上甲板がない構造の舟で日本海を渡るのは自殺と同義

 海上自衛隊・函館基地隊(主幹は第45掃海隊)の浮遊機雷の処分のピークは1955年であった。朝鮮戦争でウラジオストックを防御するために仕掛けられたソ連製触発機雷の係維索が切れて浮遊化したものの中には、津軽海峡を抜けて、苫小牧まで流れ着いたものすらあったのである。
 1951年5月から1953年3月まで、日本海から太平洋に常に流れている潮流に乗って次々に入ってくるソ連の浮遊機雷を、目視で避けて走る必要から、すべての青函連絡船は、日没から日の出まで、運航が停止されていた。
 (もっと詳しい情報は、隔月刊の『北の発言』のバックナンバーの兵頭記事を見れば、載っているだろう。)
 つまり、ウラジオに近い北鮮の東海岸から何かを漂流させたとき、それが青森に漂着する場合があることは、別段、不思議なことではない。
 もちろん、ボロ船に人間が乗って沖に出て、その人間が生きたまま無事に日本まで辿り着ける確率は、日本海がおだやかになる夏季であっても、ごく低いだろう。そんなマネが確実にできるくらいなら、とっくに何千雙ものタライ船が、日本を目指して脱出してきているはずだ。
 今回の漂着事件は、北鮮軍にまた一つのヒントを与えてしまった。――乾舷高をギリギリに低くした木造ボロ舟の舟底に、海面上からは視認できぬように、航続力の大な低速の小型船外機をとりつけて、青森県または秋田県沖まで、漂流木同然のスピードで到達する。海保ではこれに注意することはとてもできぬ。そして、海の深いところで、特殊船外機は切り離し、海底へ投棄してしまう。かくしてどこから見ても真のボロ舟の姿となって、あとは手漕ぎで、海岸に達着。もし海岸に日本の警察の有力な部隊が待ち構えているようであれば、脱北難民を装う。さもないときは、コマンドー部隊のミッションを継続し、白神山地~八甲田を夜間に縦走して、三沢もしくは六ヶ所村に向かう……。
 漂着鮮人のためにわざわざ裏日本に迎賓館を建ててもてなす必要は無論ない。なかんずく東北地方の良いところは、シナ人や朝鮮人などがうろついていれば、すぐに分かるというローカル性にある。特亜人収容所などを造ったらその地域の長所は失われてしまう。よろしく旧式軍艦の船倉に留置し、そこから韓国政府さしまわしの伝馬船に移乗させるようにはかることだ。
 北鮮にいくらボロ舟があろうと、港や海岸は自国警察と密告隣組によって厳重に監視されており、地元漁民でもない者がおいそれと漕ぎ出せるような環境ではない。それより気になるのは現今の同地における「櫓」の普及度だ。船外機の普及で、櫓漕ぎの技能など廃れてしまっているようであれば、ますます、生きたまま日本まで到着できる確率は微小である。


ミアシャイマー教授の間違い

 訳書『大国政治の悲劇』へのコメントは、6月25日配信の「読書余論」(有料)の中でする予定だ。
 ここでは一点だけ……。
 教授は宣言している。リアリスト理論では、各国の内部の構造は捨象されると。外部の環境だけが大国の行動に影響を与えるのだ、と。
 また彼は認める。ドイツは1914より1905に、対仏or対露戦争を起こしておいた方が、はるかに有利であった。それをしなかった理由は、彼のオフェンシブリアリズム理論では説明はできない――と。
 然り。重ねて然り。彼の構造本位論のまさに反証が、1905のドイツと1941の日本であろう。
 どちらも特異な「参本」にかかわる国内事情により、やりたい戦争ができなかったり、あるいはすべきでない戦争に踏み込んだ。
 日本について、どうやら以上の説明を、英語で主張してこなかったらしい日本の政治学者や現代史学界は、恥ずるべきである。
 1906に、ある参謀が退任した。シュリーフェンが! 彼の精緻な内戦機動戦争計画が完成し、採用になったので、満足して、引退したのだ。
 逆に言えば、参謀本部が一つの壮大で総合的な戦争プランをまとめて隅々までチェックし終えるまでは、ドイツは、千載一遇の環境が完備しているのを見てさえ、拙速な開戦は、いくら君主がしたくとも、できなかったのである。ロシアの日本に対する大敗と、同国内での革命騒ぎの混乱は、ドイツ参謀本部に、対仏戦争の全計画の根本からの見直しを促していた。外部の環境ではなく、参本が戦争計画を決めるという内部コンスティテューションが、大国ドイツの行動を縛るものであったのだ。
 1941の日本は、正気の君主が開戦=破滅と理解して反対しても、参本の開戦計画が9月6日に東条陸相のプッシュでひとたび走り出したら、誰もそれを止めることができなくなった、というケースである。これもオフェンシヴ・リアリズム理論などで説明ができるわけがない。ミアシャイマー教授もそんなことは感づけるはずだと想像できる。だが、シカゴ大学にすら、教授の説の明白な反証となる、日本の開戦を詳述した適切な英語文献は、皆無なのだろう。
 わからない人は、『東京裁判の謎を解く』を未だ買っていない人だから、まずはそれを買って読むことだ。幸か不幸か、編集長が替わった『諸君!』が、仰天するほど低調化しつつあるので、その3号分の予算でも廻しては如何。
 さて、このたびわたしは、政党機関紙『新風』の平成19年6月1日号に、次の激励文を寄稿した。
 この選挙を傍観することは許されぬ。「一票の価値」が、これまでとは違う。これまで何度も国政選挙に失望してきた有権者よ。ただ、一票を行使せよ! その一票が日本を変える日が、ついに来る。一票が一議席を実現するだろう。その一議席が、日本を変えてしまうのだ。戸外に出よ! 歴史が改まる瞬間に、立ち会わん。
 活字ではなぜか、上掲原稿のエクスクラメイション符号がぜんぶ「。」に変えられている。政党の新風に、果たしてアジ文の骨法を理解する者がいるのかどうかはわたしには疑問と思えるのだが、瀬戸氏を候補に公認したのは奇跡的なほど正しい。瀬戸氏のキャラクターはネット時代の有権者の言語レベルに絶妙にマッチしていて、余人の追随がありえないほどなので、20歳代のネットユーザーの当日の投票率さえ上げることができれば、1議席は考えられる情況だ。
 是非とも支持者たちはK明党の向こうを張り、当日の朝、「そこのおまえ、ネットサーフィンなんかしてる場合か」という尻叩きを、オムニプレゼンスに、書き込むべきだろう。単に、投票場に行け、とだけ煽動を試みるのは、公職選挙法には違反をしないとわたしは認識をしている。
 ところで、政党のインサイダーではないわたしの希望は、1議席獲得の、そのさらに先にある。
 「バカ右翼が、バカのままでは困るだろ」との自覚ができなければ、党勢は決してそれ以上には伸びて行かない。昔の「新自由クラブ」よりも早く、尻すぼみになるか、分裂してしまうだろう。
 「消えた年金」問題に関して、いちばん説得力のある解決ビジョンを示すことのできる政党が、全国の中流以下の有権者に、圧倒的にアピールするはずだ。「格差社会」なる標語はパンチ力不足であり、たぶん論点とはなるまい。保険と税金を、時勢についていけない低所得or高齢の国民に本能的に信頼されるくらいに、どうやって極端なまでに単純化してやれるのかが、最大のイシューとなるだろう。
 厚労省&市区町村役場に向いた目下の小噴火の下には、全国の老人が郵便局のATMを操作して年金を受け取らなければならなくなっていらい、ずっと昂進しつつある、「オンライン弱者のオンライン不信」「PC弱者のPC不信」というマグマがわだかまっているのだ。その不信感・不快感が、政府や役所や役人や公務員労組への不信感・不快感と、ピタリ、重なるときに、日本社会の「ノン・エリート」が全「エリート」に向かってアナーキーな大噴火を起こす。
 類似事故の発生防止のキモは、おそらく公務員の天下り規制などではない。衆議院議員である政治家が、配下の役人を随意にクビにしたり配転できない法制と慣行が癌なのであり、その大元は憲法なのである。
 そこで、ミアシャイマーの誤謬に話が戻って行く。外部要因ではなく、まさに1941年の日本国内の公務員制度が、自衛戦争とは呼べない対米戦争を引き起こした。これが分からないというバカ右翼には、戦後の公務員制度の問題も、把握できる道理がないのだ。〈あいつは高級官僚に勝てない政治家だ〉とひとたび知れたら、有権者の支持は、そこまでなのだ。国民は、敗北することに、飽きている。


チラウラそらだま旬報・1

 「勝手にソーラーライトを愛好する会」の既報の比較テストで、性能は最高であるとおりがみをつけている〈送料込みで5000円の「ソーラーライト マルチムーン」(イエロー)〉は、目下、売り切れになっている。しかも、どうやらその同じ製品と思われるものが、他の複数の通販サイトで、8000円前後の非常な強気の値段設定で売られているようだ。
 じつは、日頃お世話になっている市内のある人から、勝手口用の常夜灯が欲しいといわれたので、ならばこの製品をプレゼントしようかと思って久々に検索してみたら、こんな現況に気が付いた。
 どうも迷ったが、フェアリーガーデンという通販会社が送料抜き税込み3880円と広告している「ソーラーライト マルチムーンイエロー」をとりよせてみた。
 ちなみに、同ウェブサイトの商品説明は、わたしには隔靴掻痒だった。
 というのは、わたしが以前に購入し、「ソーラーボール(黄)」(1000円台)に比較しても発光持続時間が短いという結果が出ている類似品:〈送料抜き3990円の「ソーラーボール グローブライト」(アンバー)〉――ではない、との確信が、同ウェブサイトを見ただけでは、いまいち、持てなかったのだ。
 〈ニッケル水素電池が(1本ではなく)2本入っている〉との一言が広告のスペック表示中に書かれてあれば、それは、過去の比較テストで最高性能と判明している、送料込みで5000円で買った「ソーラーライト マルチムーン」(イエロー)と同じものだと、ダメ押しの断定がほぼできるのだが……その情報は載ってないのである。
 ソーラーライトは外見上の類似品・クリソツ品が多く、しかも通販では通販会社ごとに勝手なまぎらわしい命名をしていいらしいので、ウェブサイトをみただけでは「商品同定」をハッキリさせ難く、しかもユーザー・サイドに情報が足りぬため、一物一価でもない。高くて低性能の商品があり、安くて高性能の製品があるという、博奕のような市場になっている。
 もし、電池1本の低性能品が届いたら、情けない話になるところであった。が、届けられたものは、〈過去のテストで最高得点の、送料込みで5000円だった「ソーラーライト マルチムーン」(イエロー)〉と同じものであった。それが、より安価で手に入った。
 ところで、くだんの〈市内のある人〉のご自宅には、このライトを固定できる木製の台のようなものはない。ポールを別途、調達する必要があった。
 そこで、内径19ミリのステンレスの細長いパイプを、DIYショップで数百円で調達した。これを地面に垂直に差し込んだ。その上端口に、あらかじめ「マルチムーン」付属のABS製の杭をねじこんでおいた球体をスポリとはめこみ(ゆるく嵌合する)、接着剤で固定した。一丁あがりだ。
 この製品は発電性能がとてもよいから、ことさらに太陽方向に向けなくとも大丈夫だろう。また冬の積雪については、オーナーに心配してもらうしかない。研究心のない普通のユーザーに細かすぎる注意を与えることは適当ではないのである。
 固定台といえば、別な話も……。
 付属の梱包剤である透明ブリスターを、木柵上の台座代わりにしておいた初代「ソーラーボール(黄)」であったが、紫外線と強風のために、ネジを貫通させた箇所からヒビが入り、ついにブリスターが裂けるように割れて吹っ飛んでしまった。
 そこで百円ショップに行った。
 調達したのは、白いプラスチックのメッシュ状の円筒状の鉛筆立てと、透明のプラスチック製で、底板を分離することのできる「箸立て」。
 それぞれ接着剤で、(黄)と(マルチカラー)を載せてみたところ、接着具合は強固で、耐候性がある。
 メッシュ状鉛筆立ては、2本の木ネジを斜めにさして、木柵上にネジ止めすることができる。箸立ては、底板のセンターに1本の木ネジを打ち込めばよい。
 箸立ての上で変色するマルチカラーのソーラーボールを夜間の庭で眺めていると、地上核実験のように見える。またつまらぬ発見をしてしまった。
 わたしは、ソーラーボール(黄)を現在、2個光らせているが、そのどちらにも、アクリル球体の内部に結露が生じ、少しづつ水が溜まってくるという、よくない現象が観察されている。冬はこの現象は目立たなかったけれども、春になったら、昂進してきた。
 たぶんは、球体の合わせ目のどこかに微細な隙間があって、好天の昼間と冷涼な夜間の日較差で、内部の空気が膨張&収縮し、そのさいに外部との空気の出入りがあるのだと想像される。
 回路部は内部でさらにプラスチックによって密封されているようなので、結露や水溜りが点灯の動作に問題を及ぼすことはなさそうである。が、球体が曇りガラスのようになってしまう。
 現在、錐で下方にピンホールを1つ開けて排水を試みている。もちろん、これで結露をなくすことなどはできない。また、この小孔を開けたことにより、そこから虫が入ってしまうなどの別な問題も生ずるかもしれぬ。また、続きをリポートしたい。
 なお、興味深いことに、同じオーム電機製でも、マルチカラーに自動的に変色するソーラーボールの方は、この内部結露が生じない。おそらくはアセンブルのラインが別で、造りがより丁寧であり、密閉も良好なのだろう。販価は、ソーラーボール(黄)と同じなのだが……。
 おしまいに、宣伝。
 アメリカ政府がエタノールをどんどん買おうというので新大陸では畑の作付け品に激変があり、これにともなって柑橘市場などは混乱している。例によってこのブームに触発されて、「日本の農業を救え」とかいう農本主義の素人提案が続出するだろうと思われるが、日本の現代史は、「日本の内地での農業にこだわる者は馬鹿を見続ける」という教訓に満ちている。名物農相が現役時代にどんな提案をなしえたか、ふりかえってみるといい。
 農本主義がなぜ日本においては間違いなのか、一からじっくりと勉強してみたい人には、ぜひ有料の「読書余論」の購読を、おすすめする。


マッカーサーは帝国国策遂行要領の「自存自衛」をセキュリティと意訳した

 「自存自衛」=セキュリティ≠自衛=セルフ・ディフェンス …… という式が可能だろうと兵頭は思いますので、以下にその理由を述べまして、渡部昇一先生もしくは1928~1951年の英語に詳しい方に、謹んでご採点を請う者です。
 ソ連のヴァルガ・リポートは、1948年までに資本主義世界に戦後恐慌が起こるだろう、と日本降伏後に予言しました。WWI後にはたしかにすごい恐慌が世界に起こって、それが共産主義の世界布教にどれほど貢献したか知れません。アカはみんな、その再現を期待していました。
 ところが、1948になってもちっともヴァルガの予言は当たりそうになかった。ますます自由主義陣営は強化されそうに見えました。これは困った。モスクワは、西側が不況で弱って混乱したところで、軍事侵略の一撃を加えるつもりでいたからです。
 ソ連にもシナにも、〈戦後恐慌が起きないのならば、もうこちらは座視してはおられん。西側が復興する前に先手をとって開戦しちまおうぜ〉という威勢のよいグループがいました。北京では、そういうひたすら元気のよすぎる連中が、慎重な仲間との権力闘争で勝利していました。さすがに西ドイツに向けて事を起こされるのは危険だとスターリンの理性は警告しましたが、極東ならOKだとスターリンも決心します。
 スターリンのサポートを受けて、ソ連人大尉・金日成は韓国を侵略しました。
 ただちに国連軍の司令官に任命されたマッカーサーは、逆上陸によって、ソ連仕込みの北鮮軍を壊滅させて鴨緑江まで押し返します。すると1950年10月、その国連軍に、こんどはシナ軍が襲い掛かってきた。以後の「朝鮮戦争」は、まったく「米軍vsシナ軍」の戦いです。北朝鮮軍などは、とっくに消滅していました。
 マッカーサーは、敵の後方兵站線が聖域化されている限定戦争を体験したことがありませんでした。
 彼は戦線が38度線付近で膠着してしまったことに我慢ができなくなり、シナ軍の後方基地の満州を原爆で空襲すべきだと公言しはじめました。彼の肚では、満州を破壊しても効果が薄かったら、北京をはじめ、もうシナ全土を空爆してもよかろうとまで考えていました。トルーマンはもちろん反対です。そうなれば、西ドイツの攻略を希求しているスターリンの思う壺だからです。
 すると、なんと、アメリカの新聞に、マックが東京で(かれは朝鮮戦争の指揮を、ずっと日本国内でとりつづけた。ちなみに第二次大戦前からその頃まで、マックは米本土には戻っていない。どこかアメリカ嫌いなアメリカ軍人だったのです)、トルーマン大統領を批判した発言内容の記事が載ります。
 当時の米国新聞の特派員は、マックの機嫌を損ねる記事を本社に送ったら、日本にはいられなかったのです。ですから、この報道は異常でした。合衆国に雇われている職業軍人が、国民の代表である合衆国大統領の外交方針を堂々と非難したのですから。マックは米国憲法の意味をまるで理解していなかったのです!
 トルーマンは、反憲法的な異常な米軍人マックをすぐに馘にしました。もちろん日本占領軍のボスの座も、お役御免、本国召還です。
 多くの日本人がその人事を知って驚いたといいます。ほとんどすべての日本人もまた、1950年になっても、米国憲法や米国の国体を理解していなかったでしょう。
 男を下げた平民マックに、弁明の機会がやってきました。
 1951年5月、ワシントンのアメリカ連邦議会の上院軍事外交合同委員会での、3日連続の聴聞会です。
 5月3日、ヒッケンルーパー上院議員が、〈シナを空爆し、シナを海空から封じ込めればいいのだというあなたの主張の正しさは、あなたが実施した対日戦で、証明済みなのですよね?〉と、水を向けました。この上院議員はあきらかにマック贔屓でした。
 じつはマッカーサーは対日戦争中に、隷下の陸軍地上部隊が、海兵隊よりも消極的である、という誹謗を受けていました。マックにはこれがずっと心外でした。彼は戦後すぐに部下に書かせた自己宣伝的な回想録の中で、空軍力によって敵の海上補給線を断ち、有力な守備隊のいる島嶼を迂回する戦法を採用したことが、いかに米国兵の犠牲を少なくしたかを強調しまくっています。
 ヒッケンルーパーの質問をうけて、マックは、「この球を待っていた!」とばかりに、以下のような演説をします。
 ――日本の人口は8000万もあった。その労働力の半分は工業が吸収せねばならなかったのである。彼らはどの国民よりも労働を好み、なにもせずにブラブラするのは嫌いであった。ところが日本国内には工業が要求する地下資源がない。もしも東南アジアの資源を利用できなくなれば、1000万~1200万人の日本人労働者が、するべき用事もなくブラブラする(unoccupied)ことになり、不幸になる。日本政府は、この不幸を避け、資源利用を将来も確実にする「セキュリティ」のために、先手をとって侵略戦争に踏み切ったのであった。いったん日本が占領した東南アジアの島々を米軍が上陸戦闘で奪回しようとなどとするのは、米兵の犠牲が大きくなる下策だった。敵は勤勉で有能なのだ。だからわたしは、迂回戦略と海空からの封鎖によって、あの勤勉で有能な強敵を降伏に追い込んでみせたのだ――。
 マックは、日本人が〈餓死回避〉等の、生存の必要、すなわち自己保存の自然権から緊急避難的に戦争を始めたという弁護は、少しもしていません。日本人は、何もせずブラブラして生きることもできたはずだったのです。が、彼らの溢れんばかりの勤労意欲は、そのような人生を幸福だとは思わせなかった。労働者の幸福を確保するために東南アジアを侵略した彼らは強敵であり、それを降伏させた自分は天才的な作戦家だ、と言っているだけです。
 マックはここで、日本の1941-12-8の開戦は「セルフ・ディフェンス」だった、とも言っていません。言うはずがありません。
 1928のパリ不戦条約以降、列国にゆるされている戦争は「自衛」戦争だけなのです。真珠湾奇襲で開戦することが「自衛」になり得るのなら、今の「自衛隊」にも真珠湾奇襲が許されてしまいます。
 なおまた確認すれば、国際法上の「自衛」の英訳は「セルフ・ディフェンス」しかなかったはずです。
 マックが1951にワシントンで、日本の1941-12の行動について「セルフ・ディフェンス」という表現は使わず、「セキュリティ」としか言っていないのは、マックが日本の行動を「自衛」とは思っていなかったことの傍証になるだけでしょう。
 ところでマックがここで「セキュリティ」とパラフレーズしたときに念頭していたのは何でしょうか。わたしは、それは東条が陸相だった1940年に裁可された「帝国国策遂行要領」の中の「自存自衛」という熟語だったのではないか、と疑う者です。
 東京裁判の中でも、この「自存自衛」が何十遍、被告人側によって用いられたことでしょうか。それを聞いた通訳と外国人たちは、とても混乱したはずです。
 なぜなら、聞けば聞くほどに、彼ら日本人が「セルフ・ディフェンス」の意味がわかっていないで、「自衛」の語を用いているらしいことが、外国人には、推察されたからです。
 その通りでした。日本人は、単に「自存」を言い直す強調として、何の気なしに「自衛」と言っていただけなのです。
 マックはおそらくかなり後になって、自分なりにそれについて理解したのではないでしょうか。日本人が口にする「自衛」とは、どうやら「自存」と一組で、どうやら英語の「セキュリティ」の意味らしい……と。
 「帝国国策遂行要領」だけでなく、戦前の日本の指導部は、自衛という言葉の国際条約上の意味を知らなかったんです。
 これは驚くべきことでしょうが、じつはマックも1945までは、よく分かっていなかった。マックはしょせん、自己演出だけが得意な、時代遅れの二流の人物でした。古い世代の日本人は、そんな二流のアメリカ人を、まるで神様のように思っていたのです。一流のアメリカ人たちは、米国東部からマックに指示を飛ばしていました。
 はじめ、マックは、東条を、古いハーグ条約の開戦規定違反で裁くつもりでした。スチムソンはあわてて、1929のパリ不戦条約発効以降は、ハーグ条約の開戦規定などもう意味はなくなっているという説明を伝えねばならなかったはずです。マックは、国際法に関してはド素人であり続け、東京裁判の法的体裁を整えたのは、すべてワシントンの文民でした。
 日本人はいまだに、真珠湾攻撃前に宣戦布告していれば東条は無罪だと考えていますけれども、天皇の御名御璽によってパリ不戦条約を批准した1929以後は、先制攻撃した国が侵略者(アグレッサー)とされるしかないのであり、1941-12に世界に向かって日本の「自衛」を主張するためには、むしろ、宣戦布告や開戦詔勅を米国よりも先に出してはいけなかったのです。
 この基本すら分からず、わざわざ侵略者である証明となるだけの開戦詔勅(そこにも「自存自衛」の熟語が入っています!)を先に出していることの謎を、東京裁判の後半にとうとう理解したマックは、おそまきながら詠嘆します。〈日本人は、ドイツ人と違って、新しい国際法の内容と意味もわきまえなかった、12歳の少年犯罪者だったのだな〉と。
 ただし、マックもせいぜい15歳くらいだったのです。
 ところで東条は正直者です。東京裁判に提出した「宣誓供述書」の中で、アメリカ政府の禁輸のうち、いちばん効いたのは1940-10の屑鉄の全面禁止(北部仏印進駐への制裁として。東条の陸相時代)だった、と打ち明けている。
 鉄がなくても日本国民は餓死しないでしょう。ただ、支那事変は続行不可能になるわけです。(事変の軍事費の半分が弾薬費。その砲弾と爆弾の外殻スチールはアメリカから買った屑鉄を溶かして製造した。)
 参謀本部が考えた対米先制開戦のプログラムを、近衛内閣の陸相として政府に呑ませ、続いてみずから首相を兼ねてその実行をやり遂げた東条が、「パリ不戦条約」を破ったことは、動かせません。
 東条が国際法上の侵略者であることをマックも戦後にようやく勉強できて、以後は、東条の叫んだ「自存自衛」を、「セキュリティ」と意訳しているのでしょう。
 不思議なことに、昭和天皇の終戦の詔勅は「自衛」の語を省き、「自存」だけ再度、強調しています。詔勅の草稿を担当した陸軍省の誰かが、日本語の「自衛」と、国際通念上の「自衛」のギャップに、気が付いたのです。
 日本が「セキュリティ」のために開戦したとマックに納得させたレトリックは、たぶん、東条の証言などではなく、昭和天皇の開戦詔勅です。マックは、「自存自衛」の、日本人独特のズレた意味・用法を理解したあとで、この開戦詔勅を(おそらく自伝を書くために)読み直してみて、あらためて日本国の立場への理解を深めたでしょう。しかし、日本が「自衛」をしたとマックが思った、という証拠は、どこにもありません。


旧軍はいつから陽明学徒になったか

 ツアーご参加の皆様、お疲れさまでした。
 雨の中で山道を間違えたり(本当はあのコースのまま前進して良かったようです)、いいかげんな解説をさんざんいたしまして、恐縮です。
 また、いろいろ、お土産も頂戴し、ありがとう存じます。
 そのお土産の中に『日露戦争物語』というコミックスのvol.14~vol.18もありましたので、珍しく思い、拝読をさせていただきました。
 じつは去年頃から、人生の残り時間を計算しまして、いまのうちに長い古典の原文を読んでおかねば、こんご読む機会はますます半永久に来なくなるだろうと悟りまして、かつて以上に古典ばかりを読み進めておりまして(岩波文庫の『源氏物語』全六巻は、やっと今週読了したところです)、新刊やマンガを手にとるのは久しぶりでした。
 それで改めて感心を致しましたのが、明治32年に秋山真之が海大の山屋他人に書き送っていたという、黄海海戦の批評です。
 秋山はその中で「……拙速を貴ぶ戦役を長引かしめたる戦略的原因は……」と書いているという。
 ご承知のように、『孫子』のテクストには「貴拙速」とは出てきません。では、その非合理的なレトリックを、いったい誰が最初に言い出したのかにつきましては、『軍学考』その他でも何度か論及を致したところです。
 後代に至っては、王陽明が『武経七書評』の中で、『孫子』「作戦第二」(=作戦篇)の解説文の冒頭に「兵貴拙速。」としていたのが、幕末以降の日本人に大きく影響をしたのか……とも想像するように、最近はなりました。(この出典について愚生に教えてくださったのは大場一央氏です。)
 また丸山敏秋氏は雑誌『正論』の平成18年4月号上で、昭和13年制定の陸軍の『作戦要務令』にも「各級指揮官の攻撃部署は特に拙速を尚び……」とあったことを教えてくれています。
 東郷元帥も引用した「勝ってカブトの緒を締めよ」の諺は、『甲陽軍鑑』に頻出しておりますので、初期の海大では参考書として『甲陽軍鑑』がかなり尊重されていたのではないかとわたしは愚考しているのですが、『甲陽軍鑑』はいうまでもなく陽明学流とは志向性が違っております。
 「勝ってカブトの緒を締めよ」と「兵は拙速を貴ぶ」の間に横たわる懸隔・飛躍は重大でして、この遷移をあとづけてくれるような資料はどのくらい見つかるのだろうかと漠然と期待しながら、気長に古本などを読んでいるところであります。
 さてついでながら……。
 『日露戦争物語』vol.18中の、秋山テクストの現代語訳ならびにルビに二、三の意見があります。
 「断案」は、「自分流の研究はやめます」という意味ではなく、「自分なりに考えた結論」という意味だと思います。
 「時宜」のルビは「じぎ」と思います。
 「與りて」のルビは「あずかりて」だろうと思います。
 梶原一騎氏は歌舞伎や文楽の台本をじゅうぶんに読み込んでいた人であろうとわたしは勝手に思っております。古典の日本文のリズムに通暁していませんと、マンガの台詞だって、どうしてもそれらしい格好はつかず、幼稚で浅薄なキャラクターしか、描けぬのではありますまいか。「しょせんマンガ」ではないのです。


前泊の方にお知らせ

 名簿が手元にまだないので直接連絡のしようがなくて困っております。
 本日の天気予報は終日雨です。この気候では、大沼方面やきじひき高原などに遠出をしても、あまり楽しくないでしょう。恵山につつじを見に行くのが、ヒマつぶしになるかもしれませんが、寒いと感じるのは保証します。
 明日以降の予定表に載っていない施設や史跡を二、三巡回されることをお奨めします。
 権現台場跡は、明日、すぐ横を通過する予定です。
 弁天台場跡は、コースに入っていません。位置関係を実感したい方は、路面電車の「どっく」方面の終点で降りて視察しておくとよいかもしれません。現在は、埋め立てられた造船所しかありませんが。
 特にハッキリとした目的を有せず雨中に散策をなさりたい向きは、「元町方面と函館駅前の間」くらいに限っておくのが無難かもしれません。その範囲を外れると、途方に暮れる場合があります。
 今夜は小生は夜10時に早寝する予定ですが、もしその前に「亀田支所」(長崎屋とイトーヨーカ堂がある大きな交差点)あたりまで出てくる方がいらっしゃるようでしたら、ご連絡ください。
 明日の朝は小生は、極力早めに空港に参る予定です。もともと混雑のない地方空港で、しかも朝8時台ですから、すぐに分かるだろうと思います。現地集合の方々へは、一足早くそこでご挨拶させていただきます。
 明日は目下の予報では雨のち曇りだそうです。それでは体調にお気をつけください。


土方歳三は弁天台場からの friendly-fire に殺られた

 前に〈政府軍の艦砲で吹っ飛ばされたのだろう〉と書いたが、さらに検討の結果、訂正する。詳しくは明後日の現地ツアーで生々しく説明したい。
 「千代台陣屋」~「弁天台場」間の一本道に、春のうちから照準をつけておいた弁天台場内のクルップ砲が、一本木関門を越えて弁天台場方向へ急速移動してくる一群の部隊(土方が統率)を遠望。砲煙と混乱の中で「敵の押し出し」だと見誤り、事前照準に基づいて、一斉急射した。その一弾が一本木の道路上の土方の近傍で炸裂したのであろう。
 もともと榎本軍の見通しでは、敵(政府軍)は、「四稜郭」→「権現台場(いまの神山町)」→「五稜郭」→「千代ガ岱陣屋(いまの千代台公園)」……と順々に内陸側から攻略もしくは包囲浸透して来て、その後でおもむろに、亀田半島のつきあたりに位置する「弁天台場」に迫るものと、予期をして待ち構えていた。
 もちろん、弁天台場が囲まれる直前には、一部守備兵は後背の箱館山へ登り、そこを最期の腹切り場とするつもりだったのであろう。敵砲兵は函館山の高地から弁天台場を瞰射もしくは観測しようとするに決まっていたから、山を簡単に占領させるわけにもいかなかった。必ず味方歩兵の分遣は必要であった。
 ところが予期に反して政府軍はその後背の箱館山の裏側の断崖海岸に深夜の舟艇機動でとりついて、搦手から小銃兵数百を送り込んで、弁天台場を囲もうとしたのだ。新撰組が最終の腹切り場にしようとしていた山が、いちばん先に占領されてしまったのだ。この結果、弁天台場は予定より多くの人数を収容してゲートを閉じざるを得ず、五稜郭方面との連絡も途絶し、すべてが混乱した。つまり、弁天台場が囲まれているのであるから、もう千代が岡陣屋も陥落もしくは無力化されつつあると錯覚した。その脇を通過してやってくる兵隊たちだから、あれもぜんぶ敵軍だろう――と。
 味方砲兵が味方歩兵を殺してしまう「友軍相撃」は、今もよくあるし、昔もよくあったことである。
 司馬遼太郎は『燃えよ剣』で土方を、70年安保の学生たちのヒーローに作り上げた。しかし史実の土方は、他人に厳しく、自分に優しい、ダブルスタンダードな武人である。さもなきゃ、あの宮古湾海戦から怪我もせずに還って来られたわけがなかろう。土方は、幕末の新撰組の副長だった自分とは訣別し、早々と、接近戦(斬り込み戦)は絶対にやらない主義に転じていたから、明治2年までも生きていたのだ。最後に函館で不慮の戦死を遂げたので、そこまでの幾多の「ダブスタ」はすべて解消され、土方は美しい武士だったという話を仕立てることも可能になった。が、もし砲弾が命中しなければ、土方は生きて捕虜になった可能性がある(周囲が降伏しても、彼だけは凾館山の中腹で切腹したろうという想像も、むろん可能である。そのために五稜郭を出た、と……)。
 その司馬氏が、土方と同じく、その死によって「ダブスタ」を解消している乃木希典を、「明治百年」ムードへの反発から、土方とは逆様に、叩くことにした(『殉死』と『坂の上の雲』)。司馬はその後、いろいろ資料を読み進むにつれ、〈乃木無能論〉は公平ではなくて、旅順の悪戦の根源は、薩閥の巨頭・山本権兵衛にあったことを、きっと覚れただろう。
 しかし作家というやつは、いちど発表した作品を、世間から取り戻して創作しなおすことは、もうできないという、自縄に自縛されることがある。「土方は美しい武士だった」「乃木は無能だった」と、いちど読者に信じさせたなら、あとからその逆のストーリーを書くことは、大衆作家には許されないのだ。つまり、内なるダブスタを抑圧して暮らすという生前の乃木の懊悩は、じつは生前の司馬の煩悶でもあった。
 明後日のツアーで函館山要塞をご案内するけれども(ウインドブレーカーなど軽度の防寒装備をお忘れなく! 通常、風は強いです)、この要塞は明治35年10月に竣工した。
 そして、明治37年の日露開戦時点で半成していた旅順のロシア要塞と、ほぼ同じ技術で築造されていた。違いは、凾館山要塞は天井のコンクリート・アーチの厚さが1mで、それに覆土をしていたのだが、旅順要塞は、コンクリートの厚さが1.5mで、覆土をしていなかったことぐらいである。帝国陸軍は、1mのコンクリート・アーチであっても、要塞は艦砲にすら耐えてくれるものであることを、とうぜん知っていた。旅順要塞を普通の大砲では破壊できないことも、砲兵と工兵には驚くべきことではなかった。
 司馬遼太郎は、『坂の上の雲』が戦史通から批判されたので、じぶんは小説を書いたのであって歴史を書いたのではない、などと言い返さねばならなくなった。そして、乃木を叩く自分のスタンスを、終生、撤回できなくなった。
 1970年の大学生の誰も、テレビドラマ化された『燃えよ剣』に出てくる土方がリアルだなどとは思っていなかったろう。しかし、小説『坂の上の雲』は違う。
 実名の登場人物が、史実と同じ日時、同じ場所で、ありえないような思考と言動を示した。それを読者がすっかり信用するように仕向けておいて、自分は史論を展開したわけではなく、すべてはフィクションであり創作なのだよと強弁するとしたら、内心はずいぶん苦しかろう。
 吉川英治の『宮本武蔵』も、戦前の日本の読者に至大のインパクトを与えたものだが、吉川は、〈自分は歴史家ではない〉などといったダブルスタンダードな釈明を行なわなければならぬような「無謬の説教者」の立場に、みずからを祭り上げかねぬ文章は、書かなかったのである。なまじいに学歴のある司馬は、学歴のない吉川が維持していたそんな大衆作家としての自省を外して、みずからにダブルスタンダードを許そうとしたのだ。
 史実の乃木は、軍旗事件の生き恥を自分に許していなかったことを自裁によって世間に証明し、生前にさんざん周囲に説教を垂れた者として、自分の中のダブルスタンダードの苦しみを解消した。
 若者が自堕落な私生活を反省したなら、後半生のストイシズムで帳消しにもされ得ようけれども、28歳の国軍聯隊長心得としての軍旗喪失の汚辱は、割腹によってしか雪げなかったのである。
 ところが、いちど自分をリアル以上に飾ってしまった人気小説家は、乃木のようにはダブスタを解消してみせることができない運命に陥るから、芥川いらい、多くが、乃木のカタルシスを強く嫉妬し、バッシングしたのだと思う。
 福地源一郎は、死ねなかった旧幕臣である。その恥、その不徳を、いささかわきまえていたから、新聞紙上で明治新政府の批判を展開しつつも、私生活では大々的に性質の悪い道楽に没頭してみせた。完全な高所から他を批判するダブスタ野郎には、なりたくなかったのだろう。
 ついでに余談。星亨の死後12年目に伊藤痴遊が書いた『巨人 星享』には、星がバリスターの資格をとったときの英国の密淫売の話が出てくる。公娼は認められていなかったかわりに、「暗い所で汚ないことの行はれるのは、さう咎めない、明るい所で汚ないことをするのは悪いといふのが、西洋の道徳論の根本義である」「銘酒屋又は珈琲店の多くは、即ち其の魔窟である」とある。この本は以前にも紹介したと思うが、ダメ押しで再度言及する次第。
 さて、新風の一部の支持者が、東條英機の遺族の中でも遊星的な存在であるU女史を次の参院選に新風の公認で出したかったらしいと聞いた。じつにきわどい。そんな話がもし実現していたら、わたしは即座に新風への応援を撤回したところだ。
 松井石根が伊豆山に建設した観音堂を、戦後も維持して行こうという旧軍将校の活動がある。その中心の一人は、A級容疑をかけられた徳富蘇峰のお孫さんである。わたしはその方から直接にうかがったことがある。東條氏の遺族の某女史がそのあつまりの場に乗り込んできて、支那事変とも東京裁判とも何の関係もない彼女の商売のPRをしたという。この旧軍将校グループと某女史の関係が、こじれにこじれたことすら知らないのが、「バカ右翼」たちの真骨頂らしきところだろう。「東條」という記号をかつぐことが今どきは善行だと見積もっているらしい時点で、もう10年前の小林よしのりレベルの浅薄さではないのか。いくらネットの上でも、それでリアルな政治に関与しようとは……。うんざりさせられる。魚谷氏ら新風幹部が、適切な判断を下せたらしいことだけが、救いであり朗報である。
 『朝雲』新聞の07-5-10号に、〈久間防衛相の訪米が傍目にもつらかった〉と評してあった。何が事態をつらくさせているのかよー分からん、というのが、一般紙を購読しておらない兵頭の抱く感想である。
 だから例によって勝手に想像する。マスコミがロクに報じない「板ばさみ」が複数、あるのだろう。
 まず米側は安倍内閣に、自衛隊のアフガン出兵などをガンガン要求してきているのだろう。そのチャンネルとして久間氏が役に立っていない、という不満が、米政権や米軍に、あるのかもしれない。しかし、そんなふうにいつも要求されっ放しでは不愉快だから、久間氏はカウンターのジャブとして、自衛隊のイラク派遣は軽忽だった、あれを要求する前に米側はもっと情報を開示すべきだった、アフガンに関してはもっと情報を要求する、さもなきゃお断りだ、と、かましているのかもしれない。
 また、これはほぼ当たっているだろうと考えるが、米側が対支の大戦略の相談で久間氏(=防衛省)を日本の窓口としようとしていることに、日本の外務省は大反発して、まったく久間氏をサポートする気がなく、むしろあらゆるチャンスを捉えて久間氏の足を引っ張ろうとしているのだろう。
 出すぎた発言が多い現駐日米国大使は、ほんらいならペルソナノングラタとしてとっくにお引き取りを願うべきところ、久間氏の叩き役に回っているらしい。これも外務省、特にチャイナスクールには痛快なのだろう。
 そしてさらに大胆に想像すると、久間氏は三菱の代弁人としてF-22のライセンスを取ってきたいところなのだが、それに対して非三菱系の兵器商社が外務省と組んでF-35の「輸入」を働きかけているのかも知れん。特にチャイナスクールとしては、日本がF-22を取得できないことが、北京に対するお土産になるはずだ。
 他方では、日本のお子ちゃまバカ右翼が、とにかくF-22が最高、それで万事勝利、みたいな発想しかできないらしいのにも、うんざりだ。F-22を外交の取り引き材料だと思ってはいけない。F-22には、将来永久の価値はない。


「い号」機の出自、もしくは背景と宇垣一成

 長年、ミッシングリンクが気になっていた「九七式小作業機」のモデルに、おそまきながら見当がついた。覆帯クローラー式の電動耕運機だったのだ。
 ここ1ヶ月ほど、5月下旬の道南ツアコンに備えて明治2年の函館戦争のおさらい調査をしつつ、以前に人から貰った敗戦直後出版の農業関係図書を十数冊ばかり、よみふけっていた。(内容はいずれ「読書余論」で紹介したい。)
 外地からの引き揚げ者で日本内地の労働人口が急に何百万人も増えてしまった昭和20年代は、「失業と食糧不足」というダブル危難が、全国民を脅かし続けていた。とくに朝鮮戦争以前は、連合国は日本の工業の復活を許す気がないように観測された。そこで日本政府は「とりあえず農業に吸収させるしかない」と即断し、巷には、戦時中以上に、俄か農夫のための開墾手引きや既製農家のための増産のハウツー本が供給されたのだ。
 かつてレーニンは、資本主義国家の「蒸気機関」を止めてしまう方法は、燃料供給を断つことだと理解をしていた。いま、イラン周辺で戦争が始まれば、日本には「失業とエネルギー不足」というダブル危難が到来するだろう。燃料資源大国のロシアにはそれを止める理由はない。アメリカにもイスラエルを止める理由はない。だから、過去の危難の時期の農書には、近い将来のわれわれにとっての面白いヒントがあるはずだ、と思って読んでいたら……。
 昭和27年刊の伊藤茂松著『土地改良圖説』に、なんと「ロケ」(98式6トン牽引車)が開墾に使われている写真が載っているではないか。「ロケ」は戦後、いちばんよく再利用された装軌式の野砲牽引トラクターだが、敗戦直後のこととて、その再利用中の写真が残されているのは、珍しいのである。
 さらに、昭和28年3月の『日本農業電化の展望』(福島秀治ed.,(社)農業電化協会pub.)の巻頭グラビア頁にも「アッ」と驚く。そこに、電力耕耘機の作業実景の写真が2葉あり、うち、岡山県で現用中という1葉の「足回り」が、旧軍工兵隊のロボット兵器「97式小作業機」(い号)に類似している。耕耘機=転輪式という、1960年以降の常識を漫然と過去へ遡及させてはいけなかった。昔は履帯式も普通に在ったのだ。
 余談だが岡山県というところは旧幕時代の領主が熊沢蕃山を大抜擢して改革を実行させつつ、結局、蕃山の判断とは正反対の開墾主義に走り、それが戦前において農業機械化率日本一を達成させてもいたという土地柄。こんな風土から宇垣陸相が輩出しているのは偶然ではないのである。
 さて『日本農業電化の展望』の本文を見ると、動力耕耘機は、大正末期から普及がはじまったが、昭和初期から、従来の石油発動機式に加えて、電動機式が、そのラインナップに加わったという。
 昭和8年11月末時点で、12台の電動力耕耘機が存在した。発動機は3馬力くらい。バッテリー式ではない。電線をつないで電力を供給した。そのケーブルは、足回りで巻き込まぬように、耕耘機本体上に高く立てたポールの先から、繰り出されるようになっていた。発電機は、耕地の隅に置いたわけである。
 昭和17年に燃料統制が厳しくなると、石油発動機式の使用が不自由になり、いきおい、電動モーター式の農機の数が増えたらしい。
 小型の農作業用電動モーターは、大正12年に1/4馬力のものがユーザーによって工夫され、昭和2年以降は、大手メーカーが製作・供給した。単相運転が可能な電動機の大きさはだいたい3馬力までで、無理すれば5馬力までもいけたという。
 愚考するに、この小型電動トラクターに着目したのが宇垣一成だったのだ。
 ――満州事変の「爆弾三勇士」を美談にしてはいけない、あれは無人の機械で実行できると、昭和8年から13年にかけて開発されたのが、有線操縦自走作業ロボットたる「い号」である。
 しからば、なぜ、民間なら1年でできたであろうものが、陸軍では5年もかかっているのか? それは、宇垣が開発の尻を叩けるポジションに連続して座っていなかったからだろう。
 宇垣一成は昭和8年には参本の総務部長で、このリモコン兵器の開発を促すことができる地位である。しかし、同年4月から陸大校長になり、10年3月には第一〇師団長。兵器開発には口出しできない。それが昭和11年5月に教育総監部本部長となって再び陸軍科学研究所第一部に口出しできるようになり、12年10月陸軍次官となって予算を自在につけられるようになり、13年1月に陸軍大臣だ。
 このように、日本の官僚組織の欠点は、上司も部下もなかなか理解できぬような野心的プロジェクトに最適な人間が、現場を直に指揮できる最適なポジションからすぐに引き剥がされることである。(だから日本型組織では、アメリカより早く原爆を創ることは絶対に不可能だった。)
 1992年にわたしが『帝国陸海軍の戦闘用車両』を編集したとき、この「い号」機が、先行モデルも何もなく、突如として登場していることの不思議さの説明は、つけられなかったが、今、ようやく補足できることになった。ほぼ同サイズの電動耕耘機が、先に民間に存在していたのである。そして陸軍の関係者たちは、引退後の技術自慢話の中で、先行モデルがあったという事実は語らなかったのである。そのような例は、南部麒次郎いらい、枚挙に暇がない。
 話を函館戦争に戻そう。この戦争は明治2年の夏に決着がついている。しかも渡島半島の南端の、そのまた突堤状に孤立した函館で、旧幕軍は降伏した。
 時間の上でも、場所の上でも、旧幕側の生き残りたちには、内陸で長期持久戦争を試みようという発想は最初からなかった。
 彼らの心理は味方の近代海軍に依存しすぎていた。近代海軍から離れたら戦争はできないと思い込んでいたのだ。
 結果として新政府軍の艦砲で粉砕された。
 土方の死因も銃弾ではなく砲弾の直撃だろう。さもなくば、七重浜方面への離脱が不可能な重囲の続いたごく狭い戦場で、死体の行方がまったく不明になるはずがない。万単位の死体で平地が埋ずもれてしまったWWIの西部戦線とは違い、死体は一体一体、衣服や所持品の確認ができたのだ。
 海上の戦力比で劣勢だったら内陸に避退する、というのが陸戦の常識であった。クリミア戦争中の極東ロシアの沿岸の砦は、みな、その常則にしたがって、英仏軍の陸戦隊にわずかに抵抗したあとは内陸に逃げている。
 これを北海道で再現するなら、榎本たちの未熟な操艦技術でも安全に停泊ができた内浦湾の室蘭港に機動して、そこから艦隊とは分かれてどんどん北上すればよかったわけだが、つくづく当時の日本人は寒さに負けていた。地元の松前藩主すら、新暦で12月の日本海岸を「熊石」というところまで退却して、そこからは北上をあきらめ、青森に逃走した。熊石の緯度は、室蘭より南であった。ロシア人は北樺太と同緯度のカムチャッカ半島に砦を築いていたというのに……!
 旧幕軍のうち20代の若者はもう一回、越冬することができただろう(上富良野駐屯地で鼻毛が凍るマイナス12度以下の朝でも、慣れるとシャツ一枚で平気だったりしたものだ)。しかし30代後半より年寄りの面々は、もう越冬は無理だと観念し、秋になる前に戦争を終わりにしたいと願ったことだろう。
 当時の日本人に欠けていたのは、耐寒建築と燻製(貯蔵肉)のノウハウだった。北欧のログハウスの智恵がなかった。ロシアのペチカの原理を知らなかった。満州のオンドルの原理も知らなかった。北海道には材木だけは腐るほどあったのだから、こうした智恵さえあれば、若くない内地人にとっても、越冬はカムチャッカなどよりも十倍も容易だっただろう。ようやく満州事変以後、そうした耐寒住居が調査されて、その成果が、昭和20年代の国内僻地開拓の手引き書では紹介されている(川上幸治郎著『営農技術』S26-5刊は、奇書でオススメ)。
 函館戦争はWWIのようなメガデス戦争ではなく、また殲滅戦でもない。降伏のチャンスは終始、与えられていた。そんな中で土方と中島父子だけが、降伏を拒絶して戦死した。
 土方は多摩の農兵出身だが、江戸の呉服屋に十年前後も奉公に出されている。彼はその商人の世界に戻るのが死ぬよりも厭だったのだ。しかし彼が周囲から頼られたとすれば、それは商人の世界で対人折衝の機微を鍛えられていたお蔭であった。だから近代を敢えて捨てる「北蝦夷ゲリラ戦」などは、彼には構想し得なかった。
 中島父子は、父子で一所に立て籠もったのが運命を決した。子の前で父として恥ずべき行動が採れようか? 父の前で、子として卑怯たり得ようか?
 1毛につき年に1期収穫するサイクルの農業では、「新機軸の試みと失敗の経験」のチャンスは、一人の成人男子が、老齢で引退する前に、せいぜい二十数回しか、与えられない。しかも、一回失敗すれば、一家が死活の窮地に陥ってしまう。
 それで農業では、効率化とか改良とか革新の進度が、月に何度でも放胆にトライ&エラーの可能な工業品と比べて、著しく低調たらざるを得なかった。また日本の行政も、畑作と違って非商品的な統制商品であった水稲の、頭を使わないルーチン生産の安易さに、農家を誘導してきた。
 この結果、野心的でなさすぎる農家の惣領のタイプが登場した。
 このモテない惣領たちに外国人の妻を斡旋しようという商売は、1980年代からある。わたしはフリーター時代、一業者氏から、そのパンフレットの原稿書きを受注したことがあった。そのとき聞いた話であるが、じっさいに会ってみると「こりゃどうしようもないな」と嘆息せざるを得ないような男たちばかりだと。まあ、土方歳三の逆だと想像すれば良いのだろう。商人的な、あるいは武人的な対人訓練が皆無で、したがって他人の気持ちが分からず、外の世界を知らず、とにかく覇気がないのだ。
 そのように夫候補に根本的に人格の魅力がない次第であるから、妻候補も世界の最貧地帯から募集するしかないのだという。それが今日では満州なのだそうである。シナの中でも満州は工業が発達していると錯覚している日本人は多いだろうが、シナは広い。満州の農地の生産性は低く、農業は粗放畑作である。満州の農民は、シナの農民の中でも一、二を争う非文化的な極貧生活を今日も続けているのだ。文字通りのあばら屋住まいである。
 さて一般に満州人は人気[じんき]が悪い。北鮮人と同様、あまりに生産性の低い悲惨な風土なので、住人の気性も冷酷になってしまっているのだ。冷酷でも素朴ならば救いはあろうが、日露戦争以後に山東省からシナ人が入り込み、冷酷プラス狡賢いタイプと化してしまっている。それが、労働集約的な日本の農村にやってきて、果たして覇気のない夫と連れ添って行けるのか、もう、ケントもつ~か~ぬ~、と申し上げるしかない。
 むろん、夫候補のタイプだけが、日本の農家に嫁の来手がなくなっている原因なのではなかろう。効率の進化速度で工業に負けてしまう宿命の農業は、投入労働力×時間にくらべて所得が少ないと思われるのみならず、「参入したが最後、足抜けができにくい」というデメリットが、予期されているのだろう。女は結婚前に「出口戦略」を考えている。夫の転業も想定している。だが三ちゃん農業に組み込まれてしまったが最後、それは容易ではなくなるだろう。
 粗放畑作が許されない日本の農業とは畢竟「土づくり」なのである。耕地を一年でも手入れせずに放置してしまうと、耕作を再開しても元の反収は得られなくなってしまう。これが、店舗や工場との違いなのだ。戦後の新規開墾者の多くも、土が改良されるまでの数年間を持ちこたえられずに、棄農した。同時に進行する既製農地の土地改良の効率に、とても対抗はできなかったのだ。
 話が長くなったので、続きは次回以降の「読書余論」にしたい。「読書余論」は有料です。バックナンバーも購読可能です。
 それから、函館ツアーの現地集合組の募集の締め切りも、いよいよ近いです。


「ヲイ、他人のこと言えんのかよ!」シリーズの第二弾(第三弾?)

 アイゼンハワーやパットンなどWWII中の米国の名だたる将軍/提督の少なからぬ者が正妻以外の愛人とのテンポラルな私生活を有していたことは、ここ十数年の間に、外国人戦史家たちの著作物のおかげで、秘密でもなんでもなくなった。
 おそらくリアルタイムでも、周辺のインナーサークルでは誰でも知っていた話だったんだろうが、たとえばアイゼンハワーの大統領選挙出馬に際し、それは何のスキャンダルともならなかった。
 敵陣営の選挙参謀は、知っていながら、そこを衝こうとはしなかったのだ。ケネディの多情然り、クリントンの淫乱然り、いくら公人であっても、私的な場のみで完結している出来事を咎め立てするのは、「米国世論」ではなかったからだ。米文学の古典:『スカーレット・レター(緋文字)』は、女が妊娠したから村八分になったので、他郷で分娩すれば村八分にもされ得なかったはずであり、当時は当然にそうしたであろうから、そもそも小説の設定自体にリアリティがない、と現代の批評家はツッコミを入れている。
 開拓移民の天地では女は女であるだけで希少価値を有したので、北米の西部において著しくフェミニズムが亢進した。(ではその同じ現象が近世シベリアのコサックの社会ではなぜ起こらなかったのか。南シベリアは南米と同じく昔から一貫して無人地ではなかったからだろう。余談ながら最近のロシア製のエロ・クリップは「抑圧度」が酷いという印象を受けるね。都市部では精神の不自由度が10年前より悪くなったんじゃないか。)もちろん、西部の開拓をしたのが地中海人だったら、今のような過激なフェミニズムは育たなかったと想像することは公平だろう。
 ならば東部の貴紳社会は石部金吉の集まりだったのであるか? ジョージ・ワシントンらが生きていた時代は、奴隷制農業の時代だった。彼らブルジョアが恐れたのは子孫の没落であった。
 遺産相続権のある嫡出子をやたらに増やすことはプランター(大農場経営者)の身代の破滅につながる。だが、当時はまだ「経口避妊薬」は無い。かたや、マルサスが言うように、ヒトの性欲は時代を通じて激変するものではない。かくしてピルなし時代のバースコントロールとして妻とのセックスを早々と自粛する他なかった紳士たちは、自己の所有する黒人奴隷女たちによって、健康な成人男子としての欲求の解消を実現するしかなかった。
 〈ミドルティーン未満の児童に向けて公然と展示して見せてよいものとよくないもの〉を截然区別せんとするのが、米英流の公衆道徳であるから、もちろんこんな話は米国の教科書には載っていない。
 WWII中に米兵が世界各地へ持ち込んで当地の人々を感心させたのが、雑誌切り抜きのピンナップガールを自室に堂々と張る風習と、爆撃機の機体に裸の女を描く風習だろう。前者は世界に普及し、後者は普及しなかった。WWII中の米国人は、「兵隊のテントの中や、爆撃機の側面は、決してミドルティーン未満の子供が見たり親しんだりする世界じゃない」という価値観を共有していたのだと想像するしかないだろう。だからこそミドルティーン未満の児童が読むことが当然に予期される日本のマンガ雑誌に女の裸が露骨に描かれていることに、かつて米国人は一驚を喫したと伝えられているのだろう。
 これは前にも「摘録とコメント」で紹介したことがあるかと思うが、1984年のチェスター・マーシャル著、邦訳2001年の『B-29 日本爆撃30回の実録』の51ページに、ホノルルのP屋の話が出てくる。戦時中、B-29をサイパンに運ぶ途中で、クルーが目撃した光景だ。
 ほぼ一街区ごとに兵士が行列を作って建物に入る順番を待っており、その値段は5ドルだった――というのであるから、立派な組織売春の慰安所が軍の半公認で営業されていたのだ。
 1984年以前には、こんな話が紹介された例は稀だと思う(すくなくも兵頭は読んだ覚えなし)。
 たとえば戦中のアベレージな白人徴兵の性的な妄想がよく告白されていたノーマン・メイラーの『裸者と死者』(たしか、ルックスの良い黒人女とも一回やってやるぞと自分に誓う下りがあった)にも絶対にそんな話は出てこない。だから〈米国には慰安所はなかった〉と勘違いする粗忽者が今日の米国内に多いのかもしれぬ。現代人による過去の慰安所批判こそ、「知る者は語らず、語る者は知らず」の典型例であろう。
 (ついでにコメント。新聞よりも書籍の方にずっと自由が保証されている今日の日本国で、有料の書籍を遠ざけ、無料のネット上ソースだけで事物の真贋判定ができると思い込んでいるブロガーたちは、皆、理性の病気である。米国では、単行本を全国の書店に流通させるまでには、著者にものすごい高いハードルが課せられ、しばしば、出版社側の言うなりに、記述内容を不本意に変更しなければならない。だからインターネットが、既製市場ではマイナー評価だが、正確でエクスクルーシヴな情報を持つ著作者多数に、公衆向けの自由な伝達の場を与えた。日本ではそのような著作者は大抵、すでに活字発表の場を得ていたので、インターネットが新たに付け加えた有益ソースとしては、官庁インサイダー達のリークが最も注目される。)
 さて、ホーハウスにおいては「しつこくない」というので好評らしい日本男児は、宣伝戦でも、エンドレスの長期戦が戦えない。北京の国際宣伝司令センターの攻め口は決して慰安所だけではない。イメージ毀損の心理戦は、文化の全戦線で無限に続くだろう。
 奥宮正武著『もう一つの世界――13カ国・平和への挑戦』(1977-12)の88頁に、1973年当時のケルンの日本文化会館で、館長をしていた松田智雄公使(東大でドイツ経済を教えていた)から聞いたという話が紹介されている。いわく、「この国には、日本人は悪玉、中国人は善人という筋書きの、程度の低いホンコン製の映画が氾濫しています」と。それに対して松田が打つことのできたカウンター・プロパガンダは、ドイツの「水準の高い人々」を対象にした、歌右衛門や雁次郎の〈隅田川〉の上演であったという。
 まあ、2000年代の今どき、こんな勘違いをしている「文化人」はいなかろう。ヒトラーの『わが闘争』は、正直に宣伝戦の極意を公開している。最も水準の低い人々に向けて、宣伝は、為されるべきなのだ。
 口には出さぬが現代シナ人が困惑しているのが、世界に氾濫している「程度の低い」ニホン製の漫画の中に、シナ人のお約束キャラとして、辮髪が出てくることではないか。あれは「満州族」の風俗であって、辛亥革命以降のシナ人には、親の仇のようなものだ。
 防衛省が庁であったときは久間氏も外務省の腐れ役人とそのお仲間たちから陰湿なイヤガラセをさんざんされたようだが、省になったとたんに自前の軍事外交が展開できるようになった模様で、結構なことだ。インドやネパールへの特務機関扶植は、対支戦略としてヒットになるだろう。しかし、F-22と引きかえにアフガンに派兵とは……。イラクから抜いた戦力を振り向けろと? ブッシュ政権がF-22を取り引き材料にする気なのは想像がついた。だが2008年以後の次の米国政権は、約束をキープするだろうか?
 ここでも必要なのは、〈日本と韓国は違います。韓国人は歴史的にシナ人の仲間です。アジアでの韓国の侵略を防ぐために日本はストライクイーグル以上の装備を必要とします〉といった、絶え間のない国際宣伝である。それは、米国要路に対してだけでなく、米国大衆に対して、展開し続けなければ決して有効ではない。
 〈日本人は善玉、○○人と辮髪は極悪人〉という筋書きの、程度の低いニホン製の漫画とアニメと映画も、米国の大衆メディアのレベルで、もっと氾濫させねばなるまい。


これから予想される「下ネタ」文化戦争

 北京の反日宣伝総司令部が、とうとう気付いてしまった。わが国への間接侵略に対抗する防衛上の孤塁であった「日本警察」の弱点部を!
 おそらく洞爺湖サミットにピークを合わせて、日本国内にある、すべての店舗常設型の「ヌキ」系の風俗業が、アメリカ政府やマスコミ発の非難の弾丸で狙い撃ちに連打されるようになるだろう。もちろん、アメリカ世論を刺激すべく、絶えず燃料を注入し続けるのは、全世界に展開し、北京からの注文で仕事をいつでもキッチリこなす、在外プロパガンダ機関である。シナ人は表には出てこない。
 そのさいアメリカ人は、日本でいわゆるデリバリー型、すなわち米国流のコールガール形式やストリートガール(立ちんぼ)だけは非難しない(できない)はずであるが、降って沸いたようなフーゾク・バッシングに、日本政府(風営のコントロール担当は警察)が周章狼狽すれば、見境いのない行政指導の混乱や、官庁同士の下半身スキャンダル暴露合戦や、世論の暴発等が、生ずるに決まっているだろう。
 「ソープランド」を筆頭とする日本のフーゾク慣習に対する攻撃が、北京にとってのみ有利なことは言うまでもない。今のシナには、常設店舗の中で完結するヌキ営業は無いからだ。(ヤミで在ったとしても、一晩で撲滅し得る。)
 つまり、彼らは、世界の中で日本政府だけが不道徳な性産業を公法で公認して応援しており、その苦界には経済後進諸国からヤクザが人身売買的に狩り集めてくるベアリー・リーガル(=スレスレ合法orほとんど触法)な若さの「年季奉公人」が奴隷的に強制労働させられているのだと大々的に宣伝することが可能となる。それが that old「慰安婦」攻勢を、援護射撃することにもなる。
 そしてそこから、要するに日本の警察は国際テロリストに通ずるヤクザの仲間でもあるとし、対外的な信用を貶しめ、その警察が日本国内で摘発しようとしているシナ・朝鮮系のスパイ達などは皆、濡れ衣であると印象づけることも可能になるのである。かくして日本の警察が米国政府からこれまで受けて来られた高い評価(それはなんと外務省よりも高かった)は傷つけられ、公安組織はガタガタに揺さぶられ、日本の中の北京の手下たちが大暴れできるような環境が整ってしまう。
 このおそろしい嵐の前提となるべき、日米の「ヌキ」フーゾク文化の違いとは何か?
 日本では、「店によるシステマチックな多数女子従業員の管理」が堂々と許され、八百屋の野菜のように管理されている商品としての女を男が買うというスタイルが近代以前から伝統的に続いてきているのだが、アチラでは、相対ずく、すなわち、タテマエとしての「女と客の一対一の自由交渉」しか、社会的に認容されない。※間違っていたら、あとで後藤芳徳さんにでも指摘していただこうと思います。
 英国もビクトリア朝時代から「カタい国」と思われているけれども、その当時でも、教会の裏手などが「あいまい窟」となっていて、男子のヌキ需要に応える供給はもちろん存在していた。ただ、パリなどと違って、表通りからの視線は遮蔽されており、また、男どもがそこを利用する行為が、外聞・外見ともにはばかられた。もちろん、八百屋の野菜スタイルではない。まず男女ともにサロンにくつろぎ、女も男も談笑裡に互いに品定めをして、そこから徐ろに値段交渉に移って、自由な合意成ってのち、別室に消えたのである。
 戦前のベルリンでは、特定の酒場に、男の客が深夜までたむろしていると、いままでの従業員とは違う女たちが、あたかも客のようにして入ってくる。そこから、男と商売女の一対一の自由交渉が始まり、合意成れば、女のアパートに同伴外出……となったようである(旧軍参謀たちの回顧録の類をさんざん読んできた結果、このぐらいのことが、分かるようになってきた。ただし英米駐在組の下ネタ話は、さすがに軍人回顧録では読んだ覚えがない)。
 それならば現代のオランダやドイツなどにある(と聞く)行政公認の固定施設型の売春宿はどうなんだ(飾り窓は、江戸時代の吉原と同じじゃないか)――と日本人が反論しても、たぶん無駄だろう。それらの施設では、「女と客の一対一の自由交渉」が保証されている、と言われてお終いであろう。日本では「定価料金」が堂々と店の入り口前の看板に掲げられていて、それを店内で交渉で変更できるという話を聞いたことがないが、欧州の売春宿では、女が個室で客を見て料金を申し伝える、いわば時価制になっているのではないか。※間違っていたら、あとで後藤芳徳さんにでも指摘していただこうと思います。
 「一物一価」の女、というところに、米国人ならば反発するのだ。それでは人間が八百屋の野菜と違わないと思うわけである。これは尤もな話だろう。
 先走った予測をしよう。日本政府は、固定店舗内完結型のヌキ系風俗営業の完全禁止に、けっきょく踏み切らざるを得なくなるだろう。
 北京のこの攻め口の巧妙さは、日本国内の官官接待で、管理売春施設に類する施設が利用されているケースがおそらくあって、そこに弱みを感ずる一部官僚や政治家が、萎縮すると見抜いていることにもあろう。先のヘタレ国会議事堂のように、もののみごとに萎縮するだろう。反論すれば、どんな過去のフーゾク関与歴を指摘されるかわからない。
 風俗営業を管理する立場の警察官が、風俗業界から奢られていたというケースも、探せばどうしてもあるはずのことで、警察組織もこれから連打を浴びることを覚悟しなければなるまい。ドラスチックな風営法の改正(それは従来の業者とのコラボ関係を破壊し、恨みを買う)と、スキャンダル火消しに追われるために、肝心な国内第五列の監視や、テロ資金源となる賭博・薬物への対策の手が緩んでしまうだろうことが、大いに心配だ。
 やがて、「自分はソープなんか行ったこともないし、ピンサロなんて意味わかんない」という、下情とほぼ断絶した「清い」半生を送ってきた相当に奇矯な代議士や役人だけが、大威張りでのさばるようになるのか……? 刮目せざるを得まい。