▼『鉄の博物誌』
隕鉄には4~40%のNiが含まれ、砂鉄にはチタンが含まれる。
※隕石でつくった「あめのぬぼこ」は錆びなかった?
▼田中重久『日本に遺る印度系文物の研究』S18年
悉曇文字(Siddham Letters)を日本にもってきたのは空海。横書き本位なのだが、藤原時代末期に崩れて縦書きに。
須彌山(sumeru)=妙高、善高
「塔」は塔婆の下の婆を日本人が省略したもの。
もともとパーリ語thupa(これが英語towerに変わる)、またはサンスクリット語stupaが漢訳されたのが「塔婆」。
▼長谷川熊彦『わが国古代製鉄と日本刀』S52年
安田徳太郎によると、「タタラ」は印度語「タータラ(猛火)」から。「ズク」も印度語からだと。
韃靼語でも猛火のことをタタトルという。
戦国時代、農具の65%は鉄製、のこりは石器だった?
漢代に焼き入れ加工法が開発された。
硫化鉄鉱は日本に大量に賦存するが製鉄の目的には開発されていない。
最も大量にあるのが砂鉄。少量のものは赤鉄鉱。
全国いたるところに火成岩があるから、全国いたるところに砂鉄が出るわけ。赤城山では軽石中に砂鉄が含まれている。
鹿島地方は利根川砂鉄で古代から製鉄していた。
3世紀半頃、文武天皇は東辺と北辺に鍛冶を置くことを禁ず。
大宝令でも砂鉄採取を許可制とし、東北の製剣を制限した。
明治から大正まで、陸軍工廠で坩堝製鉄の原料として和鋼(慶長以後、高熱化したタタラでつくられた鉧・ケラ。それを餞別したのが玉刃金)を採用、海軍工廠でもM30頃まで酸性平炉に和錬鉄を用いた。
包丁鉄は軟錬鉄。地金が包丁の形だった。
蕨手刀の刀身は腕力で曲げることができる。
大化改新で8省が置かれ、そのひとつの兵部省の下に造兵司がおかれ、国の武器製作を一手に引き受けた。
701に造兵司の制度があらたまり、商売するようになり、銘も入れられるように。
大宝年間に刀匠が地方に分散。豪族の直接註文をうけるようになって日本刀ができてゆく。
蒙古は長大な青龍刀を使用し、それが南北朝の大ダンビラになった?
▼イワノフ&スミルノフ『英米建艦競争』訳S9年
1597、エリザベス女王はポーランド使節に、中立商船貨物拿捕の合法性を主張。WWⅠでアスキス首相は、「この際どんな経済的圧迫も正義」と封鎖の非合法性を棄却。
ドイツ外交の失敗のために、イギリスはアメリカの利益を損する海戦策続行の責任を容易にドイツに課すことができた。
ドイツ封鎖に使われた機雷の82%はアメリカ製。
英ではWWⅠ後、「国内艦隊」が艦列から取り除かれる。
WWⅠでドイツは376隻のサブを参加させ、うち201隻が沈められた。しかもSUBによって撃沈された軍艦はあまり多くなかった。
シーレーン防衛や軍隊輸送阻止にもSUBは向かない。唯一役立つのはエスコートされない商船攻撃のみ。
英人ルドウエルは1920sに『我々は石油のために斗う』を著作。
英提督ハーバート・リッチモンドは、将来の艦の最大限を1万トン以下とすることを提案。米は反対。
ロンドン会議頃のサブの寿命は13年。トンあたり建造費は戦艦の3倍。
著者いわく「将来においては艦隊を編成するあらゆる種類の艦船が恐らく潜水能力を持つであろう」
ハーバート・ラッセル「我々がアメリカの要求に同意しない場合にアメリカが行わんとするものを極めて明瞭に暗示することによってその要求を表明しようとするやり方は、イギリス国民の脳裡に少しも好い印象を与えなかった」
著者は航空機や水雷の優位を否定し、戦艦による「海面占領」は可能だとの立場。
ロンドン会議当時ホノルルのドックは一度に1隻しか修理し得ず。
地中海の平均視程は8哩。
▼レーモン・ルクーリー『フォッシュの回想』洪泰夫 tr.S6年、東京水交社pub.
筆者は日露戦争でロシア側の連絡将校。
WWⅠにはポルトガルも参戦している。
Notus in fini velocior 運動は終わりほど加速する。戦争は末期がめまぐるしい。
遊動部隊は敵予備隊の破壊というような最終段階に近づくほど増速する。
フォッシュはルデンドルフの回想録を評して……決定的勝利は1回の攻撃成功で獲得できるものではないのにドイツ参本は第一幕のシナリオしか立案していなかった、と。
Un Armee battue est une armee qui se croit battue! 敗軍とは自ら敗けたと想った側。
ナポレオンの格言。 La guerre, un art simple et tout d’execution. 戦争は簡単、そして、すべて実行よりなる。
フォッシュの兵学も深遠でなく単純。これ、褒め言葉。
エルバ以降のナポレオンは勝てないことがわかっているが戦争せずにいられない気持ちの山師、とフォッシュは見る。
ヨーロッパ人がアメリカ人を説得する唯一の方法は、「毫も彼等を説得しようとする風を見せない事である」。
オランダ人は、スペイン~オーストリー領のフランドルに要塞を維持し、以て1715~1781の間、平和を達成した。だからフランスもラインの独領を手放すべきでなかった。
フォッシュはゴルツ著『ガンベッタと共和国軍』を読んだ。
プラハからブダペストを通って東部カルパシアに通ずる地方は戦時においてその防禦が困難。
▼伊東光晴監修、エコノミスト編『戦後産業史への証言 一』S52年
明治20年に所得税が創設されたとき、法人は非課税。株主が配当をうけたとき、その所得に課税。
富裕税はうまくいかない。宝石、現金は捕捉できない。
アメには給与所得控除がなかった。これをモス~マーカットに認めさせた。
シャウプが外圧かけてくれなかったら戦前の所得税取り過ぎは是正できなかった。
大正12年まで定期預金の利子は非課税。これで明治の資本蓄積ができた。
大正2年の重要物産免税制度。金銀鉄の採掘の所得を免税する。
これを昭和6年以降、飛行機製造などにも拡大。
これが敗戦ですべてなくなり、代わりに主税局長が特別償却を考案。投資奨励。インセンティヴ。弱きパイオニアを助ける。
講和発効は27年からだが課税自主権は実質26年に取り戻していた。
政治家はやはり自分が大きな減税をやりたい。だから総理になる前は反対で、総理になると急に乗り出す。
ラジオの物品税は、真空管を用いざるものは除く、としていたので、ソニーが延びた。当時トランジスタは真空管より5割コスト高だったので、量産数が真空管に並ぶ前に課税していたら今のソニーはなかった(p.38)。※なんとも役人は恩着せがましい。一般消費税にしていたって、ソニーは伸びただろう。
昭和27年に12インチの白黒テレビは18万円した。大蔵官僚の月給が3万円のとき。
揮発油税は昭和18年に専売になって廃止。それが24年に復活。
29年に角栄がこれを目的税にして道路にだけ使うこととさせた。これが時限立法でないところが異常。アメではガソリン税の2/3は一般財源に入れている。
この石油の目的税化のアイディアそのものは鮎川義介が戦犯刑期を終えてから力説した。日本の道路は悪すぎ、これが経済効率を悪くし、拡大を阻むと。このときプレゼン受けた代議士たちは「みんなでやったんじゃ票にならねえ」。田中だけがこのアイディアを覚えていた。
S31年時点で米国調査団いわく、日本の道路は先進国一悪い。国道舗装率が1割。
軽油取引税を府県の地方税にしたのは失敗。バスとトラックしか使わないので軽油を上げるとバス運賃に連動するから上げられない。国鉄はこれでダメになった。
また、卸売り課税なので徴税も困難。国税化して元売りで捕捉するべきである。
田中の2兆円減税で日本の所得課税最低限は世界一になった。
このくらいの巨大減税をやると、それをきっかけとして、税体系のオーバーホールができるので、主税局は嬉しい。
社会保障を本格化させるには所得が完全に把握されておらねば不公平になる。国民総背番号制が必要なゆえん。
ところが郵貯の非課税枠を通帳を複数作って悪用している国民が多すぎ、総背番号制を導入できない。
保険会社は経済専門家でもよくわからない。
通産省のエコノミストの先駆は林信太郎だ。
戦前、国産ミシンのメーカーは蛇の目(東京)、三菱(和歌山工場で、大阪市場)、ブラザー(名古屋)。後の2社のは軍需工場用。シェアはほとんどシンガーの輸入品。
国産ミシンは昭和23年から輸出はじまる。シンガーは軍需転換しており、それを民需に戻そうとしていたときに朝鮮戦争が起き、WWII後に抑制が解かれて爆発した米国内需要と世界需要に即座に対応できなかった。そこにユダヤ人が気がついて日本のミシンを入れた(p.66)。
大阪のミシン生産は、かつての砲兵工廠の下請けの町工場。かつてのシンガーのセールスマンや修理工が長屋の土間で、精度の悪い汎用機を使って始めた。
昭和12年で工作機械の輸入は止まり、100分の1ミリ、または1000分の5ミリの精度を熟練工に頼っていた。昭和30年まで工作機械は自動ではなく手動。
ただし30年以前はジグザグミシンではないのでそこは楽。
この工場で1000台単位の輸出オーダーに応えるのは、契約キャンセル時のリスクが大きすぎる。そこでブランド力のある大手がアッセンブルメーカーとなり、パーツを無数の長屋工場に外注して、ホリゾンタルにリスクを分散した。
役所は戦中の生産第一主義で、このようなアッセンブラーの役割を評価できない。
60~66万台の汎用工作機械とそれを動かしていた熟練工の失業者が、敗戦時に国内にあった。それをミシンが糾合した格好。
これら工作機械の単能化は29年から。
工場のメインのモーターからベルトで動力を分けるのではなく、それぞれの工作機械に1個づつ電気モーターが附属するようになるのが昭和30年以降。
機械が汎用でなくなると、たとえばミシン部品から自転車部品への転換などはきかない。そのかわりに効率がよくなり、賃金も上がる。
外国の優秀な工作機械を買った者には半額、国が補助することに。さらに、通産省が指定した高級マザーマシンを試作したら、その費用の半分~75%も補助。
多軸ボールはミシン部品づくりで初めて採用され、それが自動車のエンジンブロック造りに発展した。
艦砲メーカーだった日本製鋼の宇都宮工場もミシンに乗り出したが、大阪のような分業でないのでコスト高。
関東の東京重機、富士精機(旧中島飛行機)などは、アセンブラーはブローカーだと馬鹿にして、註文を全部大阪にとられた。
トヨタ系のアイシンはすばやく大阪方式を真似た。
シンガーの部品を調査すると、熱処理管理が素晴らしい。中はやわらかく、表面は堅い。その層が均等である。だから摩擦も回転も均等。日本のは不均等だった。
31年にスイスの時計工場を視察したらまさに大阪のミシン方式の社会的分業であった。
次にカメラでも社会分業をさせた。シャッター、ボディ、レンズを分けてしまう。
フォーカルプレーンだとボディと分離できないが、レンズシャッターは分離できる。そのプロンプタータイプは板橋の長屋工場のコパルにやらせた。コンパータイプは服部時計店に任す。
コニカ、ミノルタ、マミヤはシャッターの自家生産をやめた。
この結果、カメラの精度はよくなり、しかも安くなり、メーカーはデザインを簡単に変更して急速に量産もできるようになった。27年に国産シャッターは4800円した。それが35年には800円に値下がり。しかも性能は高い。
もともとレンズの仕上げ用の測定機械は戦中に潜水艦でドイツから取り寄せた。海軍御用の日本光学と陸軍御用の東京光学はすでに戦中に高いレベルのレンズメーカーになっていた。あとはシャッターだけだった。
朝鮮戦争ではライフの記者がニコンの1.4レンズをライカにつけて高い評価を得た。
シャッターが弱点だったが社会分業で克服されたのでメーカーのエントリーがやさしくなった。
日本の時計産業は系列支配で社会分業をしない。パーツメーカーは従属的である。しかしシャッターのように社会分業をすれば下請けはどこに部品を売っても良い。立場が強くなる。
またスケールメリットで輸出の価格競争力もつくのである。
昭和30年代の後半は、ECの日本ミシンに対する300%従量関税(禁止関税)をどう阻止するかの戦いだった。ECとは関税同盟に他ならない。
そこで現地の新聞キャンペーンをやった。
一流紙である『フランクフルターアルゲマイネ』にしても『ルモンド』にしても、欧州の新聞は「記事広告」の営業が堂々とある。
これは、たとえばジェトロが、日本のミシンのためになる記事を書いてくれるように編集部に堂々と頼めるのである。するとその記事は、単発でなく、短い別々なものが、1ヵ月に何度か、載る。その記事面積を月ごとにトータルして、記事広告料は出来高として後から算定される。1ページ広告を打てば200万円だから、それを基準に算定する。その額をあとでジェトロは当該新聞社に払うわけだ。これは広告会社を噛ませる必要は全く無い。※欧州紙に載る反日親支記事はこういう背景でしょう。
意見広告の場合は、向うの「電通」のようなところに頼めば、万事やってくれる。しかも、現地での「味方」を結集してくれる。
ミシン関税を阻止するために日本に招待するならどの政党の誰が良いのか。こういう情報は現地の広告代理店はもっているが、日本の大使館と役所はまったく把握していなかった。
外国の要人らも「招待は夫人なしにしてくれ」という。どこの国も同じ。ゲイシャと遊びたい。
フィンランドではセールスマンは小型飛行機を自分で操縦して移動する。
OEM輸出はリスキー。最初は良いが、しばらくするとわざと数ヵ月、輸入信用状を送って来ず、日本国内に滞貨させておいて、そこへバイヤーがやってきて、値切り交渉を始める。従わざるをえぬ。
ライカのM3は落としても壊れない。こことミノルタが提携した。またツァイスとヤシカが提携した。以前には考えられない。
ドイツはWWⅠ後に外国から経済機構をいじられた経験があるので、WWII後のアメリカの理想主義的独禁政策は半公然にサボタージュした。カルテル庁をつくるにはつくったが、それをわざと西ベルリンに置いた。国民が自由に行き来できない場所である。
西ドイツで過剰投資が起きないのは、労働者が経営に口を出す「常任監査役会」があるから。
日本では銀行が護送船団式のため、一社がある設備をつくると、フル稼働のメリットがないうちに他行系列の他社もまねして同じ設備をつくらされ、互いに操業率がガクンと落ちる。西ドイツでは都市銀行の頭取が数社の「監査役」を兼ねて毎日国内を飛びまわっているから、重複投資計画を発見すれば、バカなマネはやめろと止めさせる。その権限は各社の社長より強い。
フランスではエコールポリテクニクを出た人間は人種が違うので、面会する前にエコポリ卒であるかどうかは調べておく必要がある。
労働集約が強みの日本は、一品手作りのプラント輸出で先進諸国と競争できるのではないかと甘く考えたら、ノウハウがなさすぎて成果揮わず。
豊崎稔は戦前から日本の工作機械の段階につき研究し、現状ではとてもアメリカと戦争できないと考えていた。
伊東「戦争中、擲弾筒というのが、工作機械が悪いために爆発して、私たちの仲間が死んだ事故がずいぶんあった。そのくらい日本の工作機械はひどいものだった」(p.106)。※真相はそうではないことは兵頭既著参照。
芝浦工作機械が直径5mの歯切機をつくり、ソ連に輸出した。
大型容量の発電タービンについて電力会社は通産省の国産愛用指導に反発した。高温高圧下でのブレードの耐久力がぜんぜん違った。
昭和24年のポンド危機のとき、ポンドスペンディングポリシー(ポンドが支払い手段になりそうな輸入はなんでもやれ)。
そのとき本田宗一郎が17億くらいヨーロッパから工作機械を買いたいと申請を出した。
日銀にはその意義がわからなかったので通産省は口添えして輸入させた。これで本田は伸びた。※とまことに恩着せがましいことをしゃあしゃあと言うのであります。
アメリカからの資本の自由化要求に日本は応ずるべきか。通産省が35人くらいの職員に半年かけて欧州の米企業の悪行を調査させ、結論として、NO。
商品の自由化(貿易の自由化)と、資本の自由化は違う。後者は、日本のレイバーを外人経営体が利用できることを意味する。見えない支配をされ、どんなに稼いでもアガリは全部国外へ吸い出される。
アメリカは資本が強い(自社留保は巨大で、間接資本=銀行借金にも頼っておらず、ケンカの体力がある)。その強みだけを自由化せよと他国にいう。日本はレイバーが強いが、米国に自由に移民できるわけではない。それでは不平等条約だと。
戦後米国留学組の近経の学者たちは、この問題ではまったく脳内お花畑であった。新日鉄のときもそう。
貿易自由化は、コストカット努力でなんとかサバイブできる。資本自由化は、日本職人の努力=外人投資家の儲け、になる。
石橋湛山は、ものつくりインダストリーが大事で、ファイナンスはそれに奉仕せよという信条。池田はOECDを先進国サロンと考えて自由化に熱中。
とにかく時間をかせいでメーカーに最新設備を充実させた。技術面で日本が優勢になると、アメは屈服させるのをあきらめる。装備がいい相手には狙いをかけない。
佐橋滋の師匠は河合栄治郎。河合は農商務省出身。河合いわく、昭和10年でもっとも理想的な職業は官吏だと。じぶんの良心にそむかずに、やりたいことがやれると。
昭和12年の河合門下は、日本は将来、社会主義になる可能性があると考えていた。つまり金融(大蔵省)の将来は怪しい。そこで佐橋は、何主義になっても必要なはずの、生産・配給・消費をつかさどる商工省を選んだ。
入省の年に支那事変。高等文官を受かった官僚のタマゴは兵隊にとらないという不文律がそれまであったのだが、甲種合格で13年1月入営。師団付き見習い士官として漢口へ。間一髪の16年10月に、中支那の主計将校全員が召集解除になったので役所に戻れた。
衣料キップ制を担当して、統制経済の絵空事であることを痛感。
まず原料ストックの総資材から数年分の国民ひとりあたりの用布量がnnメートルと算出される。そこから逆算してネクタイ1点、靴下1点、背広10点などとする。
ところが必ず想定外の「特配」需要が判明する。相撲取りのフンドシ。これは練習用の他に本番用の絹マワシがある。絵描きは日本画は絵絹、洋画はキャンバスが要る。キリがない。
佐橋は18年10月から鉄の担当になり、すぐに、翌19年初頭には鉄製造力がゼロになって継戦不能となると弾きだした。
鉄鋼とは輸送業である。鉄鉱石も石炭も日本のは品位が悪く、鉄1トンつくるのに6トンの原料輸送が必要だった。船の稼動隻数のグラフの右下がりと、鉄鋼生産の右下がりは完全に連動していた。だから昭和19年初頭には、汽車で運ぶもの以外には何もなくなる。少なくとも鉄はつくれない。
この報告をみた閣僚がびっくりしたというので、佐橋はまたびっくりした。そんなことさえ知らずに戦争をやっとるのかと。
終戦後、熱血漢のキャリア官僚は多く労働組合に参加。
佐橋は戦後、紙業課長。「生涯でも、こんな大きな権限をもったのはこれが初めにして最後だった」。子供の教科書からノートから新聞雑誌出版、切手、たばこの巻紙まで何でも割り当てをする。
重工業局は自転車も範囲なので、競輪のスキャンダルがあると局長は国会にピンどめされる。おかげで次長が本来の重工業行政を任される。
そこで、巡航見本市船を実現。
大蔵省主計局は「そのアイデアはいいが、金は出せない」とは決していわん。アイデアが悪いから金を出さないという。
日本のような馬鹿な予算算定方式は万邦無比。
各省は5月ごろから次年度の新政策の立案にかかり、8月中に概算要求書を大蔵省の主計局に提出。
9月から主計官に、各省の者が出向き、割り当てられた時間内で説明する。
要求に応じて追加資料も出す。一省の資料を合わせれば天井に届く。
12月に主計局から第一回の査定がでる。新政策はほとんどゼロ査定になる。
各省はねじり鉢巻でみずからの要求を削減し、謹慎の意を表しながら第一次復活要求。
数日して、目糞ほどの復活を認めた第二次査定。
各省各局は悲憤慷慨しながら逐次削る。
与党との連絡が頻繁になり、攻防ともに不眠不休。
最後に、主計局と妥協するものと、政治ベースにあずけるものとに区分けして、大臣折衝の儀式へ。
現行方式では一主計官の権限は各省大臣以上。この権力をじぶんから放棄する馬鹿はいない。
昭和30年代前半は報道用と観光用だけに外車の輸入を認めていた。
日本の綿製品は、エジプト、シナ、アメリカの綿花を適度に調合するところに秘密の技術があり、競争力があった。29年まではこの加工貿易が大宗。
局長は行政機関の長だが、国会はあれやこれやの委員会で一年中局長をくぎづけにして、朝10時から夕方まで、本来の仕事をさせない。これは三権分立の侵犯だ。政府委員は局長でなく専門の次官補を置いて、ひとりが数局づつ担当すればよい。
佐藤栄作通産相は経済に強くなかった。経済の説明をされたときに、ハダで分かる人と、わからん人がいる。池田はわかっていた。佐藤はわかっていなかった。
公取委員長が歴代大蔵官僚とは七不思議だ。銀行の金利、重役のボーナス、支店の開設、ぜんぶ統制していた役人が、どうして自由主義や独禁法を守れるのか。
戦時中に原料不足の紡績会社を整理した経験からいえること。残るものが廃止するものに餞別を出してケリをつけるしかない。
法案は、与党内に3人くらい猛反対がいると、進まない。
資本、物資、供給がすべて不足のときは統制計画も良い。しかし世の中が豊かになると、品質格差に公定価格をうまくつけることができず、統制は崩壊する。
造船は電気熔接技術が他国を凌ぐようになってようやく一本立ち。
鉄鋼屋いわく、日本の造船が世界一になったのは、合併した新日鉄が鉄を安く供給したからで、それが原因のすべて。
銀行と政権中枢は口が堅い。他の政治家は秘密を守れない。
昭和40年までは米政府のうちで国務省が見識と権限をあわせもっていた。ところがそれ以降、米国は経済がへばってきて、商務省が強くなり、米国の外交と商売が一緒になった。まさに「アメリカ株式会社」。
日本の会社は借金経営で自己資本率が低いから、資本を自由化したら、わずかなカネでアメリカ資本に支配されるだけ。
戦後日本には知識集約産業としての兵器産業・航空機産業が無い。とすれば、その代役として、コンピュータと自動車に活躍してもらわなければならない。この2業界は外資に対して保護する必要があった。
▼国立歴史民俗博物館『動物とのつきあい』1996
日本の庶民がイヌとネコをペットとして飼育するのは明治時代から。西洋人の習慣が模倣された。※ポチは「spotty」。
イエネコは縄文時代には飼われていない。遅くも古墳期には輸入された。
サルは中世にかなり飼育された。
中世のネコは首紐でつながれていた。
縄文イヌは体高40センチ、前頭部に段(ストップ)がない。後の柴犬とは違う。東南アジア渡りであってシベリア渡りではない。シナの金属器時代に飼育されていたイヌと同じもの。
縄文人はイヌが怪我をしても捨てずに飼い続け、死ねば埋葬した。弥生人はイヌを食い、埋葬はしなかった。イヌの埋葬は、江戸時代まで復活しなかった。
細縄にトリモチをつけて沼に漂わせ、水鳥を捕るのがボタナ猟。
ウナギ漁師は水鳥も捕った。だから魚屋ルートで鴨も売られた。
房総のクジラ漁はツチクジラ対象。
▼『京都大学総合博物館春季企画展展示図録~王者の武装』1997
5世紀なかばまで、よろいは鉄板に黒漆を塗っていた。それ以降、金色の武装が好まれる。装飾太刀、飾馬。※つまり国内が平定され文官が威張れる余裕が生じた。
鉄の鋳造が難しかったので、環頭太刀は金銅。
金銅は銅板に金メッキしたものだが、土中では銅イオンが表に染み出てきて緑青になる。
水銀と金は容易に混ざり、そのとき金色は消えて水銀色になる。だから「滅金」と書くのだろう。このアマルガム・ペーストを銅板に塗り、銅板の裏から加熱すると、水銀が飛んで金色が定着する。
朝鮮半島南部で出土の多い、蒙古鉢形のかぶとは日本ではほとんど出土していない。
▼小島和夫『法律ができるまで』S54年
内閣提出法律案は、所轄省大臣が下僚に法律案の原案を作成させる。同大臣は関係各省と意見調整する。また内閣法制局に法律案原案の下審査をさせる。
次に、閣議請議のため内閣官房に持ち込まれる。ここでも内閣法制局と相談。次に、事務次官等会議に回される。その後ようやく、閣議。
そして国会提出。
議員が所属する政党の政策を表明または実現するための法律案は、まず、政党の政務調査会が中心になって検討する。
国会関係の法律案は、議員運営委員会の委員長が提出する。
また、各党の合意が得られた他の分野の法案も、同委員長の提出とする。
提出先は、先議の議院の議長である。
両院で原案どおり可決されると、最後の議決のあった院の議長→内閣官房→閣議→奏上となる。奏上の日から30日以内に官報で公布される。
月: 2006年4月
摘録とコメント
▼ルヰズ・フヰツシヤア『石油帝国主義』S2年、荒畑寒村 tr.
WWⅠまでの国際政局は、鉄と石炭をめぐるものだった。独仏国境争いはまさにそれ。
英はWWⅠ初めは3割の軍艦が石油焚きであったが、休戦までに95%に。
今の国際政局は石油中心。メキシコがいい例。……ここまで訳者の序。
世界最大の既発見油田のコーカサスに英が出兵したのも石油目的。
ベルリン=バグダッド鉄道も石油目当て。予定終駅はモスウル油田だった。
WWⅠ開戦時、英は世界産油額の2%しか支配していなかったが、今や5割だ。
トルコの対露参戦もバクー目当て。
独軍飛行隊の活動は、石油の消費を節約するために制限された(p.18)。
ルデンドルフの回想録では、タンクの貨車でバクーから石油を運んでくるつもりだった。
ルーマニア商務官の報告:「ソヴエットの会社はその灯油、石油等を改善する上に、有らゆる努力を払ってゐる」
クラッキング(分離)と精製とに対する装置は、特にアゼルバイジャンのナフタ(石油)トラスト委員長、セロブロウスキーの米国訪問後、多量に合衆国から購入せられた。
ロシアは米石油会社を北サハリンに招致して、日本に対し米政府が撤兵を働きかけるようにしむけた(p.209)。
ソは米石油会社を通じて米国の国家承認をとった(p.212)。
石油は日露の和解の動力であった(pp.286-7)。
※ソが満洲とオーストリーから撤兵したのは、油田が無いからだ。
▼O.J.Clinard著 “Japan’s influence on American Naval Power 1897-1917”(初版カリフォルニア大・1947、再販1974 in Germany)
英は陸軍無力なので米の仮想敵から外されていた。また、カナダは米にとり英の人質のようにみえた。
マッカーサーの父は、ドイツとアメリカがハワイで戦うと考えていた。
カイザーはポーツマス会議中、米に接近。会議をまとめられるように支援し、さらに日露役後、日本を共同の敵に仕立て上げようとした。
親日が親露になってしまったのは、日本がポーツマスで賠償要求を出した時から。※身の程を知れと。
▼『軍事史研究』S11年 vol.4-3号
山内保次「軍馬物語」。前九年頃の馬は4尺8寸以下。稀に5尺を越す大馬あり。小馬は4尺以下。
二毛の馬、位牌面(鼻梁の白線)、泪や矢負のようにみえる辻(旋毛)もゲンが悪いと嫌われた。
武田の武将たちは、馬は大きい程よいという主義。
馬格の差によって一騎討ちの有利不利は決定的になった。
日清戦でシナ馬は場格ちいさくも耐久力あることがわかった。日本の馬は全然だめだった。
日清戦で人夫が輜重になったのは、馬不足が原因。
日本馬は、馴致調教みな不良で、北清事変では外国人より「猛獣の如し」と評された(pp.76-7)。
秋山好古の旅団の馬格も4尺7寸が平均。重さは93~5貫。特に飛び越し、駈歩がまるでダメ。
遂に明治38年に大量の馬輸入となる。
▽vol.6-2号
島田貞一「槍の板に関する考察」。
木柄は強度と軽さが両立せぬので、打柄といって、木芯に割り竹を膠着したものが必ず使われた。正倉院にもある。※とすればケラ首を切り落とせるものではない。
あまり滑り易いのは雨の日によくないので多角形の「かんな目」とした。
柄の曲がり防止に、2ヶ所で掛けず、4ヶ所の爪で安置した。
▼星健之助『支那文化の源とバビロニア』S15年
三皇の一人、大昊伏義は、魚形のイヤ神(ダゴン)だ。だから蛇身人首なのだ。
神農「炎帝」は日の神マルヅク。
黄帝はニニブ、エンリル(エホバ)。
ローマの最後の人身御供は、アントニウスのとき。
周礼の「連山」はニシールおよびマシュー山(ギルガメシュの)
周礼の「帰藏」は肝臓の筋で卜したバビロニアの習慣。
鹿骨卜はシナ書になく和書にある。なのにシナから出土する。
龍はバビロニアに6千年以上前から拝まれている蛇。
科斗之文字=治東→オタマジャクシ→楔形字
スメル人は鬚が少ない。シナ人も鬚が少ない。
ハムラビは自らを「羊飼」と大法典に。
スメールの支配者は紅毛で、被支配者を黒頭と呼んだ。→黎民(周)や黔首(秦)も「黒い人民」を意味する。
弩はバビロニア起源。ギリシャ人だけは使わなかった。
家屋の材木部を塗装するのはバビロニアの技術。
朝鮮人はシナ人と同様、全く風呂に入らないが、洗濯だけはする。支那人は洗濯も全くしない。
朝鮮人は日露役のころまでは、シナ(人)と呼ばず、必ず「大国(人)」といった。しかし腰掛に座る習慣だけはシナから採り入れなかった。
バビロニアでは油はゴマ油のみ。
仏教はもと、無神論哲学。そのためアショカに政治利用されるまで流行らなかった。カニシカ王下で有神化・大乗となり、それがシナ後漢に伝わる。
SIND(身毒)→ペルシャではSがHに、シナではSがTになって、天竺と。
初期仏僧はインドからはよくシナに来たが、シナからはほとんど行かなかった。
拝火教徒を「黄色い頭」という。黄巾賊はゾロアスター?
Byzantin→ZANTIN→太秦
孔子だけが無神論だったのではない。シナ人が無神論なのだ。
シナ人中の回教徒に比較的、責任感が強い。
オーガスタスは、ライン=ダニューブ=ユーフラテスを自然国境にせよと遺言している。
古ペルシャにはLの音なくRのみ。このRはシナではNになり易い。
朝鮮人はもともと苗字なし。沖縄人は三字苗字が多い。
ヒッタイトをバビロニアではケタと呼ぶ。→キタイ・契丹→カセイ
摘録とコメント。
▼ロバート・B・テクスター著、下島連 tr.『日本における失敗』原1951-6、訳刊S27年3月
著者は昭和21年春に来日し、23年7月に帰国した。ある程度、日本語を聞いたり話すことができた。軍属としての活動拠点は和歌山と大阪だった。文化人類学系社会学者としてディクタフォンを携帯していた。日本のあとはタイに向かったと。
ラティモア序文にいわく、ドイツは「代用」品製造に加え、石炭と鉄をもっているので、米国が交渉するにあたっては他の西ヨーロッパ全体に対して必要なほどの大圧力が必要だ。ドイツが臍を曲げれば全ヨーロッパ工業が損害を受け、アメリカは困る。またドイツは西欧を捨ててソ連と結び、東部領土を回復することもできる。そのような強い立場。
これに対して日本は必要な原料も食糧も支配しておらず、アメリカもしくはシナと不利な立場でその入手についてかけあわねばならない。※アメリカは日本に簡単に圧力をかけられるが、かつて鉄とコークスを供給していたシナもまた日本に影響力を行使し易い。日本人は「シナと組めばよい」ことを反米の理由にできる。しかしシナやソ連は日本に譲るべき広い土地をもたないという、誘惑の限界はある。
またラティモアいわく、日本を合衆国のグルカ兵にすることを快く承認する日本人がある。
日本から帰米した元占領軍のシビリアン職員たちはどうしてマッカーサー批判を憚っているのか。それは朝鮮戦争が始まった今、反マッカーサー言説は親コミーと疑われるからだ。
「やっつけることができなかったら、手を握れ」……米国の地方の職業的政治ゴロの鉄則がある。
「我々西洋人は、しば\/、民主主義を、その中で人間が活動する枠、もしくは骨格と考える。我々はその骨格の形をいためないために、非常な苦心を払う。アジア人は骨格の上にある肉により関心を持つ。骨と皮の民主主義に、彼等が惹きつけられるとは思えない」(pp.38-9)。
※民主党小沢新代表も民主主義の骨格は分かっていない。またおそらく今後、それを勉強する時間もなかろう。
アジアでは、新しい指導者は、民衆に高い生活水準を約束することで追従者をあつめ、被剥奪者に対する正当な弁償にはなんらの注意も払わない。
「所有権の不可侵性を強調するアメリカ人は」※だったらインディアンに土地返せ。
北京大学で反米学生運動。1948の春、日本におけるアメリカの政策に抗議。
大統領がソ連による原爆実験について確認した声明の数ヵ月後の1949-2-6、陸軍長官ローヤルは、東京の米国大使館内で新聞記者たちに、米国は日本を守る義務はないとの彼の信念を披瀝した。原爆を手にしたロシアが日本に攻めてきたら米国は日本を放棄することを考慮していると。ワシントンポストの1949-2-17報道。
ハンソン・ボールドウィンは1950に、いまの米軍には台湾は守れないと。
占領の最初の3年は農民はインフレのために裕福だった。しかしその後の占領軍のデフレ化政策で農民は怒った。土地私有農民こそ「旧勢力」だと。
小作人ははなはだしくふくれあがった円で地主から土地を買うことができた。
1949-1の選挙で共産党は300万票ちかく集めた。奈良県では1949-12現在で登録党員は157だが、県民は3万票も投じたのだ。
共産主義者は大部分の病院管理理事会の支配力を握った。彼らが推薦する患者の入院料だけ安くできた。他には、学校と、アンチ税務署組織に勢力を扶植した。
共産党とウルトラ・ライトに対する投票が増えたのは、占領軍がデモを禁ずるなどしているからだ。
著者の希望の星は、日本最初のキリスト教徒の総理大臣、片山哲の社会党連立内閣だった。しかし連立の条件として左派を入閣させられず、閣僚の半分は他党員だった。
片山は、社会民主主義だけが共産主義のアンチになるのだ、といってマックを納得させていた(p.132)。
1949-1-23の選挙で片山は落選した。このとき共産党は4議席から35議席に増えた。
日本人の再軍備論者は、大東亜共栄圏を復活させたりしないこと、絶対に赤とは取り引きしないことを米国人に納得させるべきであるのに、その努力をしていない。
中道政党に投票した日本人を、命がけで抵抗するほどのたのもしい西欧の味方として当てにすることができるかどうかは疑問である。
日本の動機は、余りにも、一貫性がないので、再軍備された日本は我々の信頼し得る同盟国にはなり得ない。
西洋人官吏がよろこんで詳細に答える社会学的質問に、日本の管理は答えようとしない。これは「面目」を重視するためだ。
1949-6-11のヘラルドトリビューンによれば、一部日本のビジネスマンは共産党の野坂参三に赤色シナとの貿易の斡旋を頼んだ。49-7-19タイムは、大阪の工業家がマルクス主義研究会をひらき、共産党に献金していると。50年2月の時点で日本の実業家は、米国からの援助よりもシナとの交易を望んでいる。
七宝職人は40歳で目がいたむ(p.73)。
米本国からVIPがやってくると、将官とその夫人が京都駅からつききりで観光させてやる。ただのIPなら佐官とその妻。金持ち用の女学校でバレーボールをしているのを見学させる。深刻な質問をし始めるころになると、漆器を買いにいく時間ですと。
「稀には、民間教員官は日本の最も重大な教育問題になっている「エタ」、または、特殊部落の学校を来訪者に見せることに成功するかもしれない」(p.77)。
故フラナガン神父が京都へ来たとき、社会救済事業を担当するガイドが、神父に向かって黒人の悪口を言い出した。
マックは46-12-1に国防省に電報した。米マスコミの訪日許可は出版業者と編集者に限定し、記者は含めてはならない。クリスチャンサイエンスモニター、ヘラルドトリビューン、シカゴサン、サンフランシスコクロニクル、エムピー、デイリーワーカーは反占領軍的であるのでその関係者は除外したいと。
ネーション誌の特派員も一年間申し込んだが入国拒絶された。マックの拒否理由はついに明らかにされなかった。※マックはプレゼン上手だが説明責任観念は無かった。
朝鮮戦争の前、東京の英外交官がマックによびつけられ、ロンドンタイムズの東京特派員がよくない記事を書いていると警告された。
そこで許可を得ている新聞記者は順応した。日本の女子野球チームについて、その他安全な記事だけ本国へ送るようになった。
前シカゴ・サン特派員のマーク・ゲインの帰国後の著述は日本の民主化について悲観的だ。
人類学者クルックホーン1949にいわく、戦中~戦後の日本人の道徳は Situational morality =情況的 でしかない、と。
日本経済を調べるため派遣されたエドウィン・ポーレーは石油事業者で、1931~38に日本に86万537ドルの石油を輸出した。
陸軍次官ドレーパーは1948に日本に滞在した。ディロン・リード投資金融会社の副総裁である。その総裁がフォレスタル国防長官だ。
ドレーパーはドイツのカルテル解体を計画的に阻止させた。1949-4-30時点でドイツの独占事業体はひとつも破壊されていない。
1937にアレンは、財閥は4つであり、それは三井、三菱、住友、安田だと書いている。E・B・シューペンターは1940に『日本と満州国の工業化』で財閥の役割を分析している。
米国の商工人団体は、ある会社役員が他の会社役員にはなれないとするマックの命令を廃棄しろと1949に迫った。
アメリカ鉛製造会社は日本化学の株の過半数を持った。日本石油および東亞燃料の支配権は米人に帰した。
1917にグッドリッチゴムと古河合名が横浜ゴムを設立。前者の持分が半分だったが、開戦時には7.5%に減っていた。これが1950に35%になった。
1949、嬰児殺しは彼等の伝統の一部になっている。GHQは、1970までに日本の人口は1億になるとみている。1949だけでも200万人増えた。
1950、マーガレット・サンガーは講演継続をマックに禁じられた。カトリック教会からの抗議により。
しかし米人のスペルマン枢機卿はカトリックでありながら産児制限について講演することをマックに許されている。
1950の春、戦後はじめて人口制限についての出版物が刊行された。それまではGHQが禁じていた(p.169)。
1947の日本人の一人あたり収入は100ドル以下。1946の米人は1269ドル。
1949に英国の生産力は英史上最大に。マーシャル援助が有効に使われた。チャーチルは鉄道や電信の国有化に反対だったが、すでに国有化されているものをもとに戻す元気はなかった。
1948-4に英労働者は1938より76%高い品物を買っていた。しかし、無料の社会施設という形で労働者が受け取る大きな利益を計算に入れずに、一般工業賃金は114%上昇していた。
著者いわく1947になぜマックが炭坑国有化に反対したのか分からないと。
小製造家はグループとして、多くの根本的な点において、大金融事業の、直接的間接的、支配を受けている。
小製造業者は事実上傭われた労働者である。彼等は高い率の報酬を求めて交渉する立場にいない。小製造業者が切り詰めることができるものは、賃金だけである。照明の不十分さは戦前と変わらない。
将来、小企業が大企業よりも活気づくとは思われない(p.122)。
吉田が自由企業を支持するのは、アジア各地で宣教師からくいものを得るために宗旨変えを誓う「コメのためのクリスチャン」に似ている。
1937において日本の中流階級は多くない。フレダ・アトレー『日本の粘土の脚』。
タルコット・パーソンズは1946にいわく、日本の特徴は中産階級が蜃気楼だということ。文化的、政治的、経済的自主性がなく、上から支配された。
NYT特派員は1949-12に報じた。インフレが中産階級を一掃した。大学では、新興成金、闇業者、新円階級の息子たちが遊んでいる。まじめな問題に興味をもち、学園を指導しているのは共産主義同調者だけだと。
大闇師は、ガサ入れされたときには身代わりとなる男に表面上、商売をさせている。
ごろつき新聞は、この闇業者をおどかして、新聞で攻撃をしない代わりのカネをまきあげた(p.158)。政治家もこれらの新聞をおそれて、名刺広告を出した。
著者は和歌山県でごろつき新聞に対する名誉毀損訴訟を奨励したが、無駄だった。
ある漁業権力者は漁船で沖縄、台湾と密貿易して巨富を築いていた(p.181)。
ドイツと同じく、占領軍によるインフレ→デフレの切り替え政策の直前までに資本を支配した者の地位が、デフレでさらに強化された。
戦時中米国は生産力を50%増やした。
1950-1の日本の工業力は、1936の三分の二。
1934に9ポンドの繊維を消費していた日本人は、1947では3.5ポンドだ。
コーヘンによれば、1934に2245カロリー喰っていたが、いまは1955カロリーだ。
1948には1700カロリーだった。
正味賃金は1936の26%だ。
日本が直面しているのは、悪い計画か良い計画かの選択ではなくて、むしろ、良い計画か破滅かの選択である(p.148)。※これぞ白面のLawyer宣教師のビヘイビア。
シナの赤化で英米は上海のタバコ工場を失う。
日本の国際収支のバランスを恢復させるためには国民収入の23%も資本を蓄積しなければならない。
47~48年、米軍は令状なしで数百人の女子通行人をつかまえて強制梅毒検査。
日本の警察は占領初期、卑屈で、誰にも尊敬されなかった。四辻の交通巡査以外、誰もかれらのいうことをきかなかった(p.161)。
※CICと結託してアカ狩りに励むようになって、日本警察の株が持ち直した。
NYTによると、1948に日本の新聞は、共和党指名大統領候補マックに対する、多くのアメリカ人の反対意見を報ずるアメリカ通信社の記事の掲載を禁じられた(p.166)。そのため、共和党大会でなぜマックが指名されなかったのか、なぜ十分審議さえされなかったのかと、多くの日本人はあやしんだ。
1950に訪米した日本人教授は、現地ではじめて、マッカーサーの日本統治に反発する米国の社会学者が七割も占めていることを知って衝撃をうけた。マックに媚びてさえいれば世界に対するミソギになると信じていたので。
ただし米人は、マックが朝鮮戦争を東京から一歩も出ずに指揮していることについては不評は言ってはいない。
著者いわく、マックの賞味期限は統治3年で終わっており、もう民政からは手を引くべきで、その場合は沖縄かフィリピンがグァムに引っ込むべきであると。
1920年代の社会立法は、日本の労働者をなだめるためでなく、世界からほめられるために可決されている。日本人は欧米から賞讃されるためにはしばしば極端なことをやるのだ。
1948-7-15に日本の大新聞に対する事前検閲が廃止されると、日本の記者たちは、どの記事がプレスコードに触れるかを自分たちで決定せざるをえなくなった。その結果、アカハタ以外の全紙はいちじるしく臆病に記事を書くようになった。この事実を占領軍御用英字紙であるニッポンタイムズもAPを引用して1948-8-12に伝えている。
1948-12-19、一オランダ少佐は、9人のインドネシアの民間人を並ばせて自分のピストルで彼等を射殺した。その中に教育長官のサントソ博士もいた。
マックは49-3-3の大毎で「今や太平洋はアングロ・サクソンの湖となった」と語った。
米国が日本各地に用意した、米書ばかり揃えた図書室。それを利用に来る日本人は技術の本だけを貪り読み、社会科学や民主主義の本には興味は示さなかった。
1949秋のリール著『山下大将裁判事件』。朝日、毎日、共同通信はその本に言及してはならず、法政大学はその本を出版してはならないと、非公式にマックから命じられる。
日本人はよく投票する。棄権は不穏当だという意識がある。そして候補者の主義主張ではなく、名声と地位が選好される。
マックは個別訪問を禁止した。
1948に非共産の政治家いわく、いまや集会を開くことは東條時代より困難であると。
共産主義者は恐るべき抜け目なさを有するが、その選挙での成功は、社会不安の原因というより、結果だ。アカは、民族主義、排外主義、超国家主義を利用する。社会がまずそれらの主義をつくりだし、アカはそれを国民的熱度を高めるために利用するのだ。
1950-5-30のメモリアルデイに共産主義者はパトロール中の米兵5名をつき倒して石を投げつけた。6月、マックは日共中央委員24名を公職追放。
米では共和党員すらこう言う。共産党を非合法化するのは利口ではない。地下にもぐらせるだけ。合衆国では、犯した行為ゆえに人は告発される。心に抱いている思想ゆえに人は告発されない。
一つの党が非合法化されれば、第二、第三の適用があり得る。
日本ではCICはチャールズ・A・ウィロビー少将が編成した。そして各県に分隊を置いて県政を支配した。※つまり落下傘内務省だった。
CICが部下にしたエージェントには元特高が多い。特高警察のネットワークは県下に起こるすべてのことを知っていた。CICはたいへん重宝した。そして占領軍職員のシビリアンであるニューディーラーの左巻き活動をこれらエージェントが監視してCIC経由でマックに通報していた。
※この腐れ縁は今もある。公安は「監視力」を時の権力(それは官邸のこともあれば米国のどこかであることもある)に高く売ることだけ考えているから、北鮮人が日本人を拉致しても生暖かく見守っている。(ただしその責任は公安にはなく、自国民を拉致する北鮮を敵だと考えない堕落した有力政治家とマスコミにある。)この占領中の公安の真似をして米国向けに点数稼ぎをしようと張り切っているのが検察だろう。
CICは最初は超国家主義者の活動を警戒する諜報機関であった。が、すぐにそれは日本国内のアカおよび占領軍シビリアンの中の親共分子の発展を阻止することに全力を傾けるようになった。
マックは日本に来てから東京近郊を離れたことは一度もない。
日本人の半数は土から離れている。この率はアジア一である。農村はすでに人口過剰だ。工業化をすすめる以外にこの過剰人口はどうしようもない。
戦前の組合加入率のピークは1936で、420589人だった。
日本に個人主義の伝統がなく、戦後は急激な発展をしたために、組合は独裁的に運営されている。
米国でのみ、政治的なことと経済的なこととが組合活動の中で分離できている。
ある撮影所の組合は疑いも無く共産主義者に指導されていた。共産主義者900人を会社が解雇しようとしたところ、スト。この1500人を会社敷地から立ち退かせるために、700人の日本の警官が出動し、米軍は、偵察機×1、装甲偵察車×4、シャーマン戦車×4で後詰めをした。
日本の繊維品の安さは、輸出がされなくとも、間接的に米国に害をあたえる。というのは世界のバイヤーがその価格を根拠に米国製品を買い叩くからだ。
日本人工員の賃金は米国の25%だ。
いまやイギリスも日本同様に「輸出か死か」である。
1949には30万の国家警察と95000の地方警察、そして200万の有志消防夫がいた。
NYTは概してマック贔屓である(p.210)。
キャンプファイアはGHQが1948に持ち込んだ。
50万冊の米陸軍の文庫が横浜に死蔵されていた。これがさいきん、配布された。
敗戦から1948までに日本に流入した英文書籍は125万冊以下だ。
商業ベースの翻訳出版は占領開始から3年9カ月後に許可された。
1947に農林省が土地改革のポスターをつくるための紙が公式ルートでは手に入らず、ヤミで調達した。
1949にライシャワーの『日本・過去と未来』およびベネディクトの『菊と刀』が5500部づつ、翻訳刊行を許された。この2冊だけが真に価値がある。ジョゼフ・グルーの『滞日十年』は日本の社会問題をスルーしているつまらぬ本だが、こちらは7万部も許可され、しかも戦後外国書籍で唯一、点字版が刊行された。
1950までに次の小説が翻訳出版された。『風と共に去りぬ』『仔鹿物語』、ダグラス著『ローブ』、ブラッドフォード・スミス著『武器は公平である』、ハーシー著『ヒロシマ』、シンクレア著『龍の牙』『勝利の世界』。
また『テリーとバンキーの野球』『一ダースなら安くなる』『ポパーさんのペンギン』といったしょーもない本も翻訳されている。
日本版リーダーズダイジェストは150万部のバケモノ媒体になった。
1949時点で日本の映画館はタイトルの1/3がハリウッド製。
著者は『オクラホマ・キッド』『アメリカ交響楽』『フランケンシュタインの息子』『ターザン』、そして西部劇などは米国人の税金を使って日本人に見せるようなものではないと嘆く。※潔癖症の疲れる奴。
1300台のポータブルトーキー映写機がGHQから各県に貸与され、記録映画を上映させた。片山内閣の最後までにGHQが提供した記録映画はたった9篇だった。
1950までにタイトルは173に増えた。
「理解」は、外部世界との関係をつくるのに必要ではあるが、十分な基礎ではない(p.245)。
1950夏までに国立大の外人教師は35人のみ。宣教師は1949春までに1000人も入国が許可されていた。やっとICUの1951開校がマックに許された。
1949春時点で在米のシナ人留学生は3914名。ニップは75名。1949秋には230名に増えたが。
井上勇は1950-1に占領軍御用新聞に英文で書いた。GHQが米文学の翻訳を認めないので、日本人はフランス文学とロシア文学に傾倒しつつあるのだと。※おめでてーな。
占領軍の正規米将校の多くは、生れてから一度も投票したことがない。
マックは1937以降、いちども米本土の土を踏んでいない。
1949にウィロビーはスメドレーを文書攻撃した。彼女は告訴しようとしたがマックがウィロビーを防禦した。
ウィロビーは1939の自著『戦争における作戦行動』で、ムッソリーニを褒め称えていた。またフランコや日本の行動にも肯定的だった。
ドイツでは各州は文官に支配された。日本では軍政だった。
日本がベトナムにコメではなくサトウキビや植物油をつくらせたために1944に60万人が餓死した(p.276)。
日本占領の最初の4年に合衆国は13億ドル使った。7年間では21億7000万ドル。
ロイベンズ1949論文によると、1930年代のなかごろ、日本は近隣国が輸出するうちの2~15%を買い、また、その地域の総輸入量の15~30%を供給した。日本にとっては、総輸入の1/3、総輸出の1/2が、アジア相手であった。
日本の1949の対アジア貿易は、1934の15~20%である。1936にはアジアの食糧輸出の2割は日本が買ったが、1948ではたった3%だ。
なぜ日本工業を復活させる必要があるか。購買力のないアジア人には、安い商品でないと買えないのだ。それを大量に作れるのは欧米では無理で、日本だけだ。日本工業がその役割を果たさないと、スターリンの商品がアジアを席捲する。
明敏な国務省は、シナとロシアを引き離して、西欧の力を強くするために、あらゆる役に立つ機会をさぐることだろう(p.283)。
GIのジープを日本人のトラックやタクシーが追い越すと、GIに止められ、怒鳴られる。これが1949の世相。
日本の社交家のグループはユネスコで商売しようとしている。「ユネスコ万年筆」「ユネスコ・キャラメル」の製造販売願いが出された。
1950-5のリーダイに引用されているところによれば、1950春、マックは「日本は『極東のスイス』になり、スイスが中立国であると同じ理由で、日本も中立国となるべきである──どちらの側につこうとも、日本は破壊を避けることはできない」と言った。※ニュークをシビリアンに支配されているので軍人マックはヤケを起こしていた。破壊とは原爆投下のことである。
朝鮮戦争で日本人はこう考えている。民主主義は望ましい。原爆は恐ろしい。その中間のどこかに共産主義がある、と。
北鮮が南侵をはじめるとアイケルバーガーは言った。「アメリカ人は8500万の日本人を味方に持つ。日本兵は司令官の理想の兵隊である。彼等は死ぬまで持場に頑張る連中である」。
著者はいう。日本人の民主化なんて信じられないので、1953よりもっと先まで、米国の文民が日本を占領しつづけるべきであると。
またいう。国連軍が日本人を利用するとすれば、その危険の無い方法は、大隊または聯隊単位の戦闘部隊として、それをもっと大きな米軍の中に混ぜて使うことであると。
※自分だけが正しくすべてを知っていると確信できるプロテスタント・ニューディーラーで民主主義宣教師。日本語を知らないベネディクトの足元に及ばないルナティックな高等痴人。この若者のその後はどうなったのだろうか?
摘録とコメント。
▼『別冊歴史読本 日本古代史[騒乱]の最前線』1998-2
弥生時代の一般的な手持ちの武器である有柄式磨製石剣は紀元前5世紀から出土。北部九州で広まった。瀬戸内ではなお打製石刃が継続して発達した。
北部九州に青銅剣が出土するのは紀元前3世紀から。
弥生中期に北九州に銅製武器が現れたのは、航海民が大陸で手に入れてきたもの。
それを紀元前1世紀には北九州で鋳造するようになる。
弥生の剣は短いのが特徴で、鉄剣でも60センチ。多くは20センチ台。
楯は表面に皮を貼ったものもあった。
北部九州の有力者の副葬品の青銅武器には折れあとや研ぎ減りがあるので、有力者も体を張って戦争を先導していたと知られる。
戦闘は敵対するムラに矢を射かけることから始まった。
縄文人骨で集団戦の戦死者とみられる例はほとんどなし。
大和朝廷の半島進出が始まる四世紀なかばまで、国内戦では鉄器はほとんど使われていない。
高句麗の騎馬兵は弓ではなく槍がメインアームだった。弓は歩兵が扱った。
隼人の反乱では、「斬首獲虜合千四百余人」。
ヤマトタケル伝承は4世紀の史実ではなく、大和王権の発展史を後代に擬一代記的に総括したもの。そのキャラクターモデルの一人には聖徳太子も考えられている。
ヤマトタケルのクマソ征討伝承の背景に、大和王権初期の南九州進出の記憶が。
蘇我氏は大和政権の財政を管掌することによって6世紀以降台頭した官僚タイプの新興豪族。知識源は大陸だから、大陸で仏教が流行するなら日本でも採用すべしと考える。
物部その他の伝統豪族は、朝鮮は属国だからその真似をする必要なしと。
物部氏の神社が石上神社。
物部一族は弓では誰にも負けないので、587年、蘇我は守屋の配下の迹見を引き抜いて味方のスナイパーとして雇い、守屋を射殺させた。
645に蘇我父子をほろぼした加担勢力は、隋や唐からの帰国組。律令制をつくらないと、唐に日本がやられる。※守屋はある意味正しかった。だから徂徠は「物」氏を自慢する。
▼近藤好和『弓矢と刀剣』1997
宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』によれば、李氏朝鮮(1392~1910)の軍兵は文禄の役の前には弓箭しか持たず、刀剣装備がそもそも皆無であった。主武器としても副武器としても刀剣類を有しなかったのである。こんな軍隊もあった。※それが「剣道」の宗家を騙るのか?
打刀大小二本差しを身分統制令の一環として、武士身分だけのものとしたのが、豊臣秀吉の刀狩令。
藤木久志『豊臣平和令と戦国社会』によれば、刀狩の目的は、百姓の非武装化ではなく、あらゆる階層にまで普及していた打刀大小二本差しを、武士身分だけに限ってその標識・表徴とすることにあった。
ただし初期江戸幕府がこれを確認するのは17世紀後半以降。「帯刀」とは打刀大小二本差しのことに。
この帯刀権をあらためて軍・官・警が独占することにしたのが明治9年の廃刀令。
古代の弓箭の遺品は、正倉院と春日大社に伝世する。しかし中世の遺品は数えるほどしかない。そのため博物館と美術全集に弓箭が露出せず、日本の武器=刀剣だと人々を錯覚させてきた。
弓箭は「調度」とも呼ばれた。
10世紀後半の摂関時代に儀杖と兵杖が分化した。後者は湾刀化した。
革札よろいの鉄札交ぜは初期には胴の正面と左側面。
780に鉄札から革札への転換が指導されているが、これは防矢力が革札の方がよかったらしい。※果たしてそうか?
初期の大よろいは、弓をひきやすいように胸板が小さい。そこで鳩尾板と栴檀板を付加せねばならなかった。
かぶとを含めると最重で40kgに達した。
草摺の構造は乗馬専用で、これで歩くと前の草摺に足が当たって不便。
弓の上端を末弭[うらはず]、下端を本弭[もとはず]という。丸木を弓にしていた頃、根元を本、梢を末といったので。
鈴木敬三によると、最初の合わせ弓(伏竹弓)である外竹弓[とだけゆみ](木材の背側に苦竹を張ったもの)は、奈良時代に舶来していた大陸の角弓を12世紀の平安貴族が国産材料で真似たのだと。その競技は歩射だった。これが武士に採用されて、南北朝期には三枚打弓が全盛に。室町時代には四方打弓になり、近世には 弓胎弓[ひごゆみ]ができた。
矢束[やつか]は、握り拳ひとつを「一束[そく]」、指一本を「一伏せ」と数える。古代の矢は鏃をふくめて長さ80センチ弱だが、中世では90センチ強であり、合わせ弓の弾力に対応していた。
箆の端の彫[えり]が「矢筈」。
野矢は二立羽を矧[は]ぐ。征矢と的矢は三立羽。三立羽の左旋回を甲矢[はや]、右旋回を乙矢[おとや]といい、二隻一手で諸矢とよぶ。
鏑矢は征矢に2隻加えた。つまり1人で4本しか射てない。
鏃の無い大型の鏑を「ひきめ」と称する。笠懸は「ひきめ」を使う。流鏑馬は鏑でする。
西洋でもシナでも馬には左から乗るが、日本のみ右からだった。
著者いわく、日本の舌長鐙は疾走用ではなく、騎馬が不得意だから落馬のさいにすぐ足が抜けるようなスタイルに発達したのだろう。
日本の在来馬は体高4尺を基準として、1寸高くなるごとに「一寸[ひとき]の馬」「七寸の馬」などと呼び、8寸以上、つまり体高145センチ以上を「丈に余る馬」といった。
材木座で昭和28年に大量に発掘された、新田の鎌倉攻めの際の人馬骨をしらべたところ、推定馬高は109~140センチであった。
秦の兵馬俑は実物大だが、その馬の平均体高は132センチ。
厨川柵の攻防で、鉄を撒くとあるのは、鉄菱のことだろう。
弩の実戦使用を示す最後の記事が、厨川。
南北朝以降の文献の「石弓」は、綱で吊った岩石を落とす装置のこと。
平維茂の郎党の寝所の構えとして「布の大幕を二重ばかり引きめぐらしたれば、矢など通ふべくもなし」。
今昔物語には組討で敵の首をとる記述がない。そのようなスタイルは治承・寿永以降である。
戦闘で射る矢は、次々と矢継早に連射しなければ効果がない。※というより己が危険なのである。
『吾妻鏡』で大場景能は保元合戦を証言する。為朝は鎮西育ちのために、騎馬の時は弓の扱いが思い通りにならないことがある。
また佐々木高綱の証言。歩立のほうが弓が引き絞れるから、騎射の弓よりも短くてよいのだと。
また1224に漂着した高麗人の弓は、皮を弦にしていた。
著者いわく、中世の流鏑馬は的は正面にあったのではないか。現在の小笠原流(吉宗が再興)と肥後細川藩の武田流は、どちらも中世に直接つながっていない。
※馬の上から俯角射撃をするためには大弓の下三分の一を握らないことにはモトハズが馬体に当たってどうしようもなかったわけだ。
馬上打物戦こそが南北朝の戦闘の特徴だと著者。
源平盛衰記の宇治合戦で筒井浄妙は、敵のかぶとの鉢に当てた長刀が折れ、太刀では敵のかぶとも頭も破ったが、目貫き穴のもとから折れた。
源平盛衰記の石橋合戦で佐奈田義貞は、一人の敵の首を掻いたが、その次の敵との組み討ちで刀が鞘から抜けず、後ろから来た別な敵兵にかぶとの項辺穴に指を入れて引っ張られて逆に首を掻かれた。最初の納刀で血をぬぐわなかったために、固まってしまって抜けなかったのだ。
※とすれば居合の納刀は「拭き取り」動作を必須とすべきである。
『盛衰記』の飛騨景高と根井行親の対戦。根井がまず馬を射、飛騨は落馬。すると根井も馬を降りて、太刀でかかる。飛騨根井は「勝負はふたり」と叫び、両者、徒歩での斬り合いに。すると飛騨の刀が折れる。すると根井も「互いに組んで勝負」と太刀を捨てて組み討ちになり、根井が飛騨の首をとった。
※著者は無批判にこの記事を例示するが、これは典型的な「武功記録の美化」(この場合は根井家による)であろう。延慶本平家物語で敦盛の死体がどのように争奪されているかがリアルであろう。ひとかどの武士には複数の従者が運命共同体として形影相伴っており、「手を出すな」と言っても無駄である。
盛衰記の巻29には、後続の味方、乗り換え馬、じぶんの郎党がついてこないシチュエーションでは組み討ちはするな、と戒められている。
「柄も拳も通れ」という表現は、鍔のない腰刀だからリアル。
鎌倉中期以前の短刀の現存遺品はごくごく少ない。
摘録とコメント(※)
▼大木雅夫『日本人の法観念』1983
キケロの法律論はまったく対話形式で展開されている。
中世の大学の法学テキストは完成されていてはならず、教授法は口語の討論形式によるべきであった。
論理的討論術が批判的精神と体系的懐疑心を発展させ、西洋哲学を近代科学にした。
シナの科挙は唐代では「進士」(詩文)を重視し、宋代では「明経」(儒家古典)を重視した。
大憲章の大は「長大な特許状」の意味。
シェークスピアは若いときにマキャベリに心酔して、リチャード3世の年代記を書いた。絶対王政賛美の彼の劇が世間に受けたのはそれはイコール国民の福祉だったから。
ジェイムズ1世は、王権の根拠は契約ではなく征服だと言い放ち、アンチ・ノルマニストのクックがそれに反発した。クックはベーコンの政敵で、近代科学からは遠かった。
クックは11巻の判例集を編纂し、先例引用を一般化させた功労者。
クロムウェルのチャールズ1世処刑は熱狂的に行なわれたわけではなく、裁判委員の半数は関与を拒否し、処刑の瞬間には数千の群集からうめき声が湧き上がった。そこでミルトンは革命を鼓舞する詩を書かねばならず、ロックは理論的基礎づけをせねばならなかった。
過ちを刑するに大臣を避けず、善を賞するに匹夫を遺れず/韓非子
1919の賄選憲法第12条には、中華民国人民は、孔子を尊崇し、および宗教を信仰する自由を有し、法律にあらざれば制限を受けず、と規定した。
シナではついぞ、民事訴訟法は発展しなかった。1911の清末にようやく草案起草。
すべて刑法であった。所有権などは刑法の枠で考えられた。だから私人間の権利義務など意義が認められず。そもそもシナ語の概念に「権利」も「義務」も無かったのだ。
刑事訴訟法としては、断獄律があった。
儒教では子が親の犯罪を証言することはあり得ないはずだが、謀叛と大逆については律令は子孫も親を告発せねばならないとしていた。
律令時代とくらべると鎌倉時代は司法国家。式目51ヶ条のうち訴訟関係は17ヶ条。つまり裁判規範を示していた。
鎌倉時代の民事では攻撃側が「訴人」、防禦側が「論人」。
織田も豊臣も徳政をやった。江戸幕府と諸藩は、徳政こそ号令しなかったが、棄捐令は発している。
喧嘩両成敗の喧嘩口論とは私戦のことである。堪忍した側は私戦を避けたのだから無罪になり、攻撃者だけが「一方成敗」される。松の廊下は喧嘩ではなかったわけ。
しかしこの慣習法の結果、ならぬ堪忍するが堪忍の処世術が瀰漫し、日本人の正義感は著しくゆがめられてしまった。
甲陽軍鑑ではハッキリと批判している。
幕府の年貢収納高は、幕末に至るまで減少し続けた。
鎖国は宗教問題よりも、幕府による外国貿易独占という財政政策だった。
武士の軽輩は内職どこか、大工や佐官までした。
本多利明によれば江戸後期の下級武士は半知以上の借り上げに遭って主を怨むこと敵の如くであった。
江戸時代の百姓は訴訟のプロだった。少なくない醵金をあつめて江戸まで出て来ているので必死でもあった。裁判官は大声で叱り続け、引き下がらせようとするが、もしお上に対して「御理解承知した」などと白州で言えば「まけ」なので、うつむき黙るか、「へいへい」と言い続けるか、不利な場合は「日延べ願い」を提出した。
「内済」の決着が誘導されたのは、幕府の裁判資源がパンクしたため。訴訟を請け負う公事師は村方にまで出現した。
奉行所法廷では、最上段に坐すのが奉行。民事で御目見え資格のある町人以上は縁頬に、由緒ある浪人と御用達町人は板縁に、それ以外の百姓町人浪人は最下段の白州に坐らされた。
江戸幕府の裁判機関としては、老中、若年寄、評定所、三奉行、道中奉行などがあった。
新井白石にいわせると老中とは大名の子で、古今の何も知らず、政務の本末を弁じ得ず、ただ上様の意を下に達しているだけ。
三奉行のうち寺社奉行は30歳代の若い譜代大名。町奉行と勘定奉行は中級旗本出身だが、役方の出世コースの終着駅であるからたいていは老人。かれらは裁判の開始に「一通吟味」はするものの、その後の「追々吟味」はすべて部下の書記「留役」がした。中期以降は与力も裁判員になり、代わりに奉行の関与はほとんど形だけに減った。
奉行裁判の形骸化と留役に対する賄賂の横行は吉宗時代前にすでにあったので、吉宗は三奉行裁判に臨席した。また目明しの利用を禁止させ、拷問を制限し、縁坐制を原則廃止した。
孔子の、民は之を由ら使む可きであるが、之を知ら使むことは不可である、の意味は、大衆を法令に従わせることはできるが、その立法理由を理解させることはできない、と嘆いたのである。
吉宗は罪刑法定主義を目指し、「をしへざる民を罪するな」と言い、最新の法度書を寺子屋の教材にさせている。また過去の判例を整備させた。そのひとつが公事方御定書だが、これは奉行所の役人のための準則だから、民間に公開されない。※しかし公事宿にはなぜか私的なコピーが隠し置かれていた。
10両盗めば死罪と決まっているが、裁判役人は「どうしてくりょう三分二朱」といって、盗んだ額が10両に足らなかったことにしてくれた。
また、火事のとき親を見捨てて逃げれば死罪と決まっているが、いっしょに立ち退いたあとで群集にまぎれて見失い、行方不明になったことにしてくれた。
イギリス(クック流)の「法の支配」を日本人は過大評価するな。これは貴族議会による王の制圧、諸侯が議会を名として王に代わっての専制をめざしたモットーだったのだから。
コリント人への第一の手紙の中にある「正しくない人」「教会で軽んじられている人」とは、法律家のこと。紛争処理は聖職者に任せろ、と言っていた。これをルターが分離した。救いと法は別世界だと。これによって法には宗教的権威はなくなった。
日本の裁判官の数は少なすぎる。はやくなんとかしろ。権利を具体的に実現する装置が不完全だということだ。
日本人はプライバシーを言うくせに家に表札をかけている。表札を出している家は米国にはほとんどない。
▼井上昌次郎『動物たちはなぜ眠るのか』H8
豪州イリエワニが現存爬虫類の最大かつ最重。淡水だけでなく海岸にも棲む。
待ち伏せ型の動物だから、寝ていると思って近づいてはいけない。
コウモリは野生で20年も生きられる。同体重のネズミを飼育管理しても数年が限度なのに。
夜行性のイヌは決して熟睡することはない。浅い眠りをしょっちゅう繰り返す。
ライオンが仰臥位で昼寝するのは耐熱のため。
延髄にある、レム睡眠中に運動命令伝達を遮断しているる機能に細工を加えると、猫も熟睡中に夢を見ていることが、その運動から確認できる。
冬眠はじつは断眠状態なのではないかというのが最近の知見。
▼神坂次郎『元禄御畳奉行の日記──尾張藩士の見た浮世』S59年
1718に没した朝日文左衛門、知行100石、役料40俵の8863日の日記『鸚鵡籠中記』の解説。代々の家職は御城代組同心。
※役付きの武士が日記を残したのは、男が公務を長年続ければ必ず「訴訟」や「疑惑の噂」や讒言中傷事件などのトラブルに巻き込まれると予期せねばならないので、そのときに日付正確な弁明書などを提出できる備えとしていたのである。だから金銭出納はつまらぬものでも細かく記す。そうした日記をつけない役人の方が稀であった。日記の残存するものが少ないのは、ほとんどの日記は本人の万一の備忘にすぎず、本人が死亡すれば用も価値もなくなったからである。こうした解説が無いのは不審だ。
ありきたりの町人が三度のメシを食うようになったのが元禄時代。
江戸でふつうに外食が可能になったのも元禄時代。
庶民の家に畳が普及。また着物の左が上と決まったのもこの頃。
大振袖の袖口は鯨の鬚で形をつくった。
文左衛門は18歳で武芸を習い始め、その科目は槍であった。元禄4年。
3ヶ月後に弓。さらに据物斬り、柔術にも入門。
19歳でためしものを見物。広小路にさらされていた罪人3人の胴体。これを弓術師範の星野勘左衛門の下屋敷にひきとり、そこで師匠らが切る。文左衛門も股の肉を切り落とした。
ところがその夕刻の酒席で出てきた刺し身皿をみるや罪人の足の断面を思い出し、手が震え、気分悪く、舌はこわばりうまく話せなくなり、以後二度とやらない。
やわら(柔術)は入門から1年未満で印可[しるし]の巻物に判を据えたものが貰えた。元禄6年。※ようするに武術道場は当時すでにカネと引き換え商売。
翌元禄7年に「軍法」の弟子入門。次に居合術に入門し、印可は元禄8年に貰った。
元禄8年に鉄砲場へ行き、玉ぐすりを貰って射ったのが面白く、鉄砲の弟子入門。これは長く続いたが、十三発打つも皆はずれ、などの記載が目立つ。※当然だがこれは10匁クラスの火縄銃(p.102)で、そう簡単に当たらないから流派が立つわけである。6匁~3匁クラスの足軽鉄砲と同一視はできない。
元禄9年、兵法(剣術)の弟子。
小給の者が、何カ村にもわかれた知行所を管理するのは負担であり、いきおい酷税にもなってしまう。それで元禄ころから諸藩は高知(高禄)者いがいの家臣の知行地を廃して、蔵米取り(サラリー)制にきりかえた。
武士が茶店に太刀を忘れると、それは道中奉行に届けられる。忘れた者が仕官の身であれば、もはや逐電するしかない。
芝居小屋に武士が刀を置き忘れ、持ち主がすぐ判明しないときは、藩の評定所が詮索を始める。けっきょくバレる。士道不覚悟のゆえをもって、御暇。
文左衛門は辻で猿若舞をみている隙に脇差の中身だけ掏り盗られた。盗まれた場合はモノが公に曝されるわけではないので、問題がない。
武士の芝居見物は決して堂々とは出来ず、茶店に袴を預け、編み笠で顔を隠して潜り込む。
大都市の芝居小屋は、左右に床を高くしつらえた桟敷があるが、中央は土間で、そこに薄縁・うすべり(半畳)を敷いて見物する。
名古屋ではまだ菰張り、葦簾がこい。雨の日は、演らない。
『太平記評判』は1両1分10匁もする本だが、文左衛門はそれを購入した。
綱吉時代、燕を殺した足軽が小塚原で斬罪になっている。蚊を叩いた小姓は流罪。井戸に猫が落ちたのに気付かなかった江戸城台所頭は八丈島流し。
※これらの史料を無批判に例示しているが、ほとんどは軽輩であったことに注意すべきである。仲間小姓クラスは無学で独りを慎むことはできず、放恣にわたれば振舞いはごろつきと変わらず、その野卑さを嫌う階層が増えていた。またエネルギッシュなリーダーの下では点数稼ぎに出精する役人が活動するものである。同輩を陥れるための讒言濫訴も疑うべきである。
ボラは一寸から成長して一尺で成魚。最後は三尺におよぶ。これをトドという。「トドの詰り」。
元禄13年、27歳で御畳奉行とされ、御役料40俵を貰えることに。実務は部下の手代や御畳蔵番たちがやってくれる。
もともとの知行100石は白米にすると35石、約100俵でしかないから、大きい。
100石の知行にともなう軍役は槍1本。つまり、槍持ちと中間を1人づつ雇えば良い。
貞享年間の『豊年税書』によると、コメ18石は小判18両で、大人3人と子供1人が1年で12両の食費だと。
当時の武士社会は外泊が許されないので妾は居宅に置くことになる。
武士の公務旅行では槍持ちの中間が1人、草履取りが1人、供につく。「槍持ちをはじめて連れて振り返り」
元禄5年、ある武士が芝居小屋で、酔った牢浪中の中小姓(足軽身分)に鞘を踏まれて絡まれた。やむをえずその中小姓の刀で横ざまに払ったが「刀鈍くして傷つくに及ばず」。地に倒したところをまた振り上げて首に切りつけたが、すこしひきやぶれただけ。
滅多打ちに殺したが、中小姓の刀は切れずして鍋弦のごとくになった。
博奕場を捕手に急襲されると、武士の多くは刀を捨てて逃げた。
罰の「御追放」は、「士外の仰せ」なので大小をとりあげてしまう。
滝沢馬琴は名古屋の家婦の密通は日本で一番多いと報告している。
鞘ごとの刀を掴み合いの奪い合いになると、簡単に鞘は壊れてしまう。
枯れ葉かきを木抓[こまざらえ]という。
1715に名古屋城の小天守御金蔵に侵入した盗賊は、照明用に硫黄を燃やしていた。点火には火打ち箱を使用か。
侵入形跡を面倒と思って報告しなかった御番士は、脇指を咽へ横ざまに突き通し、前へつと掻き切りて死。
財政難の藩は「簡略奉行」に華美を取り締まらせた。この配下の「お改め」を騙って商品等を略取する者が多発。
元禄7年の罪人死骸のためし物で、御道具(刀)の9振りのうち4振りは切れなかった。
晴れた日のある屋根に泥鰌が20匹も撥ねていたことがある。これは鵜の仕業だろう。
丑の刻参りは『太平記』に活写されているが、庶民の間には元禄期に普及した。近松が広めたのだとも。
元禄15年暮れの赤穂浪士の一件は名古屋ではほとんど話題にならなかった。元禄16年に芝居化した「曙曾我夜討」は上演3日で禁止された。人気を全国版にした竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」は事件から45年後の作。
元禄10年に百姓が剃刀で首を切り廻し、自殺。
▼村上兵衛『昨日の歴史』2000
江戸時代から富山の漁村は不漁が続くときまって騒ぎを起こした。貯蓄観念がない。明治になっても四年に一度は義捐米にありついていた。
このローカル恒例だった富山の米騒動を大正7年に全国区に拡大させたのはジャーナリズムであった。
17歳の大宅壮一は大阪でこの波及暴動を見た。そして中学でこの焼き討ちを賞賛する演説をして退校になった。「マスコミ」という日本語は大宅が造った。
西洋のテキストなら何でも翻訳して「円本」としてインテリに売れたのが昭和初年で、大宅は翻訳印税で吉祥寺に家を建てた。
その前の下宿には徳田球一が上海からピストル30梃を運び込んだこともある。
徳田らを応援する陸軍将校は、かなりいた。
大杉栄は甘粕の幼年学校の先輩で、扼殺の動機は近親憎悪ではないか。
WWⅠ後、日本の11年間不況。そして昭和7年から15年までは明治開国以来の経済好況。
大宅いわく、火野文学は、国民が戦争を知りたかった気持ちと、前線将兵への感謝の念から、人気が出たものだ。
対米戦争中は日本国内にカネがダブついた。そのため競馬の全盛時代であった。
三島は、書かなくなった直哉がいつまでものうのうと生きていることに我慢がならなかった。
三島は学習院で貴族から何を学んだか。社会や政治にたいしてあれほど無責任でありながら、平然として生きていられる神経の傲岸さ。
三島じしんのキャラは世間に対して小心で律儀で礼儀正しい。
三島の、学者家系の母の倭文重が終始、三島の創作の第一読者であり、もっとも信頼する批評家であった。『豊饒の海』の最後の百数十枚いがいは、すべて三島の母の感想によって書き直されているはずだ。
昭和20年2月。都会のインテリ家庭では、20歳になる息子の本籍地を田舎に移していた。田舎では都会人の体格だと徴兵検査後に召集されない確率が高いからだ。三島家もそうした。ところが加古川での徴兵検査で、第二乙種合格ながら召集されてしまった。家族も本人もショック。
しかし入営時に風邪をひいていて、聯隊の軍医がラッセル音を肺炎と誤診し、即日帰郷となった。
このような三島が、戦後、『きけわだつみのこえ』の映画のアホらしさから、戦後の精神状況を徹底的に嫌うようになった。
昭和25年の娑婆には兵隊帰りの若者が多く、職場では上司を屁とも思わない活気があった。
文藝春秋は、中央公論や改造とちがって戦中に解散させられることはなかったのだが、用紙と資金難は戦後も続き、菊池寛は投げ出した。そこで本社が大阪から東京銀座に移った。
三島は歌舞伎と能を幼児から見ている。父方の祖母が歌舞伎のファン、母方の祖母が能好きであった。
三島は昭和26年に太平洋廻りでギリシャまで旅行すると、古代ギリシャには肉体と知性の均衡だけがあり、精神などはキリスト教のいまわしい発明だった、と確信する。
大宅は清水幾太郎を、如是閑を新しくしたようなと評し、さらに、基地反対の平和主義の講演行脚について、平和主義は誰でも欲しがるチョコレートで、思想ではないと。ジャーナリズムは無思想の別名だが、強い個性と人格がなければ、すぐに他の強そうな思想にひきずりこまれ、溺れるのだと。
大宅いわく、スターリンはすべての芸術の理解者であり、よって検閲官になったと。昭和30年代のソ連について「ソ連ほど保守的空気の強い国はない」。
三島が軍隊を知らないことは『憂国』の輜重兵の呼称を見ればわかる。数日間の市街戦で輜重兵の出る幕はない。
夜間に静かに移動すべき叛乱部隊が集合喇叭を吹くわけがない。
軍装で帰宅した中尉の妻はまず軍刀を受け取って刀架に立て懸けるのが家庭作法。その前に玄関外で外套を脱がすなどあり得ない。軍刀を抱いて茶の間に行く軍人の妻もあり得ない。
村上は『憂国』を戦争文学とは認めない。これは大岡昇平も同意見であった。
三島はそのエッセイの中で「いい作品が書けているときの作家は、死からいっとう遠いところにいる」という意味のことを述べている。
戦後、蘇峰くらい悪口をいわれながら、その研究業績を黙って歴史学者に盗用された者はいまい。
国民新聞は長閥の御用新聞と思われていたのに、それが乃木遺書の全文すっぱぬきをやったのは、蘇峰にもジャーナリストの意地があったのだ。
三島は『英霊の声』以外は一気には書いてはいない。一晩に4~5枚を毎晩続ける銀行家タイプ。
三島の天皇描写「勇武にして仁慈にましますわれらの頭首、大元帥陛下である」「今日よりは朕の親政によって民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであろう。心安く死ね。その方たちはただちに死なねばならぬ」。
三島は自衛隊も旧軍のように法学士が半年ほど入隊して訓練を受ければ三尉になれると思っていた。
村上は三島の『葉隠入門』(S42年)の書評を同年に東京新聞に書いている。村上は、武士道の精華は、主人を「頼うだるひと」と言った室町以前の精神契約にあり、徳川以降の武士道は契約相手が不在の形骸で、真の死生観は葉隠を一関こえたところに探すべきだと考える。三島はいかなる死が犬死にかは誰にもわからないので、死後をおそれない決断が人間行動の自由を保障すると解した。
S44年10月21日読売朝刊での、村上vs三島対談。
村上いわく、陸続きでない日本には市民の直接戦争体験がない。だから民兵組織は国民に理解不能なのではないか。
三島いわく、戦えるヤツをつくることが課題。
村上いわく、文士の道楽と思われないか。
三島いわく、人がどう思おうと意に介さない。会の意義が生じるとすれば、今ではなくてこれからだと思う。ノンポリにも全共闘にも属せない学生は居所を探している。
村上いわく、制服は人間を画一にさせる。
三島いわく、全共闘どもの格好こそ画一的だ。しかも薄汚くむさ苦しい。
村上いわく、70年安保で国民は国防についての決断を迫られている。だから楯の会も拒絶されなくなった。
グァムは日本統治時代の方がよかった、と最晩年の大宅。
体験小説『憲兵』の作者である宮崎清隆に、三島は、死にたい理由を語った。第一に、書けなくなった。二番目に、川端が媒酌人になっている妻との仲。離婚すれば文壇から抹殺されるだろうと。
平和主義、暴力否定、conformity が日本では尊敬されるが、三島はそれが大間違いだと。
エセ知識人。思想に自分の身の安全を保障させる輩。思想を守るために命は懸けない。
そうではなく、知識人とは、あらゆる順応主義に疑問を抱き、むしろ危険な生き方をすべしと考えた。
※「優雅と武士の伝統の幸福な一致」など求めていたら、国内戦は戦えても、外国には勝てないだろう。
村上いわく、東部軍の軍司令官が民間人に縄でしばられてなんの抵抗も示さなかったとは、そんな軍隊があるかと。それは平和主義ではない。腰抜けだ。
幕僚の三好秀男は戦中にフィリピンゲリラと国際法の通用しない戦いを体験している。彼は事件当日出張中だったが、もし居合わせたら絶対に縛られなかったと。
士官学校の区隊長として21歳で敗戦を聞いた村上は、沓掛から東京に向かう列車車内で見知らぬ人同士が「これから、日本はどうなるんでしょうなあ」という科白を百遍も聞いた。
WWII前の英国を旅行したツヴァイクは、英国人がまるでヒトラーを警戒していなかったと。周辺ドイツ人を統合したあとはヨーロッパ人に対する感謝のしるしとしてボルシェビズムを根絶するだろうと、語られていたと。
村上じしんは、文学者の自殺は「事故」と呼ぶのがいちばん近い、と。
江藤淳の死は文学者の自殺というより一社会人の死だから論ずるものではないと。
▼高木彬光『古代天皇の秘密』S61年
奈良の大仏を造ったときの銅は、福岡県の遠賀川に近い香春岳[かわらだけ]で大半が鋳造された。和銅元年よりも何百年も前から香春神社のあたりでは銅をつくっていて、その宝鏡が宇佐八幡に納められている。
玄界灘は冬は強い北東風が吹くので、魏使は夏にやって来たはずだ。そして遠賀河口近く、神湊ふきんに上陸しただろう。邪馬台国は宇佐にあったのだろう。魏志の百里は15kmだろう。
『隋書』の「琉球伝」には、沖縄住民が男女みな、白紵の縄を以て髪をまとい、うなじの後よりめぐらして額に至る、とある。『万葉集』に「ひたいがみゆへる」と見える肥人は熊襲で、かれらは沖縄人と同族だったのだろう。
熊襲は、今の熊本に住んだのが熊、大隈の「そお郡」に住んだのが襲。そして、襲=隼人だろう。
隼人は海人族で、名前の頭に「ア」音がつくことが多い。あずみ、あまべ、あら、みな同じ。
カンボジアのクメール、久米島、熊襲(=狗奴)も、みな同じで、大伴氏は熊襲の出だ。
▼雄山閣 ed.『文武抗争史』S8年6月
戦争後は文官が台頭する。頼朝は大江広元を用い、三善康信を招いた。梶原景時も文臣だといえよう。
足利尊氏は、高師直や上杉憲顕に政務を委ねた。
信長は、朝山日乗、村井貞勝を重用。
家康は本多正信、正純、板倉勝重を信任。
源義経、範頼、畠山、和田、足利直義、直冬、福島正則、加藤忠広などはみな、ただの武骨だったから除かれた。
シナにも、普の杜預、明の陽明など、文武で功を挙げた偉人はいる。ロシアではピョートルが文武兼備。
坂上田村麻呂はあれほどの偉勲があっても文官の下に居つづけた。
平氏も源氏も、皇室を出て二、三代にしてすでに5位の受領位より昇り得なくなった。将門は一検非違使を求めても得られなかった。
しかし日本ではただの文学の士は宰相になれない。吉備真備、菅原道真が上代の例外で、江戸時代では林道春と新井白石だけ大出世したといえる。
シナで科挙が完成した宋代はまったく文人の天下。
清の二百数十年のあいだに満人は漢人に化せられて、満州人は一時其の故郷を失ひ、国語も亡ぼされた(p.9)。
日露戦役後最近に至るまで実益を収め、領土を拡張した者は支那である(p.10)。
古代人は知力を畏怖したから「かしこし」と言うのである。
日本の権威はどこまでも官職にあって、氏族になかった。だから貴族は官職をもとめた。それがなければ無力であった。
中央で立身できず、阿諛追従のできない覇気ある野心家が、あえて文化の冠絶する都を捨ててクソ田舎の国司になろうとした。
住民はそのような人材を大切にした。
任期が終わって国司を交替すると後任者から不正私曲を摘発される。だから居座り、子孫が地方豪族になった。
長元5年、数十人の強盗が安芸守宣明の邸に押し入って、主人や妻を射殺した。
それでも犯人を公式に死刑にできなかった。
前九年と後三年役では大雪と糧食不足に悩まされ、将士ともに馬肉を食った。
雷雨降雹の烈しさに恐れて鳳輦を棄て去った近衛武官の失態が弘安9年。
吉野朝支持者がすくなかったのは、大覚寺党の中にも思想分裂があり、去就に迷う者が多かったため。
参考源平盛衰記に、10月4日、早尾坂の城の防禦側(堂衆)が、「岡には大石を並て石弓をはる」。そして、攻撃側(院宣をうけている清盛と、その官兵にサポートされた学生)は「多は石弓に打れてぞ亡ける」と。※これはカタパルト投石器か。
太平記はいう。北条氏討滅の謀議をすすめるため、やかましい格式をいわずに同心の者を集めるために、後醍醐天皇が無礼講といふ事をはじめたのだと。つまり身分を超えた秘密結社だった。花園上皇の日記にはこれを「破礼講の衆」とも。
※日本のクーデターチームが望んできたのは常にこれだ。
夢窓国師は次のように尊氏を褒めた。合戦の間の肝が据わっている。降参した敵を許すことができる。物惜しみをしないで部下に武具でも馬でもなんでも下し給う。
国家守護を高唱する古京6宗は上代的、現世利益を高調する密教は中世的、死後の冥福を力説する浄土教は近世的宗教である。
禅宗の原始教団は反貴族的なのがモットーで、生活費は自らの労働により、静室以外には伽藍をつくらず、階級もない。これが民衆を感激させた。しかし権力者と結びつくと祈祷密教になった。
武家は毎日、五山を訪問した。目的は美少年。禅寺の経済力で訓練され化粧された美少年は、武家の美少年より魅力的だった。禅林は武家専属の待合になった。
御相伴給仕、御前給仕は芸者であり、御相伴衆は幇間である。待合政治はここから始まる。
増水……水が多くてコメの少ない粥。
足利幕府が京都では全部抱え切れなくなった多数の禅宗の知識人たちが地方に拡散して武家を相手に儒学を教えることを新商売にした。
清正は熱烈な法華経信者だったが行長は基督教徒。両人の葛藤は朝鮮人も見抜いていた。黒田如水は行長を、執拗の夫にして他言に従はず、と。
後光明天皇から、仏教を斥けて、江戸幕府を真似て新儒学に凝った。すなわち貴族の秘伝であった漢唐の古註ではなく、朱子の新註で論語を読んだ。
60年代核戦争映画をぜんぶ見直さなくては!
わたくしが未見の映画『フェイル・セイフ』のセリフを動画から全部拾ってトランスクリプトしている物好きな人がいて、その英文ウェブサイトを読んでみたのですが、打ちのめされた。シナリオ読んだだけで手に汗握るという体験を初めてしました。凄すぎる。
驚いたのは、この映画でウォルター・マッソーが演じていたのは、例のフォン・ノイマンじゃないですか! 原作者と脚本家は、彼の「ゲーム理論」を攻撃しているのです。ノイマンは理解されていなかった。
実説の彼が「アメリカが今のうちにソ連を先制攻撃すればアメリカはワンサイドゲームで勝てる。今それをやらなければアメリカは将来苦労する」と語ったのは、ソ連崩壊後の今になって米国人の身に染みているでしょう。
またこの映画の格好よすぎるショート・センテンスの会話(ゲームの勝者がいない、等々)からスピンアウトしているのがディズニーの『ウォー・ゲーム』だったのだと、おそまきながら悟ることができました。
そしてこれも今更にして漸く分かりましたのは、『フェイル・セイフ』のマッソーはノイマン風のノイマンであったのに対して、『ドクター・ストレンジラブ』は、キッシンジャー風のノイマンにして、キャラをひねっていたわけだ。つまりキューブリックは、ノイマン風のノイマンでは面白くないと判断したのでしょう。
電話先のロシア人指導者の声の調子から、相手が自分を信用しているのかどうか判別するノウハウがあったようにも書かれています。「バウリンガル」は、突然出てきた技術なんかじゃないのでしょう。
以下また、摘録とコメントです。
▼『別冊歴史読本 20 武士と天皇』2005-8pub.
10世紀後半から11世紀前半、「非職之輩」は弓箭を佩帯してはならぬ、とする「兵杖禁止令」が頻繁に出された。
上皇を警備する武士すら特別許可なしに弓を持てないという厳密さ。
『嘉吉物語』によれば、将軍義教の右手を赤松則繁がおさえ、左手は教康が押さえて、その首を刎ねた。
管領・細川持之は、殺害の場から這って逃げたことで、威令を失った。
名前の「通字」。北条家は「時」。足利は「義」。徳川は「家」。嫡男はこれらの字が上につく。庶子の弟たちは、嫡子の下の字を「系字」として、それが自分の名前の上につく。
徳川家光の長男は家綱である。その家綱の弟はすべて「綱○」と名づけられる。
清和源氏の通字は、とちゅうで頼から義に変わっている。
北条氏の「時」の字は、上下のどちらにも用いた。
三浦氏が義の字を使い続けたのは祖先の八幡太郎義家とのつながりを強調するためか。
合戦における兵の死因の第二位が、馬に踏み潰されたことによるもの。
富士川の戦いに平家は4000人が出た。これが、見たこともなき大軍といわれた。
相模の三浦氏、伊豆の伊東氏クラスでも300騎くらいしか出せなかった。北条氏は40騎であった。
有力守護の畠山義就は応仁の乱の生きるか死ぬかの動員で、騎兵350、歩兵2000を集めることができた。当時の日本の総人口は1500万くらい。
諸葛亮は文官である。しかるに日本では大江広元の息子までが武士になってしまう(毛利季光)。そうでなかったら人はついてこなかった。
三成に人望がなかったのも文化の違いだ。※部下と運命をともにしない奴と思われたのである。
『吾妻鏡』の三浦氏滅亡の記述はいいわけじみており、史実は北条氏にとって特別に弁解が必要な、寝覚めの悪い経過であったことを暗示している。
禅宗の特徴は弟子になるのに出自を限定しないこと。道元は叡山の女人結界をも批判した。
鎌倉幕府は六波羅探題にも最後まで司法権を分け与えず、全国の御家人を直接支配しようとしたが、室町幕府は一転して守護(大名)の分権を追認し、各探題にはほとんど自治権を与えた。
御家人と非御家人の階層を分離固定化し、さらに御家人のなかの少数有力門閥が排他的に徴税支配権を握り続けようとしたシステムが全国の武士から悪まれて、鎌倉幕府は滅んだ。
足利尊氏は師直の命日に直義を毒殺した。直義の下についていた時氏は山陰の鉄資源のおかげでしばらく強勢を保った。
『太平記』を見れば、神器は複数あって入り乱れ、どれがホンモノかはすでに分からなくなっていた。
1393に室町幕府は酒屋土倉に毎月定額課税した。地頭御家人ではなく、都市に基盤を変えた。
天皇の代がわりにともなう諸儀式はかなりの物入りだった。それで戦国期には天皇が望んでも手元資金が無いので譲位不可能となり、しかたなしに終身在位した。即位礼すら断絶する可能性があった。
信長が三職任官を断ったのは、すでにシナ皇帝となる野心があって、日本の朝廷の官位では縛られまいとしたのだろう。
秀吉は小牧長久手で家康に敗北すると軍事一辺倒の方針を転換した。諸大名を朝廷に叙任推挙してやる。そのとき天皇の面前で従一位関白の秀吉は他の大名の誰よりも座次と礼服格式が高いことが厭でも確認される。
※天皇家から距離を置く将軍ではなく、天皇家に最も近い「第二の藤原氏」になろうとしたのだろう。
定信の「大政委任論」……日本の国土と人民は将軍が天皇から預けられたものである。しかしそうだとすれば将軍家は天皇家を大切にすべきであるから復古調の御所造営に大金を投じなければならなかった。
諡号[しごう]制……清朝までのシナの制度で、前代の王を名前によって評価し、支配の正統性を宣伝する。日本では易姓革命が起きなかったので光孝天皇で途絶え、以後は日本独特の「追号」に変わった。追号には顕彰賛美の意味がなく、在所や陵地にちなむ。この追号と「○○院」の尊号の始まりとは重なる。
※公武は対立していたのか、相互補完だったのか、という、視野の狭い学説争いが日本史学界にはあるらしい。キリスト教会と欧州の地上権は対立していたのか、相互補完だったのか? どちらかがなくて済む話か?
▼林盈六[えいろく]『力士を診る』S54年pub.
得俵は土俵内のごみを掃き出すためにある。
大正15年時点で大阪相撲の実力は、その横綱が東京相撲の前頭と互角。
維新でなぜ力士の髷だけは断髪されずに済んだか。西郷、板垣ら、相撲好きの元勲がいたので。
明治42年の旧国技館の建設により、「晴天10日・雨天順延」の必然性がなくなった。
一般に母親が大型だと、その男子は大きくなる傾向がある(p.23)。
身長がまだ伸びている途中かどうかは、レントゲンで大腿骨の骨端をみると簡単に分かる。成長中の骨端は柔らかい。
明治時代の入門者の選別ポイント。両股を真一文字に開き、上体をゆっくり前傾させて顔が土俵につくか。また、正座して両踵のあいだに尻を入れ、上体をゆっくり後傾させて後頭部と背中が土俵にぴたりとつくか。
また、手・足が大きいかどうか。そこが大きいものは上背が伸びてくる。耳たぶがゆたかかどうか。ゆたかな者は筋肉がつく。
幕下にならないと羽織は×。
相撲部屋の平日は朝6時から11時まで稽古。朝飯は抜きである。
二子山部屋だと15組が土俵におりるので一人当たりの稽古量は正味20分だ。番付上位から入浴し、昼飯のちゃんこは11時すぎから始まる。が、これまた番付上位からの順番なので、最下位が席につくまでに1時間半かかる。
ちゃんこのあと、2時間の昼寝。体を動かすと口から食べたものが出るくらい詰め込んでいるので、仰向けのまま。目が覚めると手の指がパンパンに脹っていて、指が曲がらないくらい。育ち盛りだと、昼寝の後で体重が午前より5kg増えているが、午後の稽古でまた元に戻る。
この「飢餓運動ストレス」の繰り返しが、摂食時の脂肪のためこみを細胞にうながし、太った体をつくっていく。ただし中卒入門時に肥満していない者は、脂肪細胞の数がふつうであるので、引退後に元に戻る。
ちゃんこ当番は、その日の稽古は休みである。昼でもビールも出る。
双葉山はけっしてマッタをしなかったから偉大。「後の先」で勝てた。
名古屋場所は梅雨から夏にかけてで日々の気温の変動が激しく、体調が乱れがちなので、できれば東北か北海道にしてほしいと力士は思っている。
場所数が増えたことにより若い有力者の番付上昇は3倍早くなった。
そのかわり、病気や怪我をすると治す暇がない。
「無事これ名馬」は力士も同じ。
相撲で「かいなぢから」というのは世間で想像する静的な筋力のことではなく、技をかけるときの動的な威力。特に握力だけ測定すれば、ドクターの著者より弱い大関はいくらでもいるのだ。握力は、押し相撲とも四つ相撲とも関係がないのだ。
昔、崎陽(長崎)でシナの鍋をチャンクォといった。これがちゃんこの語源であろう。 大正初期の角聖・常陸山の出羽の海部屋があまり入門者が多くなったので、ちゃんこ料理が発明された。
本書の時点で約30の相撲部屋があるが、やはり親方の出身県の者が自然に集まる。二子山親方のもとには青森県出身者。
井筒部屋は鹿児島。
昭和30年代まで四足獣の肉はちゃんこに入れなかった。土俵に手がつくというのでゲンが悪い。
WWII中、ワインが配給制になったフランスで肝硬変が激減した。1週間に1リットルの割り当てであった。
日本でも戦中~終戦直後は肝硬変が少なかった。
アイクが心筋梗塞で倒れたとき、主治医は規則正しい運動とウィスキー飲用を勧めている。
アルコール分解にはビタミンB1 が必要で、それが足りなくなると脚気心臓の症状が出る。
糖尿病治療中にアルコールを飲んだら、むしろ多めに飯をたべないと死の危険がある。アルコールはカロリーはあるが低血糖をもたらすので、血糖値が低くなりすぎてしまう。脳に栄養がいかなくなれば、廃人になる。
1日5合以上も飲んでいれば、かならず膵臓がやられる。
力士の急性膵炎は千秋楽の晩に多い。それも名古屋場所か秋場所。疲労とアルコールと冷たい氷水の組み合わせが引き金になるらしい。
ストレスに対抗するホルモンは午前10時ごろが最高で、夕方から夜にかけて弱くなる。 アルコール分解能力は逆に夕方から夜に活性化し、朝は最も低い。
北の湖はノンスモーカーだったが、貴ノ花はチェインスモーカーだった。輪島もスモーカーだ。
水入りの大相撲で先に息があがるのは決まってスモーカーの方だ。持久戦ではデブの方が先にスタミナ切れするのは常識なのだが、北の湖にはその弱点はない。やはり喫煙しないからだ。
大正の関脇・玉椿憲太郎は、身長が158センチしかなかった。
昭和の大関・大ノ里万助は、体重が75キロしかなかった。しかしさすがに昭和30年以降の記録では、幕内の最軽量でも95キロである。
昭和前期、大相撲は年に20日で、1月場所と5月場所しかなかった。だから優れた力士は37歳まで現役でいられたのだ。
人体は脂肪以外の組織からカリウム放射線をつねに発散しているので、この全体量を測定すると、体重との兼ね合いで、脂肪の全量が判明する。
男子平均で10~15%だが、この脂肪量は偶然にも上腕と背中の皮下脂肪の厚さに比例していることが判明している。
肥満は短命であると世間に知らせたのは、アメリカの生命保険会社。
力士の体重差は20kgまでは押し合いに影響がないが、30kgの差があると、押される感じがまるで違う。
力士で頻脈を訴える者は多い。頻脈の反対は徐脈。
戦前の力士に性病と脚気はあっても、糖尿病はなかった。
糖尿病は血管の内壁を具合悪くするので、脳の血管がやられれば脳卒中となり、眼にくれば網膜症や白内障になる。腎臓がやられるのも、血管から。
片足のアンクルにサポーターを巻いているのは、痛風。軽い捻挫を起こしたところに尿酸結晶が集まるので。
親方になるとストレスから潰瘍になる。
人間の歯の型をみれば、本来、肉食でない動物であるのはあきらかだ。
親方はちゃんこの後、昼寝しない方がよい。肥満しないため。
帯状疱疹(ヘルペス)が出たら癌検診をうけたほうがよい。
突っ張りを得意とする力士、または入門当初の力士は手関節を捻挫する。一度傷めると、治ったあとも土俵上では不安防止のためテーピングで庇うようになる。
千代の富士は最初の肩脱臼のとき仲間が力まかせに整復したので無理が生じ、しかも完治しないうちから稽古を再開したので、長く尾を引いて苦しめている。
力士の骨折で最も多いのは肋骨で35%、ついで鎖骨の25%である。一般成人では前腕骨が19%、肋骨が16%である。
力士で上腕骨骨折する者はまずいない。
60人入門者がいて、十両以上になれるのは1人。横綱は300人に1人。
腰椎の痛みに副腎皮質ホルモン剤を痛み止めとして投与する医者はよくない。劇的に効くが、副作用があり、薬を中止すると痛みが前よりひどくなる。
行きずりの医者がよくやる。
風邪薬はレスタミン系物質のためどうしても催眠性がある。そしてこれは筋力を発揮させない作用もある。
新刊と旧刊の摘録とコメント。
▼渡部昇一『昭和史 松本清張と私』2005-12刊
松本清張の『昭和史発掘』は、その後の立花隆の『日本共産党の研究』で古くなった。 この両大作は、どちらもシンプルな個人の著作ではなかった。『昭和史発掘』は1964~71の週刊誌連載期間を通じて藤井康栄がデータマンを務めている。『日本共産党の研究』は、文春あげての調査体制を組んだもの。
※組織の一員となれば「仕事の効率」が得られる。それゆえに大企業のサラリーマンの給与は零細企業よりも良くなるのであり、中央官僚の「ご説明」は一人の党人政治家よりも隙が無い。ただし仕事の満足度の基準は、ギャラとは独立である場合がある。
シベリア出兵を日本政府は渋り、アメリカが兵を出すなら日本も出しましょうと言った。連合国はアメリカのウィルソン大統領を口説き、日米共同出兵の形にさせた。
共産党大好きの清張は、尼港事件の下手人に多くのシナ人や朝鮮人がいたことを書かない。また日本側に責任があったような書き方をしている。
田中義一といえども300万円という大金を手土産に政党に入らないと首相にはなれない時代。それのどこが暗黒か。米国でもアイクは退役してすぐ政界には迎えられなかった。いったん大学総長になって民間人として共和党に入党している。
中野正剛も尼港事件でロシアを庇護している。当時の人は「中野は赤化している」と見た。
中野はコミンテルンからカネをもらっており、それを追及され死んだのではないか。
摂政宮を爆殺せんとした朴烈の皇室憎悪は、コリア系共産党員と一部部落解放運動家にはよく見られた思想。
荒畑、堺、山川などの大物共産党員が日共から離れたのもそれが理由。
宮本はモスクワに従うのが正しいと。沖縄出身の徳田球一もそう。
摂政宮にステッキ銃を発射した難波は無政府主義的な共産主義者。
当時の法律では朴と金子文子は死刑しかないのだが、判決から10日後に特赦となって無期懲役に。清張は、でっちあげだったからだというが、これは当時の日本が成熟していたからだ。
田中清玄いわく、朴はGHQに解放されたあと、北鮮に渡り、そこでスパイとされて殺されたと。
清張はなぜ芥川の自殺の話の最後にミヤケンの論文などもちだしてくるのか。それは当時の日共への「ご挨拶」以外ないだろう。『改造』で懸賞2等になった小林秀雄の論文は時代を超えた価値があるが、1等のイデオロギー教条そのまんまあてはめている御文章を、今では松本以外に誰が評価しているか。
芥川は昭和2年に自殺した。小林多喜二はその5年前に死んでいるが、死刑にされたわけではない。天皇を処刑しソ連に日本を進呈しようと運動する輩がその結社のゆえをもって死刑にされ得るようになったのは昭和3年以後のこと。しかしその後も治安維持法で死刑にされた者は一人もいなかった。逆に、共産主義者に殺され、片輪にされた警官は何十人もいた。警官が怒って取り調べが酷になったのもあたりまえだ。
大正7年の米騒動で世間が驚いたのが、22府県で被差別部落の人たちが騒ぎはじめたこと。そして大正11年に水平社の創立大会。
清張は被差別部落と浄土真宗の関係を初めて明確に指摘した。エタに市民権回復のチャンスを与えない代償として、来世に一般の者となって生まれ変わると説く浄土真宗の救済があてがわれたのだと。「今日どの未解放部落に行っても、貧しい村落には似つかわしくない大屋根の寺院が建立されている」。
浄土真宗系の仏徒が靖国神社攻撃の急先鋒であるのも故がある。
大正15年に福岡聯隊の演習に千人の水平社が示威運動を仕掛け、大騒ぎになっている。
北原二等兵が岐阜第68聯隊に入営するとき、水平社の仲間たちが赤旗(共産党)や黒旗(無政府主義)あるいはイバラの冠を描いた旗(荊冠旗)を立てて見送り、北原本人も営門に着くまで反軍演説をして歩いた。
北原を押し付けられたのは、気の弱い、兵隊あがりの中尉であった。
入隊式の知事祝辞の最中に北原は勝手に班内へ帰ってしまった。軍曹は制止できなかった。
またなぜか北原だけ、丸刈りではなく長髪のままでいることを許された。
また北原は入営時の宣誓も拒否した。
連隊長から呼び出されても、食事中を理由に待たせ、やはり宣誓拒否。
酒保で将校に敬礼せず、それをとがめられても「北原二等兵」と名乗れば誰も手が出せない。
外出を禁ずると差別だと騒がれるため外出させた。するといきなり帰営遅刻。
やがてついに脱走。重営倉と陸軍監獄の分かれ目は、一週間以内に戻るかどうかだが、北原は一週間目ぎりぎりに滑り込んだ。
直訴事件直後の中尉の処分は、まったく不明である。
姫路の刑務所に入れられた北原は昭和3年の天皇即位で恩赦。しかし「悪いと思っていない」と拒否。
清張によれば、当時の徴兵の検査官は北原のような運動をしている者は兵役にとらないようにしていたのだったが、なぜかこの検査官だけ、逆の考え方をし、このような者こそ軍隊で矯正して欲しいと思ったのだ。
しかし田中義一が嘆いたように、軍紀は弛緩していた。
『日本共産党の研究』によれば、日共が発足した1922に「二二年テーゼ」がつくられており、そこですでに「天皇制の廃止」は謳われている。それも、筆頭に。
日本では共産党員は死刑になるのを恐れた。死に物狂いになるほど日本の大正時代は悪くなかったのだ。
福本らがモスクワに呼びつけられると、いつ殺されるかわからないような雰囲気だった。そこで押し戴いてきたのが「二七年テーゼ」で、これによって党幹部たちは拳銃をもって警官を殺さなければならなくなる。
なぜ田中義一は治安維持法を改正して最高刑を死刑にしたのか。昭和3年になると、いかに大正ボケした迂闊な日本の指導者層にも、コミンテルンとその支部の日共が何を本気で意図しているのかが誤解なく悟られてきたからだ。
野呂栄太郎は重症肺結核だった。どこにいても死んでいた男。
共産党員というだけでは死刑にしないようにしようじゃないかと決めたのは、田中清玄によれば、中堅~若手の検事団。彼らは自由主義的で国際的視野もあった。
田中義一は死刑を求めた。が、検事団が反対しぬいた。
農地改革は戦前すでにその萌芽はあった(p.160)。
昭和元年の共産党幹部は年長の佐野が33、ミヤケンは17である。2.26の青年将校は、年長の西田が34歳、栗原は27だ。維新時の西郷は40、大久保は36、伊藤は27である。
立花いわく初期日共に組織論も運動論もなく、特高の掌の上で踊らされていたと。
S3以降に治安維持法で一斉逮捕された日共党員のS6年の裁判は公開とされ、被告は共産イデオロギーの宣伝以外の陳述は自由に許された。それを新聞も連日報道した。多くの被告党員はクートベ(東方労働者共産大学)に留学しスターリン治下のおそろしさが身に沁みていたので、日本のほうが良い国なのではないかと考えるに至り、佐野学以下、つぎつぎに転向した。
S7年11月の大森銀行強盗事件の背景は何か。大陸で国民党と中共の角逐が熾烈化し、極東のコミンテルンが地下に潜らざるをえず、モスクワから日共への資金の流れが中断したためのジリ貧から。
清張は庇っていたが、立花本により、スパイMの謀略などというものはなく、これら破廉恥事件はすべて日共が日共の方針として起こしていたことがはっきりさせられた。
昭和8年だけでも匪賊による都市襲撃は27件、列車襲撃は72件。
露清密約を日本が知ったのは1922のワシントン会議のとき。
袁死後、黎元洪が大統領に。すると1917に張勲が北京に攻め上り、清朝を復辟。それを安徽省の段祺瑞が討った。1920、安直戦争(直隷=北京周辺地のこと)。直隷派のボスの呉佩孚は、張作霖から援軍を得て勝つ。1922に張は満州独立を宣言。続いて張は1923年に北京をうかがうが、直隷派に撃退される。24年、容共親ソの馮玉祥が奉天(=張作霖)側について、張が北京を支配。
溥儀の帝師だったジョンストンは1934に書く。「遅かれ早かれ、日本が満洲の地で二度も戦争をして獲得した莫大な権益を、シナの侵略から守るために、積極的な行動に出ざるを得なくなる日が必ず訪れると確信する者は大勢いた」
溥儀は東京トライヤルで「覚えがない」などと否定したが、ジョンストンの本に序文を書いた上で御璽を2つ、押してある。つまり「実印つき」の一級資料なのだが、実印のない国が構成した極東軍事裁判では証拠採用されなかった。
浙江財閥は、米国でキリスト教徒になった宋耀如がシナでの聖書販売権をもって帰国して成り上がったもの。米国は浙江財閥と姻戚関係ある蒋介石を頼んでシナにて英国と張り合おうとしていた。
蒋介石の南京政府が1927に英日から承認されているのは、揚子江を押さえていたから。
清張いわく、田中メモランダムの全文を見た者はないのに、なぜ竹内好[よしみ]は昭和40年1月の『中国』に全文を公表しているのか。
日本は日露戦争後、満洲を清国に返しているし、清朝がつぶれたのちも、張作霖の満洲支配を黙って見ている。
清張いわく、1924に北京の主となった作霖の得意や想うべしだ。日本のいうことを聞かなくなったのは当然だ。
※つまり清朝の後継王朝を自分が創始できると考えた。日本軍は彼が満洲で反共防波堤になることしか希望しなかった。無学な彼を日本のエリート軍人が随意に操縦できると思っていたが、馬賊の頭目がそんな愚か者であるわけがない。ところが日本の官僚は、自分が有していない能力、つまり受験テクニック以外の器量についての想像ができない。馬賊は無筆である。試験エリートにはなれない。しかし多人数の頭目である。無法の荒野で大勢を従えられる人間には、試験では測定できないずばぬけた「器量」があるのだ。そこが、器用なだけで器量の無い日本の軍官僚には分からない。無学な者はエリートが操縦できるし、もしも操縦できなかったら殺してしまう資格が自分たちにはあるだろうと軽く考えた。満州に限らない。多くのシナ人はどうしようもなくとも、少数のシナ人には日本の役人には無い器量がある。東南アジアでも同じである。それを想像できないのが日本の役人たちだった。「程度の高い土人」とまともにつきあえなかったのが日本のエリートの失敗だ。
最後の御前会議で鈴木貫太郎が天皇に判断を丸投げしたのは、立憲君主制では絶対にやってはいけないことだった。
28年の爆殺事件は、溥儀が満洲に入る、その露払いの事件だったのではないか。
佐分利は一高でボート部。将来、大臣になれる可能性が高かった。幣原外相が駐支公使にした。幣原のペット、なる見方は当たっており、内地では不評だった。護身用の小型ピストルをもっていたが、それは自殺現場にあった大型拳銃とは違う。
蒋介石政権の中枢にいて、条約破り外交(革命外交)を推進していた外交部長・王正廷のいいように交渉を進められ、国府に与えてはいけない言質を与えてしまったのが自殺の背景とされる。
あるいは、公には申し開きのできない素性のカネをシナ側から私的(たとえば女関係)目的で受け取り、それを誰かに知られてしまったのではないか。
天理研究会の大西愛治郎は、天皇はシナ人が日本にやってきてなったのだとの教説を垂れていた。さらに天皇は不徳なりとも言い切った。そして自分が天皇に代わるべきだとまでうそぶいた。不敬罪と治安維持法違反で逮捕後も持論をひるがえさず、一、二審とも懲役四年。上告し、大審院では心神喪失で無罪。これのどこが暗黒か。
キングになるには正統性が必要で、だからナポレオンはフランス国王ではなく、皇帝になった。日本の天皇も国王であって皇帝ではない。
昭和天皇は、「機関」のかわりに「器官」の文字を用いたら問題ないといった。本庄は天皇の意を体してこれを世間にリークさすべきであったのにしなかったから、美濃部が襲撃されることになった。
当時の人も、政友会の機関説攻撃は異常だと思っていた。だから昭和11年の総選挙では民政党が躍進している。これのどこが暗黒か。
大正元年の第三次桂内閣は、組閣手続きが非憲政的だとの護憲演説だけでつぶれている。
野間清治はローマとイギリスを念頭して雄弁を日本に定着させむと夢見、明治43に『雄辯』を創刊。これが1万6000部売れた。漱石の『猫』すら1年で1万部しか売れなかった頃だ。翌年には『講談倶楽部』(講談の速記本)を発刊。
佐々木邦の短編『閣下』に、海軍将校のなかに、出仕時には背広服を着て、本省で軍服に着替える者がいるが、陸軍にはまだそんな不心得者はいない、と元少将が嘆く場面がある。
昭和5年のホーリー・スムート法が1929の株式大暴落の原因だ。1年で世界の貿易量が半分に減れば当然だ。
つづく昭和7年のオタワ会議をみて石橋湛山すら、ブロック経済の行く末は戦争だと予測した。
清張いわく、47歳の老先輩が、ほんらいは若い者がすべきテロをやったというので青年将校らは発奮したと。
鈴木侍従長の妻は昭和天皇の乳母。鈴木本人も昭和4年から侍従長。2.26で天皇が激怒するのは当然だった。
真崎の後任の教育総監の渡辺大将は、軽機と拳銃でさんざん撃たれ、軍刀でも一太刀斬られた。※2.26死亡者のなかで、最もハチの巣にされた人ではないか。いかに真崎が事件の動機であったか。
高橋是清は布団の上で拳銃に撃たれ、さらに肩に斬りつけられ、右胸を刺された。
高橋が生きていたら、日米の石油問題はどうにか解決したはずだ。
宮城を警備していた大高少尉は中型モーゼル拳銃。闖入してきた中橋中尉はブローニングの大型拳銃で、そのブローニングからプーンと硝煙の臭いがしていたので疑惑をもたれた。
清張川島陸相を評していわく、歴代中、おそらく最低の陸軍大臣、と。
真崎を有罪にすれば皇道派は潰せるが、国民に反軍感情が起こると統制派も損だと。
2.26当時、外地の満洲にいた南次郎大将もなぜか責任をとらされ、予備役に。これで現役大将は、植田、西、寺内の三人になった。
広田内閣は寺内寿一のゴリ押しで閣僚入れ替えをして船出したが、私学出身の浜田代議士とのハラキリ問答に破れた寺内のゴリ押しによって瓦解した。官僚出身の広田の内閣が日本の立憲政治を葬った。
2.26がまた起きるという恐怖が文民を金縛りにした。2.26がおきたのは5.15の殺人犯の刑が軽すぎたからである。犬養総理を殺して6年で出所しているのだ。これら凶悪犯を世直しの志士とマスコミがもちあげたのは大不況のせいだった。その大不況はマルクスの予言が当たったと解釈された。しかし実は原因はホーリー・スムート法なのだ。
米英はブレトンウッズ会議で戦後、自分たちの誤りを認めている。自由貿易が世界的ルールになった現在、日本社会にはマルクスは必要ないし、日本が他国を侵略する可能性もゼロである。
※兵頭いわく、桜田門外のテロの成功で幕府の権威は地に堕ち、幕府の消滅が決定されたようなものである。2.26はまさしくそれに匹敵する。しかし2.26や5.15が起きたのは日本の内務省の警察武力が近代国家として貧弱すぎたからだった。一弾も反撃し得ずして警視庁ビルを明け渡し、それで切腹人も出ていないことの方が問題だ。日本は本州の東北と北海道の工業化をパスして外地に何を求めようとしたのか。石油を禁輸されたのはホーリー・スムート法とは関係がない。
▼国立歴史民俗博物館監修『人類にとって戦いとは』2000-4pub.
※「大坂夏の陣図屏風」の部分を挿絵に掲げ、いかにも兵隊は女を手篭めにするものなんですよ、と言いたげであるが、左翼らしい浅さである。この屏風に書かれているのは身分のある女で、だから両手をとって誘い、あるいは馬に乗せようとしているわけである。目的は後日の褒賞である。身分のある女と下賎の女は、当時は誰でも一目で区別がついたのだ。
岩畔いわく、北支では規律があった。が、戦線が中支、そして南支に移ると、いまわしい情報が中央部まで聞こえ、戦陣訓のようなものを出すしかないと阿南陸軍次官に進言したと。また岡崎清三郎・教育総監部総務部長は、「某師団長の北支・中支における乱暴さは、松井石根総司令官をして、この師団を内地に帰さない以上は中支の治安は良くならぬと言わしめた」と。
ドナルド・キーンが日本兵の戦死者のポケットから集められた日記を分析する仕事をしていたことは、鴨下信一『面白すぎる日記たち』1999に書いてある。
『日清戦争従軍秘録』を書いた濱本利三郎は松山中学の夏目の同僚で、『坊ちゃん』の体操教師のモデルとされる。50名中35名が死んだ戦闘の生き残りで、凱旋後も数年間はその悪夢で飛び起きていたという。
「一個師団のなかで、三人しか生存者がいなかったという激戦」(p.132)が203高地であったなどと信じている研究者が、兵隊日記を見て何を語りたいのか?
1891に「輜重輸卒として入隊」(p.134)する兵隊などいたのか? 輜重兵ではないか?
雷管式小銃がその威力を実証したのはアヘン戦争。
シナ事変では二度目の補充あたりから「郷土聯隊」の建前は崩れた。他地域から混ぜるようになった。
▼石田龍城『戀の江戸城史』S9年5月pub.
千姫は、お附き老女の刑部卿の局が手引きして大坂城を脱出した。徳川の間者であったのは当然である。
※坂崎出羽守(石州濱田1万石)は、ほんとうに槍一本で救出などできたのか。二代の娘が小名に嫁すわけもない。
お留守居役と銀座役人は遊郭の保護者なり。
お目付け1000両、長崎奉行は3000両(賄賂の相場)。
「飛脚の野郎が巡礼に何んだか耳打ちをして、駈出しましたが、その駈け方と云つたら、全つきりなつてません」
上履きの下駄のことを浄木[じようぼく]という。新興宗教の礼拝堂にはこれを手に抱えて集まる。
遊女の出産(避妊失敗)率は案外に高かった。ここから考えて、武家の間ではかなり高率で水子殺しが行なわれていたのだと推定できる。
11月、3000石の豊島刑部は、城中の廊下で、老中の井上主計に短刀で抜き打ち、肩先深く割り込んだ。二の太刀で胸を貫いた。
つづいて藤森久兵衛に羽交い絞めにされたので、刑部は自分の胸を刺し貫き、その短刀が藤森の胸も刺し通した。
本多正信は武功はなかったが家康から好かれていた。同輩の妬みをおそれて、5万石で満足していた。ところが子の正純はばか息子で、家康から宇都宮の15万石をうけてしまった。
天井を二重張りにしたのが、いいがかりの一つの理由となった。
松平定信の改革も、御側御用人の本多忠壽との提携がなければ不可能だった。
将軍につく女中が「中ろう」もしくは「手附中老」。
中ろうの大ボスを上ろうという。その出自は堂上家の姫君であり、姉小路、花町、飛鳥井、萬里小路などの役名がついていた。
じょうろうのすぐ下に、中間管理職の「お年寄り」がいる。旗本の娘。
御台所につく女中は「お清」。この人たちは容貌の悪いものが選ばれており、将軍のお手はつかない。
大奥をクビにするときは「近来勤め向き思し召しに応ぜず」で、永の暇にできた。
▼司馬遼太郎『菜の花の沖』文春文庫・新装版 1巻 2000年(6巻まで同じ)
山伏の杖は「犬追いの錫杖」。
武家も庶民も成人儀式まで下帯(褌)をしないのが江戸期の習俗。北方に褌はなく、日本は南方文化であった。褌祝=へこいわい。
この庶民風俗を武家では格式ばって「元服」といっているだけ。
若衆宿もシナ、朝鮮にはない。南洋習俗だろう。稲作と漁労という点で揚子江以南の楚、呉、越が倭人に似る。楚、呉、越の言語は古代タイ語系だったらしい。
ひとつ村の異なる字ほど仲のわるいものはない。「このような社会意識は、あるいは日本だけの特殊現象ではないかと思われる」。
忠義は人形浄瑠璃を通じて庶民に宣伝されていた。
農業兼業なら漁労は沿海のみですむ。遠出の必要はない。だから逆に農地ゼロの漁村が遠洋に乗り出すことになる。
蜂須賀氏は収奪が過酷で、領民は最後までなつかなかった。
船上ではすべての言葉に耳を澄まさねばならぬ。よって無駄口は禁忌である。
網元は社会保障の責任者でもあり、不漁時のめんどうをみなければならない。しかも天候に左右される。だから三代続くことはない。
人別帳から抜かれた無宿人は、互いを石州とか備中とか呼ぶ。コジキ仲間でもそうである。
兵庫港は小さい川しかそそがないので堆積がなく、深い。しかし後背に大農地や大市街が開けない地勢のため、大坂に負けた。
北陸米を陸送で上方に送るときは馬の背に2俵づつのふりわけであった。
幕府は500石船までを公許。この頃は商船は1000石以上まで黙認。
紀州、淡路、四国の言葉がきたないのは、敬語・ていねい語が発達しなかったため。その理由はおそらく南方の無階級文化が残ったことにあろう。特に海浜がひどい。
「江戸期もこの時代までくると、むかしの船のように順風だけにたよっているのではない。横風であろうが逆風であろうが、たった一枚の帆と舵を奇術のように操作することで帆走してゆくのである」(p.245)。
そのために大きな舵が必要だった。
苗字帯刀の帯刀は大小である。
近衛は苗字であり、その上に氏として「藤原氏」がある。九条、三条、三条西、みなおなじ。
藤原氏の分流で加賀介になれば「加藤」の苗字をつくる。伊勢なら伊藤。
地名を苗字としたのは、開墾地主が土地所有権を主張するため。
北条荘をひらいたから北条家になる。
上方では冬でも日に何度も打ち水をする。商品にほこりをかけないためである。
ジャンクは枡を3個縦にならべた構造で、枡から枡への通行はできない。シナ語で船をチュワンといい、それがマライ語で訛り、さらにポルトガル人がジャンクと紹介した。
家康は、西国大名が鳥羽港から江戸を襲うのを警戒した。鳥羽城主が500石以上の船を集めて淡路島で燃やす役目をおおせつかった。
1730成立の樽廻船は菱垣廻船と同航路だが、灘の清酒を江戸に早く運ぶ専用貨物運送業である。菱垣はつみこみに7日以上かかる。樽は1日で終わる。
樽はシナ・朝鮮にはない。
桶は古代にはなく、「曲げ物」に液体を入れた。神社の手水柄杓を大きくしたようなもの。
日本の樽は灘の酒造業者の発明だろう。すぐに四斗[しと]樽ができた。
関東の酒がまずいのは、火山灰地で水がまずいため。
江戸は釘までを関西から輸入していた。
海水を嫌う絹は陸送された。
難破は多い年で1000艘もあった。
旗本の家来、大名の足軽まで武士だとカウントすると、江戸時代は10人に一人が武士だった(p.340)。
江戸初期の人口が1500万。うち、150万が侍。
元和偃武の結果、各藩はしごとひとつに吏員御同役3人をさだめ、三番勤め(3日に1日出勤)としてワークシェアした。
同心は、足軽なので、勤務中は袴をつけない。
行政の請け負い組織が発達していたので、わずかな与力・同心で統治できた。
兵庫から江戸まではふつうは10~30日の航海だが、風がよければ無休で3日で着くこともある。
右へ70度、ついで左へ70度。これを「間切る」という。(p.381)。
風をななめに帆に当てるのを「ひらく」という。
船首を風から遠ざけるのを「おこす」という。風上に指向するのを「詰めびらき」という。
これらの技術は瀬戸内で発達した。
飛脚は1店から月に3度、出ていた。江戸日本橋から京三条まで6日で走るのがきまり。
▼第二巻
戦国期の南蛮船の帆は亜麻。
木綿を二枚あわせたさし子の帆は手間かかるわりに破れ易く、水で重くなり不利。
廻船問屋は多数の人を切り盛りせねばならず、投機的でもあり、子孫はうまく継げない。
こんぴらの語源はクンビーラで、インドのワニである。
舟虫は船の敵ではない。船食虫が害虫。筆の太さで白く、長さ30センチになる。海水で呼吸している。そこで江戸期の船は淡水に碇泊しようとする。また冬は陸揚げして船底を火でいぶす。
船が衝突した場合、風上側の責任が重い。
オランダは九州より狭いが、誰もそれを知らない。識字率は欧州一であった。
船の1トンは昔の10石と換算すればよい。
つまり千石船とは100トン船にすぎない。
和船の舵は多数の綱で吊ってあった。河口の浅瀬まで入るため。
鰹は鰯を追う。干すと固くなるので、かたうおといった。
熊野には古代から水産社会がある。紀州船はどこの沿岸にも入会権を主張できた。
熊野人は山育ちでも海をおそれない。
近代資本主義がないところでは会社は血縁でやるしかない。
「信用」は農村の徳ではない。漢代に五常として「信」が加えられたのは、広域商業のせいではないか。
西鶴は日本永代蔵のなかで、シナ人の「云約束」がたがわないこと、品物にこすいごまかしをしないことを絶賛している。
のれんの信用が日本で言われるようになったのは幕末のこと。
しごとは「段取り八分」
八戸の町医、安藤昌益(1703~62)は、いっさいの支配者のいない世を「自然世」とし理想視。※ルソーの本が1750年代に出ているから、その影響だろう。
水戸藩は他の2家にくらべて石高が半分だが格式維持のため出費がでかい。そこで農民を苛斂誅求した。商品生産は顧みられなかった。ところが偶然の地理から那珂湊が水戸城下以上に発達して助かった。
津軽藩の城は弘前だが、内陸。そこで無人に等しかった浜に港をひらき、青森となった。
日本海をきたのうみといった。波の底辺が短く、するどくとがっている。
大型和船の最盛期は明治30年。
シナ語には「いじわる」「いびり」に相当するものがない?
あかを排水するのに「すっぽん」とよばれた水鉄砲があった。※スポンジの転訛?
嵐の夜は、落水者を見捨てたといわれないように、艀、または板を数枚、放り込んで去る。
朝鮮には貨幣がなく、商船がなく、したがって漂流船もほとんど出さなかった。
かみぶすま、とは、仙花紙の袋のなかに、砧でよく打ったわらを詰めた布団。江戸末期でも綿布団を買えない町人はこれであった。
商人が遠国者と交話するときは浄瑠璃の敬語を使う。武士は狂言。
帆柱は江戸のある時期から寄木になった。細い材を鉄環でたばねてある。これはオランダ船の帆柱よりすぐれている。※オランダ風車の軸がこの方式ではないか。
けやきのことを、関西では槻・つきという。
滑車・せみの材は、桜か欅でないと、摩擦で発火する。
出戻り、は船言葉だった。
門を構える許可はふつう、苗字帯刀権をともなった。
すでに売買文書が一般だったので、無筆では船頭にはなれない。
帯刀を許された百姓でも両刀を帯びるのは婚礼、山の管理などのときだけ。旅行は脇差のみ。
砂鉄を精錬するものを「ムラジ」といった。
苗字はなくとも定紋はかならずあった。
昔の剃毛は、温湿布でぬらしておいて、いきなり剃刀。
▼第三巻
サメのことを関西以西ではフカという。
柄巻きのサメ皮は南方のアカエイ。
なまこやあわびは清国沿岸でもとれた。フカヒレも。それをわざわざ長崎に買いに来た。いかに清国が内陸主義帝国であったか。人民が海に出ることを警戒し、沿岸の漁業従事すらも許さなかったのだ。
肉体が痛いと他人のことを考える余裕はなくなり、徳がなくなる。だから商人の親玉は病気になったら引退すべきだ。
鬢づけ油は、ゴマあぶらかなたね油に、蝋、竜脳を加える。
旗本に雇われる最下級侍の年俸が3両1分。よってサンピンという。
トンは、英国がフランスから葡萄酒を買うときに樽を叩いて数えた音から。
柱は杉の心材の周りに細く割った長い檜を巻いて鉄環でしめた。
706年の遣唐船の1隻は「佐伯」という名だった。
律令政権は、地方権力者が稲作をうけいれればそれでよしとした。
北海道のことを古くは「わたりじま」と。
松前氏の祖先は武田信広。コシャマインを斃した。
鰊(アイヌ語)のことを和語でカドという。カドノコが訛ってカズノコ。
松前藩だけが鯡と書いた。さかなにあらず、コメと同格という次第。
若狭湾→琵琶湖北岸→大津。このルート上に発達したのが近江商人。
1669に松前藩はシャクシャインを毒殺。
安藤昌益は将軍も商人もことごとく盗賊だと。
青森の「十三」と表記される地名は、むかしは「とさ」だったとさ。
昭和30年に江上波夫らが十三湊のアイヌのチャシ(城)を発掘した。
平安後期、東北は平泉藤原氏の半独立国だった。それを安東氏が継承。
津軽海峡の潮流は3.5ノット。
1万石大名は城はゆるされず、陣屋もち。松前は幕末に家格があがったので、最後の築城ができた。
百石以上の船は寿命が15年。北前は年に2航海くらいしかできぬ。それ専用船を造っても20往復で寿命が尽きる。
幕末の函館山は薬師山とよばれていた。
旗本の御普請役は家禄だけがあって役料がない。よって家計は苦しい。無役と同じ。
○○番とはすべて戦争役。
幕府には「縄・竹・残り物奉行」なんてのもあった。
コサックは黒貂をもとめてシベリアに来た。貂を獲りつくしたのでラッコに切り替えた。ラッコは北太平洋にしかいない。
松前藩はアイヌに和語を学ばせず、農業も禁じた。山丹への人身売りまで強いていた。 ラッコの毛皮の特徴は、なでると毛がどちらにもなびくこと。
最上徳内は農民だったが定信が直参に引き立てた。
都市では商品経済のため道徳価値観は相対的になるが、農村では道徳教育は純粋まっすぐ君を生む。
鰯も金肥だが、鰊粕にくらべて効果が低い。よって安い。
幕府は薩摩藩には海路の参勤交代を許さなかった。
1796に英船が噴火湾のアブタに停泊した。
室町商人は茶と美術品。江戸商人は学問に数奇を向けた。
明治の勅任官は、幕末の三千石・無役。
厚岸に最初に入った洋船は寛永年間のオランダ船。
幕府は大名をクビにできる。しかし藩政に口出しできない。
「嘉兵衛は、目がくらむほど腹が立ってきた」(p.340)
厚岸は直径30センチの牡蠣の死骸がぶあつく堆積していた。牡蠣がアイヌの冬の食糧になった。
アイヌの家屋は草でつくられていた。
大名の弓術師範は容儀端正(p.394)。
巻末解説。逃げ込み所のない長汀を海の者が灘と名づけた。これは陸の者の呼称ではない。
醸造酒は半年でまずくなる。西宮の水をつかうとその期間が先延ばしされた。六甲山地地下の貝殻層で硬水化し、さらに西宮地下で海水に混じるためらしい。
西宮水は石鹸の泡立ちが悪い。庭石に苔がつかない。
この水は、海岸から200~400mに湧く。その範囲外では清酒造りの原料に不適。
▼第四巻
古代インドの一部族、そして東アジア騎馬民族のすべては、一種の月代をし、弁髪にする慣習があった。シナ人だけがそれをしなかった。
定信が科挙を始めた。湯島で幕臣に受験をさせ、成績次第で登用した。
科挙と違うのは、幕臣と与力と地方代官の地役人に受験資格を限ったこと。
探検ベテランの徳内は四月中旬にエトロフにわたった。
板に縄を通す穴をあけるときは、焼け火箸を使う。
アイヌの櫂は穴があり、それを舷側のヘソに固定して漕ぐ。アッサプという。
岬をノッケという。野付崎。
道東北部では南風が霧をもたらす。西風で晴れる。そして西風はめったに吹かない。
澗・ま。逃げ込める小さい入り江。
シナ皇帝は宇内の唯一のぬしである。よってモンゴル人がシナ皇帝になったとすれば、その故郷は以後永久にシナの「版図」であると考えられる。また清朝が成立したことで、満洲と沿海州とシベリアも永久にシナの版図になった。これは西洋の領土観とまるで違う(pp.125-6)。最上徳内の千島日本領説はこの同類だった。
版は戸籍、図は地図。土地支配ではなく、その人民を畏服させると、土地が版図になる。日本のヤクザの「シマ」意識と近い。
対馬藩は朝鮮王から官位をもらって冊封をうけていた。これを根拠に李承晩も対馬の領有を主張。
皇帝に発見した土地の地図を贈る。これが西洋人の「領土発見」の儀式。
狩猟民族の特徴は、土地への執着がないことと、歴史を書かないこと。
千島の島の名がことごとくアイヌ名であることは確か。
ピョートル在位は綱吉~吉宗期。
ロシア人はバイカル湖で遠洋航海の訓練をした。
北千島には、北海道で滅んだ古アイヌ語が残っていた。
黒田が榎本を海軍中将にした。とうじ、大佐以上の海軍人はいなかった。これは外交官としての格式をつけさせるため。
旧幕の旗本は容儀が堂々としていて対外劣等意識がない。だから薩長人よりも外交に向いていると判断された。
日本の幕府は直轄領は500万石にすぎない。また、加賀の102万石大名も、土地を私有していたわけではない。徴税権、人民支配権があっただけ。これは西洋の貴族や王族とはことなる。
樺太と千島の交換は、ロシア側から働きかけた痕跡が明らか(p.177)。
エトロフにはもともと蝦夷人が700人しか住んでいなかった。鍋一つ無く、20代で老人化していた。
与力は町人相手に生涯を送る、特殊な武士。町奉行支配。
日本最大の長崎港にすら、埠頭や桟橋はなく、瀬取りであった。荷揚げのための石積み足場だけはあった。
ジャンクの断面はU、和船はVで、和船は荷物がないと安定しない。
サシは東北で岬のこと。
津軽半島、つまり左の半島の陸奥湾沿岸では潮が南流する。
津軽海峡は、周年、不意に南東風(やませ)が襲う。
囲炉裏は下賎とされ、松前の高級武士宅では火桶で手をあぶるだけだった。さすがに一室だけ、塗り籠めの間があり、冬はそこに籠城。一酸化炭素で頭が痛くなる。
伊能忠敬は測量の旅で1日32キロあるくこともあった。杖先に羅針がついていた。夜は星を天測して緯度を測った。
エトロフの沿岸魚はオホーツク向きに多く、太平洋向きは少ない。
羽太正養『休明光記』によると、エトロフのアイヌは酋長は獣皮を着ているが、他は鳥の羽をつづったもので、ひどい者は草をあつめてひっかぶっている。15歳以下は冬でも赤裸である。小屋はあるかなきかで穴居同然である。
鱒の夏の遡行がものすごかった。灯明用の油をしぼり、残骸は肥料にする。天日で乾燥させ粉々になったものを上方に運ぶ。
船頭は宋代のシナ語。
野差し=長脇差。
陪臣、つまり諸藩の藩士が幕臣の前に出るときは、たといこちらが家老であっても、丸腰になる。大名と旗本だけが、将軍の直々の臣だからである。
苗字帯刀御免の町人は、町人まげのまま大小を帯びて役所に行き、その大小を玄関であずけて、丸腰で奉行に対面する。
嘉兵衛の船の一つは『福祉丸』(p.371)。
巻末解説。「め」は海藻のこと。みるめ、わかめ。めかり神社。昆布だけは別格だったので、めがつかない。
▼五巻
天領と郡代は、勘定奉行の配下。勘定奉行は常に4人いた。
井上靖が『おろしや国酔夢譚』を書いた大黒屋光太夫は嘉平より18歳年長。死んだのは光太夫の方が一年あと。
間宮林蔵は生涯独身。
露米会社は、東インド会社の真似。
1779にオホーツクに津波あり、ウルップの山に船が登った。
元の貿易政策の反動で、明は銅銭を農村で使用させず、自国民の海外渡航を禁じ、小船ですら海に出ることを禁じた。同時期におこった李氏朝鮮ではさらに徹底していた。
幕府は八王子同心の厄介(2、3男)100人を寛政12年に屯田兵として蝦夷地に入植させた。が、地理に適応できず、数年で壊滅した。
農奴制のロシアからはどうしても水兵・水夫が供給され難かった。地主は裁判権すらもっていた。その逃亡農奴がコサックになった。
シビル汗国がシベリアの語源。
クロンシュタットは首都をまもるための軍港。
1700ころ、大坂商人は江戸のことは「いえんど」と発音していた。「いしだ」のことは「いしんだ」、「おおさか」は「おさか」であった。
ピョートルはスウェーデン軍の捕虜を大量にシベリアに流した。
江戸時代に人頭税はない。薩摩だけ例外だった。
ポーランドはカトリックゆえ、ローマで起きた進歩はすぐに伝わった。ロシアには、ルネサンスは伝わらなかった。
ロシアにドイツ人やスウェーデン人が多いのは、新教を守らんがため。
オランダが対日貿易で英国に勝ったのは日本の需要を調べて知っていたから。英国人は毛織物が日本にも売れると思い込んでいて敗退。
エカテリーナ2世の次のパーヴェル1世は貴族たちに暗殺された。
英国商船は100トン未満でも米国西海岸と広東を往復できていた。
フリゲート艦は船団護衛用の快速帆船のこと。20~50門で武装。日本ではフレカットと書いた。
ロシアの国書は皮革に金で書いてあった。
1803、光太夫は、ネヴァ川で二人乗り気球を見た。
執権北条氏のことを人々は公方とよんだ。
スペインはカリフォルニアを鎖国させて交易を禁じた。
ハワイ大学のステファン教授が書いた『サハリン』には、洞富雄の「少くとも北樺太が中国の領土であったことは明白である」説が引用されている(p.241)。
ダッチハーバーはウナラスカ島にある。
アリューシャンの聖パーヴェル島は原住民の抵抗が強く、ロシア兵が6人死んだ。
バラノフ島は全島が針葉樹林。
砲1門をもつ十数人のロシア兵に200~300人のエトロフ守備の南部藩士は火縄銃もありながら、なすすべがなかった。この報が伝わって奥羽~江戸人は非難した。
幕末の艦砲は水平直射のみ。※だから土手で低く守ることは有効だった。これを補うためにロケット弾があった。
シベリアは冬季にソリで旅すべきところであった。
嗣子に役職に習熟させるためには、親が40歳のときに家督相続させねばならない。
つまり武家や商家の息子は30歳前に家督をつぎ、家業である役職に乗り出す。
社会的年齢の成熟と老化が早いのが江戸時代だった。それに応じて、人物の挙措動作や風貌も45くらいで老人化したのだ。
農本政策をすすめている幕府が交易するわけにはいかなかった。諸藩はフリーだった。 巻末解説。銚子、は、海から見た河口の形態のことで、平安時代からある。
▼第六巻
咸臨丸のブルック大尉の日記に、塩飽諸島からあつめた水夫の無秩序、卑屈、臆病ぶりが活写されている。
カムチャッカに広域社会なし。家族と村だけがあった。
さしものロシア人でもカムチャッカでは農業は不可能だった。
カムチャッカ人は魚を穴で発酵させ保存食にするしかなかった。これはひどい匂い。
ペトロには1人の士官と50人の兵しかいなかったが、大砲が24門あり、これは加賀藩より強力であった。
その大砲訓練は毎日していた。小銃はたまにやっていた。
ナポレオン軍60万のうち遠征軍は42万、うち仏人は30万。ロシア軍は21万で迎え撃った。
ロシア海軍は、農民→水兵→将校の道をひらいていた。ただし貴族出身者のような教養の余裕の無いギスギス者が多かった。
ロシアでは軍人が軍服のまま文官職を務めた。
「小舟には、使者をあらわす白い幟がひるがえっている」(p.394)。
単行本のあとがき。 古浄瑠璃の『頼光跡目論』は、実子よりも有能な実弟を2代目の源家棟梁にしようとする話。そこに渡辺綱のセリフとして「真向をたゞ一打ちの勝負なり」と出る。
※司馬氏の後期の作品だが、貴重な情報の数々が、長くてつまらぬ小説の中に散在しているために、読みながら脳内での切り替えが大変だ。これをなぜわざわざ小説仕立てにする必要があったのだろうか。「このシーンをどうしても小説で書きたかった」という部分がどこかにあったのかもしれない。
▼安倍公房『榎本武揚』S40=1965年7月pub.
※60年安保さわぎ直後の作品で、とうじの左翼運動の中に「わざと敗北する」ことを狙った裏切り者がいるのではないかという思いが、函館戦争前後の榎本の事蹟に関する疑惑物語としてぶつけられている。すばらしい日本語の文章を書く著者も、人格は小児的なレフトであったと了解される。
厚岸に戦争中のちっぽけな砲台の跡あり。
榎本は明治2年から5年まで東京の監獄。
榎本の銅像は終戦後、「追放」されなかった。
霧は灯火の遠近をわからなくしてしまう。遠いのに近く感ずる。
兵部省糺問所、つまり軍法会議。
昭和14年ころ、西園寺が石原莞爾を憲兵司令官にしようという運動があった。※東條一派とヤルかヤラレルかだった。
退屈な者にとってのカミサマは、おおむね信じている本人の似顔にすぎない。
階段のカドをけずって丸くしたら階段の機能は悪くなる。
嘘は早足、眞は鰐足。
著者いわく、土方いわく、剣の極意は、信念を切る。わが信念だけは、ぜったいに切らせてはならぬ、と。
直参の近藤を切腹させなかったのはおかしいと。
幕府脱走兵は竹刀胼胝が隠せない。
徳川氏のけんぞくは維新後、アメリカの蒸気商船で駿州にピストン輸送された。あっというまにいなくなった。
榎本は裏切ってわざと負ける戦をしたのだ。だから仲間から暗殺されるのをおそれて辰口の番所に避難しているのだと。
大鳥いわく、榎本入所していらい、ここも封建が郡県になったと。
牢内では一と六の日に入浴させていた。
土方は、榎本を嫌ったが、大鳥をば憎んだ。
大鳥は英人エストワン著のメリケン合衆国南北戦記を獄中で読んだ?
榎本は米国留学のはずだった。が、内戦のためオランダに行き先を変更した。
大鳥は志願の無頼町人から5尺2寸以上のものだけ選んで仏式に訓練した。
福地源一郎『懐往事談』、1867の11月。米、仏、蘭の3公使は、こと定まるまで前将軍を主権者とみとめ、マゼステーと称することを主張。英公使は反対し、京都こそ主権者で、EXタイクンのことはハイネスの敬語がふさわしいと。英仏間の口論を福地は近くで聞いた。
1867-12、近藤は左肩に銃創を負う。
ペリー来航から明治元年のあいだに物価はほぼ10倍になった。※このインフレは開港貿易のせいだろうか? 政策だったのではないか?
海舟いわく、大坂から逃げ戻ってきた慶喜は洋服で、刀を肩からかけていた。
大坂城からは、書類、刀剣、古銭20万両だけを運び出した。※刀剣にこだわるのは、それが象徴的戦利品として宣伝されるからだ。
1868-1 英米仏伊蘭普は中立宣言。
毛虫の皮に帰る蝶はいない。
雷は十里の外に聞こえずというが、火薬の爆発音はもっと遠くまで聞こえる(p.111)。
内戦の早期終結をはかっての八百長戦争じゃないか、といいたい。
戊辰戦争当時は「敵を殺せば、腹を裂いて肝臓を食ったというような時代だった」(p.206)。
「当節流行のプラモデルではない」(p.207)。
榎本は、官軍も自分たちと同様、鷲ノ巣(八雲の手前)や室蘭の方に上陸すると思っていたのに、江差にきたので裏をかかれた。
開陽丸が沈んでいるので、そこは官軍も敬遠するだろうと考えたかったのだ。
江差を攻めようとした土方軍をなぜ軍艦で運ばなかったのか。これ疑問。
榎本が釈放されるとすぐに北海道開拓使になり、晴雨計を函館に運んだ。これが日本最初の測候所だ。
大鳥が、フランスと組むことに反対した。それでは英仏戦争になるだけだと。
函館戦争で『蟠竜』は砲弾を撃ち尽くして自沈。
榎本は欧州でプロイセン軍のデンマークでの勝利を目撃し、封建国家ではダメだと。
土方が処刑した新撰組隊員はみな、代々の武士家系。
榎本は五稜郭を要塞ではなく作業場にした。
海舟は事を成したあとは自分の足跡を歴史から消すのがよいという考え。だから柳生但馬の遺跡がないのに感心している。
▼トマス・ホッブズ著、田中・重森・新井共訳『哲学者と法学徒との対話──イングランドのコモン・ローをめぐる』2002-4初版イワブン
国王だけが民兵を招集でき、民兵だけがわれわれの身の安全を守ってくれる。
「人は生まれながらにして名工たりえず」(p.27)。
制定法に反する行為は不正義。理性の法に反する行為は不衡平。
国王がだまされて認可を与えたことは取り消すことができる。
コモンローの法諺。「いかなる人も不可能なことをなすように義務づけられていない」
人は、自由なしで生きることもできようが、法律なしには生きられない。※つまり国家なしでは。内乱は人命や所有権が誰によっても保障されぬ事態であることを、ホッブズはその目で見た。
もし国王が税金を徴収できなければ、国民の土地の所有権は守られないではないか (p.54)。
※つまり国家が強くなくては国民にも権力があるわけがないと考える。欧州大陸には強敵が存在するので。
内乱の法的な終息方法に特にページを割く。大赦例について。人殺しもなかったことにされる。そうするしかない。
英国では修道院が解散させられ、その土地が多くの私人の私有地になった。
「なにが衡平かを知っている人は、千人に一人もいない」(p.72)。だから裁判官は先例を重視する。しかし、これは正しくない。
英法でも、「ヘンリ4世治世4年法律第23号」といった記述をする。この場合、西暦は使わない。
海事裁判所はローマ法にもとづいている。
陪審はコモンロー裁判の慣習。それは必ず衡平に向かうだろう。
慣習は必ずしも法の権威はもたない。これがホッブズの立場。(p.97)。
それが慣習であるという理由ではダメで、それが衡平の原理に合致しているから良いのだ。
衡平とは理性の法であり、それは成文法に対立する概念。
※これは要するに、古ゲルマンの慣習では侵略は悪いことではなく、領土掠奪はいつでも誰でも a OK なのだが、近代人のホッブズは、今後の英国内ではそれをやめさせようと考えるわけである。
古い法律の文字面に人民を支配させてはいけない。その法律を立法したときに何が意図されていたのかをまず究めよ。(p.99)。
※議会の暴走を王の裁判官が常識を働かせて止めることができる。そうでなければ国民の人権が守られない場合がある。
英国の制定法は文章が長い。そして、なんと、文法の意味がとれないものがある(p.101)。
衡平法は何が罪であるかを人々に教えることだから主教職がその裁判官=大法官になるのは妥当。
法を実現するのが正義。そして衡平とは法を解釈すること。また法による誤った判決を修正すること。
国王の敵に与したもの。偽通貨をもちこんだ者。国王が任命した裁判官を執務中に殺した者。これらは大逆罪=死刑。
使用人による主人殺し、妻の夫殺しは、反逆罪。※古ゲルマンの慣習法。
臣従の宣誓者による領主殺しも叛逆罪。
王国の国民の安全は、国王の安全にあり(p.109)。
軍隊指揮官の対敵通牒も大逆罪。大逆罪は、すべての法をいっきょに破壊するから。
今の国王が簒奪者だと言う者は叛逆罪。
※「過失」「未必の故意」といった用語がないためか、過失罪の衡平についてはホッブズはずいぶん外している。
盗むとはどういうことかの定義でも四苦八苦。※これも、ゲルマン法や内乱の歴史のせい。
ヘレシー(異端)とは、もともとギリシャで、アカデミア派(プラトン)、ストア派(ゼノン)、エピクロス派、ペリパトス派(アリストテレス)のどれか一つを選ぶことをいった。
ギリシャで学校教師になるには競争があった。それで他派誹謗から殺し合いが起きた。
ニカイア信条では、「我は聖霊を信ず」。※つまり、処女懐胎はじっさいにあったと心から認めねばならない。
火刑は英国の制定法では廃止されようとしていたのに、教皇権が大きくなったことで、ヘレシーその他に関して、また復活されてしまった。
クック(=法学徒)は反王権思想家。※ホッブズは、それでは英国人は外患に弱くなって必ず不幸になると言いたかった。
「真のそして完全な理性は、個々の人びとの理性的能力のあいだの相違のなかにこそある」(p.189)。
刑罰を王が決めるのでなければ、刑罰を誰が確実に実行できるのか。ギャング団を処刑できるのは最高軍事力だけだと。
※現在の英国の諜報機関は国王直属であり、法律に掣肘されない。だから「殺しのライセンス」が保障されているのである。
大逆罪は、絞首刑。それでもまだ息があれば、地面に横たえ、内臓を引きずり出す。※映画『ブレイブハート』で再現されている。
ユダがみずから首をくくり、はらわたがひきずりだされた。使徒行伝・第1章18節。
反逆罪の犯人が女の場合は火あぶり。クックいわく、女に断頭や絞首は適用されぬと。 正当防衛殺人をクックは重罪とする。ホッブズはそれは無理だと。
※「法文による支配」と「法の支配」の違いの好例。後者は、理性・衡平を重視。
反逆罪や重罪の犯人は血統汚損者となり、相続と被相続の権利がない。
アムネスティア……忘却に付す。アテネの内戦収拾の智恵。
十分な警戒態勢を整えても、その恐怖を除去できないばあいには、相手を攻撃しても、それは正当だと言えよう。(p.231)
イングランド人が所有している土地は、厳密にはすべて国王の土地である。そうだとしないなら、土地保有の権原が無効になるだろう(p.234)。
生まれながらの自然人には土地所有の権利は主張できない。
ゲルマンとは戦士のこと。それが彼らの商売だった。
家族や従者に対する主人の支配は絶対だった。
そこには自然な衡平法しかなかった。無筆だから成文法もない。
ゲルマン社会では、男系の血統が絶えた場合は娘に相続させた。
イングランドの領主たちは、国王に戦争に召集されたとき、兵士たちの糧食を戦争のあいだ負担する義務があった。(p.240) ※だからグルカ兵に糧食を支給せずに遠征に駆り立てるなんてこともあり得ない。
土地保有を認められる見返りに軍役があった。それはイングランドでは次第に貨幣でたてかえることが可能になった。土地にみあった騎兵を出せという習慣はなかった。歩兵だけ出せばよかった。
州代表がナイトである。都市代表がバージェスである。これを国王の議会に送った。
バラとは選挙区としての都市のことである。
以下、訳注。
クックは1552-1634で権利請願の起草者の一人。国王の裁判干渉に反対した。法と議会は王より上だと考えた。
787の第二回ニカイア会議で、キリスト、マリア、聖人、天使の画像礼拝がみとめられた。
フレデリック・バルバロッサは、神聖ローマ皇帝としてたびたびイタリア遠征した。
キケロの立場はアカデミア派とストア派の混合。その文体はラテン語の模範に。すべてのヨーロッパ近代語の文章に影響を与えた。
以下、巻末解説。
国の主権は一つでなければならない。国王ではない宗教家などに国政を左右されてはならないというのが一貫した主張。
一つであるならば、国王でも議会でもよかった。現実には、国王と議会が一体となったものがよかった。
国王も参加者であるところの議会にイングランドの主権がある、と言い切ったのはロックだが、その理論はホッブズが準備した。ホッブズの共通権力・コモンパワーは、そのままルソーのヴォロンテ・ジェネラールである。
クックは民衆絶対で国王否定。それではダメだと。
クックは司法権を第一と考え、ホッブズは主権が司法界におびやかされてはならぬと信じた。
国王は最高の裁判官である。つまり聖俗両方を統括する主権者だと。※そうしないとカトリックにやられる。
議会と国王の対立は、軍事大権と官吏任免権をどちらが握るか。
国王が国防のための大権として新税を導入せんとしたのが、ピューリタン革命のきっかけになった。
※衡平(エクィティ)とは何か。簡単な例では、借金より担保の方が巨額なとき、コモン・ローでは担保はただどりであった。それは不衡平であろうというので、差額を返せという命令がエクィティ判決。ここから、純資産のことを米国ではエクィティという。ex.エクィティ・ファイナンス。
現代テニヲハの限界
アダム・スミスは1761年に言語起源論を書いています。
とうじの英国のインテリも、その伝統として、やはりギリシャ語とラテン語の基礎を十代のうちに学ばなければなりません。
ところが、これは18世紀の英国では、もうとんでもない苦業のように感じられました。
といいますのは、古代語では、ひとつひとつの語に、数十もの変化形があるのです。それを一つ一つ覚えぬうちは、古代文の作品鑑賞にまで進めません。
そして無数の変化形をせっかく覚えても、古代語は死語ですから、それを使って語るギリシャ人もイタリア人も現代にはいないわけです。それを考えますと、もう学習の入り口ですっかり厭になってしまう。
英語が粗雑で表現パワーが未熟きわまりなかった13世紀頃であれば、ギリシャ語やラテン語は、母国語では不可能な思考や表現を可能にしてくれる宝箱の鍵、魔法のツールだったわけです。だからインテリは必死でそれら古代語や現代外国語(特にフランス語)を覚えようとしました。モチベーションはおのずからかきたてられていました。
ところが14世紀に英語の骨格が固まって以降、しだいに英語の表現パワーが増して行くにつれて、高等思考のためにギリシャ語やラテン語の修業は、不可欠ではなくなっていくのです。
そして英国の軍事力が高まるにつれて、こんどはヨーロッパの外国人が積極的に英語を学ぼうとするようにもなりました。少年スミスはそのような時代にギリシャ語とラテン語を学ばされ、深く考えるところがあった。
スミスは、古代のギリシャ語、ラテン語には前置詞がなかったこと、つまり、語の格変化だけで、精密な情報伝達を実現していたことに注目しました。スミスは、これこそ自然に狭い地域で形成された古代語の特徴なのだと考えました。
ところが偉大な思想を生んだ古代ギリシャ語の文法は、時代とともに変わり、やがて、ぜんぜん別な文法におちついていくのです。それはなぜなのか。
劇的に変化したのは、トルコがコンスタンチノポリスを占領してからだったと、スミスは言います。
これ以降、ギリシャ語に「前置詞」が加わった。そのことによって古代ギリシャ語は死語への道程に入った。古代文法はその時点で破壊されて、別なものになったのです。
その変化のキモは「単純化」でした。ある情報を精密に伝達しようとするときに、すべての単語を格変化させる必要がなくなった。たんに、語と語を前置詞で結んでいけば、それだけで十分に精密に、情報の記述ができるようになったのです。ユーザーは、格変化を覚える必要からは解放されました。
ただしそれには代償が伴っていたのです。古代ギリシャ語では、一文の中の語の配列をどのように前後させようとも、情報を精密に伝達できたのです。ですから音楽的な構文が自在にできました。
ところが、前置詞で語と語を結ぶようになりますと、前置詞の前後に来てもよい語と来てはいけない語はもう決まっていますので、語の配列の自由度はほとんどなくなりました。そして、一文を書くのに、以前は不要であった多数の前置詞を不可欠に用いねばならぬようにもなりました。
この結果、ツールとして単純化したギリシャ語は、詩作にはぜんぜん向かなくなってしまった。非音楽的に、ガサツになったわけです。
現代日本語が、古い日本語よりも、詞に自由に音曲を割り当て難いのと、これは同じ現象です。
トルコ人に支配される前のギリシャ語は、たった300の根源語から、無限に新語を形成できていました。全盛期の古代ギリシャ人は、ギリシャ世界の外からは言葉を輸入しませんでしたので、古代ギリシャ語の変化はラテン語以上に複雑であったのです。
しかし古代語が別な言語と融合すれば、いきおい、前置詞が導入され、変化は単純化されることになる。だからたとえば古代ラテン語も、ギリシャ語とトスカナ語との合成でしたので、その二つの母語よりは単純化されていたんです。
スミスの時代の英語は、現在形、過去形、進行形以外の動詞は、10個前後の「助動詞」がないと、文としてまとまりません。伊語、仏語では、ふたつの助動詞が、動詞の不備をおぎないます。
4~5の前置詞と、6つくらいの助動詞によって、古代語のすべての変化と活用を代用できる。この「経済」が、近代語において発見されたのである──と、スミスは分析しました。
さて、わたくしも他人のことは言えそうにないのですが、日本語をみじかく端折ろうとしますと、ついテニヲハの割り振りが雑になり、伝えたい情報がほんとうに精確に伝達できているかどうか、あとで自分で読み返してみて、保証の限りではなくなります。
少ない字数で、精密な情報を伝達するためには、明治時代の漢文読み下し調はじつに便利なものです。だからわたくしはそれを現代文を書くときにおいて愛用しております。
現代の日本語のテニヲハは、漢文読み下し文や、現代英語の前置詞よりも規定力があいまいながらも、それでも同国人になら、なんとなく通じてしまう。このことに現代の日本語のスピーカーが無自覚であることが、米国における同時通訳者を、はなはだしく悩ませております。
この無自覚は、「他人を知らない」こととニア・イコールですので、日本人の権力にとって危険です。他人を知らなければ宣伝もできない。否、その前に、まともな政治がしにくい筈です。
若い日本人が、現代日本語のテニヲハの規定力のあいまいさ加減に自覚的になるためには、漢文の勉強か、外国語の勉強は、役に立ちます。だから小学5年生に英語を教えることは悪いことじゃない。問題は、その授業が、この「自覚」を導出できるかどうか、だけでしょう。果たしてこれを自覚できている教師が、何人いるのでしょうか? 日本語が話せない外人は、この問題を理解していないでしょう。
今日の古本・摘録とコメント(※)
▼岸田五郎『張学良はなぜ西安事変に走ったか』1995
蒋介石が南京に国民政府を樹立すると北京は北平・ペーピンと改められた。
1935-1-22に議会で広田弘毅外相が「日華親善」演説。和協ムードに。蒋は2-22に排日言論の新聞掲載を禁止。
関東軍とは別に、河北省天津にいたのが「支那駐屯軍」で、これが別名・天津軍である。1935で2000名。1936-5に5700名。
なぜそこにいたか。清朝政府が義和団事件のオトシマエとして1901に8カ国連合軍と結んだ「最終議定書」に駐兵権と演習権が認められていたから。すぐに政府後援暴動が起きる無法な国柄だから、こうでもしないと外国人の生命と財産は保障され得なかったのだ。
デモのことを游行という。
蒋介石政府の不換紙幣による通貨統一を英国が1935に助けた。英ポンドと連結することで信用を確保。これで地方軍閥は蒋に逆らえなくなった。日本は英国から協力を求められたが冷淡にスルー。
北支の中央ソビエト区を蒋軍はトーチカで包囲した。するとコミンテルンが派遣していたオットー・ブラウンは西遷を決めた。35-1に貴州で中共は会議を開き、ここで毛沢東が指揮権を握った。
コミンテルンの政策は「逼蒋抗日」。毛は「反蒋抗日」。だが毛は36-5にはコミンテルンに従う。※軍資金がすべてである。それはモスクワからしか出なかった。
日本の北シナ分離政策に米英が干渉してくれなかったので、蒋はソに接近した。
満州事変で日本が国際連盟から制裁されなかったのを見て、ムッソリーニは35-10-3にエチオピアに侵攻。これがシナ人を恐怖させた。次はシナがやられる、と。
※日本はすぐにイタリア非難のコメントを発表すべきだった。イタリア人は満州の日本人のようにテロをしかけられてはいなかった。
1935年にコミンテルンは大方針転換。社会民主主義者は、以後は敵ではない。味方にする、と。
スターリンはスペインで共産党をフランコに売り渡したように、シナは蒋介石に任せるつもりだった。
綏遠事変。関東軍参謀の田中隆吉が特務機関長として内蒙のモンゴル人軍を組織したが、それが国民党軍に敗けた。シナ人は、関東軍に初めて勝ったというので、大喜び。
蒋の37-1の「西安半月記」によると、蒋は西安で「掃討戦はいまや最後の五分間ともいうべき大詰めにさしかかっている」と叱咤激励した。
中共軍の背後は陝北の沙漠であるから三方向から攻め立てれば幹部は逃亡し、その軍隊は自分のものにできると考えた。その後、ソ連と連合できると。
蒋は学良を「おまえは若くて無知であり、共産党に騙されている」と罵倒。王以哲には「おまえたちの軍の無線がひんぱんに共産党と連絡を取り合っているが、私が知らないとでも思っているのか」と。
西安事件のとき、学良は、部下の工兵団長に、華県のある鉄道橋の爆破を命令。それにより華県・潼関からの中央軍の西進を阻止できるので。
華清池は驪山に面していた。この驪山山頂には学良の衛兵1個中隊が十数張りのテントを設営し、テロリストが裏山を越えて侵入しないようにした。
蒋発見の合図として銃3発。
事変直後、西安市内は無法状態となり、十七路軍の兵士が市内を大掠奪した。スメドレーはその被害に遭っている。
学良はスメドレーに西安から英語で宣伝放送をさせた。
西安事変直前、日本は蒋に反ソの防共協定の締結をよびかけていた。ソ連も、国民党に相互不可侵条約をよびかけていた。
学良は親中共である。その手で蒋が殺されれば、シナ人民はソ連嫌い、中共嫌いとなる。
この時点でシナ人口は4億5000万とカウントされていた。
蒋方震は、日本の陸士卒で、山縣有朋にすすめられてドイツにも留学。戦略論や日本論の著書がある。保定軍官学校の校長となった。そこが東北軍に人材を供給した。事変前までは、蒋介石の黄埔軍官学校と双璧勢力である。蒋介石のドイツ顧問団は、方震のつてで呼ばれたもの。
延安の洞窟住居をヤオトンという。
黄埔軍官学校校長時代の蒋介石は陳潔如(三番目の夫人)と同棲していたが、この陳はロシア・スクールで、ロシア人顧問の通訳であった。
国民党要人の西安入りが周恩来より3日遅れた。このラグの間に事件解決のイニシアチブを中共に握られてしまった。
事件に際してモスクワからの大事な至急指令電報が、暗号書の不整合で、中共の受信所で翻訳できないことがあったという(p.137)。
蒋介石は南京に戻ったあと「張・楊に対する訓話」を捏造し、それを西安で語ったものであると偽って発表させた。真っ赤な事後偽作であってもこのように発表されたなら公式文書となって流行するから、発表の2日後、ただちに毛沢東は「蒋介石声明についての声明」を書いて反撃した。※これが宣伝戦の正しい反撃態度である。
蒋介石は軍事と政治工作の連動が上手だった。軍事配備をすませると、たてつづけに政治攻勢をかけ、敵の内部を分裂させる(p.180)。
「蒋はちょっとしたことにさえ報復をはかる性格だ」(p.187)。
雑軍とは土匪出身者。
逮捕された学良には、明史関係の歴史書の読書だけ許された。
日本国民は武漢を占領したら国民政府は降伏するとマスコミに踊らされており38-10-27の占領の報で提灯行列した。
重慶の歌楽山のふもとにはOSSの「中米合作所」が46~49年にも存在していた。
満州の南に隣接するシナ5省の日本軍による分離工作に反発したのが、北平の学生による35-12-9運動。この熱気が張学良をつきうごかした。
もし西安事件がなければ、中共が表舞台に出ることはなく、国民党に滅ぼされていた。だから中共にとって学良は「功臣」とされている。
蒋介石を相手に汁
▼以下、S42年8月pub.夏文運『黄塵万丈』の摘録とコメントです。
屈原の「不辰」……自分の生れたときが悪かった。
1906金州うまれの著者は、8歳から11歳まで四書五経を暗記させられた。
シナ人のための中学がなかったので、日本人がシナ人向けに経営していた旅順師範学堂へ。
国語教師はシナ人で、流行の「白話体」「注音字母(現代カナ運動のようなもの)」を北京から導入。
とうじ、日本には5万人のシナ留学生がおり、一高などの特別予科にパスすれば、シナ政府の官費生となることができた。
著者は広島の高等師範に入った。シナ人は百数十人いた。
勢力を競っていた三勢力。国民党。中国青年党。共産党。後2者は、国民党にあきたりない勢力が、右と左に分かれた。中共がソ連の指導で1921に結党されると、同時に『醒獅』という雑誌を出していた集団が中国青年党を組織した。
WWⅠ後、労働力が不足したフランスは、上海でシナ人の「勤工倹学生」を募った。毛沢東はこの試験にパスしたが、自分では行かなかった。
満洲事変前、すでに朝鮮人は道尹(県知事)になっていた。が、満州では、張一族以外は役職には就けない。
張学良は、夜遊びに耽って朝寝坊を繰り返す毎日だった。
学良は易幟後、青年党を禁止した。
学良はヘロイン中毒だった(p.185)。
アヘンをやっている著者もヘロインがよくないことは知っていた。
満州事変前夜、毎晩のように日本軍が演習して砲声が聞こえ、日本内地の空気も凄まじいので、不安が募る。奉天の馮庸大学では軍事教練用の小銃を土に埋め、トラブルを避ける措置まで講じた。しかし多くのシナ人は、日本はソ連を恐れて何もできないと思っていた。
事変後、馮校長が大学専用飛行場から北京に脱出すると、地元暴民が大学を掠奪。
満州国のために働いていた馬占山らは叛乱し、ソ連を後ろ盾にできる満州里に籠った。二人はソ領へ逃げ込み、ヨーロッパ経由で極東に舞い戻る。
南満生まれの著者には、冬季のシベリアでの列車中泊はこたえた。またソ連軍は朝鮮族を将校にしてふつうにやっているのに、日本軍が満洲人を将校にするようなことはない。その違いに強い印象を受けた。
張作霖は足が切断されたが即死ではなかった。気力だけで3日生き、変装してかけつけた息子に、日本軍にやられたと言った。
日本とのトラブルは、満鉄平行線の問題だった。
爆殺された作霖はシナ民衆から「大元帥」と讃えられ英雄視された。
この事件でシナ人の日本観は一変した。
中村大尉は日本の馬に乗っていた。蒙古人にはその馬が珍しかったので注目され、変装がバレてしまった。中村は取り調べに応ずれば助かった可能性があったのに、完黙した上、柔道技で相手を投げ飛ばしたので、司令部で射殺されてしまった。シナ軍も困って、その死体を山に埋めたのである。
1924に孫文が連ソ容共路線を決め、国共合作。孫文死後の1927、反共右派の蒋が南京政府をつくり、米国の援助を受けた。
この南京政府を屈服させるには、日本軍が河北・河南・山東・山西・チャハルの北支5省(満洲の南隣の地域)を統一し、なおかつ反蒋派の「南西派」と組んで、南北から中部の南京政府を挟撃すればよいと、日本軍は考えた。
張学良は30トンの金塊を残して逃亡した。この行方は不明で、斎藤隆夫が陸相を追及してもいる。あるいは、関東軍参謀の土肥原、板垣、和知らが隠匿し、西南工作に使ったのではないか。
1934に蒋軍は端金の中共ソビエト政府を攻撃して延安方面へ駆逐した。
その督戦に西安におもむいた1936におきたのが監禁事件。
田中上奏文は、田中内閣当時の参謀総長・金谷範三の論を基幹とし、松室孝良が発表したものだ。
シナの新聞紙上では「田中奏摺」と題されてデカデカと報じられた。
著者は学生時代からこれは偽作だと思っていた。作霖と学良の2代に仕えた秘書で、王●【くさかんむりに凡】生という湖南出身のシナ人が書いたものだとも聞く。
国民政府には藍衣社という国内工作機関と、国際問題研究所という対外工作機関があった。この国際問題研究所の部長で対日情報担当の陸軍少将だった羅文軾に戦後、著者が日本で会ったとき聞いたら、王●生はじつは共産党員であったと。
南西工作が失敗した日本軍は、満州南隣地域の安定のためにチャハル省主席の宋哲元を担ぐことに決めた。宋には政治手腕はなく、実直な武辺者であったのが日本人に評価された。宋は南京政府と日本軍の圧力の板ばさみとなった。
あるとき板垣が胡漢民に、満洲は対ソ防備のための重要拠点だから、シナから切り離して独立地域にするというと、胡は、「盗亦有道」(盗むにも道理が必要だ/老子)、満洲を独立させるなら、シナ人(を代表する胡)にその代価5000万ドルを払え、と求めた。日本は無為無策でチャンスを失った。
土肥原は土匪だ、満洲のローレンスだ、などと悪評が高かったが、会ってみると儒将の風格があるとシナ人に驚かれる。宣伝ほど恐ろしいものはない。
1935に中共が延安に遷った。1933までは第三インターの指令は外蒙古または新疆経由で上海で受けた。瑞金から外蒙のどこかに移れと命令されたのも1934のモスコーからの暗号無電。モスクワからのクーリエによる命令伝達は上海にはないのだった。しかし延安では直接にソ連人が差遣されてきて、その指令を受け取れるようになり、蒋介石政権に対しての立場が強化された。
宋哲元が使えていた親分の馮玉祥は、清朝末期から有力軍団(西北軍)を形成し、シナ人としては珍しい近代教養を有し、米国には「クリスチャン・ジェネラル」だと自ら宣伝していた。馮は決して士官学校出身者を用いず、宋をも兵隊から抜擢した。宋は自分の名前がようやく書けるだけだった。
中原会戦で蒋は、閻と馮の連合軍を撃破。閻は大連に逃げていたところを関東軍の板垣が飛行機で山西の太原に送り込む。閻統治時代から山西の財源はアヘンである。
このとき蒋介石は<昔からシナは武力によって統一はできないといわれたが、しかるに自分は武力によってこれを統一した>と得意の絶頂。
馮はソ連に逃げ、洗脳されてすっかり左翼化して帰国。内蒙に勢力をのばしたが、周囲は中共党員ばかりだった。
蒋と長く争った宋哲元の二十九軍は張学良に支配された。
胡漢民は反蒋の南西5省(広東、広西、貴州、雲南、四川)をまとめ、東南アジア華僑3000万と結託して日本の資金援助で開発株式会社をつくろうとした。
磯谷廉介少将は宋哲元をまったく頼んでいなかった。ところが磯谷の部下の影佐禎昭が宋をプッシュし、冀察政務委員会の首班とした。
宋の約束実行を待てないというので日本軍が冀東政権を樹立させたことは宋にしてみればまったく面白くない。宋が反日に寝返る一因となった。
また宋と交渉する関東軍と天津軍の方針がバラバラで、日本軍は信用できないと思われた。
天津軍の経済参謀が池田純久。
西安事件で、国府の国防部長の何応欽は、西安への爆撃や出兵を主張し、蒋一族に誤解されてこまった。蒋を釈放させたのはソビエト第三インターの指令だ。
中共にあやつられた学良のために蒋介石は抗日をやるという一札をとられた。盧溝橋事件は必ず起きるというべき緊迫状態に。
事件当初、最高責任者の宋哲元が北京を不在にしていたのが拡大の一因。
宋の片腕が張自忠(三八師長)だったが、宋は師団長よりも格上のポストの天津市長を手兵がゼロの蕭振瀛に与え、しかも最有力の相談相手にしていたのが面白くなかった。
張が実力威圧によって知日派の蕭を南京に逃亡させ、みずからが天津市長におさまると、宋軍閥にはインテリがいなくなり、共産党としては操りやすくなった。北京には親日の空気は皆無となった。
盧溝橋事件のとき、張は親日を装い、日本訪問中であった。
7日の盧溝橋事件から29日の事変拡大まで3週間も経過したということは、これは満洲事変とは違って、日本側の計画的な事件ではなかったことの証しだ。
拡大の責任の8割はシナ側にある。日本の責められるべきは、ただ眼識が無いことだ。
冀東政権は親日で固め、対日貿易で利潤を得させていたが、長官の殷汝耕は日本留学組だったからともかく、その部下の幹部は侮日であった。保安隊司令官の張慶余はシナ語が分からない和知参謀の隣室で「新しい天津軍司令官は香月とかいうそうだが自分が北京の前門外にある芸者屋で買った女の名前と同じだな」と高声に談笑していた。著者はこれはヤバイ侮日の兆候だと思い和知参謀に警告したがスルーされた。やがて通州事件を起こしたのは張の保安隊である。
停戦協定は7月11日に結ばれたが、夜、どこからともなく北京城外で銃声がきこえてくる。この銃声は双方の監視員たちにも誰のしわざか分からなかった。
じつは劉少奇が夏期休暇中の北京の学生3000人を動員して南苑の高粱畑で軍事訓練させ、抗日気勢を盛り上げさせていたのだった。
急遽、帰国した張自忠は、逼宮(三国志に出る曹操の作戦)を宋哲元に応用した。すなわち日本軍との交渉をまとめさせず、宋をして「知難而退」せしめるというもの。宋は忍耐力の無い男だった。
張は香月司令官との会談から北京の自宅に戻る宋哲元の専用列車を砲兵団長の揚少佐に命じて爆破させようとした。しかし揚がターゲットが宋であると気付いて驚き、スイッチを押さなかった。
宋は北京でこのプロットを知らされ、日本軍のさしがねではないかと疑った。
香港に逃亡した揚が人に話したので、下手人が日本軍でないことがわかった。
張自忠は宋哲元に委員長を辞任させ、自分がそのあとがまに座ろうと考え、直接、そのように求めた。宋は事件の解決を委任すると言い、幕僚を引き連れて郊外西苑の二十九軍司令部に入るや、ただちに三八師の副師長に対して、今晩12時に天津日本租界を攻撃せよと命令を発した。
天津襲撃は7月29日。通州虐殺事件も同日である。
驚いた張自忠は米国兵営に逃げ込み、変装して自転車で天津に逃げ帰り、南京に向かった。二十九軍は日本軍に駆逐されて平津地区から南下敗走を開始する。
しかし張自忠はこの件で蒋介石に認められ、陸軍大将に進級したが、大別山脈での対日戦で死亡した。著者によると、事変拡大の第一責任者は張自忠だ。
著者がおもうに、日本軍は居留民保護が念頭にあるために、万一のときの早期解決を重視して天津軍を増強させた。それが冀察側を刺激した。
日本軍の方針は局地解決と全般的解決の間の連絡がなく、場当たり的だった。
日本軍の情報収集は、特務機関によるものばかりで、軍としてのシナ研究の下地がない。そのため、特務が雇用していた程度の低いエージェント(多くが日本語のできた朝鮮人)の寄せるいいかげんな情報ばかりを信じ、程度の高いシナ人からの情報収集を怠った。しかるに特務機関の高級軍人たちは、シナ人とシナ語では話も通じないくせに、自分がシナ通だと自惚れていた。
特に中共をあなどっていた。最後までシナに共産党などないのだという認識だった。ところが宋哲元の作戦主任・参謀処長の鄒大鵬は正式党員だった。3000人の学生に武器を渡したのも彼だ。馮玉祥夫人も中共シンパのインテリで、中共は彼女を通じても宋を動かしていた。
特務機関の指揮官同士に功名心競争があり、またエージェント管理の引継ぎがなく、機関長が転出すると、情報資産はすべていったんチャラになった。
天津軍の三人の高級参謀の間にも功名争いがあって、一人が得た特ダネを他の二人は妬んで無視し、情報を共有せず、バラバラに策動し、天津軍としての統一意思がなかった。
日本軍を北京郊外から原駐地に戻させないように策動していたのも中共だ。
終戦直後の国民党時代、満州には漢奸はないとされ、逮捕者がなかった。日露戦争時代の満洲馬賊は、多くが日本軍に協力している。
上海では日本の憲兵隊が無線監視班をもっていて、送信するとすぐに急襲された。
藍衣社は拳銃による暗殺を得意とする。
広東料理店は出入り口が両開きの軽いスイングドアである。
シナでは、ある人物がトップの側近であるかどうかが価値のすべてで、その人物の正式の肩書きなどに意味はない。ところが日本の役人風に考える高級軍人にはこれがわからなかった。中央統制調査局長で藍衣社のリーダーの戴笠に日本の陸相からの親書を渡せばすぐに必ず蒋介石に届くと著者がアドバイスしても、日本の参謀は、戴笠の肩書きが一少将で局長クラスだからダメだと、相手にしなかった。
蒋介石も最初は日本の政治の仕組みがよくわからなかった。近衛総理に実権が無いなら、誰が和平のできる実力者なのか? 重慶の防空壕の中で、蕭振瀛が、「三人います。それは日本の軍部の大佐、中佐、少佐です」と冗談をいい、そうした少壮軍人を代表するのが板垣陸相なのだと説明した。
重慶政府内にも、和平を実現した者が次の内閣(行政院長)を背負えるという野心がめいめいにあり、各派閥が競争していた。
蒋介石は、黄埔軍官学校を設立する前に株式取引をやっていた。
張李鸞は、汪精衛工作を、影佐の「欺君罔上」(天皇を騙している)であると。
汪の重慶脱出は、たぶん蒋との事前了解の下だろう。昆明からハノイに飛行機で飛んでいるのは、オーソライズされていたからとしか考えられない。※ルドルフ・ヘスか。
戦争のゆくえがどうなろうと、重慶もしくは南京のどちらかの国民党が生き残る。
汪は17歳のとき清国の摂政を暗殺しようとして逮捕された。
汪は自分が死んでも国民党に尽くすという考えだった。彼が読みきれなかったのは、日本が英米と戦争を始めたこと。まさかそうなるとは夢にも思っていず、非常に後悔したという。
これは著者も同じで、もし日本が英米と戦争すると知っていたら、協力するシナ人は一人もいなかったろうと。
影佐と和知はどちらも陸士26期で競争し合っており、重慶工作を自分の手でまとめて将来の大将になってやろうとの野心に燃えていた。
繆斌工作は重慶特務の戴笠が日本の情報をとるためにやらせただけ。極東裁判でマッカーサーが証人として繆斌を要求すると、蒋は繆斌を銃殺させた。
国民党特務のうち、射撃の腕が求められるセクションには、満州系統の人が希望された。射撃名人が多かったので。
「孫子もいっているように、戦いには戦いで、戦力を養うほかはない」(p.169)。※いってねー。
朝鮮人と満人は日本の憲兵隊から通訳兼エージェントにされていたケースが多かったので、終戦直後は命の危険があった。
日本降伏と同時に北京には城防隊という訓練された特殊工作隊が中共によって送り込まれた。国府軍と違い、中共は終始、平津(北京、天津)の都市に潜入していたので、国府の先手をとって諸都市を押えた。
それに遅れて藍衣社が入ってきた。鉄道が中共ゲリラに破壊されているので、彼らは兵站を米軍の輸送機のドロップに依存していた。国府兵士の入城とともに北京市内は無差別な掠奪にさらされた。
重慶の漢奸懲罰令によると、日本軍占領地に住んでいた住民は漢奸となり、占領下の大学生は偽学生、人民は偽人民となって、粛奸委員会が勝手に逮捕できた。
共産党は蒋介石に漢奸摘発をやれやれと慫慂した。そのとおりに実行すると、人民の怨みは自動的に国民党に向かうわけである。
李宗仁が親日的だったので、北支では戦犯銃殺が一人も無い。中支、南支では多数のB級戦犯が銃殺されている。
銃殺は都市郊外のきまった場所でやるので、そこに連れて行かれなければとりあえず安心。
殷汝耕は南京で銃殺されたが、獄中での態度は終始端然。他の要人はそうではない。人間が落ちぶれたときに、修養した人としない人はすぐわかることを著者は体験した。
シナ人は逮捕されると急に仏教を信心して読経する者が多く、その声がうるさかった。
国民党は、辺境民族に仏教信者が多いので、要人の中に仏教徒の戴天仇を混ぜて宣伝とした。
著者は獄中生活のためアヘン中毒が完治した。
蕭萱という湖北出身者は日本に留学したほどの男だが易者で、蒋介石の母の墓を選定した。風水。蟹の手に似ている地形のその蟹の指のところに家族を葬れば一家は繁栄するのだと。
風水は明の劉基が元祖で、皇帝のために全国に易者を派遣し、いい墓地がみつかると、付近の道を破壊して水脈を断った。そうすることで将来、皇帝より良い運勢の人は現れ得なくなるからだ。
蕭は1949年に蒋の母の墓付近を再調査したところ脈に反応がない、つまり将来がないので、台湾にいくのを止めたと。
その頃、中共系の新聞に、毛沢東の両親の墓の話が載っていた。1934頃、何建という将軍が、湖南の毛の父母の墓を破壊し、屍を灰にして撒き散らした。これで家の運命は断たれたはずであった。ところがその新聞には、何が壊したのは本当の毛沢東の祖先の墓ではなかった、毛姓の他人の墓だったと。わらうべし。
辻の潜行を保護したのは軍統局の戴笠だろう。辻は蒋の母の墓を破壊せず、逆に盛大に供養したので、蒋が恩に着たのだと。
直接にシナ人民と接する憲兵が、シナの程度の高い階層に対する人扱いが粗暴であったため、シナ人の反日態度を決定付けてしまった。