自動車教習所を閉鎖させるのはおかしいだろ?

 たとえば大型免許があればトラックドライバーに雇用される見込みのある人が、それもできなくなってしまうではないか。
 免許取得後に遠方に転居して就職する予定だった人はどうなるんだ?

 自動車教習の座学はオンラインでできるし、路上教習はマンツーマンで教官が生徒宅を巡回すればいいだろ。柔軟に考えられないのかよ?

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 COREY DICKSTEIN 記者による2020-4-24記事「At least 18 USS Kidd sailors have tested positive for the coronavirus」。
   単艦としては米海軍の2隻目のアウトブレーク。イージス駆逐艦『キッド』艦内で18人が新コロ陽性。

 水兵1名が23日にサンアントニオの治療隔離施設まで空輸されている。

 24日には、「サザン・コマンド」でふだんは麻薬密輸取締り作戦用に待機している部署から、8人の医療評価チームが乗り込んできた。
 『キッド』は非公表の港へ行き、乗員をすべて下船させて陸上の隔離施設に入れ、艦内を消毒する予定。

 アウトブレーク1号艦の『セオドアローズヴェルト』ではけっきょく840人が陽性だった。
 総員5000人のうちの、840人だ。

 『キッド』のクラスだと、乗員の総員は330人くらいと思われる。
 ※単純に比率をあてはめると、モタモタしていたならそのうち55人は罹患しかねない。

 米海軍は、すでに港に停泊中の他の26隻の米艦の内部から、それぞれ少数の新コロ陽性者が報告されていると公表した。個々の艦名や人数の詳細は非公表。

 海軍全体では、24日時点で1445人が陽性である。

 また、米軍全体では、3919人。この中には空母『TR』の罹患者もカウントされている。『TR』から出た1名の病死者は、41歳の兵曹チャールズ・ロバートであった。

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 H I Sutton 記者による2020-4-23記事「Satellites Track Chinese Aircraft Carrier In South China Sea」。
   最近のマニアはおそろしい。なんと中共空母の刻々の洋上の位置を、民間の衛星写真だけを手がかりに、把握してしまっているのだ。

 写真には、航跡が写っている。それを仔細に吟味すれば、スピードも針路も推理できる。空母艦隊がどこへ行こうとしているのか、概略、知れてしまうのだ。

 とうぜんながら、シナ空母はAISは切っている。

 一部の商用衛星の撮像は、インターネットで無料で公開されている。
 ある空母がいつ出港したということさえわかれば、その速力から、未来位置の限度が知れる。その限度内で写真を検索し、海面を拡大して捜索したらいいのだ。いちど洋上で所在が把握できたなら、あとは、ウェークを頼りに、次々に推定していくだけだ。

 このマニアたち、4月10日に、青島軍港から330浬の海面を検索した。南下するだろうとの予想を立てて追跡を続行し、4月21日に南シナ海に所在する写真にピンポイントでヒットした。それは偶然ではなく、合理的な推定の結果なのである。

 ※わたしは1990年代に日本の資源探査衛星(「もも」とかあのへんの世代)が東京湾を写したマルチスペクトラム写真を見て驚愕した。大小のフネの航跡が、長々と、海面上には残ってしまうのだ。海水が撹乱されて温度が他と違っているから。どんなステルス船だろうが、この赤外線ウェーキまでは消せないだろう。これでは、之字運動などしても、最終目的針路はごまかせないと思った。きっと、わが国は、軍用の写真偵察衛星を打ち上げるよりもずっと前から、敵国の水上艦の動静は、掴めていたのだと思う。

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 WYATT OLSON 記者による2020-4-22記事「Air Force demonstrates ‘unpredictability’ amid pandemic with B-1 bomber sortie from US to Japan」。
     B-1爆撃機が、サウスダコタ州エルスワース基地から30時間ノンストップ飛行して、三沢の空自のF-2、F-15と編隊飛行した。三沢の米空軍のF-16も加わった。

 ※先週、空軍のB-52Hがグァムから去った(ノースダコタ州のマイノット基地へ戻り、2004年から続けてきた戦略爆撃機のグァム常駐を廃止した)ことで、中共に間違ったメッセージを与えてはいけないので、このデモンストレーションがなされている。中共軍は新コロを好機と見て南シナ海でも尖閣でも悪さをし放題になっているので。

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 Nathaniel L. Moir 記者による2020-4-24記事「This Virus Is Tough, but History Provides Perspective: The 1968 Pandemic and the Vietnam War」。
         1968年、インフルエンザの「H3N2」が流行して、その米国内の病死者が、朝鮮戦争+ベトナム戦争の戦死者数を上回ってしまった。(ちなみに1968年の1年だけでベトナムでは16899人の米兵が戦死。インドシナに展開した米兵は同年4月末がピークで54万人。にもかかわらずテト攻勢を喰らっていた。)

 1968年の米国の人口は2億500万人。そして「H3N2」の病死者は100万人を越えたのである。まさしくこれぞ「パンデミック」だった。
 それに比べたら、今の新コロなど、まだパンデミックの序の口にすぎないと言えよう。

 1968年7月に「A/H3N2」インフルエンザが香港から流行した。1957年の「A/H2N2」パンデミックを引き継ぐかたちで。

 これらに付けられる略号のHは、免疫抗原となる「Hemagglutinin(血球凝集素)」の頭文字。H2とH3はそのタイプが異なるのである。
 Nは、ノイラミニダーゼという酵素の頭文字で、そのナンバーが同じということは、1957型と1968型のあいだにNには変化がないということ。

 1918年のパンデミックを生き残った老人だけは知っていたろうが、1957のインフルエンザ流行は、インフルエンザウィルスが、他の細菌症と合併などしなくとも人を殺せるのだ、ということを戦後の米国人に示した。

 インフルエンザウイルスの「H」は、動物の体内で遺伝子配列が変化してしまう。それで、前のインフルエンザの抗体が、無効になってしまう。1957を生き延びた人も、1968には無事では済まなかった。

 1968流行は、香港→米国→欧州と広がった。あきらかに航空旅行者が媒介した。民航が戦後これほど発達しなかったなら、こうした流行は局地的で終わったのだ。
 これはSARSでも言えたし、新コロでもまったく同様なのである。

 われわれは「グローバリゼーションのコスト」を支払っているところなのだ。

 1968インフルの第一波は、米国に対してのみ、厳しかった。死者がおびただしく出た。そして次に英国やフランスへ伝播した段階では、致死率が低下していた。無症状罹患者が多かった。

 ところが、1969~1970に来た「第二波」では、「くすぶり発火(smoldering)」と呼ばれる現象が起きて、こんどは英国やフランスでも「H3N2」による死者が激増した。
 それに対して米国が受けた1969~1970の「第二波」は、マイルドだった。

 ※だから新コロも、いまの段階で一喜一憂していてはならない。来年のシーズンの第二波で事情が一変するかもしれないのだ。ここまでわかっているのに、いまだに「東京オリンピック」などと言っている輩は、もう《公共の敵》認定されて可いだろう。メインスタジアムにただちに隔離療養施設を建設せよ!


旧資料備忘摘録 2020-4-24Up

▼防研史料『満州に於ける歩兵戦術を論す』M45-1
 ※版元は、戸山学校通りにある、軍需商会。

 交通が最も便なのは、冬季である。

 コーリャンは8月中旬に最大に達す。
 乗馬者の頭を数尺、抜く。

 満州の村は、圍壁は礫石を畳積し、屋壁は石土を以て構成。結氷期に小銃弾では貫通しない。
 沙嶺堡、高力屯で実証されている。

 ドイツと日本は、善射主義。
 ロシアはスワロフ主義、すなわち銃剣第一とす。日露戦争後も変えておらず、新操典でますます強調している。

 露軍の野砲の弾は、義州で7000m届くことが確かめられている。
 速射砲が、7000~8000mも届く。

 ひるま、こっちからロシア軍に迫ると、いたずらに全滅を招く。
 よって、遼陽以降、夜襲銃剣突撃によって露兵を陣地から追い出す必要があった。

 敵の野砲の射程が長いので、昼間、平坦な開闊地では、開進を開始する距離を、敵から5~7km付近とせねばならない。
 4kmに近寄ると、敵の砲兵威力は圧倒的となる。※榴霰弾のみが念頭されていた。

 1904-10-12、「ヅーシンリン」の戦闘で、日本の速射砲兵は、ロシア砲兵に対しては敢えて沈黙。ロシア第35連隊の1個大隊が、行軍縦隊で3000mまで近づくのを待って、翼次速射。3分間に大隊(700人)のうち72人を死傷させた。

 普墺戦争と普仏戦争では、砲兵戦は2000mから始まり、ライフル小銃は800m未満で使われた。
 日清戦争、北清事変では、2000~3000mで砲戦開始。

 日露戦争では、3000~4000mで砲戦が始まり、小銃射撃は、1500mまで効力があった。ときには砲兵に対して2000mで小銃射撃した例もあった。

 今の榴霰弾の毀害がおよぶ正面幅は、野砲で22m、山砲で15mであるから、小隊と小隊は、25m以上、間隔をあけるべきである。少なくも敵前4000~5000m内に入ったら。

 遼陽の計算。1個師団を1万人とすれば、1個師団の正面は日本軍で2700m、露軍で1800mである。
 1mにつき、日本軍は4人、ロシア軍は5人だった。

 沙河では、1個師団の正面負担が、日本軍は1mを3人で。ロシア軍は1mを5人で。差が開いた。

 奉天では、1mに日本兵が2.5人、ロシア兵は3.4人。

 日露戦争で、日本の砲兵は、距離3000~4000mで射撃開始した。
 ロシア歩兵は、最大2000mから一斉射撃。日本では1200~1300mから。

 平時の教育では、攻者はライフルを1000m以内で射つように教えていたのだが……。原則に背いていた。
 日本軍の指揮官としては、無駄と知りつつも、兵隊の士気上、どうしても1200mくらいから発砲させてやる必要があった。
 ロシア兵のように2000mから小銃を斉射してきても、こっちが隊形を密集させていなければ、まったく恐れる必要はない。

 普仏戦争の緒戦でドイツは、シャスポー銃のために損害が多く、途中から「散開」ということに目覚めた。

 今、歩兵は、1分間に8発、7秒ごとに1発、射てる。

 集束弾道の被弾地は、三十年式歩兵銃に在りては中距離以外に於て、大約350m乃至200mにして、近距離に在りては更に之より増大するものにして……。
 つまり現用銃の着弾のバラつきは、縦方向に最大400m近くある。

 ロシア軍のタマは、中距離以上では2人貫通しなかった(p.49)。

 26連隊の戦役意見集。
 わずかな掩体でも、現用の榴霰弾丸子は、防げる。
 30cmの土盛りをつくっておくとないとでは、榴霰弾射撃を受けたときに、天国と地獄の差が出る。

 夜襲を1個師団で実行しても、敵兵と格闘しているのはせいぜい1個聯隊の将兵。あとは、ただ跟随したのみ。

 夜襲を初めから横隊でやろうとしても、混乱して、団子や縦隊になってしまった。三塊石山。

 ロシア軍の三線陣地は、後ろに行くほど強大で、さらにトドメの予備がある。

 満州では、11月下旬~4月初旬は、大連でもマイナス14度とか15度になることあり。
 5月初旬~10月初旬までは夏で、ときどき大雨。特に7~8月の地面は最悪である。

 厚さが15~45センチある凍土は、200mから発射されたライフル弾をストップしてくれる。

 村落で防禦せよ。決して平地を退却してはならない。もし次の村落に下がることができないのなら、村落内にとどまっていた方がはるかにマシである。

 村落を攻め落とすときは、まず包囲によって敵の予備砲兵を村内に収容させた上で、こちらの砲をもって叩きまくれ。

 判断・計画・処置は、どこかへ消失し、指揮官がヤケを起こして自滅したような例が多数あったことは、各軍の戦闘詳報をひもとけば瞭々乎として羅列の文字中に現出する。

 沙河、奉天、遼陽でも、ヤケクソな攻撃のため往々、一部隊が全滅している。

▼『太政類典目録 中』M4~M10
 M6-1-13、信州上田その他、兵員備付ある場所は、当分、営所と称す。陸軍省。

 M11-1-20、体操卒 等級 任命方。
 M8-9-23、黜 等の刑を受けたる者、服役年限心得方。

 M5-7-17、海軍に「秘史局」あった。
 M10-9-1、東大久保村 病馬 緩歩場。

 M5-3-25、銃丸打殺の方法、ならびに 銃手を定む。
 M6-3-5、営倉禁錮の者、禁錮服 着用方。

 M6-12-20、陸軍一等軍医 石黒忠悳 外一名 粮食過給につき謹慎。

 M7-1-15、各種兵携帯銃器等 員数表。

 M4からM9にかけ、海兵水卒→水勇→海兵→水兵 と呼称が変わった。

 M9-11-20、乃木陸軍少佐 禁刑の日 杖刑を施行するにより謹慎に処す。

 陸軍省 伺。
 陸軍少佐乃木希典 犯罪処分の議 別紙擬律案ならびに待罪書 相添 此の段 相伺候也。10月30日陸軍。
 伺之通。11月20日。

 謹慎10日。 熊本鎮台歩兵第十四聯隊長心得 陸軍少佐 乃木希典。
 右待罪書の趣。禁刑の日において杖刑を施行す。軍律正條なし。常律違式軽に問擬し懲役10日。之を謹慎に換へ判決如右。
 《ここに欠あるか?》
 せしむ。軍律正條なし。常律違式に問擬し懲役20日。尚、情法[ママ]を斟酌、一等を減じ、之を謹慎に換へ、判決如右。11月7日。

 乃木少佐 伺。陸軍省充て。
 希典儀、去6月30日 当聯隊下 第三大隊 第三中隊 二等卒 落合鉄[ママ]二郎 辻熊吉、擅[ほしいまま]に郷里へ立ち越し候科に依り 杖刑断決致し、追て心付取調候処、当日、大祓〔6.30と12.31に宮中で行う〕に付、止刑致すべきを不注意より右施行いたし候段、恐縮の至に御座候。依之進退奉伺候也。8月3日。

 乃木少佐 伺。陸軍省あて。
 希典儀、所轄聯隊 第二大隊 第四中隊 二等卒 廣池幸作なるもの 本年4月12日 逃亡の末 同18日 帰投候に付、第二大隊長心得 陸軍大尉 青山朗より処分伺 出候際 逃亡の後、省悟して2周〔weeks〕内に帰投する者と見込み 懲罰令第22條に照し 10日間 ……営倉入申付。追て疑団を生じ更に取調候処 本犯 母兄共に病に罹り 帰省看病の儀 再三本庁へ願出ると雖ども 詮議に及ばざる折柄 母病気一層危篤なるを伝聞し遂に私情に牽かれて規則を破り 帰投を期して擅ままに郷里に帰るものに有之。依て軍律第143條に照し 逃亡に準じて論ずべき乎、思慮の粗漏なるより 失出に及び候段 恐縮罷り在り候。依之進退奉伺候也。5月20日。

 これを11月18日に第1科が議按。

▼『乃木希典全集 上』H6-6
 乃木日記。
 M17-5-5、小沢少将を訪れて帰る。特別射撃のことなり。
 M17-6-10、山県中将を訪ひ、撃剣 槍銃のことを話す。

 M17-7-6、哥利米戦記 要論 を贈る。

▼乃木神社社務所ed.『乃木希典全集 中』国書刊行会pub. H6-7
 ※M17後半~M20初の日記は欠なのか?

 M20-4-23、〔ジュヘー大尉の?〕講義あり。※歩兵大隊は「三百歩以内に近く非ざれば連発筐を用ひしめず」というのは、例のチューブ弾倉の小銃の単発用/連発用セレクターのことだ。22年式村田連発銃はまったく仏式を踏襲しているのだ。

 M20-4-28、今日より書取を始めたり。※教官が仏人なのだとしたら、これは仏語の書き取りか?

 M20-5-7、〔ジュヘー大尉から貰った?〕「装填左肩担へ銃へ直に装填する法」「肩へ銃より填発法」。※後者は、シングルの連打だ。1発づつ、薬室に指でこめる。チューブ弾倉内の実包は、突撃に移るときまで用いない。
「装填弾を抜き取る法および連発単を脱除する法」「構へ銃」etc.

 M20-5-13、中隊を、プロトン、半プロトン、および セクシヨン に分割する法。※ここから、講義がフランス語であると分かる。てことは、このジュヘー大尉もフランス軍人なのか?

 M20-8-14、人質を取ること、分遣哨、その他。

 ※M21-4からM24-12まで、欠。

 M25-1-27、夜鼠 殊に驕る。
 M25-3-6、今夜に鼠を捕ふ。※リアルの齧歯類とは限らぬ。日記には必ず符丁がある。

 M25-5-22、書、佐藤中佐に送り、銀盃 写真の礼を陳ぶ。※対清出征がいつでもあり得るので、写真を撮っておいたのである。当時の軍人は、内外緊張時には皆、そうしていた。

 M25-9-23、両児に素読を授く。※ふたり亡くした方も在る。
 M25-10-31、集作、プラウを使用す。※実弟。

 M25-12-8、本日、第一旅団長、拝命。

 M26-5-19、本日、吾妻嶽、破裂。※火山噴火。

 M26-5-21、書を梶山鼎介に送る。「地は裂くる山は崩るる太平のなまけ武士めはまた高鼾き」

 M26-6-7、朝、鞘師の謹蔵来る。太刀製造を命ず。

 M27-2-19、ひさびさに有興。※乃木日記では、「興アリ」は、芸妓をFuckしたという暗号。

 ※このあたり、刀関係、撃剣も頻出。あきらかに出征が迫る空気に興奮していた。

 M27-3-2、寺内に、士規七即 を贈る。
 M27-3-25、有興。※長州の親しい者たちとどこかに繰り出したときに、しばしばこうなる。

 M27-5-15、砲兵工廠に銅像の下地を見る。後、連発銃製造を見る。
  ※大村銅像はM26-2-5竣工とされている。その翌年に、何があったんだ? この砲兵工廠は、大阪ではなく、東京の砲兵工廠である。

 M27-6-6、有詩 肥馬大刀云々。
 M27-6-26、高行、旅団に来る。拳銃の事なり。 ※業者?

 ※M27-7後半~M29-9末、欠。戦争中は日記がないのか、それとも……?
 ※M29-10中~M32-11中、欠。

 M33-1-1、「静子」と表記。
 M33-11-11、誕生日の小宴で、有興。

 ※M33-12~M34-6、欠。

 M34-8-8、室内銃弾を買ひ……。
 M34-9-3、本日 語類第八 を見了わる。夜、発声。※『山鹿語類』。そして謡曲だ。

 M34-9-10、夜、虫多し。
 M34-9-13、御堀傳造、海軍及第の報。 ※恩人の故人の遺児か親類? 海兵32期(つまり山本五十六と同期)、最後は少将。博恭王附武官も務めた。S7に予備。

 M34-9-28、浅田飴 静子用。

 M34-12-4、小笠原憲兵中佐……来る。
 M34-12-20、「摩擦術」「マツサージユ」。※仏語の勉強か?

 M35-2-24、友安少将へ見舞状 書留 出す。

 M35-2-24、英去勢の事、参謀長・獣医部長に談ず。 ※はなぶさ号という私有の乗馬。

 M35-3-28、獣医部長に逢ひ、去勢を謝す。

 M35-4-9、本日、大戦学理 三冊 壱円弐十銭。 ※森林太郎らの訳したクラウゼヴィッツ戦争論。

 M35-4-10、地下に大穴を発見す。
 M35-4-25、午前、寺内中将より拳銃を送り来る。

 M35-5-4、ミウレル B シユヘー に写真を与ふ。帝国ホテルに托す。※ミュラーという名前なのか。

 M35-5-7、本日コンクリート壱個共に全済。

 M35-5-8、山県衛より写真到来。※対露関係が緊張してきた。

 ※乃木が馬でどこかへ行くときは常に馬丁が付いた。単独のときは「馬丁ナシ」と特記している。

 M35-5-21、朝、藤津大尉、拳銃を磨き、持参。

 M35-5-31、朝歩して高橋静虎を訪。語類 壱式を渡し 三十銭払。大戦学理 六の上を持帰る。
  ※『山鹿語類』を私費で印刷して人々に配ろうとしていた。

 M35-6-4、林太郎大佐来る。※軍務局歩兵課長。愛知出身なので旧幕臣系エリートか。大2に営門中将。

 M35-6-23、砲兵工廠に軍刀新造を託し。

 M35-6-25、林太郎来訪。野村子爵来訪。謫居童問 原本持参。借用す。

 M35-7-4、麦コキ手伝。千歯三丁、借る。※これは那須野?

 M35-7-18、西郷元帥を弔したときに、大山元帥、伊東海軍大将、黒木中将、伊知地少将がいた。薩勢揃い。

 M35-7-24、皇孫殿下へ……拝謁仰付らる。御手づから御菓子拝領。※のちの昭和天皇である。

 M35-8-22、誘蛾燈を点ず。※ここに至り、前に出てきた「虫」はリアルの虫だったと納得。

 M35-9-3、途に林太郎氏に逢ふ。

 M35-9-6、梅地氏を訪、軍刀催促を頼む。藤津に拳銃磨代壱円弐拾銭を送り頼む。

 M35-9-17、弓を作る。次郎、矢を作る。
 M35-10-14、両国に、村田煙管を買ふ。

 M35-10-24、昼、元智君、来訪。
 M35-10-27、今朝より電燈仕付。

 M35-11-1、近衛師団司令部に……森林太郎……に逢。※森鴎外は第一師団の軍医部長だった。近衛の軍医部とうちあわせでもあったのか。

 ※11中~12末、欠。

 M36-1-6。※静子の呼び名をまた「室」に戻している。

 M36-1-23、礼寿屋に、室内銃の手入を命じ、水交社 星桜会。※陸軍将官の会。

 M36-2-1、途に杉子爵に写真を促す。彼の使ひ、不在中に持参。帰後、落手。返書を出す。※1-31朝に杉子爵を訪問しているから、そのときに撮影したのか。

 M36-3-3、寿屋に銃の催促。

 M36-3-6、榊原大佐に七書を返す。 ※「武経七書」。

 M36-3-9、浅草に七書を買ひ、帰る。

 M36-3-21、寿屋に、室内銃掃除催促。

 M36-3-27。※タカヂアスターゼ の初出。

 M36-3-28、寿屋に槍を持参を命ず。

 M36-4-3、壽屋の槍、長巻を竹中に持参、鑑定を請ふ。

 M36-4-5、寿屋より赤十字槍持参。長巻および直槍を返附す。※道具屋のセールスの鴨になってたか。

 M36-4-23、長府公の依頼。石を拾ふ。

 M36-5-3、材木町に公に謁し、石九個を献ず。

 M36-5-3、林太郎夫人来訪。玉木縁談、不成立の件。

 M36-5-5、室、杉村、佐々木行。

 M36-5-20、佐々木如亀雄より写真および来書。 ※写真見合を斡旋してたのか。『細雪』の世界?

 M36-5-25、弓町の道具屋に打根を見んとす。あらず、帰り……猿楽町に打根を誂へ。

  ※6-4から6-30、欠。

 M36-7-6、博物館に岩石鳥類の打根を見。

 M36-7-8、伊知地少将、来訪。

 M36-7-14、林太郎氏来訪。玉木縁談の事。

 M36-7-16、林大佐夫人、来訪。増子の事。

 M36-7-17、朝、増子の写真を林夫人に。夜、林大佐を訪、増子

 M36-7-20、寿屋に17円10銭払、紅釼 打根 腕貫用 45銭。

 M36-7-23、打根を持参。寺内大臣に贈る。

 M36-7-24、小笠原島バナナ壱枝到来。

 M36-7-25、鎌次郎、日本橋へ教育史購入 および 写真機械直し。※カメラも所有してた。

 M36-8-8、増子……結婚の事を決定す。※相手は佐々木。

 M36-8-9、御堀傳造……を呼ぶ。

 M36-8-13、御堀傳造と午食を共にす。……日夕、保典と拳銃射撃を試む。

 M36-10-29、菅野大尉来る。天長節日、学生、撮影の事なり。

 M36-11-2、高島子爵 北堂の葬式に会す。日夕前同裳会 伊藤 写真師を連れ来る。明日の相談なり。※観兵式が11-3。

 M36-11-3、本日、寺内大臣、兒玉次長、来会の筈なりしも、不来。2時に写真を撮る。惣人員百五十余。

 M36-11-13、スーピーの波を調す。※レコードのスピーカー?

 M36-11-22。 ※北海道土人教育会というものあり。

 M36-11-27、歯2本を抜き。
 M36-11-29、臼歯をセメントにて填実す。※乃木は総入れ歯ではなかった。

 M36-12-4、荘原右治、藤島氏に依頼せし我母 藤の油画……。室内散弾弐百を大倉店に買ひ……。

 M36-12-29、大塚に長靴を誂へ20円の約。

 M36-12-31、義歯不出来なり。後日を約す。寿屋より保典軍刀出来。

  ※M37-1~M37-10末、欠。

 M37-11-2、保友少将の副官、書状持参。保典の事なり。

 M37-11-15、十八珊[ママ]迫撃砲試験。

 M37-12-12、全身浴をなす。

 ※M38-1-13~M39-8-28が欠。 ※戦地日誌がない。そんなバカなことがあるか。

 ※M39-8-21~12-11も欠。

 M39-11-21、上奏書呈出(福岡大尉をして田中宮内大臣に面会せしむ)。

 M40-1-12、京都停車場に於て田中大臣に会し、同車して上奏書の御決裁を催促。

 M40-1-16。田中から夜に電報が来て、上奏されたと知らされる。

 M40-1-27、陸軍大臣来り、聖旨の趣を伝ふ。

 M40-1-28、朝、山県元帥を訪。兼務の不都合を陳ふ。 ※軍隊精神教育に関する過激上奏に対して、学習院院長のポスト内示でもあったのか?

 ※M40-2-4~M41-5-28、欠。

 M41-5-29、参内。旅順へ差し遣わさる。

 M41-6-1、朝、徳富を訪。 ※蘇峰に祭文の文辞の修正を頼んだか。

 M41-6-6、平穏、午後1時、大連着。

 M41-6-7、白玉山に登り忠魂碑建築を見。

 M41-6-10、白玉神社に玉串を捧げ、式場に至る。

 M41-6-15、門司着船。

 M41-6-23、登院、参内、拝謁、言上。後、写真に記入いたすべきの命を拝す。午後、曾根荒助氏を訪。不在。孫子評林 を贈り、伊藤公爵に届方、頼む。

 M41-7-24、南寮に孫子の話をなす。

 ※M41-8~M45-3-6、欠。
 ※M45-7-23、「兒玉大将年忌」で終わっている。
 ※独語日記の自署は N Noghi 

▼『乃木希典全集 下』H6-11
 独文日記訳文。

 まだ国内にいたM21-9-1から始まる。

 M21-9-27、林〔太郎?〕に手紙を書く。 

 M21-12-1、安田、山路らと酒を飲む、不愉快なり。夜、歩兵14聯隊将校集会所にて招待会あり。山路、安田、川村とともに出席。

 M21-12-14、偕行社で火薬2円を購入。

 M21-12-20、写真代として4円80銭を支払う。

 M21-12-21、遠藤Mに写真を遣る。

 M21-12-22、愛児と玉木文之進に写真を贈る。 ※単身渡独するため。

 M21-12-31、井出、山本夫婦、吉村、村松Tに写真を贈る。山本には歳暮も。

 M22-1-27、中村に武器を贈る。

 M22-1-28、林その他、見送りにくる。

 M22-2-3、日曜、晴れ。午前、小松宮殿下、北白川殿下、伏見宮殿下、および、野村、樺山を訪問す。川上を訪問し、昼餐の饗に逢ふ。途中、小笠原恒道を訪問す。午後、有坂成章くる。午後2時、荘原、佐野、その他来訪、談話す。4時半より久坂、三島、山路、毛利を訪問し、毛利公爵夫人および山中花夫人と談話す。晩方散策し、手袋と巻煙草を買ひ、8円87銭を支払ふ。途中、長山を訪問す。

 M22-2-6、話家 雑賀の噺を聴く。

 M22-2-17、午前6時半、大地震。吉五郎くる。写真を与ふ。

 M22-2-19、砲兵本廠を視察。

 M22-2-28、十時半、砲兵工廠を視察。※有坂はこの打ち合わせに来たのか。

 M22-3-24、長谷川に別れを告げ、写真を贈る。

 M22-4-4、戦争カルタを買う。

 M22-5-13、奇天斎の奇術を観る。

 M22-5-20、児、直典 死す。

 M22-6-29、宮内省乗馬、躑躅[つつじ]号。

 M22-9-12、愛馬「太刀」、病気に罹り、入厩す。

 M22-9-29、汽車の中で狩猟家・西村Kに出逢ふ。

 M22-12-24、山県内閣成立す。

 M23-1-8、天皇陛下御不快にて、観兵式 御取止となる。 ※対清戦争は厭じゃ の意思表示?

 M23-1-18、夜、子どもとトランプ。

 M23-1-24、兵事新聞社にて、戦争歌留多を買う。

 M23-2-21、朝、大山大臣を訪問し、歩兵第14連隊の古き聯隊旗に関し、談話を為す。

 M23-4-10、吉田少佐 来る。
  ※ジュヘーのスペルは Dufais  だった。

 M23-7-1、矢内を訪問。矢内に写真を与う。

 M23-7-27、桂将軍より辞令書を受領。

 M23-8-17、妹のことに関し森を訪問。

 M23-10-26、車中、墺太利人夫妻と話す。(名古屋~豊橋)

 M23-11-20、乗馬「勢」の毛を刈る。母は熱田神宮へ。東條大尉、来訪。※英教。

 M23-11-23、母に従い養老に到る。日帰り。

 M23-11-27、静子より来簡。

 M23-12-2、静子に100円おくる。

 M23-12-3、静子より来信。夕刻、大田に関し、静子より電報。

 M23-12-7、上京。
 M23-12-10、名古屋へ帰る。

 M23-12-18、児玉と会談。静子より来簡。

 M24-1-3、子どもらと共に熱田神宮参拝。※同居はしていない。

 M24-1-16、勝典に書簡。

 M24-1-21、伊東で静子、保典と話す。

 M24-2-15、大門静一、来る。写真を与ふ。

 M24-4-11、母に従ひ、静子らと共に熱田→伊勢上八代。

 M24-4-17、母と静子、帰京。

 以下、M44-2-14~8-31の乃木大将渡欧日誌。吉田豊彦砲兵中佐が書いたと考えられている。

 ※ロンドンは「龍動」と書く。
 竹田宮にも暇乞している。

 M44-4-17、舞鶴第16艇隊、海軍少佐・水野廣徳氏より著書『此一戦』が郵送されてきた。

 M44-4-19、呉淞[ウースン]通過。清国軍艦『海籌』が碇泊してた。海賊防御のためならん、木造支那船式の砲艦4隻もあり。彩色、装飾。

 M44-4-21、張園愚園……清人の無趣味なるを覚へしめたり。ウィスキーソーダは、「清涼飲料」の名に悖かず。

 M44-4-24、東洋にたったひとつの、オレゴンのケーブルカーに乗る。二十余年前に構築。香港在留民の数、1000余。其の四分ノ一は、賤業婦なりと云ふに到りては驚くに堪へたり。西関光塔寺に到る。磚造の高塔。昔は尖端に金鶏を置いて風向を知ったという。

 M44-4-30、シンガポールは土人小児の発育があまりによいので英人が賞賛している。

 M44-5-2、マレー刀を贈られた。蛇行状の刀身。鍛錬の際に毒素を含めてあるので、刀尖が人体に1寸入れば、被害者はとうてい回復の見込みなしと。酋長以外は直刀を佩用する。
 キッチナーはインド陸軍総督だったことがあるが、土人教育に文学、医学、法律を教えるのは、反乱を増すだけだと。

 ※シンガポール以南、いたるところで乃木は自動車に乗って見物をしている。

 M44-5-4、ペナンでも邦人中の60%は賤業婦。

 M44-6-12、英ハートフォード社では軍艦徹甲弾に黄色薬を使用せず、いまだに黒色薬。鋳鋼弾は、プレスした弾丸の半値。日本海軍向けの14インチ砲弾は、576kg。※径14インチだが、日本海軍は43式12インチ砲と呼んだ。

 M44-6-30、イートンで数ヶ月前から始めた柔道の教授を見る。

 M44-7-5、吉田はシュナイダー/シュネデル社を見学。

 M44-7-18、ルーマニアの歓迎が最も凄みがあった。接待員いわく、農業国だが社会主義者はいない、と。農夫が白衣なので朝鮮みたいだ。国民、多くは裸足。

 M44-7-20、ルーマニア兵は背嚢に銃の托架とする木片を付けているのが、多国と余程、異なる。「銃の取扱、やや乱暴にして、活気を添えんがため音響を発せしむるは英国軍隊と同じ」。ル皇后は、たった一枚しかないという愛孫の写真を乃木にくれた。

 M44-7-23、トルコ人は、時間の観念に乏しい。我が、大阪に類している。

 M44-8-3、メッペン射場で、本邦の註文にかかる二十七珊・2門砲塔の説明を聞く。弾量250kg。※クルップか。
 ここでまた、要塞や軍艦に備える、気球射撃砲を見た。径10cm、仰角75度。おなじく、自動車搭載の6~5センチ砲。仰角75度。

 以下、「山鹿素行先生を尊崇するに至りたる動機」M41-4。

 先生の註釈された孫子が、松浦家にあると聞き、写させてくれと頼んだ。
 文之進氏も、前原が乱を起すと云ふ時、割腹して死なれた。
 「西南の役に十年の二月二十三日の夜、大敗して河に飛び込んで逃げた時、〔士規七則を〕紛失して了った」。

 M14-3-6、村田銃 ならびに ビボーマルチニー銃 弾薬製造式 取調委員、仰付けらる。
  ※この日付、8-6かもしれない。

 M15-12-28、砲兵会議員、仰付けらる。

 ※M44の特大演に顔出していること、全く記録なし。

 以下、解題。和田・金園社『乃木希典日記』の中のM6~13のほとんどは、渡辺求ed.『青年時代の乃木大将日記』が典拠。それらは玉木正之(乃木次弟の玉木正誼の弟)所蔵本だが、正之は生前、所蔵日記のすべてを筆写していた。そのおかげで、西南戦争の軍旗事件の箇所が〔湮滅工作を免れて〕残った。

 M10-2-22、酒を飲ませ、歌を唄わせて南ノ関から高瀬、植木、木葉に行軍。夕6時に、1個小隊弱で布陣。「月中天に懸り、晴光白日の如し。7時から敵襲。次第に激烈化。退却。9時40分すぎに、千本桜に退き、そこで河原林がいないと知って、「驚嘆に堪へず。軍旗を失し、生還する、南の面目ぞ。返戦旗を獲んと欲する者は我に随へと令す。従ふ者一半、拒止する者一半。村松軍曹・檪木軍曹等、泣て我を抱止し、後事の措く可らざるを責む。……」

 この他、渡辺版にあるローマ字日記も、一部残欠オリジナルと校異するに、不忠実な翻刻であることがわかったので、本全集ではカットした。

▼乃木神社社務所ed.『乃木希典全集 補遺』H9-12
 M16-7-5、有興。
 M36-5-3、烏を撃つ。
 M36-5-4、夜、烏を喰ふ。

 M36-5-13、山県元帥の招きを断る書を出す。
 M36-5-17、「シイツ」一枚。
 M36-5-20、室、東京行。

 M36-9-1、「クレツソン」。
 M36-12-9、夜に入り蚊帳を以て雀を捕へんとし、獲るなし、一笑。

 79ページから、乃木日記のどこが欠かが分かる、書誌別一覧表。

 主要人名解説。
 河原林雄太は福岡県出身でM4、軍曹心得。M7、少尉。M8、歩14旗手。M10-2-22、戦死。

 御堀耕助。生年不明~M2。
 本名は、太田市之進直方。
 乃木希健の孫。乃木希次の甥。乃木希典の従兄。太田要蔵直温の長男。太田(毛利)左門や大見ふきの兄。
 文久2の品川御殿山英国公使館焼き討ち事件に関与したので御堀と改名。
 御楯隊総督、萩藩参政を勤め、明治政府にも。
 M2に、山県、従道らと欧州視察。
 三田尻にて病没。その直前に、乃木希典を黒田清隆に紹介した。

 御堀傅造。M14~S22。
 小笠原恒通&キネの息子で、乃木希典の甥。



平時の日本で必要なのは「緊急縫製ライン立ち上げ演習」だった……。

 まさか政府が商社に頼んで外国製の布マスク在庫を買い漁らせていたとは……。

 日本全国の、家政科のある学校(各種学校含む)に、緊急量産を依頼して、納品実績数に応じて、次年度からの税金を1年から数年、まけてやろうというインセンティヴを与えたら、どうなっただろうか?

 今後のための一案。
 紐などつけずに、後頭部まで回して結ぶ、「手拭い」のような単純きわまる形状にすれば、製造機械化による完全自動の大量生産も容易に立ち上げられるはず。そんな機械を有している工場に、平時から登録をしておいてもらい、有事になったら緊急増産を依頼する。そして、これもまた、納品実績数に応じて、次年度からの固定資産税等を1~数年もチャラにしてやるというインセンティヴを与える。

 次。
 CAITLIN DOORNBOS 記者による2020-4-23記事「Most sailors in Japan can expect to shelter in place for at least another 30 days」。
    在日米海軍の司令官がフェイスブックで4-22日示達。家族はあと最低1ヶ月、居宅籠城(シェルター・イン・プレイス)を続けよと。

 シェルター・イン・プレイス命令はすでに横須賀基地司令のジャレット大佐が3-27に出していた。これは在日四軍の中でいちばん早かった。

 可能性としてこの措置は、6月前半までも続くだろう。
 厚木基地では4-7に同様命令が出された。基地で働く民間人やその家族にも、命令は適用される。

 基地外の横須賀市には36名確認されている。うち2人は基地に雇われている民間人。

 在日米軍基地のうちで、シェルター・イン・プレイス命令が出ているのは、横須賀と厚木のみである。

 次。
 SETH ROBSON AND HANA KUSUMOTO 記者による2020-4-23記事「City near home of US Forces Japan confirms its first case of coronavirus」。
    東京都福生市で初の新コロ陽性確認。ヨコタ基地の地元である。基地は他の自治体とも接してはいるのだが、メインゲートが福生市に向いているゆえ、福生市の扱い。

 昭島市では6人、羽村市では5人、武蔵村山市では1人、23日時点で新コロ陽性が確認されている。
 奥多摩、日の出町、檜原村[ひのはらむら]ではまだ陽性者は出ていない。

 23日までに陸軍のキャンプ座間内では6人の新コロ陽性が確認されている。

 ヨコタ基地の方針として、基地将兵およびその家族、基地従業員およびその家族に新コロ陽性が判明した場合は、コミュニティーに通知する。

 次。
  Jorgen Elfving 記者による2020-4-23記事「The Impact of COVID-19 on the Russian Armed Forces」。
     ※記者は元スウェーデン軍将校。
 ロシアは5-9に予定していた戦勝記念パレードを年内の某日に延期すると発表。有力候補日としては9-3(WWIIが終わった日だと露議会がさきごろ法定した日付)だが、9-3本番とするためには練習を6月からスタートしないと整わない。新コロがおさまっているわけがなく、そりゃ無理だ。

 8月23日から29日にかけては、「アーミー2020」という国際軍事技術フォーラムもロシア主催で予定されている。それと日程が近すぎるのもいけない。

 さらに8月23日から9月5日にかけては、外国軍も招聘しての軍事演習がある。

 9月には「カフカス2020」という露軍だけの大演習も予定されていたが、これはたぶん中止だろう。その前座のCPXをやるかどうかに、当面、注目だ。

 5-9パレードの延期は、諸外国にとっては朗報だ。というのは、すでに現在でも露軍の平時現役の1割、11万6000人が、パレード準備にかかりっきりで、まともな軍事トレーニングをできていない。パレードが今年後半に延期されれば、露軍はことし1年の四分の三くらいを、訓練と関係ない雑務に捧げねばならんことになる。

 ロシア国内の春の徴兵は4月1日からだが、今年は4月13日からと遅れた。5月20日に13万5000人を全土の兵舎へ集め、それから14日の検疫隔離を経た後、ようやく新兵訓練に入る。新コロ蔓延を禦げるかは疑問だ。多難だろう。

 露軍にとって2020は「失われた1年」となるだろう。


兵頭二十八、没シリーズ『アメリカ大統領戦記』の企図を回想する。

兵頭二十八の放送形式 Plus

兵頭二十八、没シリーズ『アメリカ大統領戦記』の企図を回想する。

 シリーズ企画そのものが第二巻を以って中止となっております『アメリカ大統領戦記』ですが、筆者の関心はどこにあったかというお話をいっぺんしておこうと思います。
 と申しますのも、ただいまの新コロ流行を見ておりますと、第三巻に予定していた「1812米英戦争」を単発企画としてまとめあげられる日も、わたしが生きているうちにはもう来ないのじゃないかという予感がするからです。

 本シリーズは、米国の戦史をありきたりになぞろうとする企画ではありませんでした。

 20世紀の超大国となる運命が最初から決まっていた――なにしろ絶頂期の大英帝国と戦争して勝った――若い国家・アメリカ合衆国の最高指導者層には、どんな資質があったのか。
 それを日本国民が知らないのは、話にならぬことだと考えていました。

 歴代の米国大統領は、キャラクターが選挙に向いていて、しかも戦争指導ができなければなりませんでした。1930年代以降は、それに加えて経済福祉にも長じていなければ当選はできなくなります。

 どれもこれも、20世紀の日本の指導層には欠けた個人資質でした。
 この個人資質の落差のほどをわきまえないで、旧軍のエリート幕僚らは、米国留学組までも、そろって米国の戦争対応力を下算し、ほとんど日本を破滅させかけた。
 しかも戦後にその知識の欠損を埋めた形跡が見られないのです。

 第二次大戦は、《世界知》の足りない国民(日本人)が、《世界知》で上回っている諸国民に戦争を仕掛けて勝手に自滅した戦争です。FDRは日本のことなんかに関心はありませんでした。そんなに暇じゃなかったんです。日本人の方で一方的に「アメリカは日本を殊更に憎んでイヤガラセをしてくる」と思い込んでいた。ほとんど朝○人と似たような反応パターンでした。
 「日本の指導者は他と比較してあまりに無知であった/今も無知である」という自己判定も、今日なお、十分にできているとは思えません。敵を知らずに、己れも知らない。この認識欠損が埋められないままでは、戦後何年経とうとも、同じような自滅を際限なく繰り返すおそれがあります。

 本シリーズは、そのような国家間の知識ギャップが生み出す非生産的な諸事件を将来にわたって回避させる啓蒙書ともするつもりでした。
 版元さんに提案したときのシリーズ構成は、以下のようにするつもりでした。

 第一巻 独立戦争と George Washington

 第二巻 対英抗争から主権拡大時代
  John Adams ・ Thomas Jefferson ・ James Madison ・ James Monroe ・ John Quincy Adams ・ Andrew Jackson ・ Martin Van Buren ・ William Henry Harrison ・ John Tyler ・ James K. Polk ・ Zachary Taylor ・ Millard Fillmore ・ Franklin Pierce ・ James Buchanan

 第三巻 南北戦争と Abraham Lincoln

 第四巻 ラテンアメリカの制圧と太平洋への進出
 Andrew Johnson ・ Ulysses S. Grant ・ Rutherford B. Hayes ・ James A. Garfield ・ Chester A. Arthur ・ Grover Cleveland ・ Benjamin Harrison ・ Grover Cleveland ・ William McKinley ・ Theodore Roosevelt ・ William Howard Taft

 第五巻 第一次世界大戦から暗黒の木曜日まで
 Woodrow Wilson ・ Calvin Coolidge ・ Herbert Hoover

 第六巻 第二次世界大戦と Franklin D. Roosevelt

 第七巻 核時代の大統領
 Harry S. Truman ・ Dwight D. Eisenhower ・ John F. Kennedy ・ Lyndon B. Johnson ・ Richard Nixon ・ Gerald Ford ・ Jimmy Carter

 第八巻 ソ連の消滅と世界経営
 Ronald Reagan ・ George H. W. Bush ・ Bill Clinton ・ George W. Bush ・ Barack Obama

 しかし、武力衝突の勃発の地レキシントン以下、名前だけは――専ら航空母艦の艦名として――知られていますけれどもディテールがロクに伝わってはいない個々の会戦の経過確認にツイのめりこみました結果、計画の第一巻が、前・後2巻に膨脹。
 英国を遂に投了させたヨークタウン攻囲戦までまとめるのに、2年かかってしまいました。

 「War of 1812」というのは、どこかなげやりな響きのある呼称です。米国人は、この《引き分け戦争》を思い出したくないのでしょう。実際には講和が1814年末、戦闘は1815年まで続いた(大西洋の通信手段が帆船しかなく、遅かったため)という、米英間の相当規模の正規戦争です。ちょうど欧州でナポレオンがロシアで消耗してイギリスが最終勝者とはなったものの、疲れも出たという潮時に重なっていました。

 米国では、指導者層だけが、この戦争を記憶しようとし、この戦争から何かを学習しようという姿勢を持っています。上陸してきた英軍部隊のために焼き打ちされてしまったホワイトハウスの焦げた部材が、今も保存されているのはその象徴です。

 いろいろな意味で「転機」になった戦争でした。
 たとえば合衆国の指導者層は、英帝国の強さの中軸に大海軍力があるのだという、誰も秘密になんかしていなかった事実に、苦戦のさなかに気づかされました。

 はるか後のセオドア・ローズヴェルトも、政界を目指し始めたばかりのハーバード学生時代に、1812戦争の海戦データを徹底検証するマニアックな独自研究に打ち込み、それを公刊したことで、いきなり、海軍の問題にやたら詳しい将来の有望な国家指導者候補――としてまずエリート階層間に認知されるのです。このテディの方が、地政学者としてはマハンより格上だったという話は、拙著『地政学は殺傷力のある武器である。』でしておりますので、御覧ください。

 じつを言いますと、わたしが大統領戦記シリーズを出版社に提案したのは、この「1812戦争」までをじぶんなりにまとめてみたかったからでした。正直、これ以後の戦争は、書けなくてもいいやと思っていた。ラ米干渉戦争の局面ぐらいしか、時間を使って広範な調査をしてみたいという欲望も、かきたてられなかったんです。

 それはどうしてかといえば、たとえば南北戦争でしたなら、「全日本南北戦争フォーラム」の小川寛大さんたちのような本当に物好きな人たちがすでに大活躍をされているわけです。事実の紹介に関しては、わたしなどが後から出る幕じゃないという気がする。いやもちろん南北戦争やWWIの米軍についていっぺんじぶん流に総括をしておくのが無意義なはずもないんですけれども、一度しかない人生の時間を割いて投入するからには、やはり、前人未踏の分野の方を、選びたいと思いませんか? (ボーア戦争の本を書いてみたいと思っているのも、同じ動機に基づいています。誰も書くわけない、というところが、わたし的には、面白いわけ。)

 ここで、せっかくの機会ですので、だいぶ前に第三巻を書くために英文ネットで調べてメモ書きしておいたテキストを適当につなげ、梗概式に、1812戦争の片鱗なりとも、ご紹介しましょう(他史料によるチェックをしておらず、また、兵頭の意見も含まれていませんから、そこはご承知ください)。

 1812戦争勃発時の大統領は、第四代のジェイムズ・マディソン。
 フランスとの交易を洋上で実力で妨害されたり、米国人船員を拉致されたり、北米インディアンに武器を与えて反米ゲリラ戦争をけしかけたりするので、アメリカの方から怒ってイギリスに宣戦布告した。
 だから、「マディソン氏の戦争」と、呼ばれたりもする。

 国防長官は、ジョン・アームストロング。彼は、英軍は一寒村にすぎないワシントン市になど来やせんわ、と請け合った。
 やってきたのは、ナポレオン相手の戦争で歴戦の「ウォー・マシーン」となっている英兵4500人。
 合衆国はとっくに正規軍など解散させていたから、慌てて5500人のミリシャを集めた。しかし当時のミリシャは、訓練も戦争経験もゼロに等しい烏合の衆。だいたい訓練は年に一度。それも、隊内の互選で選ばれた大尉が、中隊を飲み屋へ引率し、そこで1日潰しておしまいだった。

 こうなった責任は、前任のジェファソンにあった。ジェファソン大統領は、税金を安くし、連邦政府を小さくした。連邦海軍もゼロにした。米国を弱くする政策ながら、有権者からはウケがいい。マディソンは、このジェファソン路線を継承した。人気取りのために。

 前半の主戦場は五大湖とカナダ国境。米国人有権者は、カナダを併合する欲得戦争として開戦を支持していた。
 米国人がこの戦争を忘れたがっているのとは反対に、カナダでは、この戦争がとてもよく記憶されている。カナダ国民は、この戦争で一体となったから。

 英帝国は、1813年にチェサピーク作戦で反撃。そのさい、黒人奴隷を軍艦に拉致したが、黒人からみたら、ありがたい「解放」だった。

 合衆国の首都防衛責任者は、軍歴のパッとしないワインダー准将だった。政界の「おともだち」人事で抜擢されたワインダーは、無能ぶりを遺憾なく発揮した。

 たてなおしたのは、国務長官のモンロー。彼が第二線を構築した。

 攻め手の英軍は、陸軍のロス将軍と、海軍のコックバーン提督。
 防禦軍は、軍靴もなければフリントもない、そんな無準備状況だった。
 マディソン自身も、ピストル2梃を肩からかけて、駆けつけた。頭上を、英軍の新兵器であるロケット弾が飛翔した。
 ミリシャは隊列を崩して潰走し、そのまま自宅まで逃げ戻ってしまった。

 ホワイトハウスでは、大統領夫人ドリー・マディソンが午後3時にディナーとするのが日課だった。その準備中に解放奴隷が馬で駈けて来て、「みんなにげろ~! アームストロング将軍の命令だ~!」
 夫人がくだした決断。ジョージ・ワシントンの肖像画のカンバスだけはがして、別な場所へ隠しなさい。もしダメなら破壊し、けっして英兵の手に渡してはなりませぬ!
 おかげでそれは、いまもある。

 続いて住民がおしよせて、銀器などを略奪して去ったという。

 英軍は「放火」には慣れていた。家具類をホワイトハウスの建物内の数箇所に積み上げ、火薬を振りかけて、点火。ジェファソンがパリで購入した家具もこれで灰になった。

 英軍はついでに国会議事堂も焼いた。財務省と陸軍省の建物も焼いた。

 コクバーンは、新聞社の活字の「C」を全部、押収させた。だからアメリカ人はコクバーンの悪口を書けなくなった。
 港内にあった軍艦は、アメリカ人自身の手で自焼させられた。

 英軍は公共施設を焼き打ちしたけれども、米国住民の私有財産には手はつけていない。強姦も無し。特許局は保全された。そこは、文明国間の戦争だった。五大湖のこぜりあいからも、戦時国際法上の重要な前例が生まれているほどだ。

 街のあちこちが火災となった。住民は寝ずにそれを見物した。
 マディソンはヴァジニアへ逃げ込んだ。
 民衆は、大統領夫妻を罵ったという。
 マディソンは、ホワイトハウスの図書室が焼かれたかどうかを気にしていた。焼けたに決まっていた。

 英軍はすぐに軍艦に引き揚げた。そしてポトマックを遡上して次の都市を目指した。
 司法長官はモンローを急かした。早く政府としての公式声明を出せ。さもないと英国がストーリーをでっちあげてしまうぞ。
 そこでこの大敗は、あたかも偉大な勝利のように宣伝された。これはアメリカの伝統となった。

 どちらも疲れていたのでゲント条約はすぐ結ばれた(1814年12月)。おおむね、開戦前に戻す。
 この知らせが本国に届く前に、アンドリュー・ジャクソンはニューオリンズの陸戦で大勝利していた(1815年1月)。一躍有名人になったジャクソンは、将来の大統領候補に。

 近年、メキシコ湾の英軍の指揮をとったパケナム少将に対する英本国からの秘密命令が、ロンドンで発掘されている。もし講和の話を聞いても、関係なく戦え、と。
 それによると、英政府は、対米講和に関係なくニューオリンズを占領し、それによって合衆国のルイジアナパーチェスそのものを蹂躙しようという企図を蔵していた。
 英国は、ナポレオンがトマス・ジェファソンにルイジアナを売った契約は無効だと考えていたのだ。
 けっきょく、英艦隊はモービルに退却した。それ以後、米英間では戦争は起きていない。

 マハンやセオドア・ローズヴェルトの世代にとって、「1812戦争」を調べることは、今のわたしたちが第一次大戦や日露戦争をあらためて調べるような努力です。しかしそれが国家の方針策定のためにとても有意義であることは、米指導層の間ではちゃんと理解はされていました。
 以下、それに関するメモ書きも、羅列してみます。

 アルフレッド・マハンは1890年に『The Influence of Sea Power upon History, 1660~1783』を書いたが、続編の1812戦争の部分はほぼテディの研究の受け売り。すなわち、1811年以前の海軍政策が不都合だったから、英国から舐められ、外交が成功せず、まずい開戦を余儀なくされたのだと。

 マハンの大著は、英国が一躍世界帝国になったのは全く海軍力のおかげなんだと主張した点で、革命的だった。テディもそこまでは言ってなかった。
 マハンいわく。英国が海軍を強化していたときに、フランスその他はそれにおくれをとった。だから英国が世界の勝者になった。

 1781年のヨークタウンの決着についてのマハンの考え。
 フランス海軍が海岸を制圧していたので、英軍は脱出できず、増援も受けられず、降伏するしかなかった。
 その時点では、海軍に関するフランスの政策決定が、ものすごく正しかったのだ。
 ぎゃくにナポレオン前後のフランスの海軍政策はなってなかった。だから負けたのだ。

 強調したこと。世界最大の艦隊を持て。その艦隊は戦艦で構成しろ。
 どんな陸軍も海軍による封鎖には勝てない。
 マハンはこの主著のあと20冊書いているが、いずれも最初の本の補論である。

 マハンは、リトラル戦争を考えていた。海からの陸戦支援は圧倒的であると思っていた。
 マハンは多国間の自由貿易システムも考えていた。そのシステムのための、米国の制海権。

 マハンの主張。将来どんなに海軍関係の技術が進歩しても戦争には不確実部分が残る。だから未知の将来に直面する海軍士官がどこまで偉くなり得るかは、表層的ではない歴史の読み込み努力如何にかかっている。
 新案を得たいか? ならば古い本を読め!

 マハンは南北戦争中、小艦を指揮して南部のブロケイドに従事していた。海戦には遭遇していない。

 後日、南北戦争におけるカリブ海やミシシッピ河、レッド河(テキサスとオクラホマを南北に分ける大河で、ニューオリンズの少し上流でミシシッピと合流している)の作戦について、本を書かないかといわれた。

 それがマハンの真の最初の本『The Gulf and Inland Waters』であり、それは1883に出版されている。
  ※この本があったから1886にいきなり海大校長なのだ。

 1815までの海戦史を書き上げたところで、マハンは次に、北軍の提督の伝記を書いた。
 1897刊の『ファラガット提督』は、マハンがリトラル作戦+大河作戦を総括する才能をまたしても示した。

 艦隊を欠いた南部軍は、内陸の河川すら思うままに利用ができなかった。
 北軍は、海陸合同作戦により、あっさりとニューオリンズを占領してしまった。モービルも。
 このジョイント作戦能力が北軍の勝利の一大要因なのだとマハンは見る。

 マハンは強調する。揚陸作戦というのは、モタつくものであり、艦隊の行き足は止まるし、一地点に拘束されて自由がなくなる。そこを攻撃されると艦隊がヤバいことになる。だから、完全な制海権を握った側だけが、アンフィビアス作戦ができるんである。 ※海大が所在するロードアイランドの攻防がまさに好戦例。地元だから史料もいくらだって残っていたはず。居ながらにして現地地形を確かめることもできただろう。

 コルベットが、マハンは洋上決戦にばかりこだわったと難じたのは当たっていない。水陸協同作戦の前提が、制海だったのだ。

 マハンは1885にローマ史を読んでいて、大発見をした。と自分で回想している。
 カルタゴはどうして海上機動しなかったんだ? とマハンは思ったわけだ。
 このパターンは、17世紀後半から18世紀の欧州列強の戦争にすべてあてはまるとマハンは見た。

 マハンが海軍史論家として知られるようになる1890年代、アメリカ大陸の経済発展の可能性は終わったのではないかと人々は疑った。
 1893にウィスコンシン大学の教授が、フロンティアの消滅とその後に来る社会停滞を警告した。
 国内人口の爆発が止まったのだから、あとは、国外の市場を元気満々に開拓するしかないぞと。

 マハンは、産業革命をおえた東部の工業製品は、たちまち国内では売れないほど製造され、あとは海外で捌くしかないはずだと見通していた。
 では、海外の市場へのアクセスを担保するものは何か。それは合衆国政府の強制能力であり、それは具体的には「商船隊」「戦艦をズラリそろえて列強海軍を圧倒できるだけの米国海軍」「グローバルに給炭港の連鎖を設定し、かつ、維持すること」の三本柱だ。

 海軍のための中継基地整備を重視したのは、マハンの創見ではない。南北戦争直後、ウィリアム・シューアード(またはスーアード)国務長官(在任1861~69、つまりリンカン政権からジョンソン政権)は、アジア貿易航路の中継港とするためにアラスカを1867に購入。さらにハワイと条約を締結してハワイ経済をがっちりと米国経済にしばりつけた。

 のみならずシューアードは、カリブ海にも適当な港湾拠点を買収しようとした。
 そしてシューアードは最後に、コロムビアのパナマ地峡地区に運河を建設する条約を議会が批准せよと求めた。

 しかし南北戦争後の大課題は南部の再建であり、上院はとてもそんな余裕はないとしてシューアードの目論見をすべて潰してしまった。
 スペインとの敵対が始まった1898-5に、マキンリー大統領は、上下両院の合同決議によって、ハワイ併合を決めた。
 それに続いて、対スペイン戦争の完勝。

 これでマハンの欲した給炭港チェーンはかなり揃った。すなわち、プエルトリコ、グァム、比島である。
 その5年後、米国はキューバから、グァンタナモ湾を永久租借した。※スペインから独立させてやったのだから、そのくらい見返りに寄越せ、というわけか。

 マハンは、海上貿易は、富を蓄積する捷径であった、と強調する。
 制海権のある国家は、戦争になれば、世界中の戦争資源を決定的な場所に集中してくることが、簡単にできる。
 だからこそ、平時においては、それのできる体力ある国家は、できる限り強力な海軍を建設すべきなのである。

 巡洋艦によって洋上で敵国商船を1隻づつ発見して破壊し続けたところで、敵国の全商戦隊の活動を止めることはムリである。

 敵国の主要港をブロケイドすることによってしか、敵国の通商を機能停止させることはできないのだ。そのブロケイド艦隊は、相手国が戦艦艦隊をさしむけてきたときにそれを撃攘できるだけの交戦力をもっていなければ話にならない。つまり、ブロケイド艦隊も戦艦で構成されていなくてはいけない。

 ※マハンは機雷を無視する。南北戦争時代から、米国はロシアにならぶ機雷技術国になったのだが……。

 ブロケイドを続けるためには敵艦隊を全滅させねばならん。ブロケイドを破るためにも敵艦隊と海戦しなくてはならん。ということは、軍艦は戦艦だけが必要なのだ。これが、マハンの結論。

 ※ブロケイド突破は水雷艇でもいいというのがコルベットの反論か。現代では、地対艦ミサイルがあるから、水上艦によるブロケイドなんて考えられない。

 欧州列強間の植民地主義的競争は、1880年代から熾烈化した。

 蒸気動力により、鉄製船体の商船を動かせるようになったことが、富の稼ぎを莫大化しつつあった。穀物や鉄鉱石などのばら積み輸送の効率が格段によくなったので。

 ネルソン伝と、1812年戦史の2冊においても、マハンは自説を補強する事例をあつめてみせている。
 この2冊のテーマを述べるならば、「英国はいかに世界支配勢力に成りあがったか」。それに尽きる。

 ※兵頭いわく。「国家の地勢の封鎖されやすさ」「封鎖されたときの困りの程度」が大事で、英国はそのどっちでも強い立場だった。

 マハンは米国政府のための最良戦略だけを考えた。
 マハンは、アメリカが19世紀英国のように海軍強国となり、20世紀の世界ナンバーワンとなることを望んだ。イギリスの真似をしてくれ、と。

 英国が、商業大資本と結託したエリート支配政体だったときは、海軍に大投資がなされた。ところが、小資本の民主制に傾くにつれ、英国の海軍予算は減らされた。
 その結果、20世紀の現在、英国は、世界の海上貿易を仕切れなくなっている。

 マハンの見解では、いかなる民主主義国も1国ではこの負担は仕切れない。
 そこでマハンは言う。20世紀の海洋の自由は、複数国の協同によって実現するより他にないと。
 これはあらたまった条約では実現しないだろう。政治的な利権の衝突、紛争が無い状態が、しぜんに実現してくれよう。

 マハンは結局、英米合同で世界の海を仕切れという結論だ。米国は弟分として、英国についていく。
 米国がこの役割を演ずるなら、巨大海軍は必要ない。
 英国が欧州との戦争で海軍力が劇的に弱まってしまったという場合をのぞき、米国は、世界一海軍を目指す必要はない、とマハン。

 マハンが予期した事態。西側連合が、拡張主義ロシアを封じ込める。英独戦争。そして、欧州文明とアジア文明の衝突。

 マハンは米国が世界の単独最強海軍国になるとは予期しなかった。
 マハン自身は海軍兵学校で、木製帆船+前装砲で教育された。
 彼が退役するときは19世紀末で、軍艦は蒸気動力。砲熕は後装式になっていた。
 1880年代から米海軍は組織として巨大化する。そのため行政的人材がもとめられ、気質は官僚化した。海戦野人ばかりが必要ではなくなったのだ。

 彼の父デニスは、戦争では高級指揮官がいちばん重要なんだと常々語っていた。
 デニスが言いたかったことは、戦場では指揮官は、不完全すぎる情報をもとに、敵よりもできるだけ早く、判断と決心をしなければならんということ。これは、どんなに補助機械が発達しても、指揮官の苦労としては、存在し続けるはずだ。

 では若い将校の卵はどうしたらいいか? 父デニスの結論は、とにかく過去の作戦史をたくさん読んでおきなさい。それしかない、と。
 マハンが自分の作文を最初に活字にしたのは、1879年のことで、そこで何を論じたかというと、海軍の教育は間違っていると。技術偏重だと。もっと人文系素養を身につけないとダメだと。

 危険と不確実に直面しながら判断と決心をする。そのモラルの質を涵養しなくては。
 マハンは後期には、景仰される指揮官を育成する方法にも関心を示した。
 マハンは主著の中でも、技術よりも人のよしあしが海戦を決めると強調している。

 指揮官は、あとで法的に処罰されるかもしれないというリスクのジレンマにも直面する。
 エンジニアにはそんな心配はない。だからエンジニア教育ではだめだ。また官僚は、ものごとを遅くするのはいっこう平気で、自己責任の分散にぬかりがない。そんな人間を製造しても戦争には勝てない。

 マハンには、では主力艦はどう設計すべきか、といった具体的デザイン力はなかった。
 マハンはフィッシャーの弩級戦艦をけなした。これについてはまったくマハンの負けであった。

 かといってマハンは最新機械が生理的に嫌いだったわけじゃない。
 マハンは、機械の進歩が意思決定の不確実性を解消してくれることはないと強調したのだ。そのエトスを海軍軍人が失えば、その国の海軍はほろびるのだ。

 技術がいくら進歩しても、指揮官の負担は変わらない。頼れる指揮官は戦史を多読してきた者のみ。

 雑なメモであるため、以上の出典を記せないことは恐縮です。※印以外は、わたしの意見ではありません。

 大統領戦記の話をする最後に、フーバー大統領をとりあげましょう。
 大恐慌に対処できなかった無能な指導者……だったんでしょうか?

 やはり、英文ネットから集めておいた雑メモをもとに、ミニストーリーをご紹介しましょう。

 フーバーは1784年にアイオワで生まれた。少年期に両親を亡くしているが、1891年にスタンフォード大に進学。
 土木系の学問を修めて鉱山技師となり、40歳までに海外に5回出張した。

 WWIが勃発したときロンドンに居たフーバーは、中立NGOを立ち上げて、独軍に占領されていた900万人ベルギー市民のために食料を援助した。海上を英海軍が封鎖していたので、英政府と話をつければそれは可能だった。

 彼はウィルソン大統領から食料庁長官に指名され、1917から18まで務め、休戦と同時にヨーロッパにまた出張。
 荒廃した欧州二十数ヵ国のために食料を援助する米国援助局の長になった。
 彼はそこで東から広がる共産主義運動を見た。

 1919-9に帰米。
 パリ講和会議にはウィルソンの上級アドバイザーとして扈従したが、欧州諸国の強欲さに、ほとほと呆れた。
 フーバーは、過去250年間にアメリカと欧州は途方も無く違う社会になってしまったと認識した。
 米国を、他国発案の社会実験の場などにさせてはならないというのが彼の得た確信だった。

 1921にフーバーはハーディング内閣の商務長官になる。

 フーバーの大疑問。なぜアメリカは旧世界とは違うのか? なぜアメリカだけがこんなにユニークなのか。
 その問いに自分で答えたのが、この『アメリカの個人主義』という1冊だった。

 個人主義といっても彼は不羈なレッセフェールを信奉してはいない。ただの個人主義は暴動とイコールだと理解していた。したがってソーシャル・ダーウィニズムではない。

 彼は、「機会の均等」が担保された社会においてこそ、個人主義はプラスの面が極大化すると把握した。
 アメリカ社会も最も大事な理想は、機会の均等だと、フーバーは見切った。

 政府はアンパイアに徹するべきで、政府がビジネスを所有したりするのはいけないことだ。
 大統領となった彼はその信念を貫いたのだが、大不況に対する無策を国民は納得しなかった。

 1933に彼は、まるっきり社会主義でしかないニューディールとの政争がこれから始まる、と予言した。
 フーバー元大統領は1964年まで世界を見届けた。


(管理人Uより)

 右や左の旦那様からのご喜捨は、確かに兵頭先生へ送金されています。本当にありがとうございます。

『兵頭二十八の放送形式 Plus』は当サイトが兵頭先生へお金を払って記事を発注する企画です。

 残念ながら前回同様、決して十分な金額ではありません。私は出版業界の事を全く知りませんが、そう思います。
 激安価格で請け負っていただいた兵頭先生には感謝の一言です。 『アメリカ大統領戦記』シリーズが中止されています。私はその事実がとても悲しい。
 中止されているのなら、その後の『私が気になる部分』をエッセンスだけでも書いてもらおう──それが今回の発注です。

 私が大いに期待し待ち焦がれていたのは、第一次世界大戦終幕から第二次世界大戦開幕直前を描く『大統領戦記』です。狂騒の20年代と世界恐慌を兵頭本として読みたい。
 100年以上遡っての米英戦争も、もちろん読みたいです。しかしあくまで私の一番の興味は戦間期です。

 世界恐慌時にフーヴァー大統領が『何をしなかったのか』、ルーズヴェルト大統領は『どんな情報から何を判断したのか』、それを兵頭本として読みたかったのです。
 コロナ禍により急激に破壊される経済の中で生活すると──もちろん世界恐慌時と現在は違うでしょうが──より一層、そう思います。 

 現時点では『アメリカ大統領戦記』シリーズは中止されています。改めて──私はそれがとても悲しい。何とかなりませんかね? 誰に言っているのか自分でもわかりませんが……。

 『兵頭二十八の放送形式 Plus』をあなたが楽しんでくれたなら──このサイトを作った兵頭ファンの私は、とても嬉しいです。


アメリカ大統領戦記1775-1783: 独立戦争とジョージ・ワシントン1


アメリカ大統領戦記1775-1783独立戦争とジョージ・ワシントン2


「地政学」は殺傷力のある武器である。


米海軍は 11隻の空母をやっぱり9隻に削減して、ロボット艇を増やすという。新コロと無関係じゃないだろう。

 Shawn Snow 記者による記事「Top Marine suspends PFT」。
   米海兵隊では半年に1回、全部隊一斉の体力検定(フィジカル・フィットネス・テスト)を実施しているのだが、今回からそれを無期限中止。

 次。
 Jordan Pearson 記者による2020-4-22記事「Is It Worth It to Buy a Used Tanker and Fill It With Cheap Oil? An Investigation」。
        大金を寝かしているばかりで投資する先が無い、とお悩みの素人である個人が、余剰タンカーを買い、底値の原油を買ってタンカーに満たし、そのタンカーをどこかに係留しておいて、将来また石油価格が上がったときに売って儲ける……なんてことは、可能なのだろうか?

 まず、「ホライゾン・シップ・ブローカーズ」のリストを見れば、今、売りに出されている中古タンカーが分かる。

 値段は問い合わせないと判明しないが、最も安いのは1千万ドルとか2千万ドルで買えそうである。もちろん、大型タンカーほど、高くなって行く。

 たとえば、この記事執筆時点で、全長274mのスエズマックス規格(スエズ運河を通航できる最大の幅と満載時吃水の枠内におさまっていること)のタンカー1隻が1700万ドルで売りに出されている。

 このフネは2000年に大宇が建造した。今はアフリカのどこかに係留されている。容量は15万9057デッド・ウェイト・トン(DWT)。

 ただしDWTめいっぱいに原油が積めるわけじゃない。タンカーには他にも積まねばならないものがいろいろあるから、原油の分はせいぜいDWTの90%までだ。

 タンカーを保有できたら、そこに原油を積み込む。これは簡単だ。認定されているトレーダーにカネを払って依頼すれば、そのトレーダーが、あなたの代理として原油の買い付け交渉と契約をしてくれる。

 投機家は、ペーパー上で原油を買って、それを現物として抱える前に、売る。しかしあなたは、それを実際に所有し続けることになる。

 スポット市場(先物ではなくて、すぐに現物が渡される市場)で原油を買うと、1バレルあたり、22ドルかかるだろう。
 ところが先物市場、たとえばWTI(西テキサス仲介所)だと、今、1バレルは5ドルである。
 WTIで扱われるテキサス原油は、軽質で、環境に悪い成分が少ない。抱えておける商品としては最高だ。

 前掲のスエズマックスのタンカーに原油を満載すると、メトリックトンに換算して、14万3151トンを積載できるはずだ。
 これは、100万バレル強を意味する。

 昨日、それだけの買いつけをしたとすると、原油代は、4100万ドル弱となる。

 この原油を、米国本土の岩塩層の地下に貯蔵した場合、貯蔵費用は最も安くでき、バレルあたり3.5ドルで済む。
 地上式のタンク内で貯蔵すると、バレルあたり15ドルから18ドルの貯蔵コストがかかる。

 これに対して試算したタンカー内貯蔵だと、17ドルくらいになるだろう。

 仮の話だが、WTI先物が2020年1月の価格、すなわちバレルあたり55ドルまで戻る日が来て、そこでタンカーの原油を売り払うことができれば、あなたは、約3483万ドルの儲けを手にできる、という皮算用が成立する。
 以上は、人件費、メンテナンス費などを除外しているラフな空想である。
 そして、最初に手持ち流動資産が2300万ドルあることが、大前提である。

 次。
 Gareth Rice 記者による2020-4-22記事「Narcos in the Time of COVID-19」。
      新コロのおかげでメキシコと米国の陸境が閉鎖された結果として、メキシコの麻薬密輸組織は、別なルートを選ばなければならなくなり、そのため新たにあちこちで摩擦と抗争が発生し、その過程で殺される犯罪者たちの数が急増している。

 東部アフリカおよび南部アフリカからの報告によると、ヘロインの取引価格が上昇するとともに、その純度が下がっていると。

 また中共から「シナロラ」カルテルに対して従来大量に供給されていた覚醒剤原料物質(メタンフェタミンやフェンタニルをそこから合成する)が入荷しなくなってしまっていると。

 またストリートの売人や買い手も困惑している。一気に街がゴーストタウン化しているので、従来のような売買をしようとすれば、その濃厚接触がやたらに目立ってしまうようになったから。

 次。
 David Harsanyi 記者による2020-4-21記事「The CDC Testing Disaster」。
   CDCは、最後のPをつけないで略称される。
 これには由来があり、もともと、コミュニカブル・ディズィーズ・センター(伝染病センター)と称していたのが、改名されて、「センターズ・フォー・ディズィーズ・コントロール・アンド・プリヴェンション」(疾病抑制&予防センター)になっているのである。
 いちばん初期のターゲットは、マラリアだった。

 NYTが報じたこのたびのCDCのドジは次のとおり。
 新コロを扱う実験室に出入りするときに、CDC職員たちは、外被を着替えなかった。
 新コロ陽性のサンプルを扱っている、その同じ部屋で、キットの成分テストをしていた。
 このような粗漏な研究所から全米へ配られた新コロ用のテストキットは、最初から新コロに汚染されていた。

 またWP紙の報道によると、CDCは、傘下の研究所や病院が独自のテスト方法を実施することも官僚特権で禁じており、民間企業の試験参入にも抵抗していると。
 9.11で予算が膨脹したのに、やっていることは統制と党派的ないさかいばかりであると。

 次。
 William Rhoads, Andrew J. Whelton & Caitlin R. Proctor 記者による2020-4-22記事「How Coronavirus Shutdowns Can Make a Building’s Water Dangerous」。
       従業員に自宅待機命令が出ていて無人状態が長く続くオフィスビルや店舗では、水道配管内に停滞している水の汚染が心配される。

 数日間なら問題はないが、数ヶ月だと問題がある。
 鉛や銅が溶け出した水を飲用することになればそれも良くない。飲み水の中の高濃度の銅は人を病気にしてしまう。

 水道の使用を再開し、それからビル備え付けの給水タンク内の水がフレッシュな水道水といれかわるまでの最短時間は、小規模ビルでは60分、大規模ビルでは数日ということもある。


あじがして 今の無事知る かつを缶/二十八。 ……皆さま、今朝は味覚ありましたか?

 紅海方面へ派遣している海自艦艇乗組員の、上陸も交代も新コロ騒ぎで不可能になってしまい、往生している……というニュースを目にしました。

 中共海軍はそんなときの場合のために大型病院船に「洋上保養場」の機能を持たせて、OFFの水兵たちをローテーションでくつろがせているようです。いろいろな事情から水兵たちにリアルの上陸はさせられない場合が多いと、彼らは最初から考えて、そんな準備までしていました。

 日本にはそのようなフネはありませんので、早急にできることといえば、大型補給艦1隻を、人員交代船に仕立てて、内地からインド洋まで派遣するしかないかもしれません。

 『橋立』は、リゾート・シップ(保養船)としても、駆逐艦のまるごと交代要員輸送船としても、容積が不足でしょうしね。

 『しらせ』の転用も、いよいよ、考えなくてはならないかもしれません。

 次。
 Loren Thompson 記者による2020-4-20記事「How Coronavirus Could Permanently Transform The U.S. Military」。
     わたしが30年前に国防ビジネスに参入したとき、しばしばワシントンDCの路上でタクシーをひろって、そのままペンタゴンビルの内奧に、誰にも咎められずに入れたものだ。バッヂなんかも付ける必要はなかった。

 しかし9.11以降、その流儀でわたしがペンタゴンに入ろうものなら、警備兵の自動小銃で撃ち殺されることは必定だろう。
 テロリストたちは今、先進諸国内では逼塞しつつある。が、いちど変わってしまった連邦政府関係施設の警備体制が、昔のように緩められることはないはずだ。

 同じことが、「新コロ後」の国防組織文化についても、起きることは間違いない。

 在韓米軍将兵は、韓国に派遣される前に、種痘などの予防注射をいろいろとさせられる。北鮮が天然痘ウィルスなどの生物兵器を使う可能性があるからだ。
 だが人工的に改変された病原体に対抗するのは、そう簡単じゃないはず。

 潜水艦や狭い水上艦には今も「ホット・ラッキング」(ワッチ交代のつど、ひとつの寝床を水兵2~3人で順番に使う。Hot bunking ともいう)がなされることがあるし、輸送艦に多数の兵士がぎゅうぎゅう詰めにされて運ばれることだってあり得るが、新コロの後でも、それができるか? 無理だろう。

 戦争の仕事をできるだけ無人兵器にやってもらおうという努力は、これで、加速されるだろう。

 「ノーマルシーに戻ろう」と強調したのは1920選挙のウォーレン・ハーディングだった。だが1920年代は、いろいろ、とんでもない時代になった。昔のノーマルは、戻らないのだ。

 次。
 Charlotte Jee 記者による2020-4-21記事。
    フェイスブックが、協力ユーザー100万人以上の自己申告データにもとづく、米国内の新コロ患者密度マップをリリースした。
 ソフトは、カーネギーメロン大学がつくった。
 フェイスブックのユーザーにして自覚症状(咳、熱)のある者が、それを自覚した場所をソフトに教える。

 そのビッグデータを整理すると、ユーザーは、カウンティ(郡)単位で、どこが感染リスクの高い危ない場所かを、知ることができる。
 情報は毎日、更新される。
 数週間以内に、他の国用のバージョンもできるだろうという。ただし、これは協力ユーザーが多いかどうかにかかってくる。

 このデータは医療行政の上で役に立つ。ベンチレーターなどの治療リソースをいちばん必要としている場所がどこなのか、視覚化されるからだ。

 マッシヴな陽性判定テストが不可能な今、こういう統計推計が、その代用になるのだ。

 もちろん、協力してくれるユーザーが少なければ、その地域に関しては、ビッグデータとしては頼りにはできないことは、いうまでもない。

 ※近代以前の「村八分」とは、火事と葬儀だけは助けてやる(すなわち、10マイナス2)という意味だと聞いたことがあるが、このごろの新コロ罹患者は、火葬も特別コースらしいし、某地方では家に投石されるそうだしで、「村十分」に近づきつつあるのかもしれないね。

 次。
 Meghann Myers 記者による記事「The military continues to diagnose more than 100 new COVID-19 cases a day」。
     3月後半いらい、米軍は、毎日、100~200人の新陽性判明者を出している。DoDの4-17統計によると、その時点で累計3438人だ。うち、死亡者は22人。

 空母『TR』では乗員の95%に検査をし終わった。新コロ陽性だったのは678人であった。その半数が無症状陽性。

 ペンタゴンの研究施設では、連日、9000サンプルの新コロ陽性判定が可能になっている。
 ペンタゴンは、この検査キャパを、45日以内に、「6万テスト/日」にまで増やしたいと考えている。

 米四軍のうちでいちばん新コロをよく抑え込んでいるのは海兵隊で、全世界で250人の罹患者しかいない(4-17時点)。

 次。
 Katherine J. Wu 記者による2020-4-20記事「Why the New Coronavirus Affects Some Animals, but Not Others」。
   「SARS-CoV-2」ウイルスが、ヒトだけでなく猿、犬、フェレット、家猫、虎に感染するという最近のリポートがある。

 このウイルスのオリジンがヒトではない動物(たとえば蝙蝠)にあったとしても、このウイルスの最も犠牲になるのが人間であり、また、このウィルスの最悪のスプレッダーになるのも人間である。

 動物からヒトにSARSが伝染させられたという事例の報告は、いまのところ、1件もなし。

 天然のコロナウィルスは100種類以上が知られている。その多くはコウモリの体内で見出される。

 ウイルスは、そのターゲットとする細胞の表面にある「レセプター」と呼ばれる分子と相性がよくないと、感染はできない。
 ウィルスとレセブター分子との相性がよければ、鍵がロックを外すように、ウィルスはその細胞に侵入できる。

 SARSがもっている鍵は、「スパイク状蛋白質」とよばれ、多機能工具のようになっている。
 この鍵が探し求めているターゲットの鍵穴は、脊椎動物の血圧を制御している蛋白質である「ACE2」である。これがSARSウィルスにとっての、細胞の防壁ロックの突破孔なのだ。
 「ACE2」は、哺乳類、鳥類、爬虫類、両生類、魚類の細胞にもある。

 それぞれの動物は数百万年かけてACE2の形を微妙に変えてきている。しかしSARSの「スパイク蛋白」にとっては、いくつかの動物のACE2は、人間のもつACE2と、大差がない。

 特に家猫。ACE2の部位が、霊長類と、ぴったり一致してしまうのである。
 3月、ベルギーと香港で1件づつ、新コロ患者が飼っている家猫が新コロ陽性と判明した、と伝えられた。

 2002年に始まったSARSアウトブレークのとき、「SARS-CoV-1?a」(これは「SARS-CoV-2」よりは感染力が弱かった)が、SARS患者の人間から、ネコ科のペットにうつされることが、知られている。やはり細胞表面のACE2をこじあけたのだ。

 とはいえ、最近の実験で、ネコを「SARS-CoV-2」に感染させるためにはかなり大量にウィルスを投じなくてはならぬことがわかっている。現実世界からの報告にも、《うちの猫がSARSで重症》という話は皆無である。
 ペットの中でネコの感染リスクがいちばん高そうに見える理由は、ウイルスのキャリアーである飼い主がネコとべたべたする濃厚接触時間の蓄積が、他のペットよりも大だから、なのであろう。

 今日までのところ、香港、米国、韓国においては、調べてみた数千のペットの猫、馬、犬のすべてが新コロ陰性だったとされている。

 また武漢からの報告(ただし最高水準審査を経た論文ではない)では、何匹かの野生ネコの体内に、新コロの抗体がみつかったという。これは野生動物がずっと前から新コロをサバイブしていたことを示唆するのかもしれない。

 これまでのところ、ネコが人間に新コロウィルスをうつしたという報告例は、無し。

 また、新コロ陽性であるネコを実験室の中で、陰性のネコと狭い空間にとじこめれば、感染は起きる可能性があるけれども、その情況は、自然界では、まずないであろう。

 今月前半、ブロンクス動物園の雌のマレー虎が「SARS-CoV-2」陽性と判明。経路はおそらく、ひとりの飼育員が、じぶんがキャリアだとは知らずに、うつしたのだろう。マレー虎には、乾いた咳と、食欲減退の症状が見られる。

 同じ動物園では、他の虎やライオンたち複数にも疑わしい症状が出ているが、陽性テストはされていないという。

 最近の研究。マウスのACE2は、人間のACE2とはかなり異なっている。おそらくそのおかげで、マウスは、新コロには罹り難いようだ。実験室で無理やりに感染させようとした場合のみ、齧歯類は新コロに罹るようである。

 犬は、コロナ系ウィルスには感染しにくいと考えられる。げんざいまでのところ、香港で飼われている3匹についてのみ、感染したと報告されている。世界には4億7000万匹以上の犬がいるのだが。

 フェレットは、肺がコロナウィルスにやられるらしい。症状として咳が出る。だから、周りの人畜に伝染させるかもしれない。

 新コロは、ニワトリ、ブタ、アヒルには罹りにくいようだ。ハムスター(ゴールデン・シリアン)には罹るという。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-4-21記事。
   げんざい、アフガニスタンでは1036人が新コロ陽性。36人が新コロで死んだと確認されている。

 次。
 IMMANUEL JOHNSON 記者による2020-4-21記事「With face shields and extra planning, Chinook pilots take to the skies in Germany」。
      ドイツ駐留の米陸軍のチヌークの乗員たちは、従来のヘッドギアに加えてさらに、フェイスマスクとプラスチックシールドを装着して、訓練している。

 次。
 ご報告です。
 ユグドアの初期の撤回期間を過ぎた皆様のご喜捨分、つい先日より確かに拝受しつつありますので、ここに御礼方々、その旨をご報告させてください。
 この方法を利用する善意の方々すべての安全が、確保されるシステムになっているのであろうとの当初の見込みは、今のところ、外れていなかったように思えております。
 ありがとうございます。
 これを支えとし、また励みとして、ひきつづき、「いつか誰かの役に立つ」レア情報の発信等に、努めて参ります。


旧資料備忘摘録 2020-4-21Up

▼陸軍省『91式車載軽機関銃取扱法』S10-9
 6.5ミリ。短銃床と長銃床あり。長い方がスタンダード。
 短銃床型は、用心鉄下端に球状の木製グリップを嵌める。

 弾倉45発。照尺は300~1500m。
 倍率1.2の眼鏡。
 アスベスト製握革。

 弾丸、白銅被甲硬鉛9グラム。
 装薬、無煙小銃薬2.15グラム。
 実包の重さ、21グラム。

 92式徹甲弾(6.5ミリ)もある。
 黄銅被甲で至硬銅、7グラム。

 手入れなしで1500射てる。
 油槽は2000発対応。
 50発で、バレルを手で握れなくなる。300発でバレルから白煙。

 ※図面付き。

 ホッパー=装填架。
 指サックのような鉄製のバレル覆いのことを「防弾具」と呼ぶ。

 やはりバレルに製造年月が“9.11”などと打刻されている。

▼『八九式旋回機関銃 同(特)仮取扱法』S9-2、陸軍省
 並と(特)の違いは、後者は挿弾子が飛散しないように大きな弾倉の中へ回収するようにしていること。

 十一年式LMGを、バレルを外に2つ併列、扇形弾倉を使用する。
 口径7.7ミリ。

 (特)保弾帯は、38式銃実包挿弾子に類似せる挿弾子18ヶを連板上に鋲著し、帯状にしたるものにして、弾丸は白銅被甲にして硬鉛を以て弾身[ママ]とし、重量105グラム。
 装薬は無煙小銃薬乙で8グラム。

 本銃は、放熱装置なきを以て、地上射撃の場合は銃身保存上、1弾倉撃ったら冷却を待つ。

 ※全体図付き。

 銃身には、製造年月が、“7.8”のように、2mmの深さで刻印されている。

▼『試製単銃身旋回機関銃(二型)取扱法』S17-7、陸軍航空本部
 89式旋回MGの左銃を改修し、単銃身、回転弾倉とした。
 670発/分。初速810m/秒。 タマは89旋と同じ。

 弾倉は円形回転式。68発入りが1銃につき10ヶ。
  ※ルイスが参考か?

 ※不鮮明な写真付き。

▼防研史料『機関砲射撃教育の参考』S16-9
 98式AAMGのマニュアル。
 横風データあり。

 500mまで0.5秒。
 2500mまで7.0秒かかる。

▼教育総監部『竹槍訓練ノ参考』S18-10 (株)尚兵館 ※斉藤七五郎の子孫のようだ。
 一般用の長さは1.7mから2m。少年用は1.5m。
 太さは、一般4センチ。少年3.5センチ。

 附刃角度は20度。
 弱火にて炙り、植物性油を塗るを可とす。
 竹は生のものに限る。

▼参謀次長『国内遊撃戦の参考』S20-1-15
 手書き、ガリ版刷り。
 遊撃戦は、大隊を以て戦術単位とす。

  ※ハウツーではなく、原則、指針が書かれている。

▼防研史料『前原謙治資料 横須賀工廠造兵部時代関係』S7-10
 ※前原中将の遺族から寄贈されている史料。

 ショップテストは当該工場で行なう。
 上海事変で急遽、航空爆弾が必要になった。冷延工法で、ひと月に1000発の250kg爆弾を造れるようになった。36kg、60kg、250kg、500kg、800kgのバリエーションがあった。

 「機銃製造作業促進の件」
 昨年〔S6か?〕9月、呉工廠より保転の製造用機械 到着し……最初の銃身工事に着手せるものにして、工具類等の如きはその1/3は本年に入ってから作っている。戦時自給自足は思いもよらない。上司は遂に本年1月中旬、当部 機銃工事の現勢を中央に〔説明?〕致され、以て、外国品購買の急務なる所以を力説せられたり。
 本年5月ようやく、すでに註文うけていた工事に対し、工事予定が立てられるようになり、遂に9月末、毘式7.7ミリ機銃最初の10丁完成し、10月上旬、之が領収試験 および 特別耐力[ママ]試験(3000発連続発射)を施行せり。予期以上の好成績。

 本年6月以来 「保式十三、二粍」二連装機銃の試製工事を開始し、明年1月末までに工事完成の予定なり。

 機銃製造用機械84台、同弾薬包製造用機械31台、同包装用機械7台、本年中に到着予定。
 これらの機械の上に、今の50人の現員を150人に増やし、昼夜兼行すれば、毘式「7、7粍」×700を作ることができる。保式13.2粍なら250を作れる。
 弾薬包は1昼夜で2万発作れる見込み。

 弾薬包関係の職工を陸軍に派遣し、技術修得のことに手順中。

 以下、S8の記述。
 機銃および弾薬包の(装填は別)工場略図ができあがった。鉄筋3階、2300坪。

 7.7ミリ弾は「彼の厖大なる陸軍施設の活用に関し 協定更改 緊切なりと認む」。
 毘式7.7ミリMG、昨年9月、試製品完成。爾来 約40梃製造。

 92式7.7ミリMG〔これは留式のこと〕、本年5月 試製品完成。多量生産準備中。
 「九三式十三粍」、本年3月試製品完成。多量生産準備中。

 弾薬包の装填作業。昨年11月、陸軍に就き技術習得。
 九三式十三粍用の「測範」「治具」「工具」約2100種。設計完了、一部は購買中。本年中に完備する。

 今日迄の経験を基礎とし調達したるところによれば、当部製MGの単価は、外国購買の1/2となる見込み。
 毘式7.7ミリ固定機銃。8年4月、外国購買単価3200円。当部で多量生産した場合、1700円。

 92式7粍7 旋回機銃。外国購買1800円。当部量産1000円。
 93式13粍機銃。外国購買6000円。当部量産2200円。

 機銃製造技術の与えたる一教訓。
 本技術の独立たちおくれのため、我が海軍の蒙りたる既往1ヶ年間の損失は優に数百万円の巨額に達し居るものと認む。

 S7-6-14に、機銃工事月頭報告開始?
 S7-6-27、毘式と留式の工事〔=製造〕用機械増加要求。
 S7-7-21、毘式7.7 銃架不良問題の件。

 「極秘・高等官手渡」S8-2-24調査報告。
 横式13粍MG 試製が来3月中旬完成見込み。マスプロ準備未了。
 92式7.7粍旋回MG 試製が来3月中旬完成見込み。マスプロ準備未了。
 毘式7.7粍 最初の注文10梃できただけ。

 MG用粗材は日本特殊鋼に供給させるつもりだったが、成績不良なので、呉工廠より受ける他ない。

 7.7ミリ弾の挿弾子は、昨年1月頃 初めて試製を開始。於・東京市鶴岡製作所。ここだけしかない。

 8-2報告。
 MGは戦時の1.5年に3500梃必要になる。その1/4にも達していない。
 当部のMAXは7.7ミリ×640梃だろう。
 そこで8年度、25万円の機械を増やして貰うが、まだ足りまい。

▼『武器輸出(対支)禁止申合セット 米国「ペスレヘム」社』S2-6-20
 対支海軍拡張援助禁止協定。
 NYのベツレヘムスチール社が、工場を支那に造るという契約が、1922頃以降にあった。

 過去約30年間に中米諸国に対する米軍の武力干渉は、30回。
 現在、ハイチ(1915~)とニカラガ(1926-12~)に出兵して交戦中である。

▼防研史料『第一技術研究所文書綴』/第一技術研究所 S16~17
 96式重砲運材車 説明書。S16-9 技本。
 ゴム輪帯(タイヤ)4個を有する被牽引車(トレーラー)。
 「チキ車」と言っていたらしい。
 全長4884ミリ。トレーリングアーム抜きで。

 同改修要領。S17-8、技本一研。

 S17-9-28 第一研 連絡。「日本製鋼所より受領したる二十一榴の砲身素材図は」OKだ。砲身長は6mでよく、肉ももっと薄くていいだろう。
 「第一号砲身素材図は計算の為 約一ヶ月を要す」。

 ナマ写真。一式重砲運搬車(四五式24榴用)。

 96式15榴の脚は、五種類ある。補強しているので。
 S17-12時点で、内地+北支+南方に273門、満州に131門あった。

 91式十榴も、脚は5種類である。
 満州以外には1052門、満州には257門ある。

▼防研史料『竣工試験射撃一般に就て(17)』S17-7-24/教官・山下中佐
 1式47ミリATGの腔圧は2500kg/平方cm と規定されている。
 88式七高は、2750kg/平方cm と規定されている。
 94式山砲は、1940km/平方cm と規定されている。 初速は370.7m/秒である。

▼防研史料『各種会議に関する綴』S17-1~S18-6/第一研第三科
 S18-1-30、参本第3科〔課?〕で 新中戦車諸元検討に関する件。

 S17-1-7の騎兵学校意見。97式車載HMGは、単発不能を減少する如くす。
 銃尾 尾筒上板を補強す(射撃中、薬莢破片が侵入して破損する)。

 97式自動砲は、引鉄 固きに過ぎ、精度と発射速度に影響す。

 S17-1-6、歩校意見。
 「装甲歩兵砲」をつくってくれ。全高1.5m以下。装甲50ミリ厚、3人乗り、無砲塔式に47ミリ砲載せて。
 「擲弾筒打上阻塞弾」をつくってくれ。

 研究発表(極秘)於 偕行社広間。「いす号」装置。水上有線操縦装置である。

 S17-4-2、技本研究会議で4-10に、「湿地車の研究」を発表することに。

 陸軍防空学校のS17-3意見。
 AA機関砲は「金質一般に脆弱」。尾筒底に亀裂、などなど。
 予備品の不適合のもの、比較的多し。
 試製98式曳光榴弾は、現制式弾倉に填実不能なり。
 発射煙のため、発射中に於ける追随照準困難。

 38式MGは、S15に10門を再調整交付したのがLAST。
 「高射機関銃」はやはりS15で再調整交付したのがLAST。※三年式をAA架台に載っけたもの。

 92式車載13ミリ機関銃[ママ]は、S14でLAST。

 「一〇〇式長柄鎌」はS16-8-6制定。
 「地下水探知機」はS16-2-10制定。
 「99式甲号除車」はS16-2-10制定。※化学除染剤を積んだ履帯式トレーラーで94軽装甲車が曳く。

 「伐開車」「伐掃車」はS16-2-10制定。
 「97式植柱作業車」はS16-10-10制定。

 新様式に改正の分。
 S15-9-6に、38式歩兵銃と同騎銃と44式騎銃。
 S15-11-18に、11年式LMG。
 S16-1-19に、92式HMG。
 S16-3-26に、三十年式銃剣と、十四年式拳銃。

 S17-5-7時点でまだ十一年式曲射歩兵砲を使っており、砲は単純だがタマが複雑で腔発を起こすので頭かかえていた。

 97TKは、S17-6以降のものは純電気式同期方式の始動に改める予定。※セルフスターター。

 最近製造のものは代用鋼材を使い、竣工試験は特別基準で合格させている。

 大あか筒(99式大あか筒を改良し、試製一式として整備中。水上でも使える)。※催涙性の煙幕ガス。

 S17に、鳥居松で、銃床用材を研究。
 銃床関係は、熱田、鳥居松(以上、名造=名古屋造兵廠に属す)、大造第一、仁造平壌 でやっていた。

 S17-9-11、陸軍省軍事課・陸軍軍需審議会で報告された、名称が書かれていない秘密兵器。「パナマ運河を航行する米国船の船底に密かに附着せしめ、パナマ運河航行中に爆破せしめんとするものなり」。浮遊させておいて、それを磁着させる。信管〔安全装置だな〕には、海水が淡水になったことを感ずるセンサーを用いる。※パナマは閘門式なので、内陸の湖の水を導入して水嵩を上げる。だから塩分が薄まる。浮遊リムペット機雷を陸軍が考えていたとは……。

 S17末の一研・四研 連絡会議。
 装甲兵車用(乗車歩兵用)MGの研究。

 TKに吊鐶をとりつけろ。ないので、廃車の積載が困難だ。

▼『自動火器に就て』陸軍兵器行政本部 S18-5
 1939、クルチー(Curti、スイス人?)著“Automatic Waffle”の全訳。
 ナポレオン時代、鉄砲は毎分2発だった。
 1866~1870当時、ドライゼ銃(1841発明)は、毎分5分を実現。
 1870シャスポー、毎分10発。
 1890以降の連発銃は、皆、1分間に25発、射てる。ただし、狙って射てば、毎分10発が限度。

 1869にイタリーのヴェッテルリーが連発銃を発明したが、軍は躊躇し、単発式として採用した。
  ※この「連発」とは、フルオートまたはセミオートのことか?

 1892、スイスで要塞機関銃が、サン・ゴダールの戦闘に使用された。

 ノイハウゼンはスイスのSMGで、ベルクマン社でも製造しているが、銃剣が装着可能。9ミリパラベラム弾40発。自重4.5kg、初速415m/秒。
 この弾薬は、距離800mで馬の頭蓋を貫通する。

 ドイツ人ベッカーがWWI末期に発明したのが、20ミリ・エリコン。

 仏語で La mitrailleuse automatique といえば「自動機関銃」のこと。

 ソロータン20ミリは、バレルが19ミリ後座する。全長2.24m。
 英のビッカースは、マキシムと、稍々相違してゐる。

 20ミリは、13ミリや7.5ミリより弾道学上、不利。信管をつけるため弾形を整形できぬため。射程も短い。
 ゾロターンの実包は、全長202.5ミリ、底部直径20.85ミリ。弾丸だけの全長は75ミリまたは78.5ミリ。

▼S12-10『1925年式ビッカース・ベルチェー軽機関銃 説明書』/技本
 ※支那事変で鹵獲されつつあった兵器の調査書。

 英領印度の制式になっている。ガス利用式。.303口径。全起縁で、バナナ弾倉30発。 ※ブレンそのものに見える。

▼S12-7『1896年式ルイス軽機関銃説明書』/技本
 英製と米製の両方がある。グリップなど、多少、バリエーションがある。航空用の、非常に軽量のものもある。

▼S14-9『チ式7.9mm軽機関銃説明書(改訂)』/技本
 ※チェコ軽機である。

 20発弾倉、全長1240ミリ、重さ8.9kg、サイクルレート600発/分、初速750m/秒。

 発射するタマには、軽弾Sと、重弾SS とがある。
 弾重10.57グラム。三番管状薬が3グラム。実包の全重は28.3グラム。

 300発以上の連射はいけない。
 500発までもつが、バレルの命数はなくなる。

▼萱場四郎『支那軍兵器一般 第2編』S13-1
 オランダのコールホーヘン単戦は、機首にエリコン20ミリ×を有す。

 地上用エリコンは水平レンジは5000m、最大射高は2000m。
 ゾロタンの砲口kgmは5400。ブレダやエリコンより強力。

 ビッカース12.7ミリ。弾丸45グラム。初速930。射高3500。水平レンジ6400。サイクルレート400発/分。

 ソ連機の20ミリは、マドセン式である。弾丸150グラム、初速890、サイクル300発/分。射高4200m、水平レンジ6000m。

▼資料名不明 靖国神社データ
 1853いらいの国事殉難者を祀る。ぜんぶで246万余柱。

 東京招魂社の1869設定の祭日は、1月3日(鳥羽伏見の戦の日)、5月15日(上野の戦いの日)、5月18日(函館降伏)、9月22日(会津降服)。

 1879-6-4に靖国神社になると、11月6日(陰暦9月22日)を正祭となし、勅使が派遣され、春の大祭を5月6日とした。
 現在は、4月22日と10月18日である。

 大村が現在地を選定した。
 今も例祭には勅使が参拝する。

 神事。
 新年祭 1-1。
 春季例大祭 4-21~23。
 みたま祭り 7-13~16。
 秋季例大祭 10-17~19。

 まず招魂社が全国につくられようとした。そのひとつとしての東京招魂社=3588柱/M2-6-29。

 1853以降に斃れた志士、陣没者、佐賀・神風連・秋月・萩・西南の各乱の犠牲者も。

 官幣とか国幣などの名称は、延喜式の社格である。
 靖国=安国で、平和な国をつくるという意味。

 S44-10に創立百年大祭があり、天皇・皇后両陛下の御親拝があった。
 現在は、単立神社。

 他の神社だと、例祭は年1回である。靖国だけ2回。
 戦中は、4月29日に例祭春祭(勅使発遣)、10月21日に旬祭、10月23日に例祭秋祭(勅使参向の儀)あり。

 明治天皇の行幸は、M7-1以降7回。行啓4回。
 大正天皇は、大13-5までに2回行幸。

 御代拝、東宮・皇族の参拝は数知れず。

 陸軍記念祭 3-10。
 海軍記念祭 5-27。
 報慰会祭 1月第三日曜、7月第一日曜、4月、9月。

 熊本籠城記念会祭 2-22。
 甲子殉難祭 6-19。
 朝鮮公使館事変殉難祭 7-23。

 合祀祭には、諸官に休日を賜うた。
 S30年代から、戦友慰霊祭が急増した。

 軍人恩給が復活し、遺族にも支給された。
 特別扶助料。非戦闘地域の非公務で死亡した者の遺族に対する恩給年金。
 旧軍人恩給は1946-1にGHQが廃止したが、1953-8に復活。

 S21-10-11。大正元年に改正せる、4-30(日露戦争陸軍凱旋観兵式の日)、10-23(同海軍凱旋観艦式の日)の例大祭日は、戦争抛棄を規定せる新憲法公布にさきだちて変更すべきとの議が起こる。
 祖霊祭祀の日として、一般化された春分の日(3-21)、秋分の日(9-24)を選定するのがふさわしく、これを新暦に換算し、4-22、10-18を、春秋2季の例大祭とすることに決定した。

 S23-7-1、宮城を皇居と改称。

 S27-5-2、新宿御苑で、初めて政府主催の全国戦没者追悼式。両陛下も。

 S27-5-5、臨時大祭第2日に、首相代理として、官房長官剣木享弘が特別参拝。
 S27-8-16、元陸軍大将・河辺正三ほか有志の主催により、終戦時自決者慰霊祭。

 S28-4-23、首相吉田茂、特別参拝。※これ以後、本人は参拝せず、代理のみ。
 S32-4-25、首相岸信介、特別参拝。
 S34-4-22、文部大臣 橋本龍伍 参拝。
 S35-10-18、首相、池田勇人。

 S36-11-15、池田、東南アジア歴訪にさきだち、特別参拝。
 S36-12-15、外国元首として初めて、アルゼンチン共和国フロンディシ大統領夫妻、参拝、奉奠。
 S28-8-14、国務大臣 佐藤栄作が特別参拝。

 S38-8-15、日比谷公会堂における政府主催の第一回全国戦没者追悼式。日本遺族会会長で法務大臣の賀屋興宣が参拝。小林武治・厚相も。

 S39-5-17。九段坂上の川上大将銅像は、S18-4に供出されていたが、上野東京美術館裏にころがっていた大山元帥像が、そこに戻された。

 常陸丸殉難者の中に3人の英人クルーもいる。

 S39-8-15、天皇皇后の御臨席を仰ぎ、大村銅像前で第二回全国戦没者追悼式がおこなわれる。

 S40-1-6、厚生大臣 神田博、新年の特別参拝を為す。
 S40-4-21、首相佐藤栄作。
 S44-1-1、厚生大臣 斉藤昇夫妻 特別参拝。外相 愛知揆一も。
 S47-7-8、首相田中角栄、特別参拝。
 S50-4-22、首相三木、特別参拝。

 S50-8、元戦9の生存者、下田四郎が、97TKを奉納。
 もうひとつは、富士吉田市の戦没少年戦車兵・若獅子の塔にあり。

 S51-4、東部ニューギニアにあった野14Rnの41山砲を奉納。これはクルップ型 後座式。

 S51-8-15、「英霊にこたえる会」主催 第一回戦没者慰霊大祭。以後、恒例となる。

 S53-4-21、首相福田赳夫、特別参拝。
 S54-4-21、首相大平正芳、特別参拝。
 S55-10-18、首相鈴木善幸、特別参拝。

 S58-4-21、首相中曽根康弘、特別参拝。
 S59-1-5、首相中曽根、社頭参拝。
 S59-4-21、S59-8-15、S59-10-18、中曽根 特別参拝。
 S60-1-21、中曽根、社頭参拝。
 S60-4-22、中曽根、特別参拝。
 S60-8-15、中曽根、公式参拝。

 明治2年7月17日、兵部省が招魂社例祭日を1-3、5-15、5-18、9-22と定める。
 M2-10-19、鳥羽伏見記念の正月3日は、明治の新時代の到来を象徴するので、この日を大祭日とする。
 M12に、1-27が例大祭となる。
 M12-6-14、大祭日を、5-6と11-6に改め、勅使は11-6参向と定める。

 M14-5-4に、遊就館ができる。『荀子』の勧学篇に「遊必就士」とある。イタリア人のカペレチー設計。

 M19-4、少将・元老院議官 原田一道ほか6名、大村銅像を神社馬場中央に建設することを願い出、東京砲兵工廠で鋳造に着手。→M26-2-5竣工。東京における最初の西洋式銅像。
  ※7年がかりというのが解せない気もするが……。

 M19-7-18、青銅鳥居の鋳造を大坂砲兵工廠で着手。大坂工廠にある反射炉以外では、不可能な規模だった。銅材として、旧諸藩の青銅砲の一部を使用した。→M20-7-20竣工。
 ※これはヴァンドーム広場のナポレオンの塔に影響されているのではないか? 戦利砲を鋳潰した塔なので。
 S16-8-30、金属類回収令。
 S18-6-2、大村銅像まわりの旧式砲8門のうち6門を、陸軍に献納。鋳潰された。川上操六大将銅像も。



勤め帰りらしい男女の客たちがドラッグストアでストロングゼロを買い込んでいるのを見て、人々のストレスを察した。

 MATTHEW M. BURKE 記者による2020-4-20記事「III MEF instructs Marines on Okinawa to prepare for 72-hour shelter in place order」。
     沖縄の海兵隊(第三遠征軍)は20日にフェイスブックで示達した。
 いつでも、命令一下、最速コースで居宅に戻り(その間誰とも接触してはならず)、その自宅で完全にひきこもれる準備を整えよ。72時間分の食糧と水、乳児用調整粉ミルクなどを自宅に備蓄しておけ、と。

 「シェルター・イン・プレイス(居宅籠城)」命令、と呼ぶ。
 もちろん、自宅謹慎中も、指揮系統からの連絡・受令には即応できるようにしておかなくてはならない。

 なお現在、在日海兵隊とその関係者にはひとりの新コロも確認されていない。
 しかしもし感染が発生した場合、直ちに「接触追跡」の調査と空間除染が必要となる。その措置を最も機敏にぬかりなく実施するには、手順として、まず「シェルター・イン・プレイス」命令を出すのが合理的なわけである。

 海兵隊員は「AtHoc」という双方向警報システムに加入している。声電話、テキスト電話、Eメールで上司からの通知が届く。

 4-10には在日海兵隊司令部は非常に厳しい基地外利用制限を発令している。他人宅への訪問禁止、タクシー、バス、電車の利用禁止、ドライブスルーの利用禁止、そして、デリバリーの利用も禁止。

 ※あきらかに中共の「ウィルステロ」のターゲットになっていると自覚して先手を打っている。流石也。

 この命令は、海兵隊員の扶養家族、ならびに、国防総省が雇い上げあるいは契約している民間人たちが、米軍基地の外にある学校や保育施設を利用することをも禁じた。

 嘉手納基地の第18航空連隊も、類似の禁令を20日に発した。
 すなわち、22日以降は、基地外のレストラン、学校、児童館などを利用してはならない。ただし海兵隊員と違って、空軍将兵たちは、いつも利用している基地外のドライブスルーで食い物を買うことは認められている。

 沖縄県のウェブサイトによると、4-19時点で県内に119人の新コロ陽性者が。その中には、嘉手納の空軍軍人2名、その家族1名が含まれている。県内のこれまでの病死者は3人である。

 次。
 CHAD GARLAND 記者による2020-4-20記事「Camp Lemonnier calls on US contractors to leave homes, bunk up on base in Djibouti」。
      ジブチの米軍基地である、キャンプ・ルモニエ。ここが突如として、契約民間人たちに対し、臨時の基地内施設に籠もれ、と促している。基地外の新コロ流行が猖獗をきわめつつあるため。

 この基地には米兵と民間人が5500人いる。先月後半、数百人の地元労働者は、基地への立ち入りを禁じられた。一部の軍人・軍属(罹患疑い含む)はジブチ国外(ドイツにある米軍基地町)へ空輸脱出させた。

 WHOデータによれば、20日時点で、ジブチ領内では846人が新コロ陽性。2人が病死。週末を挟んで300人増えたことになる。

 このままでは基地外の契約民間人約180人は、感染危険が大きすぎるので、このさい、基地内に収容してしまうことに決めたのだ。

 だが民間人たちは引越ししたがらない。基地から街までは4マイルもあるし、
 自宅を開けていたら、強盗に入られ放題になってしまう。じぶんの家族親類からも切り離されてしまうのだから。

 しかもその収容先というのが、2人部屋~3人部屋で、トイレ共同。それでソーシャルディスタンスが確保されるのか?
 ただしこの居住環境は、基地の軍人たちも、ほぼ同様なのである。

 ジブチには中共の建設労働者が多数存在する。そして1月には同国内での新コロのアウトブレークが疑われている。

 スペイン軍の特殊部隊の兵士が先月、ジブチに赴任したのだが、すでに新コロの症状があった。陽性確認されている。

 3月22日には、基地外住みの関係従業員である地元民1200人以上が、基地への出勤を差し止められた。また、基地内住みの労務者たちには、公用のなき限り、基地外へ出ることは禁じられた。

 基地では、空きビルを1棟確保して、隔離病棟とし、そこで30床の集中ケアができるように、準備を整えている。
 それは街中にあるわけだが、敷地回りをロープで結界して、住民は近寄らせない。

 次。
 Jason Kindrachuk 記者による2020-4-17記事「A Virologist Explains Why It Is Unlikely COVID-19 Escaped From A Lab」。
     記者は、マニトバ大学の医療微生物学&感染症学部の助教授。

 武漢市の野生動物マーケットで動物サンプルを調べたところ、動物内からは新コロウイルスが見出されなかったという。マーケットの雰囲気中には、新コロウイルスはもちろん見出された。

 湖北省には2019-11時点で既に人のあいだの新コロ流行があった。

 2019-12の武漢動物市場での流行は、すでに、人から人への感染現象であったと考えられる。

 人間の新コロと、蝙蝠のコロナは、ゲノムが96%一致する。
 人間の新コロと、センザンコウのコロナは、ゲノムが85.5~92.4%一致する。

 世界の多くの地域で野生コウモリが食材として販売されている。これを禁じても、関係者の生計がかかっている以上、取り引きが闇市場へ移動するだけだろう。

 次。
 J. Cavanaugh Simpson 記者による2020-4-19記事「The Man Who Beat the 1957 Flu Pandemic」。
     モンタナの農場で生まれたモーリス・ヒルマンは、ジフテリアと大恐慌の経済苦を生き残り、シカゴ大学で微生物学の博士号を取った。

 その後、2つの製薬会社に相次いで所属。25年にわたってワクチン研究をリードした。

 彼は「はしか(麻疹)」のワクチンを初めとして、40種類ものワクチンの開発に関与した。
 はしかの予防注射だけでも年に100万人の命を救っているはずなので、のちに『ニューヨークタイムズ』紙は、おそらくはヒルマンが、20世紀で最も多数の人命を救った科学者なのだろう、と推定している。

 1957年にアジア型インフルエンザが米国で流行し、7万人から11万6000人が病死した(全世界だと100万人死んだという)。
 そのときヒルマンは、ウォルターリード陸軍病院の呼吸器病科の部長だった。

 ヒルマンは、連邦の規則も無視して、最速で、4000万注射分の、ワクチンを量産させた。もし、この敢為がなければ、米国内だけで100万人死亡した可能性があったという。

 ヒルマンは1957-4-17にNYT紙の報道に目をとめた。香港でインフルエンザのアウトブレークがあり、25万人が罹患しているという。それは香港住民の10人に1人という高率だった。

 パンデミックを確信したヒルマンは、米陸軍が日本国内にもっていたラボに電話をかけ、調査を依頼。
 ラボの軍医将校が、どうやらそのインフルに罹っている海軍軍人をみつけ、うがいをさせた。数週間後、その液体サンプルがヒルマンに届いた。
 ヒルマンのチームは毎日14時間働いてウイルスを単離培養。

 ヒルマンは、1957-5-22に、ウォルターリードからのプレスリリースとして、このインフルは9月には北米に上陸する、と警報を発した。それは米国の新学年度のスタート時にあたる。

 米国では1940年代なかばから、インフルエンザワクチンが工業生産されるようになっていた。ヒルマンは6つの米企業にサンプルを送って、ワクチン量産を頼んだ。4ヵ月内に数をそろえなければならないのだ。かつてそんなに速くワクチンが量産されたことはない。

 ファースト・ロットは6月にラインアウトした。ヒルマンが依頼してから数週間後だった。ワクチン接種は7月にスタート。ヒルマンの予測どおり、新型インフルエンザは9月前半に北米を襲った。

 それから3ヵ月のあいだに、4000万人の米国住民がワクチン接種を受けた。

 ヒルマンは2005年に癌で死去している。

 ヒルマンがもし自分の名前を、開発したワクチンに付けていたら、彼はとっくに、ジェンナーやパストゥールのように有名だったはずである。しかし彼はそのような名声を拒否した。
 そのかわり、おたふくかぜの生抗原には、娘の名前「ジェリル・リン」を付けている。というのも、5歳でおたふくかぜに罹った娘の喉を擦って採取しておいたサンプルから、彼は後にワクチンを開発するつもりであったからだ。

 アントニー・ファウチは、ヒルマンの長年の友人であった。
 今日、子どもに接種される14種類のワクチンのうち、9種類は、ヒルマンが創薬に関与した。とてつもない業績だろう。

 次。
 Evan Bleier 記者による2020-4-15記事「Dr. Fauci Says Sports Can Return If Certain Conditions Are Met」。
      ファウチのご託宣。プロスポーツの再開条件は厳しい。スタジアムには客を1人もいれてはいけない。選手は大きなホテルに宿泊させないといけない。選手には毎週、陽性検査をさせること。選手同士のみならず、選手とその家族の間でも、伝染をさせてはいけない。

 ファウチはスポーツファンであり、それらがノーマルな昔に戻ることを切望しているが……。

 ある意識調査の結果、72%の米国人は、新コロのワクチンが完成するまでは、スポーツイベントにはもう出かけない、と回答している。

 いまや、テレビ放送だけが、プロスポーツのよりどころになってしまったようだ。

 ※2021夏は、無観客五輪か、五輪返上か? 選手とりまきたちの「3密」が避けられないのは自明だから、もう答えは出ているようなものではないか。副作用訴訟を恐れる今の役人たちが、新コロワクチンの市販手続きショートカットを認めるはずもない。

 次。
Antonio Regalado 記者による2020-4-17記事「Up to 4% of Silicon Valley is already infected with coronavirus」。
     インテル社などが所在する、シリコンバレーがあるサンタクララ郡。スタンフォード大のチームが、ここで3300人の住民の血液を採取し、新コロ抗体があるかどうかを調べた。

 使用したのは最新キットながら、誤差は50倍もあり得るというのが大前提になってしまうが、感染者のうち死亡する者の率は0.2%じゃないかという結果が、とりあえず得られた。

 このサンプル提供者たちは、フェイスブックを通じた呼びかけ広告に応じてくれた志願者たちである。
 みんな、指を針で刺し、そのサンプルを自家用車で、回収ステーションまで持って来てくれた。判別テストは4月の第一週に、なされた。

 全提供者のうち1.5%の血中から、新コロの抗体が見出された。

 偽陰性の確率も排除できない。それを念頭すると、だいたいシリコンバレーの中心地において、住民の2.5%から4.2%は、すでに感染していると計算できた。
 サンタクララ郡の人口は200万人だから、そのうちざっと8万3000人はもう感染しているのだろう。

 他方、サンタクララ郡内で公式に新コロ陽性と判明している住民数は、950人である。(別な数字が同記事内に。サンタクララ郡が2020-4-17時点で把握している感染者は1833人、死者は69人である。)

 ということは、この米国においては、自治体が把握できている罹患者数の、ざっと50倍から85倍の感染者が、実際にいると考えてもおかしくはないということだ。


生鮮品の玄関置き去り配達システムでうまい発明をできる人にはチャンスがあるだろう。

 Ian Bogost 記者による2020-4-17記事「The Supermarket After the Pandemic」。
     げんざい全米の45の州+DCに於いて、「自宅蟄居ロックダウン」が発令されている。

 米国最大のオンライン八百屋サービス(既存のスーパーマーケットに、その地元客への戸前配達サービスを依頼する、注文取り次ぎサービス)である「インスタカート」社は、新コロ流行前の研究で、米国の一般家庭の20%がオンラインで日用食品雑貨スーパーの買い物注文をするようになるのに、あと5年かかるだろう、と予測を立てていた。

 ところが、過去1ヶ月で、注文量は150%に。
 注文に必要なスマホアプリの新規ダウンロードは7倍に。

 インスタカート社は、新需要を見込んで、全米で新たに30万人の「パーソナルショッパー」〔個人買い物代理人。たぶん同社固有の職名で、客からの注文を整理し、それに適合する商品をじっさいに配達してもらう最寄のスーパーを割り当て、依頼をするオペレーター役の店員かと思われる〕を雇う準備をすすめている。

 失業者がこの急募に殺到しているという。

 「ホール・フーズ」社を所有しているアマゾン社も、需要急増に追いつけない。ロックダウン発令前とくらべて食品雑貨の注文量が50倍に増えてしまったのだ。

 注文を受ける方の実店舗の側では、この急変への対応が大変。
 たとえば、オンライングロサリーの商品仕分け作業のための新規スペースを、すでに手狭な店内では確保ができないというところもあるからだ。

 商品ピックアップ作業や配送作業のために、閉店時刻を遅らせたところもある。

 チェーンストアの中には、地域でどれか1店舗を決めて、そこはもうオンライン受注&配送を専ら取扱う拠点だということにしてしまって、実店舗ながら一般客の立ち入りを断る、との選択をしたところもある。

 シリコンバレー、我において何かあらんや――とスーパーマーケット業界では半ば自嘲し誇ってきたものだが、事態は、永久に変わった。

 ところで、何で「スーパー」マーケットと呼ばれたのか、知ってます?
 20世紀の初め、肉屋、魚屋、八百屋の店舗がおのおの独立していたのを、買収して一箇所にまとめた事業家がいたのだ。

 最初の店舗は「ピグリー・ウィグリー」。1916年に創業した。フロア内で見渡しの利く島状の商品台とショッピング・カート(店員から手渡されるのではなく客が選んで拾う仕組み)、値札表示、レジ行列。こんなシステムを発明したのが、このチェーン店。

 1950年代、米国の郊外の地域に君臨して、人々の消費生活を支配したのは、じつに、スーパーマーケットであった。
 自動車が大衆に普及したので、人々は、週に1回だけ、そのスーパーマーケットに往復して、食品雑貨を買い溜める、という米国式の生活スタイルが仕上がった。

 1970年代にはさらに巨大化した「スーパーストア」が登場した。ウォルマートやコストコなど。
 それは中産階級婦人の指定取引所のようだったが、中産階級じたいは没落した。

 初のオンライン食品雑貨屋は1990年代後半に登場する。ウェブヴァンとか、ホームグローサー。
 しかし証券市場の「ドットコム」クラッシュを生き残れなかった。

 今日、米国では、書籍と音楽商品のおよそ5割が、オンラインで買われている。家電品は4割、アパレルは3割、家具でも2割がそうだ。
 ところが、日用食品雑貨だけは、たったの3%がオンラインで買われている。

 昔の米国では、毎日もしくは定期的に、牛乳、パン、卵が、戸別に配達されていたものだったが……。
 野菜や果物を手に取って感触で確認できない、という利用者の不満が、残るわけだ。

 スーパーマーケットの実店舗内は、じっさいに来店した客の目線や心理を考えて商品を配列してあり、これをそのままオンラインで画像化しても、スマホで閲覧したときに、買う気をそそらない。

 また生鮮食品のサプライチェーンは、家電品のように広範囲ではない。

 生鮮品は、返品が難しいだろう。すぐに腐敗するものが配達された時刻に家に発注者が不在だったら?
  ※この問題を解決した人は、富豪になる資格があろう。

 デジタルショッピングのプロモーション会社の社長は予言する。オンラインでの食品雑貨ショッピングは、パンデミックの結果として2桁成長するだろうと。

 「ダーク・ストアー」が増えるだろう。たとえばレストランは「ゴースト・キッチン」になる。デリバリー専門のレストランだ。同じように生鮮食料品店には「ゴースト・グローサリー」が増える。

 ※既存の飲食店がバタバタ潰れるということは、悪いことばかりじゃない。生き残った店舗が、その店舗の正面に広がる土地も買収して再開発することで、ブランドイメージを強化できる。もちろん、人々が3密にならないで済むような、新時代のパブリックスペース設計だ。

 次。
 DIANNE SOLIS AND MARIA MENDEZ 記者による2020-4-18記事「Millions of US citizens won’t get stimulus checks because their spouses or parents are unauthorized immigrants」。
    米国では、ソーシャルセキュリティナンバーを持っていない不法移民(ほとんどヒスパニック)は、1200ドルの小切手を政府から貰うことができない。
 不法移民と婚姻していて納税申告をひとまとめにしている米国市民も、貰えない。

 違法に労働している者が、その労働ができなくなったからといって、どうして政府が補償する必要があろうか。

 次。
 Tsai Ing-wen 記者による2020-4-16記事「President of Taiwan: How My Country Prevented a Major Outbreak of COVID-19」。
    ※記者は台湾総統。

 4月14日時点で台湾には400人未満の新コロ陽性者しか確認されていない。
 これは2003年のSARSで数十人が病死した教訓を活かせているからである。

 武漢市から台湾へ入国しようとする者をモニターし始めたのは、2019-12からであった。
 2020-1には、感染病対策指揮センターを立ち上げ、旅行制限を課し、高リスク旅行者に対する検疫隔離手続きを導入した。

 台湾国内で最初の新コロ陽性者が発見されたのは、1月21日だった。ただちにこの人物の過去の行程が調べられた。

 政府はパニック買い騒動を予防するために初期段階から市場をモニターさせ、医療用マスクについては生産と流通を統制した。
 製造機械メーカーや医療機器サプライ会社とは、政府の経済問題省が提携して、医師用の高性能マスクを増産させた。

 またドラッグストアやコンビニチェーンの助けを得て、市民用のマスクについては「配給制」を実現した。
 おかげで現在台湾では、病院スタッフ用のマスクも、一般市民用のマスクも、まったく足りているのである。

 政府と民間部門のこの協働作業をわれわれは「チーム台湾」と呼ぶ。
 在庫に余裕のあるマスクは、すでに外国に寄贈もできるほどである。


旧資料備忘摘録 2020-4-19Up

▼大蔵省総務局『米国に於ける戦時財政経済事情』S18-3
 復興金融会社。大恐慌の1932にFDRが創らせた。
 対独戦を意識した1940-6に権限拡大され、国防企業を興そうとする者に貸付けしたり、逆に資本を買収する。
 国策企業を誕生させることができる。
 たとえば、戦略物資貯蔵会社や、工場町への国防住宅供給会社 などが 1940-10までに設立されている。
 前大戦時にも「戦時金融会社」ができたが、それとは同日の談でない規模。

 1940-5にFDRは、航空機、年産5万台(陸軍2万5000、海軍1万3000、練習機1万2000)を1942-6-30までに引き渡すと豪語。

 1940-12-29、FDRは、米国はデモクラシーの兵器廠たるべしと演説。
 国防生産管理局 Office of Production Management が、工業機械の配給先を統制した。

 1941-3、武器貸与法。

 1941-8~9月、米海事委員会は、鉄不足に備えて、コンクリート・バージの建造準備を開始した。41年の諮問では8000ロングトン積みだったが、42年末にまとまった計画では2000トン積みに落ち着き、それを、沿岸航路の石油、石炭、穀物のばら荷輸送に使うことに。推進器は無し。すなわち曳船で動かす。じつは Newport Shipbuilding Co.らはすでにWWI中に、鉄筋コンクリート・バージを建造した経験があった。

 また、中南米沿岸航路の貨物船が遠洋へ転用された穴埋めに、復興金融会社は、木造船会社にコーヒー&砂糖用の1000トン機帆船を発注している。

 1942-1-6、大統領教書で、米は枢軸を兵器生産力で圧倒するまで生産拡充すると宣言し、42年には飛行機6万機、43年には12万5000機、等と具体的な数値目標をあげた。

 1942-5-31、民需用自動車の生産を禁止。※日本では1944まで製造させていた。

 読売新聞は、1942-10-11のヴエノス発電として、6万機を42年度に生産するとした米政府の目標は、8月にはもう達成確実な趨勢となったことを伝えている。

 リスボン電1942-10-28。米国海軍報道部長の談として、10-27時点で米国は正規空母×12隻を建造中であると。

 米国からソ連への工作機械などの輸出のタイムライン。
 1939-11-31、ソ連がフィンランド侵略。
 1940-4-29、蘇扮が和平。
 40-6-4、米、道義的禁輸を発表。
 40-6-11、ソ連抗議。
 40-6-20、ソ連向けだけ再開。
 40-10-10、対ソ 700万ドル 輸出許可。
 40-10-15、外国よりの受注取消し規定 成立。※対日。
 40-12-21、対日禁輸強化。
 41-4-13、日ソ中立条約。
 41-4-15、対日禁輸強化。
 41-5-6、ソ連向けの輸出中止。※対英援助に集中した。
 41-6-24、援ソ政策に転換。※独ソ戦がスタートしたので。
 41-11-11、対ソを優先して供給すると発令。

 1938に米国では軍用機の月産数が100機に達した。
 1938後半から、英仏は、米国に航空機を造らせてドイツに対抗しようと考える。おかげで米国内の航空機工業が飛躍する。
 英はまずロサンゼルスのロッキード社に赴いて、大型旅客機を爆撃機に改造してもらって買い付け。
 1938末、米国の軍用機生産は月産140機に。

 フォードはP&Wの航空エンジンを分担しようと1940から試験生産。
 パッカード社は、RR航空エンジンを分担しようと、やはり1940から試験生産。

 1941、英には航空エンジンのみ、出血輸出された。※機関銃やハイオク燃料も供給したはず。それは大蔵省も掴んでいなかったのか。

 1942-1-4、東京朝日新聞は、1940-10のクヌードセンによる「爆撃機月産300機計画」を報ず。

 マーチンB-26は、クライスラーが下請けになった。
 GMはノースアメリカンの株29.55%を所有する親会社。

 自動車の工作機械は、「1000分の1インチ」の精度を必要とする。しかし航空機の工作には「1万分の1インチ」~「1万2000分の1インチ」が要求される(p.483)。
 したがって、そのまま航空機に転用できる自動車工場設備は1~2割程度。

 機関銃も量産は遅れている(1940末)。
 0.30インチ弾の薬莢は、1000発つくるなら、亜鉛16ポンドを消費する。
 75ミリ砲の薬莢は、1000発つくるなら、3800ポンドを消費する。

 1941-5-26のジャーナル・オブ・コマース誌いわく。ライフルから航空機関銃までが使用する銃弾は、月産40億発に達し、なお増産中だと。

 合成ゴムには、ブタヂエン重合体系、その他いろいろあるが、日本のみ、多硫化物である。
 チオコールは Thickol Corp、チオナイトは古河電気工業(株)の特許である。
 多硫化ゴム、なかんづくチオコールは、ひどい悪臭を発する。
 ネオプレンゴムは無臭なので、家庭用や医療用に適する。

 米国には1940年度に、131669000人の人口あり。黒人は10%だった。
 1942年に陸軍航空隊関係だけで、米国は将兵100万人を動員している。

▼防研史料 S15『要書綴』第一部第四科
 九五式消函……晒粉が出てくる。

 八九式十糎双眼鏡……把桿の「黄銅」は「棒鋼 第三、第四種」を代用する(S13-5、陸軍造兵廠提案)。
  ※非金属資源が早くも払底していたので。

 八九式十糎対空双眼鏡 というのもある。

 S14-5-18、北支&南支よりの意見。
 38式歩兵銃は7.7ミリにしろ。

 十年式擲弾筒の十年式信号弾。15種類あり。
 同、93式演習弾には23種あり。

 十年式拳銃信号弾 16種(S15-2時点)。

 試製96式24榴は、石家荘、江蔭、南京で偉功を奏せり。
 30年式銃剣、黒色着色と龍尾をなくす(事変経験に基づき)。

 機関短銃乙、実用試験中(S15-4)で、15年12月完成予定。

 S15-4頃、試製21榴、研究設計に着手。

 ラ式20ミリ高射機関砲 射表編纂は、曳光弾の分、完成。進捗、1/10。(S15-4)

 S15-6-20、〔技本の?〕第一部がドイツより購入を希望する兵器。
 アスカニヤのセオドライト 対空指揮システム 27万円(予想価格。以下おなじ)。
 スコダの24榴×1門。75万円。

 ラインメタル 37ミリAAMG×10門。予想価格70万円。
 同ラ式弾薬 5万5000発。80万円。

 スコダの21加農×1門。75万円。
 クルップの125ミリAAG×1門。30万円。

 スコダの66ミリ山地高射砲×1門。5万円。
  以上が希望順序の甲で、以下は乙。

 スコダの30センチ臼砲×1門。70万円。
 MG34の各種銃架×10丁。10万円。

 アスカニアの高速度撮影装置。 ?円。
 クルップの88ミリ高射砲×1門。15万円。

 スコダ 27式42榴。 ?円。
 クルップの24cm加農×1門。100万円。

 クルップの20~40センチ列車砲。 ?円。
 スコダの47ミリAT/AAG×1。10万円。

 シュナイダー27式15加。 ?円。
 シュナイダー22センチ列車加農。 ?円。

 S15-8-26、技本は、独メーカーと提携し、日独合弁会社を設立し、独人技術者、設備を国外になんとか誘致しようとした。独側は、利潤を日本からドイツへ持ち出してもいいのなら、この話に応ずる感触がある。そこで、資本2億5000万円、日本1.5対ドイツ1.0の割合で、創りたい。工場は、大連、奉天、開原に計4つ建設する。クルップ、ラインメタル、ボーレル(装甲鈑メーカーのボーラー)、ツアイス、スコダと提携。

 スウェーデンから、ランヅウエルク60型軽装甲車×1台も買いたい。同B型×1台も買いたい。8~10トン、20ミリ~37.5ミリ。

 フィゼラーシュトルヒも3台、9万7750円で買いたい。

 S15-11の技本資料。
 89式双眼鏡の気密検査は廃止してはどうか。この機構では気密は保てない。by 東京第一造兵廠。
 技本の答え。「不同意」。

 89式十糎双眼鏡(直視)の目盛の改正を希望する。現制は0度~60度になっているが、大きな仰角をかけたとき、機構上、使用し得ない。
 回答。研究する。

▼『S15年 独国より購買 史料』(海軍)
 独国より入手を希望する物件。

 ラインメタルMGおよび同弾薬包(7.9ミリ)工場設備一式。年産1000梃。
 ユンカース、ダイムラーベンツの発動機 1500hp級、月産150台の設備。

 マウザー15mm「モーターカノン」購入済みなるも未完成と称するもの(機密保持上)。

 「ヴィッカース アンテナ機雷」は使用しありや? と独から質問があった。
  ※アンテナ機雷は米国がWWIで急遽開発した繋維機雷用の水面センサーで、すこぶる有効だったので戦後の海自にまで供与された技術ではないか? 「Kピストル」と称したはず。

 独国から導入すべき技術として、戦艦用の水上射撃安定装置、動揺分解器(愛知時計などが派遣予定)。

 ラインメタルの20ミリMG三軸銃架(製造権を買ってもよい)。※対空用。

▼公文目録のいくつかの件についてさらにマイクロフィルムで確かめると……。

 M9-4-25、陸軍卿山県→太政大臣三条実美。
 ドイツの軍事図書×2冊を村田少佐が献納した。代金を調べたらおよそ3円だった。ほめてやってくれ。
 結果、M9-5-6に「奇特」と太政官から賞詞。

 M14-4-19、陸軍卿大山→太政大臣三条。
 当省貯蔵鉄炮のうち不用に属する分は内国人民より払い下げ出願候者ある節は銃砲取締り規則に準拠し免許商人に限り払下げている。しかし官庁より直に外国人に払い下げる場合についての明文がない。もし外人にして右払い下げ出願の者あるときは制外之儀に付、聞き届けくるしからず候哉?
 返事。M14-5-23、伺の趣き、聞き届け候事。

 M14-4-4、海軍卿榎本→太政大臣三条。
 英国人エドワード氏にさしあたり不用の鉄製砲9門を売り、兵器補欠の急を救ってよいか。1654円になるのだが……。
 返事。伺いの趣き、聞き届け難く候事。
 理由。各省とも、不用品売却金は大蔵省の雑収入とする決まりだから。だいたいそれで何を買いたいのかはっきりしない。制規に対し不都合に付、御聴許あいならず。

 M15-8-14、大山→三条。
 ピーホーシーマルチニー銃 買い入れの儀。
 陸軍省貯蔵のスナイトル〔スナイドル〕とアルミニー〔アルビニー〕は、歩工兵員に当つるに足れりといえども多くはエンヒール銃の改造にして一朝、事有るの日に方りては忽ち破損品あい生ずべし。村田銃製造もしきりに差し急いでいるが、未だ1個師団兵員に充るに足らず。先年ピーポーシーマルチニーを1万有余買って貯蔵してあるが、あと7000丁ほど買い増せば1個師団分になる。代価を調べたら1丁12ドル50セントなので、洋銀8萬500ドルで買弁できる。
 返事。M15-8-16、伺いの趣き、聞き届け候事。大蔵は手付け洋銀2万ドルを仮渡すことになった。

 M15-5-23、海軍卿川村純義→三条。
 鉄製旧砲売払。香港英人ピットマン氏が当省の鉄製旧砲 不用に属する分3門を払い下げてくれと外務省に言ってきた。代金は912円12銭。
 返事、M15-6-19、OK。

 M8-12-3、山県→三条。
 陸軍少佐村田経芳、先般、射的術の修業のため孛仏へ遣わされ候……。仏国射的会での名誉の次第、および特許状が到来したと外務卿から連絡された。写しを添える。
 寺島の文。仏国マルセーユ港に於て砲的競射致し、勝利を得に付、射的会社が特許状を贈った。在マルセーユの中村領事が公信を送ってきた。
 (10月9日公信)去月26日、当港出帆の村田少佐、帰途に射的会に臨席いたし、射的会者のプレシダントに掛け合い致し、その社の最優秀射手数名の中から1名をえらび、競射。村田82点、仏人69点。第二ラウンドでは村田94点、仏人75点。創業以来の達人だとて、Diplomeを渡した。

 M8-12-3、山県→三条。
 陸軍少佐・従六位の村田はM7-12-27伺でマルチニー銃×1梃を陸軍省へ献納。その代価は21円50銭である。
 M8-12-14に太政官が、目録と、木盃1個を下賜。

 M15-11-4(?)、大山→三条。
 先年より村田銃の製造に着手しているが、器械が不充分で、現今にて成功せしもの僅かに万余梃にすぎず。ようやく最近日産64~65〔判読不確実〕梃つくれるようになったが、これ以上はとても無理。在来器械は1日に新銃を10梃製造できる。機械工場建て足しのため、8万9039円、東京砲兵工廠の興業費として必要。
 返事。M16-3-22、OK。機械購入と工場建増。M16-3-12参議通過。

 村田銃は当初、10万梃を全数として予期していた。この新式銃と弾薬の製造費として11年度以降15ヶ年間〔7年間?〕に毎年18万8300円、御下付。
 朝鮮事件で、1日80梃造れる体制を目指そうとしたが、予算が足りない。

 M16-10-19、大山→三条。
 M14中に朝鮮国に渡した兵器代、1473円42銭。
 返事、OK。M16-11-14。

 送った兵器のリスト。
 二号定式胴乱帯皮共 100組。
 スナイトル銃負革 100条。
 二番形 針打ヒストル銃 8丁(しめて48円88銭8厘)。
 同 弾薬 1600発。
 三番形 針打ヒストル銃 2丁(しめて11円47銭6厘)。
 同 弾薬 200発。
 他。
 これらの代金が支払われたかどうか、朝鮮事件で書類が焼けて分からない。よって回収は諦めるという趣旨。

 M16-10-18、川村→三条。
 ジョン・ピットマンへの旧砲払下 取消。
 引き取りを督促したところ、向こうから断ってきた。

 M18-3-17、大山→三条。
 朝鮮事件で小銃と山野砲の製造が年度予算では間に合わなくなり、製造費を繰り上げたい。伺いは去年1月5日。
 返事、M18-4-10、OK。

 M18-8-3、川村→三条。
 海軍省所管兵器局 機砲弾薬製造処 建築の儀。仕払い残額繰越のお願い。
 返事、M18-8-22、OK。

 M20-4-5、陸軍省、村田銃保存法審査委員を置く。
 陸軍省辞令。陸軍歩兵大佐 村田経芳。陸軍教授 横井忠直。「村田銃保存法審査委員被仰付」M20-4-5。

 M20-4-5、陸軍省、海岸砲制式委員を置く。
 辞令。大坂砲兵工廠提理 牧野毅大佐 以下 計8人。その6番目に「臨時砲台建築部 事務官 陸軍砲兵大尉 有坂成章」。

 M18-3-17、川村→三条。
 機砲弾薬製造所建設費ならびに機砲製造器械購入費別途御下附の儀、上請。
 諾砲(ノールデンフ井ールト)は大小により600~200発/分、保砲(ホチキス)は大小により80~60発/分、射出するがゆえに、予備弾数、多くを要す。1門につき7500発余、必要。
 これを輸入すれば貯蔵中に腐るだけだから、製造機械を買いたい。平時は、火薬抜きの弾包のみにしておけば腐らない。これも朝鮮事変に応じたもの。
 機砲の製造は、機械は整っていないが、半分人力で着手している。しかし時間がかかりすぎるので、必要な機械だけ買いたい。M17~18年度に分けて、洋銀15万438ドル68セント=6万6640円をつけてくれ、と。
 返事、M18-3-28、OK。

 M18-1-2、川村→三条。
 機砲弾用に、ブロオン火薬を買いたい。
 返事。M18-1-12、OK。

 ノルデン砲 鋼鉄弾薬 9万4305個。
 ホチキス 通常榴弾 1230個、鋼鉄榴弾1230個。
 ブロオン 1号薬 3万kg。

 M21-1-14、小口径連発銃制式審査委員を置く。
 委員長 黒田久孝 砲兵大佐 東京砲兵工廠提理。
 太田徳三郎 砲兵少佐。
 今村為邦 歩兵少佐。
 椙原[すぎはら]透 歩兵大尉。
 天野冨太郎 砲兵大尉。

 M21-2-3、陸軍省。村田式軍用銃保存法審査委員を命ず。
 戸山学校教官 歩兵少佐 今村為邦。

 M21-5-11、大山。
 M19省令の「村田銃薬莢取扱方」第二項を左の通り改む。
 「一 現役兵(騎兵は除く)は 其の隊に於いて之を填替え、 予備兵および後備兵 復習用(騎兵現役は兵用共)は 武庫にて之を填替ゆべし」。

 M25-7-26 七珊米 野山砲用 複働信管 著発機に螺旋発条 増設。

 M25-5-19、陸相 高島鞆之助。
 達。村田騎銃の照星および照尺を改正し、同歩兵銃実包を応用す。

 M25-6-10、高島、達。
 村田歩兵銃 照尺 遊標の内部左側に小溝を穿ち、遊標発條を装置す。
  ただしすでに交付されているものについては、兵器費定額内にて、修正する。

 M25-7-26、高島の達。
 村田銃実包および空砲材料中、紙塞の寸度を径12mm、厚さ1mmにする。また、実包の全長を78mmに改め、空砲には紙塞1枚を用う。既製分はそのまま応用すべし。

 M27-2-1、営内備え付け銃工器具中の鞴を、野戦用営内職工具鍛工具の鞴と同一に改む。

 M27-6-20、陸軍大臣 伯爵大山巌。陸達第60号。
 「二十六年式拳銃制式 別紙図面ノ通 定ム」。
 別図は色刷り断面図(1/2)とサックで、こちらの印刷はM27-6-20 於陸軍省と。
 初めから 用心鉄後半にチェッカーあり。

▼『公文類聚 目録 第12』S16~S17
 S16-11-29、陸軍少年戦車兵学校令を定む。

 S16-3-10、軍機保護法改正、高所よりの模写禁止。

 S17-10-10、陸軍兵器行政本部令を定め、同兵器廠令を廃止(「戦備」「工政」両課を統合、「燃料」課の強化)。

 S17-10-10、陸軍兵器補給廠令、陸軍造兵廠令を定む。

 S17-11-18、憲兵下士官の補充は必要なら志願でなくともよいことにする。

▼『公文類聚 目録 第11』S13~S15
 S13-4-1、国家総動員法を定む(5-5施行)。

▼『公文類聚 目録 第十』S8~S12
 S8-6-23、関東州 防禦営造物地帯令 中 改正。

 S11-2-27、戒厳司令部令を定む。
 S11-7-17、戒厳司令部令を廃止す。

 S12-4-8、陸軍予科士官学校令を定む。

 S12-11-18、戦時大本営条例を廃す。

 S12-8-14、軍機保護法を改正。

 S12-8-27、馬の移動制限を閣議決定。

 S12-4-5、防空法を定む。

▼『公文類聚 目録 第九』S2~S7
 S6-3-25、陸軍(海軍)名誉教授に関する件を定む。

 S6-11-7、陸軍兵の名称改正に関する件を定む。

 S6-4-10、朝鮮歩兵隊の廃止に伴い退職せしめられたる陸軍武官および朝鮮人等に特別の賜金……。

 S7-3-23、海軍航空廠令を定む。

▼『公文類聚 目録 第八』大11~大15=昭和元年
 大12-12-15、陸軍懲治隊條例を廃止す。

 大13-5-9、海軍軍人にして潜水艦に在りて潜航勤務中、変故に因り傷痍を受け、または疾病に罹り、危篤に陥りたるものの進級および任用にかんする件を定む。

 大13-5-17、徴兵令を樺太に施行す。

 大14-11-14、化学兵器手当 給与の件を定む。

 大14-7-2、文部省所轄外の学校に陸軍現役将校を配属し得しむ。

 大14-4-1、文部省直轄商船専門学校生徒を海軍兵籍に編入す。

▼『公文類聚 目録 第七』大7~大10
 大7-2-2、今回の戦役間、瑞典に公使館附武官を駐在せしむ。 ※大正7年=1918年。ちょっと遅い。

 大7-11-18、陸海軍武官にして航空機搭乗中、変故に因り傷痍を受け危篤に陥りたる者の進級の件を定む。

 大7-3-23、軍用自動車補助法を定む。

 大7-4-16、軍需工業動員法を定む。

 大7-10-12、軍事行動地域に於ける鹵獲品、押収品等、処分要領。

 大8-4-12、陸軍技術本部令、陸軍技術会議令、陸軍科学研究所令を定む。

 大8-4-12、陸軍航空部[ママ]令を定む。

 大8-8-6、陸軍技術将校令を定む。

  ※大8からまた記録保存文書が増えている。

  ※公文書は次の順番で配列される。内閣>外務>内務>大蔵>陸軍>海軍>司法>文部>農商務>逓信>鉄道>台湾総督府>朝鮮総督府>樺太庁>関東庁>南洋庁>会計検査院>貴族院事務局>衆議院事務局>庁府県。

▼『公文類聚 目録 第六』大2~大6
 大2-5-21、騎兵射撃教範を改正す。※44式騎銃が来たので。

 大4-9-21、海軍技術本部令、海軍艦政本部令を定む。

▼『公文類聚目録 第五』M40~M45=大元年。
 M42-10-22、韓国軍人軍属の犯罪審判に関する件。

 M43-4-1、靖國神社附属遊就館に関する件を定む。

 M44-6-2、陸軍将校乗馬にして、去勢施行の為、斃死し、または廃〔がんだれではなくやまいだれ〕疾となりたるとき、手当を支給す。

 M44〔日付不明〕、「軍令陸第一号」は「歩兵射撃教範」。

 M45/T1、陸軍6週間現役兵條例中を改正す。

▼『公文類聚 目録 第四』自M33~至M39
 M32-2-22、海軍下瀬火薬製造所条例中を改正す。

 M36-4-14、陸軍技術審査部条例。陸軍兵器廠条例。

 M39-4-7、明治三十七八年戦役、陸軍凱旋観兵式の節、陸軍一般休暇せしめらる。

 M39-5-26(報告)、英国陸軍将校を我軍隊に入隊せしむ。

▼『公文類聚 目録 第三』M27~M32
 M27-6-30、海岸望樓條例 および 望樓長 望樓手 任用方を定む。

 M27-10-9、広島県下広島市 および 宇品を臨戦地境と定められたるに付、該地所在の部隊等に係る給与を定む。

 M27-6-30(海軍省)、望樓長 望樓手の俸給を定め 文武判任官等級表中に追加。

 M28-8-10、陸軍戦利品整理規定を定む。 ※日清戦争で多数の分捕り品があった。

 M27-7-17、戦時陸軍埋葬規則を定む。※その以前から陸軍隊附下士卒埋葬規則あり。

 M27-5-29、明治28年 移住せしむべき屯田兵を召募す。

 M27-7-26、陸軍省 火薬類 払下を停止す。

 M27-10-23、東京大坂両砲兵工廠に於て鉱業用爆薬 払下に付き、出願方。

 M27-1-10、戦時軍隊の下士卒に携帯せしむべき繃帯包の製法 ならびに 取扱方。

 M27-2-1、営内備付銃工器具中、鞴[ふいご]の制式を改む。

 M27-2-1(大山の達)、村田歩兵銃弾薬盒の油壺口頭に革輪を附着す。

 M27-3-24、歩兵射撃教範を改正す。

 M27-4-13、剣術教範を定む。

 M27-6-20、二十六年式拳銃 制式を定む。

 M27-7-10、刀剣附刃器 制式を定む。 ※戦争に動員される直前まで、銃剣は刃引きしてある。

 M27-10-31、軍馬を売却するときは、烙印を押捺せしむ。

 M27-2-16、海軍造兵廠規則を定む。

 M27-3-13(海軍省)、四十七密米 保式 重速射砲 射的用 減装薬を定む。

 M27-9-21、戦時海軍死亡者取扱規則を定む。

 M28-7-12、憲兵隊の称呼を改む。

 M28-7-20、野戦郵便物脚夫規則中を加除改正す。

 M28-12-17、歩兵射撃教範を改正す。

 M28-12-23、村田連発銃使用法 を定む。

 M28-11-6、海軍銃剣術操式を定む。

 M29-3-26(海軍省)、仮呉兵器製造所條例を定む。

 M29-4-10、馬関条約により一旦清国より割譲したる遼東半島の人民にして其還付前に当り我国へ帰順の意を表し国籍編入の手続を了したるものは帝国臣民と同一の分限を有し兵役に関しても亦 両国臣民と同一の処分を為さしむ。

 M32-7-14(陸海共通)、軍機保護法を定む。要塞地帯法を定む。
  ※日清役がきっかけで、記載がガックリと減り、非公開性も高まったように見える。