テヘラン市の水源であるアルボルズ山脈南麓の河川とダムが干上がっていて、あと1週間で断水だという。同市は毎日300万立方mの上水を需要する。

 ストラテジーペイジの2025-11-2記事。
  ロシアのハッキング機関は、最近、ルーマニア国内にある中国製の監視カメラを密かに操作して、NATO軍の部隊や物資の流れをモニターしようとしたが、その試みは失敗した。

 他の欧州諸国は、最初から中国製の監視カメラを禁じているおかげで、このようなスパイ工作はブロックされている。
 ルーマニアは、ウクライナとの650kmの国境沿いに、迂闊にも、中共製の監視カメラを配しているのである。

 次。
 Vladislav V. 記者による2025-11-2記事「Spain Demonstrates Europe’s First Unmanned Military Convoy」。
  スペインの企業「Sener Aerospace & Defence」は、欧州域内では初めて、軍用の輸送トラック集団を無人で運行させる技術を確立した。

 基本的には、車列の先頭に、有人の先導車があって、その轍を、後続の数台の無人トラックが、忠実になぞって進む。先頭車が止まれば、後続の無人トラックも、止まる。

 いずれは、先導車も、ロボットのリモコンにする。


「新々・読書余論」――『南軍の武器弾薬をヨーロッパで調達していた男』(1904年刊)

 オンラインで読めるようになっている本邦未訳の珍古書を、摘録をまじえて恣意的に短くご紹介する「ちんこハンター」最新弾です。
 AIを使った下準備の全文訳を、上方の篤志機械翻訳助手さまにお願いしました。

 原題は、『The Supplies for the Confederate Army』(Caleb Huse 著)。
 図版類はすべて省略しています。
 テキストを公開してくださっている「プロジェクト・グーテンベルグ」さまはじめ、各位に御礼を申し上げます。

 1903年の夏、ヒューズ少佐の友人(そのうち一人はジェームズ・S・ロジャース)が、ハドソン川のウェストポイントのすぐ南にある邸宅でもてなされたさい、少佐が南北戦争中に、南部連邦軍のための補給物資買い付け代理人として欧州において4年間活動していた話を聞かされ、その話は貴重な内容だった。
 なんとか聞き出せた、少し長い話を短縮したのが、本書である。

 話は、開戦前夜から始まる。
 1860年5月、ヨーロッパで六ヵ月の休暇を過ごした私(ヒューズ)が帰国すると、アラバマ大学の化学の教授、および士官生徒指導官の任命が待っていた。
 私の不在中、アラバマ大学の学長と評議員会の委員会は、ウェストポイントとヴァジニア軍事学校をあいついで訪れ、両機関の規律に満足して、アラバマ大学内にも、類似の軍人育成コースをつくらねばいかんと決定し、ウェストポイントの当時の校長デラフィールド大佐に、将校教官の割愛を申請した。

 デラフィールド大佐は私の名前を挙げたが、私が軍を辞任するかどうかは確言し得なかった。私は当時、砲兵中尉であり、サムター要塞の守備隊名簿に載っていた。

 私はその新ポストを受け入れ、9月に職務を開始した。休暇は5月に期限切れだったが、大学当局は、私が16歳で士官学校に入校して以来の国軍とのつながりを断ち切るのを後悔するかもしれないと恐れ、陸軍長官から休暇を1861年5月まで延長してもらい、その時すべてが満足であるなら、公式に辞任とすることにしてくれた。

 ここで述べておくが、アラバマ州立大学への軍事訓練と規律の導入は、アラバマのいかなる分離運動とも無関係であった。私はマサチューセッツ生まれのピューリタンの子孫だ。そんな男が選ばれたことでも、わかるだろう。

 大学では規律がほぼ崩壊していた。それを回復する方法が求められた。学部と評議員は、約五十年にわたり成功裏に運営されていたヴァジニア軍事学校に注目した。その機関はウェストポイントの卒業生によって組織され、いくつかの点で合衆国の士官学校に似ていたため、アラバマでも同様の方法で良い結果が得られるだろうと期待された。

 現在、多くの学校や大学で軍事訓練が教えられている。アラバマ大学当局の意図は、学生を訓練するだけではなく、ウェストポイントで行われているように効果的に軍事的な拘束下に置くことであった。ふつうの大学ではそれはできないことであった。

 ウェストポイントとアナポリス海軍士官学校は、設計された目的――他者を指揮する将校を訓練する――のための立派な機関であることが証明されているが、これらの学校の使命は若者を市民生活に適応させることではない。

 私はアラバマ州知事から大佐の階級を貰い、二人の助手――一人は少佐、もう一人は大尉――を得た。合衆国政府からテント、武器、歩兵装備を購入し、ウェストポイント士官生に似た制服を採用した。学生たちは9月1日に集合し、大学敷地内にキャンプを設置した。訓練が直ちに開始され、定期的なキャンプ義務が要求され、実行された。

 すべてが非常に満足に進んでいるように見えたが、キャンプ設置から約三週間後のある日、大学学長(ガーランド博士)が私を事務所に呼び出した。そこには、彼と信頼する教授が、不安げな顔で待っていた。無駄な前置きはなく、ガーランド博士は直ちに本題に入り、キャンプで私の鎮圧できない反乱が準備されていると告げた。彼は説明した。士官生たちは私が北部生まれだから不満で、私を「くそったれヤンキー」と呼び、州から追い出すつもりだという。彼は成功するだろうと考えた。首謀者は私が来る前から多くのトラブルを起こしていた古い学生で、事態を悪くしているのは、これらの学生が州の有力者の息子であり、反乱者の母親たちが彼らを奨励していることだった。

 私は、評議員や学部員の誰かが私の辞任を望んでいるかと尋ね、その反対だと保証された。それから、一つのことを除けば辞任に躊躇しないと言った。士官生たちは家族の支援を得て私を州から追い出すと脅迫した。私は彼らに脅迫を実行する責任を負わせる。私は辞任しない。

 私はキャンプに戻り、「反乱」については二度と聞かなかった。この出来事を述べるのは、当時――リンカーン大統領選挙の二か月前――の極端な南部州の感情を、伝えるためである。

 計画された反乱の話は根拠があり、アラバマ全土の一般的な不安の一相に過ぎなかった。しかしその時――選挙日の六週間以内――分離の考えは優勢ではなかった。おそらく人民がその問題で投票を求められたら、分離反対が非常に大きな多数を占めただろう。11月の選挙後、不安は明らかに増大し、保守的な人々が分離を可能乃至確実と考え始めた。

 大学では興奮はなかった。授業は通常通り続き、キャンプで始まった秩序ある態度が続いた。

 しかし軍事規律――誰もが認めるように態度改善の原因――は大学の支出を増大させ、収入を実質的に増やさず、増加した費用を賄う金銭の唯一の希望は立法府の補助金だった。これを確保するため、ガーランド学長は士官生大隊――学生たちはそう呼ばれた――をモンゴメリーに連れて行き、知事と当時会期中の立法府に審査させることを提案した。

 この考えは学部員だけでなく、息子が大学にいる人々からも強く反対された。学生たちがモンゴメリーの多くの誘惑の下で制御不能になる恐れがあり、市民の厚いもてなし――それは確実に寛大だろう――さえトラブルを引き起こすだろうと。旅行するかどうかは私の決定に委ねられた。私は躊躇なく遠征を支持し、二隻の汽船の手配をした。一隻はブラック・ウォリアー川を下るため、もう一隻はアラバマ川を上ってモンゴメリーへ。

 モービルでは士官生たちは心から迎えられ、私はそのふるまいに満足できた。モンゴメリーでは誰もが彼らの外見と態度に誇りを持った。寝る場所のために士官生たちは自分の毛布を持ち、大ホールの床に横になった。キャンプ規律が維持され、完璧な秩序が保たれた。

 大隊は州議事堂前で知事と両院に審査され、すべてが満足に終わった。審査後の夕方、立法府の委員会が私を訪れ、何が欲しいかと尋ねた。返事は・・・軍事組織が大学に維持される限り、年間補助金である。

 ニューハンプシャー州のジョン・P・ヘイル上院議員(国内で最も顕著な廃奴主義者の一人)のいとこが委員会のメンバーだったことを思い出す。彼は私に言った。「明日議事堂に来て、私たちがこの問題をどう通すか見てくれ」。それは確かに通された。

 私がいた間に法案は上院に送られ、知事が署名し、翌日士官生たちは帰路についた。

 私たちは激しい雨嵐の中でタスカルーサを出発し、モンゴメリー・ガーズに汽船――約二マイル――まで護衛された。旅行は完全に成功し、開始から終了まで不品行の事例はなかった。もちろん飲酒が恐れられる唯一のことであり、汽船上やモービル、モンゴメリーでのすべての誘惑を考えると、規則違反がなかったのは少し驚くべきことである。その規則の一つは、即時解雇の罰の下で酒場に入ることを禁じていた。

 すでに述べたように、私は1861年5月に期限切れの休暇の下でアラバマ大学に行った。しかし2月、休暇の未消化期間を取り消し、ワシントンで報告するようにとの命令を受けた。私は辞任を申し出た。私はアラバマ大学の教授になること以外の地位を望んでいなかった。

 私の辞任は2月25日に受理された。4月――おそらく4月1日――に、南部連邦の海軍長官マロリーから「モンゴメリーに来て現役の委任を受けよ」という電報を受けた。私は遅滞なく出発し、モンゴメリーに到着して陸軍長官ウォーカーに会うと、彼はすぐに言った。「〔南部連邦のデービス〕大統領はあなたを、ヨーロッパで武器と軍需品を購入する担当者として指定した。いつ行けるか?」
 私はもちろん即時行けると返事したが、時間のかかる準備が必要ならば家族のところに戻りたいと言った。「十日取れ」と彼は言った。「その終わりに戻れ。」私は砲兵局長ゴーガス大佐に紹介され、彼に報告することになった。

 私はタスカルーサに戻り、休暇の十日目の早朝に駅馬車の上からモンゴメリーに入った。町近くで馬上の男に出会い、彼がボーリガードがサムターに砲撃を開始したと叫んだ。これで4月12日だとわかる。モンゴメリーでは当然大きな興奮があった。特に陸軍省と海軍省周辺で。

 ゴーガス大佐に報告すると、私のヨーロッパ行きの手配は一切なされていないことがわかった。命令はなく、旅費もどう処理するかわからない。私は財務長官メミンガーに会ったが、彼は私の海外行きを知らなかった。「いつ行くのか?」と彼は言った。私は北部を通り抜けるつもりなら時間を無駄にできないと返事し、最終的に彼がニューヨークへの旅行金を提供し、そこでヨーロッパ旅行の資金を受け取ることになった。面会中に彼は金がないと言った。そしてそれは文字通り真実らしい。新政府組織後間もなく、どこから収入を得られるか想像しにくいからである。

 モンゴメリーを出る前に、デーヴィス氏が私を事務所に呼び、来客を受けながら座るよう頼み、私の任務について話したいと言い、来客との面会の間に考えが浮かぶと言った。

 私は指定された椅子に座り、彼が目の前に開かれた手紙の山を読んでいる間に来客が入り始めた。会話の詳細は思い出さないが、一つの出来事は鮮明に記憶している。彼の特徴を表すと言う人もいるだろう。四ページの長い手紙を見て、多少苛立った様子で立ち上がり、「助言を書いてくるのはやめてほしい」と言って手紙を二つに破り、同じ言葉を繰り返して細かく破り、床に投げた。彼は筆者の名前を挙げた。私の知る友人で近所の人だった。

 個人的な出来事を一つ述べるのを許されたい。モンゴメリーを出る前、夕暮れ頃、陸軍長官事務所でイギリスへのわずかな費用を提供されるのを待っていると、デーヴィス氏が私を少佐と呼んで挨拶した。私は「大統領、どの連隊での?」と返事した。ナポレオン皇帝に落ちた帽子を手渡した下級将校が大尉の称号で感謝されたときの有名な逸話を念頭に置いて。デーヴィス氏は合衆国軍の将校を任命する際の原則を説明した。一階級以上昇進させないことである。彼はボーリガードは工兵大尉で准将になったが、規則違反ではない。ウェストポイント校長として数日――記録では五日――勤務したので軍の大佐で、一階級昇進である。デーヴィス氏は野戦目的の将校は十分だが、軍を仕事に準備する資格ある人を見つけるのが問題だと言った。

 私はチャールストンを通ってサムターを訪れ、砲撃の効果を見ようと手配した。夕方にチャールストンに到着し、翌朝モリス島に行き、そこから二人の若い砲兵大尉とボートでサムターへ。当時私たちは皆若く、私はちょうど三十で、彼らは数歳下だった。二人ともウェストポイントで私の指導を受けた士官候補生徒だったが、今は名前を思い出せない。サムターからの帰り、私たち三人は岸近くの暖かい砂に横になった。当然ここ数日の出来事が会話の中心だった。話の中で私は言った。「アンダーソンが要塞を降伏させたのはなぜだ?」

 私の意見では、防壁のレンガには、少年がビー玉をぶつけた程度の損傷もなかった。木造宿舎が火災を起こし、弾薬庫爆発の恐れはあった。しかしアンダーソンが降伏した時、そんな危険はすべて過ぎていた。

 アンダーソン少佐はメキシコ戦争で効率と勇敢さを証明し、二つの名誉昇進で報われた勇敢な将校だった。しかしアンダーソンが旗に敬礼し、連邦汽船イザベルに乗って出発して以来何も変わっていない降伏直後のサムターを見た者には、なぜその時に降伏したのか理解できない。

 最終的に彼の麾下将兵は、飢えたのか? 数日間、新鮮な食料こそなかったが、彼が去る時に、豚肉の数樽が残っていた。攻撃は一切なく、攻め手はボートや梯子を持っていなかった。

 合衆国政府が意図的に戦争を公式化させ、南北の全問題を一度に解決しようとしたなら、サムターを犠牲にした戦略ほど効果的なものはなかった。すべてが最大の鋭敏さと微妙さで手配された。アンダーソンと彼の将校――例外なく勇敢で有能――は英雄として現れ、ある意味でそうだった。北部は完全に統一され、南部も同じ。線は明確に引かれ、メーンからジョージアまでの誰もが政府支持か反対かを宣言しなければならなかった。こうして、誰も予見できず、一方か他方が完全に疲弊するまで止まらない戦争が始まった。

 チャールストンからノーフォークのベイライン汽船でボルチモアへ行き、日曜朝に到着――前金曜に殺された人々が埋葬される日。興奮は激しかったが、街は静か――不快に静かだった。次に何を期待するかわからない。私自身はニューヨークに行くことだけを気にしていた。列車は走っておらず、橋が焼かれ、鉄道交通がいつ再開されるかわからない。

 北へ向かう他の数人の旅行者がいて、急いで旅を続けようとしていた。そのうち二人――チャールストンの若い男たち――が慎重に近づき、三人で馬車を雇ってペンシルベニアのヨークまで行く提案をした。私たちは行く手配をした。出発準備ができる前に、年配の紳士がパーティーに加わる許可を求めた。彼は大きくハンサムで、死にかけている娘に会うため、早くフィラデルフィアに行こうと急いでいた。新参者は馬車の重量を大きく増やすが、後でわかるように彼を受け入れたことに感謝する理由があった。

 出発後、なぜかわからないがヨークではなくハヴル・ド・グラースに行くことに決定した。夕方に到着すると、フェリーボートがアナポリスへ部隊を運ぶために取られ、何もできず待つしかなかった。私たちは皆小さなホテルで快適な宿泊を見つけ、朝に平底船でペリーヴィルへ渡った。

 乗客の中に数人の男女がいて、ボートが着陸するとすぐに着陸近くの小さな田舎ホテルのポーチに集まり、愛国歌を歌い始めた。彼らは南部からの脱出に明らかに喜んでいた。

 ペリーヴィルには鉄道駅として大きな木造小屋があり、従業員が立っていたが、誰も列車の情報を与えられず、政府がすべて取ったと言った。しかし正午前、長大な列車が轟音を立てて駅に入り、直ちに制服の男たちが車から飛び出し、水辺へ走って顔と手を洗った。彼らは前線へ行く途中だった。同じ列車はすぐにフィラデルフィアへ戻る準備をし、行きたい人は全員収容された。

 その日はフィラデルフィアより遠くへ行けなかった。翌朝、列車に座ると、すぐ後ろの紳士をケイレブ・クッシング閣下と認めた。私は当時知り合いと会いたくなく、しかも彼が私を知っている理由がないと思い、声をかけなかった。私たちは同じ町――マサチューセッツ州ニューベリーポート――生まれだが、彼は私が少年の時に著名な公人だった。

 フィラデルフィアからニューヨークへの経路はカムデン経由でサウス・アンボイへ、そこから汽船だった。後者はエンジンの両側に馬車のスペースがあるフェリーボートだった。馬車はなく、しばらく座っていたので、ニューヨークに近づきいつ知り合いに会うかわからないので少し神経質になり、下甲板を歩いた。そうしてクッシング氏と顔を合わせた。彼も同様に時間を過ごしていた。私は上級将校や公人にそうするように帽子を上げた。

 直ちにクッシング氏は立ち止まり、「おはよう、ヒューズ氏、南部と一緒だと理解している」と言った。

 一瞬私は動揺したが、直ちにクッシング氏がジョン・C・ブレッキンリッジを大統領に指名したチャールストン民主党大会の議長だったことを思い出し、「はい、閣下。南部にどんなチャンスがあると思いますか?」と返事した。

 彼は言った。「金はすべて北部にある。工場はすべて北部にある。船はすべて北部にある。武器と兵器庫はすべて北部にある。ヨーロッパの兵器庫はニューヨークから十日以内で、合衆国政府には開かれ、南部には閉ざされる。南部港は封鎖される。南部にどんな可能性があるか?」

 返事するものはなく、おそらく状況下で最善だった。彼の目をまっすぐ見て帽子を上げ、会話を終わらせた。以後、彼に会うことはなかった。

 バッテリーに着き、手荷物チェックを急使に渡し、領収書を取り、呼び出すまで保持するよう言った。認識されないことが非常に重要かもしれないので、手荷物で痕跡を残さない注意を取った。それは後でボルチモアから馬車仲間だった若い男の一人がリヴァプールへ運んだ。私は直ちにリパブリック銀行へ行き、モンゴメリーからの手紙でヨーロッパ旅行の金を得られるはずだった。

 銀行の出納係S氏に、モンゴメリーからの手紙があるかと尋ねた。彼の顔は直ちに本物の恐怖を示した。近くのドアを開け、「入りなさい」と言う。彼は直ちにドアを施錠した。

 短い時間に何をするか決めた。「Sさん、私の訪問で非常に動揺しているのがわかるので、名前を与えてさらにあなたを危険にさらさない。しかしモンゴメリーからの認識しない手紙があれば、パイン・ストリートのトレンホルム兄弟に送っていただけるか」と言った。

 彼はそうすると保証した。辞去する時、彼は、街に激しい興奮があると言った。アンダーソンの部隊がブロードウェイを行進し、最大の熱狂を呼び起こしたばかりだ。私は入口近くに小さな合衆国旗を見ていたが、S氏はそれがドアになければ暴徒が銀行を攻撃すると信じていると言った。

 トレンホルム兄弟の事務所でウェルズマン氏を尋ね、内室に通され、白髪の紳士に似た大柄の中年男に会った。私は、ボルチモアからの旅行仲間がウェルズマン大尉だったと言った。「彼は私の父だ」とウェルズマン氏は言った。

 私は連邦軍将校で、ヨーロッパへ武器と他の軍需品購入に行き、リヴァプールのフレイザー、トレンホルム&Co.を通じて資金を提供され、航海費用をトレンホルム兄弟から得るはずだと説明した。しかし、ウェルズマン氏は、モンゴメリーから何も知らされていなかった。旅費がないので状況は深刻になった。

 短時間後ウェルズマン氏は事務所を出て、三十分以内に戻り、S氏よりさらに驚いた様子だった。興奮が非常に大きく、群衆が私の業務を知れば街灯柱に吊るすだろうと、彼は言った。列車出発まで事務所を出るな。提案することがある。ニューヨークからの出航など考えるべきではない。カナダへ行き、モントリオールから汽船に乗れ、と。しかし資金はどうする?

 ウェルズマン氏は金を用立てると言った。500ドルが金貨で手配された。

 三時頃私はエリー鉄道駅へ出発した。今回は、ウェルズマン大尉が天使らしかつた。私が彼の息子に伝えた簡単な口頭メッセージが、信用状として役立ったのだ。それなしではどうなったか知らぬ。

 トレンホルム兄弟の事務所を出ると、歩道の男がパイン・ストリートの反対側に信号を送り、その一人がフェリーボートで私の向かいに座った。彼らが私を尾行していたかどうかは知らない。ボートを降りてからは見ず、ターナーズ――列車が夕食に止まる――までさらに冒険はなかった。レストランで多くの友人を認識し、唯一の賢明な行動は夕食を抜くか近くで求めるかだった。私は後者を選び、近くのバーで得られるものを得た。

 私は手荷物なし――オーバーコートさえ――で、夜は寒かった。普通の日中の客車でカナダのハミルトンへ。通過列車は今ほど頻繁でなく、バッファローで長い待ち時間があり、その多くを町を見るのに費やした。街の離れた部分を歩いていると、知る軍将校に会うのを辛うじて避け、横道に曲がった。

 ハミルトンで航海用の衣類を購入し、モントリオールからの次の汽船まで数日待たなければならないことに失望し、ポートランドから出航することに決め、汽船に乗れる最後の列車まで切符購入を遅らせた。その列車はハミルトンを出る日にステートラインまでしか行かず、そこに一泊した。場所を覚えているのは、4月下旬なのに翌朝出発時に、水差しの氷を割らなければならなかったからである。何年かぶりの合衆国での最後の旅だった。ポートランドへの道中のほぼすべての停車地で、制服で完全装備の男たちが車に入った。汽車は、動員される連隊の将兵を拾っていた。

 タグから船に乗り移った時はさすがに安堵した。錨が上げられ、大西洋の公海に出ると、その感覚が増した。

 乗客は少なく、航海は一つの無重要な出来事を除き事件なしだった。
 ある日、夕食中、何の前ぶれもなく、「あなたはジェフ・デーヴィスのためにヨーロッパへ武器を買いにいくと信じている」と言われた。

 私はフォークでジャガイモを取る途中だった。答える前に時間を稼ぐためジャガイモを口に運び、最も愚かな返事をした。「彼が武器を欲しがったら、武器について知る男を選ぶだろう。」
 二度と触れられなかった。

 ロンドン到着。当時アメリカ人に人気のホテル、トラファルガー・スクエアのモーリーズに行った。
 ポートランドの弁護士を訪ねる。彼は若い頃ミシシッピで学校を教えていた。ストランド近くのホテルに泊まっていた。彼に会い、ヨーロッパ訪問の目的を知っているかと尋ねた。彼は少しも知らないと返事した。

 私の命令は12,000丁のライフルと、野戦砲一個中隊分を購入し、さらに、より大口径の砲、一、二門をモデルとして入手することだった。戦争開始少し前、ロンドン・アーモリー会社がマサチューセッツ州チコピーのエイムズ製造会社から銃床機械一式を購入していた。それを知り、到着翌日アーモリー会社の事務所に行き、可能なら全生産を確保する意図だった。

 工場長の事務所に入ると、そこにプラント設置を監督したアメリカ人技師がいた。チコピーで知っていた。彼が合衆国政府の武器購入代理人かもしれないと疑い、率直にそうかと尋ね、「私は連邦政府のために買っている」と付け加えた。そんな業務開示は無謀に見えるかもしれないが、当時それが最善の計画と思い、結果が正しかったことを証明した。彼は私の問い合わせに返事しなかった。私は私の疑いが正しいと判断した。

 彼が去ると、会社が製造できる全小火器の価格を尋ねた。

 工場長は答えられず、会社の会長――私たちは社長と呼ぶ――に紹介し、彼の事務所に同行すると言った。そこで一年間会社が作れる全武器の価格を、更新の特権付きで繰り返し尋ねた。社長は翌日価格を与える準備ができていなかった。翌日彼の事務所を訪ねると、会社は現在顧客の全生産の契約下にあり、状況を考慮し、取締役は現在顧客を他より優先すべきだと感じていると言った。

 競争相手は前日出会った男のようだと思えた。私はこのロンドン・アーモリーを南部連邦の武器工場として確保する決意をさらに固めた。

 大西洋ケーブルはまだ敷設されておらず、郵便対応はほぼ一か月――商業会社が利益の望ましい機会を保留するには不合理な時間――かかった。数日以内に、合衆国代理人の比較的小さな注文を満たした後、会社が製造できる全武器を私が得る契約を締結した。この会社は戦争の残り期間、すべての武器生産を私経由で南部連邦軍に引き渡した。

 バリング兄弟は当時、合衆国政府のロンドン財務代理人だった。

 戦争開始時に偉大な政府の武器購入に適した軍将校は、必要なら指示なしで行動し、本質的なもの、特に市場に少ない武器のすべてを確保しただろう。マスケットはほぼどんな合理的な申し出でも得られたが、現代のエンフィールドやスプリングフィールドライフル――実質同じ――はイギリスに数千丁しかなく、他ではオーストリア以外なく、そこではすべて政府所有だった。そしてクッシング氏によると、それらは合衆国には利用可能で「南部」には購入不可能だった。しかし元法務長官クッシングさえ、間違っていたことが、以下で示される。

 若い知的なウェストポイント卒業生で、平均的な「卒業生」ほど責任を負うのを恐れなければ、私の重要な契約を防いだだけでなく、すべての方向で阻めただろう。

 ヨーロッパ全体で使用可能または製造可能な武器供給は非常に限られていた。そのような将校は、価値あるものすべて――つまり最良のすべて――を確保し、連邦には劣った古いモデルの武器しか残さなかっただろう。結果、北軍には良質武器を豊富に与え、南軍の武器の劣位を完全なものにできただろう。

 デーヴィス氏は、海外での軍需品調達に、民間人を代理人として送る大間違いをせず、一人で全権を発揮させれば可能なことを数人でさせる、さらなる大きな誤りをおかさなかった。

 彼の選んだ若い将校たちと同じように熱心に義務を果たす人や、より良い人は、もちろん見つけられただろう。しかし戦争中に、それを変更せず、最初の任命者を更迭しないことが、あの場合、正しかったのだ。デーヴィス氏の顕著な堅固さ――頑固さと言える――は、この点で、とてもよかった。

 イギリス到着時、南部連邦政府はすでにウィリアム・L・ヤンシー閣下、イングランド委員;秘書ウォーカー・ファーン氏(後ギリシャ合衆国公使);ニューオーリンズのロスト判事、フランス委員、その息子が秘書;ダドリー・マン大佐と一般に知られる委員(どの国か知らない)で代表されていた。

 後でL・Q・C・ジェームズ・ラマー閣下(後合衆国内務長官、後合衆国最高裁判所判事)がロシア委員に任命されたが、パリより進まず、戦争終了前にリッチモンドに戻った。ジェームズ・D・ブロック司令官(以前合衆国海軍、ルーズベルト大統領の母の兄弟)がすべての海軍事項を担当した。

 リヴァプールのフレイザー、トレンホルム&Co.が財務代理人だった。

 これらの代表は完全に調和して働き、嫉妬や意見の衝突なく、各々が可能ならば他を助けた。彼らは皆教養ある人で、魅力的な人格で、「熱血南部人」と評される種族からは遠かった。彼らはロンドンのウエストエンドで質素だが完全に敬意ある宿に控えめに住み、ロスト判事はパリ、ブロック司令官はリヴァプールを本拠とした。連邦政府代表で多くの金が必要だったのはブロック司令官と私だけだった。私たちはフレイザー、トレンホルム&Co.に支出する全金を求め、他も外交代理人もそうだった。

 財政システムはほぼ必然的に最も単純だった。リヴァプールのフレイザー、トレンホルム&Co.、サウスカロライナ州チャールストンのジョン・フレイザー&Co.、ニューヨークのトレンホルム兄弟は実質一つの懸念で、ジョン・フレイザー&Co.の上級メンバーウィリアム・トレンホルム氏が戦争初期に連邦財務長官になった。ニューヨークのトレンホルム兄弟の上級メンバーウェルズマン氏はリヴァプール本社に加わり、上級メンバー兼管理者チャールズ・K・プリオロー氏は以前チャールストンだった。交渉する融資はなく、連邦――交戦者としてのみ認識――は諸国間で信用なく、海外供給購入に利用可能な収入を望める課税システムもなかった。しかしおそらく歴史上他の政府が持ったことのない潜在的購入力を持っていた。

 南部人の綿花作物は、域外の製造世界の主要必要品であった。それは、南部では、機械が無いために、ジョージア以外のすべての州で全く無価値だった。

 敵対行為発生直後、連邦当局は可能な「金」――つまり戦後可能な限り支払う約束――で綿花を購入し始めた。一部は利子付き債券により。

 畑や倉庫にある綿花は売却可能で、政府はほぼ唯一の買い手だった。他には市場へ運ぶのがほぼ不可能な難しさがあった。疑いなく一部は国境を密輸され、両側の「愛国者」の利益になった。しかしかさばる綿花の、そのような出口は全く不十分で、実質誰もが、強制なしに政府に売り、政府が提供する最善の――この戦争に勝ったなら果たされるだろう約束――を受け取るしかなかった。

 南部が失敗すれば約束は無価値、成功すれば義務は可能な限り早く履行される。この取引は住民に受け入れられ、政府は綿花を取得し、可能な限りナッソー、バミューダ、ハバナへ輸送した。

 封鎖線を通過させる綿花運びは大胆さと技術を要した。航洋型の汽船は、暗夜にこっそり中立港――一般にナッソー――へ走った。

 長い間この取引はほぼ捕獲なしに続き、連邦政府は世界中で需要の商品の大方を安全な場所に堆積するだけでなく、戦争が進み必要が増すにつれ財産が急速に価値上昇する満足もあった。輸送された綿花はすべてリヴァプールのフレイザー、トレンホルム&Co.に委託され、軍、海軍、外交部門の委託は慎重に分離された。陸海軍間の軋轢は起きなかった。外交代理人の要求は、軍の供給と海軍の船建造、装備、人員に比べて些細だった。

イギリスに長くいないうちに戦争の糧が利用可能になり、債権者に完全に満足な方法で約束を果たせた。供給購入は単純だったが、輸送は別問題だった。予想通り、合衆国政府の探偵と自発的スパイが周囲にいた。電報傍受や従業員買収の試みがあったが、連邦軍供給停止のこれらの試みの成功は少なかった。

 合衆国の一成功は「スティーブン・ハート」号の捕獲だ。アメリカ建造のスクーナーだが、連邦使用のためにイギリス旗の下に置かれた。
 帆船で軍需品を輸送したのは誤りだった。

 「スティーブン・ハート」事件後、すべての軍需品は汽船で連邦港直行かナッソーやバミューダへ運ばれた。「島」へ運ぶ汽船をチャーターするのは簡単だった。一般に船と貨物は善意のイギリス臣民所有で、一イギリス港から他への航海なので、事業全体はロンドンからリヴァプールへの同様輸送ほど合法だった。

 「島」から本土への供給には軽量で高速の航洋型汽船が必要だった。多くのそのような船が購入され、どんな緊急にも対応できる船長――数人の元合衆国海軍将校を含む――の下で送られた。一部は私用ヨット、例えば「メリマック」(二隻の「メリマック」があった);一部はイギリス港間貿易、例えば「コルヌビア」;一部はイングランドとフランス間のチャネルサービス、例えば「ユージェニー」;一部は中国の阿片密輸用に建造された。戦争後期にはサービス専用に汽船が建造された。

 最初の二年、捕獲は稀だった。南部連邦は、少ない資金で、武器、弾薬、衣類、医薬品をよく調達した。

 封鎖突破は金がかかったが、すべては所有者が連邦政府に実質与えた綿花が原資だった。

 供給は常にイギリス軍契約者として訓練された人々が最低現金価格で購入した。信用は求められなかった。必要な供給を持つ商人は手段が限られ、支払いはリヴァプールの古く確立された保守的な、フレイザー、トレンホルム&Co.の小切手だと率直に告げられた。

 そのような購入の効果は売り手の信頼を生み、私たちが購入より売るのを熱望させた。終わりが来て最大の売り手の一部が破滅した時、不当に扱われたという不満は聞かなかった。

 記述したシステムが続く限り、南部は絶えず進撃する巨大な軍と対処できる軍を装備しただけでなく、人々を税で苦しめることなくこれを成し遂げた。こうして、クッシング氏の「南部にどんな可能性があるか?」に、答えたことになった。

 しかし受け入れられる武器の供給は需要に等しくなかった。文明国は最近現代武器を装備したばかりだった。合衆国はスプリングフィールド;イングランドは実質同じエンフィールド;オーストリアは両者に近いライフルでほぼ同じ口径;プロイセンは今どの政府も部隊に支給しないと思う後装銃;フランスは劣った前装銃で、プロイセン式針撃銃の模倣を実験し、最終的に帝国を破滅させた。輸出できる武器は少なかった。
 だがオーストリアにはかなりの量があった。

 私は1859年に合衆国陸軍省の手紙でウィーンを訪れ、観察の機会があったので、オーストリアの装備を多少知っていた。最初帝国オーストリア兵器庫から得るのは空想だと思った。しかし仲介者が執拗に勧めるので、最終的に彼とウィーンに行き、数日以内に最新オーストリア型ライフル100,000丁と野戦砲兵十個中隊分(各六門)、完全馬具、即使用可能な弾薬の契約を締結し、ハンブルクの船で納入。合衆国公使モトリー氏の抗議は無駄だった。彼は、武器製造はオーストリアの重要な産業で、同じ武器が合衆国政府に提案され拒否されたこと、南部連邦は交戦団体であり、慣習法上の合法的買い手だと告げられた。武器は納入され、適時ハンブルクからバミューダへ輸送された。モトリー氏は全委託を購入提案したが遅すぎた。オーストリア政府は先手の購入者との信頼を破らなかった。

 兵器庫庭に並ぶ六十門の施条砲、弾薬車などの付属荷車、合計約二百台を見た時は誇らしかつた。
 じつはオーストリア軍は、黒色火薬から綿火薬への切り替え中だった。それで、黒色火薬使用タイプの、最新設計のものが、南部に売られたのだ。しかしオーストリアでは綿火薬はその後、うまくいかなかったようだ。

 クッシング氏が言ったように、南部港が封鎖されたのは真実だが、敵海軍は、暗闇や嵐の下では、封鎖パトロールに熱心ではなかった。

 戦争の第四年は、北部の男性と物資の巨大な優位だけでなく、供給調達政策の変更で闘争の終わりを見た。長い間ヨーロッパ供給源と大消費者軍の間に契約者はなかった。外部世界に価値ある唯一の商品・綿花は、政府所有に継続的に摩擦なく移り、ナッソー――例外的にバミューダ――に揚陸された。「島」に着くベールの価値の毎シリングは陸軍または海軍部門のフレイザー、トレンホルム&Co.への信用で、ニューヨーク経由郵便で到着が知らされると、使用可能だった。文字通り漏れはなかった。リッチモンド政府に四年間奉仕したフレイザー、トレンホルム&Co.より献身的または知的な信頼できる代理人はなかった。

 しかし戦争後期に、政府との契約が現れ始めた。これらのリッチモンドでの契約は一般にパートナーシップで、契約者――通常イギリス会社――が各封鎖突破船の運貨容量を等分した。一つの会社の代表が私にスターリングで大額――おそらく£10,000、正確でないかも――の私宛為替を持ってきた。難しい問題だった。私は数分考え、「これは支払えない」と言った。

 かなり荒い言葉が交わされたが、私は立場を守り為替を払わなかった。

 イングランドからの最初の封鎖突破船はジェームズ・D・ブロック司令官の「フィンガル」だった。ブロック司令官が目指すサヴァナ港に事前に信号セットを送る必要があった。これらはよく作られた葉巻の包装を外し、信号の紙を本体に巻き、慎重に包装を置き換えて隠した。私自身この葉巻工作をした。サヴァナ沖到着時、ブロック司令官は信号を表示し、直ちに答えられ、馴染みの港に船を導いた。陸軍省が自将校に完全に依存して綿花を出し供給を入れる限り、「島」に着く綿花ベールの価値は適時軍需品の全等価を確保した。綿花外出の捕獲と供給進入の捕獲があったが、長期間損失は少なかった。しかし契約システムがフル稼働すると、船は増えたが供給が減り始めた。契約者は「儲け主義」だった。それが彼らの業務で、利益が大きかったので熱心に追求した。

 「ナッシュビル」はニューヨークとチャールストン間のパケットで、連邦政府が購入し巡洋艦に改造され、ヨーロッパ港に海軍力の若干の示威が必要なので、ピグラム大尉指揮でサウサンプトンに送られ、無事到着した。到着のニュースを読んですぐサウサンプトンに行き、ヤンシー氏の秘書ファーン氏と将校を訪ねた。船はすべてのアメリカ船のように美しい状態だったが、改造された旅客船で、合衆国艦に会えばひとたまりもない見せかけだった。しかし連邦旗を外国港と公海に掲げる目的を果たした。

 ピグラム大尉を訪ねた目的は礼儀だけではない。最も破天荒な提案がなされ、ハンブルクからニューヨークへ向かうイギリス船の捕獲だ。十万丁のオーストリアライフル搭載。私がイングランド銀行に£10,000を預け、両名が為替可能にする。成功なら一人が引き出す。失敗なら他が。ハンブルクでニューヨーク向け武器を積むイギリス船を捕獲するのだ。タグに銃を搭載し、銃を撃ち、降伏を要求し、チャールストンへ連行する。

 この計画は私掠委任を持つ者には不可能でなく、私はヤンシー氏に私掠許可証を申請した。私の話を聞き、ヤンシー氏はそのような委任があるが、時代の精神に反し、発行しないと決定していたと言った。しかしこの場合、欲しければ発行する。私は陸上服務委任で保護されると信じていたが、追加の安全策として私掠許可証を求めた。ピグラム大尉は執行官フォントルロイ中尉(元合衆国海軍)と協議し、試みないと決定した。

 「ナッシュビル」は出航し、ニューヨークに貨物を届けた。計画の立案者は武器と船の二重支払いを受け、戦争リスク保険を合衆国陸軍省が引き受けた。武器はウィーン兵器庫からで、後で同じ数の小火器と数個野戦砲兵中隊を受け取った。

 「ナッシュビル」がサウサンプトン到着時、私は大量の供給を輸送準備したが、合衆国政府代理人の停止努力で躊躇した。問題は最終的にイギリス当局のヒントでオーストラリア向け通関で解決され、そうした。輸送は遠征購入の汽船「エコノミスト」で、ナッシュビルのフォントルロイ中尉が分遣され指揮。当然名目上のイギリス船長。速度は時速八ノットしかなかったが、フォントルロイ中尉はチャールストンへ成功裡に封鎖突破し、貨物を良好な状態で届けた。

 この時期に関連する価値ある出来事がある。フォントルロイ中尉と私が朝訪ねた船はロンドン・ドックスでナッソー向け積載中だった。同ドックに阿片貿易用に建造されたが、何らかの理由で中国へ出航せず、今販売中の非常にハンサムな二隻の汽船があった。フォントルロイ中尉はそれらを調べ、私が一つ買い彼を指揮に置くのを最も熱望した。しかし不可能だった。金がなかった。数か月後、バミューダのセントジョージズに汽船と武器、衣類、靴、弾薬、医薬品の貨物が横たわり、購入を求められた。船は二隻の阿片密輸船の一つだった。イギリス人の会社が購入し、最も望ましい貨物を積み、ウィルミントンまたはチャールストンへ出発した。バミューダ到着時封鎖が厳しくなり、所有者は突破試みをせず、私に船と貨物を安価で売る提案をした。私はまだ購入できず、優れた封鎖突破船と望ましい貨物を知っていたのに。

 所有者が数人で、売るのを非常に熱望し、私を悩ませ、最終的に「諸君、一つできる:船と貨物に綿花を提案する」と言った。彼らは提案に飛びつき、それが欲しいだけだと言った。どこで綿花を届けるか?

 チャールストン、モービルまたはウィルミントンで。
 いつ?
 リッチモンド陸軍省に私の注文を提示後三十日以内に。

 「メリマック」はウィルミントンに突破し、価値ある貨物を良好に届けた。それから綿花を積み、ある好都合な夜――暗く嵐――島への帰路に出発した。港をクリアする前に進入中の別の汽船と衝突し、「メリマック」はウィルミントンに戻り、修理不能とわかり、最終的に貨物と共に$1,100,000で売られた。衝突した船はロンドン・ドックスで隣にあった姉妹船だった。連邦政府のために「メリマック」を修理する手段はウィルミントンになく、私有手に移ると簡単に達成され、再び島へ走らされた。翌朝、捕獲された。

 戦争が危機的段階に達し、連邦軍が全方面で苦境にあったときも、契約システムは結果を生んでいた。

《完》


「新々・読書余論」――『アセチレン・ガスの初歩』(1909年改訂版)

 オンラインで読めるようになっている本邦未訳の珍古書を、摘録をまじえて恣意的に短くご紹介する「ちんこハンター」最新弾です。
 AIを使った下準備の全文訳を、上方の篤志機械翻訳助手さまにお願いしました。
 なお、図版類は省略しています。
 テキストを公開してくださっている「プロジェクト・グーテンベルグ」さまはじめ、各位に御礼を申し上げます。

 原題は、『Acetylene, the Principles of Its Generation and Use』です。

 著者は、F. H. Leeds と W. J. Atkinson Butterfield のふたり。ただしリーズさんは1908年に急逝しました。
 リーズさんは、『アセチレン』という専門雑誌の編集部にいた人。
 バターフィールズさんには『ガス製造の化学』という著書があります。

 1903年の初版では、カルシウムカーバイドと水からどのようにアセチレンが生成されるかの説明から始め、白熱照明その他に利用する人を教育しました。
 異なる有効圧力でアセチレンを供給するための主管および供給パイプの適切なサイズの表を載せたのが、親切ポイントでした。アセチレン照明システムの設置に関わる業者を、大いに助けたはずです。

 英国では、照明システム用に、石炭ガスやオイルなども使われているが、最小の燃料容積で最も明るく照らしてくれるのは、アセチレンである。蝋燭よりも、体積あたり、明るい。

 ということは、ビルの建設のさいに設備が必要なガスタンク(ガスホルダー)のサイズも、最小にできるということ。

 アセチレン・ガスの売り物としてのコストは石炭ガスよりも高いが、その生成はじつに簡単であって、カルシウムカーバイドを輸送するコストも低い。だから、石炭を原料とした石炭ガスよりも、総合的には経済的である。

 アセチレンの燃焼は安定的であって、自己持続し、ちらつかない。燃焼時の騒音も、石炭ガスのバーナーよりは抑制されている。しかも、光が白くて柔らかい。
 また、石炭ガスやオイル・ランプよりも、空気を汚さない。

 アセチレンの1体積が完全に燃焼するためには、2.5体積の酸素を必要とする。大気の中には、21体積の酸素と、79体積の不活性ガス――主に窒素――がある。アセチレンの1体積の燃焼過程で、約11.90体積の空気が、人の呼吸には適さなくなるわけだ。

 石炭ガスは、燃焼時にその体積の約6.5倍の空気しか必要としないのであるが、体積あたりの光量がアセチレン・ランプの三分の一から十五分の一と暗いために、けっきょく、アセチレン照明以上に空気を損なってしまう。

 アセチレンの1体積は、燃焼時に2体積の二酸化炭素を発生する。石炭ガスの1体積は、約0.6体積の二酸化炭素を発生する。

 かつて、実践的に達成が可能な最高のレベルまで精製されていたロンドン市の石炭ガスは、平均して100立方フィートあたり10から12グレインの硫黄しか含まず、実質的に他の不純物を含まなかった。
 しかし、現在ロンドンおよびほとんどの地方都市では、石炭ガスは100立方フィートあたり40から50グレインの硫黄を含む。

 一部の都市では、石炭ガスに100立方フィートあたり少なくとも5グレインのアンモニアも存在する。

 粗アセチレンも、硫黄およびアンモニアを含み、現在良質のカルシウムカーバイドから来るものは100立方フィートあたり硫黄を約31グレインおよびアンモニアを25グレイン含む。

 粗アセチレンは第三の不純物、すなわち石炭ガスには混じらないホスフィンまたはリン化水素を伴う。それはアンモニアまたは硫黄よりも、好ましくない。
 これら不純物の除去方法は、第V章を見よ。

 本書は主張する。等しい照明効果を得るのに、アセチレン照明の方が、石炭ガス灯よりも、室内の空気を悪くしないようにできる。

 石油ランプは、ほやの日常的な清掃を要求する。また、住居内全体を石油臭くしてしまう。
 アセチレン照明システムは、パイプ継手作業が適切に行われていれば、臭いをまるで伴わない光を提供できる。清掃の手間はゼロである。

 大邸宅のランプ室は、可燃性オイルの貯蔵と、油まみれのぼろ布のコレクションにより、火災のリスクを常在化させる。

 アセチレンのガス発生器小屋は、本邸からある距離の別棟に設備されるので、安全であり、また、ガス発生時の臭気は、屋内にはこもらずに、すぐ屋外へ消散する。

 アセチレンは燃焼時に石炭ガスの約3.5倍の熱を発生するが、光の量と質が優れているので、石炭ガス照明バーナーよりも、同じ照明仕事をさせたとき、排熱量は減る。ただし、電気ランプよりは、3倍の廃熱があるであろう。

 生火の照明は、屋内の天井を黒く汚すか? じつは、今日の商業的な生火照明は、黒煙・煤・炭素を、ほとんど発生させてはいない。しかし、室内の空気中の塵を、長期間、天井の一点に吹き上げ、吹き付ける対流を起こすことにより、必然的に、天井がすすけてくるのである。

 アセチレンの焔を通過した空気は殺菌される。

 げんざい、照明用の石油、ケロシン、またはパラフィンオイルの産地は、米国ペンシルベニア、ロシアのコーカサス、およびスコットランドぐらいに限られている。

 20キャンドル光量相当の大オイルランプは、燃料1ガロンあたり約55時間燃焼する。
 大ランプは、大邸宅の玄関ホール、リビングルーム、キッチンで使用される。下層階の通路や小部屋には、ずっと小さいランプが使われる。

 ろうそくは、下層階が石油ランプで照明されている邸宅の寝室で使用されるものである。
 もし、そのような家にアセチレン・システムが設備される場合、それは主要な寝室およびドレッシングルームだけでなくリビングルームにも採用される。
 ディナーの前に着替えようとする女性は、ランプの光量ではまったく不満に感ずる。

 実感では、30本の良いろうそくが、大オイルランプや、アセチレン室内照明に匹敵する。

 アセチレンを水と反応させて得る原料は、カルシウムカーバイドと呼ばれる固体である。
 現在、この物質は電気炉でのみ商業規模で製造されており、将来的にも電力以外で大規模生産される可能性はほぼない。
 その電気炉は、安価な石炭または水力が豊富な大規模工場でのみ経済的に稼働可能であり、一般消費者が自らカーバイドを製造することは不可能である。

 カルシウムカーバイドは現在、水や含水液体、吸湿性固体、結晶水を含む塩と反応させてアセチレンを発生させる以外にほとんど用途がない。
 将来、価格が下がれば、さらなる利用可能性も増えるだろうが、そうならないうちは、アセチレン生成以外の用途はない。

 カルシウムカーバイドは、水と接触すると可燃性、場合によっては爆発性のガスを発生するため、建物内に存在すると火災リスクが増すと誤解されている。
 実際には、水がなければカーバイドは完全に不活性である。火災現場から複数回、カーバイドのドラム缶が無傷で回収された例がある。

 1ポンドの小缶(自転車照明用など)を除き、カーバイドは頑丈な鉄製ドラム(リベットまたは折り目接合)に詰められる。その蓋が外れていなければ、気密・防水であり、消防ホースで注水しても問題ない。

 いちどドラムを開封して内容物の一部を使用した場合は、火災リスクだけでなく大気中の水分による劣化を防ぐため、蓋を再度、気密に封印(ただし半田付けはダメ。加熱で開いてしまうから)するか、残りを完全に密閉可能な別容器に移すことが推奨される。
 ある種の特製ドラム缶は、開封後も気密に再封可能である。

 さらに、安全弁付きの容器を使用すれば、急激な加熱による空気・アセチレンの膨張による破裂リスクを排除できる。

 英国の多くの地方自治体は、カーバイドの保管に規制を設けている。たとえば5ポンド超の保管には、許可証が必要だ。

 1分子のカーバイドは、1分子の水と反応し、1分子のアセチレンと1分子の石灰を生成する。
 水が過剰なら、余剰水は未反応のまま。カーバイドが過剰なら、余剰のカーバイドは未反応のままだ。

 カーバイドと水の反応は、大量の発熱を伴う。
 水を過剰に存在させておくことが、安全につながるだろう。

 カルシウムカーバイド1分子量が分解され、アセチレン1分子量が生成されると、水の2分子のうち、1分子のみが分解され、もう1分子は水酸化カルシウムに移行する。

 カーバイド64gを水で分解、または水18gをカーバイドで分解(いずれの場合も副生成物は水酸化カルシウムまたは消石灰であり、後者の場合はさらに18gの水が必要)する際、29.1大カロリーが放出される。

 水酸化カルシウムを完全に溶液状態にするのに十分な水が存在する場合、放出される総熱量は3カロリー増加し、合計32.1大カロリーとなる。

 28大カロリーの熱量は、水1000gを28℃上昇させられる。

 カーバイドの装置は、大きいほど、水を余計に存在させる必要がある。

 ※兵頭いわく。本書の後半部のほとんどを省略します。今日、世界的に工業火薬が不足しつつあるため、重量2トン前後もある片道特攻無人機を1基のカタパルトからたてつづけに何十機も発進させようと思ったら、「火薬を用いるRATO」ではない、なにか別な離昇アシスト手段が必要です。カーバイド反応は昔からよく知られているもので、レアな物質は一切必要としないで、安価に、即席に「高圧水蒸気」を得られる手段にできるのではないかと直感します。「火薬を用いない蒸気ピストン」、それも、「燃料」のカプセルを1回ごとに使い捨ててしまうようなやり方が、可能なのではないでしょうか?


タイヤが重くて交換作業に難儀している初老の皆様に朗報。

 軽自動車ならば今でも平気でなんとかなろうけれども、普通自動車のタイヤは重い、と感じられる今日このごろ・・・。
 何がキツイかといって、ボルトの穴を合わせるときに、しゃがんだ姿勢でタイヤを数十センチ、床面から離して浮かせ、体前に保持し、なおかつ、薄暗いガレージ内で、5ツ穴と5本のボルトの位置を篏合させねばならない、その十数秒間。視力が衰えているために、この「垂直空間」の微調整に起因する心身の疲労が、翌日にずし~ん、と来てしまうのだ。

 これは参ったと感じた小生は、そこで昨年6月にオートバックスに立ち寄った折に、6290円のエマーソンのタイヤリフター「クルピタ丸」とかいう、タイヤ交換作業の補助具を見掛けて興味を抱き、買ってしまったのであった。

 このほど、夏タイヤを冬タイヤに換える作業にあたって、初めて、この秘蔵のツールを使ってみた。

 結論。これはイイ。
 わたし的には、ボルトとホイールの穴位置との微妙な高低差のすり合わせは、リフターの転把をくるくると廻すよりも、車体を持ち上げているジャッキを操作したほうがてっとり早いぞ、と思った。

 このツールのおかげで、今回、腰の負担は覚えなかった。また、タイヤ溝に挟まった小石の除去作業も捗った。タイヤを接地させて回転させる必要がないのだ。ラッキーな買い物であった。

 ただし、真に「面倒くさがり」の人は、このツールを最初に買ったときの「組み立て作業」で、厭になってしまうかもしれぬ。そのおそれある人は、買い上げた販売店のその場にて、ツールを組み立ててもらうようにするのが、「吉」であろう。

 次。
 TWZニュースレター の2025-10-31記事。
  8月いらい、露軍は「9M729」という巡航ミサイルを数十発、ウクライナ領内へ射ち込んでいるという。

 この巡航ミサイルは、INF条約に違反する性能をもっている。それをロシアが部隊配備したことから、米政府は2019年に、INF条約から離脱したのだ。
 ロシアが今それをばんばん発射しているということは、米国に対する挑発的な誇示なのである。

 NATOコードは「SSC-8 スクリュードライバー」。実戦に使われたのは、8月21日が最初だ。
 それいらい、23発が、飛来している。

 クレムリンは8月4日、旧INF条約の制約を超えた射程を持つ核搭載可能なミサイルの配備を制限しないと発表した。

 ロイターによると、10月5日に飛来した「9M729ミサイル」のうち1発は、落下までに1200km以上、飛行しているという。
 INF条約では、地上発射型ミサイルは500kmしか飛んではいけないことに決められていた。ロシアは、最初からそんな条約など守る気はなかったということが、またしても証明された。

 CSISの見積では、9M729は実際には2500kmのレンジがあるという。
 IISSのダグラス・バリーは、2000km以上は確実だと言っている。

 ※トマホークは、海上から発射するものは何千km飛んでもお構いなしだが、陸上から発射して500km以上飛ぶものだと、それはINF条約に違反することになってしまう。その点からも「地ージス」の《何でも発射できますラーンチャー》は、筋悪だったのである。敵国からの余計な誹謗中傷を、惹起してしまうのだ。


輸入された300台以上の中国製の乗り合いバス(電気自動車)が、メーカーからのリモコン信号によってスイッチ切断できる仕様であると分かり、ノルウェー政府がサイバー・リスクの調査開始。

 手っ取り早い対策は、車両固有の通信機からSIMカードを抜いてしまうことだという。

 次。
 Vladyslav Khomenko 記者による2025-10-30記事「Bradley Field Workshops: Rheinmetall to Create Infrastructure for Rapid Repair of Armored Vehicles in Ukraine」。
  ラインメタル社は、米国製のブラドリー装甲車を、移動式野戦修理工作車に改造する注文を3100万ドルで受けた。
 この改造野戦修理車は、米陸軍とウクライナ軍が、使う予定。

 2027-3には、米軍によるテストが始まるであろう。

 ※ブラドリーもFPVドローンには襲われてしまうのだが、ヒットされても車内の完全破壊は免れる。そこが、高く買われていることが分かる。

 ※今回のAPECにやってきた熊プーは、開催地が微妙であったためなのか、彼らの常套である「揺さぶり演出」ができず、調子が出なかった。もし首脳会談が中共領内でなされたのならば、「神舟」の打ち上げや、新型ステルス軍用機の初飛行などが、そのタイミングでなされたはずだった。身構えていた全員が拍子抜け、といった格好で、トランプがGoサインを出した韓国向け原潜燃料支援方針だけが、一定の余韻を残した。


「新々・読書余論」――『1889年のエッフェル塔のエレベーター』(1961年刊、Robert M. Vogel著)

 オンラインで読めるようになっている本邦未訳の珍古書を、摘録をまじえて恣意的に短くご紹介する「ちんこハンター」第四弾です。
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 原題は、『Elevator Systems of the Eiffel Tower, 1889』です。
 著者は、スミソニアン協会米国国立博物館の機械・土木工学副館長である由。
 1889年のエッフェル塔に備えられていた、3タイプの昇降機を調べた。

 注目すべき理由。1889以前だと、電力モーターが普及する前であること。塔の脚部の曲率にエレベーター・シャフトを沿わせるという、今日では選ばれない技法にチャレンジしていたこと。

 1832年にウェールズのエンジニア、リチャード・トレヴィシックは、高さ1000フィートの円錐形鋳鉄塔(計画は中止)のために、構造物の空洞中心管内で圧縮空気によって上方に駆動されるエレベーターを構想した。これが頓挫し、プロジェクトが忘れられたのは、彼の評判にとって幸運であった。

 19世紀初頭から、さまざまな形態の動力駆動ホイストとエレベーターは使用されている。
 巻上ロープの破断のリスクは、除去されなかった。だからそれらは、工場や倉庫で、人ではなく貨物を垂直移動させる役目に、使われることが多かった。

 筐体が落下する事故を確実に阻止してくれる、最初の実用的な安全装置を考えついたのが、ニューヨーク州ヨンカーズの機械工エリシャ・G・オーティス(1811~1861)である。

 アメリカ合衆国では、1855年に、最初の貨物用のエレベーター・システムが据え付けられた。それは蒸気ピストン動力を使うものだった。
 乗客用の、最初のエレベーターが、何だったのかは、つきとめられぬ。しかし、おそらく1857年、オーティスがニューヨーク市街の店舗に設置したものであったろう。

 南北戦争後の10年間に、高層ビルがしだいに出現し始め、ホテルや店舗の経営者は、機械によって顧客を地面から1階か2階上げることで得られる商業的利点を徐々に認識するようになった。初期には蒸気が動力だったが、ビルの高さが増加するにつれ徐々に、油圧、さらに最終的には電気システムに、置き換えられた。

 液圧エレベーターを工業的に実用化させたのは、大砲で有名なウィリアム・アームストロング(1810~1900)であった。1846年、彼は、丘の上200フィートにあるタンクからの水圧を利用した水力クレーンを開発した。

 超高層ビルが、エレベーターの発明を促したのではない。反対に、エレベーターの継続的な改良が、ビルの軒高の急速な増加を可能にしたのである。

 欧州人は、エレベーター筐体をケーブルで吊る方式を、本能的に信用しなかった。

 電気モーター動力で昇降するシステムを最初にこしらえたのは、ドイツの電気技師ヴェルナー・フォン・ジーメンスその人である。彼は1880年にモーターとデッキ下のウォームギアによってラックを登る車を実験した。

 エッフェルは、塔の昇降機については、バックマンという人物に任せようとした。
 バックマンは当初、ねじとナットの組み合わせて、筐体を「ねじ上げる」システムを考えた。

 オーティスのヨーロッパ支店であるアメリカン・エレベーター・カンパニーは、当初、規定によって入札に参加ができなかったが、フランス国内では塔の昇降機は調達できないとわかったときに、契約をかちとった。1887年7月のこと。

 オーティスは、急勾配を上下するケーブルカーに似たシステムを提案した。動力は油圧。

 フランスの面目を保つため、東と西の橋脚に据えられた国産のエレベーターが、塔の第1段階まで、来場者を運んだ。

 第2プラットフォームから上への垂直輸送は、レオン・エドゥーのプランジャー・システムとした。水圧動力利用。
 エドゥーはエッフェルの古い学友で、フランスで数千のエレベーターを建設していた。

 脚注。ワシントン記念碑内には、工事の材料を上げるため、1880年にエレベーターが設置され、その後、乗客サービスに切り替えられている。毎分50フィートのスピードで、高さ500フィートまで持ち上げた。

 脚注。電気動力エレベーターの今日的な完成体は、1904年にオーティスがシカゴの劇場に初めて設置した。モーターはケーブルを巻き取らない。送って動かしてやるだけ。ケーブルの他端が、カウンターウェイトに取り付けられている。100フィートを超える上下のためには、長い間、この方法しかなかった。

 《完》


「新々・読書余論」――『達人釣り師がきわめたフライ・フィッシング術伝授』(1825年刊、Robert Venables著)

 オンラインで読めるようになっている本邦未訳の珍古書を、摘録をまじえて恣意的に短くご紹介する「ちんこハンター」第三弾です。
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 原題は、『The Experienced Angler; or Angling Improved』です。
 注目点は、英本土の内水における当時の擬似餌針フィッシングでしょうか。生き餌釣りのコツは、数百年ではあまり変わらないでしょうからね。

 原著者のヴェナブルズ大佐(一時は将官)は、1654年の対スペインの遠征において、武運に見放されてしまった人のようで、あまり詳しい事歴が伝わっていません。しかし彼が1662年に印刷して販売した貴重なテキストを、後世の釣り界の権威アイザック・ウォルトンがめざとく発掘し、編纂・出版させました。
 つまり、17世紀時点での最先端の釣りのテクニックが、19世紀に改めて斯界に共有されたらしい。

 古諺にいわく。「趣味については争うべからず」。
 原著者いわく。鷹狩りと狩猟にくらべて、釣りの趣味は、なんだか貧乏くさいと思われている。
 だが釣りは、無害であって、誰でもすぐにできるし、他者とは争わないのだ。
 釣り糸を垂れて何も釣れずとも、川辺の散策は面白く、感覚はよろこびに満たされるであろう。

 釣りの門外漢に必要なのは、率直に技術を伝授してくれる、正直で熟練した釣り人である。それが私だ。

 人造ハエ(疑似餌針)を使う場合、それを絶えず水面で動かせ。特に暗い日、水が濁り、風が吹いているとき。
 雨で濁った川で釣るなら、普通より大きな体の疑似餌にしなくてはいけない。さもないと水中の魚が、見つけてくれない。
 擬似フライは、その色の目立ち度(明るさ)を三段階、違えたものを、あらかじめ用意して行くべきである。

 水が透明なら、小さな体の細い翼のハエ。
 暗い天気および暗い水では、ハエも暗く。

 羽虫模型の腹の色が重要である。魚が最も見るのはそこだから。
 擬似餌針で釣る時、糸は竿の長さの2倍でよい。

 投げたとき、フライが糸よりも先に水に落ちるようにせよ。糸が先に落ちてしまうと、それが魚を驚かせる。そのさいには、引き戻し、再び投げたまえ。

 旱魃で大地が乾燥し、川の流れが普段よりはるかに弱い時、釣りを試みても無駄である。

 羊飼いや農民が羊を洗う時、その洗いはじめには、魚が非常によく釣り餌を食う。羊から落ちる汚れが、撒き餌のように魚を引き寄せると考えられる。

 どんな魚も産卵後、強さと食欲が回復するまで、ほぼ何も食わない。

 夏の真っ只中でも、雨雲が近づくや、魚は食わなくなる。魚は人よりも早く、突如、嵐の接近を覚り、安全を求めて隠れる。

 突然の激しい雨で川が少し濁り、水位が上がったとき、その雨中または直後に、赤虫の生き餌で、よく釣れる。

 絹糸に靴屋の蝋を塗ると、喰いつきがよくなる。

 魚や魚卵を食ってしまう獣や鳥はすべて射殺するとよい。特にカワウソ。
 もっと憎むべきは、網を使う密漁者である。

 最初に釣った魚の腹をナイフで解剖し、慎重に、消化管内を検分し、今日は何を喰っているのかを見極めるべし。たとえば、水面の羽虫を食べているのか、それとも水底の川虫を食べているのかが、分かるから、続く釣り餌の選択で、無駄をやることはなくなる。

 太陽や月は、正面に置け。さすればあなたの振り回すロッドの影で、魚が驚くことはないだろう。

 マス釣りでは一箇所で4回キャストして駄目なら、河岸を変えな。

 ペーストには、亜麻、綿、羊毛などの繊維を加えて練っておけば、針から脱落しにくくなる。

 あなたが苦労をして釣った魚でも、病者や貧しい者がそこにいたならば、喜んで配分してやれ。
 娯楽を職業にしてはならない。過度な愛が、自他ともに不愉快にしてしまうのがオチであろう。

《完》


「新々・読書余論」――『罠の科学』(1909年刊、Elmer Harry Kreps著)

 オンラインで読めるようになっている本邦未訳の珍古書を、摘録をまじえて恣意的にご紹介する「ちんこハンター」第二弾です。この要約については、AIへは委託していません。というか、石器時代人の愚生には、その操作の仕方がどうもよく分からない。とにかく手続きが面倒すぎるんだよ! 容量制限とかありやがって、ゆるせねえわ。テキストを公開してくださっている「プロジェクト・グーテンベルグ」さまには、御礼を申し上げます。

 原題は、『SCIENCE OF TRAPPING ―― DESCRIBES THE FUR BEARING ANIMALS, THEIR NATURE, HABITS AND DISTRIBUTION, WITH PRACTICAL METHODS FOR THEIR CAPTURE』。
 このうちの、特に第12章の「The Bear」の内容に注目します。さっさと日本の熊どもを根絶するためにね!

 原著者はみずから、北米の罠猟師。大小あらゆる野生動物を捕獲し、その毛皮を売って商売している。インディアンの罠猟に随行して勉強も重ねて来た。だから、内容は、信用できる。

 かつて、鋼鉄製のトラップ――とらばさみのようなものや、弾撥ピンチのねずみとりのような構造――が適価で市販されていなかった頃は、「deadfall」(圧殺罠)や「snare」(括り罠)が多用された。しかし今日では、スチール・トラップが全盛だ。安く手に入り、高機能なので。

 スチール・トラップの主流形態は「jaw trap」(トラ挟み)である。餌ありでも餌なしでも機能し、水中にもそのまま仕掛けられる(ビーバー用)。大型獣にも、小型獣にも、対応する製品がある。

 オーストラリアとアフリカには、クマはいない。

 チベットにもボルネオにも熊はいる。
 ボルネオの最も小型のクマは草食性である。攻撃性も低い。

 北極ぐまは冬眠せず、まったく草食しない。

 アメリカ黒熊はメイティング・シーズンが6月から8月。仔熊は通常2頭が翌年の1月から3月に産まれる。Den=巣穴は大概、地表の穴や地物を利用しているが、木の洞[うろ]を使っていることもあり。

 「熊道」は、他の獣道とは容易に区別がつく。沿道の樹木にマークが認められるから。
 それは、一定のインターバルで認められる。
 クマは後ろ脚で立ち、樹木の外皮をぐるりと1周、齧り取る。地上から5フィートぐらいのところだ。
 このマークは、メイティング・シーズン中に付けられる、と原著者は聴かされた。

 熊道を熊が頻繁に通るのは、春から夏にかけてである。

 熊の大好物は魚である。

 熊は例年、11月15日に体重と栄養のピークに達する。
 北方の熊は6月15日までは、毛の生え変わりのための脱毛が始まらない。だから毛皮猟師にとっては、春に仕留めるのが有利なわけだが、罠に容易にかかってくれるのは、秋である。

 黒熊用のトラバサミは、商品番号が Nos. 5 、 15 、 50 、そして 150 Newhouse である。
 より大型のクマ用鉄罠としては、 No. 6 が使われることもあるが、グリズリー用は、 No. 5 でいい。

 「NEWHOUSE NO. 5 TRAP」は、顎を開いたときの大きさが11と「3/4」インチ。重さ19ポンドだ。チェーン付属。

 熊用の罠は、陣地の築城が必要である。
 古い丸太を使って、一方が開放されているV形の「板囲い」を構築し、その奥へ、誘いこむのだ。
 奥行は、8フィート。
 間口は2~3フィート幅とせよ。

 高さは3フィート。特に奥の丸木組の高さは3フィートにする。
 入口付近はももうすこし低くても可い。

 ベイト(誘引餌。生き餌のことあり)は、最も奥に縛り付ける。そして虎挟罠は、入口の付近に仕掛ける。

 良く撓[しな]る、長さ8インチの小枝。これでトラップのPan(踏板スイッチ)を下から支持させておく。これは、野鼠のような小動物が踏んでも作動しないようにするため。枝の一端は地面にしっかりと突き刺す。他端は曲げて、Panを下から持ち上げるように、ひっかけておく。

 セオリーでは、25ポンドの重さがかかっても、作動しないようにするべきであるという。しかし原著者の観察したところでは、多くの罠猟師たちは、もっと軽い踏み圧でも作動するようにしている。

 あたりまえの話だが、Panの設定作業をするときは、常に、罠の顎の裏側から手を届かせるようにする。

 しかけた罠の、ほとんどの部分は、枝や落ち葉で覆い隠す。
 Panの表面には、苔をかぶせておくと、熊は安心してそこを踏んでくれるという。
 罠猟師によっては、囲いの内側の地面に、尖った短い枝(長さ6~8インチ)を植立し、熊の脚がおのずから、そこを避けてPanの上に来るように「小径」を整備する。

 罠は、鎖によって、立ち木や clog (繋ぐ重し。重い材木や岩でも可い)に結びつけておく。

 熊は学習する。一回逃したら、同じ場所に罠を仕掛けても無駄である。
 熊道を探せ。ベストなロケーションは、「水溜まり」に通じている区間である。

 そこは、他の人間が通りかかるような場所であってはならぬことは、申すまでもないこと。
 ある猟師は、「丸木囲い」は用いず、ベイトを、森林中の高さ6フィートの空中に吊るして、その真下に、虎挟みを置く。

 「deadfall」(圧殺罠)や「snare」(括り罠)で熊を取ることも可能である。しかし連日頻繁に見回りをするロケーションでない限り、得策ではない。発見したときに毛皮がひどく傷んでしまっている確率が高い。

 ベイトには、魚が最善である。次善なのは、ポーク(塩まぶしでもよいし、生肉でもよい)。マトン、ビーフも可なり。
 同類の熊肉も、ベイトになることは覚えておけ。
 蜂蜜にも、かなりの誘引力がある。

 匂いで誘うなら、「フィッシュ・オイル」、セリ科植物のアニスの油など。
 ある種の「raccoon」の匂いもクマを安心させるという。これは、北米の各地では、現地種の「raccoon」とクマ類とが、利益共同体のような関係を作っているからだという。

 注意。ここで言っている「ラクーン」は「badger」(アナグマ)のことではない。

 《完》


フィラデルフィア港には、長らく閉店状態の米海軍工廠があって、そこにHanwhaが投資して「Philly Shipyard」を開業しているが、今は商船専用であり、原潜建造のための設備は無い。

 つまり米造船業のために韓国が1500億ドルを投資しますよというその内実は、軍艦を建造するインフラが備わっていない韓国資本のフィラデルフィア造船所を、軍艦(理想的には原潜だが、かなりハードルは高かろうと予想)が建造できるまでに機能拡張しますよということだ。

 ジョージア州のヒュンダイ工場と、同じ風景になるのではないだろうかと私は想像する。米国内も人手は不足なので、韓国人の職工をおびただしくそこに連れてくるしかないであろう。それはしかし、トランプとのディールによって、「問題はないよ」というお墨付きが、先行して、得られたから、これから、堂々とやれるはずだ。

 さらに10年後を予想すると、「Philly Shipyard」では、けっきょく原潜は造られないと思う。しかし、そこまでの過程で堂々と原潜のノウハウを米海軍から吸収できた韓国企業が、韓国国内の造船所で、勝手に原潜第1番艦を建造してしまうことになるだろう。その建前は、あくまで「2番艦」として事業をスタートさせたのでしたが、「米国造船所での1番艦の事業が遅れてしまっているために、仕方のないなりゆきで、こっちが先となりました」ということにするわけ。米政府の公式のお墨付きが2025年に与えられているので、それを2035年に米政府が止めることはできないのである。

 次。
 Sania Kozatskyi 記者による2025-10-30記事「Germany to Buy 12,000 Kamikaze Drones ―― Brigade on the Border with Russia First to be Armed」。
  ドイツ軍は、これから数億ユーロの予算で、1万2000機の自爆型ドローンを調達する。
 国内の3企業、ヘルシング社、スターク・ディフェンス社、ラインメタル社が、それぞれ3億ユーロ規模で受注する。

 製品は、一部だけが即納される。残りは、完成後、無期限に企業内の倉庫に保管される。というのは、ドローン戦争の世界では、ソフトウェアやハードウェア(特に通信関係)が日々、進化し続けているので、メーカーの手元に置いて、逐次にアップデート改修を施すようにすることが、合理的だからだ。この流儀は、ウクライナで実行されていて、正しいことが証明されている。

 ウクライナ戦線では、両軍によるイノベーションが数週間サイクルで発生し続けている。軍の倉庫に収めてしまったら、そのイノベーションに追随することはできず、倉庫内において、すべて、ジャンクの山と化してしまう。

 なお、この話とは別にドイツは、イスラエル製の「スパイク」対戦車誘導ミサイルを20億ユーロで購入する。これも、非常にレンジが長く、ほとんどロイタリングミュニションのようなもの。

 次。
 Joseph Trevithick 記者による2025-10-29記事「China Building SAM Sites That Allow Missiles To Be Fired From Within Bunkers」。
  9月に民間の偵察衛星が撮影した画像から、カシミール高原に隣接するチベットの2箇所の基地にて、中共軍は、SAMを地下シェルター内に収容し始めたことが分かった。発射も、地下からそのままできるようにしていると思しい。

 場所は、ひとつはガー郡、ひとつはパンゴン湖の東端付近。
 SAMは「紅旗9」。これは露軍のS-300Pシリーズの後期モデルと似る。

 TELごと地下壕に入れてしまい、発射時にはシェルター天蓋をオープンにする。すべて垂直発射である。


Electromagnetic-induction driven single crawler track may be an all terrain self-propelled catapult for heavy UAVs.

1条の無限軌道履帯だけからなる、地上の自走体。このクローラー履帯の駆動力として、電磁誘導を用いる。(メリットのひとつは、もし履帯に横方向の不意の力が加わり、スプロケット・ホイールやアイドラー・ホイールやガイド転輪から外れそうになっても、電磁力がそれを正中位置に引き戻してくれるので、「履帯脱落」は起きない。)

 この電磁式「モノ・トラック」の履帯の上面の上にある「台座」に、これから離昇させたいUAVを、クラッチ結合する。自走体の両側面から、それぞれ側方の斜め上へ、支柱が延び、その上に「台座」は固定されている。台座の下面と履帯上面との間には、合理的なクリアランスが保たれている。

 また、自走体の両側面から、それぞれ側方の斜め下へは、「補助輪」も突き出している。この補助輪は、高速前進中は、左右ともに地面から浮く。

 「台座」後端は、履帯後端よりもやや後方まで延び、「斜路」のように下垂しているので、1トン以上あるUAVを、台座上に載せる作業は、はかどる。

 この「mono-track」の全長が、仮に10mしかなくとも、それ自体が自走前進するため、「理論上の滑走路長」は、随意に延長し得る。

 電磁力によって履帯を駆動させて徐々に加速し、離昇速度に達したところで、台座のクラッチ金具を解放すれば、UAVは離昇する。

 このシステムのメリットは、正規の飛行場ではない、非舗装の道路や放牧場のようなところからでも、重いUAVを射出できることである。
 そして、ある程度の傾斜地形すらも、UAV射出場として、随意に利用ができるようになるであろう。

 また、もし「モノ・トラック」の前路に、敵の爆撃などによって不意に瓦礫が堆積しても、無限軌道の電磁クッション機能が、そのバウンドを吸収してしまえる。

 次。
 Anzhelika Kalchenko 記者による2025-10-29記事「Russian Troops Use “Goat” Tactic: Disguising Soldiers as Civilians Near Pokrovsk」。
  ドイツ・メディアの『ビルト』によれば、ロシア軍はいよいよ、戦時国際法違反の「便衣」兵を、堂々と使い始めている。

 男女のロシア兵が、軍服を一切着用せず、ドローン偵察機からは民間人としか見えないような服装で、軍務に従事している。特にドネツク戦線。