2007/3 新田原基地見学ツアー

(2007年4月7日と2007年4月14日 に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人 より)
 ここに提示した写真は確かに新田原基地見学ツアーのものである。けれども、『兵頭二十八の放送形式 ”絵の無い解説文を提示します”』のキャプションのものとは、厳密には一致しない。(勿論、一致するものも、ある)

 写真の入った郵便封筒が亜空間に消えてしまって、兵頭先生から私に届かなかったのが理由である。その後、写真は入手できた。それを符丁やキャプションを付けず適当に公開してしまうのが私『管理人さん』のいい加減な所である。
『このキャプションはこの写真を指しているのだな』という風にも楽しんでいただければ、私は嬉しい。




デモ・スクランブル

写真:(c)防衛省 2007

(2007年4月14日 に公開)


兵頭二十八の放送形式 2007年03月27日 05:37 絵のない解説文を提示します』より

【1】
 入間からC-1で高度7800mの飛行を続け、鹿屋へ(万一機体に機関砲で穴をあけられても、ヒマラヤ無酸素登頂と思えばいいわけだ)。与圧は1000mに合わせているので「差圧」はかなり大。おかげで、国内線のエアバスよりも耳は痛くなりません。
 いきなり余談ですが、なぜC-1をジェットにしたか、旧陸軍の参謀の自伝を読むと、よく分かるんですよ。彼らは、自前の移動手段で、他の官庁の誰よりも早く、連絡に行きたかったんです。高速参謀輸送機として考えていたに違いないと、最近は確信してます。
 さて写真は、海自のP-3Cの第一航空郡司令部です。なんとこの建物は昭和11年4月に海軍鹿屋航空隊が飛行場と同時に建設したもので、空から見ると「戦艦」に見えるデザインにしてあるそうです。またもう一棟の古い隊舎は、「空母」を模してあると。東シナ海の油田群の見張りは沖縄基地ではなく、この鹿屋基地の担当なんですが、詳しい話はオフレコにしといてくれと言われました。まあ、キッチリ「仕事」してますよ。
 P-3Cは以前は垂直尾翼に派手な部隊マークを描いていました。が、それじゃシナの潜水艦の潜望鏡からひと目みただけで日本側の発進基地がバレバレだろ、というわけで、いまではごく小さくなっとります。
 ちなみにシナ軍は、偵察機をあたかも民航機であるかのような塗装・マーキングにしてある、国際法違反精神マンマンな軍隊です。合成開口レーダーを積んだやつは、定石通り、どこに関心があるのか気取られないよう、日本の沿岸全部をなめて通っているそうです。
 北京から見ると、日本列島でいちばん気になるのは、山陰の島根県あたりでしょうね。ここにIRBMを置かれると、最も短い飛翔時間で北京に届きます。余談ですが、中立国には交戦国の領空侵犯を阻止する義務もありますから、もし巡航ミサイルを日本海から北京に発射すれば、韓国軍がそれを撃墜することになるでしょう。バリスティック・ミサイルじゃないと、ダメなんです。
 鹿屋の近くの東串良町には通信所があります。また錦江湾の東岸の福山町には、海自の開発隊群があり、潜水艦や魚雷を試験しています。「えびの」には潜水艦に指令を送る送信所があります。根占町には受信所があります。要するに鹿屋は対潜センターの一つだと理解ができるでしょう。
 鹿屋基地の航空燃料は、まず古江にタンカーで揚げて貯油し、そこから短い距離をローリーで運んでくる。この便利が良いのか悪いのか、沖縄米軍のKC-135が鹿屋に移転してくるのじゃないかと一時、噂されましたが、まずその目はなさそうでした。日本の基地で、米軍受け入れの余積を有しているのは、千歳だけでしょう。

【2】~【7】
 海自のヘリ・パイロットの訓練は、すべてこの鹿屋でOH-6を使ってやります。タッチ・アンド・ゴー(斜めにダイブし、接地はしないで、ぎりぎりホバーしてから、斜めに急上昇)を見ましたが、マークを向こう側に外してしまう訓練生が多いようでした。遠くからは見えないが、「バカヤロウ」と横の教官にはたかれているそうです。
 さて写真でご覧にいれますこの一連のディッチング・トレーナーは、全国でもここ鹿屋にしかない、海や湖に着水してブクブクと水底へ沈みゆく、しかも180度横転したり急角度に傾いたりしながらという天地無用なヘリのコクピットから、クルーが着衣のまま泳いで脱出する、その過酷な状況を何度でも容赦なく再現しちゃるという、掛け値なし〈命がけ〉の筐体マシーンで、NIPPI(日本飛行機株式会社)の謹製であります。
 警察や海保のクルーもここで年に一回くらいは溺死寸前の恐怖を満喫せねばならないらしい。ホントに脱出にモタついて水飲んで気絶して、プール内待機の海自ダイバーに救出される人がいるそうで、ヘリのクルーがカレンダーの上で最も精神的な重圧を感じている、「これさえなければ……」という悪夢の年中行事であると仰るのも、頷けます。ともかく、一年でいちばん血圧が上がるとか。
 手順ですが、まず両サイドの透明窓を、墜落途中の段階でブチ外す(あれ、外れるようになってたんですね)。そしてザンブと着水すると同時に、天井の大きなレバーをガクッと引き下げます。これが、エンジン緊急停止レバー。そして、ハーネスを外したときに天井(いまやアップサイドダウン)に落下しないように、片手で天井につっかい棒をし、片手で鼻をつまむ。このとき、酸素吸入チューブを口に咥える場合もあります。
 次がおそろしい! 海水(この施設は真水使用)が完全にコクピット内を満たし、視界を妨げる気泡が消えるまでの30秒間、その姿勢で息を止めたままひたすら待つのです。気泡が周りに充満しているうちは何も見えないですから、脱出はできぬというわけです。しかしその間にも、ヘリはどんどん真っ暗な海底へ沈降して行く。ダンナ、堪えられやすかい?
 脱出は着衣のままです(軍隊のヘリ用スーツは、急に脱ごうとしても到底脱げるものではないらしい)。個人用ゴムボートは先に水上に浮かんで膨らんでいるという想定です。これが見当たらなくとも、スーツには浮き袋もついていますが、それはまだ膨らませてはいけない。まず潜水のまま10mくらい機から泳いで離れてのち、水面に顔を出さないと、ローターで叩かれる危険があるわけです。
 機体の沈み方は、8パターンほど再現が可能で、そのすべてをマスターすれば、将来どんな事故に遭っても沈着に脱出できるそうです。ただし、対潜ヘリの場合、おそらくは、「気付いたときには海面に激突していた」というシチュエーションだろう、とのこと。海上ヘリの事故原因は、ローターの焼きつきなど機械原因のものは稀で、やはり、バーティゴーなど人的な原因がほとんどのようです。
 また面白いもので、水平線ではなく母艦の甲板を基準にしてしまって、艦と一緒になってヘリの空中機位を揺らしてしまう訓練生が必ず一定数あり、彼らは、海自のヘリのパイロットにはなれない、とのことでした。
 なお、このプール内には、訓練を実施するクルーの数だけ、潜水士が水中待機することになっています。

【8】~【10】
 鹿屋の史料館は、復元零戦(五二型)があるので有名ですが、知覧と違って館内撮影ができません。しかし今回は許可があったので、バカチョンで撮りまくった。遺憾ながら、そのフラッシュが非力すぎ、機体の写真は薄ボンヤリしとりましたので、割愛。機銃の写真を、ご堪能ください。

【11】
 これがよく分からないんですよね。陶器製の代用爆弾……とは思うのですが、なぜ傘が付いているのか……。
 こういう戦中の珍しい代用兵器を所蔵している人は寄贈してくれ、というお話でした。

【A】
 陸自の基地としてはコンパクト(キッカリ普通科1コ連隊)な、宮崎県の都城駐屯地の資料館です。比べると函館駐屯地は「1コ連隊 - 1コ中隊」なのに、もっと広々しとります。
 この建物はなんと、旧軍の聯隊司令部がそっくり使われとります。展示もシブく、これは貴重と思いました。ちなみに駐屯地の倉庫も木造で、メチャしぶ(何を恥ずかしがるのか、近寄らせてくれなかった)。『戦マ』時代に善通寺でこれとタイぐらいに古い木造倉庫を見た覚えがありますが、今はどうなっていますかなぁ……。
 さて、都城は上原元帥の出身地として有名なのですが、この資料館の歴代聯隊長の名前の中に荒木貞夫があった。う~む、そういう縁もあったのか。調べてみると、荒木が大佐になったのが昭和7年、歩23聯隊長だったのは昭和8年7月から10年4月までです。上原は昭和8年11月に老衰死。対ソ戦をやりたかったでしょうなぁ。
 この駐屯地からはイラクにも兵員が派遣されています。そのさい、住民の反対活動は皆無だったそうです。いい土地ですよ。出発前には高機動車の荷台をパレード仕様にして、市内を練り歩かせ、歓呼の声に送られたそうです。

【B】
 軽装甲機動車の車内。路肩爆弾への対策から、このサイズも二回りくらい大きくしたいところでしょうが、空輸の限界もあるし、日本の地方都市の道路はほんとうに狭いですからねぇ……。都城は、陸自のなかではかなり早く、軽装甲機動車を完全充足させて貰った普通科連隊だったようです。運用試験を任せられたのかもしれません。

【C】
 天井のフラップ・ドアの内側には、ウレタンフォームの分厚いクッション材が、貼り付けられていました。

【D】【D+】
 ちびヤンなどを通じて、すでに全国のマニアが多数の内部写真を撮っているでしょう。にもかかわらず、元雑誌記者の性、ついドアの厚みなどに着目してしまうのは、かなしい……。ちなみに、横のドアの窓は内側から開閉ができます。そこからも小火器で射撃ができるわけです。
 後部ドアは一見、乗員の出入り口風にも見えるのですけれども、後部シートの背もたれによって車内通行が前後遮断されており(背もたれの上を乗り越えるのは可能)、通常は荷室へのアクセス用にしかなりません。

【E】【F】
 「01ATM」です。ということは4、5年くらい前から部隊にあるのでしょうが、マニアをやめて久しい小生、実物を拝見したのは、これが初めてでした。このアイテムが、カールグスタフを更新しました。カールグスタフを持たされていた隊員が、これへの転換訓練を受けたわけです。では、まだ使えると思われるカールグスタフは、どこへ行ったのか? いけね、訊くの忘れた! あと、ロケランは?(w)
 カールグスタフは2人がコンビで、片割れが背中のコンテナに予備弾2~4発を入れて運搬したのですが、このATMにも予備弾はいちおうあるらしい。ただし、運用は1名です。
 つまり、ソ連の大機甲部隊が雲霞のように押し寄せることなどない――と、陸自は現実に目覚めたのでしょう。
 前後の八角ナットのようなものは発泡スチロールでした。実用時には、外して捨ててしまうんでしょう。
 まとめると、これって米軍に大昔からある「ドラゴン」がようやく陸自にも装備された、という解釈で宜しいでしょうか? なにぶん、武器マニアを卒業して久しいもンですから……。
 カールグスタフには時限爆発モードがあって、敵の塹壕の頭上アタックにも使えたのですが、いまやそんな機能は、想像しますに、充実した81ミリ迫と120ミリ重迫のVTモードにさせれば済むだろ、という考え方なのでしょう。

【G】
 「もしもし、道をお尋ねしたいのですが……」
 ――こんなスナイパーが各普通科中隊に1名、配備されるようになるとは、かつて誰が想像をしたであろうか。選ばれているのは最も射撃がうまい上級陸曹(なんと裸眼視力2.0を維持! ぜったいにPCはやってないね)で、双眼鏡をもった観測手と、二人一組で、わが中隊長を狙ってくる敵の狙撃者を、物陰から返り討ちにして行くのだそうだ。この中隊スナイパーの練成は、富士演習場に全国から集めてやっている。
 官給のカモフラは、地形地物にひっかかるので、隊員は、自分で引っかからないやつを自作していると語っていた。とにかく地面にプローンの姿勢をとったまま、動かないで何時間もじっとしている商売だそうだ。

【H】
 銃はレミントンのボルトアクション5連発、ただし最初の1発はチャンバー内だ。
 肩当を調節することができ、ボルトを後方に引いたときに、頬に触れるか触れないかという距離にアジャストしておく。ボルトは指の先だけで軽々とコックできるように、見受けられた。(狙撃担当の隊員は自分の狙撃銃の部品を決して他人には触らせたがらないという話だったので、遠慮した。)
 タマは7.62ミリNATO弾で、64式用のような減装薬ではない。つまり62式機関銃のタマなのか。消炎薬のような特殊なものではない、とのことでした。
 観測手は、とにかく横風を読む。陽炎で、分かるそうです。
 ポテンシャルとして1km先の狙撃が可能だそうですが、どうも、手ごたえが確実なのは、600mくらいまでらしいぞ。もちろん、劇画じゃないので人の眉間を狙ったりしない。「的」の大きさは、胴体サイズのようです。

【イ】【ロ】
 宮崎県の新田原基地です。「にゅうたばる」と正式に呼びます。略称「にゅうた」。新潟を「にいがた」と読むのに近いようです。基地内のPX食堂(民営)のカレーライスは300円で、「お代わり」もし放題でした。宮崎県は日本一物価が安いというのは、嘘じゃないっす。
 基地面積は、嘉手納の1/7、千歳の1/4です。しかし隊舎を増やす地積の余裕はぜんぜんなく、米軍もこの前に見に来て「こりゃアカン」と承知したそうです。だから沖縄からの移転はないでしょう。しかし築城よりは広いわけで、まあ、これからの自衛隊の最重要基地の一つです。「にゅうた」から戦闘機ですと65分で上海、30分で釜山です。
 「にゅうた」の一大特徴は、F-15のアグレッサー部隊がいることです。うまいパイロットが集められており、全国の戦闘機パイロットの空戦の相手となって、鍛えてやる。バカチョンの写真が悪くてすいませんが、各F-15の迷彩塗装は、全部色を違えてあります。これは、訓練生が、空戦でどの機を「撃墜」したのか、確かめやすくするためだそうです。
 空自のF-15パイロットは、全員が「にゅうた」で教育されます。うち、英語の適性のある半数が、米国に行ってしごかれます。
 「にゅうた」のF-4は、ストライカー任務です。まずF-2で教育を受けてから、F-4に転換するそうです。
 F-4の離陸を見ていますと、「起動車」(4輪トラックの荷台に小さいガスタービンが載っていて、そこから空気ダクトでエアーを取り出し、戦闘機のエンジンをスタートさせる)によるエンジン始動はごく短時間で完了しますのに、それからタキシングが始まるまでが、やや待たせます。これは、ジャイロがレーザーリング式でない旧式であるため、それを安定させるまでに5分くらいかかってしまうからだそうです。そこで素朴な疑問。空自の沖縄基地はF-4にスクランブルをまださせているが、「5分待機」をどうやって実現してるんだ???
 もし、「5分待機」指定のAチーム2機が、スクランブルにもたついてしまった場合は、「1時間待機」のBチーム2機が、代わりに飛び出すそうです。というのは、調子の悪いパイロットや機体をムリに上げても、絶対にロクなことにならぬからだそうです。
 F-15乗りなら、裸眼視力1.2~1.5を維持したいところでしょうが、現実はそうもいかないので、「裸眼0.2で眼鏡」というパイロットも今はOKだそうです。そして興味深いこととして、眼鏡によって視力1.5になっているパイロットの方が、裸眼で1.5のパイロットよりも、敵機を先に発見するそうです。
 おそらくその理由は、誰の目にも加齢とともに「乱視」の要素が入っているせいではないでしょうか? 虚空の中の微小な一点(ドット)を見極めるには、「乱視」が矯正されている方が、有利なのでしょう。
 ということは、裸眼視力が良いパイロットも、今後は、乱視矯正ゴーグルを装着した方が、良いのでしょうね。パイロット用にそういうゴーグルを、開発すべきでしょう。シナ空軍のSu-27の錬度はロシア空軍からみてもまだ酷いものだそうですけれども、ステルス設計のUAVくらいなら、飛ばしてきかねませんからねぇ。
 さて、戦闘機パイロットは、経済的に、割りに合うか? これは、絶対に合わないと断言できます。毎日出る航空加給食くらいでは、とても、とても……。
 たとえばF-16/F-2のシートは後傾していますけど、パイロットは戦闘中はゆったりとリクライニング姿勢などとってはいないわけです。前がよく見えませんからね。あれは、強烈なGがかかって、どうしても体が耐えられないときに、背中が楽におしつけられる、というだけなのです。戦闘機パイロットのほとんどが、首か、腰に慢性の痛みを抱えています。
 なにより、Gのいちばんおそろしいダメージは、毛細血管の破壊にあらわれる。空戦機動訓練のあとの操縦士の腕の内側には、蕎麦粉のような斑点が出るそうです。毛細血管が切れて内出血した痕跡です。まあ、腕くらいなら、野球の投手でも、毛細血管がボロボロになりますよ。それでどんなプロ投手でも、「なか三日」とか「なか四日」で毛細血管を復活させて再登板している次第ですが、戦闘機乗りの場合、Gがかかるのは、腕だけじゃないのです。全身の中で最も、血圧による疲労を受けやすい、脳内の毛細血管もまた、間違いなく痛めつけられてしまうのです。
 脳血管の障害で早死にしている「元戦闘機乗り」は、統計こそ公表されていませんが、かなり高率だろうとわたしは想像します。そこで兵頭は日本政府に提案する。このように文字通りに自分の生命を削ってパブリックにサービスしている戦闘機パイロットや海自ダイバーなどの遺家族には、特別な手当てがあって然るべきだ。特に子供の学資は政府が完全にみてやるべきではないのか。さもなきゃ、なり手がいなくなりますよ。
 あるいは航空関係の特殊法人が、こうした支援を担当してもバチは当たらないと思いますよ。
 この平時の訓練とは逆に、ホンモノの戦争の際には、軍用機パイロットの死亡率は、第二次大戦中とはまったく比較にならず、低くなるはずです。今日のミサイルや機関砲は、機体にロック・オンするので、パイロットを狙ってくるのではありませんからね。機体は失われるけれども、パイロットは生還する、という可能性が高いでしょう。
 そこで、昔とは航空戦備の考え方も、変えなくてはなりますまい。すなわち、パイロットの数よりも、機体の数を増やしておく必要があるでしょう。
 地上勤務員は、これとは逆です。旧軍の砲兵部隊の馬の係りになった兵隊は、朝は誰よりも早く起きなければならず、夜も、誰よりも遅くでないと休めませんでした(だから「竹橋事件」という暴動まで起きた)。今日の空自の地上勤務員は、この「馬の係り」と、まったく同じようでした。飛行機が離陸する何時間も前から滑走路上にいなければならず、飛行機が着陸してから何時間もまた、仕事が待っているわけです。パイロットは時間外労働はないが、地上勤務員には休むヒマがない。「1日10時間労働」「1日12時間労働」というのがデフォルトになってしまっています(自衛官に労基法は適用されない)。人員増が必要でしょう。
 それと、燃料。単年度予算で燃料を調達している今の慣行では、突如、石油が値上がりすれば、その年の訓練は、半分もできなくなるという可能性が、あるわけです。これはやはり、数年分をまとめてストックしておいて、時価の変動に関係なく、存分な訓練ができるよう、調達方式は格別に考えるべきでしょう。
 ちなみに日米空軍合同のコープノース演習は、日本側が米軍側の費用(毎回100人くらいが基地にくる)の半分以上も負担してやっているにもかかわらず、米国の財政が悪化すると、その年はあっさり中止になります。訓練も、カネ次第です。
 米空軍では、戦闘機よりも、むしろ爆撃機や攻撃機に、最も優秀な空中勤務者を配属させているそうです。パイロットの希望も、同様なのだそうです。これはやはり、有事には核弾頭を扱わせるためでしょうね。
 航空基地には必ずアレスティングワイヤーの設備があるので、F-15のような艦上使用があり得ない機体でも、テイルフックがあります。このワイヤーはいくつかのゴム玉で地面から浮かせておくのですが、そのゴム玉にフックがジャストミートしてしまえば、ワイヤーにはかからぬこともあるそうです。
 新田原の基地防空隊員(短SAMやVADS)は、釧路や根室から家族ごと移駐してきているのだそうで、びっくりしました。VADSのバルカン砲を正面からみると、真円ではなく楕円になっており、それでディスパージョンを適当に散らしているということを、いまさらながら、知りました。

【ハ】
 新田原には、F-15用のシミュレータがあります。内部は撮影禁止でしたので、加藤健二郎さんに撮ってもらった、この写真で我慢してください。左後方のお二人は、国民保護法の専門家である浜屋英博教授と、チャンネル桜によく出ている葛城奈海さんです。
 中のシミュレータの構成ですが、コクピットが中央に固定されていて、その全体を半径数mのドームが覆い、そこへアラウンドに画像(動画)が投影されるものです。隣室で、あるいは筐体のすぐ隣りで、教官がすべてをモニターしています。マイク付きヘッドギアで教官と交話もできる。
 おそらくこれは、F-15のパイロット候補者が、ごく初期段階で使うものなのではないかと、推測しました。というのは、SEGAのアーケードゲーム筐体のように、コクピットがぐらんぐらんと動くわけじゃないんです。まったく固定。しかも、キャノピーの後方には、ビジョンが投影されません。明らかに、空戦をシミュするものではない。主に、ヘッドアップディスプレイの計器の見方に慣れるためのものではないか、と愚考を致しました。
 民航機と違って、二機が併走するようにしてスクランブル発進するというのも、戦闘機だけの状況です。そのシーンが、ちゃんとこのシミュレータで、再現できるようになっていました。
 もちろんコクピットは本物のF-15の部品で構成されていて、スティックやスロットルの感触も本物なのです。
 ひとつ、発見をしましたのは、アフターバーナーを入れますと、機軸が落ち着かなくなるんです。上下左右に小刻みに振動し続ける(ように画面が揺れる)。ということは、ガンによる空戦には不利ですよね。タマが散ってしまって。超音速の空戦は、もし敢行するとしても、それはミサイル頼みでしかありえないのだということが、よく分かりました。

【ニ】
 新田原基地の周りは、もともと、茶、芝、大根の農家ばかりだったそうで、それが昭和17年に、陸軍航空隊の対南方の輸送基地となった。パレンバンに降下した空挺部隊は、ここがベースだったようです。
 写真の神社は、同駐屯地の中にある珍しい神社で、もともとあるものだから勝手に毀すわけにはいかず、さりとて変態左翼に宗教政策を攻撃される材料にされても困るぞという、ビミョーな空域である。


オピニオンリーダー及び防衛政策懇談会 新田原基地見学(19.3.14)  (c)防衛省 2007

おしまい


2006年5月中旬の、正直へたばった庄司山ルート探訪

(2006年5月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵頭二十八先生 より

 道南の山の名前は、その昔の入植者が、未開地の地点識別のために、沿岸の集落から見上げたときの分かりやすさだけを重視して、いかにも投げやりに付けたとしか思えぬものが多い。
 横に長いから横津岳。ピークが三つ見えるから三森山(3つ盛り山)。残雪がそうみえるので袴腰岳、泣面山。(どうもよくわからぬのは貧乏山)。いずれにしても歴史の浅そうな、「マンマやないけ」という趣ならざるはない。
 七飯町[ななえちょう]にある庄司山(570.4m)も、おそらく「障子のように立ちはだかる山」からの転だと思われる。下界から眺めると、この顕著なコブが横津岳を遮り、大きく目立つ。
 七飯町というのは、函館に港町を建設するにあたり、その食糧供給地として開墾された隣接地域で、高架道路上などからは、この庄司山の麓まで、畑が広がっているのがよく見えるのである。また冬には南側の尾根線に道筋のようなものがくっきり現れる。だから函館市街から遠足気分で登山できると思うと、甘い。
 30万都市の市街地のすぐ外縁の里山を庶民の行楽用に整備してやろうなどという段階に、未だにこの北海道は、達してはいないのだ。山に登りたい者は、須らくみずから試行錯誤し、道標の無いルートを見極めねばならない。死と隣り合わせに決行すべき冒険。それが、この地域の散策者のデフォルトの掟である。
 以前から非常に気になっていたが登山道の入り口がどこにあるのかさっぱり分からなかったこの山に、吾が輩は先日、ついに登頂できたので、ご報告申し上げたい。
 なお、途中に道案内らしきものは皆無であった。

 松並木が北海道らしくもない国道5号線の、高架でない方の、通称「大沼国道」。写真の奥が北、すなわち大沼方面で、手前は南、函館市心方面となる。位置は七飯町の1丁目。左手にスーパーの「魚長」が来てしまったら行き過ぎだ。正しい右折路はこの少し手前にある。

 Uターンするために入った魚長スーパーの駐車場から遠望した「庄司山」(二本の松の間の三角ピーク)。ただし地元民は「七飯山・ななえやま」と呼ぶらしい。

 ここが正しい「にんにく沢通り」の右折点で、「福田自動車商会」が角にある。

 広くもない舗装道を東へ進めば、このような農道の四辻に出る。ここをさらに東へ直進する。道を渡った北東角に、大川8丁目の墓地がある(墓石の上に庄司山ピークが見えている)。
 なお、市心から自転車で出かける場合は、LAWSON函館桔梗町店(大沼国道を北上し、道道函館上磯線のクロスを超えてさらに300m弱北上した右側にある)の脇の道を進むと、25分くらいでこの墓地に到達できる。その場合は「蒜沢二号橋」を直前に渡るから、それが目安になる。

 さらに東へ直進する。左右は畑。振り返ればこんな感じ。左手遠くの台地は函館山、右手遠くのコブは「丸山」である。

 函館新道(やはり国道5号線なのだが、高架の高速規格である)の下を潜ってさらに東へ直進する。

 高架を二回くぐって、振り返るとこんな感じ。

 すると北東角に「大和静観園」があらわれる。ここをまだ東へ直進する。すなわち、ここから道は砂利道となる。

 この砂利道をずんずん進むのだ。

 さらに東へ、ずんずん進んで行く。

 いよいよ山道らしくなる。振り返るとこんな感じだ。

 さらに道なりに進もう。

 これは西を振り返った風景だが、この畑が最後の畑で、あとは雑木林の中の山道である。つまり地元民ではなく地元熊に出会う可能性が出てくる。このへんから路面の凸凹が増し、ロードクリアランスの小さい軽自動車だと腹を何度も擦ることになる。

 右手に、コンクリートを敷いた、秣を堆積させておくためのスペースが現れる。すぐ右手は蒜沢川[にんにくさわがわ]だ。ここから先は、自動車の擦れ違いは困難だ。
 第一回目のルート偵察は、ここで車を引き返し、再び各種資料と照合して確信を得、本番の自転車によるチャレンジに臨んだのである。
 ちなみにさっきの墓場から、ここまで、自転車であれば35分かかる(半分は漕ぎ、半分は押して歩く)。

 さらに自転車を押して、えっちらおっちら歩く。右側からは沢水の音。

 とつぜん、目の前が開ける。正面はもちろん庄司山。

 じつはここには、蒜沢川に2つある砂防ダムのうち、下流側の「2号砂防ダム」があり、その工事をしたときに造成された広場だったのだ。

 上流側から広場を振り返る。左手がダムになる。普通の登山者は、ここに自家用車を駐車し、ここからは歩くようである。わたしも自転車を置いていくことにした。

 ダム広場から北をみるとこんな感じ。違法ゴミ捨てダンプは、ここからさらに少し上まで進入して、沢に廃材を捨てたりするようだ。

 特に急傾斜でもなく、楽なアプローチだ。

 下流のダム脇駐車場から10分くらい歩いてくると、このような二俣分岐点に出会う。右の道は蒜沢川の方へ下っている。この右の道を進む。

 すると、上流側の砂防ダムが見えてくる。下流側のダム脇からここまで、歩いて15分である。

 この砂防ダム、ぜんぜん砂が溜まっていないということで、地元の自然団体は無駄な土木工事のサンプルとして挙げている。水量モニターのボックスが設置されていた。ここで、沢の上に渡された、ブリキ板の橋を渡ると、いよいよ本格的な登山道だ。

 渡って、南岸から北岸を振り返る。このワイルドな橋。

 南岸から砂防ダムを振り返る。

 少し登り、また振り返る。

 やや行くと、入林届けのボックスが現れる。ここの標高がちょうど300m。熊注意の看板が倒れている。ただし地図とかコース表示とかは何も無い。

 入林届けのボックスから庄司山山頂570.4mを見上げる。記帳をみると、だいたい毎日1人くらいのペースで入山者がある様子だ。(この日はさいごまで、他の入山者を見かけることはなかった。)

 ここで不注意にもわたしは、左側の道を迷わず進んでしまった(だって広いんだもん)。左、すなわち北へ進む登山道は、「北尾根コース」といい、積雪期以外は山頂まで行けないのだ(藪こぎが大好きな人は別だ)。写真は、道の途中からピークを振り返ったもの。どんどんピークから遠ざかっていくのだ。

 下界を見る。

 もうすぐ尾根線に出るというところ。なぜかオートバイのようなもので誰かがここまで来ているらしいタイヤ痕があった。

 尾根線まであと一歩のここで、登山道が笹薮の中に消失。しょうがないので引き返す。この地点まで、入林ポストから約30分。ここから入林ポストまで戻り道は20分くらいか。

 入林ポストに戻って気がついた。道は右側(南側)にもあることを。それが正しい「蒜沢川コース」であった。再び気力を奮い起こしてアタック再開。写真は南側斜面から望む山頂方向。

 入林ポストからおよそ35分、ヘトヘト状態で山頂の鳥居に辿り着く。鳥居の向こう側が「北尾根コース」に続いている筈だが、もう確かめようという気力は湧かない。

 小さな祠に鉄の草鞋が奉納されていた。看板のようなものが雪の重みで潰れたように倒れていたが、起こして確認してみる気力無し。

 鳥居の内側から、南側、つまり函館市街方向を見下ろす。山頂からの眺望に関しては既に複数のウェブサイトで画像のUPがあるようなので、省略しよう。ここから入林ポストまでは25分で戻れた。脱水していたので沢の水を飲み、さらに上流ダムの橋から下流ダムの駐輪場所までが徒歩17分。そこから下り坂を自転車で降り、墓まで16分。そこから疲労した足でローソン桔梗町店まで漕いで14分だった。

 オマケ。家に戻る途中、こんな素敵なハウスが……。


 「七飯山」ではなくて、地元の方は「七飯岳・ななえだけ」と呼ぶことがあるそうです。聞き間違えました。

兵頭二十八の放送形式 2006年05月29日 17:12


(管理人 より)

 ニートハウス。学校に通学せず、独身で、収入を伴う仕事や就労に向けた活動をしていない15~34歳の人ばかりが住んでいて時折どう考えても感情移入できない突発的でセンセーショナルな事件が発生するハウス───では勿論なくて、neatなハウスなんでしょう。
 先日読んだ[ライトノベル「超」入門/新城カズマ 著]という本に載っていた話。まぁ、有名な話でもあるんでしょうが、[ライトノベル]という現在では定着した名称も、当初は他候補に[ニートノベル]というものがあったそうな。これと似た(或いはよりシンプルな)プロセスで命名されてしまったハウスのなのかもしれませんね。
 (ニート対策に熱心な大家さんが2ヶ月前に命名してたら凄いけれども)


情報WANTED[仮称:商品X]

(2007年2月4日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(管理人 より)

下に提示した写真の物体こそが、我らが兵頭先生の御心を掴んで話さない、そして多分、当サイトだけで話題の[仮称:商品X]である。
商品Xについての詳細はコンテンツ[兵頭二十八の放送形式]の以下の投稿をご覧頂きたい。
そしてこの[仮称:商品X]をご存知の方は、掲示板か管理人宛メールで是非教えてくださいませ。

因みに、写真で黄色く見えるのは太陽光線を乱反射しているためで、夜間のLEDの発光は白色だそうです。

2007年02月04日 03:29
2007年01月29日 19:54
2007年01月29日 07:14
2007年01月17日 10:37

※管理人注:2020年現在当サイトに掲示板はありません。


(兵頭二十八先生 より)

仮称:商品X

さらにディテール

パネル寸法

太陽電池パネルの寸法は、外枠が6.6cm×6.6cmで、シリコン部分は5.3cm平方です。ご参考までに。
この黒いABS樹脂の特長は、金属や透明アクリル樹脂と違って、太陽光をよく吸収・放熱し、日中に雪が積もりにくいことだ。

発光部

発光部です。白色LEDが1個、ついています。右側の筒は、LEDを覆うリフレクターですが、今日の一般的な製品と異なり、底部に銀色の凸面鏡を嵌めてある。部品コストも工程コストもかかる、古き良きヴィンテージな設計なんでしょう。

基盤

回路基盤です。縁の部分にピンクの小粒のような部品が見えます。これが明暗センサーで、「商品X」では、それは下向きに設けられている。つまり、ちょうど、太陽電池パネルが傾いている、一番低くなっているところの縁の下に、このセンサーの「窓」があるのです。太陽電池パネルには、絶対に水や湿気が入らない構造としていることが分かります。今日の廉価な製品では、太陽電池パネルは防湿されていません。

基盤

――誰かこれと同じ性能のものを作ってくれ! ただしLEDは黄色でよろしくネ。


ソーラーライト──じっさいの光り具合などを、デジタル・ギャラリーでご紹介


2009/3/7 兵頭二十八先生 講演会『顕在化する日本の危機』──の動画

(2009年3月20日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

2009/3/7 兵頭二十八先生 講演会『顕在化する日本の危機』

  1. 司会挨拶
  2. 主催者挨拶 軍学堂 望月昭義氏
  3. 来賓 別宮暖朗 氏 「本講演の意義について」
  4. 4.講師 略歴紹介
  5. 5.兵頭二十八 先生 講演

動画提供:MH 様


(管理人 より)
兵頭ファンとしてあるまじき事ながら、私は講演会いけませんでした。
けれども、動画が手に入りました。動画くれた方に、感謝。
しかしやはり、私は講演会に行きたかった。


※今回WordPressに転載するにあたり、動画をYouTubeへUPしています。WordPressに動画を載せるならYouTubeへUPした方が良いと聞いたからです。

どういう経緯でこの動画を頂いたのかも、失礼ながらうろ覚えです。
私はナマでは観ていない講演会です。ファイルを下さった方へ最大限の感謝をします。ありがとうございました。


ソーラーライト──じっさいの光り具合などを、デジタル・ギャラリーでご紹介

(2007年2月11日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)

1.2ボルトの黄色光
これは取り寄せで4000円以上したものですが、薄暗いです。しかも冬の夜は長持ちしません。

2.4ボルトの黄色光
こちらは送料込みで5000円ですが、よく目立つ光度で、冬の夜でも朝方まで十分に長持ちしてくれます。なお、球体の下縁にはこのように、内臓の発電パネルの影が出ます。

Globelight底ラベル
これは1.2ボルトの方です。タイ国でアセンブルされていることが分かる。

Solar Light底ラベル
これは2.4ボルトの、リコメンドできる方です。しかしなぜかこちらには、スマートソーラー社のロゴがない。

エックスの白光
参考まで。「商品X」は毎晩、夜明けまでこのように輝く。

スマートソーラー社製品の外観は白い
1.2ボルトのものですが、夜間にストロボ撮影すると、このように見えます。球形ケースは半透明の白。内部のLEDが黄色発光なのだ。

ソーラーボールの黄色光
名品、オーム電機製のソーラーボール(黄)は1000円なのに輝度はこのように十分で、マーカーとして遠くから目立ってくれる。

ソーラーボールの発電パネル
ソーラーボールの唯一の難点は、ポール上に固定する方法がないことで、そこは各人が工夫しなければならないのだ。

撮影:意味もなくソーラーライトを愛好する会

皆様からのソーラーライトの実設実用感想受付中!


2006/3 旅の手帖”沖縄”

(2006年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(撮影 兵頭二十八 先生)

P-3C内部には、くつろぎのスペースも。
このカーゴローダーは空自にしかないおもしろ車両。
わが家からの風景。3月上旬。(1)
わが家からの風景。3月上旬。(2)
救命用に落す水タンクなど。
ボムベイを機内から確認する床窓。
操縦席から脱出するにはこの窓を使う。
プロベラの塗料がはげている。実用機らしい。
エンジンメンテ中。
ソノブイは30~300mで使えるとわかる。時間は30分~3時間で可変。
F-4のガンポッドの先端も塗料がはげていた。
カッコ良い塗料はげ。
この捜索機は離陸以外は全自動OK。もう無人機時代は近いネ。
最新捜索機の中。(1)
最新捜索機の中。(2)
那覇駐屯地の爆弾。
91式魚雷の頭部。(一部欠損?)
一部マニアの間で有名な那覇戦説明パネル。中央背中はカトケン。
パネルのアップ。赤いのは飛行場。上から2コ目が「中飛行場」つまり今のカデナ。
那覇基地のバクダン。
91式魚雷(1)
91式魚雷(2)
91式魚雷のメカ。
91式魚雷(3)
米軍の砲弾(1)
パネル
米軍の砲弾(2)
LR-1の惨劇。
チヌークのAPU。
高いところから見た那覇基地(1)
高いところから見た那覇基地(2)
高いところから見た那覇基地(3)
高いところから見た那覇基地(4)
U-4で帰るで~。
中にはこんな人乗ってます。
U-4の余裕スペース。
なはでなははは。

集合写真 (この写真のみ2006年4月7日公開)

(管理人 より)
 北から南へ、また北へ。
 兵頭先生の花粉症が治った、驚異の沖縄での写真記録である。
本当にありがとうございました。
 因みに、私は、毎年シーズン中、花粉症の症状が2,3日間出ます。


2005年9月10日の奥尻島の状況

(2005年9月18日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
『北の発言』の連載記事の取材で奥尻島に飛んだ。メインの記事にはならぬ雑多な見聞を、この場を借りてお伝えしよう。

 わが浪宅から函館空港までは歩いて行ける。そして空港内でも歩いて飛行機に乗る。エアー北海道の………機種名が気になる人は、各自に調べてください(爆)。灯油の匂いがしたから、レシプロではないだろう。

 松前半島を横断してアーーーーーーッという間に奥尻島へ。画像左端が、島の南端である「青苗地区」なのだが……。

 同じ場所。津波は画像の右からやってきた。平成5年7月のことだ。多額の義捐金と補助金で人々は島内の別な土地に新家屋を建てることができた、中には見栄を張って分不相応な家作にし過ぎ、げんざいヤクザの取り立てを受けている戸主もあるとか聞く。

 着陸態勢に入ると、旧滑走路(?)が見える。奥尻空港は地震前はランウェイの長さ800mだったのが、いま1500mに更新工事中で、完成のあかつきにはジェット機が降りるのだという。そんな需要あんの? それともやはり満州を核爆撃する三沢空軍の予備滑走路となるのか?

 空港ターミナル。中には何もない。観光案内パネルすらも。この飛行機は霧が出ると止まる。風では止まらない。一方、連絡船は、霧では止まらないが、風=時化で止まる。冬場1週間の欠航で島内から牛乳が消える。ちなみに卵は230円より安いことはなく、ガソリンは本島よりリッター30円は高目。事実上の無医村でもあるから単身赴任の空曹も多い。島内には近年、信号機が1つできた。これは西表島よりもずっと遅いのだ。

 地震津波は夜だった。画像左側の赤白の灯台は鉄筋コンクリートなのに根元からポッキリと折れて横倒しになった(灯火は消えなかったという)。今上陛下ならびに皇后陛下はほとんど翌日、すごい早さで被災地御幸をご決心になった。ただし聖上は船酔いされるご体質(というか移動中は景色ではなく壁ばかり眺めて行かねばならぬ窮屈なご身分)ゆえ、当初は自衛隊機にご搭乗あそばされ、それでも途中でダメで引き返し再び船舶に御動座あそばされ、その間、奉迎の自衛官たちはずっと炎天下の堵列(かきねのようにならぶ)を続けた。しかしご還御の折、畏くも皇后陛下は堵列隊員の顔を一人一人視認して歩まれたという。
 写真の人工丘陵は、全滅・全戸移転となった青苗地区にあり、御詠を刻む。
 遠景のスカイラインに空自の第29警戒隊のバッヂ・レーダーと、そこから2kmほど離れた電波傍受施設(いわゆるNSAの日本支処の一つ。運用は空自で隊員は警戒隊と同じ隊舎に寝泊りする)のアンテナが望める。近年逐次に拡張されているという。この面の日米関係は政権と関係なく親密のようだ。

 高台の灯台すらぶっ倒される大津波にも関わらず、青苗岬突端の波打ち際に聳えるこの「威仁[たけひと]親王徳洋記念碑」(高さ18m)は、ビクともせずに残った。これが建てられたのは昭和6年。その50年前、この岬に英海軍の機帆軍艦『アイアン・デューク』号が濃霧のため座礁。同艦には、英国に倣って日本も若い皇族を全員陸海軍将校にするべきなのだとの元勲らの意向の実現第一号として、有栖川宮親王がミドルティーンの若さで見習いとして御乗り組みになっておられ、座礁艦の乗員救援のため現地島民を指揮された。その記念碑である。ちなみに、都立中央図書館がある有栖川公園の銅像は、実兄の熾仁[たるひと]殿下。年齢は27歳も離れていた。

 夏場のハイシーズンにやってくる島外のイカレた奴らがこの徳洋記念碑のある汀に卒塔婆モドキやら捨て地蔵のガラクタを寄せ集めて心霊スポットに仕立てようとしていた。冬には跡形もなく日本海の波が流し去るであろうが……。

 営外者の官舎のある宮津と奥尻町を結ぶ、島の北の横断道路。その道路の途中地点から、空自レーダー・サイトのある神威山(標高584.5m)を望む。持参のバカチョンはレンズのキレが悪く、矯正視力1.0ではっきり見えた隊舎やらアンテナやらもほとんど識別もできませんね(笑)

 管理人注:現在、三次元レーダーの古いタイプを新しいタイプに交換する工事をしているとの事で、レドームは1基見えるそうです。

 島北端の賽の河原という不気味すぎる海浜キャンプ場からも、神威山のレドームが見える。え、分かり辛いって?(爆)

 島北部の球島山山頂から、南方の神威山を見る。やはり空自基地がよく望める。え、分かり辛いですか?(核爆)

 奥尻といったらコレといわれる「鍋ツル岩」。地震で剥落した箇所があって、そこをコンクリートでパテのように補修していた。いいのかな~それで……。

 空港拡張用の工事車両群の背景に、やはりレーダーと傍受アンテナがよく見えたのである。え、さっぱり分からない?(略)

さて、それでは帰ろうか。あっ、また同じ飛行機のようだ。座席は、右側が2列、左側が1列なので、往復ともに同じ側の席を確保するとナイスな遊覧飛行になる。体重+荷物が特に重くない限り、位置は概ねリクエスト可。

 一番前の窓から振り返るように神威山にカメラを向けてみる。このフレームにバッチリおさまっているのだが、使い捨てカメラの限界で、設備等は識別不能。検閲ではありません。しかしこの真横のプロペラ、もし吹っ飛んできたらこっちはひとたまりもないだろうな。

 エアー北海道では函館空港から(おそらくこの機体を使って)遊覧飛行も随時やってくれる。しかし今回気付いたのだが、雲の低くない日に奥尻島へ往復飛行すれば、それが遊覧飛行を兼ねることとなるのだ。終始、低空飛行だからである。画像、眼下に見えし五稜郭。旧タワーの横に、高さ2倍の新タワーが建設中。


(管理人 より)
福岡市在住の私にとってはニライカナイよりも遠い島、奥尻島にこの度 兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生は赴かれた。
 私は兵頭ファンなので、あの気が狂ったように五月蝿い選挙演説風に言うならば「北の発言」、「北の発言」をよろしくお願いしますという事だ。
 後、2005年9月、ようやっと兵頭[別宮共著]本新刊”技術戦としての第二次大戦 日本vs中ソ米英篇/PHP研究所”が出版された事もとても嬉しい。


沖ノ鳥島調査団──ようこそ、禁断のリゾートへ

(2005年4月10日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生 より
 日本財団が主催した「沖ノ鳥島調査団」に、兵頭は『新潮45』用の記事取材のため参加してきました。リーフの外からでは撮れぬアングルの写真を中心に、ご報告します。

 門司港から、日本サルベージ(株)の巨大曳船『航洋丸』2000トンが離岸。2005年3月25日、なんと吹雪まじりである。帰りもここになる筈だったが、伊豆で座礁した居眠りタンカーを救出するために、晴海客船桟橋に変更になろうとは、まだ知る由もない。

 15~17ノットで60時間航海して沖ノ鳥島に到着したのが28日早朝。9時頃に日陰で気温を計ったら30℃あり。上陸調査は翌29日も朝から夕方まで行なわれた。

 『航洋丸』全景。端艇やゾディアックを5隻搭載し、専用ダイバーも擁し、ゲスト50人が楽に宿泊できる。フィンスタビライザーは無いが、サイドスラスターあり。これでもう少し高速だったなら揚陸艦になると思った。

東小島

日本最南端の東小島の上空に浮揚し、国旗掲揚。背後の白波はリーフエッジである。ちなみに4月1日に帰宅したら復員兵なみに日焼けボロボロ髭ボーボーで、函館空港で完全に浮いとりました。
ようこそ禁断のリゾート・沖ノ鳥島へ。売店、トイレはありません。
東小島の護岸に設けられている船着場。船虫が一匹もいない。蟹だけがいる。こちらを向いている人は同行S新聞社の記者さん。
満潮なので護岸の一段目は水浸しだ。正面は1988年頃に建設省が造ったと思しい「観測施設」。その上空は巡視船『しきしま』の搭載機エアロスパシアル。海保と日本財団とはツーカーである。
円盤型の護岸は中曽根内閣時代の87年に工事が決定され、89年に竣工した。ステンレスの鉄筋が縦横に入っているがテンションはかかっていない。それが長年の風波でボロボロに傷んでいるのだ。
さっそく経済活動。千円札を差し出しているのは『新潮45』の本チャン記者だ。背後のテトラポッドは鉄製。なぜかフジツボがまったく付いていない。
満潮時に僅かに海水が「岩」の周りを囲むように、この溝が切られているのだ。
強風で何かが吹っ飛んできて「御神体」を破壊してしまわぬ用心に、チタンの柵が。
8億円する純チタンの防護ネットは99年に被せられた。ちなみに温度差発電のインド洋での実験プラントも8億円くらいだとか。とにかく台風時の風浪パワーはものすごいらしい。宮古島に90mの風が吹き、風力発電塔が倒れた教訓が思い出された。手前は兵頭の釣り用長靴。
兵頭が指さしているのが「東小島」の臍。その脇に白いもので埋められている穴の痕があった。かつて日章旗を掲げたポール孔だとのこと。
立つこともできぬ空間で、これを撮影するためにはひたすら匍匐して進退せねばならなかった。前後の狭苦しい溝が、唯一の出入り口となる。

北小島

こちらは北小島。護岸一段目の船着場側にだけ、珊瑚の死骸の礫が溜まっている。大嵐の波で打ち上げられたものだろう。そして他の場所では強風のため、礫はすぐに吹き飛ばされたのだろう。十字架状のオブジェは、もやいの柱。
北小島から観測施設を見る。その右側は東小島。左側には作業台基盤が見える。
北小島もリーフの近くにあり、潮騒が聞こえる。
北小島には防護ネットは被せられていない。しかし天然の猛威がいかなるものかは、護岸コンクリートの表面を見れば一目瞭然だ。
そろそろ干潮なので内部はドライだった。
内部には礁湖底から吹き上げられてきた珊瑚礫が堆積していた。
熱心に撮影しているのは某公共放送のクルー。
蓋で隠されていないと、御神体もあまり有り難くない?
シュノーケルをつけて船着場から泳ぎだした『新潮45』記者。サメは見かけなかったが噂は聞いた。このあたりの水深はせいぜい3mくらいか。各種熱帯魚とナマコ、ウニなどはいるらしい。海藻とヒトデは見当たらず。
黒っぽく見えるところが隆起岩や珊瑚の群落。干潮時にはその上に腰掛けられる浅さとなる。

作業台基盤

 ここは作業台基盤。円堡状護岸が東小島や北小島と類似だが、御神体は無い。帝国海軍が昭和13年に97式大艇用の基地をつくろうと、ここにケーソンを数百埋設して、まず灯台を建てようとしたのだが、未成のまま放棄。それを戦後、建設省が再工事して、一時は気象観測タワーを建てた。現在はヘリパッドと、各種耐候実験の残滓があるのみ。手前は何か植物の耐久テストをしたものらしいが、完全にミイラ化していた。

 93年にここで耐錆金属の実験をしたらしい。けっきょく、チタンでなければダメだと分かったのだろう。なお、タモ網による釣果はゼロであったので、併せてご報告しておく。

 作業台基盤のすぐ近くに、無人の観測所がある。そこにはリモコンのテレビカメラも複数あり、沖ノ鳥島に誰かが近づけば、バッチリ撮影されてしまう。

フジツボもヒトデも無い海とは、要するにここは「砂漠」ではなかろうか? 2種類の蟹だけが、テトラポッドの隙間でサバイバルしていた。

 消波ブロックは粗鋼製だからなのかもしれないが、塩と日照りでこんなふうに…。ところで87年というと、青函トンネルや本四架橋の完工が決まった年であり、建設省は新たな「プロジェクト」を求めていた。このめぐりあわせがなくば、あるいは沖ノ鳥島は消滅していたのかも…。

観測所

 無人の観測施設は88年頃、旧建設省が直径1.45m、長さ27mの杭24本を打って完成したものという。しかし写真で数えてみると杭の数が足りない。嵐で崩壊したのだろうか。

 各杭の頭にジャッキ装置がある。これで構造物全体を持ち上げたわけだ。高床になっているのは、台風時の最大波高以上とする措置で、一説に13m、もしくは17mのクリアランスがあるという。ただし天然の防波堤であるこのリーフ内に5m以上の波が立つことがあるとは兵頭にはとても信じられなかった。ベテラン船員さんいわく、3mの波が立つこともまず無いと。

 左側の施設はまだ堅牢だが、右側の施設は倒壊寸前とも聞いた。どちらも危険ということで、昇ることができなかった。新しめな通信装置は、気象データを衛星経由で送っているもの。

 飯場の寝泊り小屋のような施設だが、どちらの棟も、過去に人の居住に供したことは一度もないそうである(つまり船中泊のみ)。こちらの棟は、直射日光が窓に当たらぬように、庇が張り出している。窓のどれかが過去の強風で割れたという話も聞いたのだが、確認できなかった。

 床裏。錆び汁が四方に伸びているのは、優勢な風向きを示すのだろう。

 白い側板に注目。風に叩かれ、裏の縦横の骨材が浮き出ている。

こちらの側板は凹んでいない。
杭に近寄る。
これらの捨て杭が何だったのかは不明。切断面から、コンクリート充填円管柱であったことだけは分かった。
このあたりの水深はごく浅い。2mくらいか。
梯子はしっかりとしていた。

 廃墟美をとくとご堪能ください。

 リーフの南西には旧海軍が端艇の入り口として設けた切り欠きが一箇所だけある。観測施設の対角線の延長にそれはある。写真はその手前の礁内海面だが、兵頭にはどうもここが過去に露岩のあった場所ではないかと思えてならない。自然の猛威で横倒しとなり、その上に珊瑚が密生しているのではないか。なお、満潮時に白波の立っていないリーフの上なら、ボートで乗り越すことは可能であるという。

 礁湖の中央よりやや西寄りの海面から観測施設を望む。この付近がいちばん水深が大で、満潮時で5.5mくらいある。US-1A(改)用の水上飛行場を設定するならば、ここだと思った。ちなみに建設省の役人は過去に少なくとも二度、US-1Aで沖の鳥島を訪れている。着水場所はリーフ北西の外縁で、そこから『航洋丸』の端艇でリーフ内に入ったという。

 同じ海面から西側を見ると、2km弱先にあるはずのリーフは目視できぬくらいの広さがあった。このあたりが最も珊瑚相が豊かであるというのだが、わたしには沖ノ鳥島の珊瑚は貧弱に見え、自然保護の特別な価値は低いとの心象を受けた。向こうの小舟は某民放のクルー。

こんなん釣れましたけど

 本船および端艇から船員さんたちがトローリングや投げ釣りをした戦果がコレ。ただし礁湖内ではなく、すべてリーフの外側である。なお前夜に刺し身パーティがあり、めぼしい獲物はそこで消費されてしまっている。釣りは少なくとも「入れ食い」でないことだけはよく分かった。それが傍証として、沖ノ鳥島には海鳥の姿は極く稀である。


以下 提供:雑誌記者様

サンゴの破片

北小島のサンゴの破片にKYとボールペンで書いたのは私です。

兵頭さん


管理人 より
 先生は遂に日本最南端の島へ上陸された。この兵頭記事は『新潮45』へ掲載される。無論、必見である。
 余談だが私にも、先生と北九州で拝謁を賜る好機があったのだが、何せ「”月月火水木金金 ”とかいう歌のタイトルは、意外とノンフィクションだったんだなぁ」と最近思う事も時折ある──まぁ、結構楽しかったりするんだが ── 普通の会社員なもので、全く時間的に不可能だった。涙で前が見えない。無念である。しかし兵頭先生の記事は楽しみであるし、何より、有難う御座いました!
 このページを(えらく他力本願だが)皆様にも楽しんで頂けたら、私は嬉しい。


平成16年度 近畿地方部隊見学

(2005年3月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生 より
 防衛庁オピニオンリーダーおよび防衛政策懇談会のメンバーによる平成16年度近畿地方部隊見学(05年3月15日~16日)の、写真によるご報告である。今回は空自・小牧基地と海自・舞鶴基地を回った。

小牧 レポート

青色塗装のC-130は、イラク行き用に改造中のもの。黒枠の中のレンズは、地対空ミサイルのロケットモーターが発する赤外線を探知して警報するIRセンサー。これが計4個ついていた。
同じく。空自のC-130部隊はすべて小牧所属。イラク以外にも新潟やらインド洋やら予定外の使用が増えて絶対的な数不足に陥っていた。中東にはピンチヒッターでU-4を飛ばしている。そこで今回の視察もCH-47での移動となった。
機尾にも2方向に向けてミサイルセンサーが付けられていた。中央の小さな2球は尾灯か。

 民航がセントレアに行ってしまったので閑散とした小牧基地(=旧名古屋空港)。この結果、困ったことになった。ひとつはタラップなどの大型機用地上施設も撤収されたため、政府専用機が小牧を利用できなくなってしまった。もうひとつは、三菱工場の戦闘機の音が目立つようになってしまった。当地の住民は過去の墜落例から戦闘機にだけは不寛容らしい。ちなみに日本がC-17を買ってもしょうがない理由が、この地上ファシリティの不備という。千歳と百里くらいでしか運用ができぬのでは困るわけだ。

 イラク名物の砂嵐にC-130が耐えることは実証された。では次期輸送機C-Xのような大口径のターボファンの場合は砂嵐によるトラブルは考えられないのか? ターボプロップで問題なければ、ターボファンでも問題ないとのことであった。また次期輸送機が双発になることについても輸送関係の○○隊長さんにこっそり訊いて見た。隊長さんはC-Xの双発には反対で、できれば四発にしてくれというご意見だったんだそうである。なんとなれば、空自の輸送は、ランニングコストや運航回転率だけ考えればよい民航と違い戦時想定である。エンジンに被弾する場合がある。そのとき、2発の半分を失うのと、4発の1/4を失うのとでは大違いであると。また昔C-1ベースの改造機でUSBとかいって、主翼上面のそれも前縁にエンジン排気口をもってくるという特殊なエンジン配置でコアンダ効果とやらにより揚力を倍増せんとするSTOL実験機があった。斯くすれば下から見た赤外線も減るし騒音も減るから良いことづくめなんじゃないの──と思っていたが、いつの間にか計画は消滅した。その「ダメな理由」も今回聞かせてもらえた。離着陸時の、エンジンの噴流によって強制的に揚力を増した低速飛行状態のとき、もしそのエンジンが事故または被弾によって止まったら…? たちまち翼上面で空気剥離が生じ、とてもリカバーはできないのである。

主翼下、燃料ポッドの上に「チャフ・オンリー」と書かれたカバーがある。イラクで使用するときはこのカバーは外す。
主翼下の胴体の横には「チャフ・オンリー」と「フレア・オンリー」と書かれたカバーが並んでいる。これらカバーを外せば、射出装置が剥き出しとなる。
機首下に増設された風除けに注目。ここにも敵ミサイル欺瞞手段の放出口がある。チャフかフレアかは聞き忘れた。スマン…。

 コクピット内に、敵の地対空ミサイルの接近を警報する計器が二つ、増設されていた。どれがその計器であるかは書かないことにする。

  パイロットの後方、機関士席の頭上に仮眠ベッドが…。まさに空とぶ長距離トラック。たとえばC-1だと内地から硫黄島まで飛んで気象が悪くなっても引き返すことは不可能だが、C-130ならば余裕で他の飛行場に向かえるのだ。

 C-130の荷室にはトイレも設けられていた。もちろん空中から垂らし飛ばすことはなく、タンクに回収する。加藤健二郎さんは実際に座って調子を確かめていた。

舞鶴 レポート

 舞鶴の海自用のヘリ飛行場にCH-47が降りた。左端に写っているのはいつも防衛庁の視察でご一緒する應蘭芳さん……といわれても若い人は分かるまいが、TV実写版『マグマ大使』をリアルで視ていた世代ならば興味があろう(ググれ)。なお画面の奥には、シナからの輸入石炭を燃やす火力発電所を建設するために架けた橋が見える。若狭湾は原発銀座で特別警戒地区になっているはずだが、まだ電力が足りないらしい。

 管制塔から『のと』が見えた。本来なら地方隊を置くべき新潟が軍港でないために、舞鶴地方隊が西は島根沖、東は秋田沖までもカバーしなければならない。いかに日本は大東亜戦争後も太平洋側を「正面」視していたかが分かる。不思議な謎だ。

 総監部の廊下は軍艦式に配管が剥き出し。じつはこの建物は大正14年に江田島から移転した機関学校のもので、ネイバル・ホリデイで計画中止となった軍艦の材料が転用されている。舞鶴は曇りの日が多いゆえ米軍艦上機の空襲もほとんど受けず、こうしてそのまま残っているわけ。天井がやたら高いのは、海軍士官の浩然の気を涵養するためという。我々はこうした説明を、水兵で入隊し、砲術ひとすじタタキアゲで三佐になった方から受けた。昔ならば「兵隊元帥」と呼ばれた特務少佐ではなかったか。

「母は来ました今日も来た」──舞鶴は終戦後に大陸からの引揚げ船を迎えた港で、ここはそれを記念した博物館。入港船は岸壁や桟橋につけさせずに、沖泊させてランチで上陸させた。すなわち日本人を装った朝鮮人などを勝手に上陸させぬ用心だ。検疫で伝染病を疑われた人は隔離施設に収容された。将来の半島有事でもこの心掛けが必要だろう。博物館で再認識したのは米軍がジャップの引揚げのためにリバティ船を100隻も貸してくれたんだということ。典型的なサイズは7200トン、148×19m、ここに3300人くらい乗せて運航できた。もともと2週間で1隻造ったというから恐れ入る。これと日本の戦標船を比べればあまりに格差があり、彼我の統制の質の違いを思わざるを得ない。

SH レポート

 次に艦載の対潜ヘリSH-60を見る。中型ヘリは天井が低くていかにも窮屈そうであるが、SH-60が3時間を越えて飛び続けることはまずないゆえ、苦にはならぬとのことであった。

 両側のオーディオスピーカーのような黒いものはEMSで、敵潜水艦などが出すわずかな電波の放射を探知する。後方にもあり全方位を警戒できる。整備兵が触っている円筒はデータリンクの送信装置で、機体後部にもある。指向性の強いマイクロウェーブらしく、リンク中は2m以内に近寄るなと警告文が書いてあった。

 左舷。整備兵の左手が触れている翼は、次のK型では大きくなって、そこにヘルファイアが吊下される予定。

 左舷後方に向いたEMS。その右側の白いドラムはフライトレコーダーで、ヘリがもし海没してもこいつだけは分離され回収されるように外部に飛び出している。

 ふつうヘリをダッシュさせるには機首下げの姿勢になるのだが、この水平尾翼が自動的に角度を変えることでSH-60の機首は水平を保つ。尾部ローターの回転軸はやや傾斜しており、これにより尾部ローターも揚力を稼ぐ。

 右舷のこのダーツのようなものは、ワイヤーで吊るして海面上を舐めさせ、地磁気の変化を捉えるMADである。既知の地磁気データと違うところがあれば、そこに敵潜がいる可能性がある。

 後席の1人分を占めているディッピングソナー。パッシブのソノブイで敵潜の位置を絞った後、ホバリングしながらこれを、横方向に最も遠くまでアクティブ・ピンが届く水深まで下ろしてやる。確実な探知半径は2.5kmで、もしこの範囲に敵潜が在れば決して聴き逃すことはない。そしていったん探知した敵潜をSH-60がロストすることもありえないとの話であった。アクティブの周波数は機ごとに違っているから、敵潜からも、何機のヘリでどのように絞り込まれつつあるのか、情況の見当がつくという。ちなみに次期SH-60のK型はディッピングソナーが低周波に変わる。それはディップさせると唐傘の骨のようなものが開くのだという。なおP-3Cと違い、SHは機上でソノブイの解析ができず、データを母艦に中継して解析してもらわねばならない。ソノブイは1本50万円くらいらしい。ディッピングソナーはSH-60が自機で解析できる。

うみたか レポート

 46ノットで爆走できるミサイル艇『うみたか』。このクラスの艦長は少佐級と聞いた。なにしろ幹部は4名しか乗ってないのだ。もともと対ソ用の計画艦だったから、北鮮のボロ船相手には勿体無いような強力兵装だ。後部に4発積んだ対艦ミサイル(キャニスターには90式SSMとレタリング)はハープーンの改造品だという説明をうけた。本当ですか? ちなみに射程は「100km強」とのこと。

 高速航行時に舵をきると、ハルはいったんは内傾するが、じきに外傾するという。最大速度で最も急激な舵をきっても転覆しないことは試験済みだという。計算上、70度くらい傾いても転覆しないという。おお、怖…。

 椅子は高性能なスプリング・クッションが効いている特別なもの。波に乗ったときの上下動がすごいのだろう。5点式ハーネスで固縛するようだ。ちなみに食堂の椅子もガッチリした肘付き椅子であった。

 通路は狭かった。ベッドは3段(最新護衛艦は2段)。ただし水兵の体格が向上しているので面積は昔より大。キッチンはなく、3日分のレトルト加熱食のみ。これが護衛艦であれば2週間分の生鮮食糧を積み込む。「1000浬シーレーン防衛」を標榜した折、1000浬の作戦往復は2週間に相当すると計算されたからだ。このミサイル艇内にも神棚と公衆電話(船舶電話)があった。

 複合型作業艇。28ノット出るらしい。その真下あたりが補機室で、機関科員がエンジンを遠隔監視していた。

 煙突の後ろ側にガスタービンの吸気グリルがある。機関が冷えている状態から安定アイドリング状態にするまで約10分、その状態で静止から40ノット航走までタッタの30秒で加速できるという。ちなみに海保も40ノット出せる船を調達しているが、エンジンはドイツ製の高速ディーゼル。国産ディーゼルには40ノットは無理だそうだ。出力は海保のが小さいが、これは兵装が軽いため。

 ウォータージェットの首振りノズル。これが3個並んでいる。46ノット出すときは3つのエンジン(つまり3つのウォータージェット)を使うが、33ノットまでは外側の2基だけでいい。また27ノットまでは1罐でOK。さらに、3つのうちのどのノズルでも、18ノットの経済運航ができる。後進はスラストリバーサーによる。吸水口はミサイルの下の艦底にある。ウォータージェットの弱点として、小さな流木をエンジンが吸い込んだ場合にタービンが破損することがあり得る。ゴミだらけの大陸沿岸で作戦しても大丈夫だろうか?

 甲板下、オットーメララ対空自動砲の基部。ボトリング工場のような揚弾機である。ここに76ミリのタマを80発セットしておけば、最大発射速度で1分足らずで撃ち尽くす。そのあとはまた人力で給弾しなければならない。砲身はもちろん水冷。この兵装は世界中に輸出されておりカタログも公開だから、こんなところを我々に撮影させてもOKなのだろう。

 同じ岸壁に舞鶴地方隊の指揮下には無いイージス艦『みょうこう』がいた。これをミサイル艇の赤外線カメラでズームアップしたところ、SPYレーダーが煙突の次に白く光って目立つ。つまりかなりの熱量だ。聞けば、SPYレーダーは水冷しているのだが、その結果、こんどは結露が集塵機のように作用して、薄汚れた「涙」が垂れてみっともなく、その拭き取り掃除が手間だそうである。


管理人 より
語るべき言葉は全て語られている。私などがもし何かをあえて付け加える事を許されるならば、それは黒く塗りつぶしているのでわかりづらいだろうが、「とんびに注意!」(舞鶴4)の笑顔が、素敵過ぎる事である。


偶然でかけた先島群島の現況

(2004年11月28日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
04/11/18~11/22にかけまして、兵頭はたまたま先島群島方面に女連れで小旅行をいたしました。以下はその写真リポートであります。


宮古島

 宮古島の西海岸にある「砂山ビーチ」から西方海上の伊良部島を望む。伊良部島の西隣(つまり写真だと向こう側)に下地島が、ほとんどくっついて一体となっている。この伊良部島まで宮古島から「伊良部架橋」を建設することも決まっている。2005年着工で、8~10年後に開通見込み。ちなみに伊良部=下地島の電力は宮古島の火力発電所から海底ケーブルで供給されている。

 宮古島の西平安名崎から伊良部島の東海岸の南半分を望む。潮流は右から左に流れているように見えたが、あるいは季節風のせいかもしれぬ。11月から2月、つまり冬には北風が強い。この地点から東京都世田谷区まで1900km、室蘭までは2420kmである。どちらも姉妹都市らしい。

 同じ西平安名崎から伊良部島の東海岸の北半分を望む。宮古島は高い山がないので台風が来るととんでもないことになる。観光名所であった風力発電塔が、2003年9月の台風でことごとく倒壊してしまっていた。

 バスの中から宮古島の島尻地区にある国交省・大阪航空局の民航用管制レーダーを撮影。2000m滑走路のある宮古空港の北方の、なんとも低い丘上に建っている。手前の畑はサトウキビ。

 先島群島といえども冬場は裸で海で泳ぎたくなるような高温ではない。旅行中の最低気温は21℃、最高は26℃くらいで、やむなくホテルの温水プールを利用した。

 こちらは航空自衛隊第53警戒群の防空レーダー。
 BADGEシステムの日本最南端で、空港の近くの島内最高峰を占位。地元民はアイスクリームと呼び、子供はメロンと呼ぶ。もともとレドームは2個あったが、昭和41年の第二宮古島台風で1個飛ばされたという。これまでのMax風速は85.3m/sであったとか。

下地島

伊良部島と下地島の間の狭水道。ゴムボートくらいでなくば通航できそうにない。
下地空港の3000m級滑走路の北端からさらに海中に延びる誘導灯の列を見る。
同じく。左脇の通路は点検用で人が歩けるのみ。

 下地空港の滑走路の北端のフェンス。画面左側に滑走路が延び、右側に誘導灯が並ぶ。この北端部分はもとから陸上のようだが実は埋め立てたものだ。

 そのフェンスによじのぼって滑走路の南端方向を望遠する。見ての通り防衛基地を造るには十分な地積が余っている。滑走路長が2700m以上あればF-15クラスの重戦闘機を運用可能だ。そこでシナはこの島に空自や海自の航空部隊が展開することを極度に恐れ、核潜水艦で小泉内閣を恫喝したわけである。ちなみにこの見物中、飛行機の気配も、警備員の気配も無し。

 この二枚は撮影地点をしかと思い出せぬ。撮影時刻は夕方ですが、なにしろ経度が違いすぎるので、明石標準時では感覚がおかしいぞと思いました。

滑走路の北半分、その東隣の道を南から北へタクシーで走った。じつに下地島はサトウキビ畑か未利用地以外は何も無かった。だから観光地でもない。それが良かった。
滑走路と西海岸に挟まれた道路を北から南へ走る。ここは数年後にはすごい警備厳重になっていそうな予感がするぞ。
滑走路の西脇の道から西方を見れば、夕陽が沈まんとす。この方向には尖閣諸島があるわけだが…。
下地空港の滑走路の南端から北を望遠する。

 二枚とも、滑走路の南端からさらに誘導灯列を写したもの。南端部分には埋め立て工事はしていない。

多良間島

宮古島と石垣島の間にある多良間島。写真で島の南海岸中央に長さ800mの旧多良間空港滑走路が見えている。ここには9人乗りのアイランダー機が離発着できる。

 多良間島の西海岸に2003年10月10日にオープンした新多良間空港の1500m滑走路を俯瞰。39人乗りの旅客機が利用できるようになったのだが、シナはここを台湾空軍や米軍の小型戦闘機が利用するのではないかと邪推する。じつは米国の「ランド研究所」が数年前にそういう強調をしてくれちゃっていたのだ。そこでシナ原潜は、この多良間島と石垣島の間を04年11月10日に領海侵犯してみせ、日本人を核恫喝した。写真だと、島の左側の海中を、手前から向こう側へ通航したことになる。

石垣島

 石垣島には八重山列島のハブ港がある。しかし肝心の石垣空港の滑走路長が1500mと、大型ジェット旅客機にはギリギリの長さ。このため羽田や新千歳行きのジェット旅客機が必要な燃料を搭載した重さでは離陸できず、いったん那覇を中継せねばならない。那覇空港の負担を減らすために2000m級の新石垣空港の建設が進んでいるところだが、これにシナの手先の環境団体やアカ新聞が噛み付いた。シナはここも台湾征服作戦の抵抗拠点になると、妄想をたくましくしているのだ。

 石垣港には海上保安庁の最南端の拠点がある。しかしシナは原潜を使うことで「やーいおまえらには対潜装備なんかないだろ~やーい」とせせら笑った。これが許せるかい諸君?

 しかしシナ潜には恐るべき天敵が居るのである。それが「グラスボート」(笑)。船底がガラス張りになっているので海底の珊瑚や熱帯魚がよく見える。先島海域にはこんな観光船やダイバーが年中ウヨウヨしているから敵性潜水艦は浅い海面(たとえば下地と多良間の間)や昼間の沿岸接近を避けなければならない。たぶん実戦では悪天候だけがシナ潜の頼りじゃなかろうか。

 石垣港からは先島の各島へ高速客船が頻発している。ほとんどが浅海面にスクリューのひっかからないウォータージェット推進で、20ノット以上は出すのだが、この通り、船尾にはオープンデッキがあるというおおらかさだ。ベンチに座っていると塩まみれになること請け合い。

西表島

 西表島の船浮湾は国際避難港に指定されている。そのため8基の係留ブイが湾内にある。北向きの湾口は狭く、しかもリーフで外洋の荒波から守られているのに、係留ブイの下の水深は80mと大型船にも十分。ちなみに日本海海戦の前に東郷平八郎はこの港に上陸してつぶさに視察をした。彼がGF司令長官に抜擢されているのも、そんな周到さがあったためだろう。「切らずに済んだカード」を東郷は無数に持っていたのだろう。

 西表島の西岸の船浮湾に面した船浮港には旧海軍の大戦末期の築城が一部保存されている。中央に見える小さいトンネルは、より大きな交通トンネルから枝分かれしているもの。穴を出た先の波打ち際に機銃坐があって、少なくとも1機の米軍艦上機を湾内に撃墜したとされる。

 ちょっと見難いが、小トンネルの右側に本トンネルがある。それを抜けた先に、旧海軍の横穴陣地が点々と残っているのだ。

旧海軍の通信所横穴壕。海底ケーブルで石垣島と結んでいたらしい。奥行きはない。
旧海軍の発電機室用横穴壕。奥行きはない。
旧海軍の弾薬庫跡。やや奥行きがあって、コウモリの巣窟である。懐中電灯で天井を照らすとすごいことに……。

 旧軍の特攻艇の待機所跡が2箇所、ロープで結界されて観光客に示されている。けっきょく米軍の上陸が無さそうなので、旧軍はせっかく構築した陣地をすべて放棄して石垣島に引篭もった。西表島は無防備で終戦を迎えたわけだ。おそらくこんな経緯からも、先島群島には沖縄本島のような反日的ムードが無いのだろう。この住民をシナや反日アカどもの餌食にさせるな。いまこそ沖縄本島の陸海空自衛隊をこぞって先島群島に転進させるべきである。

船浮湾口に浮かぶ無人島の内離島に上陸。ここはかつて炭坑があり、今も横穴やトロッコ・レール跡などが残っている。

(管理人 より)
 諸君、試みに問う。新婚旅行とは何処へ行くべきか?決まっている。先島群島方面だ。それ以外の何処へ行けというのか?其処以外の何処があるというのか?何処にも無い。何処にもあるわけが無い。それは絶対の真実だ。子猫が愛らしく、空を征く鳥を人が何時までも追い続けるように、それは至極当然の事実だ。待っている。神代の時代より多良間島は、下地島は、先島群島は新婚旅行に訪れる人々を待っている。ファインダーに覗かれる日を、シャッターが切られる音を心待ちにしているのだ。だから、兵頭先生が新婚旅行で航空自衛隊第53警戒群の防空レーダーを撮影したとしても、欠片一つも間違いもおかしな所も他の選択肢もない、神ですら違える事のできない必然的行動なのだ。