▼金子有鄰『蹄の音』S37年
明治の戦闘用馬術を古くは要馬術という。
日本馬は「馬当て」や人のふみつぶしができるが、西洋馬は不可。
日本後記の弘仁3年に、「てい齧」(踏む・噛む)の荒馬の話。その脚色が今昔物語に。
馬は犬と違い、主人の敵は自分の敵とは考えない(p.50)。
鎗の大事は、突き出したものを掴まれぬこと。大刀では槍の柄は絶対斬れない。
馬上刀は必然片手刀で、柄も短く、両手ではむしろ不便(p.56)。※だから宮本武蔵。
佐久間象山は洋鞍をつけていたが、町を歩くときは馬丁の口取りが必要だった。
槍で払うことを、しばき立てる、という。
草書では「等」は「傘」と間違えられる。
陸軍騎兵刀も非常に重かった。
敵が自分の馬を斬ろうとする場合、これを防いではならず、敵を殺すことに集中。
動物は怪我に鈍感なので、急所以外の防具は有害。
馬に乗りなれぬ者の尻は桃尻といわれ、割れていない。
やぶさめの語源は「矢馳せ馬」。
古く、落馬とは人馬もろとも倒れること。人だけ落ちるのは「平落」という(p.360)。
楠討伐戦で馬は役立たず。関東武士の威勢は地に堕ち、名馬思想も廃れた(pp.449-50)。
北条匡房はオランダ人から攻城、砲術を聞き、兵書をあらわした。※「カチクチ」は「タクティケン」。
太鼓は胴が長いと遠くに達しない。
漢武帝より唐までシナ人はアラブ馬を大量に遠征獲得したが、これが三韓を経て我が国に移入された。初見は、神巧17年4月1日、百済よりと(p.504)。
カウボーイの鐙は、欧州の古型をとどめる。
▼廣瀬清志『統幕議長の地位と権限』1979
S53年、栗栖統幕議長が「択捉でソ連軍が上陸演習」と言うも、内局が「基地建設だ」とそれを打ち消す。
が、7-29毎日は、米政府の「択捉ソ連軍演習」の判断を伝う。日米間の制服同志の情報交換が明らかとなって、金丸長官の怒りがバクハツした。
作戦計画や軍事情勢判断も内局の手中。どんな機密も内局に筒抜け。
制服は予算調整の権限もなし。
ガリポリ上陸作戦が、初の陸海統合戦。
米では軍高級人事は議会管掌。
▼宮崎弘毅『日本の防衛機構』1979
連合国はMax20万人までの警察官を許可していた。当時、国家地方警察3万、自治体警察95000だったので、余裕分75000人の警察予備隊創設をマックは日本政府に命じた。
ちなみに日本は4コiDで占領されていた。
改進党のレトリック。教育の基本規定がないから教育基本法が憲法代わりだ。それと同様、自衛軍についても基本法によって憲法に代え得る、と。
内局(内部部局)とは、長官官房、防衛局、人事教育局、衛生局、経理局、装備局。
欧米では軍令は統合幕僚総長が文民長官を補佐する。日本では軍令も内局局長が補佐。 長官と軍人の間はすべて内局官僚がとりしきる。
三自衛隊の幕僚監部は1951当時の米幕僚本部のコピー。
国防会議に倒幕議長の常時陪席制度なし。軍事情勢判断への参画権なし。
S47年、国防会議に国家公安委員長、内閣官房長官等を加えることを閣議決定。
▼御手洗辰雄『山縣有朋』S33年
生れたのは新暦の6.14、旧暦の4.22で、足軽よりも一つ下の身分。
松下村塾に10月に入塾したが、松陰は12月下獄した。
1863-7の薩英戦争のときは、山縣は26歳で、奇兵隊軍監として壇之浦支営の司令。翌年が四国艦隊との戦争。26歳でリューマチス。
薩長盟約は慶応2年1月。慶応3年5月2日、30歳で京都に行く。同行は鳥尾小弥太、伊集院兼次郎、中村半次郎。馬関で中村と待ち合わせた。5-18に初めて西郷とも会う。6月に京都から帰って7月に結婚。
前原は陸軍関係の先輩。全く一介の武弁だった。
親友は従道のみであった。西郷は徴兵で良いと考え、従道をして山縣を助けさせた。
征韓論のとき、山縣は瘧[おこり]が起こった。※エピレプシー?
頼山陽の漢詩はシナ人に見せられるようなものではない。
▼藤村道生『山県有朋』S36年
奇兵隊のときに狂介と名乗る。
M14、大山とともに東京防衛を建議。
M8-12に廃刀令を建議。
M22-2に月曜会を解散させ、偕行社に合一させ、三浦、谷、鳥尾らを予備にし、プロシア主義の外征軍建設で国論をまとめる。
※軍人勅諭は山県一人決めの修正憲法なのか?
生涯の愉快事は、日清戦争で第一軍司令官となったこと。
戦陣訓の祖形となる最初の命令は、山県がソウルに入ったM27-9-13に出した。
三国干渉に反発する将軍連を抑えたのは山県の功。
ニコライ戴冠式へは米国→仏経由で向かった。
伊藤は大倉ふくむ政商資本家によびかけて政党をつくろうとし、山県は反対した。
北清事変は山県内閣のときに起こった。
M37-6、参謀総長になり、兵站総監を兼ねる。M38-12に両職解かる。
日露戦争で山県は特に大本営に列することが許された。本人は満州軍GHQを望んだが、あまりに細部に口を出す性格なので、天皇が斥けた。
山県は火鉢やテーブルを叩いて乃木の作戦を批難した。
▼W・ジャクソン『政治地理学』横山昭市 tr. S54年
脚注、ソ連ではマッキンダー研究は公表されていない。
南メソポタミアのシュメルの都市国家は確固に独立である。キシュ、ウル、ウルク、ラガシュ等。いずれもジグラットを有し、儀式場から発展した城壁定住地。そこからチグリス上流に殖民された。
陸では隊商が結び、海ではインダス=ハラッパや紅海と船が行き来した。
ナイルでは、メソポタミアにおいて不可能であった流域の統一を成功させた。陸では担夫と驢馬の交通に依存。
フェニキアでは一人の王が多数の独立都市国家を統治。レバノン杉をエジプトまで運び、帰りはパピルスを積む。
テュロス市は風向きに関係なく船を使うため島の南北に2港を整備し、メソポタミアとは駱駝で連絡した。テュロス商人は紅海まで進出。前814カルタゴ建設。前450にカルタゴ人はブリテン島に到達。
ロンドンも元々独立都市なので、英国君主は儀式等に限ってロンドン城塞内に入ることを得。
秦では人工運河が、インカでは道路が、内陸統一を実現した。
19世紀殖民は鉄道が実現。ex.インド、シベリア、米西部。
アレクサンダーの広域支配には、二つの首都(出撃拠点)が必要だった。すなわちバビロンとアレクサンドリア。
始皇帝は長城で間合いをとり、首都から放射道路を造営。
▼青田学『金日成の軍隊』
1947、日本製武器をソ連製に代え、48-2-8人民軍健軍宣言。
45-10-25にソ連が空軍を組織してやる。これは海軍とともにまだ人民軍ではなかった。日本、シナの航空学校出身者を集めた。練習機は日本製。
※1957にマリノフスキが中共に提案した電波体制とは、SUB用ロランCのこと。
国連軍が38度線を越えると金は満州の通化に逃げた。12月、平壌を奪回してからは慈江道別午里、または江界にいた。
中共の抗米援朝志願軍は水中橋であらかじめ豆満、鴨緑江を渡河し、潜伏。
※このとき中共軍は石油のほとんどをソ連から補給された。もちろん製品で。そしてソ連自身はこの時期はまだルーマニア油田が頼みだった。とても米軍とは戦えた状態ではなかったので毛沢東をけしかけた。
ソウル死守を唱える北鮮を中共がオーバーライドして指揮し、退却。※北鮮兵などというものは居らず、全員シナ兵だった。
1958頃の北鮮軍訓練はすべて夜間と洞穴訓練。
馬匹は1960’s中盤に車両化した。
FROG-5/7は69から装備。
南派ゲリラ戦は1965-7にテスト。67から正式に養成。
金は非正規戦主義に傾き、68に近代化を主張した軍首脳を粛清。
徴兵は16歳から。
夏期は人民軍は0500に起床するも、1300~1350午睡あり。
1988-1のプエブロ号事件で予備「労農赤衛隊」の3割が1週間で師団編成され出動準備。
主たる基地は平壌~元山線以北の西岸。爆撃機は満州国境に配置。
69-3に米はフォーカス・レチナ演習。米本土から空輸で援軍を韓国に移動させた。C-130/141など185機で。各機は21時間で到達した。
▼『海外国防資料』S42第27号その2
朝鮮戦争で米軍1コDの1日あたり所要補給総量は500トン。対する中共は60トン。旧日本軍末期に等しかった。
▼堂揚肇『日本の軍事力』S38年
SDFの1コDの1日戦時補給量は、糧食30トン、石油50トン、弾薬300トン、その他が35トン。
▼『ソヴィエト年報』S29年
1927のソ軍はiD×70コに対しTK×180台。
第二次五ヵ年計画を経て、1937にはiD×100コに対しTK6700台。欧州随一。
▼副島種典『ソヴェト経済の歴史と理論』
1937にはトラック生産量でも欧州第一位になる。
▼コリン・グレイ『核時代の地政学』
著者にいわせると、パワーは「攻撃の恐怖からの自由」というネガティヴな安全保障とは無関係で、「米国の価値を発展させること」がパワーであると。
アトケソン将軍の観察。ソ連の長期目標は、へミスフェリック(半球的)なディナイアル(拒否)だ。
ヨーロッパ・ロシアには460メートル以上の高地はない。
黒海←→バルチック海間は1127km。
コラ半島の海岸線は390kmで、その海岸線から浮氷原端までの平均水路幅は290km。
▼飯田嘉郎『航海術史』
ヘロドトスによれば、前600エジプト王ネコはフェニキア人に東回りのアフリカ一周を命じた。彼等は沿岸に立ち寄っては種を撒き、収穫しつつ進んで、3年目に戻ってきた。
前500、カルタゴのハンノ隊は、50橈の船60隻に3000人を乗せてシエラレオネに到着。食糧が尽きて、還る。
地中海人によるインド洋季節風の発見は前100か。
▼H・シュライバー『道の文化史』邦訳1962
ギリシャ人は黒海沿岸に殖民市をつくり、農産品を本国に発送した。
クレタ、古代ギリシャ、エジプトの道路は商用でなく宗教用。
ペルシャ王の道。ダリウスI世は統治のために道路を整備した。わざと主要な都市を避け、最短距離を通しているので、外敵には利用し得ない。※内線防衛作戦のインフラ。
ペルシャ湾岸からアドリア海岸までの2500kmを乗馬伝令が10日で駈けた。
インド初の統一者チャンドラクプタ(前298死)も総延長2400kmの道路を造る。多くの渡し場を摩擦なく運営させた。
アレクサンドロスはギリシャ人の土木技師団を使い、迂回路の設営によりしばしば会戦せずして勝利を得た(p.32)。
9万の兵が30km/日のペースでインドに進む。そこにマケドニアから絶えず補給が行なわれた。
前13世紀のエジプトでは駱駝が知られていない。ロバと牛のみ。十分な水が得られないと南方には交通できなかった。
ナポレオンの道路建設もローマ人に匹敵。
前2世紀初頭までイタリアには古い未舗装商業路しかなかった。兵士の無聊からの反乱を予防するため、ローマは平時は軍隊を辺境での道路建設に忙殺させた。
軍団に先行して道を直す工兵隊はローマ初期から存在。
しかしローマ人は山間路は嫌い、できれば船、荒天時のみしかたなく海岸道路を歩くというスタイルを好んだ。
南スペインのオブルコからカエサルは27日でローマに戻った。
ローマは大規模な占領軍は置かず、わずかな駐屯軍と、道路によって急派できる本国の軍団により支配した。
コルベールから道路と橋梁の整備を委託されたゴーティエ等、ローマ以後荒れ放題の道路の復旧に着手。近隣に水をあける。
18世紀半ばまでに、かつてローマが13500km整備していた一級レベルの道路を、フランスは2500km有するようになった。
1802~5のナポレオンのシンプロン峠道の開設には、発破が使用されている。※1820死の本多利明はとうぜんこうした情報を得ている。
軍隊は発電所が脆弱であると考え、蒸気機関車を選好した(p.310)。
ディーゼルエンジンの実用信頼性はWWⅠの潜水艦が初めて証明した。
WWⅠ後、数十万台のトラックが市場で叩き売られた。
中世ヨーロッパ人もアルプスの山岳を嫌った。
▼ケネス・マクセイ編『Tank Facts and Feats』1976
古代の進化した軍事国家アッシリア BC1100~670。ヤギ皮を張って浮航渡河できた3頭曳戦車と弓兵。騎兵なし。
記録された最初の chariots はBC3500頃、ウルとカルデアのスポークなし4輪・オナジャー4頭曳き・2人乗り車。
エジプトはウルのスポーク付き戦車をコピーし、BC1680の対ヒッタイト戦に勝利。
車戦は本質的に個人戦。だから人口が増し、集団戦術に移行すると廃れる。
装甲騎兵があらわれると、車はそれに対する防護用になりさがった。
中東では、ローマの Orchomenus の戦い(BC86)が最後。
実質的にはペルシャがアレクサンダーに敗れたときに終わっていた。
戦車の君臨期間は3000年で、BC700頃から装甲騎兵の時代になる。これが1000年続いた。
▼秋葉鐐二郎『宇宙開発近未来』1986-12
抗力は速度の二乗に比例するが、熱の発生率は速度の3乗に比例。
低軌道200kmの衛星といっても、遠地点では500kmになる。
高度200kmは真空ではないが、固体が昇華し、消耗してしまう。
真空中の衛星中のわずかな空気は、放電をきわめて起しやすくする。
モンゴルフィエIR気球は、地面放射IRを熱源とする半永久高層気球。
SEU・単一事象アップセットは、放射線によりデジタル記憶の1と0が反転してしまう事故。
衛星を放射線から守るため、アルミ1ミリ厚板が必要。大気は遮蔽効果あり、高度500km=スペースシャトル高度の円軌道では、人体に影響ない。
磁場の強さは距離の逆3乗に比例。
重力は距離の二乗に逆比例(ケプラー法則)。
軌道の摂動……6要素がゆっくり変化していく。
ノズルの大きさを見れば、推力もわかってしまう。
アブレーション断熱材は、シリカガラスで強化したフェノール樹脂。
WWII中の固体ロケットの評価低かったわけは、今日のコンポジットに比しダブルベースで、工程のフレキシビリティ低かった由。
液酸液水の実験は50年代の米でやっと。
ペイロード10~100トンを中型、以下を小型、以上を大型という。
フォン・ブラウンはV-2に翼つけて射程を延ばそうとした。
シャトル発射はブースタ全開後、固定ボルトを火薬でふっとばす。
放熱勢量は、(絶対)温度の4乗に比例。
宇宙ステーションを回転させた動場でも、三半規管が角速度を検出し、不快。
月: 2006年4月
摘録とコメント。
▼B.ヴォーチェー大佐『ドウーエ将軍の戦争学説』S14年
著者は仏人。この冊子は『航空記事』5月号附録。
ペタン元帥の1934-6-7序文付き。※伊の仮想敵は仏。
空襲は、短期決定的でなければ、敵人民はけっきょく堪えてしまう。※そのような空襲は核攻撃しかないことがイラクで証明された。
ドウーエは空軍を他の2軍から独立させ、政府直轄の総予備にしようとした(p.52)。※これをチャーチルがエアコマンドで初実現し、それをFDRがイタダいた。
当時「戦闘機」とは全周火力を有するもので、前方火力のみのものは「駆逐機」(パースーター)と呼んだ。ドウエは前者を推した。※これが数々の双発複座戦闘機を生む。
空襲では、物心両面に於いて最も敵に苦痛を与える機関を狙え。それが文明的戦争である。またその手段としては毒ガス空襲が結果として人道的である(p.93)。
ドウエは、破壊第一、屈服第二の主義。「占領は結果にして原因にあらざるなり」(p.108)。
空中戦力はいざというときまでとっておく切り札ではなく、開戦時に投出すべきもの。
▼末永雅雄『武器史概説』S46年
※文献案内が整った一冊。
鎗の初見は1331(元弘3)の戦闘記事「南部文書」。
刀剣について。「把の長さが両手の把握に適するようにつくったなどは、剣道による変化と考えられるのであって、中世の初めにはまだ片手把握を普通としているものが多い」(p.16)。
廻り鉢。上半球が力を受けると回転するようになっている(pp.120-1)。
▼G.チャイルド『歴史のあけぼの』
第三王朝の終わり、エジプト帆船は170フィートに。
インダス川流域文明も、小降雨地帯にあり。
インダス川とその諸支流は、大きな都市人口を養うための食糧を広い地域から集める輸送網になった。西と北は大山脈で、東は大インド沙漠で外敵から間合いがとれた。面積はシュメルの4倍。インダスにロバと駱駝は無い。
ペルシャ湾からラガシュの農民に、またアラビア海からモヘンジョダロの農民に、海産魚が供給される。石器時代にはなかったこと(p.146)。
青銅時代では、あまりかさばらない贅沢品しか遠距離に陸上輸送し得ない。
東地中海文明ではバラ荷は瓶や俵に封印して輸出。
ハムラビは、ロバに曳かせるソリッドタイヤ戦車に代え、輻つきの軽快な馬曳戦車を用いた。
エジプトがヒクソスを追い払うためにも馬に曳かせる新式軽戦車を採用せねばならなかった。これがナイルにおける車両の初め(p.174)。
※便利なものは、これをフルに利用しないとき、他人が自分を亡ぼす手段になる。
小アジア高原では、農業用泉が分散していたので都市集中が起こらなかった。
フェニキア人は、船を漕いでナイル川に8日で到着し、帰路は、風向きが良ければ4日で済んだ。平底船でちょくせつ河岸住民に小間物を売った(p.185)。
シリアのステップの隊商は、1日30マイルで旅行を続けた。ユーフラテス河岸から東へ360kmいくのに19世紀の記録で10日かけている。
アッシリア、エジプト、ヒッタイトの中期の安定は、戦車によって官吏や地方行政官が早く旅行できたから(p.198)。
軽戦車の改良の早さに比べて金属利器の進化は遅い。
アッシリアは敵住民の皮をはぎ、クイで刺し殺し、運河をうずめたと記録される(p.214)。
ダリウス~クセルクセスはインドの戦車隊も徴募。新領土の治安維持の組織をつくった。
航海は不安定なので、陸路の移民よりも文化は混合する。北アフリカの殖民市は、メソポタミアの殖民市ほどには母国フェニキアに似てない。カルタゴが共和国だったとき、フェニキアは中央集権だ。
前450のアテネは、主食を輸入依存するようになった最初の政体(p.225)。
ヘレニズム期にロードス島からアレクサンドリアまでの海路4日は縮まらず。
西アジアでは毎年、ごく短い間だけ雨で隊商路が泥沼化する。北イタリアではローマ道を離れれば周年泥沼。しかしローマ道上では、1台の馬車が1隻のハシケ相当の荷物を運ぶことができた。
道路が悪いと輸送コストのため非ぜいたく品の工業製品(ex.陶器)の輸出は伸びぬ。すると職人じたいが移出する。そして現地で他の商品のコスト攻勢からよく守られて、独自文化が育つ。
ローマ道が、イタリアをフランス製品の市場にしてくれた。
AD25頃、ローマの工業技術は属州に拡散し、属州間貿易がとだえ、自給に戻る。※奴隷制の上で輸出努力しないため各地域の購買力が衰えた。
▼G.チャイルド『文明の起源』下巻
帆かけ船は前3500までナイルに現れず。
三角洲の西からはリビア人、東からはベドウィンが攻めた。
BC1500直後、学者たちはエジプト、小アジア、シリア、メソポタミアの首都の間を自由に旅行していた。
▼徳田釼一『増補 中世における水運の発達』
交通地理は、表・裏を通じて西日本が恵まれていた。海岸線の凸凹により。
上代の貢物は初め陸路運送だった。延喜式をみると、大宰府、遠江、因幡からの海路運送あり。
主要2ルート。西海→瀬戸内→淀川。北陸→敦賀津→陸路→水路→大津。いずれも官船が用いられる。
荘園が強力になると、官用の船・車・人馬が地方で勝手に使われ、律令制は崩壊。
律令では港湾は1区に1港が原則。荘園は港のある海辺を獲得しようとした。
伊勢神宮が大湊を領有したのも、東国に散在する神宮御厨から海路輸送される年貢を収納するため。
「梶取」は南北朝より「船頭」に変わった。船頭はシナ貿易船の船長の意で、鎌倉時代までは九州に来る宋商人を呼んだ(p.95)。
若狭湾の小浜。応永年間に南蛮船が2回来た。朝鮮貿易の拠点。
中世末期に帆の大小で船の格を表現することが一般化。室町時代に兵庫と大湊に造船所。
港湾使用の関税が生じた。港を持つ荘園は潤った。
鎌倉幕府は繰り返し関所廃止令を出した。
淀川には享徳2年には180もの関があった。のちに616に増えた。
土一揆は関を焼き討ちすることが多かった。商人の脱税を後押しした大名は強くなった。
貞治、出雲に着岸した蒙古・高麗の使者が、その献物を海賊に奪われた(p.249)。
朝鮮からの渡来船は、応仁より後、瀬戸内海の海賊を避け、若狭に。
毛利、上杉、今川、信長は次々と課税を強制廃止。海賊鎮定作戦もこの延長で、信長から秀吉に引き継がれた。
朝鮮征伐で水運業界は完全統制下に大発達した(pp.287-8)。
中世、琵琶湖でさえも、漂没多し。
山賊は、律令末期から増え、鎌倉初期に一時屏息。しかし鎌倉中期以降、激増。
戦国諸侯は交通業者への課税を免除して富国強兵策とした。航海業者は富力を蓄積し、道路は改修された。
淀川遡行は綱引人による。
応仁の乱のとき西軍方の大内氏は、東軍の瀬戸内での待ち伏せを避け、西国の糧秣を日本海ルートで敦賀に。
美保関には明船も来着。
室町時代に船が準構造船から構造船に進化した。
倭寇は福建から外国船を買い、それをコピーして底を尖らした船を造り、航洋性・凌波性を獲得。
李朝の文によれば唐船も倭船も藁草を織って帆としていたが、それが麻や綿帆になった。
▼加茂儀一『騎行・車行の歴史』
牛は重連しにくい。
記録に残る最古の馬の調教所は前1500のオリエント。日本では「責め馬」という。
駱駝はブーラン(砂嵐)を予期したとき以外は走らない。だから御具は発達せず。
ギリシャ人がケンタウロスとみなした小アジア人は、地中海文明にさきがけて前2000頃に乗馬機動。
馬具も馬術も未熟な古代には乗馬のままの接戦は避けられた。可能になったのが、中世騎士。
ヒッタイト(旧約のヘテ人)は青銅斧と戦車。戦車は前1900から使われた。
車の材料たる杉はメソポタミアの北のミタニにしかない。エジプトすらそこから戦車を得ていた。ヒッタイトがそこを占領。その後、ソリッドタイヤがスポークタイヤになる。車輪そのものは前3500から。
前1500のアッシリア、ペルシャ、エジプト、インド、殷の大帝国は、戦車によって可能だった(p.27)。
ヒクソスの南侵は気候乾燥のため。この傾向は続き、エジプトでは馬が使えなくなり、駱駝とロバに替わった。
アッシリア人はヒッタイトから馬具を知り、改良し、秣の代りに穀物をあてがい、完成された初の騎兵に。ペルシャ人はモンゴル馬との交配で馬体を向上させた。
ペルシャ騎兵の末裔がパルチア騎兵で、ローマとも漢とも接触した。
インダス文明は牛車と象。征服アーリアンは騎馬と戦車だった。
クセノフォンの時代の騎兵突撃は、後世のドラグーンのピストルを投槍にしたようなもの。スピードはギャロップだとUターンできないので常にキャンター(緩駆)。
アレクサンダー軍の馬は湿潤熱暑のインドで蹄裂傷を起し、侵攻頓挫。
西アジアではその病気はありえない。
イタリア半島も乾燥地だがアルプス以北は湿潤のため蹄が軟化してしまう。ローマ舗装道だと著しく磨り減る。そこで鉄板製のヒッポサンダルを縛り付けた。
ローマ末期に蹄鉄が実用化なり、周年遠征が可能になる。
ローマ帝政は胸帯による輓曳法も発明した。これで作戦距離が伸びた。
十字軍は乗馬がアラブ馬に著しく劣った。またトルコ兵の遠矢が馬を傷つけ、現地で馬を調達した。
イングランドの大弓も三角断面のヤジリで鎖帷子を貫通する。埜は3フィート。
この強弓対策として鈑金甲冑が14~15世紀に発達するが、接射で90度ならば貫かれた。また馬も装甲せねばならず、機動力の優位が減じた。
14世紀末からの火器導入でヨーロッパの騎兵時代は終わり。イタリア小国家のみで生き残る。
ドラグーン戦法。敵前15ヤードまで速歩で来て、停止。前列が2梃のピストルを順次射つ。第二列が同じことをする間に後退。
クロムウェルは、ピストル斉射の後、速歩で白兵接戦にもちこんだ。
17世紀の道路の悪いヨーロッパでは乗馬はトロットできない。18世紀に道路が改善され、4輪馬車ならトロット可能に。
王政復古時、密猟と造船のために森林が破壊され、赤鹿、まだら鹿がイングランドから消える。狐すら貴重品に。
囲い込みで柵ができたので、18世紀後半の狩猟家は飛越が必習となった。狐狩り、銃猟、乗馬、柵の4要素は、欧州大陸では揃って流行ることなし。だから英式馬術は独特に発達。
シナと匈奴の争いは、前3世紀の秦代から7世紀の唐初まで。
モンゴルの矢は長さ2フィート、三角ヤジリで、ヤスリで針のように鋭くされていた。三頭の替え馬に輪乗した。
関東や中部山岳に古代日本馬の産地があったのは、湿気による蹄病が少ないため。源氏の勢力圏にだいたい一致する。
摘録とコメント
▼岩村忍『文明の経済構造』
考古学者ゴードン・チャイルドや社会学者カール・ウィットフォーゲルは、テクノロジカルな水利工事を都市や文明の原因とした。
岩村反論。デルタに人が移動する前の丘陵生活でも水利技術は存在したと。
食糧革命から都市成立までは7千年かかった。
ナイルと違い、岩盤のチグリス=エウフラテスは一貫した舟航はできない。
メソポタミアは建材や香辛料を周辺山岳と南アジアに求めた。
成立段階でエジプトはメソポタミアから刺激を受けた。象形文字はシュメルの影響だ。
エジプトが必要とした青銅原料は、小アジア、カフカズ、イランに遠く求めねばならなかった。
前1500頃、鉄器化と馬馴化が同時におこる。北方蛮族はメソポタミアからこれを学び強大化す。
ヒッタイトはアナトリア人。鉄を産し、輸出した。
優良な鉄鉱石が黒海、インド、セレス(支那)からギリシアに輸入された。
アリストテレス『オイコノミカ』は前3世紀のペルシャ経済を分析。
ギリシャ植民市は本国の干渉を受けなかったがローマ帝国はそうでない。と、アダム・スミス『国富論』。
カラバンとモンスーン利用の舟により、ローマの商品はインド、シナまで達す。
ローマは敵のペルシャの中継ぎで極東から絹繊維を輸入した。
明末から清初にかけ、カソリック宣教師がルネサンス後の欧州文化をシナに持ち込んだが、需要者がヴェブレンいうところのレジャー・クラスだったのと、貧農→都市労務者のあり余る資源のため、医・農学ふくむ実用技術は顧みられず、天文学と数学が尊重された。日本はその逆をよろこんだ(pp.38-9)。
ローマの手工業は属州に、農地は辺境開墾地へと遷移。空洞化が生じていた。
3世紀のディオクレティアヌス帝は財政再建のため、貨幣納税を廃し、穀物に代える。市場なくなり、交易途絶え、輸入物は高価な奢侈品のみに。
遊牧蓄の価:駱駝>馬>羊≒山羊。
牛は多量の水を要するので遊牧に不適なのだ。
蹄鉄をつけたパルティア騎兵は550kmを2日で走破。ローマ時代のステップで。
ウェーバーいらい多くの学者は、封建制とは広域経済圏の崩壊に伴う現象だという。
イスラムが海上冒険できるようになったのは7世紀半ばいこう。ウマイヤ朝が艦隊をつくってビザンチンを攻撃した。9世紀にバイキングは地中海に達した。『後漢書』によれば166に東ローマの使節が入貢。※ということはトルコもいずれはシナ領土というわけだ。
モンスーン航船は600人乗れた(p.85)。
アラブとシナの最初の接触は8世紀中。
唐末に広州等が黄巣の叛徒により破壊されるまで、サラセン商人は広、杭、揚、泉の各州海岸に居留地を維持していた。
宋代にシナが安定すると再びアラブ人が訪れた。
宋代は史上かつてない都市発達時代。世界最初の紙幣も。
宋船は小型で、日本や朝鮮との貿易限定だった。
羅城は外郭を城壁に囲まれた都市内部。
宋代、野合して散じ易いものを瓦といふ。転じて演劇の意味となる。徳川時代にそれを日本読みして河原の字をあてたのが、かわらもののはじまり。京都の四条河原とは何の関係もない(p.123)。
バルト=北海=近東をつないでいたキエフ公国のノヴゴロド市は、モンゴルに対する防備のため商業活動が中断し、ロシアとヨーロッパは13世紀に切り離された。
インダスとメソポタミアはインド人の出す船で交流していた(p.143)。
このインド文明は前1500にアーリア人が侵入して亡びた。このとき少数支配のためカーストを生ず。
以後インドは前500のシャカの時代まで歴史的に空白である。
643にイスラムがパキスタン海岸に到着した。
9世紀はじめにアラブがアフガンを征服した。
16世紀にムガル王朝により全インドがイスラム化した。
エジプトの都市化の発生と進展は相当遅かった。著者いわく、都市と文明は関係ないのだ。
メソアメリカ(今のペルー)の前800のオルメック遺跡に都市の影はない。
古代ギリシャのストア派以後の西洋のモラリストの主張は、性格、知能、肉体の相違を問わず、人間は等価とする。エガリテリアニズム。
▼日本歴史地理学界 ed.『日本海上史論』明治14年pub.
足利時代、対馬人が朝鮮の港で戦闘したことあり、そのけっか釜山以外は閉ざされた。
日本では西船東馬だ。
呉は水上は得意なので、赤壁に曹操を破る。
清和天皇の貞観21年、新羅の海賊船×2が豊前~大宰府の租税船を劫める。大宰府の官兵はおじけづいて追いつかず。蝦夷人に命じて討たせる。
足利氏のとき、麗倭といって60戸に限り朝鮮の沿岸に移民が認められた(p.231)。
江戸期には、奥羽を出帆し、下総の銚子口から利根川を溯り、関宿から江戸川を下って府内に。
初期の台場はすべて波打ち際(低地)に置かれ、山上ではなかった。また、砲台と連携する軍艦を置かなかった。※照準器にロクなものがなかったため、水平直射以外は命中を期待できない。
元寇のとき、河野通有が敵艦に小さな和船を漕ぎ付け、帆柱を倒して敵船に乗り移り、敵将を殺し、武器を奪った。この話が500年間の日本武士の海防戦の理想となってしまった。鼓吹したのが頼山陽の蒙古来の詩。彼が日本防衛を非科学的なものにした(p.355 & pp.360-1)。
肥前唐津湾で島原乱後、外国武装商船を焼き打ちしたことあり。佐藤深淵は科学的な国防を構想した(pp.364-5)。
品川台場建設のとき、木戸孝允は人夫に化けて江川太郎左衛門を観察。
佐久間象山は江川の台場を無益と論じた。
品川造船所や石川島、横須賀造船等の最初の職工の大部分は、戸田で江川が露船を造ったときの実習者(p.388)。
カノン砲は鋼鉄製と決まっていた(p.391)?
韮山→滝野川→関口水道町→小石川水戸屋敷跡……と移ったのが、陸軍砲兵工廠。
演練のことを調練という。大調練は観兵式。号令は江川がオランダ語から日本語に直した。剣を刀としなかったのは、号令にしたときの響きが悪いから(p.399)。
『築城典型』は蘭書の訳だが、日本で始めて亜鉛活字を用いた。
下関砲台も低地水平射ち式で、口径5寸ほどの「長加砲」。24ポンド砲。有効射程20町。
神武東征は紀伊半島沿いに太平洋を北上。宮川上流に上陸か。南朝の吉野は山中のようではあるが、谷が四方に通じていた(p.466)。
海軍水路部は、航海に必要な浅海情報だけを収集していた。
▼ジャン・ルージェ『古代の船と航海』
ギリシャ人は海が好きだったのではなく、やむをえず航海者だっただけだ。
陸路と海路の危険は等しかった。海賊はローマ帝国前期で消えたが山賊は常にあり。
東地中海では7月10日~8月25日に北風のため、北部アフリカからイタリアには渡れなかった。ローマ全期を通じて。
カエサルの兵は渡河のときは革袋を用いた。
ヘロドトスによればエジプトには大形板のとれる木がないので、アカシアを使った。稀に、エジプト・イチジク。
エジプト船は骨組みは弱い。寄せ板構造のため。船底には荷物を載せない。しかし航海の際はバラストが絶対に必要だった。※バラ荷があり得ない。高付加価値の文物だけ長距離運ばれる。
アテネは制海権をもっていた頃、造船用森林がない。マケドニア、トラキアから桧、杉をもってきた。
樫は地中海では軍船の竜骨材となる。
古代、船客は食糧を持参し、水については船の設備を頼んだ。
樽はガリア起源で、ローマ初期まではアンフォラに流動荷を入れた(p.79)。
エジプト~ローマまで、船の接岸は船首でのみ行なう。
古典的な三段櫂軍船は、全力衝突の後、後方に漕ぎ、あけた穴から浸水させる。
epibates(海の歩兵)は、少数のみ前方上部構造に載せた。
epopides(敵船の櫂を薙ぎ折るための船首衝角補助棒)はペロポネソス戦争期に完成。ヘッドオンですれちがいざま破壊す。
三段櫂船には、沖合い荒天航行力なし。好天時のエーゲ=エジプト間のみ。
ペルシャ艦隊の中核は、より多数の海兵隊員を乗せたフェニキア三段櫂船。
前4世紀末、ヘレニズム時代の諸王国は、巨大船を発明し、アウグストスがローマ艦隊をつくるまで地中海を支配。
カルタゴは人的資源少なく、ローマと比べ、訓練されたクルーの補充ができなかった。 ローマが実施した最大の海上作戦は前214~3のシラクサイ封鎖。
ローマは常備艦隊の維持に気乗り薄で、海洋同盟国の駆使を選好。
256~282、人員不足のため、ローマ艦隊は半減した。
古代エジプトでは、紅海の航行は異例のものとみなされていた。
カルタゴは亡ぼされる前、ジブラルタルを封鎖。大西洋航海独占を企図。
ロードス島は小麦と葡萄酒の地中海貿易(といってもローマが消費のために一方的に輸入する)センターとなる。
▼ジョン・ランドン・デーヴィス『冬季に於ける機械化作戦』大江専一 tr. S19年
著者は英人。
ソ連は対フィンランドにウクライナ人を投入した。
森林に道路を啓開し、そこに湖水をポンプで流すと氷道ができる。冬の道路。
ソ軍は兵も車両も白色迷彩せず、夏のママ。
1939-10~11月の日付のみられる『ソ連スキー戦闘操典』が多数散乱していた。
スキー戦闘は必ずスキーを脱いで行なう。フィンランドのスキーに踵を止める金具なし(pp.31-2)。
スキー着用中の吊れ銃は、体前の胃の辺に斜に吊るのがよい。※PPShにやはりスオミの影響?
ソ連にはアキオがなかったようだ。重機を2枚スキーに積んでいる。
ソはウズベク、カルムクス、東洋人も投入(p.81)。
ソの戦法。バラージ2h+数分間空爆(この前後30分、砲撃休み)+歩兵突撃(同時にAir support)
T・A・ビッソン「日本経済瞥見」というロシア語訳論文も散乱していた。
ハートの1937本を引用し、ソの密集好きを難ず。
スウェーデンも対フィン武器援助していた。
▼外務省調査部第三課『辺疆問題調査第一号』S10年
海岸に「ソヴィエト」地区をつくらないよう指導している。攻撃に弱いから。
※だから北サハリンに亡命政権をつくるのが最善だったのだ。
▼B・Tuchman『愚行の世界史』大社淑子 tr. 1987、原1984
被征服民族に対するアッシリアの政策は、追放。
コルテスは上陸するや、自分の船を焼いて退路を断った。
ムーア人のスペイン征服も、スペイン内戦の敗者が外国に助けを求めたことが発端。
ソロンは理想の法律をつくったあと、10年間の船旅に出た。
カトリックは百以上の聖人の日を守ったがユグノーは日曜しか休まなかった。
愚行は、その後も同じやり方を固執するところにある(p.25)。
ラオコーンの話はホメロス後1世紀ごろの創作挿入。
チャイナ・ロビーが猖獗を極めたのは1950~60’s (p.274)。
中共は上陸戦により蒋軍守備の海南島を占領した。
熱烈プロテスタント党のダレスは宗教ゆえに蒋と李を支持した(p.281)。
ACデイヴィス海軍中将はインドシナ介入について「ひとたび戦争に突入したら、安上がりな戦争の仕方というものはないと理解してもらわなければならない」(p.282)。
ダレスとアイクはマッカーシーを恐れていた。
脚注、ラドフォードは対支予防攻撃思想を抱いていた(p.291)。
リッヂウェイは現ファンダメンタルズの非近代性から朝鮮への地上軍投入には反対だった。
レトリックから教義へ(p.293)。※→無策か究極かの大量報復戦略。
ケネディは1965に再選されたら、撤兵させる気だった?
※ジャングルの百姓村は盲爆しても構わないが敵の都市民は爆撃できないとする奇妙な価値観に米国人はとらわれていた。これは戦中のシナとコミンテルンの宣伝が利いていた。じっさい、長崎後も、核兵器はアジア人に対してのみ使おうとされた。インドシナでは敵の独裁指導部が存在する都市だけ爆撃すべきであった。この咀嚼された戦訓がイラクで実験された。
バーク「政治における雅量が真の英知となることはまれではない。偉大な帝国と狭量な心は調和しないものだ」
※「過度の野心」とはトートロジーではないのか。
▼フィリップ・ナイトリー『戦争報道の内幕』
英では1870の教育法のおかげで1880→1900に新聞数が2倍。Daily News は普仏戦中に発行部数が三倍に。
クリミアとボーアの間のすべての戦争は英国に関係なく、そこでの大胆な特派員記者は人気者。
普仏役の初期までは速達郵便記事。電信採用されるや、記事のスタイルまでが電信文と類似に。
日露役で完全報道検閲時代に。
The Times のライオネル・ジェームズに無線機つきの船で日露戦を取材させるかわりに、日本情報将校が乗り込み、その船と設備を借用した。
英ではWWⅠ時に国土防衛法。検閲制度が創設され、新聞は御用化した。
WWⅠ前まで英軍人の仮想敵は仏(p.42)。
英では宣伝関係のあらゆる書類が役後、破棄される(p.42)。※ウォーターゲートのヤバイ証拠を大統領が始末させ得なかった米政体との顕著かつ根本的な差。英国おそるべし。
WWⅠ中の仏新聞は情緒的英雄譚でページを埋め、Newsのひとかけらも報道されなかった。タンネンベルクのロシア敗退は英でも戦後まで伏せられた(p.49)。
チャーチルはアスキス首相にThe Timesの官房化を提案した。
WWⅠ中は兵が前線で撮影すると銃殺だった(p.56)。
英は最初の数ヵ月で、過去数百年のすべての戦争を合計したより多くの士官を失った。総戦死者ではWWIIの3倍である(英軍)。
ジョージ・オーウェルはスペインでスターリンが独立左派を主敵と見ていたことに気付く。→“1984”へ。
1939-4の英平時徴兵制が女も対象としたのは文明国では史上初(p.168)。
1940-6~8月、6千人以上の裕福な家の子供たちがイギリスを脱出した。
1941の英で本の検閲は新聞ほど厳しからず。
WWII中、独ソ戦はソ国内でもまったく報道なし(p.199)。
独軍は1コiDあたり1500台の馬車と600台の自動車を有す。英米iDは3000両のトラックあり。
ベトナムは検閲なかったが、それが却って将軍に詳細を語らせないことに。
朝鮮戦争初頭にも検閲まったく無し。
が、マックは朝鮮戦争中、17名の特派員を日本から追放。
イギリス部隊の方がモラル強かった。
危険な感じはテレビでは決して伝わらない。
ワシントンには調査報道基金・FIJがある。1000ドルくらい助けてくれる。
摘録とコメント(※)
▼津田重憲『正当防衛の研究』
ギリシャでは「同害同報」。
主観的危機感からの殺人は「誤想防衛」。
正当防衛の相当性:不面目な逃避になる場合の防衛は可。ただし相手が子供、狂人の場合は、逃げないと罪。
自ら招いた侵害に対する自衛は正当化されない。自招侵害に対する正当防衛。
藉口防衛:逃げていく加害者を追い討ちすることなど。
他人のための正当防衛は「緊急援助」。
▼星斌夫『大運河』
書経に禹貢とあり、水路漕運によって首都に税糧を輸送していたことが推定される。
呉は、対楚作戦の兵糧を、人工運河、陸行、水行を経て運んだ。
呉は揚子江と淮河を運河で連絡した。これを使って兵糧を北に運び、斉を破った。
淮南子の人間訓に、始皇帝が南越・広東を討つために渠をうがって軍糧を運んだと。
史記・平準書に武帝の運河整備事業。
後漢に、生産力中心が、関中(長城の南で、黄河中流の北域)から関東(黄河下流の北域)に移る。
隋直前に生産力中心が揚子江(江南地方)に移る。それまでは中原地方、つまり黄河。
荷物で重くなった船の遡航はむずかしかった。とくに10~3月の黄河の減水期は、支渠すべて航行停止した。
徴兵制が傭兵制にかわった唐末、漕運需要が著増。
長安はその大消費を大運河一本でまかなっていた。
元は金と戦って征服した河南、山東の税糧を水路で通州にあつめた。南宋を後略するときも、各地の短い水道をフル活用。
元じしんによる運河工事は、泥堆積のためことごとく失敗。遂に海上へ物流路を求めた。
元代に造船技術も向上。
南宋滅亡直後、大都へのコメ輸送は馬車で。礼器と図書は海船で。
元代の海船は、2~3航海にしか堪えなかった(p.82)。
淅江~北京の間で遭難すると、沖縄方面ではなく、朝鮮に漂着した(p.97)。
※昔の呉の沿岸で遭難した船は海流の力で半島南端の西海岸(つまり百済地方)または出雲地方に漂着する。日本人は百済まで赴けば南シナの技術情報を簡単に蒐集できた。
明代は元への反動で海禁政策。しかし太祖が元を北方へ駆逐するときに士卒へ軍餉を輸送させたのは海船であった。
明代の船は、河海両用の北運船。
豊臣氏の朝鮮出兵に対しては、海運で糧食補給。登州から旅順口まで、順風帆走2日であった。
運軍からの逃亡者が捕らえられると、面上に“逃丁”と刺青された。
日清戦争中、日本は海運の安全を保証した。
▼馬場鍬太郎『支那水運論』S11年
北方では、ラバ、ウマ、ロバが駄載用、ラバ、ウマが牽引用。
南方では、ラバ、ウマが駄載になっているが、牽引獣はない。南方では人力が商品交通の主要素で、舟がそれに次ぐ。
マックスウェーバーは西洋は森林文化で東洋は治水文化だと言った。
長江は山峡の難あり、また季節の増減水が大きいが、価値は絶大。
清代の洪秀全も用兵上、大運河を利用して長江に出て金陵に拠った。
1872に汽船会社が海運サービス始めると河路は淤塞した。
水路利用が徹底していたため、鉄道化は遅れた。
1トンの貨物車を曳くのに北方では7~8頭要る。それで20哩/日。
欧州では、運搬用に河川に注目したのが15世紀で、改良工事は17世紀から。
河口付近は泥が厚く、大船は進入できない。19世紀。
長江へは、周年2000トンの船が入る。夏の増水季は1万トンOK。
揚子江は、ふつう屏山県が民間船の遡航の終点。しかし小舟は叙州上流60哩、蛮夷司まで可能。そのあいだは急流。
重慶~宜昌の遡航は、汽船のないころは30~40日がかり。冬期も不凍。
南満河川は小艇のみ可。北満は黒竜江系により大船可。
全満水路は年200日しか航行できぬ。
松河江支系はイカダのみ可。
満州の降雨は、朝鮮国境で最大(p.312)。
▼国分直一『東シナ海の道』
安藤広太郎によれば、江南海岸から北九州に向かう航海は、他の経路にくらべて危険度は小さい。
国分反論。明時代のシナ人ですら沿岸航法をとっていた。遣唐使船は南路でほとんど遭難している。※その後、シナ皇帝の謁見の季節が決まっていたこと、そこから逆算すると滞在費が乏しい関係で、日本人は季節がよくないのを承知で出港するしかなかったという説明が誰かからあった。シーズンを選ぶ自由があれば、あれほど遭難はしないと。
殷代、黄河に水牛あり。
南西諸島は先史稲作の導入経路とならず。
殷代に稲作あり。呉越戦争で呉を亡ぼした越王が海上から山東に入ろうとする。そのとき、漁労民が脱出したのが弥生文化だと岡正雄説。
保存蓄積できぬ芋の文化は文明に発展しない。
漢魏の頃の稲作北限は、山東南部から蘇北(p.62)。
『後漢書』「鮮卑伝」。酒泉をふたたび寇したとき、秦水というところで軍糧の穀物と獣肉を土地から得られずに困った。魚だけはたくさんいたが、漁師がいない。そこで、倭人は「網捕」を善くすると聞いたので、倭人国を撃って、千余家を得、秦水上に移住させた。おかげで糧食は助かった。
三国時代、呉は夷州なる海外の島を討伐した。台湾か?
▼高瀬重雄『日本海文化の形成』
1年のうちかなりの期間、北西風。リマン海流が日本海を還流する。
Pacific-sea を漢訳して「寧海」。
渤海:もともと遼東~山東の両半島に挟まれた黄海の一部を云う。
北九州一帯の気候は、山陰に似、曇天・雨・雪の日が多い。
安倍比羅夫の蝦夷鎮定にあたって、越(日本海側諸国)は、大和朝廷が陸奥へ向かうための前進基地。兵糧を送るための舟を造り、また捕虜収容所も置いた。古代末期、津軽十三湊←→越の舟運が。
「せんたい」という袋を古代の日本兵は担いだ。食糧を入れた。他に、支給の公糧がある(p.59)。
高句麗を建てたツングースは、南満州「とうか」江流域に猟牧す。はじめ都を鴨緑江の中流に置いたが、413年に大洞江畔の平城に移す。
唐会要。玄宗は渤海本国を討とうとしたが大雪と山路険阻のため失敗。
安禄山の反乱の情報は発生後3年で朝廷に達した。
▼『春秋左氏伝』鎌田正氏解説
疑わずんば(確信があるのに)何ぞ卜せん。
魯と斉の戦で多数の兵車が用いられた。
偏戦とは約束して決戦すること。詐戦とは約束を破っての奇襲作戦。
普と楚の戦では普は各3人のりの兵車700乗を投入。城撲にて。
それ文に止戈[しか]を武と為す。
学びて後に政に入る(役人になる)を聞く。未だ政を以て学ぶ者を聞かざるなり。
▼『タキトゥス』国原吉之助 tr.
計算書は、ただ一人に検査されて、はじめて都合よくいく(p.10)。。
ローマ歩兵の担ぐ荷は重かった。そして老兵すらこき使われた。
総督は反乱を圧するために剣闘士を養い、武装させている。
盗癖のある奴隷から財物を守るため、食物や酒瓶にも封印し押印した。
ゲルマニア人は木製楯。大半は先を焼いた棒の槍のみ(p.47)。
「自分の功績は、自分が認めているだけで、充分だ」
北海では天候は激変する。しかし岩礁はなく、砂濱である。
ローマ人は双子を慶事とした。
鉄のヨロイを着た敵に対してはローマ兵は斧や鶴嘴を使用。
アウグストゥスは軍事統治の実相を隠すため首都衛戍軍を天幕キャンプに分散させていた。
阿諛は遅れるほど仰山だ(p.111)。
ローマの外征将軍は、自分の戦績が凱旋憲章に充分とみとめると、それ以上の作戦はやめた。
解説。平時ローマにおける元首と市民自由の関係の調和を考査した。
タキトゥスが記録した事件の子孫はリアルタイムで存命していた。悪い行いの記録も、栄ある美徳の顕彰も、すべてそのまま現世人への風刺、風諫である。
トラキアの2~3の部族は山頂に定住し、近隣の部族と以外、絶対に戦わない(p.127)。
尊敬されるのは文体に払った苦心よりも、文体のもつ気迫である。
投身自殺は見苦しいとされた。
ローマ人は官職を徳の報酬と考えた。年齢下限はなかった。
かつてイタリアは食糧輸出国だったのに、アフリカやエジプトから輸入するようになったのは、土地が痩せたからではない。
クラウディウスは兵の忠誠を買うために賄賂を使った最初の元首。
市民に自由の印象を与えるために、公広場の警備兵を隠す(p.230)。
ネロ 「いっそ間接税を全廃しては」
元老院「そうすると直接税も廃止しなければならない」
モセテ河とアラルを運河でつなぎ、海→ローヌ→アラル→運河→モセラ→ライン→北海と舟運可能に。
その昔、劇場は立ち見だけだった(p.252)。
AD59-60のアルタクサタ=ディグラーノケルタ300マイル(標高1500m級)の孤軍行軍は快挙。
ローマ兵は穀食し、肉を有害と考えていた。※嘘。肉も食っていた。
モナ島攻撃用に平底船をつくる。騎兵は馬にすがって泳ぎ渡る。※ナポレオンはこれをヒントにブリテン島を攻略せんとしたのだろう。
オクターウィアの下女のうち大部分は拷問をうけても女主人をかばった。
堕胎は未だ罪ではなかった。
パルティア人は槍の投射加速具で戦う。
「一般にわれわれは、人の怒りを買おうとしてよりも、人に恩を売ろうとして、いっそう多くの罪を犯すのである」(p.278)。
進撃、退却はラッパの合図によった。
「じっさい、民衆というものはいつも政変を待ち望みながら、しかもそれを恐れているのだ」(p.288)。
自由市民への拷問は違法。
当時の竪琴弾きの作法と聴衆の作法(p.303)。
ネロは亡命先としてエジプトかパルティアを考える。
アグリコラは百姓の意味。
ブリテン島のカレドニアにはゲルマン種、南方にはヒスパニック、ガリア対岸にはガリア人種が住んでいる。
気候は鬱陶しいが、寒さは厳しくない。南方系植物は生えないが土地は肥えている。
ブリタニア人は、服従するために支配されるが、奴隷となるまではおちぶれない(p.330)。
castraは常設陣営。castellaは要塞。ともに重要道路に沿う。
「つまり、誰もが、はなばなしい成果なら、これを自分の手柄として吹聴し、みじめな運命なら、これを一人のせいにしてしまう……」(pp.338-9)。
在英ケルト民族は1m以上の刃の鈍い大剣を持つ。騎戦用で、歩戦用に向かない。
▼『プルタルコス』
テセウス。合図の白い帆をあげるのを忘れたので絶望して自殺したという話の初出。
ソロン。「風によって海は波立つが、動かすものさえなければ、海ほど平穏なものはない」※日本近海との相違。
ソロンを容れたペイシストラトスは、戦争で負傷した者は国費で養われることにした。
アルキビアデス。新月の夜に月明かりで犯人の顔をみることができようか、という推理探偵プロットの初出。
デモステネス。ラオメドンなる男、脾臓の病気を防ぐため長距離走を始め、ついに最優秀ランナーになりました、とさ。
アレクサンドロス。彼はイリアスを戦術資料として読んだ。アリストテレスが校訂したもの。
総司令官のことをヘゲモーンという。
自噴油井への言及(p.197)。
インドに入る前、多すぎる戦利品の山を焼いた。
理性ある人の間では、水や必要な食物のためにだけ止むなく戦争が行われる(p.208)。
戦象は今と同じように訓練を受けていた。
ガンジス下りは筏の他にガレー船使用。
酒飲み競争をして42人が死んだ話。
クレオメネスは、重装歩兵の投槍を両手鉾に、把手盾を革紐で支える盾に替えさせた。
ロムルス。さらに今日に至るまで花嫁は決して自分から寝室の中に進み入ることなく、抱き上げられて運び入れられるという風習が続いているのは、あの時も力づくで連れてこられたのであって自分で入ったのではないからである。
凱旋の起源(p.264)。
ロムルスが、アルゴス式円盾を、サビニ式楕円大盾に代えさせた。
母親による子供の毒殺(p.269)。。
支配とレジティマシーに関する初の言及。「それが維持されるのは、正当なことに固執するから」。
「植木と同様に手入れと人目につく場所が必要」(p.280)。
カトーは自分に厳しかったが、使用人や役畜にも甘くなかった。
カトーはマニリウスを、昼間に娘の見ている前で妻を抱擁したとの廉で除名した。
ローマ人はギリシャ風を知るまでは裸を恥じていた。
サピエンスには賢人と慎重な人の両意あり。
ローマ軍は火矢も使用(p.336)。
メラス川は流れを舟で通えるものとして、ギリシャ唯一。
BC5のスパルタ王の言葉。戦争に必要な富というものは際限がない。
ローマ人は突き癖のある牛の角にまぐさを巻いて通行人の注意を促す(p.351)。※ここから、火牛計の場合は角で火を燃やすのが自然だったのであり、尾で燃やしたとするシナの文典は泰西情報を加工した作り話であることをほぼ推断できる。泰西からシナまで話が伝わる時間は現代人の想像以上に短かかったと知るべし。
逃亡兵への古い懲罰。真っ先に逃げはしった集団を十人づつの組に分け、それぞれから籤に当たった一人づつを、衆目前にて処刑。
クラッススはブルンジウムから冬の強風を冒して出帆したが、果たして多くの船を失った。
パルティアの振り向きざま弓射はスキタイ人に次ぐ。また、駱駝に矢を山積して射まくり、ローマ歩兵部隊を全滅させた。風上に砂を盛り上げ、風に乗せて目潰しとした。
「ローマの国家がこれほどの勢力に発展したのも幸運によるのではなく、危険に立ち向かう人々の忍耐や勇気によるのである」(p.364)。
ポンペイウスの騎兵に対し、カエサル側歩兵は、投槍を投げずに顔をめがけて突くように命ぜられた。
カエサルはepilepcyを患っていた。手紙を用いてローマ市と連絡しあうようにし始めたのは彼。
ローマ市民の武器でガリアの財産を得、それをローマ市民に分配して、政治力を得ようとした(p.426)。
ポンペイウスは海から補給を受けつつ戦い、カエサルはそれができなかった。
槍は元来は足を打つもの(p.440)。
護衛をつけず、人々の行為にこそ守られようとした。※マックが真似。
「予期しない死」が最良であると。
クレオパトラの魅力は美自体ではなかったこと。
潜水夫に、釣り針に魚をかけさせる(p.498)。
パルティア相手の戦闘では、山を右手に逃げよ、との勧告(p.503)。
ローマ軍は鉛丸を使用。
摘録とコメント。
▼リチャード・マイニア『勝者の裁き』安藤仁介 tr. 1972
シュレジンジャーいわく、ベトナム政策の立案者は、いずれもスチムソンの弟子たるバンディ兄弟とラスクだったと。
最も侮蔑的な態度をとった(p.106)ウェブ裁判長も高柳を支持し、共同謀議を非法とした(p.62)。
ケロッグの1928講演「自衛のために戦争に訴える必要があるかどうかは、その国のみがこれを決定し得る」(pp.71-2)。
フィリピンに対する侵略は訴因から外された。独立国でなかったので。
米とソのみ、軍人を裁判官に混ぜた。
大陸法の方がコモンローより証拠基準が緩い。
オランダが日本に宣戦したのは日本の蘭領攻撃よりも早い。日本はオランダに1942-1-11宣戦。
チョムスキーは1930’sの対日政策を批判(pp.176-7)。
▼マシュー・F・スティール『米国陸戦史(上下巻)』1969第6版、T.K.訳、保安隊幹部学校pub.原1909
カナダには道がなかったので侵入は常に水路による。
フィリピン討伐中にフィリピン側を応援した米人もいた。
ワシントンはしばしば小隊分散という基礎的過誤を犯した。
独立戦争の資金は徴税ゼロで仏からの借金と紙幣刷りによった。ワシントンは私財で兵を養う。
南部はサムター要塞さえ攻撃しなければ分離の既製事実化に成功しただろう。この先制攻撃が北部人を一致団結させ、熱狂をまきおこし、大統領の義勇兵応募に殺到せしめた。
リンカーンは軍事経験皆無で、デービスはプロ軍人だった。
デービスは欧州に小銃1万を発注している。
追撃の重要性を解っていたのはジャクソンだけ。
ジャクソンいわく「常に出来れば敵を迷わせ誤解させ且つ驚かせよ」。状況特に有利でない限り、決して優勢な敵と戦う勿れ(pp.270-1)。
南北戦で不落だった陣地の共通要素。凹道によって囲まれている高地。ただの丘ではダメだった(p.335)。
リーとジャクソンは、軍隊の行軍と同じ速度で野戦電線を架設する手段をもっていなかった(下巻p.24)。
チャンセラーズビルが、両軍の歩兵隊が塹壕を利用した最初の大戦闘。
南アフリカの戦訓。高地が防御に有利とは限らず、低地が不利とも限らない。
ピッツバーグ、メッツ、パリ、プレブナ、サンチアゴ、旅順港の経験は、市街を砲撃するより飢えを待て、と教える。
ミショナリーリッジの南軍。歴戦のプロだったのに、全連邦軍を見渡せる高地であったため、攻撃前2日間の敵の準備をみていてすっかり臆してしまい、守れる陣地を捨ててしまう。パニック。
グラントの電報と書簡は、すべて、自軍よりも敵軍の方が損害が多いと言っている。
シャーマンは、鉄道から100哩離れて作戦することはできないと(p.241)。
米西戦時、海大はあったが陸大はなし(p.309)。
▼板倉卓造『国際紛争史考』S10年
旅順口と通信していた露国側の無線電話局があった。これを発見し、凹ました(p.36)。
バ艦隊は蘭人の無線技師クーイを同行していた(p.179)。
1904-12-3、英国は独船がカーヂフ港で石炭を積み込むことを差し止めた。
S5-9-29、スウェーデン公使フルトマンによる神奈川県金沢町轢殺事件(p.407)。
FDRは資産家猟官公使制を、プロ外交官に代えた。
ポーツマス条約は仏文を正文とす。日清講和条約は英文が正文。
▼平等通照 ed.『国語に入った梵語辞典』S53年
nadi(河) →那智
アバダは天然痘の隠語になった。
右から左に書くセム文字がBC700頃メソポタミアから北西インドに入った。
ばかも梵語由来。
▼渡辺銕蔵・抄訳『ソ連の石油飢饉』S17年12月pub.
※10月に上海の雑誌に載ったA・Riva「Oil for the Tanks of Russia」。
1932の600万トンから1938の150万トンに石油輸出が減ったのは内需拡大のため。ソ新聞によれば1940の自動車用燃料の生産額のうち6割はトラクターによって消費された。また灯油はソ連国民の代表的な炊事用燃料である。
カスピ沿岸のマハチ・カラ~グローズヌイ~マイコープ~黒海トゥアプセに至るパイプラインは170万トン/年。
枝線にマイコープ~アーマヴィル~ロストフ~ドンバス~リシチャンスク。また、マイコープ~クラスノダールもある。
バクー~バツーム(黒海)は2本のパイプラインで、ひとつは170万トン/年の原油を、もうひとつは100万トン/年のバクー精製油を送る。
バクー~グローズヌイ間は1939着工。
カスピから内水使ってタンカーを白海まで達せしむ。
昨年、ドンバスおよびウクライナの多くの製油工場が既に枢軸軍の手に帰した。
最近のイギリスからの報道によると、ソ連の鉄道網は、輸送能力50万トンにおよぶ油槽車をもっている。※だったらテヘラン→タブリッツティフリスと運べないか?
ソ連の同盟国からは、彼等自身の油槽船の状態から見て何等の有力な援助をも期待できない(p.20)。
▼ヘロドトス『歴史』上中下巻
タレスの河流二分工事&渡河(上巻p.62)。
当時アジアにおいては武勇でリュディア人を凌ぐ民族なし。騎馬で長大な槍を揮う。
キュロスの駱駝の計。
スキュタイ人は、ヨーロッパからキンメリア人を駆逐して、コーカサスを右手に見ながらメディアに侵入。アゾフ海からリオン河まで、軽装徒歩なら30日。
メディアのほかの地区はすべて平坦であるのに、黒海方面だけは山が多く、森林で蔽われている。
世界中でペルシア人ほど外国の風習をとり入れる民族はいない。
彼らが河を敬うことは非常なものである(p.110)。
ペルシァの将ハルパゴスが盛り土戦術でイオニア諸都市のひとつテオスの城壁を占領すると、テオス人は全市民船に乗り込み、海路トラキアに向い、ここにアブデラの町を建てた。
ペルシャ大王の出征時の飲料水は、河水を沸かして銀器に保つ。おびただしい数の四輪騾馬車で運ぶ(p.141)。
バビロン(アッシリア)では、人工運河の最大の一本のみ、舟航可能(p.144)。
河下し船の荷は、椰子材の酒樽と、帰り用のロバ。
エジプトの、ヘリオポリスからテバイまでは遡行9日。
ペルシャ人には王家の後裔を尊重する気風があって、叛旗を翻した者でもその子孫にはいつも主権を返す。
ノモスこそ万象の王(p.307)。
註、蛙はナイルには棲息しない。
弓はエチオピア人、槍はエジプト人が愛用。
ダレイオスはスキュタイをコーカサスを右手にしつつ追った(中巻p.14)。
遠征より一世代前、「蛇の襲来」が北方からネウロイを南に逐った。
スキュティアは寒いのでロバ、ラバはいない。
ペルシャ人は弓と短槍、帽子を用いる。
ペイシトラトス一族は樹木を伐り払い、騎兵行動を楽にしてスパルタを出撃。
ダレイオスは召使に給仕のたびに「殿よ、アテナイ人を忘れるな」と三唱させた。※呉越。
カリア軍はアイアンドロス河を渡り河を背にして戦うべし。こうすれば、もって生れた以上の勇気を出すに相違ない。
註、ギリシャでは春秋に雷鳴多い。地中海は冬が雨季。夏が乾期。
できるだけ平坦地で決戦しようとするギリシャ人をペルシャ人がわらう(下巻p.15)。
「われら[ペルシャ]が行動を起さずとも、彼らの方では同じようにはせぬ。いや必ずやわが国に兵を進めてくる……」※これが真相だろう。
穀類は粉末にして輸送した。
「さればはかりごとを立てるには小心翼々、あらゆる不測の事態を考慮し、実行に当っては大胆不敵であるような者こそ、理想的な人物であると申せましょう」(p.44)。
ペルシャ兵装。フェルト帽。鉄ヨロイ。柳編みの盾。盾の下にえびらをかける。短槍。大型の弓。矢は蘆。右腿に短剣を吊るす。
十人隊長から万人隊長まであり。
エジプトに「海戦用の槍」あり(p.61)。
「人間を生き埋めにするのはペルシアの風習なのであろう」(p.74)。
空壺を埋設して、テッサリア騎兵の馬脚を折る(p.167)。
「戦闘中にはよくあるとおり、矢の当ったものの周りに大勢兵士が駈けよってきたが」(p.223)。
「異国軍の兵士は相手の長槍の柄をつかんではこれをへし折ったのである」。ペルシャ兵の敗因は、身に装甲のなかったこと(p.278)。
軍隊を女への贈り物にするのはペルシャ独特の風習。
アメストリス(♀)はマシステスの妻の両乳房、鼻、耳、唇、舌を切って犬に投げ与え、変わり果てた姿をその家を送り届けた(p.309)。
解説。ヘロドトスの没年は前430以降である。
▼池田博行『帝政ロシアの交通政策史』
鉄道は運河より15倍速く、輸送費は1/4である。運河は春の増水期だけ利用すればよい。
防衛上の見地から広軌を採用したが、1917の赤軍のワルシャワ攻撃は軌幅差のために手を焼いた。ポーランド軍はレールを換えながら簡単に前進した。
ナポレオン撃退後に軍道整備。しかしクリミア遠征した32000の兵のうち、辿りついたのは12000だけ。
通信線はクリミア戦争に間に合わず。セバストポリ包囲の報道はパリ経由でペテルブルクに届いた(p.94)。
欧露の北部の河川は5~10月が航行可能。中部では4~11月。南部では3~11月。シベリア南部では5~10月。中部で5~9月。シベリア北部は6~8月だけ。
▼菅井・田代『アメリカ技術史』S24年5月pub.
※米国人によるモト本があるはずだが記されていない。占領軍も太っ腹だった。
※まえがきを見る限りでは、このジャンルの一般向けの啓蒙書は戦前は無かったようである。
イロコイ族の長屋はカマボコ兵舎そっくりだった。
初期米国には石炭がなく、ために石灰(漆喰)は得られなかった。かくして剥き出しの羽目板という米国風家屋が成立。ただし工作が悪いと隙間風が酷く、そこは泥土で塞がれた。
丸木小屋はスカンジナビアで創造された。この工法のすぐれているところは、釘を使わずに、しかも、漆喰を塗らなくとも隙間風が入らないこと。
灯火は鯨油ランプか、暖炉そのものであった。
冬期の農閑期の副業が家内制工業の揺籃であった。仕事は暖炉の周りでした。
靴屋は道具が軽いので渡り職人となった。村々の有力者の家に何日も泊まりながら註文をさばいた。
米国最初の図書館はB.フランクリンが1729にフィラデルフィアに建てた。
フランクリンのペンシルヴェニア型暖炉は、加熱気をN字状に煙突に導き、その最初の屈曲部および下降部の鋳鉄筒からの輻射熱で室内全体を暖め、かつ煙突からの隙間風の逆流を防ぐ発明。薪が少量で済み、しかも室内が煙くならない。
フランクリンはこうした発明の特許をとらなかった。「われわれは他の人々の発明から非常な利益を受けている。自分の発明が他の人々に役立つ機会を喜ばねばならぬ」
1752にフランクリンは雷雨の中、物置に雨を避けながら凧を揚げた。紐は麻紐だったが、そこに結び付けた絹糸が毛羽立った。また、手元に近いところに結びつけた鍵に指を近づけると、強い火花が出た。
追試を重ねた結果、雷雲には陽電気と陰電気があると分かる。
1752に避雷針を発明。大きな建物では数本使えばよい。避雷針は最も高い煙突上から壁沿いに地中まで届く長い金属棒で、接地部は地中で直角に曲げて壁から8フィートまで引き離したのち、ふたたび下方に4フィート潜らせておく。
サミュエル・スレイターは少年紡績工を英国のように搾取せず、見苦しくない畏服をあたえ、教育を施した。スピニング・スクール。
独立戦争で英国から梳綿機がこなくなったので、エヴァンスはこの機械をつくる機械を発明した。
米では作業容易なシーアイランド綿は南カロライナとジョージアの海岸低地にしか育たない。他はすべてアプランド綿だが、これは繊維が短く、縁の種子に繊維が強く接着しているので、手工的に引き離すのが大苦労であった。奴隷が休まずに作業しても1人が3ポンドしか採れなかった。そこで綿花農場に寄宿していた青年ホイットニーがこれを機械化する単純な装置をこしらえた。それは1日に綿50ポンドを分離できた。ところがそれを農園で披露された地元の紳士たちは欲どおしくもたちどころにめいめい勝手にこの発明の類似品を特許申請したのでホイットニーは後には嫌気がさして銃器製作事業に転ずる。
ホイットニーの綿梳機械の原理は最初から完成されたもので、その改良が各地で進められた結果、女工が1人で1日に100ポンドの綿を製造できるようになった。その結果、英国紡績工業に対する最大かつ独占的な原綿供給者として米国南部経済は急成長することになった。その結果、南部では非常に奴隷が増やされた(綿の栽培と収穫までは機械化できなかった)。それまでの奴隷は扱われ方が人道的だったが、「綿の増産すなわち大金持ち」という南部経済の構造ができてしまったので、以後は奴隷の酷使が進んだ。
かくして南部は当然に、自由貿易マンセーとなった。北部はこれから工業を養成して英仏に対抗せねばならぬのだから、保護貿易が必要だ。こうして南北は対立コースに乗った。
入植当時のニューイングランドの沼地には鉄が石ころのようにころがっていて、それを熊手で集めて製鉄の原料にした。
当時、鉄鉱と不純物を液状化するまで加熱できる熱源は、木炭だけだった。それも窯の中にいっしょに入れて燃やさねばならない。必然的にそれらの窯は崖地に設置され、原材料は驢馬で崖上に運び、そこから窯に投入し、水車鞴で炉の底に空気を送り、銑鉄と鉱滓が別々の口から流下してくる。
鉄は貴重なため、釘、蹄鉄、釜、銃、大工道具、鋤の刃部等にのみ使用された。多くの機械と歯車、馬車の車輪、車軸すら木材であった。鉄を採掘する機械までが木製だった。
1898にフレデリック・テイラーが高速度鋼を実用化。タングステンクローム鋼を空気焼き入れした工具刃は、切削仕事を続けて700度まで熱をもっても軟化しない。これで作業効率が6割も上がった。
これがWWⅠ中に世界に普及した。
米国の資源上の欠点は、ただマンガンが国内で採掘されないことだけである。
独立戦争で硝石の自給が確立した。古屋の下から1ブッシェルの土をとり、水に混ぜ、それを濾灰槽で漉し、透明になるまで煮詰め、冷やすと、1/4ポンドの硝石が採れた。
シャンプレイン湖とニューヨーク港をハドソン河が結んでいる。ここを英国船に通航させないことが北部をバラバラに分断されないカギで、そのために北方タイコンデロガに先手をとって遠征した。つぎに河口から遡行されないように、総重量180トン、500ヤードの巨大鉄鎖を6週間で鋳造し、丸太に結び付けて北岸からウェストポイントまで流し、錨で固定した。
18世紀はじめにスイス人とドイツ人が宗教的理由から渡米しペンシルヴェニアに定住した。その辺境ランカスターは鉄砲鍛冶のメッカだった。
遠方を一人で行動する職業狩猟家にとって弾薬は浪費できない。その要請が小口径のライフル銃を発達させた。
18世紀なかばのランカスターのRossers製の典型的なライフル猟銃は、.32口径、弾重49グレイン、黒色火薬22グレインで初速1483フィート/秒、100ヤードでは弾速は850フィート/秒であった。
このペンシルヴェニア型ライフルは独立戦争のころにはヴァージニア、ニューヨーク、アレガニー山脈まで普及していた。しかしマサチューセッツ州には行き渡らず、そのためレキシントンとバンカーヒルの民兵はマスケット装備なのである。
マスケットに照準器はなく、60ヤードでは当たらない(p.78)。
ヴァージニア出身のワシントンは最初から千数百名のライフル銃隊を組織できた。
英軍はこれに対抗するためドイツの狙撃兵を雇ったが、そのライフルはペンシルベニア型に劣り、不振に終わった。
ライフルのマズルローディングの手順。角製容器から掌上に火薬を注ぐ。それを銃身に注ぐ。油を塗った丸い布パッチを銃口に置き、その上に弾丸を重ね、おやゆびで押し込む。先端の窪んだヒッコリー製の槊杖で突き固める。
コルトは連発銃の木模型を早くから完成していたが、それを事業化するための資金が得られなかった。そこで染物工場で知った笑気ガス(亜酸化窒素)をつかった大道見世物でカネを貯めた。1946以前には電気発火式の水雷を試作した。テキサスvsメキシコ戦争でようやく連発銃の需要があり、ホイットニーの工場の近くにハートフォード兵器工場を開いた。
トマス・ロッドマンは緩燃火薬を工夫した。燃焼が遅いほど、頑丈でなくても高い初速が得られる。大粒火薬は、燃えるにしたがって燃焼面積が小さくなるので逆効果。輪胴形の火薬粒に成型すれば、燃焼ガスは次第に増えるようになる。
1786にラムゼーが完成した蒸気船は、水流を船尾からポンプ噴射するジェット・プロパルジョンであった。4マイル/時で遡上できた。
アパラチア山脈以西の交通は自然河川を利用できない。ここから運河と鉄道が必要になった。
最初の大事業がハドソン河上流とバッファローを結びつけるイリ大運河の開削。沼地の難所は厳冬期の凍結中に掘り進んだ。また生石灰モルタルではない、水硬セメントを開発し投入。
この運河によってそれまで別々の地域であった東部と中西部(イリノイ、インディアナ、オハイオ)が一体化し、ニューヨーク港は大西洋最大規模に発達し、ミシシッピ河~ニューオリンズ経由の内国廻漕ルートは廃れ、これまた南北戦争の雰囲気を醸成した。
トレビシックが蒸気鉄道を発明したのは1804だが、なんと1813まで、平坦な軌道に平滑な車輪を密着させれば機関車が列車を引いて走れるということが分からなかった。
1831にジャービスがボギー台車を発明し、機関車を長くすることができた。
英では機関車の燃料は最初から石炭だが、米では森林があり余っていたので薪だった。燃料がなくなれば、乗客が総出で斧をもって沿線の森林を伐採し、再び走行を続けた。
米機関車独特の不恰好な煙突は、薪燃料に由来する火の粉の対策である。この火の粉は乗客の衣服にも、沿道の家屋にも、かなりの脅威だった。
英国では鉄道は既存の地上利用を尊重して曲がりくねったルートが決められているが、米では鉄道はあらゆる地上物をまっすぐ貫いて敷設され、速度を殺さないようにした。
このため、踏み切りと排障器が発達した。
鉄道も南北でなく東西方向に発達した。
スイスのトンネル掘削に圧搾空気が利用されているのにヒントを得てウェスティングハウスは列車の空気ブレーキを開発した。
モールスは最初は紙に信号が印字されるものとして完成したのだが、やがて耳で聴いた方が分あたりの送信字数を増やせることがわかってきた。
米では1820頃から石炭ガスのガス灯が普及した。それ以前の照明では細かい手元作業は不可能であったが、これ以後は夜なべ、夜更かしが可能になった。
シンガーは月賦販売を発明した。また、彼の訴訟から、機械発明品の特許は先に完成・実用化されたものが優先されるという判例が出た。
工業用ミシンがレディメイドを大量安価に提供したので、衣服の「手縫い」は廃された。この結果、家庭婦人の余暇時間が増えた。
政府からマスケット銃の量産を請け負ったホイットニーは精密ジグを実用化し、互換性のある部品を連続量産することに初めて成功した。1818のフライス盤の発明はその延長。この小銃工作機械を1854にプラットが量産した。
1868にブラウン・シャープ社は1万分の4インチを測定できるマイクロメーターを完成した。
1864にセラーズは標準ネジ規格を制定。1899にはチューリヒでネジの国際規格が決まる。
エジソンの母親は小学校教員だったが数学はダメで、エジソンは終生、計算を人に頼んでいた。12歳ころ、ギボン、ヒューム、ユーゴーなどを読んでいた。
家は貧しくなかったが、12歳から列車の新聞売り子に志願し、終点駅の図書館で日中を過ごし、空いている喫煙室を化学実験場にしていた。ここで燐によるボヤを起し、車掌に殴打され、そのときに片耳の聴力を失った。
電話の受話器の鉄片の震動の強さを知るために針をつけて錫箔の上に当ててみた。するとかなりの深さの溝が掘れた。ここから蓄音機を思いついた。多くのエジソンの発明は「組み合わせ」と「事業化」の努力なのだが、蓄音機だけはゼロからの発想であった。当時、かなり教養がある人でも、レコードの原理について容易に納得をし得ず、それはインチキだと疑っていた。
WWⅠで独から円盤原料のフェノールが来なくなると、エジソンは自分でコールタール以外のものからフェノールを製造する方法を発見し、1日1トンも製造した。
1915からは米海軍のためにASW関連の40近い提案をしている。
初期の自動車は晴天時にだけ乗るもので、冬期は納屋に仕舞いこまれた。だから屋根は無い。
▼田岡良一『国際法上の自衛権・補訂版』1981
日本の刑法は他人のための防衛を広く認める(p.3)。
復仇は自衛ではないが奪還は自衛である。
自衛権は現に行なわれつつある違法に対す。自力救済は既になされた違法に対す。
sagesse politique 政治的賢明。
多くの日本人学者は、国際法上の急迫とは未来のことだと、刑法とは異なる立場をとろうとしている(pp.24-5)。
カロリン号事件における self-defence は相手国の不法を要件としない。つまり国内法とは別概念だった。
緊急避難の場合、法益の釣合いの問題は起こらない。
一般国際法上の自衛権は、国内法上の緊急避難と本質的に類似する観念であると見なさねばならない(p.125)。
自力救済も相手側の違法行為を前提とする。
自力救済は、従って自衛権ではない。
戦争を厳密に表現せば、use of armed force, recourse to acts of force
自衛権は second blow(なぐり返し)の権利のような消極的なものに非ず。
国境外へ先制自衛してよい(p.217)。
武力攻撃の発生と損害の発生を同一視するのはおかしい。
意図の想像に基づく先制攻撃は不可。※よって電波盗聴衛星が必要になる。
安保理事会や総会は政治機関であって、憲章の有権的解釈をする処ではない。(拘束力を持たない。)
警備艇の銃撃も、武力行使である。
国連憲章の第1章と第6章以下は全くの矛盾(p.354)。
摘録とコメント
▼塚本清著『あゝ皇軍最後の日──陸軍大将田中静壹伝』(昭和28年12月刊)
※『表現者』で紹介した部分は割愛。
5月24~26日の空襲で、泉岳寺、乃木神社、増上寺、三笠宮、秩父宮、大宮御所、英大使館が焼ける。
昭和14年に田中は師団長としてシナに派され、15年に宜昌(南京・漢口を経て揚子江をさらに重慶まで遡航する途中にある)を攻略する作戦の陣頭指揮をとる。未明から夜の12時まで32kmを行軍し続け、2カ月間は風呂に入れなかった。師団長は馬であるが、痔になった。
大戦末期、本土を16コDで守るとすると引っ込むしかない。しかしもし50コDもあるなら、海岸でやれという元気がでてきた。
本土は離島とちがって艦砲射撃も疎散となるはずだ。
味方戦車も最初から水際に陣地つくれと。
山で対戦車戦闘するのは消極的だと。
かくしてS20年3月以降は、非合理的な水際決戦思想に逆戻り。
20-3 東部軍管区司令官&第12方面軍司令官
田中は関東平野の海岸線をすべて視察しようとした。
S19年夏、サイパン失陥直後に、第一次の本土地区師団増設。約10コD
関東地区では、千葉歩兵学校を中核に、第91師、第84師などを編成した。
S20年初頭から、百単位師団が新設された。100番台である。これらはすべて「海岸拘束兵団」。別名を「はりつけ兵団」。
斬り込み部隊が1個聯隊、機動性のない固着部隊が3個聯隊の4単位制。
この師団はペリリューの戦訓から生れた。水戸聯隊の斬り込みの戦果を重視。19年末から教育総監部は斬り込みの浸透的潜入攻撃方法をもって火砲、飛行機の不足に代え、全縦深同時制圧までさせんと考えた。
つぎに200番台の「二百単位師団」がつくられた。これは攻勢兵団で、俗には「突撃兵団」という。
指揮官の年齢を思い切って若年化した。師団長は少将、連隊長は中佐か少佐である。
100番と200番で合計30個師団、10個旅団ほど。
20年春から、本土防衛は、東京の第一総軍と、広島の第二総軍でやることになった。
第一総軍は東海道から北。杉山元帥が司令官。
第二総軍は中部から西である。畑元帥が司令官。
第一総軍は、北部、東北、東部、東海と分かれるが、そのうち東部(関東)を任されたのが田中静壹であった。米軍は九州と関東に上陸すると考えられていたから、九州には横山中将、関東には田中が任用された。
東部軍の下には十数個の師団があった。九州は10個である。上陸後はそれぞれ倍増する予定であった。
当時の本土軍は、方面軍としての作戦任務だけでなく、軍管区としての軍政任務も附課されていた。
田中は東部軍(=第12方面軍)および東部軍管区司令官として、住民の防空、避難、国民軍の動員、編成、訓練も面倒をみなければならない。また帝都防空の最高責任者であった。
12方面軍の下の第52軍は、佐倉に司令部をおき、九十九里から印旛沼で戦う。
53軍は厚木に司令部をおき、相模湾の防禦。
36軍は機動決戦兵団で、所沢や浦和に待機し、九十九里にも相模湾にも攻勢をかけられるようにしていた。戦車はぜんぶここに集めた。機動兵団の運用を知る上村利道中将。
近衛師団は東京の防衛で、その司令官は飯村穣中将。
(p.11) S19年以降の新編師団は火砲としては迫撃砲を主体にしたが、「多数の弾丸を必要とする迫撃砲に、弾薬の生産が追いつかぬという状態であつた」。
田中配下の沿岸の3個軍は、築城におわれてほとんど訓練ができなかった。
36軍だけ訓練をしていたが、駐留地の移動が頻繁で休宿地帯の宿営準備に忙殺されがちであり、しかもコメ不足のため、あまり過激な訓練を兵にはさせられないでいた。
参本第一課は選択した。築城よりも訓練が大事だと。対米戦の成績を統計的に調査したところ。
もし敵上陸が切迫しているなら訓練せよ。半年の余裕がある場合のみ築城せよと。
田中は長野県まで視察した(p.15)。
4-13、明治神宮が炎上。
その前後に、各宮家もあいついで炎上。
八丈島、大島も視察した(p.17)。
おおいに苦労してつくった沿岸陣地が一本の命令で変更された
中央部の意見がまったく不統一であった
中央は、沖縄のあとは済州島にくるという可能性も、いちおうは考えた。
20-8-24 自決。※ところが自決せねばならぬ理由がいまいちよくわからない。昭和20年の東京における憲兵運用に何か負い目があったのか(捕虜にした米機パイロットを住民がリンチで殺していることについて憲兵隊が責任があるといわれればそうかもしれない)。それとも天皇の松代動座を阻止するなどの陸軍中央に反する独断をしていたのか。それとももっとシンプルに、天皇に対する御詫びか。
昭和20年に近衛兵が賢所に放火してボヤにする事件があった(p.223)。田中は東部軍司令官だった。
▼ニコライ・トルストイ『スターリン その謀略の内幕』新井康三郎 tr. S59年
鉄道でいけないテヘランにバクーから行ったときのみ、スタは飛行機に乗った。モロトフも飛行機恐怖症だった。
帝政ロシアでは拷問は長年禁止されていた(p.77)。
1936にトハチェフスキーは、ソ連はドイツに対してチェコを援助できぬと告白。
スタはヒトラーが何の反対もされずに反対派を粛清したのに倣った(p.96)。
ポーランド侵攻が遅れていることについて、リッベントロップの催促をのらくらかわす。
9月17日の午前2時という異例の時間にスターリンがフォン・シューレンベルク大使を接見し、赤軍は夜明けとともにポーランドを攻撃すると通告した。
土地は時間に匹敵した(p.118)。
ソは90万トンの石油を独に供給していた。ゴムはシベ鉄で極東より供給された。
1939秋、チャーチルはFDRに「ヒトラーの石油の状態を考慮すると、彼は時間切れに直面しているとの感じを受ける」と伝えた(p.121)。
ソからヘルシンキを攻めるのをリューディガー・フォン・ゴルツ伯のドイツ軍が援けた。
1940にヘルシンキで五輪が開催されるはずだった。
1940になって在フィンのソ軍に1939型ライフルとKVが行き渡った。
英参本は中東からのカフカス連続爆撃と黒海封鎖で独石油入手を阻止しようとした(p.169)。
ソ連もそれを怖れた。
独のノルウェー侵攻直前、ソは1940-2-11協定に基づく石油を勝手に停止していたのに、侵攻開始後にすぐ再開。
ソ連式の射殺法では、首のうしろからピストルを射って前額に達する。
開戦後、まだ帰趨のはっきりしない5月、「事態がどちらに転ぶか不安定な状況にあった間は、スターリンは例の用心深さを発揮して、対独原料供給を遅らせていた」(p.208)。
望む事の2倍を要求して、半分で満足するというソ連の戦術(p.218)。
軍内の政治委員制は、元帝政下将校を監視するため、トロツキーが導入。
一番信じられるソ連将兵の死数は750万。
英国は白系ロシア人をいかに熱心にソ連に引渡したか。
モンゴメリーがあと数時間遅れたら、デンマークも東側領になっていた(p.353)。
1969にロバート・ジョーンズは米国の対ソ武器輸出の本をまとめた。未訳。
▼堀場一雄『支那事変戦争指導史』S37年
ハンガリーは満州国を承認した(p.280)。
カナダの対独宣戦は9月10日。
WWII始まったので英仏は10~11月、シナから軍を引きあげた。
日本軍は、政策、報道、軍需に有為の人材を回さなかった(p.758)。
軍の庇掩下でないと日本人は大陸に進出できぬとの思想はあやまりだった。
一戦場に同時に3コD集めたことなし(p.762)。
「支那事変に在りては叡智ありて実行力乏しく、大東亜戦に在りては実行力ありて叡智乏しと謂ふべきか」
▼中原茂敏『大東亜補給戦』
昭和12年にイタリアに重爆×72、小銃×10万、砲観測器若干を緊急発注。
支那事変で、陸軍の各兵器費に対し、12年度は56パーセント、13年度には76パーセントが弾代に充てられた。
ソ連の石油生産(百万トン)。昭和15は31、16は34、17は33、18は29、19は39、20は22で、だいたい日本の6倍。
米は真珠湾の前の7月7日にアイスランド進駐。
WWII前のルーマニア石油生産は600万キロリットル。ピークは800万だった。
日本陸軍の火砲のRange値一覧(p.248)。31速野から99山まで。ロケットはなし。
TNT生産は、昭和16~18は全火薬中の60~63%をしめたが、17年以降は割合が減り始め、19年は50%、20年は37%となり、多くはカーリットその他、代用新火薬に転換。
▼日石 ed.『石油便覧1982』
WWⅠで「連合軍は石油の波に乗って勝利へと辿りついた」と評された。
ダイムラーのガソリンエンジン1883
ディーゼルの重油エンジン1893
米海軍の石油切り替え1904
英海軍の決定は1912
カリフォルニア油田から蒸留するガソリンはオクタン価が高い。ボルネオ、台湾油も(p.121)。
船用タービン用C重油は、粘度の高い低質でもようが、燃費悪く、経済性でディーゼルに劣る。
1914、英、イラン石油を支配。
1939、米はソと日本に航空揮発油の製造装置特許の輸出を禁止。モラルエンバーゴ。
1939、英は石油局を設置。
1941、米は対日石油輸出まったく停止。
1942、英のガソリン不足深刻となり自動車輸送統制開始。
1945、米英石油協定。於ロンドン。
1951、英はイランの石油産業国有化を承認す。
BPはもとはアングロ・イラニアン石油と称した。溯ればアングロ・ペルシアン石油。英人ウィリアム・K・D’Arcy がイランの最初の油田発見者。
WWII前は精製は消費地ではやっていなかった。
▼『トューキュディデース』小西晴雄 tr.(筑摩書房『世界古典文学全集・第11巻』)
内陸に当時残る帯剣の習慣は、盗・海賊時代の名残り。最初に廃剣したのがアテナイ人。
初期の都市は、島でも大陸でも海岸線からひっひこんだ所に造り、海賊を避けた。
トロイ戦争がペロポネソス戦争よりはるかに小人数で戦われたのは、現地調達可能な糧秣の水準まで絞り込んだから。
イオニア、シケリアへの殖民は、トロイ戦の後。
アイギーナvsアテナイの三段櫓船海戦時、甲板は全部に張られておらず。
掠奪は主として海経由で、陸戦による侵略はなかった。
アテナイの発達は海商というより海賊的支配によるものだったらしい。
註、三段船に寝食する場はなかったので、航距離は局限。
註、昔のギリシャ人は本を黙読しない。必ず音読。
ケルキューラvsアテナイ海戦に船衝戦法なし。
「諸君は他を傷つけない代りに自らも傷つけられないで守れると思っている」(pp.27-8)。
一旦、与えられた支配圏を引き受けた以上は、体面と恐怖と利益の三大動機に把えられて我々は支配圏を手放せなくなったのだ。しかしこの例は我々をもって嚆矢とするのではない。弱肉強食は永遠不変の原則である(p.29)。
常に我々は……敵の過ちに僥倖を恃むことなく、自らの用意に望みを託すべきである。人間にはそれほど大きな違いがあるとは思われず、限界状況で鍛えられた者こそ最も強いと考えられるべきである(p.31)。
これを知ったアテーナイ軍は、重装兵を正面に押しだして攻撃を加え、さらに周囲を軽装兵で囲み、中にいた者に石を投げつけて全滅させた(p.39)。
湿地の民はエジプト人の中でも最も剽悍な部族であった。
註、エジプトでのアテナイの敗北は、陸戦化していった為。
事実、アテーナイの国力は正規兵よりも外人傭兵に依存しているのだ(p.43)。
戦いでは飽くまで冷静を保つ者ほど安全である。
諸君が(侵略を受けて立ち)開戦を決定したとて条約破棄行為にはならない(p.44)。
「ツキディデス症」は、市内に戦時体制のため人口急増したときに。
飢饉はリモス。疫病はロイモス。
註、密集海戦では、口頭命令だから、騒ぐことは許されなかった。
註、最高司令官が戦場後方に位置するようになったのは、アレクサンダーの父フィリッポス以降。
……ひとたび戦いになるとどちらの側にも援軍が得られるような状態になり、敵より有利になること、自己の力を増すことのために他を呼び入れる機会は、反乱を起こそうとする者たちには簡単にあるものであった。
これらすべての原因は物欲と名誉欲とを満足させようとする支配欲にある。これらの諸欲から闘争への渇望が生まれる(p.116)。
また欲望に駆られた人でなくとも、闘争力が伯仲してくると人々は抑制しきれない強い感情に流され、残酷で無情な行為にでるようである。
このような場合には、逆境にある人すべてにとって頼みの綱ともいうべき公律を他人に仕返しをする時に破ってしまうから、いつか誰かが危機に面して公律を適用しようとする時にはもはやその効力はまったく失われてしまっているのだ(p.117)。
もっこがないので、後ろ手を組んだ、かがめた人の背中に、土砂を載せて運搬(p.129)。
戦うことが利益になると考えればこそ、恐怖があっても戦いを避けない。……また他の者は目前の損失を我慢するより、戦争の危険を耐えるほうを選ぶ(p.145)。
不測の未来は我々を一様に恐れさして、むやみに戦争を起させないというきわめて良い面も持っている。
我々(シケリア諸都市)が賢明でさえあれば……今後は、島外から援軍や調停者を一切呼び入れることをしてはならない。
シチリア原住民はイベリア半島を逐われて来た。
註、当時の商船は平均9km/hの速さ。
重装兵、騎兵には、糧秣を担う奴隷がついていた(p.272)。
解説:彼がペロポネーソス戦争の体験を通して到達した考えの中では人の心理は基本的に重要な位置を占めていた。人の行動の動機とは、富の追求と名誉への欲望と恐怖から逃れようとする三つの動機に集約されると彼は考えた。そしてこの三つの願望を実現するために人間は力を得ようとする……(p.333)。
兎も角彼は新しい考えを説明抜きで表現しようとしたのである。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・2 越後流』
鎗は敵の顔面を突け。馬の載するは36貫(精米1斗)、人の担うは6貫可なり。
首級は初太刀の者に与うべし。
大軍なるときは夜明けて退き、小軍なるときは夜深くして退く。
雪道は、まず人夫に踏み固めさせてから行進せぬと、泥るむ。
縦ひ将吏を討捕るといへども、一番鎗の功を越えざるなり。
飯の後に武具を著すると、緩む。槍をもって退去するときは、先端を後に寝かして左手に持つと、反向し易い。
衆馬の中を駆けるときは、むしろますます狂馳させる。と、囲りの馬が避けるので、通り易い。
血祭とは、首級を洗い、化粧して、串刺しにし、捨て置くこと。
▼石岡久夫 ed.『日本兵法全集・7 諸流兵法(下)』
徳田の合伝流は西郷従道にも伝えられた。刀槍戦よりも鉄砲戦に重きをおく。
兵学は実戦事実伝を肝要とす(p.56)。
天正末~慶長初めまでは火縄銃は槍隊の露払いでしかなかった。
が、慶長初め以降は、鉄砲の無い足軽や弓隊など全く用が無くなった。6~7間以遠では、弓は甲冑を射通せない。
客戦に於て、服さゞる村里の井に、砒素、鴆毒を混ず(p.84)。
▼A・ボイド『中国の建築と都市』S54年、原1962
インドは地震国だがシナよりも石とレンガを多用している。
黄河域には良質の建材用石がない。代りに木材が余っていたのが理由か。
中世英国では圧倒的に木造建築。
木工は土着していたが、石工は渡り職人であった。※だからフリーメイスン。
三角形トラスはアーチの代りになるが、剛性である。
迫持石(アーチストーン)は同寸でなくてはならぬ。
石材は漢代以降、主要な橋材となった。
有名な某園のアーチ橋は大理石製。
▼小松茂美 ed.『続日本絵巻大系・17』S58年
前九年の役絵詞では、長兵はなぎ刀のみ。したがって面頬も両側のみを被って正面は空く。
結城合戦絵詞には平刃のヤリが見える。
鎌倉時代の絵巻は京都に発注してとりよせていた。
後三年合戦絵詞に、猪の目透しの鉞を肩にした軍卒の絵。
中巻には半首[はっぶり]=面頬+アゴ被いの歩兵が出る。
東北では、自分の手で首をとるを「てづくり」という。
▼小松茂美 ed.『平治物語絵詞』S52年
あごひげのばし放題の男が目に付く。面頬はあるが半首は見えない。
柄頭が急角に反り上がっているのは片手打ちを考えた馬上太刀。
▼機甲会 ed.『日本の機甲60年』S60年
初期ドライバーは輜重兵だけだったのでTKもはじめは彼ら。
大14の宇垣軍縮で自動車隊も廃止されることに。
山下奉文中将団長のドイツ視察団はS15年5月グデリアンより直接コンバインドアームズの話を聞く。
フラーの陸上海戦論の訳が大12-12月号の「騎兵教育の参考」に載る。
対米戦初盤では95式LTKの37ミリがM3スチュアートLTK-I型の改すら貫通できず。
鹵獲M3LTKの実験では後面も貫通しない。逆にこっちの正面は貫通される。
重量25トンでは装甲を一般に云う戦車並みにすることは不可能(p.74)。
米軍のマニュアルでは「弾薬の射表や弾丸効力、戦車各部の装甲板厚等は、隠すのでなく全軍一兵に至るまで知るべき知識とされてい」る(p.131)。
ノモンハンのBTは半クラでも登坂した。
74TKはAPDSも英国のものを使っている。
TKが、前方1300mから400mまで30km/hで迫るとき、その見かけ上の面積は、歩兵が200→60mまで匍匐するに等しい。しかも前者は110秒、後者は700秒。よってTKがATKに暴露しているとはいい難い。
イスラエルは四次戦争のゴラン高原では155Hのタマを400発/門発射する必要があった。
74TKの年間ランニングコストは2千万円/台。乗員のコストは450万円/1人/1年。
普通科が射撃しながら50m突撃したら30秒かかった(p.167)。
同じ97MBTでも三菱製と日立製とは部品互換性がなかった(p.287)。
▼飯村穣『兵術随想』S41年
編者の西内雅はS15内閣総力戦研究所いらいの部下。
軍ははりきった馬であり、政治家はこれを御する良騎士でなければならない。
軍部の秘密主義の責任は、機密をすぐ口外する政治家にあった(p.46)。
イントリグの訳語が謀略。兵語「謀略」はロシア班小松原道太郎少佐による。
「何某曰く式の兵術を排せよ」(p.116)。
米がもし核を使わずベトナムから退いた場合は、日本は仏並の核武装をすべきだ(p.228)。
▼陸上自衛隊幹部学校 tr.『枢軸側の大戦略』S31年、原1952?
ラディスラス・ファラゴが旧独軍人の論述をまとめた“The Axis Grand Stratety”という資料。
クローゼウイツツはナポレオンの突破作戦よりもフレデリック大王の陣地戦をよしとした。その影響を継承してシュリーフェンは「包囲」にこだわり陣地戦に陥って決戦とならずにドイツは負けたのだ(p.57)。※と新時代の独参謀は言いたかったらしい。米軍はクラウゼヴィッツの影響を根掘り葉掘り訊ねているようだ。
フレデリック「小人はすべてを防御せんことを望む……すべてを御るものは何物も救わぬ」「陸軍の強さは速力に依って増加した集団の力に等しい」※→フォッシュ?
補充兵ほ多く保有せば数量は補うことができるが、失った兵の質は之を補うことができぬ。
シュリーフェン「百万人を給養するには十億弗を要する時、消耗戦略を行うことは不可能である」
1940年西部前進中のTKに対する飛行機または司令部よりの通信にはヒラ文を使用した。コードは陸上戦闘中不適と。
グデリアン中心に代用潤滑油の研究すすめたがとうとう成功せず、東部冬期戦でTK凍結続出した。空軍用潤滑油もまた不足した(2巻p.143)。
1934にナチのE・Hadamovskyは「力を用いることは宣伝の一部である」と。
イタリアはアルバニアからの数十万トンを除くと全石油をドイツから食糧のバーターで得ている。
摘録とコメント。
▼ラルフ・タウンゼント『米国極東政策の真相』大江専一 tr.日本国際協会S12年pub.
シナは一村内で既に自給が可能。またそれは、短距離間といえどもかかる高関税によって助長されてきた。※老子の世界。そして人民公社。
シナ留学生は勤勉だが「自分自身の裁量に任されるとなると、恐ろしく下手」。
アメリカインディアンは黒人と違い、宗教的にも肉体的にも奴隷化されなかたのは不思議だ。
▼ヴァルガ『戦争と世界経済』和泉仁 tr.S15年
※独がソから油脂を輸入している事実を伏字としている。60頁。
▼ヨハン・フォン・レールス(Leers、独人)『世界制覇の争点』高橋文雄 tr.電通出版部S18年
1930~3にスタは「スターリン運河」を掘りバルトから北海ムルマンスクへ抜け出られるようにした。
弩級艦は吃水深くスエズからは来られない。※つまり石炭罐の重油罐化にも関係なく、またシンガポールをどう整備しようが、弩級艦とともに英国はシナ沿岸において日本の敵ではなくなった。
▼大河原蔵之助『一水兵より海軍少佐になるまで』S6年
日露戦前の石炭積みは人夫が主で、艦内では機関部員が加わるのみ。水兵は手を貸さなかった。が、開戦直前から、すべて乗員でやることに改めた(p.86)。
13ノット出すと、マストやヤードが唸り始める。
水兵の給与は平時の倍になる(p.108)。
合戦中は耳に綿栓を詰める(p.141)。
▼エヌ・シュペクトロフ『軍需工業論』S10年、原1934
戦闘艦の1門の発射最大数は19世紀後半は110回/日、WWⅠで987発/day
戦艦1隻つくるのに6年かかる。改装も、1隻1年以上かかる。
WWⅠの独ではTNTの結晶物は砲弾用に、屑物は、手榴弾や地雷用に回された。
イペリットのつくり方に、マイヤー法とレヴェンシュタイン法がある。
1913型3インチ騎兵砲を除けばすべてのロシアの陸軍砲は最初のものがクルップ、のこりのすべてはシュネデル製である。
▼参 ed.『日露戦争に於ける露軍の後方勤務』大4
ユダヤ人多いオデッサで最も応召率が低かった(p.20)。
1904-9にクルップに120mm臼砲を注文。1905初期より到着。
1904-12に奉天に手榴弾工場をつくった。
満州は5月下旬~8月下旬まで雨のためぬかるむ。
馬車鉄道により雨季の糧秣補給を確保(p.304)。
無線も使った(pp.366-7)。
▼松本伊之吉『海軍施設系技術官の記録』S47年
米では施設作業部隊を平時には一般公共事業に用い温存したのに、日本では軍縮で潰してしまった。
工作車には特に特殊鋼が必要だが、モリブデン、クロム、ニッケル、マンガンが足らないので、磨耗の早いものしか国産できなかった。
鹵獲のブルでいちばんよかったのがアリスチャルマーだが、これは米では二流のもの。
▼有終会 ed.『米国海軍の真相』S7年
飛行船の母船が10余隻もある。
ワシントン会議以降、ハンプトンローズ、グァンタナモ、ボストン、セントトマス、パールハーバーの貯油槽を大増設。
サラトガ級が入渠できるドックは、パナマ、シスコ、パールの3箇所しかなく、うち2つはレキシントン級には対応できない。
陸軍長官出身のタフトは大統領になると、海主陸従主義を定めた。サンフランシスコにしか港湾防御要塞がなかったのを、パナマ、サンディエゴ、コロンビア河口のピューゼットサウンド、アラスカ、ハワイ、グアム、マニラ、スービックの8防御港に拡大した。
ついで1916に太平洋軍港の拡大案が提出され、参戦にもかかわらず推進。
シスコは油田からのパイプに直結していたので特に重要だった。
アラスカには、キスカ&シトカの海軍貯炭所のみ。
ブラッセー年鑑などの公表タンク容量はアテにならない。航続力は各国極秘。たとえば、何速に於て何マイル、とは示さない(p.298)。
経済速度は8~12ノット。これは艦が大きいほど小さくなる。しかし戦中は対潜のため15ノット以下で走ることはありえない(p.301)。※しかし日本海軍では、あり得た。
油の量だけでなく、それを急速に給油できる港湾装置が充実(p.305)。
S6年の ala moana 事件。ハワイ人が米海軍中尉夫人を暴行し、裁判中リンチで殺された。
▼中根千枝『家族の構造』
英では16世紀以来、どんな関係であれ、2組の夫婦が同居することは全土的になかった。
「腹は借りもの」などという考え方は、インドやシナの血縁重視の思想からはけっして出てこない。
遊牧民のテントには1核家族しか入れない。
蒙古における一子相続の慣習は、大家族とは矛盾する。
▼中根『家族を中心とした人間関係』
原始には氏族はなく、家族だけがある。古代と現代が小家族の時代。社会の富が不均衡で、超定着的な時代に大家族が現れる。
原始基督教時代に一夫多妻があった(p.76)。
アフリカでは弟に対する兄の命令権はない。シナ、インドでは、非血縁の親分・子分関係は生じない。
東南アの家族制は世界で最も自由形態。結婚をしない自由がある。また女の社会進出はあたりまえ。
インド人も距離の近い人と結婚しない。本家と分家もない。シナと同様。
ハイパーガミーの行われるインドでは、上層に独身女、下層に独身男が増える。そのため下層女の持参金は莫大を要す。
シナでは結納金が貯まらずに結婚できない男が多かった。
シナでは父なるがゆえに父権がある。日本では家長なるがゆえに父権が附いてくる。シナでは父権は死ぬまで維持され、隠居制は無い。
英人は10代に母親の世界から父親の世界に入る。
▼斉藤真 ed.『デモクラシーと日米関係』1973
明治はじめのキリスト教入信者は、これを儒教の延長だとみた武士階級。
南北戦争後の米事業家は、スペンサーの「ミリタントタイプオブソサエティからインダストリアルタイプオブソサエティへ」なる社会進化説に多大の影響を受けていた。ロックフェラー、カーネギーら。
大正の日本人がアメリカ映画をいかに愛したか(pp.134-5)。
ウィルソンは、自著『国家』(邦訳1896『政治汎論』)の中で、社会は進化によってのみ善くなり、革命は退化につながると。
吉野作造は典型的なウィルソンかぶれ(p.147)。
大正期に訪日したジョン・デューイは、反米論あることを報告。
内村は米のWWⅠ参戦に絶望した。
評判の悪い「写真花嫁」は1920に廃止。
アメリカでの差別待遇を黙過すると、日本人は世界中から劣等人種とみなされて、いたるところで海外発展を阻まれることになる(p.184)。
1900前後の日米開戦論は米側のみの一人相撲。
1920’sを通じ、米海軍は、排日は戦争をしてでも貫くべき国益とみなした(pp.188-9)。
日本政府は排日問題を重要なものとは考えず。よって大使の引き揚げもなし。
大正デモクラットは人種差別をアマく見た。
東部では100%アメリカニズムと19世紀末風人種主義がWWⅠを機に復興した。
排日法が大陸進出を正当化した。
▼伊藤政之助『戦術史講和』大15
オクスフォード大学は「戦争研究を度外視する大学は決して政治家養成の良学園にあらず」と、戦略・戦史の講座を置く。
仏は1871~90は守勢作戦時代。独はこの間、先制を欲したが自制した。
1890~1910は仏の攻勢防御時代。この間に独は力をつけた。
1910~は仏の攻勢時代。ジョフル参謀長。
英にはボーイスカウトの他、少年「チャーチ」旅団がある。本国のみで65万人。
WWⅠで伊は総勢100万なのに50万の墺軍に防戦のみ。
米の毒ガス生産は1日分で東京市民全滅に足る(p.22)。
ベルギーではこの頃、強いアルコールを禁じていた。
明治20年に至るや中隊を散兵と援隊とに改め、戦闘正面を150mに、散兵の間隔を3歩に縮め、おおいに攻撃精神を高唱せしも、「独断」の範囲は甚だ狭少であった(p.115)。
ナポレオン下のアーゲローは黒人出身(p.309)。
WWⅠの男子数に対する兵員。仏27%、独25%、英23%、伊20%だった。
兵員100に対する馬の数は、普墺戦で15頭、普仏で17、日露で20、WWⅠで30である。
WWⅠの陸兵1人あたりの毎日の純陸軍戦費は、英20円、仏5円、露・伊・独・墺が4円である。日露役の日本では2.3円だ。
▼川瀬一馬『日本文化史』
7~8月の季節風は、日本の西南海地方(沖縄)から大陸に吹き、その後は逆に吹く。しかし、季節風にのっても、大陸からの戻りは困難。
日本の西南地方は、風と海流が悪く、接岸が困難。
揚子江は風道なので、上下行ともに「信風」を利用できる。
日本海岸は夏のみ平穏で、秋の終わりから翌春まで交通できない。
太平洋岸は一年中使えるが、午前は凪ぎ、午後に荒れる傾向がある。
安倍仲麿は、おきなわ島まで到着しながら難波してまた大陸に吹き戻された。
武家文化は文字でなく視聴覚に拠った。禅はテキストで教導せず、師との接触によったので、武家にウケた。
足利学校は禅院の形式をとった。
林羅山の宋学はまだ単なる紹介解説だが、素行が出て初めて宋儒を論難し、仁斎、徂徠が続く。
神道の教義は全く儒仏に依存。あるのは祭式のみ。
▼北見俊夫『日本海上交通史の研究』
柳田の『風位考』。日本海岸は陸路は往来し難いため航海が発達したと。
山口県沖から海流と追い風にのった漁船はウラジオまで「二日走り」する。
『元史瑠求伝』にいわく、「凡西岸漁舟到、澎湖己下、遇颶風発作」すると、漂流し、みぎわに落ち、百に一も戻って来ない。……つまり沖縄近海は低気圧が頻繁に発生するのでシナから交通するのは危険なのであると。
順風でも急潮にかかると一歩も前に行かなくなった(p.122)。つまり黒潮が強いので。
柳田『火縄銃から黒船まで』。江戸期のジャンクは、5~9月に揚子江岸を出、南西風に乗って来日。シナへの帰航は10~12月の北東季節風に乗る。片道3~6日だった。
日本からシナをめざすのは目標が広いので容易だが、その反対が至難であった。
日本海側の暴風日は11月~3月に集中。逆に夏はほとんどベタ凪ぎ。太平洋側の伊豆大島は周年荒れる。日本海の年間波浪は、1m以下が100日、2mまでが100日、2m以上が160日である。
良材の多い熊野の山中で造船して川を下して難波に出た。
▼トライチケ『軍国主義政治学』上下巻、浮田和民 tr.大7、原1899~1900
戦争とは自国が判事になる訴訟なのだ。
国家が先であって、契約が先ではない。
中世では貴族は外国の貴族と親密で、自国の市民とは疎。市民は市民同志親しく、自国の貴族とは疎。
最初の成文「叛逆罪」は1352の英にて。
英国のインド虐政は正当化される。ヨーロッパ人はアフリカと東洋ではヨーロッパと違う政策を採ってよい(上巻p.147)。
フォン・ボイエンやクラウゼヴィッツのようにロシアに脱走して旧国旗に反抗したものは、残留組のヨルク、ブリュッヘル、ビューローより道徳少ない。
英国においては、戦時状態にありとの布告が、ドイツにおけるよりも甚だ頻繁である(p.242)。
ユダヤ人は名誉あるドイツ人に対して常に民俗瓦解の一要素たりき(p.392)。
ロシアでは、国が認めないと貴族ではない。二世代続けて公務につけない家族は貴族の資格を失った。これは、成り上がり貴族を許す(p.417)。
英国下院の議員の1/3は、鉄道管理者だ(下巻p.17)。
スウェーデン人は社交的だが、ノルウェー人は無愛嬌だ(p.229)。
著者の師のダールマンは言った。結婚の誓いのとき、離婚もあり得るなどとは言わない。それと同じで、理性を有する者は良心を犠牲にし得ず、軍旗に対しても良心の故に服従できない場合があり得る。だが宣誓のときにはそんな留保は言わないものなのだと。
ドイツ青年の決闘の習慣は美風だ。英国士官は決闘を禁じられてから、公衆の前で喧嘩するようになった(p.311)。
革命戦争以前、英仏だけが国債を起こせた。フレデリックは7年役のとき、ついに公債を起こせず、悪貨幣で切り抜けた。
著者小伝。トライチケは初め自由貿易主義者だったが、年経るに従い、反動化したと。※つまり愛英→反英ということ。
▼『燃料史』
昭和15年、米は航空燃料の他、鉄製ドラムの供給も禁止した(p.42)。
南方油の運送実績。戦争第一年148.9万トン。二年246.6万トン。三年106万トン。四年(終戦迄)ゼロ。
S18年末からの苦肉の策。台湾砂糖、満州雑穀、国内甘藷からアルコール。大豆、魚油、フィッシャー軽油を潤滑油に。航空ガソリンのための松根油、重油のための亜炭、ボタ乾溜、タンク底油液の処理。
松根油はS19年に伝えられたドイツ技術で、針葉樹の8%がテルペン乾溜油になると。農林省は伐採に難色を示し、根だけ許した。陸海分担で、20万リットル製造したが、航空用にはならず、漁船用とされた。※大正時代から松根油の研究があることは兵頭旧記事を見よ。
南方油田はタラカン油田とサンガサンガ油田(バリクパパン製油所)のみ。他には出なかった。
兵站総監を作戦部長より上位にしている陸軍はパレンバン占領を素早く決心。海軍は作戦第一主義で伝統的に補給はどうにでもなると思っており、特に航空ガソリンに関してそうであった。こうして最大油田のスマトラは陸軍の製油分担区になった。海軍はボルネオを得た(p.94)。※トータルウォーを考えていたのが陸軍省であって海軍省ではなかったということ。
S19年2月に海軍航空燃料が枯渇し、陸軍に融通を懇請する羽目に。陸軍は応諾したが、マリアナで空母が壊滅したのを見て、本土決戦に備えて海軍には渡さないことにした。
▼田辺義雄『世界の食糧情勢』
1978~1982平均すると、綿など含めた農産物輸入はアメリカから42%だが、特に小麦シェア53%、トーモロコシ91%、大豆93%は一国依存状態。
米国農地の2000万Acerが日本向けの作物をつくっている。これは日本の耕地より広い。
83年の供給熱量は国民一人あたり2593kカロリーだった。うち1361%、つまり52%は国内産の勘定。
人は寝ているだけで1日1450kcalを消費する。
農水省は、最大限の自給努力をしても2000kcalの自給が限度と見ている。これは昭和20年代後半の水準。
▼クセノフォン『アナバシス』松平千秋 tr.
エウプラテスの某地方は稗がきわめて豊富。
ティグリスは舟航はできるが舟なしで渡河することは到底望めぬ。
急退却をすれば、追撃は小勢では危険となり、さりとて大部隊ではスピードが出なくなる。
ナツメ椰子の果汁は美味だが頭痛を起こす。
規律のためには敵よりも指揮官を恐れさせねばならぬ、とクレアルコスは言ったとか。
クセノポン「われわれ(ギリシャ人)は、寒暑や労苦に耐える点では敵(ペルシャ人)に勝る肉体を持っている……」
クセノポン「さらに諸君よ、もう一つ私が確信していることがある、すなわち、戦いにおいて何としてでも生き永らえようと望むような者は、大抵は見苦しく悲惨な最期を遂げるものであること、それに反して死は万人に共通で逃れ難いものと悟り、ひたすら見事な最期を遂げんことを志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれ、在世中も他の者より仕合せな生活を送るのを私は見てきているのだ」
ただ一つ、騎兵はわれ\/に優る利点を持つが、それはわれわれよりも安全に逃走できるということだ。
ペルシャ人の投石器は、掌に握れるほどの大きい石で、短射程。
ロドス人の投石器は鉛丸で、ペルシャ人の石の倍、飛ぶ。
それは弓よりも飛んだ(p.100)。
ペルシャ人の夜営では馬は足も縛っておく。
カルドゥコイ人の長弓は、下部を左足で踏みながら引く。
ギリシャ人隊中には多数の娼婦がいた(p.120)。
寝ている体に雪がつもると却って温かい。
ギリシャでは猛犬は昼縛っておき、夜放す。
テュノイ人は棍棒を、鉾の穂先を叩き落とすための武器だといっている。
解説いわく、本書はアレクサンダーに影響を与えた。
▼『五国対照 兵語字書』明治14年2月 参謀本部
※山縣参謀本部長が西周らに編ませた、明治期の最初の外国語辞書の一つ。
※見出し語は仏語で引くようになっており、和語から引くことはできない。
※女性格に f.、男性格にm. と注記してある。(a)は古語の印。
※配列は仏、独、英、蘭、和の順か。
巻末で室岡俊徳いわく、馬の毛色を言う語だけはどうにも比定がつかなかったと。
Initiative,f.──Initiative,f.──Initiative.──Initia──先発
Architecture militaire,f.──Kriegsbaukunst,f.──Military architecture,f.──Kriegsbaukunst,f.──築城術
Arbalete,f.(a)──Armbrust,f.──Cross-bow,Arbalest──Armborst,f.──Kruisboog,m.──弩
Cantiniere,f.──Marketenderin,f.──Sutler’s wife──Marketentster,Zoetelaarster,f.──従軍酒婦
Guerre civile.f.──Burgerkrieg──Civil-war──Burgeroorlog──国乱
▼金子有鄰『日本の伝統馬術』
※先行する著者の主著と内容はほぼ同じ。
「令義解」に、「具装」とは馬甲だとあるから、奈良時代に馬ヨロイがあったことが知られる。
源平盛衰記の生田の戦いの箇所に「馬には冑を着すべし」とある。ただしそれはカブトなのかヨロイなのかはっきりしない。
太平記の22巻にも馬の鎖冑が出る。その他の例、多数。
▼R.アーミテイジ『アメリカ海軍──その伝統と現実』古田保 tr.昭和16年
※巻頭写真が20ページほど破り取られていた本。
艦隊派と本省派のあいだに意見の食い違いがある。
スクリューのことを「暗車」という。
「1948年には米国海軍が総トン数では日、独、伊三国の海軍の合計と同じになると言うことは別に隠す必要もあるまい」(p.30)。
「水兵は複雑な仕事を憶え込むのに6年はかかり、除隊して一般人の仕事へ戻るのも困難だ」「我が海軍は……現役兵員の4割はハイスクール出身である」(p.31)。
「我が戦艦はことさらにあまり速くないが、装甲を厚くし、備砲を大きくし、航続距離を伸ばすために、速力を犠牲にしてゐるのである」(p.32)。
1925頃は商船とSubが衝突するとSubの方が沈んだ。S-51号と“シティ・オヴ・ローマ”のニューイングランド沖遭遇。
「19世紀及び20世紀の攻撃戦理論の唱道者ともいうべきクラウゼヴィッツの諸概念は、第1次世界大戦中に疑惑にさらされるに至った。それは攻撃的作戦が成功するためには、殆ど三対一の数的優勢を要することが分ったからである」(p.182)。
日本政府は圧迫を加えられると敏活だ(p.192)。
▼参謀本部・広田忠三郎『日本古戦法』大13
太古の騎射は「半弓」を用いていた。さもなくば馬上で使えるものではない。
甲越の戦いのころは槍は普及していなかった。信玄などは麾下の隊だけに長槍を持たせていた。信長はこれを多量に用いた。以後、武士は必ず手槍(短槍)を持つようになった。
本邦の「魚鱗陣」はシナの「車輪陣」の誤りで、「鶴翼」もまた「虎翼」の誤り。
孔明八陣とは実は64種あるのだが、越後流は知らない。
本邦の陣備えは頭に重点を集中した攻撃型。後ろに脆い。シナ軍の陣は守るを主とする。
答古智幾・タクチック と 士多剌的義・ストラテギー が明治12~13頃の当て字(p.30)。※『軍事史学』によると、フランス語にオランダ音をふった。
折り敷いて石突を地に托す槍襖を「嵐」という。
植株列がそろっていないのは、深田である。
▼モック&ラースン著『米国の言論指導と対外宣伝』坂部重義 tr.S18年
※序文ページ破れていて原タイトル不明。
宣伝と政治・軍事は作戦上、同価であるとはWWⅠではじめて米人に気付かれた。
1940ごろ米にフィンランド救援の気運をつくったのは、ロバート・シャーウッドの芝居「ゼア・シャル・ビー・ノー・ナイト」と、シベリウスの音楽。
WWⅠ中の米国内宣伝は、米国人をして北米爆撃を覚悟させる迄に(p.28)。
戦時防諜法で5~20年の禁錮判決を受けた何百人もが、ハーディング~クーリッジによってほとんど釈放された。
ホームズ判事すらWWⅠ中は保守派の判決を下した。
Four minuit man (四分間演説者)は、ラジオのないときのシンクロ放送網。
開戦と同時に多数のロシア人が合衆国から帰国した。
国内・同盟国向けには本局が、対敵宣伝は陸軍省が担当。
国内無線局を全部接収したのは海軍。これを定期ニュースブロードキャストに(p.226)。
1918年からはハルピンが米の対シベリア宣伝活動基地となる。
ヴェラクルスを占領させたのはウィルスンだった。
摘録とコメント(※)
▼重久篤太郎『日本近世英学史(増補版)』S57年
文献上の初見は、江戸末、蘭語重訳のロビンソンクルーソー。
蘭語の次に早くから研究されたのが仏語。18世紀末の革命以来の影響力による。
明治20年代頃までは軍隊では「止れ」の意に独語のハルト(halt)が用いられていた。 「○年計画」はロシア語よりの翻訳(p.74)。
軍隊ではズボンを袴、ボタンをコハゼと称した。
1816にシナからの帰りに沖縄に寄った Basil Hall 英海軍大佐は 1843に Loo Choo Naval Mission・海軍伝道会を派した。
Basil H. Chamberlain は沖縄近海を測量しあたとセントヘレナに寄りナポレオンと会っている。
▼『平成17年度学士会館定例講演会』
永江太郎「支那事変(いわゆる日中戦争)の真実を求めて」
※論者はもと防研戦史部。
戦史叢書のなかで、満州事変から昭和16年までの支那大陸の陸軍作戦について書かれているのは『支那事変陸軍作戦』の全3冊。
これに対してカウンターパートの人民解放軍軍事科学院軍事歴史研究部が編纂刊行したのが『中国抗日戦争史』の全3冊。
Sino-Japanese war といえば日清戦争のことになる。外国でも正確にいう場合は Sino-Japanese incident ・日支事変と書く。日本の教科書が「日中戦争」と教えているのはおかしい。互いに宣戦布告していない。だから「いわゆる」なのだ。いまの大陸では「抗日戦争(the war of resistance against Japanese aggression)」が正式呼称。
満州事変の結果として日本は国際連盟からS8年2月27日に脱退した、日支間の関係はこれとは独立で、事変から2カ月後にはタンクー協定が成立している。中共公刊戦史も「国民政府屈辱求和」と書いて認めているのだ。
事実、S10年には両国公使館は大使館に昇格した。
経済交流はそれよりも早く復活していた。S8年7月1日に北平と奉天の直通列車が運行再開。S9-11には郵便協定。S10-1には満支間の郵便業務再開。S10-2-5には電信が開運。S10-9には山海関に国境税関が設けられて、正規の国際交易が始まっている。
つまり満州事変にもかかわらず日支関係は<平時>だった。これがおかしくなるのは中共が苦境に陥ってからのことなのだ。
苦境に陥ったのは、蒋介石が昭和10年までに日本との関係を正常化した結果でもある。だから蒋は共匪討伐に注力できたのだ。
かくしてS9年11月に瑞金の中共本拠が陥落し、11年2月までかかって山西省に落ち延びた。
蒋と日本の関係を悪化させたい中共はS10年1月から5月まで50件以上のテロを引き起こした。天津の日本租界内での複数の暗殺を含む。
S10年7月にモスクワは世界中の共産党を第七回コミンテルン大会に招集した。世界の共産党はドイツと日本を当面の敵とすることが命じられた。中共代表は「8・1宣言」を10月1日のパリで発表した。内容は日本に対する戦争宣言で、詳細は中共の公刊戦史・上巻354~355頁に堂々と掲げてある。誰が戦争の計画者かは明白なのだ。
延安に中共が逃げ落ちたところを蒋介石はトドメをさそうとしたが、さしむけた張学良は消極的であった。蒋介石が督戦のため西安を訪れると、西安事件が起きた。
この事件の結果、昭和12年2月末に国民党の内戦中止と抗日の方針が決定された。
にもかかわらず蒋介石に具体的な動きはなかった。
そこで発生したのが北平駐屯の日本軍への挑発である。
盧溝橋事件の4日後、7月11日夜に支那駐屯軍と第二十九軍の間で停戦協定調印。
この協定も妨害するための中共の小規模テロが頻発した。
ついに中共が動かせる正規軍が出てきて、日本軍を銃撃し始めた。25日、廊坊事件。26日、広安門事件。
これをうけて参本は27日、北平・天津地区に限定した武力平定を許可。ここからが「北支事変」。
7月29日、通州事件。
上海には日本の海軍の陸戦隊が5000人、租界を守備していた。これを5万の国府軍が包囲していた。
戦争を熱望していたのは中共だが、最終的に決意し、上海で戦争を始めたのは蒋介石。まず8月6日に国防会議。※「勝てる」と判断させたのもコミンテルンの息のかかったドイツ人なのだろう。
8月13日午前10時半に、商務印書館付近で日本軍への攻撃開始。夕刻、八字橋付近の日本軍への砲撃開始。
14日、シナ陸軍が虹口の陸戦隊本部と日本租界の防衛線への本格攻撃開始。シナ空軍は停泊中の第三艦隊の帰還『出雲』および陸戦隊本部を爆撃。
15日、蒋介石は総動員を下令して大本営を設置。
17日、日本政府は閣議で、不拡大方針を放棄。
8月23日、邦人救援の第三師団が上海に上陸。しかし敵は優勢で膠着状態に。
9月23日、国民党は共産党と第二次国共合作に調印。
11月5日、第十軍が杭州湾に上陸。
17日、日本も大本営を設置。
蒋の側近・薫顕光の回想録にいわく「蒋介石は、自ら好む戦場を揚子江の線に選び、揚子江の線が破れた場合は奥地深くに抵抗線を築く計画であった」。
戦争では10年前からの周到な準備が必要である。日清、日露ではそれをしていた。支那事変と対米戦争ではそれがなかった。特に外国内の反日感情や反日政策、米国のシナへの梃入れ政策(イコール反日政策)を傍観し続けたのが最も反省されるべきだ。
M38、サンフランシスコ市は日本学童を隔離する命令。
M40、米議会はハワイからの本国移民を禁止。
M41、シアトルでも排日運動。
大8、カリフォルニア州議会は排日協会を設立。
大13、連邦議会は排日移民法を圧倒的多数で可決。
▼大島高精『米国と太平洋』大13
ハワイで1000ft×138ftのドック拡張完成が1919年。
それにつづいて1800および1000ftのドックを計画。
フィリピンのカビテ、オンロガポ、ポロックは大艦向きでないので、マニラに新軍港を建設せんとす。
米海軍参謀部は、距離の不均衡により比島防衛には巨費が必要で、むしろ無防備がよいと健策。
明治は欧化時代、大正は米化時代(p.554)。
▼中村秋秀『米国の太平洋戦備』S7年
シナはTK×3000も買っているが、ガソリンが漏れ発火すると遺棄してしまう(pp.277-8)。
飛行機は50以上あるが、古物。
▼勝守すみ『太田道灌』S41年
幼時、鎌倉五山にて学修。
当時の千代田区は、利根川と荒川の合流路の河口に膚接。
川越←→鎌倉の中間地であることが立地理由。
当時は石垣は少ない。土居をめぐらした。
『太田道灌兵書』は江戸期の偽書。『道灌自記』も江戸楠流の偽書。
鉄砲以前に足軽戦は重視されていた。
▼荒川銜次郎『太田道灌と江戸城』M42
隅田川右岸の川越=江戸を連接して北方に対する防御線を形成せんとした。
海岸でない、内地の城に石壁を用い出すのは、織田の二条城(永禄11)。
▼山口平四郎『海岸の地理』S44年
Oceanといえば太平洋、大西洋、印度洋の三つのみ。
他はメディタレニアンかマージナルか、どちらかのseaである。
太平洋とインド洋の区分は、タスマニア=マッカリー=バレーニー=南極アデーヤ岬の線。
港は風下側に造られる。日本では冬の北西季節風を考慮。よって日本海沿岸は天然の不利。
欧州には勾配の小さいエスチュアリー地形のラッパ状河口が多い。これは干満の良影響を受ける。浚渫が不要であり、大船が遡航できるのだ。
▼橋井真『工作機械と自動車統制』S15年
工作機械統制の初めはS13年3月の工作機械製造事業法。許可事業になった。
池貝鉄工所は日清役中の設立。
M44に快進社がダット号をつくる。ダットサンの起源。
▼原正幹『米国戦時造船』大10
米の職工教育の成果は、本邦一流熟練職工よりも勝る人材を急造。
特に製図と機械の理解は米国職工の方がはるかに勝る。
一人の教員は5~20名を教えた。
米でも戦中に給与が高くなると出勤率が数%落ちる。
Wコーストの方がEコーストより出勤率はるかに高い。その理由は、露天船台の作業は雨天が苦痛なので。
▼ウォルフ・シュナイダー『ウルからユートピアまで』S36年
ローマ都市住民のことを intramuranus 「城郭内の住人」と呼び、ドイツ市民の Burger も同じ意味である。
zitadelle は小堡塁。これが多数置かれる。
北アフリカや南アジアでは迷路式陸地によって防衛する。
ドイツでは家の高さは道路の幅員と等しい。
▼大河内正敏『尾崎行雄氏の反軍思想を匡正す』S10年、海軍有終会pub.
尾崎はM35-12の第17議会で、日露の歳入が2億5千万円 vs 20億円で、競争にならぬと発言。
▼佐藤栄一 ed.『政治と軍事』S53年
ヴァージニア憲法のコンセンサスである文民主義は英にて発展していたもの。海軍に大きく投資したので、本土防衛は地方軍民兵に依拠するしかなかった。
フィッシャー提督は、海軍による陸軍の統合を考えた。
17世紀のロンドン市の市民軍はよく訓練されており、別格に精強。
クロムウェルの手兵を率いての反乱が、常備軍 standing army への警戒感となる。
アダム・スミスだけが常備軍を肯定していた。
対インディアン戦争は、最も初期の全体戦争または絶対戦争。そのころまだヨーロッパは、儀礼戦争の時代。
「襲撃を受けたコミュニティ自体が自衛する以外には、防衛の方法は現実には存在しえなかったのである(p.11)。※ベトナムの戦略村の発想の背景。
独のヴェーラーいわく、クラウゼヴィッツの絶対戦争はマルクス純粋資本主義に匹敵する理念型だと。
※政治の目的は権力であるから、核手段は政治と何等矛盾しない。
ケネディはラ米に戦車を送っている。※たぶん低圧75ミリ砲の軽戦車のこと。
マクナマラの後任者の Laird は、「米ソ関係にはゲームの理論あるいは行動・反応・分析といったものは通用せず、ソ連はより攻撃的であるとみなした。したがって、アメリカは対ソ戦略的優位を確保すべきであるとの立場をとった」。
マクナマラの拒否したB-1、F-15/14、ABMをレアドは復活させた。
警察予備隊設置当初、日本側は内局の意義を認め得なかった。その過程で、シビリアンコントロールとは、内局が部隊の上に立つことだ、との解釈が定着してしまった。
ポータブル神社
神社の便利なところは、「分社」ができることです。これは本社のフルコピーなのですが、ファイルサイズは極小で済みます。
靖国神社を首相公邸内の「ポータブル神棚」に分社しておいたらいかがでしょうか。毎日、居ながらにして参拝ができますね。
「俺は靖国神社なんか嫌いだ」という新首相は、このポータブル神棚をどこかの倉庫に預けてしまう。あるいは無理してその公邸に住まない。
維新政府は「神仏分離」を行政命令で強制しました。その過程で、ある神社は寺とされ、ある寺は神社とされた。日本ではこういうことができる政治的伝統がある。靖国神社も、危機感を持たねばいけません。
「ポータブル神棚」をいまからたくさん準備することです。そして首相だけでなく、いろいろな人に持ってもらうことです。
以下また、摘録とコメント。
▼徳永真一郎『幕末閣僚伝』S57年
天保改革で倹約令を断行した老中首席・水野忠邦が罷免された。発表の夜、江戸の市民数百人が邸の前に押しかけ、石や瓦を投げこんで歓声をあげた。
しかし1844に英船が宮古・八重山諸島を測量したり、外交問題が頻発するので、1845に再起用された。
老中は月に一度は大奥を巡視する。
オランダのウィリアム2世の国書には、天保11~13のアヘン戦争で清国は数千の兵を殺されたと(p.10)。
ペリー来航前、松前海峡を通過する捕鯨船は年間100艘以上あった。※吉田松陰はなぜ関東で密航を試みる必要があったのか。
井伊直弼の開国論は、海軍建設、商船隊建設を是とし、キリスト教の受け入れも認めるというもの。
ロシアは日米戦になったとき日本に味方して恩を売ろうという肚で艦隊をうろつかせていた。
ペリーの9隻の軍艦は、江戸湾を封鎖したのである。※時間が経てば経つほど、江戸市中は飢饉に陥る。
メキシコは米海兵隊によってすでに城下の盟を強いられていた。そのようにして条約を結べば、もっとひどいことになる。
江戸直下型地震で藤田東湖らが死んだ。これ以降、水戸藩主の言動は筋が通らなくなり、ただ横車を押すだけの老人になった。
幕末、すでに牛乳とバターが病人食。
1680に堀田正信はハサミで首を切って自殺した。
貧乏すると、敷居を枕にして寝る。
堀田正睦は西洋銃剣術を藩士に学ばせた。
安政3年にハリスは正睦を威嚇した。清国は16年前、イギリスと戦争を起こし、「百万人の命を失な」ったと(p.41)。
江戸時代の歴代天皇で政治になにかと発言があったのは孝明帝だけ。ただし一事について表裏二つのあいまいさ。
家定は臣下に道理で責められるとただ泣きじゃくるのみで一刻でも二刻でも何の答えもない。死諫もムダだろう。
井伊直弼は部屋住みの頃、新・新心流という居合いの一派を創立した?
国学は現実論で、帰納法的。これに反し儒学は、最初から結論を定めて、それに適するようなデーターをあげる、(似非)演繹法。
室町期に諸侯が勝手に上洛競争したことを見ている家康は、諸侯や家臣が勝手に朝廷と連絡することを厳禁した。
家光が鎖国を決めたときに勅許など得ていない。政治を任されているのだから開国も勅許など必要ないのだ。
水戸・薩摩・長州は天皇の取替えと幕府乗っ取りたくらんでいたので、それを潰したのが安政の大獄。ただし幕府としてはこれほど大きなクーデターの陰謀などを天下に公表はできなかった。
長野主膳は早くから平田篤胤は唐心であって鈴廼舎の後継者ではないと言っていた。
老中間部の要撃計画を自白した以上、幕法からいって松陰の極刑はあたりまえだった。 川路聖謨が23歳で勘定評所留役だったころ、剣術と槍術の道場に入門したが、同僚は「武術のために体を傷つけるようなことがあれば、出世の妨げになるぞ」と注告した。
川路が佐渡奉行のとき稗飯を食ってみたがとても咽喉を通らなかった。
勘定奉行は関八州の訴訟も裁く。
川路が55歳のとき、江戸から木曽福島の本陣まで中仙道を15日で歩いた。1日7里半の計算になる。
この頃の川路の日課。朝は丑の刻=午前2時起床。読書と執筆。空が白むころ、長槍のすごき2000回、大棒の素振り2000回。これは一日も欠かさなかった(p.95)。
ロシアと交渉してエトロフ島を日本領と認めさせたのは川路だった。
徳川斉昭が嘉永6年10月に対露交渉に赴く川路に贈ったうた:「わが国の千島のはてはえそしらぬ さりとて君はよそにとらすな」。
「別して刀剣の楽しみ、大いに節すべきこと」を座右銘の一つにしていた。
老中阿部正弘は37歳で胃癌で死んだ。
川路の59歳・西の丸留守居役のときの日課。夜明け前から乗馬。午前8時に飯。読書。正午に飯。読書。午後4時に飯と酒一合。日暮れるや、重い鎗と軽い槍等、あわせて3500本のスゴキ。ついで、大棒を使うこと1000本、居合い刀(軽と重あり)を300回、さらに棒と居合刀を振り、曲尺をふむこと500、それより木馬に乗る。これで夜10時になる。
体調がおもわしくなくなってからは、鎗刀をつかう代わりに、3貫目の荷物を背負い、1貫目余の太刀をさし、10匁鉄砲を携えて1里余、そこから鉄砲を持たずにまた1里余、そこから荷物も下ろして1里余、庭園を歩行した。
それも医者から禁じられたので、邸内の精米機を踏む仕事をした。
幕府は朝廷に恭順の意を示すため、旗本と御家人はしばらく鳴物停止、月代も剃らないようにしろとの達しが出た。
川路は江戸城明け渡しの日、短刀で浅く腹を切った上をサラシで巻いて、咽喉を短銃で撃って自決した。旗本3000騎のうちこのようなマネをしたのは川路だけ。
ある水戸藩士の申告によれば、斉昭は、クーデター&内戦を起し、米国に応援を求め、代償として琉球、佐渡、壱岐、対馬をアメリカにくれてやるつもりだったと(p.117)。
文久元年の降嫁では浪士の襲撃を警戒して中仙道を選び、各宿場では2里四方を煙止めとて、炊事もさせず、10日前から近所で葬式もさせなかった。※火縄警戒?
1862-12-22、伊藤博文は仲間一人とともに49歳の幕府の国史学者・塙次郎を自宅前に待ち伏せて斬殺し、その首を九段上の黒板塀の忍返しの上にさらした。
廃帝の古例を調べていたというのである(pp.134-5)。
松平春嶽の国事テロ犯人の赦免が暗殺を流行させた。
天狗党の一件では392人を斬罪にした。安政の大獄ですら死刑は8人。
当主が17歳以下だと国替えになるのが当時の幕府の制度。
横浜駅に近い青木橋の前の丘陵にある本覚寺はアメリカ領事館のあったところで、その頃、日本で始めてペンキを塗ったという門が現存する。
尾張は一度も将軍を出していないので幕府に不満あり。
家茂の死因は脚気。
小笠原長行は幕府の主戦論者だったが、意見は容れられず。その息子が、海軍中将・小笠原長生。
無役の小普請組だった勝麟太郎は漢学熟を開いて生計としていた。それを蕃書翻訳所に抜擢したのは、大政奉還の発案者であった大久保一翁。一翁構想とは、朝廷がどうしても攘夷をしたいのなら徳川は遠駿三の旧領だけを支配する昔の一大名に戻ればいいというもの。
安政3年の一翁のうた「ふたつなき三の宝のほかならば変わるもよしや民のためには」。これは三種の神器=国体のこと。
一翁と改名したのは、49歳で断髪してから。
一翁も日記をつけていたが焼却した。※日記には他見を憚るようなことも書くものだから、たいていの役人は晩年に焼却するのである。
▼S.J.Deitchman著『アメリカの限定戦略』S41年、上原和夫 tr.
WWII中の6コDは、5000t/d、補給所は各10日分を貯う。
マレーでの英軍は、「ゲリラをジャングル外に追い出す」を主眼として成功。
ノルマンジーからラインに向かった第三軍の平均速度は24km/dで、最高はその倍に達す。
北アフリカのクルセイダー作戦中は、32km/d ~ 64km/4hの間。
1コDの補給に800台のトラック要る。そのうち、荷物を積んで前線に走っているのが400台(2日分)。空荷で後退中が400台(2日分)。
▼河田嗣郎 ed.『時局と農村(2)』S13年
戦時は肥料工場が火薬工場となり、当然、農業減収が起きる。
肥料はチリ硝石からつくっていた。
1916の英ではイモの価格を抑えすぎ、生産低下した。その反動で値上げしたら1918は出来すぎた。英は小麦の逆ザヤ政策をとる。
英では必要量以下の配給となったことはない。
仏ではヤミ流行。
軍や包囲市民への食糧割り当てをレイショニングという。
英では1917-10から1918-2-25の割当制施行まで、queue(行列)がみられた。
ベルリンでは1916からポロネーズ(舞踏・行列)を生じた。
独でもWWⅠ中、ヤミ横行(pp.72-3)。
1918の仏は農村より370万人動員した。蹂躙された農地は全国の6.31%だが、そこが最も豊饒地だった。
ビスマルク以来の保護政策で、ドイツはWWⅠ初め、自給できると考えられていた。しかしそれは水増し勘定を前提にしていた。
デンマーク、オランダ、スイスの酪農品、ノルウェーの魚は、輸入できた。一時はルーマニアから麦を輸入。
英はノルウェーの鰊を買占め、これを遺棄してドイツに渡らぬようにした(p.157)。
イモ5パーセント混ぜパンが1914末よりドイツで作られた。褐色。1915~17には、米国産のトウモロコシ、大豆、カブまで混入された。
ドイツはイモで豚を飼うシステム。
ドイツの1913の農業人口は1千万人。うち16~50歳男子は340万人。うち200万が徴兵されたのでは農業成り立つわけなし。
そこで Freiherr Theodor von der Goltz は1890’sに工業化のいきすぎに反対。
この頃から、漂泊労働者が国外より大量流入し、農業に従事。
イモ、ダイコンなどの耨耕作物は、労力・農耕蓄・照明を必要とするので戦中に廃れ、穀物に転作することになった。これで総カロリーは減った。
▼堀毛一麿『ペレコープの戦』S9年
スターリングラードはもともとツアリチンといい、スターリン、ウォロシロフが1918末に防衛にあたり、「赤いヴェルダン」といわれた。
ペレコープはクリムの地名である。
レーニンは、「党員はクラウゼヴィッツの兵書を読め」といってブレスト条約。
英国は赤と白の永遠伯仲を望んだ。
レーニンはパン列車を敗戦ドイツに送ろうとするも拒絶さる。日本の大震災のときも慰問品を宣伝文とともに送ろうとして断られる。
東部戦線の独軍は休戦条約と同時にモラル崩壊した。
マンネンハイムはコルチャックに、独立承認とひきかえに10万援兵を申し出るも、尊大な拒絶に会う。
ロシアの赤白内戦で飛行機は殆んど用いられなかった。
▼吉田庚『軍馬の想い出』S54年
東北から牝馬中心に徴用した。
台湾Dを上海に投入した。
重傷馬は薬殺。
脚貫通、首盲貫でも馬は使える(p.46)。
縦隊では前馬の尾に鼻をつけていこうとする。
軍馬が斃死しても食べない。それが兵隊のプライド。総動員の10%以上が特務兵(輸卒)だった。
家族は出征者には心配事をいっさい伝えないのが習慣だった。
▼マキシム・ホーソーン『戦車旅団全滅』S16年、富田邦彦 tr.
筆者はウランバードルでT-37アンフィビアスで訓練受く。
芽イモを食って下痢になり前線をのがれる方法がある。
「肉弾戦は野暮な過去の戦いであって、廿世紀の戦斗法ではないと聞かされていた」(p.17)。
日本軍と違いロシア側には十分な拳銃があった。
水陸用T-38が並んでいた。
独立TK旅団は各10両の11コ中隊から成る。
筆者は「最新式」のS型軽戦車を指揮。
この中隊は、火炎放射戦車×1、ATG×3を配属された。
杉の葉をいぶして蚊よけとす。
モスクワTK学校から送られてきた鉄条線は軽戦車を捕獲できるという話。3本で中戦車も。
TK車内は騒音のため、クルーは手まねで話す。
TK同士はKey無線でしたらしい。しかも走行中。
1Coは3小隊。
スターリン誕生日に前線で特別食出る。
帝政下のロシア上級将校には命令軽視の風あり、上級指揮官同志の抗争で負けることもあったのでスターリンはこれを厳正に。
ソ連ATGも実戦場では100m以上では有効ではなかった。
親子戦車(p.232)?
通信系。偵察機←→Bn長車←→Co長車←→Pt長車(ここまで無線)←→各車(手旗)。
天蓋は、中からおさえていないと、外から開けられてしまう。
パーカー両頭戦車(p.256)。
▼M.マクルーハン『メディア論』原1964、訳1987
※著者は1980死。
ルイス・マンフォードは『歴史のなかの都市』で城壁都市を皮膚の拡張とした。
歴史家のマコーレーいわく「それについて読むとわくわくするような時代に生きるのは楽しくない」。
子供が一日のできごとをおしゃべりしたがるのは、再認識こそが生きるあかしだから。 電話が赤線地帯を廃止し、コールガールを生み出した。
都市はそれ自体軍事兵器で装甲板である。
▼海野芳郎『国際連盟と日本』S47年
英は多くの自治領の数だけの投票権を握った。
従来、オランダ植民地は多量のアヘンを産した。
日本の対支密輸が最も巨額。モルヒネを含んだ。
台湾でもコカを栽培した。数千エーカー。
1920頃の公娼制度下では、内地18、朝鮮17、台湾16から雇ってよく、23歳まで需要のピークであった。
条約は就業最低を21にしようとした。
内地公娼(私娼は除かれる)を調べたら5万人で、うち8000は文盲だった。
1921に条約批准。21歳以下の(?)完全禁止は1927より。ただしザルだった。
シナの技術顧問となったドイツ人「ライヒマンは実に日本側にとっては連盟保健部長の職務を逸脱して頗る排日的活動を行った不穏分子であったのである」(p.168)。
▼大場脩『江戸時代の日中秘話』1980
台湾に逃げた鄭成功は1648から60年間、5度にわたって日本に反清援助を求めた。
鄭が唐王であったことから、江戸人はシナ人を唐人と呼ぶようになった。
吉宗は1720からシナの書籍を長崎に発注。
江戸時代前半までは書籍の舶載はほとんどなし。
シナでは銅の生産がなかった(p.37)。?
日本が輸入した生糸は鎧のおどし糸など、ほとんど軍需。
▼小野武夫『日本兵農史論』S13年
初期の鉄剣が直刀なのは、刺突を主としていたから。
槍の初出は、倭健の東征にある「比比羅木之八尋矛」(古事記)
火箭の初見は、欽明15年の新羅征伐に於いて。
反り刀は馬上戦闘多くなるにつれ。
山縣はM4に欧州をみてまわり、プロシヤが仏に勝ったのは予備兵が多かったからだとし、国民皆兵を12月に建議。
柳田国男によると峠の俗称を味兵・あいひょう、とも言った。
摘録とコメント
▼本間順治『日本刀』S14年
素戔鳴尊の剣、一名、蛇韓鋤・おろちのからさび。
万葉。太刀ならば呉の真鋤/摩差比[まさび]
当時、シナ大陸でも呉のみ鉄剣を産し、他は主として銅剣だったので。
截断に際して刀自体の重い目方を、青龍刀は必要とし、日本刀は必要としない。
東大寺献物帳に現存せぬ唐太刀あり、「偃尾」と註してあるので、鋒が反った湾刀がもうあったと思われる。
玉葉には、平清盛が宋に日本刀を贈ったとあり。
鎌倉末期の刀剣書中に、大和の國正なる刀工の作を述べて、「一とせ異国のもの〔=蒙古の捕虜〕の首を斬りけるに百人ばかりも斬るにこたへけり」とある(p.10)。
洋鋼延べ鋼に焼入れし偽銘を加えて出征勇士に売る商人あり。
明治以後、古来の日本刀をば文字通りの無用の長物扱ひとなし、外装の金具のみが僅かに珍重せられ、甚だしきは外装中の金のみが地金として用ひられるが如き態で、刀身のごときは二束三文の有様となり、……。
事実先般の蘇満国境の戦に栗原中尉が軍刀を以て敵の機関銃身を切放した。※謙信の「鉄砲切助真」からの作り話か。
国宝保存の最初の法は、明治21年に臨時全国宝物取調局(宮内省)が始め、明治30年の「古社保存法」(内務省)に結実。宝物は国宝に。建築は特別保護建造物に指定さる。
M42に初めて日本刀が国宝に指定された。
大2に内務省宗務局が文部省に。
S4年3月、「国宝保存法」制定。建物も国宝に。
村田刀は日本刀づくりではなく機械造り。満鉄刀、「金研刀」もまた然り。
幕府のタメシ斬りは、山野加右衛門、山田浅右衛門、等。
「二ツ胴截断」「三ツ胴切落」等と金象嵌を入れた。罪人や死体を切ることを大身武士の刀のケガレと考えていない事実が重要だと。
近年、偕行社と軍人会館が、それぞれ別々に軍刀の斡旋に努めている。昨年(S13?)から水交社を加えて全国の刀工動員体制を内務省の協力を得てつくった。
▼ジョン・マクマリー著、アーサー・ウォルドロン編、衣川宏 tr.『平和はいかに失われたか』1997
1935のマクマリーの未公刊メモランダムにウォルドロンが解説をつけて1992に出版し、それが邦訳された。
オリジナルの1935文書は国務省内で回覧されていた。グルーやケナンが愛読。1992にそれが初めて公刊物になった。
職業外交官のマクマリーは東洋語はできない。国際法の専門家で、ワシントン会議の米国主要メンバー。FDRは友人のひとり。
アメリカ人の布教活動はシナでは成功したが日本ではそうではなかった。
ワシントン体制は、貿易や政治上の小さな利益の追求の中に、崩壊していった。
1920sはシナのナショナリズムの時代と回顧されるが、1935当時には「ナショナリズム」と「革命」は一般名詞ではなく、マクマリー文書にほとんど出てこない。
ハル長官は、スチムソン長官の路線をただ踏襲した。軍事力こそ行使しないが、日本を違法な侵略者ときめつけ、日本に反対する世界の輿論を結集しようとした。
ケナンは朝鮮戦争中の1951春にシカゴで有名な講演をしたが、そのときケナンはマクマリー文書を読んでおり、それを引用した。マクマリーは、日本が徹底的に敗北した場合、その真空はソ連が埋めると予言している。これは当たった。
マクマリーは1925に北京公使に任命された。クーリッジ大統領。
身長176センチで54キロしかなかった。
21ヶ条要求のいくつかを袁世凱が撤回させた。日本人は怒って反袁運動に手を貸し出した。1916に孫文への支援開始。袁は皇帝になろうとして墓穴を掘る。
この時点で南支に本拠を有する国民党がシナを統一するなどとは誰も思っていなかった。北京を支配している袁らの勢力(1916の袁の死後、段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂)が清朝をそのまま継ぐと世界は見ていた。
広東人の孫文は外国で人生の半分を過ごし、シナには基盤がない。自分の権力を増やしてくれる外国なら、どことでも組む用意があった。あるときはドイツ、あるときは日本。
けっきょくソ連の援助が国民党を強大にした。※ベトナムに援助して中共を挟撃したのと同じノリ。
孫はコミンテルンを味方にすると、米国や日本から新たな支援を獲得する努力をしなくなり、反帝国主義と、不平等条約廃棄を基本教義とした(p.107)。
1925の英国を狙い撃ちにしたシナ暴動はコミンテルンから国民党に派遣されていた顧問の助言による。ついで日本、ついで米国がターゲットにされた(p.108)。
英人フランク・サットンは張作霖に迫撃砲の製法を教えた(p.25)。
ウォルドロンによるとマクマリーはウィルソン流。
ウィルソンにとっての国際連盟が、マクマリーにとってはワシントン条約体制であった。
シナで近代国際法を最初にマスターしたのは、ワシントン会議に送り込まれた駐英公使の顧維均。彼は「事情変更の原則」を前面に出した。
WWⅠ後のドイツ人、また革命後のロシア人は、シナでの治外法権を奪われた。
クーリッジ政権の国務長官、フランク・ケロッグは、米世論に神経過敏で、東アジアの専門知識がなかった。
こいつが1925-5のシナ人の暴動デモに狼狽し、ワシントン条約のフレームを壊し始めた。条約改正交渉によらない、一国単独の、一方的特権返上。
これに反対するマクマリーを在支の宣教師団が批判し、マスコミに叩かせた。
この暴動はコミンテルンの使嗾によるとマクマリーは見抜いている(p.73)。
けっきょく英国は1926のクリスマスメッセージで対支宥和路線へ。
1927-1に英の漢口、九江の租界は実力接収。揚子江に大型砲艦が遡航できない時期を狙って、国民党左派が蒋介石を困らせるために兵隊を突入させた。
1927に米国はシナでの治外法権を一方的に放棄せよという決議案が下院に提出された。背後には駐米シナ公使と、国際伝道教会事務局長のウェーンシェイスが…。
米国民のためよりもシナ人のために責任をとろうと考えるセンチメンタリストの要求には反対すべきだと、マクマリー。
ケロッグの後任のスチムソン(フーバー政権)はケロッグ以上に国民党に宥和的。国民党はマクマリー公使の頭越しにワシントンと交渉するようになる。マクマリーは1929-10に公使を辞任した。
プリンストンの学長にならないかと誘われたが、断る。外交官キャリア(たとえば初代の駐ソ大使)にまだ野心があった。
※米人はなぜ公職に興味があるか。誰も知らない秘密にアクセスできるから。
リガはソ連未承認時代のアメリカのロシア情報の収集拠点。ケナンもいた。
スチムソンは不承認主義の元祖。満州国は日本の国際条約違反であり承認しない。
対日冷却関係だけが次期FDR政権に引き継がれた。
FDRは海軍を拡張し、1933にソ連を承認した。これはどちらも対日政策。
だが同時にハル国務長官は、日本の行動を9カ国条約に訴えて日米関係をさらに敵対的にもっていくことは控えた。
9カ国条約には、シナの主権、独立ならびに領土的および行政的保全を尊重する、とある。
1933のソ連政府も多くの国際法を廃棄または改変したがっていた。
1926の米国国務省は、シナによる条約の一方的否認を支持する教会団体の圧力に影響されているとマクマリーは見た(p.52)。
1926にシナはベルギーとの条約を一方的に廃棄した。これが世界から許されてはシナが他の国にした約束も簡単に踏みにじられることになる。またドイツがシナの真似をするかもしれなくなる。そこでマクマリーはベルギーの味方をせねばならないと思ったが、ケロッグ長官はシナ支持声明を出してしまった。
ベルギーは国際常設法廷に提訴したが、シナは訴訟手続きを軽蔑して応じなかった。これは新しい先例となった。
田中義一政権当時の1928にシナは対日条約を一方的に廃棄した(1896および1903の日清条約)。このときもワシントンはシナ支持。
1927、米政府は日本に一言も相談せずに新しい米支関税協定を結んだ。日本は、多国間協調外交に見切りをつけた。
1937にFDRはマクマリーをシナ大使にしようとしたが、当時トルコ大使だったマクマリーはそれを断った。
1920s後半のシナの南北角逐では「双方いずれの側も、民族的な熱意で他方をしのごうと努めた。その結果は一方の側が満足できる立場もしくは思い切った立場をとると、他方がそれ以上の対策を講じなければならないので、いつまでも問題の解決に達しない始末であった。もちろん中国人プレイヤーにとってゲームで大事なのは、双方が解決に至ることではなく、むしろこの競争を利用して政治権力を握ることであった」(p.67)。
北方派が条約否認派ならば、南方派も負けてはいられない。
諸条約の一方的破棄について国民党のスポークスマンは、北方軍閥を崩壊させた1925後、国内では人気の高い非妥協的な態度をとった(p.69)。
1982の細谷論文は、幣原外交は国際協調を旨とするワシントン体制の維持を強調してきたと書いている。※事実は、1927の英国の苦境を傍観し、出兵せず、体制を崩壊させた。ワシントン条約でシナの秩序維持を任された日本なのに、国際協調のために期待された責任は懈怠した。
カーゾン卿は、支配と独立の間には中間的な方法があると。
1934に米議会は10年後のフィリピン独立を決議した。
1923に孫文が広東の海関を接収すると脅しをかけた。米英は共同で軍艦を広東に派遣したが、最大受益国である英国の努力は最小だった。英国はいつもそうなのだ。
共同租界の警官は英国籍だった。
シナ北方人は感情は鈍重。シナ南方人は感情は変動しやすい。
原総理が暗殺されると政党の力が弱くなり、しばらく軍人内閣の時代になった。これらの政権は選挙での基盤が弱いためにアジアでの国防問題ではまったく譲歩ができなくなった。
米国内のシナ愛はまずクリスチャンジェネラルの馮玉祥に。馮がソ連に走ったので、こんどは国民党が支持対象に。1927-3の国民党兵による南京列強領事館汚辱事件で評判がぐらついた蒋介石は、自身がキリスト教に改宗すると公言して米国人の支持をつなぎとめた(p.123)。
愚かな米新聞は蒋をジョージ・ワシントンになぞらえた。
さしもの米人宣教師も1927末にはシナ奥地にはいたたまれなくなる。
1926の国民党の広東から揚子江への進軍には、政治宣伝部員が先行して大成功。コミンテルンが派遣したロシア/ドイツ人顧問がアドバイスしていた。
脚注。田中メモランダムは、1929-10-23~11-9の京都~奈良の太平洋問題研究会で初めてシナ側によって持ち出された。
1929-12に南京の雑誌「時事月報」にシナ文と英文が発表された。在南京の重光代理公使はただちに厳重抗議した。中日倶楽部が訳した日本語版は1930-6に内地で出た。
この英語版が満州事変のさなかに上海の新聞で再掲載されて有名に。
宇垣は戦後、この文書は民政党がでっちあげ、シナ人に売ったのだろうと。
1927-6に参本の鈴木貞一が満洲の分離について森格らと議論し、斉藤博駐米大使がそれを無難なペーパーに修正したことはある。これが民政党員に知られたのだろう。
米英は1943-1にようやくシナでの治外法権を正式に放棄した。
マクマリーが理解できないのは、なぜ日本人が張作霖を爆殺したか。アホ息子の学良と、作霖のとき以上の関係が結べるわけがなかったのに。
※考えられる可能性。満洲の軍事力を一貫して弱めることに利益を見出すモスクワは、日本の若手の軍人に接触し、作霖を殺したら、ソ連から蒋介石への軍事支援を止める、等と、利益を示唆して誘導した。名声欲にとりつかれた一部若手軍人がこれに騙された。
マクマリーが1935で予言できることは、日本はシナ領土を際限なく侵略しつづけ、満州国式の支配を拡げていくだろう(p.185)。
「アメリカは、太平洋には真珠湾以遠に適切な基地を持たないので、地理的な条件からこの海域では、戦略、戦術、兵站すべての面で日本が優位に立つ」「ワシントンおよびロンドン海軍軍縮条約は、日米がお互いに、太平洋の広大な海域を渡洋作戦できないような比率を合意している」(p.187)。
「中国貿易には対日戦争を賭けるほどの価値はない。実際問題としても近代において、対中貿易が対日貿易ほど利益をあげたことは一度もなかった」(p.192)。
シナ市場は、日本の全輸出の1/4をしめている(p.199)。
「日本人は、表面的には感情を表さないように見えるが、実は深い憤りをひそかに育て、不意に逆上して手のつけられなくなるような国民なのだ」「こんな国民は恐らく世界に例がないと思われる」(p.200)。
米国は、北京公使館の警備隊、義和団議定書にもとづく天津の歩兵連隊、相当数の上海における海兵隊(最近は天津にも)を展開している(p.201)。
いちど不承認と宣言した満州国を米国が承認することは日本人にみくびられ、ばかにされて増長させるだけである。
訳者いわく、来日した孫文や蒋介石の「大アジア主義」は日本の意図とはしょせん同床異夢。
※「諸列強」なる訳語はおかしい。powersの訳が「列強」である。すでに複数概念である。
※シナ政府にとっては列強から「無視されないこと」がこの上なく大事で、核武装もそれが目的であった。戦って勝つためではない。