米西部が異常乾燥しているなら、代わりにどこかが大雨になっているはずだ。それはどこだ?

 Thomas Newdick 記者による2020-9-15記事「Here Is The Surprise Choice To Become Germany’s Standard Assault Rifle」。
        ドイツ連邦軍は、定評のあったヘックラーウントコッホ社製の「G36」に替わる新小銃として、ほぼ無名のC.G.ハエネルという国内メーカーがつくったアサルトライフルを選定した。

 名称を「MK556」といい、内部機関は、米軍の「AR15/M4」カービンに近いそうである。

 国際的には無名だが、ドイツ国内では、これのセミオートマチックバージョンが「CR223」の名ですでに警察装備になっている。それはまた複数の国へ輸出されている実績もあるのだ。

 国防相は15日に選定を発表した。正式契約はまだなので、これからHK社が法手続き論を衝いて反撃すると、決定が覆るかもしれない。HK社は「HK416」および「HK433」を提案していたが、両案ともに国防省から斥けられた。

 「G36」は1990年代なかばに制式採用されているが、熱地で長時間交戦しているうちに機能に問題が出てくるとウルスラ・フォン・デア・レイエン国防大臣は指摘している。
 また、急激な気温変化によっても不具合が発生し、弾道が乱れるという。

 新小銃に要求されていたこと。5.56ミリにも7.62ミリにも対応できること。短銃身バージョンもあること。
 左利きの射手でも何の問題もなく操作できること。
 重量は弾倉やアクセサリー抜きで7.9ポンド以下。
 機関部は3万発の寿命があること。銃身寿命は、ボール弾で1万5000発、AP弾で7500発あること。
 また特に指定されたアクセサリーとして、サイレンサー、ドラム弾倉、二脚がある。

 チューリンゲンにあるハエネル社は1840年の創立。冷戦期には東ドイツの小火器メーカーだった。そこで別な社名でカラシニコフ系の小銃を生産していた。2008年に旧社名に戻る。げんざいこの会社の資本オーナーは、UAEにある持ち株会社〔事実上、王族とイコール〕である。

 ドイツ再統一後のハエネル社は、2016年から「G29」狙撃銃を政府に納品しているが、小火器の全分野におけるHKの支配的地位は崩せなかった。

 「MK556」のMKは、マシーネンカラビナー(マシンカービン)の頭文字。
 内部機構はほぼAR-15/M4なのだが、ガスをそのまま吹き付ける方式ではなく、オーソドックスなガスピストンを採用し、フレーム内の汚染を回避している。

 HKとの比較テストでこの銃は好成績を示し、なおかつ、単価も低いので、そこが買われた。
 なお、ラインメタル、オーストリーのステイヤー・マンリッヒャー「RS556」、Sigザウエル「MCX」も名乗りを上げていたけれども、早々に敗退している。

 HK社は1959年から西独軍に「G3」アサルトライフルを納品してきた。近年ではフランス軍とノルウェー軍に「HK416」を供給している。ビンラディンを射殺したシールズの「チーム6」も、「HK416」を撰んでいたのである。

 ※メルケルが東独出身だから、贔屓があるんじゃないかと疑われても仕方がないが、値段が安いんだよといわれれば、それは今のドイツでは説得力がある。記事の中に『ゾルダト・ウント・テクニク』誌が引用されているので、ハッとした。むかし渋谷のパルコの地下書店で『ソルジャー・オブ・フォーチュン』などとともに立ち読みしていたあの雑誌、まだ在ったのか!

 次。
 James Temple 記者による2020-9-17記事「Suppressing fires has failed. Here’s what California needs to do instead.」
     カリフォルニア州の過去の火災の規模上位10件を合計したよりも大きな被害が、今、出ている。
 面積にして320万平方エイカー。これはマサチューセッツ州の半分と等しい。すでに4200棟が燃え落ち、火事難民が数十万人も発生している。

 ある学者は提案する。昔、やっていたように、山火事が起きる前に、計画的な「野焼き」をするべきである。その政策を復活させねばならない、と。

 それによって山火事が根絶されるわけではないが、規模は確実に抑制される。
 米国における、州政府による「計画野焼き」のはじまりは、1910年の大山火事が契機になった。この火事で、アイダホ州とモンタナ州にまたがる300万平方エイカーが焼け、90人が死んだ。
 二度とこのような山火事は起こさせないぞと、そこで人々は誓ったのだ。

 1935年には米連邦森林局が「山火事は、発生日の翌日の午前10時までに消す」という、早期発見&迅速対処ポリシーを公式に打ち出した。

 この政策が仇となった。何十年も山火事が意欲的に消火されてきたことによって、山火事の燃料となる枯れ枝、枯れ葉が、うずたかく堆積される一方となったのだ。これがいっぺん燃え出したら、もはや手がつけられない。生きている高木も、樹冠まで丸焼けにされてしまう。

 過去何年か、シエラ・ネバダ山域では降雨が少なかった。これまた、広域山火事を避けがたくする。
 降雪が減ってくれれば樹木の成長も遅くなる。ところが、降雪は逆に増えたから、森林は育ちまくり、なおかつ夏が乾燥して高温。山火事を待つばかりの環境となった。
 芝刈り機のスパーク、切れた送電線、落雷などをきっかけとして発火し、秋の強風が延焼を助勢する。

 森林の中に広い幅の「防火帯」をつくらねばならない。そこでは、生きている樹木もあらかじめぜんぶ切り倒し、野焼きしてしまうことだ。
 また、自然発生した山火事のすべてを消火するのではなく、住民に無被害なものは放置する決定を下すことにより、森林の燃料堆積を緩和することだ。

 2018年に一委員会が提言したこと。毎年110万平方エーカーを人為的に野焼きする。さすれば、20年サイクルで、森林の火災危険度は制御される。もちろん作業員の人件費がかかる。野焼き1エーカーにつき200ドル以上かかる。伐採作業もするなら、1000ドルにもなるだろう。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-17記事。
 米軍はイラクやアフガニスタンから撤収するのにあわせて、四軍の将官(准将~大将)の数を5%削減したい。

 WWIIの終了時、米軍の将官/提督ひとりにつき、部下は5400人いた。
 1991年、それは3400人である。つまり将官の密度は冷戦中に、WWII当時よりも増えたのだ。
 2010年時点では3000人。さらに増えてしまった。

 これでは、何を決定するにも実行するにも、ハンコをつく中間管理者が多いために、時間がかかってしまう。



兵頭二十八の防衛白書2016


兵頭二十八の防衛白書2015

旧資料備忘摘録 2020-9-17 Up

▼高橋数良、他『警察武道 逮捕と護身』S5-9 松華堂
 施縄早縄第一人者の 調所武熊氏も執筆。
 わが国現代において、剣をたばさむ者は独り軍人と警察官あるのみ。
 武士の気魄をうけつぐ者は警察官なのだ。

 昔は鎧が重いから、身体を倒されることがすでに死命を制されることであった。
 万治年間に「やはら」の文字あらわれる。

 「体術」は支那流の表現。白打(ハッダ)。
 老刑事は、泥棒が出てくるところを、すぐに利き腕をとる。凶器をおさめているので。
 暗闇の中に入るには、自然体で入るべし。

 スリの煙管は、吸い口を、尖らせてあって、それが兇器になる。
 「柄まへ」で近づくと、己れの刀で切られることになる。

 相手の右手の斜め後ろから、利き腕を制せよ。
 ピストルを持った相手には、家族の老婆や、そいつの愛児をかざして近づけ。

 屏風や襖は、打ち倒し、それと共に踏み込むようにする。開くのを待っていてはならない。
 不意に出会ったら、犯人に近づかず、手招きする。これが心理的にこっちを有利にしてくれる。

 この時代、巡査の抜刀はただちに国会で問題にされる。遺憾である(p.114)。

 短刀は、柄頭は脇の下、鐺(こぢり)は股の間に落とす。外見上、まったくわからない。
 抜くときは、服の中で左手で抜きやすい形に直す。

 婦人の逆手短刀は、演劇の世界のことで、絶対にありえない。

 出刃は刃肉が厚いから、短刀のごとく、ゑぐる必要がない。刺すだけで大出血する。短刀よりもおそろしいのである(p.132)。※現代の包丁を想起してはいけない。昔は分厚かった。

 五人殺し、六人殺しの犯罪は、手斧か金槌以外、ありえない(p.132)。※反証があるはずだ。この本の出版後に。

 サーベルは、ナス環を外し、鞘ごと棍棒として使うのが、手加減が要らない。サヤはピカピカ光っている(p.138)。※金属鞘であった。日本刀の木製鞘だと、衝撃で破砕することがあり、危険。

 従来の巡査抜剣心得では、先方が兇器を持していないければ抜剣できなかったが、改正の武器使用規程では、先方が素手でも武器を使用しなければ職務の執行または身体の防禦のできない場合には、抜刀OK。

 昼の山火事では、葉のついた木の枝をとり、たへず身体を払っていないと、服が燃えているのが分らない。

 水中捕り物は、相手を突き放して弱らせる。
 巡査は編み上げ靴を水中で脱ぐことができないから、溺死しないように気をつけろ。

 船から飛び込むときは、必ず船尾から。それが安全なので。

 私服刑事は必ずステッキを持った。
 「十手」もハンケチで巻いて持っていくことあり(p.182)。※十手は大正末まではまちがいなく使われていたそうだ。

 いかなる無神論者も、夜は七分、神を信ずる。
 不審尋問は必ず2人で、前後を挟んでせよ。前に2人で並ぶものではない。

 手の甲で相手の両眼または片眼を叩くと、暫時は眼が開かない。しかも決して失明せぬ(p.202)。※柔術の「かすみ当て」。指の力を抜くと、素人が試しても、おそろしく有効である。もちろん裸眼者相手のばあいに限られるのだが……。「シャコパンチ」と筋肉の使われ方が同じようで、プロボクサーの反射神経でも、これをディフェンスできるもんじゃない。

 犯人の顎を手のひらで強く押し上げると、倒れる。コンクリート地面の上では、これはやらぬこと。※左手で軽く相手の腰の裏を押さえながら、右手でこれをやると、まるで、手品のように、大男でも倒せてしまう。地面が舗装されていて危険であるときは、じぶんの左膝を倒れる相手の背中の下に入れることにより、後頭部の強打を回避できる。しかしその場合、こちらの右手食指と拇指を途中で一本貫手の形につくりかえるなどして、相手の喉仏をすぐに圧するようにしなければ、こっちが反撃されてしまうだろう。

 「警察官武器使用規程」には、佩剣、ピストル、十手等とある。旧来は剣のみであった。新規程は、警部補以上にも適用される。

 十手に、ハンケチ・手拭を巻く理由は、民衆を負傷せしめ、傷痕を印せしむることが、後に各種の問題を残すから。

 震災後、持兇器強盗が頻出し、物情騒然。治安維持を為すにあたり、警察官にピストルを携帯させる必要が生じ、使用規定が改まった。

 子どもが見ている前で犯人に縄をかけることは避けるべし。
 自室内で真に抵抗する犯人は、いないものだ。

 短刀とわたりあって負傷してしまった警察官いわく。十手のごときは何の役にも立たない。2間くらいも長さがある竹竿でも、いけない。2尺4寸から2尺5寸の棒が、こっちの道具として手頃である。とにかく、素手ではダメだ(p.266)。

 逃走犯は、その後頭部をはハタキつけるに限る(p.266)。

▼名和弓雄『十手捕縄の研究』S39
 江戸時代の人は、捕具も不浄の品として忌みきらった。
 各藩でも「不浄蔵」に納めていたのである。

 北越、上杉軍では、雁棒と称する長柄の鎌を農民に使わせた記録もある。

 そでがらみ、つくぼう、さすまた は、シナの『武備誌』を参考にしたことはまちがいない。室町中期~。
 木製の十手が室町時代に登場する。

 安土桃山時代には「打払い長十手」ができた。これは鉄鞭(かなむち)から進化したのだろう。

 吉川英治の『宮本武蔵』の中に、大坂城内を警護する者が三尺の十手をさしていると書かれていた。考証の正確さに、驚く。

 6尺以上の捕物道具を「寄道具」「長柄 仕寄具」と呼ぶ。
 6尺棒は「仕寄棒」が正しい。

 袖絡みでは、犯人の頭髪も狙った。
 鳶用の刺す股は、釘を植えてない。

 磔でとどめの首を刺すときは、熊手(竜【托のてへんが口へん】)で仰向かせる。
 犬も歩けば棒にあたる、とか、藪から棒 の棒は、辻番の六尺棒のこと。

 へら状の石突きとなっている長柄は、それによって砂をかけて目潰しをしようという用途である。

 「鎖鎌の携行方法は、判然としない」(p.75)。※名和氏は鎖鎌がフェイク武器だったということに遂に気づけなかった。

 「ハシャ」という、火縄銃で打ち出す目潰しの砂があった。
 空洞のある十手に鉛粒を詰めて、敵の顔面に強く打ち込むものもあった。
 鳶口十手。楕円断面の材木の鳶口の部分を柄頭とし、材木の途中に金属カギを植えてある。

 太政官符達 第29号 行政警察規則。M8までの羅卒は、官より相渡されたる兵器のほかは携行してはならぬ。すなわち三尺余りの丸棒だけが公許されていた。

 羅卒はM8から巡査となる。そしてM15からは丸棒ではなくサーベルを佩用するようになる。
 手錠は刑事巡査が私物として昭和初期から国産品を使った。

 5.15事件後、一定数の「ブローニング拳銃」を、警視庁の武器庫と、他の二、三署の地下倉庫に貯蔵させたが、厳秘であった。警視庁の幹部だけがそれを知っていた。

 警察の射撃場は、小石川の弥生町にあった。歩兵銃まで射っていた。

 佩剣が警棒になったのはS21-3の米軍の命令による。長さ45センチはMP警棒と同じだった。それが鼻捻と同じ60センチに改正されるのがS24-4。
 三段振り出し式の特殊警棒はS32-10から。伸ばすと39.5センチになる。

▼渡辺万次郎『鉱山史話(東北編)』1968
 最初に天武天皇時代の674年に対馬の佐須鉱山の銀が発見された。が、金と銅がみつからない。
 そこで文武は、「おしのうみ あらかま」を陸奥へ派遣した。彼がどうなったかは、不明。

 けっきょく、天明天皇時代の708年に、秩父市に「にぎどう」(自然銅)が発見されて、和銅と改元された。

 天平21年=749年2月、ついに陸奥の小田郡に砂金がみつかり、4月、天平感宝元年と改元。この小田郡は、今の宮城県の遠田郡らしい。

 前九年の役 とは、東北の産金を賄賂にして中央の藤原氏から官位を受けていた、その慣行を、安倍父子が停止したことから。さいしょに藤原登任と平重成がさしむけられたが、鬼首(おにこうべ)合戦で撃退される。今の鳴子町。
 そこで関東武士の親玉の頼義と義家がさしむけられたのだが、悪戦9年。
 出羽の蝦夷・清原武則を助成せしめて、やっと1062衣川で一勝したもの。

 宋では、石炭を利用して製鉄と製陶をいとなんでいた。

 東北金山は慶長年間に急に発達した。技術・ノウハウのブレークスルーがあった。だから慶長大判も、駿府城の大延べ板も、作られた。

 東北では農民が農閑期に砂金を採り、市場で品物にかえていた。
 1600年代に、銅鉱山に水銀法が導入される。

 鉱石を得るための採掘は、北上あたりでは、「ノミ」と称した鉄棒と、それを打ち込む「セットウ」という鉄槌だけで行った。
 その鉱石を砕き、水中で淘[よ]り分け、溶かして吹き金とする。
 先進鉱業地域は、島根や兵庫だった。

 すんぽ……測量士。
 だいく……採掘夫。
 ほりこ……運搬夫。
 山留/留大工……支柱工事技師。

 木綿を布いた樋のなかに鉱石の粉を流す。ネコ流しという。
 坑道は鋪[しき]。
 鉱石を鉑、その他を研[おり]という。
 特上鉱……貫き物。

 鉱脈にしたがって自由に掘り進むのをタヌキ掘りという。
 鉄滓は、鍰[からみ]という。
 板取り で分けられる粘土鉱を「くさり箱」または「淘[よ]り物箱」といった。
 大きなものは臼で砕いてから板取りにかける。

 鉛とともに金銀だけを分離する「灰吹き法」は天正のころ、大陸から石見銀山に伝えられた。

 佐藤信淵は山師のノウハウを全国からあつめた『土性論』『国土経済論』を書いている。

▼東京都ed.『都市紀要 三 銀座煉瓦街の建設』S30
 M5-2の大火をきっかけに、政府首脳は東京を 江戸的なものから 洋風に改造せんとした。ロンドン、パリが目標だった。
 銀座煉瓦街は、市区改正(都市計画、都市再開発)の嚆矢となった。

 その後、全面的な市区改正を何度か上程するも、敗戦までな~~んにもできず。

 幕末に大儲けした材木商は、江戸にはいないという。

 八代吉宗の頃をピークに防火空き地や防火土手が築かれたが、住民が空き地を利用させろという請願に抗しきれず、常に元の木阿弥となり、幕末に至る。

 吉宗の施策としては、武家旗本屋敷の瓦屋根化。町方における土蔵塗家造りの奨励。
 M5-2-26大火で銀座から築地まで焼いた。
 5000戸近くが消えてなくなった。焼死者8人、うち1人が消防人足。
 火災後、さらに消防人足2人が死亡。

 外人から文句が出た。銀座付近の公道があまりに混雑し、死人も出ている。
 牛車、大八、大七、大六、小車(地車と中車)、馬車が入り乱れていた。
 これを舗装するのは、条約改正の大目標にも合致した。 

 日本で都市の不燃化を早く説いたのは、本田利明。北地経営論で有名な学者だが、寛政年間に『経済秘策』を書いている。いわく、永久不朽の石家造りにして、万民を安堵させなければ、王城の地にはふさわしくない。
 「欧羅巴洲」の都会の地は、貴賎万民、みな石家造りの住居である。もし火事が発生しても隣家には延焼しないのだ。
 いま、備前の大小の橋は、皆、石橋である。これを幕府が賞美すれば、全国に普及し、石家も構築できるようになるはずだ、と。

 M1とM3に、土蔵造り、塗家などの家作を町方に奨励。
 由利公正が外国都市の道幅を問い合わせた。NYCは24間、ロンドンは25間、ワシントンは24間だという。
 そこで銀座大通りを25間巾に決めた。
 反対意見は強く、あやうく12間にされそうになったが、押し返して15間にしたのである。

 すでに竹橋の近衛兵舎は煉瓦であった。
 外見のみ洋風だった築地ホテル館の焼失が、人々の目をさまさせた。外見だけ似せてもダメなんだと。

 しかしM6-12に、はやくも、東京総レンガ/石化計画は、頓挫した。

▼出牛政雄『土蔵』S53
 左官は火災時には非常線をパスできた。目塗りにかけつけるため。
 足場を結ぶ藁縄は、土蔵のような長期工事では、何回も結び替えた。
 古舞材は、竹に限る。

 戦時中は、黒縞の迷彩もした。
 全面、ナマコ壁の蔵もある。

 土蔵は火熱に耐えるべく、屋根のはりだしが無いから、風雨には却って弱い。
 そのために、雨水のあたりが激しい部分をナマコ壁にするわけ。
 これは瓦を垂直面の外皮に張った構造。

 扉は、少し軸を狂わせてある。そうすれば、プラプラすることがないからだ。
 江戸では寺院と劇場も土蔵造りであった。


スギャーやつ が あらわれた……。

 Riley Black 記者による2020-9-15記事「Why Birds Survived, and Dinosaurs Went Extinct, After an Asteroid Hit Earth」。
    1億5000万年前のジュラ紀、恐竜の仲間として始祖鳥が登場した。
 今日からふりかえると恐竜は大きく二つに分けることができた。鳥類という、トリ型恐竜がおり、他のすべての恐竜は、非トリ型恐竜だった。

 このふたつのグループの運命が、6600万年前の地球的カタストロフを境に、分かれた。

 直径6マイル以上の隕石が今のユカタン半島付近に激突した。クチバシのある恐竜であった鳥類はそのインパクトを凌いで繁栄できた。かたや、クチバシを持たぬ、非トリ型の恐竜は、ことごとく死に絶えた。

 ※注意。「翼竜」は後者に分類されるらしい。絵ではクチバシがあるようにしか見えないのだが、そこに歯がついている場合は英語で「beak」とは呼ばぬようである。

 白亜紀の終わりに存在した種のうち75%は、次の古第三紀には存在していなかった。
 始祖鳥の化石は19世紀の自然学者を困惑させた。歯がついていたから。

 全体が巨大な鳥のように見えるけれどもそこに歯もあった恐竜たちは、始祖鳥いらい進化し多様化し、数千万年も栄えていた。他の恐竜とともに。

 その中に、ひとつの分派が……。歯のないクチバシを備えた、真の鳥類だ。
 歯は、あれば有益のように思えるが、それをわざわざなくしてしまった理由とは、何だったのだろうか?

 以前の仮説は、歯はトリにとって重量負担増になるから、なくされたのだ――と考えようとしていた。
 ※歯で咀嚼するためには頭蓋骨の周りに筋肉をつけねばならず、それも不利である――と。

 しかし歯を有した翼竜の筋骨を分析すると、どうして、彼らは強力な飛翔者であった。
 となると、食い物が問題なのか?

 やがて古生物学者は糸口を見出した。草食性を強めるにしたがって、トリ似恐竜は、歯が無用化し、歯なしのBeakを発達させたようだ――と。

 歯がなくても摂食しやすい、小型の果実類に集中できるなら、歯を退化させてもよかったのだろう――と。
 ※今のトリは、《草の茎を引きちぎる》という作業が最も苦手なのは事実。春先に巣材として使える可能性があっても、最初から適宜に寸断がされていない草や弦とか小枝(殊にヤナギ類)の引きちぎりは、中型鳥であっても、諦めている。

 歯があった鳥似恐竜を、エナンティオルニス類という。このグループは、ひとつのこらず絶滅した。

 この記者による解説。歯なしBeakを有する鳥類は、死滅した森林の林床に堆積残留していた木の実類を捜索しついばむことで、《隕石の冬》を生き延び続け、森林が復活するまでもちこたえられたのだと。

 ※そこで兵頭仮説。隕石インパクト直後の地球上の植物の茎はすべて有毒・有害であった。木の実、草の実だけが、その毒からフリーであった。歯あり鳥似恐竜は、つい、植物の茎をむしり取って食べてしまうので、毒が体内に蓄積された。また、発芽や幼生の茎を食べられてしまう森林も、植生復活ができなかった。歯なしビーク鳥類だけが、植生復活を邪魔せず、植生と協調しつつ生き延びることが可能だったのだ。

 ビークだけではトリ類のサバイバルに十分ではなかった。強力な「砂嚢」が発達したことも、鳥類を助けた。ビークによってタネを丸呑みし、砂嚢によってそれを粉砕して消化できることが有利だった。

 白亜紀末にすでに、今のアヒル、オウム、ニワトリの祖先は存在した。彼らが生き残った。
 隕石の冬の時代、多くの鳥類は、脳のサイズを維持しつつ、全身のサイズを縮小させた。
 他の恐竜と比較して、それら鳥類は、頭の良い生き物に進化した。

 次。
 Jana Puglierin, Jose Ignacio Torreblanca, George Tzogopoulos, Tara Varma, Arturo Varvelli 記者による2020-9-16記事「Views from the capitals: Gas conflict in the eastern Mediterranean」。
    キプロス島の近くでガス田が発見されたので、ギリシャとトルコがまた緊張している。リビアも黙っていない。

 6月、トルコの軍艦が、フランス海軍のフリゲート艦に照準レーダーを合わせた。フランスは一時、NATO演習から抜けることにした。
 フランスは、ギリシャ、キプロス、イタリアを糾合して、トルコの侵奪的な資源支配政策に対抗させようと考えているところ。

 ※中共は黄海上の重量物運搬船から宇宙ロケットを発射し始めた。この意味は深い。重量物運搬船はみずから半没してまた浮上するという操作が自在。だから、SSBNのキャニスターが機能するかどうかの実験もたやすいのだ。じっさい、宇宙ロケットはコールド・ラーンチされていたから、SLBMと変わりがない。これで、アメリカに対して、射程1万km級のSLBMを持っているぞと暗に主張できる。いずれはホンモノの巨浪の最新バージョンを、米海軍の潜水艦が入り込み難い渤海から模擬発射実験することもできよう。それを搭載するじっさいのSSBNは海南島に配備するしかないが、実験だけは、渤海でするのが安心だ。浅すぎる黄海のデメリットを、メリットに転換できる可能性を、彼らは発見した。

 次。
  CHAD GARLAND 記者による2020-9-16記事「‘Marines make excellent soldiers’: Over half a Marine tank company just joined the Army National Guard」。
    徐々に廃止されることになった米海兵隊の戦車部隊。彼らは失業するのか?
 そうではない。なんと陸軍の兵隊として再出発するのだ。身分が変わり、陸軍の州兵に所属替えとなるのである。

 先陣を切ったのは、海兵隊の第四戦車大隊の「C中隊」に属していた予備役たち39人。このたび、アイダホ州兵陸軍に登録された。
 なお、C中隊は先月、解隊された。

 アイダホ州兵陸軍の第116旅団戦闘団は、改修されたM1A2を装備している。

 最終的には800両以上の海兵隊のM1戦車とその関係隊員が、身の振り方を考えねばならない。これから10年で。



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー

旧資料備忘摘録 2020-9-16 Up

▼大森清次郎『実行容易 南洋全信者百話』大3-11
 雨滴が大きい。
 マレー人は、カップに口をつけず、かならず滝呑みをやる。それで、雫一たらしも溢さぬ。

 白人にもふつうにドロボーがいる。仏人はおとなしい。ドイツ人は最もふてぶてしい。
 土人は酒気ある人に時々暴行を加える。

 雨の降る中、外出すれば、かならず病気になる。
 豚肉を食うことから華僑は排斥されている。ただしマレー人は調味料としてラードを使うのだ(p.140)。

▼権藤林蔵『奇聞珍談 南洋土人の話』大4-9
 マレー人が口にする肉は、魚か羊のみ。
 豚肉は「バビ」と呼んで避けている。※イスラム教徒なので。

 寝るときに、カラッパ油を塗る。香気が強く、蚊が来ない。
 右手に水入れを持ち、そこからカラッパ油を左腕にたらし、それで肛門を洗浄する。

 山人は獰猛。非山人は不正直である。アチン州。
 土人の美女はバンドンにいる。

 ジャワの「竹夫人」を英人がダッチワイフと名づけた(pp.133-4)。
 交趾支那の仏人は、兵士あがりが多く、高等官を除いて、ひどく堕落していて、日本の醜業婦や支那女を妾とし、家庭もどきを営んでいる。こんなところにやってくる仏人女はいないのだ。

 大陸浪人と違い、日本人の南洋浪人は、ド腐れ中のド腐ればかりである(p.164)。

▼吉富重夫『行政機構改革論』S16-3
 現行政府は、国務大臣と行政長官(行政大臣)を同じ人間にやらせている。
 これは分離した方がいい、という考えから、近衛内閣時代(S12-10-15)に「臨時内閣参議」というものを設けた。

 S9に斉藤実内閣が、5相会議(総理、陸海、蔵、外)を創始。
 広田内閣は、閣議中心主義。
 S11-4に、陸・海、外の三相会議。
 近衛内閣は、五相と3相を両立させた。

 要するにこの5人以外は「事務大臣」にしてしまえばいいと考えた。
 阿部内閣は、兼摂大臣を多くすることで、少数閣僚制を実現しようとしたが、失敗。

 理想は、中核の国務大臣を全員「無任所大臣」にしてしまうことだ。
 S14の国家総動員法にあわせて、数省の権限に関する事項はなるべく内閣三長官に一任することに。

 四相会議のころ(S12頃)、「経済参謀本部」を置こうとした。
 ○○会議 は、制定法でなく慣習法でいける。要は、長く続けたらよいのである。

 岡田内閣……内閣調査室
 広田内閣……総務庁案
 林内閣……企画庁
 近衛内閣……企画院(内閣ブレントラスト)
 いずれも目指したのは同じ、役人統制天国。

 S11には外務と拓務をあわせて「外政省」にしようとした。
 農林と商工はあわせて「産業省」に。
 鉄道と逓信は、内務省のうちの土木局ともあわせて「交通省」に。

 委員は十名以上いたらダメ。協力共働などできぬ。
 太政官制では、各省は太政官に隷属する分官だったから、いちいち太政官の指令や許可が必要だった。宮内省ですら然り。
 さらに、タテマエだと大臣や納言がボスのはずだが、実権は参議にある。

 三条が太政大臣。岩倉は右大臣。島津久光が左大臣。大久保、木戸、大隈、伊藤はその下。

 太政官は太政大臣を長官とする独任機関。太政大臣ひとりが天皇に直隷し、各大臣を指揮命令できる。
 内閣は合議機関。
 国務大臣は、大臣および参議。
 行政長官は各省卿――と、分けていた。外務のみ、その例外としていた。

 これがM18-12に、内閣制に変わったわけ。
 それ以前は、国務に関して輔弼する内閣と、行政や省務をすすめる内閣が、分けられていた。議会との交渉は国務大臣だけがあたった。
 行政は、国務よりもテクニカルだから、そのボスは短期間ですげかえてよい。

 参議が省卿を兼ねると、縄張り意識が生じて、もはや他省のことに口出しすることは憚るようになる。

 M18以降、各国務大臣は、直接上奏可能になった。しかし慣例として、総理を経由していた。
 primus inter pares

 外務省の外交は、政治家がやり、官吏は通商のことだけをやれ。あとは文化事業。
 大蔵省の主計局管掌事務は内閣へ移せ。

 この時点でも行政統制は「大蔵省統制」でやっている。
 こんな巨大な統制を一省にやらしておいて、良いわけがない。

▼増田福太郎『原始刑法の探求』S19-3
 台湾の高砂族の研究である。

 じぶんの正しさは、人(主に漢人)の首をとってくることで証明する。
 とれなくば、崖から飛び降りて自死す。

 しゃぼんを使わない水の泡を吹き飛ばして、犯人の家をあてる「水占い」がある。
 殺人者も、山に蟄居して、弓を用いずに素手で小鳥を捉えたら、家に帰ってよい。

 鹿の声音に巧み。そのおかげで仲間の鉄砲に誤射されることもある。
 主食は粟。山ではイモ。他に、肉。

 犬は殺してはならない。猫はよい。
 犬(asso)殺しは人殺しに準ずる重罪。

 アミ族の神話。洪水が起き、兄妹神が、山に流れ着いた。相姦すると、ミミズや亀ばかり生れた。そこで神に祈ると、普通の人間を生めるようになった。※古事記のオリジンが南洋にあるのは、自明。

 パイワン族の竹槍は身長の2倍強ある。台湾南部。
 アタヤル、ブヌン族は、ボルネオ系マレー人。東海岸の北部。
 ヤミ、アミ族はフィリピン系である。位置は台湾南東部。
 ツオウ族は、インドシナ系らしい。中央部。
 サイシャット(北部)とパイワン族(南部)は不明。

 インド文化もイスラム文化も被らなかったところが貴重。それだけ原始的。

 一例の違反もないならば、それは「タブー」と意識されることもない。
 仇を Paris と称するのはアタヤル族のみ。

▼松下正寿『米国の戦争権論』S15-9
 米国法制は基本的に英国と同じ。
 大陸系と違って、行政行為の責任は国家にはない。個人=担当官吏にある。

 それは、合法的だったならよし。非合法だったなら、個人で責を負わねばならない。
 上官命令だったとしても、免責され得ないのである。

 ただひとり、大統領は「応訴義務」は免除されていると考えられる。
 これは英法の King can do no wrong の、大統領への適用だ。

 1928パリ不戦条約は、門戸開放をタテに戦争に訴えることを禁じたと解釈される。

 宣戦権と戦争遂行権は、分けられた。
 外交、媾和、条約は、大統領と上院。
 宣戦をする「議会」とは上下両院のことである。

 議会の民軍〔ミリシャ〕召集権は、「合衆国の法規を執行」「反乱を鎮圧」「侵略を撃退する」ためにのみ可。

 しかし民軍加入者は大元帥〔コマンダーインチーフ〕の命に従う宣誓をしているので、欧州派遣が可能になる。

 大統領は国内に軍政(戒厳)を敷くことも可能。しかしその間の民法/刑法違反は、戒厳解除後に裁判所で裁かれる。罰をくらうのは戒厳司令官。

 英で兵権が王から議会に移ったのは1806とされる。
 仏では1791に国務大臣に渡っていた。
 米は1787の憲法会議だから最も早い。

 WWIで英仏は戦争開始とともに反対党といっしょに挙国一致内閣をつくった。
 首相一人だけすげかえることもできる。
 米国にはこの長所はない。それどころか大戦争のさなかでも、4年ごとに大統領選挙をせにゃならん。

 南北戦争はリンカンの当選が契機で始まっている。
 しかも次の選挙では、リンカン、その部下マクレラン(民主)、同じくグラント(共和)が争わんとした。実際はリンカンvs.マクレランとなる。

 米が1917にWWIに参戦したのは、1912就任のウィルソン大統領がこの前例を気にして、1916に再選が確定されるまで待った結果と言われている。つまり戦争中の大統領選挙はよくないと考えたのだ。

▼村上秀二『共栄圏の水』S19-9
 満州人を温浴させると たちまち凍傷を患う。
 マイナス30度では手の露出4分で、危険。

 鯉は、カチコチになっても 水中に投ずると生き返る。
 満州では十月の松花江のみが清流。
 満州で○○泉 とあれば、酒用にできる良水の涌くところ。または、温泉があるところ。

 田毎の月とか万田の月というのは、段差があるから。高低差のない平地の水田地帯だったら、月は1個しか反射して見えないのである。

▼永井潜『人性論』大6
 著者は自然人類学者か。
 馬やノロシカの骨で銛をつくると、しばしば、七支刀のような外見の骨角器となる。
 ※というか、骨角器を拡大して金属製にしたのが七支刀なのだろう。

▼高橋健自『鏡と剣と玉』M44-7
 上古の手鏡は白銅鏡。ヤタカガミも。
 後世は、青銅鏡。
 稀な例外として、鉄製や銀製がある。

 中央部のヘソのようなところは紐座という。紐を通す横穴が通っている。
 八咫の神鏡は径1尺内外と察し奉るべし。
 周尺の8寸は今の日本の4寸強。
 厚さが何段も違う同心円からできた鏡。

 平田の時代、すでに水銀をすりつけた、光る鏡があった。これは青銅鏡時代からあるテクニックで、鏡面にアマルガムができる。

 カヌチは「かねうち」。
 マガタマは、もと動物の爪牙に孔を穿ったものというのは、既に斯界の定説である(p.190)。

▼日本工業新聞社『日本若し戦はゞ工業界はどう動く』S7-12
 WWIで米ウエスチングハウスの輸出した機械の半分は日本が買った。特に高田商会。

 真っ先に値段が上がったのは、工業薬品。染料。火薬用ではなく、衣服用。おもわく投機。
 次に船。
 それにつられて鉄が上がる。開戦から半年後。

 船賃は、開戦の1年後から上がる。
 銅は各国で備蓄されていたので、値上がりしなかった。
 亜鉛が上がった。薬莢製造に必要だった。

 亜鉛鉱山(支那の水口山)をめぐり、三井・古河・藤田連合と、大倉・久原連合がシノギを削っている。
 石炭はジリ高。

 「日本兵器会社」は、東京工廠の元小銃製造所長・小林【金申】八郎(砲兵大佐)が指導して小銃を試作、また陸軍のための軍用自動車を試作した。

 WWIでロシアに野砲用信管を売った。
 ロシア信管の特徴は、アルミを多用していること。
 媾和後は、紡績機に転換した。

 日本の軍服は羊毛。戦時には絹で代用するつもり。綿入れとする。
 すでにその試作あり。3尺離れるとピストル弾を止められるという。

 カーキは染料で染めるのではなく、薬品で化学処理する。

 日清戦争のとき、カンヅメの中に石ころをつめたのがあったと聞く(p.144)。

▼『南方へ挺身する人々へ』S19-6
 熱帯生活必携。
 南洋ではアブラが不可欠。調理は油炒めなので。
 内地でこれの参考にできるのは、鹿児島と沖縄料理。

 南方では豚もトロも脂は抜けている。
 そこでパーム油で補う。

 パラオ住民の銛の投擲、神業である。
 家は床下を高く、石壁を厚くする。窓は大きくする。
 床は、竹を2つに割ったやつを すのこ式に張り、下からも通気せしめる。
 屋根は高いほどよい。

 高い棟から先 軒への傾斜を急にする。
 広いベランダを接続させることによって、屋内に陽を入れぬようにする。

 部屋割りは、中央に1本、縦通の廊下を貫通させて、その両側に部屋を並べる。この廊下なしの間取りにするとダメ。
 暑いと夜の眠りが浅くなる。だから昼寝の必要がある。
 水浴は、しばしばせよ。

 土人は軍帽、勲章をよろこぶ。
 ニューギニアではなぜかコメは作れない。


インド移民がじつはロシア政府のスパイだったというノルウェーでの事例。これから増えるだろう。

 The Economist の記者による2020-9-12記事「Tanks have rarely been more vulnerable」。
   シンクタンクのIISSによれば、全欧に戦車は5000両以上あり、全世界では5万4000両あるという。
 ことし2月、トルコ国産の固定翼ドローンがシリアにおいて、わずか2日のあいだに数十両のロシア製戦車を空対地ミサイルを放って撃破してしまった事件が、斯界に重く受け止められた。

 3月に米海兵隊は、対支作戦を睨んで、戦車を廃止する方向を打ち出した。それに続いてこんどは英陸軍が、戦車を捨てると言い出している。

 じつは先進国軍として最も早く戦車を見限ったのはオランダ軍で、今から10年も前だった。しかし現在オランダは、ドイツから戦車18両をリースで借りている。

 全周から飛来する対戦車ミサイルを戦車の側から迎撃して叩き落そうというシステムもあるが、コスパの面で歩が悪い。イスラエルの「トロフィー」システムは、連続2回この迎撃機能を発動するとタマ切れになる。3発目のATGMが飛来したら、アウトなのだ。

 ※陸自にまだ「対戦車隊」があるのかどうか知らないが、対戦車隊こそがまず「攻撃型ドローン」を装備して運用するべきだ。それがとても有効であることは実証されているのだから。先年、米国の演習場に遠征して、偽装などまったく役に立たないことを確認した7師団も、もう戦車の時代じゃなくなったことに同意するんじゃないかな。しかし一足飛びに、トルコ軍レベルの能力は持てまいと思われるので、まずテーザー式・マルチコプター型のドローンを、長距離対舟艇ミサイルのセンサー・プラットフォームとして導入するところから、始めるといいのでは……?

 次。
 Andrew Knighton 記者による2017-6-21記事「The First Tank Attack: The Battle Of The Somme」。
     第一次世界大戦における戦車のデビュー戦は、1916-9-13のソンムであった。
 英国が発明した菱形戦車は、重心が低いのはよいのだが、全体が28トンもあったのに、エンジンはたったの105馬力。不整地では時速1.5マイルしか出せないのだった。燃費は、その1.5マイルを進むために、ガソリン1ガロンを燃やす必要があった。

 耐弾装甲もまだ研究が未熟で、機関銃で撃たれると、鋼鈑の内側表面が剥離し、銃弾から受け取った運動エネルギーをもらって車内を跳ね回った。

 最初の戦車兵たちは、革のヘルメットとゴーグル、そして鎖編みの垂れ布で首から上を保護していた。

 敵歩兵による手榴弾攻撃を用心して、最初の菱形戦車の天板部には、六角メッシュの金網が張ってあった。しかしすぐに、それは無用であるとわかる。

 ステアリングは、片側の履帯にブレーキをかけることによっていた。そのため、両サイドに1人づつ、ブレーキ係を置き、それを車長が統制した。

 直協する砲兵射撃は、戦車の前進予定コース上には、終始、1発の砲弾も落とさぬように気をつけた。というのは、砲弾がほじくりかえした湿った地面は、真の底なし沼のような状態となり、無限軌道であってもスタックするであろうことは、常識的に予見できたのだ。

 ソンムでは、英第41師団は、7両の菱形戦車に続行して攻撃前進を開始したが、あまりに面白くなってしまい、味方の戦車を超越して、先にドイツ軍の塹壕線まで達してしまったという。

 次。
  Chris Baraniuk 記者による2020-9-14記事「Did a Solar Ejection Hinder the Titanic?」。
       1500人が溺死した『タイタニック』号遭難事故は1912-4に起きた。
 このときじつは太陽嵐が吹いていて、北大西洋のある場所ではオーロラが目視できたという。
 その影響で、船舶のコンパスはわずかに狂わされており、無線は通じなくなっていた。しかしクルーはそれを認知できなかった。それが事故を避けがたくしたのではないかとの仮説が『ウェザー』誌に寄稿された。

 付近を航海していた『カルパチア』号は、SOS無線を聴き、漂流者705人を救出できている。
 だが『ラ・プロヴァンス』号は、この救助信号を受信できていない。他の船舶無線は受信できていたのに。
 かたや『モンタンプル』号は、『タイタニック』からのSOSを受信して返信した。しかし『タイタニック』号の側では、『モンタンプル』からのその返信を受信し得ていない。

 『タイタニック』号事件研究の第一人者を自負するティム・マーティンは、この新仮説にはご不満のようだ。事実、タイタニックの沈没地点は、まさしく、タイタニックの計画針路上である。コースは狂ってなどいかった。

 すくなくも生存者のうち3名は、オーロラを見たと言っている。

 ちなみに、記録されている過去最大級の太陽磁気嵐は1859年。キューバでもオーロラが見えた。当時の有線電信機材からは火花が飛んだという。「キャリントン・イベント」と呼ばれる。こんな磁気嵐が今、やってきたなら、現代世界はたいへんな混乱に見舞われるだろうことは間違いない。

 次。
 Diane Peters 記者による2020-9-15記事「The Scramble to Defuse the ‘Feral Swine Bomb’」。
     フェラル豚とは、家畜だったのが脱走し、すっかり野生化しハイブリッド化が進んだ、たくましすぎる豚たちのことで、特に北米大陸では、この野ブタが おびただしい数に増えている。

 フェラルスワインは自然に身を隠すのが巧みで、簡単にハントできない。
 大群で行動しており、もし1頭がライフルの銃弾を受ければ、音声の警告が伝えられて、他のブタは皆逃げ散る。嗅覚はおそろしく鋭敏で、智能も高いゆえに、とてもハンターが一網打尽になどできない。

 合衆国内だけでも900万頭もいるのではないかと試算されている。生息域は30年前は17州だったが、いまは38州にまたがる。
 カナダ領については統計がないものの、すでに広範に棲息しており、さらに拡散し北上するのは時間の問題にすぎないという。

 豚は多産だ。飼育状態では牝ブタは年中妊娠し、年に10匹以上の仔豚を産む。順調なら、倍倍ゲームで増えていく。米農務省の担当者はこの問題を「フェラルスワイン爆発」と表現する。

 これら21世紀型の北米野ブタには、古代の欧州のワイルドボア=大型野猪の遺伝子も、もともと入っている。それが自然界でどんどんミックスされ、今や「スーパー野ブタ」が爆誕しつつあるのだ。

 家畜のブタのサイズは、農家が肥育を制御しているからアレで収まっているわけで、野生ブタにはそんなリミットはない。古代のワイルドボアのように信じられないほどに巨大化することは可能だ。厳しい冬を乗り切るためには、巨体の方が有利。フェラル豚は、このコースを辿るだろう。

 この豚軍団、農家の畑を荒らし、仔牛や仔羊を襲って喰らい、さらには妊娠中の母牛や母羊すらも襲撃するという。野生生物や自然生態には当然、インパクトを与えている。
 アフリカ豚熱が北米に急に広まったのも、野生豚が媒介したのではないかと疑われている。

 ※巨人や火星人が人間を襲って食べてしまうといったSF設定よりも、新世代の巨大豚の大軍が人類と敵対し地球を支配しようとする可能性の方が高いのか? 雑食だしな……。

 テキサス州には野ブタが150万頭。これを駆除するため州政府は毎年400万ドルも支出している。だが、頭数が減っていない。
 1匹の野豚の平均行動域は、30平方マイルである。
 ハンターの圧力が加わると、彼らは夜行化して対抗する。

 フロリダ州、ジョージア州、カリフォルニア州も多い。
 モンタナ州にはまだフェラル豚が侵略できていない。州政府は、州民への啓蒙活動を通じて水際撃退の体制を準備している。
 2013年にモンタナ州のハンターがテキサスからフェラル豚をわざわざもちこんで、野生ゲームとして増やそうとした。州政府はこれをすべて殺処分せしめ、2015年に、フェラル豚猟を違法化し、州内でフェラル豚を所有したり移動させた者には最大1万ドルの罰金を課せるようにした。



日韓戦争を自衛隊はどう戦うか

旧資料備忘摘録 2020-9-15 Up

▼防研史料 〔マル39/256〕陸軍築城本部『南方視察に基づく築城の参考』S19-6
 同じ自動車ではない。日本軍と米軍とでは車両装備の性能が違うのだ。だから、陣地の翼を依托する地形を見るときに、我には超ゆべからざる障碍と見えても、敵にとっては安易なる通路でしかない〔=簡単に翼側から迂回してこっちの背後に出てしまえる〕場合があるから、そういう装備の性能差を、正当に判断するを要す。

 現地の物料、木材の見方。
 樹液が多く、幹が白いものは、脆弱な材木である。
 板根を有する、幹が赤いものは、強度が大である。しかし、フィリピンによくある、チーク、マホガニーなどの高級南洋材は、とうてい、内地の斧やノコギリで切れるもんじゃない。
 赤ラワンは、ミンダナオ島やネグロス島に多く、釘持ちが良好だ。
 白ラワンは、いたるところに生えている。
 ニューギニアには、竹はあるものの、虫害を受けている。
 タコノキの葉で「網」をつくることができる。

 珊瑚礁は、コンクリートの骨材になる。だがこれも、最初から粒状に砕けていないものは、十字鍬では崩せないから、爆薬を使うしかない。というわけで、爆薬の補給がとても大事。
 海水でコンクリートを混和してもかまわない。ただし、無筋なら。

 現地に派遣されたら、すぐに調べるべきことは、ジャングル内での音の届き方。夜の海岸での舟の見え方。
 密林では、小銃の音は1km届く。
 作業音は夜は800mまで聞こえる。
 私語は、夜は400mまで、昼は220mまで聞こえる。
 足音は、ニューギニアでは250m聞こえたことがある。
 大発などの発動艇の音は、海岸にて800m先から聞こえる夜もあり、20mということもある。

 まずニセ陣地をこしらえてから、真陣地の工事にかかれ。作業途中で発見された時に、敵の砲爆撃はすべて、ニセ陣地で吸収してくれる。

 旧来はこう教えていた。分隊は、50m以上の正面に散らすな。小隊は200m、中隊は500m、大隊で2000m巾だぞと。
 しかし、最近の戦例でわかった。米兵は、ジャングル内にこっちの守備兵が健在であると承知すれば、もうそれだけで、前進してはこないのだ。つまり、こっちの火力密度が濃いか薄いかなど、持久防禦の目的達成の見地からは、関係がないのである。
 だとするなら、こちらが一兵でも多く生存し続けることが大事だ。それには、もっと守備の配置を散開させるのが有利だ。密集していると、敵の大威力の火砲や爆撃のために、いたずらに殺傷されてしまうので。
 指揮官が掌握ができる限りにおいて、極度に疎開せよ。

 火力装備に劣るわれらとしては、狙撃とか、急襲射撃を工夫するしかない。

 ノモンハンでは、敵はまず囮の戦車を先行させた。それによって日本軍の対戦車火力の位置を暴露させて、それを撲滅するようにしていた。

 キスカとラバウルでは、わが高射砲は、空襲がおわるごとに陣地を変更したので、生き残ることができた。

 地下化のコツは、横穴を掘ることのできる土地を選ぶことだ。垂直方向に穴を掘っても、水で苦しむのみ。
 大型爆弾を落とされてもぜったいに安全なのは、尋常土で30mの厚さ。岩盤なら10mの厚さ。それを確保するには、山の中腹に横穴トンネルを掘るしかない。

 アッツでは、ここからは這い上がってなど来られまいと考えていた断崖から、敵の戦車×15両が現れた。
 タラワでは、越えられないはずの環礁を履帯で乗り越えて、水陸両用車が礁湖内に楽々と侵入し、桟橋から上陸してきた。

 椰子樹は内部が脆弱で、表皮からは虫に食われる。椰子(ココヤシ)は、乾いたら効力ゼロ。そして、乾湿を交互に経ると、3箇月でボロボロに。数日の用にしか足りぬものと知れ。
 土民からも恨まれるし、対空遮蔽もなくなってしまうから、伐採はするな。※椰子は、住民が植えて育てていた場合が多かった。

 ひとつのMG壕で全周を火制させようなどと考えるな。
 射界をごく狭く限った、小さな掩蓋壕を多数をこしらえておいて、それを電光形の交通壕で結ぶこと。

 敵が来る方に向いた銃眼は、発見されれば、平射砲〔じっさいには、戦車砲〕でやられてしまう。だから、敵方に対する掩蓋陣地などは最初から工事しないという選択がある。露天立射壕を偽装で覆っただけの方がいいことがある。

 馬用の掩壕は、1頭づつ、首の高さまで掘る。水源と交通しやすいように位置は考慮すること。
 樹高40mが得られるならば、指揮官は、是非にものぼって視察をせよ。

 南方では、木材は数ヶ月で腐る。立ち木は永久にもつから、鉄条網は立ち木を利用すること。生籬。

 通信は有線だのみ。しかし架空してはダメ。砲撃ですぐ切られるから。地中30センチに埋めて通すしかない。そのさい、ピンと張らないこと。

 敵の航空爆弾の破片の威力は大きく、大砲の腔内すらも傷をつけられてしまう。37ミリ砲の砲身内をやられた例あり。

 ガス防護用の晒粉は、湿気に弱い。
 活性炭は、椰子の実の殻から、簡単につくれる。【火へんに慮】過函を、自製できる。ただし効力は数時間しかもたない。

 いちばん良い偽装は、植樹である。それもタピオカや芋である。
 守備隊の食糧ともなるゆえ、一挙両得。

▼防研史料 長谷川治良『陸軍火薬史年表』S43-9
 大8-11、平壌に朝鮮兵器製造所を新設する。
 「東京工廠」は、十条の「精器製造所」(S11-8)のことになる。

 S15-12、仁川造兵廠を新設。
 S19、小倉造兵廠に春日製造所を新設。

 硝宇薬と安瓦薬は、S12から生産。
 平寧薬はS14から。
 塩斗薬はS4から。
 茶褐薬は、震災前から。
 茗亜薬と硝安薬はS6から。
 硝斗薬はS19から。

 大12-4~12-8の間、南部麒次郎中将が初代の火工廠長。そのまえは、東京砲兵工廠の提理〔=所長〕であった。

 M4から日清戦争までが、黒色火薬時代。
 2号火薬というのは、小銃用の黒色火薬。

 M14、海軍がドイツから褐色火薬(大砲用の有煙薬)の製造権を購入し、目黒火薬製造所で生産。
 日清戦争後に、無煙火薬と高級爆薬〔黄色薬のこと〕が出現。

 M32、陸軍において無煙小銃薬製造法が制定される。※まともな装薬が量産できなかったのでは、22年式連発銃が不振におわったのも無理はない。

 満州事変後、ニトロセルローズ薬より活力大なるニトログリセリン薬が採用される。
 日清役まで、爆速が音速以上の軍用爆薬は、日本軍にはなかった。

 日清役後に、黄色薬が導入される。しかし腔発が多かったので、ヂニトロナフタリンを混ぜ(鈍化させて)、黄那薬と称した。

 茶褐は前からあったが、伝爆に茗亜薬を必要とした。その実用化が大7。
 WWI後、資源豊富な混合爆薬、硝酸アンモニア〔ママ〕=硝宇、過塩素酸アンモニア〔ママ〕=硝斗 などが、代用爆薬になる。
 トーチカ破壊用の爆薬として、S10に、硝宇と硝英が制式に。→安瓦薬。
 別に、淡黄薬、灰色薬を制定。

 M17に、第二火薬製造法取調委員が3人選ばれた。有坂成章大尉が含まれていた。小銃薬、山砲薬、野砲薬を研究。
 M20-1、小銃薬、山砲薬、野砲薬の製造法を制定。

 M20-7、はじめて綿火薬を採用(輸入品)。工兵用として。
 M20-9、砲兵会議は綿火薬を弾丸炸薬に採用。
 M24-3、島川文八郎大尉、ベルギーで無煙火薬の製造法を研究す。

 M31、野戦榴弾の炸薬として黄色薬を研究。
 M32、工兵の爆破薬を黄色薬とする。
 M33-8、炸薬として黄色薬を制式採用。
 M36、黄色薬を被包内に溶填する方法により各種弾丸に使用開始。

 大15-10、無煙拳銃薬の規格を追加する。

 S6、あお、しろ、みどり、きい、あか を制定。
 みどり1号は臭化ベンジル催涙剤。
 みどり2号は塩化アセトフェノン催涙剤。
 あを ……ホスゲン。
 しろ ……発煙。
 きい ……イペリット。
 あか ……くしゃみ。

 S9、口径20ミリ以下の機関砲に米国式の管状薬を採用する。
 S10、硝英、硝宇を採用。

 S12、ちゃ(青酸) 制定。
 S13-1、硝英、灰色薬を制定。
 S18-1、英宇薬(硝宇50+硝英50)を制定。

 92式13ミリと98式20ミリには、五番と七番の管状薬が使用された。管状薬は、38式歩兵銃の弾薬と同じものである。ニトロセルロース(C薬)。
 淡黄薬とは、茶褐38、硝宇55、茗亜7の混合。タ弾はこれ。
 手榴弾には、塩斗薬が使われた〔末期?〕。塩素酸カリ80、ヒマシ油4、ヂニトロトリオール16。

 黄那薬は、黄色薬80+ジニトロナフタリン20の混合で、砲弾用。

 消焔性を追求すると、砲口煙が増す。海軍はそれを採ったが、陸軍では不採用とした。
 安瓦薬は、資源豊富、且つ、弾丸に溶填が可能。

 大12、甲剤(ホスゲン)の研究。
 S2、甲号7.7ミリ歩兵銃用火薬の研究。

 M27-6、板橋火薬製造所で、無煙小銃薬を製造。
 大11、7.7ミリ小銃薬の製造を開始。

 初期の黒色火薬の木炭材としては、柳が使われた。他に、楮[こうぞ]、ハンノキ。
 安瓦は、資源豊富、安全、ピクリン酸相当の威力、低温で溶解できるという、四拍子が揃った日本の発明品で、WWIIの砲弾はこれで戦った。

▼防研史料 技本調査班長『S3.9~S5.12 試験予定表綴』
 毘式戦車銃砲射撃試験。S3-9-20~22、於、宮城県 王城寺原。

 S3-10-18~24、水陸両用装甲自動車竣工試験を予定する。10月中旬に竣工する予定なので。試験は、府下および静岡県下。※沼津海岸かと思われる。

 擲弾筒その他 火工品の保存試験。S3-9-26~10-8。

 S3-11-24~12-1、「ビ」式0.5吋高射機関銃〔ママ〕射撃試験。ビ社に注文していたものが到着したので、伊良湖で。

 S3-12。75馬力牽引自動車 および軽牽引車 竣工(改修)試験。
 「急硬セメント」も研究していた。

 S4-1、戦車に7.7ミリと13ミリ鋼心弾を撃ち込む試験。富士裾野にて。数日間をかける。

 ビ式13ミリ高射機関砲を、S4-2にもテストする。
 小銃「眼鏡」の第二回テストを、S4に。

 試製戦車砲の第一回機能試験を、S4-3月下旬に、大阪の大津川にて。

 S4-3、ビッカースに注文した水中聴音機を、神奈川県 浦賀町 走水で、海中試験。

 ビ式0.5インチ高射機関砲のS3-1のテストで、腔中摩滅がはなはだしいことが判明。1000発で横弾が生じ始める。

 S4-4、13ミリ用の試製榴弾と信管をテスト。
 S4-5、「試製自動短銃」〔これは拳銃ではなくSMGのこと〕、「試製狙撃銃」を試験する。富津にて。

 S4、試製57ミリ対戦車砲、試製75ミリ対戦車砲、新様式の3年式機関銃高射用具、戦車用改造3年式機関銃、仝改造11年式軽機関銃。

 S4に作られた円【土へんに寿】形の投下爆弾は「引き抜き鋼管」を利用している。

 S5-1-31~。仏国保社よりあらたに購入した高射機関砲につき、射距離1500m以下の地上射表と、高射射表を編纂するために、伊良湖でテスト。
 2月~。37ミリ機関砲の竣工試験。

 S5-4~。試製20ミリ榴弾用信管の第一回試験。
 57粍戦車砲には「霰弾」もあった。4月~5月にテスト。

 S5-5~。保式13ミリ機関銃〔ママ〕および試製双連高射機関銃 射撃試験。明野で吹流しを射つ。
 ※海軍では「連装」だが、陸軍では「双連」という。

 S5-5~。カーデンロイド・二人用戦車、フィヤット〔ママ〕軽戦車、高射砲牽引6輪自動車 試験。広軌用牽引車 試製完成、試験。4輪と6輪があった。

 S5-5~。台南で戦車耐熱試験。
 赤外線候敵機 試験。千葉の八幡で。

 S5-10~。ベッカー20mm機関砲弾丸用信管の研究。
 S5-10~。三八式歩兵銃銃身短縮度とその精度との比較試験。歩兵の負担量を軽減する見地より、歩兵銃の重量を軽減する目的を以て銃身長の短縮度とその初速ならびに命中精度との関係を調査せんとす。

 S5-10~。11年式軽機関銃に防塵装置をつけるテスト。
 S5-10~。軽装甲車自動車 試験。7糎戦車砲竣工試験。

 S6-2~。空中手榴弾 テスト。下志津の飛行学校。

 S6-2~。7粍7機関銃 富津でテスト。
 八九式実包を使用する7.7粍機関銃を試製せるにより、試験す。

▼防研史料 技本『S4.10~5.3 研究審査現況表』
 3年式MGの7.7ミリ化は大9-7-20に方針を立てたが、現時点で5/10の進捗度。タマが決まらない。
 ※92式HMGはS5には未だできていなかった。

 大15-2-25に、自動短銃(マシンピストル)を自動小銃の予備研究と位置づけていたが、審査は中止した。

 大9-7-20から、塹壕兵器として、棍棒、手斧、短刀、鉛棒を研究していたが、終了した。
 航空機用ビ式13ミリ固定機関銃は、1回テストを済ませた。※そのDATEは不明。

 20ミリ弾は、戦利ベッカー砲(2門以上あった)のために試製した。
 大11-4に研究方針を立てた13ミリMG弾丸、毘式13ミリE弾とD型機関砲の弾丸の試製を終了。

 水陸両用装甲自動車。大14-9 設計着手。大15-9 製作図 略完了。大15-11、東工廠で完成したものをテスト。
 大9-7研究方針。
 「突撃用具」……無線操縦の爆薬車。三トン半牽引車を改造中。

▼防研史料 『借入兵器償却に関する調書 昭和7年度~』
 ※以下、単価が列記されているのだが、単位がない。おそらく最後の数字三桁(000であることが多い)は銭と厘で、下から4桁目よりも上が「円」なのであろうと推定する。

 3年式MG(予備銃身共) 1500円。

 38式歩兵銃 46円50銭。(40円のこともあり。)
 44式騎銃 78円58銭。(66円90銭5厘のこともあり。)
 38式騎銃 44円44銭。(53円2銭のこともあり。)

 11年式LMG 700円。(昭和11年には650円。)

 89式旋回機関銃 3500円。 ※固定式MGと値段が違いすぎるのは、11年式LMGベースだから? 単装である。昭和12年の値。

 89式固定機関銃 左右組 8600円。 ※S9の記録の脇に「名工に移転 12.5.1 工秘88」と括弧付き注記。
 89式固定機関銃 乙 4294円70銭。 ※甲と乙で給弾方向が逆になる。

 91式車載LMG 1394円30銭 (1394円80銭のこともあり。)

 92式重機関銃 1264円 (S13年には1727円70銭だった。)

 14年式拳銃 75円 (起工番号=10 戊 411-3。昭和11年の価格だが、昭和12年も変わらず。)
 14年式拳銃 昭和8年に3梃で225円。

 38式歩兵銃 68円60銭(昭和11年)、52円97銭1厘(昭和12年)、43円60銭(昭和13年)。

 26年式拳銃 昭和8年、3梃で94円80銭。
 この拳銃について、「昭和12年5月5日 小工〔小倉工廠〕秘88にて名工〔名古屋工廠〕に移転」とあり。※決算の担当を移管したということ?

 S10-9-14に東支が、18年式村田歩兵銃(廃品)を1、価格2円40銭のものを代品に変更した、と。
 S10-12に、「乙号擲弾銃」。

▼防研史料 『雑綴』S16-2
 押収6.5ミリ チェッコ軽機関銃×2 という記録。
 ※支那軍が世界中から取り寄せて装備していた各種のチェコ軽機系のLMGの中に、日本軍の6.5ミリ弾薬を使えるものが混じっていたということ。特注品だったのか、それとも中華民国の国産品なのか?

 押収迫撃砲は、7.5cmと8.2cmである。

 89式重擲は、昭和9年から11年のあいだに、総発射弾数21215発に対し6発の腔発があった。
 そして昭和12年以降、支那の前線では腔発が相当にある。当兵団(36D)ではすでに4筒。

 93式小火焔発射機。レンジは無風で28m。放射は1回のみ(ただし断続できる)。全重24kg。箱入りで45kg。
 93式戦車地雷は、140kgの重さが乗らないと爆発しない。炸薬は890グラムの黄色薬。

 「98式銃眼用閉塞具」。上下15~60cm、左右50cm、厚さ2ミリの防弾鋼鈑で、トーチカの銃眼を塞いでしまうもの。全備重量7kg。1.8mの鋼管柄付。

 「98式装薬磁石」。吸着爆雷を即製するための磁石で、装薬は、何をつけてもよい。

 チビ……円筒外径13.0センチ。長さ15センチ。内径10センチ。壜の上下13センチ。
 テナカ瓶……《手投げ火焔瓶》……長さ23センチ、径7センチ。

 支那語でフィアットは【くさかんむりに非】亜特。ヴィッカースは、威克斯。
 支那軍の装甲車(6輪、2銃塔)は、おもに英国製だが、昭和9年に独から50台、イタリアや米国からも少数台を買った。中央軍においては「突撃車」と称している。内製化もすすめている。

 タマに塗蝋したのが、銃身膨張事故の原因か?

▼防研史料 『科学的知識不足に基き兵器取扱上現れし欠陥の実例』S16-10印刷
 チェコのプラガに6.5ミリ版もあることを知らず、兵器廠に後送した馬鹿歩兵部隊。
 ※チェコ軽機を鹵獲し、支那軍の7.92ミリ弾や英軍規格/日本軍規格の7.7ミリ弾を発射しようとしたが機能しないので、何か壊れているのだと思って、味方の修理工場へ送ってしまった。これは日本軍の6.5ミリ弾をそのまま発射できるものなのだから、即戦力の有力な武器となったのに、愚かである――という意味。

 押収柄付手榴弾をカナヅチ代りにして爆死す。S13-8、上海付近で某歩兵。※故郷への戦死公報では、壮烈な戦死を遂げ云々という、中隊長による脚色がされるはず。

 爆竹用の黒色火薬を石炭庫と誤り、点火して爆死す。

 粉末黄色薬を調味料と誤り、煮出し味付けに使用し、2名死亡、4名腹痛。
 黒色火薬を薬と誤りて服用し、即死〔するか?〕。

 室内で空襲現示のため94式水上発煙筒(甲)をつけたら、ガスで兵一名死亡。

 97式軽装甲車は始動しにくかった。94式軽装甲車は楽だった。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 97〕『陸技術調五之部』S16-11
 泰軍兵器概説 ~S17-6。
 ※生写真多数。

 ビッカース7.7粍重機関銃(1909年式)。水冷、高射用三脚、または車両固定用ピントル付き。250発布製保弾帯。500発/分。バレル720ミリ、全長1130ミリ。最大射高3000m、照尺は2900mまで。初速730m/秒。

 あきらかに日本軍のものより大口径な、不思議な重擲の写真。
 迫撃砲としては94式軽迫撃砲を装備。
 火砲はほとんどボフォースでトラック車載。

 ※この史料は綺麗にコピーしてタイから防大に留学している学生にプレゼントするべきだ。当時のタイ軍の姿をスナップしている写真なんて、現地にも残っていないだろう。

 装軌牽引車。15H用。
 ビッカース・アームストロング牽引車(カーデンロイドの巨大版といったおもむき)。5.7トン に、ビッカース40ミリAAMGを単装で載せたもの。機械化具合が印象的である。
 40ミリは、砲身2m。レンジ6100m。レートは190~200発/分。仰角85度まで。弾量907グラム。完全弾薬筒1.37kg。初速750~720m/秒。

 タイ軍の95式LTKの写真。
 ビッカースアームストロング6トン戦車の未見写真×2枚。※これは相当に貴重だろう。
 モリス・ビッカース装甲車。

 T-28CTのパレード写真×2枚。1枚は非常にクリア。
 T-35の上面含む、未見クリア写真多数。
 KVの150ミリ砲戦車、砲塔の後面が写っているもの。
 仏3C重戦車のクリアな写真。

 特殊戦車とは、水陸両用、あるいは火焔、あるいは駆逐戦車(4~5トンで、40~47ミリ対戦車砲をもつもの)、あるいは突撃砲戦車(13~20トンで、75ミリ野砲を搭載するもの)。

 日本軍が鹵獲したT-37の未見写真×2。
 イギリスの大砲の写真。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 184〕在独武官室『昭和18年 兵器購入に関する報告書』
 ほとんど工作機械ばかり。
 S18-2-23、ドイツ三井物産(株)、フライス盤 23635マルク。

 「ポルテ」(マルデブルグ市)鉄製薬莢製造権。S17-7契約。扱者は三菱商事。
 三菱、大倉の請求書も。大倉は「大倉産業(株)」となっている。
 たしかに、規格書その他が受領されている。
 ピアノ線も多い。バネ用か?
 ボッシュの、フュール インジェクション ポンプ。

 受領書 S18-7-8。 昭和通商(株)、伯林支店長・前田冨太郎が、独国在勤帝国大使館付武官小松光孝から独貨38万4120万マルクを受領した。
 「兵調独第61号」。
 「軽装甲歩兵戦闘車」×4 ※Sd.Kfz.250のこと。
 単価85980マルク。
 右用予備品一式 40200マルク。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 204〕在独武官室『兵器購入に関する書類綴』其の二
 S18-1-14、大倉商事が1万9657マルク30ペニヒで、戦車用超短波無線機 Fu5型×4台を、陸軍兵器本部の代りに、テレフンケン社から買った。
 ※Fu は Funkgerate?

 クルップから1セットの cal.21cm、L/55.5 付属品一式共 を、タマ150発など〆て 116万4070マルクで三菱商事が。
 1943年1月11日に。
 三菱からこの代金の陸軍向け請求は、S17-12-29になされている。
 独での受領が18-1-7。

 大倉の取扱い。
 2両の Strumgeschutze mit langer kanone (Stu.K.40) 照準器、無線機、50発の Spreng granaten、50発の HL-Geschosse、25のPz.Granatern 39、梱包料込み 〆て単価RM 393.425、2両で786.850。

 langer 5cm KwK つきの III号戦車×1両。
 wie dieser Pz.Kpfwg.
 MG×2付、
100発の Spreng-Granaten
Gasmasken
 送料込 312.950 RM ※ライヒスマルクで、ピリオドはカンマに変換して読むべきか。

 1両の7.5cm KwK付 III号戦車
 wie dieser Pz.Kpfwg
 100 Spreng-Granaten
 RM 362.275

 金39万3425マルクを陸軍兵器本部に請求。S17-12-20。大倉商事(株)。
 内訳。ダイムラーベンツ社製突撃砲。
 長加農(STu.K.40)付。
 工場渡。

 大倉の受領証はS18-1-7発行。

 IV号戦車 M.S.34 (7.1.1943)
 6300 Schuss S.m.K-Munition
1260 Schuss mit Lichtspur
 マルデブルク市の Heeres-Zeugamt が出した手紙らしい。
 Kw.K.40 用の7.5cm弾薬

 軍の間の直接契約
 1セットの IV/F2 戦車シャシー Nr.83231
 同用弾薬

 1セットの IV/F2  シャシー Nr.83230

 トータル RM 801.339
 取扱いは三菱商事。
 1943-1-30。

 三菱から陸軍への請求書は、40万0669マルク。
 但、4号戦車一台代金
 昭和17年12月29日
 受領書 18.1.7

 ハンブルクのイリス商会からST61型機関銃用火造品 及 木被、同線材、鋼材、発条 および 発条材料。
 S17-12-23。

 昭和通商 S17-10-17に請求。独の5トン牽引車×5、単価78060、他に予備品と装備品。
 領収 17-12-23。

 昭和通商。
 1両の schwerer Panzers-Pahwagen(Fu)(8-Rad)
 RM 341000
 重装甲捜索車
 単価 31万マルク。請求 S17-12-15、受領17-12-21。

 MG ST63(ラ式機関銃)絡みは、三菱商事の取り扱い。

 昭和通商は、ドイツにいながら、ポルトガルからダイヤモンドを買っている。43594カラット。

 18トン牽引車×5
 単価128300マルク。
 +予備品
 請求書 昭和通商から陸軍へ。S18-4-10。
 受領 S18-5-27。


熱電対の新発明。

 Robert F. Service 記者による2020-9-11記事「Energy ‘scavenger’ could turn waste heat from fridges and other devices into electricity」。
    熱電素子の良いものがないか、多年、捜し求められている。
 それは、熱そのものの良伝体であっては、困る。電子の流れだけを取り出したい。
 熱が輸送されてしまうと、2極間の温度差が逓減するから、発電セルとしては、よくないのだ。

 もうひとつの課題。数百度の熱源からでなくて、冷蔵庫の廃熱レベルの熱源を、利用できないものか、と。

 そこで、武漢にある華中科技大学は、この熱電素子を、固体ではなく液体でこしらえ、かつまた、電子のやりとりはするが、熱の移動は抑制する、うまい方法を考えついた。

 研究陣は、ドミノ牌サイズの箱容器で熱電素子をこしらえた。箱の天井と底には電極がある。
 底の電極を、熱い板の上に載せる。天板はそれより50度、温度の低い物体に、当接する。
 容器中には、液状のフェリシアン化合物。電荷4のイオンが混じる液体だ。

 この箱の中では対流が起きる。底の熱い電極に接したイオン溶液は、その電子4個のうち1個を放出する。そしてその荷電状態で容器内を拡散的に上昇して、こんどは天井の冷えた電極に接し、そこで電子1個を受け取り、また拡散的に下降する。このサイクルが繰り返される。

 だが、それだけだと、熱の移送もなかだちされてしまう。
 そこで、研究陣は、この溶液中に、プラスに荷電した有機化合物のグアニジンを加えた。

 グアニジンがあると、冷極において、フェリシアン化合物は結晶化し析出する。つまり固体の分子になるので、熱を伝えにくい。したがって冷電極から熱が逃げにくくなる。
 ※昔の軍艦の蒸気ボイラーに入れる真水がなくなったら、最後の非常手段として海水を焚くことができたが、やがて塩が析出して熱交換パイプにびっしりつく。それは断熱材がはりついたも同然なので、その蒸気ボイラーはエンジンとしては機能できなくなる。それと同じ機序。

 つごうのよいことに、比重の大きなフェリシアン化合物の結晶は、液体サーモセル内の冷極にくっついていることなく、じきに沈降して、やがて熱極に達すれば、また液状に復帰してくれる。

 この研究成果は『サイエンス』誌に今週、掲載された。
 このサーモセルを20個集合させると、ペーパーバック本のサイズとなるが、それによって、LEDライトぐらいは点灯できる電力を、50度の温度差の廃熱から、得ることができる。

 ※ここでひとつの夢がひろがる。原発から出てしまった放射性廃棄物を封じ込めたキャスクを北海道の寒い土地へ深々と埋める。このキャスクは半永久に発熱している。その上に、じゅうぶんな体積の熱伝導体を重ね置く。その熱伝導体の頂部を、このサーモセルの底部の熱電極とし、サーモセルの天井部の冷電極は、地表に露出した岩盤の直下に位置させる――。いかがですか?



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー

旧資料備忘摘録 2020-9-14 Up

▼『経済倶楽部講演』S18-1-31
 「独・米・ソ連 最新の鉄道状態」by立花次郎(鉄道技師)

 米の貨物列車は1編成が5000トンくらい運ぶ。前に機関車を三重連して。
 そこに、60トン積みの4軸ボギー車を100両くらいつける。更に必要があれば「後押し機関車」も連結。
 ソ連では、貨物列車×1で、3トン乗せる。やはり四軸ボギーはある。

 ところがドイツには4軸ボギーの貨車がほとんどない。つまり貨車サイズが小さい。1編成は1200トンから1500トン。
 米と日本には自動連結機があるのに、独(他の欧州諸国も)にはない。
 ソ連も自動になりつつある。※あたりまえだ米国から貰ってるんだから。

 旧シレジアには、石炭の未開発な炭田があった。他方、ライン炭田は開発が相当に進んでいた。
 ベルサイユ条約で、シレジアは三分され、ひとつはポーランド、ひとつはチェコに行ってしまった。

 全欧の面積が合衆国と同じである。貨車規格を統一しなければ効率で負ける。しかし20ヶ国もあるから、できない。
 この出版時点でドイツ領は人口1億を超えている。
 元のドイツは7000万くらいだった。とても狭いところに。

 せっかくの俘虜を農業に使えない。看視の男が足りないのだ。そこで、女子と少年を畑仕事に投入している。
 ソ連では、戦時には鉄道もトラックも一斉に、民需輸送を止める。このため野菜の流通は止まる。
 ドイツは真冬にはマイナス20度になることも。しかしソ連はマイナス47度になる。
 マイナス30度で、凍水破壊が起き、機関車が壊れる。給水塔も凍ってしまう。

 独の患者後送列車は、3段の蚕棚式で、それが十何両連結されているまんなかに、医師を置く「手術車」が。 パナマ運河ができたことにより、北米のいくつかの線路は経営が立ち行かなくなった。
 もし運河が閉塞されたならば、7ルートある大陸横断鉄道が昔のように繁盛するだけで、物資面では特に困らないだろう。※これは日本海軍が戦前からパナマ運河閉塞作戦をあまりに唱えていたので、それに対する意見か。

 米国内では、石油は鉄道では運べない。パイプラインもしくは、10トン以上の容量がある牽引式のタンク車を使う。

▼小島精一『欧州大戦と日本産業の将来』S14-10
 S12の米国からの屑鉄輸入は、8100万円。
 鉱石と銑鉄(インド産も多い)の総輸入額も、同じくらい。
 ところが石油は、S11年度、1億7000万円。S12年度は推定で2億円。

 炭業経営権の戦時収容を著者は提言する。

 この時点で銑鉄から鋼まで一貫製鉄している大メーカーは4社のみ。
 日鉄。日本鋼管。鶴見製鉄。昭和製鋼(満州。ただし石炭は北支に頼るためフル操業ができず)。
 これが4強だが、中小としては近年、中山製鋼と、小倉製鋼が参入した。

 こんなことになっているのは、日鉄の成立後、商工省が、アウトサイダーの参入を抑圧する政策をとったせい(p.163)。
 「準戦時体制」に入ってから、溶鉱炉建設が奨励されたが、もう遅し。

 S11で、産生スチールのうち6割が、クズ銑原料だのみ。つまりは米国に依存。
 米国からの屑鉄の供給が止まれば、代替供給国は、事実上、存在しない。2位はベルギーだが、その量はアメリカの十分の一だ。

 WWI中のアメリカで、ライフル銃を作るために必要なリミット・ゲージは812種類でよかったが、マキシムMGの量産のためには、ゲージは1400種類が必要だった。
 それは1工場1セットで済むものではない。だから、ゲージ供給のネックが、精密兵器量産のネックになってしまうのだ。

▼石塚清秀『劣等児の科学的指導』S18-3
 IQ90以下を精神薄弱児とす。
 うち2%はIQ70以下で、特に低劣である。
 S12調べで、学齢児童は1143万人。
 この時点では、学校令で「瘋癲・白痴」とされぬ低能児もぜんぶ普通学級に収容している。
 独では1859に特別学級ができている。
 英は今、150の special school に数万の劣等児を収容。米はそれを凌ぐ。

 低能>薄弱>劣等
 白痴>癡愚>魯鈍
 ヒステリー>神経質>癲癇

 米ではIQ141以上を天才、51~70をモロンという。
 ダーウィンはギリシャ語・ラテン語の記憶中心学科が大嫌いで、幾何学に熱中していた。校長からはあざけられた。

 著者いわく。毛筆を教えるのは高学年になってからでいい。それまでは硬筆(エンピツ)でいい。
 脳膜炎後の児童は、智能・気質がひとしなみでない。必ずなにかとりえがある。
 これら後天性精薄は、いわゆる「馬鹿面」もしていない。

 教室で、こうした児童を、優秀生徒の前とか横に座らせることや、あるいは最前列に座らせることは、よくない。
 劣等児童だけ、いちばん明るい一角(しばしばそれは窓側)に配置せよ。絶対に、暗いところに座らせるな。
 そして、明るい列の前から、悪い順に、座らせるとよい。

 チンドン屋のことは東西屋といっていた。

▼旺文社ed.『昭和十八年度 全国上級学校年鑑』S18-6
 軍部委託生制度(pp.249~)。
 大学生は「委託学生」である。専門学校生徒は「委託生徒」である。
 学費を出してもらえる。その代わり、軍に10年つとめるのが義務。

▼時事通信社外信部ed.『人工衛星読本』S33-1
 スプートニクは1時間半で地球を1周し続けた。重さ83.6kg?
 ピーピー信号を人々は簡単に受信できた。

 そのうち、1日に3秒ていどの減速があることが分ってきた。その高度では衛星の寿命は数ヶ月だ。
 大気圏外は均一に大気が薄いのではなく、空気塊が存在することも分ってきた。

 10月下旬、ジューコフ国防相、解任。
 11-3、第二号衛星。スラスター付き。高度508km。重さは6倍になり、しかも、犬を乗せた。
 二号衛星の打ち上げ日は、ジューコフ問題ゆえに繰り上げられた。ほんとうは11-7の革命40周年を狙っていた。

 このエスキモー犬には世界中の同情が集まった。
 11-11、犬が死んだと発表された。
 フルシチョフの鼻息は、かつてのゲーリングの豪語を思い起こさせた。

 1700年代末、インド人は支那渡りのロケットを大改良し、全長8インチ×径2インチの鉄筒ロケットにし、ハイダール・アリの軍勢が、それを使ってマイソール地方で英軍を迎撃した。
 これに学んだウィリアム・コングリーヴ陸軍大佐。3フィート×4インチ径で射程1.5マイルのロケット弾を完成。ナポレオン戦争でブローニュ港を攻撃したのが、実戦初使用。

 コングリーヴロケットには空力安定フィンがなかった。※安定用の尾棒が伸びていた?
 それを考えたのが米人のウィリアム・へール。独立戦争で英軍が発射したものを拾って、改良した。

 V2号は頭部に1トン強の炸薬。耐熱性火薬でなくてはいけなかった。
 エンジン燃焼のカットは、初期には、テレメトリーを聞きながら地上から電波指令を出した。しかしすぐに、自律サーボ方式に改良された。
 燃料はエーテルと液酸。発射の直前に注入した。
 別に、燃料ポンプを駆動させる蒸気を得るための過マンガン酸カルシウムも搭載。
 V2の空力フィンは、地上から60マイルくらいで、その用をなさなくなる。

 米人ゴダードは、1940に液体燃料ロケットを作っていたが、海軍に召集されて中絶した。
 アトラスのおおもとは、1946から米空軍で始めた計画だが、1947に予算を切られてしまい、中断。それが1951に復活したものの、ソ連に遅れた時間を取り戻すのはたいへんだった。

 1956-2、ソ共20回大会でミコヤン副首相、爆撃機およびロケットで地球上のいかなる地点にも核兵器を投下できると述べる。

 流星は200~150km上空から発光しはじめる。
 オーロラは空気があるから光る。したがって高度500kmほどが上限である。そこにも空気がわずかに存在する。
 1年以上、衛星を回したければ、高度は500km以上とせねばならぬわけ。

 もし最小高度が160kmであったら、その衛星は1時間後には墜落する。
 高度350kmならば、15日は周回できる。

 宇宙空間での空気摩擦は現段階では読みきれないので、正確な寿命も予測不能。
 毎日3秒の減速は、毎日2650m×2の高度低下を意味する。つまり5km。
 ただし高度の低下は長円軌道の遠地点でのみ起き、近地点では起きない。
 アポジ=ペリジとなったときに、余命はあと数日となるのだ。

 ICBMも衛星も、スラスト終了点は地上400~500km。その時点でICBMの仰角は20度から30度。人工衛星は、水平。
 最高弾道点は、ICBMは、高度1300km。

 『長門』は40センチ砲を射つ前に、ラジオ・ゾンデを飛ばし、3000m上空の風向と風力を測っていたという。

 極付近に衛星を飛ばさないと、空気抵抗などを調査・把握できない。
 対地レーダー衛星は、地面に対して電波が斜めに当たるほどS/N比はよくなる〔=クラッター反射を拾わないで済む〕ので、できるだけ低い軌道で回したい。

 1メガトンの水爆にビルディングを耐えさせたければ、爆心から2マイルは離れている必要がある。

▼菊地勇夫『飢饉の社会史』1994
 天明飢饉で強殺盗が増えた。弘前藩は「見当り次第 断りに及ばず打殺し候様」と命じた。村方申合の「自分成敗」。

 村の富農に火を付けて回る地元民あり。東北では意趣返しは火付けであった。※倍返しは倍放火か。
 馬を盗んで食べたら打首。
 原則として馬喰いは「家内不残打首」。

 20人ばかりの村の若者が、鑓で7人の無頼漢を突き殺した(p.123)。
 簀巻きのことは、叺[カマス]かぶりとも言った。川に突き落とすほか、石を投げたり、マサカリや棒で打ったり。

▼菊地勇夫『近世の飢饉』H9
 西日本の飢饉は、旱害、ウンカ、風水害。
 大豆は馬糧になるので、本年貢の現納物として、コメ以外に唯一、ゆるされた。

 赤穂はアカゴメである。冷害にとても強い。とうぜん、早稲。モチにして食べる。
 田稗といって、水田にわざと植えるヒエもあった。

 領主から大豆モノカルチャーを強制された畑作地でも、飢饉は起きた。
 鯨油を撒き、ウンカをタタキ落として窒息死させる駆除法は、大蔵永常「除蝗録」で広く知られた。

 1690(元禄時代)に猪、鹿、狼の「三獣」が、人馬犬、作毛を食い荒らすというので、八戸藩は城内の鉄砲を貸与したり、目付をして射殺せしめた。
 馬産地帯なので、主敵はオオカミだった。
 1746になると敵はイノシシになる。オオカミがいなくなったのでイノシシが増えた。
 1749と1755には「イノシシけかち」が起きた。

 貸下げ鉄砲は、4匁筒であった。
 脅し鉄砲と称しても、じつは射殺していた。
 大豆をつくるために、焼畑すると、ワラビが大量に生じ、それをイノシシがほじくって殖えるという。
 信州でも17世紀末~18世紀にかけ「シシガキ・シシドテ」を築造している。

 狂犬のことは「風犬」(ふうけん)と称した。

▼藤原仁『まぼろしのニホンオオカミ――福島県の棲息記録』1994
 エゾオオカミはM22頃、絶滅。
 硝酸ストリキニーネ入りの毒エサが有効だった。
 これは大陸でも同様。

 青森~九州のニホンオオカミは孤立種で、M38-1-23に米人研究者が入手した死骸が最後。ロンドン博物館にあり。

 国内には、東大、和歌山大、東京国立科学博物館に3体、剥製あるのみ。
 犬との最大の差は、わんわんと鳴かぬこと。犬は、家畜となってから、鳴き声が発達した。

 ニホンオオカミはインドオオカミに次いで小さい。シェパードの牝くらい。灰白色。
 チョウセンオオカミは中形。

 狼の良い面が知られた地域では神社に祀られた。
 悪い面が知られた地域では、地名となった。

 焼畑地には小動物が多い。そこに狼も集まる。
 なぜケモノヘンに「良」なのか。牧畜文化地域だったなら、そんな発想にはならない。
 コメつくり文化地域だったから、テリヤ代わりになったのだ。ありがたいので、神社に。
 ※イノシシに田畑を荒らされると壊滅的な損害が出る。そのイノシシの個体数を狼が抑制してくれる。対猪用に「しし垣」を構築しても、こんどは鹿が躍り超えてやってくる。その鹿も狼が追い払ってくれる。

 秩父の大滝村の三峯神社は、関東のオオカミ信仰の総本山。
 牧とは むまき=馬飼 からの転。

 相馬藩では、元禄10年に、狼や鹿は鉄砲で射殺自由との掟。
 馬産地では狼は害獣だった。明治までも。
 しかし地元民は狼の射殺には消極的だったという。

 狼は夜しか活動しない。
 親馬は仔馬を中にして、交替で見張っている。
 狼は一つがいで現れ、まず1匹が周回。親馬が追い回す。
 その隙に、隠れていた別の1匹が仔馬を取る。すると2匹で加えて逃げてしまう。

 狼の弱点。口に手を突っ込まれると、前足のパワーが弱いので、反撃できない。カナダではその手で生け捕るという。

 塩を好むことはない。鹿とは違い、肉食なので。
 M22年、馬小屋まで馬を追いかけてきた狼のつがいのうち1匹を鎌と棒で殺した事例。
 狼は、飼い犬も襲う。

 九州には、シシ1000匹を獲ったという塚がある。紀伊半島から関東中部まで、それがなくなる。そして宮城県になると、またそのような塚がある。

 猟師が仮設やぐらにて待ち伏せする場合、2人組だったら、2人ともにその中に入っていないと、狼は来ない。

▼『食の文化フォーラム17 飢餓』1999
 東北の飢饉は近世以前にはなかった。そこに水田をつくったことが、大悲劇を呼んだのである。
 近畿の価値観やシステムが東北に移植されたのが災厄だった。
 天明飢饉では、都市部は全く飢えず。

 藩は借金があるので、唯一の商品たるコメを飢餓輸出し続ける他に策がなかった。そのため冷害年が数年続けば、藩内のコメのストック量が、人口を下回った。

 旱魃は水利で救う法もあるが、冷害は、どうしようもない。
 明治になり、藩境での「穀留」の必要はなくなり、飢饉はなくなった。その代わりに、コメ騒動が起きるようになった。
 大7の事例は、シベリア出兵の需要を見込んで、買い集めがあったため。

 アイルランドでは1840年代を、The Humgry Forties と呼ぶ。ジャガイモ病飢饉が発生してえらいことに。
 1846に英国が穀物条例を廃止したきっかけ。
 英国の1770~1870は、「小麦パンの時代」と呼ばれる。

 小麦パンに劣るものとして、オート麦、大麦、ジャガイモを食べている地域があった。
 19世紀になると、蒸気船でアメリカから冷凍肉を輸入することができるようになった。
 1877には、英国の3300万人のうち1500万人は外国産の食糧で養われている状況。

 じゃがいもは長期保存できない。麦なら3年置いておくことが可能だが。
 したがって馬鈴薯は、作ったらすぐに売らねばならない。農家にリスクが大。
 しかも、芋はけっこう不作もある。1816や1822も不作年だった。

 価格対重量比でも、ジャガイモは不利だった。遠くへ輸送すると輸送コストがたいへんだから、地元で買い叩かれてしまう。

▼中央公論社『続日本の絵巻1』1990
 「法然上人絵伝 1」 解説/小松茂美
 1307から十年がかりで完成したと伝えられている。
 今、国宝として知恩院に正本[しょうほん]あり。

 吹きぬき屋台 の描法。
 屋根を消し、クォータービュー俯瞰。
 頬髯を生やしているのは、検非違使のみだ。
 生年中に、木曽義仲の乱入のことがあった。

 建永2年、法然の弟子の安楽らが、後鳥羽上皇の女房の一人を出家させてしまったのを咎められ、翌年2月9日に、加茂川の六条川原で斬られることに。執行は武者所の藤原秀能。
 川原まで、検非違使の髯もじゃの放免が、縄の端を持って安楽を護送してくるシーン。
 甲冑の随兵には髯の無い者も。武器は弓か長刀。

 太刀は、貴人や役付だけが帯びている。
 検非違使の上官の貴族も弓が主道具らしい。
 死刑の描写はなし。

▼永井壮吉(荷風散人)『【さんずいに墨】東綺譚』S12-8 初版
 脱稿は昭和丙子11月と。

 現代人が深夜飲食のたのしみをおぼえたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長し、市内一円の札を掲げた辻自動車が50銭から30銭まで値下げしたことに基づく。

 わたくしは 党を結び群れをなし、其の威を借りてことをなすことが大嫌い。
 社をむすび党を立てて、おのれにくみするを揚げ、くみせざるを抑えようとするふるまいをさげすむ。

 世の中の精力が発展してきた。だから暗殺も姦淫も起こる。スポーツ、ダンス、登山、競馬、博奕……。欲望を追求する熱情がそうさせている。

 現代固有の現象。それは、個人めいめいが、他人よりもじぶんの方が優れてゐるといふことを、人に思わせたい、そして、じぶんでもそう信じたいと思っていること。
 優越を感じたいと思つてゐる欲望です。
 明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あつたところで非常にすくないのです。
 これが 大正時代に成長した現代人と、われ\/との違ふところですよ。

 ※「作後贅言」の中の記述だが、一冊の一体とよむべきだろう。
 喫茶店を「きっちゃてん」と読ませている。

▼沢田進之亟[しんのじょう]『姿なき戦ひ』S19-6
 著者は国民新聞からNHKへ。国際放送の監督。

 S18夏、南鳥島に対する大編隊の空襲は、電波探知機で警報された。
 短波は わずか20ワットで遠距離へ信号を飛ばせることがわかり、一躍 対外放送の主役に。

 上海のXMHAは、米国放送局だった。

 1939いらい、アメリカでは、アメフトと野球のラジオ放送の聴取率は60~70%を維持していたが、1941時点で2~4%まで超激減。
 反比例して、FDR演説がよく聞かれている。

 北米には独系人が多いので、ナチスの対外放送は1933-4-1にまず北米向けをスタートさせた。
 ただしベルリン時間で未明1時から3時のあいだのみ。
 ついで、対アフリカ、対東南アジア、対南米が開局している。

 英国は、ダヴェントリーから短波で全世界の支局に放送し、支局でそれを中波に変調して中継放送することにより、たいていの住民が持っている中波ラジオで、24時間聞ける体制を、築いている。

 FDRは、儲けにならないと渋るNBCとCBSに、1937-7-1から南米向け放送を始めさせた。

 インドとビルマで英国官憲は、東京放送を「多人数集まって」聴いてはいかぬと命じた。全面禁止は不可能であった。
 そのかわり、東京放送のすぐ後に、カルカッタやラングーンから、打消し放送をした。

 XMHAは、S12-8に、皇軍が租界に進駐して接収した。
 支那事変中の中国兵は、東京がどこにあるか知らず、日本は陸続きだと思っており、指揮官が山の向こうに東京があるから、といえば、それを信じた。
 パールハーバーのニュースは、支那新聞にはごく小さく載った。というのも、戦艦とはどんなものなのか、誰も知らないのである。

 戦争中、重慶放送は、毎深夜に三国志を連続で講談して、飽きなかった。

 ミンダナオでは邦人虐殺があった(p.124)。
 収容所内で表の子供の声を聞き、いずこも同じだと思ったのは、英海軍少佐のモー・ウイヴァー(p.128)。

 最初の東京空襲で、学校と病院に損害があったという英語のTOKYO放送は、米とBBCで速報としてそのまま紹介報道されている(pp.142-3)。

 エクアドルでは開戦と同時に邦人(イミグレ)は軟禁状態に。

 ルーズヴェルトとチャーチルは頻繁に会談している。
 第一回はS16-8-5~14、大西洋上。
 第二回はS16-12-22~S17-1-16、ワシントン。
 第三回はS17-6-18~27、ワシントン。
 第四回はS18-1-14~24、カサブランカ。
 第五回はS18-5-11~27、ワシントン。
 第六回はS18-8-11~9月初旬、ケベック。

 S17に米は「フライングタイガース」「インサイド ファイティング チャイナ」の2本の記録映画を作った。
 主人公は、最初はカネ欲しさに戦闘機乗りになったが、やがて人格が矯正され、日本空軍と勇戦するようになる。

 S18-8-27に米は戦艦『アイオワ』の進水式を報じた。このようなニュースを出すのは米国のみである。
 予定より7ヶ月も早く進水した。
 『アイオワ』の発電力は1000キロワットだという。

 米の対外放送番組にはパターンがあり、冒頭に、今日は日本が見込みの無い戦争に入ってから2××日目……と言う。
 この起点となっている日が、S12-7-7、すなわち盧溝橋事件の日なのである。

 S13に米誌『ザ・ローダウン』のジョセフ・ヒルトン・スマイスは、S12に米国で日本の蛮行として流された怪写真について、説明。それは1919年に上海で絵葉書として売られていたものであり、それを国民党が共産党に対する誹謗の宣伝ネタに使った。その1年後、こんどはそのシーンは、共産党の士官が国民党の兵士を拷問しているところだと称された。さらに満州事変後には、それは日本軍人の鬼畜行為だということになり、1934年にはまたも共産党軍の残虐行為であるとされ、支那事変とともにまた日本軍のものだとされたのだ――と(p.208)。

 『プリンスオブウェルズ』と『レパルス』が撃沈されたとき、豪州のABC放送はS16-12-12、日本機が漂流者を機銃掃射したと宣伝した。

▼出井盛之『足袋の話』大14-1
 著者は早大教授。
 江戸の老舗として、「茗荷屋」が万治元年からある。
 注文生産から、市場生産へ移した。

 オランダ語の「タピス」以前に「たび」がある。

 大昔は鹿の皮でできていた。
 やがて、武家が、襪を改造して 大指のわれめをこしらえた。

 現在(大正)と同じ様式の木綿足袋は、徳川時代初期。普及は、明暦大火直後。
 なぜかというに、火消しの火事装束は、革羽織、革頭巾だったのが、物価が騰貴したため、革足袋を調達しにくくなった。それで木綿足袋が代用にされたともいうが、おそらくはその前に、消費人口が増えていて、鹿革が品薄になったのである。

 貞享のころから、薄柿木綿と白晒木綿に、男女で分かれる。
 もともと卑しい階層の目印だったのが、江戸期に偉い人の履物になった。明治初期には、下男下女は主人の前では足袋を履けなかった。
 囚人は、大正12年から足袋をゆるされている。

 江戸遊女は、「伊達の素足」で、足袋を着けない。
 「けいせいは たび屋にばかり 借りが無し」。

 紐足袋は近代のこと。
 こはぜ になったのは、もっと近来のこと。
 「足袋の紐 解けたで御姫様が知れ」。

 底材は、刺し底→石底→雲斎 と進化してきた。
 機械で量産するようになったのは、日清戦争の頃から。
 今は、堺市の福助足袋の工場で年2000万足、製造している。65工程あるという。工員1人あたり1日50足。

 18世紀中ごろの英国では、靴下製造者は小屋と畑を私有し、週3日~5日働くのみ。
 労働者の1日の労働時間は10時間だった。
 それが百年後には、1日16時間という非人道的なレベルに。週給は4シリング6ペンス。

▼(財)国民工業学院『女子作業心得』S16-2
 久留米絣の発明者は、井上でん。
 時期は、幕末から明治初期。
 それより前にカスリがあったら、おかしいのである。

 そのあと、国武絣を 牛島のし が考えた。
 一般に月経中の3~10日は筋肉の力が弱くなって労働力が減る(p.45)。
 さらに自分を抑へる力が弱くなる。

 文部省によると7歳~20際について、大正元年度からS11までの25年間に、女子は4.5センチ身長が伸び、胸囲は2.8センチ増えた。
 医学博士の竹内茂代は、20歳女子の平均として、身長149.6センチ、下肢長76.4センチ、比下肢長51.2センチ、坐高82.8センチ、比坐高55.4センチ を挙げている。

 厚生省は、17~19歳男子について、体力検定することにした。
 上位の基準は、100mを14秒、2000mを7分半、走り巾跳び4.8m、手榴弾投げ45m、60kg土嚢運搬50mを15秒、懸垂屈臂12回。

 式根島は18人目の入殖者のタンさんという婆さんがひとりで開発したようなもの。

▼労働省婦人少年局『工場に働く婦人のための安全な服装』S25、原1941米国労働省
 第一に足ごしらえ。次にゴーグルで眼を保護すべし。
 宝石は工場には用はない。着けてくるな。

 どこから何が飛んでくるかわからないので、全員、必ず、ゴーグルを着用すること。
 静電気が髪をひきつけるのが怖い。必ず頭巾を。

▼河合武郎『ルソンの砲弾』1990
 歩兵は山砲とは言わず、聯隊砲という。
 砲兵が、これを山砲という。

 人馬を載せた輸送船は、ハッチを閉めない。かわりに、厚手のシートで、雨と波を除ける。
 4年式十五榴×4門をもっていた中隊の馬数は他中隊の2倍あった。

 第1、第4、第7中隊が、95式75mm野砲。
 第2、第3、第5、第6、第8、第9中隊は、91式105ミリ榴弾砲。
 第10、第11、第12中隊が、4年式十五榴。
 野砲第8連隊の合計で48門。

 4年式十五榴は、もともと野重(軍直砲兵ともいう)なのだが、96式十五榴ができると、それにはじかれるようにして、師団砲兵の第四大隊に渡されたのである。
 砲兵隊の装備する小銃は、38式だった。

 野8は、最もコンディションがよかった。第1師団の野砲第1連隊は計36門で、頭号師団のくせに、野8より少なかった。それでレイテに突っ込んだ。

 戦車第2師団の持っていたのが「機動砲兵第2連隊」である。略して「機砲2」。
 レイテの米軍師団は、105H×54門とAW大隊〔4連装のキャリバー.50 をハーフトラックに載せたやつか〕。

 日本の師団砲兵は、75mm×12門、105H×24門、十五榴×12門。これが最終改編目標だったのだが、達成していたのは、野砲第8連隊のみ。

 おなじ105ミリ榴弾砲でも、米軍のは射程15km。日本のは最大8kmで、命中精度がよいのは5kmまでだった。
 米軍の師団砲兵のうしろには、必ず軍団砲兵があって、それらは常にコンビで運用されていた。
 たとえば、155H、155K、203H、計54門~72門の砲兵群が、三つもあるのである。
 だから155H~203Hが、最大で180門も、師団砲兵に加勢するわけだ。

 レイテのオルモック攻防のとき、米軍は、25kmも離れたところから山脈を超えて155ミリ砲を撃ってきた。
 米軍は笛を退却の合図にしていた。

 フィリピン住民は、米軍の支配下に入ると電灯をつけるので、それを見れば、敵がどこまで出ているか判別できた。

 公刊戦史は、歩兵中心で、砲兵隊の手柄や苦労はほとんど書かれていない。
 ※これはとても重要。諸兵種連合の現場を知らない参謀が勝手に発想した無茶な作戦を、補給も支援も何もなしにその通りに実行してくれたのは、歩兵部隊だけだった。エリート参謀が特科の作戦(特に補給)を現実的に組み立てられなかったということは、そのまま、国家間の地政学的な競争を考える頭も無かったことを意味するのである。

 砲にも「掩体」と「掩蓋」がある。
 4年式十五榴の壕は、ミニマムでも15坪、つまり30畳要る。
 マンゴーは幹が素直でない。椰子は中がスカスカで、どちらも建築資材にならぬ。

 4式20cm噴進砲は、沖縄で鹵獲されている。
 比島にも噴進砲大隊がいた。1000発もってきたのを、射ち尽くしている。
 米軍には4.2インチ迫撃砲がすでにあった。


秋といえば……書店へ行くべし。

 ストラテジーペイジの2020-9-13記事。
   中共軍は今日でも、全体(200万人)の三分の一が徴兵である。徴兵の任期は平均して2年だ。

 ところが中共軍はながらく、徴兵したすべての新兵を毎年、11月1日に入営させる慣行を墨守していた。
 これは秋の収穫直後の農閑期であるというところに意味があったのだが、この方式だと、現代戦争に必要な教育密度を行き届かせるのは難しいことが悟られて、近年になって、西側並みの、周年入営制度に改めようと模索中。

 また、新兵の基礎訓練は、従来は、地方の一般部隊に押し付けられていた。ということは、11月から数ヶ月間は、現役部隊の1割くらいが、新兵教育係として割かれねばならなかった。
 これでは部隊はいつまでたっても精鋭度が上がらず、有事即応も難しく、隊内団結も強化されない。

 2015年、中共軍は、初年兵入営日を10月に移動させた。中共の学年末は9月なので、これにより、高校や大学を卒業した者が、1ヶ月の準備ののちに入営するようになった。
 そして、秋だけでなく、春にも、新兵を徴兵することにした。年2回に分けたのである。

 さらにじつは今年の1月からは、この新兵入営の時期をもっと細分して増やす予定であった。ついでに、新兵教育を一般部隊ではなく、専門の教育部隊にさせるようにも改革するつもりだった。それが、新コロのせいで、1年先送りされた。

 おそらくこの改革が終わって10年か20年しないと、中共軍には、まともな「下士官」層が育たない。将校が下士官の仕事をしなければならないロシア軍と同じ欠陥が、残る。
 下士官が兵隊に毛の生えたレベルでは、米軍を筆頭とする西側軍隊(下士官に下級将校の代理がつとまる)には、実戦場で太刀打ちはできない。つまり中共軍はこんご20年間は、実戦では弱い軍隊のままだ。

 学校新卒の志願兵を増やす試みももちろん考えられていた。
 まず手始めに、志願兵の入隊日を8月1日にさせようという話があった。9月新卒者を民間企業などが雇用してしまう前に、先に軍隊に引き込もうという目論見だった。
 中共軍には毎年、15万人の大学新卒者が入営しているという。

 次。
 Liu Zhen 記者による2020-9-12記事「Will China upgrade its destroyers with ‘carrier killer’ missiles?」。
    先月、1万2000トンの『055』型ミサイル駆逐艦の8番艦が、大連軍港で進水した。
 ペンタゴンの2020年度版中共軍リポートでは、『055』型が就役するときには対米空母用に「対艦弾道弾」を艦載するだろうという予測がしてあった。しかしその兆候は無い

 中共が陸上から試射したことのある、対艦弾道ミサイル。対空母用に使えるのなら、これを、『055』型に搭載することを中共海軍はとうぜんに企図するはずだが……。
 システムが洗練されていないので、載せようがない、というか、載せても仕方がないのだ。

 ※前回の威嚇発射でも、標的に命中させたことはなく、たんに海面に落としただけ。いままで、海上の標的に当てたことは一度もなし。動く標的も狙ったことなし。そんなものが実用の戦術兵器であるわけあるか? 典型的なフェイク兵器なのである。

 『055』型は8番艦で終わる。おそらくこれを改良強化する『055A』型が計画されているはずだ。そこにおいて、なんらかの「空母キラー」ミサイルが搭載されるだろう。
 米国の一ソースは、『055A』型では推進機関が電化され、レーザー砲か電磁砲も搭載されるだろうと言っている。

 たぶん、ロシアの「ズィルコン」超音速対艦ミサイルの同格品なら、艦載は可能だろうと一海軍専門家は言うておる。

 次。
 Peter Dizikes 記者による2020-9-11記事「How hunting helped shape elite society」。
       MITで歴史を教えているゴールドバーグ教授の新刊『中世初期フランク王国における狩猟の研究』によると、シャルルマーニュは、60歳を超えてもまだ軍事指揮官としての能力は維持しているんだぞということを人々に示すために、大掛かりな狩猟を催していたという。

 中世貴族の狩猟対象は、赤鹿と野猪が筆頭で、その他、熊からウサギまで、なんでもありだった。鷹狩りもあった。
 ただしにいずれも、生活のため――喰うため――にしていたわけではない。すべて欧州貴族たちの狩猟は、純然たるレジャーだった。

 欧州において狩猟イベントにスポーツ社交儀式的な重要性が与えられたのはシャルルマーニュ時代である。それ以前は、狩猟する王を讃える詩人すら、いなかった。

 ローマが支配していたとき、野生の鳥獣は、誰であれ、それを殺した者に権利があった。しかしシャルルマーニュはそのルールを変えた。彼以降、すべての野生動物は、王の潜在所有物ということにされたのである。
 「密猟」の罰金は巨額で、事実上、逮捕された平民は、奴隷に落ちるしかないほどだった。

 ※それは資源の減少と関係があるだろう。としたら、下級貴族はまさに生活のために狩猟を必要としていたのではないのか? それは罠猟が、効率的だっただろうが……。

 次。
 Ian Bogost 記者による2020-9-11記事「Your Phone Wasn’t Built for the Apocalypse」。
   北米。大規模な山火事で空が赤い。しかしそれをスマホの写真で撮ってやろうとすると、なぜか 赤い空が 灰色に写ってしまう。
 これは、スマホの中のAIが、勝手に空の色がおかしいと判断して、補正するからなのだ。
 あまりに異常な天変地異を撮影するのに、スマホのカメラ機能は、じつはあまり適してはいないのだ。



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!

旧資料備忘摘録 2020-9-13 Up

▼林重生ed.『満州の城』康徳9年10月pub.
 ※満州建国10周年出版。

 日本では磚は寺院の床敷に使うのみ。
 シナでは磚のおかげで石垣を方形の統一材料で積むことができる。

 日本の城壁が3間(6m)平均で低いのは、山を利用するから。
 シナは土地がまったいらなので、城壁だけが防禦のたのみである。ゆえに4~7間(8m~14m)の高さは欲しい。この高さを実現しようとすると、壘は必然、厚くなり、壘上も広い。

 またシナでは濠は浅くて狭い。水がないし、冬に凍結するので。
 矩形波のようなスカイラインを「女墻」という。日本では、そんな築城をする代わりに、楯を並べる。

 城内外の「植え物」は、気候的にそれが可能な南支でもやらない。日本だけ。
 シナでは壁こそが城なのだ。壁を突破されたら、あとは手を挙げるしかないのだ。

 シナ城壁には「防水室」の機能もあった。それを初めて指摘(pp.22-3)。
 一昨年の北支の洪水で現地邦人が感心し、悟ったのである。

 十年前に○○城に立ち寄り、楼門を測ったら、スパイ扱いをされた。シナ人は今でも城壁を有事のたのみにしているのだ(p.24)。

 欧州では、パリを筆頭に、19世紀には、旧市壁が環状道路に化している。
 この当時、日本人は満州の古城を壊しまくって、都市再開発していた。

 高句麗と、明代の女真に、山城の伝統があった。その中間の、遼と金にも。
 今のように煉瓦を積むのは明代以後。それ以前は土城ばかりである。泥を焼かない、日干し煉瓦。

 元朝より以後しばらく、首都というものがない。よって清代まで大きな城はつくられなかった。
 明代の満州の城のビッグ8は、遼陽城、北鎮城、開原城、奉天城、義県城、海城城、興城城、金州城。

 すなわち奉天は、首都でありながら、5番目の規模の城しかなかった。
 遼陽城は、漢人が、城壁の長大をもって威勢を示そうとしたものであること、うたがいなし。

 清の太祖は遼陽を攻略すると、近くに小さな東京城を築いて住んだ。
 漢人式の城郭は巨大すぎて却って守ることができないと知っていたので。

 明代の壁は、表面のみが甎。内部は泥である。
 明代の甎はサイズが大きい。
 清代に小型化し、表面のスジ模様がなくなっている。

 火薬が普及し、木造の多層門楼など役に立たなくなっても、漢人はその意匠にこだわった(p.31)。
 今、その構造がメンテナンスされて残っているのは、北京城だけだ。

 宋代から火薬が使われ、門の前にコの字を付け足すようになった。甕城という。
 シナの木柵は、丸太を、密に1列に、人の身長の3倍くらいの高さに、植立する。

 今日では、塀の上に、鉄条網を2条、引く。
 茨城、葛城、柵城、竹城、石城などの名は、すべて素材に因む。
 ちなみに満州には竹も葛もない。
 さらにまた、四平からハルビンの間は、土ばかりで、石も得られない。

 バビロン、アッシリアは、耕作に適した土地であったが、その代価として、石が得られなかった。だから、土城なのである。
 天日で干した泥煉瓦は、雨でも崩れる。
 そこでバビロンでは、一部を、焼き煉瓦とした。

 シナでは版築といって、板囲いの中に粘土を積んでいき、表面を漆喰で防水する。水攻めにも耐え、大砲2~3発にも堪える。

 大宰府の水城は、柴と土を交互につきかためてあった。この起源もシナ。
 明代には大砲の脅威が本格化したため、さすがに、石城が増えた。

 ※この著書の惜しいところは、大量のレンガは石炭で焼くしかなかったという試算ができず、「木材が豊富だったのだろう」などと書いていること。

 漢代には、一県一城の制度だった。※県は日本の町相当だから、町の枢要域を囲繞する都城はひとつで、あたりまえなのである。

 高句麗を国史は高麗と記した。
 フィンランド人はもともとウラルの東、シベリア西部に住んでいた。
 マジャール人はアルタイ起源である。
 朝鮮人は貊といい、もと、モンゴル南部にいた集団。匈奴に逐われて、百済までやってきた。

 隋の煬帝は高句麗攻めに親征したが、遼東(=遼陽城)を抜けないで、師を班した(帰国した)。
 唐の太宗が貞観18年に親征して抜いたが、安市城に阻まれた。
 ようやく高宗が亡ぼした。皇紀1328年。

 満州では常に奉天と遼陽が、満漢2民族の争奪の焦点。
 奉天の外城は、民国に至って、次第に崩壊し去った。このたび、日本政府が、内城も壊すことにした。
 盛京城を満語でムクデンという。盛清の世にその名が世界に定着した。

 皇紀2079年6月、倭寇を望海城で全滅させている。
 遼陽県の東の岩州城。これをなかなか落とせない唐太宗、一計を案じて、雀の尾に硫黄を結んで放ち、さらに火箭を放つことで城内の糧草を発火させ、落城させたという。

▼服部文四郎『戦争と外資』大4-3
 ※著者は早大の教授。

 1904-2-20から1905-8-31のあいだ、ロシアは14億3千余万円、日本は12億1千余万円を支出した。
 ところが英国はすでに1899-10-11~1902-5-31の南阿戦争で、21億1千2百余万円を費やしているのである。

 かようなさすがの英帝国といえども、1901のトランスバール戦争では、戦費の一部は外資を米国市場から調達するしかなかった。

 今はわずかの正貨の上に信用はうずたかく積まれている。
 この正貨の、国境を越えた大移動は、信用崩壊や流出国の経済緊縮を招く。
 そこで、外国市場で募集した外債は、そのまま外国銀行に預けておくのが仁義になっている。これで自国の通貨も膨張しない。

 ロシアがあれだけ借金してなお外債が下落しなかったのは、Goldが外国に置かれていて、しかも外地において巧みに運用されていて、国内では銀と紙幣のみを流通させ、信用を維持したから。

 ドイツが強国化したのは、政府の統制のせいではない。国民に自助独行の精神があるからなのだ。これを日本の官民は勘違いしている。天野為之いわく。政府は経済から手を引け。

 英国はWWIの勃発時には銀行のモラトリアムを宣言している。
 もっかのWWIの戦費。英は1日1000万円。仏は1日1400万円。独は1日2000万円という。

 糧を敵に求めたナ翁すら、戦争は一に金、二に金、三にまた金、と言った。
 ヲッペルいわく。世界貿易額の1割以上を占めたら、商業上の一等国というべきだ。

 日露戦争の経費17億円は、税で3.5億、公債で13.5億を賄った。後者のうち外債はつごう四度で8億円。すなわち戦費の半分は外資であった。

 ※関係ないが、大正12年の成田図書館は、夏は7時から22時まで開館していた。そしてなんと、年末年始をのぞいては、毎月1日しか休館していなかった。すばらしいぞ!

▼『続群書類従第二十輯』大12-5pub. 所収、巻第591「島津高麗軍記」
 淵辺晝右衛門 覚書「島津家高麗軍秘録」。

 首は切り捨てにしてきたので、次の日に「首集め」をした。
 そして城の大手口へ15間の大堀を掘って、首を「築込」んだら、大塚になった。
 20日ほどで腐り、余地もなくなったので、さらに20間の掘をつくった。その塚は今もある。

 帰国出帆は11月17日、辰の刻。
 途中、義弘の軍が多数、相繋留しているところへ、敵船が偶然やってきて、攻撃に移り、半弓を射、熊手をかけ、塩硝壺に火を入れてこっちの船に投げ込んできた。

 〔忠恒公は?〕拾五匁の御鉄砲を御持ちあそばされ、帆柱に腰かけた。
 ※この「匁」に編者が注をして「貫カ」と疑問出ししてある。

▼『海軍水雷史』S54
 1870まではtorpedoは機械水雷のことだった。
 英国初の魚形水雷は331ポンド炸薬。1864年に実験開始。
 ホワイトヘッドの魚雷(保式)は、16ポンドのダイナマイト。

 深度を一定に保たせるのは1958にホワイトヘッドが考えた「横舵」。俯仰を感ずる重錘と、水圧板センサーで、空気ピストンの弁を調節させた。

 1877に二重反転スクリューの発明あり。トルクを打ち消す。
 1884、ウールウィッチで、ペラの前に舵を配置した。

 1894、オーストリーの発明。ジャイロスコープをセンサーとする「縦舵機」。左右にもぶれないで直進できるようになった。
 以上は、すべて圧搾空気のみを動力とする「冷走式」。

 日本はM17にシュワルツコプフ魚雷(炸薬21kg)を200本輸入。朱式八四式という。
 日清戦争にはこの八四式(1884)と、朱式八八式(1888)を使用。

 日本が採用した冷走式魚雷。
 30式B型。炸薬52kg。
 30式18インチ。炸薬100kg。
 32式14インチ。炸薬50kg。
 32式18インチ。炸薬90kg。
 34式18インチ。炸薬90kg。
 37式18インチ。炸薬100kg。
 38式1号。炸薬100kg。
 38式2号A。炸薬95kg。

 保社の親会社もアームストロングだった。
 S3に英が酸素魚雷を完成したと聞いて、研究を本格化させた。
 93式は、球状尖のとき、キャビテーション震動で自爆か。

 潜水艦用の95式は、球状尖のままインド洋に散ってしまい、手遅れ。
 航空用の91式は、初め炸薬150kgだったのが、最後は420kgになった。

 95式1型 炸薬400kg。
 95式2型 炸薬550kg。

 94式1型(97大艇用で酸素魚雷だったが、中止)

 97式 炸薬350kg。
 96式 炸薬400kg。
 98式 炸薬350kg。
 2式 炸薬350kg。
 5式 炸薬 約70kg。

 魚雷研究体制を強化したのは平賀譲中将・技術研究所長(大15末)。
 カーリットで金属塊を射ち出す弾頭も考えたが、×。
 大12頃まで、海廠の使命は「量産」であって、研究や実験は片手間であった。

 KK長崎兵器製作所の魚雷生産数。
 大7に50本、大8に116本、大9に180本、大10に180本、大11に250本、大12に387本、大13に400本、大14に450本、大15に500本、S2に350本、S3に350本、S4に350本、S5に350本、S6に340本、S7に276本、S8に300本、S9に300本、S10に360本、S11に340本、S12に380本、S13に516本、S14に600本、S15に660本、S16に960本、S17に1800本、S18に1970本、S19に2810本、S20に1441本。

 米はMk-13改(航空用)、Mk14/18(潜水艦用)を後半戦に投入。『大和』を沈めたのはMk-13改であろう。
 対潜用の超低速 Passive Horming 魚雷 Mk-24も、1942年から数千本、製造している。
 末期の米潜水艦用は電池式が65%に増えた。これは先行するドイツに刺激されてついに完成したもの。

 米は1943に研究会を開き、1944に大改善した。
 1944には、三次元 active horming まで完成。

 戦後、酸素魚雷に興味を示したのは英国で、数本を目前で実射させた。米国は、口頭尋問のみだった。

 91式は、S3頃、英国保社の星型8気筒を模し、S4頃試作。全785kg、炸薬150kg。
 同改一はS9~15年に製作。全838kg、炸薬170kg。上部は空室とした。マレー沖に使用。
 同改二はS15~16年に製作。全840kg、炸薬204kg、真珠湾に使用。
 同改三は、空スペースを埋め、炸薬240kg。※235kgがより正確か。

 91式改三(改)は、S17~18年、天山用に強度を高めたもの。炸薬240kg。
 改三以降のものには、別注の実用頭部がつけられる。改三、改四、改六、改七。

 91式改五(S19~20)は、改三(強)の、そのまた強化バージョン。
 S20-4以降に、四式一号空雷二型および四型。
 二型は、984kgで炸薬305kg。四型は1108kgで炸薬418kg。

 91式魚雷/四式空雷 は、横浜・川棚・光の3工廠と、民間の長兵(長崎兵器)でつくられた。径45cm。
 94式は長兵でS13~S16につくられ、径53.3センチと径45センチの2タイプがあった。

 『長門』級には径53センチの6年式魚雷発射管×4が、舷側と直角に食い違いに備わっていた。S11大改装で撤去された。他の戦艦には、搭載されたことなし。

 88式機雷は、ドイツの特許を大12に買って造ったもので、潜水艦から撒ける。
 機雷の炸薬には、下瀬六稜、下瀬成形(1921~)、下瀬鋳填(1933~)、八八式、九七式、一式、K3  があった。
 爆雷の炸薬の種類は、下瀬か八八式のみである。
 爆雷本体のいちばん古いのは八八式(S5採用)で、いちばん新しいのは三式(S18採用)。その炸薬量は、50kgから149kgであった。

 水分20%の湿綿薬。M11に買ったシュワルツコッフ魚雷に入っていたもの。
 M24に独から綿薬のみ輸入。下瀬火薬とくらべると3~4割弱い。

 S9に九四式爆薬。短い期間だが、採用された。トリニトロアニゾール6割+ヘキシール(ヘキサニトロヂフェニルアミン)4割。

 九七式爆薬。S10頃、ドイツから教えてもらった。下瀬火薬より強力ながら、安全。トリニトロトルエン6割+へキシル4割。

 九八式爆薬。トリニトロアニゾール6割+ヘキシール4割の混融爆薬。当初は投下爆弾用。のちに魚雷頭部にも採用された。WWII中、この炸薬を充填した魚雷が被弾によって自爆した例は報告されていない。

 機雷用の八八式爆薬は、カーリットのことで、S5に制式採用。
 成分は、過塩素酸アンモニウム75+珪素鉄16+木粉6+重油3。全体が粉状であるものを、圧填する。

 過塩安は、食塩と電気から製造できる。したがって資源難の問題はまず無いことが好感された。
 ただし被弾したりすると誘爆しやすい。対米戦の緒戦段階で、ウェーク島沖で敵F4Fからの銃撃だけで日本の駆逐艦が沈められているが、その原因が、搭載機雷の爆発だったらしい。この件以後、沿岸に敷設する防禦用機雷だけに使用は限定されたという。

 S17-1に、機雷用として一式爆薬が採用された。成分は、ピクリン酸アンモニウム81%、アルミニウム粉16%、木粉1%、重油2%だったが、アルミ資源が足らず、大量生産できなかった。

 そこでK1 からK5 までの、代用爆薬が考案されている。すべて機雷用。被弾には安全であった。
 K1 の成分。過塩安80+珪素鉄8+タルク10+クロルナフタリン2。
 K2 の成分。硝安89+コールタール6+木粉5。
 K3 の成分。過塩安42+硫安37+珪素鉄20+クロルナフタリン1。
 K5 の成分。過塩安55+硫安29+珪素鉄10+木粉5+重油1。

 このうちK2 は、過塩素酸アンモニウムすら足らなくなってきたので、考えたという。
 ※K4 は欠番か?

 採用された年・月。
 下瀬火薬は明治26年1月。八八式爆薬は昭和5年10月。九四式爆薬はS9-4。97式爆薬はS12-8。98式爆薬はS13〔何月かは不明〕。1式爆薬はS17-2。

 94式、97式、98式は溶かして鋳填する。1式とKシリーズは粉状である。

 戦中の日本海軍は、駆逐隊1隊で、敵戦艦1隻と刺し違える構想だった。
 航空魚雷の製造数。実績値。S6~S16は1552本。S17は1400本。S18は1670本。S19は3030本。S20は2471本。

 S20年には航空機雷も1万3000個生産した。
 S17までは、魚雷生産は長崎兵器のみである。
 S18頃、水中ロケット魚雷も考えた。

▼『月曜会記事』vol.11(M19-5)禁発売
 雪堡侵徹力試験。
 村田銃で200碼[ヤード]先から射撃してみると、最大で1.7m侵徹した。平均値は、1.495mである。
 ※照尺がまだヤード単位だった時代。

 この時点での日本の師団の行軍。2個旅団=12個大隊。それが5列で進む場合、砲兵、工兵、輜重、衛生隊を含め、全長1万500mになる。その後方1500mにはさらに大行李が続く。
 列のことは伍という。二伍なら1万7000mの長さになるだろう。

 大行李とは、糧秣、炊爨具、公用&将校用荷物。要するに宿営で必要になるもの。
 小行李とは、予備弾薬と繃帯所。戦闘行李とも言い、戦闘に必要なもの。

 論点。毛布の個人携帯をやめて、個人用の炊爨具を持たせてはいかがかと。

 かつてアルダルヂュピック大佐は言った。兵事に関し、経験よりも忘れやすいものはない、と。
 仏では銃剣廃止論がある。連発銃ができたので。
 1866普墺戦争では、銃剣使用の白兵戦はただ1回のみ。
 1870~71の普仏戦争では、白兵戦は一度も生起せず。
 1877-8の魯土戦争では、ロシアの標語「弾丸鈍し 銃剣ひとり鋭し」/スワロフ&ヲクーネフ を実行しようとしたがダメだった。

 仏支戦争、トンキンの役、スダンの役でも、銃剣使ったことなし。

 昔は歩兵が100mの間合いをつめるあいだに敵兵から2回しか射撃を受けなかった。
 当時、銃剣は、977グラムより軽いものはない。
 兵隊が、最前線で躍動をくりかえして、いちばん疲れているときに、筒先に600グラム以上の重しをつけられたら、もう狙撃なんてやってられるものじゃない。
 この仏人は結論する。銃剣は、長さ10センチ、重さは100グラムでもよいのだと。

 仏は1878クリミア戦争の後に、携帯毛布を廃した。

▼『月曜会記事』vol.12(M19-6月号)
 日本の近くの給炭港。ヨコハマ、香港、ラブーアン(今のボルネオ西岸)、シンガポール、フィジー、濠南に2箇所、セイロンのツリンコマリー、インド西岸のボンベイ。これだけ。

▼『月曜会記事』vol.13(M19-7)
 意義両様にわたる字を忌む。
 軍用の日本語の文章が意味不明瞭であったら、それは敗戦の好材料となるのみ。この虚飾や曖昧、冗長、繁雑を、いま矯めなかったなら、いつ改革ができるのか。

 M19-1月~6月の講演で、馬丁の慣習服制の改革を議論していた。

▼『月曜会記事』vol.14(M19-8)
 この時点で幹事として、兒玉源太郎大佐、東條英教歩兵大尉、砲兵大尉有坂成章。会員に、永沼秀父・騎兵少尉ら。

▼『月曜会記事』vol.15(M19-9)
 さきに明治13年 兵語字書 が刊行されている。しかし今日の兵書と対照すると、今では、同じ意味のことをあらわす言葉が、ずいぶん変わってきている。このさい、あたらしい字書が必要だ。
 ※同じことが、『偕行社記事』にも寄稿されてなかったか?

▼『月曜会記事』vol.16(M19-10)
 脚気を解消するために、コメと魚をやめ、パンと牛肉にしようとしたが、兵がうけつけなかった。
 理由。調理の「塩梅」が激マズであった。このさい、厨卒を置いてはいかがか?

 この頃、福島安正も歩兵大尉。

▼『月曜会記事』vol.17(M19-11)
 わが村田銃は、欧州の著名の軍用銃、すなわち「グラー」「モーゼル」「ボーモン」等の諸銃とその性能が伯仲している。堅牢さについても、昔日の国産銃はもちろん、「スニーデル」「ドレィーズ」「シャスポー」等が、しばしば撃針が折傷したり、着剣を固定する駐梁〔いまのレールに相当〕が脆弱だったこととは、もう同日の論ではない。

 日本では、銃を傷めないように、銃剣の着脱や木製薬筒の装填も新兵に実際には操作させず、「手まね」だけで練習させていた。

 仏海軍がクロパチェック連発銃を採用するに際しては、装填したまま落下させたり、射撃後に掃除しないで5日間放置したり、船の上に2日さらすなどのテストをした。

 「新艦畝傍号」が地中海の鍛鉄造船会社で本年4月6日、進水式。18ノット以上出るはず。
 甲鉄艦で、浮游線〔喫水線のこと〕において防水区室を設けた巡洋艦。
 鉄甲板は亀甲型をなし、舳より艫に達す。
 甲鉄甲板 上方は 厚さ5ミリ×2枚、間隔45センチ。57隔室に分かれる。
 各鋼鈑間は、栓材(キルク)を填実。
 諸機械 および 汽罐の上方にある区室は、ことごとく煤炭庫〔=石炭庫〕となす。
 他の区室は水雷庫 および 雑品庫。
 隔壁中にも「隔障」を設け、40個の独立区室に分けている。よって計97防水区室。※それで沈んだんかい!

 甲板は50mm鋼鉄と10mm鉄鈑2枚を螺子止め結合。
 砲は24サンチのクルップ砲×4門。
 砲壇製 半円郭内にあり 水平射扇形は170度。
 15cmクルップ×7門 船楼上にある(1門は舳樓)。
 以上すべて、ワ゛ワ゛ソール、カネー式砲架。

 その他、神速射撃の6斤「ノルデンフヱルト」砲2門、口径25mmの四砲身を連合したる「ノルデンフヱルト」霰発砲10門、ガトリング霰発砲4門あり。
 カネー式自動水雷射筒×4 水平射扇70度。

 福島安正はインド旅行までしている。

 ※vol.19~vol.24(M20-1月号~M20-6月号)の国会図書館の蔵書は欠。

▼『月曜会記事』vol.27(M20-9)
 例会で、日本刀は将校軍刀の中身に適当か否かを質す。

▼『月曜会記事』vol.29(M20-11)
 1877~78の「露土」戦における銃火の威力をクロパトキン少将が演説。
 連発銃を採用するなら「ベルダン」小銃より重くないこと。肩付けしたまま連発できることを望む、と。

 野戦歩兵に「機関砲」を応用する考案。英海軍誌の記事。
 「機械砲」とも表記している。ガートナー、ガットリンク、ノルデンヘルト、ホッチキスがある、と。

▼『月曜会記事』vol.30(M20-12)
 連発弾薬嚢付ベルダン銃 ※皮ベルトに実包を固定する方式らしい。
 モシン式連発銃 11連発。

▼『月曜会記事附録』(M21-7月)
 励軍要【言票】。フランス軍の美談集。面白し。
 マルセイエースの漢詩訳も。

▼『月曜会記事』vol.8(M21-8)※なぜか通し番号をやめてしまったらしい。
 「夏帽」をつくれ。香港で英将官がかぶっている防暑帽はよさそうだ。

▼『月曜会記事』vol.10(M21-10)
 北海道屯田兵の概況。明治8年に始まった。
 携帯兵器はレミントン銃である。すべて。
 下士官と兵は、草鞋である。

 連発銃雑説/長岡外史。
 このごろ日本では、連発銃に関して、議論が低調で、よくない。先月、藤井砲兵大尉がそう言っていた。
 ドイツでは1871式モーゼルを連発に改造する決定が1884になされたが、その84式の完成とどうじに、小口径化の時代となり、8ミリの別物を開発している。
 フランス軍は、まずクロパチェック銃を交付し、ついで、ルベル8ミリ銃に移っている。
 墺は、11ミリのマンリッヘル連発銃を採用したが、仏のルベルに刺激され、小口径化を検討中だ。

▼防研史料 『昭和4.10~5.3 研究審査現況表』/陸軍技術本部
 大9-7-20に、3年式MGを7.7ミリの改造する方針。この時点で試作は完了している。
 13ミリMGは、「保式」高射MGと、「造兵廠案」がある。
 大15-5-25に「自動短銃」案。

 戦利「ベッカー」砲をもとに、航空機用20ミリMGをつくっている。※ドイツからの賠償品。飛行船に搭載していた。
 大9-7-20から6.5ミリの「曳煙弾」を研究。大14-3にテスト。
 大12-11-1、重擲弾筒とタマ 「上申準備中」。

 大9-7-20、「七糎半自動車高射砲用自動車」。大14頃にできていたが、差動機がうまくいかず、全般に構造も弱すぎ、使い物にならぬ。その後、AAは牽引式とされ、本車両の研究はS2-3以降中止。※ガッゲナウのトラックのマルパクのようなものだったかと想像される。

 重戦車。大14-6に設計着手。S2-7下旬~8月上旬、大造で竣工試験。

 水陸両用装甲自動車は、大14-9設計着手、大15-9に製作図略案了。水陸両用戦車の前提として、大15-10月、試製審査を上申。造兵廠に注文した。東京工廠で試製完了。9月、予備試験。11月、富士裾野、沼津海岸でテスト。軽量・高泳速化し、S4-6修正試験。
 フィアット軽戦車を研究中。

 「突撃用具」として、無線操縦の爆薬車。大9-7に研究開始。今、3トン半牽引車を改造中。

▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(一)』
 S17-10時点での20cm臼砲 試製一式榴弾 炸薬量は12.610~12.860kg。
 S18-3時点での試製21cm榴弾砲 先鋭弾 甲 炸薬13.200~13.700kg、乙 12.970~13.153kg。 乙は被包2.150kg含む。
 90式榴弾の威力範囲は16m。

 試製2式爆雷(対潜用)。
 全備重量77~114kg。
 炸薬 43.6~79.9kg。茶褐の溶融直填、廃茶褐の塊を入れ溶填、茶褐を粉状に填実、廃茶褐薬の塊と粉状薬を混ぜ填実、カーリットを填実、があり。
 「カ号」からも落とした。
 ※陸軍がASWを分担していたのである。

 S18-6、十五cm加農用 試製 水中弾。炸薬7.140~9.794kg。
 S18-6、試製96式24榴。
 試製一〇〇式破甲榴弾 炸薬11.540~12.986kg(被包ふくむ)。
 試製一〇〇式榴弾 炸薬18.310kg。

 S18-7、一技研 十八年度研究計画の改訂。
 戦車用のAAMGは中止。
 AA「サ」弾の研究を促進。※散開or散布弾。海軍砲のタ弾のようなもの。

 AA用は、20ミリ、37ミリともに焼夷弾を採用し、榴弾は廃止。※陸軍の37ミリの高射砲とは何なのか謎。特殊な台座に載せてATGをAAGに転用するつもりだったのか?

 噴進式 超低空用阻塞弾。
 舶用のAAMGの動揺キャンセル台座を、実験していた。

 小銃用タ弾。 有翼弾だと弾速が低下してしまうので旋転式にする。99式手榴弾発射用のカップを共用できるよう45ミリ径のものを作る。弾体はジュラルミン。

 試製7センチ ろ弾 ※ロケット弾。
 炸薬量 580グラム。

▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(二)』
 臨時高射用船載砲床(90式野砲用)のクリアーな生写真、貼付。
 94式山砲用もあり。すごい。

 94式97ミリ対戦車砲砲用も。車輪の内向きがよくわかる。

 S16-5に、熱地のアスファルト路上で野砲放列布置はどうできるかの研究。
 94式山砲と、37ミリATGのクリアな写真。

 S16-7に、野重の脚を補強する改修をしていた。3~5ミリ厚の鈑を鋲接する当て板式で。対象は、91式10榴、96式15榴、92式10加。 ※あきらかにノモンハンでの脚折れ事故続出の戦訓に対処している。

 99式八高の写真。

 S16-8、馬式57粍砲を利用する対戦車砲研究。
 馬式57粍砲の薬室を改修し、95式野砲の砲架に載せた。
 初速850m/秒。弾重2.7kg。
 しかし、ライフリングの経始が高初速向きではないという。

 94式特殊運搬車。
 ※すばらしい写真 多数。

 S16-7に38式野砲に対戦車射撃用の照準具をとりつける改修の研究をしていた。
 機動91式榴弾砲。「パンクレスタイヤ」であった。

 S16-7の「らく」の説明で、「一〇〇式機関短銃」と表記している。
 降下部隊の擲弾分隊。
 分隊長1。重擲弾筒×4。射手4名。弾薬手8名。弾袋13(各8発入り)。99式短小銃×13。弾薬帯13(各90発入り)。

 92式重機の弾背負袋は540発入り。
 97式自動砲の「弾倉袋」は7発入り。弾背負袋は28発入り。

 手榴弾は99式曳火手榴弾。
 機関短銃は1梃につき300発、持っていくらしい。
 97式自動砲(対戦車銃)は1梃あたり175発。
 擲弾は26発。
 小銃弾は各90発。

 ※44式騎銃の「弾薬帯」を流用するらしい。

 92式重機関銃は1門につき4320発。
 99式LMGは2130発。

 投下筒につめこんだ一〇〇式機関短銃の鮮明な写真。二脚付であるのがよく分る。
 視号通信器(電球を使うもの)あり。

 押収76.2ミリ野砲の応急利用法。
 ノモンハン後(S16-12)、55門あった。

 南部14年式拳銃を4梃固定し、野砲の弾着を縮射する、訓練用の機材があった。

▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(三)』
 15榴を曳くロケのすばらしい写真。
 99式7センチ半戦車砲(S17-3)。

 15加を曳く13トン牽引車。
 試製1式37ミリ対戦車砲。

 魚雷射撃の目的を以って、7.7ミリと20ミリの水中弾道テスト。
 ※これは米潜水艦に味方兵員輸送船が次々沈められてしまうのをなんとか自衛させたいという陸軍の苦肉の研究。

 20ミリは水深5mで10mm鋼鈑を貫く。7.7ミリは水深2mで3.5ミリ鈑を貫くが、3mだともうダメ。
 この20ミリは、弾丸全長4.5口径、初速890m/秒。

▼防研史料 『昭和十三年 支那事変兵器蒐録 第一~第四輯』〔中央軍事行政 兵器 30〕
 陸軍技術本部が、自軍兵器の欠陥を報告した極秘資料。

 戦車は、直接式展望では安んじて戦闘し得ない。ガソリンエンジンは不可。八九式戦車の足回りは実用価値ゼロ。他の部分は満足できる。

 軽装甲車は、武装以外はよい。
 指揮官用戦車はダメ。少しでも外見が異なった車体は、敵が見て指揮車両だとすぐ察するので、敵火が集中してどうしようもない。補充もできないし。

 S12の支那は30年来の大雨。泥が酷かった。
 戦車の装甲は前面は二重とするを可とす。※7.92ミリの小銃弾ですら、破片粉末の飛び込みで負傷者続出したということ。

 95式軽戦車は敵前百米に達する前にぜんぶやられるだろう。
 トラックは次の順に好評である。隅田>千代田>フォード>シボレー>日産>豊田。

 96式15榴に、92式5トン牽引車は、駄目だ。
 89式戦車に敵の迫撃砲がダイレクトヒットしたが、無事だった。※迫撃砲の場合、それはあり得る。

 ライフル、MG弾は、ピシリという音を聞くのみである。しかし対戦車砲には抗堪できない。
 排気鎧戸の方向が砲塔に向かっているのは失敗設計だ。夏は、停車中、たまったものではない。
 空中線〔=アンテナ〕は木にひっかかったり、敵弾によって破損させられやすい。

 記号旗を出しただけでも敵弾はその一車に集中する。外形の異なる指揮用戦車など、将来は不可。

 軽装甲車からMGを射ちかけても、支那兵は逃げない。しかし37ミリ砲を1発撃てば、直ちに潰走する。其の精神的効果は到底MGの比にあらず。
 ※日本のTKGは敵兵追い散らし兵器だった。
 ※92式HMGは地上に降ろせば遠距離狙撃兵器だが、車載すれば精密狙撃が不可能で、サイクルレートは低いし、7.7ミリだしで、無価値に等しくなってしまう。ましてLMGの改造品では……。

 戦車に追及し得たトラックは、制式6輪乗用車と、制式6輪トラックだけ。ビック乗用車〔ビュイックのこと〕、側車、4輪車はまるだダメで残置。6輪も民間徴発のものはタイヤ幅が狭くてダメ。

 97式戦車は、小銃弾の飛び込みが多く、鉛粉による負傷が多い。
 拳銃用の孔は、たいへん有効だ。

 37ミリ対戦車砲弾は、「法線上」でなければ貫通されない。※車体正面の中央稜線か?
 チェコ軽機のタマは最大6ミリ侵徹し、頭部が嵌入することがある。

 空中線〔鉢巻アンテナ〕は目標となって、ダメ。付けるなら偽アンテナを全車につけろ。
 縦方向のスリットは、無価値である。

 94式軽装甲車のドライバー正面の垂直壁の部分は、MGに連射されると貫通されてしまう。
 銃塔は、傾斜地では、回せなくなってしまう。

 戦車は支那軍に対しては顕著な威力がある。89式戦車が敵前に停止して射撃を開始するだけで、敵陣地は動揺し始めるのが看取される。捕虜も「戦車は魔物」と話し居れり。

 敵に今の2倍の空軍があったら、ダメかもしれない。
 こっちが飛行機を飛ばすと、敵の砲兵も機関銃も射撃を止める。

 砲兵。追撃フェイズでは花形は十加と24榴である。なぜなら、トラクター牽引だから。
 十五榴は、それらの後塵を拝しつつ、あえぎあえぎ、痩せ馬に鞭を打って進む。
 悲惨なのは古い輓曳の三八式15Hなどで、殆ど徒歩臂力輓曳となり、馬は7~8kmも後方に残されている。

 歩兵弾薬は、重機、重擲、小銃の順に多い。しかし小銃用の携行弾薬は、まだ多すぎるのではないか。

 城壁に対しては、砲弾の信管を短延期にすると、ハネ返る。
 手榴弾は不評。改正品は可。支那軍のものは更に可なり。

 わが損害の半数は、敵の迫撃砲弾による。

 日本軍の手榴弾は、補給が乏しい上に、使用法が面倒で、威力も敵の手榴弾より劣る。比べて、敵の棒付手榴弾はすばらしい。だからわが兵は競って支那兵の死体から棒付き手榴弾を蒐集して、それを使って近接戦闘に臨もうとする。遺憾なのはその補給はすぐ尽きるので、それさえあれば成功疑いなしの突撃が失敗してしまう。

 断尾式の手榴弾は効力が極めて少ない。※明治41年の着発式の手榴弾らしい。
 畑地では十分に上に投げ上げないと不発になる。よって、遠投ができない。

 改良38野砲は、重すぎる。過労のため、斃死馬520頭を出せり。
 92式十加は、尖鋭弾+1号装薬で、大架が曲がる。

 96式15Hは、信頼度大。トラクターもよい。
 側車は無用の長物なり。寒冷期にどうしようもない。

 フォードのダブル(タイヤ)のトラックは良い。
 保護6輪も。
 噂では、シボレーはフォードより評判が悪い。

 戦車の2枚ハッチはダメだ。衝撃で開いてしまうし、継ぎ目から鉛粉が飛び込む。
 土壁突入の必要があるから、車体は尖らせて欲しい。

 戦車砲は、駐退復坐に2~3秒もかかるので、そのあいだに隙間から敵弾が飛び込んでくる。

 追撃モードでは、工兵はまず15Hと15加を通す橋をつくる。これを13トンの89式戦車は渡れない。だから中戦車の全重を、15加なみに軽くしろ。

 敵の7.92ミリ弾は、15ミリ厚の装甲を貫通する。
 戦車砲を3発、あるいは車載MGを40発以上射つと、眼は痛くなり、頭は重くなり、手足は震え、号令は耳に遠く聞こえる。※一酸化炭素などの「あとガス」が悪く、その排気システムが無かったのである。

 軽装甲車は100m以内では7.92ミリ小銃弾に射ち抜かれる。
 94式軽装甲車の主火器としては6.5粍MGが搭載されているが、これは7.7ミリMGか37ミリ砲が最低でも必要だ。

 水陸両用車は虚弱で、実用価値は更になし。
 重擲のミニマムレンジ内では、歩兵部隊の支援重火器は手榴弾だけとなるが、その手榴弾が国産品はロクでもないものばかりなので、最後の突撃が頓挫してしまう。
 着発式手榴弾は、敵トーチカに放り込めない(不発になる)。

 綿畑では弾着の観測がむずかしい。HMG用に曳光弾をくれ。

 92式歩兵砲のシールドは、400mから敵の7.92ミリ弾で貫通される。
 95式軽戦車の装甲鈑のボルトは、植え込み式にしろ。特に神戸製鋼製。
 95式軽戦車は、対錘(カウンターバランス)つけないと、わずかな傾斜地でもターレットを回せない。

 95式軽戦車には、89式戦車にはない伝声管がついていた。
 バッテリーは自家充電ができなかった。

 なぜトラックはワイヤーブレーキなのか。汽車輸送で固定するとき、油圧系のパイプは壊れる。戦場で漏れたオイルは補充などできない。

 フォードは燃費が悪いが馬力(発力と言っていた)があるので良い。
 戦車をいちど残置すると、部品を剥奪され、二度と使い物にならなくなる。
 水陸両用戦車に装備されている反射眼鏡〔ペリスコープ〕は実用的だ。

 収束手榴弾でドライバーズハッチをやられた94式軽装甲車がある。
 城門破壊のために94式軽装甲車に工兵を便乗させたのは、大成功。うしろにハッチがあるので。これがあれば、工兵の装甲作業機などいらないと分った。

 94式軽装甲車には、旧型履帯と新型履帯があるらしい。
 村井部隊は、92式重装甲車も使っていた。
 作戦途中で、37ミリ戦車砲付きの軽装甲車×4両が投入された。

 クリークでは95式軽戦車は往生した。むしろ古いルノー軽戦車が通過できた。
 乗員2名の軽装甲車でも、1ヶ月の連続追撃はできる。

▼防研史料 『昭和十三年 支那事変兵器蒐録 第六~第八輯』〔中央軍事行政 兵器 31〕
 ※第五輯は欠らしい。惜しい。

 MGは夜間に弾着を見たいから、曳光弾が必要である。
 日本の戦車の57粍砲身は、敵歩兵の7.92ミリ弾で、横から貫通されてしまう。