旧資料備忘摘録 2020-9-14 Up

▼『経済倶楽部講演』S18-1-31
 「独・米・ソ連 最新の鉄道状態」by立花次郎(鉄道技師)

 米の貨物列車は1編成が5000トンくらい運ぶ。前に機関車を三重連して。
 そこに、60トン積みの4軸ボギー車を100両くらいつける。更に必要があれば「後押し機関車」も連結。
 ソ連では、貨物列車×1で、3トン乗せる。やはり四軸ボギーはある。

 ところがドイツには4軸ボギーの貨車がほとんどない。つまり貨車サイズが小さい。1編成は1200トンから1500トン。
 米と日本には自動連結機があるのに、独(他の欧州諸国も)にはない。
 ソ連も自動になりつつある。※あたりまえだ米国から貰ってるんだから。

 旧シレジアには、石炭の未開発な炭田があった。他方、ライン炭田は開発が相当に進んでいた。
 ベルサイユ条約で、シレジアは三分され、ひとつはポーランド、ひとつはチェコに行ってしまった。

 全欧の面積が合衆国と同じである。貨車規格を統一しなければ効率で負ける。しかし20ヶ国もあるから、できない。
 この出版時点でドイツ領は人口1億を超えている。
 元のドイツは7000万くらいだった。とても狭いところに。

 せっかくの俘虜を農業に使えない。看視の男が足りないのだ。そこで、女子と少年を畑仕事に投入している。
 ソ連では、戦時には鉄道もトラックも一斉に、民需輸送を止める。このため野菜の流通は止まる。
 ドイツは真冬にはマイナス20度になることも。しかしソ連はマイナス47度になる。
 マイナス30度で、凍水破壊が起き、機関車が壊れる。給水塔も凍ってしまう。

 独の患者後送列車は、3段の蚕棚式で、それが十何両連結されているまんなかに、医師を置く「手術車」が。 パナマ運河ができたことにより、北米のいくつかの線路は経営が立ち行かなくなった。
 もし運河が閉塞されたならば、7ルートある大陸横断鉄道が昔のように繁盛するだけで、物資面では特に困らないだろう。※これは日本海軍が戦前からパナマ運河閉塞作戦をあまりに唱えていたので、それに対する意見か。

 米国内では、石油は鉄道では運べない。パイプラインもしくは、10トン以上の容量がある牽引式のタンク車を使う。

▼小島精一『欧州大戦と日本産業の将来』S14-10
 S12の米国からの屑鉄輸入は、8100万円。
 鉱石と銑鉄(インド産も多い)の総輸入額も、同じくらい。
 ところが石油は、S11年度、1億7000万円。S12年度は推定で2億円。

 炭業経営権の戦時収容を著者は提言する。

 この時点で銑鉄から鋼まで一貫製鉄している大メーカーは4社のみ。
 日鉄。日本鋼管。鶴見製鉄。昭和製鋼(満州。ただし石炭は北支に頼るためフル操業ができず)。
 これが4強だが、中小としては近年、中山製鋼と、小倉製鋼が参入した。

 こんなことになっているのは、日鉄の成立後、商工省が、アウトサイダーの参入を抑圧する政策をとったせい(p.163)。
 「準戦時体制」に入ってから、溶鉱炉建設が奨励されたが、もう遅し。

 S11で、産生スチールのうち6割が、クズ銑原料だのみ。つまりは米国に依存。
 米国からの屑鉄の供給が止まれば、代替供給国は、事実上、存在しない。2位はベルギーだが、その量はアメリカの十分の一だ。

 WWI中のアメリカで、ライフル銃を作るために必要なリミット・ゲージは812種類でよかったが、マキシムMGの量産のためには、ゲージは1400種類が必要だった。
 それは1工場1セットで済むものではない。だから、ゲージ供給のネックが、精密兵器量産のネックになってしまうのだ。

▼石塚清秀『劣等児の科学的指導』S18-3
 IQ90以下を精神薄弱児とす。
 うち2%はIQ70以下で、特に低劣である。
 S12調べで、学齢児童は1143万人。
 この時点では、学校令で「瘋癲・白痴」とされぬ低能児もぜんぶ普通学級に収容している。
 独では1859に特別学級ができている。
 英は今、150の special school に数万の劣等児を収容。米はそれを凌ぐ。

 低能>薄弱>劣等
 白痴>癡愚>魯鈍
 ヒステリー>神経質>癲癇

 米ではIQ141以上を天才、51~70をモロンという。
 ダーウィンはギリシャ語・ラテン語の記憶中心学科が大嫌いで、幾何学に熱中していた。校長からはあざけられた。

 著者いわく。毛筆を教えるのは高学年になってからでいい。それまでは硬筆(エンピツ)でいい。
 脳膜炎後の児童は、智能・気質がひとしなみでない。必ずなにかとりえがある。
 これら後天性精薄は、いわゆる「馬鹿面」もしていない。

 教室で、こうした児童を、優秀生徒の前とか横に座らせることや、あるいは最前列に座らせることは、よくない。
 劣等児童だけ、いちばん明るい一角(しばしばそれは窓側)に配置せよ。絶対に、暗いところに座らせるな。
 そして、明るい列の前から、悪い順に、座らせるとよい。

 チンドン屋のことは東西屋といっていた。

▼旺文社ed.『昭和十八年度 全国上級学校年鑑』S18-6
 軍部委託生制度(pp.249~)。
 大学生は「委託学生」である。専門学校生徒は「委託生徒」である。
 学費を出してもらえる。その代わり、軍に10年つとめるのが義務。

▼時事通信社外信部ed.『人工衛星読本』S33-1
 スプートニクは1時間半で地球を1周し続けた。重さ83.6kg?
 ピーピー信号を人々は簡単に受信できた。

 そのうち、1日に3秒ていどの減速があることが分ってきた。その高度では衛星の寿命は数ヶ月だ。
 大気圏外は均一に大気が薄いのではなく、空気塊が存在することも分ってきた。

 10月下旬、ジューコフ国防相、解任。
 11-3、第二号衛星。スラスター付き。高度508km。重さは6倍になり、しかも、犬を乗せた。
 二号衛星の打ち上げ日は、ジューコフ問題ゆえに繰り上げられた。ほんとうは11-7の革命40周年を狙っていた。

 このエスキモー犬には世界中の同情が集まった。
 11-11、犬が死んだと発表された。
 フルシチョフの鼻息は、かつてのゲーリングの豪語を思い起こさせた。

 1700年代末、インド人は支那渡りのロケットを大改良し、全長8インチ×径2インチの鉄筒ロケットにし、ハイダール・アリの軍勢が、それを使ってマイソール地方で英軍を迎撃した。
 これに学んだウィリアム・コングリーヴ陸軍大佐。3フィート×4インチ径で射程1.5マイルのロケット弾を完成。ナポレオン戦争でブローニュ港を攻撃したのが、実戦初使用。

 コングリーヴロケットには空力安定フィンがなかった。※安定用の尾棒が伸びていた?
 それを考えたのが米人のウィリアム・へール。独立戦争で英軍が発射したものを拾って、改良した。

 V2号は頭部に1トン強の炸薬。耐熱性火薬でなくてはいけなかった。
 エンジン燃焼のカットは、初期には、テレメトリーを聞きながら地上から電波指令を出した。しかしすぐに、自律サーボ方式に改良された。
 燃料はエーテルと液酸。発射の直前に注入した。
 別に、燃料ポンプを駆動させる蒸気を得るための過マンガン酸カルシウムも搭載。
 V2の空力フィンは、地上から60マイルくらいで、その用をなさなくなる。

 米人ゴダードは、1940に液体燃料ロケットを作っていたが、海軍に召集されて中絶した。
 アトラスのおおもとは、1946から米空軍で始めた計画だが、1947に予算を切られてしまい、中断。それが1951に復活したものの、ソ連に遅れた時間を取り戻すのはたいへんだった。

 1956-2、ソ共20回大会でミコヤン副首相、爆撃機およびロケットで地球上のいかなる地点にも核兵器を投下できると述べる。

 流星は200~150km上空から発光しはじめる。
 オーロラは空気があるから光る。したがって高度500kmほどが上限である。そこにも空気がわずかに存在する。
 1年以上、衛星を回したければ、高度は500km以上とせねばならぬわけ。

 もし最小高度が160kmであったら、その衛星は1時間後には墜落する。
 高度350kmならば、15日は周回できる。

 宇宙空間での空気摩擦は現段階では読みきれないので、正確な寿命も予測不能。
 毎日3秒の減速は、毎日2650m×2の高度低下を意味する。つまり5km。
 ただし高度の低下は長円軌道の遠地点でのみ起き、近地点では起きない。
 アポジ=ペリジとなったときに、余命はあと数日となるのだ。

 ICBMも衛星も、スラスト終了点は地上400~500km。その時点でICBMの仰角は20度から30度。人工衛星は、水平。
 最高弾道点は、ICBMは、高度1300km。

 『長門』は40センチ砲を射つ前に、ラジオ・ゾンデを飛ばし、3000m上空の風向と風力を測っていたという。

 極付近に衛星を飛ばさないと、空気抵抗などを調査・把握できない。
 対地レーダー衛星は、地面に対して電波が斜めに当たるほどS/N比はよくなる〔=クラッター反射を拾わないで済む〕ので、できるだけ低い軌道で回したい。

 1メガトンの水爆にビルディングを耐えさせたければ、爆心から2マイルは離れている必要がある。

▼菊地勇夫『飢饉の社会史』1994
 天明飢饉で強殺盗が増えた。弘前藩は「見当り次第 断りに及ばず打殺し候様」と命じた。村方申合の「自分成敗」。

 村の富農に火を付けて回る地元民あり。東北では意趣返しは火付けであった。※倍返しは倍放火か。
 馬を盗んで食べたら打首。
 原則として馬喰いは「家内不残打首」。

 20人ばかりの村の若者が、鑓で7人の無頼漢を突き殺した(p.123)。
 簀巻きのことは、叺[カマス]かぶりとも言った。川に突き落とすほか、石を投げたり、マサカリや棒で打ったり。

▼菊地勇夫『近世の飢饉』H9
 西日本の飢饉は、旱害、ウンカ、風水害。
 大豆は馬糧になるので、本年貢の現納物として、コメ以外に唯一、ゆるされた。

 赤穂はアカゴメである。冷害にとても強い。とうぜん、早稲。モチにして食べる。
 田稗といって、水田にわざと植えるヒエもあった。

 領主から大豆モノカルチャーを強制された畑作地でも、飢饉は起きた。
 鯨油を撒き、ウンカをタタキ落として窒息死させる駆除法は、大蔵永常「除蝗録」で広く知られた。

 1690(元禄時代)に猪、鹿、狼の「三獣」が、人馬犬、作毛を食い荒らすというので、八戸藩は城内の鉄砲を貸与したり、目付をして射殺せしめた。
 馬産地帯なので、主敵はオオカミだった。
 1746になると敵はイノシシになる。オオカミがいなくなったのでイノシシが増えた。
 1749と1755には「イノシシけかち」が起きた。

 貸下げ鉄砲は、4匁筒であった。
 脅し鉄砲と称しても、じつは射殺していた。
 大豆をつくるために、焼畑すると、ワラビが大量に生じ、それをイノシシがほじくって殖えるという。
 信州でも17世紀末~18世紀にかけ「シシガキ・シシドテ」を築造している。

 狂犬のことは「風犬」(ふうけん)と称した。

▼藤原仁『まぼろしのニホンオオカミ――福島県の棲息記録』1994
 エゾオオカミはM22頃、絶滅。
 硝酸ストリキニーネ入りの毒エサが有効だった。
 これは大陸でも同様。

 青森~九州のニホンオオカミは孤立種で、M38-1-23に米人研究者が入手した死骸が最後。ロンドン博物館にあり。

 国内には、東大、和歌山大、東京国立科学博物館に3体、剥製あるのみ。
 犬との最大の差は、わんわんと鳴かぬこと。犬は、家畜となってから、鳴き声が発達した。

 ニホンオオカミはインドオオカミに次いで小さい。シェパードの牝くらい。灰白色。
 チョウセンオオカミは中形。

 狼の良い面が知られた地域では神社に祀られた。
 悪い面が知られた地域では、地名となった。

 焼畑地には小動物が多い。そこに狼も集まる。
 なぜケモノヘンに「良」なのか。牧畜文化地域だったなら、そんな発想にはならない。
 コメつくり文化地域だったから、テリヤ代わりになったのだ。ありがたいので、神社に。
 ※イノシシに田畑を荒らされると壊滅的な損害が出る。そのイノシシの個体数を狼が抑制してくれる。対猪用に「しし垣」を構築しても、こんどは鹿が躍り超えてやってくる。その鹿も狼が追い払ってくれる。

 秩父の大滝村の三峯神社は、関東のオオカミ信仰の総本山。
 牧とは むまき=馬飼 からの転。

 相馬藩では、元禄10年に、狼や鹿は鉄砲で射殺自由との掟。
 馬産地では狼は害獣だった。明治までも。
 しかし地元民は狼の射殺には消極的だったという。

 狼は夜しか活動しない。
 親馬は仔馬を中にして、交替で見張っている。
 狼は一つがいで現れ、まず1匹が周回。親馬が追い回す。
 その隙に、隠れていた別の1匹が仔馬を取る。すると2匹で加えて逃げてしまう。

 狼の弱点。口に手を突っ込まれると、前足のパワーが弱いので、反撃できない。カナダではその手で生け捕るという。

 塩を好むことはない。鹿とは違い、肉食なので。
 M22年、馬小屋まで馬を追いかけてきた狼のつがいのうち1匹を鎌と棒で殺した事例。
 狼は、飼い犬も襲う。

 九州には、シシ1000匹を獲ったという塚がある。紀伊半島から関東中部まで、それがなくなる。そして宮城県になると、またそのような塚がある。

 猟師が仮設やぐらにて待ち伏せする場合、2人組だったら、2人ともにその中に入っていないと、狼は来ない。

▼『食の文化フォーラム17 飢餓』1999
 東北の飢饉は近世以前にはなかった。そこに水田をつくったことが、大悲劇を呼んだのである。
 近畿の価値観やシステムが東北に移植されたのが災厄だった。
 天明飢饉では、都市部は全く飢えず。

 藩は借金があるので、唯一の商品たるコメを飢餓輸出し続ける他に策がなかった。そのため冷害年が数年続けば、藩内のコメのストック量が、人口を下回った。

 旱魃は水利で救う法もあるが、冷害は、どうしようもない。
 明治になり、藩境での「穀留」の必要はなくなり、飢饉はなくなった。その代わりに、コメ騒動が起きるようになった。
 大7の事例は、シベリア出兵の需要を見込んで、買い集めがあったため。

 アイルランドでは1840年代を、The Humgry Forties と呼ぶ。ジャガイモ病飢饉が発生してえらいことに。
 1846に英国が穀物条例を廃止したきっかけ。
 英国の1770~1870は、「小麦パンの時代」と呼ばれる。

 小麦パンに劣るものとして、オート麦、大麦、ジャガイモを食べている地域があった。
 19世紀になると、蒸気船でアメリカから冷凍肉を輸入することができるようになった。
 1877には、英国の3300万人のうち1500万人は外国産の食糧で養われている状況。

 じゃがいもは長期保存できない。麦なら3年置いておくことが可能だが。
 したがって馬鈴薯は、作ったらすぐに売らねばならない。農家にリスクが大。
 しかも、芋はけっこう不作もある。1816や1822も不作年だった。

 価格対重量比でも、ジャガイモは不利だった。遠くへ輸送すると輸送コストがたいへんだから、地元で買い叩かれてしまう。

▼中央公論社『続日本の絵巻1』1990
 「法然上人絵伝 1」 解説/小松茂美
 1307から十年がかりで完成したと伝えられている。
 今、国宝として知恩院に正本[しょうほん]あり。

 吹きぬき屋台 の描法。
 屋根を消し、クォータービュー俯瞰。
 頬髯を生やしているのは、検非違使のみだ。
 生年中に、木曽義仲の乱入のことがあった。

 建永2年、法然の弟子の安楽らが、後鳥羽上皇の女房の一人を出家させてしまったのを咎められ、翌年2月9日に、加茂川の六条川原で斬られることに。執行は武者所の藤原秀能。
 川原まで、検非違使の髯もじゃの放免が、縄の端を持って安楽を護送してくるシーン。
 甲冑の随兵には髯の無い者も。武器は弓か長刀。

 太刀は、貴人や役付だけが帯びている。
 検非違使の上官の貴族も弓が主道具らしい。
 死刑の描写はなし。

▼永井壮吉(荷風散人)『【さんずいに墨】東綺譚』S12-8 初版
 脱稿は昭和丙子11月と。

 現代人が深夜飲食のたのしみをおぼえたのは、省線電車が運転時間を暁一時過ぎまで延長し、市内一円の札を掲げた辻自動車が50銭から30銭まで値下げしたことに基づく。

 わたくしは 党を結び群れをなし、其の威を借りてことをなすことが大嫌い。
 社をむすび党を立てて、おのれにくみするを揚げ、くみせざるを抑えようとするふるまいをさげすむ。

 世の中の精力が発展してきた。だから暗殺も姦淫も起こる。スポーツ、ダンス、登山、競馬、博奕……。欲望を追求する熱情がそうさせている。

 現代固有の現象。それは、個人めいめいが、他人よりもじぶんの方が優れてゐるといふことを、人に思わせたい、そして、じぶんでもそう信じたいと思っていること。
 優越を感じたいと思つてゐる欲望です。
 明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あつたところで非常にすくないのです。
 これが 大正時代に成長した現代人と、われ\/との違ふところですよ。

 ※「作後贅言」の中の記述だが、一冊の一体とよむべきだろう。
 喫茶店を「きっちゃてん」と読ませている。

▼沢田進之亟[しんのじょう]『姿なき戦ひ』S19-6
 著者は国民新聞からNHKへ。国際放送の監督。

 S18夏、南鳥島に対する大編隊の空襲は、電波探知機で警報された。
 短波は わずか20ワットで遠距離へ信号を飛ばせることがわかり、一躍 対外放送の主役に。

 上海のXMHAは、米国放送局だった。

 1939いらい、アメリカでは、アメフトと野球のラジオ放送の聴取率は60~70%を維持していたが、1941時点で2~4%まで超激減。
 反比例して、FDR演説がよく聞かれている。

 北米には独系人が多いので、ナチスの対外放送は1933-4-1にまず北米向けをスタートさせた。
 ただしベルリン時間で未明1時から3時のあいだのみ。
 ついで、対アフリカ、対東南アジア、対南米が開局している。

 英国は、ダヴェントリーから短波で全世界の支局に放送し、支局でそれを中波に変調して中継放送することにより、たいていの住民が持っている中波ラジオで、24時間聞ける体制を、築いている。

 FDRは、儲けにならないと渋るNBCとCBSに、1937-7-1から南米向け放送を始めさせた。

 インドとビルマで英国官憲は、東京放送を「多人数集まって」聴いてはいかぬと命じた。全面禁止は不可能であった。
 そのかわり、東京放送のすぐ後に、カルカッタやラングーンから、打消し放送をした。

 XMHAは、S12-8に、皇軍が租界に進駐して接収した。
 支那事変中の中国兵は、東京がどこにあるか知らず、日本は陸続きだと思っており、指揮官が山の向こうに東京があるから、といえば、それを信じた。
 パールハーバーのニュースは、支那新聞にはごく小さく載った。というのも、戦艦とはどんなものなのか、誰も知らないのである。

 戦争中、重慶放送は、毎深夜に三国志を連続で講談して、飽きなかった。

 ミンダナオでは邦人虐殺があった(p.124)。
 収容所内で表の子供の声を聞き、いずこも同じだと思ったのは、英海軍少佐のモー・ウイヴァー(p.128)。

 最初の東京空襲で、学校と病院に損害があったという英語のTOKYO放送は、米とBBCで速報としてそのまま紹介報道されている(pp.142-3)。

 エクアドルでは開戦と同時に邦人(イミグレ)は軟禁状態に。

 ルーズヴェルトとチャーチルは頻繁に会談している。
 第一回はS16-8-5~14、大西洋上。
 第二回はS16-12-22~S17-1-16、ワシントン。
 第三回はS17-6-18~27、ワシントン。
 第四回はS18-1-14~24、カサブランカ。
 第五回はS18-5-11~27、ワシントン。
 第六回はS18-8-11~9月初旬、ケベック。

 S17に米は「フライングタイガース」「インサイド ファイティング チャイナ」の2本の記録映画を作った。
 主人公は、最初はカネ欲しさに戦闘機乗りになったが、やがて人格が矯正され、日本空軍と勇戦するようになる。

 S18-8-27に米は戦艦『アイオワ』の進水式を報じた。このようなニュースを出すのは米国のみである。
 予定より7ヶ月も早く進水した。
 『アイオワ』の発電力は1000キロワットだという。

 米の対外放送番組にはパターンがあり、冒頭に、今日は日本が見込みの無い戦争に入ってから2××日目……と言う。
 この起点となっている日が、S12-7-7、すなわち盧溝橋事件の日なのである。

 S13に米誌『ザ・ローダウン』のジョセフ・ヒルトン・スマイスは、S12に米国で日本の蛮行として流された怪写真について、説明。それは1919年に上海で絵葉書として売られていたものであり、それを国民党が共産党に対する誹謗の宣伝ネタに使った。その1年後、こんどはそのシーンは、共産党の士官が国民党の兵士を拷問しているところだと称された。さらに満州事変後には、それは日本軍人の鬼畜行為だということになり、1934年にはまたも共産党軍の残虐行為であるとされ、支那事変とともにまた日本軍のものだとされたのだ――と(p.208)。

 『プリンスオブウェルズ』と『レパルス』が撃沈されたとき、豪州のABC放送はS16-12-12、日本機が漂流者を機銃掃射したと宣伝した。

▼出井盛之『足袋の話』大14-1
 著者は早大教授。
 江戸の老舗として、「茗荷屋」が万治元年からある。
 注文生産から、市場生産へ移した。

 オランダ語の「タピス」以前に「たび」がある。

 大昔は鹿の皮でできていた。
 やがて、武家が、襪を改造して 大指のわれめをこしらえた。

 現在(大正)と同じ様式の木綿足袋は、徳川時代初期。普及は、明暦大火直後。
 なぜかというに、火消しの火事装束は、革羽織、革頭巾だったのが、物価が騰貴したため、革足袋を調達しにくくなった。それで木綿足袋が代用にされたともいうが、おそらくはその前に、消費人口が増えていて、鹿革が品薄になったのである。

 貞享のころから、薄柿木綿と白晒木綿に、男女で分かれる。
 もともと卑しい階層の目印だったのが、江戸期に偉い人の履物になった。明治初期には、下男下女は主人の前では足袋を履けなかった。
 囚人は、大正12年から足袋をゆるされている。

 江戸遊女は、「伊達の素足」で、足袋を着けない。
 「けいせいは たび屋にばかり 借りが無し」。

 紐足袋は近代のこと。
 こはぜ になったのは、もっと近来のこと。
 「足袋の紐 解けたで御姫様が知れ」。

 底材は、刺し底→石底→雲斎 と進化してきた。
 機械で量産するようになったのは、日清戦争の頃から。
 今は、堺市の福助足袋の工場で年2000万足、製造している。65工程あるという。工員1人あたり1日50足。

 18世紀中ごろの英国では、靴下製造者は小屋と畑を私有し、週3日~5日働くのみ。
 労働者の1日の労働時間は10時間だった。
 それが百年後には、1日16時間という非人道的なレベルに。週給は4シリング6ペンス。

▼(財)国民工業学院『女子作業心得』S16-2
 久留米絣の発明者は、井上でん。
 時期は、幕末から明治初期。
 それより前にカスリがあったら、おかしいのである。

 そのあと、国武絣を 牛島のし が考えた。
 一般に月経中の3~10日は筋肉の力が弱くなって労働力が減る(p.45)。
 さらに自分を抑へる力が弱くなる。

 文部省によると7歳~20際について、大正元年度からS11までの25年間に、女子は4.5センチ身長が伸び、胸囲は2.8センチ増えた。
 医学博士の竹内茂代は、20歳女子の平均として、身長149.6センチ、下肢長76.4センチ、比下肢長51.2センチ、坐高82.8センチ、比坐高55.4センチ を挙げている。

 厚生省は、17~19歳男子について、体力検定することにした。
 上位の基準は、100mを14秒、2000mを7分半、走り巾跳び4.8m、手榴弾投げ45m、60kg土嚢運搬50mを15秒、懸垂屈臂12回。

 式根島は18人目の入殖者のタンさんという婆さんがひとりで開発したようなもの。

▼労働省婦人少年局『工場に働く婦人のための安全な服装』S25、原1941米国労働省
 第一に足ごしらえ。次にゴーグルで眼を保護すべし。
 宝石は工場には用はない。着けてくるな。

 どこから何が飛んでくるかわからないので、全員、必ず、ゴーグルを着用すること。
 静電気が髪をひきつけるのが怖い。必ず頭巾を。

▼河合武郎『ルソンの砲弾』1990
 歩兵は山砲とは言わず、聯隊砲という。
 砲兵が、これを山砲という。

 人馬を載せた輸送船は、ハッチを閉めない。かわりに、厚手のシートで、雨と波を除ける。
 4年式十五榴×4門をもっていた中隊の馬数は他中隊の2倍あった。

 第1、第4、第7中隊が、95式75mm野砲。
 第2、第3、第5、第6、第8、第9中隊は、91式105ミリ榴弾砲。
 第10、第11、第12中隊が、4年式十五榴。
 野砲第8連隊の合計で48門。

 4年式十五榴は、もともと野重(軍直砲兵ともいう)なのだが、96式十五榴ができると、それにはじかれるようにして、師団砲兵の第四大隊に渡されたのである。
 砲兵隊の装備する小銃は、38式だった。

 野8は、最もコンディションがよかった。第1師団の野砲第1連隊は計36門で、頭号師団のくせに、野8より少なかった。それでレイテに突っ込んだ。

 戦車第2師団の持っていたのが「機動砲兵第2連隊」である。略して「機砲2」。
 レイテの米軍師団は、105H×54門とAW大隊〔4連装のキャリバー.50 をハーフトラックに載せたやつか〕。

 日本の師団砲兵は、75mm×12門、105H×24門、十五榴×12門。これが最終改編目標だったのだが、達成していたのは、野砲第8連隊のみ。

 おなじ105ミリ榴弾砲でも、米軍のは射程15km。日本のは最大8kmで、命中精度がよいのは5kmまでだった。
 米軍の師団砲兵のうしろには、必ず軍団砲兵があって、それらは常にコンビで運用されていた。
 たとえば、155H、155K、203H、計54門~72門の砲兵群が、三つもあるのである。
 だから155H~203Hが、最大で180門も、師団砲兵に加勢するわけだ。

 レイテのオルモック攻防のとき、米軍は、25kmも離れたところから山脈を超えて155ミリ砲を撃ってきた。
 米軍は笛を退却の合図にしていた。

 フィリピン住民は、米軍の支配下に入ると電灯をつけるので、それを見れば、敵がどこまで出ているか判別できた。

 公刊戦史は、歩兵中心で、砲兵隊の手柄や苦労はほとんど書かれていない。
 ※これはとても重要。諸兵種連合の現場を知らない参謀が勝手に発想した無茶な作戦を、補給も支援も何もなしにその通りに実行してくれたのは、歩兵部隊だけだった。エリート参謀が特科の作戦(特に補給)を現実的に組み立てられなかったということは、そのまま、国家間の地政学的な競争を考える頭も無かったことを意味するのである。

 砲にも「掩体」と「掩蓋」がある。
 4年式十五榴の壕は、ミニマムでも15坪、つまり30畳要る。
 マンゴーは幹が素直でない。椰子は中がスカスカで、どちらも建築資材にならぬ。

 4式20cm噴進砲は、沖縄で鹵獲されている。
 比島にも噴進砲大隊がいた。1000発もってきたのを、射ち尽くしている。
 米軍には4.2インチ迫撃砲がすでにあった。



秋といえば……書店へ行くべし。

 ストラテジーペイジの2020-9-13記事。
   中共軍は今日でも、全体(200万人)の三分の一が徴兵である。徴兵の任期は平均して2年だ。

 ところが中共軍はながらく、徴兵したすべての新兵を毎年、11月1日に入営させる慣行を墨守していた。
 これは秋の収穫直後の農閑期であるというところに意味があったのだが、この方式だと、現代戦争に必要な教育密度を行き届かせるのは難しいことが悟られて、近年になって、西側並みの、周年入営制度に改めようと模索中。

 また、新兵の基礎訓練は、従来は、地方の一般部隊に押し付けられていた。ということは、11月から数ヶ月間は、現役部隊の1割くらいが、新兵教育係として割かれねばならなかった。
 これでは部隊はいつまでたっても精鋭度が上がらず、有事即応も難しく、隊内団結も強化されない。

 2015年、中共軍は、初年兵入営日を10月に移動させた。中共の学年末は9月なので、これにより、高校や大学を卒業した者が、1ヶ月の準備ののちに入営するようになった。
 そして、秋だけでなく、春にも、新兵を徴兵することにした。年2回に分けたのである。

 さらにじつは今年の1月からは、この新兵入営の時期をもっと細分して増やす予定であった。ついでに、新兵教育を一般部隊ではなく、専門の教育部隊にさせるようにも改革するつもりだった。それが、新コロのせいで、1年先送りされた。

 おそらくこの改革が終わって10年か20年しないと、中共軍には、まともな「下士官」層が育たない。将校が下士官の仕事をしなければならないロシア軍と同じ欠陥が、残る。
 下士官が兵隊に毛の生えたレベルでは、米軍を筆頭とする西側軍隊(下士官に下級将校の代理がつとまる)には、実戦場で太刀打ちはできない。つまり中共軍はこんご20年間は、実戦では弱い軍隊のままだ。

 学校新卒の志願兵を増やす試みももちろん考えられていた。
 まず手始めに、志願兵の入隊日を8月1日にさせようという話があった。9月新卒者を民間企業などが雇用してしまう前に、先に軍隊に引き込もうという目論見だった。
 中共軍には毎年、15万人の大学新卒者が入営しているという。

 次。
 Liu Zhen 記者による2020-9-12記事「Will China upgrade its destroyers with ‘carrier killer’ missiles?」。
    先月、1万2000トンの『055』型ミサイル駆逐艦の8番艦が、大連軍港で進水した。
 ペンタゴンの2020年度版中共軍リポートでは、『055』型が就役するときには対米空母用に「対艦弾道弾」を艦載するだろうという予測がしてあった。しかしその兆候は無い

 中共が陸上から試射したことのある、対艦弾道ミサイル。対空母用に使えるのなら、これを、『055』型に搭載することを中共海軍はとうぜんに企図するはずだが……。
 システムが洗練されていないので、載せようがない、というか、載せても仕方がないのだ。

 ※前回の威嚇発射でも、標的に命中させたことはなく、たんに海面に落としただけ。いままで、海上の標的に当てたことは一度もなし。動く標的も狙ったことなし。そんなものが実用の戦術兵器であるわけあるか? 典型的なフェイク兵器なのである。

 『055』型は8番艦で終わる。おそらくこれを改良強化する『055A』型が計画されているはずだ。そこにおいて、なんらかの「空母キラー」ミサイルが搭載されるだろう。
 米国の一ソースは、『055A』型では推進機関が電化され、レーザー砲か電磁砲も搭載されるだろうと言っている。

 たぶん、ロシアの「ズィルコン」超音速対艦ミサイルの同格品なら、艦載は可能だろうと一海軍専門家は言うておる。

 次。
 Peter Dizikes 記者による2020-9-11記事「How hunting helped shape elite society」。
       MITで歴史を教えているゴールドバーグ教授の新刊『中世初期フランク王国における狩猟の研究』によると、シャルルマーニュは、60歳を超えてもまだ軍事指揮官としての能力は維持しているんだぞということを人々に示すために、大掛かりな狩猟を催していたという。

 中世貴族の狩猟対象は、赤鹿と野猪が筆頭で、その他、熊からウサギまで、なんでもありだった。鷹狩りもあった。
 ただしにいずれも、生活のため――喰うため――にしていたわけではない。すべて欧州貴族たちの狩猟は、純然たるレジャーだった。

 欧州において狩猟イベントにスポーツ社交儀式的な重要性が与えられたのはシャルルマーニュ時代である。それ以前は、狩猟する王を讃える詩人すら、いなかった。

 ローマが支配していたとき、野生の鳥獣は、誰であれ、それを殺した者に権利があった。しかしシャルルマーニュはそのルールを変えた。彼以降、すべての野生動物は、王の潜在所有物ということにされたのである。
 「密猟」の罰金は巨額で、事実上、逮捕された平民は、奴隷に落ちるしかないほどだった。

 ※それは資源の減少と関係があるだろう。としたら、下級貴族はまさに生活のために狩猟を必要としていたのではないのか? それは罠猟が、効率的だっただろうが……。

 次。
 Ian Bogost 記者による2020-9-11記事「Your Phone Wasn’t Built for the Apocalypse」。
   北米。大規模な山火事で空が赤い。しかしそれをスマホの写真で撮ってやろうとすると、なぜか 赤い空が 灰色に写ってしまう。
 これは、スマホの中のAIが、勝手に空の色がおかしいと判断して、補正するからなのだ。
 あまりに異常な天変地異を撮影するのに、スマホのカメラ機能は、じつはあまり適してはいないのだ。



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


旧資料備忘摘録 2020-9-13 Up

▼林重生ed.『満州の城』康徳9年10月pub.
 ※満州建国10周年出版。

 日本では磚は寺院の床敷に使うのみ。
 シナでは磚のおかげで石垣を方形の統一材料で積むことができる。

 日本の城壁が3間(6m)平均で低いのは、山を利用するから。
 シナは土地がまったいらなので、城壁だけが防禦のたのみである。ゆえに4~7間(8m~14m)の高さは欲しい。この高さを実現しようとすると、壘は必然、厚くなり、壘上も広い。

 またシナでは濠は浅くて狭い。水がないし、冬に凍結するので。
 矩形波のようなスカイラインを「女墻」という。日本では、そんな築城をする代わりに、楯を並べる。

 城内外の「植え物」は、気候的にそれが可能な南支でもやらない。日本だけ。
 シナでは壁こそが城なのだ。壁を突破されたら、あとは手を挙げるしかないのだ。

 シナ城壁には「防水室」の機能もあった。それを初めて指摘(pp.22-3)。
 一昨年の北支の洪水で現地邦人が感心し、悟ったのである。

 十年前に○○城に立ち寄り、楼門を測ったら、スパイ扱いをされた。シナ人は今でも城壁を有事のたのみにしているのだ(p.24)。

 欧州では、パリを筆頭に、19世紀には、旧市壁が環状道路に化している。
 この当時、日本人は満州の古城を壊しまくって、都市再開発していた。

 高句麗と、明代の女真に、山城の伝統があった。その中間の、遼と金にも。
 今のように煉瓦を積むのは明代以後。それ以前は土城ばかりである。泥を焼かない、日干し煉瓦。

 元朝より以後しばらく、首都というものがない。よって清代まで大きな城はつくられなかった。
 明代の満州の城のビッグ8は、遼陽城、北鎮城、開原城、奉天城、義県城、海城城、興城城、金州城。

 すなわち奉天は、首都でありながら、5番目の規模の城しかなかった。
 遼陽城は、漢人が、城壁の長大をもって威勢を示そうとしたものであること、うたがいなし。

 清の太祖は遼陽を攻略すると、近くに小さな東京城を築いて住んだ。
 漢人式の城郭は巨大すぎて却って守ることができないと知っていたので。

 明代の壁は、表面のみが甎。内部は泥である。
 明代の甎はサイズが大きい。
 清代に小型化し、表面のスジ模様がなくなっている。

 火薬が普及し、木造の多層門楼など役に立たなくなっても、漢人はその意匠にこだわった(p.31)。
 今、その構造がメンテナンスされて残っているのは、北京城だけだ。

 宋代から火薬が使われ、門の前にコの字を付け足すようになった。甕城という。
 シナの木柵は、丸太を、密に1列に、人の身長の3倍くらいの高さに、植立する。

 今日では、塀の上に、鉄条網を2条、引く。
 茨城、葛城、柵城、竹城、石城などの名は、すべて素材に因む。
 ちなみに満州には竹も葛もない。
 さらにまた、四平からハルビンの間は、土ばかりで、石も得られない。

 バビロン、アッシリアは、耕作に適した土地であったが、その代価として、石が得られなかった。だから、土城なのである。
 天日で干した泥煉瓦は、雨でも崩れる。
 そこでバビロンでは、一部を、焼き煉瓦とした。

 シナでは版築といって、板囲いの中に粘土を積んでいき、表面を漆喰で防水する。水攻めにも耐え、大砲2~3発にも堪える。

 大宰府の水城は、柴と土を交互につきかためてあった。この起源もシナ。
 明代には大砲の脅威が本格化したため、さすがに、石城が増えた。

 ※この著書の惜しいところは、大量のレンガは石炭で焼くしかなかったという試算ができず、「木材が豊富だったのだろう」などと書いていること。

 漢代には、一県一城の制度だった。※県は日本の町相当だから、町の枢要域を囲繞する都城はひとつで、あたりまえなのである。

 高句麗を国史は高麗と記した。
 フィンランド人はもともとウラルの東、シベリア西部に住んでいた。
 マジャール人はアルタイ起源である。
 朝鮮人は貊といい、もと、モンゴル南部にいた集団。匈奴に逐われて、百済までやってきた。

 隋の煬帝は高句麗攻めに親征したが、遼東(=遼陽城)を抜けないで、師を班した(帰国した)。
 唐の太宗が貞観18年に親征して抜いたが、安市城に阻まれた。
 ようやく高宗が亡ぼした。皇紀1328年。

 満州では常に奉天と遼陽が、満漢2民族の争奪の焦点。
 奉天の外城は、民国に至って、次第に崩壊し去った。このたび、日本政府が、内城も壊すことにした。
 盛京城を満語でムクデンという。盛清の世にその名が世界に定着した。

 皇紀2079年6月、倭寇を望海城で全滅させている。
 遼陽県の東の岩州城。これをなかなか落とせない唐太宗、一計を案じて、雀の尾に硫黄を結んで放ち、さらに火箭を放つことで城内の糧草を発火させ、落城させたという。

▼服部文四郎『戦争と外資』大4-3
 ※著者は早大の教授。

 1904-2-20から1905-8-31のあいだ、ロシアは14億3千余万円、日本は12億1千余万円を支出した。
 ところが英国はすでに1899-10-11~1902-5-31の南阿戦争で、21億1千2百余万円を費やしているのである。

 かようなさすがの英帝国といえども、1901のトランスバール戦争では、戦費の一部は外資を米国市場から調達するしかなかった。

 今はわずかの正貨の上に信用はうずたかく積まれている。
 この正貨の、国境を越えた大移動は、信用崩壊や流出国の経済緊縮を招く。
 そこで、外国市場で募集した外債は、そのまま外国銀行に預けておくのが仁義になっている。これで自国の通貨も膨張しない。

 ロシアがあれだけ借金してなお外債が下落しなかったのは、Goldが外国に置かれていて、しかも外地において巧みに運用されていて、国内では銀と紙幣のみを流通させ、信用を維持したから。

 ドイツが強国化したのは、政府の統制のせいではない。国民に自助独行の精神があるからなのだ。これを日本の官民は勘違いしている。天野為之いわく。政府は経済から手を引け。

 英国はWWIの勃発時には銀行のモラトリアムを宣言している。
 もっかのWWIの戦費。英は1日1000万円。仏は1日1400万円。独は1日2000万円という。

 糧を敵に求めたナ翁すら、戦争は一に金、二に金、三にまた金、と言った。
 ヲッペルいわく。世界貿易額の1割以上を占めたら、商業上の一等国というべきだ。

 日露戦争の経費17億円は、税で3.5億、公債で13.5億を賄った。後者のうち外債はつごう四度で8億円。すなわち戦費の半分は外資であった。

 ※関係ないが、大正12年の成田図書館は、夏は7時から22時まで開館していた。そしてなんと、年末年始をのぞいては、毎月1日しか休館していなかった。すばらしいぞ!

▼『続群書類従第二十輯』大12-5pub. 所収、巻第591「島津高麗軍記」
 淵辺晝右衛門 覚書「島津家高麗軍秘録」。

 首は切り捨てにしてきたので、次の日に「首集め」をした。
 そして城の大手口へ15間の大堀を掘って、首を「築込」んだら、大塚になった。
 20日ほどで腐り、余地もなくなったので、さらに20間の掘をつくった。その塚は今もある。

 帰国出帆は11月17日、辰の刻。
 途中、義弘の軍が多数、相繋留しているところへ、敵船が偶然やってきて、攻撃に移り、半弓を射、熊手をかけ、塩硝壺に火を入れてこっちの船に投げ込んできた。

 〔忠恒公は?〕拾五匁の御鉄砲を御持ちあそばされ、帆柱に腰かけた。
 ※この「匁」に編者が注をして「貫カ」と疑問出ししてある。

▼『海軍水雷史』S54
 1870まではtorpedoは機械水雷のことだった。
 英国初の魚形水雷は331ポンド炸薬。1864年に実験開始。
 ホワイトヘッドの魚雷(保式)は、16ポンドのダイナマイト。

 深度を一定に保たせるのは1958にホワイトヘッドが考えた「横舵」。俯仰を感ずる重錘と、水圧板センサーで、空気ピストンの弁を調節させた。

 1877に二重反転スクリューの発明あり。トルクを打ち消す。
 1884、ウールウィッチで、ペラの前に舵を配置した。

 1894、オーストリーの発明。ジャイロスコープをセンサーとする「縦舵機」。左右にもぶれないで直進できるようになった。
 以上は、すべて圧搾空気のみを動力とする「冷走式」。

 日本はM17にシュワルツコプフ魚雷(炸薬21kg)を200本輸入。朱式八四式という。
 日清戦争にはこの八四式(1884)と、朱式八八式(1888)を使用。

 日本が採用した冷走式魚雷。
 30式B型。炸薬52kg。
 30式18インチ。炸薬100kg。
 32式14インチ。炸薬50kg。
 32式18インチ。炸薬90kg。
 34式18インチ。炸薬90kg。
 37式18インチ。炸薬100kg。
 38式1号。炸薬100kg。
 38式2号A。炸薬95kg。

 保社の親会社もアームストロングだった。
 S3に英が酸素魚雷を完成したと聞いて、研究を本格化させた。
 93式は、球状尖のとき、キャビテーション震動で自爆か。

 潜水艦用の95式は、球状尖のままインド洋に散ってしまい、手遅れ。
 航空用の91式は、初め炸薬150kgだったのが、最後は420kgになった。

 95式1型 炸薬400kg。
 95式2型 炸薬550kg。

 94式1型(97大艇用で酸素魚雷だったが、中止)

 97式 炸薬350kg。
 96式 炸薬400kg。
 98式 炸薬350kg。
 2式 炸薬350kg。
 5式 炸薬 約70kg。

 魚雷研究体制を強化したのは平賀譲中将・技術研究所長(大15末)。
 カーリットで金属塊を射ち出す弾頭も考えたが、×。
 大12頃まで、海廠の使命は「量産」であって、研究や実験は片手間であった。

 KK長崎兵器製作所の魚雷生産数。
 大7に50本、大8に116本、大9に180本、大10に180本、大11に250本、大12に387本、大13に400本、大14に450本、大15に500本、S2に350本、S3に350本、S4に350本、S5に350本、S6に340本、S7に276本、S8に300本、S9に300本、S10に360本、S11に340本、S12に380本、S13に516本、S14に600本、S15に660本、S16に960本、S17に1800本、S18に1970本、S19に2810本、S20に1441本。

 米はMk-13改(航空用)、Mk14/18(潜水艦用)を後半戦に投入。『大和』を沈めたのはMk-13改であろう。
 対潜用の超低速 Passive Horming 魚雷 Mk-24も、1942年から数千本、製造している。
 末期の米潜水艦用は電池式が65%に増えた。これは先行するドイツに刺激されてついに完成したもの。

 米は1943に研究会を開き、1944に大改善した。
 1944には、三次元 active horming まで完成。

 戦後、酸素魚雷に興味を示したのは英国で、数本を目前で実射させた。米国は、口頭尋問のみだった。

 91式は、S3頃、英国保社の星型8気筒を模し、S4頃試作。全785kg、炸薬150kg。
 同改一はS9~15年に製作。全838kg、炸薬170kg。上部は空室とした。マレー沖に使用。
 同改二はS15~16年に製作。全840kg、炸薬204kg、真珠湾に使用。
 同改三は、空スペースを埋め、炸薬240kg。※235kgがより正確か。

 91式改三(改)は、S17~18年、天山用に強度を高めたもの。炸薬240kg。
 改三以降のものには、別注の実用頭部がつけられる。改三、改四、改六、改七。

 91式改五(S19~20)は、改三(強)の、そのまた強化バージョン。
 S20-4以降に、四式一号空雷二型および四型。
 二型は、984kgで炸薬305kg。四型は1108kgで炸薬418kg。

 91式魚雷/四式空雷 は、横浜・川棚・光の3工廠と、民間の長兵(長崎兵器)でつくられた。径45cm。
 94式は長兵でS13~S16につくられ、径53.3センチと径45センチの2タイプがあった。

 『長門』級には径53センチの6年式魚雷発射管×4が、舷側と直角に食い違いに備わっていた。S11大改装で撤去された。他の戦艦には、搭載されたことなし。

 88式機雷は、ドイツの特許を大12に買って造ったもので、潜水艦から撒ける。
 機雷の炸薬には、下瀬六稜、下瀬成形(1921~)、下瀬鋳填(1933~)、八八式、九七式、一式、K3  があった。
 爆雷の炸薬の種類は、下瀬か八八式のみである。
 爆雷本体のいちばん古いのは八八式(S5採用)で、いちばん新しいのは三式(S18採用)。その炸薬量は、50kgから149kgであった。

 水分20%の湿綿薬。M11に買ったシュワルツコッフ魚雷に入っていたもの。
 M24に独から綿薬のみ輸入。下瀬火薬とくらべると3~4割弱い。

 S9に九四式爆薬。短い期間だが、採用された。トリニトロアニゾール6割+ヘキシール(ヘキサニトロヂフェニルアミン)4割。

 九七式爆薬。S10頃、ドイツから教えてもらった。下瀬火薬より強力ながら、安全。トリニトロトルエン6割+へキシル4割。

 九八式爆薬。トリニトロアニゾール6割+ヘキシール4割の混融爆薬。当初は投下爆弾用。のちに魚雷頭部にも採用された。WWII中、この炸薬を充填した魚雷が被弾によって自爆した例は報告されていない。

 機雷用の八八式爆薬は、カーリットのことで、S5に制式採用。
 成分は、過塩素酸アンモニウム75+珪素鉄16+木粉6+重油3。全体が粉状であるものを、圧填する。

 過塩安は、食塩と電気から製造できる。したがって資源難の問題はまず無いことが好感された。
 ただし被弾したりすると誘爆しやすい。対米戦の緒戦段階で、ウェーク島沖で敵F4Fからの銃撃だけで日本の駆逐艦が沈められているが、その原因が、搭載機雷の爆発だったらしい。この件以後、沿岸に敷設する防禦用機雷だけに使用は限定されたという。

 S17-1に、機雷用として一式爆薬が採用された。成分は、ピクリン酸アンモニウム81%、アルミニウム粉16%、木粉1%、重油2%だったが、アルミ資源が足らず、大量生産できなかった。

 そこでK1 からK5 までの、代用爆薬が考案されている。すべて機雷用。被弾には安全であった。
 K1 の成分。過塩安80+珪素鉄8+タルク10+クロルナフタリン2。
 K2 の成分。硝安89+コールタール6+木粉5。
 K3 の成分。過塩安42+硫安37+珪素鉄20+クロルナフタリン1。
 K5 の成分。過塩安55+硫安29+珪素鉄10+木粉5+重油1。

 このうちK2 は、過塩素酸アンモニウムすら足らなくなってきたので、考えたという。
 ※K4 は欠番か?

 採用された年・月。
 下瀬火薬は明治26年1月。八八式爆薬は昭和5年10月。九四式爆薬はS9-4。97式爆薬はS12-8。98式爆薬はS13〔何月かは不明〕。1式爆薬はS17-2。

 94式、97式、98式は溶かして鋳填する。1式とKシリーズは粉状である。

 戦中の日本海軍は、駆逐隊1隊で、敵戦艦1隻と刺し違える構想だった。
 航空魚雷の製造数。実績値。S6~S16は1552本。S17は1400本。S18は1670本。S19は3030本。S20は2471本。

 S20年には航空機雷も1万3000個生産した。
 S17までは、魚雷生産は長崎兵器のみである。
 S18頃、水中ロケット魚雷も考えた。

▼『月曜会記事』vol.11(M19-5)禁発売
 雪堡侵徹力試験。
 村田銃で200碼[ヤード]先から射撃してみると、最大で1.7m侵徹した。平均値は、1.495mである。
 ※照尺がまだヤード単位だった時代。

 この時点での日本の師団の行軍。2個旅団=12個大隊。それが5列で進む場合、砲兵、工兵、輜重、衛生隊を含め、全長1万500mになる。その後方1500mにはさらに大行李が続く。
 列のことは伍という。二伍なら1万7000mの長さになるだろう。

 大行李とは、糧秣、炊爨具、公用&将校用荷物。要するに宿営で必要になるもの。
 小行李とは、予備弾薬と繃帯所。戦闘行李とも言い、戦闘に必要なもの。

 論点。毛布の個人携帯をやめて、個人用の炊爨具を持たせてはいかがかと。

 かつてアルダルヂュピック大佐は言った。兵事に関し、経験よりも忘れやすいものはない、と。
 仏では銃剣廃止論がある。連発銃ができたので。
 1866普墺戦争では、銃剣使用の白兵戦はただ1回のみ。
 1870~71の普仏戦争では、白兵戦は一度も生起せず。
 1877-8の魯土戦争では、ロシアの標語「弾丸鈍し 銃剣ひとり鋭し」/スワロフ&ヲクーネフ を実行しようとしたがダメだった。

 仏支戦争、トンキンの役、スダンの役でも、銃剣使ったことなし。

 昔は歩兵が100mの間合いをつめるあいだに敵兵から2回しか射撃を受けなかった。
 当時、銃剣は、977グラムより軽いものはない。
 兵隊が、最前線で躍動をくりかえして、いちばん疲れているときに、筒先に600グラム以上の重しをつけられたら、もう狙撃なんてやってられるものじゃない。
 この仏人は結論する。銃剣は、長さ10センチ、重さは100グラムでもよいのだと。

 仏は1878クリミア戦争の後に、携帯毛布を廃した。

▼『月曜会記事』vol.12(M19-6月号)
 日本の近くの給炭港。ヨコハマ、香港、ラブーアン(今のボルネオ西岸)、シンガポール、フィジー、濠南に2箇所、セイロンのツリンコマリー、インド西岸のボンベイ。これだけ。

▼『月曜会記事』vol.13(M19-7)
 意義両様にわたる字を忌む。
 軍用の日本語の文章が意味不明瞭であったら、それは敗戦の好材料となるのみ。この虚飾や曖昧、冗長、繁雑を、いま矯めなかったなら、いつ改革ができるのか。

 M19-1月~6月の講演で、馬丁の慣習服制の改革を議論していた。

▼『月曜会記事』vol.14(M19-8)
 この時点で幹事として、兒玉源太郎大佐、東條英教歩兵大尉、砲兵大尉有坂成章。会員に、永沼秀父・騎兵少尉ら。

▼『月曜会記事』vol.15(M19-9)
 さきに明治13年 兵語字書 が刊行されている。しかし今日の兵書と対照すると、今では、同じ意味のことをあらわす言葉が、ずいぶん変わってきている。このさい、あたらしい字書が必要だ。
 ※同じことが、『偕行社記事』にも寄稿されてなかったか?

▼『月曜会記事』vol.16(M19-10)
 脚気を解消するために、コメと魚をやめ、パンと牛肉にしようとしたが、兵がうけつけなかった。
 理由。調理の「塩梅」が激マズであった。このさい、厨卒を置いてはいかがか?

 この頃、福島安正も歩兵大尉。

▼『月曜会記事』vol.17(M19-11)
 わが村田銃は、欧州の著名の軍用銃、すなわち「グラー」「モーゼル」「ボーモン」等の諸銃とその性能が伯仲している。堅牢さについても、昔日の国産銃はもちろん、「スニーデル」「ドレィーズ」「シャスポー」等が、しばしば撃針が折傷したり、着剣を固定する駐梁〔いまのレールに相当〕が脆弱だったこととは、もう同日の論ではない。

 日本では、銃を傷めないように、銃剣の着脱や木製薬筒の装填も新兵に実際には操作させず、「手まね」だけで練習させていた。

 仏海軍がクロパチェック連発銃を採用するに際しては、装填したまま落下させたり、射撃後に掃除しないで5日間放置したり、船の上に2日さらすなどのテストをした。

 「新艦畝傍号」が地中海の鍛鉄造船会社で本年4月6日、進水式。18ノット以上出るはず。
 甲鉄艦で、浮游線〔喫水線のこと〕において防水区室を設けた巡洋艦。
 鉄甲板は亀甲型をなし、舳より艫に達す。
 甲鉄甲板 上方は 厚さ5ミリ×2枚、間隔45センチ。57隔室に分かれる。
 各鋼鈑間は、栓材(キルク)を填実。
 諸機械 および 汽罐の上方にある区室は、ことごとく煤炭庫〔=石炭庫〕となす。
 他の区室は水雷庫 および 雑品庫。
 隔壁中にも「隔障」を設け、40個の独立区室に分けている。よって計97防水区室。※それで沈んだんかい!

 甲板は50mm鋼鉄と10mm鉄鈑2枚を螺子止め結合。
 砲は24サンチのクルップ砲×4門。
 砲壇製 半円郭内にあり 水平射扇形は170度。
 15cmクルップ×7門 船楼上にある(1門は舳樓)。
 以上すべて、ワ゛ワ゛ソール、カネー式砲架。

 その他、神速射撃の6斤「ノルデンフヱルト」砲2門、口径25mmの四砲身を連合したる「ノルデンフヱルト」霰発砲10門、ガトリング霰発砲4門あり。
 カネー式自動水雷射筒×4 水平射扇70度。

 福島安正はインド旅行までしている。

 ※vol.19~vol.24(M20-1月号~M20-6月号)の国会図書館の蔵書は欠。

▼『月曜会記事』vol.27(M20-9)
 例会で、日本刀は将校軍刀の中身に適当か否かを質す。

▼『月曜会記事』vol.29(M20-11)
 1877~78の「露土」戦における銃火の威力をクロパトキン少将が演説。
 連発銃を採用するなら「ベルダン」小銃より重くないこと。肩付けしたまま連発できることを望む、と。

 野戦歩兵に「機関砲」を応用する考案。英海軍誌の記事。
 「機械砲」とも表記している。ガートナー、ガットリンク、ノルデンヘルト、ホッチキスがある、と。

▼『月曜会記事』vol.30(M20-12)
 連発弾薬嚢付ベルダン銃 ※皮ベルトに実包を固定する方式らしい。
 モシン式連発銃 11連発。

▼『月曜会記事附録』(M21-7月)
 励軍要【言票】。フランス軍の美談集。面白し。
 マルセイエースの漢詩訳も。

▼『月曜会記事』vol.8(M21-8)※なぜか通し番号をやめてしまったらしい。
 「夏帽」をつくれ。香港で英将官がかぶっている防暑帽はよさそうだ。

▼『月曜会記事』vol.10(M21-10)
 北海道屯田兵の概況。明治8年に始まった。
 携帯兵器はレミントン銃である。すべて。
 下士官と兵は、草鞋である。

 連発銃雑説/長岡外史。
 このごろ日本では、連発銃に関して、議論が低調で、よくない。先月、藤井砲兵大尉がそう言っていた。
 ドイツでは1871式モーゼルを連発に改造する決定が1884になされたが、その84式の完成とどうじに、小口径化の時代となり、8ミリの別物を開発している。
 フランス軍は、まずクロパチェック銃を交付し、ついで、ルベル8ミリ銃に移っている。
 墺は、11ミリのマンリッヘル連発銃を採用したが、仏のルベルに刺激され、小口径化を検討中だ。

▼防研史料 『昭和4.10~5.3 研究審査現況表』/陸軍技術本部
 大9-7-20に、3年式MGを7.7ミリの改造する方針。この時点で試作は完了している。
 13ミリMGは、「保式」高射MGと、「造兵廠案」がある。
 大15-5-25に「自動短銃」案。

 戦利「ベッカー」砲をもとに、航空機用20ミリMGをつくっている。※ドイツからの賠償品。飛行船に搭載していた。
 大9-7-20から6.5ミリの「曳煙弾」を研究。大14-3にテスト。
 大12-11-1、重擲弾筒とタマ 「上申準備中」。

 大9-7-20、「七糎半自動車高射砲用自動車」。大14頃にできていたが、差動機がうまくいかず、全般に構造も弱すぎ、使い物にならぬ。その後、AAは牽引式とされ、本車両の研究はS2-3以降中止。※ガッゲナウのトラックのマルパクのようなものだったかと想像される。

 重戦車。大14-6に設計着手。S2-7下旬~8月上旬、大造で竣工試験。

 水陸両用装甲自動車は、大14-9設計着手、大15-9に製作図略案了。水陸両用戦車の前提として、大15-10月、試製審査を上申。造兵廠に注文した。東京工廠で試製完了。9月、予備試験。11月、富士裾野、沼津海岸でテスト。軽量・高泳速化し、S4-6修正試験。
 フィアット軽戦車を研究中。

 「突撃用具」として、無線操縦の爆薬車。大9-7に研究開始。今、3トン半牽引車を改造中。

▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(一)』
 S17-10時点での20cm臼砲 試製一式榴弾 炸薬量は12.610~12.860kg。
 S18-3時点での試製21cm榴弾砲 先鋭弾 甲 炸薬13.200~13.700kg、乙 12.970~13.153kg。 乙は被包2.150kg含む。
 90式榴弾の威力範囲は16m。

 試製2式爆雷(対潜用)。
 全備重量77~114kg。
 炸薬 43.6~79.9kg。茶褐の溶融直填、廃茶褐の塊を入れ溶填、茶褐を粉状に填実、廃茶褐薬の塊と粉状薬を混ぜ填実、カーリットを填実、があり。
 「カ号」からも落とした。
 ※陸軍がASWを分担していたのである。

 S18-6、十五cm加農用 試製 水中弾。炸薬7.140~9.794kg。
 S18-6、試製96式24榴。
 試製一〇〇式破甲榴弾 炸薬11.540~12.986kg(被包ふくむ)。
 試製一〇〇式榴弾 炸薬18.310kg。

 S18-7、一技研 十八年度研究計画の改訂。
 戦車用のAAMGは中止。
 AA「サ」弾の研究を促進。※散開or散布弾。海軍砲のタ弾のようなもの。

 AA用は、20ミリ、37ミリともに焼夷弾を採用し、榴弾は廃止。※陸軍の37ミリの高射砲とは何なのか謎。特殊な台座に載せてATGをAAGに転用するつもりだったのか?

 噴進式 超低空用阻塞弾。
 舶用のAAMGの動揺キャンセル台座を、実験していた。

 小銃用タ弾。 有翼弾だと弾速が低下してしまうので旋転式にする。99式手榴弾発射用のカップを共用できるよう45ミリ径のものを作る。弾体はジュラルミン。

 試製7センチ ろ弾 ※ロケット弾。
 炸薬量 580グラム。

▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(二)』
 臨時高射用船載砲床(90式野砲用)のクリアーな生写真、貼付。
 94式山砲用もあり。すごい。

 94式97ミリ対戦車砲砲用も。車輪の内向きがよくわかる。

 S16-5に、熱地のアスファルト路上で野砲放列布置はどうできるかの研究。
 94式山砲と、37ミリATGのクリアな写真。

 S16-7に、野重の脚を補強する改修をしていた。3~5ミリ厚の鈑を鋲接する当て板式で。対象は、91式10榴、96式15榴、92式10加。 ※あきらかにノモンハンでの脚折れ事故続出の戦訓に対処している。

 99式八高の写真。

 S16-8、馬式57粍砲を利用する対戦車砲研究。
 馬式57粍砲の薬室を改修し、95式野砲の砲架に載せた。
 初速850m/秒。弾重2.7kg。
 しかし、ライフリングの経始が高初速向きではないという。

 94式特殊運搬車。
 ※すばらしい写真 多数。

 S16-7に38式野砲に対戦車射撃用の照準具をとりつける改修の研究をしていた。
 機動91式榴弾砲。「パンクレスタイヤ」であった。

 S16-7の「らく」の説明で、「一〇〇式機関短銃」と表記している。
 降下部隊の擲弾分隊。
 分隊長1。重擲弾筒×4。射手4名。弾薬手8名。弾袋13(各8発入り)。99式短小銃×13。弾薬帯13(各90発入り)。

 92式重機の弾背負袋は540発入り。
 97式自動砲の「弾倉袋」は7発入り。弾背負袋は28発入り。

 手榴弾は99式曳火手榴弾。
 機関短銃は1梃につき300発、持っていくらしい。
 97式自動砲(対戦車銃)は1梃あたり175発。
 擲弾は26発。
 小銃弾は各90発。

 ※44式騎銃の「弾薬帯」を流用するらしい。

 92式重機関銃は1門につき4320発。
 99式LMGは2130発。

 投下筒につめこんだ一〇〇式機関短銃の鮮明な写真。二脚付であるのがよく分る。
 視号通信器(電球を使うもの)あり。

 押収76.2ミリ野砲の応急利用法。
 ノモンハン後(S16-12)、55門あった。

 南部14年式拳銃を4梃固定し、野砲の弾着を縮射する、訓練用の機材があった。

▼防研史料 『大東亜戦争に於ける陸軍技術本部試作兵器関係綴(三)』
 15榴を曳くロケのすばらしい写真。
 99式7センチ半戦車砲(S17-3)。

 15加を曳く13トン牽引車。
 試製1式37ミリ対戦車砲。

 魚雷射撃の目的を以って、7.7ミリと20ミリの水中弾道テスト。
 ※これは米潜水艦に味方兵員輸送船が次々沈められてしまうのをなんとか自衛させたいという陸軍の苦肉の研究。

 20ミリは水深5mで10mm鋼鈑を貫く。7.7ミリは水深2mで3.5ミリ鈑を貫くが、3mだともうダメ。
 この20ミリは、弾丸全長4.5口径、初速890m/秒。

▼防研史料 『昭和十三年 支那事変兵器蒐録 第一~第四輯』〔中央軍事行政 兵器 30〕
 陸軍技術本部が、自軍兵器の欠陥を報告した極秘資料。

 戦車は、直接式展望では安んじて戦闘し得ない。ガソリンエンジンは不可。八九式戦車の足回りは実用価値ゼロ。他の部分は満足できる。

 軽装甲車は、武装以外はよい。
 指揮官用戦車はダメ。少しでも外見が異なった車体は、敵が見て指揮車両だとすぐ察するので、敵火が集中してどうしようもない。補充もできないし。

 S12の支那は30年来の大雨。泥が酷かった。
 戦車の装甲は前面は二重とするを可とす。※7.92ミリの小銃弾ですら、破片粉末の飛び込みで負傷者続出したということ。

 95式軽戦車は敵前百米に達する前にぜんぶやられるだろう。
 トラックは次の順に好評である。隅田>千代田>フォード>シボレー>日産>豊田。

 96式15榴に、92式5トン牽引車は、駄目だ。
 89式戦車に敵の迫撃砲がダイレクトヒットしたが、無事だった。※迫撃砲の場合、それはあり得る。

 ライフル、MG弾は、ピシリという音を聞くのみである。しかし対戦車砲には抗堪できない。
 排気鎧戸の方向が砲塔に向かっているのは失敗設計だ。夏は、停車中、たまったものではない。
 空中線〔=アンテナ〕は木にひっかかったり、敵弾によって破損させられやすい。

 記号旗を出しただけでも敵弾はその一車に集中する。外形の異なる指揮用戦車など、将来は不可。

 軽装甲車からMGを射ちかけても、支那兵は逃げない。しかし37ミリ砲を1発撃てば、直ちに潰走する。其の精神的効果は到底MGの比にあらず。
 ※日本のTKGは敵兵追い散らし兵器だった。
 ※92式HMGは地上に降ろせば遠距離狙撃兵器だが、車載すれば精密狙撃が不可能で、サイクルレートは低いし、7.7ミリだしで、無価値に等しくなってしまう。ましてLMGの改造品では……。

 戦車に追及し得たトラックは、制式6輪乗用車と、制式6輪トラックだけ。ビック乗用車〔ビュイックのこと〕、側車、4輪車はまるだダメで残置。6輪も民間徴発のものはタイヤ幅が狭くてダメ。

 97式戦車は、小銃弾の飛び込みが多く、鉛粉による負傷が多い。
 拳銃用の孔は、たいへん有効だ。

 37ミリ対戦車砲弾は、「法線上」でなければ貫通されない。※車体正面の中央稜線か?
 チェコ軽機のタマは最大6ミリ侵徹し、頭部が嵌入することがある。

 空中線〔鉢巻アンテナ〕は目標となって、ダメ。付けるなら偽アンテナを全車につけろ。
 縦方向のスリットは、無価値である。

 94式軽装甲車のドライバー正面の垂直壁の部分は、MGに連射されると貫通されてしまう。
 銃塔は、傾斜地では、回せなくなってしまう。

 戦車は支那軍に対しては顕著な威力がある。89式戦車が敵前に停止して射撃を開始するだけで、敵陣地は動揺し始めるのが看取される。捕虜も「戦車は魔物」と話し居れり。

 敵に今の2倍の空軍があったら、ダメかもしれない。
 こっちが飛行機を飛ばすと、敵の砲兵も機関銃も射撃を止める。

 砲兵。追撃フェイズでは花形は十加と24榴である。なぜなら、トラクター牽引だから。
 十五榴は、それらの後塵を拝しつつ、あえぎあえぎ、痩せ馬に鞭を打って進む。
 悲惨なのは古い輓曳の三八式15Hなどで、殆ど徒歩臂力輓曳となり、馬は7~8kmも後方に残されている。

 歩兵弾薬は、重機、重擲、小銃の順に多い。しかし小銃用の携行弾薬は、まだ多すぎるのではないか。

 城壁に対しては、砲弾の信管を短延期にすると、ハネ返る。
 手榴弾は不評。改正品は可。支那軍のものは更に可なり。

 わが損害の半数は、敵の迫撃砲弾による。

 日本軍の手榴弾は、補給が乏しい上に、使用法が面倒で、威力も敵の手榴弾より劣る。比べて、敵の棒付手榴弾はすばらしい。だからわが兵は競って支那兵の死体から棒付き手榴弾を蒐集して、それを使って近接戦闘に臨もうとする。遺憾なのはその補給はすぐ尽きるので、それさえあれば成功疑いなしの突撃が失敗してしまう。

 断尾式の手榴弾は効力が極めて少ない。※明治41年の着発式の手榴弾らしい。
 畑地では十分に上に投げ上げないと不発になる。よって、遠投ができない。

 改良38野砲は、重すぎる。過労のため、斃死馬520頭を出せり。
 92式十加は、尖鋭弾+1号装薬で、大架が曲がる。

 96式15Hは、信頼度大。トラクターもよい。
 側車は無用の長物なり。寒冷期にどうしようもない。

 フォードのダブル(タイヤ)のトラックは良い。
 保護6輪も。
 噂では、シボレーはフォードより評判が悪い。

 戦車の2枚ハッチはダメだ。衝撃で開いてしまうし、継ぎ目から鉛粉が飛び込む。
 土壁突入の必要があるから、車体は尖らせて欲しい。

 戦車砲は、駐退復坐に2~3秒もかかるので、そのあいだに隙間から敵弾が飛び込んでくる。

 追撃モードでは、工兵はまず15Hと15加を通す橋をつくる。これを13トンの89式戦車は渡れない。だから中戦車の全重を、15加なみに軽くしろ。

 敵の7.92ミリ弾は、15ミリ厚の装甲を貫通する。
 戦車砲を3発、あるいは車載MGを40発以上射つと、眼は痛くなり、頭は重くなり、手足は震え、号令は耳に遠く聞こえる。※一酸化炭素などの「あとガス」が悪く、その排気システムが無かったのである。

 軽装甲車は100m以内では7.92ミリ小銃弾に射ち抜かれる。
 94式軽装甲車の主火器としては6.5粍MGが搭載されているが、これは7.7ミリMGか37ミリ砲が最低でも必要だ。

 水陸両用車は虚弱で、実用価値は更になし。
 重擲のミニマムレンジ内では、歩兵部隊の支援重火器は手榴弾だけとなるが、その手榴弾が国産品はロクでもないものばかりなので、最後の突撃が頓挫してしまう。
 着発式手榴弾は、敵トーチカに放り込めない(不発になる)。

 綿畑では弾着の観測がむずかしい。HMG用に曳光弾をくれ。

 92式歩兵砲のシールドは、400mから敵の7.92ミリ弾で貫通される。
 95式軽戦車の装甲鈑のボルトは、植え込み式にしろ。特に神戸製鋼製。
 95式軽戦車は、対錘(カウンターバランス)つけないと、わずかな傾斜地でもターレットを回せない。

 95式軽戦車には、89式戦車にはない伝声管がついていた。
 バッテリーは自家充電ができなかった。

 なぜトラックはワイヤーブレーキなのか。汽車輸送で固定するとき、油圧系のパイプは壊れる。戦場で漏れたオイルは補充などできない。

 フォードは燃費が悪いが馬力(発力と言っていた)があるので良い。
 戦車をいちど残置すると、部品を剥奪され、二度と使い物にならなくなる。
 水陸両用戦車に装備されている反射眼鏡〔ペリスコープ〕は実用的だ。

 収束手榴弾でドライバーズハッチをやられた94式軽装甲車がある。
 城門破壊のために94式軽装甲車に工兵を便乗させたのは、大成功。うしろにハッチがあるので。これがあれば、工兵の装甲作業機などいらないと分った。

 94式軽装甲車には、旧型履帯と新型履帯があるらしい。
 村井部隊は、92式重装甲車も使っていた。
 作戦途中で、37ミリ戦車砲付きの軽装甲車×4両が投入された。

 クリークでは95式軽戦車は往生した。むしろ古いルノー軽戦車が通過できた。
 乗員2名の軽装甲車でも、1ヶ月の連続追撃はできる。

▼防研史料 『昭和十三年 支那事変兵器蒐録 第六~第八輯』〔中央軍事行政 兵器 31〕
 ※第五輯は欠らしい。惜しい。

 MGは夜間に弾着を見たいから、曳光弾が必要である。
 日本の戦車の57粍砲身は、敵歩兵の7.92ミリ弾で、横から貫通されてしまう。



ナイル川水位が1912年以降の高位記録を更新して、17.48mに。結果、大洪水。

 Thomas Newdick and Joseph Trevithick 記者による2020-9-11記事「Two Russian MiG-29s Have Crashed In Libya According To Top American Intel Official」。
    リビア上空で、ロシアの擬装派遣軍隊であるワーナー・グループのパイロットが操縦するミグ29が2機、相次いで墜落した模様だと、アフリコムが示唆している。
 1機は6月28日。1機は9月7日だった。

 リビア内戦には露軍のスホイ24も派遣されているので、落ちた機体がスホイ24である可能性もゼロではない。
 ワグナーグループは、ロシアのGRU(軍情報部)が国外で操る手駒である。
 表向きは傭兵ということになっているが、雇い主はロシア政府で、構成員はほぼロシア軍将兵。

 9-7にユーチューブ上に投稿された動画には、リビアで「ミル24」武装ヘリを操縦している、ロシア語を話すパイロットが登場した。このヘリが、墜落した単座戦闘機から脱出したパイロットを救出してきたのかもしれないという話がある一方、単なる訓練風景だという人もあり。

 ミグ29は、リビア東部の、「LNA」支配区に派遣されている。ロシアからいったんシリアのフメイミム空軍基地に降り立ち、そこからリビア内の基地へ送られる。

 次。

 このへんで 名刺をつくってくれるショップは どこにありますかなぁ。


アルバイトしていただけませんか? 『兵頭二十八 地政学入門カフェ(2020年9月23日 18時半~)』に参加される方へ(管理人U)

 お世話になっております。兵頭ファンサイト管理人です。

 当サイトをご覧の方でしたらご存知かとは思いますが、2020年9月23日に『兵頭二十八 地政学入門カフェ』が開催されます。
 『地政学』の基礎と最先端を、入門級の人たち向けにお話しするミニ講演です。
 
 私は残念ながら仕事のため参加する事ができません。悲しいです。
 参加される方で、アルバイトをして頂ける方はいらっしゃいませんでしょうか?

 アルバイトの内容は『ミニ講演の撮影・録音』です。
(後述しますが『公開を前提とした撮影・録音』ではありません)

 アルバイト代は、あまり多くは出せませんが、私がお支払いします。
(さすがに『沖縄から行きますので、15万円必要です』とかいわれても困るので、もともと参加予定の方が嬉しいです)

兵頭二十八 地政学入門カフェの日時

日時:2020年9月23日水曜日 18:30~

場所:spAce ICHIGoICHIe
〒040-0051 北海道函館市弁天町16-2

兵頭二十八 地政学入門カフェのFaceBookページ

募集要項

・『兵頭二十八 地政学入門カフェ』の撮影・録音をしていただける方。
(撮影・録音の許可は得ています)

・アルバイト代は、いくらが妥当かよくわからないので『〇〇円ならやるよ』とメール下さい。(なるべくお安く……)

・ちょっと、細々した事情説明が必要なため、Skype(か、Lineのビデオ通話)で事前にお話できる方。(撮影・録音の許可は得ていますが、顔も知らない方へ私が頼みにくいという理由もあります)

・撮影、録音機材をお持ちの方。
 プロ級のものは全く求めていません。単なる会社員の私が、参加される方へいくばくかの謝礼をお支払いしてお願いしたいだけなのです。
 三脚にスマホを固定しての動画撮影とかそんなんで結構です。動画が不可能なら音声だけでも仕方ないと考えております。ただし、音声だけは可能な限りクリアに録っていただきたいです。撮り方、録り方などはSkypeでお話する際お伝えします。

 私はどうしてもこのミニ講演を聴きたいのです。だから音声はできる限りクリアが良いです。ですが、画質は大して求めていません。

 TV番組はとても高画質ですが、興味がないので私は殆どTVを観ません。しかし、兵頭講演会の映像であれば、私にとってはそれがどれほど低画質でも、宝物になると確信しているからです。

『公開を前提としない録音・撮影』である事について

 私はイベントの邪魔をするつもりは一切ありません。もし『公開を前提とした』撮影・録音であるならば、参加者が減る可能性があります。それは全く私の求めるものではありません。

 もちろん私は、私と同じような、ミニ講演を聴きたいけれど参加できない方のためにも、無料公開の交渉をします。
 ですが『地政学入門カフェ』終了1週間後に無料公開、なんて事を私は希望しません。

 参加者の方が『これだけの日数が経過したのならまあいいか』と思うような(これは私の主観でしか無いですが)日数が経過した後の無料公開を目的としております。

 公開する場合でも、参加者の方のプライバシーに配慮する必要があります。動画なのか録音なのか、テキストに起こしたものを公開するのかも全く現時点では未定です。

 つまり現時点では、単なる兵頭ファンの会社員である管理人が、公開を前提としない撮影、録音をしていただける方を探しているだけ、です。

 繰り返しますが、プロの画質、音質なんて求めてはいません。撮影や録音も、単に三脚やテーブルに機材を固定して、あとはミニ講演を普通に楽しんでいただければ良いと思っています。
 
 どなたかお引き受けくださいませんでしょうか。(なるべく安価で……)

 応募の際は『持ってる機材(ビデオカメラ・スマホ・ボイスレコーダー、とか)』『希望アルバイト料』を明記くださると大変助かります。

 ご連絡をお待ちしております。

(2020年9月14日追記)

 応募がなかったらどう対策しましょうかね……。

 全く話は変わりますが、年末までには、今までとは全く毛色の違うシロモノを公開できるかもしれません。(皆様がお気に召すかどうかはわかりませんが)

 (管理人U)


旧資料備忘摘録 2020-9-12 Up

▼大木賢三『弓矢の歴史を語る』S18repr. 初版S11
 ※これを紙の無い戦時中に再版させているのが怖い。

 日本の弓の弦は、なぜか麻の片撚り。理由はおそらく、反発力と、音がいいからだろう。
 いままで日本の弓箭を説いた著書は、多く室町時代以後の弓書に頼っており、千篇一律である。

 奈良時代以前は直弓があった。丸木。
 奈良以降、弯弓が発達。木と竹のコンパウンド。

 シナの短弓(日本では石弓と呼ぶ)が日本の半弓になった。
 金鵄がとまった神武の弓は、丸木の大弓。

 弓と大の字をくみあわせると、夷になる。
 箆尺(のじゃく)。ひきしぼる距離。

 弓と槍は刺兵である。
 「槍術」の語は書史では南北朝から見える。
 下弭(もとはず)に近い方、下から三分の一のところを握る。これは騎兵が存在しない原始時代からで、丸木弓や長竹弓の必然なのである。細い方の弾撥力が弱いので。
 握りは、古くは、ユヅカ、トヅカ と言った。

 日置流は、足利時代の人・日置弾正政次がひらいた。
 短弓は、中央部を握る。
 銅鐸の意匠はぜんぶ、南方的。そこにおいてすでに、上から三分の二を握る姿が線刻されている。

 坪井博士の説。ヤ はマライ語から来ている、と。
 竹=yar。ヤリの語源も同じだと。『考古学雑誌』13巻12号。
 日本の古代にも吹き矢があった?
 延喜式の隼人司の條に「執楯槍並坐胡床」とあるのはマレー人だと。

 タテハは矢の羽のこと。フタタテ、ミツタテ、ヨツタテ あり。

 本書の時点で和弓のレンジMaxは140間以下のようだ。
 昔話に「差矢三町 遠矢八町」などというが、絶対ウソ。

 えたりやおゝと矢叫びをこそしけれ(平家物語 頼政 夜烏を射る)。
 諏訪の和田峠に黒曜石が出る。路頭巨岩が自然に割れて剥片が散乱している。

 中庸や荘子に「白刃」と出るのは、鉄器の証拠である。

▼雄山閣ed.『弓矢の研究』S12
 ※S11の『歴史公論特集号』をあらためて書籍にしたもの。
 有坂【金召】蔵・海軍中将は「弩に就いて」を寄稿している。

 打根、管矢(吹き矢)もある。
 蟇目とは、木製の鏑で、特に音が鳴るもの。
 引目 と昔は書いたのだが、近世に、蟇目と書くようになった。

 鳴弦と蟇目は、武家や貴人の誕生を祝っておこなわれた。
 鳴弦の初出は、日本書紀第14の雄略紀である。
 中古から、鳴弦の強調として引目が生じた。ただし殿上人ではなく武将。源頼光が狐を引目で射たという話が初出。

 シュメール文明初期に弓矢なし。
 日本の石器時代の弓矢の遺物、ひとつもなし。ただし、丸木の直長弓とは推定可。
 石鏃は全国同型式だから、弓も同じだったろう。

 上から三分の二のところを持つこと、これは丸木弓でこそ必然なのだが、中世に「合わせ弓」ができてからは無意味。慣習の力で、続いた。
 日本の弓は南方系。それがアイヌにまで伝わった。

 まず丸木弓。
 その外側に竹片を貼り付けた「伏竹弓」が東北に発祥する。
 さらに「三枚弓」。
 平安末期には「滋藤弓」や、「塗込藤弓」。

 漆を塗ってなければ、白木弓である。
 「楯割り」という鏃は、ソリッドの金属円筒をすげてある。尖った部分が無い。

 「かりまた」は、狩の股 であって、「かへるまた」もしくは「雁股」は、こじつけ。
 上古には【弓へんに世のしたに木】=ゆがけ なし。

▼村田経芳『射術提要 実験と理論 矢の部』M37(国会図書館受け入れ印はM37-1-19)
 医のすすめにより 六旬の春より弓術を始めた。

 世間ややもすれば理外の理などというが、「是れ未だ真理を窮めざるものなるべし」。今ここにその理を攻究しこれを実地に験するに、その理外に出るもの一もあらず。

 村田老人の研究ノートは以下のような幅広いラインナップだった。
 まず「銃術部」と「弓術」に大別される。
 「銃術部」は「第一」から「第四」まである。
 「第一」は、「平常射的」「銃」「器具」。
 「第二」は「拳銃射術」。 
 「第三」は「戦時射術」。
 「第四」は「猟銃射術 飛鳥」と「猟銃射術 獣類」。

 「弓術」は、「弓の部」「矢の部」「技術の部」からなる。
 ※現在見られるのは、ここに紹介する「弓の部」だけ。残りはいったいどこに散逸してしまったのだ?

 すべて「余の備忘にして 江湖に示す為めに論述したるものに非ず」。
 上記以外にもまだある。かつて欧米〔ママ〕各国を漫遊し射的家と会合したときの談論をあつめ、これを5目にわけて「銃術五変」〔五篇?〕とした。

 いま、弓術もそれに倣い、諸家の談論を輯録し「弓術五談」となづけよう。ともに「珍説奇談」が多い。

 弓の実験は、M33-1からM34-3にかけて実施した。
 弓のサイズは、6歩、6歩2厘、6歩5厘 を用いた。このうち6歩5厘の弓は、多射すると疲れる。
 正確さは、60射までしか維持できない。

 矢量は、7匁、7匁5分、8匁、8匁5分、9匁 を用いた。
 距離は、12間、13間3尺、……Max 60間。

 30間から35間は、6匁~6匁5分。
 40間から60間は、5匁5分。
 遠射には、5分半、5分8厘、6歩、6歩2厘の指矢弓も使った。※さしやゆみ=軍用弓か。
 近距離では「厚歩の弓」も使った。

 ※明治時代の人がこれほど科学的な実験技法をわきまえているのに、今のテレビ人は何をやっているのだ?

 強弓家と競射もしたが、強弓の遠射は「大不結果」――まったく当たらないものだと確認できた。村田の弱弓の方が、遠くでも良く当たった。

 矢先を重くするは、強弓を以て近距離を射るに最も利あり。
 これは いにしへの戦箭に最も近し。
 箆径の大小も、もちろんある。
 ※実戦用の矢を実射して、昔の合戦の実相を読もうとしていた村田。偉すぎる。

 ある弓術家が言う。矢先を重くするのは、中弓(あてゆみ)で、古への実地ではない、と。
 村田これに反発。
 「之は甚だ誤論なり 古の戦用矢は 重き根を附着する故 余の今云ふ矢〔世に今行なわれている矢〕よりも 矢先の重き〔こ〕とは勿論なり 此矢を以て疾[スルド]く射放すを 真の弓術と云ふべく〔言うべし。〕 尤も之を見出したるは 古の軍箭を試射せしより感生〔感得〕したるものにして……」

 「……当今用うる弓術は 戦用弓術にあらずして躰育運動術なり」
 しかも命中にこだわりすぎている。そんな教え方だと、逆に進歩のさまたげになるだろう。

 矢箆は、張りが強く、片押せ〔かたより?〕が無いものでなくてはいけない。
 矢は、太く短い方がいいのだ。
 しかし、5歩半弓に堪えざるもの、矢尺が2尺4寸に足らざるもの、片寄せ箆は、不合格だ。

 利矢(するどい矢)よりもむしろ鈍矢(にぶき矢)の方が、命中する。※羽幅が広く、均り合い点が先頭寄りで、箆が太いということか?

 矢を長くしようとして接続工作するときは、かならず鯨鰾(くじらにべ)を用うべし。
 筈を挿入するには、膠を用うべし。
 なぜなら鰾は附着力が強力で、旧筈が抜けなくなるから。 ※鰾を字書で引くと、さかなのうきぶくろのことのようなのだが……。

 尾州の竹林派は、強弓に軽矢を用うる。しかし強弓は、体格の割合に、矢尺が短くなってしまう。
 村田はこれまで、実力で7歩以上の弓を射ることができるのに、わざわざ、3尺内外の〔短い〕矢を射ている人を、みたことがない。

 矢尻を弓の内部に巻き込む=「ヌスト弯」という。
 遠的矢は、漆を3、4回塗っておくと、湿気で変形しない。

 筈の繰り方〔彫り込みを入れる工作?〕は、鹿児島製が第一等で、他国製は、広狭が不斉一。

 矢先き径の大なる箆をスギナリといい、矢先き径の小なる箆をムギツボという。
 まっすぐのものは「一文字形」。

 矢差は、左をウシロといい、右をマエという。
 器械(ダライバン)にて刳りたる板付は、内部正しき故、曲がることなし。

 矧は、筈下と羽との間隔。
 通常は、1寸2歩。鹿児島製は、1寸。

 羽長[た]けは、近い的狙いなら5寸~4寸5歩。30~33間先の的を狙うなら4寸8歩~4寸5歩〔3寸5分?〕。それ以遠を狙うなら、3寸5歩。

 33間狙いでも、5寸羽を使えば、命中には利があると村田は言う。
 「則歩矢」は、羽先が減差(チドリ)で、速い。

 6歩以上の弓で、30間くらいまでを狙うなら、左手保護用の押手袋は、要らない。(押手は左手。射手は右手。)

 羽は、先の方だけを(模様にはいっさい拘泥しないで)取ったものがよい。貝形羽と、ひらき羽がまざったものはダメ。

 とにかく速く飛ぶのは「石打ち羽」=「風切羽」。
 次が、鷹の羽貝羽〔羽交い羽根?〕。
 石打羽は、1鳥から2枚しか、とれない。
 雨中には、大鳥羽に及ぶものなし。

 強弓に用うる遠的矢は、地面に刺さると、ポキリと折れる。
 「強弓は、骨も疲れて甲斐ぞ無き 弱き弓にて数を射させよ」
  ――明治34年3月 村田経芳 誌。

 若し不同の矢を以て15杖の距離に於て1尺2寸に10射皆中するあらば、余は悦んで名弓名矢を賞呈せん。

 晩年の村田は二段眼鏡をじぶんで発明して、射撃と日常に使っていた。丸メガネなのだが、中心の水平線を境にして、上半円は度が弱いレンズ、下半円は度が強いレンズになっている。
 「余、近来、射的の際、遠距離に至っては眼力少しく判然せざるを以て……」

 以上、M37-1-10印刷、1-20発行。全24頁。5銭。
 東京市 神田区 雉子町 成章堂pub.

▼浅岡康二『日本の鉄器文化』1993
 近世末期まで、鋸には焼きが入らなかった。
 というのも、それまでの日本には油焼き入れの技法が無く、水利用のみ。だから薄い素材は割れてしまった。
 玉鋼を冷間鍛造して、加工硬化させていたのだ。

▼石野亨『鋳物五千年の足跡』1994
 わが国の最古の鋳鉄橋は、M17年頃の生野鉱山の鉱石運搬道にある。現存。兵庫県・朝来町。

 銅の利用はBC5500にペルシャで始まる。
 青銅=ブロンズは、BC3600のシュメールから。

 L.Beckは、鉄の方が銅より先に利用されたかもしれない、という。
 シナの鉄器はBC4世紀のが最古。
 朝鮮まで青銅技術が伝わったのはBC7世紀。
 シナの青銅の証拠は、BC1500年頃が最古。夏~商。

 日本最初の鋳型は、わが国でも削り易い凝灰岩質の砂岩などを彫って作った石型が使われた。福岡市や春日市から出土している。

 日本書紀、天照大神の天の岩屋入りの条に、「すなわち石凝姥[いしこりどめ]をもって冶工[たくみ]として、天香山の金[かね]を採りて、日矛を作らしむ」とある。

 銅鐸も石型でつくった。
 大阪湾沿岸地帯が中心で、初期のものは、その地域に分布する凝灰岩質砂岩を鋳型として用いている。

 初期の銅鐸は、かなり大きなものまで、鋳型に石を使っている。
 凝灰または花崗岩質の砂岩、頁岩、片麻岩などは加工が容易だった。

 剣や戈も初期には石鋳型で鋳たが、細かい模様を彫りにくいこと、冷えかけの変形に応じないので割れること、湯中のガスの抜けが悪いなどの欠点があるため、土鋳型に駆逐された。

▼堤章『軍刀組合始末』H6
 満州の鞍山製鋼所などで「素延べ刀」が大量生産された。
 別名、満鉄刀。
 開発者は「興亜一心刀」と命名していた。S15頃完成。厳寒でも折れない材質。
 剛性と粘性をあわせもつ鉄素材を、鍛錬せずに、圧延してある。

 昭和〔たぶん満州事変以降〕になると、塹壕戦に適するように、江戸時代の定寸、2尺3寸(70cm)より1寸5分(5cm)短かくし、外装も簡略な大刀拵えにした「日本刀式軍刀」が推奨された。
 提唱者は、荒木貞夫陸相と著者だと。

 支那事変頃までは軍刀製作は岐阜県関市が主に担当し、陸海軍へ納めていた。
 WWIIでも「刀都、関」といわれたぐらい、盛んだった。
 S15以降、「利器組合」。
 対米戦となって、全国の鍛冶屋を軍刀づくりに動員せんとした。これが「受命刀匠」→「軍刀組合」となる。
 福島の軍刀は、東一造(東京第一陸軍造兵廠)に納入された。
 受命刀匠は徴兵を延期された。

 鍛錬は、けっして刀鍛治のみの仕事ではなく、明治大正のほとんどの野鍛治が、ハガネ鍛えと称して同様の工程を入れていた。
 焼入れ直前の刀身重量は、約1kgである。
 落槌テストで刀を90度まで曲げ、折れたものは不合格としていた。

 S20に、東一造の第一製造所に、地金工場や弾丸工場、薬莢工場、填薬工場あり。
 場所は、下十条~王子(飛鳥山西北)の35万坪。

 第一製造所は、鋳造、圧延、プレスによる弾丸製造。5000人。
 第二製造所は、光学兵器、高射算定具。
 第三製造所は、信管、地雷。
 大宮製造所は、光学兵器専門。
 仙台製造所は、12.7ミリ以下の実包。
 ※東一造の組織図あり。

 軍刀鍛錬工場はS17から。
 対米戦争中の軍刀の、偕行社小売価は、120円。
 帝大学士の月給が75円だった。

▼宇田川武久『東アジア兵器交流史の研究』H5
 鉄砲は倭寇が日本にもたらしたのだと説く。

 朝鮮の1400年代の弓は、竹、牛角、牛筋のコンパウンド。膠で固めるので4年がかり。
 しかし明国でないと、牛材は豊富に得られなかった。日本もそれで諦めていたか。

 角弓は水牛を使用。
 コンパウンドボウには湿気がよくない。
 雨が降るときは炭火の下におくなどの保管が厄介で、特に北方では使えない。
 モンゴルは羊角4個を束ねたか?

 鉄ビシ(鉄【くさかんむりに疾】藜)は、唐代の本の中にみえる。すでに漢からあり、唐まで盛んに使われた。
 114~127ページ。鉄砲伝来学説の整理。たいへん便利。
 カラクリと火縄銃について最初に本を出したのは奥村正二『火縄銃から黒船まで』S45。

 初伝来のタネガシマは径17ミリ。
 現存の南蛮筒は、径16ミリと径18ミリ。
 17世紀のヨーロッパ銃は径20ミリ。

 鉄砲秘伝書は、初期は火薬調合法。普及後は、射撃法。
 文禄・慶長役で朝鮮兵が弱かったのは、弓矢を主武器とし刀剣用法が廃れていたため。
 接近されれば必敗だった。

▼『日野自動車工業40年史』S57-12
 会社の前身は、ヂーゼル自動車工業株式会社の日野製造所。さらにその源流は、大正7年、東京瓦斯電気工業株式会社が、わが国最初の国産トラックを量産したときにさかのぼる。

 M43-8-1、東京瓦斯工業(株)。
 S17-5-1、日野重工業 設立。
 以来、ディーゼル車は日野とよばれる。

 松方正義の五男の五郎(M4生まれ)が、M44に、東京瓦斯工業の社長に就任。
 東京瓦斯工業から、兵器部門の日立工機、工機部門の日立精機、そして自動車の日野が分かれた。

 日野自動車工業が松方の手から離れた独立したのがS17。要するに陸軍の統制によって、経営権を奪われたのである。

 そもそも大手ガス会社のために国産のマントルを供給する会社として、東京瓦斯工業があった。
 大2に社名を「東京瓦斯工業」から「東京瓦斯電気工業(株)」に。
 これは、水力事業の発達で、年来の電灯との戦いに完敗することがあきらかになったため。

 東京瓦斯電気工業(株)としては、ローン120馬力空冷発動機、ベビーナンブ、3年式重機を、写真広告していた(p.7)。
 まず信管製作に進出したところへ、WWI勃発。
 ロシア向けに大阪砲兵工廠が輸出する爆弾信管の「活気体」〔活機体のあやまりだろう〕200万個を受注。これは計器工場があったのを見込まれた。

 つづいて海軍からは、砲弾用底螺×10万個。
 陸軍から信管4万5000個受注。

 大6-5に自動車への進出を決意す。
 欧州の町にガソリン機関の車が走ったのは、1885=M18のマンハイム。
 1892には独仏がゴムタイヤ付の立派な自動車を完成。

 フォードモデルTが発売された1908に、米では自動車は6万5000台生産さた。
 1914には米で50万台以上、製造された。
 1916にはT型だけで50万台。
 1920年代初め、T型だけで200万台。

 英は1916-2に マークI戦車×100両を、リンコンのウィリアム・フォスター社に発注。9月15日の戦闘で使用。
 1917春には1000両の戦車が製作され、11月20日のカンブレー〔ママ〕でマークIVを大量投入。

 仏は1916-2-20に、シュナイダー社に400両の戦車発注。翌春のジュビニー会戦に使用。
 1917-6にはルノーに、軽戦車×3500両発注。これを使って1918-7-18のソアソンで圧勝。

 日本は山東半島での対独戦(1914-9~11月)に、両工廠製の軍用自動車を2台づつ、計4台投入。
 蒸気自動車は米国製がM30に初輸入されている。

 M39、英国に留学中の大倉喜七郎がフィアットの100馬力レースカーと、同ヂーゼル車を持ち帰った。
 M43-4に大廠が甲号自動車を試作。
 M44-5に1台完成。
 東京砲兵工廠はM45に第一号車を完成。
 ※このへんはガッゲナウ等のモロパク?

 大7-3-25の「軍用自動車補助法」の公布と同時に大森に新工場を建設し、そこへ自動車部を設けた。
 WWIで機械の輸入が滞る。そこで大7下期に製作開始。
 陸軍から、シュナイダー・タイプの制式4トン自動車×5台を初受注。

 TOKYO GAS ELECTRIC の頭をとって「T.G.E. A型」トラックと名づけ、大8に12台、大9に49台を製造。
 しかし会社はその後、むしろ輸入車販売事業に集中した。

 石川島造船所(いすゞ自動車の前身)が英ウーズレーと組み、また(株)快進社が「ダット41」乗用車をトラックに改造して軍の規定をパスするなどの動きをみて、大正14年から再び自社生産に本腰を入れる。

 大13に陸軍兵器廠が工員を大整理。
 大14後年、国内メーカーが一斉に軍用保護自動車を造り始めた。

 フォードT型1トン半のシャシに家畜輸送用の格子式ボデーをとりつけ、11人乗りバスにしたのが、円太郎バス。震災で全焼した市街電車の穴を埋め、日本にバス事業を定着させた。

 S2に軍用「軽機関銃」の製作に着手し、翌3年完成。

 満州事変をみて、「愛国2号(敦賀)」を献納した。熱河作戦に使われた。「国産ちよだ型」と名づけていたトラックに装甲したもの。ターレットからLMGを突き出す。「ちよだ型装甲自動車」ともいう。

 TGE貨物自動車がS6に宮内省の御買い上げを賜ったので、以後「ちよだ」と車名を改めた。
 TGEの自動車部を分離したのが「東京自動車工業株式会社」で、S12-8-20発足。

 S13における英の国家財政は90億円。対して日本は20億円。

 相模原造兵廠に近く、メッケルが現地戦術を教えた地として陸軍にとり親近な日野台に、年産50両の戦車を作る工場として「日野製造所」を、東京自動車工業の部門として新設。大森から設備を移し、S16-8-27に落成。
 S16-4には、東京自動車工業は、「ヂーゼル自動車工業」と社名変更。

 日本の自動車産業は、S11にはトラック500台。S15にトラック4万2000台を製造。
 各種兵器車両の国内生産力は、S15には2500台だった。
 S17-5-1に、日野自動車工業(株)となったのは、軍がロケ車(6トン牽引車)を集中生産させるため。

 94式軽装甲車は日野では「ニコ」と呼んでいた。※いっぱんには「TK車」と略称された。本書の編纂者は「愛国2号」と混同しているのではないかとの疑いもある。

 終戦までの、日野における生産数。いずれも概数。
 ニク 260台。
 ホフ 580台。
 ロケ 1230台。
 94式軽装甲車 500台。
 テケ 700台。
 ラK(全装軌兵車) 200台。
 ラK半(半装軌兵車) 800台。
 ケニ 100台。
 チハ 100台。
 ソキ 65台。
 BKK(伐開機) 65台。
 BSS(伐掃機) 130台。

 ホキも造った。
 S18には、10トンで火焔放射機をもつ「凍土穿孔作業車」を試作。
 飛行場の圧雪車にも取り組んだ。

 日野重工業は、他の9兵器メーカー(三菱重、日立製作所、神戸製鋼所、池貝自動車、新潟鉄工所、浅野重工業、羽田精機、久保田鉄工所、日本内燃機)とともに戦車部会を組織し、陸軍省兵器行政本部下の相模陸軍造兵廠の指導監督のもとにあった。

 S17末から陸戦兵器の整備優先順位が下げられる。S16には戦車生産は第一順位だったが、S19には第四位に落とされ、代わって飛行機と船舶が第一位に。

 戦車、牽引車、砲、トラックがS16まで重視されていたのは、支那事変中の大陸戦線での経験に基づいていた。※これは大きな誤解で、陸軍はS17に対ソ戦をおっぱじめる気満々だったのである。その前にはS15にやる気でいた。服部卓四郎らは戦後、おくびにもそんな思惑のあったことを公表しなかった。

 S16-12以降、自動車への鋼材割当は減少に転じた。
 S16、バス生産停止。
 S19初に乗用車の生産停止。
 軍用トラックの優先順位は、S16とS17においては、第二位。S18とS19においては、第三位に。

 S20のトラック生産は、最盛時(S16)の1割強でしかなくなってしまった。

 S11には日本は5004台のトラック・バスと847台の乗用車を生産。
 S12には、7643台と1819台。
 S13には、13981台と1774台。
 S14には、29233台と856台。
 S15には、42073台と1633台。
 S16には、42813台と1065台。
 S17には、37653台と1362台。
 S18には、25174台と522台。
 S19には、21434台と19台。
 S20には、6273台とNA台。

 S19には軽装甲車の生産は事実上、中止。
 S18-5に、特殊戦車〔?〕の受注が急減した池貝自動車は、経営が極めて悪化し、飛行機部品への事業転換で乗り切った。

 「日野重工業の前身であるヂーゼル自動車工業(後のいすゞ自動車)も……」
 ※戦中の話がかなりオミットされているような気がする。統制指導への反発か?

 トヨタは水陸両用車を200台生産した。S20には特攻ボートも。
 ヂーゼル自動車工業はS20に、車両用統制型ディーゼルエンジンを舟艇用に切り替えた。
 ※統制エンジンはS12~15年に5種類、制定された。開発は官民一体。他社も加わっている。

 S12時点で日本国内の揮発油の使用高の90%を自動車で占めていた。

 極寒地で、気化器が凍結しないのが、ディーゼルの強みである。

 S19-9に、日野に対して「まるゴ」車を作れという命令が……。すなわち御在所車。兵員輸送用半装軌車に25ミリ防弾鋼鈑で特注ボディを付け、ベッドと2個のソファ(お附き用)を置き、さらに護衛兵2名も置けた。2台、完成した。
 ※松代大本営へ皇居を動座させる際の緊急非常輸送手段として、軽装甲車を改造してあった、という話が伝わっているのだが、あんな狭い車内と非力なエンジンで、どうにかなったわけがない。こちらの話の方が、よっぽど合理的に聞こえる。

 TGE本社は、1939-5に日立製作所へ吸収合併された。

 1939-1に、東京自動車工業と三菱重工と池貝自動車と神戸製鋼所と新潟鐵工所が共同出資して「ヂーゼル機器」創立。

 大10-1に、独ルドルフ・ディーゼルが、ディーゼル機関の自動車への応用に成功。
 1921に米デューセンバーグが油圧ブレーキを初使用。
 1924にダイムラーが自動車用ディーゼル・エンジンを試作する。
 1932に3社で「いすゞ号」試作。

 植柱車は1933試作。by TGE。以下同じ。
 延線車は1933試作。
 「さく壕車」〔ママ〕(サコ)と、野戦力作車(リキ)はS9試作。

 S10に、散兵壕掘進車(5号機)を製造。 ※これも略せば「サコ」になり得るのでは……?
 S10に、湿地帯渡板敷設車(7号機)を製造。

 S10に、自動車工業、ヂーゼル機関を完成。
 1936からTGEで、軽装甲車を製造。※94式とは別か?

 1935-12に、ドイツのワンデレルが、初の2サイクルV型4気筒エンジン完成。
 テケとテレはS12。
 SUとJM(95式鉄道力作車)も。

 1938にシトロエンが初のFFレイアウト自動車を製造?
 S14にソハ車(装甲発電車)を製造。

 1940に米パッカードが初のエアコン搭載車を発表。
 ウイリスジープ1号車は、1941完成。
 S18に米ではドライブが禁止される。
 S19に米はソ連に34万5000台の自動車を支給した。
 S20にソ連でジス1号車が完成。



3機のB-1がアラスカから東シベリアに沿って欧州まで4300海里飛行してみせた。

 Steve Raaymakers 記者による2020-9-11記事「China expands its island-building strategy into the Pacific」。
    キリバス共和国は中部太平洋に広く散在する32の環礁その他から成る群島国家(ギルバート諸島、フェニックス諸島も含まれている)だが、海面上昇の脅威にさらされている。そこで、南シナ海の砂盛島工事で定評あるシナ企業に、土地の嵩上げの工事を頼んでいる。ついでに、工業用地とする埋め立て工事や、2つの港湾整備もしてもらう。

 キリバスのEEZ面積は350万平方kmにもなり、これは豪州大陸の半分に相当する広さだ。そこではマグロが獲れる。
 しかし総人口はたったの12万人。土地の標高は数mしかない。

 キリバス政府が中共に依存して行く道を定めたのは2019-9のこと。その年に選挙があり、中共依存路線を標榜する政党が勝利した。

 交通運輸結節点として進められている開発の拠点が2箇所ある。ひとつは首都が所在するタラワ環礁。もうひとつは、ハワイ寄りのクリスマス環礁。
 中共はだいぶ前に、衛星追跡用の地上施設をキリバスに建設している。それはながらくモスボール状態だったが、このたび、運用を再開したという。

 中共軍は、キリバスのハワイ寄りの島に情報収集拠点を設営することにより、クェゼリン環礁やジョンストン環礁、ウェーク島などの米領近海で行われる米軍のミサイル・テストをモニターできる。
 WWIIで日本海軍は、米国と豪州の間のシーレーンを断ち切ろうとして苦労してギルバート諸島まで進出したのだが、中共は、平時に難なくそのポジションを得てしまったことになる。

 中共は、仏領ポリネシアのハオ環礁にも足掛かりを得た。20億ドル以上も投じて、魚肉加工工場を建設してやるという。同環礁は、中共の大艦隊がひとつまるごと泊地として利用できる深さと広さを有する。90年代までフランス海軍が、核実験の支援艦隊を置いていたところだ。ムルロア環礁に近いのである。それで、輸送機が発着できる滑走路もある。

 世界最大の二酸化炭素排出国が、みずから温暖化させた海洋気象をネタに太平洋の貧乏国に戦略拠点を築いているところだ。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-11記事。
    2年前にサムスン社は「ギャラクシーS9」という軍用グレード(タクティカル・エディション)のCSP(コンバットスマートフォン)をリリースしている。
 このたび、より高速のプロセッサーなどを搭載して強化した戦術スマホ「ギャラクシーS20」を商品ラインナップに加えた。

 同社が軍用スマホを最初に売り出したのは2012年である。
 スマホメーカーが世界のCSPの市場に参入するには、単価300ドル未満でないと勝負は難しい。そして、2年ごとに性能強化された新機種をリリースする必要があるだろう。

 軍用アンドロイドを最初に開発させようとしたのはNSAで、2011年のことだった。SE=セキュリティ・エンハンスト と称し、ハッキング対策を重視していた。Linuxベースであった。
 米陸軍もAtrixスマホとギャラクシーのタブレットを2011年から試し始めている。

 次。
 2008年5月6日深夜2時23分、スリランカ軍の補給艦『インヴィンシブル』が、タミール・シー・タイガース(または「ブラック・タイガー」)のしかけた複数のリムペット機雷で沈められた。軍艦も意外に脆いと知られた事件だった。 
 場所はトゥリンコマリー港で、土曜日。
 積荷は弾薬であった。
 13分で沈没した。死者はなかった。艦齢は38年以上だった。

 じつは攻撃方法は完全解明されたわけではない。内部で爆破したのかもしれない。誰も見ていないので。
 ともあれブラックタイガーは自爆攻撃に定評があった。
 隣に繋留されていた『MV A 520』の船底で自殺ダイバーが自爆し、そのエネルギーでやられたのだろう――との推定もある。

 インド洋で商船が難破すると油流出が注目され、世界から関心を集めるということが知られてしまった。だったらテロリストはそれを利用しようと考えるはずだ。原因不明の商船難破が、これから増えても、驚かないようにしよう。



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


旧資料備忘摘録 2020-9-11 Up

▼連合国最高司令部 民間情報教育局ed.『眞相箱――太平洋戦争の政治・外交・陸海空戦の眞相』S21-8-25 有楽町・コズモ出版pub.
 NHKラジオが、日曜の朝8時から8時半まで放送した、第一回から第20回までを活字化したもの。

 S17-8に米潜『ポンパン』号は、東京湾の入り口で浮かび上がったところを、爆雷攻撃されて、あわてて潜ったが、潮流で港内へ。
 その後、見つけられずに、浮上して応急修理して、帰投した。

 戦陣訓は 誰がつくったか現時点では分らぬ。
 中野正剛は東条が自殺させた。
 「〔東条〕大将は自分が死んだとき、それが一見して東條英機の死体であると判るやう、頭を射たずに心臓を射つた」。
 「大将が三十二粍拳銃で自決を図つた室の」(p.249)。
 ※コルトの .32オートなのだが、誰も翻訳をチェックできなかったようだ。

 南京では、婦女子2万名が惨殺された(pp.251-2)。
 イーデンはS17-3に、香港は第二の南京になったと声明した。

▼大類伸『ヴエニスとフロレンス』大3-10
 十字軍以前からベニスはアドリア海の制海権をもち、海賊を排してコンスタンチノプルと貿易していた。
 十字軍第一回は船の知識がなかったため陸路。
 これは損だとわかって、次回からイタリア船を雇った。

 シリア沿岸に出先商館を置き、サラセン商人を追い払えたのは、クルセダーのおかげ。
 1204の第四回十字軍はベニスのためにあったようなもの。騎士9000、歩兵2万、馬4500、糧秣を輸送した。
 護衛の軍船×50隻は自発的に添えた。
 代価として占領地の半分を貰う契約。

 はじめからエルサレムには目もくれず、一路、コンスタンチノプルへ。
 沿アドリアには基地以外に競争市がない。
 他はみな西岸なれば。

 フロレンスは貿易は振るわず、毛織業で栄えた。それと、大名貸し金融。

▼石川六郎『ウイルソン』大8-8
 19歳で老成貴公子の風。南部出身。
 当時のプリンストン大学は、全課目を強制履修させられた。その制度下で、41番目の卒順だった。
 あだなは「トミー」。

 売れない弁護士時代に書いた『米国の議会政治』が英大使から認められ、一躍、有名人に。
 大学教授をしているうちに、話し上手になった。
 プリンストン大学総長になり、改革推進。金満子弟の4年間の遊び場たるド田舎社交クラブだったのを、真剣に学問する場に改めた。履修科目は選択できるようにした。青年教授が学外でも学生を指導するチューター制も導入。
 ついで、NJ州知事。ここでも改革。
 ついに大統領に。

 ウィルソンにはモンテスキュー流の三権分立はもう古いという確信あり。特に行政と立法をくっつけるべきだと思っていた。

 南北戦争後、北部=共和党の天下となって、高関税で外国商品を締め出した。それを背景としてトラスト(同業の国内全社が連合する)があり、政治腐敗の温床にもなっていた。
 トラストのリーダーは公益より配当を重視。
 また新たな起業者の参入も歓迎しない。
 新聞記者すらトラストのための太鼓を叩いた。

 リンカンやテディが廃していた、大統領による議会での教書朗読を復活させた。
 米では閣僚は議員であってはならぬ。だから英式に交流することが大事なんだと。
 FRBを創設して、それまでの有象無象銀行が売った債券に比例して「札」を刷れるという旧式の通貨信用維持法を改めた。すなわちインフレ対策。

 米国内のドイツ系有権者の票が大きい。センターはミルウォーキー。ウイルソンは再選を確実にするため、裏では英米の味方顔ばかりはしていられなかった。

▼伊藤銀月『日本海賊史』M37-11
 新羅は九州クマソを使嗾して、大和政府の憂患たらしめた。

▼高橋作衛『日米之新関係』M43-12
 ※著者は日露戦争中に日本軍の国際法顧問もつとめた法学者。
 ペリーの航海途中でフィルモア政権が民主党政権に交替していなかったら、沖縄と小笠原は奪われていた。

 「六月九日〔?ママ〕米国使節ペリーの書翰 我政府へ白旗差出の件」(pp.15-16)。
 「……不承知に候はは 干戈を以 天理に背くの罪を糺し候に付、其方も国法を立て防戦いたすへし 左候はは 防戦の時に臨み必勝は我等に有之、其方敵対成兼可申、若 其節に至り 和睦を乞度は、此度贈り置候所之白旗を押立へし、然は 此方の炮を止め 艦を退て和睦いたすへしと云云。」(「町奉行所類」所収 外国事件書 高麗環雑記)
 ――これは明治43年3月31日に帝国大学史料編纂掛が発表した、大日本古文書幕末外国関係文書之一(二六九)に掲げられているという。

 「嘉永癸丑浦賀一件数条」に「一亜米利加国より贈来る箱の中に、書翰一通、白旗二流〔ママ〕、外に左之通短文一通、《後略》」(p.16)。

 著者は仏人カーン氏の基金でM40~41に海外旅行したが、会う者すべて、日米戦争はいつ起こるんだと言うから、研究調査方針をこの誤解の説明に変更した。

 ※日露戦争直後から米国の対日感情が急激に悪化した。これは兒玉源太郎が満州市場を英米商人に対して完全に閉ざしてしまったため。海軍もすっかり増長して鼻息が荒かった。俄かに《ペリーの白旗》の話も持ち出されるようになったのである。伊藤博文はこれはマズイと思って、久里浜にペリー上陸紀念の碑文を建てた。それはホワイトフリートに見てもらうためだった。

 晩香坡=バンクーバー。
 米国でのコメづくりは1903、広島県人が「ポートラバカ」で借地にてテスト。また神戸人も同年にテキサスの「デルリヲ」地方で数エーカー、試みた。
 テキサスでは反日感情は無い。

▼鳥谷良吉『津軽海峡の史的研究』S19-1
 海峡の潮流が凪ぐことがないので、おのずと渡る者は少なかった。

▼タウンゼント・ハリス著、生駒粂蔵tr.『維新秘史・日米外交の真相』大2-11
 ハリスの着任直後からの日記である。
 ハリス公邸を訪れる日本官憲が水を混ぜずにブランデーやウィスキーを飲むので驚く。

 10月30日・金曜日。余は新来の奉行に対してコルト式五連発拳銃を贈りしに、彼れは非常に喜びて之を受けたり。

 領事が雇っていた支那人が、薬屋からアヘンを強奪した。
 彼らの習慣に従い、まず水に溶かして混和物を除去する。

 蹄鉄を打ってない日本の馬は、1時間駈けさせると、馬沓を取り替えねばならない(12月20日)。
 馬の値段は、1頭19両。

 馬に噛まれて内出血した。それを去らんと、蛭に吸わせた。インドの蛭にくらべてあまりに小さいので驚く。吸血力も弱い(11月27日)。

 オランダ人のヒュースケンは、夜、馬で出歩いていたところを、槍で突き殺された。
 下田の芸者、唐人お吉は、たった1週間でお暇が出ている。

▼大庭景秋(柯公)『露西亜に遊びて』大6-9
 クヌート(鞭)はダッタン語から。

 日本の待合いにあたるのは、ドーム・スウイダーニャ。連れ込み宿なり。
 ペテルスブルクのネフスキーの北側人道を夜9時以降に歩いている女は全員、街娼。200軒あるホテルに同伴するシステム。

 ゲットーは、16世紀のヴェニスとローマにまずできた。
 ロンドン、オクスフォード、ヨークには、ジューズ・クォーターがあった。
 ロシアでは絶対に猶太人はオフィサーになれない。
 主都ペテルスブルクには、歯科医と産婆のみ、ユダヤ人であっても住める。

 ブリヤート猟師は、いまだに弓である。

▼『戦記叢書』大2、所収「筑後軍記」
 千栗川合戦。
 鉄炮が日本に普及して以後、城攻めでは「仕寄り」をしなければならなくなった。一手一手ひきわけて攻め寄せる。竹束でガードする。

 遠斥候[とおものみ]を出す。
 鉄砲で「かけ鳥」をも撃ち取る。

▼国府種徳『欧米小感』M43-4
 中庸にいわく。道は人に遠からず。人に遠きは以って道とすべからず。
 ドイツが総体として英国の製艦力に追いつけないのは、民間の力の差がまだあるため。

 昨年〔M41? タフト政権時代〕の9~10月のシーズン中、「フットボール」〔アメフトのこと〕のために一流大学生の死者9人、負傷114名を出しているが、インテリの間に尚武心を養成することが重視されており、このスポーツ試合を廃止しようという動きはない。
 市民に向上心が強いから、地方自治がいったん腐敗しても、少しづつよくなって行く。

 米国からはドイツ国内に技師を派遣してその工業テクノロジーを調べさせている。

▼有川治助『ジョン・ワナメーカ ――人及その事業』S4-10
 逓相にもなった。
 本店はフィラデルフィア。
 東京と京城のYMCAビルは、ワナメーカーが寄附した。

 ワナ「友よ、汝もし、人生を照すごとき本を書いたり、行ひを為し得るならば、直ちに着手せよ」
 くよくよすることが人を殺す。

 1838、フィラデルフィアの煉瓦焼き工の長子として生まれる。
 13歳で弁護士事務所のボーイに。
 両親は移民。父はパラチネート、母はユグノー。

 子どもの頃、商人が商品をとりかえてくれなかった。自分はそうしないと誓う。
 ひやかしも、返品も、自由にしよう、と。

 16歳で、目をつけていた一流洋服店員に。
 民主党政府が関税を下げた。結果、1857の不況を、小僧の身で経験する。→共和党支持者に。

 珍姓ゆえ、銀行家がすぐ覚えてくれた。
 20歳にしてYMCAの主事となり、会員数を倍増させた。

 南北戦争が始まると、志願将校のための軍服を作った。
 ビルボードに「W.&.B.」の文字だけの広告を出した。ワナメーカー&ブラウンとはせずに。通行人をギョッとさせる新手法。これを創始した。他の業者が真似ると、やめた。
 ショップは7年で潰れた。

 時計台に広告を出すのはよくないと学んだ。時計が狂っていたり故障すると、こっちの信用が落ちるから。
 ワンプライスシステム=定価売り。これを、景品ぬきで本当に実行したのはワナメーカが最初。
 ※江戸時代の先進性が光る話。

 新聞半ページ広告も、ワナメーカーが最初に出した。
 CMでのモットー。 Full Garrantee One Price Cash Payment(現金払いのみ) Cash Returned(返金可)。
 10日以内なら全額返金できるようにした。
 定価が信用されるかわり、seasonable でない商品は置いておけなくなる。

 商店主は、全国の小売店を見て歩け。
 日曜のYMCAの仕事もあったので、チェーンストア化は断念した。

 当時、米国都市の人口集中は、欧州ほどには極端でなかった。
 NYCの百貨店すら、実態は、全国向けの「卸し」であった。

 組合商店 も、この頃、出現した。火曜日は午後2時で店を閉じ、定員の休みにするのである。
 一案破るれば、一案あらたに出る。

 フォードとワナメーカーの二人は、事業のための借金も、先天的に嫌っていた。それで大を成したのだから、すごいのである。

 米国の保険は、地震でも払うことになっていた。だからサンフランシスコ地震で大ピンチ。それもあって、1929の大恐慌に。

 逓信長官には1893まで在任。郵便貯金法を提言した。それは1910にようやく連邦議会を通過した。3億ドルとみられた箪笥預金を社会に回転させるため。

 1884に、宗教的禁酒運動である White Ribbon Army を組織している。
 フーバーは、禁酒法支持を掲げて、スミスを破っている。

 この世をエデンの園となすことを得ずとも、死海とせぬやうに心掛くべし。

▼秩父宮殿下&妃殿下『英米生活の思い出』S22-12
 大正天皇崩御までの1学期をオクスフォードですごしている。その前にも1年間滞英。
 O.T.C.=Officers’ Training Corps に申し込めば、騎兵訓練が受けられた。ただし外国人は×。

 イートンのウォールゲーム(フットボールの一種)は、得点が非常に困難で、数年に1点入る。最近3年はスコアがない(p.43)。
 ※これが英国系スポーツの精神。みずからをエンパイアビルダーとして鍛えぬくために球技スポーツがあったので、観客から見た試合のおもしろさなどは度外視されていた。だから審判も最少でよく、選手本人の自己申告だけでルールは機能した。

 フォックスハンティングでは、狐のたおれた場所へ一番先に到着した者に功名が。ただし婦人と戦陣を競って先に障害を飛越するようなマネはご法度。女子は横乗りで柵を越す。

 徒歩の人間と犬とで、ウサギを追いかける Beagling という遊びあり。
 眼鏡を外せぬ者は、ラグビーはできない。そこでボートを選んだ。

 ボートは、ポジションがFixしているので、ひとりだけ練習を休むことができない。特に冬季のコーチがたいへんである。最も我が儘がゆるされない世界だった。
 ピンクのカラーは、英国ボート界最高の倶楽部であるリアンダー・クラブを意味し、羨望された。2年生でこれをつけている者などいない。

 鹿狩りは Deer’ stalking という。
 1926のゼネストでは、バッキンガムの衛兵すら、カーキ色軍服に着替えた。革命になるんじゃないかと皆、思った。

▼柳元静馬『財界名士失敗談 上』M42-5 毎夕新聞社pub.
 人肥に比し、牛糞は肥料になりにくい。
 高田慎蔵は相場には手を染めたことがない(p.83)。

 ある親父、訓していわく。女にホレて金を使っても大した高にならん。しかし男に惚れると、一身一家を失うことになるかもよと。

▼『米国研究』大5-11 同文館pub.
 陸軍正規兵は全く志願兵で、18~35歳が対象。
 ※陸自も35歳までOKにしたら?

 1契約は、4年現役、3年予備。
 4年まじめに勤めたものは、継続して30年間、勤めることができる。

 民兵は州兵である。
 義勇兵は、大統領の臨時直率である。これは全州に人数を割り当てねばならないことになっている。
 ウエストポイントやアナポリスが、各州の推薦枠を平等にしてあるのも、地域の偏りを防ぐため。

 普通学校で軍事教育をさせるようになったのは、南北戦争ですぐ将校が足りなくなった北部の反省から。
 1862の「モーリル法」から始まる。

 この時点で、米有権者2700万人中、180万人がドイツ系である。

▼三枝博音『日本の知性と技術』S14-5
 家康は「山令五十三ヶ条」を布いたという。
 「山師、金掘師[かなほりし]を野武士と号すべし」
 普通の侍は坑内では「腰の物」はダメ。
 しかし、山師、金掘師は命がけの仕事なのでOK。

▼中小路彰『イギリス革命戦争史』S15-7
 スピノザはユダヤ人。ゲーテもスピノザ主義。
 シェークスビアの中ににキリスト賛美が一言もない。だからユダヤ人なのだと。
 クロムウェルもユダヤ人だと。
 ※もうむちゃくちゃ。

 プラトンの『国家』、アウグスチヌスの『神の国』。この系譜につらなるのが、トマス・モアの『ユートピア』。モアは、オランダと羊毛貿易している業者のための法律屋であった。

 無敵艦隊を破ったことを背景に、シェークスピアの喜劇がある。
 しかし最後の『あらし』は、イギリスの没落を暗示している。

 ベーコンがIdola(アイドル)を破壊せよと言ったのは、ムスリムの影響だ(p.177)。

 鉄騎隊(アイアンサイド)をトレーニングしたのは、ダルビア大佐であった。

▼中小路彰『北清事変』S14-8
 インド兵が最も勇敢で、水路をつたって北京城内に一番乗り。

 6月25日、「午後五時過、英国公使館の北端に當りて白旗見られ、降伏の情を示せしも、素より之を顧みず、我歩哨線の防備を厳にせり」。
 ※偽降伏はシナ兵の得意技だった。

▼馬渕逸雄『日本の方向』S16-12
 著者は大本営陸軍報道部長の大佐。S16-6まで在任。
 事変4年で、日本軍の戦死・戦病死は、約11万人。 

 「外国留学生は、概して其の留学先の国のファンになるのが、普通であるのに拘らず、支那の日本留学生だけは、その大部分は帰国すれば排日家となつた。」(p.77)。

▼長瀬鳳輔『土耳其及土耳其人』大4-3
 自称は「オスマンリー」である。
 オットマンというのは仏語。
 スタンブール=スルタンの都。

 ターバンをフヱッス(トルコ帽)に改めさせたのは、マームード2世(在位1808~)。

 本書時点で、男子は8歳までハーレムで母親と暮らす。サーカムンジョンの後は二度とハレムには出入りできぬ。女子は16で結婚。
 日没を零時と定め、日の長短により標準時も変わる。それを汽車の時刻表にも適用しているのである。
 トルコの民法は、ナポレオン法典に準拠。

▼ヲット・ハンス著、イスラム文化協会tr.『回教諸国の財政機構』S13-10
 トルコ共和国は1923のローザンヌ会議で国際法上から正式に承認された。
 1920のイスタンブール政府が呑んだセーブル条約の対「連合国」賠償がなくなった。また、それまでの治外法権も廃止された。

 1917夏に英印軍(主力はインド兵)がモスールとバグダッドを含めた「ウイラヂエット地方」を占領した。
 1921にそこをイラクとなす。
 1923ローザンヌ会議でトルコもそれを呑む。
 1932にイラクは国際連盟に入り、英の保護国ではなくなった。

 15世紀のドイツ都市には、ゲルマンの種族法、サクソニア法、シュワーベン法などがあったが、ローマ法により全部駆逐された。
 ※これと同じことがイスラム圏では起こり得ないのだ。

 イタリアvs.アビシニア 戦争は1936-5に終結。
 キルクーク油田(バグダッドの北250km)と地中海の港市のトリポリ(シリア)やハイファ(パレスチナ)を結ぶ2本のパイプラインを英国は敷いた。
 ハイファへ行く管は、トランス・ヨルダンを通過する。
 全体で1850km。1937頃から石油収益は巨額。

 アラブ世界に紙幣が普及したのはここ20年。
 トルコはケマリズム以前から不換紙幣を濫発していたが、ケマルが収拾した。
 石油以前は、メッカ、メディナ巡礼者こそがサウディの最大の収益(特に膨大な数のインド回教徒)。

▼河本正義『覗き眼鏡口上歌』S10-1
 この執筆時点でもうすっかり見なくなったので、回想的にまとめた。
 2種あり。
 レンズがひとつで、6~7枚の看板絵が、謡声につれて次々替わるものを「昼夜物」。
 絵が30枚並んでいて、眼鏡をかけて一つ一つ次から次へ見ていくのを「ポンイチ」(いっぽんの逆さ読み)と言った。

 ポンイチの方が、製作費はずっと高い。
 これらは、活動写真によって駆逐された。

 南山の戦闘を題材とする「血染めの軍旗」の歌謡中に「天下はれての結婚に三々九度のさかづきも」と出る。

▼『太陽』M44-11-15日増刊号
 所収、武富時敏「財政経済上より観たる戦争の価値」。
 日露役で日本は15億円支出した。
 日清役の賠償金の正貨はM28-10から流入。
 これをアテにして政府は29年度予算を戦役前の2倍に膨張させた。
 これによりM29-12までに通貨量は6000万円増えた。
 およそ通貨は1年間に100回も1000回も循環するものだから、通過の6000万円増は国内取引の60億~600億増を意味せねばならぬ。→インフレになった。

 日銀は引き締めに回らず、それどころか全国の銀行に大いに融通を与え、後の恐慌を避け難くした。
 M31に恐慌が来た。

▼本阿弥光遜『近代戦と日本刀』S18-7
 インド兵の前で日本刀で頭右の号令をかけ、顔正面から斜め下にサッと振り下ろすと、兵たちは怖がってあとじさりする。よって今では鞭で代用している。

 大陸の寒地では日本刀は確かに折れやすい。大問題。
 床屋も、寒いときはカミソリを湯に入れてから使う。

 耐寒刀も目的とした製品が「満鉄刀」(スチールの両側を軟鉄で挟んだ構造)と、広島の一刀工による「新日本刀」で、これは『刀剣工芸』S15-2月号に詳しい。

 偽物に注意。一枚のスチールをヤスリがけして焼き入れしただけのモノは偽物である。明治時代からある。
 桜花の中に「昭」とあるのが、テスト済みの昭和刀。
 しかし、曲がったものをまっすぐにしようとすると、そのときに折れる。

 寸法は、近代戦では1尺9寸から2尺1寸がよい。それより長いのはダメだ。壕内でとても邪魔だし、行軍時に腰ガヘタる。剣道も、短いのに変えるべきだ。
 元亀天正の備前長船は、ちゃんと2尺1寸前後になっている(p.92)。
 現在では、陸軍の新作刀の規格も2尺1寸だ。

 金属鞘は、西洋サーベルの悪模倣。湿気の多い日本では、刀身を錆びさせるだけでメリットがない。
 柄が折れるのは、柄中に空隙を作ってないから。ショックをダイレクトに伝えぬようにしなければならぬ。
 目釘も昔は金属だったのが、竹に進化した。ショックを和らげるためである(p.121)。

▼オーヴァストリート夫妻著、白神鉱一tr.『平和という名の戦争』1962、原1962米国
 ※反共本である。

▼ハイラム・モダーウエル著、横山有策tr.『近代劇研究』大10-4
 ドレー・ビューネ Drehbuhne 廻り舞台 は15年前に発明された。NYCにもこの設備は3箇所にできている。もうじき世界中で常識になるだろう。

 昔はフットライトしかなかったから、誰も影がない。テーブル下が、テーブル上よりも、明るかったのである。
 ひとつのアーク燈と、さまざまな色の絹布片スライド数個でできたフォーチュニー式灯が革命した。
 これは2階席から使用するスポットライト。これを3~5台、使う。
 色は5枚。白、黒、赤、青、黄。

▼イルゼ・ブレッシュリーベ著、高沖陽造tr.『決戦下の独逸婦人』S18-4
 ドイツも追い詰められて、工場で婦人を働かせるようになった。

▼森三郎『麦の穂の乙女』S16-9
 「勤労奉仕」という、日本人には未知である概念を、紹介する本。

▼豊原文雄『家庭職業読本』S12-9
 都会では内職といい、田舎では副業という。
 京都では江戸時代に、公家が内職していた。
 ついで武家が……。
 松本藩の雛人形。米沢藩の機織り。

▼栗栖赳夫『一般金融の知識』S9-5
 信組はM25-8の掛川町にできたのが早い。
 法律はM33の農商務省の産業組合法で整った。

 産組には4つあり。信用組合は、借りるが専門。販売組合。購買組合。利用組合は設備を共用する。
 最低7人集まらないと信組はつくれず、また、存続も不可。

▼陸軍省徴募課『野戦歩兵小隊長必携』S7-8
 ※満州事変を背景に、在郷軍人幹部の能力工場用に作られた。

 対匪賊の教訓。
 ニセ降服に気をつけろ。
 分散するな。単独伝令は、やられる。
 村に籠もった相手は、まず砲撃(41式山砲など)で追い出し、門前に出てくるのMGで待ち伏せる。
 敗残兵が急に側背に出ることがある。必ず予備を控置せよ。
 鉄道では敵の裏は掻けない。自動車を使え。
 深い追撃は禁物。
 追撃は山砲がgood。歩兵砲はレンジが短かすぎる。
 畑に人が出ていて、門前で子女が遊んでいたら、そこは安全村。
 畑に人がおらず、男子が屋上で見張っていたら、近くに匪賊あり。
 まったく人影がないのは、村内に匪賊がいるのである。
 支那馬の牽引力は、日本馬の半分だ。

▼富岡定恭(海軍中尉)『水雷新論』M15-5 海軍兵学校pub.
 この「水雷」とはグラウンドマイン=沈底機雷のこと。イボ信管がついている。
 炸薬は、綿火薬700~1000斤。

 浮泛水雷(ブイヤント・マイン)は、500~700斤。
 抵触水雷(コンタクト・マイン)は、200~300斤。

 牽引水雷(トウイング・トーピード)および氣機水雷(ロコモチフ・トルピード)は30~50斤。
 レー氏式「水雷【?読めぬ】舟」は、炸薬無制限。
  ※「鶴」という字の簡略体ではないかと思われるのだが……。Spar torpedo を取り付けた小舟をその外観から「鶴舟」と称したのか?

 英式混合薬は、砲用火薬と、必屈里屈[ピクリック]火薬 である。
 ニトログリセリンは「尼多魯虞里斯林」と書く。
 ダイナマイトは「代那迷篤」と書いている。



いま米海軍はSSNを54隻、SSBNを14隻もっている。

 David Van Dyk 記者による2020-9記事「Bring Back Coast Guard Sub Hunters」。
    米ソ冷戦が終わり、ソ連の潜水艦が米本土沿岸をうろつくことなどもうなかろうと考えられたので、それまで沿岸警備隊の船艇が備えていたASW機能は、撤去された。

 しかしカリブ海で潜航艇を利用した麻薬密輸が激増し、中共の潜水艦隊がインド~太平洋を広く脅威する趨勢の中では、米コーストガードはAWS機能を再付加されるべきであろう。

 かつてのコーストガードによる対潜作戦は、けっして形ばかりのものではなかった。WWII中、米東海岸で独潜が活動を続けられなかったのは、沿岸警備隊の貢献である。

 コーストガード船が米海軍とともに台湾海峡のFONOPに加わったのは2019-3の『バーソルフ』が初。駆逐艦『テーティスウィルバー』とともに。

 グァムにも3隻、沿岸警備船を常駐させるようになった。※そこは米領土だから、不思議はない。

 しかしこのように中共潜水艦隊のうようよする最前線に出ているのに、対潜探知能力が船艇には与えられていない。これはマズい。

 カリブで2006に最初にとっつかまえたコカイン輸送潜水艦は『ビッグフット』と綽名された。クルー4人でコカイン3トンを輸送中のところを、コスタリカ沖で拿捕。

 潜航深度はわずかなものだが、レーダーにひっかからないので、大問題だ。

 WWII中の『トレジャリー』級の警備艇は全長327フィート。ソナー、爆雷、魚雷発射管まで有していた。※当時の潜水艦は夜間に浮上して行動していることも多かったので、二次元短魚雷が有効だった。

 しかし海軍が専用の《駆潜艇》を投入するようになってからは、それらコーストガード船は、上陸作戦の護衛任務に回った。

 LCS構想が破綻している。その対潜ミッションパッケージは、コーストガード船艇に与えられるべきであろう。

 ※わが海保船艇は、1時間で自動無害化する「連繋浮遊機雷」を、敵船艇の前路に投射できる機能を追加されるべきである。炸薬を最小にしておけば特に国際法上の問題はない。



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


旧資料備忘摘録 2020-9-10 Up

▼中村新太郎『鬪ふ火砲』S19-4
 著者は故実家で、陸軍画報の編集長。既著に『陸戦の華 戦車』ありという〔未見〕。
 三脚の上に置かれ、片目レンズにて接眼する、コンパクトな光学機材。「磁針方位板」という。
 コンパスとメガネが組み合わされたもので、倍率は4倍から5倍。

 特別大演習では砲兵もしっかり全身擬装網を肩からかける。
 36連「カチューシャ」の写真。
 米軍の203ミリ榴弾砲の写真。

 M9にクルップ7.5cm砲を買ったのは、普仏戦で仏が負けて、四斤砲(8.65cm)に魅力が失せたから。
 大砲には「高低射界」と「方向射界」がある。

 敵アメリカやイギリスには10.5cm加農がない。米軍には要地高射砲として10.5cmAAGはある。陣地の固定式。しかし機械牽引砲としては、11.94cm(4.7インチ)加農である。
 英軍だと60ポンド砲(5インチ=12.7cm)がこれにあたる。

 ハリケーン2C型とタイフーン1B型は、どちらも翼銃として20ミリ×4門。
 ハリケーン2D型は、40ミリ砲である。
 英で使用しているミッチェルB-25は、75mm砲である。※この情報が先行してあった。

 米軍のM2(新型)7.5cm野砲は、レンジ13700m、装輪開脚式、自動車牽引。
 米軍のM1 7.5cm山砲は、レンジ8300m、方向射界6度、単一箭材[せんざい]。

 米軍の10榴は、105ミリ、レンジ11000m。
 米軍の12加は、レンジ18500m
 米軍の155ミリ榴弾砲は、レンジ14600m。
 米軍の155ミリ加農M1は、弾種がいろいろだが、代表的なものは、弾重43kgで、レンジ23000m。
 米軍の20.32センチ(8インチ)榴弾砲は、砲架が15加と同一共通。弾重90kgで、レンジ17000m。

 米軍の240ミリ榴弾砲は、レンジ16400m。4個にバラして機械牽引できる。

 米軍の高射砲。機動式3インチと、固定式の105ミリはどちらも旧式。新式は90ミリで、これをもって3インチ高射砲を更新するつもりだ。
 この下位の装備が、M3型37ミリ高射砲。初速840m/秒。

 米軍のATGには、37ミリ(M3)、76ミリ(自走M10)、155ミリ(自走M12)がある。※15榴が対戦車用だと認められている。
 米軍の迫撃砲は、60ミリ(レンジ70m~1750m)と、81ミリ(普通弾レンジ3000m、重榴弾レンジ1200m)。※107ミリはスルーらしい。

 歩兵砲として、M2(37ミリ)がある。※なんとこの本は57ミリをスルーしている。

 英軍は、中口径まではポンド表記だ。
 榴弾砲には、94ミリ(3.7インチ)、114ミリ(4.5インチ)、152ミリ(6インチ)、88ミリ(25ポンド)がある。

 加農には、127ミリ(5インチ)、152ミリがある。
 ATGは、ビッカーズ40ミリ自動砲。
 AAGには、レッチンガム94ミリ(射高12000m、機動式)あり。

 単箭の端末にあるリングは「架尾環」という。その上にある「ヘ」の字形のハンドルは「照準棍」という。ここを持ち上げて単箭を旋回させて、砲身の射撃方位を転換するから。

 ミルのことを「ミリイ」と発音していた。だから「密位」。
 1度は、17.8ミリイに近し。
 円周を6400等分しているのがミリイ。そうしておくと、二分の一、四分の一、八分の一……と分割し易く、便利なのである。

 「基塔式」は、ボフォース75mmAAGのような形状をいう。

 161頁。理研提供のレア写真。茶褐薬(TNT)を溶かした液体を、上蓋のない薬缶のようなものから、砲弾の頂部の穴に注ぎ入れている。ミニ漏斗を介する。液は白い。

 175頁~、光学兵器の、図版付きの大解説。
 十糎双眼鏡。測量用の三脚のようなものの上に固定する。
 砲隊鏡。カニメガネ。10~15倍である。
 これにカメラを付けると「砲隊鏡写真器」となる。IRで敵の擬装を見破れる。

 観測鏡。陸上で用いるペリスコープである。みじかいもので5m、長いものは地上から20m以上も立ち上げる。倍率は7倍から20倍。
 掲載写真は「16メートル観測鏡」で、基部には梯子がついている。

 地上標定機。目標までの高低角と水平角を測量する。10倍。

 「潜望式経緯儀」は、我が砲兵陣地と、敵陣との平面上の位置関係を測量する。大倍率で、8km先まで見える。
 この略式が「磁針方位板」なのだ。

 測高機は、対空用の測遠機である。
 陸軍の測遠機のことを海軍では測距儀と呼ぶ。
 基線長75センチだと、10km先では誤差650mとなる。基線長が100センチなら、10km先の誤差は485mだ。

 97式高射算定具は、杉本清蔵・技術少佐によって完成された。彼はS18に表彰されている。
 なんと昭和5年から開発を始め、S10に概成。完成したのがS14だ。戦前の計算機。
 もし1箇所が壊れても他のパーツが補い、機能し続けるようにこころがけたという。
 岡本正彦少佐が、97式を簡便化して量産性を高め、故障発見を容易にしたのが「改一」である。

 日本陸軍の1個師団内には、1個から2個の砲兵連隊がある。各砲兵連隊は、2個から4個の砲兵大隊からなり、その1個砲兵大隊は3個中隊から、その1個砲兵中隊は砲4門からなっている。
 よって師団の固有砲兵は30門から70門である。なお、連隊砲(41式山砲)や対戦車砲はカウントしていない。
 独ソにおいては、十五榴までが師団砲兵だ。

 日本では、軍(2個師団以上)砲兵になって初めて、十榴、十五加、十五榴弾などの野戦重砲が揃う。
 独ソ戦では、重点正面1km巾には火砲が80門、必要であるという。
 しかし、砲兵の1個中隊の陣地には、それだけで1ヘクタールの地積が要るのである。

 良い観測所があれば、砲が少なくとも、それを補える。
 放列のうしろには、段列がある。

▼伊藤銀二『忍術の極意』大6-5
 既に活動写真と講談本により、人々は忍術に詳しい。
 著者は、戦国時代研究の一環として、20年前から忍術をしらべはじめ、10年ほど前に、東京朝日新聞に連載した。そのあと、三省堂の日本百科大事典に忍術の項目を執筆した。

 八犬伝の犬山道節(石塔に切り付けて出た火花に乗じて姿をくらます)のように一閃の火を得れば姿を隠す火遁の術。

 甲賀流なるものは、長岡の谷村伊八郎の家からみつかった伝書で明らかになった。
 他には、寛保年間の「正忍記」(伊賀法)。
 紀州に仕えた。上野図書館にあり。日本唯一の現存書。

 スッパ、ラッパ、トッパの語は、信長記や甲陽軍鑑に見える。
 武家名目抄によると、関東ではラッパといい、甲斐以西でスッパという。
 与謝蕪村に「甲賀衆の忍びの賭けや夜半の秋」があるという。

 変装の極は常形にあり。
 鍔の大きな刀を踏み台にして塀を越えたあと、かなり長い下げ緒によって回収する図付き。
 ※鐔が特別なサイズでは、すぐに人から注目されてしまう。いいかげんなものだ。

 「呉越軍談」に、道の草を結んで追っ手の軍馬を倒す記述あり。
 知らない土地で宿をとるなら、家作がよくてにぎやかなのに限る。
 旅先で知らぬ近道をするな。

▼松野勝太郎『大浪小波』大12-7
 泅道(しゅうどう)。およぐみち。
 著者は、松山市で「神伝流」をつたえている。
 先般に大阪で行われた「極東オリンピック大会」。
 著者は「龍戦」の競技スポーツ化も提案している。

 龍戦とは、水中で人が人を溺れさせ沈めてしまう技術である。

 本書刊行時の庶民のモラル。寄席から退散するときは、われがちに強者が弱者をさしおいて下足を受け取るのが当然という気風。
 大5-2に独潜に沈められた『ルシタニア』合に米紳商のヴァンダービルトが乗っていた。彼はボートに乗り移らず、溺死した。

 龍戦術の基本。まず両手を立てて相手に目潰しの水をかける。次にこちらの片足を相手のふんどしにかけて、こちらの片手で相手の頭を押さえて沈めてしまう。

 能く泳ぐ者、能く溺る。
 飲酒して泳ぐとなぜ死ぬか。この当時は、脳貧血のためと考えられていた。
 高杉晋作は松陰の感化によって煙草を廃した?(p.126)。

 「しようびん術」……水深わずか3尺、そこに向かって高所から飛び込む術。

▼古賀円蔵『速成水泳術自在』M37-7
 多くの本は越中褌の前2、3尺を下げろというが、ダメだ。
 畚[もっこ]褌、越中の短いものの両端に縫い止めたものでなくば、まとわりつくから。

 平泳ぎは、一名、亀泳ぎという。足はバタ足で、手は犬掻きである。
 抜き手およぎ。手はクロール、足ははさみ足である。

 「飛入法」もある。

▼水谷温『馬上集』S16-2
 駒に乗る技いかばかり進むとも つまづくことをかへりみよかし(明治帝)。
 久しくもわが飼ふ駒の老いゆくを をしむは人にかはらざりけり(明治帝)。

 『信長公記』に天正9年正月の馬揃えで「爆竹に火を附」とあり。
 多摩川に「二子渡」あり。

 応永15年に、高さ6尺余の馬が大陸からもたらされた。(東寺王代記)
 享徳年間、南部藩は蒙古韃靼から良馬数百頭を輸入した(南部産馬中緒考)。 
 天文年間、島津藩はローマ〔おそらくスペイン人〕、ポルトガル人からアラビア馬を九州に輸入した(邦馬略記)。

 東北馬は、細頚細脚である。
 西中尉は、S7のローマ五輪には、予備馬として、豪州産のサラブレッドも持っていった。
 馬は嬉しいときは目を細くする。

 「書を以て御する者、馬の情を尽くさず」(戦国策)。
 馬は帰路は必ず足が速くなる。
 2騎で行くことを【馬非】行(ひこう)という。
 疲馬は鞭【竹かんむりに垂】を畏れず……貧窮者は刑罰など気にしない。

 蒼蝿、驥尾に附して千里を致す。
 老馬の智の話は韓非子に出る。管仲が言ったことになっている。

 盲人、【目害】馬に騎す(晋書)……あぶなくてしょうがない例え。
 放牧された馬は同毛同色で集まる。ここから「毛嫌い」という。
 晋書には、「鎧馬」や「錫鑁」(馬の額用のヘルメット)という字が出る。

 馬の腹を両足で締められず、ぶらぶらしているのを「ダク足」という。これを避けるため、陸軍は、乗馬兵には長身者をあてた(p.108)。
 ※昔の武人が小型馬を好んだのは当然だ。そしてモンゴル軍の馬が大型ではなかったのも、当然なのだ。

 乗馬に秘法なし。
 渇驥、泉に奔る(唐書)。

 著者は永田鉄山とは乗馬講習で一緒であった。信州人気質で、理屈で議論する男だが、馬上では一言も発するなし。

 馬皮は毛が多いので、なめすのが面倒。そして、毛があるがゆえに、皮は弱いのである。
 信州人の馬肉食は、冬ときまっていた。牛蒡とともに鍋にする。ネギは使わない。

 信州出身の文官の会は「馬風会」という。
 同じく、陸海軍人の団体は「信武会」。
 さらに操觚に業の者は「信文会」。

 栗林忠道少将は、馬政ほやるようになってから、馬肉は喰わぬ主義に。
 「はめをはずす」という言い回し、もともとは、銜(はみ)のことだった。

 伯楽一顧、名馬みいださる。
 江戸では、炭は野州屋または塩原屋。コメは越後屋。味噌は信州屋。酒は三河屋。蜜柑は紀州屋。茶は駿河屋、と、屋号はきまっていた。

▼石山賢吉『利益が多くて配当の少い独逸の会社』S15-12
 日本の会社の利潤は平均2割前後だが、1939のドイツの決算、50社分を見ると、6割1分だ。そして配当は利潤の11%しかない。

 利益の多いのは、生産能率が良く、原料を無駄にせずに完全利用し、物価決定には相当の利潤をみてあるから。

 大不況を経験すると、経費が切り詰められる。その後、政府が増産策に出ると、会社の利益は急に高まるものである。日本では濱口内閣後、独ではナチ党の初めにそうなった。

 WWIの独捕虜に牛缶をやったら、1頭まるごとくれという。やったら、自分たちで屠殺して、骨、皮、はらわた、全部利用した。

 王子製紙が米人技師を招いたとき、能率の点のみをやかましくいわれた。次に独人技師を招いたとき、物の使用量をやかましくいわれた。
 蒸気圧のムダ使いまで。
 プレス50ポンド必要なところに80ポンドの蒸気圧を使うな、と。

 鮎川義介いわく。米でも独でも古い工場は人の熟練で動かす。新しい工場は思い切って能率的にする。
 そしてすでにこの頃から米車の燃費は欧州車の2倍、悪かった。それなのに日本はアメ車ばかり輸入していた。
 安全かみそりも、独製は米製より薄いのである。

 日本の会社は「民有国営」になりつつあるが、独では実質「国有民営」だ。大きく納税させ、早期償却による自己資金拡張を認めるので。

▼白石浩之『旧石器時代の石槍』1989
 考古学では尖頭石器/石鏃すべて Point と呼ぶ。
 人類史で完成された石槍が現れるのは、後期旧石器時代の後半。
 日本では、石鏃(弓矢)が縄文に登場すると、石槍は東日本のみに残った。

 欧州ではフリントだが、日本では黒曜石その他である。
 瀬戸内海でまだナイフ形石器を使っていたとき、中部~東北に石槍文化が登場する。

 明確に槍先である石器の日本最古品は1万6000年前。

▼塚田六郎『古典と狩猟史』S59
 生肉は鉄よりも石包丁の方がよくさばける。
 歴史時代に入り、狩りといえば、シカ狩りのことであった。
 最古の武家狩猟書に、そうあるという。

 鹿も猪も広葉樹実を食べる。
 記紀の時代から、トリは網猟だった。

 古代の「むさし」は今の大宮を中心とする周域。
 鹿はイノシシより矢に弱い。

 1824の江戸・本所に、カワウソがいた。
 猟銃コンバートの村田銃の普及でM17には東関東の鴻、トキ、丹頂ヅルは全滅した(品田穣『都市の自然史』)。

 弓矢(石鏃)は、1万年前から現れるという。
 そのころから日本の森林が、常緑広葉樹に変わって、縄文時代が始まった。

 芭蕉  猪も共に吹かるる野分かな。
 冬の季語。狩りの宿。猪狩。勢子。よこひき(タヌキの夜狩)。

 春の季語。はらみ鹿。春の鹿。鹿の角落つ。

 雄鹿を「せのか」といい、これが「しか」に転訛したとも。
 狐、タヌキは、わな猟。
 鹿は追われると水に入る習性あり。

 ヨーロッパは土が薄く、すぐ岩盤なので、牛犂が必要だった。

▼直良信夫『古代の漁猟』S16-9
 出土する鳥類はなんといっても雉が最多。
 四季は大昔から、今のようにあった。
 古代人は蟹は好まなかった。貝塚に少ししか見えない。

 頴娃(エイ)は、潮の干いた砂中に残っていることもあり、そのトゲを踏むと大人でも七転八倒する。
 関東ではエイはよく食べられていた。
 新石器時代の遺物に、この頴娃の棘をヤリの先にしたものがある(p.51)。

 巻貝を煮るには、水から沸かさぬこと。肉が中に引っ込んで取り出しにくくなるから。熱湯に投げ込む。
 東北の石鏃でギザのあるのは、ホオジロザメの歯を模しているのだろう。
 古代の日本猿は、大型だった。

 貝塚から出る大型釣り針は、「鹿釣り」用である。
 ※ニワトリの骨は、この本の出版後、登呂遺跡で初出土した。