旧資料備忘摘録 2020-9-25 Up

▼『日本武道大系 第五巻』1982
 所収・所壮吉「砲術」。
 火縄銃があたるのは50m前後。しかしこの距離だと弓で対抗され得る。
 大口径銃の抱え打ちによって世人の注目を浴びようとする派は、延宝以後。関流が代表格。

 井上流は大坂攻めのときからある。
 江戸初期には10流ほど。
 ロシア船が来た寛政年間以降は、200流以上に急増した。

 通常、軍用に用いられる6匁玉(15.8mm)は、バレル長1m、有効射程200m、最大射距離500m。これで距離20mならば、野球ボールにも命中させられる。人体なら100mまでが実用射程である。

 慶長の稲富伝書には、すでに、湿気に応じて装薬量を増減するように書いている。
 信長は石山本願寺との戦いで、火器の運用について会得した。相当な密度となるように準備することが肝要なのだ。

 小銃を連射するとき、欧州軍は、装填のさいにパッチを用いることで、銃身内の火薬残滓を払拭するようにする。
 日本ではパッチを用いない。だから銃腔内には燃えかすがこびりついて次第に狭隘となるゆえ、20発くらいごとに「劣り玉」に変えてゆく。

 二本松藩士の某。天保3年に、江戸の音羽で、30匁筒にて、午前7時より午後5時まで、2000発の「数打ち」。15間はなれた的に1628発を命中させた。

 明の『神器譜』は、頬付け銃の方が肩付け銃より、高所の居鳥を落とすには向いているとしている。
 同じ理由でヨーロッパでも、鳥用の猟銃は頬付け型ストック。日本に伝来したのは、その鳥銃だったのだ。

 軍用ならば肩付けとし、サイクルレートを最も重視する。命中率ではなく。

 井上流のテキストに、「三匁五分玉」は、薬を一匁~二匁も込めて放発すれば、五町~七町の近辺へ、玉が落ちる、とある。
 井上流の早打ち法。火穴を大きくしておいて、装填したあと、火皿をこぶしで叩けば、薬室内から装薬の一部が火皿に出てくる。

 田付流。元和ごろの人。
 慶長のテキストにはすでに、塩硝を水で煮つめ、硫黄、灰と混ぜて、臼杵でついている。
 久しく搗き久しくおろす時、風に飛び散り、薬勢あらぬものに変ずるなり。
 丸粒にすることも、あらきこまかなる粉あり。

 弾径は、銃腔と薄紙2枚分の隙間があると、よく中る。
 ※ここから化学と統計学が発達しなかったのは何故?

 荻野流は、二ツ玉を同時に2個放発する。それで鹿を撃つ。
 高島流では、8匁薬を用い、コロスを置き、二つ玉を込め、打ってみて、テストをする。

 ※この本は、時間がなくて210ページまでしか読んでいないことに気がついた。何か重要な事実を読み落としているかもしれない。

▼砲兵少佐・石井常造『日露戦役余談』M41-2 陸大将校集会所pub.
 韓国の塵埃などたいしたことはない。安州だけがすごい。

 鴨緑江で、敵の発射した砲弾を初めて見た。砲は、3デュイム=7珊62、速射砲にして、弾丸の信管の分画は130あり。ゆえに最大射程は5500mに達し、着発弾は6500mに達することを知った。※榴霰弾である。曳火させないで発射すれば着発となるが、榴弾ではないから、そのばあいの破壊力はほとんどない。

 ロシア軍砲兵は榴弾を有しなかった。わが砲弾の榴弾の黒烟が、彼らの士気を大いに挫いた(p.89)。
 ※榴霰弾は黒色火薬なので白煙。

 露軍はややもすれば民家を焼夷した。日本軍はさることなし。

 27日に戦利砲〔ロシア軍の76.2ミリ野砲〕をテストした。5500m先の的に40発、撃ちこんだが、信管の躱避〔秒時の誤差のこと〕が大きく、また、射距離が近いときは〔砲身が水平に近いときは〕仰起〔砲全体が跳ね上がろうとする〕が甚だしいため、弾道の精度も低下する。そのために榴霰弾の効力が少ないことを確認できた。
 露軍野砲の長所は、射程が、こっちの野砲〔75ミリの有坂砲〕より大きいことだけであった。

 輓具は単簡軽便で、鋼索を用い、太さは日本の野砲輓索の4~5倍ある。薄い革條を以て吊り上げ、その重量は、直接に馬脊に負はしむ。

 南山のころ以降、出征する露軍は、軍服のカラーを茶褐色に改めた(p.116)。
 防蚊具は、ハエ除けにgoodである。
 「帽垂布」は、21日に支給された(p.121)。

 新しいインクの臭いのする新聞紙を敷いておけば、南京虫除けになる。
 トリカブトは「梧毒根草」という。

▼菅井定之『防空の知識』S6-5
 この頃、ソ連には1500機あると見積もっていた。
 陸上爆撃機は、49機。
 爆撃機中隊は12個だが、52個に拡張されるだろう。米軍の爆撃機中隊は9個のみ。

 ひとたび「極東戦争」が勃発すれば、浦塩、大連、上海、父島等を根拠地に設定した敵爆撃隊は、1トンの爆弾を載せて容易に帝都の上空に現はれ得るのである。
 爆弾の命中率が10%でも、7~8トンあれば、大震災と同じことになる。

 花崗岩は、1000度以下の熱で亀裂し、ぼろぼろになる。
 WWI中、ロンドンは、114回爆撃され、1412人が死んだ。
 パリは32回空襲され、266人死んだ。

 75ミリ高射砲は、旧式のは初速が500m/秒。最新のは750m/秒。超先端的なのは1000m/秒。
 10センチ級の高射砲は、初速が700~1000m/秒で、到達高度は1万mに達する。

 1931において、ダーウィンとスラバヤの間に航路ができていた。

▼木村尚三郎・他ed.『中世史講座 第三巻 中世の都市』S57
 ロシアではツアーリが唯一の法源。
 しかし西方では、教皇と皇帝が対立したため、権利と自由の意識が生じ、制度と化した。

 シナでは宋初から清朝中期を「中世」とする。
 シナの都市は、欧州と違い、古代、中世、近代であまり違いがない。時代の特色はない。

 シナの方形の城塞都市は、王・侯もしくは、郡・県などの地方官衙の所在地。ゆえにすべて政治都市。
 周辺農地もその都市が管理・支配した。

 何かを生産するための都市ではない。そうした経済的な必然とは無関係に、ロケーションが決まった。
 城内のいたるところで終日、市が立つようになったのは、唐末~宋初。
 坊制も崩れ、城内の街路に面して門をつくってもよくなった。

 宋代の都市は、外側壁を羅城または大城、第二壁を子城または牙城、小城と呼ぶ。稀に、第三壁がある。

 イタリア中世初期の都市は、コンスル貴族の支配。
 イギリスの都市は、他より人口希薄だった。16世紀の旅人は、こんなの都市じゃないと評している。
 英国のアングロサクソン人は、ローマ都市を荒廃するにまかせた。
 よって、古代都市と中世都市のあいだに、断絶がある。英国では。
 ようやく7世紀から、そうした廃墟が再建された。

 ロンドンもローマ人がつくった。
 12~13世紀に英国では集中的に都市が建設されている。

 1583に堺の町衆は大坂移住を命じられ、1586に環濠は埋められた。

▼前田勉『近世日本の儒学と兵学』1996
 著者はS31生まれ。
 関ヶ原には、東軍7万、西軍8万が動員された。
 丸山政雄の『日本政治思想史研究』いわく。朱子学の展開と崩壊過程から、日本の近代意識が生れた。

 津田左右吉いわく。儒学は日本人の生活の中にまでは入り込まなかった。
 吉宗時代の朝鮮人の報告。日本に「士」=読書人 はいない。日本は礼教ではなく、軍法によって治まっている。
 日本人もすでにそう思っていた。

 徂徠いわく。納得もない者を死に赴かせるために、法度がある。また、指揮官の部下に対する詭道もあると。
 白石は徂徠のこの部分を攻撃した。

 丸山は、徂徠学とは政治の発見であったという。その徂徠学の核としては、旧来は、荀子や老荘が取り沙汰されていた。
 そうではない。徂徠はまず『孫子國字解』を執筆したから、『弁名』や『弁道』の域にたどりつけたのだ。じつは孫子研究こそが徂徠学の出発点なのだ。
 これを最初に見破ったのは、尾藤二洲。彼は徂徠を攻撃する立場で、徂徠の本志は聖門ではなく孫子にあったのだと非難した。

 徂徠は「訓読」は理解のさまたげになると考えた。完全に和訳してしまうか、さもなくば、漢文をシナ人のように読むべきであると。

 『【金今】[けん]録外書』では、これまでの日本の合戦はもっぱら士卒の智恵をかりていたと批判。※つまり軍学のレベルが低級だと。

 勢には2種あるといったのは韓非子。
 朝鮮出兵中の日本国内は疲弊していた。惺窩はそれを憂えた。

 尾藤正英いわく。幕末の、後期水戸学は、儒教ではなく、徂徠学になっている。国家や社会を個人に優先させたり、祭政一致を追求し、侵略的でもあるところが。
 尾藤いわく、徂徠学のなかに、明治国家の国家主義の祖型を見出すことができると。

 教育勅語も、武を文に優越させ、国民が命を捨てて国に尽くすよう要求する点で、真正儒教ではない。

 会沢正志斎いわく。洋夷の力の基はキリスト教だ。それに対抗できる政教が必要だ。→「国体」に。
 『新論』の主張。自国が直接/間接侵略の戦場となる日本はいまや「敵地」であり、庶民は指揮官と志を一にしなければいけない。

 尾藤いわく、尊攘思想はシナにはない。日本独自に形成された。
 「尊王攘夷」の初出は、長沼澹斎の『兵要録』(寛文6)である。
 朱子は、金と宋の媾和に反対し、徹底抗戦を主張した。
 後期水戸学は、最初の武家諸法度にある「治にいて乱を忘れず」の兵営国家思想だから、大きな力となった。
 素行は性悪説。松蔭は性善説。
 素行に陽明のことなし。松蔭にはあり。
 素行は寛文2年に、朱子学こそ異端だと察した。
 素行は日本で初めて「中朝」を唱えた。武がおさめる日本であるがゆえに、シナとの華夷序列は逆転するのである。
 象山が大砲を導入する国策を、孫子を引用しながら説いたのは『省【侃のしたに言】録』。
 多くの武士たちは、庶民に国防精神など無いと思っていた。そこで松蔭は、『孟子』の中に光明が見出せるのではないかと考えた。

 老子に「弱之勝強、柔之勝剛」とあり、三略には「柔能制剛」と出る。

▼防研史料 『火器基礎研究現況』
 60cm級噴進弾をS19-8から研究開始したが、ついに1回も試験するに至らず。
 長さ3m、2130kg、装薬〔=推進薬〕40kg、炸薬可容量350kg。

 噴進砲の装薬と炸薬可容量。
 径8cm   装薬0.9kg、炸薬0.8kgまで。
 径10センチ 装薬1.2kg、炸薬1.3kgまで。
 径20センチ 装薬10.2kg、炸薬16kgまで。
 径30センチ 装薬12kg、炸薬24kgまで。
 径40センチ 装薬63kg、炸薬100kgまで。

▼防研史料 『第一陸軍研究所 研究計画綴(他部隊関係)』
 チヘ改造の「装甲観測車」が3割方できており、18年8月に完成予定。

 「火焔作業車」試作中。S18-4着手。19-9にできる予定。
 チヘの火焔戦車。

 S18-4-1 原乙未生報告 四研の分。

 新中戦車(甲)=チト。
 並河亨 陸軍少佐の担当。S17-4着手、S20-3完成見込み。

 新軽戦車ケホ。
 咲山岩三郎 兵技少佐。S16-3着手。S20-3完成見込み。

 新砲戦車 ホチ。車体はチトで、砲は75/105ミリの対戦車砲。
 前島隆夫 陸軍中佐の担当。
 着手日不明。S20-9完成見込み。

 直協戦車  ドイツの突撃砲のようなもの。
 並河亨 の担当。S18-1着手。S20-9完成見込み。

 新中戦車(乙)  駆逐戦車
 咲山担当。 S16-1着手。S20-9完成見込み。

 低姿勢小型戦車  全高1mで、前面装甲を大とするもの。
 咲山担当。S18-3着手。完成見込み不明。

 渡し戦車  チャーチル超濠戦車のようなもの。

 電気または油圧でターレットを旋回させる機構。
 小泉 洸 兵技中尉の担当。S16-8着手。完成見込み不明。

 戦車の捻り棒式懸架装置。  ※トーションバー。
 前原 博 兵技中尉の担当。S16-10着手。完成見込み不明。

 装甲兵車(歩機車)
 2案あり。
 兵技中佐 金子一次のものはS16-4着手、すでに終了。
 陸軍中佐 下野陽道のものはS17-4着手、S18-12完成見込み。
 いずれも日野重工が試製を担当。「時局緊要」と優先された。※これが Sdkfz250 を買おうとした理由だ。

 高抗力ばね用ピアノ線製造の研究。
 ※やはりドイツから輸入しようとしていたもの。航空機用の高性能な自動火器に必要。

 噴進爆雷  駆逐戦車(乙)に装載する。射程300m。
 S18-8着手、S19-3完成見込み。 ※詳細不明。地上を転がって行くのか?

 超重門橋  40トン級装軌車を渡河させられるもの。
 S18-7着手、S19-12完成見込み。
 ※対ソ戦をあきらめた段階で40トン級新戦車の運用にこだわろうとしている理由は、未解明。

 七研では、曳索噴進弾の精度を研究していた。渡河用の錨弾として。
 タ弾も、七研究。

 チリ。 S18-7着手。すでに第一次試作完了。
 無線 乙と丙 各1機。
 ホリ もS18-7スタート。

 「特2式水陸戦車」。
 兵技中尉 多田六郎の担当。95式軽戦車の浮航揚陸を可能にしようとするもの。

 捻り棒サスペンション、軽装甲車用のものは研究完了。

 ※S18-4の研究計画がS18-7に修正され詳細化していることも分る。なお旧軍の「研究」とは今日の「開発」のことである。

▼防研史料 『第一回研究業績発表会講演輯録』S7-5-1 陸軍科学研究所
 新小銃薬を使ったら、初速747m/秒だった三八式歩兵銃が、780m/秒を記録した。 ※管状薬か。
 これを、7.7ミリ小銃弾でも試した。※いったい何の銃で?



コーストガード船の火災原因はいまだに不明。

 WYATT OLSON 記者による2020-9-23記事「Marine Corps begins field testing pistol that will replace models used since Cold War」。
   海兵隊も今月の前半から、いよいよ「Sig Sauer」製の新型9ミリ自動拳銃「M18」を部隊に配備開始した。「P320」という市販モデルを軍仕様に小改造したものである。

 すでに米陸軍は2017年から「M18」と、それより少し大きい「M17」拳銃を部隊に支給している。
 また米空軍も「M18」を採用する方向で、昨年から試験を繰り返している。

 海兵隊のすみずみまで新拳銃がいきわたるのは、2021-10-1となる予定。

 それまでながらく使用してきた鉄製の「M9」拳銃は、初弾をダブルアクション(引き金を長く絞れば、ハンマーが起き上がり、且つ、倒れて撃発する)で発射するように教育されてきた。しかしほとんどの兵士は、引き金の荷重やひきしろ長が、初発のダブルアクションと次発以降のシングルアクション(さいしょから撃発機構が待機状態でコックされており、軽いプルですぐ落ちる)とで違ってしまうことに、とまどってしまう。

 「M18」には、2種類の引き金アクションがない。第一発目から、最終弾まで、常に同じプルで撃発がなされる。したがって、教育上、および安全上、有利である。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-24。
   ヒマラヤ国境の小競り合いは、中共軍がパンゴン湖附近のインド領ラダク州の数千平方kmの地積を占領して終結した。中共の勝ちである。

 中共軍はインド軍よりも、期待できる軍資金に5倍の余裕がある。だからインドは引き下がる。

 パンゴン湖はアジアでいちばん長い湖で、134kmもある。そのうち45kmはインドのラダク州に楔入しているのだ。一帯は、基本的に、定住民ゼロ。

 ※中共軍の辺境かけつけポリシーは、とにかく隣国軍よりも速く、多数をそこに送り込んで、最初からガツンとかまして、ひきさがらないことであるという。今回は、「リミットなしの増援態勢」を示すことによってインド側を黙らせたように見える。成功例として記憶されるだろう。


旧資料備忘摘録 2020-9-24 Up

▼三上次男、楢崎彰一ed.『日本の考古学 VII』1967
 六国史に出る 東日本の古代城柵は、すべて東北に遍在。
 すべて 対蝦夷である。
 大陸の築城技術は もう入っていた。

 西日本の古代城柵は、天智の4城はじめ、いずれも350m以上の高山頂にあり。
 唐・新羅に対する純軍事施設。

 これに対して東北の柵は、最高の秋田城でも比高45m。東北開拓の基地なのである。
 西日本には石壘多し。
 東日本のは土塁木柵のみ。

 古代の「城」「柵」「塞」は、字こそ違え、中味は同じである。
 西日本の神籠石(こうごいし)――高さ70~80cmの方形切石。神域囲繞用というのは俗説で、古代の城塞である。
 神籠石は、各地で同一規格。朝鮮山城形式なのだ。

 室町末期の永禄8年。初の土木技術書の『築城記』が書かれる。同書は、山城では水を最も重視する。
 城の石垣は、本格的なものは、永禄年間に信長築造の二条城から始まる。※家康の二条城とは別。

 当時の山城のことを軍学者は「根古屋」と言ったが、実態を表す。
 櫓は、古くは「矢倉」「矢蔵」と書いた。高い足場から矢を射おろす設備だった。

 平城の枡形にある内外ふたつの城門。外側を高麗門と呼び、内側は櫓門と称する。
 高麗門は朝鮮とは何の関係もない。かぶき門よりも堅固な木柱造りの門。
 やぐら門は、上部を「わたりやぐら」とし、下方を門とし、下方の両側はただちに石垣に接している。

 火葬せずに埋めた人骨は腐って残らない。砂地ならば別だが。
 やぐら(岩穴)に埋納されたものあり。

▼R.V. Dietrich 著『石ころの話』S61、原1980
 著者は米人。
 凍土帯では石は地上に出てくるので、あたかも生長するようである。

 アマチュア収集家を、ロックハウンドという。
 氷河で運ばれた石は、平滑面に溝が彫られている。
 火山弾の形は、円盤状の再突入体のようである。

 イスラムの石叩きの刑。ほんらいは、穴に入れられた人間の上に巨礫を落とし、処刑した。 

▼日本石材振興会ed.『日本石材史』S31
 城壁を石壘という。
 わが国の最古の石切り場。大和と河内の境、二上山の南の鹿谷寺址に pitch stone(松香石)を切り出したあとがある。石器をつくった痕が歴然という。
 次に古いのが、奈良市春日山の石切峠。

 全国で「石山」とか「丁場」という。
 大谷石、笏谷石……軟質凝灰岩。

 石造美術は鎌倉期に最盛。
 徳川初期から、硬石の花崗岩を使うようになり、全国で石材の大量消費がスタートした。

 平安時代に、京の都へ石を売りに来た者があった。
 鎌倉時代。鴨長明の歌評の中に「石を立つる人のよき石をえずして、ちいさき石どもをあつめて めでたく さしあわせつゝ たてたれど」とある。

 古事記の垂仁天皇のくだり。「定石祝部」と出てくる。
 本居の古事記伝は、真淵説を引いて、「祝」は「棺」の草体誤転だとする。
 これにより、石棺技術者の一大集団があったことが知れる。

 『新撰姓氏録』いわく。和泉の国、石作の連[むらじ]は、垂仁天皇の世、石棺を献上して 石作大連の姓を賜ったのだと。
 鎌倉時代、東大寺大仏殿の復興に、宋人石工が活躍した。

 砥石は砂岩[しゃがん]。富田石は、紀州の砂岩である。
 大理石は、岐阜の赤坂大理石がいちばん有名。

 石槨は、単に積み上げたもの。硬材花崗岩や安山岩の硬材を用いる。
 石棺は、一石刳り+蓋 のものと、別石組み合わせ のものとがあるが、どちらも、凝灰岩を使う。

 古くから讃岐の石材は、播磨に運ばれていた。播磨風土記によれば。
 二上山は、凝灰岩で、大和、河内へ運ばれている。

 石棺作=イシキツクリと読む。
 最古の石仏は、584年。百済からそれを招来した、と日本書紀にあり。

 薬師寺金堂の仏壇は、白大理石で、天平時代初頭には、瑪瑙と称した。奈良県吉野郡天川材の洞川産か? 搬出には不便。興福寺華原磐の基石はこれであったと。

 末期、唐招提寺金堂内陣の仏壇は、花崗岩を切り、表面を彫ってある。
 白石とは、二上山の松香石または凝灰岩。
 法華寺造営のとき、花崗岩72顆、大坂白石1965顆、使った。

 奈良時代の見事な礎石は、平安前期で殆どあとを絶つに至った。
 平安に始まった真言、天台の密教では、新しい石造塔婆を作るようになった。
 従来の石造美術は大和のみ。だが以後は、全国に見られる。

 石鳥居もある。現存最古のものは、平安後期のもの。羽前荒谷、羽前元木(山形県)。凝灰岩。
 平安期には、讃岐や瀬戸内海の花崗岩をどんどん中央へ運ばせている。凝灰岩より重いので、苦労したはずだ。

 摩崖仏は凝灰岩。
 工具に関する最古の文献は、藤原実資の『小右記』。1016-4-10に、粟田山の大石を、鉄槌とタガネで割ることが。

 城郭石壘は、日本では、元亀、天正の頃にならないと、本格的なものは造られない。
 はじめは、門、櫓の建築物と接する重要部分とか、水中の突出部のみに。

 永禄12年に、信長が建てた二条城。初めて壘を全部、石垣で築いたと伝えられる。
 それまでは土居がほとんど。

 滋賀県の穴太から出た石工を穴太役と称する。慶長頃の、石垣スペシャリスト。
 鉄砲による側防(よこや)を利かせるための「ひずみ」という屈曲。これを軍学者が工夫した。

 野ヅラ積みは、自然石の大面を奥に、小面を表にして積む。隙間だらけだが、頑丈。
 打込みハギは、隙間がまったくない。熊本城や、宝暦の名古屋城修築も。
 槌で角を平らにするから「打ち込み」という。
 この2種類の積み方を記録したのが、徂徠の『【金今】[けん]録』。

 江戸城の石垣勾配は抛物線で、地震に強い。
 江戸城の石材は、伊豆の安山岩。
 大坂城の石材は、瀬戸内海の花崗岩。火に弱く、亀裂を生じる欠点あり。

 石垣の角は、算木積み。
 『武教全書詳解』も石積み法を記している。『海国兵談』も。

▼ホースト・ドラクロワ著、渡辺洋子tr.『城壁にかこまれた都市――防御施設の変遷史』1983、原1972
 Horst De La Croix

 大砲が石の弾丸を打ち出していた14世紀ならば、都市はそのまま防衛できた。しかし、鉄丸になると、アウトレンジの破城槌と同じで、防ぎようがなくなった。これが15世紀末である。

 まず塔がどんどん低くなった。
 壁は、その外縁に必ず堀を付帯せしめる必要が生じ、その底から測れば相変わらず高いのだが、敵砲兵から見れば低シルエットでしかないように、変容した。

 シャルル8世が、ナポリ王の地位を要求して、フランスからイタリアまで遠征。
 その砲兵隊は、たった数時間で一城を屠った。

 なぜ、ダビンチやミケランジェロが大砲&要塞の問題に取り組んだかというと、それが当時の喫緊の課題であり、知的チャレンジだったからである。

 イタリアでは、土よりも石への好みがあり、対大砲の防衛は成功しなかった。
 星稜堡は生れた。

▼友近美晴『軍参謀長の手記――比島敗戦の眞相』S21-5
 元少将。レイテで大敗北した第35軍の参謀長。

 ミンダナオのダバオのダリアオン収容所で書いたのを、いっしよにぶちこまれていた従軍記者が一足早く持ち帰り、出版。乗船直前、佐官らの妨害に逢ったが拒絶。

 将も兵も自我自欲の凝り固りとなり 芥川の言ひ分ぢゃないが 全く「人間獸の一疋」に帰つてしまつてゐる。
 KD……米軍の騎兵師団。
 BS……独立旅団。
 総軍は、在マニラ。
 水際をすっかり放棄してしまえなかった。それを言うと消極的だとされて、作戦会議で議論に負けてしまうのだ。

 レイテは広い。おかげでサイパンほどの艦砲の集中は免れた。反対斜面と洞窟陣地は無事だった。しかし、中掩蓋と水際大砲は全滅した。

 ダバオとタクロバンに基地飛行場群を造ったが、航空機がなかった。
 いずれも海岸部にわざわざ造った。何にもならなかった。
 できるだけ洋上遠く、飛行機を飛ばしたい。そのためにはできるだけ海に近いところに……。という勇ましい意見に負けてしまった。

 マッカーサーは、日本軍の裏を掻くなら、ルソン島に直接上陸すればよかったのに、と著者は思う。
 ※ワンクッション置くのは彼らの定石なのだ。沖縄本島の前には慶良間諸島。

 セブでは、海軍の原田少将と、陸軍の万城目少将の間がよかった。
 ダバオは然らず。理由は、陸軍の原田中将の性格にあり。その参謀長は服部だった。

 35軍正面にとり肝要なバゴロド航空基地は不備で、航空隊が、降雨の度に、悩みぬいた。

 1Dは、兵隊は勇敢なるも、幹部は近代戦訓を知らない。指揮力も低かった。
 D長の片岡中将は、騎兵出身のくせに消極的で、兵の損耗のみを心配した。必要なときには兵の損耗を顧慮しないで難局を猛進させるという毅然たる統率ができない人だった。

 某師団長の福栄中将は、卑俗で、部下から嫌われ、一死赴難の気概は無かった。
 今堀大佐の支隊は、部下が斬り込みを喜び、米軍も敬遠した。

 26Dがオルモック揚陸に大失敗して以降は、SS、SB、大発、機帆船、漁船によるほそぼそとした輸送しかなくなった。

 米は上陸後すぐ、ブラウエン北、ブラウエン南、タクロバン、ドラグに滑走路を造成した。
 バレンイヤ飛行場はオルモック北にあった。

 2月11日に海軍陸戦隊がオルモック湾の西方海岸に上陸。敵前とは知らされていなかった。隊長は伊藤少佐。
 水陸両用戦車×9両をもっていた。実際に5両が上陸した。兵員400~500。迫撃砲×20門のうち12門を揚陸した。

 敵中突破の退却でも、再集合するための退却目標をしっかりと示しておけば、潰乱には陥らぬものなり。

 1D正面では、重傷者には因果を含め、たんさん自決せしめた。
 軽症独歩者は、畑の食い物が良いのでなかなか集合しない。
 ○○日に乗船して他へ行く、と伝えると、急に集まってきた。

 レイテ海岸から舟を仕立ててセブやネグロスまで逃げた者。分っただけで50名おり、中尉までも含まれていた。
 捕へた者は皆、軍法会議にかけ、ひどいのは死刑にした(p.59)。

 福栄102師団長は12-29頃、勝手に独断退却をきめこんだが、親補職を軍法会議にかけるのはまずいから、改めてその退却を合法化する命令を出してやった。
 だがさらに命令違反があったので、軍司令部は中央に、福栄中将の親補職を免じ、中央部において捜査処分せられ度し、と上申したが、遂に回答に接しなかった。

 レイテは食糧自活が可能な地だった。部隊長の心掛けのよいところでは、5ヶ月分の備蓄ができた(p.69)。

 大曽根参謀がガダルカナル体験者だったが、1月初旬まではガ島よりレイテがマシだと言っていた。しかしその後は、補給があったぶん、ガ島の方がまだよかった、と。

 海軍の特潜で、陸軍の司令部を移した。
 給養を見てやらぬ大佐は、最初の砲撃で部下たちから見捨てられた。

▼大本営海軍部嘱託 光村写真部撮影『日露戦争旅順口陥落紀念写眞帖』M38-7
 印刷は神戸市。三康図書館蔵。

 大連発電所の大煙突。※50mくらい?
 12-16柳樹房での乃木と第三軍スタッフ勢ぞろい。
 海軍重砲隊の人力運搬。
 海軍12珊速射砲のイイ写真×2。もちろん未見のもの。

 28cmによる港内間接照準射撃の光景。これはよく分っていい。
 203高地上からの港内。これもイイ。
 敵が陸地で発射した魚形水雷のクリアカット。

 破壊された露軍の76.2ミリ砲。
 『パルラダ』の鉄板+木板 甲板構造がよ~く分る写真。

 ステッセルの官舎。

▼井上光晴『蒼白の飢餓』1973-11
 S15のとき14歳だった著者は、大坂の製鋼所において、戦車のキャタピラを作る工場の下請工場で、分析見習工をしていた。
 電気炉で、製造過程にある特殊鋼の硬度やねばりを分析して、マンガンとか燐とかを補給する、連絡係。
 サンプルから、分析用の切片を、ドリルで削りとらねばならぬが、ドリルがはねとばされるものもある。

▼林芙美子『戦線』S123-12 定価1圓
 行軍兵の汗のにじむ肩、背嚢、その上にゴマまぶし状に蝿が止まる。
 兵は、弾薬匣からたった1本の煙草を出し、半分にちぎって吸う。

 船の中の馬の居場所を馬欄(ばらん)という。
 宇品から大陸まで10日+の船中である。
 馬は、いちおう、1日2回、運動させる。

 朝日の「無電トラック」アジア号の写真(p.21)。
 無電員は、オペレーターと称する。車両を止めてアンテナ展張。
 白いブチのある朝鮮烏。

 10月でも、蚊・蝿がいる。
 揚子江の北岸をさかのぼる。漢口より前の【くさかんむり 單斤】水(きすい)の町。目も口も空けていられない。黄塵と蝿で。

 シナ兵は青竹で担架をこしらえている。
 陸軍機がビラを撒いて行く。広東が落ちたというニュース。

 シナ軍も「陣中画報」という4ページの漫画だらけのタブロイドを配布している。
 「日寇」と書いた虎。

 輜重隊の下士官「後尾異状ないかッ!」
 「後尾異状なし」。これがずっとうしろへ逓伝され、最後尾が怒鳴る。「後尾異状なーし!」

 土民や捕虜を雑役に使いながら行軍。敵も味方も分らん。
 アフガニスタンで雑貨屋をやっていたという兵隊がいた(p.63)。

 S12-12の南京を見た。光華門や中山門などの城壁に、青い帯のような裂地がずいぶんぶらさがっていた。便衣も青である。

 街道はいたるところ玩具箱をひっくり返したような家財道具の山。
 その中に必ず、青い着物や青いきれが入っている。

 89式戦車のクリアな写真。ただし主砲は検閲抹消。竹で擬装。埃の立ち方がよくわかる。部隊名は消されている。「高橋戦車(隊)」と。

 流れ弾に当たった馬を見捨てるときは、乾いた藁を敷いておいてやる。ときどき四つ脚で空を蹴る。
 シナ人の雑役は、各隊に数十人。シナ馬や牛をひっぱらせる。日給制。兵の給与よりも良い。

 シナの洗面器には必ず絵が描いてある。中には「打倒日本」の文字も。
 逃げ遅れたシナ兵は往来で死んだまねをしている。その上を戦車がゆく(p.86)。
 捕虜斬首目撃譚。一刀のもとであった(p.91)。

 「内容空疎な急ぎ足の日支親善はまつぴらごめんだ」(p.92)。
 朝日は伝書鳩をもっている。

 夜は、馬の嘶き、兵隊の咳、多種な訛り言葉、焚き火。
 小休止では、背嚢を負ったまま、叉銃で寝る。
 湖北はずっと綿畑である。水田もあるが、麦はない。
 にわとりの声。ケケンツク\/。

 トラックのアンテナは、竹竿を道の両側に立てて……。
 漢口北端で初めて農民の若い女を見かけた。その前は2ヶ月前の上海だった。バアさんはよく見るのだが。

 渡河前の中戦車と軽戦車は、笹でカモフラしながら待機していた。
 「471」というローションを持ってきた。
 馬を傍に立たせた兵が、くわえ煙草で野糞。
 軍の通信筒の文面にも「多謝」を使う(p.160)。

 重症の少尉のうわごと。「……伝令……〔に行って来い〕」「……斥候……」。
 敵正規軍は、フォード37年型自動車をもっており、「漢口一八四三」などと書いてある。

 漢口にはフランス租界あり。
 南京では40人ばかりの看護婦に会った。
 著者の従軍は約1週間だが、戦線でマラリアに罹った。

 『戦線』と『北岸部隊』の合冊か?



地政学懇話は月例化します。

 ローカル企画ですので、宣伝はいたしません。
 こんかいと同様にやります。
 来月は、10月21日(水曜日)を予定します。
 予定に変更なき限り、前日・当日まで、特に告知もしません。

 前後の宴会等はありません。8時キッカリ解散です。

 なお、飛び入り参加者は、ごじぶん用の軽食(サンドウィッチとコーヒーのようなもの)をご持参くださるとよいでしょう。そのゴミは、お持ち帰りいただきます。

 次。
 Will Douglas Heaven 記者による2020-9-23記事「We’re not ready for AI, says the winner of a new $1m AI prize」。
    レジナ・バージレイは、このたび「Squirrel AI Award」の最初の受賞者に撰ばれた。
 もともと自然言語の生成の研究をしていたが、2014年に乳癌手術を受けた後に、研究方向を変更。
 癌を発見したり新薬を開発するアルゴリズムをマシンラーニングさせる仕事に没入している。

 スクィレルAI社はシナ企業である。そこが100万ドルの賞金を設定した。数学界のチューリング賞とおなじぐらいの額にしないと、ノーベル賞なみの権威は生じないというので。

 電気が普及しはじめた初期、人々は、どうしても、蒸気エンジンのそのままの代替物として、あたらしい電力エネルギーを捉えようとした。これと似たパターンを、もっかの現代人は、AIについて、繰り返しているさなかだと言えます。

 AIは、回答をまちがえた場合の損害がおおごとになるような分野で、伸長しています。
 たとえば、ネットの自動翻訳レベルの世界だったらば、ひとつの誤回答が提示されても、ユーザーは、次の別の回答を探しに行くだけ。
 ですが、このユーザーがもし、患者のための診断や療法を調べている医師であったなら?

 こんなに多くの乳癌患者が米国には居るというのに、研究者がその巨大データ〔主にマモグラム写真の山〕にアクセスできるようには、全くなっていなかった。2014年時点では。

 健康診断で撮像された「乳房X線写真(マモグラム)」をドクターが肉眼で見ても、《あと2年後にこの人は乳癌になる》とは判断はできなかった。ところが、画像のビッグデータをAIにマシンラーニングさせれば、乳癌になる人にその2年前から、正確な警告ができるように、なるのである。《このままいくとあなたは乳癌になる》と。
 わずかな画像のパターン変化から、AIが危険な兆候を見破ってくれるのだ。

 医師は、マモグラム中に認められる白いスポットが、はたして癌なのかどうか、眺めているだけでは知ることができない。それは「生体組織検査」をしてみないと確認はできない。しかしもし、実際にはなんでもなかった患者に生検をすれば、それは患者に余計な傷をつけただけということになってしまう。リスクとメリットを考えなくてはならぬ。AIは、医師のこんな悩みを軽減してくれる手助けをしてくれるわけ。

 今の課題。AIは、鼻の良い犬のようなものだ。犬の鼻は、人間には感知できない匂いを、ことこまかに嗅ぎ分けている。だが、それを言葉によって人間に対して、わかりよく説明することが、できない。

 こんどの新コロ流行に際して、AIには何ができたのだろうか?
 限定的なものだが、こういうことはできたはずだ。
 ある都市の中には、毎年、乳癌予防検診でマモグラムの撮影をしている人が、多く居る。ところが、こんどの新コロで、定期健診のようなノンエッセンシャルな医療サービスは、どの病院でも縮小するしかなかった。それでも、《あなたはどうしても今年もマモグラム撮影をしとかないとだめだぜ。なぜなら気になる兆候が去年、見えていたんだから》というアドバイスを、AIならば、出せたでしょう。

 新コロ対策にAIが役立つかどうかは、データをどのくらい集められるかにかかっている。マモグラムのデータですら、まだ、まったく数が足りていない。全米的な協力は、得られていないのだ。
 技術のネックではなく、データのネックがある。これが、AI診断の普及の前に立ちはだかっている、現実の壁である。

 次。
 Loren Thompson 記者による2020-9-22記事「Raytheon Presses Case For Replacing Lockheed Martin Radar In Missile Defense Of Japan」。
    いま、世界の中のレーダー・メーカーの中で、おそろしく遠い距離にある弾道弾などを存在探知して識別把握して追跡し予想する機能において、レイセオンRTXと、ロッキードマーティンLMTは、双璧である。
 他の、いかなる企業も、この2社がもっているような高水準なレーダーのハードおよびソフトウェアのノウハウは、有していない。

 だから、日本政府は、地ージスのレーダーを、この2社のうちのどっちかに、発注するしかない。
 どっちの性能が優れているかというと、これは微妙なので、バイヤーの選択は、コストで決まるだろう。
 しかし いろいろ人に話を聞くと、どうやらレイセオン社が優勢になっているようだ。

 レイセオン社は艦載のイージス用の新型レーダーの開発を米政府から2013に受注している。これは強みだ。
 「SPY-6」とよばれる最新モジュール。2平方フィートのレーダー素子集合板だが、これを、搭載する軍艦のスペースや目的にあせわて、たくさん集積させたり、少数だけ貼り付けたり、いくらでも融通を利かせることができる。

 たとえば、次の世代のアーレイバーク級駆逐艦(フライト3)には、このモジュールを37枚貼り付ける。それで全周警戒と追尾と誘導ができる。感度/分解能は今のイージスの80倍だという。
 また、既存の旧式イージス艦のアップデート改修には、この最新モジュール24枚を貼る。
 さらに、イージス艦ではないが、空母や強襲揚陸艦にも、この「SPY-6」モジュールを9枚、貼り付ける予定。新型フリゲート〔LCS後継〕にも9枚。

 メンテナンスのためのモジュールの交換は、1枚につき、工具2個あれば、数分でできてしまう。したがって維持費が、旧来のイージス・システムより安くなる――とメーカーは主張している。

 これに対してロックマートのは、完成してもいない。まだ開発中なのだ。「スパイ7」と呼ばれ、予定では、アラスカとハワイの、米本土防空用のGBIミサイル(それは艦対空のスタンダードミサイルとはまったく別種の地対空ABM)のために仕上がるはずのもの。なんとこれを日本政府は2017に、買う、と言ってしまったのだ。

 かつて日本ではこんな説明もされていた。イージス艦の起電力と冷却能力には限度がある。その制約がABM機能も制約してしまうのだと。

 「スパイ7」を艦載してはどうかという話も出てきた。だが「スパイ7」は、そもそも、シナ大陸から日本に発射されるIRBMの探知用ではない。ロシアから米本土に飛来するICBMの高速RVを探知するための専門レーダーなのだ。とうぜん、IRBMのRVよりもさらに低速の対航空機、対巡航ミサイルの探知用途などは考えてはいない。だから、もし「スパイ7」を艦載するとすれば、ソフトを一から書き直す必要がある。現実的なわけがない。

 ※「スパイ7」と「スタンダード」ミサイルのマッチングのソフトも存在しなかったわけで、地ージスがあのまま進められていたなら、そのソフトを一から書くコストを防衛省が負担させられていた。それだけでも防衛省は会計破綻したであろう。

 「スパイ6」のソフトのために米海軍が投入した国費をしらべれば、「スパイ7」に対航空機ミッションをあらたに付与するためのコストも、容易に想像はできるだろう。

 レイセオン社いわく。だからこそ、『タイコンデロガ』級イージス巡洋艦の古いレーダーを「スパイ7」に換装すればどうかという話だって、さいしょから可能性としては排除されているわけですよ。

 ※ロックマートの法務部門はおそらく世界最強だ。「スパイ7」を択んではいけなかったということも理解ができなかった防衛省の内局連中に、とうてい、民事法廷で対抗ができるとは思えないのだが……。



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旧資料備忘摘録 2020-9-23 Up

▼防研史料 『満洲に於ける自動車工業方策』1937-7-12
 S16を期して満洲の自動車生産を1万台に達せしむるを目標とす。
 凡てディーゼルとし、燃料は現地の頁岩油と重油とす。

 現在の同和自動車など全自動車メーカーを一特殊会社の下に統括。「満洲自動車(株)」と仮称。
 エンジンの製造ラインはドイツから、シャシのラインは米国から輸入させる。

 自動車工業は、3万/年の産額がないと経済的に成立しない。
 戦車もつくらせ、トラクター、バス、トラックも大半を官と軍で買い上げる。

 満洲では、冬の結氷期以外は車は役に立たない。馬車のみ。
 都市間の鉄道と、これら馬車のギャップがありすぎて、朝鮮の農産品を都市に送り込めない。
 モンゴル方面のみ、四季をとおして自動車が動ける。
 よって、今、満洲に、道路を増やしている。

 ディーゼル車は単価はガソリン車より3割から5割高い。9000円くらいしている。その代わり燃費は三分の一だ。

 100kmあたりの消費燃料比較。
 3トン積みのスミダ6輪ガソリン は、35.0リッター。
 3トン積みのT.G.E.6輪ガソリン は29.5リッター。
 1.5トン積みのウーズレー4輪ガソリン は20.0リッター。
 1.5トン積みのTGE4輪ガソリン は23.6リッター。
 1.0トン積みフォード・ガソリン は21.5リッター。
 3トン積みディーゼル自動車(たとえば池貝FT20型)は 15.5リッター。

 寿命は、ガソリン車が3~7年。ディーゼル車は2~5年。

 陸軍ガソリン保護自動車
 スミダS型 2.5トン
 スミダC型 3トン
 ちよだJ型 2.5トン
 ちよだQ型 3トン

 自動車故障の25%は 点火器と揮発器。ディーゼルエンジンには、そのどちらも不要。
 頁岩油をそのまま利用できる。
 塵埃に対し、やや強い。
 寒気スタートもガソリン車より良い。
 悪路牽引力がまさる。

 デメリットは、噴嘴、喞筒の精密加工が必要。
 圧縮比が高いため、手動始動は困難。始動電力はガソリン車よりたくさん必要。
 微細濾編が必要。

 メリットは、予備タンクなしで5日間、行動できる。

 S5に陸軍自動車学校は、ディーゼル6輪車のテストをした。3トン積。エンジンはドイツ「デュルコップ」社製。ユンケル型。重油。

 S3のデータを使い、馬車と自動車の維持費を細密に比較した。
 トンあたり経費は、馬車が21銭6厘。自動車は28銭。牛車はさらに格段に安い。

 荷車の役畜中、牽引力が最強なのは、騾馬。1頭平均で144kgをひっぱれる。そして1日35km、冬季でも30kmは行く。
 七套車 といって、最大7頭曳きまであり。
 他に、5頭や3頭という奇数曳きがある。

 池貝の60馬力。何冷式か不明。
 三菱は、水冷から空冷に転向中。
 新潟鉄工 40~80馬力。
 東京瓦斯電 90馬力(スミダ)。ちよだは水冷式。

 日本デイゼルはユンケルスディーゼルの特許を買収。60馬力、90馬力、125馬力をつくれる。
 日本内燃機 75馬力を完成。
 國盆自動車も。
 ただし戦車用のディーゼルエンジンを造れるのは三菱のみ。

 満洲でアルミをつくろうとすれば日本内地より割高になるだろう。

▼防研史料 南満洲鉄道(株)調査部『自動車工業関係資料』S12-12
 5ヶ年計画で自動車 5000両/年を 同和自動車(株)を強化して生産させようとの計画案。
 この当時のフォード・トラックは、ホイールベースが131吋(1.5トン積み)と157吋(2トン)あり、シボレーもその二種があった。

 同和は、康徳元年(=昭和9年)に90台、2年に251台、3年上期で350台、つくっている。

 熱河作戦では、一千数百両の自動車が使用された。
 ところが、康徳3年(昭和11年)6月現在、満州にはすべての自動車をあわせても6000両しかない。

 現在「カタピラー」は、名古屋大同電氣製鋼所にて製作している。

 自動車工業(株)……もと石川島造船所の自動車工場。大5より、フィアット乗用車を研究。大7に、WWIで活躍したウーズレー自動車の製作権と東洋における一手販売権を買収、職工数名をバーミンガムのウーズレー自動車会社に派遣した。その者らは大8-10に帰社した。 同時に深川区富川町に工場を新設。そこが震災で焼けたので、京橋区新佃島相生橋際に月島工場をつくり、翌大13-3に1.5トン・トラック第一号を完成。S2にウーズレーとの契約は解除。S4、自作スミダ。

▼防研史料 海軍造兵廠ed.『海軍省報告』M25、M28
 製造単価がびっしり。

 M24末頃の、海軍の火薬の種類。
 一斤信号火箭料〔ママ〕薬。 ※ロケットである。なお、こういう正本を筆写する係の者が字を間違えてしまうことは、ときどきある。
 火工用粉薬。
 一伊諾典砲火薬。※1インチ径のノルデンフェルト機砲。国産化していた。
 《中略》
 舶来三十七ミリ保砲炸薬用火薬。※ホチキスの速射砲。
 村田銃火薬。625kg「修理」し、5.765円かかった。

 この年〔24年末まで〕、四十七密米速射砲の試験が好結果を得た。「骸炭」をのぞき、素材をすべて国内産でまかなっている。

 朱式魚形水雷も本年はじめて造兵廠で製造し、本物オリジナルと比較した。
 以上、24年度報告。M24-12-31調。

 傭外国人 ジョン・イングルスは 月俸が銀貨1063円。
 音楽教師 グスターフ・アルペーは 横須賀鎮守府勤務。銀貨220円/月。

 清国人の陳允史。銅工として、呉鎮守府の造船部の小野浜分工場に 銀貨300円/月 にて傭われている。M24年。

 海軍の監獄は、赤坂区葵町〔溜池の本省内?〕、相模国三浦郡大津村、安芸国安芸郡和庄村、肥前国東彼杵郡佐世保村 にある。
 それぞれ、監倉、禁固室、内役場、病室、屏禁室、闇室 という設備をもっていた。
 重禁固3年以上というのが最も重い。軽禁固1月以上というのが最も軽い。

 M23の演習費は、20058円90銭8厘かかった。
 タマ代は、「兵器水雷費」という項目の中に入れられる。
 さらに、製造費と購買費がある。

 M24の造兵廠は、芝区赤羽町にある。
 造兵廠製鋼所は、京橋区〔築地?〕小田原町2丁目にある。
 造兵廠火薬製造所は、荏原郡目黒村にある。

 以上、M25-9-20印刷 by海軍大臣官房。

 以下、25年度報告。
 下瀬火薬の創製。

 山内閉鎖器と山内砲架は、反動によって自動排莢、半自動閉鎖するもので、初めアームストロングに試製させ(山内が在英中)、その後、国産し、展覧の上、シカゴ博覧会にも出した。
 以上、M26-11-19印刷。

 以下、25~26年度報告。
 この年、目黒を陸軍省の所轄に移し、海軍においては下瀬火薬だけをつくることになった。

 鋳鉄製弾丸は、これまで鋳造ののちに旋削していたが、新意匠により鋳造のまま使用することを考え、まず32拇砲通常榴弾に応用。好結果を得たので、一層研究する。
 以上、M28-5-15印刷。

▼防研史料 立川兵器研(目黒区)『昭16~18 各種兵器仕様書綴』
 会社概要書付。
 明治42年 長山飛行機研究所の生写真帖付。※これは早く複写しないとボロボロになってしまうぞ!

▼防研史料 東京第一造兵廠『未完成兵器一覧表』 
 航空機用の二式40ミリ撒布弾 などというものを大阪の香里製造所で量産していた。

 下丸子で「新中戦車乙」〔チリ車? 読めない〕が1台だけ完成していた。

 日立亀有では、砲戦車甲が6両完成。※ホリではない。その前のもの。

 ホロは三菱で13両が70%完成。
 ケル〔95LTKの改修らしい〕。神戸と池貝で別タイプをやっていた。

 装甲兵車は、日野重工でやっていた。
 100式機関短銃は、鳥居松で673梃完成。1700梃くらい途中。

 「国民総武装用迫撃砲」という謎の兵器があった。

 航空機用の57ミリ砲と37ミリ砲は、名古屋の熱田製造所で。
 30ミリは、三重の楠製造所で。
 30ミリ固定機関砲は、千種製造所で。
 12.7ミリ 1式固定機関銃は 中央工業 新倉工場(群馬)で。

 20ミリ航空用機関砲は、楠で。
 25ミリ2連装機関銃銃架 を 大阪の中央工場でつくっていた。※海軍の武器を陸軍の工場でも作っているわけ。そのため「双連」ではなく「連装」、「機関砲」ではなく「機銃」 と表記する。

 5式40ミリ機関砲を 大造、第四工場(宝塚)で。

 日本製鋼所室蘭製作所で「チト」車砲塔×1 完成。※チトは四式戦車。5式はチリである。

 「毘式高射砲尖鋭弾」9個を、試験用に、大津川射場でつくった。

▼防研史料 『S19.12 作業に関する打合会書類』
 生産状況報告である。
 押収米式37ミリ砲、尖鋭弾の弾丸。
 押収2ポンド戦車砲、3式徹甲弾の弾丸。
 掬土車(7トン)。
 「舶用化チケ車機関」※謎。

 この時点での全投下爆弾を網羅。

 S19-4~11月、AAMGはすべて小造だけで造った。
 98式AAMG×359(実績。以下同じ)。
 同特〔?〕×113。
 4式基筒双連20ミリAAMG×40。
 2式多連〔?!〕20ミリ高射機関砲×13。

 東一造は光学兵器。

 大造。
 3式7.5cm戦車砲II型 ×2。
 12迫×247。
 88式7高×464門。
 4式7高×15門。
 99式8高×357門。
 3式12高×54門。

 98式臼砲の98式榴弾×92。※まだつくっていたのか。
 東二造は弾薬か。

 「原始工業化」……工場の機械の究極の疎開。設備の一部だけで造兵を続けられるようにする。

 著減せるもの。九四式拳銃(含 二式拳銃)。

 東一造……喇叭、軍楽器、軍旗、乾電池、気球、発動機。照明器材は除く。
 東二造……化戦戦闘器材の検知器、化学薬品、油脂、塗料。
 大造……海運器材。

 S19-12-27、兵器行政本部の各造の機動47ミリATG整備を中止す。99式8高運搬車も。
 戦車類は次の優先順位で整備する。
 一、チヌ、98式6トン牽引車。
 二、チト、チリ、8トン排土車、14トン排土車。
 三、97式戦車の砲塔改修、土工牽引車。
 四、10センチ自走榴弾砲の車台。
 五、ATG車台。
 六、特4式戦車。※例の内火艇?
 七、特3式戦車。
 八、3式迫撃砲の車台。
 九、空気圧縮車、ロケ社機関。

 99式手榴弾は、20年度初頭に、大造でつくるのをやめ、南造に任せる。

▼『日野自動車販売株式会社30年史』1978-9
 ※ニコ は愛国2号 のことではないか? サコは「散兵壕掘進車」?

 開戦から終戦までの物資動員計画順位で、トラックは16年と17年がB。18年と19年がC。20年はB。
 なぜ20年で上がっているかというと、本土決戦のため。

 S7に「Q型兵員輸送車」24人乗りを試作製造している。
 S7-7に「中京デトロイト化計画」があった。

 圧雪車は「ラK型応用」だった。S19試作。
 S19-4以降、陸軍航空機の脚もつくった。

▼日野自動車工業(株)技術管理部ed.『日野自動車技術史 写真編』1993
 青島で上陸地点から4kmに据えた28榴に、タマを届けるため、4台のトラックを使った。すなわち 日露戦争中の軽便鉄道の代替品として、トラックが認められた。

 S9の「ホヤ」……軍用小型乗用車
 軍から偵察用小型車の要求があり、フォードのシャシを縮めて独立懸架にした。
 コイルスプリングはバックリングを起こすのでコニカルスプリングにした。

 統制エンジンの特徴は、吸出し型配置のファンにある。
 おかげで 戦車内の環境改善に顕効あり。
 ただし プリチャンバー式で、直噴ではない。

 伐開機は、興安嶺に輜重用道路を通ずるためのものだった。旭川の原始林で試した1号車は、横に振られて履帯が外れ、失敗。

 石川島造船所自動車部が1929-5に石川島自動車制作所になり、それが1933-3に「自動車工業」となり、1937-11に「東京自動車工業」に合併、消滅した。

 軍用の、94式TX の6輪版が、JM型である。
 1930年のQ型=愛国号である。100台以上、造った。
 それを装甲したのがQSW(愛国2号)だ。

 TGE GP型 広軌牽引車、木炭車。1928年。4輪。※この写真は印象的。
 TGE GP型 温風車。なんと航空機の空冷エンジンを厳冬の北鮮基地にて温める装備であった。

 QSWの写真に修正がある。ほんとうはターレット前にもボールマウントがある。銃眼は全部、ボールマウントだったらしい。

 ホヤは50台つくった。
 五十嵐氏が写真提供している。

 ケニのシーソー式コイルばねのA型は日野重工が試作。
 特2式もつくったらしい。3.9トン。
 ケホもつくったらしい。
 9トンの試製砲戦車と5式軽戦車。
 装軌のハシゴ車。社内名「展望車」。
 引用元資料のひとつに『帝国陸海軍の~』もあり。
 ハシゴ車の超クリアな写真。梯子はアルミ製らしい。

 1929から92式重機関銃もつくった。1934年まで?
 当時は瓦斯電兵器部といい、のちの日立兵器である。

 はじめ大森工場。1944-8~9月に水戸に疎開。終戦まで操業。

▼『日野自動車技術史 テキスト編』1993
 ※社史の元資料ファイル複製。

 クランクケースやミッションケースの鋳鋼は、陸軍の熱田兵器製造所が早くから薄いものをつくっていた。大7頃。

 千葉県の茂原、大多喜、一の宮で天然ガスが出た。
 そこでS15に梁瀬自動車が、150気圧鋼鉄ボンベを車体後部にとりつけ、減圧弁を経てエンジンに送る 天然ガス・エンジンを作った。

 大正の中期、六郷橋ですら木橋で、制式4トン車が徐行で何とか渡れるレベル。
 昔から東京に入るすべての街道は皆、狭くて曲がっていた。東海道ですら、八ツ山を過ぎると宿場で、夜は遊び客が群れ、車は立ち往生という有様。

 素材工業がたちおくれており、鋳造品はほとんどが芋鋳造だった。この段階での差(寸法)が大きく、本体の加工に入る前の整形作業が複雑で、作業計画が立たなかった。
 板金作業も手作業の叩き出しで、塗装の下地の作業に影響した。

 制式4トンではシリンダー内面はホーニングはまったく考えず、リングとの共摺りの工法を使った。
 シリンダーは、屑鉄を20%から30%加えるセミスチール鋳物で、当時の金属学の先端をゆく材質。
 原料銑は、インドのタタ銑。
 トンあたり120~150円。
 これに、不良をすくなくするための トン500円もする釜石の木炭銑を混ぜ、坩堝溶解にしてオシャカを減らした。

 日露役の旅順には、砲弾4万発、小銃弾190万発〔第二回総攻撃のみか?〕を輸送。趨勢として、もう、鉄道ではやってられなくなった。
 当時の砲弾単価25円は、ふつうの家計のひとつき分に相当したという。

 1928、 スミダLA型探照灯車。
 1930、 TGE飛行機始動車。

▼防研史料 〔箱マル48/614〕 『防禦に於ける対戦車戦闘応用地雷の製作 及 其の設置法』S19-5
 AT壕は、V字カット断面に地面を掘るが、深さは2m、地表部の巾は4mないとダメ。
 AT断崖は、登り斜面ならば、段差2.5mの垂直面をつくる。下り斜面ならば、段差5mの垂直面をつくれば、米軍戦車の前進を止められる。

 橋梁の、桁の下面に切り込みを入れておく。そこに敵戦車が乗りかかると、橋は落下する。これを「陥穽」という。

 漏斗孔は、地表部の直径6m、深さ1.5mあれば、中戦車の機動を阻害できる。
 そのような漏斗孔を人為的につくるには、深さ2mの垂直の穴を掘って、その最深部に航空用の小型爆弾を5個から6個、束にして挿入し、起爆用に2kgの黄色薬を束の中心に挿入して発破すればよい。

 この漏斗孔を10m間隔で千鳥状に配列して行けば、事実上のAT障害帯ができあがる。
 漏斗孔のないところには、偽地雷を置くとよい。

 ※この時点で南方の占領地には、航空用爆弾だけがやたらに余っていた。その最も潤沢な資源を、陸戦に活用する方法を、指南しているわけである。

 梱包薬によって敵中戦車の上面を破壊するには、6kgが必要である。

 なぜ対人地雷をATに使わせないか。安全解除後は、ちょっと何かに触れても爆発してしまうので、危なすぎるから。
 戦車の履帯を切るには、爆薬は2kg必要である。
 戦車の車体を下から壊してやろうと思うなら、爆薬は10kg必要である。

 ウエワクには航空用爆弾が余っている。
 タテ機を使え。※野山砲級によるタ弾でなければ、無理だろう。

 破甲爆雷は、装甲厚25ミリ〔すなわちソ連のBT-7M。日本陸軍の時計はノモンハンで止まっていた〕を対象としたもので、装甲厚60ミリある米軍M4戦車には使えぬ。2個重ねても無駄。

 70ミリ装甲には、13kgの黄色薬が必要である。
 M4の側面装甲は60ミリ、上面は40ミリある。
 5kgの爆薬なら、50ミリ厚の装甲を破壊できる。

 2個の爆薬を1本の紐と導爆線によって「ふりわけ」荷物のスタイルに結着して、投擲爆雷にする方法は、米軍戦車に対して有効か?
 経験では、この方法では、1個の爆薬の重さの上限は3kgである。つまり2個で6kgである。それ以上の重さになると、とても敵戦車に投げつけることはできなくなる。
 そして、3~6kgの爆薬では、米戦車は破壊できない。
 したがって、爆薬を「投げつける」方法だと、どうやっても無理がある。

 M4戦車の砲塔正面は85ミリ厚。要部は55ミリ厚。ただし、鋳鋼であることが多い。

 全重150トンの「ルーズベルト」超重戦車があるという。※日本の四研で考えていた超重戦車のルーモアが回ってきたのか、それともパーシング戦車の情報が増幅されたのか?

▼偕行文庫蔵 教育総監部『挺進奇襲の参考』S19-7
 挺進奇襲の定義。小部隊で、敵の配備内に潜行 または 潜在し、人的・物的戦力を破壊し、あるいは情報、俘虜、文書を獲得し、あるいは後方を擾乱すること。

 しかもこれは、一般部隊において編成する。
 なぜなら、1班の戦果にはおのずから限度がある。戦果増大のためには、部隊規模を大きくしなくては。

 最大で、歩兵1個中隊規模。最小は、数名。
 追随をゆるさざる創意をもって、常に敵の意表に出でよ。敵をして対応の策なからしめよ。

 「特殊笛」も使う。
 筆頭の任務は、「敵兵、特に幹部 および 白人の殺傷」である。
 その次に、指揮組織に対する攻撃。
 その次に、火砲、戦車、飛行場施設、航空機の破壊。
 五番目に、「敵船艇の破壊」。

 住民や土人の兵補も連行・利用しろ。そのさい、相手の面子に気を配れ。

 奇襲は「速撃速離」が原則。
 計画は、次級者にはすべてを知らせておく。全員には、概要を承知させておく。

 「勉めて携帯するを可とするもの」の筆頭は「機関短銃(自動小銃)」である。
 ついで、軽機、小銃、拳銃、銃剣、手榴弾、眼鏡〔双眼鏡〕の順。
 さらに「一瓩爆発罐」「点火具」「破甲爆雷」「鉄条網」……など。

 所要に応じて「鎌」「鋸」「目立具」……「十字ぐわ」〔ママ〕。
 「なた」または「蛮刀」は、勉めて持っていけ。
 砥石、携帯測遠機、応用距離計。

 主食は「圧搾口糧(特殊携帯口糧)」、マラリア予防薬「ヒノラミン」錠、腸管伝染病予防薬「リマオン」錠、制湯錠。
 地下足袋は、指又のないものがよい。

 土民服、敵軍服。
 「十六番鉄線」約10m。
 携帯濾水筒、犬用嗜好剤、梟感剤、青酸加里。

 被服は、濃緑色に染色した刺し子がよい。
 暗号は「消化紙」に印刷せよ。

 タバコは吸わぬ方がよい。どうしてもという場合のため、火先が見えないパイプを準備していく。
 飯盒は、音がするので 使わない。

 伏撃には、待伏と、誘伏とあり。
 俘虜を持ち帰るには「もっこ」が要る。

 人員の殺傷にあたっては、軽機関銃よりも、機関短銃が有利。
 擲弾筒は使える機会が少ない。
 銃剣に代えて、「簡単に槍に改造し得る両刃短刀」を可とす。

 飛行場は広い。しかも目標はバラバラに散在している。
 よって、最重要目標を決めておかないと、右往左往するのみ。
 飛行機の爆破は、エンジンを狙うこと。

 無線用の発動発電機は、消音することが難しい。
 アンテナは、スピード重視で、垂直型に限る。それも、樹幹に沿わせて、カモフラすること。

 前進するあいだ、50mごとに磁針を確かめて行けば、まずコースを外れることはない。
 「元気食」5箱。
 理研の「パンゼ」は、南京虫、蚤、ダニを駆除してくれる。

 鎌や鉈類は、現地人が使用しているものが、最も良い。
 予備班は高砂族。
 歩兵1個小隊は、5号無線機×1を伴う。
 総員35名。
 ♂のマークはSMGを意味する。
 班・組の先頭にSMGが立つ。

 敵の20加は、砲身内で黄色薬8kgを爆発させれば、破壊できる。
 15加は、3kgでいい。
 15加以上の重砲は、砲身の外側から破壊することはできぬ。

 機関車は、車軸の油を抜き取り、砂を入れておくと、運行途中で焼きつく。

▼偕行文庫蔵 『九二式重装甲車取扱法』S11-10
 直6、空冷。

 操縦手窓ガラスは防弾ガラス。手動式の拭浄器あり。
 銃塔は、車体外板、操縦手正面板と同厚の「防楯鋼板製」である。
 探照灯は、内部から向きを変えられる。

 蓋板は、内部から緊定できる。
 高射は、車外に半身を乗り出して行う。

 車体後端の外部にボタンがある。これを押すと、車体後部隔壁内側の電鈴が鳴る。
 履板は、高マンガン鋳鉄。防滑鋲を装着可。
 履板軸は、ニッケル炭滲鋼で、径13ミリ。

 電気起動。極寒時は、始動転把を併用する。
 方向変換は、片方の履帯側のハンドレバーを引いてブレーキをかけることによる。操向レバーの握りは、上から押さえる形。

 路上で最高40km/時 可能だが、エンジンに負荷がフルにかかる。連続走行は30km/時以下とせよ。
 新車は、トータルで800km走り込むまでは、時速25km以上を出してはいけない。

 エンジンのクリアな写真付。
 懸架装置のクリアな写真も。
 板バネ、下部転輪、履帯……。



本日夕方6時半に弁天町の「フォトスペース 一期一画」でお目にかかります。

 少人数ですので録音も撮影もせず、くつろげる教養講座となります。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-22記事。
  シリア問題についてトルコはなぜ強気か。陸軍が26万5000人もいる。これなら露軍の35万人にも拮抗できる。
 また、米軍がトルコ国内に核爆弾を置いている。ロシアがNATOメンバーであるトルコを核攻撃すれば、その核爆弾がトルコ空軍に引き渡される。

 シリア東部でクルド部隊を護衛している米軍に露軍がつっかかってくるようにになったので、米軍はシリアにブラドリー重装甲車を持ち込んで、「デイア・エゾール」郡内の幹線道路でのコンヴォイ護衛に投入することにした。このブラドリーは、機甲旅団が駐留するクウェート基地から空輸された。
 また同時に、露軍の対地直協機の接近を見張る近距離用防空レーダーも空輸した。

 最初の事件は8月24日。米軍のMRAPSのコンヴォイが、露軍の装甲車から意図的な衝突攻撃を受けた。
 2両の装甲車で1台のMRAPを挟み討ちして、執拗に衝突を反復したことで、MRAP車内で怪我人が出た。

 「デイル・エゾル」地区およびハサカ地区にはクルド人支配地がある。露軍はそこを攻撃したいのだが、米軍が入らせないようにブロックしている。そこで露米両軍の衝突が起きる。

 イスラエル空軍は9-3、中部シリアにイランが設定している「T4」空軍基地を、イスラエル領空から発射する空対地ミサイルによってまたしても攻撃。衛星写真でその着弾は確認された。シリア側はSAMで迎撃したと大本営発表しているが、嘘である。「T4」はパルミラの近くに2018に完成し、イランの地対地ミサイルが集積されているほか、イランのUAV運用拠点になっている。それ以前にあったUAV基地は、イスラエルが空爆で潰してしまった。



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


旧資料備忘摘録 2020-9-22 Up

▼防研史料 〔箱マル39/344〕『歩兵兵器概論』大15-11 陸軍技術本部
 執筆は陸軍砲兵中佐の高関俊雄。
 M41=1908に、本邦試製軽機関銃が出現。

 1908に仏で Berthier または Berthier Pocha 軽機が出現。
 1909に仏で ホチキス軽機。これを米は1911に Benet-Mercie[メルシエ] の名で使用。

 1913に独で Parabellum 軽機。
 1911~1913に米でルイスLMG。

 独は1915に3個大隊に各マドセンLMG×120梃を持たせて、ロシア軍にぶつけたのが、LMG使い始め。
 1916-3-1より仏は全歩兵中隊に8銃のC.S.R.G銃(軽機関銃)を配した。ベルダンで威力発揮。
 英は1916に 歩兵中隊に3個づつ ルイスを配布。

 昔は、LMGはHMGの代用だと考えられたが、WWIの思想は違う。
 LMGは、歩兵銃の代わりなのだ。
 つまり 火力は同じでも 人数を減らす。それにより、敵火の目標を減らす という思想なのだ。
 ※ゆえにオートマチックライフルなどという不思議な呼称もついたのだ。歩兵銃の代わりだと強調するために。

 BARは命中精度はよくない。教範では、200ヤード以上ではフルオート禁止。
 LMGとしては威力不足で、自動小銃としては過重であった。 ※1発のタマの威力はあるのだが、弾倉容量が少なすぎ、銃身がすぐ過熱。しかし11年式軽機とくらべたら、ずいぶんマシだ。

 仏のテストではLMGのバレルは500ミリでは初速と精度上、不利。600ミリは必要だと結論された。

 チェコは1925からプラガ軽機を量産し始めた。その諸元は不詳。

 英は本年〔それがいつなのか不明〕、VI型リーエンフィールド小銃を完成したと伝えられる。
 銃身は重くする。銃口蓋は廃止する。全重3.7kgとする。銃剣は軽くされ、三角断面、刃部20センチ、重さ180グラムとされる。

 日本ではLMG分隊のライフルは、騎銃でいいんじゃないかといわれているが、歩兵銃を悉く騎銃と為さんとする意見には未だ到達せざるが如し(pp.42-3)。
 ※つまり気運としては38歩兵銃をぜんぶ38騎銃にしてしまって、WWI型の塹壕戦に対応できるようにすべきじゃないかと思っていた、最新趨勢に敏感なエリート軍人もいたわけ。もしこれをすぐに実行していたら、そのごの兵隊の負担がどれほど軽くなったか分らない。歩兵学校や戸山学校のロートル幹部どもが、WWIの現実を何も知らずに反対して、改革を潰してしまった。

 ロシアの1925年式 Fedroff 自動小銃は、我が14年式拳銃と同要領の閂子を用ふ(p.45)。
 ※ショートリコイルってこと。

 WWIの結果……2列射撃はありえん。小銃全長が長いと、塹壕内の行動が著しく不便。よって銃身長は、50センチから60センチで十分だ。これがフランスの結論。
 銃剣は、折りたたみ式にとりつけてほしいという声も。

 WWIで日本製小銃は、撃たれた敵兵の傷の恢復が早すぎると評判。数度、戦場に出てくる奴がいる。
 技術本部はSMGを「自動短銃」として研究中。

 トンプソンは、歩兵戦闘は700m以下なので、700mまで火制できるSMGとして造られた。※表には、有効射程500mとあり。

 ベルクマンは800mと考えている。
 鉄カブトは、旧来のリボルバー型ピストルに耐弾力を示し、それで高威力の自動拳銃が登場した。

 拳銃弾は貫徹力よりもパンチ力だという考えに徹したのが、デンマークの Schouboe 拳銃。そのタマはなんと木製で、アルミ被甲してある。

 馬は19kg・mあれば死ぬので、今のピストルを近くから撃てば、斃せる。
 「擲弾銃」はかつて我国でも製作し、シベリア事変で使用した(p.64)。

 日本では歩兵の決戦距離は600mと考えている(らしい)。
 ※ゆえに重擲のレンジはこれを目標としたのか。

 1918年式ストークス砲。
 これは英式だが、仏は1918に採用。

 英の「ストーク砲」(口径不明)は、1917のマルメゾン会戦に初登場。
 仏の1918式81ミリ・ストックス。これは10度の低アングルで平射もできるという。最大射程1900m、有翼弾。墜発式。
 全備重量52kg。
 分解すれば、砲身21kg、脚桿16kg、底鈑15kg になる。
 実測口径は81.3ミリだ。

▼大江志乃夫『壁の世紀』1992
 カーディフ炭は積み出し港の名。産地はウェールズ。
 伊地知参謀は大山元帥の姪と婚姻している。昔は田村怡與造と並ぶ秀才だったが旅順では最低評価。

 ロシア艦は片舷を破壊されて転覆することをおそれ、自沈した?

 厳冬がおわる2月下旬から、解氷泥濘の生ずる3月下旬までが決戦期間であった。
 奉天の両軍ともそれを知っていた。

 チャーチルは、英海軍航空隊の装甲自動車隊を路外で使おうと考え、はじめキッチナー陸相に提案したが、相手にしないので、じぶんで「陸上船委員会」を海軍省内に設けた。

 エンジニアのプロとして陸軍のスウィントンを前線司令部から引き抜き、ウォー・キャビネットの書記官にした。

▼犬塚孝明『若き森有礼』1983
 森家が島津藩内で「小番」の家格を有する中流武士であったことは『薩州分限帳』を見ればわかる。
 森は造士館内で知られた秀才に。
 元治元年夏には藩の洋学校「開成所」に移った。

 ※村田経芳は造士館にも開成所にも無縁のノンエリート。

 開成所は、対英戦争の元治元年6月創立。
 五代の海外留学生派遣計画を、開成所を母胎に具現化したのは、石河確太郎。
 石河が元治元年10月に大久保に出したリストがある。→『政治経済史学』150号・「幕末の薩摩藩立開成所に関する新史料」by大久保利謙。

 M2頃、ひとりだけ刃を下にさしていたので「森のそりざし」と言われた。
 M2-5月中旬、公議所に「廃刀案」を提出。
 6月に辞表。

▼『政治経済史学』1978-11
 大久保利謙「幕末の薩摩藩立開成所に関する新史料」。

 教官のひとり、石河が、大久保一蔵に宛てた、元治元年甲子10月付けの上申書。
 短くも7年の留学が必要だと。
 ピョートル大帝もみずから船匠となって諸国を遍歴したと。
 まずイギリスに「御遣はし」になるべきである。

 1科に2人づつ が いいでしょう。
 水軍掛は2人。
 陸軍掛は2人。
 陸海兵法を主として、銃隊 砲隊 水軍の駆引き等を修業いたすべきこと。

 リスト。高見弥市、吉田巳二、町田猛彦、原田申四郎、原田成之助、渡瀬函雲、東郷愛之進、川上孫右衛門、新納彦五郎、毛利金之進、山城新兵衛、松成ル之進〔ママ〕、医師・田中清洲。

 江戸や長崎へのおつかわしは無益でしょう。
 確太朗は八木称平とともに、開成所創立当時からの教頭格、中心人物。慶応1年に同所を去った。

 開成所の前に、集成館の紡績所を設立した。
 元来、蘭学者。さらに英語を学んだ。

 八木は慶応1年に死亡。
 このふたりがいなくなってから、藩士は長崎で英学させる路線に後退した。
 五代による上申の原案も、石河なのであった。

▼直良信夫『古代日本人の食生活』S22
 S13の「史前日本人の食糧文化」のリライト。ただし「古代の漁猟」とは重複はない。

 「北方家犬文化」が南漸した。
 畜馬についで、家犬の出土が多い。
 やや遅れて後期弥生時代に牛が移入された。豚も。

 古代人は水鳥を、陸鳥よりもよく獲った。
 ニワトリは、古墳時代以降である。

 越中氷見大境から出土した熊の顎骨には、眉間近傍に敲き傷が。
 骨のない竪穴が見つかることがある。それは、落とし穴。

 鼻骨や脳天に打痕のある猪の頭骨が、貝塚からは出る。
 猪は鹿のようには簡単に頭骨を割ることはできない。頭を外し、後頭孔から棒きれなどを挿入しないと、脳漿を取り出せない。

 千島では、ヒグマの後頭孔をさらに切りひろげた骨が出た。
 現在 朝鮮では、牛頭を大釜でそのまま煮てから、ナタで割っている。

 占守島の貝塚の所見。アザラシ、オットセイも、頭頂を叩き割って脳が取られていた。
 トドだけ、側頭を割らねば、刃がもたぬ。

 アイヌは人間の脳も食べたらしい。発掘頭骨からそれが分るという。

▼堀内讃位[さんみ]『鳥獸の習性』S17
 目を潰したスズメを囮とす!

 私は前年〔S13頃?〕、秋田のマタギ連中と兎猟に行ったが、誰もがブローニング〔5連発ガスオートらしい〕を担いでいた。
 しかるに 新潟では、熊を撃つのにガタガタの村田銃を使っている。
 一発撃ち損じたら 第二弾をこめる間に襲撃されはしないか、これがいちばんの頭痛の種だ。時には不発といふことも起る。
 「……それにシシというふ奴ア、弾が急所に命中しねえでも、かすりさへすりゃ、そこをがぶっと食らひつきやすからなア、その間に二発目をこめる馬関は十分ありますでなア……」

 レンジは2間。
 手を延ばせば銃先が届いてしまうくらいの距離で発砲する。

▼直良[なおら]信夫『狩猟』1968 法政大学
 M6に最初の狩猟規則。
 1895に、狩猟法規は整った。この時点で旧大名の猟場が一般人に開放される。

 九州の「うつつめ」。細竹の罠で、撒き餌に誘われて止まった小鳥が、たちまち首を絞められる。支えの棒が外れると。

▼『歴史公論』1980-5月号
 加藤晋平「縄文人の動物飼育」
 30センチ以上の雪が積もると、イノシシは、いなくなる。
 縄文人は、北海道、三宅島に、猪を連れて行った。

▼大塚初垂・他ed.『考古学による日本歴史16 産業I 狩猟・漁業・農業』1996
 旧石器時代の石斧は、かつては木伐の道具だと思われていた。が、ナウマンゾウの脂肪(ステロールと脂肪酸の比から絞込み容易)が付着しており、解体用だったと安蒜政雄は考える。
 ※ヤリではトドメが難しいので、石斧をトドメに使い、そのまま解体もすることになったのではないか。

 執筆者いわく。石斧→ナイフ形石器→ヤリ と進化したようだ。

▼尾崎政久『国産自動車史』S41
 M35に東京府下に4~5台の自動車あり。
 M44-6末には官民あわせ府下に200台。
 自転車はM35に5460台あり。

 日本での発展が遅れたのは、税制と法規制のため。
 もっぱら、危険防止、抑止のみをこころがけた、大7の自動車取締令は、18世紀末の英国での蒸気自動車規制と同類であった。

 大正になり、高田商会、三井物産、大倉商事は、直接輸入販売をスタート。それまでは外国商館経由だった。

 前2輪、うしろ1輪のフロントカー(押し出し式三輪車とよばれた)は、2馬力しかなく、荷物を40貫までしか積めぬ。
 リアカー式3輪にすると、もっと積めた。

 昭和になり、陸軍に、指揮官乗用車としてダイムラー、ハドソンなどの外車を輸入販売していた大倉商事系の日本自動車会社が、陸軍よりオートバイ国産化の命をうけ、S2に 蒲田に 日本内燃機(株)を設立。技師・蒔田鉄司を入社させた。

 前後して、三共商会(のちの陸王内燃機)は、ハーレーダビッドソンの国産化に着手。
 S3に、日本内燃機は、最初の2輪「ニューエラー」を完成。
 すこし遅れて三共も、国産ハーレー完成。

 日本内燃機は、軍の要望によって、直ちにニューエラーをサイドカー化。
 軍は指揮官用の乗用車が欲しいが、当時は外車ばかりなので、暫定措置として、サイドカーを選んだ。
 軍の需要数はしかし、せいぜい月に10台。

 そこでS4にこれを一般向けの三輪車にしたところ、バカ売れし、各社、争って物真似参入し、農村にまで普及した。これが第一次モータリゼーション。
 ダイハツ――大阪発動機をS5に改名――も、このとき登場した。

 M45春に、初の国産2輪車サンライズ号が完成。陸軍はただちに1台購入し、大5の第一次満州耐寒自動車運行試験に際し、指揮官車とした。

 宮田製作所はS5に陸軍の注文でサイドカーを完成。それから、軍用サイドカー一本となった。

 S12からガソリン統制となり、二輪メーカーは、軍用実績ある日本内燃機と陸王だけにされてしまった。
 上原陸相は自動車に理解を示さなかったが、田中義一少将がパスさせた。

 128ページに写真あり。大3-11、山東省李村に集結したトラック4台。立て札「此の附近にて煙草飲むべからず」。
 軍用として最初に合格したウーズレー貨物自動車。

 日本では、歩兵や騎兵ではなく、輜重がトラックの担当となったため、トラックを苦労して国産するより、競争輸入させて安く買い叩けばいいだろうということになってしまい、それで自動車工業の自立が遅れた。

 同じ陸軍でも、自動車製造事業法的な(=大衆向け)トヨタ、日産と、軍用保護自動車的な(車両は兵器であると考える)いすゞ、日野のキャラクターは分れた。

 日産のトラック・バス。S11はぜろ。S12は1384。S13は8249。S14は13786。S15は13991。S16は17194。S17は15974。S18は9958。S19は7074台。
 トヨタのトラック・バス。S11は910。S12は2844。S13は3538。S14は10497。S15は13080。S16は14202。S17は11261。S18は9774。S19は12701。
 ヂーゼル自工(いすゞ自工の前進)のトラック・バス。S11は零。S12は600。S13は1695。S14は4180。S15は7066。S16は7797。S17は5265。S18は5365。S19は3846。

 支那本土には先にトヨタが紡績で地盤を築いていたので、シナ域で使うトラックはトヨタ系と決められた。満州域で使うトラックは、日産系工場から供給されることになった。

 S15-2に、トヨタ自工出資の北支自工が、天津と北京に工場を建設。
 これ以後、軍は、大陸にあまりに分散的に工場をつくらせたため、ひとつも大きく育たず、すべて、ただの修理拠点レベルに終わってしまった。軍内の派閥が邪魔した、とも。

 大7~S5まで、自動車は砲兵と輜重のみが装備した。やがて、工兵、騎兵、最後にやっと歩兵の装備となり、S13からは、陸軍省兵器局の機械化部門が拡大された。

▼草地貞吾『将軍32人の「風貌」「姿勢」』1992 光人社
 著者はS14-3末に陸軍軍務局の課員になり、4月に内地へ戻り、軍事課。そこで軍需資材と編制・動員を2年半やった。S16-10まで。

 軍務局は陸相の幕僚のようなもの。その中の軍事課は、建制、編制、予算、資材、諸規則を考える。
 軍務課は、政策的対外事項。

 岩畔豪雄大佐の後任は、真田穣一郎大佐。
 岩畔はS9夏に東京帰任。

 S10-8の永田軍務局長殺しと、S11-2-26のあとしまつのため、岩畔は8月に陸軍省兵務局へ。憲兵、軍法会議、軍機保護法、防諜関係の仕事。

 草地はS12-8に中佐となり、参本第8課部員となって、謀略の基本方針を策定。宣伝計画、スパイ養成機関の設立、回教工作、猶太工作、チベット工作、汪精衛工作。

 岩畔は田中新一大佐のあとをうけて軍事課長。軍事課の高級課員には西浦進がいた。

 S14からやったこと。
 三国同盟締結促進。
 中野学校の設立。
 総力戦研究所の設置。
 機甲本部の新設などなど。

 戦陣訓にも干与している。
 タイ、マレーの作戦中に負傷。
 岩畔機関長としてインド独立工作をてがける。
 第25軍参謀副長としてスマトラ軍政に参加。

 S19-1、ビルマ方面軍内に新設された第28軍参謀長として終戦を迎えた。

 戦後は京都産業大学の設立に関わる。その世界問題研究の東京出張所が新宿区大京町にあり、そこから数冊の著作をリリースした。

 草地はシベリア体験があったので、京都産業大の中に赤旗を立たせない役目の寮監長として、S41-3に山科の追分寮に就職。S42-3まで。

 岩畔は心筋梗塞の病歴があった。
 S42春には新宿の女子医大病院にいた。
 号は「三無」で、ムリ・ムダ・ムラをなくすと言っていた。

▼陸上自衛隊幹部学校・修親会ed.『統率の実際(3)』S49
 浅野祐吾「岩畔豪雄少将」。
 浅野は元少佐。羅南師管区参謀。
 中尉時代から岩畔に接していた。「怪物」と仇名されていた。
 マレー戦では岩畔が連隊長。浅野はその部下。プノンペンの連隊にS16-8に岩畔がやってきて着任。

 岩畔は電話相談を受けるのが嫌いで、長電話だと切ってしまった。
 部下のペーパー作業を大きく直してしまう。

 ジョホールバルの手前で砲弾片に脚をやられる。野戦病院へ。
 数ヵ月後にシンガポールに戻り、岩畔機関長となる。

 中野学校では、謀略の根本は誠心だと強調。
 人目につかないところでその相手のために細かい心遣いをするかどうか。

 岩畔が石原莞爾の下宿を訪ねたら、蜜柑箱の机が1個しかなく、そこで「三無」にめざめた。
 生惜しむなく、財求むるなく、名追うなし。

 S14~15は、岩畔軍事課長と西浦高級課員の名コンビ時代。

▼草地貞吾『八十八年の哀歌』H4
 S9-12-10 陸大入学。
 S12-10-31 卒。恩賜軍刀。
 S13-5-28 第106師団参謀。
 S14-3-31 軍務局軍事課員。36歳。
 S14-8-1 歩兵少佐。
 S15-3-1 兼・参本の編成課。
 S16-10-15 支那派遣軍参謀(作戦主任)
 S17-3-1 中佐
 S18-8-2 関東軍参謀(作戦班長)
 S20-6-10 大佐
 S20-9-5 ソ連抑留
 S31-12-26 帰国
   出光興産、日本郷友連盟 などで役職。みずから日大の学生ともなる。
 S41-4-1 京都大 学生寮監長(1年)

 三笠宮はS18ころ、「若杉参謀」と呼ぶことにしていた。
 S14-4に軍事課に来たときの軍務局長は町尻量基少将で、やがて武藤章少将に代った。

 S16-10-15に支那派遣軍に転出するまで いた。

 S14の陸軍省内には、人事局、軍務局、兵務局、整備局、兵器局、経理局、医務局、法務局 の8局あり。課の総数は17~18だった。

 途中で陸相は、畑俊六大将、次官は阿南惟幾中将。
 さらに、東條大臣、木村次官へ。

 支那総軍第一課長(作戦)から軍事課長に真田穣一郎大佐が来た。これで岩畔はいなくなった。

 16年末か17年に 三宅坂は空き家になり、市ヶ谷台上の元陸軍士官学校跡に、陸軍省、参謀本部、教育総監部が移転した。

▼岩畔[いわくろ]豪雄『科学時代から人間の時代へ』S45
 M44-9 名古屋地方幼年学校 13歳
 大3-9 同卒。中央幼年学校入学 16歳
 大5-5 同卒。新発田聯隊に隊附 18歳。
 大5-12 陸軍士官学校入学
 大7-5 同卒。新発田に隊附。
 大7-12 歩兵少尉。第16聯隊=新発田附  20歳
 大10-8 台湾 独立歩兵第1聯隊附。
 大10-3~5月 広島県豊田郡の仏通寺に参禅。シベリアで、敵に勝つことよりも、部下の手前の体面ばかり気にしていたと猛省。物品を捨て去った生活を2年送った。
 大11-3 歩兵中尉
 大13-4 歩16附

 S1-12 陸大卒(入学不明) 28歳 ※この箇所は他資料とは異なる。
   陸大には3年いた。

 S2-7 歩兵大尉。歩16聯隊の中隊長。
 S3-3 整備局勤務
 S3-12 同 課員。軍需動員年度計画を三回、決めるなどの仕事。

 S7-8 関東軍参謀(新京)。満州国内面指導。産業経済計画。日系管官吏の人事。

   36歳くらいまで、漢学を自習。ついで、自然科学書を読み漁る。

 S8-8 少佐。
 S9-8 参本 第一課(東京)。作戦資材業務。総動員業務。
 S9-12 対満事務局事務官。満州電信電話会社の監督。

 S10-8 永田事件。
 S11-8 兵務局 課員。軍機保護法改正。著作規制の快晴。

 S12-8 歩兵中佐。
 S12-10 参本第8課参謀。謀略、宣伝。

 S13-8 軍事課員。
 S14-2 同 課長。
 S14-3 歩兵大佐。農繁休暇の実施。昭和通商kkを設立。兵器本部を含む兵器行政改革。機甲本部接地。

 S16-2 ワシントン出張。
 S16-8 近歩5Rn長。
 S16-12 タイ~マレー作戦。
 S17-1 近D司令部附。マレー南部にて戦傷。

 S17-4 岩畔機関長。インド工作。
 S18-3 少将。第25軍参謀副長。

 S19-1 第28軍参謀長。

  S20-5から、3万人がペグー山系に取り残された。軍司令官は櫻井省三中将。8-12にやっと友軍陣地へ帰着。そこで、軍務局長心得として内地へ帰還せよとの命令を受けたという。
 S20-8 「終戦直後単機凱旋」。

 S20-8 軍務局長にはならず。そのかわり、陸軍省調査部長に (東京)
 S40? 京都産業大学理事、世界問題研究所長(東京)
 S41暮 本書の執筆を開始する。
 S42 『戦争史論』を恒星社厚生閣から公刊。
    アーノルド・J・トインビーを招いて京都産業大で公開討議。

 哲学研究会に招いた日本人の大学教授たちの質が低すぎることに岩畔は気づき、日本は哲学においても敗れたと考えていた。本書の次は、日本人論か、大東亜戦争批判をするつもりだった。

 S42-7 心筋梗塞で半年入院す。
 S44春 胃潰瘍の手術。
 S45-2 本書を脱稿。
 S45-11-22 東京自宅で死去。

 「範疇」は『書経』の「洪範九疇」から日本人が「カテゴリー」の訳として造語した。

 戦車のクランクシャフトは40年前までは1本の鋼材の削り出しで、仕上がるまでに4ヶ月かかった。
 その語、クランクシャフトの概形を鍛造し、切削数日にして仕上がるように。
 今では概形を鋳造して、軸受け部のみ切削。数時間で完成する。

 この本におさめられている1967-12-12の京都におけるトインビーとの対談の題が「二十一世紀の世界」。
 トインビーいわく。19世紀西欧のナショナリズムは排他的であること宗教の如し。

▼防研史料 〔箱マル47/116〕 『九九式破壊筒取扱法』S16-10
 主として鉄条網に破壊口を開設するから、破壊筒 と呼ぶ。※バンガロールである。

 点火すると7秒後に爆発する。
 細縄を引き抜けば、安全栓が抜ける。
 6本を継ぎ足すと、全長7mになる。これは、深さ6mの鉄条網に対応している。
 ※深さというのは、奥行きのことだ。

 危険区域は200mである。ただし、10m後方で伏せていれば、安全。
 長さ1.15mの1本の中には炸薬が3.8kg入っている。
 携行は2名でする。安全栓を破壊点で除去し、拉縄を軸方向に一気に引き抜けば、点火する。

 「人用地雷」。型番はない。これでも自動車のタイヤくらいなら、壊せた。
 炸薬は黄色薬が900グラム。全備重量1.5kg。重さ50kgがかかると、爆発する。
 これを対戦車の肉攻に使ってはいけない。
 黄色の包み紙がもし青くなっていたら、使用禁止。

 100式小火焔発射機。火焔巾5m×10秒×10回。1.5m先で、温度が1200度になる。
 ※巾というのは、到達レンジのことだ。

▼防研史料 〔箱マル47〕 『九三式戦車地雷取扱法』S15-1
 履帯の破壊専用である。
 全備重量1.45kg、炸薬890グラム(黄色薬)。
 重さ140kgがのしかかると、爆発する。

 これ1つでは、敵戦車の履帯を切れないことがある。そのときは、2個を結束せよ。
 肉攻では、2.5mの木桿にむすびつけて、履帯の前方に差し出せ。

▼防研史料 〔箱マル48/466〕 『棒地雷取扱法』S19-7
 全長900ミリ。
 楕円断面の長径が85ミリ。短径が45ミリ。
 全重4kg。
 炸薬2kg(黄色薬)。
 重戦車の履帯を爆断できる。

 筒は鋼鈑製。
 中には、熔融黄色薬を被包した かまぼこ形の爆薬(1個500グラム、防水性黄色塗料)が4個ならび、その隙間に、3個の信管がある。
 必ず、これを持つ組と組の間は、50mあけていろ。さもないと、一方の爆発衝撃で、他方のが誘爆してしまう。

 これを地中に埋めたときは、歩兵が踏んでも爆発するから注意。

▼防研史料 〔箱475〕 『試製三式50瓩爆雷説明書』S19-8
 陸軍のASWである。
 炸薬37.2kg入り。粉状の平寧薬。

 導火線に火をつけてから、落とす。
 甲は26秒、深度30m。
 乙は50秒、深度60mで爆発する。
 敵潜水艦から6m以内なら、致命傷を与えられる。

 こちらのフネが7ノット以上出してないとき、これを投げ込むと、危ない。

▼防研史料 〔マル6/飛行機/208〕『S16~17 航空技術関係綴』
 日本帝国海軍=Marina Imperiale Giapponese

 マウザー社15粍(20粍)機銃見学報告。S17-4-20~22日。
 オーベンドルフ(シュツットガルト南70km)

 S15秋に買ったハインケル戦についているはずのマウザー15ミリ・モーターカノン。ドイツが未成と称し、入手できずにいたが、ようやくオーベンドルフ工場で、すべてを見せてもらった。

 銃身後退式。旋回機銃にもできる。
 リポーターは、野間口光雄・海軍造兵少将と、丹野舜三郎・海軍技師。

 バレルだけ交換することにより、MG151型にもなり、また、MG151/20型(20ミリ)にもなる。
 MGFFより やや重だが、初速・発射速度は はるかに大。

 電気式装填&電気式発射で、便利。
 ベルトは左右どっちも給弾可。

 高勢炸裂弾は20ミリのみ。
 AP弾は、15ミリのみ。

 ポーランドと仏人の捕虜を働かせている。
 数人の兵が引率して工場内に入るのを見た。
 ポ人は従順。1日10時間労働。

 この20ミリへのコンバートが要目に加わったために、完成が遅れたと。
 すでにMe210、He177、Fw190には装備中。

 作動原理は、ラインメタルのMG131(13ミリ)と同じだが、それは、原理のみ。
 もちろん15ミリ用にも、曳跟炸裂弾や、曳跟焼夷弾がある。ともに960m/秒。
 曳跟徹甲弾は850m/秒。

 ※海軍では「曳光弾」とは言わない。

 MG151/20とすれば、Hトレーサー 705m/秒。高勢炸裂弾 820m/秒。レートは 700発/分。
 口径は 15ミリで、許容誤差は、プラスに0.08ミリ。マイナスに0.00ミリ。
 MG 151/20 の許容誤差は、 プラスに0.1ミリ。マイナスに0.00ミリ。

 最大腔圧は、MG151で 1平方センチあたり 3200kg。
 実験では、【月唐】発しても、機体には害は及ばない。
 冷却なしで100連発まで可。

 ドイツ情報の イスパノスイザ 20ミリ Moterkanone
 初速835m/秒。 ※昭和10年から知られていること。
 レート 350発/分。

 海外滞在者は、4ヶ月から5ヶ月頃に、誰しも神経衰弱になるが、語学が発達するにつれ、元に戻る。
 語学は「でしゃばる」ことが進歩のカギだ。



なぜオニノシコグサは道央よりも低い緯度だと野生株が路傍に見られないのか、不思議でござる。

 千歳の付近にいちばん濃密に分布してるよね。いま、開花シーズン。キク科の青い花。北限は旭川あたり?

 次。
 Guy Walters 記者による2017-6-17記事「Voice of the damned: Newly discovered diaries reveal the horror of the Nazi siege of Leningrad where cannibalism was rampant and women sold their bodies as 800,000 lost their lives」。
    レニングラード攻囲は、1941-9から1944-1まで、872日間続いた。
 餓死者の家からは、燃料になる家具や、食糧配給券が、親戚や隣人たちによって、持ち去られた。そこにまだ小児が残っていても、お構いなしだった。

 かつてアレッポ市が4年間攻囲されたときには、3万1000人が餓死したという。平均して1日に20人死んだことになろう。だがレニングラードの場合、毎日900人餓死した勘定なのだ。

 ボストン大学のアレクシス・ペーリ教授は、ロシアのアルヒーフ(公文書館)から、当時のレニングラード住民たちの日記を発掘して、1冊の本にまとめた。

 対独開戦のニュースに、市民たちは怯むことなく、当初は意気軒昂であったことが、日記からよく分る。政府のプロパガンダを信じ、勝利がすぐに得られると思っていたのだ。
 しかし開戦から11週間目の9月8日、レニングラードはドイツ軍によって完全に包囲されてしまった。

 その時点で住民50万人がいちはやく市から脱出していたけれども、逆に他地域からの難民が流れ込み、市内人口は、むしろ開戦前よりも増えていた。

 独軍機が食糧倉庫を執拗に空爆したので、市内には住民の1ヶ月の食料しかなかった。市当局は、住民1人あたりの配給量を、1日255グラムに絞った。

 パンを持っている者は、金銀を持っている者よりも、万能となった。なんでもできた。

 餓死せずに生き残っている者は、皆、痩せ細って中性的な外見となり、生気はなかった。
 17歳の少女が鏡を見たら、そこには男の老人が立っているように見えた。
 というのは、きょくたんな飢餓状態では、少年少女の顔から毛が生えるのである。髯だらけの顔になるのだ。

 36歳の女性は、鏡の中の自分が、骨と皺だらけの皮膚からなる悪魔のように見えた。
 レニングラード市内には公共の浴場があった。1942-1時点でそこを利用できた人々は互いの裸身を見て呆れた。人ではなく、骨が、入浴している。

 町のあちこちで、死体が丸太のようにうずたかく積み上げられた。
 誰か死にそうな者を見かけると、その周囲の者は、どうやって死体から食料配給切符をいただくか、虎視眈々と窺うのだった。

 配給だけでは生命維持はほぼ不可能だった。必然的にカニバリズムが発生した。
 当局は、この攻囲中、1500人以上の市民を、「食人」の容疑で逮捕した。

 ロシア語では、食人を2つのカテゴリーに分ける。すでに死亡していた人体が対象の場合、トゥルポエドゥストゥヴォという。じぶんが殺した人体が対象の場合には、リウドエドゥストゥヴォという。
  ※概念を細かく言い分ける単語がしぜんに生じているということは、その前からの、長い歴史があるのだ。英語には、昆布と若布を区別する日常名詞など無かった。日本にはすべての海草の名詞があって区別が通用する。それと同じ。

 赤軍は氷結したラドガ湖を利用して細々と市内への糧食補給を継続していた。
 市民は、皮革製品をゼリー状になるまで煮て食べた。糊もスープになった。

 売春で生き延びられたのは、若い女だけだった。

 食料関係機関に勤める女性の役人は、若い男のセックスを、1椀のスープの現物と引き換えに、買うことができた。そのいでたちは、あたかも帝政時代の貴族夫人のように見えた。

 地域の共産党委員会=ソビエトの幹部も、決して飢えることはなかった。
 キャヴィア、ガチョウ、七面鳥、ハムが、幹部の家には、ふんだんにあった。

 1944-1-27に独軍は西方へ退き、レニングラード攻囲は了った。
 戦後、中央は、レニングラード住民の体験を、日記や聞き書きによって総括させようとした。
 そこから、英雄的なストーリーがまとめあげられるはずだった。
 市全体に、レーニン勲章も、贈られる予定であった。

 しかし1949年にスターリンは、現実を察した。レニングラード市は、あの攻囲飢餓の体験を通じて、むしろ反中央的な独立精神を獲得してしまっていると。

 レニングラード市の英雄的な戦いの記録を公刊させようという当初計画は、とりやめになった。攻囲期間中の中心的な現象は飢餓だった。その体験の記録はあまりに凄絶だった。2年半にもわたり食料の供給をしてやれなかったスターリンが無能であったという批難が生れるのは、とうてい避けられない。

 レニングラードは廓清しなければならなかった。そこにはもうとっくにアナーキズムや反政府思想が充満してしまっているはずだ。
 レニングラード住民の日記はすべて没収となり、さもなくば焼却が促された。市の共産党委員は解職された。

 スターリンが1953年に死去してくれたおかげで、レニングラードの貴重な記録の完全抹殺は防がれ、こうして回顧することができるのである。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-21記事。
   中共版のX-37B(無人スペースシャトル)は9-4に打上げられた。
 そして2日後に、ロプノールの核実験場の近くの5000m滑走路に帰還した。しかしその写真は1枚も発表されていない。

 周回軌道高度は350kmだった。そこに40時間とどまった。

 中共が無人シャトルを打上げるという計画は2017に公表されており、予定では試験飛行が2020だった。この間、続報が何ひとつ、リリースされていなかった。



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


旧資料備忘摘録 2020-9-21 Up

▼平沢富蔵ed.『図説 日本蒸汽工業発達史』S13-11
 ワット生誕200年記念。写真も図表も大量。

 日露戦争のまっさいちゅうに、英ではパーソンズ、米ではカーチスのタービンが採用された。
 最大出力の燃費がまるで違うのが、メリット。逆に、低速時は不経済。
 この問題を改善したのが、ブラウン・カーチス および 改良型パーソンズ。

 タービン導入は、同時に減速機導入をも必須とした。
 ギアードタービンに決定する頃に、WWIとなる。

 練炭とは、無煙炭の出ないわが国で、内地炭のカロリーを高める一手段。
 『咸臨丸〕で渡った福沢らの一行中、肥田浜五郎が機関の専門家になった。榎本とともに日本最初のオランダ留学生にもなっている。彼のおかげで『千代田』は国産できた。

 『薩摩』の主機は、両面宮原罐(川崎造船所製)。横須賀工廠でM38に起工された、一等戦艦。
 一躍、2万馬力であった。しかも1年7ヶ月の短期間で進水した。
 直立三段膨張四【竹かんむりにマのしたに用】機械。強圧通風、重油混焼。これを2基2軸。M40の一等戦艦『鞍馬』と同一。ただし薩摩はシリンダー20なのに、鞍馬は28。

 ところがこの『薩摩』より10ヶ月遅れて呉で起工した姉妹艦『安芸』の主機は、カーティス・タービンなのである。
 19372トンの『薩摩』は公試運転で19.129ノットを出した。

 微粉炭燃焼排汽タービン船『名古屋丸』。三菱長崎製。
 S7-5進水。三菱パウエル・ワッハ式。
 炉はクラーク・チャプマンを輸入。
 全機関(3連成)は3900馬力だがそのうち1300馬力は排汽タービン。

 軽便鉄道の機関車はM40から国産を開始。
 日本の鉄道は、修理の早いのが自慢で、先年、ソ連に技師を派して方法を伝授した。
 『ドレッドノート』はM39進水。日本はあわてて『河内』『摂津』であとを追う。

 米の陸上用の微粉炭燃焼式は、大7、ミルウォーキー・オネイダ発電所。
 1927に『サラトガ』と『レキシントン』が竣工したとき、世界最大馬力の軍艦であった。

▼太田才次郎『日用百科全書 第五十編』M34-2
 猟銃の村田銃は、全重が1貫46匁。銃身は2尺7寸0765。

▼片山直人『日本竹譜』上・中・下・巻 M18
 シナ語では チフ。
 朝鮮語では タイ。

 竹の移植は、地中の鞭根を掘り取って、行う。小筍の出た部分を。
 輸送中に湿気にさらさないこと。

 竹林は、古竹を除去してやらないと、勢いをなくす。4年モノは伐れ。
 疎にしすぎてもダメ。日光が当たると竹は黄色くなり、肉は薄く、節は高くなる。地力も蒸発によって失われる。
 よって、薄暗い程度の密度とし、落ち葉は、堆積したままに。
 獣の死体は良い肥になるゆえ、埋めるべし。

 諸書いわく。竹は60年すると花を咲かせ、枯れてしまう。
 洋書には30年と書いてある。中央インドにて、1802、1832、1862に開花したと。

 著者の観察では、花が咲くと確かに実が成り、翌年に大竹は枯れる。しかし若いやつはそのままだ。
 機序は逆なのだ。地中の根が過密化すると、枯死に向かう。その寸前に、花を咲かせるのである。古い根を除去すればよいのだ。

 矢をつくる箭竹[やたけ]は、常陸産が一等、上総下総産が次等である。他は、矢に適しない。

 ササは、焼いても生えてくる。
 利用法は、斜面の地がために。
 堤防や、砲台にもよい。

 〔海草の?〕馬藻[ささも]というものを一線状に埋めると、竹の根はそこを超えられないという。※塩気そのものが効くのではないか?

 以下、中巻。
 竹の実は、形も味も小麦に似るので、土民は「竹麦」と呼ぶ。
 すず竹と、クマザサの実が、とくに多くとれる。
 天保3年、飛騨高山で、十里四方にスズ竹が開花し、毎日、5~6斗も実を集められたという。
 伊那の近くの山のスズ竹(保元で、幣軸竹)も、実を結ぶ。

 朝鮮の竹島〔鬱陵島のこと〕は、実竹[じっちく]で有名である(p.十七丁)。
 パイプ状ではなく、中まで詰まっている。
 日本では、松島の福浦島に産する。
 伊那にもあり、印材にする。
 北海道には まがり竹を産す。

 以下、下巻。
 竹の節を抜くには、まず鉄棒で入り口近くを抜き、それより奥は、棒を勢いよく落として抜いて行く。

 竹火縄の製法。
 竹の節間が長いものを択ぶ。水に漬けておいて、片刃の利刀をもって、細長い竹【たけかんむりに如】を製し、それを三打(みつうち)に綯い、長さ1~2丈に至らばそれを張り、藁縄をもってそれを摩擦して、滑沢ならしむ。
 さらによくこれを張り、重いしを釣り下げてこれを乾し、適宜の長さに切り、それを巻く。

 弓師いわく。建設材とするならば、山城国葛野郡八幡山産の竹を最上とす。
 西京の竹は、外皮は堅勁ならずして、竹肉が硬い。最上等である。
 東京地方の竹は、外皮が殊に堅勁で、竹肉が軟い。最下等である。

 いにしえは、弓材用として伐った、竹の根元の肉厚の部分を、刀剣の目釘としたのである。

 いにしえの大和地方では、家の天井には、竹を割って隙間無く並べ、藤蔓で編み付け、筵を敷き、その上に土を塗ったものだ。

 竹を植える方角は、邸宅の西北。
 また、川沿いに田畑を持つ者は、川沿いに植えるとよい。出水のとき、被害を減ずる。

 万年籬に2法あり。「めだけ」を密植してその外側のもの同士を竹縄で結ぶ。あるいは、生きている竹をそのまま撓めて、結び垣、竹矢来としてしまう。
 コメのとぎ汁を「しらみず」という。竹の肥料になる。

▼荘司義治『戦争と眼』S19-5
 2週間めの胎児は、手足は分かれていないが、眼はすでに形をなしている。
 日本には7万人の盲人あり。

 Cの字の1.5ミリの切れめを5m先から見ると、ちょうど「1分」の角度になる。これが分る視力が「視力1.0」だ。
 南洋の民には、4.0以上の者がいるという。
 ただし視力表は、いちばん下が2.0、いちばん上が0.2、一段おいて0.1である。

 近視は時として、網膜剥離を呼ぶ。最近は手術で直せる。

 この当時は、40歳でたいていは遠視となり、新聞を、手を延ばして持たないと読めない。
 45歳では、手の長さが足らなくなる。しかし手よりも遠くにすればこんどは活字が小さくてけっきょく読めない。というわけで老眼鏡が必要になる。

 片眼の、反対側への視野は60度である。
 暗反応で光覚は5万倍も変化する。
 プレアデスのことを 日本では むつらぼし(六連星)といい、西洋では七姉妹という。

 大東亜戦争になり、甲種合格の基準は引き下げられ、片方裸眼0.3ならば合格。
 徴兵の振り分けは、「甲種合格」「現役兵として徴集」「補充兵として徴集」。
 海軍の基準は、やや高い。

 春夏のホコリのひどいときは、外出時に目を洗え。
 電車の吊革は、流行眼、トラホームのなかだちとなる。
 このごろでは、それが分ってきて、旅館や温泉等で、手拭いを貸さなくなった。

 淋病の小便で眼を洗えば失明する。
 かつて巻煙草の包み紙には鉛が含まれていた。溶かして文鎮にできた。

 微小な鉄片の錆で失明することもあるから、旋盤工にはゴーグルが必要なのである。
 3日以内なら、強力電磁石で取れる。

 長時間読書は「調整疲労」を起こす。1時間に15分は目を休めたい。

 電球に書いてあるワット数は、消費電力であって、明るさを表してはいない。
 明るさは 近年のガス入り電球 > 昔の真空電球 > 初期の炭素線電球。
 熱は、眼のためには好ましくない。それで、東京電気が、蛍光ランプをつくった。

 吾々の研究では、漢字が小さなポイント活字で読めるのは13画まで。それ以上は略字にすべきだ。
 ※著者は東大医博。

 皇帝ネロは眼鏡を使っていたという話あり。
 日本では天文8年=1539に、明船から大内義隆に眼鏡が献じられた。
 1570に信長に謁した西洋人宣教師が近眼鏡をかけていたので、四ツ目の怪人だと騒がれた。

 紫外線のことは「菫外線」と書く。 ※スミレ=バイオレット。そのウルトラ。
 風に当たっただけで涙がこぼれる人は、涙道中に化膿がないか調べてもらった方がよい。また頻繁に眼を洗うべし。

 トラホームを、学者はトラコーマという。
 ヤブニラミ、ヒガミメは、比較的簡単な手術で治る。
 緑内障は、当初、頭痛と吐き気がする。
 エチルアルコールであっても、弱っている人は、失明することあり。

 戦傷全体と、眼の負傷の割合。
 普仏戦争では100対1例。
 日露戦争では100対2例。
 WWIでは100対5~10例。
 大東亜戦争では100対15例。

 ※近代戦ほど眼の負傷が増えている。

 日本では、1mで指の数の分らぬのをメクラと呼んでいる。
 盲導犬はWWIのとき、独軍用犬協会長のスターリング博士がシェパードで始めた。
 日本では近年開始。

 黄燐片が眼に入ったら→ただちに多量の水で洗え。数日後にひどくなるので注意。
 割れてしまう材質のメガネは、空襲時は、外した方がよい。

 海軍航空搭乗者の規程では、裸眼で片方が1.0 または両眼合計で1.2ないと、×。
 これは17歳の学生の場合。

▼大日本発明協会ed.『欧州大戦と発明』大9-8
 コルダイトは、紐(コード)からその名がついている。
 ロイドジョージは禁酒家だった。

 ゴム+アルコールがワニスである。砲弾の内塗りに使う。
 メチルアルコールは木からも得られるゆえ「木精」という。

 アルコールと、さらし=漂白粉と水とを混合し、それを熱して蒸留した蒸気を集め、冷やして液状に戻せば、それがクロロフォルム。
 マインの語源は鉱山、または坑を掘る。そこから地雷の意味に。

 クリミア戦争中の大砲は、鋳鉄だった。
 高速度鋼はタングステン・スチール。これを刃具に用いれば、削り作業中の熱でも、脆くはならない。
 こういうのを「硬鋼」という。他は「柔鋼」である。

 「ロングトム」。南阿軍がもたらした重砲に、英兵が附けた仇名。
 これに対抗して英軍は、4.7インチ艦砲を、陸戦闘用に陸上げした。

 弩級艦の50口径長の12インチ砲は、重さ69トン、弾重850ポンド(百貫)、初速3000フィート/秒。ニッケルクロム鋼砲身である。

 なぜ砲身を最初からパイプ状に鋳ないのか。棒状に鋳ることで、芯部は最後に冷える。そこに不純物が集まる。くりぬけば、その不純物を捨ててしまえる。
 2重管として、さらに、条帯をまきつける。そのメリット。単肉だと、どうしても強度のムラや割れやすい部分が生じるが、条帯によって、それをなくせる。
 単肉だと、わずかなヒビから砲身が割れ、重大事故になるが、その危険をゼロにしたいのだ。
 条帯をまきつけた上に、さらに、二重管を、こんどは前後からハメる。
 こうして、実質、5重の構造にしてある。

 ギュスタフ・カネーは、普仏戦争に参加し、英国で学び、ルアーブルに大砲工場を建てた。
 WWIで英は、農機具工場やピアノ工場まで動員して、砲弾を造らせた。
 火薬詰めには女工を多用した。

 英のTNT入り砲弾は、爆発景況として黒煙を発す。
 これを独兵は、「ブラック・マリア」「石炭箱」と呼んだ。

 進入端と、不入端のある「限界ゲージ」で、砲弾と信管は、多量生産しても安全にできた。
 ドレッドノートは、その前の戦艦が19ノットなのに、一躍、21ノットを達成。
 翌年、インビンシブル号を造った。馬力を2倍とし、28.6ノットを出し、大砲は8門(ド号より2門すくない)とし、装甲を7インチに減じた。
 『ライオン』では、13インチ半となり、しかも28ノット。《スーパードレッドノート》という。

 「ウォーヘッド」(実用頭部)という名詞は、ホワイトヘッド魚雷で、初めて用いられた。訓練用の弾頭を「ピースヘッド」と称したのと対概念。

 英国製のブレンナン魚雷は、2本のワイヤーをドラムで巻き取る、港湾防禦用の特殊魚雷。手綱のように方向を左右に制御できた。

▼防研史料 〔207〕『兵器関係契約書』
 ラインメタル関係 工具 検査具 for 三菱商事。これらをS15-12~S16-12に小倉へ納品。
 1940-1にラインメタル・ボルジヒが商事に送った「MG STG63」の膨大なリスト付き。 

 7.92ミリ弾 被甲先付機。ポルテ社の機械。扱い/三菱商事。
 その他、7.92ミリ実包をつくる機械類一式、商事がポルテから買っている。

 陸軍はドイツのイリス商会に、MGST62×400梃、MGST61×1000梃を、S16-6までに注文するつもりであった。
 さらにS16-11までに2000梃を購入すれば、製造権は無償とする、駐独武官のイリス宛て覚書。S15-10-10。

 ばね製作機は、三井物産が斡旋して小倉に納品。
 MG-17E、17Dの部品? プライス表。

▼防研史料 〔208〕 在独武官室『鋼材関係書類』
 昭和通商が工場から船で引き取るというが……。
 銃/砲身の鋼のようだ。

▼防研史料 〔210〕 『航調独・耕作機械滞貨表』S19-2
 三菱商事、大倉産業(株)(1.3.1944) C・Illis & Co.  昭和通商会社LTd.
 ※つまり兵器調達本部と別にドイツで調達した。

 Deutsshe Mitsui Bussan A.G.
アルミニウムまで買おうとしていた。

 Spezial-Stahl ※特殊鋼?
 Propeller-Schaftstahl Flw. 1208, 径150  od.vierkant (スピナー軸鋼)

▼陸戦隊写真班+橋岡保彦・他ed.『支那事変 上海戦線』S13-2 ※これは千葉県立図書館蔵?
 激レア写真集である。発行所は、上海の「橋岡写真館」。これだけ密接だと海軍御用の特務機関的出店かもしれぬ。

 上海の陸戦隊兵舎の全景。ビッカースと国産の装輪装甲車がズラリ。
 例の英国6トン戦車の写真はこの建物1階玄関前であったと分る。

 ライフル、LMG、そしてベルクマンによるAA一斉射撃の写真。
 『出雲』副砲員の奮戦。金属薬筒を押し込もうとするところ。

 150〔?〕迫のクリアーな写真。拉縄が分る。発砲シーンも。砲車にマーキングアリ。菱型枠と、その中に何かの文字。

 国産4輪装甲車の車体後部には、観音開きドアがある。
 ルイスLMG、使用中。

 見たことのない4輪トレーラーと、その上でHMGのAA架台付き。
 シナ軍が使った 視発機雷(川用)の電纜と破片の写真。

 「301」のペイントがある国産の4輪装甲車の、真後ろからのクリアーな写真。

 「防毒法ノ実習」
 リアカー式に人が曳く2輪台車だが、台の部分には巨大漏斗が載っており、その底部に白い粉が見える。おそらくサラシ粉だろう。漏斗の下端は花弁状に小さく散開す。おそらくそこから地面に振りまかれるのだろう。おそらく車軸に連動して漏斗は垂直軸を中心に回転する。

 「三號解毒剤」という白箱も。



雨が降っているのに「濡れていない」ことを理由に傘を投げ捨てようとする者は、賢明ではないでしょう。

 Margaret Carlson 記者による2020-9-18記事「Ruth Bader Ginsburg Has Died. She Leaves Behind a Vital Legacy for Women ―― and Men」。
   身長5フィートだった最高裁判事、ルース・ベイダー・ギンズバーグが転移性の膵臓癌のため死去。87歳。
 今日のように法廷用語として「セックス(性)」のかわりに「ジェンダー」を使うようにし向けたのは彼女なのである。

 コロンビア特別区の連邦控訴審判事として彼女を抜擢したのは1980のジミー・カーター。ついで1993にクリントンが、米史上2人目の最高裁判事に引き上げた。

 妊娠中の女性労働者が仕事ができないのを理由に解雇してはならないという判例をつくったのが、ギンズバーグ法廷だったが、それは彼女自身が苦労させられてきた現実だった。

 なお最高裁判事団の中での席次は、最終的に、第二位だった。主席判事はジョン・ロバーツである。
 生まれはブルックリン。1933年。

 コーネル大在学中に結婚しギンズバーグに姓が変わる。そこからハーバードロースクールへ。
 政府の社会保険庁で働いているときに、妊婦ゆえに減給されるという体験をした。

 ハーバードとコロムビア大の両方で『ロー・レヴュー』誌の編集をやったような優秀学生は、卒後にすぐに一流ローファームか、最高裁のクラークシップに迎え入れられるのが普通だが、彼女は女子ゆえに、そんな声もかからなかった。

 彼女は下級裁判所のクラークシップに就職するかたわら、スウェーデンにおける男女平等法の実践について何年も調査し、それについての1冊の本を、スウェーデン語で書いた。

 子育ておよび病気の亭主の世話のかたわら、コロムビア大の教授となり、米国初の男女差別判例集を執筆し、1980の抜擢となる。
 1993のクリントン政権成立時には、彼女は司法長官などの閣僚ポストを欲したようだ。だが叶わなかった。
 最高裁判事としては、《少数意見の大物判事》として名を残した。

 ※ちかごろ視ていて「これは感服した」と思えるドラマは『グッド・ワイフ』だけなんだけど、あの世界があるのも、故RBGのおかげであるということは、覚えておいてよいでしょう。なお、ドメスティック描写の部分はぜんぶ早送りしてます。あそこだけ余計なんだわ。

 次。
 J.P. LAWRENCE 記者による2020-9-20記事「Civilians reported killed in airstrike by Afghan military」。
  アフガン政府軍の空軍機〔おそらくスーパーツカノだ〕が、ゲリラと住民を区別しないで、盛大にやらかしたらしい。

 ※それだけはやるなよと、さんざん口を酸っぱくして耳にタコができるまで教育されていたはずなんだが、無駄だった。駄目な連中は、何をやらせても駄目だった。さて、ここからは、ふたつの道がある。ひとつはロシア式で、もはやゲリラと付近の民間人の区別をやめる。どっちも皆殺しにするんだという、シリアのアサド政権の道。もうひとつは、この連中との関係を徐々にフェイドアウトさせ、縁を切ること(あるいは中共に任せてウイグル化してもらうこと)。おそらくトランプが撰びたがっている道だ。もし、失敗国家を建て直すことが教育によって可能であるのならば、そもそも米国の大都市にスラムはないし、ひるまっから麻薬を吸ってフラフラしているような若者なども、ひとりもいなくなっている理屈だよね? トランプの方が高級軍人たちよりも現実を見ている。誰も失敗国家を救出はできない。

 次。
 この連休を利用して、北海道に旅行に来たが、今晩の宿がみつからない……という人へ。
 24時間営業の立ち寄り温泉施設で仮寝するのは厭だというのなら、苫小牧にある「グランドホテルニュー王子」に電話して、部屋があるかどうか聞いてみ。16階建ての巨大ビジネスホテルの中には、ちょっとタバコ臭いけれども、昔の「行灯部屋」よりは百倍もマシ、というツインやシングルが、余っていることがあるもんだ。空調をまわせばタバコ臭だって気にならない。
 あの町は工場とフェリーで成り立っている。観光スポットじゃないから、長期連休中は逆にビジネスホテルは隙ができると想像ができる。苫小牧なら、翌朝にどの方面へ出撃するにしても、至便だろう。どの方面にするかは、天気予報を調べて、決めればいい。北海道では、雨が降っている方面へわざわざ足をのばすのは、避けた方がいいからね。
 余談。何十年もま~ったく、知らずにいたこと。「層雲峡」は、もう無いのだ。わたしが37年前にバスの車窓から見て感動したあの光景は、崖下を走る狭いバス道路が1995年にトンネル化されてしまったことによって、消滅していたのだ。貸し自転車で走るには最高の「ブエナビスタ」だったのに……。いやもちろん今でも、黒岳登山のロープウェイ基地として、温泉ホテルは林立しているご様子たが、あのすばらしいルートが廃道となっては、何の価値がある……?



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


日韓戦争を自衛隊はどう戦うか