雑誌雑話

 月刊『正論』5月号に、国会図書館で雑誌『正論』の昔の記事を検索できない、というユル~イ記事が載っている。ユルすぎて腹が立った。まさに右翼の弱点はこういうところにあるだろう。必要な情報を公共ストックの中から手繰り寄せる基本的なノウハウすら持ち合わせないのでは、外国に対してはおろか、国内の反日左翼に対してすら、とても勝ち目などない。
 いまはOPACに統合されたと思うが、館外からオンラインでアクセスできる環境ではなかった10年くらい前、国会図書館内の雑誌記事検索PCと書籍雑誌タイトル検索PCは、別建てで、分けられていた。
 そして、学術雑誌ではない商業雑誌の記事データは、どうやら、その商業雑誌が社の自費で打ち込んだ目次データの記録媒体(磁気または光)を国会図書館の雑誌セクションに寄贈することで、補綴充実がなされているように思われた。というのは、雑誌によっては、まったく記事検索不能なものが多かったからだ(たとえば『発言者』に寄稿するようになったとき、礼儀として過去の注目すべき記事をひととおり読んでおこうと思ったが、そもそも創刊号いらいどんな記事があるのか、国会図書館では調べようがなかった)。
 もちろんミリタリー雑誌の過去記事などは、大概、検索できなかった。しかし、中に稀に、検索できるマニア系雑誌もあった。その雑誌社では、わざわざ一人の社員に過去記事データを整理させ、しかも、国会図書館へFDを寄贈していたのだろう。、
 そこでわたしはこれではいかんと考え、勤務先の『戦○マ○ジ○』のバックナンバーを、勤務開始以前の号からさかのぼって創刊号まで、すべての記事タイトルと記事および写真の簡単な説明をワープロ入力し、キーワード検索容易な一本のテキストファイルとして、複数の「パソコン通信」にアップロードした。そもそもの動機は、社員記者としての自分が過去記事の探索を容易にする目的であったが、これを公共にも提示したことによって、日本の戦車学習者は、わたしが勤務開始する前の同誌の記事については、労することなく漏れなく検索できるようになった筈である。
 このような簡易で原始的なデジタルデータベースを、すくなくともすべての雑誌編集部は自前でつくるべきだとわたしは信じていたが、月刊『正論』がそれをしていなかったと判明したのはショックだ。
 昔から、有名どころの商業雑誌(週刊誌を含む)の記事検索がひととおり可能なのは、民営図書館である「大宅壮一文庫」のPCだった。(正論5月号の記者はあきらかに都内にあるこの民営図書館を利用したことが一回もないのだろう。ある意味、感心した。)
 その大宅壮一文庫の充実した先進的なデータベースへは、10年くらい前のある時期から、都立中央図書館のリファレンスコーナー端末からもアクセス可能となったので、愚生などはたいへん重宝したのである。
 ちなみにもし、都立中央図書館にあると分かっている雑誌のバックナンバーを調べるならば、わざわざ国会図書館に出掛ける馬鹿はいない。書庫からの出納に時間のかかる国会図書館と違い、都立中央の方は回転がはるかに迅速で、一日に何十冊でも閲覧することが(閲覧者に体力が伴う限り)可能だからだ。つまり、正論5月号の記者は、都立中央図書館にいりびたったこともないのだ。
 かつて、山手線の内側に居住していた当時、広尾の都立中央図書館で、わたしと同業のほぼ無名ライターたちが、スポーツ誌やファッション誌の古いバックナンバーを次々に出庫してもらって、机上に山積にして過去記事をチェックしている必死な姿を、わたしはいつも見かけた。「こいつらに負けてはいられん」と思うと、眠気も吹っ飛び、連続5時間以上もメモをとるのが苦痛ではなかった(わたしが思うに、フォトコピーは情報整理をすこしも楽にしない。要約力も身に付かない。日本の庶民に読解力がないのは、要約力がないのと、イコールであろう)。
 雑誌『正論』は、大学院生のアルバイトを雇って、過去記事の目次ぜんぶをデータ入力させ、逐次にインターネット公開するべきだろう。その際、記事タイトルから記事内容がぜんぜん推測不可能なものも少なくないので(とくにコラム系)、記事内容のキーワードも併せて入力してもらうことだ。
 ところで、図書館に日参する往復交通費は、積もり積もれば、バカにならない。
 また、社会人になると、時間が貴重になる。
 何年も前に佐藤優氏が、〈活字の書籍くらい情報がテンコモリで取材と整理の手間がかかっていてそれでいてハンディで吸収しやすく廉価なものはない〉(i.e. →これを取得する金を惜しむ者は、情報が人に得をさせるものだと理解できない人間である)――といった見解を述べていたが、まったくその通りと思えるようになる。
 ライターになってみると、ほとんどすべての雑誌は、その中の、一つか二つの記事しか、味わう価値は無いと知る。だが、その一つの記事を載せていてくれることに重い敬意を表して、1冊ぶんの対価を支払う気にもなるのだ。
 もしも、某著者の一つの記事しか載っていないのでその雑誌を買わなかった、と公言する人が某著者の「ファン・サイト」などを運営していたら、某著者は悲しむだろう。もちろん、そのようなことはあり得ないしまたあってはならないことだが、多くの雑誌消費者は、雑誌一冊まるごとが情報娯楽であることを期待している。
 ここから、怖い話になる。
 十年以上前、「二十八」という珍しい名前を、発行人のクレジット(中綴じ雑誌の場合、「表4」の背の近くに縦組みで提示してある)として拝見したことのある「英知出版」が、昔のような雑誌をとっくに出さなくなっていたことを知らされた。
 エロ雑誌などは「その中のたったひとつの写真」だけが雑誌の価値であった。しかし、それに対して数百円を支払うのは惜しい、また、そのたった一枚が含まれているかいないかをコンビニ店頭でブラウジングしてチェックするのが面倒くさい、と感ずる不熱心なネットユーザーの消費者が増えてしまって、斯くはなったのであろう。
 してみるとオピニオン誌や総合雑誌がまだ生き残っているのは、雑誌ぜんたいがトータルで「娯楽」と買い手に受け止められているからだと考えるしかない。
 これは考えてみればおそろしいことだ。保守系の雑誌がサヨク系の雑誌よりも売れているのは、非常にたくさんの「バカ右翼」が一つ一つの記事の内容もよくわからずに一冊全体の雰囲気を買って楽しんでいるからだ、と想像できるからである。
 国際宣伝戦は、このバカ右翼オナニー空間からは隔離された場所で、独立に展開しなければ危うい。「史実を世界に発信する会」は、比較的にこの理想に近いのである。
 余談ついでに説明しておく。わたしが劇画の原作者としてデビューしたとき、既製の脚本家で、わたしの本名とよみ方が全くおなじ人が既にいらした。その字は少し異なったのだが、いずれにせよ営業にはならぬ。劇画と映像とではいちおう棲家は別とはいえ、大先輩もやはり迷惑だろう。そこで、後進のわたしが、敢えて、この業界に二人と有り得ないペンネームを考案せねばならなかった。
 そのときわたしが思い巡らしたのは、将来、じぶんの単行本を出すときのマーケティングだった。本は書店に搬入されてしばらくすれば、平積みではなく、棚に入れられる。そうなると、来店客にアピールするのは「背文字」だけだ。
 背文字だけで目立たせる著者名とする必要があると考えた。
 日本男子の下の名前で、三文字のものは、珍しい。それだけでも、棚のなかで識別され易いだろう。
 そのうえさらに目を惹く工夫はないか? わたしは、「直木 三十五」の名前が目立って感じられることに注目した。理由を考えてみると、漢数字は画数がすくないのと、やはり、小切手や領収書などに記入される「金額」の字面を連想させるので、思わず成人男子の注意がそこに惹き付けられるのではないかと想像した。
 あとは、漢数字三文字で可能な組み合わせのうち、既製にみあたらず、将来も誰もつけそうにないものを、選ぶだけであった。
 というわけで、十年以上前に、英知出版の雑誌の背に「二十八」という実名を拝見したときは、真に驚いたことを思い出す。これを先に承知していたら、わたしのペンネームは、違ったものにしていたであろう。
 国際宣伝戦について生々しく直感したい人は、ブログの「ヴォータンの告白」の2007-3-30の記事に目を通されることを推奨する。
 米国での宣伝戦は、攻勢をとり続けない側が負け犬になる。歴史の真実は、長期的には明らかになるが、短期的には宣伝攻勢をとっている側が、歴史の真実とは無関係に、政治的な勝ち犬になれるのだ。「ユダヤの陰謀」はまったく関係がない。「東部のインテリ都会住人で経済的に不満がある米国人」に、独特の発想パターンがあるだけだ。これについて、アン・コールターの名著の邦訳をまだ読んでいない人は、すぐに読むべきだ。そうした安価な学習すら惜しんで2chなどに日本語で書き込んで満足しているオナニー野郎にも、反近代の大アジア主義バカ右翼にももはや用はないから、わたしたちは「史実を世界に発信する会」をつくったのだ。
 宣伝戦で受け太刀に回ってはいけないことを、何年も前から、わたしたちは日本政府と有志に警告してきた。
 外務省や中央省庁の役人には国際宣伝戦は絶対に担任できない理由も、何年も前から、わたしは指摘してきた。
 そして「図書館データベース問題」は、本の虫だけの問題ではなく、まさに国防問題であることも、わたしは昔から指摘してきた。
 公共図書館が対外ホワイトプロパガンダのためのデータベースをつくらないのならば、個人が、ネットに資料の要約紹介をアップロードすることで、事態を改善すべきだとも訴えてきた。
 しかるに事ついにここに至る。敵は人海を動員して英語で世界のメディアに全線攻勢をかけ続けている。日本のバカ右翼は国内のネット空間に日本語でオナニー文章を書き込むのみ。くわえて、いよいよ反近代の「大アジア主義」のお里があらわれてきた。外務省は、1941年12月のパリ不戦条約違反に東郷外相が積極加担したことを認めることができないので、1946~1948年の東京裁判に関する反論も、P屋への新たな言い掛かりに対する反論も、自粛する外にないのである。
 行動する者は、バカ右翼空間から去り、「史実を世界に発信する会」の手法を学べ。まだ遅くはない。


「西海岸がヤバイことになっている」ことを東海岸は知っている

 日本は石器時代から大国でしたが、大陸からの干渉は、古代を通じてありました。これを遷都によって防遏した国家リーダーが「神武天皇」のモデルでしょう。
 たとえばシナが分裂して北半分が魏になったり匈奴になったり、そして南半分が呉になったり宋になったりする。そのどちらも、朝鮮半島を操ろうとします。
 シナの南半分としては、朝鮮をして北半分に抵抗せしめ、北半分を苦しめたい。
 反対に、シナの北半分としては、朝鮮をぜんぶ合併して、自国の立場を強化したい。
 いずれにせよ、半島を操るには、半島のさらに後ろ側にある日本列島(の西半分)に工作するのが、一つの有利な手でした。
 かたや、日本列島の西半分も、決して一枚岩じゃなかった。
 海流の関係で南シナと交易するのに一番便利だった北九州は、同時に地理的デメリットとして、大陸や半島からの工作をあまりにも受けやすかったのです。それで、日本側からすると、国政の中心地を北九州に置いておくことは、けっきょく不可能でした。
 農耕開発が早く進んだ北九州の南側には、「ソ」(台湾の高砂族とニューギニア人を足して2で割ったような狩猟採集民)が住んでいました。が、大陸からこれら九州のクメ(熊襲)に工作しても、北九州が不安定化させられることはありません。
 そもそも狩猟採集民は森林によって扶養できる人口が限られているために、各部族のナワバリの境界や通路に致死的なブービートラップをしかけて、よそ者を決して入れようとしませんし、その逆に、帝国主義者でもなかったのです。
 ところが本州に住んでいた、「クマヌ・ツチグモ」ではない遠シベリア系の原日本人は、徐々に農耕を覚えるにつれて、帝国主義の味を知り、大陸や半島からの政治工作を容易に受け入れる存在になったのです。すなわちシナ大陸の各派のエージェントたる半島人や武装難民が、日本海側から少数、流入するだけでも、各部族の勢力が俄かに強化され、北九州を東から脅かすことができた。
 ではどうしたら西日本ぜんたいを大陸から独立した境域に保ち続けることができるか?
 紀伊半島のクメと結託して、今の京都付近に経済・軍事・政治の中心を、九州から移してしまえというのが、その答えでした。
 南九州人と紀伊半島人は、同じ海流によって台湾方面から運ばれてきた、同言語人だったのです。だから神武はさいしょに南九州の熊襲と結託してから紀伊半島に渡った。これは、東征というよりは、渡来人らと組んだ敵性勢力に圧迫されての、逃亡に近かったかもしれません。「天降(あもり)」とはニアイコール、「エクソダス」でしょう。
 南九州の熊襲にも、神武のエクソダスに付き合う理由がありました。活火山の活発化です。火山灰が鹿児島県の森林を枯らしてしまった。しかし海流に乗れば「木の国」に辿り付けることは、現地の熊襲たちはよく知っていたのです。
 京都周辺の土着部族は獰猛でしたが、ながらく大陸からの知的な刺激を受けてスレていた北九州人とは、〈悪知恵〉において懸隔があった。それで神武らは、クメ・熊襲の助けを借りて、勝利を掴むことができたのです。
 中部山岳地帯があるおかげで、大陸勢力は、日本海を経由して、京都の東側の後背地のアイヌに政治工作することは、できませんでした。つまり、オセロゲームの盤面が、中部山岳地帯に於いて、尽きていた。京都周辺が、オセロの盤面の、決して覆されない「隅」だったのです。
 そこより以上に東に遷都してしまうと、こんどは瀬戸内海の交通を、軍隊の遠征や内外通商のために利用できません。それでは古代の日本をまとめることはできなかったのです。
 ミアシャイマーは、国家による「敵の敵」への軍事支援を、「バックパッシング」と名づけています。シナ大陸からの、このバックパッシングを、京都政権は、封ずることができました。おかげで日本文化は「シナ=朝鮮化」することを免れました。
 現代のアメリカ大陸は、古代の日本の何倍も、地理的にめぐまれています。なにしろ「シナ=朝鮮」から遠くにある。
 21世紀の現在も、シナがアメリカに対して「バックパッシング」工作をすることはできません。
 そこで北京政権は、アメリカが「開かれた社会」であることをセキュリティホールとして最大限に悪用し、北米の移民や滞在者を利用して、西海岸にシナ・コロニーの橋頭堡を築くという、新手の「人海戦略」を選択し、推進してきたように見えます。
 内側からアメリカをシナ化していこうというわけです。
 近頃、ようやくその成果が現われ、西海岸のシナ・コロニーの意向に逆らえない下院議員を、連邦議会内に送り込むまでになった。
 ふつう、都市民は、外交問題でアクティブに団結(選挙運動)などしないものです。ところが唯一、米国都市のユダヤ系市民だけは、過去にそれをして、1960年代以降、アメリカの外交を左右するまでになりました。都市はなにしろ大票田ですから、ユダヤ系米人の総人口が比率としてはわずかでも、その効果は顕著だったのです。シナ政府は、このユダヤ系米国人の選挙運動の真似を、在米シナ人にやらせようとしているのです。
 唐突ですが、ここで1960年代末のB級映画に詳しい人に質問します。サメのいる夜の海面に、墜落した飛行機の乗員(?)1人が、ゴムボート(?)で漂っているシーンから始まり、どこか熱帯(もしくは中東の砂漠?)の古代文明にさまよいこむというアドベンチャー系の外国映画、これが、幼稚園前後に小生が最初に映画館で見た作品なのですが、タイトルの見当がつく人は、ご教示ください。
 話を戻しましょう。
 東海岸のワシントンでは、このシナの策動に、気付いていないでしょうか? 現代の東京の政治家や官僚ほど、かれらはボンクラじゃありません。
 もちろん全部、お見通しです。
 毎日、シナ人や朝鮮人からの、おびただしい電子メールやファックスを、事務所や勤務先で受信するのですから、指揮者のいる組織的工作であることに勘付かないわけがない。
 それで、ブッシュ政権は当面、北鮮問題は日本に任せることに決めました。日本がヤル気を出してイスラエルのように行動するなら後援するが、日本がヤル気を出さないのなら、このまま放置する、と。
 もし、米国が直接に北鮮と交戦し、北鮮の政権を倒せば、そこで生じる大量の北鮮人難民を、北米に引き取らなければなりません。
 それでは、シナの対米間接侵略(人海戦略)が、ますます進行するだけなのです。古代の北九州がシナのエージェントの半島人に揺さぶられたのと同じことになってしまう。ベトナム系や朝鮮系の在米外国人だって、北京の立派なエージェントになってきましたし、これからもなるでしょう。
 アメリカ東部人は、口には出しませんが、東洋人、なかんずく、シナ=朝鮮とは、もう深入り関係を築くまい、と考えています。「鎖国&封じ込め」気分に変わりつつある。これまで開いていた社会を、閉じつつあるのです。この大きな流れを、見そこなってはならないでしょう。
 かつてアメリカ人は、外国人がアメリカで暮らせば、皆、アメリカの良さを知り、アメリカ人化する、と信じていました。しかし、今は信じていません。
 特に、シナ人、朝鮮人には、あきれかえっています。
 まるで、スペース・エイリアンであると。未来からのプレデターとは共闘できても、スペース・エイリアンは教化不能だと覚ったのです。
 じつは日露戦争直後にも、この見方がすでにありました。日本が日露戦争に勝って、「日本人」の中にシナ人や朝鮮人が混じりこんで、それが北米に移民してきてはたまらないと、彼らは判断し、外交上の摩擦となるのを承知で、日本人移民の受け入れ条件を、ヨーロッパ移民とは同じにしないことに決めたのです。もちろん、純然たる日本人も、WWIIの日系人部隊の活躍の以前は、スペース・エイリアンだと疑われていました。今、ふたたびそれが疑われ出している。
 いま日本人がいちばん気をつけなければならない危機は、マイク・ホンダの活動ではなくて、「日本人は、シナ=朝鮮の仲間になった」と、アメリカ東部人から見られてしまうことなのです。
 アメリカ東部人は、今後しばらくは、イスラミックや、アフリカや、シナ=朝鮮とは、できれば距離を置こうと考えています。なのに、そのシナ=朝鮮の仲間と思われてしまったら、日本にとって、デメリットしかありません。
 「奴らとは違う」ことを積極的にPRする必要があるんです。それは西欧人にとっては社会の常識なのですが、「教育勅語」という大アジア主義に近親な洗脳がまだ利いているために、ほとんどの日本人には、その必要が分からないし、できないのです。
 マイク・ホンダらの活動背景、それから、米国メディアに対するシナ=朝鮮の人海工作(反日工作)は、東部の政治家や対諜報機関にはよく把握されていますが、東部の政治家たちは、それに日本人自身が、独自に、どう対処するかを、じっと観察しているところなのです。
 はたして日本は、もうシナ=朝鮮の工作にすっかりやられてしまい、某議長のようにその仲間になってしまった日本人が多数を占めつつあるのかどうか。それを、見極めようとしている。
 これに日本から敢然と英語で自己説明を試みている団体が「史実を世界に発信する会」だけであるとは、状況は悲観的です。行政の長でありながら、みずから徹底果敢な反撃をしない安倍総理は、米国東部人から、河野氏らの隠れ仲間とすら疑われ、いかにも物足らなく思われています。もっとヤル気満々の代議士と交代した方がいいんじゃないか、と。
 日本の左翼新聞はこの米国内の空気を敏感に察して、騎虎の勢いで安倍タタキをヒートアップさせているところなのです。日本の新聞の政治部は外国の尻馬にのることしかできません。新聞に攻撃された政治家や政党は、その新聞記事に反応するのではなく、その新聞の政治部デスクが乗っている馬(アメリカ政界からの評価)を射なければならないのです。残念ながら、現状の責任はまったく安倍氏にある。わたしは庇いません。
 また例によって「2ch・バカ右翼」たちが、宣伝戦上、何の得点にもならない無効・有害な対米言説を発し始めています。政治的意図を秘した隠れアナーキストのテレビ・ディレクター達に煽られて誘導されていることが分からないのですから、みじめなものです。
 「篤志つうじ倶楽部」に直接協力する等、英語でホワイトプロパガンダを打つことができない宣伝戦上のニートたちは、「史実を世界に発信する会」に寄付をするか、さもなければ、便所でオナニーでもしているべきです。
 「教育勅語」が反近代精神であることに気付き、その精神を完全に否定し去らぬ限り、日本人はいつまでたっても反近代勢力(シナ人、朝鮮人、同和ヤクザ、暴力宗教…etc.)に、天地の公道にもとづいた対応をとることはかなわず、日本国内の法の下の平等は破壊され、税金は喰い物にされ続けるでしょう。
 迂遠なようでも、日本人は、五箇条の御誓文について、一から学習し直す必要があります。4月一杯は憲法論が立て続くと思いますが、ご注目ください。


絵のない解説文を提示します

 先週火曜日の午後に、近くのローソン店内のポストに投函した写真の束が、いまだに大阪の管理人氏のマンションには、配達されていないらしい。
 これは〈郵便事故〉だと考える方がよさそうですので、不本意ですが、皆様にはせめてキャプションだけでも読んでいただくことにしました。
 以下、【  】は、今回行方不明となってしまっています写真に付けた通し番号を表しております。皆様は、せいぜいキャプションから、その絵をご想像なさってください。
【未配達写真1】
 入間からC-1で高度7800mの飛行を続け、鹿屋へ(万一機体に機関砲で穴をあけられても、ヒマラヤ無酸素登頂と思えばいいわけだ)。与圧は1000mに合わせているので「差圧」はかなり大。おかげで、国内線のエアバスよりも耳は痛くなりません。
 いきなり余談ですが、なぜC-1をジェットにしたか、旧陸軍の参謀の自伝を読むと、よく分かるんですよ。彼らは、自前の移動手段で、他の官庁の誰よりも早く、連絡に行きたかったんです。高速参謀輸送機として考えていたに違いないと、最近は確信してます。
 さて写真は、海自のP-3Cの第一航空郡司令部です。なんとこの建物は昭和11年4月に海軍鹿屋航空隊が飛行場と同時に建設したもので、空から見ると「戦艦」に見えるデザインにしてあるそうです。またもう一棟の古い隊舎は、「空母」を模してあると。東シナ海の油田群の見張りは沖縄基地ではなく、この鹿屋基地の担当なんですが、詳しい話はオフレコにしといてくれと言われました。まあ、キッチリ「仕事」してますよ。
 P-3Cは以前は垂直尾翼に派手な部隊マークを描いていました。が、それじゃシナの潜水艦の潜望鏡からひと目みただけで日本側の発進基地がバレバレだろ、というわけで、いまではごく小さくなっとります。
 ちなみにシナ軍は、偵察機をあたかも民航機であるかのような塗装・マーキングにしてある、国際法違反精神マンマンな軍隊です。合成開口レーダーを積んだやつは、定石通り、どこに関心があるのか気取られないよう、日本の沿岸全部をなめて通っているそうです。
 北京から見ると、日本列島でいちばん気になるのは、山陰の島根県あたりでしょうね。ここにIRBMを置かれると、最も短い飛翔時間で北京に届きます。余談ですが、中立国には交戦国の領空侵犯を阻止する義務もありますから、もし巡航ミサイルを日本海から北京に発射すれば、韓国軍がそれを撃墜することになるでしょう。バリスティック・ミサイルじゃないと、ダメなんです。
 鹿屋の近くの東串良町には通信所があります。また錦江湾の東岸の福山町には、海自の開発隊群があり、潜水艦や魚雷を試験しています。「えびの」には潜水艦に指令を送る送信所があります。根占町には受信所があります。要するに鹿屋は対潜センターの一つだと理解ができるでしょう。
 鹿屋基地の航空燃料は、まず古江にタンカーで揚げて貯油し、そこから短い距離をローリーで運んでくる。この便利が良いのか悪いのか、沖縄米軍のKC-135が鹿屋に移転してくるのじゃないかと一時、噂されましたが、まずその目はなさそうでした。日本の基地で、米軍受け入れの余積を有しているのは、千歳だけでしょう。
【未配達写真2】~【未配達写真7】
 海自のヘリ・パイロットの訓練は、すべてこの鹿屋でOH-6を使ってやります。タッチ・アンド・ゴー(斜めにダイブし、接地はしないで、ぎりぎりホバーしてから、斜めに急上昇)を見ましたが、マークを向こう側に外してしまう訓練生が多いようでした。遠くからは見えないが、「バカヤロウ」と横の教官にはたかれているそうです。
 さて写真でご覧にいれますこの一連のディッチング・トレーナーは、全国でもここ鹿屋にしかない、海や湖に着水してブクブクと水底へ沈みゆく、しかも180度横転したり急角度に傾いたりしながらという天地無用なヘリのコクピットから、クルーが着衣のまま泳いで脱出する、その過酷な状況を何度でも容赦なく再現しちゃるという、掛け値なし〈命がけ〉の筐体マシーンで、NIPPI(日本飛行機株式会社)の謹製であります。
 警察や海保のクルーもここで年に一回くらいは溺死寸前の恐怖を満喫せねばならないらしい。ホントに脱出にモタついて水飲んで気絶して、プール内待機の海自ダイバーに救出される人がいるそうで、ヘリのクルーがカレンダーの上で最も精神的な重圧を感じている、「これさえなければ……」という悪夢の年中行事であると仰るのも、頷けます。ともかく、一年でいちばん血圧が上がるとか。
 手順ですが、まず両サイドの透明窓を、墜落途中の段階でブチ外す(あれ、外れるようになってたんですね)。そしてザンブと着水すると同時に、天井の大きなレバーをガクッと引き下げます。これが、エンジン緊急停止レバー。そして、ハーネスを外したときに天井(いまやアップサイドダウン)に落下しないように、片手で天井につっかい棒をし、片手で鼻をつまむ。このとき、酸素吸入チューブを口に咥える場合もあります。
 次がおそろしい! 海水(この施設は真水使用)が完全にコクピット内を満たし、視界を妨げる気泡が消えるまでの30秒間、その姿勢で息を止めたままひたすら待つのです。気泡が周りに充満しているうちは何も見えないですから、脱出はできぬというわけです。しかしその間にも、ヘリはどんどん真っ暗な海底へ沈降して行く。ダンナ、堪えられやすかい?
 脱出は着衣のままです(軍隊のヘリ用スーツは、急に脱ごうとしても到底脱げるものではないらしい)。個人用ゴムボートは先に水上に浮かんで膨らんでいるという想定です。これが見当たらなくとも、スーツには浮き袋もついていますが、それはまだ膨らませてはいけない。まず潜水のまま10mくらい機から泳いで離れてのち、水面に顔を出さないと、ローターで叩かれる危険があるわけです。
 機体の沈み方は、8パターンほど再現が可能で、そのすべてをマスターすれば、将来どんな事故に遭っても沈着に脱出できるそうです。ただし、対潜ヘリの場合、おそらくは、「気付いたときには海面に激突していた」というシチュエーションだろう、とのこと。海上ヘリの事故原因は、ローターの焼きつきなど機械原因のものは稀で、やはり、バーティゴーなど人的な原因がほとんどのようです。
 また面白いもので、水平線ではなく母艦の甲板を基準にしてしまって、艦と一緒になってヘリの空中機位を揺らしてしまう訓練生が必ず一定数あり、彼らは、海自のヘリのパイロットにはなれない、とのことでした。
 なお、このプール内には、訓練を実施するクルーの数だけ、潜水士が水中待機することになっています。
【未配達写真8】~【未配達写真10】
 鹿屋の史料館は、復元零戦(五二型)があるので有名ですが、知覧と違って館内撮影ができません。しかし今回は許可があったので、バカチョンで撮りまくった。遺憾ながら、そのフラッシュが非力すぎ、機体の写真は薄ボンヤリしとりましたので、割愛。機銃の写真を、ご堪能ください。
【未配達写真11】
 これがよく分からないんですよね。陶器製の代用爆弾……とは思うのですが、なぜ傘が付いているのか……。
 こういう戦中の珍しい代用兵器を所蔵している人は寄贈してくれ、というお話でした。
【未配達写真A】
 陸自の基地としてはコンパクト(キッカリ普通科1コ連隊)な、宮崎県の都城駐屯地の資料館です。比べると函館駐屯地は「1コ連隊 - 1コ中隊」なのに、もっと広々しとります。
 この建物はなんと、旧軍の聯隊司令部がそっくり使われとります。展示もシブく、これは貴重と思いました。ちなみに駐屯地の倉庫も木造で、メチャしぶ(何を恥ずかしがるのか、近寄らせてくれなかった)。『戦マ』時代に善通寺でこれとタイぐらいに古い木造倉庫を見た覚えがありますが、今はどうなっていますかなぁ……。
 さて、都城は上原元帥の出身地として有名なのですが、この資料館の歴代聯隊長の名前の中に荒木貞夫があった。う~む、そういう縁もあったのか。調べてみると、荒木が大佐になったのが昭和7年、歩23聯隊長だったのは昭和8年7月から10年4月までです。上原は昭和8年11月に老衰死。対ソ戦をやりたかったでしょうなぁ。
 この駐屯地からはイラクにも兵員が派遣されています。そのさい、住民の反対活動は皆無だったそうです。いい土地ですよ。出発前には高機動車の荷台をパレード仕様にして、市内を練り歩かせ、歓呼の声に送られたそうです。
【未配達写真B】
 軽装甲機動車の車内。路肩爆弾への対策から、このサイズも二回りくらい大きくしたいところでしょうが、空輸の限界もあるし、日本の地方都市の道路はほんとうに狭いですからねぇ……。都城は、陸自のなかではかなり早く、軽装甲機動車を完全充足させて貰った普通科連隊だったようです。運用試験を任せられたのかもしれません。
【未配達写真C】
 天井のフラップ・ドアの内側には、ウレタンフォームの分厚いクッション材が、貼り付けられていました。
【未配達写真D】【未配達写真D+】
 ちびヤンなどを通じて、すでに全国のマニアが多数の内部写真を撮っているでしょう。にもかかわらず、元雑誌記者の性、ついドアの厚みなどに着目してしまうのは、かなしい……。ちなみに、横のドアの窓は内側から開閉ができます。そこからも小火器で射撃ができるわけです。
 後部ドアは一見、乗員の出入り口風にも見えるのですけれども、後部シートの背もたれによって車内通行が前後遮断されており(背もたれの上を乗り越えるのは可能)、通常は荷室へのアクセス用にしかなりません。
【未配達写真E】【未配達写真F】
 「01ATM」です。ということは4、5年くらい前から部隊にあるのでしょうが、マニアをやめて久しい小生、実物を拝見したのは、これが初めてでした。このアイテムが、カールグスタフを更新しました。カールグスタフを持たされていた隊員が、これへの転換訓練を受けたわけです。では、まだ使えると思われるカールグスタフは、どこへ行ったのか? いけね、訊くの忘れた! あと、ロケランは?(w)
 カールグスタフは2人がコンビで、片割れが背中のコンテナに予備弾2~4発を入れて運搬したのですが、このATMにも予備弾はいちおうあるらしい。ただし、運用は1名です。
 つまり、ソ連の大機甲部隊が雲霞のように押し寄せることなどない――と、陸自は現実に目覚めたのでしょう。
 前後の八角ナットのようなものは発泡スチロールでした。実用時には、外して捨ててしまうんでしょう。
 まとめると、これって米軍に大昔からある「ドラゴン」がようやく陸自にも装備された、という解釈で宜しいでしょうか? なにぶん、武器マニアを卒業して久しいもンですから……。
 カールグスタフには時限爆発モードがあって、敵の塹壕の頭上アタックにも使えたのですが、いまやそんな機能は、想像しますに、充実した81ミリ迫と120ミリ重迫のVTモードにさせれば済むだろ、という考え方なのでしょう。
【未配達写真G】
 「もしもし、道をお尋ねしたいのですが……」
 ――こんなスナイパーが各普通科中隊に1名、配備されるようになるとは、かつて誰が想像をしたであろうか。選ばれているのは最も射撃がうまい上級陸曹(なんと裸眼視力2.0を維持! ぜったいにPCはやってないね)で、双眼鏡をもった観測手と、二人一組で、わが中隊長を狙ってくる敵の狙撃者を、物陰から返り討ちにして行くのだそうだ。この中隊スナイパーの練成は、富士演習場に全国から集めてやっている。
 官給のカモフラは、地形地物にひっかかるので、隊員は、自分で引っかからないやつを自作していると語っていた。とにかく地面にプローンの姿勢をとったまま、動かないで何時間もじっとしている商売だそうだ。
【未配達写真H】
 銃はレミントンのボルトアクション5連発、ただし最初の1発はチャンバー内だ。
 肩当を調節することができ、ボルトを後方に引いたときに、頬に触れるか触れないかという距離にアジャストしておく。ボルトは指の先だけで軽々とコックできるように、見受けられた。(狙撃担当の隊員は自分の狙撃銃の部品を決して他人には触らせたがらないという話だったので、遠慮した。)
 タマは7.62ミリNATO弾で、64式用のような減装薬ではない。つまり62式機関銃のタマなのか。消炎薬のような特殊なものではない、とのことでした。
 観測手は、とにかく横風を読む。陽炎で、分かるそうです。
 ポテンシャルとして1km先の狙撃が可能だそうですが、どうも、手ごたえが確実なのは、600mくらいまでらしいぞ。もちろん、劇画じゃないので人の眉間を狙ったりしない。「的」の大きさは、胴体サイズのようです。
【未配達写真イ】【未配達写真ロ】
 宮崎県の新田原基地です。「にゅうたばる」と正式に呼びます。略称「にゅうた」。新潟を「にいがた」と読むのに近いようです。基地内のPX食堂(民営)のカレーライスは300円で、「お代わり」もし放題でした。宮崎県は日本一物価が安いというのは、嘘じゃないっす。
 基地面積は、嘉手納の1/7、千歳の1/4です。しかし隊舎を増やす地積の余裕はぜんぜんなく、米軍もこの前に見に来て「こりゃアカン」と承知したそうです。だから沖縄からの移転はないでしょう。しかし築城よりは広いわけで、まあ、これからの自衛隊の最重要基地の一つです。「にゅうた」から戦闘機ですと65分で上海、30分で釜山です。
 「にゅうた」の一大特徴は、F-15のアグレッサー部隊がいることです。うまいパイロットが集められており、全国の戦闘機パイロットの空戦の相手となって、鍛えてやる。バカチョンの写真が悪くてすいませんが、各F-15の迷彩塗装は、全部色を違えてあります。これは、訓練生が、空戦でどの機を「撃墜」したのか、確かめやすくするためだそうです。
 空自のF-15パイロットは、全員が「にゅうた」で教育されます。うち、英語の適性のある半数が、米国に行ってしごかれます。
 「にゅうた」のF-4は、ストライカー任務です。まずF-2で教育を受けてから、F-4に転換するそうです。
 F-4の離陸を見ていますと、「起動車」(4輪トラックの荷台に小さいガスタービンが載っていて、そこから空気ダクトでエアーを取り出し、戦闘機のエンジンをスタートさせる)によるエンジン始動はごく短時間で完了しますのに、それからタキシングが始まるまでが、やや待たせます。これは、ジャイロがレーザーリング式でない旧式であるため、それを安定させるまでに5分くらいかかってしまうからだそうです。そこで素朴な疑問。空自の沖縄基地はF-4にスクランブルをまださせているが、「5分待機」をどうやって実現してるんだ???
 もし、「5分待機」指定のAチーム2機が、スクランブルにもたついてしまった場合は、「1時間待機」のBチーム2機が、代わりに飛び出すそうです。というのは、調子の悪いパイロットや機体をムリに上げても、絶対にロクなことにならぬからだそうです。
 F-15乗りなら、裸眼視力1.2~1.5を維持したいところでしょうが、現実はそうもいかないので、「裸眼0.2で眼鏡」というパイロットも今はOKだそうです。そして興味深いこととして、眼鏡によって視力1.5になっているパイロットの方が、裸眼で1.5のパイロットよりも、敵機を先に発見するそうです。
 おそらくその理由は、誰の目にも加齢とともに「乱視」の要素が入っているせいではないでしょうか? 虚空の中の微小な一点(ドット)を見極めるには、「乱視」が矯正されている方が、有利なのでしょう。
 ということは、裸眼視力が良いパイロットも、今後は、乱視矯正ゴーグルを装着した方が、良いのでしょうね。パイロット用にそういうゴーグルを、開発すべきでしょう。シナ空軍のSu-27の錬度はロシア空軍からみてもまだ酷いものだそうですけれども、ステルス設計のUAVくらいなら、飛ばしてきかねませんからねぇ。
 さて、戦闘機パイロットは、経済的に、割りに合うか? これは、絶対に合わないと断言できます。毎日出る航空加給食くらいでは、とても、とても……。
 たとえばF-16/F-2のシートは後傾していますけど、パイロットは戦闘中はゆったりとリクライニング姿勢などとってはいないわけです。前がよく見えませんからね。あれは、強烈なGがかかって、どうしても体が耐えられないときに、背中が楽におしつけられる、というだけなのです。戦闘機パイロットのほとんどが、首か、腰に慢性の痛みを抱えています。
 なにより、Gのいちばんおそろしいダメージは、毛細血管の破壊にあらわれる。空戦機動訓練のあとの操縦士の腕の内側には、蕎麦粉のような斑点が出るそうです。毛細血管が切れて内出血した痕跡です。まあ、腕くらいなら、野球の投手でも、毛細血管がボロボロになりますよ。それでどんなプロ投手でも、「なか三日」とか「なか四日」で毛細血管を復活させて再登板している次第ですが、戦闘機乗りの場合、Gがかかるのは、腕だけじゃないのです。全身の中で最も、血圧による疲労を受けやすい、脳内の毛細血管もまた、間違いなく痛めつけられてしまうのです。
 脳血管の障害で早死にしている「元戦闘機乗り」は、統計こそ公表されていませんが、かなり高率だろうとわたしは想像します。そこで兵頭は日本政府に提案する。このように文字通りに自分の生命を削ってパブリックにサービスしている戦闘機パイロットや海自ダイバーなどの遺家族には、特別な手当てがあって然るべきだ。特に子供の学資は政府が完全にみてやるべきではないのか。さもなきゃ、なり手がいなくなりますよ。
 あるいは航空関係の特殊法人が、こうした支援を担当してもバチは当たらないと思いますよ。
 この平時の訓練とは逆に、ホンモノの戦争の際には、軍用機パイロットの死亡率は、第二次大戦中とはまったく比較にならず、低くなるはずです。今日のミサイルや機関砲は、機体にロック・オンするので、パイロットを狙ってくるのではありませんからね。機体は失われるけれども、パイロットは生還する、という可能性が高いでしょう。
 そこで、昔とは航空戦備の考え方も、変えなくてはなりますまい。すなわち、パイロットの数よりも、機体の数を増やしておく必要があるでしょう。
 地上勤務員は、これとは逆です。旧軍の砲兵部隊の馬の係りになった兵隊は、朝は誰よりも早く起きなければならず、夜も、誰よりも遅くでないと休めませんでした(だから「竹橋事件」という暴動まで起きた)。今日の空自の地上勤務員は、この「馬の係り」と、まったく同じようでした。飛行機が離陸する何時間も前から滑走路上にいなければならず、飛行機が着陸してから何時間もまた、仕事が待っているわけです。パイロットは時間外労働はないが、地上勤務員には休むヒマがない。「1日10時間労働」「1日12時間労働」というのがデフォルトになってしまっています(自衛官に労基法は適用されない)。人員増が必要でしょう。
 それと、燃料。単年度予算で燃料を調達している今の慣行では、突如、石油が値上がりすれば、その年の訓練は、半分もできなくなるという可能性が、あるわけです。これはやはり、数年分をまとめてストックしておいて、時価の変動に関係なく、存分な訓練ができるよう、調達方式は格別に考えるべきでしょう。
 ちなみに日米空軍合同のコープノース演習は、日本側が米軍側の費用(毎回100人くらいが基地にくる)の半分以上も負担してやっているにもかかわらず、米国の財政が悪化すると、その年はあっさり中止になります。訓練も、カネ次第です。
 米空軍では、戦闘機よりも、むしろ爆撃機や攻撃機に、最も優秀な空中勤務者を配属させているそうです。パイロットの希望も、同様なのだそうです。これはやはり、有事には核弾頭を扱わせるためでしょうね。
 航空基地には必ずアレスティングワイヤーの設備があるので、F-15のような艦上使用があり得ない機体でも、テイルフックがあります。このワイヤーはいくつかのゴム玉で地面から浮かせておくのですが、そのゴム玉にフックがジャストミートしてしまえば、ワイヤーにはかからぬこともあるそうです。
 新田原の基地防空隊員(短SAMやVADS)は、釧路や根室から家族ごと移駐してきているのだそうで、びっくりしました。VADSのバルカン砲を正面からみると、真円ではなく楕円になっており、それでディスパージョンを適当に散らしているということを、いまさらながら、知りました。
【未配達写真ハ】
 新田原には、F-15用のシミュレータがあります。内部は撮影禁止でしたので、加藤健二郎さんに撮ってもらった、この写真で我慢してください。左後方のお二人は、国民保護法の専門家である浜屋英博教授と、チャンネル桜によく出ている葛城奈海さんです。
 中のシミュレータの構成ですが、コクピットが中央に固定されていて、その全体を半径数mのドームが覆い、そこへアラウンドに画像(動画)が投影されるものです。隣室で、あるいは筐体のすぐ隣りで、教官がすべてをモニターしています。マイク付きヘッドギアで教官と交話もできる。
 おそらくこれは、F-15のパイロット候補者が、ごく初期段階で使うものなのではないかと、推測しました。というのは、SEGAのアーケードゲーム筐体のように、コクピットがぐらんぐらんと動くわけじゃないんです。まったく固定。しかも、キャノピーの後方には、ビジョンが投影されません。明らかに、空戦をシミュするものではない。主に、ヘッドアップディスプレイの計器の見方に慣れるためのものではないか、と愚考を致しました。
 民航機と違って、二機が併走するようにしてスクランブル発進するというのも、戦闘機だけの状況です。そのシーンが、ちゃんとこのシミュレータで、再現できるようになっていました。
 もちろんコクピットは本物のF-15の部品で構成されていて、スティックやスロットルの感触も本物なのです。
 ひとつ、発見をしましたのは、アフターバーナーを入れますと、機軸が落ち着かなくなるんです。上下左右に小刻みに振動し続ける(ように画面が揺れる)。ということは、ガンによる空戦には不利ですよね。タマが散ってしまって。超音速の空戦は、もし敢行するとしても、それはミサイル頼みでしかありえないのだということが、よく分かりました。
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 新田原基地の周りは、もともと、茶、芝、大根の農家ばかりだったそうで、それが昭和17年に、陸軍航空隊の対南方の輸送基地となった。パレンバンに降下した空挺部隊は、ここがベースだったようです。
 写真の神社は、同駐屯地の中にある珍しい神社で、もともとあるものだから勝手に毀すわけにはいかず、さりとて変態左翼に宗教政策を攻撃される材料にされても困るぞという、ビミョーな空域である。
※追記。今回のツアーに関してはおそらく加藤健二郎氏のデジカメ写真が「東長崎機関」のHPに掲載されるだろうと思います。また葛城女史はビデオ撮影をしていたので、それが「チャンネル桜」で見られるかもしれません。どうしても「絵」が想像できない人は、そちらを捜索してみてください。ディッチング・トレーナーの実演に関しては、ひねくれ記者の小生だけがモニター・ブースに入って説明を聞かず、おかげでいろいろなアングルから生々しい連続写真を撮ることができたのですが、行方不明になってしまったようで、遺憾です。


北条氏長の「神心の曲尺」・その他

 先に「神心」の出典は宋学・朱子学ではないかとボケたことを書いてしまったが、これは北条氏長の『士鑑用法』にあった。
 ――当然の理にまかせて、事に従って無為に設計する。築城の縄張も、用兵も、天下の政治も、同じである。神心の曲尺(かねじゃく)を外さぬことだ……。
 総括して「方円神心の一理」とも言います。方と円、すなわち四角・直線と曲線のことです。「かねじゃく」は大工の物差しです。
 朱熹の著書からの影響がある――と言いたかったのは、宮本武蔵の「流水」等の用語についてでした。〈心を活発敏捷にして、居ついてはならぬ〉といったモットーですね。これは、いずれまた、忙しくなくなったら、考察したいと思っています。
 さて、3月中旬の南九州基地ツアーの写真が、まだ管理人氏宅には届いていないらしい。(20日の夕方にローソン店内のポストに投函したのがまずかったか。翌日は祭日だからひょっとして郵便局が集めたのが22日午後。それで23日に大阪輸送となり、24日にはまだ大阪の局内での仕分けが済んでいないのかもしれない。とすれば配達は月曜になるが、管理人氏は勤め人だからスキャナー取り込み作業は週末しかできない。つまりUPは4月1日になってしまうだろう。ちなみに小生はワンチャンスの取材には使い捨てカメラしか使わない主義。デジタルなんかイザというときに信用できぬ。)
 というわけでつなぎにキャプションには書かなかった無駄話でもしておきます。OH-1という国産の攻撃ヘリもどき(名目上は偵察ヘリ)が少数、整備されているのですが、これは、あらゆる点で、ぜんぜんダメだったそうです。
 で、アパッチはできれば全部、ミリ波レーダーのある型にしたかったのは山々なれども、予算をベラボーに喰うので、ミリ波レーダー搭載型は少数にせざるを得なかったのだと。
 (ここで加藤健二郎氏が突っ込み。アパッチの最高グレード型には、目標配分機能があるものがあるのだから、それを指揮用として、指揮用アパッチ1機と、ウェポン運搬用の汎用ヘリ数機を、組み合わせてチーム運用すればよいではないかと。)
 また小生は尋ねました。アパッチで南西諸島を守ろうというつもりでもあるのかと。答えは否。
 南西諸島のスケールがヘリ運用には広すぎるためです。南西諸島を攻撃ヘリで守ろうと思ったら、ヘリ空母を造るしかないそうです。
 さらに雑談ついでだ。
 ブッシュ大統領が北鮮への態度を変えたと騒ぐ人がいますが、国家指導者が、他国民を「手段」ではなく「目的」と看做して良いわけがないでしょう。それこそ無責任です。
 クリントン時代、アメリカ政府としては超異例にも、まったく人道的な理由だけから、ソマリアに軍隊を送り込んで介入すると決心したものです。ところが、現地人のために米兵十数人が惨殺されるや、米政府はサッサと軍隊を引き上げ、それに続いてツチ族とフツ族がアフリカで殺しあっているのはサクッと傍観し、今に至るわけです。
 その後、米政府が人道的な理由だけから米軍を海外に送り出して交戦させたことは、ありません。これは、民主党も共和党も関係ない。米議会=米国世論が、くだらないおせっかいには賛成しないわけです。
 米国の識字階級の有権者は、この20年くらいのあいだに、外国人、特に非白人は、もう頭の中身が違いすぎて同情には値せぬ、と心の中で判断するようになってきました。ソマリア事件が、「アフリカ人は低脳すぎて助け甲斐がない」と、すっかり結論させました(もちろん口には出しません。ポリティカル・コレクトネスがあります)。また、最近のシナ人と朝鮮人の海外での評判が、「東洋人は恩知らずで信用できない。助ければ、かならず恩を仇で返す奴らだ」と思い込ませてもいるのです。おそらくアメリカが北鮮の人民を圧政から自由にしてやれば、北鮮の人民は恩人のアメリカに最も迷惑をかけるだろう、と、正確にも、見越せるようになった。
 だから、米国人のごく一部が、北朝鮮にさらわれた日本人に同情することはあるでしょうが、その同情ゆえに、米軍が北朝鮮と戦争することは、最初から可能性としてまったくゼロだったわけです。
 ではどうすれば良いのか。4月発売の『別冊正論』は憲法特集のようですが、そこにヒントがあるのではないでしょうか。


5月ツアーに関係する列車時刻表の抜粋

 函館戦争の古戦場の「二股口」の現存塹壕跡は、1年のうちで5月下旬しか良好な状態で見学できません。それ以前ですと残雪があり、それ以後ですと雑草が生えてしまうからです。
 大手の企画ではめったに廻ることのないマイナー史跡も、今回のツアーはスルーしません。千載一遇のチャンスを、どうぞお見逃しなく。
 夜行列車の時刻のご案内をします。
 上野発16:20のカシオペアは、4:28函館着です。個室でシャワーとテレビもついている超豪華な夜行寝台列車です。早朝からやっている温泉(たとえば谷地頭など。タクシー乗務員が知っている)がありますので、駅前の朝市と温泉で9:00の空港スタートまで時間を潰してください。
 上野発16:50の寝台特急、北斗星1号は、4:47函館着。
 上野発19:03の寝台特急、北斗星3号は、6:41函館着。
 駅につく直前に車掌が起こしてくれますので、うっかりして札幌まで乗り過ごしてしまうようなことはありません。
 お金に余裕があって前泊される方には、JR「大沼公園駅」の目の前の、JRが運営する小さなホテルが穴場だと思いますので、オプション候補のひとつとして、お知らせしておきます。そこから少し離れたところに温泉があって、無料で送迎してくれるのですが、ここは話の種として、いちど出かけて損はないです。
 さて、お帰りを夜行寝台列車にしようという方へ、上りの時刻のご案内をします。
 函館発20:54のカシオペアは、9:24上野着。
 函館発21:41の北斗星2号は、9:41上野着。
 函館発23:42の北斗星4号は、11:19上野着です。
 以上の3本は、いずれも上野駅が終点です。


帰ってみれば、こは、いかに……!?

 毎年3月恒例の、防衛省大臣官房でロジ設定をしてくれる自衛隊視察ツアー。今年は、いつものオピニオンリーダーの方々(加藤健二郎氏、浜谷英博氏、他)だけではなく、「防衛政策懇談会」の方々(植田隆子氏、梅本哲也氏、納家政嗣氏、他)ともご一緒に、鹿屋→築城→新田原の3箇所を廻ってきました。
 39枚撮り×2本半のバカチョンの現像が終わったら、また特設コーナーでご紹介します。2週間ほどお待ちください。
 ちなみに「にゅうた」にあったF-15のフライトシミュレータでは、恥ずかしながら、20年くらい前のPC-98用ゲームの「記憶」が蘇った。しかし、オタクでない悲しさ、F-15の場合は、旋回中に上げ舵など当ててやらなくとも、コンピュータ補正によって高度低下することはなく、ちょっと速力を足してやればよいのだという事実も知らず、水平旋回が、緩徐に速度低下するスクリュー上昇旋回となってしまった。これでは敵ミサイルの完全なカモだし、失速への坂道だ。う~ん、あの20年前のゲームは、何だったのか? (スロットルをアフターバーナーに入れるのも戻すのも、ちょっと力がいるのだとも学びました。)
 ところで、マイク・ホンダ議員の「なりすまし日系人疑惑」が、まだ解明されていないのには、南九州から帰ってきて、あきれたぜ。この疑惑は、小生の知る限りでは「二階堂コム」に投稿されたのが、かなり早かった。いったい、あれから何週間経っているのだ?
 外務省にやる気があれば、プライベートアイズなどを雇い、ホンダ氏の過去を洗うことは苦も無くできるはずである。しかし、外務省にはその気はない。
 なぜか?
 『東京裁判の謎を解く』を買って読んでくれている良い子の皆さんならば、もうお分かりだろう。
 もともと外務省の外交官のステイタスは、明治の条約改正運動の悲願をなしとげてくれる、日本人の代表だと思われていたゆえに、高かったのだ。しかし1941に彼らは、そのステイタスをみずから棄却し去った。対米奇襲開戦しか頭に無い帝国海軍に積極協力して、日本の天皇が列国に対して公約していた1928批准のパリ不戦条約にあきらかに違反する奇襲開戦の作法を、山本五十六や永野といっしょにプランニングし、且つ、実行したのだ。五箇条の御誓文に謳われた「天地の公道」を、踏みにじったのである。
 だが東京裁判は、この日本外務省による条約破りという犯罪を糾明できなかった。以後、戦後外務省の筆頭の業務は、この「東京裁判であいまいにされた日本外務省の条約破りの責任」を永久にあいまいなままにし続けること――になったのだ。
 まさにこれがために、対米宣伝に際し、日本はシナには絶対に勝ち得なくなってしまっているのである。外務省はこの脛の傷を詮索されたくないために、蒋介石の侵略についてまったく非難が打てないのだ。反論を封ずるしかないのである。
 繰り返す。
 日本外務省が1941-12におけるパリ不戦条約違反の非を認めず、パールハーバー攻撃は「侵略」であって自衛ではありませんでしたとも絶対に認めないために、蒋介石の1937-8上海総攻撃について、日本側は、これを「蒋介石の侵略であり、日本の自衛だった」と言い得ない。シナ人による逆の宣伝(支那事変は日本の侵略であり、シナの自衛戦争だった)を、大々的に許してしまうのである。
 事実は逆だった。支那事変こそ日本の自衛戦争であった。パールハーバーは日本の侵略だった。自衛であればこそ、与えたコラテラル・ダメージも情状が斟酌される。それについては、イラク戦争以後の米人には、まったく説明は要らないのである。
 しかし外務省がパールハーバーを、外務省も一枚噛んだ侵略プロットだったと認めない限り、支那事変につき、これは蒋介石の侵略ではないかと、日本人は言いにくい。そして、残念ながら、侵略者が与えたコラテラル・ダメージを許す者などどこにも居やしないのだ。
 シナ人は、日本外務省の急所・弱点に、気付いている。日本外務省が1941パールハーバーでの犯罪加担を認めない限り、シナ人は、靖国問題と東京裁判を、日本攻撃の永久のカードにできる。それに外務省は反撃しない。官僚組織のステイタス防衛のために、そう、決めているのだ。
 日本の「保守」は、今後、二つの認識を改めなければならない。一つは、パールハーバーは日本外務省が共同正犯として加担した侵略だったと素直に認めること。これを認めないと「戦犯」がらみの対米宣伝はすべてシナにいいようにやられてしまう。
 もうひとつは、M23「教育勅語」はM1「五箇条の御誓文」に反するものであり、昭和天皇は1941元旦詔書で教育勅語も婉曲に破棄されたのだと認めること。これすら認められないようなオツムでは、朝鮮人の増長は止められないし、慰安婦問題などでいつまでも振り廻されることになるのも当然なのだ。
 教育勅語は、〈個人と個人、国家と国家は対等である〉とする福沢の御誓文解釈を潰すための工作文書であった。身内に近いものほど大切であるとし、天皇に近い者が、天皇から遠い者を指導すべきであり、それに下々は従えというのだ。こんなものは維新精神ではない! このくだらない文書が満洲事変以降、どうして小学校で強調され、他方で「五箇条の御誓文」は小学校で押しのけられてしまったか、ちょっと考えれば分かることだろう。
 平河町で奥山さんという方が、国会議員の幾人かを招いては、定期的に研究会を開いておられる。愚生も、千葉に引っ越す前までは、何度か顔を出させてもらったことがあります。最近の様子はどうなのかと思っていたら、常連の加藤健二郎さんからこんな話を聞いた。あるときその研究会で、鈴木宗男さんと西村信吾さんと河村さんと居合わせたのだが、鈴木氏のオーラは圧倒的であり、西村氏がいつになく神妙にしていたと。
 ちなみに鈴木氏は大手術をうけたあとに東京マラソンをフルに走り、4時間と少しのタイムだったが、これは生半可なジョガーなどには絶対に出せないレベルであると。またある人いわく、鈴木氏はベンチプレス100kgであると。
 これなんですよ、選挙で勝つ人というのは。
 わたしは何を言いたいかというと、「維新政党・新風」の皆さんは、この、「前に出てくるオーラ」が、無いのです。ものの見事に、ないです。
 多くのフツーの有権者が、新風の党首や、その候補者に、直接面談したら、十中八九、「頼りない」というネガティブな印象を持ってしまうだろうと断言できます。
 もし「ドブ板選挙」を戦うとしたら、共産党にも負けるだろうと思います。
 ではどうしたら躍進できるか。その答えを見つけ出してくれたのが、「極右評論」でしょう。
 人のオリジナルのキャラクターは、一夜漬けの特訓をしたって、変えられません。だが、イメージは変えられるものです。ネットでバーチャルなイメージを作ればどうなるか。期待がふくらみますよね。たとえばポスターも顔写真なんかやめちゃって、アニメ絵にしたらいいんですよ。
 ところが、新風のネット対応体制は、現状では、お話にもならぬものです。先日、わたしは初めて、北海道の代表の先代さんについて、インターネットで検索してみた。そしたらウィキペディアが出てくるんですけど、内容は、たった2行ですよ。この人はすでに参院選に数回出ているのに、2行。ありえないでしょう?
 いったい、政党組織として、何をやっているのかと、唖然としました。
 次の話題。
 JALの機内誌に、おそらく北海道地方限定と思うが、地中熱を利用した温水暖房の広告が載っていた。水道水をまず土中に埋設した「U字管」を通して予熱し、さらに熱交換器で加熱して、床暖房にしようという発想だ。北海道にも蛙がいるが、かれらは凍らない地面の中で越冬する。つまり北海道では、地中の熱は、冬期は、外気よりもかなり高いのである。
 この広告を見ていてハッと気付いたのだが、あの「YouTube」は、「U-Tube」(=U字管)からの、シャレだったのねんのねんのねん。
 あと、「神心」というF-22もどきにつけたネーミングだが、愚生のおぼろげな記憶だと、宋学/朱子学系のシナ文に、出ていなかったか? つまり、三菱重工内の命名者は、たぶん「自由自在」といった意味をこめたのじゃないかと、勘ぐったのだが、まだ出典を確認するヒマがない(ツアーの途中で訊くのも忘れてもた)。どなたか、シナ学に詳しい方、ご教示ください。なお、空自の雑誌の『翼』の最新号に、この試験機体についての紹介記事が出ていましたが、やはりネーミングの説明はありませんでした。


【朗報】5月ツアーに「函館現地集合」オプションが加わりました!

 もう「日本エアービジョン株式会社」さんったら臨機応変なんだから!
 六万円で成田からロサンゼルスまで往復できるって時代に、国内1泊8万円で人が20人以上集まると踏むほど今は団塊リッチ狙いがトレンドなのか……と勝手に思っていたら、「現地集合オプションも3万円台で用意します」ですと!
 つまり、5月19日の朝9:00に、函館空港の1Fロビーに集合してくださるなら良いわけでしょう。
 では、この現地集合に間に合うためには、どんな交通手段を選べばよいのか? ご一緒に考えて参りましょう。
 東北地方の方は、函館まで特急列車&新幹線で往復するのが便利でしょう。
 東京、大阪から寝台列車で当日にかけつけようと思う方はご注意ください。わたしの体験では、2時間くらい平気で遅れますから(寝台列車はダイヤの優先度が低いようです)。ただしカシオペアにまだ一度も乗ったことのない人は、話のタネになることは請け合います。
 東京から青森まで、夜行バスが1万円弱で出ていますが、これは青森駅着が朝7時台ですので、ただちに特急に乗り継いで函館に9時に着けるかどうかは、保証できかねます。函館駅から函館空港までも、バスで数十分かかりますからね。
 (タクシーでもそんなに時間は縮まりません。万一、函館空港への集合時間に遅れてしまった場合は、函館山の山頂で、一行に追いついてください。詳しくは、後日、別報でご案内します。)
 夜、東京から青森までふつうの新幹線+特急で行き、深夜~早朝に青函連絡船で函館まで寝ながらに海上を渡る、という手も、あります。青函連絡船は、鉄道が止まっている深夜~早朝の時間帯にも一定間隔で運航されています。ただしこれには難点がある。青森駅からフェリー乗り場まで、深夜はバスが出ておらず、タクシーを使うしかないんです。またフェリーというやつは、目的港の埠頭に到着してから、下船できるまでに、やたらに時間を食います。車輌が全部出てしまったあとからでないと、歩行者は下船できないのです。
 函館のフェリー埠頭からは、バスが各方面に出ていると思いますが、何十分も待つ場合がありますから、気の短い人は、タクシーを利用して空港、もしくは時間つぶしのできる函館駅へ、移動することになりましょう。
 飛行機便ですが、羽田から函館までは1日7便以上。
 名古屋、伊丹、関空からは、それぞれ1日1便、飛んでいます。
 新千歳空港と函館駅は、近くありません。特急列車で軽く3時間かかりますので、内地の「県内」感覚で考えている方に、ご注意を申し上げます。
 5月20日にすぐに帰らず、そのまま個人での北海道旅行プランを接続される方のためにご案内します。
 函館空港からは、女満別や帯広などへローカルの飛行機が出ています。プロペラ機は与圧の関係で高度が比較的に低いので、天候が良ければ、「遊覧飛行」に近い趣向になります。
 たとえば、函館で遊覧飛行機に乗るくらいなら、奥尻島まで定期便飛行機で往復した方が、格安で長時間、空からの観光を楽しめるでしょう。
 帰路ですが、鉄道や飛行機の他に、登別温泉の周辺を観光して室蘭港からフェリーで八戸に戻る方法と、札幌方面を観光して苫小牧からフェリーで大洗港(茨城県)に戻る方法と、小樽を観光して小樽港からフェリーで新潟、敦賀方面に戻る方法もあります。ただしわたしはまだ日本海ルートを試したことはありません。かならず時刻表等でお確かめください。到着港などが変わってしまうこともあり得ます。
 なおご承知のように、最寄の旅行代理店にて、早目に購入するほど、航空券は安い値段で取得できます。割引の詳細は、最寄の旅行代理店にてお尋ねください。(国内旅行を一度もしたことのない方のためにさらに蛇足を付け加えますと、旅行代理店では、往復航空券とホテル宿泊券もセットで安く用意しています。)
 ちなみにわたしの2日間拘束のアルバイト代は五万円です。「地元民の不案内」にならぬよう、事前調査をしておくつもりです。
 以上に関する詳しいお問い合わせ、お申込等は、
  日本エアービジョン株式会社 (国土交通大臣登録旅行業第482号)
  担当:浅田 均
  電話:03-3538-2071
  FAX:03-3538-2095
  メール:hito-yoshi5@coffee.ocn.ne.jp
 へどうぞ。
 さて、某社の低性能ソーラーライトの電池だけ、ニッカドのAA600ミリアンペア(単三×2本)から、より高級なニッケル水素の「メタハイ800ミリアンペア」(単四×2本)に交換したらどうなるか――? 実験結果が出ました。
 電池によってソーラーライトが高性能化することはありません。
 買った当初のエンデュランス時間に戻っただけでした。
 どうも充電池の差はパフォーマンスに関係ないという結論が出ました。(不良な安物電池が最初から入っている場合は別。買って2ヶ月でエンデュランスがどうしようもなく落ち込んだ某社の商品はそれが疑われてもしかたないでしょう。)
 けっきょく太陽電池は、発電パネルの起電力の差が、決定的なのでしょう。二番目に利いて来る要因は、おそらく設置場所(日照時間)。これは低性能品の場合に有意の差があります。が、「ドイツ製パネル使用の英国設計ソーラーライト」だと、少しばかり日当たりが不満足でも、何の問題もない。もう〈恐るべし〉と嘆ずる他ありません。
 ちなみに「商品X」は、日照時間が長い、好位置にあります。


福沢の脱亜論に賛成するなら、教育勅語は棄却するのが当然

 慶応4年の五箇条の御誓文を最も深く理解した男の一人が福沢諭吉です。ところが、この福沢の路線に猛反対する、強力な反動勢力がありました。
 反動勢力は、明治22年に何を恐れたでしょうか?
 大日本帝国憲法が、五箇条の御誓文を、福沢の「註解」に沿って、リアライズしていくのではないか――と怖れたのです。彼らは「近代」を怖れたのです。
 彼ら反動勢力は、いかなる国と国、いかなる人と人も、上下関係で規定されるべきだと考える、シナ思想や朝鮮思想と近親な、日本の腐儒でした。もちろん、法の下の平等など歓迎しない、大アジア主義者(白人差別主義者)のシンパです。彼らの仲間は、福沢その人を物理的に暗殺しようとさえ考えました。いかにも維新の偉大な自由主義精神とは無縁の者どもだったのです。
 彼ら反動勢力が大々的に企んだ国家叛逆が、明治23年の教育勅語の発布でした。これは、明治憲法が五箇条の御誓文をリアライズしてしまうことを徹底的に妨害するための道具として、わざと用意されたものです。その効果は、致命的に、ありました。
 教育勅語が附録されてしまったことによって、大日本帝国憲法は、いきなり傷つけられてしまいました。反動勢力は、教育勅語を強調することで、五箇条の御誓文の維新精神を踏みにじることが、いくらでも可能になったのです。
 昭和天皇は、教育勅語が、五箇条の御誓文とバッティングするものであり、現に、大日本帝国憲法を歪め、軍部や官僚や政党政治家を勝手に暴走させ、日本を無道な同時多正面戦争に向かわせていることを、ご存知でした。しかし、あとの代の天皇が、さきの代の天皇の勅語を廃止することは、よほどの事情が発生しない限り、不可能です。ましていわんや明治天皇は、近代的な立憲的天皇の第一号であり、三代目が軽々しく批評できません。
 が、その「よほどの事情」が、発生しました。日本の完膚なきまでの敗戦です。
 すんでのところで、日本全土がソ連軍に占領され、革命騒ぎの中で国民は快復不能なダメージを半永久に蒙り、皇室は消えてしまうところでした。
 ここにおいて、昭和天皇によって、1946元日詔書が発せられました。その中で、一挙に五箇条の御誓文に帰るべきことが宣言されたことにより、大日本帝国憲法と教育勅語は、廃止されました。
 こうして教育勅語を葬ったことで、昭和帝は、明治帝の痛い間違いをリカバリーしたのです。この1946元旦詔書によって、昭和帝は、明治帝の偉大さに並んだ、と兵頭は思います。
 多くのバカ右翼は、教育勅語を礼賛しながら、朝鮮人を攻撃しています。
 あらためて言わせて貰いましょう。“That’s why you are baka”.
 ところで日本政府は1951年にどうして、「1946憲法は軍令で押し付けられたもので無効だ」と宣言できなったのでしょうか?
 米国の脅しが「また原爆を落とすぞ」というものであったなら、抵抗はできたのです。
 しかし米国の脅しは「皇室を潰してやるぞ」でした。これには日本政府は、抵抗できませんでした。
 岸内閣の安保改訂以前の米軍は、どう見たって、日本占領軍です。1960年以前は、米軍が動くことによって、日本の政体と国体は、どのようにもされ得ました。
 安保と駐留米軍がいるのに、政府が「押し付け憲法だった」などと言えば、日本国内で米軍による政権転覆→傀儡人民政権樹立による天皇処刑裁判、という流れにもなりかねなかったのです。挑発はできなかった。
 ではそれ以後はどうか?
 ここで1960安保騒ぎの意味が想像できるのではないでしょうか。
 この時点では、日本の指導層はようやく、米国が一枚岩でない事情を把握できていました。つまり、じつは1946にはマッカーサーが単独で、豪州とソ連と米本国左翼からの皇室廃止要求があることを利用して、ムチャクチャな奴隷宣言の前文や9条を、日本政府に押し付けたのであった、と承知した。
 しかし、もう1960になると、米国は、軍隊を直接に動かさなくても、二流の政治家や左翼をけしかけることで日本の政府を転覆させることができるようになっていたんです。
 「押し付け憲法だった」とか言って米国を刺激することは、引き続き、不可能になってしまっていました。
 それで、政府がそこまで動けぬということを察し、若いインテリが暴れたのです。彼らは、日本政府がいまや米国から非軍事的にも金縛りされていると勘付き、ならばと政府に代わって反米&腰抜け日本人批難の心意気を示そうとしたのです。
 ところで兵頭は「勝手にソーラーライトを愛好する会」の会員No.1ですけど、透明の太陽発電パネルが大普及してコストが下がった場合(おそらく欧州諸国で国策としてそう仕向けるだろう)はともかく、黒いパネルしかアヴェイラブルでない現在のわが国で、個人の家庭の屋根に、大面積の太陽電池を取り付けようとするのは、資源と取得費と維持修理費の無駄である、と見積もっております。
 そんなことをするくらいなら、屋根を透明の「温室」構造にして、太陽光線をそのまま、冬の屋内暖房と、屋根の融雪に、役立てた方がいい。もちろん北国専用になりますけどね。
 聞くところでは、屋根上の温水器も、頻繁に修理が必要で、維持費は高くつくようです。だからあまり普及していないのかと納得しましたよ。北海道では、留守中の配管の凍結防止対策だけでも、途方もなく厄介なはずですからね。
 光エネルギーは光熱源として、また、風のエネルギーは運動エネルギーとして、そのまま利用するのが、より効率的であるはずです。
 尤もオランダでは、かつて風車が排水用動力として使われていましたのに、今では、電気モーターより効率が悪いというので、伝統的な風車は、観光用に実動文化財として保存されているのみです。
 風車で発電して電気モーターポンプを動かして揚水したらそれは風車排水よりも省エネになるのかといえば、なるわけはない。しかし、変換効率とは別な、エネルギー利用の便利性が、選好される場合があります。
 そのひとつの例が、システム完結型の、1個数千円の、ソーラーライトなのです。LEDのおかげで、昼間の充電によって、夜の間じゅう、点灯させることも可能になった。これはすばらしい技術進歩じゃないですか。江戸時代の行灯とくらべたら、はるかに明るいんだから。
 まずはシステム完結型の趣味用のソーラーライトの高性能化を、もっと多くのメーカーが本腰を入れて推進すべきなのです。もし、読書灯のレベルにまで改善できれば、これは電気革命です。またそこで得られた技術知見が、かならずや、もっと大規模な太陽光発電システムに活かされるでしょう。地域発電に乗り出すのは、その後でいいでしょう。これがわたしの判断です。
 わたしは宮古島を観光したことがありますが、ものすごい頑丈な鉄筋コンクリートの風力発電塔が、一回の台風で根こそぎぶっ倒され、さらに、崖に設けてあるコンクリート製の柵が、これもただ風にさらされていただけのはずなのに、ポッキリと折れたりコナゴナに割れたりしている様子を見て、「風力は日本では地域の安定電源にはできん」と確信しました。
 各地の風力発電施設を御覧なさい。必ず、羽の回転がとまっている塔があるでしょう。一定しない風を相手にする回転機構は、効率を追求すれば壊れ易くなるし、強度やメンテナンスフリーを追求すれば、仕事効率が悪くなる。ダメなのです。
 ちなみにオランダの風車は、専従の番人が、細かい制御をしていました。あの羽は、骨材がメッシュ状になっていますが、微風のときはその一部または全部に布をかぶせ、強風のときは逆に布を外す。微妙に加減していたのです。また、風車の回転軸そのものを、風に正対させることができました。これは大仕事でしたが、オランダでは風向きが安定していたので、そういう正対作業は、あまり頻繁には要求されなかったわけです。
 江戸時代、オランダと交流のあった日本で、風車がまったく普及しませんでしたのは、日本では昼間の風向がまったく一定しないのと、小さな丘がたった一つあるだけでも、陸風はてきめんに弱まるためです。
 風力エネルギーをどうしても利用したいという場合、日本ではどうすれば合理的になるのか。これはもう地域でなく、各家庭(ただし海岸部限定)で使うことでしょう。コンプレッサーにつなれば、ミニ冷蔵庫ぐらいは運転できるでしょう。また、携帯電話や、電池式掃除機への充電にも使えるでしょう。いまのところは、それ以上は、無理なのではないか。
 沖縄県によく見られるような、各家庭の屋上タンクに、上水を揚水するための動力源とするのはどうか? ダメです。あてにしにくい動力源で、ライフラインを維持しようとしてはいけない。
 米国西部に昔あった、地下水の汲み上げ用の風車。じつはあれは明治時代に日本に輸入されているのですが、やはり普及しませんでした。ダメなのです。だからこそわたしは呼びかけたい。
 「キミも、『勝手にソーラーライトを愛好する会』の会員に、ならないか?」


1946元旦詔書は、占領下の国際法違反の偽憲法を予め拒絶していた

 占領下の昭和天皇は、大臣や国会議員らと同じく、米軍の捕虜・人質であった。
 誰もが、随時に勝手な理由で逮捕され、日本国内や、国外での極東軍事裁判に引き出されて、死刑や終身禁固を言い渡され得る状態に、置かれていた。
 また公務員や企業幹部の誰もが、一方的に簡単に「公職追放」をされ、生活の資を絶たれ、一家で飢餓に瀕する可能性があった。
 敵国軍の占領下では、元首から末端国民まで、全員が無権力で、その生命を直接に敵軍の銃剣間合いに脅迫されていて、とうてい自由意志など発揮しようがないのである。
 軍事占領下で、敗戦国の政府が、不本意な条約を結ぶことは当然にある。これは国際法で認められている。だいたい、すべての媾和条約、平和条約は、敗戦国にとって不本意なものなのだ。それに後から文句をつけるのは、シナ人と朝鮮人だけである。
 しかし軍事占領下で、占領軍が、被占領国の憲法や法律を変更することは、主権者が生命を脅迫されていることがあからさまである以上、国際法で認められてはいない。
 マッカーサー偽憲法は、この国際法を蹂躙して被占領国に押し付けられたものである。
 マッカーサーを善人と見たがる人士がいまだに多いことは驚くべきことだ。GHQには良い人々と悪い人々が居た、と考えたがる日本人が多いことも、驚くべきことである。マッカーサーは、悪代官よりはマシな、江戸のお殿様か?
 わたしが東工大の江頭研究室に入ったのは、江藤淳の『閉ざされた言語空間』が公刊される年であった。じつは1989年までのわたしは、GHQの一部には優れた人々が居たのではないか……と漠然と思っていた馬鹿な餓鬼だったが、江藤の考え方は最初からハッキリしていた。すなわち、そもそもマッカーサーからして二流のアメリカ人だったのであり、SCAPの誰や彼やも、おしなべて大したことのない、二流、三流のアメリカ人だったのだ。大したことのあったのは、彼らの一様なケツのデカさだけだったのである。
 そのくだらぬアメリカ人たちの押し付ける無道に、まったく反論ができなかった当時の日本の要路は、四流ではないか――と、言外に言おうとしているかのようでもあった。『自分だったら、斥けたよ』と。
 マックは二流であっただけではない。本国政府が要求もしない前文や9条を、彼個人の独自の発案として、得々と押し付けたのである。
 もともと二流であるばかりでなく、トルーマンに首を切られたあとの無冠・無責任の立場となっていたマックが、日本の対韓・対満・対支政策を朝鮮戦争勃発のあとから回顧して少し同情したからといって、日本による満洲事変やパールハーバー奇襲開戦の作法が、国際法上の道理として、水に流されるわけでないことが、渡部昇一教授にはどうして分からないのか。
 パリ不戦条約を天皇の名で批准していながら、満洲事変の関係者を罰することができず、パールハーバー奇襲開戦を止められなかった「大日本帝国憲法+教育勅語」の戦前国体は、日本と日本国民から近代的な名誉を奪い、しかも、ほとんど壊滅に追い込みかけたのである。
 これは明治憲法の、国会に対して内閣を超然とさせていた条項、さらにさかのぼれば、改憲条項に、明白な欠陥が、あった。明治22年憲法では、天皇が発議しないと改憲の議論には入れないと定めているのだけれども、臣下の誰もが、面倒な改憲などをしないで、権力を楽しもうと謀った。その臣下に逆らって、立憲君主がやたらに改憲の音頭をとれるわけがなかった。
 1945年9月、日本国民が絶滅せずに休戦媾和に持ち込めたのは、天佑だと、昭和天皇は観念した。1945年10月、マッカーサーは、日本政府に改憲を要求した。これは軍事占領中にしようというのであるから、明瞭な国際法違反である。しかし、日本人は全員が米軍の人質にとられている。逆らえば共和制の米国によって日本の皇室は潰され、皇室が潰されれば、日本は日本でなくなってしまう。
 そこで昭和天皇は、1946年1月1日、決意を籠めた詔書を発表した。
 四流の日本人は、誰一人、その意味を悟らなかった。
 1946元旦詔書は、マッカーサーの人質であった昭和天皇が、皇室廃絶の脅迫を受けつつも、ギリギリの本心を含めて全臣民に向けて発した、理性の注意喚起である。
 いわゆる現人神を否定した意味は、「大日本帝国憲法+教育勅語」の破綻の承認であった。いかなるコンスティテューションも、ネイションの自殺を予定しない。然るに「大日本帝国憲法+教育勅語」の戦前国体は、日本国の自殺を招いてしまうことが現に実証され、歴史の試練に堪えられなかったのであるから、昭和天皇は、その欠陥のある憲法空間の停止を、非常大権によって当然に承認するのである。
 同時に昭和天皇は、1868年の「五箇条の御誓文」に、特に言及された。五箇条の御誓文こそは、万国公法の近代的自由主義に賛同し、日本国の独立を戦って守ることを誓った下級武士たちに、明治帝が同意されたマグナ・カルタである。
 明治23年教育勅語と明治22年憲法の停止に同意された昭和天皇は、その代わりに、維新のマグナ・カルタである慶応4年の五箇条の御誓文まで帰るべしと、1946年元旦、日本国民に命令されたのである。米軍の銃剣が常につきつけられていた故に、その外形は命令ではないが、内実の意義は勅命であった。この瞬間、日本は五箇条の御誓文が目指そうとした、明治維新という近代自由主義革命の精神に基礎を置く、不文憲法のコンスティテューションに移行したと考えられる。
 さらにまた昭和天皇は、1946年中にマッカーサーから武力脅迫をもって押し付けられることになりそうな「偽憲法」が、もしも、国際法違反のシロモノであったり、あるいは人間の理性に反するものならば、「五箇条の御誓文」に立脚する近代日本国として、断然それを否定せねばならないことを、元旦において予め、御みずから誓い、且つ、臣民にも命下されたのである。
 四流の日本人は、いまだにパールハーバーが自衛だったと言い、教育勅語はすばらしいと言う。
 そう言っている限りは、昭和天皇の1946元旦詔書は、いつまでも暗号のままであろう。
 〈自分らは他の外国人とは違って特別なのであるから優遇しろ〉という在日朝鮮人の発想などは、まさに「教育勅語」の反近代的な発想にうまく嵌まっていると評し得る。教育勅語の反近代性が直感できない日本人が多いために、これほど朝鮮人は増長したのであった。
 明治23年の教育勅語は、身内は特に重んじろ、身内の外側の人は、より軽く扱ってよい、と、そそのかしているのだ。まさに、反近代的なシナ・朝鮮式の伝統発想であって、じつは、「五箇条の御誓文」がそのままリアライズされるのを恐れた国内の封建思想グループからの、露骨な反逆に他ならなかった。
 昭和天皇は、五箇条の御誓文を改めて選んだことによって、五箇条の御誓文とはバッティングする指針であった、戦前日本の癌・教育勅語を破棄されたのであった。
 納税と国防の義務を負う国民に、それにふさわしい権利を平等に与え、かたや国防の義務を負わない外国籍人には、日本国民よりも制限された権利を平等に与えるのが、「法の下の平等」であろう。戦後、納税すらまともにしていない朝鮮人が、他の在日外国人よりも不当に過度に行政から優遇されている実情こそ、近代法理の「法の下の平等」に反する不平等であって、五箇条の御誓文に立脚する不文憲法を踏みにじる行政の犯罪である。


ゴア氏よ、電気代15万円使うならソーラーライトに注目汁

 新品で2000円しなかったものの、発光パフォーマンスはみるみる低下し、冬に買ってまだ春にならんというのに、この頃では夕方に数十分点灯するだけとなってしまった、IRISオーヤマの「DSL-211W」(白色LED×1灯、電池は単三 Ni-Cd AA 600mAh 1.2V×2本)。捨てる前に最後の実験をする気になった。
 先般上京したとき、スマートソーラー社製品の1年半後の交換用電池として余分に買っておいた「Panasonic メタハイ 800 単4」(ニッケル水素電池、実質容量は750mAh?)を、装填してみたのだ。
 ちなみに、単三で800mAhとか900mAhの充電電池は、東京の電気店でもまず店頭には置いてないのではないか。単四でならば、かろうじてこのクラスの容量のものを売っている量販店が見つかる。前にも報告した如く、2800mAhとか、最弱LEDの一晩消費電力に比してあまりにも大容量な電池は、充電時の抵抗値が違ってくるのか、ソーラーライトの電源としてはまるで機能してはくれない。では、果たしてどのくらいの電池容量がその境目になっているのか、たとえば1700mAhならば、機能してくれるのかは、残念ながら、まだ実験によって確かめ得ておらぬ。それを試してみるための捨て金が、手元にないのが悲しい。ゴア氏よ、わたしに実験資金を寄贈せよ。
 さて、単三電池と単四電池は、もちろん太さも長さも異なる。だが小さな単四を大きな単三用の電池ボックスに入れることは可能だ。まず厚紙とビニールテープで単四の胴体中央部をミイラのようにぐるぐる巻き、最大直径を単三と等しくする。そしてラジオペンチで電池ボックスのマイナス極側の円錐状コイルを強制的に引き伸ばす。こうすると単四が単三電池ボックスにはまり込む。はめた上からさらにビニールテープで蓋をして、転がり出さぬ用心をしておこう。
 一晩様子をみたが、朝まで煌々とついていた。メタハイ800は、小売りの段階でフル充電に近い状態なのかと思う。あとは、数晩放置し、電池が完全放電状態になった翌日昼の充電によって、どのくらい発光が持続するのか、観察をしたい。
 さて本日は東京では月刊『諸君!』が店頭発売されているだろう。首都圏に居住していれば、記事を寄稿した雑誌が店頭発売の数日前には著者の住所まで郵送されてくるのだが、住所が北海道ともなると、店頭の発売日とほぼ同時か、下手をすると発売日の翌日とか数日後くらいに現物が届く。つまり読者よりも後から著者が仕上がりを確かめることになっちまうのだ、トホホ。
 それでじつはまだ4月号を見ていない段階なのだが、今回の座談会では、高田教授の著書からでも得られぬ、いくつもの新知識を、拝聴した。誌面の関係でその大半がゲラ段階で既に割愛されていたのを、わたしは読者の安全保障のために甚だ惜しむ。そこで以下に補足紹介を勝手にする次第である。以下、要約の文責はすべて兵頭にあり、誤解も含まれているおそれがあるのでよく注意をされたい。
●質問:溶けずに飛び散ったガラスのうち一部は、中性子により放射性化していると思うのですが、その危険度はどう考えたらよいでしょうか。たとえば人体内に残っているガラス片はすべて一刻も早く摘出するべきですか? それともそんな治療は後回しにすべきでしょうか。
 ――ガラス破片の放射性化は比較的に小さな問題。それよりも被曝した人体そのものの放射性化の方が大きいぐらいだから。ただし被曝者の人体に近寄った人が二次被曝して健康に危険が生ずるという水準ではない。
●質問:1954年の第五福竜丸事件では、大量の死の灰が船の上に積もりましたが、あの「3F」水爆実験が、もしも地表爆発ではなくて、火球半径より高い空中3200m以上での爆発であったならば、コアのプルトニウムおよびタンパーのウラン238の核分裂による灰は、近辺の海上にはほとんど降らなかったと見てよいのでしょうか?
 ――その通り。環礁の珊瑚が蒸発したので、おびただしい灰となった。ちなみに広島で降った「黒い雨」の正体は、粘性であったとの証言もあり、おそらくは、ヒトの脂が主成分ではなかったかと思う。
●質問:爆発から1時間以内のグラウンドゼロでの地表からのガンマ線は、自動車の鉄板ではとうてい遮蔽できぬということですが、車高の特別に高いトラックやダンプカーや工事車両で通過するとしても、やはり無意味でしょうか? たとえば、ダンプカーの荷台に、汚染されていない土嚢を1m重ねて、その上に人が乗ったとしたら、どうですか?
 ――放射性化した地表からのガンマ線は、真下からだけでなく、斜め下方からも来るわけ。自動車でビルの瓦礫の山の間を通れば、真上を除くほとんど四方八方からガンマ線を浴びることになる。だから、いかほど車高があろうが、また、土嚢で真下だけ防護しても、無意味。(兵頭補足。阪神淡路大震災を見れば、そもそも瓦礫地帯に装輪車輌では進入はできまいし、LSI制御の今の自動車はディーゼル車も含めてEMP障害にやられて始動しない懸念があろうし、陸自の数的主力である幌式トラックは走行すると後方真空が後輪砂塵を巻き込んで荷台内に吹き込んでくるので、特にどうしようもなかろう。)
●質問:海水1立方キロメートルの中に各種のウランが200トンあると聞いております。将来、硫黄島もしくはその近くの無人島でわが国が、20キロトンの地下核実験をしたとします。万一そこから放射性ガス等が海水中に漏れたとしても、その「海水汚染」は、極東ロシア沿岸の遺棄原潜の周囲にくらべて取るに足らないと予見しておりますが、いかがでしょうか。
 ――地下実験を完全に安全に行なうことは日本国にとって可能であろう。