旧資料備忘摘録 2020-9-19 Up

▼鳥居民『昭和二十年 第一部=3』1987
 WWI後に英国の相続税率は暴騰し、ロスチャイルドは「自分は死ねない」と叫んだ。
 S19に辻は、モスクワ=延安=東京 で枢軸をつくり直そうと考えた。

 ソ連通の秦彦三郎(24期)は、S12-3に『隣邦ロシア』というクールな本を書き、皇道派の対ソ予防戦争論をたしなめた。
 秦は、ソ連に和平仲介をたのむ見返りとして、北千島、南樺太は譲渡するつもりだった。

 鳥居の推理。対ソ交渉の切り札は、延安支持を日本政府が打ち出すことだった。

 バターン半島を攻めあぐねたとき日本陸軍はなぜ海軍の戦艦の応援を頼まなかったのか?
 ナパームは1944-8のテニアン島で初使用された。米軍内で秘密扱いで、米人の新聞記者は一言も書けなかった。同様、カミカゼの米本国内での報道も禁じられた。

 ※鳥居氏は榴弾(艦砲の普通弾)の曳火射撃と榴霰弾の違いが分っていない(p.153)。

 初期南方作戦で、香港からビルマ、比島からインドネシアまで占領するのに、日本兵は1万5000人死んでいる。
 鳥居いわく。海軍に艦砲射撃で手伝わせていたら、5000人で済んだだろう、と。

 ガダルカナルでは日本兵は25000人死亡、米兵は1500人死亡。
 アッツでは、その比較は、2600人:600人。
 タラワでは、3000人:1000人。
 マーシャルのクエゼリンとエニウェトクでは、12000人:600。
 ニューブリテン島西端では、5000:500。
 アドミラルティのマヌス島では、4000:200。
 ニューギニアのホーランディアとアイタペでは、8000:800。
 ビアクでは、5000:500。
 マリアナのサイパン、テニアン、グァムでは、60000:5000。
 ペリリューでは、10000:1600。
 レイテでは、5万以上(不明):3500。
 S20-2月末のコレヒドールでは、6000:200。

 鳥居いわく、硫黄島式は、本土ではできない。民間人はどうするのか?

 合資会社は当主が2人つづけて早死にすれば財を失う。よって株式会社化するしかない。
 高田商会の阿片を積んだ船がWWI後にウラジオで捕らえられたことあり。
 鳥居いわく岸信介は中国本土での阿片栽培で巨利を得、それを原資に、権力を握った。

▼鳥居民『昭和二十年 第一部=4』1990
 鳥居いわく、台湾沖の発表は政治的なもの。海軍が全滅したと思われては、無条件降伏しかないと判断したからだと。
 つまり敗戦責任をかわしたかった。
 南方の油を遮断され、GFもなくなっても、航空機さえあれば、戦い続けられるのだ――と、国民に対して宣伝をしたかった。

 ※海軍が全滅したと陸軍に知られるのが怖かった。その瞬間から、日本国内には、陸軍単独政権が成立してしまう。その結果は、日本国のソ連圏入り=皇室廃絶でしかなかった。

 S18に出版された、アーネスト・サトウの回想録の抄訳中に、勝海舟がサトウに会い、パークスが西郷に警告していることが出ていた。

 近衛は、GFが全滅したら終戦内閣をつくる気でいた。

 戦時標準船の最小モデルたる改E型が、1隻で1000トンを運べたのに、のべ39隻の潜水艦がガダルカナルへ運漕できた物資は500トンでしかなかった。輸送船の輸送作業効率は、やはり絶大なのである。

 陸軍省の情報部長、報道部長は、国民にとっては、陸相よりも有名になる。

▼橋本裕ed.『若き空の御楯』H6
 千葉陸軍防空学校を出た少年兵たちの回想録。
 93式2米測高機。
 視力が1.2以上の、目に自信のある者をその担当にしていた。

 教育は、2米のものと3米のものを使った。
 他に、4mのイタリア製があった。
 また、月島陣地には9mのものがあった。

 2mはコンパクトで、野戦移動に適した。まず鉄塔で、つぎに、飛んでいる九八直協で訓練する。
 7高は、高角70度以上にしてようやくH=9000mに達する。これでは実用性は無い。
 「航速○○」と呼称。

 はじめて実戦で敵機と対決する段になると、あちこちで一斉に帯剣がバタバタと鳴り出し、靴の鋲がガチガチと音を立て始める。全員が、武者震いしているのだ。

 7高は、連射するとすぐ閉鎖機が焼きつく。
 遠くで聞くAAMGは、カンカンと高い音がする。

 B-29が墜ちるときは、まず青い火がパチパチと見える。
 パレンバン精油所には阻塞気球を揚げていた。英軍が空襲してきた頃。

 「た号」で、高度も分った。しかしAAを撃ち始めると、震動でレーダーは使えなくなってしまう。土台は、コンクリートでなければならなかった。

 「信管射撃でB-24を撃墜」……タイムフューズを使わずに、着発信管をとりつけて、ダイレクトヒットだけを最初から狙って成功したということ。75ミリ級ならそれが正しい場合がある。戦後の英軍の地対空ミサイルも直撃主義だ。ただし、国内でそれをやって外した場合は、空中自爆機能がついてないから、地上の人家がたいへんなことに……。

 「将校バンド」夏服でも。長靴。

 出生兵士は神棚に最近の写真を飾られ、据え膳される。死ねばそのまま遺影となる。
 通夜には「屍衛兵」が立つ。
 午後7時すぎにラジオで「復員だより」のニュースがある。

 二等兵からやっておる中尉は、連隊長の前へ行ってもポケットから手を出さん。
 少尉候補者は陸士出身者と6~7歳の差があり、少佐で定年。陸大へも行けない。
 ちなみに「のらくろ」は少尉候補者なわけである。S7~S14の連載。
 ※のらくろは大尉の中隊長で退役したことになっている。作者は、少佐以上にもなって馬鹿なことはさせられないからと説明していたが、ほんとうは、昇進が打ち止めになる現実に、フィクションといえども、触れたくなかったのか。

▼鳥居民『周恩来と毛沢東』1975
 ※『諸君』に連載された企画。
 1924-10にソ連軍事顧問団の船が黄埔に至り、銃と砲を初供給した。
 ソ連の飛行機は1937-12-1にスペインから、戦闘機23機が南京に到来。その日のうちに五回もCAPに飛んだ。

 さらに爆撃機×20機も到着し、12-2に、早くも上海の日本艦船を爆撃した。
 このときまでに国府は500機を失い、残っていたのはカーチスホーク×5機だけだった。

▼岩波書店『世界』1988-4月号
 山之内靖「戦時動員体制の比較史的考察」
 ヴェーバーは、WWIにさいして、戦争が社会的規律と合理化を生み出す作用に注目した。
 1948にウェイツいわく。ヴェーバーは、マルクスの経済的唯物論を、政治的軍事的唯物論によって補完したのだ。

 WWI時の統制ノウハウが、1929大恐慌の対策として再導入された。
 WWI中に生じたもの。官僚機構の肥大。年金制度の準備。政府が科学技術を奨励する枠組み。
 T.H.マーシャルいわく。WWI後の世界は、福祉国家体制だ。

 WWIは、不熟練労働者の価値を高めた。それで英国は1918に選挙法を改正した。

▼山之内靖『総力戦と現代化』1995
 フックス&ジュソームJr.「戦争行為と国家の変容――第二次大戦における日本とアメリカ」 は注目されるべきである。
 WWIIでは、日本はそれまでの軍事国家から、企業家に官僚が協力する国家になった。
 米国は日本と逆に、国家が企業を統制できる国になった。

 戦前の日本国家(=役人)は民間企業に対してかなりの妥協をしなければならなかった。役人が企業を統制する能力はアメリカの方が上だった。

 フォーチュン誌が引用している面白事実。米国は1776から1935にかけて、大英帝国を除けばいかなる国よりも広い領土を軍隊によって獲得した。

 米政府はWWIでは経済全体の統制に失敗している。

 WWII後、米国内で余剰に製造された航空機は、国防総省が買い取った。
 この救済措置のおかげで、戦後においては、米国の航空産業は、DoDの支配に対して頭が上がらなくなった。

▼東京都経済局『空襲時応急物資配給要綱』S18-8
 水は、1人に1日 2合5勺=350グラム必要。それを5日分用意すること。
 木炭1俵、または薪5束。これが避難1世帯分である。

 コメまたは乾麺。
 コメならば1人1日 2合5勺。
 乾麺ならば1人1日 1把3食分。

 塩は、炊き出し20日につき、500グラム。

▼大越一二『東京大空襲時における消防隊の活躍』S32
 寒い時期だったが、1週間で死体は腐り、鼻が曲がりそうであった。
 河の中の死骸は、膨れ上がっていて、トラックに8体しか載せられず。それを上野の山まで運ぶのに40日かかった。

 大規模停電で水が止まることも。
 水利によっては、ポンプ車を集中させても、かんじんの水がない。

 当時、消防の帯剣は短剣。※明治時代はサーベル。

 S16-12-20に改正防空法が実施された。
 防火改修が義務化された。
 それでも、モルタルでなんとかなるだろうと甘く考えられていた。S19-11の首都空襲開始で、建物疎開に方針が変わった。

 武蔵野町(今は武蔵野市)消防署は、中島飛行機のお抱えみたいだった。
 原宿の海軍館は早々に焼けた。

 当時のサイドブレーキは、風に吹かれると車が動いてしまう。
 8-12頃に、降服すると知られ、13日には「グリコだ、グリコだ」と騒ぐ者があり、軍は書類を焼き始めた(p.914)。
 新潟では、次の原爆はここだと、山へ避難した人も沢山あった(p.914)。

 靖国神社の本殿は焼けずに済んだ。
 後日の陛下の御言葉。「……独り宮殿だけが残ると云うことはない。木造である限り焔上するのは当然である。之で気持もさつぱりした」と。
 この本の時点ではまだ正殿は建たず、御文庫ぐらし。

 8-15に小石川・丸山町にあった鈴木貫太郎総理の私邸は軍人によって焼かれた。 

 金庫の中に、水を入れた1杯の茶碗を置いていた人は、家が空襲で丸焼けになっても、金庫の中身は焼けずに済んだ。
 亀戸では地面からちょっとしか出ていなかった枕木すらも焼けて、そこが空洞となっている状態。

 焼死人の臭いは1ヶ月以上、身についていた。
 東京大空襲の記録の私的な編集作業に4年かかった。それは最も早いリポートであった。

▼G・オーウェル著、鶴見俊輔tr.『右であれ左であれ、わが祖国』S46、原1968
 スペイン内乱に飛び入りしたことで、オーウェルは自身の愛国心を自覚した。
 5歳にしてすでに自分が将来作家になるだろうと知っていた。

 タイタニック号事件はWWI中においてもまだ、欧州と北米においては大事件であった。
 船尾を立てて沈むときに船尾は100mも高く上がった。

 WWIで英本土でも馬はぜんぶ徴発された。
 OTC……イートン校の仕官訓練隊。

 飛行機の数を除くと、スペイン内戦は、WWIの出来の悪い複製だった。

▼武井明通『最新 機関車操縦法』S9-11
 初版では練炭が無かった。増補で加筆した。
 制動は、いまや空気式が主流だ。

 褐炭は、入山五坑のが5910カロリー。福島のが4670カロリー。
 瀝青炭は、夕張のが7650カロリー。
 無煙炭は、【さんずい、くくくのしたに田】川のが7120カロリー。
 ※つまり夕張炭が日本一高カロリー。

 なぜ瀝青(コールタール)と称するのかといえば、乾溜するとそれを出すので。
 無煙炭は火つきが悪いので、機関車用としては不向き。瀝青炭の古いやつが無煙炭になる。

 火室内の温度は1400度になる。摂氏。
 練炭は、配合粉を圧縮してつくったもので、煤煙が出ない。

 機関車の最も後方部分で燃やした火熱が、えんえんと最前部まで達して、そこで煙突から吸い出される。
 毎秒、何度回転するかを「角速度」という。単位はラジアンである。1ラジアンは57.5度である。1回転は2πラジアンである。

▼中村幸八『発明五十年史』S19-10
 M17に、海軍三等技師・肥後盛良の発明した信管が、「肥後信管」として採用された。1月9日の官報に布達が載っている。着発信管である。

 特許条例はM22-2-1施行。
 日清戦争がいかに余裕をもって戦われていたか。役中、大阪砲兵工廠は、大阪市の水道鉄管を鋳造し続けていた(p.51)。

 宮原の水管式汽罐は、日露役以前は、『水雷敷設第一大湊丸』と、軍艦『橋立』のみが搭載。
 艦本式も、軍艦『宇治』(M36)と『音羽』(M37)のみで、あとはM40以降となる。

 S10-7-2特許の「ガソリン節約装置」は、水を電気分解してO2 とHにし、それをガソリンに混ぜるというもの。

 粉末燃料機関のネックは、いかにして、シリンダー内部を傷つけないように、回転させるか。
 S17-10-5の特許。捕鯨砲の引き金を引く瞬間に、砲身を自動固定するメカ。

 ※本書に潜航艇の話は無い。

▼CN毒性研究グループ『催涙ガス』1970-12
 クロルアセトフェノン5%、四塩化エチレン95% からなるもの。1968から使用。
 メチル基がSH基の水素と置換される「アルキル化」で催奇性が生ずる。イペリットはその代表。

 RNAやDNAをアルキル化するものは発癌性。

 エチオビアでのイペリット使用は、1935~1936。空から撒いた。
 日本は1937~1943に使った(p.186)。※シナ大陸。
 FDRは、1942-6に声明。中国へのガス兵器の使用は、アメリカに対する攻撃とみなし、同様方法で報復する、と。

 霧社事件では、毒ガスも使用した。
 緑1号(クロルアセトフェノン)とイペリットだった。

 米国のペンシルベニアに、催涙ガス工場がある。
 1966のベトナムでは、まずヘリコプターから催涙弾を落とし、地下トンネルからコミーが出てくるところを、B-52でカーペットボミング。仕上げは、歩兵がヘリボーンで。
 「フラッシュアウト」と称した。

 神奈川県寒川町の相模海軍工廠あとの三光化学工業。1949から催涙弾を造る。

▼出口林次郎『世界体育史』S2
 シナ人の漢方(コンポー)とは、道教士がひろめた治癒体操で、ほとんどヨガである。

 古代エジプトの撃剣。右手には、簡易な護拳つきの片手剣。直剣である。左腕には、腕と同じくらいの幅の防護板を装着する。防護板の長さは肘から指先までに均しい。この板が左腕の外側(動脈の無い側)をカバーするように縛着していた方法が詳しくはわからないが、手首から肘にかけて3箇所のベルトのようなもので固定した。腕の内側はノーガードであるから、常に左掌を自分の方に向けるようにして、防護板を敵正面に向け、以って、自身の上半身をガードした。

 ギリシャ人は、亜鈴を握って幅跳びをした。それゆえドイツ語では、ギリシャ語の「跳躍」が、「亜鈴」の語源となっている。

 古代ギリシャの投げ槍は、紐輪がついていて、そこに食指と中指とを入れて、投擲していた。
 古代ギリシャの拳闘家は耳が潰れているのですぐ分かった。耳のプロテクターも発明されている。

 古代の五種は、まず短距離走、巾跳び、槍投げ、円盤投げで選手をふりおとし、最後に残った2名をレスリングで勝負させた。

 スパルタには女子選手もいた。むろん裸ではない。
 アテネ人は、させなかった。

 衰退期には、客のよろこぶ格闘と拳闘が流行。選手にはプロのコーチがつき、特別待遇だった。
 指を拡げたまま相手の腹壁を破り腸を掴み出すことのできる者すらいた(p.37)。

 ローマ時代、競技者は、不正をするのがあたりまえだった。
 ゲルマン人は、寒さと飢えには強かったが、暑さと渇きには弱かった。
 ゲルマンの「牡馬相撲」。乗馬同士を突き当て、後退した方が負け。

 ギリシャ競技の賞品として、カップがあった。
 鞍馬は、もともと本当の馬の形をしており、鞍の出っ張りに手をついて人間が飛び越した。まったく乗馬の訓練用であった。

 第2回の五輪パリ大会。米国がほとんどのメダルを独占した。
 第三回のセントルイス大会も。390競技中、非米人の優勝は14種のみ。
 抗議失格事件は1908ロンドン五輪で生じた。
 1920のアントワープ大会は大不評。ベルギー人は世界中から嫌われてしまった。

 当時の日本には、武道の地方団体して、(財)国粋館 と (財)尚武館 があった。
 ゲーテは、スケート、水泳、撃剣、射撃、馬をたしなみ、64歳のとき、6時間以上乗りづめにできた。



旧通産官僚のアタマの中には地政学が無い。国家官僚としてはそれが入り口であるべきなのに。

 Matthew Cox 記者による2020-9-17記事「Special Ops Plan to Buy New Light-Attack Fleet May Get Pushed Back」。
     ことしの前半、SOCOMは75機のライトアタック機を買ってくれと議会に向けて声を上げた。「アームド・オヴァーウォッチ」として必要だと。そのためにFY2021で1億600万ドルの予算をつけて欲しいと。
 しかし、空軍特殊作戦コマンドのスライフ中将は最近語った。議会は「アームド・オヴァーウォッチ」の必要は理解してくれているが、予算は今回は実現しないだろうと。

 この夏の、上院軍事委員会は、2021年度国防予算について、背後に空軍の反対があることを匂わせた。※SOCOM固有のミニ空軍戦隊など持たれては困る、ということか。

 空軍がライトアタック機部隊を整備してアフガニスタンに投入してくれという要望は2016年からあるのだが、空軍はこの話にぜんぜん乗り気ではなく、過去数度の比較テストはしたものの、テスト予算も縮減し、うやむやのうちに話を葬ろうとしているかに見える。そこで業を煮やしたSOCOMが、だったらオレたちが自前でライトアタック機を買おうじゃないかと言い出したわけだが、それにも空軍は反対しているのだ。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-18記事。
   ロシアは、短距離弾道弾を迎撃する機能に特化したABM「アバカン」を導入した。
 「アンテイ4000」と称していたABMを少し大型化したもの。10×10のラーンチャートラックも、いちだんと大型の「51P6E2」を使う。
 ※名前はガラリと変わっていながら、中身はちょこっとしか違ってない、というかほぼおんなじ――というのは、露軍兵器ではしばしばあるパターンなので、いちおう注意。

 ミサイル本体の系統は「S-500」である。これは「S-400」よりも大型のミサイル。
 アバカンは、型版でいうと、「9M82MDE」となる。
 レンジが350km。
 2人乗りのラーンチャートラック1台の上に、ミサイル2発と誘導レーダーがまとめられている。
 これは「S-300」(ロシア版ペトリオット)とは異なる流儀だ。S-300では、誘導レーダーと発射台車両は分けていた。

 しかしさすがにアバカンも、捜索レーダーは、別車両である。

 背景だが、シリア戦線が念頭にある。
 イスラエルは、航空機から発射する空対地ミサイルながら、攻撃目標のずっと手前でいったん大きく上昇して、弾道弾のように超高空からまっさかさまに落下して着弾する新世代の兵装を導入した。これを、地上から防ぎたいのである。

 シリア政府軍の「S-200」は、これをまったく阻止できないでいる。
 そしてシリア軍ではこのイスラエルの空対地兵装を「弾道弾」だと表現している。
 ロシアはこのシリア政府軍を援助しているが、「アンテイ2500/4000」ではダメだと判断しているのか、じっさいに試用してダメだったので、評判の崩壊をとどめるために、名前を変えたのだろう。

 ※誘導レーダーとSAM発射車両は同一車体上にまとめてしまうべきである――最前線で陣地転換直後に有線や無線でのんびりリンクしている時間などあるわけない――というロシア軍の最新の信念の背後には、ソ連崩壊後のたびかさなる実戦場経験が反映されていることは間違いない。リンクがうまくつながらないとき、どっちを疑うべきか? スパイのサボタージュや、外部からのECMかもわからんのに……。こういうトラブルが頻発しているのだろう。高射部隊の兵隊には原因の診断など即座にできない。問題の可能性の範囲が可視空間を越えているから。しかし、同一車体内の結線の具合なら、クルーがそれを判断できる。問題の可能性が可視的に限定される。だからトラブルの超越方法も、クルーだけでなんとか工夫してしまえる。自滅する前に確信をもって即決ができるのだ。こういう実戦智は、陸自にとっても無視できない貴重な情報ではないのかと思うのだが……。



日韓戦争を自衛隊はどう戦うか


「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


旧資料備忘摘録 2020-9-18 Up

▼中条一雄『日本のスポーツはなぜ衰退したか』1988
 ソウルの敗因は、コーチが男子一生の仕事になっていないから。20年来の膿。
 日本体育協会は民間団体のはずだが、文部省の下請け外部団体となっており、国庫から補助金を貰うから、予算は役所と同じで、前例主義となる。

 体協事務局長は代々、文部省のスポーツ課長が天下る。
 外国ではそのポストは、五輪金メダリストのもの。

 佐藤栄作「私は、新聞はスポーツ紙しか読まない」。
 日本陸上競技連盟に加盟していない選手が8秒で百を走っても、世界記録として公認されないし、五輪にも出られない。

 自転車連盟の役員は日大が主流で、橋本聖子のコーチの村田統司は早大だったため、ソウルの選手村に入れてもらえず、アドバイスもでぎず、惨敗に。
 これは他の競技でもよくある話。

 カナダは、モントリオール76夏季大会で金メダル零という、輝かしい歴史をもつ。
 今から十年あまり前に、運動選手の将来の成績を予測できるソフトウェアが完成してしまった。
 「骨年齢」と戸籍年齢のズレに注目する。戸籍上15歳で、WR級の実績があるのに、ホネは12才相当ならば、のびしろがじゅうぶんだから、将来も有望。

 この選才理論はソ連で発達し、中共コーチはそれを学んだ。中共では5歳から17歳までの数十万人をピックアップして特訓する。
 自己血液ドーピング、すでにあり。

 走、投、泳の「道具なし」競技だけ強い東独は、あきらかに、筋肉ドーピング。

 織田幹雄いわく。ソ連がロスをボイコットしたのは、たまたま勝てる選手のいない年にあたっていたため。ソウルでは圧勝する自信があったので、ボイコットしなかった。

 英国のスポーツは雨天でも決行する。米国の野球やアメフトは、悪天候だと中止する。
 北の湖は、初めて、竹刀を持たない親方になった。

 王は、バッティングはメソッドではどうにもならないと分っているので、子どもたちに対して、ボールを見て振り回せ、としか言わない。

 テニスと卓球では、異国籍でダブルスが組めるのに、五輪ではそれは不可。

▼石川泰司『もう金メダルはいらない』1990
 カトリックのスペインでは女子スポーツは盛んではない。アランチャ・サンチェスは例外的なスポーツ家庭に育った。

 NBAでは四分の三、NFLでは63%が黒人だが、野球ではまだ三分の一。

 エチオピア、タンザニア、ジブチ、ケニアは高地があるので、中~長距離選手を輩出する。
 アベベを発掘したのはスウェーデン人のコーチだった。
 米国籍の黒人はもともと西アフリカから連行されたので、東アフリカ系とは体格が異なり、短距離向きなのである。

▼バリー・リドル著、樋口・西納らtr.『欧米スポーツ名言名句1200』1991
 コーチの目標は、ひとりの努力ではこれ以上は到達できないというところまで競技者を高めること。
 サッカーでは、隙間を見ている選手が「上」、人を見ている選手が「中」、ボールを見ている選手が「下」。
 ゴルフについて会得すべき、最も難しいことは、ゴルフについて語らずにおれること。

▼T・G・ベルデンら著『IBM創立者ワトソンの伝記』S43、原1966
 トーマス・ワトソンは、馬車で移動するセールスマン暦11年。1892年から。
 父は材木商で開拓農民。アイリッシュ。すでに蒸気鋸はあった。
 1年間だけ、商学と会計学を学んだ。

 同じ場所を巡回するのが正直セールスマン。
 同じ場所に二度と立ち寄らないのがビジネスマン。

 イギリスのメーカーは、電気計算機で米資本の下に入ろうとしなかった。戦後の苦況期にも。

 1940か41にワトソンは、20ミリ機関砲を造る工場を9ヶ月で新設。見本はウォーターヴリエットの機関銃工場。
 WWIIが終わるまで、爆撃照準器、飛行機用エンジン部品など、数十種類、総額2億ドル弱の兵器を納品した。

 アメリカの徴兵データはパンチカード化された。個々人の将兵の異動、転勤がすべて記録された。
 1939にはIBMはまだ軍需品をつくっていない。

 ワトソンいわく。適切に指導監督されたことのない者は、将来、決して他の人を監督する地位には就けないだろう。
 戦後、2代目にひきついだ。本人は57年頃、85歳くらいで死んだ。

▼潮見浩『東アジアの初期鉄器文化』S57
 隕鉄はニッケル鉄なので、叩き延ばすだけでよかった。
 錬鉄では炭素が足りない。それでは利器にならず、青銅の代りにならない。

 スキとクワは、日支で、さししめしているモノが逆さまである。これは古代からそう。

 弩機の金属フレームを「廓」という。外廓は鉄製のものがある。「機」は後まで青銅でつくられたらしい。
 刀布銭は、戦国時代の仲五郎か。
 戦国時代の中期から晩期において、最長150cmの鉄剣あり。
 柄頭デザインは、いずれも青銅剣からの踏襲。

 戈には鉄製が見られない。すべて鉄戟に統一されたらしい。
 A.D.100年代になると、五十錬とか百練清剛とかの、反復鍛打で夾雑物をのぞいた練鋼刀剣が出現する。

 鋼の出現により、鋏やピンセット(いずれも根元の支点が反発バネになっているもの)が可能に。

 鋳造斧は、加熱脱炭しないと、硬すぎて、割れてしまう。
 日本の古墳時代に、蛇鉾と見られる槍穂(根は呑口式)あり。石川県の【てへんに瓜】塚古墳から。「蛇行剣身」。

 折り返しにより、Cの分布が均一になり、しかも滓が除かれる。
 したがって炭素に偏りがあれば、その剣は、折り返しで鍛えられたものではない。

 殷・周の礼玉を構成する圭・璋・笏などは、石包丁や石斧などの利器に起源が求められる。
 つまり利器が神聖物に転じたのだ。

 よって青銅もいつしか神聖視され、そのせいでシナでは人工銑の普及に400年以上も要したのではないか。むしろ農具への鉄器応用が、早かった。

 日本では、刀子、【金施】、ついで斧など工具類から鉄器化した。
 古墳時代に、鉄矛が長大化して鉄剣形鉄鑓ができ、それが鉄剣、鉄刀に推移する。

 素材鉄も朝鮮と同時に国産が始まり、輸入は僅かだった。
 砂鉄製錬は古墳時代に普及。

 比重選鉱のための水、木炭も多量に得られたことが、日本独自の砂鉄ONLY製鉄を可能にした。

▼『高橋健自集 上巻』1971
 「銅鉾銅剣の研究」大12-12の学位論文る
 先秦貨幣の「明刀」。
 日露戦争中、仙波少将が、大石橋の近盟龍山上を工事していたら、大量に出土。
 「刀幣」「刀布」とも称される。

 ※この論文は、ヤマタイ国は畿内だろうと学術的に論じ詰めた画期的なものという。日本の遺物研究の方法論を確立したとも。

▼京都女子大学史学会『史窗』1964
 所収、那波利貞「盛唐時代に突如として現はれた野戦の布陣用兵法の一変態現象について」

 六経に「騎」の字なし。戎【羽のしたにふるとり】の語で「キ」といったのだろう。
 マケドニアのphalanxに相当するものはシナでは唐以降に出る。

 明の章【さんずいに黄】の『圖書編』の巻壹百拾八に、「李靖陣法」として、臨戎対敵、毎作 四面陣 とあり。Pharanx らしい。
 五胡時代に西域から入ったのだろう。

 散開と密集を自在に変換する指揮術も、古来シナにはない。

▼石橋絢彦『甲賀源吾伝』S7-12
 仏国陸軍伝習所は、厩方を騎兵となし、鉄砲方を砲兵となし、小筒方を撒兵となし、旧格を廃停した。

 参考文献は、麦叢録、雨窓紀聞、北州新話、函館交戦記、函館戦争と五稜郭。

 官兵、快【石へんに駁】を以て、艦橋を急射す。源吾、身、数創に中り、遂に斃る。31歳で死んだ。

 M2に3等士官として『春日』乗組だった東郷平八郎はガトリング砲について一言も語っていない。甲鉄は応戦したというのみ。

 回天は暴風で前檣と大檣を折られ、後檣のみとなっていたので、官軍はすっかり騙された。※この話は『有終』vol.174号に載っている。

 回天の船材は、ドイツ産オーク。
 大砲(56斤)×12門。
 回旋砲×1門。

 モニトールの廻旋砲台を備ふる甲鉄艦に類似せり(p.188)

 回天はもともと、プロイセンの『ダンチヒ』号。
 それが廃艦となって英商に売られ、イーグル号となり、慶応2年に長崎において米商より日本へ売り込んだ。

 甲鉄は、前後に回旋砲台あり。その前部砲塔は300斤×1。
 中央より艫のほうに、後砲塔あり。こちらは70斤×2。

 舳首に長さ2間の堅牢な「鎗」を備え、事あらば敵艦を突きやぶる。※水線下のRamのこと。

 宮古で回天が射った56斤砲弾は、甲鉄の船塔にわずかに弾痕を留めただけ。鉄板を貫くことはできなかった(p.191)。

 甲鉄にガトリングがあるとは一言も書いていない。
 56斤砲は霰弾と実弾を撃てた。

 ガトリングガンの話(pp.239~240)。オリジナル情報なし。麦叢録の伝承を咀嚼しているのみ。

 双輪船である回天は、鑓出し が甲鉄の後檣の縄梯子に突き刺さる形で接舷。
 この、舳先の一隘路からしか、乗り移りができなったことが、敗因。
 この隘路を、「速射砲」(ガトリング)で斜めに打ち払われたので敗けた(p.246)。※それが本当だとすれば、甲鉄から見て、後方へ向けてガトリング砲を放ったことになろう。もし、あったのだとすれば、だが。

 開陽丸のクルップ製30斤長加農は、徹甲榴弾を持っていたが、座礁したときに、捨ててしまっていた。

▼服部雅徳『漁船の太平洋戦争』H6
 著者はS7年生。空自→防研。

 監視艇は、32トンから179トンで、平均90トンだった。
 S18-5頃、監視艇が積んでいた「仮称電波探信儀1型」は、高度500mの敵飛行艇を25kmの距離で捉えた。
▼野原 博『初級軍事数学(図形編)』S18-3
 中戦車中隊の行軍速度は、昼間に於て毎時12kmとされていた。
 自動車中隊は20km。馬は8km。歩兵は4km。

 ラジアンは「らぢあん」と書いた。

▼川上清吉『葉隠の哲人 山本常朝』S17-5
 著者は47歳だが、佐賀県に10年間住んでいると。

 常朝は、学者でなく、藩政家でもなく、実戦経験も無い、十人並みの藩士だった。
 佐賀には広葉樹の巨木が多い。肥前風土記には巨大楠の伝説あり。樟脳が採れる。
 真崎や武藤も佐賀県人である。海軍では吉田。

 佐賀民は意地強く押し強く、爆発性あり、闘争性あり。排他主義にもなる。
 他国人を「よそもん」と称す。

 常朝は、藩祖から3代目の鍋島光茂に幼少から側仕す。光茂が死ぬと、世を捨ててわび住まい。
 晩年、隠遁して何十年もしてから、語った。
 その時点で「大慈悲」だの「諸人一和」などと強調しているのは、よほど藩内が乱れていた。

 常朝の役禄は120石であった。
 光茂逝去とともに落飾したのは彼1人ではない。他に十数人あり。
 田代は、祐筆役の武士で、30歳くらい。はじめ、通いながら筆記したが、やがて、近くに転居してきた。

 11巻、1350余章。
 「聞書第一」とあって「巻一」とはしていない。これは死後火中を命じていたことを裏付ける。

 だいたい本人が「一世帯構ふるが悪しきなり」〔一家の見をなすことは悪い〕と言っている。

 親は、山本前神右門といい、「走る馬にも鞭」「金銀はあるものなり。人は、無きものなり」といっていた。※豪胆の子が細心というケースだったか。
 佐賀平野はクリークだらけ。菱の葉が浮いている。堀を干せば鮒がとれる。

 鍋島直義は、朝鮮では清正と駢進。
 直義が70歳のとき、櫓から城下の歩行者を眺めて、皆、目線が下がっていると嘆じた。これでは野戦で鑓は使えないだろう、と。

 父いわく。笠とカブトは前下がりにかぶれ。
 この父の二男が常朝。
 光茂は利口者を嫌うというので、常朝は13歳以後、常に鏡を見て自分の表情に注意した。
 光茂は全国に先んじて「追い腹」を禁じた。幕府より早かった。

 光茂の死を境に「つねとも」を「でふてふ」に言い換えた。妻も共に剃髪した。61歳で死す。
 光茂の歌の相手もつとめた。その挽歌。尋ね入る法のみちしば露ちりて衣手すゞし峯の秋風。
 一回忌には「めぐり来にける○○〔季節〕の空」と入れる。

 芸は身を助くる――とは、もともと侍について言われた表現。
 常朝の時代に「芸者」の意味がいやしくなったのである。それゆえ「御当家の侍は、芸は身を亡ぼすなり」と。

 真実なるものはどこに置かれても必ずその光を見失はれることはない。
 陣基は、綱茂、宗茂の二代に祐筆として仕えて後、32才で常朝をたずねる。宝永7年春。

 いちど近所に庵を結んだが召出されて再仕官し、71歳で没。常朝より29年遅れた。
 7年かけてまとめ、しかも「自分」をのぞかせていない。これは稀有の伝記人だ。師に全く聴従したのだ。

 巻五 「禁裏御崇敲の御心入れの事」。

▼中里介山『日本武術神妙記』S29
 この小説家が、じぶんの蔵書の中から数百箇所を抜書きしたノート。

 フェンシングと違い、日本剣法は必ず相打ち勝負。こちらの傷が敵より浅ければよいのである。よって基本的に「受け」は無い。

 宗矩が子の三厳につぶてを投げ、右の目に当たったが、子は左の目を隠した――。この話の元は不明である(p.48)。

▼森松俊夫『総力戦研究所』1983
 総力戦研究所はS20-3末に廃止された。
 山縣は大6-10-15時点で、今後の戦争に勝利するためには各省が「総力戦段階」に対応しなければならぬとの認識。

 陸軍はWWIの総括のため大4-9に臨時軍事調査委員会を設け、その第2班で国家総動員関係を調べた。
 月報は大5-1以降、報告配布された。
 第2班はそれをさらにまとめた「交戦諸国の陸軍に就て」と称するリポートを大6-1から大8-12の間、5回提出した。火器、弾薬、飛行機、戦車を網羅。
 永田鉄山少佐もその委員だった。

 大9-5に「国家総動員に関する意見」を作成。
 永田によれば、動員分野は、国民、産業、交通、財政、精神 の5つ。
 ※通信や情報動員がない。対外宣伝も、意識されていない。

 大7-4-16、寺内内閣は、軍需工業動員法を制定(これはS13-4-15公布の国家総動員法により廃止)。
 これをうけて 大7-5-3、内閣に軍需局が、また陸軍省兵器局内に「工政課」が、海軍省艦政局に「第六課」が新設された。いずれも軍需動員の担当。

 内閣軍需局は大9-5-14に内閣統計局と合わせ「国務院」になり、大11-11解体。
 大15-10、陸軍省内に「整備局」ができる。当時の参本 総務部 編成動員班長が、酒井鎬次中佐。
 S2-5に内閣に「資源局」ができる。

▼浅野祐吾『軍事思想史入門』S54
 マキャベリの時代、フランスに対しイタリア諸都市は分裂。しかも中核の貴族騎兵の下には、スイス人とならず者の傭兵。
 これではダメだと、歩兵中心の集団戦への転換を説いた。

 湾曲銃床をとりいれた燧発式小銃は、ナポレオン戦争時代にできた。これは散開戦術を容易にしたという。

 1814 英・ネパール戦争。
 1824 英・ビルマ戦争。
 1838 アフガン戦争。
 1840 阿片戦争。
 1852 ビルマ戦争。
 1898 ふたたびアフガニスタン戦争。

▼原朗[あきら]・山崎志郎ed.『軍需省関係初期資料』1997 (株)現代資料出版
 「戦時経済総動員関係資料」第二期分の1巻目である。
 原は1939生まれ。山崎は1957生まれ。

 軍需省は1943-11に設置された。
 1942-11に臨時生産増強委員会が設置され、鉄鋼、石炭、軽金属、航空機、造船の5大重点産業に増産努力を集中しようとしたが、航空機と艦船部門は商工省と陸海軍の分掌であったため、商工プロパーの原料、機械工業に混乱がもたらされた。それで、一元化しようとした。

 陸軍航空本部と海軍航空本部もライバル。
 陸軍兵器行政本部と海軍艦政本部もライバル。

 軍・官・民一体となって航空機増産に集中すべきだとのコンセンサスに到達したのは1943-8のこと。
 陸軍航空本部は「まるヒ」研究と称して、44年度物資動員計画を、また船についても検討開始。
 8-30に藤原銀次郎を査察使として、飛行機関係の行政査察。両航本、企画院、中島、三菱等には、陸海で発注を一元しようという機運が生じた(~10月)。

 失敗した原因は、多元統制。

 行革もおこなわれた。地方行政を強化し、中央各庁はその業務を委譲する。予算を単純化する。官庁人員を減らす。昼夜休日の官庁執務継続。外郭団体・統制機関の整理。

 機関と機関の間の協議による「調整」では、何にもならない。

 逓信省海務院と鉄道省の統合による海陸輸送一元化。これによって運輸通信省ができた。海軍は反対したが。
 経済総動員の最大ネックは、陸海輸送力だった。
 逓信省は電力局ももっていた。

 43年後半から、軍需動員の中心は航空機へ決定的に傾斜し、陸海軍も軍需省に協力することになった。
 44-2-25、閣議決定「決戦非常措置要綱」で、「高級享楽の廃止」。

 軍需省にも航空兵器総局があった。
 次のネックは液体燃料と真空管。
 ※ここまで、都市防災・民間防衛の着眼が抜けている。そこを最初に考えてないから、工場疎開などが間に合わなくなった。

 食料、燃料の自給。
 輸入途絶状態での運輸をどうするか。

 軍需省行政の基本は、あらゆる動員機関を利用して、重点産業の生産系列に物資を集中し、常に隘路対策を講じることにあった。

 1945は飛行機工場の疎開と地下工場化、輸送力の確保がテーマに。※これを戦時中に考えるようではもう敗けだというのがわが国の得た教訓。

 S19-3-30、企業国営化試案。
 株の配当率(平均利回り)を考慮した国債(特殊決済債権)で、国債保有会社とし、株主にはその利子を配当する。
 国が企業を借上げ、利子と償却は国庫から出す。
 既存のコンツェルン(営団)をして、それらを代行せしめる。

▼正木千冬tr.『アメリカ合衆国戦略爆撃調査団 日本戦争経済の崩壊――戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』S25-6
 The United States Strategig Bombing Survey “The Effects of Strategic Bombing on Japan’s War Economy”
Over-All Economic Effects Division (Dec. 1946) 刊。

 結論。戦争の初期~中期の対船舶攻撃と、末期の無差別爆撃が勝因だ。
 日本は、封鎖に対するヴァルネラビリティーが大だった。

 1941に年産7000機以上に達した。
 1942-1における弾薬貯蔵量は1942の生産率での5ヵ年分あった。
 また1942-1には、8万1000台の自動車があった。
 戦車は1180両だった。

 米国は1941にいきなりMAX動員体制に転じた。
 しかるに日本はただ、南方から石油とボーキサイトをもってくるという限定的な目標を追ったのみで、1942まで生産量に大変化がない。
 むしろ1940以前、1943以降の方が大軍拡だった。

 ※S15に対ソ戦を考えていたので。

 労働市場は逼迫しておらず、そのためサービス産業は1942にも上向きであった。
 日本の戦争経済のピークは1944の中ごろである。

 1945-3に本土爆撃が始まるが、その前の1944中ごろから、船舶減耗だけで日本の戦争経済は減退を開始した。
 ドイツはチェコを占領することでアルミナ工業も手に入れた。が、日本はあくまで国内で加工する他なかった。

 東條内閣の書記官長の星野は、日本の戦時経済はガダルカナル以後に始まると証言。
 アルミ原料たるボーキサイトの9割は、ビンタン島、マレイ、パラオから来た。

 企画庁は1937春にできた。
 1937-10に企画院に拡大。
 1941~42年、各統制会ができた。カルテル財閥の役員が仕切った。各大臣の力は弱く、「財界統制」であった。

 1941の優先表でAは、戦車、トラック、中口径砲、小口径砲、大口径砲、車載無線機、大型ラジオの順。
 1942では、戦車、トラック、大型ラジオ、無線探知機。
 ※これも、対ソ戦をまだあきらめていなかったから。

 航空弾薬および部品は、1941年にはC3 、1942年にはB6 、1943年にはA2 という冷遇っぷりである。
 1940~41年、大型タンカーの建造はゼロ。
 1943年からそれを最優先にしたが、とりかえしつかず。

 1941-12に、海軍は2120機、陸軍は4840機あった。しかし陸軍機のうち第一線機といえたのは1068機のみ。
 1944で航空機生産が頭打ちとなった理由。労働力が隘路のひとつ。

 1941-12から1945-8まで、航空機の機体6万5971、エンジン10万3950製造。
 航空機と同弾薬の増産優先とひきかえに、自動車、海上弾薬、陸上弾薬の製造は減らされた。戦車と火砲は、終始、一定していた。

 海軍の機銃と同弾薬は、航空機用も艦船用も、最後まで足りていた。

 トラック生産。1941年には42000台。1944年には20500台。1945-4~7月には2000台弱。トラックの生産低迷は戦地への影響はさほどでもなかったが、経済への影響は大だった。

 44年にコメが尽きた。
 日本軍に対して合衆国軍の航空機は爆弾を58万3962トン落とした。うち、本土へは28%の16万1425トン。うちわけは、第20空軍が147576トン、その他の米陸軍機が7109トン、米海軍機が740トン。

 比較すると、ドイツ軍に対しては269万7433トン落としており、そのうちドイツ国内へは135万6808トンであった。

 揚子江の港から、日本の鉄鋼は積み出された。
 セレベスにニッケル工場あり。

 米軍も一時、焼夷弾を使い果たした。S20-4月はじめのこと。侵入高度を下げて大量投下したために。
 それでまた精密爆撃目標に切り替えた。
 6月後半、対都市の焼夷弾空襲を再開。

 第315飛行中隊のB-29のみが、レーダー爆撃可能だった。彼らには、石油関連施設がわりあてられた。テトラエチル鉛など。

 下関は機雷により最もダメージを受けた。

 1945-6に4000ポンドの試験爆弾を1発、トラック工場に落としたら、日本側は慌てふためいてその工場の疎開を開始した。ために、終戦まで、1台の自動車も生産できなくなった。

 石炭が減ると、コークス炉が動かない。コークスの副産物であるベンゾールとトルオールの生産も減る。

 2トントラックの生産実績。
 1940年30687台、41年39297台、42年33129台、43年21987台、44年19546台、45-4月~7月に1695台。
 1936年には1180台国産、14476台輸入。
 1937年には6152台国産、17081台輸入。
 1938年には13771台国産、13817台輸入。
 1939年には26334台国産、輸入はゼロだった。

 4トントラックの生産実績。
 1940年2551台、41年2828台、42年2257台、43年2013台、44年900台、45年4月から7月には63台。
 1936と1937年には国産も輸入もゼロ。
 1938には1325台国産、輸入はゼロ。
 1939年には3357台国産、輸入はゼロ。



米西部が異常乾燥しているなら、代わりにどこかが大雨になっているはずだ。それはどこだ?

 Thomas Newdick 記者による2020-9-15記事「Here Is The Surprise Choice To Become Germany’s Standard Assault Rifle」。
        ドイツ連邦軍は、定評のあったヘックラーウントコッホ社製の「G36」に替わる新小銃として、ほぼ無名のC.G.ハエネルという国内メーカーがつくったアサルトライフルを選定した。

 名称を「MK556」といい、内部機関は、米軍の「AR15/M4」カービンに近いそうである。

 国際的には無名だが、ドイツ国内では、これのセミオートマチックバージョンが「CR223」の名ですでに警察装備になっている。それはまた複数の国へ輸出されている実績もあるのだ。

 国防相は15日に選定を発表した。正式契約はまだなので、これからHK社が法手続き論を衝いて反撃すると、決定が覆るかもしれない。HK社は「HK416」および「HK433」を提案していたが、両案ともに国防省から斥けられた。

 「G36」は1990年代なかばに制式採用されているが、熱地で長時間交戦しているうちに機能に問題が出てくるとウルスラ・フォン・デア・レイエン国防大臣は指摘している。
 また、急激な気温変化によっても不具合が発生し、弾道が乱れるという。

 新小銃に要求されていたこと。5.56ミリにも7.62ミリにも対応できること。短銃身バージョンもあること。
 左利きの射手でも何の問題もなく操作できること。
 重量は弾倉やアクセサリー抜きで7.9ポンド以下。
 機関部は3万発の寿命があること。銃身寿命は、ボール弾で1万5000発、AP弾で7500発あること。
 また特に指定されたアクセサリーとして、サイレンサー、ドラム弾倉、二脚がある。

 チューリンゲンにあるハエネル社は1840年の創立。冷戦期には東ドイツの小火器メーカーだった。そこで別な社名でカラシニコフ系の小銃を生産していた。2008年に旧社名に戻る。げんざいこの会社の資本オーナーは、UAEにある持ち株会社〔事実上、王族とイコール〕である。

 ドイツ再統一後のハエネル社は、2016年から「G29」狙撃銃を政府に納品しているが、小火器の全分野におけるHKの支配的地位は崩せなかった。

 「MK556」のMKは、マシーネンカラビナー(マシンカービン)の頭文字。
 内部機構はほぼAR-15/M4なのだが、ガスをそのまま吹き付ける方式ではなく、オーソドックスなガスピストンを採用し、フレーム内の汚染を回避している。

 HKとの比較テストでこの銃は好成績を示し、なおかつ、単価も低いので、そこが買われた。
 なお、ラインメタル、オーストリーのステイヤー・マンリッヒャー「RS556」、Sigザウエル「MCX」も名乗りを上げていたけれども、早々に敗退している。

 HK社は1959年から西独軍に「G3」アサルトライフルを納品してきた。近年ではフランス軍とノルウェー軍に「HK416」を供給している。ビンラディンを射殺したシールズの「チーム6」も、「HK416」を撰んでいたのである。

 ※メルケルが東独出身だから、贔屓があるんじゃないかと疑われても仕方がないが、値段が安いんだよといわれれば、それは今のドイツでは説得力がある。記事の中に『ゾルダト・ウント・テクニク』誌が引用されているので、ハッとした。むかし渋谷のパルコの地下書店で『ソルジャー・オブ・フォーチュン』などとともに立ち読みしていたあの雑誌、まだ在ったのか!

 次。
 James Temple 記者による2020-9-17記事「Suppressing fires has failed. Here’s what California needs to do instead.」
     カリフォルニア州の過去の火災の規模上位10件を合計したよりも大きな被害が、今、出ている。
 面積にして320万平方エイカー。これはマサチューセッツ州の半分と等しい。すでに4200棟が燃え落ち、火事難民が数十万人も発生している。

 ある学者は提案する。昔、やっていたように、山火事が起きる前に、計画的な「野焼き」をするべきである。その政策を復活させねばならない、と。

 それによって山火事が根絶されるわけではないが、規模は確実に抑制される。
 米国における、州政府による「計画野焼き」のはじまりは、1910年の大山火事が契機になった。この火事で、アイダホ州とモンタナ州にまたがる300万平方エイカーが焼け、90人が死んだ。
 二度とこのような山火事は起こさせないぞと、そこで人々は誓ったのだ。

 1935年には米連邦森林局が「山火事は、発生日の翌日の午前10時までに消す」という、早期発見&迅速対処ポリシーを公式に打ち出した。

 この政策が仇となった。何十年も山火事が意欲的に消火されてきたことによって、山火事の燃料となる枯れ枝、枯れ葉が、うずたかく堆積される一方となったのだ。これがいっぺん燃え出したら、もはや手がつけられない。生きている高木も、樹冠まで丸焼けにされてしまう。

 過去何年か、シエラ・ネバダ山域では降雨が少なかった。これまた、広域山火事を避けがたくする。
 降雪が減ってくれれば樹木の成長も遅くなる。ところが、降雪は逆に増えたから、森林は育ちまくり、なおかつ夏が乾燥して高温。山火事を待つばかりの環境となった。
 芝刈り機のスパーク、切れた送電線、落雷などをきっかけとして発火し、秋の強風が延焼を助勢する。

 森林の中に広い幅の「防火帯」をつくらねばならない。そこでは、生きている樹木もあらかじめぜんぶ切り倒し、野焼きしてしまうことだ。
 また、自然発生した山火事のすべてを消火するのではなく、住民に無被害なものは放置する決定を下すことにより、森林の燃料堆積を緩和することだ。

 2018年に一委員会が提言したこと。毎年110万平方エーカーを人為的に野焼きする。さすれば、20年サイクルで、森林の火災危険度は制御される。もちろん作業員の人件費がかかる。野焼き1エーカーにつき200ドル以上かかる。伐採作業もするなら、1000ドルにもなるだろう。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-17記事。
 米軍はイラクやアフガニスタンから撤収するのにあわせて、四軍の将官(准将~大将)の数を5%削減したい。

 WWIIの終了時、米軍の将官/提督ひとりにつき、部下は5400人いた。
 1991年、それは3400人である。つまり将官の密度は冷戦中に、WWII当時よりも増えたのだ。
 2010年時点では3000人。さらに増えてしまった。

 これでは、何を決定するにも実行するにも、ハンコをつく中間管理者が多いために、時間がかかってしまう。



兵頭二十八の防衛白書2016


兵頭二十八の防衛白書2015


旧資料備忘摘録 2020-9-17 Up

▼高橋数良、他『警察武道 逮捕と護身』S5-9 松華堂
 施縄早縄第一人者の 調所武熊氏も執筆。
 わが国現代において、剣をたばさむ者は独り軍人と警察官あるのみ。
 武士の気魄をうけつぐ者は警察官なのだ。

 昔は鎧が重いから、身体を倒されることがすでに死命を制されることであった。
 万治年間に「やはら」の文字あらわれる。

 「体術」は支那流の表現。白打(ハッダ)。
 老刑事は、泥棒が出てくるところを、すぐに利き腕をとる。凶器をおさめているので。
 暗闇の中に入るには、自然体で入るべし。

 スリの煙管は、吸い口を、尖らせてあって、それが兇器になる。
 「柄まへ」で近づくと、己れの刀で切られることになる。

 相手の右手の斜め後ろから、利き腕を制せよ。
 ピストルを持った相手には、家族の老婆や、そいつの愛児をかざして近づけ。

 屏風や襖は、打ち倒し、それと共に踏み込むようにする。開くのを待っていてはならない。
 不意に出会ったら、犯人に近づかず、手招きする。これが心理的にこっちを有利にしてくれる。

 この時代、巡査の抜刀はただちに国会で問題にされる。遺憾である(p.114)。

 短刀は、柄頭は脇の下、鐺(こぢり)は股の間に落とす。外見上、まったくわからない。
 抜くときは、服の中で左手で抜きやすい形に直す。

 婦人の逆手短刀は、演劇の世界のことで、絶対にありえない。

 出刃は刃肉が厚いから、短刀のごとく、ゑぐる必要がない。刺すだけで大出血する。短刀よりもおそろしいのである(p.132)。※現代の包丁を想起してはいけない。昔は分厚かった。

 五人殺し、六人殺しの犯罪は、手斧か金槌以外、ありえない(p.132)。※反証があるはずだ。この本の出版後に。

 サーベルは、ナス環を外し、鞘ごと棍棒として使うのが、手加減が要らない。サヤはピカピカ光っている(p.138)。※金属鞘であった。日本刀の木製鞘だと、衝撃で破砕することがあり、危険。

 従来の巡査抜剣心得では、先方が兇器を持していないければ抜剣できなかったが、改正の武器使用規程では、先方が素手でも武器を使用しなければ職務の執行または身体の防禦のできない場合には、抜刀OK。

 昼の山火事では、葉のついた木の枝をとり、たへず身体を払っていないと、服が燃えているのが分らない。

 水中捕り物は、相手を突き放して弱らせる。
 巡査は編み上げ靴を水中で脱ぐことができないから、溺死しないように気をつけろ。

 船から飛び込むときは、必ず船尾から。それが安全なので。

 私服刑事は必ずステッキを持った。
 「十手」もハンケチで巻いて持っていくことあり(p.182)。※十手は大正末まではまちがいなく使われていたそうだ。

 いかなる無神論者も、夜は七分、神を信ずる。
 不審尋問は必ず2人で、前後を挟んでせよ。前に2人で並ぶものではない。

 手の甲で相手の両眼または片眼を叩くと、暫時は眼が開かない。しかも決して失明せぬ(p.202)。※柔術の「かすみ当て」。指の力を抜くと、素人が試しても、おそろしく有効である。もちろん裸眼者相手のばあいに限られるのだが……。「シャコパンチ」と筋肉の使われ方が同じようで、プロボクサーの反射神経でも、これをディフェンスできるもんじゃない。

 犯人の顎を手のひらで強く押し上げると、倒れる。コンクリート地面の上では、これはやらぬこと。※左手で軽く相手の腰の裏を押さえながら、右手でこれをやると、まるで、手品のように、大男でも倒せてしまう。地面が舗装されていて危険であるときは、じぶんの左膝を倒れる相手の背中の下に入れることにより、後頭部の強打を回避できる。しかしその場合、こちらの右手食指と拇指を途中で一本貫手の形につくりかえるなどして、相手の喉仏をすぐに圧するようにしなければ、こっちが反撃されてしまうだろう。

 「警察官武器使用規程」には、佩剣、ピストル、十手等とある。旧来は剣のみであった。新規程は、警部補以上にも適用される。

 十手に、ハンケチ・手拭を巻く理由は、民衆を負傷せしめ、傷痕を印せしむることが、後に各種の問題を残すから。

 震災後、持兇器強盗が頻出し、物情騒然。治安維持を為すにあたり、警察官にピストルを携帯させる必要が生じ、使用規定が改まった。

 子どもが見ている前で犯人に縄をかけることは避けるべし。
 自室内で真に抵抗する犯人は、いないものだ。

 短刀とわたりあって負傷してしまった警察官いわく。十手のごときは何の役にも立たない。2間くらいも長さがある竹竿でも、いけない。2尺4寸から2尺5寸の棒が、こっちの道具として手頃である。とにかく、素手ではダメだ(p.266)。

 逃走犯は、その後頭部をはハタキつけるに限る(p.266)。

▼名和弓雄『十手捕縄の研究』S39
 江戸時代の人は、捕具も不浄の品として忌みきらった。
 各藩でも「不浄蔵」に納めていたのである。

 北越、上杉軍では、雁棒と称する長柄の鎌を農民に使わせた記録もある。

 そでがらみ、つくぼう、さすまた は、シナの『武備誌』を参考にしたことはまちがいない。室町中期~。
 木製の十手が室町時代に登場する。

 安土桃山時代には「打払い長十手」ができた。これは鉄鞭(かなむち)から進化したのだろう。

 吉川英治の『宮本武蔵』の中に、大坂城内を警護する者が三尺の十手をさしていると書かれていた。考証の正確さに、驚く。

 6尺以上の捕物道具を「寄道具」「長柄 仕寄具」と呼ぶ。
 6尺棒は「仕寄棒」が正しい。

 袖絡みでは、犯人の頭髪も狙った。
 鳶用の刺す股は、釘を植えてない。

 磔でとどめの首を刺すときは、熊手(竜【托のてへんが口へん】)で仰向かせる。
 犬も歩けば棒にあたる、とか、藪から棒 の棒は、辻番の六尺棒のこと。

 へら状の石突きとなっている長柄は、それによって砂をかけて目潰しをしようという用途である。

 「鎖鎌の携行方法は、判然としない」(p.75)。※名和氏は鎖鎌がフェイク武器だったということに遂に気づけなかった。

 「ハシャ」という、火縄銃で打ち出す目潰しの砂があった。
 空洞のある十手に鉛粒を詰めて、敵の顔面に強く打ち込むものもあった。
 鳶口十手。楕円断面の材木の鳶口の部分を柄頭とし、材木の途中に金属カギを植えてある。

 太政官符達 第29号 行政警察規則。M8までの羅卒は、官より相渡されたる兵器のほかは携行してはならぬ。すなわち三尺余りの丸棒だけが公許されていた。

 羅卒はM8から巡査となる。そしてM15からは丸棒ではなくサーベルを佩用するようになる。
 手錠は刑事巡査が私物として昭和初期から国産品を使った。

 5.15事件後、一定数の「ブローニング拳銃」を、警視庁の武器庫と、他の二、三署の地下倉庫に貯蔵させたが、厳秘であった。警視庁の幹部だけがそれを知っていた。

 警察の射撃場は、小石川の弥生町にあった。歩兵銃まで射っていた。

 佩剣が警棒になったのはS21-3の米軍の命令による。長さ45センチはMP警棒と同じだった。それが鼻捻と同じ60センチに改正されるのがS24-4。
 三段振り出し式の特殊警棒はS32-10から。伸ばすと39.5センチになる。

▼渡辺万次郎『鉱山史話(東北編)』1968
 最初に天武天皇時代の674年に対馬の佐須鉱山の銀が発見された。が、金と銅がみつからない。
 そこで文武は、「おしのうみ あらかま」を陸奥へ派遣した。彼がどうなったかは、不明。

 けっきょく、天明天皇時代の708年に、秩父市に「にぎどう」(自然銅)が発見されて、和銅と改元された。

 天平21年=749年2月、ついに陸奥の小田郡に砂金がみつかり、4月、天平感宝元年と改元。この小田郡は、今の宮城県の遠田郡らしい。

 前九年の役 とは、東北の産金を賄賂にして中央の藤原氏から官位を受けていた、その慣行を、安倍父子が停止したことから。さいしょに藤原登任と平重成がさしむけられたが、鬼首(おにこうべ)合戦で撃退される。今の鳴子町。
 そこで関東武士の親玉の頼義と義家がさしむけられたのだが、悪戦9年。
 出羽の蝦夷・清原武則を助成せしめて、やっと1062衣川で一勝したもの。

 宋では、石炭を利用して製鉄と製陶をいとなんでいた。

 東北金山は慶長年間に急に発達した。技術・ノウハウのブレークスルーがあった。だから慶長大判も、駿府城の大延べ板も、作られた。

 東北では農民が農閑期に砂金を採り、市場で品物にかえていた。
 1600年代に、銅鉱山に水銀法が導入される。

 鉱石を得るための採掘は、北上あたりでは、「ノミ」と称した鉄棒と、それを打ち込む「セットウ」という鉄槌だけで行った。
 その鉱石を砕き、水中で淘[よ]り分け、溶かして吹き金とする。
 先進鉱業地域は、島根や兵庫だった。

 すんぽ……測量士。
 だいく……採掘夫。
 ほりこ……運搬夫。
 山留/留大工……支柱工事技師。

 木綿を布いた樋のなかに鉱石の粉を流す。ネコ流しという。
 坑道は鋪[しき]。
 鉱石を鉑、その他を研[おり]という。
 特上鉱……貫き物。

 鉱脈にしたがって自由に掘り進むのをタヌキ掘りという。
 鉄滓は、鍰[からみ]という。
 板取り で分けられる粘土鉱を「くさり箱」または「淘[よ]り物箱」といった。
 大きなものは臼で砕いてから板取りにかける。

 鉛とともに金銀だけを分離する「灰吹き法」は天正のころ、大陸から石見銀山に伝えられた。

 佐藤信淵は山師のノウハウを全国からあつめた『土性論』『国土経済論』を書いている。

▼東京都ed.『都市紀要 三 銀座煉瓦街の建設』S30
 M5-2の大火をきっかけに、政府首脳は東京を 江戸的なものから 洋風に改造せんとした。ロンドン、パリが目標だった。
 銀座煉瓦街は、市区改正(都市計画、都市再開発)の嚆矢となった。

 その後、全面的な市区改正を何度か上程するも、敗戦までな~~んにもできず。

 幕末に大儲けした材木商は、江戸にはいないという。

 八代吉宗の頃をピークに防火空き地や防火土手が築かれたが、住民が空き地を利用させろという請願に抗しきれず、常に元の木阿弥となり、幕末に至る。

 吉宗の施策としては、武家旗本屋敷の瓦屋根化。町方における土蔵塗家造りの奨励。
 M5-2-26大火で銀座から築地まで焼いた。
 5000戸近くが消えてなくなった。焼死者8人、うち1人が消防人足。
 火災後、さらに消防人足2人が死亡。

 外人から文句が出た。銀座付近の公道があまりに混雑し、死人も出ている。
 牛車、大八、大七、大六、小車(地車と中車)、馬車が入り乱れていた。
 これを舗装するのは、条約改正の大目標にも合致した。 

 日本で都市の不燃化を早く説いたのは、本田利明。北地経営論で有名な学者だが、寛政年間に『経済秘策』を書いている。いわく、永久不朽の石家造りにして、万民を安堵させなければ、王城の地にはふさわしくない。
 「欧羅巴洲」の都会の地は、貴賎万民、みな石家造りの住居である。もし火事が発生しても隣家には延焼しないのだ。
 いま、備前の大小の橋は、皆、石橋である。これを幕府が賞美すれば、全国に普及し、石家も構築できるようになるはずだ、と。

 M1とM3に、土蔵造り、塗家などの家作を町方に奨励。
 由利公正が外国都市の道幅を問い合わせた。NYCは24間、ロンドンは25間、ワシントンは24間だという。
 そこで銀座大通りを25間巾に決めた。
 反対意見は強く、あやうく12間にされそうになったが、押し返して15間にしたのである。

 すでに竹橋の近衛兵舎は煉瓦であった。
 外見のみ洋風だった築地ホテル館の焼失が、人々の目をさまさせた。外見だけ似せてもダメなんだと。

 しかしM6-12に、はやくも、東京総レンガ/石化計画は、頓挫した。

▼出牛政雄『土蔵』S53
 左官は火災時には非常線をパスできた。目塗りにかけつけるため。
 足場を結ぶ藁縄は、土蔵のような長期工事では、何回も結び替えた。
 古舞材は、竹に限る。

 戦時中は、黒縞の迷彩もした。
 全面、ナマコ壁の蔵もある。

 土蔵は火熱に耐えるべく、屋根のはりだしが無いから、風雨には却って弱い。
 そのために、雨水のあたりが激しい部分をナマコ壁にするわけ。
 これは瓦を垂直面の外皮に張った構造。

 扉は、少し軸を狂わせてある。そうすれば、プラプラすることがないからだ。
 江戸では寺院と劇場も土蔵造りであった。



スギャーやつ が あらわれた……。

 Riley Black 記者による2020-9-15記事「Why Birds Survived, and Dinosaurs Went Extinct, After an Asteroid Hit Earth」。
    1億5000万年前のジュラ紀、恐竜の仲間として始祖鳥が登場した。
 今日からふりかえると恐竜は大きく二つに分けることができた。鳥類という、トリ型恐竜がおり、他のすべての恐竜は、非トリ型恐竜だった。

 このふたつのグループの運命が、6600万年前の地球的カタストロフを境に、分かれた。

 直径6マイル以上の隕石が今のユカタン半島付近に激突した。クチバシのある恐竜であった鳥類はそのインパクトを凌いで繁栄できた。かたや、クチバシを持たぬ、非トリ型の恐竜は、ことごとく死に絶えた。

 ※注意。「翼竜」は後者に分類されるらしい。絵ではクチバシがあるようにしか見えないのだが、そこに歯がついている場合は英語で「beak」とは呼ばぬようである。

 白亜紀の終わりに存在した種のうち75%は、次の古第三紀には存在していなかった。
 始祖鳥の化石は19世紀の自然学者を困惑させた。歯がついていたから。

 全体が巨大な鳥のように見えるけれどもそこに歯もあった恐竜たちは、始祖鳥いらい進化し多様化し、数千万年も栄えていた。他の恐竜とともに。

 その中に、ひとつの分派が……。歯のないクチバシを備えた、真の鳥類だ。
 歯は、あれば有益のように思えるが、それをわざわざなくしてしまった理由とは、何だったのだろうか?

 以前の仮説は、歯はトリにとって重量負担増になるから、なくされたのだ――と考えようとしていた。
 ※歯で咀嚼するためには頭蓋骨の周りに筋肉をつけねばならず、それも不利である――と。

 しかし歯を有した翼竜の筋骨を分析すると、どうして、彼らは強力な飛翔者であった。
 となると、食い物が問題なのか?

 やがて古生物学者は糸口を見出した。草食性を強めるにしたがって、トリ似恐竜は、歯が無用化し、歯なしのBeakを発達させたようだ――と。

 歯がなくても摂食しやすい、小型の果実類に集中できるなら、歯を退化させてもよかったのだろう――と。
 ※今のトリは、《草の茎を引きちぎる》という作業が最も苦手なのは事実。春先に巣材として使える可能性があっても、最初から適宜に寸断がされていない草や弦とか小枝(殊にヤナギ類)の引きちぎりは、中型鳥であっても、諦めている。

 歯があった鳥似恐竜を、エナンティオルニス類という。このグループは、ひとつのこらず絶滅した。

 この記者による解説。歯なしBeakを有する鳥類は、死滅した森林の林床に堆積残留していた木の実類を捜索しついばむことで、《隕石の冬》を生き延び続け、森林が復活するまでもちこたえられたのだと。

 ※そこで兵頭仮説。隕石インパクト直後の地球上の植物の茎はすべて有毒・有害であった。木の実、草の実だけが、その毒からフリーであった。歯あり鳥似恐竜は、つい、植物の茎をむしり取って食べてしまうので、毒が体内に蓄積された。また、発芽や幼生の茎を食べられてしまう森林も、植生復活ができなかった。歯なしビーク鳥類だけが、植生復活を邪魔せず、植生と協調しつつ生き延びることが可能だったのだ。

 ビークだけではトリ類のサバイバルに十分ではなかった。強力な「砂嚢」が発達したことも、鳥類を助けた。ビークによってタネを丸呑みし、砂嚢によってそれを粉砕して消化できることが有利だった。

 白亜紀末にすでに、今のアヒル、オウム、ニワトリの祖先は存在した。彼らが生き残った。
 隕石の冬の時代、多くの鳥類は、脳のサイズを維持しつつ、全身のサイズを縮小させた。
 他の恐竜と比較して、それら鳥類は、頭の良い生き物に進化した。

 次。
 Jana Puglierin, Jose Ignacio Torreblanca, George Tzogopoulos, Tara Varma, Arturo Varvelli 記者による2020-9-16記事「Views from the capitals: Gas conflict in the eastern Mediterranean」。
    キプロス島の近くでガス田が発見されたので、ギリシャとトルコがまた緊張している。リビアも黙っていない。

 6月、トルコの軍艦が、フランス海軍のフリゲート艦に照準レーダーを合わせた。フランスは一時、NATO演習から抜けることにした。
 フランスは、ギリシャ、キプロス、イタリアを糾合して、トルコの侵奪的な資源支配政策に対抗させようと考えているところ。

 ※中共は黄海上の重量物運搬船から宇宙ロケットを発射し始めた。この意味は深い。重量物運搬船はみずから半没してまた浮上するという操作が自在。だから、SSBNのキャニスターが機能するかどうかの実験もたやすいのだ。じっさい、宇宙ロケットはコールド・ラーンチされていたから、SLBMと変わりがない。これで、アメリカに対して、射程1万km級のSLBMを持っているぞと暗に主張できる。いずれはホンモノの巨浪の最新バージョンを、米海軍の潜水艦が入り込み難い渤海から模擬発射実験することもできよう。それを搭載するじっさいのSSBNは海南島に配備するしかないが、実験だけは、渤海でするのが安心だ。浅すぎる黄海のデメリットを、メリットに転換できる可能性を、彼らは発見した。

 次。
  CHAD GARLAND 記者による2020-9-16記事「‘Marines make excellent soldiers’: Over half a Marine tank company just joined the Army National Guard」。
    徐々に廃止されることになった米海兵隊の戦車部隊。彼らは失業するのか?
 そうではない。なんと陸軍の兵隊として再出発するのだ。身分が変わり、陸軍の州兵に所属替えとなるのである。

 先陣を切ったのは、海兵隊の第四戦車大隊の「C中隊」に属していた予備役たち39人。このたび、アイダホ州兵陸軍に登録された。
 なお、C中隊は先月、解隊された。

 アイダホ州兵陸軍の第116旅団戦闘団は、改修されたM1A2を装備している。

 最終的には800両以上の海兵隊のM1戦車とその関係隊員が、身の振り方を考えねばならない。これから10年で。



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


旧資料備忘摘録 2020-9-16 Up

▼大森清次郎『実行容易 南洋全信者百話』大3-11
 雨滴が大きい。
 マレー人は、カップに口をつけず、かならず滝呑みをやる。それで、雫一たらしも溢さぬ。

 白人にもふつうにドロボーがいる。仏人はおとなしい。ドイツ人は最もふてぶてしい。
 土人は酒気ある人に時々暴行を加える。

 雨の降る中、外出すれば、かならず病気になる。
 豚肉を食うことから華僑は排斥されている。ただしマレー人は調味料としてラードを使うのだ(p.140)。

▼権藤林蔵『奇聞珍談 南洋土人の話』大4-9
 マレー人が口にする肉は、魚か羊のみ。
 豚肉は「バビ」と呼んで避けている。※イスラム教徒なので。

 寝るときに、カラッパ油を塗る。香気が強く、蚊が来ない。
 右手に水入れを持ち、そこからカラッパ油を左腕にたらし、それで肛門を洗浄する。

 山人は獰猛。非山人は不正直である。アチン州。
 土人の美女はバンドンにいる。

 ジャワの「竹夫人」を英人がダッチワイフと名づけた(pp.133-4)。
 交趾支那の仏人は、兵士あがりが多く、高等官を除いて、ひどく堕落していて、日本の醜業婦や支那女を妾とし、家庭もどきを営んでいる。こんなところにやってくる仏人女はいないのだ。

 大陸浪人と違い、日本人の南洋浪人は、ド腐れ中のド腐ればかりである(p.164)。

▼吉富重夫『行政機構改革論』S16-3
 現行政府は、国務大臣と行政長官(行政大臣)を同じ人間にやらせている。
 これは分離した方がいい、という考えから、近衛内閣時代(S12-10-15)に「臨時内閣参議」というものを設けた。

 S9に斉藤実内閣が、5相会議(総理、陸海、蔵、外)を創始。
 広田内閣は、閣議中心主義。
 S11-4に、陸・海、外の三相会議。
 近衛内閣は、五相と3相を両立させた。

 要するにこの5人以外は「事務大臣」にしてしまえばいいと考えた。
 阿部内閣は、兼摂大臣を多くすることで、少数閣僚制を実現しようとしたが、失敗。

 理想は、中核の国務大臣を全員「無任所大臣」にしてしまうことだ。
 S14の国家総動員法にあわせて、数省の権限に関する事項はなるべく内閣三長官に一任することに。

 四相会議のころ(S12頃)、「経済参謀本部」を置こうとした。
 ○○会議 は、制定法でなく慣習法でいける。要は、長く続けたらよいのである。

 岡田内閣……内閣調査室
 広田内閣……総務庁案
 林内閣……企画庁
 近衛内閣……企画院(内閣ブレントラスト)
 いずれも目指したのは同じ、役人統制天国。

 S11には外務と拓務をあわせて「外政省」にしようとした。
 農林と商工はあわせて「産業省」に。
 鉄道と逓信は、内務省のうちの土木局ともあわせて「交通省」に。

 委員は十名以上いたらダメ。協力共働などできぬ。
 太政官制では、各省は太政官に隷属する分官だったから、いちいち太政官の指令や許可が必要だった。宮内省ですら然り。
 さらに、タテマエだと大臣や納言がボスのはずだが、実権は参議にある。

 三条が太政大臣。岩倉は右大臣。島津久光が左大臣。大久保、木戸、大隈、伊藤はその下。

 太政官は太政大臣を長官とする独任機関。太政大臣ひとりが天皇に直隷し、各大臣を指揮命令できる。
 内閣は合議機関。
 国務大臣は、大臣および参議。
 行政長官は各省卿――と、分けていた。外務のみ、その例外としていた。

 これがM18-12に、内閣制に変わったわけ。
 それ以前は、国務に関して輔弼する内閣と、行政や省務をすすめる内閣が、分けられていた。議会との交渉は国務大臣だけがあたった。
 行政は、国務よりもテクニカルだから、そのボスは短期間ですげかえてよい。

 参議が省卿を兼ねると、縄張り意識が生じて、もはや他省のことに口出しすることは憚るようになる。

 M18以降、各国務大臣は、直接上奏可能になった。しかし慣例として、総理を経由していた。
 primus inter pares

 外務省の外交は、政治家がやり、官吏は通商のことだけをやれ。あとは文化事業。
 大蔵省の主計局管掌事務は内閣へ移せ。

 この時点でも行政統制は「大蔵省統制」でやっている。
 こんな巨大な統制を一省にやらしておいて、良いわけがない。

▼増田福太郎『原始刑法の探求』S19-3
 台湾の高砂族の研究である。

 じぶんの正しさは、人(主に漢人)の首をとってくることで証明する。
 とれなくば、崖から飛び降りて自死す。

 しゃぼんを使わない水の泡を吹き飛ばして、犯人の家をあてる「水占い」がある。
 殺人者も、山に蟄居して、弓を用いずに素手で小鳥を捉えたら、家に帰ってよい。

 鹿の声音に巧み。そのおかげで仲間の鉄砲に誤射されることもある。
 主食は粟。山ではイモ。他に、肉。

 犬は殺してはならない。猫はよい。
 犬(asso)殺しは人殺しに準ずる重罪。

 アミ族の神話。洪水が起き、兄妹神が、山に流れ着いた。相姦すると、ミミズや亀ばかり生れた。そこで神に祈ると、普通の人間を生めるようになった。※古事記のオリジンが南洋にあるのは、自明。

 パイワン族の竹槍は身長の2倍強ある。台湾南部。
 アタヤル、ブヌン族は、ボルネオ系マレー人。東海岸の北部。
 ヤミ、アミ族はフィリピン系である。位置は台湾南東部。
 ツオウ族は、インドシナ系らしい。中央部。
 サイシャット(北部)とパイワン族(南部)は不明。

 インド文化もイスラム文化も被らなかったところが貴重。それだけ原始的。

 一例の違反もないならば、それは「タブー」と意識されることもない。
 仇を Paris と称するのはアタヤル族のみ。

▼松下正寿『米国の戦争権論』S15-9
 米国法制は基本的に英国と同じ。
 大陸系と違って、行政行為の責任は国家にはない。個人=担当官吏にある。

 それは、合法的だったならよし。非合法だったなら、個人で責を負わねばならない。
 上官命令だったとしても、免責され得ないのである。

 ただひとり、大統領は「応訴義務」は免除されていると考えられる。
 これは英法の King can do no wrong の、大統領への適用だ。

 1928パリ不戦条約は、門戸開放をタテに戦争に訴えることを禁じたと解釈される。

 宣戦権と戦争遂行権は、分けられた。
 外交、媾和、条約は、大統領と上院。
 宣戦をする「議会」とは上下両院のことである。

 議会の民軍〔ミリシャ〕召集権は、「合衆国の法規を執行」「反乱を鎮圧」「侵略を撃退する」ためにのみ可。

 しかし民軍加入者は大元帥〔コマンダーインチーフ〕の命に従う宣誓をしているので、欧州派遣が可能になる。

 大統領は国内に軍政(戒厳)を敷くことも可能。しかしその間の民法/刑法違反は、戒厳解除後に裁判所で裁かれる。罰をくらうのは戒厳司令官。

 英で兵権が王から議会に移ったのは1806とされる。
 仏では1791に国務大臣に渡っていた。
 米は1787の憲法会議だから最も早い。

 WWIで英仏は戦争開始とともに反対党といっしょに挙国一致内閣をつくった。
 首相一人だけすげかえることもできる。
 米国にはこの長所はない。それどころか大戦争のさなかでも、4年ごとに大統領選挙をせにゃならん。

 南北戦争はリンカンの当選が契機で始まっている。
 しかも次の選挙では、リンカン、その部下マクレラン(民主)、同じくグラント(共和)が争わんとした。実際はリンカンvs.マクレランとなる。

 米が1917にWWIに参戦したのは、1912就任のウィルソン大統領がこの前例を気にして、1916に再選が確定されるまで待った結果と言われている。つまり戦争中の大統領選挙はよくないと考えたのだ。

▼村上秀二『共栄圏の水』S19-9
 満州人を温浴させると たちまち凍傷を患う。
 マイナス30度では手の露出4分で、危険。

 鯉は、カチコチになっても 水中に投ずると生き返る。
 満州では十月の松花江のみが清流。
 満州で○○泉 とあれば、酒用にできる良水の涌くところ。または、温泉があるところ。

 田毎の月とか万田の月というのは、段差があるから。高低差のない平地の水田地帯だったら、月は1個しか反射して見えないのである。

▼永井潜『人性論』大6
 著者は自然人類学者か。
 馬やノロシカの骨で銛をつくると、しばしば、七支刀のような外見の骨角器となる。
 ※というか、骨角器を拡大して金属製にしたのが七支刀なのだろう。

▼高橋健自『鏡と剣と玉』M44-7
 上古の手鏡は白銅鏡。ヤタカガミも。
 後世は、青銅鏡。
 稀な例外として、鉄製や銀製がある。

 中央部のヘソのようなところは紐座という。紐を通す横穴が通っている。
 八咫の神鏡は径1尺内外と察し奉るべし。
 周尺の8寸は今の日本の4寸強。
 厚さが何段も違う同心円からできた鏡。

 平田の時代、すでに水銀をすりつけた、光る鏡があった。これは青銅鏡時代からあるテクニックで、鏡面にアマルガムができる。

 カヌチは「かねうち」。
 マガタマは、もと動物の爪牙に孔を穿ったものというのは、既に斯界の定説である(p.190)。

▼日本工業新聞社『日本若し戦はゞ工業界はどう動く』S7-12
 WWIで米ウエスチングハウスの輸出した機械の半分は日本が買った。特に高田商会。

 真っ先に値段が上がったのは、工業薬品。染料。火薬用ではなく、衣服用。おもわく投機。
 次に船。
 それにつられて鉄が上がる。開戦から半年後。

 船賃は、開戦の1年後から上がる。
 銅は各国で備蓄されていたので、値上がりしなかった。
 亜鉛が上がった。薬莢製造に必要だった。

 亜鉛鉱山(支那の水口山)をめぐり、三井・古河・藤田連合と、大倉・久原連合がシノギを削っている。
 石炭はジリ高。

 「日本兵器会社」は、東京工廠の元小銃製造所長・小林【金申】八郎(砲兵大佐)が指導して小銃を試作、また陸軍のための軍用自動車を試作した。

 WWIでロシアに野砲用信管を売った。
 ロシア信管の特徴は、アルミを多用していること。
 媾和後は、紡績機に転換した。

 日本の軍服は羊毛。戦時には絹で代用するつもり。綿入れとする。
 すでにその試作あり。3尺離れるとピストル弾を止められるという。

 カーキは染料で染めるのではなく、薬品で化学処理する。

 日清戦争のとき、カンヅメの中に石ころをつめたのがあったと聞く(p.144)。

▼『南方へ挺身する人々へ』S19-6
 熱帯生活必携。
 南洋ではアブラが不可欠。調理は油炒めなので。
 内地でこれの参考にできるのは、鹿児島と沖縄料理。

 南方では豚もトロも脂は抜けている。
 そこでパーム油で補う。

 パラオ住民の銛の投擲、神業である。
 家は床下を高く、石壁を厚くする。窓は大きくする。
 床は、竹を2つに割ったやつを すのこ式に張り、下からも通気せしめる。
 屋根は高いほどよい。

 高い棟から先 軒への傾斜を急にする。
 広いベランダを接続させることによって、屋内に陽を入れぬようにする。

 部屋割りは、中央に1本、縦通の廊下を貫通させて、その両側に部屋を並べる。この廊下なしの間取りにするとダメ。
 暑いと夜の眠りが浅くなる。だから昼寝の必要がある。
 水浴は、しばしばせよ。

 土人は軍帽、勲章をよろこぶ。
 ニューギニアではなぜかコメは作れない。



インド移民がじつはロシア政府のスパイだったというノルウェーでの事例。これから増えるだろう。

 The Economist の記者による2020-9-12記事「Tanks have rarely been more vulnerable」。
   シンクタンクのIISSによれば、全欧に戦車は5000両以上あり、全世界では5万4000両あるという。
 ことし2月、トルコ国産の固定翼ドローンがシリアにおいて、わずか2日のあいだに数十両のロシア製戦車を空対地ミサイルを放って撃破してしまった事件が、斯界に重く受け止められた。

 3月に米海兵隊は、対支作戦を睨んで、戦車を廃止する方向を打ち出した。それに続いてこんどは英陸軍が、戦車を捨てると言い出している。

 じつは先進国軍として最も早く戦車を見限ったのはオランダ軍で、今から10年も前だった。しかし現在オランダは、ドイツから戦車18両をリースで借りている。

 全周から飛来する対戦車ミサイルを戦車の側から迎撃して叩き落そうというシステムもあるが、コスパの面で歩が悪い。イスラエルの「トロフィー」システムは、連続2回この迎撃機能を発動するとタマ切れになる。3発目のATGMが飛来したら、アウトなのだ。

 ※陸自にまだ「対戦車隊」があるのかどうか知らないが、対戦車隊こそがまず「攻撃型ドローン」を装備して運用するべきだ。それがとても有効であることは実証されているのだから。先年、米国の演習場に遠征して、偽装などまったく役に立たないことを確認した7師団も、もう戦車の時代じゃなくなったことに同意するんじゃないかな。しかし一足飛びに、トルコ軍レベルの能力は持てまいと思われるので、まずテーザー式・マルチコプター型のドローンを、長距離対舟艇ミサイルのセンサー・プラットフォームとして導入するところから、始めるといいのでは……?

 次。
 Andrew Knighton 記者による2017-6-21記事「The First Tank Attack: The Battle Of The Somme」。
     第一次世界大戦における戦車のデビュー戦は、1916-9-13のソンムであった。
 英国が発明した菱形戦車は、重心が低いのはよいのだが、全体が28トンもあったのに、エンジンはたったの105馬力。不整地では時速1.5マイルしか出せないのだった。燃費は、その1.5マイルを進むために、ガソリン1ガロンを燃やす必要があった。

 耐弾装甲もまだ研究が未熟で、機関銃で撃たれると、鋼鈑の内側表面が剥離し、銃弾から受け取った運動エネルギーをもらって車内を跳ね回った。

 最初の戦車兵たちは、革のヘルメットとゴーグル、そして鎖編みの垂れ布で首から上を保護していた。

 敵歩兵による手榴弾攻撃を用心して、最初の菱形戦車の天板部には、六角メッシュの金網が張ってあった。しかしすぐに、それは無用であるとわかる。

 ステアリングは、片側の履帯にブレーキをかけることによっていた。そのため、両サイドに1人づつ、ブレーキ係を置き、それを車長が統制した。

 直協する砲兵射撃は、戦車の前進予定コース上には、終始、1発の砲弾も落とさぬように気をつけた。というのは、砲弾がほじくりかえした湿った地面は、真の底なし沼のような状態となり、無限軌道であってもスタックするであろうことは、常識的に予見できたのだ。

 ソンムでは、英第41師団は、7両の菱形戦車に続行して攻撃前進を開始したが、あまりに面白くなってしまい、味方の戦車を超越して、先にドイツ軍の塹壕線まで達してしまったという。

 次。
  Chris Baraniuk 記者による2020-9-14記事「Did a Solar Ejection Hinder the Titanic?」。
       1500人が溺死した『タイタニック』号遭難事故は1912-4に起きた。
 このときじつは太陽嵐が吹いていて、北大西洋のある場所ではオーロラが目視できたという。
 その影響で、船舶のコンパスはわずかに狂わされており、無線は通じなくなっていた。しかしクルーはそれを認知できなかった。それが事故を避けがたくしたのではないかとの仮説が『ウェザー』誌に寄稿された。

 付近を航海していた『カルパチア』号は、SOS無線を聴き、漂流者705人を救出できている。
 だが『ラ・プロヴァンス』号は、この救助信号を受信できていない。他の船舶無線は受信できていたのに。
 かたや『モンタンプル』号は、『タイタニック』からのSOSを受信して返信した。しかし『タイタニック』号の側では、『モンタンプル』からのその返信を受信し得ていない。

 『タイタニック』号事件研究の第一人者を自負するティム・マーティンは、この新仮説にはご不満のようだ。事実、タイタニックの沈没地点は、まさしく、タイタニックの計画針路上である。コースは狂ってなどいかった。

 すくなくも生存者のうち3名は、オーロラを見たと言っている。

 ちなみに、記録されている過去最大級の太陽磁気嵐は1859年。キューバでもオーロラが見えた。当時の有線電信機材からは火花が飛んだという。「キャリントン・イベント」と呼ばれる。こんな磁気嵐が今、やってきたなら、現代世界はたいへんな混乱に見舞われるだろうことは間違いない。

 次。
 Diane Peters 記者による2020-9-15記事「The Scramble to Defuse the ‘Feral Swine Bomb’」。
     フェラル豚とは、家畜だったのが脱走し、すっかり野生化しハイブリッド化が進んだ、たくましすぎる豚たちのことで、特に北米大陸では、この野ブタが おびただしい数に増えている。

 フェラルスワインは自然に身を隠すのが巧みで、簡単にハントできない。
 大群で行動しており、もし1頭がライフルの銃弾を受ければ、音声の警告が伝えられて、他のブタは皆逃げ散る。嗅覚はおそろしく鋭敏で、智能も高いゆえに、とてもハンターが一網打尽になどできない。

 合衆国内だけでも900万頭もいるのではないかと試算されている。生息域は30年前は17州だったが、いまは38州にまたがる。
 カナダ領については統計がないものの、すでに広範に棲息しており、さらに拡散し北上するのは時間の問題にすぎないという。

 豚は多産だ。飼育状態では牝ブタは年中妊娠し、年に10匹以上の仔豚を産む。順調なら、倍倍ゲームで増えていく。米農務省の担当者はこの問題を「フェラルスワイン爆発」と表現する。

 これら21世紀型の北米野ブタには、古代の欧州のワイルドボア=大型野猪の遺伝子も、もともと入っている。それが自然界でどんどんミックスされ、今や「スーパー野ブタ」が爆誕しつつあるのだ。

 家畜のブタのサイズは、農家が肥育を制御しているからアレで収まっているわけで、野生ブタにはそんなリミットはない。古代のワイルドボアのように信じられないほどに巨大化することは可能だ。厳しい冬を乗り切るためには、巨体の方が有利。フェラル豚は、このコースを辿るだろう。

 この豚軍団、農家の畑を荒らし、仔牛や仔羊を襲って喰らい、さらには妊娠中の母牛や母羊すらも襲撃するという。野生生物や自然生態には当然、インパクトを与えている。
 アフリカ豚熱が北米に急に広まったのも、野生豚が媒介したのではないかと疑われている。

 ※巨人や火星人が人間を襲って食べてしまうといったSF設定よりも、新世代の巨大豚の大軍が人類と敵対し地球を支配しようとする可能性の方が高いのか? 雑食だしな……。

 テキサス州には野ブタが150万頭。これを駆除するため州政府は毎年400万ドルも支出している。だが、頭数が減っていない。
 1匹の野豚の平均行動域は、30平方マイルである。
 ハンターの圧力が加わると、彼らは夜行化して対抗する。

 フロリダ州、ジョージア州、カリフォルニア州も多い。
 モンタナ州にはまだフェラル豚が侵略できていない。州政府は、州民への啓蒙活動を通じて水際撃退の体制を準備している。
 2013年にモンタナ州のハンターがテキサスからフェラル豚をわざわざもちこんで、野生ゲームとして増やそうとした。州政府はこれをすべて殺処分せしめ、2015年に、フェラル豚猟を違法化し、州内でフェラル豚を所有したり移動させた者には最大1万ドルの罰金を課せるようにした。



日韓戦争を自衛隊はどう戦うか


旧資料備忘摘録 2020-9-15 Up

▼防研史料 〔マル39/256〕陸軍築城本部『南方視察に基づく築城の参考』S19-6
 同じ自動車ではない。日本軍と米軍とでは車両装備の性能が違うのだ。だから、陣地の翼を依托する地形を見るときに、我には超ゆべからざる障碍と見えても、敵にとっては安易なる通路でしかない〔=簡単に翼側から迂回してこっちの背後に出てしまえる〕場合があるから、そういう装備の性能差を、正当に判断するを要す。

 現地の物料、木材の見方。
 樹液が多く、幹が白いものは、脆弱な材木である。
 板根を有する、幹が赤いものは、強度が大である。しかし、フィリピンによくある、チーク、マホガニーなどの高級南洋材は、とうてい、内地の斧やノコギリで切れるもんじゃない。
 赤ラワンは、ミンダナオ島やネグロス島に多く、釘持ちが良好だ。
 白ラワンは、いたるところに生えている。
 ニューギニアには、竹はあるものの、虫害を受けている。
 タコノキの葉で「網」をつくることができる。

 珊瑚礁は、コンクリートの骨材になる。だがこれも、最初から粒状に砕けていないものは、十字鍬では崩せないから、爆薬を使うしかない。というわけで、爆薬の補給がとても大事。
 海水でコンクリートを混和してもかまわない。ただし、無筋なら。

 現地に派遣されたら、すぐに調べるべきことは、ジャングル内での音の届き方。夜の海岸での舟の見え方。
 密林では、小銃の音は1km届く。
 作業音は夜は800mまで聞こえる。
 私語は、夜は400mまで、昼は220mまで聞こえる。
 足音は、ニューギニアでは250m聞こえたことがある。
 大発などの発動艇の音は、海岸にて800m先から聞こえる夜もあり、20mということもある。

 まずニセ陣地をこしらえてから、真陣地の工事にかかれ。作業途中で発見された時に、敵の砲爆撃はすべて、ニセ陣地で吸収してくれる。

 旧来はこう教えていた。分隊は、50m以上の正面に散らすな。小隊は200m、中隊は500m、大隊で2000m巾だぞと。
 しかし、最近の戦例でわかった。米兵は、ジャングル内にこっちの守備兵が健在であると承知すれば、もうそれだけで、前進してはこないのだ。つまり、こっちの火力密度が濃いか薄いかなど、持久防禦の目的達成の見地からは、関係がないのである。
 だとするなら、こちらが一兵でも多く生存し続けることが大事だ。それには、もっと守備の配置を散開させるのが有利だ。密集していると、敵の大威力の火砲や爆撃のために、いたずらに殺傷されてしまうので。
 指揮官が掌握ができる限りにおいて、極度に疎開せよ。

 火力装備に劣るわれらとしては、狙撃とか、急襲射撃を工夫するしかない。

 ノモンハンでは、敵はまず囮の戦車を先行させた。それによって日本軍の対戦車火力の位置を暴露させて、それを撲滅するようにしていた。

 キスカとラバウルでは、わが高射砲は、空襲がおわるごとに陣地を変更したので、生き残ることができた。

 地下化のコツは、横穴を掘ることのできる土地を選ぶことだ。垂直方向に穴を掘っても、水で苦しむのみ。
 大型爆弾を落とされてもぜったいに安全なのは、尋常土で30mの厚さ。岩盤なら10mの厚さ。それを確保するには、山の中腹に横穴トンネルを掘るしかない。

 アッツでは、ここからは這い上がってなど来られまいと考えていた断崖から、敵の戦車×15両が現れた。
 タラワでは、越えられないはずの環礁を履帯で乗り越えて、水陸両用車が礁湖内に楽々と侵入し、桟橋から上陸してきた。

 椰子樹は内部が脆弱で、表皮からは虫に食われる。椰子(ココヤシ)は、乾いたら効力ゼロ。そして、乾湿を交互に経ると、3箇月でボロボロに。数日の用にしか足りぬものと知れ。
 土民からも恨まれるし、対空遮蔽もなくなってしまうから、伐採はするな。※椰子は、住民が植えて育てていた場合が多かった。

 ひとつのMG壕で全周を火制させようなどと考えるな。
 射界をごく狭く限った、小さな掩蓋壕を多数をこしらえておいて、それを電光形の交通壕で結ぶこと。

 敵が来る方に向いた銃眼は、発見されれば、平射砲〔じっさいには、戦車砲〕でやられてしまう。だから、敵方に対する掩蓋陣地などは最初から工事しないという選択がある。露天立射壕を偽装で覆っただけの方がいいことがある。

 馬用の掩壕は、1頭づつ、首の高さまで掘る。水源と交通しやすいように位置は考慮すること。
 樹高40mが得られるならば、指揮官は、是非にものぼって視察をせよ。

 南方では、木材は数ヶ月で腐る。立ち木は永久にもつから、鉄条網は立ち木を利用すること。生籬。

 通信は有線だのみ。しかし架空してはダメ。砲撃ですぐ切られるから。地中30センチに埋めて通すしかない。そのさい、ピンと張らないこと。

 敵の航空爆弾の破片の威力は大きく、大砲の腔内すらも傷をつけられてしまう。37ミリ砲の砲身内をやられた例あり。

 ガス防護用の晒粉は、湿気に弱い。
 活性炭は、椰子の実の殻から、簡単につくれる。【火へんに慮】過函を、自製できる。ただし効力は数時間しかもたない。

 いちばん良い偽装は、植樹である。それもタピオカや芋である。
 守備隊の食糧ともなるゆえ、一挙両得。

▼防研史料 長谷川治良『陸軍火薬史年表』S43-9
 大8-11、平壌に朝鮮兵器製造所を新設する。
 「東京工廠」は、十条の「精器製造所」(S11-8)のことになる。

 S15-12、仁川造兵廠を新設。
 S19、小倉造兵廠に春日製造所を新設。

 硝宇薬と安瓦薬は、S12から生産。
 平寧薬はS14から。
 塩斗薬はS4から。
 茶褐薬は、震災前から。
 茗亜薬と硝安薬はS6から。
 硝斗薬はS19から。

 大12-4~12-8の間、南部麒次郎中将が初代の火工廠長。そのまえは、東京砲兵工廠の提理〔=所長〕であった。

 M4から日清戦争までが、黒色火薬時代。
 2号火薬というのは、小銃用の黒色火薬。

 M14、海軍がドイツから褐色火薬(大砲用の有煙薬)の製造権を購入し、目黒火薬製造所で生産。
 日清戦争後に、無煙火薬と高級爆薬〔黄色薬のこと〕が出現。

 M32、陸軍において無煙小銃薬製造法が制定される。※まともな装薬が量産できなかったのでは、22年式連発銃が不振におわったのも無理はない。

 満州事変後、ニトロセルローズ薬より活力大なるニトログリセリン薬が採用される。
 日清役まで、爆速が音速以上の軍用爆薬は、日本軍にはなかった。

 日清役後に、黄色薬が導入される。しかし腔発が多かったので、ヂニトロナフタリンを混ぜ(鈍化させて)、黄那薬と称した。

 茶褐は前からあったが、伝爆に茗亜薬を必要とした。その実用化が大7。
 WWI後、資源豊富な混合爆薬、硝酸アンモニア〔ママ〕=硝宇、過塩素酸アンモニア〔ママ〕=硝斗 などが、代用爆薬になる。
 トーチカ破壊用の爆薬として、S10に、硝宇と硝英が制式に。→安瓦薬。
 別に、淡黄薬、灰色薬を制定。

 M17に、第二火薬製造法取調委員が3人選ばれた。有坂成章大尉が含まれていた。小銃薬、山砲薬、野砲薬を研究。
 M20-1、小銃薬、山砲薬、野砲薬の製造法を制定。

 M20-7、はじめて綿火薬を採用(輸入品)。工兵用として。
 M20-9、砲兵会議は綿火薬を弾丸炸薬に採用。
 M24-3、島川文八郎大尉、ベルギーで無煙火薬の製造法を研究す。

 M31、野戦榴弾の炸薬として黄色薬を研究。
 M32、工兵の爆破薬を黄色薬とする。
 M33-8、炸薬として黄色薬を制式採用。
 M36、黄色薬を被包内に溶填する方法により各種弾丸に使用開始。

 大15-10、無煙拳銃薬の規格を追加する。

 S6、あお、しろ、みどり、きい、あか を制定。
 みどり1号は臭化ベンジル催涙剤。
 みどり2号は塩化アセトフェノン催涙剤。
 あを ……ホスゲン。
 しろ ……発煙。
 きい ……イペリット。
 あか ……くしゃみ。

 S9、口径20ミリ以下の機関砲に米国式の管状薬を採用する。
 S10、硝英、硝宇を採用。

 S12、ちゃ(青酸) 制定。
 S13-1、硝英、灰色薬を制定。
 S18-1、英宇薬(硝宇50+硝英50)を制定。

 92式13ミリと98式20ミリには、五番と七番の管状薬が使用された。管状薬は、38式歩兵銃の弾薬と同じものである。ニトロセルロース(C薬)。
 淡黄薬とは、茶褐38、硝宇55、茗亜7の混合。タ弾はこれ。
 手榴弾には、塩斗薬が使われた〔末期?〕。塩素酸カリ80、ヒマシ油4、ヂニトロトリオール16。

 黄那薬は、黄色薬80+ジニトロナフタリン20の混合で、砲弾用。

 消焔性を追求すると、砲口煙が増す。海軍はそれを採ったが、陸軍では不採用とした。
 安瓦薬は、資源豊富、且つ、弾丸に溶填が可能。

 大12、甲剤(ホスゲン)の研究。
 S2、甲号7.7ミリ歩兵銃用火薬の研究。

 M27-6、板橋火薬製造所で、無煙小銃薬を製造。
 大11、7.7ミリ小銃薬の製造を開始。

 初期の黒色火薬の木炭材としては、柳が使われた。他に、楮[こうぞ]、ハンノキ。
 安瓦は、資源豊富、安全、ピクリン酸相当の威力、低温で溶解できるという、四拍子が揃った日本の発明品で、WWIIの砲弾はこれで戦った。

▼防研史料 技本調査班長『S3.9~S5.12 試験予定表綴』
 毘式戦車銃砲射撃試験。S3-9-20~22、於、宮城県 王城寺原。

 S3-10-18~24、水陸両用装甲自動車竣工試験を予定する。10月中旬に竣工する予定なので。試験は、府下および静岡県下。※沼津海岸かと思われる。

 擲弾筒その他 火工品の保存試験。S3-9-26~10-8。

 S3-11-24~12-1、「ビ」式0.5吋高射機関銃〔ママ〕射撃試験。ビ社に注文していたものが到着したので、伊良湖で。

 S3-12。75馬力牽引自動車 および軽牽引車 竣工(改修)試験。
 「急硬セメント」も研究していた。

 S4-1、戦車に7.7ミリと13ミリ鋼心弾を撃ち込む試験。富士裾野にて。数日間をかける。

 ビ式13ミリ高射機関砲を、S4-2にもテストする。
 小銃「眼鏡」の第二回テストを、S4に。

 試製戦車砲の第一回機能試験を、S4-3月下旬に、大阪の大津川にて。

 S4-3、ビッカースに注文した水中聴音機を、神奈川県 浦賀町 走水で、海中試験。

 ビ式0.5インチ高射機関砲のS3-1のテストで、腔中摩滅がはなはだしいことが判明。1000発で横弾が生じ始める。

 S4-4、13ミリ用の試製榴弾と信管をテスト。
 S4-5、「試製自動短銃」〔これは拳銃ではなくSMGのこと〕、「試製狙撃銃」を試験する。富津にて。

 S4、試製57ミリ対戦車砲、試製75ミリ対戦車砲、新様式の3年式機関銃高射用具、戦車用改造3年式機関銃、仝改造11年式軽機関銃。

 S4に作られた円【土へんに寿】形の投下爆弾は「引き抜き鋼管」を利用している。

 S5-1-31~。仏国保社よりあらたに購入した高射機関砲につき、射距離1500m以下の地上射表と、高射射表を編纂するために、伊良湖でテスト。
 2月~。37ミリ機関砲の竣工試験。

 S5-4~。試製20ミリ榴弾用信管の第一回試験。
 57粍戦車砲には「霰弾」もあった。4月~5月にテスト。

 S5-5~。保式13ミリ機関銃〔ママ〕および試製双連高射機関銃 射撃試験。明野で吹流しを射つ。
 ※海軍では「連装」だが、陸軍では「双連」という。

 S5-5~。カーデンロイド・二人用戦車、フィヤット〔ママ〕軽戦車、高射砲牽引6輪自動車 試験。広軌用牽引車 試製完成、試験。4輪と6輪があった。

 S5-5~。台南で戦車耐熱試験。
 赤外線候敵機 試験。千葉の八幡で。

 S5-10~。ベッカー20mm機関砲弾丸用信管の研究。
 S5-10~。三八式歩兵銃銃身短縮度とその精度との比較試験。歩兵の負担量を軽減する見地より、歩兵銃の重量を軽減する目的を以て銃身長の短縮度とその初速ならびに命中精度との関係を調査せんとす。

 S5-10~。11年式軽機関銃に防塵装置をつけるテスト。
 S5-10~。軽装甲車自動車 試験。7糎戦車砲竣工試験。

 S6-2~。空中手榴弾 テスト。下志津の飛行学校。

 S6-2~。7粍7機関銃 富津でテスト。
 八九式実包を使用する7.7粍機関銃を試製せるにより、試験す。

▼防研史料 技本『S4.10~5.3 研究審査現況表』
 3年式MGの7.7ミリ化は大9-7-20に方針を立てたが、現時点で5/10の進捗度。タマが決まらない。
 ※92式HMGはS5には未だできていなかった。

 大15-2-25に、自動短銃(マシンピストル)を自動小銃の予備研究と位置づけていたが、審査は中止した。

 大9-7-20から、塹壕兵器として、棍棒、手斧、短刀、鉛棒を研究していたが、終了した。
 航空機用ビ式13ミリ固定機関銃は、1回テストを済ませた。※そのDATEは不明。

 20ミリ弾は、戦利ベッカー砲(2門以上あった)のために試製した。
 大11-4に研究方針を立てた13ミリMG弾丸、毘式13ミリE弾とD型機関砲の弾丸の試製を終了。

 水陸両用装甲自動車。大14-9 設計着手。大15-9 製作図 略完了。大15-11、東工廠で完成したものをテスト。
 大9-7研究方針。
 「突撃用具」……無線操縦の爆薬車。三トン半牽引車を改造中。

▼防研史料 『借入兵器償却に関する調書 昭和7年度~』
 ※以下、単価が列記されているのだが、単位がない。おそらく最後の数字三桁(000であることが多い)は銭と厘で、下から4桁目よりも上が「円」なのであろうと推定する。

 3年式MG(予備銃身共) 1500円。

 38式歩兵銃 46円50銭。(40円のこともあり。)
 44式騎銃 78円58銭。(66円90銭5厘のこともあり。)
 38式騎銃 44円44銭。(53円2銭のこともあり。)

 11年式LMG 700円。(昭和11年には650円。)

 89式旋回機関銃 3500円。 ※固定式MGと値段が違いすぎるのは、11年式LMGベースだから? 単装である。昭和12年の値。

 89式固定機関銃 左右組 8600円。 ※S9の記録の脇に「名工に移転 12.5.1 工秘88」と括弧付き注記。
 89式固定機関銃 乙 4294円70銭。 ※甲と乙で給弾方向が逆になる。

 91式車載LMG 1394円30銭 (1394円80銭のこともあり。)

 92式重機関銃 1264円 (S13年には1727円70銭だった。)

 14年式拳銃 75円 (起工番号=10 戊 411-3。昭和11年の価格だが、昭和12年も変わらず。)
 14年式拳銃 昭和8年に3梃で225円。

 38式歩兵銃 68円60銭(昭和11年)、52円97銭1厘(昭和12年)、43円60銭(昭和13年)。

 26年式拳銃 昭和8年、3梃で94円80銭。
 この拳銃について、「昭和12年5月5日 小工〔小倉工廠〕秘88にて名工〔名古屋工廠〕に移転」とあり。※決算の担当を移管したということ?

 S10-9-14に東支が、18年式村田歩兵銃(廃品)を1、価格2円40銭のものを代品に変更した、と。
 S10-12に、「乙号擲弾銃」。

▼防研史料 『雑綴』S16-2
 押収6.5ミリ チェッコ軽機関銃×2 という記録。
 ※支那軍が世界中から取り寄せて装備していた各種のチェコ軽機系のLMGの中に、日本軍の6.5ミリ弾薬を使えるものが混じっていたということ。特注品だったのか、それとも中華民国の国産品なのか?

 押収迫撃砲は、7.5cmと8.2cmである。

 89式重擲は、昭和9年から11年のあいだに、総発射弾数21215発に対し6発の腔発があった。
 そして昭和12年以降、支那の前線では腔発が相当にある。当兵団(36D)ではすでに4筒。

 93式小火焔発射機。レンジは無風で28m。放射は1回のみ(ただし断続できる)。全重24kg。箱入りで45kg。
 93式戦車地雷は、140kgの重さが乗らないと爆発しない。炸薬は890グラムの黄色薬。

 「98式銃眼用閉塞具」。上下15~60cm、左右50cm、厚さ2ミリの防弾鋼鈑で、トーチカの銃眼を塞いでしまうもの。全備重量7kg。1.8mの鋼管柄付。

 「98式装薬磁石」。吸着爆雷を即製するための磁石で、装薬は、何をつけてもよい。

 チビ……円筒外径13.0センチ。長さ15センチ。内径10センチ。壜の上下13センチ。
 テナカ瓶……《手投げ火焔瓶》……長さ23センチ、径7センチ。

 支那語でフィアットは【くさかんむりに非】亜特。ヴィッカースは、威克斯。
 支那軍の装甲車(6輪、2銃塔)は、おもに英国製だが、昭和9年に独から50台、イタリアや米国からも少数台を買った。中央軍においては「突撃車」と称している。内製化もすすめている。

 タマに塗蝋したのが、銃身膨張事故の原因か?

▼防研史料 『科学的知識不足に基き兵器取扱上現れし欠陥の実例』S16-10印刷
 チェコのプラガに6.5ミリ版もあることを知らず、兵器廠に後送した馬鹿歩兵部隊。
 ※チェコ軽機を鹵獲し、支那軍の7.92ミリ弾や英軍規格/日本軍規格の7.7ミリ弾を発射しようとしたが機能しないので、何か壊れているのだと思って、味方の修理工場へ送ってしまった。これは日本軍の6.5ミリ弾をそのまま発射できるものなのだから、即戦力の有力な武器となったのに、愚かである――という意味。

 押収柄付手榴弾をカナヅチ代りにして爆死す。S13-8、上海付近で某歩兵。※故郷への戦死公報では、壮烈な戦死を遂げ云々という、中隊長による脚色がされるはず。

 爆竹用の黒色火薬を石炭庫と誤り、点火して爆死す。

 粉末黄色薬を調味料と誤り、煮出し味付けに使用し、2名死亡、4名腹痛。
 黒色火薬を薬と誤りて服用し、即死〔するか?〕。

 室内で空襲現示のため94式水上発煙筒(甲)をつけたら、ガスで兵一名死亡。

 97式軽装甲車は始動しにくかった。94式軽装甲車は楽だった。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 97〕『陸技術調五之部』S16-11
 泰軍兵器概説 ~S17-6。
 ※生写真多数。

 ビッカース7.7粍重機関銃(1909年式)。水冷、高射用三脚、または車両固定用ピントル付き。250発布製保弾帯。500発/分。バレル720ミリ、全長1130ミリ。最大射高3000m、照尺は2900mまで。初速730m/秒。

 あきらかに日本軍のものより大口径な、不思議な重擲の写真。
 迫撃砲としては94式軽迫撃砲を装備。
 火砲はほとんどボフォースでトラック車載。

 ※この史料は綺麗にコピーしてタイから防大に留学している学生にプレゼントするべきだ。当時のタイ軍の姿をスナップしている写真なんて、現地にも残っていないだろう。

 装軌牽引車。15H用。
 ビッカース・アームストロング牽引車(カーデンロイドの巨大版といったおもむき)。5.7トン に、ビッカース40ミリAAMGを単装で載せたもの。機械化具合が印象的である。
 40ミリは、砲身2m。レンジ6100m。レートは190~200発/分。仰角85度まで。弾量907グラム。完全弾薬筒1.37kg。初速750~720m/秒。

 タイ軍の95式LTKの写真。
 ビッカースアームストロング6トン戦車の未見写真×2枚。※これは相当に貴重だろう。
 モリス・ビッカース装甲車。

 T-28CTのパレード写真×2枚。1枚は非常にクリア。
 T-35の上面含む、未見クリア写真多数。
 KVの150ミリ砲戦車、砲塔の後面が写っているもの。
 仏3C重戦車のクリアな写真。

 特殊戦車とは、水陸両用、あるいは火焔、あるいは駆逐戦車(4~5トンで、40~47ミリ対戦車砲をもつもの)、あるいは突撃砲戦車(13~20トンで、75ミリ野砲を搭載するもの)。

 日本軍が鹵獲したT-37の未見写真×2。
 イギリスの大砲の写真。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 184〕在独武官室『昭和18年 兵器購入に関する報告書』
 ほとんど工作機械ばかり。
 S18-2-23、ドイツ三井物産(株)、フライス盤 23635マルク。

 「ポルテ」(マルデブルグ市)鉄製薬莢製造権。S17-7契約。扱者は三菱商事。
 三菱、大倉の請求書も。大倉は「大倉産業(株)」となっている。
 たしかに、規格書その他が受領されている。
 ピアノ線も多い。バネ用か?
 ボッシュの、フュール インジェクション ポンプ。

 受領書 S18-7-8。 昭和通商(株)、伯林支店長・前田冨太郎が、独国在勤帝国大使館付武官小松光孝から独貨38万4120万マルクを受領した。
 「兵調独第61号」。
 「軽装甲歩兵戦闘車」×4 ※Sd.Kfz.250のこと。
 単価85980マルク。
 右用予備品一式 40200マルク。

▼防研史料 〔中央/軍事行政/兵器 204〕在独武官室『兵器購入に関する書類綴』其の二
 S18-1-14、大倉商事が1万9657マルク30ペニヒで、戦車用超短波無線機 Fu5型×4台を、陸軍兵器本部の代りに、テレフンケン社から買った。
 ※Fu は Funkgerate?

 クルップから1セットの cal.21cm、L/55.5 付属品一式共 を、タマ150発など〆て 116万4070マルクで三菱商事が。
 1943年1月11日に。
 三菱からこの代金の陸軍向け請求は、S17-12-29になされている。
 独での受領が18-1-7。

 大倉の取扱い。
 2両の Strumgeschutze mit langer kanone (Stu.K.40) 照準器、無線機、50発の Spreng granaten、50発の HL-Geschosse、25のPz.Granatern 39、梱包料込み 〆て単価RM 393.425、2両で786.850。

 langer 5cm KwK つきの III号戦車×1両。
 wie dieser Pz.Kpfwg.
 MG×2付、
100発の Spreng-Granaten
Gasmasken
 送料込 312.950 RM ※ライヒスマルクで、ピリオドはカンマに変換して読むべきか。

 1両の7.5cm KwK付 III号戦車
 wie dieser Pz.Kpfwg
 100 Spreng-Granaten
 RM 362.275

 金39万3425マルクを陸軍兵器本部に請求。S17-12-20。大倉商事(株)。
 内訳。ダイムラーベンツ社製突撃砲。
 長加農(STu.K.40)付。
 工場渡。

 大倉の受領証はS18-1-7発行。

 IV号戦車 M.S.34 (7.1.1943)
 6300 Schuss S.m.K-Munition
1260 Schuss mit Lichtspur
 マルデブルク市の Heeres-Zeugamt が出した手紙らしい。
 Kw.K.40 用の7.5cm弾薬

 軍の間の直接契約
 1セットの IV/F2 戦車シャシー Nr.83231
 同用弾薬

 1セットの IV/F2  シャシー Nr.83230

 トータル RM 801.339
 取扱いは三菱商事。
 1943-1-30。

 三菱から陸軍への請求書は、40万0669マルク。
 但、4号戦車一台代金
 昭和17年12月29日
 受領書 18.1.7

 ハンブルクのイリス商会からST61型機関銃用火造品 及 木被、同線材、鋼材、発条 および 発条材料。
 S17-12-23。

 昭和通商 S17-10-17に請求。独の5トン牽引車×5、単価78060、他に予備品と装備品。
 領収 17-12-23。

 昭和通商。
 1両の schwerer Panzers-Pahwagen(Fu)(8-Rad)
 RM 341000
 重装甲捜索車
 単価 31万マルク。請求 S17-12-15、受領17-12-21。

 MG ST63(ラ式機関銃)絡みは、三菱商事の取り扱い。

 昭和通商は、ドイツにいながら、ポルトガルからダイヤモンドを買っている。43594カラット。

 18トン牽引車×5
 単価128300マルク。
 +予備品
 請求書 昭和通商から陸軍へ。S18-4-10。
 受領 S18-5-27。



熱電対の新発明。

 Robert F. Service 記者による2020-9-11記事「Energy ‘scavenger’ could turn waste heat from fridges and other devices into electricity」。
    熱電素子の良いものがないか、多年、捜し求められている。
 それは、熱そのものの良伝体であっては、困る。電子の流れだけを取り出したい。
 熱が輸送されてしまうと、2極間の温度差が逓減するから、発電セルとしては、よくないのだ。

 もうひとつの課題。数百度の熱源からでなくて、冷蔵庫の廃熱レベルの熱源を、利用できないものか、と。

 そこで、武漢にある華中科技大学は、この熱電素子を、固体ではなく液体でこしらえ、かつまた、電子のやりとりはするが、熱の移動は抑制する、うまい方法を考えついた。

 研究陣は、ドミノ牌サイズの箱容器で熱電素子をこしらえた。箱の天井と底には電極がある。
 底の電極を、熱い板の上に載せる。天板はそれより50度、温度の低い物体に、当接する。
 容器中には、液状のフェリシアン化合物。電荷4のイオンが混じる液体だ。

 この箱の中では対流が起きる。底の熱い電極に接したイオン溶液は、その電子4個のうち1個を放出する。そしてその荷電状態で容器内を拡散的に上昇して、こんどは天井の冷えた電極に接し、そこで電子1個を受け取り、また拡散的に下降する。このサイクルが繰り返される。

 だが、それだけだと、熱の移送もなかだちされてしまう。
 そこで、研究陣は、この溶液中に、プラスに荷電した有機化合物のグアニジンを加えた。

 グアニジンがあると、冷極において、フェリシアン化合物は結晶化し析出する。つまり固体の分子になるので、熱を伝えにくい。したがって冷電極から熱が逃げにくくなる。
 ※昔の軍艦の蒸気ボイラーに入れる真水がなくなったら、最後の非常手段として海水を焚くことができたが、やがて塩が析出して熱交換パイプにびっしりつく。それは断熱材がはりついたも同然なので、その蒸気ボイラーはエンジンとしては機能できなくなる。それと同じ機序。

 つごうのよいことに、比重の大きなフェリシアン化合物の結晶は、液体サーモセル内の冷極にくっついていることなく、じきに沈降して、やがて熱極に達すれば、また液状に復帰してくれる。

 この研究成果は『サイエンス』誌に今週、掲載された。
 このサーモセルを20個集合させると、ペーパーバック本のサイズとなるが、それによって、LEDライトぐらいは点灯できる電力を、50度の温度差の廃熱から、得ることができる。

 ※ここでひとつの夢がひろがる。原発から出てしまった放射性廃棄物を封じ込めたキャスクを北海道の寒い土地へ深々と埋める。このキャスクは半永久に発熱している。その上に、じゅうぶんな体積の熱伝導体を重ね置く。その熱伝導体の頂部を、このサーモセルの底部の熱電極とし、サーモセルの天井部の冷電極は、地表に露出した岩盤の直下に位置させる――。いかがですか?



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー