師と生徒の両方にとって驚くべきものであったと述べている。

目の前には、訓練制度の初期に工場の雇用主から送られた手紙が一束ある。それらはすべて、外部教育の価値を証明している。ある経営者は、学校で訓練を受けた女性たちが「ほぼ即座に生産者になった」と記している。別の経営者は、女性学生を学校から工場に動員することで、軍需品の生産が「他の方法よりも迅速に」行えるようになったと述べている。さらに別の経営者は、ほとんど隠し切れないほどの驚きとともに、生徒たちが「あらゆる種類の機械、キャプスタン旋盤、旋盤、フライス盤、ホイールカッティングマシン」にすぐに従事できたと述べている。

雇用主のこの発見と、女性が工学分野で働く可能性の発見は、すぐに訓練センターにおける女子学生の教育の発展につながりました。カリキュラムには、より高度な機械作業が追加され、飛行機の木工と建設、コア製造と鋳型製造、製図と電気工事、レンズとプリズムの製造という繊細で高度な技術を要する作業を含む光学機器の製造の授業も追加されました。

地方では新たな訓練センターが次々と開設され、教育内容は地元の工場のニーズに合わせて調整されています。現在(1917年12月現在)、イギリスには40以上の工学訓練学校と9つの教育工場・作業場があり、すべての工程における訓練を受けている女性と男性の比率は、おおよそ2対1と推定されます。

いくつかのセンターにおける教育システムは、学校が比較的単純な工学工程の基礎教育を行うという基本原則に基づいています。より高度な工程に特化した教育工場、あるいは作業場は、学校から優秀な学生を輩出するための情報センターとして機能します。しかしながら、戦争の緊迫感は、いかなる厳格な規則も適用することを許しません。私は学校で生み出された最も「高度な」作品のいくつかの見本を目にしてきました。実際、レンズの研磨や芯出しといった繊細な作業、複雑な製図技術、工具のセッティングやゲージ製作といった精密な技術は、特定の地域では学校の専門分野となっています。

9.2インチの高性能爆薬弾の銅帯を回す

ヒューズに安全ピン穴を開ける

ヒューズの検査と測定

9.2インチの高性能爆薬弾の外側を旋削して先端部を形成する

これを書いていると、21歳の少女の熱心な顔が脳裏に浮かび上がってくる。先日、彼女はイースタンカウンティの学校で作られたマスターゲージを見せてくれた。「全部自分で作ったのよ」と彼女は嬉しそうに言った。「全く正確よ。学校にあるこのサイズのゲージはすべてこれで作っているの。最近、ゲージ製作の助手講師に任命されたの」。ゲージの測定値の偏差はわずか[17ページ]1 インチの3 ⁄ 10000分の 1 といった制限内で許容される、すべての寸法が「完全に正確な」マスター ゲージを学校で作成することは、学生がすでにエンジニアの技術をある程度習得していることの証明です。

指導工場

一方、教育工場は戦時状況により、周辺の工場の緊急のニーズに対応できる可能性のある新兵を入隊させられることがしばしばあります。そのような場合、候補者は学校と同様に、教育工場で1~2週間の試用期間を設けられます。試用期間終了時に不適格と判断された場合、その予備段階で元の職業に復帰するよう勧告されます。

一般的に言えば、不合格者は非常に少なく、明確な結論を出すのは時期尚早ではあるものの、訓練部門の経験から、多くの女性に工学技術の潜在能力が相当程度あることが示唆されています。教育工場を見学すれば、この点が強調されます。至る所で、女性たちが短期集中コースで、それぞれが訓練を受けている高度な職務を習得していく姿を見ることができます。教育工場では、学校の雰囲気が工場の雰囲気に置き換わり、その敷地内には現代の工学工場の環境が反映されています。そのため、学生たちは到着時と出発時に出勤・退勤を記録し、工場のシフト勤務を見学し、実際の商業現場で作業を行い、併設の倉庫から工具を入手するなど、様々な業務を行います。これらの教育工場での仕事は、商業世界の工学工場と同様、多岐にわたります。

こうした講堂の一角では、女性たちがネジやボルト、ナットの製造に励んでいるのを目にするかもしれません。また別の場所では、導火線針のような製品が製造されているかもしれません。あなたは、爆発物を起爆させる小さな要素が誕生する魔法を目の当たりにし、導火線針の製造には6つの工具と、その寸法精度を検査するための8~9個のゲージが必要であることに驚嘆するでしょう。あるいは、小さな止めねじを生産する機械の前で立ち止まるかもしれません。複雑な機械の適切な工具に鋼棒が差し出され、ねじ山とスリットが刻まれ、小さな部分が分割され、完成したネジが機械の外のトレイに渡されるまで、その過程を見ることは、初心者にとってはそれ自体が奇跡です。

笑顔の少女がこれらの複雑な工程を全て指導し、操作しているのを見ると、未来の国産産業に希望が湧いてきます。同じ教育工場の別のセクションでは、工具のセッティング作業員が作業しており、他の機械では学生たちが研削、フライス加工、あるいは成形加工を行っています。

[18ページ]その後、別の教育工場を訪問すると、航空機が専門分野であることが分かるでしょう。私は、ある飛行機工場のベイにそのような訓練場があったことを覚えています。そこでは、機体や翼の木工に使う小さなハンマーの扱いから、試験済みの部品の組み立てまで、航空機製造のほぼすべての工程を学びます。この教育工場では、実務経験のある教官が必要な工具の使い方について講義するシステムが主流で、講義の最後には学生からの質問が奨励されています。ある時、私が聴衆の一人だった時に聞いたのですが、この方法の採用によって教官の時間が節約され、予想以上の成果が得られたそうです。

また、鋳造作業がカリキュラムに含まれている、あるいは高度な機械加工が特徴的な教育工場を訪問することもできます。私はある教育作業場に立ち会ったことがありますが、そこでは約600台の機械が同時に回転しており、学生と教官双方の活気と善意が、生産される金属製品と同じくらい目に見えるようでした。この施設では、すべての作業は生産のために行われます。昼夜を問わず勤務し、我が国の軍隊、あるいは同盟国の軍隊のニーズが作業員と率直に話し合われます。他の動機付けの機会はありません。新兵、学校の生徒、前線から除隊した兵士、実戦に適さない兵士など、訓練工場のこれらすべての住人が、最大の生産量を生み出すために互いに競い合います。

このワークショップは、運営者が頻繁に交代するにもかかわらず(各グループの受講生は6~8週間のコースしか受講しない)、完全に商業ベースで運営されているという事実が、その真価を物語っています。このような状況下でこれほどの水準に達しているということは、このワークショップの英雄的行為が、運営者やスタッフに深く根付いた習慣となっていることを示唆しています。

産業生活への第一歩

この訓練場で、航空機エンジンの小型部品の製造を見学したことを覚えています。寸法は許容差の最小値まで正確に測られています。比較的経験の浅い人がこのような作業を行うと、材料の無駄はどの程度になるのかと質問しました。「この工程で発生するスクラップは」と生産管理者は誇らしげに答えました。「平均で1%を超えることはありません」。当時働いていた女性たちは、実に多様な職業に就いていました。大半は家の外で働いたことのない女性で、その他は家事使用人、料理人、ハウスメイドなどでした。また、小さな町の洋裁師もいました。ある女性は、温泉の助手で病人に「水」を配る仕事をしていたと記憶しています。「重要なのは、学生がどの社会階級の出身かではありません」とある教官は言いました。「重要なのは個人の人格なのです」

[19ページ]軍需省は、あらゆる階層の女性が教育プログラムに参加しやすいよう、あらゆる配慮をしてきた。これまで独立した仕事に就いたことのない中流階級の少女、常に自宅に閉じこもって生活し、働いてきた女性は、多くの場合、間違いなく産業生活への参入を阻まれていると感じていた。訓練学校に入学するために家族と離れて暮らす必要性、学校や工場における家庭環境の欠如、男性中心の監督への不安など、これら全てが、潜在的な学生と必要な工学業務の間にある人為的な障壁を強める一因となっていた。訓練課は、そのプログラムの発展を注視する中で、福祉の観点から学生のための措置を講じる必要性を認識し、こうして、最も不安を抱える新参者にとっても産業生活への第一歩を容易に踏み出せるような組織が発達した。

鉄道で女子学生を迎える際は、責任ある女性職員が迎えに行き、適切な宿泊施設またはホステルまで案内します。宿泊施設が不足している場合は、仮住まいのアパート、または「空き宿舎」に案内され、そこで快適に空き部屋を待ちます。大規模な訓練センターでは、女性監督官が責任者を務めます。彼女は食事、トイレ、クローク、救急センターなどの手配をすべて担当し、女子学生の個人的な関心事に関するあらゆるアドバイスを提供します。

女子学生は、女子軍団機械部隊の一員としてカーキ色の制服を着用することも認められており、これは、騒々しい社会の中で自立した道を歩むことに慣れていない少女たちにとって、非常に価値のある特権であった。学生たちが個人の希望を守られることへの感謝の気持ちは、思いがけないところで表れている。学生たちからの手紙の中には、次のような記述がいくつか見受けられる。

「H夫人は、私にとって快適なものとなる限り、どんな苦労も厭いません。彼女は軍需工場の労働者を幸せにすることを「戦争の仕事」と考えています。私たちが国のためにしていることを評価してくれる人々に会えるのはとてもうれしいことです。」…

駅で工場の馬車に迎えられました。突然、菩提樹の並木道を曲がると、私たちの田舎の屋敷の入り口に着きました。本当に素敵な家で、新鮮な空気、芝生と庭園、快適なベッド、そしてゆったりと並べられたテーブルに心躍りました。畑を横切って工場へ向かいました。到着すると夕食とお茶が待っています。野菜畑も充実していて、新鮮な野菜が採れるので、私たちは本当に心地よい場所にたどり着いたと感じ、とても感謝しています。

このように、軍需省は、この国の女性たちの通常の生活と軍需工場での仕事との間に橋を架けました。

[20ページ]

第3章 仕事中—I
砲弾と薬莢—信管店で—カートリッジと弾丸

軍需工場に到着した新人は、政府の訓練センター出身者であれ、他の職業出身者であれ、2~3週間の試用期間が与えられ、担当する仕事について試用されます。仕事に応募してきた女性のうち、不適格と判断されるのはごくわずかで――ある経験豊富な管理者は5%と見積もっています――、そのような女性は試用期間中に解雇されます。

予備訓練を受けた者や、他の工場での仕事からエネルギーを移しただけの者を除けば、平均的な女性は兵器工場での最初の段階で、機械に対する本能的な恐怖を克服しなければならない。時折、その恐怖は理不尽な恐怖へと激化する。「女性たちには、こういう機械と一緒にいるように説得する必要がある」と、ある理解ある職長は、巨大な歯車を備えた巨大な機械を指差しながら言った。「最初は女性に一人でこんな機械の前に座らせることはしない。彼女はそんなことはしないだろうから。だから男性を同席させ、しばらく座って見守らせる。しばらくすると恐怖心が消え、できれば他の作業はしなくなる」

実際、女性たちはすぐに自分が使っている機械に愛着を持つようになる。おそらく男性たちは知らないだろう。「この機械で1年も働いているのに、他の機械ではあんなにうまくできないわ」と、難しい仕事をしている女性たちからよく言われる。時には「夜勤で誰かが自分の機械を操作しているなんて、想像するだけで耐えられない」と打ち明ける女性もいる。機械とオペレーターの間には、愛情とも言えるほどの深い理解が生まれる。私は工場でこの感情が表に出るのを何度も目にしてきた。例えば、機械の作業面に穴を開ける際に、女性の指先が優しく触れる感触などだ。教えたり、伝えたりできないこの感触こそが、作業を可能な限り効率的に開始することを可能にし、優秀で正確な作業員を育てるのだ。

しかしながら、労働者の女性らしさには欠点があり、軍需工場で女性をうまく扱うためには、こうした心理的な点にも留意する必要がある。例えば、機械が[21ページ]機械が故障したり、他の何らかの理由で作業が中断したりすると、女性兵器工たちは理不尽な態度を取ることが時々あり、男性とのやり取りにしか慣れていない職長を当惑させる。一時的な作業中断は、週末までに女性工にわずかな金銭的変化をもたらすだけかもしれない。職長は「騒ぐほどではない」と判断する。しかし、女性はそれでもやはり 騒ぎ立てる。彼女にとっては賃金よりも作業の中断のほうが大したことではないからだ。彼女は「待機が嫌い」と言うだろう。なぜなら、女性の心の奥底にある本能は自分のすべてを惜しみなく与えることであり、仕事の途中で邪魔をされると魂が苛立つという、漠然としか意識していない感情を表現できないからだ。

ヒューズの組み立て

冷却シェル鍛造品

ラムズデンプレーングラインダーの操作:8インチの高性能爆薬カッターの再形成

工場で「新しい」女性労働者を雇用する際の初期の障害は、女性が自宅で担う多岐にわたる職務が、何百人もの他の人々と共存する単調な作業に置き換えられることにあります。しかしながら、これらの困難はすぐに克服され、新人は概して、急速に大勢の陽気な集団の一員となります。車輪の回転音や機械の絶え間ない鼓動音は、最初は彼女の気を散らすかもしれませんが、しばらくすると工場の騒音は気にならなくなり、彼女の思考、笑い声、あるいは歌の伴奏として聞こえる程度になります。実際、今日のイギリスで、兵士の駐屯地を除けば、仕事中や遊び中の女性軍需労働者ほど心を打つものはありません。

1916年8月には、女性が従事していた軍需品製造工程は約500種類ありました。今日では、工場、鋳造所、研究所、化学工場など、女性が体力的に可能な限りあらゆる作業に従事しています。本書の限られた範囲では、彼女たちのあらゆる分野を網羅することはできませんが、いくつかの典型的な製品における彼女たちの働きぶりを垣間見ることで、第一次世界大戦における英国の戦力への女性の貢献を少しでも感じることができるかもしれません。

砲弾と砲弾ケース

砲弾の製造には数多くの工程が必要であり、現在では女性がすべての工程を担っており、中には鋳造所におけるビレットの鍛造まで行う工場もある。1915年には、砲弾の生産量を大幅に増やすという緊急の要請があり、それが女性労働力の工場への導入を促した。そして、女性たちはこのまたとない機会に見事に応え、輝かしい成功を収めた。砲弾生産における女性の進歩は極めて急速かつ顕著であったため、1917年春には公式発表が正当化され、同年3月31日までに、[22ページ] 一定規模のシェルに関する政府契約は、従業員の 80 パーセントが女性である場合にのみ交付される。

当初、女性たちは主に、穴あけ、ドリリング、旋盤加工といった単純な機械操作や、砲弾の充填作業に従事していました。現在では、油圧プレスの操作、巨大な天井クレーンの誘導、溶解した鋼片の吊り上げ(トング)、機械への工具の取り付け(セッティング)、検査と計測、完成した砲弾ケースの塗装、完成品の出荷用箱の作成、そして最終的にねじ止めされ、工場から前線へ出荷される準備が整った段階でのトラック輸送などを行っています。砲弾製造における女性たちの貢献のすべてをここで詳細に記述することはできませんが、鋳造から鉄道貨車まで、彼女たちは機敏で将来有望な労働者へと成長しました。

鋳造工場では、彼女の姿は未だ異例の光景だが、北国では、天井移動クレーンから吊り下げられた檻の中で、突き出たアームを操作している女性の姿は珍しくない。彼女は不器用な鉄の指で銑鉄を拾い上げ、赤々と燃える炉の奥深くへと突き入れるか、あるいは真っ赤に熱せられた鋼片を持ち上げて油圧プレス機に運び、そこで大まかに所定の形にくり抜かれる。

貝殻工場では、女性作業員が数十もの工程をこなす様子を観察できる。ある機械では、回転するノーズでビレットの中心部を削り、別の機械では貝殻の外側を「旋盤加工」している。この工程で削りくずは熱したベーコンの皮のように丸まり、青、紫、孔雀色、あるいは輝く銀色など、虹彩色の輪を描いて彼女の周りに落ちる。あるいは、女性作業員が貝殻に「ねじ切り」をする様子を見ることもできる。これは、ねじ山を切って貝殻のノーズをはめ込む工程である。あるいは、作業員が貝殻の下端にベースプレートを巧みにリベット留めする技術に、立ち止まって驚嘆することもあるだろう。しかし、貝殻工場を訪れる人にとっておそらく最も魅力的な作業は、貝殻の銅バンドの取り付けと溝入れだろう。この工程では、機械から銅スクラップが大量に落ちてくるため、機械と作業員は夕焼けの美しい色合いに半分隠れてしまう。

あらゆる段階で、貝殻は寸法を測り、検査され、何度も検査されます。なぜなら、精度こそが貝殻製造の合言葉だからです。時には機械操作員が自らの製品を検査することもあります。また別の段階では、貝殻は工場の女性監督官の手に渡り、最終検査は政府の「検査官」によって行われます。貝殻は外側だけでなく内側も検査対象となり、棒に取り付けられた小さな電球の光を頼りに、女性たちが貝殻の内側を覗き込む姿を見かけるかもしれません。この装置は、何列にも並んだ貝殻に次々と差し込まれていきます。

[23ページ]現在、貝殻の塗装作業は女性のみに委ねられています。この作業は、筆と絵の具壺を使うのではなく、作業員が電動の細い注射器を貝殻の表面に当てて行います。この作業は、しばしば「肉屋」と呼ばれる場所で行われます。貝殻は2つ1組でロープで吊り上げられ、作業員が鉄製の保護スクリーンの後ろから作業を行う区画に運び込まれます。

充填工場では、女性たちの仕事への献身が幾度となく証明されてきた。数人の仲間と作業する場合でも、あるいは孤立した小屋で爆発物の貯蔵庫を見守る孤独な夜警が続く場合でも、軍需品作業員たちは職務にひるむことはほとんどない。

時には空襲の最中に夜通し働くことを自ら申し出たり、あるいは女性労働者が危険地帯で辛い経験をした後にすぐに戻ってきたりする。いずれの場合も、充填工場の女性労働者は人生で大切にしている多くのものを喜んで犠牲にする。危険地帯で働いている間、男性にとってはささやかな私物を手放すことは大したことではないかもしれないが、多くの女性労働者にとって、勤務中はブローチや花を身につけてはいけないこと、そして唯一許されている装身具である結婚指輪を仕事中は糸で縛らなければならないことは、大きな意味を持つ。普段は編み込んだり、様々な形にねじったりするのが好きな髪も、帽子の下にはヘアピンを付けずに残しておかなければならない。割り当てられた仕事に就く前には、私物を手放さなければならない。鋼鉄や硬い金属との摩擦が多くの労働者の命を奪う可能性のある地帯に、かぎ針や編みピンを持って入ることは許されない。しかし、この個性の犠牲は、充填店の女性によって惜しみなく与えられており、彼女は小さな袋に致死性の火薬を充填したり、砲弾を発射する薬を装填したりするときに、依然として陽気で明るい態度を保っている。

ようやく貝殻が詰められ、「OK」、つまり完璧な状態になると、それを箱に詰め、トラックに乗せて運ぶのは女性だ。時には狭いプラットフォームを1マイル以上も移動し、別の女性に渡す。そして、その女性が待機している貨車に積み込む。今日の工場で貝殻が作られる様子をずっと見てきた人なら、有名な作家が最近述べた「女性に脱帽」という言葉を思い出さずにはいられないだろう。

ヒューズショップにて

砲弾を爆発させる小さくて複雑な導火線は、現在では主に女性の労働によって生産されている軍需品です。長さ数インチの導火線は、金属加工の初期工程を除いても、数百もの工程を要します。断面を見ると、まるで複雑な金属製のジグソーパズルのようです。[24ページ]精巧な仕上げと一体感: 外から見ると、子供はそれを手品師の「持ち物」、つまり光り輝く金属製の卵、または時間の測定が記された金属製の輪で囲まれたロールと間違えるかもしれません。

この小さな部品の製造に必要な注意深さと正確さは、素人には想像もつかないほどです。あらゆる直径が何度も測り直されます。なぜなら、その完璧さこそが砲手とそのチームの命を左右するからです。導火線工場は、通常、清潔さと静けさが特徴です。私は、そのような工場の一つが、縦にも横にも遠くまで伸びていたのを覚えています。その屋根の下では、約1,500人の女性が働いていました。工場のどこにいても会話ができ、いつもの工場の騒音に邪魔されることはありません。導火線の部品は非常に小さいため、必然的に機械は軽量になり、そのような工場では、体力よりも器用さと正確さがものを言います。

優雅な女性や少女たちが列をなして機械の前に立っていました。遠くの隅から見ていると、彼女たちの作業服と様々な色合いの帽子が虹色の効果を生み出していたのを覚えています。クリーム色のものもあれば、赤褐色やリンゴ色のものもあり、帽子は作業服と調和していることもあれば、強いコントラストを生み出していることもありました。紫や濃いマゼンタの色が、柔らかな色合いのヘッドドレスと混ざり合っていました。危険地帯から離れたこの工場では、工場の服装に統一性を求めることはなかったからです。特徴的な腕輪をつけた他の女性たちが、作業員の列の間を行き来し、時には立ち止まって機械に身を乗り出し、時には笑い声が漏れるのに合わせてオペレーターに明るい声をかけたり、時には厳しく作業上の危険やミスを指摘したりしていました。これらの巡回女性たちは監督者であり、戦後、それぞれの専門職を完璧にこなし、今ではオペレーターを監督しています。

長いテーブルには、他にも女性たちが座っていた。中には年配で白髪の人もいれば、まだ少女のような女性もいた。彼女たちは小さなゲージを使ってヒューズの部品を測っていた。中には大きめのビーズほどの大きさのものもあった。1種類のヒューズの測定に150種類ものゲージが認められており、実際には精度を完璧にするためにさらに多くのゲージが使われている。私はこれらの測定テーブルの一つに釘付けになり、小さなネジやフラッシュプラグの検査を見守っていた。テーブルの上には6つの小さな四角いフェルトが置かれており、検査官は検出された欠陥に応じて不合格品をその上に積み上げていた。作業は極めて迅速に進み、「合格」あるいは「完璧」な品々はまるで魔法のように山積みになっていった。

別のテーブルでは、少女が約1インチ(約2.5cm)のバネをテストしていました。一定の圧力をかけた後、少しでもバネの長さが長すぎると、「スクラップ」として処分されました。さらに別のテーブルでは、小さなヒューズ針の長さや太さが検査されていました。[25ページ]フランジの精度とポイントの精度、そして機械の近くの高く平らな机の上に、導火線の本体の打撃端を検査するための 17 種類のゲージが並べられているのに気づきました。1 インチの 10,000 分の 1 が、そのような部分に許される制限または変動でした。

すべての部品の検査が終わると、それらは組み立て、つまり合体のために別の作業台に渡されます。この作業にはほぼ超人的な注意力が求められ、長年の勤務に対する褒賞として、最も優秀な作業員と計時係に与えられます。「組み立て」は導火線室の最も重要な作業とされています。作業員たちは、ピーボール、ペレット、バネ、スターラップ、フェルール、その他の導火線部品を導火線室に収納する際、この作業の重要性を十分に理解しています。針は小型ハンマーで叩いて固定され、ついに導火線は完成し、製作室から出て、別の作業員による「充填」を受けます。

カートリッジと弾丸

弾薬や弾丸の製造は、女性が主に雇用されている軍需品生産のもう一つの分野です。完成品はボールペンほどの長さしかないため、製造に大きな体力は必要ありません。

弾薬庫と弾丸庫に入ると、その独特の雰囲気にすぐに驚かされる。導火線室よりも騒々しく動き回っているが、弾薬庫や銃砲店ほど機械の威圧感はない。弾薬庫と弾丸庫には、依然として車輪の唸り音が響き、その上には駆動力の重厚で絶え間ない鼓動が響き、初めて来た者には会話がほとんど聞こえないほどだ。しかし、この低音の伴奏の下には、弾薬庫と弾丸庫に特有の、より小さな音が聞こえてくる。小型のメリーゴーランドのようなガス循環装置のブーンという音、弾薬が機械から下の箱に投げ込まれる「トントン」という音、そして計量機やテーブル、あるいは埠頭でニシンを運ぶのに使われるような巨大な樽に弾丸が注がれる「チリンチリン」という音などがあるかもしれない。

弾薬と弾丸を扱う店は、時に南国の空の下、青空市場のように活気に満ち、絵のように美しい。そんな店を思い出す。そこでは、様々な工場の作業着を着た少女たちがいた。機械の作業員の中にはカーキ色の作業着を着ている者もいれば、クリーム色の作業着と帽子をかぶっている者もいた。製品を箱に詰めて「トラック」する作業員の中には、クリーム色のズボンスーツに、鮮やかな色の東洋風ハンカチで作った洒落たヘッドドレスをかぶっている者もいた。少女たちの列の間を、黒いスーツを着た男たちが行き来し、機械を点検したり、改造したり、弾丸の箱を取り出そうとしたりしていた。[26ページ]そして、その輝く内容物を銀の流れのように注ぎ出し、各労働者の生産物を量り、評価できるようにした。

店の片隅にある開いたドアから、他の男たちがまるで厳格なマジシャンのように酸の入った大桶に薬莢を落としているのが見えた。そして、その大桶のすぐ脇で、二人の少女が炉から出てきたばかりの熱い薬莢の袋を激しく振っているのが見えた。彼女たちは袋を振りながら、「私を愛しい古き良き英国へ連れ戻して」という軍隊の歌を歌い、大合唱で笑い声をあげていた。店の奥、商品が出てくるドアの近くには、細長いテーブルが置かれ、弾丸が山積みになっている。まるで埠頭で獲れた銀色のニシンを思わせる。これらは検査台で、女性たちが弾丸をじっくりと観察している。

弾丸工場で働く女性たちの仕事は、見る者にとって非常に興味深いものです。作業員の視点から見れば、他の軍需品製造の作業よりもはるかに単調な工程が多いに違いありません。ドングリのカップのような小さな金属製容器を全長の薬莢、つまり弾丸に伸ばす作業には、人間の指の器用さと機械の創意工夫の両方が求められる多くの作業が必要です。私が覚えている工場では、半焼鈍用の機械で薬莢が金属製の回転板に「送り込まれ」ていました。薬莢はアスベスト製のスクリーン越しに二列のガスジェットへと流れ込み、そこで半焼鈍、つまり硬化処理が行われていました。作業員たちの器用さは非常に優れており、一人の女性が二台の機械に薬莢を供給しているのが常で、まるで苦労していないかのように、薬莢を回転板の正しい開口部に確実に配置していました。

別の作業では、若い女の子たちがテーブルを囲んで、ソリティア盤のような小さなトレイの円形の穴に弾丸を詰めていく様子を目にしました。多くの女の子たちは、指の動きを追うことさえ不可能なほどの速さで作業していましたが、自分の腕前には気づかず、顔をそむけたまま作業を続け、訪問者の驚きを面白がって微笑んでいました。

また別の作業では、機械そのものが注目を集めました。作業員はカートリッジを金属バンドに挿入していましたが、このバンドは「テーパリング」の工程中に視界から消えていました。作業が終わると、金属製の親指と人差し指が現れ、カートリッジを一つずつ丁寧に拾い上げ、脇に投げ捨てました。すると、外れたカートリッジは機械から飛び出し、機械横の箱の中に収まりました。

思い出すのは、工場での弾薬や弾丸の製造における数々の謎に魅了されていた私は、お茶休憩の時間になったことに気づかず、作業場にはほとんど人がいないことに気づいた。残っていたのは二人の少女だけだった。彼女たちは座って縫い物をしていた。[27ページ] 新聞紙の包みから厚切りのパンとバターをむさぼり食う間、彼らは必死に食らいついていた。私の案内役だった女性検査官が急に振り返った。「ここで何をしているの?」と彼女は言った。「外や食堂ではなく、作業場でお茶を飲んでいるのね。すぐに新鮮な空気の中へ出て行きなさい。」それから、穏やかな表情から憤りが消え去り、「次は何?」と彼女は言った。

開いたドアから、明るく楽しそうな少女たちが次々と笑ったり、歌ったり、踊ったり、走り回ったりする様子を眺めていた。戦争という暗い日々の真っ只中、健やかな若者だけができること。その光景に、私は未来へと続く、より明るい日々が目の前に広がっていくのを感じた。労働者たちが皆、人生のより豊かな喜びを味わう時が来たのだ。新たな希望を胸に、私は彼女に問い返した。「さて!次は何をするの?」

[28ページ]

第4章 仕事中—II
造船所における航空機と光学機器の製造

航空機の製造

航空機の生産は、この国で戦争勃発以降ようやく大規模に行われるようになったが、より自然に女性の手に委ねられるようになった。作業の大部分は軽作業であり、新しい工場はしばしば開けた田園地帯に建設され、明るく風通しがよく、機械の騒音もほとんどない。女性労働者にとってこうした特別な魅力に加え、飛行技術に関わるあらゆるものは、若者、そしてあらゆる年齢の女性にとって、明らかに特別な魅力を持っているようだ。

我が国の航空機生産量が着実に増加しており、1917年には倍増したことは周知の事実です。ロンドンのある工場では、生産量が3ヶ月以内に3倍になりました。ランカシャーでは生産量が倍増した例もあり、他の地域でも25~50%の増加が見られます。しかし、この仕事に対する労働力の需要増加は常に即座に対応されており、あらゆる社会階層から優秀な女性労働者が工場に着実に流入しています。戦争中の短期間の間に、航空機工場の管理者や共同経営者にまで昇進した女性を、あちこちで見かけます。こうした女性は、将来の要素を掌握することは男女双方にとって重要な課題となるだろうということを、無意識のうちに強調しているのです。

どの飛行機工場を訪れても、このヒントが繰り返され、女性に潜在する驚くべき多才な技能が明らかになります。この技能は、この産業に十分に応用可能です。「戦前、女性は小屋に閉じ込められ、簡易ベッドに閉じ込められ、監禁されていたに違いありません」と、飛行機工場の工場長は私を案内してくれた際に言いました。「女性がこの種の仕事でどれほどのことができるか、そして、その多くが女性です。彼らは家でくつろぎ、世話をされていました。」この驚くべき事実は、訪問者に強い印象を与えずにはいられません。なぜなら、わずか4年前まで、航空機製造において女性が行うことが許されていたのは、慣習的に女性の指に適しているとみなされる部分、例えば、手作業や機械による翼の縫製、木工品の塗装などだったからです。

コンパス用金属部品の彫刻

飛行機の塗り絵

ポータブルツールによる鋳鉄プロペラブレードのチッピングと研削

木工の助手として働く女性。水上飛行機のフロートを作る

[29ページ]今日では、女性たちは大工の作業台と機械工場の両方で、ほぼあらゆる工程を担っています。こうした工場を散策すると、まず第一に、女性たちが仕事にすっかり慣れているという印象を受けます。作業はしばしば非常に清潔で、作業員たちの作業服や帽子は、ピンク、青、白、そしてヘリオトロープといった繊細な色合いで、新品同様の状態を保っています。飛行機の部品の素材は通常非常に軽いので、小柄な女性でも問題なく扱えます。工場内を見学すると、ゆりかごを揺らす手は、まさに飛行機を作る手なのだろう、という思いが絶えず湧き上がってきます。

当然のことながら、上質なアイルランド産のリネンを裁断し、羽根に仕立てる部屋での仕事は、女性にとって馴染み深いものでしょう。採寸と裁断が驚くほど手際よく行われていることに驚く人はいません。そして、長さ10フィートほどの羽根の縫い目を手縫いで仕上げる様子を見ていると、古いタペストリーをじっくり眺めた時に感じるのと同じような感嘆の念が湧き上がってくるかもしれません。ボタンホールの縫い目は、他の縫い目と一針たりともずれていません。しかしながら、こうした仕事は古来より女性の仕事でした。

しかし、大工の仕事場では新たな感覚が呼び起こされる。そこでは女性たちが作業台で器用に木工作業をし、男性たちと同じように繊細な木の骨組みを扱い、あるいはマホガニーやクルミ材でプロペラを非常に精密に作り上げ、一組の寸法にわずかな誤差さえないほど精密に仕上げている。木の骨組みの上にリネンが張られている部屋では、女性たちが小さなハンマーで作業し、小さな釘に決して外さない、まるで妖精のような力で打ち込んでいるのを見たことがある。

酸素アセチレン法による金属接合部の溶接作業にゴーグルをかけた女性たちの傍らに立つ訪問者は、強い興味をそそられる。ここでは、作業員の誠実さが極めて重要だ。溶接部に欠陥が見つからなかったら、工場長が最近言ったように「空軍兵を天国へ送るかもしれない」からだ。この工程には、教育を受けた女性が選ばれることが多い。

飛行機の金属部品を加工する女性たちの姿を見ると、畏敬の念を抱かざるを得ません。機械で穴あけ、研磨、ボーリング、フライス加工をしたり、機体の小さなアルミ部品をはんだ付けしたり、それぞれの工程で寸法の調整、再調整、測定、再測定を繰り返しながら作業を進めます。女性たちは航空エンジンにも携わり、機械の心臓部であるマグネトーの製造にも携わっています。戦前は限られた男性にしか委ねられていなかった特殊な工程さえも、女性たちは担っています。例えば、ある日私は、女性が鋼鉄ロープを継ぎ合わせているのを見ていました。これは、ある工程です。[30ページ]戦前には船員たちが行っていた仕事だ。彼女は驚くほどの速さと気負いのない態度で仕事をこなし、3、4日で覚えたそうだ。それ以前は雇い主の料理人だったそうだ。

しかし、何よりも魅力的な光景は、航空機の組み立てです。無数の部品が完成し、工場の監督官による検査と政府の検査官による再検査を経ています。これらの検査には細心の注意が払われます。雲の上の旅路を進む勇敢な若者たちの命を守る唯一の手段だからです。作業員全員がこのことを熟知しており、仕事の真剣さが彼らの顔に表れています。しかし、今やすべての部品が完成し、組立工場に届けられています。その後、機体に翼とプロペラが取り付けられ、エンジンと革張りの座席が設置され、電気装置が取り付けられ、コンパス、弾薬箱、その他の計器や兵器が所定の位置に取り付けられます。

飛行機はついに完成し、格納庫の中で、まるで翼を広げた巨大な鳥のように、未知への初飛行を待ち構えている。女性たちはこの組み立て工程のすべてを担当し、あらゆる部品に精通している。最近、ある工場で女性オペレーターが機械の分解を指示された際に、その実力が試された。彼女はためらうことなく、複雑な構造のステーワイヤーと操縦ワイヤーを取り外し、一発であらゆる点で正確に組み立て直した。

光学機器

戦争によって発展した多くの産業の中でも、光学機器の製造は急速な進歩の顕著な例です。1914年以前、ヨーロッパの光学ガラス産業は主にドイツとオーストリアの手にありましたが、開戦により連合国にとってこの市場は完全に閉ざされました。こうして生じた光学機器の不足は、当初は深刻な国家的危機の源となりました。なぜなら、光学ガラスはいわば海軍と陸軍の両方の目を提供していたからです。砲の目となるのは、測距儀、指揮官、照準望遠鏡、潜望鏡、プリズム双眼鏡、そして射撃を観測し照準を修正するためのその他の機器です。戦車は潜望鏡なしでは視界がありません。また、航空機からは写真用カメラとレンズを用いて観測が行われました。

海上でも同じことが言えます。潜水艦には少なくとも1つの目が必要で、潜水艦追跡者には多くの目が必要です。一方、光学機器を用いることで、海軍砲手は15マイルから20マイル離れた目標に射撃することができます。軍隊の健康そのものは、光学ガラスに大きく依存しています。なぜなら、王立陸軍医療部隊はマラリアなどの病気と闘っているからです。[31ページ]寄生虫によるもので、特定するには顕微鏡で1000倍に拡大する必要がある。そのため、戦争初期には光学兵器問題の解決が極めて重要だった。

英国は持ち前の活力で事業に着手し、衰退していた産業をまもなく復興させました。その課題は膨大で、産業は根本から復興する必要がありました。光学機器に必要な特殊なガラスの製造自体が大きな障害であり、その主原料である特殊な砂でさえ、かつては主にフォンテーヌブローとベルギー産でした。しかし、広範な調査により、すぐに効果的な代替品が発見され、原料の混合の問題もついに解決され、特殊ガラスの製法も考案されました。そして現在では、完璧な品質の光学ガラスを大量に生産しています。しかし、原材料の生産は、光学機器の十分な供給を確保するための第一歩に過ぎませんでした。

原石ガラスから完成品に至るまでには、数多くの繊細な工程が介在します。ガラスは、必要な設計に正確に沿って切断、研磨、そして曲げ加工されなければなりませんが、それ自体に高度な数学的計算に何日もかかります。さらに、平滑に磨き上げ、細心の注意を払って洗浄し、そして製作対象となる特定の機器の精密さに合わせて調整しなければなりません。その困難と落とし穴は計り知れません。ガラスは最初から最後まで、決まった法則に従うことなく、科学者と職人の熟練した扱いにのみ応えるのです。「光学ガラスは材料のラバだ」と、ある作家は最近、真摯に評しました。

事実上新しい産業であったこの産業に必要な労働力の不足は深刻な脅威でした。この分野での労働力の必要性が知られるや否や、イギリス人女性がためらうことなく、この馴染みのない高度な技術を要する産業に飛び込んだことは、高く評価されるべきことです。彼女たちのこの産業における成功は目覚ましく、高級家事サービス、幼稚園教諭、音楽教師、ブラウスやドレスの仕立てといった職業で、レンズの平滑化や研磨といった繊細で高度な技術を要する工程、そして完璧な研磨とカットが施されたプリズムの製造において、多くの女性が素晴らしい実績を残しています。

これらのレンズやプリズムが製造されている工場ほど興味深い兵器開発は他にないだろう。作業は非常に精巧で繊細なので、エルフや妖精たちに操作を委ね、大きなヒキガエルの椅子の前に立って様々な作業を行わせた方が適切ではないかとさえ思える。しかし、戦争という過酷な現実が迫る中、これらのレンズを扱うには、女性の指を訓練する必要があった。最も小さなレンズでさえ、トレイに並べられると、まるでコレクションのようだ。[32ページ]たくさんの露滴があり、そのうち最大のものは豪華客船の舷窓を簡単に満たすほどです。

工房に運ばれてきた光学ガラスは、灰色がかった粗い氷の小塊のような外観をしています。これらの小塊は、ダイヤモンドダストを充填した回転する金属円盤によって粗くスライスされ、形を整えられます。プリズムとレンズの初期段階は、その後、女性たちに手渡され、表面の仕上げ作業が行われます。それぞれの工程には、興味のある見学者を惹きつける魅力があります。ガラスのスライスが工具に当てられて手作業でプリズムに成形される様子を見学できます。また、これらのプリズムの胚芽が、磁気コンパス用の小さな拡大プリズムになるまで、あるいは潜水艦の潜望鏡に適した大きなプリズムが完成するまで、様々な平滑化と研磨の工程を経ていく様子を見学できます。さらに、エメリーやカーボランダムを使ってガラススライスを粗削りし、研磨して大まかな形状になるまでレンズが作られる様子を見学できます。さらに、小さなレンズをピッチに貼り付け、平滑化と研磨のために単一の面を形成する後の工程を見学することもできます。

レンズの芯出しという極めて難しい作業をもう一度ご覧いただけるかもしれません。この作業は、レンズの研磨面が完璧に正確に仕上がるようにするために不可欠であり、熟練した手触りと訓練された目が求められます。

ある光学兵器工場の作業場で、その地域で初めてセンタリングマシンを扱う女性に出会った。彼女は元メイドで、最初は男たちから「女にそんな仕事は無理」と止められたそうだ。しかし彼女は「頑張った」と彼女は言った。そして数週間後、彼女自身も驚いたが、男たちは落胆したという。この特殊な熟練を要する仕事は、彼女にとってすっかり身についた。「今、何か成し遂げたような気がする」と彼女は勝ち誇ったように言った。同じ工場で、レンズの縁に小さな斜面を付ける「面取り」という驚くべき作業をこなしていた別の作業員も、同じ気持ちだった。

大きなレンズの直径はわずか2インチ、小さなレンズは3ペンス硬貨ほどの大きさで、研削、整準、平滑化、研磨、芯出しなど、あらゆる作業は細心の注意を払って行われなければなりません。レンズやプリズムの製造における最終工程である「拭き取り」でさえ、作業者の責任を重くのしかかる作業です。「拭き取り」、つまりレンズの清掃は、絹の雑巾でのみ行うことができます。完成したガラスは、上品な貴婦人のように、どんな粗雑な接触にも耐えるからです。

ガラスに格子模様や測定用の細い線が刻まれている場合、「拭き取る」作業は極めて困難です。 [33ページ]難しさ。この問題について話し合った職長の少なくとも一人は、この作業は女性の指で行わなければ完璧にはいかないと意見を述べた。最終的に調整する際に、ガラスに指紋の汚れや油脂が少しでも残らないようにすることが極めて重要だ。さもないと、機器が使用者にとって危険な原因となるからだ。光学機器工房の雰囲気が「この仕事では、清潔さは神聖さよりも重要だ」という言葉に表れているのも不思議ではない。

完成したガラスは、潜望鏡、照準器、望遠鏡などの機器に組み込む段階に至ります。金属部分とガラスの両方において、最も正確な寸法が測定されていますが、微調整が必​​要です。金属ケースが砲弾の衝撃を受けてもガラスがガタガタと音を立てないように、完璧なフィット感が必要です。しかし、変更の対象となるのは金属部分のみであり、女性たちが金属部分にこのような微調整を加えるのに十分な器用さを身につけていたことは驚くべきことです。少女でさえ、赤ん坊の肌を傷つけないほど細いやすりで金属を3、4回丁寧に削って、このような作業を行っているのを目にすることができます。その間に、レンズやプリズムは最終的に(これも女性によって)サイズ、傷、その他の欠陥がないか検査され、再び洗浄されます。少女や女性は光学機器の金属部品の生産に全面的に参加し、ガラスの調整のために部品の組み立てや収集も行いますが、これまでのところ、完成した機器の調整やテストは一般的には行いません。

戦争用の光学機器の製造に使われる作業は、もちろん、オペラグラス、望遠鏡、顕微鏡、測量機器、写真および映画撮影装置など、平時に使用される機器の製造に必要とされる作業と似ており、新しい戦時産業に参入した女性たちは、平和が訪れたときに、熟練した職業で永続的な生計手段を持つことが幸せに期待されます。

造船所にて

「船、船、そして船を動かさないで」。戦争4年目を迎えた今、連合国にとってこれが最大の要求だ。この要求に応えるため、国内のあらゆる造船所は最大限のプレッシャーで稼働している。造船所の過酷な労働を知る者にとっては奇妙に思えるかもしれないが、女性たちはこの仕事に深く関わり、割り当てられた任務においてあらゆる困難を乗り越えてきた。

当初、造船所における希釈は危険な実験と見なされていました。作業は大部分が重労働で不器用であり、それを担う男性たちは、体格や容姿においては立派な人物であっても、[34ページ]彼らは主に、騒々しい船員たちや、自分と同じタイプの男性との付き合いに慣れている。女性に対する彼らの態度は、異性が同僚として加わるとすぐに問題を引き起こすのではないかと懸念されていた。造船業者の中でも最も楽観的な者でさえ、船上で女性が男性と肩を並べて働くという考えに愕然とした。しかし、あちこちで先駆的な雇用主が現れ、この実験が試みられてきた。そして、それは疑いなく成功している。

私は造船所を訪れ、その驚くべき光景を目にし、戦時中の措置として、少なくともそれが適切であったことを確信しました。もちろん、船上での女性の労働計画と監督には特別な配慮が必要ですが、適切な検査官、主任、そして労働者がいれば、工場と同様に、造船所の不足分を女性がますます多く補わない理由はありません。こうした仕事に選ばれた女性たちは、今まさに国家に貢献していることを十分に認識しており、女性労働者にとって船上での初日は至福の時です。「実際に船に乗ると、彼女たちはとても興奮するので、仕事の難しさや反対意見をすっかり忘れてしまいます」と、最近ある造船所の検査官が私に言いました。これは良いことです。なぜなら、たとえ大型戦艦であっても、新米にとって船下を動き回るのは容易なことではないからです。

私は女性たちが働いている場所に連れて行かれた。そこはあらゆる種類の船で所狭しと停泊している広いヤードだった。まるで、かつてエリザベス朝の人々が群衆について言った「カタツムリが角を伸ばす隙間もないほどだ」という言葉が頭に浮かぶほどだった。強いそよ風が吹き、その向こうの海は青く満ちていた。埠頭に停泊している巨大な戦艦は、穏やかで堂々としていた。まるで、船をきれいにしようと言う生意気な人間たちの、おせっかいな叩き音や針金の音を、陰鬱なユーモアで受け止めているかのようだった。司令塔では男たちがペンキの壺で忙しく作業し、上甲板では大砲が時を待つロープと壺が絡み合っていた。男たちは互いに元気よく呼びかけ合い、そよ風のように活発に、あちこちを飛び回っていた。

「ここから降りましょう」と女警部は言い、家の壁のように急な梯子を指差した。彼女はまるでカモシカのように軽々と降りていった。また別の梯子、そしてまた別の梯子。女警部は急勾配のことを忘れてしまったようで、私は取り残された無力な陸の者、慎重に一歩一歩降りていった。機関室で彼女に加わった時、彼女はすでに部下の一人と熱心に話し込んでいた。そして私は、彼女の機敏さを秘めた秘訣に気づいた。船上の女性たちは皆、ズボンスーツを着ていた。監督用の青いドリル生地、作業員用の茶色の同様の生地は、短いチュニック丈で、ズボンは足首でしっかりとバックルで留められていた。スーツに合うぴったりとした帽子も完成していた。[35ページ]狭い場所でも動きを妨げない、スマートな作業服。このような服装がなければ、女性が船上で作業することはほとんど不可能でしょう。

この戦艦の女性作業員たちは、電線や電装品の交換作業に従事していた。これは非常に細心の注意と正確さが求められる作業だ。下甲板では、新しいケーブルを取り付けたり、高い場所に腰掛けたりして、配電箱の中で汗を流したり、電線の位置をマーキングしたりしていた。ドリルで穴を開ける者もいれば、タッピング、つまり穴にネジ山を切ったりする者もいた。機関室では、女性たちは古くなった電線の被覆を剥がすのに忙しく、背の高いろうそくの明かりを頼りに作業していた。まるでクリスマスツリーを準備するパーティーのように、陽気な様子だった。

船内ではどこでも女性たちが二人一組で作業していた。これは特に望ましい配置だった。小さな鉄の扉の向こうの隅で、一組の夫婦が消火器の修理に取り組んでいた。そこは、訪問者が一人で入ってくるとひどく混雑する場所だった。「これは私のネズミよ」と検査官は言った。「いつも物置に逃げ込んで仕事をしているのよ。しかも、そこでもよく働くの。でも、船内では工場で知られているものよりはるかに厳しい規律を守らなければならないの」

その造船所では、船上での作業時間中、船員や男性労働者と女性労働者の間で会話は禁止されており、雇用されている女性労働者は常に監視されていると聞きました。女性労働者は20~22人ずつのグループで船上で作業し、各グループには監督官が付き添います。船内で監督する監督官が3人加わると、この特別な作業部門に女性監督官が任命されました。このシステムはうまく機能しているようで、男女が明らかに互いを同志として受け入れていることに気づきました。人里離れたタラップに入ってくると、仕事を終えた男性労働者が四角い鏡の前で何気なく髭を剃っていました。そのすぐ向こうでは、2、3人の女性が同じように何気なく、電気設備をコツコツと叩いていました。男女の間には、からかい合いや「ふざけ合い」はなく、共学の学校で見られるような仲間意識が感じられました。

電気配線作業に従事する女性たちは、乗船前に造船所でダミー隔壁に関する1ヶ月間の研修を受けます。熟練した男性指導員が、20人程度のグループにつき2人という割合で彼女たちに付き添い、10ヶ月から12ヶ月間彼女たちと共に過ごします。その後、女性たちは指導員なしで作業できるようになります。私は、電気配線作業が行われていた貨物船で、この作業の様子を目撃しました。

船上での作業以外にも、造船所の女性たちは、ほぼあらゆる種類の建設作業を行う様々なエンジニアリング工場で雇用されている。[36ページ]船の修理作業も請け負われています。私は、そのような電気部門で、電機子の巻き取り、射撃装置の部品製造、電気機器の研磨やバフがけ、修理などに従事する多くの女性を見てきました。このような修理部門の仕事は、興味深く多様性に富んでいます。作業員たちは日々、船上で風雨やその他の要因で損傷した電気機器の委託を受け取ります。迅速な対応が求められ、女性たちは最大限の熱意と能率で働いています。私は、彼女たちがランプやラジエーター前面のランプガードの取り付け、接続箱や区分箱、射撃管制装置、自動探照灯などの修理など、様々な作業を行っているのを目にしました。職長によると、彼女たちは男性と全く同じように仕事をこなしていました。建設部門では、女性たちは現在、隔壁部品や様々な種類の金属加工、酸素アセチレン溶接、そして時には鋳造所で働いています。

戦前は、造船所で働くのは一般的に年配の女性、つまりおばあちゃん世代ばかりで、それも旗作りやヨットの内装といった装飾的な仕事ばかりだったことを思い出すと、孫娘たちが今や複雑な工程、さらには体力が必要な仕事でさえも、うまくこなしているというのは、とても信じ難い。最近、ある職長がこう言った。「娘たちが運転するトラックで工場から工場へ、そして工場から重い荷物を運び入れているのを見ると、我が目を疑います。戦前はすべて馬や男たちが運んでいたのです。娘たちは仕事はちゃんとこなしています。唯一の不満は、つま先が冷たくなることです」。「今は冷えませんよ」と、会話を耳にしたたくましい若い女性運転手が言った。「お湯の入った缶がありますから」。それから、私だけに聞こえるように低い声で、「この仕事が大好きです。本当に面白いんです」と言った。

造船所で働く女性たちの間で、とりわけこの感覚が強く感じられる。島の住民にとって忘れ去られかけていた海の精神が、今再び呼び覚まされ、港に停泊する立派な船の姿は、男性と同様に、女性労働者をも独立心、自由、そして「このイングランド、銀の海に浮かぶこの宝石」への愛で満たす。

イギリス人女性が造船所での仕事を「とても興味深い」と感じるのも不思議ではない。

ほつれたテープを切る

タービンローターセグメントのろう付け

ドライコンパス用取り付けカード

足踏み式研磨機(レンズ平滑化用)

[37ページ]

第5章 快適性と安全性
福祉監督—防護服—トイレと応急処置—女性警察官

工場に数千人もの女性が突如雇用されたことで生じた問題は、明らかに労働者の技術訓練や機械の体力への適応だけにとどまらず、産業生活に新たに参入した女性たちの職場における快適性と安全を確保するために、早急に何らかの対策を講じる必要があった。

軍需品供給の増強をめぐる最初の大急ぎの時期に、戦争緊急事態により工場法は一時的に廃止された。工場内では異議申し立てはなかった。女性たちはためらいもなく、週7日、昼夜を問わず12時間から14時間、あるいは夜勤で働き、公休日も自主的に犠牲にした。彼女たちの家庭環境は、多くの場合、何の慰めにもならないものだった。これらの女性の多くは、帝国の辺境や、イギリス国内の遠く離れた町や村からの移民だった。工業地帯の密集地帯や人口の少ない地方の住宅は、限界まで逼迫していた。しかし、以前は完全に保護された生活を送っていた多くの労働者たちは、ひるむことなく夜明け前に起きて工場まで長距離を通勤し、夜勤労働者と寝室の一部を分け合うために戻ってきた。産業革命期に工場の子供たちが置かれた恥ずべき状況が、今にも再び訪れようとしていたかのようだった。

福祉監督

このような状況は容認できず、当時の軍需大臣ロイド・ジョージ氏は事態を把握した。「今日の労働者は明日の母である」と彼は言った。「工場戦争において、英国の女性たちは英国を救うために必要であり、英国は彼女たちを守るべきである。」工場労働者の労働条件を改善するための措置が直ちに講じられた。軍需労働者の健康に関するあらゆる問題を検討するために省庁委員会が設置され、[38ページ]軍需省は、その勧告に基づき、福祉保健局を設立し、「軍需工場におけるすべての労働者、特に女性と未成年労働者のために、高い労働条件を確保する」ことを任務としました。それ以来、軍需労働者の生活条件改善に向けた取り組みが着実に進められています。

しかし、工場における福祉事業はイギリスでは目新しいものではありません。確かに戦前には、アメリカ合衆国ほど広く普及していませんでした。しかし、1792年には既に別の名称でイギリスで実践されていました。当時の工場が当時の模範となっていたデイヴィッド・デールという人物が、「従業員にシャベル一杯ずつ金を与えた」ところ、「神様がそれをシャベルで返してくれた」という記録が残っています。19世紀初頭から、法律で定められた要件を超えて工場労働者の労働条件を改善しようとする散発的な試みが成功し、1914年以前には、多くの啓蒙的な工場主が工場敷地内で福祉事業を実践することで名声を博していました。しかし、公式の認可が得られたのも戦後、軍需産業への女性の流入によってようやくです。[1]

軍需労働者健康委員会は設立以来、工場を一つ一つ調査し、女性の雇用、労働時間、日曜労働、年少者の雇用、産業疲労、食堂設備、労働者の食事といった問題に取り組んできました。委員会は、現実に即した科学者によって得られた事実を率直に明らかにするため、官僚主義を排した報告書の形で結論を発表してきました。

この委員会と連携して活動しているのは、軍需省福祉保健局です。同局は専門家の提案を綿密に踏まえ、福祉担当官が全国を巡回し、工場の経営陣に提案を行ったり、進歩的な工場管理局が始めた福祉事業の実践的な実験を取り入れたりしています。こうしてアイデアの集約が図られ、価値ある個別的な実験が全国に広がっています。

しかし、福祉保健局の最も重要な任務の一つは、工場における福祉監督業務の候補者の選考と研修であると言えるでしょう。承認された候補者の選考委員会が常設されており、多忙な工場長は、必要に応じて監督業務全体を担う福祉職員をすぐに選考することができます。[39ページ]女性従業員や未成年従業員の個人的な利益について、監督官は監督官の権限を行使する。工場経営陣が雇用したこれらの役員は、軍需省ではなく、雇用先企業に対してのみ責任を負う。TNT(トリニトロトルエン)を扱う施設では、女性福​​利厚生管理者の配置が義務付けられている。すべての国営工場では、このような役員は従業員の必須要件とみなされている。また、女性作業員が多数雇用されている管理施設では、経営陣はこのような役員を任命することが公式に推奨されている。

多くの場合、エンジニアリング工場では女性オペレーターを初めて雇用するため、経営陣は安心して「新人労働者」の個人的な要求事項に関するあらゆる質問を女性監督者に委任します。一方、従業員の雇用、食堂の手配などは、他の役員に委ねられる場合もあります。したがって、女性福利厚生監督者の職務は工場によって異なります。一般的に、工場内の監督者、または女性監督者は、以下の事項の一部またはすべてについて責任を負います。

  1. 彼女は、女性、女児、男児の雇用選抜に協力するか、またはその選抜に全面的に責任を負います。
  2. 工場内の女性や女児の一般的な行動は彼女の管轄下にあります。
  3. 健康上の配慮から、女性従業員をあるプロセスから別のプロセスに異動させることが福利厚生管理者によって提案される。
  4. 女性および女児の解雇に関しては、一般的な理由から彼女に相談する。
  5. 工場の状態は彼女の監視下にあり、必要に応じて、施設の清潔さ、換気、または暖かさについて経営陣に報告されます。
  6. 可能な場合には座席を設ける必要があると提案する。
  7. 大規模工場で食堂が別個の管理下にある場合、福利厚生管理者は女性従業員に必要な設備が利用可能かどうかについて報告する。小規模工場では、福利厚生管理者が食堂の管理を委任される場合もある。
  8. 福利厚生監督者は、小規模工場を除き、実際の事故対応は担当していませんが、工場の医師や看護師と緊密に連携しています。また、看護師の選考にも協力し、看護師の業務が迅速に遂行されるよう監督します。また、救急室における事故や病気、工場内で発生したすべての出産事例の記録管理も監督します。すべての事例と連絡を取り合います。[40ページ]重大な事故や病気が発生した場合、補償部門が対応します。
  9. 彼女はクローク室を監督し、これに必要な係員を選任する。
  10. 職場の女性に支給される防護服は彼女の監督下にある。

女性や未成年労働者が数千人規模で存在する大規模な施設では、こうした多岐にわたる業務は必然的に多くの職員に分担され、工場内の福利厚生業務(現在では「工場内福利厚生」と呼ばれています)は一つの部署へと発展します。こうした発展の典型的な例は、ウールウィッチの王立兵器廠に見ることができます。戦前は女性職員は125人でしたが、現在では約2万5000人の女性がそこで働いています。

福祉監督官は、ありがたいことにスーパーウーマンを擁している。彼女は多岐にわたる職務に加え、自身と同様に、担当する人々の健康と幸福を促進するために惜しみない努力を惜しまないアシスタントスタッフを育成してきた。私はこのスーパーウーマンのオフィスに何時間も立ち、大勢の労働者に囲まれながら、新入社員の欠員補充や、希望する異動理由の聞き取り、仕事、食事、健康、レクリエーションに関する助言を行う彼女の姿を見てきた。どんなに些細な問題でも、誰一人として意見交換を拒否されることはなく、工場の帽子の色に関する苦情は、ある従業員と「職場」での意見の相違の原因を別の苦情申立人と議論するのと同じくらい熱心に議論された。私は彼女に同行して工場内を視察した(全行程を終えるにはほぼ一週間かかった)。そして、換気の改善提案やクロークルームの改修が、担当者と巧みに協議され、実行に移される様子を目の当たりにした。私は、現代のフローレンス・ナイチンゲールが店の前を通るたびに労働者たちの顔が明るくなるのを見たことがあるし、労働者保護のための取り決めに驚きながら危険地帯を歩いたこともある。

ウーリッジ兵器廠やグレトナの陛下工場といった大企業の生活に当てはまることは、王国中の多くの兵器工場における福祉事業の発展の典型例と言えるでしょう。防護服は広く採用され、救急室や休憩室が開設され、クローク設備も改善され、食堂が設けられ、健全なレクリエーションが奨励され、女性警察官による保護も導入されました。つまり、雇用者と被雇用者の間にある昔ながらの垣根を消し去るような雰囲気が醸成されつつあるのです。

[41ページ]

防護服

軍需工場に女性が進出して以来、作業員の防護服に関しては実に多くの成果が上がっており、このテーマだけで一章を割くほどである。現在、軍需省には防護服の供給を専門とする独立した部署があり、エプロン、手袋、ブーツ、帽子、チュニックの改良に絶えず取り組んでいる。女性作業員は現在、一般的に綿製のオーバーオールを着用しており、適切な素材とデザインのオーバーオールの製造には多くの検討が重ねられてきた。オーバーオールは、機械の糸の緩みによる事故を防ぐため、しっかりと縫い付けられたベルトとポケットが取り付けられており、カーキ色や茶色に深紅の縁飾り、あるいは濃紺に深紅の縁飾りといった、人気の高い色合いのものが多く見られる。しかし、防護の原則が守られていれば、色やデザインに関して決まった規則はない。

当初、労働者に非常に嫌われていた帽子は、ついには広く受け入れられるようになりました。それは、事故から身を守るという理由ではなく、着用者に「シック」さを添えるようにデザインされたからです。帽子は通常「モブ」または「ダッチ」タイプで、色と質感がオーバーオールと調和し、頭に圧迫感を与えないように設計されています。安全帽は、時には巧みに差別化の印として使用され、女性が働く工場では、機械を操作する人がカーキ色の帽子をかぶり、機械の設置作業員が深紅の帽子をかぶり、製品の監督者や検査員が鮮やかな青色の頭飾りをかぶっているのを見かけることがあります。

湿気や埃の多い作業には、綿、ウール、マッキントッシュ製のズボンスーツ、または膝丈のズボンとレギンス、あるいはゲートル付きのチュニックスーツをご用意しています。マッキントッシュ製のコートは、造船所での屋外作業、トラック運転、工場内のクレーン作業にも使用されます。

現在では、特定の作業には耐酸性・耐油性のエプロンが、また他の工程には特別に加工された手袋が供給されています。作業場用手袋の種類は非常に豊富で、ゴム、帆布、革などの素材、あるいはこれら3つの複合素材、あるいはテオン加工の帆布やテオン加工の革で作られています。袖口のない手袋もあれば、酸作業用に折り返した袖口の手袋、さらには肘まで届く長手袋もあります。いずれの場合も、手袋が提供される工程は綿密に研究され、実用性によって形状が決定されます。

履物もかなりの注目を集めており、屋外作業用のウェリントンブーツやハーフウェリントン、床が常に濡れがちな店内の工程用の下駄などが登場しています。

[42ページ]しかし、おそらく工場の服装が最も注意を払われるのは、詰め物工場の作業員向けにデザインされた時でしょう。こうした作業員には、ウールのラスティングクロス製のスーツが好まれ、クリーム色に緋色の裏地が付いたものが最も人気があり、洗練された印象を与えます。また、一部の工場では、耐火加工を施した青いサージのオーバーオールや、同じ素材の帽子を被ったアスベスト製のコートも使用されています。危険区域での作業では、金属製の留め具は許可されておらず、コートやオーバーオールは、工程で使用される火薬との接触から首や喉を保護するように裁断されています。

この種の作業用のブーツや靴も特別に設計されています。鉄は一切使用してはならず、靴底は機械縫いか真鍮のリベット留めで作られています。危険地帯では、布製やゴム製のオーバーシューズが履物として選ばれることもありますが、その場合も留め具に鉄が含まれていてはなりません。これらの予防措置は単なる流行ではなく、鉄片と可燃性粉末の摩擦によって爆発が発生する可能性のある状況では、不可欠な安全対策です。充填工場では、防毒マスクや場合によってはベールも必需品であり、これらも作業員に支給されます。

戦後、工場の制服はこうして進化を遂げ、工業作業に適した衣服の典型となりました。工場内で基本的なニーズを満たすために生まれたこれらのファッションは、下品さや奇抜さから解放されているだけでなく、独特の美しさを備えています。女性がかつてこのような衣服の快適さと清潔さに慣れてしまったら、職場で着用していた、あの時代遅れの汚れた装飾品に戻りたいと思うことはまずないでしょう。

トイレと救急室

工場内での救急車や救急救命活動は、戦前においてさえ珍しいことではありませんでした。軍需品生産の発展以降、救急車や救急救命活動はほぼ当たり前のものとなり、1917年12月1日以降、高炉、鋳造所、銅工場、製鉄所、金属工場において救急車や救急救命活動の設置が義務付けられました。TNT火薬を扱う工場では、従業員数が2,000人を超える場合は少なくとも1名の常勤医官の雇用が義務付けられており、それを超える場合は少なくとも1名の常勤医官を追加で雇用しなければなりません。これらの医師の業務は、福祉保健局の医官によって監督されており、彼らは同様に、致死性ガスの製造に従事する労働者の安全も監督しています。

このような安全対策にかかる追加費用は決して無駄ではありません。例えば、ある工場では、軽微な問題に迅速に対応することで、1週間で2,500時間の節約ができたと推定されています。[43ページ] 会社が労働者災害補償のあらゆる小規模な請求に対応している別の工場では、救急組織の設立後 18 か月の間に、工場の医師と看護師に関連するすべての費用を支払った後でも、経営陣に約 500 ポンドの貸方残高が発生したことが判明しました。

軍需工場における救急活動の成功に大きく貢献した医療スタッフには、敬意を表すべきである。彼らの並外れた献身がなければ、不運な事故の記録は間違いなくもっと多かっただろう。時折、医療スタッフが一時的に機能不全に陥った際に、たった一人の作業員が砦を守ったという話を耳にする。私がこれを書いている今も、新聞に典型的な事例が掲載されている。それは、同僚の不在中に2週間、24時間交代制で勤務した若い看護師の話である。

女性が雇用されている軍需工場では、工場内の休憩室とクロークルームの整備も顕著な特徴となっている。かつては、女性労働者の屋外着が作業場の壁に掛けられているのが一般的だったが、今日では多くの軍需工場で、女性用クロークルームには、濡れたブーツや衣類を乾かす温水パイプを備えた戸棚が備え付けられ、各女性には鍵付きのロッカーが与えられ、温水と冷水の供給される洗面台が多数設置されている。TNT工場では、義務付けられている洗濯設備はさらに充実している。浴室も利用可能で、タオルも豊富に用意されている。また、爆発物の取り扱いによる悪影響を防ぐため、顔用の軟膏やパウダーも支給されている。

作業場内にも改革の精神が顕著に表れています。可能な限り椅子が設置され、重量物を扱う際の負担を軽減するために、リフティングタックルやスライディングボードが導入されています。女性従業員向けに提案されたこうした改善が、男性従業員にも導入されたという話も耳にします。例えば、戦前は女性が雇用されたことがなかったある工場では、政府職員から女性にも椅子を用意するよう提案されました。経営陣は疑念を抱きました。「見習い従業員にとって悪い手本になる」と言われたのです。しかし、この点は強く主張され、しばらくして提案は実現しました。すると、経営者は驚きと満足感を込めて、椅子は「従業員を元気づけるようだ」と述べ、男性従業員にも改善を適用しました。

女性警察官

工場における女性の保護に関する最近の進展の一つは、女性警察官の雇用である。[44ページ]1916年、軍需工場における女性従業員の更なる管理と監督の必要性が認識された際、警察長官サー・エドワード・ヘンリーは、軍需省に対し、女性警察局に訓練を受けた女性警察官の供給を申請するよう勧告しました。この要請により、女性警察官の活動は飛躍的に発展し、現在では軍需工場において女性警察官が様々な任務を担っています。女性警察官は、工場への女性の入館チェック、パスポートの検査、マッチ、タバコ、アルコールなどの密輸品の捜索、軽犯罪の告訴への対応、警察裁判所における判事の補佐、そして女性従業員の保護を目的として工場周辺を巡回しています。

多くの工場が人里離れた場所に建設され、昼夜を問わずシフト勤務が行われているため、これらの女性警備員の存在が若い従業員にとってどれほどの安全をもたらしているかは容易に想像できる。工場敷地内においても、巡回する女性警察官による安全確保は極めて重要である。なぜなら、多くの工場は柵から柵までおよそ6マイルにも及ぶ孤立した敷地に建てられており、こうした境界内では、爆発物の製造に従事する女性たちは孤立した小屋で働いていることが多いからである。これらの地域における女性警察官の予防活動は計り知れない。

このように、福祉事業は英国の工場に根付いており、ロイド・ジョージ氏の言葉を借りれば、「破壊兵器の製造が産業の人間化を促す機会となるのは、奇妙な皮肉ではあるが、決して小さくない代償である。しかし、事実はそうである」。

光学ガラスのスリット加工と荒加工

食堂キッチンの眺め

分析のためのフェロクロムの計量

[45ページ]

第6章 外部福祉
レクリエーション—母性—工場保育

レクリエーション

軍需品開発の初期、インドの王子、グワリオルのマハラジャが軍需品従業員のために数千ポンドを贈与したことは、当初から彼女たちの必要なレクリエーションに目を向けさせるのに役立ちました。生産性を最大限に高める必要性から、長時間労働、残業、そして休暇の減少がもたらされ、当初は軍需品従業員にほとんど余暇の時間が与えられませんでした。しかし、その余暇を健康的で活力のあるものにするために何らかの努力を払う必要があることはすぐに明らかになりました。福利厚生監督官が工場に赴任し、雇用されている女性たちのニーズを身近に感じるようになると、マハラジャの基金からレクリエーションのための助成金を得るよう、軍需省に要請が寄せられるようになりました。

当初は、「娯楽室や食堂にピアノを」という選択肢の方が一般的でした。というのも、不思議なことに、工場で長時間働いた後、普通の軍需工場の女子生徒が最も切望するのは、「映画」のような受動的な娯楽ではなく、自分の体を自由に動かすことだからです。何よりも、彼女たちが望むのはダンス、体操のリズムを楽しむこと、夏には泳いだり飛び込んだり、人気のチームゲームでボールを追いかけたりすることです。家の中では、ピアノはいわば跳躍台となり、そこから彼女たちは陽気な余暇の雰囲気に飛び込むのです。ピアノは彼女にとってダンスへの送り出しであり、歌への導きであり、体操の一体となった動作の中に見出される喜びの支えなのです。

かつて食堂や娯楽室に備え付けられていたピアノは、軍需品製造の女中が夕食時やお茶の時間、あるいは勤務時間外のどんな時でも弾いている姿が見られる。明るい曲が流れている限り、陽気な軍需品製造の女中は気分次第で、昔ながらのダンスを踊ったり、より複雑な現代的なステップを踏んだりする。

独学でダンスを学んだ後、より完璧な動きの表現を求めるのは自然な進化であり、場合によっては[46ページ] マハラジャの基金は、ダンス教師やスポーツインストラクターの費用を賄ってきました。また、同じ基金から、クラブの設立、レクリエーションルームの設置、ブランコやシーソーの設置、プールの設置、工場労働者の菜園用の道具や種子の購入、演劇、徒弟訓練のための講演、そしてアイルランドでは、女性軍需労働者の子供たちのための学校の拡張にも資金が充てられました。

これらの努力と並行して、軍需品製造業者の健全な娯楽を促進するための他の取り組みも実を結んできた。多くの啓蒙的な工場経営者は、自らの著作の中で女性労働の問題を研究し、「女性が継続的に、特に単調な労働を強いられるならば、彼女たちの人生における喜びは維持されなければならない」という結論に達した。ビジネスマンである彼らは、すぐにこの理論を実践に移し、自社の従業員のためのレクリエーション計画を奨励し、開始し、資金を提供してきた。

例えば、シェフィールドでは、役者や女優がエンジニアリング工場から登場して、成功した演劇の催しが開かれた。バーミンガムの近くでは、ある会社が従業員のために映画館、オーケストラ、ダンスルームを提供し、土曜日の夜には、郊外のホステルや夫婦用宿舎に住む労働者のために、無料のオムニバスの送迎が手配されている。

ノーウィッチでは、別の会社が女性レクリエーション担当官を任命し、女子社員に体力鍛錬、ダンス、テニスなどのゲームを教えています。ダンスパーティーや仮装舞踏会が開催され、夏には広いレクリエーショングラウンドでテニス、ボウリング、クリケットが行われます。これらはほんの一例に過ぎませんが、この国の雇用主の間では、女性社員にとっての遊び時間の価値に対する理解が深まりつつあることを示しています。

工場の外では、他の団体も活動し、戦争のために多大な犠牲を払い、辛抱強く耐え抜いた女性たちに休息とリフレッシュの機会を提供しようと、自発的に尽力しています。キリスト教青年会や地域の市民協会といった団体は、レクリエーションクラブ(女子のみ、男女混合)を開設し、コンサート、演劇、講演会、そして役立つ芸術やゲームの授業などを行っています。貴族階級の女性から労働者階級の女性、自治体や聖職者まで、全国各地で女性が協力し、軍需労働者の肉体的、精神的、そして知的なレクリエーションのためのこの取り組みを推進しています。

運動の自発性と熱意は、当然のことながら、あちこちで重複が生じ、1917年の春には、地域における善意と活力の流れを調整することが望ましいと判断されました。軍需省福祉保健局の支部が、[47ページ]こうして設立された組織は、工場外のあらゆる機関と連絡を取り合い、レクリエーション、病気、出産、託児所、住宅、移動施設などに関する制度を取り扱うために設立されました。その後、様々な地域で同様の任務を担うため、工場外の福祉担当官が任命されました。彼らは、各地区内のあらゆる宗派の既存の協会間の連絡役として機能し、その地域の軍需産業で働く女性たちの保護と生活支援のためのあらゆる外部活動を一元管理しています。

福祉担当​​官はまず、当該地区のニーズを綿密に調査し、そのニーズを満たすための措置について調査を開始します。必要であれば、これらの問題を扱う個人および地方団体の代表者による会議が招集され、各作業ごとに小委員会が設置されます。ある地域では女性労働者の数が比較的少なく、彼女たちのレクリエーションのための適切な措置が講じられていない場合、中央クラブが開設されることがよくあります。他の地域では、既存のクラブや施設が新たな要件に合わせて調整されたり、地域のニーズに応じて新しいクラブや施設が追加されたりします。地元の工場で夜勤が行われている場合、作業場の余暇時間に合わせてクラブの開館時間を調整するのが一般的です。例えば、クラブは午前6時から8時まで、正午に2時間、そして午後4時半から9時半まで開館することがあります。このような場合、地元のボランティアの助っ人だけでなく、有給のクラブ管理者を雇う必要があることがよくあります。

しかし、クラブの規模や運営は様々ですが、福利厚生担当官が従う一般的な原則は、レクリエーションのための設備を確保し、その後は地域に運営を委ねることです。軍需省は、管理施設の雇用主と国営工場の経営者に対し、余剰利益から承認された計画に資金を充当することを認め、従業員のレクリエーション活動を促進するよう奨励しています。多くの地区では、助成金は地域全体のレクリエーションのために「プール」されています。このように、軍需労働者のレクリエーションは安定した基盤の上に成り立っています。冬の間は、主要な軍需品生産地域では、ダンス、体操、演劇、ゲーム、講習などが盛んに行われ、夏には野外スポーツ、野菜畑や花壇の手入れが奨励されます。

母性

「外部福祉担当官」に課せられるより困難な任務は、軍需工場労働者の間で発生する出産事例の監督である。何十万人もの女性が日々雇用されている工場では、母性という極めて重要な問題が必然的に生じる。[48ページ]彼女たちの多くは、国内の軍需産業で懸命に働く男性の妻であり、その他は戦争未亡人である。軍需地域では非嫡出子の出産率が不釣り合いに上昇しているわけではないが、未婚の母親が時々特別な問題を引き起こす。

妊婦のケアは必然的に工場の門の内側から始まります。この問題に関して、ボネール博士(パリ産科病院助産科主任教授)がフランスで行ったような権威ある調査による結論は今のところ公表されていませんが、軍需労働者健康委員会による科学的な調査と実験が進行中です。工場内の女性福祉監督者は、出産の事例が判明次第、可能な限り経営陣に報告し、可能であれば妊婦はより軽い作業に配属されます。

そのような状態にあることが判明した女性は、一定期間が経過すると、夜勤に従事させられることはなく、爆発物工場で働くことも、TNT を取り扱うことも許可されません。「女性を医者に送り、そのアドバイスに従います。彼女を雇用し続けることができれば、常に夜勤や重機、およびかなりの労力がかかる作業から外します」というのが、多くの工場でこのようなケースに対して取られる典型的な手順の報告です。「妊婦がそこに留まるのはあまりにも危険です」というのは充填工場からの典型的な意見です。また、高性能爆薬工場からは、小規模な爆発が時々発生することを考慮して、妊婦は一定期間経過後に工場から解雇されるべきであるという判決が出ます。このような出産ケースは、可能であれば、地域機関を通じて、工場外のより軽い国内作業に転属されます。

ファクトリーナーサリー

母性の保護と密接に関連しているのは、軍需工場労働者の就学前児童のケースである。出産後2ヶ月が経つと、工場から戻ってきた多くの産科労働者は以前の仕事に戻り、母親の不在中は乳児を他者に育ててもらわなければならない。軍需品生産に従事する他の母親たちの仕事にも、同様の状況が当てはまる。

ある地域では、軍需工場への要請に、近隣に住む家とのつながりが薄い女性たちがほぼ全員応じ、地元の労働力の予備軍が1人か2人の幼い子供を持つ女性たちの中にいるというケースが時々ある。こうした女性が労働を提供する場合、幼い家族をないがしろにしないことが不可欠である。母親たちが自分で手配できる場合もあり、親戚や近所の人が「世話役」として働くこともある。[49ページ] 今後発表される予定だが、一般的に言って、そのような計画は、現役の個人全員が緊急の戦争任務に取り組んでいる地域では満足のいくものではない。

そのため、多くの地域で軍需工場労働者の子供のための保育所を設立すべきだという声が上がっている。地方団体や個人がこうした計画の資金調達を行える場合も多いが、そうでない場合は軍需省からの財政援助が必要となる。後者の場合、軍需省は教育委員会と協力し、保育所の初期設置と設備にかかる承認済み支出の75%と、子供1人の保育につき1日7ペンスを補助する。残りの費用は、母親から徴収する保育料(1日7ペンスから1シリング、または1週間7シリング6ペンスから9シリング6ペンス)と、計画の地方発起者からの寄付金で賄われる。

夜勤の場合、軍需労働者は子供のための夜間宿泊施設を申請することができます。また、乳児を週単位で預ける手配も行われます。省庁が承認した計画では、既存の建物を改修することが一般的に可能となっていますが、母親の自宅から合理的な距離内に適切な宿泊施設がない場合は、新しい建物が建設されます。

ウーリッジ近郊にこのような保育所が建てられ、この国にとって有益なモデルとなっています。バンガロー型の細長い低い建物で、小さな庭に囲まれています。メインルームであるベビーパーラーは、両側をベランダで囲まれた細長い空間で、3つ目の部屋には両端に風通しの良い広い通路があります。部屋自体は明るく風通しが良く、遊び場も十分にあり、予期せず傷をつけてしまうような不都合な角はありません。長い這いずりをすれば、赤ちゃんはベランダの陽光とベビーサークルの安全な隠れ家へと辿り着きます。さらに長い這いずりと跳ね回りをすれば、周囲の庭へと出られます。そこには、楽しい砂場が常設されています。

春と夏には、鮮やかな色の花々が庭を彩り、鳥や昆虫の来訪者を惹きつけます。2歳児にとっては、元気いっぱいの人間よりも、彼らの方がずっと興味深い仲間となることも少なくありません。保育室の床面積の一部にはマットレスが敷かれており、夜になると本格的なベッドに早変わりします。部屋の片方の端には壁一面の戸棚が、もう片方には「二足のわらじ」の子供たちのニーズに合わせて作られた家具が置かれています。そこでは、高台にある巨人たちと食事をするためにハイチェアに腰掛けるのではなく、幼児はミニチュアサイズのアームチェアに座り、幼児レベルにまで下げられたテーブルに座ります。低いテーブルは実際には腎臓型で、中がくぼんでおり、中央に座る乳母や介助者が6人ほどの子供たちに順番に食事を与えることができます。この隠れ家における幼児の夕食は、巣での授乳時間を思い起こさせます。笑顔の乳母[50ページ]中央では、口を開けた動物たちに順番に餌を与えており、動物たちの満足感は人間の「クークー」という鳴き声で表現されています。

この素敵な乳児院には、乳児専用の部屋がもう一つあります。ベビーベッドに寝そべった一団が、天気の良い日にはベランダに姿を現します。青いカーテンとベビーベッドのハンギングが飾られたこの部屋の優美さと、ベビーベッドで寝ている子供たちの満面の笑みは、訪れる働く母親たちの絶え間ない励みとなることでしょう。保育室の奥には、子供たちの食事を作るための清潔なキッチンがあります。また、感染の疑いのある患者を隔離する隔離室と、精力的に働く洗濯婦がいるランドリーもあります。最新の設備が整った浴室は、多くの点で素晴​​らしいです。施設全体はセントラルヒーティングで暖められ、ラジエーターはガードでしっかりと保護されています。

資金不足のため、必ずしも理想的な環境を再現できるとは限りませんが、施設が少なく敷地面積が限られている場合は、工場の苗床に新鮮な空気が十分に供給されるよう、細心の注意を払っています。また、可能な限り地元からの支援を得るよう努めています。

地域によっては、保育園で提供される衣類のすべてが近隣の小学校の少女たちの手作りであるところもあります。例えばミドルセックス州アクトンでは、11歳から13歳までの生徒たちが、学校の裁縫教室で作った、とても可愛らしい小さな下着、小さな靴、そして愛らしい綿のワンピースが山積みになっているのを目にしました。地元の手工業学校の男子生徒たちも、負けず劣らず、この保育園の年長児用のベビーベッドの大工仕事に携わっていました。麻布で作られたこれらの小さなベッドは、長いほうきの柄に揺られ、頭と足の部分に木の板が付いており、特に経済的で実用的な設計のように見えました。

工場保育所は戦時措置として確かに普及しつつある。しかし、平時における恒久的な施設として設置することには、反対意見も一部にあることが認識されている。戦時中においてさえ、代替案が検討されている。それは、乳児を軍需品地区の「宿舎」、つまり自宅以外で働いていない女性たちの間で寄宿させるというものである。寄宿する乳児の監督は、地方自治体の監督官によって行われる可能性があると考えられている。確かに、この計画は、多くの乳児が一つの保育所に集まること、そしてその結果として生じる伝染性の小児疾患の蔓延の危険を大いに防ぐ可能性がある。しかし、この提案が受け入れられれば、人口密集地域での過密状態や、地域住民に発見されない乳児の寄宿の放置につながる可能性がある。 [51ページ]戦時中の状況で既に過重労働を強いられていた監察機関。しかしながら、この計画は執筆時点ではまだ議論の段階にある。

いずれにせよ、軍需工場労働者の子供たちの世話は、かなりの世間の注目を集めている。なぜなら、戦争にもかかわらず、あるいは戦争ゆえに、一般人、特に若者の健康と幸福の重要性が、平均的な市民の信条の一部になりつつあるからだ。

[52ページ]

第7章 産業食堂の成長
一般原則—労働者のオアシス

「金銭はほとんど問題ではない。今日我々が考慮しなければならないのは労働力だ」と、ある大規模軍需工場の社長は最近述べた。この新しい考え方こそが、現在では軍需工場の目玉となっている工場食堂の発展に弾みをつけた。戦後長きにわたり労働大臣を務めた年金大臣ジョン・ホッジ議員の見解によれば、工場における食堂は「当初から必要だった」ものであり、軍需労働者健康委員会による初期の調査の一つは、従業員への食事の提供に関するものであった。この調査結果は、3つの貴重な白書にまとめられている。[2]

それ以来、私は軍需工場関連の多くの食堂を訪れたが、今のところ、食堂の導入を後悔している工場長に会ったことはない。しかし、ほんの3、4年前までは、平均的な雇用主は、労働者が新聞紙に包んで持ってきた夕食や、赤いハンカチに包んで工場内に保管し、どこでも温めて機械の近くで食べる夕食を「全く問題ない」と言っていただろう。工場の少年たちに関しては、「甘やかす」のは恥ずべきことと考えられていた。必要なら、工場の少年は「物干しロープで夕食を食べる」べきだったのだ。

今日、軍需品の生産に関わるあらゆる場面で、男女を問わず最大限のエネルギーが必要とされる中で、労働者の食事の質と量が重要であり、食事を摂る環境さえも、人間のエネルギーと意志力という不可欠な蓄えの保全に重要であることが認識されている。したがって、最良の産業用食堂は、「動物に食事を与える」だけでなく、精神を休めるように設計されている。これは特に、TNT火薬の取り扱いによる悪影響からの免責が労働者の体力に大きく依存していることが判明している充填工場において顕著である。このような工場や、女性が夜勤で働く施設では、食堂の設置が重要である。[53ページ]食事の提供は雇用主に義務付けられており、実際、最近の法律(1916 年の警察、工場等(雑則)法)では、内務大臣が作業所や工場の占有者に対して、必要に応じて従業員への食事の提供の手配を求める権限を与えています。しかしながら、戦時中の緊迫した状況下では、必然的に工場長が最大限の生産量の要求に全力を注ぐことになるため、食堂は国の援助を受ける必要があると認識されました。そこで、中央管理委員会(酒類取引)の下に食堂委員会が設置されました。この委員会の仕事は二つあります。一つは、工場経営者が独自の食堂を開設できるよう援助すること、もう一つは、ボランティア団体が運営する認可された食堂を監督・支援することです。前者の場合、工場が「国立」工場であれば、必要な食堂の費用は政府が全額負担します。管理施設においては、雇用主は食堂の費用を「営業経費」として請求することが認められており、これは国庫に納められるはずだった資金から、実質的に国が費用を負担するという特例措置である。青年キリスト教協会、青年キリスト教婦人協会、教会軍、救世軍、国民人民宮殿協会などのボランティア団体が提供する食堂の場合、委員会が承認した場合、資本支出の半額を負担する。[3]

バルスミングレンズ

楽器のスケールを作る

これらのボランティア団体の努力は、特に軍需品の大量生産が始まった当初、工場主や工場長が生産高とは明らかに関係のない事柄にほんのわずかな時間さえ割くことができなかった時代には、非常に役立ってきた。ボランティア食堂で働く無給労働者の献身は、戦時中の混乱期を通じてほとんど正当な評価を受けなかったが、軍病院の看護師や軍需工場労働者自身の献身に劣るものではない。貴族の家の女性たちは、大勢の家事使用人による個人的なサービスに慣れ、肉体労働には全く不慣れであったが、自宅や生計を立てるための職業で懸命に働いてきた女性たちと同様に、食堂の必要性が宣言されて以来、昼夜を問わず、膨大な数の労働者のために調理や掃除といった骨の折れる仕事を請け負ってきた。パンチ氏の楽しい挿絵「戦争、平等主義者」では、スラム街出身の荒くれ者の食器洗い女中が、上品な侯爵夫人に「いいえ、モントガメリー・ウィルバーフォース夫人、皿を早く持ってきてください」と力強く命令する場面が描かれているが、これは決して食堂生活の裏側を描いた華やかな絵ではない。

ある工場では、17人の従業員が毎日十分な食事を提供している。[54ページ] 約1,200人の労働者をボランティアの手伝いに回しました。別の地域では、23人のボランティアが2,000人から3,000人の軍需工場従業員の食事を用意しました。また別の施設では、17人のボランティア手伝いが6,000人の労働者に立食の軽食を提供しました。しかし、過去15ヶ月間の食堂システムの急速な拡大と、戦時中の状況下で膨大な数の従業員への食事提供の困難さの増大により、多くのボランティア食堂が工場管理者の管理下に移管されました。

一般原則

産業別食堂は、多くの点でそれぞれ異なっています。その理由の一つは、当初この国には共通の経験の蓄積がなかったこと、そしてもう一つは、産業地域では労働時間、嗜好、習慣が大きく異なることです。そのため、ある食堂で可能あるいは好評だった運営方法や配食方法が、他の地域で試してみると全くうまくいかないことがあります。2,000人の女性を収容できるある食堂では、1日に3ガロンのピクルスがペニーワースで売れていました。別の地域では、ジャムタルトが人気でした。しかし、これまでに蓄積されたわずかな経験からでも、少なくとも食堂の立地、建設、設備、運営に関しては、いくつかの一般的な原則が確立されてきました。例えば、立地に関して言えば、薄暗い食堂は決して人気がありません。可能であれば、庭に面した眺望を確保し、少なくとも食堂の壁は落ち着いた色にすべきです。絵を導入するなら、多彩で明るいものにすべきなのは明らかだが、ある食堂の壁には、面白みのない同じ絵の複製がところどころに貼ってあるのを見たことがある。

もう一つの明白な点は、あまりにもしばしば見落とされがちなことですが、食堂と厨房の換気を良好に保つことです。食堂は、可能であれば男女別の部屋を設け、ビュッフェカウンターと、メニューごとに異なるハッチを備えた配膳カウンターを備えるべきです。また、カウンター越しに食事の代金を支払う「チケットシステム」が最善であることは、誰もが認めるところです。現金で「小切手」を受け取れるチケット売り場は、入口ドア、配膳カウンター、そしてダイニングテーブルの近くに慎重に設置する必要があります。そうすることで、厳密に決められた 夕食時間しか利用できない客が、食事の準備に費やす時間を最小限に抑えることができます。よく管理された食堂では、工場の作業場で夕食時間のアナウンスが流れてから10分以内に、1,000人以上の労働者が着席し、料理が提供されるのを目にしたことがあります。

[55ページ]大規模な食堂では、当然のことながら、省力化機器の開発が主に進められています。電気食器洗い機、電気ベーコンカッター、電気パンカッター、計量カップ、従業員が持ち込んだ料理を温めるためのカウンター式ホットクローゼットなどは、何千人もの客のニーズに応えなければならない多くの厨房で見られるようになりました。

しかし、おそらく産業食堂の発展が最も確実なのは、小規模な企業においてだろう。顧客が数千人ではなく数百人であれば、実験はより容易に試みられ、必要であれば中止することもできる。食堂を巡った中で、私はそのような事例をいくつか取り上げる。先日、夕食時に、マグネトー発電機、航空エンジン、電気スイッチなどを生産する新しい軍需工場を偶然訪れた。そこでは男女、少年少女が働いていた。この工場の工場長は、国中の労働問題を調査し、その結論を細かな報告書ではなく、新しい建物のレンガとモルタル、鮮やかな緑の芝生と花壇、そして店の周りの区画に記している。

労働者のオアシス

食堂はこの場所の特徴です。工場から離れた場所に建つ、細長い低い建物で、片側はテニスコート、もう一方には家庭的で美しい野菜畑が広がっています。労働者の食堂は中央で仕切られており、片側は男性用、もう片側は女性用です。仕切り壁はなく、配膳台が厨房と仕切られています。厨房はさらに配膳台で仕切られ、エンジニアや作業員用の食堂と仕切られています。厨房は実際にはオーブン、コンロ、蒸し器が並んでおり、電気で暖められた省力化機器の粋を集めたものです。私が訪問した日には、約250人分の温かい食事が調理中でしたが、これらの様々な調理器具からは調理の匂いは全くしませんでした。

工場のブザーが「ブザー」と鳴った。労働者たちのオアシスである夕食の時間になったが、食堂には食器がぶつかる音も、給仕係のメイドたちの騒がしい音もしなかった。まるで英国の豪邸の、設備の整った応接室のような、落ち着いた雰囲気が漂っていた。労働者たちは明らかにこうした状況に反応し、厨房の奥に立っていた私は、食事客が入ってきたことに全く気づかなかった。「いつ、客が入ってくるんですか?」プディングが出来上がる巨大な蒸し器の後ろに隠れながら、私は尋ねた。「すでに100人の男たちが席に着き、給仕を受けている」という驚くべき返事。彼らは庭に通じる横のドアから入ってきて、そこで「小切手」を買って、その金額分の…[56ページ]夕食を頼み、配膳カウンターで「伝票」を提示すると、その下に備え付けられた熱い棚から熱々の料理が自分の分として出された。

隣のテーブルから必要な食器を取り、客たちはそれぞれ好みの小さな大理石のテーブルに腰を下ろした。ウェイトレス、バラ色の作業服とマフィア帽をかぶったボランティアの作業員、そして白や青の制服を着た従業員たちがテーブルの間を動き回り、ちょっとした要望に応えていた。開け放たれた窓からは干し草と花の香りが漂い、この光景を戦争や破壊兵器の製造と結びつけるのは滑稽に思えた。食事の質は素晴らしく、種類も豊富だった。このような食堂で過ごす夕食は、従業員にとって心身ともにリフレッシュできるものだった。

別の例では、会社は食堂とその運営を従業員委員会に委ねており、マネージング・ディレクターも委員を務めています。この食堂では、大人数向けのケータリングを行う際に、模範となるような様々な工夫が見受けられました。例えば、メニューごとにカウンターを仕切りにし、各コンパートメントの前の床面積をレールで区切るといった手法は、顧客の時間と忍耐力の両方を節約しているようです。多くの食堂と同様に、この食堂でも効率性と経済性が強調されており、隣接する土地で「弟分」として飼われている豚たちを誇らしげに見せてもらいました。食堂の「廃棄物」で肥育されている豚たちです。

戦争の緊急事態の間に軍需品分野で始まったこれらの発展は、平和な時代にも間違いなく永続的な重要性を持つだろう。そして、約2年前に雇用主によって疑わしい形で採用された軍需労働者の食堂は、産業労働者の家庭生活の革命と、国内の燃料と食糧の供給における新しい経済方法の兆候である可能性が高い。

[57ページ]

第8章 住宅
宿泊 – 一時宿泊施設 – 恒久的な宿泊施設

軍需品の大量生産から生じる間接的な問題の中で、最も深刻だったのは、疑いなく労働者の住宅問題である。新工場の開設や、既存の工場を国家の必要に合わせて転換する際には、しばしば数千人の労働者の転勤が必要となる。移民の流れが向かう地域は既に過密状態にあり、住宅不足に悩まされている場合もある。

例えば、北部のある町では、1914年以降、移民によって人口が1万6000人から3万5000人に増加しました。1911年の国勢調査で人口が10万7821人だった別の町では、誇張のない推定では1917年末の人口は12万人に達しています。他の軍需地域でも同様の人口増加が見られました。戦時中は政府関連を除き、建築がほぼ全面的に禁止されていたため、住宅問題はさらに複雑化しました。

戦争初期のこうした状況は、ご想像のとおり、一部の軍需地域の住民だけでなく、移民労働者にとっても非常に不満足なものでした。過密状態が蔓延し、下宿人は悪徳な女主人の言いなりとなり、劣悪な住宅環境に伴うあらゆる弊害が現れ始めました。その後、軍需省がこの問題に取り組み始めました。これは依然として難題ではありますが、軍需省の活動は、軍需労働者の住宅事情において、一部の地域では奇跡的な改善をもたらしたと言っても過言ではありません。

地域条件の多様性と労働者の人間性は、明らかに問題を複雑にしている。特定の地域の工場システムを統合することは可能だが、従業員の住居を網羅する画一的な規制を策定することは考えられない。したがって、この問題は断片的に取り組まれ、それぞれの地域的な提案はそれぞれのメリットに基づいて決定される。しかしながら、軍需品の生産によって生じる住宅事情が国家の介入を必要とする場合には、必ずと言っていいほど、大まかな指針が導き出されてきた。まず第一に、必要な住居が部分的に満たされるか、あるいは完全に満たされるかが決定される。[58ページ] すべては既存の住宅によって賄われます。これは 1917 年 5 月の宿泊法によって認可されたシステムです。第二に、さらに住宅スペースを提供する必要があると判断された場合、新しい建物を仮設にするか恒久的なものにするかが検討されます。

分宿

時系列で見ると、軍需労働者の宿舎制度は国家住宅制度における最新の発展であるが、戦争初期にはすでにこの制度は萌芽的な段階にあった。当時設置された地方委員会は、雇用局の支援を得て、移民女性労働者に適した宿舎のリストを作成した。また、戦争初期から、鉄道駅で若い女性の新来者を迎え、必要に応じて恒久的な宿舎が確保されるまでの間、安全な仮の宿舎に入居させる措置が講じられていた。この制度は現在、宿舎法によって与えられた権限に基づき、宿舎委員会(1917年8月設立)の正規の活動へと発展している。この法律では、強制的な宿舎配置が規定されているが、実際には採用されておらず、これまでのところ自発的な財源から十分な便宜が図られている。

宿舎委員会は地方自治体や個人と緊密に協力し、驚くべき成果を上げています。まず、委員会の執行委員2名が混雑した軍需品地区に赴き、地元の協力を得て、宿舎の設置が適切に実施可能かどうかの調査を行います。例えば、クライドやウールウィッチといった地域では、宿舎の設置は到底不可能ですが、バローやヘレフォードといった地域では、野良猫一匹さえも収容できる場所がないという世論が広がっていましたが、委員会はバローで900人、ヘレフォードで1,200人分の適切な宿舎を既に見つけています。

交通の問題は確かに住宅問題と密接に関連しており、住宅供給委員会の活動を通じて、多くの場合、移動の困難さを解消し、ひいては工場からアクセスしやすい場所に新たな住宅を整備することが可能となった。委員会はまた、各住宅利害関係者(例えば、家主、地域、下宿人)の代表者で構成される地域委員会を設置する権限を有し、滞納している入居者から家賃を徴収する権限も有している。

これらの権限やその他の権限により、多くのアパートが市場に投入されることになった。しかし、産業労働者には兵士に適用されるような規律が適用されず、また、強制執行を行う地方自治体も存在しないため、この法律の運用には依然として困難が残る。 [59ページ]軍需労働者は、特定の宿舎に入所するか、配属されたらそこに留まるかの選択を迫られました。しかし、地域と従業員の善意が非常に大きかったため、この制度は円滑に機能し、1917年8月から12月31日の間に、3,000人から5,000人の軍需労働者が既存の宿舎に配属されました。住宅不足に陥った過密地区では、宿舎委員会がさらなる住宅の必要性を報告しており、バローやリンカーンといった中心地では、委員会の勧告に基づき新たな宿舎が建設されています。

一時的な宿泊施設

地元の宿泊施設の利用や、救貧施設、小学校、慈善団体などの既存建物の改修を除けば、軍需労働者のための仮設宿泊施設には、3つの異なるタイプ、すなわち仮設コテージ、ホステル、そしてコロニーが登場している。仮設コテージは、木造またはコンクリート造りで、通常は2階建てではなく1階建てであるという点を除けば、一般的な恒久的な産業コテージとほぼ同様である。3部屋から5部屋で構成され、3部屋で週5シリング 6ペンスから7シリング6ペンス程度の賃料で借りられる。

一般的に、これらの部屋は独身女性よりも既婚女性に割り当てられます。妻が夫と同様に近隣の工場で働いている場合もありますが、多くの場合、仮設コテージに住まう妻は家に残り、男性労働者の家事を担当します。人口密集地区の未婚の少女や女性労働者は、一般的にホステル、あるいはホステル群を指すコロニーに宿泊します。ホステルは30人から100人を収容できるように設計されており、専用のキッチン、ダイニングルーム、談話室が備え付けられており、そこでの生活はある程度、大家族の生活に近いものとなります。

コロニー、あるいはホステル群は、多数の女性を収容する必要がある場合に便利です。各ホステル(小屋)は100人から130人の就寝スペースを備え、寮は個室(シングルルームとダブルルーム)に分かれており、浴室は必ずこれらの寮棟に設けられています。コロニー制度では、食事は通常、独立した建物(複数可)で提供されます。各小屋の居住者は、共用のレクリエーションルームとランドリールームで集まります。

しかし、経験から、各寮には専用の談話室が必要であり、コロニーにはあまり大人数の寮を収容すべきではないことが分かっています。5つの寮に約500人の女子生徒が収容されるのが、効果的な家庭生活を送る上で理想的な人数のようですが、それでもなお、私たちは大規模な住宅計画を策定しています。[60ページ]数千もの施設が現在、戦時対策としてその目的を果たしています。植民地の管理には、非常に有能な女性管理官が必要であり、通常、小屋の婦長とそのスタッフ、そして食堂の管理者とその部下の選考は、彼女の手に委ねられます。最も発展した植民地では、レクリエーション担当官が任命されることがよくあります。

ミッドランド地方にある軍需労働者のための最大級のコロニーの一つを訪れた時のことを思い出します。このコロニーは、英国全土、いや、ひょっとすると帝国の隅々から集められた約6,000人の女性に住居と食事を提供する計画でした。職員は合計で約300人でした。コロニーには完璧な調和が保たれ、女性たちは新しい環境にすっかり馴染んでいるようでした。女性たちはそれぞれ専用の個室を要求でき、隣の個室とは壁とドアで仕切られていました。実際、あちこちで配置は様々で、一人で寝るのが怖い二人の友人は、寝室を共有し、寝室と更衣室を二つに分ける許可を得ていました。

にもかかわらず、個室システムは女性に大変喜ばれています。何百人もの仲間と共に働き、おそらく初めて共同生活を送る彼女たちは、自分の内面を表現できる場所を持てたことを喜びに感じているのです。あのコロニーの個室の中には、美への欲求が色濃く現れ、壁には絵入りの新聞のプリントが華やかに飾られていました。また、繊細な色合いのカーテンが掛けられ、ロッカーもそれに合わせた布で覆われている部屋もありました。別の部屋では、所有者は明らかに刺繍が好きで、トイレの備品すべてがこの女性的な雰囲気を醸し出していました。しかし、概して言えば、この個室システムを採用している他のコロニーと同様に、私が最も注目した特徴は、部屋の清潔さと秩序でした。清純さへの嗜好は伝染するもので、夜明け前に仕事に出かける前に寝室を清潔にしておくように仕向けるほどの影響を受けてしまった少女たちが、再びスラム街の環境に耐えられるとは考えにくいでしょう。

様々なタイプの少女たちの住居に関わる多くの問題は、確かに訪問者にはほとんど見過ごされがちですが、かつて女性の管理人が私に教えてくれたように、この仕事には特有の困難が伴います。たとえ医療担当者が直接不潔な習慣を取り除いたとしても、不潔な習慣を持ったまま入所する少女もいます。また、最初は激しい反感や奇妙な恐怖の兆候を見せる少女もいます。常に宗教的・人種的寛容の雰囲気を維持する必要があるのです。ミッドランド植民地では、英国のある地域出身の少女たちの寝室を同じ廊下に配置するシステムが導入されており、アイルランド出身の少女たちは一方の棟、スコットランド出身の少女たちは別の棟といった具合です。しかし、この国の他の地域では、そのような区分は見られず、完璧な調和が保たれているのを私は見てきました。

乾ドックでの船体塗装

航空機用織物の製造に携わる女性たちの概観

食堂

[61ページ]寮生の食事は、特に戦時中においては、困難を極めています。ミッドランド地方にある寮やコロニーなど、寮生は専用の食堂で食事をとります。これは、仕事の合間のシフト勤務に必要な食料を供給するためです。他の寮では、寮か工場の食堂のいずれかで食事がとれるように手配されています。

食料価格が変動する昨今、軍需労働者宿舎の維持費を正確に示すことは困難ですが、一般的に、宿舎を完全に自立させることは現実的ではありません。これは特に政府機関において顕著であり、支出資本の回収は現状では軍需品生産の増加のみに求められています。

恒久的な宿泊施設

一見すると、軍需労働者の住宅確保には仮設住宅のみを提供するのが当然の手段のように思えるかもしれない。この方法であれば、より安価で迅速な建設が可能であり、既存の建物を改修することもできる。しかし、戦前から住宅不足に悩まされていた地域で、恒久的な製造活動の見込みが高い場合、仮設住宅ではなく恒久的な住宅を提供する方が有利となる場合が多い。

恒久的な住居の提供において国が採用してきた方法について触れておくことは興味深いかもしれません。これらは以下の4つの項目に分けられます。

  1. 軍需労働者向け住宅建設のため、公益事業協会に融資が行われた事例がいくつかある。こうした融資は、ガーデン・サバーブ協会やその他の協会によって既に一般に周知されている条件に基づいている。
  2. 移民労働者の住居確保を支援するため、特定の企業に直接融資が行われています。これらの融資は、現在の金利(通常5%)で行われ、融資期間は原則として40年です。
  3. 例外的なケースとして、現在では管理施設となっている特定の民間企業は、(戦時状況による)建築費の増加分の一部を、本来であれば国庫に納められるはずだった企業の利益に充当することが認められています。
  4. 場合によっては、国が特定の地方自治体に対し、建設資本費の一部を負担することがある。いずれの場合も、この負担額は戦時状況による推定増加額を下回る。

[62ページ]このような方法で建てられる恒久的な建物のタイプは、多くの新興工業地区に見られるようなもので、2階建てのレンガ造りのコテージで、寝室が2~3つ、リビングルームとキッチン、浴室、場合によってはバスルームも備えています。時には、共通の目的のために故郷を離れ、陸路や海路で進んでやって来た労働者たちを収容するため、まるで大地から湧き出たかのように、村や町全体が出現することもあります。また、北部の孤立した荒野に大規模な国営工場が建設された例もあります。労働者たちは遠方からやって来るため、宿泊施設だけでなく、レクリエーションや生活の快適さのための適切な設備も必要としています。

1915年6月、スコットランドへと続く大幹線道路の向こうには、一部屋か二部屋のコテージが数軒、村の商店が一、二軒、そしてさらに数軒の堂々たる住宅が点在するのみで、この新しい工場の敷地のすぐ近くには湿地帯が広がっていた。その風景は、粗い草と汽水、その向こうには浜辺と海、そして冬には雪に覆われる険しい山々に囲まれた地平線を呈していた。これほど荒涼とした廃墟を、産業労働者にとって魅力的な環境に変えるには、勇気と才能が必要だった。しかし、その作業は静かに、迅速かつ効率的に、想像力と徹底性をもって、そしてこの場所の将来の運命を見据えて進められた。

1915年7月までに最初の小屋が入居し、私が特別に訪問した1917年12月には、活気に満ちた町と、そこから約8キロ離れた村が誕生していました。町、村、工場を結ぶ鉄道網は整備され、多くの道路も整備され、常設のコテージ、教会、学校、商店、従業員クラブ、研修所、大きな娯楽ホール、映画館、そして中央厨房があり、工場の労働者全員に温かい食事を提供し、宿舎や小屋には生の食材も供給していました。大小、仮設、常設を問わず、家々の周囲には小さな庭が設けられ、市民農園の需要も高く、ボウリング、テニス、クリケットなどの屋外レクリエーション施設も整っています。レンガ造りの常設コテージは12棟ずつのブロックで建てられ、現在ではそれらをまとめて宿舎として利用しています。建設計画は、最終的にこれらのコテージを家族で利用できるように再分割できるように設計されているのです。

6,000人以上の女性労働者のための住宅があり、ほぼ全員が利用していました。この大勢の女性たちの生活環境を管理するのは、女性福​​祉監督官の手に委ねられており、彼女はホステル、小屋、宿泊施設といった複雑な設備を常に適切に管理しています。女性が自宅を離れて暮らす住宅の可能性は、かつてないほど高まっていると私は考えています。[63ページ]この湿地帯の町のように、その傾向が顕著に表れている。この運動の先駆者である女性管理人は、各ホステルの収容人数を70人から100人に制限していることが、この運動の成功の鍵だと考えている。私が推測するに、女性入居者たちの幸福を支えているもう一つの重要な要素は、最低限の規則が守られ、女性たちが責任ある人間として扱われていることである。高齢の女性たちは、しばしばバンガローに住み、家政婦兼料理人の世話を受けており、そのような環境下で得られる高い自立性と個性の発揮を大いに楽しんでいる。

私が訪れた時のホステルは、大変歓迎ムードに満ちていました。クリスマス前夜ということもあり、戦時中特有のお祭り騒ぎが日常の風景でした。あるホステルの外から聞こえるピアノと歌声が、ホステル内での賑わいを予感させました。女性の管理人と私でホステルに入りました。下の階は応接室に改装されており、生垣から切り取った枝で飾られたテーブルに夕食が並べられていました。壁や支柱には、きらきらと輝く赤い実とヒイラギの葉が飾られ、あちこちに「オール・ラング・サイン」にふさわしいヤドリギの小枝が置かれていました。若い男女も集まり、「デューク・オブ・ヨーク」という賑やかなゲームが進行していました。

突然、歌と伴奏が止まり、隣の部屋から一同が一斉に部屋に入ってきた。一人の少女が前に出てきた。「この機会に」と彼女は言った。「寮母さんと秘書さんに、この屋根の下で過ごした最高に楽しい時間に感謝したいと思います。来年はここにいなくて済むように、前線から帰ってくる息子たちを迎えられるようにしたいからこそ、今こうして感謝するのです」。それは、その地域の寮生たちの共通の感情を、素朴に、そして自然に表現した言葉だった。

労働者たちの間では、どこでも同じような喜びが感じられました。研究所のクラブでは、男女ともに読書、勉強、歌、ダンスをしていました。映画館では、いつも人気の「映画」が上映されていました。大きなレクリエーションホールでは、毎週「社交会」が開かれていました。そこでは、二人の少女がバンドを組んでおり、他の少女たちは少女たちと、あるいはカーキ色の服を着た男性たちと、あるいは私服の工場労働者たちと踊っていました。少女と男性の間には健全な友情があり、別れの時が来ると、誰も恥ずかしがることなく別れが行われました。笑い声と陽気さに満ち溢れ、暗い通りでは、次々と家路につく人々の間で歌声が聞こえましたが、自尊心と威厳がはっきりと感じられました。

戦争の慌ただしさと喧騒の中で出現した新しい町で、女性が男性の衣装を着る必要のある新しい職業の中で、私たちは少なくとも次のことを達成しました。家庭生活の精神、[64ページ]喜びと愛の心は、決して萎縮することなく、むしろ国家が提供したこの慣れない家庭の中で育まれ、あるいは再び燃え上がった。実際、この奇妙な戦時中の冒険を経験した少女たちの多くは、まさにその巡礼を通して、次世代の妻や母親に最も必要とされる資質を身につけたに違いない。

それは新たな産業世界を垣間見る感動的な光景であり、もしかしたら、来るべき時代の前兆だったのかもしれない。黄金のソネットの言葉が湧き上がった。

そのとき、私は、新しい惑星が視界に飛び込んできたときの、空を見上げる監視人のような気分になった。あるいは、ダリエンの山頂で静かに、鷲の目で太平洋を見つめ、部下全員が 互いに大胆な推測をしながら顔を見合わせている、
屈強なコルテスのような気分になった。

脚注:

[1]福祉事業は、警察、工場等(雑則)法(1916年)第7条により、軍需品生産工場以外の工場にも正式に適用されるようになりました。

[2] 軍需労働者健康委員会覚書第3号、産業食堂に関する報告書(Cd. 8133)、覚書第6号、覚書第3号の付録、食堂の建設と設備(Cd. 8199)、覚書第19号、労働者の食事の調査と食事に関する提案:レナード・E・ヒル、MB、FRSによる報告書(Cd. 8798)。

[3]その後、中央統制委員会(酒類取引)の業務を引き継ぐために軍需省の食糧課が設立されました。

[4] パンチ、1916年9月6日。

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「女性の役目:軍需品作業の記録」の終了 ***
《完》


パブリックドメイン古書『ジャン・ラップ将軍によるナポレオン軍の回想』(1828)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 将軍ジャン・ラップ伯爵(Comte Jean Rapp)は、皇帝ナポレオンの軍営に在って首席の副官を勤めていたこともある、第一級の歴史証人です。つまりは相当に信任された股肱の武将の一人。
 ちなみにナポレオン時代の仏軍には「参謀」が存在しません。近代的な幕僚システムは、対ナポレオン戦争の必要から、プロイセン軍内でかたちづくられたものなのです。

 ラップは出身が市民、それもかなり貧しい労働者の子で、下級将校から軍功によって立身しました。革命時代はこうした「今太閤」のような人生が、あり得ました。ドイツ語の通訳ができたといいます。1809年にナポレオンから「帝国伯爵」に叙せられています。1771生まれ~1821-11没。

 原題は『Memoirs of General Count Rapp, First Aide-de-Camp to Napoleon』。おそらく仏文で書かれたものを英国の出版社で英訳しているので、それを今回はさらに機械に和訳させたことになりましょう。

 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまに深謝もうしあげます。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「ナポレオン第一副官、ラップ伯爵将軍の回想録」の開始 ***

ジェネラル・ラップ。
1828年4月、H.コルバーン社(ロンドン)発行。
ラップ伯爵将軍

の回想録

ナポレオンの第一副官。

彼自身が書き、

彼の家族が出版しました。

ロンドン:
ヘンリー・コルバーン社(コンデュイット・ストリート)向けに印刷。1823年。

[ページ i]

コンテンツ。
第 1 章. — 著者の軍歴の開始。— 著者の昇進。— ドゼーからの証明書。— エジプトでの幸運。— ナポレオンの紹介と性格。— 旧貴族の卑屈な振る舞い。 1
第2章ナポレオンの気性。彼に媚びへつらう者たち。彼の寛大さ。 8
第 3 章. — ナポレオンの家族への愛着。— リュシアンのナポレオンの見解への反対。— ナポレオンのラップへの恩恵。— ラップのルキエとダマに対する仲介。— 失敗する。— ルキエに手紙を書く。— 手紙が傍受され、ナポレオンに届けられる。— 皇帝はこれに激怒する。— ラップが謝罪する。— 寵愛を取り戻す。— 結婚する。— ベルナドットの皇帝に対する不名誉。— 寵愛を取り戻す。 12
第四章ナポレオンの勇気。地獄の機械。皇帝の脱出。 19
第 5 章—ナポレオンの助言を受け入れる姿勢。— 無知に対する軽蔑。— 21 と 22のゲームに対する愛着。 22
第6章第三次オーストリア戦争。フランス軍が勝利。オーストリア軍、ウルムに籠城。降伏命令。セギュール氏が交渉。敵が降伏。ナポレオンの歓喜。 26
[ページ ii]第7章オーストリア軍の残党を追撃。ミュラに敗北。ヴェルネックの降伏、ホーエンツォレルン伯に無視。書簡。ナポレオンの布告。 40
第8章フランス軍、ウィーンへ進軍。ロシア軍、敗北。ナポレオンがミュラにウィーン占領の指示を出す。 50
第9章皇帝とブルニー夫人の逸話。フランス軍の前進。ドナウ川渡河の計略。アウステルリッツ。フランス軍前衛、ロシア軍に撃退される。ロシア軍、完全敗北。ラップ負傷。昇進。ナポレオンの好意。回復。ラップへの皇帝の指示。和平締結。 54
第 10 章— プロイセンの行動。— ラップの使命。—その目的。— 彼の帰国。— ダルムシュタット大公女が皇帝の怒りを買った。— 彼女の処罰。— フランス軍がプロイセン軍の分遣隊の攻撃を受けた。— ラップがストラスブールの軍団指揮官に任命される。— 彼は指示を受ける。— 皇帝がメンツに到着する。— ラップがヴュルツブルクで皇帝と合流する。— バーデン大公への使命。— プロイセンの将軍たちの戦争開始への焦り。— ルイ王子の性格。— プロイセンの要求。— ナポレオンの布告。— シュライツでのプロイセン軍の敗北。— ラップがプロイセン国王のもとへ送られる。— 召還される。— モンテスキューの使命。— 彼の待遇。 66
第11章ブラウンシュヴァイク公の思惑。フランス軍の動きに当惑する。機動。ナポレオン、命令を下す。アウエルシュタットとイエナの戦い。フランス軍の勝利。ラップ、ロシア軍追撃を命じられる。ワイマールに入城。プロイセン王、接近する。ナポレオンの行動。負傷兵を見舞うためデュロックを派遣する。司令部 [ページ iii]ワイマールに設立。—敵の動き。—ハレでベルナドットの攻撃を受け敗走。—ナポレオンが戦場を視察。—デッサウに行く。—老公爵に対する彼の扱い。 79
第12章フランス軍がプロイセン軍を追撃する。マクデブルク前で軍団が降伏する。プロイセンの不運。フランス軍がベルリンへの進軍準備を進める。ナポレオンのダヴーストへの指示 。 89
第13章フランス軍、ポツダムに向けて出発。皇帝とエジプト出身の女性の逸話。ポツダムの状態。宮廷の逃亡。皇帝への使節団。彼らの歓迎。ブラウンシュヴァイク公の特使に対するナポレオンの所見。シャルロッテンブルクの司令部。ナポレオンの布告。 93
第14章ナポレオン、第3軍団を閲兵する。布告が軍隊に及ぼす影響。プロイセン兵2万5千人が降伏。ワイマール公、指揮権を放棄。ブリュッヘルが降伏。ナポレオン、ベリアール将軍に伝令を送る。ブリュッヘル、ハンブルクへの退却を認められる。 101
第15章ハッツフェルト公爵がスパイとして逮捕される。ナポレオンは公爵を処刑することを決意する。公爵のための執り成し。公爵の釈放。ラップ伯爵への手紙。皇帝への使節団。ラップ伯爵はワイマール宮廷の問題を整理する権限を与えられる。公爵は領地に戻ることを許される。ラップ伯爵への感謝の手紙。 107
第16章プロイセン要塞の降伏。ヴュルテンベルク公の逮捕。ポーゼンの司令部。ポーランドの状態。ワルシャワへの入城。皇帝の歓迎。ポーランド人とフランス兵の逸話。ヴィスワ川の通過。 114
[4ページ目]第17章ロシアとの関係。プルトゥスクの戦い。ラップの負傷。トルンの政府への任命。ブリュッヘルからのラップへの手紙。ブリュッヘルのためにとりなし。ダンツィヒの知事に任命される。税金が徴収される。ナポレオンのプロイセンに対する不満。 124
第18章. — 第四次オーストリア戦争 (1809年) — エスリンゲンの戦い. — シルの反乱. — ナポレオンの感情. — ヴァグラムの戦い. — ラップの事故. — ラップは共謀者たちの恩赦を得る. 136
第19章ナポレオン暗殺を企てる若いドイツ人 。暗殺者の会話と行動。 141
第20章若いドイツ人の処刑。和平締結。ミュンヘンでのラップの歓迎。バイエルンの情勢。ヴュルテンベルク王の態度。ナポレオンのフォンテーヌブローへの帰還。 147
第 21 章. — ジョゼフィーヌの離婚。— ナポレオンとマリア・ルイザの結婚。— ナポレオンはラップに不満を持ち、彼をダンツィックへ派遣する。— ダンツィックのラップ。— 守備隊の性格。— 彼はロシア駐屯軍を怒らせる。 151
第 22 章. — 反商業的法令を逃れたラップに対するナポレオンの不満。—ダンツィッヒにドゥアーヌが設立される。— ドイツ北部の不満。— ラップの陳述。— ナポレオンのドイツ人としての性格に関する無知。 158
第 23 章. —ナポレオンはダンツィックに向かいます。—皇帝とラップとの会話。 164
第24章ナポレオンはケーニヒスベルクへ進軍する。彼の意図。フランス軍の前進。ヴィルナへの到着。ロシア戦争の開始。 168
第二十五章ロシア軍の敗走 ナポリ王によるロシア軍の後衛の敗北 戦闘に関する王の報告 論争 [ページ v]ウェストファリア国王とヴァンダムの間の紛争。 171
第26章ラップがダンツィッチを去る。道路の状況。ヴィルナに到着。ポーランド国会の開会。大統領の演説。プラット神父の雄弁と交渉。 176
第27章皇帝の活動。オーポウルトへの指示。軍隊の苦境。ナポレオンの希望。ロシア総主教によるフランス軍の非難 。 186
第 28 章. — スモレンスコの戦い。— ロシア軍の脱出。— ジュノーの無活動。— 彼は皇帝の不興を買っている。— 彼に有利な仲介。— ジュノーの代わりにラップがウェストファリア軍団の指揮官に指名される。— ジュノーの性格。— 彼は指揮官としての復帰を許される。— トルマゾフの不和。— ナポレオンのベッルーノ公への指示。 190
第 29 章. —クトゥーゾフがロシア軍の指揮を執る。—彼の資格、彼の損失。—ラップが偵察に派遣される。—ボロジノの戦いの前のナポレオンの会話。—布告。 197
第30章ボロジノの戦い ラップの傷 204
第31章ロシア軍の撤退 モスクワの占領と焼き討ち 209
第32章モスクワにおける皇帝の遅延、その動機と結果。ベッルーノ公爵への皇帝の指示。フランス軍の悲惨な状態。ラップの回復。負傷者に対する皇帝の心配。 213
第33章フランス軍の撤退。—皇帝のモルティエへの伝令。—マロヤロスラヴィッツの戦い。—ナポレオン、戦場を訪問。—コサック兵に奇襲される。—ラップ将軍の振る舞い:皇帝は彼に賛辞を浴びせる。—ヴィンツェンゲローデ将軍、捕虜になる。—彼の待遇。 221
[ページvi]第34章フランス軍の悲惨な状況。マレットの陰謀。皇帝の奇襲。フランス軍、ボリステネス川を渡る。ロシア軍の攻撃。フランス軍の撤退。ネイ元帥の勇気。 230
第35章退却の継続 ヴィテプスクの占領 弾薬庫の喪失 天候の状態 フランス軍の惨事 コサック軍の攻撃 235
第36章. — 皇帝のネイに対する心遣い。— ネイがロシア軍から逃亡したという情報を受け取る。— フランス軍の窮状。— ベレジーナの戦い。— パルトノー師団の降伏。— フランス軍のヴィルナへの撤退。— ナポレオン、パリに向けて出発。— ナポレオンからの指示。— ラップがダンツィヒへ向かう。 242
第37章ダンツィックの町と守備隊の描写。ラップの準備。彼の困難。病気による守備隊の損失。食料の不足。氷の崩壊。 254
第38章連合軍の行動 デトレ将軍が偵察に派遣される フランス軍と連合軍の間で小競り合いが起こる ロシア軍がランゲフールとオーラで敗北する 262
第39章疫病の壊滅的な被害。クァデンドルフへの遠征。ロシア軍の敗北。守備隊が事態の進展を知らなかったこと。疫病が消滅。ロシア軍の信号機に火が放たれたこと。守備隊の兵士を誘惑しようとする試み。傾斜路での守備隊の閲兵式。 271
第40章―駐屯軍の食料調達努力とその困難。― ラップがネルフングへ遠征隊を派遣する。― 成功する。― ダンツィッカー家に融資を要求する。― ピエグロ上院議員への告発。― ヴュルテンベルク公爵の行動。― リュッツェンの戦いの勝利の知らせ [ページ vii]そしてバウツェン。—フランス軍への影響。—ロシア軍の敗北。—連合国が休戦協定を要請。—ラップがレユニオン勲章のリボンを受け取る。—ナポレオンのラップへの伝言。 282
第41章休戦条件 。ヴュルテンベルク公爵が条件履行の障害となる。彼の策略。ラップのヌーシャテル大公への手紙。食料の不足。戦闘の再開。 292
第 42 章. — 包囲軍の試み。— 前線陣地における守備隊とロシア軍の交戦。— 詳細。— 二次戦闘。— ロシア軍、ランゲフールを占領。— 彼らの意図。— ラップの準備。— オーラが防御態勢に入る。— ロシア軍、カブルンを攻撃。— 彼らの艦隊がフランス軍の砲台に砲撃するが、撃退される。— ヴィスワ川の氾濫。— 包囲軍の陸海軍による共同攻撃。 303
第43章―厳しい天候。― 食糧の不足。― ロシア軍の攻撃。― 彼らの敗北。― 状況と作戦計画。― ダンツィッチ、弾薬庫、および周囲の要塞の状況。― 守備隊の状態。― ドイツ軍の不満。― 彼らをおびき寄せるために使用された手段。― ラップ将軍が降伏。― アレクサンドル皇帝が降伏を取り消す。― ラップ将軍が抗議し、降伏する。 323
第44章. — キオウに捕虜として連行された守備隊。— 彼らの解放。— 1814年のフランスの状況。— 宮廷におけるラップの待遇。— エルバ島からの帰還。— ナポレオンとラップの会話。— ラップがオーバーライン軍の指揮官に任命される。— ナポレオンの手配。— 同盟国君主への手紙。— ラップがアルザスに向けて出発する。— 世論の状態。— ミュールハウゼンの女性たちの熱狂。 337
[viiiページ]第45章連合国の準備。ナポレオンのラップへの手紙。ラップが新たな資金を受け取る。皇帝のラップへの勅書。 352
第46章フランス軍の兵力と部隊。ラップ軍、ワーテルローの戦いの知らせを受ける。彼の決意。ラップ軍の前線基地が攻撃を受ける。連合軍の動き。フランス軍の勝利。彼らの撤退。 357
第47章ワーテルローの戦いの知らせの影響。ラップ軍の配置。ランペルトハイムの戦い。連合軍の計画。ラップ、ストラスブールに突入。ヴュルテンベルク公の行動。軍事協定に調印。 364
第48章ストラスブール守備隊の反乱。その行動の記述。軍隊の解散。ラップの国王への手紙。その影響。ラップの死。結論。 375
付録。
ラップ将軍からヴュルテンベルク公爵への 手紙。 405
答え 407
ヴュルテンベルク公爵からラップ伯爵閣下への 手紙。 409
答え 410
ヴュルテンベルク公爵からラップ伯爵将軍への 手紙。 411
答え 413
ヴュルテンベルク公爵からラップ将軍への 手紙。 415
ダンツィッチの降伏。 417
ヴュルテンベルク公爵からラップ将軍への 手紙。 424
答え 426
ラップ伯爵からヴュルテンベルク公爵への 手紙。 428
同じく。 430
[1ページ目]

ナポレオンの第一副官、ラップ将軍
の回想録。

第1章
私は歴史上の人物を気取るつもりはありません。しかし、私は長年、卑劣な誤解の対象となった人物と親しくしており、また、その功績が認められていない勇敢な兵士たちを率いていました。前者は私に惜しみないほどの恩恵を与え、後者は私のために命を捧げる覚悟でした。これらのことは忘れられません。

私は数年間軍隊に勤務し、いくつかの事業で成功を収めましたが、下級階級の者にはよくあることですが、特に目立った功績はありませんでした。ついに私は幸運にもデゼー将軍の目に留まりました。私たちの前衛部隊は、 [2ページ目]混乱に陥ったオーストリア軍は、速やかに再集結した。私は百人の軽騎兵と共に急行し、オーストリア軍に突撃し、敗走させた。我々はほぼ全員が傷だらけだったが、その甲斐あって称賛の言葉をいただいた。将軍は私にあらゆる必要な健康管理をするよう約束させ、兵士が得た中で最もお世辞に近い推薦状をくれた。私がこのことを述べるのは、肩章を手に入れたからではなく、あの偉大な人物との友情を勝ち取り、私の幸運の源となったからだ。推薦状は次の通りである。

ライン川とモーゼル川の軍隊。

「本部はブロッツハイム、
フランス共和国建国第3年フルクチドール30番地、一つで不可分。 」

「私は、上記軍の右翼を指揮する下記に署名した師団長として、騎馬猟兵第10連隊中尉のジャン・ラップ市民が、過去2回の作戦の間、私の指揮下で上記連隊に勤務し、あらゆる機会に並外れた知性、冷静さ、勇気を示し、3回負傷し、 [3ページ]西暦2年の第9回大戦、彼は猟兵中隊の先頭に立って、自軍の5倍もの兵力を誇る敵の軽騎兵隊を、果敢なる勇猛果敢さで切り裂き、我が軍の一部の退却を援護し、勝利の栄誉を勝ち取りました。彼がその勇敢さの犠牲となり、武器を失うほどの重傷を負ったことは、どれほど深くも惜しまれるべきことです。彼は国民の感謝に値し、もしより積極的な任務に就くことが不可能になったならば、何らかの名誉ある役職に任命されるべきです。ラップ市民は、彼を知るすべての人々から友情と尊敬を受けていることを誓います。

デゼ。

オッフェンブルクの謙虚な征服者の副官となり、私は彼の下でドイツとエジプトの戦役に従軍しました。セディマンでは小隊長に任命され、二百人の勇敢な兵士を率いてトルコ砲兵隊の最後の残党を撃破するという幸運に恵まれました。そしてテーベの廃墟近くのサマンハウトで大佐に昇進しました。この最後の戦いで重傷を負いましたが、総司令官の報告書に名誉ある記録が残されています。

[4ページ]

マレンゴの戦いで勝利を決定づけた勇敢なドゼーが戦死すると、第一執政官は私を自らの代理として任命してくださいました。上エジプトの征服者に与えたであろう恩恵が、私にも与えられました。その時以来、私はある意味で恒久的な地位を確立し、人脈もさらに広がりました。

熱意、率直さ、そしてある程度の軍事的才能が、私にナポレオンの信頼をもたらした。彼は周囲の人々に、ラップほど生まれながらの良識と洞察力を備えた者はほとんどいないとよく言っていた。こうした称賛は私にも繰り返され、正直に言って私はそれにうぬぼれていた。もしこれが弱点だとしても、それは許されるだろう。誰にでも弱点はあるものなのだ。第一統領への感謝の証となるなら、命を捧げても構わないと思っていた。彼はそれを知っていて、友人たちには私が愚痴っぽい、頭は悪いが心は優しいと何度も繰り返し言っていた。彼は私とランヌの両方に親しく接し、話しかける時には代名詞「汝」を使った。彼が「あなた」や 「ムッシュ・ル・ジェネラル」と呼ぶと、私たちは不安になり、失墜したと確信した。彼には、噂話好きな警察制度を重視する弱点があったが、その制度は大抵の場合彼を欺いていた。 [5ページ]虚偽の報告によって。あの忌まわしい警察制度は彼の幸せな人生を苦しめ、親友や親戚、さらには妻に対しても、彼をしばしば憤慨させた。

ナポレオンは単なる勇気にはほとんど重きを置かず、それをフランス人に共通するありふれた功績とみなしていました。彼は勇敢さをより高く評価し、勇敢な兵士のどんな欠点も喜んで許しました。謁見や閲兵式で誰かが頼み事をすると、彼は必ず負傷したかどうかを尋ねました。彼はあらゆる負傷は貴族の功績だと断言しました。このように功績のあった人々には敬意を表し、褒美を与えました。それには十分な理由がありました。しかし、彼はすぐに彼らが控えの間を使わないことに気づき、そこを古参の貴族たちに開放しました。この優遇は私たちの気分を害しました。彼はそのことに気づき、私たちが腹を立てていることに不快感を示しました。ある日、彼は私にこう言いました。「私が家に入れた貴族たちが、あなたたちの気に入らないのは明らかだ」。しかし、私はその特権に十分値する人物でした。私は移民リストから何人かの紳士を削除していたのです。私はある人たちに場所を提供し、またある人たちには金銭や年金を与えました。これらの恩恵を覚えている人もいるでしょうが、大多数の人は [6ページ]彼らのことをすっかり忘れてしまった。そのため、国王の帰国以来、私の財布は閉じられている。私の目的は不幸を和らげることであり、感謝を得ることではなかったが、それでも、私たちが盾に掲げた偉大な人物と私たちの間に移民たちが割り込むことは望まなかった。

私はこの不愉快な場面を忘れていた。しかしナポレオンは、見逃しそうな不快な発言を一つも忘れなかった。彼は厳しさを装おうとしたが無駄だった。持ち前の気質がその努力を抑制し、常に優しい感情が優勢になった。彼は私を呼び寄せ、貴族と移民について話した。そして突然、先ほど触れた場面を持ち出し、こう言った。「あなたは私がこれらの人々に好意を持っていると思っているようだが、それは間違いだ。私は彼らを使っている。そして、その理由は君も知っているだろう。私が貴族と関係があるというのか? 貧しいコルシカの紳士だった私が?」――「私も軍隊も」と私は答えた。「あなたの出自を尋ねたことは一度もありません。あなたの行動だけで十分です。」私はこの会話を何人かの友人、とりわけムートン将軍とローリストン将軍に話した。

しかし、これらの貴族のほとんどは、強制に屈しただけだと主張している。これほどの虚偽はない。チェンバレンの任命を一方的に受けた者は、私の知る限り二人しかいない。 [7ページ]少数ながら有利な申し出を断った者もいたが、そうした例外を除けば、全員が懇願し、懇願し、執拗に迫った。全く前例のない熱意と献身の競争があった。どんなに卑しい仕事、どんなにつまらない役職であっても、拒否されることはなかった。まるで生死に関わる問題のように思われた。タレーラン、モンテスキュー、セギュール、デュロックといった閣僚の職務に裏切り者が入り込むことがあれば、どれほど熱烈な愛情表現が生まれることだろう。しかし、かつてこの愛情表現をしていた者たちは、今や互いに競い合い、憎悪と悪口を吐き出している。もし彼らが今のようにナポレオンに対して深い憎悪を抱いていたとしたら、15年間も彼の足元にうずくまっていたことで、彼らは自らの感情に奇妙な暴力を振るっていたと告白しなければならない。しかし、ヨーロッパ全土の人々が証言できるのは、彼らの気取らない態度、決して変わらない笑顔、そして従順な態度から、彼らの奉仕は彼ら自身の自由な選択によるものであり、犠牲はほとんどかからないということである。

[8ページ]

第2章
ナポレオンを暴力的で、無慈悲で、情熱的な人物と評する人は多い。それは、彼らが彼を知らないからだ。重要な仕事に没頭し、意見に反対され、計画に妨害を受けていたため、時折、苛立ちや怒りの感情を露わにするのは当然のことだった。持ち前の優しさと寛大さが、彼の怒りをすぐに鎮めた。しかし、腹心たちは彼をなだめようとはせず、むしろ怒りをかき立てることに終始した。「陛下のお言葉に甘んじます」と彼らは言うだろう。「そのような者は銃殺されるか、屈辱を受けるか、解任されるか、あるいは失脚させられるべきです。私は彼が陛下の敵であることをずっと前から知っています。見せしめを示さなければなりません。平穏を保つためには、それが必要なのです。」

もし問題が敵国領土への拠出金徴収であったなら、ナポレオンはおそらく2000万ポンドを要求するだろう。しかし、さらに1000万ポンドを徴収するよう助言されるだろう。彼の周囲からは「 [9ページ]陛下は国庫を節約し、外国の費用で軍隊を維持するか、あるいは連合の領土内で軍隊を生存させるようにしてください。」

20万人の徴兵を企てたとしても、30万人を要求するよう説得された。権利が疑う余地のない債権者に支払いを申し出ると、債務の合法性に疑問が生じ、請求額は半分か3分の1に減額されることもあった。債務が全く認められないことも珍しくなかった。

彼が戦争を始めると口にすれば、その大胆な決断は称賛された。戦争はフランスを豊かにすると言われ、世界を驚かせること、それも偉大な国にふさわしい方法で驚かせることが必要だと言われた。

こうして、不確かな計画や事業に突き動かされ、奮い立たされたナポレオンは、絶え間ない戦争に身を投じることとなった。こうして、彼の統治は、彼自身の極めて温厚な性格や習慣とは相反する、暴力的な雰囲気を帯びることになった。

彼ほど寛容な心を持ち、人類の声に耳を傾ける人はいなかった。これについては何千もの例を挙げることができるが、ここでは次の例にとどめておきたい。

[10ページ]

ジョルジュとその共犯者たちは既に死刑判決を受けていました。ジョゼフィーヌはポリニャック氏のために、ミュラはリヴィエール氏のために仲裁に入り、両者とも調停に成功しました。処刑当日、銀行家シェーレルは涙を流しながらサン=クルーに急行し、私と話をしたいと申し出ました。彼は、事件に関与した義理の弟である老スイス人少佐、ルシヨン氏の恩赦を請うよう私に懇願しました。シェーレル氏には、被告の親族である同胞が数人同行していました。彼らは、少佐が刑罰に値することは承知しているものの、彼が一族の長であり、ベルン州で最も名門の家系と親交があることを指摘しました。私は彼らの懇願に従いましたが、その決断を後悔する理由はありませんでした。

午前7時だった。ナポレオンが起き上がり、コルヴィザールと共にクローゼットにいた時、私は招集された。「陛下」と私は言った。「陛下がスイスの統治をあなたの調停によって安定させてから、まだそれほど時間が経っていません。しかし、国民、特にベルンの住民は皆同じように満足しているわけではないことはご存じの通りです。今こそ、陛下の寛大さと寛大さを彼らに証明する機会です。今日、スイスの同胞の一人が処刑されます。彼は国内の名家と縁があります。もし恩赦を与えていただければ、 [11ページ]きっと大きな反響を呼び、多くの友人を得ることになるでしょう」――「この男は誰だ?名前は?」とナポレオンは尋ねた。「ルシヨンです」と私は答えた。この名前を聞くと、彼は激怒した。「ルシヨンはジョルジュ自身よりも罪深い」と彼は言った。「陛下が今、私に語ってくださっていることはすべて承知しております。しかし、スイスの人々、彼の家族、子供たちがあなたを祝福するでしょう」彼を赦免して下さい。彼自身のためではなく、彼の愚行の犠牲となった多くの勇敢な人々のために。――「聞け」と彼はコルヴィザールの方を向き、私の手から嘆願書を受け取り、承認し、急いで私に返しながら言った。「直ちに使者を派遣して処刑を中止させよ。」 家族の喜びは容易に想像できる。彼らは公文書を通して私に感謝の意を表してくれたのだ。ルシヨンは共犯者と共に投獄されたが、後に釈放された。国王の帰国後、彼は何度かパリを訪れているが、私は彼に会っていない。彼は私が彼への奉仕をあまり重要視していないと考えているようだが、その通りだ。

[12ページ]

第3章
ナポレオンほど感受性が豊かで、愛情に揺るぎない男はいなかった。彼は母を深く愛し、妻を深く敬愛し、姉妹、兄弟、その他の親族にも深い愛情を注いだ。母を除けば、誰もが彼に最も激しい苦悩を与えた。それでも彼は、彼らに富と名誉を与えることを決してやめなかった。親族の中でも、兄のリュシアンは彼の見解と計画に最も断固として反対した。ある日、ある問題について激しく議論していた時、リュシアンは時計を取り出し、地面に激しく叩きつけながら、兄に驚くべき言葉を放った。「私があの時計を壊したように、お前も自滅するだろう。そして、お前の家族や友人がどこに頭を隠せばいいのか分からなくなる時が来るだろう。」数日後、彼は兄の同意を得ることもなく、自分の意思を告げることさえせずに結婚した。しかし、これは [13ページ]1815年にナポレオンが彼を迎えるのを妨げることはできなかったが、そうするように促されなかったわけではなかった。リュシアンは前哨基地​​で待たなければならなかったが、すぐに皇帝の面前に出ることを許された。

ナポレオンは親族に寛大な心を与えたにとどまりませんでした。友情、奉仕、すべてが報われました。この点については、私自身の経験から語ることができます。私は勇敢なドゼー将軍の副官としてエジプトから帰国し、貯めていた200ルイ(私の全財産)を携えてきました。退位時には、寄付、任命、報酬、臨時手当などから40万フランの収入がありました。この収入の6分の5を失いましたが、後悔はしていません。今も残っている収入は、初期の財産とは比べものにならないほど大きいのです。しかし、私が後悔しているのは、多くの血と努力の代償として得た栄光です。それは永遠に失われ、そのことを私は慰めようがありません。

ナポレオンの恩恵にあずかったのは私だけではありませんでした。他にも何千人も同じように恩恵に恵まれました。そして、一部の人々の不品行によって彼が受けた損害は、彼の親切を行使する妨げにはなりませんでした。これらの損害がどれほど深刻であったにせよ、[14ページ] 心がそれらを生み出すことに何ら関与していないと確信すると、それらはすぐに忘れ去られた。この点における彼の寛容さの例を百挙げることもできるが、以下に挙げれば十分だろう。

彼が皇帝の称号を授けられた際、それまで軍人一筋だった皇帝一家に起こった変化は、私たちの何人かを憤慨させました。私たちは偉大な人物との親密な関係を享受することに慣れていたため、皇帝の紫衣によって課せられた遠慮に不快感を覚えました。

当時、レニエ将軍とダマ将軍は失脚していた。私は両将軍と親しく、友人を不幸に見捨てるようなことはしなかった。ナポレオンの両将軍に対する偏見を払拭しようとあらゆる努力を尽くしたが、成果はなかった。ある日、私はレニエのために再び仲介を試みようとしたが、ナポレオンは我慢できなくなり機嫌を損ね、冷淡に、もう彼のことは聞きたくないと言った。私は勇敢な将軍に手紙を書き、私の努力はすべて無駄だったことを伝えた。辛抱強く待ってほしいと懇願し、その場の落胆から生まれた数行の言葉を付け加えた。私は軽率にも、この手紙を郵便局に託してしまった。その結果、手紙は開封され、皇帝に送られた。皇帝は3、4週間かけてそれを読み上げた。 [15ページ]四度も私の書いたものをいくつか持ち込んで比較するよう命じましたが、私が書いたものだとはほとんど信じられませんでした。彼は激怒し、サンクルーから私が宿泊していたチュイルリー宮殿へ急使を送ったのです。私は任務に召集されたと思い、すぐに出発しました。家のサロンでカファレリと一緒にいるコーランクールを見つけ、何があったのか尋ねました。彼は事件の一部始終を聞いており、ひどく動揺しているようでしたが、私には一言も話しませんでした。私はナポレオンの部屋に入りました。彼は手紙を手に、激怒してクローゼットから出てきました。彼はいつも私を不安にさせるあの怒りの視線を私に向けました。「この文章を知っているのか?」王は言った。「はい、陛下」――「陛下のものですか?」――「はい、陛下」――「まさかこんなことを疑うはずはなかった。私の敵にそんな言葉を使うなんて!私があれほど厚遇したあなたに!私があれほど尽力したあなたに!私の側近の中で唯一、チュイルリー宮殿に泊めてくれたあなたに!」――王のクローゼットの扉が半開きになっていた。彼はそれに気づき、秘書の一人、メネヴァル氏に何が起こっているのか聞かせようと、扉を大きく開け放った。「出て行け」と彼は私を頭からつま先まで見渡しながら言った。「出て行け。恩知らずだ!」――「陛下」と私は答えた。 [16ページ]「私は恩知らずの心を持っていたことは一度もありません」――「この手紙を読んでください」と彼は私に手紙を差し出し、「私があなたを不当に非難しているかどうか判断してください」――「陛下、あなたが私に浴びせられるあらゆる非難の中で、これは最も厳しいものです。あなたの信頼を失った今、私はもうあなたに仕えることはできません」「はい、あなたは確かに私の信頼を失いました」私は丁重に頭を下げ、その場を立ち去った。

アルザスへ隠遁することを決意し、出発の準備を進めていたところ、ジョゼフィーヌからナポレオンに謝罪を申し出るようとの手紙が届いた。しかし、ルイ14世は反対の意見を述べ、決意が固まった私は皇后陛下の指示に従う気はさらさらなかった。二日が経過してもサンクルーからの連絡はなかった。ベシエール元帥を含む友人たちが訪ねてきた。「あなたは間違っている」と元帥は言った。「認めざるを得ない。皇帝陛下への敬意と感謝の気持ちから、自分の過ちを認めるのは義務だ」私はその提案に従った。ナポレオンは私の手紙を受け取るや否や、自分の乗馬に同行するよう依頼してきた。しばらくの間、彼は私に機嫌が悪かったが、ある日、サンクルーの早朝に私を呼び寄せた。「もうあなたに腹を立てているわけではない」と彼は非常に親切な態度で言った。「あなたは [17ページ]「私たちは大きな愚行を犯しました。でも、もう忘れてしまいました。あなたに結婚してほしいのです。」彼は二人の若い女性のことを言い、どちらも私にふさわしいと言った。私は結婚したが、残念ながら幸せな結婚にはならなかった。

ベルナドットは甚大な不名誉に陥っており、当然の報いを受けた。私はプロンビエールで彼に会った。彼は水利のため、妻と息子を伴ってそこへ行くことを許されていたのだ。私も同じ目的でそこを訪れたことがある。私はいつもベルナドットの親切で人当たりの良い性格を賞賛していた。私はプロンビエールで彼に何度も会っていた。彼は最も心を痛めている事情を私に打ち明け、皇帝との和解のために私の力を貸してほしいと懇願した。皇帝への尊敬は尽きず、中傷的な噂によって彼に敵対的な態度をとっていると彼は言っていた。帰国後、彼の友人、義理の兄弟、そしてジュリー夫人自身が彼のためにとりなしをしたが、無駄だったことを知った。ナポレオンは彼らの言うことを一切聞こうとせず、ベルナドットに対する彼の怒りはますます高まっていった。しかし私は彼のためにできる限りのことをすると約束した。そして私は約束を守る義務があった。皇帝はヴィリエへ出発する準備をしていた。そこでミュラは祝宴を開くことになっていた。 [18ページ]上機嫌で、この好機を利用しようと決意した。皇帝に侍従することになっていたベシエール元帥にこの計画を伝えたが、彼は私の考えを思いとどまらせようとした。彼は、ジュリー夫人がまさにその朝マルメゾンにいて、求婚がうまくいかなかったために涙を流して立ち去ったと告げた。この状況は私に自信を与えるようなものではなかったが、それでも私は仲介を敢行した。ナポレオンには、プロンビエールでベルナドットに会ったこと、彼がその不名誉に落胆し、深く悔いていることを伝えた。「彼は陛下への愛と忠誠を一度も失ったことがないと主張しています」と私は付け加えた。「彼のことは口にしないでくれ。銃殺に値する」とナポレオンは言い、全速力で出発した。ミュラの祝宴で、私はジョセフとその妻に会った。そして、私はどれほど不運だったかを彼らに話しました。この出来事はベルナドットの知るところとなり、彼女は私の善意に感謝してくれました。ベルナドットとの間に幾度となく誤解があったにもかかわらず、ナポレオンはその後、彼の過去の過ちをすべて許し、富と名誉を授けました。今、王太子は即位しようとしていますが、その財を成した者は海の真ん中の岩場に追放されています。

[19ページ]

第4章
ナポレオンは勇敢ではなかったと断言されている。砲兵中尉の階級からフランスのような国の支配者にまで上り詰めた男が、勇気に欠けるはずはない。ブリュメール18日、ニヴォーズ5日、そしてアレーナの陰謀における彼の行動は、たとえ証拠が不足していたとしても、十分な証拠となる。彼はジャコバン派とシュアン派の中に敵がどれほど多いかをよく知っていた。それでも彼は毎晩パリの街路を歩き、様々な集団と交わり、二人以上で行動することはなかった。ランヌ、デュロック、ベシエール、あるいは彼の副官の何人かが、こうした夜の外出に同行するのが常だった。この事実はパリ中に知れ渡っていた。

地獄の機械事件は、国民に正しく理解されることはなかった。警察はナポレオンに暗殺の企てがあると告げ、外出を控えるよう警告していた。マダム・ボナパルト、マドモアゼル [20ページ]ボアルネ、マダム・ミュラ、ランヌ、当直の副官ベシエール、そして今やプラセンツァ公爵となったルブラン中尉が皆、サロンに集まっていた。第一執政官は書斎で書き物をしていた。その夜はハイドンのオラトリオが演奏されることになっていた。婦人たちは音楽を聴きたがっており、私たちもその旨を伝えた。護衛のピケ隊が出動するよう命じられ、ランヌはナポレオンに同席を要請した。彼は同意し、馬車も用意され、ベシエールと当直の副官を連れて行った。私は婦人たちの世話をするよう指示された。ジョセフィーヌはコンスタンティノープルから豪華なショールを受け取っていて、その夜初めてそれを身につけた。「お察ししますが、夫人」と私は言った。「あなたのショールはいつものように優雅に着こなされていませんね」彼女は気さくに、エジプトの貴婦人風に畳んでくれと頼んできた。私がこの作業に取り組んでいる間、ナポレオンが出発する音が聞こえた。「さあ、姉さん」と、劇場に早く行きたくてたまらなかったミュラ夫人が言った。「ボナパルトが出発するわ」。私たちは馬車に乗り込んだ。第一統領の馬車はすでにカルーセル広場の中央にまで達していた。私たちは馬車を追いかけたが、広場に入るや否や、馬車は爆発した。ナポレオンは奇跡的に難を逃れた。 [21ページ]サン=ルジャン、あるいは彼のフランス人の従者は、ニケーズ通り の真ん中に陣取っていた。護衛の擲弾兵は、彼が見かけ通りの水運び人だと思い込み、サーベルの平手で彼を数回殴打し、追い払った。馬車は向きを変え、馬車はナポレオンとジョセフィーヌの馬車の間で爆発した。その知らせを聞いた婦人たちは悲鳴を上げた。馬車の窓は割れ、ボアルネ嬢は手に軽い傷を負った。私は馬車を降り、ニケーズ通りを渡った。通りは、投げ出された人々の死体と爆発で砕けた壁の破片で散乱していた。領事も彼の随員も、大きな怪我は負わなかった。私が劇場に入ると、ナポレオンはボックス席に座り、落ち着いてオペラグラス越しに観客を見ていた。フーシェが彼の隣にいた。 「ジョゼフィーヌだ」と彼は私を見つけるや否や言った。ちょうどその時彼女が部屋に入ってきたので、彼は質問を終えることができなかった。「あの悪党どもは」と彼は冷淡に言った。「私を爆破しようとしていたんだ。オラトリオの楽譜を持ってきてくれ。」

聴衆はすぐに彼が危険から逃れたことを知り、深い関心を抱いた証言で彼に敬意を表した。これらは紛れもない事実だと思う。[22ページ] 勇気の証。戦場で彼に従った者たちは、これ以上の言葉を挙げられることに困ることはないだろう。

第5章
ナポレオンは、批判者たちが何を言おうとも、自分の意見において高圧的でも頑固でもなかった。彼は情報を得ることに熱心で、意見を持つ権利のある者すべてから意見を聞きたがっていた。評議会のメンバーの中には、彼を喜ばせたいという思いが他のあらゆる配慮を凌駕することもあったが、ナポレオンはそれに気づくと、必ず議論を適切な調子に戻した。「紳士諸君」と彼は部下たちに言ったものだ。「私が君たちをここに呼んだのは、私の意見に同調させるためではなく、君たちの意見を聞かせるためだ。君たちの考えを説明してくれ。そうすれば、君たちの提案する計画が私の考えよりも優れているかどうか見てみよう。」

ブローニュ滞在中、彼は海軍大臣にこの種の教訓を与えた。彼はいくつかの質問を投げかけたが、デクレ氏はただ賛辞を連ねるだけで返答した。ナポレオン [23ページ]ヴィルヌーヴ提督はカディスに留まるべきか、という問いに対する答弁書を明日中に送付していただき たい。現状の重要性、そしてフランスとイギリスが置かれている状況をよく考えていただきたい。昨日送ったような手紙はもう送らないでください。何の役にも立ちません。私の願いはただ一つ、成功することです。そのために神に祈ります。

アウステルリッツの戦いの二日前、軍の一部が不利な陣地に駐屯していた。そこを担当していた将軍は、その不利な点を誇張していた。しかし、評議会が開かれると、将軍は陣地の維持可能性を認めただけでなく、防衛を約束した。「元帥殿、これはどういうことですか?」とベルク大公は言った。「つい先ほど表明された疑念はどうなったのですか?」――「審議のために集まったのに、お世辞に何の意味があるというのですか?」とローネス元帥は答えた。「皇帝には事実をありのままに伝え、皇帝が適切と考える行動を取らせるべきです。」「その通りです」とナポレオンは言った。「私の好意を得ようとする者は、私を欺いてはなりません。」

[24ページ]

しかし、彼は常に助言を受ける資格のある者からの助言を受け入れる用意はあったものの、たまたまその主題について無知な者からの発言には我慢できなかった。ある日、フェッシュはスペイン戦争について意見を述べようとしていた。彼が二言も発しないうちに、ナポレオンが彼を窓辺に案内し、「あの星が見えますか?」と尋ねた。正午だったが、大司教は何も見えないと答えた。「よし」とナポレオンは言った。「私がそれを見ている唯一の人間である限り、私は自分の道を進む。そして、私の行動について非難されることはなくなるだろう。」

ロシア遠征から帰還したナポレオンは、コサックの槍ではなく、厳しい寒さと飢えによって犠牲となった多くの勇敢な兵士たちの死を、深い悲しみとともに嘆き悲しんでいた。ある廷臣が、その言葉に同調しようと、非常に悲痛な様子で「本当に、大変な損失を被りました!」と言った。「そうです」とナポレオンは答えた。「バリリ夫人[1]が亡くなりました」

[1] 有名なオペラ歌手。

彼はいつも愚行を嘲笑したが、社交や率直さを嫌う態度を決して見せなかった。

バキオシ夫人はある日、親戚のM. d’A * * * *をチュイルリー宮殿に連れてきました。彼女は [25ページ]彼を家の大広間に案内した後、私と二人きりになった。このアマデウス・ダ・アマデウス …

ナポレオンがA氏を解任した際、なぜ私が退任をためらっていたのかと尋ねられました。「ご存知でしょうが、私はおせっかいな人間ではありません。しかし、正直に言って、私はあなたのコルシカ島民を好んでいません」と答えました。この逸話はナポレオン自身も語り、彼の親族の中には不快に思う者もいました。しかし、私が彼の同胞についてこのように語るのを彼は聞きたくなかったに違いありません。

ある晩、ワグラムの戦いの後、私たちは ヴァン・エ・アンで遊んでいました。ナポレオンはこのゲームが大好きでした。彼はいつも一緒に遊んでいる相手を騙そうとし、その様子をとても楽しんでいました。 [26ページ]彼は策略を巡らせた。目の前のテーブルには大量の金貨が広げられていた。「ラップ」と彼は言った。「ドイツ人はこの小さなナポレオン金貨があまり好きではないのですか?」――「はい、陛下。彼らは大きなナポレオン金貨よりもずっと好きです」「それがドイツ人の率直さというものでしょう」と彼は言った。

第6章
オーストリアとの第三次戦争が勃発したとき、私はブローニュの陣地にいました。フランス軍はライン川を渡河していました。敗北し、ほぼ壊滅状態にあった敵軍の残党はウルムに籠城し、直ちに降伏を命じられました。ド・セギュール氏が行ったこの交渉の記録は、不運な将軍の混乱と不安を非常によく表しており、ここに引用せずにはいられません。以下はド・セギュール氏自身の声明です。

「昨日、ヴァンデミエール月24日(10月16日)、皇帝は私に [27ページ]彼は私にウルムへ行き、マック将軍を説得して五日以内に降伏させよ、もし将軍がどうしても六日必要とするなら、その時間を与えよ、と指示した。他には何も指示はなかった。夜は暗く、恐ろしい嵐が起こり、雨がどしゃ降りになった。十字路を通って移動し、沼地を避けるためのあらゆる予防措置を講じる必要があった。沼地では、人も馬も、そして任務も、不意に命を落とす恐れがあった。私は、前線部隊の誰一人も見つけられないまま、街の門に着くところだった。全員撤退していた。哨兵、護衛兵、前哨、全員が身を隠していた。砲兵公園さえ放棄され、火も星も見えなかった。私は三時間さまよい歩き、ようやく将軍を見つけ出した。いくつかの村を通り、出会った人全員を尋問したが、満足のいく答えは得られなかった。

ついに私は、カソンの下に半分泥に埋もれ、寒さで体が硬直している砲兵のトランペット奏者を見つけた。私たちはウルムの城壁に近づいた。私たちの到着は間違いなく予想されていた。というのも、フランス語が堪能な将校、ラトゥール氏が最初の呼び出しで現れたからだ。彼は私の目に包帯を巻き、要塞をよじ登らせた。私は言った。 [28ページ]ガイドに、夜は真っ暗なので目隠しは不要だと言ったが、それは習慣なので仕方がないと答えた。私たちはかなりの距離を歩いたようだった。私はガイドと話をした。私の目的は、市内に何人の兵士が閉じ込められているのかを確かめることだった。マック将軍と大公の邸宅から遠いのかと尋ねると、ガイドは「すぐ近くです」と答えた。オーストリア軍の残党はすべてウルムにいると私は結論づけ、その後の会話でこの推測が正しいことがわかった。ついに私たちは総司令官が滞在している宿屋に着いた。彼は背の高い老人で、青白い顔つきは活発な想像力を表していた。彼の顔色は不安感で乱れており、それを隠そうとしていた。何度か挨拶を交わした後、私は彼に自分の名前を告げた。そして、私の任務について話し始めると、皇帝が降伏を促し、降伏の条件を皇帝と取り決めるために私を遣わしたと伝えた。この言葉は明らかに彼を怒らせ、最初は私の話をそれ以上聞く気がないように見えた。しかし、私は聞き入れることを主張し、受け入れられた以上、皇帝同様、私も当然のことながら、 [29ページ]彼が自分の立場を理解しているとは思えない。しかし彼は鋭く、ロシア軍が援軍に進軍してくるので、状況はすぐに変わるだろう、我々は二つの砲火に挟まれ、その時こそ降伏する番だと答えた。私は、彼が今のような状況にあるのだから、ドイツで何が起こっているか知らないのは当然だが、ベルナドット元帥がインゴルシュタットとミュンヘンを占領しており、ロシア軍がまだ姿を見せていないインに前線を配置していることを知らせなければならないと答えた。「ロシア軍がダッハウにいるという確かな情報がないとは、私は大間違いだ!こんなことを言うのか?私を子供だと思っているのか?」とマック将軍は怒って叫んだ。いいえ、ムッシュ・ド・セギュール、もし八日以内に援助が得られなければ、要塞の明け渡しに同意します。ただし、兵士は捕虜、士官は仮釈放となります。八日間あれば援助を受ける時間があり、私は義務を全うできます。しかし、援助は必ず得られると確信しています!」――「もう一度申し上げますが、将軍、我々はダッハウだけでなくミュンヘンも支配しています。さらに、あなたの推測が正しいとすれば、もしロシア軍が本当にダッハウにいるとすれば、五日で [30ページ]「彼らに前進して我々を攻撃させるのを許し、陛下はこの五日間をあなたに与えてくださるつもりです」――「いいえ」と元帥は答えた。「私は八日間を要求します。他のいかなる提案も聞き入れることはできません。八日間は必要です。その期間は私の責任を果たす上で不可欠だからです」――「では」と私は続けた。「問題は五日間と八日間の違いをどう解決するかという点にあります。しかし、皇帝陛下が十万人の兵を率いてあなたの前にいらっしゃるのと、ベルナドット元帥とマルモン将軍の軍団でロシア軍の進撃を三日間遅らせるのに十分であるのに、なぜ閣下がこの点をそれほど重視されるのか私には理解できません。たとえロシア軍が実際には非常に遠い場所にいると仮定したとしてもです」――「彼らはダッハウにいます」とマック将軍は繰り返した。「さて、男爵!そうしましょう。たとえ彼らがアウクスブルクにいるとしても、我々はあなたと合意に達する用意が一層整うでしょう」ウルムを攻撃で占領させようとは思わないでください。そうすれば、5日間も待つ必要がなくなり、皇帝は朝のうちに占領してしまいます。」「閣下」と総司令官は答えた。「1万5千人の兵をそう簡単に征服できるとは思わないでください。征服には多大な犠牲を払うことになります。」「おそらく数百人でしょう」と私は答えた。「ドイツは非難するでしょう。 [31ページ]「軍の損失とウルムの破壊、つまり陛下が私に命じた提案によって阻止しようとしている攻撃のあらゆる恐怖を、あなたに負わせるつもりです。」――「むしろ、一万人の兵力の損失になると言うべきです」と元帥は叫んだ。「ウルムの強さは周知の事実です。」――「それは、周囲の高地にあり、我々が掌握しているものです。」――「おいおい、閣下、ウルムの強さを知らないはずがありません!」――「とんでもない、元帥。私は今、街の城壁の中にいるので、それをよりよく理解できます。」――「さて、閣下」と不運な将軍は続けた。「もし皇帝陛下が八日間の休戦を認めなければ、兵士たちは全力で自衛する準備ができているのを目にしているでしょう。私はかなり長い間持ちこたえることができます。」ウルムには 3,000 頭の馬がいますが、手放すくらいなら喜んで食べましょう。あなたが私たちの立場だったら喜んでそうするでしょう。」—「3,000 頭の馬です!」私は叫びました。「ああ、元帥様!そのような哀れな資源に頼るなんて、恐ろしい苦しみを覚悟しなければなりません。」

「元帥は10日分の食料があると熱心に私に保証したが、私はそんなことは信じられなかった。夜が明け始め、交渉は [32ページ]会談の開始を告げた。私は6日間の猶予を与えてもよかったのだが、マック将軍があまりにも頑固に8日間を主張したので、1日の譲歩は無駄だと判断した。私は危険を冒すつもりはなかったので、立ち上がって立ち去ろうとした。指示では夜明け前に戻ること、そして提案が却下された場合に備え、攻撃開始の命令をネイ元帥に伝えることになっている、と告げた。ここでマック将軍は、元帥が休戦旗の一つに向かってメッセージを聞こうとしなかったことについて不満を述べた。私はこの状況を利用し、元帥の気性は性急で衝動的で手に負えないこと、元帥は最も多くの軍団を率いており、しかも市街地に最も近い軍団を率いていること、そして私がウルムを出発する際に伝える予定の攻撃開始の命令をじっと待っていることを指摘した。しかし、老将軍はひるむことはなかった。彼は8日間の猶予を与えることを主張し、私に皇帝に提案するよう促しました。

「哀れなマック将軍は、まさに自らの破滅とオーストリアの破滅に署名しようとしていた。しかし、彼は絶望的な状況にあって、最も残酷な不安に苦しんでいたに違いないにもかかわらず、それでも屈服することを拒んだ。彼は [33ページ]心の中で、彼は熱心に議論を続けた。彼が擁護できる唯一のもの、すなわち時間だけを擁護した。オーストリアの陥落を遅らせようとしたのだ。オーストリアの陥落は自らが引き起こしたもので、準備のためにもう少しの猶予を彼女に与えたいと願っていた。オーストリアが敗北しても、彼はオーストリアのために戦い続けた。彼の性格は軍事的というより政治的であり、権力に対抗する際には狡猾さを発揮した。彼は様々な憶測の中で当惑していた。

25日の午前9時頃、私はエルヒンゲン修道院で皇帝と再会し、交渉の状況を報告した。皇帝は大変満足した様子だったので、私は彼のもとを去った。しかし、皇帝は私に再び同席するよう要請し、私がすぐに来なかったことを知ると、ベルティエ元帥を私のもとへ派遣し、マック将軍に直ちに署名を求める提案書の写しを渡した。皇帝はオーストリアの将軍に、封鎖初日の23日から8日間の猶予を与えた。こうして、実際には6名に減員された。私は当初この提案も検討したが、結局は受け入れなかった。

しかし、頑固に拒否した場合には、25日から8日間の日付を記入する権限が与えられ、皇帝は依然として [34ページ]譲歩によって1日で到着した。目的は、ウルムに速やかに入城し、その速さで勝利の栄光をさらに高めること、そして街が衝撃から立ち直る前に、あるいはロシア軍が行動を起こす前にウィーンに到着することだった。そして最後に、我々の食料が底をつき始めていたことも、我々を急がせるもう一つの理由だった。

「ベルティエ少将元帥は私に、町に来るつもりだとほのめかし、条件が合意されれば、私が彼の入国を許可してくれれば喜ぶだろうと言った。

正午ごろウルムに戻った。前回の訪問時に守った予防措置を再び実施したが、今度はマック将軍が街の門にいた。私は彼に皇帝の最後通牒を手渡した。彼は数人の将軍たちと協議するために退席した。その中にはリヒテンシュタイン公子、クレノー将軍、ギンレイ将軍もいた。約15分後、彼は戻ってきて、再び日付について私と議論を始めた。彼は書面の提案の特定の点を誤解しており、25日から数えて丸々8日間の休戦が得られると信じ込んでいたのだ。彼は異様なほどの喜びに満たされ、こう叫んだ。「セギュール様!親愛なるセギュール様!私は皇帝の寛大さを頼りにしていました。 [35ページ]「そして私は騙されていません。ベルリナー元帥には彼を尊敬していると伝えてください。皇帝には、私が述べる些細な点がいくつかあるだけだと伝えてください。そして、あなたが私に持ってきた提案に署名するつもりだと伝えてください。しかし、陛下には、ネイ元帥が私に対してひどい態度をとったこと、非常に無礼な扱いをしたことをお伝えください。皇帝には、私が彼の寛大さを頼りにしていたことを保証してください。」それから、感情がさらに高まる中、彼は付け加えた。「ムッシュ・ド・セギュール、私はあなたの評価を高く評価しています。あなたが私について抱いてくれる意見を私は重視しています。私が署名した書類をお見せしたいと思います。私の決意は固いことをお約束します。」そう言って、彼は一枚の紙を広げた。そこには次の言葉が書かれていた。「八日、さもなくば死刑!」署名、マック。

「私は彼の顔に浮かんだ喜びの表情に衝撃を受けた。彼がなぜこのような無駄な譲歩に幼稚な勝利感を示したのか、私には理解できなかった。沈みかけている時、哀れな将軍は、自身の名声と軍の名誉、そしてオーストリアの安全を守るために、なんと脆い小枝にしがみついたことか!彼は私の手を取り、心から握りしめ、目隠しをされることなくウルムから出発させてくれた。さらに、ベルティエ元帥を要塞に案内するのを、私に許可してくれたのだ。 [36ページ]通常の儀礼を遵守し、要するに、彼はすっかり喜んでいるようだった。彼はベルティエ元帥の面前で、日付について再び議論を始めた。私は起こった間違いを説明し、この件は皇帝に委ねることにした。朝になって将軍は10日分の食料があると私に保証したが、私は既に皇帝に、食料が非常に不足しているようだと伝えていた。実際、その通りになった。まさにその日、皇帝は要塞への食料輸送の許可を求めたのである。

マックは、自分の立場が逆転したことを知ると、ウルムに身を投げてそこに留まれば皇帝を城壁の下におびき寄せ、そこに足止めし、他の軍団を別の方向へ逃走させられると考えました。彼は自らを犠牲にしたと考えており、この考えが彼の勇気を支えました。私が彼と交渉を始めたとき、彼は我が軍がウルムの前に集結し、動けない状態にあると考えていました。彼は大公とヴェルネックに密かにウルムから撤退させました。ある部隊はメミンゲンへの脱出を試み、別の部隊はチロルの山岳地帯へ逃走しました。彼らは皆、実際に捕虜になったか、捕虜にされそうになりました。

[37ページ]

「27日、マック将軍はエルヒンゲンで皇帝に謁見した。皇帝の幻想はすべて消え去っていた。

国王陛下は、ウルムの前に我々をこれ以上引き留めるのは無駄だと説得するため、彼の置かれた状況の恐ろしさをすべて説明されました。国王陛下は、我々があらゆる点で勝利すると保証し、ヴェルネック軍団、全砲兵隊、そして8人の将軍が降伏したこと、大公自身も危険にさらされていること、そしてロシア軍に関する知らせは届いていないことを伝えました。こうした知らせは総司令官に雷撃のように突き刺さり、力尽き、部屋の壁にもたれかかって体を支えざるを得ませんでした。彼はこの不運の重みに打ちのめされていました。国王陛下は窮地に陥っていることを認め、ウルムの食料は底をついていると率直に告げました。しかし、1万5千人の兵士ではなく、2万4千人の戦闘員と3千人の病人がいたにもかかわらず、全員が極度の混乱に陥り、刻一刻と…彼らの状況はますます危険にさらされた。彼は、すべての希望が消えたと確信し、そのため翌日(28日)午後3時にウルムを明け渡すことに同意したと付け加えた。

「陛下の御前を去る時、彼は [38ページ]我々の将校の何人かが、マックにこう言うのを聞いた。「これほど多くの勇敢な兵士たちから評価を失墜させられるのは屈辱的だ。だが、ポケットには署名入りの意見書がある。軍の分割を拒否する旨のものだ。だが、指揮したのは私ではない。ヨハン大公がそこにいたのだ。」マックは渋々ながら従った可能性は十分にある。

23日、3万3000人のオーストリア兵が投降し、捕虜となった。彼らは皇帝の前で身を汚した。歩兵は溝の反対側に武器を投げ捨て、騎兵は馬を降りて武器を置き、馬を我が歩兵騎兵に引き渡した。兵士たちは武器を降ろしながら「皇帝万歳!」と叫んだ。マックもその場にいた。彼は、自分が誰なのかも知らずに話しかけてきた将校たちにこう言った。「目の前にいるのは、不運なマックだ!」

マックがナポレオンに敬意を表しに来た時、私はムートン将軍とベルトラン将軍と共にエルヒンゲンにいました。「紳士諸君、私は自画自賛しているが、これほどの兵力で降伏せざるを得なかったにもかかわらず、私を勇敢な男と見なしてくださっているとは。皇帝陛下の策略に抵抗するのは困難だった。陛下の計画は私を破滅させたのだ。」

[39ページ]

ナポレオンは勝利に歓喜し、ウルムに駐留する軍の戦果調査のためベルトラン将軍を派遣した。彼はウルムに2万1千人の兵がいるという情報を持ち帰ったが、皇帝はこれを信じることができなかった。「君たちは彼らの言葉を話せる」と彼は私に言った。「真実を確かめに行け」。私は赴き、軍団長、将軍、そして兵を尋問した。そして集めた情報から、駐屯軍には2万6千人の兵力があると分かった。ナポレオンはこれを聞くと、「私は気が狂っていた。そんなことはあり得ない」と言った。しかし、軍勢が我々の前に姿を現した時、セギュール氏が述べたように、その兵力は3万3千人、将軍は19人だった。騎兵と砲兵は圧倒的な戦力だった。

[40ページ]

第7章
ウルムのオーストリア軍を全滅させることはできなかった。ヴェルネックはハイデンハイム経由で逃亡し、大公は彼を追撃した。二人とも全速力で逃走したが、運命は既に定めており、もはや抗う術はない。ナポレオンは真夜中にアルベックに進軍中であることを知らされ、直ちに大公を召集した。「守備隊から一個師団が脱走し、我々の後方に脅威を与えている。追撃して殲滅せよ。一人たりとも逃がすな」と大公は言った。雨は土砂降りとなり、道路はひどい状態だったが、疲労も危険も勝利の喜びの中で忘れ去られた。我が軍は征服を決意して急ぎ前進した。ミュラは敵に追いつき、攻撃して敗走させた。彼は2リーグにわたり敵の逃走を追撃し、息をつく暇も与えなかった。一部の部隊は大砲でエルブレクティンゲンを占領した。夜が更け、馬も疲れ果てていたので、私たちは立ち止まった。9番目の明かりが届いたのは10時頃だった。 [41ページ]その後、我々は前進し、攻撃を再開した。村、大砲、砲車、全てを占領した。オドネル将軍は後衛部隊で陣地を守ろうとしたが、我が軍の補給将校の一人に発見され、負傷して捕虜となった。真夜中となり、我が軍は疲労に苛まれ、勝利への道をこれ以上追求することはできなかった。

敵はネルトリンゲン方面へと急ぎ逃げ去った。我々には砲兵隊と兵站があった。敵がそこに到達するのを阻止することが重要だった。ミュラは数部隊を派遣し、彼の行軍を妨害し妨害することで、敵に陣地を占拠させ、時間を浪費させた。一方、リヴォー将軍はドンナヴェール橋の警備態勢を整え、余剰戦力をヴィースニッツへ進軍させることになった。あらゆる進路が遮断された。こうした準備が整うと、大公は行軍を開始し、ネレスハイムに展開していた大公に追いついた。我々は勝利に燃えた熱意をもって大公に攻撃を仕掛けた。その衝撃は抑えがたいものだった。騎兵は敗走し、歩兵は武器を捨てた。銃、軍旗、兵力、すべてが一斉に奪われ、最悪の混乱が広がった。クライン、フォーコネ、ラヌッセは追跡を続け、 [42ページ]ヴェルネックは降伏を命じられたが躊躇した。しかし、驚くべき諸条件が重なり、ついに降伏を決意した。フランスの休戦旗を護衛するよう任命された士官は、上官を探していくつかの平原を横断した。ホーエンツォレルン公子と会い、任務の目的を伝えた。公子は元帥が条件を受け入れることを疑わず、彼に同行した。彼らはネルトリンゲンへと進路を定めたが、そこはオーストリア軍ではなく、フランス軍によって占領されていた。一方、ラサール将軍はメルキングに進軍し、1000人の兵士を捕らえていた。逃亡兵たちは敵の司令部に不安を広めた。これらの報告にヴェルネックは動揺し、交渉に応じる姿勢を示した。彼はフランス軍将校を拘束し、ランニッツ連隊の少佐を人質として送り込んだ。彼は交渉を翌日まで延期した。夜が明けるとすぐに、彼は大公の軍と合流しようと考えた。しかしフランス軍は道を遮断し、リヴォー将軍はリヒテンシュタインを撃退して大公園に侵入した。我が軽騎兵はそこを背後から攻撃した。ヴェルネックはそれ以上進む勇気がなかった。包囲されていると感じたからだ。 [43ページ]そして彼は交渉した。我が軍は奇襲に備えるため高地を占拠したが、夜が更け、前日には降伏は避けられないと見ていたホーエンツォレルンは、今や暗闇を利用してそれを回避した。ミスキリー将軍も彼の例に倣い、彼らは騎兵隊と、武器を放棄した軍団の一部であった少数の歩兵と共に脱出した。彼らは司令官の約束に縛られていると思われたかもしれないが、そうではなかった。少なくとも彼らはそう考えていた。なぜなら、彼らはプロイセン領土に突入した大公軍の残党と合流したからだ。我々はグンダーハウゼンで彼らに追いつき、協定の履行を要求した。シュヴァルツェンベルク公は命令に言及し、疑問を解消し、文書で説明したいと望んだ。一言で言えば、時間を稼ぎたかったのだ。

プロイセン軍は中立を主張し、都市への攻撃を禁じ、敵軍の部隊は撤退するよう要求しました。大公の将校の一団に護衛された、高官の法衣をまとった人物がやって来て、ヴィルヘルム国王の不興を買うと脅迫しました。クラインはこのような見せかけに怯むような人物ではありませんでした。彼は大公に、 [44ページ]オーストリアの利益を担う政務官に連絡を取り、攻撃の合図を出した。シュヴァルツェンベルク公はひどく当惑していた。将軍がこんなに近くにいるとは想像もしていなかったのだ。公はプロイセン領土の侵犯に抗議し、領土を尊重してグンダーハウゼンを占領すべきではないと提案した。クラインは彼に模範を示すよう告げ、彼もそれに従うことにした。我々は前進を続けたが、シュヴァルツェンベルクは決断を下せなかった。騙されたと思われてうんざりしたミュラは、議論を打ち切って前進するよう命令を出した。すると敵の後衛部隊は全速力で出発し、我々にその場所を占領させた。我々は数リーグに渡って敵を追跡したが、追いつくことはできなかった。夜になり、我々は陣地を取った。夜明けに行軍を再開したが、大公はあまりにも素早く逃走したため、ニュルンベルクに着くまで彼の荷物の後部に追いつくことができなかった。我が前衛のピケ小隊が突撃し、護衛大隊は武器を捨てざるを得なくなった。ピケ小隊はその後も前進を続け、砲兵と荷物でごった返す森の道に入り、数百人の竜騎兵を追った。竜騎兵は集結を試みたが無駄だった。オーストリア軍の大部隊が有利な位置で我々を待ち構えていた。我が猟兵たちは [45ページ]撤退を余儀なくされたが、軽騎兵とカラビニエが進撃し、軍は完全に敗走した。大公自身も捕虜になる寸前で難を逃れた。これはウルムから脱出した軍団にとってとどめの一撃となった。わずか5日間で、7000人の勇敢な兵士たちが45リーグ以上を行軍し、2万5000人の軍を壊滅させ、軍箱と荷物を奪い、大砲128門と軍旗11本を奪い、1万2000人から1万5000人を捕虜にした。大公軍は、森の中に散らばる数千人の不運な兵士たち以外、何も残っていなかった。

しかしクラインは要求を曲げず、ヴェルネック自身も締結済みの条件の履行を強く求めた。条件は、降伏条項に含まれていた将校が捕虜として引き渡すことであった。フランス軍将軍は大公に、あるいは大公が不在の場合はオーストリア軍司令官に抗議を送ったが、混乱が続き、休戦旗はボヘミアの中心部まで進軍せざるを得なかった。ようやく返事が届いた。それはコロラード将軍からの手紙で、彼は以下の書簡を我々に送ってきた。

[46ページ]

皇帝陛下および王室陛下に仕える陸軍中将、ホーエンツォレルン伯爵殿へ。

ヴェルネック中将の書簡を私の検討に付託しました。戦争法と国際法に則り、フランス軍将軍の主張は極めて違法であると断言します。したがって、あなたと、あなたと共に帰還した部隊を降伏に含めることはできません。従って、あなたと彼らには、これまで通り任務を継続するよう命じます。
署名、フェルディナンド。
副署、 モルヴァール。
少佐および副官。

「エグラ、1805年10月23日」

この文書によって降伏は降伏ではなくなった。こうしてホーエンツォレルンは名誉を傷つけられることなく逃亡した。彼は、個々の兵士たちも同じように効果的に失いつつある中で、大規模な降伏を要求されたことに愕然としたようだった。彼の手紙は奇妙なもので、次のようなものだった。

[47ページ]

元帥ヴェルネック男爵殿へ。

「親愛なる同志よ、

貴軍団の一部である騎兵と共に降伏するという提案には、驚きを隠せません。私が貴軍を去った際、貴軍は私の前でいかなる降伏も拒否されました。そして私自身も、貴軍が歩兵と共に撤退できない場合、どんな危険を冒しても騎兵を軍に復帰させるつもりでした。私はそのように努力し、そして成功しました。貴軍の取り決めに同席しなかった私が、いかなる法律に基づいて捕虜とみなされるのか理解できません。私は決してその取り決めに含まれてはなりませんでした。昨日から貴軍と離れ離れになった今、もはや貴軍の命令に従う義務はありません。我らが総司令官、陛下の命令を受けます。

「私はあなたの謙虚で従順な僕であることを光栄に思います。

署名済み、中将ホーエンツォレルン、
枢密顧問官。」

ナポレオンは自分自身、軍隊、そしてすべての人々に満足していた。彼はこう言った。 [48ページ]彼は次の宣言によって我々の行為を承認した。

「大軍の兵士達よ!

わずか15日間で作戦は完了した。我々が計画していたことはすべて達成された。バイエルンからオーストリア家の軍隊を追い払い、同盟国の領有権を回復させた。

「同様に傲慢かつ無分別で我々の国境に駐留した軍隊は壊滅した。

「しかし、それはイギリスにとって何を意味するのでしょうか? イギリスの目的は達成されました。我々はもはやブローニュにはいませんし、イギリスからの補助金も増えることも減ることもありません。

「その軍隊を構成する10万人のうち、6万人は捕虜です。彼らは徴兵された兵士の代わりに農業に従事することになります。」

「大砲二百門、公園全体、旗九十本、そして将軍全員、我々の手中にあります。逃げ延びたのはわずか一万五千人です。」

「兵士諸君!私は諸君に大戦を予告した。しかし敵のずさんな計画のおかげで、私は危険に遭遇することなく、予想していたすべての成功を収めることができた。これほどの大勝利がもたらされたのは、国家の歴史において前例のないことだ。 [49ページ]任務遂行不能となった兵士がわずか 1500 人減っただけで、我々の戦力は減少しました。

「兵士諸君!この成功は、皇帝に対する君たちの完全な信頼、あらゆる疲労と窮乏に耐えた君たちの忍耐、そして並外れた勇敢さによるものだ。

しかし、我々はここで止まるつもりはありません。あなたは第二の作戦を開始することに熱心です。

「イギリスの金によってヨーロッパの果てから輸送されたロシア軍も同様の運命を辿るだろう。

「今回の作戦は、特にフランス歩兵の栄光に関係している。スイスとオランダですでに決着がついた問題は、今や二度目に決着がつくことになる。すなわち、フランス歩兵がヨーロッパで第一か第二かという問題である。」

「ロシア軍には、私が栄光を得られると期待できる将軍はいない。私はただ、最小限の流血で勝利を収めることに全力を尽くす。兵士たちは私の子供たちだ。」

[50ページ]

第8章
オーストリア軍との戦闘は終わり、我々はロシア軍と対峙すべく進軍した。クトゥソフは決意を固めた様子で、戦う気満々だと思われた。我々はこの新たな機会に歓喜した。しかし、これはクトゥソフの見せかけに過ぎなかった。彼はイン、トラウン、エムスを放棄し、姿を消した。我々はウィーンへと進軍した。信じられないほどの速さで。これほどの速さで進軍した者はかつてなかった。皇帝は不安になった。この性急な行動によって後方が危険にさらされ、側面がロシア軍の脅威にさらされるのではないかと恐れたのだ。「ミュラは」と彼は私に言った。「まるで盲人のように突き進む。まるでウィーンに入城することだけが目的であるかのように進軍する。敵には抵抗する者がいない。全軍を掌握し、モルティエを滅ぼすかもしれない。ベルティエに縦隊を阻止するよう指示せよ。」ベルティエが到着し、スールト元帥はマウテルンまで後退するよう命令を受けた。ダヴーストは、 [51ページ]リリエンフェルトとノイシュタットの街道の交差点に陣取り、ベルナドットはメルクに陣取った。しかし、これらの布陣はナポレオンが恐れていた戦闘を防ぐことはできなかった。4000人のフランス軍が敵の全軍に攻撃されたが、技量、勇気、そして勝利への必要性が、我々の兵力の劣勢を補い、ロシア軍は撃退された。この驚くべき勝利の知らせは、我々の全軍を奮い立たせた。皇帝は、以前に行軍を中断した時よりもさらに熱心に進軍を続行した。彼はオーストリア軍に追いつき、ドナウ川の河口を占領し、反転して彼らの同盟軍を遮断し、彼らが増援を受ける前に撃破したいと考えていた。彼は急いで命令を出し、兵士も馬も、全員が直ちに動き出した。「戦場は開けている」とナポレオンは言った。「ミュラは持ち前の衝動に駆られるかもしれないが、より広範囲に展開し、橋を奇襲しなければならない。」彼はすぐに次のように書き送った。「現在の最大の目的は、ドナウ川を渡り、ロシア軍の後方を攻撃してクレムスから追い出すことである。敵はウィーンの橋を破壊するだろう。しかし、もし無傷でそこに到達できる可能性があるなら、そうしなければならない。このことだけを考えれば、 [52ページ]皇帝をウィーンに入城させるように説得する。その場合、騎兵と擲弾兵の一部のみを市内に投入すればよい。ウィーンの市民衛兵の勢力を把握する必要がある。皇帝は、クレムスとウィーンの間のドナウ川の渡河を阻止するために大砲をいくつか設置したと推定している。騎兵隊の一部を川の右岸に配置する必要があるが、皇帝にはこのことを何も伝えていない。皇帝陛下は、何を信頼すべきかを知る必要があるとお考えである。そうすれば、ウィーン下流でドナウ川を阻止することが可能であれば、それを実行できるだろう。スーシェ将軍の師団は、少なくとも貴軍がドナウ川に架かる橋の支配権を握っておらず、かつその橋が焼かれていない限り、ウィーンからブッケルスドルフに通じる大街道に貴軍の騎兵隊の一部と共に留まるであろう。その場合、スーシェ師団はそちらへ移動し、貴軍の騎兵と擲弾兵と共に川を渡り、可能な限り速やかに進軍してロシア軍の連絡路を突破しなければなりません。皇帝陛下はおそらく一日中サン=ポルテンに留まるでしょう。

「王子様、陛下はあなたの行動について頻繁に報告するようお勧めします。

「ウィーンに到着したら、 [53ページ]その都市とオーストリア南部の周辺地域の、入手可能な最良の地図を添えて。

「ジュレイ伯爵将軍、あるいは他の誰かが皇帝と会見したいのであれば、急いでこちらへ送ってください。

「ウィーンで勤務する市民警備隊は500人以上になるはずだ。

「ウィーンに到着すれば、他のロシア軍の到着や、クレムスに拠点を置いている者たちの計画に関する情報を容易に入手できるだろう。

貴軍はランヌ元帥とダヴースト元帥の軍団と共に、ロシア軍を翻弄し背後から攻撃する作戦に投入される。ベルナドット元帥とスールト元帥の軍団については、ロシア軍がどのような進路を取るかが明確になるまでは、処分することはできない。

午前10時以降、ウィーンに入城せよ。ドナウ川の橋を奇襲せよ。もし破壊されたら、最速の手段で川を渡れ。これが今の最重要課題である。しかし、10時前にジュレー氏が交渉を持ちかけ、行軍を中止させるよう提案してきた場合は、ウィーンへの進軍を中止しても構わない。ただし、それでもなお注意を向けなければならない。 [54ページ]クロスターバラ、あるいは他の有利な地点でドナウ川を渡る最良の手段へ。

皇帝は、ゼーガルツ=キルヒェンとウィーンの間に、フランス2リーグの距離を置いて、それぞれ10人からなる騎兵隊を配置するよう命じた。これらの馬は、諸君の行動報告を届ける将校たちへの中継役を務める。これらの配置に就く兵士たちは、ゼーガルツ=キルヒェンからサン=ポルテンへの伝言を携えて出陣する。ベシエール元帥は皇帝近衛兵の配置に就く。

第9章
私たちはサン=ポルテンにいました。ナポレオンはウィーン街道を馬で走っていた時、無蓋の馬車が近づいてくるのを目にしました。馬車には司祭と涙に濡れた貴婦人が座っていました。皇帝はいつものように近衛猟兵大佐の制服を着ていました。貴婦人は皇帝を知りませんでした。皇帝は貴婦人の病気の原因と、どこへ行くのかを尋ねました。「閣下」 [55ページ]彼女は答えた。「ここから二リーグほどのところで兵士の一団に襲われ、庭師を殺されてしまいました。皇帝陛下に護衛をお願いするつもりです。皇帝陛下はかつて私の家族をよくご存知で、恩義を感じておられました。」――「お名前は?」とナポレオンは尋ねた。「ド・ブルニーです」と夫人は答えた。「私はかつてコルシカ島の総督であったマルブフ氏の娘です。」――「お会いできて光栄です、奥様」とナポレオンは愛嬌たっぷりの率直さで叫んだ。「お仕えする機会をいただき、大変嬉しく思います。私は皇帝でございます。」夫人は驚いた。ナポレオンは彼女を慰め、司令部で待つように言った。彼は彼女を細心の注意を払ってもてなし、護衛の猟銃一丁を授け、幸せそうに彼女を送り出した。

ナポレオンは報告書を受け取っていて、満足そうに読んでいた。私は彼の書斎に入った。「さて、ラップ」と彼は言った。「ボヘミアのまさに中心に我々の部隊がいることはご存じですか?」――「はい、陛下」「どんな騎兵隊がフーラン族を倒し、拠点を占領し、弾薬庫を奪ったかご存じですか?」――「いいえ、陛下」「我々の歩兵は荷馬に乗っているんです!」――「どうやって?」彼は私に報告書を手渡した。ボヘミアに侵入した我々の分遣隊の一部は、突然、開けた土地にいた。彼らは [56ページ]竜騎兵はわずか二十騎しかおらず、彼らは退却しようとせず、それ以上前進する勇気もありませんでした。この窮地に陥った指揮官は、ある方策を思いつきました。荷馬を全て集め、歩兵部隊に騎乗させ、装備を整え、エグラ近郊の深い森の中を進軍させました。敵の騎兵隊の一部は反撃に出て撃退されました。我々は人、馬、そして食料を奪取しました。食料は火刑に処されました。私はこの報告書を皇帝に提出しました。「さて」と皇帝は尋ねました。「この新しい騎兵隊についてどう思われますか?」――「素晴らしいことです、陛下」「フランスの血を引く者は」と彼は言いました。「敵の隊列に致命傷を与える術を常に心得ています」

我々は敵の後衛に迫った。容易に占領できたかもしれないが、そうはしなかった。敵の警戒を緩めようとしたため、接近せず、和平の報告を流した。兵員と荷物の逃走は許容したが、数人の損失は大したことではなかった。橋の保全が重要だった。もし橋が壊れれば、我々は修復しなければならないと決定され、それに応じた措置を講じた。道路に梯形陣を敷いた部隊には、いかなる示威行為も逃がさないように警告されていた。 [57ページ]敵を警戒させる可能性が高かった。誰もウィーンに入ることを許されなかったが、あらゆることが調査され、あらゆる準備が完了すると、大公は首都を占領し、ラヌースとベルトランに川沿いの偵察を直ちに行うよう指示した。彼らは郊外の門にオーストリア騎兵隊の駐屯地を発見した。3日以上戦闘は行われていなかった。休戦協定が締結されたかのようだった。ラヌースとベルトランはオーストリア軍司令官に近づき、会話を始め、すぐ後をついて回り、離れようとしなかった。川岸に到着すると、司令官が追い払おうとしたにもかかわらず、彼らはなおも執拗に後を追った。オーストリア軍は我慢できなくなり、フランスの将軍たちは川の左岸に駐屯する部隊の司令官と連絡を取る許可を求めた。彼らは許可を得た。しかし、第10軽騎兵連隊は彼らに同行することを許されず、停止して陣地を取らざるを得なかった。一方、我が軍はランヌ大公と元帥に率いられて前進していた。橋はまだ無傷だったが、砲台は設置され、砲兵たちは火縄銃を構えていた。これは、武力突破の意図を示す兆候としては微塵もなかった。 [58ページ]計画を台無しにしていたであろう。策略に頼るしかなかった。そして我々はオーストリア軍の単純さにつけ込むことに成功した。二人の元帥は馬から降り、少数の分遣隊だけが橋に上陸した。ベリアール将軍は両手を後ろに組んで、二人の参謀を伴って前進した。ランヌも他の数名と共に彼に加わった。彼らは歩き回り、話し合い、ついにオーストリア軍に合流した。駐屯地の指揮官は最初彼らに後ろに下がるように指示したが、ついに前進を許し、彼らは話し合いを始めた。彼らはベルトラン将軍が既に断言していたこと、すなわち交渉は前進しており、戦争は終結しており、もはや戦闘も殺戮もないということを繰り返した。 「なぜまだ砲を我々に向けているのか?」と元帥は言った。「もう十分に流血はしていないのか?我々を攻撃し、我々よりも君に重くのしかかる苦難を長引かせたいのか?さあ、これ以上挑発するのはやめよう。砲を向けろ。」半ば説得され、半ば確信した指揮官は屈服した。砲兵隊はオーストリア軍の方向に向けられ、兵士たちは武器を束ねて置いた。この会談の間、我々の前衛小隊はゆっくりと、そしてついに [59ページ]橋が到着すると、工兵と砲兵が姿を現し、可燃物を川に投げ捨て、火薬に水をまき、轍を切りました。オーストリア軍の指揮官はフランス語に通じておらず、会話にあまり興味を示さなかったのですが、部隊が前進していることに気づき、それを許すことはできないと我々に理解させようとしました。ランヌ元帥とベリアール将軍は、寒さが厳しく、我が軍の兵士たちはただ暖をとるために行進しているだけだと述べて、指揮官を納得させようとしました。しかし、隊列はなお前進を続け、すでに橋の4分の3を渡りきっていました。指揮官は我慢の限界に達し、兵士たちに発砲を命じました。彼らは即座に武器を取り、砲兵たちは大砲を構えました。我々の状況は悲惨でした。我々が少しでも冷静さを失っていたら、橋は爆破され、部隊は川に飲み込まれ、作戦は終結していたでしょう。しかし、オーストリア軍は、簡単には動揺しない兵士たちを相手にしなければなりませんでした。ランヌ元帥は彼の片腕を、ベリアール将軍はもう片方の腕を掴んだ。彼らは彼を脅迫し、助けを求めようとする彼の声をかき消した。その間に、ホグスベルク公爵がベルトラン将軍を伴って到着した。一人の将校が、軍勢の状況を報告するために出発した。 [60ページ]元帥は大公に諸事を報告し、その途中で部隊に行軍を速めて速やかに到着するよう命令を伝達した。元帥は大公に会いに行き、駐屯地の指揮官の行いを訴え、交渉の妨げになるかもしれないので、処罰して後衛から外すよう要請した。ホグスベルクは罠にかかった。彼は熟考し、承認し、反論し、無益な会話に没頭した。我が軍は時間を有効に活用した。到着後、撤退し、橋は占領された。直ちに四方八方に偵察が命じられ、ベリアール将軍が我が軍の縦隊を率いてシュトックラウに通じる街道を進み、そこに陣取った。ホグスベルクは時宜にかなわない饒舌さに恥じ入り、大公のもとへ赴いた。大公は短い会話の後、ホグスベルクをナポレオンに紹介し、彼もまた川を渡った。

オーストリアのピケ隊は依然として橋の警備に当たっていた。我々は混乱の中野営した。兵士たちはシュトックラウでも川岸でも入り乱れていた。ナポレオンはこの混在状態が不都合だと判断し、フーラン隊をウィーンに派遣し、そこで武装解除させた。

我々はアウステルリッツに到着した。ロシア軍は我々より優勢な戦力を有していた。彼らは我々の前衛部隊を撃退し、既に我々を制圧したと思っていたのだ。 [61ページ]攻撃が開始されたが、近衛兵によって容易に勝利を収めることができたはずの容易な勝利とは裏腹に、彼らは至る所で頑強な抵抗に遭った。戦闘はすでに1時間続いていたが、依然として決着には程遠かった。彼らは我々の中央に最後の攻撃を仕掛けようと決意した。近衛兵が展開し、歩兵、騎兵、砲兵が橋に向かって前進したが、ナポレオンはその動きを察知できなかった。地形が視界を遮っていたからだ。間もなくマスケット銃の発射音が聞こえた。シナー将軍指揮下の旅団がロシア軍に突破されたのだ。ナポレオンは私に、マムルーク軍、猟兵二個中隊、近衛擲弾兵一個中隊を率いて前進し、戦況を偵察するよう命じた。私は全速力で出発したが、戦闘現場に銃撃の射程圏内まで至って初めて惨状を知った。敵の騎兵隊は我々の陣地の真ん中にいて、我が軍をサーベルで攻撃していた。少し後方に、歩兵と騎兵の大群が予備隊を形成しているのが見えた。敵は攻撃を放棄し、こちらに向かって向きを変えた。4門の砲兵が到着し、砲台に配置。私は整然と前進した。左翼には勇敢なモーランド大佐、そして将軍が [62ページ]右手にダルマーニュが見えた。「見えるか」と私は部隊に言った。「我らの友と兄弟が敵に踏みにじられている。彼らの仇を討ち、我らの旗の仇を討て。」我々は砲兵隊に突撃したが、砲兵隊は陥落した。待ち構えていた騎兵隊も同様の衝撃で撃退され、無秩序に敗走した。我々も敵も、方陣を突破された我が軍の兵士の体を踏みにじった。負傷を免れた兵士たちは再び集結した。騎兵擲弾兵の一個中隊が私を援護するために到着し、ロシア軍の護衛部隊の援護に駆けつけた予備兵を受け入れることができた。我々は攻撃を再開し、凄まじい勢いで継続した。歩兵は発砲する勇気もなく、混乱状態の中で、我々は一騎打ちで戦った。ついに、我が軍の勇敢さはあらゆる障害を乗り越えた。ロシア軍は敗走し、散り散りになった。アレクサンダー大王とオーストリア皇帝はこの敗北を目の当たりにした。戦場から少し離れた高台に陣取っていた彼らは、勝敗を決するはずだった近衛兵が、少数の勇敢な兵士によって惨殺されるのを目撃した。彼らの銃と荷物は我々の手に落ち、レプニン王子は捕虜となった。残念ながら、多くの兵士が戦死し、負傷した。モーランド大佐はもういないし、私自身もサーベルで頭部を負傷した。 [63ページ]私は皇帝にこの一件を報告しに行った。折れたサーベル、傷、全身にまとわりつく血、そしてわずかな兵力で敵の精鋭部隊に圧倒的な優位を築いた事実が、ジェラールが描いたあの絵をナポレオンは思いついたのだ。

すでに述べたように、ロシア軍は自軍の護衛だけで我々を打ち負かそうとしていた。この思い上がりはナポレオンの怒りを買い、彼はそれをすぐに忘れてしまった。

アウステルリッツの戦いの後、ナポレオンは私を師団長に任命し、傷が回復するまでアウステルリッツ城に送りました。傷は命に別状はありませんでした。皇帝は何度か私を訪問されました。一度はオーストリア皇帝との会見を許可された日に訪れました。皇帝は、我々の前線部隊が傍受していた二通の手紙を私に渡されました。一通はカール皇子から、もう一通はリヒテンシュタイン公子からのものでした。内容はかなり重要だったので、私は翻訳してもらいました。夕方、ナポレオンは帰路につき、これらの手紙を朗読させました。彼はフランツ二世について、その不満や後悔について、そしてフランツ二世にまつわる数々の奇妙な出来事について、私に詳しく話してくれました。

私たちはシェーンブルン宮殿に向けて出発しました。そして約 [64ページ]我々がそこへ到着してから二週間後、ナポレオンは私を呼びにやった。「旅はできるか?」と彼は答えた。「かしこまりました、陛下」。「では、マルモンにアウステルリッツの戦いの報告をし、彼が来なかったことを悔やんでやれ。そして、それがイタリア軍にどのような影響を及ぼすかを観察しろ」。そして彼は私に次のような指示を出した。

ラップ将軍、グラーツへ向かえ。そこで必要な限り滞在し、アウステルリッツの戦いの詳細をマルモン将軍に伝える。交渉は開始されているが、まだ何も決着していないこと、したがって起こりうるあらゆる事態に備えなければならないことを伝えよ。また、マルモン将軍の状況を熟知し、彼の前に敵軍の兵力が何人いるか確認せよ。ハンガリーにスパイを送り込むよう要請する。そして、彼が収集した情報はすべて私に伝えるように。次にライバッハへ向かえ。そこで第8軍団の指揮官であるマッセナ元帥に会い、彼の状況に関する正確な報告を私に伝えよ。交渉が決裂した場合(可能性は高いが)、マッセナを派遣することをマッセナに伝える。 [65ページ]ウィーン。マッセナ元帥の前方にどれほどの敵軍が展開しているのか、そして彼の軍団の状況をあらゆる観点から報告せよ。次にパルマノヴァへ進軍し、マッセナ元帥に要塞の武装と補給を効果的に行うよう強く要請した後、その状況を報告せよ。次にヴェネツィア手前の陣地を調査し、我が軍の状況を把握せよ。そこからナポリへ進軍しようとしているサン=シール将軍の軍へ向かい、その軍勢の性質と規模を把握せよ。クラーゲンフルト経由で戻り、そこでネイ元帥と会談し、その後合流せよ。立ち寄った場所から必ず手紙を書いてくれ。グラーツ、ライバッハ、パルマノヴァ、ヴェネツィア、そしてナポリ軍が駐屯していると思われる場所から、私宛に電報を送れ。神があなたを聖なる守りの中に迎え入れてくださるよう祈ります。

「ナポレオン。

シェーンブルン、
フリメール 25 年、XIV 年。」

私はミュンヘンでナポレオンと合流した。彼はウジェーヌ公の結婚式に出席するためにミュンヘンへ向かっていた。公はイタリアから来られ、私も同行した。私が留守の間、 [66ページ]ウィーンで和平が成立した。皇帝はカール皇太子と会見し、壮麗な剣を贈呈するつもりだったが、皇太子は大公に不満を抱いており、剣は贈呈されなかった。

私たちはパリに向けて出発した。四方八方から歓声が響き渡った。ナポレオンがこれほど熱狂的に迎えられたことはかつてなかった。

第10章
ウルム滞在中、プロイセン軍は突然、守るべき古来の栄光の遺産があるという考えにとらわれました。彼らは奮起し、武器を取りました。ハウグヴィッツが来て、この突然の思い出を私たちに伝えました。しかし、その間にアウステルリッツの戦いが起こりました。大臣が到着した時には、同盟と忠誠心以外には何も考えられていませんでした。ナポレオンはこうした外交上の抗議に騙されたわけではありません。彼は、民衆を刺激するために繰り広げられた陰謀と騎士道的な演出を知っていたのです。戦闘の前に [67ページ]彼は言った。「もし私が敗れれば、彼らは私の背後に進軍してくるだろう。もし私が勝利すれば、彼らは私と共に戦いたかったと言うだろう。」彼らは和平か戦争かの判断を知らず、事態の推移を見守っていた。この間接的な政策は効果を伴わなかったわけではなかった。彼らはアンスバッハ、バロイト、ベルク大公国の一部、そしてウェストファリアの領地を失った。彼らは激怒した。私はハノーファーに派遣されたが、そこは我々が彼らに明け渡していた場所だった。私の旅の表向きの目的はハーメルン要塞の引き渡しだったが、真の目的は世論の動向を知ることだった。私はプロイセンに対する世論がどのようなものか、戦争が議論されているのか、軍が戦争を望んでいるのか、そして最後にハンブルクでナポレオンとフランスに対する反戦のパンフレットを可能な限り買い集めるよう指示された。

私の任務は遂行が容易ではなかった。プロイセン軍は激怒し、横柄だった。ハノーファー軍は彼らを嫌っていた。しかし、ドイツ北部は依然として勢力が衰えていないプロイセンに依存していた。シューレンブルク伯はウィリアム王の新たな領土の総督であり、私を冷淡に迎えた。ウルムとアウステルリッツでの我々の勝利は、彼には無関心に映ったようだった。後者の戦いは [68ページ]彼は優柔不断だと断言した。それはまるでツォルンドフの戦いのようだ、フリードリヒ大王がロシア軍と戦い、シューレンブルグ伯自身もその戦いに参加したのだ、と彼は言った。私がこの逸話を皇帝に話すと、「一体どんな勝利を収めるというんだ?」と皇帝は言った。

ハノーバーからハンブルクへ行き、そこでブーリエンヌを見つけました。そこで私は温かく迎えられましたが、その理由も分かりました。

私はフランスに戻り、その途中、マンスターに立ち寄りました。そこで数年前から知り合いだったブリュッヒャー将軍に会いました。彼を訪ねました。彼はフランス人にあまり好意的ではありませんでしたが、私を非常に丁重に迎え入れてくれました。

私はオージュローと共にフランクフルトに一週間滞在し、できる限りのことを見聞きしようとした。それが私の指示だったからだ。ナポレオンがちょうどその町に寄付金を要求したばかりで、住民たちは支払いを強いられるのではないかと不安に陥っていた。

我々はダルムシュタットを占領した。その公国の首都に司令部を置いていた元帥は、宮廷にも民衆にも好かれておらず、その幕僚たちもさらに不人気だった。大公女はオージュローを通じて私に招待状を送ってきた。オージュローは、 [69ページ]彼女はその国が好きではありませんでしたが、その旨の指示がなかったので断りました。彼女は彼に、彼女の苦情を私に伝えるよう依頼しました。その苦情は非常に厳しいものでした。

私はヴェーゼルへ出発した。すでに我が軍が占領しているその地域の感情状態を調査することになっていた。

帰国後、私はナポレオンに見聞きしたすべてのことを報告した。彼には何も隠し立てしなかった。特にダルムシュタットのことを弁護したが、彼は公爵夫人に激怒していた。彼女はバイエルン国王に、姪のアウグスタとウジェーヌ公子の不釣り合いな結婚について、恐ろしい手紙を書いたのだ。彼女は他にも侮辱的な言葉を使ったが、中でも「恐ろしい結婚」という言葉を使った。偉大な功績を成し遂げた栄光は、おそらく栄光など誇るべきものなどなかったであろう人々の子孫であるという利点よりも価値があると考えていた皇帝は、公爵夫人の封建的な偏見を許すことはできなかった。彼は彼女の領地を剥奪しようとしたが、マクシミリアンが彼女のためにとりなし、彼女は我が軍による6ヶ月間の占領という罰で逃れた。つまり、彼女の民衆は、彼女の虚栄心が招いた罪を償わなければならなかったのだ。

[70ページ]

私がフランスに戻ってからわずか二週間しか経っていなかった。宮廷はサン=クルーにあり、ナポレオンは劇場にいた。上演の最中、彼はベルク大公国からの電報を受け取った。彼はそれを開けると、プロイセン軍の分遣隊が我が軍を攻撃したという報告があった。「なるほど」と彼は言った。「奴らは我々を試そうと決心しているようだ。馬に乗り、ヌイイで大公を訪ねよ」ミュラは既にこの件を知っていたので、すぐに駆けつけた。ナポレオンは彼と少しの間話をし、翌日、私にストラスブールの軍団の指揮を執るよう命令した。その地で大隊と行軍中隊を編成し、それらをメンツに向けて順次進軍させ、メンツに大量の砲兵を送るよう。歩兵隊は目的地に早く到着するため、ライン川に進軍した。

私はナポレオンと直接連絡を取りました。急使、電信、そしてあらゆる速やかな通信手段を用いました。彼に知らせずに百人の兵士を動かしたり、大砲の位置を変えたり、マスケット銃を移動させたりすることは、私には到底できませんでした。これらの準備に2ヶ月を費やした後、彼はメンツに到着し、ヴュルツブルクで合流するよう私に手紙を送りました。彼はバーデン大公宛ての手紙を私に送ってきました。 [71ページ]そして、私にそれを直接公爵に届けるよう指示しました。この手紙の目的は、現在の大公である孫を軍隊に送るよう要請することでした。私はバーデンの古城にいるこの老師に会いました。彼は最初は手紙の内容に非常に心を動かされたようでしたが、すぐに若い公爵を送る決心を固め、出発の準備を命じました。彼は非常に愛情深い口調で孫を私に紹介するという栄誉を与えてくれました。公爵は二日後に旅立ち、ヴュルツブルクで我々と合流しました。ヴィルテンベルク王は既にそこにいました。彼は娘をジェロームと結婚させることをちょうど決めたところでした。ナポレオンは特に上機嫌でした。この同盟は彼を喜ばせました。彼は大公にも同様に満足していました。というのも、ミュラが彼に大公を強く勧めたからです。ミュラは数日前に皇帝に宛てた手紙の中でこう述べている。「私はヴュルツブルク大公を訪問しました。この手紙と、パリで同盟への加盟を認める条約が調印されたという知らせによって、大公は大きな不安から解放されました。大公は同盟に受け入れられないことを非常に恐れていたからです。私が皇帝に伝えた陛下の善意に、大公は特に心を動かされたようでした。 [72ページ]陛下は軍務に全力を尽くす強い意志を示しておられます。本日、ライン同盟への加盟が宣言されました。陛下を城にお迎えする準備はすべて整っており、ご滞在が快適で快適なものとなるよう、万全の準備を整えております。

プロイセン軍については、まだ確かな情報が得られていなかった。彼らがマクデブルクへ向かっているのか、ザクセン州なのか、それともゴータにいるのか、あるいはその兵力がどれほどなのかさえも分からなかった。しかし、戦場には十分な兵力があった。ライン川の向こう岸にも、他の地域と比べて紳士が少ないわけではない。しかし、報告はあまりにも矛盾していたため、この件について明確な見解をまとめることは不可能だった。ある時は、敵の前衛部隊はホーフにいる、コーブルクとメミンゲンは占領されている、プロイセン軍は部分的な戦闘を避け、決戦で勝算を試そうとしている、と言われていた。またある時は、ホーエンローエがシュライツに進軍している、ルッヘルが合流点を定めている、女王はエアフルトへ向かっている、司令部はホーフからナウエンブルクに移された、と断言されていた。こうした状況は、当時の状況とは合致していなかった。 [73ページ]場所。それは考えられないことだった。敵軍の規模についても、彼らの作戦路線についても、我々は不確かだった。こうした様々な情報の中で、クロナックが占領されたことが分かった。大公は、あの城塞は修理中で、間もなく防衛態勢に入るだろうと我々に知らせに来た。ナポレオンはプロイセン軍がそこを制圧していないことに驚いた。「何が彼らを阻んだというのか」と彼は言った。「彼らはどうしても戦争を望んでいたのに?試みの難しさだったのか?あの場所には食料も砲兵もなかった。彼らはその作戦を実行するのに十分な勇気を持っていた。彼らはそこを確保しようとするほど重要だと考えなかったのだろうか?あの砦には三つの大きな出口がある。しかし、この紳士たちは陣地など気にしない。彼らは壮大な一撃のために身を隠している。我々は彼らの望むものを与えよう。」

ナポレオンはプロイセン軍の状況を刻々と把握していた。リュッセル、ブリュッヒャー、そしてブラウンシュヴァイク公爵は開戦を焦っており、ルイ王子はなおさらだった。彼は開戦を急ぎ、機会を逃すまいと焦っていた。さらに、彼は非常に勇敢で才能に恵まれた人物であり、この点はすべての報告で一致していた。ナポレオンはこれを嫌っていなかった。 [74ページ]ある晩、気むずかしいほどの熱意を持つ男が、敵軍の将軍たちについて私たちと話をしていた。そこにいた誰かがたまたまルイ王子のことを口にした。「彼については」と彼は言った。「私は予言する。彼は今度の戦役で殺されるだろう」。その予言がこれほど早く現実になるとは誰が想像しただろうか。

プロイセンはようやく自らの主張を説明した。彼女は我々に征服地を放棄するよう要求し、ドイツからの撤退とライン川の再渡河を拒否すれば不興を買ってやるぞと脅した。要求は控えめで、それを促した者たちの要求に見合うものだった。ナポレオンはその文書を読み終えることができず、軽蔑の念を込めて投げ捨てた。「シャンパーニュに浸っているつもりか?」と彼は言った。「宣言文の改訂版を我々に渡すつもりか? 一体何だ! 我々の帰還のルートを示すつもりか。本当に、プロイセンが可哀想だ。ウィリアムに同情する。彼は自分がどんな狂詩曲を書かされているのか分かっていない。これはあまりにも馬鹿げている。ベルティエ、彼らは8日に名誉ある会合を開きたいと言っている。美しい女王が戦闘の証人となるだろう。さあ、進軍を進めよう。そして我々の礼儀を示すのだ。ザクセンに入るまで我々は立ち止まらない。」それからすぐに秘書の方を向いて、急いで次の宣言を口述しました。

[75ページ]

「兵士たちよ!

フランスへの帰還命令が発令されました。あなた方は既に数日で故郷に辿り着ける距離にいました。凱旋祝賀会があなた方を待ち受け、首都では歓迎の準備が始まっていました。しかし、我々がこのように安泰に甘んじている間に、友情と同盟の仮面の下で新たな陰謀が企てられていました。ベルリンでは戦争の叫びが上がり、二ヶ月間、我々は復讐を呼ぶほどの大胆さで挑発されてきました。

14年前、我々の内部抗争に便乗してプロイセン人をシャンパーニュ平原へと導いたのと同じ派閥、同じ強情な精神が、今も彼らの評議会で優勢を誇っている。もはやパリを焼き払い破壊する気がないなら、今度は同盟国の首都に旗を立てるつもりだと豪語している。彼らはザクセンを彼らの属州リストに加えることで、不名誉な取引によってザクセンの独立を放棄させようとしている。つまるところ、彼らは君たちの額から栄光を剥ぎ取ろうとしているのだ。彼らは、彼らの軍隊を見て我々がドイツから撤退することを期待している。なんと狂気の沙汰だ!偉大なる国民とその同盟国の子孫の名誉を汚すよりも、大首都を破壊する方が千倍も容易であることを彼らに学ばせよう。かつての試みにおいて [76ページ]敵の計画は挫折した。シャンパーニュ平原で彼らが目にしたのは、屈辱と敗北、そして死だけだった。しかし、経験から得た教訓は忘れ去られ、憎しみと嫉妬の感情が消えることのない者もいる。

「兵士諸君、名誉の道以外でフランスへ帰りたいと望む者は一人もいない。凱旋門の下を通らない限り、我々は帰るべきではない。」

「何と!我々は季節の厳しさ、海、砂漠に立ち向かい、しばしば我々に敵対するヨーロッパを征服し、東から西へと栄光を広げてきたが、今や脱走兵のように同盟国を見捨てて戻り、フランスの鷲がプロイセン軍の前に落胆して逃げ去ったと聞かされるだけなのだ。

「しかし、彼らは既に我々の前線に到着している。さあ、彼らに向かって進軍しよう。忍耐では彼らの熱狂は抑えられない。プロイセン軍に14年前と同じ運命を味わわせよう。偉大な民衆との友好関係によって領土と権力の拡大が容易であるならば、彼らの敵意(それは思慮分別を欠いたときにのみ引き起こされる)は海の嵐よりも恐ろしいということを、彼らに教えよう。」

[77ページ]

我が兵士たちはただ戦うことだけを望んでいた。プロイセン軍はザールフェルトとシュライツを占領した。我々は突撃し、敗走させ、千人の捕虜を出した。これが我々が彼らと戦った最初の二つの出来事だった。私は従うよう命じられていたミュラを離れ、シュライツの件についてナポレオンに報告するために出かけた。ナポレオンは何リーグも後方、ロイス=ローベンシュタイン公女の邸宅に司令部を置いていた。到着すると、ナポレオンはベルティエと会談していた。私は大公の勝利とタウエンツィエンの敗北を彼に報告した。「タウエンツィエン!プロイセンの陰謀家め!戦争をこれほど長く続けるのは、我々の努力の甲斐があった」とナポレオンは叫んだ。彼は私に、数時間後に任務に出発するために起こされるので、少し休んでも良いと言った。どこへ向かうのか、全く分からなかった。 5時頃、私は呼び出されました。皇帝は、当時ゾンダースハウゼンに司令部を置いていたと思われるヴィルヘルム国王宛の手紙を私に渡しました。「できるだけ早くプロイセン国王の後を追って、私からのこの手紙を届けなければならない」と彼は言いました。「戦闘はすでに始まっていますが、私はもう一度和平を要請します。国王に、この状況の危険性と、致命的な結末を納得させるよう努めなければなりません。」 [78ページ]そこから生じるであろう結果を。すぐに戻って彼の返事を持ってきてくれ。今ゲラへ進軍する。」荷物はまだ後方にあった。私は馬車を持っていなかったが、ロイス=ローベンシュタイン公女の馬車小屋から馬車を借り、4頭の良い馬を乗せて、6時頃に出発した。旅を1リーグも進まないうちに、ナポレオンは私を追いかけた。私は戻って彼の書斎へ行った。彼は一晩中そこで過ごしていたのだ。彼は私にベルティエに手紙を届けるよう頼んだ。「よく考えてみると」と彼は言った。「私の副官の一人にそのような伝言を託すわけにはいかない。あなた方はあまりにも重要な人物ですから、不当な歓迎を受けるような事態に陥るわけにはいきません。」この手紙は2日後にモンテスキュー氏によって送られました。彼はゲラから出発したと記憶しています。彼が受けた扱いはよく知られています。当時プロイセン軍の総司令官であったホーエンローエ公爵に呼び止められ、イエナの戦いに参加するよう強要されたため、戦闘が終わるまで手紙を送らなかったとされています。

ナポレオンの側近の何人かは、もし私が最初に任された任務を遂行していたら、プロイセン王を招き入れ、戦争はおそらく [79ページ]起こらなかったはずだ。私はそうは思わない。挑戦状が投げかけられたのだから、受け入れる以外に選択肢はなかった。ナポレオンがウィリアム国王よりも平和を望んでいたとは思えない。

第11章
我々はザーレ川全線を掌握し、敵軍を翻弄する絶好の機会を得ていた。ブラウンシュヴァイク公の思惑は完全に崩れ去った。彼は、メイン川で我々に追いつき、別働隊で両翼を占領し、我々が戦力を集中させる前に中央に侵入する計画を立てていた。彼は、移民以来フランスを悩ませてきた大規模な諜報網の糸を未だに掌握していた。ムードンから進軍する数個軍団の兵力と進路を把握しており、我々の進路を先取りすることに何の疑いも抱かなかった。ナポレオンはこの幻想を抱くことに喜びを感じ、準備を整え、その全線にわたって偵察を実施した。公はもはや、我々が敵の攻撃を先取りすることに何の疑いも抱かなかった。 [80ページ]我々の意図を察知した彼は、ケーニヒスハフテン経由で出撃する予定だと確信していた。彼はそれを確信していた。我々が彼の中央で動いたのは単なる罠、つまり「戦意の計略」に過ぎなかった。我々は彼を欺き、テューリンゲンの森経由で出撃させないようにしたかったのだ。その間に我々は、森と山岳地帯のコーブルクとメミンゲンへと進軍した。そこでは彼の騎兵隊は行動の機会を与えられず、少なくともその優位性を失うことになるだろう。我々の先手を打つことが何よりも重要だったため、彼はケーニヒスハフテンへと急いだ。

敵は森の中で交戦していた。ナポレオンは想定攻撃地点から60リーグ離れたシュライツへと進軍した。第3軍団は10日、ブラウンシュヴァイク公爵の背後にあるナウエンブルクで静かに休息をとった。戦闘はわずか2日しか経っておらず、既に左翼で姿を現していたプリンスは、今にも完全に切り裂かれる寸前だった。エルベ川との連絡路は危険にさらされ、かつて激しく非難したマックとほぼ同程度の窮地に追い込まれていた。前衛部隊がメイン川に到着すると、戦場には誰もいないことがわかった。この状況は理解しがたいものだったが、それでも彼は自分が直面している危険を全く認識していなかった。ザールフェルトの敗走 [81ページ]それだけで、彼が自らの安全に置いていた自信は揺るがされた。彼は慌てて進路を引き返した。ヴァイマルとホーエンローエには速やかな進軍命令が下され、予備軍には強行軍が命じられた。しかし、一部の部隊は進路を誤り、また他の部隊は十分な速さで進軍しなかったため、一部の部隊は戦闘に参加できなかった。公爵は、あまりにも目新しい移動手段に当惑し、どのような決断を下すべきか分からなかった。次々と繰り広げられるこれらの行軍と布陣は、混乱の塊となり、彼は計画も目的も見出すことができなかった。ナウエンブルクの占領は、彼をこの困惑から解放した。彼は左翼が反転するか、少なくとも危険にさらされるのを目の当たりにした。彼はもはや待つつもりはなかった。ハレに進軍していた予備軍を急いで再集結させ、後退を隠蔽するためにホーエンローエをカペレンドルフの陣地から撤退させた。ザールフェルトとシュライツの惨劇を共にしなかった彼の軍隊は、敗れた軍団を嘲笑し、「王よ永遠なれ!女王よ永遠なれ!」などと叫んだ。彼らはプロイセン軍に与えた侮辱の仇討ちを決意した。彼らに対抗できるフランス兵は少なかったのだ。公爵自身も自信を取り戻していた。アウエルシュタット街道には、せいぜい30人ほどの猟兵しかいなかった。 [82ページ]彼の通信は自由で、傍受されることは不可能だった。公爵のような巧みな機動性を駆使する者を不意打ちするのは容易ではなかった。ホーエンローエ率いるプロイセン軍はイエナの丘の背後に陣取っていた。その軍勢は視界の及ぶ限り広がり、ヴァイマルを越えてまで伸びていた。ナポレオンは13日の夜に彼らを偵察し、翌日の攻撃を決定した。夜、彼は各軍団に行動命令を下した。「ダヴーストに関しては、敵軍の後方に当たるようアポルダへ進軍せよ。最も適切と考える経路を取らせよ。戦闘に参加する限り、その判断は彼に委ねる。ベルナドットが近くにいるなら、支援してもよい。ベルティエ、それに応じた指示を出せ。」夜の10時だった。あらゆる準備が整っていたにもかかわらず、敵軍の指揮官は我々が敗走できないと自惚れていた。しかし、先鋒軍の斧はあらゆる障害を取り除き、岩は切り開かれ、塹壕が掘られた。戦闘は右翼と左翼で始まり、激戦は激しかった。特にダヴーは、もし毅然とした者でなければ勇気が尽きてしまうような状況に置かれていた。ベルナドットはダヴーの支援を拒否し、予備騎兵二個師団の投入さえ禁じた。 [83ページ]しかし、彼の指揮下にない部隊は戦闘に参加させなかった。彼はアポルダ周辺を行進し、その間にフランス軍2万6千人が、ブラウンシュヴァイク公爵とプロイセン王が指揮する精鋭7万人と交戦していた。しかし、この事態は指揮官の栄光をさらに高めるだけだった。指揮官は、この事態によって失墜する可能性があったのだ。ダヴーの作戦は綿密に練られ、将軍たちと部隊は巧みに勇敢に展開したため、1万2千の騎兵を率いるブリュッヘルは、一個中隊たりとも撃破する余裕がなかった。国王、近衛兵、そして全軍が我が軍を攻撃したが、大きな成果は得られなかった。四方八方から砲火を浴びせられながらも、フランス軍は国民的な陽気さを保っていた。戦友から皇帝の異名を付けられた兵士は、プロイセン軍の頑固さに我慢できなくなり、「擲弾兵諸君、私と共に進もう! 皇帝陛下を追え!」と叫んだ。彼は戦闘の最前線に突入し、部隊は彼に追従し、プロイセン軍の衛兵は突破された。彼は伍長に昇進したが、友人たちは彼が望んでいたのは護国卿の地位だけだと言った。

イエナでの勝利は、同様に輝かしいものであった。敗走は完全かつ全面的で、敵は極めて混乱した状態で逃走した。

夕方、私は指示を受けて [84ページ]大公の命を受け、プロイセン軍の残党を追撃することになった。我々はザクセン人大隊を率いてワイマールへ乱入した。町の前に布陣し、騎兵隊をエアフルト街道に派遣して城に着いた。パリで会ったことを覚えていたパッペンハイム氏が我々を出迎えた。彼はひどく驚いていたが、我々は心配する必要はないと保証した。大公とその家族を除く宮廷関係者全員がワイマールにいた。公爵夫人は我々を非常に丁重に迎えた。私は彼女の随行員数人と面識があり、そのうちの一人は後に私の義妹となった。私は彼女たちの不安を和らげようと努めた。彼女たちは勇気を出した。多少の騒動はあったが、大したことではなかった。

ミュラは城に宿を構えた。私はイエナでナポレオンと合流し、昨夜の出来事を報告しようとした。彼はそれがワイマールを越えて広まるとは思っていなかった。彼は大いに満足していた。公爵夫人の勇気には驚かされた。宮廷が彼を待っていてくれるとは想像もしていなかった。彼は公爵夫人の家族を好んでいなかった。彼はこのことを何度も繰り返した。夜も更け、ナポレオンはちょうど第二軍団からの伝言を受け取ったところだった。「ダヴースト」 [85ページ]彼は私にこう言った。「ひどい戦闘だった。ウィリアム王とブラウンシュヴァイク公爵が敵に回った。プロイセン軍は必死に戦い、甚大な被害を受けた。公爵は重傷を負い、全軍はひどく混乱しているようだ。ベルナドットの行儀は悪かった。ダヴーが敗れたら喜んだだろう。しかし、この一件は征服者に最高の栄誉が与えられることを示している。ベルナドットが彼の立場を困難にした分、なおさらだ。ガスコーニュはこれ以上の勝利は望めないだろう。」

戦いは敗北した。ロシア軍はもはや戦争を続ける気はなく、平和を願い、平和を訴えた。彼らは、これまで散々な結果に終わったこの戦いを終わらせようと躍起になっていた。休戦を願うあまり、ついに休戦が成立したと思い込んでしまった。カルクロイトが休戦を宣言し、ブリュッヒャーは休戦が成立したと誓った。それをどうして疑う余地などあるだろうか。しかし、スールトは罠にはまるわけにはいかなかった。アウステルリッツで見せた軽率な寛大さが、彼を疑念に陥れていたのだ。彼は、自分が切り離した兵士たちに通行許可を与えることを拒否した。「あなたの言うような協定は不可能だ!」と彼は元帥に言った。「武器を捨てよ。私は皇帝の命令を受けなければならない。 [86ページ]彼が許可するなら撤退する。」カルクロイトはこのような手段に訴える気はなかった。それは常に敗北の印象を与えるからだ。そして彼はむしろ真剣に敗北を経験したかったのだ。他の部隊はより幸運だった。しかし、それは単に凶機を先送りしただけだった。彼らはさらに数リーグ先で降伏せざるを得なかった。欺瞞に訴える価値はなかった。

国王自身も不運に落胆していた。我らが軽騎兵は国王に休戦も猶予も与えなかった。国王はナポレオンが敵対行為を避けるために尽力したことを全て思い返し、国王に手紙を送った。あまりにも不評だった申し入れに返事をするには、もはや遅すぎた。「二日早く釈明してくれれば良かったのに」とナポレオンは言った。「だが、フランスの尊厳と利益にかなうなら、どんなことでも受け入れる覚悟だ。デュロックをプロイセン国王のもとへ送る。だが、さらに緊急の用事がある。デュロック、直ちに出発せよ。負傷兵がいるナウエンブルク、デッサウへ。彼らに何も不足しないように気を配り、一人一人を私のために見舞い、状況に応じて必要な慰めを与えよ。元帥に伝えよ。元帥と将軍たち、そして兵士たちは、私の永遠の感謝に値すると伝えよ。」

[87ページ]

彼はこのメッセージに満足しなかった。彼の行動にどれほど満足しているかを伝える手紙を書いた。彼の手紙は命令書に載せられ、兵士たちはそれとともに輸送された。負傷兵たちでさえ、喜びを隠せなかった。

皇帝はヴァイマルに司令部を置き、公爵夫人が愛想がよく賢明で、非常に品位のある女性であると感じ、彼女には可能な限りの敬意を示した。

一方、敵はマクデブルクに集結しつつあった。イエナで交戦していた軍の残骸、予備軍、そして新旧プロイセン軍は急いでその地へ向かった。ヴィルテンベルク公爵は既にハレに陣取っていた。ベルナドットはそこへ進軍した。彼の軍団はアウエルシュタットで交戦していなかったため、失った栄光を補う機会を熱望していた。彼はプロイセン軍を銃剣で攻撃し、抵抗する者を皆殺しにし、敗走させた。その虐殺は凄まじいものだった。翌日、ナポレオンは戦場を視察した。我が軍兵士の遺体を取り囲む死体の山を見て、彼は衝撃を受けた。彼は近づき、彼らの制服に目を留めた。 [88ページ]第32連隊の兵士の数について、彼は「イタリア、エジプト、その他の場所で非常に多くの兵士が戦死したので、今は誰も残っていないと思う」と言った。

彼はデッサウへ向かい、息子と共にそこにいた老公爵にあらゆる配慮を示した。数ヶ月前、バーデン宮廷に仕えていたグッサウ氏がパリで私にこう言った。「あなたはおそらくプロイセンと戦争するでしょう。もしそうなれば、そしてこの戦役でデッサウまで進軍するなら、国民の父である尊き君主を敬うよう、あなたに命じます。」フランス軍がデッサウだけでなくニーメン川まで、そしてモスクワから20リーグも離れた地点まで進軍したことを、グッサウ氏は非常に驚いたに違いない。

[89ページ]

第12章
プロイセン軍は全速力で敗走した。しかし、彼らが後退を急げば急ぐほど、我々の追撃は激しくなった。マクデブルクの視界に入るところで追いつかれると、彼らは塹壕の背後に逃げ込んだが、すぐに武器を捨てざるを得なくなった。守備隊は包囲網を敷き、そこにいたウィリアムは脱出に満足した。周囲は嵐にうずくまっていた。プロイセンはもはや、我々をライン川まで追い返そうと考えた勇敢な国ではなかった。運命の逆境が彼女を打ち倒したのだ。一撃で土埃に埋もれたのだ。彼女は敗北に向かって逃げ惑い、屈服し、自らを投降させた。これほどまでに打ちのめされた国はかつてなかった。彼女の陥落はまさに完了しようとしていた。我々の全軍団はベルリンへ進軍し、その都市を占領する準備を整えていた。しかし、ナポレオンはその栄誉を、勝利に最も貢献した軍団、すなわちダヴースト指揮下の軍団に与えた。以下は彼が元帥に送った指示である。

[90ページ]

「ダヴー元帥への命令。」

「ヴィッテンベルク、1806年10月23日」

ドレスデンとシュプレー川に通じる街道に派遣した軽騎兵部隊が、側面に敵がいないことを報告した場合、今月25日正午にベルリンに入城できるよう行軍を指揮せよ。旅団長フリンをベルリン守備隊の指揮官として承認せよ。市内に任務に就くのに適切と考える連隊はどれでも残して構わない。軽騎兵部隊をオーデル川沿いのクストリン、ランゲスベルク、フランクフルト方面へ向かう街道に派遣せよ。軍団はベルリンから1リーグから1リーグ半の距離に展開せよ。右翼はシュプレー川に、左翼はランゲスベルク方面へ向かう街道に支援を置く。司令部はクストリン方面、部隊後方の郊外の邸宅に据えよ。皇帝は軍に数日間の休息を与える意向である。彼らのために藁と木の小屋を建てるのだ。将軍、参謀、大佐などは、彼らの背後の村に宿営しなければならない。 [91ページ]師団は駐屯し、ベルリンには誰もいない。砲兵は陣地を包囲する陣地に配置されなければならない。砲兵騎兵はピケに、そして全員が最善の軍制を保たなければならない。

「あなた方は、ベルリンからオーデル川へ進路を取ろうとするすべての船を止めるために、強力な部隊によるシュプレー川の航行をできるだけ早く遮断する、つまり阻止するでしょう。

明日、我々の司令部はポツダムに着きます。副官の一人を派遣して、23日と24日の夜にどこにいるか知らせてください。

「フェルディナンド王子がベルリンにいらっしゃるなら、彼に挨拶を述べ、監禁から完全に解放された護衛を与えてください。

ベルリンの軍隊の武装解除命令を直ちに発布し、市の警察任務には600人の民兵のみを残すこと。市民の武器は、我が軍の運用のため、指定された場所に移送しなければならない。

「皇帝がベルリンに最初に入城するよう指示したのは、イエナの戦いにおける軍隊の優れた指揮に対する満足の証しであることを、諸君の軍団に知らせよ。

「すべての荷物、特に状態の悪い荷物は、ベルリンから2リーグの距離で停止し、 [92ページ]首都へは進軍せず、右手の別の道を進むこと。そして、可能な限り秩序正しく、各師団に砲兵隊を配し、一時間間隔で進軍してベルリンへ入城せよ。

陣営が編成されたので、部隊は常に3分の2ずつで市街地へ進軍するよう命令せよ。そうすれば、陣営には常に3分の2の兵士が留まることになる。皇帝陛下はベルリン入城を予定されているので、暫定的に市の鍵を受け取ることができる。ただし、到着次第、政務官たちには必ず鍵を皇帝陛下に引き渡すよう通知せよ。政務官と要人に対し、市門で正式な儀礼に従って出迎えるよう要求せよ。また、状況が許す限り、将校たちには最善の身なりを整えるよう指示せよ。皇帝陛下は、ドレスデンの幹線道路を通って入城するよう提案されている。

皇帝陛下はおそらくシャーロッテンブルク宮殿にご滞在になると思われます。陛下の歓迎に万全の準備を整えるようご指示ください。

「ベルリンから1リーグ半か2リーグ離れたところに、シュプレー川に流れ込む小さな小川があり、エンに通じる道路と交差しています。」

[93ページ]

第13章
ポツダムに向けて出発したが、嵐に見舞われた。激しい雨がどしゃ降りになったため、隣の家に避難した。ナポレオンは灰色の軍服に身を包んでいたが、家に入ると、彼の存在にひどく動揺している様子の若い女性がいたので、大変驚いた。彼女はエジプト生まれで、ナポレオンがアラブ人から受けていた宗教的な尊敬の念を、彼女もすべてナポレオンに示していた。彼女は東方軍の将校の未亡人であり、運命に導かれてザクセンへ、そしてまさに皇帝が今迎えられている家へとやって来たのである。ナポレオンは彼女に1200フランの年金を与え、夫が彼女に残した唯一の持参金である息子の教育費を負担することを約束した。 「嵐から身を隠すのは初めてだ」とナポレオンは言った。「良い出来事が待​​ち受けているという予感がしたのだ。」

[94ページ]

ポツダムは無傷だった。宮廷はあまりにも慌ただしく逃げ出したため、何も持ち去られていなかった。フリードリヒ大王の剣とベルト、そして命令の弾帯もすべて残っていた。ナポレオンはそれらを手に入れた。「私はプロイセン王の宝物すべてよりも、これらの戦利品を高く評価する」と彼は熱く言った。「ハノーファー戦役に従軍した退役軍人たちに贈ろう。傷病兵病院長にも贈呈する。彼はこれらの戦利品を、偉大な軍の勝利と、ロスバッハの惨敗に対する復讐の証として保存してくれるだろう。」

ポツダムに入城するや否や、我々は使節団に包囲された。彼らはザクセン、ワイマール、そしてあらゆる方面からやって来た。ナポレオンは彼らを極めて丁重に迎えた。しかしながら、国民にフランスへの寛大な援助を勧めたブラウンシュヴァイク公の使節は、他の使節団ほど丁重に迎えられなかった。「もし」とナポレオンは使節団を紹介した人物に言った。「もし私がブラウンシュヴァイクの街を破壊し、城壁の石一つ残さずに破壊するなら、あなたの公は私のことをどう思うだろうか?しかし、報復の法則は、公が私の首都で行ったことをブラウンシュヴァイクで私に許すだろうか?破壊の計画を宣言するなどと。 [95ページ]都市を侮辱することは狂人の行為かもしれない。しかし、勇敢な兵士たちからなる全軍の名誉を汚そうとし、プロイセン軍の召集だけでドイツを離れる道筋をつけようとするなど、後世の人々が信じることはまずない事実である。公爵はそのような暴挙に出るべきではなかった。将軍は軍歴に熟達すれば、軍の名誉を尊重すべきである。公爵がフランス軍旗を侮辱する権利を得たのは、もちろんシャンパーニュ平原においてではない。そのような発言は、それをした者自身の不名誉となる。不名誉はプロイセン国王に帰するものではなく、現在の困難な状況下で国王が自分の任務を委ねた将軍、つまりフランスとプロイセンが戦争の惨禍を責めるであろうブラウンシュヴァイク公爵に帰するのである。老将軍が示した暴力的な例は、衝動的な若者たちの権威となり、国王を自らの意見や確固たる信念に反する行動へと導いた。しかしながら、閣下、ブラウンシュヴァイクの住民の皆様にご安心いただきたい。フランスは寛大な敵となるであろう。彼らに関しては、戦争の悲惨さを軽減することが私の願いである。そして、軍隊が彼らの領土を通過することで生じるであろう弊害は、フランスにとって大きな脅威となるであろう。 [96ページ]領土を放棄することは私の願いに反します。ブラウンシュヴァイク公爵には、敵の将校として当然の配慮をもって扱うと伝えてください。しかし、プロイセン王の将軍の一人を君主として認めることはできません。ブラウンシュヴァイク家が祖先の主権を失うならば、その責めは二つの戦争の張本人に帰すべきです。一つは偉大なフランスの首都の基盤そのものを弱めようとし、もう一つは20万人の勇敢な兵士たちに恥辱を与えようとした張本人です。彼らは敗北するかもしれませんが、栄光と名誉の道から決して逸脱することはありません。数日のうちに多くの血が流されました。プロイセンは大きな災難の犠牲者です。そして、ネストールのように評議会で声を張り上げてこう言っていれば、一言で災難を回避できたかもしれない人物を責めるのは当然です。

「思慮のない若者たちよ、黙れ!女たちは家庭の務めに戻れ。そして陛下、あなたの先人たちの中で最も輝かしい仲間の言うことに耳を傾けよ。ナポレオン皇帝は敵対関係を続けることを望んでいないのだから、戦争か不名誉かの選択を迫ってはならない。15年間の栄光を誇る軍隊と危険な戦いを繰り広げてはならない。 [97ページ]功績を挙げ、勝利によってすべてを征服することに慣れた者。

彼は、その時代の思慮深さと長年の経験にふさわしい言葉遣いをする代わりに、真っ先に戦争の叫びを上げました。血縁関係を破り、息子(ヴィルテンベルク公子ウジェーヌ)を父に反抗させるために武装させました。シュトゥットガルト宮殿に旗を立てると脅し、これらすべての行為にフランスへの呪詛を添え、14年間もの間その作成を否認してきたあの荒唐無稽な宣言の作者を自称しました。署名したことを否定することは彼には不可能でした。

シュパンダウはランヌ元帥に降伏していた。ナポレオンは要塞を訪れ、綿密に視察した。彼は私をダヴーストが入城したベルリンへ送り、老フェルディナンド夫妻に挨拶を述べるよう指示した。王子は息子を亡くしたばかりで、ひどく憂鬱で落胆している様子だった。王女はより穏やかで、諦めた様子だった。私はまた、ヘンリー王子とプロイセン王の妹であるヘッセン王女にも挨拶を述べた。ヘンリー王子は、非常に賢明な様子だった。 [98ページ]ナポレオンの示した気遣いに心を奪われました。ナポレオンは城の一角に隠居し、彼女は孫たちと静かに暮らしていました。この王女の境遇は、私に興味と尊敬の念を抱かせました。彼女は勇気を出したようで、ナポレオンに推薦してほしいと私に懇願しました。ナポレオンも到着後すぐに彼女を訪ねました。彼女は、私が彼女に対して抱いていたのと同じ好意をナポレオンに抱かせたのです。

皇帝は司令部をシャーロッテンブルクに定めた。翌日、皇帝は首都に入城し、軍に向けて次のような布告を発した。

「兵士たちよ!

諸君は私の期待に応え、フランス国民の信頼に十分応えた。戦場で示した勇敢さと冷静さに劣らず、諸君は苦難と疲労にも勇敢に耐えた。諸君は私の王冠の名誉と偉大なフランス国民の栄光を守る、まさに立派な守護者である。諸君が今示しているような精神力に突き動かされ続ける限り、何物も諸君に対抗することはできない。私はどの部隊を区別することもできない……諸君は皆、その実力を証明した。 [99ページ]あなた方、立派な兵士たちよ。以下は、この作戦における我々の努力の結果である。

ヨーロッパで最初の列強の一つが、最近我々に不名誉な降伏を申し入れましたが、ついに打倒されました。我らの父祖が7年かけても越えられなかったフランケン、ザーレ川、エルベ川の森と峡谷を、我々は7日間で突破しました。そして、この短い期間に4つの戦闘と一つの大戦を経験しました。ポツダムとベルリンへの入城は、我々の勝利の名声に先んじています。我々は6万人の捕虜を出し、65本の軍旗(その中にはプロイセン国王近衛兵の旗も含まれていました)、600門の大砲、そして3つの要塞を奪取しました。捕虜の中には20名以上の将軍も含まれています。しかし、これらすべてにもかかわらず、我が軍の半数以上がマスケット銃を一発も撃たなかったことを後悔しています。プロイセン王国の領土は、オーデル川に至るまで、全て我々の支配下にあります。

「兵士諸君!ロシア人は我々を迎え撃つと豪語しているが、我々は彼らを迎え撃つ。我々は彼らの行軍を半分節約する。彼らはプロイセンの真ん中で再びアウステルリッツの戦いに遭遇するだろう。皇帝、宮廷、そして [100ページ]彼の軍隊の残骸は、我々が降伏を認めたおかげで無事だったが、我々とうまく戦うことのできない国である。

ロシア軍と対峙すべく進軍する間、帝国内陸部で編成された新軍団がこちらへ到着し、現在の陣地を占領し、征服地を守る。我が国民は皆、狂気のプロイセン大臣たちが我々に提案した不名誉な降伏を聞き、憤慨して立ち上がった。国境の街道や町々は徴兵兵で溢れ、皆、諸君の足跡を辿り行軍しようと熱望している。我々は再び裏切りの和平の犠牲者となることはない。フランスの永遠の敵であるイギリスに大陸を揺るがす計画を放棄させ、海上での圧政を放棄させるまで、我々は武器を捨てない。

「兵士諸君!私が諸君に対して抱いている感情を、日々諸君が私に示してくださる愛情を、私の心の中に抱いていると保証すること以上にうまく表現することはできない。」

[101ページ]

第14章
ナポレオンは次に陣営へ向かい、第3軍団の閲兵式を行った。特に功績のあった者には昇進または勲章が授与された。将軍、将校、そして下士官たちが皇帝の周りに集まった。「14日の戦いにおける諸君の輝かしい功績に、改めて感謝の意を表すために、諸君を招集したのだ」と彼は言った。「我が息子のように慕っていた多くの勇敢な兵士を失った。深く遺憾に思う。しかし、彼らは栄光の戦場で倒れたのだ。真の兵士として、真の勇敢さを失ってしまったのだ!この記念すべき機会に、諸君は私に多大な貢献をしてくれた。特に、第三軍団の卓越した功績によって、我々は偉大な戦果を挙げることができた。諸君の部下たちに、彼らが示した勇気に私は満足していると伝えてほしい。将軍、将校、下士官、そして兵士の皆さん、諸君には永遠の感謝と恩義を捧げる権利がある」。元帥は、第三軍団は常に皇帝の信頼に値する存在であることを証明していくだろうと答えた。 [102ページ]それは、彼にとっての第10軍団が常にカエサルにとって何であったかと同じであるだろう。

ドゥノン氏はこの興味深い場面に立ち会っており、おそらく彼の鉛筆がその場面を記念するであろう。しかし、画家の才能がどんなものであろうとも、君主の顔に浮かんだ満足感と優しさ、あるいは元帥から最も卑しい兵士に至るまでその場にいた全員の顔に表れた献身と感謝の気持ちを伝えることは決してできないだろう。

ナポレオンが兵士たちに発した布告は、彼らに新たな熱意を与えた。彼らはハレとイエナで交戦していた残党を追撃すべく突進した。ホーエンローエ公は相当な兵力を結集しており、我々の手から逃れることもできたかもしれない。しかし、機敏さが足りず、時間を浪費し、その遅れが我々に彼を切り離す希望を与えた。ナポレオンはこの事態を焦燥しながら待ち構えていた。「ベルナドットはもうブレーメンにいるはずだ」と、宮殿に入る際に彼は私に言った。「彼はきっとプロイセン軍と合流しているだろう。ミュラはいつもの勢いで彼らに襲いかかるだろう。両者を合わせれば、彼らを打ち負かすには必要な以上の兵力になるはずだ。数日後には、ホーエンローエ公とその全軍団は私の手中に入るだろう。 [103ページ]間もなく彼らの大砲と荷物を全て回収できるだろう。だが、我々は共に行動しなければならない。彼らが戦闘をせずに捕らえられるとは考えにくいからだ。」

ナポレオンの予言通り、全てが起きた。我が騎兵隊の攻撃とぶどう弾の雨に混乱に陥ったプロイセン軍は、ベリアール将軍に降伏を命じられ、武器を捨てた。精鋭二万五千の兵、旗四十五本、大砲七十四門が我らの前に穢れを負った。これはウルムのもう一つの征服であった。皇帝はこの勝利に歓喜した。「これは結構だ」と彼は言った。「だが、即席の休戦協定を結ぶのが巧妙なブリュッヒャーをまだ捕らえていない。彼も必ず捕らえなければならない。」皇帝は直ちにミュラに次の言葉を送った。「何かが未完了のままである限り、何も成し遂げられていない。貴様はブリュッヒャー将軍の騎兵隊を撃破した。彼の部隊がホーエンローエと同じ運命を辿ったことを、すぐに知らせてくれ。」ベルティエはまた、ヴァイマル公爵の注意を引くために、次のように書き送った。「小さな別働隊とは別に、三つの主要な隊がある。第一に、プレンツローであなたが引き取ったホーエンローエ公爵の隊。第二に、28日の夜明けに撤退したブリュッヒャーの隊。 [104ページ]ヴィッセンベルクの部隊、そして君は今日パッセルヴァルヒで間違いなくこれに遭遇したに違いない。そして3番目はワイマール公爵の部隊で、スールト元帥の攻撃を逃れ、26日にソードンとハーフェルスベルク付近でエルベ川を渡り、そこからヴュルスターハウゼン、ニュールピン、グラウゼー、あるいはフュルステンベルク方面に進軍した。ハーフェルスベルクからフュルステンベルクまでは25リーグの距離がある。したがって、ワイマール公爵は28日にフュルステンベルクに到達できない。しかし、フュルステンベルクからパッセルヴァルヒまではわずか20リーグの距離だ。もし敵の部隊がそのルートを通れば、君は30日か31日にパッセルヴァルヒで必ずこれに遭遇するだろう。したがって、君とランヌ元帥、ベルナドット元帥の間には、何の抜け道もないと推定される。これが、皇帝に届いた報告から私があなたに伝えることができる情報です。」

しかし、公爵はプロイセン軍の惨敗を目の当たりにすることにうんざりしていた。彼は交渉の末、軍の指揮権をブリュッヒャーに移譲した。ブリュッヒャーは撤退を決意し、どこへ行くのかさえも気にせず、逃げ去った。その行方はナポレオンの当惑を招いた。「一体何を企んでいるんだ?」と彼は言った。「どこへ行くというんだ?ホルシュタインに身を投げるとは思えない。一度でも… [105ページ]そこでは退却の道は見つからないだろう。エルベ川を再び渡ることもできない。追い立てられ、部隊は溺死するだろう。そんなことをしようとは決して思わないだろう。間もなく彼をここに捕らえるだろう。」ブリュッヒャーは数日後、武器を置いた。彼はプロイセン全土を横断し、デンマーク領を侵略した。目的は、プロイセン軍の2万から2万5千人の兵士、軍旗、そして最後の大砲の降伏を数日遅らせることだけだった。もう少し手腕があれば、ブリュッヒャーの頑固さをもっとうまく利用できたかもしれない。「よし」とナポレオンはこの知らせを聞いて言った。「彼らは今、オーストリア軍と共に前進している。今後はもっと慎重になるだろう。ウルムについては何も言わないだろう。3週間で4度も再交渉した。ブリュッヒャーはフランスのディジョンに派遣しなければならない。そこで休戦協定の締結に興じるだろう。ベリアール将軍に手紙を書け。」以下の電報が送られた。

「ベルリン、1806年10月13日」

騎兵予備軍参謀総長、ベリアール将軍へ。

「皇帝の意向は、隊列に所属するすべての囚人が [106ページ]ブリュッヒャー将軍とワイマール公爵の軍勢はフランスへ送られるべきである。国王陛下は、すべての将軍と将校もフランスへ向かうことを希望される。ブリュッヒャー将軍は将校に付き添われてディジョンへ向かう。若きブラウンシュヴァイク公爵もまた将校に付き添われてシャロン=シュル=マルヌへ向かう。その他の将校は、デジャン大臣が捕虜収容所として指定したフランス各地へ移送される。

皇帝が勅令を口述し終えるまで、我々は邪魔をしようとはしなかった。しかし、皇帝がそれを終えると、我々はブリュッヒャー将軍のために仲裁に入った。彼は既に武器を放棄しており、もはや危険人物ではないこと、そして彼の軽騎兵としての慣習をいくらか考慮する必要があることを伝えた。ナポレオンは我々の提案の正当性を認め、ブリュッヒャーはハンブルクへ退いた。

[107ページ]

第15章
ハッツフェルト公爵はベルリン市から代理としてポツダムに赴き、歓迎を受けていた。彼はホーエンローエ伯爵に、私の記憶する限りの任務の経過を報告し、首都に駐留している、あるいは道中で遭遇した軍隊、砲兵、弾薬の状況について報告した。しかし、彼の手紙は傍受された。ナポレオンはそれを私に渡し、公爵を直ちに逮捕し、二リーグ離れたダヴースト元帥の司令部へ送るよう命じた。ベルティエ、デュロック、コーランクール、そして私はナポレオンの怒りを鎮めようと無駄な努力をした。彼は私たちの訴えに耳を傾けようとしなかった。ハッツフェルト氏は、任務とは全く関係のない軍事に関する報告を送っていた。彼は明らかにスパイの役割を果たしていたのだ。軍憲兵隊の司令官として、この種の事柄を通常は把握していたサヴァリーは、その時は任務中だった。私は [108ページ]不在中の職務を代行するため、私は王子の逮捕を命じたが、ダヴーの司令部へ連行する代わりに、宮殿衛兵隊長の部屋に入れ、あらゆる敬意をもって王子を扱うよう指示した。

コランクールとデュロックは皇帝の部屋から退出した。ナポレオンはベルティエと二人きりになり、ベルティエにハッツフェルト氏を軍事委員会に召喚する命令書を書くよう指示した。少将は彼に有利な主張をした。「陛下は、このような些細な罪で、ベルリンの名家と縁のある男を射殺されるようなことはなさらないでしょう。そんなことは不可能です。陛下は考えられないでしょう」皇帝の怒りはさらに増した。ヌーシャテルは執拗に仲裁を求めたが、ナポレオンはついに我慢の限界に達し、ベルティエは部屋を出て行った。私は呼ばれた。たった今起こった出来事を耳にしていたのだ。少しでも考え事をするのを恐れた。私は苦悶の状態に陥っていた。これほど過酷な措置に加担することへの嫌悪感に加え、皇帝が話すのと同じくらい速く書かなければならなかった。そして、正直に言って、私にはそんな才能はなかった。皇帝は私に次のような命令を口述した。

「我々の従兄弟であるダヴースト元帥が [109ページ]軍事委員会は彼の幕僚の7人の大佐から成り、彼はその委員長となり、ハッツフェルト公を反逆罪とスパイ活動の罪で裁くこととなった。

「判決は午後6時までに言い渡され、執行されなければならない。」

正午頃だった。ナポレオンは私に、命令を直ちに発令し、ハッツフェルト公の手紙も同封するよう指示した。しかし、指示の後半部分は従わなかった。心は極度の苦痛に苛まれた。公の身に、そして自分の身にも震えた。公をダヴーの司令部へ送る代わりに、宮殿に泊めてしまったのだ。

ナポレオンはフェルディナンド公子夫妻を訪問する予定だったので、馬に鞍をつけたいと考えていました。必要な命令を伝えるために外に出ようとした時、ハッツフェルト公子が控えの間で気を失い、以前から私と話したいと申し出ていたことを知りました。私は彼女のところへ行きました。ナポレオンの不快感を隠そうとはしませんでした。馬で出かけることを伝え、フェルディナンド公子のもとへ行き、夫に好意を持ってもらうよう頼みました。彼女がそうしたかどうかは分かりませんが、宮殿に到着すると廊下の一つで彼女を見つけ、彼女は… [110ページ]彼女は皇帝の足元で涙を流し、私は皇帝に彼女の名前を告げました。

王女は妊娠中でした。ナポレオンは彼女の境遇に心を痛め、城へ向かうよう指示しました。同時に、ダヴーストに書簡を送り、裁判の中止を命じるよう私に依頼しました。ハッツフェルト氏はすでに出発したと思っていたのです。

ナポレオンは宮殿に戻り、そこでハッツフェルト公爵夫人が待っていました。彼は夫人にサロンに入るように頼みました。私も同席していました。「奥様、ご主人は不幸な窮地に陥りました。我が国の法律に従えば、死刑に値します。ラップ将軍、手紙をお渡しください。さあ、奥様、これを読んでください」ナポレオンは夫人に激しく震え上がりました。ナポレオンは即座に夫人の手から手紙を取り、破り捨てて破片を火に投げ込みました。「奥様、ハッツフェルト公爵に対する証拠は他にありません。従って、彼は自由です」ナポレオンは私に、司令部での監禁から直ちに解放するよう命じました。私は彼を司令部へ送ったのではないと認めましたが、彼は私を責めず、むしろ私の行動を喜んでいるようでした。

この事件では、ベルティエ、デュロック、コーランクールは、いつものように、つまり勇敢な男たちのように振る舞った。特にベルティエの振る舞いは賞賛に値するものだった。

[111ページ]

ハッツフェルト公爵は家族の元へ戻るとすぐに、事の顛末を知らされました。彼は私に手紙を書いて、感謝の気持ちと動揺の念を吐露しました。内容は次の通りです。

「親愛なる将軍、

昨日は様々な感情に襲われましたが、あなたの感受性の強さと、私に対して示してくださったご関心に気づかずにはいられませんでした。昨晩は家族との交流に全力を尽くしました。そのため、あなたへのご恩義は今日まで果たせませんでした。

「人生には、決して忘れることのできない瞬間があります。誠実な人に対する深い感謝と尊敬を少しでも大切にするなら、私に示した関心は報われるでしょう。

「私の深い配慮と、私があなたを忘れることなどあり得ないほどの気持ちを確信してください。

「親愛なる将軍、私は
あなたの非常に謙虚で忠実な僕、ハッツフェルト公爵であることを光栄に思います
。」

「ベルリン、1806年9月30日」

[112ページ]

間もなくドイツの宮廷から使節がベルリンに到着し、ナポレオンにそれぞれの君主への寵愛を嘆願しました。ワイマール公爵夫人はミュラー氏を派遣し、関税の減額と、確かハンブルクにいる公爵の帰国を願いました。皇帝はこの外交官の堅苦しい態度を気に入らず、面倒だと感じ、私のところに派遣しました。「タレーランにこの紳士をあなたに紹介するよう指示しました。ワイマール宮廷の諸問題をあなたに解決していただきたいのです」と皇帝は私に言いました。皇帝は公爵の名前を出すのを聞き入れようとしませんでした。公爵夫人への好意と同じくらい、公爵に対しても憤慨していたのです。しかし、彼の怒りは少し収まり、公爵夫人を従妹と呼びました。当時、この称号は重要な意味を持っていました。公爵は帰国の許可を得ました。そこへ向かう途中、彼はナポレオンに謁見したいと申し出ましたが、その日のうちに私たちはポーランドへ出発しました。彼は私に手紙を書いてくださり、私が彼の家族のために尽くしたことに感謝してくれました。私は確かに彼らのために貢献できたと信じています。その後、私は再びワイマール公爵のために役立つことになりましたが、これについては後ほど触れる機会があります。以下は彼が私に宛てた手紙です。以下の文書を引用します。 [113ページ]この種の書物は、その書物が言及する時代の出来事を描写しており、また、その書物が宛名に書かれた相手に対して名誉ある書物であるからである。

“お客様、

あなた方が私の家族に示してくださった数々のご厚意、そして私たちに対して示してくださった温かいご好意に、心から感謝申し上げます。私は、あなたの優しさをどれほど深く感じているかを、口頭でお伝えする機会を心待ちにしておりました。同時に、公爵夫人の特別なご意向により、彼女があなた方を高く評価していることをお伝えしたかったのです。残念ながら、皇帝陛下兼国王陛下の急なご逝去により、本日は直接あなたに敬意を表することができませんでした。しかし、私があなた方に対して抱いている深い敬意は変わることなく、これからも変わることなく、これからもずっとあなた方を支え続けることを、言葉で保証できる喜びを味わえる時がそう遠くないのではないかと、私は心から願っております。

“お客様、

「あなたの非常に謙虚で従順な僕、
『ワイマール公爵』。」

「ベルリン、1806年11月24日」

[114ページ]

第16章
ヘッセン選帝侯もまた交渉を望んだが、皇帝はその君主にひどく憤慨しており、使節の受け入れを拒否した。「彼に関しては」と皇帝は言った。「彼の治世は終わりました。」

マグデバラの門はネイ元帥に開かれた。鍵と共に、選帝侯のものと言われていた貴重品が入った小さな箱が元帥のもとに届けられた。それらは要塞で発見された。

コルベール、クストゥリン、シュテッティンといった諸侯が降伏し始めた。大公はプレンツローから軽騎兵を派遣し、彼らは不意に守備隊の前に姿を現した。夕闇が迫っていた。ラサール将軍は、部隊が追撃中であると告げた。彼は総督を召喚し、脅迫し、威嚇し、和解を促した。しかし、ベリアール将軍が到着し、交渉を打ち切り、もし1時間以内に要塞を明け渡さなければ砲弾で制圧すると宣言した。プロイセン軍は警戒を強め、軍勢、そして… [115ページ]公園では、彼らを殲滅する準備は万端で、彼らは我々の軽騎兵隊に降伏した。クストリンはさらにうまく対処された。我々の部隊はオーデル川を渡河しようと移動した。行軍の途中で数百のプロイセン軍と遭遇したが、彼らは散り散りになった。守備隊は彼らに発砲し、我々の隊列の間に砲弾が飛び交った。グディン将軍は、無駄な発砲をやめなければ守備隊を直ちに爆破するとほのめかした。知事は不安になり、対策を提案したが、却下された。何もできないと告げられたのだ。知事は粘り強く提案したが、将軍は行軍を続け、彼の提案を受け入れる者はいなかった。かなり離れた場所にいたプティ将軍に電報が送られた。休戦旗は依然として合意に至らなかった。「どのような対策を講じればよろしいですか?」将軍は重々しく言った。 「私の指示は確実だ。もし守備隊が2時間以内に降伏しないなら、壊滅せよ。砲台を準備している。40門の迫撃砲か榴弾砲が、直ちに城壁に激しい砲火を浴びせるだろう。ここに砲兵大佐がいる。」(しかし、その時前に出てきたのは第85連隊の大佐だった。)「見てみよう。 [116ページ]大げさに言っていますね。大佐、砲は準備万端ですか?準備は整いましたか?」――「準備はできています、将軍。ただあなたの命令を待っています。」――「しかし、少しお待ちください。和平の条件を提示しましょう。ほら」と彼はプロイセン軍将校に言った。「あなたの町は今にも壊滅しそうです。状況を変えられないような災難は避けた方がよいでしょう。敗北しても勝利しても、いずれにせよ、現在の優位性を最大限に活かします。降伏でも包囲でも、どちらでも構いません。選ぶのは構いませんが、急いでください。そして、私は総督以外とは交渉しません。総督はすぐにオーデル川に現れました。

ゴーティエ将軍は総督を出迎え、隣の家へ案内した。プティ将軍も合流し、降伏文書に調印した。食料と弾薬を満載した4000人のプロイセン兵が、召集すらされず、攻撃に出ることもできない歩兵連隊に降伏した。彼らが我々にライン川を渡るよう求めたのは当然のことだ。彼らは我々を危険な隣国と見なしていたのだ。

ナポレオンはデュロックをプロイセン国王のもとに派遣したが、誰も和平が実現するとは信じなかった。

コーランクールと私が歩いていると [117ページ]城の中庭で、金髪の背の高い若い男が私たちのところにやって来て、挨拶をした。この男はヴュルテンベルクのパウル王子だった。彼は父の意向に反して従軍していたプロイセン軍をちょうど退役したばかりで、皇帝のみならず父からもひどく不興を買っていた。「殿下のご用件は何ですか?」とコーランクールは尋ねた。王子は、皇帝の寵愛を取り戻したいので、将軍に知らせてほしいと答えた。ヴィチェンツァ公爵は同意したが、ナポレオンは王子を受け入れようとしなかった。彼は王子を逮捕し、憲兵隊の将校に付き添わせて父国王の領地へ連行するよう命じた。そこで王子は数年間拘留された。コーランクールは、彼の監禁生活の厳しさを和らげようとあらゆる手を尽くした。

我々の司令部はポーゼンに移された。部隊が初めて姿を現した際に現れた反乱の精神は、新たな激しさを帯びて爆発した。カリシュはプロイセン軍の武装解除を行い、他の多くの要塞でも同様の措置が取られた。師団の指導者たちへの非難の声だけが聞こえてきた。村々、町々、そしてワルシャワ市でさえ、ロシア軍に占領されていたにもかかわらず、代表団を派遣し、ソ連軍の撤退宣言を要求した。 [118ページ]ポーランドの独立。「喜んで同意する」とナポレオンは言った。「だが、ひとたび火がついたら、どこまで燃え広がるか分からない。私の第一の義務はフランスの利益を守ることだ。ポーランドのためにフランスを犠牲にしてはならない。ポーランドの運命は、万物を支配する君主である時間に委ねなければならない。我々が何をすべきかを示してくれるのは、彼だけだ。」

デュロックはポーゼンで合流した。我々はワルシャワへ向けて出発した。その途中、大元帥の馬車が横転し、鎖骨を骨折した。ナポレオンはこの事故を非常に心配した。デュロックは皇帝にとって欠かせない存在だった。彼は常に最高の寵愛と絶大な信頼を得ており、それはあらゆる点で当然のことだ。デュロックほど機転、商才、そして手腕に秀でた人物は稀であり、同時に謙虚さにおいても際立った人物も稀であった。皇帝への彼の忠誠心は限りなく高かった。彼は善良な心を持ち、正直な人物であった。唯一の欠点は、不興を被ることを恐れ、極度の臆病さだった。

ついに我々はポーランドの首都に入った。ナポリ王が我々に先立ってロシア軍を街から追い払っていた。ナポレオンは熱狂的に迎えられた。ポーランド人たちは [119ページ]蘇生の時が訪れ、願いが叶ったことを喜びました。彼らが示した喜びと、我々に示してくれた敬意は、言葉では言い表せません。しかし、フランス軍はそれほど喜んでいませんでした。ヴィスワ川を渡ることに強い嫌悪感を示しました。貧困と悪天候のせいで、彼らはポーランドへの強い嫌悪感を抱き、ポーランドに関するジョークや警句を尽きることなく口にしていました。それでも、彼らはナシエルスクの沼地、ゴルイミン、プルトゥスク、そしてアイラウでロシア軍を打ち負かしました。

ポーランド軍が我が軍に迫っていた閲兵式の最中、ある兵士が大声で祖国と悪天候を呪いました。傍らにいた若い女性が言いました。「祖国を嫌うとは、恩知らずですね。私たちはあなたのことをとても愛しているんですから。」兵士は「とても親切ですね」と答えました。「でも、あなたの言葉を信じてもらいたいなら、私と戦友にここで美味しい夕食をご馳走してください。」若い女性の友人たちは二人の兵士を家に連れて帰り、ご馳走しました。

フランス兵たちは劇場で冗談を言い合うのが特に好きだった。ある晩、幕が上がるのがかなり遅れた時、観客の中にいた擲弾兵が我慢できなくなり、 [120ページ]遅れに気づいた。「始めろ!」穴の奥から彼は叫んだ。「すぐに始めろ。さもないとヴィスワ川を渡れないぞ。」

ワルシャワ近郊で馬車を運転していたタレーラン氏は泥濘にはまり込み、救出されるまで12時間もかかった。ひどく機嫌が悪かった兵士たちは、彼が誰なのか尋ねた。外務大臣は側近の一人にこう答えた。「なぜこんな国に外交官として来たんだ?」兵士の一人が言った。

フランス軍は、次の 4 つの単語がポーランド人の言語のすべてであると言っていました。Kleba? niema; vota? sara: (パンがありますか? ありません。水がありますか? 取りに行きます。) これがポーランドで聞かれるすべてでした。

ある日、ナポレオンはナシエリスク近郊で歩兵隊の横を通りかかった。泥のせいで食料が届かず、兵士たちは甚大な苦難に見舞われていた。「パパ、クレバ?」と兵士が叫んだ。皇帝は「ニーマだ」と答えた。隊列全体が大笑いし、それ以上何も求めなくなった。

私がこれらの逸話を語るのは、それが私たちの軍隊を活気づけた精神を示しているからです。 [121ページ]勇敢な退役軍人は、彼らが受けた以上の感謝を受けるに値する。

ナポレオンはこうした冗談に面白がり、ヴィスワ川を渡河する軍の消極的な態度が仄めかされるたびに微笑んでいた。一部の将軍は軍勢の配置を不利に予測し、熱意が嫌悪感に取って代わられたことを残念がった。「敵について彼らに話しましたか?」と皇帝は言った。「敵と対峙しても熱意がないのか?」後に皇帝は私にこう言った。「あの人たちは私の軍隊の価値を認める術を知らない。ロシアと勝利の話になると、彼らは情熱に燃える。私が彼らを奮い立たせよう。」皇帝は秘書の一人を呼び、次のような命令を口述した。

「兵士たちよ!

12ヶ月の今日、まさにこの時間、あなたは忘れ難いアウステルリッツの戦場にいました。ロシア軍は落胆し、無秩序に敗走するか、包囲されて征服者たちに武器を放棄せざるを得ませんでした。翌日、彼らは和平の報告を流しましたが、それは偽りでした。彼らは、おそらく非難されるべき寛大さによって第三次対仏大同盟の惨事から逃れるやいなや、陰謀を企てました。[122ページ] 四番目だ。だが、彼らがその戦術に最大の希望を託していた同盟国は、もはやかつての姿ではない。その城塞、首都、弾薬庫、武器庫、280本の軍旗、700門の大砲、五つの大守備隊は、我々の手中にある。オーデル川、ヴァルタ川、ポーランドの砂漠、厳しい天候も、一瞬たりとも君たちの進撃を阻むことはなかった。君たちはあらゆる危険に立ち向かい、あらゆる障害を乗り越えた。君たちの敵は、君たちが近づくと至る所で逃げ去った。ロシア軍は、古来より名高いポーランドの首都を守ろうとしたが、無駄だった。フランスの鷲はヴィスワ川の上空に舞い上がっている。君たちが近づくと、勇敢で不運なポーランド人たちは、記念すべき遠征から帰還するソビエスキー軍団を再び目にしたような気がした。

「兵士諸君!全面的な平和が確立し、同盟国の力を確保し、フランスに貿易の自由と植民地の領有権を取り戻すまで、我々は武器を捨てない。エルベ川とオーデル川の岸辺では、ポンディシェリ、インドの拠点、喜望峰、そしてスペイン植民地を征服した。ロシアにヨーロッパの運命を決める権利などあるだろうか?我々の正当な計画を打ち砕く権利などあるだろうか?彼らも我々と同様に、アウステルリッツで戦った者たちではないのか?」

[123ページ]

軍隊はザクセン広場に集結していた。戴冠式の記念日で、ロシア軍はプラハ郊外を占領していた。こうした情勢、思い出、栄光への展望は、大きな歓声で迎えられた。我が軍は勝利の見通しに鼓舞され、あらゆる偏見は消え去った。敵は川の左岸を包囲していた。すべての船は曳航されていたが、我が軍の補給将校の一人がコサックの槍をものともせず、一隻のボートを手に入れることに成功した。これで十分だった。敵は夜の間に陣地を撤収し、我々は何の障害もなく通過した。ブグ川はさらに難関だった。左岸は平坦で湿地帯であり、防御には最適だった。しかし、ベニグセンは自らの優位性をどう活かせばいいのか分からなかった。我々は敵の側面を脅かし、沈められていたボートを浮かせることに成功した。敵は躊躇し、川を渡った。ロシア軍は再び攻撃を開始し、我々がオクニエフで築いた橋の先端を占領しようと試みたが、全ては予測されていた。ダヴーストは必要な予防措置をすべて講じており、敵は敗走し、打ち負かされ、ウクラ川を再び通過せざるを得なかった。

[124ページ]

第17章
一方、老カミンスキーはロシア軍の指揮を執り、プルトゥスクに司令部を置いた。将軍たちは戦力を集中させ、あらゆるものがロシア軍を川のこちら側へ撤退させる計画を示していた。ナポレオンはロシア軍をこの陣地から追い払うべく、急ぎ前進した。彼はオクニエフの塹壕陣地を訪れ、川、ロシア軍の位置、そして彼らに追いつくために横断しなければならない平原を偵察した。木々、伐採された木々、そして沼地に覆われたこの平原は、コサック軍が隠れていた堡塁と同じくらい攻略が困難だった。皇帝はかなりの時間、その平原を観察した。木立が視界を遮っていたが、彼は梯子を呼び出し、小屋の屋根に登り、ロシア軍の陣地の様子と対岸の動きを観察することができた。「通過しよう」と彼は言った。 「ここに役人を派遣せよ」 [125ページ]第3軍団の第二参謀長が出席し、皇帝の口述に従って以下の取り決めを書き留めた。

「第一部隊は島に進軍し、敵から可能な限り離れた位置に陣取る。

「第 3 師団の全部隊は橋の先端に留まり、攻撃には参加せず、予備として待機する。」

8個選抜歩兵中隊からなる大隊を編成し、第13軽歩兵連隊の大隊と合わせて3縦隊を編成する。この3縦隊は、可能な限り秘密裏に運河の両端まで進軍し、一斉射撃の射程外となるよう島の中央で停止する。各縦隊の後部には大砲3門を備える。

各中隊は大砲を分離し、斥候兵中隊に護衛される。これらの中隊は生垣に身を隠しながら一斉射撃を開始する。その間に砲兵将校は砲台を設置し、敵が我々の進撃を阻止するために必ず使用する大隊および部隊に向けてぶどう弾を発射する。

「この砲兵隊の保護の下で橋を建設することができます。

「3つの列は川を渡ります。そして [126ページ]彼らが反対側に配置すれば、すぐに、60人ずつで構成される3つのピケット騎兵隊が敵に突撃し、速やかに追跡し、捕虜にするだろう。

第17連隊は直ちに渡河し、各大隊間に25トイズの間隔を空けて戦闘隊形を整える。その後方には軽騎兵3個中隊を配置する。師団の残りの部隊はその後渡河し、後方に陣形を整える。

我々は敵が占領する高地へと進軍し、左右から攻撃を仕掛けた。敵は衝撃に耐えきれず撃退された。我が軍は比類なき勇敢さを示した。ナポレオンは彼らの勇気を称賛し、モラン将軍とプティ将軍を招集して、惜しみない賛辞を贈った。ナポレオンは交戦中の軍団に休息を与えたいと考え、フリアン師団をロシア軍追撃に派遣した。我が軍の選抜兵はナシエリスクでロシア軍に追いつき、左翼を攻撃、敗走させ、分断し、大砲3門を奪取した。彼らは森の中まで敵を追撃した。両軍から一斉射撃が始まり、我々は頑強な抵抗に遭った。砲兵隊はなく、敵陣から追い出すことはできなかった。 [127ページ]地形とぶどう弾に守られた縦隊は、砲兵の不足を我が軍の勇気が補った。攻撃の合図が発せられ、勇敢なバルバネグレに率いられた第48連隊は敵軍に突撃し、敗走させた。夜が近づき、暗闇のおかげで敵は我が軍の銃剣攻撃を逃れることができた。我々は道中のぬかるみに埋もれていた大砲の破片をいくつか回収した。

敵軍の恐るべき大群が我々の前に迫っていたが、彼らは我々に追いつくまで待つ勇気はなかった。彼らはゴルイミン方面に、またプルトゥスク方面に逃走した。私は皇帝から委ねられた竜騎兵師団を率いて、前者へ逃走した者を追撃した。元帥はプルトゥスクへ進軍したと知っていた第5軍団の後方を援護するため、ダウルタネを派遣した。二日間雪が完全に解けていた。これはポーランドのこの季節には珍しいことだった。我々が通過した地面は粘土質で、沼地が点在していた。道路はひどく悪く、騎兵、歩兵、砲兵は沼地に閉じ込められ、脱出に非常に苦労した。我々はわずか一リーグしか前進できなかった。 [128ページ]わずか二時間の間に。多くの将校が泥にはまり込み、プルトゥスクの戦いの間ずっとそこに留まりました。彼らは敵の射撃の標的となったのです。

第三師団が村を出発するやいなや、先遣隊から、相当数の騎兵隊が、遠くから砲兵隊と荷役兵の縦隊を包囲しているとの報告を受けた。フリアン将軍は、歩兵隊が現れればコサックの群れは解散すると確信していたため、騎兵隊の分遣隊による監視を命じた。歩兵隊は逃走し、我々は砲兵、弾薬、馬車、そしてあらゆる種類のカッスーンを奪取した。将軍はこの有利な状況に満足し、夜を明かすため陣地を構えようとしたその時、激しい砲撃が聞こえた。それは、プルトゥスクからロシア軍に追い払われたランヌ元帥の軍勢からのものだった。翌日、我々の番が来た。彼らは我々が追い払おうとしていた森を占拠した。我々の縦隊は前進し、先頭には選抜兵、その後ろに梯形歩兵を配置した。敵の頑強な抵抗に遭った。彼は我々に襲い掛かり、我々は銃剣で突撃し、我々の大隊は彼を彼自身の部隊へと押し戻した。我々は戦場の支配権を保った。戦場は死体で覆われていた。 [129ページ]死者の遺体と、ロシア軍が逃走速度を上げるために投げ捨てた袋を回収した。歩兵は追い払われ、騎兵が前進してきた。私は彼らを迎え撃ち、撃退した。しかし、沼地に散り散りになっていた選抜兵たちは、砲弾で我々を圧倒した。私の左腕は折られた。

私はライン軍の最初の作戦において、キュスティーヌ、ピシュグル、モロー、ドゼーの指揮下で四度負傷しました。メンフィスの廃墟の前で二度、テーベの廃墟の前で上エジプトで二度、アウステルリッツの戦いとゴリュミンの戦いでも負傷しました。また、モスクワでも四度負傷しましたが、これについては後ほど改めて触れる機会があります。

ゴルイミンからワルシャワへ移されました。1月1日にナポレオンは到着し、私に会いに来てくださるという栄誉を授かりました。「さて、ラップ」と彼は言いました。「また傷を負ったな。しかも不運な腕に」。左腕に受けた傷はこれで9つ目だったので、皇帝はそれを不運な腕と呼んだのです。「陛下、それも無理はありません。私たちは常に戦闘の最中なのですから」と私は言いました。「80歳になれば、おそらく戦闘は終わりでしょう」と彼は答えました。

MM.ボワイエとイヴァンは彼の前で私の傷の手当てをしてくれました。ナポレオンは [130ページ]「本当に骨が折れているのなら、腕を切断しなければなりません。彼は今、非常に具合が悪く、この傷が彼の命取りになるかもしれません。」ボイヤー氏は微笑んで言った。「陛下は仕事に取り掛かるのがあまりにも急ぎすぎです。将軍は若く元気ですから、私たちが彼を治しましょう。」–「願わくば」と私は言った。「これが私を殉教させる最後ではないことを。」

ナポレオンは間もなくワルシャワを出発し、アイラウの戦いに赴き、オステローデに司令部を構えた。私はここでトルン政府に任命され、健康回復のためそこへ向かうことを命じられた。ダンツィッチ包囲戦を継続するため、食料、大砲、弾薬を輸送した。

私は今やプロイセンの将軍たちの御恵みにあずかっていた。彼らは私に手紙を書いて、彼らのために私のとりなしを懇願した。ブリュッヒャー自身も、イタリア国王皇帝陛下の御恩を乞うことを厭わなかった。既に述べたように、当初はディジョンへ送られるはずだったが、彼はすでに武器を置いていたため、ディジョンであろうと他の場所にいようと、あまり意味をなさなかった。彼はハンブルクへの退去を許されたが、すぐにその街に飽きてしまい、近隣への行きを許してほしいと懇願した。 [131ページ]ベルリンの。以下は彼がこの件に関して私に宛てた手紙である。

「ムッシュー将軍、

閣下は、数年前、ミュンスターへの旅の途中でお会いできたことを覚えていらっしゃるでしょう。その時、閣下が示してくださったご厚意に、今私が置かれているこの不幸な状況も、閣下にとって全く無関心なものではないだろうと期待しています。閣下、フランス皇帝陛下、イタリア国王陛下へのお取り計らいをお願いし、私と二人の将校、息子たち、そして残りの家族のために旅券を発給していただき、ベルリン近郊、あるいはポンメルンにある私の領地のいずれかに隠棲できるよう、ご厚意に沿えるようお願い申し上げます。戦争で全てを失った今、ハンブルクのようにあらゆるものが途方もなく高価な都市での居住費用を賄うことは不可能です。しかも、私は健康状態が悪く、家族の懐に抱かれて暮らす以外に道はないと思っています。そして、自分自身を取り戻すことができるよう、とても静かな生活を送りたいと思っています。

「これらの理由と天皇陛下の寛大さから、私は天皇陛下が [132ページ]居住地の選択を許可していただき、私の苦しい状況を和らげて下さるようご厚意ください。また、閣下がこの件で私に与えてくださる保護は、私が光栄に感じている深い配慮に、さらに深い感謝の気持ちを加えるものとなるでしょう。

「閣下の

「とても謙虚で従順な召使だ
」とブリュッヒャー中将は言った。

「ハンバラ、1806年11月15日」

皇帝は要請を拒否したが、将軍は私が彼に対して行った対応を忘れているはずがない。フランス人が不幸を尊重すべきかどうかは、将軍の判断に委ねられている。

ダンツィッチの降伏後、私は総司令官の地位をもってその都市の知事に任命されました。

ナポレオンは5月29日にダンツィックに到着し、そこで2日間を過ごしました。彼はこの新たな獲得によって、特に金貨において莫大な資金が得られると期待していました。私は拠出金を集めるよう厳命を受けました。その額は2000万ルピーでしたが、後に私がダンツィックと締結した条約によって、300万ルピーにまで増額されました。私は白紙委任状を与えられ、 [133ページ]徴収のためにあらゆる手段を講じようとしたが、不可能だと分かった。それは私にとって非常に厄介なことだった。ある時は厳しい手段が用いられ、またある時は別の厳しい手段が用いられた。一般市民も、市民の中でも最も裕福で有力な者も、順番に脅迫された。私は常にこうした強引な命令をかわすために全力を尽くし、ダンツィックの住民に多くの不満を抱かせないようにした。和平合意後も、彼らは依然として1700万ポンドの寄付金を滞納していた。

ナポレオンはハイルスベルクの戦いとフリートラントの戦いに参加しました。出発から8日後、彼は私に次のように書き送ってきました。

「タレーラン氏はダンツィックへ赴き、しばらくあなたのもとに滞在されるでしょう。あなたは彼を王子様のように迎え、おもてなしなさい。私があの大臣にどれほど敬意と愛着を抱いているか、あなたもご存じでしょう。」などなど。もしタレーラン氏と口論さえしなければ、彼は多くの不幸を免れたかもしれない。

ティルジット条約の後、ナポレオンは私に内密の指示を送った。和平の可能性を伝え、プロイセンと王室に警戒を怠らないよう命じた。彼は依然としてウィリアムとその臣民に対して憤慨していた。その理由は私には見当もつかなかった。ベルティエが説明してくれたが、私はそれが正当な理由だとは思わなかった。ベルティエ [134ページ]ダンツィッチに来たのは、私に新たな指示を伝え、私が受けた指示を思い出させ、周囲で企てられているかもしれない陰謀に警戒するようにと告げるためだった。私は戦闘が終結するまでダンツィッチに留まることになった。ロシア人は我々の味方だった。我々はイギリス人と楽しい時間を過ごしたが、二年も経たないうちに、島民たちは講和を申し入れざるを得なくなるだろう。

結局、私はダンツィックに留まり、ナポレオンと直接手紙を交わしました。彼の手紙のほとんどは並外れた不満を示しており、私自身もかなり長い間、その不満に加担していたことを告白しなければなりません。

一部のプロイセン将校の言動は、彼らに対する偏見を助長する一因となった。私は彼らを非常に厳しく扱い、些細な過ちも最大限に処罰した。しかし同時に、私は常に彼らに正義を施し、決して彼らを煩わせることはなかった。しかしながら、平穏は回復した。双方は互いに敵意を捨て、信頼関係は回復した。私はプロイセン人と面会し、歓迎した。そして、私が指揮権を得た最初の年から、パリに送った報告書はすべて、節度と真実を重んじるものであったと言えるだろう。私はナポレオンに対し、プロイセン人がかつての偉大さをこれほど早く忘れることは難しいこと、国民の心は… [135ページ]国王、大臣、王室は、不幸によって避けられなくなった諦めを国民に勧めることを決してやめなかった。

私は常にこの趣旨で手紙を書いてきました。誰に対しても不満を言う理由はありませんでした。私自身は、文民当局および軍当局と非常に良好な関係を築いていました。彼らとは頻繁に会っていましたし、皆が私に最大限の信頼を寄せてくれていると断言できます。彼らは私の行動の正当性を理解していました。

しかし、全ての司令官が同じように行動したわけではない。彼らの報告とバイレンの惨敗は、プロイセンの行動に関してナポレオンの心に新たな疑念を抱かせた。彼は私に警戒を倍増させるよう命じた。「プロイセン人の何事も見逃してはならない」と、ある手紙の中で彼は私に言った。「彼らに頭を上げさせてはならない。」

半島で我々が経験した惨事の知らせは、ついにドイツ全土に広まり、新たな希望を呼び起こし、民衆の心は激しく動揺した。私はナポレオンにこのことを伝えたが、彼は痛ましい記憶が蘇ることを嫌がり、さらには未来への不穏な予感を抱くことをさらに嫌った。彼は私にこう答えた。「ドイツ人はスペイン人ではない。ドイツ人の気質は、獰猛なカタロニア人とは全く似ていない。」

[136ページ]

第18章
エアフルト会談が行われた。ナポレオンはスペインへ出発し、抵抗する者全てを攻撃して解散させた。もし彼自身が追撃することができたなら、イギリス軍は壊滅していただろう。しかし、第四次オーストリア戦争が勃発し、ナポレオンはバイエルンへの救援に急行せざるを得なくなった。ベルティエ公爵は私に軍に復帰するよう命令を下した。皇帝はすでに軍に加わっており、私はランツフートで皇帝に会った。ラティスボンヌの戦いで勝利した直後のことだ。私は歓迎に満足しなかった。彼は冷淡にこう尋ねた。「プロイセン軍とダンツィッカー軍はどうなっている?後者には借りを返させるべきだった。スペインで全員が死んだわけではない。オーストリア軍を倒すだけの兵力はまだ残っている」。私はその暗示を感じた。

我々はウィーンへ進軍した。皇帝は以前より機嫌が良くなり、私にも優しく接してくれた。エスリンゲンの戦いが勃発した。数千人の勇敢な兵士が命を落とし、ランヌ元帥は負傷し、騎兵と砲兵は [137ページ]村は破壊され、我々が守るべき最重要拠点であったエスリンゲン村は、ハンガリー軍擲弾兵20個大隊に包囲された。我々はもはや陣地を維持できなかった。敵は、前日にナポレオンが要塞化を指示した方陣に既に侵入していた。ロバウ伯爵は彼らを迎え撃ち、進軍を阻止したが、彼らはすぐに増援を受けた。皇帝はこれを察知し、私は若い近衛兵2個大隊を引き連れて我々の部隊の救援に急ぐよう指示された。私は彼らを切り離し、彼らと共に撤退し、村と残りの近衛兵の間、ドナウ川の岸辺、破壊された橋の近くに陣取ることになっていた。オーストリア軍の縦隊はあらゆる方面からこの地点に進軍してきた。我々の陣地は極めて危険なものとなった。我々の左翼では、マッセナが依然としてグロ・アスペルンを占領していた。彼は多くの兵力を失ったものの、依然として陣地を維持していた。私は二個大​​隊の先頭に立ち、村に入った。ムートン将軍の背後に部隊を整列させ、皇帝の命令を伝えに行ったが、敵の予備軍はカール大公の指揮下で、少し離れた場所に展開していた。「 [138ページ]「お前たちの抵抗は群衆を驚かせた」と私はロボー伯爵に言った。「銃剣で突撃し、進撃してくる縦隊に押し返そう。もし成功すれば、皇帝陛下と軍は我々の功績を認めてくれるだろう。もし失敗すれば、その責任は私にある」――「我々二人の責任だ」と将軍は答えた。我々の五個大隊は前進し、突撃し、撃退し、銃剣の先で敵を散り散りにした。我々は村の支配者となった。大公は村の奪還に努めたが無駄だった。五度も部隊を率いて突撃に赴き、五度も敗北した。大公の損害は甚大だった。我々の損害も甚大だった。ムートン将軍とグロッセ将軍は負傷し、他にも数人の将校が戦死した。ナポレオンはこの一件を喜び、私を大いに褒め称え、こう付け加えた。「もし私の命令を遂行しなかったことでお前がうまくやったことがあるとすれば、今日はまさにその通りだ。軍の安全はエスリンゲンの占領にかかっていたからだ。」

ナポレオンは、ウィーンの民衆が前回の遠征時よりも我々に不利な態度を取っていると考え、私にそう言った。私は、絶望感がその感情を生んだ大きな要因であり、民衆は至る所で我々と我々の勝利に飽き飽きしているのだ、と答えた。彼はこうした反省を好まなかった。

[139ページ]

シルは当時ザクセンを巡視していた。ナポレオンはこの事情を聞き、憤慨した。これは世論を探る手段だった。プロイセンは反乱戦争の序章を準備しており、後に我々に対してその戦争を主張した。正直に言うと、私はそれを聞いたとき、信じられなかった。国民の忠誠心を過大評価していたのだ。皇帝の偏見を抑えようと努めたが、彼の疑念は、私がどんなに言葉で払拭しようとも、強すぎた。もう一つ、彼を不信感に陥れた要因があった。ロシア人の行動はプロイセン人ほど率直ではなかった。彼らは足踏みしていたのだ。この不誠実さが彼を激怒させ、復讐を決意したが、それには時間が必要だった。

ヴァグラムの戦いが起こりました。私は参加していません。戦いの3日前、私はナポレオンに随伴してロバウ島へ向かいました。ローリストン将軍と共に皇帝の馬車に乗っていました。馬車は転覆し、片方の肩を脱臼し、肋骨を3本骨折しました。

皇帝は敵をズナイムまで追撃し、シェーンブルン宮殿に戻って陣を構えた。そこで後に、シルの敗北と死を知った。この知らせは皇帝を満足させた。 [140ページ]しかし、そのパルチザンが捕虜になった方が彼は喜んだだろう。

交渉中、ウィーンではいくつかの陰謀が起こりました。関与したとして有罪判決を受けた何人かは死刑を宣告され、市民2名とユダヤ人1名が処刑されることになりましたが、私は幸運にも彼らの恩赦を得ることができました。

ナポレオンは普段は上機嫌だったが、警察から送られてくる報告が時折、彼の陽気な気分を邪魔した。敵対者たちが彼の狂気について滑稽な噂を広め、彼はそれに苛立っていた。「偽サンジェルマンがこんなうわさ話をでっち上げたんだ。こいつらのせいで、とうとう奴らを全員シャンパーニュ・プイユーズに送り込まなければならないのか」と彼は言った。

ある日、私は二人の士官の昇進を彼に懇願した。「そんなに多くの昇進はさせません」と彼は言った。「ベルティエが既に私にその点で多くのことをさせていますから」それからローリストンの方を向いて、「ローリストン、私たちの時代はそんなに早くはうまくいかなかったでしょう? 私は長年中尉の地位に留まりましたよ!」と言った。「そうかもしれません、陛下。しかし、あなたはその後、失われた時間を見事に取り戻されましたね」彼は私の機転に笑い、私の願いは聞き入れられた。

[141ページ]

第19章
一方、和平交渉は遅々として進まず、ドイツは依然として苦境に立たされていた。盲目的な愛国心に駆り立てられた一人の若者が、祖国の災厄の原因と見なす者から祖国を救い出そうと企てた。10月23日、兵士たちが護衛にあたる最中に、彼はシェーンブルン宮殿に姿を現した。私は当直中であり、ナポレオンはヌーシャテル公と私の間に立っていた。聖* * という名のその若者は皇帝のもとへ歩み寄った。ベルティエは彼が請願書を提出しようとしていると察し、前に出て私に届けるよう命じた。彼はナポレオンと話したいと答えたが、何か連絡があれば当直中の副官に申し出るよう再び告げられた。彼は少し距離を置き、ナポレオンとだけ話すと繰り返した。彼は再び前に出て、皇帝のすぐ近くにまで近づいた。私は彼を引き戻し、 [142ページ]ドイツ語で彼に退くように告げ、もし何か頼みがあるならパレードが終わった後に聞くようにと言った。彼の右手は外套の下の脇ポケットに突っ込まれ、紙を持っていて、その片方の端が見えていた。彼が私を見た時の目の表情に私は衝撃を受けた。彼のきっぱりとした態度に私は疑いを抱いた。私はその場にいた憲兵隊の将校を呼び、彼を逮捕して城に連行するように命じた。居合わせた全員の注意はパレードに釘付けで、何が起こっているのか誰も気にしていなかった。その後まもなく、大きな彫刻刀がサン・で見つかったという知らせが届いた。私はデュロックに私が知ったことを伝え、一緒に彼が連行された場所へ行った。私たちは彼がベッドに座っていて、その上に若い女性の肖像画とポートフォリオ、そして数枚の古いルイ・ドール貨が入った財布が置いてあるのを見つけた。私は彼の名前を尋ねた。「ナポレオンにしか言えません」と彼は答えた。「見つかったナイフをどうするつもりだったのですか?」「それはナポレオンにしか言えません」「彼を暗殺するつもりだったのですか?」「はい、彼にしか言えません」。「なぜですか?」「それは彼にしか言えません」

私はこの奇妙な状況を皇帝に伝えに行きました。皇帝は若者に [143ページ]男は自分の部屋へ案内されるかもしれない。私はこの命令を伝えるために外に出た。戻ると、ベルナドット、ベルティエ、サヴァリー、デュロックが皇帝と共にいた。サン・* * *は二人の憲兵に後ろ手に縛られ、連れてこられた。彼はすっかり落ち着いていた。ナポレオンの存在に少しも感銘を受けなかったが、敬意を表して挨拶した。皇帝は彼にフランス語を話せるかと尋ねると、彼は毅然とした口調で「ほとんど話せない」と答えた。そこでナポレオンは、彼の名において以下の質問をするように私に指示した。

「どこで生まれたのですか?」―「ナウムブルグです。」―「父親は誰ですか?」―「プロテスタントの牧師です。」―「おいくつですか?」―「18歳です。」―「ナイフで何をするつもりだったのですか?」―「あなたを殺すつもりだったのです。」―「あなたは狂っています、若者よ。あなたは啓蒙主義者です。」―「私は狂っていません。啓蒙主義者が何を意味するのか分かりません。」―「では、あなたは病気なのですね。」―「私は病気ではありません。それどころか、健康です。」―「なぜ私を暗殺しようとしたのですか?」―「あなたが私の祖国に災難をもたらしたからです。」―「私はあなたに何か害を及ぼしましたか?」―「あなたは私だけでなく、すべてのドイツ人に害を及ぼしました。」―「誰に遣わされたのですか?誰があなたにこの犯罪を教唆したのですか?」―「誰もいません。私はあなたの [144ページ]こうすることで祖国とヨーロッパに最大の貢献ができるという確信から、人生を捧げてきました。」――「私に会ったのはこれが初めてですか?」――「会談のとき、エアフルトでお会いしました。」――「そのとき、私を暗殺するつもりでしたか?」――「いいえ。私はあなたがドイツでもう戦争をすることはないと思っていました。当時、私はあなたの最も熱烈な崇拝者の一人でした。」――「ウィーンにはどれくらい滞在しましたか?」――「10日間です。」――「なぜ計画の実行をそんなに長く延期したのですか?」――「私は1週間前にシェーンブルン宮殿に来ました。しかし、私が到着したときにはパレードは終わっていたので、計画の実行は今日まで延期したのです。」――「いいですか、あなたは気が狂っているか、病気かのどちらかです。」――「どちらでもありません。」――「コルヴィザールをこちらへ来させなさい。」――「コルヴィザールとは誰ですか?」――「彼は医者です。」と私は答えました。「私には彼は必要ありません。」医者が到着するまで、私たちは黙っていました。サン・コルヴィザールは全く無関心な態度を示しました。ついにコルヴィザールが姿を現しました。ナポレオンは彼に若者の脈を診るように指示しました。「私は全く具合が悪いのですか?」――「彼は大変健康です。」と医者は皇帝に向かって言いました。――「そう言ったでしょう。」とサン・コルヴィザールは満足そうに言いました。

ナポレオンは犯人の無関心な態度に当惑した。

[145ページ]

「お前は狂信的な狂信者だ」と彼は言った。「お前は家族を破滅させるだろう。お前が犯そうとした罪、そしてお前が悔い改めるべき罪について赦免を求めるなら、私は喜んでお前の命を与えよう。」――「赦免など望んでいない」と聖* * *は答えた。「計画を遂行しなかったことを深く後悔している。」――「お前は犯罪を軽視しているようだな!」――「お前を殺すことは犯罪ではなく、義務だったのだ。」――「お前の所持品から見つかった肖像画は誰のものか?」――「それは私が愛着を持っている若い女性の肖像画だ。」――「お前が置かれている不幸な状況を聞いたら、彼女はひどく悲しむだろう!」――「私が成功しなかったことを聞いたら、彼女は悲しむだろう。彼女は私と同じくらいお前を憎んでいる。」――「私がお前を赦免したら、感謝しないのか?」――「それでも私は、お前の命を奪う最初の機会を掴むだろう。」

ナポレオンは困惑した。囚人を連行するよう命じ、それから私たちと会話を始め、イルミナティについて長々と語った。夕方、彼は私を呼び寄せて言った。「今日の出来事は非常に異常だ。ベルリンとワイマールの陰謀がこの事件の根底にある」――私はこの疑惑を否定した。「女は何でもできるものだ」とナポレオンは続けた。「 [146ページ]「あの二つの裁判所に関係する人間なら、男女を問わず、これほど残虐な犯罪など思いつかないだろう」と私は答えた。「シル事件を思い出してみろ」。「この犯罪とは全く似ても似つかない」。「将軍、何を言っても構わないが、私はベルリンでもワイマールでも寵臣ではないことは承知している」。「その通りだ。どちらの裁判所でも寵臣になろうとは到底思えない。だが、彼らがあなたを嫌っているからといって、必ずしもあなたを暗殺するだろうか?」彼は同じ疑念を * * * * * に伝えた。

ナポレオンは私に、ラウアー将軍に手紙を書き、セント・* * * を尋問して自白を得るよう指示するよう命じた。しかし、彼は何も自白しなかった。彼は、誰の唆しによってでもなく、完全に自分の衝動で行動したのだと主張し続けた。

シェーンブルン宮殿からの出発は10月27日に決まった。ナポレオンは朝5時に起き、私を呼びに来た。フランスに向けて出発する近衛兵を見送るため、私たちは大通りまで歩いた。二人きりだった。ナポレオンは再び聖* * *について私に話しかけた。「あの年齢の若者が」と彼は言った。「ドイツ人で、プロテスタントで、教養のある彼が、このような犯罪を犯そうとするなど、前代未聞のことだ。彼がどのように死んだのか、ぜひ尋ねてみてくれ。」

[147ページ]

第20章
激しい雨のため、散歩から引き返さざるを得ませんでした。私はラウアー将軍に手紙を書き、聖* * *の最後の瞬間について報告を求めました。将軍は、囚人が27日の朝7時に処刑されたこと、24日以来食事を取っていないこと、食事は勧められたが、処刑場所まで歩くだけの体力はあったため、常に拒否していたことを私に知らせました。和平が成立したと知らされ、この知らせに動揺したようでした。彼の最期の言葉は、「自由よ永遠に!ドイツよ永遠に!暴君に死を!」でした。私はその報告をナポレオンに届けました。彼は、犯罪者の所持品から見つかったナイフを私に保管してほしいと頼みました。それは今も私の手元にあります。

ナポレオンは私に、和平の予備的文書はまだ調印されていないが、条約の条項はすべて作成されており、我々が滞在する予定のミュンヘンで批准されるだろうと伝えた。 [148ページ]私たちはニンフェンバラに到着しました。当時、バイエルン宮廷がそこに駐屯していました。アウステルリッツの戦い以来、国王にお会いする栄誉に浴していませんでした。国王は私を宮殿に泊めてくださり、その信頼と親切さを幾度となく証明してくださいました。そして、臣下の悲惨な状況を説明してくださり、もし事態が速やかに好転しなければ、鍵をドアの下に差し込んで出発せざるを得ないと付け加えました。これが国王の表現でした。

私はこの最後の会話を心に留めていた。というのは、国王に損害を与えるためではなく、ナポレオンに、彼が同盟国に与えたすべての補償金が彼らを満足させるどころか、戦争によって彼らに課せられた負担を補うものでもないと証明するために、この会話を報告することに決めたからである。

和平が批准された。ニンフェンブルクを出発し、シュトゥットガルトに到着した。ナポレオンは盛大な歓迎を受け、一行と共に宮殿に宿泊した。国王は広大な庭園を造成しており、ガレー船送りにされていた男たちがそこで労働させられていた。皇帝は国王に、鎖につながれて働いている男たちは誰なのかと尋ねた。国王は、そのほとんどは反逆者だと答えた。 [149ページ]翌日、我々は出発した。道中、ナポレオンはシュトゥットガルトで見た哀れな人々についてほのめかした。「ヴュルテンベルク国王は非常に厳しい人物だが、非常に誠実だ。ヨーロッパの君主の中で、最も深い理解力を持っている」と彼は言った。我々はラシュタットで一時間停泊した。そこにはバーデン公爵夫妻とステファニー王女が皇帝に敬意を表すために到着していた。大公夫妻はシュトラスブルクまで皇帝に同行した。皇帝は到着すると、フォーブール・サンジェルマンに対する彼の不興を再び掻き立てる電報を受け取った。我々はフォンテーヌブローへと向かった。皇帝の歓迎の準備は何もなく、警備員さえ配置されていなかった。しかし、間もなく宮廷全体とナポレオンの家族の面々が到着した。

皇帝は警察大臣と何度か長時間の会談を行った。彼はフォーブール・サンジェルマンについて不満を述べた。控えの間や大広間で、旧貴族たちが謙虚さと大胆さを交互に見せる様子は、皇帝を当惑させた。彼らが、一方では破壊行為を行いながら、他方では政府に便宜を図ろうとするほど卑劣で不誠実な連中だとは、彼には到底考えられなかった。 [150ページ]ナポレオンは屈服した。彼は厳粛な態度を取る傾向にあるように見えたが、フーシェはそれを思いとどまらせた。「セーヌ川が流れ、フォーブールが陰謀を企み、誘惑し、貪り、中傷するというのは、よく聞く話だ」と彼は言った。「これは自然の摂理だ。すべての物にはそれぞれの特質がある。」ナポレオンは屈服した。復讐するのは人間だけだった。首都に荘厳な入城を申し出たが、彼はこれを断った。世界の征服者は、ローマ人を鼓舞した凱旋よりも偉大だった。翌日、宮廷はフォンテーヌブローを出発した。皇帝は鐙なしでパリへと馬を走らせた。護衛全員を追い越し、衛兵の猟兵だけが彼に追いつくことができた。こうして彼はチュイルリー宮殿に到着した。

ナポレオンは今、生涯で最も重要な時期の一つに近づいていた。

[151ページ]

第21章
帝政離婚はパリで公然と話題になったが、将来の皇后選びについては意見が分かれた。ロシア皇女、ザクセン皇女、そしてオーストリア大公妃の指名が話題になった。まずロシアとの同盟が検討対象となった。メッテルニヒ氏はこれを知り、提案し、受け入れられた。しかしながら、皇族は皆オーストリアとの同盟には反対だった。彼らはウィーン宮廷の狡猾さを恐れ、好機が訪れれば仮面が剥がれ落ち、オーストリアが皇帝の破滅に真っ先に躍り出るまでは、皇帝の要求に何でも同意し、従うだろうと予見していた。しかし、結婚は決定されており、抗議は無駄だった。私は式典に出席するよう任命された。これは決して取るに足らない恩恵ではなかった。宮廷の大半は群衆に紛れ込まなければならなかったからだ。しかし、正直に言って、私がそれを期待する権利はなかった。なぜなら、私はいくつかの思索に耽っていたからだ。 [152ページ]皇帝に報告された離婚について。私はジョゼフィーヌに同情した。彼女は常に愛想がよく、素朴で、控えめだった。彼女はマルメゾンに追放されていたが、私は頻繁に彼女を訪ね、彼女は私に悲しみを打ち明けてくれた。彼女が何時間も泣き続けるのを見たことがある。彼女はボナパルトへの愛着を語った。私たちの前では彼をそう呼んでいたからだ。彼女は輝かしい生涯の終わりを惜しんでいた。それはごく自然なことだった。

結婚式の翌日、玉座に座る皇帝夫妻に三礼をするようにとの命令が下りました。しかし、毎週のように頭痛に襲われ、召集に応じることができませんでした。そこで大元帥にこの事情を知らせる使者を送りました。ナポレオンは私が体調不良だとは思っていませんでした。彼は私が礼儀作法を守ろうとしないと考え、それが私を不快にさせたのです。彼は私にダンツィッチに戻るよう命じました。フェルトル公爵が大通りで私に会い、皇帝の意向を伝えました。私は指示を仰ぎました。ナポレオンは冷淡に答え、プロイセンを監視し、ロシア人に敬意を払い、バルト海の港で何が起こっているかを報告するだけでよい、と付け加えました。 [153ページ]ベルリンを経由して、ストラスブールとフランクフルトに数日滞在し、6月10日にダンツィヒに到着しました。

兵士たちと住民たちからとても歓迎されました。彼らはグラボウスキー将軍について非常に不満を抱いていました。ダンツィッカー家は彼を嫌っていましたが、それは彼らの間違いでした。彼は素晴らしい人物でした。

守備隊はすぐに増強された。ザクセン、バーデン、ヴュルテンブルク、ヴェストファーレン、ヘッセンの各軍が増援として加わり、完全な軍隊となった。この兵力増強は市民に重い負担を強いるものであったため、私は不満であった。しかし、私自身は不満を言う理由がなかった。兵士たちの意見は決して曖昧ではなく、それぞれの君主たちは、わずかな例外を除き、この機会を捉えて私に好意を表明してくれた。バイエルン王の書簡をここに挿入することで満足しよう。

ミュンヘン、1811年4月15日。

「親愛なるラップ、

「私の第14歩兵連隊をあなたの指揮下に置くことになりました。どうかご親切にご配慮ください。大佐は勇敢な人物であり、任務を全うするでしょう。 [154ページ]中佐と二人の少佐は、連隊の将校全員と同様に、貴重な人材です。部隊は優秀で、体調も良好です。親愛なる将軍、彼らはあなたのような将校の指揮下に入ることを大変喜んでいます。そして、エルザス出身の(しかもアルザス出身の)あなたにも、決して譲りません。

我が部隊の安否に関して何か連絡したいことがあれば、不満がある場合、あるいは部隊が任務を遂行できていない場合――そのような事態は起こらないことを願っている――いつでも私に直接連絡してください。親愛なるラップ殿、私はこの機会を捉えて、変わらぬ友情をあなたに改めてお伝えしたいと思います。

「マクシミリアン・ジョセフ」

町の港を封鎖し、プロイセンの港を監視するよう指示を受けました。ダヴーストがハンブルクの指揮権を握るためにやって来ました。私は彼の命令下ではありませんでしたが、彼とサン・マルサン氏と文通することになりました。後者の紳士とは面識はありませんでしたが、私は彼を深く尊敬していました。彼の手紙は、彼が二国間の調和の回復を切望する立派な人物であることを証明していました。これは私の願いでもありました。

私たちの意見は完全に一致しました。 * * * * * * * 頻繁に私に信頼を置かないようにアドバイスを書いてきました [155ページ]彼が裏切り者と評したあの外交官は、ウィリアム国王とその大臣たちに売られた。彼はナポレオンにも同様の手紙を書いたに違いない。しかし幸いなことに、ナポレオン公は一度特定の人物に対する意見を固めてしまうと、自分に宛てられた報告にはほとんど注意を払わなかった。ナポレオン自身が表現したように、ポケットに手を突っ込んでいるところを目撃しない限り、彼に信頼を寄せる気にはなれないだろう。

しかし、私の状況は不愉快なものになっていった。一方では、ダンツィッカー家は軍隊の維持費、課せられた負担、そして商売の機会を奪われたことに不満を漏らしていた。他方では、大臣たちが秘密遠征と要塞拡張の費用を賄うために寄付金を集めるよう私に迫ってきた。請負業者たちは物資の供給を停止すると脅迫してきた。私はどうしたらいいのか分からなかった。プロイセンに課せられた税金からいくらかの資金を捻出したが、それでも不十分だった。しかし、粘り強く働きかけたおかげで、物資の支払いに必要な資金を集めることに成功し、町は徐々にその負担から解放されていった。

要塞の完成と必要な準備のために資金が私に割り当てられた。 [156ページ]秘密の遠征のためだったが、それはもはや秘密ではなかった。

かつてフランスの大臣たちは、ナポレオンに対し、プロイセン政府に駐屯軍を維持させるよう提案しました。この件について助言を求める手紙が私に送られ、私はこう返答しました。「もしそのような決定がなされるならば、あらゆる考慮を払っても、直ちにダンツィックを辞任する。」この件に関して同様に助言を受けたダヴー元帥に敬意を表しなければなりません。彼は、この措置は危険であり、実行不可能であると示しました。この案は却下されました。

私は、ダンツィックで巻き込まれた奇妙な誤解を黙って無視することはできない。

私はプロイセン人とロシア人の居住者を招いて晩餐会を開いた。前者を右手に、後者を左手に座らせた。ロシア人の居住者はこの配置に腹を立てた。私が彼とロシア宮廷、そして世界中のロシア人を侮辱しようとしていると誤解したのだ。彼は私の行動に不満を述べ、その不満はサンクトペテルブルクからシャンパニー氏に伝わり、シャンパニー氏はそれをナポレオンに伝えた。私は非難され、大国の居住者として当然の敬意を欠いていると言われた。 [157ページ]プロイセン駐在の方に名誉職を与えたことで、私はその過ちを償うよう求められました。正直に言うと、私はこれに心を痛めました。大臣への返答は、外交官を招いて晩餐会を開くことはなく、外国領事は総督ではなく元老院に任命されており、自分のテーブルには誰を座らせても構わない、駐在の苦情は馬鹿げていると思うので二度と迎えるつもりはない、というものでした。私は約束を守り、これで一件落着です。この逸話を語るのは適切だと思います。なぜなら、この逸話は、当時すでにロシアの好意を得ようと試みられていたことを示しているからです。

[158ページ]

第22章
ダンツィッツィッ家の意向にとって、フランス税関職員を彼らの中に迎え入れることほど忌まわしいことはなかっただろう。彼らは以前からダンツィッツィッに税関を開設する計画を持っていたのだ。私はこの提案を精一杯拒否した。これらの職員の存在は、ナポレオンの猛烈な抗議にもかかわらず、私が依然として容認していたわずかな貿易を破壊してしまうだろうからである。

この措置はバルト海沿岸全域で同様に不満を抱かせたであろうが、率直に告白すると、私は命じられたほどの警戒心を持って監視していなかった。結果として、私に対する苦情が殺到したが、私はそれがどこから来るのかを知っていたので、あまり気にしていなかった。しかし、ナポレオンは私の寛容さに激怒し、私を非難した。「プロイセン人とダンツィッカー人に貿易を許すのは、私を裏切ることだ」と彼は言った。* * * * * も同じ趣旨の手紙を書いている。 [159ページ]そしてあらゆる方向にスパイを送り込んだ。ナポレオンは報告と苦情にうんざりし、ベルトランに私にどれほど不満を抱いているかを伝えるよう指示した。その将軍は私にこう書いた。「皇帝陛下はご存じです、親愛なるラップ殿、あなたがプロイセンとダンツィヒで密輸を許可していることを。皇帝陛下はあなたにご不満を抱いていることをお伝えしなければなりません」など。抗議の声が上がったが、私は気に留めず、節度ある権力の行使を続けた。税関の設置は急ピッチで進められた。特に被征服国において、この措置がどれほど深刻なものであったかは周知の事実である。ダンツィヒの税関職員たちは独立を装い、スシー大臣の命令以外のいかなる命令にも従うことを拒否した。こうした主張を裏付けるために、ハンブルクの税関設置の例が挙げられた。私は税関長をヴァイクセルミュンデに派遣し、6日間の投獄を行うことで事態を収拾した。これほどまでに厳しい措置は前例のないものであった。それは大逆罪と同等の重罪とみなされた。大臣はそれを非難したが、驚いたことにナポレオンはこう答えた。「もし私が罰を与えたのなら、それには理由があるはずだ。それに」と彼は言った。「ダンツィックは包囲状態にあり、その場合、総督は万能だ」。税関職員たちは、 [160ページ]彼らは信用を過信しすぎたようで、より慎重になり、ダンツィッカー家に対しても礼儀正しく振る舞うようになった。貿易はある程度の安定を取り戻し、海賊に拿捕されていた数隻の船を私が解放したことで、さらに強化された。新たな抗議も行われたが、以前ほどの効果はなかった。

イギリスのあらゆる商品を焼き払うよう命令を受けました。この措置は大惨事を招くはずでした。しかし私はこれを回避し、税関職員がいたにもかかわらず、ダンツィックは200フラン、ケーニヒスベルクはそれ以下の損失で済みました。私は捕獲物によっ​​て得た商品については言及していません。

大陸封鎖と、ナポレオンが北ドイツで採用した厳格な政策は、人々の不満をますます募らせた。人々は憤慨していた。私は彼らの状況に関する報告を頻繁に求められた。私は彼らの実態をありのままに描写した。抑圧され、破滅し、極限まで追い詰められていた。国民全体が参加する秘密結社、そこでは憎悪が復讐に燃え、絶望が陰謀を企てていた。しかし、ナポレオンはそれらの結社を軽蔑していた。彼はドイツ人の気質をほとんど知らなかったのだ。 [161ページ]彼は彼らには活力もエネルギーもないと考え、彼らと彼らのパンフレットを「吠えても噛みつかない小犬」に例えました。後になって、私たちは経験を通して、彼らが何を成し遂げられるかを知りました。

私はまた、ロシア情勢とヴィルナに集結する軍隊に関する報告を頻繁に求められました。ニーメン川対岸への遠征が不運にも失敗に終わるか、あるいは完全に失敗に終わった場合、フランスとドイツがどのような行動を取るかについて意見を求められました。私の答えは文字通り次のとおりです。残念ながらこれほど完全に実現してしまった予測を信じるのは難しいでしょう。

「陛下が不利な状況に陥った場合、ロシアとドイツは一斉に立ち上がり、軛を振り払うでしょう。十字軍が発動されるでしょう。同盟国は皆、陛下を見捨てるでしょう。陛下が深く信頼しておられるバイエルン王でさえ、同盟に加わるでしょう。ただし、ザクセン王だけは例外とします。陛下はおそらく忠誠を誓うでしょう。しかし、臣民は陛下を敵と共闘させるよう強いるでしょう。」

ナポレオンは、想像通り、体調が悪かった。 [162ページ]ナポレオンはこの報告に満足し、ダヴースト元帥に送付し、熟読の上、私に手紙を書くよう指示しました。皇帝は、側近の一人がこのような手紙を皇帝に送るとは、非常に驚​​嘆されているとのことです。私の報告は、私が喜んで読んでいるようだったライン川の向こう岸で発行されているパンフレットと酷似しており、最後に、ドイツ人は決してスペイン人のように扱われるべきではないと述べられています。元帥は任務を遂行し、私は長い間ナポレオンの寵愛を受けませんでした。私の判断が正しかったかどうかは経験が証明しています。そして、私は皇帝にこの発言をすることをお許しくださいました。そのことについては、後ほど述べます。

彼がプロイセン国王に対し、ケーニヒスベルクで没収された禁制品をすべてマクデブルクへ送るよう強要した際、私は非常に緊迫した口調で彼に訴え、この措置がどれほど国民の不満をかき立て、激怒させるものであるかを訴えました。当時総領事であったクレランボー氏も同様の調子で彼に手紙を書きましたが、私たちの訴えは聞き入れられませんでした。

ロシアとの戦争が勃発寸前だった。ナポレオンはプロイセンに対する今後の方針について熟考していた。ウィリアム王との同盟を結ぶことは、 [163ページ]プロイセン王の疑念と偏見を鎮める手段となってきた。彼を廃位することは暴力的な手段であっただろうが、多くの人物(名前は挙げない)がそれを進言した。皇帝はプロイセン王から諸侯を奪い、自ら領有し続けるよう強く勧められた。おそらくウィリアムは、自身を脅かす危険を未だ十分には理解していないのだろう。私はその深刻さを熟知していた。プロイセン国王とその臣民を哀れに思い、その計画に全力で反対した。

指示は既に* * * * に送られていた。将軍は直ちに進軍を開始する予定だった。プロイセン侵攻の命令ではなく、同国との同盟条約締結の知らせを受けたとき、彼はどれほど驚いたことだろう。その知らせは後に私に届き、大きな満足感を与えた。

[164ページ]

第23章
大軍はすでにヴィスワ川に進軍していた。ナポレオンはパリを離れ、ザクセン州の州都、そしてダンツィッツィへと向かった。ナポリ王は彼に先立ってドレスデン行きの許可を求めたが、認められなかった。その拒否に彼はひどく落胆し、皇帝に多大な迷惑と不幸を被ったと私に語った。少なくとも彼自身の話ではそうだった。私たちは皇帝が最初に接待した人々だった。彼は私との会話を、少々奇妙な質問で始めた。「ダンツィッ …

皇帝は疲れていたので、ナポリ国王と私は撤退しました。私はすぐに呼び戻され、皇帝の傍らに留まりました。 [165ページ]彼は着替えた。要塞の任務についていくつか質問した。着替えが終わり、侍従が部屋を出ると、彼は言った。「さて、ラップ将軍、プロイセンは我々の同盟国となった。オーストリアもまもなくそうなるだろう」。「残念ながら、陛下」と私は答えた。「我々は同盟国として多くの害を及ぼしており、あらゆる方面から我々の軍隊に対する苦情を受けている」。「それは単なる一時的な暗雲だ」と彼は言った。「アレクサンダーが本当に戦争をするつもりなのか見てみよう。できれば避けたい」。それから、突然話題を変えて言った。「ミュラの様子がおかしくないですか? 具合が悪いようです」。私は答えた。「いいえ、陛下、彼は病気ではなく、ただ機嫌が悪いのです」。「なぜ機嫌が悪いのですか?」と彼は言った。 「彼は王であることに満足していないのか?」――「彼は、自分は王ではないと言っている。」――「では、なぜ彼はそんな愚か者のように振舞うのか?彼はナポリ人ではなく、フランス人であるべきだ。」

その晩、私はナポリ国王ナポレオンとヌーシャテル公爵と夕食を共にするという栄誉に浴しました。食卓に着く前に、私たちはロシアとの戦争について語り合いました。私たちはサロンにいました。皇帝は突然、台座に置かれた大理石の胸像に気づき、「これは誰の頭ですか?」と尋ねました。「陛下」と私は答えました。「プロイセン王妃の頭でございます」「それでは、ラップ将軍、あなたは [166ページ]「美しい女王の胸像をあなたの家に置いておいてください。彼女は私を嫌っていたのです。」 「陛下」私は答えた。「美しい女性の胸像を所有することは許されると思います。それに彼女は今やあなたの同盟国である王の妻なのですから。」

翌朝、私たちは馬に乗って出かけました。ナポレオンは要塞を訪れましたが、工事の様子に満足していないようでした。私が彼の不満の理由を知らないことに気づくと、彼は激怒し、大勢の人の前でこう言いました。「なぜ総督たちが君主のように振る舞うのか理解できない。命令を執行してほしいのだ」。確かに、彼の命令の厳格な文言から少し逸脱していたことはありましたが、些細なことで、それについて口にするほどの価値はありませんでした。ナポリ国王は低い声で私に言いました。「これらの非難に腹を立てるな。皇帝は機嫌を損ねている。今朝、不機嫌になるような手紙を受け取ったのだ」。その後、私たちは家に戻りました。ナポレオンは私の指揮下にある将軍や将校たち、そして行政当局者らと面会しました。行政当局者らには、貿易と財政に関する多くの質問をしました。彼らは自分たちの財政状況を嘆きました。 「すぐに変わるだろう」と彼は言った。「私はあなたを自分のものにしておく。これは決定されたことだ。偉大なる者以外は誰も [167ページ]家族が繁栄するのです。」それからフランザン氏父に気づいて、彼は言いました。「フランザン氏、あなたは文句を言うな、あなたの事業は順調だ、少なくとも一千万の財産を蓄えている。」

その晩、私は再びナポレオン、ナポリ国王、そしてヌーシャテル公と夕食を共にするという栄誉に浴した。ナポレオンは長い間沈黙していたが、ついに突然、ダンツィックからカディスまでの距離はどれくらいかと尋ねた。「遠すぎます、陛下」と私は答えた。「ああ!将軍、お気持ちは分かります」と彼は言った。「しかし、数ヶ月後にはさらに遠くなります」――「そうなればなおさらです」と私は付け加えた。ナポリ国王とヌーシャテル公は一言も口を開かなかった。「紳士諸君、お察しします」とナポレオンは言った。「あなた方は戦争を望んでいないのですね。ナポリ国王は美しい王国を離れたくないし、ベルティエはグロ・ボワで狩りをしたいし、ラップ将軍はパリの豪華なホテルに戻りたがっています」「白状します」と私は言った。「陛下、陛下は私を甘やかしてはおりません。首都の楽しみ方をほとんど知らないのです」

ミュラとベルティエは深い沈黙を守り続けた。何かに苛立っているようだった。夕食後、彼らは私がナポレオンに話しかけたのは正しかったと私に言った。「でも」と私は答えた。「私を一人で話させるべきではなかったわね。」

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第24章
ナポレオンはダンツィックを離れ、ケーニヒスベルクへ向かった。ミュラも同行し、ベリアール将軍もそこにいた。彼は彼らにスペインのこと、そして不満を抱いていた兄のことをよく語った。フラオー将軍はシュヴァルツェンベルク公爵のもとへ派遣されていた任務から戻り、公爵の献身的な姿勢とロシア攻撃への焦燥感について報告した。皇帝は公爵の誠実さを完全に信頼しているようには見えなかったが、最終的には彼の抗議が誠実なものとなり、その恩恵が感謝の気持ちを抱かせるかもしれないと確信した。彼は自身の計画と意図を次のように説明した。「もしアレクサンドルが、我々が相互に締結した協定の履行を拒否し続け、私が彼に提示した最後の提案に応じないならば、私はニーメン川を渡り、彼の軍隊を打ち破り、ロシア領ポーランドを占領する。この最後の領土は私が [169ページ]ポーランドは大公国に統合される。私はこれを王国とし、5万人の兵士を残し、国として彼らを支えなければならない。住民たちは再び国民軍団を結成したいと望んでいる。彼らは好戦的な民族であり、まもなく数が多く規律正しい軍隊を持つだろう。ポーランドは武器を必要としている。私はそれを供給する。ポーランドはロシアに対する牽制となり、コサックの侵入に対する障壁となるだろう。しかし、私は一つ困惑している。ガリツィアに関してはどうすべきか分からない。オーストリア皇帝、というよりむしろ皇帝の評議会は、ガリツィアを手放すことに消極的だ。私は十分な補償金を提示したが、拒否された。今後の成り行きを待つしかない。それが我々に何をなすべきかを示してくれるだろう。ポーランドは、もしうまく組織化されれば、5万の騎兵を供給できるでしょう。ベリアール将軍、どう思われますか?」「陛下、そう思います」と将軍は答えた。「陛下がヴィスワ川の歩兵を騎馬させれば、優れた軽騎兵となり、ロシア軍の先導するコサックの群れに効果的に対抗できるでしょう」皇帝は言った。「どうなるか見てみましょう。ムラトと一緒に戻り、スイス兵を残して帰ってください。ところで、スイス兵についてはどう思われますか?」「陛下、彼らは行軍します。彼らは戦います。彼らは大きく成長しました。 [170ページ]六週間前と同じ兵力で知られているとは考えられないだろう。明日、彼らに会いに行く。」――「さて」と皇帝は言った。「ムラトと合流し、彼と共に騎兵隊全体を視察せよ。」

皇帝が述べた提案は受け入れられなかった。ロシア軍は我々の軍力と通商政策に不満を抱き、ドイツからの撤退を要求した。我々は前進し、5年前に我々が勝利を収めたニーメン川の​​岸辺に到着した。兵士たちは歓喜の叫び声を上げた。ナポレオンは猟兵に変装して前線に進み、アクソ将軍と共に川岸を偵察した。その後、ナポリ国王としばらく会談し、川に橋を架けるのに適した地点を指摘し、迅速な通過のために軍勢を集中させるよう指示した。騎兵は馬に乗り、歩兵は武装した。これほど壮観な光景はかつてなかった。エブレは作戦に着手した。真夜中に桟橋が設営された。1時には我々はニーメン川の​​右岸にいた。パジョル将軍はバガウースが撤退したコウズノにいたため、我々は攻撃を加えることなくそこを占領した。我々は航海を続けた。 [171ページ]我々は前進を続けようとした。絶え間なく行軍したが、地平線に溶け込むコサックの小隊が数人いるだけだった。ヴィルナに到着すると、巨大な弾薬庫が炎上していた。我々は火を消し、食料の大部分は救われた。

第25章
ポーランド軍団が栄光の遠征から帰還する際に幾度となく踏み荒らされた大地の光景は、兵士たちの士気を新たに掻き立てた。兵士たちは記憶の力に鼓舞された。我々は敵を追って突進したが、雨は土砂降りとなり、寒さは厳しくなっていた。我々はプルトゥスクの沼地と泥沼に陥り、住む場所も着るものもなかった。しかし、もしロシア軍が我々を彼らと追いつかせてくれれば、この全ては無駄に終わっただろう。しかし彼らはボリステンス川に到達し、ドウィナ川を渡り、通過する地域を逃亡し、荒廃させた。我々は… [172ページ]戦争を続けるというよりは、競争的な競争に終始すべきだった。彼らはもはや団結と連携を失っており、我々は交戦の望みを捨てた。しかし、敵は速さで前進し、戦力を結集することに成功し、ドリッサに築いた陣地に避難した。しかし間もなく、塹壕で攻撃を受け、退路を断たれる危険にさらされた。敵はこの二重の危険を冒すことを選ばず、敗走した。もし数時間遅れていたら、彼は敗走していただろう。側面攻撃と迎撃に必要な準備はすべて整っていたのだ。彼の無事は、とどめの一撃によるものだった。我々の前衛部隊の一部は、警戒が不十分だったため、ヴィトゲンシュタインに奇襲された。ナポレオンはロシア軍が我々に向かって進軍していると判断し、部隊を停止させた。この遅れが彼らを救った。我々がベシェンクウンツィに到着したとき、彼らはすでに撤退を終えていた。ナポリ王も彼らの後を追った。彼は彼らを追い詰め、オストゥルヴノで攻撃した。さらに数リーグ先まで突撃し、後衛部隊を全滅させた。以下は彼の報告である。戦場で死ぬべきであったこの王子の典型的なやり方を体現しているため、ここに引用する。

「私は予備騎兵隊の第一軍団に [173ページ]軽歩兵二個大隊が前進した。その後にデルゾン師団が続いた。我々はオストロヴノから二リーグほどの地点で敵の後衛​​に追いついた。敵の後衛は深い渓谷の背後に有利な位置に陣取っており、多数の砲兵が配置され、前面と側面は深い森に覆われていた。両軍で小競り合いが起こった。私は大隊を派遣し、我々の軽騎兵を撃退している敵歩兵を牽制させた。デルゾン師団が到着し、騎兵はそれ以上何もすることがなかった。総督が手配を済ませ、我々は敵に向かって行軍し、渓谷を越えた。ドウィナ川の岸に沿って整列していた外国の騎兵は我々の左翼を守り、平野に展開した。残りの軽歩兵は敵歩兵の後退に合わせて街道に沿って前進した。胸甲騎兵は渓谷の背後に予備として残され、砲台が設置された。私の右翼は広大な森に覆われ、多数の先駆部隊が駐屯していました。敵は峡谷の奥にある予備部隊が配置されていた第二陣地まで追い詰められていました。敵は我々を峡谷に押し戻しましたが、再び撃退されました。二度目にも追い詰められ、彼らが陣地を確保するために通過しようとしていた峡谷に絡まって倒れていた我々の大砲を奪おうとしていました。 [174ページ]高地。我々の左翼は撃退され、敵は我々の右翼で大胆な動きを見せた。外国の旅団は今にも散り散りになろうとしていた。このような状況では、騎兵の突撃以外に我々が挽回する方法はなかったので、私はそれを試みた。我々は、平野に沿って大胆に行軍する敵歩兵と対峙するために前進した。勇敢なポーランド兵たちはロシア軍大隊に突撃した。一人の逃亡者も、一人の捕虜も出さず、全員が殺され、木でさえ我々の騎兵のサーベルから彼らを守ることはできなかった。同時に、突撃によって方陣は突破された。左翼の大隊を率いていたジラルダン将軍は右翼に動き、敵の背後の幹線道路に沿って前進した。右翼の部隊も同様の機動を行った。ピレ将軍が彼らを支援し、第8軽騎兵隊の先頭に立って突撃した。敵は敗走し、無事だったのは我らの進撃を阻んだ峡谷のおかげだった。師団全体がこの動きに追従した。歩兵は街道を、騎兵は高地で展開した。私は我らの前方にいた5、6個騎兵連隊に射撃命令を下した。このような状況の中、陛下は私と共に進軍され、敵追撃を命じられ、私はヴィテプスクから1リーグ半ほど先まで敵を追い詰めた。 [175ページ]陛下、これがロシア軍との最近の戦闘の経緯です。敵は約3000人の戦死者と多数の負傷者を出しましたが、こちらはほとんど一人も失っていません。この戦果は、主にベリアール伯爵の功績によるものです。彼はこの戦いで、その献身と勇気を改めて証明しました。デルゾン師団の砲兵隊の維持は、彼のおかげです。

疲労や倦怠感でさえ、長い目で見れば勇気を奮い立たせる効果を持つ。バークレーはこれを経験した。彼は幾度となく戦いの運命を賭けた作戦を企てたが、我が軍の姿を見ると、常に敗北の予感が彼を襲った。視界に入ると、彼は急いで撤退した。弾薬庫、銃、そして兵器が我が軍の手に落ちるのを、彼は気にも留めずに見ていた。彼の唯一の目的は、常に我が軍より数リーグ先を行くことだった。バグラチオンもこの例に倣ったが、時折決意を見せることもなかった。彼は我が軍の前衛部隊と何度か交戦した。ダヴー元帥は激しく追撃したが、ヴェストファーレン国王の進撃は遅々として進まなかった。この国王とヴァンダムの間に争いが生じ、結果として命令は実行されなかった。この状況がロシア軍を救ったのだ。 [176ページ]プリンス。彼は前進し、モヒロフにまで到達したが、敗北した。ヴァンダムとヴェストファーレン王の争いがなければ、もっとひどい結果になっていたことは間違いない。もちろん、ナポレオンはそれを予見できなかった。ニーメン川の​​岸辺に散っていたロシア軍は、ボリステン川の岸辺で合流した。彼らは防衛の準備を整えており、我々はスモレンスコへの攻撃に備えていた。

第26章
ダンツィックを離れ、リトアニアを縦断した。国土は荒涼としていて、森と険しい山々が広がり、どこまでも貧困と荒廃を象徴していた。自然が豊かさを見せる季節なのに、植物は弱々しく枯れ果てていた。この運命の国では、あらゆるものが悲惨さを物語り、私たちを襲うであろう災厄を予感させていた。

雨はまだ降り続いていて、道路は崩れて通行不能になり、男たちは迷子になっていった [177ページ]泥濘に埋もれ、疲労と飢えで瀕死の状態に陥っていた。我々がこの二日間で歩いた地面には、一万頭の馬が息絶えていた。これほど恐ろしいほどの死亡率が、作戦開始を告げたことはかつてなかった。我が兵士たちは、粘土質の地面で絶えず滑り、無駄な努力に疲れ果てていた。彼らのほとんどは追いつくことができず、遅れをとっていた。特に連合軍は、膨大な数の兵士が兵糧攻めに遭っていた。戦争の結末が悲惨なものになることは容易に予見できた。我々には力と勇気があったが、自然がそれを助長し、我々は敗北する運命にあったのだ。しかし、私はヴィルナに到着した。そこで、それほど悲観的な予言をしていなかったバッサーノ公爵、ナポレオンの副官でまだ面識のなかったホーゲンドルプ将軍、そして後に我が軍の旗を捨てたジョミニ将軍に出会った。彼らは皆、我々が従事する戦闘について、私よりも良い予言をしていた。確かに、それは見せかけの宣伝の下で現れた。ポーランド全土が動き出し、男も女も、農民も、市民も紳士も、誰もが崇高な情熱に突き動かされていた。軍隊が組織され、行政が組織され、資源が集められ、人々はボリステネスを越えて抑圧を駆逐する準備を整えていた。ワルシャワ議会が開会された。 [178ページ]長らく嵐に翻弄されてきたポーランド国民は、ついに港に辿り着いたと確信していた。どんな犠牲も惜しまない覚悟だった。大統領の演説は各地で喝采を浴び、歓喜をもって迎えられた。私もぜひ読みたいと思い、バッサーノ氏が私にくれた。「もっと良くできたかもしれないが」と彼は言った。「それでも、まあまあだ」。皇帝陛下は、もっと事実に基づいた内容で、学識の気取りが薄められた表現を望まれたであろう。これほど深刻な局面において必要なのは、雄弁家の冷静な動きではなく、愛国者のエネルギーだった。それでもなお、演説は効果を発揮した。

ヨーロッパの中心部には、古くから名高い国家が存在していた。広大で豊かな国土を誇り、戦争と芸術の二重の栄光に輝き、幾世紀にもわたり、疲れを知らない力で、国境を荒らす蛮族からヨーロッパの防壁を守り抜いた。この地では多くの民が繁栄し、自然は彼らの労働に寛大さで報いた。その王たちは、しばしば最高位を最も尊んだ者たちと並んで歴史に名を残した。

「この国はポーランドであり、あなた方はその国民だ。だが、あなた方は一体何者になったのか? [179ページ]我が国の運命はいかにして決まったのか?分裂しても離れず、幾多の分裂を乗り越えて結束を保ってきたこの強大な一族は、いかにして自らを解体させられたのか?犯した罪は何だったのか、裁きを下したのは誰なのか?いかなる権利によって攻撃され、侵略され、国家や国民のリストから抹消されたのか?抑圧者はどこから来たのか、鎖はどこから来たのか?憤慨した世界は我々に答えるだろう。あらゆる国家、あらゆる民族が、ポーランドの墓穴の横に自らの墓穴が開いたのを見たと語るだろう。そして、あらゆる社会が等しく拠り所とする法を大胆に冒涜し、我々を破滅させるために彼らに示した侮辱的な軽蔑によって、世界は君主たちの一時的な目的に服従させられたと考え、今や他に法はないと考えるだろう。ヨーロッパは警戒と脅威に晒され、帝国が我々を愛撫しながらも、特に力を増してヨーロッパに圧力をかけようとしていることを、我々の正当な憤りとして指摘するだろう。我々のあらゆる悪の元凶はロシアである。一世紀も経たないうちに、ロシアはかつてその名を知らなかった人々に向かって、途方もない勢いで進軍してくるだろう。

「ポーランドはロシアの勢力拡大の最初の影響をすぐに察知した。 [180ページ]そのすぐ近くにいたロシアは、最初の打撃を、そして最後の打撃として受けた。1717年にロシアがポーランド軍を解散させることでロシアの影響力を試みて以来、誰がそれらの打撃を数え上げることができようか。その時代以来、ロシアの影響や蛮行から免れた瞬間があっただろうか。この狡猾な大国がポーランドと同盟を結んだのは、1764年のように、我々の国境の保全を無政府状態の永続に依存させるという致命的な保証をポーランドに押し付けるためであり、その無政府状態を自らの野心的な計画を達成する手段とするためである。その不運な時代以来、彼らがどのようなものであったかは世界が知っている。それ以来、分割に次ぐ分割により、犯罪も復讐もなく、ポーランドは完全に消滅したように見えてきた。それ以来、ポーランド人はレプニン家やシヴェル家の侮辱的な言葉を憤慨して聞いてきた。それ以来、ロシア兵は同胞の血を浴びた。それは、永遠に忌まわしいあの日への前兆であった。我々はその日を思い出さなければならない。野蛮な征服者の叫びの中、ワルシャワは火と殺戮によって破壊されたプラハの住民の叫びを聞いたのだ。ポーランドよ、今こそ、我々が決して失うことのできないあの名を、お前たちの耳に響かせる時だ。これがロシアが、我々の名を盗用することに成功した憎むべき手段なのだ。 [181ページ]彼女自身が我々の美しい州を所有している。これが彼女が我々に対して持つ権利、唯一の権利だ。力だけが我々を束縛し、力だけが彼女だけが築き上げた鎖を断ち切ることもできる。これらの鎖は断ち切られるだろう。ならばポーランドは存在するだろう。何と言うか?彼女は既に存在している。いや、むしろ存在しなくなったことはない。彼女が陥れてきた背信、陰謀、暴力が、彼女の権利にどう影響しうるというのか?そうだ、我々は依然としてポーランドなのだ。自然、社会、祖先から受け継いだ称号、宇宙が認め、人類の守り手となる神聖な称号によって、我々はポーランドなのだ。

私は熱狂にのまれていた。イタリア、エジプト、そして他の場所で、勇敢なポーランド軍団を幾度となく見てきたのだ!確かに彼らの言う通り、彼らはやはりポーランドだった。「勇気という点では」と私は公爵に言った。「この勇敢な民衆の何物にも驚かされることはない。だが、正直に言うと、彼らにはこのような才能があるとは思っていなかった。」 「おっしゃる通りです」とバッサーノ氏は答えた。「彼らには演説をする以外にもやるべきことが山ほどあるのです!」 「では、その手紙を書いたのは誰ですか?」「神父です。」 「どんな神父ですか?皇帝は聖職者を好んでおられるとお考えですか?」「いいえ。しかし、結局のところ、現代において、使節団を司祭に託すのは、強い配慮がないわけではありません。」 「それは [182ページ]大司教様ですか?」「まさにその人物です。ワルシャワに派遣したのは、その雄弁さでポーランド人を酔わせるためです。私は彼が実務に長けているとは思いませんが、皇帝陛下に忠誠を誓っています。それが主な理由です。彼の敵は、野心家で落ち着きがなく、愛情にも白と黒を称える考えにも揺るぎない、状況に左右されるだけだと非難しています。私は、この描写は戯画に過ぎないと考えています。私自身も、もし事態が悪化して我々の軍の栄光が損なわれた場合、彼を中傷する者たちの列に加えるつもりはありません。」「私は確信しています。彼はコサックをあまりにも酷評したため、彼らの族長になるべきではありませんでした。」

議会の代表団はまだヴィルナにいました。私は議員の何人かと知り合いでした。彼らに会って、彼らの希望、財産、権利について話してもらいました。これらの考えは私の心に響き、公爵に説明しました。すると公爵は「素晴らしい!」と答えました。「何ですって!大司教がわからないのですか?彼がどれほど巧みに自分をさらけ出しているかお分かりにならないのですか?そして、これらの聖書の思い出話は、司祭以外の誰に聞かせたいのですか?それと、その書類をお渡ししましょう。」

「陛下、ワルシャワ大公国の議会は、陛下の強力な軍隊の接近に備えて召集され、 [183ページ]当初、ポーランド連邦は権利を取り戻し、義務を履行する義務があると認識し、全会一致でポーランド連邦を構成し、ポーランド王国がその権利を回復したことを宣言し、同時に、その存在を破壊した簒奪行為と専横行為は無効であり、効力を持たなかったことを宣言した。

陛下、陛下は後世と歴史のために尽力されます。ヨーロッパが我々の権利を誤解できないのであれば、ましてや我々の義務を誤解するはずがありません。我々は遠い昔から自由で独立した国家であり、領土と独立を失ったのは条約や征服によるものではなく、背信と裏切りによるものです。裏切りは決して権利とはなり得ません。最後の王がサンクトペテルブルクに連行され、そこで命を落としたのを我々は見てきました。そして、我々が戦争をしたこともなく、征服もされなかった君主たちによって、我々の国は引き裂かれました。

我々の権利は、神と人々の目に明らかに現れている。我々ポーランド人は、ヤゲロンとソビエスキの王座を再建し、国家の独立を再び主張し、分裂した構成員を再集結させ、祖国を守るために武装し、祖国を守るために戦うことで、我々が祖先の立派な子孫であることを証明する権利を有する。

[184ページ]

ポーランド人としての義務を果たし、権利を取り戻したからといって、陛下は我々を否定したり、責めたりできるでしょうか? かしこまりました、陛下。ポーランドは今日より建国されました。ポーランドは衡平法によって存在していますが、事実上存在すべきです。正義と公正は我々の決意が正当であることを示していますが、我々の側からも支持されるべきです。神はポーランドの分裂に対して十分に罰を与えたのではありませんか? 神は我々の不幸を永続させるのでしょうか? 祖国への愛を育んだポーランド人が、希望もなく惨めに墓に葬られなければならないのでしょうか? かしこまりました、陛下。あなたは神の摂理によって遣わされたのです。権力は陛下の手に委ねられており、大公国の存在は陛下の武力によるものです。

「陛下、ポーランド王国を存続させよ!と仰せ下さい。そうすれば、その布告は世界にとって現実と等しくなるでしょう。我々は1600万人のポーランド人であり、その血と武器と財産を陛下に捧げていない者は一人もいません。祖国の再建のためならば、どんな犠牲も軽んじることはありません。ドウィナ川からドニエストル川まで、ボリステン川からオーデル川まで、陛下のたった一言が、すべての武器、すべての努力、すべての心を駆り立てるのです。この比類なき [185ページ]アウステルリッツ、プルトゥスク、アイラウ、フリートラントの記憶にもとづき、ティルジットとエアフルトで誓いを立てたにもかかわらず、ロシアが敢えて宣戦布告したこの戦争は、疑いなく神の摂理によるものであり、我が国の不運に心を動かされ、それらを終結させることを決意されたものである。第二次ポーランド戦争は始まったばかりであるが、我々は既にヤゲロンの首都で陛下に敬意を表している。既に陛下の鷲はドヴィナ川に陣取り、ロシア軍は分断され、分裂し、分断され、不安定な状況に彷徨い、団結と再編を試みているが、無駄である。

「それは結構だ。――ええ、確かに。だが彼は傑作にすっかり夢中なので、自分の才能がポーランドを守っていると世界に公表しなければ、栄光を逃すことになると思うだろう。一日に二十回も、私はこうした過剰な自己愛を抑えなければならない。今朝も、彼の奇抜な虚栄心の不適切さを諫めてきたところだ。彼はオシアナイズしている。その言葉を覚えていますか?彼を見事に表現している。だが今、彼のスタイルがうまくいけば、彼の使節団はほとんど動かない。彼を翼で守ってくれるデュロックがいなければ、私はとっくに彼を羊の群れの元へ送っていただろう。一体何が [186ページ]悪魔は大使館の使節と施しの任務を兼ねているのか?何の役にも立たないのに、なぜそんなに苦労してまでそうしなければならないのか?

第27章
私は再び旅を続けた。森や険しい山々、自然界で最も荒々しいあらゆるものを通り抜けた。しかし、一歩ごとに任務に赴く将校たちに出会い、彼らは友人や軍隊の近況を知らせてくれた。私は自分が通っている光景を忘れ、戦争のありそうな展開について語り合った。彼らは軍隊の勇敢さ、皇帝陛下の驚異的な行動力について語ってくれた。軍の動き、統治、警備と予防措置は、実に想像を絶するほどだった。陛下はあらゆることに気を配り、あらゆることに備えていた。ドーポール氏に与えられた指示書はその好例であり、保存する価値がある。

「ドーポールの軍曹はオストゥルノに行き、そこからベシェンコヴィツィへ行きます。オストゥルノで村が [187ページ]そこに人が住んでいるかどうか、そして再編成を行う技術者がいるかどうか。ベシェンコヴィツィでは橋が架けられているかどうか、そして川の最初の増水にも耐えられない固定橋の代わりに筏橋が架けられているかどうか、テット・デュ・ポンの建設が進行中かどうか、病院、救貧院、弾薬庫も視察し、そして最後に、国土の再編成が始まっているかどうかも視察する。騎兵隊、砲兵隊、軍用車両など、遭遇する可能性のある部隊について報告する。ベシェンコヴィツィでは近衛猟兵第四連隊とヘッセン・ダルムシュタット大隊を視察する。これらは私が更なる命令があるまでそこに留まるよう命じている。また、大砲も数門あるはずだ。テット・デュ・ポンの工事が完成に向けて進められるよう、万全を期すよう注意する。コサックの消息が不明な場合は自ら調べ、必要であればベシェンコヴィチに一日滞在して状況を確認し、伝言を作成する。ベシェンコヴィチを通過する最初の信書を使って私に手紙を書く。ポロツクへ向けて旅を続け、そこから二通目の伝言を送る。彼はベシェンコヴィチの役人たちと面会する予定だ。 [188ページ]町、病院、救貧院。彼は、今起こった様々な出来事においてレッジョ公爵が何人の捕虜を捕らえたか、何人の負傷者が出たか、この件について、そしてレッジョ公爵の軍団の状況について、彼が知り得る限りのことを私に知らせてくれるだろう。タレントゥム公爵がデュナブールを占領したので、秩序兵のオーポールは両軍団間の連絡が成立したかどうかを知るだろう。彼はレッジョ公爵に対抗する勢力の性質について私に知らせるあらゆる情報を得るだろう。彼は敵を攻撃し、川の右岸を掃討し、デュナブールとの連絡を成立させるまで、この元帥(同封の手紙を送付する)と共に留まるだろう。

「ナポレオン」

しかし、こうした警戒も事態の改善にはつながらなかった。部隊に追いつけない兵士が目に見えて増え、我々の後方を塞いでいた。 スモレンスコから3リーグほど離れた野営地で合流した皇帝に、行軍中ずっと目の前に浮かんでいた陰鬱な光景を報告した。「これは長征のせいだ。私が大打撃を与えれば、皆が立ち上がるだろう。ヴィルナから来たのか。ホーゲンドルプは何をしているのか?」 [189ページ]「彼は怠惰に浸っている。妻は一緒にいないのか?」私は何も知らなかったし、答えることもできなかった。ナポレオンは答えた。「もし妻がいれば、彼女はフランスへ帰るか、少なくともドイツ後方に送らなければならない。ベルティエが彼に手紙を書くつもりだ」。翻訳されたばかりの書類がいくつか持ち込まれた。中には、少数のコサックが我々全員を打ち負かした勝利の記録や、我々を宣教師の一団と称する布告や演説もあった。「いいか」とナポレオンは私に言った。「我々が使徒だとは疑っていなかっただろう。だが、ここで我々がロシア人のために破滅をもたらそうとしていることが証明された。この哀れなコサックたちは偶像崇拝者になるだろう。だが、ここには別の種類のものがある。よく読んでみろ、これは純粋なロシア語だ。哀れなプラトフ!」 「この陰鬱な気候の中で、皆が同じように力を発揮する!」と書いてありました。それは、総主教がアレクサンドル皇帝に捧げた聖セルギイの聖遺物に込めた長い叙情詩でした。彼はそれを次の一節で締めくくっています。「帝国の最初の首都、新しいエルサレムであるモスクワ市は、熱心な息子たちの腕に抱かれた母のようなキリストを迎え入れます。そして、その力の輝かしい栄光を予感させる霧の向こうから、歓喜の歌を歌います。『ホサナ、来るべき者に祝福あれ!』」 [190ページ]傲慢で厚かましいゴリアテが、フランスの国境からロシアの領土へと死の恐怖を運び去ろうとも、平和な宗教よ、このロシアのダビデの投石器は、その血なまぐさい傲慢さを突然打ち砕くであろう。我が祖国の幸福を古より守護した聖セルギイのこの像を、皇帝陛下に捧げます。

第28章
スモレンスコの戦いが勃発した。戦闘は容赦なく、砲撃は激烈だった。ロシア軍は側面と縦射を食らって敗北した。幾度となく勝利を収めてきた城壁を守ることはできず、そこから撤退した。しかし、橋や公共の建物は炎の餌食となった。特に教会からは炎と煙が噴き出した。大火の上にそびえ立つドーム、尖塔、そして無数の小塔は、その光景に彩りを添え、戦場でしか見られない、あの曖昧な感情を醸し出していた。私たちはその場所に入った。そこは半分焼かれ、野蛮な様相を呈し、 [191ページ]炎はすでに到達していた死体と負傷者の遺体。その光景は恐ろしかった。なんと栄光に満ちた列車なのだろう!

我々はこの殺戮の光景から視線を逸らさざるを得なかった。ロシア軍は敗走し、我々の騎兵隊は追撃に駆けつけ、間もなく後衛に追いついた。コルフは抵抗を試みたが、圧倒された。バルクラーは大軍を率いて前進してきた。我々側は増援を受け、戦闘は激化した。ネイが正面攻撃、ジュノーが側面攻撃を仕掛けた。もし公爵が前進していたら、敵軍は分断されていただろう。ミュラは彼の姿が見えずうんざりし、彼に駆け寄った。「何をしているんだ? なぜ来ないんだ?」「我がヴェストファーレン軍は動揺している」「私が勢いをつけてやろう」ナポリ王は少数の小隊を率いて突撃し、抵抗する者全てを撃破した。「元帥の杖は半ば完成した。任務を完遂せよ。ロシア軍は敗北した」ジュノーは任務を完遂しなかった。疲労からか不信からか、勇敢なる勇者たちは砲撃の音の中で眠りに落ち、後方支援に駆けつけていた敵は再び戦列を後退させた。戦闘は激化し、勇敢なるグディンは命を落とし、ロシア軍は我々の手から逃れた。ナポレオンは、 [192ページ]戦いは決着した。「戦いの鍵は橋の上ではなく、村の上だった。第八軍団が撤退すべきだった場所だ。ジュノーは一体何をしていたのだ?」ナポリ王は自らの過ちを弁明しようと努めた。兵力、障害物、ありきたりの常套句が用いられた。常に公爵を愛していたベルティエは公爵に味方し、コーランクールも同様だった。誰もが、一瞬の失態さえ咎められるような勇敢な男を全力で支持した。しかし、我々が失った利点はあまりにも大きすぎた。ナポレオンは私を呼び寄せた。「ジュノーは今、元帥の幕僚を永遠に失った。ウェストファリア軍団の指揮権をあなたに託す。あなたは彼らの言葉を話し、彼らに模範を示し、彼らを戦わせるのだ。」私はこの信頼の証に嬉しくなり、その気持ちを伝えた。しかしジュノーは傷だらけで、シリア、エジプト、あらゆる場所でその名を馳せてきた。皇帝陛下には、二十年間の勇気と献身のゆえに、一瞬たりとも気を抜かないよう懇願した。「ロシア軍が武器を捨てないのは、彼のせいだ。この一件は、おそらく私がモスクワへ行く妨げになるだろう。ウェストファリア軍の先頭に立ってください。」彼が最後にこう言った時の口調は、 [193ページ]言葉は既にかなり和らげられていた。かつての副官の活躍が、第8軍団の不活発さを緩和してくれた。私は続けた。「陛下は先ほどモスクワのことをお話しになりました。軍はそのような遠征を予期していません」「杯は満杯です。もう飲み干さなければなりません。ちょうど良い知らせが届きました。シュヴァルツェンベルクはヴォルヒニアにいます。ポーランドは準備を進めています。あらゆる援助が受けられます」

ジュノーが脅かされている不名誉を、私はナポレオンにヌーシャテル公とヴィセンツ公に伝えるよう命じた。「彼の軍隊が奪われるのは残念だ」と公は私に言った。「しかし、この作戦における最も素晴らしい作戦の一つを失敗に導いたのは、彼のせいだと言わざるを得ない。戦争の勝敗は、忘却と一瞬の不在にかかっている。機会が逃げ去る時にそれを捉えなければ、それは消え去り、二度と戻ってこない。彼ほどの勇気と能力を持つ者はいない。彼は兵士としての資質に、最も広範な知識を加える。彼は勇敢で、賢く、愛想がよく、温厚だ。彼は一時、我を忘れたが、多くの敵を作った。しかし、私とコーランクールがどうすべきか見守ろう。」彼らは見事に対処し、ジュノーは持ち場を守った。私はそれを大変喜んだ。第一に、それが彼を… [194ページ]不名誉なこと、そして次に彼の軍隊があまり好きではなかったこと。残念ながら、若さゆえの激しさは倦怠感に取って代わられてしまった。モスクワの戦いでは、幾度となく見せてきたあの柔軟性と活力を見せることができず、ヴェレイア事件は皇帝の不満を頂点にまで高めてしまった。

数日後、トルマソフの襲撃を知った。私たちは不安に駆られ、作戦線から過度に遠くまで前進することで直面する危険について長々と議論した。ナポレオンは間違いなく私たちの話を聞いていた。彼は私たちのところにやって来て、後方をいかに確保したか、両翼を構成する軍団のこと、そしてニーメンから私たちの実際の位置まで伸びる哨戒線について長々と話した。「トルマソフは」と彼は言った。「ワルシャワの子供たちは皆、トルマソフがプラハで既に指揮を執っているのを見た。だが、ほら、来た時よりも早く帰されたじゃないか」彼は自分の部屋に入り、無関心ながらも、私たちが一言も聞き漏らさない程度の大声で、ベッルーノ公爵への指示を口述し始めた。

[195ページ]

ナポレオンから少将へ。

「ドロゴブイ、1812年8月26日」

「従弟は、ベルーノ公爵に手紙を書いて、ヴィルナへ自ら赴き、バッサーノ公爵に会って情勢を知らせるよう伝えよ。私は明後日、モスクワから五日間の行軍でヴィエズマに着く。その場合、通信が傍受される可能性がある。その場合は誰かが指揮を執り、状況に応じて行動しなければならない。私は第129連隊、イリュリア連隊、ケーニヒスベルクに駐屯していたヴェストファーレン連隊、そしてザクセン連隊二個にミンスクへ進軍するよう命じた。さらに、ミンスクとモヒロウの間に、ドンブロフスキ師団(十二個大隊)と軽騎兵旅団を配置した。彼の軍団がヴィルナに接近することは重要であり、支援体制を整えるためには、状況に応じて指揮を執る必要がある。スモレンスコ、ヴィテプスク、モヒロウ、ミンスク。ドンブロフスキー師団は、ミンスクからオルザを経由してスモレンスコまでの通信を維持するのに十分であるはずだ。なぜなら、[196ページ] モジールには6000人から8000人の兵力がおり、そのほとんどは新兵であり、シュヴァルツェンベルク将軍がこれに対して対処できる。私がミンスクに送る新しい増援部隊も、あらゆる不測の事態に対処できるであろう。いずれにせよ、ベッルーノ公爵がミンスクとオルザへ、そしてそこからスモレンスコへ移動すれば、我々の後方支援に十分対応できると思われる。ヴィテプスクには4つの町と兵士が駐屯しており、スモレンスコにも同数の駐屯地がある。ドニエプル川とドヴィナ川の間に陣取るベッルーノ公爵は私と容易に連絡を取り合うことができ、私の命令を速やかに受信し、ミンスクとヴィテプスク、そしてスモレンスコからモスクワへの連絡路を守れる状態にある。グヴィオン・サン=シール将軍は第2軍団と第6軍団を十分に掌握しており、ヴィテプスクを牽制し、彼を恐れることはないだろう。タレントゥム公爵はリガに進軍し、要塞を包囲することができる。さらに、ラグランジュ師団を構成する9000人の4個半旅団にコヴノへの進軍を命じる。また、グヴィオン・サン=シール将軍がヴィトゲンシュタイン将軍に敗れ、ドウィナ川を通過せざるを得なくなった場合にのみ、タレントゥム公爵は [197ページ]ベッルーノはまず彼を支援するため進軍する。この件を除き、彼はスモレンスコへの進路を進む。この点等。

(署名) 「ナポレオン」

第29章
軍は進軍を続け、ヴァロンティーナで打ち破った軍勢を常に前に押し進めた。ロシアではテ・デウムスがよく歌われ、あの幸福な国ではあらゆるものに対して歌われている。しかし、トーリのやり方で勝利を重ねても国民の不安は和らぎませんでした。彼女はこの征服のやり方ではすぐにシベリアへ追いやられることを悟り、自らの運命を他の手に委ねようと決意したのです。クトゥソフは軍儀の霊感を偶像崇拝から得た。彼は断食し、祈り、僧侶や貴族をもてなした。天は彼の援助を拒むことはできず、彼は任命されたのです。宮廷では称賛に値するパスキナードも、戦場では通用しません。あらゆる宗教的な仮面劇も、優れた機動性には無力です。彼はそれを身をもって体験しました。ナポリ王は、兵士として護符を軽蔑し、攻撃します。 [198ページ]彼を撃ち殺し、その軍隊を粉砕する。彼はチェヴァリーノで抵抗しようとしたが、騎兵隊が動き出し、突撃の合図が鳴り響くと、彼は転覆し、塹壕に押し戻された。勇気はロシアの聖者を圧倒する。この始まりは良い兆しではなかった。天はコサックの熱意に冷淡に応えた。嘆願は倍加され、クトゥソフは彼の像を披露した。軍勢はスモレンスコの聖母の前で汚れた。我々は敬虔な民からその聖母を奪おうとしていた。祈り、誓願、供物が捧げられ、カルムックの弁論家たちは次の説教を行った。

「兄弟たちよ!

「あなた方は、あなた方の敬虔の対象であるこの像の中に、宇宙を乱す暴君に対抗して人々と結束するよう、天に訴えかける訴えを見ている。神の像である何百万もの被造物を破壊するだけでは飽き足らず、この反逆者は、神の法と人間の法の両方に対する反逆者として、武装した手で私たちの聖域に侵入し、血で汚し、あなた方の祭壇をひっくり返し、私たちの教会のこの聖なる像に奉献された主の箱そのものを、運命と自然と冒涜的な手による冒涜にさらしている。だから恐れることはない。しかし、祭壇を破壊された神は、 [199ページ]彼の全能の力によって塵から引き出されたこの虫によってこのように侮辱された者は、我々と共にいるだろう。彼が君たちの隊列に盾を差し伸べることを拒否し、聖ミカエルの剣で敵と戦うことを拒否することを恐れるな。」

この信念のもと、私は戦い、征服し、そして死にたいと願う。死にゆく目に勝利を見ることを確信して。兵士諸君、義務を果たせ。炎に包まれた都市の犠牲、そして君の保護を懇願する子供たちのことを思い、君を権力の中枢とみなす君主、皇帝のことを思い、明日、日が沈む前に、君は侵略者とその戦士たちの血とともに、祖国の地に信念と忠誠の跡を刻むことになるだろう。

聖ミカエルの剣は紛れもなく恐るべき剣だが、精力的な兵士こそがさらに重要だ。クトゥソフは献酒を惜しまず、コサックの熱意をそれに比例して高めた。我々には、霊感ある者も、説教者も、生活の糧さえもなかった。しかし、我々は長きにわたる栄光を受け継いでいた。世界に法を与えるのはタタール人か我々自身か、我々が決める時が来た。我々はアジアの境界上にいた。ヨーロッパ軍がかつて到達したことのない地だった。成功 [200ページ]疑いの余地はなかった。こうしてナポレオンはクトゥゾフの行列を、この上なく喜びに溢れた様子で見ていた。「よかった」と彼は私に言った。「彼らは今、パスキナードに忙しい。もう二度と我々の手から逃れることはないだろう」。彼は偵察を行い、移動命令を出し、明日の戦いに備えた。ナポリ王はこれらの準備は不要だと考えていた。彼は主要堡塁の支配者となっていたのだ。この陣地の左翼は旋回していた。ロシア軍が戦闘に応じるとは考えていなかった。彼らは夜の間に撤退するだろうと考えたのだ。これは彼らの計画ではなかった。彼らは塹壕を掘り、土を盛り上げ、陣地を強化した。翌日、私たちは彼らが皆作業しているのを目にした。11時。ナポレオンは私を偵察に派遣した。私は敵陣に可能な限り近づくよう命じられた。私は白い羽根飾りを脱ぎ捨て、兵士の外套を羽織り、あらゆるものを可能な限り注意深く調べた。付き添っていたのは衛兵の猟兵一人だけだった。数カ所でロシア軍の哨兵とすれ違った。ボロジノ村は、我々の哨地から狭く深い峡谷を隔てているだけだった。私は進み過ぎてしまい、彼らは二発のぶどう弾を私に向けて発射した。私は撤退し、二時頃に戻った。そして戻ってきて、 [201ページ]私が見たものすべてを報告した。ナポレオンはナポリ王とヌーシャテル公と協議していた。ミュラは完全に意見を変えていた。夜明けになっても敵の戦列が動いていないのを見て驚き、戦闘が迫っていると考え、備えていたのだ。他の将軍たちは依然として、ロシア軍はそんな危険を冒すような真似はしないだろうと主張したが、私は反対の意見を主張した。ロシア軍は十分な兵力を有し、非常に有利な位置にいるのを見て、もし阻止しなければ攻撃してくると確信していた。ナポレオンはベルティエと同じ意見を私に示してくれた。彼は馬を呼び寄せ、自ら同じ偵察を行った。ボロジノで私が受けたのと同じ歓迎を受けたが、ぶどう弾のせいで撤退を余儀なくされた。彼は見たものから、自分が欺かれていなかったことを確信し、帰還後、それに応じた命令を下した。

夜が更けた。私は侍従としてナポレオンのテントで寝た。彼が眠る場所は、侍従の副官のために確保された場所と、布の仕切りで仕切られていた。皇帝はほとんど眠らなかった。私は何度も彼を起こして前線からの報告や報告をさせた。それらはすべて、ロシア軍がナポレオンの侵攻を予想していることを皇帝に証明するものだった。 [202ページ]攻撃を受けた。午前3時、彼は侍従を呼び、パンチを持ってこさせた。私は光栄にもそれを持参した。彼は私によく眠れたかと尋ねた。私は夜はもう寒くて、何度も目が覚めていると答えた。彼は言った。「今日はあの有名なクトゥーゾフと話をしよう。きっと覚えているだろうが、アウステルリッツ戦役でブラウナウを指揮したのは彼だ。彼は3週間もそこに留まり、一度も部屋から出なかった。馬に乗って要塞を視察することさえしなかった。ベニグゼン将軍は彼と同じくらい老齢だが、彼よりは精力的な人物だ。なぜアレクサンダーはバークレイの代わりにこのハノーヴァー人を送らないのか、私には理解できない。」彼はパンチを一杯飲み、いくつかの報告書を読み、こう付け加えた。「さて、ラップ、今日の我々の課題はうまく解決できると思うか?」――「全く疑いの余地はありません、陛下。我々はあらゆる資源を使い果たしました。我々は勝利を収めなければなりません。」ナポレオンは話を続け、こう答えた。「運命は寛大な女神です。私は何度もそう申し上げてきましたが、今まさにそれを実感し始めています。」「陛下はスモレンスコで、グラスが一杯になったので飲み干さなければならないと仰ってくださり、光栄にもそうおっしゃったことを覚えていらっしゃいます。」「今はこれまで以上に状況が深刻です。時間はありません。」 [203ページ]「負けるわけにはいかない。しかも軍は状況を把握している。食料はモスクワでしか手に入らず、あと30リーグも行かなければ進まない。この貧弱な軍は大きく損耗しているが、残ったものは元気だ。それに私の護衛も無事だ。」彼はベルティエ公爵を呼び寄せ、5時半まで仕事をこなした。我々は馬に乗り、トランペットが鳴り響き、太鼓が鳴らされた。兵士たちがそれを知るや否や、歓声だけが響き渡った。「アウステルリッツの熱狂だ。布告を読み上げよ。」

「兵士たちよ!

「これこそ、諸君が長らく待ち望んでいた戦いだ! 今後の勝利は諸君にかかっている。我々は勝利を願う。勝利は我々に豊かな冬季宿営地と、祖国への静かな帰還をもたらしてくれるだろう。アウステルリッツ、フリートラント、ヴィテプスク、スモレンスコの時と同じように、行儀よく振る舞え。そして、この日の諸君の行いを、遠い後世の人々に語り継がせ、『彼はモスクワの城壁の下で行われたあの大戦に参戦した』と語り継がせるのだ。」

歓声は倍増し、軍隊は絶えず戦闘を要求し、すぐに戦闘が始まった。

[204ページ]

第30章
両翼はイタリア兵とポーランド兵で構成され、ナポレオンは敵軍の左翼で行動していた。これ以外の正確な情報は得られなかった。女、子供、老人、家畜、皆いなくなっていた。少しでも情報を提供できる者は一人もいなかった。ネイは敵に向かって進軍し、何度も証明してきた勢いと激しさで突破した。我々は敵を支える三つの堡塁を占領した。敵は新たな兵力で突撃し、我々の隊列は混乱し始めた。我々はこれらの堡塁のうち二つを放棄し、最後の一つも危険にさらされていた。ロシア軍はすでに堡塁の頂上を占拠していた。ナポリ王は危険を察知し、その場に駆けつけ、馬から降りて城に入り、胸壁を登り、兵士たちを指揮して鼓舞した。堡塁は強化され、砲火は激しくなり、攻撃軍は敢えて突撃しようとはしなかった。いくつかの小隊が姿を現した。ミュラは馬に乗り突撃し、散らばった隊列を敗走させた。[205ページ] 平原。塹壕を奪還し、ついにそこに陣地を築いた。この大胆さがその日の運命を決定づけた。

コンパンス将軍が負傷したばかりだったので、私は彼の師団の指揮を執るために赴いた。その師団はダヴー元帥の軍団の一部であり、既に敵の塹壕陣地の一つを占領していたが、甚大な被害を受けていた。到着後、私はネイ元帥と協議し、彼の右翼を支持した。我が軍は混乱していたが、我々は彼らを鼓舞し、ロシア軍に突撃し、彼らに勝利の報いを与えた。大砲の発射もマスケット銃の射撃も、我々を止めることはできなかった。歩兵、騎兵は、戦列の端から端まで猛烈な勢いで突撃した。私はこれほどの大虐殺をこれまで見たことがなかった。我々は右翼に偏りすぎていた。ナポリ王はセミンスコエ砲台の壊滅的な被害に晒され、孤立無援となった。彼には騎兵しかいなかったのだ。村と村の間には深い峡谷があり、そこを占領するのは容易ではなかったが、ぶどう弾に押し流される危険を冒してでもそうする必要があった。軽騎兵の陣形しか見えなかったベリアール将軍は、それを追い払い、堡塁の左側から進軍する計画を思いついた。「ラトゥール・モーブールまで走れ」とミュラは彼に言った。「彼に1個旅団を率いるように伝えろ」 [206ページ]フランス軍とサクソン軍の胸甲騎兵を率いて峡谷を越え、皆殺しにし、堡塁の背後に全速力で到着し、全ての大砲を撃ち抜くのだ。もし失敗したら、同じ方向へ引き返すがよい。退路を守るため、大砲40門の砲台と予備兵力の一部を配置せよ。」ラトゥール・モーブールは動き出し、ロシア軍を敗走させ、散り散りにさせ、陣地を掌握した。フリアンがこれを占領するために進軍した。予備兵力はすべて通過し、村の左翼に陣取った。最後の塹壕が残っており、それが我々の側面を包囲し、我々の陣地を掌握した。予備兵力は一つを占領し、さらにもう一つ占領できると考えた。コーランクールは前進し、広範囲に混乱と死を広げた。彼は突如堡塁に陥落し、これを占領した。銃眼に隠れていた兵士に手足を伸ばして死んだ。彼は勇敢な眠りについた。我々の惨劇を目撃することはなかった。

あらゆるものが逃げ惑い、砲火は止み、殺戮も止んでいた。ベリアール将軍は、少し離れた森を偵察しに行った。彼は我々に向かってくる道に気づいた。そこは退却する兵士と車列で埋め尽くされていた。もし彼らが迎撃されていたら、敵軍の右翼はすべて占領されていただろう。[207ページ] それが置かれた区画を。彼はやって来てミュラに報告した。「走って皇帝に報告しろ」と王子は言った。彼は行ったが、ナポレオンはその時が来るとは思っていなかった。「チェス盤の見栄えがあまりよくない。ポニャトフスキからの報告を期待する。戻って、調べて、戻ってこい」将軍は確かに戻ってきたが、遅すぎた。ロシア軍の親衛隊は前進しており、歩兵、騎兵、あらゆる部隊が攻撃を再開しようと迫っていた。将軍は数門の大砲を集める時間しかなかった。「ぶどう弾、ぶどう弾、ぶどう弾だけだ」と彼は砲兵たちに言った。砲撃が始まった。その効果は凄まじかった。一瞬にして地面は死体で覆われた。粉砕された戦列は影のように消え去った。一発も撃たなかった。しばらくして砲兵隊が到着し、我々はそこを占領した。戦闘は勝利したが、砲撃は依然として凄まじかった。砲弾と砲弾が私のすぐそばに降り注いでいた。 1時間の間に4発の銃弾を受けた。最初は2発の軽傷、次に左腕に1発の銃弾を受け、コートとシャツの袖が肌にぴったりと吹き飛んだ。当時私は、上エジプトで知り合った第61連隊の指揮官だった。そこには数人の将校がいたが、ここで会うのはかなり異例なことだった。すぐに私は [208ページ]四つ目の傷。弾丸が左腰に当たり、馬から頭から投げ出されました。二十二日のことでした。戦場を去らざるを得ませんでした。ネイ元帥にその旨を報告しました。彼の部隊が私の部隊と混戦状態にあるとのことでした。

その師団で唯一負傷しなかった将軍、デセー将軍が私の後を継ぎました。彼が腕を折った直後、フリアン将軍はその後まで負傷していませんでした。

ナポレオンの軍医が私の手当てをしてくれた。彼も自ら私を訪ねてきた。「それでは、いつもあなたの番ですか? 状況はどうですか?」「陛下、護衛兵に突撃をさせなければならないでしょう」「そうしないように気をつけます。壊滅させるのは見たくない。参戦させなくても必ず勝利します」実際には突撃は行われなかったが、30門の大砲が素晴らしい効果を発揮した。

その日は終わり、五万人の兵士が戦場に倒れた。多数の将軍が戦死、負傷し、我が軍は40名が負傷した。捕虜を出し、大砲の一部を奪ったが、この結果は、我々が被った損失を補うには至らなかった。

[209ページ]

第31章
ロシア軍は首都に向けて撤退した。モハイスクで若干の抵抗を見せた後、モスクワに到着した。我々は一撃も与えずにこの都市を占領した。ムラトはコサックの隊列に加わり、彼らの首長たちと談笑し、そのうちの一人に番兵を任せた。彼らはムラトの勇気に感嘆し、また相次ぐ不運に落胆していたその時、マスケット銃の発砲音が聞こえた。武器を手にした数百人の市民によるものだった。彼らは自らこの無駄な発砲を止め、撤退を続けた。

ナポレオンは翌日に入城した。彼は護衛の一部と家臣たちとともにクレムリンに宿舎を定めたが、私たちの宿舎はあまりにも劣悪で、私は別の宿を探さざるを得なかった。私は少し離れたナレシュキン家の者の家に身を寄せた。到着したのは4時だった。 [210ページ]午後。町はまだ完全に燃えていた。税関だけが炎の餌食となり、フランス人が姿を現す前に焼け落ちてしまった。しかし夜が来た。それが火事の合図だった。左右を問わず、至る所で火の手が上がった。公共の建物、寺院、私有地、すべてが炎に包まれていた。大火事は街全体に広がり、逃れられるものは何一つなかった。風が激しく吹き、火は急速に燃え広がった。真夜中、炎があまりにも凄まじかったので、副官たちが私を起こし、支えてくれた。私は窓辺に着き、恐ろしい光景を目にした。火は私たちの方へ迫っていた。4時、宿舎から退避するようにと告げられた。私は彼らを残した。数分後、家は灰燼に帰した。私は彼らにクレムリンの方向へ案内するよう命じた。あたり一面が混乱状態だった。私は戻ってドイツ軍の宿舎へ向かった。ロシアの将軍の家が私のために用意されていた。そこで傷を癒せると期待していたが、到着してみると、すでに大量の火と煙が出ていた。私は中に入らず、再びクレムリンに戻った。道すがら、ロシアの職人や兵士たちが家々に散らばり、火を放つのに忙しくしているのが見えた。[211ページ] 彼らについては、我々のパトロール隊が私の目の前で何人かを殺し、相当数の者を逮捕した。私はモルティエ元帥に会った。「どこへ行くんだ?」と彼は私に言った。「火事で宿舎から追い出されてしまった。今はクレムリンに行くことに決めた」「そこは混乱状態にあり、火は四方八方に広がっている。むしろそこから逃げるべきだ」「どこに退避すればいいんだ?」「私のホテルへ。副官が案内する」私は彼について行った。その家は孤児院の近くにあった。私たちは苦労してそこにたどり着いた。すでに炎に包まれていた。私は再びクレムリンに行くことを決意した。まだ無傷だった宮殿の向かい側に陣取るため、モスクワ川を渡った。途中でラリボシエール将軍と出会った。彼は病気の息子を伴っていた。タルブエも私たちに加わり、私たちは皆、川岸の家に宿を取った。家主は正直な帽子屋で、私の境遇を察し、できる限りの配慮をしてくれました。この立派な職人の家にちょうど腰を下ろした頃、四方八方から火の手が上がってきました。私は急いで立ち去りました。埠頭は狭く、もし遅れたら馬車で逃げることができなかったでしょう。私たちは川を渡り、クレムリンの壁の向こうの屋外に陣取りました。これが唯一休む手段でした。風は強く吹き荒れていました。[212ページ] 風はなおも激しく吹き続け、炎を燃え上がらせた。私は再び、そして最後に、防壁の一つの近くに退避した。家々は離れ離れになって散在しており、火は届かなかった。私が住んでいた家は小さくて便利な場所で、ガリツィン公爵の所有物だった。私はそこに15日間留まり、少なくとも150人の避難民を養った。

ナポレオンは、今度は炎の前に退却を余儀なくされました。彼はクレムリンを離れ、町から離れた宮殿に司令部を置き、そこに居を構えました。しかし、そこに長く留まることはなく、火が消えるとすぐに皇帝の宮殿に戻りました。彼はほぼ毎朝、ナルボンヌ将軍を私の安否を尋ねるために遣わしました。この将軍は、我が軍の他の多くの者と同様に、非常に不安そうでした。彼はしばしば私にこう言いました。「皇帝の和平算段は間違っている。我々は条件を押し付ける立場にはない。ロシアは不利な条件を受け入れるために資本を犠牲にしたわけではない。彼らは復讐のため、そしてより公平な楽しみのために、我々を楽しませているのだ。」

[213ページ]

第32章
モスクワは破壊され、その廃墟を占領することは安全でも有利でもなかった。我々は翼から遠く離れすぎており、生存のための食料も確保できず、廃墟を守ることにも関心がなかった。誰もがそこに留まるべきではないという意見だったが、最善の策については意見が一致しなかった。ナポリ王はカルーガへ進軍し、ロシアが保有する唯一の拠点を破壊し、戻ってボリステン川沿いの駐屯地に入ることを提案した。コサックを世界の果てまで追跡することはできない。どんなに長い逃走でも必ず終わりが来る。我々は戦闘の準備はできていたが、これ以上の追撃は望んでいなかった。これが、軍を動かす前に彼が勧告した布告の趣旨だった。総督は逆に、ロシア軍に向かって進軍し、戦闘を仕掛けてペテルスブルクに押し込み、その後リガへ進軍すべきだと考えた。そうすればマクドナルドと合流し、その後… [214ページ]ドウィナ川沿いに陣取った。他の者たちも別の計画を提示したが、どれも優れており、どれも実行可能だった。しかし皇帝はある特別な情報を持っていた。ロシア人がイギリスからヒントを得ていなかったら、皇帝は正しい判断を下していただろう。この遅延には多くの非難が浴びせられた。これは誤りである。なぜなら、事態がそれを非難しているからだ。しかし、これに反対する者たちは、我々の事情や交渉の秘密を知っていたわけではない。彼らは、あまり謙遜することなく、あの偉大な人物の聡明さは天賦の才に劣るものではなかったと信じているのかもしれない。彼は欺かれた。我々はその結果を身をもって体験した。おそらくいつの日か、どのような結託が彼を欺いたのかが明らかになるだろう。いずれにせよ、我々は遅延し、交渉し、戦闘を行った。しかし、何も決定しなかった。モルダヴィア軍は移動を続け、前進していたが、どのような戦線で行動するかはまだ分かっていなかった。クトゥソフと合流すると主張する者もいれば、我々の背後に迫ってくるのではないかと恐れる者もいた。我々は何が準備されているのか確信が持てなかった。皇帝自身も不安から逃れられなかったが、ライン川からモスクワまでどのような軍勢を階層に配置しているのかを熟知していた。彼は自分の計算が安全だと考え、指示を出すことだけに専念した。ベッルーノ公爵に送った指示は、 [215ページ]引用。それらは、彼が非難されたのは どのような眠りからだったかを証明している。

ナポレオンから少将へ。

「従弟よ、ベッルーノ公爵に伝えよ。彼の行動はまだ命令を出していない。それは敵の動向次第だからだ。モルダヴィアのロシア軍は、歩兵、騎兵、砲兵を含む3個師団、すなわち2万人の兵力で構成され、9月初旬にドニエプル川を通過した。クトゥソフ将軍の指揮する軍を増援するためモスクワへ、あるいはトルマソフ将軍の軍を増援するためヴォルィニアへ進軍する可能性がある。モスクワの戦いで敗れたクトゥソフ将軍の軍は現在カルーガ川に進軍しており、キオウの道を通ってモルダヴィアから増援が来ると予想される。この場合、ベッルーノ公爵はイェルニアとカルーガの道、あるいはその他の道を通って大軍に合流するよう命令を受けるだろう。もし逆に、モルダヴィアの2万人がトルマソフを救援すれば、この増援によってトルマソフの軍勢は増強されるだろう。」 4万人の兵士を擁することになるが、シュヴァルツェンベルク公の指揮下にある我々の権利は、オーストリアの公と同じく、依然として同等の力を持つことになるだろう。 [216ページ]ポーランド人とザクセン人の軍隊は約 4 万人である。さらに私はオーストリア皇帝に、オーストリアの将軍ロイスがラインベルクで指揮する軍団の移動と、シュヴァルツェンベルク公爵への 1 万人の増援を要求した。一方、アレクサンダー皇帝は、リガの守備隊とヴィトゲンシュタインの軍団を可能な限り増強し、サン=シール元帥をポロツクから、タレントゥム公爵をリガとデューナブルクから追い出すこと。24 日付のシュヴァルツェンベルク公爵からの手紙は、モルダヴィア軍がモスクワに向かうのではなく、トルマソフの軍隊に到達してこれを増強したことを証明する傾向がある。そのため、何が行われるかを知る必要がある。この状況では、ベッルーノ公爵には、その軍団をスモレンスコからオルシャまで駐屯させることを希望する。バッサーノ公爵とすべての州政府を通じて正確な連絡を維持し、大臣が公爵に手紙を書いて各地から得たすべてのニュースを伝えること。シュヴァルツェンベルク将軍とレニエ将軍に、堅実で思慮深く聡明な将校を派遣すること。この将校はシュヴァルツェンベルク将軍から近況を、レニエ将軍からは真の情勢を把握すること。そして、定期的に総督と連絡を取ること。 [217ページ]ミンスクの。そして最後に、彼は様々な方向に諜報員を派遣し、何が起こっているかを把握する。ジェラルド師団はオルシャ側に配置する。ミンスクからは4、5日、ヴィテプスクからは3日、ポロシュクからは4、5日の行軍となる。オルシャとスモレンスコの間にあるもう一つの師団は、迅速な支援が可能な状態にある。そして最後に、第三師団はスモレンスコ付近に配置する。こうすることで、彼の軍団は休息を取り、容易に食料を確保することができる。到着する部隊のために主要な交通路を空けておくために、この師団は経路より上流に配置する必要がある。この位置であれば、我々の交通と補給の中心が脅かされた場合、ミンスクあるいはヴィルナに進軍することができる。あるいはサン=シール元帥がポロシュクから追い出されたり、イェルニアとカルーガの道を通ってモスクワに戻るようにという命令を実行したり、モスクワの占領と新たな情勢により敵がモルダヴィアから部隊の一部を増援に出すことを決意したりした場合、ベッルーノ公爵が主力予備軍となり、シュヴァルツェンベルクの救援とミンスクの防衛、サン=シール元帥の支援とヴィルナの防衛、あるいはモスクワへ行って主力の援軍を増援することになる。 [218ページ]ドンブロフスキ将軍は歩兵8000個師団とポーランド騎兵1万2000個を率いており、その指揮下で軍団は4個師団に増強される。ヴィルナの予備旅団はウェストファリア連隊4個、ヘッセン=ダルムシュタットの2個大隊(今月末にはスウェーデン領ポンメルンから到着予定)と大砲8門で構成され、これもまた彼の指揮下に入る。そして、11月中には新たに2つの師団が編成される。ワルシャワの師団、すなわち第32師団はヴュルツブルクからの3個大隊によって増強され、引き続きドゥリュット将軍の指揮下に入る。もう一つはケーニヒスベルクにある第34連隊で、モラン将軍の指揮下でポンメルンに駐屯していたが、こちらも数個大隊増設され、ロワゾン将軍の指揮下に入る。したがって、シュヴァルツェンベルク公の援護に赴く必要があろうと、サン=シール元帥の援護に赴く必要があろうと、ベッルーノ公は常に4万人の大軍を召集する。国書による通信は迅速であるため、私は常に命令を下す。ミンスクまたはヴィルナが脅迫を受けた場合のみ、ベッルーノ公は出撃する。[219ページ] これら二つの大軍需品集積所を守る権限はベッルーノ公爵に与えられている。リトアニア全土とスモレンスコおよびヴィテプスク両政府を統率するベッルーノ公爵は、あらゆる場所で行政の進行を加速させ、特に穀物と飼料の徴発が実行されるよう効果的な措置を講じるべきである。モヒロウ、オルシャ、ラサスナ、ドゥブロヴナにオーブンがある。公爵は大量のビスケットを準備し、軍用輸送船や軍と見紛う護送船団から何も奪うことなく、部隊のために30日分の食糧を確保できる態勢を整えなければならない。ベッルーノ公爵はヴィテプスクとの連絡を維持するよう注意する。公爵はそこを支援するために軍隊を派遣し、自らそこに駐留する自由を有する。その後、彼は自らモヒロウ、ヴィテプスク、あるいはスモレンスコに出向き、現地の状況を把握し、行政を迅速に進める。万一、モスクワとの通信が傍受された場合は、騎兵と歩兵を派遣して通信を再開させるよう配慮する。」

食料も飼料もなくなり、人も馬も疲れ果て、退却は [220ページ]必要不可欠だった。負傷兵をどうやって運び出すかという問題が浮上した。私は歩けるようになり、13日に宮殿へ行った。ナポレオンは親切にも私の傷の状態や具合を尋ねてくれた。彼はローマ国王の肖像画を見せてくれた。それはモスクワの戦いに入ろうとした時に彼が受け取ったもので、ほとんどの将軍に見せたものだ。私は命令を運ばなければならなかった。戦いは始まった。他にやるべきことがあった。彼は今、私に償いをしたいと思った。彼はメダルを探し、目に浮かぶ満足感とともにこう言った。「私の息子はフランスで一番の子供だ」

しばらくして、総督から記念碑が運ばれてきた。総督は負傷者の搬送に45日かかると告げた。「45日だって!彼は騙されている。何もしなければ、一部は回復し、一部は死ぬ。搬送すべきは残りの部分だけだ。経験上、戦闘から3ヶ月後には負傷者の6分の1しか残らない。私は彼らを搬送したい。彼らをロシア軍の残虐行為に晒したままにしておくわけにはいかない。」酒場から、偉大なイワンの十字架を運び出すのに忙しい作業員たちの姿が見えた。「あの十字架の周りにカラスの群れが飛んでいるのが見えるか?」 [221ページ]古い鉄の塊?持ち去るのを邪魔するつもりか?あの十字架をパリに送り、アンヴァリッド病院のドームに掲げさせる。」

10月18日、出発は19日と決まっていた。傷はまだ完全には癒えていなかった。馬に乗って、揺れに耐えられるか確かめてみた。

第33章
翌日、私は早朝にクレムリンへ向かった。宮殿に着くや否や、ナポレオンがモスクワを永久に去ろうと宮殿から出てきた。彼は私に気づいた。「馬で私について来ないでほしい。あなたはそんな体力はない。私の馬車に乗って来なさい」私は彼に礼を言い、同行できる状態だと思うと答えた。私たちはこの首都を離れ、カルーガへの道を進んだ。約3リーグの地点まで来た時、皇帝はモルティエからの知らせを待つために立ち止まった。モルティエは、この地を去る際にクレムリンを破壊するよう命令を受けていた。 [222ページ]彼はダルー氏と野原を歩いていました。この紳士は彼と別れ、私に声がかかりました。「さて、ラップ、我々はカルーガの道を通ってポーランド国境へ撤退する。私は冬季宿営地を確保する。アレクサンドルが和平を結んでくれることを願っている。」――「陛下、長い間お待たせしましたね。住民たちは厳しい冬になると予言しています。」――「ポー、ポー、住民たちよ。今日は10月19日です。お分かりでしょう、素晴らしい天気です。私の星がお分かりでしょう?それに、病人や負傷者を全員送り出さずに出発することはできませんでした。彼らをロシア軍の怒りに引き渡すわけにはいきませんでした。」――「陛下、彼らをモスクワに残しておいた方がよかったと思います。ロシア軍は彼らを傷つけたりはしなかったでしょう。彼らが道中で助けもなく死ぬ危険にさらされている間に。」ナポレオンはそうは考えませんでしたが、彼が私に言った励ましの言葉は、彼自身でさえも納得のいくものでした。彼の顔には不安の表情が浮かんでいた。

ついに元帥から派遣された将校が到着した。それは私の副官トゥルクハイムで、モスクワは平穏であると報告した。コサックの小隊が近郊に現れたが、クレムリンやフランス軍が駐留している宿営地には近づかないよう注意していたという。我々は行軍を続けた。 [223ページ]夕方、クラスノ・パクラに到着した。ナポレオンにとって、その土地の様相は心強いものではなかった。奴隷たちの荒々しい空気と醜悪な様相は、他の気候に慣れた目には不快なものだった。「私は一人たりともそこに残してはおかない。負傷者を一人たりとも残さないために、ロシアの財宝を全て差し出しても構わない。馬、荷馬車、馬車、彼らを運ぶためのあらゆるものを用意しなければならない。秘書を送れ。」秘書がやって来た。モルティエが私に話していたことを彼に伝えるためだった。この電報を書き写しておくのは有益だ。これらの指示は知っておいて損はない。彼の無関心を何度も非難してきた者たちは、これをよく読むべきだ。

「少将殿へ。

トレヴィーゾ公爵に、モスクワでの任務が終了次第、すなわち23日午前3時に進軍を開始し、24日にクビンスコエに到着すること、そしてそこからモハイスクではなくヴェレイアへ進軍し、25日に到着することを伝える。彼は、ダブランテス公爵のいるモハイスクと軍隊のいるボロフスクの間の中継軍となる。フォミンスコエに将校を派遣し、到着予定時刻を知らせるのが適切である。 [224ページ]行軍せよ。彼は副官ブルモン、バイエルン人、そしてガリツィン宮殿にいるスペイン人を同行させる。第一、第二駐屯地のウェストファリア人全員、そして彼が見つけられる限りのウェストファリア人全員を召集し、モハイスクへ向かわせる。人数が足りない場合は、騎兵隊で彼らの通行を保護する。トレヴィーゾ公爵はモスクワ降伏に関するあらゆることをアブランテス公爵に報告する。彼は明日22日にデスマ経由ではなく、カラポヴォとフォミンスコエ経由の道で我々に手紙を書く必要がある。23日にはモハイスク経由の道で手紙を送る。彼の部下はクビンスコエで道を離れフォミンスコエへ向かう。23日の司令部はおそらくボロフスクかフォミンスコエにあるからである。トレヴィーゾ公爵が明日22日の午前3時に作戦を実行するにせよ、私が既に命じたように23日の同じ時間に実行するにせよ、いずれの場合もこれらの指示に従うこと。これにより、トレヴィーゾ公爵は軍の後衛とみなされる。若い近衛兵の荷馬車、あるいは下馬した騎兵の荷馬車、つまり、手に入る限りのあらゆる場所に、残っている兵士たちを配置することを強く推奨する。 [225ページ]まだ病院にいる​​。ローマ人は市民を救った者に市民冠を与えた。公爵は兵士を救った分だけ冠を受けるに値する。公爵は自分の馬に、そしてすべての民の馬に冠を載せなければならない。

皇帝はサン=ジャン=ダクル包囲戦でまさにこれを行った。皇帝はむしろこの措置を取るべきである。護送隊が軍に合流すれば、荷馬車と馬が手に入るが、食料の消費によってそれらは役に立たなくなるからだ。皇帝はトレヴィーゾ公爵に500人の兵を救ったことに感謝の意を表したいと願っている。当然のことながら、まず将校から、次に下級将校へと進み、フランス軍を優先させるべきである。皇帝は、指揮下にあるすべての将軍と将校を集め、この措置の重要性、そして500人の兵を救うことで皇帝の尊敬をどれほど得られるかを理解させなければならない。

私たちはボルスクへ向けて進軍を続け、4日目に到着した。町は完全に放棄されていた。その間、クトゥソフは平穏に布告を発していた。彼はタレンティーノの陣営でくつろいでおり、見張りもしていなかった。 [226ページ]ナポレオンは戦場の正面や両翼に陣取っていた。彼は我々がどのような動きをしているのか全く知らなかった。我々がカルーガ方面に進軍していることをようやく知った彼は、すぐに駐屯地を解散し、我々の縦隊と同時にマロヤロスラヴィッツに姿を現した。戦闘が始まった。ボルスクから遠くの大砲の音が聞こえた。私は傷がひどく苦しんでいたが、ナポレオンのもとを離れるつもりはなかった。我々は馬に乗った。夕方頃、戦場が見えるようになった。彼らはまだ戦闘を続けていたが、砲撃はすぐに止んだ。ウジェーヌ公は必死に守ったに違いない陣地を強行した。我々の部隊は栄光に包まれていた。イタリア軍が暦に記すべき日である。ナポレオンは戦場から1リーグ半離れたところに野営した。翌日、我々は朝7時半に馬に乗り、戦闘のあった地を視察した。皇帝はヴィチェンツァ公、ヌーシャテル公、そして私の間に位置していた。夜を過ごした小屋から出てすぐに、コサックの群れが見えた。彼らは私たちの右手前方の森から進んできた。彼らは整然とした隊列を組んでおり、フランス騎兵隊かと思われた。

ヴィチェンツァ公爵は、 [227ページ]ナポレオンは彼らに気づきました。「陛下、あれらはコサックです」――「そんなはずはありません」とナポレオンは答えました。彼らは渾身の叫び声をあげながら我々に襲い掛かりました。私は皇帝の馬の手綱をつかみ、自ら向きを変えました。「しかし、あれらは我々の部隊ですか?」――「あれらはコサックです。急げ」「確かにコサックです」とベルティエは言いました。「間違いありません」とムートンは付け加えました。ナポレオンは命令を下し、撤退しました。私は任務中の中隊の先頭に立って前進しましたが、我々は敗走しました。私の馬は槍で6インチの深い傷を負い、私ごと倒れました。我々は蛮族に踏みつぶされました。幸いにも彼らは遠くに砲兵隊の存在を察知し、その場所へと駆けつけました。ベシエール元帥は近衛騎兵の擲弾兵と共に駆けつける時間がありました。彼は突撃し、彼らが運び去ろうとしていた幌馬車と大砲の破片を奪い返した。私は再び立ち上がり、鞍にまたがり、野営地まで進んだ。ナポレオンは私の馬が血まみれになっているのを見て、私がまた負傷したのではないかと心配し、そうかと尋ねた。私は少しの打ち身で済んだと答えた。すると彼は私たちの冒険を笑い始めたが、それでも私はあまり面白くなかった。

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彼がこの件について掲載した記事は、私に大きな報いを与えてくれました。彼は私に賛辞を惜しみなく贈ってくれました。彼が私について書いたお世辞を読んだ時ほどの喜びは、かつて経験したことがありません。「ラップ将軍は、この任務で馬を一頭も殺した」と、その記事には記されています。「この将軍が幾度となく示してきた勇敢さは、あらゆる場面で発揮されている。」私はこの偉大な人物への賛辞を誇りをもって繰り返し述べます。決して忘れません。

我々は戦場に戻った。ナポレオンはウジェーヌ公の栄光の舞台であった場所を訪れたいと望んでいた。ロシア軍の陣地が優勢であったことをナポレオンは知り、彼らがそれを押し込めたことに驚愕した。死体の様子から、民兵が正規軍と混同されたことが分かった。たとえ戦闘技術はなかったとしても、少なくとも勇気を持って戦場に赴いたのだ。敵軍はカルーガへの道を数リーグ後退し、野営した。

退却は阻止され、我々はヴェレイアの右翼に身を投げた。翌日早朝にヴェレイアに到着し、そこで眠った。ナポレオンはクレムリンが爆破されたことをこの町で知った。ヴィンツェンゲローデ将軍は [229ページ]彼は十分に苛立ちを抑えた。我々の軍隊が撤退する前に、彼はこの首都に踏み込んでいたのだ。彼らは彼の退路を断ち切った。彼は彼らと交渉するために来たと信じ込ませようとした。彼は同盟国の領土で生まれ、捕虜になるつもりはなかった。しかし、白いハンカチを振り回していたにもかかわらず、彼は捕らえられた。ナポレオンは彼を呼び寄せ、激怒して彼を軽蔑し、裏切り者の烙印を押し、罰すると脅した。彼は私に、この紳士の裁判を直ちに進めるために委員会を設置すべきだとさえ言った。彼は選抜された憲兵に彼を護衛させ、秘密裏に拘禁するよう命じた。ヴィンツェンゲローデは何度も自らの無罪を主張したが、ナポレオンは彼の言うことを聞こうとしなかった。ロシア軍では、この将軍は勇気を持って話し、皇帝に非常に強いことを言ったと噂されている。事実ではない。彼の顔には不安が浮かんでおり、あらゆるものが皇帝の怒りによって彼の精神が乱れていることを表していた。我々は皆、皇帝を宥めようと努めた。ナポリ王、特にヴィチェンツァ公爵は、現状において、いかなる暴力も皇帝にとってどれほど不適切であるかを示唆した。 [230ページ]ロシアの将軍という身分を隠した男が、もしそうなら嘆かわしいことだろう。軍議も開かれず、事態はそこで終結した。我々としては、ヴィンツェンゲローデは我々の扱いに不満を言うべきではない。彼の状況は我々全員の興味を掻き立てたのだ。彼の副官は大変親切に扱われた。ナポレオンは彼に名前を尋ねた。「ナレシュキン」と若い将校は答えた。「ナレシュキン!そんな名前の者は脱走兵の副官にはなれない。」我々はこの配慮のなさに心を痛め、将軍にこのことを忘れさせようとあらゆる手段を講じた。

第34章
私たちは翌日出発し、モジェイスクを経由してモスクワからの大道路に到着しました。

極寒と窮乏は極限に達し、まさに災難の時が来た!負傷兵が道に倒れ、ヴィアスマでロシア軍が我々を待ち構えていた。兵士たちはこれらの縦隊を見て、残っていた気力を奮い起こし、彼らに襲いかかり、打ち破った。しかし [231ページ]我々は、物資の豊富さと略奪への期待に駆られた軍隊に悩まされた。一歩ごとに我々は立ち止まり、戦わざるを得なかった。本来なら最も速く進軍できた荒廃した土地への行軍を緩めた。寒さ、飢え、コサック――あらゆる災厄が我々に降りかかった。軍は不運の重圧に沈みかけ、道には死体が散乱し、我々の苦しみは想像を絶するほどだった。この恐ろしい退却で、私はどれほど多くの病人や負傷者の将軍に出会ったことか。二度と会うことはないだろうと思った。その中には、傷がまだ癒えていないフリアン将軍、神経性の高熱でほとんど常に錯乱状態にあったデュロスネル将軍、そしてモスクワの戦いで銃弾を受けて負傷した勇敢なベリアール将軍がいた。彼はかつてエチオピアにまで侵攻し、ローマの鷲が飛んだよりも遠くまで我々の旗を運んでくれた。彼は2つの気候の違いに気づいたに違いない。

我々はスモレンスコへ進軍した。そこが我々の苦難の終着点となるはずだった。そこで食料と衣服を見つけ、我々を蝕む害虫から身を守るはずだった。我々はそこから18リーグも離れていなかった。ナポレオンはそのような場所の一つに宿営した。 [232ページ]50人から60人の分遣隊を収容するために建設された小さな防空壕。通信や通信の警備に当たっていた。私は当番だった。電報が届いてからしばらく時間が経っていたが、ついに電報が届いた。私はそれを皇帝に届けた。皇帝は急いで小包を開けた。一番上には監視員が立っていた。彼はざっと目を通した。最初に目に留まったのはマレットの企てだった。電報を読んでいなかったので、何のことか分からなかった。「これは一体何だ!何だ!陰謀だ!陰謀だ!」彼は手紙を開けた。そこには企ての詳細が書かれていた。彼は愕然とした。あらゆることを知っていて、あらゆることを推測していたあの警察が、不意を突かれたのだ。ナポレオンは我に返ることができなかった。「ラ・フォースでサヴァリー!警察長官を逮捕、監獄に連行、そこに閉じ込めろ!」私は命令を伝えに行った。事態はすでに動揺していた。誰もが驚きと驚愕の表情を浮かべていた。そして、それまで隠されていたいくつかの考察がなされた。警察の不注意は明白​​だった。彼らが用心深いのは、彼らの用心深さが広く信じられているからに過ぎない。ナポレオンは、酒場や居酒屋に出入りするこれらの悪党どもが、 [233ページ]あらゆる妨害をし、あらゆる場所に潜伏する連中が、陰謀に気づくはずはなかった。だが、ロヴィーゴの弱みは彼には見当もつかなかった。「なぜ逮捕されるくらいなら、殺させなかったんだ! ドゥセとユランの方がよっぽど勇敢だったのに。」

我々は旅を続け、ボリュステネス川を渡った。皇帝はスモレンスコから12リーグ、川の裏手1リーグ半にある、廃墟となった別荘に司令部を置いた。この辺りの水辺の土手は非常に険しく、霜で覆われていた。ナポレオンは砲兵隊がそこを越えられないのではないかと懸念し、後衛隊の指揮官であるネイに合流して、危険が去るまで彼と共に留まるよう私に命じた。私は元帥がコサックを追撃しているのを見つけた。私は彼に伝えるべき命令を伝え、我々は通路の支援と司令部が設置されていた堡塁へと退却した。

歩兵の一部は川を渡り、残りは我々がいた土手の小さな森に野営した。我々は一晩中大砲を川に渡らせるのに奔走した。最後の大砲が坂を登っている時、敵が現れた。 [234ページ]彼らは直ちに大勢で攻撃を仕掛けてきた。我々は動揺することなく彼らの突撃を受け止めたが、目的は達成された。戦う意味はもはやなく、撤退した。負傷と疲労で追随不能となった数百人の兵士を後に残した。哀れな者たちよ!彼らは不平を言い、呻き、死を求めた。それは胸が張り裂けるような光景だった。しかし、我々に何ができただろうか。誰もが命の重荷に屈み込み、辛うじてそれを支えるのみで、誰もそれを他者と分かち合えるだけの力を持っていなかった。ロシア軍は我々を追跡し、主力で突破しようとした。ネイは攻撃の際に常に見せるあの勢いと激しさで彼らを迎え撃った。彼らは撃退され、橋は炎の餌食となった。砲撃は止み、我々は夜の間に撤退した。私は翌々日の夕方、スモレンスコでナポレオンと合流した。彼は私の頭が銃弾に掠められ、別の銃弾が私の馬を殺したことを知っていた。彼は私に言った。「もう安心してください。この作戦では殺されることはありません。」―「陛下が騙されないことを祈ります。しかし、あなたは哀れなランヌに何度も同じ保証を与えました。それでもランヌは殺されました。」―「いいえ!いいえ!あなたは殺されません。」―「私は信じています。しかし、私はまだ凍死するかもしれません。」 [235ページ]皇帝はネイ元帥に賛辞を贈った。「なんという男!なんという軍人!なんという勇敢な男!」彼はただ感嘆の声をあげ、この勇敢な元帥に抱く感嘆の念を言葉で表現することができなかった。ヌーシャテル公爵が部屋に入ってくると、会話は再びマレとサヴァリーに及んだ。ナポレオンは公爵をからかって浮かれていた。彼の驚きと逮捕は、幾千ものお世辞の話題となったが、その中の重荷は常に、捕らえられるくらいなら殺された方がましだ、という思いだった。

第35章
撤退は悲惨だった。自然がもたらすあらゆる災難を経験したが、日ごとにスモレンスコに近づいていった。その町で、私たちは安らぎと豊かさを見つけることになる。私たちは行軍を続け、希望に支えられていた。しかし、彼女もまた私たちを見捨てるだろう。私たちの不幸は、勝利と同じくらい前代未聞のものとなるだろう。第4軍団は大砲を失い、オージュロー旅団は [236ページ]ヴィテプスクは陥落し、弾薬も生存手段も尽き、我々は恐ろしい状況に陥っていた。諦めざるを得なかった。我々は行動を開始し、翌日クラスノイに到着した。全軍を率いて我々に迫っていたクトゥソフは、既にそこに前衛部隊を配置していたが、我が兵を見ると退却し、さらに1リーグ先の森の端の左側に陣取り、森を焼き払った。ナポレオンは私を呼び寄せ、「ロシア歩兵はすぐ近くにいる。彼らがこれほど大胆な行動を見せたのは初めてだ。真夜中頃、銃剣で突撃し、奇襲を仕掛け、我が司令部に近づこうとしないよう仕向けよ。若き近衛兵の残党を全て、貴官に委ねる」と言った。あらゆる準備を整え、ポーランド人の野営地の焚き火のそばで時が来るのを待っていた時、ナルボンヌ将軍がやって来て言った。「軍隊をトレヴィーゾ公爵に引き渡せ。陛下はこの件で貴様が命を落とすことなど望んでおられない。陛下には別の運命が残されている。」私はこの逆命令を喜んで受け入れ、隠そうともしなかった。疲労と苦しみと寒さで弱っていたのだ。敵に向かって進軍する気はなかった。しかも、敵のコサック兵は既に [237ページ]すでに彼に警戒を強めており、準備も整っていた。我々の攻撃には全力を尽くした。しかし、彼は敗れ、街道と平行に陣取り、スモレンスコからクラスノイにかけて展開していた部隊に押し返された。彼らは側面から攻撃してきたので、我々を打ち負かすことができたはずだ。幸いにも我々の栄光の幻想は消えることはなかった。我々は勝利の記憶に守られていたのだ。クトゥゾフは街道を汚す我々の縦隊を遠くから見ていたが、敢えて攻撃しようとはしなかった。彼はついに危険を冒すことを決意したが、ある農民からナポレオンがクラスノイにいて、その付近一帯を警備隊が占拠していると知らされた。この知らせに彼の勇気は萎え、出した命令を取り消した。

我々はずっと以前から彼の能力を測っていた。常にそれを考慮に入れていた。それは我々の資源の一つだった。それでも彼が考えを変え、武器を手に取り、我々を滅ぼす可能性もあった。我々は皆それを察知していたが、ウジェーヌからの知らせはなかった。ダヴーとネイは後方にいた。我々は彼らを見捨てることはできなかった。さらに気温は日増しに厳しくなり、ロシア軍も苦戦していた。彼らはこれまで眠っていたので、まだ眠っているかもしれない。ナポレオンは賭けに出る決意をし、待った。全ては好転した。 [238ページ]予想通り、軍勢は撤退した。ミロラドヴィッツは第4軍団を迎え撃とうとしたが、そこにたどり着くことができなかった。5000人の歩兵は、攻撃してくる敵を追い払うための馬も、防御するための大砲も持たず、次々と襲いかかってくる大群を撃退し、この前衛部隊全体を撃破して敗走した。ダヴーストが続いた。敵は元帥に復讐できると慢心したが、皇帝はそれを阻止した。ダヴーストはクラスノイの左翼に戦線を広げ、一部の部隊を戦闘に投入し、かなり激しい砲撃を開始した。クトゥソフは、1万4000人から1万5000人の兵士が集結しているのを見て驚き、別働隊を呼び戻した。元帥はそこを通り過ぎ、戦闘に参加した。目的は達せられ、射撃は止み、撤退が始まった。敵はそれを阻止しようとしたが、ダヴーストはそれを阻止しようとした。しかし、近衛兵の選抜兵第一連隊は彼らの攻撃をことごとく撃退した。騎兵、歩兵、ぶどう弾もこれを撃退することはできず、その場で壊滅した。この英雄的な抵抗はロシア軍を驚かせ、彼らは追撃を中止した。我々は一つの窮地を脱したかと思うと、すぐにまた別の窮地に陥った。1万4千から1万5千人の我々が、クトゥソフの2万人の軍勢に対抗しようと奮闘したのだが、 [239ページ]我々は、全滅するはずだった状況から、後戻りすることなく脱出した。しかし、食料と後衛は失われていた。ミンスクは奇襲を受け、モルダヴィア軍はベレジーナ川を包囲し、ネイは依然として後方にいた。これほどまでに状況が悪化したことはなかった。この悲惨な事態の悪化に愕然としたナポレオンは、攻勢を再開し、ポロスクを占領するよう命令を出した。彼には成功は容易と思われた。「ベッルーノ公爵が気概を示せば、この計画は失敗しない。彼が指揮する軍隊の力量がそれを保証している。私が心配しているのはネイだ。彼の行く末はどうなるのか。」この元帥はかつてない窮地に陥っていた。彼を脱出させるには、あの勇敢な戦士のあらゆる勇気、冷静さ、そして忍耐が必要だった。彼は16日か17日の夜、ウジェーヌの戦いとダヴーの撤退の知らせを受け取っていた。この二つの出来事も彼を動揺させることはできなかった。「ロシアのコサックどもが」と彼はそれを知ると、「私の命令遂行を邪魔するはずはない。私は少しもそれから外れない」と言った。彼は準備を整え、進軍を開始した。歩兵6000、馬300、大砲12門が彼の全軍を構成していた。彼は側面を取り囲む敵の軽装歩兵に悩まされていた。[240ページ] いかなる攻撃にも備え、密集した隊列を組んで行軍した。3時に先鋒部隊はカトヴァに到着し、ミロラドヴィッツ軍団の姿が見えたところで停止した。天候は霧が濃く、どちらの部隊も前方にどんな部隊がいるのか見えなかった。ネイは敵軍と隔てていた峡谷を越え、第一線を突破し、第二線を敗走させた。もし砲撃の猛攻が彼を阻まなければ、全軍を打ち破っていたであろう。彼は退却の合図を送らざるを得なかったが、彼の攻撃はあまりにも衝動的であったため、敵は彼を追撃する勇気がなかった。彼はまるで一晩中休むつもりであるかのように夜火を焚いた。ロシア軍も彼に倣った。彼は少し休憩するとすぐに宿舎を移動し、ボリステン山脈を彼と敵軍の分離線として設置することを決意した。敵軍は数が多すぎて彼が押し通すのは不可能だった。彼は氷の上を小川に突入し、対岸に着いた。しかし、そこには新たな危険が待ち受けていた。

コサック軍は平原を覆い、我々に突撃し、激しいぶどう弾の射撃を続けていた。この破壊的な砲撃に反撃する術もなかったネイは、進軍を急ぎ、敵を蹴散らし、あらゆるものを粉砕した。彼はそう遠くない森を目指して進軍した。まさにそこにたどり着こうとしたその時、砲兵隊の砲火が露わになった。[241ページ] ネイはオルシャに迫り、彼の縦隊は混乱した。兵士たちは動揺し武器を投げ捨てたが、元帥はすぐに彼らの勇気を取り戻させた。彼の言葉、声、そして模範は、最も臆病な者をも勇気づけた。彼らは突進した。敵の砲兵隊は逃げ去った。我々は森の支配者だ。しかし、この茂みを抜ける道も通路もなく、無数の峡谷が交差し、障害物が多かったため、突破するのは非常に困難を極めた。ほとんどすべての資材がそこに残された。コサック兵はますます大胆になり、2日間攻撃を再開することを止めなかった。しかし、彼ら自身も迂回せざるを得なかった。大砲は不足しており、砲兵隊はいなかった。数人の選抜兵が彼らに正当な処置をとった。ネイはオルシャに迫っていた。夜は更けていたが、彼は黙って行軍し、ついに敵を一掃したと自惚れていた。突然、野営地の火の気配に気づいた彼は、多数の軍隊が陣取る野営地を発見した。喜ぶべきか震えるべきか、相手がロシア軍かフランス軍か分からなかったが、一発の銃撃で不安は払拭された。偵察隊はマスケット銃の射撃で迎え撃ち、爆発音、叫び声、太鼓の音が入り乱れ、混乱した。まるでロシア全土と戦うことになるかのようだった。激怒した彼は [242ページ]危険から逃れたと思った矢先に再び危険が迫っているのを見て、元帥は通路を開こうと試み、火の元へと駆け寄った。しかし、陣地には誰もいなかった。これは策略、陰謀だった。プラトフはどうやら我々を自分の部隊だと勘違いし、影で脅かそうとしたのだ。公爵は、この幻影に駆り立てられた数人のコサック兵を追うことを厭い、行軍を続け、さらに3リーグほど進んだところで第4軍団に辿り着いた。

第36章
こうしたことが起こっている間に、私たちはクラスノイを出発した。ナポレオンは衛兵の先頭に立って徒歩で行軍し、ネイのことをしばしば語った。彼はネイの奇策、正確で真実、どんな困難にも屈しない勇気、つまり戦場で彼を輝かしめたあらゆる資質を思い起こした。「彼はもういない。さあ!チュイルリー宮殿に三億ある。もし彼が返還されたら、それを差し出すのに。」彼はドンブロウナに本拠地を定めた。彼はロシア人の婦人の家に下宿した。 [243ページ]家を捨てない勇気を持った者もいた。その日は私が勤務中だった。午前1時頃、皇帝は私を呼びに来た。皇帝はひどく落胆していた。落胆しないでいられるのは難しかった。恐ろしい光景だった。皇帝は私に言った。「私の状況はひどく悪化している。この哀れな兵士たちは私の心を痛めている。しかし、彼らを救済することはできない」――「武器を取れ!」という叫び声が響き――発砲音が聞こえ、あたりは騒然となった。「行って、何事か見に行け」とナポレオンは極めて冷静に私に言った。「きっとコサックのならず者で、我々の眠りを邪魔しようとしているに違いない」。実際にはそれは誤報だった。彼は、私が名前を挙げるのを控えるある人物に満足しなかった。「何という悲劇の王たちだ、活力も勇気も道徳心もない!私はここまで自分を欺くことができたのか?私はいったいどんな人間を信頼していたのか?哀れなネイ!私は誰とお前を比べてしまったのか?」

我々はオルシャへ出発し、イエズス会修道院に宿舎を定めた。ナポレオンは後衛部隊を見ることはもうできないと諦めていた。ロシア歩兵ももう姿が見えなかった。彼らはおそらく何らかの陣地を構えていたのだろう。何も逃がすべきではなかった。翌日、我々はさらに2リーグ進み、みすぼらしい村で足止めを食らった。そこで皇帝は、 [244ページ]夕方、ネイが到着し、第四軍団に合流したことを知った。翌日、元帥がどんなに喜び、どのような態度で元帥を迎えたかは容易に想像できるだろう。我々はボリズフに到着した。ウディノはランベールを破り、逃亡兵はチチャゴフと合流し、ベレジーナ川右岸を守備していた。ナポレオンは不安だった。我々には橋脚も食料もなかった。主力軍は前進し、モルダヴィア軍が航路を封鎖していた。我々は四方八方から包囲されていた。状況は恐ろしく、前代未聞だった。これほどの困難から我々を救い出すには、皇帝の才能と偉大な決断以外には何もなかった。フランス人なら、ナポレオンでさえも、脱出は不可能だった。

この公はボリソフに少しの間留まり、我々を救った偽りの攻撃を命じ、数リーグ離れたウディノの司令部へと進軍した。我々はこの地のこちら側、ラジヴィル公爵の別荘で少し眠った。ムートン将軍と私はそこで一握りの藁の上で夜を過ごした。明日のことを考えたが、その考えは明るいものではなかった。我々は四時に出発した。皇帝のカレッシュ(天幕)の一つにいた。ロシア軍の砲火が目に入った。彼らは対岸を占領していた。森、沼地、 [245ページ]砲弾が満杯で、視界の彼方まで届いていた。川は深く、泥だらけで、漂流物で覆われていた。ここで我々は渡るか降伏するかの瀬戸際だった。成功の兆しは薄かった。将軍は率直に説明した。ナポレオンの前でも何度も同じことをしたことがある。ナポレオンからは不満分子扱いされていたが、それでもなお大変好意的に見られていたのだ。

我々はウディノ司令部に到着した。夜が明け始めたばかりだった。皇帝は元帥と少し話をし、軽食をとり、命令を下した。ネイは私を引き離し、共に外に出た。彼はドイツ語でこう言った。「我々の状況は前例のないものだ。もしナポレオンが今日脱出するなら、彼の中に悪魔がいるに違いない」。我々はひどく不安だった。それには十分な理由があった。ナポリ国王が我々のところにやって来て、彼と同じくらい心配していた。「ナポレオンに提案したことがある」と彼は言った。「ここから数リーグ離れたところで川を渡って、身を守ろう。彼の安全を保証し、ヴィルナまで案内してくれるポーランド人が何人かいるが、彼はその提案を拒否し、その話さえ聞き入れようとしない。私は、脱出できるとは思わない」。我々は三人とも同じ意見だった。ミュラは「我々は全員乗り越える。降伏など考えられない」と答えた。会話の中で、我々は… [246ページ]敵は列をなして撤退していた。大群は姿を消し、火は消え、森の中に消えた縦隊の先端と、平原に散らばる五百から六百のコサック兵だけが見えるだけだった。我々は望遠鏡で調べ、陣地が解放されたことを確信した。私はウディノ元帥と話していたナポレオンのもとへ行った。「陛下、敵は陣地を離れました」「それはあり得ません」ナポリ王とネイ元帥が到着し、私が告げたばかりのことを確証した。皇帝は兵舎から出てきて、川の向こう岸に視線を向けた。「提督(彼はチチャゴフという名前を発音できなかった)の裏をかいた。彼は私が偽の攻撃を命じた地点に来たと思い込み、ボリソフへ走っている」皇帝の目は喜びと焦燥で輝き、橋の架設を促し、20門の大砲を砲台に据えた。これらの砲兵隊は、ブレヒテルと呼ばれる木製の脚を持つ勇敢な将校によって指揮されていました。しかし、戦闘中に砲弾に吹き飛ばされ、彼は倒れてしまいました。「見ろ」と、彼は砲兵の一人に言いました。「5号車にもう1本の脚がある」。彼はそれを装着し、射撃を続けました。皇帝はジャックミノ大佐の指揮の下、60人の兵士に泳いで渡らせました。彼らは軽率にも、この危険な冒険に乗り出しました。 [247ページ]コサックを追っていたが、そのうちの一人が捕らえられて尋問され、ナポレオンの居場所をロシア軍に密告した。チチャゴフは引き返したが、遅すぎた。ナポレオン、その護衛、ネイ、ウディノ、そしてこれらの元帥たちが残していた全軍は通過した後だった。提督は騙されたことに混乱し、ランブランの沼地のことを忘れていた。この沼地の上に1リーグと1/4の長さの橋が、我々の唯一の逃げ道だった。もしそれが破壊されていたら、我々の運命はまだ彼の手中にあっただろう。しかし、ヴィトゲンシュタインは左岸から砲撃を開始し、右岸を占領した。彼の兵士たちは水浸しでぐったりとしていた。みじめな生活の重荷に押しつぶされそうな数人の兵士は、足に踏みつぶされていたかもしれない。彼は隘路を無視し、ウジェーヌは急いでそこを占領した。我々は後方の安全を確信していたので、チチャゴフを待った。

我らの兵力は8000人で、疲労と飢えで気を失いかけていた。彼はモルダヴィア軍を率いていた。戦闘の結果は彼には疑う余地がなかった。彼は勝利の熱意をもって進軍した。戦闘が始まると、兵士たちは入り乱れ、地面には死体が積み重なった。ネイは指揮を執り、突撃を鼓舞した。ロシア軍は包囲された至る所で集結した。彼らは奮起し、新たな戦力を投入した。しかしベルケイムが襲いかかり、胸甲騎兵が縦隊に突撃したが、皆切り刻まれた。

[248ページ]

ナポレオンは森の入り口に整列させた護衛兵に囲まれていた。護衛兵は依然として立派で、威厳に満ちていた。二千人の捕虜が彼らの前で汚された。我々はこの壮麗な戦果に酔いしれたが、喜びは長くは続かず、ロシア兵の報告によってその喜びは薄れた。パルトノーは捕らえられ、彼の師団は全員武器を放棄した。ヴィクトル元帥の副官がこの悲報を裏付けるためにやって来た。ナポレオンは予期せぬ不運に深く心を痛めた。「奇跡のように脱出し、ロシア軍を完全に打ち負かしたのに、この敗北で全てが台無しになってしまうのか」。左岸では戦闘が依然として激しかった。四千から五千人の兵士が敵軍に頑強に抵抗していた。「行って状況を見ろ。右岸に登り、左岸で何が起こっているか調べ、来て報告しろ」。私は行って歩兵と騎兵の華麗な突撃を目にした。フルニエ将軍が指揮した砲兵隊は、その同時性と衝動性が特に際立っていました。しかし、その不均衡は甚大で、私たちは退却を余儀なくされ、橋の恐怖が始まりました。この荒廃した光景を思い出すのは無意味です。

私たちはベレジーナ川の荒涼とした岸辺を離れ、 [249ページ]我々は多くの栄光を勝ち取り、多くの災難​​を経験し、ヴィルナへと進軍を続けた。オーストリア軍の到着のこと以外、何も語らず、何も考えていなかった。最下等兵でさえ、シュヴァルツェンベルクのことしか夢に見ていなかった。彼はどこにいる?何をしている?なぜ姿を見せない?当時我々の同盟国であったこの君主の動向については、私は一切考えない。

長い間、フランスからの便りは届かず、大公国で何が起こっているのか全く分からなかった。マロテクノでそのことを知った。ナポレオンは一度に19通の電報を受け取った。そこで彼は軍を撤退させる計画を決めたのだと思うが、実行に移したのはヴィルナから18リーグ離れたスモルゴニだった。私たちはそこへ到着した。皇帝は2時頃、私を呼び寄せ、自分が住んでいた部屋の扉を慎重に閉めてこう言った。「さて、ラップ、私は今夜パリへ出発する。フランスの利益のため、そしてこの不運な軍隊の繁栄のためにも、私の存在は必要だ。その指揮権はナポリ国王に委ねよう。」――私はこの信頼の証を期待していなかった。というのも、正直に言って、私は旅程の秘密を知らなかったからだ。――「陛下」と私は答えた。「あなたの出発は [250ページ]軍隊の間に憂鬱な雰囲気を巻き起こすだろう。彼らはそれを予期していないのだ。」「私の帰還は不可欠だ。オーストリアを監視し、プロイセンを境界内に留める必要がある。」「オーストリアが何をするかは知らない。彼らの主権者は君の義父だ。しかし、プロイセンに関しては、君は彼らを留め置くことはできないだろう。我々の災難はあまりにも大きい。彼らはそれを利用するだろう。」ナポレオンは両手を背中に組んで行ったり来たりし、しばらく沈黙した後、こう答えた。「私がパリにいること、そして私が国の先頭に立っていること、そして私が組織する120万人の兵士の一人であることを知ったら、彼らは戦争を始める前に二度考えるだろう。デュロック、コーランクール、ムートンは私と共に出発し、ローリストンはワルシャワへ行き、君はダンツィヒに戻る。ヴィルナでネイと会う。ネイのもとには少なくとも4日間滞在する。ミュラが合流する。できる限り軍を奮起させよ。弾薬庫は満杯で、あらゆる物資は豊富にある。ロシア軍を食い止め、必要ならばネイに打撃を与えよ。ネイはすでに1万8千人の新兵からなるロイソン師団を率いている。ヴレーデもまた1万人のバイエルン兵を率いて進軍中だ。他の増援部隊も進軍中だ。駐屯地へ進軍せよ。」 [251ページ]ナポレオンは出発した。私は少将から命令を受け、ナポレオン自身が既に私に伝えていたことを手紙で知らされた。同時に皇帝からの親書も送られてきて、その中で彼は「ヴィルナで軍を鼓舞するために全力を尽くし、少なくとも4日間そこに留まりなさい。その後ダンツィッチへ向かう」と繰り返した。翌日、私は出発した。寒さはひどく、ヴィルナに着いた時には鼻と片方の耳と二本の指が凍えていた。ホーゲンドルプ将軍の宿舎に立ち寄り、ネイ元帥の宿舎へ直行した。ナポレオンの命令と、出発時にネイ元帥と交わした会話について報告した。元帥はナポレオンの兵力推定に大いに驚愕した。 「たった今」と彼は私に言った。「召集令状を破って五百人の兵を集めることができなかった。皆、凍え、疲れ果て、意気消沈している。誰もこれ以上努力しようとしない。君は痛そうにしているようだが、休んでくれ。明日になればわかるだろう。」――翌日、私は彼のところへ行った。ナポリ国王が衛兵と共に到着したところだった。私たちは状況についてたくさん話し合った。ネイは撤退を望んでいた。撤退は不可欠だと考えていた。「これは我々に課せられた義務だ。これ以上一日も立ち止まる術はない。」彼はまだ話を終えていなかった。 [252ページ]大砲の音が聞こえる前に、ロシア軍が大挙して到着し、我々から半リーグほどの距離で戦っていた。突然、バイエルン軍が混乱に陥って帰還するのが見えた。彼らは後方に引きずり回っていた我が軍と混戦状態だった。混乱は頂点に達し、ネイの予言通り、我が軍に何も手立てはない。ナポリ王が我々のもとにやって来た。彼はまだ抵抗を試みようとしていたが、ヴィルナ山地からの報告は彼の期待を裏切った。彼は直ちに退却を命じ、ニーメン川へと向かった。「忠告する」と王子は言った。「ダンツィッツィへ直ちに出発せよ。すぐに君の存在が必要になるだろう。少しでも遅れればコサックの手に落ちるかもしれない。それは不運な事故であり、軍にとっても皇帝にとっても利益にならない。」

私はこの助言に従い、ユダヤ人二人を雇ってニーメンまで案内してもらいました。これまで幸いにも災難を免れていた私の馬車は、既に出発していました。

やがて我々は致命的な高地に到着し、そこで残りの装備品をすべて放棄せざるを得なくなった。登ることは不可能だった。馬は何度も登頂に失敗し、疲れ果てていた。 [253ページ]我々は彼らを助け、促したが、地面は滑りやすく、急勾配だったため、我々は計画を断念せざるを得なかった。私は副官と最善の策について相談した。イスラエル人たちは十字路を進むことを提案した。そこには他の利点に加え、距離が短いという利点もあった。彼らは私に頼ってくれれば、彼らが私の代わりに責任を取ってくれると懇願した。私は彼らを信じ、出発した。翌晩にはニーメン川を渡っていた。私はひどく苦しみ、指も鼻も耳もひどく痛み始めた。その時、ポーランド人の理髪師が、あまり好ましくない治療法を指摘したが、効果はあった。私はついにダンツィヒに到着した。ナポリ王は数日の行軍距離を追って続いた。プロイセン人が不当にも裏切ったマクドナルドが、我々の後を追っていた。 「私と幕僚、そして第七師団が壊滅を免れたのは奇跡だ」と彼は私に告げた。「我々は引き渡された。足が我々を救ったのだ」彼は部隊を私に派遣し、私の指揮下にある部隊と合流させた。ロシア軍はすぐに現れた。バチェレ将軍は彼らと非常に鋭い戦闘を繰り広げた。彼らはその場所の周囲に散らばり、封鎖が始まった。

[254ページ]

第37章
ダンツィヒは、生まれながらに要塞として作られたかのようである。北はヴィスワ川に洗われ、南西は断崖絶壁の連なりに守られ、その他のすべての面は、ラダウネ川とモットラウ川という2つの川が町を横切る洪水によって守られている。この好立地の利点に気づいたナポレオンは、この町を難攻不落にしようと決意し、大規模な工事を開始させた。テート・ド・ポン、つまり塹壕を掘った陣地は、町を外敵から守り、川の流れを見下ろす場所となるはずだったが、時間が足りず、工事のほとんどは不完全か、ほとんど計画もされていない状態だった。爆撃に耐えられる弾薬庫はなく、守備隊を安全に守れるほど頑丈なシェルターはなかった。砲郭は居住不能で、宿舎は廃墟となり、胸壁は崩れ落ちていた。依然として厳しい寒さで水は凍っていた。そしてダンツィックは、当然のことながらとても幸せで、 [255ページ]強力だったのは、あらゆる点で開かれた場所に過ぎなかった。

守備隊の状態も良くはなく、あらゆる人種、あらゆる国籍の兵士が入り乱れていた。フランス人、ドイツ人、ポーランド人、アフリカ人、スペイン人、オランダ人、イタリア人など、多種多様な兵士が入り乱れていた。大半は衰弱し、あるいは病に侵され、行軍を続けることができずダンツィヒに放り込まれた。彼らはそこで何らかの安息の地を期待していたのだが、医薬品、動物性食品、野菜、酒類、飼料など一切なく、私はその地から完全に脱出できない者を除いては追い払わざるを得なかった。それでもなお、残された兵士は3万5千人で、そのうち戦闘員は8千人から1万人にも満たない。しかも、そのほとんどが経験も訓練も積んでいない新兵だった。しかし、この状況は私をそれほど不安にさせることはなかった。私は兵士たちをよく知っていたし、彼らが立派に戦うには見せしめが必要なだけだと分かっていた。私は決して手加減しないと決意していた。

まさにその場所と、そこを守る任務を負った軍隊の置かれた状況は悲惨なものだった。まずは最も重要な点、つまり攻撃から身を守ることが必要だった。しかし、それは容易なことではなかった。雪が要塞を覆い、あらゆる隠れ道、あらゆる通路を塞いでいたのだ。 [256ページ]道は凍えるように寒かった。気温は零下20度[2]以上で、氷の厚さはすでに数インチにも達していた。それでもためらう暇はなかった。強襲で撤退するか、これまで経験したのとほぼ同等の過酷な疲労に耐えるか、どちらかを選ばなければならなかった。私は、知恵と献身さを兼ね備えた二人の人物と相談した。リシュモン大佐とカンプレドン将軍である。二人ともカンプレドン将軍が指揮する工兵部隊に所属していた。

[2] レオミュールの。翻訳者。

私は新たな工事を建設し、ヴィスワ川の水を浄化するよう命令した。この事業は、季節の厳しさから実行不可能と思われたが、それでも兵士たちはいつもの熱意で取り組んだ。彼らを圧倒する寒さにもかかわらず、彼らは一度も不平や不満を漏らすことはなかった。彼らは与えられた任務を、称賛に値するほどの献身と不屈の精神で遂行した。そしてついに、前例のない困難を乗り越え、彼らはあらゆる障害を乗り越えた。手斧で砕き、梃子で海へと押し流した氷は、流れの力に助けられ、川の真ん中に16メートルから18メートルの溝を開いた。 [257ページ]幅十七メートル、長さ二リーグ半。しかし、困難を乗り越えた途端、再び困難に見舞われる運命にあった。我々の努力が思いがけない成功を収めたのも束の間、寒さが倍増して厳しくなり、一夜にしてヴィスワ川の溝は、我々が割った氷とほぼ同じ厚さの氷で覆われてしまった。水の流れを保とうと、ボートを絶えず上下に動かしたが無駄だった。こうした予防措置も川の急流も、水の流れを保つことはできなかった。多大な犠牲を払い、一瞬で氷を破壊してしまった作業を再開する必要があった。昼夜を問わず氷を砕く作業が行われたが、それでも三度目の氷の形成を防ぐことはできなかった。しかし、我々に敵対する自然現象よりもさらに頑強な我々の兵士たちは、これらの障害に果敢に抵抗し、ついに打ち勝つことができた。

平原の前面の残りの部分でも、同様の熱意が示され、同様の困難が生じた。数フィートも深く凍った土は、スコップを通す力も、開拓者たちの努力も無駄にしなかった。この固まった塊を割ることは何もできなかった。斧ですら跳ね返ってきたのだ。それを溶かすには火に頼るしかなかった。互いに間隔を空けて積み上げた大きな薪は、 [258ページ]長きにわたり維持されてきたこれらの作業こそが、発掘調査を行い、必要な防柵を築く唯一の手段でした。多大な労力と忍耐力の末、ようやく、着工されたばかりの防衛工事が良好な状態にあるのを目の当たりにするという満足感を得ることができました。ホルム、ヴァイクセルミュンデ、ノイファーヴァッサーの塹壕陣地、そしてダンツィッヒへの接近路を守る多数の砦は、勇敢な抵抗を繰り広げられる状況に置かれました。この町は、当初想定されていたほどの強さには達しなかったとしても、少なくとも包囲戦に耐えるだけの力はありました。包囲戦の期間と展開は、外国軍の威信を高めるような出来事ではありませんでした。

これらの疲労は人間の力では到底耐えられないものだった。野営、窮乏、そして絶え間ない労働が、その重症度を増し、その結果、病気の蔓延も遅まきを知らぬ間に始まった。一月初めから、太陽が昇るたびに五十人ずつが命を落とし、翌月末には百三十人にものぼり、病人は一万五千人を超えた。軍隊から住民へと疫病が蔓延し、住民の間でも恐ろしい被害をもたらした。老若男女を問わず、貧困に苦しむ者も、そうでない者も、例外ではなかった。 [259ページ]安楽と贅沢に囲まれていた者も、同じようにその餌食となった。皆が退き、皆が死んだ。人生の道を初めて歩み始めた若者も、人生を終えようとしていた老人も。悲しみがどの家庭にも広がり、誰もが動揺した。かつては生き生きとしていたダンツィックも、今は物悲しい沈黙に包まれ、悲しみに暮れる人々の目には、どこまでも華やかな葬列と行列だけが映っていた。鐘の音、霊柩車、あらゆる形で再現される死のイメージは、すでに嘆かわしい状況をさらに悪化させた。兵士たちの心は揺らぎ始めた。私は急いで悪を根絶しようと決意し、生者の敬虔さが死者に捧げる葬儀の厳粛な儀式を禁じた。

私は疫病が猛威を振るうまで待たずに、これに対抗した。最初の兆候が見られるや否や、病院を開設させ、医薬品、ベッド、そしてこの任務に必要なあらゆる物資を購入させた。健康的で豊富な食料があればもっと効果的だっただろうが、食料はあまりにも乏しく、1日の食費として新鮮な肉を2オンスも用意するのがやっとだった。少量の塩漬け肉と乾燥豆が、長きにわたる窮乏で疲弊した人々に提供できる唯一のものだった。このような状況は、 [260ページ]残酷な状況だった。しかし、どうすることもできなかった。まだ残っていたスウェーデン領ポンメルンから食料と医薬品を補給するため、シュトラールズント行きの船を派遣したが、無駄だった。私の伝令を積んだスループ船は激しい嵐に見舞われ、岸に打ち上げられたのだ。春分点が近づいていた。バルト海はすでに嵐で荒れていた。二度目の試みは不可能だった。

我々に残された唯一の資源は勇気だった。生存の糧を得るには剣の先で戦うしかなかったが、兵士たちの献身がどれほどのものであろうと、病気と苦難で疲弊した敵に向かって彼らを導くには慎重さが必要だった。運命に身を任せ、穏やかな好天が我々の力をよみがえらせてくれることを辛抱強く待つしかなかった。それはそう遠い未来のことではなかった。その兆しはすべてすでに現れていた。天候は穏やかになり、氷は溶け始め、霜も解けようとしていた。そして我々は、洪水が我々の疲労をある程度和らげてくれるだろうと慢心した。しかし、我々の不幸を慰めてくれると期待されたものは、常に不幸をさらに悪化させるものだった。

[261ページ]

ヴィスワ川は猛烈な勢いで流れを止めた。1775年以来、これほど激しい流れはかつてなかった。ダンツィッツィの最も美しい部分、その弾薬庫、武器庫は波の餌食となり、辺り一面が水に覆われた。数リーグにわたって、根こそぎ引き抜かれた木々、廃墟となった家々、砕けた氷の中で無力に漂う人々や家畜といった、悲惨な光景しか目に映らなかった。我々の破滅は避けられないと思われた。全ての建造物は破壊され、柵は流され、水門は破壊され、要塞は波によって破壊され、無残に陥落した。多数の敵の前に、我々は防御手段を失っていた。重要な拠点であったホルム島との連絡はもはや不可能で、要塞はほぼ壊滅状態にあった。ホイブーデ島は悲惨な状態にあった。ヴェルダー川とネルフング川の拠点は水没していた。我々の不幸をさらに悪化させたのは、ヴィスワ川が再び流れ始めると、いつもその場所を囲んでいた洪水が干上がるという脅威にさらされたことだ。

[262ページ]

第38章
しかし、連合軍は自軍のために戦っている勢力をうまく支援しなかった。即座に攻撃に赴く代わりに、彼らは惨めな陰謀に時間を浪費した。布告が布告に重ねられ、あるものは行政官庁向け、あるものは住民向け、あるものは兵士向けだった。ある者は反乱を起こし、ある者は脱走した。勇敢なポーランド人、ヴェストファーレン人、バイエルン人は、順番に勧誘され、迫られ、脅迫された。この机上の空論は私にほとんど不安を与えなかった。私は部隊の忠誠心を知っていたし、彼らに絶大な信頼を置いていた。その証拠を彼らに示し、布告が届くとすぐに連隊の先頭で読み上げさせた。この公然たる行動は彼らを喜ばせ、感謝した。彼らはただ、彼らの勇気よりも名誉を軽んじているように見える敵に対して、より大きな軽蔑を抱いていた。そして彼ら自身も、ロシアの天才によるこれらの素晴らしい作品を、読むことさえせずに私に何度も持ってきた。

[263ページ]

包囲軍は、その場所の前で動きを止めようとしなかった。私は時折、彼らを無気力な状態から目覚めさせた。彼らは我々を攻撃すると、かなり横柄に脅し、1月末にはヴェルダー地方の村々に大量の梯子を発注したほどだった。私は、我々がまだそこまで追い詰められていないことを彼らに思い知らせようと決意した。29日、私はブランタウ方面へ部隊を進軍させた。グランジャン将軍は4個大隊、騎兵1個中隊、野砲2個を率いてストリースから出発し、その遠征中にバスキア人とコサック兵の部隊を撃破した。これは、より深刻な戦闘への序章となった。

私は、新兵がその場所の前に到着し、ネルフングに散開し、ボンザックとストリースを大勢占領していることを知っていたので、偵察に派遣した。デトレ将軍がこの遠征を命じられた。彼は当初、行く手を阻むものをすべて撃退したが、彼のライフル兵たちは追撃に没頭しすぎて、その無謀さの犠牲者になりかけた。コサックの群れが彼らに襲い掛かり、ファリーヌ大佐が救援してくれなければ、彼らは粉々に切り刻まれていただろう。我々は別の点でも不運だった。前線部隊は、敵の攻撃を警戒し、武装したままでいるように命令されていた。 [264ページ]敵の動きを察知したが、戦闘には参加しなかった。シュトルツェンベルクで指揮を執っていたヘーリング大佐は我を忘れ、軽率にも平野に降り立ち、軽率にコサック軍に襲いかかった。隘路で奇襲を受けた彼の部隊は騎兵の猛攻に耐えきれず、壊滅した。この愚行で250名の兵士が失われた。敵は勢いづいた。この些細な成功が彼らに自信を与えたのだ。午後3時頃、敵の縦隊はランゲフールの前に姿を現し、そこに陣取ることに成功した。この村の前に配置されていた30名の兵士は捕虜となった。彼らは家屋に侵入し、長時間抵抗した。地面には死体が積み重なっていたが、救援の見込みがないと見て、弾薬不足のため降伏せざるを得なかった。私は直ちにこの陣地を奪還するよう命令を下した。グランジャン将軍は8個大隊、4門の砲兵、そして数個の騎兵を率いて進軍を開始した。攻撃は完全に成功し、ロシア軍は敗走した。彼らは再び突撃しようと試みたが、常に我が騎兵に圧倒され、敗北を繰り返し、ついに撤退を決意したようだった。我々も彼らの例に倣うのに躊躇しなかった。ナポリ軍がランフールから撤退した時には、戦場はほぼ無人だった。 [265ページ]突如、多数の歩兵に支援されたコサックの大群が襲撃してきた。フソン将軍とシェンベック司令官はポーランド軍大隊を率いて急襲し、銃剣で敵に突撃し、壊滅的な虐殺を行った。

この抑制により連合軍の不機嫌は静まり、梯子や突撃の懸念は払拭された。私は彼らを静かに置いておいた。頻繁に警告を発する状態ではなかったからだ。私の部隊は疲弊していた。昼夜を問わず足を動かし、病気で衰弱し、寒さに震え、粗末な服装で、さらにひどい食事で、彼らはかろうじて自活していた。彼らの惨めさを凌ぐのは、彼らがそれに耐え忍ぶ諦めの気持ちだけだった。鼻や耳が凍傷に侵され、傷がまだ癒えていない兵士たちが、前線での任務を快活に遂行していた。毛皮で覆い、頭に包帯を巻き、杖をついて行進する彼らの姿を見ると、私は涙を流すほど心を動かされた。私は、これほど不運でありながらも、これほど不屈の精神を持つ兵士たちに、喜んでいくらかの救済を与えたかった。しかし、ロシア軍はそれを許さなかった。彼らは布告が期待通りの効果をもたらしたと勘違いしていたのだ。我々は互いに争っていた、そして人々は [266ページ]彼らは反抗的な態度で、このような好機を利用して我々を捕らえようと決意した。

時は3月。5日、夜明けとともに、彼らは私の前線に群れのように押し寄せ、包囲し、戦線全体を水没させ、そこに含まれる村々に無数に散らばっていった。突然の攻撃の報告を受け、私は必要な命令を出し、師団長グランジャンと共にランフールへ進軍した。数歩も進まないうちに、激しい突撃の音が聞こえた。それはクロモン大隊とブレア大隊の隊長たちが、3000人から4000人のロシア軍の縦隊に銃剣で突撃し、彼らを蹴散らしていた時だった。我々は彼らを援護するために速度を倍増させたが、攻撃はあまりにも激しく、間に合わなかった。村に到着した時は、兵士たちの歓声が勝利を告げるまさにその時だった。私は急いで彼らの武勲を称えた。わずか800人足らずの兵士が、彼らの4倍もの兵力を持つ歩兵と騎兵を完膚なきまでに叩き潰したのだ。彼らは大砲さえもほぼ手に入れようとしていた。ナポリの選抜騎兵3名が既に戦死した馬の足跡を辿っていたが、今度は彼らも突撃を受け、戦利品を放棄せざるを得なくなった。

他の面では運が味方してくれなかった [267ページ]要点:フランチェスキ将軍はアルト・ショットランドへの前進で辛うじて持ちこたえ、後退したものの、一歩一歩防衛した。指示に従い時間を節約した。勇敢なブトラー大佐が急いで救援に駆けつけた。バイエルン軍は村の最初の家々に到着するやいなや、猛然と敵に襲いかかり、撃退し、銃剣で突撃して前進を阻止した。しかし、バイエルン軍が一方的に抵抗している間に、ロシア軍がもう一方から脅威を与えた。三度の攻撃が失敗に終わった後、ついにロシア軍は大隊長クレメントの見事な抵抗に打ち勝ち、シュトルツェンベルクを制圧した。彼らはすでにこの村から脱出し、我々を側面から攻撃しようとしていた。この動きは決定的なものとなるはずだった。私は急いでそれを阻止した。私は第6ナポリ連隊に、右翼の小さな丘を占領するよう命令し、これにより我々の陣地は強化された。デトレ将軍は攻撃を指揮し、突撃して頂上を占領した。敵は慌てて奪還を試みたが、成功しなかった。デジェネロ大佐は、全身に傷だらけで服には銃弾の穴が開いたまま、無敵の抵抗に抵抗し、撤退を余儀なくされた。その間、デトレ将軍は [268ページ]バシュルは4個大隊を率いてシドリッツの右翼の高台に陣取った。そして突然、連合軍に突撃し、側面から攻撃を仕掛け、彼らを撃破した。連合軍は家屋に陣取ろうとしたが、無駄だった。ブーヴノー中尉とタリード少尉に率いられた我が軍の斥候部隊は、窓枠を突き破り、扉を破壊し、遭遇する者全てを殺害、奪取、あるいは散り散りにし、大砲一門を占領した。ロシア軍の将軍は部隊にその防衛を命じたが、その衝動は抑えられ、ヴァヌス少尉、オートレソル補給官、アトゥイテの3人の勇敢な男たちが猛烈に突撃し、占領した。

午後3時、連合軍は依然としてスコットランドとオーラを占領していた。ブーラン大隊長の勇敢な行動にもかかわらず、連合軍を追い払うことはできなかった。私は、かつてうまくいった機動をもう一度試みることを決意した。そして、彼らを反撃させた。私がスコットランド軍の指揮官による偽装攻撃を仕掛けている間に、バチェル将軍は行軍を隠蔽し、オーラへと向かった。彼の後には、歩兵3個大隊、騎兵150頭、そして軽装砲兵隊が続いた。我が軍は焦燥感に駆られ、突撃が始まるとすぐに歓喜の叫びを上げ、敵に向かって突進した。[269ページ] 敵を攻撃し、その隊列を崩し、完全に敗走させた。彼は気を取り直して突撃に戻ったが、ぶどう弾の弾丸は倍加され、銃剣の攻撃で隊列に混乱が生じた。彼は逃げ、あらゆる逃げ道を探したが、阻止されないものは見つからない。必要に迫られて勇気が奮い立ち、彼は気を取り直し、逃げ回り、突撃してきた。混乱はひどいものとなった。彼は恥辱から逃れようともがき、我が兵は勝利を収めようともがいた。どちらの側も彼らは前進し、猛烈に攻撃した。第29連隊の副官少佐、ドロンドルがロシア軍の真ん中に突入した。数人の勇敢な仲間が彼に続いた。死と混乱が彼の足元を待ち受けていたが、すぐに敵の数に圧倒され、大きな傷で消耗し、彼は武器を捨てざるを得なかった。しかし、彼の気力は戻り、気を取り直した。憤りが彼に力を与え、護衛を襲撃し、それを奪取し、勝利に貢献する。もはや疑いの余地はなかった。砲撃の音に反応して出撃した我が軍は、オラの前に陣取り、破壊的な砲撃を開始した。敵は屈服し、隊列を崩し、征服者の慈悲を祈ることでかろうじて死を免れた。

瞬く間に通りには死体が積み重なり、五百人の男たちが武器を捨てた。 [270ページ]彼らのほとんどは、ベレジーナ川の通過時に我々がほぼ壊滅させたモルダビア軍に属していた。

敵は四方八方に逃げ惑った。ネルフング、ノイファーヴァッサー、あらゆる場所で、奇襲攻撃で得た勝利を敗北で帳消しにした。ノンガレード少佐は、後方に展開していたナポリ軍の脆弱な拠点と小競り合いをしていたコサックの群れを解散させるだけで済んだ。竜騎兵の分遣隊がサスペの前に進出したロシア軍を追跡し、ブラーゼンを占領した。

我々は攻撃前に占拠していた陣地を再び占領したが、残念ながら、その代償は大きかった。戦闘不能状態の兵士は600名で、そのほとんどはすぐに傷から回復したのは事実である。その中には、この物語に何度も登場することになるホラダム少佐、デグロフシュタイン大佐、そしてデヴィリエ将軍も含まれていた。

敵の損害はもっと大きく、敵の軍勢 2,000 人が倒れ、我々の捕虜は 11,000 人から 12,000 人、大砲は 1 門でした。

この日は包囲戦の中でも最も輝かしい日の一つであり、勇気と規律がどのような結果をもたらすかを示す新たな例となった。ダンツィックの城壁の下、ベレジーナ川の通過地点と同様に、 [271ページ]貧困や病気にあっても、私たちは同じままであり、同じ優位性、同じ優位性を持って戦場に現れた。

第39章
ロシア軍は満足したかもしれない。すぐに攻撃に戻るとは考えにくかった。しかし、5日の出来事から、私は別の手段を取る必要があると確信した。しかし、私はそれを取るつもりはなかった。彼らは、フィギエ大佐が厳重に監視していたビホフスベルクの麓までしか侵入できなかった。そこは古いカプチン会修道院の保護の下だった。この辺りはあまりにも危険だった。私はその古い建物を取り壊させた。いくつかの村、特にスコットランドでは、いくつかの家が要塞化された。我々はこの地を奪還したが、非常に困難を極めた。抵抗があまりにも激しく、一時は焼き払わないかどうかが問題になったほどだった。私はこの残酷な手段を却下した。住民を滅ぼすという決断はできなかったのだ。 [272ページ]最初の包囲戦で既に多くの苦しみを味わっていた。銃剣を突きつけてロシア軍を追い払う方が名誉あることだと考え、実際に成功した。しかし、再びこのような危険な賭けに出るのは嫌だった。

その間も疫病は収まるどころか、むしろ日に日に勢いを増していくようだった。すでに6000人が命を落とし、1万8000人が病院で意識不明の状態で横たわっていた。戦場で幾度となく命を救ってきたフランチェスキ将軍も、つい先日息を引き取ったばかりだった。刻一刻と、我々の損失は増大し、最も勇敢な兵士たちでさえも命を落とした。十分な食料があれば彼らは救えただろうが、食料は底をつきつつあった。家畜の餌も家畜ももはやなく、病人のベッド用の藁さえも不足していた。私は、これほど多くの勇敢な兵士たちが耐え忍んでいる苦難を何とかしようと決意した。それは危険な試みだったが、彼らを救うために私が自ら危険に身をさらすのは当然のことだった。

私は長い間、クァデンドルフへの遠征を計画していた。そこには豊富な資源があると考えられていたからだ。これまでは、私の手にある兵力が不十分だと思われたため、遠征を延期していたが、必要性が高まった。 [273ページ]これらすべての考慮よりも力強く語ったのは、もうためらわなかった。デヴィリエ将軍はヴォンネベルクとピッツェンドルフの高地を制圧した。右翼はツィガンゲンベルクに、左翼はフッソン将軍の旅団に支援された。将軍はすかさず、砲兵とマスケット銃による交互の射撃を開始した。敵がこの無害な射撃をできる限り応戦している間に、ユーデレ将軍はマツラウ渓谷から脱出し、その防衛を任された陣地を占領した。バチェリュ将軍が先頭に立った。ゴルト将軍の指揮下にある1200人の兵士と6門の大砲が第二線で前進し、予備軍を形成していた。500人のロシア兵が我々のボルグフェルトへの侵入を阻止しようとしたが、踏みつぶされた。銃剣を逃れた者は皆、サーベルの刃で倒れ、全員が殺された。敵は大軍を率いて襲いかかったが、勝利はなかった。防御態勢に入る前に圧倒され、敗走するしか安全はなかった。砲兵隊を砲台に配置させる暇もなく、間断なく追撃され、一発も発砲することなく戦場を去らざるを得なかった。ポーランド軍は無敵であり、指揮官も兵士も、他の追随を許さないほどの決意と大胆さでロシア軍に襲いかかった。 [274ページ]例えば、勇敢な太鼓奏者マトゥザリックが、太鼓の棒で敵の一人を倒し、降伏を強要した。

我々が彼らを前方に追いやる間、ユーデレ将軍は彼らの後方を脅かしていた。敵はこの動きに気づくと、もはや敗走ではなく、混乱と混沌へと変わった。その様子は想像を絶するほどだった。彼らは負傷兵と病院を放棄し、シュヴァイスコップフ、ザンクト・アルブレヒトから全速力で撤退し、プラウスト川の向こう岸に到達するまで立ち止まらなかった。我が選抜兵は彼らと共にそこに突撃した。

サン=アルブレヒトに到着すると、ロシア軍が依然としてモットラウ川の岸辺に陣地を維持していることを知った。私は、攻撃中にロシア軍が救援を受けられないよう準備を整えた。シッフェルリッツ少佐は、第13バイエルン連隊の1個大隊を率い、ヴェストファーレン軍と小艦隊の支援を受けてこの攻撃に着手した。攻撃は完璧な連携と激しい戦闘の中で行われた。300人のロシア兵が、勇敢なザルリンフスキの攻撃で倒れた指揮官と共に土埃に埋もれ、残りのロシア兵は溺死するか捕虜となった。100人のロシア兵が洪水の中を逃げていた時、ファーベル中尉が追いついた。ファーベル中尉は勇敢な部隊を率いて突撃し、ロシア軍は彼らを撃破した。 [275ページ]首まで水に浸かり、彼らを連れ戻した。幼いケルン少年が我らが兵士たちを鼓舞し、先頭に立って奮い立たせ、激戦の最前線に身を投じた。戦友たちは立ち止まり、彼に続くのをためらった。彼は勇気が呼び起こす大胆さで彼らの方を向き、「前進!バイエルン!」と叫ぶと、彼らは彼の衝動に駆り立てられた。

日が暮れつつあった。ロシア軍はクァデンドルフの前にあまりにも多くの兵力を集結させていたため、攻撃を続けるのは得策ではないと判断した。敵に甚大な損害を与え、350人の兵を奪取した後、ダンツィッチへ帰還した。これほど見事な出撃の成果は、ほとんどこれだけだった。牛はわずか100頭しか手に入れられなかった。先回りされていたため、村々にいたものはすべて後方に移動させられていたのだ。

食料調達の試みとは別に、もう一つの目的を念頭に置いていたが、これもうまくいかなかった。封鎖開始以来、フランス軍との連絡手段はなかった。彼らの兵力も、その財力も知らなかったのだ。これらの点について何らかの情報を得るためにあらゆる手段を講じたが、憎悪はあまりにも広く根深く、いかなる賄賂もそれを克服することはできなかった。 [276ページ]市長たちがもっと従順な対応をしてくれることを期待していたが、彼らはロシア人から伝えられた報告以外何も知らなかった。私は周囲で起こっていることすべてについて、全くの無知のままだった。

結局のところ、事態の成り行きがどうであろうと、この地は守らなければならず、最後の瞬間まで守り抜かなければならなかった。つまり、残された資源で可能な限り長く生き延びなければならなかったのだ。私は倹約を倍増させ、意見交換によって得られるものが大抵の場合あるように、食料管理を専門とする委員会を結成した。ユーデレ伯爵が委員長を務め、この委員会は非常に大きな貢献を果たした。この委員会は病院の状況改善に特に尽力した。リネンや医薬品を購入し、入手できなくなったバターの代わりにゼラチンを供給した。我々が持っていたワインと生肉はすべて病人のために取っておいた。そして、彼らが我々の食料を欠乏させないように、委員会は双方の査定を行った後、この地にあった貯蔵庫と家畜を差し押さえた。兵士たちはもはや動物性食品ではなく、同じ方法で入手した馬の肉だけを受け取った。しかし、委員会のあらゆる配慮をもってしても、疫病を抑えることはできなかった。 [277ページ]この残酷な疫病は、遭遇する抵抗に比例して激化した。絶えずより凶暴になり、より回復不能になり、すでに襲った場所で新たな力を発揮し、逃れた人々をも襲った。以前はその攻撃から逃れていたヴァイクセルミュンデとノイファーヴァッサーは、今やその猛威の餌食となった。兵士も住民も、戦線の端から端まで、残酷な病の苦痛に苦しんでいた。逃れた者も、倒れた者も、等しく憐れみを受けるに値する。せん妄の痙攣に身を任せ、彼らは泣き、うめき、もはや夢の中にしか存在しない戦いと喜びの記憶に浸った。時には落ち着き、時には激怒し、彼らは祖国、両親、幼少期の友人に呼びかけた。彼らは、亡くなった勇敢な人々の運命を祈り、身震いした。相反する情熱に引き裂かれながら、彼らは絶望の恐怖の中で残りの命を吐き出した。

治療薬が惜しみなく投与されるほど、苦しみは増していった。疫病は、まさにそれを撲滅しようとした努力によって蔓延した。3月最後の2週間、毎日200人以上が亡くなった。疫病は徐々にその破壊力を失いつつあったが、ついには [278ページ]5月末には完全に鎮圧された。その時までに5500人の住民と1万2000人の勇敢な兵士が流された。その中にはゴールト将軍もいた。優秀な将校であり、勇気に満ちた兵士で、もっと良い運命を辿るべきだった。

疫病はロシア軍の利益のために我々に戦いを挑んでいたが、ロシア軍自身は我々をほとんど妨害していなかった。ボルグフェルトの遠征軍は彼らの士気を削いでいた。彼らは塹壕を掘り、防備を固め、防御策にのみ専念していた。しかし、少しでも敵に生命の兆候を見せることが絶対に必要だったため、彼らは時折、私の前線を奇襲しようと試みた。こうした取るに足らない攻撃に苛立ち、私は彼らが我々の眠りを破ったように、彼らの眠りを破りたいと思った。彼らはブレンタウ上空に合図を送っており、それが私に手段を与えた。我々の任務はそれを焼き払うことだった。私はその管理を、私がその知性と勇気を経験した二人の将校に託した。彼らはツェンベック大隊長とポトツキ大隊長だった。ある暗い夜、彼らはランゲフールを出発し、長い間誰にも気づかれずに行軍した。マスケット銃の発砲でようやく発見されたことが分かり、彼らは直ちに突撃して敵を撃破した。ポトツキはブレンタウに向かって進軍し、解散した。 [279ページ]多数の歩兵部隊が彼の通過を阻止した。40名の兵士が堡塁のような場所に身を投げた。選抜将校が彼らを追いかけ、降伏を命じたが、戦死した。激怒したポーランド軍は直ちに堡塁に突撃し、そこにいたロシア兵を皆殺しにした。

村でこうしたことが起こっている間、ツェンベックは信号機を掌握していた。彼は信号機に火を放ち、直ちに平原に降り立ち、進路にいた分遣隊を粉砕し、オリヴァの城壁まで進撃して砲弾を投じた。同時に、第八連隊の補給将校である勇敢なドゥヴィランは、12人の軽騎兵を率いて、我々の前線陣地の全域を掃討した。彼の大胆な突撃はコサック兵を恐怖に陥れ、打ち砕いた。この成功は彼を勇気づけ、右翼に展開し、偵察を行い、森を捜索し、我々の部隊が撤退する瞬間まで合流しなかった。

その間、すべての信号が鳴り響いていた。ロシア軍は武器を手に取り、刻一刻と攻撃されるのを覚悟していた。彼らはその夜、そして翌日一日をこの状態で過ごした。我々は、彼らが詳細に伝えてきた警報に一斉に応えた。

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政治の地平線は日ごとに曇り空を増していった。プロイセンは仮面を脱ぎ捨て、蜂起によって我々に戦争を仕掛けてきた。この出来事を兵士たちに隠すことは不可能だった。ロシア軍は彼らに知らせることに非常に強い関心を持っていた。したがって、私はその知らせを一切妨げなかった。たちまち兵士たちを誘惑しようとする試みが再び始まった。敵は我が軍の信頼と忠誠心が揺らいだと考えた。攻撃と防御の手段の不均衡、金銭、約束など、あらゆる手段を用いて彼らを脱走させようとした。恥辱への償いとして賞金が提示された。忠誠への褒賞として賞金を提示するのは当然のことだ。我が軍を誘惑した罪で有罪判決を受けた者を引き渡した者に200フランの賞金を与えると約束した。この措置は効果を発揮した。包囲軍がその場所に派遣していた密使のほとんどが私に知らされた。我々の法律によれば、彼らは死刑に値する罰を受けた。しかし、一般的に人間は悪人というよりは不幸な者だ。彼らのほとんどは、必要に屈した一族の父親たちだった。私は彼らを兵士たちの嘲笑の的とし、頭を剃るよう命じて解散させた。この策略は [281ページ]彼らを家に留めておいたので、私は処刑に頼ることなく彼らから解放された。

守備隊は、敵が兵力増強を受けたことを知ったにもかかわらず、ほとんど動揺していないようだった。それでも私は、彼らにまだ何ができるのかを自ら判断させたかった。イースターが近かった。天候は穏やかで、空は晴れていた。私は閲兵を命じ、我々を包囲する軍勢を前にして行われた。夜明けとともに、住民たちは、病弱な者たちでさえも、ランゲフールの高地を占拠した。彼らは斜面や並木道に陣取り、ストリースとオリヴァを隔てる平原から続くすべての上り坂を占拠した。間もなく部隊が姿を現した。7千人の兵士が、多数の砲兵隊に続いて、いずれも壮麗な姿で、次々と戦闘隊​​形を整えた。彼らは比類なき精密さで機動し、敵を蹂躙した。ロシア軍は、その大胆さに驚愕し、我々を妨害しようとはしなかった。彼らもまた戦闘隊形を整え、我々の動きを傍観し、何の障害も設けなかった。しかし、彼らにとっては絶好の機会だったはずだ。銃弾は一発も装填されておらず、私は特に弾薬の使用を禁じていた。軽率にも軽々しく侮辱を与えたなら、銃剣で罰するしかない。 [282ページ]この措置は、おそらくかなり大胆なものであったが、兵士の勇気を称え、外国人の自慢が当然受ける軽蔑を兵士に納得させるために必要であった。

第40章
行進の後、問題はどうやって生き延びるかだったが、これははるかに容易ではなかった。敵はすべての村を略奪し、飼料も家畜も残していなかった。数リーグも離れた場所から探さなければ、もはや資源は手に入らなかった。私はボルグフェルトで経験を積んでいたので、それに従って行動した。ネルフングへの遠征に伴う諸々の施設と障害物について正確な情報を得ていた。部隊の人数、位置、そして彼らの完全な安全も把握していた。私は準備を整えた。バチェル将軍の指揮する、精鋭部隊1200人、騎兵350人、大砲8門を備えた軽砲兵中隊が、ホイブデに向けて進軍した。追い込まれた敵は、 [283ページ]ボンサックを守ろうとしたが無駄だった。バチェルは彼に気を取り直す暇を与えず、突撃し、敗走させ、ウォルデルンまで混乱に陥れて撃退した。敵の主力はこの村を占領していた。約5千人の兵士が彼を迎え撃ち、援護したが、いつものように衝動的に突き進む我が軍が駆けつけ、彼の展開を阻止した。彼らはまもなく攻撃を開始した。一部は狙撃兵として丘陵地帯と平野に散開し、残りは戦列を組んで破壊的な射撃を開始した。我が砲兵隊と騎兵隊が突撃し、敗北を決定づけた。それは非常に迅速かつ決定的だったため、砲兵隊は一発も発砲しようとせず、全速力で戦場から撤退した。リトアニア軍の縦隊は激流を食い止めようと試みた。ファリーン大佐は竜騎兵を率いて突撃し、武器を放棄させた。予備軍はまだ無傷だった。勇敢なレドゥーは彼らに向かって進軍し、彼らを監視して、彼らが退却する瞬間を捉え、突撃し、捕虜にした。同時に、ノイマン大尉は逃亡者を追跡し、左から右へ飛び回り、四方八方に混乱を巻き起こし、少数の兵士で数百人の連合軍兵士を集め、 [284ページ]降伏。この優位性により、彼は2箇所の負傷を負った。シュナイダー少尉はさらに傷つき、一人で12箇所の槍傷を負った。

私自身もバチェル将軍の動きを追ってウォルダーンまで進軍したが、ロシア軍はあまりにも無秩序に敗走していたため、これ以上追撃するのは無駄だと思われた。彼らを撃破した部隊は、追撃するには十分だった。彼らが12リーグ以上も後退させたことを知ると、私はすぐに彼らの進軍を止めた。彼らは陣地を固め、我々が占領した場所で見つけた飼料や家畜を奪い去ることに没頭した。

バチェル将軍の迅速かつ巧みな指揮のおかげで、私が携行​​していた予備部隊は役に立たなかった。私は部隊にヴィスワ川を渡河を命じた。部隊はラコスタ要塞の前に上陸し、敵がまだ占領していた堤防に向かって進軍した。同時に砲艦が川を遡上し、攻撃を開始した。ロシア軍はすぐに退却し、散り散りになった。我々はヴェルダー川全域に何の障害もなく進軍した。

私たちは4日間、この異なる陣地に留まりました。右岸のバチェル将軍 [285ページ]川の両岸から、彼が占領したネルフングの一部を略奪し、我々のボートの助けを借りて、左岸からは入手可能なすべての物資を汲み取った。この遠征の成果は、角のある牛500頭、羊400頭、干し草1200クインタル、藁800本、そしてオート麦2300デカリットルであった。敵は我々の護送隊を阻止しようとしたが、ホエキンスキー中尉とベリサル補給吏の冷静さと手腕により、すべての障害を克服した。ロシア軍の攻撃は我々に有利に働き、雄牛100頭をもたらしてくれた。勇敢なブレリンスキーは、ロシア軍を打ち破った後、雄牛を奪い取った。包囲戦に投入された軍隊は、我々を妨害しようとはしなかった。戦線を動かず、ランゲフールとニューショットラント方面で我が軍が示威行動をとっているのに気を取られているようだった。彼らの不安はあまりにも大きく、激しい雨音を我が軍の前進と勘違いしたほどだった。彼らは攻撃を受けたと思い込み、左翼の信号弾に火をつけ、ピッツェンドルフまで恐怖の波を広めた。

病院の食料は補充したが、私たち自身の状況は変わらなかった。馬肉2オンスと塩漬け牛肉1オンスが、依然として [286ページ]日々の配給が足りなくなってしまった。一つの困難を乗り越えたと思ったら、すぐに次の困難に陥った。いくらかの食糧は調達できたが、軍資金は底を尽きていた。持ち帰った食糧の代金を払うことができなかったのだ。封鎖解除時に支払手形を発行せざるを得なかった。それでもなお、兵士の給料を確保し、砲兵隊と工兵隊の費用を賄う必要があった。それがなければ、この地は自滅してしまうだろう。この窮地に陥ったとき、どんな方策、どんな手段に頼るべきだろうか?唯一の方法は、それを採用する気はなかったが、すべては必要に屈した。住民に300万ポンドの融資を要求したのだ。

ダンツィッチの住民はこの措置に憤慨した。彼らは不満を漏らし、ざわめき、騒ぎを起こすと脅した。敵の攻撃は激しさを増し、艦隊も陸軍も、より敵対的な態度を取った。まさにこの局面、兵士を囮にした罪で死刑判決を受けていたセルヴィアン男爵が、ピエジュロー上院議員をロシアの利益のために企てた陰謀の首謀者として告発した。この政務官の評判は傷ついていなかったが、告発内容はあまりにも詳細かつ的確であり、不注意な警備の結果はあまりにも深刻であったため、私は彼を逮捕するよう命じた。彼の無実は [287ページ]すぐに確立された。私はしばらくの間、この立派な男の誠実さを疑っていた。彼に感謝の意を表すのは私の義務だった。私は、この不快な冒険の印象を和らげるのに最も適していると思われる方法で感謝の意を表した。住民たちは静まり返っており、私が疑わしく感じていた頻繁な小競り合いは、要塞の前に到着した軍隊の増加によるものだった。

ヴュルテンブルク公爵が指揮を執ったばかりだった。レヴィス将軍よりも積極的で落ち着きがなく、彼は私の前線部隊に息つく暇を与えなかった。一つ失敗すれば、また別のことを試みた。ランゲフールで撃退され、ツィガンゲンベルクで敗走した後、彼はオーラに突撃した。オーラでの攻​​撃も以前の攻撃と同様に手荒だったが、それでも彼は突撃を再開した。彼は一度はシュトルツェンベルク、シドリッツ、そして防壁の陣地を攻撃した。これらすべての地点で敗北した後、再び攻撃を試み、またもや敗北した。どんな阻止にも屈せず、彼は最後の力を振り絞った。彼は夜中に、疲労回復のために休息を取っていた私の部隊に襲いかかり、家屋をいくつか占領して火を放った。しかし、武器を取って駆け寄る二個大隊を見て、彼は恐怖に駆られ、撤退した。

巡回隊と哨兵は絶えず戦闘を続けた。個人の勇気が問われるこれらの戦闘では [288ページ]最も試練にさらされた敵は、全て我々に有利に働いた。コサックは全く活躍しなかった。3人のコサックが協力し、第12連隊の竜騎兵、ドゥルムスを制圧しようとした。この勇敢な男は毅然とした態度で彼らを待ち構え、槍の一撃で倒れても立ち上がり、武器の先を掴み、敵を引き寄せ、その場で倒した。同じ連隊のもう一人の竜騎兵、エケは、この蛮族のうち4人に抵抗した。負傷しながらも、1人を倒し、もう1人を殺し、残りを敗走させた。同様の特徴はいくらでも挙げられるだろう。

こうした絶え間ない攻撃は我が兵士たちを苦しめた。コサックに侮辱されることなど許せなかった。我々は武器を取った。グランジャン将軍が右翼を、デヴィリエ将軍が中央を、そして左翼はユーデレ伯爵が指揮した。我が縦隊の予期せぬ出現に、敵は恐怖に凍りついた。敵の馬は平原で自由に草を食み、歩兵は陣地で休息していた。彼らはこの攻撃を予期していなかったのだ。我々が移動を開始したまさにその時、私はリュッツェンとバウツェンの不滅の勝利の確かな知らせを受け取った。私はそれを伝え、宣言し、広く伝えた。歓喜、陶酔、熱狂、 [289ページ]感情は最高潮に達し、これらの感情が一気に表に現れ、我が軍は勝利を渇望する戦いを待ち焦がれている。左から右へと「前進!」の叫びが響き渡る。合図が送られる。即座に砲兵隊の装甲が剥がれる。部隊は敵に接近し、戦闘が始まる。地面は死体の山で覆われる。プロイティン大尉は敵に銃火を浴びせ、シェーンフェルトからの撤退を強いる。ポーランド騎馬砲兵隊は全速力で近づき、半射程圏内にまで迫ると、行​​く手を阻むもの全てを粉砕する。ベランクール少佐とデュプラット大隊長は前進し、逃亡兵を追い詰める。彼らは彼らが集結するたびに彼らを解散させる。中央で敗北した敵は我々の左翼に陣取り、オーラを脅かす。シュナイダー少佐は頑強な抵抗に抵抗する。この優秀な将校は、ある時は防御し、ある時は攻撃を仕掛け、利用可能な手段の不足を勇気で補った。ブリッサウ将軍とフッソン将軍が彼の救援に駆けつけた。ロシア軍は圧倒され、奔流を食い止めることができず、敗走し、ヴォンネブルク背後の高地に到達するまで止まらなかった。彼らはすぐに作戦を変更し、我が軍の右翼に突撃したが、右翼は見事な堅固さで彼らを迎え撃った。デングロフシュタイン大佐、ホラダム少佐、中佐 [290ページ]希望よ、互いに努力を惜しまずに。ヴィニュー軍曹とオージェ軍曹もまた、勇気の模範を示した。私はこの血みどろの戦いの真っ只中に突入する。第10連隊のポーランド軍に、予備の大砲5門を率いて前進を命じる。戦闘は激しさを増し、激しさを増す。ロシア軍はついに敗走し、ピッツケンドルフの陣地から混乱の中逃走する。追撃するのは得策ではないと考えた。今日の災難はこれで十分だ。ロシア軍は約1800名を戦闘不能に追い込んだ。私は発砲を止めさせた。我々の側は、死傷者400名と見積もった。

二度に渡る戦闘で連合軍は敗れ、休戦を要請した。戦火は再びオーデル川へと持ち込まれた。我々は再び運命の審判者となった。我々の栄光は、経験不足を補い、いかなる障害にも屈しない、あの奔放な勇気の賜物であったがゆえに、より純粋なものであった。新兵がプロイセンとロシアの連合軍に勝利したのだ。プラナート大尉は、敗れた包囲軍が逃亡の安全を求めていたまさにその時、この知らせを我々にもたらした。ナポレオンはその寛大さの証として、その書簡にリボンを授けてくれた。 [291ページ]レユニオン 勲章の受勲者。昇進、勲章授与、そして昇進にふさわしいと考える上官の指名を私に委ねた。彼の勝利は兵士たちの勇気を鼓舞し、兵士たちは再び彼の才能を誓い、ヴィスワ川のほとりで彼が再び勝利するのを見た。彼の辞令は次のような内容であった。

「ムッシュ・ル・コント・ラップ、

少将が状況を報告いたします。年内に和平が成立することを期待しておりますが、もし期待が裏切られた場合は、封鎖を解除しに伺います。我が軍はかつてないほど勢力を増し、好調な状態にあります。私が講じた措置により、120万人の兵力と10万頭の騎兵を確保できたことは、日誌をご覧いただければお分かりいただけるでしょう。デンマークとの関係は非常に良好で、アルキエ男爵は今もなお私の大臣を務めています。あらゆるほのめかしに耳を貸さず、私が託した重要な要塞を守り抜くよう、あなたに勧告する必要はないでしょう。将校が戻ってきた暁には、どの兵士が最も功績を挙げたかお知らせください。彼らにふさわしい昇進と勲章は、あなたがお考えください。 [292ページ]授与されたものとみなし、将校に十十字章、騎士に百十字章を授与すること。最も重要な功績を挙げた者を選出し、その将校から返送してリストを送付すること。これは、レジオンドヌール勲章総長に任命について指示するためである。また、大尉を含むすべての空席を補充すること。これらの昇進に関する報告書も送付すること。このことについて神に祈ります。

「ナポレオン」

「ノイマーク、1813年6月5日」

第41章
君主たちは休戦の条件を定めていた。各要塞は5日に一度食料を補給され、その境界線の外側に1リーグの土地を確保することになっていた。しかし、ヴュルテンベルク公爵はこの約束を回避しようとした。彼は私の立場表明に異議を唱え、境界線についても議論した。数回の協議の後、 [293ページ]暫定的な合意に達し、その件は解決のために任命された者たちに委ねられました。ところが、新たな困難が生じたのです。ある時は食料不足、またある時は交通手段不足を主張しました。手当は常に不足しており、常に滞納状態にあり、ついには完全に停止されました。公爵は口実を必要としており、ついに口実を見つけました。彼は、後方をはびこる盗賊団を殲滅したため、休戦協定を破ったと偽ったのです。彼の手紙は2時間で私に送ることができたはずですが、届くまでに2日もかかってしまいました。あまりにも多くの言い逃れに私は憤慨しました。私は単刀直入に、これ以上の言い逃れはしたくない、戦うか、あるいは条件を満たさなければならないと告げました。公爵は諸国と王の大義について語り返しました。この言葉遣いは奇妙でした。私は彼に、5年間も同盟国であり、弟が今もなお我々のために戦っている君主の口からこのような言葉が出たことにどれほど驚いたかを伝えた。この最後の例は彼を少し感動させた。彼は不機嫌そうにこう答えた。「ロシアの将軍が、同盟国王に何ら劣るとは考えていないとは。彼をその地位に引き上げたのは、皇帝アレクサンドル1世だけなのだから。」 [294ページ]尊厳を持ち、そうすれば彼は他の者と同様に王となることができるだろう。しかし、それはいかなる権力や人物を犠牲にしてはならないという、わずかな条件のもとでのみである。」

兵士たちは武器を手に駆けつけたが、公爵はこの決裂の代償を払う気はなかった。彼は物資の供給を続けることを申し出た。物資は24日に送られるべきだったが、26日まで届かず、結局すべては届かなかった。ロシア軍が供給してくれたのは、腐った肉と、実験してみるまで使う勇気もなかったほどひどい小麦粉だけだった。量に関しても彼らは忠実で、条約で保証された量の3分の2しか受け取れなかった。

ヌーシャテル公は、翌年の5月まで持ちこたえる必要があると告げた。それは全く不可能だった。私には、これほど長期にわたる防衛に耐えられるだけの食料も兵力もなかった。私は公にその点を指摘し、指示は的確なものとした。可能な限りのあらゆる措置を取る用意はできていたが、善意だけでは手段は生まれない。

[295ページ]

「ダンツィック、1813年6月16日。

「王子様、

殿下が6月5日付でノイマルクから送って下さった光栄な手紙を受け取りました。プラナ氏からもモニトゥール誌のコレクションをお送りいただきました。そこには、ナポレオンが連合軍に対して勝利を収めた決定的な戦闘の詳細が記されています。プラナ氏が到着する前日から、ナポレオン軍の輝かしい勝利に関する情報を得ていました。この朗報は守備隊に最大の効果をもたらしました。私が彼らに無益な期待を抱かせていなかったことが証明されたのです。そして、この朗報が示した忍耐と勇気は、彼らが当然期待していた報酬を得ることにつながったのです。

休戦協定は私にも伝達されており、この件について特に殿下に書簡を差し上げます。現状では、この休戦は守備隊にとって有利よりも不利となることは否定できません。疫病のせいで、依然として毎月1100人の兵士が失われており、その結果、8月1日までに1700人の兵士を失うことになるでしょう。

「さらに、我々の食料は消費されてしまうだろう。もしヴュルテンベルク公爵が我々に対してこれまで以上に良い態度を示さなければ、[296ページ] 彼が我々に供給する義務を負っている食料の一部を、本来であれば蓄えるはずだったのに、それができなくなるだろう。10月までは私の状況は不安を抱かせることはないだろうが、それ以降は実に苦しいものとなるだろう。広大な要塞を守る人員と、守備隊のための食料が不足し、内外の資源に頼るしかなくなるからだ。

封鎖以来の配給構成を御覧いただければ、陛下、食料の分配において、我々の置かれた状況から求められる厳格な節約を実行し、そのためにあらゆる資源を投入してきたことがお分かりいただけるでしょう。しかし、これらの資源は枯渇するばかりで、住民の追放によって得られるであろう資源を考慮に入れるのは無意味です。実際、この痛ましい真実を確信するには、2年前、ナポレオンがダンツィックの住民に60万クインタルの穀物を徴発したことを思い起こすだけで十分です。この命令は厳格に執行されました。当時、住民の生活のために残されていたのはわずか2万3000クインタルでした。それ以来、住民はこの量と、厳重な捜索から隠蔽されたわずかな量で暮らしてきました。

[297ページ]

疫病が今もなお毎月生み出している損失について、上記で述べた。軍の状況に関する報告書によると、実戦力は20,558人である。これは、私が既に示した推定(ただし、あまりにも正確すぎる)によれば、休戦終了時には守備隊は20,000人に減少することになるが、このうち少なくとも2,000人は病院に入院することになる。たとえ飢餓が疫病の蔓延を悪化させないと仮定したとしてもだ。では、現実の状況から予想される死亡率の上昇によって、これほど多くの兵士が命を落とす5月までに、我々の状況はどうなるだろうか?我々が行える計算によれば(冬季疫病が死亡者数を大幅に増加させないこと、そして毎月1,000人程度の損失を許容することを考慮すると)、5月1日までに損失は8,000人となるだろう(ただし、戦闘中に命を落とす者、あるいは負傷の影響で命を落とす者も含め、総計で考えると、5月までに残る実力兵力はわずか1万1千人となり、そのうち3千人は確実に病院に入院することになる。これほどの小規模な守備隊で、これほど広大な要塞を守り抜くことは可能だろうか?

「私はすでにモットラウの入り口を守るための工事の建設を命じた。 [298ページ]河川が凍結すると、極めて脆弱な地点となります。加えて、連絡を確保するためにあらゆる手段を講じていますが、繰り返しますが、防衛に人員が不足しています。陛下、もし必要が生じれば、ダンツィッチのどこかで自陣を守るために、名誉と皇帝への忠誠心からできる限りのあらゆる手段を講じることを疑ってはなりません。

弾薬庫の状況を見れば、陛下には我々の資源が極めて限られていることがお分かりいただけるでしょう。名誉ある防衛を成し遂げたいという思いから、私はあらゆる注意を払って弾薬庫を管理するつもりだと、陛下はお考えでしょう。この目的のため、戒厳令下の地域に法律で定められた食料管理委員会に、規定人数に加えて相当数の委員を増員いたしました。

「私は彼らを師団長ユーデレ伯爵の議長の下に置いた。この委員会は、兵士の経済性と福祉に資するあらゆる方策を私に提示するよう指示されている。委員会は多大な貢献を果たしており、今のような資質をもっと早くに与えていなかったことを後悔している。」

「財政に関する条項は特に [299ページ]皇帝陛下と陛下のご配慮に深く感謝いたします。私の手元に残された資金はすべて使い果たし、強制的に借金をせざるを得なくなりました。そして、まだ少しでも譲歩できる者すべてに、借金を課しました。この借金は、共同防衛に貢献できないふりをした者に対して、非常に厳しく執行されました。しかし、これに関して払われたあらゆる努力、そして同様の結果をもたらすために講じられたあらゆる措置にもかかわらず、現在までに集まったのはわずか170万フランに過ぎず、残りの徴収は困難を極めるでしょう。

「陸軍の給与、工兵部隊の建設費用、そして肉体労働に関する費用(この二ヶ月間と同様に、現在あるすべての資材は徴発により徴収され、封鎖解除時に要求に応じて支払われる)。砲兵隊の費用、病院の費用、各軍の部門の費用、食料、つまり肉体労働と日常労働に必要なすべてのもの、海軍部隊の建設費用、衣服費用など、これらすべての費用について、私は見積りを命じた。[300ページ] 総額は月額90万フランを超える。

外国の商社が、パリでの返済を主計総監が保証するという条件で、こちらに資金を提供すると申し出ています。この件が解決すれば、私にとっても大きな安心材料となるでしょう。しかし、資金は私宛に送金していただければ幸いです。そうでなければ、2ヶ月目に支払いが滞るような事態が発生する可能性もあるからです。陛下も、特に私が指揮​​する守備隊のような構成においては、前述のすべての費用を期限通りに支払うことが不可能であることはよくご存じのとおりです。ですから、私が絶対に必要としている資金を確実に支払えるよう、陛下にお願い申し上げたいと思います。

「最後に、現在我々の弾薬庫に残っている火薬の量は包囲戦に必要な量に全く及ばないことを陛下に申し上げずに終わるわけにはいきません。

「最後に、閣下、防衛のための人員不足、生活手段の不足、支出を賄うための資金、つまり、我々の物資の不足について、私が心に浮かぶすべての意見を前もって述べておくのが適切だと考えました。 [301ページ]迫り来る我々の必要に見合うあらゆる部門を。そこで陛下、もし陛下が我々を助けてくださらない場合、我々がどのような苦境に陥るかを皇帝陛下にご説明ください。残存する守備隊は他の点では優秀であり、その働きは、限りない献身に対するわずかな褒賞をうまく活用すれば、期待できるでしょう。彼らは皇帝が最精鋭の兵士たちに期待するあらゆる働きをし、陛下が彼らに寄せてくださった信頼と、大陸軍の軍団に数えてくださった寵愛にふさわしいものとなるでしょう。

「そうです、など」

(署名) 「ラップ伯爵」

休戦協定は終了に近づいていた。包囲戦のための兵力、弾薬、大砲が大量に到着していた。間もなく、大口径大砲300門と6万人の兵士が我々の前に集結した。その差は甚大だったが、病で衰弱した時に勝利したのだから、再び勝利できる可能性もあった。生活の糧以外には何も欠けていなかった。ロシア軍はこれを確信していたため、漁に出ている小さな船まで追跡した。 [302ページ]砲艦は境界線を越えていなかった船の一部さえ拿捕した。私は直ちに提督に休戦旗を送った。海岸から1リーグは海を解放すべきであり、もし彼らが再び休戦協定に違反しようとしたら、休戦協定の条件を尊重させる方法を私が知っていると説明した。提督は条件に従い、二度と我々の船を邪魔しないと約束した。実際、彼は船を邪魔することはなかったが、その晩、何が起こるか疑うことなく小屋に引きこもっていた我々の不運な漁師たちを連れ去った。彼は要塞で数ポンドの魚が豊富な獲物となることを恐れていた。農民と水路も同様の扱いを受けていた。彼らは前者を罠にかけ、後者を別の方向に向けさせた。彼らには、まるであらゆるものが我々に食糧を与えるために動いているかのようだった。あらゆる方向から食糧が迫っているように。抗議しても無駄だった。実際、言い訳や言い訳はいくらあっても足りなかった。ついにウォルコンスキー公爵は戦闘再開を私に告げた。私はこの知らせを心からの満足とともに受け止めた。我々の関係はあまりにも不快なもので、私はそれが終わるのを望まずにはいられなかった。

[303ページ]

第42章
敵は自信に満ち溢れ、戦い、陰謀を巡らせ、強襲でこの地を奪取するか灰燼に帰すかと期待を膨らませていた。しかし、我が兵士たちの警戒と勇敢さによって、その試みはすべて失敗に終わった。焼夷ロケットは我が城壁に無駄に打ち込まれ、攻撃は撃退され、使者は発見された。これらの悪党のうち数人は既に我が軍の弾薬庫に侵入し、火をつけようとしていた。私は彼らを見せしめにすべきだったかもしれないが、この見せしめが危険を及ぼすのではないかと恐れた。当時犯罪を知らない者たちに犯罪の事実を知らせ、兵士たちの間に不安が広がることを恐れたのだ。私は彼らが食料を盗もうとしたと信じるふりをして彼らを解雇したが、窃盗を厳しく取り締まる布告を発し、悪意を遠ざけた。

3日間の屈辱と疲労の後、 [304ページ]包囲軍はついにオーラの森を占領することに成功した。森からはすぐに追い払われた彼らは、新たな戦力と共に再び現れ、我々の分遣隊を追い込んだ。任務中の大隊は再び武器を取り、救援に駆けつけた。ルグロ少佐が森を攻撃し、擲弾兵二個中隊が村に向かって行進した。部隊は互いに遭遇し、突撃し、追い詰め、そして村を倒した。戦闘は凄まじくなった。カプグラウ大尉はプロイセン軍将校の髪を掴み、地面に投げ倒すと同時に、将校自身も殺されそうになった。兵士の一人が既に銃剣で彼に触れていた。サバティエ中尉は攻撃をかわし、コサックに迫り、サーベルで突き刺した。しかし、彼が部下を救った瞬間、彼は喉に傷を負い、戦場を去らざるを得なくなった。森の中、村の中、至る所でロシア軍は敗北を喫した。デュシャ大尉は自ら4人を殺害し、シャルトン司令官、デヴリーヌ中尉、ブランシャール中尉は彼らをなぎ倒した。勇敢な仲間たちが彼らの間に突入し、混乱を拡大させた。間もなくその勇敢さで名を馳せたフランクー、マルタン、クチュール、ロシェット、シュリッツ、ルポン、ベノ、スーデ、パリス、ベロキオ、軽歩兵部隊の副官たち、そしてカラビニエのリチダ、 [305ページ]太鼓を叩くブレイキエは敵の隊列の中央にまで突進し、彼らを我が兵士の剣に明け渡した。

敗れた者たちに代わり、新たな部隊が森に陣取る。ジョリー・ドラトゥール中尉に率いられた我らが英雄たちは突撃し、攻撃を仕掛けて彼らを打ち破る。しかし敵は勇気を失わず、再び隊列を組み、三度目の登場を果たす。しかし、常に打ち負かされ、常に散り散りにされ、ついに攻撃を中止する。

翌日早朝、敵はシュトリースとハイリゲンブルンに進撃し、ランゲフールを占領した。我が軍の前線は、村の左右に位置する二つの堡塁に後退した。ロシア軍は追撃し、攻撃の準備を整えたが、ポーランド軍の射撃はあまりにも迅速かつ正確で、ロシア軍は撤退を余儀なくされた。彼らはより大軍で戻り、掩蔽物を設置し、イェシュ・ケンタールの峡谷を占拠した。ハイリゲンブルンを脅かし、シュトリースから脱出した。我が軍の全戦線が砲火を浴びた。これらの動きから、敵の意図は明白であった。彼らがランゲフールに深刻な脅威を抱いていることは明らかだった。私は先手を打って出撃し、迎え撃つことを決意した。私は部隊を集結させ、左翼を村に、中央をツィガンゲンベルクの峡谷に配置させた。 [306ページ]右翼はオーラまで伸びている。レピン将軍指揮下の大砲24門が両翼の中央に配置された。彼らは直ちに射撃を開始した。敵の堡塁、敵の大群、ピッツケンドルフの野営地、すべてが我々の砲弾によってなぎ倒され、我々は敵の大砲を2門降ろした。ポーランド軍、バイエルン軍、ウェストファリア軍、そしてファリーン将軍指揮下の騎兵250名が同時に出撃した。勇敢なシェンベックは既にロシア軍と交戦しており、彼らをデュフェルカムから追い払っていた。我々の兵士たちはこの敗北を知るや否や戦意を燃やし、ピッツケンドルフの堡塁に突撃した。陣地から追い返された連合軍は自衛を試みるが無駄だった。軽騎兵隊の先頭に立つ若い百人隊長はあらゆる障害を乗り越えたが、満身創痍で倒れた。若くして攫われたこの優秀な将校の姿を見て、復讐への渇望が我ら兵士たちの勇気を燃え上がらせた。歩兵と騎兵は堡塁に一斉に突撃した。トランペット奏者のベルナルダン、猟兵のオリール、補給将校のブーシェはロシア軍の真っ只中に飛び込んだ。既に負傷していたティリオン中尉は、指揮官のもとへ直行し、彼を捕虜にした。この瞬間から、もはや戦いは終わった。 [307ページ]戦いはまさに殺戮であり、殺戮であり、銃剣の刃に突きつけられて皆殺しにされるか、あるいは征服者たちの慈悲によって命を救われるかのどちらかである。我が兵士たちが勇気の炎に身を委ねている間に、コサックの群れが彼らに襲い掛かり、彼らを切り裂こうと脅した。しかし、カヴェニャック将軍が予備騎兵を率いて素早く前進し、部隊は猛烈な勢いで突撃した。エラン副官、ベル中隊長とゼルスキ中隊長、ジベール、ファイヨー、ヴァリエ、パテスキ、バガソ各大尉らは、非常に優れた知性と技量を発揮し、敵は完全に敗走し、恐ろしい混乱の中に散り散りになった。

砲撃はますます激しくなった。ロシア軍は依然としてピッツケンドルフ前面のヨハニスベルクを占領し、ランゲフールに猛烈な攻撃を仕掛けた。私はヴィスワ川から一個大隊を派遣し、デトレ将軍率いるナポリ軍の支援を受けた。その指揮下にはペペ将軍がおり、ペペ将軍は後に祖国で起きた一連の出来事によって名声を博した。勇敢なシェンベックが攻撃を開始し、それは極めて規則正しく、かつ精力的に行われた。銃剣の先で敗走し、破壊的な突撃によって打ち倒されたロシア軍は、逃亡の道を選んだ。ポーランド軍はより大胆に追撃を開始した。 [308ページ]太鼓手ハデは彼らの一人をカルトゥーシュボックスで掴み、隊列から引きずり出して武器を奪う。ファトチンスキー大尉は自分が負傷していることも忘れ、彼らが占拠している家に突入し、隊長を殺害し、30人を捕虜にした。

ナポリ軍も同じく激昂し、逃亡者を追って突進し、追い詰め、銃撃した。ペペ将軍、ルボン大佐、バラティエ司令官、スルデ司令官、シヴァンディエ大尉、チャンクリ大尉らは、逃亡者たちの勇気を鼓舞し、鼓舞し、同時に訓戒と模範を示した。

山の反対側でも、戦闘は劣らず激しく、血なまぐさいものだった。合図とともにカミンスキー大佐はロシア軍に向かって進軍し、彼らを追い払った。彼は彼らを前に追いやった。追撃は熾烈だった。増援部隊が到着し、敵軍は流れを止めようと試みるが、ポーランド軍は猛烈に追撃する。ロゼゼンスキー、ドラビツツフスキー、ドクス、ザレンバ、ジグノヴィチ、そして彼らの指導者に忠誠を誓う者たちが、ポーランド軍に襲い掛かり、彼らを四方八方に切り刻んだ。

我々はヨハニスベルクを制圧した。天候はひどく、敵は遠くを飛んでいた。私は撤退の合図を送った。それは完璧な秩序のもとに実行された。6時にはすべてが平穏だった。しかし、ロシア軍はそうではなかった。 [309ページ]ロシア軍は再び姿を現すずっと前に、ベルヴェデーレとハイリゲンブルンの高地を同時に攻撃し、激しい砲火を浴びせたが、僅かな優位も得られなかった。カミンスキー大佐とシェンベック司令官は勇気と手腕を発揮し、彼らを混乱させた。彼らは撤退したが、同時に2個大隊が多数の騎兵隊に支援され、シュトリース村に進軍した。カミンスキー大佐は村の防衛に急いだ。ロシア軍は即座に突撃を開始し、高地を登り、ベルヴェデーレを攻撃し、前進して攻撃を続けた。しかし、デスクール少佐の優れた布陣と、ヨフマン大隊長およびロビエスキー大隊長の勇敢さの前に、ロシア軍の試みはすべて失敗に終わった。

これは彼らが試みた最初の陽動作戦ではなかった。彼らは既に我々の前線陣地をシドリッツからオーラまで追い詰めていた。シュナイダー少佐は正面と側面から攻撃を受け、勇気によってこの郊外を守り抜いた。彼は、不用意にも大通りに進入してきた多数の縦隊を察知し、突撃してぶどう弾を浴びせ、壊滅させた。フッソン将軍が予備隊を率いて到着した。我々は攻勢を再開した。瞬く間に森と村は陥落し、ロシア軍は恐ろしい混乱に陥った。 [310ページ]大隊長ブーランジェは8人の武装を解除し、マスケット銃の弾丸で負傷した勇敢なヴェステル軍曹は3人の武装を解除した。コルニュ少尉は我々の兵士1人を救出し、護衛の捕虜とした。

私は再びヨハニスベルクとランゲフールを制圧したが、この勝利は長続きしなかった。ロシア軍は絶えず新兵を率いて突撃に加わり、最終的には勝利を収めざるを得ないことは明らかだった。しかも、この二つの陣地は互いに大きく離れており、私に大きな損害を与えることも、役に立つこともなかった。そこで私は、連合軍が大挙して現れた場合に撤退するよう命令を出した。しかし、彼らの大胆さは臆病に取って代わられた。彼らは高地から撤退することを恐れ、放棄された村を占領する勇気などなかった。それでもなお、占領を焦り、私が守らないと決めていた陣地を掌握しようと総攻撃を開始した。兵士たちは武器を取り、艦隊が支援した。私の戦列全体が攻撃を受けた。80隻の砲艦が一斉に砲火を放ち、ノイファーヴァッサーに砲弾を浴びせた。シェルミューレ、ニュースコットランド、オーラ、ツィガンゲンドルフは炎の餌食となった。敵軍は平原に奔流のように広がり、 [311ページ]あるいは、通行を妨げるものすべてに火をつけるなどと。私はこの恐ろしい混乱の最中に現れた。しかし、ロシア軍の勇気はすでに衰えており、ポイエック少佐率いる少数の勇敢な兵士によって撃退され、カブルンの入り口は死体の山で埋め尽くされた。私は追撃を命じた。激しいジベールは猟兵を率いて突撃した。メゾヌーヴ大尉もこれに加わり、彼らは突撃した。無秩序な群衆は撃退され、シェルミュルへと押し戻された。村を占拠していた部隊と合流したこのロシア軍は、オストロフスキー大尉の破壊的な一斉射撃に耐えたが、フランス軍で最も勇敢な将校の一人であるマルニエ大尉によってすぐに方向転換させられ、彼らは逃走し、解散して、自分たちが炎に投げ込んだ建物の廃墟の中に避難場所を求めた。

ランゲフールでも戦闘は熾烈を極めた。1万2000人のロシア軍に攻撃され、我々の陣地は敵の大隊列の真っ只中で奮闘を続けた。シャトコフスキー軍曹はコサック軍から逃れるために全力を尽くした。13人の部下と共に村の正面で作業に従事していた彼は、この非正規軍に包囲された。彼は直ちに部隊を集結させた。 [312ページ]労働者たちは、一方から対峙し、他方から攻撃を受け、絶えず行進し戦闘を続け、ついに一人の兵士も失うことなく戦闘から離脱した。

ロシア軍は敗北に屈辱を感じ、村へと進軍を開始した。私が奇襲攻撃に耐えられるよう準備していた二軒の家が村の入り口を守っていた。敵軍は側面から攻撃を仕掛け、前進を続け、エスカレード攻撃を試みたが、激しい砲火で混乱に陥り、撤退を余儀なくされた。さらに不運なことに、ナポリ軍が現れ、攻撃を仕掛けた。ルボン大佐とデジェンネロ大佐は前進を続け、騎兵隊を突破してランゲフールに侵入した。騎兵隊は数と勇気を増して突撃に復帰し、障害物につけ込み、絶好のタイミングを捉えて、通りに散り散りになっていた我が軍の大隊に突撃を仕掛けた。血みどろの戦闘が勃発した。勇敢なパリアッツィは槍で10箇所の傷を負って倒れた。ニコラウ、アンジェリ、デジェンネロ各大尉は重傷を負い、戦場から退却を余儀なくされた。勇敢なグリマルディ、アマート、ルジャンドル、ユベール、プーザ、ゴメス、ザネッティ各中尉は奔流を食い止めようとしたが無駄だった。数の力に圧倒され、我々は撤退を余儀なくされた。最前線で交戦していた数人の勇敢な仲間は追撃することができず、 [313ページ]敵は孤立していたが、絶望に屈するどころか、危険を目の当たりにして勇気を増し、オディアディ副官のもとに集結した。前進し、方向転換し、後退し、ついに要塞化された家屋に到達した。彼らはすでに二度目の攻撃を受けていた。抵抗に激怒した連合軍は柵の上に身を投げ出し、それを地面から引き剥がし、これらすべての障害を乗り越えようとしているように見えた。しかし、我々の砲火にさらされるや否や塵と化し、すぐに成功を諦めた。家を奪取することができず、彼らは家に火を放った。我々の勇敢な仲間たちは動揺していない。あるものは砲撃を続け、あるものは炎を鎮圧した。そして敵は以前より前進していない。濃い煙が二つの家屋を我々の視界から隠していた。私はまだ、我々の軍隊がそこを占領したのか、それとも連合軍が支配権を握ったのか分からなかった。後者であるとの報告があった。それでも私は、確かめようと試みようと決心した。しかし、家々から発射された弾丸が雨のように降り注いできたので、私は弾丸が失われたと結論した。特に、一つの状況がそれをあり得るものにしていた。それは、炎がまだ燃え盛っている間に砲撃が止まっていたことだ。しかし、弾丸が放棄されたとは信じたくなかった。私は新たな偵察を命じた。これらの弾丸の周囲は [314ページ]二つの柱の上には白いカポテを着た死体が積み重なっていた。私が派遣した将校たちは、その服の色に惑わされて、バイエルン軍が全滅したと思い込み、皆がそう主張し、皆がそれを確信した。かくも勇敢な兵士たちの死は悲痛であり、表面上は認めるべきものではなかった。私は副官の一人、マルニエ大尉に事態の真相を確かめるよう命じた。この任務は彼にとって不快なことではなかったはずだ。彼はウクレの戦いでスペイン軍に武器を放棄するよう召集し、それを引き受けていた。コサックの槍も彼を阻むことはできなかった。夜明けに彼は、同行を希望する八人の部下と共にカブルンを出発した。彼は右手の家に駆けつけた。すぐに障壁が開き、分遣隊は彼に合流し、ロシア軍が阻止しようと突進してきたにもかかわらず撤退を開始した。

左翼の障害はまだ残っていたが、最大の難所は克服された。私はそれがまだ存在すると確信していたので、交代命令を出した。一個大隊が前進し、この素晴らしい兵士たちはそれを見つけるとすぐに負傷兵をその真ん中に置き、連合軍に向かって突撃した。数人が負傷し、勇敢なダルウィックは銃弾に当たった。 [315ページ]左肩を粉砕されたが、彼は熱意を持って戦い続けた。戦闘はますます血なまぐさいものとなった。同胞を救おうという崇高な願いに燃えたバイエルン軍は、勇敢な二人の将校、ザイファーリッツ副官とムック中尉の例に勇気づけられ、急いで敵に突撃し、突破して、ついにこの一握りの忠実な兵士たちを無事に連れ出した。彼らは一種の凱旋入場をしたようで、誰もが彼らに会いたがり、祝福した。皆が彼らの不屈の精神を語り、彼らの決意を自慢した。たった一人で、食料も弾薬もなく、喉の渇きに苦しみ、煙で窒息しそうになりながら、彼らは脅しに立ち向かい、召集を撃退し、敵のほのめかしを軽蔑して退けた。特にファーレベック大尉は賛辞を惜しまなかった。彼の冷静さは 称賛され、勇気は讃えられ、彼の毅然とした態度と思慮深さは皆の話題となった。私がこの勇敢な仲間たちにどれほど満足しているかを証言するのは当然のことだった。彼らが直面した危険、彼らが冒した危険をその日の予定表に加え、負傷者を自分の宿舎に泊めさせた。毎日彼らを訪ね、毎日… [316ページ]彼らの状況を把握し、彼らの必要は満たされていると確信しました。さらに、私が信頼する将校、ロメル氏には、私が彼らに与えることのできない心配と慰めを惜しみなく与えるよう指示されていました。

敵はランゲフールを制圧するや否や、攻撃を開始した。次々と要塞が築かれ、その努力は止むことはなかった。敵の狙いは、私の陣地をますます狭め、最終的には要塞に籠城させることだった。この計画は見事だった。唯一の問題は、それをいかに実行するかだった。これはより困難な任務だった。私はオリヴァとハーゲルスベルクの正面を、強固な塹壕陣地で覆った。それは9つの塹壕で構成されていた。イストリアのルネットは、ハーゲルスベルクの要塞と峡谷を見下ろす高地の頂点を占め、その両側にはキルゲールとコーランクールの砲台が配置されていた。その後、これらの塹壕とランゲフール街道の間にある丘陵の中から、最も有利な位置にあるものが選定され、要塞化された。これらの堡塁の配置は次の通りである。コーランクールから右に行くと、ロムフ堡塁、グラボウスキー砲台、デロイ堡塁、砲台 [317ページ]モンブルン。この防衛線を完成させ、ヴィスワ川まで延長するために、さらに二つの砲台が築かれた。一つはランゲフール街道の向かい側にフィッツァーと呼ばれ、もう一つは少し離れたところにグディンという名で知られていた。グディンは人工の堤防の上に築かれ、ヴィスワ川左岸の堤防まで伸び、我々の全戦線の右翼を形成していた。この堤防は、川の反対側に配置された二つの砲台を囲んでいた。これらの陣地はすべて柵で囲まれ、兵舎と火薬庫が備えられていた。さらに私は二つの兵舎を建設するよう命じた。一つはキルゲール後方の左端に400人を収容するもので、もう一つはモンブルン後方に150人を収容するものだった。モンブルンからグディンまで続くこの防衛線は、一種の屋根付き道路で結ばれており、左翼に伸びる部分は地形の悪さによって十分に保護されていた。さらに、これらの作品の一部に攻撃的な行動力を確保することが必要だと考えました。

オラもまた防御態勢を整えた。互いに連絡を取り合う家々が密集し、ドアや窓は壁でしっかりと塞がれていた。胸壁や柵は、地面の舌状部以外には出口がなく、 [318ページ]二つの水床に挟まれた、やや深い塹壕は、オラの第一塹壕 として知られる前進塹壕を形成していた 。その後方400ヤードに位置する第二塹壕も同じ材料で造られ、要塞化された大きなイエズス会修道院の上に支えられていた。郊外に近づく高台と隘路も要塞化されており、それらを越えた堡塁は敵の反撃を阻み、すぐにフリウリの砲台と戦線という名で有名になった。

我々がこれらの工事を進めている間、敵は我々の前線陣地と頻繁に小競り合いを起こした。シドリッツ、オーラ、シュトルツェンベルクが次々と攻撃の標的となった。あらゆる地点で撃退された敵はホイバーデを奇襲しようとしたが、そこで敵の手には負えなかった。警戒心に満ち、あらゆる策略に精通していた老兵のカレ司令官は、敵の縦隊を察知し、互いに交戦させることに成功し、危機的な状況から損害なく撤退した。

この残酷な隠蔽にひどく恥じ入ったロシア軍は、カブルンで復讐できると自惚れていた。彼らはカブルンを包囲し、登攀したが、ナゼフスキー大尉の指揮する壊滅的な砲撃を受け、塹壕を死体で埋め尽くしたまま撤退した。彼らは行進した。 [319ページ]再びシドリッツに攻め入った。最初は敗走したが、新たな勢いと激しさで再び突撃を開始した。しかしブータン副官、クレベール大尉、フイヤード大尉が兵士たちの勇気を奮い立たせ、連合軍に突撃し、これを打ち破った。

艦隊も怠っていなかった。4日の夜明けには、戦列を整えて現れた。その2日前には2度連続で攻撃して失敗し、7000発以上の砲弾を完全に無駄にしていた。恥辱、復讐心、あらゆるものが艦隊を戦闘へと駆り立てた。それはまるで火山の爆発のようだった。フリゲート艦と砲艦が轟音とともに直ちに出撃し、砲弾の雨を降らせた。しかし、我が砲台は動揺するどころか、より冷静に規則正しく運用されていた。士官も兵士も皆、危険をものともせず、勝利のことだけを考えていた。砲を泡立てていた砲手が片腕を失った。ポメレンスキー大尉が泡立て棒を手に取り、任務を遂行した。ヴィアール軍曹は赤熱した弾丸を発射する砲を担当し、多角形に狙いを定めていた。ミレフスキ中尉は自らの艦艇を管理・指揮し、砲艦1隻を沈没させ、他の艦艇にも損害を与え、戦闘現場から撤退を強いた。レピジェ大尉、ザコフスキ曹長、曹長 [320ページ]ラズミスキ、ムルタロフスキ伍長は、冷静さと技量の見事な手本を示した。ヘニオン艦長、アグニー中尉、フリゲート艦ルソー艦長、水兵デスペストルとコスト、デイヴィス伍長とデュブー伍長は、大砲に執着し、敵が敗走するまで戦い続けた。艦隊は努力の無駄を悟り、9000発の砲弾を発射して二人を殺したという満足感とともに出航した。艦隊は我々の砲2門を降ろしたが、砲艦2隻を失い、他の9隻は深刻な損害を受け、フリゲート艦は我々の砲弾と砲弾による穴だらけだった。

間もなく、我々はより手強い敵と対峙することになった。ヴィスワ川は突如として増水し、氾濫、あるいは堤防を崩し、猛烈な勢いで流れ去った。その場所、要塞は波の餌食となった。橋は流され、水門は破壊され、堤防は決壊した。妨げるものがなくなった水は溝に流れ込み、堡塁を崩した。ボーレンとブラウン・ロスの堡塁は壊滅状態となり、ヴィスワ川が元の河床に戻れば、洪水を抑えることができなくなるのではないかと懸念された。しかし、工兵隊はこの危機的な局面でも怠ることなく、堡塁を再建することに成功した。 [321ページ]優れた器用さと粘り強さで、決壊した堤防を修復し、水が引いた後も、ヴェルダー川を流れる支流によって維持されていた洪水の水位はほとんど変化しませんでした。

いよいよロシア軍の番が来た。彼らは水位の上昇によって我々が困惑したことを利用し、砲台を次々と設置し、11月15日には最大口径の大砲を並べた20隻の艦隊を露わにした。艦隊もまた、我々の要塞への攻撃力を試すために攻めてきた。歩兵の大群は、防壁が破壊され次第、攻撃を開始する準備を整えていた。3隻の爆撃艦と40隻の砲艦が、ニューファーヴァッサーに猛烈な砲火を浴びせた。危険は我々の兵士たちを落胆させるどころか、むしろ奮い立たせる。彼らは勝利を誓い、攻撃者を懲らしめると誓う。戦列兵は大砲の近くに留まり、砲兵は閲兵式のように彼らに砲口を向ける。彼らは多数の砲艦に損害を与え、マストを破壊した。突然、恐ろしい爆発音が聞こえた。砲弾がサント・バルブ号を貫き、スループ船は姿を消したのだ。同じ爆発が繰り返された。私たちは互いに祝福し、励まし合った。これほど見事な精度で射撃する英雄たちに、私たちもぜひ倣いたいと願った。3隻の船がほぼ同時に沈没した。 [322ページ]艦隊は炎に包まれ、最前線は難破船に覆われて撤退した。二番艦もその座に就いたが、効果は上がらず、こうして三時間ごとに交代し、砲火は弱まることはなかった。ついに、立ちはだかる障害、我が兵士たちの勇気、ルースロ大佐の優れた作戦、そしてフランソワ少佐の警戒によって意気消沈した艦隊は、損害の修復のため撤退した。12時間の戦闘と二万発の砲撃は、我が兵六名が死傷し、砲車三両が損傷しただけで、結果はただ一つだった。これが最後の試みだった。数か月前であれば、これは絶対確実な方法だっただろうが、戦争においてはまさにその瞬間を逃してはならない。

部隊はより成功を収めた。彼らはオラに先んじて我々の陣地を攻撃し、村の右手の高台にあるエトワール軍の陣地を占領した。ルグロ少佐は彼らに陣地を固める暇を与えず、ヴァラール大尉とオーブリー大尉の指揮下にある4個中隊が、遅滞なく攻撃地点へと進軍した。彼らはロシア軍を奇襲し、粉砕した。彼らは新兵を率いて現れたが無駄だった。撃退され、敗走し、散り散りになった。 [323ページ]彼らは勇気を失うことなく新たな攻撃を試みましたが、破壊的なマスケット銃射撃に遭遇し、解散し、シュタットゲビート村に配置された2個中隊の銃撃により全滅しました。

第43章
季節は日に日に厳しくなっていった。雨は止まず、太陽の熱も届かない悪臭を放つ霧が立ち込め、霧は消えるどころか、ほとんど消えなかった。しかし、さらに悪いことに、食料不足は深刻化の一途をたどっていた。馬、犬、猫が食べられ、あらゆる資源が尽き、塩さえも不足した。確かに、勤勉さで不足分を補っていた。兵士の中には、かつて倉庫にあった古い板材を煮るというアイデアを思いついた者もいた。その試みは成功した。新たな鉱山が誕生し、病院への供給も可能になった。住民は極限まで追い詰められ、麦芽とふすまだけで暮らしていたが、それだけでは生活の必要を満たすには足りなかった。こうした苦境の中、私は [324ページ]博愛主義の同盟国が同胞を撃退するとは考えなかった。私は要塞から捕虜と乞食を追い出した。一言で言えば、食料を持たなかった者たちだ。しかしプロイセン軍は容赦なく、サン=アルブレヒトの住民がいなければ、彼らは飢えで滅びるにまかせていただろう。他の者たちはロシア軍の駐屯地へ向かったが、彼らもろくな待遇を受けなかった。もし私が彼らの惨状に同情していなかったら、住処も食料もなく、人類の解放者たちの目の前で彼らは滅びていただろう。私は彼らにいくらかの救済を与え、故郷へ帰した。要塞で働かせてほしいと懇願する者もおり、賃金として弾薬パンの半分か四分の一を受け取った。その間に敵は工事を完了した。時折、彼らは砲台を試し、より深刻な攻撃の前兆を示しているようだった。 10日、彼らは日暮れに砲撃を開始した。町、ホルム、そしてニューファーヴァッサーの塹壕陣地は砲弾、手榴弾、そして赤熱した弾丸で埋め尽くされた。火は噴き出し、ドミニコ会修道院を焼き尽くした。建物に閉じ込められていたロシア人捕虜は瀕死の状態だったが、我が軍兵士が駆けつけ、彼らを死から救った。炎は[325ページ] 激しさを増し続ける連合軍は、近隣の家々を包囲し、灰燼に帰すと脅かしていた。同時に連合軍は我がオーラ陣地の前に大挙して現れ、シュタットゲビートまで撃退した。私はユーデレ伯爵に追いついた。銃剣の先で倒された敵は、再び突撃を試みたが無駄だった。ユッソン将軍とルグロ少佐は敵の攻撃をことごとく撃退した。しかし、一つのミスが損害を増大させた。敵の二隊が互いを敵と誤認し、交戦した。負傷者の叫び声で味方だと分かったものの、既に300名以上が倒れていた。我が側には100名の戦闘不能者がいた。

翌日早朝、敵はシュタットゲビートの向こうの家々の前に現れた。二度も撃退された後、彼らは家々に火を放った。バセット大尉は二度も負傷していたにもかかわらず、彼らを手放すつもりはなかったが、炎の広がりに屈し、そのまま退却した。村を支配していた連合軍は、止まることなくエトワール平地まで進撃し、そこを占領した。丘の下り坂に残っていた陣地はもはや脆弱であったため、私は彼らを招集した。敵はついにこの陣地を占領したが、 [326ページ]彼は単なる土手の建設に十分な代金を払った。

ランゲフールへの進軍が進むにつれ、戦況はますます危うくなっていった。側面と後方から包囲され、ホルムの砲台に猛攻を仕掛けられた彼は、カブルンに築いた堡塁からすぐに撤退できなくなった。真の攻撃地点を見誤ったことに混乱した彼は、戦力を集中させ、オーラの高地へと進軍した。彼はあらゆる手段を講じて高地を占領しようと試み、私も防衛に全力を尽くした。私は戦力を増強し、陣地を拡張した。各部隊の上級将校たちは、グランジャン将軍の指揮の下、この地の安全確保に必要な対策について協議した。彼らは食料と弾薬を砲火の及ばない場所に配置した。彼らは食料を分配し、兵器部隊を編成し、製粉所を準備した。こうして、砲弾が既に保有していたものを破壊したとしても、他の兵器でその損失を補うことができた。その間も連合軍は砲撃を続けた。火は次から次へと燃え上がり、全てを灰燼に帰すかと思われた。突然砲台は止み、砲撃は中断された。この予期せぬ静寂に、住民たちは勇気を取り戻し、走り出した。 [327ページ]彼らは燃えている避難所へと逃げ込んだ。かわいそうな人々!炎から逃れられるのは数少ない壁だけで、その場所はまさに廃墟の淵にありました。

敵は砲撃を止めたばかりで、より激しい攻撃を再開しようとしていた。準備が整うとすぐに、猛烈な勢いで砲撃を開始した。エトワール砲台、ヨハニスベルク砲台、カブルン砲台、シェルミューレ砲台、ランゲフール砲台は、次から次へと砲弾を撃ち込み、砲弾、ロケット弾、そして赤熱した弾丸で我々を圧倒した。炎が上がり、建物は崩壊しつつある。ダンツィックは、噴火しては消え、また四方八方に姿を現す火山の様相を呈している。モットラウ川の両岸、バター=マルク川、ポッゲンフル川、シュパイヒャー=インゼル川、すべてが破壊された。兵士たちは救援に駆けつけたが無駄だった。絶え間ない砲弾の雨は彼らの努力を打ち負かし、数百万人の死傷者がこの惨めな住民の運命をさらに悪化させた。

我々の砦や村々も、状況は良くありませんでした。特にオラは灰燼の山と化していました。5つの砲台が休むことなくオラに向けて砲火を浴びせ、地形の凹凸に隠れた無数の小銃兵が砲弾を浴びせ、我々の行動を妨害しました。 [328ページ]砲火と砲弾によってほぼ壊滅した最初の塹壕は、依然として持ちこたえていた。シュナイダー少佐は、ある程度の勇気と慎重さでそこを守り、まだ長期にわたる抵抗を約束していたが、接近戦によって陥落寸前だったので、私は放棄した。また、私はシドリッツの首も手放した。敵は数日前にそこを制圧しようと試みていた。3個中隊が我々の陣地の前に現れたが、ルクレール大尉とコヴァルツキー中尉の猛烈な突撃によって敗走し、逃げ惑った。この教訓は無駄にならず、連合軍はより強力な戦力で戻り、そこに陣取った。その後まもなく、非常に深刻な事故が我々を襲った。木製の弾薬庫で砲弾が炸裂し、火を噴いたのだ。火薬は速射ではない。一瞬にしてすべてが炎上する。強風に煽られた炎は点から点へと広がり、どんなに努力しても消火できない火の山となった。残酷な惨劇を悲しげに傍観する私は、せめて遠くの建物だけでも救えると願った。しかし期待は裏切られ、食料の大部分が目の前で失われるという不運に見舞われた。将兵は皆、悲しみに沈み、この荒廃した光景に驚愕した。その時、突然、 [329ページ]恐ろしいマスケット銃の発射音が聞こえる。敵はフリウルの戦線を攻撃し、これを占領しつつあった。シャンビュール大尉が救援に駆けつける。この勇敢な将校は自由中隊、もしくは失われた子供たちと呼ばれる選抜部隊を指揮しており、要塞に突入してロシア軍を木っ端微塵に切り裂く。一人として逃れられず、銃剣を避けた者は大隊長クロロンとディボウスキーの銃火に倒れる。コンラッド中尉はこのとき、並外れた毅然とした態度を実証する。銃弾で肩を骨折しながらも、彼は戦闘の最中へと身を投げ出す。シャンビュールは彼を救い出して、「あなたは負傷しています」と彼に言いました、「ここはもうあなたのいる場所ではありません。行って、将軍に私たちが要塞にいると伝えてください。」 – 「大尉」と勇敢な中尉は答えました、「私はまだ右手がありますが、あなたは左手しかありません。」 – そして彼は戦い続けます。

左翼で敗北した攻撃軍は右翼に突撃し、我々を要塞まで押し戻した。暗い夜に攻撃を再開するのは得策ではないと判断し、翌日まで待った。ブライザウ将軍とデヴィリエ将軍の指揮する二縦隊が同時にシュトルツェンベルクとシドリッツへ進軍した。ロシア軍は大軍を率いて両陣営を占領したが、我が軍は果敢に戦った。 [330ページ]熱意――デ​​スクル少佐、ポニャトフスキ大隊長、クリキツォフスキ大隊長、カレ大隊長、そしてファーレベック大尉、ペラン大尉、カリサ大尉、ルーサン大尉らは、並外れた技量と勇敢さで彼らを率いて進軍し、連合軍は敗走し、戦場は戦死者の山となった。しかし残念ながら、我々の成功は高くついた。才能と勇気で高く評価されていたブライザウ将軍は、重傷を負ってしまったのだ。あらゆる医療援助は無駄に終わり、一ヶ月の激しい苦しみの末、息を引き取った。

我が軍は勝利を収めた。しかし、要塞内では凄まじい光景が彼らを待ち受けていた。弾薬庫は瓦礫と残骸しか残っていなかった。炎の猛威を逃れたのはたった一つだけだった。その救出はコタン大佐と参謀副長マルケサックの尽力によるもので、彼らの熱意と粘り強さによってのみ確保できたのである。同じく熱意を惜しみなく示してくれたトゥルクハイム中隊長とフルールズ中尉は、穀物4000クインタルを救い出した。残りはすべて炎上し、あらゆるものが失われていた。我々は2ヶ月分の食料を備蓄していなかった。炎は絶えず勢いを増し、絶え間ない砲撃によって、食料は破壊の危機に瀕していたのだ。

ロシア軍はゆっくりと前進したが、それでも前進した。彼らは様々な [331ページ]駐屯地を占領し、シュトルツェンベルクに向けて一斉に進軍した。効果的な抵抗を行うには戦力が不足していたため、我が軍は既に撤退していた。フッソン将軍は少数の部隊を集め、突撃の合図を送った。突撃は驚くべき速さで実行された。ミルセント大尉とリベル副官少佐は、我が軍の最も勇敢な兵士たちを率いて前進し、敵に突撃してこれを撃破した。

シャンブール大尉は、我々の攻撃部隊にさらに厳しい教訓を与える準備をしていた。彼は暗い夜に船に乗り込み、艦隊の警戒を欺き、ボンサックの対岸に上陸した。彼は村を奇襲し、住居と弾薬庫に火を放ち、兵士と馬を虐殺し、自分の船に戻った。彼らはもはや岸にはいなかった。トランペットが鳴り響き、武器を取る号令が聞こえ、死は避けられないように思われた。しかし、彼は勇気を失うことなく、兵士たちを落ち着かせ、敵の塹壕を横切って突撃し、壊滅したと思われた瞬間に無事に到着した。彼はすぐに再び進軍を開始し、ブローゼンへと向かった。彼はそこに駐留していた部隊を不意に襲撃し、彼らを打ち破り、彼らの陣地を焼き払うまで撤退しなかった。帰還するや否や、彼はより危険な作戦に突入した。敵の塹壕に突入し、彼らを打ち破り、 [332ページ]持ち場を後にし、砲台の後ろに隠れた。攻撃開始時に重傷を負ったハイメボン中尉は、痛みなど気にも留めないかのように戦った。あまりにも激しい痛みで、兵士たちの士気をくじくことへの恐怖だけで、うめき声​​さえ抑えることができた。彼は5日後に亡くなった。彼の記憶に栄光あれ!

自由軍は日ごとに大胆さを増していった。塹壕や柵は取るに足らない障害物となり、あらゆる場所に侵入した。真夜中、彼らは木から木へと忍び寄り、ランフール大通りの全長をロシア軍に気づかれることなく進んだ。突然、彼らは彼らの陣地に飛び込み、ロシア軍の一部を殺害し、他の者を追い払い、カブルンまで追跡した。勇敢なスリモン、勇敢なロゼ、パヤン、デゾー、ゴニペ、そしてフランコールは堡塁に突撃し、これを攻略した。百人が剣で殺され、残りの者は逃亡したおかげで難を逃れた。

我々は包囲軍に対し、奇襲と勇敢な戦いを続けた。彼らは計略と布告で我々に挑んだ。彼らの砲撃は止むことなく、我々の弾薬庫は破壊された。労働と戦闘で疲弊し、疲弊した我が軍は [333ページ]睡眠不足の民は、わずかなパンと我らが馬の肉一オンス以外には体力を回復するものがなかった。騎兵隊や幌馬車隊に拒絶され、粉ひき場を回され、もはや立つこともできずに屠殺場へと連行された、哀れな骸骨のような動物たちに、そう名付けてもいいだろうか。戦いと苦しみに疲弊した民にこそ、ロシア人は休息と豊かさを約束した。彼らをおびき寄せるため、あらゆる試みが行われた。金、銀、脅迫、君主の怒り、祖国の声などが持ちかけられ、訴えられた。公爵は使者を支援した。手紙を書き、懇願し、抗議し、将校や兵士に攻撃を仕掛けた。我が外国軍の間では脱走が蔓延し始め、彼らは任務の遂行さえ拒否した。バイエルン人、そしてポーランド人自身も、我々の不運を知り尽くしていたため、武器を冒涜的に使うことを恐れ、何も行動を起こさなかった。我々は国民軍、つまり6000人にも満たない兵力にまで縮小され、守るべき範囲は2リーグ以上もあった。私はこの痛ましい状況を皇帝に報告することを決意した。これは容易な任務ではなかった。ドイツ全土が反乱状態にあり、海は敵艦隊で覆われていた。しかし、いかなる危険も障害も、我々を思いとどまらせなかった。 [334ページ]マルニエ船長は、この冒険的な遠征を引き受け、船を捕獲し、イギリス艦隊とともに航海し、そこから脱出した。

ヴュルテンブルク公爵は皆を誘惑しようとした。私も彼の誘惑から逃れられなかった。彼は自分の資産を誇大に宣伝し、私の資産を軽視し、フランスやシベリアのことを語り、要塞を明け渡すよう私に持ちかけた。彼の脅迫と申し出は的外れだった。私は彼を説得し、それ以来、彼の話は聞かなくなった。より適切な手段が講じられ、砲撃は激しさを増し、昼夜を問わず続けられた。町、ビシュフベルク、フリウルの要塞は粉々に打ち砕かれた。この猛烈な砲火に支えられたロシア軍は、我々を強襲で打ち負かすと予想した。彼らは手斧と梯子を携えて前進し、グディン砲台に襲撃を仕掛けた。ラズムスキー大尉が指揮を執り、ぶどう弾の発射でロシア軍を迎え撃ち、撃破した。しかし彼らは反撃し、エスカレーションを試みた。しかし、破壊的な砲撃に圧倒され、デスクル少佐の姿を見て散り散りになり、武器と梯子は勇敢なズビエフスキ大尉とプロポツキ大尉に託した。彼らは、ほとんど成功しなかったものの、 [335ページ]ランゲフール通りのフィッツァー砲兵隊の指揮官たち。プレスマン大佐、ルノワール大尉、シュトーリング副官は抵抗したが、彼らは打ち破ることができなかった。彼らは三度も突撃を試み、何度も敗北した。

一方、フリウルの堡塁は悲惨な状態だった。胸壁も地雷もなく、砲弾とぶどう弾に圧倒され、防御手段は皆無だった。私は堡塁の放棄を命じた。要塞の大部分はまだ無傷だったが、我々の食料は底を尽きつつあった。

氷が現れる季節が到来した。包囲軍の進撃に耐え、砦を守り、浸水を防いで水路を確保するには、二万人の兵が必要だっただろう。戦いはあまりにも不均衡で、防衛を続けることは、ただ血を流すことを楽しむためだけに血を流すことに過ぎなかっただろう。

私は、自分の義務と人道性の両方にかなう計画を見つけたと思った。残りの食料で何日持ちそうかを計算し、事態の推移が取り決めを変えない限り、その期間の終わりに戦闘を中止し、要塞を明け渡すことを提案した。交渉が始まり、砲撃は止んだ。ウデレ将軍と大佐 [336ページ]リシュモンは敵陣に赴き、降伏文書を締結した。その中で、フランスへの帰還権は特に我々に保証されていた。条項の一部は既に執行され、ロシア人捕虜は送還され、要塞は放棄されていたが、アレクサンドル皇帝が批准を拒否したことを知った。ヴュルテンベルク公爵は私に、元の状態に戻すよう申し出た。これは嘲笑に値する。しかし、我々に何ができるだろうか?もはや食料は残っていなかった。諦めるしかなかった。公爵は思い通りに事を進め、我々はロシアへの道を歩み始めた。

我々の不運に心を痛めた同盟国は、我々と共に苦難を味わいたかった。ポーランド人は腕を砕き、バイエルン人は決して我々に敵対しないと誓った。しかし、義務は彼らの愛情を静めるよう命じた。別れる必要が生じた。人格と功績で名高いラジヴィル公爵将軍とバトラー大佐が、彼らを祖国へ連れ戻した。

こうして、一年間の戦闘の後、あらゆる災難とあらゆる障害に直面した防衛戦は終わった。この防衛戦は、フランス兵士の勇気と愛国心が何を成し遂げたかを示す、決して小さくない証拠の一つであった。

[337ページ]

第44章
キオウへと案内された。そこで、祖国の安全を諦めなかった少数の勇敢な兵士たちが成し遂げた奇跡について知らされた。彼らはモンミライユ、セザンヌ、シャンポベールなど、敵が待ち構えていたあらゆる場所で勝利を収めた。ヨーロッパ全土が彼らの前に敗走し、連合軍は崩壊した。兵士の強情さが勝利の果実を奪い去った。再び戦い、勝利を収める必要が生じたが、弾薬が不足し、軍団は到着せず、将軍たちは兵士たちに降伏を迫る演説を繰り広げていた。すべては失われた。我々の栄光、我々の征服は影のように消え去り、それらの痕跡さえも否定された。

連合軍は終結した。もはや捕虜生活は意味をなさなくなり、解放された。フランスへ帰還したが、なんとも壮観な光景だったことか!移民団が軍隊と反乱軍に侵入し、彼らは [338ページ]指揮権と勲章の旗の下に屈服する私。チュイルリー宮殿で最初に会ったのは、以前私が補佐し保護していた大隊の隊長だった。彼は中将になっており、二度と私のことを知らなかった。ダンツィックで私と長く一緒にいたもう一人の人物も、彼ほど記憶力の良い人はいなかった。カドーレ公爵の推薦で私が出会ったこの最後の人物では、吐き気がするほどの追従を経験した。彼は私を「モンセニョール、閣下」と呼んでいたが、喜んで私を「永遠の君主」と呼んだ。私がこうした愚行がどれほど不快かを彼に告げるたびに、彼はそれをさらに増やし、私の召使に同席することさえ考えた。彼に頼めば、私は自分が君主になったような気がしたに違いない。彼の悪口のおかげで、私はこの頑固なおべっか使いから救われた。悪口はあまりにも露骨になったので、政府は彼に対して訴訟を起こそうとしたほどだった。私はこの紳士を罰の恥辱からは救ったが、退却させた。彼は…で勤勉さを発揮した。彼はすぐに我々の逆境を知り、警戒して陣地を構え、ライン川のこちら側まで来るまで立ち止まらなかった。勇気よりも恐怖の方が彼に役立ったのだ。彼は大きな肩章と4、5つの勲章を身につけていた。これは彼の最初の仕事には十分だった。 [339ページ]キャリア:戦場では昇進はそう簡単にはいかない。彼は私を見るとすぐに退散した。どうやら服装が気に入らなかったらしい。もう一人の男にも会ったが、彼もまた私の前ではあまり落ち着かなかった。かつてジョゼフィーヌに仕えていた彼は、実に卓越した先見の明の持ち主だった。散歩や旅の途中で起こりうるあらゆる不測の事態に備えて、金箔を施した銀の器を用意していたのだ。必要な時にはポケットから取り出し、差し出し、受け取り、中身を空にし、拭いて、丁寧に片付ける。まさに家庭的な本能の表れだった。

しかし、国庫、勲章、そして指揮権に熱心だったこれらの高官たちは、すぐにその勇気の大きさを示した。ナポレオンが現れ、彼らは影を潜めた。彼らは寵愛を与えるルイ18世に群がったが、ルイ18世の不運を跳ね返す引き金を引く術がなかった。我々はいくつかの対策を試みたが、民衆も兵士たちもフランスの屈辱に決して加担していなかった。彼らは崇拝する国旗に抗うことを拒否し、皇帝は平和裏に政務を再開した。

ベルトラン将軍とルマロワ将軍からチュイルリー宮殿に来るようにとの手紙が届き、私はパリに戻りました。ホテルには新たな招待状が待っていました。 [340ページ]大元帥から、陛下が私に会いたいとおっしゃったと知らされました。陛下をお待たせしたくなかったので、そのままの姿で向かいました。ナポレオンは義務と愛情を重んじる方だと確信していたからです。すぐに紹介されました。

ナポレオン。「いらっしゃいましたか、ムッシュー・ラップ将軍。大変お待たせいたしました。どこからいらっしゃったのですか?」

ラップ。「エクアンから来た。陸軍大臣の指揮下に部隊を置いた。」

ナポレオン「本当に私と戦うつもりだったのか?」

ラップ。「はい、陛下。」

ナポレオン。「悪魔だ!」

ラップ氏。「決意は強制的なものだった。」

ナポレオン。(生意気な口調で)「くそっ……! お前が私の前にいるのは重々承知していた。もし戦闘が始まっていたら、戦場でお前を探し出して、メデューサの首を見せてやっただろう。お前は私に発砲する勇気があったか?」

ラップ。「もちろん、私の義務です…」

ナポレオン。「それは行き過ぎだ。だが兵士たちは君の言うことには従わなかっただろう。彼らは私に対してより強い愛情を抱いていた。それに、もし君が一発でも銃弾を撃ったなら、アルザスの農民たちは君を石打ちにしただろう。」

[341ページ]

ラップ。「陛下、状況は大変辛いものだったとお考えでしょう。陛下は退位され、私たちのもとを去り、国王に仕えるよう私たちを任命されました。そして再びお戻りになったのです。過去の記憶の力も、私たちを欺くことはできません。」

ナポレオン。「どういうことですか? どういう意味ですか? 私が同盟も合意もなく帰国したとでも思っているのですか?…それに、私の体制は変わりました。もう戦争も征服もありません。平和に統治し、国民の幸福を増進したいのです。」

ラップ。「そう言って喜んでいるようだが、君の控え室には、君の武力行使への傾倒を常に煽ってきたおべっか使いが既に溢れているぞ。」

ナポレオン。「ばっ!ばっ!…チュイルリー宮殿にはよく行ったのか?」

ラップ。「時々は、陛下。」

ナポレオン。「あの人たちはあなたに対してどう振る舞いましたか?」

ラップ。「彼らに文句を言う理由はありません。」

ナポレオン。「国王はロシアからの帰国を温かく迎えたようだな?」

ラップ。「その通りです、陛下。」

ナポレオン。「間違いない。まずは説得して、それから仕事に取り掛かった。これが君たち全員に降りかかったであろうことだ。結局のところ、君は [342ページ]彼らは彼らの男ではなかった。彼らに合わせることはできなかった。彼らを喜ばせるには他の称号、他の権利が必要だったのだ。」

ラップ。「国王はフランスを連合国から救い出した。」

ナポレオン。「その通りだ。だが、どれほどの代償を払ったのだ!そして約束を果たせたのか?なぜフェランを領土問題での発言で絞首刑にしなかったのか?貴族と僧侶たちの傲慢さこそが、私をエルバ島から去らせたのだ。不満を訴え、協力を申し出てくれた300万人の農民と共に、パリへ向かう道中で抵抗に遭うことはなかった。ブルボン家にとって、私が帰還できたことは非常に幸運だった。私がいなければ、彼らは最終的に恐ろしい革命を起こしていただろう。」

「シャトーブリアンのパンフレットを読んだことがありますか?戦場での勇気さえ私に認めていません。私が火に燃えているのを見たことがありませんか?私は臆病者ですか?」

ラップ氏。「私は、すべての高潔な人々と同様に、この不当かつ卑劣な告発に憤慨しています。」

ナポレオン「オルレアン公爵にお会いになったことはありましたか?」

ラップ。「一度だけ会ったことがある。」

[343ページ]

ナポレオン。「彼だけが思慮深さと機転の利く人物だ!他の奴らは皆、下劣で、非常に無分別だ。奴らは私を嫌っている。今、これまで以上に激怒するだろう。それには十分な理由がある。私は一撃も与えずに到着した。奴らは今、私を野心家だと罵倒しようとしている。それが彼らの永遠の非難だ。他に何も言うことがないのだ。」

ラップ氏。「あなたの野心を非難するのは彼らだけではありません。」

ナポレオン。「どうして…私が野心家だっていうんだ?野心家って、私みたいに太るもんだぜ?」(両手でお腹を叩いた)。

ラップ。「陛下は冗談を言っています。」

ナポレオン。「いいえ。私はフランスが本来あるべき姿になることを願ってきました。しかし、野心を持ったことは一度もありません。それに、あの人たちは一体何を考えているのでしょうか? 国家や軍隊で重要視されるのは当然のことです。彼らが誇りとしているのは、勇気なのでしょうか?」

ラップ氏。「時折、その兆候が見られました。例えばコンデ公の軍隊では。」

ナポレオン。「君の持っているあの命令は何だ?」

ラップ。「レジオンドヌール勲章」

ナポレオン。「悪魔だ!しかし、彼らは立派な装飾を施す賢明さを持っていた [344ページ]それに、ここにある二つの十字架は?」(イエスはそれらに触れた)。

ラップ。「セントルイスと百合」(彼は微笑んだ)。

ナポレオン。「どう思う?…ベルティエは留まることを好まなかった。彼は戻ってくるだろう。私は彼を許す。ただし一つ条件がある。それは、彼が私の前に現れる際は、衛兵の制服を着用することだ。さて、ラップ将軍、我々は再びフランスに仕えなければならない。そうすれば、我々はこの窮地から脱却できるだろう。」

ラップ。「白状してください、陛下(陛下は時折、私に遠慮なくお話しさせてくださいましたので)、ドレスデンで和平を結ばなかったのは間違っていたと白状してください。もしあなたが和平を結んでいたら、すべては解決していたでしょう。ドイツの精神に関する私の報告を覚えていらっしゃいますか?陛下はそれをパンフレットのように扱い、私を責めたのです。」

ナポレオン。「ドレスデンで和平を結ぶことはできなかった。連合軍は誠意がなかったからだ。それに、もし戦闘再開時に全員が義務を果たしていれば、私は再び世界の覇者になっていただろう。既に3万2千人のオーストリア人を味方につけていたのだ。」

ラップ。「陛下に野心がなかったのはほんの一瞬のことでしたが、今や再び世界の覇権について耳にするようになりました。」

[345ページ]

ナポレオン。「ああ、確かにそうだ。――それに、マルモン、元老院議員たちも……私の計画は、味方を一人たりとも逃がさないように仕組まれていたのだ。」

ラップ。「これらすべての不幸はライプツィヒでの敗北の結果です。ドレスデンで和平を受け入れていれば、これらを防ぐことができたはずです。」

ナポレオン。「あなたはそのような平和がどのようなものであったかを知らないのだ。」(そして急に熱くなりながら)「15年間も私の副官を務めてきたあなたが、再び戦争に行くことを恐れるのですか?エジプトから帰還し、ドゼーが亡くなった時、あなたはただの兵士に過ぎませんでした。私はあなたを人間にしたのです。今、あなたは何を装っても構いません。」

ラップ。「私はあなたへの感謝の気持ちを表す機会を一度も逃したことがありません。もし私がまだ生きているとしても、それは私のせいではありません。」

ナポレオン。「モスクワからの撤退におけるあなたの行動を私は決して忘れません。ネイとあなたは、魂が完全に鍛えられた数少ない人物です。それに、ダンツィッチ包囲戦では、不可能と思えることをはるかに超えることを成し遂げました。」

ナポレオンは私の首に倒れ込み、少なくとも2分間、私を激しく抱きしめました。彼は何度も私を抱きしめ、口ひげを引っ張りながら言いました。

「エジプトとアウステルリッツの英雄よ、来たれ、来たれ [346ページ]決して私を見捨てることはできない。私がオーストリアとロシアと交渉している間、ライン軍の指揮を執ってほしい。一ヶ月後には、ストラスブールで妻と息子を迎え入れていただきたい。今晩から副官の務めを果たしていただけることを光栄に思う。メゾン伯爵に手紙を書いて、私に会いに来てほしい。彼は勇敢な男だ。ぜひ会いたい。」

ナポレオンはこの会話の一部を側近たちに語った。彼は彼らに、私が彼にあまりにも自由に話しすぎたため、彼が私の耳を引っ張ったと語った。幸運は彼に微笑んだ。廷臣たちは大挙して彼の周りに集まった。それは熱狂と献身だった。彼らは熱意に燃えていた。しかし、これらの抗議は期待したほどの効果はなかった。多くは拒絶された。特に、執拗に仕え続けた一人は、厳しく拒絶された。好意、金、名誉に恵まれた彼は、不運な恩人を侮辱で圧倒し、嫌悪と軽蔑をもって扱われた。これらの紳士たちは現在、揺るぎない忠誠を誇っている。彼らは、フォーブール・サンジェルマンの酒場での国王の寛大さを非難している。彼らは、百日間に雇用されていた者全員を断頭台に送ってほしいと願っている。チャンスは彼らに味方した、外見は [347ページ]彼らのためのものだ。そうさせておこう。だが、将軍たち、ナポレオンの大臣たち、そして彼に付き従う士官たちは、控えの間のこうした禁欲主義者たちをどう考えるべきか、よく知っている。遅かれ早かれ、王国政府は悟るだろう。赤い書物の代わりとなる手段は十分にあるのだ。

ナポレオンは3月29日に私を呼び寄せ、ライン軍へ向かわねばならないと告げた。彼はダンツィック包囲戦後に私に授与するはずだったレジオンドヌール勲章の大鷲を授けてくれた。彼は15日以内に私の軍勢は4万人に増強されるだろうと告げた(開戦時は1万5千人だった)。私は彼に、これは我々が手にすることになる兵力に比べればごくわずかだと伝えた。議会(その宣言は既に知られていた)は大量の兵士を投入すると我々を脅かしていたのだ。「あなたが言及している宣言は虚偽だ」と彼は怒って答えた。 「パリで捏造されたものだ。だが、行け。ルクルブはフランシュ・コンテを、スーシェはアルプスを、クロゼルはガロンヌ川を指揮せよ。我々には大きな勝利の可能性がある。ジェラールはメスへ。彼はブルモンを譲るよう私を苦しめたばかりだが、私は残念ながら彼に屈した。あの男の顔つきは昔から好きではなかった。」

「私が君主たちに提案した [348ページ]冷たく受け止められています。しかし、和解の希望が完全に断たれたわけではありません。意見を表明する熱意が、彼らを平和的な気持ちに傾かせる可能性はあるでしょう。もう一度試みてみます。私が彼らに書いた手紙は次のとおりです。

「先生、私の兄弟よ。

「先月、私がフランス沿岸に戻り、パリに入り、ブルボン家の人々が出発したことは、陛下も既にご存知でしょう。これらの出来事の真相は、陛下には既にご存知でしょう。これらは、抗しがたい力の業であり、自らの義務と権利を心得ている偉大な国民の一致した願いの業です。フランス国民に力を取り戻した王朝は、彼らのために作られたものではありません。ブルボン家は、彼らの意見にも慣習にも縛られることに同意しませんでした。フランスには彼らから離れる権利がありました。フランスは解放者を求めていました。私を最大の犠牲へと駆り立てた希望は、裏切られました。私はここに来て、岸に着いた瞬間から、国民の愛に支えられ、首都の懐まで辿り着きました。私の心の第一の願いは、これほどの恩恵に報いることです。 [349ページ]名誉ある平和の維持。皇帝の座の回復はフランスの幸福に不可欠であった。同時に、私の切なる願いは、これをヨーロッパの平和の確立に役立てることである。これまで、様々な国の国旗が次々と輝いてきた。運命の浮き沈みは、しばしば偉大な成功の後に大きな災難をもたらしてきた。今日、君主たちのためにより素晴らしい舞台が開かれており、私はその最初の舞台に立つ。世界に偉大な戦いの光景を見せた後は、今後は平和の利益を競う以外の競争はなく、国民が最も幸福となる聖なる戦い以外の闘争はない方が楽しいだろう。フランスは、その崇高な願いを率直に宣言する。自国の独立を重んじるフランスは、他国の独立を限りなく尊重することを政策の不変の原則とする。幸いなことに、陛下の個人的なお気持ちがそうであれば、長期的には平穏が保たれ、各国の境界に置かれた正義のみが、それぞれの国境を守るのに十分となるでしょう。

「私は尊敬しています、など」

[350ページ]

しかし、あらゆる申し出は無駄だった。彼は人間を超えた存在であり、フランスの覇権を握っていた。これは何物も打ち消せない不満だった。私はそう確信していた。彼を滅ぼすことは決まっていた。

私はアルザスへ向かった。外国の宮廷の敵対的な態度は、その地方で広く憤慨を引き起こしていた。外国の軛を忌み嫌う寛大な心を持つ人々は皆、この王たちの同盟を撃退しようと準備を整えていた。彼らは、一人の男と戦うという口実のもと、我々の戦利品で私腹を肥やすことだけを企んでいた。住民たちは、一致団結し、また自発的に、峡谷を見下ろす高台や道路、通路へと駆けつけ、塹壕の建設に奔走した。女子供も作業に加わった。彼らは愛国歌を歌い、互いに励まし合い、鼓舞し合った。すべての住民の間には、熱意と献身において競い合うライバル意識があった。ある者は堡塁を築き、ある者は弾丸を投げ、古いマスケット銃を構え、カルトゥーシュを取り付けた。要するに、誰もが動き出し、誰もが共同防衛のために尽力しようとしていたのだ。

私がミュールハウゼンに到着したとき、古代にふさわしい感動的な場面が繰り広げられました。舞踏会が開かれ、最も華やかな [351ページ]町の人々が集まり、華やかで大勢の人々が集まった。夜も更ける頃には、戦争と領土侵攻について議論が交わされ、誰もがそれぞれの意見を述べ、希望や不安を語った。

婦人たちは語り合い、祖国の危険について語り合っていた。すると突然、末娘の一人が仲間たちに、国境を守ったことのないフランス人とは決して結婚しないと誓おうと提案した。歓喜の叫び声と拍手が部屋の隅々から響き渡った。出席者全員が婦人たちに視線を向け、残りの一行も立ち上がり、彼女たちを取り囲んだ。私も群衆に加わり、この寛大な提案に拍手を送り、宣誓を執行する栄誉に浴した。美しい愛国者たちは皆、私の手から宣誓を受け取ろうと集まった。

この特徴はサムニウム人の結婚を思い起こさせるが、おそらくそこにはさらにもっと賞賛に値する何かがある。それは、問題の人々の間では制度であったものが、我々にとっては自発的な決意の結果であったということである。彼らにとっては愛国心は法律の中にあったが、我々にとっては愛国心は美しい同胞の女性の心の中にあったのだ。

[352ページ]

第45章
しかし、この熱意をもってしても私の隊列は満たされず、時間は刻々と過ぎ、新兵は到着しなかった。連合軍は川の左岸に軍団を編成し、いつでも渡河できる状況だった。私の状況は極めて危機的になった。私は皇帝に自分の兵力と状況を報告した。皇帝は驚きを隠せなかった。「こんなに兵が少ないとは!愛国心がこれほど燃えるアルザスよ!問題ない。勝利はすぐに大隊を編成するだろう。絶望する必要はない。戦争には勝機がある。我々は必ず乗り越える!」――ナポレオンは四日前、要塞地帯に戦列兵を一人も残さないよう、兵舎から出撃可能な者を全員連れてこい、ヴァイサンブールの戦線を包囲して強化し、ビッチェとの連絡を綿密に維持するよう私に命じていた。私はこれらの対策に取り組んでいたが、皇帝は私の行動が迅速ではないと気づき、私に手紙を書いた。

[353ページ]

「ムッシュー・ラップ将軍、

5月12日付の貴官の手紙を受け取りました。添付の声明文によると、貴軍の第18戦列連隊は2個大隊、1200名で構成されており、600名からなる第3大隊を貴官に提供できるとのことです。ストラスブールから直ちに出撃し、貴官と合流するよう命令してください。第32連隊は、貴官の現役大隊に200名しか増援できず、これで1200名になります。第39連隊と第55連隊は、第3大隊を提供できますので、貴官と合流するよう命令してください。第58連隊は、200名を提供でき、2個大隊が完成します。第103連隊は、最初の2個大隊を1200名に、第104連隊も同様に完成します。第7軽連隊は、第3大隊を提供できます。同様に、第10軽連隊。そうすれば、少しの活動で歩兵を4000人増強できます。アルザス地方でこれらの連隊への志願兵がもっと多くないのは驚きです。第39連隊はオーバーライン地方で募集されています。この地方は少なくとも2000人のベテラン兵を供給すべきでした。これを第39連隊、第32連隊、第18連隊に振り分ければ、第3大隊、さらには第4大隊をも満員にできるはずです。第10軽連隊は、 [354ページ]ソーヌ県で募集中の第57連隊も、多くの新兵を受け入れるはずです。ドゥー県で募集中の第7軽連隊も、同様に多くの新兵を受け入れるはずです。ライン県下で募集中の第7軽連隊、第58連隊、第104連隊も、既に完了しているはずです。補給所にいる兵士全員がすぐに衣服を着せず、隊列を補充しないのはなぜですか?また、各方面からこれらの連隊にどのような兵士が配属される予定か教えてください。6月1日までに第3大隊が完成し、各連隊が1800人、つまり各師団が7000人になる予定ですか?あなたの指揮下にある師団および旅団の将軍たちに満足していますか?貴師団に兵站を構える第2猟兵連隊、第7竜騎兵連隊、第19竜騎兵連隊は、6月1日までにどのような状況でしょうか? これらの3個連隊は兵站に400名と馬300頭を擁していましたが、その後も増員されているはずです。積極的な対策を講じれば、6月1日までにこの師団は1500頭の馬を擁するはずです。第3師団も貴師団の全ての兵站を貴師団の管轄区域内に構えており、兵站には1200名がいます。したがって、2000頭の馬を貴師団に提供できるはずです。

「ナポレオン」

「パリ、1815年5月14日」

[355ページ]

私は彼から投げかけられた質問に即座に答え、軍の悲惨な状況を説明し、武器、馬、衣服など、あらゆるものを一新する必要があった。6月1日時点で、私の指揮下に入る兵士は2万2千人しかいなかった。状況は芳しくなかったが、皇帝は資源を非常に巧みに活用されたので、我々が絶望する必要は全くなかった。皇帝は私に新たな資金を与え、私の熱意を刺激し、兵力増強に全力を尽くし、あらゆる隘路を偵察するよう懇願した。皇帝の勅書は広く知られるに値する。

「ラップ伯爵、

5月18日付の手紙を受け取りました。5月の配給において、衣料品に1,300万フランを割り当てました。各軍団に相当額の支給命令を送付しました。支給は確実です。6月1日までに2万2,000人以上の兵力を確保できないとは到底考えられません。兵站所の兵力は4,000人です。第18連隊第3大隊、第39連隊第3大隊、第57連隊第3大隊、第7軽連隊第3大隊、第10軽連隊第4大隊を召集してください。これで4個大隊からなる連隊が1個編成されます。 [356ページ]3個大隊のうち4個と2個大隊のうち4個、つまり全部で24個大隊です。装備を急いでください。資金は送金中ですので、不足することはありません。あなたが私に送ってくれた騎兵隊の人数は正しくありません。なぜ第6胸甲騎兵隊は第3と第4中隊しか補給所にいないのですか?それでは第5中隊はどうなっているのですか?第19竜騎兵隊についても同様です。兵士は1787人ですが、馬はわずか427頭です。しかし、憲兵の馬を引き取る分遣隊に何人の兵士がいるのか、ヴェルサイユの補給所で何頭再騎乗するのか、連隊が締結した契約から何頭の馬を受け取るのか、各方面から何頭支給するのかを教えてくれません。十分に活動すれば、この1700人のうち1500人か1600人がすぐに騎乗するはずだ。これに現在編成されている騎兵を加えると、騎兵隊は4000人近くまで増強されるだろう。諸君はこれらの問題を軽視しすぎている。自らの努力で障害を取り除き、兵站を確認し、軍を増強せよ。ライン川の向こう岸、特にマンツとティオンヴィルで何が起こっているか、スパイを警戒させておくのだ。そして、ヴォージュ山脈のあらゆる入口を把握せよ。

「ナポレオン」

「パリ、1815年5月20日」

[357ページ]

第46章
私はラウター川の防衛線を占領するために赴いた。23年前には我々はそこを防衛していたが、当時は良好な状態だった。川の左岸は守られており、8万人の兵士と予備軍団があり、上ライン軍の支援もあった。しかし、今ではそのようなものは何も残っていなかった。防衛線はただの廃墟の山だった。主要な拠点であった土手と水門はほとんど破壊され、それを支える場所は武装されておらず、奇襲攻撃に対する安全も確保されていなかった。歩兵はわずか1万5千人で、ロッテンブール将軍、アルベール将軍、グランジャン将軍の指揮の下、3個師団に分かれていた。騎兵隊はメルラン伯爵の指揮下で2千頭の騎兵で構成されていた。ヴァイセンブルクからユニングエンまで、そしてベルギーに至るまで、国境は完全に無防備だった。このような状況下でゲルメスハイムは重要な拠点となり、相当数の [358ページ]守備隊と大砲24門を備えていたため、主力部隊でなければ突破は不可能でした。私は成功を諦めず、戦闘の知らせが届くとすぐに偵察を行い、ハウンの村、アウヴァイラーの村、そしてクエイヒの村々をすべて占領しました。トゥルクハイム中隊の指揮官は、ゴッテンシュタインとそこを占領していたバイエルン軍の分遣隊を一斉に攻撃しました。

21日、真夜中頃、すべての準備が整い、攻撃隊列はすでに進軍を開始していたが、ワーテルローの惨敗の知らせが伝えられた。隊列は直ちに召集された。敵が川を渡河するのに時間を無駄にしないことは十分に分かっていた。私は状況に応じて必要な行政措置を急いで講じ、私の指揮下にある要塞を防衛体制に置いた。ランダウに戦列大隊を投入し、国の財宝をそこへ移すよう命じた。しかし、私の予見通り、連合軍は既にオッペンハイムとゲルメスハイムでライン川を渡り、四方八方に展開していた。我が軍は目的地に到着するために戦わざるを得なかった。我々はラウター川の背後に退却した。そして、ドイツ侵攻の噂は… [359ページ]同時にシュヴァルツェンベルクの指揮下にある大軍による上ライン川の攻撃が私のところに到着したので、私は急いで2個大隊を派遣し、ヌフ・ブリザックとシェレシュタットの守備隊の増援を要請した。

ロシア人、オーストリア人、バイエルン人、ヴュルテンブルク人、バーデン人、そして他の国々からの多数の兵士が、現在ヴュルテンブルクの王となっている王子の命令の下、6万人以上を集め、すぐに私の指揮下にある弱い軍団を打ち破りました。

当初私は、ヴォージュ川、ムルト川、モーゼル川、マルヌ川へと退却し、アルザスを徒歩で防衛しようと決意していた。しかし、左翼で私を支援していたモーゼル軍が北へ進軍し、敵の縦隊が既にザールブリュックを占領し、ロレーヌ地方を水没させていることを知った。もはやこの動きは実行不可能だった。一方、このような予期せぬ局面で性急な決断をすれば、極めて深刻な結果を招く恐れがあった。私は行動を調整する命令が下ることを期待して、時間を稼いだ。しかし、我々の不運を知らせる電報の後、ルイ18世がパリに入城するまで、新たな電報は届かなかった。

24日の夕方、ヴュルテンベルク騎兵隊が私の前線陣地を攻撃した。 [360ページ]第7連隊の竜騎兵と第11連隊の竜騎兵は武器を取り、敵に突撃し、彼らを粉砕した。翌日、軍は集中移動を継続した。私はアグノーの森の前方に陣地を構え、右翼はゼルツ、中央はシュルブール、そして左翼(私の騎兵隊)は敵が既に包囲していたビッチェへの道に陣取った。

この陣地は一時的なものにすぎず、範囲が広すぎた。私がこの陣地を取ったのは、突然町の背後に撤退して、その場所とサヴェルヌの間に敵が侵入するのを避けるためだけだった。サヴェルヌには、デビューロー中将が戦列大隊、パルチザン数名、および少数の槍騎兵を率いて駐屯していた。

ロッテンブルク将軍は、我々の後方と右翼のライン川監視の任務を任された。私は彼に1個旅団しか与えることができず、それをゼルツに残していた。オーストリア軍が現れた瞬間、この旅団から第40連隊を撤退させなければならなかった。彼のもとに残っていたのは第39連隊のみで、その第2大隊が前線と予備を形成していた。第1大隊は工兵と大砲8門からなる中隊で、半リーグ以上の戦列を形成していた。状況自体は悪くなかったが、特に問題となるようなことはなかった。 [361ページ]励みになります。ライン川沿いに建つゼルツという小さな町は、ゼルツバッハ川の両岸に位置しています。この川は400ヤードほどは比較的安全ですが、上流は至る所で渡河可能で、川岸の森のおかげでさらに容易に渡河できます。一方で、敵が右翼後方から容易に上陸し、私が抵抗できるのは微々たるものでしかないことを懸念していました。その一方で、既に述べたように、私の注意は遠くまで伸びる前線に集中する必要がありました。

この代替案において、ロッテンブルク将軍はライン川の監視を哨戒隊のみに委ねることに決定し、ゼルツの製粉所からニーダーデルンまでの浅瀬を守るために一個中隊を派遣した。彼は町の左手、右岸の小さな高台に砲兵隊を配置し、残された兵士を前線に送り、前線陣地と森を占拠していた第二大隊の支援にあたらせた。

11時、敵は大軍を集結させ、8門の大砲によるマスケット銃の援護射撃で攻撃を開始した。我が軍の抵抗は頑強で、長きにわたり効果を発揮したが、ついにこの小さな前線陣地は森の中へ退却を余儀なくされた。 [362ページ]英雄的な勇気をもってそこに留まり、多数の砲兵の支援を受けた8,000人から9,000人の兵士の攻撃に長きにわたり抵抗した。結局、数時間にわたる精力的な抵抗の後、この少数の勇敢な部隊は最も整然とした隊列で撤退し、第一大隊に合流した。

この成功に勢いづいた敵軍は、大軍を撃破した。彼らは幹線道路から脱出し、ゼルツへと進軍した。ゼルツは容易に占領できると考えた。しかし、我々は敵軍が我々の砲火に突入するのを許した。彼らが砲火を浴びせると、たちまち猛烈な砲撃が彼らの隊列に死をもたらし、それでもなお彼らは前進を続け、戦闘は以前よりも激しく再開された。しかし、我が兵の勇敢さに絶えず撃退され、フランス軍の砲兵隊になぎ倒されたオーストリア軍は、ついに敗走し、混乱の中森へと退却した。それ以降、彼らの動きは定まらず、どうすべきか長い間迷っていた。我々の大砲は彼らの隊列に破壊をもたらし続けた。攻撃は不作為よりも危険であった。彼らは再び前進し、左岸に位置する町の一部を占領することに成功した。しかし、この勝利は彼らに大きな代償をもたらした。数発の砲弾、 [363ページ]彼らが占領していた家々に砲弾が投げつけられ、彼らは家々を離れ、急いで最初の避難場所に戻らざるを得なくなった。我々の砲台は激しさを増して砲撃し、逃亡者たちは莫大な損害を被った。

連合軍が失敗したのは、これが唯一の攻撃ではなかった。戦闘開始時、彼らはヴァイサンブールからシュルブールのアグノーへと幹線道路を進軍していた。そこはヴォイロール大佐指揮下の第18連隊大隊が占領していた。この村は勇敢に守られ、2時間以上も侵入することができなかった。しかし、ついに敵は相当な兵力を集結させたため、陣地がひっくり返されるのを恐れたアルベール将軍は撤退を命じた。我が軍兵士はサーレ川の背後に撤退し、連隊の残りの部隊と合流した。この陣地でオーストリア軍の精鋭部隊の攻撃を受け、彼らは動けなかった。幾度もの無駄な攻撃に疲弊し、持ち場に留まる覚悟の兵士たちを退却させることも、森の並木道を占領することも不可能だと確信した連合軍は、ついに撤退を決意した。

300人が死亡、負傷しました。オーストリア軍は、自らの証言によれば、 [364ページ]2000人の兵士を率いて、大砲2門を撤去した。

我が軍が数時間休息を取った途端、私は彼らを再び進軍させざるを得なくなった。上ライン川連合軍がストラスブールに進軍していた。私は戦闘中にこの知らせを受け取っていた。一刻も無駄にせず、直ちにその地へ進軍した。そして、その結果が、この措置が正しかったかどうかを示している。

第47章
この退却の最中、兵士たちはワーテルローの戦いの惨敗と皇帝の退位の知らせを耳にした。私はこの時点で、彼らには慎重にこのことを隠していた。これらの出来事は兵士たち全員の士気をくじき、たちまち脱走が相次いだ。情熱に駆られていない者たちでさえ、破滅的な計画を心に思い浮かべた。悪意に駆られた者たちは故郷への帰還を望み、ヴォージュ山脈にパルチザンとして身を投じようと企む者たちもいた。

[365ページ]

これらの意図はすぐに私に知らされた。それがどんな恐ろしい結果をもたらすか、私は直ぐに予見した。私はその日の命令を出し、それは成功した。彼らの心は落ち着いたが、間もなく不安が再び燃え上がった。我々がアグノーに到着すると、かつては名声を博していた…連隊は、軍を離脱し、砲兵隊と共に山岳地帯へ向かう計画を高らかに宣言した。大砲はすでに装填され、一個大隊は武器を手に取っていた。私はそれを知らされ、現場へ急行した。私は反乱軍の鷲を手に取り、彼らの真ん中に立って叫んだ。「兵士諸君!」私は叫んだ。「諸君らの中に、我々を見捨てる者がいると聞いた。一時間後に我々は戦うことになる。オーストリア軍に、名誉ある戦場から逃げ出したと思わせたいのか?勇敢な者たちは、鷲と総司令官を決して手放さないと誓うがいい。臆病者たちには退却を認めよう。」この言葉に、皆が叫んだ。「ラップ万歳!我らが将軍万歳!」誰もが自分の旗印の下で死ぬことを誓い、平穏が戻った。

我々は直ちに行軍を開始し、ストラスブールの2リーグ手前のスッフェル川に到達した。第15師団はイル川沿いに右翼を、ホーエンハイムに中央を、スッフェルヴァイエルスハイムに左翼を構え、 [366ページ]28日の朝、敵がボイアマン将軍の指揮する第10大隊が占領していたランペルトハイム村を猛烈に攻撃したとき、我が軍の状況はこのようなものであった。この村は単独で8000人の歩兵の攻撃と6門の大砲の絶え間ない射撃に耐えた。しかし、攻撃者の数が絶えず増加したため、川の向こうに撤退し、命令通りムンドルスハイムに陣取った。

敵の縦隊は4万から5万人で、ブルンプトとビシュヴァイレからの街道を通って直ちに前進した。こうした配置と、最初の街道を覆う騎兵の大群は、ロッテンブルク将軍とアルベール将軍の師団を分断し、後者を圧倒するという彼らの計画を明らかにしていた。私は連合軍の計画を誤解していなかったが、既に連合軍に加わっていた自軍を統合する力はなかった。 [367ページ]広大な平原に展開し、既に全戦線で交戦していた。残された手段はただ一つ、私は即座にそれを実行した。幸いにもそれは敵にとって極めて致命的なものだった。私は第10連隊を射撃の最中に縦隊にまとめ、第32連隊に前進を命じた。そして方陣を組んだ後、梯形に進軍させた。アルバート師団の残りの部隊は、ハイダーハウスベルゲンの高地に予備として残った。

ロッテンブルク将軍は歩兵部隊を守りながら、師団の先頭を転換し、左翼を後方に展開して、ホーエンハイム、ビッシャム、シッティヒハイムの村々を援護し、両師団の間で交戦していた部隊の側面を脅かした。これは彼の命令通りであった。

第103連隊はブルンプトからの道に配置され、第36連隊は支援のためスッフェルヴァイアーハイムを出発した。しかし、行軍開始直後に連合軍が村を攻撃した。私は直ちに1個中隊を派遣し、この重要な陣地を防衛させた。我が軍は疾走しながら前進したが、到着する前に敵軍に占領されていた。ショーヴァン大尉は並外れた勇気で、群がる狙撃兵の射撃を支援し、フリリオン将軍が到着する時間を与えた。 [368ページ]この将校は道路の援護に1個大隊と大砲4門を残し、残りの部隊と共に突撃時に前進した。グディン将軍はこの動きに追随し、ビシュヴァイラーからの道路で機動した。オーストリア軍は退却し撤退したが、刻一刻と増援が加わり、我が軍は陣地を維持する余地を失っていた。一方、攻撃軍は第10師団の側面を包囲しており、私が命じた移動を実行する好機が到来した。そこで第16師団は左翼を垂直に後方に旋回し、ホーエンハイムの先端部を守り抜いた。そこから我が砲兵隊は敵の側面と後方を掃射した。同時に、四方八方から攻撃を受け既に包囲されていた勇敢なボーマン将軍は、第10師団を率いてムンドルスハイムから出撃し、師団に向かって混乱なく撤退した。

一方オーストリア軍は、強力な砲兵隊の支援を受け、ブルンプトから街道を進軍し、騎兵と歩兵の大群を率いた。彼らは両師団の間を突破し、敵の縦隊に絶えずぶどう弾を浴びせていた4門の大砲の上に障害なく到着した。大砲は撃ち落とされたが、敵は側面を包囲した。 [369ページ]ロッテンブルク将軍の部隊と、その前線にいた二個騎兵連隊に。私はこの状況を利用し、第11竜騎兵連隊と第7騎兵猟兵連隊の先頭に立った。急速な突撃を仕掛け、第一線を壊滅させ、第二線を突破し、抵抗する者全てを撃破した。オーストリアとヴュルテンブルクの騎兵隊は壊滅的な打撃を受けた。同時に第32騎兵連隊が密集隊形で突撃に加わり、反撃を阻んだ。彼らは自軍の歩兵に押し返し、敗走させた。

一方、ロッテンブルク将軍は右翼を前進させ、前線で混乱に陥った敵に、砲兵とマスケット銃による猛烈な射撃を浴びせた。瞬く間に戦場は戦死者で埋め尽くされ、ヴュルテンブルク公の巨大な軍勢は敗走した。敗北はあまりにも徹底的で、後方2リーグにあった荷役部隊が攻撃され略奪され、公自身も装備を失った。混乱はアグノーまで広がり、ヴァイサンブルクから上陸した3万人のロシア兵の存在が逃亡者たちを勇気づけていなかったら、さらに拡大していたであろう。夜が更け、逃亡者が出撃する危険が迫っていた。 [370ページ]我が軍よりはるかに優勢な軍勢との冒険に身を投じてきたため、我々は成功を活かすことができなかった。敵は急いで砲兵隊を後方に移動させ、我々は砲兵隊を奪還することができなかった。

それを維持するのに多大な犠牲を払った。1500人から2000人の兵士が戦死し、さらに相当数の負傷者が出た。我が軍は約700人の戦死者と負傷者を出した。その中には、軽砲兵隊のファヴィエ大尉とダンドロー大尉の二人がいて、二人とも大砲の防衛中に負傷した。そして、この際に大きな役割を果たしたモンタニエ大佐もいた。

敵の将軍は、この敗北の復讐として、壊滅的な打撃を与えた。戦闘の翌日、彼は農民が自軍に発砲したという口実で、ズーフェルヴァイアースハイム村に火を放った。これは事実ではなく、多くの家族を窮地に陥れたこの行為によって、ヴュルテンブルク公の名は永遠に汚されることになるだろう。

我々が敵の攻撃をことごとく撃退した勢いが、彼らに新たな攻撃を躊躇させたのか、それとも他の動機からなのか、敵は数日間何もせずに留まった。私はこの休息を利用してストラスブールに物資を補給し、陣地の防備を固めた。また、すべての指揮官に時間を与えることもできた。 [371ページ]私の指揮下にあった場所の人々に、最も正確な指示を与えました。

その間も連合軍は増強を続け、毎日新たな部隊が到着して兵力を増強した。間もなく7万人の兵士が我々の前に展開し、四方八方から我々を圧迫した。休戦旗が次々と掲げられたが、目立った目標は見えなかった。私は敵の将軍に休戦を提案した。休戦期間中、私は士官をパリに派遣し、政府からの命令を受けることができる。ヴュルテンブルク公はこれを拒否したが、彼が採用していた通信手段は放棄しなかった。

ちょうどその頃、彼はヴェンデンハイムの牧師を招き入れた。彼は立派な人物であり、優れた愛国者でもあった。「ラップ将軍とはお知り合いですか?」と彼は尋ねた。「はい、閣下」。「彼に使節として遣わしていただけますか?」「もちろんです。ただし、その目的が我が国の利益に少しでも反するものでない限りは」。「では、行って彼に伝えてください。もしフランス国王のためにストラスブールを私に引き渡してくれるなら、富と名誉を惜しみなく与えると」。「閣下、ラップ将軍はアルザス人であり、したがって立派なフランス人です。軍歴に恥じるようなことは決してありません。ですから、この使節を他の方に託していただくよう、閣下、お願い申し上げます」 [372ページ]敬虔な牧師はそう言うと頭を下げて立ち去り、王子はこの卑劣な提案が無駄になったことに驚きと困惑を覚えた。しかし、殿下はひるむことはなかった。6月3日、彼は休戦旗を携えたヴァカン将軍を私のもとへ派遣し、フランス国王の名においてストラスブールの降伏を要求するよう命じた。オーストリア軍将校は、より一層の信頼を得るために、巨大な白いリボンバンドとユリの紋章を身につけていた。私は彼に国王の御用かと尋ねたが、彼はそうではないと答えた。「では」と私は彼に言った。「ダンツィッチでロシア人の腿を食い尽くしたように、我が兵士たちがオーストリア人の腿を食い尽くすまで、この地を明け渡すつもりはない」。連合軍司令官が毎日送ってくる取るに足らない通信にしつこく催促され、私は彼の真意を探ろうと努めた。この目的のため、6日にオーストリア軍陣地の全般的な 偵察が行われた。我が軍兵士は騎兵隊の一部を占領し、他の部隊を粉砕した後、敵軍全体を武装させた後、陣地へと帰還した。

2日後、ファルツブルク方面への激しい砲撃を聞き、私は2度目の偵察を決心し、そこにいる部隊を正確に把握しようとした。 [373ページ]私はヴュルテンブルク公があの場所に軍を派遣するのを阻止するために、目の前に陣取っていた。アルベルトの師団と騎兵隊は、オーストリア軍がオーバーハウスベルゲンの堅固な陣地からハイダーハウスベルゲンまで築いた塹壕陣地に向かって進軍した。攻撃は午前3時に開始され、激しい攻撃となり、大成功を収めた。敵の騎兵隊はグルーヴェル将軍の旅団によって撃退され、敗走させられた。主要な村々は銃剣の先導によって占領され、塹壕は力ずくで破壊された。数人の将校は寝床で倒れ、他の将校は武器を手に駆け出そうとしたまさにその瞬間に倒れた。何人かの将軍はシャツを着たまま逃げ出し、暗闇のおかげで無事だった。

勇敢なクレテ大佐率いる第10軽歩兵連隊は、この戦いにおいても28日の戦いと同等の勇敢さを示した。フランス軍で最も勇敢な将校の一人であるヴォワロール大佐の指揮下にある第18軽歩兵連隊は、ミッテルハウスベルゲン村を制圧し、長きにわたり多数の軍勢とあらゆる地点からの絶え間ない攻撃に耐え抜いた。

退却の合図が出された後、アルバート将軍は第57連隊に右翼の攻撃に向けて梯形を形成するよう命じ、第32連隊には右翼の攻撃に向けて 梯形を形成するよう命じた。[374ページ] 左翼のそれは。我々は最善の隊列で退却した。敵は我々を妨害しようと試み、我が軍に攻撃を仕掛けた。第57連隊は動揺することなく敵を迎え撃ち、マスケット銃の銃弾を浴びせ、敵の縦隊を混乱させた。連合軍騎兵隊は二度突撃を再開したが、二度とも撃退され、損害を被った。騎兵隊を率いていたラロッシュ将軍は負傷し、馬の足元に倒れた。フランス軍が助けに来なければ、彼は死んでいただろう。「友よ!」とラロッシュ将軍は叫んだ。「かつて貴軍に仕えたのだ。助けたまえ。」彼はすぐに召集され、部隊に戻された。胸甲騎兵の一隊が後退中の第18連隊を奇襲しかけたが、参謀長シュナイダー大佐は、率いていた一個大隊を巧みに阻止し、彼らの衝撃を破り、連隊を必然的な敗北から救った。

連合軍は我々の進撃を阻止できないと確信し、平和裡に我々に行軍を続けさせてくれた。我々の部隊は、対峙する軍勢の圧倒的な優勢を正確に把握した後、陣地に戻った。両軍は駐屯地に入った。数日後、軍事協定が締結され、アルザス全域で戦闘は停止した。

[375ページ]

第48章
不作為はすぐに反乱を引き起こした。政治的結託に惑わされるという言い訳のない他の軍隊、他の軍団は、軍規を踏みにじっていた。この熱狂の渦中にあって、我が兵士たちが一瞬我を忘れたとしても不思議ではない。この出来事は私にとって痛ましい。私はこれを書くべきではないし、省略すべきでもない。ジュベール、マッセナ、そして私が肩を並べるとは思えない多くの将軍たちが受けた非難は、十分に受け止められる。匿名の筆者は、この不服従行為について次のように述べている。――彼は全てを語るのを適切だとは考えなかったが、問題は私自身の行動にある。私は彼の控えめな態度に倣わなければならない。そして、私は彼が下した判断に従う。

オーストリア軍は、武力でストラスブールを占領することは不可能だと諦め、市内の一派と協定を結ぼうとした。彼らは賢明な行動で成功した。 [376ページ]人々の心に最も強く作用する二つの手段、すなわち金と恐怖。彼らは富の魅力で人々を惑わし、政府の報復を恐れさせることで人々を屈服させた。こうして、誘惑にかかりやすいと考えたすべての人々を確信すると、彼らは邪悪な計画を急いで実行に移した。

「作戦開始当初から、我が兵士たちは苛立ちに苛まれ、敵の秘密の計画を巧みに実行しようとしていた。彼らはワーテルローの惨劇を熟知し、その詳細を隅々まで把握していた。しかし、ヨーロッパ全土を五度も制覇したあの名将の手腕に過信しすぎていた。彼が突然のひらめきで勝利を取り戻し、敗れかけた勝利を何度も目にしてきたため、彼の軍事的才能が突然見放されたとは信じられなかったのだ。彼らは絶えずこの惨劇のことを考え、怒りを禁じ得なかった。我が軍がこれまでと同じ戦況を続け、同じ敵と戦っていると信じ込んでいたため、このような敗北は彼らには考えられないことだった。真の原因を知らず、彼らは我々のあらゆる不幸を反逆のせいにした。裏切り者たちが情報を提供したのだ。 [377ページ]我々の計画を裏切った者たちが偽りの作戦を指揮し、裏切り者たちが「sauve qui peut!(裏切り者は誰だ!)」と叫んだのだ。将軍の中にも、将校の中にも、兵士の中にも裏切り者はいた。北軍以外に裏切り者がいないかどうか、誰が知るだろうか?彼らが所属する軍団、連隊、中隊に裏切り者が潜んでいないかどうか、誰が知るだろうか?彼らは上官たち、戦友たちを信頼できるだろうか?誰もが疑われていた。誰もが疑わざるを得なかったのだ!

怒りが吐き出し、悪意が巻き込まれ、拡大し、毒に染まり、そしてついにはすべての兵士が繰り返し信じた言葉がこれだった。この考えはすぐにあらゆることを説明する媒体となった。戦場を維持することに慣れていた彼らは、軽蔑する敵の前に退却せざるを得ない苦痛を味わった。敵の進撃を圧倒的な数的優位性に帰するのは当然だっただろう。しかし彼らはそうではないと解釈することにした。彼らの指揮官たちはオーストリア軍と連絡を取っていたのだ。いくつかの状況、それも避けられない不幸な状況が重なり、偏見に満ちた兵士たちの目には、この意見がいかにも真実味を帯びたものに見えた。その第一は、将軍が下した命令だった。 [378ページ]ラップ伯爵は、軍を解散させ、各兵士を金銭も武器も持たずに個別に解雇するよう命じられた。次に、政府から送られた命令は、ストラスブールの兵器庫から持ち出したマスケット銃一万丁をロシアの委員に引き渡すというものだった。この二つの命令により、彼は連合国との通信を余儀なくされた。この際に行われた頻繁な使者の交換は、彼らの心に悪影響を及ぼした。将軍が兵士たちに銃器の撤去を隠蔽するために守らなければならなかった秘密主義は、彼らの怒りを増大させ、悪意は頂点に達した。ラップ伯爵は身売りした、要塞に彼らを送り込むためにオーストリア人から数百万フランを受け取った、兵士を個別に武器も持たずに解雇するなら、それは敵に引き渡すという合意に基づくものだ、という噂が広まった。

「不満の種が各部隊にまかれると、それは自然と大きくなり、扇動者たちは、その進行を観察し、混乱を拡大するように計算された事件を組み合わせ、彼らが準備していた大惨事を不可避にすること以外に何もすることがなかった。

[379ページ]

ラップ将軍はそのような陰謀を疑うどころか、それを阻止するためにあらゆる手段を講じていた。軍の解散に関する大臣の電報が届くとすぐに、副官の一人であるマルニエ中隊長をパリへ急派した。この将校は大臣たちに何度も面会し、軍に支払われるべき給与の全額が支払われなければ、軍がどれほどの暴動に陥るかを説明した。しかし、熱心に懇願したにもかかわらず、陸軍省の金庫に40万フランの請求書しか渡せなかった。彼がこのわずかな金額を持って戻ってきたことで、それまで抱いていた期待はすべて打ち砕かれた。兵士たちがますます激怒していくのを見た総司令官は、この騒動を鎮めるためにあらゆる手を尽くした。金銭不足が不満の主な原因だった。この不満の根源に終止符を打つために、不満を抱いたラップ伯爵は、ストラスブールで融資を試みようとした。住民から担保を要求されたため、彼は財務大臣に町のタバコの在庫を質入れするよう要請したが、大臣は拒否した。しかし、軍司令官セメレ将軍の仲介により、 [380ページ]要塞の防衛に16万フランが充てられた。しかし、このようなわずかな物資では兵士たちを満足させることはできなかった。彼らは虚偽の報告に煽られ、彼らの間で反乱が勃発するのも時間の問題だった。反乱は突如として広範囲に広がり、極めて特異な様相を呈していた。フランス軍の士気をより深く理解するために、この件の詳細をここで述べたいと思う。

9月2日午前8時頃、様々な連隊から集まった約60名の少尉が、この地の要塞の一つに集結した。彼らは軍の解散命令に従うという計画に同意したが、その条件には従わないことを決意した。この宣言は次のように始まった。

「ライン軍の名において、将校、下級将校、兵士は、以下の条件に限り、軍の解散命令に従うものとする。

「第一条 将校、下級将校、兵士は、彼らに支払われるべき給料を全額受け取るまでは軍を離れてはならない。」

「第2条 彼らは全員、武器、荷物、各自50発の弾薬を携えて、同日出発する」など。

[381ページ]

この文書が作成されるやいなや、彼らは総司令官のもとへ赴き、それを伝えた。当時体調を崩していた将軍は、入浴中だった。この予期せぬ訪問に驚いた将軍は、彼らを入浴させるよう命じた。5人の将校が直ちに浴室に入り、任務の目的を説明し、条件が満たされるまでは軍は解散に応じないと宣言した。「条件」という言葉に激怒した将軍は浴室から飛び出し、報告者の手から紙をひったくり、「諸君、私に条件を課すというのか? 従わないのか! 私に条件を課すとは!」と叫んだ。

ラップ伯爵の声の調子、表情、そしておそらくは彼の態度が代表団に衝撃を与えた。代表団は混乱の中退却し、将校たちはそれぞれ部隊に戻り、自分たちが受けた不当な対応について報告した。

約500人の下士官たちが集まって将軍の返事を待っていた。彼らはその返事を聞いて、そのような男が簡単には脅かされないことをはっきりと理解し、彼らがそれ以上の成功を収める可能性は低いと感じた。 [382ページ]彼らの上官たちよりも、そのような試みはできなかった。しかし、彼らの決意は受け入れられ、彼らは宮殿の庭にやって来て戦列を整え、総司令官に紹介されることを要求した。副官が彼らをここに連れてきた目的を尋ねに降りてきたが、彼らは彼と何の説明も拒否した。「部隊の指揮官は誰だ?」と将校は尋ねた。「誰でもない!全員だ!」彼らは一斉に答えた。彼は各連隊の最年長者を中庭の中央に呼び、彼らが犯している不服従行為を叱責した。一千もの声が一気に彼を遮った。「金だ!金だ!――我々は当然の報酬を得るだろう。報酬を得る方法は知っている!」

参謀総長シュナイダー大佐は、危険の最中にその勇気を何度も称賛していたが、この局面に到着し、彼らを静めようと試みたが、ほとんど効果がなかった。「金だ!」彼らは再び「金だ!」と繰り返した。叫び声をあげ、無駄な脅しをかけ、総司令官に近づくこともできず、彼らは集合場所を決めた後、解散した。大部分はパレードに参加し、そこで直ちに、彼らが選んだ新しい司令官の選挙に取りかかった。 [383ページ]彼らのうちの一人、ダロウジという名の、第7軽連隊の軍曹が、その能力と勇気、そして特に彼特有の軍人らしい雄弁さで知られ、満場一致で選出された。「お前たちは給料が欲しいのか」と彼は戦友に言った。「お前たちはそのためにここにいるのだ」「そうだ!」彼らは声を揃えて答えた。「それなら!もし私に従い、いかなる混乱も避け、財産を尊重し、人を守ると約束してくれるなら、24時間以内に給料を支払うことを私の頭にかけて誓おう」この発言は歓喜の叫びとともに受け止められ、軍曹は将軍に任命された。彼は直ちに参謀長に第58連隊の軍曹長を選出し、2人目の副将校に要塞総督を、3人目には第一師団の指揮を、さらにもう1人に第二師団の指揮を任せ、といった具合に任命していった。連隊には大佐、大隊と中隊には長、中隊には大尉がおり、要するに完全な幕僚組織が組織されていた。

他の下士官たちは兵舎に戻り、兵士たちは取られた措置の結果を待ち焦がれていた。すぐに軍団に合図が送られ、歩兵、騎兵、砲兵のすべてが整然と、二倍の速さで行進した。 [384ページ]パレード。彼らが到着した時には、組織はほぼ完成していた。到着するとすぐに、新しい首長たちは指揮を執り、占領命令のあった地点へと部隊を進軍させた。

その間、ラップ将軍は、これほど深刻な反乱の勃発に驚愕し、これらの扇動的な動きの動機を突き止め、鎮圧に成功しようと、急いで身支度を整えた。しかし、先ほど述べた様々な作戦はあまりにも迅速に遂行されたため、彼が副官と数人の将校を伴って出発した時には、既に数列の隊列が、多数の民衆に追従して、宮殿広場に通じる全ての通りを練り歩いていた。将軍の姿を認めるや否や、兵士たちは慌てて戦闘隊形を整え、銃剣で将軍の通行を阻止しようとした。たちまち後列から激しい叫び声が聞こえた。「撃て!」 「彼は軍を売った。――撃て!」兵士たちの間に散らばっていた何人かの悪党が、身振りや声でこの勇敢な男を虐殺するよう煽った。怒りは人から人へと広がり、混乱はすぐに頂点に達した。兵士たちは激怒し、マスケット銃に弾を込めた。 [385ページ]砲は二重に編成され、8門の大砲が一斉に到着し、直ちにぶどう弾を装填した。

ラップ将軍が脅迫者たちに話しかけるたびに、怒号が上がり、苛立たしい叫び声が激しさを増して響き渡った。マスケット銃が繰り返し彼に向けられ、大砲の砲弾が絶えず彼の体に向けられ、砲兵たちは彼の動きを逐一追いかけた。「どきなさい!撃ちますから」と彼らは叫んだ。榴弾砲は常に将軍を取り囲む群衆に向けられていたので、将軍はそれを察知した。彼はマッチを持った砲兵に駆け寄り、「さあ、どうするつもりだ、この哀れな男め!(彼は砲兵に言った)私を殺したいのか? ならば撃て、私はお前の銃口の前にいる」と言った。 「ああ、将軍」兵士は叫びながら、手からマッチを落とした。「私はダンツィックの包囲戦であなたと共にいました。命を差し出しても構いません。しかし、私の戦友は報酬を受け取るでしょうし、私も彼らと同じようにする義務があります。」そして彼はマッチを再開した。

「意味のない質問や、目的のない訴えに疲れ、群衆の喧騒に耳を塞がれ、群衆の数はどんどん増えていき、将軍はついに宮殿に戻ることを決意した。

[386ページ]

軍隊は彼に従い、それぞれの大通りは直ちに8門の大砲、1000人の歩兵、そして騎兵隊1個中隊によって占拠された。この衛兵は自らを宮殿の外衛兵と称した。一個大隊が到着して中庭に陣取り、内衛兵と称した。60人近くの歩哨がすべての門とラップ伯爵の居室に通じる階段に2人1組で配置された。また、数名は彼の寝室の扉にもしばらく配置された。電信と造幣局は直ちに占拠された。悪意がないことを示すため、オーストリアのフォルクマン将軍のホテルに分遣隊が派遣され、彼の指揮下に置かれた。跳ね橋は上げられ、新司令官の署名入りの許可なしに要塞の外へ出る者との連絡は禁止された。第58連隊の鼓手長はトランペットを吹き鳴らしながら、そして、休戦協定を尊重すれば守備隊はいかなる敵対行為も行わないが、首長と兵士たちの間に存在する誤解を利用しようとすれば、高潔な抵抗に対抗する方法を知ることになるだろうと同盟軍に伝えた。

[387ページ]

一方、ダルージはパレードに幕僚を配置し、二つの委員会を任命した。一つは補給軍曹からなる食料委員会、もう一つは曹長からなる財政委員会である。これらの委員会は常任となり、公共の平穏を維持し、奇襲攻撃から町を守るための最善の策を審議した。城塞と内部の警備は二重にされ、それまで放置されていた古い門にも警備員が配置された。外郭線は強化され、兵士たちは広場や通りに野営した。実際、どんなに慎重な判断をしても、どんなに慎重な判断でも、どんなに慎重な判断でも、どんな予防措置も怠られなかった。兵士たちの悪意を掻き立てる暴行を防ぐため、ブランデー、ワイン、ビールを販売している場所への立ち入りは、死刑の刑罰の下、禁じられた。同様の罰則が、以下の罪を犯した者にも下された。略奪、暴動、不服従。最後に、公共の平穏をさらに確保するために、軍に6時間ごとに状況を報告させることが決議された。

「これらの取り決めがなされたので、会計総監と検査官は、 [388ページ]召集令状が出された。後者は今年の給与に必要な金額を計算し、もう一人は金庫の中身を報告した。その後、ダロウジは市議会を招集し、守備隊が武器を取った動機を報告し、市長に滞納金の支払いに必要な資金を調達するよう要請した。

それから彼は、新総督と五、六人の軍曹からなる使節団をラップ伯爵に派遣した。「さて、私に何の用だ?」将軍は憤慨と軽蔑の口調で叫んだ。「あなた方はフランスの軍服を着る資格がない。私はあなた方が名誉ある人々だと思っていたが、それは間違いだった。あなた方は卑劣な者たちに誘惑されたのだ。あなた方は何をしたいのだ?なぜこの衛兵が宮殿を取り囲んでいるのか?なぜこの大砲が私に向けられているのか?それでは私はそんなに恐ろしいのか?私が逃げようとしているとでも思われているのか?なぜ逃げなければならないのか?私は何も恐れない。あなた方を恐れていない。だが肝心なのは、あなた方は私に何の用だ?」彼はこの質問を繰り返した。これらの言葉を発するラップ伯爵の動揺は、使節団の憂鬱な雰囲気とは際立った対照をなしていた。愛する上官を留任させていることを恥じる下級将校たちは、 [389ページ]勇敢さと忠誠心は彼らにはあまりにもよく知られていたため、捕虜となった兵士は深い沈黙を守った。彼らが撤退しようとしたその時、一人が口を開いた。「将軍」と彼は言った。「他の部隊には給料が支払われたと聞きました。兵士たちも給料を受け取ることに決めました。彼らは反抗的ですが、我々に従っています。我々が求めるのは、我々に当然の報酬、多くの血と傷に対するわずかな補償だけです。行軍を遂行し、故郷へ撤退するために必要なものだけを求めています。兵士たちは全員に給料が支払われるまで、秩序を取り戻しません。これは固く決意されたことです。」――「金​​庫には十分なお金がありません」と将軍は答えた。「私は停戦中も含め、あなたたちに給料を支払うつもりでした。副官をパリに派遣しました。彼は大臣たちに会ったのですが、40万フランしかもらえませんでした。」この金額と主計官の金庫にある金額を合わせて、各連隊に分配するよう命じます。」「将軍、軍隊には給料を支払います。」「言いたいことはすべて伝えました。撤退し、できるだけ早く戻って命令を仰ぎましょう。もし敵が不幸にもここで起こっていることを知ったら、あなたはどうなるのですか?」「将軍、これはすべて予測済みです。騎兵連隊と大砲12門が出発しました。 [390ページ]野営地にいる師団を増援するためだ。お前たちが我々に給料を払うのは容易い。それに、もし24時間以内に兵士たちの要求が受け入れられなければ、兵士たちはあらゆる危険を冒すことになるだろう。」「お前たち兵士たちが何をしようと、私には関係ない。繰り返すが、お前が受け取るのは、お前に割り当てられた資金だけだ。何が起ころうとも、私の義務で禁じられていることをやらせるなどと、お前は思わないでくれ。」「将軍、兵士たちがお前を城塞まで案内するだろうし、銃殺することさえできる。今、我々が彼らの責任を負っているが、もし我々に給料を払わせないのであれば…」「もう何も言うことはない。出て行け。もし私を撃つなら、それでいい。恥辱を受けるよりは死を選ぶ。お前たちは秩序の敵であり、悪意と、お前たち自身も知らない陰謀の道具だ。敵は共謀しているのかもしれない。起こりうるすべてのことの責任をお前たちに負わせる。お前たちは私の言うことを聞いているだろう。立ち去れ!反逆者と会話するのは恥ずかしい!』

「陰謀という言葉は彼らに非常に深い印象を与え、彼らはしばらく沈黙していた。しかし、彼らは再び話し始め、そのうちの一人が言った。「彼らの中に秘密の意図を持つ者がいたとしても、彼らはそれを知らない。彼らはただ報酬が欲しいだけだ。」 [391ページ]しかし、彼らは支払いをするつもりであり、資金調達の指示を出すために行政当局を彼のもとに連れてくるつもりだと言った。その後、彼らは撤退した。

議会が公共の平穏を確保し、滞納した給与を清算する方法について協議している間、軍は様々な行動を起こしていた。軍は常に疾走しながら行進し、反撃を繰り返し、一言も発することなく、逮捕した将校たちへの脅しも一切行わなかった。フランス軍にとって異例とも言えるこの沈黙は、住民たちを不安にさせる不吉な雰囲気を漂わせていた。それでも軍はようやく落ち着きを取り戻したが、町民との連絡は一切取らず、質問に答えることさえ拒否した。街路や広場では、絶えず集団が形成され、非常に低い声で命令や意見を伝えた後、解散していくのが見られた。町全体が憂鬱な不安に包まれた。人々は過去の悲劇を思い起こし、再びその恐怖に襲われた。誰もが財産と命を案じて戦慄した。当時この大都市で見られた光景ほど恐ろしいものはなかった。提示されました。

「総司令官は、 [392ページ]住民が必要な資金を集めることに同意したにもかかわらず、長らく懇願を拒んできたことを恐れて屈したため、総督は借入金の分配について民事当局と交渉するため総督を派遣した。総督は伍長と6人の部下に市庁舎まで案内されたが、彼らは立ち去らなかった。総督は帳簿をまとめ、同じ護衛の下、宮殿に戻った。

その間、将軍や軍団長たちは、反乱者を職務に戻そうと、交互に脅迫と懇願を繰り広げた。上官を敬愛し、上官の前で職務を怠る勇気などなかった兵士たちは、恐れていた優位性と陳述から逃れるために策略に訴えた。将校が一方向へ向かう際には、最前列で異なる軍団の兵士たちと対峙するように気を配り、将校が彼らに説教している間、他の兵士たちは後方から声を張り上げた。この戦術にもかかわらず、もし将校が部下の一人に近づき、「この将校よ」と非難することができれば、もう一人の将校は偽善的な温厚さで「私は何もしていません。一言も話していません」と答え、すぐに群衆の中に隠れた。兵士たちはすぐに、自らを解放するための総力戦を採った。 [393ページ]こうしたしつこい勧誘から解放され、重要な指揮を執る者全員は家に留まるよう命じられた。

市民の警戒はすぐに鎮まり、夜になるずっと前に撤退の合図が鳴らされ、その瞬間から巡回は途切れることなく続いた。各駐屯地では、いくつかの本日の命令が読み上げられた。それらは平静と服従を促し、24時間以内に支払いを行うことを約束した。命令の一つは次のようなものだった。

「すべて順調に進んでおり、住民は資金を集めており、支払いが始まっています。

(署名) ギャリソン

「厳重な監視をより容易にするため、町を照らすよう命令が出されました。

「反乱の秘密の扇動者たちは、あらゆる会議においてある程度の知恵が主導権を握っており、それが彼らの立場を絶望的なものにしていること、そして兵士たちの精神を再び燃え上がらせ、血が流れるような騒動を起こさなければ、彼らの目的は達成されないことを悟っていた。

「この景色を見ると、午後5時頃 [394ページ]午後、馬の猟兵が全速力でパレードに現れ、ラップ将軍の所有する金貨三台がちょうど止められたと告げた。彼はオーストリア軍の保護下で、それらを街から追い出そうとしていた。「この三台の荷馬車は」と猟兵は付け加えた。「この三台の荷馬車は屋根付きの橋まで運ばれました。これが総司令官宛ての領収書です。ラップ将軍は射殺されなければなりません。彼は裏切り者です。我々を敵に売り渡したのです。」

いくらか苛立ちが残っていたとはいえ、この演説はほとんど効果を及ぼさなかった。兵士たちは司令官に手荒く接し、貢物を徴収させたが、彼に対して何の疑いも抱かなかった。名誉ある人物としての彼の評判は傷つかず、彼の誠実さは勇気と同様に疑われていなかった。このように公然と殺人を挑発したことで不信感が募り、兵士たちはより慎重になった。しかし、一部の者は不安を煽り、彼の身柄を確保してほしいと願った。しかし、軍は賢明にも、おそらく当初は完全に不誠実であるとは認識していなかったものの、その陰謀を退けた。

「一つの手段が失敗すると、陰謀者たちはすぐに別の手段を試し、血を流すためにあらゆる手段を講じた。 [395ページ]流れさえあれば、再び流すのは容易いだろう。将軍の御者は、藁を積んだ荷車を宮殿から厩舎へと走らせていた。歩哨たちは荷車を通すよう幾らか異議を唱えたが、荷車はそのまま進み、まもなく悪意ある者たちが「反逆だ!」と叫び、藁を運び去る口実で軍の荷箱を持ち去ったと偽った。群衆はたちまち荷車とその荷に群がり、よりよく捜索しようとした。何も見つからなかったため、彼らは再び荷車を積み直し、それでもなお荷車を引き返すよう要求した。馬は驚いて走り出し、子供を轢いてしまった。

この光景に怒りは倍加し、衛兵は追い詰められ、群衆は宮殿の中庭に殺到し、御者を捕らえ、彼を守ろうと駆けつけた将校の手で容赦なく虐殺した。召使の死で混乱が収まるはずはなかったが、兵士たちが集団で現れ、最も激怒した者たちを自制させ、こうして再び攻撃は失敗した。

ラップ将軍を部下の手で虐殺しようとする試みはすべて失敗に終わり、彼を暗殺するために異例の手段が講じられた。夜が明けるや否や、多数の人物が次々と暗殺に加わった。 [396ページ]そして、力ずくで彼の寝室に押し入ろうとした。しかし、副官と将校たちは勇敢に扉を守り、上官を侮辱から守った。

この熱狂の最中、突如として兵士たちの士気を冷ます出来事が起こり、秩序回復に貢献した。反乱が勃発したまさにその瞬間、敵軍は町の周囲に陣地を縮小し、相当数の増援も受けた。オーストリア軍がとった措置と、彼らが知るはずのなかった出来事が同時に起こったため、多くの憶測が飛び交った。そのため、外側の師団は直ちに主力衛兵を倍増させ、町からは新たな部隊と砲兵が到着した。

敵は怯え、敢えて攻撃を仕掛けようとはしなかった。おそらく彼はストラスブールで企てた陰謀の結果を待っていたのだろう。あるいは、勝利を強いられた分、より強力な軍勢と交戦することを恐れていたのかもしれない。さらに、軍事的な準備に関するあらゆる事柄において、オーストリア軍はこの戦役中に何度もその勇気と手腕を目の当たりにしていたロッテンブルク将軍から命令を受け続けていた。したがって、敵は [397ページ]陣地を固め、好機が訪れるのを待っているかのようだった。一方、軍は用意された策略に警戒を怠らず、冷静かつ毅然とした態度で、唯一目論見ていた目的、すなわち滞納した給料の支払いに邁進した。

ギャリソン将軍は公共の平穏を保つため警戒を倍加させ、軍服を着て馬に乗った幕僚たちを従えて出陣し、命令の遂行を徹底した。彼が姿を現すと、太鼓が鳴り響き、衛兵は退場し、総司令官にふさわしい敬意を表した。

「こうしてストラスブールは混乱の最中に最も完璧な秩序を出現させ、反乱状態の軍隊に最も厳しい規律を支配させた。

融資が成立すると、給与担当官は連隊の番号順に、立派な護衛の下、給与総監のもとへ案内され、各部隊の給与に必要な金額を受け取った。しかし、全連隊がそれぞれに支払うべき金額を受け取るまでは、個別の支払いは行わないよう命じられた。こうして初日は過ぎ、二日目は騒動は少なくなった。それでもなお、兵士たちに何らかの形で「我々の利益は我々の利益である」と信じ込ませようとする試みはあった。 [398ページ]噂は騒動を呼ぶことを意図していたが、ほとんど無視された。夕方になると、宮殿の歩哨への命令は緩み、副官たちは護衛付きで外出する許可を得た。擲弾兵の隊列が任命され、彼らを希望の場所まで護衛し、また帰還させる任務を負った。

夜の間に、すべての配置が新しくなった。下士官の制服を着た者たちが再び現れ、将軍の居室に侵入し、将軍が逃亡していないことを確かめようとした。彼らと参謀たちとの口論はかつてないほど激しくなったが、最終的には参謀が勝利した。結局、資金の分配は午前9時頃に行われた。武器を手にする号令が鳴ると、軍隊は直ちに集結し、配置を撤収し、宮殿の包囲を解き、パレードへと向かった。ガリソン将軍は参謀全員を率いて兵士たちを整列させ、以下の布告を彼らに発した。以下、逐語的に引用する。

「ライン軍の兵士たちよ、

「あなたの部下たちが正義と完全な正義を得るためにとった大胆な行動は、 [399ページ]あなた方の給与の不払いは、彼らと文民・軍当局との関係を危うくしています。彼らはあなたの善良な行い、辞任、そして卓越した規律にこそ安全を期待しています。あなたがこれまで維持してきたものが、安全の最良の保証であり、彼らはそれが今後も続くことを願っているのです。

兵士諸君、諸君への支払い義務は全て給与係に預けられている。守備隊は元の状態に戻り、駐屯地は総司令官が適切な命令を下すまでそのまま維持される。式典から戻った曹長と補給官は給与係のもとへ行き、大佐から兵士に給与を支払う前に記録を取り、未払い分を差し押さえるものとする。

「歩兵は解散させられ、上官の命令に従うことになる。騎兵は依然として命令を受けていないため、少なくとも出発前に馬、武器、そして政府に属するすべてのものを放棄し、フランス人であると言われるように、運命を待つことになる。彼らは名誉ある任務を果たし、正当な報酬を受け取り、ライン軍という栄光ある称号の下、国王の命令に従ったのだ。」

「ライン軍の命令により」

[400ページ]

軍曹長は、この演説を軍が静まり返って聞いた後、歩兵二個師団、騎兵、砲兵を前に整列させ、自らの命令で作られた白旗を、知事と市長の執務室に盛大に掲げた。その後、兵士たちは兵舎に戻り、それぞれの将校の指揮下に入った。

将軍、大佐、そして上官たちは解放されるとすぐに、ラップ伯爵のもとへ駆けつけ、軍隊が規律を軽視しているのを見て痛感したことを訴えた。彼らは軍隊が屈服した扇動的な動きに抗議する文書を印刷させ、全員が署名した。その文書には総司令官を大いに喜ばせるような表現も含まれていた。

二日後、彼らは武器庫に武器を置き、全軍団は解散した。反乱の指導者であったダロウジは死刑に処せられたが、反乱の最中に秩序を維持していたため恩赦を受けた。」[3]

[3] 1815年のライン軍とジュラ軍の作戦概要。

[401ページ]

軍は解散させられ、私の指揮権も失効したため、もはやアルザスに留まる理由は何もありませんでした。しかし、フォーブール・サンジェルマンの善良なる心を持つ者たちは、我々がヨーロッパにとって恐怖の源だと考えていたのです。戦場では確かにそうだったと思いますし、連合国もそれを容認しませんでした。しかし、他の点では、これは我々を過大評価しすぎでした。陰謀や陰謀に関しては、我々が称賛に値するわけではありません。それでも私は、彼らが私に与えようとした報いを受けるために赴きました。私は国王に手紙を書きました。自分の気持ちを隠そうとはしませんでした。もし連合国軍全体をライン川に投げ込むことができたなら、私はそうしていたでしょう。私はそれを隠そうとはしませんでした。私の手紙はこのような文面でした。

「陛下、

私は自分の行為を正当化しようとは思っていません。陛下は、私の精神性と軍事教育が常にフランス領土をあらゆる外国の侵略から守るという道を導いてきたことをご存じです。何よりも、私を産み育ててくれたアルザスを守るためなら、命を捧げることもためらいませんでした。

「陛下のご高配を賜りたく存じますれば、私は祖国で生涯を終えたいと存じます。もしそうでなかったら、私は真っ先に海外へ赴き、余生を送ることを求めるでしょう。私は [402ページ]我が祖国において、我が君主の尊敬なくしては。」

「私はただこれだけを願う。それ以上は何も要らない。」

この手紙は役に立った。君主の目に触れなかった敬意の印が、悪意を抑制してくれた。私はパリで何ヶ月も何の邪魔もなく過ごしたが、移民の一団が議場を埋め尽くし、演壇で熱弁をふるっていた。フランスが誇る才能と勇気で名高い人々に対する彼らの罵詈雑言に、私はひどく嫌悪感を覚え、退散した。私はスイスへ向かった。少なくとも貴族社会においては、現代の激怒と過去の卑劣さが融合した、醜悪な光景は見られなかった。9月5日の布告は、それから間もなく発布された。私はパリに戻り、家族の懐の中で静かに暮らし、それまで経験したことのない幸福を味わっている。

回想録はここで終わります。少しだけ付け加えさせていただきます。

貴族院議員となった将軍は国王の前に召喚された。この恩恵によって、彼は旧臣への不忠誠を誓うことはなかった。[403ページ] 思い出。幾多もの不滅の日々が彼の心に深く刻まれていた。我々の勝利を、そしてそれを導いた者、そしてそれを手に入れた者たちを忘れることはできなかった。彼は幾度となく、それらの勝利において輝かしい役割を担ってきたのだ!勇気は自らを廃嫡するものではない。同様に、戦場で自分たちより劣る者たちに迫害された勇敢な兵士たちは、常に将軍の中に忠実な守護者を見出した。将軍の財布も、名誉も彼らに開かれていた。彼は決して不運な者を拒絶することはなかった。旗印に定められた特権を何一つ持たない者たちも、彼の恩恵にあずかった。彼らが苦境に陥っているだけで十分だった。彼にとって、不幸は神聖なものだった。

不安と疲労に苛まれた生涯の後、突如として陥った無活動状態は、彼を包む傷を致命的な死へと急がせた。彼の健康は失われ、間もなく天命を終えた。彼は感情を表に出さずに死を見つめ、常に顔を合わせてきた敵と正面から向き合うよう自らに命じ、フランスと家族のために祈りを捧げながら息を引き取った。

[405ページ]

文書
回想録の図解。

ラップ将軍からヴュルテンベルク公爵への手紙。

1813年6月14日。

リシュモン大佐から、殿下が今月…とお書きになった手紙を拝受いたしました。リシュモン氏が私の名において行った和解の提案が受け入れられず、議論の余地が全くないと思われた点について議論が持ち上がったことを、私は痛切に知りました。

陛下に対し、一般的に申し上げたいのは、休戦協定はナポレオン皇帝によって要求されたものではないということです。ナポレオン皇帝は、すべての条項がフランス軍に有利に解釈されるべきだと想定しています。しかし、条約の意図が議論されている以上、陛下と私自身の目的を達成するには、境界線に関しては現状のままとし、休戦協定第9条および第12条によって任命された委員に第6条の履行で生じた困難について報告するよう閣下に提案する以外に方法はないと考えます。 [406ページ]したがって、陛下にお願いしたいのは、私とともに、委員のもとへ赴くよう指示され、私たちが期待する解決策の報告書を速やかに提出できる役員を二人指名していただくことです。

また、補給に関する条項は暫定的に決定されることにも同意します。つまり、殿下が、駐屯軍の報告によれば休戦日から起算して 30,000 食分の食糧を我々に支給することをお引き受けにならない場合、リシュモン大佐はロシアの委員と、我々に前払いで供給される量を、休戦委員によって最終的に決定される量から差し引くこと、および制限条項について決定することができます。

休戦をもたらした将校は、封鎖を指揮する将軍の指示により守備隊に最初の物資の配給が行われるまで出発を遅らせることを指示されていなければ、起こった議論を帝国本部に報告することができたであろう。

休戦協定が我々の間に存在すると想定している良好な理解について、この士官の遅延から誤った推論が導かれるかもしれないことを私は恐れる理由があり、条約の締結に関して我々が合意に達することができたことを私は強く望んでいました。この不測の事態は、陛下がリシュモン大佐の提案に同意したかもしれないように私には思えるため、私はさらに嘆かわしいことです。 [407ページ]わたしは、主君からの非難を少しも恐れることなく、あなたに代わって確かにそうしました。

(署名) ラップ伯爵。

答え

スルミン、1813年6月15日。

閣下が光栄にも6月14日付で私に宛てて書いて下さった手紙を受け取りました。率直に申し上げますが、休戦協定の文面通りの履行に関して存在する誤解の原因について、十分に説明することが私の義務であります。

この条約は、あらゆる論争を避けるための確固たる原則を定めており、私はこれに厳格に従う方がはるかに単純かつ自然であると考えます。閣下、誠に心苦しいのですが、閣下のご提案に従い、この条約から離脱することに同意いたします。閣下が望まれるこの取り決めによって、我々双方はある程度、我々の権限の限界を超えてしまうため、休戦協定の文字通りの意味において、我々の間に中立線を定める方がはるかに望ましいと考えます。しかしながら、これ以上の議論を避けるため、現状維持に同意いたします。さらに、私の前線部隊の指揮官たちにも、閣下がご満足いただけるであろう何らかの取り決めについて、閣下と合意するよう指示いたします。 [408ページ]歩哨とピケットに関しては、我々の軽歩兵部隊間の衝突を防ぐためです。

条項に関する事項については、この目的のために招集された委員会がすでに会議を開始しており、リシュモン大佐がまもなくこの条項が最終的に決着したと発表できることを期待しています。

休戦協定の条項に関して生じていると思われるすべての困難を最終的に解決するために任命された委員に閣下が派遣しようとしている2人の士官に関しては、彼らに必要なパスポートを発行する権限が私にはないことを申し上げなければなりません。ただちに決定される条項により、数日以内にプラナット大尉がこの任務を引き受けることが許可されます。

さらに、将軍、私は25年間の勤務で主君の命令を厳密に遂行することに慣れていますが、もし私がリシュモン大佐から提案された、単純で自然な表現で少しも議論の余地のない休戦条項から根本的に逸脱した提案に同意していたら、まったく違った行動をとったであろうと確信しています。

さらに、閣下にとってご都合の良いことであれば、そして同時に私の義務と矛盾しない範囲であれば、私はいつでも喜んで応じます。私が光栄に感じているこの高い配慮に匹敵するものは何もないことを、閣下を納得させるために、あらゆる機会を熱心に捉えてまいります。

(署名) アレクサンダー、ヴュルテンベルク公爵。

[409ページ]

ヴュルテンベルク公爵からラップ伯爵閣下への手紙。

私の本部より、1813年7月12日。

(14 日に受信されましたが、公爵はダンツィックからわずか 2 リーグしか離れていません。)

一般的な、

司令部から到着した使者が、ダンツィッチ駐屯軍へのこれまでの支給を停止せよという命令書を持ってきた。休戦継続中に、プロイセン軍のリュッツォウ少佐の指揮下にある義勇軍が何の理由もなく攻撃を受けたことが、今回の決定の理由であると私に告げられ、この件が最終的に解決するまで、この決定は変更されないものとする。

私が受け取った命令をあなたに伝えると同時に、この事件はおそらくすぐに解決されるでしょうが、休戦協定の他の条項は変更されず、完全に有効なままであることをお知らせします。

私は名誉を与えられています。

(署名)アレクサンダー、ヴュルテンベルク公爵、

騎兵将軍。

[410ページ]

答え

ダンツィック、1813年7月14日。

ムッシュ・ル・デュック様、

休戦の結果我々の間で合意された取り決めが始まって以来、私は、陛下がそのような取り決めが要求する正確さをもってそれを履行していないことを、非常に苦痛に感じてきました。

物資の配達が遅れていることから、休戦協定の精神を細部に至るまで破壊する秘密戦争が起こっていることを私は察知しました。私の度重なる抗議にもかかわらず、食料の大部分が未払いのままです。貴国は現在支払わなければならないものさえもお納めになっておらず、このような状況の中、本日14日、閣下から12日付の手紙を受け取りました。手紙には、貴国が食料の供給停止命令を出していることが記されています。この停止は実際には4日前、すなわち10日から行われており、私たちの書簡は2時間で届く可能性がありますので、貴国からの書簡の到着日と到着日の違いを、私がどのような気持ちで受け止めているかを、閣下に隠すつもりはありません。

休戦協定の条件は、両当事者を等しく拘束するものであり、一方が主要かつ最も重要な条項の一つを破棄した時点で、休戦協定はその瞬間から破棄され、他方に対して戦争状態に置かれることになります。この観点から、私は今後、貴殿の宣言を検討いたします。 [411ページ]殿下は休戦協定の他の条項はそのまま維持されると仰せになりましたが、陛下のご命令がない限り、このような変更はお受けできないことをご理解ください。それでは、戦闘再開までの6日間は、12日の午前1時から起算するのか、それとも14日の正午から起算するのか、お教えいただければ幸いです。

我々の主権者の間で締結された休戦協定の破綻は、あなた方の責任であると私は考えており、私に支払われるべきすべての食料を受け取るまでは、いかなる言い逃れにも耳を傾けることはできないことを、あなたに告げなければなりません。

(署名) ラップ伯爵。

ヴュルテンベルク公爵からラップ伯爵将軍への手紙。

私の本部より、1813年7月15日。

閣下から私宛に送られた手紙をたった今受け取りました。その内容に並々ならぬ驚きを覚えていることを閣下に隠すことはできません。

ボロズディン将軍とイェレブツォウ将軍が繰り返し指摘してきたことを閣下に改めて繰り返しても全く無駄でしょう。つまり、ダンツィッチ駐屯軍が補給に一時的に遅延を経験したことは、単に手配の突然の変更によって生じただけなのです。 [412ページ]閣下がご提案になり、ご要求になったのは、食料を貴国自身の補給兵に購入させることでしたが、これが必然的に最大の困惑を招きました。プロイセンの補給兵は、ダンツィックに隣接する諸州が既に長きにわたり我が軍への補給を担ってきたにもかかわらず、その諸州が全くの貧困状態にあることを理由に、そのことを許したのです。私が幾度となく要請したように、休戦協定の条項に従い、私の司令部にフランス人の補給兵が常駐していれば、ダンツィックへの補給と我が軍の維持に必要な荷車や食料の調達においてプロイセンの補給兵がどれほど困惑しているかを、彼は理解できたはずです。ですから、ダンツィックへの補給を妨げているのは、封鎖を敷いた軍隊ではないのです。さらに、私の行動について説明責任があるのは、私の君主である高貴なる皇帝アレクサンダーのみである。

さて、ここでさらに重要な点に触れたいと思います。これは、極めて深刻な結果をもたらす可能性があるからです。閣下の書簡によれば、閣下は自らの判断で戦闘を再開しようと決意されているようですが、一方でシュテッティンとクストリン、そしてダンツィッヒは、休戦協定で定められた物資を一時的に奪われています。しかしながら、閣下がこれから行うことを真剣にご検討くださるよう願っております。そして、その責任はすべて閣下にあります。 [413ページ]貴国が講じることのできる措置、そして交戦国が意見の相違を調整するのを妨げる可能性のある措置。

全軍司令官バークレイ・ド・トリーから受け取った手紙の正確なコピーをお送りします。戦闘を再開する考えは全くなく、むしろそうすることが明確に禁じられていることがお分かりいただけると思います。

私が軍団長である将軍たちから正式に承認されたすべての観察にもかかわらず、ダンツィッチへの食料補給(その滞納金は猶予されているだけである)および他の要塞への食料補給の一時的な停止を引き起こしたリュッツォウ軍団の件が友好的に解決するまで辛抱強く待つことを良しとせず、私の軍を攻撃するのであれば、私の勇敢なロシア人は誰の脅威にも怯まず、すべての君主とすべての国民の大義のために血を流す覚悟があることを証明しよう。

(署名)アレクサンダー、ヴュルテンベルク公爵。

答え

ダンツィック、1813年7月16日。

殿下が今月15日に光栄にも私に宛てて書簡を受領いたしました。休戦条件の不履行に関する殿下の様々なご指摘については、改めて触れるつもりはありません。それらは常に提起され、常に見事に反駁されてきたため、ここに記させていただきます。[414ページ] 何も新しいことはありません。ボロズディン将軍の要請を受けて会談に派遣したユーデレ将軍は、我々の間で再び暫定的な合意を結ぶための唯一の方策を私に知らせてくれました。

本年14日付の手紙において、私は陛下に対し、停戦から開戦までの6日間の正確な時刻を定めるよう懇願いたしましたが、これに対し明確な回答を得られませんでした。12日付の陛下の手紙が14日正午にようやく私の元に届いたこと、そして陛下が補給継続を正式に拒否されたことは休戦協定の破綻としか考えられないことから、20日に開戦することをお知らせいたします。この決断は皇帝陛下と我が軍団の責任です。正午、ダンツィックの複数の要塞から6発の砲弾が発射されたことで、この点については疑う余地はないでしょう。条約条項の一つに違反したことを、休戦協定の破棄を正式に宣言するものとして解釈する義務を私が負っていることを、陛下には脅迫と捉えないようお願いいたします。私は勇敢なロシア軍を知っています。私は彼らと何度も戦ってきました。そして、彼らが我が国の軍隊と戦う価値があることを知っています。

閣下、もし私が15日付の手紙のいくつかの表現について殿下に言及せざるを得なかったならば、私の手紙はここで終わるでしょう。私もまた、私の決意については君主にのみ責任を負います。殿下がすべての君主とすべての国家の大義と呼ぶものについては、よりよく知っている君主の手紙の中で、これらは非常に異例な表現です。[415ページ] 皇帝アレクサンダーが、その君主として、5年間、大陸全土をその属国に従属させようとする海洋国家の専制政治に対抗するために我々の同盟を結んでいたこと、そして皇帝アレクサンダーの高貴な弟であるヴュルテンベルク王が、長年にわたりこの同じ大義の最も忠実な支持者の一人であったことを、誰よりもよく知っています。

(署名) ラップ伯爵。

ヴュルテンベルク公爵からラップ将軍への手紙。

私の本部より、1813年7月17日。

一般的な、

閣下が私に対して、ある勢力から別の勢力への正式な宣戦布告をなさったとしても、閣下がこれから行おうとしている戦闘の開始前に、私がまだいくつかの重要な発言をせざるを得ないのであれば、7 月 15 日付で閣下に書いた手紙に、私が付け加えることはもう何もないでしょう。

そこで、私はあなたにこう言います(あなた方が戦闘を開始するという宣言を公式に受け入れることは私には絶対に不可能ですが、そして、この出来事がもたらすであろうすべての結果に対してあなた方が責任を負うことを改めて宣言しなければなりませんが)。私の観察にもかかわらず、あなた方が、私が信じるところによればナポレオン皇帝によってさえ承認されないであろう決意を固持するならば、あなた方が7月20日の正午と定めた決裂の時期は、 [416ページ]休戦協定の第 2 条および第 3 条に、7 月 20 日の休戦期限の後、第 9 条によれば、7 月 20 日の 6 日後、つまりその月の 26 日までは敵対行為は行われてはならないと定められているため、戦場において敵対行為を再開するのが我々の 2 人の軍団長だけとなることは実に異例なことである。

少し辛抱すれば、内閣の情勢が好転しつつあるという知らせがすぐに届くと確信しています。もし閣下が性急に両宮廷の間に再び不和を生じさせられたら、閣下はどれほど悔やまれることでしょう。休戦中にリュッツォウ軍団が壊滅したことを知った以上、当面は報復措置を取るのは当然のことでしたから、閣下自身も非難されるべき点は何もありません。このように壊滅した兵士たちを生き返らせることは不可能ですが、一方でダンツィッチ守備隊に未払いの食料を供給することは十分に可能です。

将軍、あなたの手紙の最後の一節について、一、二の意見を述べざるを得ず、この手紙を終えます。それは私には極めて奇妙に思えました。ヨーロッパ全土、そして恐らくフランスも、ティルジットで調印された和平協定が破綻した理由を熟知しています。また、ピョートル大帝の首都の中心部で、ローリストン伯大使がとった独裁的な態度も知っています。威厳あるアレクサンダー皇帝は、その度を越した大胆さゆえに、剣に訴えざるを得ませんでした。教会を開くために、勇敢な兵士たちを率いざるを得なかったのです。 [417ページ]そして、自らの領土に満足している国家が何を成し遂げられるかを彼に証明した寛大かつ忠実な国民に自らを託し、その名誉と主権を守るために武装することを一瞬たりとも躊躇しなかった。

閣下が、あなたが擁護する大義の最も忠実な支持者の一人と呼んでいる私の兄弟、ヴュルテンベルク国王に関して言えば、ロシアの総司令官はいかなる点においても自分が連邦国王より劣っているとは思っていません。なぜなら、アレクサンドル皇帝が適切と判断すれば、私をその地位に昇格させるだけであり、そうなれば私は他の国王と同様に国王となるからです。ただし、その際に、いかなる権力や人物も犠牲にしないという小さな条件を一つ付けさせていただきます。

(署名) アレクサンダー、ヴュルテンベルク公爵。

ダンツィックの降伏。

ダンツィヒ要塞の降伏は 、特別条件の下、参謀長の資格を持つボロジン中将閣下、ヴェルヤミノフ少将閣下、およびダンツィヒ包囲軍の総司令官であるヴュルテンベルク公爵殿下から全権を委任された工兵大佐マンフレディおよびプレットの間で締結された。

そして、師団長のユーデレ伯爵閣下、エリクール旅団長、副官総長、 [418ページ]一方、リシュモン大佐は皇帝の副官であり第10軍団の司令官であるラップ伯爵閣下から全権を委任されていた。

第一条ダンツィッチ守備隊およびそれに属する砦と堡塁の部隊は、1814年1月1日午前10時、武器と手荷物を携えてオリヴァ門から町を出発し、ゴッテス=エンゲル砲台の前で武器を降ろすものとする。ただし、その時までには、包囲軍と同等の兵力を有する軍団によってダンツィッチ守備隊の封鎖が解除されない場合、または交戦国間で締結された条約によってダンツィッチ市の運命が定められていない場合とする。将校は、守備隊の頑強な防衛と際立った行動を鑑み、剣を保持するものとする。近衛兵中隊および600人からなる大隊は武器を保持し、6ポンド砲2門と弾薬荷車を携行するものとする。二十五人の騎兵もまた武器と馬を保たなければならない。

第2条ヴァイクセルミュンデ、ホルム、中間要塞は、オリヴァの外門の鍵とともに、1813年12月24日の朝に連合軍に引き渡されるものとする。

第3条本降伏文書の署名と同時に、ラ・コルテ砦、ノイファーヴァッサー砦とその従属地、および川の左岸は、 [419ページ]ヴィスワ川はグディン堡塁の高さまで、そしてこのグディン堡塁からツィガンゲンベルクに延びる堡塁線、そしてモーヴェンクルグシャンツは、現状のまま、いかなる劣化も加えることなく、包囲軍の手に明け渡すものとする。現在、ファーヴァッサーのテット・デュ・ポンとヴァイクセルミュンデの要塞を結んでいる橋は撤去され、ノイファーヴァッサーとノヴェンクルグシャンツの間のヴィスワ川河口に設置されるものとする。

第四条ダンツィック駐屯軍は捕虜となり、フランスへ護送されるものとする。総督ラップ伯爵は、将校および兵士は、完全な交換が行われるまで、現在フランスと交戦中のいかなる国に対しても再従軍しないことを正式に約束する。ダンツィック駐屯軍を構成する将軍、将校および兵士の氏名を、例外なく正確に記載した名簿を作成するものとする。名簿は二部作成するものとする。将軍および将校はそれぞれ、完全な交換が行われるまでロシアおよびその同盟国に対して再従軍しないという誓約書に署名し、名誉を誓うものとする。また、実際に武装しているすべての兵士、および病人または負傷者の正確な名簿も作成するものとする。

第五条総督ラップ伯爵は、ダンツィッチ駐屯部隊の兵士を階級に応じて連合国側の捕虜と同数交換することを可能な限り迅速に行うことを約束する。しかし、すべての予想に反して、必要な人員の不足によりこの交換が実現しない場合は、 [420ページ]フランスと同盟を結んだ宮廷に属するロシア人、オーストリア人、プロイセン人、またはその他の捕虜の数に制限がない場合、または前記宮廷がそれに障害を投げかける場合、新暦1814年1月1日から1年と1日が経過した時点で、ダンツィヒの守備隊を構成している個人は、本降伏条約の第4条に定められた正式な義務から解放され、政府に再び雇用されることができる。

第六条ポーランド軍および駐屯軍に属するその他の者は、フランス軍の運命に従う完全な自由を有するものとし、その場合もフランス軍と同様の待遇を受けるものとする。ただし、その君主がナポレオン皇帝陛下に対抗する同盟軍と同盟を結んでいる部隊は除く。これらの部隊は、本降伏文書の署名後直ちに、各君主の州または軍隊から受領する命令、および将校または使者を派遣して要請する命令に従って、当該州または軍隊に派遣されるものとする。ポーランドおよびその他の将校は、第五条に規定する説明に従い、交代が完了するまでは連合国に敵対しない旨を文書により誓約するものとする。

第七条フランスと交戦中の諸国に属し、現在ダンツィヒにいるすべての捕虜は、国籍を問わず、交換なしに解放され、1813年12月12日の朝にペータース・ハーゲン門からロシア軍の前線基地へ送られるものとする。

第8条病院に所属する病人および負傷者は 、[421ページ] ダンツィッチ駐屯軍の負傷兵は、連合国軍の負傷兵と同様の扱いを受け、ダンツィッチ駐屯軍の他の兵士と同様の条件で、完全に回復した後、フランスに送還されるものとする。軍需兵と医療将校がこれらの負傷兵の世話をし、退去を求めるために同行するものとする。

第9条連合国軍に属する一定数の兵士が、同数のダンツィヒ駐屯軍に属する兵士と交換された時点で、後者は、本降伏条約第4条に正式に定められた従前の約束から解放されたとみなすことができる。

第十条ダンツィック守備隊は、第六条の規定に基づき君主の命令を受ける者を除き、四列に分かれて通常の行軍を行い、各列の間隔を二日間とし、添付の経路に従い、フランス軍の前線陣地まで護衛されるものとする。ダンツィック守備隊は、行軍中に添付の声明に従って補給を受けるものとする。第一列は1814年1月2日に行軍を開始するものとし、第二列は1月4日に行軍を開始するものとする。以下同様とする。

第11条フランス人は非戦闘員であり、軍隊に従軍していないため、適切と考える場合は駐屯部隊に随伴することができる。ただし、兵士に支給される食料を要求することはできない。さらに、フランス人は、自分の所有物と認められる財産を自由に処分することができる。

[422ページ]

第12条1813年12月12日までに、包囲軍により任命された使節に、大砲、迫撃砲など、武器、軍需品、設計図、図面、スケッチ、軍用倉庫、あらゆる種類の弾薬庫、舟艇、工兵隊、海軍、砲兵隊、列車、荷馬車隊などに属するすべての所持品を、例外なく引き渡さなければならない。また、それらの目録の複製を作成し、連合軍参謀長に送付しなければならない。

第13条将軍、参謀、その他の将校は、フランス軍の規定に従って所持する荷物と馬を保持し、行軍中は必要な飼料を受け取るものとする。

第14条病人や負傷者、軍団や将校の輸送手段に関する詳細は、両軍の参謀長が定めるものとする。

第15条ダンツィヒ元老院は、いかなる者にも存在する負債の清算に関するそのすべての権利をナポレオン皇帝に催告する権利を留保する。総督閣下は、負債を負った者に対し、その請求の正当性を証明する承認を与えることを約束するが、いかなる口実においても、これらの負債のために人質を拘束してはならない。

第16条本条約の署名の日から、両国におけるあらゆる種類の敵対行為は停止されるものとする。

[423ページ]

第17条疑義が生じ得るすべての条項は、常に守備隊に有利に解釈されるものとする。

第18条本降伏文書の正確な写しを4部作成し、ロシア語で2部、フランス語で2部作成し、2部を両将軍に送付するも​​のとする。

第19条本公文書の署名後、総督、ラップ伯爵将軍は、自国政府に使者を派遣することができる。フランス軍の前線陣地にはロシア人将校が同行するものとする。

1813 年 11 月 29 日に Langfuhr で作成され、合意されました。

(署名)

師団長のユーデレ伯爵、 エリクール将軍、リシュモン大佐 、ボロズディン中将 、ヴェルジャミノフ少将 、参謀長の地位にあるマンフレディ工兵大佐、プレット工兵大佐 。

確認して承認しました。

ラップ伯爵。

[424ページ]

ヴュルテンベルク公爵からラップ将軍への手紙。

1813 年 12 月 23 日、夜 11 時、ペロウケンの本部より。

一般的な、

皇帝陛下からの速達を受領しましたので、ご報告いたします。それによると、閣下と私との間で締結された降伏協定は、守備隊のフランス帰還に関する部分を除き、皇帝陛下によって承認されたとのことです。ダンツィック守備隊が、トルンの守備隊のように、完全に交代する前に、そしてライン川を渡った後に、再び実戦に復帰させられるのではないかという懸念が、果たして重要であったかどうかは、私の責任ではありませんが、それでも陛下の正確なご意志を閣下にお伝えする義務があります。同時に、ダンツィックの勇敢な守備隊を構成する将軍や将校は、いかなる場合でも任務を怠ることはないだろうと確信しており、私自身も喜んでその保証人となります。陛下はまた、私に正式にあなたに宣言する権限を与えました、将軍、閣下がこれ以上の損害を与えることなく要塞を明け渡すならば、ロシアの遠方の地方に守備隊を派遣しないことを。 [425ページ]降伏。守備隊が交代するまで、貴官および将軍・将校の居住地として、レヴェル、プレスクフ、ザリエガ、オリョールのいずれかの町をお選びいただけます。将軍・将校は、降伏によって確保されたすべての特権を維持するものと承知しております。現在ダンツィッチに駐留しているポーランド軍については、国王陛下のご意向により、要塞を退去後、静かに帰郷していただくことと、ドイツ軍についても同様とさせていただきます。

将軍、閣下はきっとためらわずにこれらの取り決めに同意されるものと確信しております。なぜなら、戦争は1年も続かず、その後は誰もが直ちに祖国へ帰るものと思われるからです。そして、私は閣下がこの決断を下すと確信しております。なぜなら、逆の事態になった場合、私はあなたやあなたの守備隊に、全く役に立たない抵抗が伴う避けられない苦難を負わせることはできないからです。その確実な結果として守備隊はロシア帝国の最遠方の地方へ移送され、現在完全に確保されている利益のほんのわずかしか享受できず、降伏文書で定められた経路に必要なあらゆる便宜も享受できなくなるでしょう。

しかし、もし閣下が、すべての予想に反して、守備隊の利益に反するほど予想外の決断を下すならば、私は明後日、土曜日の正午に、すべての [426ページ]包囲軍に明け渡された施設は、ノイファーヴァッサー要塞を除き、すべてです。陛下の至高の御心は、閣下が現在ダンツィヒにいるドイツ軍を武器と荷物と共に要塞から先に撤退させることです。ライン同盟はもはや存在せず、それを構成していたすべての州が我々の同盟国となったからです。この場合、ノイファーヴァッサーも直ちに、そして何らの困難もなく貴官に引き渡されるでしょう。また、すべての落伍兵は帰還次第、オリヴァ門を通ってダンツィヒへ送ります。この場合、戦闘は彼らが明け渡した翌日、午前9時に再開されます。

(署名)ヴュルテンベルク公爵 。

追伸:閣下、明日の朝までにご返答いただければ幸いです。ユーデレ将軍、あるいは他の将軍が私の司令部へ派遣されれば、この件の解決は飛躍的に容易になり、閣下がご満足いただける結果となるでしょう。

私はこの件について、速達で陛下に手紙を書きました。

答え

主よ、

私は陛下と降伏しました。今日、陛下は、皇帝アレクサンダーが守備隊に、何の敬意も示さずに降伏命令を出したと私に告げられました。 [427ページ]ダンツィッチはフランスに帰国せず、捕虜としてロシアに送られるものとする。

第10軍団は、条約の信義に対するこのような異常な違反の判断をヨーロッパ、歴史、そして後世に委ねており、私はこれに対して厳粛に抗議します。

これらの神聖な原則に従い、私は、降伏文書を厳格に守り、違反したからといって破棄されることはないと見なし、期限通りに履行することを殿下に通知する栄誉を有します。また、ヴァイクセルミュンデ、ナポレオン、ホルムの要塞、およびすべての弾薬庫を殿下の軍隊に明け渡し、来年 1 月 1 日に守備隊と共に要塞を離れる用意があることも本日お知らせいたします。

その時、武力と権力の濫用は、我々をロシア、シベリア、あるいは彼らが望む場所へと引きずり込むかもしれない。我々は厳粛な条約への信頼の犠牲者として、たとえ必要であれば苦しみ、死ぬことも厭わない。ナポレオン皇帝とフランスは、遅かれ早かれ我々の復讐を果たすだけの力を持っている。

このような状況では、閣下、私には殿下と取り決める余地はありません。11月29日の降伏文書に全面的に依拠することになりますが、繰り返しますが、これは侵害されることはあっても、無効にすることはできません。

(署名) ラップ伯爵。

ダンツィック、1813年12月23日。

[428ページ]

ラップ伯爵からヴュルテンベルク公爵への手紙。

主よ、

昨日、私の副官が、殿下が光栄にも私に宛ててお書き下さった手紙を私に届けてくれました。

あなた様が私から受け取った手紙を返送されたことで、陛下は私に憤慨した気持ちを抱かせたのだと思います。陛下は私を公平に扱ってくださっていません。私は22年間兵士として過ごし、幸運にも不運にも慣れてしまっているのです。

陛下、仰せの通り、アレクサンダー皇帝が降伏文書を批准する、あるいは批准しない権限を有することは、当然のことと存じます。陛下が全権を与えられていたか、あるいは与えられていなかったかのどちらかです。もし後者の仮定の下では、私の行動は今とは全く異なるものになっていたでしょう。

カルクロイト元帥は、ごく短い防衛の後、非常に名誉ある降伏を勝ち取りました。要塞から20リーグも離れていなかったナポレオン皇帝でさえ、この降伏に満足しなかったことを覚えています。しかし、降伏を破棄することで総司令官を不利な立場に置くことはしませんでした。ルフェーブル元帥と私が実行した以上に忠実かつ繊細に、この降伏を実行することは不可能でした。カルクロイト元帥は今も存命で、私たちの行動の記録を残しています。プロイセンの [429ページ]あなたの本部にいる将校たちも、それらについて証言することができます。

陛下、もし私が戦闘を再開したいのであれば、すべてを以前の状態に戻すよう陛下は命じておられます。陛下は、降伏に踏み切った当時、我々に有利な状況があったことをよくご存じです。なぜなら、陛下は常に我々に有利なように装って申し出をなさっていたからです。しかし、今は全く逆の状況になっていることを陛下もご存じです。この主張は証明を必要としません。

それに、閣下、流血を止めるための協定を結ぶよう、常に私に提案してくださったのはあなたです。その基本条件として、フランスへの帰国を申し出てくださっていたのです。閣下の書簡がそれを証明しています。

殿下は我々がどのような状況に置かれているか、そしていかなる観点から見ても我々の防衛を延長することは全く不可能であることをよくご存じです。あなたが私に残しておられる選択肢は、全くの幻想に過ぎません。

閣下には、ヴァイクセルミュンデ、ホルム、そして中間工場に本日着任していただきますようお願い申し上げます。無駄を省くため、これらの工場には少数の分遣隊しか残しておりません。また、閣下には、あらゆる種類の弾薬の在庫を受け取るために、委員を派遣していただきたいと存じます。これは、不満が出ないように、また、何かが劣悪になったと非難されることがないように、私が重視していることです。ロシアへ向かう際に、陛下が望まれるような、利便性の低いまま出発してしまうことを恐れるのではなく、 [430ページ]あなたの手紙で主張しているのではなく、私はすべての約束を忠実に果たしたいという願望を通してそうしているのです。

殿下に改めてご報告申し上げます。ダンツィッチ守備隊は、11月29日の降伏条項第一条に基づき、1月1日午前に要塞を出発いたします。私はこの条項に全面的に従い、他にいかなる取り決めを加えることも全く無意味です。撤退後は、諸事情により、我々は完全に殿下のご意のままに行動することとなります。

光栄でございます。

ラップ伯爵。

同じ

1813年12月26日。

主よ、

マンフレディ将軍より、昨日25日付の殿下からの手紙が届きました。この手紙の最初の項目については既に殿下と協議させていただいた栄誉に浴しておりますが、返答が必要なのは最後の項目のみと思われます。殿下は、事前の取り決めなしにダンツィッチを離れることはできないと明言されています。私としては、殿下と私自身が承認した11月29日の降伏を再開することは不可能と考え、防衛を延長する手段がないため、12月31日より、私の指揮下にある部隊と共に、殿下の指揮下に入ることを光栄に存じます。閣下、この取り決めは極めて簡明です。 [431ページ]守備隊の運命を定めるのは、殿下のお役目です。

私は、兵士たち、特に病弱で負傷し、特に私の心遣いを必要としている人々をあなたの寛大な心遣いに委ねることに満足しています。

私はまた、ダンツィックに住む非戦闘員、女性、子供、フランス人もあなたに推薦します。

(署名) ラップ伯爵。

終わり。

ロンドン:
S. AND R. BENTLEY、ドーセット ストリート印刷。

転写者メモ:
明らかな誤植は修正されていますが、オリジナルのスペル、ハイフネーション、句読点はそのまま保持されています。
行末のあいまいなハイフンは保持されました。
修正されたエラー:
Charlottenberg (p. iii) および Charlottemburgh (pp. 96, 98) が Charlottenburg に変更されました。
Wittemberg (p. 90) を Wittemberg に変更しました。
Cremen (p. 102) が Bremen に変更されました。
Konigsberg (pp. iv, 162, 168, 218) が Kœnigsberg に変更されました。
Saint-Albretch (p. 324) を Saint-Albrecht に変更
Weljaminoff (p. 423) が Welljaminoff に変更されました。
*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍 ナポレオン第一副官、ラップ伯爵将軍の回想録 ***
《完》


パブリックドメイン古書『ヒュームの政論』(1906)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 原題は『Hume’s Political Discourses』で、18世紀に David Hume が残した政治・経済・軍事の多岐にわたるテキストを改めて20世紀の編集者がまとめている企画です。

 「利子」とあるべきところがシレっと「興味深い」に訳されていたりしますのは、無料ソフトのご愛嬌か。

 例によってプロジェクト・グーテンベルグさまに御礼申し上げたい。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「ヒュームの政治談話」の開始 ***

スコット図書館:デイヴィッド・ヒューム著『ヒュームの政治談話』。ウィリアム・ベル・ロバートソン編、序文。
スコット図書館。
ヒュームの政治談話。
⁂ このシリーズの全巻リストについては、本の最後にあるカタログをご覧ください。
ヒュームの政治談話集。 『政治経済学の基礎』『労働の奴隷制』などの著者、ウィリアム・ベル・ロバートソンによる序文付き。
ウォルター・スコット出版株式会社
ロンドンとフェリング・オン・タイン。
ニューヨーク: 3 EAST 14 TH STREET。
コンテンツ。
♦ はじめに • vii
♦ 商業• 1
♦ 芸術における洗練について• 15
♦ お金について• 27
♦ 興味深い• 39
♦ 貿易収支について• 51
♦ 貿易の嫉妬について• 67
♦ 勢力均衡について• 71
♦ 税金について• 78
♦ 公的信用について• 83
♦ 注目すべき習慣について• 98
♦ 古代国家の人口の多さについて• 106
♦ 原契約について• 174
♦ 受動的な服従について• 192
♦ 政党連合の• 196
♦ プロテスタント継承について• 203
♦ 完全なる連邦の理念• 214
♦ 政治は科学に還元されるかもしれない• 229
♦ 統治の第一原理について• 243
♦ 政治社会について• 247
♦ ヒュームが引用した文献のアルファベット順配列 • 253
導入。
アダム・スミスの生涯に関する記録の少なさを遺憾に思い、RBハルデン議員(右閣下)[1] は次のように述べている。「我々は彼を、主にデイヴィッド・ヒューム(1711年生まれ、1777年没)の親友として考えている。そしてそれは正しい」。当然のことながら、哲学者の生涯における出来事は数多くもなければ、感動的なわけでもない。それらを期待するのは無理があり、偉大な思想家に関する伝承を鵜呑みにしない方がよい。したがって、私はヒュームが『わが生涯』で描いた彼自身の姿を提示することにする。それは彼が後世に残したいと願った姿であり、この序文に続く。そして、その序文には、アダム・スミスがヒュームの出版者であるストラハン氏に宛てた、ヒュームの死を記した有名な手紙が続く。

ここでヒュームが我々の関心を引くのは、主に政治経済学者としてのヒュームである。1752年に初版が出版された『政治談話』において、彼の経済学の原理が提示されている。読者がこれらの『政治談話』に何を期待するかについては 、著名な著述家に語ってもらいたい。例えば、ブロアム卿はこう述べている。

「『政治談話』については、いくら褒めても足りないくらいだ。それらはほぼあらゆる要素を融合している。{p-viii} ヒューム氏の『講演』は、疑いなく、現在科学界を支配している近代理論の創始者であり、実務家たちの指針として大いに役立っていますが、国家の問題に最大限に適用されていないのは、一部の有力階級の利害対立と無知な偏見によるところが大きいのです 。

また、 ヒュームの伝記作家であるJ・ヒル・バートン[2]は、

これらの『講演』は、まさに政治経済学の揺籃の地である。この学問は後世にまで研究され、解説されてきたが、その原理を最も初期に、最も簡潔に、そして簡潔に展開したこれらの講演は、この偉大な学問分野のあらゆる文献に精通した人々でさえ、今なお喜んで読んでいる。しかし、これらの講演は、より精緻な経済学者たちが追求しようとして無駄にしてきた特質を備えている。それは、知識人だけでなく一般大衆にとっても魅力的な研究対象となり、後代の政治経済学者の見解を理解できない、あるいは理解しようとしない多くの人々によって、正しく真実であると認められるという点である。このように、これらの講演は、この知識の分野の真の源泉への道を初めて示したと同時に、後進の学者たちが、それらに取って代わるのではなく、むしろその正確さを全般的に証明したという、稀に見る相乗効果を奏している。

ヒューム自身の言葉によれば、 『談話』は「初版で成功を収めた私の唯一の作品」であり、その成功は大きかった。すぐにフランス語に翻訳され、「ヨーロッパで高い評価を得た」とハクスリー教授は述べている。{p-ix} 「この小冊子は、哲学的な筆致で政治経済学に取り組んだフランス人がそれまでいなかったため、賛同を得るにせよ論争を巻き起こすにせよ、この小冊子が翻訳されてからスミスの『国富論』が 1776 年に刊行されるまでの間に刊行された多数のフランス語作品を生み出す上で、特に ミラボー父の著作『人間の友』は、人口に関するヒュームの意見を大いに議論を巻き起こして検討した作品であった。」

セント・アンドリュースのナイト教授も同様の意見を述べています。

「 『講演』の功績は偉大であるだけでなく、今日に至るまで比類のないものである」と彼は述べている。「そして、スミスが経済学の広範かつ永続的な基礎を築いた『国富論』を含む、その後のイギリスの経済学文献すべての道を開いたと言っても過言ではない。…『講演』がもたらした影響は 大きかった。すぐにフランス語に翻訳され、14年間で5版を重ねた。イギリス文学に独特の一大旋風を巻き起こし、技術的ではないものの、厳密に科学的であった。『講演』によってヒュームは一躍有名になり、思想家としても文人としても第一線に躍り出た。そして、後世の人々もこの時宜を得た判断を承認している。…『講演』には、経済学の真理の独自の萌芽が数多く含まれている。ピットのような実務家政治家に与えた影響は見逃せない。ヒュームとスミスの経済学説が、この特定の時期に出版されたことは、おそらく有利だっただろう。なぜなら、それらは自然かつ容易にいくつかの…改革は、その後フランスで起こったように極端にまで発展することなく進められた。」

この証言はすべて、{ピクセル} 政治経済の基盤が再構築されているとも言える現在の時代に、講演(大きく異なる見解を持つ人々による証言)を一般大衆に一般向けの形で提供することは十分な正当性である。 [3]

ヒュームとアダム・スミスの間に存在した友情については既に触れました。ヒュームはスミスより12歳年上で、グラスゴー大学の道徳哲学教授ハチソンがスミスに目をつけたようです。1740年3月4日付のハチソン宛の手紙の中で、彼はこう述べています。「私の本屋がスミス氏に私の本を1冊送りました。[4] あなたの手紙と同様に、スミス氏が受け取ってくださっていることを願っています。」バートンはこう述べている。「ここで言及されているスミスとは、その名の普遍性にもかかわらず、当時グラスゴー大学の学生で、まだ17歳にも満たなかったアダム・スミスであると結論付けて差し支えないでしょう。ハチソンがスミスについて、『論考』のコピーを贈呈する価値がある人物として言及していたと推測できます。そして、ここで明らかに二人の友人が初めて互いのことを知ったのであり、同時代に英語で執筆活動を行い、人類の見解にこの二人ほど大きな影響を与えた人物は他にいないと言えるでしょう。」{p-xi}

ヒュームのアダム・スミスへの影響は絶大だった。 『国富論』の語法の響きの中にさえ、時折ヒュームの声が聞こえるような気がする。いずれにせよ、上記のスミス宛ての手紙で言及されている本は、ホールデン氏によれば、スミスが教会に入るという当初の意図を断念する決定的な要因となったのは「ほぼ確実」である。「スミスがいなかったらヒュームは存在し得たかどうかは、今は断言できない。しかし、ヒュームがいなかったら、スミスは決して存在し得なかったことは確かだ。」[5] 「ヒュームがいなかったらスミスは存在し得なかった」という点には同意するが、スミスがいなかったらヒュームは存在し得なかったという点に疑問を抱く理由はない。ヒュームの内には、ここで言う神の光が宿っており、それは必ず現れた。だからこそ、「貧富の差、健やかなる病、無名の苦難、名声の炎の渦中」において、彼の支配的な情熱、すなわち文学への情熱が決して衰えることはなかったのだ。自分自身の内に秘めた真理への確信がなければ、独自の路線を打ち出し、このように「苦楽を共に」貫くことはできない。ヒュームにはこの確信があった。確かに彼は名声を求め、そして名声を獲得した。名声そのもののためではなく――あれほど偉大な思想家、物事の関係性についてこれほど真の理解を持つ思想家において、それは考えられない――彼が広めなければならなかった真理のためだった。なぜなら、彼の名声が高くなるほど、彼の聴衆はより広く、より注意深くなるからだ。もちろん、彼は名声を求め、そこに満足感を見出した。しかし、ヒュームに関する著述家が通常解釈するような虚栄心の満足感ではなく、自分が的を射た――無駄な努力ではなかった――という認識から生じる満足感だった。ヒュームに帰せられるようなつまらない虚栄心は、{p-xii} バートンによれば、彼は「政治経済学の最初の解明の父として、自らの子孫が影を潜めていくのを目の当たりにし、それを誇りに感じた」 。これは『国富論』が好評を博した際の彼の態度である。また、虚栄心は、二人の間に、想像を絶する純粋な友情を築かせなかったであろう。

ヒュームの死の前年の1776年に『国富論』が出版され、ヒュームは著者に次のように書いている。

「 1776年2月8日」

「親愛なる Sスミス、――私もあなたと同じように怠惰な通信員ですが、あなたへの不安がこみ上げてきて書いています。あなたの本は随分前に出版されたようですが、宣伝すらされていません。なぜでしょう?アメリカの運命が決まるまで待つなら、長く待たされることになるかもしれません。

「あなたは今春、私たちのところに定住するつもりだと聞いていますが、その後、その話は聞こえてきません。なぜでしょうか?私の家のあなたの部屋はいつも空いています。私はいつも家にいます。あなたがここに上陸することを期待しています。

「私はこれまでも、今も、そしてこれからも、おそらく健康状態はそれほど良くありません。先日体重を測ったら、なんと5ストーン(約14kg)も減っていました。もしあなたがこれ以上遅らせたら、私は完全に消えてしまうかもしれません。」

バクルー公爵から、あなたはアメリカ情勢に非常に熱心だと伺いました。私の考えでは、この問題は一般に考えられているほど重要ではありません。もし私が間違っていたら、あなたにお会いするか、あなたの手紙を読んだら、おそらく訂正させていただきます。我が国の航海術と一般商業は、製造業よりも大きな打撃を受けるかもしれません。ロンドンが私のように規模を縮小するなら、それはそれで良いでしょう。ロンドンは、悪質で不潔な気質の塊に過ぎませんから。」

ついにその本が出版され、ヒュームは1776年4月1日に友人に手紙を書いている。{p-xiii}

あなたの作品に大変満足しています。じっくり読んで、不安な気持ちから解放されました。あなた自身、ご友人、そして大衆がこの作品を非常に期待していたので、初公開時には震え上がりましたが、今はすっかり安心しています。ただ、読むには当然ながら多大な注意が必要ですが、大衆はあまり関心を示してくれないので、当初は好評を得るかどうかは当分の間疑問です。しかし、この作品には深みと堅実さと鋭さがあり、興味深い事実によって非常に多くの点が明らかにされているため、最終的には大衆の注目を集めるに違いありません。おそらく、あなたがロンドンに最後に滞在されたことで、作品はより良くなったでしょう。もしあなたが私の炉辺にいらっしゃったら、私はあなたの信条のいくつかに異議を唱えるでしょう。農地代が農産物の価格に何らかの影響を与えているとは考えられません。[6]価格は量と需要によって完全に決まると考えます。…しかし、これらをはじめとする数多くの点は、会話の中で議論するにふさわしいものです。

ヒュームは「慎ましい女性たちと過ごすことに特別な喜びを感じ、彼女たちの歓迎に不満を抱く理由はなかった」にもかかわらず、未婚のまま亡くなった。アダム・スミスもまた未婚のまま亡くなったが、ダガルド・スチュワートによれば、「数年間、非常に美しく才能のある若い女性と交際していた」という。ヒュームは『歴史の研究について』の中で、かつて「ある若い美女に求愛され、彼女を楽しませるために小説やロマンス小説を送りたいと思った」と述べている。しかし、デイヴィッドは「抜け目のない」男だった。こうした状況において、ヒュームが親戚のエクルズのダイサート夫人に宛てた手紙にある、次のような冗談めいた皮肉は興味深いかもしれない。「どのような算術が、良い妻と悪い妻の比率を決定し、それぞれの階級を格付けするのに役立つだろうか?アイザック・ニュートン卿自身も、{p-xiv} 惑星の軌道を測り、地球を天秤で測るかのように重さを量ることができた神でさえ、人類のその愛すべき部分を正しい方程式に還元するのに十分な代数を持っていなかった。そして、それらは軌道がまだ不確かな唯一の天体である。」

上記は、この真に偉大な人物についてのほんの一端を垣間見たに過ぎず、一般読者の間でデイヴィッド・ヒュームについて直接知りたいという欲求を呼び覚まし、刺激することを目的として提供されています。

WBR

1906年5月。

私自身の人生。
人間は虚栄心なしに自分のことを長々と語るのは難しい。だから、私は簡潔に述べよう。私が自分の生涯を記そうとすること自体が虚栄心だと思われたかもしれない。しかし、この物語は私の著作史に過ぎない。実際、私の人生のほとんどすべてを文学的な探求と仕事に費やしてきたからだ。私の著作のほとんどが最初に成功を収めた時、それは虚栄心の対象になるようなものではなかった。

私は1711年4月26日(旧暦)、エディンバラで生まれました。両親ともに良家の出身です。父方の家はホーム伯爵、あるいはヒューム伯爵の分家で、先祖は数代にわたり、兄が所有するこの地所を所有していました。母は司法大学学長のサー・デイヴィッド・ファルコナーの娘で、ハルカートンの称号は兄が継承しました。

しかし、私の家は裕福ではなく、私は弟だったので、当然ながら私の国の慣習に従って、財産はごくわずかでした。裕福な父は私が幼い頃に亡くなり、兄と妹と共に母の養育のもとに私を残しました。{p-xv} 並外れた才能を持つ女性で、若く美しいながらも、子供たちの養育と教育に全身全霊を捧げました。私は通常の教育課程を順調に修了し、幼い頃から文学に情熱を傾け、それが私の人生を支配する情熱であり、喜びの源となっています。私の勉学熱心な性格、節制、そして勤勉さから、家族は私に法律家がふさわしい職業だと考えていました。しかし、私は哲学と一般的な学問の追求以外のすべてに、克服できないほどの嫌悪感を抱いていました。家族は私がヴォートやヴィンニウスを熟読していると思っていたのですが、実は私が密かに貪るように読んでいたのはキケロとウェルギリウスでした。

しかし、私のわずかな財産はこの人生計画に適さず、また熱心な努力によって健康も少し損なわれていたため、より活動的な生活の場に飛び込もうと、弱々しい試みをせざるを得なくなりました。1734年、著名な商人たちの推薦を得てブリストルに行きましたが、数ヶ月でその環境が全く自分に合わないことに気づきました。田舎の別荘で学業を続けるためにフランスに渡り、そこで着実にそして着実に歩みを進めてきた人生計画を立てました。私は、財産の不足を補うために厳格な倹約を行い、自立を損なわず、文学の才能を磨くこと以外、あらゆることを軽蔑しようと決意しました。

フランスでの隠遁生活、最初はランス、そして主にアンジューのラ・フレーシュで、『人間性論』を執筆した。フランスで3年間をとても快適に過ごした後、1737年にロンドンへ渡った。1738年末に『人間性論』を出版し、すぐに母と弟のもとを訪れた。弟は田舎の家に住み、賢明かつ成功裏に財産を築いていた。

私の『人間性論』ほど不幸な文学作品はなかった 。それは出版界から消え去り、熱狂的な支持者たちの間でざわめきさえも起こすほどの名声を得ることはなかった。しかし、私は生来明るく、{p-xvi} 楽観的な性格のおかげで、私はすぐに立ち直り、田舎での勉学に熱心に取り組みました。1742年、エディンバラで『エッセイ』の第一部を出版しました。この作品は好評を博し、以前の失望感をすっかり忘れさせてくれました。母と弟と共に田舎に留まり、その間に、若い頃にすっかり忘れてしまっていたギリシャ語の知識を取り戻しました。

1745年、私はアナンデール侯爵から手紙を受け取りました。それは、イングランドで彼と共に暮らすよう私を招待するものでした。また、この若い貴族の友人や家族も、彼の精神状態と健康状態から見て、私の保護と指導の下に彼を置きたいと望んでいることを知りました。私は彼と共に1年間暮らしました。その間の任務で、私のささやかな財産は相当に増えました。その後、セントクレア将軍から、当初はカナダを攻撃するはずだった遠征隊の書記として随行するよう招かれました。しかし、この遠征隊は結局フランス沿岸への侵攻に終わりました。翌年、すなわち1747年、私は将軍から、ウィーンとトリノの宮廷に赴く彼の軍事大使館に、同じ場所で随行するよう招かれました。その時、私は士官の制服を着用し、ハリー・アースキン卿とグラント大尉(後にグラント将軍となる)と共に、将軍の副官として宮廷に紹介されました。この二年間は、生涯を通じて学業を中断させられたほぼ唯一の期間でした。私はその期間を楽しく、良い仲間と過ごしました。そして、仕事と倹約のおかげで、私はかなりの財産を築きました。私自身はそれを「独立して」と呼んでいましたが、そう言うとほとんどの友人は微笑んでいました。つまり、私は今や1000ポンド近くの資産を握っていたのです。

『人間性論』の出版がうまくいかなかったのは、内容よりもむしろやり方に原因があり、出版が早すぎるといういつもの不注意を犯していたからだ、と常々思っていた。そこで、その著作の最初の部分を『人間理解に関する探究』に書き直し、トリノ滞在中に出版した。しかし、この作品は当初、あまり成功しなかった。{p-xvii}イタリアから帰国後、ミドルトン博士の『自由探究』のせいでイングランド全土が騒然となっているのを目の当たりにし、私は屈辱を味わった 。一方、私の著作は全く見過ごされ、無視されていたのだ。ロンドンで出版された私の『道徳政治論』の新版も、大して好評ではなかった。

生まれつきの気質の強さゆえ、こうした失望は私にほとんど、あるいは全く影響を与えなかった。1749年に母が亡くなったため、私は弟の田舎の家に2年間住んだ。そこで私は『政治談話』と名付けた『道徳原理に関する探究』というエッセイ集の第二部を執筆した。また『道徳原理に関する探究』も執筆した。これは私が新たに書き上げた『論考』の一部である。一方、私の書評家であるA・ミラーは、私の以前の出版物(不運な『論考』を除く)が話題になり始めており、徐々に売上が伸び、新版の需要が高まっていると教えてくれた。牧師や高僧による回答書は1年に2、3冊出版され、ウォーバートン博士の非難によって、私の著書が広く評価され始めていることがわかった。しかしながら、私は誰にも回答しないと固く決意しており、それを揺るぎなく守っていた。気性があまり荒くないので、文学上の論争に巻き込まれることはほとんどありませんでした。評判が高まっているというこうした兆候は、私にとって励みとなりました。物事の悪い面よりも良い面を見る傾向が強くなったからです。年収一万ドルの家に生まれるよりも、このような考え方を持っている方が幸せです。

1751年、私は田舎を離れ、文筆家にとってまさに理想的な街へと移りました。1752年、当時住んでいたエディンバラで『政治談話』が出版されました。これは初版で成功を収めた唯一の作品で、国内外で好評を博しました。同年、ロンドンで『道徳原理に関する考察』が出版されました。これは私自身の意見ですが(この件について判断を下すべきではありません)、歴史書、哲学書、文学書など、私のあらゆる著作の中で比類のない傑作です。しかし、世に出る者も注目されることなく、世に送り出されました。{p-xviii}

1752年、法務教授会は私を司書に選出した。この職では報酬はほとんど、あるいは全く得られなかったが、大きな図書館を管理することができた。そこで私はイングランド史の執筆計画を立てたが、1700年にわたる物語を続けることに不安を感じ、ステュアート家の即位から書き始めた。この時代は、党派による誤った解釈が主に起こり始めた時代だと私は考えた。正直に言うと、私はこの著作の成功を楽観的に期待していた。当時の権力、利害、権威、そして民衆の偏見の叫びを同時に無視した唯一の歴史家だと考えていた。また、この主題はあらゆる能力に適していたため、それに見合った称賛を期待していた。しかし、私の失望は惨めなものだった。非難、非難、さらには嫌悪の叫びが私を襲ったのだ。イングランド人、スコットランド人、アイルランド人、ホイッグ党員とトーリー党員、国教徒と宗派、自由思想家と宗教家、愛国者と廷臣、皆がチャールズ一世とストラッフォード伯の運命に惜しみない涙を流した男に対して、怒りを一つにしました。そして、彼らの怒りの最初の爆発が収まった後、さらに悔しいことに、この本は忘れ去られたかのようでした。ミラー氏は、1年間でたった45冊しか売れなかったと私に話してくれました。実際、三王国で、高位の人物や著名人で、この本に耐えられる人はほとんど聞いたことがありません。イングランドの首座主教ヘリング博士とアイルランドの首座主教ストーン博士だけは例外ですが、この二人は奇妙な例外に思えます。この高位聖職者たちはそれぞれ私に、落胆するなというメッセージを送ってくれました。

しかし、正直に言うと、私は落胆していました。もし当時、フランスとイギリスの間で戦争が勃発していなかったら、私は間違いなく旧王国のどこかの地方都市に隠棲し、名前を変え、二度と故郷には戻らなかったでしょう。しかし、この計画は今や実行不可能であり、次巻の執筆もかなり進んでいたので、勇気を奮い起こし、頑張ろうと決意しました。

この間、私はロンドンで『自然史宗教史』といくつかの小論文を出版しました。その公式な掲載は、ハード博士が書いたという点を除けば、あまり知られていません。{p-xix} ウォーバートン流派の特徴である、不寛容な不機嫌さ、傲慢さ、そして下品さを湛えた、それに対する反対のパンフレットを受け取った。このパンフレットは、私の演奏が冷淡な反応しか得られなかったことに対する、いくらかの慰めとなった。

第一巻が出版されてから2年後の1756年、私の『歴史』第二巻が出版されました。チャールズ1世の死から革命までの期間を扱っています。この業績はホイッグ党の反感をあまり買わず、好評を博しました。第二巻は自身の人気を高めただけでなく、不運な兄弟の支持を回復させることにも役立ちました。

しかし、ホイッグ党が国家と文学の両方であらゆる地位を与える権限を持っていると経験から教えられていたにもかかわらず、私は彼らの無意味な騒ぎに屈する気は全くありませんでした。そのため、更なる研究、読書、あるいは熟考の過程で、最初の二人のスチュアート朝の治世中に私が行った約100の改正のうち、私はすべてトーリー党寄りのものにしました。それ以前のイングランド憲法を、自由の正式な計画と考えるのは滑稽です。

1759年、私は『チューダー朝史』を出版した。この著作に対する非難は、最初の二人のステュアート朝史に対する非難に匹敵するほどだった。エリザベス女王の治世は特に不快なものだった。しかし、私は今や世間の愚行に対する印象に心を痛めることなく、エディンバラでの隠遁生活の中で、平穏かつ満足感をもって『イギリス史』の初期部分を二巻にまとめ、1761年に出版した。これはまずまずの成功を収めたが、それもまずまずの成果であった。

しかし、私の著作がさらされた風潮や季節の移り変わりにもかかわらず、作品は依然として大きく進歩し、書店から受け取る原稿料は、かつてイギリスで知られていたどんなものよりもずっと高額でした。私は自立しただけでなく、裕福にもなりました。私は故郷スコットランドに隠棲し、二度とそこを離れるまいと決意しました。そして、偉人に頼みごとをしたり、友情を申し入れたりしたことさえ一度もないという満足感を心に留めていました。50歳になった今、私は残りの人生をこの地で過ごそうと考えていました。{p-xx} 1763年、ハートフォード伯爵から、全く面識のなかった彼のパリ大使に同行し、大使館書記官に任命され、その間その職務を遂行するという近々ある見込みで、哲学的な態度で招待を受けたとき、私は感銘を受けました。この申し出はいかにも魅力的でしたが、最初は辞退しました。偉人との交流を始めることに抵抗があったことと、パリの礼儀正しさや陽気な社交が私の年齢と気質には合わないのではないかと恐れたからです。しかし、伯爵が再度招待されたので、私はそれを受け入れることにしました。この貴族との、そして後に彼の弟であるコンウェイ将軍との交流は、喜びと利益の両面において、私にとって幸福なものでした。

モードの不思議な効果を目にしたことのない者は、私がパリで受けたあらゆる身分の男女からの歓迎を想像することさえできないだろう。彼らの過剰な礼儀正しさに反発すればするほど、私はその過剰な礼儀正しさに圧倒された。しかしながら、パリに住むことには真の満足感がある。宇宙のどの場所よりも、この街には分別があり、知識が豊富で、礼儀正しい人々が数多くいるからだ。かつては、そこに一生を住まわせようかと考えたほどだ。

私は大使館の書記官に任命されましたが、1765年の夏、ハートフォード卿はアイルランド総督に任命され、私の元を去りました。私はその年の終わり頃、リッチモンド公爵が到着するまで臨時代理大使を務めました。1766年の初めにパリを離れ、翌年の夏、以前と同じように哲学の隠遁生活を送るという目的でエディンバラに向かいました。エディンバラに戻ったとき、以前より裕福になったわけではありませんが、ハートフォード卿との友情のおかげで、以前よりもはるかに多くの財産と収入を得ていました。以前、自分の能力を試したように、余剰金で何が生み出せるか試してみたかったのです。しかし、1767年、コンウェイ氏から次官への招聘を受けました。この招聘は、彼の人柄とハートフォード卿との縁故により、断ることができませんでした。私は1769年にエディンバラに戻り、非常に裕福(年間1000ポンドの収入があった)で、健康で、多少の老齢はあったものの、{p-xxi} 長く安楽な生活を享受し、自分の名声を高めていくという見通し。

1775年の春、私は腸の病気にかかりました。最初は特に心配することはありませんでしたが、その後、私の理解するところによると、致命的で不治の病となってしまったようです。今では、すぐに亡くなるだろうと思っています。病気による苦痛はほとんどなく、さらに不思議なことに、体が大きく衰えたにもかかわらず、一瞬たりとも気分が落ち込むことはありませんでした。ですから、もし私が人生でもう一度やり直したい時期を挙げるとしたら、この後の時期を挙げたくなるかもしれません。私は相変わらず勉学に熱心に取り組み、人付き合いでも変わらぬ陽気さを持っています。それに、65歳で死ぬことで、病の期間がほんの数年しかなくなると考えており、私の文学的名声がついに輝きを増しつつある兆候は数多く見られますが、それを享受できるのはあと数年しかないだろうと分かっていました。今以上に人生から距離を置くことは難しい。

最後に、私自身の性格について歴史的に述べておきたい。私は、いや、むしろそうであった(なぜなら、今、自分自身について語る際にはこの文体を用いる必要があるからだ。そうすることで、より大胆に自分の気持ちを語ることができるからだ)。温厚な性格で、冷静沈着で、率直で社交的で明るいユーモアの持ち主であり、愛着は抱くものの敵意に屈することはほとんどなく、あらゆる情熱において極めて節度のある人間だった。文学的な名声への愛、つまり私の支配的な情熱でさえ、幾度となく失望させられたにもかかわらず、私の気性を悪くすることはなかった。若くて無頓着な人にも、勉学に励み文学に励む人にも、私の交友関係は受け入れられた。特に慎み深い女性たちと過ごすのが楽しかったので、彼女たちの歓迎に不満を抱く理由はなかった。一言で言えば、どんなに著名な人物でも中傷に文句を言う理由を見つけるのに、私は彼女の悪意ある牙に心を痛めたり、攻撃されたりすることはなかった。そして、私が不当に世俗派と宗教派の怒りに身をさらしたにもかかわらず、彼らはいつもの怒りから私を解放してくれたようだった。友人たちは、私の性格や行動について、いかなる点についても弁明する機会を与えられなかった。{p-xxii} 熱狂者たちは、おそらく私に不利な話なら何でも喜んで捏造し、広めたでしょう。しかし、彼らは、いかにも真実味を帯びた話を見つけられなかったのでしょう。私自身の葬儀の演説をすることに虚栄心がないとは言えませんが、見当違いなものではないことを願っています。これは容易に解明され、確かめられる事実です。

1776年4月18日。

アダム・スミスによるヒュームの死に関する有名な記述。
「K・イルクカルディ F・イフェシャー、 1776年11月9日。

「親愛なる お客様、​私たちの素晴らしい友人であるヒューム氏の最後の闘病中の行動について、皆さんに少しお話しできることは、とても悲しいことですが、本当にうれしく思っています。

彼は自らの判断では病は不治の病と見なしていたにもかかわらず、友人たちの懇願に屈し、長旅がどのような影響をもたらすか試そうとしました。出発の数日前、彼は自らの生涯を綴った記録を他の書類と共にあなたに託しました。したがって、私の記録は彼の記録が終わるところから始まります。

4月末に彼はロンドンへ出発し、モーペスでジョン・ホーム氏と私と会いました。二人はロンドンから彼に会いに来ており、エディンバラにいるだろうと期待していました。ホーム氏は彼と共に帰国し、彼がイギリスに滞在している間ずっと、彼の完璧な友好的で愛情深い性格から期待されるような気配りと気配りで彼に付き添いました。母にはスコットランドで私が待っていると書いてあったので、私は旅を続ける必要に迫られました。彼の病気は運動と空気の変化で治ったようで、ロンドンに到着した時にはエディンバラを出発した時よりもずっと健康状態が良くなっていたようです。彼はバースに行って水を飲むように勧められましたが、その水はしばらくの間、彼に良い効果をもたらしていたようです。{p-xxiii} 彼自身も、普段はなかなかできないことではあるが、自分の健康状態について前向きな見方を持つようになった。しかし、症状はいつものようにすぐに激しく再発し、その瞬間から彼は回復の考えを一切諦め、この上ない明るさと、この上ない自己満足と諦めの態度で臨んだ。エディンバラに戻ると、以前よりずっと衰弱していたものの、その明るさは衰えることなく、いつものように自分の著作の新版を改訂したり、娯楽の本を読んだり、友人と語り合ったり、時には夜には大好きなホイストをしたりして、気晴らしを続けた。彼の明るさは非常に高く、会話や娯楽もいつもの調子で続いたので、あらゆる悪い症状にもかかわらず、多くの人々は彼が死にかけているとは信じられなかった。ある日、ダンダス医師は彼にこう言った。「あなたの友人であるエドモンドストーン大佐に伝えておきます」。「あなたはだいぶ良くなり、かなり回復に向かっていますよ」 「先生」と彼は言った。「あなたは真実以外何も話さないだろうと信じているから、私は――もし私に敵がいたとすれば――望むほど早く、そして親友たちが望むほど楽に、そして楽しく死にかけていると伝えた方がいいでしょう」。その後すぐにエドモンドストーン大佐が彼に会いに来て別れを告げた。そして帰路、彼は手紙を書いてもう一度永遠の別れを告げ、死にゆく人として、ショーリュー神父が死を覚悟して、友人であるラ・ファール侯爵との別れが近づくことを嘆く美しいフランス語の詩を贈らずにはいられなかった。ヒューム氏の寛大さと毅然とした態度は、最も親しい友人たちでさえ、死にゆく人として彼に話しかけたり手紙を書いたりしても何の危険もないことを知っていたほどだった。そして、ヒューム氏はこの率直さに傷つくどころか、むしろ喜び、感激していた。私はたまたま彼の部屋に入ったのですが、彼はちょうど受け取ったばかりの手紙を読んでいて、すぐに私に見せてくれました。私は彼に、彼がどれほど衰弱し、多くの点で容貌がひどく悪くなったかは分かっていたものの、それでも彼の明るさは依然として非常に強く、生命力は依然として非常に強いようで、どうすることもできないと言いました。{p-xxiv} かすかな希望を抱いていた。彼は答えた。「その希望は杞憂だ。一年以上も下痢が続くのは、どんな年齢でも大変な病気だ。私の年齢では、命に関わる病気だ。夕方横になると、朝起きた時よりも体が弱っているのを感じる。そして朝起きると、夕方横になった時よりも体が弱っている。それに、体の重要な器官が侵されているのも分かっている。だから、もうすぐ死ぬに違いない。」 「まあ」と私は言った。「もしそうなるとしても、少なくとも友人たち全員、特に兄の家族を大いに繁栄させるという満足感はあるだろう。」彼は、その満足感をあまりにも深く感じていたため、数日前にルシアンの『死者の対話』を読んでいた時、カロンがすぐに船に乗らない理由として挙げられる言い訳の数々の中に、自分に当てはまるものが一つも見つからなかった、と言った。彼には完成させるべき家もなく、養うべき娘もなく、復讐したい敵もいないのだ。「カロンに少しの猶予を得るために、どんな言い訳をすればいいのか、私には全く想像がつきません」と彼は言った。「私はこれまでやろうとしていた重要なことはすべてやりました。そして、今私が残そうとしている状況よりも良い状態で親族や友人たちを残せるとは到底思えません。ですから、私は満足して死ねるだけの理由があるのです。」それから彼は、カロンに言い返せるであろう冗談めいた言い訳をいくつか考え出し、カロンの性格にふさわしい、どんな無愛想な返事を返せばいいのかを想像して、気を紛らわせた。 「よく考えてみれば」と彼は言った。「カロン殿、新版に向けて作品の修正をしていたのです。少し時間をください。世間が今回の修正をどう受け止めるか見てみよう、と申し上げようと思ったのです。」しかしカロンはこう答えるだろう。「今回の効果を目にしたら、きっとまた新たな修正を加えることになるでしょう。そんな言い訳はいくらでもできるでしょう。ですから、正直な友よ、どうか船に乗ってください。」それでも私はこう促しただろう。「もう少しお待ちください、カロン殿。世間の目を覚まさせようと努めてきたのです。あと数年生きれば、今なお蔓延している迷信の体系が崩壊していくのを見る満足感を得られるかもしれません。」しかしカロンは怒りと礼儀正しさを完全に失ってしまうだろう。「この怠け者め{p-xxv} ならず者め。そんな事はこれから何百年も続くだろう。そんなに長期間の賃貸契約を私が許すと思っているのか?今すぐ船に乗り込め、怠惰でぶらぶらしているならず者め。」

ヒューム氏は、自分の死期が近づいていることをいつもとても明るく話していたものの、その寛大さをひけらかすようなことは決してありませんでした。会話が自然にその話題になった時以外は、その話題に触れることはなく、会話の流れが必要とされる以上に長くその話題にこだわることもありませんでした。実際、この話題は、彼を訪ねてきた友人たちが彼の健康状態について自然に尋ねたため、かなり頻繁に持ち上がっていました。私が先に述べた、8月8日木曜日に交わした会話は、私が彼と交わした最後の会話でした。彼は非常に衰弱しており、ごく親しい友人たちといるだけでも疲れてしまうほどでした。しかし、彼の明るさは依然として強く、社交性も旺盛で、友人が一緒にいると、衰弱した体には合わないほど、そして精力的に話さずにはいられませんでした。そこで、彼の希望により、私は彼のために滞在していたエディンバラを離れ、ここエディンバラにある母の家に戻ることにしました。カークカルディは、私に会いたいときはいつでも私を呼び寄せるという条件で、彼を最も頻繁に診察していた医師のブラック博士に、その間、彼の健康状態について時々私に手紙を書くことを約束してもらった。

「8月22日に医師は私に次のような手紙を書いた。

「私が最後に会って以来、ヒューム氏は比較的楽に時間を過ごせていますが、以前よりずっと衰弱しています。起きて、一日に一度階下に降りて、読書を楽しんでいますが、めったに誰とも会いません。最も親しい友人との会話でさえ、疲れて重苦しいと感じているようです。でも、心配事や焦り、落ち込みなどは全くなく、楽しい本に助けられて、とても充実した時間を過ごしているので、会話を必要としないのは幸いなことです。」{p-xxvi}

「私は翌日ヒューム氏本人から手紙を受け取りました。その抜粋は次のとおりです。

「’Eディンバラ、 1776年8月23日。

「’私の D EAREST 友人、​今日は起き上がれないので、甥に頼んで手紙を書かなければなりません。

· · · · · ·
「体調が急激に悪くなり、昨夜は軽い熱が出たので、この厄介な病気が早く治まるのではないかと期待していましたが、残念ながらほとんど治ってしまいました。私の都合でこちらに来ていただくことはできません。私があなたに会えるのはほんの少しの時間だけなので。ブラック先生なら、私の体力がどの程度残っているか、時折わかると思います。さようなら」

ブラック博士から以下の手紙を受け取った3日後、

「’Eディンバラ、 1776年8月26日。

「’親愛なる お客様、​昨日、午後4時頃、ヒューム氏は息を引き取りました。死期が迫っていることは、木曜日から金曜日にかけての夜、病状が悪化し、すぐに衰弱してベッドから起き上がることもできなくなった時に明らかになりました。彼は最期まで完全に正気を保ち、痛みや苦悩をほとんど感じていませんでした。少しも苛立ちを露わにすることなく、周囲の人々に話しかける際には、常に愛情と優しさを込めて話していました。特に、彼があなたに手紙を書いて、来ないでほしいと頼んだと聞いていたので、あなたを連れて来るようにと手紙を書くのは不適切だと思いました。衰弱がひどくなると、話すのも一苦労でしたが、何物にも代えがたいほどの穏やかな心で亡くなりました。

「こうして、私たちの最も優れた、決して忘れられない友人が亡くなった。彼の哲学的意見については、人々は間違いなく様々な判断を下すだろう。それぞれの人が、自分の意見と一致するか、あるいは一致しないかによって、それを承認したり非難したりするだろう。{p-xxvii} 彼自身の気質は、私が知る他のどの男よりも、実に幸福にバランスが取れているように思われた――もしそう表現することが許されるならば――。財産が最も乏しかった時でさえ、彼の極めて必要な倹約は、しかるべき機会に慈善行為や寛大な行為をすることを妨げることはなかった。それは貪欲に基づくものではなく、独立心に基づく倹約だった。彼の極めて温厚な性格は、彼の確固たる精神や決意の堅固さを決して弱めることはなかった。彼の絶え間ない陽気さは、上品さと慎み深さで和らげられた、真の善意と陽気さのほとばしりであり、他の人々が機知と呼ぶものの不快な源泉となることが多い悪意の色合いさえ、微塵もなかった。彼の嘲笑の目的は決して人を辱めることではなく、それゆえ、嘲笑の対象となった人々を不快にさせるどころか、むしろ喜ばせ、喜ばせることさえほとんどなかった。しばしば嘲笑の的となった友人たちにとって、彼の偉大で愛すべき特質の中で、彼以上に会話を盛り上げるものはなかっただろう。社交界では非常に好感の持てる陽気な性格だが、往々にして軽薄で表面的な性質を伴いがちな彼の性格は、確かに最も真摯な努力、最も広範な学識、最も深い思考力、そしてあらゆる点において最も包括的な能力を伴っていた。総じて私は、生前も死後も、彼が人間の弱さの許す限り、完全に賢明で高潔な人物像に最も近かったと常に考えてきた。

「私はいつも、親愛なるあなたから、最も愛情を込めて、

「ダム​ Sスミス。」

⁂ ヒュームは『古代国家の人口について』の中で、「古代のあらゆる時代を一つの時代とみなすのはよくある誤りである」と述べています。付録に示されている年代は、この点を正すものとなるかもしれません。

注釈、はじめに。
1 アダム・スミスの生涯、「偉大な作家」シリーズ。

2 デイヴィッド・ヒュームの生涯と書簡、1846年。

3 『Foundations of Political Economy』、The Walter Scott Publishing Company, Limited を 参照。

4 1751年にミントのギルバート・エリオット卿に宛てた手紙の中で、 彼は『人間性論』の出版についてこう書いている。「若さと発明の熱に流され、性急に出版してしまいました。21歳になる前に計画し、25歳になる前に書き上げたこの壮大な計画は、必然的に大きな欠陥を抱えているに違いありません。私は自分の性急さを百回も後悔しています。」

5 ホールデン『アダム・スミスの生涯』「偉大な作家たち」シリーズ。

6 ここではヒュームの見解の方が正当である。

ヒュームの政治言説

商業の。
人類の大部分は二つの種類に分けられる。一つは、真実に届かない浅薄な思考者、もう一つは真実を超越する難解な思考者だ。後者は圧倒的に稀少であり、そして付け加えれば、圧倒的に有用で価値ある存在でもある。彼らは少なくともヒントを与え、難問を提起する。それを追求するにはおそらく熟練を要するだろうが、より公正な思考方法を持つ人々が対処すれば、非常に優れた発見につながるかもしれない。最悪の場合、彼らの言うことは稀である。たとえ理解するのに多少の苦労を要したとしても、新しい何かを聞く喜びは得られる。コーヒーハウスでのあらゆる会話から学べることしか語らないような作家は、あまり評価されない。

浅薄な考えを持つ人は皆、しっかりとした理解力を持つ人でさえも、難解な思想家、形而上学者、精緻化家と非難しがちで、自分の弱い概念を超えるものは決して正当だとは認めようとしない。私自身も認めるが、並外れた精緻化は虚偽の推定を強く促し、自然で容易な推論以外は信頼できない場合もある。人が特定の事柄における自分の行動について熟考し、政治、貿易、経済、あるいは人生におけるあらゆる事業において計画を立てる際、議論を細かすぎたり、帰結の連鎖を長すぎたりしてはならない。必ず何かが起こり、彼の推論は混乱し、本来とは異なる結果をもたらすだろう。{p2} 彼が期待していたものとはかけ離れている。しかし、一般的な主題について推論する際には、私たちの思索は、それが正当である限り、決して精緻すぎることはない、と正当に断言できるだろう。そして、凡人と天才の違いは、主に、彼らが前提とする原理の浅薄さか深みにある。一般的な推論は、単に一般論であるがゆえに複雑に見える。また、大多数の人々にとって、多数の個別事項の中から、全員が同意する共通の状況を区別したり、他の余計な状況から純粋で混じりけのない状況を取り出すことは容易ではない。彼らにとって、あらゆる判断や結論は個別的なものである。彼らは、無限の数の個別事項を包含し、一つの定理に科学全体を包含するような普遍的な命題にまで視野を広げることはできない。彼らの目は、そのような広大な展望に惑わされ、そこから導き出される結論は、たとえ明確に表現されていても、複雑で難解に見える。しかし、いかに複雑に見えようとも、一般原則は、正しく健全であれば、特定の場合には通用しないかもしれないとしても、物事の一般的な流れにおいては常に優勢であることは確かである。そして、物事の一般的な流れを考察することは哲学者の主要な仕事である。加えて言えば、それは政治家の主要な仕事でもある。特に国家の国内政治においては、彼らの目的である、あるいはそうあるべき公共の利益は、多数の事例の一致に左右されるのであって、外国政治のように偶然や運、そして少数の人々の気まぐれに左右されるのではない。したがって、これが個別の審議と一般的な推論の違いであり、繊細さと洗練は前者よりも後者にずっと適している。

商業、貨幣、利子、貿易収支などに関する以下の講義の前に、この序論が必要だと考えました。そこでは、おそらく一般的ではない、あるいはこのような俗悪な主題には洗練されすぎていて難解すぎると思われるような原理がいくつか出てくるでしょう。もしそれが誤りであれば、拒絶すべきです。しかし、それが単に常識から外れているというだけで、偏見を持つべきではありません。{p3}

国家の偉大さと国民の幸福は、たとえある意味では独立していると考えられていても、商業に関しては不可分であると一般的に認められています。そして、民間人が商業や富を公共の力からより安全に守られるように、公共の力は民間人の富と広範な商業活動に比例して強大になります。この格言は一般的には真実ですが、おそらく例外もあるだろうし、私たちはしばしばこれをあまりにも控えめに、限定的に捉えすぎているのではないかと思わずにはいられません。場合によっては、個人の商業、富、贅沢が公共の力を強化するどころか、むしろ軍隊を弱め、近隣諸国における権威を弱めるだけになることもあるでしょう。人間は非常に変わりやすい存在であり、様々な意見、信条、行動規範を受け入れやすいものです。ある考え方に固執している間は真実であっても、正反対の習慣や意見を受け入れたときには、偽りであることが分かります。

あらゆる国家の大部分は、農民と製造業者に分けられる。前者は土地の耕作に従事し、後者は前者によって供給される資材を加工して、人間の生活に必要かつ装飾的なあらゆる商品を作る。狩猟と漁撈で生計を立てる野蛮な状態から脱すれば、人々はこの二つの階級に分けられる。もっとも、当初は農業が社会の最も多数の部分を雇用するが。[7] 時間と経験によってこれらの技術は飛躍的に向上し、土地は、その土地で直接雇用されている人々よりもはるかに多くの労働者を容易に維持できるようになる。{p4} 耕作に従事する者、または、耕作に従事する者に必要な製品を供給する者。

これらの余剰の手が、一般的に贅沢の芸術と呼ばれるより洗練された芸術に携わるならば、多くの人々に、そうでなければ知ることのなかった享楽を得る機会を与えるため、国家の幸福を増進することになる。しかし、これらの余剰の手を使うための別の計画が提案されるのではないだろうか。君主が彼らを要求し、艦隊や軍隊に雇用することで、国家の領土を海外に拡大し、遠く離れた国々にその名声を広めることはできないだろうか。土地所有者や労働者の欲望や欲求が少ないほど、彼らが雇用する手も少なくなるのは確かである。したがって、土地の余剰は、商人や製造業者を維持する代わりに、特定の人々の贅沢を満たすために多くの芸術が必要とされる場合よりも、はるかに大きな規模で艦隊や軍隊を支えることができるだろう。したがって、ここに国家の偉大さと国民の幸福の間には、ある種の対立があるように思われる。国家は、その余剰人員がすべて公共の奉仕に充てられている時ほど偉大になることはない。私人の安楽と利便性は、これらの人員が自らの奉仕に充てられることを要求する。どちらか一方を犠牲にしなければ、満たされることはない。主権者の野心は個人の贅沢を阻害するように、個人の贅沢は主権者の野心を弱め、抑制する。

この推論は単なる空想ではなく、歴史と経験に基づいています。スパルタ共和国は、同数の人口からなる当時の世界のどの国家よりも確かに強大でしたが、これはひとえに商業と贅沢の欠如によるものでした。ヘロテス人は労働者であり、スパルタ人は兵士、あるいは紳士でした。もしスパルタ人が安楽で優雅な生活を送り、多種多様な産業や製造業に従事していたならば、ヘロテス人の労働力でこれほど多くのスパルタ人を養うことはできなかったことは明らかです。同様の政策は{p5} ローマでは、このような傾向が見受けられる。実際、古代史全体を通して、最小の共和国でさえ、現在の人口の3倍の国家が維持できる以上の軍隊を組織し、維持していたことが観察される。ヨーロッパ諸国の兵士と人口の比率は、1対100を超えないと計算されている。しかし、ローマ市だけでも、その小さな領土にもかかわらず、初期にはラテン人に対して10個軍団を組織し、維持していたという記録がある。ヨークシャーほどの広さしか領土を持っていなかったアテネは、シチリア島への遠征に4万人近くの兵士を派遣した。大ディオニュシウスは、10万人の歩兵と1万人の騎兵からなる常備軍に加え、400人の帆船からなる大艦隊を維持していたと言われている[8] 。 ただし、彼の領土はシラクサ市、シチリア島の約3分の1、そしてイタリアとイリュリクム沿岸のいくつかの港町や駐屯地程度にとどまっていた。古代の軍隊は戦時中、略奪によって多くの食料を得ていたのは事実です。しかし、敵も同じように略奪をしなかったでしょうか?それは、当時考えられた他のいかなる課税方法よりも破滅的なものでした。要するに、古代国家が近代国家よりも強大な力を持っていた理由は、商業と贅沢の欠如以外に考えられません。少数の職人は農民の労働によって支えられていたため、より多くの兵士がその労働によって生計を立てることができたのです。ティトゥス・リウィウスは、ローマが彼の時代に、建国初期にガリア人とラテン人に対して派遣したほどの大規模な軍隊を編成することは困難であったと述べています。カミルスの時代に自由と帝国のために戦った兵士たちの代わりに、アウグストゥスの時代には音楽家、画家、料理人、演劇家、仕立て屋がいました。そして、もし両時代に土地が同じように耕作されていたならば、どちらの職業にも同数の労働者を維持できたことは明らかです。それらは、前期と比べて後期においても単なる生活必需品に何も追加しなかった。{p6}

この機会に、君主が古代の政策の格言に立ち返り、この点において臣民の幸福よりも自らの利益を優先するべきではないかと問うのは当然である。私は、それはほとんど不可能に思えると答える。それは、古代の政策が暴力的で、より自然で通常の物事の流れに反していたからである。スパルタがどのような特異な法によって統治されていたか、そして他の国家や他の時代において人間性が示してきたように、人間性を考察したすべての人々からその共和国がいかに驚異的であったかは周知の事実である。もし歴史の証言がそれほど明確で状況に即したものでなかったならば、そのような政府は単なる哲学的な気まぐれ、あるいは虚構に過ぎず、決して実践不可能なものと映るであろう。ローマ共和国やその他の古代共和国は、いくぶんか自然な原則に基づいていたとはいえ、そのような重い負担を強いられるような、極めて異例な状況の重なりがあった。それらは自由国家であり、小国であった。時代は戦乱の時代であり、近隣諸国は皆、常に武装していた。自由は自然に公共心を生み出し、特に小国においてはそれが顕著である。そしてこの公共心、すなわち愛国心は、国民が絶えず不安に陥り、国民が国を守るために常に最大の危険に身をさらさなければならない状況において、さらに高まるに違いない。戦争が絶え間なく続くと、すべての市民は兵士となる。彼らは順番に戦場に赴き、その任務中は主に自らの手で生活を支える。そして、その任務は非常に重い税金に相当するにもかかわらず、武器に溺れ、報酬よりも名誉と復讐のために戦い、利益と勤勉さも享楽も知らない国民にとっては、それほど重荷には感じられない。[9] 言うまでもなく、{p7} 古代共和国の住民の間では財産が非常に平等であり、異なる所有者に属する畑ごとに家族を養うことができ、商業や製造業がなくても国民の数が非常に多かった。

自由で非常に武勇に富む国民の間では、貿易や製造業の不足が、時に民衆の力を強める以外に何の影響も及ぼさないこともあるかもしれないが、人類の通常の営みにおいては、全く逆の傾向を示すことは確かである。君主は人類をあるがままに受け入れなければならず、彼らの主義や考え方に劇的な変化をもたらすことは許されない。人類の営みをこれほどまでに多様化させるような大変革をもたらすには、長い歳月と様々な偶然や状況を伴う必要がある。そして、特定の社会を支える主義が自然でないほど、立法者がそれを育成し、発展させることは困難を極める。立法者にとって最善の策は、人類の共通の性向に従い、可能な限りの改善を施すことである。さて、物事の最も自然な流れによれば、産業、芸術、そして貿易は、君主の権力と臣民の幸福を増大させる。個人の貧困によって大衆を肥大化させる政策は暴力的である。これは、怠惰と野蛮さの帰結を示すいくつかの考察から容易に明らかになる。

製造業や機械技術が育っていない地域では、大多数の人々は農業に従事しなければなりません。そして、彼らの技術と勤勉さが増せば、{p8} 彼らの労働からは、生活を維持するのに十分な以上の莫大な余剰が生じなければならない。したがって、彼らには技術や勤勉さを高めようという誘惑がない。なぜなら、その余剰を、自分たちの楽しみや虚栄心に役立ついかなる商品とも交換することができないからである。怠惰な習慣が自然に蔓延している。土地の大部分は耕作されていない。農民の技術や勤勉さの欠如のために、耕作されているものも最大限の収穫を得られない。いつ何時、公的緊急事態により多数の人々を公務員として雇用する必要が生じても、人々の労働は現在、これらの人々を維持できる余剰分を供給することはできない。労働者は突然に技術や勤勉さを高めることはできない。耕作されていない土地は、数年間は耕作できない。その間、軍隊は突然の暴力的な征服を行うか、生存の危機のために解散するかのいずれかを迫られる。したがって、そのような国民から定期的な攻撃や防御を期待することはできず、彼らの兵士は農民や製造業者と同じくらい無知で未熟であるに違いありません。

この世のあらゆるものは労働によって得られるものであり、我々の情熱こそが労働の唯一の原因である。国家が工業と機械技術に富むとき、土地所有者は農民と同様に農業を科学として研究し、勤勉さと注意力を倍増させる。彼らの労働によって生じる余剰は失われるのではなく、むしろ人々の贅沢が今や渇望させる商品と交換される。こうして土地は、耕作民が十分に賄える以上の生活必需品を供給する。平和で平穏な時代には、この余剰は工業者や教養の向上者たちの生活を支えるために使われる。しかし、民衆にとって、これらの工業者の多くを兵士に転向させ、農民の労働によって生じる余剰によって彼らを養うことは容易である。したがって、これはすべての文明国において当てはまることがわかる。君主が軍隊を編成すると、何が起こるだろうか?それは税金を課すということである。この税金は、国民全員に、生活に最も必要のないものを削減することを義務づける。{p9} 生活必需品を生産する労働者は軍隊に入隊するか農業に転向するかのどちらかしかなく、そうなると一部の労働者は仕事がないため入隊せざるを得なくなる。抽象的に考えると、製造業が国家の力を増大させるのは、国民が生活必需品を奪うことなく、十分な労働力、しかも公衆が要求できる種類の労働力を蓄積する場合のみである。したがって、生活必需品以外の労働力が投入されればされるほど、国家は強力になる。なぜなら、その労働に従事する人々は容易に公務員に転向できるからである。製造業のない国家では、労働者の数は変わらないかもしれないが、労働量も種類も同じではない。そこではすべての労働が生活必需品に投入され、その削減はほとんど、あるいは全く許されないのである。

このように、君主の偉大さと国家の幸福は、商業と製造業に関しては、大部分において一体となっている。労働者に、自身と家族の生活を支える以上のものを土地から稼ぐよう強制するのは、強引な方法であり、ほとんどの場合、実行不可能である。彼に製造品と必需品を与えれば、彼は自力でそれを行うだろう。その後、彼の余剰労働の一部を押収し、通常の報酬を与えることなく公務に充てることが容易であることに気づくだろう。勤勉に慣れている彼は、いきなり何の報酬も与えずに労働の増加を強いるよりも、これをそれほど苦痛には思わないだろう。国家の他の構成員についても同様である。あらゆる種類の労働の蓄積が大きければ大きいほど、その蓄積に何ら目立った変化を与えることなく、より多くの量をそこから取り出すことができる。

穀物の公共の穀倉、布地の倉庫、武器庫。これらはすべて、いかなる国家においても真の富と力をもたらすものでなければならない。商業と産業は、実際には労働力の蓄積に他ならない。平和で平穏な時代には、個人の安楽と満足のために用いられるが、国家の緊急事態においては、部分的には公共の利益のために転用される可能性がある。都市を一種の要塞化された都市に変えることができるだろうか。{p10} 野営地に兵士を集結し、各人の胸に武勇伝と公共の利益のための情熱を注ぎ込み、誰もが公共のためにはどんな苦難もいとわないと思わせることができれば、古代と同様、今もなおこうした情熱だけで勤勉を促し、社会を支えるのに十分であろう。そうなれば、野営地においては、あらゆる芸術や贅沢を追放し、装備や食卓に制限を設けることで、軍隊に余計な家来を抱えている場合よりも食料や飼料を長持ちさせるのが有利であろう。しかし、こうした原理はあまりにも私心がなく、維持するのが難しすぎるため、他の情熱で人々を統制し、貪欲と勤勉、芸術と贅沢の精神で彼らを活気づけることが必要である。この場合、野営地には余計な家来が抱えられているが、食料はそれに比例して多く流入する。全体の調和は依然として維持されており、心の自然な傾向がより順守されるようになり、一般大衆だけでなく個人もそれらの格言を遵守することで責任を負います。

同様の推論方法では、外国貿易が国家権力の増強のみならず、国民の富と幸福を増大させるという利点も明らかになる。外国貿易は国内の労働力を増加させ、君主はその中から必要と判断した部分を公共事業に転用することができる。外国貿易は、輸入によって新たな製造業のための原材料を供給し、輸出によって、特に国内では消費できない商品の製造に労働力を生み出す。つまり、輸出入の豊富な王国は、国内産品に満足している王国よりも、産業が豊かで、高級品や贅沢品に注力している必要がある。したがって、より強力で、より豊かで、より幸福である。個人は、これらの商品が感覚と食欲を満たす限り、その恩恵を受ける。そして、国民もまた利益を得る。なぜなら、これによってより多くの労働力が蓄えられ、あらゆる公共の緊急事態に備えることができるからである。つまり、より多くの労働者が維持され、公務に転用される可能性がある。{p11} 生活必需品や生活の主要な利便性を一切奪うことなく。

歴史を紐解けば、ほとんどの国において、外国貿易が国内製造業の進歩に先んじて発展し、国内に贅沢を生み出してきたことがわかる。すぐに使える、そして私たちにとって全く新しい外国製品を利用する誘惑は、常にゆっくりと進歩し、その目新しさによって我々に影響を与えることのない国内製品を改良する誘惑よりも強い。国内で余剰となり、値段のつかないものを、土壌や気候がその製品に適さない外国に輸出することで得られる利益も非常に大きい。こうして人々は贅沢の喜びと商業の利益を知るようになり、その繊細さと勤勉さは、一度目覚めると、国内外のあらゆる貿易分野において更なる進歩へと導く。そしておそらくこれこそが、異国人との貿易から生じる最大の利益であろう。それは人々を怠惰から目覚めさせる。そして、国民のより華やかで裕福な層に、かつて夢にも思わなかった贅沢品を提供することで、彼らの中に、祖先が享受していたよりも華やかな生活への憧れが芽生えます。同時に、この輸入と輸出の秘密を握る少数の商人たちは法外な利益を上げ、富において古代の貴族と張り合うようになり、他の冒険家たちを商業のライバルに誘います。模倣はすぐにこれらの技術を普及させ、国内の製造業者は外国の技術を模倣して改良を行い、あらゆる国産品を可能な限り最高の完成度にまで高めます。こうした丹精込めた手仕事によって、国内の鋼鉄はインドの金やルビーに匹敵するようになります。

社会情勢がこのような状況に陥ると、国家は対外貿易の大半を失っても、偉大で強力な国民であり続ける可能性がある。もし外国人が我が国の特定の商品を受け取ってくれないなら、我々はその商品の製造を中止せざるを得ない。同じ人々が、他の商品の精製に手を伸ばすだろう。{p12} 国内で必要とされているのは、常に労働のための資材である。そして、国中の富裕層が望むだけの豊かさと、それを可能な限り完璧な状態で享受できるようになるまで、常に労働のための資材がなければならない。しかし、それは到底実現できない。中国は世界で最も繁栄した帝国の一つとして描かれているが、自国領土外との商業活動は極めて少ない。

ここで、機械技術の多様性が有益であるのと同様に、これらの技術の生産物を受け取る人々の数も膨大であることに言及しても、余計な余談と思われないことを願っています。国民間の不均衡が大きすぎると、国家は弱体化します。すべての人は、可能であれば、あらゆる必需品と生活の利便性の多くを享受しながら、自らの労働の成果を享受するべきです。このような平等こそが人間の本性に最も合致し、富裕層の幸福を減少させるよりも、貧困層の幸福を増大させる方がはるかに少ないことは、誰も疑う余地がありません。また、国家の力を強化し、臨時の税金や賦課金をより喜んで支払うようになります。富が少数の人々によって独占されている場合、それは公共の必需品の供給に大きく貢献するはずです。しかし、富が多数の人々に分配されると、各人の肩にかかる負担は軽くなり、税金は誰の生活にもそれほど大きな影響を与えなくなります。

これに加えて、富が少数の人々の手に集中している場合、これらの人々がすべての権力を享受するはずであり、すべての負担を貧しい人々に押し付け、さらに彼らを圧迫してすべての勤勉さを阻害しようと共謀するであろう。

この状況こそが、現在世界のどの国よりも、あるいは歴史に残るどの国よりもイングランドが優位に立っている理由である。確かに、イングランド人は外国貿易において、労働力の高騰によって多少の不利益を感じている。これは、職人たちの富と豊富な資金によるところが大きい。しかし、外国貿易は最も物質的な要素ではないため、数百万の人々の幸福と競合するものではない。もし、彼らに自由という魅力をこれ以上感じさせるものがなかったら、{p13} 彼らが従う政府さえあれば、それだけで十分だった。庶民の貧困は、絶対君主制の当然の結果ではないにせよ、当然の結果である。しかし、一方で、彼らの富が自由の絶対的な結果であるかどうかは、私には疑問である。自由には、そうした効果を生み出すための特別な偶然や、ある種の思考の転換が伴わなければならない。ベーコン卿は、イギリスがフランスとの戦争で得た大きな利益を説明するにあたり、主にイギリスの庶民の暮らしやすさと富裕さにそれを帰している。しかし、当時の両王国の政府は、ほとんど同じだった。労働者や職人が低賃金で働き、労働の成果のほんの一部しか手元に残さないことに慣れている場合、たとえ自由な政府であっても、彼らが自分たちの生活を改善したり、賃金を引き上げようと共謀したりすることは難しい。しかし、より豊かな生活に慣れている場合でも、独裁政権下の富裕層が彼らに対して陰謀を企て、税金の負担をすべて彼らの肩に押し付けることは容易である。

フランス、イタリア、スペインの庶民の貧困が、ある程度、土壌の豊かさと気候の恵みに起因しているというのは、奇妙な見方に思えるかもしれない。しかし、この逆説を正当化する理由はそれほど多くない。これらの南部の地域のような優れた土壌では、農業は容易な技術である。一人の男が、数頭の哀れな馬を飼えば、一シーズンで、所有者にかなりの地代を支払うだけの土地を耕作することができる。農民が知っている唯一の技術は、土地が枯渇したらすぐに一年間休ませることである。そうすれば、太陽の暖かさと気候の温暖さだけで土地は豊かになり、肥沃さが回復する。したがって、このような貧しい農民は、労働に対するわずかな生活費さえあればよい。彼らには、それ以上のものを要求するような家畜も財産もない。そして同時に、彼らは地主に永遠に依存しており、地主は土地を貸すこともせず、不適切な耕作方法によって土地が荒廃することを恐れることもありません。イングランドでは土地は豊かですが、{p14} ブドウは粗野で、多額の費用をかけて耕作しなければならず、注意深く管理しなければ、収穫は乏しく、十分な利益は数年かけてしか得られない。したがって、イギリスの農民は相当な量の家畜と長期の賃貸契約を持たなければならない。それによって、それに見合った利益が得られる。地主に1エーカーあたり5ポンド以上の収穫をもたらすことが多いシャンパーニュやブルゴーニュの立派なブドウ畑は、パンに乏しい農民によって耕作されている。その理由は、そのような農民は自分の手足と20シリングで買える農業用具さえあれば、家畜を必要としないからである。これらの国々の農民は一般にいくらか恵まれた境遇にあるが、土地を耕作する者全員の中で牧場主が最も楽な生活を送っている。理由は同じである。人は出費と危険に見合った利益を得なければならないのである。小作農や農家のように貧困に苦しむ労働者の多くが非常に困窮している場合、その国の政府が君主制であろうと共和制であろうと、残りの人々は皆、彼らの貧困にあずからざるを得ない。

人類史全般についても同様のことが言えるだろう。熱帯地方に住む人々が、未だに芸術や文明、あるいは統治における治安や軍事規律さえも習得できていないのに、温帯地方に住む国々でこれらの利点を全く失っている国がほとんどないのはなぜだろうか。この現象の原因の一つは、熱帯地方の気候が温暖で均質であるため、住民にとって衣服や住居の必要性が減り、それによって産業や発明の大きな原動力となる必需品が部分的に失われている可能性が考えられる。言うまでもなく、人々が享受するこの種の財貨や所有物が少ないほど、人々の間で争いが生じる可能性は少なくなり、外敵や互いから人々を守り、防衛するための、確立された治安や正規の権威の必要性も低くなるだろう。

商業に関するメモ。
7 ムロン氏は、商業に関する政治論文の中で、現在でもフランスを20の地域に分けると、16地域は労働者または農民、2地域は職人のみ、1地域は法律家、教会、軍人、そして1地域は商人、金融家、ブルジョワジーであると主張している。この計算は明らかに大きな誤りである。フランス、イギリス、そしてヨーロッパのほとんどの地域では、住民の半分が都市に居住している。そして、田舎に住む人々でさえ、おそらく3分の1以上が職人である。

8 Diod. Sic.、lib. 2。この記述は、私自身も認めるところ、いくぶん疑わしい、いや、むしろ疑わしい。主な理由は、この軍隊が市民ではなく傭兵で構成されていたからである。

9 古代ローマ人は隣国すべてと絶え間ない戦争を繰り広げていた。そして、古ラテン語の「hostis」という語は、よそ者と敵の両方を表していた。キケロもこのことを指摘しているが、彼はこれを先祖の人間性に帰している。先祖は敵をよそ者と同じ呼び方で呼ぶことで、できるだけ呼び方を和らげようとしたのである(『オックスフォード大公論』第2巻)。しかしながら、当時の風俗から判断すると、当時の人々の残忍さがあまりにも大きく、よそ者すべてを敵とみなし、同じ呼び方で呼んだ可能性の方がはるかに高い。さらに、いかなる国家も公敵を友好的な目で見るべきであるとか、ローマの弁論家が先祖に抱いたような感情を彼らに対して抱くべきであるというのは、政策や自然に関する最も一般的な格言とは相容れない。言うまでもなく、初期のローマ人は実際に海賊行為を行っていました。これは、ポリュビオス著『ローマ史』第 3 巻に収められているカルタゴとの最初の条約からわかるとおりです。そのため、サリーやアルジェリアの海賊たちと同様に、ローマ人もほとんどの国と実際に戦争状態にあり、彼らにとって、よそ者と敵はほぼ同義語でした。

芸術における洗練について。
贅沢という言葉は、その意味合いが非常に曖昧で、良い意味にも悪い意味にも捉えられます。一般的には、感覚の満足を極限まで高めることを意味し、その程度は、年齢、出身地、あるいは個人の境遇によって、無害か非難されるべきかのどちらかです。他の道徳的主題と同様に、美徳と悪徳の境界線をここで明確に定めることはできません。感覚を満足させること、あるいは肉、飲み物、衣服といった嗜好品に耽ること自体が悪徳であると考えることは、熱狂の狂乱によって乱されていない頭には決して浮かびません。実際、私は海外で、自分の僧房の窓から非常に素晴らしい景色が見えるという理由で、二度とそちらに目を向けず、そのような官能的な満足を得ないように誓った修道士の話を聞きました。シャンパンやブルゴーニュ、できればスモールサイズのビールやポーターを飲むことも、まさにそのような罪です。これらの贅沢は、寛大さや慈善といった何らかの美徳を犠牲にして追求される場合にのみ悪徳となる。同様に、それらのために財産を浪費し、貧困と乞食に陥る場合も愚行となる。それらがいかなる美徳にもとらわれず、友人、家族、そしてあらゆる寛大さや同情の適切な対象を養うための十分な資金を残す場合、それらは全く無害であり、あらゆる時代においてほとんどすべての道徳家によってそのように認められてきた。例えば、野心、学問、会話といった喜びを全く味わわず、食卓の贅沢にのみ没頭することは、甚だしい愚かさの証であり、気質や才能の活力とは相容れない。友人や家族を顧みず、支出をそのような満足のみに限定することは、全く人間性や博愛を欠いた心の表れである。しかし、もし人があらゆる称賛に値する追求のために十分な時間と、あらゆる寛大な行為のために十分な資金を確保しているならば、{p16} 目的のため、彼は非難や非難の影から一切自由です。

贅沢は無害と非難の対象となるか、どちらかに考えられるため、贅沢に関して抱かれてきた突飛な意見に驚く人もいるかもしれない。放蕩な信条を持つ人々は、悪質な贅沢さえも称賛し、社会にとって非常に有益であると主張する。一方、厳格な道徳観を持つ人々は、最も無害な贅沢でさえ非難し、それを民政に伴うあらゆる腐敗、混乱、そして分裂の源泉と見なす。我々はここで、この両極端を正そうと努める。まず、洗練された時代こそが最も幸福で、最も高潔な時代であることを証明すること。次に、贅沢が無害ではなくなると、有益でもなくなる。そして、度を越すと、政治社会にとって最も有害ではないにしても、有害な性質となることを証明すること。

第一の点を証明するには、洗練が私生活と公的生活の両方に与える影響を考えれば十分です。一般的な考え方によれば、人間の幸福は三つの要素、すなわち活動、快楽、そして怠惰から成り立っているようです。これらの要素は、個人の性向に応じて異なる割合で混合されるべきですが、どの要素も完全に欠けると、全体の味わいをある程度損なうことになります。確かに、怠惰や休息は、それ自体では私たちの楽しみにはあまり貢献しないようですが、睡眠のように、仕事や娯楽を途切れることなく続けられない人間の弱さを補うために必要です。人を我を忘れさせ、主に満足感を与える、あの激しい精神の奔流は、最終的には精神を疲弊させ、ある程度の休息を必要とします。それは一瞬は心地よいものですが、長く続くと、あらゆる楽しみを破壊するような倦怠感と無気力を生み出します。教育、習慣、そして模範は、これらの追求のいずれかに心を向けさせるのに大きな影響力を持っています。そして、行動と喜びへの嗜好を促進するところでは、それらは好ましいものであることを認めなければなりません。{p17} 人間の幸福に。産業と芸術が栄える時代には、人々は絶え間ない仕事に就き、その報酬として、仕事そのものだけでなく、労働の成果である喜びも享受する。精神は新たな活力を得て、その力と能力を拡大し、誠実な勤勉さによって、自然の欲求を満たすと同時に、安楽と怠惰に養われたときに生じる不自然な欲求の成長を防ぐ。社会からそれらの芸術を排除すれば、人々から活動と喜びの両方が奪われる。そして、それらに代わる怠惰だけを残すと、怠惰の味わいさえも破壊してしまう。怠惰は、過度の努力と疲労で疲弊した精神を奮い立たせ、労働に繋がる場合にのみ、決して心地よいものではない。

勤勉と機械技術の改良のもう一つの利点は、それらが一般に自由主義の分野にも何らかの改良をもたらすことです。一方が完成に至るには、ある程度の他方の進歩が不可欠です。偉大な哲学者や政治家、名高い将軍や詩人を生み出す時代は、熟練した織工や船大工が豊富に存在します。天文学を知らない国、あるいは倫理を無視する国で、一枚の毛織物が完璧に仕上がることは、到底期待できません。時代の精神はあらゆる芸術に影響を与えます。人々の精神は、ひとたび無気力から目覚め、活気に満ちた状態になると、あらゆる方向へと転じ、あらゆる芸術と科学に進歩をもたらします。深い無知は完全に払拭され、人々は理性的な生き物としての特権、すなわち行動するだけでなく考えること、肉体の喜びだけでなく精神の喜びを培うことを享受するのです。

こうした洗練された技術が進歩すればするほど、人々はより社交的になる。科学に恵まれ、会話の糧を得たからといって、孤独に留まったり、無知で野蛮な民族に特有の、遠く離れた市民と暮らすことに満足するはずがない。彼らは都市に集まり、知識を吸収し、伝え、自らの才能を披露することを好む。{p18} 知性や教養、会話や生活、衣服や家具の好み。好奇心は賢者を魅了し、虚栄心は愚者を魅了し、そして快楽は両者を魅了する。特別なクラブや協会が至る所に形成され、男女は気楽で社交的な方法で出会い、人々の気質や行動は急速に洗練される。したがって、知識や教養から受ける向上に加えて、共に語り合い、互いの快楽や娯楽に貢献し合う習慣そのものから、人間性が増すのを感じずにはいられない。このように、勤勉、知識、そして人間性は切っても切れない鎖で結びついており、経験からも理性からも、より洗練された、そして一般的により贅沢な時代と呼ばれる時代に特有のものであることが分かる。

これらの利点には、それに見合うだけの不利益は伴いません。人々が快楽を洗練させればさせるほど、いかなる種類の過度な行為にも耽ることは少なくなります。なぜなら、過度な行為ほど真の快楽を破壊するものはないからです。ヨーロッパの廷臣たちが洗練された料理を振るうよりも、タタール人が死んだ馬を食らう際には、獣のような暴食に走ることが多かったと断言できます。そして、放蕩な愛、あるいは夫婦の寝床における不貞さえも、しばしば単なる紳士淑女の振る舞いとしか見なされない、礼儀正しい時代にはより頻繁に見られましたが、一方で、酩酊ははるかに稀です。酩酊は、心身ともに、より忌まわしく、より有害な悪徳です。この点に関しては、私はオウィディウスやペトロニウスだけでなく、セネカやカトーにも言及したいと思います。我々が知っているように、カティリナの陰謀の間、カトーの妹セルウィリアとの陰謀を暴露する小冊子をカトーに渡す必要に迫られた厳格な哲学者は、憤慨してその小冊子をカトーに投げ返し、激怒のあまり、カトーをもっと正当に非難できたはずの言葉よりもさらに不名誉な言葉として、カエサルに酔っぱらいというあだ名をつけました。

しかし、勤勉、知識、人間性は私生活においてのみ有利なのではなく、その有益な効果は{p19} 生活の装飾と楽しみに役立つあらゆる商品の増加と消費は、社会にとって有益である。なぜなら、それらは個人に無邪気な満足感を与えると同時に、一種の労働力の貯蔵庫であり、国家の緊急事態においては公共サービスに転用できるからである。こうした余剰物資の需要がない国では、人々は怠惰に陥り、人生の楽しみをすべて失い、怠惰な国民の労働力によって艦隊や軍隊を維持・支援することができない国民にとって無用な存在となる。

ヨーロッパの王国の境界は、現在、200年前とほぼ同じですが、それらの王国の力と壮大さはどれほど変わったことでしょう。これは、技術と産業の発展に他なりません。フランスのシャルル8世がイタリアに侵攻した際、彼は約2万人の兵士を率いました。しかし、ギチャルダンの記述からわかるように、この軍備は国民を疲弊させ、数年間はそれほど大きな努力を払うことができませんでした。先代のフランス国王は、戦時中、40万人以上の兵士に給与を支払っていました[10]。 マザランの死から自身の死まで、彼は30年近くも続く戦争に従軍していました。

この産業は、芸術と洗練の時代と切り離せない知識によって大いに促進される。一方で、この知識は、国民が国民の産業を最大限に活用することを可能にする。法律、秩序、警察、規律――これらは、人間の理性が実践によって、そして少なくとも商業や製造業といったより俗流の技術への応用によって洗練されるまでは、いかなる完成にも至らない。糸紡ぎの作り方も織機の使い方も知らない国民によって、優れた政府が築かれると期待できるだろうか?言うまでもなく、無知な時代はどれも、{p20} 迷信が蔓延しており、それが政府の偏見を失わせ、人々の利益と幸福の追求を妨げている。

統治術に関する知識は、自然に温和さと節度を生み出します。それは、厳格さと厳しさよりも、人道的な格言の利点を人々に教えることによってです。厳格さと厳しさは、臣民を反乱に駆り立て、恩赦の望みを断ち切って服従を不可能にします。人々の気質が知識の向上とともに和らげられると、この人道性はさらに顕著になり、文明時代と野蛮で無知な時代を区別する主要な特徴となります。そうなれば、党派の根深さは減り、革命はより悲劇的になり、権力はより厳しくなり、暴動はより少なくなります。外国との戦争でさえ残酷さが和らぎます。名誉と利害が人々を恐怖だけでなく同情にも対抗させる戦場の後、戦闘員は獣性を脱ぎ捨て、人間性を取り戻すのです。

人間が獰猛さを失うことで武勇も失い、祖国や自由を守る勇気や精力も失われるのではないかと心配する必要もありません。芸術は精神や肉体を衰弱させるような作用はありません。むしろ、両者に不可欠な勤勉さは、両者に新たな力を与えます。そして、勇気の砥石と言われる怒りが、礼儀正しさと洗練によってその激しさをいくらか失うならば、より強く、より不変で、より統制可能な原理である名誉心は、知識と良識から生じる才能の向上によって新たな活力を得ます。加えて、勇気は規律と武術を伴わなければ、長続きせず、何の役にも立ちません。しかし、これらは野蛮な民族にはほとんど見られません。古代人は、データムスが戦争の術を知り得た唯一の野蛮人であると述べました。ピュロスはローマ軍が巧妙な技巧を凝らして軍を統率しているのを見て、驚いて言った。「この蛮族の規律には野蛮なところなど何もない!」古代ローマ人が戦争だけに専念していたことは、{p21} 軍隊の規律を備えていたのは未開人だけであったように、ヨーロッパ人の中で勇気と武闘精神を欠いた文明人といえばイタリア人だけである。イタリア人のこの女々しさを贅沢さや礼儀正しさ、あるいは芸術への傾倒のせいにする者は、フランス人とイギリス人を考えてみる必要がある。彼らの勇敢さは贅沢への愛着や商業への勤勉さと同じくらい疑いようのないものだ。イタリアの歴史家たちは、同胞のこの堕落についてもっと納得のいく理由を示している。彼らは、イタリアの君主たちが一斉に剣を捨てた経緯を示している。ヴェネツィアの貴族が臣民に嫉妬していた一方で、フィレンツェの民主制は商業に専念し、ローマは司祭によって、ナポリは女性によって統治されていたのである。戦争は傭兵の仕事となり、傭兵たちは互いに惜しみなく協力し、世界を驚かせたのは、彼らが戦闘と呼ぶものに一日中従事し、夜には流血も一切なく陣営に戻ることができたことだ。

厳格な道徳家たちが芸術の洗練を非難するようになった主な理由は、古代ローマの例である。ローマは貧困と田舎っぽさに加えて、美徳と公共心も持ち合わせ、驚くほどの壮大さと自由を誇った。しかし、征服した属国からアジアの贅沢を学んだことで、あらゆる腐敗に陥り、そこから反乱や内乱が起こり、ついには自由を完全に失った。幼少期に読むラテン語の古典はすべて、こうした感情に満ちており、一様にローマ国家の没落を東洋から輸入した芸術と富のせいにしている。サルスティウスでさえ、絵画への嗜好を淫らな行為や飲酒に劣らない悪徳として描いているほどである。そして、こうした感情はローマ帝国後期に非常に広まったため、著者自身も近代の贅沢と腐敗の最も顕著な例であるにもかかわらず、古き厳格なローマの美徳を称賛している。彼は世界で最も雄弁な作家であるにもかかわらず、ギリシャの雄弁さを軽蔑し、それどころか、趣味と正確さの模範であるにもかかわらず、この目的のために不合理な余談や演説を行っている。{p22}

しかし、これらの著述家たちがローマ国家の混乱の原因を誤解し、実際には規範の欠けた統治と際限のない征服から生じたものを、贅沢と芸術のせいにしていたことは容易に証明できるだろう。生活の享楽と利便性を洗練させることは、貪欲と腐敗を生み出す自然な傾向ではない。あらゆる人が特定の快楽に付ける価値は、比較と経験によって決まる。また、ベーコンとブランデーに費やす荷運び人と、シャンパンとオートランを買う廷臣のどちらが金銭欲が薄いかは関係ない。富は常に、そしてすべての人にとって価値がある。なぜなら、富は常に人々が慣れ親しみ、渇望するような快楽を買うからである。金銭欲を抑制したり統制したりできるのは、名誉と美徳の感覚だけであり、これらは、たとえ常にほぼ同等でなくても、知識と洗練の時代において自然に最も豊かになる。

ヨーロッパのあらゆる王国の中で、ポーランドは戦争においても平和においても、そして機械的にも自由主義的にも最も欠陥があるように思われる。しかし、貪欲と腐敗が最も蔓延しているのは、まさにそこである。貴族たちは、王位を常に最高額の入札者に売却するためだけに、選任したようだ。これが、ポーランド人が知るほぼ唯一の商業形態なのである。

イングランドの自由は、芸術の進歩以来衰退するどころか、むしろその時代ほど栄えたことはありません。近年、腐敗が増加しているように見えるかもしれませんが、これは主に、我々の確立された自由主義に起因するものです。君主たちは、議会なしで統治すること、あるいは特権という幻影によって議会を脅かすことが不可能だと悟ったのです。言うまでもなく、この腐敗や貪欲さは、選挙民の間では選出された者よりも遥かに蔓延しており、したがって、贅沢の洗練に起因するものとは到底言えません。

この問題を適切に考察すれば、芸術の進歩はむしろ自由にとって有利であり、そうでなくても、自然と自由を維持する傾向があることがわかるだろう。{p23} 自由な政府を創り出す。粗野で洗練されていない国家では、芸術が軽視され、すべての労働は土地の耕作に注がれ、社会全体が土地所有者とその家臣または借地人の二つの階級に分かれる。後者は必然的に従属的であり、奴隷状態と服従に適応している。特に、芸術が軽視されている場合には常にそうであるように、財産を持たず、農業の知識によって評価されない場合にはそうである。前者は当然のことながら、自らを小暴君に仕立て上げ、平和と秩序のために絶対的な主人に服従するか、あるいは独立を維持しようとするならば、古代の男爵のように、内部で確執や争いに陥り、社会全体を最も専制的な政府よりも悪いほどの混乱に陥れるしかない。しかし、贅沢が商業と産業を育むところでは、農民は土地を適切に耕作することによって裕福になり、自立する。一方、商人や商人は財産の一部を獲得し、公共の自由の最良かつ最も強固な基盤である中流階級の人々に権威と敬意を向ける。彼らは貧しい農民のように貧困と卑劣な精神から奴隷状態に陥ることはない。また、男爵のように他人を圧制しようとする希望も持たないため、その満足感を得るために君主の圧制に屈する誘惑にも駆られない。彼らは平等な法律を切望し、それによって財産が守られ、君主制や貴族制の圧制から守られるのである。

庶民院は我が国の民衆による政府を支える機関であり、その影響力と影響力の源泉は商業の発展にあり、それによって財産の大部分が庶民の手に委ねられたことは、世界が認めるところです。芸術の洗練をこれほど激しく非難し、自由と公共精神の害悪とするのは、なんと矛盾していることでしょう。

現代を非難し、遠い祖先の美徳を誇張することは、人間の本性にほとんど内在する性向である。そして、文明化された時代の感情や意見だけが後世に伝えられるので、{p24} 贅沢、そして科学に対してさえも、これほど多くの厳しい批判に遭遇し、だからこそ私たちは現在、それらに容易に同意してしまうのです。しかし、同時代の異なる国々を比較すれば、その誤りは容易に見抜くことができます。そこでは、私たちはより公平に判断し、十分に熟知している習慣をより適切に対比させることができます。裏切りと残酷さは、あらゆる悪徳の中で最も有害で最も忌まわしいものであり、未開の時代に特有のものと思われ、洗練されたギリシャ人やローマ人は、周囲の野蛮な国々すべてにそれを帰しました。したがって、彼らは、高く評価されている自分たちの祖先がそれ以上の美徳を持っておらず、名誉と人間性においても、趣味と科学においても子孫より劣っていると正当に推測したかもしれません。古代のフランク人やサクソン人は大いに称賛されるかもしれません。しかし、私は、自分の生命や財産が、最も文明化された国々の最も文明化された階級であるフランス人やイギリス人の紳士の手に握られている場合よりも、ムーア人やタタール人の手に握られている場合の方がはるかに安全ではないと誰もが考えるだろうと信じている。

ここで、私たちが例証しようとした2番目の立場、つまり、無害な贅沢、あるいは芸術や生活の便利さの洗練が公共にとって有益であるのと同様に、贅沢が無害ではなくなると、有益でもなくなり、さらに進むと、政治社会にとって、おそらく最も有害ではないにしても、有害な性質になり始めるという立場に移ります。

いわゆる悪しき贅沢について考えてみましょう。どれほど官能的なものであろうと、いかなる快楽もそれ自体では悪しきものとはみなされません。快楽が悪しきものとされるのは、人のすべての支出を費やし、その人の境遇や財産に求められる義務や寛大さを発揮する能力を失わせてしまう時だけです。もしその人がこの悪癖を改め、支出の一部を子供の教育、友人の支援、貧困者の救済に充てたとしたら、社会に何らかの不利益が生じるでしょうか?むしろ、同じ消費が生まれ、現在は一人の人間にわずかな満足をもたらすためだけに使われている労働が、困窮者を救い、何百人もの人々に満足を与えることになるでしょう。{p25} クリスマスにエンドウ豆一皿を作るのと同じ労力と苦労で、6ヶ月間家族全員にパンを供給できる。悪質な贅沢がなければ、その労力は全く使われなかっただろうと言うことは、怠惰、利己主義、他人への無関心といった人間性の別の欠陥があるということに過ぎない。ある毒が別の毒の解毒剤となるように、贅沢はある程度、これらの欠陥を治療する。しかし、健康に良い食べ物と同様に、美徳は、どんなに正しく調理されても、毒よりも優れている。

現在イギリスに、同じ土壌と気候に住む同じ数の人間がいると仮定しましょう。想像し得る最も完璧な生活様式と、全能の神が彼らの気質と性質にもたらすであろう最大の変革によって、彼らがより幸福になることはできないでしょうか? 不可能だと主張するのは明らかに滑稽です。土地はそこに住むすべての人々よりも多くのものを支えることができるので、そのようなユートピア的な状態においては、彼らは身体的な病気から生じるもの以外の苦しみを感じることは決してないでしょう。そして、身体的な病気は人間の苦しみの半分にも満たないのです。他のすべての苦しみは、私たち自身か他人の何らかの悪徳から生じます。そして、私たちの病気の多くも同じ起源から生じています。悪徳を取り除けば、悪徳はついて来ます。すべての悪徳を取り除くように注意するだけで十分です。一部でも取り除けば、事態は悪化するかもしれません。怠惰や他人への無関心を治さずに、悪質な贅沢を追放しても、国家の勤勉さは減退するだけで、人々の慈善心や寛大さには何も寄与しません。したがって、国家における相反する二つの悪徳は、どちらか一方だけよりも有益であると主張することに満足しましょう。しかし、悪徳自体が有益であるとは決して断言してはいけません。ある著者が、あるページで道徳的区別は公共の利益のために政治家が考案したものだと主張しながら、次のページでは悪徳が公共にとって有益であると主張するのは、非常に矛盾しているのではないでしょうか。[11] 実際、いかなる道徳体系においても、一般的に社会に有益な悪徳について語ることは、言葉の矛盾に他なりません。{p26}

浪費は芸術の洗練と混同されるべきではない。教養ある時代には、この悪徳ははるかに少なくなったようにさえ見える。勤勉と利潤は、下層階級や中流階級の人々、そしてあらゆる多忙な職業において倹約を生み出す。確かに、高位の人々は、より頻繁に訪れる快楽に魅了されると言えるかもしれない。しかし、怠惰は常に浪費の大きな源泉であり、どの時代にも快楽と虚栄心があり、より良い楽しみを知らない人々は、それらに等しく魅了される。言うまでもなく、粗野な時代に支払われる高利子は、地主階級の財産を瞬く間に食い尽くし、彼らの必需品を倍増させる。

英国で盛んに議論されてきた哲学的問題に光を当てるために、この推論が必要だと考えました。私はそれを哲学的問題と呼ぶのであって、政治的問題ではありません。なぜなら、人類があらゆる種類の美徳を授かり、あらゆる種類の悪徳から解放されるような奇跡的な変容がどのような結果をもたらすにせよ、それは可能性のみを追求する政務官には関係のない問題だからです。政務官は、あらゆる悪徳を、ある美徳に置き換えることで治すことはできません。多くの場合、ある悪徳を別の悪徳で治すしかありません。そのような場合、政務官は社会にとって最も有害性の低いものを優先すべきです。過度の贅沢は多くの弊害の源となりますが、一般的には怠惰や怠慢よりも好ましいものです。怠惰や怠慢は、贅沢の代わりになることが多く、個人にとっても社会にとってもより有害です。怠惰が蔓延すると、個人の間で卑しく、教養のない生活様式が蔓延し、社会も楽しみも失われます。そして、このような状況で君主が臣民に奉仕を要求すると、国家の労働は労働者に生活必需品を供給するだけで十分であり、公務に従事する人々には何も提供できない。

芸術における洗練についてのノート。
10 ヴァンドーム広場の碑文には440,000と記されている。

11 ミツバチの寓話。

お金の。
厳密に言えば、貨幣は商業の主題の一つではなく、ある商品を別の商品と交換しやすくするために人々が合意した手段に過ぎません。貨幣は貿易の車輪そのものではなく、車輪の動きをより滑らかで容易にする石油のようなものです。ある王国を単独で考えてみると、貨幣の多寡は重要ではないことが明らかです。なぜなら、商品の価格は常に貨幣の量に比例し、ヘンリー7世の時代のクラウンは現在のポンドと同じ役割を果たしていたからです。貨幣の多寡から利益を得るのは国民だけであり、それも戦争や外国との交渉においてのみです。そして、カルタゴからイギリス、オランダに至るまで、豊かな貿易国が貧しい隣国から傭兵を雇ってきたのは、まさにこのためです。もし彼らが自国の臣民を利用するならば、彼らの富裕さや豊富な金銀から得られる利益は少なくなるだろう。なぜなら、彼らのすべての使用人の給与は、国民の富裕度に応じて上昇しなければならないからだ。イギリスの2万人という小さな軍隊は、その3倍の兵力を持つフランス軍と同程度の費用で維持されている。先の戦争中、イギリス艦隊の維持には、皇帝の時代に全世界を従属させていたローマ軍団全体の維持費に匹敵するほどの資金が必要だった。[12]{p28}

人口の増加と勤勉さは、国内外を問わず、私生活でも公私を問わず、あらゆる場面で役立ちます。しかし、お金の豊富さは用途が限られており、時には外国との貿易において国家にとって損失となることさえあります。

人間社会には、貿易と富の成長を抑制し、それらが特定の民族に完全に限定されることを阻む、幸運な要因の一致があるように思われる。これは、確立された商業の利点から当然最初は懸念されるような事態である。ある国が他の国に貿易の恩恵を与えた場合、後者は前者の優れた勤勉さと技能、そしてその国の商人が保有する豊富な在庫によって、より少ない利益で取引をすることができるため、失った地位を取り戻すのは非常に困難である。しかし、これらの利点は、大規模な商業活動がなく、金銀がそれほど豊富でない国では、労働力の安さによってある程度補われる。したがって、製造業は徐々にその拠点を移し、既に富ませた国や地方を離れ、食料と労働力の安さに魅せられて他の国や地方へと移り、ついにはこれらの国や地方も富ませ、同じ原因によって再び追い出される。そして、一般的に、お金がたくさんあるためにあらゆるものが高くなるということは、確立された商業につきものの欠点であり、貧しい国があらゆる外国市場で裕福な国より安く売ることを可能にすることによって、あらゆる国で商業に限界を設けていると言えるでしょう。{p29}

このことから、私は銀行と信用紙幣の利益について大きな疑問を抱くようになりました。これらはあらゆる国家にとって有益であると広く考えられています。貿易と通貨の増加によって食料と労働力が高くなることは、多くの点で不便ではありますが、避けられない不便であり、私たちのあらゆる願いの最終目的である公共の富と繁栄の帰結です。この不便は、これらの貴金属の所有から得られる利益、そしてそれらがあらゆる対外戦争や交渉において国家にもたらす影響力によって補われます。しかし、外国人がいかなる支払いにも受け入れず、国家におけるいかなる大きな混乱も無に帰してしまうような偽札によって、この不便さを増大させる理由はないように思われます。確かに、どの豊かな国にも、多額の資金を持つ多くの人々が、輸送が容易で保管も安全なため、セキュリティの高い紙幣を好むでしょう。もし国民が銀行を提供しなければ、民間の銀行家がこの状況を利用するでしょう。かつてロンドンで金細工師が行っていたように、あるいは現在ダブリンで銀行家が行なっているように。したがって、富裕な王国であれば必ず存在する紙幣信用の恩恵を公的企業が享受する方がよいと考えられるかもしれない。しかし、そのような信用を人為的に増やそうとすることは、いかなる貿易国にとっても決して利益にはならない。むしろ、労働力や商品に対する貨幣の自然な比率を超えて増加させ、それによって商人や製造業者にとっての価格を上昇させることによって、貿易国に不利益をもたらすことになる。そしてこの観点から、受け取った貨幣をすべて封印し、[13] 通常のように財源の一部を商業に還元して流通貨幣を増やすことのない銀行ほど有利な銀行は存在しないと認めなければならない。この方法により、公的銀行は民間銀行家や金融仲介業者の取引の多くを遮断することができるだろう。そして、たとえ国がこの銀行の取締役や出納係の給与を負担したとしても(前述の{p30} 仮に取引から利益を得られないとしても、労働力の低価格化と紙幣信用の消滅によってもたらされる国家の利益は十分な補償となるだろう。言うまでもなく、これほどの巨額の資金がいつでも使えるようになれば、公衆の危険や苦難の際には大いに役立つだろう。そして、その資金の一部は、国家に平和と平穏が回復した暁には、いつでも補充できるだろう。

しかし、この紙幣信用という主題については、後ほどより詳しく論じることにする。そして、貨幣に関するこのエッセイを、二つの考察を提示し、それを説明することをもって締めくくろう。これらの考察は、おそらく投機的な政治家たちの思考を援用するのに役立つだろう。というのも、私はこれまでずっとこれらの考察にのみ焦点を当ててきたからだ。現代において哲学者という肩書きに時折付随する嘲笑には、投機家という肩書きに付随する嘲笑を付け加えることなく、ただ従うだけで十分である。

自国で貨幣を見たことがなかったスキタイ人アナカルシスは、金銀はギリシャ人にとって数え上げや算数の助けとなる以外には何の役にも立たないと考えていた。これは鋭い観察だった。貨幣は労働と商品の表象に過ぎず、それらを評価したり評価したりする手段に過ぎないことは明白である。貨幣が大量に流通している場合、同じ量の商品を表すのにより多くの貨幣が必要となるため、その国に良い影響も悪い影響も及ぼさない。商人がアラビア式の記法ではなく、多くの文字を必要とするローマ式の記法を用いたとしても、帳簿に何の変化も生じないのと同じである。それどころか、ローマ字と同様に、貨幣の量が増えることはむしろ不便であり、保管と輸送の両方に多大な労力を要する。しかし、この結論は正当に認められるべきであるが、アメリカで鉱山が発見されて以来、鉱山所有者を除くヨーロッパ諸国の産業が活発化してきたことは確かであり、これは他の理由の中でも、金銀の増加によるものと正当に考えられる。したがって、鉱山が発見されたすべての王国において、{p31} 貨幣が以前よりも豊富に流れ始めると、あらゆるものが新たな様相を呈する。労働と勤勉は活気づき、商人はより進取の気性に富み、製造業者はより勤勉で熟練し、農民でさえより機敏に、そして注意深く鋤き働くようになる。これは、貨幣の過剰供給が王国自体に及ぼす影響、すなわち商品価格の高騰、そして誰もが購入するものすべてに対してより多くの黄色や白の貨幣を支払わなければならないことだけを考えれば、容易に説明できるものではない。そして貿易に関して言えば、貨幣の過剰供給はあらゆる労働力の価格を上昇させるため、むしろ不利に働くように見える。

この現象を説明するには、商品価格の高騰は金銀の増加の必然的な結果ではあるものの、増加直後に起こるわけではないことを考慮する必要がある。貨幣が国家全体に流通し、その影響があらゆる階層の人々に及ぶまでには、ある程度の時間がかかる。最初は変化は感じられないが、徐々に価格が上昇し、まずは一つの商品、次に別の商品となり、最終的に全体の価格が国内の新たな正貨量と適正な比率に達する。私の考えでは、貨幣の獲得と価格上昇の間のこの中間期、つまり中間的な状況においてのみ、金銀の増加は産業に有利に働く。ある国に何らかの量の貨幣が輸入されると、それは最初は多くの人々の手に渡るのではなく、少数の人々の金庫に留まり、彼らは直ちにそれを最大限に活用しようと試みる。ここに、カディスに商品を送った代金として金銀を受け取った製造業者や商人がいるとしよう。これにより、以前よりも多くの労働者を雇用することが可能となり、労働者は賃金の引き上げなど夢にも思わず、むしろそのような優秀な雇用主から雇用されることを喜ぶ。労働者が不足すると、製造業者は賃金を引き上げますが、当初は労働力の増加を要求する。そして職人は喜んでこれに応じる。{p32} 人々は今や、よりよい飲食ができるようになり、それによって、余分の労苦と疲労を償うことができる。彼はその金を市場に持って行き、そこでは以前と同じ値段であらゆる品物を見つけるが、家族のために、より多く、よりよい種類の品物を持って帰る。農夫や園芸家は、あらゆる商品が売り切れていることに気づき、さらに生産に精を出す。同時に、商人からよりよい服を、より多く仕入れる余裕ができる。彼らの値段は以前と同じで、彼らの勤勉さは、この大きな新たな利益によってさらに刺激されるだけである。貨幣が国家全体をどのように動いているかを追跡するのは容易である。そこでは、貨幣が労働価格を上昇させる前に、まずすべての人々の勤勉さを刺激しなければならないことがわかる。

そして、後者の効果が現れる前に金属貨幣が相当な額にまで増加する可能性があることは、他の例の中でも、フランス国王が貨幣に関して頻繁に行った政策から明らかである。貨幣価値の増加は、少なくともしばらくの間は、価格の比例的な上昇をもたらさないことが常に判明していた。ルイ14世の治世最後の年には、貨幣は7分の3増加したが、価格はわずか1リーブルしか上昇しなかった。フランスの穀物は現在、1683年と同じ価格、つまり同じリーブル数で売られている。銀は当時1リーブル=30リーブルだったが、現在は50リーブルである。[14] 金や銀の大幅な増加は言うまでもない。{p33} 以前の時代からその王国に入ってきたと思われる銀。

この推論全体から、国家の国内的幸福にとって、貨幣の量が多いか少ないかは全く重要ではないという結論に至るだろう。政務官の賢明な政策とは、可能な限り貨幣を増やし続けることにある。なぜなら、そうすることで国民の勤勉さを維持し、あらゆる真の力と富の源泉である労働力を増加させることができるからだ。貨幣が減少している国は、実際には、貨幣を保有せず増加している国よりもはるかに弱く、惨めな状態にある。貨幣量の変動が、どちらか一方において、商品価格の比例的な変動を直ちに伴わないことを考慮すれば、このことは容易に説明できる。事態が新たな状況に適応するまでには常に一定の時間が必要であり、この一定時間は、金銀が減少しているときには産業にとって有害で​​あるのに対し、これらの金属が増加しているときには有益である。労働者は市場であらゆるものに同じ価格を支払っているにもかかわらず、製造業者や商人から同じ雇用を得ているわけではない。農民は地主に同じ家賃を払わなければならないにもかかわらず、穀物や家畜を処分することができない。その結果として必ず生じる貧困、乞食、そして怠惰は容易に予見できる。

お金に関して私が提案した2つ目の考察は、次のように説明できるだろう。ヨーロッパには、お金があまりにも不足しているために地主がお金を稼ぐことができない王国や多くの州(そしてそれらはすべてかつては同じ状況にあった)がある。{p34} オーストリアは小作人から一切の税金を徴収せず、地代を現物で受け取り、それを自ら消費するか、市場のある場所に輸送する義務がある。これらの国々では、君主は同様の方法で税金をほとんど、あるいは全く徴収できない。そして、そのようにして支払われた税金から彼が受け取る利益は非常に少ないので、そのような王国は国内ですらほとんど力がなく、国全体が金銀で満たされているときと同じだけの艦隊や軍隊を維持することはできないのは明らかである。[15] 現在のドイツの力と3世紀前の力との間には、その産業、人口、製造業の不均衡よりも大きな不均衡があることは間違いない。帝国内のオーストリアの領土は一般に人口が多く耕作地も広く、広大な領土であるが、ヨーロッパ全体の中ではそれに見合った重みを持っていない。これは一般に考えられているように、資金不足から生じている。これらすべての事実は、金と銀の量自体は全く無関係であるという理性の原理とどのように一致するのでしょうか。この原理によれば、君主が多数の臣民を擁し、臣民が豊富な商品を持っている場合、貴金属の豊富さの多寡に関わらず、君主は当然偉大で強大であり、臣民は裕福で幸福であるはずです。貴金属はある程度まで分割・細分化が可能です。そして、貴金属が小さくなりすぎて失われる危険がある場合、ヨーロッパのいくつかの国で行われているように、より卑金属と混合することは容易であり、それによってより合理的で便利な量に増やすことができます。貴金属は、その数がどれだけ多くても、どのような色を帯びていても、交換の目的において同じ役割を果たします。

これらの難問に対して、私は次のように答えます。ここで貨幣の不足から生じると想定されている影響は、実際には住民の習慣や慣習から生じており、私たちはよくあるように、付随的な影響を原因と勘違いしているのです。{p35} 矛盾は一見しただけではわかりませんが、理性と経験を調和させる原理を発見するには、ある程度の思考と熟考が必要です。

あらゆるものの価格は商品と貨幣の比率に依存し、どちらか一方に大幅な変化があれば、価格が上昇するか下落するか、という同じ効果が生じるという格言は、ほぼ自明の理と言えるでしょう。商品が増えれば価格は安くなり、貨幣が増えれば価値は上昇します。一方、前者の減少と後者の減少は、相反する傾向を示します。

また、価格が国内の商品や貨幣の絶対量に大きく左右されるのではなく、市場に流通する、あるいは流通する可能性のある商品や貨幣の量に大きく左右されることも明らかです。貨幣が金庫に閉じ込められている場合、価格に関しては、貨幣が消滅したのと同じ状態になります。商品が穀倉に蓄えられている場合も、同様の結果が生じます。これらの場合、貨幣と商品は接触することがないため、互いに影響を与えることはできません。食料の価格について推測するならば、農民が自身と家族の維持のために確保しなければならない穀物は、決して考慮に入れるべきではありません。価値を決定するのは、需要と比較した余剰分だけです。

これらの原則を適用するには、いかなる国家においても、想像力がその欲求と自然の欲求を混同する以前の、初期の未開の時代においては、人々は自らの畑の産物、あるいは自らが作業で得られる粗雑な農作物に満足しており、交換、あるいは少なくとも合意によって交換の一般的な尺度となる金銭と交換する機会はほとんどなかったことを考慮しなければならない。農民自身の羊の毛糸は、自らの家族で紡がれ、近隣の織工によって織られ、穀物や羊毛で支払いを受け取れば、家具や衣類を作るのに十分である。大工、鍛冶屋、石工、仕立て屋は、同様の賃金で生活を維持しており、近隣に住む地主自身も、地代を受け取ることに満足していた。{p36} 農民が生産する産物。その大部分は、田舎のもてなしの中で家で消費され、残りはおそらく隣町に売って金に換え、そこからわずかな出費と贅沢のための材料を調達する。

しかし、人々がこうしたあらゆる享楽を洗練させ、常に家に閉じこもらず、近所で採れるもので満足しなくなると、あらゆる種類の交換や商取引が活発化し、交換により多くのお金が流入するようになる。商人は穀物での支払いを拒む。なぜなら、彼らは大麦以外の食料を欲しがるからだ。農民は仕入れた商品のために自分の教区の外まで出向くが、商品を仕入れてくれる商人のところまで必ずしも持ち込むことはできない。地主は首都や外国に住み、金や銀で地代を要求するが、それらは容易に輸送できる。あらゆる商品を扱う大葬儀屋、製造業者、商人が現れ、彼らは都合よく現金以外を扱える。そして結果として、このような社会状況において、硬貨は以前よりも多くの契約に使用され、その手段によって以前よりもはるかに多く使用されるようになる。

必然的な結果は、国内で貨幣が増加しない限り、産業と洗練の時代には、粗野で未開の時代よりもあらゆるものがはるかに安くなるということです。価格を決定するのは、流通する貨幣と市場における商品の比率です。国内で消費される商品、あるいは近隣で他の商品と交換される商品は、決して市場に出回らず、現在の貨幣には全く影響を与えません。それらは貨幣にとって完全に消滅したかのようです。したがって、こうした商品の使用方法は商品側の割合を低下させ、価格を上昇させます。しかし、貨幣があらゆる契約や売買に利用され、あらゆる場所で交換の尺度となると、同じ国の現金ははるかに大きな役割を担うことになります。すべての商品が市場に出回り、流通範囲が拡大します。それは、個々の金額がより大きな王国に奉仕するのと同じことです。したがって、{p37} ここではお金の側の割合が減るので、すべてが安くなり、価格は徐々に下がります。

ヨーロッパ全土で行われた最も正確な計算によれば、貨幣の価値や額面の変化を考慮に入れた上で、あらゆる物価は西インド諸島の発見以来、3倍、あるいはせいぜい4倍しか上昇していないことが分かります。しかし、ヨーロッパの貨幣が15世紀やそれ以前の数世紀と比べて4倍以上ではないと主張する人がいるでしょうか?スペイン人とポルトガル人は鉱山から、イギリス人、フランス人、オランダ人はアフリカ貿易や西インド諸島への侵入者を通して、年間600万ドルを本国に持ち帰り、その3分の1以上が東インド諸島に流れています。この金額だけでも、10年間でヨーロッパの古代の貨幣保有量を2倍にすることは可能でしょう。そして、あらゆる物価がこれほど法外な高騰をしていない理由として、習慣や風習の変化に起因するもの以外に納得のいく理由を挙げることはできません。付加的な産業によってより多くの商品が生産されるだけでなく、人々が昔ながらの簡素な習慣から抜け出すと、同じ商品も市場に多く出回るようになる。この増加は貨幣の増加には及ばないが、それでも相当なものであり、貨幣と商品の割合を昔ながらの水準に近づけてきた。

もし、人々の生活様式が簡素か洗練されているか、どちらが国家にとって、あるいは公共にとって最も有益であるかという問いが提起されたとしたら、私は、少なくとも政治的な観点からは、ためらいなく後者を支持するだろう。そして、これを貿易と製造業の奨励のさらなる理由として挙げるだろう。

人々が昔ながらの簡素な暮らしをし、生活必需品をすべて国内の産業や近隣から調達している場合、君主は国民のかなりの部分から金銭による税金を徴収することはできない。そして、もし君主が彼らに何らかの負担を課すのであれば、彼らが唯一豊富に持っている商品で支払いを受けなければならない。{p38} こうした状況には、明白で大きな不都合が伴うので、ここで強調する必要はない。国王が集められると見せかけられる資金はすべて、資金が流通している主要都市から調達しなければならない。そして、これらの主要都市では、金銀が国全体に流通していたとしたら、国全体で賄えるほどの資金を国王に供給できないことは明らかである。しかし、歳入がこのように明らかに減少するほかにも、このような状況では国民が貧困になる別の原因がある。国王が受け取るお金が減るだけでなく、同じお金でも産業や商業が盛んな時代ほどは行き渡らない。金と銀が等しいと想定される場所ではすべてがより高価になる。それは、市場に流通する商品が少なくなり、貨幣全体がそれによって購入されるものに対してより高い割合を占めるようになり、あらゆる物価が固定され決定されるのは、貨幣だけであるからである。

ここで、歴史家や日常会話でしばしば聞かれる、ある国家が肥沃で人口が多く、教養が豊かであっても、単に金銭を欲しているというだけで弱いという意見の誤りを思い知ることになる。金銭の不足は、いかなる国家自身にも決して害を及ぼさないように見える。なぜなら、人々と商品こそが、あらゆる社会の真の強みだからだ。ここで公共に損害を与えているのは、質素な生活様式である。金銀を少数の人々の手に留め、その普遍的な普及と流通を阻害しているのだ。それどころか、あらゆる種類の産業と精錬は、たとえその量がいかに少なくても、金銀を国家全体に取り込む。いわば、あらゆる鉱脈に浸透させ、あらゆる取引や契約に金銀を組み込む。誰も金銀を全く持っていないわけではない。そして、あらゆる物価がこのように下落するにつれ、君主は二重の利益を得る。すなわち、税金によって国家のあらゆる地域から金銭を引き出すことができ、受け取った金銭はあらゆる購入や支払いにおいてより有効に活用される。

物価の比較から、中国では3世紀前のヨーロッパよりもお金が豊富にあるわけではないと推測できます。しかし、その帝国が維持している文民および軍事のリストから判断すると、その帝国はどれほどの力を持っていたのでしょう。ポリュビオスは、食料が非常に豊富だったと述べています。{p39} 彼が在任中、イタリアでは金が安く、場所によっては宿屋の定価[16]が一人当たりセミス、つまり1ファージング強 だったという。しかし、ローマ帝国は当時すでに全世界を征服していた。その約1世紀前、カルタゴ大使は揶揄して、ローマ人ほど互いに親しく暮らしている民族はいない、と述べている。というのは、彼らは外国公使として受けるもてなしのすべてにおいて、どのテーブルにも同じ皿が並んでいたからである。貴金属の絶対量などどうでもいい。重要な状況は二つしかない。すなわち、その漸進的な増加と、国家を通じた徹底的な調合と流通である。そして、この二つの状況の影響はここで説明されている。

次のエッセイでは、上記と同じような誤謬の例を見ていきます。この誤謬では、副次的な影響が原因とみなされ、お金の多さが結果の原因であるとされていますが、実際には、それは人々の習慣や慣習の変化によるものです。

紙幣、金銭。
12 ローマ歩兵の一兵卒は1日1デナリウス、つまり8ペンス弱の賃金しか受け取っていませんでした。ローマ皇帝は通常25個軍団の給与を支払っていました。各軍団に5000人の兵士を配属するとすると、総勢は12万5000人になります(タキトゥス『紀元前4年』)。確かに軍団には補助兵もいましたが、その数も給与も定かではありません。軍団兵だけを考えても、一兵卒の給与は160万ポンドを超えることはありませんでした。ところで、先の戦争において議会は艦隊に通常250万ポンドの予算を計上しました。したがって、ローマ軍団の将校およびその他の経費として90万ポンドの余裕があります。現代のすべての軍隊に雇用されている将校と比較すると、ローマ軍にはスイス軍団のような少数の将校しかいなかったようです。そして、これらの将校の給与は非常に少なく、例えば百人隊長でさえ、一般兵士の2倍の給与しか受け取っていませんでした。兵士たちは給料から(タキトゥス『紀元前1世紀』)自分の衣服、武器、テント、荷物を買っていたので、軍隊の他の経費も相当に減ったはずだ。あの強大な政府はそれほど費用がかからず、世界に対するその支配もそれほど容易だった。実際、これは前述の計算から導き出されるより自然な結論である。というのも、エジプト征服後、ローマには現在のヨーロッパの最も豊かな王国とほぼ同程度の資金があったように思われるからである。

13 アムステルダム銀行の場合もそうです。

14 これらの事実は、著名な著述家デュ・トット氏の著書 『政治省』に拠って述べたものである。もっとも、彼が他の機会に提示する事実は往々にして疑わしいため、この件における彼の権威は薄れてしまうことを告白せざるを得ない。しかしながら、フランスにおける貨幣の増加は、当初は価格を比例的に上昇させるわけではないという一般的な指摘は、確かに正当である。

ちなみに、これは貨幣の漸進的かつ普遍的な増加を主張する上で最も有力な理由の一つであるように思われるが、メロン、デュ・トット、パリ・ド・ヴェルネーらがこの問題について著したあらゆる著書において、この点は完全に見落とされてきた。例えば、すべての貨幣が再鋳造され、1シリングあたり1ペンス相当の銀が採択されたとしたら、おそらく新しいシリングは、以前のシリングで購入できたものをすべて購入できるだろう。あらゆる物価は徐々に下落し、外国貿易は活性化し、国内産業はより多くのポンドとシリングの流通によって、ある程度の成長と奨励を受けるだろう。このような計画を実行する際には、新しいシリングを24ペンス半で流通させる方が、その幻想を維持し、実際に同じものと受け取られるという効果が得られるだろう。そして、シリングや6ペンスを継続的に使い続けることによって、銀貨の再鋳造が必要になり始めているのに、切り詰められた貨幣が古い基準に引き上げられたウィリアム王の治世の例に倣うべきかどうかは疑問かもしれない。

15 イタリア人はマクシミリアン皇帝を「ポチ・ダナリ」と名付けた。資金不足のため、この皇帝の事業はどれも成功しなかった。

興味深い。
いかなる国においても、金利の低さほどその繁栄の確かな兆候とみなされるものはない。そして、その原因は一般に考えられているものとは多少異なると私は考えるが、それももっともである。金利の低さは一般に金銭の豊富さに起因するとされるが、金銭は、いかに豊富であっても、固定されていれば、労働価格を上昇させる以外の効果はない。銀は金よりもありふれたものであり、したがって、同じ商品に対してより多くの銀を受け取ることができる。しかし、銀に対して支払う金利はより低いのだろうか?バタビアとジャマイカの金利は10%、ポルトガルは6%である。しかし、これらの地域は、{p40} あらゆる物価はロンドンやアムステルダムよりもはるかに高く、金や銀も豊富です。

もしイギリスの金がすべて一度に消滅し、すべてのギニーが21シリングに置き換えられたら、貨幣はより豊富になり、金利はより低くなるでしょうか?いいえ、絶対にそうではありません。私たちは金の代わりに銀だけを使うでしょう。金が銀のように、銀が銅のように普及したら、貨幣はより豊富になり、金利はより低くなるでしょうか?きっと同じ答えが返ってくるでしょう。そうなれば、シリングは黄色になり、ハーフペンスは白くなり、ギニーはなくなるでしょう。他に何の変化も見られません。商業、製造業、航海、金利に変化はありません。金属の色が何らかの意味を持つと考えない限りは。

さて、貴金属の希少性や豊富さの大きな変動に見られるものは、あらゆる小さな変化にも当てはまるに違いありません。金と銀が15倍になっても何の変化も生じないのであれば、ましてや2倍、3倍になっても何の変化も生じません。あらゆる増加は、労働力と商品の価格を上昇させる以外に何の効果もありません。そして、この変化でさえ、名ばかりのものに過ぎません。こうした変化へと向かう過程において、増加は産業を刺激することでいくらかの影響を与えるかもしれませんが、金と銀の新たな豊富さに見合った価格が定着した後は、何の影響も及ぼしません。

結果は常に原因と比例する。インド発見以来、物価は約4倍に上昇しており、金と銀はおそらくそれ以上に上昇しているだろう。しかし、金利は半分以下にまでしか下がっていない。したがって、金利は貴金属の量から導き出されるものではない。

貨幣は人々の合意と慣習から生じる架空の価値しか持たないので、国家内部で考えると、貨幣の量が多かろうが少なかろうが問題ではない。そして、一度決められた金属貨幣の量は、どれほど大きくても、衣服や家具や装備のために、より多くの輝く金属片を使わざるを得なくなるだけで、一人当たりの所得は増えない。{p41} 生活の利便性。人が家を建てるために借金をすれば、持ち帰る荷物はより重くなる。なぜなら、石材、木材、鉛、ガラスなどは、石工や大工の労働力と合わせて、より多くの金銀で表されるからである。しかし、これらの金属は単なる象徴として考えられるので、その大きさや量、重さや色によって、その実質的な価値や利息が変化することはない。いかなる場合でも、同じ利息は総額に対して同じ割合で存在する。そして、もしあなたが私にこれだけの労働力とこれだけの商品を貸し付け、5パーセントの利息を受け取るなら、黄貨であれ白貨であれ、1ポンドであれ1オンスであれ、どのように表現されても、あなたは常にそれに比例した労働力と商品を受け取ることになる。したがって、ある国で固定されている金銀の量の多寡に利息の上昇や下落の原因を求めるのは無駄である。

高金利は、三つの状況から生じます。借入需要の多さ、その需要を満たす富の少なさ、そして商業から生じる利益の多さです。そして、これらの状況は、金銀の不足ではなく、商業と産業の発展の少なさを明確に示しています。一方、低金利は、三つの正反対の状況から生じます。借入需要の少なさ、その需要を満たす富の多さ、そして商業から生じる利益の少なさです。そして、これらの状況はすべて相互に関連しており、金銀の増加ではなく、産業と商業の発展から生じています。私たちはこれらの点を可能な限り完全かつ明確に証明するために、借入需要の多寡または少なさの原因と結果から始めます。

人々が未開の状態からほんの少しでも脱却し、その数が当初の多数派を超えて増加すると、直ちに財産の不平等が生じます。広大な土地を所有する者もいれば、狭い範囲にとどまっている者もいます。また、全く土地を持たない者もいます。労働力以上の土地を所有する者は、土地を持たない者を雇用し、一定の割合の土地を受け取ることに同意します。{p42} 生産物。こうして土地の利害は直ちに確立される。そして、どんなに粗野な政府であろうとも、物事がこの基盤の上に成り立っていないような安定した政府は存在しない。これらの土地所有者の中には、すぐに他の者とは気質が異なることに気づく者もいるだろう。ある者は将来のために土地の生産物を喜んで蓄えようとするが、別の者は長年に渡って足りるであろうものを今消費したいと願う。しかし、定まった収入を消費することは全く仕事のない生活様式であるため、人々は生活の糧と関心を惹きつける何かを必要としており、その結果、大多数の地主は快楽を追い求めることになり、彼らの中には倹約家よりも浪費家の方が常に多く存在することになる。したがって、土地の利害以外に何も存在しない国家では、倹約家はほとんどいないため、借り手は非常に多く、金利もそれに比例するはずである。その違いは貨幣の量ではなく、支配的な習慣や風習によって決まる。これだけでも、借入需要は増減する。卵一個が六ペンスで売れるほどお金が豊富にあるとしたら、州内に地主と農民しかいない限り、借り手は多数になり、金利も高くなるはずだ。同じ農場の地代はより重く、より膨れ上がるだろうが、地主の怠惰と物価の上昇によって、地代は同じようにすぐに消え去り、借入の必要性と需要は同様に高まるだろう。

我々が考察しようとした第二の状況、すなわちこの需要を満たすための富の多寡についても、状況は同じである。この影響もまた、金銀の量ではなく、人々の習慣や生活様式に左右される。いかなる国家においても、多数の貸主が存在するためには、貴金属が豊富であることは十分でも必要でもない。必要なのは、国家にあるその量の財産または支配力が、その多寡にかかわらず、特定の人物の手に集められ、相当な額、あるいは大きな利子を形成することだけである。これが貸主の数を生み、高利貸しの利率を低下させる。そして{p43} 私はあえて断言しますが、これは金貨の量に依存するのではなく、金貨を相当の価値を持つ個別の金額または塊に集めさせる特定の習慣と慣習に依存します。

仮に奇跡的に、イギリス中のすべての人が一夜にして5ポンドをポケットに忍び込ませたとしよう。これは現在イギリスにあるお金の2倍以上になる。しかし、翌日も、そしてしばらくの間も、貸し手はもう現れず、金利も変動しないだろう。そして、もし国に地主と農民しかいなければ、このお金はいかに豊富であっても、まとまった額になることはなく、あらゆる物価を上昇させるだけで、それ以上の効果は期待できないだろう。放蕩地主は受け取るとすぐにそれを使い果たしてしまう。そして、乞食のような農民は、かろうじて生計を立てる以上のものを得る手段も、展望も、野心も持ち合わせていない。借り手の超過が貸し手の超過をそのまま維持する限り、金利の引き下げは起こらないだろう。金利の引き下げは別の原理に依存しており、それは勤勉と倹約、そして芸術と商業の発展から生まれるに違いない。

人間の生活に役立つものはすべて土地から生まれますが、有用となるために必要な状態で生まれてくるものはほとんどありません。したがって、農民と土地所有者の他に、前者から粗雑な資材を受け取り、それを適切な形に加工し、その一部を自らの使用と生活のために確保する別の階級の人々が存在するはずです。社会の揺籃期には、職人と農民の間、あるいはある種の職人と他の種類の職人の間のこうした契約は、通常、隣人同士である彼ら自身によって直接締結されます。彼らは互いの必需品を容易に知り、それらを供給するため互いに助け合うことができるからです。しかし、人々の勤勉さが増し、視野が広がると、国家の最も遠隔地でさえも、より近接した地域と同様に互いに助け合うことができ、こうした友好関係は最大限に、そしてより複雑に営まれることが分かります。商人は、人類史上最も有用な人種である。{p44} 社会全体、つまり互いに全く面識がなく、互いの必要性について無知な地域の間の仲介役を務める人々。ある都市に絹や麻の職人が 50 人いて、顧客が 1,000 人いる。このように互いに必要不可欠なこの 2 つの階層の人々は、ある人物が店を建て、職人と顧客全員がそこを訪れるまでは、正しく出会うことはできない。この州では草が豊富に生え、住民はチーズ、バター、家畜に事欠かない。しかし、パンと穀物が不足している。隣の州では、これらは住民が使うには多すぎるほどある。ある人物がこれに気付く。彼は一方の州から穀物を持ってきて、家畜を連れて戻る。こうして両方の州の必要を満たし、ここまでは共通の恩人となる。人々の数と産業が増加するにつれて、彼らの交流は困難を増す。代理店業務や商品の取引はより複雑になり、より多様なものに分割、細分化、複合、混合される。こうした取引すべてにおいて、商品と労働力の相当部分が商人に帰属することが必要かつ合理的である。商人はこれらの商品を時に現物で保管し、より一般的には貨幣に交換する。貨幣はそれらの一般的な表象である。もし国家において金と銀が産業と共に増加したならば、大量の商品と労働力を表すには大量の金属が必要となる。もし産業だけが増加したならば、あらゆる物価は下落するはずであり、ごく少量の金貨で表象として機能できる。

人間の精神にとって、運動と仕事への渇望ほど絶え間なく飽くことを知らない渇望や要求は他になく、この欲求こそが私たちの情熱や追求のほとんどの根底にあるように思われます。仕事や真剣な職業を一切奪われると、人は次から次へと娯楽に奔走し、怠惰から感じる重苦しさと息苦しさはあまりにも大きく、節度のない出費がもたらす破滅を忘れてしまいます。より無害な方法で心身を働かせることができれば、人は満たされ、もはやあの飽くことのない快楽への渇望を感じなくなります。{p45} しかし、もし彼に与える仕事が利益をもたらすものであれば、特にその利益があらゆる勤勉な努力に結びついているのであれば、彼は常に利益を目にするようになり、次第に利益への情熱を抱くようになり、日々財産が増えていくのを見ることほどの喜びは感じられなくなる。そして、これが商売が倹約を助長する理由であり、商人の間では倹約家が浪費家よりも多いのと同様に、土地所有者の間では逆の傾向がある理由である。

商業は、産業を国家の一構成員から他の構成員へ容易に輸送し、その一部が滅びたり無駄になったりしないようにすることで、産業を増大させる。商業は人々に仕事を与え、金儲けの術に従事させることで倹約を増大させる。こうした術は人々の愛情をすぐに惹きつけ、快楽や出費への嗜好をすべて奪ってしまう。あらゆる勤勉な職業において、倹約を生み、利己心が快楽への愛に勝るようにするのは、間違いのない帰結である。何らかの業務を行っている弁護士や医師の中には、収入を超える、あるいは収入に見合う生活を送っている人よりも、収入の範囲内で生活している人の方がはるかに多い。しかし、弁護士や医師は産業を生みません。むしろ、彼らの富は他人を犠牲にして築かれているのです。そのため、彼らが自分の財産を増やすのと同じくらい速く、同胞の何人かの財産を減らすことは確実です。これとは逆に、商人は産業を国家の隅々まで運ぶ運河のような役割を果たすことで、産業を増大させます。そして同時に、彼らは倹約によってその産業に対する大きな力を獲得し、自らが生産する主要な手段である労働と商品から大きな財産を蓄積する。したがって、商業以外に、金銭的利子を大きく増加させる、言い換えれば産業を増大させ、また倹約を増大させることによってその産業を社会の特定の構成員に大きく掌握させることのできる職業はない。商業がなければ、国家は主に地主階級と、その浪費と浪費が絶えず借入を必要とする地主階級と、その需要を満たすだけの資金を持たない農民から構成されることになる。貨幣は決して大きな蓄えや、いつでも貸し出せる金額に集まることはない。{p46} 利子は無数の人々の手に渡り、彼らはそれを空虚な見せかけや華美に浪費するか、あるいは生活必需品の購入に使う。商業だけがそれを巨額に集める。そして、この効果は、それが生み出す勤勉さとそれが促す倹約から生まれるものであり、国家内で流通する貴金属の具体的な量とは無関係である。

このように、商業の増大は必然的に多くの貸し手を生み出し、その結果、低金利をもたらす。ここで、この商業の増大が、その職業から生じる利益をどの程度減少させ、低金利をもたらすために必要な第三の状況を引き起こすのかを検討する必要がある。

この点に関して、低金利と商品の低利益は互いに影響し合う二つの事象であり、どちらも元々は裕福な商人を生み出し、金銭的な利息を相当なものにする大規模な商業活動に起因している、と指摘しておくのが適切だろう。商人が大量の金属片を保有している場合、それが少量であろうと多量であろうと、商売に飽きたり、後継者が商売に従事する意欲や適性を失ったりすると、これらの富の多くは毎年の安定した収入源となる。豊富さは価格を下げ、貸し手は低金利を受け入れる。このため、多くの商人は在庫を保有し続け、安値で金を処分するよりもむしろ低利益で満足する。一方、商業活動が非常に大規模になり、膨大な在庫を抱えるようになると、商人同士の競争が生まれ、商売そのものは増加する一方で、商売の利益は減少する。商品の低利潤は、商人たちが商売をやめて安楽と怠惰に耽り始めると、より容易に低金利を受け入れるように仕向ける。したがって、低金利か低利潤か、どちらが原因でどちらが結果なのかを問う必要はない。どちらも、{p47} 広範な商業活動を促進し、相互に利益をもたらす。誰も高利子を得られるところで低利子を受け入れようとはしないし、高利子を得られるところで低利子を受け入れようとする者もいない。広範な商業活動は、大量の在庫を生み出すことで利子と利子の双方を減少させる。そして、利子と利子の減少は、常に他方の減少に比例して促進される。付け加えれば、商業と産業の増大によって低利子が生じると、今度はそれが商品を安くし、消費を刺激し、産業を高めることで、商業活動のさらなる増大につながる。このように、原因と結果の全体的なつながりを考慮すると、利子こそが国家の真のバロメーターであり、その低さは国民の繁栄のほぼ確実な兆候である。利子は産業の増大と、それが国家全体に速やかに浸透していることの証拠であり、デモンストレーションに劣らない。そして、おそらく、突然の大規模な商業活動の停止が、多くの在庫品を取引不能にすることによって、同様の影響を一時的に及ぼすことは不可能ではないかもしれないが、その影響は、貧困層に非常な苦難と失業をもたらすはずであり、その期間が短いことを除けば、どちらか一方を間違えることは不可能であろう。

低金利の原因はお金の豊富さだと主張する人々は、副次的な効果を原因と見なしているようだ。なぜなら、金利を下げる産業は、通常、貴金属を大量に獲得するからである。様々な優れた製造業と、用心深く進取的な商人は、世界中にお金がどこにあろうと、すぐにその国にお金を引き寄せるだろう。同じ原因が、生活の利便性を高め、産業を活性化させることで、土地を所有していない人々の手に莫大な富を集め、それによって低金利を生み出す。しかし、これらの効果、つまりお金の豊富さと低金利は、商業と産業から自然に生じるものではあるが、互いに全く独立している。例えば、ある国が太平洋に出て、外国との貿易も、外国の知識も持たない状態になったとしよう。{p48} 航海:この国が常に一定の貨幣保有量を持ちながら、人口と産業が継続的に増加していると仮定しよう。その王国では、あらゆる商品の価格が徐々に低下していくことは明らかである。なぜなら、貨幣とあらゆる商品種との比率が相互価値を決定づけるからである。そして、この仮定の下では、現在の貨幣に何の変化も生じず、生活の利便性は日々豊かになる。したがって、この国民の間では、産業が栄えている時代には、無知で怠惰な時代よりも少ない貨幣で富裕層が形成される。家を建てたり、娘に財産を与えたり、土地を購入したり、工場を維持したり、家族や設備を維持したりするのに、より少ない貨幣しか使えない。これらは人々が貨幣を借りる用途であり、したがって、ある国における貨幣の量の多寡は金利に影響を与えない。しかし、労働力と商品のストックの多寡は、金利に応じて貨幣を受け取る際に、実際に、そして事実上、これらを借り入れていることから、大きな影響を与えることは明らかである。確かに、商業が世界中に広がると、最も勤勉な国々は常に貴金属を最も豊富に保有する。そのため、低金利と潤沢な資金は、事実上ほぼ不可分である。しかし、それでもなお、あらゆる現象が生じる原理を知り、原因と付随結果を区別することは重要である。思索は興味深いものであるだけでなく、公務の遂行にもしばしば役立つ。少なくとも、これらの主題は他のあらゆる主題の中でも最も重要なのだが、一般的に最もいい加減で不注意な方法で扱われているにもかかわらず、実践を通して推論方法を向上させること以上に有益なことはないと認めなければならない。

低金利の原因に関するこのよくある誤解のもう一つの理由は、いくつかの国の例にあるように思われる。外国征服によって突然貨幣や貴金属を獲得した後、その貨幣が分配されて隅々まで行き渡ると、金利は自国だけでなく近隣諸国全体で下落したのである。つまり、金利は{p49} ガルシラッソ・デ・ラ・ベガの記述によると、スペインにおける利子率は西インド諸島発見直後にほぼ半減し、それ以来ヨーロッパのあらゆる王国で低下し続けています。ディオンの記述によると、エジプト征服後、ローマへの利子率は6%から4%に低下しました。

このような出来事によって金利が下落する原因は、征服国と近隣諸国とでは異なっているように思われるが、どちらの国においても、その影響を単に金や銀の増加に帰することは正当ではない。

征服国では、この新たに獲得した金が少数の手に渡り、土地の購入や利子によって安定した収入を求める巨額の資金に集まるであろうことは容易に想像できる。そしてその結果、しばらくの間は、あたかも産業と商業が急増したかのような効果がもたらされる。貸し手が借り手を上回ると金利は下落する。巨額の金を手に入れた人々が国内に産業や商業がなく、利子を付けて貸し出す以外に資金運用の方法を見つけられない場合、金利の下落はより加速する。しかし、この新たに獲得した金銀が消化され、国全体に行き渡ると、事態はすぐに元の状態に戻る。地主や新たな金銀保有者たちは怠惰な暮らしをしながら、収入以上に浪費し、以前の日々の契約債務と後者は彼らの資金を最終的に枯渇させるまで侵食する。お金全体は依然として国家内にあり、価格の上昇によってその影響が感じられるかもしれないが、現在は大きな塊や在庫として集められていないため、借り手と貸し手の間の不均衡は以前と同じであり、その結果、高い利子が返される。

したがって、ローマでは、ティベリウス帝の時代にはすでに、帝国の資金が枯渇するような出来事は起きていなかったにもかかわらず、利子が再び6%にまで上昇していたことがわかる。トラヤヌス帝の時代には、イタリアの抵当貸付金は6%、ビテュニアの普通証券は12%だった。そして、スペインの利子が以前の水準まで上昇していないとすれば、それは同じ状況が続いているためとしか考えられない。{p50} 沈没の原因は、すなわち、インド諸島で絶えず生み出される巨額の富が時折スペインに流れ込み、借り手の需要を満たしていたことである。この偶発的かつ外因的な要因によって、スペインではより多くの資金が貸し出されることになり、つまり、商業や産業がほとんどない国では、通常では得られないほど多くの資金が巨額に集められることになる。

イギリス、フランス、そして鉱山を持たないヨーロッパの他の王国で起こった金利の低下は、緩やかなものであり、貨幣増加そのものに起因するものではなく、労働力や食料価格が上昇する前の期間における、以前の増加の自然な結果である産業の発展に起因するものである。前述の仮定に戻ると、もしイギリスの産業が他の原因で同程度に発展していたとしたら(そして貨幣供給量が同じであったとしても、その発展は容易に起こり得ただろう)、現在私たちが観察しているのと同じ結果が生じたはずではないだろうか。その場合、王国には同じ人々、同じ商品、同じ産業、製造業、商業が存在し、したがって同じ在庫を持つ同じ商人が存在することになる。つまり、労働力と商品に対する支配力は同じであり、白貨や黄貨の数がより少ないという点に表されているだけである。これは取るに足らない状況であり、荷馬車夫、荷運び人、トランク職人にしか影響を与えない。したがって、贅沢、製造業、芸術、産業、倹約が現在と同じように栄えていたならば、金利も同様に低かったに違いない。なぜなら、これらの状況が商業の利益と、あらゆる国家における借り手と貸し手の比率を決定づける限りにおいて、金利は必然的に低かったからである。

興味深いメモ。
16 食事の料金。

貿易収支の。
商業の本質を知らない国々では、商品の輸出を禁止し、価値があり有用だと判断したものは自国で保持するのが常套手段である。彼らは、この禁止が自らの意図に真っ向から反するものであることに気づいていない。つまり、ある商品の輸出が増えれば増えるほど、国内でより多くの生産が行われ、常に自国が最初にその供給を受けることになるのだ。

古代アテネの法律ではイチジクの輸出が犯罪とされていたことは、学識のある人々にはよく知られています。アテネ人はイチジクがアッティカ地方で非常に優れた果物とみなされていたため、外国人の口には合わないほど美味だと考えていたのです。このばかげた禁止令はあまりにも厳格で、密告者はギリシャ語で「イチジク」と「発見者」を意味する2つの単語から「おべっか使い」と呼ばれていました。多くの古い議会法、特にエドワード3世の治世における法律には、商業の本質に関する同様の無知が見られます。そして今日に至るまで、フランスでは穀物の輸出はほぼ常に禁止されています。これは、いわゆる飢饉を防ぐためですが、この肥沃な国をこれほど苦しめる頻繁な飢饉の原因は、穀物の輸出以外に何もないことは明らかです。

お金に関しても同様の嫉妬心からくる恐怖がいくつかの国々にも広まっており、これらの禁止事項が彼らに対する交換価格を引き上げ、さらに大きな輸出を生み出す以外の目的を持たないことを人々に納得させるには理性と経験の両方が必要であった。

これらの誤りは甚だしく明白だと言う人もいるかもしれない。しかし、商業に精通した国々でさえ、貿易収支に関する強い嫉妬と、自国の金銀がすべて国外へ流出してしまうのではないかという不安が依然として蔓延している。これはほとんどすべての場合において、全く根拠のない懸念であるように私には思える。私は早急にこの懸念を改めるべきである。{p52} 人々と産業のある王国から資金が流れ出てしまうように、私たちの泉や川がすべて枯渇してしまうことを恐れています。後者の利点を注意深く維持すれば、前者を失うことを決して心配する必要はありません。

貿易収支に関するあらゆる計算が、極めて不確かな事実と仮定に基づいていることは容易に観察できる。税関の記録は推論の根拠としては不十分とされている。為替レートも、すべての国と比較検討し、送金された各金額の割合も把握しない限り、それほど優れているとは言えない。これは不可能と断言できる。この問題について推論した者は皆、それが何であれ、事実と計算、そしてすべての外国王国に送られたすべての商品の数え上げによって、常に自らの理論を証明してきた。

ギー氏の著作は、5、6年後には1シリングも残らないほどの巨額の資金が彼らに不利に働くという、詳細な事実を明白に示したため、国民を一斉に恐怖に陥れた。しかし幸いなことに、その後20年が経過し、多額の費用がかかる対外戦争もあったが、それでもなお、我々の間には以前のどの時代よりも資金が豊富にあると一般に考えられている。

この問題に関して、他人の誤りや不合理さを見抜くことに長けたスウィフト博士ほど興味深い人物はいないだろう。彼は著書『アイルランド情勢の概観』の中で、アイルランド王国の現金総額はわずか50万ポンドで、そのうち毎年100万ポンドをイングランドに送金し、他にはほとんど収入源がなく、現金で支払ったフランス産ワインの輸入以外には外国貿易はほとんどなかったと述べている。この状況は確かに不利であったが、その結果、3年間でアイルランドの通貨は50万ポンドから200万ポンド以下にまで減少した。そして現在、おそらく30年後には、それは全くのゼロになっているだろう。しかし、私はどのようにアイルランドの通貨が50万ポンドから200万ポンドに減少したのかは分からない。{p53} ドクターを非常に憤慨させたアイルランドの富の増大という意見は、今でも続いていて、皆の間で支持を集めているようだ。

要するに、貿易収支の不均衡に対するこの懸念は、内閣に対する機嫌が悪かったり、意気消沈したりすると必ず現れる性質のものであるように思われ、輸入を相殺するすべての輸出の特定の詳細をもってしても決して反駁することはできないので、国民と産業を維持する限りそのような事態は起こり得ないことを実証する一般的な議論をここで形成するのが適切であろう。

仮に、英国中の貨幣の五分の四が一夜にして消滅し、国が金銭に関してハリーやエドワードの治世と同じ状態に陥ったとしたら、その結果はどうなるでしょうか? あらゆる労働力と商品の価格が比例して下落し、あらゆるものが当時と同じくらい安く売られるのではないでしょうか? そうなると、外国の市場で我々と争ったり、我々が十分な利益を得られる価格で操業したり製品を売ったりできる国はどこにあるでしょうか? では、どれほどの時間が経てば、我々が失った貨幣を取り戻し、近隣諸国と同じレベルにまで引き上げられるのでしょうか? そこに到達した途端、我々は労働力と商品の安さという利点を失い、我々の飽食と充足によって貨幣のさらなる流入は阻止されるのです。

また、もし英国の貨幣が一夜にして五倍になったとしたら、逆の結果が起こらないだろうか?労働力と商品は法外な高騰をし、近隣諸国は英国から何も買えなくなる。一方、近隣諸国の商品はそれに比べてあまりにも安価になり、どんな法律を制定しても、英国に押し寄せ、私たちの貨幣は流出し、ついには外国と同水準となり、私たちを不利な状況に追いやったあの富の優位性を失うことになるのではないか?

さて、これらの法外な不平等を是正するのと同じ原因が、もし起こったら{p54} 奇跡的に、自然の通常の流れの中でそれらが起こるのを防ぎ、そしてすべての近隣諸国において、各国の技術と産業にほぼ比例する貨幣を永遠に維持するであろう。すべての水は、それがどこであれ、常に一定の高さを保つ。博物学者にその理由を尋ねてみれば、もしある場所で水位が上昇するとすれば、その部分の重力が釣り合っていないため、釣り合いが取れるまで水位が下がるはずだと彼らは言う。そして、不均衡が生じたときにそれを是正する同じ原因が、何らかの激しい外的作用なしには、それを永遠に防ぐはずだ、と。[17]

いかなる法律によって、あるいはいかなる技術や産業によってさえ、ガレオン船がインドから運んできたすべての金をスペインに留めておくことができただろうか。あるいは、すべての商品をピレネー山脈の向こう側で得られる価格の10分の1でフランスで販売し、その莫大な財宝を流出させることなく、その莫大な財宝を浪費することができただろうか。実際、現在、すべての国がスペインやポルトガルとの貿易で利益を得ている理由は、いかなる液体よりも、金を適正水準以上に蓄えることが不可能だからという以外に何があるだろうか。これらの国の君主たちは、たとえそれが少しでも可能であったとしても、金銀を独り占めする気は毛頭ないことを示してきた。

しかし、水が周囲の自然と繋がっていなければ、水面より高くなることがあり得るように、貨幣も物質的あるいは物理的な障害によってその繋がりが断たれると(なぜなら、すべての法則は単独では効果がないからである)、貨幣の不平等は非常に大きくなる可能性がある。このように、中国とインドの広大な距離は、わが国の独占と相まって、{p55} 交通を妨害する企業によって、金銀、特に銀は、ヨーロッパで見られる量よりもはるかに多く保持されている。しかし、この大きな妨害にもかかわらず、上述の原因の力は依然として明らかである。ヨーロッパの技能と創意工夫は、手工芸や製造業に関しては一般的に中国を凌駕しているかもしれないが、我々は大きな不利益なしにヨーロッパと貿易することは決してできない。そして、アメリカから継続的に流入してくる人材がいなければ、金はすぐにヨーロッパで下落し、中国で上昇し、最終的には両国でほぼ同水準に達するだろう。また、もしその勤勉な国がポーランドやバルバリアのように我々に近い国であったならば、我々の余剰金を枯渇させ、西インド諸島の財宝のより大きな部分を自らのものにすることを、理性ある人間は疑う余地はない。この行為の必要性を説明するのに物理的な魅力に頼る必要はない。人間の利益と情熱から生じる道徳的な魅力は、それと同じくらい強力で絶対確実なものである。

各王国の諸州における均衡は、貨幣がその水準を失うこと、また各州における労働力と商品の割合を超えて上昇または下落することを不可能とするこの原理の力によってのみ、どのようにして保たれているのだろうか? 長年の経験は、人々にこの点について安心感を与えたのではないだろうか。憂鬱なヨークシャー人が、税金、不在者税、商品によってロンドンに支払われる金額を計算し、拡大し、比較すると他の品目がはるかに劣っていることに気づいたとき、計算はどれほどの暗い思いの源泉を与えただろうか? そして、疑いなく、イングランドに七王国が存続していたならば、各州の議会は、不正確な均衡に対する恐怖で絶えず警戒していたであろう。そして、これらの州は近接していたため、おそらく相互憎悪が極めて激しくなり、嫉妬と過剰な警戒によってすべての商業に重荷を負わせ、抑圧していたであろう。連合によってスコットランドとイングランドの間の障壁が取り除かれたので、この自由貿易によってどちらの国がもう一方の国から利益を得るのでしょうか?あるいは、{p56} かつての王国が富の増加を得たとすれば、それはその技術と産業の発展以外に合理的に説明できるだろうか?ラベ・デュ・ボスから学ぶように、合同以前のイングランドでは、スコットランドとの自由貿易が認められれば、すぐにスコットランドに財宝が流出してしまうだろうという懸念が広く抱かれていた。そしてツイード川の向こう側では、正反対の懸念が広まっていた。それは、どちらの時代においても、正義が示した通りである。

人類のごく一部に起こることは、より大きな集団にも起こる。ローマ帝国の属州は、ブリテンの各州や各州の教区と同様に、議会から独立して、互いに、そしてイタリアと均衡を保っていたことは疑いない。そして今日ヨーロッパを旅する人なら誰でも、物価を見れば、君主や国家の不条理な嫉妬にもかかわらず、貨幣がほぼ一定水準に達していること、そしてこの点において王国と王国間の格差は、同じ王国内の異なる属州間の格差よりも大きくないことが分かるだろう。人々は当然、首都、港、そして航行可能な河川に集まる。そこではより多くの人々、より多くの産業、より多くの商品、そして結果としてより多くの貨幣が見られる。しかし、後者の格差は前者と釣り合いを保ち、水準は維持されている。[18]

フランスに対する私たちの嫉妬と憎しみは限りなく、少なくとも前者の感情は{p57} 非常に合理的かつ根拠のあるものであると認められる。こうした情熱は商業において数え切れないほどの障壁と妨害を引き起こし、我々はしばしば侵略者だと非難される。しかし、その取引で我々は何を得たというのだろうか?毛織物製品のフランス市場を失い、ワイン貿易はスペインとポルトガルに移り、そこでははるかに質の悪い酒を高値で買っている。もしフランスワインがイギリスでこれほど安価かつ大量に販売され、エールや自家製酒をある程度まで駆逐するほどになったとしたら、自国が完全に破滅すると考えないイギリス人はほとんどいないだろう。しかし、偏見を捨てれば、これほど無害で、おそらく有益なものはないことを証明するのは難しくないだろう。イギリスにワインを供給するためにフランスで新たにブドウ畑が1エーカー植えられるたびに、フランス人は自給自足のためにイギリスの小麦や大麦を1エーカー分奪わなければならない。そして、それによって我々がより良い産物を手に入れたことは明らかだ。

フランス国王は、新たなブドウ園の植樹を禁止し、すでに植樹されているものはすべて根こそぎにするよう命じる勅令を数多く発令している。その国では穀物が他のどの産物よりも価値があることを人々がよく理解しているからだ。

ヴォーバン元帥は、ブルターニュとノルマンディーに輸入されるラングドック、ギエンヌ、その他の南部諸州のワインに課せられる不条理な関税について、しばしば、そして当然のことながら不満を述べている。彼は、これらの州が、彼が推奨する自由貿易にもかかわらず、その均衡を維持できると確信していた。そして、イングランドへの航行距離が数リーグ長くなったとしても、何の変化も生じないことは明らかである。仮に変化があったとしても、両王国の商品には同じように影響するに違いない。

確かに、どの王国でも、お金を自然な水準以上に減らすことができる手段と、お金を増やすことができる手段が存在します。しかし、これらの事例を調べてみると、私たちの一般理論に定着し、それにさらなる権威がもたらされることがわかります。{p58}

貨幣を本来の価値以下に下げる方法は、この王国で広く行われている銀行、基金、そして信用貸付制度以外にはほとんど知りません。これらは紙幣を貨幣と同等とみなし、それを国家全体に流通させ、金銀の代わりを担わせ、労働力と商品の価格を比例的に引き上げ、その結果、貴金属の大部分が消滅するか、あるいはそれ以上の値上がりを阻止します。この点に関して、我々の推論以上に近視眼的なものがあるでしょうか。我々は、個人の貨幣保有量が倍増すればより豊かになるという理由で、すべての人の貨幣保有量が増えれば同様の好結果がもたらされると考えますが、これはあらゆる商品の価格を同程度に引き上げ、やがてすべての人を以前と同じ状態にまで引き下げることを考慮していません。貨幣保有量の増加が有利なのは、外国人との公的な交渉や取引においてのみです。そして、私たちの新聞は全く取るに足らない存在であるため、私たちはその新聞を通じて、莫大なお金の恩恵を全く受けることなく、莫大なお金から生じるあらゆる悪影響を感じているのです。[19]

王国で貨幣として流通している紙幣が1200万枚あるとしよう(なぜなら、我々の莫大な資金のすべてがそのような形で使われているとは考えてはならないからだ)。そして王国の実質的な現金が1800万枚だとしよう。経験上、この国は3000万枚もの貨幣を保有できることが分かっている。もし保有できるとすれば、紙という新しい発明によってこれらの金属の流入が妨げられていなかったならば、必然的に金銀でその貨幣を獲得していたに違いない。一体どこからその貨幣を獲得したというのだろうか?世界のあらゆる王国からである。しかし、なぜだろうか?なぜなら、この1200万枚を除けば、この国の貨幣は我々の貨幣と比べてその水準を下回るからである。{p59} 隣国から、いわば満腹になるまで、そしてこれ以上は抱えきれないほど、直ちに彼らから資金を引き出さなければならない。現在の政治では、貴金属で重荷を背負うことを恐れるかのように、紙幣や小切手といったこの貴重な商品を国民に詰め込むことに気を配っている。

フランスにおける金塊の豊富さは、主に紙幣による信用の欠如によるものであることは疑いようがありません。フランスには銀行がなく、商人の手形も我が国のように流通していません。高利貸しや利子貸付は直接認められていないため、多くの人が金庫に多額の金を保有しています。個人宅では大量の金銀が使用され、すべての教会には金銀が溢れています。こうした理由から、フランスでは食料や労働力は、金銀がそれほど豊富でない国々よりも依然としてはるかに安価です。貿易面でも、また重大な公共の緊急事態においても、この状況の利点は明白であり、議論の余地はありません。

数年前、ジェノバでも流行しましたが、これは今でもイギリスやオランダで見られる現象です。食器の代わりに陶磁器を使うというものです。しかし、元老院は賢明にもその結果を予見し、この脆い商品の使用を一定量を超えて禁止しましたが、銀食器の使用は無制限に残しました。そして、最近の苦難の中で、彼らはこの法令の効力を実感したのでしょう。この観点からすると、我が国の食器税は、いくぶん無謀なのかもしれません。

我々の植民地に紙幣が導入される前は、流通に十分な金と銀がありました。紙幣導入後、生じた最も些細な不都合は、貴金属の完全な追放です。そして紙幣が廃止された後、これらの植民地が工業製品と商品、つまり商業において唯一価値のあるものを保有している限り、貨幣が戻ってくることは疑いようがありません。そして、すべての人が貨幣を欲するのは、誰のためなのでしょうか?

リュクルゴスがスパルタから金銀を追放しようとした時に、紙の信用を思いつかなかったとはなんと残念なことだろう。{p60} 彼がお金として利用した鉄の塊よりも、その目的をよりよく果たしただろうし、また、鉄の塊は実質的価値も本質的価値もはるかに低いので、外国人とのあらゆる商取引をより効果的に阻止できただろう。

しかしながら、貿易と貨幣に関するこうした問題はすべて極めて複雑であるため、この問題を特定の観点から捉えることで、紙幣信用と銀行の利点が欠点を上回ることを示すことができることは認めざるを得ない。紙幣信用と銀行が国家から金貨や地金を駆逐するという事実は疑いようもなく真実であり、この事実だけに注目する者は、それらを非難するのが賢明である。しかし、金貨や地金は、紙幣の適切な使用によって促進される産業と信用の増大によって、代償、あるいは均衡を失わないほど重要なものではない。商人にとって、手形を随時割引できることがどれほど有利であるかはよく知られている。そして、この種の取引を促進するものはすべて、国家の商業全体にとって好ましい。しかし、民間銀行は、店舗への預金から得られる信用によって、このような信用を与えることができる。同様に、イングランド銀行も、あらゆる支払いにおいて紙幣を発行する自由を持っていることから、同様の信用を与えることができる。数年前、エディンバラの銀行がこの種の発明を思いつきました。これは商業において実行された最も独創的なアイデアの一つであり、スコットランドにとっても非常に有益であることが分かりました。それは銀行信用状と呼ばれ、次のような性質のものです。ある人が銀行に行き、例えば5000ポンドの保証人を見つけます。このお金、あるいはその一部は、いつでも好きな時に引き出すことができ、手元にある間は通常の利息のみを支払います。そして、20ポンドといった少額でも好きな時に返済することができ、利息は返済当日から割引されます。この仕組みから生じる利点は多岐にわたります。人はほぼ自分の資産額に相当する保証人を見つけることができ、銀行信用状は現金と同等であるため、{p61} 商人はこうして、家屋、家具、倉庫にある商品、対外債務、航海中の船舶をいわば貨幣化し、場合によっては、それらをあたかも国の通貨であるかのように、あらゆる支払いに充てることができる。個人から5000ポンドを借りた場合、必要な時に必ずしも手に入るとは限らない上に、使っているかどうかに関わらず利息を支払うことになる。銀行信用は、それが自分に役立っている瞬間以外は何の費用もかからず、この状況ははるかに低い金利でお金を借りた場合と同等の利点を持つ。商人は同様に、この発明によって互いの信用を担保する上で大きな便宜を得る。これは破産に対する大きな保障となる。自分の銀行信用が底をついたとき、同じ状況にない隣人のところへ行き、そのお金を借り、都合の良い時にそのお金で返済する。

エディンバラで数年間この慣行が行われた後、グラスゴーの商人組合がこれをさらに推し進めました。彼らはそれぞれ異なる銀行を結成し、10シリングという低額の紙幣を発行し、商品、製造品、商人、あらゆる種類の労働に対するあらゆる支払いに使用しました。そして、これらの紙幣は、組合の確立された信用によって、国中のあらゆる支払いにおいて現金として流通しました。こうして、5000ポンドの紙幣は10ポンドの紙幣と同じ機能を果たすようになり、商人はより大規模な取引を可能にし、あらゆる取引においてより少ない利潤を求めることが可能になりました。ニューカッスルやブリストル、そして他の商業地でも、商人はグラスゴーの銀行に倣って、同様の性質の銀行を設立しました。しかし、これらの発明によって他にどのような利点がもたらされたとしても、貴金属が排除されたことは認めざるを得ません。そして、この点におけるスコットランドの過去と現在の状況を比較すること以上に、このことを明白に証明するものはありません。合衆国成立後の改貨で、その国には百万近くの正貨があったことが判明した。しかし、{p62} 富、商業、あらゆる種類の製造業を考慮すると、イギリスによる異常な流出がなかったとしても、現在の金貨はその総額の 5 分の 1 にも満たないと考えられる。

しかし、紙幣信用計画が貨幣をその水準以下に引き下げるほぼ唯一の手段であるように、私の意見では、貨幣をその水準以上に引き上げる唯一の手段は、誰もが破壊的だと叫ぶべき行為、すなわち、多額の金を公金として集め、それを封印し、その流通を完全に阻止することである。隣接する要素と連通しない流動性は、このような策略によって、望むだけの高さまで引き上げることができる。これを証明するには、最初の仮定、すなわち、現金の半分あるいは一部を消滅させるという仮定に戻るだけでよい。そこで我々は、そのような出来事の直接的な結果として、すべての近隣諸国から同額の資金が引き寄せられることを確認した。また、この貯蓄行為には、事物の性質上、必然的に制限が設けられるわけではないようだ。ジュネーブのような小都市が、この政策を長年続ければ、ヨーロッパの貨幣の9割を吸収できるかもしれない。実のところ、人間の本性には、富の莫大な増加を阻む無敵の障害が存在しているように思われる。莫大な財宝を持つ弱小国家は、やがて貧しくも強大な隣国の餌食となるだろう。一方、大国は危険で思慮の浅い事業に富を浪費し、おそらくそれと共に、はるかに価値のあるもの、すなわち勤勉さ、道徳、そして国民の数までも破壊してしまうだろう。この場合、液体はあまりにも高い高さまで上昇すると破裂し、容器を破壊し、周囲の水と混ざり合ってやがて適切な高さまで下がる。

この原則は一般にあまり知られていないため、歴史家たちは皆、ハリー7世が蓄えた莫大な財宝(170万ポンドと推定)といったごく最近の出来事について、一様に一致して述べているにもかかわらず、私たちは自分たちの根深い偏見に反する事実を認めるよりも、むしろ彼らの証言を否定する。その金額は、{p63} イングランドの貨幣全体の4分の3を占める。しかし、狡猾で強欲、倹約家で、ほぼ絶対君主である君主が20年でこれほどの額を蓄えることに、一体何の困難があるというのだろうか?流通する貨幣の減少が人々に実感として感じられたり、何らかの不利益を与えたりしたとは考えにくい。あらゆる商品の価格が下落すれば、イングランドは近隣諸国との貿易において優位に立つことで、直ちにその減少に取って代わられるだろう。

アテネという小さな共和国とその同盟国が、メディア戦争とペロポネソス戦争の間の約50年間で、ハリー7世の資産よりも大きな金額を蓄えた例がないだろうか?[20] ギリシャの歴史家や弁論家は皆、アテネ人が城塞に1万タラント以上を集め、その後、軽率で無謀な事業に浪費し、自滅したことに同意している。しかし、このお金が流通し、周囲の流体とつながり始めたとき、どのような結果になっただろうか?それは国家内に留まっただろうか?いいえ。デモステネスとポリュビオスが言及した忘れ難い国勢調査によると、約50年後には、土地、家屋、商品、奴隷、貨幣を含めた共和国全体の価値は6000タラントにも満たなかったことがわかる。

征服のために、国民が毎日一票で分配できる金額を国庫に貯め、各個人の富をほぼ 3 倍にするほどの金額を蓄えるとは、なんと野心的で勇敢な国民だったことか。古代の著述家によれば、アテネ人の数と個人の富は、ペロポネソス戦争の初めの頃もマケドニア戦争の初めの頃もそれほど大きくはなかったと記されている。

フィリップとペルセウスの時代のギリシャでは、ハリー7世の時代のイギリスよりも少しだけお金が豊富にあったが、この二人の君主は30年間で{p64} 小さなマケドニア王国から、イングランド王の財宝よりもはるかに大きな財宝を集めた。パウルス・アミリウスはローマに約170万ポンド(プリニウスは240万ポンドと記している)を持ち帰ったが、これはマケドニアの財宝のほんの一部に過ぎず、残りはペルセウスの抵抗と逃亡によって消失した。

スタンヤンから、ベルン州は30万ポンドを利子付きで貸し付けており、その6倍以上の金額を国庫に保有していたことがわかる。つまり、ここには180万ポンドもの金が蓄えられていることになる。これは、このような貧弱な州で自然に流通するはずの金額の少なくとも4倍に相当する。しかし、ペイ・ド・ヴォー地方やその州のどこかを旅した者は、その広さ、土地、そして立地条件から想像される以上の金銭不足に気付くことはない。逆に、フランスやドイツの内陸部で、住民が現在これほど裕福な地域はほとんどない。もっとも、その州は1714年、スタンヤンがスイスに関する賢明な記述を著した時期以来、その財宝を飛躍的に増加させているのだが。[21]

アッピアンのプトレマイオス朝の財宝に関する記述はあまりにも膨大で、到底あり得ない。しかも、歴史家によれば、アレクサンドロス大王の後継者たちは皆プトレマイオス朝と同様に倹約家で、その財宝の多くはプトレマイオス朝に劣らないものであったというから、なおさらである。前述の説によれば、近隣の諸侯のこうした倹約的な性格は、エジプト王たちの倹約を必然的に抑制したに違いない。彼が言及する金額は、アーバスノット博士の計算によれば74万タラント、つまり1億9116万6666ポンド13シリング4ペンスである。しかしアッピアンは、この記述は公文書から得たものだと述べており、彼自身もアレクサンドリア出身である。

これらの原則から、ヨーロッパのあらゆる国、特にアメリカが直面している数え切れないほどの妨害や障害、課税に対して、どのような判断を下すべきかを学ぶことができるだろう。{p65} イングランドは、流通している間は決してその水準を超えることのない貨幣を蓄えたいという途方もない欲望から、あるいは、決してその水準以下に下がることのない通貨を失うことへの根拠のない懸念から、貿易に力を入れてきました。もし何かが我々の富を散らすとしたら、それは実に無謀な策略でしょう。しかし、こうした策略によって、隣国に全く異なる土壌、気候、そして自然環境を与えることで、世界の創造主が意図した自由な交流と交流が妨げられるという、この一般的な悪影響が生じているのです。

我々の現代政治は、お金を追放する唯一の方法である信用状の使用を採用し、お金を蓄積する唯一の方法である貯蓄の習慣を拒否し、産業を抑制する以外に何の役にも立たず、我々自身と隣人から芸術と自然の共通の利益を奪う数多くの工夫を採用している。

しかしながら、外国製品に対するすべての税金が不利益であったり無益であると見なされるべきではなく、前述の嫉妬に基づくものだけが不利益であったり無益であると見なされるべきである。ドイツのリネンに対する税金は国内製造業を奨励し、それによって我が国の国民と産業を増大させる。ブランデーに対する税金はラム酒の売上を増加させ、我が国の南部植民地を支える。そして、政府の維持のためには関税を課すことが必要であるため、港で容易に差し押さえられ、関税を課される外国製品に課税する方がより便宜的であると考えられるかもしれない。しかしながら、関税の計算においては、2足す2は4ではなく、しばしば1になるというスウィフト博士の格言を常に心に留めておくべきである。もしワインの関税が3分の1に引き下げられれば、政府に現在よりもはるかに多くの収入をもたらすであろうことはほぼ間違いない。そうすれば、国民はより良質で健康的な酒を日常的に飲めるようになり、我々が切望する貿易収支にも悪影響は及ばないでしょう。農業以外ではエールの製造は微々たるものであり、雇用を生み出す労働者も少ないのです。ワインや穀物の輸送も、それほど劣るものではありません。{p66}

しかし、かつては豊かで豪華だった国や王国が、今では貧困に陥り、窮乏している例はよくあるではないか、とあなたは言うでしょう。かつて豊富に持っていたお金は、もうなくなってしまったのではないでしょうか。私はこう答えます。もし貿易、産業、そして国民を失ったら、金銀を維持することは期待できません。なぜなら、これらの貴金属は、かつての富と比例するからです。リスボンとアムステルダムがヴェネツィアとジェノバから東インド貿易を獲得した時、彼らはそこから生じた利益とお金も同時に手に入れました。政府の所在地が移転し、高価な軍隊が遠方に維持され、外国人が莫大な資金を保有している場合、当然のことながら、これらの原因から金貨は減少します。しかし、これらは金銭を持ち去るための強引で乱暴な方法であり、やがて人々や産業の輸送に伴って一般的に起こるものであることは明らかです。しかし、これらの方法が残され、流出が続けられなければ、お金は必ず、私たちが全く知らない無数の運河を通って、再び戻ってくるのです。革命以来、三度の長きにわたる戦争の過程で、これほど多くの国々がフランドルで莫大な財宝を費やしてきたことだろう。おそらく、現在のヨーロッパ全体の財宝の半分以上に相当するだろう。しかし、その財宝は今どうなったのだろうか?オーストリア諸州という狭い範囲に収まっているのだろうか?いいえ、そうではない。その財宝の大部分は、それぞれの国に還流し、当初獲得に使われた技術と産業に利用されている。千年以上もの間、ヨーロッパの資金は、公然とした目に見える流れによってローマへと流れてきた。しかし、それは多くの秘密で目に見えない運河によって空にされ、産業と商業の衰退により、現在、教皇領はイタリア全土で最も貧しい地域となっている。

要するに、政府は国民と製造業を注意深く守るべき大きな理由を持っている。政府はその資金を、恐れや嫉妬を抱くことなく、人類の営みに安心して委ねることができる。もし後者の事情に注意を払うとしても、それは国民と製造業に影響を与える範囲にとどめるべきである。

貿易収支に関する注記。
17 王国が貿易を行っているそれぞれの国において、貿易収支の不均衡を抑制するもう一つの原因があります。その作用はより限定的ですが、輸入量が輸出量を上回ると、為替相場は不利に働き、これが新たな輸出促進要因となります。その金額は、発生する代金の運送費と保険料と同額です。なぜなら、為替相場はそれ以上上昇することはないからです。

18 この論考全体を通して、私が貨幣水準について語る際は常に、各州における商品、労働、産業、技能に対する貨幣の比例水準を指していることを注意深く指摘しておかなければならない。そして、これらの利点が近隣州に比べて2倍、3倍、4倍であるならば、貨幣もまた間違いなく2倍、3倍、4倍となると私は主張する。これらの比率の正確性を妨げる唯一の状況は、商品をある場所から別の場所へ輸送する費用であり、この費用は時として不均衡である。例えば、ダービーシャーの穀物、牛、チーズ、バターは、ロンドンの製造業がダービーシャーの貨幣を引き出すほどには、ロンドンの貨幣を引き出すことができない。しかし、この反論は単なる見かけ上の反論に過ぎない。なぜなら、商品の輸送が高価である限り、両地域間の交通は妨げられ、不完全となるからである。

19 『貨幣 論』において、貨幣が増加すると、貨幣の増加と物価上昇の間の期間において、産業を刺激する効果が得られることを指摘した。この種の良い効果は紙幣信用からも得られるかもしれないが、公務における激しい衝撃の際に必ず起こるように、信用の失効によって全てを失うリスクを冒して事態を急ぐのは危険である。

20 ハリー7世の時代には、1ポンドには約8オンスの銀が含まれていました。

21 スタンヤンが語る貧困は、金をもたらす物資がない最も山深い州でのみ見られるものであり、そこでさえ人々は、一方のザルツブルク教区や他方のサヴォイアよりも貧しいわけではない。

貿易の嫉妬について。
商業国家に蔓延する、ある種の根拠のない嫉妬心を排除しようと努めたところで、同様に根拠のない別の嫉妬心についても触れておこう。商業においてある程度の発展を遂げた国家の間では、隣国の発展を疑いの目で見、すべての貿易国をライバル視し、自国を犠牲にしなければ繁栄できないと考えるのが常套手段である。こうした偏狭で悪意に満ちた見解に反論し、私は敢えてこう主張する。一国の富と商業の増大は、隣国すべての富と商業に悪影響を及ぼすどころか、むしろ促進する。そして、周辺諸国がすべて無知、怠惰、野蛮さに埋もれている国は、貿易と産業をほとんど発展させることができない。

ある国民の国内産業が隣国の最大の繁栄によって損なわれることはあり得ないことは明らかである。そして、この商業部門はどんな広大な王国においても疑いなく最も重要なものであるため、我々は嫉妬の理由から遠く離れている。しかし、私はさらに踏み込んで、諸国間に開かれたコミュニケーションが保たれている限り、各国の国内産業が他国の進歩によって増大するのを免れないことを指摘する。現在のイギリスの状況を2世紀前と比較してみてほしい。当時は農業も製造業も、あらゆる技術が極めて未熟で不完全だった。その後我々が成し遂げたあらゆる進歩は、外国人の模倣から生まれたものであり、彼らが以前に技術と創意工夫において進歩を遂げていたことは、我々は幸いなこととみなすべきである。しかし、この交流は依然として我々にとって大きな利益となっている。我が国の製造業がいかに進歩しているにもかかわらず、我々はあらゆる技術において隣国の発明と改良を日々取り入れている。商品は{p68} 最初は外国から輸入され、私たちは非常に不満を抱き、それが私たちの金を奪うと考えます。その後、芸術そのものが徐々に輸入され、私たちの目に見えて有利になります。しかし、私たちは依然として隣国が芸術、産業、発明を持っていることを嘆き続けます。彼らが最初に私たちに教えていなかったら、私たちは今頃野蛮人になっていたであろうこと、そして彼らが教え続けていなかったら、芸術は衰退し、その進歩に大きく貢献していた競争心と斬新さを失っていたであろうことを忘れているのです。

国内産業の発展は、海外貿易の基盤を築く。国内市場向けに多くの商品が生産され、改良されているところには、必ず輸出して有利になるものがある。しかし、隣国が技術も耕作も持っていなければ、交換するものがないため、それらを受け入れることはできない。この点で、国家は個人と同じ状況にある。すべての市民が怠惰なところに、一人の人間が勤勉になることはほとんど不可能だ。私がどんな職業に就いていても、地域社会の個々の構成員の富は、私の富を増やすことに貢献する。彼らは私の勤勉の産物を消費し、その代わりに彼らの産物を私に提供してくれる。

いかなる国家も、隣国があらゆる技術や製造業において、自国からの需要がなくなるほど進歩するだろうと懸念する必要もありません。自然は、様々な民族に多様な才能、気候、土壌を与えることで、彼らが勤勉で文明的である限り、相互の交流と商業を確保してきました。いや、どの国家でも技術が発展すればするほど、勤勉な隣国からの需要は増大するでしょう。住民は裕福になり熟練した技術を持つようになり、あらゆる商品を最高の状態で手に入れたいと願うようになります。そして、交換に十分な商品を持っているため、あらゆる外国から大量の輸入を行うのです。輸入元の国の産業は促進され、交換に提供する商品の販売によって、彼ら自身の産業も増大します。{p69}

しかし、もしある国が、イギリスにとっての毛織物製造業のように、何らかの主要産品を持っている場合はどうでしょうか? 隣国がその製造業に干渉することは、彼らにとって損失ではないでしょうか? 私の答えはこうです。ある商品が王国の主要産品と称される場合、その王国はその商品を生産する上で何らかの特異かつ自然な利点を持っていると想定されます。そして、これらの利点にもかかわらず、もしそのような製造業を失った場合、隣国の勤勉さではなく、自らの怠惰や悪政を責めるべきです。また、隣国における勤勉さの増加によって、あらゆる特定種の商品の消費も増加することを考慮すべきです。外国の製造業が市場で我が国に干渉したとしても、我が国の製品に対する需要は依然として継続し、あるいは増加する可能性があります。そして、たとえ需要が減少したとしても、その結果はそれほど致命的であると考えられるべきでしょうか?勤勉の精神が保たれれば、それは容易に一つの分野から別の分野へと転換され、例えば羊毛製品は、リネン、絹、鉄、あるいは需要がありそうな他の商品に利用されるだろう。あらゆる産業製品が枯渇したり、我が国の製造業者が近隣諸国の製造業者と同等の立場を保ちながらも雇用に窮したりするのではないかと心配する必要はない。むしろ、ライバル諸国間の競争こそが、全ての国々で勤勉さを維持するのに役立つのだ。そして、多様な製造業を所有する国民は、全員が従事する単一の巨大製造業を享受する国民よりも幸福である。彼らの状況はより不安定ではなく、商業のあらゆる分野が常に直面するであろう変化や不確実性を、それほど痛感することはないだろう。

隣国の発展と産業を恐れるべき唯一の商業国家は、広大な土地を持たず、いかなる固有の商品も持たず、他者の仲介者、仲介業者、運送業者となることでのみ繁栄しているオランダのような国である。このような国民は、当然のことながら、隣国が発展し、産業が発展すれば、{p70} 隣国が自国の利益を知り、それを追求するようになれば、彼らは自らの手でその管理を行い、かつて仲介人が得ていた利益を奪うであろう。しかし、こうした結末は当然恐れられるかもしれないが、実際に起こるまでには長い時間がかかる。そして、技術と勤勉によって、完全には避けられなくても、何世代にもわたって回避できるかもしれない。優れた在庫と通信手段の利点は非常に大きいため、容易に克服できるものではない。そして、隣国における勤勉の増大によってすべての取引が増加するにつれて、この不安定な商業基盤の上に成り立っている民族でさえ、当初は隣国の繁栄から相当な利益を得ることができるかもしれない。オランダ人は、収入のすべてを抵当に入れているため、政治的な取引において以前ほど大きな存在感を示すことはないが、彼らの商業は、彼らがヨーロッパの列強の一人に数えられていた前世紀半ばと同等であることは間違いない。

もし我々の偏狭で悪意に満ちた政治が成功すれば、近隣諸国は皆、モロッコやバルバリア海岸に蔓延しているような怠惰と無知の状態に陥るでしょう。しかし、その結果はどうなるでしょうか?彼らは我々に物資を送ることも、我々から受け取ることもできなくなります。国内の商業自体も、模範、模範、そして指導の欠如によって衰退し、我々自身もやがて、彼らを陥れたのと同じ惨めな状態に陥るでしょう。ですから、私は人間としてだけでなく、英国国民として、ドイツ、スペイン、イタリア、そしてフランス自身の商業の繁栄を祈っています。少なくとも、英国とこれらの国々の君主と大臣たちが、互いに対してこのような寛大で慈悲深い感情を抱くならば、より繁栄するだろうと私は確信しています。

力のバランスの。
勢力均衡という概念が近代政策に完全に由来するものなのか、それともこの言葉が後世になって初めて生まれたものなのかは疑問である 。クセノポンがキュロスの治世において、アジア諸国の連合はメディアとペルシアの勢力拡大に対する嫉妬から生まれたものであることは確かである。この優美な作品は完全にロマンスであると考えられるべきであるが、著者が東方の諸侯に帰したこの感情は、少なくとも古代に支配的だった概念の証拠である。

ギリシャの政治全体において、勢力均衡への懸念は極めて顕著であり、古代の歴史家たちによってさえも明確に指摘されている。トゥキュディデスは、アテネに対して結成され、ペロポネソス戦争を引き起こした同盟は、まさにこの原理によるものだと述べている。そしてアテネの衰退後、テーベとラケデモニアが主権を争った際、アテネ人(そして他の多くの共和国)は常により軽い立場を取り、均衡を維持しようと努めたことがわかる。彼らは、レウクトラの戦いでエパミノンダスが大勝利を収めるまで、スパルタに対してテーベを支援した。しかし、その後すぐに、彼らは寛大さを装って、しかし実際には征服者への嫉妬から、直ちに被征服者に寝返ったのである。

デモステネスのメガロポリス人への演説を読む人は誰でも、この原理がヴェネツィアやイギリスの思弁家の頭に浮かんだ最も洗練されたものであることがわかるだろう。そして、マケドニアの勢力が最初に台頭すると、この演説家はすぐに危険を察知し、ギリシャ全土に警鐘を鳴らし、ついにはアテネの旗の下に同盟を結成し、カイロネイアの大規模で決定的な戦いを戦った。{p72}

確かに、歴史家たちはギリシャ戦争を政治戦争というよりは競争の戦争とみなしており、各国家は権威や支配権という確固たる希望よりも、他国を率いる栄誉を重視する傾向が強かったようだ。確かに、共和国全体と比較して各共和国の住民数が少ないこと、当時の包囲網構築の困難さ、そして高貴な民衆の中の自由民一人ひとりが並外れた勇気と規律を備えていたことを考えると、ギリシャにおいては勢力均衡はそれ自体で十分に確保されており、他の時代であれば必要とされるような用心深さで警戒する必要はなかったと結論づけられるだろう。しかし、ギリシャの共和国における勢力の変動を嫉妬深い競争心によるものと捉えるか、慎重な政治によるものと捉えるかに関わらず、結果は同様であり、優勢な勢力は必ず同盟に遭遇し、それは往々にしてかつての友好国や同盟国で構成されるものであった。

アテネの追放やシラクサの花弁主義を生み出し、名声や権力が他を凌駕するすべての市民を追放した同じ原理 ― それを嫉妬と呼ぶか、思慮分別と呼ぶか ― が、外交政策においても当然ながら現れ、権力の行使がいかに穏健であっても、すぐに指導的国家に対する敵を生み出したと私は言いたい。

ペルシアの君主は、その力量において、ギリシャ諸共和国と比べれば実に取るに足らない君主に過ぎなかった。それゆえ、競争心よりも安全という観点から、ペルシア諸共和国の争いに介入し、あらゆる争いにおいて弱い側を支援するのが彼の務めであった。これはアルキビアデスがティッサフェルネスに与えた助言であり、そのおかげでペルシア帝国の存続期間はほぼ1世紀も延びた。しかし、フィリップスという野心的な天才が現れた後、この助言が一瞬でも無視されたことで、その高尚でありながら脆い建造物は、人類史上類を見ないほどの速さで崩壊した。

アレクサンドロスの後継者たちは、真の政治と思慮深さに基づいた権力の均衡に対する限りない嫉妬を示し、あの有名なアレクサンドロス大王の死後に作られた分割を数世代にわたって明確に維持した。{p73} 征服者アンティゴノスの強運と野心は、彼らを再び普遍的な君主制で脅かしたが、彼らの連合とイプソスの戦いでの勝利が彼らを救った。後世、東方の諸侯はギリシャ人とマケドニア人を唯一真の軍事力とみなし、常にこの地域を警戒していたことがわかる。特にプトレマイオス朝は、最初はアラトスとアカイア人、次いでスパルタ王クレオメネスを支持したが、それはマケドニアの君主に対する対抗勢力としてのみの立場であった。これはポリュビオスがエジプトの政治について述べている記述である。

古代人が勢力均衡について全く無知だったとされる理由は、ギリシャ史よりもローマ史に由来すると思われる。ローマの出来事は一般的に私たちにとって最も馴染み深いため、我々はそこからすべての結論を導き出してきた。ローマ人は、急速な征服と公然たる野心から当然予想されるような、大規模な連合や同盟に遭遇することは決してなかったことを認めなければならない。むしろ、ローマ人は平和的に隣国を次々と征服し、ついには既知の世界全体に支配権を広げていった。イタリア戦争の伝説は言うまでもなく、ハンニバルがローマに侵攻した際には、すべての文明国の注意を喚起すべき、極めて注目すべき危機が生じた。後になって(当時も容易に理解できたことだが[22])、これは世界帝国をめぐる争いであったことが明らかになったが、どの君主も国家も、この争いの結末や結末について少しも懸念していなかったようだ。マケドニア王フィリップはハンニバルの勝利を目にするまで中立を保っていたが、その後、極めて軽率にも征服者と同盟を結んだが、その条件はさらに軽率なものだった。彼はカルタゴ王国のイタリア征服を支援することを条件とし、その後、{p74} 彼らはギリシャに軍隊を派遣し、ギリシャ諸国を征服するのを支援することを約束した。

ロドス共和国とアカイア共和国は、古代の歴史家たちからその賢明さと健全な政策を高く評価されている。しかし、両国ともフィリッポス1世とアンティオコス1世との戦争においてローマを支援した。そして、この格言が当時広く知られていなかったことをさらに強く証明するものとして、古代の著述家がこれらの措置の軽率さを指摘したことはなく、前述のフィリッポス1世がカルタゴ人と結んだ不条理な条約を非難したことさえない。どの時代においても、君主や政治家は過去の出来事に関する推論において盲目になることがあるが、後世の歴史家がそれらの出来事についてより健全な判断を下さないというのは、いささか異常なことである。

マシニッサ、アッタロス、プルシアスは、いずれも私欲を満たすためにローマの強大さの道具となり、同盟国の征服を進める一方で、自らの鎖を強めていることに全く気づいていなかったようだ。マシニッサとカルタゴ人の間では、相互の利益のために極めて重要な簡素な条約と協定が締結され、ローマ人のアフリカへのあらゆる侵入が禁じられ、人類の自由が守られた。

ローマ史において、勢力均衡を理解していたと思われる唯一の君主は、シラクサ王ヒエロである。ローマの同盟国であったにもかかわらず、彼は援軍戦争の際にカルタゴに援助を送った。「シチリアにおける領土を維持し、ローマとの友好関係を維持するためには、カルタゴの安全が不可欠であると考えた」とポリュビオスは述べている。「カルタゴが陥落すれば、残存勢力は抵抗や対抗なしに、あらゆる目的と事業を遂行できなくなるだろうからである。そして、彼はここで非常に賢明かつ思慮深く行動した。なぜなら、それは決して見過ごされるべきではなく、近隣諸国が権利を守れないほどの力を一方の手に委ねるべきではないからだ。」ここに、近代政治の目的が明確に示されている。

つまり、力のバランスを保つための格言は{p75} 常識と明白な推論に深く基づいているため、他の点において深い洞察力と洞察力の痕跡が数多く見られる古代において、それが完全に逃れることは不可能である。たとえそれが現在ほど広く知られ、認められていなかったとしても、少なくともより賢明で経験豊富な君主や政治家たちに影響を与えていただろう。実際、現在でさえ、思弁的な推論者の間ではどれほど広く知られ、認められているとしても、実際には世界を統治する人々の間では、それほど広範な権威を持っているわけではない。

ローマ帝国の滅亡後、北方の征服者たちが確立した政体は、彼らを更なる征服から大きく奪い、長らくそれぞれの国をそれぞれの境界内に留め置くことに成功しました。しかし、封建制と封建民兵が廃止されると、カール皇帝の統治下における多くの王国と君主国の統合によってもたらされる普遍君主制の危険性に、人類は改めて危機感を抱きました。しかし、広大ながらも分割された領土と、主に金銀の鉱山から得た富を基盤とするオーストリア家の権力は、彼らに対して築かれた防壁をすべて覆すよりも、内部の欠陥によって自ら衰退する可能性が高いものでした。わずか一世紀も経たないうちに、この暴力的で傲慢な民族の勢力は粉砕され、富は消え去り、栄華は影を潜めました。新たな勢力が誕生した。それはヨーロッパの自由にとってさらに恐るべき勢力であり、以前の勢力の利点をすべて備え、オーストリア家が長きにわたり、そして今もなお強く抱いている頑固さと迫害の精神を除けば、以前の勢力のいかなる欠点にも悩まされることはなかった。

ヨーロッパは今や一世紀以上もの間、人類の民衆や政治勢力が結集して形成されたであろう史上最大の勢力に対して防御の立場に立ってきた。そして、ここで論じた格言の影響は大きく、この野心的な国家は過去五回の全面戦争において四回勝利し、五回 しか敗北していないにもかかわらず、{p76} 一つには、​[24] 彼らは領土をそれほど拡大しておらず、ヨーロッパに対する完全な支配権も獲得していない。むしろ、抵抗を続けることで、いつかは人間社会の自然な変化と、予期せぬ出来事や事故が相まって、我々を世界君主制から守り、世界をこれほどの大きな悪から守ってくれるかもしれないという希望の余地が残っている。

英国は、これらの総力戦のうち、直近の三つの戦争において、栄光ある戦いの最前線に立ち、今もなおヨーロッパの自由全般の守護者、そして人類の守護者としての地位を保っています。富と立地という利点に加え、英国国民は強い国民精神にあふれ、統治の計り知れない恩恵を深く認識しているため、これほど必要かつ正当な大義において、彼らの活力が決して衰えることはないと期待できます。むしろ、過去の例から判断するならば、彼らの情熱にはむしろ節度が必要なように思われ、非難すべき欠陥よりも、称賛に値する過剰から逸脱することの方が多かったのです。

まず第一に、我々は近代政治の思慮深い見解よりも、古代ギリシャの嫉妬深い競争心に囚われていたように思われる。フランスとの戦争は正義から、そしておそらくは必要に迫られて始まったのだが、常に頑固さと情熱から大きく逸脱しすぎていた。後に1697年にライスウィックで締結された和平は、1692年にはすでに提案されていた。1712年にユトレヒトで締結された和平は、1698年にゲルトロイテンベルクで同様に良好な条件で締結できたかもしれない。そして1743年にフランクフルトで、1698年にエクス・ラ・シャペルで喜んで受け入れたのと同じ条件を提示できたかもしれない。こうして、フランスとの戦争の半分以上、そして我々の公的負債のすべてが、隣国の野心よりも、我々自身の軽率な激しさに起因していることがわかる。

第二に、我々はフランスの力に反対し、同盟国の防衛に非常に注意を払っているので、{p77} 彼らは常に我々の兵力を自国の兵力と見なし、我々の費用で戦争を遂行しようと考え、あらゆる妥当な妥協条件を拒否する。「Habent subjectos, tanquam suos; viles, ut alienos.」先議会の初めに下院が行った党派的な投票と国民の公言したユーモアが、ハンガリー女王の条件を頑固にさせ、ヨーロッパの平穏を直ちに回復するはずだったプロイセンとの協定を阻んだことは、全世界が知っている。

第三に、我々は真の戦闘員であるため、ひとたび交戦すれば、自らと子孫への配慮を一切失い、いかにして敵を最も苛立たせるかのみを考える。我々が単なる加担者でしかない戦争において、歳入をこれほど高い利率で抵当に入れることは、政治力と分別を自負する国家が犯した、これまで犯した最も致命的な誤りであったことは間違いない。資金援助という救済策は――それが毒ではなく、有効な手段であるならば――いかなる理性においても、極限まで留保されるべきであり、最も重大かつ最も差し迫った悪事以外、いかなる悪事も、我々をそのような危険な手段に走らせるべきではない。

我々が陥ったこれらの行き過ぎは有害であり、おそらく時が経てば、別の意味でさらに有害になるかもしれない。いつものように、正反対の極端な事態を引き起こし、ヨーロッパの運命に関して我々を全く無関心で無関心な状態に陥らせるのだ。ギリシャで最も騒々しく、陰謀を企み、好戦的な民族であったアテネ人は、あらゆる争いに首を突っ込むことの誤りに気づき、外交への関心を一切放棄し、いかなる争いにおいても、勝者への媚びへつらいと追従以外には、どちらの側にも立たなかった。

巨大な君主制は、おそらくその発展、存続、そして[25]その 崩壊においても、人間の本質を破壊するものであり、その崩壊は、{p78} 体制。君主制を強大にした軍事的才能は、すぐに宮廷、首都、そしてそのような政府の中心から去ってしまう。戦争は遠く離れた場所で行われ、関心は国家のごく一部にしか向けられない。君主に愛着を持つ古来の貴族たちは、皆宮廷に住み、享楽も財産も遠ざかる遠くの野蛮な辺境へと赴くような軍事任務を決して受け入れない。それゆえ、国家の武器は、熱意も執着も名誉も持たず、いつでも君主に反旗を翻し、報酬と略奪品を提供する絶望的な不満分子に加担する、傭兵的な異邦人に託されなければならない。これは人間社会の必然的な発展である。こうして人間性は空虚な高揚感にとらわれなくなり、野心は盲目的に征服者とその家族、そして彼にとって身近で大切なものすべてを滅ぼそうとするのである。ブルボン家は、勇敢で忠実、そして愛情深い貴族たちの支援を頼りに、その優位性を際限なく押し進めた。彼らは栄光と競争心に燃え、戦争の疲労と危険に耐えることができる。しかし、ハンガリーやリトアニアの駐屯地で衰弱し、宮廷で忘れ去られ、君主に近づくあらゆる側近や愛妾の陰謀の犠牲となるようなことは決してしないだろう。軍隊はクラバト兵、タタール人、軽騎兵、コサック兵で構成され、おそらくはより裕福な地方から来た少数の傭兵も混じっている。そして、ローマ皇帝の悲惨な運命は、同じ原因から、王政の最終的な崩壊に至るまで、幾度となく繰り返されるのである。

力の均衡についてのノート。
22 ギリシャ総会におけるナウパクトスのアゲラオスの演説からも明らかなように、一部の人々はこれを支持した。『ポリュベロス』第5巻第104章参照。

23 ピレネー、ニームゲン、ライスウィック、エクス・ラ・シャペルの和約によって締結されたもの。

24 それはユトレヒト条約によって終結した。

25ローマ帝国が有利であったとすれば、それは、その成立以前に人類が全般的に非常に無秩序で野蛮な状態にあったということから生じたにすぎない。

税金の。
この国で「手段と手段」の人々と呼ばれ、フランスでは金融家や麦芽製造業者と呼ばれる人々の間では、あらゆる新しい税金は国民にそれに耐える新しい能力を生み出すという格言が広まっている。{p79} 公的負担が増加するごとに、国民の勤勉さも比例して増加する。この格言は、極めて悪用される可能性が高く、その真実性を完全に否定することはできないがゆえに、より危険である。しかし、一定の限度内であれば、理性と経験に基づく根拠を有していることを認めざるを得ない。

一般大衆が消費する商品に税金が課せられると、必然的な結果として、貧しい人々は生活様式をいくらか切り詰めるか、あるいは賃金を引き上げ、税金の負担を富裕層に押し付けるかのどちらかを迫られるように見えるかもしれません。しかし、税金にはしばしば第三の結果が伴います。すなわち、貧しい人々は勤勉さを増し、より多くの仕事をこなし、労働に対する要求を増やすことなく、以前と同じように暮らし続けるということです。税金が適度で、徐々に課せられ、生活必需品に影響を与えない場合、この結果は当然生じます。そして、こうした困難はしばしば人々の勤勉さを刺激し、最も大きな利益を享受する他の人々よりも裕福で勤勉な人々に仕えることは確かです。類似の例として、最も商業的な国家が常に最も広大な肥沃な土地を所有していたわけではなく、むしろ多くの自然的不利の下で苦労してきたことを指摘することができます。ティルス、アテネ、カルタゴ、ロードス、ジェノバ、ヴェネツィア、オランダは、この目的の強力な例です。歴史上、大規模で肥沃な国でありながら、多くの貿易を行った例は、オランダ、イギリス、そしてフランスの3つしかありません。前者2国は、海路に面した立地の利点と、自国の気候では手に入らない物資を得るために外国の港を頻繁に訪れる必要性に惹かれたようです。一方、フランスに関しては、貿易が王国にもたらされたのはごく最近のことで、航海術と商業を発達させた近隣諸国が莫大な富を獲得したことに気づいた、独創的で進取の気性に富んだ人々の思慮と観察の結果であると思われます。

キケロが所有していたと記した場所は{p80} 当時の最大の商業都市は、アレクサンドリア、コルコス、ティルス、シドン、アンドロス、キプロス、パンフィリア、リュキア、ロードス、キオス、ビザンティン、レスボス、スミルナ、ミレトゥム、クオスであった。アレクサンドリアを除くこれらはすべて小さな島々か狭い領土であり、アレクサンドリアの商業は立地条件のよさに完全に依存していた。

したがって、自然の必然性や不利な点が産業に有利に働くと考えられるのであれば、人為的な負担が同様の効果を及ぼさないはずがない。ウィリアム・テンプル卿[26]は 、オランダ人の産業は彼らの自然の不利な点に起因する必然性に完全に帰している点に注目できる。そして、アイルランドとの非常に印象的な比較によって彼の理論を次のように説明している。「アイルランドでは、土地の広大さと豊かさ、そして人口の少なさによって、生活に必要なあらゆる物が非常に安価であり、勤勉な人は二日間の労働で残りの一週間を過ごすのに十分な収入を得ることができる。私はこれが、人々の怠惰の非常に明白な根拠であると考える。なぜなら、人は生来、労働よりも楽を好み、怠けて暮らせるのであれば苦労はしないからだ。しかし、必要に迫られてそれに慣れてしまうと、健康や娯楽そのものにとって不可欠な習慣となってしまい、それをやめることができなくなる。また、絶え間ない楽から労働への移行は、絶え間ない労働から楽への移行よりも難しいかもしれない。」その後、著者は、古代と現代で貿易が最も栄えた場所、そして産業の必要性を生み出すほど狭く限定された領域によって一般的に観察される場所を上記のように列挙して、自らの教義を確証していきます。

極端でない限り、飢饉の年には貧しい人々がより多く働き、よりよい暮らしを送ることが常に観察される。それは、非常に裕福な年に彼らが怠惰と暴動に耽る時よりも多い。ある大手製造業者から聞いた話だが、1740年、パンやあらゆる種類の食料が非常に高騰した時、彼の労働者は生活のために転勤しただけでなく、負債を返済した。{p81} 以前の年は、はるかに好条件で豊作だったため、契約は成立しました。

したがって、税金に関するこの理論はある程度認められるかもしれないが、濫用には注意すべきである。法外な税金は、極度の必需品と同様に、絶望を生み出して産業を破壊し、そのレベルに達する前にさえ、労働者と製造業者の賃金を引き上げ、あらゆる商品の価格を高騰させる。注意深く公平な立法府は、恩恵がなくなり不利益が始まる点を観察するだろう。しかし、逆の性質の方がはるかに一般的であるため、ヨーロッパ全土で税金が増大し、あらゆる芸術と産業を完全に破壊するほどになっているのではないかと懸念される。おそらく、税金の最初の増加は、状況と相まって、これらの利点の発展に貢献したかもしれない。

最良の税金は、消費、特に贅沢品に課される税金である。なぜなら、そのような税金は人々の負担感が少ないからである。課税対象となる商品をどの程度利用するかを個人が選択できるため、ある程度は自発的な税と言える。税金は徐々に、そして意識することなく支払われ、商品の自然価格と混同されるため、消費者はほとんどその存在を意識することはない。唯一の欠点は、課税に多額の費用がかかることである。

所有物に対する課税は費用がかからないものの、他のあらゆる不利益を伴う。しかしながら、ほとんどの国家は、他の国家の不足を補うために、所有物に対する課税に頼らざるを得ない。

しかし、あらゆる税金の中で最も有害なのは、恣意的な税金である。それらは、その運用によって産業への罰則と化すのが通例である。また、避けられない不平等によって、それが課す実際の負担よりも深刻なものとなる。したがって、文明国において、そのような税金が存在すること自体が驚くべきことである。

一般的に、人頭税は、たとえ恣意的でないとしても(通常は恣意的であるが)、危険とみなされるかもしれない。なぜなら、君主が要求額に少しずつ上乗せするのは非常に容易であるため、こうした税は全体として抑圧的で耐え難いものになりがちだからである。{p82} 一方、商品に対する関税は抑制され、君主はすぐに関税の増額が歳入の増加につながらないことに気づくだろう。したがって、そのような税によって国民が完全に破滅することは容易ではない。

歴史家によれば、ローマ国家の崩壊の主因の一つは、コンスタンティヌス帝が財政に導入した改革であった。それは、かつて帝国の歳入を構成していたほぼ全ての十分の一税、関税、物品税に代えて、普遍的な人頭税を導入することであった。各属州の人々は徴税官によってひどく搾取され、抑圧されていたため、蛮族の征服力ある軍隊の下に避難することを喜んだ。彼らは必需品も技術も乏しかったため、ローマ人の洗練された圧制よりも蛮族の支配の方が好ましいと考えたのである。

いかなる税であっても、最終的には土地に負担がかかるという通説が広く浸透しています。英国においては、立法府を主に担う地主紳士たちを抑制し、彼らに商業と産業への深い敬意を抱かせるという点で、こうした通説は有益かもしれません。しかし、この原則は著名な作家によって初めて提唱されたものの、あまりにも理にかなっていないため、彼の権威がなければ誰にも受け入れられなかったであろうと言わざるを得ません。確かに、誰もが課税される税金の負担を自分から押し下げ、他人に押し付けたいと願うものです。しかし、誰もが同じ傾向を持ち、守勢に立たされているため、この争いにおいて、どの集団も完全に勝利することは考えられません。そして、なぜ地主紳士が全体の犠牲者となり、他の人々のように自衛できないのか、私には容易に想像できません。実際、すべての商人なら、もし可能なら喜んで地主紳士を食い物にし、分け合おうとするでしょう。しかし、彼らは税金が課せられていないにもかかわらず、常にこの傾向を持っている。そして、税を課す前に商人から税金を徴収するのを阻止するのと同じ方法が、後に彼にとって役に立ち、彼らに負担を分担させるだろう。輸出されるいかなる商品においても、外国市場を失うことなく価格を大幅に引き上げることはできない。そして、ほとんどすべての商品の一部は、{p83} 工場で生産された製品が輸出される場合、この状況により、ほとんどの種類の労働の価格は課税後もほぼ一定に保たれます。さらに付け加えると、これは全体にも影響を与えます。なぜなら、いかなる種類の労働であっても、その割合を超えて支払われると、すべての労働者がその労働に群がり、すぐに他の労働と同じ水準にまで落ち込むからです。

この論旨を締めくくるにあたり、税金に関して、政治制度においてしばしば起こること、すなわち、物事の結末が一見予想とは全く逆になることを指摘しておきたい。トルコ政府の基本原則として、大君主は各個人の生命と財産の絶対的な支配者であるにもかかわらず、新たな税金を課す権限を持たないとされている。そして、そのような試みをしたオスマン帝国の君主は皆、撤回を余儀なくされるか、あるいはその執拗さがもたらす致命的な結果を目の当たりにしてきた。こうした偏見や既成概念こそが、世界で最も強固な抑圧の障壁となると想像されるかもしれないが、その効果は全く逆であることは確かである。皇帝は歳入を増やすための定常的な手段を持たないため、すべてのパシャや知事が臣民を抑圧し虐待することを許さざるを得ず、臣民が統治から戻った後、皇帝は彼らを搾取するのである。一方、もし彼が、我が国のヨーロッパの君主たちのように、新たな税金を課すことができれば、彼の利益は国民の利益と一致するため、彼は直ちにこれらの無秩序な金銭の徴収の悪影響を感じ、一般課税によって徴収された 1 ポンドは、不平等かつ恣意的に徴収された 1 シリングよりも悪影響が少ないことに気づくだろう。

税金に関する注意事項。
26 ネーデルラントの記録、第 6 章。

公的信用の。
古代では、戦争の必需品のために平和な時代に備え、征服や防衛の手段として事前に財宝を蓄えておくのが一般的だったようだ。{p84} 混乱と混沌の時代には、借金どころか、法外な税金を課すこともなかった。 アテネやプトレマイオス朝、その他のアレクサンドロスの後継者たちが蓄えた上述の莫大な金額[27]に加え、倹約家のラケデモニア人も莫大な財宝を蓄えていたことがプラトンの記述から分かる。また、アリアノスとプルタルコス[28]は、 アレクサンドロスがスーサとエクバタナを征服した際に手に入れた富のうち、キュロスの時代から蓄えられていたものの一部について詳述している。私の記憶が正しければ、聖書はヒゼキヤとユダヤの君主たちの財宝についても触れており、俗史ではマケドニア王フィリッポスとペルセウスの財宝についても触れている。古代ガリア共和国は一般に多額の備蓄金を蓄えていた。ローマの内戦中にユリウス・カエサルが押収した財宝は誰もが知っているが、その後、アウグストゥス、ティベリウス、ウェスパシアヌス、セウェルスなどの賢明な皇帝たちは、公共の緊急事態に備えて多額の資金を貯蓄するという賢明な先見の明を常に持っていたことがわかる。

それどころか、非常に一般的になった現代の手段は、公的収入を抵当に入れ、平時に子孫が先の戦争で負った負債を返済してくれると信じるというものです。そして、賢明な父祖たちの模範を目の当たりにしてきた彼らは、子孫に対しても同様に賢明な信頼を寄せています。そして、子孫もまた、選択というよりもむしろ必要に迫られて、最終的に新たな子孫に同様の信頼を置かざるを得ないのです。しかし、幾百もの実証によって破滅的としか思えないような慣行を非難することに時間を浪費するわけではありませんが、この点において古代の格言は現代の格言よりもはるかに賢明であることは明らかです。たとえ後者がある程度合理的な範囲内に限定され、いかなる例においても、平時に多額の費用をかけた戦争で生じた負債を返済するほどの倹約を伴っていたとしてもです。なぜなら、なぜ公と個人の間で、状況がこれほどまでに大きく異なって、{p85} それぞれにこれほど異なる行動規範を確立できるでしょうか?前者の資金が多ければ、それに応じて必要経費も大きくなります。資源が豊富だとしても、無限ではありません。そして、その枠組みは一人の人生、あるいは家族の寿命よりもはるかに長い期間を想定して計算されるべきですから、その存在の想定される範囲に見合った、大きく、永続的で、寛大な規範を包含すべきです。偶然や一時的な便宜に頼ることは、確かに人間社会の必然性によってしばしば陥る事態ですが、そのような資源に自ら依存する者は、不幸が降りかかった時、自らの愚かさを責める以外に方法はありません。

財宝の濫用は、国家を無謀な事業に従わせたり、その富を信頼して軍事規律を無視させたりすることで危険であるが、抵当権の濫用はより確実かつ不可避であり、貧困、無力、外国への従属をもたらす。

近代政策によれば、戦争はあらゆる破壊的状況を伴う。人命の損失、増税、商業の衰退、資金の浪費、海陸の荒廃などである。古代の格言によれば、国庫の公開は、金銀の異常な豊かさをもたらし、一時的に産業を刺激し、戦争の避けられない災厄をある程度償う効果があった。

それでは、公的負担は、それ自身で、それを負う必要性とは無関係に、有利であるという新たなパラドックス、そして、たとえ外国の敵に圧迫されていなくても、いかなる国家も、商業と富を促進するために、基金、負債、そして無制限の税金を創設すること以上に賢明な手段を採用することはできなかったであろうという新たなパラドックスに対して、我々は何を言うべきだろうか?もし我々が、偉大な大臣たちや我々の党派全体が、このような不条理な格言を擁護していたのを見ていなかったら、このような論説は、愚行と熱病、ブシリスとネロに関する賛辞のように、修辞家たちの間では機知の試練として当然通用したかもしれない。そして、これらの不可解な議論(それらは見せかけの議論と呼ぶに値しないが)は、主の理論の根拠にはなり得ない。{p86} オーフォードの行動は、より分別のあるものであったため、少なくとも彼の支持者たちの支持を維持し、国民の理解を混乱させるのに役立った。

公的債務が商業と産業に及ぼす国内管理への影響と、戦争と交渉に及ぼす対外取引への影響の両面から、公的債務の結果を検討してみましょう。

ここでは誰もが口にする言葉があり、私が知る限り海外にも伝わり、英語を真似て外国人作家[29]が多用している言葉がある ――それは「循環」である。この言葉はあらゆることを説明するのに役立ち、私は学生時代からこの主題におけるその意味を探し求めてきたことを認めるが、未だに解明できていない。手から手へ在庫を容易に移動させることで、国家がどのような利益を得られるというのだろうか。あるいは、他の商品の循環と小切手やインド債券の循環に類似点を見出せるだろうか。製造業者が商人に、商人が店主に、店主が顧客に商品を迅速に販売できる場合、これは産業を活性化し、最初の販売業者や製造業者、そしてそのすべての商人に新たな刺激を与え、同種の商品をより多く、より良く生産させるのである。停滞は、どこで発生しようとも、ここでは有害である。なぜなら、停滞は逆方向に作用し、人間の生活に役立つものを生産する勤勉な手を止め、あるいは麻痺させるからである。しかし、チェンジ・アレーのおかげで私たちがどれほどの生産を得られたのか、あるいはコーヒー、ペン、インク、紙以外の消費がどれほど得られたのか、私はまだ知らない。たとえあの場所とその住民全員が永遠に海に埋もれたとしても、有益な商業や商品が一つでも失われたり衰退したりするとは、誰も予見できない。

しかし、循環から生じる利点を強く主張する人たちは、この用語を一度も説明してこなかったが、私たちの負担からも同様の利益が生まれているようだ。{p87} 人間の悪には、何らかの利益を伴わないものがあるだろうか?これを説明し、その悪がどれほどの重みを持つべきかを推定したい。

公債は我々にとって一種の貨幣となり、金や銀のように時価で容易に流通する。利益を生む事業がどこであろうと、いかに費用がかさんでも、それを引き受ける人材が不足することはない。また、公債に資金を保有する商人は、どんなに急な需要にも対応できる資金を持っているため、大規模な取引に踏み出すことを恐れる必要はない。商人は多額の現金を手元に置いておく必要はないと考える。銀行券やインド国債、特にインド国債は、全く同じ目的を果たす。なぜなら、商人は15分でそれらを処分したり、銀行家に質入れしたりできるからだ。同時に、それらは商人の書斎に置いてあっても使われず、常に収入をもたらす。つまり、我が国の国債は商人に、彼らの手の中で絶えず増殖し、商業の利益に加えて確実な利益を生み出す一種の貨幣を提供する。これにより、商人はより少ない利益で商取引を行うことができる。商人のわずかな利益は商品を安くし、消費を増やし、一般の人々の労働を活発にし、社会全体に芸術と産業を広めるのに役立ちます。

イギリスや商業と公債の両方を持つすべての州には、半分商人で半分株主のような人々がおり、彼らはわずかな利益でも喜んで取引をするだろうと考えられる。なぜなら、商業は彼らの主な、あるいは唯一の収入源ではなく、基金からの収入は彼ら自身と家族にとって確実な財源だからである。基金がなければ、大商人は利益の一部でも確保するために土地を購入する以外に手段がない。そして、資金と比較すると土地には多くの欠点がある。土地はより多くの注意と検査を必要とするため、商人の時間と注意を分散させる。魅力的な取引や貿易上の特別な偶然があっても、土地は簡単には換金できない。そして、土地は{p88} 社会は、多くの自然の喜びと権威によって人々を惹きつけすぎると、たちまち市民を田舎紳士に変えてしまう。したがって、公的債務のあるところでは、より多くの人々が、多額の資産と収入を得て商売を続けるのは当然のことと考えられる。そして、これは商業にとって、利益を減らし、流通を促進し、産業を奨励することで、ある程度有利であることは認めざるを得ない。

しかし、おそらくそれほど重要ではないこれらの 2 つの有利な状況とは対照的に、国家の内部経済全体において公的債務に伴う多くの不利益を比較検討してください。それらの不利益から生じる悪と善を比較することはできません。

まず第一に、国債は、その利子を支払うために地方で徴収される巨額の税金によって、首都に人々と富を大量に流入させることは確かです。そしておそらく、前述のように、首都の商人が王国の他の地域よりも貿易上の優位性を得ることも、この要因の一つでしょう。問題は、我が国の場合、既に巨大な規模に達し、さらに拡大しつつあるロンドンに、これほど多くの特権を与えることが公共の利益にかなうのかどうかです。その結果を懸念する人もいます。私としては、頭が体に比べて大きすぎることは間違いありませんが、この大都市は恵まれた立地条件にあるため、その過剰な規模は、より大きな王国に小さな首都を置くよりも不便が少ないと考えずにはいられません。パリとラングドックのあらゆる食料品の価格差は、ロンドンとヨークシャーの価格差よりも大きいのです。

第二に、公的株式は一種の紙幣信用であるため、この種の通貨に伴うあらゆる欠点を抱えている。公的株式は、国家の最も重要な商業から金と銀を排除し、それらを一般流通へと縮小させ、その結果、あらゆる食料と労働を本来よりも高価にする。

第三に、これらの負債の利子を支払うために課される税金は、産業を抑制するものとなり、{p89} 労働の価格を上昇させ、貧しい人々を抑圧することになる。

第四に、外国人は我が国の国家資金の一部を保有しているため、国民を彼らに貢物として差し出すことになり、やがて我が国の国民や産業の移動に支障をきたす可能性があります。

第五に、公的資金の大部分は常に、収入で生活している怠惰な人々の手に渡っており、私たちの資金は、無益で活動的でない生活を大いに助長しています。

しかし、公的資金によって商業と産業に生じる損害は、全体を均衡させると非常に大きなものに見えるだろう。しかし、国家という政治体、すなわち諸国家社会の中で自立し、戦争や交渉において他国と様々な取引をしなければならない国家に生じる損害と比較すれば、それは取るに足らないものである。国家にとっての害悪は純粋で混じりけのないものであり、それを償うような有利な状況は一切ない。そして、それはまた、最も重大かつ重大な性質の害悪である。

実際、債務によって国民が弱体化することはないと言われてきました。債務のほとんどは国民同士で負担するものであり、互いに奪うのと同じくらい多くの財産を国民にもたらすからです。これは、右手から左手へお金を移すようなもので、その人が以前より裕福にも貧しくもなることはありません。このようないい加減な推論や見せかけの比較は、原則に基づいて判断しないところでは常に通用します。私は問います。物事の本質において、たとえ君主が国民の中にいるとしても、税金で国民に過重な負担をかけることは可能なのでしょうか?あらゆる国家において、その勤勉な部分と怠惰な部分の間に一定の割合を保つことが不可欠であるため、この疑問自体が行き過ぎに思えます。しかし、現在の税金をすべて抵当に入れるなら、新たな税金を創設しなければならないのではないでしょうか?そして、この問題は破滅的で破壊的な方向に進んでしまうのではないでしょうか?

どの国にも、人々の生活様式や彼らが利用する商品に合致した、他の方法よりも容易な課税方法がある。英国では、麦芽とビールへの物品税が非常に大きな効果をもたらしている。{p90} 麦芽製造と醸造の作業は非常に面倒で、隠すことも不可能であるため、歳入は莫大です。同時に、これらの商品は生活にそれほど不可欠なものではないため、価格が上昇すれば貧困層に大きな打撃を与えるでしょう。これらの税金はすべて抵当に入れられているため、新たな税金を見つけるのはどれほど困難でしょう。貧困層にとってどれほどの苦悩と破滅でしょう。

消費に対する課税は、所有物に対する課税よりも平等で容易です。消費税が尽きてしまい、より厳しい課税方法である税金に頼らざるを得なくなるのは、国民にとってなんと大きな損失でしょう。

土地所有者は皆、公衆に対する単なる管理人であったならば、所有者の不在や怠慢により調査から保護されるような、管理人が用いるあらゆる抑圧の技術を、必然的に彼らに実行させなければならないのではないだろうか。

国債に上限を設けるべきではない、あるいは、現在の関税や物品税に加え、1ポンドあたり12シリングか15シリングの地代を抵当に入れたとしても国民が弱体化することはない、などと主張する人はほとんどいないだろう。したがって、この件には、単に財産を一方から他方へ移転させる以上の意味がある。500年後には、現在馬車に乗っている人々や客車に乗っている人々の子孫は、おそらくこれらの革命によって国民が影響を受けることなく、立場が入れ替わっているだろう。

国民がかつて、今驚くべき速さで陥りつつある状況に至ったとしよう。土地に1ポンドあたり18シリングか19シリングの税金が課せられたとしよう(土地は20シリング全額を負担することはできない)。すべての物品税と関税が、商業と産業を完全に失うことなく国家が耐えられる限界まで引き上げられたとしよう。そして、これらの資金がすべて永久に抵当に入れられ、すべての計画者の創意工夫と知恵をもってしても、新たな融資の基盤となり得る新たな課税手段を見つけられないとしよう。そして、この状況の必然的な帰結を考えてみよう。我々の政治知識の不完全さと人間の狭い能力のために、その影響を予測することは困難ではあるが、{p91} いかなる未試行の措置からも生じるであろう破滅の種子は、ここでは最も不注意な観察者の目から逃れられないほど大量に散りばめられている。

この不自然な社会状態において、自らの勤労の直接的な効果を超える収入を有するのは株主のみであり、彼らは関税や消費税の収入に加え、土地や家屋の家賃のほぼ全額を受け取っている。彼らは国家に縁故がなく、世界のどこに住もうと、そこで収入を享受できる。当然、首都や大都市に身を隠し、気力も野心も享楽もなく、愚かで甘やかされた贅沢の無気力に浸ることになる。貴族、ジェントリ、家柄といった概念はすべてさよならだ。株式は瞬時に移転し、その変動性ゆえに父から子へ三世代にわたって継承されることは稀である。仮に一つの家に長く留まったとしても、所有者に世襲権や信用を与えることはない。これにより、自然の手によって国家に設立された、いわば独立した行政機関を形成する個々の階級は完全に失われ、権力を持つすべての者は君主の委任のみによって影響力を得るようになる。反乱を防止または鎮圧するための手段は傭兵軍以外には残らず、専制政治に抵抗するための手段は全く残らず、選挙は賄賂と汚職のみによって左右される。国王と人民の間の中間権力は完全に排除され、恐ろしい専制政治が必ず蔓延する。貧困ゆえに軽蔑され、抑圧ゆえに憎悪される地主たちは、これに全く抵抗することができなくなる。

たとえ立法府が商業を害し産業を阻害するような税を決して課さないという決議を採択したとしても、これほど繊細な問題においては、決して誤らないように正しく推論することは不可能であり、また、これほど切迫した困難に直面している状況においては、その決議から決して逸脱しないということは不可能である。商業の絶え間ない変動は、税の性質を絶えず変化させることを必要とし、立法府は刻々と変化に直面することになる。{p92} 故意の誤りと不本意な誤りの両方の危険があり、無分別な税金かその他の偶然かを問わず、貿易に大きな打撃を与えると、政府のシステム全体が混乱に陥る。

しかし、たとえ貿易が最も繁栄し続けると仮定したとしても、国民は今、外国での戦争や事業を支援し、自国や同盟国の名誉と利益を守るために、どのような手段に頼るべきなのでしょうか? 国民が、近年の戦争において維持してきたような途方もない力を、どのように発揮すべきか、私は問いません。近年の戦争において、我々は自国の自然力だけでなく、大国の力さえもはるかに超えてきました。この浪費こそが、現在我々が直面しているあらゆる危険の源泉であると非難されているのです。しかし、あらゆる資金を抵当に入れた後でも、依然として大きな商業と富が存続すると想定しなければならないのであれば、それらの富は相応の力によって守られなければなりません。では、国民はそれを支える収入をどこから得るべきなのでしょうか?それは明らかに年金受給者に対する継続的な課税、あるいは同じことであるが、あらゆる緊急事態において年金の一部を新たに抵当に入れ、こうして年金受給者に自らの防衛と国家の防衛に貢献させることから生じているに違いない。しかし、国王が絶対的な支配者になったと仮定しても、あるいは年金受給者自身が必然的に主要な影響力を持たなければならない国民評議会によって依然として統制されていると仮定しても、この政策体系に伴う困難は容易に明らかになるであろう。

君主が絶対的な権力を持つようになれば、この状況から当然予想されるように、年金受給者への徴収を強めることは容易であり、それは君主自身の手中に留保された金銭に過ぎず、この種の財産はすぐにその信用を失い、国家におけるすべての個人の収入はすべて君主の慈悲に委ねられることになる。これは東洋のどの君主制も未だ達成したことのないレベルの専制である。逆に、年金受給者の同意があらゆる課税に必要となるならば、彼らは政府を支えるためにさえ十分な貢献をすることは決してないだろう。{p93} その場合、歳入の減少は極めて妥当なものでなければならず、消費税や関税といった部門の体裁に隠蔽されることはなく、既に最大限の課税を受けているはずの国家の他の部門に配分されることもない。一部の共和国では、100分の1ペニー、時には50分の1ペニーが国家維持のために支給されている例もあるが、これは常に異常な権力の行使であり、決して恒久的な国家防衛の基盤にはなり得ない。政府が歳入のすべてを抵当に入れた場合、必然的に衰弱、無活動、無力の状態に陥るということを我々は常に経験してきた。

これらは、英国が明らかに陥りつつあるこの状況から合理的に予見できる不都合である。大臣や計画者の豊かな想像力が発明することのできたあらゆる種類の関税や消費税を国民に課し、さらに国民を土地の唯一の所有者にするという恐ろしい状況から、予見できない無数の不都合が必ず生じることは言うまでもない。

公債に関して、長年の慣習から生じた奇妙な怠惰があらゆる階層の人々に蔓延していることを告白せざるを得ない。これは、神学者たちが自らの教義に関して激しく訴えるのとよく似ている。最も楽観的な想像力をもってしても、今度の内閣も将来の内閣も、債務返済に相当な進展をもたらすほどの厳格で着実な倹約家となることは期待できないし、外交情勢が長期間にわたり、そのような事業に余裕と平穏をもたらすとは考えられない。[30] では、我々はどうなるのだろうか?たとえ我々がどれほど善良なキリスト教徒であり、どれほど神の摂理に身を委ねていたとしても、これは奇妙なことだったと思う。{p94} たとえそれが推測的なものとみなされたとしても、そして何らかの推測的な解決策を導き出すことが全く不可能ではないかもしれないこと。ここで起こる出来事は、戦闘、交渉、陰謀、派閥といった偶然性にはほとんど左右されないだろう。物事には自然な流れがあり、それが私たちの推論を導くように思われる。私たちがこの抵当権設定の慣行を始めた当初、人間や大臣の性質から、事態が必然的に私たちが見ているところまで進むことを予見するには、ある程度の慎重ささえ必要だっただろう。そして今、ついにめでたく事態がそこまで到達したので、その結果を推測することは難しくないかもしれない。実際、結果は次の2つのいずれかであるに違いない。国家が公的信用を破壊するか、公的信用が国家を破壊するかだ。この国でも他の国でも、これまでのやり方で両方が維持されることは不可能だ。

30年以上も前に、優れた市民ハッチンソン氏によって提案された債務返済計画がありました。これは一部の良識ある人々から大いに支持されましたが、実現の可能性は低いものでした。彼は、国民がこの債務を負っていると考えるのは誤りだと主張しました。なぜなら、実際にはすべての個人が債務の比例配分を負っており、税金として、課税費用に加えて利息の比例配分を支払っているからです。それなら、債務を我々の間で比例配分し、各自が自分の財産に応じた金額を拠出すれば、すべての資金と公的抵当を即座に返済できるのではないか、と彼は言いました。彼は、勤勉な貧困層が、必要な金額の比例配分をすぐに前払いすることはできないとしても、毎年の消費によってかなりの税金を支払っていることを考慮していないようです。言うまでもなく、現金や取引資産は…{p95} 簡単に隠したり偽装したりすることができ、土地や家屋といった目に見える財産が最終的に全体の責任を負うことになるだろう。これは決して受け入れられることのない不平等と抑圧である。しかし、この計画が実現する可能性は低いとはいえ、国民が負債に心底うんざりし、残酷な抑圧に苦しめられた時、大胆な計画家が現れて、負債の返済のための空想的な計画を企てる可能性は、全くあり得ないわけではない。そして、その頃には公的信用は弱まり始めており、フランスで起こったように、わずかな接触でそれを破壊してしまうだろう。そして、このようにして、公的信用は医者にかかって死んでしまうだろう。[31]

しかし、国民の信頼が損なわれるのは、戦争、敗北、不幸、公害、あるいは勝利や征服の必然的な結果である可能性の方が高い。正直に言って、君主や国家が負債、資金、公的抵当を抱えながら争い、口論しているのを見ると、いつも陶器店での棍棒遊びを思い出す。君主が、自らにとっても公にとっても有害な財産を惜しまないなどと期待できるだろうか。双方にとって有益な生命や財産にこれほど同情心がないのに。その年の緊急事態に備えて新たに創設された基金が募金されず、予定された資金が集まらない時が来ることを(そして必ず来るだろう)。国の現金が底を尽きたとしよう。あるいは、これまで非常に堅固であった我々の信頼が、もはや失われてしまったとしよう。{p96} 潤沢な資金が尽きかけている。このような苦境にあって、国が侵略の脅威にさらされている、国内で反乱の疑いや勃発が起きている、給与や食糧や修理の不足で艦隊を編成できない、あるいは外国からの補助金さえも支給できないといった事態を想定してみよう。このような非常時に君主や大臣は何をなすべきだろうか。自己保存の権利はあらゆる個人にとって不可侵であり、ましてやあらゆる社会においてはなおさらである。そうなると、わが国の政治家の愚かさは、最初に借金をした者の愚かさよりも、ましてや、この安全を信頼し、あるいは信頼し続け、しかも政治家が安全の手段を手にしながらそれを活用しないという愚かさよりも、さらに大きいものとなるに違いない。創出され抵当に入れられた資金は、その時までに多額の年間収入をもたらし、国の防衛と安全保障に十分なものとなるだろう。おそらく国庫には四半期ごとの利息の支払いに備えて金が眠っているだろう。必要が呼びかけ、恐怖が促し、理性が促し、ただ同情だけが叫ぶ。現在のサービスのために資金は直ちに差し押さえられるだろう。おそらく、即座に交代させるという最も厳粛な抗議の下で。しかし、それ以上のことは必要ない。すでに揺らぎ始めた社会構造全体が地面に崩れ落ち、何千人もの人々が廃墟に埋もれる。そして、これは公的信用の自然死と呼べるだろう。なぜなら、この時期まで、公的信用は動物の体のように自然に崩壊し、消滅していくからである。[32]{p97}

上記で想定した二つの出来事は悲惨ではあるが、最も悲惨なものではない。数千人が数百万人の安全のために犠牲になるが、逆の事態が起こり、数千人の一時的な安全のために数百万人が永遠に犠牲になるという危険がないわけではない。[33] 我々の民衆による政府は、おそらく大臣が自主破産のような絶望的な手段に出るのを困難にしたり危険にさらしたりするだろう。貴族院は土地所有者によって構成され、庶民院は{p98} 主として、したがってどちらも基金に大きな財産を持っているとは考えられないが、構成員と所有者とのつながりが強すぎて、分別、政策、あるいは厳密に言えば正義でさえ求められる以上に、公の信頼に固執するようになるかもしれない。そしておそらく、我々の外敵、いやむしろ敵(我々が恐れるべきはただ一つしかないのだから)は、我々の安全が絶望的であることに気づくほど政治的であり、危険が避けられないまで公然と露骨に示さないかもしれない。ヨーロッパにおける勢力均衡は、我々の祖父、父、そして我々全員が、我々の注意と援助なしには維持できないほど不平等であると正当に判断してきた。しかし、闘争に疲れ、負担に縛られた我々の子供たちは、安心して座り込み、隣人が抑圧され征服されるのを目の当たりにし、ついには彼ら自身も債権者も征服者の慈悲に委ねられることになるかもしれない。そして、これはまさに、我が国の公的信用の暴力的な死と呼ぶべきものであろう。

これらは、それほど遠くない未来に起こる出来事のように思えます。理性は、時の胎内に潜むあらゆる出来事を、ほとんど理性と同じくらい明確に予見するのです。古代の人々は、予言の力を得るには、ある種の神の怒り、あるいは狂気が必要だったと主張しましたが、このような予言を成就させるには、ただ正気を保ち、世間の狂気や妄想の影響を受けずにいるだけで十分だと断言できます。

公的信用の債券。
27貿易収支に関する エッセイ。

28 プルトニウム『アレキサンダー伝』より。彼はこれらの財宝の総額を8万タラント、つまり約1500万スターリングとしている。クィントゥス・クルティウス(『アレクサンドロス伝』5巻第2章)は、アレクサンドロスがスーサで5万タラント以上を発見したと述べている。

29 メロン、デュ・トット、法律、フランスで出版されたパンフレットより。

30 平和で安全な時代、借金を返済できるのは自分たちだけである時、金持ちは部分的な支払いを嫌がり、それをどう有利に処分すればよいか分からない。また、地主は、そのために必要な税金の支払いを続けることを嫌がる。それなのに、なぜ大臣はすべての党派にとってこれほど不愉快な措置を続けるのだろうか?おそらく、それは彼が決して見ることのない子孫のためか、あるいは、おそらくイングランドで最も小さな自治区を彼に確保することさえできないであろう、少数の分別があり思慮深い人々のためだろう。これほどひどい政治家は、今後ほとんど見つからないだろう。こうした狭量で破壊的な政治の格言に関しては、どの大臣も十分に熟知している。

31 近隣諸国の中には、公的債務を軽減するための安易な手段を講じているところもある。フランスには(かつてローマ人がそうであったように)貨幣を増やす習慣があり、国民はこの習慣に深く馴染んでいるため、たとえ勅令によって債務の一部を即時に削減したとしても、公的信用は損なわれない。オランダ人は債権者の同意なしに利息を減額する。あるいは、同じことだが、他の財産と同様に、資金にも恣意的に課税する。もし我々がこれらの方法のいずれかを実践することができれば、国債に圧迫されることはない。そして、これらの方法、あるいは他の方法を、我々の負担と困難を増大させることを目的に、どんな冒険でも試みることは不可能ではない。しかし、この国の人々は自国の利益に関わるあらゆることについて非常に賢明な判断を下すので、このような慣行は誰も欺くことはなく、このような危険な試みによって公的信用はすぐに崩壊するだろう。

32 人類一般はあまりにも騙されやすいので、イギリスの自主破産が公的な信用に甚大な打撃を与えたとしても、信用が以前ほど繁栄した状態で再び回復するまでには、おそらくそれほど時間はかからないだろう。フランス国王は先の戦争中、祖父が借りたよりも低い金利で、両王国の自然利子率を比較してもイギリス議会と同じくらい低い金利で借金をした。そして、人は一般的に、どれほど確実にでも予見したものよりも、実際に見たものによって左右されるが、約束、抗議、見栄え、そして目先の利子の誘惑は、非常に強力な影響力を持っており、抵抗できる者はほとんどいない。人類はいつの時代も同じ餌に捕らえられる。何度も繰り返される同じ策略が、依然として彼らを食い物にしている。人気と愛国心の高さは、依然として権力と専制への、おべっかは裏切りへの、常備軍は専制政治への、踏みつけられた道である。神の栄光は聖職者の現世の利益に向けられ、信用が永久に破壊されるという恐怖は、それが悪であると認めれば、不必要な恐怖となる。実際、賢明な人間は、人々が借金に溺れた直後に貸し出す方が、その時点で貸し出すよりも好ましいと考える。裕福な悪党は、たとえ返済を強制することができなくても、正直な破産者よりも好ましい債務者であるのと同様である。なぜなら、前者は事業を営むために、法外な額でない限り、借金を返済することが利益となるかもしれないからである。後者にはそれができないのである。タキトゥスの推論 ( Hist. lib. 3) は、永遠に真実であるため、現在のケースに非常に当てはまります。有力者よ。」国民は債務者であり、誰も支払う義務を負うことはできません。債権者が持つ唯一の小切手は、信用を維持するための利息です。たとえその信用が回収不可能だったとしても、非常に多額の負債や、困難かつ異常な事態の出現によって、利息は簡単にオーバーバランスになる可能性があります。言うまでもなく、現在の必要性により、厳密に言えば国家の利益に反する措置を国家に強いることが多い。

33 国民の債権者は、国内・外国人合わせてわずか1万7千人程度と算定されていると聞きました。彼らは現在、収入から見てある程度の数字を計上していますが、公的破産となれば、たちまち国民の中で最も低く、最も悲惨な立場に置かれるでしょう。地主階級や貴族階級の威厳と権威ははるかに確固たるものであり、もしそのような状況に陥った場合、争いは極めて不公平なものとなるでしょう。もし我々の父祖たちのこの種の予言が、我々の公的信用が予想をはるかに超えて長きにわたって存続してきたことから既に誤りであることが証明されていなければ、この出来事は半世紀といったごく近い時期に起こると考えたでしょう。フランスの占星術師たちが毎年アンリ4世の死を予言していた時、「あの連中はついに正しかったに違いない」と彼は言いました。したがって、私たちは正確な日付を指定するよりも慎重になり、出来事の概要を指摘するだけで満足するでしょう。

いくつかの注目すべき習慣について。
私は、3つの有名な政府における3つの注目すべき習慣を観察し、全体から、政治におけるすべての一般的な格言は、非常に慎重に確立されるべきであり、道徳的にも不規則で異常な現象が頻繁に見られるという結論を導きます。{p99} 物理世界の場合も同様です。前者については、誰もが内在する源泉や原理、あるいは明白な観察から得られる最も強い確信と確信によって、発生後にはより適切に説明できるかもしれません。しかし、人間の思慮深さをもって事前に予見し、予言することは、しばしば全く不可能です。

  1. 議論を行うあらゆる最高評議会や議会において、すべての議員に完全な言論の自由が与えられ、審議中の論点を何らかの形で説明しうる動議や論証はすべて受け入れられるべきであると考える人もいるだろう。そして、立法権が委ねられている議会で動議が提出され、投票で承認された後、動議を提出した議員は永久に裁判や調査から免除されるべきだと、さらに確信を持って結論付ける人もいるだろう。しかし、少なくとも下級の司法権から議員を保護すべきであり、その後の会合において、同じ最高立法議会が、以前に承認した動議や演説について議員に責任を負わせることができるのは、この最高立法議会以外にはない、という政治的格言ほど、一見すると議論の余地のないものはないだろう。しかし、これらの格言は、いかに揺るぎないものに見えても、アテネ政府においては、ほとんど必然的に思える原因と原則によって、すべて失敗に終わった。

γραφη παρανομων、つまり「違法性の告発」(ただし、古物研究家や評論家は言及していない)によって、民衆の集会で動議として可決された法律が、裁判所にとって不当または公衆に不利益となると判断された場合、誰でも一般裁判所で裁判にかけられ、処罰された。デモステネスは、船舶税が不規則に徴収され、ガレー船の整備において貧乏人も富裕層と同じ負担を負っていることに気づき、この不平等を是正するために非常に有用な法律を制定した。この法律は、各個人の収入と収入に応じて費用を比例配分するものである。彼は民衆にこの法律を動議し、その利点を証明し、​[34 ]{p100} アテネ唯一の立法府である民衆を説得し、その法律は可決され、執行された。しかし、財政に彼がもたらした変更に憤慨した富裕層の訴えにより、彼はその法律をめぐって刑事裁判にかけられた。しかし、彼は自らの法律の有用性を改めて証明したことで、無罪放免となった。

クテシフォンは民会において、デモステネスに国家に愛情深く有用な市民として特別な栄誉を与えるよう動議を提出した。民衆はこの真実を確信し、その栄誉に投票した。しかし、クテシフォンはγραφη παρανομωνによって裁かれた。他の論点に加え、デモステネスは良き市民ではなく、国家に愛情深くもないと主張された。弁論家のクテシフォンは友人、ひいては自らを弁護するよう求められ、その崇高な雄弁によってその弁護を果たした。その雄弁は、以来人類の称賛の的となっている。

カイロネイアの戦いの後、ヒュペリデスの提案により、奴隷に解放を与え、軍隊に入隊させる法律が制定された。[35] この法律のため、弁論家は後に前述の起訴​​状によって裁判にかけられ、プルタルコスとロンギヌスが称賛したあの弁論術によって自らを弁護した。「この法律を支持したのは私ではない」と彼は言った。「戦争の必要性、そしてカイロネイアの戦いだったのだ。」デモステネスの弁論には、この種の裁判の例が数多く記されており、これほど一般的に行われていたものはなかったことを明確に証明している。

アテネの民主政は、現代においてはほとんど想像もできないほどの激動の政治体制でした。民衆全体が、財産の制限、身分の区別、いかなる支配もなしに、あらゆる法律を投票で決定しました。{p101} 行政官制や元老院の権威を失墜させ 、結果として秩序、正義、思慮分別を軽視するようになった。アテネ人はすぐにこの憲法に伴う弊害に気づいたが、いかなる規則や制限によっても自らを抑制することを嫌ったため、少なくとも扇動家や顧問を将来の処罰や調査への恐怖によって抑制しようと決意した。こうして彼らはこの注目すべき法を制定した。この法は彼らの統治にとって極めて不可欠とみなされ、アイスキネスはこれを周知の事実として主張している。もしこの法が廃止されたり無視されたりすれば、民主主義は存続不可能となるであろう。[37]

民衆は刑事裁判所の権威によって自由が損なわれることを恐れていなかった。なぜなら、刑事裁判所は民衆の中からくじで選ばれた多数の陪審員に過ぎなかったからだ。彼らは正当に自分たちを永遠の弟子の立場にあると考えていた。理性を働かせるようになれば、決定を撤回したり統制したりする権限を持つだけでなく、説得によって受け入れた措置に対して後見人を罰する権限も持つのだ。テーベでも同じ法律が施行されていたが、その理由は同じだった。

アテネでは、非常に有用で人気があるとみなされる法律が制定されると、その廃止や撤回を永久に禁じるのが常套手段だったようだ。例えば、すべての公益事業を興行や見世物に流用した扇動家は、この法律の廃止を求める動議を提出すること自体を犯罪とみなした。例えば、レプティネスは、かつて認められていたすべての免除を取り消すだけでなく、今後、民衆から免除を与える権利を剥奪する法律の制定を動議した。このように、すべての冤罪法案、あるいはアテネ人一人に何の影響も及ぼさない法律は禁止された。{p102} 連邦全体に及ぶ。立法府が自らを永遠に縛ろうと無駄に試みたこれらの不条理な条項は、人々の軽薄さと不安定さに対する普遍的な認識から生じたものである。

II. ドイツ帝国に見られるような、車輪の中に車輪があるという状況は、シャフツベリー卿[38]によって 政治における不条理とみなされている。しかし、同一の政治機構を、相互の抑制、統制、従属なしに統治し、なおかつ最大限の調和と調和を保つ、二つの対等な車輪については、何と言えば良いだろうか。それぞれが自らの中に完全かつ絶対的な権限を有し、その行為の正当性を与えるために他方の援助を必要としない、二つの異なる立法府を設立することは、人々がこれまで主要な統治原理となってきた野心、競争心、貪欲といった情熱に突き動かされている限り、事前には全く実行不可能に思えるかもしれない。そして、私が見ている国家が二つの異なる派閥に分かれ、それぞれが別々の立法府で優勢を占めていたにもかかわらず、これらの独立した権力に衝突が生じなかったと私が主張するならば、その仮定はほとんど信じ難いものとなるだろう。そして、もしこの矛盾をさらに深めるために、この支離滅裂で不規則な政府が、これまで世界の舞台に登場した中で最も活発で、勝利に満ち、輝かしい国家であったと断言するならば、そのような政治的空想は詩人たちの空想と同じくらい馬鹿げていると言われるに違いない。しかし、前述の仮定の真実性を証明するために長く探求する必要はない。なぜなら、ローマ共和国は実際にそうであったからだ。

立法権は、百人一首(comitia centuriata)と貢物一首(comitia tributa)に委ねられていた。前者では、周知のように、人々は国勢調査に基づいて投票を行った。そのため、最初の投票が全員一致で可決されれば、たとえそれが国家の百分の一にも満たなかったとしても、全体を決定し、元老院の権威をもって法律を制定した。後者では、すべての投票は平等であり、{p103} 元老院の権威はそこには必要ではなく、下層民衆が完全に優勢となり、国家全体に法律を制定した。最初は貴族と平民の間で、後に貴族と民衆の間で、すべての政党対立において、最初の立法府では貴族の利益が、2番目の立法府では民主政の利益が優勢であった。一方は常に他方が確立したものを破壊することができた。いや、突然の予期せぬ動きで他方の発議を奪い、憲法の性質上法律と同等の権限を持つ投票によってライバルを完全に壊滅させることもできた。しかし、ローマの歴史においてそのような争いや闘争は記録されていない。これら2つの立法府の間で争いが起きた例はないが、それぞれの立法府を統治する政党間の争いは数多くある。これほど異常に見えるかもしれないこの調和はどこから生まれたのだろうか。

セルウィウス・トゥッリウスの権威によってローマに設立された立法府は、百人隊(コミティア・ケントゥリアータ)であり、国王追放後、しばらくの間、政府は完全に貴族制に移行した。しかし、民衆は数と勢力に恵まれ、度重なる征服と対外戦争での勝利に有頂天になっていたため、窮地に陥ると常に優勢に立ち、まず元老院から護民官の権力を、次いで護民官の立法権を奪い取った。そのため、貴族たちは民衆を刺激しないよう、これまで以上に慎重になるべきであった。民衆が常に有していた力に加え、今や彼らは法的権威も掌握し、自分たちに真っ向から反対するいかなる秩序や制度も即座に粉砕することができたからである。貴族たちは、陰謀、影響力、金銭、結託、そして彼らの人格への敬意によって、しばしば支配権を握り、統治機構全体を統制することができた。しかし、彼らが百人隊(comitia centuriata)を貢納者(tributa)と公然と対立させた場合、彼らはすぐにその制度の利点、そしてそこから選出された執政官、法務官、執政官、そしてすべての政務官を失った。しかし、貢納者(comitia tributa)は百人隊を尊重する理由がないため、貴族に有利な法律を頻繁に廃止し、貴族の権威を制限した。{p104} 百人隊長は貴族を抑圧から守り、民衆を抑圧から守り、元老院と行政官の行動を統制した。百人隊長は 常に服従するのが都合が良いと考えていた。権威は同等であったものの、権力は劣っていたため、他の立法府の法律を廃止したり、すぐに廃止されるであろう法律を制定したりして、他の立法府に直接衝撃を与えるようなことは決してしなかった。

これらのコミティア間に対立や争いがあった例は、アッピアノスが『内戦記』第 3 巻で言及しているようなわずかな試みを除いては、見当たらない。マルクス アントニウスは、デキムス ブルートゥスからガリア キサルピナの統治権を剥奪しようと決意し、フォルムで罵倒し、元老院の命令でもう一方のコミティアの会合を妨害するために、一方のコミティアを招集した。しかし、当時は事態が混乱し、ローマ憲法も最終的な解体に近づいていたため、このような方策からは何の推論も得られなかった。しかも、この争いは党派心よりも形式に根ざしていた。元老院は、憲法、あるいは少なくとも統治形式によって、属州を処分できる唯一の権限を持つセンチュリアータの会合を妨害するために、コミティア トリビュータに命令を出したのである。

キケロは、トリブタ、すなわちプレビシトゥムによって追放されたものの、コミティア・センチュリアータによって召還された。しかし、我々が指摘するように、彼の追放は、民衆の自由な選択と意向から生じた法的行為とは決してみなされなかった。それは常に、クロディウスの暴力と、彼が政治にもたらした混乱のみに起因するものとされた。

Ⅲ 我々が遵守しようと提案した第三の慣習はイングランドに関するものであり、アテネやローマで指摘した慣習ほど重要ではないものの、同様に特異で注目すべきものである。これは政治における格言であり、議論の余地なく普遍的なものとして我々が容易に認めるものである。それは、高位の行政官に法律によって与えられた権力がいかに大きくとも、暴力や横領によって獲得した権力がいかに大きくとも、自由にとってそれほど危険ではないということである。なぜなら、法律は常にあらゆる権利を制限するからである。{p105} 国王が授ける権力は、それを譲歩として受け取ること自体が、その由来する権威を確立し、憲法の調和を保つことに繋がる。ある特権が法律に基づかずに行使されるのと同じ権利によって、別の特権も主張でき、しかも別の特権はより容易に主張できる。最初の権利侵害は、その後の権利侵害の前例となり、それを維持する力を与える。だからこそ、議会によって課されない20シリングの税金を支払うよりも、国王による迫害の暴力に耐え抜いたハムデンの英雄的行為が生まれたのである。だからこそ、すべてのイングランド愛国者は国王による最初の侵害に備えようと心掛け、だからこそ、今日に至るまでイングランドに自由が存在するのである。

しかしながら、議会がこの原則から逸脱した事例が一つあります。それは船員への圧力です。違法な権力の行使は、ここでは国王によって暗黙のうちに認められており、この権力を合法化し、適切な制限の下で君主に付与する方法がしばしば議論されてきましたが、その目的のための安全な手段は提案されることはなく、自由に対する危険は、常に法によるものの方が簒奪によるものよりも大きいように思われました。この権力が人員確保以外の目的で行使されない間、海軍の兵士たちはその有用性と必要性​​を認識し、喜んで従います。そして、この権力の影響を受ける唯一の水兵たちは、法律がすべての英国民に区別なく付与している権利と特権を主張する上で、誰からも支持を得ることができません。しかし、もしこの権力が党派や大臣の専制政治の道具とされたならば、反対派、そして実際にはすべての愛国者は、直ちに警戒し、被害を受けた側を支持するでしょう。英国人の自由は主張されるでしょう。陪審員は容赦なく、法と衡平に反する暴政の道具は最も厳しい報復を受けるだろう。一方、議会がそのような権限を与えた場合、おそらく次の二つの不都合のいずれかに陥るだろう。すなわち、あまりにも多くの制限を課して王権を圧迫し、その効果を失わせるか、あるいは、あまりにも大規模かつ包括的な権限を与えて、議会が異議を唱える必要が生じるかのどちらかである。{p106} 重大な濫用につながる可能性があり、その場合、私たちには救済策がない。現在、権力の違法性そのものが、その濫用を容易に防いでいる。

この論理によって、自由を脅かすことなく海軍に人員を配置できるような船員登録簿の考案の可能性を完全に排除するつもりはありません。ただ、そのような満足のいく計画はまだ提案されていないことを指摘するだけです。これまで考案されたいかなる計画も採用せず、私たちは一見すると最も不合理で説明のつかない慣行を続けています。権力は、国内が完全に平和で調和している時代に、法に対抗する武器を握っています。国民の最大の嫉妬と警戒心の中で、王権の継続的かつ公然たる簒奪が容認されています。いや、まさにこうした原則から生じる結果、自由は、最も自由度の高い国において、いかなる容認も保護も受けることなく、完全に自力で守られるに任されています。人類で最も文明化された社会の一つにおいて、荒々しい自然状態が復活し、最も人間的で善良な人々の間で、大きな暴力と無秩序が、罰されることなく犯されています。一方は最高権力者への服従を主張し、他方は基本法の承認を主張する。

いくつかの注目すべき習慣についてのメモ。
34 それに対する彼の発言は今も残っている: περι Συμμοριας。

35 プルタルコス『弁論術十二部録』。デモステネスはこの法律について異なる説明をしている(『アリストギトン論』第二章)。彼は、その目的は、職務遂行能力を失っていた者たちに、職務遂行の特権を回復すること、すなわち、職務遂行能力を失った者たちに職務遂行の特権を回復することであったと述べている。おそらくこれらは両方とも、同一の法律の条項であったのだろう。

36 ビーンの元老院は民衆の中からくじで選ばれた少数の群衆にすぎず、その権威は大きくなかった。

37 クテシフォンテムにおいて、クリティアスと三十人による民主制の解体後の最初の措置が、デモステネスの『カプセノス・ティカ』から学ぶように、γραφη παρανομωνの無効化であったことは注目に値する。この演説の演説者は、γραφη παρανομωνを確立する法の言葉を私たちに示している(アルディ編 、p. 297 )。そして彼は、ここで私たちが論じているのと同じ原理からそれを説明している。

38 機知とユーモアの自由に関するエッセイ、第3部、§2。

古代国家の人口について。[39]
理性的にも経験的にも、宇宙が永遠であり不滅であると結論付ける根拠はほとんどない。物質の絶え間ない急速な運動、あらゆる部分が激しく揺さぶられる回転、そして宇宙に見られる変化は、{p107} 天空に見られる明白な痕跡、そして宇宙規模の大洪水の伝承――これらすべては、この世界の構造が死すべきものであり、腐敗あるいは崩壊によって、ある状態あるいは秩序から別の状態あるいは秩序へと移り変わることを強く証明している。したがって、世界は、それを構成する個々の形態と同様に、幼年期、青年期、成年期、そして老年期を経るに違いない。そして、人間も、あらゆる動物や植物と同様に、こうしたあらゆる変化にあずかるであろう。世界の繁栄の時代においては、人類は心身ともに活力に満ち、より豊かな健康状態、高潔な精神、より長い寿命、そしてより強い生殖意欲と力を持つであろうと期待される。しかし、もし万物の全体的体系、そしてもちろん人間社会に、そのような緩やかな変化があるとすれば、それは歴史と伝承によって把握される短い期間においては、あまりにも緩やかなものである。体格や体力、寿命の長さ、さらには勇気や才能の程度さえも、これまではどの時代においても自然にほぼ同等であったように思われる。確かに、芸術や科学はある時代に栄え、別の時代に衰退した。しかし、ある民族の間で最も完成された水準に達した当時は、おそらく近隣諸国には全く知られていなかったであろうし、ある時代には普遍的に衰退したにもかかわらず、次の世代には再び復活し、世界中に広まったことを我々は観察することができる。したがって、観察の及ぶ限り、人類には普遍的な差異は見出せない。{p108} 宇宙が動物の体のように幼少期から老年期へと自然に進行することを認めたとしても、現時点でそれが完成点に向かって進んでいるのか、それともそこから衰退しているのかはまだ不確かであるので、そこから人間の本性の衰退を前提とすることはできない。[40] したがって、古代の人口の多さを世界の想像上の若さや活力で証明したり説明したりすることは、正当な論者ならほとんど認めないであろう。これらの一般的な物理的原因は、その問題から完全に除外されるべきである。

確かに、より特殊な、非常に重要な身体的原因がいくつかあります。現代医学ではほとんど知られていない病気が古代に記録されており、古代史に痕跡のない新しい病気が出現し、蔓延してきました。そして、この点に関しては、比較すると、現代人が非常に不利な立場にあることがわかります。それほど重要ではない他の病気は言うまでもありませんが、天然痘は、古代に帰せられる大きな優位性をほぼ単独で説明できるほどの猛威を振るっています。世代ごとに人類の10分の1、あるいは12分の1が死滅することは、人口に大きな変化をもたらすと考えられます。そして、あらゆる場所に蔓延する新たな疫病である性病と相まって、この病気は、その絶え間ない作用によって、人類の三大災厄、戦争、疫病、飢饉に匹敵すると言えるかもしれません。したがって、もし古代の人口が現在よりも多かったことが確かであり、これほど大きな変化の原因を道徳的に特定できなかったとしても、多くの人の意見では、これらの物理的原因だけで、その点については満足感を与えるのに十分であろう。{p109}

しかし、古代の人口が主張されているほど多かったというのは、本当に確かなのだろうか? フォッシウスがこの件に関して突飛な主張をしていること自体は周知の事実である。しかし、はるかに優れた才能と洞察力を持つある著述家が、これらのテーマに関して可能な限りの最良の計算によれば、現在地球上にはユリウス・カエサルの時代に存在した人類の50分の1にも満たない、と断言している。たとえ古代史の舞台をヨーロッパと地中海沿岸諸国に限定したとしても、この場合の比較は非常に不完全なものとなることは容易に指摘できるだろう。現在、ヨーロッパのどの王国、いや都市の人口さえも正確には分かっていない。歴史家が残した痕跡が不完全な古代の都市や国家の人口を、どうして計算できるというのだろうか?私としては、この問題はあまりにも不確かなように思われるため、この点について考察をまとめるにあたり、原因に関する考察と事実に関する考察を混同することにする。事実がある程度確実に確認できる場合には、後者の考察は決して認めるべきではない。まず、両時代の社会状況に関する知見から、古代の方が人口が多かったと言えるかどうか、そして実際にそうであったかどうかを検討する。もし、結論が古代に有利であると主張されているほど確実ではないことを示せれば、それが私の目指す全てである。

一般的に、時代や王国の人口の相対的な多さに関する問題は、非常に重要な帰結を伴い、その国の警察全体の選好、習慣、そして統治体制を決定づけるものであると言えるでしょう。なぜなら、男女を問わず、すべての人間には、普遍的に発揮されるよりも活発な生殖の欲求と力があるため、彼らが直面する制約は、彼らの置かれた状況における何らかの困難から生じているに違いなく、賢明な立法府はそれを注意深く観察し、排除する義務があるからです。家族を養えると考えるほぼすべての人間は、家族を持つでしょう。そして、この人口増加率で人類は毎世代2倍以上に増えるでしょう。どれほど速く{p110} 家族を養うことが容易で、長く確立された政府のように人々が縛られたり拘束されたりすることのない、あらゆる植民地や新しい開拓地で、人類はどれほど増殖するでしょうか。歴史は、疫病が国民の3分の1または4分の1を襲ったことをしばしば物語っています。しかし、1世代か2世代でその破壊は認識されず、社会は再び以前の人口を取り戻しました。耕作された土地、建てられた家、生産された商品、獲得された富は、すぐに逃れた人々が結婚して家族を持つことを可能にし、亡くなった人々の代わりを補いました。[41] そして同様の理由で、賢明で公正で温厚な政府は、国民の生活を楽で安全なものにすることで、常に最も多くの人口、商品、富を豊かにするでしょう。実際、気候と土壌がブドウ栽培に適した国は、牧草地にしか適していない国よりも自然に人口が多くなります。しかし、他の条件が同じであれば、幸福と美徳と賢明な制度が最も多いところには、人口も最も多く存在すると予想するのが自然なようです。

したがって、古代と現代の人口に関する問題が極めて重要であると認めるならば、それを何らかの決定に導くためには、事実をその道徳的原因によって判断するために、これら 2 つの時代の国内および政治状況を比較することが必要であり、これが私たちが検討しようとした最初の視点である。

古代の家庭経済と現代の家庭経済の主な違いは、前者では奴隷制が広く行われていたことと、ヨーロッパの大部分では数世紀前に廃止されたことにある。奴隷制の熱心な崇拝者の中には、{p111} 古の民衆や熱心な市民的自由の支持者たち(これらの感情は、どちらも基本的に極めて正当であり、ほとんど切り離せないものであることが分かっている)は、この制度の喪失を惜しまずにいられない。彼らは、一個人の統治への服従をすべて奴隷制という厳しい呼び名で烙印を押す一方で、人類の大部分を真の奴隷制と服従に引きずり下ろすことを喜んでいとわない。しかし、この問題について冷静に考えてみると、ヨーロッパの最も独断的な政府において、人間性は一般に、古代の最も繁栄した時代よりも、現在の方が実際にはより多くの自由を享受していることがわかるだろう。領土が一都市を超えない小君主に服従することが、偉大な君主に服従することよりも悲惨であるように、家庭内奴隷制はいかなる市民的服従よりも残酷で抑圧的なのである。主人が地位や身分から遠ざかるほど、私たちはより大きな自由を享受するようになり、私たちの行動は監視や統制を受けにくくなり、私たち自身の服従と他者の自由、ひいては支配権との間の残酷な比較は薄れていく。アメリカ植民地や一部のヨーロッパ諸国に残る奴隷制の痕跡は、奴隷制をより普遍的なものにしたいという願望を決して生み出さないだろう。幼少期から同胞に対して強大な権力を行使し、人間性を踏みにじることに慣れきった人々に一般的に見られるわずかな人間性は、その権力に私たちが嫌悪感を抱くのに十分だった。古代の苛酷で、野蛮とも言える風習の原因として、家庭内奴隷制以上に説得力のあるものはないだろう。家庭内奴隷制によって、あらゆる身分の高い男が卑劣な暴君にされ、奴隷への媚びへつらい、服従、そして卑劣な貶めの中で教育を受けたのである。

古代の慣習によれば、すべての抑制は下位の者に対して行われ、服従の義務を課すものでした。上位の者に対しては、優しさと慈悲深さという相互の義務を課すような抑制は一切行われませんでした。現代では、悪い召使いが良い主人を見つけることは容易ではなく、悪い主人が良い召使いを見つけることも容易ではありません。そして、抑制は相互的なものなのです。{p112} 不可侵かつ永遠の理性と公平性の法則に適合する。

老齢、役立たず、あるいは病気の奴隷をテヴェレ川の孤島に置き去りにして餓死させるという習慣は、ローマではかなり一般的だったようだ。そして、そのような置き去りにされた後に回復した者は、クラウディウス帝の勅令によって自由を与えられた。この勅令では、老齢や病気を理由に奴隷を殺すことも同様に禁じられていた。しかし、仮にこの勅令が厳格に守られたとしたら、奴隷の家庭内待遇は改善され、彼らの生活ははるかに快適になっただろうか?老齢奴隷を無用な重荷とみなし、それを維持し続けるよりは、どんな値段でも買ってでも売るというのが、カトー大帝の公言した格言だったとしたら、他の人々はどのようなことを実践しただろうか。

エルガストゥーラ、つまり地下牢は、鎖につながれた奴隷たちが強制労働を強いられる場所であり、イタリア全土で広く存在していた。コルメラは、エルガストゥーラは常に地下に建設されるべきだと勧告し、連隊や船団の召集のように、毎日これらの奴隷の名前を呼び出し、脱走者が出たかどうかをすぐに把握することを、注意深い監督者の義務として推奨している。これは、エルガストゥーラが頻繁に設置され、通常、そこに収容されていた奴隷の数が非常に多かったことの証左である。

オウィディウスや他の作家たちの記述からもわかるように、ローマでは鎖につながれた奴隷が荷運びの役を務めるのが一般的だった。もし彼らが、自分たちの種族の不幸な一面に対する同情心を一切捨て去っていなければ、初めて訪れた友人たちに、主人の厳しさと奴隷の悲惨さをこれほどまでに印象づけただろうか。

あらゆる裁判において、たとえ民事訴訟であっても、奴隷の証言を求めることは珍しくなく、常に最も過酷な拷問によって強要された。デモステネスは、同じ事実について自由人か奴隷のどちらかを証人として出廷させることが可能であった場合、裁判官は常により確実で確実な証拠として奴隷の拷問を好んだと述べている。[42]{p113}

セネカは、昼を夜へ、夜を昼へと変え、人生のあらゆる仕事の定められた時間を逆転させる、無秩序な贅沢を描いている。食事や入浴の時間をずらすといった他の状況の中でも、彼は、この偽りの贅沢に耽溺する者の隣人が、夜中の3時頃になると鞭打ちの音を定期的に聞き、尋ねてみると、その者が召使いの振る舞いを報告し、適切な叱責と懲戒を与えていることが分かる、と述べている。これは残酷さの例としてではなく、単に無秩序の例として言及されているだけである。無秩序は、最も日常的で規則的な行為においてさえ、確立された慣習によって割り当てられた定刻を変えてしまうのである。[43]

しかし、我々の現在の課題は、奴隷制が国家の人口に及ぼした影響について考察することである。この点に関しては、古代の慣習が圧倒的な利点を有し、当時考えられていたような極端な人口増加の主因であったと主張されている。現在、すべての主人は男性使用人の結婚を奨励しておらず、女性使用人の結婚を決して認めていない。なぜなら、女性は当時、奴隷として働く能力が全くなかったと考えられていたからである。しかし、使用人の財産が主人の手に委ねられている場合、彼らの結婚と出産は主人の富を形成し、奴隷を次々に生み出し、その供給源となるのである。{p114} 老齢と病弱で不具になった者たちの代わりを務める。したがって、彼は家畜と同様に彼らの繁殖を奨励し、同じ注意を払って若者を育て、彼らを彼にとってより有用で価値あるものにするような何らかの技術や職業に教育する。富裕層はこの政策によって、貧しい人々の幸福には関心がないとしても、少なくとも彼らの存在には関心を持ち、彼らに従属する人々の数と勤勉さを増やすことで自らを豊かにする。各人は自らの家族における君主であるため、君主が国家に抱くのと同じ関心を家族に抱く。そして君主のように、自らの小さな主権を衰退させるような野心や虚栄心といった反対の動機は持たない。常にすべてのことが彼の監視下にあり、彼は臣民の結婚や教育の細部に至るまで観察する余裕がある。[44]

家畜奴隷制の第一の様相と外観から見れば、このような結果が生まれる。しかし、この問題をもっと深く掘り下げれば、おそらく性急な判断を撤回する理由が見つかるだろう。人間の管理と牛の管理を比較するのは衝撃的だが、現在の問題に当てはめると極めて妥当なので、その結果を辿ってみるのも適切だろう。首都、あらゆる大都市の近く、人口が多く豊かで勤勉な地方では、牛はほとんど飼育されていない。食料、住居、世話、労働は高価であり、人々は牛がある一定の年齢に達すると、より遠く安価な国から牛を買う方が得策だと考える。したがって、牛の飼育地はこれらの国だけであり、人間も同様に、牛を他の国と同じ立場に置くと、人間も同様に得策だと考える。{p115} 前者。ロンドンで子供を成人になるまで育てるには、スコットランドやアイルランドから同じ年頃の子供を買うよりもはるかに費用がかかる。スコットランドやアイルランドでは、子供は小屋でぼろ布をまとい、オートミールやジャガイモを食べさせられて育てられるのだから。したがって、より豊かで人口の多い国で奴隷を所有していた者は、女性の妊娠を妨げ、出産を阻止するか破壊するだろう。人類は、最も急速に増加すべき場所で滅び、より貧しく砂漠の多い地方から絶え間ない補充が必要になるだろう。このような継続的な流出は、国の人口を著しく減少させ、大都市を、すべての人が自らを支配し、卑しい利害の計算ではなく、自然の強力な本能によって子供たちを養う我が国よりも10倍も破壊的なものにするだろう。もしロンドンが現在、増加することなく、一般に計算されているように、毎年 5,000 人の田舎からの新規採用を必要としているのなら、商人や一般の人々の大部分が奴隷であり、強欲な主人によって繁殖を妨げられていたとしたら、何を必要とするでしょうか。

古代の著述家は皆、シリア、キリキア、カッパドキア、小アジア、トラキア、エジプトといった遠方の属州からイタリアへ奴隷が絶えず流入していたと記している。 しかし、イタリアの人口は増加せず、著述家たちは産業と農業の衰退が続いていると嘆いている。では、一般に考えられているローマ奴隷の極めて多産な繁殖力はどこにあるのだろうか?奴隷は増加するどころか、膨大な数の補充なしには、その数を維持することすらできなかったようである。そして、多くの奴隷が絶えず解放され、ローマ市民権を得たにもかかわらず、ローマの自由が諸外国に伝えられるまで、その数さえも増加することはなかった。

家族で生まれ育った奴隷を指す言葉は{p116} ヴェルナ;​ [46] そしてこれらの奴隷たちは慣習により他の奴隷たちよりも多くの特権と寛大な扱いを受ける権利があったようで、主人たちがそのような奴隷たちを多く育てることを好まなかった十分な理由である。​ [47] 我々の農園主たちの格言を知っている人なら誰でも、この観察の正当性を認めるだろう。​ [48]{p117}

アティカスは、その地で生まれた奴隷の中から家族を募るという配慮を歴史家から高く評価されている。[49] そこから、当時はその習慣はあまり一般的ではなかったと推測できるのではないか。

ギリシア喜劇に登場する奴隷の名前――シュロス、ミュソス、ゲタ、トラクス、ダウウス、リュドゥス、ピュルクスなど――は、少なくともアテネにおいては、奴隷の大半が外国から輸入されていたことを示唆する。ストラボンによれば、アテネ人は奴隷に、リュドゥス、シュロスのように、彼らが買われた民族の名前、あるいはフリギア人ならマネスやミダス、パフラゴニア人ならティビアスのように、その民族の間で最も一般的な名前を与えたという。

デモステネスは、他人の奴隷を殴ることを禁じる法律について言及した後、この法律の人道性を称賛し、奴隷を買った蛮族が、同胞がこのような温厚な扱いを受けていることを知ったら、アテネ人を大いに尊敬するだろうと付け加えている。イソクラテスもまた、ギリシャ人の奴隷は一般的に、あるいは非常に一般的に蛮族であったと仄めかしている。アリストテレスは『政治学』の中で、奴隷は常に外国人であると明確に想定している。古代の喜劇作家たちは、奴隷が野蛮な言語を話すように描いていた。これは自然の模倣であった。

デモステネスが未成年時代に家庭教師に多額の財産を騙し取られ、後に訴訟によってその財産の価値を取り戻したことはよく知られている。その時の彼の演説は今も残っており、父親が残した金銭、商品、家屋、奴隷といった財産の総額と、それぞれの価値が非常に正確に記されている。残りの奴隷には52人の職人、すなわち刀工32人と家具職人20人がいた[50]。 全員男性で、妻や子供、家族については一言も触れられていない。{p118} アテネで奴隷から子供を作るのが一般的な習慣であったならば、確かにそうだっただろう。そして、全体の価値はその状況に大きく左右されたに違いない。彼の母親の家政婦を除いて、女性奴隷については言及さえされていない。この議論は、完全に決定的ではないにしても、大きな説得力を持っている。

プルタルコスが父カトーについて語る次の一節を考えてみよう。「彼は多数の奴隷を所有し、捕虜売買で買い取ることに気を配っていた。そして、若い奴隷を選んだ。それは、どんな食事や生活様式にも容易に慣れ、どんな仕事や労働でも、人が若い犬や馬に何かを教えるように、容易に教え込めるようにするためであった。そして、愛こそがあらゆる混乱の根本原因であると考えた彼は、男性奴隷が自分の家族の女性と交際することを、一定の金銭を支払えば許可した。しかし、家族間の陰謀は厳しく禁じた。」この記述には、古代人が奴隷の結婚と繁殖に注いだとされる配慮の兆候が見られるだろうか。もしそれが一般の利益に基づく一般的な慣習であったならば、偉大な経済学者であり、古代の倹約と簡素な作法がまだ信用と評判を得ていた時代に生きたカトーは、きっとそれを受け入れたであろう。

ローマ法の著者たちは、子孫を残す目的で奴隷を購入する人はほとんどいなかったと明言している。[51]{p119}

我々の召使や女中は、確かにその種の繁殖にはあまり役立たない。しかし古代人は、自らの世話をする者を除いて、奴隷にすべての労働を委ねていた。奴隷の多くは家族と同居しており、中には1万人もの奴隷を所有していた大物もいた。したがって、この制度が繁殖に不利であったという疑念が少しでもあるならば(そして、少なくとも部分的には、古代の奴隷にも現代の使用人にも同様の理由が当てはまる)、奴隷制はどれほど破壊的なものであったことか!

歴史上、あるローマ貴族が400人の奴隷を同じ屋根の下に抱えていたことが記録されています。そのうちの一人の激しい復讐によって自宅で暗殺されたため、この法律は厳格に執行され、例外なく全員が死刑に処されました。他の多くのローマ貴族も、奴隷と同数、あるいはそれ以上の家族を持っていました。奴隷全員が結婚し、女性が子供を産むと仮定したとしても、このような状況はまずあり得ないことは誰もが認めるでしょう。[52]

詩人ヘシオドスが結婚した時代から、奴隷は男女を問わず、非常に不便なものとみなされていました。ましてやローマのように家族が巨大化し、あらゆる階層の人々から簡素な作法が追放された国では、どれほど不便だったでしょうか。

クセノポンは、農場経営の指針を示した経済学の中で、厳格な管理を推奨している。{p120} 男女の奴隷を互いに離れた場所に配置することへの注意深さ。彼は彼らが結婚したとは考えていないようだ。ギリシャ人の中で、独自の種族を維持したと思われる奴隷はヘロテー族だけだった。彼らは別々に家を持ち、個人よりも公衆の奴隷であった。

同じ著者は、ニキアスの監督官は主人との契約により、奴隷の養育と人数の維持に加え、奴隷一人につき1日1オボルスを支払う義務があったと記している。もし古代の奴隷が皆、繁殖能力を持っていたならば、契約におけるこの最後の条件は不要だったであろう。

古代の人々は、奴隷一人一人に割り当てられた食糧の一定割合について頻繁に語っているため、奴隷たちはほぼ全員独身で生活し、その割合を一種の食事手当として受け取っていたと自然に結論づけられる。

実際、奴隷と結婚するという習慣は、田舎の労働者の間でさえ、それほど一般的ではなかったようだ。田舎の労働者であれば、より自然に結婚が期待されるのだが。カトーは、100エーカーのブドウ園を耕作するのに必要な奴隷の数を列挙し、その数は15人だとしている。監督とその妻(ヴィリカスとヴィリカ)と男性奴隷13人である。240エーカーのオリーブ園であれば、監督とその妻と男性奴隷11人である。そして、農園やブドウ園の面積の規模に応じて、この数も異なっている。

ヴァロはカトーのこの一節を引用し、最後の点を除いて自身の計算があらゆる点で正しかったと認めている。「ブドウ園や農園の規模に関わらず、監督とその妻の存在が必須である以上、割合の正確さは変わってくるはずだ」と彼は述べている。もしカトーの計算が他の点で間違っていたとしても、ヴァロは間違いなくそれを修正していただろう。彼は些細な不正確さを発見するのが好きなようだ。

コルメラと同じく、この著者は、監督官が主人への奉仕に一層深く従うために、監督官に妻を与えることを必須条件として推奨している。したがって、これは奴隷にとって、これほど大きな信頼を寄せられていたことに対する特異な寛大さであった。{p121}

同じ箇所で、ヴァロは、家族内で派閥や反乱を生む恐れがあるため、同じ民族から奴隷を買いすぎないことが有益な予防策であると述べている。イタリアでは、地方で働く奴隷でさえ(ヴァロは他の奴隷については何も語っていないが)、大部分が遠方の地方から買われたという推測である。ローマにおいて、見せ物や贅沢の道具であった家族奴隷が、一般的に東方から輸入されていたことは周知の事実である。プリニウスは主人の嫉妬深い世話について、「軍団を操り、外界で奴隷を操る者が、名付け親を追放する原因となる」と述べている。

ヴァロは確かに、年長の羊飼いから若い羊飼いを家族に増やすことを推奨している。なぜなら、放牧農場は一般的に辺鄙で安価な場所にあり、羊飼いはそれぞれ別々に小屋に住んでいたため、結婚や子の増え方が、より高価な場所で多くの使用人が家族で暮らすような場合(ワインや穀物を生産するローマの農場では普遍的にそうであった)のような不便を被ることはなかったからである。羊飼いに関するこの例外を検討し、その理由を考察すれば、これまでの疑念はすべて確証されるであろう。

コルメラは、主人に三人の子供よりも自分を育ててくれた女奴隷に報酬、さらには自由を与えるよう助言したと認めます。これは古代人が奴隷から子孫を残すことがあったことの証拠であり、これは確かに否定できません。そうでなければ、古代において非常に一般的であった奴隷制度は、いかなる手段をもってしても修復できないほどの破壊力を持っていたに違いありません。これらの推論から私が推論しようとしているのは、奴隷制度は概して人類の幸福と人口増加の両面において不利であり、その代替として雇われ召使の制度の方がはるかに有効であるということです。

グラックス兄弟の法律、あるいは一部の著述家が言うように「反乱」は、イタリア全土における奴隷の増加と自由市民の減少を彼らが観察したことがきっかけとなった。アッピアノスはこの増加を奴隷の増殖に帰し、プルタルコスは奴隷の購入に帰した。{p122} 鎖につながれ、投獄された野蛮人たちは、βαρβαρικα δεσμωτηριαであった。両方の原因が一致していたと推定される。

フロルスによれば、シチリア島はエルガストゥラ(奴隷制)に溢れ、鎖につながれた労働者によって耕作されていた。エウヌスとアテニオは、この巨大な牢獄を破壊し、6万人の奴隷を解放することで、奴隷戦争を煽動した。小ポンペイウスも同様の手段でスペインの軍勢を増強した。ローマ帝国全土の農村労働者が概してこのような状況にあり、都市の奴隷の家族が別々に住居を見つけることが困難あるいは不可能であったとすれば、家庭内奴隷制度は繁殖にとっても人道にとってもどれほど不利なものであったことか。

コンスタンティノープルは現在、古代ローマが行っていたのと同じだけの奴隷の徴集を全属州から求めており、必然的にこれらの州は人口があまり多くない。

マイエ氏によれば、エジプトはトルコ帝国の他の地域に黒人奴隷の植民地を継続的に送り、毎年同数の白人奴隷を受け入れている。白人奴隷はアフリカ内陸部から連れてこられ、他の白人奴隷はミングレラ、チェルケス、タタールから連れてこられたという。

現代の修道院は確かに非常に劣悪な制度だが、古代イタリア、そしておそらく世界の他の地域においても、あらゆる大家が一種の修道院であったと疑うに足る理由がある。そして、カトリック的な制度は、卑劣な迷信の温床であり、国民にとって負担が大きく、男女を問わず貧しい囚人にとって抑圧的であるとして、忌み嫌うのも当然である。しかし、それらが一般に想像されるほど国家の人口構成に破壊的な影響を与えるかどうかは疑問である。修道院の土地が貴族に与えられたとしても、貴族はその収入を犬、馬、馬丁、召使、料理人、女中などに費やすだろう。そして、貴族の家族が修道院よりも多くの市民を養成することはないだろう。

親が娘を修道院に押し込む一般的な理由は、{p123} 家族の数が多すぎると、王位継承権が失われてしまう。しかし古代には、同じくらい無邪気で、かつより効果的な方法があった。それは、幼いうちに子供をさらけ出すことであった。この習慣はごく普通に行われ、当時の著述家は、この習慣について、それ相応の恐怖心をもっては触れず、非難さえほとんど示していない。 [53] 人間味あふれる温厚なプルタルコス[54]は、ペルガモスの王アッタロスが、自分の兄弟エウメネスの息子に王位を譲るため、自分の子供全員を殺害、あるいはさらけ出したことを美徳として推奨している。これは、息子よりも後継者を自分に残してくれたエウメネスへの感謝と愛情の表れであった。ギリシャの賢人の中でも最も高名なソロンが、法律によって親に子供を殺す許可を与えたのである。

それでは、修道誓願と子供の露出という二つの状況が、互いに補い合い、人類の繁殖にとって等しく不利なものとなることを許すべきでしょうか?この点において古代に有利があるとは考えにくいでしょう。もしかしたら、奇妙な因果関係によって、古代人の野蛮な慣習が、むしろ当時の人口を増大させたのかもしれません。家族の数が多すぎるという恐怖が解消されれば、多くの人々が結婚に踏み切るでしょう。そして、自然の愛情の力はあまりにも強いので、それに比べれば、かつての意図を実行に移すだけの決意を持つ人はほとんどいないでしょう。

現在、子供をさらすという残酷な慣習が​​蔓延している唯一の国である中国は、私たちが知る限り最も人口の多い国であり、すべての男性は20歳になる前に結婚しています。これほど早婚が一般的だったのは、男性にとって子供を手放す簡単な方法がなかったからでしょう。プルタルコスは、子供をさらすという貧しい人々の普遍的な格言について語っており、富裕層は遺産を期待する人々からの求愛を恐れて結婚を嫌がっていたと記しています。{p124} 彼らから見れば、世間は彼らの間で悪い状況にあったに違いない。[55]

あらゆる科学の中で、政治ほど一見したところが人を欺くものはない。孤児院は人口増加に有利に働くように見えるし、適切な制限の下ではそうかもしれない。しかし、区別なくすべての人に門戸を開くと、おそらく逆効果となり、国家にとって有害となる。パリで生まれる子供の9人に1人は病院に送られると計算されているが、人間の営みの常軌を逸しているように、親が子供を育て教育する能力を全く持たない子供は、その100分の1にも満たないだろう。病院での教育と一般家庭での教育との間には、健康、勤勉、そして道徳の面で計り知れないほどの違いがある。だからこそ、病院への入所をあまりに安易で魅力的なものにすべきではない。自分の子供を殺すことは自然にとって衝撃的なことであり、したがって極めて異例なことである。しかし、子供の世話を他人に委ねることは、人類の生来の怠惰にとって非常に魅力的である。

古代人の家庭生活や習慣を現代人のそれと比較して考察したところ、現在の問題に関する限り、私たちは概して現代人のほうが優れているように思われるが、ここでは両時代の政治慣習や制度を検討し、それらが人類の繁栄を遅らせたり促進したりする上でどのような影響を与えたかを検討しよう。

ローマ帝国の勢力が増大する前、というよりはむしろその完全な確立まで、古代史の舞台となるほとんどすべての国家は小さな領土や小国に分かれていた。{p125} 当然のことながら、共和国においては運命の平等が保たれ、政府の中心は常に国境のすぐ近くにありました。

これはギリシャやイタリアだけでなく、スペイン、ガリア、ドイツ、アフリカ、そして小アジアの大部分においても同様の状況でした。そして、人類の繁栄にとってこれほど好ましい制度は他にないことを認めなければなりません。なぜなら、莫大な財産を持つ者は、他人より多く消費することができないため、自分に仕え、付き従う者たちと財産を分け合わなければならないからです。しかし、彼らの財産は不安定であるため、それぞれが小さな財産を安全かつ独立して持っている場合のように、結婚を奨励されることはありません。さらに、巨大都市は社会を破壊し、あらゆる種類の悪徳と無秩序を生み出し、遠隔地の地方を飢えさせ、さらには食料調達のための物価の高騰によって自らを飢えさせることさえあります。各人が小さな家と畑を持ち、各郡が自由で独立した首都を持つという状況は、人類にとってなんと幸福なことでしょうか。産業と農業、そして結婚と繁栄にとってなんと好ましいことでしょうか。人間の多産の美徳が、貧困と必要に迫られる制約なしに最大限に発揮されれば、その数は世代ごとに倍増するだろう。そして、これほどの自由を人類に与えるものは、このような小さな国家と、国民間のこれほどの幸運の平等以外には何もない。すべての小国は、大きな増加の機会を与えないため、自然に幸運の平等を生み出すが、小国は、それらに不可欠な権力と権限の分割によって、はるかに多くの機会をもたらす。

クセノポンはキュロスとの有名な遠征から戻ると、トラキアの王子セウテスに自分と6000人のギリシャ人を雇いました。契約書には、兵士は1人につき1ダリク、隊長は1人につき2ダリク、将軍であるクセノポン自身は4ダリクの給与を受け取ることとされていました。これは現代の将校たちも少なからず驚くような給与規定です。

デモステネスとアイスキネスは、さらに8人とともにマケドニア王フィリップに大使として派遣され、{p126} 4ヶ月以上の滞在は1000ドラクマで、これは大使一人当たり1日1ドラクマにも満たない額です。しかし、1日1ドラクマ、いや、時には2ドラクマは、普通の歩兵の給料でした。

ポリュビオスの時代、ローマの百人隊長の報酬は一般兵の2倍しかなく、凱旋式後の祝儀もその割合で定められていた。しかし、マルクス・アントニウスと三頭政治は百人隊長に他の兵の5倍の報酬を与えた。国家の拡大によって市民間の不平等が拡大したためである。[56]

近代における市民の自由と財産の平等に関する情勢は、人類の発展と幸福にとって決して好ましいとは言えないことを認めざるを得ません。ヨーロッパは大部分が大君主国に分割されており、小さな領土に分割された地域は、通常、絶対君主によって統治されています。彼らは、宮廷の華やかさと軍勢の規模において大君主の模倣をすることで、国民を破滅させています。スイスとオランダだけが古代共和国に似ています。スイスは土地、気候、商業のいずれにおいても優位性を持っていませんが、ヨーロッパのあらゆる奉仕活動に従事しているにもかかわらず、その人口の多さは、その政治制度の利点を十分に証明しています。

古代共和国は、その主要、あるいは唯一の安全保障を市民の人口に求めていた。トラキニア人は多くの国民を失ったため、残った人々は同胞の遺産で富を得る代わりに、首都スパルタに新たな住民の供給を求めた。スパルタ人は直ちに1万人の兵を集め、その中に旧市民たちがかつての領主たちが滅ぼした土地を分け与えた。

ティモレオンがディオニュシオスをシラクサから追放した後{p127} シチリアの情勢を収拾した彼は、シュラクサイとセリヌンティウムの都市が圧政、戦争、そして党派争いによって極度に人口減少していることに気づき、ギリシャから新たな住民を招き入れ、再び定住させた。たちまち4万人(プルタルコスは6万人としている)が志願し、彼は彼らに多くの土地を分配し、古代の住民たちは大いに満足した。これは、富よりも人口増加に影響を及ぼす古代政策の原則と、これほど大規模な植民地を一度に供給できるほど人口の多い小国ギリシャにおいて、これらの原則がいかに効果的であったかを示す好例である。古代ローマ人も状況は大差なかった。「7エーカーで満足できない市民は有害だ」とM.クリウスは言った。[57] このような平等の理念は、必然的に多くの人々を生み出すことになった。

さて、古代人が人口増加に関してどのような不利な状況に置かれていたか、そして彼らが政治的格言や制度によってどのような制約を受けていたかを考えてみましょう。あらゆる人間の状況には、一般的に代償が存在します。これらの代償は必ずしも完全に同等であるとは限りませんが、少なくとも支配的な原理を抑制する役割を果たします。それらを比較し、その影響を評価することは、たとえそれが同時代、近隣諸国で起こった場合であっても、実に困難です。しかし、複数の時代が経過し、古代の著述家から得られる情報が断片的なものに過ぎない場合、興味深い主題について賛否両論を交わし、それによって性急で乱暴な判断を正すことで、私たちは楽しむ以外に何ができるでしょうか。{p128}

まず、古代共和国はほぼ絶え間なく戦争状態にあったことに気づくだろう。これは、彼らの武勇、自由への愛、相互の競争心、そして近隣諸国間に一般的に蔓延する憎悪の当然の結果である。さて、小国における戦争は大国における戦争よりもはるかに破壊的である。それは、小国では住民全員が軍隊に従軍しなければならないこと、そして国全体が国境地帯であり敵の侵攻に晒されていることの二つに起因する。

古代の戦争の格言は、現代のものよりもはるかに破壊的であった。それは主に、兵士たちが略奪品の分配に耽溺していたことによる。わが国の軍隊の兵士たちはあまりにも下劣な集団であり、彼らの給与以上の贅沢は混乱と無秩序を招き、規律を完全に崩壊させる。近代の軍隊を構成する者たちの惨めさと卑劣さこそが、侵略先の国に対する彼らの破壊力を低下させている。これは、あらゆる政治的推論における見かけの欺瞞を示す、数ある例の一つである。[58]

古代の戦いは、そこで使用された武器の性質上、はるかに血なまぐさいものでした。古代人は16人、20人、時には50人という兵士を隊列に並べ、狭い前線を形成しました。両軍が整列して交戦できる場所を見つけるのは難しくありませんでした。たとえ生垣、丘、森、あるいは窪地によって部隊が阻まれていたとしても、両軍の戦いはすぐに決着がつくことはなく、他の部隊は困難を克服して交戦に参加する時間を持つことができました。このように全軍が交戦し、各兵士が敵にしっかりと寄り添っていたため、戦いはしばしば非常に血なまぐさいものとなり、両軍、特に敗者側に多くの犠牲がもたらされました。{p129} 火器に必要とされる長く細い戦列と、迅速な戦闘の決定は、現代の戦闘を単なる部分的な遭遇にし、一日の始まりに敗北した将軍が、軍の大部分を健全かつ完全な状態で撤退させることを可能にしている。もしフォラールの縦隊計画が実現すれば(実現不可能と思われるが[59])、現代の戦闘は古代の戦闘と同じくらい破壊的なものになるだろう。

古代の戦闘は、その長期にわたる戦闘と一騎打ちに類似した様相から、後世には全く例を見ないほどの激しさで繰り広げられました。当時、戦闘員たちが譲歩する唯一の手段は、捕虜を奴隷にすることで利益を得られるという希望だけでした。タキトゥスから学ぶように、内戦においては、捕虜が奴隷ではなかったため、戦闘は最も血なまぐさいものとなりました。

敗者がこれほど過酷な運命を覚悟していたところで、どれほど頑強な抵抗が行われたことでしょう。戦争の格言があらゆる点で血なまぐさく苛酷であったところで、どれほど根深い怒りが湧き上がったことでしょう。

古代史には、包囲された都市の住民が門を開けるどころか、妻子を殺害し、敵への復讐というわずかな希望に甘んじて自ら命を絶ったという例が数多く見られる。ギリシャ人も蛮族も、しばしばこれほどの激怒に駆り立てられた。そして、この断固たる精神と残酷さは、それほど目立たない多くの事例においても、近隣に点在し、絶え間ない戦争と争いに明け暮れていた小国において、人間社会に極めて破壊的な影響を与えたに違いない。

プルタルコスによれば、ギリシャにおける戦争は、時には侵略、略奪、海賊行為のみによって遂行されることもあった。このような戦争方法は、小国においては、血なまぐさい戦闘や包囲戦よりも、より破壊的な結果をもたらすに違いない。

十二表法によれば、二年間の所有となる{p130} 土地については時効が成立し、動産については1年間の時効が成立した。[60] これは、当時のイタリアには、現在のタタール人の間に見られるような秩序、平穏、治安の安定がほとんど見られなかったことを示している。

古代史で私が覚えている唯一のカルテルは、デメトリオス・ポリオルケテスとロドス人の間で、自由市民の復帰は 1000 ドラクマ、武器を持った奴隷の復帰は 500 ドラクマで合意されたものです。

しかし第二に、古代の慣習は、戦時だけでなく平時においても、現代の慣習よりも不利であったように思われる。しかも、あらゆる点で不利であった。ただし、市民の自由と平等への愛は、私自身も認めるところ、非常に重要である。自由な政府から党派を排除することは、全く不可能ではないにしても、非常に困難である。しかし、党派間の根深い怒りと、血みどろの格言は、近代においては、頑固な聖職者が告発者、裁判官、そして死刑執行人となっている宗教政党にのみ見られる。古代史において、貴族であれ民衆であれ(この点では違いは見出せないが)、一方の党派が勝利した場合、彼らは常に、自分たちの手に落ちた反対派を皆殺しにし、幸運にも彼らの怒りを逃れた者も追放したことを観察できる。いかなる手続きも、法律も、裁判も、恩赦もなかった。革命のたびに、都市の4分の1、3分の1、あるいはほぼ半分が虐殺されたり追放されたりした。そして亡命者たちは常に外国の敵に加担し、市民同胞に可能な限りの害を及ぼした。そしてついには、新たな革命によって完全な復讐を果たす運命となった。こうした暴力的な政府ではこうしたことが頻繁に起こったため、この時代に蔓延するであろう混乱、自信喪失、嫉妬、敵意は、現代の私たちにとっては想像しがたいものであった。{p131}

古代史において、虐殺や暗殺による甚大な被害や流血を伴わずに済んだ革命は、トラシュブロスによるアテネ民主政の復興と、カエサルによるローマ共和国の征服の二つしか記憶に残っていない。古代史によれば、トラシュブロスは過去のあらゆる犯罪に対する大赦を可決し、その言葉と実践をギリシャに初めて導入した。しかし、リュシアスの多くの演説から、それ以前の僭主、そして下級犯罪者の一部でさえ裁判にかけられ、死刑に処せられたことが明らかにされている。これは古物研究家や歴史家によって解明されておらず、注目さえされていない難点である。カエサルの寛大さは称賛されているものの、現代ではそれほど称賛されることはないだろう。例えば、彼はウティカの領主となった際、カトーの元老院議員全員を虐殺した。そして、彼らは党員の中で最も無価値な者ではなかったことは容易に信じられる。その簒奪者に対して武器を取った者は皆、資格を剥奪され、ヒルティウスの法律により、あらゆる公職に就くことができないと宣言された。

これらの人々は自由を非常に愛していたが、それを十分に理解していなかったようだ。三十僭主がアテネで初めて支配権を確立したとき、彼らはまず民主政時代に非常に厄介な存在であった追従者や密告者をすべて捕らえ、恣意的な判決と処刑によって死刑に処した。「誰もがこれらの処罰を喜んだ」とサッルスティウスとリュシアス[62]は述べている 。彼らは、その瞬間から自由が消滅したことを考慮していなかったのだ。

トゥキュディデスの神経質な文体の極限のエネルギーとギリシャ語の豊かさと表現力は、彼が全土にわたる派閥争いから生じた混乱を描写しようとするときには、その歴史家の力に押しつぶされてしまうようだ。{p132} ギリシャの諸王国を滅ぼすために。彼は今なお、言葉では言い表せないほどの深い思いに苛まれていることだろう。そして、その哀愁に満ちた描写を、非常に洗練されながらも確固とした観察で締めくくっている。「こうした戦いでは」と彼は言う。「最も鈍く、最も愚かで、先見の明が最も乏しい者たちが、たいてい勝利を収めた。なぜなら、彼らはこの弱点を認識し、より洞察力のある者たちに出し抜かれることを恐れたからである。彼らは、先見の明もなく、剣と短剣で慌てて行動し、敵対者たちが自分たちの滅亡のために巧妙な計画を練るのを阻止したのだ。」[63]

冷酷にも一万人以上の市民を虐殺したとされる大ディオニュシオス1世や、彼よりもさらに残忍なアガトクレス、ナビィスらは言うまでもなく、自由政府においてさえ、その行為は極めて暴力的で破壊的であった。アテネでは、三十僭主と貴族たちが一年間で約1200人の民衆を裁判もなしに殺害し、残っていた市民の半数以上を追放した。[64] ほぼ同時期にアルゴスでも、民衆は1200人の貴族を殺害し、その後、追放を拒んだ扇動家たちも殺害した。コルキュラでも、民衆は1500人の貴族を殺害し、1000人を追放した。これらの数字は、我々が見ればさらに驚くべきものとなるだろう。{p133} これらの国家の極小ささを考えてみてください。しかし、古代史全体はそのような例に満ちています。[65]

アレクサンダーが全都市から亡命者全員を帰還させるよう命じたところ、その数は2万人に上ることが判明した。おそらく、さらに大規模な虐殺と虐殺の残骸だったのだろう。古代ギリシャのような狭い国土に、これほどの人数がいたとは驚きだ! 党派対立が激怒と絶望の淵にまで達したこれらの都市では、どれほどの混乱、嫉妬、偏見、復讐、そして激しい心痛が引き裂かれたことだろう!

「もっと簡単にできるだろう」とイソクラテスはフィリップに言った。「{p134} 「現在ギリシャでは、軍隊は都市からではなく放浪者から編成されている。」

事態がそこまで極端に至らなかったとしても(ほぼどの都市でも1世紀に二度か三度は必ずそうしたのだが)、古代政府の格言によって財産は極めて不安定なものとなった。クセノポンはソクラテスの晩餐会で、アテネ人の暴政を非常に自然体で飾らない描写で語っている。「貧困の中にあっても」とカルミデスは言う。「富に恵まれていた頃よりも、私はずっと幸せだ。恐怖よりも安全でいること、奴隷であるよりも自由であること、求婚するよりも受け取ること、疑われるよりも信頼されることの方が幸せであるように。以前は、あらゆる密告者を甘やかさなければならず、常に何らかの負担を強いられ、旅行したり街を離れたりすることは決して許されなかった。今、私が貧しい時、私は偉そうに見え、他人を脅かす。金持ちは私を恐れ、あらゆる礼儀と敬意を示してくれる。私は街で一種の暴君のようになってしまった。」

リュシアスの弁論の一つで、弁論家は、ついでにアテネ人の格言として、金銭が欲しければ富裕な市民も外国人も、没収のために死刑に処したと、非常に冷静に述べている。このことを述べるにあたり、彼は彼らを非難するつもりはなく、ましてや聴衆であり裁判官でもあった彼らを刺激するつもりもないようだ。

国民であろうと異邦人であろうと、その民にとって、自らを貧困に陥れるか、民衆に貧困に陥れられ、ひょっとすると殺されるかのどちらかが、まさに必須条件だったようだ。最後に述べた雄弁家は、公務に費やされた財産について、愉快な物語を語っている。[66]つまり、その財産の3分の1以上が、珍しいショーや舞踏会に費やされたということだ。{p135}

ギリシャの僭主政治は実に恐ろしかったので、改めて強調するまでもない。共和制が導入される以前の古代ギリシャのほとんどの国家が統治していた混合君主制でさえ、非常に不安定だった。イソクラテスは、アテネ以外で四代、五代にもわたる王の継承を成し遂げた都市はほとんどない、と述べている。

古代君主制の不安定さを招いた他の多くの明白な理由に加え、私的な家族における兄弟間の財産の平等分割は、必然的に国家の不安定化と混乱を招いたに違いない。近代法における年長者への普遍的な優遇は、財産の不平等を増大させる一方で、人々を公的な継承という共通の観念に慣れさせ、年少者のあらゆる主張や虚勢を断ち切るという良い効果ももたらしている。

ヘラクレアの新たな植民地はたちまち派閥に分裂し、スパルタに訴えを起こした。スパルタはヘリピダスを全権委任して派遣し、彼らの不和を鎮圧させた。ヘリピダスはいかなる反対にも動じず、党派間の激しい怒りにも駆られず、約500人の市民を即座に処刑する以外に、これ以上の策は思いつかなかった。これは、こうした暴力的な統治の格言がギリシャ全土にいかに深く根付いていたかを如実に物語る。{p136}

もし洗練された人々の心の性質がこのようなものであったならば、蛮族と称されたイタリア、アフリカ、スペイン、ガリアといった共和国に何が期待できただろうか?そうでなければ、なぜギリシャ人は他のどの民族よりも、自らの人間性、優しさ、そして節度を高く評価したのだろうか?この推論は至極当然に思える。しかし残念ながら、ローマ共和国の初期の歴史は、広く伝えられている説を信じるならば、我々にとって不利なものである。グラックス兄弟が暗殺されるまで、ローマではいかなる暴動においても血が流されることはなかった。ディオニュシウス・ハリカルナッサエウスは、この点におけるローマ人の特異な人間性を観察し、彼らが元々ギリシャ系であったという論拠としてこれを利用した。このことから、蛮族共和国における派閥争いや革命は、前述のギリシャのそれよりも、通常より暴力的であったと結論づけることができる。

ローマ人が戦闘に踏み切るのが遅かったとしても、血みどろの戦場に一度足を踏み入れた後には、十分な補償を行っていた。アッピアノスのローマ内戦史には、かつて世界に示された虐殺、追放、没収の最も恐ろしい描写が含まれている。この歴史家の最も興味深い点は、彼がこれらの野蛮な行為に正当な憤りを感じているように見えることであり、多くのギリシャの歴史家が慣習によって生み出したような、挑発的な冷淡さや無関心さをもって語っていないことである。[67]{p137}

古代政治の格言には、概して人道性や節度がほとんど含まれていないため、特定の時期に行われた暴力行為について、特別な理由を述べることは不必要に思える。しかしながら、ローマ国家後期の法律があまりにも不合理に構成されていたため、政党の指導者たちがこうした極端な手段に訴えざるを得なかったことを指摘せずにはいられない。あらゆる死刑は廃止された。市民がどれほど犯罪者であろうと、あるいは、それどころかどれほど危険な人物であろうと、追放以外に処罰を受けることは常態的に不可能であった。そして、政党の革命においては、私的な復讐のために剣を抜く必要が生じた。そして、一度法律が破られた後では、こうした血なまぐさい行為に歯止めをかけることは容易ではなかった。もしブルータス自身が三頭政治に勝利していたとしたら、常識的な判断でオクタヴィアヌスとアントニウスを生かしておき、ロードス島やマルセイユに追放することで満足できただろうか。彼らはそこで新たな騒乱や反乱を企てる可能性があったのだ。三頭政治の弟であるコルテス・アントニウスを処刑したことは、彼の問題意識を如実に示している。キケロはローマの賢人や高潔な人々すべての賛同を得て、法に反し、いかなる裁判や手続きも経ずに、カティリナの仲間を独断で処刑したのではないだろうか。そして、もし彼が処刑を控えたとしたら、それは彼の温厚な気質か、あるいは時代の風潮によるものではないでしょうか。法と自由を謳う政府にとって、なんと惨めな安全でしょう!

このように、一つの極端は別の極端を生み出す。法律の過度の厳しさがその執行に大きな緩みをもたらすのと同様に、法律の過度の寛容さは当然ながら残酷さと野蛮さを生み出す。いずれにせよ、私たちにその神聖な境界を越えさせることは危険である。{p138}

古代のあらゆる政府に頻発した混乱の一般的な原因の一つは、当時の貴族制を確立することが極めて困難であったこと、そして最も卑しく貧しい者でさえ議会や公職から排除されると、民衆の不満と反乱が絶えず続いたことにあったように思われる。自由民という地位は奴隷の地位とは対照的で、その地位を持つ者に国家のあらゆる権力と特権を与えるかのような印象を与えた。ソロンの法律は、自由民を投票や選挙から排除しなかったが、一部の行政官職は特定の人口調査の対象となった。しかし、これらの法律が廃止されるまで、民衆は決して満足しなかった。アンティパトロスとの条約により、人口調査で2000ドラクマ(約60ポンド)未満のアテネ人は投票権を持たなかった。そして、そのような政府は我々にとっては十分に民主的に見えるかもしれないが、当時の民衆にとってはあまりにも不快であったため、3分の2以上が直ちに国を去った。カッサンドロスは人口を半分に減らしたが、それでも政府は寡頭制の専制政治と外国の暴力の影響であると考えられていた。

セルウィウス・トゥッリウスの法律は、財産に応じて権力を定めるという点で、非常に平等かつ合理的であるように思われるが、ローマの民衆がそれに静かに服従することは決してできなかった。

当時は、不満を抱く臣民を支配する厳格で嫉妬深い貴族政治と、騒乱と党派対立を伴う暴君的な民主主義政治の間には、中間のものが存在しませんでした。

しかし第三に、人類の幸福と発展の両面において、古代国家が現代国家に劣っているように見える状況は他にも数多くある。貿易、製造業、産業は、かつてヨーロッパの現在ほど栄えていた場所はない。古代の人々の唯一の衣服は、男女ともに、白か灰色のフランネルのようなもので、汚れるたびに洗濯していたようだ。ティルスは、カルタゴに次いで地中海最大の商業都市であったが、アレクサンドロス大王によって滅ぼされた。しかし、ティルスは、その都市が現代社会において …{p139} アリアノスの住民に関する記述。[68] アテネは一般に交易都市であったと考えられているが、ヘロドトスによれば、メディア戦争以前も以後も人口は変わらず多かったという。[69] しかし当時の商業は微々たるもので、同じ歴史家が指摘するように、アジアの近隣の海岸でさえギリシャ人はヘラクレスの柱を訪れるのと同じくらい少なく、ヘラクレスの柱以外には何も考えていなかった。

金銭の高利回りと貿易の巨額の利益は、産業と商業がまだ幼少期にあることを紛れもなく示している。『リュシアス』には、アテネからアドリア海までしか行かなかった2タラントの積荷から100%の利益が得られたと記されている。これは法外な利益の例として言及されているわけではない。デモステネスによれば、アンティドロスは年間1タラントで貸していた家に3タラント半を支払ったという。そして、この弁論家は自分の財産を有効活用しなかったとして、自分の家庭教師を責めている。「私の財産は」と彼は言う。「11年で3倍になったはずだ」。彼は父親が残した奴隷20人の価値を40ミナ、彼らの労働による年間利益を12ミナと計算している。アテネにおける最も穏当な利息(実際にはもっと高い利息が支払われることもあった)は12%で、それも月払いだった。34%という法外な利息を主張するわけではない。選挙で分配された巨額の資金がローマで資金を集めたという記述について、ウェルレスは党派対立の時期以前に、収税人の手に残した資金の24%を記載していたことが分かります。キケロはこの条項に反対していますが、それは法外な高利貸しのためではなく、このような機会に利子を記載することが慣例となっていなかったためです。実際、ローマ帝国の終焉後、利子は没落しました。{p140} しかし、近代の商業状態ほど低い水準に長期間留まったことはなかった。

ラケデモニア人によるデケリアの要塞化によってアテネ人が感じたその他の不便の中でも、トゥキュディデスは、オロポスを経由してエウベアから穀物を陸路で運ぶことができず、スニウム岬を回って船で運ばなければならなかったことを最も重大なものの一つとして描いている。これは古代の航海の不完全さを示す驚くべき例である。なぜなら、ここでは水上輸送は陸地の二倍以上ではないからである。

古代の著述家が、都市の発展を製造業の確立に帰したと記した箇所を、私は記憶していない。繁栄したと言われる商業は、主に、異​​なる土壌や気候に適した商品の交換によるものである。シケリアのディオドロスによれば、アフリカへのワインと油の販売がアグリゲントゥムの富の基盤であった。同じ著者によれば、シバリス市はクラティス川とシバリス川のすぐ近くに築かれており、その立地が人口増加の原因であった。しかし、この二つの川は航行不能であり、農業や牧畜に適した肥沃な谷をいくつか生み出したに過ぎなかった。これはあまりにも取るに足らない利点であり、現代の著述家であればほとんど注目しなかったであろう。

古代の僭主たちの蛮行と、その時代を活気づけた極度の自由への愛は、もし国家が産業と商業で成り立っていたならば、あらゆる商人や製造業者を追放し、人口を激減させていたに違いありません。残忍で疑い深いディオニュシウスが虐殺を続けている間、もし彼が土地に縛られず、他国で生計を立てるための技術や技能を持ち込むことができたなら、これほど容赦ない蛮行にさらされ続けたでしょうか。フィリップ2世とルイ14世による迫害は、フランドルとフランスの製造業者をヨーロッパ全土に蔓延させました。

私は農業が大衆の生存に最も必要な産業の一種であることは認める。そしてこの産業は、{p141} 製造業やその他の技術は知られておらず、軽視されている。スイスは現在、ヨーロッパ全土で最も熟練した農民と、最も不器用な商人が同時に存在する、極めて特筆すべき例である。ギリシャとイタリアでは、少なくとも一部の地域、そして一部の時期には農業が栄えていたと推測するに足る理由がある。機械技術が同程度の完成度に達していたかどうかは、特に古代共和国における極めて平等な状況、つまり各家族が自活するために自らの小さな畑を最大限の注意と勤勉さで耕作しなければならなかった状況を考えれば、それほど重要ではないかもしれない。

しかし、農業が商業や製造業なしに繁栄する場合もあるからといって、広大な国土と長期間にわたって農業だけで存続できると結論付けるのは、果たして正しい推論と言えるだろうか?農業を奨励する最も自然な方法は、まず他の種類の産業を刺激し、それによって労働者に商品を供給する市場と、労働者の喜びと享受に貢献する商品による報酬を提供することである。この方法は絶対確実かつ普遍的であり、古代よりも現代の政府で広く普及しているため、古代の政府の方が人口が多いという前提を裏付けている。

クセノポンは、「誰でも農民になれる。技術や技能は必要ない。すべては勤勉さと実行への注意力にある」と述べている。コルメラが示唆するように、これはクセノポンの時代には農業がほとんど知られていなかったことの強力な証拠である。

我々の後代のあらゆる改良や改良は、人々の生活の安寧、ひいては人口増加や繁栄に何ら寄与しなかったであろうか。優れた機械工学の技術、新大陸の発見によって商業は大きく発展し、郵便局の設置や為替手形の使用といったものは、いずれも芸術、産業、そして人口増加の促進に極めて有益であるように思われる。もしこれらを廃止すれば、あらゆる種類の事業や労働にどれほどの制約が課せられることになり、どれほど多くの家族がたちまち飢餓と欠乏で滅びることとなることか。そして、それはあり得ないことのように思える。{p142} これらの新しい発明に代わる規制や制度を他に設けることはできないだろう。

古代国家の警察が現代の警察と何らかの意味で匹敵するほど優れていた、あるいは当時の人々は国内でも陸路や水路での旅でも同等の安全を享受していたと考える根拠はあるだろうか?この点に関しては、公平な立場の審査員なら誰でも現代社会を優先するだろうことは疑いない。

このように、全体を比較すると、なぜ古代の方が現代よりも人口が多かったのか、正当な理由を挙げることは不可能に思えます。古代における財産の平等、自由、そして国家の小規模な区分は、確かに人類の繁栄に有利でした。しかし、戦争はより血なまぐさく破壊的であり、政府はより党派的で不安定で、商業と製造業はより弱体で衰退し、警察はより緩慢で不規則でした。これらの後者の欠点は、前者の長所を十分に相殺し、むしろこの問題に関して一般的に広く受け入れられている意見とは正反対の意見を支持するものと思われます。

しかし、事実に反する推論は存在しないと言えるでしょう。もし当時の世界の人口が現在よりも多かったとすれば、私たちの推測は誤りであり、比較において何らかの重要な状況を見落としていたと確信できます。これは私も認めます。これまでの推論はすべて、取るに足らない、あるいは少なくとも何の決定にもならない小競り合いや軽薄な出会いに過ぎないことを認めます。しかし残念ながら、事実を比較する主要な戦いは、それほど決定的なものにはなりません。古代の著述家が提示した事実は、あまりにも不確実であるか不完全であるため、この問題に関して何ら確かな情報を与えてくれません。一体どうしてそうでないと言えるでしょうか。現代国家の偉大さを算定する際に、それらに対比させなければならない事実そのものが、確実でも完全でもないのです。著名な著述家たちが立てた計算の根拠の多くは、ローマで発見された1万ポンドの重さのクモの巣からローマの計り知れない偉大さを推定したヘリオガバルス皇帝の計算の根拠とほとんど変わりません。{p143}

古写本ではあらゆる種類の数字が不明確であり、本文の他の部分よりもはるかに大きな改ざんを受けてきたことに注意すべきである。そして、それには明白な理由がある。他の箇所の変更は、一般的に意味や文法に影響を与え、読者や転写者にとってより容易に認識される。

古代の権威ある著述家によって、比較できるほど広い視野を提供できるような、国土のどの地域についても居住者数を数えたものはほとんどない。

かつては、自由都市に割り当てられた市民の数については、市民が政府への参加を希望し、正確な登録簿が保管されていたため、確かな根拠があったと考えられる。しかし、奴隷の数についてはほとんど言及されていないため、個々の都市の人口さえも、依然として大きな不確実性に陥っている。

トゥキュディデスの最初のページは、私の考えでは、真の歴史の始まりである。それ以前の物語はすべて寓話とあまりにも混じり合っており、哲学者はそれらを詩人や弁論家による装飾に委ねるべきである。[70]

遠い時代においては、割り当てられた兵力はしばしば馬鹿げており、信用と権威を失わせる。武器を携行し、実際に戦闘に投入されたシバリスの自由市民は30万人だった。彼らはシアグラで、隣接するギリシャ都市クロトーナの10万人の市民と激戦し、敗北した。これはシケリアのディオドロスの記述であり、非常に真摯なものである。{p144} その歴史家が主張したように。ストラボンも同数のシバリ派について言及している。

ディオドロス・シケリアは、カルタゴ人によって滅ぼされたアグリゲントゥムの住民を数え上げ、市民2万人、外国人20万人、そして奴隷を数えたと述べています。彼が描写しているような裕福な都市であれば、奴隷の数は少なくとも同程度だったでしょう。ただし、女性と子供は含まれていないため、都市全体では200万人近くの住民が住んでいたと考えられます。[71] では、これほどまでに人口が増加した理由は何だったのでしょうか。彼らは、イングランドの小さな郡に満たない近隣の畑を非常に熱心に耕作し、ワインと油を、当時これらの産物が全くなかったアフリカと交易していました。

テオクリトスはプトレマイオスが33,339の都市を統治したと述べています。この数字の特異性が、この数字を当てはめた理由だと思います。シケリアのディオドロスはエジプトの人口を300万人としていますが、これは非常に少ない数です。しかし、彼はエジプトの都市数を18,000としていますが、これは明らかに矛盾しています。

かつての人口は700万人だったと彼は言う。遠い昔は常に羨望と称賛の対象だったのだ。

クセルクセスの軍隊が極めて多数であったことは、彼の帝国の広大さと、東方諸国が過剰な兵力で陣地を圧迫するという愚かな習慣の両方から容易に信じられる。しかし、理性的な人間がヘロドトスの素晴らしい物語を権威として引用するだろうか? この点に関するリシアスの議論には、非常に合理的な点があることは認めざるを得ない。リシアスはこう述べている。「クセルクセスの軍隊が信じられないほど多数でなければ、ヘレスポントス海峡に橋を架けることはなかっただろう。彼が操る多数の船で、これほど短い航路を兵士を輸送する方がはるかに容易だったはずだ。」

ポリュビオスによれば、ローマ人は第一次ポエニ戦争と第二次ポエニ戦争の間に、{p145} ガリア人は自軍と同盟軍の兵力を総動員し、武器を携行できる兵士が70万人に達していることを確認。これは確かに大きな数字であり、奴隷も加えると、現在の国土の広さから見て、それ以下、いや、むしろそれ以上であろう。[72] この数え上げもある程度正確に行われたようで、ポリュビオスはその詳細を記している。しかし、民衆を鼓舞するために、この数字は想像上のものではなかっただろうか。

ディオドロス・シケリアも同様の数字を100万近くまで数えている。こうした差異は疑わしい。彼もまた、当時のイタリアの人口はそれほど多くなかったと推測しているが、これもまた非常に疑わしい。なぜなら、第一次ポエニ戦争の時代から三頭政治の時代まで、イタリアの人口が減少したなどと誰が信じられるだろうか?

アッピアノスによれば、ユリウス・カエサルは400万人のガリア人と遭遇し、100万人を殺害し、さらに100万人を捕虜にした。[73] 仮に敵軍の兵数と戦死者の数を正確に特定できたとしても(それは決して不可能である)、同じ兵士がどれくらいの頻度で軍隊に復帰したか、あるいは新兵と旧兵を区別する方法をどのようにして知ることができるだろうか? このような曖昧で誇張された計算、特に著者が計算の根拠となる資料を明示していない計算には、決して注意を払うべきではない。

パテルクル​​スは、カエサルによって殺された人数を 40 万人としているが、これはより信憑性のある記述であり、カエサル自身がその『注釈』で述べているこれらの戦争の歴史と容易に調和する。

ディオニュシオス大王の生涯と行動のあらゆる状況は、真実であり、いかなる伝説的誇張からも自由であるとみなされるだろうと想像する人もいるだろう。{p146} 彼が生きていた時代はギリシャ文学が最も栄えていた時代であり、また彼の主任歴史家がフィリストスであったからである。フィリストスは偉大な才能を持つとされ、その君主の廷臣であり大臣でもあった。しかし、彼が歩兵10万、騎兵1万、ガレー船400隻からなる常備軍を擁していたと認めることができるだろうか?これらは傭兵部隊であり、ヨーロッパの軍隊と同様に、給与で生活していた。市民は皆武装解除されていた。後にディオンがシチリア島に侵攻し、同胞に自由を主張するよう呼びかけた際、彼は武器を持参せざるを得ず、合流した人々にそれを分配した。農業のみが栄える国であれば、多くの住民が存在し、全員が武装し規律正しく行動していれば、時として大軍を召集できるかもしれない。しかし、商業や工業、あるいは非常に広大な領土がなければ、多数の傭兵部隊を維持することは決してできない。オランダ諸州は、ディオニュシオスが所有していたとされるほどの海陸の軍事力を掌握したことは一度もありません。しかし、彼らはディオニュシオスと同等の広大な領土を所有し、完璧に耕作され、商業と産業から得られる資源ははるかに豊富です。シケリアのディオドロスは、彼の時代でさえ、ディオニュシオスの軍隊は信じられないほどに見えたと認めています。つまり、私の解釈では、それは全くの作り話であり、その意見は廷臣たちの過剰なお世辞、そしておそらくは僭主自身の虚栄心と政策から生じたものだったということです。

古代のあらゆる時代を一つの時代とみなし、古代の著述家が言及する大都市の数を、あたかもそれらの都市がすべて同時期に存在したかのように計算するのは、よくある誤りである。アレクサンドロス大王の時代には、シチリア島でギリシャ植民地が極めて繁栄したが、アウグストゥスの時代には衰退し、肥沃な島の産物のほぼすべてがイタリアで消費された。

さて、古代の特定の都市に割り当てられた住民の数を調べてみましょう。ニネベ、バビロン、エジプトのテーベの数は省き、実際の歴史の領域に限定しましょう。{p147} ギリシャとローマの国家。正直に言うと、このテーマについて考えれば考えるほど、古代の人口の多さに懐疑的になる傾向がある。

プラトンはアテネを非常に大きな都市と評している。そして、 トゥキュディデスの時代にはほぼ同規模で、後にアテネよりも規模を拡大したシラクサを除けば、アテネは間違いなくギリシャ全土の都市の中で最大の都市であった。[74]キケロ[75]は 、アテネを当時のギリシャ全土の都市の中で最大の都市として挙げているが、おそらくその名称にはアンティオキアやアレクサンドリアは含まれていないと思われる。アテナイオスによれば、デメトリオス・ファレレウスの記録によれば、アテネには市民2万1千人、外国人1万人、奴隷40万人がいたという。この数字は、私がその意見に疑問を呈する者たちによって強く主張され、彼らの目的にとって根本的な事実とみなされている。しかし、私の意見では、彼が引用しているアテナイオスとクテシクレスはここで間違いをしており、奴隷の数は暗号全体によって増加されており、40,000人以上と見なされるべきではないということ以上に確実な批判点はないでしょう。

まず、アテナイオスが市民の数が2万1千人であると述べたとき[76] 、これは成人男性についてのみ理解されている。というのは、(1) ヘロドトスは、イオニアからの使節アリスタゴラスが、女性と子供を除いた国民全体を一つの民会に集めるはずだった3万人のアテナイ人を騙すよりも、一人のスパルタ人を騙す方が難しかったと述べている。(2) トゥキュディデスは、艦隊、陸軍、守備隊、そして私用で動員されていた人々からの欠席者をすべて考慮に入れても、アテナイの民会の規模は5千人に達することはなかったと述べている。(3) 同じ歴史家[77]が数えた兵力は すべて市民であり、1万3千人の重装歩兵であったことは、{p148} ギリシャの歴史家たちの一般的な考え方と同じく、計算方法も同じです。彼らは共和国の市民の数を計算する際、常に成人男性をその数とみなします。さて、これらの人々は住民の4分の1に過ぎないため、自由アテネ人はこの計算によれば8万4千人、外国人は4万人、そして奴隷は、より少ない数で計算し、自由人と同等の割合で結婚し、子孫を残したと仮定すると16万人、そして住民全体は28万4千人となります。これは確かに十分な数です。もう一方の数字、172万人は、アテネがロンドンとパリを合わせたよりも大きいことを示しています。

第二に、アテネには家が 10,000 軒しかありませんでした。

第三に、トゥキュディデスが記した城壁の規模は広大であった(海岸沿いに18マイル)ものの、クセノポンは城壁の内側には広大な荒れ地があったと述べている。城壁は確かに4つの別々の都市を繋いでいたようだ。[78]

第四に、鉱山労働者の騒動を除いて、奴隷の反乱や反乱の疑いについては歴史家によって一切言及されていない。

第五に、クセノポン、デモステネス、そしてプラウトゥスは、アテネ人の奴隷に対する扱いは極めて穏やかで寛大だったと述べていますが、もし奴隷の数が20対1であったならば、このような状況は決してあり得なかったでしょう。我々の植民地では奴隷の数がそれほど多くないにもかかわらず、我々は黒人に対して非常に厳格な軍政を敷かざるを得ないのです。

第六に、平等に分配された財産を所有しているからといって、裕福であるとみなされる人はいない。{p149} イギリスでは、富はどの国でも3倍、4倍にもなりません。例えば、イングランドでは誰もが1日に6ペンスしか使わないと考える人もいますが、その5倍の金額を持っている人は貧乏人だとみなされます。さて、アイスキネスによると、ティマルコスは恵まれた生活を送っていたと言われていますが、彼が所有していたのは工場で働く奴隷が10人だけでした。リュシアスとその兄弟という二人の外国人は、それぞれ60ペンスしか持っていなかったにもかかわらず、莫大な富のために三十人騎士団によって追放されました。デモステネスは父親から非常に裕福な遺産を残しましたが、奴隷は52人しかいませんでした。20人の家具職人が働いていた彼の救貧院は、非常に大きな工場だったと言われています。

第七に、ギリシャの歴史家がデケリア戦争と呼ぶこの戦争では、トゥキュディデスの記述から分かるように、2万人の奴隷が脱走し、アテネ市民に大きな苦難をもたらしました。奴隷が20分の1しかいなかったら、このようなことは起こり得ませんでした。優秀な奴隷は脱走などしないでしょう。

第八に、クセノポンは1万人の奴隷を公衆に接待する計画を提案する。「これほどの数の奴隷を収容できるとは、デケリア戦争以前の我々の奴隷数を思えば、誰しも納得するだろう」と彼は言う。これは、アテナイオスの主張する奴隷の数の多さとは全く相容れない言い回しである。

第九に、アテネ全体の人口調査は6000タラント未満であった。古代写本における数字は批評家からしばしば疑われているが、デモステネスがそれを裏付ける詳細な記述も行っていること、そしてポリュビオスも同じ数字を引用し、その根拠としていることから、これは異論の余地がない。ところで、クセノポンによれば、最も下等な奴隷でさえ、労働によって生活費に加えて1日1オボルスを稼ぐことができた。ニキアスの監督官が鉱山採掘に従事する奴隷に対し、主人に一定額を支払ったと記している。1日1オボルス、奴隷を40万人と推定し、4年間の雇用期間のみで計算すれば、アテネでの休暇の多さを考慮しても、その総額は1万2000タラントを超えることがわかる。さらに、奴隷の多くは、より長い休暇を過ごすことができただろう。{p150} デモステネスは父の奴隷の最低賃金を一人当たり2ミナと見積もっていますが、この仮定に基づくと、4万人の奴隷の数と6000タラントの人口調査の数値さえも矛盾するのではないかと私は思います。

第十に、トゥキュディデスはキオス島がスパルタを除くギリシャのどの都市よりも多くの奴隷を抱えていたと述べています。当時、スパルタは市民数に比例してアテネよりも多くの奴隷を抱えていました。スパルタ人は市内に9000人、郊外に3万人いました。したがって、成人男性奴隷は78万人以上、全体で312万人以上だったはずです。これは、ラコニアのような狭く不毛で貿易のない国では維持不可能な数です。もしヘロテ族がこれほどまでに多数であったならば、トゥキュディデスが述べた2000人の殺害は、彼らを弱体化させることなく、彼らを刺激したでしょう。

さらに、アテナイオス[79]が割り当てた数字が 何であれ、アテネの住民だけでなくアッティカの住民全員を包含していることを考慮する必要がある。トゥキュディデスから分かるように、アテネ人は田舎暮らしを好んでいた。ペロポネソス戦争中に領土が侵略され、全員が都市に追いやられたとき、都市は彼らを収容することができず、彼らは宿泊場所の不足から、柱廊や神殿、さらには路上にまで身を潜めざるを得なかった。

同様のことは他のギリシャの都市にも当てはまる。市民の数を数える際には、常に都市の住民だけでなく、隣国の住民も含めた数として理解しなければならない。しかし、この考慮を払ったとしても、ギリシャは人口の多い国であり、その狭い領土、生まれつき肥沃とは言えず、他地域からの穀物供給も受けない状況から想像できる範囲を超えていたことは認めざるを得ない。{p151} というのは、ポントゥスと交易していたアテネを除いて、他の都市は主に近隣の領土から生計を立てていたようだからである。[80]

ロードスはかつて商業が盛んで名声と栄華を誇った都市としてよく知られていますが、デメトリウスに包囲されたとき、武器を所持できる市民はわずか 6,000 人しかいませんでした。

テーベは常にギリシャの首都の一つであったが、その市民の数はロードス島のそれを上回ることはなかった。[81] クセノポンによれば、フリアシアは小さな都市であったと言われている。{p152} しかし、そこには6000人の市民が住んでいたことが判明しています。私はこの二つの事実を両立させようとはしません。クセノポンがフリアシアを小さな町と呼んだのは、おそらくギリシャにおいてフリアシアが小さな存在であり、スパルタとの従属的な同盟関係を維持していたからでしょう。あるいは、フリアシアの領土が広大で、市民の大半が耕作に従事し、近隣の村々に住んでいたのかもしれません。

マンティネイアはアルカディアのどの都市にも劣らず、したがって、周囲が50スタディア、つまり60マイルと1/4マイルのメガロポリスにも匹敵しました。しかし、マンティネイアの住民はわずか3000人でした。そのため、ギリシャの都市には家屋に加えて畑や庭園が含まれることが多く、城壁の広さで判断することはできません。アテネには1万軒の家しかありませんでしたが、海岸沿いの城壁は約20マイルの広さがありました。シラクサは周囲が22マイルでしたが、古代人がアテネよりも人口が多かったとはほとんど言及しませんでした。バビロンは15マイル、つまり周囲60マイルの正方形でしたが、プリニウスの記述によると、広大な耕作地と囲い地がありました。アウレリアヌスの城壁の周囲は50マイルであったが、プブリウス・ウィクトルによれば、ローマの13の区画全体を分解しても、その周囲は約43マイルに過ぎなかった。敵が侵攻してくると、住民は皆、家畜や家具、農具とともに古代都市の城壁内に退避した。城壁の高さは少人数で容易に防衛できた。

クセノポンは「スパルタはギリシャで最も住民の少ない都市の一つである」と述べている[82] 。しかし、ポリュビオスは、その周囲は48スタディアで円形であったと述べている。

アンティパトロスの時代に武器を所持できたアエトリア人は、少数の守備隊を除いても、わずか一万人であった。

ポリュビオスは、アカイア同盟は3万から4万人の兵士を何の不都合もなく行軍させることができたと伝えている。そしてこの記述は、その同盟が{p153} ペロポネソス半島の大部分を支配していた。しかし、パウサニアスは同時代について語り、解放された奴隷が数人加わっていたとしても、武器を携行できるアカイア人の数は1万5千人に満たなかったと述べている。

テッサリア人は、ローマ人に最終的に征服されるまで、あらゆる時代において騒乱と党派的、扇動的で無秩序な民族であった。したがって、ギリシャのその地域に人口が豊富だったと考えるのは不自然である。

トゥキュディデスは、ペロポネソス半島のうちピュロスに隣接する地域は砂漠で未開であったと記しています。ヘロドトスは、マケドニアにはライオンや野生の雄牛が溢れていたと述べています。これらの動物は、人が住んでいない広大な森林にしか生息できません。これらがギリシャの両極でした。

パウルス・アミリウスによって売られたエピロスの住民は、年齢、性別、身分を問わず、わずか15万人に過ぎなかった。しかし、エピロスの面積はヨークシャーの2倍にも及んだかもしれない。

ユスティノスは、マケドニア王フィリップがギリシャ同盟の首長と宣言された際、同意を拒否したラケデモニア人を除くすべての州を会議に招集したと記している。そして、全体の兵力は計算の結果、歩兵20万人、騎兵1万5千人に達したと報告している。これは武器を携行できる市民全員を指すと理解すべきである。なぜなら、ギリシャ共和国は傭兵部隊を保持しておらず、市民全体とは別個の民兵も持っていなかったため、他に計算手段があるとは考えられないからである。ギリシャがそのような軍隊を戦場に送り込み、そこで維持できたということは、歴史のすべてに反する。したがって、この仮定に基づいて、我々は次のように推論することができる。年齢、性別を問わず、自由ギリシャ人の数は86万人であった。奴隷の数は、前述のアテネの奴隷の数(結婚したり家族を持ったりすることはほとんどなかった)で概算すると、成人男性の2倍、すなわち43万人であった。また、ラコニアを除く古代ギリシャの住民総数は約129万人であった。これは決して多い数ではなく、現在のスコットランド(ほぼ同じ広さで、人口構成も非常にばらばら)の人口を上回るものでもない。{p154}

さて、ローマとイタリアの人口を考え、古代の著述家たちの散在する文章から得られるあらゆる情報を集めてみよう。しかし、全体として、この点に関して何らかの見解を定めることは非常に困難であり、現代の著述家たちが主張するような誇張された計算を支持する根拠は見当たらない。

ディオニュシウス・ハリカルナッサエウスは、古代ローマの城壁はアテネの城壁とほぼ同じ範囲であったが、郊外がかなり広がっており、どこまでが町でどこからが田舎なのかを見分けるのは困難であったと述べている。ローマのいくつかの地域では、同じ著者、ユウェナリス、そして他の古代著述家たち[83]から 、家々は高く、家族は別々の階に住んでいたことが明らかにされている。しかし、これらは貧しい市民のみで、限られた通りで暮らしていた可能性が高い。小プリニウス[84]の 自宅に関する記述や、バルトリの古代建築の設計図から判断するならば、上流階級の人々は非常に広々とした宮殿を所有しており、彼らの建物は今日の中国の家のように、各部屋が{p155} 残りの部分から分離されており、1階建てに過ぎない。ローマ貴族が町のポルティコや森にまで多大な影響を与えていたことを踏まえれば、フォシウスは(何の根拠もないが)大プリニウス[85]の有名な一節を 彼なりに解釈しても良いかもしれない。{p156} 彼はそこから導き出される法外な結果を認めずに。

公共からトウモロコシを受け取った市民の数{p157} アウグストゥス帝時代の配給量は20万でした。これはかなり確実な計算根拠となるはずですが、同時に、私たちを再び疑念と不確実性に陥れるような状況も伴っています。

分配金は貧しい市民だけが受け取ったのでしょうか?確かに、それは主に彼らの利益のために計算されたものでした。しかし、キケロの著作の一節には、富裕層も分配金を受け取ることができ、彼らがそれを申請することは何ら非難されることではなかったことが記されています。

穀物は誰に与えられたのでしょうか?世帯主だけに与えられたのでしょうか、それとも男女子供全員に与えられたのでしょうか?毎月の割り当ては一人当たり5モディ(約6分の5ブッシェル)でした。これは家族にとっては少なすぎ、個人にとっては多すぎました。そのため、非常に正確な考古学者は、成人した男性全員に与えられたと推測していますが、その真偽は定かではないとしています。

請求者がローマの境内に住んでいるかどうかは厳密に問われたのでしょうか、それとも月々の分配に出席するだけで十分だったのでしょうか。後者の方がより可能性が高いと思われます。[86]

偽りの請求者はいなかったのでしょうか? カエサルは正当な称号を持たずに侵入した17万人を即座に排除したと伝えられています。彼がすべての不正行為を正した可能性は極めて低いでしょう。

しかし、最後に、これらの市民にどの程度の奴隷を割り当てるべきか?これは最も本質的な問題であり、かつ最も不確実な問題である。アテネがローマの支配地として確立できるかどうかは極めて疑わしい。おそらくアテネ人は奴隷を多く所有していた。それは、ローマのような首都は製造業にはあまり適していないように思われるが、製造業に彼らを従事させていたからかもしれない。あるいは、ローマ人はより贅沢で富裕であったからかもしれない。{p158}

ローマでは正確な死亡記録が保管されていたが、スエトニウスを除いて埋葬数を明らかにした古代の著述家はいない。スエトニウスは、ある季節にリベティナの神殿に3万人の死者が運び込まれたと伝えているが、これは疫病が流行していた時期のことであり、確実な根拠は何もない。

公共の穀物は、わずか 20 万人の市民に配布されただけであったが、イタリアの農業全体に非常に大きな影響を与えた。この事実は、その国の住民に関する最近の誇張とは決して相容れないものである。

古代ローマの偉大さについて私が見つけられる最良の推測の根拠は、次の通りです。ヘロディアヌスによれば、アンティオキアとアレクサンドリアはローマにほとんど劣っていなかったとされています。シケリアのディオドロスによれば、アレクサンドリアの港から港へと続く一本の直線道路は5マイルの長さがあったようです。アレクサンドリアは幅よりも長さの方がはるかに広かったため、パリのほぼ全域に匹敵する都市であったと思われます。[87] そしてローマはロンドンと同程度の規模だったかもしれません。{p159}

ディオドロス・シケリアの時代には、アレクサンドリアには30万人の自由民が住んでいました。おそらく女性や子供も含まれていたでしょう。[88] しかし、奴隷の数はどれくらいだったでしょうか?もし奴隷の数を自由民の数と同数とする正当な根拠があれば、上記の計算はより正確になるでしょう。

ヘロディアヌスには、少々驚くべき一節があります。皇帝の宮殿は都市の他の部分と同じくらい広かったと断言しています。これはネロの黄金宮殿であり、スエトニウスとプリニウス[89]は確か に巨大な規模を誇示していますが、想像力を働かせても、ロンドンのような都市に匹敵する規模だとは想像できません。

歴史家がネロの浪費について語り、そのような表現を使ったとしても、その重みははるかに薄かったであろうと指摘できる。なぜなら、こうした修辞的な誇張は、著者の文体が最も貞潔で正しいときでさえ、入り込みやすいからである。しかし、ヘロディアヌスは、ゲタとカラカラの争いについて語る際に、それについて付随的にしか触れていない。{p160}

同じ歴史家によれば、当時は耕作されず、全く役に立たない土地が数多く存在していたことが分かり、イタリア国内であろうと他の場所であろうと、誰もがそのような土地を取得し、税金を払うことなく好きなように耕作することをペルティナクスが認めたことを大いに称賛している。耕作されず、全く役に立たない土地!これは、私が聞いたところによると、おそらくハンガリーの辺境地を除いて、キリスト教世界のどこにも聞いたことがない。そして、これは、古代の人口過多という、しばしば強調される概念とは全く相容れない。

ヴォピスコスによれば、エトルリアには耕作されていない肥沃な土地が多くあり、アウレリアヌス帝はそれをブドウ園に変えてローマの人々にワインを無償で配給するつもりだったことが分かる。これは首都と近隣の領土の民衆をさらに追い払うための非常に適切な手段であった。

トスカーナやロンバルディア、そしてギリシャで見られる豚の大群と、当時実践されていた豚の飼育方法について、ポリビウスが述べている記述に注目するのは間違いではないかもしれない。 「イタリア全土、特に昔はエトルリアとガリア・キサルピナ地方に豚の大群がいた」と彼は言う。「そして、一つの群れには千頭以上の豚がいることも珍しくない。餌を食べているこれらの群れが他の群れと出会うと、混ざり合ってしまう。豚飼いたちは、別々の場所に分かれて角笛を鳴らす以外に、それらを引き離す方法がなかった。豚たちはその合図に慣れているので、すぐにそれぞれの飼育者の角笛のもとへ駆け寄る。一方ギリシャでは、豚の群れが森の中で混ざり合ってしまった場合、最も多くの豚を飼っている飼育者は、その機会を巧みに利用して全てを追い払う。そして、餌を求めて飼育者から遠く離れた場所に迷い込んだ豚を盗むのは、よくあることだ。」

この記述から、当時の北イタリアは現在よりも人口が少なく、耕作もはるかに劣っていたと推測できるのではないでしょうか。これほど密集した囲い地で、農業によって発展し、分断された土地で、どのようにしてこれほどの家畜を養うことができたのでしょうか。{p161} ブドウと穀物が混在する農場ではどうでしょうか。ポリビウスの話は、ヨーロッパの国の経営というよりは、アメリカの植民地で見られるような経済的な雰囲気を漂わせていると言わざるを得ません。

アリストテレスの『倫理学』[90] には、いかなる仮定においても説明がつかない、また現在の推論を過度に有利にしているがゆえに、実際には何も証明していないように思われる考察がある。この哲学者は友情について論じ、その関係はごく少数の人々にまで限定されるべきでもなく、また大勢にまで及ぶべきでもないと指摘し、次のような議論で自らの見解を説明している。「同様に」と彼は言う。「都市が住民がわずか十人か十万人かでは存続できないように、友人の数にも中庸さが求められ、どちらかの極端に走れば友情の本質が損なわれる。」なんと!都市が十万人の住民を収容できるなどあり得ないことだ!アリストテレスはこれほど人口の多い都市を見たことも聞いたこともなかったのだろうか?正直に言って、これは私には理解できない。

プリニウスは、東方ギリシャ帝国の首都であったセレウキアの人口は60万人と伝えられていると伝えている。カルタゴはストラボンによれば70万人だったという。ペキンの住民もそれほど多くはない。ロンドン、パリ、コンスタンティノープルもほぼ同じ人口数と言えるだろう。少なくとも後者の2都市はそれを超えない。ローマ、アレクサンドリア、アンティオキアについては既に述べた。過去と現代の経験から、いかなる都市もこの規模を超えて発展することは不可能に近いと推測できる。都市の壮大さが商業に築かれたものであれ、帝国に築かれたものであれ、その発展を阻む克服できない障害が存在するように思われる。巨大な君主制の首都は、法外な贅沢、不規則な支出、怠惰、依存、そして地位や優越性に関する誤った考えをもたらすことで、{p162} 商業には不向きである。大規模な商業は、あらゆる労働力と商品の価格を引き上げることで、自らを阻害する。大宮廷が莫大な財産を持つ多数の貴族を接待する時、中流階級のジェントリは地方都市に留まり、そこそこの収入で名を馳せる。そして、国家の領土が巨大になれば、必然的に遠隔地に多くの首都が築かれ、少数の廷臣を除くすべての住民が、教育、財産、娯楽を求めてそこへ赴く。[91] ロンドンは、大規模な商業と中流階級の帝国を融合させることで、おそらくいかなる都市も決して超えることのできない偉大さに到達したのである。

ドーバーかカレーを中心として選び、半径200マイルの円を描いてみましょう。ロンドン、パリ、ネーデルラント、ネーデルラント連邦共和国、そしてフランスとイングランドの最も耕作が進んだ地域のいくつかがそこに含まれます。古代において、これほど多くの大都市と人口を抱え、これほど富と住民で溢れていた、同等の広さの土地は他に類を見ないと言っても過言ではないでしょう。両時代において、最も多くの芸術、知識、礼儀正しさ、そして最も優れた警察力を有していた国家を比較するのが、最も真実に近い比較方法でしょう。

ラベ・デュ・ボスは、イタリアは古代よりも現在の方が温暖であると述べている。「ローマの年代記によれば、紀元後480年には冬が厳しすぎて木々が枯れてしまった。ローマではテヴェレ川が凍り、地面は40日間雪に覆われた。ユウェナリスが迷信深い女性を描写する際、彼女は身を清めるためにテヴェレ川の氷を割ったとされている。」

「「アムネムのハイバナム・フラクタ氷河の子孫、
テル・マトゥティーノ・ティベリ・マージトゥール。」
彼は、その川の凍結はよくあることだと述べています。ホラティウスの多くの箇所では、ローマの街路が雪と氷で覆われていたと想定されています。もし古代人が温度計の使い方を知っていたら、この点について私たちはもっと確信を持っていたでしょう。しかし、彼らの著述家たちは、意図せずとも、ローマの冬が以前よりもはるかに温暖になったことを確信させるのに十分な情報を与えています。現在、ローマではテヴェレ川はカイロのナイル川と同じくらい凍りません。ローマ人は、雪が2日間降り積もり、北向きの噴水から数本のつららが48時間も垂れ下がっているのを見れば、冬を非常に厳しいものとみなします。

この独創的な批評家の観察は、ヨーロッパの他の気候にも当てはまるだろう。シケリアのディオドロスがガリアの気候について記した記述の中に、フランスの温暖な気候を見出す者は誰だろうか?彼はこう述べている。「北方の気候であるため、極度の寒さに見舞われる。曇りの日は雨ではなく大雪が降り、晴天時には極度に凍結し、河川は自ら橋を架ける。その橋の上を、一人の旅人だけでなく、大軍が荷物や荷馬車を満載して通行することもある。ガリアにはローヌ川、ライン川など多くの河川があり、そのほとんど全てが凍結している。崩落を防ぐため、道路が通る場所では籾殻や藁で氷を覆うのが通例である。」ペトロニウスは「ガリアの冬よりも寒い」という言葉をことわざとして用いている。

「セヴェンヌ山脈の北では、ガリアではイチジクやオリーブは生産されず、植えられたブドウの木は熟すブドウを実らせない」とストラボンは言う。

オウィディウスは、散文の真剣な主張を尽くして、彼の時代にはエウクシネ海が毎年冬に凍りついていたと断言し、自らの主張の真実性を、自らが名指しするローマ総督たちに訴えている。オウィディウスが追放されたトミの緯度では、現在このようなことは滅多に、あるいは全く起こらない。この同じ詩人が吐き出す嘆きは、現在ペテルスブルクやストックホルムではほとんど経験されない、季節の厳しさを物語っているように思える。

プロヴァンス出身のトゥルヌフォールは、同じ{p164} ヨーロッパ諸国を訪れた彼は、世界にもこれより素晴らしい気候はない、と述べ、オウィディウスの憂鬱以外には、彼にそのような陰鬱な考えを抱かせるものはなかった、と主張している。

しかし、その詩人が述べた事実はあまりにも状況証拠に過ぎず、そのような解釈は不可能である。

ポリュビオスによれば、アルカディアの気候は非常に寒く、空気は湿っていたそうです。

「イタリアはヨーロッパで最も温暖な気候です」とヴァロは言う。「内陸部(ガリア、ドイツ、パンノニア地方は間違いなく)はほぼ一年中冬です。」

ストラボンによれば、スペインの北部は厳しい寒さのせいで人がほとんど住んでいない。

したがって、ヨーロッパが以前よりも温暖化しているというこの指摘が正しいとすれば、それをどのように説明できるだろうか。明らかに、土地が現在はるかに耕作され、かつては大地に影を落とし、太陽光線を遮っていた森林が伐採されたと仮定する以外に方法はない。アメリカ北部の植民地は、森林が伐採されるにつれて温暖化している。[92] しかし、一般的に言えば、南北アメリカではヨーロッパの同緯度地域よりも依然として寒さが厳しいことに誰もが気づくだろう。

コルメラが引用したサセルナは、彼の時代以前に天体の配置が変化し、空気がはるかに穏やかで暖かくなったと主張した。「このことから、」と彼は言う。「かつては気候の厳しさのためにこれらの産物を生産できなかった多くの場所に、今ではブドウ園やオリーブ園が広がっていることがわかる。」もしそのような変化が真実であるならば、サセルナの時代以前の国々の耕作と人口増加が著しく進んだことの明白な兆候とみなされるだろう。[93] そして、それが現代まで続いているならば、{p165} これらの利点がこの地域全体で継続的に増加していることの証明です。

古代と近代史の舞台となったすべての国々に目を向け、その過去と現在の状況を比較してみましょう。おそらく、現在の世界の空虚さと人口減少を嘆く根拠は、これほど見当たらないでしょう。エジプトについて最もよく記述しているマイレは、住民数が減少していると評価しながらも、非常に人口が多かったと述べています。シリア、小アジア、そしてバルバリア海岸は、古代の状況と比較すると、実に荒廃していると言わざるを得ません。ギリシャの人口減少もまた明白です。しかし、現在ヨーロッパでトルコと呼ばれている国が、ギリシャの繁栄期ほど多くの住民を抱えているかどうかは、少々疑問です。当時のトラキア人は、略奪と強奪によって、現在のタタール人のように暮らしていたようです。ゲテス人はさらに未開で、イリュリア人もそれほど劣っていませんでした。これらはその国の十分の一を占めており、トルコ人の統治は産業や伝播にはあまり有利ではないが、少なくとも住民の間に平和と秩序が保たれており、彼らがかつて暮らしていた野蛮で不安定な状態よりはましである。

ヨーロッパのポーランドやモスクワは人口は多くないが、古代サルマティアやスキタイよりもはるかに人口が多い。古代サルマティアやスキタイでは、農業や耕作など聞いたこともなく、牧草地でのみ人々の生活を維持していた。同様の観察はデンマークやスウェーデンにも当てはまるだろう。かつて北方からやって来てヨーロッパ全土を席巻した大群の人々を、この意見に異論を唱える理由とみなすべきではない。国家全体、あるいはその半分でさえもその本拠地を奪うとなると、どれほどの莫大な人数を擁し、どれほどの勇敢さで攻撃を仕掛けるか、そして侵略された国々に与える恐怖が、侵略者の勇気と群衆を想像の中でどれほど大きく膨らませるかは容易に想像できる。スコットランドは広大でも人口も多くもないが、その半分が…{p166} 住民に新たな居住地を求めさせ、チュートン人やキンブリ人と同じくらい大きな植民地を形成し、ヨーロッパ全土を揺るがし、以前よりも防衛状態が良くないと考えるだろう。

ドイツの人口は、古代と比べて現在20倍に増えているのは確かだ。古代の人々は土地を耕作しておらず、各部族は周囲に広がる広大な荒廃によって自らの価値を認めていた。これは、カエサル、タキトゥス、ストラボンの教えからわかる通りだ。これは、平和、秩序、そして勤勉の精神が伴わない限り、小共和国への分割だけでは国家の人口増加にはつながらないという証拠である。

昔のブリテン島の野蛮な状況はよく知られており、その住民の少なさは、その野蛮さからと、ヘロディアヌス帝が述べた、ローマ人が一世紀以上にわたって完全に定住した後のセウェルス帝の時代でさえブリテン島全体が沼地であったという状況から容易に推測できる。

ガリア人が古代、北方の隣人たちよりも生活術においてはるかに進んでいたとは容易に想像できない。なぜなら彼らはドルイド教の宗教と哲学の奥義を学ぶためにこの島に渡ったからである。[94] したがって、当時のガリアが現在のフランスほど人口が多かったとは考えられない。

アッピアノスとシケリアのディオドロスの証言を真に信じ、それらを統合するならば、ガリアの人口が信じられないほど多かったことを認めざるを得ない。前者はガリアに400の民族が存在したと述べ、後者はガリアの民族の中で最大のものは男性20万人(女性と子供を除く)、最小のものは5万人であったと断言している。したがって、中央値で計算すると、現在人口が多いとみなされている国(人口は20人強と推定されている)には、ほぼ2億人の人口がいたと認めざるを得ない。 [ 95]{p167} したがって、計算は浪費によってあらゆる権威を失う。古代の人口増加の原因とされる財産の平等は、ガリア人には存在しなかった。また、シーザーの時代以前は、内紛がほぼ絶え間なく続いていた。ストラボンは、ガリア全土が耕作されていたとはいえ、それは熟練した技術や注意を払って耕作されていたわけではなく、住民の才能が彼らを芸術よりも武術へと導いたと指摘し、ローマへの隷属によって彼ら自身の間に平和がもたらされた。

カエサルは、ベルギーにおける征服に対抗するために徴集された大軍を非常に詳細に列挙し、その総数を20万8千人としている。これはベルギーで武器を携行できる全民衆ではなかった。同じ歴史家は、ベロヴァキ族は60人しか出撃させなかったにもかかわらず、10万人の兵士を戦場に送り込むことができたと述べている。したがって、全体を10対6の割合で計算すると、ベルギー全土の戦闘員の総数は約35万人、住民全体では150万人となる。ベルギーはガリアの約4分の1の面積を占めていたため、その人口は600万人にも達した可能性があるが、これは現在の住民の3分の1にも満たない。[96] カエサルによれば、ガリア人は土地に固定の所有権を持っておらず、族長は家族に死者が出た際に、その家族の構成員の間ですべての土地を新たに分割した。これは、ベルギーで長く続いたタニストリーの慣習である。{p168} アイルランドは悲惨、野蛮、荒廃の状態のまま残されました。

同じ著者によると、古代ヘルウェティアは長さ250マイル、幅180マイルに及んでいたが、人口はわずか36万人だった。現在ではベルン州だけでも同数の人口を抱えている。

アッピアノスとシケリアのディオドロスによるこの計算の後では、現代のオランダ人が古代のバタヴィ人より多いと断言できるかどうか私には分からない。

スペインは3世紀前と比べて衰退している。しかし、2000年前のスペインの住民たちの落ち着きがなく、騒乱に満ち、不安定な状態を2000年遡って考えてみると、現在の人口ははるかに増加していると考えるのが妥当だろう。ローマ人に武器を奪われたスペイン人の多くは自殺した。プルタルコスによれば、スペイン人の間では強盗や略奪は名誉あることとされていたようだ。ヒルティウスも同様の視点からカエサル時代のスペインの状況を描写し、すべての人間が安全のために城や城壁で囲まれた町に住むことを余儀なくされたと述べている。これらの混乱はアウグストゥスによる最終的な征服によってようやく鎮圧された。ストラボンとユスティノスがスペインについて記した記述は、上記の記述と完全に一致している。それゆえ、キケロがイタリア、アフリカ、ガリア、ギリシャ、スペインを比較して、住民の多さが後者の国を恐るべきものにした特異な状況であると述べているのを見ると、古代の人口の多さに関する私たちの考えはどれほど薄れることだろう。[97]

イタリアは衰退したかもしれないが、まだいくつの大都市が残っているだろうか?ヴェネツィア、ジェノヴァ、パヴィア、トリノ、ミラノ、ナポリ、フィレンツェ、リヴォルノ、これらは{p169} 古代には存在しなかったか、あるいは当時はごくわずかな存在であった。このことをよく考えてみると、この主題に関してよくあるように、物事を極端に捉えてしまう傾向はなくなるだろう。

かつて穀物を輸出していたイタリアが、日々の糧を属州全体に依存するようになったとローマの著述家たちが嘆くとき、彼らはこの変化を住民の増加に帰することは決してなく、耕作と農業の怠慢に帰している。これは、穀物を輸入してローマ市民に無償で分配するという有害な慣行の当然の結果であり、どの国においても住民を増やす手段としては非常に悪質であった。[98] マルティアリスとユウェナリスが盛んに語ったスポルトゥラは、大領主が小口の顧客に定期的に贈与していたため、民衆の間に怠惰、放蕩、そして絶え間ない衰退を生み出す傾向があったに違いない。現在、教区税はイングランドにおいて同様の悪影響を及ぼしている。

もし私がこの地域に現在よりも多くの住民が住んでいたと想像する時代を挙げるとすれば、トラヤヌス帝とアントニヌス帝の時代でしょう。当時ローマ帝国の大部分は文明化され、耕作され、国内外でほぼ平和が保たれ、同じ規則的な警察と政府の下で生活していました。[99] しかし、{p170} 広大な政府、特に絶対君主制は人口を破壊し、隠れた悪徳と毒を孕んでおり、こうした有望な外見の効果をすべて破壊する。このことを裏付けるために、プルタルコスから引用した一節がある。やや特異な点があるので、ここで検証してみよう。

その著者は、多くの神託が沈黙している理由を説明しようと試み、それは過去の戦争や党派争いに起因する現在の世界の荒廃に起因すると述べている。そして、この共通の災厄は他のどの国よりもギリシャに重くのしかかっていると付け加えている。現在、ギリシャ全体で3000人の戦士を編成できるのもやっとである。メディア戦争の時代には、メガラという一つの都市だけでその数の戦士を編成できたのである。したがって、尊厳と重要性のある業を成し遂げる神々は、多くの神託を封印し、これほど矮小な民に、これほど多くの御旨の解釈者を用いることを望まないのである。{p171}

正直に言うと、この一節にはあまりにも多くの難解な点があり、どう解釈すべきか分かりません。プルタルコスは人類の衰退の原因として、ローマ帝国の広大な領土ではなく、かつての諸民族間の戦争や派閥争いを挙げており、それらはすべてローマ軍によって鎮圧されたことを指摘しています。したがって、プルタルコスの推論は、彼が提示する事実から導き出される推論とは正反対です。

ポリュビオスは、ローマの支配が確立された後、ギリシャはより繁栄し、栄えたと推測している。[100] そして、その歴史家はこれらのことよりも前に書いたが、{p172} 征服者たちは、人類の守護者から略奪者へと堕落したが、タキトゥスによれば、皇帝の厳格さがその後、統治者の無権限を抑制したことが分かるので、拡張君主制が、よく言われるように、破壊的であったと考える理由はない。

ストラボンによれば、ローマ人はギリシャ人への敬意から、その時代まで、その名高い国家の特権と自由の大部分を維持し、ネロは後にそれらをむしろ拡大した。それなのに、ローマの軛が世界のその地域にそれほど重荷を負わせていたとは、どうして想像できるだろうか?総督による圧制は抑制され、ギリシャの行政官職はすべて民衆の自由投票によって各都市に与えられていたため、競争者たちが皇帝の宮廷に通う必要性はそれほど高くなかった。もし多くの人々がローマで財産を築き、学問や雄弁といった母国で培った財産で出世しようとすれば、彼らの多くはそこで得た財産を持ち帰り、それによってギリシャ国家を豊かにしたであろう。

しかしプルタルコスは、ギリシャにおける人口減少は他のどの国よりも深刻だったと述べています。これは、ギリシャの優れた特権や優位性とどのように調和するのでしょうか?

それに、この一節はあまりにも多くのことを証明しているが、実際には何も証明していない。ギリシャ全土で武器を携行できるのはたった3000人だけだ!これほど奇妙な主張を誰が認めようか。特に、プルタルコスの時代よりずっと後の著述家によって言及され、歴史に名を残しているギリシャの都市が数多くあることを考えればなおさらだ。古代ギリシャ全土で都市がほとんど残っていない現在、人口は間違いなくその10倍に上る。その土地は今でもそれなりに耕作されており、スペイン、イタリア、南フランスで穀物が不足した場合でも、確実に供給してくれる。

古代ギリシャ人の倹約と財産の平等は、ルキアノスからわかるように、プルタルコスの時代にもまだ存続していたことがわかる。{p173} その国が少数の主人と多数の奴隷によって支配されていたと想像する根拠となる。

ローマ帝国成立後、ギリシャでは軍事規律が全く役に立たなかったため、極めて軽視されていた可能性が高い。かつて好戦的で野心的だったこれらの共和国が、暴徒による騒乱を防ぐためにそれぞれ小規模な都市警備隊を維持していたとすれば、それだけで十分だったと言えるだろう。そして、その警備隊はギリシャ全土で3000人にも満たなかっただろう。もしプルタルコスがこの事実を認識していたとすれば、彼はここで極めて重大な錯誤を犯し、結果に見合った原因を全く提示していないと言えるだろう。しかし、著者がこのような誤りを犯すほど、それは大きな奇跡なのだろうか?[101]{p174}

しかし、プルタルコスのこの一節にどれほどの力が残っていたとしても、我々はシケリアのディオドロスの注目すべき一節によってそれを相殺しようと努める。この一節で歴史家は、ニヌスの170万の歩兵と20万の騎兵からなる軍隊について言及した後、いくつかの後世の事実によってこの記述の信憑性を裏付けようと試み、そして、現在世界中に広がっている空虚と人口減少から、古代の人類の人口多さを推測してはならないと付け加えている。このように、古代において最も人口が多かったとされる時代に生きた著者が、​ [102] 当時の荒廃を嘆き、過去の時代を優先し、自らの見解の根拠として古代の寓話に依拠しているのである。現在を責め、過去を称賛するユーモアは人間の本性に深く根ざしており、最も深い判断力と最も広範な学識を備えた人々にさえも影響を与えます。

古代国家の人口に関する記録。
39 独創的な筆者が、この講演に、礼儀正しさ、博識、そして良識に満ちた返答で敬意を表した。著者が最初から懐疑的な立場を保とうと用心深くなかったならば、これほど博識な反論は、著者の推論が完全に覆されたと疑わせたであろう。そして、この有利な立場を利用したことで、はるかに劣勢ではあったものの、完全な敗北を免れたのである。この敬虔なる紳士は、相手が確固たる地位を築いている場合、相手を説得することが困難になることに常に気付くであろう。そのような状況では、ウァロはハンニバルから、ファルナケスはカエサルから身を守ることができたであろう。しかしながら、著者は、相手が著者の権威と推論の両方に多くの誤りを見抜いていたことを喜んで認めている。そして、多くの誤りが指摘されなかったのは、ひとえにこの紳士の寛大さによるものである。この版では彼の学識ある批評が生かされ、エッセイは以前よりも不完全なところが少なくなりました。

40 コルメラ(lib. 3、第8章)は、エジプトとアフリカでは双子の出産が頻繁に行われ、習慣でさえあったと述べている。 「双子が家族で分娩し、孤独な双子が分娩する」。もしこれが真実なら、国と時代の両方に物理的な違いがあると言えるだろう。なぜなら、現在、旅行者はこれらの国々についてそのようなことを言うことはないからだ。むしろ、北方の国々の方がより肥沃であったと私たちは考えがちである。これらの二つの国はローマ帝国の属州であったため、コルメラのような人物がそれらに関して誤解していたと考えるのは、全く不合理ではないにしても、難しい。

41 これもまた、天然痘が一見想像されるほど諸国の人口を減少させない理由の一つである。人口を受け入れる余地があれば、たとえ帰化法案の助けがなくても、必ず人口は増加する。ドン・ジェロニモ・デ・ウスタリスは、インド諸島へ最も多くの人々を送り出すスペインの諸州が最も人口が多いと述べているが、これはそれらの州の富の多さに起因する。

42 ローマでも同じ慣習が一般的でしたが、キケロは、この証拠は自由市民の証言ほど確実ではないと考えていたようです。(プロ・カリオ)

43 書簡 122。ローマで披露された非人間的な娯楽もまた、民衆の奴隷軽蔑の結果であると正当に考えられ、君主や統治者の一般的な非人間性の大きな原因でもあった。円形劇場での催し物の記述を読んで恐怖を感じない者がいるだろうか。あるいは、民衆が下々の者を扱うのと同じ方法で皇帝が民衆を扱うことに驚く者がいるだろうか。このような場合の人道性は、民衆は首が一つだけであるというカリグラの野蛮な願望を新たにする傾向がある。そのような怪物のような種族を一撃で絶滅させることは、ほとんど喜ばしいことであった。「神に感謝しなさい」と、上に引用した著者(書簡 7)はローマの民衆に語りかけながら言う。「あなた方には、あなた方の例から残酷さを学ぶことのできない主人(すなわち、温厚で慈悲深いネロ)がいます。」これは彼の治世の初めに語られたことである。しかし、その後彼はそれらをとても上手に身につけ、幼少のころから慣れ親しんできた野蛮な物を見ることで、間違いなくかなり上達した。

44 ここで、もし家庭内奴隷制が本当に人口を増加させたとすれば、それは社会の幸福と人口増加は必然的な付随物であるという一般原則の例外となるであろうことを指摘しておこう。主人は、気まぐれや利害関係から奴隷たちをひどく不幸にさせながらも、利害関係から奴隷の数を増やすことに気を配ることがある。彼らにとって、結婚は人生の他のいかなる行為と同様に、選択の問題ではない。

45 キリキアのデロスでは、ローマ人の使用のために一日に一万人の奴隷が売られることがよくあった。—ストラボン、第14章。

46 servus は 属名、vernaは種名であり、対応する語句がないため、後者が圧倒的に少数であったと強く推測されます。言語に関して私たちが一般的に抱く観察は、全体を構成する二つの関連する部分が、数、地位、あるいは考慮において互いに何らかの比例関係にある場合、常に両方の部分に対応し、それらの相互関係を表す相関語が発明されるということです。もし両者が互いに比例関係にない場合、その語句はより小さいもののためにのみ発明され、全体との区別を示すものとなります。例えば、男と女、主人と召使、父と息子、君主と臣下、外国人と市民などは相関語です。しかし、船員、大工、鍛冶屋、仕立て屋といった言葉には、船員でも大工でもない人々を表す対応する語句がありません。この区別が当てはまる特定の語句に関しては、言語によって大きく異なり、そこから様々な国の風俗習慣について非常に強い推論が得られる可能性があります。ローマ皇帝の軍事政権は、兵士を非常に高く評価し、国家の他のすべての階級と均衡を保っていた。そのため、 miles(マイル)とpaganus(パガヌス)は相対的な用語となった。これは古代言語ではそれまで知られていなかったものであり、現代言語でも依然としてそうである。現代の迷信は聖職者を非常に高く評価し、国家全体の均衡を奪っている。そのため、聖職者と平信徒はすべての現代言語において、そしてローマ語においてのみ、対立する用語となっている。そして同じ原理から、もしローマ人が外国から購入した奴隷の数が国内で飼育された奴隷の数を著しく上回っていなかったならば、verna(ヴェルナ)には前者の奴隷種を表す対応語があったであろうと私は推論する。しかし、どうやらこれらが古代の奴隷の主体を構成し、後者は少数の例外に過ぎなかったようだ。

47 ヴェルナは、ローマの作家によって、それらの奴隷の短気さと厚かましさを理由に、スキュラに相当する言葉として使用されています 。 (Mart.、lib. 1、ep. 42.) ホレスはまた、vernæ procesについても言及しています。そしてペトロニウス (cap. 24)、vernula Urbanitas。セネカ (提供、キャップ 1)、 vernularum licentia。

48 西インド諸島では、奴隷を補充するために新たな奴隷を買わない限り、奴隷の数は毎年5%ずつ増加していると試算されています。衣服や食料が容易に手に入る温暖な国々でさえ、奴隷の数を維持することは不可能です。ヨーロッパ諸国、そして大都市やその近郊では、どれほどのことが起こっているのでしょうか。

49 コーン。ネポス著『アッティキ伝』。アティクスの領地は主にエピロスにあったが、そこは辺鄙で荒涼とした場所であったため、そこで奴隷を飼育することは彼にとって利益を生むものであったことは注目に値する。

50 κλινοποι οι、古代の人々が食事の際に横たわったベッドを作った人々。

51 「非 temere ancillæ ejus rei causa comparantur ut pariant」 ( Digest. lib. 5、tit. 3、de hæred. petit. lex 27)。以下の文章も同じ目的に当てはまります:—「Spadonem morbosum non esse, neque vitiosum, verius mihi videtur; sed sanum esse, sicuti illum qui unum testiculum habet, qui etiamgenerare Potest」 ( Digest. lib. 2, tit. 1, de ædilitiodicto , lex 6 , § 2)。 「Sin autem quis ita spado sit, ut tam necessaria pars corporis penitus absit, morbosus est」 (同上 lex 7 )。彼の無力さは、健康や生命に影響を及ぼす可能性がある場合にのみ考慮されたようで、他の点では彼は十分に価値あるものだった。同じ論法は女性奴隷にも当てはまる。「Quæritur de ea muliere quæ semper mortuos parit, an morbosa sit? et ait Sabinus, si vulvæ vitio hoc contingit, morbosam esse」(同上、 lex 14)。妊娠した女性が病的か衰弱しているかさえ疑問視され、彼女が健全であると判断されるのは、その子孫の価値のためではなく、子供を産むことが女性の自然な部分、あるいは役割だからである。 「Si mulier prægnans venerit, inter omnes convenit sanam eam esse. Maximum enim ac præcipuum munus fœminarum accipere ac tueri Conceptum. Puerperam quoque sanam esse; si modo nihil extrinsecus accedit, quod corpus ejus in aliquam valetudinem immitteret。 De sterili Cœlius distinguere Trebatium dicit、ut si natura sterilis sit、sana sit、si vitio corporis、contra」(同上)。

52 大きな家の奴隷には、cellæと呼ばれる小さな部屋が割り当てられていました。そこから、cellæという名称は修道院の修道士の部屋にも引き継がれました。この点については、Just. Lipsius, Saturn. 1, cap. 14を参照。これらは、家族奴隷の結婚や子孫の継承に強く反対する根拠となっています。

53 タキトゥスはそれを非難する —デ・モーリブ。胚芽。

54 兄弟愛について。セネカもまた、病弱な子供たちを外に出すことを容認している(『イラについて』、lib. i. cap. 15)。

55 たとえ近親者であっても、多額の財産を友人に残すという習慣は、ルシアンの記録からわかるように、ローマだけでなくギリシャでも一般的でした。この習慣は現代ではあまり一般的ではありません。そのため、ベン・ジョンソンの『ヴォルポーネ』はほぼ完全に古代の作家の作品から引用されており、当時の風習によく合致しています。

ローマにおける離婚の自由は、結婚を阻むもう一つの要因であったと考えるのも当然だろう。こうした慣習は、気まぐれな口論を防ぐどころか、むしろ増加させる。そして、利害関係による口論も引き起こし、利害関係の方がはるかに危険で破壊的である。古代人の不自然な情欲についても、そろそろ考慮に入れるべきかもしれない。

56 カエサルは百人隊長に一般兵士の10倍の恩給を与えた(『ガリア書』第8巻)。後述するロドス・カルテルでは、軍隊の階級による身代金の差はなかった。

57 Plin. lib. 18, cap. 3. 同じ著者は、cap. 6でこう述べている。「Verumque fatentibus latifundia perdidere Italiam; jam vero et provincias. Sex domo semissem Africa possidebant, cum interfecit eos Nero princeps.」 この観点からすると、初期のローマ皇帝による野蛮な虐殺は、私たちが想像するほど公衆に破壊的な影響を与えたわけではないかもしれない。これらの虐殺は、共和政末期に世界の略奪を享受した名門貴族をすべて滅ぼすまで続いた。彼らに代わって台頭した新興貴族たちは、Tacit. Ann. lib. 3, cap. 55からわかるように、それほど華麗ではなかった。

58 古代の兵士は、最下級以上の自由市民であったため、全員が結婚していた。現代の兵士は、独身を強いられるか、あるいは結婚しても人類の繁栄にほとんど貢献しない。こうした状況は、古代人にとって何らかの利益となるものとして、おそらく考慮されるべきであろう。

59 敵の戦列を突破した後、縦隊に何の利益があるというのか?それは、敵の側面を攻撃し、四方八方から砲火を浴びせて敵を撃退することだけだ。しかし、敵を突破するまでは、敵に側面をさらし、マスケット銃や、さらに悪いことに大砲の攻撃にさらされることになるのではないだろうか?

60 Inst. lib. 2、第6章。確かに、同じ法律がユスティニアヌス帝の時代まで継続されていたようだが、野蛮さによってもたらされた濫用が、必ずしも礼儀正しさによって是正されるわけではない。

61 民衆派に属し、三十僭主の攻撃からかろうじて逃れたリュシアスは、民主制は寡頭政治と同じくらい暴力的な政治だったと述べている。『民衆の地位に関する演説』第24章。

62 オラト 24。そしてオラト 29 では、これらの違法な処罰が不快である唯一の原因として、民衆集会の党派心について言及しています。

63 Lib. 3. ヨーロッパで、私が観察した限りでは、派閥争いが最も激しく、党派憎悪が最も強い国はアイルランドである。これは、プロテスタントとカトリック教徒の間のごく日常的な礼儀正しい交流さえも断ち切ってしまうほどである。彼らの残忍な反乱と、互いに行った激しい復讐こそが、この相互の敵意の原因であり、この国の混乱、貧困、そして人口減少の主因となっている。ギリシャの派閥争いは、革命がより頻繁に起こり、暗殺の格言がより公然と認められていたため、さらに激しく激怒していたと想像する。

64 Diod. Sic., lib. 14. イソクラテスは追放されたのはわずか5000人であると述べている。彼は殺害された人数を1500人としている。Areop. Æschines contra Ctesiph.も全く同じ数字を挙げている。セネカ(De tranq. anim. cap. 5)は1300人であるとしている。

65 ギリシア最盛期の60年間に起こった出来事を、シケリアのディオドロスからいくつか挙げてみよう。シバリスでは貴族とその支持者500人が追放された(同書12巻77ページ、ロドマンニ編纂)。キオスでは市民600人が追放された(同書13巻189ページ)。エフェソスでは340人が殺害され、1000人が追放された(同書13巻223ページ)。キュレネでは貴族500人が殺害され、残りの全員が追放された(同書14巻263ページ)。コリントスでは120人が殺害され、500人が追放された(同書14巻304ページ)。スパルタのパイビダスはボエオティア人300人を追放した(同書15巻342ページ)。ラケデモニア人が滅亡すると、多くの都市で民主政が復活し、ギリシャ流に倣って貴族に対して厳しい復讐が行われた。しかし、事はそこで終わらなかった。追放された貴族たちは各地に戻り、コリントスのフィアラ、メガラ、フリアシアで敵対者を虐殺した。この最後の場所で彼らは300人の民衆を殺害したが、再び反乱を起こしたこれらの者たちは600人以上の貴族を殺害し、残りを追放した(同書15、357ページ)。1400人のアルカディアでは追放者が出ており、その他にも多数が殺害された。追放者たちはスパルタとパランティウムに撤退した。後者は同胞に引き渡され、全員が殺害された(同書15、373ページ)。アルゴスとテーベから追放された者のうち、スパルタ軍には500人がいた(同書374ページ)。同じ著者による、アガトクレスの残虐行為の中でも特に注目すべきものがここに記されている。民衆は、アガトクレスの簒奪以前に600人の貴族を追放していた(同書19章655頁)。その後、民衆の同意を得て、アガトクレスは4000人の貴族を殺害し、6000人を追放した(同書647頁)。ゲラでは4000人を殺害した(同書741頁)。アガトクレスの兄弟によって、8000人がシラクサから追放された(同書20章757頁)。アエゲスタの住民4万人が、金銭目的のため、男女子供を問わず、拷問の末に殺害された(同書802頁)。リビア軍の親族、すなわち父、兄弟、子供、祖父など全員が殺害された(同書103頁)。彼は降伏後、7000人の亡命者を殺害した(同書816ページ)。アガトクレスは優れた分別と勇気を持った人物であったことは特筆すべきである。それゆえ、彼の暴力的な暴政は、当時の風俗をより強く証明していると言える。

66 依頼人を民衆の好意に推薦するために、彼は費やした金額をすべて列挙した。 χορηγοςの場合、30 ミナ。男たちの合唱で、20ミナ。 ειπυρριχιστας、8 ミナ。 ανδρασι χορηγων、50 ミナ。 κυκλικῳ χορῳ、3 ミナ。 7 回国王に就任し、6 タラントを費やした。税金は、1 回目は 30 ミナ、もう 1 回は 40 タラント。 γυμνασιαρχων、12 ミナ。 χορηγος παιδικῳ χορῳ、15 ミナ。 κομοδοις χορηγων、18 ミナ。 πυρριχισταις αγενειοις、7 ミナ。 τριηρει ἁμιλλομενος、15 ミナ。 αρχιθεωρος、30 分。合計すると、10 タラント 38 ミナです。これはアテネの財産としては莫大な金額であり、これだけでも大きな富と評価されるでしょう (オーラト 20)。確かに、法律は彼にそれほど多額の出費を絶対に義務付けたわけではなく、4分の1を超えてはいけないと彼は言う。しかし、人々の好意がなければ誰も安全を確保することはできず、これがそれを得る唯一の方法でした。さらに見てください、オラット。 24、デ・ポップ。ステータス。 別の箇所で、彼は、自分の全財産、それも80タラントという莫大な財産を人々のために使い果たしたと語る演説者を紹介しています(『オラト』25節、『おそらくエヴァンドリ』)。彼は、もしμετοικοι、つまり異邦人が人々の心を十分に満たさないなら、後悔する理由があると考えると述べています(『オラト』30節、『コントラ・フィリピ』 )。デモステネスが『コロナ』​​で自らの弁護をする際に、この種の出費をいかに注意深く示しているか、また、この件、すなわちあの犯罪者を告発する際に、ミディアスのケチさをいかに誇張しているかがおわかりいただけるでしょう。ちなみに、これらすべては、非常に不公正な司法制度の証です。しかし、アテネ人は、ギリシャのどの民族よりも合法的で規則的な行政を行っていると自負していました。

67 上に挙げた権威者たちは皆、歴史家、弁論家、哲学者であり、その証言は疑いようのないものです。嘲笑や風刺を扱う作家に頼るのは危険です。例えば、後世の人々はスウィフト博士のこの一節から何を推測するでしょうか。 「私が旅の途中でしばらく滞在したトリブニア王国(ブリテン)では、現地の人たちからラングドン(ロンドン)と呼ばれていたが、そこの住民の大部分は、いわば発見者、証人、密告者、告発者、検察官、証拠係、宣誓者、そして彼らの従属的かつ下級の道具たちで構成されており、皆、国務大臣とその代理人の旗印、行動、報酬の下に暮らしている。その王国の陰謀は、たいていこうした者たちの仕業である」などと彼に語った(ガリヴァー旅行記)。このような描写はアテネの政治には適しているかもしれないが、人道、正義、自由において現代においてさえ驚異的な存在であるイングランドの政治には適していない。しかし、ドクターの風刺は、他の風刺作家を凌駕するほど極端にまで行き過ぎていたとはいえ、全く対象を欠いていたわけではなかった。彼の友人であり、同じ党派であったロチェスター司教は、少し前に、法的な証拠、あるいは慣習法の厳格な形式に従った証拠なしに、非常に正当な冤罪訴追令状によって追放されていた。

68 Lib. 2. 包囲戦中に8000人が殺害され、捕虜は合計30,000人に達した。シケリアのディオドロス(Lib. 17)は13,000人程度としているが、この少人数の根拠として、ティルス人が妻子の一部を事前にカルタゴに送還していたことを挙げている。

69 リブ. 5. 彼は市民の数を3万人にした。

70 一般的に古代の歴史家は現代の歴史家に比べて率直さと誠実さは高いが、正確さと注意深さは劣っている。私たちの思弁的な一派、特に宗教界のものは、私たちの心に幻想を植え付け、人々は敵対者や異端者への公平さを欠点や弱点とみなしているように見える。しかし、印刷によって書物が一般化されたことで、現代の歴史家は矛盾や不一致を避けるようより注意深くならざるを得なくなった。シケリアのディオドロスは優れた著述家だが、彼の記述がギリシャ史の中で最も信頼できる二大著作、すなわちクセノポンの『ギリシャ遠征記』とデモステネスの『演説』と多くの点で矛盾していることに、私は心を痛めている。プルタルコスとアッピアンはキケロの『書簡集』をほとんど読んでいないようだ。

71 ディオゲネス・ラエルティウス (イン・ビタ・エンペドクリス) は、アグリゲントゥムには 80 万人の住民しかいなかったと述べています。

72 この数の奴隷を供給した国はイタリアの3分の1以下、つまり教皇の領土、トスカーナ、ナポリ王国の一部であったが、おそらくその初期の時代には、ローマや大都市を除いて奴隷はほとんどいなかった。

73 プルタルコス(『カエサル伝』)はカエサルが戦った敵の数はわずか 300 万人であるとしているが、ユリアヌス(『カエサリブス』)は 200 万人であるとしている。

74 アルゴスも大都市だったようで、リシアスはアルゴスの規模はアテネに及ばないと述べている。(オラト34)

75 Orat. contra Verem、lib. 4、cap. 52。ストラボン、lib. 6では、その範囲は22マイルであったと述べていますが、その中に2つの港があり、そのうちの1つは非常に大きく、一種の湾と見なすことができると考えなければなりません。

76 デモステネスは 20,000 を割り当てます。

77 リブ。 2. ディオドロス・シクルスの説明は完全に一致しています (lib. 12)。

78 ディオニュシウス・ハリカルナッサエウスが、ローマの古代の城壁を考慮すると、都市の規模はアテネの規模よりも大きくは見えないと述べているとき、彼はアクロポリスと高台都市のみを指しているに違いない。古代の著述家は、ピュライオン、ファレロス、ムニュキアをアテネと同一視した者はいない。ましてや、キモンとペリクレスの城壁が破壊され、アテネがこれらの都市から完全に分離した後で、ディオニュシウスがそのような観点から物事を考察したとは考えられない。この観察は、フォッシウスの推論をすべて覆し、これらの計算に常識をもたらす。

79 同じ著者は、コリントスにはかつて46万人の奴隷が、アイギナには47万人の奴隷がいたと主張している。しかし、前述の議論は、これらの事実に反するものであり、これらの事実は全く不合理で不可能である。しかしながら、アテナイオスがこの最後の事実についてアリストテレスのような偉大な権威を引用していることは注目に値する。また、ピンダロスに関する学者もアイギナに同数の奴隷がいたと述べている。

80 デモスト対レプト。税関の記録によると、アテネ人はポントスから毎年40万メディムニ(ブッシェル)の穀物を輸入しており、これが彼らの輸入量の大部分を占めていた。ちなみに、これはアテナイオスの前述の一節に何らかの大きな誤りがあることを強く証明するものである。というのも、アッティカ自体が穀物に乏しく、農民を養うのにさえ足りないほどの穀物しか生産していなかったからである。ティトゥス・リヴ、リブ43、第6章、ルキアノスは『航海日誌』の中で、彼が記した寸法からすると我が国の三等船籍船ほどの大きさだったと思われる船が、アッティカ全土を12ヶ月間養うのに十分な量の穀物を積んでいたと述べている。しかし、おそらく当時のアテネは衰退していたであろうし、また、このような曖昧な修辞的な計算を信じるには危険が伴う。

81 ディオドス著『同上』17 アレクサンドロス大王がテーベを攻撃した際には、住民のほとんどがそこにいたと結論づけて差し支えないだろう。ギリシャ人、とりわけテーベ人の精神を知る者なら、国がかくも極度の危機と窮状に陥ったとき、国を捨てる者などいるはずがないと疑うだろう。アレクサンドロスが町を強襲すると、武器を取った者は容赦なく剣にかけられ、その数はわずか 6,000 人であった。この中には、外国人や解放された奴隷も含まれていた。捕虜となった老人、女性、子供、奴隷は売られ、その数は 30,000 人であった。したがって、テーベの自由市民は男女全年齢合わせて約 24,000 人、外国人と奴隷は約 12,000 人であったと結論づけて差し支えないだろう。この外国人と奴隷の数は、アテネよりも割合としていくらか少なかったことがわかる。この状況から、アテネは奴隷を支えるための貿易が盛んな都市であり、外国人を惹きつける娯楽も豊富であったと推測するのは理にかなっている。また、テーベ市とその周辺地域の人口は合わせて3万6千人であったことも特筆すべきである。これは確かに妥当な数字であり、この計算は議論の余地のない事実に基づいているため、今回の論争において大きな意味を持つに違いない。前述のロードス島の住民の数もまた、自由で武器を携行できる島民全員を指していた。

82 De rep. Laced.この一節は、スパルタには9000人の市民がいたとするプルタルコスの上記の記述と容易には一致しない。

83 ストラボンは第 5 巻で、アウグストゥス帝が 70 フィートを超える高さの家を建てることを禁じたと述べています。別の箇所、第 16 巻では、ローマの家が驚くほど高かったと述べています。同じ目的でウィトルウィウス第 2 巻第 8 章も参照。ソフィストのアリスティデスは、演説 εις Ρωμην で、ローマは都市の上に都市が重なり合ったもので、広げて展開すればイタリア全土を覆うことになると述べています。著者がこのような大げさな演説にふけり、誇張表現に頼りすぎると、どこまで表現を簡略化しなければならないかわかりません。しかし、この推論は自然に思えます。ディオニュシオスが言うようにローマが分散して建設され、田舎にまで広がっていたとしたら、家がこのように高く建てられた通りはほとんどなかったはずです。誰もがその不便な方法で建物を建てるのは、土地が足りないからに過ぎません。

84 Lib. 2, epist. 16; lib. 5, epist. 6. プリニウスがそこで田舎の家を描写しているのは事実である。しかし、古代人が壮麗かつ便利な建物として考えていたのはまさにその考えであったため、偉人たちは街にも同じようなものを建てたに違いない。「In laxitatem ruris excurrunt(田舎の暮らしはゆるやかに過ぎ去る)」とセネカは裕福で官能的な人々について述べている(epist. 114)。ウァレリウス・マクシムス(lib. 4, cap. 4)は、キンキナトゥスの4エーカーの畑についてこう述べている。「アウグストゥスはそこに住んではいない、なぜなら、その土地はシンキナトゥスの畑のように、まるで自分の家に住まうかのように、その土地をじっと見つめていたからだ。」同じ趣旨で、lib. 36, cap. 15およびlib. 18, cap. 2も参照。

85 「Mœnia ejus (Roma) collegere ambitu imperatoribus, cencibusque Vespasianis, AUC 828, pass. xiii. MCC , complexa montes septem, ipsa dividitur inregiones quatuordecim, compita Earum 265. Ejusdem spatii mensura, currente a milliario in capite Rom. Fori statuto、ad singulas portas、quæ sunt hodie numero 37、ita ut duedecim portæ semel numerentur、prætereanturque ex veteribus septem、quæ esse desierunt、Ad extrema vero tectorumcum Castris prætoris ab eodem Milliario、per。ヴィコスオムニウムviarum、mensura collegit paulo amplius septuaginta millia passuum。最高の高度を実現し、最高の結果を導き出し、最高の運命を実現するために最高の瞬間を目指してください。」 (大プリニウス、第 3 ライブラリ、第 5 章)

プリニウスの良質な写本はすべて、ここに引用した箇所をそのまま読み、ローマの城壁の周囲を13マイルと定めています。問題は、プリニウスが30,775歩という数字で何を意味していたのか、そしてその数字はどのようにして形成されたのかということです。私の考えでは、ローマは円周13マイルの半円形の地域でした。フォルム、そしてミリアリウムは、テヴェレ川の岸辺、円の中心付近、つまり半円形の地域の直径上に位置していたことが分かっています。ローマには37の門がありましたが、ミリアリウムへと続く直線道路があったのはそのうち12の門だけでした。したがって、プリニウスはローマの円周を定めた後、それだけではローマの面積を正確に把握するには不十分であることを認識していたため、このさらなる方法を用いています。彼は、ミリアリウムから 12 の門に至るすべての通りが 1 本の直線に並んでいると仮定し、その直線に沿って各門を 1 回ずつ数えると仮定すると、その直線全体は 30,775 歩になると述べています。つまり、半円形の区域の各通りまたは半径は平均 2 マイル半であり、ローマの全長は 5 マイルで、散在する郊外を除いてその幅はその約半分であるということです。

アルドゥアン神父もこの一節を同じように理解している。ローマの街路を一本の線にまとめて 30,775 歩としたのだが、その際に彼は、ミリアリウムからすべての門まで街路が通じていて、どの街路も長さが 800 歩を超えないと仮定している。しかし (1) 半径がわずか 800 歩の半円形の地域が、プリニウスが定めたローマの円周である 13 マイルに近い円周を持つことはあり得ない。半径 2 マイル半は、その円周に非常に近い。 (2) 円周上のすべての門から中心に向かって街路が伸びるように都市を建設するというのは不合理である。これらの街路は近づくにつれて邪魔になるに違いない。 (3) これでは古代ローマの偉大さがあまりにも損なわれ、その都市はブリストルやロッテルダムよりも劣ってしまう。

フォシウスが著書『諸説』でプリニウスのこの一節に与えた意味は、正反対の極端な誤りである。ある無根拠な写本では、ローマの城壁の周囲を13マイルではなく30マイルとしている。フォシウスはこれを円周の曲線部分のみと解釈し、テヴェレ川が直径を形成していたため、その側には城壁が築かれていなかったと仮定している。しかし、(1) この解釈は、ほとんどすべての写本に反して認められている。(2) 簡潔な著述家であるプリニウスが、ローマの城壁の周囲を2つの連続した文で繰り返すのはなぜだろうか。(3) なぜ、これほど意味のある変化をつけて繰り返すのだろうか。(4) ミリリウムに依存しない測線が測定されたのに、プリニウスがミリリウムを2度言及する意味は何だろうか。 (5) アウレリアヌスの長城は、ヴォピスコスによれば、広範囲に描かれ、テヴェレ川北側のすべての建物と郊外を包含していたが、その範囲はわずか 50 マイルであった。そして、ここでも批評家たちは文章の誤りか改ざんを疑っている。ローマがアウグストゥスからアウレリアヌスまで縮小したとは考えにくい。ローマは依然として同じ帝国の首都であり、その長い期間に起こった内戦は、マクシムスとバルビヌスの死後の騒乱を除き、この都市に影響を及ぼすことはなかった。カラカラ帝は、アウレリウス・ウィクトルによれば、ローマを増大させたという。 (6) ローマのそのような偉大さを示す古代の建造物の遺跡は存在しない。この反論に対するヴォシウスの返答は不合理に思える。つまり、廃棄物が地下 60 フィートから 70 フィートに埋まるというものである。スパルティアヌス ( 『イン・ヴィタ・セウェリ』 ) から、ラヴィカナ街道の5 マイルの石が市の外にあったことがわかる。 (7) オリンピオドロスとプブリウス・ウィクトルは、ローマの住宅数を4万から5万としている。(8) この批評家、そしてリプシウスが導き出した結論の行き過ぎた解釈は、ローマには1400万人の住民がいたが、フランス王国全体ではわずか500万人しかいないという、彼の計算などに基づく根拠を破壊している。

プリニウスの文章に上記で付与した意味に対する唯一の反論は、プリニウスがローマの37の門について言及した後、7つの古い門を廃止した理由のみを述べている点にあるように思われる。そして、18の門については何も言及していない。これらの門に通じる街路は、私の見解では、フォルムに到達する前に終わっていた。しかし、プリニウスが街路の配置を完全に知っていたローマ人に宛てて手紙を書いたのだから、誰もがよく知っていた状況を当然のことと考えたのも不思議ではない。おそらく、これらの門の多くは川の埠頭に通じていたのだろう。

86 アウグストゥスは民衆の生活を煩わせないよう、穀物の分配を年に三回のみと定めた。しかし、民衆は月ごとの分配の方が便利だと考え(おそらく、家族の経済をより安定させるためだろう)、分配の復活を望んだ。(スエトン『アウグストゥス』第40章)民衆の中には穀物を求めて遠方から来る者もいたため、アウグストゥスのこの予防措置は不必要だったと言えるだろう。

87 クィントゥス・クルティウスは、アレクサンドロス大王によって築かれた当時の城壁の周囲はわずか10マイルであったと述べている (lib. 4, cap. 8)。アレクサンドリアを訪れたストラボンは、ディオドロス・シケリアと同様に、その長さはわずか4マイルで、ほとんどの場所で幅は約1マイルであったと述べている (lib. 17)。プリニウスは、その城壁はマケドニアのカソックに似ており、隅々まで広がっていたと述べている (lib. 5, cap. 10)。アレクサンドリアのこの広大な範囲は中程度に見えるが、ディオドロス・シケリアは、アレクサンドロス大王によって描かれたその周囲 (アミアヌス・マルケリヌス著、lib. 22, cap. 16 からわかるように、その範囲を超えることはなかった) について語り、その範囲は μεγεθει διαφεροντα、すなわち極めて大きかったと述べている ( ibid. )。ストラボンがローマを例外としていないのは、ローマが世界のすべての都市を凌駕している理由として、30万人の自由民が住んでいたからである。また、同じ目的で別の状況として、王の収入、すなわち6000タラントについても言及しているが、貨幣価値の違いを考慮に入れても、私たちの目にはそれほど大きな金額には見えない。ストラボンが隣国について述べていることは、単に人口が多かった、つまり人口密度が高かった、ということだけを意味している。グレーブゼンドからウィンザーに至る川の両岸全体が一つの都市であると、大げさな誇張抜きで断言できるのではないか。これは、ストラボンがマレオティス湖の両岸やカノープスに至る運河について述べていることよりもさらに詳しい。イタリアでは、サルデーニャ王はピエモンテに一つの町しか持たない、というのが俗説である。というのも、ピエモンテ全体が一つの町だからである。アグリッパはヨセフス(『ユダヤ戦記』第 2 巻第 16 章)の中で、アレクサンドリアがあまりにも偉大であることを聴衆に理解させるために、自らが誇張しようと努めているにもかかわらず、アレクサンダーが描いた都市の範囲しか描写していない。これは、住民の大半がそこに定住していたこと、そして近隣地域は、すべての大都市に期待されるもの以上のものではなく、非常によく耕作され、人口も多い場所であったことを明確に証明している。

88 彼は πολιται ではなく ἐλευθεροι と言っているが、最後の表現は国民だけ、そして成人男性だけが理解できるはずである。

89 彼は(『ネローネ』第30章で)そのポルティコ、あるいはピアッツァの長さが3000フィートだったと述べている。「tanta laxitas ut porticus triplices milliarias haberet」。彼が3マイルを意味しているはずはない。パラティーノからエスクイリーノまでの宮殿の全長は、それほど長くはなかったからだ。したがって、ヴォピスコスが 『アウレリアノ』の中でサッルスティウスの庭園のポルティコについて言及し、それを 「porticus milliariensis」と呼んでいる場合、それは1000フィートの長さだったと理解する必要がある。ホラティウスも同様である。

「ヌラ・デケムペディス
Metata privatis opacam
ポーティクス・エキピエバット・ アークトン。」 (Lib. ii. ode 15.)
lib. i. Satyr. 8でも同様です。

「フロンテのミルペデス、アグラムのトレセントス・キプス
「そうだね。」
90 リブ。 ix.キャップ。 10. 彼の表現は πολιτης ではなく ἀνθρωπος です。住民ではなく住民。

91 ローマ帝国のアレクサンドリア、アンティオキア、カルタゴ、エフェソス、リヨンなどがこれにあたる。フランスのボルドー、トゥールーズ、ディジョン、レンヌ、ルーアン、エクスなどもこれにあたる。イギリス領のダブリン、エディンバラ、ヨークも同様である。

92 温暖な南部の植民地もまた、より健全な状態になった。スペインによるこれらの地域の最初の発見と征服に関する歴史書には、当時の人口と耕作地が豊かであったため、非常に健全であったと記されているのは注目に値する。コルテスやピサロの小規模な軍隊が病気になったり衰弱したりしたという記述はない。

93 彼は小アフリカヌスの時代頃に生きていたと思われる。(Lib. i. cap. 1.)

94 カエサル『ガリア戦争について』、第 16 巻。ストラボン (第 7 巻) は、ガリア人はゲルマン人よりもそれほど進歩していなかったと述べている。

95 古代ガリアは現代のフランスよりも広大でした。

96 カエサルの記述から、ガリア人には平民とは異なる階級である家事奴隷は存在しなかったことが窺える。今日のポーランド人のように、一般民衆は皆、貴族の奴隷のような存在であった。ガリアの貴族は、時にはこの種の扶養家族を1万人抱えていた。また、軍隊が貴族だけでなく民衆も含んでいたことは疑いようがない。非常に小さな国から10万人の貴族からなる軍隊が誕生したとは信じ難い。ヘルウェティイ族の戦闘員は全住民の4分の1を占めていた。これは、兵役年齢の男性全員が武器を所持していたことを明確に示している。カエサル著『ガリア戦争論』第1巻を参照。

カエサルの注釈書の数字は、ギリシャ語訳が今も残っており、ラテン語の原文を裏付けているため、他のどの古代著者のものよりも信頼できると言えるでしょう。

97 「ヒスパノスの数、ロボレ・ガロスの数、カリディテート・プノスの数、グレコスの国民、国内の領土、ラテンアメリカのイタロス、スーパーアヴィムス。」 ( De harusp. resp.、cap. 9.) スペインの障害は、ほとんどことわざのようになっていたようです。 (Virg. Georg. , lib. 3.) ここでイベリ人は、明らかに強盗一般の詩的な人物として捉えられています。

98 イタリアは以前よりも温暖化しているとのラベ・デュ・ボスの観察は認めるべきだが、それは必ずしも人口増加や耕作地の拡大を意味するわけではないかもしれない。もしヨーロッパの他の国々がより未開で森林地帯であったならば、そこから吹き込む冷たい風がイタリアの気候に影響を与えたかもしれない。

99 マルセイユの住民は、ローマ帝国が武器から農業や市民生活へとガリア人を変えるまで、商業や機械技術においてガリア人に対する優位性を失わなかった。 (Strabo、lib. 4を参照。)その著者は、ローマの芸術と礼儀正しさから生じる改善に関する観察をいくつかの場所で繰り返しており、彼はその変化が新しく、より賢明であるであろう時代に生きていました。プリニウスも同様です。「Quis enim non、communicato orbe terrarum、majestate Romani imperii、profecisse vitam putet、commercio rerum ac societate festae pacis、omniaque etiam、quae occulta antea fuerant、in promiscuo usu fata。」 (Lib. 14、proœm.) 「Numine deum electa [イタリアといえば] quae coelum ipsum clarius faceret、sparsa congregaret imperia、ritusque molliret、et tot Populorum discordes、ferasque linguas fermonis commercio contraheret ad colloquia、et humanitatem homini Daret。 breviterque、una cunctarum gentium in toto orbe patria fieret」 (Lib. 2、cap. 5.) この目的にとって、セウェルス帝の時代に生きたテルトゥリアヌス帝の次の一節よりも強力なものはありません:「Certe quidem ipse orbis in prompu est, cultior de die et instructior pristino. Omnia jam pervia,omnia nota,omnia negotiosa. Solitudines famosas Retro fundi amoenissimi」オブリテアヴェルント、シルバス・アルヴァ・ドムエルント、フェラス・ペコラ・フガヴェルント、アレナ・セルントゥル、サクサ・パングントゥル、パルデス・エリクアントゥル、タンタエ・ウルベス、クアンタエ・ノン・カサエ・クオンダム、ユビケ・ポプルス、ユビケ・レスパブリカ、​​ユビケ。 vita. 証言頻繁に起こる人間、onerosi sumus mundo、vix nobis elementaで十分です。そして、必要なアークティオール、そしてクエレラエ・アプド・オムネス、ダム・ジャム・ノス・ナトゥーラ・ノン・サステネット。」 ( De anima、cap. 30.) この箇所に見られる修辞と宣言の雰囲気は、その権威をいくらか弱めているが、それを完全に破壊するわけではない。同じ指摘は、アドリアヌスの時代に生きたソフィスト、アリスティデスの次の箇所にも当てはまるかもしれない。 「全世界が一つの祝日を祝っているようだ」と彼はローマ人に語りかける。「人々はかつて身に着けていた剣を捨て、今や祝宴と歓楽に浸っている。都市は古来の争いを忘れ、ただ一つの競争心だけを保ち、あらゆる芸術と装飾によって自らを最も美しく飾ろうとしている。至る所に劇場、円形劇場、柱廊、水道橋、寺院、学校、アカデミーが出現する。沈みゆく世界は、貴国の輝かしい帝国によって再び隆盛を極めたと断言できるだろう。装飾と美が増したのは都市だけではない。地球全体が庭園や楽園のように耕作され、飾られている。貴国の境界の外に置かれた人々(ごく少数だが)は、我々の同情と慈悲に値するほどである。」

注目すべきことに、シケリアのディオドロスは、ローマ人に征服されたときのエジプトの住民をわずか 300 万人としているのに対し、ヨセフス ( 『戦争におけるユダヤ人について』第 2 巻、第 16 章) は、アレクサンドリアの住民を除いてネロの治世には 750 万人の住民がいたと述べており、この記述は人頭税を徴収したローマの徴税人の帳簿から得たものであると明言しています。ストラボン (第 17 章) は、エジプトの財政に関して、ローマ人の警察力が以前の君主たちの警察力より優れていたことを称賛しており、行政のいかなる部分も、国民の幸福にとってこれほど重要なものではないと述べています。しかし、アントニヌス朝時代に活躍したアテナイオス (第 1 巻、第 25 章) には、かつては大都市であったアレクサンドリア近郊の町マレイアが、村にまで衰退したと記されています。これは厳密に言えば矛盾ではありません。スイダス(アウグストゥス)によれば、アウグストゥス帝はローマ帝国全土の人口を数えた結果、わずか4,101,017人(ἀνδρες)しかいなかったという。これは著者か筆写者のどちらかに大きな誤りがあるに違いない。しかし、この根拠は、たとえ根拠が薄弱であっても、ヘロドトスとシケリアのディオドロスによる古代に関する誇張された記述を相殺するには十分であろう。

100 Lib. 2, cap. 62. ローマに依存していたポリュビオスが、当然ローマの支配を称賛するであろうことは容易に想像できるだろう。しかし第一に、ポリュビオスは、時折慎重さを見せる場面は見られるものの、おべっかの兆候は全く見られない。第二に、この意見は、彼が別の話題に集中している最中に、ついでに、一筆書きで述べられたに過ぎない。もし著者の不誠実さが少しでも疑われるならば、こうした遠回しな主張の方が、より形式的で直接的な主張よりも、彼の真の意見をよりよく表していると言えるだろう。

101 プルタルコスの神託の沈黙に関する論考は、総じて風変わりな構成をしており、彼の他の著作とはあまりにもかけ離れているため、どのような評価を下すべきか途方に暮れるほどである、と白状せざるを得ない。それは対話形式で書かれており、プルタルコスは普段はあまりこの手法を使わない。彼が登場させる人物たちは、プルタルコスの確固とした感覚というよりは、プラトンの幻想的な体系や狂言に近い、非常に突飛で不条理で矛盾した意見を展開する。また、全体に迷信と軽信の雰囲気が漂っており、プルタルコスの他の哲学的著作に見られる精神とはほとんど似ていない。プルタルコスがヘロドトスやリウィウスと同じくらい迷信深い歴史家であったにもかかわらず、キケロとルキアノスを除けば、古代全体を通してプルタルコスほど迷信深い哲学者はほとんどいないというのは注目すべきことである。したがって、この講演から引用したプルタルコスの一節は、私にとっては、彼の他のほとんどの著作に引用されたものと比べて、はるかに権威が薄いと告白しなければならない。

プルタルコスの著作で、同様の反論を受ける可能性のあるものは他に一つだけある。それは、神によって罰が延期された者たちに関するものである。これも対話形式で書かれ、同様に迷信的で荒唐無稽な幻想を含んでおり、主にプラトン、特に彼の最後の著作『国家論』への対抗意識を持って書かれたと思われる。

ここで、率直さで名高い作家フォントネル氏が、この対話篇に登場する神託に関する一節を理由にプルタルコスを嘲笑しようと試みる点で、いつもの性格から少し逸脱しているように思われる点に、私は気づかずにはいられない。ここで各人物の口から発せられる不条理は、プルタルコスの言動によるものではない。彼は登場人物たちに互いに反駁させ、概して、フォントネル氏が彼を嘲笑するであろうまさにその意見を嘲笑しようとしているように思われる。(『神託の物語』参照)

102 彼はカエサルやアウグストゥスと同時代の人物であった。

元の契約の。
現代において、いかなる政党も、政治的あるいは実践的な原則体系に哲学的あるいは思弁的な原則体系を付加しなければ自らを支えることはできない。したがって、この国を分裂させている各政党は、自らが追求する行動計画を守り隠すために、前者のような構造を築き上げてきたのである。国民は一般的に、特に思弁的なやり方で、そして党派的な熱意に突き動かされた場合にはなおさら、非常に粗雑な建築者であるため、その出来栄えが多少不格好であることは当然であり、それが築き上げられた激しさと急ぎの明らかな痕跡が見られる。一方の政党は、政治の起源を神にまで遡らせることで、政治を神聖で、そして不合理なものにしようと努めている。{p175} たとえそれがいかに無秩序なものであろうとも、それを少しでも侵害したり触ったりすることは、神聖冒涜に等しいと、不可侵の立場をとっている。他方では、国民の同意に基づいて政府を創設することで、ある種の原初契約が存在すると想定している。その契約によって、臣民は、ある目的のために自発的に君主に委ねた権威に不満を抱いた場合にはいつでも、君主に抵抗する権利を留保しているのである。これらが両党の思弁的原理であり、そこから導き出される実際的な帰結でもある。

私はあえて断言したいのは、これらの推論原理のシステムは両方とも、当事者が意図した意味ではないにしても、正当であるということ、また、実践的結果の計画は両方とも賢明であるけれども、各当事者が他方に反対して通常それを推し進めようとした極端なところではないということである。

神があらゆる政治の究極の創造主であるという事実は、普遍的な摂理を認め、宇宙におけるあらゆる出来事が統一的な計画によって導かれ、賢明な目的に向けられていると認める者であれば、決して否定されることはないだろう。人類が、少なくともいかなる快適で安全な状態においても、政治の保護なしには生存できないように、政治は、すべての被造物の幸福を願う慈悲深い存在によって確実に意図されたに違いない。そして、実際にあらゆる国、あらゆる時代において普遍的に政治が実現してきたことから、いかなる出来事や行為にも決して欺かれることのない全知なる存在によって政治が意図されたと、より確実に結論づけることができる。しかし、神がそれを特定の、あるいは奇跡的な介入によってではなく、その隠された普遍的な効力によって生み出した以上、厳密に言えば、君主は、彼から生じるあらゆる力や勢力が彼の委任によって作用すると言うことができる以外の意味で、君主の代理人と呼ぶことはできない。実際に起こることは何であれ、摂理の普遍的な計画、あるいは意図の中に包含される。そして、最も偉大で最も合法的な君主であっても、そのことを踏まえて、特別な神聖性や不可侵の権威を主張する理由はない。{p176} 下級の政務官、あるいは簒奪者、あるいは強盗や海賊でさえある。エリザベスやヘンリー[103]に賢明な目的のために 権威を授けた同じ神聖なる監督官が、同様に賢明ではあるが知られていない目的のために、ボルジア家やアングリア家にも権力を授けた。あらゆる国家に主権をもたらしたのと同じ大義が、その国家のあらゆる小司法権とあらゆる限定された権限を同様に確立した。したがって、国王に劣らず、治安判事は神の委任によって行動し、奪うことのできない権利を有する。

あらゆる人間が、教育によって培われるまでは、肉体的な力だけでなく、精神的な力や能力においてもほぼ平等であることを考えると、彼らを最初に結びつけ、いかなる権威にも従属させることができたのは、彼ら自身の同意以外にはなかったと、私たちは必然的に認めざるを得ません。政治の起源を森や砂漠に遡れば、人民はあらゆる権力と司法権の源泉であり、平和と秩序のために、自ら生来の自由を放棄し、同等の仲間である人民から法を受け取ったのです。彼らが従う意思のある条件は、明示されていたか、あるいはあまりにも明確で自明であったため、明示する必要がないと判断されたかもしれません。もしこれが原初契約の意味であるならば、あらゆる政治はまず契約に基づいて成り立ち、人類の最も古代の粗野な結社もすべてこの原則によって形成されたことは否定できません。私たちは、この自由の憲章を記録に探し求めても無駄です。それは羊皮紙に書かれていたわけでも、木の葉や樹皮に書かれていたわけでもありません。それは文字の使用やその他あらゆる文明化された生活技術に先立って存在していました。しかし、私たちはそれを人間の本性、そして人類という種族のすべての個体に見られる平等性の中に、はっきりと見出すことができます。現在支配的な力、そして艦隊と軍隊を基盤とする力は、明らかに政治的なものであり、権威、つまり確立された政府の効果から生じています。人間の自然な力は、その四肢の活力と、{p177} 彼の揺るぎない勇気は、決して大勢の人々を一人の指揮下に置けなかった。彼ら自身の同意と、平和と秩序の利点に対する認識以外に、そのような影響力を持つものはなかったのだ。

しかし、党派(それが言葉の矛盾ではないとしても)を支持する哲学者たちは、こうした譲歩に満足しない。彼らは、政治体制は初期の段階では人民の同意、すなわち自発的な結束から生まれただけでなく、完全に成熟した現在でさえ、他のいかなる基盤にも基づいていないと主張する。彼らは、すべての人間は依然として平等に生まれ、約束による義務と承認に縛られない限り、いかなる君主や政府にも忠誠を誓う必要はないと主張する。そして、同等のものがない限り、生来の自由の利益を放棄して他人の意志に従う人はいないので、この約束は常に条件付きであると理解され、君主から正義と保護を受けない限り、何の義務も課されない。これらの利益は君主が見返りに約束するものであり、もし君主がそれを果たせなかった場合、君主は自ら約束を破り、それによって臣民をあらゆる忠誠義務から解放することになる。これらの哲学者によれば、それがあらゆる政府における権威の基盤であり、あらゆる臣民が持つ抵抗の権利でもある。

しかし、これらの論者たちが世界を見渡せば、彼らの考えに少しでも合致するもの、あるいはこれほど洗練された哲学的な理論を正当化できるものは何も見つからないだろう。それどころか、至る所で君主が臣民を自らの所有物であると主張し、征服や継承から独立した主権を主張しているのが見られる。また至る所で臣民が君主のこの権利を認め、特定の君主への服従義務と、特定の親への敬意と義務の絆の下に生まれたと考えるのも見られる。これらの結びつきは、ペルシャや中国、フランスやスペイン、そしてオランダやイギリスでさえ、前述の教義が注意深く検討されていない限り、常に我々の同意とは無関係に考えられている。{p178} 教え込まれる。服従や従属はあまりに馴染み深いものとなり、ほとんどの人は重力や抵抗の原理、あるいは最も普遍的な自然法則について調べるくらいで、その起源や原因について調べようとはしなくなる。あるいは、好奇心が少しでも彼らを動かしたとしても、自分たちや自分たちの祖先が何世代にもわたり、あるいは遠い昔から、そのような政府やそのような家に従属してきたと知るやいなや、彼らは即座に従い、忠誠の義務を認める。もしあなたが世界のほとんどの地域で、政治的つながりはすべて自発的な同意や相互の約束に基づいていると説いたとしたら、治安判事はすぐにあなたを服従の絆を緩めたとして扇動的に投獄するだろう。もしあなたの友人たちが、そのような不条理を推進し​​たとしてあなたを錯乱状態として黙らせなければ。すべての個人が形成したとされる精神行為(理性も使えるようになった後には、それが権威を持つはずがない)が、すべての人に知られておらず、地球全体にその痕跡や記憶がほとんど残っていないというのは奇妙なことだ。

しかし、政府の基盤となる契約は原初契約と言われており、したがって、現代の知識には到底及ばないほど古すぎると考えられる。もしここで未開人が初めて結束し、力を結集した合意を指しているのであれば、それは確かに真実であると認められる。しかし、あまりにも古く、幾千もの政権と君主の交代によって消滅してしまったため、現在ではいかなる権威も保持しているとは考えられない。もしこの目的に沿う何かを言おうとするならば、合法的で、臣民に忠誠義務を課すあらゆる個別政府は、当初は合意と自発的な契約に基づいていたと断言しなければならない。しかし、これは父祖の同意が子を、たとえ最遠の世代にまで(共和主義の著述家たちは決してこれを容認しないだろうが)拘束することを前提としているだけでなく、世界のどの時代、どの国においても、歴史や経験によって正当化されていないと私は言いたい。

現在存在するほぼすべての政府、あるいは{p179} 歴史に記録が残っているものはすべて、もともとは簒奪や征服、あるいはその両方に基づいて築かれたものであり、人民の正当な同意や自発的な服従を装うようなことは全くありません。狡猾で大胆な人物が軍や派閥の長に就くと、時には暴力、時には偽りの口実を用いて、支持者の百倍もの数の人民に対する支配を確立することは容易です。敵がその数や勢力を確実に把握できるよう、公然とした意思疎通を許しません。敵が結集して対抗する暇を与えません。簒奪の道具である者たちは皆、彼の失脚を望んでいるかもしれませんが、互いの意図を知らないことが彼らを畏怖させ、それが彼の安全の唯一の原因となっています。このような術によって多くの政府が樹立され、彼らが誇れるのは最初の契約だけです。

地球の様相は、小王国が大帝国へと拡大し、大帝国が小王国へと解体し、植民地が築かれ、部族が移住することで、絶えず変化し続けています。こうした出来事のすべてに、力と暴力以外の何かを見出すことができるでしょうか? しばしば語られる相互の合意や自発的な連携は、一体どこにあるのでしょうか?

結婚や遺言によって国家が外国の支配者を迎える最も円滑な方法であっても、それは国民にとってはまったく名誉あることではなく、むしろ、持参金や遺産のように、支配者の好みや利益に応じて処分されることを前提としている。

しかし、いかなる権力も介入せず選挙が行われる場合、この選挙は一体何のためにこれほどまでに高く評価されるのだろうか?それは、全体の意思を代弁し、いかなる反対も許さない少数の有力者の結託か、あるいは、おそらく彼らの中の12人にも知られていない、扇動的な指導者に従う暴徒の怒りか、その指導者の出世は単に自身の厚かましさ、あるいは仲間の一時的な気まぐれによるものである。

このような無秩序な選挙は、まれではあるが、{p180} あらゆる政府と忠誠の唯一の合法的な基盤であるほどの強大な権威を持っているのだろうか?

現実には、政府の完全な解体ほど恐ろしい出来事はない。それは大衆に自由を与え、新たな体制の決定や選択をほぼ人民の全体に近い数の人々に委ねることになる。なぜなら、それが人民の全員に届くことは決してないからだ。だからこそ、あらゆる賢明な人は、強力で従順な軍隊の指揮官として、速やかに戦利品を掴み、人民が自ら選ぶことなど到底できない主権者を人民に与える将軍を見たいと願う。事実と現実は、こうした哲学的概念とほとんど一致しないのだ。

革命時の体制に惑わされてはならない。あるいは、政治の哲学的起源に惚れ込み、他のすべての政治を奇怪で不規則なものと想像するほどに、政治の起源を哲学的に捉えさせてはならない。あの出来事でさえ、こうした洗練された思想とは程遠いものだった。当時変化したのは、王位継承だけであり、それも政治における王権部分のみであった。そして、その変化を1000万人近くの民衆のために決定したのは、わずか700人の大多数であった。確かに、この1000万人の大多数がその決定に喜んで従ったことは疑いない。しかし、問題は少しでも彼らの選択に委ねられていたのだろうか?その瞬間から、正当に決定が下され、新しい君主に服従を拒む者は皆罰せられるべきではなかったのだろうか?そうでなければ、この問題はどのようにして決着し、結論に至ることができただろうか?

アテネ共和国は、私が知る限り、歴史上最も広範な民主主義国家であったと私は信じています。しかし、女性、奴隷、そして外国人といった存在を考慮すれば、この国家は当初、従順を義務付けられた人々の十分の一にも満たない人々によって制定され、いかなる法律も投票されなかったことがわかります。アテネ人が征服権によって領有権を主張した島々や外国領土については言うまでもありません。そして、周知のとおり、アテネの民衆集会は、その権威にもかかわらず、常に無秩序と無秩序に満ちていました。{p181} かつて彼らが従っていた形式や法律が、既存の憲法を形成するのではなく、古い政府が解体されて新たな政府が誕生する騒乱の中で衝突するとなると、どれほど無秩序になるだろうか。このような状況で選択について語ることなど、どれほど空想的なことなのだろうか。

アカイア人は古代で最も自由で完全な民主主義を享受していましたが、ポリュビオスからわかるように、一部の都市を強制的に同盟に加入させるために武力を行使しました。

イングランドのヘンリー4世とヘンリー7世は、議会による選挙以外に王位継承権を実質的には持っていなかったにもかかわらず、権威を弱めることを恐れて、決してそれを認めようとしなかった。もしあらゆる権威の唯一の真の基盤が同意と約束だとしたら、実に奇妙だ。

あらゆる政府は、人類の営みの必然性が許す限り、まずは民衆の同意に基づいて設立されるべきである、あるいはそうあるべきだ、と言うのは無駄なことである。これは私の主張を全面的に支持するものである。私は、人類の営みは決してこの同意を許さない、ましてやそのように見えることは稀である、と主張する。しかし、古代の政府を解体することによる征服あるいは簒奪、つまり平たく言えば武力こそが、これまで世界で樹立されたほとんどすべての新しい政府の起源である。そして、同意が得られたように見える少数のケースにおいても、それは通常、あまりにも不規則で、あまりにも限定的で、あるいは詐欺や暴力とあまりにも混ざり合っていたため、大きな権威を持つことはできないのである。

ここで私が言いたいのは、人民の同意が、存在する限りにおいて、統治の正当な基盤の一つとなる可能性を排除するものではない。人民の同意は確かに最良かつ最も神聖なものである。ただ私が主張しているのは、人民の同意がいかなる程度においても、そしてほぼ完全には存在したことがほとんどなかったということであり、それゆえに、統治の別の基盤も認められなければならないということである。

もしすべての人間が、自分自身では他人の財産に一切干渉しないほどの、正義に対する揺るぎない敬意を持っていたならば、彼らはいかなる支配にも従属することなく、永遠に絶対的な自由の状態に留まっていたであろう。{p182} 政治家や政治社会は、人間の性質よりもはるかに優れている。しかし、これは完全な状態であり、人間の性質は当然ながら、それに到達できないとみなされる。さらに、もしすべての人が自分の利益を常に認識できるほど正しい理解力を持っていたとしたら、いかなる政府も、社会の各構成員によって十分に議論され、合意に基づいて設立されたもの以外には従うことはなかっただろう。しかし、この完全な状態もまた、人間の性質よりもはるかに優れている。理性、歴史、そして経験が示すように、すべての政治社会は、はるかに正確で規則的な起源をもっていた。そして、公的な取引において人民の同意が最も軽視されていた時期を選ぶとすれば、それはまさに新しい政府の設立時であろう。定着した憲法においては、人々の性向がしばしば研究されるが、革命、征服、そして社会の動乱の激しさの中では、軍事力や政治的手腕が論争の行方を決することが多い。

どのような手段であれ、新たな政府が樹立されると、民衆は一般にその政府に不満を抱き、忠誠心や道徳的義務感からというよりも、恐怖と必要に迫られて服従する。君主は用心深く、嫉妬深く、反乱の兆候や兆候を注意深く警戒しなければならない。時が経つにつれ、こうした困難は徐々に解消され、国民は当初は簒奪者や外国の征服者とみなしていた一族を、合法的な、あるいは自国の君主とみな​​すようになる。こうした見解を裏付けるために、自発的な同意や約束といった概念に頼ることはできない。なぜなら、自発的な同意や約束は、この場合、決して期待も要求もされなかったことを彼らは知っているからである。最初の政権は暴力によって樹立され、必要に迫られて従属した。その後の政権もまた権力によって支えられ、民衆は選択ではなく義務としてそれに従う。民衆は、同意が君主に称号を与えるとは考えていない。しかし彼らは、彼が長年所有していたことによって、彼らの選択や意向とは無関係に称号を獲得したと考えているため、喜んで同意するのです。

支配下で生きることによって{p183} 君主から離脱するかもしれないという状況において、すべての個人は暗黙のうちにその権威に同意し、服従を約束している。そのような暗黙の同意は、物事が自分の選択次第であると人が想像している場合にのみ成立する、と答えられるかもしれない。しかし、(既存の政府のもとに生まれたすべての人類がそうであるように)生まれながらに特定の君主や特定の政府に忠誠を誓う義務があると考えている場合、この場合のように明示的に放棄し、放棄する同意や選択を推論するのは不合理であろう。

外国語も礼儀作法も知らず、その日暮らしで得たわずかな賃金で暮らしている貧しい農民や職人が、祖国を離れる自由を本当に持っていると言えるだろうか? 眠っている間に船に乗せられ、船を離れた瞬間に海に飛び込んで死んでしまうような人であっても、船内に留まることで船長の支配に自由に同意していると言えるのと同じだ。

ティベリウス帝の時代に、ローマ騎士が皇帝の圧政から逃れるためにパルティアへ逃亡しようとしたことが罪とされたように、君主が臣民に領土からの離脱を禁じたらどうなるだろうか?あるいは、古代モスクワ人が死刑を宣告してあらゆる旅行を禁じたように?もし君主が、多くの臣民が外国へ逃亡したいという狂乱にとりつかれていることに気づいたなら、彼は間違いなく、大いなる理性と正義に基づき、自国の人口減少を防ぐために、彼らを制止するだろう。彼は、そのような賢明で合理的な法律によって、すべての臣民の忠誠心を失うだろうか?しかし、その場合、彼らの選択の自由は確かに奪われることになる。

祖国を離れ、無人の地へ移住する一団は、祖国の自由を取り戻すことを夢見るかもしれない。しかし、彼らはすぐに、新たな定住地においてさえ、君主が依然として彼らを領有権を主張し、臣民と呼んでいることに気づくだろう。そして、これは人類の共通の理念に沿う行動に過ぎない。{p184}

この種の最も真実な暗黙の同意は、外国人がどこかの国に定住し、従わなければならない君主、統治、そして法律を事前に知っている場合である。しかし、その忠誠心は、生まれながらの臣民の忠誠心に比べれば、自発的ではあっても、期待も期待もされない。それどころか、生まれながらの君主は依然として彼への権利を主張する。そして、もし彼が新しい君主の命により反逆者を戦争で捕らえた際に、その反逆者を処罰しないとしても、この寛大さは、どの国でも捕虜を有罪とする国内法に基づくものではなく、報復を防ぐためにこの寛大さに同意した君主たちの同意に基づくものである。

仮に、簒奪者が正当な君主と王族を追放した後、どこかの国で十年、十二年と領土を築き、軍隊の規律を厳格に保ち、駐屯地の配置を規則正しく保ち、その統治に対して反乱はおろか、不平さえ聞かれなかったとしよう。心の中では彼の反逆を忌み嫌う民衆が、単に必要に迫られて彼の支配下にあるという理由だけで、彼の権威に黙認し、忠誠を誓ったと主張できるだろうか。また、彼が外国で召集した軍隊によって生来の君主が復位したとしよう。人々は歓喜と歓喜をもって彼を歓迎し、他のいかなる軛にも屈しなかったことを明らかに示せ。ここで私は問う。君主の称号はどのような根拠に基づいているか。民衆の同意に基づくものでないことは確かである。民衆は喜んで彼の権威に服従しているものの、その同意が彼を主権者とみなすなどとは考えていない。彼らは彼が生まれながらにして正当な主権者であると認識しているからこそ同意するのだ。そして、彼の支配下で生活していることから今や推測できるこの暗黙の同意は、かつて彼らが暴君であり簒奪者であった彼に与えていたものと何ら変わりない。

あらゆる合法的な政府は人民から生まれると主張するとき、私たちは人民が当然受けるに値する、あるいは人民に期待し、望んでいる以上の敬意を払っていることになる。ローマ帝国の領土が共和国にとって手に負えないほどに拡大した後、{p185} アウグストゥスが統治していた当時、全世界の民衆は、彼が暴力によって築き上げた権威に深く感謝していた。そして、遺言によって残された後継者に、彼らは等しく服従する姿勢を示した。その後、彼らの不幸は、一つの家系に長く規則的な継承がなかったこと、そして君主の系譜が私的な暗殺や公的な反乱によって絶えず断絶されたことであった。近衛兵団は、家系が崩壊するたびに一人の皇帝を立て、東方の軍団は第二の皇帝を立て、ゲルマニアの軍団はおそらく第三の皇帝を立てた。そして、剣だけが争いを解決できた。この強大な君主制における民衆の境遇は嘆かわしいものであった。それは、皇帝の選出が彼らに委ねられなかったからではなく(それは実行不可能だった)、彼らが定期的に交代するような君主の継承に決して身を委ねることができなかったからである。新たな入植地が築かれるたびに引き起こされる暴力、戦争、流血については、それらは避けられないものであったため、非難されるべきことではなかった。

ランカスター家はこの島を約60年間統治しましたが、白バラ派の支持者はイングランドで日増しに増加しているように見えました。現在の王朝樹立は、さらに長い期間に遡ります。追放された当時、現在存命の人物で判断力を備え、その支配に同意し、忠誠を誓った者はほとんどいなかったにもかかわらず、他の一族の権利に対する見解はすべて消滅してしまったのでしょうか?これは、この問題に関する人類の一般的な感情を十分に示すものです。なぜなら、我々は、退位した一族の支持者たちが長年にわたり想像上の忠誠を保ってきたという理由だけで彼らを責めるのではなく、正当に追放された一族、そして新たな王朝が成立した瞬間から権威への権利をすべて失った一族に固執していることを責めるからです。

しかし、この本来の契約または民意の同意の原則に対する、より規則的な、少なくともより哲学的な反論があるとすれば、おそらく、次の観察で十分でしょう。{p186}

あらゆる道徳的義務は二種類に分けられる。一つ目は、あらゆる義務観や公私を問わずあらゆる利益観とは無関係に、人間の内に働く自然な本能、あるいは直接的な性向によって駆り立てられる義務である。子供への愛情、恩人への感謝、不幸な者への同情などは、この性質に属する。こうした人間的な本能が社会にもたらす利益について考える時、私たちは当然ながら道徳的承認と尊敬の念を払う。しかし、それらに突き動かされる人は、そうした反省に先立って、その力と影響力を感じるのである。

第二の種類の道徳的義務は、自然本来の本能によって支えられるものではなく、人間社会の必然性と、これらの義務を怠れば社会を支えることが不可能になることを鑑みると、完全に義務感から遂行されるものである。したがって、正義、すなわち他人の財産への配慮、忠誠、すなわち約束の遵守は義務となり、人類に対する権威を獲得する。なぜなら、すべての人間は他の誰よりも自分自身を愛していることは明らかなので、人は当然、自分の財産を可能な限り増やそうとするからである。そして、この性向を抑制できるのは、熟考と経験のみである。熟考と経験を通して、人はその放縦の有害な影響と、そこから必然的に生じる社会の完全な崩壊を学ぶ。したがって、人間の本来の性向、すなわち本能は、その後の判断や観察によって抑制され、抑制されるのである。

忠誠という政治的あるいは市民的義務についても、正義と忠誠という自然的義務についても同様である。私たちの根源的な本能は、私たちを無制限の自由に耽溺するか、他者への支配を求めるかのどちらかへと導く。そして、この反省こそが、平和と秩序のためにそのような強い情熱を犠牲にする動機となる。ほんの少しの経験と観察で、社会は行政官の権威なしには維持できないこと、そしてこの権威はそれに厳密に服従しない場合にはすぐに軽蔑されるということが分かる。こうした一般的かつ民衆的な義務の観察は、{p187} 明白な利益は、あらゆる忠誠の源であり、私たちがそれに帰する道徳的義務の源です。

忠誠と忠誠はまさに同じ基盤の上に成り立ち、人類社会の明白な利益と必要性のために人類が従っているように見えるのに、なぜ政務官への忠誠や服従の義務を忠実さや約束への尊重の義務に求め、各個人の同意が統治に従属すると考える必要があるのでしょうか? 我々は主権者に従わなければならないと言われますが、それはその目的を暗黙の約束にしているからです。しかし、なぜ我々は約束を守る義務があるのでしょうか? ここで主張しなければならないのは、人類にとって非常に大きな利益をもたらす商業と交流は、人々が約束を軽視する限り、安全を保つことはできないということです。同様に、少なくとも文明社会においては、強者が弱者を、暴力者が正義と公平な者を侵害するのを防ぐ法律、政務官、裁判官がなければ、人々は社会で全く生きられないと言えるでしょう。忠誠義務は忠実義務と同等の力と権威を持つため、一方を他方に統合しても何の利益も得られない。社会の一般的な利益や必要性が、両方を確立するのに十分である。

政府への服従義務の理由を問われれば、私は喜んでこう答えます。「そうでなければ社会は存続できないからだ」と。そして、この答えは全人類にとって明白で理解しやすいものです。皆さんの答えは、「約束は守るべきだから」でしょう。しかし、それ以上に、哲学体系を学ばない限り、誰もこの答えを理解することも、喜ぶこともできません。さらに、なぜ約束を守る義務があるのか​​と問われると、皆さんは当惑し、何の遠回りもせずに、即座に私たちの忠誠義務を説明できる答えしか返せないのです。

しかし、誰に忠誠を誓うべきなのでしょうか?そして、我々の正当な主権者は誰なのでしょうか?この問いはしばしば最も難しく、果てしない議論を招きやすいものです。人々が「我々の現在の主権者は誰ですか?」と答えられるほど幸せであるとき、{p188} 「我々を何代にもわたって統治してきた祖先から直系で受け継いでいる」という問いに対しては、歴史家が王家の起源をはるか昔にさかのぼって調べると、よくあるように、その最初の権威が簒奪と暴力に由来していたことが判明するかもしれないが、答えようがない。私的な正義、すなわち他人の財産に手を出さないことは、最も重要な美徳であると認められている。しかし、土地や家屋などの耐久財を注意深く手渡しで調べれば、そこに所有権があるということはなく、どこかの時代に詐欺と不正に基づいていたに違いないことが理性からわかる。私生活であれ公的生活であれ、人間社会の必要性は、そのような正確な調査を許さない。そして、いかなる美徳や道徳的義務も、もし我々が誤った哲学に耽溺し、あらゆる批判的な論理規則によって、それが置かれるあらゆる光や立場において、それをふるいにかけ、精査するならば、容易に精製されてしまうものはない。

公共財産に関する問題は、原文の注釈者を加えれば、法学と哲学の膨大な書物に詰め込まれてきた。そして最終的に、そこで定められた規則の多くは不確実で、曖昧で、恣意的であると断言できるだろう。君主の継承と権利、そして統治形態についても同様の見解が示されるだろう。特に統治の初期段階では、正義と衡平の法則では決定できない事例が数多く発生することは間違いない。歴史家ラパンは、エドワード3世とフィリップ・ド・ヴァロワの間の論争がまさにこの性質のものであり、天に訴えること、すなわち戦争と暴力によってのみ決着がついたと認めている。

ティベリウスが二人の存命中に後継者を指名せずに亡くなったとしたら、ゲルマニクスとドルススのどちらが後継者となるべきだったのか、誰が私に教えてくれるだろうか?養子縁組の権利は、私的な家族では血縁関係と同等の効力を持ち、公的にも既に二例行われているような国において、血縁関係と同等のものとして受け入れられるべきだろうか?ゲルマニクスはドルススより先に生まれたという理由で長男とみなされるべきだろうか、それとも、{p189} 兄が生まれた後に養子になったから弟である、という理由で弟とみなされるべきだろうか?私家の継承において長男に何の優位性もない国において、兄の権利は尊重されるべきだろうか?当時のローマ帝国は、二つの例があるから世襲制とみなされるべきだろうか?それとも、それほど昔のことではないが、ごく最近の簒奪に基づいて築かれた帝国であるから、より強い者、あるいは現在の領主の所有物とみなされるべきだろうか?

コモドゥスは、生まれや選挙ではなく、偽りの養子縁組の儀式によって称号を得た、優れた皇帝たちの長い列の後に帝位に就いた。あの血に飢えた放蕩者は、彼の娼婦とその侍女(当時は近衛長官だった)の間で突如生じた陰謀によって殺害された。彼らは直ちに、当時の風格で言えば人類の主人を選ぶことについて協議し、ペルティナクスに目をつけた。僭主の死が知られる前に、長官は静かにその元老院議員のもとへ行った。元老院議員は兵士たちが現れたのを見て、自分の処刑がコモドゥスによって命じられたのだと思い込んだ。彼はすぐに将校と従者から皇帝として迎えられ、民衆は喜び勇んで宣言し、衛兵は不本意ながらも従い、元老院は正式に承認し、帝国の各属州と軍隊は受動的に迎え入れた。

プラエトリアニ部隊の不満はすぐに突如として暴動を引き起こし、この優れた君主の暗殺につながった。世界には主権者も政府も存在しない状況となったため、衛兵たちは帝国を正式に売却するのが適切だと考えた。ユリアヌスが買い手として宣言され、元老院によって承認され、民衆も従った。そして、軍団の嫉妬が反対と抵抗を生まなければ、属州も従っていたに違いない。シリアのペスケニウス・ニゲルは自ら皇帝に選出され、軍の騒乱的な承認を得て、ローマの元老院と民衆の密かな好意も得ていた。ブリタニアのアルビヌスは同等の権利を得て自らの領有権を主張したが、最終的にはパンノニアを統治していたセウェルスが両者に勝利した。その有能な{p190} 政治家であり戦士でもあった彼は、自らの生まれと尊厳が皇帝の冠にあまりにも劣ると考え、当初はペルティナクスの死の復讐のみを意図していた。将軍としてイタリアに進軍し、ユリアヌスを破った。兵士たちの同意さえも明確な開始時期を定めることはできなかったが、必然的に元老院と民衆から皇帝として承認され、ニゲルとアルビヌスを征服することで、その強大な権威は完全に確立された。

「ゴルディアヌス・カエサルの間で」とカピトリヌスは別の時代について語り、「民兵、皇帝、最高の訴え、今の時代は時代を超えたものである」と語った。ゴーディアンが14歳の少年であったことは注目されるべきである。

同様の例は、皇帝の歴史、アレクサンドロス大王の後継者たちの歴史、そして他の多くの国々の歴史にも頻繁に見られる。継承が断片的で不規則であり、その都度武力や選挙によって決定しなければならないような専制政治ほど不幸なものはない。自由な政府においては、この問題はしばしば避けられず、また危険性もはるかに低い。自由の利益のために、人々は自らの防衛のために王位継承を変更することがしばしばあり得る。そして、憲法は複数の部分から構成されるため、貴族や民主的な構成員に依拠することで、十分な安定性を維持できる可能性がある。ただし、君主制は前者に適合させるために時折変更される可能性がある。

絶対的な政府において、王位継承権を持つ正当な君主が存在しない場合には、王位は最初の君主に属すると安全に決定され得る。このような例は、特に東方君主制においては非常に頻繁に見られる。君主の系譜が消滅した場合、最後の君主の遺言または行方が称号とみなされる。したがって、ルイ14世の勅令は、正統な君主が全員失脚した場合に庶子を王位継承に指名したが、このような場合には、ある程度の権威を持つであろう。 [ 104]{p191} カルロス2世はスペイン王政全体を滅ぼした。古来の領主からの譲渡は、特に征服と結びついた場合には、同様に非常に正当な権利とみなされる。我々を政府に結びつける一般的な義務の絆は、社会の利益と必要性であり、この義務は非常に強い。特定の君主や政体への帰属は、しばしばより不確実で疑わしい。このような場合、現在の領有は相当の権威を持ち、それは私有財産よりもさらに大きい。なぜなら、あらゆる革命や政体の交代には混乱がつきものだからである。[105]

結論を述べる前に、一般論に訴えることは、形而上学、自然哲学、あるいは天文学といった思弁的な科学においては、不公平で決定的ではないと正当にみなされるかもしれないが、道徳に関するあらゆる問題、そして批評においては、いかなる論争も決着をつける基準は実際には存在しないということを指摘しておこう。そして、この種の理論が人類の共通感情や一般的な慣行や意見に反する逆説につながることほど、誤りであることを明確に証明するものはない。すべての合法的な統治を、独自の契約、あるいは当事者の同意に基づくものとする教義は、{p192} 人民に対する絶対君主制は明らかにこの類のものである。また、絶対君主制を擁護する最も有能な支持者でさえ、絶対君主制は市民社会と矛盾し、したがって市民政府の形態ではあり得ない、と断言することを躊躇しなかった。[106] そして、国家の最高権力者は、本人またはその代表者の同意なしに、税金や賦課によっていかなる人物からも財産の一部を奪うことはできない、と断言した。[107] この王国以外のあらゆる場所で人類の一般的な慣行からこれほど広範囲にわたる意見につながる道徳的推論にどのような権威があるのか​​を判断するのは容易である。[108]

元の契約の注記。
103 フランス国王アンリ4世。

104 ブルボン公爵と正統な君主たちがルイ14世のこの運命に抗議する中で、絶対的な政府においてさえも原契約の教義が主張されていることは注目に値する。彼らは、フランス国民は、ユーグ・カペーとその子孫を自分たちとその子孫の統治者として選んだ場合、旧家が途絶えたとしても、新たな王家を選出する暗黙の権利を有すると主張する。そして、この権利は、国民の同意なしに庶子を王位に就かせることによって侵害される、と。しかし、庶子を擁護する著作を著したブーランヴィリエ伯爵は、特にユーグ・カペーに当てはめた場合、原契約という概念を嘲笑する。伯爵によれば、ユーグ・カペーは、あらゆる征服者や簒奪者が用いてきたのと同じ術によって王位に就いたのである。実際、彼は自ら王位を掌握した後に、諸侯にその称号を認めさせたのである。しかし、これは選択なのか、それとも契約なのか? ブーランヴィリエ伯爵は著名な共和主義者であったことは言うまでもない。しかし、学識があり歴史に精通していた彼は、こうした革命や新制度において民衆の意見がほとんど考慮されなかったこと、そして当初は力と暴力に基づいていたものに、権利と権威が与えられたのは時代だけであることを知っていた。(『フランス国家』第3巻参照)

105 古代人の間での反逆罪は、一般に νεωτεριζειν, novas res moliriという用語で特徴づけられました。

106 ロック『政治論』第7章90節を参照。

107 ロック『政治論』第11章、§138、139、140。

108 古代において、政府への服従義務が約束に帰せられている唯一の記述は、プラトンの『クリトーネ』である。ソクラテスは、暗黙のうちに法に従うことを約束していたため、牢獄からの脱走を拒否する。このように、彼は元の契約というホイッグ党的な基盤の上に、トーリー党的な受動的な服従という帰結を構築している。

これらの問題に関して新たな発見は期待できない。ごく最近まで、政府が契約に基づいて設立されるとは誰も想像していなかったのだから、一般的に政府がそのような基盤を持つことはあり得ないのは確かだ。

受動的な服従の。
前回の論文では、この国で進められている思弁的な政治体制、そして一方の政党の宗教体制と他方の政党の哲学体制を論駁しようと努めた。本稿では、君主への服従措置に関して、各政党が導き出した実際的な帰結を検証する。

正義の義務は、人類の平和を維持するために相互に財産を控えることを要求する社会の利益に完全に基づいているため、正義の執行が非常に有害な結果を伴う場合には、その美徳は停止され、そのような公共の利益に取って代わらなければならないことは明らかである。{p193}非常事態やそのような切迫した緊急事態において、正義は必ず果たされるという 格言は 明らかに誤りであり、目的を手段のために犠牲にすることは、義務の従属という途方もない考えを示している。郊外が敵の進軍を手助けするのを、町の知事がためらうことなく焼き払えるだろうか?あるいは、戦争の必要からそうする必要があり、他に軍隊を維持できないときに、将軍が中立国の略奪を控えるだろうか?忠誠の義務についても同様である。そして常識が教えてくれるように、政府は公共の利益につながるという理由だけで我々を服従させるのであるから、服従すれば明らかに公共が破滅するような非常事態においては、義務は常に根本的で本来の義務に屈しなければならない。人民の安全こそが最高の法である。この格言は、あらゆる時代の人類の感情に合致するものである。ネロやフィリップに対する反乱について読むとき、政党制に夢中になりすぎて、その事業の成功を祈らず、事業家たちを称賛しない人はいない。わが国の高位の君主政党でさえ、その崇高な理論にもかかわらず、このような場合には、他の人類と同じように判断し、感じ、承認せざるを得ない。

したがって、非常事態においては抵抗が認められるのであれば、抵抗を正当化し、合法あるいは賞賛に値するものとすることができる必要性の程度については、良識ある論者の間でのみ問われることになる。そしてここで私は、忠誠の絆を可能な限り重視し、国民が暴力と圧制の最も大きな危険にさらされている絶望的な状況においては、忠誠の絆を破ることを最後の手段と考える人々に常に賛同することを告白しなければならない。なぜなら、暴動に通常伴う内乱の弊害に加え、いかなる国民の間にも反乱の傾向が見られる場合、それは支配者における圧制の主因の一つとなり、もし皆が服従と服従の姿勢を見せていたならば決して受け入れなかったであろう多くの暴力的手段に彼らを駆り立てるからである。したがって、それは専制君主殺し、あるいは{p194} 暗殺は、古代の格言によって是認されているが、暴君や簒奪者を畏怖させるどころか、彼らを10倍も凶暴で容赦ないものにした。そのため、現在では国際法によって正当に廃止され、これらの社会を乱す者を裁くための卑劣で反逆的な方法として広く非難されている。

さらに、服従は日常の営みにおける私たちの義務である以上、何よりも教え込むべきものであることを私たちは考慮しなければなりません。抵抗が許されるあらゆるケースを列挙することに、神経質な配慮と気配りを払うことほど、突飛なことはありません。例えば、哲学者が議論の中で、緊急の必要性がある場合には正義の規則は不要であると合理的に認めるとしても、そのようなケースを見つけ出し、熱烈な議論と雄弁をもってそれを強制することを主な研究とする説教者や詭弁家についてはどう考えるべきでしょうか。彼らは、おそらく私たちがあまりにも受け入れ、拡張しがちな特定の例外を示すよりも、一般的な教義を教え込むことに時間を費やすべきではないでしょうか。

しかしながら、我々の中に、抵抗の格言――これは明らかに、一般的に非常に有害で市民社会を破壊する格言――を熱心に広めてきた一派を擁護する理由が二つある。第一に、彼らの反対者たちが服従の教義を行き過ぎたまでに推し進め、特別な場合(おそらくは許容されるかもしれないが)における例外について全く言及しないばかりか、積極的に排除さえしたため、これらの例外を主張し、傷つけられた真実と自由の権利を守る必要が生じたということである。第二の、そしておそらくより適切な理由は、英国の憲法と統治形態の性質に基づいている。

我が国の憲法では、第一の政務官に高い権威と威厳を与え、法律によって制限されてはいても、その人物自身に関してはある意味で法律を超えており、いかなる損害や不正に対しても質問されたり罰せられたりすることはない、という制度がほとんど特異である。{p195} 君主は、大臣、あるいは君主の委任を受けて行動する者だけが正義に反する。君主は身の安全という見込みに誘惑されて法律を自由に執行するが、実際には、より軽犯罪者を処罰することで同等の安全が確保され、同時に、あらゆる場面で君主が直接攻撃されれば必ず起こるであろう内戦も回避される。しかし、憲法は君主にこの有益な賛辞を送っているものの、その格言によって君主の破滅が決定づけられた、あるいは君主が大臣を守り、不正を貫き、国家の全権力を奪取する従順な服従を確立したとは決して合理的に理解することはできない。実際、このようなケースは法律によって明示的に規定されていない。なぜなら、法律の通常の運用では、この問題に対する救済策を提供したり、君主の不法行為を懲罰する上位の権限を持つ行政官を任命したりすることが不可能だからである。しかし、救済策のない権利はあらゆる不条理の中でも最大のものとなるため、この場合の救済策は、事態が極限に達し、憲法がそれのみによって守られる状況に陥った時に、抵抗という異例の手段となる。したがって、抵抗は、より単純で、より少ない部署と組織で構成される他の政府よりも、英国政府においてより頻繁に起こるのは当然である。国王が絶対的な君主である場合、反乱を正当に誘発するような極端な暴政を犯す誘惑は少ない。しかし、国王に権限が制限されている場合、大きな悪徳はないものの、軽率な野心によって危険な状況に陥る可能性がある。これはチャールズ1世の場合であったと一般に考えられており、敵意が生じた今、真実を語ることができるならば、ジェームズ2世の場合も同様であった。彼らは、個人的な性格においては、そうでないとしても、善良な人々であった。しかし、我々の憲法の本質を誤解し、立法権全体を独占したため、彼らに激しく反対し、さらには後者が軽率かつ無分別に行使したその権限を正式に剥奪する必要が生じました。

政党連合の。
自由な政府においては、党派の区別を全て廃止することは現実的ではない、いや、おそらく望ましいことではないかもしれない。危険なのは、統治の要点、王位継承、あるいは憲法上の各構成員が有するより重要な特権に関して、対立する見解を持つ政党だけである。そのような政党にはいかなる妥協も妥協の余地もなく、論争があまりにも重大に見えて、敵対者の主張に武力で対抗することさえ正当化されるような場合である。イングランドにおける政党間の敵意は、このような性質のもので、一世紀以上にわたって続いてきた。この敵意は、時に内戦に発展し、激しい革命を引き起こし、国の平和と静穏を絶えず脅かしてきた。しかし、近年、こうした党派の区別を廃止したいという普遍的な願望の最も強い兆候が現れているため、この連立への傾向は将来の幸福への最も好ましい展望をもたらすものであり、祖国を愛するすべての人々がこれを注意深く尊重し、推進すべきである。

これほど善い目的を達成するには、一方が他方に対して不当な侮辱や勝利を収めることを防ぎ、穏健な意見を奨励し、あらゆる論争において適切な妥協点を見つけ、相手が時として正しい場合もあることを納得させ、どちらの側にも与える賞賛と非難のバランスを保つこと以上に効果的な方法はありません。原初契約と受動的な服従に関する前述の二つの論文は、両派間の哲学的論争に関してこの目的のために用意されたものであり、どちらの側もこれらの点において、自らを甘やかそうとするほど理性によって十分に裏付けられていないことを示すものです。歴史的な論争についても同様の節度を保ち、各派がもっともらしい論点によって正当化されたことを証明します。{p197} どちらの側も祖国のために善意を持つ賢明な人々であり、両派閥間の過去の敵意は、偏狭な偏見や利害に基づく情熱以外の何ら根拠のないものである。

後にホイッグ党の名を得た民衆党は、現在の自由憲法の源泉である王権への反対を、非常にもっともらしい議論で正当化しようとしたかもしれない。チャールズ1世以前の多くの治世において、大権を支持する前例が一貫して存在していたことを認めざるを得なかったものの、彼らは、これほど危険な権威にもはや服従する理由はないと考えた。彼らの論理はまさにそれだったのかもしれない。人類の権利はあまりにも神聖なため、いかなる専制や恣意的な権力の規定も、それを廃止するほどの権威を持つことはできない。自由はあらゆる恩恵の中で最も計り知れないものであり、それを取り戻す可能性があると思えば、国家は喜んで多くの危険を冒すことができ、どれほどの流血や財産の浪費にも嘆くべきではない。あらゆる人間の制度、とりわけ政府は常に変動している。国王は自らの特権を拡大する機会を必ず掴もうとする。そして、人民の権利を拡大し確保するために好ましい出来事も同時に捉えなければ、人類の間には普遍的な専制政治が永遠に蔓延することになるだろう。近隣諸国の例を見れば、かつて粗野で単純な時代に行使されていたのと同じ法外な特権を王室に委ねることはもはや安全ではないことが分かる。そして、近年の多くの治世の例は、君主の権力がいくぶん恣意的であったことを正当化する根拠となるかもしれないが、より遠い過去の治世では、王室に課せられたより厳しい制限の例が見受けられる。そして、今や革新の名を冠した議会の主張は、人民の正当な権利の回復に過ぎない。

これらの見解は、忌まわしいどころか、確かに壮大で寛大で高貴なものである。これらの見解の普及と成功によって、王国は自由、おそらくは学問、産業、商業、そして海軍力を獲得した。これらの見解によって、特にイングランドは{p198} 諸民族社会において名声を博し、古代の最も自由で輝かしい共和国に匹敵する地位を夢見ている。しかし、争いが始まった当時、こうした重大な結果をすべて合理的に予見することは不可能であったため、当時の王党派は、当時確立されていた王権大権の擁護を正当化するための、見せかけだけの論拠を必要としていなかった。我々は、王権への暴力的な侵害によって内戦の火蓋を切った議会の召集時に、彼らがどう捉えたかを前提として、この問題を提起する。

人々の間で知られ、認められている唯一の統治のルールは、慣習と実践である、と彼らは言うかもしれない。理性はあまりにも不確かな指針であるため、常に疑念と論争にさらされる。理性が人々を支配するようになったとしても、人々は常にそれを唯一の行動規範として保持してきた。彼らは、純粋な理性ではなく権威と先例のみを基盤とする政治的統治に服従することなく、原始的で無秩序な自然状態のままに留まってきた。これらの絆を断ち切れば、市民社会のあらゆる束縛が断ち切られ、誰もが理性の外観に隠された欲求が指示する手段によって、自らの特定の利益を追求する自由を得ることになる。革新の精神は、たとえその特定の目的が時としてどれほど好ましいように見えても、それ自体が有害である。これはあまりにも明白な真実であるため、民衆党自身もそれを自覚しており、それゆえ、人民の古来の自由を回復するというもっともらしい口実で、王権への侵害を隠蔽しようとする。

しかし、現在の王権は、その党派のあらゆる仮定を許容するとしても、テューダー朝の即位以来、疑いようもなく確立されてきた。現在では160年という期間が認められているが、これはいかなる憲法にも安定性を与えるには十分と言えるだろう。アドリアン皇帝の治世において、共和国憲法を統治の原則とみなしたり、あるいは憲法を統治の原則とみなしたりすることは、滑稽に映ったのではないだろうか。{p199} 元老院、執政官、護民官の以前の権利がまだ存続していたのでしょうか?

しかし、イングランド君主たちの現在の主張は、当時のローマ皇帝たちの主張よりもはるかに有利である。アウグストゥスの権威は、軍事的暴力のみを根拠とする明白な簒奪であり、ローマ史における重要な時代を形成していることは、読者なら誰でも理解できる。しかし、一部の者が主張するように、ヘンリー7世が本当に王権を拡大したとすれば、それは人々の理解を逃れ、歴史家や政治家でさえほとんど注目していない、目に見えない獲得によるものに過ぎない。新しい政府は、もしその名に値するとすれば、以前の政府からの気づかれない移行であり、完全に以前の政府に接ぎ木されており、その名称は完全にその語源から派生している。そして、あらゆる国の人間社会が永遠に直面するであろう漸進的な革命の一つとしてのみ考えられるべきである。

チューダー家、そしてその後継のステュアート家は、プランタジネット家が主張し行使した特権以外のいかなる特権も行使しなかった。彼らの権力のどの分野も、全く新しいものとは言えない。唯一の違いは、おそらくより古代の王たちはこれらの権力を断続的に行使したに過ぎず、貴族たちの反対によって、これほど安定した統治を行うことができなかったということである。[109] しかし、この事実から唯一推論できることは、当時の時代はより動乱と反乱に満ちており、幸いにも近年になって法律が優勢になったということである。

民衆政党は一体何の口実で古代の憲法を復活させようと言っているのだろうか?かつての支配は{p200} 国王に対する権力は庶民ではなく、男爵に与えられた。国王が党派的な暴君たちを鎮圧し、法の執行を強制し、すべての臣民に互いの権利、特権、財産を平等に尊重するよう義務付けるまでは、人民は権威を持たず、自由もほとんどなかった。もし我々が古代の野蛮でゴート風の体制に戻らなければならないのなら、今や君主に対してこれほどまでに傲慢な態度を取っている紳士たちに、その最初の手本を示させよう。近隣の男爵に家臣として認められるよう働きかけ、その男爵のもとで奴隷として服従することで、自らにいくらかの保護を与えると同時に、下級の奴隷や悪党に対して強奪と抑圧を行う権力も得るようにすべきである。これが彼らの遠い祖先における庶民の状態であった。

しかし、古代の憲法や政府に頼るのに、一体どれほど遡る必要があるだろうか?これらの革新者たちがあれほど強く訴えている憲法よりも、さらに古い憲法が存在した。その時代にはマグナ・カルタは存在しなかった。貴族たち自身も定まった特権をほとんど持たず、庶民院もおそらく存在していなかっただろう。

政府の全権力を掌握しているにもかかわらず、ある議院が古来の制度を復活させようと口にするのを聞くのは愉快だ。議員たちは選挙区民から報酬を受け取っていたにもかかわらず、議院の一員であることは常に負担とみなされ、そこから自由であることは特権とみなされていたことを、彼らは知らないのだろうか? 権力は人間のあらゆる財産の中で最も切望されるものであり、それに比べれば名声や快楽や富さえも軽視されるものだ。権力が、一体誰にとっても負担とみなされるなどと、彼らは私たちを説得するつもりなのだろうか?

庶民が最近獲得した財産は、先祖が享受していた以上の権力を彼らに与えていると言われている。しかし、この財産の増加は、彼らの自由と安全の増大によるものでしかない。それゆえ、彼らの先祖は、王室が反乱を起こした男爵たちによって抑制されていた間、実際には…{p201} 君主が権力を獲得した後、彼らが享受した自由は彼ら自身が獲得した自由よりも少ないのであるから、彼らはその自由を節度を持って享受すべきであり、新たな法外な要求によって、またそれを際限のない革新の口実にすることによって、その自由を失ってはならない。

真の統治とは、その時代において確立された慣行である。それが最も権威を持つのは、それが最近のことである。また、同じ理由でより広く知られている。プランタジネット朝がチューダー朝ほど高位の権力を行使しなかったと、護民官たちに保証したのは誰か?歴史家たちは、プランタジネット朝について言及していないと彼らは言う。しかし、歴史家たちはチューダー朝による大権の主要な行使についても沈黙している。権力や大権が十分かつ疑いなく確立されている場合、その行使は当然のこととみなされ、歴史や年代記の記録から容易に漏れてしまう。エリザベス1世の治世に関する記録が、我が国の歴史家の中でも最も豊富で思慮深く、正確なカムデンによってさえ保存されているもの以外になかったとしたら、我々は彼女の統治における最も重要な格言について全く無知であったであろう。

現在の君主制は、法律家によって完全に承認され、神学者によって推奨され、政治家によって承認され、一般大衆によって黙認され、いや、熱烈に愛されてきたのではないだろうか。そして、これらすべてが少なくとも160年間、そして最近まで、わずかな不満や論争もなく続けられてきたのではないだろうか。これほど長い期間にわたるこの広範な同意は、憲法を合法かつ有効なものとするには十分であるに違いない。もしすべての権力の源泉が、主張されているように国民に由来するのであれば、ここには望みうる、あるいは想像し得る限りの、最も完全かつ十分な形での国民の同意がある。

しかし、人民は、自らの同意によって統治の基盤を築くことができるからといって、それを都合よく転覆させ、破壊することが許されるなどと偽ってはならない。こうした扇動的で傲慢な主張は後を絶たない。王権は今や公然と攻撃され、貴族もまた目に見える危機に瀕している。ジェントリも間もなくそれに追随するだろう。民衆の指導者たちも、{p202} ジェントリという名を名乗る者たちは、次に危険にさらされるだろう。そして人民自身も、民政を遂行できなくなり、いかなる権威にも束縛されなくなり、平和のために、合法的で穏健な君主の代わりに、軍事的で専制的な暴君を次々と受け入れなければならないのだ。

これらの結果は、人々の現在の怒りが、市民的自由を装って覆い隠されているとはいえ、実際には宗教の狂信によって引き起こされているだけに、なおさら恐るべきものである。宗教は、人間の本性を動かす最も盲目的で、強情で、制御不能な原理である。民衆の怒りは、その動機が何であれ恐ろしいものだが、人間の法、理性、権威による制御を一切否定する原理から生じた場合には、最も有害な結果を伴うに違いない。

これらは、各党派があの大危機における先人たちの行動を正当化するために用いる論拠である。この出来事は、民衆派の論理の方がより根拠のあるものであったことを示した。しかし、法律家や政治家の定説に従えば、王党派の見解は以前よりもっと堅固で、より安全で、より合法的なものに見えたかもしれない。しかし確かなのは、過去の出来事を描写する際に私たちが今より穏健な態度を取れば取るほど、各党の完全な連合と、現在の幸福な体制への完全な黙認に近づくということである。穏健さはあらゆる体制にとって有益である。定着した権力を覆すことができるのは熱意だけであり、友人たちの過剰な熱意は、敵対者にも同様の精神を生み出す傾向がある。体制に対する穏健な反対から、それへの完全な黙認への移行は容易であり、かつ無意味である。

不満分子を現在の憲法の制定に完全に同意させるような、説得力のある論拠は数多くある。彼らは今や、市民的自由の精神が、当初は宗教的狂信と結び付けられていたものの、その汚点から脱却し、より真摯で魅力的な側面――寛容の友、そしてあらゆる拡大された自由の促進者――として現れる可能性があることに気づいている。{p203} 人間性を尊ぶ寛大な感情。民衆の要求は適切な時期に停止し、王室の法外な特権を縮小した後でも、君主制、貴族、そしてあらゆる古来の制度に対する正当な敬意を維持できると彼らは指摘するだろう。何よりもまず、彼らの党派の強さを生み出し、その主要な権威の源泉であったまさにその原理が、今や彼らから見放され、敵対者の手に渡ったことを彼らは認識しなければならない。自由の計画は確立され、その喜ばしい効果は経験によって証明され、長い歳月がそれを安定させてきた。それを覆し、過去の政府や退位した一族を呼び戻そうとする者は、他のより犯罪的な非難に加えて、今度は党派心と革新の非難にさらされるだろう。過去の出来事を熟読する中で、彼らは、王権はとうの昔に消滅していること、そして王権がしばしば引き起こした専制、暴力、抑圧は、憲法によって確立された自由が今や幸いにも国民を守った弊害であることを深く考えるべきだ。こうした反省は、明白な事実の証拠に反して、そのような王権が存在したことを否定するよりも、我々の自由と特権を守る上でより有効な手段となるだろう。議論の根拠を誤ったところに置き、維持不可能な主張を巡らせて敵対者の勝利を助長することほど、大義を裏切る効果的な方法はない。

政党連合についての注記。
109 筆者は、チューダー家が概してその直前の王家よりも権威が強かったと主張した最初の著述家であると考えている。この見解は歴史によって裏付けられることを期待しているが、筆者はやや慎重な姿勢で提唱している。過去の統治の中には、勅許状調印後でさえ、強大な権力の兆候が見られるものもある。当時の王権は、体質よりも、王位に就いた君主の能力と活力に大きく依存していた。

プロテスタント継承の。
ウィリアム王やアン女王の治世下、プロテスタント継承の確立がまだ不確かだった時代に、国会議員が、その重要な問題でどの政党を選ぶべきかを審議し、その利点と欠点を公平に比較​​検討していたと想像します。{p204} 双方に不利な点がある。以下の点が彼の考慮の対象になったであろうと私は考える。

彼は、スチュアート家の復位によってもたらされる大きな利益を容易に理解するだろう。それによって、血統という見せかけの称号を持つ僭称者から、継承権が明確かつ争いなく守られるのだ。血統という称号は、大衆にとって常に最も強力で理解しやすい主張である。多くの人が言うように、政府から独立した統治者の問題は取るに足らないものであり、議論する価値も、ましてや争う価値もないと言うのは無駄である。人類一般は決してこうした感情に陥ることはないだろう。そして、彼らがこうした感情に陥らず、むしろ生来の偏見や先入観を持ち続ける方が、社会にとってはるかに幸福だと私は信じる。君主制国家(おそらく最善ではないかもしれないが、常に最も一般的なものであった)において、人々が王家の真の後継者をこれほど熱烈に尊敬し、たとえその人が理解力が弱かったり、年齢を重ねていようとも、輝かしい才能に恵まれ、偉大な功績で称賛される人々よりも彼を優遇しなければ、一体どうして安定を保つことができただろうか? 人気のある指導者は皆、空席があるたびに、あるいは空席がなくても、自らの地位を主張し、王国は絶え間ない戦争と動乱の舞台となってしまうのではないだろうか? この点において、ローマ帝国の状況は確かに羨ましいものではなかったし、君主の称号をほとんど重視せず、民衆や兵士の気まぐれや一時的な気分のために日々犠牲にしている東方諸国の状況もそうである。君主を過小評価し、人類の最も卑しい者と同等に扱うことに、これほど注意深く示されているのは、愚かな知恵に他ならない。確かに、解剖学者は最も偉大な君主の中に、最も低い農民や日雇い労働者の中に見出すものと同じだけのものしか見出さないし、道徳家はおそらくしばしばそれ以下のものしか見出さないだろう。しかし、こうした考察は一体何につながるのだろうか?私たちは皆、生まれや家柄を重視するこうした偏見を依然として持ち続けており、真剣な仕事においても、最も気楽な娯楽においても、それらを完全に取り除くことはできない。{p205} 船乗りや荷運び人、あるいは私人の冒険を描写する人物は、すぐに我々をうんざりさせるだろう。しかし、王や王子を紹介する人物は、我々の目には重要で威厳のある風格を帯びる。あるいは、優れた知恵によってそうした先入観を完全に克服できた人は、すぐに同じ知恵によって、社会の福祉と密接に結びついていることを理解した社会のために、再び先入観を抱くだろう。この点で民衆を欺かないように努めるどころか、社会における正当な従属関係を維持するために不可欠な、君主への尊敬の念を心に抱くだろう。そして、王が王位を保持し続けたり、王位継承権を乱さないようにしたりするために二万人の命がしばしば犠牲になったとしても、彼は、すべての個人が、おそらく仕える君主と同じくらい価値があるという虚栄の喪失に憤慨しない。彼は、王の世襲権を侵害することの結果、つまり何世紀にもわたって影響が残るかもしれない結果について考察しています。一方、数千人の兵士の損失は大きな王国にほとんど不利益をもたらさず、数年後には認識されないかもしれません。

ハノーファー継承の利点は正反対の性質を持ち、まさにこの状況、すなわち世襲権を侵害し、生まれながらにその尊厳を授けられていない君主を王位に就けるという状況から生じている。この島の歴史を考察する者なら誰でも、過去二世紀にわたり、教会領の分割、男爵領の譲渡、貿易の発展、そして何よりも長年にわたり常備軍や軍事組織なしに十分な安全保障を享受できた我が国の恵まれた状況によって、国民の特権は絶えず増大してきたことは明らかである。それとは対照的に、ヨーロッパの他のほぼすべての国では、同時期に公的自由は著しく衰退し、人々は旧来の封建民兵の苦難に嫌悪感を抱き、むしろ君主に傭兵軍を託すことを選んだ。そして、君主は傭兵軍を容易く自らに敵対させた。したがって、{p206} わが英国の君主の中には、国民の気質と才能の本質を誤解した者がいた。彼らは先祖から受け継いだ好ましい前例をことごとく受け入れるあまり、それに反し、わが国の統治に限界を生じさせるような前例を見落としていた。近隣の君主たちの例に倣って、彼らはこの誤りを助長された。彼らは同じ称号や呼称を持ち、同じ権威の旗印を掲げていたため、当然のことながら同じ権力と特権を主張するようになったのである。[110] 廷臣たちのおべっかによって彼らはさらに盲目となり、{p207} とりわけ聖職者たちの権威は、聖書のいくつかの箇所から、そしてそれらを歪曲さえして、正統かつ公然とした専制政治と横暴な権力のシステムを築き上げてきた。こうした法外な要求と虚勢を一挙に打ち砕く唯一の方法は、真の世襲制から離れ、明らかに民衆の産物であり、条件付きで王位を受け、自らの権威が人民の権利と同じ土台の上に確立されていると表明し公言するような君主を選ぶことであった。彼を王統に選ぶことで、我々は野心的な臣民が将来の緊急事態において陰謀と虚勢によって政府をかき乱す望みをすべて断ち切った。彼の一族に王位を世襲させることで、我々は選挙君主制のあらゆる不都合を回避した。そして直系相続人を除外することで、我々は憲法上のあらゆる制限を確保し、我々の政府を統一的かつ一貫したものにした。人民は君主制によって守られているからこそ君主制を大切にし、君主は自由によって創造されたからこそ自由を重んじる。こうして、人間の技量と知恵が及ぶ限り、あらゆる利益は新たな体制によってもたらされる。

これらは、ステュアート家とハノーヴァー家のどちらにおいても、継承権を定めることの個別の利点である。また、それぞれの制度には欠点も存在する。公平な愛国者であれば、全体について正当な判断を下すために、これらを熟考し検証するであろう。

プロテスタント継承の不利な点は、ハノーヴァー家の諸侯が領有する外国領土にあり、それによって我々は大陸の陰謀や戦争に巻き込まれ、支配する海に囲まれ守られているという計り知れない利点をある程度失うことになると考えられる。退位したハノーヴァー家の召還の不利な点は、{p208} 家族の絆は主に彼らの宗教によって形成されますが、その宗教は私たちの間に確立されている宗教よりも社会に有害であり、社会に反し、他のいかなる宗教に対しても寛容も平和も安全も与えません。

私には、これらすべての利点と欠点は、少なくとも議論や推論に少しでも共感できる人なら誰でも認めているように思われます。どれほど忠誠心のある臣下であっても、現在の王家の争点となっている称号と外国領有が損失であることを否定する者はいません。また、スチュアート家の支持者で、世襲の不可侵の権利の主張とローマ・カトリックの信仰が、その家にとって不利益でもあることを認めない者はいません。したがって、これらすべての状況を天秤にかけ、それぞれに適切なバランスと影響力を与えるのは、どちらの党派にも属さない哲学者だけの役割です。そのような哲学者は、まず第一に、あらゆる政治問題が限りなく複雑であり、いかなる審議においても純粋に善か悪かという選択はほとんど存在しないことを認めるでしょう。あらゆる方策から、複雑で多様な結果が生じることは予見できます。そして実際、予見できない多くの結果が常に生じます。したがって、ためらいと遠慮と不安が、彼がこのエッセイや裁判に持ち込む唯一の感情である。あるいは、彼が何らかの情熱に耽るとすれば、それは無知な大衆に対する嘲笑と嘲りである。大衆は、どんなに細かい問題でも常に騒々しく独断的であり、理解力よりもむしろ気質の欠如から、裁判官として全く不適格である。

しかし、この点についてもっと明確に述べると、以下の考察が、哲学者の理解力ではないとしても、気質を示すものとなることを私は期待します。

一見したところと過去の経験だけで判断するならば、ハノーヴァー家の議会制の称号の利点は、スチュアート家の紛れもない世襲称号の利点よりもはるかに大きいことを認めざるを得ない。そして、我々の父祖たちが後者よりも前者を好んだのは賢明な判断だった。ブリテン島でスチュアート家が君臨していた間、それは多少の中断はあったものの、{p209} 80歳を超えても、国民の特権と王権の大権との争いにより、政府は絶えず熱狂状態にありました。武器を放棄しても争いの喧騒は続き、たとえそれが静まっても、嫉妬は依然として人々の心を蝕み、国を不自然な動揺と混乱に陥れました。そして、このように我々が国内の争いに明け暮れている間に、公共の自由にとって危険な、あるいは致命的とまでは言えないような外国勢力が、我々からの何の抵抗もなく、時には我々の支援さえ受けながら、ヨーロッパに台頭しました。

しかし、議会制が確立されてからのこの60年間、民衆や議会にどのような派閥が優勢であったとしても、我々の憲法の効力は常に一方に傾き、君主と議会の間には途切れることのない調和が保たれてきました。公共の自由は、国内の平和と秩序とともに、ほぼ途切れることなく繁栄しました。貿易、工業、農業は発展し、芸術、科学、哲学は発展しました。宗教政党でさえ、互いの憎しみを捨てざるを得なくなり、国家の栄光はヨーロッパ全土に広がりました。我々は、あらゆる民族を征服と服従で脅かす勢力に対する、圧制に対する防壁、そして偉大な敵対者として立ちはだかっています。これほど長く、これほど輝かしい時代を、どの国も誇ることはできません。また、人類の歴史全体を通じて、これほどの期間にこれほど多くの数百万の人々がこれほど自由に、これほど合理的に、そしてこれほど人間の尊厳にふさわしいやり方で結びついた例は他にありません。

しかし、この最近の事例は明らかに現在の体制に有利な判決を下しているように思われるが、他の要素も考慮する必要があるため、一つの出来事や事例によって判断を左右するのは危険である。

前述の繁栄期には二度の反乱があり、他にも数え切れないほどの陰謀や陰謀がありました。そして、これらのどれもが致命的な結果をもたらさなかったとしても、{p210} 万が一、我々が逃れられたのは、我々の建国に異議を唱えた君主たちの偏狭な才能のおかげだと考え、これまでのところ幸運だったと自負するかもしれない。しかし、追放された一族の主張は、残念ながらまだ時代遅れではない。彼らの将来の試みが、より大きな混乱をもたらさないと誰が予言できるだろうか?

特権と大権の間の争いは、双方、あるいはどちらか一方に許容できる程度の気質や思慮分別があれば、法律、投票、協議、譲歩によって容易に解決できる。争う称号の間では、この問題は剣と荒廃、そして内戦によってのみ解決できる。

争いのある称号で王位に就いた君主は、国民に武器を与える勇気はない。それは、国内の圧制と外国の征服の両方から国民を完全に守る唯一の方法である。

我々の富と名声にもかかわらず、近頃我々はいかに危機から逃れることができただろうか。それは、悪行や戦争における不振によるものではなく、財産を抵当に入れるという有害な慣習、そしてさらに有害な、負債を決して返済しないという格言によるものだった。不安定な生活基盤を確保するためでなければ、このような致命的な手段は決して採用されなかったであろう。[111]

しかし、いかなる見解や動機にも支えられていない議会制の称号ではなく、世襲制の称号を受け入れるべきだと我々を納得させるには、王政復古の時代に遡り、王室を召還し、君主と民衆の相反する主張から生じた最大の混乱に終止符を打った議会に自分が議席を持っていたと想像するだけで十分である。当時、父や祖父のような高貴な権利を全て排除するためだけに、チャールズ2世を退位させ、ヨーク公やグロスター公に王位を継承させようと提案した者をどう思っただろうか?そのような者は、{p211} 危険な治療法を好み、まるで病気の患者を診る医者のように政府と国家の憲法を改ざんしたり弄んだりできる、非常に浪費的な計画者とみなされてきたのだろうか?

議会の称号、できれば世襲称号から得られる利益は、たとえ大きなものであっても、あまりにも洗練されているため、俗悪な概念には決して入り込めない。大多数の人々は、君主に対する不当行為とみなされる行為を犯すには、それらの利益が十分であるとは決して認めないだろう。それらの利益は、粗野で、民衆に広く受け入れられ、馴染みのある話題によって支えられなければならない。そして賢明な人々は、それらの利益の力を信じていても、民衆の弱さと偏見に従ってそれらを拒絶するだろう。侵略的な暴君や惑わされた偏屈者だけが、その不道徳によって国民を激怒させ、おそらく常に望ましいと思われていたことを実行可能にすることができるのだ。

実際には、国民がスチュアート家やその他多くの王家の分家を排除した理由は、彼らの世襲称号のためではなく(それ自体はいかに正当であっても、一般の人々の認識ではまったく不合理に思われるだろう)、彼らの宗教のためであり、これが各制度の上記欠点を比較することになる。

実のところ、この事態を全体的に考えると、我らが君主が外国の領土を持たず、この島の統治に全神経を集中できればどれほど良かったことか、私は痛感します。大陸に領土を持つことで実際に不便が生じることは言うまでもありませんが、領土は、常に上位者を悪く思う傾向のある民衆が貪欲に利用し、中傷や名誉毀損の温床となるからです。しかしながら、ハノーヴァーはおそらくヨーロッパにおいて英国国王にとって最も不便のない地であることは認めざるを得ません。ハノーヴァーはドイツの中心部に位置し、我が国の天敵である列強から遠く離れています。帝国の法律と自国の君主の武力によって守られており、我が国を天然の同盟国であるオーストリア家とより緊密に結びつける役割を果たしているに過ぎません。{p212}

先の戦争において、ハノーヴァー選帝侯は、世界で最も勇敢で忠実な、相当数の援軍を我々に提供することで、我々の役に立った。ハノーヴァー選帝侯は、帝国において唯一、独自の目的を追求せず、ヨーロッパの最近の動乱の間も古臭い主張をすることなく、常にブリテン国王の威厳をもって行動した、有力な君主である。そして、ハノーヴァー選帝侯の即位以来、選帝侯領から我々が何らかの損害を受けたことを示すことは困難であろう。ただ、1718年にカール12世に対して短期間抱いた嫌悪感を除けば。カール12世は他の君主とは全く異なる格言で自らを律し、あらゆる公害に対して個人的な口論を仕掛けたのである。[112]

ステュアート家の宗教的信条は、はるかに根深い不都合を招き、我々にはるかに悲惨な結末をもたらすだろう。大勢の司祭や修道士を擁するローマ・カトリック教会は、我々の宗教よりもはるかに費用がかかる。異端審問官、火刑柱、絞首台といった本来の従者がいないにもかかわらず、ローマ・カトリック教会は寛容性に欠け、聖職と王の職を分離するだけでは満足せず(これはいかなる国家にとっても不利益となるに違いない)、聖職を外国人に与えている。外国人は国民の利益とは別個の利益を持ち、しばしば相反する利益を持つこともある。

しかし、たとえこの宗教が社会にとってどれほど有益であったとしても、それは我々の間に確立され、人々の心に長く留まり続けるであろう宗教とは相容れないものである。理性と哲学の進歩によって、ヨーロッパ全土における相反する宗教間の激しい敵意が徐々に和らぐことは大いに期待されるものの、中庸の精神はまだ完全に信頼できるほどにはゆっくりとしか進歩していない。同一人物がカトリックの王とプロテスタントの選帝侯を兼ねることができるザクセン家の行動は、おそらく近代においてこれほどまでに理性的で思慮深い行動の最初の例であろう。そして、カトリックの迷信が徐々に広まっていくことは、{p213} そこでさえも、急速な変化が予言されている。その後、プロテスタント宗教はその発祥の地で迫害により急速に終焉を迎えるであろうと正しく懸念される。

このように、全体として、争点となっている称号から解放されるスチュアート家の王位継承の利点は、大権の主張から解放されるハノーヴァー家の王位継承の利点とある程度釣り合っているように思われます。しかし同時に、ローマ・カトリック教徒を王位に就けるというその不利益は、外国の君主を王位に就けるというもう一つの制度よりもはるかに大きいのです。ウィリアム王やアン女王の治世下において、このような相反する見解の中で、公平な愛国者がどちらの党派を選んだかは、おそらく一部の人にとっては判断が難しいように思われるかもしれません。私自身は、自由は社会にとって非常に貴重な祝福であり、社会の発展と安全に役立つものは、人類を愛するすべての人にとって、どれほど大切にしても惜しまないほどです。

しかし、ハノーヴァー家における和解は現実に実現しました。ハノーヴァー家の君主たちは、陰謀や陰謀、そして彼ら自身の要請などなく、立法府全体の一致した声によって、我々の王位に就くよう召集されました。彼らは即位以来、あらゆる行動において、最大限の温和さ、公平さ、そして法律と憲法への敬意を示してきました。我々自身の大臣、我々自身の議会、そして我々自身が我々を統治してきました。もし我々に何か災難が降りかかったとしても、それは運命か我々自身のせいにすることしかできません。これほど慎重に成立し、その条件がこれほど厳格に守られた和解に嫌悪感を抱き、再びすべてを混乱に陥れ、軽率さと反抗的な性質によって、絶対的な隷属と服従以外のいかなる状態にも全く不適格であることを示すならば、諸国民の間でどれほどの恥辱を受けることでしょうか。

領有権を争うことに伴う最大の不都合は、内戦や反乱の危険に直面することです。この不都合を避けるために、内戦や反乱に正面から立ち向かう賢明な人がいるでしょうか?言うまでもなく、これほど長い期間にわたり、これほど多くの法律によって保障されてきた領有権は、もはや失われるべきではありません。{p214} 今回、国民の大部分が懸念しているように、ハノーヴァー家に現在の所有地とは別の称号が誕生したので、革命によっても争われている称号を回避することはできないだろう。

国家の力によるいかなる革命も、他の重大な必要性がない限り、多くの人々の利益に関わる負債と負担を解消することは決してできないだろう。そして、外国の力による革命は征服であり、不安定な勢力均衡が我々を脅かす災厄であり、とりわけ我々の内紛が、他のあらゆる状況よりも、我々にもたらす可能性が高い。

プロテスタント継承に関する注釈。
110 ジェームズ一世とその息子の演説や布告、そして一連の行動から、彼らはイングランド政府を単なる君主制とみなしており、国民の相当数がそれに反する考えを抱いているなどとは想像もしていなかったことが明らかである。そのため彼らは、いかなる力も準備することなく、また、新しい計画に着手したり政府に革新をもたらそうとする者が常に用いる遠慮や隠蔽さえもすることなく、自らの主張を露呈した。ジェームズ一世は議会が国事に干渉したとき、はっきりと「Ne sutor ultra crepidam(国事に干渉するな、超不潔なことをするな)」と述べた。また彼は、食卓で雑多な人々を前に、さらに品位を欠いたやり方で自らの考えを展開した。これは、ウォーラー氏の生涯に語られ、その詩人がしばしば語り聞かせていた物語から学ぶことができる。ウォーラー氏は若い頃、宮廷へ行く好奇心を持っていた。彼は円陣の中に立ち、ジェームズ国王が食事をするのを見ました。そこには、他の客人とともに二人の司教がテーブルに座っていました。国王は公然と大声でこう問いかけました。「国王は、議会の形式を一切経ずに、臣民の金銭を受け取る必要がある場合、それを受け取ることは可能でしょうか?」 一人の司教はすかさずこう答えました。「とんでもない、あなたは我々の鼻息なのだから」。もう一人の司教は答えを拒み、議会の問題には精通していないと言いました。しかし国王が彼に促し、逃げることはできないと告げると、司教は非常に穏やかにこう答えました。「では、陛下は私の兄の金銭を合法的に受け取ることができると思います。兄がそれを差し出しているのですから」ウォルター・ローリー卿の『世界史』序文には、次のような注目すべき一節がある。「フィリップ2世は、強大な権力と勢力によって、イングランドやフランスの国王や君主たちと同様にネーデルラントの絶対君主となるだけでなく、トルコ人のように、彼らの自然法や基本法、特権、そして古来の権利をすべて踏みにじろうとした。」スペンサーは、イングランド国王によるアイルランド法人へのいくつかの勅許について次のように述べている。「最初の勅許当時は許容できるものであり、おそらくは妥当なものであったが、現在では極めて不合理で不都合である。しかし、これらはすべて女王陛下の大権によって容易に打ち切られるであろう。女王陛下自身の勅許は、これに抗して主張したり、強制したりされるべきではない。」(『アイルランド情勢』 1537ページ、1706年版)

これらは当時の普遍的な概念とまではいかなくても、非常に一般的なものであったため、ステュアート家の二人の王子の誤りは比較的許容できるものであった。そして、ラパンは、彼のいつもの悪意と偏見にふさわしく、この誤りゆえに彼らを過度に厳しく扱っているように思われる。

111 この有害な資金提供の慣行がヨーロッパ全土でどれほど普及しているかを考える人は、おそらくこの最後の意見に異議を唱えるかもしれないが、私たちは他の国々ほど必要性を感じていない。

112 これは1752年に出版されました。

完璧な国家の理念。
人類全体の中で、権力を持つ政治的立案者ほど有害で、権力を持たざるを得ない者ほど滑稽なものはいない。一方、賢明な政治家は、権威を伴っていれば自然界で最も有益な人物であり、権威を失っても最も無垢で、全く役に立たないわけではない。統治形態は、他の人工的な仕掛けとは異なり、より正確で便利な別のものを発見できれば古い仕組みを拒絶できる、あるいは成功が疑わしいとしても安全に試験を行うことができる。確立された政府は、まさにそれが確立されているという状況によって無限の利点を持つ。人類の大部分は理性ではなく権威によって統治され、古来の推奨を受けていないものに権威を与えることは決してない。したがって、この問題に干渉したり、単に名ばかりの議論や哲学を信用して計画を試したりすることは、古き良きものに敬意を払う賢明な行政官のなすべきことではない。彼は公共の利益のためにいくつかの改善を試みるかもしれないが、その革新を可能な限り調整するだろう。{p215} 古代の構造を復元し、憲法の主要な柱と支柱を完全に保存します。

ヨーロッパの数学者たちは、航海に最も適した船の形状について、これまで激しく意見が分かれてきました。この論争に最終的に決着をつけたホイヘンスは、学界だけでなく商業界にも多大な恩恵を与えたとされています。コロンブスはアメリカへ航海し、フランシス・ドレイク卿は世界一周旅行をしましたが、そのような発見はありませんでした。個々の人間の気質や性格とは無関係に、ある政治形態が他の政治形態よりも完璧であることを認めなければならないように、たとえ不完全で不正確な一般的な政治形態が社会の目的を果たしているように見えても、そして新しい政府を樹立することは新しい設計に基づいて船を建造するほど容易ではないとしても、なぜ私たちは最も完璧なものは何かを探求しないのでしょうか。このテーマは、人間の知恵が考え出せるあらゆる好奇心の中でも、間違いなく最も価値のある探求です。そして、もしこの論争が学識者の普遍的な合意によって決着したとしても、将来のある時代に、旧体制の解体、あるいは世界のどこか遠く離れた場所で人々が結集して新たな体制を形成することによって、理論を実践に移す機会が与えられるかもしれない。いずれにせよ、その種の最も完璧なものを知ることは有益であるに違いない。そうすれば、社会に大きな混乱を及ぼさない程度の穏やかな変更や革新によって、現実の憲法や政治形態を可能な限りそれに近づけることができるだろう。

本稿で私が試みようとしているのは、この思索の主題を再び取り上げることだけであり、したがって、できるだけ簡潔に私の考えを述べたいと思います。この点について長々と論じることは、一般大衆にはあまり受け入れられないのではないかと私は懸念しています。なぜなら、そのような論考は無益で空想的なものとみなされる可能性が高いからです。

人類の習慣に大きな変革をもたらすと想定する統治計画はすべて、明らかに空想に過ぎません。プラトンの『国家』やサー・トマス・モアの『ユートピア』も、まさにこの類のものです。オセアニアは、これまで公衆に提示された唯一の価値ある国家モデルです。{p216}

オセアニア法の主な欠陥は次の点にあるように思われる。第一に、その交代制度は不便であり、能力に関わらず、人々を公職から時折失うことになる。第二に、その農業的運営は現実的ではない。人々は古代ローマで行われていたように、他人の名義で財産を隠す術をすぐに習得し、ついには濫用が蔓延し、自制の体裁さえも失ってしまうだろう。第三に、 オセアニア法は自由の保障や苦情処理の十分な手段を提供していない。元老院が提案し、人民が同意しなければならない。これにより、元老院は人民に対して反対意見を表明できるだけでなく、さらに重大なことに、その反対意見は人民の投票にかけられる。もし国王が英国憲法において同様の反対意見を表明し、いかなる法案も議会に提出されないよう阻止できるならば、国王は絶対君主と言えるだろう。しかし、国王の反対意見は両院の投票に追随するため、大した問題にはならない。同じものを提出する方法に、これほどの違いがある。民衆の支持を得た法案が両院で討議され、成熟し、その便宜と不便のすべてが比較検討され、均衡がとれた後、国王の裁可を求めて提出された場合、全会一致の民意を拒否しようとする君主はほとんどいないだろう。しかし、国王が不服な法案を胎児の段階で潰すことができれば(スコットランド議会では、一時期、貴族院によってそうであったように)、英国政府は均衡を失うだけでなく、不満も解消されないだろう。そして、いかなる政府においても、法外な権力は新しい法律から生じるのではなく、むしろ古い法律からしばしば生じる濫用の是正を怠ることから生じることは確かである。マキャベリは、政府はしばしばその本来の原則に立ち返らなければならないと述べている。したがって、オセアニアでは、立法府全体が上院にあると言えるだろう。ハリントンは、特に農地法が廃止された後では、それが不便な政治形態であると認めるだろう。

これは、理論的に、私が特に異論を唱えることができない政治形態である。{p217}

グレートブリテンおよびアイルランド、あるいは同等の広さを持つ領土を100の郡に分割し、各郡を100の教区に分割して、合計1万の郡とする。もし、共和国として設立しようとする国土の広さがこれより狭い場合は、郡の数を減らすことはできるが、30未満にしてはならない。広さがこれより広い場合は、郡の数を増やすよりも、教区を拡大するか、あるいは郡により多くの教区を加える方がよい。

田舎の年収 10 ポンドの自由保有者全員と、町の教区の年収 200 ポンドの世帯主全員は、毎年教区教会に集まり、投票によって郡内の自由保有者を議員として選出します。この議員を郡代表者と呼びましょう。

百人の郡代表は、選挙後二日後に郡都に集合し、自らの中から投票により十人の郡政委員と一人の上院議員を選出する。したがって、州全体では、百人の上院議員、千百人の郡政委員、そして一万人の郡代表が存在することになる。我々はすべての上院議員に郡政委員の権限を与え、すべての郡政委員に郡代表議員の権限を与える。

上院議員は首都で会合し、共和国の全行政権、すなわち平時および戦争の権限、将軍、提督、大使に命令する権限、つまり英国国王の特権のうち拒否権を除くすべての権限を付与されるものとする。

郡の代表者はそれぞれの郡で会合を開き、共和国の全立法権を持つものとする。最も多くの郡がこの問題を決定する。そして、これらの郡の数が同数の場合には、上院が決定票を持つものとする。

すべての新しい法律は、まず元老院で審議されなければならない。元老院で否決されたとしても、10人の元老院議員が異議を唱え、抗議した場合は、各郡に送付されなければならない。元老院は、法律の写しに、その受理または否決の理由を添付することができる。{p218}

必要となるかもしれない些細な法律ごとに郡の代表者全員を集めるのは面倒なため、上院は法律を郡の判事か郡の代表者のどちらかに送る選択肢を持っています。

裁判官は、法律が彼らに委ねられているとしても、望むなら代表者を召集し、その決定に問題を委ねることができる。

元老院が法律を郡の行政官または代議員に付託する場合でも、その写しと元老院の理由書は、会議開催予定日の8日前までに各代議員に送付され、審議されなければならない。また、元老院が決定を行政官に付託する場合でも、郡の代議員5名が行政官に対し、代議員全員を招集し、その決定に委ねるよう命じた場合、行政官はこれに従わなければならない。

郡の行政官または代表者は、上院に提案する法律のコピーを郡の上院議員に渡すことができます。5 つの郡が同じ命令に同意した場合、その法律は、上院で拒否されたとしても、5 つの郡の命令に従って、郡の行政官または代表者に渡される必要があります。

20郡は、その行政長官または代表者の投票により、1年間、いかなる人物も公職から追放することができる。30郡は3年間。

上院は、その年度の再選を禁じる形で、その議員を除名する権限を有する。上院は、同一郡の上院議員を1年間に2度除名することはできない。

旧元老院の権力は、郡代表の年次選挙後も3週間継続する。その後、新元老院議員は枢機卿と同様にコンクラーベに召集され、ヴェネツィアやマルタのような複雑な投票によって、以下の政務官を選出する。国家の尊厳を代表し元老院を主宰する護国卿、2名の国務長官、そして6つの評議会(国務評議会、宗教評議会、そして国務院)である。{p219} 学問会議、通商会議、法律会議、軍事会議、海軍会議があり、それぞれ5名で構成される。さらに、6名の財務委員と1名の第一財務委員が加わる。これらはすべて元老院議員でなければならない。また、元老院は外国の宮廷に派遣する大使を任命する。大使は元老院議員であってもなくてもよい。

上院はこれらのいずれかまたはすべてを続行することができますが、毎年再選する必要があります。

護国卿と二人の秘書は、国務会議において会議権と選挙権を持つ。国務会議の業務は外交政策全般である。国務会議は他のすべての会議においても会議権と選挙権を持つ。

宗教学会議は大学と聖職者を監査する。商業会議は商業に影響を与えるあらゆる事柄を監査する。法律会議は下級行政官によるあらゆる法律の濫用を監査し、自治法の改善点を検討する。戦争会議は民兵とその規律、弾薬庫、物資などを監査し、共和国が戦争状態にある場合には将軍の適切な秩序を監査する。海軍本部会議は海軍に関して同様の権限を有し、艦長およびすべての下級将校の指名も行う。

これらの評議会は、元老院から権限を与えられた場合を除き、自ら命令を出すことはできません。それ以外の場合には、すべての事項を元老院に報告しなければなりません。

上院が休会中の場合、いずれの評議会も会議の予定日前に上院を召集することができる。

これらの評議会や裁判所の他に、競争者裁判所と呼ばれる別の裁判所があり、これは次のように構成されます。上院議員の候補者が下院議員の3分の1以上の票を獲得した場合、選出された上院議員に次いで最多の票数を獲得した候補者は、1年間、行政官や下院議員を含むすべての公職に就くことができなくなります。ただし、競争者裁判所には席が与えられます。つまり、この裁判所は、時には100人の議員で構成され、時には全く議員がいないこともあり、その場合は1年間廃止されることもあります。{p220}

競争裁判所は国家において何の権限も持たない。その権限は、公会計の検査と、元老院における告発のみである。元老院が無罪放免とした場合、競争裁判所は必要に応じて、治安判事または代議員に上訴することができる。上訴があった場合、治安判事または代議員は競争裁判所が指定した日に会合を開き、各郡から3名を選出する。この選出者には元老院議員は含まれない。選出された300名は首都に集まり、被告を新たな裁判に付す。

競争者裁判所は、あらゆる法律を上院に提案することができ、もし拒否された場合は、人民、すなわち各郡でその法律を審査する判事または代表者に訴えることができる。裁判所の投票によって上院から追放されたすべての上院議員は、競争者裁判所に席を置く。

上院は貴族院の司法権の全て、すなわち下級裁判所からの上訴権をすべて有する。また、大法官(Lord Chancellor)および全ての法務官を指名する。

各郡はそれぞれ一種の共和国であり、代表者は郡法を制定することができる。郡法は投票後3ヶ月間は効力を持たない。法律の写しは上院と他のすべての郡に送付される。上院または各郡はいつでも他の郡の法律を無効にすることができる。

代理人は、裁判、拘留などにおいて英国治安判事の全権限を持ちます。

治安判事は各郡の歳入担当官全員を指名する。歳入に関するあらゆる訴訟は最終的に治安判事に上訴される。治安判事は全担当官の会計を承認するが、自らの会計も年末に代表者による審査と承認を受けなければならない。

行政官はすべての教区に教区牧師または牧師を任命します。

長老派教会の政府が設立され、{p221} 最高教会裁判所は、郡内のすべての長老による集会または会議である。治安判事は、この裁判所からあらゆる訴訟案件を受理し、自ら判決を下すことができる。

治安判事は長老の解任や停職を試みることができる。

民兵はスイスの民兵を模倣して設立されたが、スイスの民兵は周知の事実であるため、我々はそれを強要するものではない。ただし、野営地の任務が全く知られていないことにならないよう、毎年2万人の軍隊を交代制で編成し、給与を支給し、夏季に6週間野営させるという点を付け加えておくのが適切であろう。

政務官は大佐以下の階級の将校全員を指名する。上院は大佐以上の階級の将校全員を指名する。戦争中は将軍が大佐以下の階級の将校を指名し、その任期は12ヶ月である。ただし、その後は連隊が所属する郡の政務官によって承認されなければならない。政務官は郡連隊の将校を解任することができ、上院は軍の将校を解任することができる。政務官が将軍の指名を承認するのが適切でないと判断した場合、拒否した将校の代わりに別の将校を指名することができる。

すべての犯罪は郡内で治安判事と陪審員によって裁判されるが、上院は裁判を中止し、自ら裁判を起こすことができる。

どの郡も、上院においていかなる犯罪についてもいかなる人物に対しても起訴することができる。

護国卿、二人の秘書、国務院、そして非常事態の際に元老院が任命するさらに五人は、六ヶ月間独裁権力を保持する。

保護者は下級裁判所で有罪判決を受けた者を恩赦することができる。

戦時中、戦場にいる陸軍将校は、連邦内でいかなる公職にも就くことはできない。

首都、ここではロンドンと呼ぶことにするが、元老院には4名の議員が認められる。したがって、首都は4つの郡に分割される。各郡の代表者は1名の元老院議員と10名の政務官を選出する。{p222} したがって、市には4人の元老院議員、44人の行政官、そして400人の代表者がいます。行政官は郡と同じ権限を持ちます。代表者も同様の権限を持ちますが、彼らは決して一つの総会で会合を開くことはありません。彼らはそれぞれの郡、あるいは百人隊区で投票を行います。

市法を制定する場合、最も多くの郡または地区が決定権を持ち、これらの郡または地区が同数の場合には、政務官が決定票を投じる。

治安判事は市長、保安官、記録官、その他の市の役員を選出します。

共和国においては、代表者、政務官、元老院議員には給与は支払われません。護国卿、秘書官、評議会、大使には給与が支払われます。

毎世紀最初の年は、時の経過によって代表者に生じたあらゆる不平等を是正するために設けられる。これは立法府によって行われなければならない。

以下の政治格言がこれらの命令の理由を説明するかもしれない。

下層階級の人々や小所有者は、身分や居住地がそれほど離れていない人物については十分な判断力を持っているため、教区集会ではおそらく最良、あるいはそれに近い代表者を選ぶだろう。しかし、郡レベルの集会や共和国の高官選挙には全く不適格である。彼らの無知は、有力者たちに欺く機会を与えているのだ。

1万人は、たとえ毎年選挙で選ばれていなかったとしても、自由な政府にとって十分な基盤となる。確かにポーランドの貴族は1万人以上いるが、それでも彼らは民衆を抑圧している。しかし、権力は常に同じ人物や一族に保持されるため、彼らはいわば民衆とは異なる国家となっている。しかも、ポーランドの貴族は少数の一族の長の下に結束している。

あらゆる自由政府は、大小二つの評議会、言い換えれば元老院と人民から構成されなければならない。ハリントンが指摘するように、人民は元老院がなければ知恵を求めるだろうし、人民のいない元老院は誠実さを求めるだろう。{p223}

例えば、人民を代表する1000人規模の大集会に議論を許せば、混乱に陥るでしょう。議論を許さなければ、上院は否定的な立場に立たされ、しかも決議前の最悪の否定的な立場に立たされることになります。

ここに、未だどの政府も完全に解決できていないが、世界で最も容易に解決できる不都合がある。民衆が議論すれば、すべては混乱する。議論しなければ、解決できるのは元老院だけであり、後は彼らに代わって解決するだけだ。民衆を多くの独立した団体に分割すれば、彼らは安全に議論することができ、あらゆる不都合は避けられるように見える。

ド・レツ枢機卿は、どんなに多くの集会が構成されていても、それは単なる暴徒であり、些細な動機によって議論が左右されると述べています。これは日々の経験によって裏付けられています。ある構成員が不条理なことに気付くと、彼はそれを隣の人に伝え、それが全体に波及していきます。この大きな集団を分離し、たとえ構成員一人ひとりの分別が中程度であっても、理性以外のものが全体に勝つことはまずあり得ません。影響力や模範が排除されれば、多くの人々の間では常に良識が悪に打ち勝つでしょう。良識は重要ですが、愚行は無数にあり、人それぞれに異なるものです。人々を賢明にする唯一の方法は、人々が大きな集会に集まらないようにすることです。

あらゆる元老院には、二つの警戒すべき点がある。一つは、その統合と分裂である。統合は最も危険であり、この不都合に対して、我々は以下の対策を講じた。1. 元老院議員は毎年の選挙によって人民に大きく依存している。しかも、その選挙はイギリスの選帝侯のような目立たない民衆ではなく、富と教養のある人々によって行われる。2. 彼らに与えられた権力は小さい。彼らが処分できる役職は少なく、ほとんどすべてが各郡の行政官によって与えられる。3. 利害関係において隣り合うライバルたちで構成され、現状に不安を抱く競争者たちは、必ずや彼らに対してあらゆる優位性を持つであろう。

上院の分裂は、1.{p224} 彼らの数が少なすぎること。2. 派閥は別々の利益のために結託することを前提としているが、彼らが人民に依存していることによりそれが妨げられている。3. 彼らには党派心を持つ議員を追放する権限がある。確かに、同じ精神を持つ別の議員がその郡から来た場合、彼らにはその議員を追放する権限はない。また、追放すべきでもない。なぜなら、それは人民の気まぐれを示しており、おそらく公務における何らかの不品行から生じているからである。4. 人民によって正当に選出された元老院のほとんどすべての人物は、いかなる公職にも適任であると考えられる。したがって、元老院が議員の職務の分配に関する一般的な決議を策定することは適切であろう。これらの決議は、一方では並外れた才能が、他方では並外れた愚かさが元老院に現れるような重要な時期に、彼らを拘束するものであってはならない。しかし、職務の分配を当然のこととすることにより、陰謀や党派心を防ぐのに十分であろう。たとえば、次のような決議があるとします。「誰も元老院で4年間務めるまでは、いかなる役職にも就くことはできない。大使を除き、誰も2年後にはその職に就くことはできない。誰も下位の職を経ずに上位の役職に就くことはできない。誰も2度護国卿になることはできない。」など。ヴェネツィアの元老院はこのような決議によって統治します。

外交においては、元老院の利益と人民の利益は分離することがほとんど不可能であり、したがって人民に対して元老院を絶対的なものとするのが適切である。そうでなければ、秘密保持も洗練された政策も不可能である。さらに、資金がなければ同盟は成立せず、元老院は依然として人民に依存している。言うまでもなく、立法権は常に行政権に優位であるため、政務官や代表者は適切と判断した場合にはいつでも介入することができる。

英国政府の主な支持基盤は利益相反の勢力である。しかし、それは概して有用ではあるものの、際限のない派閥争いを生む。前述の計画においては、利益相反は害悪を一切伴わずに全てを成す。競争相手には上院を統制する力はなく、民衆に告発し訴えかける力しかない。{p225}

同様に、千人の政務官の統合と分裂を防ぐことも必要です。これは、地位と利害関係を分離することで十分に実現されます。

しかし、それだけでは十分ではないかもしれないが、選挙で1万人に依存するのも同じ目的を果たす。

それだけではありません。10,000 人はいつでも好きなときに権力を回復できます。全員が望むときだけでなく、100 人のうち 5 人が望むときでも、別個の利害関係があるという最初の疑いがあれば、権力を回復できます。

1万人はあまりにも大きな集団であり、一箇所に集まり、野心的な指導者の指導を受ける場合を除いて、団結することも分裂することもできない。ましてや、国民全体による毎年の選挙は、何の考慮も払われないほど大きな集団である。

小さな国家は、その内部においては世界で最も幸福な政府である。なぜなら、あらゆるものが支配者の監視下にあるからである。しかし、外部からの強大な力によって征服される可能性もある。この計画は、大国家と小国家の両方の利点を兼ね備えているように思われる。

郡法は、上院または他の郡によって廃止される可能性があります。これは利害対立を示すためです。その場合、いかなる部分も単独で決定を下すべきではありません。この問題は全体の利益に合致するものを最も適切に決定するであろう全体の判断に委ねられるべきです。

聖職者と民兵については、これらの命令の理由は明白です。聖職者が行政官に依存し、民兵も存在しない限り、自由な政府が安全と安定を保つと考えるのは愚かです。

多くの政府において、下級行政官は野心、虚栄心、あるいは公共心に基づく報酬しか得ていない。フランスの裁判官の給与は、その職に支払われる金額の利息にも満たない。オランダの市長は、イギリスの治安判事やかつての庶民院議員と比べて、直接的な利益はほとんど得ていない。しかし、これが行政の怠慢を招くのではないかと疑われることがないように(人間の自然な野心を考えれば、それほど恐れる必要はないが)、{p226} 行政官には適切な給与を支払うべきだ。上院議員は多くの名誉ある高給職に就くことができるので、出席を金で買う必要はない。下院議員にはほとんど出席を求めない。

上記の統治計画が実行可能であることは、かつて世界で最も賢明かつ名声ある政府の一つであったオランダ連邦との類似性を考えれば、疑う余地はない。現行制度における変更はすべて明らかに改善されている。1. 代表制がより平等になった。2. オランダ連邦において完全な貴族制を形成している都市の市長の無制限の権力は、国民に郡代表を毎年選挙させるという穏健な民主主義によって是正された。3. 同盟、平和と戦争、課税に関して、各州と都市がオランダ共和国全体に対して及ぼす不利益は、これによって解消された。4. 現行制度における各郡は、7つの州ほど互いに独立しておらず、また独立した組織を形成してもいない。そこでは、小さな州や都市が、特にオランダやアムステルダムのような大国に対して抱く嫉妬や羨望が、しばしば政府を混乱させてきた。5. 元老院には、最も安全な種類の権力ではあるが、三部会が持つよりも大きな権力が委ねられている。これにより、前者は後者よりも迅速かつ秘密裏に決議を下すことができる。

英国政府を最も完璧な生きた君主制のモデルへと導くために、英国政府に加えられるべき主要な変更は、以下の通りであると思われる。第一に、代表権を平等にし、200ポンド相当の財産を持たない者は郡選挙で投票できないようにすることで、共和制議会の計画を復活させるべきである。第二に、下院は現在のように脆弱な貴族院にとって重すぎるため、以前の議会においてその権威を完全に破壊した司教とスコットランド貴族を排除すべきである。{p227} 上院は300から400に増強されるべきであり、議席は世襲ではなく終身制とする。議員は自ら選挙で選出されるべきであり、平民は提供された議席を拒否することは許されない。こうすることで、貴族院は国の信用、能力、そして利益において主要な人物のみで構成されることになる。下院で騒動を起こす指導者はすべて貴族院から排除され、貴族院と利害関係を結ぶことになるだろう。このような貴族制は、君主制にとって、また君主制に対抗する上で、強力な障壁となるだろう。現在、我が国の統治の均衡は、君主の能力と行動にある程度依存しているが、これらは変動しやすく不確実な状況である。

この制限君主制の計画は、いかに修正されても、依然として三つの大きな不都合を抱えていることを認めざるを得ません。第一に、宮廷と国家の対立を和らげることはできても、完全に解消できるわけではありません。第二に、国王個人の性格は依然として政府に大きな影響力を及ぼさなければなりません。第三に、剣は一人の人物の手に握られており、その人物は常備軍を維持する口実を得るために、常に民兵の規律を怠るでしょう。これは英国政府にとって致命的な病であり、最終的には必然的に消滅する運命にあることは明らかです。しかしながら、スウェーデンはこの不都合をある程度解消し、制限君主制と民兵、そして英国よりも危険性の低い常備軍を保有しているように思われます。

この主題を締めくくるにあたり、フランスやイギリスのような大国が共和国を形成することは不可能であり、そのような形態の政治体制は都市や小さな領土でしか成り立たないという通説が誤りであることを指摘したい。しかし、その逆は明らかである。広大な国土で共和制政府を樹立するのは都市よりも難しいが、一旦樹立すれば、混乱や党派対立を起こさずに安定的かつ統一的に維持することは容易である。大国の遠隔地が自由統治の計画において団結するのは容易ではないが、その尊重と共謀においては容易に共謀する。{p228} 民主制は、一個人の尊敬を集め、その民衆の支持を得て権力を掌握し、頑固な者を屈服させることで君主制政府を樹立することが可能である。一方、都市は同様の政治観に容易に同意し、財産の自然な平等は自由を促進し、居住地の近接性は市民が互いに助け合うことを可能にする。絶対君主制下でも、都市の従属的政府は一般に共和制であり、一方、郡や属州の政府は君主制である。しかし、都市における共和国の樹立を容易にするこれらの同じ状況が、都市の体制をより脆弱で不安定なものにしている。民主制は動乱を生じる。なぜなら、人々が投票や選挙でいかに分裂したり小党派に分かれていようとも、都市での彼らの近接した居住は、常に民衆の潮流や潮流の力を非常に顕著にするからである。貴族制は平和と秩序に適しており、それゆえ古代の著述家たちはこれを大いに賞賛した。しかし、彼らは嫉妬深く、抑圧的です。巧みな技巧によって形作られた大きな政府には、最初の選挙や国家の最初の編成に参加できる下層民衆から、あらゆる動きを指揮する高位の政務官に至るまで、民主主義を洗練させるのに十分な範囲と余地があります。同時に、各派は非常に遠く離れているため、陰謀、偏見、あるいは情熱によって、公共の利益に反する措置を急がせることは非常に困難です。

そのような政府が不滅であるかどうかは問うまでもない。人類の果てしない計画について詩人が叫んだ「人類よ、そして永遠よ!」という言葉は正当だと私は認める。世界そのものはおそらく不滅ではないだろう。完璧な政府でさえ近隣諸国の餌食となるほどの、壊滅的な疫病が発生するかもしれない。人間の精神の熱狂やその他の異常な動きが、人々をどこまで駆り立て、あらゆる秩序と公共の利益を無視させるかは、私たちには分からない。利害の相違がなくなると、個人的な好意や敵意から、気まぐれで説明のつかない派閥がしばしば生じる。もしかしたら、錆びが成長して、{p229} 最も正確な政治機構の源泉でさえ、その動きを乱してしまう。最後に、広範な征服が追求されると、あらゆる自由政府は必ず破滅する。そして、より完全な政府は不完全な政府よりも早く破滅する。なぜなら、前者が後者に対して持つまさにその利点ゆえに。そして、そのような国家は征服を禁じる基本法を制定すべきだが、共和国にも個人と同様に野心があり、目先の利益のために子孫のことを忘れてしまう。そのような政府が、全能の神が自らの創造物には与えなかったと思われる不滅性を、人間のいかなる作品にも与えることを主張することなく、幾世代にもわたって繁栄することは、人類の努力を刺激するに十分である。

政治は科学に還元されるかもしれない。
多くの人々が疑問に思うのは、ある政治形態と他の政治形態の間に本質的な違いがあるのか​​、そして、あらゆる政治形態は、その統治の良し悪しによって善にも悪にもなり得るのではないかということである。[113] もしすべての政治形態は同じであり、唯一の違いは統治者の性格と行動にあると認められれば、ほとんどの政治的論争は終結し、ある政治形態を他の政治形態よりも優先する熱意は、単なる頑迷さと愚行とみなされるであろう。しかし、私は中庸の支持者ではあるが、この感情を非難せずにはいられない。そして、人間社会は、個々の人々の気まぐれな気質や性格から得られるもの以上に安定したものなどないと考えるのは、残念なことである。{p230}

確かに、あらゆる政治の善は統治の善良さにかかっていると主張する人々は、歴史上、全く同じ政治が、統治者によって善と悪という正反対の両極に突如転じた数多くの具体的な事例を挙げるかもしれません。アンリ3世とアンリ4世のフランス統治を比較してみましょう。支配者側の抑圧、軽率さ、策略。臣民側の党派争い、扇動、裏切り、反乱、不忠。これらが、かつての悲惨な時代の特徴を形作っています。しかし、愛国心と英雄的な君主が王位にしっかりと座すると、政治も民衆も、すべてが完全に変わったように見えました。そして、すべてはこの二人の君主の気質と感情の違いから生じたのです。エリザベス1世とジェームズ2世の統治を比較しても、少なくとも外交に関しては、正反対の種類の同様の違いが見られます。そして、この種の事例は、古代史だけでなく近代史においても、ほぼ無数に挙げられます。

しかし、ここで私は区別をさせていただきたい。あらゆる絶対主義政府(そして、古代イングランドの自由を称える数々の賛辞にもかかわらず、前世紀半ばまでのイングランドも大部分はそうであった)は行政に大きく依存しなければならない。そして、これがこの政治形態の大きな不都合の一つである。しかし、もし憲法によって規定された特定の抑制と統制が実際には何の影響も及ぼさず、悪人でさえ公共の利益のために活動することを利益としないのであれば、共和制で自由な政府は極めて明白な不合理となるだろう。これがこれらの政治形態の意図であり、賢明に構成された場合にはその真の効果である。しかし一方で、その本来の枠組みと制度において技能または誠実さが欠如していた場合、それらはあらゆる混乱と最も邪悪な犯罪の源となる。

法律や特定の統治形態の力は非常に大きく、人々の気分や気質にほとんど依存しないため、ほとんどの状況において、法律や特定の統治形態からほぼ普遍的かつ確実な結果が導き出される。{p231} 数学が私たちに与えてくれるあらゆる機会と同じように。

ローマ政府は、貴族や執政官に反対票を投じることなく、全立法権を平民に委ねた。平民はこの際限のない権力を、代表機関ではなく集団として有していた。その結果、民衆が勝利と征服によって非常に多数となり、首都から遠く離れた場所にまで勢力を広げると、都市の部族は、最も軽蔑すべき存在であったにもかかわらず、ほぼすべての票を獲得した。そのため、人気に乗ろうとするあらゆる者は、彼らを巧みに操った。彼らは、穀物の一般配給と、ほぼすべての候補者から受け取る個別の賄賂によって、怠惰に暮らしていた。こうして彼らは日増しに放縦になり、カンプス・マルティウスは絶え間ない騒乱と反乱の舞台となった。これらの悪党市民の間には武装奴隷が投入され、政府全体が無政府状態に陥った。ローマ人が望む最大の幸福は、カエサルの専制権力であった。これが代表者のいない民主主義の影響である。

貴族は、国家の立法権の全部または一部を二通りの方法で保有することができる。すべての貴族が全体の一部として権力を共有するか、あるいは全体がそれぞれ独自の権力と権限を持つ部分から構成される形で権力を享受するかのいずれかである。ヴェネツィア貴族制は前者の形態の統治の一例であり、ポーランド貴族制は後者の形態の例である。ヴェネツィア統治においては、貴族全体が全権力を保有し、貴族は全体から受け継がれない権限を持つことはない。ポーランド統治においては、すべての貴族は領地を通じて家臣に対して独自の世襲的権限を持ち、全体は各部分の同意から受ける権限以外の権限を持たない。これら二種類の統治形態の異なる運用と傾向は、たとえ演繹的に見ても最も明白であろう。ヴェネツィア貴族はポーランド貴族よりもはるかに優れている。たとえ人々の気質や教養が異なっていたとしても。{p232} 貴族階級は、その多様さにとらわれない。権力を共有する貴族は、貴族自身と臣民の間に平和と秩序を維持し、いかなる構成員も一瞬たりとも法律を支配できるほどの権力を持つことはできない。貴族は人民に対する権威を維持するが、甚だしい専制政治や私有財産の侵害は一切行わない。なぜなら、そのような専制的な政府は、たとえ一部の個人の利益は増進できたとしても、全体の利益は増進しないからである。貴族と人民の間には身分の区別はあるが、それが国家における唯一の区別となる。貴族全体が一つの組織を形成し、人民全体が別の組織を形成し、至る所に破滅と荒廃をもたらすような私的な確執や敵意は一切存在しない。こうした細部の一つ一つに、ポーランド貴族の不利な点が容易に見て取れる。

一人の人物(総督、君主、あるいは国王など)が非常に大きな権力を持ち、立法府の他の部分と適切な均衡、あるいはバランスをとるような自由な政府を構成することは可能である。この最高権力者は選挙で選ばれることも世襲で選ばれることもある。表面的には前者の制度が最も有利に見えるかもしれないが、より正確に調査してみると、後者よりも多くの不都合が発見されるだろう。そして、それは永遠かつ不変の理念と大義に基づくものである。このような政府における王位の補充は、国民全体を派閥に分裂させるにはあまりに大きく、かつあまりにも一般的な関心事であるため、空席が生じるたびに、最大の弊害である内戦がほぼ確実に発生する恐れがある。選出される君主は、外国人か現地人でなければならない。前者は統治すべき民衆を知らず、新たな臣民を疑念を抱き、臣民からも疑われ、完全に他国人に信頼を寄せる。彼らは主君の寵愛と権威が支えとなる限り、手っ取り早く富を得ることしか考えない。一方、生まれながらの者は王位に就くと、個人的な敵意や友情をすべて持ち込み、昇進すれば必ず嫉妬の感情を掻き立てられるだろう。{p233} かつて彼を同等とみなしていた者たちに。王冠は功績のみに与えられるにはあまりにも高額な褒賞であり、候補者は必ず選挙民の票を得るために武力、金銭、陰謀を行使するだろうことは言うまでもない。したがって、このような選挙は、国家が君主を生来のみで決定した場合と同様に、君主の優れた功績を認める機会をほとんど与えないだろう。

したがって、世襲君主、封臣のない貴族、そして代表者による投票を行う人民こそが、最良の君主制、貴族制、そして民主主義を形成するという、政治における普遍的な公理を宣言することができるだろう。しかし、政治が、臣民あるいは君主の気質や教育によって不変の普遍的真理を有することをより完全に証明するためには、この学問における他のいくつかの原理、すなわち、そのように解釈するにふさわしいと思われる原理を考察することも、決して不適切ではないだろう。

自由政府は、その自由を享受する者にとって一般的に最も幸福なものであったが、同時に、属州にとっては最も破滅的で抑圧的であったことは容易に観察できるだろう。そして、この観察は、ここで我々が論じているような種類の格言として定着するだろうと私は信じる。君主が征服によって領土を拡大すると、彼はすぐに新旧の臣民を同じ立場にあるとみなすことを学ぶ。なぜなら、実際には、個人的に親交のある少数の友人や寵臣を除けば、すべての臣民は彼にとって同じだからである。したがって、君主は一般法において臣民を区別せず、同時に、一方に対するあらゆる特定の抑圧行為を他方に対するのと同様に注意深く防止する。しかし、自由国家は必然的に大きな区別を設け、人々が隣人を自分と同様に愛することを学ぶまで、常にそうしなければならない。このような政府においては、征服者たちは皆立法者であり、貿易の制限や課税によって、征服地から公的利益だけでなく私的利益も引き出そうと画策するだろう。また、共和国においては、地方総督は賄賂や利子によって略奪品を持ち逃げする可能性が高い。そして、自国の領土が不当に支配されていると感じている同胞市民は、{p234} 属州からの略奪によって富を得た者は、そのような濫用を容認する傾向が強まるだろう。言うまでもなく、自由国家においては、総督を頻繁に交代させることは必要な予防措置であり、そのため臨時の僭主はより迅速かつ強欲に行動せざるを得ず、後継者に地位を譲る前に十分な富を蓄積せざるを得ない。ローマ共和国時代、世界に対してローマ人はなんと残酷な僭主だったことか!確かに彼らは属州行政官による圧制を防ぐ法律を持っていたが、キケロは、ローマ人が属州の利益を最もよく考慮するためには、まさにこれらの法律を廃止することしかできなかったと伝えている。「もしそうなれば」と彼は言う。「なぜなら、その場合、我々の行政官は全く罰せられずに、自らの強欲を満たすだけの略奪はしないだろう。ところが現在、彼らは裁判官、そして彼らが保護を必要としているローマのあらゆる有力者たちの強欲も満たさなければならないのだ。」ウェルレスの残虐行為と圧制について、恐怖と驚きを禁じ得ない者がいるだろうか。キケロがその奔放な犯罪者に対し、持てる雄弁の限りを尽くし、法の及ぶ限りの罪を着せたにもかかわらず、この残虐な僭主が裕福で安楽な老後を過ごし、30年後、その莫大な富を理由にマルクス・アントニウスによって追放され、キケロ自身やローマの最も高潔な人々と共に滅ぼされたことを聞けば、憤慨しない者はいるだろうか。タキトゥスが記しているように、共和国の解体後、ローマの軛は属州への負担が軽減された。そして、ドミティアヌス帝をはじめとする最悪の皇帝の多くが、属州へのあらゆる圧制を徹底的に阻止したことは注目に値する。ティベリウスの時代には、ガリアはイタリア本土よりも裕福であるとみなされていた。ローマ帝国の時代を通して、その勇敢さと軍事的規律は常に衰退していたにもかかわらず、帝国の属州において富や人口が減少したという記録は見当たりません。カルタゴ人によるアフリカの従属国に対する抑圧と暴政は、ポリュビオスの記述からわかるように、{p235} 彼らは土地の全生産物の半分を徴収しましたが、それ自体が非常に高い地代であったため、さらに他の多くの税金も課しました。古代から現代に目を向けると、常に当てはまる観察結果が見つかります。絶対君主制の州は常に自由州の州よりも優遇されます。フランスのパイス・コンキとアイルランドを比較すれば、この真実を確信できるでしょう。ただし、後者の王国は相当数の住民がイングランドから移住してきたため、当然のことながら、征服された州よりも良い待遇を求めるに足るほどの多くの権利と特権を有しています。コルシカ島もまた、同じ目的の明白な例です。

アレクサンドロス大王の征服に関して、マキャベリは次のような見解を述べています。これは、いかなる時も偶然にも変わることのない、永遠の政治的真理の一つと言えるでしょう。この政治家は、アレクサンドロス大王のような突発的な征服が後継者たちによってこれほど平和裡に解決されたこと、そしてペルシャ人がギリシャの混乱と内戦のさなか、かつての独立した政府を取り戻そうと微塵も努力しなかったことは、奇妙に思えるかもしれないと述べています。この驚くべき出来事の原因を納得させるために、君主が臣民を統治する方法を二つ考えてみましょう。一つは、東方の諸侯の格言に従い、権力を掌握し、臣民の間に階級の区別を一切残さず、自らから直接生じるものだけを残す方法です。つまり、生まれによる利益、世襲による名誉や財産、そして一言で言えば、自らの任務のみによるもの以外には、民衆からの信用を一切与えない方法です。あるいは、君主は、ヨーロッパの君主たちのように、より穏健なやり方で権力を行使し、微笑みや好意に加えて、生まれ、称号、財産、勇敢さ、誠実さ、知識、あるいは偉大で幸運な功績といった名誉の源泉を残すこともある。前者の統治形態では、征服後、その軛を振り払うことは決して不可能である。なぜなら、民衆の中にそのような事業を始めるほどの個人的な信用と権威を持つ者はいないからである。一方、後者の統治形態では、勝利者のわずかな不幸や不和も、{p236} 敗者たちに武器を取るよう奨励するだろう。彼らにはあらゆる事業において彼らを促し、指揮する指導者がいるのだ。[114]{p237}

これがマキャベリの推論であり、私には非常に堅固で決定的なものに思える。しかし、東方政策に従って統治される君主制は、一度征服すれば維持は容易だが、敵の計画を助長するような不満や党派を持つ強力な臣民を封じ込めることができないため、征服するのは最も困難である、と彼が主張する際に、真実と虚偽を混同していなければよかったと思う。なぜなら、そのような専制的な政府は人々の勇気を萎縮させ、君主の運命に無関心にさせるからである。さらに、将軍や政務官の一時的かつ委任された権威でさえ、そのような政府においては、その範囲内では常に君主自身の権威と同じくらい絶対的であるため、盲目的な服従に慣れた蛮族にとっては、最も危険で致命的な革命を引き起こす可能性があることを、経験から知っているからである。したがって、あらゆる点で、穏健な政府は望ましく、君主と臣民の両方にとって最大の安全をもたらすのである。

したがって、立法者は国家の将来の統治を完全に偶然に委ねるべきではなく、公共行政を規制する法体系を、後世にまで引き継ぐために提供すべきである。結果は常に原因に対応し、いかなる国家においても賢明な規制は、後世に残せる最も貴重な遺産である。最小の裁判所や官庁においてさえ、業務を遂行するための定められた形式と方法は、人類の生来の堕落を著しく抑制するものである。公共行政においても同様であるべきではないだろうか。ヴェネツィア政府が長年にわたり安定と賢明さを保ってきたのは、統治形態以外の何かによるものだろうか。そして、アテネとローマの混乱した政府を生み出し、最終的にこれら二つの有名な共和国の崩壊に至った、当初の憲法の欠陥を指摘するのは容易ではないのだろうか。そして、この問題は特定の人々の気質や教育にほとんど依存しないので、同じ共和国のある部分は、同じ人々によって、単に{p238} これらの地域を規制する形態と制度の違い。歴史家によれば、ジェノヴァはまさにその例であった。というのも、国家が常に反乱、騒乱、無秩序に満ちていた一方で、民衆の大きな一部となっていた聖ジョージ銀行は、数世代にわたって極めて誠実かつ賢明に運営されていたからである。

公共精神が最も高かった時代が、必ずしも私的な美徳が最も顕著だった時代とは限らない。良き法律は、風俗習慣が人々の心に人道性や正義をほとんど植え付けていない統治において、秩序と節度を生み出すことがある。ローマ史において、政治的観点から最も輝かしい時代は、第一次ポエニ戦争の勃発から最後のポエニ戦争の終結までの間である。貴族と民衆の間の適切な均衡は、護民官たちの争いによって確立されており、征服の拡大によってまだ失われていなかった。しかし、まさにこの時代には、毒殺という恐ろしい習慣があまりにも蔓延しており、ある法務官は、ある時期、イタリアのある地域でこの罪で3000人以上の人々に死刑を宣告したが、彼自身に関する同様の告発が依然として増え続けていることを発見した。国家成立初期の時代にも、同様の、あるいはむしろそれよりもひどい例がある。私たちがその歴史においてこれほど称賛する人々は、私生活において非常に堕落していたのである。彼らが共通の国を粉々に引き裂き、単に暴君を選ぶためだけに地球上に虐殺と荒廃を広げていた二度の三頭政治の時代の方が、実際にはより高潔であったと私は疑わない。

ここに、あらゆる自由国家において、自由が保障され、公共の利益が考慮され、特定の人々の貪欲や野心が抑制され処罰されるような形態と制度を、最大限の熱意をもって維持する十分な動機がある。人間性がこれほど高貴な情熱に傾倒していることほど、人間性に敬意を表するものはない。同様に、人間がこれほど高貴な情熱を欠いているのを見ることほど、人間の心の卑しさを示すものはない。友情や功績を顧みず、自分だけを愛する人間は、忌まわしい存在である。{p239} 友情にだけ敏感で、公共心や社会に対する配慮がない人は、美徳の最も重要な部分が欠けている。

しかし、これは現時点ではこれ以上主張する必要がない問題です。両陣営には、支持者の情熱を煽り立て、公共の利益を装って自らの派閥の利益と目的を追求する熱狂者が数多く存在します。私自身は、熱意よりも穏健さを常に推進することを好みますが、あらゆる政党に穏健さをもたらす最も確実な方法は、公共への熱意を高めることかもしれません。したがって、可能であれば、上記の教義から、現在我が国が分裂している政党に関して、穏健さの教訓を引き出そうと努めましょう。同時に、この穏健さによって、すべての個人が自国の利益を追求するために持つ勤勉さと情熱が弱まることがないようにしなければなりません。

我が国のように最大限の自由が認められている政府において、大臣を攻撃したり擁護したりする者は、常に事態を極端に捉え、国民に対する功績や過失を誇張する。彼の敵は、内政・外交両面において、必ずと言っていいほど彼を極悪非道の罪で告発するだろう。彼らの言うところの、彼が犯さない卑劣な行為や犯罪は一つもない。不必要な戦争、不名誉な条約、公金の浪費、過酷な税金、あらゆる種類の失政が彼のせいにされる。さらに非難を重くするのは、彼の悪行が、世界で最も優れた憲法を揺るがし、何世紀にもわたって祖先が幸福に統治されてきた賢明な法、制度、慣習の体系を混乱させることで、その有害な影響を後世にまで及ぼすだろうという点である。彼は自ら悪徳な大臣であるだけでなく、将来の悪徳な大臣に対するあらゆる保障を奪ってしまったのである。

一方、大臣の支持者たちは、彼に対する非難と同じくらい彼の賛辞を大々的に展開し、彼の行政のあらゆる側面における賢明で、堅実で、穏健な行動を称賛する。{p240} 国外では国家が支えられ、国内では公の信用が維持され、迫害は抑制され、党派争いは鎮圧された。これらすべての恩恵の功績は、ひとえに牧師に帰せられる。同時に、牧師は他のすべての功績を、世界で最も優れた憲法への宗教的配慮によってさらに高めている。牧師は憲法を隅々まで守り、後世の幸福と安全のためにそれを完全に伝えてきたのである。

この非難と賛辞が各党の支持者に受け止められれば、両陣営に異常な動揺を引き起こし、国中を激しい敵意で満たすのも無理はない。しかし、私はこれらの熱狂的な党員たちに、この非難と賛辞には明らかな矛盾があり、この矛盾がなければどちらの党もこれほどまでに高位に就くことは不可能だったと説得したい。もし我が国の憲法が本当に、幾世紀にもわたる労苦によって築かれ、幾百万もの犠牲を払って修復され、幾多の流血によって固められた、英国の誇りであり、隣国が羨むような崇高な建造物であるならば――もし我が国の憲法が少しでもこうした賛辞に値するならば――議会において、そして国民への度重なる訴えにおいて、言葉と筆の最大限の自由を行使した国の偉大な天才たちの反対にもかかわらず、邪悪で無力な大臣が20年間も勝ち誇って統治することを決して許さなかったであろう。しかし、もし大臣がこれほどまでに強く主張されるほど邪悪で無力であるならば、憲法は本来の原則に欠陥があるに違いなく、世界最高の憲法を弱体化させたとして、大臣を一貫して非難することはできない。憲法が良いと言えるのは、悪政に対する救済策を提供するからである。そして、英国憲法が最も強力だった時代、そして革命と即位という二つの注目すべき出来事によって修復され、その過程で古代の王族が憲法のために犠牲になったとしても、もし憲法がこれほど大きな利点を持ちながら、実際にはそのような救済策を提供しないのであれば、憲法を弱体化させ、より良い憲法を制定する機会を与えてくれる大臣に、我々はむしろ恩義を感じることになる。

私は同じ話題を利用して熱意を和らげるだろう{p241} 大臣を擁護する人々のことです。我々の憲法はそれほど優れたものでしょうか。そうであれば、内閣の交代はそれほど恐ろしい出来事ではないはずです。なぜなら、そのような憲法は、どの内閣においても、違反から自らを守るとともに、行政におけるあらゆる悪事を防止するために不可欠だからです。我々の憲法は非常に悪いものでしょうか。そうであれば、変化に対する異常な嫉妬や不安は的外れであり、スチュー出身の妻と結婚した夫が彼女の不貞を防ぐために用心する必要がないのと同様に、男性はこの点について心配する必要はありません。そのような憲法の下では、どのような手で運営されても、公務は必然的に混乱に陥ります。そして、愛国者の熱意は、哲学者の忍耐と服従ほど必要ではありません。カトーとブルートゥスの美徳と善意は大いに称賛に値しますが、彼らの熱意は何の役に立ったのでしょうか。ローマ政府の致命的な時代を早め、その激動と死の苦しみをより激しく、苦痛なものにするためだけである。

公共の問題に全く配慮や注意を払う必要がないと言っているのではない。人々が穏健かつ一貫性を保つならば、彼らの主張は認められるかもしれない――少なくとも検討されるかもしれない。地方党は、我が国の憲法は優れているとはいえ、ある程度の悪政は許容されるものであり、したがって、大臣が悪人であれば、相応の熱意をもって反対するのが適切だと主張するかもしれない。一方、宮廷党は、大臣が善人であるという前提のもと、その行政を擁護し、それもある程度の熱意をもって擁護することが許されるかもしれない。私が言いたいのは、あたかも「pro aris et focis(問題と焦点)」を争うかのように争い、派閥間の暴力によって良い憲法を悪い憲法に変えてしまうようなことはしないよう、人々に強く勧めたいだけである。[115]{p242}

私はここで、今回の論争における個人的な問題については何も考慮していません。最良の民事憲法では、{p243} すべての人が最も厳格な法律によって束縛されている場所では、大臣の善意か悪意かを見抜くこと、そしてその人格が愛に値するか憎まれるかを判断することは容易である。しかし、こうした問題は公衆にとってはほとんど重要ではなく、筆を執る者たちは悪意か追従のどちらかを当然疑​​われる。

ノート: 政治を科学に還元する。
113

「政府の形態については愚か者たちが争うべきだ。
最もよく管理されたものが最良である。」
人間についてのエッセイ、第 3 巻。
114 私はマキャベリの仮説に倣い、古代ペルシア人に貴族はいなかったものとしてきたが、この点についてはギリシア人作家よりもローマに通じていたと思われるフィレンツェの秘書官が間違っていたのではないかと疑う理由もある。クセノポンがその習俗を描写しているさらに古代のペルシア人は自由な民族であり、貴族であった。彼らの ὁμοτιμοι は征服地の拡大とそれに伴う政権交代後も維持された。アリアノスはダレイオスの時代に彼らについて言及している(『アレクサンドリアの征服』第2巻)。歴史家はまた、指揮官を家柄の良い人物と称することも多い。クセルクセスの下でメディア軍の将軍を務めたティグラネスはアクメネスの一族であった(『ヘロデ王伝』第7巻第62章)。アトス山周辺の運河開削を指揮したアルタカアースも同族であった(同書、第117章)。メガビゾスは、マギ(東方三博士)に対して陰謀を企てた7人の著名なペルシア人のうちの一人であった。彼の息子ゾピュロスはダレイオスの下で最高司令官を務め、バビロンを彼に引き渡した。彼の孫メガビゾスはマラトンで敗れた軍を指揮した。彼の曾孫ゾピュロスもまた著名な人物であったが、ペルシアから追放された(ヘロデ王伝、第3巻、トゥクトゥス伝、第1巻)。アルタクセルクセスの下でエジプトで軍を指揮したロサケスも、7人の陰謀家のうちの一人の子孫であった(ディオドス伝、第16巻)。アゲシラオス (クセノポン著『ギリシア史』第 4 巻) は、同盟者であるコテュス王と、彼に寝返った高貴なペルシア人スピトリダテスの娘との結婚を望んでおり、まずコテュスに、スピトリダテスはどのような身分なのかを尋ねている。コテュスによれば、スピトリダテスはペルシアで最も高貴な者の 1 人である。アリアイオスはクレアルコスと 1 万人のギリシア人から統治権を提示されたとき、身分が低すぎるとしてこれを断り、これほど多くの高貴なペルシア人が彼の統治に耐えられるはずがないと述べた (同上、『論述』 第 2 巻)。前述の 7 人のペルシア人の子孫である一族の一部は、アレクサンドロスの継承者たちの時代にも存続した。そして、アンティオコスの時代のミトリダテスは、ポリュビオスによって、そのうちの 1 人の子孫であるとされている (第 5 巻、第 43 章)。アルタバゾスは、アッリアノスが述べているように、「εν τοις πρωτοις Περσων」(同書3)と高く評価されていた。そしてアレクサンドロスが一日で部下の80人の隊長をペルシャ人女性と結婚させたのは、明らかにマケドニア人をペルシャの最も著名な一族と同盟させようとしたからである(同書3)。、lib. 7)。シケリアのディオドロスは、彼らはペルシアで最も高貴な生まれであったと述べている(lib. 17)。ペルシアの統治は専制的で、多くの点で東方流に倣っていたが、すべての貴族階級を根絶し、すべての身分や階級を混乱させるほどには至らなかった。依然として高貴な人物は、自らとその家族によって、職務や権限から独立して生き残った。マケドニア人が彼らを容易に支配できた理由は、歴史家の記述の中に容易に見出される他の原因によるものであったが、マキャベリの推論は、今回のケースへの適用が疑わしいとはいえ、それ自体は正当であったことは認めざるを得ない。

115 ここで指摘した有名な牧師に対する著者の意見は、以前の版に「サー・ロバート・ウォルポールの人物像」という題名で掲載されたエッセイから知ることができます。それは次のようでした。「現大臣ほど、その行動と人格が真摯かつ公然と論じられた人物はかつてありません。彼は、これほど長きにわたり、これほどの強大な反対の中で、学識豊かで自由な国家を統治してきたため、賛否両論の膨大な書庫が築かれ、この20年間に国内で報道された新聞の半分以上で取り上げられています。私は、我が国の名誉のために、彼の人格の一つでも、後世に名を残し、少なくとも一度は我々の自由が善い目的のために用いられたことを示すような、判断力と公平さをもって描かれていたらと願っています。私が恐れているのは、かつてのような判断力の欠如だけです。しかし、もしそうなったとしても、同じ主題について10万ページもの記述が失われ、役に立たなくなった後に、さらに1ページが無駄になるだけです。その間、私は、将来の歴史家たちが次の人物を取り上げてくれることを、楽しい想像で夢想したいと思います。

イギリス首相、ロバート・ウォルポール卿は、天才ではなく有能な人物である。温厚だが高潔ではない。堅実だが寛大ではない。中庸だが公平ではない。[116] 彼の美徳は、場合によっては、そのような美徳に通常伴う悪徳とは無縁である。彼は寛大な友人ではあるが、激しい敵ではない。彼の悪徳は、他の場合には、それらとほぼ同列の美徳によって補われていない。彼の進取の気性の欠如は倹約を伴わない。彼の私生活は公衆よりも優れ、彼の美徳は悪徳よりも優れ、彼の財産は名声よりも大きい。彼は多くの優れた資質によって国民の憎悪を招き、優れた能力によって嘲笑を免れなかった。もし彼がその高い地位に就いていなければ、もっと相応しいと評価されていたであろう。そして、いかなる政府においても第一の地位よりも第二の地位の方が適任である。彼の内政は彼の家族にとってより有利であった。公衆よりも現世のため、後世のためよりも現世のため、そして真の不満よりも悪しき前例によってより有害である。彼の在任中、貿易は繁栄し、自由は衰退し、学問は衰退した。私は人間として彼を愛し、学者として彼を憎み、英国人として静かに彼の失脚を願う。もし私がどちらかの院の議員であったなら、セント・ジェームズ教会から彼を解任することに賛成票を投じるだろうが、ホートン・ホールに引退し、安楽に余生を送る姿を見るのは喜ばしいことだろう。

敵意が払われ、中傷が収まった後、国民全体がこの偉大な人物に対する感情をほぼ以前と同じ穏健なものに戻したことを、筆者は嬉しく思う。極端な感情から別の極端な感情へと、ごく自然な移行によって、むしろ好意的な感情に変わったのかもしれない。筆者は死者に対するこうした人道的な感情に反対するものではないが、この人物が示唆するように、公債の返済を怠ったことは、あの長い政権における大きな、そして唯一の大きな誤りであったと言わざるを得ない。

116 権力の行使においては節度を保つが、権力の掌握においては公平ではない。

統治の第一原則について。
哲学的な視点で人間社会を考察する者にとって、少数の者がいかに容易に多数を支配しているか、そして人々が自らの感情や情熱を支配者のそれに暗黙の服従で委ねているかを観察することほど驚くべきことはない。この驚異がどのようにしてもたらされるのかを探れば、権力は常に被支配者の側にあり、支配者を支えるものは意見以外に何もないことがわかる。したがって、政府は意見のみに基づいて成り立つのであり、この格言は最も自由で民衆の支配する政府だけでなく、最も専制的で軍事的な政府にも当てはまる。エジプトのソルダンやローマ皇帝は、無害な臣民を彼らの感情や性向に反して野獣のように駆り立てたかもしれないが、少なくとも、ママルークや近衛兵部隊を人間のように彼らの意見によって導いたに違いない。

意見には二種類ある。すなわち、利益に基づく意見と権利に基づく意見である。利益に基づく意見とは、私が主に理解しているのは、政府から得られる公共の利益という感覚と、樹立された特定の政府が、容易に樹立できる他のいかなる政府とも同等に有益であるという確信である。この意見が国家の一般大衆に広まっている場合、{p244} あるいは権力を握っている人々の間では、それはどんな政府にも大きな安全をもたらします。

権利には二種類ある――権力への権利と財産への権利である。前者の意見が人類にどれほど浸透しているかは、あらゆる国家が自らの古来の政府、さらには古代から認められた名称にさえ執着していることを観察すれば容易に理解できる。古代は常に正義の意見を生み出し、人類に対してどのような不利な感情を抱いていようとも、彼らは公の正義の維持において常に血と財産を浪費していることがわかる。この情熱を熱狂と呼ぼうが、あるいは好きなように呼ぼうが、それが人類の営みに及ぼす影響を無視する政治家は、自身の理解力が極めて限られていることを示しているに過ぎない。実際、一見したところ、現代社会ほど人間の精神構造に大きな矛盾が見られるようなものは他にはない。人々は党派で行動するとき、党派に奉仕するために、恥も後悔もなく、名誉と道徳のあらゆる絆を無視しがちである。しかし、正義や原則をめぐって派閥が形成されるとき、人々がこれほどまでに頑固で、正義と公平に対する確固たる感覚を見出す機会は他にない。人類の同じ社会性こそが、この矛盾した二つの現象の原因なのである。

財産権に関する見解が、あらゆる統治問題において最も重要な要素であることは、十分に理解されている。ある著名な著述家は、財産権をあらゆる統治の基盤としており、我が国の政治評論家の多くはこの点において彼に従う傾向があるようだ。これは議論を行き過ぎているかもしれないが、それでもなお、財産権に関する見解がこの問題に大きな影響を与えていることは認めざるを得ない。

したがって、公共の利益、権力の権利、財産の権利というこの3つの意見の上に、すべての政府、そして少数が多数を支配するすべての権威が築かれている。実際、これらに力を与え、その運用を決定、制限、あるいは変更する他の原則も存在する。例えば、{p245} 利己心、恐怖、そして愛情。しかし、これらの他の原則は単独では影響力を持たないと断言できる。ただし、前述の意見が先行して影響を与えていたと仮定しなければならない。したがって、これらは統治の本来の原則ではなく、二次的な原則とみなされるべきである。

まず、私利私欲についてですが、私利私欲とは、政府から受ける一般的な保護とは異なる、特定の見返りへの期待を意味します。この期待を生み出すためには、行政官の権威が事前に確立されているか、少なくとも期待されている必要があることは明らかです。見返りの期待は、特定の人物に対しては権威を高めるかもしれませんが、一般大衆に対して権威を生み出すことは決してありません。人は当然、友人や知人から最大の恩恵を求めるものであり、したがって、もしこれらの人々が行政官職に就く資格を持たず、人類の意見に独自の影響力を持たないならば、国家の相当数の人々の期待が特定の集団に集中することは決してないでしょう。同じ観察は、他の二つの原理、すなわち恐怖と愛情にも当てはまります。もし暴君が恐怖以外の何者に対しても権威を持たないならば、誰も暴君の怒りを恐れる理由はありません。なぜなら、一人の人間としての彼の肉体的な力は限られた範囲にしか及ばず、彼が持つそれ以上の力はすべて、我々の意見、あるいは他人の推定に基づくものでなければならないからです。君主の知恵と徳への愛情は非常に広範囲に及び、大きな影響力を持ちますが、彼は事前に公的な性格を帯びていると想定されていなければなりません。そうでなければ、公的な評価は彼に何の役にも立ちませんし、彼の徳も狭い範囲を超えて影響を及ぼすことはないでしょう。

権力と財産のバランスが一致しないにもかかわらず、政府は数世代にわたって存続することがあります。これは主に、国家の何らかの階級や組織が財産の大部分を獲得しているにもかかわらず、政府の本来の憲法では権力の分配を受けていない場合に起こります。そのような組織に属する個人が、どのような口実で公務の権限を握ることができるでしょうか?人々は一般的に古来の政府に強い愛着を持っているため、{p246} 民衆がそのような簒奪を支持するとは到底考えられない。しかし、原憲法において、たとえわずかであっても、財産の大部分を所有する一団に権力の分配が認められている場合、彼らは権力を徐々に拡大し、権力のバランスを財産のバランスと一致させることが容易である。これは、イングランド下院の事例である。

英国政府について論じたほとんどの著述家は、下院がグレートブリテンの庶民全体を代表するため、その秤における重みは、代表するすべての人々の財産と権力に比例すると考えている。しかし、この原則を絶対的に正しいと受け止めてはならない。なぜなら、人民は憲法上の他のどの構成員よりも下院に愛着を抱きがちであるからだ。下院は人民の代表であり、人民の自由を守る公的な守護者として人民によって選出されている。しかし、下院が国王に反対している場合でも、人民が従わなかった例もある。これは、ウィリアム1世の治世におけるトーリー党の下院に特に顕著である。もし下院議員がオランダの議員のように、選挙区民からの指示を受けなければならないとしたら、状況は全く異なるだろう。そして、もし英国下院全体が持つような莫大な権力と富が秤にかけられたとしたら、国王が大衆に影響を与えたり、その財産の不均衡に耐えたりできるとは考えにくい。確かに、国王は議員選挙においてブリテンの集団に対して大きな影響力を持っている。しかし、現在7年に一度しか行使されないこの影響力を、国民をあらゆる投票に動員するために用いるとすれば、その影響力はすぐに無駄になり、いかなる技術、人気、収入をもってしてもそれを支えることはできないだろう。したがって、この点における変更は、我が国の政府に根本的な変化をもたらし、まもなく純粋な共和国へと、そしておそらくは不都合のない形態の共和国へと堕落させるだろうと私は考えざるを得ない。なぜなら、ローマの部族のように集まった国民は、統治に全く不向きではあるが、{p247} 小さな集団に分散していれば、理性と秩序の両方が働きやすくなる。民衆の潮流や流行の力は大きく弱まり、公共の利益は何らかの方法と堅実さで追求されるかもしれない。しかし、英国では決して実現しそうになく、我々のどの党派も目指していないと思われる統治形態について、これ以上論じる必要はない。このような危険な新奇なものへの情熱を煽ることなく、古来の統治形態を可能な限り大切にし、改善していこう。

政治社会の。
もしすべての人が、正義と公平の遵守に自らを縛り付ける強い利害を常に認識できるだけの聡明さと、目先の快楽や利益の誘惑に抗い、普遍的かつ遠大な利益を揺るぎなく守り通すだけの精神力を持っていたならば――もしそうであったなら、政府や政治社会など存在せず、各人は生来の自由に従い、他のすべての人々と完全に平和で調和のとれた生活を送っていたであろう。生来の正義がそれ自体で十分な抑制力となるところに、なぜ実定法が必要なのだろうか?無秩序や不正が一切生じないところに、なぜ政務官を創設する必要があるのだろうか?あらゆる場合において、生来の自由を最大限に行使することが無害かつ有益であると認められているのに、なぜ生来の自由を制限するのだろうか?もし政府が全く役に立たないのであれば、政府は存在し得ないことは明らかであり、忠誠義務の唯一の基盤は、人類の平和と秩序を維持することによって社会にもたらされる利益である。

複数の政治団体が設立され、互いに活発な交流を維持すると、その特定の社会において役立つ新たな規則がすぐに発見される。{p248} 状況に応じて「国際法」という名称で行われる。大使の身の神聖さ、毒武器の使用を控えること、戦争における宿営、その他そのようなものも、明らかに国家や王国同士の交流の利益のために計算されている。

個人間に適用されるような正義のルールは、政治社会においては完全に無視されるわけではない。すべての君主は他者の権利を尊重しているふりをする。そして、中には偽善を伴わない君主もいるだろう。独立国家間では同盟や条約が日々結ばれているが、経験上、何らかの影響力と権威を持つことが認められなければ、それは単なる羊皮紙の無駄遣いに過ぎないだろう。しかし、ここに王国と個人の違いがある。人間の本性は、個人の繋がりなしには決して存続できない。そして、公平と正義の法則が尊重されなければ、繋がりは決して存在し得ない。無秩序、混沌、万人の万人に対する戦争は、このような放縦な行為の必然的な帰結である。しかし、国家は交流なしに存続できる。ある程度は、全面戦争下でも存続できるかもしれない。正義の遵守は、国家間では有用ではあるが、個人間ほど強い必要性によって守られているわけではない。そして、道徳的義務は有用性に比例する。すべての政治家、そしてほとんどの哲学者は、特に緊急事態においては、国家の都合により正義のルールが無視され、厳格な遵守が締約国のいずれかに相当程度の不利益をもたらすような条約や同盟が無効とされる可能性があることを認めるだろう。しかし、極度の必要性に迫られた場合を除いて、個人による約束違反や他人の財産への侵害は正当化されないことは周知の事実である。

古代のアカイア共和国や現代のスイスの州や州連合のような連合国家においては、同盟が特別な効用を持つため、連合の条件は特別な神聖性と権威を持ち、それに違反することは私的な傷害や不正と同等か、あるいはそれ以上に犯罪となる。{p249}

人間の長く無力な幼少期は、子の生存のために両親の結びつきを必要とし、その結びつきは貞操、すなわち夫婦の寝床への忠誠という美徳を必要とする。このような有用性がなければ、このような美徳は決して考えられなかったであろうことは容易に認められるだろう。

この種の不貞は、男性よりも女性にとってはるかに有害であり、そのため貞操の法は男性に対しては他の性に対してよりもずっと厳格である。

これらの規則はすべて世代に関係するものですが、出産を終えた女性も、若さと美しさの絶頂期にある女性と同様に、これらの規則から免除されるべきではありません。一般的な規則は、しばしばそれが最初に生じた原理を超えて拡張され、これはあらゆる趣味や感情の問題に当てはまります。ミシシッピ川が激流に見舞われたパリで、せむしの男が毎日カンサンポワ通りに通い、そこで仲買人たちが大勢集まり、自分のせむしを机として使わせて契約書に署名させ、高額の報酬を得ていたという俗説があります。彼がこの発明で築いた財産は、彼をハンサムな男にするでしょうか。しかし、個人の美は実用性という観念から大きく生まれることは認めざるを得ません。想像力は観念の連想によって左右されます。連想は、最初は判断力から生じるとはいえ、私たちに起こるあらゆる特別な例外によって容易に変わるものではありません。これに、現在の貞操のケースでは、老人の例は若者にとって有害で​​あり、女性は、ある時期が来れば放縦の自由が得られると常に考え、自然にその時期を早め、社会にとって不可欠なこの義務全体をより軽く考えるだろうということを付け加えることができるだろう。

同じ家族の中で暮らす人々は、こうした放縦の機会を頻繁に持つため、たとえ近親者間の結婚が認められたとしても、あるいは近親者間の愛情表現が法律や慣習によって承認されたとしても、いかなるものも礼儀作法の清廉さを保つことはできない。したがって、近親相姦は極めて有害であると同時に、それに伴う極めて不道徳で道徳的な欠陥も伴う。{p250}

アテネの法律では、父親の異母姉妹とは結婚できても、母親の異母姉妹とは結婚できないのはなぜでしょうか。その理由は明白です。アテネ人の作法は非常に控えめで、たとえ同居人であっても、実母を訪ねる場合を除き、男性は女性の部屋に近づくことを決して許されませんでした。継母とその子供たちは、他の家族の女性たちと同様に、男性から隔離されており、彼女たちの間に犯罪的なやり取りが生じる危険性はほとんどありませんでした。同様の理由で、叔父と姪はアテネでは結婚できましたが、ローマでは男女間の交流がよりオープンであったため、これらの結婚も異母兄弟姉妹もそのような結婚はできませんでした。こうした違いはすべて公共の利益によるものです。

個人的な会話で聞き逃したことを他人に不利益となるように繰り返したり、あるいは私信をそのように利用したりすることは、厳しく非難されるべきである。このような忠誠のルールが確立されていない場所では、自由で社交的な精神の交流は極めて制限される。

たとえ、悪い結果がもたらされるとは考えられないような繰り返しの物語であっても、作者にその情報を与えることは、不道徳とまではいかなくとも、軽率な行為とみなされる。こうした物語は、人から人へと伝わり、ありきたりのあらゆる変化を経るうちに、関係者の間で頻繁に起こり、たとえごく無邪気で無害な意図を持った人々の間でも、敵意や争いを引き起こす。

秘密を詮索したり、他人の手紙を開けたり読んだり、他人の言葉や表情や行動をスパイのように観察したりすること。社会において、これ以上に不都合な習慣があるだろうか。そして、それよりも非難されるべき習慣があるだろうか。

この原則は、ほとんどのマナーの規範の根底にもなっており、社交や会話を円滑に進めるための、いわば低級な道徳観です。儀式は多すぎても少なすぎても非難されますが、下品な馴れ馴れしさを伴わずに気楽さを促進するものはすべて有益であり、称賛に値します。

友情、愛着、親密さにおける恒常性は{p251} 一般的に非常に賞賛に値するものであり、社会における信頼と良好なコミュニケーションを支えるために不可欠です。しかし、健康と快楽の追求が人々を乱交的に結びつける、一般的ではあっても気軽な会合の場では、公共の便宜のためにこの格言は不要となり、礼儀やマナーを破ることなく、その後で無関心な知人とも気軽に立ち去ることができるという特権を享受することで、当面は遠慮のない会話が促進されます。

社会全体にとって最も不道徳で、最も破壊的な原則に基づいて築かれた社会でさえ、ある種の偽りの名誉と私利私欲によって構成員が遵守しなければならない規則が存在する。強盗や海賊は、自らの間に新たな分配の正義を確立し、他の人類に対して犯してきた公平の法則を思い起こさなければ、その有害な同盟関係を維持できなかっただろうと、しばしば指摘されてきた。

「決して忘れない飲み仲間は大嫌いだ」とギリシャの諺にもある。前回の放蕩の愚行は永遠の忘却の中に埋もれるべきで、そうすることで次の愚行に十分な余地が与えられるのだ。

不道徳な恋心が、たとえ薄い神秘のベールに覆われていようとも、慣習によってある程度容認されている国々では、その愛着を都合よく解釈した一連の規則がすぐに生まれます。かつてプロヴァンスの有名な愛の法廷、あるいは議会は、この種の難題をすべて裁定していました。

遊びの社会においては、ゲームの運営に必要な法則があり、これらの法則はゲームごとに異なる。私は、そのような社会の基盤は軽薄であり、法則は、全くではないにせよ、大部分は気まぐれで恣意的であると認める。それらの法則と、正義、忠誠、忠誠の規則との間に実質的な違いはない。一般的な人間社会は、人類の生存に絶対的に不可欠であり、道徳を規定する公共の便宜は、人間の性質と、人間が生きる世界において不可侵に確立されている。{p252} したがって、これらの点における比較は非常に不完全である。そこから私たちが学べるのは、人々が互いに交流するあらゆる場所で規則が必要であるということだけだ。

ルールがなければ、道路ですれ違うことさえできない。荷馬車夫、御者、馬車夫には道を譲る際の原則があり、それは主に互いの利便性と気楽さに基づいている。時には、弁護士の多くの推論のように、少なくともある種の気まぐれな類推に依存し、恣意的に決められることもある。[117]

さらに議論を進めると、法令や格言、そして正義と名誉の理念がなければ、人間が互いに殺し合うことさえ不可能であるということが分かる。戦争にも平和と同様に法があり、レスラー、ボクサー、棍棒使い、剣闘士の間で繰り広げられる遊びのような戦争でさえ、確固たる原則によって規制されている。共通の利益と有用性は、関係者の間に必ず善悪の基準を生み出す。

政治社会に関する注記。
117 軽い機械は重い機械に、そして同じ種類の機械では、空の機械は荷を積んだ機械に譲る――この規則は利便性に基づいています。首都へ向かう者が首都から帰る者と交代する――これは、大都市の威厳と、過去よりも未来を優先するという考えに基づいているようです。同様の理由から、徒歩で移動する者にとって、右側通行は壁への権利を与え、押し合いを防いでいます。平和的な人々は、押し合いを非常に不快で不便に感じます。

ヒュームが引用した文献のアルファベット順配列。
エ・ミリウス P・アウルス、紀元前230年~紀元前157年、ローマの将軍。マケドニアのペルセウスを破った。

ガソクレス、​シラクサの僭主。紀元前361年頃に 生まれ、289年に亡くなった。

A LCIBIADES、アテネの将軍、政治家。紀元前450 年に生まれ、紀元前404 年に亡くなった。ソクラテスの弟子であり、放蕩者として知られている。

レクサンダー大王は紀元前356年に生まれ、323年に亡くなりました。

ナハルシス、​紀元前600年のスキタイの哲学者。ソロンに高く評価された。

A NTHONY、 マーク、​紀元前 85 年頃に生まれ、紀元前 30 年に亡くなった三頭政治の皇帝。クレオパトラとの関わりで最もよく知られています。

A NTIGONUS、アレクサンドロス大王の最も偉大な将軍の一人。紀元前301年にイプソスで殺害された。

A NTIPATER、マケドニア王フィリップとアレクサンダー大王の大臣。紀元前319年に死去。

ア・ピアヌス(アッピアノス)はトラヤヌス帝の時代に属し、ギリシャ語でローマの歴史を著した。

A RATUS、アカイア同盟の将軍。紀元前271年に生まれ、213年に亡くなった。

RBUTHNOT 、 ジョン・オーン1675 年に生まれ、1735 年に亡くなった医師。ポープとスウィフトの仲間であり、古代の測定法、重量、貨幣に関する著書を著した。

リストル、​哲学者、スタギリテス人、紀元前384年生まれ、332年没。アレクサンダー大王の家庭教師。

ア・リアヌス、2 世紀にローマに住んでいたギリシャの歴史家。エピクテトスの弟子で、紀元前160 年頃に亡くなった。

テネウス、​3世紀にエジプトで生まれた文法学者。

A TTALUS、ペルガモス王、紀元前197年に死去。

アウグストゥス​​最初のローマ皇帝。紀元前63年に生まれ、ユリウス・カエサルの甥の孫で、紀元前14年に亡くなった。

C・エサル、 C AIUS J・ユリウス、 紀元前100年~紀元前44年、ローマの戦士および行政官。彼の著作『注釈』からすべての生徒が知っている。{p254}

Cアミルス、 Mアーカス F URIUS、紀元前365年に死去。ローマの戦士、6度の軍司令官、5度の独裁官。

Cアラカラ、ゲタの兄弟。紀元前212年にゲタを殺害した。

C ATALINA、 ルシウス​ セルギウス​カティリナは紀元前62年に亡くなり、堕落した習慣と、キケロに有名な演説をさせた陰謀で有名でした。

C ATO、 Mアーカス PORCIUS 、​出生地のウティカにちなんで名付けられたウティケンシスは、紀元前46 年に亡くなりました。

C ATO、父は紀元前234年に生まれ、149年に亡くなり、その勇気と節制で有名です。

C ICERO、 Mアーカス トゥリウス、​紀元前106年に生まれ、43年に亡くなったローマの弁論家。

Cラウディウス、ローマ皇帝、紀元前9年に生まれ、紀元前54年に亡くなりました。紀元前43年にブリテン島を訪問しました。

Cレオメネス、スパルタ王、紀元前220年に死去。

C LODIUS、キケロの敵。紀元前52年に死去。威圧的な剣闘士の一団を率いてローマを巡業していた。

コルメラ、​スペイン出身で、紀元前41年から54年にかけてクラウディウス帝の治世にローマに居住した。

コモドゥス、​ローマ皇帝、マルクス・アウレリウスの息子、 紀元前161年生まれ、192年没。

Cテシフォン。デモステネスは、自らの弁護として紀元前330年に有名な演説「王冠について」を行った。

D・エメトリウス Pハレレウス、紀元前345年に生まれ、 283年頃に亡くなったギリシャの弁論家および政治家 。

Dエモステネス、紀元前385年~322年のギリシャの弁論家。マケドニア王フィリップの侵略に反対した彼の演説から、強力な非難の言葉の総称として「フィリップス」という名前が付けられた。

Dイオン C ASSIUS、 200~250年頃、ギリシャ語でローマの歴史を著した。

D・イオニシウス H・アリカルナセウス、紀元前29年に生まれ、紀元前7年に亡くなったギリシャの修辞学者および歴史家。主著は『ローマ考古学』。

Dイオニシウス、シラクサの僭主、大王(紀元前430年~紀元前367年)。戦士であっただけでなく、文学者や芸術家のパトロンでもあった。「ディオニュシオスの耳」とも呼ばれる有名な牢獄、ラウトゥミエを建設した。

Dイオドロス S ICULUS、紀元前50年頃に 栄えた世界史を著した。

D RUSUS、紀元前38年生まれのローマ執政官。

Eパミノンダス、テーベの政治家および将軍。紀元前362年に死去。

Fロラス、トラヤヌス帝とハドリアヌス帝の治世に生きたローマの歴史家。

フォラール、 ジャン​ C・ハーレス、軍事戦術家。1669 年にアヴィニョンに生まれ、1752 年に死去。 『ポリュビオス』の版を出版 。{p255}

G・アルシラッソ デ・ラ V EGA、ペルー王家の子孫であることからインカと呼ばれた(1530-1620)は、『ペルーの歴史』と『フロリダの歴史』を著した。

G EE、 J・オシュア、18世紀のロンドンの商人であり、 『英国の貿易と航海』(1730年)を著した。

ゲルマニクス、ネロの息子、紀元前19年、34歳で死去。

GETA 、​セウェルス皇帝の次男。紀元前189年に生まれ、212年に亡くなった。

G・ウイッチャルディーニ Fランシスコ、イタリアの歴史家(1482年~1540年)。

H・アニバル、偉大なカルタゴの将軍。紀元前247年に生まれ、紀元後183年に亡くなった。

H・エリオガバルス、ローマ皇帝、紀元前205年頃に生まれ、 222年に亡くなった。

ヘロディアン、​3 世紀に栄えたギリシャ人は、マルクス・アウレリウスの死から 238 年までの時代の歴史をギリシャ語で書き記しました。

H ESIOD、紀元前8世紀に活躍したとされるギリシャ最古の詩人の一人。「仕事と日々」は彼の最も有名な詩である。

H IEROシラクサ王アポロ2世は紀元前215年に92歳で亡くなりました。アルキメデスは彼の治世中に生きていました。

ヒルティウス、​カエサルやキケロと同時代のローマ執政官。カエサルの『注釈』第 8 巻の著者と言われている 。

ハイパーライド、アテネの弁論家。紀元前322年に死去。プラトンの弟子。

ソクラテス、​紀元前436年に生まれ、338年に亡くなったギリシャの弁論家。

ジャスティン、​2世紀か3世紀に生きたラテン人の歴史家で、ガリア出身のトログス・ポンペイウスのヒストリア・フィリピカの典型である。

リヴィウス、 T ITUS(リウィウス)、ローマの歴史家(紀元前59~17年)。彼の著作142冊のうち、現存するのはわずか35冊である。

ロンギヌス、 Dイオニシウス、紀元前273年に亡くなったギリシャの哲学者。彼の豊富な知識から「生きた図書館」という称号を得ました。

ルシアン、​マルクス・アウレリウスの時代に生きたギリシャの作家。

リュクルゴス、​厳しい規則によってスパルタ人を戦士の種族にしたスパルタの立法者は、紀元前9世紀に繁栄したと言われている。

リュシアス、​紀元前458 年に生まれ、373 年に亡くなったギリシャの弁論家。230 の演説を残したが、現存するのは 35 のみ。

M・アキアヴェッリ、フィレンツェの政治家、歴史家。1469 年に生まれ、1527 年に亡くなった。

マイエ、​フランスの作家。1656年に生まれ、1738年に死去。エジプトおよびリヴォルノの領事。

M ARTIAL、紀元前43年生まれのローマの詩人。

M・アシニサ、ヌミディア王、紀元前238年生まれ、紀元後148年没。

M・アザリン ジュールズ、​枢機卿、ルイ14世の第一宰相(1602年 – 1661年)。{p256}

N ABIS、紀元前192年に亡くなったスパルタの暴君。残酷さで有名。

N ERO、ローマ皇帝、紀元前37年に生まれ、67年に亡くなった。

ああ、クタウィウスよ、アウグストゥス皇帝となった。

ああ、ヴィディウス プ・ウブリウス N ASO(オウィディウス)、ローマの詩人、紀元前43 ~紀元前18 年、紀元前8 年に追放されるまでアウグストゥスの後援を受けました。主な作品 -アモーレス、デ アルテ アマンディ、ファスティ。

パテルクル​​ス、紀元前19年頃に 生まれ、紀元前31年に亡くなったローマの歴史家。

P・アウサニアス、紀元前120~140 年頃に活躍したギリシャの作家。

ペルセウス、​またはPERSES 、​マケドニア最後の王。紀元前178年に即位。

ペ・エスケニウス ニジェール、​193年にローマ皇帝となった。

ペトロニウス、​紀元前66年に死去。ローマの作家で、ネロの宮廷に住み、その放縦な行為で名声を得た。

Pヒルプマケドニアの王、382年生まれ、336年に暗殺された。

P LATO、紀元前429年に生まれ、347年に亡くなった。

P LAUTUS、紀元前255年頃に 生まれ、184年に亡くなったローマの喜劇作家。

P LINY。プリニウスは二人おり、一人は紀元前23年生まれ、もう一人はその甥で紀元前62年生まれである。前者は博物学者であり、後者は弁護士で軍人であり、その主な著作はキリスト教徒に関する記述と書簡である。

Pルタルコス、紀元前120 年頃に亡くなった有名な伝記作家。

ポリビウス、​紀元前204年から紀元前122年にかけて活躍したギリシャの歴史家。彼の著作は紀元前220年から紀元前146年までのギリシャとローマの歴史を扱っており、非常に重要な意味を持つ。

P・オンペイ弟は紀元前75年に生まれました。

ロシア、​紀元前190 年頃のビテュニア王。

ピュロス、​紀元前318年~紀元前272年のエピロス王。古代の最も偉大な戦士の一人。

S ALLUSTIUS、 Cリスパス C AIUS、紀元前86年~紀元前35年のローマの歴史家。放蕩のた​​め元老院から除名された。

Sエネカ、 ルシウス​ A NNAEUS、紀元前3年~65年のローマの哲学者。ストア派に属し、聖パウロと親交があったと考えられている。

セルビウス​ トゥリウス、​ローマの第6代国王、エディンバラ王は憲法を改正し、平民が政治権力を握れるようにした。

S EVERUS、ローマ皇帝、紀元前146年生まれ、211年にヨークで死去。自身の治世の歴史を著した。

ソロン、​著名なアテネの立法者。紀元前558 年頃、80歳で死去。国家の栄誉と官職は生まれではなく財産によって授与されるべきだという原則を確立した。

Sトラボ、紀元前50 年頃に 生まれ、紀元前20 年頃に亡くなったギリシャの歴史家および地理学者。17冊からなる彼の主著には、さまざまな国、風俗習慣、その歴史の詳細、著名人に関する記述がある。{p257}

スエトニウス、​紀元前75年頃に生まれ、紀元後160年頃に亡くなったローマ の歴史家。

Tアキトゥス、紀元前 54年頃生まれのローマの歴史家。彼の『年代記』は紀元前14年から68年まで の期間を扱っている。

ヘオクリトス、​紀元前3世紀に生きたギリシャの詩人。田園詩の父と称される。プトレマイオス・ソテルの宮廷を訪れた。

T・フラシブルス、アテネの海軍司令官。紀元前389年に死去。

Tフキュディデス、紀元前471 年に生まれ、紀元後401 年頃に亡くなったギリシャの歴史家。彼の偉大な著作である『ペロポネソス戦争の歴史』は、哲学史の最初の例です。

Tイベリウス、 Cラウディウス N ERO、ローマ皇帝、紀元前42年 -紀元前37年、紀元前14年にアウグストゥスの後継者となった。

Tイモレオン、紀元前400 年頃コリントスに生まれ、337 年に亡くなったギリシャの将軍。シラクサに居住。

T・イサフェルネス、ペルシャの総督。紀元前395年に死去。アルキビアデスの親友。

T RAJANUS、 Mアーカス U LPIUS(トラヤヌス)、ローマ皇帝(紀元前52年~紀元前 117年)。98年に帝位を継承し、元老院から「オプティマス」の称号を与えられた。

V ARRO、紀元前116年に生まれ、28年に亡くなったローマの作家。ローマ人の中で最も学識があると評され、490冊の本を著した。

V・オーバン、 S・エバスチャン ル Pレストレ DE、フランス元帥、偉大な軍事技術者(1633-1707)。包囲戦や国境線などに関する著作を出版し、12冊のフォリオ版写本を残した。彼は当時最も高潔で、質素で、誠実で、謙虚な人物と評された。

Vエスパシアヌス T ITUS Fラビウス、ローマ皇帝、紀元前9年に生まれ、79年に亡くなった。

Vオピスカス、シラクサ人。紀元前 304 年頃に栄えた。 歴史書を著した。

Xエノフォン、紀元前 450年頃に生まれたギリシャの歴史家。ソクラテスの弟子であり友人。

終わり。
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すでに発行されている巻—
1 マロリーの『アーサー王物語と聖杯探求』。アーネスト・リース編。

2 ソローの『ウォールデン』。ウィル・H・ダークスの序文付き。

3 ソローの「週」。ウィル・H・ダークスの序文付き。

ソローのエッセイ4選。ウィル・H・ダークス編、序文付き。

5 イギリスの阿片中毒者の告白など。トーマス・ド・クインシー著。ウィリアム・シャープによる序文付き。

6 ランドーの空想上の会話。ハヴロック・エリスによる序文付き選集。

プルタルコス伝(ラングホーン社)7 BJ・スネル(MA)による序文付き

8 ブラウンの『メディチ家の宗教』など。J. アディントン・シモンズの序文付き。

シェリーのエッセイと手紙9選。アーネスト・リース編、序文付き。

スウィフトの散文作品10選。ウォルター・ルーウィンによる選集と序文付き。

11 私の書斎の窓。ジェームズ・ラッセル・ローウェル著。R・ガーネット法学博士による序文付き。

ローウェルによるイギリス詩人に関する12のエッセイ。ローウェル氏による新たな序文付き。

13 ビッグロウ文書。ジェームズ・ラッセル・ローウェル著。アーネスト・リースによる序文付き。

14人の偉大なイギリスの画家。カニンガムの『画家列伝』より抜粋。ウィリアム・シャープ編。

バイロンの手紙と日記15冊。マチルデ・ブラインドによる選集と序文。

リー・ハントのエッセイ16選。アーサー・シモンズによる序文と注釈付き。

17 ロングフェローの『ハイペリオン』『カヴァナー』『トルーヴェール』。W・タイアバックによる序文付き。

18人の偉大な音楽作曲家。G・F・フェリス著。ウィリアム・シャープ夫人による序文付き編。

19 マルクス・アウレリウスの瞑想録。アリス・ツィンマーン編。

20 エピクテトスの教え。ギリシャ語からの翻訳、序文と注釈付き、TWロールストン著。

セネカの21の選集。ウォルター・クロードによる序文付き。

アメリカの22の見本となる日々。ウォルト・ホイットマン著。著者による改訂版、新たな序文付き。

23 民主主義の展望、およびその他の文書。ウォルト・ホイットマン著。(著者との契約により出版。)

24 ホワイトの『セルボーンの自然史』、リチャード・ジェフリーズの序文付き。

25 デフォーの『キャプテン・シングルトン』。H・ハリデイ・スパーリング編、序文。

マッツィーニのエッセイ26選:文学、政治、宗教。ウィリアム・クラークによる序文付き。

ハイネの散文27編。ハヴロック・エリスによる序文付き。

レイノルズの講演28選。ヘレン・ジマーンの序文付き。

スティールとアディソンの論文29件。ウォルター・ルーウィン編。

バーンズの手紙30通。J・ロジー・ロバートソン(MA)による選集・編纂と序文

31 ヴォルスンガ・サガ。ウィリアム・モリス著。H・H・スパーリングによる序文付き。

32 Sartor Resartus. トーマス・カーライル著. アーネスト・リースによる序文.

パーシヴァル・チャブによる序文付きのエマーソンの著作集 33 選。

34 ハーバート卿の自伝。ウィル・H・ダークス編、序文付き。

35 英語散文集、マンデヴィルからサッカレーまで。アーサー・ゴルトン選集・編。

36 『社会の柱』およびその他の戯曲集。ヘンリック・イプセン著。ハヴロック・エリス編、序文。

アイルランドの妖精と民話37選。WBイェイツ編纂・選集。

ジョンソン博士の 38 のエッセイ、スチュアート J. リードによる伝記的序文と注釈付き。

ウィリアム・ハズリットのエッセイ39選。フランク・カーによる選集、編集、序文と注釈付き。

40 ランドールの『ペンタメロン』とその他の空想上の会話。H・エリス編、序文。

ポオの物語とエッセイ集41選。アーネスト・リース編、序文付き。

42 ウェイクフィールドの牧師。オリバー・ゴールドスミス著。アーネスト・リース編、序文付き。

ウェントワースからマコーレーまでの43の政治演説集。ウィリアム・クラーク編、序文付き。

44 朝食の独裁者。オリバー・ウェンデル・ホームズ著。

45 『朝食の席の詩人』。オリバー・ウェンデル・ホームズ作。

46 『朝食の席の教授』。オリバー・ウェンデル・ホームズ作。

チェスターフィールド卿の息子への手紙47通。チャールズ・セイルによる序文付き選集。

カールトンからの48の物語。W・イェイツによる選集と序文。

49 『ジェーン・エア』。シャーロット・ブロンテ著。クレメント・K・ショーター編。

50 エリザベス朝イングランド。ロトロップ・ウィジントン編、ファーニヴァル博士による序文。

51 トーマス・デイヴィスの散文集。TWロールストン編。

スペンスの逸話52選。選集。ジョン・アンダーヒル編、序文と注釈付き。

53 モアのユートピアとエドワード5世の生涯。モーリス・アダムズによる序文付き編集。

54 サディの『グリスタン、あるいは花園』。ジェームズ・ロスによる翻訳とエッセイ。

55のイギリスの妖精と民話。E・シドニー・ハートランド編。

56 北方研究。エドマンド・ゴス著。アーネスト・リースの注釈付き。

偉大な作家の初期レビュー57選。E.スティーブンソン編。

58 アリストテレスの『倫理学』。ジョージ・ヘンリー・ルイスの『アリストテレス論』を前置として付記。

59 ランドールの『ペリクレスとアスパシア』。ハヴロック・エリス編、序文。

タキトゥスの年代記60巻。トーマス・ゴードン訳。アーサー・ゴルトン編、序文付き。

エリアのエッセイ61選。チャールズ・ラム著。アーネスト・リース編、序文。

バルザック短編小説集62篇。ウィリアム・ウィルソンとステンボック伯爵による翻訳。

ド・ミュッセの喜劇63選。SLグウィン編、序文付き。

64 サンゴ礁。チャールズ・ダーウィン著。J・W・ウィリアムズ博士による序文付き編。

シェリダンの戯曲65選。ルドルフ・ダークス編、序文付き。

66 『私たちの村』。ミス・ミットフォード著。アーネスト・リース編、序文。

67 『ハンフリー師匠の時計、その他の物語』。チャールズ・ディケンズ作。フランク・T・マージアルズによる序文付き。

68 オックスフォード運動。『時代のための小冊子』からの抜粋。ウィリアム・G・ハッチソン編、序文。

ダグラス・ジェロルドによる69のエッセイと論文。ウォルター・ジェロルド編。

70 『女性の権利の擁護』 メアリ・ウルストンクラフト著。E・ロビンズ・ペネル夫人による序文。

71 「アテネの神託」選集。ジョン・アンダーヒル編、ウォルター・ベサントによる序文付き。

サント=ブーヴのエッセイ72選。エリザベス・リーによる翻訳・編集と序文。

プラトン選集73選。シデナムとテイラーの翻訳より。TWロールストン編。

エリザベス・A・シャープ訳『ハイネのイタリア旅行記』74ページ。テオフィル・ゴーティエのフランス語による序文付き。

75 シラーの『オルレアンの乙女』。パトリック・マクスウェル少将による序文付き翻訳。

シドニー・スミスの作品76選。アーネスト・リース編、序文付き。

77 『新しい精神』。ハヴロック・エリス著。

78 『驚異の冒険の書』。『アーサー王の死』より。アーネスト・リース編。[本書は第1巻と合わせて『アーサー王の死』全巻となる。]

79のエッセイと格言。アーサー・ヘルプス卿著。EAヘルプスによる序文付き。

モンテーニュのエッセイ80選。パーシヴァル・チャブによる序文付き選集。

81 バリー・リンドンの幸運。WMサッカレー著。FTマージアルズ編集。

82 シラーの『ウィリアム・テル』。パトリック・マクスウェル少将による序文付き翻訳。

カーライルのドイツ文学論集83選。アーネスト・リースによる序文付き。

チャールズ・ラムの戯曲と劇作エッセイ84選。ルドルフ・ダークス編、序文付き。

85 ワーズワースの散文。ウィリアム・ナイト教授による選集と編纂、序文。

ジャコモ・レオパルディ伯爵のエッセイ、対話、思想集86編。パトリック・マクスウェル少将による序文と注釈付き翻訳。

87 監察総監。ロシア喜劇。ニコライ・V・ゴーゴリ作。アーサー・A・サイクスによる原文からの翻訳、序文と注釈。

フランシス卿ベーコンのエッセイと格言集88選。ジョン・バカン編、序文付き。

89 ミルトンの散文。リチャード・ガーネット博士による選集と編纂、序文付き。

90 プラトンの国家。トーマス・テイラー訳、テオドール・ラティスラフの序文。

フロワサールからの91の抜粋。フランク・T・マルジアルズによる序文付き。

92 コールリッジの散文と食卓談義。ウィル・H・ダークス編。

93 ハイネの芸術と文学。エリザベス・A・シャープ訳。

ド・クインシー選集94選。ジョージ・ダグラス卿(準男爵)による序文付き。

95 ヴァザーリの『イタリア画家列伝』。ハヴロック・エリスによる選集と序文。

96 ラオコーン、およびその他のレッシングの散文著作。 WB レンフェルトによる新訳。

97 ペレアスとメリサンダ、そして盲人。モーリス・メーテルリンク作の二つの戯曲。フランス語からローレンス・アルマ・タデマによる翻訳。

98 ウォルトンとコットンの釣り人全集。チャールズ・ヒル・ディック編、序文付き。

99 レッシングの『賢者ネイサン』。パトリック・マクスウェル少将訳。

100 エルネスト・ルナン『ケルト民族の詩とその他の随筆集』。WG・ハッチソン訳。

ゲーテの批評、考察、格言101選。WBロンフェルトによる翻訳と序文。

ショーペンハウアーのエッセイ102選。ルドルフ・ディルクス夫人訳。序文付き。

103 ルナン著『イエスの生涯』。ウィリアム・G・ハッチソン訳、序文付き。

104 聖アウグスティヌスの告白。アーサー・シモンズ編、序文。

105 文学における成功の原則。ジョージ・ヘンリー・ルイス著。T・シャーパー・ノールソン編。

106 『ジョン・ダン博士、ヘンリー・ウォットン卿、リチャード・フッカー氏、ジョージ・ハーバート氏、ロバート・サンダーソン博士の伝記』 アイザック・ウォルトン著。チャールズ・ヒル・ディック編、序文。

108 ルナンの『アンチキリスト』。WGハッチソンによる翻訳と序文。

キケロの演説集109選。フレッド・W・ノリス編、序文付き。

フランス革命に関する110の考察。エドマンド・バーク著。ジョージ・サンプソンによる序文付き。

111 小プリニウスの手紙。第1集。ジョン・B・ファース(BA、故オックスフォード大学クイーンズ・カレッジ学士)による翻訳(序文付き)。

112 小プリニウスの手紙。第2集。ジョン・B・ファース(BA)訳

ブレーズ・パスカルの思想選集113選。ガートルード・バーフォード・ローリングスによる翻訳(序文と注釈付き)。

114 人のスコットランドのエッセイスト: スターリングからスティーブンソンまで、オリファント・スミートン編、序文付き。

115 自由論。ジョン・スチュアート・ミル著。WLコートニーによる序文付き。

116 ルネ・デカルト『方法序説』と形而上学的瞑想。ガートルード・B・ローリングスによる翻訳と序文。

117 カーリダサの『サクンタラ』など。T. ホルム編、序文付き。

ニューマン大学スケッチ集118選。ジョージ・サンプソン編、序文付き。

ニューマンの選集119選。ジョージ・サンプソン編、序文付き。

120 ルナン著『マルクス・アウレリウス』。ウィリアム・G・ハッチソン訳、序文。

121 フルードの『信仰の宿敵』。ウィリアム・G・ハッチソンによる序文付き。

122 芸術とは何か? レフ・トルストイ著。ロシア語原文原稿からの翻訳、アリマー・モードによる序文付き。

ヒュームの政治論文123選。WBロバートソン編、序文付き。

他の巻も準備中。
一冊の本に。
クラウン8vo、布張り、贅沢に金箔押し。価格3シリング6ペンス。
ミュージシャンのウィット、ユーモア、逸話:
いる
あらゆる時代の作曲家、歌手、楽器奏者の歌について。
フレデリック・J・クロウェスト著
『偉大な音詩人』『英国音楽史』著者、『巨匠ミュージシャン』シリーズ編集者など。
JP ダンによる趣のあるイラストが豊富に掲載されています。
レビュー担当者のコメント:—
「これは、あらゆる時代、季節、人物に関する逸話を楽しく寄せ集めた作品のひとつで、どのページにもユーモア、奇妙な冒険、風変わりな格言といった新しい見本が載っている。」—TP オコナー著、TP’s Weeklyより。

「素晴らしい物語の素晴らしいコレクション。集めるのに何年もの忍耐が必要だったに違いありません。」—モーニングリーダー誌。

「ミュージシャンに興味がある人々と、コメディに対する適切な感覚を持つ人々という、2つの大きな層の人々に受け入れられるはずの本」—グローブ紙

英国芸術の創造者たち。
英国の画家たちの新しいモノグラフシリーズ。
各巻には、フルページの複製画 20 枚と写真グラビア肖像画が掲載されています。
スクエア クラウン 8vo、布張り、金メッキ トップ、デッキル エッジ、3s. 6d. ネット。
ボリューム準備完了。
ランドシーア、エドウィン卿。編集者による。

「この小冊子は、世界が所有するランドシーアに関する最も完全な記録となるだろう。」—タイムズ紙。

レイノルズ、サー・ジョシュア。エルザ・デステール=キーリング作。

「『英国美術の創造者たち』シリーズに、エルザ・デステール=キーリング嬢がサー・ジョシュア・レイノルズに関する素晴らしい小冊子を寄稿しています。キーリング嬢の文体は軽快で警句的であり、その判断は熟考されたものです。」—デイリー・テレグラフ

ターナー、JMW ロバート・チグネル著『ヴィカット・コールの生涯と絵画、RA』

ジョージ・ロムニー。ハーバート・マクスウェル卿(準男爵、王族、国会議員)

「この画家の生涯を最もよく表した作品として残るだろう」— 『アテネウム』

ウィルキー卿、デイヴィッド。ベイン教授著。

コンスタブル、ジョン。ウィンザー卿閣下より。

レイバーン卿、ヘンリー。エドワード・ピニントン著。

ゲインズバラ、トーマス。A・E・フレッチャー著。

ウィリアム・ホガース著。G・ボールドウィン・ブラウン教授著。

ムーア、ヘンリー。フランク・J・マクリーン著。

準備中。
ミレイ、レイトン、モーランド。
クラウン 8vo、各約 350 ページ、布製カバー、各巻 2/6、
半磨きモロッコ本、金箔仕上げ、5 シリング。
トルストイ伯爵の著作。
以下の巻はすでに発行されています。
ロシア人の所有者。 コサックたち。 イワン・イリイチ、およびその他の物語。 私の宗教。 人生。 私の告白。 幼少期、少年時代、青年時代。 戦争の生理学。 アンナ・カレーニナ。3/6。 何をするか? 戦争と平和(全4巻) 長い亡命生活など セヴァストポリ。 クロイツェル・ソナタと家族の幸せ。 神の王国はあなたの中にあります。 光があるうちに働きなさい。 簡潔な福音書。
上記と統一して
ロシアの印象。ゲオルグ・ブランデス博士著。
ポスト4to、布製、価格1s。
愛国心とキリスト教。
この作品に対する批判への返答が付されている。トルストイ伯爵著。
1/‐ トルストイ伯爵による小冊子。
白木目の板紙に製本され、金箔の文字が入っています。
愛があるところには神もいる。 二人の巡礼者。 男が生きる道。 ゴッドソン。 火を放っておくと、消すことはできません。 それは人にとって何の利益になるのか?
2/‐ トルストイ伯爵による小冊子。
新版、改訂版。
12ヶ月サイズの小冊子。布製で、表紙にエンボス加工が施されています。各冊には、トルストイ伯爵の物語2編とH・R・ミラーの絵2点が収録されています。箱入り。価格は1冊2シリング。
第1巻の内容:

愛があるところには神もいる。
ゴッドソン。
第2巻の内容:

男が生きる道。
それは人にとって何の利益になるのか?
第3巻の内容:

二人の巡礼者。
火を放っておくと、消すことはできません。
第4巻の内容は、

マスターと男。
第5巻の内容:

トルストイの寓話。
クラウン 8vo、布張り、各 3 シリング、6 ペンス。一部の巻は 6 シリング。
現代
科学シリーズ。
編集者:ハヴロック・エリス。
各巻300~400ページのイラスト入り。
性の進化。ゲデス教授、トムソン教授著。6シリング。
現代生活における電気。G・W・デ・トゥンツェルマン著。
アーリア人の起源。テイラー博士著。
人相学と表情。P. マンテガッツァ著。
進化と病気。JBサットン著。
村のコミュニティ。GLゴム著。
『犯罪者』。ハヴロック・エリス著。新版。6シリング。
正気と狂気。C. メルシエ博士著。
催眠術。アルバート・モル博士(ベルリン)著。
マニュアルトレーニング。ウッドワード博士(セントルイス)著。
おとぎ話の科学。ESハートランド著。
プリミティブフォーク。エリー・ルクルス作。
結婚の進化。Ch. ルトゥルノー著。
細菌とその産物。ウッドヘッド博士著。
教育と遺伝。JM Guyau 著。
天才の男。ロンブローゾ教授著。
プロパティ:その起源。Ch. Letourneau 著。
火山の過去と現在。ハル教授著。
公衆衛生問題。JFサイクス博士著。
現代気象学。フランク・ウォルド博士著。
生殖質。ワイスマン教授著。6シリング。
動物産業。F・ハウセイ著。
『男と女』。ハヴロック・エリス作。6シリング。
現代資本主義。ジョン・A・ホブソン著(修士)
思考転移。F・ポッドモア著(修士)
比較心理学。CLモーガン教授(FRS 6s)著。
発明の起源。OTメイソン著。
脳の成長。HHドナルドソン著。
芸術における進化。ACハドン教授(FRS)
幻覚と錯覚。E. パリッシュ著。6シリング。
感情の心理学。リボー教授著。6s。
新しい心理学。EW Scripture博士著。6シリング。
睡眠:その生理学、病理学、衛生学、そして心理学。マリー・ド・マナセイン著。
消化の自然史。A. ロックハート・ギレスピー医学博士、FRCP 編集、FRS 編集著。6s。
退化:その原因、兆候、そして結果。ユージン・S・タルボット教授(医学博士、シカゴ)。6シリング。
ヨーロッパ動物相の歴史。R.F.シャーフ著(理学士、博士、FZS 6s)。
『人種の分類:民族誌と人類学の概略』J. デニカー著。6シリング。
宗教の心理学。スターバック教授著。6シリング。
『ザ・チャイルド』。アレクサンダー・フランシス・チェンバレン著、修士、博士。6シリング。
地中海レース。セルジ教授著。6秒。
宗教の研究。モリス・ジャストロウ・ジュン、Ph.D.著。6s。
地質学と古生物学の歴史。カール・アルフレート・フォン・ツィッテル教授著、ミュンヘン。6シリング。
市民の育成:比較教育学研究。R.E.ヒューズ著、MA 6s。
道徳:倫理の心理社会学的基盤に関する論文。GL・デュプラット教授著。
地震:最近の研究。チャールズ・デイヴィソン教授(理学博士、FGS 6s)著。
カンタベリー詩人特別版

スクエア 8vo、布製、ギルトトップエレガント、価格 2s。
各巻に写真グラビアによる口絵付き。
キリスト教年。ジョン・キーブルの肖像画付き。
ロングフェロー。ロングフェローの肖像画付き。
シェリー。シェリーの肖像画付き。
ワーズワース。ワーズワースの肖像画付き。
ホイッティア。ホイッティアの肖像画付き。
バーンズ。バーンズの肖像画と「オールド・ブリッジ・オ・ドゥーン」の風景を描いた歌集。
バーンズ。バーンズの肖像画と「オールド・ブリッジ・オ・ドゥーン」の風景を描いた詩集。
キーツ。キーツの肖像画付き。
エマーソン。エマーソンの肖像画付き。
今世紀のソネット。PBマーストンの肖像。
ホイットマン。ホイットマンの肖像画付き。
ヴァイオリニストのラブレター。エリック・マッケイの肖像。
スコット作「湖の貴婦人」、サー・ウォルター・スコットの肖像と「カトリーン湖の銀の海岸」の風景。
スコット。マーミオン他、サー・ウォルター・スコットの肖像画と「シルバー・ストランド、カトリーン湖」の風景。
詩人たちの子供たち。ゲインズバラ作「孤児たち」の版画付き。
ヨーロッパのソネット集。J・A・シモンズの肖像画付き。
シドニー・ドーベル。シドニー・ドーベルの肖像とともに。
ヘリック。ヘリックの肖像画付き。
バラードとロンド。W・E・ヘンリーの肖像。
アイルランドのミンストレルショー。トーマス・デイヴィスの肖像付き。
失楽園。ミルトンの肖像付き。
妖精の音楽。C.E.ブロックの絵をもとにした彫刻。
黄金の宝庫。聖母マリアの彫刻入り。
アメリカのソネット集。JRローウェルの肖像付き。
キリストの模倣。「エッケ・ホモ」の彫刻付き。
画家・詩人。ウォルター・クレインの肖像画付き。
女性詩人。ブラウニング夫人の肖像画付き。
ローデン・ノエル名誉教授の詩集。R・ノエル名誉教授の肖像。
アメリカのユーモラスな詩。マーク・トウェインの肖像。
自由の歌。ウィリアム・モリスの肖像付き。
スコットランドのマイナー詩人。R.タナヒルの肖像付き。
現代スコットランドの詩。ロバート・ルイス・スティーブンソンの肖像付き。
楽園回復。ミルトンの肖像付き。
騎士の詩人たち。乳飲み子の肖像画付き。
ユーモラスな詩。フードの肖像画付き。
ハーバート。ハーバートの肖像画付き。
ポー。ポーの肖像画付き。
オーウェン・メレディス。故リットン卿の肖像画とともに。
愛の歌詞。ローリーの肖像付き。
ドイツのバラード。シラーの肖像付き。
キャンベル。キャンベルの肖像画付き。
カナダの詩。スティーブン山の眺めとともに。
初期イギリス詩。サリー伯爵の肖像画付き。
アラン・ラムゼイ。ラムゼイの肖像画付き。
スペンサー。スペンサーの肖像画付き。
チャタートン。「チャタートンの死」の彫刻付き。
カウパー。カウパーの肖像画付き。
チョーサー。チョーサーの肖像画付き。
コールリッジ。コールリッジの肖像​​画付き。
教皇。教皇の肖像画付き。
バイロン。バイロンの肖像画を含む雑集。
バイロン。バイロンの肖像画を描いたドン・ファン。
ジャコバイトの歌。チャールズ王子の肖像画付き。
国境のバラード。ニードパス城の眺め。
オーストラリアのバラード。ALゴードンの肖像付き。
ホッグ。ホッグの肖像画付き。
ゴールドスミス。ゴールドスミスの肖像画付き。
ムーア。ムーアの肖像画付き。
ドーラ・グリーンウェル。ドーラ・グリーンウェルの肖像画付き。
ブレイク。ブレイクの肖像画付き。
自然の詩。アンドリュー・ラングの肖像付き。
Praed。肖像画付き。
サウジー。肖像画付き。
ヒューゴ。肖像画付き。
ゲーテ。肖像画付き。
ベランジェ。肖像画付き。
ハイネ。肖像画付き。
海の音楽。ジャージー島コルビエール岩の眺め。
ソングタイド。フィリップ・バーク・マーストンの肖像付き。
ライオンズの夫人。ブルワー・リットンの肖像付き。
シェイクスピア:歌曲とソネット集。肖像画付き。
ベン・ジョンソン。ポートレート付き。
ホレス。肖像画付き。
クラッブ。肖像画付き。
ゆりかごの歌。TE・マックリンの絵からの彫刻付き。
スポーツのバラード。T・E・マックリンの絵からの彫刻付き。
マシュー・アーノルド。肖像画付き。
オースティンの一年の日々、肖像画付き。
クラフの『ボシー』とその他の詩。眺望あり。
ブラウニングの「ピッパ・パス」など。肖像画付き。
ブラウニングの「スカッチョン」の汚点、肖像画付き。
ブラウニングの劇的歌詞。肖像画付き。
マッケイの恋人のためのミサ典礼書。肖像画付き。
カーク・ホワイトの詩集。肖像画付き。
ニコチアナ・リラ。肖像画付き。
オーロラ・リー。E・B・ブラウニングの肖像画とともに。
海軍の歌。ネルソン提督の肖像付き。
テニスン:『追悼』『モード』他。肖像画付き。
テニスン:イギリス牧歌、王女様など。ファリングフォード・ハウスの眺望あり。
軍歌。ロバーツ卿の肖像画付き。
ジェームズ・トムソン。肖像画付き。
アレクサンダー・スミス。肖像画付き。
ミュージックストーリーシリーズ。
文学音楽モノグラフのシリーズ。
『The Great Tone Poets』などの著者、FREDERICK J. CROWESTが編集。
グラビア写真、コロタイプ写真、ハーフトーン写真、線画、複製写真などで図解されています。
スクエアクラウン 8vo、布製、3s、6d、ネット。
ボリュームは準備完了です。
オラトリオの物語。アニー・W・パターソン(BA、音楽博士)著。
記譜法の物語。CFアブディ・ウィリアムズ(MA、Mus. Bac.)著。
オルガンの物語。CFアブディ・ウィリアムズ(MA)著、『バッハ』『ヘンデル』(「マスター・ミュージシャンズ・シリーズ」)
室内楽の物語。ミドルスブラ、サンダーランド、ビショップ・オークランド音楽協会の指揮者、N. キルバーン著。
ヴァイオリンの物語。ロンドン、ギルドホール音楽院ヴァイオリン教授、ポール・ストーヴィング著。
ハープ物語。ウィリアム・H・グラッタン・フラッド著、『アイルランド音楽史』
オルガン音楽の物語。CFアブディ・ウィリアムズ(MA、音楽学士)著。
準備中。
ピアノフォルテの物語。『楽団員との対話』の著者、アルジャーノン・S・ローズ著。
イギリスのミンストレルショーの物語。エドモンズタウン・ダンカン著。
オーケストラの物語。英国王立音楽院フェロー兼教授、スチュワート・マクファーソン著。
音楽の音の物語。チャーチル・シブリー著、Mus. Doc.
教会音楽の物語。編集者による。
などなど。

転写者のメモ
オリジナルのスペルと文法は、以下に示すいくつかの例外を除いて、ほぼそのまま保持されています。

元の印刷されたページ番号は、‹{p-xiv}› または ‹{p14}› のように表示されます。

脚注は 1 ~ 117 に再ラベルされ、末尾注に変換され、関連する章の末尾に移動されました。

私は表紙画像を制作し、これをパブリックドメインに譲渡します。

xiページ。「Weath of Nations」という語句が「Wealth of Nations」に変更されました。
xiiiページ。「『私はとても満足しています』」というフレーズが「『私はとても満足しています』」に変更されました。
xxiiiページ。「int his room while」というフレーズは「into his room while」に変更されました。
144ページ。「クセルクセスの軍隊」と「クセルクセスの軍隊」という語句は両方とも保持されています。
157nページ。「much rom their business」というフレーズが「much from their business」に変更されました。
162 ~163ページ。原文では「その年に」 (162ページ) と「北の博覧会」 (163ページ) の引用符がアンバランスなため、バランスをとるために「’Hybernum fracta」と「彼はその川のことを話している」の2つの二重引用符が新たに挿入されています。
254ページ。 ‹Sアミルス、 Mアーカス Fウリウス›に変更されました‹Cアミルス、 Mアーカス F URIUS ›。
258ページ。このページ(元々はページ番号が付いていませんでした)は、ウォルター・スコット出版社の16ページの広告の始まりです。新しい見出し「広告」が挿入されました。この新しい見出しには、元々広告欄の各ページに掲載されていたフッターテキストも含まれています。広告は様々なスタイルで印刷され、かなりのバリエーションがありました。今回の変更でスタイルは大幅に簡素化されました。2行以上のテキストの情報の組み合わせを図式的に示す大きな中括弧「}」は、テキストの構成を変更することで削除されました。また、同上記号「Do.」も削除されました。

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「ヒュームの政治談話」の終了 ***
《完》


パブリックドメイン古書『ルネサンス期 文藝批評史』(1899)を、AI(Grok)で訳してもらった。

 原題は『A History of Literary Criticism in the Renaissance』、著者は Joel Elias Spingarn です。
 例によって、プロジェクト・グーテンベルクさま、上方の篤志機械翻訳助手さまはじめ、関係の各位に厚く御礼をもうしあげます。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍『ルネサンス期の文芸批評史』の開始 ***

制作:Siobhan Hillman、Eleni Christofakiおよび
  のオンライン分散校正チーム

  転写者注:
  細かな綴りの不統一は無言で修正しました。巻末に記載された若干の修正を除き、原文の綴りを保持しました。脚注は各章ごとに連続番号を付して章末に配置しました。
  p. 300:carpenter, majesty, merchaundise の語において、e macron(長音記号付きe)および u with breve(短音記号付きu)は、それぞれ単純な [e] および [u] として符号化されています。
  p. 303:mournfully, mournfuly, royalty の語において、u with breve、u macron、a macron はそれぞれ単純な [u] および [a] として符号化されています。
  p. 304:Trumpington, love-sik, dangerus の語において、i macron、i with breve、u with breve はそれぞれ単純な [i] および [u] として符号化されています。
  p. 321-322:上付き文字は [^] 記号に続けて示し、複数の文字が上付きの場合は {} で囲んでいます。
  p. 354:Pusan の語において、u macron および s with cedilla はそれぞれ単純な [u] および [s] として符号化されています。
  合字 [œ] は oe と符号化されています。
  マークアップ:斜体
       =太字=
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  コロンビア大学
  文学研究

  |===============================================================|
  |コロンビア大学 |
  | |
  |文学研究 |
  | |
  | |
  | |
  |=ルネサンス期の文芸批評史= |
  | 近代古典主義の形成と発展におけるイタリアの影響に |
  | 特に言及して 著:ジョエル・イライアス・スピンガーン |
  | |
  | |
  |刊行予定: |
  | |
  |=ならず者ロマンス= |
  | 近代小説の発展における一挿話 第I部 |
  | スペインのピカレスク小説 著:フランク・ワドリー・チャンドラー|
  | |
  |=テューダー朝イングランドにおけるスペイン文学= |
  | 著:ジョン・ギャレット・アンダーヒル |
  | |
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  |本シリーズの他の号も随時刊行される予定です。これらはコロンビア大学の学生または教員、あるいは彼らと研究を共にする者による文学研究または批評の成果を含み、文学科(教授:ジョージ・エドワード・ウッドベリーおよびブランダー・マシューズ)の認可のもとで発行されます。|
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ルネサンス期の
文芸批評史
近代古典主義の形成と発展における
イタリアの影響に特に言及して


ジョエル・イライアス・スピンガーン

[挿絵]

ニューヨーク
コロンビア大学出版局のために
マクミラン社より刊行
ロンドン:マクミラン株式会社
1899年

全権利留保

COPYRIGHT, 1899,
BY THE MACMILLAN COMPANY.

ノーウッド印刷所
J. S. クッシング社――バーウィック・アンド・スミス社
マサチューセッツ州ノーウッド 米国

序文

本論は、ルネサンス期の文芸批評史を扱うものである。本論を三分した三部は、それぞれダンテからタッソに至るイタリア批評、デュ・ベレーからボワローまでのフランス批評、そしてアスカムからミルトンまでのイギリス批評に充てられている。しかし十六世紀の批評活動こそが主要な主題であり、それ以前またはそれ以降の文学は、この中心期の批評的発展の原因または結果を説明する範囲においてのみ扱われている。まさにこの時代に近代批評が始まり、古代の芸術理想が再び人々の精神を支配するように見えたのである。したがって十六世紀批評の歴史は、必然的に近代ヨーロッパにおける批評活動の始まりと、アリストテレスの規準が近代文学に徐々に導入される過程の研究を含まなければならない。

本研究は、特に二つの特定の目的に従属する形で進められている。この時期の批評活動はそれ自体重要であり、興味深いものであるが、ここでは主として、近代文学における古典精神の起源と原因を辿り、十七・十八世紀の新古典主義文学に体現された規則と理論の源泉を発見するという目的のために研究されている。古典精神はどのようにして生まれたのか。それはどこから来て、どのように発展したのか。新古典主義の原理と規範の起源は何か。これらが本論で回答しようとした問いの一部であり、それに答えるにあたって、私はこれが批評文学の歴史ではなく、文芸批評の歴史であることを忘れぬよう努めた。このため、個々の書物や著者にはおそらく相応に値する以上の注目を与えることはせず、原理・理論・規則の起源と、古典主義の一般的気風にほぼ専ら限定してきた。同様の理由から、応用批評または具体批評の方法と結果についてはほとんど何も語っていない。

以上が本論の主な企図であるが、さらに、題名が示す通り、私はこの新古典的精神の成長と新古典的原理の定式化においてイタリアが果たした役割を指摘しようと試みた。近代の科学・哲学・芸術・創作文学の発展におけるイタリア・ルネサンスの影響は、長い間多くの研究の対象となってきた。私により控えめな課題は、文芸批評の領域において近代世界がイタリアに対して負っている債務を辿ることである。そして私は、ルネサンスの影響が他の領域と同様にこの領域でも極めて大きいことを示したと信じている。近代批評の誕生はイタリア・ヒューマニズムの批評活動によるものであり、十六世紀イタリアにおいて、フランス古典主義の一般的精神やさらには具体的な原理が、多少なりとも成熟した形で発見されるのである。本論の後半の目的は、したがって、文芸批評におけるイタリアの影響の歴史である。そしてイングランドにおける最後のヒューマニストであるミルトンをもって、本論は自然に終わる。しかし、イタリア・ルネサンスが文芸批評の領域においてその影響力を完全に失ったわけではなく、レッシングやシェリー(他を挙げるまでもなく)がイタリアの伝統の正統な継承者であったことがわかるであろう。

本論は、コロンビア大学哲学部に博士号取得のための部分要件として提出されたものである。巻末の書誌は、本文および脚注で引用した著作物への参照を容易にするために主に作成されたものであり、そこで言及された書物の完全な書名を確認されたい。本論の完全な書誌を装うものではない。十六世紀イタリア批評史が近代の学者の間ではほとんど注目されていないことがおわかりいただけるであろう。アリストテレスの『詩学』については、S・H・ブッチャー教授の『アリストテレスの詩学および美術論』(学問の壮麗な記念碑であり、文学的感受性によって生気づけられたもの)のテキストを用い、概ねその解釈に従った。私はまた、ザバレッラの要約をブッチャー教授から、カプリアーノの分析をハーバード大学のP・O・スキナー氏から、数点の初期イギリス修辞学論の要約を友人F・W・チャンドラー氏から、そして若干の修正をカヴァリエーレ・スペランツァ教授からいただいたことにも感謝したい。また友人であるJ・G・アンダーヒル氏、ルイス・アインシュタイン氏、H・A・ウーターハート氏、そして弟のA・B・スピンガーン氏にも、重要な付随的援助をいただいた。

しかし何よりも、私はジョージ・E・ウッドベリー教授への感謝を表明したい。本書は彼の指導の結実である。そしてこれを書く際にも、私は彼に助言と批評を仰いだ。彼の親切な援助がなければ、本書は到底書けなかったであろうし、間違いなく現在の形を取ることもなかったであろう。しかし彼に対する私の負債は、本論の主題や内容に限定されるものではない。五年間にわたり、彼の指導と激励から得た霊感は、序文で表現しきれるようなものではない。

Quare habe tibi quidquid hoc libelli.(この小著をあなたに捧げる。)

  ニューヨーク
  1899年3月


目次

第一部 イタリアにおける文芸批評

内容ページ
Iルネサンス批評の根本問題3
i. 中世の詩観
ii. 詩の道徳的正当化
iii. 詩の最終的正当化
IIイタリア・ルネサンスにおける詩の一般理論24
i. 詩をスコラ哲学の一形態と見なす考え
ii. 詩を人生の模倣と見なす考え
iii. 詩の機能
III劇詩論60
i. 悲劇の題材
ii. 悲劇の機能
iii. 悲劇の登場人物
iv. 劇の三一致
v. 喜劇
IV叙事詩論107
i. 叙事詩の理論
ii. 叙事詩とロマンス
Vイタリア批評における古典精神の成長125
i. ヒューマニズム
ii. アリストテレス主義
iii. 合理主義
VIイタリア批評におけるロマン的要素155
i. 古代のロマン的要素
ii. 中世的な要素
iii. 近代的な要素

第二部 フランスにおける文芸批評

内容ページ
I16世紀フランス批評の性格と発展171
i. 性格
ii. 発展
IIフランス・ルネサンスにおける詩の理論190
i. 詩作術
ii. 劇詩
iii. 英雄詩
III16世紀フランス批評における古典的要素とロマン的要素214
i. 古典的要素
ii. ロマン的要素
IV17世紀における古典的理想の形成232
i. ロマン派の反逆
ii. プレイヤード派への反動
iii. イタリア思想の第二の流入
iv. 合理主義哲学の影響

第三部 イングランドにおける文芸批評

内容ページ
Iアスカムからミルトンに至るイギリス批評の変遷253
IIエリザベス朝における詩の一般理論261
III劇詩および英雄詩の理論282
i. 悲劇
ii. 喜劇
iii. 劇の三一致
iv. 叙事詩
IVエリザベス朝批評における古典的要素296
i. 序説:ロマン的要素
ii. 古典詩形
iii. その他の古典主義の証拠

付録 312
 A. 16世紀の主要批評著作年表
 B. サルヴィアーティによるアリストテレス『詩学』註釈者一覧

書誌 317
索引 325

第一部 イタリアにおける文芸批評

第一章 ルネサンス批評の根本問題

ルネサンス批評の最初の課題は、想像文学(imaginative literature)の正当化であった。中世を通じて美的意識、あるいはそれよりもやや弱い程度ではあるが批評能力の存在と連続性は否定しがたいものである。それにもかかわらず、文学への不信は、まさに批評能力が最も期待されうる人々の階級において最も激しく、詩は哲学の侍女として、そして何よりも神学の臣下として主に評価されていた。要するに、中世において想像文学を裁く基準は文学的基準ではなかった。詩は無視されたり軽蔑されたりし、あるいはせいぜい詩に最も属さない徳目によって評価されたにすぎなかった。こうしてルネサンスは、学問復興によって近代世界が取り戻した膨大な文学を評価することの正当化という必然性に直面したのであり、ルネサンス批評の機能は、文学の美的基盤を再確立し、ヘレニズム文化の永遠の教訓を再確認し、美の要素を人間の生活と芸術の世界における正当な地位に一度限りで回復することであった。

I 中世の詩観

文学に対する中世的な不信は、いくつかの協力的な原因の結果であった。大衆文学は衰退し、その同時代的な形態は真剣に検討するに値しなかった。古典文学は不幸にも異教的であり、しかも不完全な形でしか知られていなかった。中世教会は最も初期の段階から異教文化を疑いの目で見ており、大衆文学の発展を自らの覇権に対する敵対行為と見なすに至っていた。しかしそれ以上に、文学への不信はもっと深く、想像力のすべての作品に対する理論的かつ根本的な異議に根ざしていた。

これらの理論的異議は中世に特有のものでは決してなかった。それらは古代において、中世期よりもはるかに直接的かつ哲学的に有効な形で述べられていた。プラトンは想像文学を現実と道徳という、両方とも非美的ではあるが詩には根本的に適用可能な基準によって裁いた。現実の点では、詩は真理から三段階離れていることを示した。詩とは芸術家が、神の心にあるイデアの人生における模倣を模倣するにすぎないからである。道徳の点では、最大の詩人ホメロスに、真理からの逸脱、神々への冒涜、種々の猥褻を発見した。さらに、創作文学は現実の生活よりも感情を激しく掻き立て、より抑えるべき卑しい情念を喚起することを見出した。

これらの考えは中世を通じて流れ、実際にはルネサンスをも超えて存続した。詩は同じ基準によって裁かれたが、中世の著者たちがプラトンの形而上学的議論の代わりに、より実際的な理由を代置したのは自然なことであった。現実の基準によれば、詩はその本質において非真理であり、底の底では虚構であり、ゆえに虚偽であると主張された。こうしてテルトゥリアヌスは「真理の創作者はすべての虚偽を憎む。かれは非現実のすべてを姦通と見なす……かれは決して偽りの愛や怒りや呻きや涙を承認しないであろう」[1]と言い、異教のこれらの作品の代わりに、聖書と教父たちの中に広大なキリスト教文学があり、それは「虚構ではなく真実であり、技巧の戯れではなく明白な現実である」[2]と断言した。道徳の基準によれば、想像の作品のごく少数を除いて猥褻や冒涜から完全に自由なものはなく、そうした欠点は詩的芸術から切り離せないと主張された。したがってセビーリャのイシドールスは、キリスト教徒は詩人の虚構を読むことが禁じられていると述べる。「なぜなら、空虚な物語の娯楽によって心を刺激し、欲望の誘因へと駆り立てるからである」[3]。

プラトンが挙げた第三の、すなわち心理的な異議も同様に強調された。こうしてテルトゥリアヌスは、神がわれわれに聖霊に対して穏やかで優しく静かに接するよう命じているのに、文学、特に劇文学は霊的な動揺を引き起こすと指摘した[4]。この点は中世の精神にとって根本的に思われた。なぜならトマス・アクィナスが強調したように、真の美においては欲望は鎮まるからである[5]。さらに、真剣な研究に値する唯一の文学の総体は、キリスト教と直接に対立する異教の神々と宗教的慣習を扱っていることが示された。その他の中世の著者たちによって付随的に言及された異議もあった。たとえば、人生のあらゆる問題における至上の問いは行為の問題であり、詩がどのように行動に寄与するかは明らかではないとされた。詩には実際的な用途がない。詩はむしろ人を弱らせ、義務の呼びかけへと駆り立てるよりも衰えさせる。そして何よりも、正しい人は従事できるより有益な職業がある。

これらの文学に対する異議は、特徴的に中世的なものではない。それらは世界史のあらゆる時期に生じ、特に禁欲的あるいは神学的生命観が支配的なすべての時代に繰り返し現れる。それらはギリシア学派の定番問題であり、マクシモス・テュロスその他による、プラトンが理想的国家からホメロスを追放したのは正当であったか否かという問題に関する現存する論文がある。同じ異議はルネサンスをも超えて存続し、イタリアではサヴォナローラ、ドイツではコルネリウス・アグリッパ、イングランドではゴッソンとプリン、フランスではボッシュエその他の聖職者たちによって主張された。

II 詩の道徳的正当化

文学を解釈する寓意的方法は、先に述べた異議に答えるための中世の試みの結果であった。この方法は、ソフィストたちによって最初に用いられ、後期ストア派によってより徹底的に用いられた神話解釈の方式に起源を負っている。ヘラクレスやテセウスといった英雄たちは、もはや怪物や巨人の単なる武力征服者ではなく、ストア派の哲学者たちによって人類の悪徳や情念と闘った初期の賢者の象徴と見なされ、やがて異教の聖人の典型となった。同じ解釈方式は後にユダヤ人のフィロンによって旧約聖書の物語に適用され、ポワティエのヒラリウスとミラノの司教アンブロシウスによって初めて西洋ヨーロッパに導入された[6]。アブラハム、アダム、イヴ、ヤコブはさまざまな徳の典型となり、聖書の物語は人間の魂におけるさまざまな道徳的闘争の象徴と見なされた。異教神話をこの方法によって体系的に適用した最初の例は、恐らく6世紀前半に活躍したフルゲンティウスの『神話学(Mythologicon)』に見られ、彼の『ウェルギリウスの内容(Virgiliana Continentia)』では『アエネイス』は人生のイメージとして扱われ、アエネアスの旅は自然から知恵を経て最終的幸福に至る人間の魂の進歩の象徴とされている。

この時期から、寓意的方法は聖なるか世俗的なかを問わず、文学を解釈する公認の方式となった。ペトラルカは手紙『ウェルギリウスのいくつかの虚構について(De quibusdam fictionibus Virgilij)』[7]において、フルゲンティウスの方式に従って『アエネイス』を扱い、ルネサンスの極めて終わり近くにおいてさえ、タッソは自らのロマンティックな叙事詩を同じ方法で解釈した。方法が受け入れられた後、その適用はさらに複雑化した。大グレゴリウスは聖書に三つの意味、すなわち字義的、典型的なあるいは寓意的な、そして道徳的なものを帰した。さらに後には第四の意味が加えられ、ダンテは『神曲』に対して、字義的、寓意的、道徳的あるいは哲学的、そして神秘的な(anagogical)という四つすべてを明確に主張している[8]。

この方法は、倫理学と神学の立場から詩を正当化するかもしれないが、詩を独立した芸術として位置づけることはない。こうして詩は単に通俗化された神学の形態にすぎなくなる。ペトラルカもボッカッチョも寓意を詩の縦糸と横糸と見なしたが、中世の観点を変形させ、神学そのものが詩であり、神の詩であると逆に論じることで修正した。両者とも聖書は本質的に詩的であり、キリスト自身が主に詩的なイメージで語ったと主張する。この点はルネサンスの批評家たちによってあまりにも強調されたため、ベルニは1537年の『詩人に対する対話(Dialogo contra i Poeti)』において、詩人たちが神をユピテルと呼び、聖人たちをメルクリウス、ヘラクレス、バッカスと呼ぶこと、さらには預言者や聖書の著者たちを詩人や韻文作者と呼ぶ大胆さを持つことさえ非難している[9]。

ボッカッチョの論文『神々の系譜(De Genealogia Deorum)』の第十四・十五巻は「近代世界の詩人による、自身の芸術を讃える最初の詩の擁護」と呼ばれているが、想像文学の正当化は依然として通常の中世的根拠に基づいている。詩の現実性は寓意的基盤に依存し、その道徳的教えは字義的表現の下に発見される隠された意味に求められ、ギリシア・ローマの神々や儀式への言及は象徴的真理としてのみ見なされるという理由で、異教詩はキリスト教のために擁護される。ボッカッチョにとって、ダンテやペトラルカと同様に、詩人の機能は真実を美しい虚構のヴェールで隠し曖昧にすること、veritatem rerum pulchris velaminibus adornare であった[10]。

詩に関するヒューマニスティックな観点は、中世のそれよりも実際的かつ遠大であった。寓意的解釈は確かにルネサンスを通じて続き、たとえばマントヴァヌスは詩を、より厳格な韻律法に拘束され、寓話の字義的表現の下に根本的真理を隠す文学形式としてしか定義できない。より後期の著者たちにとっても、この文学観は詩に対する道徳的異議から逃れる唯一の抜け穴のように思われた。しかし古い方法を用いながら、ヒューマニストたちはそれを本来の適用範囲をはるかに超えて押し進めた。こうしてレオナルド・ブルーニは1405年頃の『学問と文学について(De Studiis et Literis)』において、異教神話の寓意的解釈を強調した後、アエネアスとディドの物語を読むとき、詩人の天才に敬意を表するが、その内容自体は虚構であることが知られており、道徳的印象を残さないと論じる[11]。ブルーニがこれによって意味するのは、虚構それ自体が虚構と知られている限り道徳的印象を残さず、第二に、詩は芸術家の成功によって裁かれ、道徳家の効力によってではないということである。同様に、バッティスタ・グアリーノは1459年の『教授と学習の順序について(De Ordine Docendi et Studendi)』において、詩に見られる不敬、残酷さ、恐怖にわれわれは動揺しない、それらは単に描写された人物や出来事との適合性によって裁くと述べる。言い換えれば、「われわれは芸術家を批評するのであり、道徳家を批評するのではない」[12]。これは文学の美的鑑賞への明確な試みであるが、この時期にこうした考えは珍しくなくとも、詩の美的理論と厳密に協調された教説というよりは、孤立した感情表現にすぎなかった。

詩のより厳密な擁護は、ほとんどホラティウスの『詩論(Ars Poetica)』に示された根拠によって試みられた。アウグストゥス朝からルネサンスに至るいかなる時期にも『詩論』が完全に失われていたことはない。たとえば6世紀のセビーリャのイシドールス[13]、12世紀のソールズベリのヨハネス[14]、14世紀のダンテ[15]によって言及または引用されている。ホラティウスは詩の教訓性と愉悦性を強調し、さらに詩を歴史における文明化要因として評価し、初期の詩人たちを賢者や預言者、諸芸諸学の発明者と見なしている。

「オルフェウスは、人間を超えた力に霊感を受け、
 詩人たちが偽ったように野獣を飼いならしたのではなく、
 それと同じくらい無法で野蛮な人間たちを
 最初に憤怒と血から遠ざけた。
 こうしてアンピオンがテーバイの城壁を築いたとき、
 石が魔法のリュートに従ったと偽った。
 詩人たち、すなわち人類の最初の指導者たちは、
 すべてのものをその本来の用途に導いた。
 あるものは神々に、あるものは公共に、あるものは私的に割り当て、
 無差別の愛は結婚によって抑制され、
 都市が築かれ、有用な法が作られた。
 それほど古いのが韻文の系譜であり、
 それほど神聖なのが詩人の機能である。」[16]

初期の詩人の機能に関するこの構想は古いものである。アリストファネスに見出され[17]、ルネサンス批評を通じて流れ、今世紀においてさえシェリーは詩人たちを「言語、音楽、舞踏、建築、彫刻、絵画の創作者」「法の制定者、市民社会の創設者、生活の諸芸の発明者」と語っている[18]。今日でも観念論者は同じ信仰に逃げ込む。「知識の樹は生命の樹と同時代であり、馬を飼いならした者、金属を加工した者、種を蒔いた者でさえ、魂の双子の守護者、詩人と司祭よりも古くはなかった。良心と想像力こそが、地球を人間の精神が住みうる場所とした先駆者であった」[19]。

詩の倫理的・文明化的な機能こそが、ヒューマニストたちの心に最初にあった。行為こそがすべての学問の試金石である[20]から、詩は正しい行為に寄与する程度に応じて存続するか滅びるかする。こうしてレオナルド・ブルーニは詩を「知識への極めて貴重な援助であり、極めて高貴な愉悦の源」と語り[21]、アエネアス・シルウィウス・ピッコロミーニは1450年の論文『子どもの教育について(De Liberorum Educatione)』において、決定的な問いは「詩は軽蔑されるべきか?」ではなく「詩人たちはどのように用いられるべきか?」であると宣言し、自らの問いに、誠実さを讃え悪徳を非難する詩人たちのすべての貢献を歓迎し、その他は無視すべきであると答えている[22]。それに加えて、ヒューマニストたちは詩の古さと神聖な起源、そしてあらゆる職業の偉人たちによって称賛され、詩人たちが太古から王や皇帝に庇護されてきた事実を詩の擁護として主張した。

中世の終わりとルネサンスの始まりには、詩的芸術に関して二つの対立する傾向があった。一つは古代文化とその一相としての詩に対するヒューマニスティックな敬意を代表し、もう一つは中世の伝統だけでなく、初期キリスト教の純粋主義と、ほぼすべての時代に見られる禁欲的生命観に近い純粋主義を代表していた。これら二つの傾向は、最も高貴な形で、偉大なヒューマニストであるポリツィアーノと、偉大な道徳改革者サヴォナローラによって具体的に表現されている。15世紀末に書かれた『森(Sylvae)』において、ポリツィアーノはボッカッチョが『ダンテ伝』でしたように詩の神聖な起源を強調し、次いでホラティウスの方式に従って、詩が人間を高貴にし、文明の進歩全般に及ぼす影響を述べる[23]。続いて最も古い時代からの詩の進歩を概観し、そうすることで近代最初の文学史を書いたと言える。『森』の第二部は牧歌詩人を論じ、第三部は中世に始まり、ヴィーダらによって続けられ、スカリゲルにおいて文学的神格化となったウェルギリウスの賛美を含み、最終部は叡智の偉大な教師であり、最も賢い古代人であるホメロスに捧げられている。ポリツィアーノはどこにも詩の美的価値への鑑賞を示さないが、偉大な詩人たち、実際には古代文化のあらゆる形態への熱狂は明白であり、膨大な博識と結びついて彼をヒューマニズムの代表的な詩人としている[24]。

一方、芸術に対する純粋主義的な構想は、サヴォナローラによって1492年頃に書かれた論文『すべての学問の区分と有用性について(De Divisione ac Utilitate Omnium Scientarum)』[25]に含まれる詩の擁護において長々と展開されている。真のスコラ的様式で学問を分類し、キリスト教に対する相対的重要度と有用性に応じて順位をつけた後、彼は選ばれた少数の者に限定されない限り、すべての学問を不要かつ危険であると攻撃する。スコラ的配列によれば、詩は論理学と文法とともに分類され、この中世的区分がサヴォナローラの詩的芸術論を決定している。彼は詩の濫用を攻撃するのであって詩そのものではないと明言するが、底の底では創作文学に不寛容であったことは疑いない。プラトンと同じく、すべての時代の道徳改革者と同じく、彼は想像力の自由な遊戯を恐れ、詩を論理学と結びつけることで芸術における想像力の排除に向かっていた。彼の美学体系(もしそれと呼べるなら)の基礎は完全にトマス・アクィナスに依拠している[26]。しかし詩の単なる慣習的な付属物である韻律法を詩の本質と混同してはならないと指摘する点ではアリストテレスに近い。この区別は、彼が最高かつ最も聖なる詩の形態と見なす聖書を擁護するために主張される。彼にとって詩は哲学と思想と同格である。しかし下級の形態の詩に対する不寛容において、彼は理想国家から詩人を追放するプラトンに従おうとする。特に古代詩人の模倣は彼の疑いの対象となり、彼らの崇拝に明け暮れる時代において、彼は彼らの至上性も有用性をも否定する。要するに、改革者として彼はヒューマニストによる文化の異教化に対する宗教的反動を代表している。しかし彼に逆らう勢力は強すぎた。次の世紀にトリエント公会議によって行われた文化のキリスト教化でさえ、ほとんど一時的なものにすぎなかった。古代異教文化の復興を代表するヒューマニズムと、科学と芸術における近代精神の成長を代表する合理主義は、いかに偉大な改革者によっても阻むことのできない潮流であり、古典主義において結びついたとき、数世紀にわたって文学を支配することになる。しかしサヴォナローラとポリツィアーノは、近代文芸批評がまだ始まっていないことを示している。なぜなら、古代と中世に詩に対してなされた異議に対する合理的な回答が現れるまでは、真の意味での文芸批評は根本的に不可能であったからであり、その回答はアリストテレスの『詩学』の回復によって初めて到来したのである。

III 詩の最終的正当化

アリストテレスの『詩学』が古典古代に及ぼした影響は、判断できる限りでは極めて微弱であった。ホラティウス、キケロ、クィンティリアヌスには『詩学』への明白な言及は見られず[27]、中世を通じて完全に忘れ去られていた。その近代への伝達は、ほぼ完全に東方人によるものであった[28]。アリストテレスの論文の最初の東方語訳は、935年頃、ネストリウス派キリスト教徒のアブー・バシャルがシリア語からアラビア語にしたものであるらしい。二世紀後、イスラムの哲学者アヴェロエスが『詩学』の要約版を作成し、それが13世紀にドイツ人のヘルマンなる者によってラテン語に翻訳され、さらに14世紀にはスペインのトルトサのマンティヌスによって再び翻訳された。ヘルマンの訳は中世にかなり流布したようだが、批評文学に追跡可能な影響は一切なかった。ロジャー・ベーコンによって言及され非難されているが、『詩学』はいかなる形であれ、おそらくダンテ、ボッカッチョには知られず、ペトラルカにも一つの曖昧な言及を除いては知られていなかった。16世紀が始まるずっと以前から『詩学』は完全に無視されていたことは疑いがない。この時期の批評思想にはアリストテレス的影響の痕跡は全く見られず、16世紀そのものにおいてさえ、『詩学』は何世紀もの忘却の後にようやく回復されたという明確な印象があった。こうして1549年に『詩学』をイタリア語に翻訳したベルナルド・セーニは「長い間放棄され、軽視されていた」と語り[29]、およそ十年後のベルナルド・タッソは「無知の暗い影に長い間埋もれていた」と述べている[30]。

したがって1498年にヴェネツィアで出版されたジョルジョ・ヴァッラのラテン語訳は、ヴァッラの同時代人にはアリストテレスの新発見の著作として映ったに違いない。学問的成果としてはほとんど成功とは言えないこの訳と、1508年にアルドゥス版『ギリシア修辞学叢書』に掲載されたギリシア語本文は、劇文学には相当な影響を及ぼしたが、文芸批評への直接的影響はほとんどなかった。やや遅れて1536年、アレッサンドロ・デ・パッツィがギリシア語原文付きの改訂ラテン語訳を出版し、このときからアリストテレス的規準の影響が批評文学に顕著に現れるようになった。1548年、ロボルテッリがラテン語訳と博識な注釈付きの初の批判版を刊行し、翌1549年にはベルナルド・セーニによる最初のイタリア語訳が世に出た。その日から今日に至るまで『詩学』の版と訳は無数に増え、アリストテレスの論文にあって無数の注釈者・批評家によって論じられなかった箇所はほとんどない。

ルネサンスが『詩学』に見出したのは、完全とは言えないまでも、詩に対する合理的な正当化であり、想像文学に対するプラトン的・中世的異議のすべてに対する回答であった。詩が現実から逸脱するという主張に対して、アリストテレス[31]は、詩には単なるありふれた事実の現実よりも高次の現実があり、詩は個別的なものではなく普遍的なものを扱い、実際にあったことではなく、ありえたこと、あるべきことを描写することを目指すと論じた。言い換えれば、詩は特定の出来事の現実性にはほとんど関心がなく、永遠の蓋然性の現実性を目指す。アキレウスやアエネアスがホメロスやウェルギリウスが帰するこの行為やあの行為を実際に行ったかどうかは問題ではなく、もしアキレウスやアエネアスが詩人が描写するような人物であったなら、必然的にホメロスやウェルギリウスが描いた通りに振る舞わねばならない。言うまでもなく、アリストテレスはここで単に理念的真理と実際的事実とを区別しているのであり、詩の機能は理念的真理のみを模倣することであると主張することによって、中世的異議への回答の基礎を築いただけではなく、近代美的批評の基礎をも築いたのである。

さらに、詩は道徳の観点からも正当化される。詩は明確に道徳的目的を持つわけではないが、本質的に道徳的である。なぜならそれは人生の理念的表現であり、人間生活の理想化された版は必然的にその道徳的側面を提示するからである。アリストテレスは詩の教訓的機能という伝統的なギリシア的観念と明確に戦っているが、根本的には文学は道徳的でなければならないと主張しており、ユーリピデスを純粋に美学的ではなく道徳的根拠で何度も厳しく非難している。詩が感情を鎮めるのではなく、最も卑しい情念を掻き立て、「干からびるべき感情に水を与え育てるのであり、それらを支配者にしてしまうが、本来は被支配者であるべきだ」[32]という異議に対して、アリストテレスは、理解できる者たちに、詩、特に劇詩は感情を飢えさせるのではなく、喚起してこそ鎮め、調整し、この美的過程において感情を浄化し高貴にすることを教えた[33]。これらの点を指摘することによって彼は詩の有用性を正当化したのであり、詩は歴史よりも真面目で哲学的であると見なし、単なる事実を普遍化し、人生の最も高貴な側面を模倣するからである。

これらの議論はルネサンス批評に取り込まれ、後述するように繰り返し強調され、近代批評文学における詩の正当化の基礎を形成した。同時に、純粋に美学的な芸術観は、16世紀においては、アリストテレスを最も重視しその意味を最もよく理解した者たちにおいてさえ、単独では支配的ではなかった。初期ヒューマニストに見られるホラティウス的要素もまた、精緻化され論じられた。ダニエッロの『詩学』(1536年)では、これらのホラティウス的要素が詩の擁護の基礎となっており[34]、フィリップ・シドニーの『詩の擁護』の諸箇所と著しい類似を示している。詩の古さと高貴さに言及し、他のどの芸術もこれより高貴でも古くもないと断言した後、ダニエッロは、人間が知るすべてのもの、神と自然のすべての秘密が、詩人たちによって音楽的な韻律と絶妙な装飾によって描写されていることを示す。さらにホラティウスの方式で、詩人たちが生活の諸芸の発明者であったと主張し、実際には哲学者たちがそれを行ったという異議に対しては、教えることは詩人よりも哲学者に相応しいが、詩人たちもはるかに多くの方法で、はるかに愉悦的に哲学者よりも教えると示す。彼らは有用な教えをさまざまな虚構と寓話のヴェールの下に隠し、医師が苦い薬を甘い糖衣で覆うようにする。哲学者の文体は乾燥して不明瞭で、それ自体として力も美もない。詩の愉悦的な教えは、哲学の抽象的で苛烈な教えよりもはるかに効果的である。実際、詩は原始人が持っていた唯一の哲学の形態であり、プラトンは自らを詩人の敵と見なしつつ、実際には偉大な詩人であった。なぜなら彼は驚くほど調和的な韻律で、言葉とイメージの偉大な輝きをもってすべての思想を表現しているからである。ダニエッロのこの擁護は、16世紀を通じてこの種の弁護の一般的な形を先取りしている点で興味深い。

同様に、ミントゥルノは『詩人について』(1559年)において、ホラティウス的示唆を展開して詩の擁護を行う。彼はまず詩の広大な包摂性を指摘し、詩は人間のあらゆる学問を自らの中に包含すると言ってよく、最初の詩人たちの前にいかなる学問も見出せず、いかに野蛮な民族であっても詩を嫌ったことはないと示す。ヘブライ人は韻文で神を讃え、ギリシア人、イタリア人、ゲルマン人、ブリテン人はみな詩を尊び、ペルシアにはマギが、ガリアにはバルドがいた。韻文は詩の本質ではないが、詩に多くの愉悦的な効果を与え、神々が語るときは確かに韻文で語り、原始時代にはすべての学問、歴史、哲学が韻文で書かれた[35]。

中世を超えて存続した想像文学に対する伝統的異議に答えることは、ルネサンスにとっては、プラトンの対話篇で提起されたより哲学的な異議に答えることよりも簡単な課題に思われた。ルネサンス期におけるプラトンの権威は、『国家』その他で彼が述べた論拠を軽視することを不可能にした。この時期の著者たちは特に、プラトンが理想的国家から詩人を追放した理由を反駁するか、少なくとも説明しようと熱心であった。ベルナルド・タッソ[36]やダニエッロ[37]のような批評家は、プラトンは詩そのものに対してではなく、詩の濫用に対して論じたのだと主張した。こうしてタッソによれば、理想国家から排除されるのは不純で女性的な詩人にすぎず、ダニエッロによれば、より不道徳な悲劇詩人、特に猥褻で風刺的な喜劇の作者たちだけである。その他のルネサンスの著者たち、たとえばミントゥルノ[38]やフラカストーロ[39]は、より哲学的な根拠でプラトン的異議に答えた。こうしてフラカストーロは、詩は理念的真理から三段階離れているから詩人は模倣しようとする現実について根本的に無知であるというプラトンの非難に対し、詩人は韻律作者として、言語に熟達している限りにおいて確かに自分が語っていることについて無知であり、哲学者や歴史家も言語に熟達している限りにおいて自然的事実や歴史的事実について無知であるが、学識ある限りにおいて、それらの事実を知り、自然と歴史の問題を思考している、と指摘して答える。詩人も哲学者や歴史家と同じく、何かを教えるためには知識を備えていなければならず、彼もまた書こうとするものを学び、人生と思想の問題を解かなければならず、哲学的・歴史的訓練を受けていなければならない。プラトンの異議は、詩人に対してだけでなく、哲学者、雄弁家、歴史家に対しても同等に適用される。プラトンの第二の非難、すなわち想像力は自然に最悪のものへと向かい、詩人は猥褻かつ冒涜的に書くという点については、フラカストーロはそれは芸術の過ちではなく、それを濫用する者の過ちであり、不道徳で人を弱らせる詩人は確かに存在し、彼らはプラトンの国家だけでなくあらゆる国家から排除されるべきである、と指摘する。こうしてさまざまなアリストテレス的・ホラティウス的要素が組み合わされ、明確なルネサンス批評の体系が形成された。

脚注
[1] 『見世物について』23
[2] 同上、22
[3] 『区別』iii. 13, 1
[4] 『見世物について』15。cf. キプリアヌス『ドナトゥスへの書簡』8
[5] cf. ボザンケ『美学史』148頁
[6] cf. アウグスティヌス『告白』v. 14, vi. 4;クレメンス・アレクサンドリヌス『雑録』v. 8
[7] 『著作集』867頁
[8] cf. ダンテ『書簡』xi. 7;『宴』ii. 1, 1
[9] ベルニ、226頁以下
[10] ペトラルカ『著作集』1205頁;cf. ボッカッチョ『神々の系譜』250頁、v
[11] ウッドワード『ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ』132頁
[12] 同上、175頁
[13] 『語源』viii. 7, 5
[14] 『政略論』i. 8
[15] ムーア『ダンテとその初期伝記作者たち』ロンドン、1890年、173-174頁
[16] 『詩論』391(ロスコモン訳)
[17] 『蛙』1030以下
[18] 『詩の擁護』クック校訂版、5頁
[19] ウッドベリー「詩の新擁護」『人の心』ニューヨーク、1899年、76頁
[20] ウッドワード、182頁以下
[21] 同上、131頁
[22] 同上、150頁
[23] ポープ『選詩集』ii. 108;cf. 『詩論』398
[24] cf. ガスパリー、ii. 220
[25] ヴィッラーリ、501頁以下、およびペランス、ii. 328頁以下
[26] cf. カルティエ「サヴォナローラの美学」ディドロン『考古学年報』1847年、vii. 255頁以下
[27] エッガー、209頁以下
[28] 同上、555頁以下
[29] セーニ、160頁
[30] B. タッソ『書簡集』ii. 525。同じくロボルテッリ1548年「この書はわれわれの時代に至るまでほぼ完全に無視されていた」
[31] 『詩学』ix
[32] プラトン『国家』x. 660
[33] 『詩学』vi. 2;『政治学』viii. 7
[34] ダニエッロ、10頁以下
[35] 『詩人について』13頁以下
[36] 『書簡集』ii. 526
[37] 『詩学』14頁以下
[38] 『詩人について』30頁以下
[39] 『著作集』i. 361頁以下

第二章 イタリア・ルネサンスにおける詩の一般理論

ストラボンは『地理誌』第一巻において、詩を次のように定義している。「詩とは、人生にわれわれを早く導入し、性格・感情・行為について愉悦的な教えを与える、ある種の初歩的哲学である。」この一節は、ルネサンスの詩論の基調を鳴らしている。詩はそこにおいて哲学の一形態であるとされ、しかもその主題は人生であり、その目的は愉悦的な教えであると述べられている。

I 詩をスコラ哲学の一形態と見なす考え

まず第一に、詩は哲学の一形態である。サヴォナローラは詩を論理学・文法と同列に置き、詩を作為するためには論理学の知識が不可欠であると主張していた。諸学問の区分と各々の相対的重要度とは、中世を通じて無限のスコラ的論議の源であった。アリストテレスはまず弁証術(論理学)、修辞学、詩学を同一の「能動的哲学」の範疇に置いた。しかしアヴェロエスがおそらく最初に詩学の機能を論理学のそれと混同し、前者を後者の下位区分あるいは一形態としたのであり、この分類は中世のスコラ哲学者たちに受け容れられたようである。

人間の知識体系における詩の位置に関するこの構想は、ルネサンスを通じて見出される。こうしてロボルテッリは1548年のアリストテレス『詩学』註釈において、通常のスコラ的区別を述べている。すなわち、書かれたり語られたりする言葉(oratio)の諸形態として、

  • 証明的なもの(真実を取り扱う)
  • 弁証的なもの(蓋然的なものを扱う)
  • 修辞的なもの(説得的なものを扱う)
  • 詩的なもの(虚偽または寓話的なものを扱う)[40]

「虚偽」または「寓話的」とは、詩の主題が実際的事実ではなく、事物がそうあるべき姿で扱われることを意味するにすぎない。ヴァルキは1553年の詩に関する公開講義において、哲学を実在的哲学と理性的哲学の二種に分ける。実在的哲学は事物を扱い、形而上学・倫理学・物理学・幾何学などを含む。一方、理性的哲学は論理学・弁証術・修辞学・歴史・詩・文法を含み、事物ではなく言葉を扱い、哲学そのものではなく哲学の道具である。したがって詩は厳密に言えば芸術でも学問でもなく、道具または能力であり、規則と訓戒に還元されるという意味でのみ芸術である。それは実際には論理学の一形態であり、ヴァルキによれば、論理学者でなければ詩人にはなれず、論理学者であるほど優れた詩人となる。論理学と詩は対象と道具において異なる。論理学の対象は証明的三段論法によって到達される真理であり、詩の対象は例証(example)と呼ばれる三段論法の形態によって到達される虚構または発明である。ここではアリストテレスが修辞学の道具としたエンテュメーマ(例証)が詩の道具となる。

この分類は、パドヴァその他におけるアリストテレス派の学派において、ザバレッラやカンパネッラに至るまで存続した。1564年から1589年までパドヴァで論理学、後に哲学の教授であったザバレッラは、1578年に刊行された論理学の本性に関する論文において、アヴェロエスの詩学は論理学の一形態であるという理論を詳しく説明している[41]。彼は結論として、論理学と詩学の二つの能力は哲学全般の道具ではなく、その一部分の道具にすぎず、知識よりも行為に関わるものであり、すなわちアリストテレスの「能動的哲学」の範疇に入るとする。それらは自己を善くするための有用な技術や道徳哲学の道具ではなく、他者を善くするための市民哲学の道具である。もしそれらが善と悪の両方に関するものである([Greek: ton enantion])と異議を唱えるならば、その本来の目的は善であると答えられる。こうして『饗宴』では真の詩人が讃えられ、『国家』では快楽を目的とし聴衆を腐敗させる詩人たちが非難され、アリストテレスは悲劇の定義において、悲劇の目的は情念を浄化し、人間の道徳を矯正することである(affectiones animi purgare et mores corrigere)と言う。

ザバレッラよりもさらに遅れて、カンパネッラの『詩学』にも、サヴォナローラやヴァルキに極めて類似した学問の区分が見られる。そこでは中世の伝統に従って神学がすべての知識の頂点に置かれ、詩学は弁証術・文法・修辞学とともに論理的学問に分類される。アリストテレスの別の註釈者であるマッジ(1550年)は、詩学を哲学の一形態と見なして、その諸相を区別することに大いに努めている。poetica は詩を作為する技術、poesis はこの技術に従って作られた詩、poeta は詩の作者、poema は詩の単一の標本である[42]。この区別はプルタルコスとアフトニウスの二つの箇所の精緻化である。

II 詩を人生の模倣と見なす考え

第二に、本章冒頭に引用したストラボンの一節によれば、詩はわれわれを早く人生に導入する、言い換えればその主題は人間の行為であり、アリストテレスが呼ぶところの人間生活の模倣である。これにより二つの異なる問題が生じる。第一に、模倣とは何を意味するか。第二に、人生の何がこの模倣の対象となるか。

ルネサンスの批評家たちが抱いた模倣の概念は、『詩学』第九章にアリストテレスが表現したものである。その箇所は次の通りである。

「以上述べたことから明らかなように、詩人の職分は実際に起こったことを語ることではなく、起こりうること、すなわち蓋然性または必然性の法則に従って可能であることを語ることである。詩人と歴史家とが韻文で書くか散文で書くかによって異なるのではない。ヘロドトスの著作を韻文にしても、それは韻律の有無にかかわらずやはり歴史の一種であろう。真の相違は、一方が実際に起こったことを語り、もう一方が起こりうることを語る点にある。ゆえに詩は歴史よりも哲学的であり、より高尚なものである。詩は普遍的なものを表現する傾向があり、歴史は個別的なものを扱うからである。普遍的とは、ある性格を持つ人物が、ある場合に、蓋然性または必然性の法則に従って、どのように語り、どのように行動するかを語ることである。そして詩が人物に表現的な名を与えるとき、詩が目指すのはまさにこの普遍性である。」

この箇所においてアリストテレスは、普遍的に有効と見なされうる理念的模倣の概念を簡潔に定式化しており、それが繰り返し繰り返され、ルネサンス批評の基礎となった。ダニエッロの『詩学』(1536年)には、近代文芸批評におけるアリストテレスの理念的模倣概念への最初の言及が見られる。ダニエッロによれば、詩人は歴史家と異なり、事実と虚構を混ぜることができる。なぜなら詩人は歴史家のように、事物が実際にそうであった、あるいはそうであるように描写する義務がなく、むしろそうあるべき姿で描写するからであり、この点において詩人は歴史家と最も異なり、韻文を書くことにあるのではない。たとえリウィウスの著作が韻文化されても、やはり以前と変わらず歴史であるからである[43]。これはもちろんアリストテレスの箇所のほぼ言い換えである。しかしダニエッロがアリストテレスの理念的要素を完全に理解していなかったことは、彼が歴史家と詩人の間に引くさらなる区別によって示される。すなわち両者は多くの点で共通であり、場所・民族・法律の描写があり、悪徳と美徳の表現があり、増幅・多様性・余談が適切であり、両者とも同時に教え、喜ばせ、益する。しかし歴史家は出来事を起こった通りに正確に語り、何も付け加えないのに対し、詩人は虚構の出来事が真理の外観を持つ限り、望むものを何でも付け加えることが許される点で異なる。

やや遅れてロボルテッリは、美的模倣の問題を別の観点から扱う。詩人は事物をそうあるべき姿で扱うが、実際の事実を取り入れることも、素材を発明することもできる。前者の場合、真実を実際に起こった通りではなく、起こりえた、あるいは起こるべきであったように語り、後者の場合は可能性・必然性・蓋然性と真実らしさの法則に従って発明しなければならない[44]。こうしてクセノフォンはキュロスを描写するにあたり、彼が実際にそうであったのではなく、最良かつ最も高貴な王がそうありうる、あるいはそうあるべき姿で描き、キケロも雄弁家を描写するにあたり同じ方法に従う。ここから詩人は自然の秩序を超えたものを発明しうることが明らかだが、そうする場合は起こりえた、あるいは起こるべきであったものを描写すべきである。

ここでロボルテッリは、アリストテレスの詩人は可能で真実らしいもののみを扱うという主張に対する可能な異議に答えている。ホメロスが描くように神々がアンブロシアを食べ、ネクタルを飲むことが可能かつ真実らしいか、ウェルギリウスに見られるようにケルベロスがいくつもの頭を持つことが可能か、その他多くの詩人に現れる種々の非蓋然的なことはどうか。このような異議に対する答えは、詩人は二通りに発明できるということである。自然に従ったものと自然を超えたものである。前者の場合は蓋然性と必然性の法則に適合しなければならず、後者の場合はアリストテレス自身が述べ、paralogism(類推的推論)と呼ぶ手続きに従って扱われる。これは必ずしも誤った推論ではなく、知らない事物は知っている事物と同じ法則に従うという、自然ではあるが決定的ではない論理的推論である。詩人は人々の共通観念から神々の存在を受け容れ、これらの神々に関する一切をこのparalogismの体系に従って扱う。悲劇と喜劇では人間は自然の通常の出来事に従って行動するよう描写されるが、叙事詩では完全にそうではなく、驚異的なものが許容される。したがって驚異的な要素は叙事詩において最も広い範囲を持ち、われわれ自身の時代に最も近いものを扱う喜劇では全く許容されるべきではない。

しかし引用した『詩学』の箇所は別の問題をも示唆する。アリストテレスは模倣こそが詩の試金石であり、韻律ではないと言い、たとえ歴史が韻文化されてもやはり歴史のままであると言う。すると散文で、すなわち韻律を用いずに模倣する書き手は詩人の称号に値するのかという疑問が生じる。ロボルテッリはこの問いに、韻律は詩の本性・力・本質を構成せず、詩の本質は完全に模倣の事実にかかっていると指摘して答える。しかし同時に、韻律を用いずに模倣する者は詩人ではあるが、最良かつ最も真実な詩においては模倣と韻律が結合されている[45]。

フラカストーロの『ナウゲリウス、あるいは詩学対話』(1555年)には、アリストテレスの模倣概念における理念的要素に関する最も完全な説明がある。アリストテレスによれば詩人は他の書き手と異なり、後者は単なる個別的なものを考慮するのに対し、詩人は普遍的なものを目指す。言い換えれば、彼は事物の単純かつ本質的な真理を、裸のままの事物としてではなく、すべての美をまとった事物のイデアを描写しようとしている[46]。ここでフラカストーロはプラトン的な美の概念の助けを借りてアリストテレス的な類型(type)の概念を説明しようとしている。実際、ルネサンスには美に関する三つの概念が広く行われていた。

  1. 純粋に客観的な概念:詩は固定されたまたは形式的なものであり、円形・方形・直線性といった一定の機械的・幾何学的な形式に近づくことにある。
  2. プラトン的な概念:美的というより倫理的で、美を善と結びつけ、両者を神の力の顕現と見なす。
  3. より純粋に美学的な美の概念:美を優雅さや適合性、あるいはより高次の意味で対象に相応しいものと結びつける。

最後の考えは、時に近代的な概念、すなわち美は特定の対象の本性的性格の実現とその存在の法則の成就にあるという考えに近づき、ギリシア修辞家ヘルモゲネスの『イデア』から由来したと思われ、その影響は16世紀に相当なもので、フィレルフォの時代からすでにあった。しかしヘルモゲネスを16世紀に普及させたのは、ジュリオ・カンミッロであり、彼は『イデア』をイタリア語に翻訳し、1544年に死後刊行された講義で解説した。

フラカストーロの美の概念は、前述のプラトン的およびより純粋に美学的な教説の両方に近接しており、彼はこの美学的概念を次のように展開・精緻化する。各芸術にはそれぞれの適切な表現の規則がある。歴史家や哲学者は表現のすべての美や優雅さを目指すのではなく、歴史や哲学に相応しいもののみを目指す。しかし詩人にはいかなる優雅さ・装飾・飾りも決して異質ではなく、彼は特定の分野の個別的な美、すなわちアリストテレスの言う単一的・個別的なものではなく、単純な美のイデアと美しい言葉に関するすべてのものを考慮する。しかしこの普遍化された美は外来的なものではなく、田舎者に金色の外套を着せるように、そこに場所のない対象に付け加えることはできない。各類のすべての本質的な美こそが詩人の特別な関心事である。なぜなら人物や事物を模倣するにあたり、彼はそれらに帰しうる美や優雅さを一つも見逃さず、最も美しく最も優れたもののみを追求し、この方法で人間の精神を卓越と美の方向へ動かすからである。

これはアリストテレスの理念的模倣概念の根底にある問題を示唆する。そしてフラカストーロの高い功績は、ルネサンスの著者のうちで最初期にこの異議を解消し、アリストテレスが本当に意味したことを最も完璧な形で定式化したことである。たとえ詩人が他の者よりも多く教えるとしても、事物そのものに属するものではなく、彼が付け加える美、すなわち事物そのものに外来的な装飾(extra rem)が詩人の主な関心事ではないかと異議を唱えることはできないか。しかし結局、extra rem とは何か。茅葺き屋根で雨や霜から守られれば十分なのに、美しい柱・ドーム・ペリスタイルは extra rem か。粗末な衣装で十分なのに高貴な衣装は extra rem か。詩人は模倣する事物に外来的なものを付け加えるどころか、それらをその本質において描き出す。そして彼こそが事物に真の美を見出し、それらに真の高貴さと完全性を帰するからこそ、他のどの書き手よりも有用である。詩人は一部の者が考えるように虚偽や非現実を扱うのではない[47]。彼は真理に明らかに異質なものを仮定することはなく、検証できない古い曖昧な伝説や、外見・寓意的意味(古代神話や寓話など)・人々の共通の受容によって真と見なされるものを扱う自由は許される。こうして韻文を用いるすべての者が詩人ではなく、真の事物の美、すなわち単純かつ本質的な美(単なる見せかけのものではない)によって動かされる者こそが詩人である。これがフラカストーロの結論であり、そこにはやや遅れてタッソやフィリップ・シドニーに見られるプラトン主義とアリストテレス主義の融合が含まれている。フラカストーロの対話の主要な功績は、このプラトン的要素を強調しつつも、美的模倣における理念的要素を明確に区別し定義した点にある。

ほぼ同時期、ヴァルキの公開講義(1553年)において、アリストテレスの悲劇の定義[48]に基づいて詩のより明確な定義を定式化しようとする試みがあった。ヴァルキによれば、詩とは、歌・言葉・調和によって、併用または別々に、特定の行為・情念・心の習性を模倣し、人間の悪徳を除き、徳へと駆り立て、真の幸福と至福に達せしめるためのものである[49]。まず第一に、詩は模倣である。すべての詩人は模倣し、模倣しない者は詩人と呼ばれえない。したがってヴァルキはマッジに従って詩人を三種に分ける。

  • 第一に本来的な詩人:韻文で模倣する者
  • 第二に韻文を用いずに模倣する詩人:ルキアノス、『デカメロン』のボッカッチョ、『アルカディア』のサンナッツァーロなど
  • 第三に通例であるがより不適切に詩人と呼ばれる者:韻文を用いるが模倣しない者

韻文は詩の本質的属性ではないが、一般的には要求される。アリストテレスによれば、人間の調和への本来的な愛が詩的創作の原因の一つであったからである。しかし悲劇のような特定の詩の形態は韻文なしには書けない。なぜならアリストテレスが与えた悲劇の定義そのものに「装飾された言語」、すなわち韻文が含まれているからである。

散文で詩を書くことができるかという問題は、ルネサンスにおいて多くの議論の源であった。しかし散文劇に対する意見の総意は圧倒的に否定的であった。この時期のイタリアの通常の慣行は散文喜劇であり、さまざまな学者[50]は理論的根拠からさえその慣行を是認している。しかし論争が頂点に達したのは1592年にアゴスティーノ・ミケーレの『喜劇と悲劇を散文で書くことが可能であることを示す論考』の刊行まで待たねばならなかった。そして8年後の1600年、パオロ・ベーニはラテン語の論文『喜劇および悲劇を韻律の枷から解放する方が優れていることを示す論争』を刊行した[51]。ベーニの論文の言葉は強硬で、その表題そのものが劇を韻律の枷から解放すると語っており、1830年のフランス・ロマン主義者でさえ革命的と思われるほどのこの異端に対して、16世紀はまだ完全に準備ができていなかった。同じ年にベーニに答えたファウスティーノ・スンモは、悲劇と喜劇を散文で書くことは不適切であるだけでなく、いかなる形態の詩も韻文の伴わない限り正当に作られることはできないと主張した[52]。この論争全体の結果は、古典主義の全期間を通じて劇の韻文的形態を固定することとなった。しかしすべての詩の形態に対して同じ結論がすべての人に受け容れられたわけではないことは言うまでもない。セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』における叙事詩は散文でも韻文でも書けるとの言葉はよく知られており、ユリウス・カエサル・スカリゲル[53]はヘリオドロスのロマンスを模範的叙事詩と呼んでいる。

しかしスカリゲルは韻文を詩の根本的部分と見なす。彼にとって詩と歴史は叙述と装飾の形態を共通に持つが、詩は真実なものに虚構を付け加えるか、実際のものを虚構のものによって模倣する点で異なる。より大きな装い(majore sane apparatu)、すなわちとりわけ韻文によってである。この概念の結果としてスカリゲルは、ヘロドトスの歴史が韻文化されたなら、もはや歴史ではなく歴史的詩になると主張する。理論的にはいかなる場合にも詩と単なる韻文化との分離を許さない。したがって彼はこの時期の通例の議論、すなわちルカヌスは詩人ではなく歴史家であるという議論を軽蔑して退ける。「実際の歴史を取ってみよ」とスカリゲルは言う。「たとえばルカヌスはリウィウスとどう異なるか。韻文を用いる点で異なる。では彼は詩人である。」詩とはすなわち韻文による模倣である[54]。しかしそうあるべきものを模倣することによって、詩人はもう一つの自然と別の運命を創造し、あたかももう一人の神であるかのようである[55]。

これらの議論からわかるように、ルネサンスは常にこの理念的な意味で美的模倣を構想していた。この時期の文芸批評には、近代的な意味での現実主義の痕跡はほとんどない。トルクァート・タッソは確かに芸術は自然に最も近づくほど最も完全になると言い[56]、スカリゲルは劇詩人は何よりも人生の実際の状況を再現することを目指さねばならないと宣言する[57]。しかしここで批評家たちが語っているのは現実の外見であり、単なる現実そのものではない。中世文学の膨大な量を前にして、不可能性が不可能性の上に積み重なり、現実感が絶えず曖昧になる中で、ルネサンスの批評的著者たちは蓋然性の要素、人生の見せかけの現実に近づく要素に特別な強調を置かざるをえなかった。しかしそれにもかかわらず、彼らにとって人生の模倣とは、事物がそうあるべき姿の模倣、言い換えれば理念的模倣であった。ムツィオは自然は芸術によって飾られると言う。

「自然はしばしば粗野な作品を作り、
 それを芸術の手に委ねて飾り、磨かせる。」[58]

そして詩人は正確な肖像、単なる人生の現実性に満足していてはならないとはっきりと断言する。

「真実は歴史に任せ、君の詩においては
 個別の名の下に全人類に対して
 何を為し、何を為さざるべきかを示せ。」

この芸術の理念化された概念と一致して、ムツィオは猥褻または不道徳なものはすべて詩から排除されねばならないと主張し、この芸術の純粋主義的観念はルネサンス批評の至るところで強調される。この時期の著者たちが特に主張したのは、言われたように verisimile(真実らしさ)であった。詩は真理の外見を持たねばならず、すなわち蓋然的でなければならない。読者が読むものを信じなければ、詩によってその精神を動かすことはできないからである[59]。これはボワローの有名な一行を先取りしている。

「精神は信じないものによって動かされることはない。」[60]

しかし verisimile を超えて、詩人は倫理的要素(il lodevole e l’onesto)に特別な注意を払わねばならない。16世紀の詩人パリンゲニウスは、すべての詩に要求される三つの性質があると言う。

「知るべきは、善には三つの種類があること、
 有用なもの、愉悦的なもの、そして両者を凌ぐ高貴なものである。」[61]

詩とは、したがって人生の理念的表現である。しかしさらに限定され、人間生活のみの模倣とされるべきか。言い換えれば、人間の行為のみが詩の唯一可能な主題か、それとも『農耕詩』や『物の本性について』のように、外部の自然や科学の諸事実で、人間生活と間接的にしか結びつかないものを扱ってもよいか。詩は人の生活だけでなく世界の生活をも扱いうるか。そして後者のみに限定されるなら、人間の行為に制限されるか、それとも彼らの情念・感情・性格をも描きうるか。要するに、外部の自然と人間の魂の内部的働きは、どこまで詩の主題と見なされうるか。アリストテレスは詩は人間の行為を扱うと言うが、「行為」という言葉をルネサンスの多くの批評家が信じたよりも広い意味で用いている。その真の意味は現代の著者によって次のように説明される。

「理性的な人格を表す一切、精神生活を明らかにする一切は、この広い意味での行為に含まれる……この言葉は実質的に [Greek: ethe](性格)、[Greek: pathe](情念)、[Greek: praxeis](行為)に等しい……すべての芸術が汲む共通の源は人間生活である。その精神的過程、霊的運動、より深い源から発する外的な行為、要するに魂の本質的・内的な活動を構成する一切である。この原理によれば、風景や動物は美的模倣の対象に数えられない。全宇宙が芸術の原材料と構想されるわけではない。アリストテレスの理論は、古典期のギリシア詩人・芸術家の慣行と一致しており、彼らは外部世界を行為の背景としてのみ導入し、それが人間生活に感情的要素として入り、人間的興味を高める限りにおいてのみ導入する。」[62]

アリストテレスははっきりと、「医学や自然哲学の論文が韻文で書かれても、その作者を通例詩人と呼ぶ。しかるにホメロスとエンペドクレスとは素材以外に共通点がなく、前者は正当に詩人と呼ばれ、後者は詩人ではなく自然学者と呼ばれる」と言う[63]。

このアリストテレス的教説はルネサンスにおいてさまざまに解釈された。たとえばフラカストーロは、人間生活の模倣のみでは詩の試金石とはならないと主張する。そんな試金石ならエンペドクレスとルクレーティウスを排除し、ウェルギリウスを『アエネイス』では詩人とし、『農耕詩』では詩人としないことになる。ホラティウスが言うように、詩的に扱われるならすべての主題が詩人の適切な素材である。人間と女性の模倣がわれわれ人間にとってより重要に見えても、人間生活の模倣が詩人の目的であるということは、他の何かの模倣が目的であるということよりも多くない[64]。フラカストーロの議論のこの部分は弁護的と呼べる。なぜなら人間の行為の模倣を詩の試金石とすれば、彼自身の詩のほとんど、たとえばアリストテレスの影響が創作文学の単なる外部的形式にしか及んでいなかった1529年の有名な『フランス病について』などが排除されるからである。フラカストーロにとって、詩的に扱われたすべてのものは詩となり、アリストテレス自身が言うように[66]、正しく模倣されたものはすべて愉悦的となる。したがって単なる韻文の構成ではなく、プラトン的な陶酔、事物の真の本質的な美への喜びこそが、フラカストーロにとって詩的才能の試金石である。

一方ヴァルキは、「行為」すなわち詩の主題を、人間の単なる外部的行為だけでなく情念と心の習性をも含むものとして、よりアリストテレスに忠実に構想する。情念とは特定の瞬間にわれわれを行為へと駆り立てる精神の動揺([Greek: pathe])を意味し、心の習性とはある人間やある人間の階級を他の者から区別する精神的性質([Greek: ethe])を意味する。人間生活の感情的・内省的な側面を排除すれば、すべての抒情詩、実際にはすべての主観的詩が詩の領域から除外されることになり、ペトラルカが崇拝された時代において、詩の主観的な側面が正当化されることは不可欠であった[67]。ヴァルキにはまた詩と絵画の芸術との最も興味深い比較がある[68]。その区別の基礎はホラティウスの「ut pictura poesis」(絵のように詩もまた)であり、プルタルコスに残されたシモニデスの類比に基づくことは疑いない。そして絵画を無言の詩、詩を言語による絵画と見なすこの区別は、レッシングの時代に至るまでルネサンス批評のほぼ基調と見なされうる。

カプリアーノの『真の詩学について』(1555年)において、詩はすべての芸術のうちで最高の位置を与えられる。なぜなら詩は単に行為や単一の感覚の対象を扱うだけでなく、すべての感覚または理解可能な対象を模倣しうるからであり、「われわれの善の真の養育者であり愛好者」だからである[69]。すべての感覚的・理解可能な対象はさまざまな芸術によって模倣されうる。より高貴な模倣的芸術はより高貴な感覚の対象に関わり、より低級な芸術は味覚・触覚・嗅覚の対象に関わる。詩は他のすべての芸術の能力と力を自らの中に包含し、実際には何ものをも模倣しうる、たとえば獅子の形・色・猛々しさ・咆哮などを、最も優れた芸術である。なぜならそれは最も効果的な模倣の手段、すなわち言葉を用い、特にそれらが韻律の追加の美と力を受けるからである。したがってカプリアーノは詩人を二種に分ける。自然の詩人(自然の事物を描写する者)と道徳的詩人(叙事詩人や悲劇詩人のように道徳的教訓を提示し、人生の用法を示すことを目指す者)であり、後者が前者を凌ぐ。

しかしすべてのものが詩的模倣の対象であるなら、詩人は一切を知っていなければならず、自然と人生を研究していなければならず、したがってリオナルディは1554年の詩的模倣に関する対話において、優れた詩人であるためには優れた歴史家・優れた雄弁家・優れた自然および道徳哲学者でなければならないと言う[70]。ベルナルド・タッソは、詩の技術の徹底した知識は、アリストテレスの『詩学』の研究と、哲学および諸芸術・諸学問の知識と、広大な世界経験との結合によってのみ得られると主張する[71]。ヒューマニズム的傾向を持つルネサンスは、博学と天才とを区別することに決して完全に成功しなかった。スカリゲルは確固とした学識から生じるものは詩において決して場違いにならないと言い、フラカストーロ(1555年)とトミターノ(1545年)はともに、優れた詩人および優れた雄弁家は本質的に学識ある学者・哲学者でなければならないと断言する。スカリゲルはしたがって詩人を三種に分ける。

  1. 神学的な詩人(オルフェウスやアンピオン)
  2. 哲学的な詩人(二種:自然の詩人=エンペドクレス、ルクレーティウスなど、道徳的詩人=さらに政治的=ソロン、テュルタイオスなど、経済的=ヘシオドス、一般的=ポキュリデスなど)
  3. 人間生活を模倣する普通の詩人[72]

最後の者はルネサンスの通常の分類に従って劇的・叙述的・共通または混合に分けられる。スカリゲルの分類はフィリップ・シドニーに用いられ[73]、ミントゥルノにも極めて類似した下位区分が見られる[74]。

カステルヴェトロの『詩学』註釈(1570年)の扱いは、時に他の多くのルネサンス著者よりも真のアリストテレス的構想にずっと近い。韻文は詩の本質ではないとアリストテレスに従いながらも、散文で模倣した作品を詩と分類することはアリストテレス自身が意図したわけではなく、ヘレニズム芸術の慣行ではなかったことを示す。散文は模倣的・想像的な主題に適さず、散文で扱われる主題は実際の事実であると期待されるからである[75]。「韻文は詩を区別するのではなく、それを衣装し装飾する。詩を散文で、歴史を韻文で書くことは、女性が男性の衣装を用い、男性が女性の衣装を着るのと同じくらい不適切である」[76]。したがって詩の試金石は韻律ではなく素材である。これはアリストテレスの見解に近い。模倣こそが詩的芸術を特徴づけるが、アリストテレスはそれを人間生活の模倣に限定することによって、結局は素材を詩の試金石としていたからである。

しかしカステルヴェトロは異なる根拠からこの結論に到達する。彼は学問を詩の適切な素材とは見なさず、したがってルクレーティウスやフラカストーロは詩人ではない。彼らは優れた芸術家か優れた哲学者かもしれないが、詩人ではない。詩人は自然の真理を発見しようとするのではなく、人間の行為を模倣し、この模倣によって聴衆に喜びを与えようとするからである。しかも詩は、後述するように、民衆、無垢な大衆に喜びを与えることを意図しており、学問や芸術は彼らにとって死文だからである[77]。これらが詩の適切な主題であると認めるなら、詩は喜びを与えることを意図していないか、普通の人々のためではなく、学問や芸術に通じた者だけのために意図され、教えるためのものとなる。しかも詩と歴史を比較すると、多くの点で似ているが同一ではない。詩は歴史の足跡を追うが、歴史は起こったことを扱い、詩は蓋然的なものを扱う点で異なる。そして起こったことでも蓋然的なものは、詩においては蓋然的なものとしてではなく、常に起こったこととして扱われる。したがって歴史は真実らしさや必然性を顧慮せず、真実のみを顧慮し、詩は真実を顧慮できないから、主題の蓋然性を真実らしさと必然性において確立しなければならない。カステルヴェトロはルネサンスのほとんどの批評家と同様に、理念的真理の完全な意味を誤解しているようである。ルネサンスにとって、いやシェイクスピアにとっても(彼が劇中人物の口に置いたさまざまな言葉を彼自身のものと見なすなら)、真理は事実と一致するものと見なされ、蓋然性と必然性の法則に従属していても実際の事実でないものは決して真理と呼ばれなかった。

歴史と詩の関係に関するこの構想と一致して、カステルヴェトロはアリストテレスだけでなく同時代のほとんどの批評家とも異なり、詩的叙述の順序は歴史的叙述の順序と同じでもよいと主張する。「物語を語るにあたり、それが始まり・中間・終わりを持つかどうかを気にする必要はなく、それが真の目的、すなわち実際に起こらなかったが起こりうる特定の状況の叙述によって聴衆を喜ばせることに適合しているかどうかだけを気にする必要がある」[78]。ここで歴史と詩の唯一の本質的な区別は、歴史に語られる出来事はかつて起こったが、詩に語られる出来事は実際に起こったことがなく、そうでなければ詩とは見なされないという点にある。アリストテレスの神話の統一という根本的要求は本質的でないと見なされ、単に詩人の独創性を示すために守られるにすぎない。詩的独創性のこの概念はカステルヴェトロの註釈全体を通じて一貫している。こうして彼はアリストテレスの詩は歴史よりも哲学的であるという主張(カステルヴェトロによれば、より多くの思考、より多くの思索をその構成に要求するという意味で哲学的である)を、起こりうるものを発明する方が実際に起こったものを繰り返すよりも困難で独創的な労苦であることを示すことによって説明する[79]。

III 詩の機能

ストラボンの言葉を思い出せば、詩の目的あるいは機能は、性格・感情・行為に関する愉悦的な教えである。これにより、詩的芸術の機能とは何か、さらにそれが道徳とどのような関係にあるかという問いが生じる。この主題に関するルネサンスのすべての議論の出発点は、ホラティウスの有名な一行であった。

「詩人は役に立つことを欲するか、楽しませることを欲するかである。」[80]

この一行は、詩の機能が楽しませることであるか、教えることであるか、あるいは両方を兼ねることであるかを示唆しており、ルネサンスのすべての著者はこの三つの立場の一つを取っている。

アリストテレスは、われわれが知るように、詩を人間生活の模倣であり、読者または聴き手に一定の洗練された愉悦を与えるためのものと見なした。「美術の目的は愉悦([Greek: pros hedonen])を与えること、あるいは理性的な享楽([Greek: pros diagogen])を与えることである。」[81] すでに述べたように、詩は人間生活の模倣であり、その理念的側面において人間生活に忠実であろうとする限り、根本的に道徳的でなければならない。しかし道徳的または学問的な教えを与えることが詩の目的や機能であるわけでは決してない。ルネサンスは、詩に dulce(甘美)だけでなく utile(有用)をも要求する点で、概ねアリストテレスよりもホラティウスに近いことがわかる。

世紀の最も初期の批評家のひとりであるダニエッロにとって、詩人の機能は教えることと楽しませることである。雄弁家の目的が説得することであり、医者の目的が治療することであるように、詩人の目的も同様に教えることと楽しませることである。教えることも楽しませることもできなければ詩人とは呼ばれず、説得できない者は雄弁家と呼ばれず、治療できない者は医者と呼ばれないのと同じである[82]。しかし有用性と美を超えて、詩人はある種の説得力を持たねばならず、これは詩の最高の機能の一つであり、描写された情念そのもので読者または聴き手を動かし、感動させることにあり、しかし詩人自身がまず動かされなければ他者を動かすことはできない[83]。ここでダニエッロはホラティウスの

「もし君が私に泣いてほしいなら、
 まず君自身が悲しまねばならない」

を再び取り上げており、これはヴォークラン、ボワロー、ラマルティーヌといったまったく異なる詩人たちによって反響されている。

しかしフラカストーロは、詩的芸術の正しい機能についてより深い分析を試みる。詩人の目的は何か。ただ楽しませることだけではない。なぜなら野原、星、男女、詩的模倣の対象そのものがすでにそれをするからであり、詩がそれ以上何もしなければ、詩が存在する理由があるとは言えないからである。ホラティウスが言うように教えることと楽しませることだけでもない。なぜなら国々・民族・軍隊の描写、科学的余談、歴史的事件といった詩の教訓的な側面は、宇宙学者・科学者・歴史家から借用されており、彼らは詩人と同じくらい教えるし楽しませるからである。では詩人の機能とは何か。すでに指摘したように、それは事物の本質的な美を描写し、普遍的かつ理念的なものを目指し、可能な限りすべての美しい言葉の伴いを以てこれを行い、こうして人間の精神を卓越と美の方向へと動かすことである。フラカストーロの議論の一部はすでに言及されており、ここでは詩人の目的についての彼自身の要約を述べるに留める。「各々のものにおいて最大かつ最も美しいものを、単純に美しい言葉の種類によって適合するものから選び、模倣によって楽しませ、かつ役に立たせること(Delectare et prodesse imitando in unoquoque maxima et pulcherrima per genus dicendi simpliciter pulchrum ex convenientibus)」[84]。これはホラティウス的およびプラトン的な詩的芸術観の融合である。

他の批評家たちは詩にさらに実際的な機能を付与した。ジラルディ・チンティオは詩人の目的は悪徳を非難し美徳を讃えることであると主張し、マッジは詩人はほぼ専ら精神に益することを目指すと言う。逆に猥褻な主題を扱って若者を腐敗させる詩人は、健全な薬の姿で患者に致命的な毒を与える悪名高い医者にたとえられる。マッジによれば、ホラティウスとアリストテレスはこの点で一致している。なぜならアリストテレスは悲劇の定義において明確に有用な目的を帰し、得られる愉悦はすべてこの道徳的機能の結果と見なされるからである。マッジをはじめとするルネサンス批評家全般は、エリザベス朝の詩人が言う「愛される美徳の果実としての愉悦」に従うであろう。ムツィオは1555年の韻文化された『詩論』において、詩の目的を愉悦と利益とし、詩の愉悦的な目的は多様性によって達成されるとし、最大の詩は人生と芸術のあらゆる相を含むと言う。

ヴァルキは詩を理性的哲学に分類していたことを思い出す。すべての芸術と学問の目的は人間生活を完全かつ幸福にすることである。しかしその結果を生み出す方法は異なる。哲学は教えることによって、修辞学は説得することによって、歴史は叙述することによって、詩は模倣または表現によって目的を達成する。したがって詩人の目的は人間の魂を完全かつ幸福にすることであり、その職分は人を有徳にし、結果として幸福にする事物を発明し表現すること、すなわち模倣することである。詩はこの目的を他のどの芸術・学問よりも完全に達成する。なぜならそれは訓戒によってではなく例証によってそうするからである。人を有徳にする方法にはさまざまなものがある。悪徳とは何か、美徳とは何かを教えること(倫理学の領域)、実際に悪徳を罰し美徳に報いること(法の領域)、あるいは例証、すなわち有徳な人がその美徳に相応しい報酬を受け、悪徳な人が相応しい罰を受けることを表現すること(詩の領域)である。この最後の方法が最も効果的である。なぜならそれは愉悦を伴うからである。人は学問や美徳を学ぶ苦労をしたがらず、するべきこととすべからざることを言われることさえ嫌う。しかし詩的例証を聞くか読むときには苦労はなく、最大の愉悦があり、理念的正義に従って報酬または罰を受ける人物の表現によって、誰もが動かされずにいられない。

ヴァルキにとって、そして後にはフィリップ・シドニーにとって、詩の高い重要性は他のどの芸術よりも道徳性をよく教えるという事実にある。その理由は、詩の道具が訓戒ではなく例証であり、それが最も愉悦的であり、ゆえに最も効果的な手段だからである。したがって詩の機能は道徳的なものであり、それは人間の悪徳を除き、徳へと駆り立てることにある。詩のこの二重の道徳的目的、受動的な悪徳の除去と能動的な徳への駆り立ては、たとえばダンテの『神曲』において見事に達成されている。『地獄篇』では悪人が恐ろしく罰せられるので、あらゆる悪徳から逃れようと決意し、『天国篇』では有徳な人が栄光のうちに報われるので、彼らのすべての完全さを模倣しようと決意する。これは詩的正義の極端な見方であり、ルネサンスの一般的感情と一致するが、もちろん完全に非アリストテレス的である。

スカリゲルの見解はルネサンスの共通の伝統と一致している。詩は模倣であるが、模倣は詩の目的ではない。模倣それ自体を目的とする、すなわち芸術のための芸術は、スカリゲルから何の奨励も受けない。詩の目的は愉悦的に教えること(docere cum delectatione)であり、ゆえにアリストテレスが言うように模倣ではなく、愉悦的な教えこそが詩の試金石である[85]。ミントゥルノ(1559年)は教えと愉悦に第三の要素を加える[86]。詩の機能は教えることと楽しませることだけでなく、動かすこと、すなわち教えと愉悦を超えて、詩人は読者または聴き手に一定の情念を呼び起こし、描写されたものへの驚嘆へと精神を駆り立てなければならない[87]。詩に理想的英雄が表現されても、読者がその英雄への驚嘆を呼び起こさなければ詩は無駄である。したがって偉人への驚嘆を動かすことが詩人の特有の職分である。雄弁家・哲学者・歴史家は必ずしもそうする必要はないが、この驚嘆を呼び起こさない者は真に詩人とは呼べない。

この新しい驚嘆の要素は、哲学は訓戒によって教え、詩は例証によって教えるというルネサンスの立場と、その優れた倫理的効力はそこにあるという立場の論理的帰結である。セネカの言葉で言えば「訓戒による道は長く、例証による道は短い」。したがって詩が例証によって目的を達成するなら、詩人は読者にその例証への驚嘆を呼び起こさなければ、詩の倫理的目的は達成されない。詩は単に最も愉悦的な方法で真理を表現する受動的なものではなく、読者の心に、自分が読んでいる英雄のようになりたいという強い欲望を生み出すことによって、積極的に徳へと勧誘する修辞学のようなものとなる。詩人は避けるべき悪徳や模倣すべき美徳を語るのではなく、さまざまな美徳と悪徳の最も完全な典型を読者または聴き手の前に提示する。それはシドニーの言葉(明らかにミントゥルノから借用したと思われる言葉)で言えば、「美徳・悪徳その他を注目すべき形象として作り上げ、それに愉悦的な教えを伴わせること、これこそ詩人を詩人と知る正しい記述的特徴である」。一世紀後のドライデンは、同じ驚嘆の原理を強調しているようである。「詩人の仕事は魂を動かし、情念を喚起し、何よりも真面目な劇の愉悦である驚嘆を動かすことである」[88]。

しかしミントゥルノはさらに進む。詩人が根本的に徳の教師であるなら、彼自身が有徳な人間でなければならない。そしてこれを指摘することによって、ミントゥルノは近代において詩人の職分の神聖な概念に最初の完全な表現を与えた。いかなる知識の形態も道徳的優秀さも詩人にとって異質ではなく、底の底では彼こそが真に賢く善い人間である。詩人は実際には言語と模倣に熟達した善人として定義されうる。善人でなければならず、善人でなければ優れた詩人にはなれない[89]。詩人の道徳的本性に関するこの概念は、以後近代を通じて追跡されうる。ロンサール[90]その他のフランス・イタリアの著者に見られ、特にイギリス文学において顕著であり、ベン・ジョンソン[91]、ミルトン[92]、シャフツベリ[93]、コールリッジ[94]、シェリー[95]によって強調される。この考えにおいて、プラトンの哲学者讃美、キケロとクィンティリアヌスの雄弁家讃美が、ルネサンスによって詩人に移された[96]。しかし概念そのものは、16世紀の学者に良く知られたストラボンの『地理誌』の一節に遡る。その箇所は次の通りである。

「真の詩人の天才・力・優秀さが、形成された言葉と韻律による人生の正しい模倣以外の何かにあると想像できるだろうか。しかし人生の尺度を知らず、判断と理解によって自らを導くことを知らなければ、どうして彼が人生の正しい模倣者となりうるか。われわれは詩人の優秀さを普通の職人のそれと同じように考えるわけではない。職人の芸術の対象は無感覚な石や木材であり、生命・尊厳・美を持たない。一方、詩人の芸術は主に人間とその風俗に関するものであり、詩人としての彼の美徳と優秀さは自然に人間の優秀さ、人間の価値と尊厳に付随する。それゆえ、まずまずの善人でなければ、偉大で価値ある詩人となりうることは不可能である。」[97]

16世紀のもう一人の著者ベルナルド・タッソは、自らの詩『アマディージ』において、有益な教えよりも愉悦を目指したと言う[98]。「私はほとんどの労力を、楽しませることに費やした。それは私にはより必要であり、かつより達成困難に思えるからである。経験によって、多くの詩人がわれわれを大いに教え、益するが、確かにほとんど愉悦を与えないことがわかるからである。」これはイギリスで最も健全な批評家の一人であるジョン・ドライデン(1668年)が韻文について言ったことと一致する。「愉悦を引き起こしたなら私は満足である。愉悦こそが詩の主要な、もし唯一ではないなら、目的であるからである。教えは第二の位置にしか認められない。詩は楽しませる限りにおいてのみ教えるからである」[99]。

カステルヴェトロ(1570年)も詩的芸術に同じ目的を帰する。カステルヴェトロにとって、そしてやや弱い程度であるがロボルテッリにとっても、詩の目的は愉悦であり、愉悦のみである[100]。これがアリストテレスの立場であり、もし詩に有用性が認められるとしても、それは悲劇における恐怖と憐憫の浄化のような、単なる偶然にすぎない[101]。しかし彼はアリストテレスが望んだであろうよりもさらに進む。なぜならカステルヴェトロによれば、詩は単に楽しませるためではなく、民衆、実際には誰にでも、粗野な群衆にさえ楽しませるためにあるからである[102]。彼はこの点を註釈全体を通じて強調しており、実際、後述するように、彼の劇詩論はこの概念に主に基づいている。しかしアリストテレスは、『ハムレット』におけるシェイクスピアの結論、すなわち「一人の賢明な者の判断が、劇場全体の他の者たちの判断を凌駕する」という結論を喜んで反響したであろう。同時に、カステルヴェトロの概念は、詩的芸術の意味に関するある種の近代的感情と一致している。こうして最近の著者は、文学を「実践的効果や教えよりも、できるだけ多数の国民の愉悦を目指す」ものとし、「一般的な知識にではなく専門的な知識に適用される」と見なしている[103]。したがってカステルヴェトロの議論には、詩は専門的な知識に訴えず、その機能はコールリッジが言うように、明確かつ直接的な愉悦を与えることであるという、この程度の真理がある。

トルクァート・タッソは、予想されるように、詩をより高次の理念的意味で捉える。彼の詩人と詩的芸術の機能に関する概念は次のように説明されうる。宇宙はそれ自体が美しく、なぜなら美は神聖な輝きの光線だからであり、ゆえに芸術は可能な限り自然に近づき、この世界の自然な美を捉え表現することを目指すべきである[104]。しかし真の美はそれが持つ有用性ゆえにそう呼ばれるのではなく、それ自体としてまず美しい。なぜなら美しいものは誰にでも愉悦を与えるものであり、善いものは誰にでも欲されるものだからである[105]。ゆえに美は善の花(quasi un fiore del buono)であり、善を中心とする円の周囲であり、したがって詩はこの美の表現として、人生の外面的な見せかけをその一般的側面において模倣する。ゆえに詩は人生の指導のための人間の行為の模倣であり、その目的は愉悦であるが、それは利益へと秩序づけられている(ordinato al giovamento)[106]。詩は本質的に楽しませなければならず、それは愉悦がその目的であるか、あるいは愉悦が芸術の倫理的目的を達成するための必要手段であるからである[107]。たとえば英雄詩は模倣と寓意から成り、前者の機能は愉悦を引き起こすことであり、後者の機能は人生における教えと指導を与えることである。しかし難解または曖昧な着想はめったに愉悦を与えず、詩人は学識ある者だけにではなく、雄弁家がそうするように民衆にも訴えるから、詩人の着想は、普通の意味で大衆的でなくとも、少なくとも民衆に理解可能でなければならない。民衆は難解な問題を研究しようとはしない。しかし詩は愉悦の側面から彼らに訴えることによって、彼らが望むと望まざるとに教える。これが詩の真の効果であり、詩は最も愉悦的であり、ゆえに最も価値ある教師である[108]。

以上が、ルネサンスの批評家たちが抱いた詩の機能に関するさまざまな概念である。全体として言えば、根本的には倫理的な概念であった。カステルヴェトロのような革命的精神を除けば、ほとんどの理論家にとって詩は人生の効果的な指導者として主に評価されていた。愉悦が目的として認められた場合でさえ、それは単に倫理的目的を達成する上での有用性ゆえであった。

本章を終えるにあたり、詩的形態の分類について数言、ほんの数言述べるのがよいであろう。ルネサンスにはこれらの形態を区別しようとする数多くの試みがあったが、全体としてそれらはみな、抒情(melic)、劇的(scenic)、叙事(narrative)の三つのジャンルを認めるミントゥルノのものと根本的に同等である。この分類は本質的にギリシアのものであり、今日に至るまで続いている。抒情詩はこの論ではほとんど関心の対象ではない。なぜならルネサンスにおいて体系的な抒情詩論は存在しなかったからである。それを論じた者たちはその形式構造、文体、特に含まれる機知にほとんどの注意を払った。すべての抒情詩の模範はペトラルカであり、抒情詩人がペトラルカ的技法に一致するか否かによって成功か失敗かが判断された。ムツィオの批評詩(1551年)はほぼ完全に抒情韻文を扱い、トリッシーノ、エクイコラ、ルッシェッリ、スカリゲル、ミントゥルノの著作にもこの主題に関する議論がある。しかしこれらの議論すべての本当の問題は単なる外部的形式の問題にすぎず、本論が主に関心を持つのは、文芸批評に関する限り原理の問題である。劇詩と叙事詩の理論が根本的であるから、ほぼ独占的な注意がそれらに払われることになる。

[80] 『詩論』333
[81] Butcher, p. 185
[82] Daniello, p. 25
[83] 同上, p. 40
[84] Fracastoro, i. 363
[85] Scaliger, Poet. vi. ii. 2
[86] De Poeta, p. 102(cf. Scaliger, Poet. iii. 96)
[87] De Poeta, p. 11
[88] Essay of Dramatic Poesy, p. 104
[89] De Poeta, p. 79
[90] Oeuvres, vii. 318
[91] Works, i. 333
[92] Prose Works, iii. 118
[93] Characteristicks, 1711, i. 207
[94] H. C. Robinson, Diary, May 29, 1812
[95] Defence of Poetry, p. 42
[96] Minturno ははっきりとそう述べている、De Poeta, p. 105
[97] Geog. i. ii. 5(シャフツベリによる引用)
[98] Lettere, ii. 195
[99] Essay of Dramatic Poesy, p. 104
[100] cf. Piccolomini, p. 369
[101] Castelvetro, Poetica, p. 505(cf. Twining, ii. 449-450)
[102] Poetica, p. 29
[103] Posnett(Cook, p. 247 による引用)
[104] Opere, viii. 26 sq.
[105] 同上, ix. 123
[106] 同上, xii. 13
[107] 同上, xi. 50
[108] 同上, xii. 212

第三章 劇詩論

アリストテレスの悲劇の定義は、ルネサンスの悲劇論の基礎である。その定義は次の通りである。

「悲劇とは、真面目で完全であり、一定の大きさを備えた行為の模倣である。各種の芸術的装飾を施された言葉によって、劇の各部分にそれぞれ異なる種類が用いられ、叙述の形ではなく行為の形によって、憐憫と恐怖を通じてこれらの感情の適正なカタルシス(浄化)を行うものである。」[109]

この定義を展開すれば、悲劇は他のすべての詩の形態と同様、行為の模倣である。しかし悲劇の行為は、喜劇のそれとは異なり、厳粛かつ重大である。行為は完全である限りにおいて完璧な統一を持ち、長さにおいても適切な大きさでなければならない。装飾された言葉とは、韻律・調和・歌が加えられた言葉を意味し、劇の各部分にそれぞれ異なる種類が用いられるというのは、悲劇のある部分は韻文のみによって表現され、他の部分は歌の助けを受けるということである。さらに悲劇は、叙述の形ではなく行為の形である点で叙事詩と区別される。アリストテレスの定義の最後の部分は、悲劇上演の特有の機能を述べている。

I 悲劇の題材

悲劇は「真面目な(serious)」行為の模倣であり、すなわち重大かつ偉大な行為、または16世紀がこの言葉を訳したように「高貴な(illustrious)」行為である。では、何が真面目な行為を構成し、何が悲劇の高貴な性格に相応しくない行為であるか。

ダニエッロ(1536年)は、喜劇詩人は「最も身近で家庭的な、言わば卑しく下品な行為」を扱い、悲劇詩人は「高貴な王たちの死や大帝国の崩壊」を扱う点で悲劇を喜劇と区別する[110]。詩人がどちらの題材を選ぶにせよ、他の形態を混ぜることなく扱うべきであり、重大な事柄を扱うと決めたなら単なる愛らしさは排除し、愛らしさの主題を扱うならすべての重大な主題を排除すべきである。劇的議論の最初から、主題あるいはジャンルの厳格な分離が、古典主義の全期間を通じてこれほど形式的に主張されたことはなく、少なくとも理論上は16世紀のどの著者もこれから逸脱しなかった。さらにダニエッロによれば、悲劇の高貴な性格は、不作法・残酷・不可能・卑劣な出来事を舞台から排除することを要求し、喜劇でさえ淫らな行為を表現しようとしてはならない[111]。これは単にセネカ悲劇と古典の一般慣行からの演繹にすぎなかった。

ダニエッロの悲劇論にはアリストテレス的要素は一つもなく、1540年代までアリストテレスの悲劇論が16世紀の文芸批評に大きな役割を果たすことはなかった。しかし1543年にはすでに『詩学』は大学の学課の一部となっており、ジラルディ・チンティオはその年の『喜劇と悲劇に関する論考』において、ソフォクレスの『オイディプス王』のようなギリシア悲劇と同主題のセネカ悲劇を比較し、アリストテレスの『詩学』を劇的教科書として用いることが定例の学課演習であったと言う[112]。ジラルディはダニエッロとほぼ同じ根拠で悲劇を喜劇と区別する。「悲劇と喜劇は、両者とも行為の模倣である点で一致するが、前者が高貴かつ王的なものを模倣し、後者が大衆的かつ市民的なものを模倣する点で異なる。ゆえにアリストテレスは喜劇はより悪い種類の行為を模倣すると言うが、それはそれらが悪徳的・犯罪的であるからではなく、王的な行為と比較して高貴さの点で劣るからである。」ジラルディの立場はさらに、「悲劇の行為が高貴と呼ばれるのは、それが有徳または悪徳であるからではなく、単に最高位の人々の行為であるからだ」という発言によって明確になる[113]。

悲劇の真面目な行為を、行為者の地位の高さがその威厳を生み、地位こそが喜劇と悲劇の本当の区別であるとするこの概念は、ルネサンス全期間だけでなく古典主義の全期間を通じて一般的であり、特にフランスにおける近代劇に異常な影響を及ぼした。こうしてダシエ(1692年)は、「行為そのものが高貴かつ重要である必要はない。むしろ極めて平凡でもよい。しかし行為する人物の資格によってそうでなければならない……これらの高位の人々の偉大さが行為を偉大にし、彼らの名声がそれを信憑性があり可能にする」と言う[114]。

ロボルテッリ(1548年)もまた、悲劇はより優れた人々(praestantiores)のみを扱い、そのような地位の人々が不幸と恥辱に陥る方が普通の地位の人々が陥るよりも大きな憐憫(これは後述するように悲劇の機能の一つである)を生むと主張する。アリストテレスの別の註釈者マッジ(1550年)は、アリストテレスの意味についてやや異なる説明を与える。マッジは、アリストテレスが[115]喜劇はより悪い、悲劇はより良い種類の人々を扱うと言ったとき、普通の人々よりも地位が低いか高いかを区別しようとしたのであり、喜劇は奴隷・商人・女中・道化その他の下層民を、悲劇は王と英雄を扱うと主張する[116]。この説明はロボルテッリが与えた根拠、すなわち幸福から不幸への変化が最も偉大な人々においてより大きく目立つという根拠で擁護される[117]。

悲劇と喜劇の区別を人物の地位に置くこの概念は、言うまでもなく完全に非アリストテレス的である。「アリストテレスは確かに、悲劇の行為者は生まれと地位において高貴でなければならないと考える」とブッチャー教授は言う。「無名の者たちの狭く些細な生活は、悲劇的結果を持つ偉大かつ重要な行為に余地を与えられない。しかし彼はどこにも、外的な地位を悲劇的表現と喜劇的表現の対立における区別特徴とはしていない。彼が要求するのは道徳的高貴さであり、それがフランスの舞台、あるいは少なくともフランス批評家においては、地位の高さに相応しいと思われる膨張した威厳、宮廷的礼儀と作法へと変形された。これは文学批評家がアリストテレスの教えを完全に混同した多くの例の一つである。」[118]

この区別は18世紀末まで一般的であったが、アリストテレスには見られない。しかし事実として、類似の区別は中世全期間、古典古代全期間、ほぼアリストテレス自身の時代まで遡って追跡できる。

文法家ディオメデスは、ペリパトス学派の後継者テオフラストスが定式化した悲劇の定義を残している。それによれば悲劇は「英雄の運命の変化」である[119]。ディオメデスが残し、テオフラストスにも帰される喜劇のギリシア的定義は、喜劇は危険の要素なしに私的かつ市民的な運命を扱うと言う[120]。これがローマにおける喜劇の受容された概念であったらしい。エウアンティウス=ドナトゥスの論文では、喜劇は人間の一般的な運命を扱い、乱雑に始まり穏やかで幸福に終わり、悲劇は偉大な人物のみを持ち、恐ろしく終わり、その主題はしばしば歴史的であり、喜劇のそれは常に詩人による発明であるとされる[121]。ディオメデスの『文法術』第三巻(2世紀に書かれたスエトニウスの『詩人について』に基づく)は、悲劇には英雄・大指導者・王のみが登場し、喜劇には卑しい私的市民が登場し、前者には嘆き・追放・流血が、後者には恋愛と誘惑が支配的である点で悲劇を喜劇と区別する[122]。7世紀のセビーリャのイシドールスはほぼ同じことを言う。「喜劇詩人は私的市民の行為を扱い、悲劇詩人は公共的事柄と王たちの歴史を扱う。悲劇の主題は悲しむべき事柄に、喜劇の主題は喜ばしい事柄に基づく。」[123]別の箇所では、悲劇は悪名高い王たちの古代の行為と悪行を、喜劇は私的市民の行為と乙女の汚辱および娼婦の恋愛を扱うと言う[124]。1286年のヨハネス・ヤヌエンシス・デ・バルビスの『カトリコン』では同様の根拠で悲劇と喜劇が区別される。悲劇は王と王子のみを、喜劇は私的市民を扱い、前者の文体は高く、後者は卑しい。喜劇は悲しみで始まり喜びで終わり、悲劇は喜びで始まり悲惨かつ恐ろしく終わる[125]。ダンテにとって、高く崇高な文体で書かれ、幸福に始まり不幸と恐怖に終わる詩はすべて悲劇であり、俗語で書かれ、地獄に始まり天国に栄光のうちに終わる自らの大作を彼は喜劇と呼ぶ[126]。

したがって古典後期から中世を通じて、喜劇と悲劇は以下のいずれかまたはすべての根拠で区別されていた。

i. 悲劇の人物は王・王子または大指導者であり、喜劇の人物は卑しい者と私的市民である。
ii. 悲劇は偉大かつ恐ろしい行為を、喜劇は身近で家庭的な行為を扱う。
iii. 悲劇は幸福に始まり恐ろしく終わり、喜劇はかなり乱雑に始まり喜びで終わる。
iv. 悲劇の文体と言語は高く崇高であり、喜劇のそれは卑しく口語的である。
v. 悲劇の主題は一般に歴史的であり、喜劇のそれは常に詩人による発明である。
vi. 喜劇は多く恋愛と誘惑を、悲劇は追放と流血を扱う。

これが、ルネサンスを通じて、さらにはその先まで存続した、喜劇と悲劇の区別に関する非アリストテレス的概念を形成した伝統である。ジラルディ・チンティオはこの伝統的区別のほとんどに従っているが、悲劇的プロットも喜劇的プロットも純粋に想像的で詩人による発明でよいと主張する点でアリストテレス[127]に近い[128]。彼は悲劇の神話は歴史的でなければならないという伝統的概念を、悲劇は王と高貴な人々の行為を扱うから、そのような偉大な人物の顕著な行為が歴史に記録されずに残ることは蓋然的でないのに対し、喜劇が扱う私的出来事はすべての人に知られることはほとんどないという理由で説明する。しかしジラルディは、悲劇詩人が物語を発明しようがしまいが、蓋然性の法則に従う限り問題ではないと主張する。詩人は蓋然的かつ高貴な行為を選び、プロットの解決に神の介入を必要とせず、一日を大きく超えない長さで、舞台上で三、四時間で表現できるものでなければならない[129]。悲劇の結末については幸福でも不幸でもよく、いずれにせよ憐憫と恐怖を呼び起こさねばならず、舞台上で死を表現してはならないという古典的概念に対して、ジラルディは過度に痛ましくない死は表現されうると宣言する。それは憐憫のためではなく正義のためである。ここでの議論はアリストテレスの言葉[Greek: en to phanero thanatoi][130]を中心にしているが、古典主義の一般慣行はホラティウスの明確な禁止に基づいていた。

「メデイアが子供たちを民衆の前で屠るな。」[131]

ジラルディは劇の普遍的規則として、自分の家で適切に行えないことは舞台でも表現されるべきではないと述べる[132]。

スカリゲルの劇的形態の扱いは、新古典主義劇に大きな影響を与えた点で特に興味深い。彼は悲劇を、不幸に終わる高貴な出来事の模倣であり、厳粛かつ重厚な文体で韻文で書かれるものと定義する[133]。ここで彼はアリストテレスの悲劇の定義を捨て、あるいは無視し、中世を通じて伝わった伝統的概念を採用している。スカリゲルによれば真の悲劇は完全に真面目であり、古代悲劇にいくつかの幸福な結末があるとはいえ、不幸な結末こそが悲劇そのものの精神に最も相応しい。死か追放か――これらが悲劇的破局の適切な伴いものである[134]。行為は穏やかに始まり、恐ろしく終わり、人物は都市・城塞・陣営から来る王と王子であり、言語は厳粛で磨き上げられ、口語とは完全に反対であり、事態の様相は乱れ、恐怖・脅威・追放・死が四方に満ちている。セネカを模範とし、彼をギリシア人すべての威厳において凌ぐと評価する[135]彼は、悲劇の典型的主題として「王の命令、虐殺、絶望、処刑、追放、親の喪失、弑親、近親相姦、火災、戦闘、失明、涙、叫び、嘆き、葬儀、碑文、葬送曲」を挙げる[136]。悲劇はさらに、喜劇が歴史から主題と主要人物を取り、脇役のみを発明するのに対し、喜劇は主題とすべての人物を発明し、彼らに独自の名を与える点で区別される。スカリゲルは劇詩の目的で人間を性格と地位によって区別する[137]。しかし彼は地位のみを悲劇と喜劇の区別特徴と見なしていたようである。こうして悲劇は喜劇と、人物の地位、行為の質、異なる結末の三点で異なり、これらの相違の結果として文体においても異なる。

ミントゥルノが1559年の論文『詩人について』で与える悲劇の定義は、単にアリストテレスの言い換えにすぎない。彼は悲劇を「各人が自らの運命の鍛冶屋となった英雄の転落(casus heroum cuius sibi quisque fortunae fuerit faber)」を描写するものと見なし、それによって人間に地位の傲慢・不遜・貪欲・色欲その他の情念に対する警告を与えると考える[138]。それは人物が高貴であるから厳粛かつ高貴であり、破局的な結末に適合しない人物や出来事の多様性を導入してはならない。言語は全体を通じて厳粛かつ峻厳でなければならず、ミントゥルノはこの点での非難を「恋愛的かつ柔らかい言葉によって詩を女性的にする(poema amatorio mollique sermone effoeminat)」という言葉で表現しており[139]、これはおそらくフランス古典悲劇の大部分に当てはまる非難であろう。

カステルヴェトロ(1570年)において、われわれは先人によるよりもはるかに完全な劇詩論に接する。彼の著作は『詩学』の註釈としてあるべき姿の模範では決してない。次の世紀、ダシエはアリストテレスへの従属がイタリア人の誰よりも大きかったにもかかわらず、カステルヴェトロにアリストテレスの良き解釈者に必要なすべての資質が欠けていると非難する。「彼は劇場も性格も情念も何も知らず、アリストテレスの理由も方法も理解せず、アリストテレスを説明するよりも矛盾させることを求めた」とダシエは言う[140]。事実、カステルヴェトロはアリストテレスの権威に相当な敬意を払いつつも、しばしば驚くべき思想の独立を示し、単に『詩学』の細部を説明するだけで満足せず、そこから多少なりとも完全な詩的芸術論を演繹しようと試みた。したがって多くの細部から、さらには『詩学』の精神から逸脱しながらも、彼はあたかもアリストテレス的規準の修正と誤解の上に自らの劇的体系を築き上げた。この体系の根本理念は極めて近代的であり、特にこの時点で劇が単なる学問的演習を超え、まず第一に舞台上演を意図したものと実際に見なされるに至ったことを示す点で興味深い。カステルヴェトロは舞台上演の物理的条件を検討し、それに基づいて劇文学の要件を定める。劇が舞台を意図し、上演されるという事実が彼の悲劇論の根底にあり、後述するように時間と場所の統一の起源もこの概念に帰せられる。

しかしカステルヴェトロの方法はそれ自体の還元至 absurdity を伴う。結局のところ、舞台上演は劇文学の制作には本質的であるが、詩的力を限定したりその条件を定めたりすることは決してできない。舞台上演の条件は変化し、劇文学と詩人の発明的能力の変動する条件とともに変化せねばならない。真に偉大な芸術は自らの条件を作り、あるいは固定するからである。それに、芸術家――劇的芸術家も他の芸術家と同じく――が関心を持つのは永続的かつ普遍的なものである。詩的な要素こそが永続的かつ普遍的であり、劇作術的な要素ではない。「悲劇の力は、われわれが確信できるように、上演や俳優がなくても感じられる」とアリストテレスは言う[141]。そして再び、「悲劇のプロットは、目で見る助けがなくても、出来事を聞かされるだけで誰でも事件の転回に恐怖と憐憫に震えるように構成されるべきである」[142]。

しかしカステルヴェトロによれば、舞台上演の条件とは何か。劇場は雑多な群衆――la moltitudine rozza――の前で、限定された台や舞台の上で、限られた時間内に上演される公共の場所である。この考えにカステルヴェトロの劇的体系全体が適合している。第一に、観客は多数になりうるから劇場は大きく、しかし観客は劇を聞けなければならない。ゆえに韻文が加えられるが、それは単なる愉悦的な伴いではなく、俳優が不便なく、また威厳を失うことなく声を張り上げられるためでもある[143]。第二に、観客は選ばれた精鋭の集まりではなく、愉悦や娯楽のために劇場に引き寄せられた雑多な群衆である。ゆえに難解な主題、実際にはすべての専門的議論は劇作家によって避けられなければならず、今日的に言えば人間の根本的な情念と関心に限定される[144]。第三に、俳優は高く狭い台の上で動き回る必要があり、これが暴力による死やその他の多くの行為が、そのような台の上で便利かつ威厳をもって演じられない理由であり、劇において表現されるべきではない理由である[145]。さらに、後述するように、限定された台と観客および俳優の物理的必要性というこの概念こそが、カステルヴェトロが時間と場所の統一の理論を基礎づけるものである。

異なるジャンルを区別するにあたり、カステルヴェトロはアリストテレスと公然と異なる。アリストテレスは『詩学』において、人間をわれわれよりも優れているか、劣っているか、同じであるかに従って区別し、そこから悲劇的・喜劇的・叙事詩的という詩の種別を導く。カステルヴェトロはこの区別方法を真実でないだけでなく、アリストテレスが後に悲劇について述べることとも矛盾すると考える。善と悪は、カステルヴェトロによれば、詩の形態を区別するためではなく、単に悲劇の特殊な場合においてのみ考慮されるべきであり、アリストテレスが言うように中庸の徳が恐怖と憐憫を最もよく生むからである。詩は、アリストテレス自身が認めるように、性格や善悪の模倣ではなく、行為する人間の模倣であり、詩の異なる種類は、模倣のために選ばれた人物の善悪や性格によってではなく、彼らの地位または状態のみによって区別される。王族と私的市民という偉大かつ遍在する差異こそが、悲劇と叙事詩を喜劇や類似の詩の形態と区別するものである。ゆえに地位こそが、知性・性格・行為(これらは人の状態に従って変動する)ではなく、一つの詩的形態を他から区別するものであり、舞台上および文学全般における地位の区別特徴は、人物の態度、王族は適切に、下層民は不適切に行為することである[146]。

カステルヴェトロはここで一つの落とし穴を逃れたが、別の落とし穴に落ちている。なぜなら、善と悪は、いかなる美学的立場からも、悲劇の人物を喜劇の人物と区別するために用いられえない――ここではこれがアリストテレスの実際の見解であったかどうかは別問題として――が、単なる外的な地位や状態を区別特徴とするのは同様に不適切だからである。アリストテレスの解釈として見るにせよ、それ自体として詩的理論として見るにせよ、カステルヴェトロの主張はいずれにしても同様に成り立たない。

II 悲劇の機能

アリストテレスの『詩学』の中で、これほど多くの議論を呼び、これほど誤解されてきた箇所はない。それは彼が悲劇の定義の最後に、悲劇の特有の機能を「憐憫と恐怖を通じてこれらの感情の適正なカタルシス(浄化)を行うこと」であると述べた箇所である[Greek: katharsis][147]。

この箇所のより蓋然的な解釈は、トワイニングが言うように[147]、二つに還元される。

  1. 第一は、アリストテレスのカタルシスに倫理的意味を与え、悲劇の効果を道徳的教訓と模範に帰するものである。この解釈は何世紀にもわたる文学的伝統であり、コルネイユとレッシング、ラシーヌとドライデン、ダシエとラパンといった多様な著者に見られる。
  2. 第二の解釈によれば、悲劇が喚起する感情の浄化とは、これらの感情を喚起することによって得られる感情的解放である。プラトンは劇が憐憫や恐怖のような情念を掻き立てて人間の精神を堕落させると主張していたが、アリストテレスはこの箇所で、これらの感情を高揚させることによってこそ愉悦的な出口が与えられ、さらにそれによって解放された感情の浄化がなされると答えている。つまり、感情は芸術という媒体を通ることによって清められ、浄化され、ブッチャー教授が指摘するように、理念的感情に値する対象によって高貴化される[148]。

この解釈はカタルシスに直接的な道徳的目的や影響を与えず、悲劇は意志ではなく感情に作用する。倫理的構想はもちろんイタリア批評において、18世紀末までのヨーロッパ全般において支配的であるが、ミントゥルノやスペローニを含むルネサンスの数人の批評家は、アリストテレスの定義のさらなる美学的意味を展開することに失敗したとしても、少なくともアリストテレスが悲劇に感情的ではなく倫理的目的を帰したことを察知していた。この点について各イタリア批評家の意見を詳細に述べる必要はないが、より重要な著者の解釈に言及することは不可欠である。さもなくばルネサンスの劇の機能に関する概念は理解できないからである。

ジラルディ・チンティオは、喜劇と悲劇の目的は同一であり、すなわち徳に導くことであるが、その到達方法が異なる点を指摘する。喜劇は愉悦と喜劇的戯れによって目的を達成し、悲劇は幸福に終わるか不幸に終わるかを問わず、不幸と恐怖という媒体を通じて精神から悪徳を浄化し、こうして道徳的目的を達成する[149]。別の箇所では[150]、悲劇詩人は悪徳的行為を非難し、それらを恐ろしく悲惨なものと結びつけることによってわれわれにそれらを恐れ憎ませると断言する。言い換えれば、悪人が憐憫すべきかつ恐ろしい状況に置かれるので、われわれはその悪徳を模倣することを恐れるのであり、アリストテレスが言うように憐憫と恐怖の浄化ではなく、悲劇的カタルシスによってすべての悪徳と悪徳的欲望が根絶されるのである。

トリッシーノは1563年の『詩学』第五部においてアリストテレスの悲劇の定義を引用するが、カタルシスの教説を解明しようとはしない。彼の劇の機能に関する概念はジラルディとほぼ同じである。悲劇詩人の職分は模倣という媒体を通じて善を讃え驚嘆し、喜劇詩人は悪を嘲り非難することである。なぜならアリストテレスが言うように、悲劇はより良い種類の行為を、喜劇はより悪い種類の行為を扱うからである[151]。

しかしロボルテッリ(1548年)は悲劇により美学的な機能を帰する。悲しく残虐な行為の表現によって、悲劇は観客の精神に恐怖と憐憫を生む。恐怖と憐憫の行使はまさにこれらの情念を精神から浄化する。なぜなら観客は人生の実際の出来事に極めて似た行為を見ることで、悲しみと憐憫に慣れ、これらの感情が徐々に減少するからである[152]。さらに他者の苦しみを見ることで、人は自らの苦しみをより少なく悲しみ、そうしたことは人間本性に共通であると認識する。したがってロボルテッリの悲劇の機能に関する概念は倫理的なものではなく、悲劇の効果は主にこれらの感情を生む行為を見ることに慣れることによって、われわれの精神における憐憫と恐怖を減少させるものと理解される。カタルシスに関する類似の解釈はヴェットーリ(1560年)とカステルヴェトロ(1570年)によっても与えられている[153]。後者は浄化の過程を疫病によって喚起される感情にたとえる。最初は感染した民衆は興奮に狂うが、徐々に病気の光景に慣れ、民衆の感情はこうして和らげられ鎮静される。

マッジのカタルシスに関する概念はやや異なる。彼によれば、浄化とは憐憫と恐怖そのものではなく、それらに類似した情念を憐憫と恐怖を通じて解放することと理解すべきである。なぜならマッジは、聴き手に憐憫と恐怖を誘発する悲劇が、同時にこれらの動揺を除去するとは理解できないからである[154]。しかも憐憫と恐怖は有用な感情であり、貪欲・色欲・怒りなどの情念は確かにそうではない。別の箇所でマッジは、プラトン、アリストテレス、アフロディシアスのアレクサンドロスからの引用に依拠して、悲劇から得る愉悦を次のように説明する。われわれは不幸の光景によって自己の外に運ばれる人間の心ゆえに悲しみを感じ、憐憫を感じることが人間的かつ自然であるゆえに愉悦を感じる。愉悦と苦痛は根本的に同一である[155]。ヴァルキ[156]はマッジと一致して、カタルシスを憐憫と恐怖そのものではなく、それらに類似した感情の浄化と解釈する。

スカリゲル(1561年)にとって、悲劇の目的はすべての詩と同様に純粋に倫理的なものである。観客を驚嘆と恐怖に動かすだけで十分ではなく(一部の批評家がアイスキュロスについて言うように)、詩人の機能は教えること、動かすこと、楽しませることでもある。詩人は行為を通じて性格を教え、われわれが善を抱き模倣し、悪から遠ざかるようにする。悲劇では悪人の喜びは苦々しさに、善人の悲しみは喜びに転じられる[157]。スカリゲルはここで、ルネサンスの多くの著者に見られる詩的正義の極端な見方を踏襲している。先世紀、ジョンソン博士はシェイクスピアがコーディーリアその他の無垢な人物に悲劇的運命を与えたことを非難したが、これはまさにこのルネサンス伝統の継承者であった(他の点でレッシングがそうであったように)。スカリゲルにとって、劇の道徳的目的は、悪が最終的に罰せられ、徳が最終的に報われる表現によって間接的に、また劇全体に道徳的格言を述べることによってより直接的に達成される。セネカの模範を前にして、そうした格言(sententiae)は悲劇の支柱そのものとなり――「それらはまるで全体の構造の柱や支柱である」――近代古典悲劇においてもそうであった。ミントゥルノは、これらの格言は悲劇において最も多く、叙事詩において最も少なく用いられるべきであると指摘する[158]。

ミントゥルノはまた、スカリゲルに従って、悲劇の目的は教えること、楽しませること、動かすことであると考える。それは人間の過誤によって極端な不幸に陥った優れた人々の生活と風俗の模範をわれわれの前に提示することによって教える。その韻文・言葉・歌などの美によってわれわれを楽しませる。最後に、われわれを恐怖させ憐憫を呼び起こすことによって驚嘆へと動かし、こうしてわれわれの精神をそうしたものから浄化する。この浄化の過程はミントゥルノによって医師の方法にたとえられる。「医師が毒薬を用いて身体を蝕む熱病の毒を根絶するように、悲劇は韻文によって美しく表現されたこれらの感情の力によって、精神の激しい動揺を浄化する」[159]。

このカタルシスの解釈によれば、悲劇は同種療法的な治療法であり、一つの感情を類似の感情によって治すものである。そしてミルトンが『サムソン・アゴニステス』の序文でほぼ同じ方法でカタルシスを説明しているのが見られる。

「古代に構成された悲劇は、常に他のすべての詩のうちで最も厳粛で道徳的かつ最も有益なものとされてきた。ゆえにアリストテレスによって、憐憫と恐怖、あるいは恐怖を呼び起こすことによって、これらおよび類似の情念を精神から浄化する力を持つと言われた。つまり、これらの情念をよく模倣された形で読むか見ることによって喚起された一種の愉悦によって、適正な程度に和らげ、縮減することである。自然もその効果において彼の主張を裏付けるのに不足はない。医学においても、憂鬱質のものは憂鬱に対して、酸味は酸味に対して、塩は塩質の体液を除くために用いられるようにである。」

この箇所はトワイニング、ベルナイスその他の近代学者によって、ミルトンの学識と批評的洞察の驚くべき証左と見なされてきた[160]。しかし結局のところ、彼は単に『詩学』のイタリア註釈者たちの解釈を踏襲していたにすぎないことは言うまでもない。彼は彼らの著作を研究し徹底的に知り、イタリア・ルネサンスの批評思想をすべて吸収しており、引用したばかりの序文そのものがイタリア的源泉に遡れる思想で満ちており、彼は「古代人とイタリア人」を「偉大な権威と名声」として従ったことを認めている。ミルトンと同様、ミントゥルノも悲劇に倫理的目的を構想していた。しかしミルトンもミントゥルノも、アリストテレスがカタルシスによって道徳的ではなく感情的効果を指していたことを明確に察知していた。

カタルシスの意味に関する最も興味深い議論の一つは、1565年に書かれたスペローネ・スペローニの手紙に見られる[161]。彼自身のこの箇所に関する説明は、単なる語学的根拠からしても全く不可能なものである。しかしその議論は非常に興味深く、非常に近代的である。彼は、憐憫と恐怖は人間の精神を束縛するものと見なされうるから、これらの感情から浄化されることは適切であると指摘する。しかしアリストテレスが憐憫と恐怖の完全な根絶を指すことはできないと主張する――それはペリパトス派よりもストア派の概念であり、アリストテレスはわれわれに感情から完全に自由になることを要求せず、感情を調整することを要求するだけだからであり、感情それ自体は悪ではないからである。

III 悲劇の登場人物

アリストテレスの理想的悲劇主人公の概念は、悲劇の機能が憐憫と恐怖のカタルシス(浄化)を生み出すという前提に基づいている。「憐憫とは、完全に無垢ではないが、当然の苦難を超えた苦難に遭う人物に対して感じられ、恐怖とは、苦難に遭う者がわれわれと同類の人間であるときに喚起される」[162]。これにより、もし悲劇が完全に善い人間が幸福から不幸へと転落する様を表現するなら、憐憫も恐怖も生じず、ただわれわれを衝撃し反発させるだけである。完全に悪い人間が苦難から幸福へと変わる様が表現されれば、憐憫も恐怖も感じず、正義感さえ満たされない。逆に完全に悪い人間が幸福から不幸と苦難へと転落すれば、道徳的感覚は確かに満たされるが、悲劇的感情である憐憫と恐怖は生じない。ゆえに理想的主人公は道徳的に両極端の中間、際立って善くもなく完全に悪くもなく、むしろ善の側に傾きつつ、その身に降りかかる不幸は性格の大きな欠陥か致命的な行為の誤りによるものである[163]。

この悲劇主人公の概念はルネサンスにおいて相当な議論の対象となった。実際、イタリア批評においてアリストテレス的理念が悲劇論に適用された最初の例は、おそらくダニエッロ(1536年)が悲劇主人公の運命に言及した箇所に見られる。しかしダニエッロはアリストテレスの意味を極めて不完全に理解していた。なぜなら悲劇は悲惨かつ恐ろしいものを最も完全に模倣するために、運命の逆転によって悪徳と不正に陥った正しく有徳な人間を導入してはならず(それは悲惨かつ恐ろしいというより邪悪だからである)、逆に繁栄によって善く正しい人間に変わる悪人を導入してはならないと指摘したからである[164]。ここでダニエッロは、悲劇を繁栄または不幸という媒体を通じて悪徳から美徳へ、あるいは美徳から悪徳への変化を表現するものと捉えている。これはアリストテレスの意味に対する奇妙な誤解である。アリストテレスが言及するのは悲劇の倫理的効果ではなく、憐憫と恐怖の感情が観客の精神に及ぼす効果であり、もちろん破局が道徳的感覚や正義感を衝撃することは望まない。

ダニエッロの数年後、ジラルディ・チンティオは悲劇主人公の概念においてアリストテレスをより忠実に踏襲し、さらに悲劇は憐憫と恐怖を呼び起こす限りにおいて幸福に終わるか不幸に終わるかを問わないと断言する。ところでアリストテレスは二重の糸と二重の破局を持つ悲劇、すなわち善人が最終的に報われ悪人が罰せられる悲劇について、それが悲劇的効果全般に明らかに反すると示して、悲劇の幸福な結末を明確に不賛成としている[165]。スカリゲルの悲劇詩人の道徳的機能に関する概念、すなわち美徳に報い悪徳を罰するという見解は、ゆえにアリストテレス的構想と矛盾する。スカリゲルがすべての悲劇は不幸に終わるべきだと主張する以上、生き残るのは善人のみ、苦しむのは悪人のみということになる。この時期のもう一人の批評家カプリアーノ(1555年)は、悲劇の致命的結末は、ある種の高貴な人々が慎重に行動できないことによるものであり、これはアリストテレスの真の意味により近いと指摘する[166]。

アリストテレスは完全に善い人間を悲劇の理想的主人公に適さないと見なしていたことはすでに述べた。しかしミントゥルノは、悲劇はその人物が高貴であるから厳粛かつ高貴であり、ゆえにアリストテレスに反して、完全な人間やキリスト教の聖人の生涯を舞台に表現する理由がなく、キリストの生涯さえ悲劇の適切な主題となりえない理由はないと主張する[167]。これは確かにコルネイユの見解であり、彼は『ポリュークト』の検分においてミントゥルノを引用して自らの立場を正当化している。その他の悲劇人物に関して、ミントゥルノは悲劇に相応しい人物と喜劇に相応しい人物の奇妙な区別を述べる[168]。

第一に、喜劇には女奴隷を除いて若い娘は登場すべきではない。大衆の女性は結婚まで公の場に現れず、喜劇の卑しい人物たちとの交わりによって汚されるが、悲劇の乙女たちは王女であり、幼少期から貴族と会い会話することに慣れているからである。

第二に、喜劇では既婚女性は常に夫に忠実であり、悲劇では不貞である。なぜなら喜劇は友情と平穏で終わり、不貞な関係は決して幸福に終わりえないが、悲劇に描かれる愛は偉大な家系の悲劇的破滅をもたらすためである。

第三に、喜劇では老人がしばしば恋をするが、悲劇では決してそうではない。恋する老人は笑いを誘い、喜劇が目指すのはそれだが、悲劇に要求される厳粛さとは全く相容れないからである。

これらの区別はもちろんラテン劇の慣行、すなわち一方のセネカ悲劇、他方のプラウトゥスとテレンティウスの喜劇から演繹されたものである。

アリストテレスの『詩学』の特定の箇所には、劇における人物造形の要件の定式化がある[169]。この箇所でアリストテレスは、人物は善でなければならない、彼らの所属する類型に適合して描かれなければならない(適切性)、それらは善さや適切性とは全く異なる生々しさを持たなければならない、そして人物は自己一貫していなければならないと言う。この箇所はルネサンスおよび古典主義の全期間を通じて、人物に関する奇妙な概念を生んだ。それが「デコルム(decorum)」の概念であり、すべての老人がかくかくしかじかの特性を持ち、すべての若者が別の特性を持ち、兵士、商人、フィレンツェ人やパリジャンなども同様でなければならないと主張された。この固定され形式的な人物観は、悲劇と喜劇の人物の根本的差異を地位に置く区別と結びつき、実際にはホラティウスの『詩論』の一節、

「各年齢の風俗を君は記さねばならない」[170]

およびアリストテレスの『修辞学』第二巻における人間のさまざまな特性の修辞学的記述に基礎を置いていた。

ルネサンスのデコルム概念の説明は二つの観点から始めることができる。

第一に、ホラティウス、そしてその後のルネサンス批評家たちが、アリストテレスが単に修辞的説明の目的のために『修辞学』で試みに定式化した人物の区別を詩の領域に移そうとしたことに注意すべきである。これらの区別は、繰り返すが、修辞的であり美学的ではなく、ゆえに『詩学』では言及されていない。それらを詩の領域に移そうとした結果は、古典劇における人物の硬直化と結晶化であった。しかしそのような試みに含まれる美学的誤解はあまりにも明らかである。そのような体系では、詩は人間生活の理念的真理に対してではなく、ある種の恣意的、あるいはせいぜい経験的な修辞学理論の公式に対して責任を負わされる。ルネサンスはこの点で、芸術の他のすべての要素に対して行われていたことを人物に対しても行っていたにすぎない。一度区別され明確に定式化された要素はすべて、こうして分析された現実の必要かつ不可侵の代用品として固定化された。

しかしデコルムの原理を別の観点から見ることもできる。ここにははるかに深い問題、社会的区別の問題が関わっている。デコルムの遵守は、ルネサンスの生活とルネサンス文学の基礎を形成していた社会的区別の維持を必要とした。古典主義の悲劇が最高位の人物以外を排除したのも同じ傾向による。叙述詩について語るムツィオ(1551年)は、王が民衆と交わることは許しても、民衆の一人が一瞬でも笏を持つことは絶対に不適切だと考える[171]。ゆえに、地位・職業・国の偶然によって区別された人間が、芸術が認識すべき唯一のもの、すなわち性格によって区別された人間ではなく、古典主義文学の主題となった。そしてこれが真実である限り、その文学は最高の芸術の深さと普遍性をいくらか失うことになる。

このデコルムの要素は、ヴィーダ[172]とダニエッロ[173]の時代からルネサンスのすべての批評家に見られる。デコルムの遵守はあまりにも本質的となり、ムツィオとカプリアーノはともに、ホメロスに対する最も重大な非難は彼が常にデコルムを守らなかったことだと考えた。カプリアーノはウェルギリウスをホメロスと比較して、ラテン詩人は雄弁さ・威厳・文体の壮大さにおいてギリシア詩人を凌ぐが、何よりもデコルムにおいて凌ぐと主張する[174]。ホメロスのいくつかの比喩や人物の行動に見える下品さは、ルネサンスにとって最も重大な欠陥に思われ、これがスカリゲルにホメロスをウェルギリウスだけでなくムサイオスよりも下に置かせる原因となった。ミントゥルノとスカリゲルにおいては、人物のあらゆる細部が綿密に分析されている。若者と老人はどのように行動し、話し、服装すべきかが詩人に教えられ、どんな状況でもこれらの固定された公式からの逸脱は許されなかった。その結果、詩人がこれらの概念から解放され、真の意味で性格を描こうとした場合でも、新古典劇において描かれるのは性格であって、性格の発展ではなかった。性格は劇の最初から最後まで固定されており、ここにベン・ジョンソンの「ユーモア」概念の起源を見出すことができる。サルヴィアーティの講義『詩学論考について』の一つにおいて[175]、サルヴィアーティはユーモアを「各人が他の何よりも特定のものに傾く、自然の特異な性質」と定義する。これはエリザベス朝人がこの言葉を用いた意味に極めて明確に当てはまる。こうしてジョンソン自身、『人それぞれのユーモア』の誘導部において、医学的なユーモアの概念を説明した後、次のように言う。

「それは比喩的に、一般的な性質に適用されうる。
 ある一つの特異な性質が
 人をそれほど支配し、そのすべての作用、精神、能力を
 一方向に流れさせるなら、
 これは真にユーモアと呼ばれる。」

ジョンソンの意味での「ユーモア」という語の起源は、これまで慎重に研究されていない。ジョンソンの校訂者たちはそれを英語特有のものとし、ジョンソンの時代に初めてこの意味で用いられたと言う。ここでこの問題をさらに深く追求するつもりはないが、サルヴィアーティの定義はジョンソンの定義に十分近く、16世紀ヨーロッパのすべての批評用語と批評思想の起源がそうであるように、この語の起源もイタリアの美学文献に求めるべきであることを示している[176]。

IV 劇の三一致

アリストテレスは悲劇の定義において、劇は完全(complete)または完璧(perfect)でなければならず、すなわち統一(unity)を備えていなければならないと言う。プロットの統一とは、単一の主人公によって与えられる統一を意味するのではない。なぜなら彼が言うように、「一人の人間の生涯には無限に多様な出来事があり、それらを統一に還元することはできない。同じく一人の人間の多くの行為の中にも、一つの行為を構成しえないものがある。それゆえ、ヘラクレイデス、テセイデスその他同種の詩を作ったすべての詩人たちの誤りは明らかである。彼らはヘラクレスが一人の人間であるから、ヘラクレスの物語も統一でなければならないと想像したからである」[177]。これがアリストテレスの行為の統一についての言明である。しかし他の二つの統一、すなわち時間と場所の統一の起源は何か。『詩学』には悲劇的行為の時間制限への言及はただ一カ所だけであり、いわゆる場所の統一については全く言及がない。アリストテレスは、悲劇の行為と叙事詩の行為は長さにおいて異なり、「悲劇は可能な限り一回の太陽の回転、あるいはそれをわずかに超える範囲に自らを限定しようと努めるが、叙事詩の行為には時間の制限がない」と言う[178]。この箇所は歴史的事実の付随的言明にすぎず、ギリシア悲劇の通常の慣行からの試みの演繹にすぎず、アリストテレスはこれを劇の不可侵の法則とは決して考えなかった。近代古典劇において極めて重要な役割を果たす三つの統一のうち、行為の統一こそがアリストテレスが知り、かつ主張した主要な、実際には唯一の統一であった。しかしギリシア悲劇の一般的な時間制限への付随的言及から、ルネサンスは時間の統一を定式化し、そこからアリストテレスにも他のどの古代著者にも全く言及のない場所の統一をも演繹した。三一致の定式化は17世紀フランス批評家ではなく、ルネサンス期のイタリア人に負っている。この事実は約20年前、スイスの学者H・ブライティンガーの小冊子『コルネイユの『シッド』以前のアリストテレスにおける統一』によって初めて学者の注意を引いたが、三一致の徐々な発展と定式化はこれまで体系的に研究されていない。ここでは16世紀におけるそれらの歴史を辿り、どのように発展したかを説明しようと思う。

近代文学における時間の統一の教説への最初の言及は、ジラルディ・チンティオの『喜劇と悲劇に関する論考』に見られる。彼は、喜劇と悲劇は他の点でも一致するが、とりわけ行為を一日またはわずかに超える範囲に限定することでも一致すると言う[179]。こうして彼は初めて、アリストテレスの歴史的事実の言明を劇的法則へと転換した。さらに彼はアリストテレスの「太陽の一回転」という表現を、より明確な「一日」という表現に変えた。彼は、エウリピデスが『ヘラクレイダイ』において、行為の場所間の距離が長いために一日以内に限定できなかったと指摘する。ところでアリストテレスは現存しない優れたギリシア劇の多くを知っていたから、おそらくそれらの慣行に従って、行為が厳格に一日以内に限定されていなかったであろう。アリストテレスは、ゆえに意図的に劇に一日をわずかに超える時間を許容した。したがって時間の統一は1540年から1545年頃に劇の理論の一部となるが、フランスおよび世界の劇文学の不変の規則となるのはほぼ正確に一世紀後である。

ロボルテッリ(1548年)において、アリストテレスの「太陽の一回転」は人工的な12時間の昼に制限される。悲劇はただ一つの単一かつ連続的な行為しか含みえず、人々は夜に眠るのが習慣であるから、悲劇的行為は一つの人工的な昼を超えて続けることはできない。これは喜劇にも悲劇にも当てはまり、両者の神話の長さは同じである[180]。しかしセーニ(1549年)はロボルテッリと異なり、太陽の一回転とは12時間の人工的な昼ではなく24時間の自然な一日を指すと見なし、悲劇、さらには喜劇において扱われるさまざまな事柄(不義、殺人など)は夜に起こりやすいからであり、夜は自然に休息の時間であると言われても、セーニは不正な人々は自然の法則に反して行動すると答える[181]。この頃から、アリストテレスが悲劇を一日と限定したのは何を意味するのかという歴史的論争が始まり、四分の三世紀後の1623年、ベーニは学者たちの13の異なる意見を引用できた。

トリッシーノは『詩学』(1563年)において、時間の統一に関するアリストテレスの箇所を次のように言い換える。「両者は長さにおいても異なる。悲劇は一日、すなわち太陽の一周期、あるいはそれをわずかに超える範囲で終わるが、叙事詩には定まった時間がない。これは悲劇と喜劇が最初にそうであった慣行であり、無知な詩人たちの間では今日でもそうである」[182]。ここで初めて、フランスの批評家が指摘するように、時間の統一の遵守が学識ある詩人と無知な詩人を区別するものとされた[183]。トリッシーノは時間の統一を、中世劇の無形と混沌から劇詩を救った芸術的原理と見なしていることが明らかである。こうして時間の統一は劇的法則であるだけでなく、その遵守が劇芸術家を単なる大衆劇の無知な編纂者から区別するものとなった。

これまで挙げた著者のいずれにも、場所の統一への言及は全くない。単純にアリストテレスの『詩学』に劇に対するそのような要求への言及がないからである。マッジの時間の統一に関する論(1550年『詩学』註釈)は、第三の統一への道を開く点で特に興味深い。マッジは時間の統一の理由を論理的に説明しようとする[184]。なぜ悲劇は時間において限定され、叙事詩は限定されないのか。彼によれば、この差異は劇が舞台上でわれわれの目の前で表現されるという事実によって説明される。もし一ヶ月の行為を劇の上演に要する約二、三時間で表現したら、上演は全く信じられないものになるからである。たとえばマッジは、悲劇で使者をエジプトに遣わし、一時間で戻ってきたら、観客はそれを馬鹿げていると思うだろうと言う。叙事詩では行為が表現されるのを見ないから、特定の時間に限定する必要を感じない。ここで注目すべきは、この時間制限が表現の観念に基づいている点である。劇の行為自体の持続は、舞台上での表現の持続とかなり一致しなければならない。これが場所の統一の受容とその基礎となった原理である。行為の時間を表現の時間に限定すれば、行為の場所は表現の場所に限定されねばならないのは当然である。そのような制限はもちろん真の劇的幻想と全く相容れない現実主義の断片である。しかし古典主義がアリストテレス的規準によって正当化されうるよりも細かい現実主義へと傾いたのは、ほとんど劇においてであった。マッジには場所の統一の萌芽が明らかであり、彼は表現の要求が、劇中の使者や人物を行為が行われている場所からあまり遠くへ遣わすことを許さないと見なす。行為と表現がより密接に一致するほど、時間だけでなく場所における制限の必要性もより明確になり、スカリゲルとカステルヴェトロがやや遅れて三一致を定式化したのもこの原理による。

スカリゲル(1561年)には時間の統一の直接的言明はないが、それへの言及はそれでも明白である。彼はまず、出来事を可能な限り実際の真理に最も近づくように配置し処分することを要求する(ut quam proxime accedant ad veritatem)[185]。これは行為の持続、その場所、その進行様式が表現そのものと多少なりとも正確に一致しなければならないと言うに等しい。劇詩人は何よりも人生の実際の状況を再現することを目指さねばならない。verisimile、vraisemblable は、これらの語の語源的意味において、劇的構成の最終基準でなければならない。観客が行為を人生における類似行為の典型として満足するだけでは十分ではない。完全に完璧な幻想が支配しなければならず、観客は劇の行為をまるで現実の行為であるかのように動かされなければならない。

verisimile のこの概念と、観客の精神に完璧な幻想を生む効果は、古典主義の全期間を通じて支配的であり、ヴォルテールほどの批評家によっても強力に擁護された。ゆえにマッジが最初に指摘したように、劇作家が劇全体を表現する数時間以内に、一ヶ月の行為を必要とするような行動を人物に行わせれば、実際の真理と完璧な幻想の印象は観客の精神に残らない。「ゆえに」スカリゲルは言う、「テーバイ周辺で二時間の間に起こる戦闘や襲撃は私に喜びを与えない。賢明な詩人は誰一人として、デルフォイからテーバイへ、あるいはテーバイからアテネへ、一瞬で移動させるべきではない。アガメムノンはアイスキュロスによって殺された後に埋葬され、リカスはヘラクレスによって海に投げ込まれる。しかしこれは真理に対する暴力なしには表現できない。ゆえに詩人は可能な限り最短の主題を選び、エピソードと細部によってそれを活気づけるべきである……劇全体が六、八時間で舞台に表現される以上、その短い時間内に嵐が起こり、陸地から離れて難破するというのは、正確な真理の外見に反する(haud verisimile est)。」

時間の統一の遵守がこれほど明確かつ強力に要求されたことはない。しかしこの箇所を場所の統一の言明と解釈するのは誤りである[186]。スカリゲルが人物をデルフォイからテーバイへ、あるいはテーバイからアテネへ一瞬で移動させるべきではないと言うとき、彼は場所の要求ではなく時間の要求を指している。彼はこの点でも他の多くの点でも、使者をエジプトに遣わして一時間で戻ってくるのは馬鹿げていると言ったマッジに従っているにすぎない。スカリゲルによれば、人物は一瞬でデルフォイからテーバイへ移動すべきではないが、それは行為が必ず一つの場所で起こらなければならないからではなく、短時間に大距離を移動するのは真理の外見を欠くからである。これは場所の統一への接近であり、スカリゲルが自らの主張を論理的結論まで追えば、必ず三一致を定式化していたであろう。しかし行為を可能な限り実際の真理に近づけること、言い換えれば行為が表現と一致することを要求することによって、スカリゲルは場所の統一の最終的認識に先人以上に貢献した。

ミントゥルノ[187]とヴェットーリ[188]には、悲劇的行為だけでなく叙事詩的行為の持続をも制限しようとする傾向がある。アリストテレスは悲劇の行為は一般に約一日以内に自らを限定しようと努めるが、叙事詩の行為には定まった時間がないとはっきりと述べていたことはすでに述べた。しかしミントゥルノは時間の統一を次の言葉で言及する。「最も高名な古代著者の作品をよく検討する者は、舞台に表現される行為が一日で終わるか、二日を超えないことを見出すだろう。叙事詩はより長い時間を持つが、その行為は一年を超えることはできない」[189]。この制限はミントゥルノがホメロスとウェルギリウスの慣行から演繹したものである[190]。『イリアス』の行為はトロイア戦争の第十年から始まり一年続く。『アエネイス』の行為はアエネアスがトロイアを出て第七年から始まり、やはり一年続く。

しかし場所の統一を定式化し、こうして三一致に最終形態を与えた最初の理論家はカステルヴェトロであった。カステルヴェトロの劇の理論は完全に舞台表現の概念に基づいていたことはすでに述べた。劇文学の本質的なものはすべて舞台の要求によって固定される。舞台は限定された空間であり、劇はその上で観客の物理的必要性によって限定された時間内に上演されなければならない。この二つの事実からカステルヴェトロは時間と場所の統一を演繹する。アリストテレスが悲劇的行為は人工的な12時間の昼を超えられないということを「極めて確固たる真実の事」と考えていたと主張しながらも、アリストテレス自身がこの制限の真の理由を理解していなかったと考える[191]。『詩学』第七章でアリストテレスはプロットの長さが観客が一度に記憶に留められる可能性によって限定されると言う。しかしこれでは叙事詩も悲劇も一日以内に制限されることになる。両者のこの点における差異は、叙述詩と舞台詩の本質的条件の差異にある[192]。叙述詩は短時間に何日、何ヶ月、何年にもわたる出来事を語ることができる。しかし舞台詩は、人生でそれを行うのに要するのと同じ時間を表現に費やすから、全く異なる。叙事詩では言葉が空間的・時間的に遠いものをわれわれの知性に提示できる。しかし劇詩では行為全体がわれわれの目の前で起こり、ゆえにわれわれが実際に自分の感覚で見られるもの、すなわち俳優が演技に費やす短い時間と小さな空間に限定され、他の時間や場所ではない。しかし制限された場所は舞台であり、制限された時間は観客が連続上演を楽に座って見ていられる時間であり、この時間は食事・飲水・睡眠などの観客の物理的必要性によって、太陽の一回転を超えることはできない。ゆえに時間の統一は本質的な劇的要件であるだけでなく、劇作家がそう望んでもそうできない、実際には不可能なことである――これはもちろん議論全体の還元至 absurdity である。

別の箇所でカステルヴェトロはより簡潔に、古典主義の全期間を通じて残った決定的形態で統一の法則を定式化する。「悲劇的変転は一日と一つの場所しか伴うことができない(La mutatione tragica non puo tirar con esso seco se non una giornata e un luogo)」[193]。カステルヴェトロにとって時間と場所の統一はあまりにも重要であり、アリストテレスにとって劇の本質である行為の統一は完全にそれらに従属する。実際カステルヴェトロは行為の統一は劇に本質的ではなく、時間と場所の要求によって単に便利なものにすぎないとはっきり言う。「喜劇と悲劇には通常一つの行為があるが、それは神話が一つ以上の行為を含むのに不適なからではなく、行為が表現される制限された空間と、最大12時間の限定された時間が、多数の行為を許さないからである」[194]。同様にカステルヴェトロは統一の法則を叙事詩にも適用する。叙事詩の行為は多くの場所と異なる時間で達成されうるが、単一の行為を持つ方が称賛され愉悦的であるように、行為は短い時間と少数の場所に限定する方がよい。言い換えれば叙事詩が時間と場所の統一に制限しようとすればするほど、カステルヴェトロによればより良くなる[195]。しかもカステルヴェトロは三一致を決定的形態で定式化した最初の人物であるだけでなく、それらを劇の不可侵の法則として主張した最初の人物でもあり、『詩学』註釈のページで何度も繰り返し言及している[196]。

これが統一の起源である。われわれの議論は、それらが伝統的にアリストテレス的統一、あるいは最近の批評家が同程度に不正確にスカリゲル的統一(unites scaligeriennes)と呼ばれるに値しないことを明らかにしたはずである[197]。それらはフランスで最初に定式化されたわけでもない(17・18世紀の意見ではそうであったが)。こうしてドライデンは言う。「場所の統一は、古代人がいかに実践したとしても、彼らの規則の一つでは決してなかった。われわれはアリストテレスにもホラティウスにも、それについて書いた誰にも見出せず、われわれの時代になって初めてフランス詩人たちが舞台の戒律とした」[198]。ゆえに行為の統一が本来的にアリストテレス的統一であるように、時間と場所の統一は疑いなくイタリア的統一であると言える。それらはカステルヴェトロの時代からヨーロッパの批評文学に入り、イタリアが文芸批評に与えた最後の貢献とほぼ言える。それらがカステルヴェトロによって定式化されて二年後にはフランスに導入され、その定式化から十数年後にはイングランドに導入された。しかし1636年の『シッド』論争の結果として近代劇文学に固定されるのは、それから約百年後、イタリア批評における時間の統一の最初の言及からである。

V 喜劇

この時期の文芸批評における喜劇の扱いは、アリストテレスが『詩学』で喜劇について述べたわずかな内容を議論し、展開することに完全に限定されている。アリストテレスは、悲劇が高貴な行為を、喜劇は卑しい行為を扱う点で両者を区別していたことを思い出してほしい。喜劇は悲劇のそれよりも下級な類型の人物の模倣であり、下級ではあるが、完全に「悪い」という意味での悪ではない。「滑稽なものは醜の単なる下位区分である。それは苦痛や破壊を伴わない欠陥または醜さと定義できる。たとえば喜劇的な仮面は醜く歪んでいるが、苦痛を引き起こさない」[199]。このわずかな示唆から、イタリアの理論家たちは喜劇の教説体系を構築した。しかしこの時期の批評文献には、イタリア固有の喜劇である「即興喜劇(commedia dell’arte)」の理論を説明しようとする試みは一切ない。プラウトゥスとテレンティウスの古典喜劇が模範であり、アリストテレスの『詩学』がルネサンス期の喜劇に関するすべての議論の指針であった。喜劇と悲劇の人物の区別はすでに十分に詳述されている。喜劇を扱うにあたって残ることは、ルネサンスが定式化した喜劇の定義と、ルネサンスが喜劇に理解した特有の機能をできる限り簡潔に示すことだけである。

トリッシーノ(1563年)によれば、喜劇詩人は卑しいもののみを扱い、それをただ懲罰する唯一の目的のためである。悲劇が憐憫と恐怖という媒体を通じて道徳的目的を達成するように、喜劇は卑しく悪しきものを懲罰し非難することによってそうする[200]。しかし喜劇詩人はあらゆる種類の悪徳を扱うべきではなく、嘲笑を生むもの、すなわち卑しく無名の人物の滑稽な行為のみを扱うべきである。笑いは醜の対象を見ることに伴うある種の愉悦または快楽から生じる。美しい女性、豪華な宝石、美しい音楽を見て笑うことはない。しかし愚かな言葉、醜い顔面、ぎこちない動作といった歪みや変形は笑いを誘う。他人の利益を見て笑うことはない。たとえば財布を見つけた人は笑いではなく羨望を誘う。しかし誰かが泥の中に落ちたのを見ると笑う。ルクレーティウスが言うように、自分にはない悪を他に見出すのは甘美だからである。しかし大きな悪は笑いを誘わず、むしろ憐憫と恐怖を誘う。なぜならそれが自分に起こるのではないかと恐れるからである。ゆえにわれわれが他に認め、自分にはないと信じる、悲しくも破壊的でもない軽い悪こそが滑稽の第一の原因であると結論できる[201]。

マッジの『詩学』註釈に付録された『滑稽について』では、アリストテレス的な滑稽の概念が受け容れられ、そこに驚嘆(admiratio)の要素が追加される。マッジは突然性または新奇性の観念を強調する。なぜなら極めて馴染み深いか長く続く苦痛を伴わない醜さでは笑わないからである[202]。

ロボルテッリ(1548年)によれば、喜劇は他のすべての詩の形態と同様、人間の風俗と行為を模倣し、笑いと軽快さを生むことを目指す。しかし何が笑いを生むのか。悪しきものや猥褻なものは善人をただ嫌悪させるだけである。悲しく悲惨なものは憐憫と恐怖を引き起こす。ゆえに笑いの基礎はわずかに卑しいか醜いもの(subturpiculum)に見出されなければならない。ルネサンスの意見の総意によれば、喜劇の目的は小さな悪徳を嘲笑の対象とするために笑いを生むことである。ムツィオ(1551年)は、シドニーやベン・ジョンソンが後にそうするように、当時の喜劇作家たちが性格や風俗を描くよりも笑いを生むことに熱心であることを不満とする。

「笑いに熱心で
 風俗には無頓着」

しかしミントゥルノは、喜劇が笑いを誘うからといって軽蔑されるべきではないと指摘する。喜劇的陽気さによって観客は自らが道化になるのを防がれ、恋愛が嘲笑の対象に置かれることによって将来それらを避けるようになる。喜劇は人間の道徳の最良の矯正剤であり、キケロが呼ぶところの「人生の模倣、風俗の鏡、真理の形象」である。この言葉はドナトゥスがキケロに帰したものであり、ルネサンスのすべての劇的議論を貫き、『ハムレット』の有名な一節に反響する。セルヴァンテスは『ドン・キホーテ』でこの言葉を引用する[204]。イル・ラスカは『アルツィゴーリオ』の序文で、当時の喜劇作家たちを次のように非難する。「彼らは自作の不条理、矛盾、不均衡、齟齬を顧みない。彼らは喜劇が真理の形象、風俗の模範、人生の鏡であるべきことを知らないようである。」

これはまさにシェイクスピアがハムレットを俳優たちに戒めさせるときに主張していることである。「自然の慎みを越えるな。何事も度を過ごせば演劇の目的から逸れる。その目的は最初も今も、自然に鏡を掲げること、徳にその姿を、嘲笑にその形象を、時代と時の本体にその形と圧力を示すことである」[205]。

スカリゲル(1561年)が喜劇、実際には諷刺的・教訓的詩全般に与える高い重要性は、ルネサンス期における新古典主義的理想の萌芽的形成を示す多くの兆候の一つである。彼はホラティウスが述べたと思われる、喜劇は本当の詩ではないという言明を愚かだと見なし、逆に喜劇こそ真の詩であり、第一かつ最高の形態であると考える。なぜならその素材は完全に詩人によって発明されるからである[206]。彼は喜劇を、陰謀(negotiosum)に満ちた劇詩であり、大衆的文体で書かれ、幸福に終わるものと定義する[207]。喜劇の人物は主に老人、奴隷、娼婦であり、すべて卑しい地位か小さな村の出身である。行為はかなり乱雑に始まるが幸福に終わり、文体は高くも低くもない。喜劇の典型的主題は「遊び、宴会、結婚、酔っ払いの乱痴気、奴隷の狡猾な策略、老人の欺瞞」である[208]。

16世紀イタリアにおける喜劇の理論は完全に古典的であり、当時の実践もその理論と一致していた。確かに、特に大衆劇の序文において、不満と反逆の声が時折聞こえる。イル・ラスカは『ストレガ』の序文で、アリストテレスとホラティウスの不可侵の権威に反抗的に抗議し、『ジェロジア』の序文ではプラウトゥスとテレンティウスの様式ではなく自らの時代の様式を模倣する権利を留保する。チェッキ、アレティーノ、ジェッリその他の喜劇作家も同様の感情を表明する[209]。しかし全体としてこれらの抗議は何の効果もなかった。喜劇の作者たち、特に文学批評家たちは、古典の実践と古典の理論に導かれていた。即興喜劇(commedia dell’arte)のような劇的形態は、ヨーロッパ喜劇全般、特にフランスの実践に顕著な影響を与えたが、イタリア・ルネサンスの文芸批評にはその影響の痕跡を残さなかった。

脚注(日本語全訳)

[109] 『詩学』vi. 2
[110] ダニエッロ、34頁
[111] ホラティウス『詩論』182以下と比較せよ
[112] ジラルディ・チンティオ、ii. 6
[113] 同上、ii. 30
[114] ブッチャー、220頁による引用
[115] 『詩学』iv. 7
[116] マッジ、64頁
[117] マッジ、154頁
[118] ブッチャー、220-221頁
[119] ブッチャー、219頁、注1――ミュラー、ii. 394はテオフラストスの定義をアリストテレスの定義と調和させようとする
[120] エッガー『批評史』344頁、注2
[121] クロエッタ、i. 29。エッガー、72頁に引用されるアンティファネスと比較せよ
[122] クロエッタ、30頁
[123] 『語源』viii. 7, 6
[124] 『語源』xviii. 45および46
[125] クロエッタ、28頁および31以下
[126] 『書簡』xi. 10。ネグローニ校訂1887年、ジェッリ『神曲講義』i. 37以下と比較せよ
[127] 『詩学』ix. 5-9
[128] ジラルディ・チンティオ、ii. 14
[129] 同上、ii. 20
[130] 『詩学』xi. 6
[131] 『詩論』182-188
[132] ジラルディ・チンティオ、ii. 119
[133] スカリゲル『詩学』i. 6
[134] 同上、i. 11;iii. 96
[135] 同上、vi. 6
[136] 同上、iii. 96
[137] 同上、i. 13
[138] 『詩人について』43以下
[139] 同上、173頁。ミルトンの「空虚で恋愛的な詩」という表現と比較せよ
[140] ダシエ、1692年、xvii頁
[141] 『詩学』vi. 19
[142] 『詩学』xiv. 1
[143] カステルヴェトロ『詩学』30頁
[144] 同上、22-23頁
[145] 同上、57頁
[146] 同上、35-36頁
[147] トワイニング、ii. 3
[148] ブッチャー、第6章
[149] ジラルディ・チンティオ、ii. 12
[150] 同上、i. 66以下
[151] トリッシーノ、ii. 93以下
[152] ロボルテッリ、52以下
[153] ヴェットーリ、56以下、およびカステルヴェトロ『詩学』117以下
[154] マッジ、97以下
[155] シェリー『詩の擁護』35頁「悲劇は苦痛の中に存在する愉悦の影を与えることによって喜ばせる」などと比較せよ
[156] 『講義』660頁
[157] スカリゲル『詩学』vii. i. 3;iii. 96
[158] 『詩論』287頁
[159] 『詩論』77頁
[160] ブッチャー、229-230頁
[161] 『著作集』v. 178
[162] ブッチャー、280以下
[163] 『詩学』xiii. 2, 3
[164] ダニエッロ、38頁
[165] 『詩学』xiii. 7
[166] 『真の詩学について』第3章
[167] 『詩人について』182以下
[168] 『詩論』118以下;スカリゲルおよびジラルディ・チンティオにも同様
[169] 『詩学』xv. 1-5
[170] 『詩論』154以下
[171] ムツィオ、80頁
[172] ポープ、i. 165
[173] 『詩学』36以下
[174] カプリアーノ、前掲書、第5章
[175] マグリァベッキ写本、vii. 7, 715
[176] ジョンソンのもう一つの表現「小なるラテン語、さらなる少なきギリシア語」も、ミントゥルノの「ラテン語は少し、ギリシア語はさらに少し」(『詩論』158頁)に遡れるかもしれない
[177] 『詩学』viii. 1-4
[178] 『詩学』v. 4
[179] ジラルディ・チンティオ、ii. 10以下
[180] ロボルテッリ、50頁、275頁、および付録45頁。1554年のルイジーノ『ホラティウス詩論註釈』40頁と比較せよ
[181] B. セーニ、170v頁
[182] トリッシーノ、ii. 95
[183] ブリュネティエール、i. 69
[184] マッジ、94頁
[185] スカリゲル、iii. 96。ロボルテッリ、53頁も悲劇を「真理そのものに大いに近づくもの(quae multum accedunt ad veritatem ipsam)」と表現
[186] 例:リンティラック『スカリゲル詩学論』32頁
[187] 『詩人について』185頁、281頁
[188] ヴェットーリ、250頁
[189] 『詩論』71頁、117頁
[190] 同上、12頁
[191] カステルヴェトロ『詩学』157頁、170頁
[192] 同上、57頁、109頁
[193] 同上、534頁。ボワロー『詩論』iii. 45と比較せよ
[194] 同上、179頁
[195] 同上、534-535頁
[196] すでに挙げた以外の一致に関する言及は、カステルヴェトロ『詩学』163-165、168-171、191、397、501、527、531-536、692、697頁などにあり
[197] リンティラック、『新評論』lxiv. 541
[198] 『劇詩論』31頁
[199] 『詩学』v. 1。『修辞学』iii. 18と比較せよ
[200] トリッシーノ、ii. 120。ブッチャー、203以下と比較せよ
[201] トリッシーノ、ii. 127-130。トリッシーノはキケロ『弁論家について』ii. 58以下に従っているようである。ホッブズ、およびその後にアディソンによって定式化された笑いの理論は、これらのイタリアの滑稽論に起源を負っている。アリストテレスの『詩学』導入以前のルネサンスにおける機知とユーモアの議論については、ポンターノ『会話について』第3・4巻、およびカスティリオーネ『宮廷人』第2巻を参照
[202] マッジ、307頁。ホッブズ『人間本性』1650年、ix. 13と比較せよ
[203] B. タッソ、ii. 515;ロボルテッリ、2頁などと比較せよ
[204] 『ドン・キホーテ』iv. 21
[205] 『ハムレット』iii. 2
[206] スカリゲル『詩学』i. 2。カスティリオーネは『宮廷人』第2巻で、喜劇作家こそ他の誰よりも人間生活の真の形象を表現すると言う
[207] 同上、i. 5
[208] 同上、iii. 96
[209] シモンズ『イタリア・ルネサンス』v. 124以下、533以下

第四章 叙事詩論

叙事詩はルネサンス期、そして実際には古典主義の全期間を通じて最高の敬意を払われた。ヴィーダは叙事詩を詩の最高形態と見なし[210]、一世紀後のフランスにおいて悲劇が成功を収めたにもかかわらず、ラパンは依然として同じ意見を持っていた[211]。ルネサンスを通じて叙事詩に対する崇敬は、一部には中世におけるウェルギリウスに対する詩人としての崇拝と、預言者・魔術師としての大衆的な神格化に帰せられ、また一部には中世において放浪芸人(histriones および vagantes)の手にあって劇文学が衰退したことにも帰せられる。

アリストテレス[212]は確かに悲劇を詩の最高形態と見なしていた。そしてその結果、ウェルギリウスとホメロスに対する伝統的崇敬と、ルネサンスのアリストテレスへの従属とは明らかに矛盾していた。トリッシーノ(1561年)は悲劇を優位とするアリストテレスの議論を言い換えるが、それにもかかわらず、世界全体がウェルギリウスとホメロスをそれ以前・以後のいかなる悲劇詩人よりも偉大であると一致して考えていることを指摘する[213]。このジレンマに置かれた彼は、叙事詩か悲劇かのどちらがより高貴な形態かを、読者に自分で判断させることで結論する。

I 叙事詩の理論

1520年以前に書かれたが1527年以前の版は現存しないヴィーダの『詩論』は、ホラティウスの『詩論』、ボワローの『詩的芸術』、ポープの『批評論』に属する近代の批評詩の最古の例である。ヴィーダの詩は完全にホラティウスに基づいているが、ホラティウスの劇的考察の代わりに叙事詩を置き、『アエネイス』を叙事詩の模範とする。アリストテレスの『詩学』における叙事詩の扱いの不完全さは、ルネサンスに英雄詩および詩的技巧全般の法則をウェルギリウスの実践から演繹させることとなり、レゴロ(1563年)、マランタ(1564年)、トスカネッラ(1566年)の『アエネイス』に関する批評作品の起源もこの観点にある。ウェルギリウスの詩の明白な、さらには偶然的な性質が、ヴィーダによって叙事詩の根本法則として宣布される。こうして与えられた訓戒は純粋に修辞的・教授的な性格を持ち、詩的発明・配置・洗練・文体の問題にほぼ独占的に関わる。それを超えてヴィーダは進もうとしない。彼の詩には叙事詩の定義も、その機能の理論も、叙述構造の本質の分析もない。実際、ヴィーダの論文には真の意味での詩の理論は一切見られない。

ダニエッロ(1536年)は叙事詩を極めて簡略にしか扱わないが、その定義はルネサンス的概念の基調を打つ。英雄詩は皇帝および武器において寛大かつ勇壮な他の人々の高貴な行為の模倣である[214]。これはホラティウスの

「王と将軍の業績と悲惨な戦争」[215]

に遡る概念である。トリッシーノ(1563年)は近代文芸批評にアリストテレス的叙事詩論を初めて導入し、『詩学』第六部はほぼ完全に英雄詩の扱いに充てられている。叙事詩は悲劇と同様、高貴な人物と高貴な行為を扱う点で一致する。悲劇と同様に単一の行為を持たなければならないが、行為の時間が限定または定められていない点で異なる。行為の統一は叙事詩に本質的であり、実際にはそれこそが真の叙事詩でない叙述詩と区別するものであるが、ルネサンスは壮大な設計と細部の大きさを叙事詩の壮大な性格に必要と見なした[216]。こうしてムツィオは言う。

「至高の詩は宇宙の絵画であり、
 ゆえにその中にあらゆる文体、あらゆる形態、あらゆる肖像を含む。」

トリッシーノは自由詩(versi sciolti)を英雄詩の適切な韻律と見なし、スタンザ形式は叙述の連続性を阻害するとして、ボッカッチョ、ボイアルド、アリオストを非難する。彼らのロマンティックな詩は、しかもアリストテレスの単一行為という不可侵の法則に従わないから叙事詩とは見なさない。彼はまた、ロマンティック詩人が非蓋然的なものを描写することを非難する。アリストテレスは不可能な蓋然性を非蓋然的な可能性に明確に優位させるからである。

ミントゥルノの叙事詩の定義は、アリストテレスの悲劇の定義の単なる変形または言い換えにすぎない。叙事詩は厳粛かつ高貴な行為の模倣であり、完全で完璧で適切な大きさを持ち、装飾された言葉を用いるが音楽や舞踏はなく、時に単に叙述し、時に言葉と行為によって人物を導入し、模倣されたものに対する憐憫と恐怖を通じて、そうした情念を愉悦と利益とともに精神から浄化するためである[217]。ここでミントゥルノはジラルディ・チンティオと同様、叙事詩にも悲劇が達成する憐憫と恐怖の浄化を帰する。彼は叙事詩を悲劇より高く位置づける。なぜなら叙事詩人は他の誰よりも、詩人の特有の機能である偉大な英雄への驚嘆を呼び起こし、ゆえに詩の目的を他のどの詩人よりも完全に達成するからである。しかしこれは叙述詩の最高形態においてのみ真実である。ミントゥルノは叙述詩人を三種に分ける。最低の牧歌詩人(bucolici)、韻文以外に何もない中級の叙事詩人(epici)、高貴な韻文で単一の英雄の生涯を模倣する最高の英雄詩人(heroici)である[218]。ミントゥルノは叙事詩の行為の統一を根本的に主張し、すでに述べたようにアリストテレスの言明に直接反して、行為の持続を一年に制限する。ロマンツォの自由奔放さと冗長さが、古典的叙事詩の擁護者にこの厳格な慎重さの極端へと導いた。スカリゲルによれば、叙事詩は他のすべての詩を判断する規範であり、すべての詩の首席であり、英雄の種族・生涯・業績を描写する[219]。これはホラティウス的な叙事詩の概念であり、スカリゲルにはアリストテレス的教説の痕跡はほとんどない。彼はまた、叙述詩人が物語を卵(ab ovo)から始めることを禁じ、その他多くの細部においてホラティウスを密に踏襲する。

カステルヴェトロ(1570年)は叙事詩神話の統一に関してアリストテレスと異なり、詩は単なる想像的歴史であり、ゆえに歴史ができることは何でもできると考える。詩は歴史の足跡を追うが、歴史は起こったことを語り、詩は決して起こらなかったが起こりうることを語る点で異なるにすぎない。ゆえに歴史が単一の英雄の生涯全体を統一を顧みずに語る以上、詩がそうしない理由はない。叙事詩は実際には一人の多くの行為、一民族の一つの行為、多くの人の多くの行為を扱いうる。アリストテレスが命じるように一人の一つの行為を扱う必要は必ずしもなく、そうするならそれは単に詩人の独創性と優秀さを示すためである[220]。

II 叙事詩とロマンツォ

この叙事詩の統一に関する議論は、16世紀の最も重要な批評的問題の一つ、すなわちロマンツォの統一の問題へと導く。アリオストの『狂えるオルランド』とボイアルドの『恋するオルランド』は、アリストテレス的規準がイタリアの批評文献の一部となる以前に書かれた。これらの詩が『詩学』で展開される叙事詩の根本的要求から逸脱していることが明らかになると、トリッシーノはアリストテレスの訓戒に完全に一致する英雄詩を作為しようとした。彼の『解放されたイタリア』は1548年までに完成し、20年にわたる研究の結果であり、厳格なアリストテレス的意味での最初の近代叙事詩である。アリストテレスを指針とし、ホメロスを模範として、彼は単一の行為の叙事詩を学問的かつ機械的に構成した。そして詩を皇帝カルロス5世に献呈するにあたり、単一行為という第一の法則に違反するすべての詩を私生児的形態と非難した。ロマンツォは、なかでも『狂えるオルランド』は、この根本的要求を無視しているように見えたため、トリッシーノの非難を受け、これが次の世紀の初めまで終わらない論争を開始し、ある意味では今日でも未決着と言えるものである。

ロマンツォの著者を最初に擁護したのはジラルディ・チンティオであり、彼は若年時にアリオストと個人的に知り合い、1549年4月に『ロマンツォの構成に関する論考』を執筆した。彼の擁護の根拠は二つである。第一に、ロマンツォはアリストテレスが知らなかった詩的形態であり、ゆえに彼の規則は適用されない。第二に、トスカーナ文学はギリシア文学と言語・精神・宗教的感情において異なり、ギリシア文学の規則に従う必要はなく、むしろ自らの発展と伝統の法則に従うべきである。アリオストとボイアルドを模範として、ジラルディはロマンツォの法則を定式化しようとする。ロマンツォは高貴な行為を韻文で模倣することを目指し、善き道徳と正直な生活を教える目的を持つ。なぜならこれがすべての詩人の目的であるべきであり、ジラルディはアリストテレス自身がそう言ったと考えるからである[221]。すべての英雄詩は高貴な行為の模倣であるが、ジラルディは20年後のカステルヴェトロと同様、英雄詩のいくつかの異なる形態を認める。一人の一つの行為を模倣するか、多くの人の多くの行為を模倣するか、一人の多くの行為を模倣するかによる。最初のものが叙事詩であり、その規則はアリストテレスの『詩学』に与えられている。第二はボイアルドとアリオストの様式によるロマンティック詩である。第三はテセイデスその他単一の英雄の生涯全体を扱う伝記詩である。

これらの形態はゆえに英雄詩の三つの別個かつ正当な種と見なされ、最初のものが厳格なアリストテレス的意味での叙事詩であり、他の二つはロマンツォの総称の下に入る。ロマンツォの二つの形態のうち、伝記的なものは好ましくは歴史的主題を扱い、より純粋にロマンティックな形態の最も高貴な著者たちは、多くの人の多くの行為を扱い、主題を発明している。ホラティウスは英雄詩は英雄の生涯の最初から始めるべきではないと言う。しかしジラルディは、プルタルコスその他の伝記作家の作品においてわれわれにこれほど大きな洗練された愉悦を与える著名な人間の生涯全体が、優れた詩人によって美しい韻文で描写されたときに、われわれをさらに喜ばせない理由が理解できないと言う[222]。ゆえに厳格な意味での叙事詩を作為する詩人は、叙述の出来事を扱うにあたり、すぐに in medias res に飛び込むべきである。多くの人の多くの行為を扱う詩人は、すべての他のものがそれに依存する最も重要な出来事から始めねばならず、単一の英雄の生涯を描写する詩人は、英雄がヘラクレスがそうであったように本当に英雄的な青年期を過ごしたなら、最初から始めるべきである。英雄の生涯を扱う詩はゆえに別個のジャンルであり、アリストテレスはそのために法則を定めようとはしない。ジラルディはさらに、アリストテレス[223]がテセウスやヘラクレスの生涯を単一の詩で書く者を非難したのは、一人の多くの行為を扱ったからではなく、単一の英雄の単一の行為を扱う者と全く同じ方法でそのような詩を扱ったからであるとまで言うが、これはもちろん全くの誤りである。ジラルディは次にロマンツォの配置と構成を詳細に扱い、それを古典的叙事詩よりも倫理的教えの効果において優れていると評価する。詩人の職分は有徳な行為を讃え、悪徳な行為を非難することであり、この点でロマンツォの著者たちは古代英雄詩の著者たちに遠く勝っている[224]。

ジラルディのロマンツォに関する論考は、彼自身の弟子ジャンバッティスタ・ピーニャとの奇妙な論争を引き起こした。ピーニャは同年(1554年)に『ロマンツォ』という類似の作品を刊行した。ピーニャは自分がジラルディに論考の主要な議論を提案し、ジラルディがそれを自らのものとしたと主張した。この論争の詳細に入らずとも、ジラルディの優先権は公正に争えないように思われる[225]。いずれにせよ、ジラルディとピーニャの作品には非常に大きな類似がある。ピーニャの論文はジラルディのものよりも詳細である。第一巻ではロマンツォの一般的主題を扱い、第二巻ではアリオストの生涯を与え、『狂えるオルランド』を一点一点論じ、第三巻では『狂えるオルランド』の第一版と完成・完成された版を比較することによってアリオストの良識と批評的洞察を示す[226]。ピーニャもジラルディも、ロマンツォは古代に知られていない新しいジャンルであり、ゆえにアリストテレスの規則に従わないと考える。ジラルディの同情はロマンツォの伝記的形式に向けられ、彼の詩『エルコレ』(1557年)は単一の英雄の生涯全体を語る。ピーニャはアリオストの伝統に近く、伝記的形式は歴史に似すぎるから詩に適切でないと見なす。

ジラルディとピーニャが提示した議論は、スペローニ、ミントゥルノその他によって反駁された。スペローニは、ロマンティック詩人が古代人が定めた規則に従う必要はないとしても、詩の根本法則には従わねばならないと指摘する。「ロマンツォは叙事詩であり詩であるか、韻文の歴史であり詩ではない」とスペローニは言う[227]。すなわち、有機的統一を欠く詩は、よく書かれた歴史的叙述とどう異なるのか[228]。この全体の議論についてここで、アリオストその他のロマンツォの著者について判断を下すことなく言えば、真の詩は必ず何らかの統一を持たねばならず、『狂えるオルランド』は細部において完璧ではあるが、詩の統一は完璧な、特に古典的な芸術の明白さを欠いている。有機的統一を欠く芸術作品は非対称な円にたとえられ、『狂えるオルランド』は恣意的または機械的な統一の規則によって判断されるべきではないが、単なる外部的形式を超える内部的統一を欠くなら、芸術作品として失敗に近いと言え、完璧な統一から遠ざかるほど芸術は不完全である。「詩は時代に適応するが、自らの根本法則から離れることはできない」[229]。

ロマンツォの擁護者に対するミントゥルノの答えはスペローニよりも詳細かつ明確であり、トルクァート・タッソの叙事詩概念に大きな影響を与えた点で相当な重要性を持つ。ミントゥルノは――この点で彼の見解はタッソと同一である――ロマンツォの題材を完璧な詩の構成に用いることが可能であることを否定しない。それらが描写する行為は偉大かつ高貴であり、騎士と貴婦人も高貴であり、叙事詩的行為において極めて重要な驚異的な要素を最も優れた形で含んでいる。ミントゥルノが非難するのはロマンツォの構造である。それらは詩のあらゆる形態の第一の本質、統一を欠いている。実際、それらは韻文化された歴史または伝説にすぎない。アリオストの天才に驚嘆を表明しつつも、ミントゥルノは彼が当時の大衆的趣味にあまりにも譲歩してロマンツォの方法を用いたことを残念に思う。彼はアリオストにロマンティック詩ではなく叙事詩を書くよう説得しようとしたベンボの提案を是認するが、これは後にガブリエル・ハーヴェイが同様の理由でスペンサーに『妖精の女王』の続編を思いとどまらせようとしたのと同様である。ミントゥルノはトスカーナ語が英雄詩の構成に適さないという主張を否定する。逆に、それはあらゆる詩の形態に驚くほど適している。彼は騎士道の行為が古典的英雄のそれとは異なる、より広い叙述形態を必要とするというロマンティック詩人の主張を否定する。古代の天上・地獄の神々と半神はキリスト教の天使・聖人・隠者・唯一の神に対応し、古代の巫女・神託・魔女・神の使者は近代の死霊術師・運命・魔術師・天上の天使に対応する。ロマンティック詩人が自らの詩がアリストテレスがすべての詩に必要とした大きさに近いと主張するのに対し、ミントゥルノは大きさは比例なしでは無意味であり、四肢と骨格が歪んだ巨人に美はないと答える。最後に、ロマンツォはアリストテレスとホラティウスに知られていない新しい詩の形態であり、ゆえに彼らの法則に従わないと言われる。しかし時間は真理を変えないとミントゥルノは言う。あらゆる時代において詩は統一・比例・大きさを持たねばならない。自然のすべてのものはその作用を導く特定の法則に支配され、自然においてそうであるように芸術においてもそうであり、芸術は自然を模倣しようとし、その本質的法則において自然に近づくほどその仕事をよりよくする。言い換えれば、すでに指摘したように、詩は時代に適応するが、自らの法則から離れることはできない。

トルクァートの父ベルナルド・タッソは当初古典的叙事詩の擁護者の一人であったが、ジラルディ・チンティオによって反対の見解に改宗したようであり、『アマディージ』においてロマンティックな模範に従う。息子のトルクァートは『詩的芸術論考』(ミントゥルノの『詩論』刊行の1、2年後に書かれたが1587年まで刊行されなかった)において、叙事詩とロマンティックな形態の和解を初めて試み、愉悦的な多様性を持つロマンティックな主題と、本質的な統一を持つ叙事詩的形式を持つ叙述詩の理論を定式化することによって問題の解決を達成したと言える。問題は、すでに述べたように統一の問題である。すなわち英雄詩は統一を必要とするか。タッソは叙事詩とロマンティック詩が詩として差異はないと否定する。後者がより愉悦的なのは、扱われる主題の愉悦性が大きいからである[231]。多様性それ自体は愉悦的ではない。不快なものの多様性は全く愉悦的ではないからである。ゆえに完璧であり同時に最も愉悦的な英雄詩の形態は、ロマンツォの騎士道的主題を扱い、アリストテレスの訓戒とホメロスおよびウェルギリウスの実践に従ってあらゆる叙事詩に本質的な構造の統一を持つものである。芸術には自然と同様に二種の統一が可能である。化学元素のような単純な統一と、動物や植物のような有機体の複雑な統一であり、後者が英雄詩人が目指すべき統一である[232]。カプリアーノ(1555年)は同じ区別を言及し、詩はエレジーにおける単一の泣く行為や牧歌における牧人的生活の単一の行為のような単一の行為の模倣であってはならず、そうした散発的模倣は身体の残りなしに単一の手の絵にたとえられる。逆に詩は与えられた始まりから適切な終わりへと導く多数の付随的または従属的行為の表現でなければならないと指摘していた[233]。

ロマンツォの魅力的な主題を完璧な英雄詩に用いるべきであるという一般的事実を確定した後、どの特定の主題が叙事詩に最も適し、叙事詩的素材の本質的性質は何かを問うことができる[234]。第一に、英雄詩の主題は歴史的でなければならない。高貴な行為が歴史に知られずに残ることは蓋然的でないからである。歴史の権威は詩人に読者を欺き、詩人が書くことが真実であると信じさせるために必要な真理の外見を与える。第二に、タッソによれば英雄詩は偽りの宗教ではなく真の宗教、キリスト教の歴史を扱わねばならない。異教の宗教は叙事詩的素材に全く不適である。異教の神々を導入しなければ詩は驚異的な要素を欠き、導入すれば蓋然性の要素を欠くからである。完璧な叙事詩には驚異的なものと verisimile が共に存在しなければならず、いかに困難でもそれらを和解させねばならない。異教が叙事詩に不適なもう一つの理由は、完璧な騎士は他の美徳とともに敬虔さを持たねばならないからである。第三に、詩はキリスト教信仰の条項に関わる主題を扱ってはならない。そうした主題は不変であり、詩人の自由な発明的想像の遊戯に余地を与えないからである。第四に、素材はあまりに古くも近代的でもあってはならない。後者はあまりに知られており、蓋然性を持って空想的に変更できず、前者は興味を欠くだけでなく、奇妙で異質な風俗習慣の導入を要求するからである。ゆえにシャルルマーニュとアーサーの時代が英雄的扱いに最適である。最後に、出来事自体が高貴さと壮大さを持たねばならない。ゆえに叙事詩はキリスト教民族の歴史から由来する物語でなければならず、本質的に高貴かつ高尚であるが、あまりに神聖で固定・不変な性格ではなく、同時代でもあまりに遠いものでもない。そうした素材の選択によって詩は歴史の権威、宗教の真理、虚構の自由、時間的観点における適切な雰囲気、出来事自体の壮大さを獲得する[235]。

アリストテレスは叙事詩も悲劇も高貴な行為を扱うと言う。タッソは、もし悲劇と叙事詩の行為が同じように高貴なら、同じ結果を生むはずだと指摘する。しかし悲劇的行為は恐怖と憐憫を動かし、叙事詩的行為は一般にこれらの感情を呼び起こさず、呼び起こす必要もない。悲劇的行為は予期せぬ運命の変化と、恐怖と憐憫を伴う出来事の壮大さにあり、叙事詩的行為は高貴な武徳の事業、礼儀・敬虔・寛大さの行為に基づき、それらのどれも悲劇に適切ではない。ゆえに叙事詩と悲劇の人物は、両者とも同じ王族的・至高の地位であるが、悲劇の主人公はアリストテレスが言うように完全に善くも全く悪くもなく、叙事詩の主人公は敬虔さの典型であるアエネアス、忠誠の典型であるアマディス、武徳の典型であるアキレウス、慎重さの典型であるオデュッセウスといった美徳の極みを備えていなければならない点で異なる。

これらの英雄詩の理論を若年に定式化した後、タッソはそれを実践に移し、有名な『解放されたエルサレム』が生まれた。この詩は刊行直後から激しい論争を引き起こし、数年にわたり続き、ロマンツォをめぐる初期の論争の正当な結果と見なされる[236]。『解放されたエルサレム』は実際、世紀後半の批評活動の中心であった。刊行直後、カミッロ・ペッレグリーノは『カラッファ』(1583年)という対話を刊行し、『解放されたエルサレム』を『狂えるオルランド』と比較し、前者を大いに優位とした。ペッレグリーノはアリオストを詩の統一の欠如、模倣された不道徳な風俗、文体と言語のさまざまな不完全さで非難し、これらの点すべて、統一・道徳・文体においてタッソの詩を完璧と見なす。これは当然、熱く長引く論争の合図となった。1582年にフィレンツェにクルスカ・アカデミーが創設されており、新協会の会員たちはタッソの対話の一つにおけるフィレンツェに関する皮肉な発言に傷ついたようである。ゆえにアカデミーの長レオナルド・サルヴィアーティは『粉まみれ』という対話でアリオストの熱烈な擁護を書き、タッソとサルヴィアーティの間の辛辣で品位を欠く論争が始まった[237]。タッソは『弁護』でクルスカ・アカデミーに答え、次の世紀の初めにアリストテレス『詩学』の註釈者パオロ・ベーニは『ホメロス、ウェルギリウス、トルクァートの比較』を刊行し、タッソを威厳、文体の美、物語の統一、その他詩の完璧さを構成するすべての性質においてホメロス、ウェルギリウス、アリオストを凌ぐと評価した。この全体の事柄を片付ける前に指摘すべきは、アリストテレスの擁護者たちが、ジラルディとピーニャの立場、すなわちロマンツォはそれ自体ジャンルであり、ゆえにアリストテレスの統一の法則に従わないという立場を完全に放棄していたことである。ジラルディが述べた問題は「すべての詩は統一を必要とするか」であった。タッソ論争で議論された問題は「統一とは何か」に変わっていた。論争の両陣営はすべての詩は有機的統一を持たねばならないと当然視し、叙事詩においても劇詩においてもアリストテレスの権威は以後至上であった。タッソの反対者たちがアリストテレスの権威に訴えたのである。サルヴィアーティはタッソの主張を崩す目的だけで『詩学』の広大な註釈を書き、それは現在フィレンツェに写本として残り、本論でも利用されている[238]。

脚注

[210] ポープ、i. 133
[211] ラパン、1674年、ii. 2
[212] 『詩学』xxvi
[213] トリッシーノ、ii. 118以下
[214] ダニエッロ、34頁
[215] 『詩論』73
[216] トリッシーノ、ii. 112以下
[217] 『詩論』9頁
[218] 『詩人について』105-106頁
[219] 『詩学』iii. 95
[220] カステルヴェトロ『詩学』178以下
[221] ジラルディ・チンティオ、i. 11, 64
[222] 同上、i. 24
[223] 『詩学』viii. 2
[224] ジラルディ、i. 66以下
[225] ティラボスキ、vii. 947以下、およびジラルディ、ii. 153以下と比較せよ。ピーニャ自身の言葉はジラルディ、i. xxiii頁に引用されている
[226] カネッロ、306以下
[227] スペローニ、v. 521
[228] ミントゥルノ『詩人について』151頁と比較せよ
[229] ミントゥルノ『詩論』31頁。『狂えるオルランド』の統一に関するさまざまな意見については、カネッロ、106頁、およびフォッファーノ、59以下を参照
[230] 『詩論』31頁
[231] T. タッソ、xii. 219以下
[232] 同上、xii. 234
[233] 『真の詩学について』第3章
[234] T. タッソ、xii. 199以下
[235] 同上、xii. 208
[236] この有名な論争の記述はティラボスキ、カネッロ、セラッシなどにあり、最も新しく完全なものはソレルティ『トルクァート・タッソの生涯』トリノ、1895年、第20章にある
[237] タッソ論争の重要な文書はほとんどすべてロッシーニ校訂タッソ『著作集』第18-23巻に再録されている
[238] 統一の問題は16世紀後半の別の論争でも提起された。ヴァルキの『エルコラーノ』(1570年)におけるダンテをホメロスより高く評価する一節が、『神曲』をめぐる論争を開始した。この論争の最も重要な結果はマッツォーニの『ダンテ擁護』(1573年)であり、そこでは偉大なトスカーナ詩人を擁護するために全く新しい詩の理論が展開されている

第五章 イタリア批評における古典精神の成長

ルネサンス批評における古典主義の成長は、三つの原因によるものである。すなわちヒューマニズム(古典の模倣)、アリストテレス主義(アリストテレス『詩学』の影響)、および合理主義(理性の権威であり、芸術と科学における近代精神の成長の結果)である。これら三つの原因こそがイタリア古典主義の底にあり、また17世紀フランス古典主義の底にもある。

I ヒューマニズム

ヒューマニズムの進展は、恣意的ではあるが多少なりとも実際的な四つの時期に区分できる。第一期は古典文献の発見と蓄積によって特徴づけられ、第二期はそれによって発見された作品の整理と翻訳に充てられた。第三期は古典が研究され人間化されるアカデミーの形成によって特徴づけられ、その結果として特別な学問崇拝を生んだ。第四期かつ最後の時期は純粋な博識の衰退と、美学的・文体的学問の始まりによって特徴づけられる[239]。学問復興とヒューマニズムの進展の実践的結果は、こうして古典の研究と模倣であった。近代世界にヒューマニズムが与えたすべてのものは、最終的にはこの古典文献の模倣に遡ることができる。ゆえにわれわれの前に横たわる問題は次の通りである。この古典の模倣は、ルネサンスの文芸批評に関してどのような結果をもたらしたか。

第一に、古典の模倣は外部的形式の研究と崇拝をもたらした。優雅さ、洗練、設計の明快さがそれ自体として研究の対象となり、その結果として美的趣味の形成と、ルネサンスの多くの文学的傾向に遡れる古典的純粋主義の成長が生まれた[240]。レオ10世の下および16世紀前半を通じて、文体と韻律の複雑さが注意深く研究された。ヴィーダは模倣的調和の法則を定めた最初の人物であり[241]、ベンボおよびその後にドルチェその他は異なる音の詩的効果と、各種の母音と子音の擬声的価値を研究し[242]、クラウディオ・トロメイは古典的韻律を俗語に導入しようとし[243]、トリッシーノはトスカーナ語と言語および韻律に関する微妙かつ体系的な研究を発表した[244]。後に、カヴァルカンティ(1565年)、リオナルディ(1554年)、パルテーニオ(1560年)の修辞学論と、ファヌッチ(1533年)、エクイコラ(1541年)、ルッシェッリ(1559年)のより実際的な手引書は、すべて古典の模倣が古典および俗語文学における形式の研究に与えた巨大な衝撃を証言する。

ヴィーダの『詩論』には、近代古典主義の修辞的かつ特に純粋主義的傾向の豊富な証拠がある。想像力・感受性・情念が芸術の精緻かつ複雑な訓戒に従属する詩的表現の機械的構想は、ヴィーダの詩のいたるところに見られる。ホラティウスと同様、ヴィーダは詩の構成のための長い準備を強調し、詩人が最初の衝動に身を任せることを戒める。彼は詩の構成の準備として、詩人が必要に応じて用いるための語句とイメージのリストを準備することを提案する[245]。彼は詩人が詩の主題を導入するにあたって婉曲的な表現の必要性を強調する。たとえばユリシーズの名を直接言及してはならず、多くの人と多くの都市を見、多くの苦難を味わい、トロイアからの帰路に難破した者などと呼ぶべきである[246]。このような機械的訓戒において、17世紀古典主義の修辞学が先取りされている。その抑制、その純粋さ、その機械的側面は、ヴィーダにおいてどこでも明らかである。やや遅れてダニエッロにおいても同様の純粋主義的傾向が見られる。彼はジャンルの厳格な分離、人物造形のデコルムと適切性、舞台から一切の不快なものの排除を要求する。パルテーニオの『詩的模倣について』(1560年)において、詩人は日常的に用いられる普通の言葉の使用を明確に禁じられ[247]、形式の優雅さが特に要求される。パルテーニオは形式を主題や着想よりも優位と見なし、詩を聞くか読む者は性格や思想よりも言葉の美に多く関心を持つからである[248]。

パルテーニオが優秀な詩と凡庸な詩を区別するのも純粋に修辞学的根拠による。優れた詩人は、悪しき詩人とは異なり、言葉と配置の装飾によって最も些細な着想にも輝きと威厳を与えることができる。この概念はルネサンスに特に訴えかけたようであり、タッソは古い着想を新しいものに、俗な着想を高貴なものに、共通の着想を自分のものにすることを詩人の最も高貴な機能と呼ぶことで類似の観念を表現する[249]。より高次かつ理念的な意味において、シェリーによれば詩は「馴染み深い対象をまるで馴染み深くないかのようにする」[250]。

この古典主義の修辞学的理想と一致して、スカリゲルは選択(electio)と自己嫌悪(sui fastidium)を詩人の最高の美徳とする[251]。思想と表現における単なる大衆的なもの(plebeium)は細心に避けられねばならない。なぜなら確固とした博識から生じるもののみが芸術に相応しいからである。芸術的創造の基礎は模倣と判断である。すべての芸術家は底の底では多少なりともエコーであるからである[252]。優雅さ、デコルム、優雅、輝きこそが詩の主要な優秀さであり、すべての優秀さの生命は節度、すなわち中庸と比例にある。この古典的純粋主義の精神において、スカリゲルはさまざまな修辞的・文法的修辞技法を細かく区別し、詩におけるその適切な位置と機能を注意深く評価する。彼の修辞技法の分析と体系化は同時代の学者と文法家たちに即座に受け容れられ、以後フランス教育において大きな役割を果たした。スカリゲルの教説のもう一つの結果、文化のラテン化は、ここでは簡単に言及するに留める[253]。

古典の模倣の第二の結果は、ルネサンス文化の異教化であった。古典芸術は底の底で異教的であり、ルネサンスは古典的であるためにすべてを犠牲にした[254]。キリスト教文学が古典文学と比較して軽蔑すべきものに見えるだけでなく、キリスト教主題の単なる扱い自体が数多くの困難を孕んでいた。こうしてムツィオは、古代の寓話こそが最良の詩的素材であり、神々を詩に導入することを許し、詩は神聖なものであるから神性との結びつきを欠くべきではないと宣言する[255]。イスラエルの神を詩に導入し、あたかも肉体を持って人と論じ争うように表現することは冒涜であり、詩的叙述の出来事に神聖な権威を与えるために、異教の神々はルネサンス詩の必要となった。15世紀のサヴォナローラと16世紀のトリエント公会議は文学の異教化に反発したが、無駄であった。トリエント公会議にもかかわらず、タッソとデュ・バルタスにもかかわらず、異教の神々は古典主義期の終わりまでパルナッソスを支配し、17世紀には、ボワローがキリスト教主題の扱いを明確に忌避し、古代異教寓話のみが新古典主義芸術の基礎を形成すべきだと主張する。

古典の模倣の第三の結果は、応用批評、すなわち具体批評の発展であった。もし文学の基礎、もし文体の形成が古典文献の密接かつ賢明な模倣からしか生じえないなら、次の問題に直面する。どの古典著者を模倣すべきか。この問いに答えることは具体批評の適用を含む。好みの理由を与えねばならず、言い換えればそれらは原理によって正当化されねばならない。ヒューマニストたちの文学論争、模倣、キケロ主義その他の主題に関する論争はすべてこの方向に向かった。著者の判断は多少なりとも個人の印象に依存していた。しかしこれらの論争が続くほど、一般原理への訴えによって正当化される文芸批評への接近はより近くなり、それらの原理はますます固定され確定されていった。ゆえに文学における判断の原理または基準の成長は、実際には古典主義の成長の歴史と同終端である[256]。

しかし古典の模倣の最も重要な結果の一つは、この模倣が批評のドグマとなり、文学と文芸批評に関わる限り、芸術と自然の関係を根本的に変えたことである。一言で言えば、古典の模倣が文学的創造の基礎となった。たとえばヴィーダは、詩人は古典文献を模倣せねばならず、それによってのみ近代詩において完全さが達成されると断言する。実際、この観念は極端にまで推し進められ、ヴィーダにとって最高の独創性は古典詩人からの巧みな翻訳にすぎなくなる。

「アポロンが君に耳を傾けるなら、
 アルゴス人の言葉を祖国の言葉に転じる美徳は、
 君が自ら未踏のものを発見するよりも劣らない。」[257]

ムツィオはホラティウスを反響して、詩人に昼も夜も古典を研究するよう促し、スカリゲルは、すでに述べたように、すべての文学的創造を最終的に賢明な模倣に依存させる。「誰もが多少なりともエコーである。」その結果、模倣は徐々に専門的かつほとんど秘教的な意味を獲得し、この意味で後期ヒューマニストたちのすべての教育理論の出発点となった。ストラスブールのヒューマニスト、ヨハネス・シュトゥルムの模倣の教説は特に影響力があった[258]。シュトゥルムによれば、模倣は言葉と語句の奴隷的模写ではなく、「激しく芸術的な精神の適用」であり、模倣するすべてのものを賢明に用い変形するものである。シュトゥルムの模倣理論は完全に独創的ではなく、アグリコラとメランヒトンを通じてクィンティリアヌスに由来する[259]。クィンティリアヌスは芸術の大部分は模倣にあると言っていたが、ヒューマニストたちにとって模倣は文学的創造の主要かつほとんど唯一の要素となった。当時の文学が古代のそれに比べて極めて劣っているように見えたからである。

こうして古典の模倣が文学的創造に本質的となった以上、自然の模倣との関係はどうなるのか。古代の詩人たちはすべての書き手は底の底で自然の模倣者であり、自然を模倣しない者は芸術の目的と原理から逸脱すると主張していたようである。このような権威ある源からの教訓をルネサンスの著者たちが無視することはできず、古典主義の進化は、自然と芸術の関係に関する批評家の見方の変化によって区別できる。この進化は新古典主義期において三つの明確な段階を通じて追跡でき、これら三段階はそれぞれヴィーダ、スカリゲル、ボワローの教説によって示される。

ヴィーダは、文学芸術の第一の本質は古典を模倣することだと説く。しかしこれが、詩人の第一の義務は自然を観察し模写することであるという警告を妨げるものではない。

「さらに、芸術が自然を模倣し、より近く追従しようとするのでなければ、何の芸術も試みないことを知れ。」

しかしヴィーダにとって、また後期古典主義者たちにとって、自然は文明化された人間と同義であり、おそらくさらに都市と宮廷の人々に限定される。自然の研究は彼にとって、人間の性格の差異、特に年齢・地位・性・人種・職業の多様性から生じる外部的差異の密接な観察以上のものではなかった。それはデコルムという言葉で示されるものである[260]。この制限された意味においてさえ、自然の模倣をヴィーダは古代人の権威によって要求する。近代詩人は自然を模倣すべきである。なぜなら偉大な古典詩人たちは常に自然の支配を認めていたからである。

「詩人たちはこの唯一の師を自らに定めた。」

自然はヴィーダにとってそれ自体として特別な関心事ではない。彼は聖書を受け容れるように古典を受け容れ、自然は古代人がそれを要求しているように見えるから模倣し追従されるべきものである。

スカリゲルにおいてこの原理は一歩進む。詩人はもう一つの自然と別の運命を創造し、あたかももう一人の神であるかのようである[261]。特にウェルギリウスは美と完全さにおいて現実のそれを超えるもう一つの自然を創造したから、詩人は人生の現実に関心を持つ必要はなく、ウェルギリウスが創造した第二の自然に模倣の主題を求めることができる。「君が模倣すべきすべてのものは、もう一つの自然、すなわちウェルギリウスによって与えられている」[262]。ウェルギリウスには、都市の基礎と統治、軍隊の管理、船舶の建造と操縦、実際には諸芸諸学のすべての秘密が、自然においてそうであるように最も細かい詳細まである。詩人がそれ以上何を望み、人生において同じ確実さと正確さでそれ以上何を見出せようか。ウェルギリウスは現実のそれよりもはるかに完璧な自然を創造し、それと比較すれば実際の世界と人生そのものが色褪せ、美を欠くように見える。ゆえにスカリゲルが代表するのは、詩的模倣の対象として人生の代わりに芸術の世界を置くことである。この見解は同時代の多くの理論家に表現されている。たとえばパルテーニオは、芸術は自然よりも確固かつ安全な導き手であり、自然では誤りうるが芸術ではほとんど誤らない。芸術は自然から悪しきものをすべて根絶するが、自然は雑草を花と混ぜ、悪徳を美徳と区別しないと主張する[263]。

ボワローは新古典主義の自然と芸術の理想を最終的完全さへと推し進める。彼によれば、真実でないものは美しくなく、自然にないものは真実ではない。古典主義にとって真理は美を含むすべてのものの最終的試金石である。ゆえに美しくあるために詩は自然に基づかねばならない。自然はゆえに詩人の唯一の研究対象であるべきであるが、ボワローにとって、ヴィーダと同様、自然は宮廷と都市と同一である。では自然を正しく模倣し、正しく模倣したかどうかを知るにはどうすればよいか。ボワローは自然の正しい模倣への導き手とその正しさの試金石を、古典の模倣に見出す。古代人は古いから偉大ではなく、真実だから、すなわち自然を見、模倣する方法を知っていたから偉大であり、ゆえに古代を模倣することは、人間精神が自然をその完全さにおいて表現するためにこれまで見出した最良の手段を用いることである[264]。ボワローの理論がヴィーダとスカリゲルの理論に勝る点は、古典文学の規則と実践を理性と自然に基づかせ、古代人の権威に恣意的なものがないことを示したことである。ヴィーダにとって自然は古典の権威によって追従されるべきであり、ボワローにとって古典は自然と理性の権威によって追従されるべきである。スカリゲルはウェルギリウスのような詩人が現実のそれよりも美しいもう一つの自然を創造したから、われわれはそのより美しい詩人の自然を模倣すべきだと示した。ボワローとは逆に、古代人は自然そのものを最も密接かつ鋭く模倣していたにすぎず、古典を模倣することによって詩人は第二の異なる自然を模倣するのではなく、現実的かつ唯一の自然を模倣する最も確実な方法を示されていることを示した。自然の模倣と古典の模倣の最終的和解こそが、ボワローが新古典主義期の文芸批評に与えた最高の貢献であった。

II アリストテレス主義

アリストテレス『詩学』の影響は16世紀初頭の劇文学に最初に顕著に見られる。トリッシーノの『ソフォニスバ』(1515年、通常最初の正則近代悲劇とされる)、ルチェッライの『ロスムンダ』(1516年)、その他この時期の無数の悲劇は、実際にはアリストテレスの悲劇論を実践に移す試みにすぎなかった。アリストテレス的影響はこれらの劇の序文の多くと、同時代の学問的作品、たとえばスカリゲルが「われわれの最も博識な師」と呼んだカエリウス・ロディギヌスの『古代講義』(1516年)に明らかである。同時に、『詩学』は即座にイタリアの批評文献において重要な役割を果たしたわけではない。ペトラルカの時代から、ヒューマニストたちの心において中世のスコラ主義と同一視され、彼らにとって忌むべき存在であったアリストテレスは、いくらかその至上性を失っていた。ルネサンスの強いプラトン的傾向はさらに、ヒューマニストたちの間でアリストテレス主義の威信を低下させることに寄与した。しかしルネサンスのいかなる時期にもアリストテレスに熱心な擁護者が欠けたことはなく、たとえばフィレルフォは1439年に「アリストテレスと真理を擁護することは私には同一のことである」と書いた[265]。哲学の領域ではアリストテレスの影響はポンポナッツィの自由なペリパトス主義によって一時的に維持され、スカリゲル自身を含む数多くの者が近代化されたアリストテレス主義の伝統を続けた。しかしこの時期から、アリストテレスが至上の哲学者としての地位はますます挑戦され、ルネサンスの進歩的思考家たちによって、近代科学的探究の進歩に反対する中世の蒙昧主義の代表と見なされた。

しかし哲学の領域で失われたアリストテレスの権威は、文学の領域でそれ以上に取り戻された。近代文学理論に対するアリストテレス的影響の始まりは1536年とされる。この年、トリンカヴェッリが『詩学』のギリシア語本文を刊行し、パッツィが校訂とラテン語訳を、ダニエッロが自らの『詩学』を刊行した。パッツィの息子は父の死後刊行された作品を献呈するにあたり、『詩学』において「詩的芸術の訓戒がアリストテレスによって他のすべての知識の形態と同様に神聖に扱われている」と述べた。この言葉が述べられたまさにその年、ラミュはパリ大学で修士号を取得するにあたり、「アリストテレスの教説は例外なくすべて偽りである」というテーゼを勝利裏に擁護した[266]。ゆえに1536年はアリストテレスの影響の歴史における転換点と見なされる。それは文学における彼の至上性の始まりと、哲学における独裁的権威の衰退を印す。

1536年から世紀半ばまでの間に、イタリアの批評家と詩人たちはアリストテレス『詩学』の教訓を徐々に学んでいった。1550年までには『詩学』全体がイタリアの批評文献に取り込まれ、フラカストーロは「アリストテレスは『詩学』の存続によって、哲学的遺産によって得た名声に劣らない名声を得た」と言うことができた[267]。フェラーラ公エルコレ2世の息子アルフォンソ王子への手紙でバルトロメオ・リッチによれば、マッジがアリストテレス『詩学』を公に解釈した最初の人物である[268]。これらの講義は1549年4月以前に行われた。1540年頃には、マッジの『詩学』註釈の共同執筆者バルトロメオ・ロンバルディがパドヴァのアカデミーで『詩学』に関する公開講義を行うつもりであったが、目的を果たさぬまま死去した[269]。マッジの講義に続いて、ヴァルキ、ジラルディ・チンティオ、ルイジーノ、トリフォーネ・ガブリエッリその他によるアリストテレスとホラティウスに関する多数の公開講義が行われ、文芸批評およびダンテとペトラルカの詩に関する主題の公開講義の数はこの時期から大きく増加した。

16世紀に刊行された『詩学』註釈の数は実に驚くべきものである。これらの註釈の価値は一般に、ルネサンスの文芸批評に何かを追加したことではなく、同時代の批評家たちにアリストテレスの意味の説明として受け容れられ、ある意味で16世紀のすべての文学的議論の源となったことにある。その影響はこの特定の時期に限定されなかった。フランスの古典主義期の批評家と詩人たちにとって、それらはほとんど生きているものだったと言える。ラシーヌ、コルネイユその他の著名な著者たちはこれらの註釈の写本を所有し、注意深く研究し、序文と批評的作品で引用し、さらには自らの註釈に余白注を付け、そのいくつかは近代版に残されている。ラパンの『詩的芸術に関する省察』(1674年)の序文には文芸批評の歴史があり、ほとんど完全にこれらのイタリア註釈者に充てられている。シャプランやバルザックのような著者たちはその相対的価値を熱心に議論した。

これらのイタリア註釈者のいくつかはすでに言及されている[270]。『詩学』の最初の批判版はロボルテッリ(1548年)であり、それにマッジ(1550年)とヴェットーリ(1560年)のラテン語版が続き、両者とも大きな学識と洞察を示す。『詩学』の最初の俗語訳はセーニ(1549年)であり、それにカステルヴェトロ(1570年)とピッコロミーニ(1575年)のイタリア語註釈が続く。タッソはこれら二人の註釈者を比較した後、カステルヴェトロは博識と発明において勝るが、ピッコロミーニは判断の成熟度、学識(おそらく博識は少ないが)、確かに『詩学』の解釈に適したよりアリストテレス的な学識を持つと結論した[271]。1563年に刊行されたトリッシーノ『詩学』の最後の二部は、アリストテレス論文の言い換えと転置にすぎない。しかしアリストテレスへの驚嘔がイタリアの学者たちを導いた奇妙な極端は、1576年ミラノで刊行されたバルディーニの韻文による『詩学』解説『アリストテレスの詩学を韻文で解説したもの』から窺える。『詩学』はリッコボーニの簡潔な『詩作のためのアリストテレス詩学摘要』(1591年)のような、詩人と劇作家のための実際的手引書としても適応された。ヨーロッパ全般に影響を与えた最後の偉大なイタリア『詩学』註釈はおそらくベーニの1613年のものであるが、これは世紀の範囲を超える。刊行された版・訳・註釈以外にも、イタリアの図書館に写本として残る多くのものが書かれた。サルヴィアーティ(1586年)のものはすでに言及されている。フィレンツェにはこの時期の二つの匿名註釈があり、一つはマグリァベッキ写本、もう一つはリッカルディ写本にある。ここで言及できる最後の作品はブオナミーキの『アリストテレス擁護のための詩的論考』であり、そこではアリストテレスがその攻撃者たちに対して熱心に擁護されている。

この時期のイタリアにおいてアリストテレスの文学的独裁が最初に発展し、スカリゲルこそが近代世界に批評的理論家としてのアリストテレスの至上権威を定式化した人物である。フラカストーロはアリストテレス『詩学』の重要性を彼の哲学的論文に喩えた。トリッシーノはアリストテレスを逐語的・ほぼ文字通りに踏襲した。ヴァルキは文学批評の領域に入るすべての者にアリストテレス研究の年月を本質的要件と語った。パルテーニオはスカリゲル『詩学』刊行の前年に、悲劇と叙事詩に関する一切がアリストテレスとホラティウスによって解決済みであると主張した。しかしスカリゲルはさらに進んだ。彼は初めてアリストテレスを詩の永遠の立法者と見なした。彼は初めて、詩人の義務はまずアリストテレスが何と言っているかを知り、それからこれらの訓戒を疑問なく従うことだと仮定した。彼はアリストテレスをすべての芸術の永遠の独裁者と明確に呼ぶ。「アリストテレス、われわれの皇帝、すべての善き芸術の永遠の独裁者」[272]。これがおそらく近代文学においてアリストテレスが明確に文学的独裁者と見なされた最初の機会であり、ゆえに文学におけるアリストテレスの独裁は1561年から始まると言える。

しかしスカリゲルはそれ以上にやった。彼は初めてアリストテレス『詩学』を、ホラティウスの訓戒とラテン文法家の定義だけでなく、ラテン悲劇・喜劇・叙事詩の全実践と和解させようとしたようである。この和解、すなわちアリストテレス主義とラテン精神の調和の光において、アリストテレスはスカリゲルにとって文学的独裁者となった。彼が主に関心を持ったのはアリストテレスそのものではなく、ローマ文学の理論または実践によって確認されるアリストテレス教説の一部に基づいて彼自身が創造した理想であった。そしてこの新しい理想は、ルネサンスのラテン精神と調和し、やがて古典主義の基礎の一つとなった。アリストテレス主義の影響はさらにトリエント公会議によって増大し、アリストテレス教説にカトリック教義と同等の権威を与えた。

これらのすべての事情は16世紀イタリアにおけるアリストテレスの重要性を高める方向に働き、その結果としてアリストテレスの文学的独裁はイタリア人によって以後二世紀にわたってヨーロッパに押しつけられた。1560年から1780年までアリストテレスはヨーロッパ全域で文学における至上の権威と見なされた。イングランドにおいてさえ、その時期とその後にアリストテレス的伝統が途切れたことはなく、『詩学』の影響はシドニーとベン・ジョンソン、ミルトンとドライデン、さらにはシェリーとコールリッジに見られる。レッシングでさえ、フランス舞台の古典的実践から離れるにあたり、その革新をアリストテレスの権威によって擁護し、『詩学』について「これらの啓蒙された時代に嘲笑されるとしても、私はこの作品をユークリッドの『原論』と同様に無謬と考えることを躊躇しない」と述べた[273]。レッシングの12年前、1756年、イギリスにおけるロマン主義運動の先駆者の一人ジョゼフ・ウォートンも『詩学』について「この論文を注意深く消化せずに詩を理解しようとするのは、ユークリッドを研究せずに幾何学に通じていると称するのと同じくらい愚かで不可能である」と述べていた[274]。

アリストテレスの独裁の最初の結果の一つは、近代文学に劇と叙事詩のための不変の規則の体系を与えたことである。すなわち劇的および英雄詩人は一定の固定された形式と一定の固定された人物に制限された。古典詩はもちろんルネサンスの理想であり、アリストテレスはこれらの作品が用いた方法を分析していた。推論は、これらの規則に従うことによって同等の重要性を持つ文学が創造できるというものであった。これらの公式は古典文学の底にあり、ギリシアとローマの文学を生んだ規則は無視しがたいものであった。その結果、これらの規則はますます本質的なものと見なされ、最終的にはほとんど文学の試金石そのものとなり、それらが詩的法則として受け容れられた結果として近代古典劇と叙事詩が生まれた。最初の近代悲劇と最初の近代叙事詩は、アリストテレス的規則を実践に移す試みにすぎなかった。ルネサンス期の形式崇拝は、中世文学の無形と無脊椎的性格に対する反動を生んだ。中世の文学は古代のそれに比べて無限に劣っており、中世文学は形式と構造を欠き、古典文学は正則かつ明確な形式を持っていた。ゆえに形式はギリシアとローマの完璧な文学と、中世の不完全で下品な文学の本質的差異と見なされ、その演繹として、古典的であるためには詩人は古典の形式と構造を守らねばならないとされた。ミントゥルノは確かに「古の師たちが与え、今ここで私が繰り返す訓戒は、単なる慣行として見なされ、すべての状況下で従わねばならない不変の法則としては見なされない」と言う[275]。しかしこれはルネサンスの一般的概念ではなかった。たとえばムツィオは明確に言う。

「私が書くこれらの法則とこれらの例を、
 読者よ、君の言葉の永遠の規範とせよ。」

そして別の箇所で与えた訓戒を「真実で、確固で、不可避の法則」と呼ぶ[276]。スカリゲルはさらに進み、彼によれば古典そのものでさえこれらの基準と規則によって判断されるべきである。「私には、すべてをホメロスに遡らせるべきではなく、あたかも彼が規範であるかのようにすべきではなく、ホメロス自身を規範に遡らせるべきであるように思える」とスカリゲルは言う[277]。近代古典主義期においてやや遅れて、これらの規則は理性に基づいていると見出された。

「古の規則は発見されたものであり、考案されたものではない、
 それは依然として自然であるが、自然が方法化されたものである。」[278]

しかしルネサンス期には、それらは古典文学から権威的に受け容れられた。

批評的規則の固定された体系の定式化は、アリストテレス的影響の唯一の結果ではなかった。これらの結果のうち最も重要なものの一つは、すでに現れたように、想像文学の合理的な正当化であった。アリストテレス『詩学』の近代ヨーロッパへの導入によって、ルネサンスは初めて詩の体系的理論を定式化できた。ゆえに近代批評の基礎は『詩学』の再発見に負っていると言える。イタリア批評がヨーロッパ文学に影響を与えたのはアリストテレス主義の側面においてであり、その影響が深く広範であったことは、フランスとイングランドの批評文献の研究によって部分的に示されるだろう。われわれが扱ってきた批評家たちは単なる死んだ地方的名にすぎないわけではない。彼らは二世紀にわたり、フランスとイングランドだけでなく、スペイン、ポルトガル、ドイツにも影響を与えた。

スペインにおいて真の意味での文芸批評が始まったのは16世紀末であり、その時に現れた批評作品は完全にイタリア人のものに基づいていた。レンギフォの『スペイン詩論』(1592年)は、詩の理論を扱う限りにおいて、アリストテレス、スカリゲル、その他さまざまなイタリア権威に基づいており、著者自身が認めている。ピンシアーノの『古代詩学哲学』(1596年)も同じ権威に基づいている。同様にカスカレスは『詩的諸表』(1616年)において、ミントゥルノ、ジラルディ・チンティオ、マッジ、リッコボーニ、カステルヴェトロ、および同国人のピンシアーノを権威として挙げる。これらおよびこの時期に書かれた他のすべての作品の源はイタリアであり、1606年頃にスペイン詩人フアン・デ・ラ・クエヴァが書いた『詩的模範』からの次の引用は、イタリア人がスペイン批評に与えた一般的な影響だけでなく、個々のイタリア批評家がスペイン文人によってどれほど高く尊敬されていたかを示す良い例である。

「最初の地位はホラティウスにあり、
 韻律と文体において至上である、
 その『詩論』が世界に示すように。
 スカリゲルは一般的な教えと導きによって道を平らにし、
 同じく博学なチンティオとビペラーノもそうである。
 マランタは詩の模範、
 ヴィーダは北極星、ポンターノは装飾、
 ミントゥルノは昼の太陽のような光……
 すべてがスタギラの聖なる大洋に
 その杯を満たしにやって来る、
 そこに確かな歩みが定まり、
 喇叭と柔らかなリラが永遠となる。」[282]

イタリア人の影響はドイツにおいても同様に大きかった。ファブリキウスからオピッツに至るまで、ドイツの批評思想はほとんどすべて、直接的または間接的にイタリアの源から借用された。ファブリキウスは『詩学について』(1584年)において、ミントゥルノ、パルテーニオ、ポンタヌスその他、特にスカリゲルへの負債を認め、オピッツが近代ドイツ文学を革新した批評思想のほとんどは、スカリゲル、ロンサール、ダニエル・ハインシウスを通じてイタリアの源に遡る。オピッツの『ドイツ詩論』ほど、イタリア批評家がヨーロッパ文学に与えた影響を良く示す例はない[283]。

イタリア批評がフランスとイングランドの批評文献に与えた影響は、本論の残りの部分で多少なりとも扱われる。しかしここで指摘しておくべきは、レッシングの批評的作品に、特にアリストテレス主義の側面において、ヨーロッパ文学におけるイタリア伝統の頂点が表されていることである。シェリーはイングランドにおけるイタリア伝統の同様の頂点を代表する。彼のシドニーとミルトン(エリザベス朝におけるイタリア影響を代表する)への負債、特に彼が絶えず引用するタッソへの負債は極めて顕著である。ゆえに近代文学がイタリア批評に負う債務は小さくない。ヴィーダからカステルヴェトロまでの半世紀の間に、イタリア批評は三つのものを定式化した。詩の理論、叙事詩のための厳格な形式、劇のための厳格な形式である。これらの劇と叙事詩のための厳格な形式は二世紀にわたりヨーロッパの創造的想像力を支配し、やがて消え去った。しかし一世紀以上にわたり近代美学が芸術の過程を研究してきた一方で、16世紀のイタリア人が宣布した詩の理論は価値を減ずることなく、その時から今日まで人間のより優れた精神を貫き続けている。

III 合理主義

合理主義的気質は、16世紀の初頭、ほぼその始まりから批評文献において観察できる。この合理主義の精神はルネサンス全期間を通じて見られ、その一般的要因は、ルネサンスによる人間理性の解放、科学と芸術の成長、そして中世の聖職主義と教義に対する反動に求めることができる。文芸批評におけるその発展の原因は、これらだけでなく、この時期の他のいくつかの影響にも見出される。文化の異教化、芸術と文学に遍在する影響を持つ合理主義的哲学の成長、さらにホラティウスの『詩論』とその「良識(bon sens)」の理想は、すべて文学と文芸批評において理性の要素を支配的にする方向に働いた。

ヴィーダにおいては、古典主義の底にある三つの要素、すなわち古典の模倣、自然の模倣、理性の権威がすべて見られる。理性は彼にとってすべてのものの最終的試金石である。

「常に理性の頷きによって物事が進むようにせよ。」[284]

芸術における理性の機能は、第一に、設計の選択と遂行における基準として働き、単なる偶然の作用に対する防壁となり[285]、第二に、詩人自身の個性と情念の表現を抑制し、古典的気質が忌避する病的な主観性に対する防壁となる[286]。

スカリゲルは、近代において文学における理性の主権の主要な帰結を教説体系において確立した最初の人物であると言われている[287]。それは彼の目的ではなく、確かに彼の達成でもなかった。しかし彼は少なくとも、近代批評家として初めて、各文学形態に完璧さの基準があり、この基準は理性によって先験的に到達されうること、そして各文学形態に対してそのような基準を定式化しようと試みた最初の人物の一人であった。「すべての物の類において第一かつ正しいものがあり、他のものはその規範と理性に従って導かれねばならない」[288]。これがスカリゲル『詩学』の根本的仮定であり、古典主義の基本理念の一つでもある。各文学種別において基準、規範があるだけでなく、この規範は理性によって明確に定式化・定義されうる。批評家の義務はこの規範を定式化し、詩人の義務はこれを研究し、どんな形でも規範から逸脱することなく従うことである。すでに述べたように、ホメロスでさえ理性によって到達されたこの基準によって判断されるべきである。このような方法は形式や表現の新規性を一切断ち切り、古代も近代も、偉大であろうと小さかろうとすべての詩人を同一の完璧さの基準に責任を負わせる。

イタリア批評における合理主義の成長と影響は、その発展がアリストテレス主義の要素に及ぼした徐々な効果によって最もよく観察できる。言い換えれば、合理主義はイタリア・ルネサンスにおいてアリストテレス的規準がどのように見なされるかの観点を変化させた。初期のイタリア批評家たちは規則と訓戒をアリストテレスの権威のみによって受け容れた。こうしてトリッシーノは1529年頃に始められ1549年に完成した『詩学』第五部の冒頭で、「私は古代人、特にアリストテレスの規則と訓戒から離れない」と言う[289]。やや遅れて1553年、ヴァルキは「理性とアリストテレスが私の二人の導き手である」と言う[290]。ここで理性の要素が初めて自らを主張するが、アリストテレス的規準がそれ自体として合理的であるという示唆はない。批評家には二人の導き手、個々の理性とアリストテレス的規則があり、それぞれが他に欠けるところで役立つ。同じ観点が十年後のタッソにも見られ、彼は叙事詩の統一の擁護者たちが「アリストテレスの権威を盾とし、理性が与える武器にも不足しない」と言う[291]。同様に1583年、フィリップ・シドニーは時間の統一は「アリストテレスの訓戒と常識の両方によって要求される」と言う[292]。タッソもシドニーも、議論されている特定の法則がそれ自体合理的であると主張しつつ、アリストテレス『詩学』と理性を別個かつ明確な権威として語り、アリストテレス自身がすべての訓戒を理性に基づかせたことを示していない。数年後のデノレスにおいて、発展は最終的古典的態度に向かってさらに一歩進み、「理性とアリストテレスの『詩学』、それは実際には理性以外に基礎を置かない」と語る[293]。これがイタリア批評が到達した限界である。新古典主義フランスの機能は、後述するように、「理性とアリストテレス」という言葉がそれ自体矛盾であること、アリストテレス的規準と理性は最終的に同一のものに還元されうること、アリストテレスにあるものはすべて合理的であるだけでなく、理性が文学的遵守のために命じるすべてのものはアリストテレスに見出されることを示すことである。

合理主義は16世紀の文学と文芸批評において極めて重要な結果をいくつか生んだ。第一に、文学において想像力や感受性よりも理性をより高い位置に置く傾向があった。詩はルネサンス批評家によってしばしば論理的学問の一つに分類されたことを思い出してほしい。ヴァルキその他が、詩人が優れた論理学者であるほど優れた詩人であると主張することは、新古典主義の理想と完全に一致する。サント=ブーヴはスカリゲルが創造的想像力と詩的感受性を理性に従属させるこの文学理論を初めて定式化したと評価する[294]が、その創始の功罪はスカリゲルに独占的に帰せられるものではない。理性の神格化へのこの傾向は16世紀全期間に拡散しており、特定の個別著者を特徴づけるものではない。この時期のイタリア批評家たちは、完璧さの基準は理性によって構想されうること、そして完璧さはこの基準の実現によってのみ達成されるという古典的理想を初めて定式化した。

合理主義的精神はまた、いかなる種類の過剰にも非難の烙印を押す傾向があった。主観性と個人主義は、少なくとも理論上、ますます古典的完璧さに反するものと見なされるようになった。明快さ、合理性、社会性こそが芸術の最高の要求であり、詩人の個性の過度な表現は完全に非難された。人間は合理的な存在としてだけでなく、社会的存在としても文学の基礎と見なされた。ボワローの一行。

「詩が君の永遠の職業となるな。
 友を耕し、誠実な人間であれ。
 書物において愛らしく魅力的であるだけでは足りない。
 会話も生活も知らねばならない」[295]

は、1526年に書かれ1537年まで刊行されなかったベルニの『詩人に対する対話』において先取りされている。この魅力的な痛罵は当時の流行文学、特にすべての職業詩人に向けられている。洗練され合理主義的な社会の立場から書くベルニは、詩をあまり真剣に受け止めるべきではなく、教養ある人々の余暇、娯楽、単なるバガテルであることを強調し、常に詩を書くことに時間を費やす者を軽蔑すると公言する。職業詩人たちの虚栄、無益さ、過剰、猥褻さは彼の心からの軽蔑を受け、余暇に詩を書く者だけが称賛に値する。「君はあまりにも愚かではないか」と彼は叫ぶ。「詩を書く者をすべて詩人と呼び、ヴィーダ、ポンターノ、ベンボ、サンナッツァーロを単なる詩人と見なすと考えるのか。私は詩を書くこと以外何もせず、しかも惨めな詩しか書かず、他に何の役にも立たない者を詩人と呼び、そうして非難する。しかし私が挙げた人々は職業詩人ではない」[296]。ここで表現された感情は、洗練され社交的な時代の感情、レオ10世の時代だけでなくルイ14世の時代のものである。

新古典主義芸術の非宗教的性格も、この合理主義的気質の帰結の一つと見なされる。ヒューマニズムの本質的な異教性と合理主義の本質的な懐疑主義の結合的効果は、文学における宗教的感情の成長に有利ではなかった。これら二つの傾向の結果である古典主義はますます合理主義的になり、ますます異教的になり、その結果、古典主義のより厳格な形態が支配するところでは、真の意味での宗教詩は繁栄しなくなった。ボワローにおいてこれらの傾向は、文学におけるキリスト教の形態そのものに対するある種の明確な敵対へと結実する。

「われわれの作者たちが無駄に飾りを捨て、
 認められた装飾を彼らの詩から追放し、
 神とその聖人たちと預言者たちを、
 詩人の頭脳から生まれた神々のように行動させ、
 読者を絶えず地獄に置き、
 アスタロト、ベルゼブブ、ルシフェル以外何も提示しないのは無駄である。
 キリスト教徒の信仰の恐ろしい秘儀は
 陽気な装飾を受け入れない。
 福音書は精神に四方から
 悔い改めと相応しい苦難以外何も提示しない。
 君たちの虚構の罪深い混交は
 その真理にさえ寓話の外見を与える」[297]。

脚注

[239] シモンズ、ii. 161(フォイクトに基づく)
[240] ウッドワード、210以下と比較せよ
[241] ハラム『ヨーロッパ文学』i. 8. 1。ポープ、i. 182「すべてを調和する音の韻律に合わせる」などと比較せよ
[242] ベンボ『散文』1525年;ドルチェ『観察』1550年、第4巻など
[243] 『トスカーナ新詩の韻律と規則』1539年
[244] トリッシーノ『詩学』第1-4巻、1529年;トミターノ『トスカーナ語について』1545年など
[245] ポープ、i. 134。デ・サンクティス、ii. 153以下と比較せよ
[246] ポープ、i. 152
[247] パルテーニオ、80頁
[248] 同上、95頁
[249] 『著作集』xi. 51
[250] 『詩の擁護』13頁
[251] 『詩学』v. 3
[252] 『詩学』v. 1;vi. 4
[253] ブリュネティエール、53頁と比較せよ
[254] シモンズ、ii. 395以下
[255] ムツィオ、94頁
[256] デニス『選集』1718年、ii. 417以下と比較せよ
[257] ポープ、i. 167
[258] ラース『ヨハネス・シュトゥルムの教育学』ベルリン、1872年、65以下
[259] 『弁論家教育』x. 2
[260] ポープ、i. 165
[261] 『詩学』i. 1
[262] 『詩学』iii. 4
[263] パルテーニオ、39以下
[264] ブリュネティエール、102以下およびランソン『フランス文学史』494以下と比較せよ
[265] 『ギリシア書簡』ルグラン校訂1892年、31頁
[266] 「アリストテレスが述べたものはすべて偽りかつ虚構である」;ベール『辞典』「ラミュ」条、注C
[267] フラカストーロ、i. 321
[268] ティラボスキ、vii. 1465
[269] マッジ、献辞
[270] 本論付録にサルヴィアーティの未刊『詩学』註釈からの抜粋があり、彼が先行した註釈者たちに対する判断を示している
[271] タッソ、xv. 20
[272] 『詩学』vii. ii. 1
[273] 『ハンブルク演劇論』101-104
[274] 『ポープ論』第3版、i. 171
[275] 『詩論』158頁
[276] ムツィオ、81v頁、76v頁
[277] 『詩学』i. 5
[278] ポープ『批評論』88
[279] 1579年アントウェルペン刊『詩学三巻』の著者ヴィペラーノ
[280] 1564年バーゼル刊『ルクルス的諸問題』の著者マランタ
[281] この名を持つルネサンスの著者は三人いる。1503年没の著名なイタリア・ヒューマニスト・ラテン詩人G・ポンターノ、1520年刊『韻律術』のブルージュのP・ポンターノ、1594年初版インゴルシュタット刊(数回再版)のボヘミア・イエズス会士J・ポンタヌス『詩学教程』の著者
[282] セダーノ『スペイン・パルナッソス』マドリード、1774年、viii. 40-41
[283] ベルクヘッファー『オピッツの詩論』1888年、およびベックヘルン『オピッツ、ロンサール、ハインシウス』1888年と比較せよ。アルプス以北における『詩学』への最初の言及はルター『ドイツ貴族に告ぐ』1520年にある。1559年刊ショッサーの『悲劇論争』(スカリゲルの著作の2年前)は完全にアリストテレス『詩学』に基づいている
[284] ポープ、i. 155
[285] 同上、冒頭「偶然が君を支配するな」
[286] ポープ、i. 164、冒頭「あまりに過度に」
[287] リンティラック、『新評論』lxiv. 543
[288] スカリゲル『詩学』iii. 11
[289] トリッシーノ、ii. 92
[290] ヴァルキ、600頁
[291] タッソ、xii. 217
[292] 『詩の擁護』48頁
[293] 『論考』1587年、39v頁
[294] 『月曜随想』iii. 44
[295] 『詩論』iv. 121
[296] ベルニ、249頁
[297] 『詩論』iii. 193。ドライデン『諷刺論』『著作集』xiii. 23以下と比較せよ

第六章 イタリア批評におけるロマン主義的要素

16世紀のイタリア批評文献には、古典主義的批評の萌芽だけでなく、ロマン主義的批評の萌芽も見出される。ルネサンス批評におけるロマン主義の発展は、古代的・中世的・近代的起源のさまざまな傾向によるものである。古代的要素はプラトン主義であり、中世的要素はキリスト教と中世の文学形式・文学主題の影響であり、近代的要素は国民生活と国民文学の成長、および近代哲学のアリストテレス主義への対立である。

I 古代的ロマン主義要素

新古典主義の支配的特徴が理性であるように、ロマン主義の支配的特徴は想像力である。ルネサンス文学において理性が支配的であるか想像力が支配的であるかに応じて、新古典主義かロマン主義が生じ、最も完璧な芸術は想像的理性における両要素の和解を見出す。理性の能力が文学の基礎とされるとき、詩人はあたかも地上に縛られ、芸術は単に人生の真理を理性的に表現するものとなる。想像力の能力によって、詩人は自らの新しい世界を創造し、そこではその天才が想像力によって掴むものを自由に形作ることができる。この天才の自由、霊感、想像力の力というロマン主義的教説は、ルネサンス批評の一部をなす限りにおいて、その起源をプラトン主義に負っている。ヒューマニストたちの間に見られるプラトン的教説の影響はすでに言及されている。彼らにとってプラトンは、中世主義、スコラ主義、アリストテレス主義との闘争における指導者であった。中世のアリストテレス的弁証法は理性のみに訴え、プラトン主義は想像力が曖昧かつ崇高な高みへと舞い上がり、宇宙の神聖な秘儀と調和する機会を与えた。詩と想像文学全般に関して、ルネサンスの批評家たちは『国家』と『法律』のプラトンから、『イオン』、『パイドロス』、『饗宴』のプラトンへと訴えた。美が芸術の主題であるから、プラトンの美への讃美はルネサンスによって詩に移され、哲学者への讃美は詩人へと移された。

アリストテレス的教説は美を外部世界との関係において定義する。すなわち詩は一般的に表現された自然の模倣である。これに対してプラトン的教説は、詩あるいは美を詩人自身の本性に関わる限りにおいて扱う。すなわち詩人は神聖な霊感を受け、神のように創造者である。すでに述べたように、フラカストーロはプラトン的陶酔、事物の真の本質的な美への喜びこそが詩的才能の真の試金石であるとする。彼はこのプラトン的美の理想を近代文芸批評に導入することによって、詩を主観的基準によって定義・区別し、芸術の客観的構想か主観的構想のどちらが強調されるかに応じて、古典的精神かロマン的精神が生まれる。シュレーゲル兄弟やドイツの同時代人たちのような極端なロマン主義者は、詩の外部世界との関係を完全に排除し、この極端な形態においてロマン主義はフィヒテやシェリングの誇張された主観的観念論と同一視される。極端な古典主義者は詩人の個性を完全に排除する。すなわち詩は単なる理性的表現であり、すべての人間が見られる自然の完璧な表現にすぎず、詩人は普通の賢明な人間よりも人生への洞察、想像力を持たない。

ルネサンス批評に対するこのプラトン的要素の効果はさまざまだった。第一に、美と詩の関係が最初に顕著にされたのはプラトン的影響によるものである[298]。スカリゲル、タッソ、シドニーによれば、詩人はもう一つの美の世界を創造する。それはこの世界が決して持てない完璧さにおいて美を持つ。理性のみでは美に余地はなく、ゆえに新古典主義者にとって芸術は最終的に道徳的・心理的観察に制限された。さらにプラトン主義は天才と想像力の自由の問題を提起した。シドニーその他が指摘するように、すべての人間の中で詩人のみが法則に縛られず制限されない。しかし詩が霊感の問題なら、どうして芸術と呼ばれるのか。天才のみで十分なら、研究と技巧の必要は何なのか。この時期の極端なロマン主義者にとって、天才のみが最大の詩的作品を生むのに十分であり、極端な古典主義者にとって、天才の助けを借りない勉強と労力による芸術が詩的創造のすべての機能を果たす。しかし16世紀のほとんどの批評家はホラティウスと同意して、生まれつきの素質または天才はまず必要だが、それを規制し完璧にするには芸術と研究が必要であると考えたようである。抑制と修養なしでは天才は不十分である。

スカリゲルは奇妙にも古典的要素とロマン主義的要素の両方を調和させる。彼によれば詩人は霊感を受け、実際には神のような創造者である。しかし詩は自然の模倣(すなわち再創造)であり、偉大な芸術における自然の先行表現の観察から得られる一定の固定された規則に従う。これらの規則こそが詩を芸術とするものであり、これらの規則はアリストテレス的教説に課せられた明確な新古典的要素である。

II 中世的要素

中世はルネサンスの詩的理想に二つの要素、すなわちロマンティックな主題とキリスト教的精神を寄与した。中世文学の形式と主題は明らかにロマンティックである。ダンテの『神曲』は寓意的な幻視であり、形式においてほぼ唯一であり、古典的原型を持たない[299]。ペトラルカ主義の傾向もロマン主義的方向にあった。その「コンセプト」と主観性は非古典的な思想と表現の過剰に導き、ペトラルカ的影響は抒情詩、および抒情詩批評を、古典主義期の他のどの文学または文学批評よりもロマン主義的とした。これが古典主義期に抒情詩がほとんどなかった理由であり、フランスだけでなく古典的気質が支配するところではどこでもそうであった。ロマンツォの主題も中世的かつロマンティックである。しかしそれらが文学への中世的寄与である一方で[300]、国民生活の成長と国民感情の発展という明確に近代的なものによって初めて文学批評への寄与となった。

ヒューマニストによる文化の異教化についてはすでに言及されている。しかし宗教改革へと導いたキリスト教的情操の復興の成長とともに、キリスト教を異教文化と和解させようとする数多くの試みがあった[301]。フィチーノやピコ・デッラ・ミランドラのような人々はキリスト教とプラトン哲学を調和させようとし、文学の偉大な庇護者レオ10世の下では、文学においてキリスト教を古典的精神と調和させようとするさまざまな試みがあった。ヴィーダの『キリスト頌歌』やサンナッツァーロの『処女の出産について』のような詩において、キリスト教は異教または古典主義の衣で覆われる。

この文化の異教化に対する最初の反動は、すでに述べたように、サヴォナローラによってなされた。この反動は次の世紀にトリエント公会議の影響と権威によって強化され、16世紀半ば以降、キリスト教的理想は文芸批評において顕著な役割を果たす。ジラルディ・チンティオとミントゥルノの精神は明らかにキリスト教的である。ジラルディにとってロマンツォはキリスト教的であり、ゆえに古典的叙事詩よりも優れている。彼は異教の神々を古代古典的主題を扱う叙事詩にのみ導入することを許すが、タッソはさらに進み、近代英雄詩人はそれらと一切関わるべきではないと言う。タッソによれば英雄詩の英雄はキリスト教の騎士でなければならず、詩自体は偽りの宗教ではなく真の宗教を扱わねばならない。主題はキリスト教信仰または教義のいかなる条項とも結びついてはならず、それはトリエント公会議によって固定されているからである。しかしあらゆる形態の異教は近代叙事詩に全く不適である。タッソはさらに、敬虔さが叙事詩の騎士的英雄の美徳の一つに数えられるべきだとまで主張する。またこの時期、ロレンツォ・ガンバラは『完璧な詩の理について』を書き、すべての詩人は詩から悪しきものや猥褻なものだけでなく、寓話的なものや異教の神々を扱うものも排除することが本質的であることを証明しようとした[302]。この宗教的反動に、タッソ、デュ・バルタス、スペンサーのキリスト教詩を負っている。しかしヒューマニズムは強く、合理主義は蔓延しており、宗教的復興はほとんど一時的なものにすぎなかった。ヨーロッパ全般の新古典主義は本質的に異教的であった。

III 近代的要素

中世の文学は、あたかも一つの巨大なヨーロッパ文学を構成するものであった。ルネサンスになって初めて明確に国民的文学が生まれた。ナショナリズムも個人主義もルネサンス以降のものであり、この時期に国民文学、国民生活、広い意味での愛国心の成長が初めて実現した。

16世紀の言語的議論と言語論争は、国民的言語と文学へのより高い評価への道を開いた。古典語と俗語の比較優劣に関するこれらの論争はダンテの時代に始まり、16世紀にはベンボ、カスティリオーネ、ヴァルキ、ムツィオ、トロメイその他によって続けられ、1564年サルヴィアーティは演説においてトスカーナ語、すなわち彼が呼ぶフィレンツェ語とフィレンツェ文学が古代も近代も含めていかなる言語・文学よりもはるかに優れていると主張してイタリア側の問題を総括した。この主張がどれほど過激に見えようと、サルヴィアーティがそのような主張をしたという事実だけで、彼にイタリア文学史において真剣に考慮すべき地位を与えるに十分である。論争のもう一方の極端な表現は、ジラルディ・チンティオに宛てたチェリオ・カルカニーニの論文に見られ、そこではイタリア語とその言語で書かれたすべての文学が世界から完全に放棄されることを願望が表明されている[303]。

ジラルディ・チンティオにおいて、純粋に国民的批評の最初の痕跡が見られる。彼が『ロマンツォの構成に関する論考』を執筆した主な目的は、若年時に個人的に知っていたアリオストを擁護することであった。彼の出発点は、ロマンツォはアリストテレスが知らなかった新しい詩の形態であり、ゆえにアリストテレスの規則は適用されないというものである。ジラルディはアリオストとボイアルドのロマンティック詩を国民的かつキリスト教的作品と見なし、イタリア文学はこうして言語・宗教・国民性の点で古典文学から初めて批評的に区別された。ジラルディの論考にはアリストテレス『詩学』を軽視または無視しようとする明らかな意図はない。単にアリストテレスが多くの人の多くの行為を扱う詩を知らなかったという事実があり、ゆえにそのような詩に彼の規則を要求するのは愚かであるということである。ロマンツォはアリストテレスが理解できたはずのない詩の局面、人生の局面を扱っている。

イタリア喜劇のこの時期の序文の多くにも、イタリア文学の明確な国民性の同様の感情が見られる。イル・ラスカは『ストレガ』(1555年頃)の序文で「アリストテレスとホラティウスは自分たちの時代を知っていたが、われわれの時代は全く同じではない。われわれには別の風俗、別の宗教、別の生活様式がある。ゆえに喜劇も異なる様式で作らねばならない」と言う。1534年、アレティーノは『コルテジャーナ』の序文で、観客に「喜劇的様式が要求されるように守られていないとしても驚かないでほしい。近代ローマでは古代アテネとは異なる様式で生活しているからである」と警告する。同様にジェッリは『スポルタ』(1543年)の献辞において、イタリア語の偉大な源に見られない言葉の使用を正当化し、「言語は他のすべての自然物とともに絶えず変化し変容するからである」と言う[304]。

ジラルディ・チンティオにはアリストテレスに対する根本的対立はないが、ロマンツォに関する彼の論考に、アリストテレスの至上権威から芸術の一領域を奪おうとする最初の試みが見られる。サルヴィアーティがイタリア語を他のすべての言語の上に置いたり、カルカニーニがそれを最も卑しいものと見なしたりしても、アリストテレスの文学的至上性の問題に関わるとは理解していなかった。それは単なる国民的問題、アリストテレスの権威の国民的限界の問題であり、タッソ、ダンテ、グアリーニの『忠実な羊飼い』をめぐるいくつかの論争の場合と同様であった[305]。カステルヴェトロは『詩学』註釈において多くの点でアリストテレスと異なり、彼を反駁することさえ躊躇しない。しかし彼のアリストテレスに対する崇敬は大きく、彼の至上権威への感覚は強く、ホラティウス、クィンティリアヌス、キケロがアリストテレスと異なるように見える一カ所で、カステルヴェトロは彼らが問題の『詩学』の箇所を見ていない、実際には詩人の真の構成を十分に理解していなかったと断言することを躊躇しない[306]。

ヒューマニストたちの間のアリストテレス主義への対立はすでに言及されている。この対立は近代哲学の発展とともにますます増大した。1536年ラミュはパリでアリストテレスの権威を攻撃した。数年後の1543年、しばらくフランス宮廷にいたオルテンシオ・ランディは『パラドッシ』を刊行し、アリストテレスの名で伝わる作品は実際には彼のものではなく、アリストテレス自身は無知であるだけでなく、同時代の最も邪悪な人間であったと主張する。「われわれは自ら進んで首を軛の下に置き、あの卑しい獣アリストテレスを玉座に据え、彼の結論を神託のように信じている」と彼は言う[307]。ランディが攻撃するのはアリストテレスの哲学的権威である。彼の態度はヒューマニストのものではなく、キケロとボッカッチョもアリストテレス以上に敬意を受けていない。ランディは単なる奇抜さにもかかわらず、近代的自由思想の成長と近代哲学のアリストテレス主義への敵対を代表する。

アリストテレス主義への文学的対立と哲学的対立は、フランチェスコ・パトリッツィにおいて、そしてより小さい程度でジョルダーノ・ブルーノにおいて出会うと言える。パトリッツィの激しい反ペリパトス主義は1591年の『全哲学新論』に見られ、そこではアリストテレスの教説が偽りで矛盾し、カトリック教会の教義にさえ反すると示される。彼のアリストテレスへの文学的敵対は1586年フェラーラで刊行された驚くべき著作『詩学について』に示されている。この作品は二部に分かれ、第一部は歴史的な『歴史の十篇』、第二部は論争的な『論争の十篇』である。歴史的部分では、異なる詩的形態の規範をアリストテレスがしたように一、二の偉大な作品からではなく、文学の全歴史から導こうとする。それは近代において文学史の哲学的研究を試み、文学形式の進化を辿る最初の作品である。第二の論争的部分はアリストテレス『詩学』、部分的にトルクァート・タッソの批評教説に対して向けられている。この部分においてパトリッツィは、歴史によって、理性によって、偉大な古代人の権威によって、当時の受容された批評意見が基礎を欠いていることを示そうとし、アリストテレス自身の『詩学』を不明瞭で矛盾し、全く信用に値しないものとして提示する。

アリストテレス的批評教説への同様の敵対は、ジョルダーノ・ブルーノの著作のあちこちに散在する箇所に見られる。1585年イングランド訪問中にロンドンで刊行された『英雄的狂気』の第一対話において、ブルーノはアリストテレス『詩学』の規則によって詩人を判断する単なるペダントたちへの軽蔑を表現する。彼の主張は、人間感情と着想の数だけ詩人の種類があり、詩人は規則に従属するどころか、すべての批評的ドグマの著者そのものであるということである。アリストテレスの規則に一致しない偉大な詩人の作品を攻撃する者たちは、ブルーノによって愚かなペダントと獣と呼ばれる。彼の議論の本質は次の引用から理解できる。

「タンシッロ:君はよく結論する。詩は規則の中に生まれるのではなく、わずかに偶然的にそうであるにすぎない。規則は詩から導かれ、真の規則の種類と様式は真の詩人の種類と様式と同じ数だけある。
 チチェロ:では真の詩人はどのように知られるのか。
 タンシッロ:彼らの詩を歌うことによってである。その歌によって彼らは喜びを与えるか、教化するか、教化と喜びを共に与える。
 チチェロ:ではアリストテレスの規則は誰に有用なのか。
 タンシッロ:ホメロス、ヘシオドス、オルフェウスその他と異なり、アリストテレスの規則なしには歌えなかった者、そして自らのミューズを持たず、ホメロスのミューズと戯れる者にである。」[308]

アリストテレスへの同様の敵対と同様の文学的個人主義は、はるかに遅れたベネデット・フィオレッティの著作にも見られる。彼はウデーノ・ニシエーリという筆名で1620年から1639年にかけて五巻の『詩的練習』を刊行した[309]。しかし16世紀末直前、『詩学』はフランチェスコ・ブオナミーキの『詩的論考』においてそのような攻撃に対する熱心な擁護者を得、三年後の1600年にはファウスティーノ・スンモが同様のアリストテレス擁護を刊行した。アリストテレスの文学的独裁に対する攻撃はほとんど効果がなく、彼を擁護する必要さえほとんどなかった。以後二世紀にわたり彼はヨーロッパ大陸で至上を保ち、イタリアにおいてはその至上性はゴルドーニとメタスタージオの時代までほとんど乱されなかった。

脚注

[298] デ・サンクティス、ii. 193以下
[299] ボザンケ『美学史』152以下と比較せよ
[300] フォッファーノ、151以下と比較せよ
[301] シモンズ、ii. 470
[302] バイエ、iii. 70
[303] ティラボスキ、vii. 1559
[304] イタリア喜劇序文からの類似の抜粋はシモンズ、v. 533以下に見られる
[305] フォッファーノ、154以下
[306] 『詩学』32頁
[307] 『パラドッシ』ヴェネツィア、1545年、ii. 29
[308] 『著作集』ii. 315(ウィリアムズ訳)
[309] ティラボスキ、viii. 516とハラム『ヨーロッパ文学』第3部第7章のさまざまな意見と比較せよ

第二部 フランスにおける文芸批評

第一章 16世紀フランス批評の性格と発展

フランスにおける文芸批評は、イタリアよりやや遅れて始まったが、イングランドやスペインにおける批評の誕生を数年先行した。西ヨーロッパのほぼすべての国で批評活動が始まったのは、ホラティウスの『詩論』が各国語に翻訳されたことによってである。イタリアではドルチェのイタリア語訳(1535年)、フランスではペルティエのフランス語訳(1545年)、イングランドではドラントの英語訳(1567年)、スペインではエスピネルとサパタのスペイン語訳(それぞれ1591年・1592年)によって批評活動が始まった。イタリアでは二世紀にわたる文学的議論が批評への道を開いていたが、その準備期間を欠いていたため、16世紀フランス批評は必然的に同時代のイタリア批評よりもはるかに実際的な性格を帯びた。フランス(およびイングランド)の批評作品は、概ね自ら詩を書こうとする人々のために書かれたものである。実際的考慮を完全に離れた、純粋に美学的問題の無私かつ哲学的な扱いは、イタリア・ルネサンス批評の多くの特徴であったが、フランスでは次の世紀になるまで一般的ではなかった。このため、本論のフランスおよびイングランドの部分では、イタリアの部分で大部分無視できたさまざまな修辞的・韻律的問題を扱わねばならない。これらの問題でも、より一般的な批評問題でも、16世紀イタリアが西ヨーロッパのすべての受容された批評教説の源であったことがわかる。イタリアとフランスにおける批評作品の比較数も注目に値する。イタリア・ルネサンスのものは数十に数えられるが、16世紀フランス文学は、純粋に修辞学的な数冊を除けば、十数冊しか提供しない。ゆえにフランス批評の扱いは、イタリア批評のそれよりも範囲が限定され、性格もやや異なるものとなる。

フランスの16世紀文学は、デュ・ベレーの『フランス語の擁護と顕揚』(1549年刊)によってほぼ均等に二分される。ヨーロッパの他のどの国においても、中世からルネサンスへの移行がこの一冊の本によってこれほど明確に印されることはない。1494年シャルル8世のイタリア遠征によって、イタリア芸術、イタリア学問、イタリア詩の影響はフランスに最初の衝撃を受けた。しかしその影響がフランスの創作文学に普遍的かつ強力に感じられるようになるまでには半世紀以上を要した。この期間にブデ、エラスムス、ドレその他多くのフランス人および外国のヒューマニストたちの活動が新学問の原因を強化し、その影響を広げた。しかし近代フランス文学が始まったのはプレイヤッドの誕生によってである。1549年、新学派の宣言書であるデュ・ベレーの『擁護』が現れた。ロンサールの『頌歌集』は翌年に刊行され、1552年ジョデルは『クレオパトラ』によってフランス悲劇を創始し、ロンサールが言うように

「ギリシア悲劇をフランス風に歌った」

『擁護』はゆえに、フランスの批評文学および創作文学における明確な画期を印す。それ以前の批評的作品は、真の意味で批評と呼べるとしても、中世後期フランス詩人の一般的修辞的・韻律的構造の慣習的観念を定式化しようとしたにすぎなかった。プレイヤッド自身も、後述するように、主に言語的・修辞的改革に関心を持ち、1580年になってもモンテーニュは「フランスには詩人よりも詩の審判者・解釈者のほうが少ないと言えた[310]。プレイヤッドの創作改革は主に詩的言語の形成、新しいジャンルの導入、新しい韻律の創造、古典文学の模倣の方向にあった。しかし古典文学の模倣とともに、古代の霊感主題の更新が起こり、そこから詩人の職分の高く尊厳ある概念が生まれた。実際、プレイヤッドのより一般的な批評思想の多くは、詩の機能を正当化し、その重要性を高める願望から生じている。新学派とその後の継承者たちが16世紀後半を支配し、前半世紀は批評文献の産出がほとんどなかったから、フランス・ルネサンス批評史はほとんどプレイヤッドの詩的理論の記述にすぎない。

デュ・ベレーの『擁護』以前の修辞的・韻律的論考の系列は、詩人ユスタッシュ・デシャンが1392年に書いた『歌とバラード、ヴィルレー、ロンドーを作る技法』から始まる。これはイタリアのアントニオ・ダ・テンポの類似作品より半世紀以上後である[311]。15世紀末には、同じ性質の作品『修辞学の花』が「不幸者(L’Infortune)」と自称する著者によって書かれ、後期の論考にいくらか影響を与えたようである。この種の作品が16世紀前半に三つある。ピエール・ファブリの『完全修辞学大芸術』(1521年ルーアン刊)、グラシアン・デュ・ポンの『韻律化された修辞学』(1539年パリ刊)、トマ・シビレの『フランス語『詩論』(1548年パリ刊)である。ファブリの『修辞学』の第二部は韻律の問題、押韻、リズム、クレタン、メシノ、モリネのような詩人の複雑な韻律形式を扱い、パスキエは彼らに「押韻と掛詞は多いが理性は少ない」と評した。ファブリの『修辞学』が「不幸者」の類似作品の単なる増補であるように、グラシアン・デュ・ポンの作品もファブリのほとんど再現にすぎない。グラシアンは依然として掛詞押韻、絡み押韻、逆行押韻、連鎖押韻その他中世的な韻律の複雑さに主に関心を持つ。シビレの『フランス語詩論』は先行するどの作品よりも興味深い。それはデュ・ベレーの『擁護』の前年に刊行され、後者が提唱する多くの新しいジャンルを論じている。シビレはサン=ジュレによるイタリアからの借用されたばかりのソネット、ペルティエが用いたばかりのオード、マロが実践のエピグラムを扱う。牧歌は「発明はギリシア、簒奪はラテン、模倣はフランス」と描写される。しかしシビレの本で最も興味深い箇所の一つは、フランスのモラリテと古典劇を比較した箇所である。この箇所はフランス批評におけるイタリア思想の影響の最も初期の痕跡を示し、この時期の劇的理論との関連で後述する。

16世紀中頃になって、初めてイタリア批評の影響が顕著になる。イタリア文学はフランスで熱心に読まれた。多くの教養ある若いフランス人がイタリアを旅行し、数多くのイタリア文人がフランスを訪れた。ジローラモ・ムツィオは1524年、また1530年にジュリオ・カミッロとともにフランスを旅行した[312]。アレティーノは1548年にヴィンチェンツォ・マッジがフランス宮廷にいたと述べているが、それが『詩学』註釈の著者かどうかは疑わしい[313]。1549年、『詩学』の最後の二部をアラス司教に献呈した後、トリッシーノはフランスを旅行した[314]。フランソワ1世がパリに招聘したイタリア学者の数も忘れてはならない[315]。両国間の文学的関係はここでは問題ではないが、プレイヤッドの偉大な文学改革が1548年から1550年の間に行われたこと、イタリアで批評活動が初めて大きな衝撃を受けたまさにその時期であることは、決して小さな事実ではない。このイタリア影響はシビレにおいてすでに顕著になりつつあり、彼にとってジャン・ル・メール・ド・ベルジュからクレマン・マロまでの詩人が主要な模範であるが、フランスが古典古代とイタリア・ルネサンスから得た穏やかな革新にも全く反対ではない。

ブリュネティエールは『フランス批評史』の非常に示唆的な章において、デュ・ベレーの『擁護』、スカリゲルの『詩学』、ヴォークランの『フランス語詩論』を16世紀フランスにおける最も重要な批評作品と見なしている[316]。確かにデュ・ベレーの『擁護』(1549年)は真の意味で文芸批評作品ではない、スカリゲルの『詩学』(1561年)はフランス批評家ではなくイタリア・ヒューマニストの作品であり、ヴォークランの『詩論』(1605年まで刊行されなかった)は、それが及ぼした影響に関して言えば16世紀に属さず、重要とは呼べないと言える。しかし同時に、これら三作品はフランス文学史における興味深い文書であり、16世紀フランス批評の発展における三つの明確な段階を表している。デュ・ベレーの作品は古典的理想がフランス文学に導入される始まりを印し、スカリゲルの作品はイタリア人によってラテン語で書かれたがフランスで構成・刊行され、アリストテレス的規準がフランス批評に導入されることを印し、ヴォークランの作品はフランスが16世紀に集め受け容れた批評思想の総和を示している。

デュ・ベレーの『フランス語の擁護と顕揚』(1549年)によって、近代フランス文学と近代批評が始まったと言える。

『擁護』はイタリアがフランスの文学的・言語的批評に与えた影響の記念碑である。本の目的は題名が示すように、フランス語を擁護し、それが高貴さと完全さに近づく手段を示すことである。デュ・ベレーの根本的主張は、第一にフランス語は完全さを達成しうること、第二にそれはギリシア語とラテン語の模倣によってのみそれを望みうるということである。このテーゼは『擁護』第一巻で提起・証明され、第二巻はギリシア語とラテン語の完璧さの模倣に基づくこの完璧さをフランス語が達成するための具体的な手段は何かという問いに充てられている。デュ・ベレーは、各国民間の言語の多様性は完全に人間の気まぐれに帰せられ、どの言語の完璧さもそれを用いる者たちの勤勉と技巧にのみ帰せられると主張する。ゆえにすべての人の義務は、自国語を意識的に改善することである。ラテン語はウェルギリウスとキケロの時代に常に完璧だったわけではなく、彼らが言語を磨き豊かにすることができないと考えたり、自国の先行者模倣によってのみ完璧になると想像したりしていたら、ラテン語はエンニウスとクラッススの時代よりも高い完璧さに到達しなかったであろう。しかしウェルギリウスとキケロがギリシア語を模倣することによってラテン語を完璧にしたように、フランス語もギリシア語・ラテン語・イタリア語(これらはすべてがある程度の完璧さに到達している)を模倣することによってのみ美しくなりうる[317]。

同時に、二つのことを警戒せねばならない。フランス語は古典語とイタリア語を単に翻訳するだけでは改善されない。翻訳は着想を普及させる価値はあるが、単なる翻訳によってはどの言語・文学も完璧さを望みえない。また単なる無味乾燥な模倣では不十分であり、デュ・ベレーのよく引用される言葉によれば、これらの外国語の美は「血と栄養に転化」されねばならない[318]。古典には「血、筋、神経、骨」があり、古いフランス詩人には「皮膚と色」しかない[319]。ゆえに近代フランス詩人は古いフランス詩人を軽蔑して退け、ギリシア人・ラテン人・イタリア人を模倣せねばならない。彼はロンドー、バラード、ヴィルレーその他の「香辛料」をやめ、それらはフランス語の趣味を腐敗させ、その無知と貧困を示すにすぎない。それらの代わりにエピグラム(ホラティウスの言葉で有益と愉悦を混ぜるもの)、オウィディウスとティブルスを模倣した涙のエレジー、詩の最も崇高な形態の一つであるオード、テオクリトス、ウェルギリウス、サンナッツァーロを模倣した牧歌、学者的であると同時に愉悦的なイタリアの発明である美しいソネットを用いるべきである[320]。モラリテとファルスの代わりに、詩人は悲劇と喜劇を書き、フランスの栄光と名誉のために別の『イリアス』または『アエネイス』を作為すべきである。これがデュ・ベレーの議論の要旨であり、フランス語と文学を一般的に扱う限りにおいてである。最後の六、七章は言語と韻律のより細かい詳細な問題を扱う。デュ・ベレーはフランス語を豊かにするために古典語の採用を勧め、古典模倣による無韻詩の使用に賛成する。『擁護』は読者にギリシアとローマの宝をフランス詩のために奪い取ることを恐れるなと訴えて終わる[321]。

この分析からわかるように、『擁護』は実際には言語学的論争であり、ダンテに始まり、ベンボ、カスティリオーネ、ヴァルキその他の俗語に関するイタリアの長い議論系列に属する。それはフランス批評家が言うように、宣言書、擁護書、詩論の結合である[322]。しかしそれはフランス詩人に特定の詩的形態を用いるよう勧め、最後の章か二章で韻律と押韻を扱う限りにおいてのみ詩論である。しかし奇妙なことに、デュ・ベレーの作品の源と霊感はこれまで指摘されていない。実際の模範は疑いなくダンテの『俗語論』であり、トリッシーノのイタリア語訳で1529年に初めて世に出された、まさに『擁護』の20年前である。二作品は時代と状況の差を考慮すれば、精神と目的、内容と設計において密接に似ている。デュ・ベレーの作品はダンテのものと同様、二巻に分かれ、各巻はほぼ同数の章に分かれる。両作品の第一巻は言語全般と、俗語と古代・近代言語との関係を扱い、第二巻は各著者が論じる俗語の具体的な実践を扱う。両作品とも言語の起源に関するやや類似した理論から始まり、俗語の韻律の議論で終わる。両作品の目的は俗語の正当化と、それを完璧にする手段の考察であり、『俗語論』の題名はどちらの論文にも等しく当てはまる。デュ・ベレーはフランス語を合理的(必ずしも一貫しているわけではないが)根拠で正当化することによって、フランスにおける批評活動への道を開いた。近代フランスの最初の批評作品が近代イタリアの最初の批評作品に基づいていたことは小さな事実ではない。30年後、アンリ・エティエンヌは『フランス語の優越』において、フランス語が古代も近代も含めて最良の言語であると主張できたが、それは1564年のサルヴィアーティがイタリア語に対して主張したのと同様である[323]。

デュ・ベレーの革新が示唆するフランスの国民的伝統との決定的な決別が、プレイヤッドの敵たちによって無視されるはずはなかった。答えはすぐに現れ、無名の小冊子『フランス語の擁護と顕揚に対するホラティウス的クィンティリウス』という形で現れた。数年前までこの論文はマロの弟子シャルル・フォンテーヌに帰されていた。しかし1883年フォンテーヌの自筆書簡が発見され、彼は『ホラティウス的クィンティリウス』の著作者を強く否定し、最近の研究は真の著者はフォンテーヌの友人でリヨン学院長バルトロメ・アンオーであることをかなり確実に示している[324]。『ホラティウス的クィンティリウス』は『擁護』刊行の翌年1550年に初めて刊行された[325]。著者は20年以上前、すなわち1525年から1530年の間に、ペルティエその他に先立ってホラティウス『詩論』をすべてフランス語韻文に翻訳していたと述べる[326]。この翻訳は刊行されなかったが、その断片が『ホラティウス的クィンティリウス』に引用されている。小冊子自体はデュ・ベレーの議論を一つ一つ取り上げて反駁する。著者はデュ・ベレーの構文、隠喩、新造語を非難する。アンオーの気質は独断的・教授的であり、判断は常に優れていたわけではなく、近代フランス批評家は彼が「祖国(patrie)」という語の使用を攻撃を許さない。しかし近代文学史家が言うように、『ホラティウス的クィンティリウス』を無益で価値のない批評で満ちていると呼ぶのは完全に公正ではない。著者の細かい言語的異議はしばしば過度に批判的だが、彼の作品はプレイヤッドに対する自然な反動を表している。彼の『擁護』に対する主要な非難は、フランス語への古典語とイタリア語の導入に向けられた。「これが擁護と顕揚か、それともむしろ冒涜と汚辱か」と彼は叫ぶ。彼はプレイヤッドがフランス詩の古典を軽蔑したと非難する。新学派は複雑な韻律形式が難しすぎるからというだけでその廃止を主張したと彼は言う。ソネット、オード、エレジーは無益な革新として退けられる。詩の目的はホラティウスによれば喜ばせ楽しませることであるが、エレジーはただ悲しませ涙を誘うだけである。「詩は絵画に似ている。絵画はわれわれを喜ばせるためにあり、悲しませるためではないから、ゆえに悲しみのエレジーは詩の最も卑しい形態の一つである」と彼は言う。アンオーはプレイヤッドがフランス文学に初めて導入した詩人の職分の高く崇高な概念を理解できず、彼にとって詩人は単に聴衆を楽しませる韻文作者にすぎない。彼はプレイヤッドの古典的革新に対する国民的精神の一般的反動を表し、『ホラティウス的クィンティリウス』はゆえに古い詩派の最後の代表的作品と呼べる。

この時期にアリストテレス『詩学』がフランス批評に影響を与え始めた。『擁護』の最後の章の一つでデュ・ベレーは「詩の美徳と欠陥は古代人、アリストテレスとホラティウス、そしてその後にヒエロニムス・ヴィーダによって熱心に扱われている」と述べる[327]。ホラティウスは他の多くの箇所で言及・引用され、『詩論』の一般的修辞的部分の影響は『擁護』全体に極めて顕著であり、ヴィーダの影響の痕跡も多い。しかしアリストテレス『詩学』に関する知識の証拠は全くない。その名と重要性はイタリア人の著作で読んだであろうが、その内容はほとんど知らなかった。この時期以前にフランスで『詩学』への確立された言及はない。フランスのヒューマニストたちの誰もそれを知らなかったようである。その題名はエラスムスが1531年2月27日付の手紙で引用し、同年バーゼルで註釈なしに刊行されたが、実質的な編集者はシモン・グリナエウスであるようである。『詩学』の版は1541年パリでも刊行されたが、フランスの批評活動に目立った影響を与えなかったようである。『擁護』刊行の数年後、イタリアから帰国した1555年直後に書かれた風刺詩『宮廷詩人』において、デュ・ベレーは『詩学』の内容についてやや明確な知識を示す。

「アレクサンドロスの師〔すなわちアリストテレス〕の
 詩的芸術に関する訓戒をここで君に教えるつもりはない
 王たちの悲惨を舞台で演じる方法を
 私は教えない
 卑しい喜劇の技法も、メオニア人のより大胆なミューズも
 要するにホラティウス風の韻文で
 古い詩の悪徳と美徳を示すわけでもない
 ヴィーダの詩人も描かない」[328]

1555年、トゥルネブスの弟子ギヨーム・モレルはパリでアリストテレス『詩学』を刊行した。しかし『擁護』における言及がフランス批評文献における『詩学』への最初の言及であることは注目すべきである。1549年までにイタリア・ルネサンスとイタリア批評はフランスに定着したのである。1560年、スカリゲル『詩学』刊行の前年、アリストテレス論文はすでにそのような重要性を獲得し、その年パリで刊行されたアリストテレス選集『アリストテレス箴言集』において、『詩学』からの選が巻頭に置かれている[329]。1572年ジャン・ド・ラ・タイユは読者に「偉大なアリストテレスが『詩学』で、またその後にホラティウスが同じく微妙ではないがより広くより良く述べていること」を参照する[330]。

この時期のフランス劇批評に対するスカリゲル『詩学』の影響は一般に過大評価されている。スカリゲルのフランスにおける影響は16世紀において無視しがたいものではなかったが、彼が後に与えられた独裁的地位を占めたのは世紀末になってからである。彼の『詩学』の版はパリでは刊行されなかった。初版はリヨンで、以後の版はハイデルベルクとライデンで刊行された。彼の影響が最初に感じられたのはドイツ、スペイン、イングランドであり、次の世紀にフランスに持ち込まれたのは主にオランダの学者ハインシウスとヴォッシウスを通じてである。彼がフランス文学における時間と場所の統一の定式化と受容に主要な影響を与えたと言うのは誤りである。彼の『詩学』には、カステルヴェトロ、ジャン・ド・ラ・タイユ、フィリップ・シドニー、シャプランに見られるような明確で形式的な統一の言明はない。同時に、スカリゲル『詩学』が16世紀において17世紀に獲得した独裁的至上性を占めたわけではなく、そのページで述べられた特定の見解が16世紀思想の流れに直接的影響を与えたわけではないが、フランス・ルネサンスの批評活動の一般的傾向に間接的影響を与えたことは確かである。この間接的影響は16世紀後半における文化のラテン化の徐々な進行と、フランス劇批評におけるアリストテレス的規準の強調に見られる。スカリゲルはプレイヤッドの数人と個人的友人であり、彼がその偉大な文学運動の発展に相当な、たとえ間接的であれ、影響を与えたことはあらゆる理由で信じられる。

プレイヤッドの詩的理論の最後の表現は、ヴォークラン・ド・ラ・フレネの教訓詩『フランス語詩論、すなわち古代および近代詩の完璧さと欠陥をそこに見出せるもの』に見られる。この詩は1605年まで刊行されなかったが、1574年にアンリ3世の命令で始められ、1590年までに増補されても未完であった。ヴォークランは先行する批評家たちへの負債を次のように明確に認めている。

「ニコマコスの子〔すなわちアリストテレス〕の足跡に従い、
 カラブリアの竪琴弾き〔すなわちホラティウス〕、および
 ヴィーダとミントゥルノが噛み砕くすべてのものに従って、私はこの作品を準備した。」[331]

アリストテレス、ホラティウス、ヴィーダ、ミントゥルノが彼の認められた模範と源である。ホラティウス『詩論』のほぼ全体を翻訳して自らの詩に取り入れ、ヴィーダからも多くのイメージと隠喩を借用している[332]。アリストテレスとミントゥルノへの負債は複雑な問題を提起する。ヴォークランはミントゥルノを言及して尊敬すべきイタリア権威の保護下に自らを置こうとしただけだと言われている[333]。逆に、ホラティウス、ロンサール、デュ・ベレーを除けば(彼らの批評的議論のほぼ全体を自らの詩に取り入れている)、ミントゥルノが彼の主要な権威、模範、導き手である。実際、彼のアリストテレス的規準の知識はすべてミントゥルノから得たものであり、彼が踏襲したのはアリストテレスではなくミントゥルノのアリストテレス解釈である。彼の詩の多くの点はこの事実によって説明される。ここでは一つだけ言及する。『フランス語詩論』第二歌における劇の起源に関する叙述、すなわち収穫期のバッカス祭壇での歌から劇が生まれたという説明は、疑いなくミントゥルノに由来する[334]。ルネサンス期には詩の起源に関する二つの明確な概念があったことはすでに述べた。一つはホラティウスに由来する倫理的と呼べるもので、詩人は当初立法者または神聖な預言者であり、この概念はポリツィアーノからシェリーに至る近代文学に存続する。もう一つは科学的と呼べるもので、特に劇に適用され、アリストテレスの悲劇起源に関する言及に基づく。この詩的現象に対する科学的説明の試みは、スカリゲルやヴィペラーノのようなより合理主義的なルネサンス批評家に見られる。ロンサールの弟子でありプレイヤッド批評教説の最後の代弁者であるヴォークラン・ド・ラ・フレネは、こうしてイタリア思想の総体がフランス批評に取り入れられることを表している。

ヴォークラン・ド・ラ・フレネとド・ロードン・ダイガリエール(1598年)をもって、16世紀フランス批評の歴史は終わる。この時期の批評活動は、すでに述べたように、イタリアのそれよりもはるかに実際的性格を帯びている。フランスにおける文芸批評は偉大な文学運動の必要性によって生まれた。世紀を通じてそれはこの運動とのつながりを失わず、常に何らかの実際的な形でそれに奉仕した。詩的批評は詩人たちによって行われ、彼らの目的は一つの原因を推進し、自作を擁護し、自らの見解を正当化することであった。劇的批評は大部分劇作家たちによって行われ、時には自作の序文においてさえそうであった。16世紀において、フランスにおける創作と批評の能力の相互関係は顕著かつ明確であった。しかしフランス・ルネサンスには、真の意味での批評的理論化はほとんどなかったと言える。スカリゲルを除けば、イタリア批評に見られるようなアリストテレスの神格化さえなかった。アリストテレスのカタルシス教説の説明の試み、イタリアにおける無限の論争の源となったものは、フランスでは見られない。叙事詩の理論の詳細かつ一貫した議論もなかった。これらのものはすべて17世紀フランスに見られるが、その故郷は16世紀イタリアであった。

脚注

[310] 『随想録』i. 36
[311] これらの初期作品については、Langlois, 『韻律的修辞学論考』パリ、1890年を参照
[312] ティラボスキ、vii. 350
[313] 同上、vii. 1465
[314] モルソリン『トリッシーノ』358頁
[315] エッガー『ヘレニズム』第7章
[316] ブリュネティエール、i. 43
[317] ホラティウス『詩論』53以下と比較せよ
[318] 『擁護』i. 7
[319] 同上、ii. 2
[320] 同上、ii. 4
[321] ヴィーダ(ポープ、i. 167)と比較せよ
[322] ランソン、前掲書、274頁
[323] T. タッソ、xxiii. 97と比較せよ
[324] H. シャマール「『ホラティウス的クィンティリウス』の日付と著者」『フランス文学史雑誌』1898年、v. 59以下
[325] 同上、v. 54以下
[326] 同上、v. 62;63、注1
[327] 『擁護』ii. 9
[328] デュ・ベレー、120頁
[329] パリ、Hieronymum de Marnaf 刊、1560年
[330] ロベール、付録iii
[331] 『フランス語詩論』i. 63
[332] ペリシエ、57-63頁
[333] ルメルシエ『ヴォークラン研究』1887年、117頁、およびペリシエ、57頁
[334] ミントゥルノ『詩論』73頁;『詩人について』252頁。ヴォークラン(ペリシエ校訂序文 xliv頁)と比較せよ

第二章 フランス・ルネサンスにおける詩の理論

この時期の文芸批評の実際的性格にふさわしく、プレイヤッドのメンバーたちは詩の一般理論にほとんど関心を示さなかった。世紀の終わり近くになるまで、フランスには体系的な詩論は見られない。この時期が最も提供できるのは劇批評であり、その劇批評はラシーヌとコルネイユの劇の基礎となった教説を多くの点で予告しているため、特に関心深い。

I 詩的芸術

デュ・ベレーの『擁護』には一貫した批評教説体系を定式化しようとする試みはなく、しかしこの書はプレイヤッドがフランス文学において代表するすべての傾向を、多少粗雑な形で示している。『擁護』の根本理念は、フランス詩が古典を模倣することによってのみ完全さを望みうるということである。古典の模倣は第一に詩人の博識を意味し、さらに知的な労力と研究を要求する。詩人は生まれながらのものではあるが、それはただ自然に彼を駆り立てる熱情と精神の陽気さを指すだけであり、学問と博識がなければ全く無益である。「詩的永生を望む者は、自室の孤独に時間を費やさねばならず、飲食と睡眠の代わりに飢え、渇き、長き夜の徹夜に耐えねばならない」とデュ・ベレーは言う[335]。別の箇所では沈黙と孤独を「ミューズの友(amy des Muses)」と呼ぶ。これらすべてから、古来の学問を知らない無知な民衆に対する自然な軽蔑が生じる。「特に、俗を超える栄光を志す者に忠告したい。無能な賞賛者から離れ、無知な民衆――すべての稀有かつ古来の学問の敵である民衆――から逃れ、プラトン自身以外に聴衆を求めなかった者の例に従って、少数の読者で満足せよ」[336]。

ジャック・ペルティエ・デュ・マン(1555年リヨン刊)の『フランス語詩論』では、プレイヤッドの見解が示されているが、最も進歩的かつ急進的なメンバーたちのものよりも穏やかで円熟している。この論文は詩の古さと優秀さの説明から始まり、詩人は当初「生活の師であり改革者(maitres et reformateurs de la vie)」と語られる。詩は次に弁論術と絵画と比較され、ルネサンスの通常のやり方である。ペルティエはホラティウスと同意し、詩人を形作るには芸術と自然の結合した力が不可欠であると考える。彼の詩人の職分に関する概念はタッソやシェリーに似ており、「詩人の職分は古いものに新しさを与え、新しいものに権威を、粗野なものに美を、暗いものに光を、疑わしいものに信仰を、そしてすべてのものにその真の本性、その真の本性にすべてのものを与えることである」。言語、韻律、自然景観への感覚に関する問題では、彼はプレイヤッドの主要な著者たちと根本的に一致する。これらのうち最大のロンサールは、『フランス語詩論摘要』(1565年)と叙事詩『フランシアード』の二つの序文において詩的芸術に関する見解を表明している。『摘要』の現在の議論における主な関心は、プレイヤッドがフランス詩に導入した詩人の職分の高遠な観念を展開・強調していることである。新学派の到来以前には、複雑な韻律形式における単なる技術が詩の試金石と見なされていた。詩人は単なる「韻文作者(rimeur)」であり、「詩人(poete)」という語とその含意はプレイヤッドとともに初めて用いられた。アリストテレスが指摘し、イタリア人が主張した韻文作者と詩人の区別は、プレイヤッドにとってほとんど決定的なものとなった。ロンサールの弟子で伝記作者のビネは師について「彼は韻文作者の死敵であり、彼らの構想はすべて卑しく、散文を韻文に転置しただけで傑作を作ったと思う」と言う[337]。ロンサールの詩の尊厳と高遠大な機能に関する説明は、長く引用せねばならない。

「何よりもミューズを敬い、特別な崇敬をもってし、不誠実な事柄や単なる戯れや無分別な中傷に奉仕させないようにせよ。ミューズを愛し神聖視せよ。ユピテル、すなわち神の娘たちとして、神は聖なる恩寵によって、まず彼らを通じて無知な民にその威光の優秀さを示したからである。詩は当初、寓意的な神学にすぎず、愚かな人間に、真理があまりに露骨に示されれば理解できない秘儀を、愉悦的かつ驚くべき色彩の寓話によって知らせるためであった……。ミューズは善く聖く有徳な魂にしか宿らないから、君は善き性質であろうと努め、悪く陰気で気難しい人間ではなく、穏やかな精神に活気づけられねばならない。君の心には超人的かつ神聖なもの以外何も入ってはならない。まず高く壮大で美しい構想を持ち、地上を這うようなものを持ってはならない。詩の主要な部分は発明にあり、それは美しい自然と優れた古代著者の読書から等しく生じるからである。大きな作品に取り組むなら、神を敬い恐れ、その名で、あるいはその威光の効果を表す他の名で始めよ、ギリシア詩人の様式に従って……。ミューズ、アポロン、メルクリウス、パラスその他の神々は、神の力を表すにすぎず、最初の人間はその不可解な威光の多様な効果に対してさまざまな名を与えただけである」[338]。

この雄弁な一節には、詩人を本質的に道徳的存在とする概念――ストラボが最初に宣布し、ミントゥルノその他が繰り返した教説――と、ボッカッチョの詩は当初寓意的な神学であったという観念が、フランス批評に導入されている。他の箇所でロンサールは中世的観念を繰り返し、詩人は

「多様なヴェールで
 詩の真の意味を寓話によって隠した」[339]

と言う。またここでわかるように、ロンサールにとって詩は本質的に霊感の問題である。彼が引用したばかりの詩『ジャック・グレヴァンへの論考』において、彼はプラトン的な神聖な霊感または狂気の概念を踏襲している。数年後、モンテーニュは詩について「それを形作るのは知るよりも容易である。卑しく低きものはその訓戒と芸術によって判断できるが、善く高く、至上かつ神聖なものは規則を超え理性の上にある。それはわれわれの判断と交わりを持たず、ただわれわれの判断を奪い奪うだけである」と述べた[340]。

ロンサールはさまざまな批評作品において、イタリア理論家、特にミントゥルノに相当な負債を示す。彼は詩の形式的な定義を試みないが、その機能は次のように描写される。「雄弁家の目的が説得することであるように、詩人の目的は模倣し、発明し、存在するもの、存在しうるもの、あるいは古代人が真実と見なしたものを表現することである」[341]。この一節の最後の句は近代における古代神話の使用を正当化するためのものであるが、全体としては主にスカリゲル[342]とミントゥルノ[343]を踏襲しているように見える。この定義に韻文が詩の本質的要件として言及されていないことは注目すべきである。彼がイタリア人から借用したお気に入りの主張は、韻文で書く者すべてが詩人ではないということである。ルカヌスとシリウス・イタリクスは歴史を韻文の衣で覆ったが、ロンサールによれば多くの点で散文で書いた方が良かった。詩人は歴史家とは異なり、蓋然的かつ確からしいものを扱い、事物の真理に反する虚偽に対して歴史家以上に責任を負わないが、詩の細部が実際の歴史的事実であるかどうかを知ることに興味はない。ゆえに詩の試金石は蓋然性であり、事実ではない。

ヴォークラン・ド・ラ・フレネには、模倣、調和、リズム、詩論全般に関するアリストテレス的区別のほとんどが見られる。しかしこれらの区別は、すでに述べたように、アリストテレスから直接ではなく、おそらくミントゥルノから得たものである。詩は模倣の芸術として定義される。

「詩とは模倣の芸術、偽作の芸術である、
 肖像画のように」[344]

韻文は天からの贈り物、神々の言語として描写され、詩におけるその価値は設計を明快にし、コンパクトにすることにある[345]。しかしそれは詩の本質ではない。アリストテレスは散文で詩作することを許し、ヘリオドロスとモンテマイヨールのロマンスはその詩的散文の例である[346]。詩の目的は喜びを生むことであり、これに成功しなければ全く無益である。

「詩の目的、終わりは喜ばせることである。ミューズはそうでなければ詩を聞きたがらない」。

雄弁家の機能が説得し、医者の機能が治療することであり、彼らがこれらの目的を達成しなければその職分を果たせないように、詩人が喜ばせることに成功しなければ失敗である[347]。この比較はイタリア批評家のお気に入りである。ダニエッロからの類似の一節はすでに引用されており、ロドヴィーコ・ドルチェは同じ観念を次のように表現している。「医者の目的は薬によって病を治すこと、雄弁家の目的は議論の力によって説得することであり、どちらもこの目的を達成しなければ医者や雄弁家とは呼ばれない。同様に詩人が喜ばせなければ詩人ではない。詩はすべての人を、たとえ無知な者さえも喜ばせるからである」[348]。

しかしヴォークランによれば、喜びはただわれわれをより高いものへと導く手段にすぎない。詩はわれわれを徳へと導く愉悦的な手段である。

「それゆえ美しい詩の陽気な喜びは
 われわれを愉悦的な導きによって徳へと導く」[349]。

ヴォークランはスカリゲル、タッソ、シドニーと同様、詩人を何もないところからすべてを作った偉大な職人である神と比較する[350]。詩人は神聖な霊感を受けた者であり、「芸術も知識もなく(sans art, sans scavoir)」神聖な美の作品を創造する。ヴォークランの同時代人デュ・バルタスは『ウラニー』においてこの着想を次のように表現している。

「すべての芸術は芸術によって学ばれるが、詩は
 純粋な天の贈り物であり、
 ピンドスから豊かに滴らせる露を味わうことはできない、
 聖なる火が心を抱かなければ。
 ゆえに多くの偉大な哲学者、
 散文において最も雄弁な博学な学者たちが
 優雅な詩を作るために無駄に労苦し、
 多くの新参者が最も優れた詩を作る」[351]。

これはルネサンスの受容された霊感の教説であるが、プレイヤッドのすべての追随者と同様、ヴォークランは詩における技巧と研究の必要性を十分に認識しており、ホラティウスと同意して、優れた詩人を作るには芸術と自然の両方が等しく必要であると考える。慣行が芸術を作り、芸術は慣行を完璧にし規制する。

「そしてこの美しい芸術はわれわれに
 神へと登る階段となる」[352]。

II 劇

フランスにおける劇批評は、中世劇に対する反動として始まる。中世劇は無形かつ無機的であり、芸術も威厳もなかった。これに対して古典劇は形式と威厳の両方を備えており、新学派はこの対比を認識し、イタリア人によって再述されたアリストテレス的規準に、ギリシアとローマの悲劇が持っていた威厳と芸術、そして自らのモラリテとファルスが根本的に欠いていたものを求めるようになった。フランス批評における劇文学への最初の言及では、中世劇と古典劇がこのように比較される。しかしシビレ(1548年)の作品にこの一節が見られ、彼はプレイヤッドの到来の1、2年前に書いたため、モラリテとファルスに対する評価は後の批評家ほど不利ではない。「フランスのモラリテは、特定の明確な特徴においてギリシアとラテンの悲劇を表し、特に重大かつ主要な行為(faits graves et principaus)を扱う点でそうである。もしフランス人が常にモラリテの結末を悲しく悲惨なものにしていたら、モラリテは悲劇であっただろう。しかしこの点でも他のすべての点でも、われわれは自然の趣味または傾向に従い、外国のものからすべてを取るのではなく、われわれに有用で国民的利益になると考えるものだけを取った。モラリテにおいてわれわれは、ギリシア人とローマ人が悲劇でするように、高貴で寛大で有徳な、あるいは真実か、少なくとも蓋然的な行為の叙述を扱う。しかしわれわれは、われわれの風俗と生活の教化に有用な点で異なり、結末の悲しみや喜びに服従しない」[353]。シビレはモラリテに古典悲劇の不幸な結末だけが欠けていると見なしているようである。同時にこの一節はフランス批評文献におけるアリストテレス主義の最も初期の痕跡を示している。シビレはギリシアとラテン悲劇のいくつかの特徴的特性を指定しており、それらはアリストテレスかイタリア人にしか見出せない。第一に、悲劇は重大で高貴で、ほとんどが寛大または有徳な行為のみを扱う。第二に悲劇の行為は真実、すなわち歴史的であるか、真実でなくとも真理の外見、すなわち蓋然的である。第三に悲劇の結末は常に悲しく悲惨である。第四に悲劇は風俗と生活の教化に有用な機能を持ち、最後に悲劇の効果は破局によってもたらされる悲しみまたは喜びと結びついている。これらの区別は後にスカリゲルとフランス批評家たちに見られる多くのものを予告している。

デュ・ベレー(1549年)には、すでに指摘したように、古いモラリテとファルスの代わりに古典悲劇と喜劇を用いるべきであるという訓戒以外の劇的理論の痕跡はない。しかし数年後のペルティエ(1555年)には、ほぼ完全な劇批評体系が現れる。彼はフランス人に悲劇と喜劇の構成を試みるよう促す。「この詩の種は、試みられればフランス語に名誉をもたらすだろう」と彼は言い、これはフランス人の劇詩への生まれつきの素質を示す[354]。次に彼は6年後のスカリゲルとほぼ同じ方法で悲劇を喜劇と区別する。ペルティエの『フランス語詩論』は1555年リヨンで刊行され、スカリゲルの『詩学』は同じ場所で1561年に刊行されたことを思い出してほしい。ペルティエはスカリゲルと個人的に知り合いだったかもしれないが、彼が情報を得たのはスカリゲルと同じ古典的・伝統的源からである可能性が高い。いずれにせよ、ペルティエは文体、主題、人物、結末の点で悲劇を喜劇と区別し、まさにスカリゲル的様式で行う。喜劇は悲劇と共通する点は五幕を超えも欠けもしないことだけである。喜劇の文体と言語は大衆的かつ口語的であり、悲劇のそれは最も尊厳かつ崇高である。喜劇の人物は低位の人間であり、悲劇のそれは王、君主、大貴族である。喜劇の結末は常に陽気であり、悲劇のそれは常に悲しく心を引き裂くものである。悲劇の主題は死、追放、不幸な運命の変化であり、喜劇のそれは若者と乙女の恋愛と情念、母親の寛容、奴隷の策略、乳母の勤勉さである[355]。

この時期までに、イタリア人によって再述されたアリストテレスの悲劇論はフランス批評の一部となっていた。フランス劇の実践はこれらの規則の導入によって変容し、それらは重要な役割を果たしたため、グレヴァンは1562年の『シーザーの死』の序文『この劇の理解のための簡潔な論考』において、フランス悲劇はすでにアリストテレス的規準から見ても完璧に達していると言えた。「われわれの悲劇はすでに十分に磨き上げられており、もはや何も望むべきものはない――アリストテレスとホラティウスの規則に従って構成されたものについて言えば――はない」とグレヴァンは言う。グレヴァンの『論考』はスカリゲル『詩学』刊行の翌年に刊行されたが、スカリゲル的影響を示さない。彼の悲劇の定義はアリストテレスの極めて曖昧で不完全な記憶に基づく。「悲劇とは、アリストテレスが『詩学』で言うように、ある高貴かつ偉大な行為の模倣または表現であり、たとえばシーザーの死のようなものである」。彼はスカリゲルがすべてのギリシア人を凌ぐと評価したセネカの劣位を主張することによってスカリゲルからの独立を示し、悲劇の表現に歌があってはならないという理由で、古典的合唱の歌い手の代わりにシーザーの兵士の群衆を置くことによって古代人からの独立を示す。悲劇は真理または真理の外見の表現であるからである。グレヴァンの『論考』には、国民的感情が古典の模倣によって完全に破壊されていないことを示すいくつかの兆候があるが、その議論は後の章に残す。

ジャン・ド・ラ・タイユの『悲劇の技法』(1572年『狂えるサウール』の序文)には、古く不正則なモラリテに対する最も明確かつ明確な敵対が見られる。それらは真の芸術と古代人の模範に従っていない。彼らを「苦い香辛料(ameres epiceries)」と呼び、デュ・ベレーを思い起こさせる。しかし奇妙なことに、ジャン・ド・ラ・タイユはグレヴァンと全く異なり、フランスにはまだ真の悲劇はなく、古典からの数冊の翻訳を除けばないと断言する。国民劇の粗野な無形に対する戦いにおいて、完璧な構成は彼にとって極めて重要となる。「悲劇の主要な点は、よく配置し形作ることである。プロットがよく絡み合い、混ざり合い、途切れ、再開され……無駄で目的のない、場違いなものが何もないようにすることである」。ジャン・ド・ラ・タイユにとって、またほとんどのルネサンス著者にとって、悲劇は叙事詩を除けば最も大衆的でなく最も優雅かつ高尚な詩の形態である。それは大貴族の悲惨な破滅、運命の無常、追放、戦争、疫病、飢饉、捕虜、暴君の忌むべき残酷さを扱う[356]。悲劇の目的は実際、人間の感情と情念を動かし刺すことである。悲劇の人物――これはアリストテレス的構想である――は極端に悪く、罪によって罰に値する者でもなく、ソクラテスのように不当な死に処せられた完全に善く聖なる者でもない。発明されたまたは寓意的な人物、死、貪欲、真理などは用いてはならない。同時に、グレヴァンと同様、ジャン・ド・ラ・タイユは聖書の主題を悲劇に用いることに反対せず、長い神学的議論を戒めるだけである。セネカ劇が彼の悲劇扱いの模範であり、ルネサンス全般の模範でもあった。悲劇はますますラテン詩人の演説的・格言的様式に近づいた。たとえばロンサールは、悲劇と喜劇は完全に「教訓的かつ教育的な(didascaliques et enseignantes)」ものであり、数多くの優れた稀有な格言(sentences)で豊かにされねばならないと言う。「劇はわずかな言葉で多くを教えねばならず、人間生活の鏡だからである」[357]。同様にデュ・ベレーは詩を厳粛な格言で装飾するよう勧め、ペルティエはセネカを主に格言的(sentencieux)であるから称賛する。

ヴォークランは『フランス語詩論』においてアリストテレスの悲劇の定義を韻文化的言い換えで与える。

「しかし悲劇の主題は、ある正当かつ厳粛な行為の模倣であり、
 韻文に限定され、
 そこには恐ろしく、恐るべきものが見え、
 予期せぬ出来事、恐ろしいものがなければならない、
 また憐憫すべきものも、
 狂える虎や咆える獅子の心を柔らかくするものも」[358]。

悲劇の主題は古く、偉大な暴君と君主の没落に関わるものでなければならず[359]、幕数、舞台上の対話者数、神の機械、合唱に関しては、ヴォークランはホラティウスを単に言い換えるにすぎない[360]。喜劇は、慣行によって悪と見なされるが、救済不可能なほど悪ではない行為の模倣として定義される。たとえば若い娘を誘惑した男が結婚によって償うことができるようにである[361]。ゆえに悲劇の行為は「有徳で、壮大で、壮大、王者的で、豪華」であるが、喜劇の出来事は実際的・倫理的に下級である[362]。悲喜劇に対してヴォークランは軽蔑しか持たない。それは実際、私生児的形態であり、幸福な結末の悲劇が同様だがより尊厳ある目的を果たすからである。ヴォークランはボワローおよびその後のほとんどのフランス批評家と同様、アリストテレスの劇的認識と運命の逆転の記述を詳細に踏襲する[363]。他のほとんどのアリストテレス的区別も彼の作品に見られる。

ピエール・ド・ロードン・ダイガリエールの『フランス語詩論』(1598年刊)において、これらの区別は多少変形された形で再現される。この論文の第五巻かつ最終巻において、ロードンはイタリア学者、特にスカリゲルとヴィペラーノを踏襲する。彼は悲劇の定義、幕への分割と合唱の位置、悲劇の人物と主題、悲劇と喜劇の区別においてスカリゲルと本質的に異ならない[364]。彼の悲劇概念は通常のセネカ的理想と一致し、頻繁な格言、寓意、比喩、その他の詩の装飾で飾られねばならない。悲劇的行為が残酷で血なまぐさければあるほど優れている。しかし同時に、行為を残酷にする多くのことは舞台裏でのみ行われるべきである。ペルティエと同様、彼は寓意的な発明された人物、さらには神々や女神の導入に反対し、それらは実在の存在ではなく、ゆえに実在的・歴史的でなければならない悲劇の主題にそぐわないと考える。ロードンはまた、悲劇的行為における幽霊の導入についても述べ、彼の議論は、ほぼこの時期にイングランドでシェイクスピア劇において幽霊が重要な役割を果たしていたことを思い出すと特に興味深い。「幽霊が行為の開始前に現れるなら許される。しかし行為の進行中に現れ、俳優たち自身に語りかけるなら、完全に誤りであり非難すべきである」とロードンは言う。ロードンはスカリゲルから理想的悲劇の枠組みを借用する。「第一幕は不平を含む。第二幕は疑い。第三幕は助言。第四幕は脅威と準備。第五幕は実行と流血である」[365]。しかしスカリゲルへの従属にもかかわらず、彼は古代人からの独立を表明することを恐れない。われわれは彼らの法則に完全に縛られるわけではなく、特に舞台上の俳優の数においてそうではない。古典的慣行によれば俳優は三人を超えないが、今日ではアリストテレスとホラティウスの助言にもかかわらず、観客は一度に二、三人だけで満足する忍耐を持たないと彼は言う。

16世紀フランスにおける劇における三一致の歴史は多少の注意を要する。それらがプレイヤッドの到来から劇構成の実践に相当な影響を与えていたことは明らかである。最初のフランス悲劇、ジョデルの『クレオパトラ』(1552年)の最初の場面に、後にコルネイユが「規則の中の規則(regle des regles)」と呼ぶ時間の統一への言及がある。

「この太陽が今生まれたばかりで、
 一日を辿り叔母の家に沈む前に、
 クレオパトラは死ぬ!」

1553年ムラン・ド・サン=ジュレはトリッシーノの『ソフォニスバ』をフランス語に翻訳し、イタリア劇の影響はフランスに定着した。しかし三一致の最初の明確な定式化はジャン・ド・ラ・タイユの『悲劇の技法』(1572年)に見られる。彼の統一の言明は明確である。「歴史または劇は常に同じ日、同じ時間、同じ場所で表現せねばならない」[366]。ジャン・ド・ラ・タイユはこの統一をカステルヴェトロに負っており、彼は二年前に「悲劇的変転は一日と一つの場所しか伴うことができない」と述べていた[367]。時間の統一はほぼ同時期にロンサールによって次の言葉で採用された。

「悲劇と喜劇は短い時間、すなわち一日に限定され制限される。最も優れた技法の師たちは、作品を一つの真夜中から次の真夜中まで始め、より大きな時間的余裕を持つために日の出から日没までではなくする。一方、英雄詩は完全に武人的(tout guerrier)であり、一年全体の行為のみを含む」[368]。

この一節は疑いなくミントゥルノ(1564年)に由来する。

「最も賞賛される古代著者の作品をよく見る者は、舞台詩の素材が一日で終わるか、二日を超えないことを見出すだろう。叙事詩の行為はどれほど大きく長くても、一年を超えない」[369]。

ミントゥルノは、すでに述べたように、英雄詩の行為を一年に制限した最初の人物である。別の箇所で彼はウェルギリウスとホメロスの実践からこの規則を演繹している[370]。しかしロンサールはウェルギリウス自身がこの法則に従っていないと考える。プレイヤッドに対するミントゥルノの影響はすでに言及されている。ヴォークラン・ド・ラ・フレネはミントゥルノへの負債を明確に認め、彼を踏襲して劇の行為を一日、叙事詩の行為を一年に制限する。

「英雄詩は正しい道に従い、
 一年全体の行為を含むべきである。
 悲劇も喜劇も一日の中に
 他のものが一年で行うことを含む。
 舞台は決して
 一日を超える主題で満たされてはならない」[371]。

この一節の最後の二行は、四分の三世紀後のボワローの有名な三一致の言明にかなり似ている[372]。

16世紀末までに、時間の統一、そしてより小さい程度で場所の統一は、劇のほぼ不可侵の法則となっていた。しかしこの時期に、三一致の専制に対する強い反逆の声が聞こえ始める。これまでフランスの劇作家の模範は古典的イタリア劇であったが、不正則なスペイン劇がフランスに相当な影響を与え始め、スペインの影響とともに三一致へのスペイン的対立がもたらされた。1582年ジャン・ド・ボーブルイユは『レグルス』の序文で24時間の規則を「過度に迷信的(trop superstitieux)」と軽蔑して語った。しかしロードンはおそらくヨーロッパで初めてこの規則に正式に反対した批評家である。彼の『フランス語詩論』(1598年)の最終章は、悲劇の行為は一日で結ばれねばならないと言う者たちについてであり、ロードンはこの意見は優れた著者によって支持されたことはないと主張して始める。これは彼がアリストテレス『詩学』を直接参照したことがなく、アリストテレスの知識をイタリア人、特にスカリゲルに負っている決定的証拠である。彼が時間の統一に反対する五つの理由は次の通りである。

「第一に、古代人の誰かがこの法則を守っていたとしても、われわれの悲劇を何ら制限する必要はない。なぜならわれわれは彼らの書き方や韻律の足と音節の長さに縛られるわけではないからである。第二に、この厳格な法則を守ることを強いられたら、悲劇の美を高めるために不可能で信じがたいものを導入せざるをえず、最大の不条理に陥るか、さもなくば悲劇はすべての優雅さを欠くことになる。なぜなら素材を奪われるだけでなく、長い議論やさまざまな興味深い出来事で詩を装飾できなくなるからである。第三に、セネカの優れた悲劇『トロイアの女たち』の行為は一日で起こりえず、エウリピデスやソフォクレスのいくつかの劇もそうである。第四に、すでに与えた定義〔アリストテレスの権威による〕によれば、悲劇は英雄の生涯、王、君主、大貴族その他の運命と壮大さの叙述であり、それらは一日では達成できない。また悲劇は五幕からなり、第一幕は陽気で、以降の幕は徐々に変化を示さねばならず、その変化は一日ではもたらせない。第五に最後に、この規則を守る悲劇は守らない悲劇よりも優れているわけではなく、ギリシア・ラテン、さらにはフランスの悲劇詩人はそれを守る必要もできず守っていない。なぜなら悲劇においてしばしば王子、王、皇帝、貴族その他の生涯全体が表現されるからである――他に千もの理由を挙げられるが、第二版に残す」[373]。

次の世紀における時間の統一の歴史はここでは厳密には関係ないが、シャプランがリシュリュー枢機卿の権威に支えられてこの規則をフランスの劇理論に固定したことを指摘しておく価値がある。1630年11月付の長い手紙(最近初めて刊行された)において、シャプランは24時間の規則に対するすべての異議に答える。古代人の実践とイタリア人の普遍的同意によって支持されると彼は言うが、彼自身の証明は理性のみに基づく。それはマッジ、スカリゲル、特にカステルヴェトロに見られる古い蓋然性の議論である。1635年までに彼は三一致の全体理論を定式化し、リシュリュー枢機卿をその見解に改宗させた。前年、マレの『ソフォニスバ』、最初の「正則」フランス悲劇が上演された。1636年に有名な『シッド』論争が始まった。1640年までに戦いは勝利し、三一致はヨーロッパ全般の古典的劇理論の一部となった。数年後、アベ・ドービニャックが『劇の実際』においてその実際的適用を最も徹底的に示し、ボワローが有名な対句で永遠に定式化した。

「一つの場所、一つの日、一つの完成された行為によって
 最後まで舞台を満たすようにせよ」[374]。

III 英雄詩

プレイヤッドの至上の野心は、偉大なフランス叙事詩を生み出すことであった。新学派の最初の宣言書において、デュ・ベレーはすべてのフランス詩人に、フランスの名誉と栄光のために別の『イリアス』または『アエネイス』を作為するよう促している。ペルティエ(1555年)にとって英雄詩こそが真の詩人の称号を本当に与えるものであり、それは大洋にたとえられ、他のすべての形態は川にたとえられる[375]。彼は前年に刊行されたジラルディ・チンティオのロマンツォに関する論考を踏襲しているようであり、フランス詩人はヘラクレイデスを書くべきであり、ヘラクレスの業績こそが彼が考えうる最も雄大かつ英雄的な素材であると言う[376]。同時に彼にとってウェルギリウスは叙事詩人の模範であり、ホメロスとウェルギリウスの比較は彼の論文と同じ年に刊行されたカプリアーノの『真の詩学について』における類似の比較に驚くほど似ている[377]。カプリアーノと同様、ペルティエはホメロスの過剰な繁茂、饒舌さ、時折の不作法、ラテン詩人と比較しての雄弁さと威厳の劣位を非難する。

ロンサールの個人的野心は、抒情詩においてフランスのピンダロスと称されたように、フランスのウェルギリウスとなることだった。彼は20年にわたり『フランシアード』に取り組み、しかし完成しなかった。そのために書いた二つの序文、最初の1572年、第二の(死後刊行)1584年頃において、彼は英雄詩人の理想を表現しようとする。どちらの序文でも、彼は極めて明確または一貫した叙事詩理論体系を定式化することに成功していない。それらは主にプレイヤッドの一般的傾向を示し、ロンサール自身の修辞学的原理と、自然と自然美への感情を示す点で興味深い。彼が英雄詩を完全に武人的性格のものとし、その行為を一年の範囲に限定した一節はすでに引用されている。彼にとってもイタリア人と同様、詩の試金石は蓋然性であり事実ではないこともすでに述べた。同時に叙事詩人は時代錯誤や事実の誤りを避けるべきである。そのような誤りは物語が時代的に遠いときには読者をあまり妨げない。ゆえに詩人は常に少なくとも三、四百年前の出来事の主題を用いるべきである。作品の基礎は過去の古い物語、長い間確立された名声を持ち、人々の信用を得たものに置かれるべきである[378]。叙事詩神話の古さというこの観念はイタリア人によって早くから受け容れられていた。たとえばタッソの『詩的芸術論考』(1564年頃執筆、1587年刊、タッソがパリでロンサールを訪れた15年後)において述べられている。

ヴォークラン・ド・ラ・フレネは英雄詩に対するプレイヤッドの崇敬を持つが、その形式と機能に関するより明確な概念を示しているとは言えない。彼にとって叙事詩は広大かつ壮麗な叙述、それ自体一つの世界であり、人間、事物、思想が驚くべき鏡のように映される。

「それは世界の絵画、鏡であり、
 人間の業績をさまざまな様式で映す……
 すべての詩をその中に含む、
 悲劇的であれ喜劇的であれ、あるいは他の詩であれ」[379]。

これを1551年のムツィオの言葉と比較できる。

「至高の詩は宇宙の絵画であり、
 ゆえにその中にあらゆる文体、あらゆる形態、あらゆる肖像を含む。」

しかしフランス・ルネサンスにおける叙事詩の極めて曖昧な概念にもかかわらず、すでに述べたように、その形態とその師、ホメロス、特にウェルギリウスに対する高い崇敬があった。これが次の世紀におけるフランスでの叙事詩構成の試みの多さを説明する。しかし英雄詩に関する初期の曖昧な観念を超えて、フランスは長い間進まなかった。ボワローでさえ叙事詩は単に「長い行為の広大な叙述(vaste recit d’une longue action)」にすぎなかった[380]。

脚注

[335] 『擁護』ii. 3
[336] 同上、ii. 11
[337] ロンサール、vii. 310, 325
[338] ロンサール、vii. 37以下
[339] ロンサール、vi. 311以下
[340] 『随想録』i. 36(フロリオ訳)
[341] ロンサール、vii. 322。アリストテレス『詩学』ix. 1-4;xxv. 6, 7と比較せよ
[342] 『詩学』iii. 24
[343] 『詩人について』44, 47頁
[344] 『フランス語詩論』i. 187
[345] 同上、i. 87以下
[346] 同上、ii. 261
[347] 同上、i. 697以下
[348] 『観察』ヴィネツィア、1560年、190頁
[349] 『フランス語詩論』i. 744
[350] 同上、i. 19。シェリー『詩の擁護』42頁に引用されるタッソ「創造者の名に値するのは神と詩人のみ」と比較せよ
[351] シルヴェスター版デュ・バルタス、1641年、242頁
[352] 『フランス語詩論』i. 149
[353] シビレ『フランス語詩論』ii. 8
[354] ペルティエ『フランス語詩論』ii. 7
[355] 同上
[356] ロベール、付録iii
[357] ロンサール、iii. 18以下
[358] 『フランス語詩論』iii. 153
[359] 同上、ii. 1113, 441
[360] 同上、ii. 459
[361] 同上、iii. 143
[362] 同上、iii. 181
[363] 同上、iii. 189以下
[364] ロベール、付録iv
[365] 『フランス語詩論』v. 6
[366] ロベール、付録iii
[367] 『詩学』534頁
[368] ロンサール、iii. 19
[369] 『詩論』71頁
[370] 同上、12頁;『詩人について』149頁
[371] 『フランス語詩論』ii. 253
[372] ボワロー『詩論』iii. 45
[373] アルノー、付録iii
[374] 『詩論』iii. 45
[375] 『フランス語詩論』ii. 8
[376] 同上、i. 3
[377] 同上、i. 5。カプリアーノ、第5章と比較せよ
[378] ロンサール、iii. 23, 29
[379] ヴォークラン『フランス語詩論』i. 471, 503
[380] ボワロー『詩論』iii. 161

第三章 16世紀フランス批評における古典的要素とロマン主義的要素

プレイヤッドが掲げた原理は、ヒューマニズムと同様、古典の模倣であった。そしてプレイヤッドはこれを文学的原理としてフランスに初めて導入した。これはフランス文学に関して、第一に、自国の国民的伝統の代わりに古典的伝統を置き換えること、第二に、自然そのものの模倣の代わりに古典の模倣を置き換えることを意味する。これらの決定的な置き換えによって、デュ・ベレーは彼の学派とともに、フランス詩を国民的生活から永遠に引き離す溝を作ったと非難されてきた[381]。この非難はプレイヤッドに対してやや不公平かもしれない。彼らは詩人が直接自然に向かうことを主張し、自然景観と美への感情を最も強く強調し、職人と農民を詩の主題として初めて重要性を宣言したからである。しかし詩を国民的生活から分離したのはプレイヤッドの教説の論理的帰結であることはほとんど疑いない。古いフランス詩人と土着詩の進化を無視し、詩人を非社交的かつ禁欲的な性格の理想として定式化することによって、彼らはフランスの生活と言語の自然な傾向から自らを切り離し、詩と国民的発展の最終的分離を助けた。

I 古典的要素

フランスがフランス文学への古典的理念の導入を負うのはデュ・ベレー(1549年)である。彼は古典の模倣を文学的原理と見なし、ヴィーダの様式に従って、詩人にギリシアとラテンのすべての宝をフランス詩の利益のために奪うよう勧めた最初の人物である。さらに彼はプレイヤッドが持つ詩人の貴族的な概念を初めて定式化した。詩人は無知な民衆から逃れ、自室の孤独に埋没し、夢想し思索し、少数の読者で満足するよう勧められた。「何よりも」とデュ・ベレーは言う、「詩人は自らのすべての詩を見せられる一人または数人の学識ある友を持つべきである。彼は学識ある者だけでなく、あらゆる種類の職人、機械工、芸術家その他と会話して、彼らの芸術の専門用語を学び、美しい描写に用いるべきである」[382]。これはプレイヤッドのお気に入りの理論であり、われわれの同時代のいくつかの著者と同様、技術的芸術を重要な霊感の主題と見なした。しかしこれらの議論の底にある本質的な点は、芸術に関する俗衆の意見に対する強い軽蔑である。

『ホラティウス的クィンティリウス』(1550年)は、すでに述べたように、プレイヤッドの外国・古典的革新に対する自然な反動を表している。デュ・ベレーの助言「この詩が俗衆から遠ざかるように気をつけよ」――イタリア・ルネサンスの多くの修辞学者の主張した助言――は相当な非難を受ける。逆に『クィンティリウス』の著者は、詩人はマロがそうであったように、学識ある者も無学な者も含めてすべての人に理解され賞賛されねばならないと言う。『クィンティリウス』は実際、マルエルブとボワローが後に主張するように、詩における明快さと明瞭さを主張した最初の作品である。マルエルブとその弟子デミエ(1610年『詩的芸術アカデミー』の著者、『クィンティリウス』の影響を完全に認めている)は、『クィンティリウス』の著者と同様、すべての詩的自由、意味を曇らせる無益な隠喩、ラテン主義と外国語の語句に反対する[383]。デュ・ベレーは古典語とイタリア語の知識の重要性を強調し、フランス詩人にできる限り多くのラテン語、ギリシア語、さらにはスペイン語とイタリア語の語を帰化させるよう強く勧めた。『クィンティリウス』はこうしたすべての外国革新に対して特に激しい。詩人は外国語を知る必要は全くなく、この知識がなければ「フランス語におけるギリシア化・ラテン化・イタリア化者」たちと同様に優れた詩人になれる。この抗議はほとんど効果がなく、デュ・ベレーのイタリア語の使用に関する助言は非常によく守られたため、数年後の1578年、アンリ・エティエンヌは『新フランス語イタリア化対話』においてその慣行に激しく抗議した。ロンサールとデュ・ベレーがフランスにおける古典主義を構成する外国要素を表すとすれば、『ホラティウス的クィンティリウス』の著者はその控えめなやり方で「ガリア的精神」のいくつかの永続的要素を表していると言える。彼は国民的伝統を表し、「すべては良識に向かうべきである」というボワローの言葉と、「私は良識に賛成だ」というモリエールの率直な叫びへの道を開く。

ペルティエ(1555年)によれば、フランス詩はあまりにも口語的すぎる。古典文学に匹敵するためには、フランスの詩人たちはより大胆でより大衆的でなくなるべきである[384]。ペルティエの見解はここではプレイヤッドのそれであり、通常の散文言語とは異なる明確な詩的言語を目指した。しかし彼は詩における完全な明快さを主張する点で完全にフランス的であり、『ホラティウス的クィンティリウス』の著者と完全に一致する。「明快さは詩の第一かつ最も価値ある美徳である」と彼は言う[385]。曖昧さは詩の主要な欠陥であり、「全く話さないことと理解されないことの間に違いはないからである」[386]。これらの理由から彼はすべての不要で大仰な装飾に反対し、あらゆる種類の隠喩と比較の真の使用は「事物をそれが実際にあるように説明し表現すること」である。同様にロンサールは、適切に用いられれば詩の神経と腱である比較の価値を認めつつ、それらが完璧にし明快にする代わりに着想を曇らせ混乱させるなら、それは滑稽であると宣言する[387]。曖昧さはプレイヤッドの主要な危険であり、実際主要な欠陥であった。ロンサールとペルティエの両者がこの事実を認識したことは小さな功績ではない。

プレイヤッドは研究と芸術を詩の本質的要素と主張する点で古典的精神を示すが、後期フランス古典主義者の教説とは、詩的労苦を非社交的かつ禁欲的な性格のものと見なす限りにおいて一致しない。この点で、すでに述べたように、ロンサールは新学派の教説の真の代弁者である。しかし全体として古典的精神は彼に強く、彼は詩人の着想は高く高貴でなければならないが、幻想的であってはならないと宣言する。「それらはよく秩序づけられ配置されねばならず、俗衆のものを超えているように見えつつ、誰にでも容易に構想され理解されるように見えるべきである」[388]。ここでデュ・ベレーの詩の貴族的構想は修正され、フランス古典主義の底にある原理の非常に典型的な言明となる。またロンサールは、ヴィーダその他のイタリア批評家が以前に行ったように、偉大な古典詩人が事物を裸の名で語ることは稀であると指摘する。たとえばウェルギリウスは「夜だった」「昼だった」とは言わず、次のような迂回表現を用いる。

「翌日、ポイボスの灯火が大地を照らす」

このような迂回表現の過度な使用の不幸な結果は、後期フランス古典主義者に良く示されている。ロンサールはおそらくこの危険を予見し、迂回表現が賢明に用いられなければ文体を膨張させ大仰にすると賢明に言う。『フランシアード』の第一序文において、彼はホメロスの素朴な容易さをウェルギリウスの技巧的な勤勉さより明確に好む[389]。しかし十数年後に書かれ、弟子ビネによって死後刊行された第二序文には、ウェルギリウスへの優位性の付与において、この時期に文化のラテン化がどれほど急速に進行していたかの興味深い証拠がある。「われわれのフランス著者たちは、ホメロスや他のどのギリシア著者よりもウェルギリウスをはるかに良く知っている」とロンサールは言う。また「ウェルギリウスはすべての詩人のうち最も優れ、最も円満、最もコンパクトで最も完璧である」[390]。ホメロスの素朴な容易さについては全く聞かれない。

われわれは今や規則の時代に入りつつある。ロンサールは詩の「規則と秘儀」を軽視せず、ヴォークラン・ド・ラ・フレネは自らの批評詩を「探求された規則のこの芸術(cet Art de Regles recherchees)」と呼ぶ[391]。古典の模倣に関して、ヴォークランはプレイヤッドと心から同意し、古代人が

「われわれのためにすでに道を辿り、
 われわれが離れてはならない小道を」[392]

作ったと言う。実際、彼の詩を対称的に配置され刈り込まれた庭にたとえることほど古典的なものはない[393]。さらに、次の世紀の古典主義者と同様、彼はロンサールもそうであるように、芸術は根本的に自然を模倣し似せねばならないと断言する[394]。

古典の模倣はフランス韻律の技法とプレイヤッドの言語原理にも決定的な影響を与えた。行越し(enjambement、意味を完結させるために次の行に持ち越すこと)とヒアトゥス(行内の母音の衝突)はラテン語とギリシア語韻文で用いられていたため、新学派によってフランス詩に許された。しかしロンサールは、マルエルブの改革とフランス古典韻文の実践を予告して、ヒアトゥスと行越しを禁じ、後の作品ではこの意見を逆転する。彼はおそらく韻文における男性韻と女性韻の規則的交替の必要性を主張した最初の人物でもある。これはロンサール以前には実践でも厳格な規則でも厳密に守られていなかったが、以後フランス詩の不変の慣行となった。ロンサールはこの技法を、韻文が楽器の音楽とより調和して調子を保つ手段と見なす。プレイヤッドのお気に入りの理論の一つは、詩は読むためではなく朗読または歌うためにあり、言葉と音符が愛情深く結びつけられるべきであるということだった。声楽または器楽の伴奏なしの詩は、その調和または完璧さの小さな部分しか示さない。詩を作為するとき、詩人は常にそれを声に出して発音し、むしろ歌って、その旋律を試すべきである[395]。この「不死の韻文と結ばれた音楽」の概念は疑いなくイタリアから来ており、オペラ音楽の興隆と結びついている。ロードン(1598年)はプレイヤッドのメンバーたちと異なり、新造語やフランスの方言からの語の使用を禁じ、行越しとヒアトゥスの使用に反対する。ゆえにロードンの論文全体にプレイヤッドの影響が見られるが、ロンサールとデュ・ベレーとの多くの本質的点での不一致は、世紀末までにプレイヤッドの至上性が衰え始めていたことを示している。

新学派はまた古典的韻律をフランス詩に導入しようとした。イタリアにおける古代韻律使用の類似の試みはすでに付随的に言及されている[396]。ヴァザーリによれば、レオン・バッティスタ・アルベルティは書簡

「この極めて惨めな手紙を送る」

において、俗語韻律をラテンの長さに還元しようとした最初の人物である[397]。1441年10月、レオナルド・ダティの『友情の場面』がフィレンツェのコロナリア・アカデミーで構成・朗読された[398]。この作品の最初の二部は六歩格、第三部はサッフォー詩体、第四部はソネット形式で押韻されている。アリオストの喜劇『ネグロマンテ』と『カッサリア』の序文も古典的韻律である。しかしクラウディオ・トロメイの『トスカーナ新詩の韻律と規則』(1539年ローマ刊)は16世紀文学における画期をなした。この作品では俗語における古典的韻律の使用が擁護され、その使用規則が与えられ、次にアンニバル・カーロとトロメイ自身を含む多くの学者と詩人によるこの様式で書かれたイタリア詩の収集が続く。この学者グループは秘教的なサークル、アカデミア・デッラ・ヌオーヴァ・ポエジアを形成していた。このサークルのメンバーたちがトロメイに宛てた詩の調子から、彼は自らを、そして彼らによって、この詩的革新の創始者・解説者と見なされていたようである[399]。主にフランス宮廷で生涯を過ごしたルイジ・アラマンニは1556年に古典的韻律で書かれた喜劇『フローラ』を刊行し、二年後のフランチェスコ・パトリッツィは六歩格で書かれた英雄詩『エリダーノ』を刊行し、使用した韻律形式の擁護を付した[400]。

この学識ある革新は西ヨーロッパ全域に広がった[401]。フランスでは、15世紀末、アグリッパ・ドービニェによれば、ムッセという者が『イリアス』と『オデュッセイア』をフランス語六歩格に翻訳していたが、ムッセもその翻訳も他に知られていない。1500年頃にはミシェル・ド・ブートーヴィル、『フランス韻律術』の著者が、イングランド戦争に関する古典的対句で詩を書いた。シビレ(1548年)は古典的韻律の使用を受け容れるが、いくらか不信感を持っており、彼にとって押韻はギリシア・ラテン語の長短音節と同様にフランス詩の本質のように見えた。1562年ラミュは『文法』において古代韻律を推奨し、それが一般に好意的に受け容れられなかったことを遺憾に思う。同年ジャック・ド・ラ・タイユは『ギリシア語とラテン語のようにフランス語で詩を作る方法』を執筆したが、死後11年後の1573年まで刊行されなかった。彼の本の主な目的は、フランス韻文に量を導入することが一部の人が考えるほど難しくなく、ギリシア語とラテン語よりも難しいわけではないことを示すことだった[402]。俗語は本性上量に適さないという異議に対して、彼はデュ・ベレーの様式で、そうしたことは言語の本性からではなく、それを用いる者たちの労力と勤勉から生じると論じる。彼は俗な押韻に疲れ、パルナッソスへのより独創的で難しい道を見つけようとしている。次にフランスにおける量と長さ、足と韻文、修辞技法と詩的自由を扱う[403]。

16世紀フランスにおける古典的韻律の導入と最も密接に関連する名はジャン・アントワーヌ・ド・バイフである。このプレイヤッドの若いメンバーは、数冊の不成功な詩集を刊行した後、イタリアを訪れ、1563年にトリエント公会議に出席した。イタリアで当時用いられていた韻律革新を知り、帰国後、ジャック・ド・ラ・タイユの未刊論文を知らずに、フランス韻律の体系的改革に着手した。彼の目的は詩と音楽のより完璧な一致をもたらすことであり、これを達成するために音楽的韻律論に基づく古典的韻律を採用し、ラミュの音声改革を受け容れた。彼はまた、疑いなくアカデミア・デッラ・ヌオーヴァ・ポエジアの模倣で、1570年11月シャルル9世の特許状によって認可されたアカデミー・ド・ポエジー・エ・ド・ミュジークを設立した[404]。このアカデミーの目的はバイフとその友人たちが提唱する韻律的・音楽的革新の奨励と確立であった。シャルル9世の死により協会の存続が脅かされたが、1576年ギィ・デュ・フォール・ド・ピブラックによってより広い目的と機能を持つアカデミー・デュ・パレとして復活し、アンリ3世の保護の下で1585年頃の同盟の混乱まで存続した。しかしバイフの革新は完全に無益ではなかった。同様の運動と類似の協会は、エリザベス朝イングランドでやや遅れて見られる。

II ロマン主義的要素

プレイヤッドの批評理論におけるロマン主義的要素のいくつかはすでに示されている。新運動はデュ・ベレーの『擁護』において詩人の職分の高遠な概念から始まった。それは詩人の深い孤独な研究、洗練され禁欲的な生活、俗衆と俗衆の愉悦からの完全な分離の必要性を強調した。デュ・ベレーは「規則の伝統(traditions de regles)」に反対することを決め[405]、趣味の問題では詩人の良識で十分と見なす点でロマン主義的である。しかしその理由は、彼が受け容れるべき規則がなかったからである。フランス精神が芸術の問題において理性と規則が同一の原因から生じるという結論に到達するまでには一世紀以上を要した。

自然と自然美への感情はプレイヤッドのすべてのメンバーにおいて非常に顕著である。ペルティエは戦争、愛、農業、牧人的生活を詩の主要主題として語る[406]。彼は詩人に書物だけに頼らず自然と生活そのものを観察するよう警告し、風景、嵐、日の出、その他類似の自然景観の描写の価値を強調する[407]。自然への感情はロンサールにおいてさらに強く、ペルティエと同様、彼は詩人に川、森、山、風、海、神々と女神、日の出、夜、正午を韻文で描写するよう促す[408]。別の箇所では詩人に木、花、草、特に薬効または魔術的効能を持つもの、川、町、森、山、洞窟、岩、港、要塞の描写で作品を装飾するよう勧める。ここでイタリア・ルネサンスによって近代ヨーロッパに導入された自然美の鑑賞――広大な自然景観、遠景への感情――がフランスで初めて顕著になる。「自然の絵画またはむしろ模倣に、英雄詩の魂そのものが存する」とロンサールは言う。

ロンサールはまた、普通の言葉を詩から追放したり、あまりに避けたりしてはならないと警告する。そうすれば「素朴で自然な詩」に致命傷を与えることになるからである[409]。詩的芸術家の模範としての単純で大衆的な詩の形態へのこの同情はプレイヤッドの特徴である。モンテーニュには極めて興味深い一節があり、民衆のバラードを賞賛し、フィリップ・シドニーのパーシーとダグラスの古い歌に関する有名な言葉を思い起こさせ、二世紀後のイングランドにおける民衆詩への関心を予告するように見える。

「大衆的かつ純粋に自然で土着の詩は、ある種の生まれつきの素朴さと優雅さを持ち、芸術の規則に従って完璧に構成された詩の主要な美と好ましく比較されうる。ガスコーニュのヴィラネルや、科学はおろか文字さえ知らない国民から来る歌に見られるようにである。しかし完璧でも大衆的でもない中庸の詩は誰からも軽蔑され、名誉も報酬も受けない」[411]。

プレイヤッドは、すでに示唆したように、プラトン的な霊感の教説を無条件に受け容れた。1560年までにプラトンの対話の相当数がすでにフランス語に翻訳されていた。ドレは二つの偽作対話を翻訳し、デュヴァルは1547年に『リュシス』を、ル・ロワは1553年に『パイドン』、1559年に『饗宴』を翻訳した。1536年のラミュのテーゼはフランスに反アリストテレス的傾向を開始し、フランス・ルネサンス文学はプラトン主義に染まった[412]。それはマルグリット・ド・ナヴァールの王室的庇護を受け、1551年ラミュがコレージュ・ド・フランスの教授に任命されることによってその影響が固定された。ロンサール、ヴォークラン、デュ・バルタスはすべて詩的霊感のプラトン的理論を表明する。詩人はホラティウスが言うように自ら感じなければならず、さもなくば読者はその詩に動かされない。プレイヤッドにとって、読者または聴衆における高遠な感情の喚起が詩の試金石であった[413]。

国民的かつキリスト教的観点は、16世紀フランスにおいてイタリアほど顕著な形で表現されることはなかった。確かに国民的批評とキリスト教的批評の痕跡はあるが、散発的なものにすぎない。こうして、すでに述べたように、シビレは1548年早くもフランス的天才の特徴的特性を明確に認識していた。彼はフランス人が外国文学から国民的利益になると考えるものだけを取ったことに注目し、最近も著名なフランス批評家が同様に、フランス文学の高遠な重要性はヨーロッパの他の文学から普遍的関心事を取り、偶然の絵画的詳細を無視したことにあると主張した。この時期の劇批評に国民的観点の明確な痕跡が見られる。こうしてグレヴァンは『簡潔な論考』(1562年)において、自らの悲劇の一つで古代合唱の歌い手の代わりにシーザーの兵士の群衆を置くことを次の根拠で正当化しようとする。

「これがギリシア人とラテン人によって古代全般に守られた慣行であると主張されるなら、われわれには自らの革新を試みることは許され、特にそれが必要な場合や詩の優雅さがそれによって損なわれない場合にそうであると答える。私はよく知っているが、古代人は残酷な表現によって陰鬱になった観客を慰めるために合唱を用いたと答えられるだろう。これに対して私は、多様な国民には多様なやり方があり、フランス人の間では物語の連続性を中断することなくこれを行う他の手段があると答える」[414]。

これに対してキリスト教的観点はヴォークラン・ド・ラ・フレネに見られ、彼はロンサールとデュ・ベレーと異なり、詩における聖書的主題を好む。プレイヤッドは本質的に異教的であり、ヴォークランは本質的にキリスト教的である。近代詩における異教の神々の使用は彼にとってしばしば忌むべきものであり、時代が変わり、ミューズは異なる法則に支配されるからである。詩人はキリスト教的主題を試みるべきである。実際、ギリシア人自身がキリスト教徒であったなら、キリストの生涯と死を歌ったであろう。この一節においてヴォークランは明らかにミントゥルノを踏襲しており、後者は後にコルネイユによって踏襲される。

「もしギリシア人が君たちのようにキリスト教徒であったなら、
 彼らはイエス・キリストの高遠な業績を歌ったであろう……
 ああ、今われわれのキリスト教詩人たちが
 古代悲劇の様式を受け継ぐのを見るのはどんな喜びだろうか。
 われわれの秘儀に異教徒が
 われわれの聖人と殉教者の救済の法則の下に服従し、
 旧約聖書から適切に悲劇が抽出されるのを見るのは」[415]。

ヴォークランのここでの意見はプレイヤッドの一般的理論と一致せず、特にその提案は中世の神秘劇とモラリテ劇への回帰を意味する。デュ・バルタスの『ウラニー』はこの同じキリスト教詩の理想のもう一つのより熱烈な表現である。『週』においてデュ・バルタス自身が典型的な聖書詩を構成し、ブキャナンとベザの時代からガルニエとモンクレティエンの時代まで、フランス・ルネサンス期にキリスト教的または聖書的主題の悲劇が構成された。しかしヴォークランの理想は後期古典主義のそれではなく、ボワローはすでに述べたように、近代詩からキリスト教的主題を明確に拒否する。

プレイヤッドの言語的・韻律的理論は後期古典主義の理論と実践を部分的に予告するが、学派のメンバーたちは後にフランス詩における不変の法則として受け容れられたものからの多くの逸脱を示す。これらの逸脱のうち最も重要なものは、フランスのさまざまな地方語、外国語、技術的・機械的芸術からの語の使用に関するものである。この詩的言語理論の部分的な表現はすでにデュ・ベレーの『擁護と顕揚』に見られ、詩人に優雅な技術的地方語用語を用いるよう促している。ロンサールはほぼ同じ助言を与える。フランスのすべての地方語の最良の語を詩人は用いるべきである。ギリシア語とその文学の至上の美はギリシアの方言の数に帰せられるであろうからである。詩人は宮廷の言語をあまりに模倣してはならない。それはしばしば非常に悪く、良く話すことよりも良く戦うことを職業とする貴婦人と若紳士の言語だからである[416]。マルエルブとその学派とは異なり、ロンサールは詩的自由をある程度許すが、稀に賢明にのみである。彼は詩的自由によって、詩人たちが神聖な陶酔において文法の法則を解放し、作品を豊かにしたほぼすべての美しい修辞技法が生まれたと言う。「これはわれわれの偉大な先祖たち、ホメロスからベンに至るまで受け継がれた生まれつきの権利である。それをわれわれに否定する者は、平たく言えば、狐が葡萄に持つ不満――彼らはそれに届かない――である」とドライデンは一世紀後、『無垢の状態と人間の堕落』の序文で言った。ヴォークラン・ド・ラ・フレネはロンサールとデュ・ベレーを踏襲して、新語と地方語の使用、機械的芸術からの語と比較の使用、その他プレイヤッドをマルエルブ学派と区別するさまざまな教説を促す。これらの無益な言語的革新がどのように抑制され、フランス語から永遠に追放されたかは次の章で簡単に言及する。

脚注

[381] ブリュネティエール、i. 45
[382] 『擁護』ii. 11
[383] リュクテシェル、10以下と比較せよ
[384] 『フランス語詩論』i. 3
[385] 同上、i. 9
[386] 同上、i. 10
[387] ロンサール、iii. 26以下
[388] 同上、vii. 323
[389] ロンサール、iii. 9以下
[390] 同上、iii. 23, 26
[391] 『フランス語詩論』iii. 1151
[392] 同上、i. 61
[393] 同上、i. 22以下
[394] 同上、i. 813。ロンサール、ii. 12と比較せよ
[395] ロンサール、vii. 320, 332
[396] 15・16世紀の古典的韻律で書かれた初期イタリア詩はカルドゥッチ『15・16世紀の野蛮詩』ボローニャ、1881年に収集されている
[397] カルドゥッチ、2頁
[398] 同上、6以下
[399] カルドゥッチ、55頁、87頁など
[400] 同上、327頁、443頁。デュ・ベレー『擁護』ii. 7と比較せよ
[401] フランスにおける古典的韻律の歴史については、エッガー『フランスにおけるヘレニズム』290以下、およびダルメステテールとハッツフェルト『フランス16世紀』113以下を参照
[402] エティエンヌ・パスキエは『フランス探究』vii. 11において、フランス語は韻文に量を用いることが可能であることを証明しようとするが、量か押韻韻文かを好むかは決めない
[403] リュクテシェル、24以下、およびカルドゥッチ、413以下と比較せよ
[404] このアカデミーはE・フレミー『最後のヴァロワのアカデミー』パリ、n.d. の優れた研究の主題となっている。協会の定款はこの作品の39頁、シャルル9世が与えた特許状は48頁にある
[405] 『擁護』ii. 11
[406] 『フランス語詩論』i. 3
[407] 同上、ii. 10;i. 9
[408] ロンサール、vii. 321, 324
[409] 同上、iii. 17以下
[410] シドニー『詩の擁護』29頁
[411] 『随想録』i. 54
[412] 『フランス文学史雑誌』1896年、iii. 1以下と比較せよ
[413] ロンサール、iii. 28;デュ・ベレー『擁護』ii. 11
[414] アルノー、付録ii
[415] ヴォークラン『フランス語詩論』iii. 845;同上、iii. 33;i. 901と比較せよ
[416] ロンサール、vii. 322

第四章 17世紀における古典的理想の形成

I ロマン主義的反乱

1600年から1630年の間に、フランス文学の国民的進化に断絶があったことはよく知られている。これは特に劇において顕著であり、フランスにおいて劇は世紀と世紀をつなぐ環である。16世紀の劇作品は、イタリア人がセネカから借用した正則な模範に従って形成されていた。起こった変化は、イタリアの古典的モデルからスペインのロマンティックなモデルへの変化であった。反逆の音色はすでにグレヴァン、ロードンその他に聞こえ始めていた。17世紀はアルディの不正則な劇『テアジェーヌとカリクレの恋』(1601年)の上演によって始まり、25年以上にわたり支配的であったスペインのロマンティック劇とイタリアの牧歌劇の影響がフランスで始まった。

この革新の論理はスペインで最もよく展開され、ロマンティックで不正則な劇を擁護する議論が最初に定式化されたのもそこである。スペイン国民劇の最も興味深い擁護は、フアン・デ・ラ・クエヴァの『詩的模範』(1606年)とロペ・デ・ヴェガの『喜劇作りの新芸術』(1609年)であろう。彼らの霊感は底の底で同じである。両著者は心では古典主義者、あるいは理論上は古典主義者であったが、違いがあった。フアン・デ・ラ・クエヴァの詩の概念は、国民劇に関する点を除けば完全にイタリア人の訓戒に基づいている。そこでは彼は党派であり愛国者である。彼は時代と状況の違いがスペインの劇作家を古代人を模倣しまたはその規則に従うすべての必要性から解放すると主張する。「劇におけるこの変化は、賢人たちによって行われ、彼らは新しい状況に最も適し有益と見なした新しいものを適用した。われわれはさまざまな意見、時代、風俗を考慮し、われわれの行動を変え多様化する必要があるからである」と彼は言う[417]。彼の劇の理論は他の詩の形態に関する概念と完全に反対であった。最近の著者が述べたように、この立場によれば「劇は自然を模倣し、喜ばせるべきであり、詩はイタリア人を模倣し、正統だが細かい批評家を満足させるべきである」[418]。

3年後に書いたロペ・デ・ヴェガは、アリストテレス的規準の普遍的適用性を否定せず、むしろそれらが唯一の真の規則であることを認める。しかし民衆はロマンティックな劇を求め、民衆ではなく詩人の文学的良心を満足させるべきである。「私自身は、群衆の拍手を唯一の目的とする者たちが発明した芸術に従って喜劇を書く。結局、民衆がこれらの愚かさに金を払う以上、なぜ民衆が望むものを提供しないのか」と彼は言う[419]。

スペイン国民劇の理論の最も興味深い説明の一つは、1618年にフランスで、あるいは偽のフランス印でスペインで刊行されたアルフォンソ・サンチェスのロペ・デ・ヴェガの劇の擁護である。サンチェスの弁護は六つの明確な命題に要約される。第一に、芸術は自然に基礎を持つ。第二に、賢く学識ある人間は既存の芸術に多くのものを変更しうる。第三に、自然は法則に従わず、法則を与える。第四に、ロペ・デ・ヴェガは新しい芸術を創造して正しい。第五に、彼の著作においてすべては芸術に調整され、それは真実かつ生き生きとした芸術である。最後に、ロペ・デ・ヴェガはすべての古代詩人を凌駕した[420]。この論文から次の引用を抜粋するだけでも、二世紀後のフランス・ロマン主義者の教説にどれほど新規性が少なかったかを示す。

「われわれには訓戒を調整する不変の芸術がないと言われるのか。しかし誰がそれを疑うのか。われわれには芸術があり、われわれを縛る訓戒と規則がある。主要な訓戒は自然を模倣することであり、詩人の作品は彼らが書く時代の自然、風俗、天才を表現する……。ロペ・デ・ヴェガは自然に従うから芸術に従って書く。逆に、スペイン劇が古代人の規則と法則に調整されたら、自然の要求と詩の基礎に反する……。偉大なロペは古代人の法則を超えたことをしたが、決してそれらに反したことはない」。

もう一人のスペイン著者は芸術を「経験によって等級づけられた例の注意深い観察であり、方法と法則の威厳に還元されたもの」と定義する[421]。

この詩的芸術、特に劇の自然主義的構想こそが、17世紀最初の30年間にフランスで支配的であった。フランスの劇作家たちは実践においてスペイン劇を模倣し、スペインの理論家たちから自作の批評的正当化を導いたようである。アルディ自身はロペ・デ・ヴェガと同様、「慣行と大衆の趣味によって承認されるものはすべて正当であり、それ以上正当である」と論じる。この時期のもう一人の著者フランソワ・オジエは、ジャン・ド・シェランドルの注目すべき劇『ティールとシドン』(1628年)の第二版序文において、ジラルディ・チンティオ、ピーニャ、その他のロマンツォの党派が四分の三世紀前に行ったのとほぼ同じ方法で、古代人からの知的独立を論じる。各国民の趣味は他のどの国民とも全く異なる、と彼は言う。「ギリシア人はギリシア人のために書き、当時の最良の人間の判断において成功した。しかしわれわれは自国の趣味と言語の天才に注意を払うことによって彼らをはるかに良く模倣するだろう。彼らの意図と表現を一歩一歩追うことを強いるよりも」。

これはゴーテの有名な言葉「ギリシア人を最良に模倣するのは、彼らのようになることである」の底にあるものである。これらの初期批評家すべてに、通常われわれの世紀の発見と見なされる歴史的批評の痕跡があることは注目すべきである。しかし結局、フランスもスペインの劇作家も、イタリアの劇作家たちが序文で、イタリアのいくつかの批評家が論文で、ほぼ一世紀にわたり説いていたことを実践し始めたにすぎなかった。

アベ・ドービニャックはアルディを「フランス劇の進歩を止めた」と語るが、フランス劇が彼に負う実際的改善が何であれ、彼とその学派の努力によって古典劇の進化が一定期間部分的に止まったことはほとんど疑いない。しかしこの時期に、来たるべき偉大な文学の基礎が古典的路線で築かれていた。1630年以降の古典的伝統の継続は三つの明確な原因によるものであり、それぞれをできる限り簡潔に論じる。これら三つの原因は、プレイヤッドに対する反動、イタリア・ルネサンスの批評思想の第二の流入、この時期の合理主義的哲学の影響である。

II プレイヤッドに対する反動

プレイヤッドに対する反動は、マルエルブによって、少なくとも始められた。マルエルブの詩人としての力またはメッセージはここでは問題ではない。文法家・批評家としての役割において、彼はフランス詩に重要かつ広範な改革を達成した。これらの改革は主に、もし完全にではないなら、詩の外部的または形式的な側面に関わるものであった。彼の仕事は文法家、韻律学者の――一言で言えば純粋主義者の仕事であった。彼は確かに生涯に批評作品を刊行せず、批評体系を定式化しなかった。しかしそのため彼の実行した改革の影響力や永続性は小さくなかった。彼の批評的態度は、弟子ラカンの生涯記と、彼自身の『デポルト註釈』に見られるべきであり、後者は最近になって完全に刊行された[422]。この註釈は1606年頃マルエルブがデポルトの写本の余白に書いた一連の写本注からなり、最も断片的であり、弱い、誤解、余計、無判断、愚かさ、悪く想像されたなどの一、二語の非難を超えることは稀である。しかしラカンの生涯記に記録された彼の散発的発言とともに、彼の批評的態度と彼がもたらそうとした改革をかなり明確に示している。

これらの改革は第一に、主に言語的であった。プレイヤッドは古典語、イタリア語、さらにはスペイン語、地方方言、古いロマンス、機械的芸術の用語の導入によってフランス文学における詩的表現の範囲を広げようとした。これらの古語、新造語、ラテン主義、複合語、方言的・技術的表現を、マルエルブはフランス語から根絶しようとした。彼の目的はフランス語を浄化し、あたかも中央集権化するかのようにすることであった。彼が設定した試金石は実際の使用であり、それさえ宮廷の使用にまで狭められた。ロンサールは詩における宮廷言葉の独占的使用を非難し、宮廷人は良く話すことや書くことよりも良く戦うことを職業としているからとした。しかしマルエルブの理想はフランス古典主義の理想――ボワロー、ラシーヌ、ボシュエの理想――であった。フランス語はもはや雑多なものやパトワではなく、王とその宮廷の純粋で完璧な言葉となるべきであった。プレイヤッドに対する反動でありながら、マルエルブはマロの言語的使用への回帰を主張せず、彼の試金石は現在の使用、彼の模範は生きている言語であった[423]。同時に彼の言語改革は、他の点と同様、外国革新に対する反動と純粋なフランス語への回帰を表す。それは国民的伝統の利益にあり、これが新古典主義理論と実践における彼の国民的要素である。彼の改革はすべて、フランスの本性に生まれつきある言葉的・機械的完璧さへの愛、フランス古典主義における土着的または人種的要素の方向にあった。彼はフランス韻文からヒアトゥス、行越し、倒置、偽りで不完全な押韻、あらゆる種類の自由または不協和音を排除した。彼はそれに、言われたように、機械的完璧さを与えた。

「そしてミューズを義務の規則に還元した」

このような人間――バルザックが呼んだように「言葉と音節の暴君」――にとって、詩の高次の性質はほとんど意味を持たなかった。彼の理想は適切さ、明快さ、正則さ、力であった。これらは、シャプランが当時認識したように、雄弁的というより純粋に詩的性質である。しかしこれらのために、偉大な詩人を構成するすべての真の性質が犠牲にされた。想像力と詩的感受性は全く考慮されない。韻文の言葉的完璧さの後、詩の論理的統一が彼の主要な関心であった。論理と理性は疑いなく重要なものであるが、詩において想像力を排除して存在しえない。霊感を排除することによって、マルエルブは古典主義期を通じてフランスにおける抒情詩的産出の可能性を排除した。彼は詩的虚構を嫌い、彼にとって、ボワローと同様、実際の現実のみが美しいからである。彼が神話的形象の使用を許したのは、それらが合理的で普遍的に理解可能な象徴だからである。フランス精神は本質的に合理的かつ論理的であり、マルエルブはフランス詩にこの土着的合理性を再導入した。彼は常識を詩的理想とし、詩を平均的知性に理解可能にした。プレイヤッドは学識ある文学的サークルのために書いた。マルエルブは学識ある者も無学な者も同様に書いた。プレイヤッドにとって詩は神聖な職分、預言的霊感の問題であった。マルエルブにとって、それは他のどの職業とも同様に学ぶべき技術、職であった。デュ・ベレーは「最も学識ある者たちによれば、自然な才能が学問なしで詩において学問が自然な才能なしでするよりも多くを達成できることはよく認められた事実である」と言った。マルエルブは、巧みに言われたように、逆の教説「学問が自然な才能なしで自然な才能が学問なしでするよりも多くを達成できる」を支持したであろう[424]。結局、雄弁がマルエルブの理想であり、フランス人が本性上詩的というより雄弁的な国民であるから、彼は彼らに真の遺産を取り戻す方法を最初に示したという名誉に値する。一言で言えば、彼はフランスにおける古典詩のために、国民的本能、ガリア的精神が単独で達成できるすべてのことを達成した。より大きな詩的形態のための整合的構造法則を与えることはできなかった。それはフランスがイタリアに負うものである。また抽象的完璧さの高遠な観念、または絶対的趣味基準の古典的構想――いくつかの表現またはいくつかのやり方の中で、一つだけが正しい――を評価することもできなかった。これはフランスが合理主義的哲学に負うものである。マルエルブはモンテーニュを反響しているように見える手紙でバルザックに言う。

「意見の多様性が人間の顔の違いと同様に自然であり、われわれを喜ばせまたは不快にするものがすべての人を喜ばせまたは不快にすべきであると望むことは、神がその全能においてわれわれに止まるよう命じた限界を超えることではないことを知らないのか」[425]。

意見と趣味の問題に関するこの個人主義的表現を、古典的理想からマルエルブがどれほど遠いかを示すために、ラ・ブリュイエールの次の引用と比較するだけで十分である。

「芸術には完璧さの一点があり、自然には優秀さまたは成熟の一点がある。それを感じそれに愛着を持つ者は完璧な趣味を持ち、それを感じずこれまたはそれの側を愛する者は欠陥ある趣味を持つ。ゆえに善き趣味と悪しき趣味があり、趣味について論争するのは理由なくではない」[426]。

III イタリア思想の第二の流入

イタリア批評思想のフランスへの第二の流入は二つの経路を通じた。第一に、この時期のイタリアとフランスの直接的文学関係は極めて顕著であった。長くパリに住み多くの作品をそこで刊行したマリーノの影響は、特にフランスのコンセティストとプレシューに無視しがたいものであった。二人のイタリア人女性が有名なランブイエ邸を創設し主宰した――ジュリー・サヴェッリ、ピザーニ侯爵夫人とカトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ、ランブイエ侯爵夫人である。フランス・アカデミーの創設は部分的にクルスカ・アカデミーの影響によるものである。シャプランとメナージュは両方ともイタリア協会の会員であり、ペトラルカの詩句に関するそれぞれの意見を提出した。クルスカ・アカデミーと同様、フランス・アカデミーは偉大な辞書の準備を目的とし、それぞれが文学の偉大な作品を攻撃することによって存在を始めた。イタリア協会は『解放されたエルサレム』を、フランスはコルネイユの『シッド』をである。マリー・ド・メディチの摂政、マザランの至上、その他の政治的事件はすべて、イタリアとフランスを最も密接な社会的・文学的関係に導いた。

しかしフランス文学にイタリアの原始的批評概念を最初に導入し帰化させたのはシャプランとバルザックである。シャプランの私的書簡は彼がイタリア批評文献にどれほど精通していたかを示す。「私はイタリア語に特別な愛着を持つ」と1639年バルザックに書いている[427]。『シッド』について「イタリアでは野蛮と見なされ、その管轄外に追放しないアカデミーはない」と言う[428]。ロンサールの偉大さについて「アルプスを越えた二人の偉大な学者、スペローニとカステルヴェトロの意見と一致する」と言う[429]。彼は前世紀のカーロとカステルヴェトロの論争についてバルザックと相当な書簡を交わした。一言で言えば、彼はイタリアの批評家と学者を知り研究し、それらを議論することに興味を持っていた。一方バルザックの関心はむしろスペイン文学に向けられていたが、彼はローマでヴァレット枢機卿の代理人であり、フランスに帰国して最初の書簡集を刊行した。シャプランとバルザックの両方がフランス古典主義に与えた影響は相当なものであった。16世紀には文芸批評は完全に学識ある者たちの手にあった。シャプランとバルザックはイタリア・ルネサンスの批評思想を大衆化し、人間的だが不変のものにした。バルザックはフランスにイタリア人の洗練された批評感覚を導入し、シャプランは彼らの形式的な規則を導入し、フランス悲劇に三一致を課した。彼らは共同で古典的理想を人間化しつつ、規則に従属させた。

同じイタリア影響に、この時期に現れた多数の人工的叙事詩をフランスが負っている。1650年から1665年の15年間に約10の叙事詩が刊行された[430]。16世紀のイタリア人は人工的叙事詩の固定理論を定式化し、西ヨーロッパの諸国民はこれを実際的に用いることを競った。これが16世紀のスペイン叙事詩の多数と17世紀のフランス叙事詩の多数に帰せられる。これらの後者にはスクデリの『アラリック』、ルモワーヌの『聖ルイ』、サン=タマンの『救われたモーセ』、シャプラン自身の叙事詩『ラ・ピュセル』(一般に長年待たれ、ボワローによって永遠に葬られた)が含まれる。

これらの叙事詩のすべての序文はイタリア人への負債を十分に示している。それらは実際、イタリア・ルネサンスの規則と訓戒を実践に移す試みにすぎなかった。「私はこの芸術の師たち、すなわちアリストテレスとホラティウス、そしてその後にマクロビウス、スカリゲル、タッソ、カステルヴェトロ、ピッコロミーニ、ヴィーダ、ヴォッシウス、ロボルテッリ、リッコボーニ、パオロ・ベーニ、マンブランその他を参照した。そして理論から実践に移り、『イリアス』と『オデュッセイア』、『アエネイス』、『パルサリア』、『テーバイド』、『狂えるオルランド』、『解放されたエルサレム』、その他多くの言語の叙事詩を注意深く再読した」とスクデリは『アラリック』の序文で言う。同様にサン=タマンは『救われたモーセ』の序文で「行為と場所の統一を厳格に守った。それは叙事詩の主要な要件である。さらに全く新しい方法で、私の主題を劇詩の限界である24時間だけでなく、その半分以内に制限した。これはアリストテレス、ホラティウス、スカリゲル、カステルヴェトロ、ピッコロミーニ、その他の近代人が要求した以上のことである」と言う。これらの叙事詩作者にとって、イタリア人の規則と訓戒が英雄詩の最終的試金石であったことは明らかである。同様にアベ・ドービニャックは『劇の実際』の冒頭で、劇詩人に「アリストテレス、ホラティウス、カステルヴェトロ、ヴィーダ、ハインシウス、ヴォッシウス、スカリゲルのうち一言も失ってはならない」と勧める。詩全般の理論も、古典主義期を通じてドービニャック、ラ・メナールディエール、コルネイユ、ボワローその他によって展開されたが、それもイタリアから来ており、ラパンが『詩論に関する省察』の冒頭で批評の歴史を辿る際、イタリア人以外の批評家をほとんど扱わないことは繰り返すまでもない。

イタリア批評家の直接的影響以外に、フランス古典主義がイタリア・ルネサンスに負う批評思想の総和に寄与したもう一つの影響があった。それはスカリゲルの伝統であり、オランダの学者ハインシウスとヴォッシウスによって継承された。ダニエル・ハインシウスは『詩学』の著者の著名な息子ヨーゼフ・スカリゲルの弟子であり、ハインシウスを通じて年長スカリゲルの劇的理論がフランスの古典悲劇に影響を与えた。ハインシウスの論文『悲劇の構成について』(1611年ライデン刊)はシャプランによって「アリストテレス『詩学』の精髄」と呼ばれ、シャプランはハインシウス自身を「批評の問題における預言者または巫女」と呼んだ[431]。ラシーヌが注釈し、コルネイユが不変の権威として引用したハインシウスの作品は、スカリゲルの法則をそれに固定することによってフランス悲劇に顕著な影響を与え、後にはヴォッシウスの作品がハインシウスのものと協力してイタリア影響の範囲を広げた。ゆえにフランス文学はすでに16世紀にイタリア・ルネサンスから古代への敬意と古典神話への賞賛を受け取っていたが、17世紀はイタリアに詩の理論の決定的概念、特に悲劇と叙事詩のための一定の厳格な構造法則を負っている。コルネイユとドービニャックの劇詩に関する作品、ル・ボシューとマンブランの叙事詩に関する作品に本質的な着想または訓戒で、イタリア・ルネサンスの批評著作に見出せないものはないと言って過言ではない。

IV 合理主義的哲学の影響

合理主義的哲学が古典主義の一般的態度に及ぼした影響は、ルネサンスがフランスに与えたすべてのものの徐々な合理化と呼べるものに現れた。このようにして行われた過程は、フランスがイタリアに負う規則の進化において最も明確に示される。イタリア人の規則と訓戒が当初権威のみに基づいていたが、徐々に古代の権威とは無関係に一般的な意義を獲得したことはすでに示した。やや遅れてイングランドにおいて、ベン・ジョンソンはアリストテレス的規準を、アリストテレスが事物の原因を理解し、他の者が偶然または慣習で行ったことをアリストテレスは理性のみで行ったという根拠で擁護した[432]。この時期までにアリストテレス的規準の合理性は明確に感じられていたが、それらは依然としてそれ自体に権威を持つと見なされていた。17世紀フランス古典主義者において初めて、理性と古代の規則が一つかつ不可分と見なされた。

合理主義は実際、ルネサンスの批評活動の最初から見られる。すでに引用したヴィーダの言葉「常に理性の頷きによって物事が進むようにせよ」は、ルネサンス精神の文学に対する態度を部分的に表している。しかし初期理論家の「理性」は単なる経験的かつ個人的なものであり、ホラティウスの「良識」の理想と本質的に異ならなかった。実際、合理主義とヒューマニズムはルネサンス全期間に共存したが、ほとんど調和されなかった。極端な合理主義は一般にアリストテレスへの公然の敵対の形態を取った。文学の法則の完全な合理化は17世紀中頃になって初めて明らかになる。「劇の規則は権威ではなく理性に基づく」とアベ・ドービニャックは『劇の実際』の冒頭で言い、それらが古代人の規則と呼ばれるのは単に「古代人がそれを驚くべき実践したから」である。同様にコルネイユは『三一致論』において、時間の統一はアリストテレス『詩学』によってのみ要求されるなら恣意的かつ専制的であるが、その真の支柱は自然な理性であると言う。ボワローは古典主義の最終的態度を次の言葉で要約する。

「ゆえに理性を愛せよ。常に君の著作が
 それのみから輝きと価値を借りるようにせよ」[433]。

ここで合理化の過程は完成し、権威の実際的要求は理性の命令と同一となる。

ボワローが展開した規則は大部分イタリア人が宣布したものと同じであるが、もはや単なる規則ではない。それらは抽象的かつ普遍的理性によって命じられた法則であり、ゆえに必然的かつ不変である。それらは専制的または恣意的ではなく、人間精神の本性そのものによってわれわれに課せられるものである。これは、すでに述べたように、ホラティウスのような批評家の良き本性と良識、一言で言えば甘美な合理性ではない[434]。17世紀古典主義者にはそれ以上のものがある。良識は普遍化され、実際、言われたように、単なる経験的良識の観念ではなく、抽象的かつ普遍的理性そのものとなる。これから古典主義の底にある絶対的趣味基準が生じ、すでに引用したラ・ブリュイエールの一節や、ボワローの次の一行に示される。

「理性が歩むにはしばしばただ一つの道しかない」[435]。

詩のルネサンス規則のこの合理化は同時代の哲学によって行われた。デカルト自身の作品と教説ではなくとも、この時期の人間精神の一般的傾向によってであり、これらの作品と教説はその最も完璧な表現である。ボワローの『詩論』は適切にフランス詩の『方法序説』と呼ばれた。ゆえにマルエルブとその学派が古典主義に明快さ、適切さ、言葉的・韻律的完璧さを主張することに寄与し、イタリア・ルネサンスが古典古代への敬意と一定の固定された規則の課与に寄与した一方、同時代哲学の寄与はこれらの規則の合理化または普遍化と、抽象的かつ絶対的趣味基準の課与にあった。

しかしデカルト主義は重要な制限と欠陥をもたらした。ボワロー自身が「デカルトの哲学は詩の喉を切った」と言ったと伝えられる[436]。これは確かに避けられないある真理の誇張された表現である。理性への過度な主張は想像力の相応する過小評価をもたらした。デカルト主義の合理的かつ厳格に科学的な基礎が古典主義に強制され、現実はその至上の対象と最終的試金石となった。

「真実でないものは美しくない」。

古典主義にその起源と成長の本性そのものによって課せられたさまざまな不利についてはすでに言及したが、最も決定的な不利はデカルト哲学または哲学的気質の影響であった。文学に課せられたこの科学的基礎によって、その絶滅に対する唯一の防波堤は、文学が逸脱することを許さず、哲学のより広い根拠で正当化しようとした一定の固定された規則の広大な影響であった。これらの規則、すなわちイタリアの寄与が、古典主義期を通じてフランスにおける詩の絶滅から救った。17世紀と18世紀の合理主義がフランスで克服されるまで、フランス文学はこのルネサンス規則の体系から自らを解放しなかったという事実が、これの注目すべき確認である。デカルト主義、または少なくとも合理主義的精神はこれらの規則を人間化し、ヨーロッパの残りに課した。しかし本質化されても、それらは人工的であり、フランス想像力の働きを一世紀以上にわたり制限した。

脚注

[417] セダーノ『スペイン・パルナッソス』viii. 61
[418] ハネイ『後期ルネサンス』1898年、39頁
[419] メネンデス・イ・ペラヨ、iii. 434
[420] 同上、iii. 447以下
[421] 同上、iii. 464
[422] 『註釈』はラランヌ校訂マルエルブ、パリ、1862年、iv巻に完全収録。マルエルブの批評教説はブリュノ『マルエルブ教説』105-236頁に定式化されている
[423] ホラティウス『詩論』71-72と比較せよ
[424] ブリュノ、149頁
[425] 『著作集』ラランヌ校訂、iv. 91
[426] 『人さまざま』「精神の作品について」
[427] 『書簡』i. 413(タミゼイ・ド・ラローク校訂、パリ、1880-1883年)
[428] 同上、i. 156
[429] 同上、i. 631以下
[430] これらの叙事詩はデュシェーヌ『17世紀フランス叙事詩史』パリ、1870年に詳細に扱われている
[431] 『書簡』i. 269, 424。ハインシウスの理論についてはツェルプスト『レッシングの先駆者としてのアリストテレス解釈』イェーナ、1887年を参照
[432] 『発見』80頁
[433] 『詩論』i. 37
[434] ブリュネティエール『批評研究』iv. 136、およびクランツ、93以下と比較せよ
[435] 『詩論』i. 48
[436] J・B・ルソー、1715年7月21日ブロセットへの手紙で報告

第三部 イングランドにおける文芸批評

第一章 アスカムからミルトンまでのイングランド批評の進化

エリザベス朝におけるイングランドの文芸批評は、同時代のイタリアやフランスの批評ほど影響力も豊かで多様でもなかった。この事実は、英語圏の人々の関心や愛国心に影響を与えるには不十分かもしれないが、この時期の最も魅力的な批評的記念碑であるシドニーの『詩の擁護』が、最新のイングランド詩史家によって軽視されている。ゆえにエリザベス朝批評が持つ関心と重要性は歴史的性質のものであり、二つの明確な方向にある。第一に、この時期の文学の研究は、ルネサンス期に多少なりとも完全な批評教説体系が存在しただけでなく、イングランド人も大陸の隣人たちと同様に真にルネサンスの創造または遺産を共有していたことを示すだろう。第二に、この研究はそれ自体に関心を持ち、イングランドにおける古典主義の成長を理解可能にし、フランス影響の導入以前に古典的理想の形成が始まっていたことを示すだろう。しかしどちらの場合も、初期イングランド批評をルネサンス教説の一般体系から完全に切り離して考えることはできない。その研究は、フランス、特にイタリアの批評文献の考察から切り離されるほど重要性と明瞭さを失う。

16世紀と17世紀のイングランド批評は、五つの多少なりとも明確な発展段階を通過した。第一段階は、純粋に修辞学的文学研究によって特徴づけられ、レオナルド・コックスの『修辞学の技法または技術』(1524年頃、主にメランヒトンの修辞学論考の一つから編纂された若者向け手引書)から始まるといえる。これにウィルソンの『修辞学の技法』(1553年)が続き、コックスの手引書よりも広範かつ確かに独創的であり、ウォートンによって「われわれの言語における最初の書物または批評体系」と呼ばれた。しかしこの時期の最も重要な人物はロジャー・アスカムである。1563年から1568年に書かれた『学校の師』で展開された教育体系は、主に友人であるストラスブールのヒューマニスト、ヨハネス・シュトゥルムと、パドヴァ大学でギリシア語講師であった師ジョン・チェクに負っている。しかしこの作品の批評的部分は、イタリア人の修辞学論考に直接負っているようである[438]。しかしイタリア・ヒューマニストへの負債は、当時の想像文学に影響を与えたロマンティックなイタリア精神に対する彼の厳しく不屈の敵対を妨げなかった。初期イングランド文学を研究する際、常に心に留めておかねばならないのは、イタリア・ルネサンスがエリザベス朝に二つの異なる方向で影響を与えたことである。イングランド詩のイタリア化は、1557年のトッテルの『雑詩集』の刊行によって、少なくとも始まった。イングランド文学の創作面において、イタリア影響は明確にロマンティックであった。一方、イタリア・ヒューマニストの影響はこのロマンティック精神に直接反対した。彼ら自身の国でさえ、彼らは古典的傾向でないすべてのものに敵対した。ゆえにヒューマニズム教育の結果として、アスカムは最初のイングランド文人であるだけでなく、最初のイングランド古典主義者となった。

ゆえにイングランド批評の第一段階は完全に修辞学研究に充てられた。この時期にイングランド著者たちは初めて形式と文体を文学の特徴として評価するに至り、イングランド散文文体の形成に負うところがあった。この時期はゆえに15世紀イタリア・ヒューマニズムの後期段階と比較でき、後期ヒューマニストたちがこれらの初期イングランド修辞学者の師であり模範であった。ガブリエル・ハーヴェイはベンボ学派のキケロ主義者として、おそらく彼らの最後の代表者であった。

イングランド批評の第二段階――分類と特に韻律研究の時期――は、ガスコインの『詩作に関する指示の注』(1575年刊、明らかにロンサールの『フランス語詩論摘要』(1565年)を模倣したもの)から始まる。この簡潔な小冊子、イングランド韻律に関する最初の作品以外に、この段階にはプッテナムの『イングランド詩の技法』(詩的形態と主題、修辞技法の最初の体系的分類)、ブロカーの『簡潔文法』(イングランド文法に関する最初の体系的論文)、ハーヴェイの『書簡』とウェッブの『イングランド詩論』(イングランド詩への古典的韻律導入の最初の体系的試み)も含まれる。この時期は言語と韻律の実践的問題の研究と分類によって特徴づけられ、この労苦においてアスカムが対抗しようとしていた傾向と協力していた。イタリアからイングランドに導入された韻律形式の研究は、イングランド詩の外部的側面を物質的に完璧にするのに役立ち、トロメイ学派が示唆した量韻文の粗雑な試みも同様の結果を得た。イタリアの韻律学者たちはこうして、この時代のイングランド学生の直接的または間接的師であった。

第三段階――哲学的かつ弁護的批評の時期――の代表的作品は、フィリップ・シドニー卿の『詩の擁護』(1595年死後刊行、おそらく1583年頃執筆)である。ハリントンの『詩の弁護』、ダニエルの『押韻の擁護』その他数冊も同時代の論文である。これらの作品は題名が示すようにすべて擁護または弁護であり、清教徒による詩、特に劇詩への攻撃と、古典主義者によるイングランド韻律と押韻への攻撃によって呼び起こされた。当時の必要性によって詩全般を擁護することを強いられたこれらの著者たちは、地元的または一時的な根拠で行うことを試みず、批評の根本的根拠を検討し、詩の基本原理を定式化しようとした。この試みにおいて彼らは意識的または無意識的にイタリア批評家の助けを求め、イングランドにおけるイタリア詩論の影響が始まった。彼らのイタリア人への負債がどれほど大きかったかは、本研究の進行で多少明らかになるだろう。しかしこの負債がこれまで指摘されていないことは確かに注目すべきである。シドニーの『詩の擁護』について、ルネサンスに関する最も著名なイングランド権威の一人は「イタリア人が最近詩の理論について多くを書いていたが、この弁護の素材を提供したり方法を提案したりしたと言える論文を私は思い出せない」と言う[440]。逆に、シドニーが論じた教説は半世紀以上イタリア人によって非常に類似した扱いを受けていた。『詩の擁護』に本質的な原理で、イタリアの詩的芸術に関する論文に遡れないものはないと言って過言ではない。シドニーが主要な代表者である時代はゆえにイタリア批評家の影響の最初の時期である。

第四段階、ベン・ジョンソンがいわば主宰する精神である時期は、17世紀前半を占める。それ以前の時期は一般的傾向においてロマンティックであり、ジョンソンのそれは厳格だが決して奴隷的ではない古典主義に向かった。シドニーの同時代人たちは批評の規則またはドグマを宣布する目的ではなく、主に詩的芸術を擁護し、その根本原理を理解するために詩の一般理論を研究した。その時代の精神はフラカストーロの精神であり、ジョンソンのそれは穏やかな形でスカリゲルまたはカステルヴェトロの精神であった。ジョンソンにおいて詩的芸術の研究は創造の不可分の導き手となり、批評の規則に導かれた自覚的芸術のこの要素こそが彼を先行者たちと区別する。彼が代表する時代はゆえにイタリア批評の影響の第二の時期であり、同じ影響はサックリングの『詩人の会合』やウィザーに帰される『パルナッソスにおける大審判』のような批評詩にも見られ、両者はボッカリーニの『パルナッソス報告』を典型とする批評詩の類に遡れる[441]。

第五の時期、17世紀後半を覆うものは、フランス影響の導入によって特徴づけられ、デイヴナントからホッブズへの手紙とホッブズの返答(1651年叙事詩『ゴンディベルト』の序文)から始まる。これらの手紙はデイヴナントとホッブズがパリにいた時に書かれ、新影響の特徴的特徴――合理主義的精神、厳格な古典主義、芸術を自然の模倣に制限し、自然をさらに都市と宮廷の生活に限定し、想像力を「機知」と呼ばれるものに閉じ込める――を示す。「機知」という語のこの特殊化された意味は新時代の特徴であり、デイヴナントの部分的な弟子であるドライデンがその主要な人物である。エリザベス朝の人々は「機知」を理解の一般的意味で用い、意志の能力に対する精神的能力としての機知であった。新古典主義者においてそれは時に想像力を限定的意味で表し[442]、より頻繁にわれわれが空想と呼ぶものを指し[443]、あるいは単なる詩的表現の適切さを指したが[444]、その特定の使用が何であれ、常に詩的芸術の本質と見なされた。

イングランド批評の第五段階は本論の関心外である。イングランドにおける文芸批評史は1650年まで、フランス影響がイタリア影響に取って代わられた時まで追跡される。この部分は特にイタリア影響の二つの偉大な時期、シドニーとベン・ジョンソンの時期を扱う。この二人は中心人物であり、彼らの名はドライデン、ポープ、サミュエル・ジョンソンのように、文芸批評史における明確かつ重要な画期を表す。

脚注

[437] 『近代語学ノート』1898年、xiii. 293と比較せよ
[438] アスカム『著作集』ii. 174-191と比較せよ
[439] スコットランド王ジェームズ6世の『スコットランド詩の規則と注意』は完全にガスコインの論文に基づいている
[440] J・A・シモンズ『フィリップ・シドニー卿』157頁。シドニー『詩の擁護』クック序文 xxvii頁も参照
[441] フォッファーノ、173以下と比較せよ。スペインではロペ・デ・ヴェガの『アポロンの月桂冠』とセルヴァンテスの『パルナッソスへの旅』が同じ類の詩に属する
[442] ドライデン、『驚異の年』献呈書簡と比較せよ
[443] アディソン、『観察者』第62号
[444] ドライデン、『無垢の状態と人間の堕落』序文

第二章 エリザベス朝における詩の一般理論

イタリア・ルネサンスの文芸批評に多少なりとも親しんでいる者にとって、エリザベス朝の詩論を語ることは二度目の物語にすぎない。イングランドでもフランスでも、この時期の批評はイタリアよりも実際的性格が強かった。しかしエリザベス朝の人々が論じた技術的問題でさえ、イタリア人のどこかに原型、あるいは少なくとも同等のものが見出せる。イングランド批評の最初の四段階には新奇性や独創性はほとんどなく、その研究の主な重要性は、ルネサンスの諸思想がイングランド文学に徐々に適用されていった証拠にある。

第一段階の著者たちは、予想されるように、イタリア修辞学者の常套句をここかしこで繰り返す以外、詩の理論にはほとんど関心を示さなかった。しかし1553年、ウィルソンが『修辞学』第三巻において、ペトラルカとボッカッチョの時代からイタリアで支配的であった、かつエリザベス朝イングランドの批評理論を最も強く彩った詩の寓意的概念を表明していることは注目に値する。ウィルソンによれば、古代詩人たちは無意味な寓話を発明するのに時間を費やしたのではなく、物語を単なる枠組みとして用い、倫理的・哲学的・科学的・歴史的な内容をそこに込めた。たとえばユリシーズの試練は、この世における人間の惨めさを生き生きと描くためのものであった。詩人たちは実際、賢者であり、精神の立法者であり、改革者であり、悪を正すことを心に抱いている。そしてこの目的を達成するために――悪を公然と非難することを恐れるか、あるいは無知な民衆に対して率直さが効果的でないと疑うから――彼らは真の意味を愉悦的な寓話のヴェールで隠す。この詩的芸術の理論は、時代にありふれたものであり、中世がルネサンス批評に残した最大の遺産と呼べる。

第二段階の著者たちは、多くの場合、韻律その他の実際的問題に忙殺され、詩的芸術の抽象的理論化の時間を見出せなかった。長い修辞学・韻律研究の期間は、詩人の機能に関する修辞的・技術的概念を定式化するのに役立ち、それはジェームズ王のスコットランド詩に関する簡潔な論文の冒頭に付された「完璧な詩人」を描写するソネットに適切に示されている[445]。完璧な詩人の特徴は、修辞技法の巧みさ、適切で含蓄ある語の使用に示される鋭敏な機知、良き記憶力――想像力、感受性、自然と人間生活の知識といった本質を一切考慮しない、単なる外部的な詩人の才能観である。

ウェッブの『イングランド詩論』(1586年)は、寓意的理論の論理的帰結であり、ゆえにルネサンス著者たちによってほぼ普遍的に受け容れられた詩の目的に関する概念を表明している。詩人は自ら発明する愉悦的な寓話の下に隠された寓意的真理によって教える。しかしこれらの寓話が本当に愉悦的でなければ、読者は詩人の作品に近づくことすら妨げられる。ゆえに詩は愉悦的な教化の形態であり、共に喜ばせ利益を与える。しかし何よりもまず喜ばせねばならず、「詩の本質的精髄はほとんど常に読者または聴衆を喜ばせることにあるからである」[446]。詩人は人類の最高の福祉を心に抱き、徳への甘美な誘引と悪徳への効果的な警告によって目的を達成し、それは粗暴または専制的にではなく、あたかも愛情ある権威によってである[447]。人類社会の始まりから、詩は人間を教化し、野蛮から文明と徳へと導く手段であった。詩――その霊感の神聖な起源から、むしろ芸術を超えたもの――が猥褻と冒涜の誘惑的表現の言い訳にされてきたと異議を唱えられるなら、ウェッブには三つの答えがある。第一に、詩は道徳化、すなわち寓意的に読まれるべきである。たとえばオウィディウスの『変身物語』はそう理解すれば倫理的教えの泉となる。ハリントンは数年後に実際にその第四巻の寓意的意義を詳細に説明している[448]。これは中世に確立された伝統であり、お気に入りの仕事であった。14世紀初頭にクレティアン・ル・グアイスが書いた長編詩『道徳化されたオウィディウス』や、ピエール・ベルキュイールの同等の長さのオウィディウス註釈がこの実践の典型である[449]。第二に、詩に見られる悪徳の描写は読者をそれに倣わせるためではなく、悪から必然的に生じる不幸を示すことによって賢人を抑止するためである。さらに猥褻は詩的芸術の本質と何ら関係なく、詩の濫用にあり、詩そのものにすべての非難を帰すべきではない。

プッテナムの『イングランド詩の技法』(1589年)には詩人の機能に関するさらに高遠な概念が見られる。この論文の著者はフランス、イタリア、スペインの宮廷に住み、これらおよび他の国の言語を知っていたと述べ、彼の旅行と研究の結果は詩の一般理論に十分に示されている。彼の詩人の概念はスカリゲルに直接基づいている。詩は最高の形態において「作ること」すなわち創造の芸術であり、この意味で詩人は神のような創造者であり、無から世界を形成する。もう一つの意味で詩は模倣の芸術であり、目の前に置かれたすべてのものを真実で生き生きとした絵として提示する。いずれにせよ、それは神聖な本能、優れた自然、あるいは世界の広大な観察と経験、あるいはこれらすべてによってのみ完璧さに到達しうる。しかしその霊感の源が何であれ、研究と賞賛に値し、その創造者は他のすべての職人、科学的または機械的な者たちよりも優位と尊厳に値する[450]。詩人たちは世界の最初の司祭、預言者、立法者、最初の哲学者、科学者、雄弁家、歴史家、音楽家であった。彼らは最初から最大の人間たちによって最高の敬意を払われ、その芸術の気高さ、古さ、普遍性がその優位と価値を証明する。そのような歴史と性質を持つ芸術を貶め、あるいは不価値な主題や卑しい目的に用いるのは冒涜である。ゆえにその主要主題は次のようであるべきである。神々の名誉と栄光、高貴な君主と偉大な戦士の価値ある業績、徳の賞賛と悪徳の非難、道徳的教説または科学的知識の教化、そして最後に「この儚い人生のすべての苦労と憂慮における人類の一般的慰め」、あるいは単なる娯楽のためだけでも[451]。

これがイングランド批評の第二段階における詩的理論化の総和である。しかしこの時期に、清教徒が詩、特に劇詩に向けた攻撃によって、第三の弁護的時期が準備されていた。ゴッソンの攻撃が最も有名であり、典型と見なせる。彼の『悪習の学校』(1579年)の激しい非難の下には、正しい原理の基礎と、完全に下品とは言えない精神の証拠がある。彼は道徳的改革者、理想主義者であり、「イングランドの古い規律」を懐かしみ、当時の精神と対比し、イングランド人が「ギリシアから貪食を、イタリアから淫蕩を、スペインから傲慢を、フランスから欺瞞を、オランダから大酒飲みを奪った」時代と対比した[452]。この道徳的堕落と女性的柔弱さの典型的な証拠を彼は詩と劇に見出し、この動機に彼の両者への激しい攻撃を帰せねばならない。彼は特に詩を追放し、音楽を非難し、人類から無害な娯楽を禁じる意図はなく、ただそれらの濫用を懲らすだけであると主張する[453]。彼は真の道徳的目的と効果を持つ劇を賞賛し、数年後のプッテナムとほぼ同じ方法で詩の真の使用と価値ある主題を指摘する[454]。しかし彼はプラトンが数百年前にし、最近も著名なフランス批評家がしたように、芸術はその中に自らの崩壊の萌芽を含むと断言し、当時のイングランド詩においてすでにその崩壊が起こっていることを示す。道徳的教説をより愉悦的で棘の少ないものにするための韻文の喜びと装飾が、同時代人においては猥褻と冒涜の誘惑的隠れ蓑にすぎなくなっていた。

ゴッソンへの最初の返答の一つ、ロッジの『詩、音楽、舞台劇の擁護』(ウェッブとプッテナムの論文より前に書かれた)には、われわれには使い古されたように見えるが、当時のイングランド批評には十分に新しかった寓意的・道徳的解釈の古い原理が見られる。ロッジは原始時代における教化要因としての詩の効力と、それ以降の道徳的媒介としての詩を指摘する。詩人が時に誤ったとしても、哲学者たち、プラトン自身でさえも、しかも重大に誤ったのである[455]。詩は天の贈り物であり、濫用され貶められたときにのみ軽蔑されるべきである。ロッジは自らの観点が相手と本質的に同じであることに気づいていなかった。実際、エリザベス朝全般を通じて、詩を攻撃する側と擁護する側の観点にはこの類似があった。両者とも詩そのものではなくその濫用を非難すべきであると認め、主な違いは一方は詩的芸術の理想的完璧さをほぼ完全に主張し、他方はそれが堕落した状態を強調したことにある。二重の観点は1600年1月に許可された作品で試みられ、「真の詩の賞賛と、猥褻で下品で異教化した詩人の非難」を装った[456]。詩の異教化に対するこの清教徒運動は、カトリック諸国におけるトリエント公会議によって開始された類似の運動に対応する。

イングランド批評の第二段階における詩の理論は、主にホラティウス的であり、中世から初期ルネサンスが加えた追加と修正があった。アリストテレス的規準はまだイングランド批評の一部となっていなかった。ウェッブはエンペドクレスがホメロスと韻律以外に共通点がないから詩人ではなく自然哲学者であるというアリストテレスの言葉に言及する[457]。しかしアリストテレス『詩学』への言及はすべて付随的で散発的であった。アリストテレス主義のイングランドへの導入はイタリア批評家の影響の直接的結果であり、この新影響をイングランド文学に持ち込んだのはフィリップ・シドニー卿である。彼の『詩の擁護』はイタリア・ルネサンス文芸批評の真の要約であり、これほど徹底的にその精神に染まり、これほど完全で高貴なルネサンス批評の気質と原理の概念を与える作品は、イタリア、フランス、イングランドのいずれにもない。詩の一般理論に関して、その源はミントゥルノ[458]とスカリゲル[459]の批評論文であった。しかし着想や表現に決定的な新奇性はなくとも、感情の統一、高貴で理想的な気質、状況への適応において明確な独創性を主張できる。その雄弁さと威厳は単なる分析では現れず、ただより重要で根本的な原理だけを与えるにすぎないが、その要約は少なくともイタリア批評への負債の程度を示すだろう。

詩の古さ、普遍性、優位性に関するすべてにおいて、シドニーは明らかにミントゥルノを踏襲している。詩は無知に対する最初の光を与えるものとして、他のどの芸術や科学よりも先に栄えた。最初の哲学者と歴史家は詩人であり、ダビデの詩篇やプラトンの対話は実際詩的である。ギリシア人とローマ人の間では詩人は賢者または預言者と見なされ、どれほど原始的または野蛮な国民も詩人なく、詩から喜びと教化を受けなかったことはない[460]。

しかしこれほど古く普遍的な芸術を擁護する前に、それを定義する必要がある。シドニーが与える定義は、ルネサンスのアリストテレス主義と呼べるものと実質的に一致する。「詩は」とシドニーは言う[461]、「模倣の芸術であり、アリストテレスがその語[ギリシア語: mimesis]で呼ぶように、表現、偽作、形象化であり、隠喩的に言えば、話す絵画であり[462]、その目的は教化し喜ばせることである」[463]。ゆえに詩は模倣の芸術であり、単に韻文化の芸術ではない。ほとんどの詩人が詩的発明を韻文で装うことを選んだが、韻文は詩の衣装と装飾にすぎず、その原因や本質ではない[464]。「韻文なしで詩人になりうるし、韻文で韻文作者になれるが詩人ではない」[465]。言語と理性は人間と獣を区別する特徴であり、言語を完璧にし磨くのに役立つものはすべて高い称賛に値する。韻文は記憶に役立つだけでなく、最も尊厳でコンパクトであり、口語的でだらしなくないから、詩の最もふさわしい衣装である。しかしそのすべての功徳にもかかわらず、それは詩の本質ではなく、詩の真の試金石は、悪徳と徳の注目すべき形象を偽作し、愉悦的に教えることである。

詩の目的または機能に関して、シドニーはスカリゲルと一致する。詩の目的は最も愉悦的に注目すべき道徳を教えること、すなわち愉悦的な教化によって達成される[466]。ホラティウスが言ったように教化だけでも喜びだけでもなく、教化を愉悦的にすることである。この二重の機能は目的であるだけでなく詩の試金石でもある。すべての芸術と科学の目的は人間生活を最高の完璧さへと高めることである。この点でそれらはすべて至上の建築学的科学の僕であり、その目的は単に良く知ることではなく良く行うことである[467]。ゆえに有徳な行動はすべての学問の目的であり[468]、シドニーは詩人が他の誰よりもこの目的に寄与することを証明しようとする。

これがシドニーの議論の弁護的側面の始まりである。詩と哲学の古代的論争――プラトンの時代ですでに古かった――が再開され、詩人、哲学者、歴史家のいずれに優位を与えるかという問題である。シドニーの議論の本質は、哲学者は単に訓戒によって、歴史家は単に例によって教えるが、詩人は両方を用いるから最も徳に寄与するということである。哲学者は徳とは何か悪徳とは何かを示し、棘のある議論で、明快さや文体の美なしに、裸の規則を提示するだけである[469]。歴史家は過去の経験を示して徳を教えるが、実際に起こったことに縛られ、すなわち事物の個別的真理に縛られ、一般理性ではないから、例は必然的帰結を導かない。詩人だけがこの二重の課題を達成する。哲学者が行われるべきと言うことを、詩人はそれが行われた者によって最も完璧に描き、一般的概念を個別的例と結びつける。哲学者は学識ある者にのみ教えるが、詩人はすべての人に教え、プルタルコスの言葉で「正しい大衆的哲学者」であり[470]、喜びだけを約束するように見えて、無意識のうちに人を徳へと動かす。しかし哲学者が詩人より教えにおいて優れていても、読者を詩人のように動かすことはできず、これは教えよりも重要である。教えられたことを行動し達成するよう動かさなければ、徳を教える意味はないからである[471]。一方、歴史家は個別的例を扱い、悪徳と徳が混在しているため、読者は倣うべき模範を見出せない。詩人は歴史を合理的にし、人間模倣のための完璧な悪徳と徳の例を与え、歴史が稀にしかできないように徳を成功させ悪徳を失敗させる。ゆえに詩はすべての学問の目的である徳に、他のどの芸術や科学よりも寄与し、人間的知恵の最高かつ最貴な形態として優位に値する[472]。

シドニーの詩人と歴史家の区別の基礎は、アリストテレスが詩が歴史よりも哲学的で真面目な価値が高い理由を説明した有名な一節である[473]。詩人は個別的ではなく普遍的を扱い、実際に起こったことではなく、起こりうるべきもの、起こるべきものを扱う。しかしシドニーはこの原理の主張においてミントゥルノ[474]とスカリゲル[475]を踏襲し、アリストテレスが恐らく行ったよりも遠くまで行く。すべての芸術は自然の作品を主要対象とし、俳優が台本に従うように自然に従う。詩人だけがそのような主題に縛られず、自然が作り出したよりも優れた自然を創造する。自然と手を取り合い、その限界に閉じ込められず、ただ自らの想像力の黄道帯によってのみ制限され、自然の青銅の世界に対して黄金の世界を創造する。この意味で詩人は神と創造者として比較されうる[476]。ピュラデスのような友、オルランドのような英雄、アエネアスのような優れた人間を現実で見出せるだろうか。シドニーは次に詩に対するさまざまな異議に答える。これらの異議は部分的にゴッソンとコルネリウス・アグリッパ[477]を、部分的に彼自身の傾向を踏襲し、四つに帰着される[478]。第一に、詩人の虚構を読むより時間を有益に費やせるという異議がある。しかしすべての学問の真の目的が徳を教えることであり、詩が他のすべての芸術や科学よりもこれを良く達成することが示された以上、この異議は容易に答えられる。第二に、詩は嘘の母と呼ばれた。しかしシドニーは詩が他の科学よりも事実を誤る可能性が少ないことを示す。詩人は自らの虚構を事実として公表せず、何も断言しないから嘘をつくことはできないからである[479]。第三に、詩は濫用の養育者、すなわち人間の精神を淫蕩に導き、非戦的で女性的にするという異議がある。しかしシドニーは人間の機知が詩を濫用するのであり、詩が人間の機知を濫用するのではないと論じる。人間を女性的にするという非難は詩よりも他の科学に当てはまり、詩は戦いの描写と勇士の賞賛によって勇気と熱情を顕著に掻き立てる。最後に、最大の哲学者プラトンが理想的国家から詩人を追放したという指摘がある。しかしプラトンの対話は実際詩の形態であり、最も詩的な哲学者が自らの源である泉を汚すのは恩知らずである[480]。しかしシドニーはプラトンの詩に対する根本的異議を認識しつつ、それが同時代のギリシア詩人たちによる詩の濫用に対する非難であったと考える傾向がある。『イオン』で詩人が賞賛され、すべての時代の最大の人間が詩の庇護者であり愛好者であったからである。

『詩の擁護』の執筆と刊行の間の十数年間(この間写本で流通していたようである)には数多くの批評作品が現れ、そのいくつかはシドニーの書に相当な負債がある。これは特に1591年ハリントンが『狂えるオルランド』の翻訳に付した『詩の弁護』に顕著である。この簡潔な論文は詩全般、『狂えるオルランド』、そして自らの翻訳の弁護を含む。ここで問題になる第一部はほとんど完全に『詩の擁護』に基づいている。詩の特徴的特性は模倣すなわち虚構と韻文である[481]。ハリントンはプラトンやクセノポンのような散文の虚構と対話の著者が詩人かどうかを論じる意図はなく、韻文で書くルカヌスが歴史家ではなく詩人と見なされるかどうかを論じる意図もない[482]。ゆえに彼の議論は模倣すなわち虚構の要素に限定される。彼は詩を神学と道徳哲学への入門として扱い、純粋芸術の一つとしてではなく扱う。正統キリスト教徒にとってすべての人間的学問は無益で余計であるが、詩は神の神学のより高い学問への最も効果的な補助であり、詩人たちは実際大衆的哲学者であり大衆的神学者である。ハリントンは次にコルネリウス・アグリッパの四つの具体的な非難、詩は嘘の養育者、愚者を喜ばせるもの、危険な誤りの原因、淫蕩への誘惑者を一つ一つ取り上げ、シドニーの様式で答える。しかし彼はシドニーと異なり、想像文学の寓意的解釈に特別な強調を置く。この要素は『詩の擁護』では最小化されているが、ハリントンは中世の詩の三つの意味、文字通りの、道徳的、寓意的を詳細に受け容れ論じる[483]。文学をこの方法で解釈する死の鐘はベーコンによって鳴らされ、彼は詩人の寓話がすべて意味のない虚構であるとは主張しないが、寓話が先に書かれ、その後に解釈が考え出されることが多く、道徳が先に構想され、寓話がただそれに表現を与えるために作られることは稀であると躊躇なく宣言した[484]。

この一節はベーコンの『学問の進歩』第二巻(1605年)に見られ、彼はそこで詩の理論を簡潔に述べている。彼の見解はシドニーのものと本質的に異ならないが、表現はよりコンパクトで論理的である。ベーコンによれば、人間の理解は記憶、想像力、理性の三つの能力を含み、それぞれが歴史、哲学、詩という三つの主要な学問分野に典型的に表現される[485]。想像力は物質の法則に縛られず、自然が分離したものを結合し、自然が結合したものを分離しうる。ゆえに詩は言葉の長さにおいて制限されるが、他のすべての点で極めて自由である。それは偽作された歴史と定義されうるし、その形式に関して散文でも韻文いずれでもありうる。その源は実際世界に対する人間精神の不満にあり、その目的は自然のものよりも完璧な偉大さ、善、変化を求める人間の自然な渇望を満たすことである。ゆえに詩は自然のものよりも偉大で英雄的な行為を発明し、ゆえに寛大さに寄与し、自然のものより報いにふさわしく、報復においてより公正で、啓示された摂理に一致する行為を発明し、ゆえに道徳に寄与し、より多様で予期せぬ行為を発明し、ゆえに愉悦に寄与する。「ゆえに詩は常に神聖な何かの参与を持つと考えられてきた。なぜならそれは精神を高め、事物の表象を精神の欲望に従わせるからである。他方理性は精神を事物の本性に従わせるからである」[486]。情念、情熱、堕落、風俗の表現において、世界は詩人に哲学者の作品よりも負い、機知と雄弁においても雄弁家の演説よりも負う。これらの理由から、すべての他の学問が排除された粗野な時代に、詩だけが受け容れられ賞賛された。

これはロマンティックな型の純粋な理想主義である。しかし寓意に関するベーコンの言及は古典主義の発展を予告する。ベン・ジョンソン以降、詩を寓意的に解釈する方法は文芸批評に影響を与えなくなった。その理由は明らかである。寓意的批評家はプロットまたは神話を――ルネサンス批評に頻出する比喩を用いれば――道徳的教説の健康だが苦い薬を包む甘美で愉悦的な覆いにすぎないと見なした。新古典主義者はアリストテレスの詩は人生の模倣という定義の意味と適用を限定し、神話をその模倣の媒体とし、それが人間生活のより真実で細密な形象となるほど完璧と見なした。ゆえに批評において古典主義の成長は、神話またはプロットをそれ自体目的とする概念の成長と多少なりとも一致する。

これが17世紀初頭に批評の精神に起こった変化を曖昧に定義し、ベン・ジョンソンの著作に示されている。彼の詩の定義はシドニーのものと本質的に異ならないが、より直接アリストテレス的である。

「詩人、poetaは……作り手または偽作者である。彼の芸術は模倣または偽作の芸術であり、適切な長さ、数、調和によって人間生活を表現する。アリストテレスの語[ギリシア語: poiein]、すなわち作るまたは偽作することに由来する。ゆえに彼は韻文で書く者ではなく、神話を偽作し形成し、真実のようなものを書く者、詩人である。神話と虚構こそが詩的著作または詩の形態と魂であるからである」[487]。

詩と絵画は両方模倣の芸術であり、両方発明したものを自然の使用と奉仕に適合させ、両方利益と愉悦を共通目的とする点で一致する。しかし詩は理解に訴えるから絵画よりも高次の芸術であり、絵画はまず感覚に訴える[488]。ジョンソンの芸術観は本質的に高貴であり、すべての芸術の中で威厳と倫理的重要性において最高である。それは哲学、神学、政治学の最良のものをすべて含み、他のものは脅し強制するだけだが、詩は人を魅了する喜びによって徳へと導き説得する[489]。ゆえにそれは人間社会において良く幸福に生きるための一定の規則と模範を人類に提供する。この詩の概念はジョンソンがアリストテレスに見出すが[490]、これらの教説は実際ルネサンスのイタリア人に属する。

ジョンソンは詩そのものに劣らない尊厳を詩人自身に帰する。文体または韻律の単なる優秀さは詩人を生まない。悪徳と徳の正確な知識と、後者を愛させ前者を憎ませる能力こそが必要である[491]。そしてこれが真実である以上、優れた詩人であるためにはまず本当に善き人間でなければならない[492]。この詩人の聖なる性格と職分の概念の最も高貴な表現は、ジョンソンの『各人その気質において』の原本四つ折版に見られる。「詩人」の尊厳ある名が次のように高められている。

「私は世論を反駁し、
 詩の状態を、それが
 祝福され永遠で最も真に神聖であることを証明できる。
 確かに詩を多くの者に見られるように、
 貧しく不具で、
 残り布と古びたぼろ布で継ぎ接ぎされ、
 その固有の食物である聖なる発明に飢え、
 多くの者のように見るなら、
 君の詩の功徳に対する観念と非難を認めねばならない。
 しかし彼女を栄光の装飾に
 芸術の威厳に装い、
 甘美な哲学の貴重な味わいに
 高揚した精神に装い、
 最も重要なことに、
 地上の思想のどんな味にも
 その尊厳を汚されることを憎む魂の豊かな伝統に
 冠された彼女を見るなら、
 ああ、彼女はどれほど誇り高き姿を!
 彼女は自分自身であり、
 厳粛で聖なる目以外に見られるにふさわしい」[493]。

ミルトンも詩人の聖なる概念を表明する。詩は神が各国民にわずかな者に与える贈り物である[494]。しかし雄弁の贈りに与かる者はまず有徳でなければならない[495]。賞賛すべきものを良く書くことは不可能であり、自らが真の詩であり、自らの中にすべての賞賛すべきものの経験と実践を持たなければ不可能である[496]。詩人たちは自由の擁護者であり「専制の強固な敵」である[497]。彼らは人民の中に徳と公共的礼儀の種を植え育て、情念を正しい調子にし、精神の動揺を鎮める力を持つ[498]。最良の詩は「単純で、感覚的で、情熱的」であり、人間の脳を通過するすべてのものを描写する――宗教における聖なる崇高なもの、徳における愛すべき厳粛なものを。ゆえに喜びと例の力によって、さもなくば徳から逃げる者たちに徳を愛させることを教える。

脚注

[445] ハズルウッド、ii. 103
[446] 同上、ii. 28
[447] 同上、ii. 42
[448] 同上、ii. 128
[449] 『フランス文学史』xxix. 502-525
[450] プッテナム、19以下
[451] 同上、39頁
[452] ゴッソン、34頁
[453] 同上、65頁
[454] 同上、25頁、40頁
[455] ロッジ『詩、音楽、舞台劇の擁護』(シェイクスピア協会刊)、6頁
[456] アーバー『出版登録簿写本』iii. 154
[457] ハズルウッド、ii. 28
[458] シドニーがミントゥルノを知っていたことは、詩人リスト(『擁護』2-3頁)がミントゥルノ『詩人について』14-15頁から写されたことによって証明される
[459] スカリゲル『詩学』はシドニーが四、五回具体的に言及・引用するが、これが彼の負債のすべてではない
[460] 『擁護』2以下;ミントゥルノ『詩人について』9頁、13頁と比較せよ
[461] 『擁護』9頁
[462] この古い言葉はルネサンス期に常套句となっていた。例:ドルチェ『観察』1560年、189頁;ヴォークラン『フランス語詩論』i. 226;カモンイス『ルシアード』vii. 76
[463] シドニーの詩人分類(『擁護』9頁)はスカリゲル『詩学』i. 3から借用
[464] 『擁護』11頁。カステルヴェトロ『詩学』23頁、190頁と比較せよ
[465] 『擁護』33頁。ロンサール『著作集』iii. 19、vii. 310;シェリー『詩の擁護』9頁「詩人と散文著者の区別は俗な誤りである」と比較せよ
[466] 『擁護』47頁、51頁。スカリゲル『詩学』i. 1、vii. i. 2「詩人の目的は愉悦とともに教えること」と比較せよ
[467] アリストテレス『倫理学』i. 1;キケロ『義務について』i. 7
[468] これはヒューマニストの通常の態度;ウッドワード、182以下と比較せよ
[469] ダニエッロ、19頁;ミントゥルノ『詩人について』39頁と比較せよ
[470] 『擁護』18頁
[471] 同上、22頁。ミントゥルノ『詩人について』106頁;ヴァルキ『講義』576頁と比較せよ
[472] すなわち人間的知恵の最高形態。シドニーはキリスト教哲学者として啓示宗教を議論から除外している
[473] 『詩学』ix. 1-4
[474] 『詩人について』87以下
[475] 『詩学』i. 1
[476] 『擁護』7-8頁
[477] 『科学の無益と不確実性について』第5章
[478] 『擁護』34以下
[479] ボッカッチョ『神々の系譜』257以下;ハズルウッド、ii. 127と比較せよ
[480] 『擁護』3頁、41頁;ダニエッロ、22頁と比較せよ
[481] ハズルウッド、ii. 129
[482] 同上、ii. 123
[483] 同上、ii. 127
[484] ベーコン『著作集』vi. 204-206
[485] 『学問の進歩』第二巻;『アングリア』1899年、xxi. 273と比較せよ
[486] 『著作集』vi. 203
[487] 『発見』73頁。ジョンソンの詩人(poeta)、詩(poema)、詩作(poesis)の区別はスカリゲルまたはマッジに由来
[488] 『発見』49頁
[489] 同上、34頁
[490] 同上、74頁
[491] 同上、34頁
[492] 『著作集』i. 333
[493] 『著作集』i. 59注
[494] ミルトン『散文集』ii. 479
[495] 同上、iii. 100
[496] 同上、iii. 118
[497] 『散文集』i. 241
[498] 同上、ii. 479

第三章 劇的および英雄詩の理論

イングランドにおける劇批評はフィリップ・シドニー卿から始まる。『詩の擁護』以前の批評著作に劇への散発的言及はあるが、劇的芸術の一般原理を多少なりとも体系的に定式化したのはシドニーの功績である。これらの原理は、半世紀以上イタリアとフランスで議論され修正されてきたものであり、その最終的源はアリストテレス『詩学』である。ゆえにイングランドの劇批評は誕生の瞬間からアリストテレス的かつ古典的であり、二世紀にわたりそうであった。エリザベス朝劇の始まりは『詩の擁護』の執筆とほぼ同時であり、劇の衰退はジョンソンの『発見』と同時である。しかしこの期間を通じてロマンティック劇は文学的説明を受けなかった。偉大なスペイン劇には批評的擁護者と擁護者がいたが、エリザベス朝劇にはいなかった。おそらく他者の教説を反響する方が、新奇な劇形式の原理を定式化するよりも簡単だったのだろう。しかし真の説明はすでに示唆されている。劇批評の源はイタリア批評家の著作であり、それらは完全に古典的であった。他方、創作文学においてイタリア・ルネサンスはエリザベス朝の人々にほぼ完全にロマンティックな側面で影響を与えた。これで16世紀と17世紀初頭の劇理論と劇実践の根本的調和の欠如を説明できるだろう。アスカムはシドニーの20年前に「アリストテレスの訓戒とエウリピデスの例」を劇的芸術の基準として示したが[499]、精神においてこれらはエリザベス朝全般の最終的試金石であった。

I 悲劇

ウェッブの『イングランド詩論』には、中世全般にポスト古典文法家から一般的であった悲劇と喜劇の一般区別が見られる。悲劇は悲しみと嘆きの歴史を表現し、神々と女神、王と女王、高位の人間を扱い、悲惨な災厄を描き、それがますます悪化し、考えうる最も悲惨な状況で終わる。喜劇は逆に疑わしく始まり、一時混乱するが、常に幸運な偶然によってすべての関係者の喜びと和解で終わる[500]。この区別は『イリアス』と『オデュッセイア』の模倣から導かれると言われ、この点および劇の起源に関する奇抜な説明において、ウェッブはアリストテレスを曖昧に思い出したようである。プッテナムの劇発展の説明はほとんどアリストテレス的ではない[501]。しかし一般結論において『詩学』と一致する。彼の悲劇と喜劇の概念はウェッブに似ている。喜劇は私的市民と下層民の日常的行動と生活様式を表現する[502]。悲劇は不幸で苦しむ君主の悲惨な没落を扱い、運命の無常と悪しき生活に対する神の正しい罰を思い起こさせるためである[503]。

セネカ劇とアリストテレス的訓戒がシドニーの悲劇論の源であった。セネカの演説的・格言的悲劇はルネサンスの最初からヨーロッパ全般の劇理論と実践に影響を与えた。アスカムは確かにソフォクレスとエウリピデスをセネカより好み、ジラルディ・チンティオのライバルであるピーニャをその意見の裏付けとして引用したが[504]、これはアスカムの優れた趣味を示すものの、当時の批評家の通常意見に直接反対する例外的な判断である。シドニーはイングランド劇の説明において、セネカ劇を正しく模範とした悲劇を一つしか見出せなかった[505]。しかし『ゴルボダック』にはシドニーの非難を招く一つの欠陥がある――時間と場所の統一を守っていない。他のすべての点で、それはイングランド劇作家が模倣すべき理想的模範である。その荘厳な演説と響きの良い語句はセネカの文体にほぼ匹敵し、最も愉悦的に注目すべき道徳を教えることによって、詩の目的そのものを達成している。

理想的悲劇――この点でシドニーはイタリア人を密接に踏襲する――は高貴な行為の模倣であり、その表現において「驚嘆と憐憫」を掻き立て[506]、世界の不確実さと黄金の屋根が築かれる弱い基礎を教える。それは王が暴君になることを恐れさせ、暴君がその暴君的性質を現す。シドニーの同時代劇への非難は、劇が悲劇の厳粛で重厚な性格、高揚した文体、表現される人物の威厳を、王と道化を混ぜ、最も不適切な滑稽を導入することによって冒涜していることである。確かに古代文学に悲喜劇の例が一つ二つあり、プラウトスの『アンピトリュオン』などがある[507]。しかし古代人は決してイングランド人のように喇叭と葬儀を合わせない[508]。イングランド劇は真の喜劇でも真の悲劇でもなく、詩の規則と誠実な礼儀の両方を無視する。悲劇は歴史の法則に縛られず、出来事を自由に配置し修正できる。しかし確かに詩の規則には縛られる。ゆえにフランスの著者が観察したように、『詩の擁護』は「ボワローの『詩論』の百年以上前に、新古典主義悲劇のほぼ完全な理論を与える。詩的形態の厳格な分離、持続した言語の威厳、統一、ティラード、レシ、欠けるものはない」[509]。

ベン・ジョンソンは悲劇よりも喜劇の理論に多く注意を払うが、後者の概念はシドニーと異ならない。喜劇と悲劇の部分または分割は同じであり、両方とも全体として教化し喜ばせるという共通目的を持ち、ゆえにギリシア人は喜劇詩人も悲劇詩人も[ギリシア語: didaskaloi]と呼んだ[510]。劇の外部的条件は幕と場の均等な分割、俳優の真の数、合唱、統一を要求する[511]。しかしジョンソンはこれらの形式的要求の厳格な遵守を主張せず、劇の歴史は重要な詩人それぞれが劇構造を徐々に物質的に変更してきたことを示し、近代詩人が同様に行う理由はないと認める。さらに、これらの要求は古代の劇詩の華やかさにおいて規則的に守られたかもしれないが、今それを保持しつつ一般の喜びを保つことは不可能である。ゆえに古代人の外部的形式は部分的に無視されうる。しかし悲劇詩人がどの時代に栄えようと守らねばならない本質がある。それは「主題の真実、人物の威厳、演説の重厚さと高さ、格言の豊かさと頻度」である[512]。言い換えれば、ジョンソンの模範は歴史的プロットと高位の人物を持つセネカの演説的・格言的悲劇である。

『力士サンソン』の序文「悲劇と呼ばれる劇詩の種類について」において、ミルトンはイタリアの悲劇論に細かく従っている。悲劇の古代的威厳と道徳的効果に言及した後[513]、ミルトンは自らの詩の形成において、このような問題における最大の権威である古代人とイタリア人を踏襲したと認める。彼は下品で俗な人物の導入と喜劇的・悲劇的要素の混交を避け、合唱を用い、蓋然性とデコルムの法則を守った。彼の悲劇の特異な効果――憐憫と恐怖のカタルシス――の説明は本論の第一部で言及されている[514]。

II 喜劇

エリザベス朝の喜劇論は、イタリア批評家がアリストテレスのいくつかの示唆を助けに、プラウトスとテレンティウスの実践から導いた規則と観察の体系に基づいている。ゆえにこの時期の主要な喜劇理論家であるシドニーとベン・ジョンソンの教説に長く留まる必要はない。シドニーは喜劇を「われわれの生活の一般的誤りの模倣」と定義し、それは最も滑稽で軽蔑的な様式で表現され、観客が自らそのような誤りを避けようとする。ゆえに喜劇は「悪の汚らしさ」を示すが、「われわれの私的かつ家庭的事柄」にのみである[515]。それは悲劇がよく高揚された驚嘆によって維持されるように、完全に愉悦的であるべきである。喜びは喜劇の第一要件である。しかしイングランドの喜劇著者たちは、笑いなしでは喜びを得られないと考えて誤る。笑いは喜びの本質的原因でも効果でもない。シドニーは喜びと笑いをトリッシーノの様式でほぼ正確に区別する[516]。イングランド喜劇の大きな欠陥は、単に滑稽ではなく罪深いもの、すなわち忌むべきものについて笑いを掻き立て、憐れむべきものについて笑いを掻き立てることである――シドニーによればアリストテレス自身によって明確に禁じられている――。喜劇は愉悦的な笑いだけでなく、すべての詩の目的である愉悦的な教化を混ぜて生むべきである。

ベン・ジョンソンはシドニーと同様、人間の愚かさまたは誤りを喜劇の主題とし、それは

「時代の形象であり、
 犯罪ではなく人間の愚かさを戯れ、
 それらを愛し続けることによって犯罪にするのでなければ。
 私が言うのは、君たちすべてが
 それらを笑うことによって悪であると認める
 そうした誤りである」[517]

とすべきである。これらの人間の愚かさを描くにあたり、喜劇詩人の職分は正義を模倣し、道徳的生活を改善し言語を浄化し、穏やかな情念を掻き立てることである[518]。単なる笑いの喚起が常に喜劇の目的ではない。実際ジョンソンはアリストテレスを、笑いの喚起は喜劇の欠陥、人間本性の一部を堕落させる不浄であると主張していると解釈する[519]。この結論はほぼ今日まで存続したアリストテレス解釈に基づく。『詩学』において、[ギリシア語: to geloion]、滑稽なものが喜劇の主題とされる[520]。多くの批評家はアリストテレスがこれによって笑うべきものと軽蔑すべきものを区別し、単なる笑いと軽蔑または非難を混ぜた笑いを区別しようとしたと考えた[521]。ジョンソン喜劇論の最も重要な要素の一つ、「ユーモア」の教説の性質と源は本論の第一部で簡潔に論じられている。ここでは「ユーモア」を吸収的な性格の特異性と定義し[522]、イタリア・ルネサンス期の詩論において重要な役割を果たしたデコルムの概念から生じたことに注意すれば十分である。

III 劇的一致

劇の理論を離れる前に、もう一つの点、三一致の教説を論じねばならない。すでに述べたように、時間と場所の統一はイタリアで1570年カステルヴェトロによって、フランスで1572年ジャン・ド・ラ・タイユによって初めて一緒に定式化された。イングランドにおける統一の最初の言及は十数年後の『詩の擁護』に見られ、シドニーがカステルヴェトロから直接得たことは疑いない。シドニーは『ゴルボダック』を論じて、「すべての肉体的行為の二つの必要不可欠な伴侶である時間と場所に欠陥がある。舞台は常に一つの場所を表現すべきであり、アリストテレスの訓戒と常識によって想定される最長時間は一日であるべきであるのに、そこでは多くの日と多くの場所が不作法に想像されている」と非難する[523]。彼はまたイングランド舞台の混乱に異議を唱え、一方ではアフリカ、他方ではアジアが表現され、一時間で若者が少年から老年に成長する[524]。これがどれほど不条理か、常識、芸術、古代の例がイングランド劇作家に教えるべきであり、今日イタリアの普通の役者でさえこれを誤らないとシドニーは言う。確かにプラウトスとテレンティウスの喜劇の一、二つが時間の統一を守らないと異議を唱えられるなら、彼らが誤るときではなく正しいときに従おう。それがプラウトスが一度したからといってわれわれが誤る言い訳にはならない。

イングランドにおいて統一の法則がシドニーほど厳格に適用されるのは、フランス影響の導入まで四分の三世紀後である。ベン・ジョンソンはこの点でシドニーよりかなり緩やかである。彼は特に行為の統一を強調し、『発見』においてアリストテレス的行為の統一と大きさの概念を詳細に説明する。「神話は一つの完全で完璧な行為の模倣と呼ばれ、その部分は構造において何も変更または除去されず全体を損なったり乱したりしないように結合され結びつけられ、その肢体に比例した大きさを持つ」[525]。ゆえに単純さが行為の主要な特徴の一つであるべきであり、「怪物的な強制された行為」ほどジョンソンの非難を受けるものはない[526]。時間の統一に関してジョンソンは、行為は結論を必要とするまで成長すべきであり、主題は一日を超えてはならないが、逸脱と挿話を許すほど十分に大きく、それらは神話に対する家具が家に対するものであると言う[527]。ジョンソンは場所の統一を形式的に要求せず、自作でも無視したことを認める。しかし舞台の場面変更を好まない。『ヴォルポーネ』の序文において彼はすべての洗練された喜劇の法則に従ったと自慢する。

「最良の批評家が設計したように。
 時間、場所、人物の法則を守り、
 必要不可欠な規則から逸脱しない」。

ミルトンは『力士サンソン』において時間の統一を守る。「劇全体が始まり終わる時間の限定は、古代の規則と最良の例に従って、24時間以内である」。

フランス影響の導入とともに、統一はイングランド劇の固定要件となり、一世紀以上そうであった。ロバート・ハワード卿は悲劇『レルマ公』の序文でその力と権威を非難したが、ドライデンは彼に答え、統一を攻撃することは実際アリストテレス、ホラティウス、ベン・ジョンソン、コルネイユと争うことだと指摘した[528]。しかしファーカーは『喜劇論』(1702年)において時間と場所の統一に力と機知で反対し、パルナッソスのすべての立法者、古代も近代も――アリストテレス、ホラティウス、スカリゲル、ヴォッシウス、ハインシウス、ドービニャック、ラパン――を嘲笑した。

IV 叙事詩

エリザベス朝の英雄詩論は簡潔に片づけられる。ウェッブは叙事詩を「有力な将軍、熟練した兵士、賢者の高貴な行為と勇敢な功績、古代の有名な報告が展開される詩の王者的部分」と呼ぶ[529]。プッテナムは英雄詩を「王と偉大な君主の高貴な業績の長い歴史、神々、半神、英雄の関与、平和と戦争の重大な帰結を交えるもの」と定義する[530]。プッテナムによれば、この詩の形態の重要性は主に歴史的であり、先祖の勇気と徳の例を示す[531]。シドニーはほとんど明確ではない[532]。彼は英雄詩がすべての形態の最良かつ最貴であると主張し、アキレス、アエネアス、リナルドのような人物がすべての人間の模倣のための輝く例であることを示すが、叙事詩の性質または構造については何も言わない。

ハリントンの『詩の弁護』の第二部は『狂えるオルランド』の擁護に充てられ、ここにイングランド批評で初めてアリストテレス的叙事詩論が現れる。ハリントンはすべての英雄詩の承認された模範として『アエネイス』を取り、アリオストがウェルギリウスの足跡を密接に踏襲したことを示し、ウェルギリウスが偽りの神々に敬意を払うのに対し、アリオストはキリスト教的精神の利点を持つからウェルギリウスにさえ優れていると示す。しかし一部の批評家が「すべての英雄詩をホメロスの方法とアリストテレスの一定の訓戒に還元」し、アリオストに芸術が欠けていると主張するので、ハリントンは『狂えるオルランド』がホメロスの例だけでなくアリストテレスの規則と訓戒を非常に厳格に守っていることを証明しようとする[533]。第一に、アリストテレスは叙事詩は歴史的行為に基づくべきであり、詩人が扱うのは時間的に短い部分だけであると言う。ゆえにアリオストはシャルルマーニュの物語を取り、主題の範囲で一年を超えない[534]。第二に、アリストテレスは詩人が全く信じがたいものを発明してはならないと言う。『オルランド』には信じがたいものは何もない。第三に、叙事詩も悲劇も[ギリシア語: peripeteia]で満ちているべきであり、ハリントンはこれを「予期せぬ幸運または不幸の認識とその突然の変化」と解釈する。『オルランド』はこれだけでなく、適切な比喩と良く表現された情念で満ちている。

結論として、叙事詩はフランス影響の導入までイングランドで適切な批評的扱いを受けなかったと述べられる。ル・ボシュー、マンブラン、ラパン、ヴォッシウスの著作で再述されたイタリア・ルネサンスの規則と理論がこうしてイングランド批評に導入され、アディソンの『失楽園』論で最良の表現を見出したであろう。デイヴナントの『ゴンディベルト』、チェンバレインの『ファロンニダ』、ドライデンの『驚異の年』、ブラックモアの『アーサー王子』のような叙事詩は、同時代のフランス叙事詩と同様、古典的英雄詩の規則を実践に移す願望に負っているであろう[535]。

脚注

[499] 『学校の師』139頁
[500] ハズルウッド、ii. 40
[501] プッテナム、47以下
[502] 同上、41頁
[503] 同上、49頁
[504] アスカム『著作集』ii. 189
[505] 『擁護』47以下
[506] 『擁護』28頁。これはアリストテレスの「憐憫と恐怖」のカタルシスに対するエリザベス朝の等価物
[507] スカリゲル『詩学』i. 7と比較せよ
[508] 『擁護』50頁
[509] ブライティンガー、37頁
[510] 『発見』81頁
[511] 『著作集』i. 69
[512] 同上、i. 272
[513] ベーコン『学問の進歩』iii. 13;アスカム『学校の師』130頁と比較せよ
[514] 『教会統治の理由』においてもカタルシス理論に言及しているようである;『散文集』ii. 479
[515] 『擁護』28頁
[516] 同上、50以下。トリッシーノ『著作集』ii. 127以下;キケロ『弁論家について』ii. 58以下と比較せよ
[517] 『著作集』i. 2
[518] 同上、i. 335
[519] 『発見』82頁
[520] 『詩学』v. 1
[521] トワイニング、i. 320以下、およびケイムズ『批評の要素』i巻第7章と比較せよ
[522] ジョンソン『著作集』i. 67および31と比較せよ
[523] 『擁護』48頁;カステルヴェトロ『詩学』168頁、534頁と比較せよ
[524] ウェットストーン『プロモスとカッサンドラ』(1578年)、ウォード『劇文学』i. 118に引用;ジョンソン『著作集』i. 2, 70;セルヴァンテス『ドン・キホーテ』i. 48;ボワロー『詩論』iii. 39と比較せよ。劇の理論においてシドニーの観点はセルヴァンテスのものと非常に近い
[525] 『発見』83頁
[526] 『著作集』i. 337
[527] 『発見』85頁
[528] 『劇詩論』118頁
[529] ハズルウッド、ii. 45
[530] プッテナム、40頁
[531] 同上、54頁
[532] 『擁護』30頁
[533] ハズルウッド、ii. 140以下
[534] ミントゥルノ『詩論』71頁;ロンサール『著作集』iii. 19と比較せよ
[535] ドライデン『諷刺論』『著作集』xiii. 37と比較せよ

第四章 エリザベス朝批評における古典的要素

I 序論:ロマン主義的要素

シェイクスピア時代におけるロマン主義的精神の証拠を挙げることは過剰なことだろう。イングランド文学においてこれほど明確にロマンティックな時期はない。イングランドでは批評がフランスほど創作文学に影響を受けず、また創作文学に影響を与えなかったが、エリザベス朝批評が想像的作品の説明である以上、それと同様に明確にロマンティックであると考えるのは自然である。すでにウィルソンの『修辞学』において、芸術の問題における精神の独立が見られ、これはエリザベス朝の典型のように思われる。この時期のどの著者も、フランス精神が権威の刻印を持つ規則または規則体系に本能的に服従するような傾向を示さない。最初から国民的要素がイングランド批評を彩り、これは特にこの時代の言語論において顕著である。シドニーが『詩の擁護』を執筆していたまさにその時、スペンサーの旧師マルカスターはこう書いた。「私はローマを愛するがロンドンをより愛し、イタリアを好むがイングランドをより好み、ラテン語を尊敬するが英語を崇拝する」[536]。この精神こそが、エリザベス朝批評におけるロマン主義的気質の主要な表現と呼べるもの、ダニエルの『押韻の擁護』(1603年、カンピオンの『イングランド詩の技法に関する観察』における押韻攻撃への回答)を貫いている。ダニエルの擁護の中心論点は、押韻の使用が慣習と自然の両方によって是認されること――「すべての法に先立つ慣習、すべての芸術を超える自然」[537]――である。彼は

「ギリシアの小さな土地の中に
 死すべきものの価値をすべて閉じ込めようとする」

概念に反逆し、各時代には独自の完璧さと慣行があることを示す。この歴史的批評の試みは彼を中世の擁護に導き、古典韻文でさえ欠陥と不足を持っていたと断言することを躊躇しない。韻律批評の細部においても、彼は次代の新古典的傾向に反対し、行越し(enjambement)を好み、英雄対句(heroic couplet)を不利に評した[538]ことが、ベン・ジョンソンに未刊の回答を促し、後者は対句がイングランド韻文の最良の形態であり、他のすべての形態は強制的で忌むべきであることを証明しようとした[539]。

II 古典的韻律

ダニエルの『押韻の擁護』は、半世紀以上イングランド文人の間で論争の対象であった運動に致命傷を与えたと言える。この時期の批評作品を読むと、エリザベス朝の人々が母国語における古典的韻律の問題に驚くほど多くの注意を払っていたことに気づかざるをえない。近代言語に古典的韻律を導入する最初の組織的試みは、ダニエル自身が指摘するように[540]、1539年のクラウディオ・トロメイであった。この運動は次にフランスに移り、バイフが実践で、ジャック・ド・ラ・タイユが理論で古典的韻律を採用した。イングランドにおいて母国語に量を導入する最初の記録された試みはトマス・ワトソンのもので、アスカムは彼の未刊『オデュッセイア』の原韻律訳から一つの対句を引用している。

「すべての旅人は喜んでユリシーズを大いに賞賛する、
 多くの人間の風俗を知り、多くの都市を見たからである」[541]。

これはおそらく1540年から1550年の間に書かれたもので、前世紀末にはムッセという者がすでに『イリアス』と『オデュッセイア』をフランス語六歩格に翻訳していたという。

アスカムはイングランド韻文に量を用いる最初の批評的擁護者であった[542]。押韻はゴート人とフン族によって導入されたと彼は言い、それはヨーロッパに詩と学問が存在しなくなった時代であり、イングランド人はこれらの蛮族を模倣するか、完璧なギリシア人を追うかの選択を迫られる。彼はイングランド語の単音節的性格がダクテュロスの使用を非常に困難にし、六歩格は「イングランド語では滑らかに走るのではなく、よろめきながら歩く」と認めるが、ヤンブ韻文(carmen iambicum)はギリシア語やラテン語と同様に自然にイングランド語に受け容れられると論じる。彼はサリーの『アエネイス』第四巻の無韻詩訳を賞賛美するが、量を無視したため「完璧で真の韻律化」に欠けると遺憾に思う。アスカムの理論を実践に移す試みは1577年トマス・ブレナーハセットによってなされたが、彼の『カドワラデルの嘆き』の韻文は「新しい種類の詩」と称しながら、単なる無韻アレクサンドランにすぎない[543]。

しかし1580年、スペンサーとガブリエル・ハーヴェイの間で交わされた五通の手紙が『三通の適切で機知に富む親しい手紙』と『二通の非常に称賛すべき手紙』として印刷され、そこからイングランドに古典的韻律を導入する組織的運動が始まっていたことがわかる。数年間ハーヴェイが量韻文を数人の友人に主張していたようであるが、言及した組織的運動は1578年に没したトマス・ドラントによって独立に始められたようである。ドラントはイングランド古典韻文のための規則と訓戒を考案し、これらの規則はシドニー、ダイアー、グレヴィル、スペンサーを含む学者と廷臣のサークルによって追加と修正を加えて採用され、彼らはハーヴェイとは独立だが定期的に通信するアレオパゴスという学会を形成した[544]。この学会は1570年に同様の目的で設立されたバイフのアカデミー・ド・ポエジー・エ・ド・ミュジークを模倣したものであり、シドニーは1572年パリ滞在時にそれを知ったであろう。

1580年に刊行された書簡から、ハーヴェイとドラントの韻律体系がほぼ正反対であったことが明らかになる。ドラントの体系によれば、イングランド語の量は位置、二重母音などラテン韻律論の法則によって完全に規制される。たとえばcarpenterの倒数第二音節は二つの子音に続くから長いと見なされる。ハーヴェイはスペンサーから出版された手紙で初めてドラントの規則を知らされ、より正常で論理的な体系を踏襲する。彼にとってアクセントのみが量の最良であり、位置の法則はcarpentermajestyの倒数第二音節を長くすることはできない。「ラテンはわれわれの規則ではない」とハーヴェイは言う[545]。位置と二重母音が一致する場合、たとえばmerchaundiseの倒数第二音節でも、短く発音せねばならない。このような問題では、われわれの言語の使用、慣習、適切さ、威厳のみが不変で至上の規則と見なされるべきである。

ゆえにハーヴェイの目的はわれわれの言語をラテン化することではなかった。彼の意図は二重であり、押韻を廃止し、ダクテュロス、トロカイオス、スポンデイオスなどの新しい韻律をイングランド詩に導入することであった。数年前、ガスコインはイングランド韻文がヤンブ韻律しか持たないことを嘆いていた[546]。ハーヴェイは単にイングランド語のアクセントを観察するだけで、量を韻文に導入したとは言えず、単に新しい韻律をイングランド詩の要求に適合させていたにすぎない。

ドラントとハーヴェイの規則はゆえに二つの対立体系を構成する。前者によればイングランド韻文はアクセントを無視してラテン韻律論によって規制される。後者によればラテン韻律論を無視してアクセントによって規制される。どちらの体系でもイングランド語で量を成功裏に試みることはできず、現代の著名な古典学者がこれを達成できるおそらく唯一の方法を示している[547]。この方法はアクセントと位置の両方を調和的に守ることと記述でき、すべてのアクセント音節を一般的に長くし、ラテン位置法則に違反する音節を走査が短音節を要求するときに用いないことである。これら三つの体系は多少の変形でイングランド文学全般に用いられてきた。ドラントの体系はシドニーとスペンサーの量韻文に、ハーヴェイの方法はロングフェローの『エヴァンジェリン』に、テニスンの美しい古典的実験はロビンソン・エリス教授の方法の実践的例である。

1582年、リチャード・スタニハーストはライデンで『アエネイス』の最初の四巻をイングランド語六歩格に翻訳して刊行した。彼はアスカムから霊感を得、ハーヴェイから韻律体系を得たようである。ハーヴェイと同様、彼はラテン韻律論の法則に縛られることを拒み[548]、可能な限りイングランド語のアクセントを踏襲する。しかし一つの点で彼の翻訳は独特である。ハーヴェイはスペンサーとの書簡で、イングランド語における量韻文の使用は綴りの一定の統一を必要とすると示唆していた。スタニハーストの奇妙な正書法は音声改革の真剣な試みであったようである。綴り改革はフランスでしばらく議論されており、バイフの『フランス詩の贈り物』(1574年)にはラミュの音声体系に従ったフランス量韻文が見られる。

ウェッブの『イングランド詩論』は実際量韻文を擁護する請願である。彼の体系は主にラテン韻律論に基づくが、イングランド語の使用と調和している。イングランド語とラテン語が一致する場合はラテンの規則に従う。しかしラテン韻律論の法則に明らかに違反する語は用いず、可能な限りイングランド語の綴りを古代規則に適合させるべきである。イングランド語の語の中間における位置法則の遵守の困難は綴りの変更で回避でき、たとえばmournfullymournfulyと綴るべきである。しかしそれが不可能な場合は、イングランド語のアクセントにもかかわらず位置法則を守り、royaltyのようにする。ウェッブはアスカムと異なり、六歩格がイングランド語で用いるすべての古典的韻律のうち最も容易であると考える[549]。

プッテナムは古典的韻律の使用に反対ではないが、保守的としてすべての突然の革新を危険と考える[550]。彼が採用する体系はハーヴェイに似ている。シドニーの量韻文への当初の熱意はすぐに衰え、『詩の擁護』において古代韻律化が近代よりも音楽的伴奏に適していると指摘するが、両体系とも喜びを生み、ゆえに等しく効果的で価値があると述べ、イングランド語は他のどの言語よりも両方を用いるのに適していると言う[551]。カンピオンはアスカムと同様、イングランド語の多音節語がダクテュロスとして用いるには重すぎると考え、ゆえにトロカイオスとヤンブ韻文のみがイングランド詩に適切に用いられうるとする[552]。彼は八つの新しい韻律形式を提案する。イングランド語のアクセントを熱心に守り、位置法則以外には屈しない。ゆえにTrumpingtonの第二音節は長くする[553]。しかし位置法則を守る際、綴りではなく音が量の試金石であり、ゆえにlove-sicklove-sikdangerousdangerusのように発音する[554]。

III その他の古典主義の証拠

カンピオンの『観察』(1602年)をもって、イングランドにおける古典的韻律の歴史は、現代における量韻文の復活まで終わるといえる。ダニエルの『押韻の擁護』はこの革新に効果的に終焉させた。しかしエリザベス朝においてこの運動が持っていた強い影響力は、この時期の古典的傾向の興味深い証拠である。ベン・ジョンソンは通常イングランドにおける新古典主義の先駆者と見なされるが、彼の影響が感じられるずっと以前に、イングランド批評に古典的傾向が見られる。アスカムの保守性と芸術の問題における特異性への嫌悪は明確に古典的である。「論理学と哲学におけるアリストテレス、修辞学と雄弁におけるトゥッリウスを好まない者は、これらの階段からさらに高く登り、より重大な問題、すなわち宗教において異端の頭脳を、または国家において党派的心中を持つ可能性が高い」とアスカムは言う[555]。芸術の法則に縛られることは奴隷状態ではないと主張し、文体の完璧さを強調する点も同様に古典的である[556]。

アスカムに続く著者たちにも同様の傾向が見られる。ハーヴェイの『妖精女王』に対する批判は二つの影響に鼓舞されている。ヒューマニストとして、彼は中世文学全般、その迷信、妖精伝承などを軽蔑して振り返る。芸術の古典主義者として、彼は叙事詩の正則的または古典的形式をロマンティック的または不正則的形式より好み、この点で彼の批判はベンボの『オルランド』に対するものやサルヴィアーティの『解放されたエルサレム』に対するものと比較できる。同様にハリントンは『オルランド』をアリストテレスの法則と調和させようとし、シドニーはこれらの法則をイングランド劇に強制しようとする。同様にシドニーは「芸術、模倣、練習」なしの天才は無であると宣言し、同時代人を「人工的規則と模倣的模範」の無視を非難する[557]。同様にウェッブは善き詩人と悪しき詩人を判断する固定基準または標準を見出そうとし、ホラティウスの規則のファブリキウスの要約をイングランド詩の指針として翻訳する[558]。

ゆえにイングランド批評は最初から古典的傾向を示していたと言える。しかしベン・ジョンソン以前には、古典的理想をイングランド文学に強制しようとする体系的試みはなかったことは事実である。すでに述べたようにスペインではフアン・デ・ラ・クエヴァが詩は古典的で模倣的であるべきだが劇はロマンティックで独創的であるべきだと宣言した。逆にシドニーは劇を古典的にしようとし、非劇詩人には想像力の自由と形式の独創性を許した。ベン・ジョンソンは最初の完全で一貫したイングランド古典主義者であり、彼の古典主義は次代のものと種類ではなく程度で異なる。

ベーコンの詩は言葉の長さにおいて制限されるが、他のすべての点で極めて自由であるという主張[559]は、エリザベス朝の観点を特徴づける。初期批評家たちは素材の選択と扱いにおいて極端な自由を許しつつ、表現の厳格な正則さを主張した。ゆえにシドニーは古典的韻律の使用を主張できるが、それは想像力の自由と高揚を称えることを妨げない。これらのものはベン・ジョンソンにはない。彼も詩の気高さと力、詩人の職分の威厳を称える。しかし想像力の自由や天才の力についてはどこでも語らない。彼にとって文学は個性の表現ではなく、想像力の創造ではなく、人生の形象、世界の絵である。言い換えれば、彼は文学的理想の客観化を達成した。

第二に、この人生の形象は芸術家の意識的努力によってのみ創造されうる。偉大な詩の創造には、天才、練習、模倣、研究すべてが必要だが、それらを完璧にするには芸術が加えられねばならない。芸術のみが完璧さに導くからである[560]。芸術を明確な要素、ほとんどそれ自体目的とするこの主張こそがジョンソンを先行者たちと区別し、彼の芸術理想が最も簡潔に表現されているのは『錬金術師』(1612年)の読者への挨拶)である。

「詩、特に劇において、……舞踏と滑稽の欲望が支配し、自然から逃げ出し、自然を恐れることが、観客をくすぐる芸術の唯一の点である。しかし私は芸術をどれほど目的外で場違いに名指ししているか。教授たちが芸術を頑なに軽蔑し、自らの自然に依拠し、勤勉を嘲り、術語を理解せずして無知を機知で逃れようとし、しかも多くの者によってその判断の悪徳ゆえに、より学識あり十分と見なされるからである。彼らは作家を剣士やレスラーと同じく賞賛する。力強く入り込み、暴力で押し通せば勇敢と見なされる。しかし多くの場合その粗暴さが彼らの不名誉の原因であり、相手のわずかな触れでその猛烈な力が敗北する。私はこれらの者たちが、十分を超えようと常に求める者が、時に善く偉大なものに当たることを否定しない。しかしそれは極めて稀であり、それが来ても他の悪を償わない……。しかし私は警告する。すべてを、どれほど不適切でも、と言い放つ者と、選択と節度を用いる者との間には大きな違いがある。粗野なものを磨かれたものより偉大と考え、散らばったものを構成されたものより多数と考えのは、無能者の病にすぎないからである」[562]。

ゆえに文学は芸術の媒体を通じて人生の形象を提示することを目指す。ジョンソンによれば芸術の導き手と監視者は批評の規則に見出される。たとえば喜劇の成功は

「私が、君たちの師が、時代に最初に教えた
 喜劇の法則の遵守によって」[563]

達成される。他の箇所で、ジョンソンは「必要不可欠な規則から逸脱しない」と自慢することを思い出してほしい。しかし芸術は批評の規則に不変の導き手と監視者を見出しうるが、彼は古典文学の実践または理論への単なる奴隷的遵守を信じない。古代人は導き手であり、司令官ではない[564]。要するに、イングランド精神はまだ新古典的理想をそのすべての帰結において受け容れる準備ができておらず、古代権威への絶対的服従はフランス影響の導入とともに来た。

これは、おそらくアリストテレスがアスカムからミルトンまでイングランド批評に及ぼした影響の歴史によって最も良く示される。イングランドにおける『詩学』への最初の言及はアスカムの『学校の師』に見られる[565]。そこではアスカム、チェク、ワトソンがケンブリッジでアリストテレスとホラティウスの詩的訓戒をエウリピデス、ソフォクレス、セネカの例と比較して多くの愉しい対話をしたと述べられている。シドニーの『詩の擁護』においてアリストテレスは数回引用され、劇においてその権威は「常識」とほぼ同等と見なされる[566]。ハリントンは『オルランド』がアリストテレスの要件と実質的に一致することを証明するまで満足しなかった。ジョンソンはホラティウス『詩論』の註釈を書き、アリストテレスによって照らした。

「詩における古きヴェヌシア人〔すなわちホラティウス〕のすべてを
 スタギラ人〔すなわちアリストテレス〕によって照らされ、
 そこをイングランド語にした」[567]

が、写本は1623年の火事で不幸にも焼失した。しかしジョンソンはどの著者も独裁者にするのは滑稽であることを知っていた[568]。アリストテレスへの賞賛は大きかったが、アリストテレス的規則は自然な才能なしでは無用であり、詩人の自由は文法家と哲学者が定める狭い限界に縛られないと認める[569]。同時に、アリストテレスが最初の批評家であり、詩人に書き方を教えた最初の人間であることを指摘する。アリストテレス的権威は軽蔑されるべきではなく、彼は規則を発明したのではなく、自然と詩人たちから最良のものを取り、それを完全で一貫した芸術の法典に変えたからである。ミルトンも「アリストテレス『詩学』、ホラティウス、イタリア人のカステルヴェトロ、タッソ、マッツォーニその他の註釈に教えられる崇高な芸術」への真摯な賞賛を持っていた[570]。しかしこのすべてにもかかわらず、イングランドの独立精神は決して衰えず、フランス影響以前にはイングランド批評にアリストテレスの文学的独裁のようなものは見出せない[571]。

結論として、16世紀中頃までにイタリアにほぼ完全な詩的規則と理論の体系が成長していたと言える。この批評体系はフランス、イングランド、スペイン、ドイツ、ポルトガル、オランダに伝わり、17世紀初頭までに西ヨーロッパ全般に共通のルネサンス教説体系が存在した。各国の国民的性格を与えたが、フランスで受けた形態が最終的に勝利し、近代古典主義はルネサンス・アリストテレス主義のフランス的段階または版の至上を表す。レッシングやシェリーを含む多くの近代著者は多少なりとも原初のイタリア形式に戻った。それはエリザベス朝批評においてシドニーによって代表され、ベン・ジョンソンは移行段階を、ドライデンとポープはフランス古典主義の最終形態を表す。

脚注

[536] モーリー『イングランド著作家』ix. 187
[537] ハズルウッド、ii. 197
[538] 同上、ii. 217
[539] ジョンソン『著作集』iii. 470。ガスコインの行越しに関する評言(ハズルウッド、ii. 11)と比較せよ
[540] ハズルウッド、ii. 205
[541] 『学校の師』73頁
[542] 同上、145以下
[543] ハズルウッド、ii. xxiiと比較せよ。ガスコイン(1575年)とジェームズ6世(1584年)の論文には量韻文への言及はない
[544] プルチ『モルガンテ・マッジョーレ』xxv. 117と比較せよ
[545] ハズルウッド、ii. 280
[546] 同上、ii. 5
[547] R・エリス『カトゥッルスの詩と断片を原韻律で翻訳』ロンドン、1871年、xiv以下
[548] スタニハースト、11以下
[549] ハズルウッド、ii. 69
[550] プッテナム、126以下
[551] 『擁護』55頁
[552] ハズルウッド、ii. 167
[553] 同上、ii. 186
[554] エリス、前掲書、xviと比較せよ
[555] 『学校の師』93頁
[556] 同上、118頁、121頁
[557] 『擁護』46頁
[558] ハズルウッド、ii. 19, 85以下
[559] 『著作集』vi. 202
[560] 『発見』78頁
[561] スカリゲル『詩学』v. 3において詩人の最高の美徳は選択と自制であると言われ、vi. 4において「すべての優秀さの生命は節度にある」と言われると比較せよ
[562] 『著作集』ii. 3;『発見』22-27頁と比較せよ
[563] 『著作集』iii. 297
[564] 『発見』7頁
[565] 『学校の師』139頁
[566] 『擁護』48頁
[567] 『著作集』iii. 321;同上、i. 335, iii. 487と比較せよ
[568] 『発見』66頁
[569] 同上、78以下
[570] 『著作集』iii. 473
[571] ピーチャムの『完璧な紳士』(1622年)の詩に関する章は、主にスカリゲルへの負債によって興味深く、彼は(91頁)「すべての学問の王子、判断の判断者、神聖なユリウス・カエサル・スカリゲル」と呼ぶ。これによって彼は文学的裁定者、もし独裁者でなければ、となる。『パルナッソスにおける大審判』(1645年)において、スカリゲルはベーコン、シドニー、エラスムス、ブデ、ハインシウス、ヴォッシウス、カサウボン、マスカルド、ピコ・デッラ・ミランドラ、セルデン、グロティウスその他とともにパルナッソスの領主の一人と宣言される

付録

付録 A

16世紀の主要批評作品の年代順表

イタリアフランスイングランド
1527ヴィーダ:『詩的芸術について』c.1524コックス:『修辞学の技法または技術』
1529トリッシーノ:『詩論』第1-4部
1535ドルチェ:ホラティウス『詩論』の翻訳
1536パッツィ:アリストテレス『詩学』の翻訳
1536ダニエッロ:『詩論』
1539トロメイ:『トスカーナ新詩の韻律と規則』1545ペルティエ:ホラティウス『詩論』の翻訳
1548ロボルテッリ:アリストテレス『詩学』版1548シビレ:『フランス語詩論』
1549セーニ:アリストテレス『詩学』の翻訳1549デュ・ベレー:『フランス語の擁護と顕揚』
1550マッジ:アリストテレス『詩学』版1553ウィルソン:『修辞学の技法』
1551ムツィオ:『詩的芸術』
1554ジラルディ・チンティオ:『論考』1554ペルティエ:『フランス語詩論』
1559ミントゥルノ:『詩人について』1555モレル:アリストテレス『詩学』版
1560ヴェットーリ:アリストテレス『詩学』版1560パスキエ:『フランス探究』1567ドラント:ホラティウス『詩論』の翻訳
1561スカリゲル:『詩学』1561〔スカリゲル:『詩学』〕1570アスカム:『学校の師』
1563トリッシーノ:『詩論』第5-6部1575ガスコイン:『詩作に関する指示の注』
1564ミントゥルノ:『詩論』
1570カステルヴェトロ:アリストテレス『詩学』版1565ロンサール:『フランス語詩論摘要』1579ゴッソン:『悪習の学校』
1579ロッジ:ゴッソンへの返答
1575ピッコロミーニ:アリストテレス『詩学』版1572ジャン・ド・ラ・タイユ:『狂えるサウール』序文1580ハーヴェイとスペンサー:書簡
1572ロンサール:『フランシアード』序文c.1583シドニー:『詩の擁護』(1595年刊)
1579ヴィペラーノ:『詩的芸術について』1585ジェームズ6世:『スコットランド詩の規則と注意』
1586パトリッツィ:『詩論』1586ウェッブ:『イングランド詩論』
1587T. タッソ:『詩的芸術論考』1573ジャック・ド・ラ・タイユ:フランス古典韻律論
1588デノレス:『詩論』
1597ブオナミーチ:『詩的論考』
1598インジェニェーリ:『演劇詩について』1598ロードン:『フランス語詩論』1589プッテナム:『イングランド詩の技法』
ヴォークラン:『フランス語詩論』
1600スンモ:『詩的論考』1591ハリントン:『詩の弁護』

付録 B

サルヴィアーティによるアリストテレス『詩学』の註釈者たちについての記述

以下はリオナルド・サルヴィアーティが1586年までに行われたアリストテレス『詩学』の註釈者についての記述である。この引用はフィレンツェの未刊写本(Cod. Magliabech. ii. ii. II.)からで、371葉から始まる。写本の題名は『アリストテレス詩学の註釈と解説』で、370葉に1586年1月28日の日付がある。

この詩学書の解釈者たちについて

〔アヴェロエス〕アヴェロエスはわれわれの時代に伝わった詩学の解釈者の中で最初に、これについて簡潔なパラフレーズを作った。彼にはいくつかの良い考察が見られるが、ギリシアとアラブの風俗の違いと遠さから、彼はギリシアについてほとんど知識がなく、他人にほとんど与えられなかった。

〔ヴァッラ〕次にジョルジョ・ヴァッラがこの書をラテン語に翻訳しようとしたが、ギリシア語本文の写本が彼を欺いたか、あるいはその仕事があらゆる点で、特に当時としては困難であったため、彼はその企てで小さな称賛しか得られなかった。

〔パッツィ〕これを考慮したアレッサンドロ・デ・パッツィは、言語に通じ非常に独創的な人物で、同じ仕事に取り組み、ヴェットーリの註釈を除くすべてのラテン語註釈で読まれるラテン語訳を残した。彼は学識ある人物で、優れた筆写本を多く持っていたから、この作品に相当な光を与え、死によって妨げられなければさらに多くのことをしたであろう。

〔ロボルテッリ〕しかしわれわれの時代に、言語研究に非常に熟練したフランチェスコ・ロボルテッリは、より大きな助けが必要であることを知り、本文を多くの汚れから浄化するだけでなく、ギリシア・ラテン詩人の無数の例による詳細な解説によって、これを明らかにする最初の人物となった。

〔セーニ〕次にベルナルド・セーニがこのわれわれの言語に俗語訳し、いくつかの簡潔な注釈を加えて刊行した。翻訳において適切な語を用い、ギリシア語に極めて良く対応したため、彼も称賛なしではなかった。しかしはるかに大きな叫びと拍手で、著名な哲学者マッジの註釈が世に受け容れられた。彼は哲学の継続的講義によって栄光のうちに年を過ごし、主にこの書に秩序を与え、その連続性を示し、多くの箇所でロボルテッリを助けたからである。彼が彼に対してやや過度に熱くなく、対立を好まなければ、彼の意見は時にさらに自由で確固たるものになったであろう。

〔ヴェットーリ〕マッジの横にピエール・ヴェットーリのラテン語訳と註釈が刊行された。彼は他の誰よりも古代文書の最も勤勉な観察者であり、われわれの時代において言語の知識で第一の地位を獲得したと思われる。彼は貴重で古い手写本を多数持つ機会があり、すべての点、特に本文の校訂と言語訳において、この書にこれ以上光を求めることはほとんどないようにした。

〔カステルヴェトロ〕しかし近年、再び学識ある人物によってこの言語に俗語訳され解説され、これまでこれを行った誰よりも長くである。これは私が必要に応じて名指す際、俗語註釈と呼び、簡潔に C. V. と記す。この註釈には疑いなく極めて微細な洞察があるが、私が信じるように、より純粋であっても良かったであろう。彼が真実から離れるのは、大部分競争心から、より微細な感覚を示し、他者と同じことを言わないためであると思う。彼の訳は、いくつかの部分で私が考えるに故意に誤る以外、トスカーナ語の中で最良である。彼の言葉は訳と解説の両方で非常に純粋で、素材が許す限り純粋なフィレンツェ俗語で書かれている。最後に〔ピッコロミーニ〕アレッサンドロ・ピッコロミーニ卿の訳と注釈が印刷された。彼は占星術、哲学、修辞学の多くの他の作品を部分的に構成し部分的に俗語訳し、小さくない名声と評判を得たから、現在の労苦にも同様のことが起こると信じられる。こうした明晰な解釈者に続いて、競争心からではなく――私とそのような人物たちの間には競争はありえない――、ただ私もこの企てに、10年間費やした研究の後に、何らかの助けを提供したいという願いから、恐れながらもこの場に降り立つ。私は燃えるような意志はあるが、栄光を偽りの意見によって得るよりも、賢明な裁判官によって私の欠陥が慎重に懲らしめられることを望む。

参考文献

本論文作成に用いた主要な書籍と版のリストであり、文中および脚注で引用された作品の完全な書名についてはこれを参照。

I. 原典

  • アスカム、R. 『学校の師』E. アーバー校訂、ロンドン、1870年
  • ―― 『全集』ギレス博士校訂、3巻4部、ロンドン、1864年
  • オービニャック、アベ・ド 『劇の実際』2巻、アムステルダム、1715年
  • ベーコン、F. 『著作集』J. スペディング、R.L. エリス、D.D. ヒース校訂、15巻、ボストン、1863年
  • バトー、C. 『アリストテレス、ホラティウス、ヴィーダ、デプレオーの四つの詩論』パリ、1771年
  • ベルニ、F. 『韻文、ラテン詩、書簡』P. ヴィルジーリ校訂、フィレンツェ、1885年
  • ボッカッチョ、G. 『神々の系譜』G. ベトゥッシ訳、ヴィネツィア、1547年
  • ―― 『ダンテ伝』F. マクリ=レオーネ校訂、フィレンツェ、1888年
  • ブルーノ、G. 『著作集』A. ワグナー校訂、2巻、ライプツィヒ、1830年
  • ブッチャー、S.H. 『アリストテレスの詩と美術の理論、詩学の校訂本文と訳付き』ロンドン、1895年
  • カルドゥッチ、G. 『15・16世紀の野蛮詩』ボローニャ、1881年
  • カーロ、A. 『ローマのビアンキ・アカデミー会員の弁護、ロドヴィーコ・カステルヴェトロに対して』パルマ、1558年
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  • ―― 『諸批評著作、著者伝付き』L.A. ムラトーリ校訂、ミラノ、1727年
  • クック、A.S. 『詩の技法:ホラティウス、ヴィーダ、ボワローの詩論とハウズ、ピット、ソームの訳』ボストン、1892年
  • ダシエ、A. 『詩学のフランス語訳と注釈』パリ、1692年
  • ダニエッロ、B. 『詩論』ヴィネツィア、1536年
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  • ―― 『ホラティウス・フラックスの詩論書簡についてのトリフォン・ガブリエッリの日常的講話からの解釈』ヴェネツィア、1553年
  • ―― 『悲劇、英雄詩、喜劇をアリストテレスの意見に従って扱う詩論』パドヴァ、1588年
  • ドナトゥス、A. 『詩論』ボローニャ、1659年
  • ドライデン、J. 『劇詩論』T. アーノルド校訂、オックスフォード、1889年
  • デュ・ベレー、J. 『選集』L. ベック・ド・フーキエール校訂、パリ、1876年
  • フラカストーロ、G. 『著作集』2巻、ジュネーヴ、1621年
  • ジラルディ・チンティオ、G.B. 『美学著作:ロマンツォ、喜劇、悲劇などについて』(ダエッリの希書叢書、lii., liii.)2巻、ミラノ、1864年
  • ゴッソン、S. 『悪習の学校』E. アーバー校訂、ロンドン、1868年
  • ハズルウッド、J. 『イングランド詩人と詩に関する古代批評論集』2巻、ロンドン、1811-1815年
  • インジェニェーリ、A. 『演劇詩について』フィレンツェ、1734年
  • ジョンソン、B. 『木材、または人間と事物に関する発見』F.E. シェリング校訂、ボストン、1892年
  • ―― 『著作集、ギフォード注と伝記付き』F. カニンガム校訂、3巻、ロンドン、n.d.
  • クレッテ、T. 『イタリア学問ルネサンスの歴史と文学への寄与』3部、グライフスヴァルト、1888-1890年
  • ル・ボシュー、R. 『叙事詩論、W.J. 英訳』第二版、2巻、ロンドン、1719年
  • リナルディ、A. 『詩的発明に関する対話』ヴェネツィア、1554年
  • ルイジーノ、F. 『Q. ホラティウス・フラックスの詩論書簡についての註釈』ヴェネツィア、1554年
  • マッジ、V. と ロンバルディ、B. 『アリストテレス詩学書についての解説』ヴェネツィア、1560年
  • ミルトン、J. 『散文集』J.A. セントジョン校訂(ボーン叢書)、5巻、ロンドン、1848年
  • ミントゥルノ、A.S. 『詩論』ヴェネツィア、1564年
  • ―― 『詩人について六巻』ヴェネツィア、1559年
  • ムツィオ、G. 『多様な韻文:詩的芸術三巻、散文韻文書簡三巻など』ヴィネツィア、1551年
  • パルテーニオ、B. 『詩的模倣について』ヴィネツィア、1560年
  • パトリッツィ、F. 『詩論:歴史的十篇、論争的十篇』フェラーラ、1586年
  • ペトラルカ、F. 『現存全集』バーゼル、1554年
  • ピッコロミーニ、A. 『アリストテレス詩学書についての注釈』ヴィネツィア、1575年
  • プッテナム、G. 『イングランド詩の技法』E. アーバー校訂、ロンドン、1869年
  • ラパン、R. 『アリストテレス詩論に関する省察(英訳)』ロンドン、1674年
  • ロボルテッリ、F. 『アリストテレス詩的芸術書についての解説』フィレンツェ、1548年
  • ロンサール、P. de 『全集』P. ブランシュマン校訂、8巻、パリ、1857-1867年
  • サルヴィアーティ、L. 『アリストテレス詩学のパラフレーズと註釈』370葉、Cod. Magliabechiano, ii. ii. II. 写本
  • ―― 『詩論、第三講義』22葉、Cod. Magliabechiano, vii. 7, 715. 写本
  • スカリゲル、J.C. 『詩学七巻』第五版、コンメリン書店、1617年
  • セーニ、A. 『詩に関わる事柄についての論考』フィレンツェ、1581年
  • セーニ、B. 『アリストテレス修辞学と詩学のフィレンツェ俗語訳』ヴィネツィア、1551年
  • シドニー卿、P. 『詩の擁護、別名詩の弁護』A.S. クック校訂、ボストン、1890年
  • スペローニ、S. 『著作集』5巻、ヴェネツィア、1740年
  • スタニハースト、R. 『P. ヴェルギリウス・マロの『アエネイス』最初の四巻の翻訳』E. アーバー校訂、ロンドン、1880年
  • スンモ、F. 『詩的論考』パドヴァ、1600年
  • タッソ、B. 『書簡集:詩論附加』2巻、パドヴァ、1733年
  • タッソ、T. 『著作集、エルサレム論争付き』G. ロシーニ校訂、33巻、ピサ、1821-1832年
  • トリッシーノ、G.G. 『全集』2巻、ヴェローナ、1729年
  • トワイニング、T. 『アリストテレス詩論、注と詩的・音楽的模倣に関する二論文付き訳』第二版、2巻、ロンドン、1812年
  • ヴァルキ、B. 『フィレンツェ・アカデミーにおける講義』フィレンツェ、1590年
  • ヴォークラン・ド・ラ・フレネ、J. 『フランス語詩論』G. ペリシエ校訂、パリ、1885年
  • ヴェットーリ、P. 『アリストテレス詩人芸術第一巻についての註釈』フィレンツェ、1560年
  • ウェッブ、W. 『イングランド詩論』E. アーバー校訂、ロンドン、1871年
  • ウッドワード、W.H. 『ヴィットリーノ・ダ・フェルトレと他のヒューマニスト教育者:論文と訳』ケンブリッジ、1897年

II. 二次文献

  • アルノー、C. 『アベ・ドービニャックの生涯と著作、および17世紀の劇理論研究』パリ、1887年
  • アロンシュタイン、P. 「ベン・ジョンソンの喜劇論」『アングリア』(1895年)、xvii巻
  • バイエ、A. 『著作家たちの主要著作に関する学者の判断』M. ド・ラ・モンノワ改訂、8巻、アムステルダム、1725年
  • ボリンスキ、K. 『ルネサンスの詩論とドイツにおける文学批評の始まり』ベルリン、1886年
  • ブルゴワン、A. 『17世紀の批評の巨匠たち』パリ、1889年
  • ブライティンガー、H. 『コルネイユのシッド以前のアリストテレス統一』第二版、ジュネーヴ・バーゼル、1895年
  • ブリュネティエール、F. 『文学史におけるジャンルの進化』第二版、i巻、パリ、1892年
  • ブリュノ、F. 『デポルト註釈によるマルエルブ教説』パリ、1891年
  • カネッロ、U. 『16世紀イタリア文学史』ミラノ、1880年
  • チェッキ、P.L. 『T. タッソ、16世紀イタリアの美・芸術・愛の哲学者』フィレンツェ、1877年
  • クロエッタ、W. 『中世とルネサンスの文学史への寄与』2巻、ハレ、1890-1892年
  • コンパレッティ、D. 『中世におけるウェルギリウス』E.F.M. ベネッケ訳、ロンドン、1895年
  • クレスチンベーニ、G.M. de 『俗語詩の歴史と理由』ローマ、1698年
  • ド・サンクティス、F. 『イタリア文学史』第六版、2巻、ナポリ、1893年
  • ディ・ニシア、G. 「解放されたエルサレムとタッソの詩論」『プロプグナトーレ』(1889年)、新シリーズ ii巻 1・2部
  • エーベルト、A. 『中世西洋文学全史』3巻、ライプツィヒ、1874-1887年
  • エッガー、E. 『ギリシア人における批評史試論』第二版、パリ、1886年
  • ―― 『フランスにおけるヘレニズム』2巻、パリ、1869年
  • ファギュエ、E. 『16世紀フランス悲劇』パリ、1894年
  • フォッファーノ、F. 『文学研究』リヴォルノ、1897年
  • ガスパリー、A. 『イタリア文学史』2巻、ストラスブール、1885-1888年
  • ハメリウス、P. 『17・18世紀イングランド文学における批評』ライプツィヒ、1897年
  • ジャキネ、P. 『フランシス・ベーコンの文学判断』パリ、1863年
  • ケルティング、G. 『ルネサンス期イタリア文学史』3巻、ライプツィヒ、1878-1884年
  • クランツ、E. 『デカルト美学、17世紀フランス古典文学との関係におけるデカルト教説研究』パリ、1882年
  • ラングロワ、E. 『韻律的修辞学論考について』パリ、1890年
  • リンティラック、E. 『J.-C. スカリゲルの詩学について』パリ、1887年
  • ―― 「文壇におけるクーデター」『ヌーヴェル・ルヴュー』(1890年)、lxiv巻
  • メネンデス・イ・ペラヨ、M. 『スペインにおける美学思想史』第二版、9巻、マドリード、1890-1896年
  • ミュラー、E. 『古代における芸術理論史』2巻、ブレスラウ、1834-1837年
  • ナターリ、G. 『トルクァート・タッソ、美・芸術・愛の哲学者』ローマ、1895年
  • ペリシエ、G. 『16世紀フランスにおける詩的芸術について』パリ、1882年
  • ペラン、F.T. 『ジローラモ・サヴォナローラ』2巻、パリ、1853年
  • クアドリオ、F.S. 『すべての詩の歴史と理由』5巻、ミラノ、1739-1752年
  • クオセク、C. 『シドニーの詩の擁護とアリストテレス詩学』クレフェルト、1884年
  • ロベール、P. 『ラシーヌの詩学』パリ、1890年
  • ローゼンバウアー、A. 『ロンサールとデュ・ベレーによるプレイヤッドの詩的理論』エアランゲン、1895年
  • リュクテシェル、T. 『ロンサールとマルエルブ時代のいくつかのフランス語詩論』ライプツィヒ、1889年
  • シェリング、F.E. 『エリザベス朝の詩的および韻文的批評』フィラデルフィア、ペンシルベニア大学出版、1891年
  • ソレルティ、A. 『トルクァート・タッソ伝』3巻、トリノ、1895年
  • シモンズ、J.A. 『イタリアにおけるルネサンス』7巻、ニューヨーク、1888年
  • タイヒミュラー、G. 『アリストテレス研究』2巻、ハレ、1869年
  • ティラボスキ、G. 『イタリア文学史』9巻、フィレンツェ、1805-1813年
  • ヴィラーリ、P. 『ジローラモ・サヴォナローラの生涯と時代』L. ヴィラーリ訳、ニューヨーク、1896年

索引

  • アブー=バシャール、16
  • アカデミー・ド・ポエジー・エ・ド・ミュジーク、224、300
  • クルスカ・アカデミー、123
  • ヌオーヴァ・ポエジア・アカデミー、222、224
  • アディソン、295
  • アイスキュロス、96
  • アグリコラ、132
  • アグリッパ、コルネリウス、7、273、275
  • アラマンニ、ルイジ、222
  • アルベルティ、レオン・バッティスタ、221
  • アフロディシアスのアレクサンドロス、78
  • ミラノのアンブロシウス、7
  • アノー、バルトロメ、182以下
  • アフトニウス、27
  • トマス・アクィナス、6、15
  • アレオパゴス、300
  • アレティーノ、106、163
  • アリオスト、109、112以下、115以下、123、162、222、293以下
  • アリストファネス、11
  • アリストテレス、随所、特に16以下、136以下、164以下、183以下、308以下;『詩学』、随所;『修辞学』、86
  • アスカム、254以下、283以下、298以下、302以下;『学校の師』、254
  • オービニャック、アベ・ド、210、223、236、245以下;『劇の実際』、210、245
  • アヴェロエス、16、24、26、314
  • ベーコン、フランシス、276以下、306;『学問の進歩』、276
  • ベーコン、ロジャー、16
  • バイフ、J.A.ド、224以下、298、300
  • バルディーニ、『アリストテレス詩論』、140
  • バルザック、グーズ・ド、139、239以下
  • デュ・バルタス、サリュスト、130、161、197、227、230
  • ボーブルイユ、ジャン・ド、208
  • デュ・ベレー、ジョアシャン、172以下、182以下、199以下、210以下;『フランス語の擁護と顕揚』、172、177以下
  • ベンボ、117、126、153、161、180、255、305
  • ベーニ、パオロ、36、92、123、140、244
  • ベルネイス、80
  • ベルニ、『詩人反対対話』、9、153
  • ベザ、230
  • ビネ、192、219
  • ブラックモア、295
  • ブレナーハセット、トマス、299
  • ボッカッチョ、8、13、16、35、165、193、261;『神々の系譜』、9
  • ボッカリーニ、『パルナッソス報告』、258
  • ボワロー、39、48、108、130以下、153、208以下、245以下、286;『詩論』、108、249
  • ボシュエ、7、238
  • ブートーヴィル、ミシェル・ド、223
  • ブライティンガー、H.、90
  • ブリュネティエール、93、176
  • ブルーニ、レオナルド、10、12;『学問と文学について』、10
  • ブルーノ、ジョルダーノ、165以下
  • ブキャナン、230
  • ブデ、173、310注
  • ブロカー、256
  • ブオナミーチ、『詩的論考』、140、167
  • ブッチャー、S.H.、26注、40、64、75
  • カルカニーニ、162以下
  • カンミッロ、ジュリオ、32、176
  • カンパネッラ、26以下
  • カンピオン、『イングランド詩の技法に関する観察』、297、304
  • カプリアーノ、83、87、120;『真の詩論について』、42、211
  • カーロ、アンニバル、222
  • カスカレス、146
  • カステルヴェトロ、44以下、55、316、随所
  • カスティリオーネ、103、161、180
  • カヴァルカンティ、127
  • チェッキ、106
  • セルヴァンテス、36、104、258注、290注
  • チェンバレイン、295
  • シャプラン、139、186、210、239以下
  • チェク卿ジョン、254、308
  • クレティアン・ル・グアイス、264
  • キケロ、16、30、54、104、164、178
  • コールリッジ、54、56、142
  • コルネイユ、75、84、90、101、139、206、210、229、245
  • トリエント公会議、15、130、142、160、224、268、292
  • コックス、レオナルド、254
  • クエヴァ、フアン・デ・ラ、146、233、305;『詩的模範』、146、234
  • ダシエ、63、70、75
  • ダニエル、『押韻の擁護』、257、297以下、304
  • ダニエッロ、20、28、48、61、82、137、196
  • ダンテ、8、16、51、66、109、138、180以下
  • ダティ、レオナルド、221
  • デイヴナント、259、295
  • デミエ、216
  • デノレス、151
  • デカルト、249
  • デシャン、ユスタシュ、174
  • デポルト、237
  • ディオメデス、64以下
  • ドルチェ、ロドヴィーコ、126、171、196
  • ドレ、173、227
  • ドナトゥス、104
  • ドラント、トマス、171、300以下
  • ドライデン、53、75、100、142、231、259、295、310
  • デュヴァル、227
  • ダイアー、300
  • エリス、ロビンソン、301以下
  • エクィコラ、58、127
  • エラスムス、173、184
  • エスピネル、171
  • エティエンヌ、アンリ、181、217
  • エウアンティウス=ドナトゥス、65
  • エウリピデス、284、308
  • ファブリ、ピエール、174以下
  • ファブリキウス、147、305
  • ファヌッチ、127
  • ファーカ、292
  • フィヒテ、157
  • フィチーノ、160
  • フィレルフォ、32、136
  • フィオレッティ、ベネデット、167
  • 『修辞学の花』、174
  • フォンテーヌ、シャルル、181以下
  • フラカストーロ、22、31以下、40以下、141、157、258;『ナウジェリウス』、31
  • フルゲンティウス、7、8
  • ガブリエッリ、トリフォン、138
  • ガンバラ、『完璧な詩の理について』、161
  • ガルニエ、230
  • ガスコイン、256、301
  • ジェッリ、106、163
  • ジラルディ・チンティオ、49、62、67、76、83、91、110以下、123、138、146、162、211、235、284
  • ゴルドーニ、167
  • ゴッソン、7、266以下、273
  • グラシアン・デュ・ポン、174以下
  • 『パルナッソスにおける大審判』、258、310注
  • 大グレゴリウス、8
  • グレヴィル、フルク、300
  • グレヴァン、201以下、228、232
  • グリナエウス、184
  • グアリーニ、『忠実な羊飼い』、164
  • グアリーノ、『教授順序について』、10
  • アルディ、アレクサンドル、232、235以下
  • ハリントン、275、293、305、308;『詩の弁護』、257、275、293
  • ハーヴェイ、ガブリエル、117、255、299以下、303以下
  • ハインシウス、ダニエル、147、185、245、292;『悲劇の構成について』、245
  • ヘリオドロス、36、196
  • ヘルマン、16
  • ヘルモゲネス、32;『イデア』、32
  • ポワティエのヒラリウス、7
  • ホッブズ、103注、259
  • ホメロス、4、6、18、随所
  • ホラティウス、11、16、随所;『詩論』、随所
  • ハワード卿ロバート、292
  • セビーリャのイシドロス、5、11、65
  • スコットランド王ジェームズ6世、262
  • ジョデル、173、206
  • バルビスのヨハネス・ヤヌエンシス、66
  • ソールズベリのヨハネス、11
  • ジョンソン、サミュエル、79、260
  • ジョンソン、ベン、54、88以下、104、142、246、258、278以下、288以下、297、304以下
  • ラ・ブリュイエール、241、248
  • ラマルティーヌ、48
  • ラ・メナールディエール、245
  • ランディ、オルテンシオ、164、165;『パラドッシ』、164
  • ラスカ、イル、104、106、163
  • ロードン、ピエール・ド、188、204、221、233;『フランス語詩論』、208
  • ル・ボシュー、246、294
  • ルモワーヌ、244
  • レオ10世、126、154、160
  • ル・ロワ、227
  • レッシング、75、79、142、147、310
  • リナルディ、アレッサンドロ、43、127
  • リウィウス、29、37
  • ロッジ、『詩、音楽、舞台劇の擁護』、267
  • ロンバルディ、138
  • ロングフェロー、302
  • ルカヌス、195、275
  • ルキアノス、35
  • ルクレティウス、45
  • ルイジーノ、138
  • ルター、147注
  • マクロビウス、244
  • マッジ、27、49、63、78、314、随所
  • マレ、210
  • マルエルブ、216、220、231、236以下;『デポルト註釈』、237
  • マンブラン、244、246、294
  • トルトーサのマンティヌス、16
  • マントゥアヌス、9
  • マランタ、108、146
  • ナヴァールのマルグリット、227
  • マリーノ、241
  • マロ、175、216、238
  • マスカルド、310注
  • ティルスのマクシムス、6
  • マッツォーニ、ヤコポ、309;『ダンテ擁護』、124注
  • メランヒトン、132、254
  • サン=ジュレのムラン・ド、175、206
  • メナージュ、241
  • メタスタージオ、167
  • ミケーレ、A.、36
  • ミルトン、54、70注、80以下、142、147、280、287、292、308以下
  • ミントゥルノ、21、52、269、随所;『詩論』、119;『詩人について』、21
  • ミランドラ、ピコ・デッラ、160、310注
  • モリエール、217
  • モンテーニュ、173、194、226以下、240
  • モンクレティエン、230
  • モンテマイヨール、196
  • モレル、ギヨーム、184
  • ムッセ、223、298
  • マルカスター、296
  • ムサエウス、88
  • ムツィオ、38、58、87、104、129、144、161、213;『詩的芸術』、50
  • ニシエーリ、ウデノ、→ フィオレッティ、ベネデット
  • ノレス、J. デ、→ デノレス
  • オジエ、フランソワ、235
  • オーピッツ、『ドイツ詩論』、147
  • オウィディウス、179、263
  • パリンゲニウス、39
  • パルテーニオ、127、134、141、147;『詩的模倣について』、128
  • パスキエ、223注
  • パトリッツィ、165以下、222;『詩論』、165
  • パッツィ、アレッサンドロ・デ、17、137、314
  • ピーチャム、『完璧な紳士』、310注
  • ペッレグリーノ、カミッロ、122以下
  • ペルティエ、171、175、182、191、199以下、205、211、217、225
  • ペトラルカ、8、16、58、138、261
  • ユダヤ人フィロン、7
  • ピブラック、ギィ・デュ・フォール・ド、225
  • シルヴィウス、アエネアス、12
  • ピッコロミーニ、アレッサンドロ、139以下、244、316
  • ピエール・ベルキュイール、264
  • ピーニャ、G.B.、115以下、123、235、284
  • ピンチアーノ、146
  • ピンダロス、211
  • ピザーニ侯爵夫人、241
  • プラトン、4以下、14、78、随所、特に156以下
  • プラウトス、85、102、285、291
  • プルタルコス、27、42、114
  • ポリツィアーノ、13以下、188;『森の詩』、13
  • ポンポナッツィ、137
  • ポンターノ、G.、103注、146注、153
  • ポンターノ、P.、146注
  • ポンタヌス、J.、146注、147
  • ポープ、アレクサンダー、260、310;『批評論』、108
  • プリン、7
  • プッテナム、264以下、284、293;『イングランド詩の技法』、256、264
  • 『ホラティウス的クィンティリウス』、181以下、216以下
  • クィンティリアヌス、16、54、132、164
  • ラカン、237
  • ラシーヌ、75、139、238、245
  • ランブイエ侯爵夫人、241
  • ラミュ、137、164、223以下、227
  • ラパン、75、106、245、292、294;『詩論に関する省察』、139
  • レグルス、108
  • レンギフォ、145
  • 『ギリシア修辞家』、17
  • ロディギヌス、136
  • リッチ、B.、138
  • リッコボーニ、140、146、244
  • リシュリュー、209以下
  • ロボルテッリ、17、25、29以下、63、77、91、103、139、244、315
  • ロンサール、54、147、173、187以下、206、211、218以下、226以下、231、256
  • ルチェッライ、136
  • ルスケッリ、58、127
  • サックヴィル、『ゴルボダック』、284、290
  • サン=タマン、244
  • サント=ブーヴ、152
  • サルヴィアーティ、リオナルド、88以下、123以下、139注、140、162、181、305、314、316
  • サンチェス、アルフォンソ、234
  • サンナザーロ、35、153、160、179、234
  • サヴォナローラ、6、13以下、24、27、130、160
  • ヨーゼフ・ユストゥス・スカリゲル、245
  • ユリウス・カエサル・スカリゲル、14、36以下、43、58、131以下、310注、随所;『詩学』、150、176、随所
  • シェランドル、J. ド、235
  • シェリング、157
  • シュレーゲル、157
  • ショッサー、『悲劇論争』、147注
  • スクデリ、244
  • セーニ、A.、42注
  • セーニ、B.、17、92、139、315
  • セルデン、310注
  • セネカ、62、69、85、201、232、284以下、308
  • シャフツベリ、54
  • シェイクスピア、46、56、79、104以下、205、296
  • シェリー、12、54、128、142、147、188、192、310
  • シビレ、174以下、223;『フランス語詩論』、175
  • シドニー卿、フィリップ、34、51、104、142、随所;『詩の擁護』、268以下、随所
  • シリウス・イタリクス、195
  • シモニデス、42
  • ソフォクレス、62、284、308
  • スペンサー、117、161、296、299、302、305
  • スペローニ、スペローネ、75、81、116以下、242
  • スタニハースト、リチャード、302
  • ストラボン、24、27、47、54、193
  • シュトゥルム、ヨハネス、132、254
  • サックリング、『詩人の会合』、258
  • スエトニウス、『詩人について』、65
  • スンモ、ファウスティーノ、36、167
  • サリー、299
  • シモンズ、J.A.、257
  • ジャック・ド・ラ・タイユ、223以下、298
  • ジャン・ド・ラ・タイユ、185以下、201以下、290;『悲劇の技法』、201、206
  • ベルナルド・タッソ、17、22、55、119
  • トルクァート・タッソ、8、34、37、56、117、119以下、128、130、139、151、192、309;『詩的芸術論考』、119、213;『弁護』、123
  • テンポ、アントニオ・ディ、174
  • テニスン、302
  • テレンティウス、85、106、287、291
  • テルトゥリアヌス、5
  • テオクリトス、179
  • テオフラストス、64以下
  • ティブルス、179
  • トロメイ、クラウディオ、126、161、222、256、298
  • トミターノ、43
  • トスカネッラ、108
  • トッテルの『雑詩集』、255
  • トリンカヴェッリ、137
  • トリッシーノ、58、92以下、102、106、112、126、136、176、206、288;『詩論』、76、92、109、140、150
  • トゥルネブス、184
  • トワイニング、80
  • ヴァッラ、ジョルジョ、17、314
  • ヴァルキ、27、34、41、50、124注、138、141、150、161、180
  • ヴォークラン・ド・ラ・フレネ、48、176以下、186、196、203、207、212、219、227以下
  • ヴェガ、ロペ・デ、233以下、258注
  • ヴェットーリ、37注、77、97、139、315
  • ヴィーダ、13、87、106、126以下、131以下、148、160、183、187、215、218、244、247
  • ヴィペラーノ、146注、188、204
  • ウェルギリウス、18、30、87、106、随所
  • ヴォルテール、95
  • ヴォッシウス、185、244以下、292、294、310注
  • ウォートン、ジョゼフ、143
  • ウォートン、トマス、254
  • ワトソン、トマス、298、308
  • ウェッブ、ウィリアム、268、284、293、302、305;『イングランド詩論』、256、263、283
  • ウィルソン、『修辞学』、254、261、296
  • ウィザー、258
  • ウッドベリー、G.E.、12注
  • クセノフォン、30、275
  • ザバレッラ、26以下
  • サパタ、171

LI LIVRES DU GOUVERNEMENT DES ROIS
(エジディオ・コロンナ『君主の統治について』の13世紀フランス語訳、カー写本より)
サミュエル・ポール・モレナール編
ペンシルベニア大学講師、コロンビア大学元フェロー
8vo. 布装. $3.00 net

この論文「君主の教育について」は1285年頃、少年王子フィリップ美王(後のフランス王フィリップ4世)の家庭教師によってラテン語で書かれ、若き王の即位時に一般公衆のためにフランス語訳が命じられた。15・16世紀に原ラテン語で多数の版が出たが、フランス語版はこれまで印刷されていなかった。教育・社会の広範な主題を中世の啓蒙的学問の精神で論じている。このアクセシブルな形で、教育思想史の興味深い一章を構成すると信じられる。

THE MACMILLAN COMPANY, 66 FIFTH AVENUE, NEW YORK.

COLUMBIA UNIVERSITY PRESS 出版物

ヘンリー・ドリスラー教授記念古典研究
(ドリスラー教授のコロンビア大学在職50周年記念に元生徒たちが寄稿した古典主題の論文集)
8vo. 布装. $4.00 net

この豪華な巻は、感情的な興味を持ち、学者の研究記録の中でも別格である。研究の多くはまず専門家に訴えるが、多くはより広い関心を持つ。アメリカ学問の誉れであり、ドリスラー教授への適切な献呈である。――The Outlook

THE MACMILLAN COMPANY, 66 FIFTH AVENUE, NEW YORK.


訂正

脚注30:ad nostras を ad nostra に変更(”Jacuit liber hic neglectus, ad nostra”)
26頁:[Greek: ton euantion] を [Greek: ton enantion] に変更
218頁:Postero を Postera に変更(Postera Phoebea lustrabat lampade terras)
229頁:sulutaires を salutaires に変更(sous les loix salutaires)

備考

第一部第四章:
トリッシーノ(1561年):付録Aに1561年のトリッシーノは記載されていない。

第二部第一章:
目次に記載された二つの小見出しは本文に現れない。

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍『ルネサンスにおける文芸批評史』終 ***
《完》


パブリックドメイン古書『相対性理論:特殊理論と一般理論』(1916)を、ブラウザ付帯で手続き無用なグーグル翻訳機能を使って訳してみた。

 興味本位で英語版から機械訳してみたものです。もともとはドイツ語でしょうから、これは《重訳》となるでしょう。
 おどろきましたのは、出だしからしばらくは、至って読みやすくて、まるでじぶんのアタマが良くなったように錯覚します。ユークリッド幾何学があたりまえ視している約束事は、じつは通用しないケースがあるのだと。たとえば「線分の長さ」が保証されないとしたら……? ふむふむ、と胸に落ちる気がして参ります。

 さすがに、式や記号がサクッと消えてしまっていたり、「チェスト」(天板のある、しっかりした立体の箱)を「胸」と訳しているなどの、すぐに気付かれるあやしげな脳乱も、容易にみつかります。しかし、無料の翻訳サービスでこの水準は、凄くね?

 第一次世界大戦たけなわの1916にこれが世界に向けて発表されました。最前線でこれを読んだが、その2年後、生きて凱旋することはなかった、若い「科学者」たちもいたのです。

 例によって、プロジェクト・グーテンベルグさまには御礼を申し上げます。
 図版は省略しました。
 以下、本篇です。(ノー・チェックです)

*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「相対性理論:特殊理論と一般理論」の開始 ***
[コンテンツ]
新しくデザインされた表紙。

[コンテンツ]
アルバート・アインシュタイン。
アルバート・アインシュタイン。

[コンテンツ]
オリジナルのタイトルページ。

相対性理論
特殊理論と一般理論
わかりやすい解説
アルバート
・アインシュタイン博士(
ベルリン大学物理学教授 )ロバート・W・ローソン博士( シェフィールド大学)
による公式翻訳

1916
目次
序文
私。 特殊相対性理論
私。 幾何学的命題の物理的意味
II. 座標系
III. 古典力学における空間と時間
IV. ガリレオ座標系
V. 限定された意味での相対性原理

  1. 古典力学で用いられる速度の加法定理
    七。 光の伝播の法則と相対性原理の一見矛盾する点
    八。 物理学における時間の概念について
  2. 同時性の相対性
    X. 距離の概念の相対性について
    XI. ローレンツ変換
  3. 運動中の測定棒と時計の挙動
  4. 速度の加法定理。フィゾーの実験
  5. 相対性理論の発見的価値
  6. 理論の一般的な結果
  7. 経験と特殊相対性理論
  8. ミンコフスキーの四次元空間
    II. 一般相対性理論
  9. 特殊相対性原理と一般相対性原理
  10. 重力場
    XX. 一般相対性理論の根拠としての慣性質量と重力質量の等価性
  11. 古典力学と特殊相対性理論の基礎はどのような点で不十分なのでしょうか?
    XXII. 一般相対性原理からのいくつかの推論
    XXIII. 回転基準体上における時計と測定棒の挙動
    XXIV. ユークリッド連続体と非ユークリッド連続体
    XXV. ガウス座標
    XXVI. 特殊相対性理論の時空連続体をユークリッド連続体として考える
    XXVII. 一般相対性理論の時空連続体はユークリッド連続体ではない
    XXVIII. 一般相対性原理の正確な定式化
    XXIX. 一般相対性原理に基づく重力問題の解決
    III. 宇宙全体についての考察
    XXX. ニュートン理論の宇宙論的困難
    XXXI. 「有限」でありながら「無限」な宇宙の可能性
    XXXII. 一般相対性理論による空間の構造
    私。 ローレンツ変換の簡単な導出 [第11節の補足]
    II. ミンコフスキーの四次元空間(「世界」)[第17節補足]
    III. 一般相対性理論の実験的確認
    (ア)。 水星の近日点の運動
    (b)。 重力場による光の偏向
    (ハ)。 スペクトル線の赤色方向への変位
    IV. 一般相対性理論による空間の構造 [第32節補足]
    [コンテンツ]
    序文
    本書は、一般的な科学的・哲学的観点から相対性理論に興味を持ちながらも、理論物理学の数学的手法に精通していない読者に対し、可能な限り正確な洞察を与えることを目的としています。本書は、大学入学試験に相当する教育水準を前提としており、また、本書の短さにもかかわらず、読者には相当の忍耐力と強い意志が求められます。著者は、主要な概念を最も簡潔かつ分かりやすい形で、そして全体として、それらが実際に生まれた順序と繋がりで提示するために、あらゆる努力を惜しみませんでした。明瞭性を保つために、表現の洗練さには全く注意を払わず、何度も同じことを繰り返すのは避けられないように思われました。私は、あの輝かしい理論物理学者L・ボルツマンの教えに忠実に従いました。彼によれば、洗練さの問題は仕立て屋と靴屋に任せておくべきでした。このテーマに内在する難解さを読者に隠蔽したつもりは全くありません。一方で、この理論の実証的な物理的基礎については、あえて「継母のような」扱い方をしました。物理学に馴染みのない読者が、木を見て森を見ずの放浪者のような気分にならないようにするためです。本書が、誰かにとって示唆に富んだ思考に満ちた幸せな時間となることを願います。

1916年12月

A. アインシュタイン

第1部
特殊相対性理論
[コンテンツ]
I
幾何学的命題の物理的意味
本書を読んでいる皆さんのほとんどは、学生時代にユークリッド幾何学の崇高な構築に触れ、その壮麗な構造を――おそらくは愛よりも敬意を込めて――覚えているでしょう。その高い階段の上で、良心的な教師たちに何時間も追いかけ回されたのです。過去の経験からすれば、この学問の最も突飛な命題でさえも偽であると断言する者を、皆さんはきっと軽蔑するでしょう。しかし、もし誰かが「では、これらの命題が真であると主張するのはどういう意味ですか?」と尋ねたら、おそらくこの誇り高き確信はたちまち消え去るでしょう。では、この問いについて少し考えてみましょう。

幾何学は、「平面」「点」「直線」といった特定の概念から出発します。これらの概念には、多かれ少なかれ明確な概念が結び付けられます。そして、これらの概念のおかげで「真」であると受け入れがちな、ある種の単純な命題(公理)が存在します。そして、その正当性を認めざるを得ない論理的過程に基づいて、残りのすべての命題がそれらの公理から導かれることが示され、すなわち証明されます。命題は、公理から認識された方法で導かれた場合にのみ、正しい(「真」)とされます。個々の幾何学的命題の「真」に関する問いは、こうして公理の「真」に関する問いに還元されます。ところで、この最後の問いは、幾何学の方法論では答えられないだけでなく、それ自体全く意味をなさないことが、以前から知られていました。2点を通る直線は1本だけである、という問いは真である、と問うことはできません。ユークリッド幾何学は「直線」と呼ばれるものを扱っており、それぞれの直線は、その上に位置する二点によって一意に決定されるという性質を帯びている、としか言えない。「真」という概念は純粋幾何学の主張とは一致しない。なぜなら、私たちは「真」という言葉によって、結局は常に「実在する」対象との対応を指す傾向があるからだ。しかし、幾何学は、それに含まれる観念と経験の対象との関係ではなく、観念同士の論理的結びつきのみを扱っている。

それにもかかわらず、なぜ私たちが幾何学の命題を「真」と呼ばざるを得ないと感じるのかは、容易に理解できます。幾何学的概念は、多かれ少なかれ自然界の正確な対象に対応しており、これらの対象こそが、幾何学的概念の起源の唯一の原因であることは疑いありません。幾何学は、その構造に可能な限りの論理的統一性を与えるために、そのような方向へ進むべきではありません。例えば、実質的に剛体である物体上の2つの目立った位置を「遠く」から見るという習慣は、私たちの思考習慣に深く根付いています。さらに、適切な観察位置の選択によって片目で3点の見かけの位置を一致させることができる場合、私たちは3点が直線上にあると見なすことに慣れています。

我々の思考習慣に従い、ユークリッド幾何学の命題に、実際的剛体上の二点は、その物体にどのような位置変化を与えても常に同じ距離(線間隔)に対応するという単一の命題を付け加えると、ユークリッド幾何学の命題は、実際的剛体の可能な相対位置に関する命題へと帰着する。1このように補足された幾何学は、物理学の一分野として扱われることになる。このように解釈された幾何学的命題の「真理性」について、正当に問うことができる。なぜなら、これらの命題が、幾何学的概念に結び付けた実在の事物に対して満たされるかどうかを問うことは正当だからである。より正確な言葉で言えば、この意味での幾何学的命題の「真理性」とは、定規とコンパスを用いた作図に対するその命題の妥当性を意味する、と言い換えることができる。

もちろん、この意味での幾何学的命題の「真理」に対する確信は、むしろ不完全な経験にのみ基づいている。ここでは幾何学的命題の「真理」を前提とし、後の段階(一般相対性理論)で、この「真理」には限界があることを理解し、その限界の範囲を検討する。

1したがって、自然物は直線とも関連している。 剛体上の3点A、B、Cは、点Aと点Cが与えられ、距離ABと距離BCの和が可能な限り短くなるように点Bが選ばれるとき、直線上に存在する。この不完全な提案は、本目的には十分である。 ↑

[コンテンツ]
II
座標系
これまで示してきた距離の物理的解釈に基づき、剛体上の二点間の距離を測定によって確定することも可能です。そのためには、一度限りの「距離」(棒S )が必要です。これは標準的な尺度として用いるものです。ここで、剛体上の二点AとBを考えてみましょう。幾何学の法則に従って、これらを結ぶ線を引くことができます。そして、 A から出発して、Bに到達するまで、何度も距離Sを測ることができます。この操作を繰り返すことで、距離 ABを数値的に求めることができます。これが、あらゆる長さの測定の基礎となります。1

出来事の場面や空間における物体の位置に関するあらゆる記述は、その出来事や物体が一致する剛体(参照体)上の点の指定に基づいています。これは科学的な記述だけでなく、日常生活にも当てはまります。「ニューヨーク、タイムズスクエア」という場所の指定を分析すると、2 次のような結果が得られます。地球は場所の指定が指し示す剛体であり、「ニューヨーク、タイムズスクエア」は明確に定義された点であり、名前が付けられ、出来事が空間的に一致する点です。3

この原始的な場所指定方法は、剛体の表面上の場所のみを対象とし、この表面上に互いに区別可能な点が存在することを前提としています。しかし、位置指定の性質を変えることなく、これらの両方の制約から解放されることができます。例えば、タイムズスクエアの上に雲が浮かんでいる場合、スクエアに垂直に柱を立て、雲に届くようにすることで、地球の表面に対する雲の位置を特定できます。標準の物差しで測定した柱の長さと、柱の根元の位置の指定を組み合わせることで、完全な場所指定が可能になります。この図に基づいて、位置の概念がどのように洗練されてきたかを見ることができます。

(あ)場所の指定が参照される剛体は、必要な位置にあるオブジェクトに完成した剛体が到達できるように補足されていると想像します。
(イ)物体の位置を特定する際には、指定された参照点の代わりに数値 (ここでは測定棒で測定された棒の長さ) を使用します。
雲の高さについて話す場合、雲に達するポールがまだ設置されていない場合でも、その高さについて話すことができます。地上の様々な位置から雲を光学的に観測し、光の伝播特性を考慮することで、雲に到達するのに必要なポールの長さを決定します。

この考察から、位置の記述において、数値的な尺度を用いることで、参照する剛体上の(名前を持つ)マークされた位置の存在に依存しないことができれば有利であることが分かる。計測物理学においては、これは直交座標系を適用することで達成される。

これは、互いに直交し、剛体にしっかりと固定された3つの平面から構成されます。座標系に照らし合わせると、出来事の現場は(主に)3つの垂線の長さ、または出来事の現場から3つの平面に落とすことができる座標を特定することによって決定されます。これらの3つの垂線の長さは、ユークリッド幾何学で定められた規則と方法に従って、剛体測定棒を用いた一連の操作によって決定できます。

実際には、座標系を構成する剛体面は一般に利用できない。さらに、座標の大きさは剛体棒を用いた作図によってではなく、間接的な手段によって決定される。物理学と天文学の成果の明確さを維持するためには、位置の指定の物理的意味は常に上記の考察に従って探求されなければならない。4

以上のことから、以下の結果が得られる。空間におけるあらゆる事象の記述は、その事象が参照されるべき剛体の使用を伴う。この関係は、ユークリッド幾何学の法則が「距離」に対して成立することを当然のこととしている。「距離」は、剛体上の二つの点という慣例によって物理的に表現される。

1ここでは、測定値に余りがない、つまり整数が得られると仮定しています。この問題は、分割された測定棒を用いることで解決されます。この測定棒の導入に、根本的に新しい手法は不要です。 ↑

2アインシュタインは原文で「ポツダム広場、ベルリン」と表記していました。公式翻訳では「トラファルガー広場、ロンドン」が補足されています。現代の英語話者に最もよく知られている場所であるため、「タイムズスクエア、ニューヨーク」に変更しました。 ↑

3ここで「空間における一致」という表現の意味をさらに検討する必要はない。この概念は十分に明白であり、実際の適用性に関して意見の相違が生じる可能性はほとんどない。 ↑

4これらの見解の改良と修正は、本書の第2部で扱われる一般相対性理論を扱うまで必要ありません。 ↑

[コンテンツ]
III
古典力学における空間と時間
力学の目的は、物体が「時間」とともに空間における位置をどのように変化させるかを記述することです。もし私が力学の目的を、真剣な考察と詳細な説明なしにこのように定式化すれば、明晰さという神聖な精神に対する重大な罪を、私の良心に負わせることになるでしょう。さあ、これらの罪を明らかにしていきましょう。

ここで「位置」と「空間」とは一体何を指すのか、明確ではありません。等速で走行する鉄道車両の窓辺に立って、石を投げるのではなく、土手に落とします。すると、空気抵抗の影響を無視して、石が直線的に落下していくのが見えます。歩道からこの悪行を観察していた歩行者は、石が放物線を描いて地面に落下することに気づきます。そこで私は問います。石が通過する「位置」は「現実には」直線上にあるのでしょうか、それとも放物線上にあるのでしょうか。さらに、ここで「空間における」運動とは一体何を意味するのでしょうか。前節の考察から、答えは自明です。まず第一に、私たちは「空間」という曖昧な言葉を完全に避けます。正直に認めなければなりませんが、その言葉については全く理解できません。そして、それを「実質的に剛体である基準物体に対する相対的な運動」に置き換えます。基準物体(鉄道車両または土手)に対する相対的な位置は、前節で既に詳細に定義されています。 「基準物体」の代わりに、数学的記述に有用な概念である「座標系」を挿入すれば、次のように言える。「石は、台車に固定された座標系に対しては直線を描きますが、地面(土手)に固定された座標系に対しては放物線を描きます。」この例から、独立して存在する軌道(文字通り「軌跡曲線」1)など存在せず、特定の基準物体に対する相対的な軌道のみが存在することが明確に分かる。

運動を完全に記述するためには、物体が時間とともにどのように位置を変えるかを特定する必要がある。すなわち、軌道上のあらゆる点について、物体が何時にそこに位置しているかを明示しなければならない。これらのデータは、時間の定義によって補完されなければならない。この定義によって、これらの時間値は本質的に観測可能な量(測定結果)とみなせるようになる。古典力学の立場に立つならば、この説明における要件は以下のように満たすことができる。同一の構造を持つ2つの時計を想像してみよう。鉄道車両の窓辺にいる人が1つを持ち、歩道にいる人がもう1つを持っているとする。それぞれの観測者は、手に持っている時計が刻むたびに、それぞれの基準物体上の石の位置を測定する。この点に関して、光の伝播速度の有限性に伴う不正確さは考慮していない。この点と、ここで生じる2つ目の難点については、後ほど詳しく説明する。

1つまり、体が動く曲線です。 ↑

[コンテンツ]
IV
ガリレオ座標系
よく知られているように、ガリレイ=ニュートン力学の基本法則、すなわち慣性の法則は、次のように述べられます。「他の物体から十分に離れた物体は、静止状態または直線上で等速運動を続ける。」この法則は、物体の運動について何かを述べているだけでなく、力学において許容され、力学的記述に使用できる基準物体、すなわち座標系も示しています。目に見える恒星は、慣性の法則が確実に高い近似度で成り立つ物体です。さて、地球に固定された座標系を用いると、この座標系を基準として、すべての恒星は天文日の間に広大な半径の円を描くことになります。これは慣性の法則の記述とは矛盾する結果です。したがって、この法則に従うならば、これらの運動は、恒星が円運動をしない座標系にのみ基づかなければなりません。慣性の法則が相対的に成り立つような運動状態を持つ座標系は「ガリレイ座標系」と呼ばれます。ガリレイ-ニュートン力学の法則は、ガリレイ座標系においてのみ有効であるとみなされます。

[コンテンツ]
V
限定された意味での相対性原理
理解を可能な限り明確にするために、等速直線運動をしていると仮定した鉄道車両の例に戻りましょう。この運動を等速並進運動と呼びます(「等速」とは速度と方向が一定であること、「並進」とは車両が土手に対して相対的に位置を変えるものの、回転しないことを意味します)。土手から見ると等速直線運動をしているカラスが空中を飛んでいると想像してみましょう。走行中の鉄道車両から飛翔中のカラスを観察すると、カラスの運動は速度と方向は異なるものの、やはり等速直線運動をしていることがわかります。抽象的に表現すると、質量m が座標系Kに対して等速直線運動している場合、第二の座標系 K′ がKに対して 等速並進運動をしている限り、質量 m は第二の座標系K′に対しても等速直線運動をしていることになります。前のセクションの議論によれば、次のようになります。

Kがガリレイ座標系である場合、他のすべての座標系K′は、 Kに対して等速直線運動の状態にあるとき、ガリレイ座標系となります。K ′に対しては、ガリレイ-ニュートン力学法則がKに関してと全く同様に成立します 。

この原則を次のように表現することで、一般化をさらに一歩進めることができます。K に対して、K′ が回転を伴わずに等速運動する座標系である場合、自然現象はK′に関してもKに関してと全く同じ一般法則に従って進行します。この主張は(限定された意味での)相対性原理と呼ばれます。

あらゆる自然現象が古典力学によって表現可能であると確信している限り、この相対性原理の妥当性を疑う必要はなかった。しかし、近年の電気力学と光学の発展を考慮すると、古典力学はあらゆる自然現象の物理的記述にとって不十分な基盤しか提供していないことがますます明らかになった。この時点で、相対性原理の妥当性に関する問題は議論の機が熟し、この問いに対する答えが否定的である可能性も否定できないように思われた。

それでもなお、相対性原理の妥当性を強く支持する二つの一般的な事実がある。古典力学はあらゆる物理現象を理論的に提示するのに十分な広範さの基盤を提供していないとしても、それでもなお、天体の実際の運動を驚異的とも言えるほど精緻に詳細に示していることから、ある程度の「真実」を認めざるを得ない。したがって、相対性原理は力学の領域において高い精度で適用されるはずである。しかし、このように広範な一般性を持つ原理が、ある現象領域においてはこれほど正確に成立する一方で、別の現象領域においては無効であるということは、先験的にあまりありそうにない。

次に 2 番目の議論に進みますが、これについては後で詳しく説明します。相対性原理 (限定された意味で) が成り立たない場合、互いに一様に運動しているガリレオ座標系K、K′、K″などは、自然現象の記述においては同等にはなりません。この場合、自然法則は特に単純な方法で定式化できると考えざるを得ませんが、もちろん、すべての可能なガリレオ座標系の中から、特定の運動状態の1 つ( ) を基準体として選択したという条件付きでしかありません。その場合、この系を「絶対的に静止している」、他のすべてのガリレオ系Kを「運動している」と呼ぶことが (自然現象の記述におけるその利点ゆえに) 正当化されるはずです。たとえば、私たちの盛土が 系だとすると、私たちの鉄道車両は 系Kとなり、これに対しては に関してよりも単純な法則が成り立ちません。この単純さが損なわれるのは、キャリッジKがに対して(つまり「実際に」)運動しているという事実による。 Kを参照して定式化された自然法則の一般性においては、キャリッジの速度の大きさと方向が必然的に影響を及ぼす。例えば、オルガンパイプの軸を移動方向と平行に置いた場合、そこから発せられる音は、パイプの軸を移動方向に対して垂直に置いた場合と異なることが予想される。

さて、地球は太陽の周りを公転していますが、これは秒速約30キロメートルで移動する鉄道車両に例えることができます。相対性原理が成り立たないのであれば、地球の運動方向はどの瞬間においても自然法則に従わなければならず、また物理システムの挙動も地球に対する空間の向きに依存するはずです。なぜなら、地球の公転速度は1年の間に変化するため、地球は仮想システムに対して1年を通して静止していることはできないからです。しかしながら、いかに注意深く観察しても、地球の物理空間におけるこのような異方性、すなわち異なる方向の物理的な非等価性は明らかにされていません。これは相対性原理を支持する非常に強力な論拠です。

[コンテンツ]
VI
古典力学で用いられる速度の加法定理
古くからの友人である鉄道車両がレール上を一定速度vで走行していると仮定しましょう。そして、ある人が車両の進行方向に速度wで車両の長さ分を横切るとします。この過程で、人はどれだけの速さ、言い換えれば、どれだけの速度Wで土手に対して前進するのでしょうか。唯一の可能な答えは、次の考察から得られると思われます。もし人が1秒間静止しているとしたら、彼は土手に対して、車両の速度に数値的に等しい距離 vだけ前進するでしょう。しかし、歩行の結果として、彼はこの1秒間に車両に対して、そしてしたがって土手に対しても、追加の距離wを移動します。この距離 w は、彼が歩いている速度に数値的に等しいです。したがって、彼は合計で、この1秒間に土手に対して移動した距離と同じ距離を移動したことになります。古典力学で用いられる速度の加法定理を表すこの結果は、後で説明しますが、維持することはできません。言い換えれば、ここで述べた法則は現実には成り立ちません。しかし、当面はそれが正しいと仮定しましょう。

[コンテンツ]
VII
光の伝播の法則と相対性原理の一見矛盾する点
物理学において、光が空間を伝播する法則ほど単純な法則はほとんど存在しない。学校ではどの子供も、この伝播は毎秒キロメートルの速度で直線的に起こることを知っている、あるいは知っていると思い込んでいる。いずれにせよ、この速度はすべての色で同じであることは、非常に正確にわかっている。そうでなければ、恒星が隣の暗い恒星に食される際に、異なる色の放射の極小点が同時に観測されることはないからである。オランダの天文学者デ・ジッターも、二重星の観測に基づく同様の考察により、光の伝播速度は発光体の運動速度には依存しないことを示している。この伝播速度が「空間」の方向に依存するという仮定自体、ありそうにない。

つまり、光速度c (真空中)の不変という単純な法則が、 学校で子供たちに当然のこととして信じられていると仮定しましょう。この単純な法則が、良心的に思慮深い物理学者を、最大の知的困難に陥れるとは、誰が想像できるでしょうか?これらの困難がどのように生じるのかを考えてみましょう。

もちろん、光の伝播過程(そして他のあらゆる過程)は、剛体(座標系)に依拠しなければなりません。そのような基準体として、再び盛土を選びましょう。盛土の上空は空気が除去されていると仮定します。光線を盛土に沿って送ると、光線の先端は盛土に対して速度cで伝播することが上から分かります。さて、ここでも鉄道車両が線路に沿って速度vで走行し、その方向は光線の方向と同じですが、速度は当然ながらはるかに遅いと仮定しましょう。光線の車両に対する伝播速度について考えてみましょう。光線は車両に対して相対的に歩く人間の役割を果たすため、前節の考察を適用できることは明らかです。盛土に対する人間の速度W は、ここでは盛土に対する光の速度に置き換えられます。wは車両に対する光の速度であり、以下の式が成り立ちます。

したがって、光線のキャリッジに対する伝播速度はcよりも小さくなります。

しかし、この結果は第V節で述べた相対性原理と矛盾する。なぜなら、他のあらゆる自然法則と同様に、相対性原理によれば、真空中の光透過の法則は 、鉄道車両を基準物体とした場合も、レールを基準物体とした場合も同じであるはずだからである。しかし、上記の考察からすると、これは不可能と思われる。もしすべての光線が盛土に対して速度cで伝播するならば、この理由から、車両に関しても必然的に別の光伝播の法則が成立するはずであるが、これは相対性原理に反する結果である。

このジレンマを考​​えると、相対性原理か真空中の光の伝播の単純な法則のどちらかを放棄する以外に道はないと思われる。これまでの議論を注意深く追ってきた読者諸君は、あまりにも自然で単純であるがゆえに知性に強く訴える相対性原理を保持すべきだとほぼ確信しているだろう。そうなると、真空中の光の伝播の法則は、相対性原理に適合するより複雑な法則に置き換えられなければならないだろう。しかし、理論物理学の発展は、この道を追求することはできないことを示している。運動する物体に関連する電気力学および光学現象に関するH・A・ローレンツの画期的な理論的研究は、この領域における経験が最終的に電磁気現象の理論につながり、その必然的な帰結として真空中の光速度不変の法則が導かれることを示している。そのため、著名な理論物理学者たちは、この原理に矛盾する経験的データが見つかっていないにもかかわらず、相対性原理を拒否する傾向が強かった。

この時点で相対性理論が登場した。時間と空間に関する物理的概念の分析の結果、現実には相対性原理と光の伝播の法則の間に矛盾は全く存在せず、これら二つの法則を体系的に堅持することで、論理的に強固な理論に到達できることが明らかになった。この理論は、後述する拡張相対性理論と区別するために特殊相対性理論と呼ばれている。以下のページでは、特殊相対性理論の基本的な考え方を紹介する。

[コンテンツ]
VIII
物理学における時間の概念について
雷は、私たちの鉄道の土手にある、互いに遠く離れた2つの地点AとBでレールに落ちました。さらに、この2つの雷は同時に発生したと主張します。この記述に意味があるかどうか尋ねれば、あなたは「はい」と断言するでしょう。しかし、この記述の意味をより正確に説明してほしいと私があなたに求めると、少し考えてみれば、この質問への答えは一見したほど簡単ではないことに気づくでしょう。

しばらくすると、おそらく次のような答えが思い浮かぶでしょう。「この記述の意味はそれ自体明らかであり、これ以上の説明は不要です。もちろん、実際のケースで二つの出来事が同時に起こったかどうかを観測によって判断するよう依頼されたとしたら、ある程度の検討が必要になるでしょう。」私はこの答えに満足できません。なぜなら、有能な気象学者が独創的な考察の結果、雷は常にA地点とB地点に同時に落ちなければならないことを発見したと仮定すると、私たちはこの理論的結果が現実と一致するかどうかを検証するという課題に直面するからです。「同時」という概念が関与するすべての物理的記述において、私たちは同じ困難に直面します。物理学者にとって、この概念は、実際のケースでそれが満たされるかどうかを発見できるまで存在しません。したがって、同時性の定義が必要です。この定義によって、今回のケースにおいて、両方の雷撃が同時に起こったかどうかを実験によって判断できる方法が提供されるのです。この要件が満たされない限り、同時性の記述に意味を付与できると想像する時、物理学者として(もちろん物理学者でなくても同じことが当てはまる)、私は自分自身を欺いていることになる。(読者にはこの点について完全に納得するまで、これ以上先に進まないようにお願いしたい。)

しばらく考えた後、同時性を検証するための次の提案を提示します。レールに沿って測定を行い、接続線 ABを測定し、距離ABの中点Mに観測者を配置します。この観測者には、地点AとBを同時に視覚的に観測できるような配置(例えば、 2つの鏡を に傾けるなど)を用意します。観測者が2つの稲妻を同時に知覚した場合、それらは同時発生しています。

私はこの提案に非常に満足していますが、それでも、問題が完全に解決したとは考えられません。なぜなら、次のような異議を唱えざるを得ないからです。

「もしMの観測者が稲妻の閃光を捉える光が、長さに沿って進む速度と同じ速度で長さに沿って進むと知っていれば、あなたの定義は確かに正しいでしょう。しかし、この仮定を検証するには、時間を測定する手段が既に利用可能である必要があります。そうすると、論理的に堂々巡りしているように見えるでしょう。」

さらに考えた後、あなたは私にいくぶん軽蔑的な視線を投げかけ、そして当然ながらこう宣言しました。

それでも私は以前の定義を維持する。なぜなら、実際にはそれは光について全く何も仮定していないからだ。同時性の定義に求められる唯一の要件は、あらゆる現実の場合において、定義されるべき概念が満たされているかどうかについて、経験的な判断が与えられなければならないということである。私の定義がこの要件を満たしていることは疑いようがない。光が経路を通過するのに、その経路を通過するのに同じ時間を要するということは、実際には光の物理的性質に関する仮定でも仮説でもなく、同時性の定義に到達するために私が自らの自由意志で定めることのできる 規定に過ぎない。

この定義は、 2 つのイベントだけでなく、任意の数のイベントに正確な意味を与えるために使用でき 、イベントの現場が参照物体1 (ここでは鉄道の土手) に対してどのような位置にあるかに関係なく、意味を定義できることは明らかです。したがって、物理学における「時間」の定義にも至ります。この目的のために、同一構造の時計が鉄道線路 (座標系) の点A、B、Cに配置され、それらの針の位置が同時に (上記の意味で) 同じになるように設定されていると仮定します。このような条件下では、イベントの「時間」とは、これらの時計のうちイベントのすぐ近く (空間的) にある時計の読み (針の位置) であると理解されます。このようにして、本質的に観測可能なすべてのイベントに時間値が関連付けられます。

この規定には、さらに別の物理的仮説が含まれている。その妥当性は、反証となる経験的証拠がない限り、ほとんど疑う余地がない。これらの時計はすべて同一の構造であれば、同じ速度で進むと仮定されている。より正確に言えば、基準物体の異なる場所に静止して配置された2つの時計において、一方の時計の針の特定の位置が(上記の意味で)もう一方の時計の針の同じ位置と一致するように設定されている場合、同一の「設定」は常に(上記の定義の意味で)同時である。

1さらに、3つの事象A、B、Cが異なる場所で発生し、AがBと同時に発生し、BがCと同時に発生する(上記の定義における同時発生の意味で)場合、この2つの事象の同時性の基準も満たされると仮定する。この仮定は光の伝播に関する物理的仮説であり、真空中における光速度不変の法則を維持するためには必ず満たされなければならない。 ↑

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IX
同時性の相対性
これまでの考察は、特定の基準物体、すなわち「鉄道盛土」を前提としてきた。図 1に示す方向に、一定速度 v でレール上を走行する非常に長い列車を想定する。この列車に乗っている人々は、列車を剛体の基準物体(座標系)と見なし、すべての出来事を列車を基準として捉える。すると、線路上で起こるすべての出来事は、列車の特定の地点でも起こることになる。また、同時性の定義は、盛土の場合と全く同様に、列車に関しても行うことができる。しかし、当然ながら、次のような疑問が生じる。

図1.
図1.

鉄道の土手に関して同時である2つの出来事(例えば、 2つの雷撃AとB)は、列車に関しても同時でしょうか?答えは必ず否定的であることを直接示します。

稲妻AとB が土手に対して同時であると言う場合、次のことを意味します。稲妻が発生した場所AとBで放出された光線は、土手の長さの中間点Mで出会います。しかし、イベントAとB は、列車の位置AとBにも対応します。走行中の列車の距離の中点をM′とします。稲妻の閃光1 が発生するまさにその時、この点M′ は当然点 M と一致しますが、図では列車の速度vで右方向に移動します。列車の位置M′に座っている観測者がこの速度を持っていなければ、彼は永久にMに留まり、稲妻AとBによって放出された光線は同時に彼に到達し、つまり、それらが彼のいる場所でちょうど出会うでしょう。さて、実際には (鉄道の土手に関して考えると)、彼はBから来る光線に向かって急いでおり、同時にAから来る光線の前方を走行しています。したがって、観測者はBから発せられた光線をAから発せられた光線よりも早く観測することになります。したがって、鉄道車両を基準物体とする観測者は、雷光B が雷光Aよりも早く発生したという結論に至らなければなりません。こうして、重要な結論が導き出されます。

土手に関して同時である出来事は、列車に関して同時ではない。逆もまた同様である(同時性の相対性)。すべての基準物体(座標系)は固有の時間を持つ。時間の記述がどの基準物体を参照しているかを知らされない限り、出来事の時間の記述は意味を持たない。

相対性理論の出現以前、物理学においては、時間の記述は絶対的な意味を持つ、すなわち、参照物体の運動状態とは無関係であるという暗黙の前提が常に存在していた。しかし、この前提は同時性の最も自然な定義と両立しないことが先ほど述べたとおりである。この前提を捨てれば、真空中における光の伝播の法則と相対性原理(第7節で展開)との間の矛盾は解消される。

この矛盾は、第6節の考察によって生じたものであるが、現在ではもはや妥当ではない。第6節では、車両に乗っている人が車両に対して 毎秒wの 距離を移動するのと同様に、盛土に対しても毎秒同じ距離を移動すると結論付けた。しかし、前述の考察によれば、ある出来事が車両に対して要する時間は、盛土(基準物体)から判断した同じ出来事の継続時間と等しいとは考えられない。したがって、歩行中の人が鉄道線路に対してwの距離を、盛土から判断して1秒に等しい時間で移動すると主張することはできない。

さらに、第6節の考察はさら​​に 2 番目の仮定に基づいていますが、この仮定は相対性理論が導入される前から常に暗黙のうちになされていたものの、厳密な考察に照らし合わせると恣意的であるように思われます。

1堤防から見るとこんな感じ。 ↑

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X
距離の概念の相対性について
土手に沿って速度vで走行する列車1上の 2 つの特定の点について考え、それらの間の距離を調べてみましょう。距離を測定するには、その距離を測定できる基準となる物体が必要であることは既に知られています。最も単純な方法は、列車自体を基準物体 (座標系) として使用することです。列車内の観測者は、測定棒を直線 (例えば車両の床面) に、マークした 1 つの点から別の点まで移動するために必要な回数だけ印を付けることで、間隔を測定します。そして、棒を何度置く必要があるかを示す数値が、必要な距離です。

線路から距離を判断する必要がある場合は話が別です。ここでは次の方法が考えられます。列車上の2点をA′とB′とし、この2点は盛土に沿って速度vで動いています。まず、盛土から見て特定の時刻tに、2点A′とB′がちょうど通過する盛土上の点Aと点Bを決定する必要があります。盛土上のこれらの点Aと点Bは、第8節で示した時間の定義を適用することで決定できます 。そして、盛土に沿って測定棒を繰り返し当てることで、 これらの点Aと点Bの間の距離を測定します。

先験的に、この最後の測定が最初の測定と同じ結果をもたらすことは決して確実ではない。したがって、土手から測った列車の長さは、列車内で測った長さとは異なる可能性がある。この状況は、第6節の一見明白な考察に対して提起せざるを得ない第二の反論につながる。すなわち、車両に乗っている人が列車から測った距離w を単位時間で移動する場合、土手から測ったこの距離は必ずしもwに等しいとは限らない。

1例: 1両目と100両目の中間。 ↑

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XI
ローレンツ変換
最後の 3 つのセクションの結果は、光の伝播の法則と相対性原理 (セクションVII ) との明らかな矛盾が、古典力学から 2 つの不当な仮説を借用した考察によって導き出されたことを示しています。これらの仮説は次のとおりです。

(1)2 つのイベント間の時間間隔 (時間) は、参照物体の運動の状態とは無関係です。
(2)剛体の 2 点間の空間間隔 (距離) は、参照体の運動条件とは無関係です。

これらの仮説を放棄すれば、第VII節のジレンマは解消されます。なぜなら、第VI節で導出された速度の加法定理が 無効になるからです。真空中の光の伝播の法則が相対性原理と両立する可能性が生じ、次のような疑問が生じます。経験から得られたこれら 2 つの基本的な結果の間の明らかな不一致を解消するために、 第VI節の考察をどのように修正すればよいのでしょうか。この疑問は、一般的な疑問につながります。第VI節の議論では、列車と土手の両方に対する場所と時間を扱います。鉄道の土手に対する出来事の場所と時間がわかっているのに、列車に対する出来事の場所と時間をどのように見つければよいのでしょうか。真空中の光の伝播の法則が相対性原理と矛盾しないような性質の、この疑問に対する考えられる答えはあるのでしょうか。言い換えれば、個々の出来事の場所と時間の間に、両方の基準物体に対する相対的な関係、すなわち、すべての光線が土手に対して、そして列車に対して伝達速度cを持つような関係を想像できるだろうか?この問いは、極めて明確な肯定的な答え、そして、ある基準物体から別の基準物体へと変化する際の出来事の時空間の大きさに関する完全に明確な変換法則へと導く。

図2.
図2.

これを扱う前に、次のような付随的な考察を導入しておきたい。これまで我々は、数学的には直線の機能を担うべき堤防沿いで起こる事象のみを考えてきた。第2節で示したように、この基準物体は、棒状の枠組みによって横方向および垂直方向に補完されると想像できる。こうすることで、どこで起こる事象も、この枠組みを基準として局所化できる。同様に、速度vで走行する列車が空間全体を横切ると想像できる。そうすれば、どんなに遠く離れた場所で起こる事象であっても、この第二の枠組みを基準として局所化できる。これらの枠組みは、固体の不透過性のために、現実には絶えず互いに干渉し合うという事実を、根本的な誤りを犯すことなく無視できる。このような枠組みのそれぞれにおいて、互いに直交する3つの面が区切られ、「座標面」(「座標系」)と名付けられると想像する。すると、座標系Kは堤防に対応し、座標系K′は列車に対応する。事象は、それがどこで発生したとしても、Kに関しては空間的には座標平面上の3本の垂線によって、時間に関しては時間値tによって固定される。K ′に関しては、同じ事象が空間と時間の両方において対応する値 によって固定されるが、もちろん と同一ではない。これらの大きさが物理的測定の結果としてどのようにみなされるかについては、既に詳細に説明した。

明らかに、我々の問題は次のように正確に定式化できる。ある事象のKに関する大きさ 、 が与えられているとき、K ′に関するその事象の 、 の値はどうなるだろうか。関係は、 真空中の光透過の法則が、1本の同じ光線(そしてもちろんすべての光線)に対してKおよびK′に関して満たされるように選択されなければならない。図(図2 )に示されている座標系の空間における相対的な向きについては、この問題は次の方程式によって解かれる。

この方程式系は「ローレンツ変換」として知られています。1

もし光の透過の法則の代わりに、時間と長さの絶対的な性質に関する古い力学の暗黙の仮定を基礎として採用していたら、上記の式の代わりに次の式が得られるはずです。

この方程式系はしばしば「ガリレイ変換」と呼ばれます。ガリレイ変換は、ローレンツ変換において光速度cに無限大の値を代入することで得られます。

次の図を見れば、ローレンツ変換に従って、真空中の光透過の法則が基準物体Kと基準物体K′の両方において満たされていることが容易に分かる。光信号は正のx軸に沿って送られ、この光刺激は次式に従って進む。

つまり、速度cと等しくなります。ローレンツ変換の方程式によれば、この xとtの関係は、 x′とt′の関係を伴います。実際、ローレンツ変換の第一方程式と第二方程式においてxにct を代入すると、次の式が得られます。

これを割り算すると、

が直ちに成り立つ。K ′ 系を基準とすると、光の伝播はこの式に従って起こる。したがって、基準物体K′に対する透過速度もcに等しいことがわかる。他のどの方向に進む光線についても、同じ結果が得られる。もちろん、これは驚くべきことではない。なぜなら、ローレンツ変換の式はこの観点に従って導出されたからである。

1ローレンツ変換の簡単な導出は付録Iに示されている。 ↑

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XII
運動中の測定棒と時計の挙動
K′のx′軸にメートル棒を置き、一方の端(始端)が点 に、もう一方の端(棒の端)が点 に一致するようにします。系Kに対するメートル棒の長さはどれくらいでしょうか?これを知るには、系Kの特定の時刻tにおいて、棒の始端と端がKに対してどこにあるかを尋ねればよいだけです。ローレンツ変換の最初の方程式を用いて、時刻tにおけるこれらの2点の値は次のように示されます。

点間の距離は です。

しかし、メートル棒はKに対して速度vで運動している。したがって、速度vで長さ方向に運動する剛体メートル棒の長さは1メートルとなる。したがって、剛体棒は運動しているときの方が静止しているときよりも短く、運動速度が速いほど棒は短くなる。速度については となり、さらに大きな速度では平方根は虚数となる。このことから、相対性理論において速度cは限界速度の役割を果たしており、いかなる実体もこれに達することも超えることもできないと結論付けられる。

もちろん、限界速度としての速度cのこの特徴は、ローレンツ変換の方程式からも明らかです。なぜなら、cよりも大きいvの値を選択した場合、これらの方程式は無意味になるからです。

逆に、Kに関してx軸上で静止しているメートル棒を考えていたとしたら、 K′から判断した棒の長さはになるはずです。これは、私たちの考察の基礎となる相対性原理と完全に一致しています。

測尺棒や時計の物理的挙動について、変換方程式から何らかの知見が得られることは、 演繹的に極めて明らかである。なぜなら、大きさは、測尺棒や時計によって得られる測定結果に他ならないからである。もしガリレイ変換に基づいて考察していたならば、棒の運動の結果として棒が収縮するという結果は得られなかったであろう。

ここで、 K′の原点( )に恒久的に設置された秒時計を考えてみましょう。とはこの時計の連続する2つの刻みです。ローレンツ変換の1番目と4番目の方程式は、これらの2つの刻みについて次の式を与えます。

そして

Kから判断すると、時計は速度vで動いている。この基準物体から判断すると、時計の2回の打刻の間に経過する時間は1秒ではなく数秒、つまりやや長い時間である。この運動の結果、時計は静止時よりもゆっくりと進む。ここでも、速度c は到達不可能な限界速度の役割を果たす。

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XIII
速度の加法定理。
フィゾーの実験
実際には、時計や物差しを動かす速度は光速に比べて非常に小さいため、前節の結果を現実と直接比較することはほとんど不可能です。しかし一方で、これらの結果は皆さんにとって非常に特異なものに感じられるはずです。そこで、ここで理論からもう一つの結論を導き出したいと思います。これはこれまでの考察から容易に導き出せるものであり、実験によって非常に簡潔に確認されています。

第6節では、古典力学の仮説からも導かれる形で、一方向の速度の加法定理を導出した。この定理は、ガリレイ変換(第11節)からも容易に導かれる。馬車内で歩く人の代わりに、座標系K′に対して相対的に移動する点を、次式に従って 導入する。

ガリレイ変換の第一方程式と四方程式を用いて、 x′とt′をxとtで表すことができ、次の式が得られます。

この式は、 K系(土手に対する人体の運動) を基準とした点の運動法則を表わしているに過ぎない。この速度を記号Wで表すと、第6節で述べたように、
(あ)

しかし、この考察は相対性理論に基づいても同様に行うことができます。

次に、ローレンツ変換の第1方程式と第4方程式を用いて、x′とt′をxとtで 表す必要があります。すると、式( A )の代わりに次の式が得られます。
(B)
これは相対性理論による一方向の速度の加法定理に対応します。ここで、経験に照らし合わせるとどちらの定理が優れているかという疑問が生じます。この点については、優れた物理学者フィゾーが半世紀以上前に実施した非常に重要な実験によって啓発されます。この実験は、それ以来、最も優れた実験物理学者の何人かによって繰り返されてきたため、その結果に疑いの余地はありません。この実験は、次の疑問に関係しています。光は、静止した液体中を特定の速度wで進みます。上記の液体がチューブ T 内を速度vで流れているとき、光はチューブT内を矢印の方向にどれくらいの速さで進むでしょうか(添付の図3を参照) 。

図3
図3

相対性原理によれば、液体が他の物体に対して運動しているかどうかに関わらず、光の伝播は常に液体に対して同じ速度w で起こると仮定しなければならない。したがって、液体に対する光の速度と管に対する光の速度は既知であり、管に対する光の速度が必要となる。

セクションVIの問題が再び私たちの前に現れていることは明らかです。チューブは線路の土手または座標系Kの役割を果たし、液体は客車または座標系K′の役割を果たし、最後に光は客車に沿って歩く人、またはこのセクションの移動点の役割を果たします。チューブに対する光の相対速度をWで表すと、ガリレイ変換またはローレンツ変換が事実に対応するかどうかに応じて、式 ( A ) または ( B ) で表されます。実験1では相対性理論から導かれる式 ( B )が採用され、その一致は非常に正確です。ゼーマンによる最近の非常に優れた測定によれば、流速v が光の伝播に与える影響は、1 パーセント以内の誤差で式 ( B ) で表されます。

しかしながら、相対性理論が発表されるずっと以前に、この現象の理論がH・A・ローレンツによって提示されていたという事実に今こそ注目すべきである。この理論は純粋に電気力学的な性質を持ち、物質の電磁気的構造に関する特定の仮説を用いて得られた。しかしながら、この事実は、相対性理論を支持する決定的な検証としてのこの実験の決定的な信頼性を少しも損なうものではない。なぜなら、元の理論の基礎となったマクスウェル=ローレンツの電気力学は、相対性理論とは全く相容れないからである。むしろ、相対性理論は、かつては互いに独立していた、電気力学の基礎となった仮説を驚くほど単純に組み合わせ、一般化したものとして、電気力学から発展してきたのである。

1フィゾーは を発見しました。ここでは液体の屈折率です。一方、 は1と比較して小さいため、( B ) を に置き換えるか、あるいは同じ近似値である に置き換えることができます。これはフィゾーの結果と一致します。 ↑

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XIV
相対性理論の発見的価値
これまでのページにおける我々の思考の流れは、次のように要約できる。経験から、一方では相対性原理が成り立つという確信が得られた。他方では、真空中の光の伝播速度は定数cに等しいとみなさなければならないという確信が得られた。これら二つの公理を統合することにより、我々は自然過程を構成する事象の直交座標と時間tに関する変換の法則を得た。この点において、我々はガリレイ変換ではなく、古典力学とは異なり、 ローレンツ変換を得た。

光の透過の法則は、我々の実際の知識によってその受け入れが正当化されており、この思考過程において重要な役割を果たした。しかし、ローレンツ変換を理解すれば、これを相対性原理と組み合わせ、理論を次のように要約することができる。

あらゆる一般自然法則は、元の座標系Kの時空変数の代わりに、座標系 K′ の新しい時空変数を導入したときに、全く同じ形式の法則に変換されるように構成されなければならない。この点において、通常の量と強調された量との関係はローレンツ変換によって与えられる。つまり、一般自然法則はローレンツ変換に関して共変的である。

これは相対性理論が自然法則に要求する明確な数学的条件であり、この条件のおかげで、相対性理論は一般自然法則の探索において貴重な発見的助けとなる。もしこの条件を満たさない一般自然法則が発見されたとしたら、相対性理論の二つの基本仮定のうち少なくとも一つは反証されたことになるだろう。では、相対性理論がこれまでにどのような一般的な結果を示してきたかを検証してみよう。

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XV
理論の一般的な結果
これまでの考察から、(特殊)相対性理論が電気力学と光学から発展してきたことは明らかである。これらの分野において、相対性理論は理論の予測を大きく変えたわけではないが、理論構造、すなわち法則の導出を著しく簡素化し、そして――比較にならないほど重要なこととして――理論の基礎となる独立した仮説の数を大幅に削減した。特殊相対性理論はマクスウェル=ローレンツ理論を非常に説得力のあるものにしたため、たとえ実験によってその理論がそれほど明確に支持されなかったとしても、後者は物理学者に広く受け入れられていたであろう。

特殊相対性理論の要求に沿うためには、古典力学を修正する必要があった。しかしながら、この修正は主に、物質の速度vが光速に比べてそれほど小さくない高速運動の法則にのみ影響を及ぼす。このような高速運動は、電子とイオンの場合にしか経験されない。他の運動については、古典力学の法則からの変化はあまりにも小さく、実際には明らかではない。一般相対性理論について語るまでは、星の運動については考察しない。相対性理論によれば、質量mの物質点の運動エネルギーは、もはやよく知られた式では与えられない。

しかし、表現によって

この式は、速度v が光速cに近づくにつれて無限大に近づきます。したがって、加速を生み出すためにどれだけ大きなエネルギーが使われても、速度は常にcより小さくなければなりません。運動エネルギーの式を級数的に展開すると、次のようになります。

が1と比較して小さい場合、これらの項のうち3番目の項は常に2番目の項と比較して小さくなります。古典力学では後者だけが考慮されています。最初の項には速度が含まれていないため、質点のエネルギーが速度にどのように依存するかという問題のみを扱う場合は考慮する必要はありません。その本質的な重要性については後述します。

特殊相対性理論が導き出した一般的な性質を持つ最も重要な成果は、質量の概念に関するものである。相対性理論の出現以前、物理学は根本的に重要な二つの保存則、すなわちエネルギー保存の法則と質量保存の法則を認識していた。これらの二つの基本法則は、互いに全く独立しているように見えた。相対性理論によって、これらは一つの法則に統合された。ここで、この統合がどのように実現されたのか、そしてそれがどのような意味を持つのかについて簡単に考察する。

相対性原理によれば、エネルギー保存則は座標系Kに関してだけでなく、 K に対して等速直線運動しているあらゆる座標系K′ 、つまりあらゆる「ガリレオ」座標系に関しても成立する。古典力学とは対照的に、ローレンツ変換は、ある座標系から別の座標系への移行における決定的な要因となる。

比較的単純な考察によって、これらの前提とマクスウェルの電気力学の基本方程式とを結び付けて、次のような結論を導き出すことができる。速度vで運動する物体が、その過程で速度の変化を被ることなく、ある量のエネルギーを放射の形で吸収すると、その結果、その物体のエネルギーはある量だけ増加する。

物体の運動エネルギーに関する上記の式を考慮すると、物体に必要なエネルギーは次のようになる。

したがって、物体は速度vで運動する質量体と同じエネルギーを持つ。したがって、次のように言える。物体がエネルギー量を吸収すると、その慣性質量は量だけ増加する。物体の慣性質量は一定ではなく、物体のエネルギーの変化に応じて変化する。物体系の慣性質量は、そのエネルギーの尺度とさえみなせる。質量保存の法則はエネルギー保存の法則と同一であり、その系がエネルギーを吸収も放出もしない場合にのみ有効である。エネルギーの式を次のように書くと、

これまで注目してきた項 は、物体2がエネルギー を吸収する前に持っていたエネルギーに他ならないことがわかります。

この関係を実験と直接比較することは、現在(1920年、3注、48ページ参照)では不可能である。これは、系に与えるエネルギー変化が、系の慣性質量の変化として知覚できるほど大きくないからである。慣性質量は、エネルギー変化前の質量mと比較して小さすぎる。この状況のおかげで、古典力学は質量保存則を独立妥当性の法則として確立することができた。

最後に、根本的な点について一言付け加えておきたい。ファラデー=マクスウェルによる遠隔電磁作用の解釈の成功により、物理学者たちは、ニュートンの万有引力の法則のような(媒質を介さない)遠隔瞬時作用は存在しないと確信するに至った。相対性理論によれば、光速度による遠隔作用は常に、遠隔瞬時作用、あるいは無限遠の伝達速度による遠隔作用に取って代わる。これは、速度 cがこの理論において基本的な役割を果たしているという事実と関連している。第2部では、この結果が一般相対性理論においてどのように修正されるかを見ていく。

1物体とともに動く座標系から判断すると、消費されるエネルギーです。 ↑

2体とともに動く座標系から判断すると。 ↑

3この方程式はそれ以来何度も徹底的に証明されてきました。 ↑

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XVI
経験と特殊相対性理論
特殊相対性理論は、どの程度まで経験によって裏付けられているのでしょうか。この問いは、フィゾーの基礎実験において既に述べた理由により、容易には答えられません。特殊相対性理論は、電磁気現象に関するマクスウェル・ローレンツ理論から結晶化したものです。したがって、電磁気理論を支持するすべての経験的事実は、相対性理論も支持しています。特に重要な点として、ここで言及したいのは、相対性理論によって、恒星から私たちに到達する光に及ぼされる影響を予測できるということです。これらの結果は非常に単純な方法で得られ、示された影響は、地球と恒星の相対運動に起因するものであり、経験と一致することが分かっています。ここで言及するのは、地球が太陽の周りを回る運動(行差)によって恒星の見かけの位置が毎年変動すること、そして恒星の地球に対する相対運動の動径成分が、恒星から私たちに到達する光の色に及ぼす影響です。後者の効果は、恒星から地球に届く光のスペクトル線が、地上光源から放射される同じスペクトル線の位置と比べてわずかにずれるという形で現れる(ドップラー原理)。マクスウェル=ローレンツ理論を支持する実験的論拠は、同時に相対性理論を支持する論拠でもあるが、ここで列挙するにはあまりにも多すぎる。実際には、それらの論拠は理論的可能性を著しく制限しており、マクスウェルとローレンツの理論以外の理論は、経験的に検証された際にその独自性を証明することができていない。

しかし、これまでに得られた実験事実には、補助仮説を導入することによってのみマクスウェル-ローレンツ理論で表現できる 2 つのクラスがあり、それ自体では、つまり相対性理論を利用せずには、無関係に思えます。

放射性物質から放出される陰極線やいわゆるβ線は、負に帯電した粒子(電子)で構成され、慣性が非常に小さく速度が大きいことが知られています。これらの線が電場や磁場の影響下でどのように偏向するかを調べることで、これらの粒子の運動法則を非常に正確に研究することができます。

これらの電子を理論的に扱う際、電気力学理論だけではその性質を説明できないという困難に直面する。なぜなら、同じ符号の電荷は互いに反発し合うため、電子を構成する負の電荷は、それらの間に別の種類の力が作用しない限り、必然的に相互反発の影響を受けて散乱するからである。その性質はこれまで我々には不明であった。1 ここで、電子を構成する電荷間の相対距離が電子の運動(古典力学の意味での剛体結合)の間、変化しないと仮定すると、経験とは一致しない電子の運動法則に辿り着く。純粋に形式的な観点から、H・A・ローレンツは、電子の形状が運動の結果として運動方向に収縮するという仮説を初めて提唱した。収縮した長さは、次の式に比例する。この仮説は、いかなる電気力学的な事実によっても正当化されるものではないが、近年非常に正確に確認された特定の運動法則を我々に与えてくれる。

相対性理論は、電子の構造や挙動に関する特別な仮説を一切必要とせずに、同じ運動法則を導きます。第13節では、フィゾーの実験に関連して同様の結論に達しましたが、その結果は、液体の物理的性質に関する仮説を必要とせずに、相対性理論によって予言されていました。

我々が言及した2番目の事実群は、宇宙空間における地球の運動を地上実験で知覚できるかどうかという問題に関係している。この種の試みはすべて否定的な結果に終わったことは、すでに第5節で述べた。相対性理論が提唱される以前は、この否定的な結果を受け入れることは困難であったが、その理由は後述する。時間と空間に関する受け継がれた偏見により、ある基準物体から別の基準物体への切り替えにおけるガリレイ変換の根本的重要性について、いかなる疑問も生じなかった。そこで、マクスウェル-ローレンツ方程式が基準物体Kに対して成立すると仮定すると、ガリレイ変換の関係が KとK ′の座標系間に存在すると仮定した場合、Kに関して一様に運動する基準物体K′に対しては、この方程式は成立しないことがわかる。したがって、すべてのガリレイ座標系の中で、特定の運動状態に対応するもの ( K ) は物理的に唯一であることがわかる。この結果は、 K が仮想的な空間エーテルに対して静止しているとみなすことで物理的に解釈された。一方、Kに対して相対的に運動するすべての座標系K′は、エーテルに対して運動しているとみなされる。エーテルに対するK′のこの運動( K′に対する「エーテルドリフト」 )により、 K′に対して成立すると考えられるより複雑な法則が生じた 。厳密に言えば、このようなエーテルドリフトは地球に対しても成立すると仮定されるべきであり、物理学者たちは長年にわたり、地表におけるエーテルドリフトの存在を検出しようと努力してきた。

こうした試みの中で最も注目すべきものの一つとして、マイケルソンは決定的な方法であるように思える方法を考案しました。剛体上に反射面が互いに向き合うように配置された二つの鏡を想像してみてください。系全体がエーテルに対して静止している場合、光線が一方の鏡からもう一方の鏡へ、そしてまた戻ってくるのには、完全に一定の時間Tが必要です。しかし、物体と鏡がエーテルに対して相対的に動いている場合、この過程には わずかに異なる時間T′が必要であることが計算によって分かります。さらにもう一つ、エーテルに対する速度vが与えられた場合、物体が鏡の面に対して垂直に動いているときの時間T′と、運動がこれらの面に平行に動いているときの時間T′が異なることが計算によって示されています。この二つの時間の差は推定値として極めて小さいものの、マイケルソンとモーリーは干渉を伴う実験を行い、この差が明確に検出できるはずでした。しかし、この実験は否定的な結果をもたらしました。これは物理学者を非常に困惑させる事実です。ローレンツとフィッツジェラルドは、エーテルに対する物体の運動が運動方向への物体の収縮を引き起こし、その収縮量は前述の時間差をちょうど補償するのに十分であると仮定することで、理論をこの困難から救い出した。第 12節の議論と比較すると、相対性理論の観点からも、この困難の解決法が正しいことがわかる。しかし、相対性理論に基づく解釈の方法は、比較にならないほど満足のいくものである。この理論によれば、エーテルの概念を導入するきっかけとなるような「特別に有利な」(唯一の)座標系など存在せず、したがってエーテルの漂流も、それを実証する実験も存在しない。ここで、運動物体の収縮は、特別な仮説を導入することなく、理論の二つの基本原理から導かれる。そして、この収縮に関わる主要な要因として、私たちが何の意味も付与できない運動そのものではなく、特定の事例において選択された参照物体に対する運動が挙げられます。したがって、地球と共に移動する座標系では、マイケルソンとモーリーの鏡面反射系は短縮されませんが、太陽に対して静止している座標系では短縮されます。

1一般相対性理論によれば、電子の電気的質量は重力によって結合されている可能性が高いと考えられます。 ↑

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XVII
ミンコフスキーの四次元空間
数学者でない人は、「四次元」という言葉を聞くと、神秘的な戦慄に襲われる。それはオカルト的な思考によって呼び起こされる感覚に似たものだ。しかし、私たちが住む世界が四次元の時空連続体であるというのは、これほどありふれた言葉はない。

空間は三次元連続体である。これは、ある点(静止している)の位置を3つの数(座標)で記述することができ、その点の近傍には無数の点があり、その位置は のような座標で記述でき、それらの座標は最初の点の座標 のそれぞれの値にどれだけ近くてもよいことを意味する。後者の性質から私たちは「連続体」と呼び、3つの座標があるという事実からそれを「三次元」と呼ぶ。

同様に、ミンコフスキーが簡潔に「世界」と呼んだ物理現象の世界は、時空の意味で当然四次元である。というのは、それは個々の事象から成り、各事象は四つの数、すなわち三つの空間座標 と一つの時間座標、すなわち時間値tで記述されるからである。この意味で「世界」は連続体でもある。なぜなら、すべての事象に対して、私たちが選ぶのと同じ数の「隣接する」事象(実現されているか、少なくとも考えられ得るもの)があり、それらの座標は、 当初考えていた事象の座標とは無限に小さな量だけ異なるからである。私たちがこの意味で世界を四次元連続体とみなすことに慣れていないのは、相対性理論の出現以前の物理学では、時間は空間座標と比較して異なる、より独立した役割を果たしていたという事実による。この理由から、私たちは時間を独立した連続体として扱う習慣がある。実際、古典力学によれば、時間は絶対的であり、つまり座標系の位置や運動条件とは無関係である。これはガリレイ変換の最後の式()に表されている。

相対性理論によれば、時間は独立性を失っているため、「世界」を四次元的に考察することは自然である。これはローレンツ変換の四番目の方程式によって示される。

さらに、この式によれば、 K′に関する 2 つのイベントの時間差は、Kに関する同じイベントの時間差がゼロになったとしても、一般にはゼロになりません。K に関する 2 つのイベントの純粋な「空間距離」は、K ′に関する同じイベントの「時間距離」になります。しかし、相対性理論の形式的発展にとって重要であったミンコフスキーの発見は、ここにはありません。むしろ、相対性理論の 4 次元時空連続体が、その最も本質的な形式的特性において、ユークリッド幾何学的空間の 3 次元連続体と顕著な関係を示していることを彼が認識したという事実にあります。1 ただし、この関係を適切に目立たせるためには、通常の時間座標 t を、それに比例する虚数の大きさに置き換えなければなりません。これらの条件下では、(特殊)相対性理論の要求を満たす自然法則は数学的な形をとり、その中で時間座標は三つの空間座標と全く同じ役割を果たす。形式的には、これらの四つの座標はユークリッド幾何学における三つの空間座標と正確に対応している。数学者でなくても、この純粋に形式的な知識の付加の結果として、理論が必然的に少なからず明確になったことは明らかである。

これらの不十分な記述では、ミンコフスキーが寄与した重要な概念について、読者は漠然とした理解しか得られない。この概念がなければ、以下のページでその基本的な概念が展開される一般相対性理論は、おそらくその先へは進めなかっただろう。ミンコフスキーの著作は、数学に不慣れな者にとっては難解であることは間違いないが、特殊相対性理論あるいは一般相対性理論の基本的な概念を理解するために、この著作を厳密に理解する必要はないため、ここではこの部分については割愛し、第2部の終盤で改めて触れることにする。

1付録IIのより詳細な議論を参照してください。 ↑

第2部
一般相対性理論
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XVIII
特殊相対性原理と一般相対性原理
これまでの考察の核心となった基本原理は、 特殊相対性原理、すなわちあらゆる等速運動の物理的相対性の原理であった。その意味をもう一度注意深く分析してみよう。

運動が私たちに伝える観念の観点から、あらゆる運動は相対的な運動としてのみ考えられなければならないことは、常に明らかであった。盛土と鉄道車両の例を頻繁に用いてきたが、ここでの運動は、以下の二つの形で表現することができる。どちらも同様に正当化できる。

(あ)車両は土手に対して動いている。
(イ)盛土は車両に対して動いています。

( a )では盛土、( b ) では車両が、発生している運動を記述する際の参照物体として機能します。単に運動を検出または記述するだけの問題であれば、運動をどの参照物体に参照するかは原則的に重要ではありません。既に述べたように、これは自明ですが、私たちが研究の基礎としている「相対性原理」と呼ばれる、はるかに包括的な記述と混同してはなりません。

私たちが用いた原理は、出来事を記述するための参照物体として、馬車と土手はどちらも同じように選択できる(これも自明である)という主張にとどまらない。むしろ、私たちの原理は次のようなことを主張している。すなわち、経験から得られる自然法則を、

(あ)堤防を参照体として
(イ)基準体としての鉄道車両、
すると、これらの一般的な自然法則(例えば、力学法則や真空中における光の伝播の法則)は、どちらの場合も全く同じ形をとる。これは次のようにも表現できる。自然過程の物理的記述においては、参照物体KとK′のどちらも、他方と比較して唯一(文字通り「特別に区別されている」)ではない。前者とは異なり、後者の記述は必ずしも先験的に成立する必要はない。それは「運動」や「参照物体」の概念に含まれておらず、それらから導出できるものでもない。その正誤は 経験によってのみ判断できる。

しかしながら、現在まで、我々は自然法則の定式化に関して、すべての参照物体Kの等価性を決して主張してこなかった。我々の進路は、むしろ次のような方向であった。まず第一に、我々は参照物体Kが存在するという仮定から出発した。参照物体 Kの運動条件は、ガリレオの法則がそれに関して成立するというものである。すなわち、他のすべての粒子から十分に離れた、それ自体に置かれた粒子は、一様直線運動をする。K (ガリレオ参照物体) を基準とすれば、自然法則は可能な限り単純になるはずであった。しかし、この意味ではKに加えて、すべての参照物体K′ が優先されるべきであり、それらが Kに関して一様直線運動かつ非回転運動の状態にある限り、自然法則の定式化に関してKと完全に等価であるはずである。これらの参照物体はすべてガリレオ参照物体とみなされる。相対性原理の妥当性はこれらの参照物体についてのみ仮定され、他の参照物体 (例えば、異なる種類の運動をする参照物体) については仮定されなかった。この意味で、私たちは特殊相対性原理、または特殊相対性理論について話します。

これとは対照的に、「一般相対性原理」とは、次のような命題であると理解したい。すなわち、すべての参照物体K、K′などは、その運動状態がどのようなものであろうと、自然現象の記述(自然一般法則の定式化)において等価である、ということである。しかし、先に進む前に、この定式化は、後の段階で明らかになる理由により、より抽象的な定式化に置き換えられなければならないことを指摘しておくべきである。

特殊相対性原理の導入が正当化されて以来、一般化を目指すあらゆる知性は、一般相対性原理へと踏み込もうとする誘惑に駆られるに違いありません。しかし、単純で一見極めて信頼できる考察から、少なくとも現時点では、そのような試みが成功する見込みはほとんどないことが示唆されているようです。ここで、我々の旧友である鉄道車両が等速で走行しているところを想像してみましょう。車両が等速で走行している限り、車両の乗員は車両の運動を感知しません。そのため、乗員は車両が静止しているのではなく、土手が動いていると、この事実を躊躇なく解釈できるのです。さらに、特殊相対性原理によれば、この解釈は物理的な観点からも全く正当化されます。

例えばブレーキを強く踏むなどして、車両の運動が非等速運動に変化した場合、車両の乗員はそれに応じて強い前方への衝撃を経験する。この減速運動は、車両内の乗員に対する物体の力学的挙動に現れる。この力学的挙動は、先に検討したケースとは異なるため、静止時または等速運動中の車両に関して成立するのと同じ力学的法則が、非等速運動する車両に対して成立することは不可能と思われる。いずれにせよ、ガリレオの法則は非等速運動する車両には成立しないことは明らかである。このため、我々は現時点では、相対性の一般原理に反して、非等速運動にある種の絶対的な物理的実在性を認めざるを得ない。しかし、以下ですぐに、この結論は維持できないことがわかるだろう。

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XIX
重力場
「石を拾って放すと、なぜ地面に落ちるのでしょうか?」この質問に対する通常の答えは、「地面に引き寄せられるから」です。しかし、現代物理学では、以下の理由から、この答えはやや異なる形で提示されます。電磁気現象のより綿密な研究の結果、私たちは遠隔作用を何らかの媒介媒体の介在なしには不可能な過程とみなすようになりました。例えば、磁石が鉄片を引き寄せる場合、これを磁石が媒介空間を介して鉄片に直接作用するという意味と捉えるだけでは満足できず、ファラデーに倣って、磁石は常に周囲の空間に物理的に実在する何か、いわゆる「磁場」を呼び起こすと想像せざるを得ません。そして、この磁場は鉄片に作用し、鉄片は磁石に向かって移動しようとします。この偶発的な概念の正当性については、実にやや恣意的なため、ここでは議論しません。ここで言及しておきたいのは、電磁気現象は、その助けを借りれば、それがない場合よりもはるかに理論的に十分に表現できることであり、これは特に電磁波の伝播に当てはまる。重力の影響も同様に考えられる。

地球が石に及ぼす作用は間接的に起こります。地球は周囲に重力場を作り出し、それが石に作用して落下運動を引き起こします。経験的に分かっているように、物体への作用の強さは、地球からどんどん遠ざかるにつれ、明確な法則に従って弱まります。私たちの観点からすると、これは次のことを意味します。作用する物体からの距離に伴う重力作用の減少を正しく表すためには、空間における重力場の特性を支配する法則は、完全に明確なものでなければなりません。それは次のようなものです。物体 (たとえば地球) は、そのすぐ近くに場を直接作り出します。物体から離れた地点での場の強さと方向は、重力場自体の空間における特性を支配する法則によって決まります。

電場や磁場とは対照的に、重力場は非常に注目すべき性質を示し、これは後述する事柄にとって根本的に重要です。重力場のみの影響下で運動する物体は加速度を受けますが、 その加速度は物体の材質や物理的状態に全く依存しません。例えば、鉛片と木片は、静止状態から、あるいは同じ初速度で動き出すと、重力場(真空中)において全く同じように落下します。この最も正確に成り立つ法則は、以下の考察に照らして、別の形で表現することができます。

ニュートンの運動の法則によれば、

(力)=(慣性質量)(加速度)

ここで「慣性質量」は加速される物体の特性定数である。重力が加速の原因であるとすると、

(力)=(重力質量)(重力場の強度)

ここで「重力質量」は同様に物体の特性定数である。これら2つの関係から次の式が導かれる。

経験から分かるように、加速度は物体の性質や状態に依存せず、与えられた重力場に対して常に一定であるならば、重力質量と慣性質量の比もすべての物体で等しくなければなりません。したがって、適切な単位を選択すれば、この比を1にすることができます。すると、次の法則が成り立ちます。物体の重力質量はその慣性質量に等しい。

この重要な法則はこれまで力学において記録されていたものの、解釈されてこなかったのは事実である。納得のいく解釈は、次の事実を認識することによってのみ得られる。すなわち、物体の同一の性質が、状況に応じて「慣性」あるいは「重さ」(文字通り「重さ」)として現れるということである。次の節では、これが実際にどの程度当てはまるのか、そしてこの問題が一般相対性理論の公理とどのように関連しているのかを示す。

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XX
一般相対性理論の根拠としての慣性質量と重力質量の等価性
星やその他の顕著な質量から遠く離れた、ガリレイの基本法則が要求する条件をほぼ満たす広大な空間を想像してみてください。すると、この空間(世界)の一部にガリレイの基準物体を選ぶことができ、静止している点は静止したまま、運動している点は等速直線運動を永続的に続けることになります。基準物体として、装置を備えた観測者がいる、部屋のような広々とした箱を想像してみましょう。当然、この観測者には重力は存在しません。観測者は紐で床に固定されている必要があります。さもないと、床に少しでも衝撃が加わると、ゆっくりと部屋の天井に向かって上昇してしまいます。

箱の蓋の中央には、ロープの付いたフックが外側から固定されており、ある「存在」(私たちにとっては実体のない存在)が一定の力でこれを引っ張り始める。すると、箱は観測者と共に等加速度運動で「上向き」に動き始める。やがて、その速度はかつて聞いたこともないほどの数値に達するだろう。ただし、このすべてを、ロープで引っ張られていない別の基準物体から観測しているという前提での話だ。

しかし、チェストの中にいる人間はこの過程をどう見ているのだろうか?チェストの加速度は、チェストの底部の反作用によって彼に伝達される。したがって、床に横たわりたくないのであれば、彼は脚を使ってこの圧力を吸収しなければならない。つまり、彼はチェストの中に立っているのであり、これは地球上の誰かが家の部屋の中に立っているのと全く同じである。彼が手に持っていた物体を放すと、チェストの加速度はもはやこの物体に伝達されず、そのため物体は加速された相対運動をしながらチェストの底部に近づくことになる。さらに、観察者は、実験にどのような物体を用いたとしても、チェストの底部に向かう物体の加速度は常に同じ大きさであると確信するだろう。

箱の中の男は、重力場に関する知識(前節で論じたように)を頼りに、自分と箱が時間に対して一定の重力場の中にいるという結論に達する。もちろん、彼は一瞬、なぜ箱がこの重力場の中に落ちないのかと不思議に思うだろう。しかし、ちょうどその時、彼は箱の蓋の中央にあるフックと、それに繋がるロープを発見し、結果として箱が重力場の中に静止しているという結論に達する。

この男に微笑みかけ、彼の結論は間違っていると言うべきだろうか? 一貫性を保ちたいのであれば、そうすべきではないと私は思う。むしろ、彼の状況把握の仕方は理性にも既知の力学法則にも反していないことを認めなければならない。最初に考察した「ガリレオ空間」に対して加速されているにもかかわらず、胸部は静止していると見なすことができる。このように、相対性原理を拡張し、互いに加速されている基準物体を含める十分な根拠が得られ、結果として、一般相対性公理を支持する強力な論拠が得られたのである。

この解釈方法の可能性は、すべての物体に等しい加速度を与えるという重力場の基本的な性質、すなわち慣性質量と重力質量の等価性の法則に基づいていることを注意深く認識する必要がある。もしこの自然法則が存在しなければ、加速された胸の中にいる人間は、重力場の存在を仮定して周囲の物体の挙動を解釈することができず、経験に基づいて自身の基準物体が「静止している」と仮定することも正当化されないだろう。

箱の中の人が蓋の内側にロープを固定し、ロープの自由端に物体を取り付けたとしよう。その結果、ロープは「垂直」に下向きに垂れ下がる。ロープの張力の原因について意見を求めると、箱の中の人はこう言うだろう。「吊り下げられた物体は重力場から下向きの力を受け、ロープの張力によってこの力が打ち消される。ロープの張力の大きさを決めるのは、吊り下げられた物体の重力質量だ」。一方、宇宙空間に自由に浮かんでいる観測者は、この状況をこう解釈するだろう。「ロープは必然的に箱の加速運動に加わり、この運動を吊り下げられた物体に伝える。ロープの張力は、物体の加速を引き起こすのにちょうど十分な大きさである。ロープの張力の大きさを決めるのは、 物体の慣性質量だ」。この例に導かれるように、相対性原理の拡張は、慣性質量と重力質量の等価性の法則の必然性を意味することがわかります。こうして、この法則の物理的な解釈が得られました。

加速された胸部に関する考察から、一般相対性理論は重力の法則に関する重要な結果をもたらすはずだと分かります。実際、相対性理論の一般的な概念を体系的に追求することで、重力場が満たす法則が明らかになりました。しかしながら、先に進む前に、これらの考察から生じる誤解について読者に警告しておかなければなりません。最初に選択された座標系には重力場が存在しないにもかかわらず、胸部内の人物には重力場が存在するのです。さて、重力場の存在は常に見かけ上のものに過ぎないと容易に考えてしまうかもしれません。また、存在する重力場の種類に関わらず、それに関して重力場が存在しないような別の基準物体を常に選択できると考えるかもしれません。これは決してすべての重力場に当てはまるわけではなく、非常に特殊な形態の重力場にのみ当てはまります。たとえば、地球の重力場が(全体として)消滅すると判断されるような基準物体を選択することは不可能です。

第18章の最後で相対性理論の一般原理に反論した議論が、なぜ説得力に欠けるのか、今や理解できるだろう。確かに、鉄道車両内の観測者はブレーキの作用によって前方への衝撃を経験し、その中で車両の不均一な動き(減速)を認識する。しかし、この衝撃を車両の「真の」加速(減速)と関連付けることを、観測者は誰にも強制されていない。観測者は自身の経験を次のように解釈することもできる。「私の参照物体(車両)は永久に静止している。しかし、(ブレーキが作用している間)それに関して、前方に向けられ、時間とともに変化する重力場が存在する。この重力場の影響下で、盛土は地球とともに不均一に動き、後方への元の速度が継続的に減少する。」

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XXI
古典力学と特殊相対性理論の基礎はどのような点で不十分なのか?
古典力学は、他の物質粒子から十分に離れた物質粒子は、一様な直線運動を続けるか、静止状態を維持するという法則から出発することを、我々は既に何度か述べてきた。また、この基本法則は、特定の固有の運動状態を持ち、かつ互いに一様な並進運動を続ける参照物体Kに対してのみ成立することを繰り返し強調してきた。他の参照物体Kに対しては、この法則は成立しない。したがって、古典力学と特殊相対性理論の両方において、我々は、認識されている「自然法則」が成立すると言える 参照物体Kと、これらの法則が成立しない参照物体Kとを区別している。

しかし、論理的な思考様式を持つ人は、このような状況に満足することはできない。彼は問う。「ある基準物体(あるいはその運動状態)が他の基準物体(あるいはその運動状態)よりも優先されるのはなぜだろうか? なぜこのような優先が与えられるのだろうか?」この問いが何を意味しているかを明確に示すために、比較を用いてみよう。

私はガスコンロの前に立っています。コンロの上には、どちらかがもう一方と間違えられそうなほどよく似た二つの鍋が並んで立っています。どちらも半分水が入っています。片方の鍋からは蒸気が絶えず出ているのに、もう片方からは出ていないことに気づきます。ガスコンロも鍋も見たことがない私でさえ、このことに驚きます。しかし、もし今、片方の鍋の下には青みがかった光るものがあり、もう片方の鍋の下にはそれがないことに気づいたら、たとえガスの炎を見たことがなくても、驚きは収まります。なぜなら、この青みがかった何かが蒸気の噴出を引き起こしている、あるいは少なくともその可能性があるとしか言えないからです。しかし、どちらの場合も青みがかった何かに気づかず、片方からは蒸気が絶えず出ているのに、もう片方からは出ていないとしたら、二つの鍋の挙動の違いの原因となる何らかの状況が見つかるまでは、私は驚きと不満を抱き続けるでしょう。

同様に、私は古典力学(あるいは特殊相対性理論)において、参照系KとKに関して考察する物体の異なる挙動を説明できる何か実在するものを探し求めているが、無駄である。1ニュートンはこの反論に気づき、それを否定しようと試みたが、成功しなかった。しかし、 E .マッハはこれを誰よりも明確に認識し、この反論ゆえに力学は新たな基盤の上に置かなければならないと主張した。この反論は、相対性理論の一般原理に適合する物理学によってのみ排除できる。なぜなら、そのような理論の方程式は、その運動状態がどのようなものであろうと、あらゆる参照体に対して成立するからである。

1この反論は、参照物体の運動状態がその維持に外部の機関を必要としない性質のものである場合、 例えば参照物体が均一に回転している場合に特に重要となる。 ↑

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XXII
一般相対性原理からのいくつかの推論
第XX節の考察は、相対性理論の一般原理によって、純粋に理論的な方法で重力場の特性を導き出せることを示しています。たとえば、ガリレオ領域でガリレオ基準体 K を基準として自然過程がどのように起こるかに関して、その時空の「経過」がわかっているとします。すると、純粋に理論的な操作 (つまり、単なる計算)によって、この既知の自然過程が、 Kに対して加速されている基準体K′から見たときにどのように現れるかがわかります。しかし、この新しい基準体Kを基準として重力場が存在するため 、この考察から、研究対象の過程に重力場がどのように影響するかもわかります。

例えば、ガリレイの法則に従ってKに対して等速直線運動している物体は、加速されている基準物体K′ (胸郭)に対して加速運動し、一般に曲線運動をしていることがわかります。この加速または曲率は、 Kに対して相対的に支配的な重力場が運動する物体に及ぼす影響に対応します。重力場がこのように物体の運動に影響を及ぼすことは既知であるため、ここでの考察は本質的に新しいものではありません。

しかし、光線についても同様の考察を行うと、根本的に重要な新たな結果が得られます。ガリレオの基準物体Kを基準とすると、このような光線は速度cで直線的に伝播します。同じ光線の軌跡を、加速された胸郭(基準物体K′ )を基準として考えると、もはや直線ではないことが容易に示せます。このことから、一般に、光線は重力場において曲線的に伝播するという結論が導き出されます。この結果は、2つの点で非常に重要です。

まず第一に、それは現実と比較できる。この問題を詳細に検討すると、一般相対性理論が要求する光線の曲率は、実際に利用可能な重力場に対しては極めて小さいことが示されるが、それでも太陽に斜入射する光線の曲率は1.7秒角と推定される。これは次のように示されるはずである。地球から見ると、いくつかの恒星は太陽の近傍にあるように見え、したがって皆既日食の際に観測可能である。そのような時、これらの星は、太陽が天空の別の場所にあるときの見かけの位置と比較して、上記に示した量だけ太陽から外側にずれているように見えるはずである。この推論の正否を検証することは極めて重要な問題であり、その早期解決は天文学者に期待される。1

第二に、我々の結果は、一般相対性理論によれば、特殊相対性理論の 2 つの基本仮定のうちの 1 つを構成し、我々がすでに何度も言及してきた真空中の光速度不変の法則は、無制限の妥当性を主張することはできないことを示している。光線の曲がりは、光の伝播速度が位置によって変化する場合にのみ発生し得る。さて、この結果として特殊相対性理論、そしてそれとともに相対性理論全体が過去のものとなると考えるかもしれない。しかし、現実にはそうではない。特殊相対性理論は無制限の妥当性領域を主張することはできないと結論することしかできず、その結果は、現象 (たとえば光) に対する重力場の影響を無視できる限りにおいてのみ成り立つのである。

相対性理論の反対者たちは、特殊相対性理論は一般相対性理論によって覆されたとしばしば主張してきたため、適切な比較によって事実関係をより明確にしておくのが賢明だろう。電気力学が発展する以前は、静電気の法則は電気の法則とみなされていた。現在では、静電的考察から電場を正しく導くことができるのは、厳密には実現されていないケース、すなわち、電気的質量が互いに対して、そして座標系に対して完全に静止している場合のみであることが分かっている。この理由から、静電気は電気力学におけるマクスウェルの場の方程式によって覆されたと言えるだろうか?全くそうではない。静電気は電気力学の極限ケースとして含まれており、電場が時間に関して不変である場合、後者の法則は前者の法則に直接つながる。いかなる物理理論にも、それが自らより包括的な理論の導入への道を示し、その中で極限的なケースとして生き続けることほど、公平な運命は与えられないであろう。

先ほど扱った光の透過の例では、一般相対性理論によって、重力場が自然現象の進行に及ぼす影響を理論的に導くことができることが分かりました。重力場が存在しない場合には、その法則は既に知られています。しかし、一般相対性理論が鍵を提供する最も魅力的な問題は、重力場自体が満たす法則の探求です。この点について少し考えてみましょう。

我々は、適切な基準物体の選択によって(近似的に)「ガリレイ的」に振舞う時空領域、すなわち重力場が存在しない領域を知っている。今、そのような領域を、何らかの運動をする基準物体K′に関連付けると、 K′に対して、空間と時間に関して変化する重力場が存在する。2この場の特性は、もちろんK′に選択された運動に依存する。一般相対性理論によれば、このようにして得られるすべての重力場について、重力場の一般法則が満たされなければならない。決してすべての重力場をこのように生成できるわけではないが、そのような特殊な重力場から一般重力法則を導出できるという希望を抱くことができる。この希望は、最も美しい方法で実現された。しかし、この目標を明確に思い描き、それを実際に実現するまでには、深刻な困難を克服する必要がありました。これは物事の根源に深く根ざしているため、読者にお伝えするのをあえて控えることはできません。私たちは時空連続体に関する私たちの考えをさらに発展させる必要があります。

1英国王立天文学会と英国王立天文学会の合同委員会が装備した2つの探検隊の星の写真により、理論で要求されている光の偏向の存在は、1919年5月29日の日食の際に初めて確認されました。(付録IIIを参照) ↑

2これは第XX節の議論の一般化から導かれるものである。 ↑

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XXIII
回転基準体上における時計と測定棒の挙動
これまで私は、一般相対性理論における空間および時間データの物理的解釈について、意図的に言及を避けてきました。その結果、ある種のずさんな扱いをしてしまったことは否めません。特殊相対性理論から分かるように、これは決して軽視できるものではなく、許されるものでもありません。今こそこの欠陥を正すべき時です。しかし、冒頭に申し上げておきたいのは、この問題は読者の忍耐力と抽象化の力に少なからぬ負担をかけるということです。

これまで頻繁に用いてきた極めて特殊なケースから、再び出発点を見よう。適切に運動状態が選ばれた基準物体Kに対して重力場が存在しない時空領域を考えよう。 Kは、この領域に関してガリレオ基準物体となり、特殊相対性理論の結果はKに関して成り立つ。同じ領域が、 Kに対して一様に回転する別の基準物体K′を参照しているとしよう。考えを確定させるために、K′が平面円板であり、自身の平面内で中心の周りを一様に回転するとしよう。円板K′上に偏心して座っている観測者は、放射状に外向きに働く力を感じ取る。この力は、元の基準物体Kに対して静止していた観測者であれば、慣性(遠心力)の影響と解釈されるであろう。しかし、円板上の観測者は、自分の円板を「静止している」基準物体と見なすかもしれない。一般相対性原理に基づけば、彼がそうすることは正当化される。彼は、自分自身、そして実際には円盤に対して静止している他のすべての物体に作用する力を、重力場の効果とみなす。しかしながら、この重力場の空間分布は、ニュートンの重力理論ではあり得ない種類のものである。1しかし、観測者は一般相対性理論を信じているため、これは彼を悩ませるものではない。彼は、一般重力法則――星の運動を正しく説明するだけでなく、自分自身が経験する力場も――を定式化できると信じること自体が全く正しいのである。

観測者は、時計と物差しを用いて円板上で実験を行う。その際、観測者は円板K′を基準として、時間と空間のデータの意味について、自身の観測に基づいた正確な定義に到達することを意図する。この試みにおいて、彼はどのような経験をするだろうか?

まず、彼は同一構造の時計 2 台のうち 1 台を円板の中心に、もう 1 台を円板の端に置き、円板に対して静止させます。ここで、回転しないガリレイの基準物体Kから見て、両方の時計が同じ速度で進んでいるかどうかを考えます。この物体から判断すると、円板の中心にある時計には速度がありませんが、円板の端にある時計は回転の結果、Kに対して動いています。第12節で得られた結果によれば、後者の時計は、円板の中心にある時計、つまりKから観測される時計よりも常に遅い速度で進んでいます。円板の中心で時計の横に座っている観測者を想像すると、同じ効果が観察されることは明らかです。したがって、この円板上、あるいはより一般的に言えば、あらゆる重力場において、時計は、その位置 (静止) に応じて、より速く進んだり、より遅く進んだりすることになります。このため、基準物体に対して静止した状態で配置された時計を用いて、時間の合理的な定義を得ることは不可能である。このような場合に、前述の同時性の定義を適用しようとすると、同様の困難が生じるが、この問題についてはこれ以上深く掘り下げることはしない。

さらに、この段階では、空間座標の定義にも克服できない困難が伴います。 観測者が標準的な測定棒 (円盤の半径に比べて短い棒) を円盤の縁に接線方向に当てると、ガリレオ方式から判断すると、棒の長さは 1 未満になります。これは、第12章 によれば、運動物体は運動の方向に短縮するからです。 一方、測定棒を半径の方向に円盤に当てた場合、 Kから判断すると、測定棒の長さは短縮しません。 その場合、観測者が最初に測定棒で円盤の円周を測定し、次に円盤の直径を測定し、一方を他方で割ったとき、商としてよく知られている数ではなく、より大きな数2が得られます。 一方、もちろん、 Kに対して静止している円盤の場合、この操作によって正確に次の数が得られます。これは、ユークリッド幾何学の命題が回転円盤上、そして一般の重力場においても、少なくともあらゆる位置と方向において棒の長さ1を仮定する場合には、厳密には成立しないことを証明している。したがって、直線という概念も意味を失う。したがって、特殊理論を議論する際に用いられる方法を用いて円盤に対する相対座標を正確に定義することは不可能であり、事象の座標と時刻が定義されていない限り、それらが生じる自然法則に正確な意味を与えることはできない。

このように、一般相対性理論に基づくこれまでの結論はすべて疑問視されることになるだろう。しかし実際には、一般相対性理論の公理を正確に適用するためには、微妙な回り道をしなければならない。以下の段落で、読者にこの点について説明しよう。

1磁場はディスクの中心で消え、外側へ進むにつれて中心からの距離に比例して増加します。 ↑

2この考察全体を通して、ガリレオ式(非回転)K を参照物体として使用する必要があります。これは、特殊相対性理論の結果の妥当性はKを基準としてのみ想定できるためです(K′ を基準とすると重力場が優先されます)。 ↑

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XXIV
ユークリッド連続体と非ユークリッド連続体
大理石のテーブルの表面が目の前に広がっています。このテーブル上の任意の点から他の任意の点へは、ある点から「隣接する」点へと連続的に移動し、このプロセスを(何度も)繰り返すことで移動できます。言い換えれば、「ジャンプ」をすることなく点から点へと移動することで移動できます。読者の皆様は、ここで私が「隣接する」点と「ジャンプ」という言葉で何を意味しているかを(あまり衒学的でなければ)十分に理解していただけると思います。私たちは、表面のこの性質を、表面を連続体として表現します。

今度は、大理石の板の寸法に比べて短い、等しい長さの小さな棒が多数作られていると想像してみましょう。等しい長さというのは、どの棒の上にも端が重ならないように置けることを意味します。次に、これらの小さな棒を 4 本、大理石の板の上に置き、対角線の長さが等しい四辺形 (正方形) を形成します。対角線の長さが等しいことを確認するために、小さなテスト用の棒を使います。この正方形に、最初の正方形と 1 本の棒を共有する同様の正方形を追加します。同様にして、これらの正方形を 1 つずつ配置し、最終的に大理石の板全体に正方形を配置します。配置は、正方形の各辺が 2 つの正方形、各角が 4 つの正方形に属するようなものになります。

この作業を大きな困難に陥ることなく進められるのは、実に驚くべきことです。次の点だけを考えれば十分です。ある瞬間に3つの正方形が角で交わる場合、4つ目の正方形の2辺は既に敷設されており、結果として、正方形の残りの2辺の配置は既に完全に決定されています。しかし、もはや四角形の対角線が等しくなるように調整することはできません。もし対角線が自然に等しくなるのであれば、これは大理石の板と小さな棒の特別な恩恵であり、私はただ感謝するしかありません。建設を成功させるには、このような驚きを数多く経験しなければなりません。

もしすべてが本当に順調に進んだとすれば、大理石の板の点は、「距離」(線間隔)として用いられた小さな棒に関してユークリッド連続体を形成していると言える。正方形の1つの角を「原点」として選ぶことで、この原点を基準として、正方形の他のすべての角を2つの数値で特徴付けることができる。原点から「右」へ、そして「上」へ進む際に、問題の正方形の角に到達するために何本の棒を通過する必要があるかを述べるだけでよい。そして、これら2つの数値は、小さな棒の配置によって決定される「直交座標系」を基準とした、この角の「直交座標」となる。

この抽象的な実験に以下の修正を加えることで、実験が失敗するケースも存在することを認識できます。棒は温度上昇に比例して「膨張」すると仮定します。大理石の板の中央部分を加熱しますが、周縁部は加熱しません。その場合でも、テーブルのどの位置でも2本の小さな棒を一致させることができます。しかし、加熱中に正方形の配置は必然的に乱れてしまいます。なぜなら、テーブルの中央部分の小さな棒は膨張しますが、周縁部の小さな棒は膨張しないからです。

単位長さとして定義された小さな棒に関して言えば、大理石の板はもはやユークリッド連続体ではなく、また、上記の構成がもはや実行できないため、それらの助けを借りて直接デカルト座標を定義することもできなくなりました。しかし、テーブルの温度によって小さな棒と同様に(あるいは全く)影響を受けない他の物体が存在するため、大理石の板が「ユークリッド連続体」であるという見解を維持することは極めて自然に可能です。これは、長さの測定または比較についてより微妙な規定を設けることで、満足のいく方法で行うことができます。

しかし、あらゆる種類(つまり、あらゆる材質)の棒が、可変的に加熱された大理石の板の上にあるときに温度の影響に関して同じ動作をするとしたら、そして、上記で説明したのと類似の実験における棒の幾何学的動作以外に温度の影響を検出する手段がないとしたら、棒の1つの端がこれらの2点に一致できるという条件で、板上の1対2の距離を割り当てるのが最善の策でしょう。そうでなければ、手順が極めて恣意的になることなく、どのように距離を定義できるでしょうか?その場合、直交座標系法は廃棄し、剛体に対するユークリッド幾何学の有効性を前提としない別の方法に置き換えなければなりません。1読者は、ここで描かれている状況が一般相対性理論(セクションXXIII )によってもたらされる状況に対応していることに気付くでしょう。

1数学者たちは、次のような形で我々の問題に直面してきた。ユークリッド三次元空間における曲面(例えば楕円体)が与えられた場合、平面と同様に、この面にも二次元幾何学が存在する。ガウスは、この二次元幾何学を第一原理から扱うという課題に取り組んだが、その際、曲面が三次元ユークリッド連続体に属するという事実は考慮しなかった。もし、曲面に剛体の棒を用いて構築物を作ることを想定するならば(上述の大理石の板の場合と同様に)、ユークリッド平面幾何学に基づく法則とは異なる法則が成り立つことがわかるだろう。曲面は棒に関してユークリッド連続体ではなく、曲面上に直交座標を定義することもできない。ガウスは、曲面における幾何学的関係を扱うための原理を示し、それによって多次元非ユークリッド連続体を扱うリーマンの方法への道を示した。このように、数学者は、一般相対性理論によって導かれる形式的な問題をずっと昔に解決しました。 ↑

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XXV
ガウス座標
図4.
図4.

ガウスによれば、この問題の解析的および幾何学的処理の組み合わせは、次のようにして到達できる。テーブルの表面に描かれた任意の曲線のシステム (図4を参照) を想像する。これらをu曲線と呼び、番号を使用してそれぞれを示す。曲線、、およびが図に描かれている。曲線との間には、すべてが 1 から 2 までの間の実数に対応する、無限に大きな数が描かれることを想像しなければならない。これでu曲線のシステムが得られ、この「無限に密な」システムがテーブルの表面全体をカバーします。これらの u 曲線は互いに交差してはならず、表面の各点を通過する曲線は 1 つだけである必要があります。したがって、大理石の板の表面上のすべての点には、完全に定まったuの値があります。同様に、表面に描かれたv曲線のシステムを想像します。これらはu曲線と同じ条件を満たし、対応する番号が与えられ、同様に任意の形状をとることができる。したがって、uの値とvの値はテーブルの表面上のすべての点に属する。これらの2つの数をテーブルの表面の座標(ガウス座標)と呼ぶ。例えば、図の点Pはガウス座標、を持つ。したがって、表面上の2つの隣接する点PとPは、座標に対応する。

ここで、 duとdvは非常に小さな数を表します。同様に、小さな棒で測ったPとP′の間の距離(線間隔)を、非常に小さな数dsで表すことができます。ガウスによれば、

ここで、 、 はuとvに完全に明確に依存する大きさです。 、 、 の大きさは、u曲線とv曲線に対する棒の挙動、ひいてはテーブルの表面に対する棒の挙動を決定します。ただし、この場合に限り、u曲線とv曲線を描き、それらに番号を付けることが可能です。その方法は、単純に次のようになります。

これらの条件下では、u曲線とv曲線はユークリッド幾何学の意味で直線であり、互いに直交しています。ここで、ガウス座標は単に直交座標です。ガウス座標は、2組の数値と対象面上の点との対応関係に過ぎず、互いにわずかに異なる数値が「空間内」の隣接点と対応付けられるという性質を持つことは明らかです。

これまでの考察は2次元連続体について成り立っています。しかし、ガウス法は3次元、4次元、あるいはそれ以上の次元連続体にも適用できます。例えば、4次元連続体が利用できると仮定すると、次のように表現できます。連続体の各点に、任意に4つの数値 を関連付けます。これらは「座標」と呼ばれます。隣接する点は、座標の隣接する値に対応します。隣接する点Pととの間に距離dsが関連付けられており、この距離が測定可能であり、物理的な観点から明確に定義されている場合、次の式が成り立ちます。

ここで、大きさなどは連続体上の位置によって変化する値を持ちます。連続体がユークリッド連続体である場合にのみ、座標を連続体の点と関連付けることが可能であり、したがって単純に

この場合、3 次元測定で保持される関係と同様の関係が 4 次元連続体でも保持されます。

しかし、上記に示したガウスの扱いは常に可能であるとは限らない。これは、対象とする連続体の十分に小さな領域をユークリッド連続体と見なせる場合にのみ可能である。例えば、テーブルの大理石の板と局所的な温度変化の場合、これは明らかに成り立つ。板の小さな部分では温度は実質的に一定であり、したがって棒の幾何学的挙動はユークリッド幾何学の規則に従ってほぼ想定どおりである。したがって、前節で示した正方形の作図の不完全性は、この作図がテーブルの表面のかなりの部分まで拡張されるまでは明確に現れない。

これをまとめると、次のようになります。ガウスは、連続体一般を数学的に扱うための手法を発明しました。この手法では、「大きさの関係」(隣接する点間の「距離」)が定義されます。連続体の各点には、連続体の次元と同じ数(ガウス座標)が割り当てられます。これは、割り当てに1つの意味しか付与できないように、また、隣接する点には無限に小さな差を持つ数(ガウス座標)が割り当てられるように行われます。ガウス座標系は、直交座標系の論理的一般化です。ガウス座標系は非ユークリッド連続体にも適用できますが、定義された「大きさ」または「距離」に関して、対象とする連続体の小さな部分がユークリッド座標系に近づく場合に限られます。つまり、対象とする連続体の部分が小さいほど、その部分がユークリッド座標系に近づくということです。

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XXVI
特殊相対性理論の時空連続体をユークリッド連続体として考える
これで、第17章で漠然としか示されていなかったミンコフスキーの考えをより正確に定式化できるようになりました。特殊相対性理論によれば、4 次元時空連続体の記述には特定の座標系が優先されます。これを「ガリレイ座標系」と呼びます。これらの座標系では、 事象、つまり 4 次元連続体上の点を決定する 4 つの座標が、本書の前半で詳しく説明したように、物理的に簡単に定義されます。あるガリレイ系から、最初のガリレイ系を基準として等速運動する別のガリレイ系への移行については、ローレンツ変換の方程式が妥当です。この最後の方程式は、特殊相対性理論からの演繹を導くための基礎となり、それ自体は、すべてのガリレイ参照系に対する光透過法則の普遍的な妥当性を表現したものにほかなりません。

ミンコフスキーは、ローレンツ変換が以下の単純な条件を満たすことを発見した。二つの隣接する事象を考えてみよう。これらの事象の四次元連続体における相対位置は、ガリレオ基準物体Kに対する空間座標差と時間差dtによって与えられる。第二のガリレオ基準系を参照して、これら二つの事象に対応する差が であると仮定する。すると、これらの大きさは常に条件1を満たす。

ローレンツ変換の妥当性はこの条件から導かれる。これは次のように表現できる。

四次元時空連続体の隣接する2点に属する は、選択されたすべての(ガリレオ)基準物体に対して同じ値を持ちます。、、 を に置き換えると、次の結果が得られます。

参照物体の選択とは無関係です。大きさdsは、 2つの事象、あるいは4次元点間の「距離」と呼ばれます。

したがって、時間変数として実数tの代わりに虚数変数を選択した場合、特殊相対性理論に従って、時空連続体を「ユークリッド」4次元連続体と見なすことができます。これは、前のセクションの考察から得られる結果です。

1付録IおよびIIを参照。そこで座標自体について導出される関係は、座標差についても有効であり、したがって座標微分(無限に小さな差)についても有効である。 ↑

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XXVII
一般相対性理論の時空連続体はユークリッド連続体ではない
本書の前半では、単純かつ直接的な物理的解釈を可能にし、第26節によれば4 次元の直交座標とみなすことができる時空座標を利用することができました。これは光速度不変の法則に基づいて可能になりました。しかし、第 21節によれば、一般相対性理論はこの法則を維持できません。それどころか、この一般相対性理論によれば、重力場が存在する場合、光速度は常に座標に依存しなければならないという結論に達しました。第23節の具体的な例に関連して、重力場の存在によって座標と時間の定義が無効になることがわかり、これが特殊相対性理論の目的につながりました。

これらの考察の結果から、相対性理論の一般原理によれば、時空連続体はユークリッド連続体とはみなすことはできず、ここでは局所的な温度変化を伴う大理石板に対応する一般的なケースがあり、これは二次元連続体の例として紹介したケースであるという確信に至る。そこでは等しい棒から直交座標系を構築することが不可能であったのと同様に、ここでは剛体と時計から、互いに厳密に配置された測定棒と時計が位置と時間を直接示すようなシステム(基準物体)を構築することは不可能である。これが、第XXIII節で我々が直面した困難の本質であった。

しかし、第25節と第26節の考察は、この困難を克服する方法を示している。4次元時空連続体を任意の方法でガウス座標に関連付ける。連続体(事象)のあらゆる点に4つの数(座標)を割り当てる。これらの数には直接的な物理的意味は全くなく、連続体の点を明確かつ任意の方法で番号付けする目的のみを果たす。この配置は、 を「空間」座標、 を「時間」座標と見なすようなものである必要はない。

読者は、このような世界の記述は全く不十分であると考えるかもしれない。ある事象に特定の座標を割り当てることは、それ自体に意味がないのなら、何を意味するのだろうか。しかし、より注意深く検討すると、この不安は杞憂であることが分かる。例えば、何らかの運動をする質点を考えてみよう。この点が持続性のない瞬間的存在しか持たないのであれば、それは時空の中で単一の値体系によって記述されるであろう。したがって、その永続的な存在は、座標値が連続性を与えるほど互いに近い、無数のそのような値体系によって特徴付けられるに違いない。したがって、質点に対応して、四次元連続体中に(一次元)の線が存在する。同様に、我々の連続体におけるそのような線はどれも、運動している多くの点に対応する。これらの点に関して物理的存在を主張できる唯一の記述は、実際にはそれらの点の遭遇についての記述である。我々の数学的処理において、このような出会いは、問題となっている点の運動を表す2本の直線が共通の特定の座標値系 を持つという事実によって表現される。読者は、熟考を重ねれば、実際にはこのような出会いこそが、我々が物理的な記述において遭遇する時空間の性質の唯一の実際的証拠であることを、疑いなく認めるであろう。

物体に対する物質点の運動を記述した際、私たちはこの点と物体の特定の点との接触について述べたに過ぎませんでした。物体と時計の接触を観察することで、また時計の針と文字盤上の特定の点との接触を観察することで、対応する時間の値を決定することもできます。少し考えればわかるように、物差しを用いた空間測定の場合も同様です。

一般的に、以下の命題が成り立つ。あらゆる物理的記述は、それぞれが2つの事象AとBの時空間的一致を示す複数の命題に帰結する。ガウス座標系において、このような命題はすべて、4つの座標の一致によって表現される。したがって、実際には、ガウス座標系による時空間連続体の記述は、参照体を用いた記述に完全に取って代わり、後者の記述様式の欠陥を被ることはない。それは、表現されるべき連続体のユークリッド的性質に縛られることはない。

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XXVIII
一般相対性原理の正確な定式化
第18節で示した一般相対性原理の暫定的な定式化を、正確な定式化に置き換えることができる。そこで用いられた「すべての参照物体などは、自然現象の運動状態がどのようなものであろうと、その記述(自然一般法則の定式化)において等価である」という形式は、特殊相対性理論で採用されている方法論の意味で、剛体参照物体を用いることは一般に時空記述においては不可能であるため、維持することはできない。参照物体の代わりにガウス座標系を用いる必要がある。次の記述は、一般相対性原理の基本的な考え方に対応している。「すべてのガウス座標系は、自然一般法則の定式化において本質的に等価である」 。

この一般相対性原理は、特殊相対性原理の自然な拡張の形式の場合よりもさらに明確に理解できる別の形式で述べることができます。特殊相対性理論によれば、ローレンツ変換を使用して、(ガリレオ)基準物体Kの時空変数 を新しい基準物体 K′ の時空変数 に置き換えると、一般自然法則を表現する方程式は同じ形式の方程式に移行します。一方、一般相対性理論によれば、ガウス変数の任意の置き換えを適用することにより、方程式は同じ形式の方程式に移行する必要があります。これは、すべての変換(ローレンツ変換だけでなく)が、1 つのガウス座標系から別のガウス座標系への移行に対応するためです。

もし私たちが「古き良き」三次元的視点に固執するならば、一般相対性理論の基本的な考え方が現在進行している発展を次のように特徴づけることができる。特殊相対性理論はガリレイの領域、すなわち重力場が存在しない領域を参照する。この点において、ガリレイの基準物体が基準物体として機能する。すなわち、その運動状態は、「孤立した」質点のガリレイの等速直線運動の法則が相対的に成り立つように選択される剛体である 。

ある考察から、ガリレオ非対称参照体についても、同じガリレオ領域を当てはめるべきであることが示唆される 。その場合、これらの参照体に関しては、特殊な種類の重力場が存在する(第20節および第23節参照)。

重力場にはユークリッド的性質を持つ剛体は存在しない。したがって、架空の基準剛体は一般相対性理論では役に立たない。時計の運動も重力場の影響を受けており、時計を用いて直接的に定義される物理的な時間の定義は、特殊相対性理論ほどの妥当性を持つことはない。

このため、非剛体参照体が用いられる。これらの参照体は全体として何らかの運動をするだけでなく、運動中に形状が随時変化する。時計は、その運動法則がどんなに不規則であっても、何らかの形で存在し、時間の定義に用いられる。これらの時計はそれぞれ、非剛体参照体上の一点に固定されていると想像しなければならない。これらの時計は、隣接する時計(空間内)で同時に観測される「値」が互いに無限に小さな量だけ異なるという、ただ一つの条件を満たす。この非剛体参照体は、「参照軟体動物」と呼ぶのが適切かもしれないが、基本的に任意に選択されたガウス四次元座標系に相当する。ガウス座標系と比較して「軟体動物」に一定の分かりやすさを与えているのは、時間座標とは対照的に空間座標が別個に存在するという(実際には不当な)形式的な保持である。軟体動物上のあらゆる点は空間点として扱われ、軟体動物を基準物体とみなす限り、それに対して静止しているあらゆる質点は静止しているものとみなされる。相対性理論の一般原理によれば、これらの軟体動物はすべて、一般自然法則の定式化において、同等の権利と同等の成功率をもって基準物体として用いることができる。ただし、法則そのものは、軟体動物の選択とは全く無関係でなければならない。

相対性の一般原理が持つ偉大な力は、上で見てきたことの結果として自然法則に課される包括的な制限にあります。

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XXIX
一般相対性原理に基づく重力問題の解決
読者がこれまでの考察をすべて理解していれば、重力の問題を解決するための方法を理解するのにそれ以上の困難はないでしょう。

まず、ガリレイ領域、すなわちガリレイの基準物体Kに対して重力場が存在しない領域 について考察する。Kを基準とした物差しや時計の挙動は特殊相対性理論から知られており、「孤立した」物質点の挙動も同様である。後者は一様に直線的に運動する。

さて、この領域をランダム ガウス座標系、または参照物体K′としての「軟体動物」に関連付けてみましょう。すると、 K′に関して、 (特定の種類の)重力場Gが存在します。 我々は、数学的変換のみによって、 K′を基準とした測定棒や時計、また自由に移動する物質点の挙動を学びます。 この挙動は、重力場Gの影響下にある測定棒、ドック、物質点の挙動として解釈されます。 ここで、次の仮説を導入します。それは、支配的な重力場がガリレオの特殊なケースから単なる座標変換によって導出 できない場合でも、測定棒、時計、自由に移動する物質点に対する重力場の影響は同じ法則に従って発生し続けているというものです。

次のステップは、ガリレイの特殊ケースから座標変換によって単純に導出された重力場Gの時空間挙動を調べることです 。この挙動は、記述に用いられる参照物体(軟体動物)がどのように選択されても常に有効な法則として定式化されます。

この法則は、まだ重力場の一般法則とは言えません。なぜなら、ここで扱う重力場は特殊な種類のものだからです。重力場の一般法則を見つけるには、上記の法則の一般化をまだ得る必要があります。しかし、以下の要件を考慮することで、これは偶然に得ることはできません。

(あ)要求される一般化も同様に一般相対性理論の公理を満たさなければなりません。
(イ)検討中の領域内に何らかの物質がある場合、その慣性質量のみが、したがってセクションXVによればそのエネルギーのみが、場を励起する際の効果にとって重要です。
(ハ)重力場と物質は共にエネルギー保存則(および衝撃保存則)を満たさなければなりません。

最後に、相対性理論の一般原理は、重力場が存在しない場合に既知の法則に従って起こるすべての過程、すなわち特殊相対性理論の枠組みに既に組み込まれているすべての過程の進行に対する重力場の影響を決定することを可能にする。この点に関しては、物差し、時計、そして自由に移動する物質点について既に説明した方法に従って原理的に進める。

このように相対性理論の一般公理から導き出された重力理論は、その美しさだけでなく、第21章で明らかにされた古典力学に付随する欠陥の除去や、慣性質量と重力質量が等しいという経験法則の解釈においても優れているだけでなく、古典力学が無力であった天文学の観測結果をも既に説明している。

この理論の適用範囲を、重力場が弱いとみなせる場合、そしてすべての質量が座標系に対して光速に比べて小さい速度で運動する場合に限定すると、第一近似としてニュートン理論が得られる。したがって、ここでは特別な仮定なしに後者の理論が得られるが、ニュートンは、互いに引力を持つ質点間の引力はそれらの間の距離の2乗に反比例するという仮説を導入しなければならなかった。計算の精度を高めると、ニュートン理論からの逸脱が現れるが、そのほとんど全ては微小であるため、観測テストを逃れるはずである。

ここで、これらの逸脱の一つに注意を喚起しなければなりません。ニュートンの理論によれば、惑星は太陽の周りを楕円軌道で運動します。恒星自体の運動と、検討中の他の惑星の行動を無視できる場合、惑星は恒星に対して恒星の位置を永久に維持します。したがって、観測された惑星の運動をこれら二つの影響に対して補正し、ニュートンの理論が厳密に正しいとすれば、惑星の軌道は恒星を基準として固定された楕円軌道となるはずです。この推論は非常に正確に検証可能であり、現在達成可能な精密な観測によって得られる精度で、1つを除くすべての惑星について確認されています。唯一の例外は、太陽に最も近い惑星である水星です。ルヴェリエの時代から、水星の軌道に対応する楕円は、上記の影響を補正した後、恒星に対して静止しているのではなく、軌道面内および軌道運動の方向において非常にゆっくりと回転することが知られていました。この軌道楕円の回転運動の値は1世紀あたり43秒角であり、これは数秒角以内の精度が保証されています。この効果は、古典力学によってのみ説明できますが、その仮説は確率がほとんどなく、この目的のためだけに考案されたものです。

一般相対性理論に基づくと、太陽の周りを回るすべての惑星の楕円は、必然的に上記で示した方法で回転することがわかります。水星を除くすべての惑星の場合、この回転は小さすぎて、現在可能な精密な観測では検出できませんが、水星の場合は、1世紀あたり43秒角に達する必要があり、これは観測結果と厳密に一致するはずです。

この1つを除けば、これまで理論から導き出せる観測可能な推論は2つだけである。すなわち、太陽の重力場による光線の曲率1と、地球上で同様の方法で生成される光(すなわち同種の原子)のスペクトル線と比較した場合の、大きな星から地球に到達する光のスペクトル線の変位2である。理論からのこれら2つの推論は、いずれも観測によって確認されている。

11919年にエディントンらによって初めて観測された。(付録III、126~129ページ参照)。 ↑

21924年にアダムズによって設立されました。(132ページ参照) ↑

第3部
宇宙全体についての考察
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XXX
ニュートン理論の宇宙論的困難
第XXI節で論じた困難とは別に、古典天体力学に伴う第二の根本的な困難がある。これは私の知る限り、天文学者ゼーリガーによって初めて詳細に論じられたものである。宇宙全体をどう捉えるかという問いについて深く考えると、最初に思い浮かぶ答えは間違いなく次のようになる。空間 (および時間) に関しては、宇宙は無限である。あらゆるところに星があるので、物質の密度は、細部では非常に変化するものの、平均するとあらゆる場所で同じである。言い換えれば、宇宙のどこまでも遠くまで旅しようと、種類と密度がほぼ同じである恒星の散逸した群れがあらゆる場所で見つかるはずである。

この見解はニュートンの理論とは相容れない。ニュートンの理論はむしろ、宇宙には星の密度が最大となる中心のようなものがあり、そこから外側へ進むにつれて星の密度は減少し、最終的には遠く離れたところで無限の空虚な領域に取って代わられるとしている。恒星宇宙は、無限の宇宙の海に浮かぶ有限の島であるべきである1。

この概念自体は、あまり納得のいくものではありません。さらに納得のいくものではないのは、恒星系を構成する個々の恒星、そして恒星から発せられる光が、無限の空間へと永遠に放たれ続け、二度と戻ることなく、他の自然界の物体と相互作用することもないという結果につながるからです。このような有限の物質宇宙は、徐々に、しかし体系的に貧弱になっていく運命にあるでしょう。

このジレンマから抜け出すため、ゼーリガーはニュートンの法則の修正を提案した。この修正では、二つの質量間の引力は、遠距離においては、反二乗則から生じるよりも急速に減少すると仮定した。こうして、物質の平均密度は、無限大の重力場を生じさせることなく、あらゆる場所で、たとえ無限大に至るまで一定となることが可能である。こうして、物質宇宙は中心のような性質を持つべきであるという不快な概念から解放される。もちろん、私たちは、経験的にも理論的にも根拠のないニュートンの法則の修正と複雑化という代償を払って、前述の根本的な困難から解放される。同じ目的を果たす無数の法則を想像することはできるが、なぜそれらの法則が他の法則よりも優れているのかを述べることはできない。なぜなら、これらの法則のどれも、ニュートンの法則と同じくらい、より一般的な理論的原理に基づいていないからである。

1証明 —ニュートンの理論によれば、無限遠から来て質量mに至る「力線」の数は、質量mに比例します。平均的に、質量密度が宇宙全体で一定であれば、体積Vの球が平均質量 を囲みます。したがって、球の表面Fを通過して内部に入る力線の数はに比例します。球の表面積の単位面積に対して、球に入る力線の数はまたは に比例します。したがって、球の半径Rが増加すると、表面における場の強度は最終的に無限大になりますが、これは不可能です。 ↑

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XXXI
「有限」でありながら「無限」な宇宙の可能性
しかし、宇宙の構造に関する思索は全く別の方向にも進んでいます。非ユークリッド幾何学の発展は、思考法則や経験則に反することなく、我々の空間の無限性に疑問を投げかけることができるという事実の認識につながりました(リーマン、ヘルムホルツ)。これらの問いは既にヘルムホルツとポアンカレによって詳細かつ比類のない明快さで扱われており、ここでは簡単に触れるだけにとどめます。

まず第一に、我々は二次元空間における存在を想像する。平らな道具、特に平らで剛体の物差しを持つ平らな存在は、平面内を自由に移動できる。彼らにとって、この平面の外には何も存在しない。彼ら自身と彼らの平らな「物」に起こると観察される出来事こそが、彼らの平面における包括的な現実なのだ。特に、棒を用いて平面ユークリッド幾何学の構築(例えば、第24節で考察する格子構築)を行うことができる。我々の宇宙とは対照的に、これらの存在の宇宙は二次元的であるが、我々の宇宙と同様に無限に広がっている。彼らの宇宙には、棒で構成された無数の同一の正方形を形成できる余地があり、すなわちその体積(表面積)は無限である。これらの存在が彼らの宇宙は「平面」であると言うならば、それは意味がある。なぜなら、彼らは棒を用いて平面ユークリッド幾何学の構築を行うことができるという意味だからである。この点において、個々の棒は、その位置に関わらず、常に同じ距離を表す。

では、もう一つの二次元的存在を考えてみましょう。ただし、今回は平面ではなく球面上です。平面的な存在は、物差しやその他の物体を用いてこの面にぴったりと収まり、そこから出ることさえできません。彼らの観測宇宙全体は、球面上にのみ広がっています。これらの存在は、自分たちの宇宙の幾何学を平面幾何学として、また物差しを「距離」の実現として捉えることができるでしょうか?彼らにはそれができません。なぜなら、もし彼らが直線を実現しようとすれば、曲線を得ることになるからです。私たち「三次元的存在」はそれを大円、つまり物差しによって測ることができる、有限で明確な長さを持つ自己完結的な線と呼んでいます。同様に、この宇宙は有限の面積を持ち、それは物差しで作られた正方形の面積に匹敵します。この考察から得られる大きな魅力は、これらの存在の宇宙は有限でありながら、限界がないという事実を認識することにあります。

しかし、球面上の存在は、自分たちがユークリッド宇宙に住んでいないことを認識するために世界旅行に出かける必要はありません。彼らは、その「世界」のあらゆる部分で、その一部でもあまりに小さな部分でなければ、このことを確信することができます。一点から出発して、彼らはあらゆる方向に等しい長さの「直線」(三次元空間で判断される円弧)を描きます。彼らはこれらの直線の自由端を結ぶ線を「円」と呼びます。平面の場合、円周と直径の比は、両方の長さを同じ棒で測ると、平面のユークリッド幾何学によれば、 円の直径に依存しない一定値になります。彼らの球面上では、私たちの平らな存在はこの比を次の値と見なすでしょう。

つまり、 よりも小さい値で、その差が大きいほど、円の半径は「世界球」の半径Rと比較して大きくなります。この関係により、球体の存在は、たとえ世界球の比較的小さな部分しか測定に利用できない場合でも、その宇宙 (「世界」) の半径を決定できます。しかし、この部分が非常に小さい場合、球面の小さな部分は、同じ大きさの平面の一部とわずかに異なるだけであるため、球体の存在は、自分がユークリッド平面ではなく球状の「世界」上にいることを証明できなくなります。

したがって、球面生命体が、太陽系が球状宇宙のごくわずかな部分を占めるだけの惑星に住んでいる場合、彼らがアクセスできる「宇宙の一部」はどちらの場合も実質的に平面、つまりユークリッドであるため、自分たちが有限宇宙に住んでいるのか無限宇宙に住んでいるのかを判断する手段はありません。この議論から直接導かれるのは、球面生命体である私たちにとって、円周はまず半径とともに増加し、「宇宙の円周」に達するまで続き、その後は半径がさらに増加するにつれて徐々にゼロまで減少していくということです。この過程で円の面積はますます増加し続け、最終的には「世界球面」全体の面積と等しくなります。

読者は、なぜ我々の「存在」を他の閉面ではなく球面上に置いたのかと疑問に思うかもしれません。しかし、この選択は、すべての閉面の中で球面が唯一、その上のすべての点が等価であるという性質を持っているという事実によって正当化されます。円の円周cと半径rの比はrに依存することは認めますが、 rの値が与えられた場合、「世界球面」のすべての点で同じになります。言い換えれば、「世界球面」とは「一定曲率の面」なのです。

この二次元球状宇宙には、三次元の類似物、すなわちリーマンによって発見された三次元球状空間が存在する。その点も同様にすべて等価である。球状空間は有限の体積を持ち、その体積は「半径」()によって決定される。球状空間を想像することは可能だろうか?空間を想像するということは、私たちが「空間」体験、すなわち「剛体」の運動において経験できる体験の縮図を想像することに他ならない。この意味で、私たちは 球状空間を想像することができるのである。

ある点からあらゆる方向に線を引いたり、弦を張ったりして、それぞれから距離r を物差しで測るとします。これらの長さの自由な端点はすべて球面上にあります。物差しで作った正方形を使って、この面の面積 ( F ) を特に測定することができます。宇宙がユークリッド宇宙であれば、球面宇宙であればFは常に より小さくなります。rの値が増加すると、F はゼロから「世界半径」によって決まる最大値まで増加しますが、rの値がさらに増加すると、面積は徐々にゼロまで減少します。最初は、開始点から放射状に伸びる直線は互いにどんどん離れていきますが、後に互いに近づき、最終的には開始点の「対点」で再び合流します。このような条件下では、直線は球面空間全体を横断したことになります。3次元の球面空間が2次元の球面と非常に類似していることは容易にわかります。それは有限であり(つまり、有限の体積)、境界がありません。

さらに別の種類の曲がった空間、「楕円空間」が存在することに言及しておくべきだろう。これは、二つの「対位点」が同一(互いに区別できない)である曲がった空間と見なすことができる。したがって、楕円宇宙は、ある程度、中心対称性を持つ曲がった宇宙と見なすことができる。

これまで述べてきたことから、無限の閉空間が考えられることが分かります。その中でも、球面空間(および楕円空間)は、その単純さにおいて際立っています。なぜなら、その上のすべての点は等価だからです。この議論の結果、天文学者や物理学者にとって非常に興味深い疑問が生じます。それは、私たちが住む宇宙は無限なのか、それとも球面宇宙のように有限なのかということです。私たちの経験は、この疑問に答えるには到底足りません。しかし、一般相対性理論は、この疑問にある程度確実に答えることを可能にし、この点において、第 30節で述べた難問は解決されます。

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XXXII
一般相対性理論による空間の構造
一般相対性理論によれば、空間の幾何学的性質は独立ではなく、物質によって決定される。したがって、物質の状態が既知のものとして考察する場合にのみ、宇宙の幾何学的構造について結論を導き出すことができる。適切に選択された座標系においては、恒星の速度は光の伝播速度に比べて小さいことは経験的に知られている。したがって、物質が静止しているものと扱えば、大まかな近似として、宇宙全体の性質について結論を導き出すことができる。

前回の議論で、物差しや時計の挙動は重力場、すなわち物質の分布の影響を受けることが既に分かっています。これだけでも、私たちの宇宙においてユークリッド幾何学が厳密に妥当する可能性は排除できます。しかし、私たちの宇宙がユークリッド宇宙とわずかにしか違わないと考えることは可能であり、この考えはより一層あり得るように思われます。なぜなら、計算によれば、周囲の空間の計量は太陽と同程度の質量によってさえも極めてわずかな影響しか受けないからです。幾何学に関して言えば、私たちの宇宙は、個々の部分では不規則に湾曲しているものの、平面から大きく逸脱することのない表面、つまり湖の波打つ表面のような表面と類似した振る舞いをすると考えられます。このような宇宙は、まさに準ユークリッド宇宙と呼ぶにふさわしいでしょう。その空間は無限大となるでしょう。しかし、計算によれば、準ユークリッド宇宙では物質の平均密度は必然的にゼロとなることが示されています。したがって、そのような宇宙にはあらゆるところに物質が存在することはできず、それは我々が第XXX節で描いたような不満足な図を我々に提示することになる。

宇宙における物質の平均密度が、たとえその差がいかに小さくてもゼロと異なるとすれば、宇宙は準ユークリッド宇宙ではあり得ません。それどころか、計算結果によれば、物質が均一に分布しているならば、宇宙は必然的に球形(あるいは楕円形)となるでしょう。現実には物質の詳細な分布は均一ではないため、実際の宇宙は個々の部分において球形から逸脱し、すなわち準球形となります。しかし、宇宙は必然的に有限です。実際、理論は宇宙の空間的広がりとそこに含まれる物質の平均密度との間に、 単純な関係1を与えています。

1宇宙の 「半径」Rについては次の式が得られる。

この式でCGSシステムを使用すると、 ;は物質の平均密度であり、ニュートンの重力定数に関連する定数です。 ↑

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付録I
ローレンツ変換の簡単な導出[第11節の補足]
図2に示す座標系の相対的な向きについては、両座標系のx軸は常に一致しています。この場合、まずx軸上に局在する事象のみを考慮することで、問題をいくつかの部分に分割することができます。このような事象は、座標系Kに関しては横軸xと時刻tで、座標系K′に関しては横軸x′と時刻t′で表されます。xとtが与えられた とき、x ′とt′を求める必要があります。

x軸の正方向に沿って進む光信号は、次の式に従って伝送されます。

または
(1)
同じ光信号がK′に対して速度cで伝播する必要があるので、 K′系に対する伝播は類似の式で表される。
(2)

( 1 )を満たす時空点(事象)は、( 2 )も満たさなければならない。明らかに、これは関係
(3)
は一般に成り立ち、ここで は定数を表す。なぜなら、( 3 )によれば、 の消失はの消失を伴うからである。

負のx軸に沿って伝わる光線に全く同様の考察を適用すると、次の条件が得られる。
(4)

式( 3)と式(4 )を加算(または減算)し、便宜上定数aとbを定数との代わりに導入すると、

そして

方程式は次のようになる。
(5)

定数aとbが分かっていれば、問題の解が得られるはずです。これは以下の議論から導き出されます。

K′の原点については、永久に、したがって最初の式(5) に従って、

K′の原点がKに対して相対的に移動する速度をvとすると、
(6)

式( 5 )から、 K′の別の点のKに対する相対速度、あるいはK′に対するKの一点の速度(負のx軸に向かう方向)を計算しても、同じ値vが得られます。つまり、vを2つの系の相対速度と定義することができます。

さらに、相対性原理によれば、Kから判断して、 K′ を基準として静止している単位尺度の長さは、 K′ から判断して、 Kに対して静止している単位尺度の長さと正確に同じでなければならない。 Kから見たx軸の点がどのように見えるかを知るには、 KからK ′の「スナップショット」を撮るだけでよい。これは、 t ( Kの時間)の特定の値、例えばを挿入する必要があることを意味する。このtの値に対して、最初の式(5)から次の式が得られる。

K′システムで測定すると距離だけ離れているx′軸上の2点は、瞬間写真では距離だけ離れている。
(7)
しかし、スナップショットを からとり、式(5 )からtを消去し、式(6)を考慮すると、次の式が得られます。

このことから、x軸上の2点がKに対して距離Iだけ離れていると、スナップショット上では距離
(7 a)
しかし、これまで述べてきたことから、2つのスナップショットは同一でなければならない。したがって、( 7 )は( 7a )と等しくなければならないので、
(7b)

式( 6 )と式( 7b )は定数aとbを決定する。これらの定数の値を式( 5 )に代入すると、第XI節に示した式の最初の式と4番目の式が得られる。
(8)

こうして、 x軸上の事象に対するローレンツ変換が得られた。これは以下の条件を満たす。
(8 a)

この結果を拡張してx軸の外側で起こる事象を含めるには、式( 8 )を保持し、次の関係式を補足する。
(9)

このようにして、 K系とK′系の両方において、任意の方向の光線に対する真空中光速度不変の公理が満たされる。これは以下のように示される。

Kの原点から時刻 に光信号が発射されたと仮定する。この光信号は次式に従って伝播する。

あるいは、この式を二乗すると、次の式に従って
(10)

光の伝播の法則と相対性理論の公理から、問題の信号の伝達は、K′から判断すると、対応する式に従って 行われる必要がある。

または、
(10 a)

式( 10a )が式( 10) の帰結となるためには、
(11)

式( 8a )はx軸上の点に対して必ず成り立つので、 となる。ローレンツ変換はに対して式( 11 )を満たすことが容易に分かる。なぜなら、( 11 )は( 8a )と( 9 )の結果であり、したがって( 8 )と( 9 )の結果でもあるからである。このようにしてローレンツ変換を導出した。

( 8 ) と ( 9 )で表されるローレンツ変換はまだ一般化される必要がある。 K′の軸がKの軸と空間的に平行になるように選択されるかどうかは明らかに重要ではない。 Kに対するK′の移動速度がx軸方向である必要もない。簡単な考察から、この一般的な意味でのローレンツ変換は、特殊な意味でのローレンツ変換と純粋に空間的な変換の 2 種類の変換から構成できることが示される。これは、直交座標系を、軸が他の方向を指す新しいシステムに置き換えることに対応する。

数学的には、一般化ローレンツ変換を次のように特徴付けることができます。

これは、 の線形同次関数で表現され、次のような関係が成り立つ。
(11 a)
は同様に満たされる。つまり、左辺の の代わりにの式を に代入すると、( 11a )の左辺は右辺と一致する。

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付録II
ミンコフスキーの四次元空間(「世界」) [第17節の補足]
ローレンツ変換は、時間変数としてtの代わりに虚数を導入することで、さらに簡単に特徴づけることができる。これに従って、

同様にアクセント付きシステムK′についても、変換によって満たされる条件は次のように表すことができます。
(12)
つまり、前述の「座標」の選択により、(11a )はこの式に変換されます。

( 12 )から、虚時間座標は空間座標と全く同じ方法で変換条件に入ることがわかる。相対性理論によれば、「時間」は空間座標と同じ形で自然法則に取り込まれるのはこの事実によるものである。

ミンコフスキーは、 「座標」によって記述される四次元連続体を「世界」と呼び、点事象を「世界点」とも呼びました。三次元空間における「出来事」から、物理学はいわば四次元「世界」における「存在」へと変化します。

この四次元「世界」は、(ユークリッド)解析幾何学の三次元「空間」と非常によく似ています。後者に、同じ原点を持つ新しい直交座標系( )を導入すると、 は、次式を同値に満たす 線型同次関数となります。

( 12 )との類推は完全である。ミンコフスキーの「世界」は形式的には4次元ユークリッド空間(虚時間座標を持つ)とみなすことができ、ローレンツ変換は4次元「世界」における座標系の「回転」に対応する。

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付録III
一般相対性理論の実験的確認
体系的な理論的観点から見ると、経験科学の発展過程は、継続的な帰納過程であると想像できる。理論は進化し、多数の個々の観察結果を経験法則という形で簡潔に表現する。そして、それらの比較によって一般法則を解明することができる。このように考えると、科学の発展は分類されたカタログの編纂に類似する。いわば、純粋に経験的な営みと言えるだろう。

しかし、この観点は実際の過程のすべてを包含するものではない。なぜなら、正確な科学の発展において直観と演繹的思考が果たす重要な役割を軽視しているからである。科学が初期段階を過ぎると、理論的進歩はもはや単なる整理の過程によっては達成されなくなる。むしろ、研究者は経験的データに導かれて、一般に少数の基本的仮定、いわゆる公理から論理的に構築される思考体系を展開する。このような思考体系を私たちは理論と呼ぶ。理論は、多数の個々の観察を相関させることによってその存在の正当性を見出し、まさにそこに理論の「真理」が存在するのである。

同一の経験的データ群に対応する複数の理論が存在し、それらは互いに相当程度異なる場合がある。しかし、検証可能な理論からの推論に関しては、理論間の一致が非常に完全であるため、2つの理論が互いに異なる推論を見つけることが困難になる場合がある。例えば、生物学の分野において、一般的な関心を集める事例として、生存競争における淘汰による種の発展に関するダーウィンの理論と、獲得形質の遺伝的伝達という仮説に基づく発生理論が挙げられる。

ニュートン力学と一般相対性理論の二つの理論からの推論の間に、広範囲にわたる一致が見られるもう一つの例がある。この一致は非常に大きく、二つの理論の基本的な前提には大きな違いがあるにもかかわらず、現在まで一般相対性理論から得られる推論のうち、調査可能で、かつ相対性理論以前の物理学では到達できないものはほんのわずかしか見つかっていない。以下では、これらの重要な推論を改めて考察し、それらに関してこれまでに得られた経験的証拠についても議論する。

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(a)水星の近日点の運動
ニュートン力学とニュートンの万有引力の法則によれば、太陽の周りを公転する惑星は、太陽の周り、より正確には、太陽と惑星の共通重心の周りを楕円軌道で回ります。このようなシステムでは、太陽、または共通重心は、軌道楕円の焦点の 1 つに位置し、惑星の 1 年の間に、太陽と惑星の距離は最小から最大へと増加し、その後再び最小へと減少します。ニュートンの法則の代わりに、いくぶん異なる引力の法則を計算に挿入すると、この新しい法則によれば、太陽と惑星の距離が周期的に変化するような運動が依然として起こることがわかります。ただし、この場合は、そのような期間 (近日点 (太陽に最も近づく点) から近日点まで) に太陽と惑星を結ぶ線が描く角度は、 と異なります。軌道の線は閉じたものではなく、時間の経過とともに軌道面の環状部分、つまり惑星から太陽までの最小距離の円と最大距離の円の間を埋めることになります。

一般相対性理論によれば、もちろんニュートンの理論とは異なるが、惑星の軌道上ではニュートン・ケプラー運動からの小さな変化が起こるはずであり、その変化は、太陽と惑星の半径によって描かれる角度が、1つの近日点と次の近日点の間の角度を、1回の完全な回転に相当する角度より、

(注:1回転は物理学で慣例となっている絶対角度の測定における角度に対応し、上記の式は、近日点から次の近日点までの期間に太陽惑星の半径がこの角度をどれだけ超えるかを示しています。)この式において、 aは楕円の長半軸、eは離心率、cは光速、Tは惑星の公転周期を表します。我々の結果は次のようにも述べられます。一般相対性理論によれば、楕円の長軸は惑星の公転運動と同じ方向に太陽の周りを回転します。理論上、この回転は水星の場合1世紀あたり43秒角に相当しますが、太陽系の他の惑星の場合、その大きさは非常に小さいため、必然的に検出されないはずです。1

実際のところ、天文学者たちは、ニュートンの理論だけでは、現在達成可能な観測精度に匹敵する精度で水星の観測された運動を計算するには不十分であることを発見しました。他の惑星が水星に及ぼすあらゆる妨害作用を考慮に入れた結果、水星の軌道には説明のつかない近日点運動が依然として存在することが分かりました(ルヴェリエ:1859年、ニューカム:1895年)。その運動量は、前述の1世紀あたり+43秒角と実質的に変わりません。実験結果の不確実性はわずか数秒です。

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(b)重力場による光の偏向
第22節で既に述べたように、一般相対性理論によれば、光線は重力場を通過する際に進路に曲率が生じ、この曲率は重力場を通過する物体の進路に生じる曲率に類似する。この理論の結果として、天体の近くを通過する光線は天体に向かって偏向すると予想される。太陽の中心から太陽半径の距離を通過する光線の場合、偏向角(α)は次のようになる 。

理論によれば、図 05 のこの偏向の半分は太陽のニュートン力学による引力によって生じ、残りの半分は太陽によって引き起こされる空間の幾何学的変化 (「曲率」) によって生じていると付け加えることができます。

図5
図5

この結果は、皆既日食の際に星を写真に撮るという実験的な検証が可能です。皆既日食を待たなければならない唯一の理由は、他のすべての時には大気が太陽の光によって非常に強く照らされるため、太陽の円盤近くにある星は見えないからです。予測される効果は、添付の図から明確に確認できます。太陽 ( S ) が存在しない場合は、地球から観測すると、実質的に無限遠にある星が の方向に見えるでしょう。しかし、太陽によって星からの光が偏向するため、星は の方向、つまり実際の位置よりも太陽の中心からいくらか離れた位置に見えることになります。

実際には、この問題は次のように検証される。日食の際に、太陽の近くの星々を撮影する。さらに、太陽が空の別の位置、つまり 数か月前または数か月後に同じ星々を撮影する。標準の写真と比較すると、日食の写真上の星々の位置は、角度aに対応する量だけ、放射状に外側(太陽の中心から離れて)にずれているように見えるはずである。

この重要な推論の調査にご尽力いただいた[英国]王立協会と王立天文学会に感謝申し上げます。 [第一次世界大戦]と、戦争によって引き起こされた物質的・心理的困難にもめげず、両協会はソブラル島(ブラジル)とプリンシペ島(西アフリカ)への2度の探検隊を編成し、1919年5月29日の日食の写真を撮るため、英国で最も著名な天文学者数名(エディントン、コッティンガム、クロメリン、デイヴィッドソン)を派遣しました。日食中に撮影された星の写真と比較写真との間に予想される相対的な差異は、わずか数百分の1ミリメートルでした。そのため、写真撮影に必要な調整とその後の測定には、高い精度が求められました。

測定結果は理論を完全に満足のいく形で裏付けました。観測された星の偏差と計算された星の偏差(秒角)の直交成分は、以下の結果表に示されています。

星の番号。 最初の座標。 2番目の座標。
観察しました。 計算しました。 観察しました。 計算しました。
11 -0.19 -0.22 +0.16 +0.02
5 +0.29 +0.31 -0.46 -0.43
4 +0.11 +0.10 +0.83 +0.73
3 +0.22 +0.12 +1.00 +0.87
6 +0.10 +0.04 +0.57 +0.40
10 -0.08 +0.09 +0.35 +0.32
2 +0.95 +0.85 -0.27 -0.09

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(c)スペクトル線の赤色側への変位
第23節では、ガリレイの系Kに対して回転する系K′において、同一構造で回転する基準物体に対して静止していると考えられる時計の速度が、時計の位置に依存することを示した。ここでは、この依存性を定量的に検証する。円盤の中心から距離rに位置する時計のKに対する相対速度は、次式で表される。

ここで、はディスクK′のKに対する回転角速度を表す。時計が静止しているときのKに対する単位時間あたりの時計の刻み数(時計の「速度」)を表すとすると、 Kに対して速度vで動いているがディスクに対しては静止している時計の「速度」( v )は、第12節に従って、次のように表される。

または十分な精度で

この表現は次のような形式でも表すことができます。

時計の位置と円盤の中心との間の遠心力の差を、つまり回転する円盤上の時計の位置から円盤の中心まで質量を移動させるために遠心力に逆らって質量単位に負に作用しなければならない仕事 とすると、

このことから、

まず、この式から、同一構造の2つの時計が円盤の中心から異なる距離にある場合、異なる速度で進むことがわかります。この結果は、円盤と共に回転している観測者の視点からも成り立ちます。

さて、円盤から判断すると、後者はポテンシャルの重力場の中にある ため、得られた結果は重力場に対して極めて一般的に成り立ちます。さらに、スペクトル線を放射する原子を時計と見なすことができるため、次の命題が成り立ちます。

原子は、それが位置する重力場のポテンシャルに応じて、周波数の光を吸収または放出します。

天体の表面にある原子の周波数は、自由空間(またはより小さな天体の表面)にある同じ元素の原子の周波数よりもいくらか低くなります。

ここで、Kはニュートンの重力定数、Mは天体の質量である。したがって、恒星の表面で生成されるスペクトル線は、地球の表面で生成される同じ元素のスペクトル線と比較して赤色への変位が生じるはずであり、その変位量は

太陽の場合、理論上予測される赤色への変位は波長の約200万分の1に相当します。恒星の場合、質量Mも半径rも一般に不明であるため、信頼できる計算は不可能です。

この効果が存在するかどうかは未解決の問題であり、現在 (1920年)、天文学者たちは熱心にその解明に取り組んでいます。太陽の場合、この効果は小さいため、その存在について意見を述べることは困難です。一方、グレベとバッヘム(ボン)は、自らの測定、およびエヴァーシェッドとシュヴァルツシルトによるシアン帯の測定の結果、この効果の存在をほぼ疑いの余地なく証明しました。一方、他の研究者、特にセント・ジョンは、測定結果から反対の意見に至っています。

スペクトル線の屈折しにくい側への平均変位は、恒星の統計的研究によって確かに明らかにされている。しかし、現在までに入手可能なデータの検討では、これらの変位が実際に重力の影響によるものかどうかについて、明確な結論は出ていない。観測結果は、E. フロイントリッヒの論文「Zur Prüfung der allemeinen Relativitäts-Theorie」(Die Naturwissenschaften、1919年、第35号、520ページ、Julius Springer、ベルリン)にまとめられ、ここで我々が注目している問題の観点から詳細に議論されている。

いずれにせよ、今後数年のうちに明確な結論が下されるだろう。もし重力ポテンシャルによるスペクトル線の赤色への変位が存在しないならば、一般相対性理論は成り立たなくなる。一方、もしスペクトル線の変位の原因が重力ポテンシャルに明確に起因するならば、この変位の研究は天体の質量に関する重要な情報をもたらすだろう。2

1特に、次の惑星である金星の軌道はほぼ正確な円であるため、近日点を正確に見つけることはより困難になります。 ↑

2スペクトル線の赤色側への変位は、1924年にアダムスによってシリウスの高密度伴星の観測によって明確に確立されました。その影響は太陽の約30倍です。RWL—翻訳者 ↑

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付録IV
一般相対性理論による空間の構造[第32節の補足]
この小冊子の初版が出版されて以来、大きな空間構造(「宇宙論的問題」)に関する私たちの知識は重要な発展を遂げており、このことはこの主題の一般的な説明においても言及されるべきである。

この主題に関する私の当初の考察は、2つの仮説に基づいていました。

(1)宇宙全体には物質の平均密度が存在し、それはどこでも同じであり、ゼロとは異なる。
(2)空間の大きさ(「半径」)は時間に依存しません。

一般相対性理論によれば、これら両方の仮説は矛盾がないことが証明されたが、それは場の方程式に仮説的な項を追加した後のことで、その項は理論自体では必須ではなく、理論的観点からも自然とは思えなかった(「場の方程式の宇宙論的項」)。

仮説(2)は、当時の私にとっては避けられないものと思われました。なぜなら、そこから逸脱すれば、底なしの思索に陥ってしまうと考えたからです。

しかし、ロシアの数学者フリードマンは既に20年代に、純粋に理論的な観点からは別の仮説が自然であることを示していた。彼は、仮説(2)を放棄する覚悟があれば、重力場の方程式に不自然な宇宙論的項を導入することなく、仮説(1)を維持することが可能だと気づいた。すなわち、元の場の方程式は、「世界半径」が時間(膨張空間)に依存する解を許容する。この意味で、フリードマンによれば、この理論は空間の膨張を要求すると言える。

数年後、ハッブルは銀河系外星雲(「天の川」)の特別な研究によって、放射されるスペクトル線が星雲の距離とともに規則的に増加する赤方偏移を示すことを示しました。これは、現在の私たちの知識では、ドップラーの原理、すなわち、フリードマンによれば重力場の方程式によって要求される、星系の大規模な膨張運動としてのみ解釈できます。したがって、ハッブルの発見は、ある程度、理論の裏付けと見なすことができます。

しかし、奇妙な困難が生じます。ハッブルが発見した銀河の線シフトを膨張と解釈すると(理論的にはほとんど疑う余地がありませんが)、この膨張の起源は「わずか」数年前となってしまいます。一方、物理天文学では、個々の恒星や恒星系の発達にはそれよりはるかに長い時間がかかる可能性が高いと考えられます。この矛盾をどのようにして克服すべきかは、全く分かっていません。

さらに、膨張空間の理論と天文学の経験的データを組み合わせると、(三次元)空間が有限か無限かという結論を導き出すことはできないが、空間の元々の「静的」仮説は、空間の閉鎖性(有限性)をもたらした、ということを指摘しておきたい。

奥付
可用性
この版は、ブライアン・バスゲン氏が作成し、プロジェクト・グーテンベルクで公開されていた版(アインシュタイン参考アーカイブでも公開されています)を基に作成されました。オリジナルのTeX形式はTEI形式に変換され、インターネット・アーカイブで公開されている1921年版と照らし合わせて徹底的に検討され、必要に応じて修正されました。原本からイラストを取得し、元の図版を置き換え、1921年版に掲載されていたヘルマン・シュトゥックによるアインシュタインの口絵を追加しました。

メタデータ
タイトル: 相対性理論:特殊理論と一般理論
著者: アルバート・アインシュタイン(1879–1955) 情報
翻訳者: ロバート・ウィリアム・ローソン(1890–1960) 情報
イラストレーター: ヘルマン・シュトラック(1876–1944) 情報
言語: 英語
初版発行日: 1916
キーワード: 相対性理論
プロジェクト・グーテンベルク: 5001
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該当なし [ソースには記載されていません] ” 1
該当なし [ソースには記載されていません] [イギリス] 10
該当なし [ソースには記載されていません] [第一世界] 14
該当なし [ソースには記載されていません] [1920] 7
*** プロジェクト・グーテンベルク電子書籍「相対性理論:特殊理論と一般理論」の終了 ***
 《完》