またタイムリーな出版物を読むことができた。

 鈴木傾城氏著『ボトム・オブ・ジャパン 日本のどん底』2020-7 集広舎pub. を、感銘とともに読了した。
 わたしたち日本国の住人が、避けられない偶然や、やむをえない必然、はたまた気まぐれなどから、住居のグレードを逐次に下げていけば、そこにはどんな世界が待っているのか、都市部での生々しいリポートをまじえて、じつに分かりやすく教えてくれる。

 ここ半年ばかり引きこもっていたにも等しい小生、居ながらにして、最新の日本社会の擬似体験をすることができました。ありがとう鈴木氏。

 世の中を良くしたいと思っている人士は、まず世の中がどのくらい悪くなっているのかを知らねばなりますまい。この1冊は、その手頃な役割を果たすだろうと信じられました。たくさんの情報を集めたうえで、それを1日で読める分量に整理してあるのも、適宜だ。

 ところで、この場を借りまして、小生の転居先にわざわざ「引越し祝い」をご恵送くださいました皆様方に、篤く御礼を申し上げたいと思います。
 おかげさまで、次の冬の光熱費はずいぶん節約できるだろうという見通しは立っております。

 『日本のどん底』の中では、《グレードダウン転居》の推奨はなされていないようですけれども、いちはやく思い立って実行した者としまして、これはオススメです。
 そのさい、転居先選びの着眼点のひとつとしまして、《ガレージを物置にできる余裕はどのくらいあるか》は、部屋の広狭以上に大きな意味があると、偶然にも、知ることができました。これが広ければ、万事に余裕が生まれるのです。

 もちろん、これまで自家用車を2台もっていた世帯ならば、1台は手放すことを検討すべきでしょう。ぐずぐずしてないで。
 中古車が高く売れる今のうちに、こうした決断をするべきではないですか? なぜって、真の大恐慌がやってきてしまえば、もはや中古車の買取り価格だって暴落してしまうかもしれないからです。理想的には、ファミリーカーの機能を、中古の軽自動車1台のみに、集約・整理してしまうことでしょう。

 ……と書いているうちに、T市のかのよしのり先生から、最新刊の『大切な人を守るサバイバルの技術』(SBクリエイティブ株式会社)と、サツマイモが届いたよ。かの先生、さっそく拝読させていただきます!

 地方都市郊外の土地付き住宅の魅力は、やはり自家耕作ができることですね。関東以西では、冬の凍死の心配もしなくていいから、ほんとうにうらやましい。
 全国の田舎の休耕地や荒蕪地をうまく使えば、都市貧民を大量救済できるかもしれないことにつきましては、2013年刊の『兵頭二十八の農業安保論』(草思社)でひとくさりご提案をしました。あれは、今でも有効だと思っています。あのとき提案した「100万円持ち家」が、いまだに実現できないというわが国の技術と法制の停滞が、わたしにはショックでならないのです。



ボトム・オブ・ジャパン 日本のどん底



大切な人を守るサバイバルの技術 身近なものを徹底活用して生き延びる (SBビジュアル新書)



兵頭二十八の農業安保論


機雷が海面上に半分姿を現している状態は「浮泛」、海面直下に見えている状態は「沈入」と、戦前は呼んでいた。

 COREY DICKSTEIN 記者による2020-9-8記事「US to cut thousands of troops from Iraq, Afghanistan in coming months」。
    米軍は今月中に、イラクに駐留する米兵の数を半減させる。そして大統領選挙がある11月3日までにはアフガニスタンに駐留する米兵もそれに近い削減をするつもり。
 この発表はセントコムのマッケンジー大将(海兵)によってなされた。

 イラクには米兵が5200人いる。これを3000名にする。※それは「半減」じゃないだろう?
 アフガニスタンには8600人が残っている。これを10月後半までに、4500人強に減らしたいらしい。

 マッケンジー司令官の8月時点の認識では、ISの党与はイラクとシリアに「スリーパー・セル」の形でまだ数万人は残存している。

 8月20日、イラクのアルカディミ首相がホワイトハウスでトランプと会談。そのときトランプは米兵削減の企図を説明したと見られる。イラク政府は、米兵の残留を望んでいる。

 前のオバマ政権は2011にいったん在イラクの米兵を表向きはゼロに戻したのだが、2014-9に対ISの軍事作戦に踏み切らざるを得なくなって、爾来、5000人以上がそこにいる。ブッシュ政権時代の15万人よりは、だいぶマシだが……。

 ほとんどは訓練要員だといわれているけれども、2015年以降、イラクとシリアで戦死した米兵は21人。負傷者は231人いる。
 なおシリアにはイラクとは別に米兵が2000人所在する。

 アフガニスタンには最盛期で14万人を駐留させていたが、今は8600人以下だ。

 次。
 Jen Judson 記者による記事「For the US Army’s fires capability, 2023 is the year that will change everything」。
     米陸軍が追求している「クロスドメイン・ATACMS」(CD-ATACMS)は、完成に手間取っている。具体的には、射程500kmで終末誘導機能付きの中距離SSMによって、艦艇を直撃させるモードと、敵のSAM陣地のレーダーを直撃させるモード。
 この場合の「クロスドメイン」の意味は、海軍の仕事や、空軍の仕事を、陸軍のATACMSでやってやろうというところにある。

 ATACMS用の対艦シーカーは2015年から開発開始しているが、完成は2025年になるだろう。

 ※島嶼防衛任務の陸上自衛隊が「機雷」を領海内に敷設できる体制の整備を、真剣に考えなくちゃダメだ。軍隊が小規模である日本こそが、クロスドメインの先端をきりひらかなくては。



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


旧資料備忘摘録 2020-9-9 Up

▼小林精一『戦時日本重工業』S13
 機械類はS4に、1億5000万円の入超。
 その後、漸減して、S11に出超に転じ、S12もわずかに出超。
 トレードバランスから見て、自給に達した。

 日露戦争の前夜。ドイツから、38式野砲用の単一プリズム固定接眼鏡を購め、それをもとに、「三八指揮表尺眼鏡」を初国産。東京砲兵工廠の精機製作所にて。

 またクルップ砲とともに、プリズム双眼鏡、カニ眼式砲隊鏡も輸入され、それらは日露戦争後に、37式双眼鏡、37式砲隊鏡になった。

 大震災で、陸海ともに、民間頼みに切り替えた。「日本光学」が浮上する。
 昭和初頭、陸軍は間接射撃に全面転換。測遠機の需要が急増。

 海軍の測距儀は、大5のジュットランド海戦教訓により、ドイツのステレオ式を採ろうとするも、結局、単眼複合式に。そのご航空機が発達して、ようやくステレオ化。

 S2頃、12センチ双眼望遠鏡があらわれた。艦隊は、夜戦を重視するので、さらに大きな型をリクエストした。
 しかし人間の眼の瞳孔の制約から、レンズを矢鱈に大きくしても効果はないのである。この理論を百万遍説明しても、海軍側は理解せず、大型のものが欲しいと言う。それならば、極限のものをつくってやって、たしかにこれ以上大型にしても何にもならぬと体験で知ってもらうよりあるまいと、製作したのが21糎双眼望遠鏡であった。

 艦の振動の関係で、倍率は20倍が実用上の最大限界なのである。かたや、瞳孔Maxは7ミリ。その20倍だと、140ミリ径でいいわけだ。ところが海軍はそれでは小さくて不満だという。ならばと、実用にならぬのは承知のうえで、30倍の21糎径のモノをこしらえて納品してややった。
 振動が、倍率だけ倍加されるということを、海軍エリートたちは、なかなか理解しなかった。
 結局、日本海軍の双眼鏡は、18cm以下になっている。

 M23、英国で、正像合致式プリズム測距儀が発明された。
 M26、『吉野』に武式FA2型4フィート半の測距儀を初搭載。日露戦争の『三笠』などの大艦は、これであった。

 武式とは、英国のバー・エンド・ストラウド社製のこと。
 ただし陸軍では、イタリアのブラチャリニー(電気式)を指す。

 陸軍技術界の主幹は要塞砲兵(のちに重砲兵科となる)。
 これは海軍と同じで、終始、科学の先端で勝負するためだ。

 38式野砲用に、38式表尺眼鏡が国産された。跳躍ショックの大な野戦砲に光学兵器がついたのは画期的だった。

 S7において、3年式MGは1500円。38式歩兵銃は40円。38式野砲は9000円した。
 37式砲隊鏡、98式、2式、93式、91式は、2種で充分なのに、まったくムダなことをしていた。
 気象眼鏡は、曇らない。

 支那軍のエリコン20ミリの対空・対地威力は、日本軍には印象的であった。
 さっそく、味方の歩騎兵から、20ミリを持たせろという声が上がった。

 S5に、3年式重機関銃を92式重機関銃に更新するのにあたり、後付け式の専用照準具も開発された。先鋭弾を使用するようになって、重機のレンジが3500m→6000mと倍増していたので、倍率のあるスコープ式でないともはや狙撃はできない。

 最初ホチキスから来た、対空射撃用の照準眼鏡は、非追随式。空の一点に照準を固定して一連射すれば、敵機の方からその火線に飛び込んできて、1発があたるだろうと期待をする。
 この方式は不満なので、別なものを国産した。
 S9に東京光学で試作。

 砲身は小倉造兵廠、砲架は「日本車輛」、弾丸は東京造兵廠。
 しかし砲口を出た瞬間、被甲が破れ、横弾になることが分り、タマを改良した。
 S12に第4回の試作を完了。

 成績は良くなかった。そこへ、ドイツのラインメタルが売り込みに来た。が、500~600m先の吹流しに1発も当たらなかった。
 けっきょく、国産の98式20ミリ機関砲になった。

 S7に20ミリMGの設計要領書の作成を命ぜられた。
 S8-2に第一回試験。
 S8-7以後、8門増加試作。

 従来なら設計要領書の作成に1ヵ年、試作に2~4年なのに、これは1ヵ年で実用化した。
 当時、最強。
 エリコンL型が、タマ125グラム、初速700m/秒なのに、98式は、タマ190グラム、初速980m/秒だった。

 当時最も新しい管状無煙火薬72グラムを装薬に用いた。輸入列車砲以外で、初速が800m/秒を超えたのは、これが初めてだった。

 海軍航空隊では、S15夏以前は、ドボアチン銃(ターレットガン)とその照準具ノルマン式と動力がそのまま国産されていた?

 山口一太郎(M39生まれ)。92式装甲車用 15ミリ〔?〕機関砲用の折曲式照準眼鏡をつくった。

▼村井幸雄(留辺蕊住民、自衛隊を応援)、前田哲夫(1938長崎生まれ)、手嶋龍一(NHK)『東京発・北方脅威論』S55-12
 TBSの時事放談で、細川と藤原弘達は、北海道にはスパイがうようよいると語った。
 日ソ友好会館は、札幌、釧路、猿払にあり、S55に稚内にもできた。

 ソ連脅威論は週刊誌では78年から。月刊『現代』でも78年から。

 S53に公明党が自衛隊認知。金丸防衛庁長官のプッシュ。
 S55頃、雑誌『国防』の元気がよかった。

 栗栖は『仮想敵国ソ連――われらこう迎えうつ』の中で、ソ連軍は道東の標津町、次に道北に来るだろうと。第二師団は玉砕するかも、と書いた。
 当時、ソ連の師団砲兵は、レンジ25000mもあり、国後島から標津町の体育館に届くはずだった。

 アフガン戦争の当時、西独人いわく。
 ソ連はアフガニスタンに侵入したからこそ、日本を侵略する余裕など、向こう十年間は、ありえないだろう。

 この1年半あまりで、空母『ミッドウェー』と『レインジャー』は、タンカーとの衝突事故を起こした。
 海自は一貫して、北方脅威論(含む・栗栖)を批判した。現役もOBも。
 代表は大賀良平・前海幕長。今年9月に札幌市で、ソ連の北海道上陸はありえず、あるとすれば半島づたいだ、と講演した。
 しかもそれはWWIIIの一環としてだという。
 ソ連軍の兵站線は、石油燃料も含め、シベリア鉄道のみ。それで、ウラジオストックを防衛するだけで汲々としているのだ。

 この頃すでに海自は「シーレーン防衛」という錦旗を得ていた。それを持たない陸自が焦っていた。
 室蘭に、楢崎造船あり。中小造船のホープだった。

 S51の「鉄冷え」で、室蘭を軍港化しようという提案があった。※1976には経済危機はあった。
 戦前は、大湊と室蘭で、軍港誘致を競ったものだった。※室蘭は艦砲射撃されたが、大湊は無事。選択は、正しかった。

 函館どっく は 労組が強く、その支社のあった室蘭も、総評=社会党に支配されていたことあり。

 海自はソ連が北海道に来ないと分っているので、防衛は大湊地方総監部がやっている。出先として函館(基地隊)と余市(防備隊)と稚内(基地分遣隊)に、ごくわずかのフネを置くだけ。

 標津分屯地 第302沿岸監視隊。
 稚内駐屯地 第301沿岸監視隊。
 礼文島   第301沿岸監視派遣隊。

 外務省は55年度版の『外交青書』で、初めて本格的に防衛問題に触れた。
 木村汎はこの頃から、北海道侵攻はまずありえないと言っていた。
 木村は左翼ではなく、反モスクワ発言が多い。北海道に永住すると決めた。

 日露戦争は、外交によってまず不敗の立場を得ていた戦争。日米戦争は、外交の自滅。ところが日本の民衆は、そういう話に興味がない。だから小説でもノンフィクションでも、将軍や兵隊の活躍ばかりが、語られてきた。

 この頃、旧海軍の中佐参謀だった関野英夫が元気がいい。シーレーンを名分に、海自拡張をブチ上げている。
 USSBSは米国の単独勝因として船舶攻撃を挙げている。
 チャーチルも、日本は原爆を落とされる前にSLOC消滅で負けたと言っていた。

 堀田善衛は、島原の乱を題材にした小説『海鳴りの底から』を書くとき、古文書に「百姓ばら皆ことごとく素肌なれば、誰か城中の鉄砲を恐れざらんや」とあるのを見て、民衆が非武装なのは日本史の異常なところではないかと思った。
 ※素肌が恐れるのは弓矢なのである。鉄砲は甲冑を貫通してしまうのでどうでもいいのだ。

 この頃、スイスの民兵制度と、米国のモーゲンソー理論〔国際関係論。要はクラウゼヴィッツの学的翻訳〕がようやく流行。

 1973、札幌地裁の福島裁判長は、長沼ナイキ訴訟の判決で自衛隊を違憲と言い、ソ連が攻めてきたら民衆が武器をもって群民蜂起して抵抗すればいいと言った。

 元防衛庁官房長の海原治すら、日本本土は百万人の郷土軍の志願兵で守ればよい〔=陸自はとことん弱めるべし〕というのが持論。シーレーン分担にも反対。※元内務官僚としてはこっちが自然なスタンス。同じ内務省出身者でも栗栖氏はとびぬけて異端であった。

 マルクス主義教授の宮田光男は岩波新書で『非武装国民党抵抗の思想』を書いた。
 この頃、フランスの軍事費は、GNPの3.3%で、国家予算の17.5%を占める。そのうち人件費が58%だった。
 スイスでは、パンは、3年前の古い貯蔵小麦で焼かなければならない。つまり、常にストックが3年分あるわけ。

▼伊藤七司『米国の対日謀略史』S19-10
 ペルリの白旗のエピソード(p.36)。
 著者は新聞記者として20年も米英支で過ごしてきた。NYCやDCの朝日新聞の支局長だった。
 参考文献として、匝嵯胤次『深まりゆく日米の危機』、原田棟一郎『米国の朦朧主義』など。

約2ヶ年の米比戦争。比人は北ルソン島で1014人戦死。南ルソン島で3227人戦死。
 この当時、ボーア戦争では、戦死1に対して平均5人の戦傷。だがこのときの比人は逆で、戦死5に対し、戦傷1であった。つまり、米軍は捕虜殺しをしていた(p.71)。

 S19現在、米国人口は1億3000万人である。
 ライフ、タイム、フォーチュンなどのエディターを集め、戦後問題を研究させている。その対日占領案が紹介されている(p.273)。
 第七項目として、陸海軍高級将校、官吏、新聞、産業の指導者層は処刑する、という。

▼高橋清蔵『水路隧道施工法』S26
 発破で「悪瓦斯」が生ずると、作業員が頭痛をおこす。※COだ。

 大10までニトロ・ダイナマイトはすべて輸入であった。
 桜印ダイナマイトは、吸収材にもコロディオンという爆薬を用いた。それ以前は、発破とともに吸収材がミストとなって坑内に浮遊し、作業しにくかった。

 松は、桜よりニトロの量が多い。特別硬い岩盤に用いる。
 商品としてのダイナマイトは50ポンドが1単位で、S16頃、米国で8.375ドル~5.76ドル。
 この当時、1ドルはほぼ2円だったが、日本では30円から38円した。国産品はコスト高すぎた。

 いきおい、日本では、人夫をたくさん投入し、発破の代わりをさせるという非能率コースに……。米国とはまるで逆だったのである。

 崩落現場まで鉄管が通っているときは、まず、縦割りにしてつぎ足した青竹を押し込む。その端にワイヤーを結ぶ。
 それからワイヤーに食い物をむすぶ。
 あとは両端で引っ張ることで往復させる。
 坑内からは、キャラメルと煙草がよく所望される。
 ただし、崩落から9時間くらいは、呆然としていて、鉄管での連絡など思いもよらない。これが浦島太郎現象。

▼荒井潔『航空無線と車輛無線』S19-4
 マルコーニの発明は、ベルツの電磁波がローパワーすぎたのを、懸垂空中線(数十m)と、アースによって大容量とし、実用化したこと。

 短波はカミナリの影響が少ない。
 ヒッシングは、吹雪のときに起こる。

 土がまともなら、銅線数十條を地下1mに放射状に埋めれば、アースは十分。「地線」という。埋められないときに地上に置くもの、これを「カウンターポイズ」(アーススクリーン)という。

 航空機の車輪や尾橇には、接地時に機体の帯電を一気に逃がす銅線が垂らしてある。

▼赤根、落合『日本の安全保障』2004
 1970年にベトナムでの米人の戦死者は、朝鮮戦争の55000人を超えた。
 1969から「ベトナム化」。

 ソ連もアンゴラに出兵したので、1970年代なかばに、デタントは形骸化。
 米国内には厭戦の感情。
 それを追い風にして、カーター大統領が当選。
 1979-1には米支国交正常化。
 ソ連が猛反発。
 79-12にソ連はアフガニスタンに侵攻。

 以後、ソ連だけを孤立させて、米国は勝利した。
 そのさい中共との連携が必要であった。
 ただし中共のほうでは1983から対米警戒モードに入っている。そして1989-6の天安門事件。

 69-7にニクソンが、グァム・ドクトリンを発表。米はアジアへのコミットメントは減らす、と。
 1958に北鮮内からシナ兵がいなくなる。
 61にいちおう北鮮は、ソ連と中共と、等距離を保つことにする。

 カーターの方針は韓国にはショックだった。サイゴンと同様に見捨てられてしまうと思った。
 1975に訪支した金日成は、戦争したくてウズウズしていたが、中共が止めた。

▼小沢治郎『アメリカ鉄道業の展開』1992
 メキシコ戦争でも鉄道を少し利用した。
 ドイツ軍は南北戦争を分析して鉄道の利用法を掌握した。

 南部は沿岸海送と、ミシシッピ水運で、南北方向に結ばれていた。しかし北部とは、不完全な線路結合が2箇所ほどあったのみ。

 内戦中、北部には連隊の野営地があった。南部麒次郎には中隊のキャンプ地しかない。
 南軍は最後まで、交通統制はできなかった。

▼海本徹雄『米国のカリビアン政策』S18
 プエルトリコ、ハイチのモオル、セントニコラス、サントドミンゴ(ドミニカ共和国)にも、米海軍の根拠地があった。

 1917-1に合衆国は、ヴァージン諸島をデンマークから買収した。
 ニカラガと条約を結び、大小コオン諸島を領有。フォンセカ港に根拠地を建設。

 英仏は1852頃、キューバを米国が領有することに反対した。
 ロシアが旅順に出たことで、米国はもう孤立はできないと悟った。

 1912、米はキューバを占領。三度目。
 1914、ハイチで反乱。米独が海兵を上陸させ、外国人を保護した。WWIで独仏はハイチから手を引いた。

 1916~20年に、米海兵隊員のために殺されたハイチ人は三千数百名。
 1916-5、アメリカ海兵隊がドミニカ上陸。

 米西戦争で、プエルトリコは1898-7に占領され、その後、割譲された。
 1902頃、英はカリブから撤退。もしこだわっていたら、米英戦争は避けられなかったろう。

▼笠本良明ed.『米国の中米政策(第一)』S4、満鉄東亜経済調査局pub.
 1906-6、キューバ占領。
 1914、メキシコのVera Cruz 占領。
 1915-6、ハイチ、ドミニカを軍事管理下に置く。
 1916、北部メキシコを占領。

▼上海佐原研究室ed.『支那と米国の関係』大8
 ※佐原篤介。
 大7にすでに米国は支那市場から好意的に迎えられていた。
 米宣教師がビジネスチャンスを調査し、コーディネイト。
 英は米を後押しした。直接対決を避けるために。
 1812、米国水兵が暴行を働いたので、清国政府は通商を一時禁じた。

 日清役後、英国は揚子江の一帯について、フランスは海南島について、日本は福建省について、ともに支那が割譲はしないという条約。
 1899-12、ヘイの門戸開放宣言。支那不分割の世界輿論を一定した。

 一方で支那移民を排斥したので、1905に米貨排斥運動。
 唯一アメリカが獲得していた粤漢鉄道も回収されてしまった。

 米は1909に列国に対し、満洲鉄道の中立化を提議。
 北清事変の賠償金を一部、免除した。

 米は1910に1億円の借款を提議。
 1911に民国政府を最初に承認。親米感情をかちとる。

 1909-11、米ノックス国務長官は満州の一切の鉄道を清国に買収させて、永久中立させるべきだと提言。
 清の歓心を買い、日露の協商を挫く妙手であった。

 陝西省で石油が出ることが分っていた。地名から、延長石油という。岩石の亀裂より自然湧出していて、明末から燈油に用いられていた。最も有望だった。
 その他、四川省、雲南省、広西省などにも油徴はあった。

 光緒32年=1906、仏人がまず延長油田を調査。光緒33年4月、第一号井が開井。
 黄河に近いが、山西~陝西の間は渓流で、とうてい船揖の利なし。鉄道が必要だが、その計画はなかった。

 附録二。ハリマン氏の極東策。/George Kennan 、大6。
 かつてロシアは米国企業家にシベリア鉄道をつくらせようとしたが、ユダヤ資本が反対し、流れた。
 ハリマンは、ユニオン・パシフィック線の改善で実績あり。太平洋汽船も有し、満鉄を拡張し東清鉄道を買収することで世界一周鉄道を持てそうであった。

 小村はポーツマス条約第6条に反するといった。南満洲鉄道を日本に譲渡する場合は清国の承諾が必要としてあった。その承諾を得て満鉄をぜんぶ手中にして後でなくばハリマンとの交渉は不可である、と。

 この計画が流れたことによりWWIのロシア政府は単線のシベリア鉄道から十分な米日の物資を受け取ることができず、亡びた。

▼恒川真『ルーズヴエルト東亜政策史』S19
 1934春から満洲で石油資源調査。
 1934-2に満洲国石油会社法。三井、三菱、満鉄、小倉石油、日本石油と政府が出資。150万トン/年(満洲需要の半分)の生産を目標として、油井を探した。

 1934-11に、石油統制法を公布。
 米英は、満洲への石油輸出にいろいろな制限をつけられたので、たびたび抗議した。

 S14-10に、米水上機母艦『ラングレー』がフィリピンに増派される。重爆×15機も。
 1940-8に米国は対ソのガソリン輸出を解禁。

▼川崎柴山(三郎)『西南戦史』M26
 「丁丑乱概」「戦袍日記」は薩側の基本資料だ。
 第一旅団の川口武定「従征日記」も。

 官軍、およそ兵餉は、精米1合で1団飯とし、中に白梅を入れ、あるいはミリを入れる。
 その2個を紙につつみ、百口餉を苞に入れ、二名の車夫に一苞を担わせた。

 スナイドルの弾薬は、500発または450~460発を1箱に入れ、2箱を1担として軍夫2名に担わせた。200発入りの布嚢もあった。

 格之助、綱良は、西郷をたすけて私学党を軌道にのせた。
 西郷はかならずまず篠原ひとりに相談した。桐野、村田は既決のあとでなくば聞かされなかったという。

 エンピール=夜比耳銃。
 官軍は、後装銃用の弾薬×14万発をつくった(田原坂前期)。
 4月4日、官軍の村田〔経芳〕少佐の報告(征西戦記)。――後装銃弾×400万発を、31日をもって福岡に送った。なお341万発が、神戸・大坂にある、次船で送られるところだ。東京に100万発、仙台と青森の間には100万発ある。これらも大坂に送る。以上が、製造中のものを除く、後装銃弾の全部である。

 エンピール×3000梃、弾薬200万発は次船で送る。
 エンピール×5000、タマ100万発は東京砲兵本廠にあり、不日、大坂に至るべし。経芳は次船を以てこの弾薬とともに福岡へ帰るべし。

 山砲弾は十分、足りていた。
 16日には西郷従道中将は山縣に、今から30日経てば日産20万発製造できる、そのための機械を工部省と横浜で徹夜で造り上げた、と。

 熊本城守備の谷干城は初め、桐野が私学党を扇動しているのだと思った。ところが西郷が率いて来るというので、心ひそかに驚き、断然、守城の策に決した。
 谷の思惑。唐が安禄山に亡ぼされなかったのは、張巡が【目へんに隹】陽城を守ったからだと。谷は、のちに斯文学会を設立するほど、兵学と史学に通じていた。

 万馬騰蹴、弾丸紛飛。

 守城中は互いにその喉をしめ肉を食いたいと思ったほどだと、谷は述懐した。
 樺山資紀は、開拓使の払い下げ汚職のとき、匕首を懐にして黒田に迫り、罷めさせたと。
 別府晋介は桐野の従兄弟。

 官軍の支給統計。
 スナイドル×8287
 アルミニー×3845
 マルチネー×2903
 ツンナール×2533
 短スペンセル×204
 スタール×375
 エンヒール×24480
 短レカルツ×70
 長スナイドル×143
 長ツンナール×300
 長スペンセル×1000
 シャーフル×142
 ヒストール銃×440
 四斤山砲×45
 四斤野砲×9
 長四斤山砲×2
 クルップ野砲×12
 ブロードエル山砲×6
 二十拇臼砲×11
 十三拇臼砲×14
 十二拇臼砲×4
 アルムストロング砲×1
 ウイットル砲×2
 カツトリング砲×2
 ミトライユース砲×1

 海軍消耗の弾数。
 「ミトライ」と「カツトリング」合計して13万1120発。
 ミトライ 47120発。 カットリング84000発。 これらは全部陸上に置いたらしい。

 普仏戦争でメッツ城には3ヶ月の糧食と30万の兵が残っていたが、算数に精しかった司令官は降伏した、と西郷。

 大山は「ウドの人望取り主義」と言って、西郷流を好んでいなかった。

▼市瀬敬三郎ed.『熊本城史梗概』大6
 第六師団がそのまま使っていた。

 M10-2-22~23の部隊配置図をみると、城の北西方向は囲みを設けていない。
 桐野はまさにその反対、南東から攻めていた。
 村田新八と別府晋介は南西から。
 篠原国幹はその空けた側、遠くにまわりこむような布陣をしているから、この「囲師必闕」策は篠原の戦術なのだろう。

 地雷は、濠のない崖の直前の道路に埋伏してあった。つまり北~西。

 賊の1個小隊は200名(別府の小隊のみ80名)。
 10個小隊で大隊。

 白川左岸(外濠)には漆畑があったが、官軍が放火し、M10-4-8に焼けた。6Dがそう書いているので間違いなかろう。

 M5-4、桐野少将が鎮台司令官。
 M6-3-3、桐野は帰京し、4月5日に谷が鎮台司令官に。
 M7-7-15、谷が辞めて野津鎮雄にかわる。
 M9-6-15、野津→種田政明に。
 11月9日、種田からふたたび野津に。
 ※西郷下野を承けて薩人を外したのか。

 M10-11-21、谷は中将になり、東部監軍部長に。
 12月10日、曾我祐準少将が熊本鎮台司令官に。

 官軍は1個大隊750名=4個中隊。1個中隊は4個小隊。

 谷は14日に多数の市井職工を雇役して地雷を製造せしめ、15日、火薬を散蔵する措置をとった。
 19日午前11時40分、城中発火。火元は鎮台文庫附近。
 この日、大山・西郷従道の手紙がもたらされ、斥候すでに潜入。

 守城官軍の歩工兵、警視隊の執銃者はすべてスナイドル。これは直前に支給された。
 砲卒はスペンサー。
 馭卒は拳銃。
 臼砲は12拇と20拇の2種。

 歩工兵はスナイドル銃剣。
 曹長以上と警視隊員は軍刀。
 砲卒は砲兵刀。

 スナイドルのタマ、1285800準備し、630800消費。
 エンピールのタマ、878700準備し、573000消費。
 ピストールのタマ、7459準備し、3992消費。

 右の外、守城軍は3月27日に至り、「抛擲弾」の製作に着手し、1週日の後、約100個を得。出撃に際しこれを敵塁に抛擲し、多少の効果を挙げたりといふ。
 兒玉少佐が武庫主管に命じて作らせた。硝子瓶中に火薬、硝子破片、釘等の鉄片を填実し、紙布をもって硝子瓶を貼し、木管を栓し、導火索を挿入した。
 これ以後、明治37年まで陸軍は手榴弾を作らなかった、とする。

 「工兵用の丁字鍬」。
 賊は熊本隊と協同隊のみが、新型の「ライフル」銃を持っていたという。

▼江沢譲爾『黄河流域に於ける農業形態の経済地理的考察』S14-12
 黄土は高原地帯では100m厚ある。
 既に水により脱塩されている。
 黄土なら、海抜2500mでも耕せるが、南支では700mが限度。いかに沃地か。
 粒は、小さいのは0.01mm以下。そして多孔質。

 小麦はコメより気温に敏感。
 北支は自然降雨が無灌漑畑作の必要量には足りない。
 北支はいつのまにかコメから小麦中心になった。が、北支の役畜利用はヨーロッパより少ない。
 理由。人口が多すぎ、牧草地がない。また、牧草が堅い。また、牧草を燃料にしてしまう。

 なぜ欧州ではプラウの必要があったか。
 地力の疲弊を防ぐためには、深耕が不可欠。重いプラウを6~7頭の牛か馬(どちらも濃厚飼料を要す)で引かせる必要があった。
 北支では黄土に毛細管現象があって、地下の養分が勝手に上の方に出てくる。
 むしろプラウを入れるとその管構造が壊れる。

 年25mmの自然雨水があれば、小麦はかってに育つ。
 高粱はさらに少なくてよい。しかし反収に劣る。

 小麦作はどうしてもそれだけでは暮らせるものではないので、副作商品を要す。
 北支は石炭が少ない。だから木も草もみな、燃料にされる。
 黄河が一部で澄んだことは過去にじつは数度ある(p.63)。

 アヘンは北支で作り、中支で消費す。多いのは、甘粛省、陝西省、河南省、山東省(pp.82~)。
 阿片は8世紀に知られ(アラビアから来た)、12世紀以後、加工されている。



トランプは、だらだら戦争が嫌い。しかし今の中共は、だらだら戦争でこそ命運が尽きるのだ。

 Alexander Post & Erich Kisi 記者による2020-9-8記事「Coal Power Plants Could Run on New Zero-Emissions ‘Lego’ Blocks」。
     MGA=混和性ギャップ合金 という新物質は、エネルギーを、熱の形で貯蔵することができる。
 MGAは小さい金属ブロックの中に封入されている。
 ソーラーパネルなど、外部でつくられたエネルギーを、このブロックの中に貯蔵することができる。

 可能性。現在すでに稼動中の、石炭火力発電所などの蒸気タービン。その熱源を、このMGA封入ブロックによって代置できるだろう。
 すなわち、石炭焚きボイラーを、排出ガスゼロのクリーンボイラーに転換できるのだ。

 コストだが、リチウムイオン蓄電池と比べると、圧倒的に安い。
 実験室で得られたばかりのこの発明品、これから試験の規模を拡大して、いずれ実用を目指して行く。

 ソーラー発電にしろ、風力発電にしろ、起電が間歇的である。だからエネルギー利用回路の中間に蓄電池を介在させないと、夜間や無風時に消費者が電力を使えない。
 再生可能エネルギーの比率を増やすためには、もっと安価で、エネルギーを貯めたまま長期保存ができ、すくなくも夜間8時間の連続放電を続けることができ、しかも設置場所を選ばない、そんな、エネルギー保存機構の発明が待たれていた。

 MGAの内部には、エネルギーを、最長1週間、貯蔵しておける。
 いまから20年すると、ただいま現役の石炭火力発電所の多くが寿命を迎える。そのときが、このMGAの出番だろう。
 石炭火発の跡地に、MGAブロックを集積するのだ。

 1個のMGAブロックは、外寸が「20×20×16」cmである。
 複数の金属からできていて、その内部の一部の金属は高熱によって溶けるが、ブロックの構造は外枠形状を保つ。
 チョコレートチップマフィンを思い浮かべて欲しい。電子レンジで加熱すると、点在するチョコチップの部分は溶けるが、それを包囲しているケーキ地は、溶けたりはしない。それと同じだ。

 このMGAを、シンプルに、水を沸騰させる熱源とすることもできる。その場合、既存の石炭ボイラーを、MGAボイラーに転換し、MGAの蓄熱によって蒸気タービンを回せるかもしれないのだ。

 豪州のニューサウスウェルズにあるニューカッスル大学の研究チームは、MGAのための物質開発を2010年から開始し、2018年に目処をつけた。
 そして2019に「MGAサーマル社」を起業した。

 2020-6に豪州政府は、同社に対し、パイロット工場の建設資金を補助した。
 パイロット工場は、ニューカッスルで来年、稼動する。そこで、市販できるMGAブロックを量産する。

 スイスの「E2Sパワー」社は欧州における同事業のパートナーである。欧州には石炭火発が多数ある。そこでまず欧州において、古い石炭火発の熱源をじっさいにMGAで置換ができるかどうか、実証する予定だ。

 リチウムイオン電池と比較すると、1キロワット×1時間のエネルギー貯蔵のためのコストは、MGAならば四分の一で済む。

 MGAの弱点は、リスポンスが遅いこと。リチウム電池には即時にエネルギーを出し入れできるが、MGAだと15分かかる。そのかわりに、長時間の貯蔵もできるのだが。

 MGAブロックは、環境中に漏れて困るような毒を含まず、爆発の危険も無い。
 1個のMGAブロックの寿命は25年から30年。そして古くなったら、構成金属を簡単に分離して、ふたたび新品のMGAブロックを作り直すことができる。

 次。
 SETH ROBSON 記者による2020-9-7記事「Trump says troops love him, attacks top brass ‘who want to do nothing but fight wars’」。
    『アトランティック』誌は何を報じたか。2018年にトランプ大統領は、フランスにある「ベローウッド」で戦死した米海兵隊員の墓に詣でる予定をキャンセルした。そのとき、戦死した米兵や捕虜になった米兵について「ルーザーズ」「サッカーズ」と表現したと。ソースは匿名。

 ※トランプの過去のつぶやきから彼が一貫して何を嫌っているのかは明瞭に伝わるのではないか。まず、長期戦から足抜きすることに反対する将官たちが嫌いである。そして米国がかかわる長期戦で恩恵を受けているのは飛行機メーカーや弾薬メーカーだと思っている。トランプは、飛行機メーカーや弾薬メーカーの経営陣も憎んでいるのだ。外地の軍人墓地は、余計な干渉戦争の象徴となり得るから、それと自分のイメージを切り離したいのだろう。褒め称えてはいけないと自制しているのだ。

 NATO同盟国については特にトランプはドイツを批難する。米国がNATOの軍事費の22.1%を負担しているのに、ドイツは14.7%であると。

 ※貿易に依存していない連中を相手に「だらだら戦争」を続けても米国が一方的に損をするばかり。これはベトナムとアフガニスタンで米国が学んだはずのことだ。イラクだけは、石油貿易に依存していたので、米国にとって、有期限戦争の見通しは立てられた。そして今日、イラク以上に貿易に依存しすぎている中共にとっては、「経済制裁」を一歩超えた「だらだら戦争(低烈度の長期交戦事態)」が死の道になる。それこそが戦前の日本が学習したことなのだ。よって、これから中共は、トランプを捨て身のブラフで揺さぶる戦術を採る。彼らにとってこそ「だらだら戦争」のスタートは致命的となるのにもかかわらず、それをおくびにも出さずに、トランプを「米中だらだら戦争」の脅しで怯ませようとするであろう。

 次。
 Brian W. Everstine 記者による2020-9-4記事「‘Smart’ Bullet Downs Cruise Missile in 2nd ABMS Test」。
     新コロで延期されていた統合大演習が実施された。
 ニューメキシコ州ホワイトサンズ基地付近から空軍の爆撃機が「BQM-167」無人標的機×6発を放った。これは巡航ミサイルに見立てたものである。それを空軍のセンサーが探知し、味方の戦闘機や、軍艦や、陸軍の砲兵隊に迎撃指令を伝達した。そのうちのひとつ、指令を受けたパラディン自走砲からは、特殊な高速誘導砲弾「HVP」が発射されて、この標的機のひとつを空中で撃破したという。

 なんと、自走榴弾砲が、155ミリ砲弾によって、巡航ミサイルを撃墜できる時代が来たのだ。

 ※これは陸自の新型SPにとっても朗報だ。いままでは尖閣防衛に何の貢献もできない装備だったが、この新弾薬によって、たとえば日本海の原発防衛に貢献できるようになるから。



封鎖戦 中国を機雷で隔離せよ!


旧資料備忘摘録 2020-9-8 Up

▼教育総監部ed.『戸山学校史』M30-7?
 M7-2-4に、戸山出張所を戸山学校と改称。
 同日、兵学寮の第三学舎を廃し、本校へ移す。
 ただし、第三学舎は射的一般の諸学術ならびに体操の諸学術を掌る。
 陸軍中佐の武田成章が舎長を命ぜられて、これを統括した。
 次官は陸軍大尉の村田経芳。専ら舎中の事務。
 以下、諸僚属、本校へ合併、事務を執る。

 戸山学校からの最初の欧行者は村田である。「射的学研究の為 孛仏両国へ差遣」。M8-1-18出発。同年11月16日帰朝。歩兵少佐。

 M7-8-4、游泳場を新築する。これは仏制に倣った。
 M7-9-8、弾薬庫、射的室できる。標的納屋も新築。このうち射的室はM30-4に、初速試験場へ移設した。

 M13-8-24、小銃の試験はそのつどに委員が任命されていたが、自今、小銃試験はすべて本校に於てすることに。達あり。

 M9-5-20、遠距離射場を人民が通行することを禁ず。※いまでも田舎駐屯地の中を住民が通り抜ける道があったりするが、それが危ないので。

 M9-5-31、遠距離射撃場が落成する。技師ヱシュマンの建言により、M9-3着工していた。

 M9-6-12、動的限秒射撃場ができる。開校いらい、この日まで、300ヤードの静的射撃場しかなかった。
 欧州から戻った村田が設けさせた。胸壁2個新付く。監的場を模様替え。

 M18-9-1、500m射場が落成する。
 M23-1に、600m射場も落成。

 校内字箱根山の西麓へ狭窄射撃場をM23-8-12に落成。※東京都内のささやかな高地であったため「箱根山」というふざけた地名が付いていた。

 第一期学生は、M18-9-25に入校した。
 士官には、術科として、村田式歩兵銃、村田式騎銃、ピポヂーマルチニー〔ピーボディーマルティニー〕銃、スニーデル銃、拳銃 を習わせる。
 下士には、村田銃とスニーデル銃のみ。

 「各国軍用銃の説明」という術科もあった。
 学科には「火薬弾薬筒製造論」もあり。

 M26の第11期射撃学生には、学科で「村田銃保存法」を教えていたが、M28の第1期臨時射撃学生には「村田連発銃保存法」を教えている。
 術科も連発銃操法となり、外国銃は消える。

▼『明治史研究叢書 vol.1 明治政権の確立過程』
 洞富雄「幕末維新における英仏軍隊の横浜駐屯」

 赤隊は、軍艦乗組の英海兵隊のうちの歩兵。砲兵は青服だった。
 初期横浜駐屯のフランス海兵隊には、旧「猟兵」と新「燧石銃隊」があった。1864-5頃。※燧石銃隊というのは部隊固有名詞の直訳で、なにもフリントロック銃で装備されていたわけではない。1861には日本の火縄銃もすべて管打ちになっている。

 四国艦隊から上陸作戦に参加したのは、英軍が最多で1330名強、仏350名、蘭200名、米50名。
 横浜の野毛の日本人番所の前には、長いあいだ、一対のガットリング機関銃が据えられていた。※幕府所有か。
 これがM1-1-3以後の早い時期に、取り除かれた。

 明治元年中に横浜には12518梃の銃砲が輸入されている。
 M8-3にこれら外国軍隊は横浜を撤退した。※日本軍による台湾征討作戦が直接のきっかけになった。

 以上の洞論文はS27-10に初出、訂補がS31-11。

 原口清「長州藩諸隊の叛乱」。
 M2-11に遊撃隊隊員が長官(隊長)を排斥する理由書に「招魂場之事」があった。
 戦死者の招魂場を設けようとしないことは隊兵に対する愛情の欠如だと。

 増長する一般徴募兵卒の戊辰役後の反乱を封ずる意味で木戸孝允は征韓を唱えた。
 大村は9月に襲撃され11月死亡。彼自身「戦死志士」に入るわけで、靖国にまつられることは不思議ではない。

▼田中惣五郎『日本軍隊史』1954 評論社
 独立戦争で散開戦法が生まれる。
 ナポレオンが野営を主としはじめる。
 竹橋事件の処分はM9-11に仏から訳された『法朗西陸軍律』に則っておこなわれた。
 日本の徴兵令は仏1872改正法の真似。

 1878の「軍人訓戒」と1882の「軍人勅諭」は、1890訳刊「独逸軍制綱領」にもとづく。
 軍人訓戒の徳目は、忠実、勇敢、服従。
 独逸軍制綱領は、忠節、剛胆、服従。ほぼ直訳である。

 独「軍は憲法に誓詞せずして、軍旗即ち国の統帥者たる国君たる大元帥の身体と直接の誓を為す」→この「身体」が日本では「股肱」「頭首」という表現に直された。
 また「誓(詞)」は日本では不要だった。当時、憲法もまだないし。
 ※米国では軍人は、合衆国憲法を守る、とだけ誓い、大統領や政府への忠誠は一切、誓わない。大統領も就任時に、合衆国憲法を守る、と宣誓する。

 ドイツでは将校だけに誓わせた。しかし日本では下士卒にまで及ぼさせた。
 イギリスの軍隊は、1689-12の権利章典が基準を決めたもの。

 第7条「新教徒である臣民はその防衛のため、かれらの身分にふさわしい、法律によって許された程度の武器を携帯しうる」。
 また、軍隊の編成に関する法律は年々あらため、議会の協賛を得ることを要す、とした。
 これで議会は年々開かざるを得ぬことになった。
 そして毎年保持すべき隊兵の総数をさだめるのは、常に政府の決定に任す。
 平時にも常備軍をおくようになると、1年有効の陸軍違令条例を毎歳更改するようになった。コモンローではないので。

 M2-4に「軍律」制定。西周がオランダ領印度の法を焼きなおした。武器をもって逃げれば死罪。武器を置いて逃げれば50日の仮牢。
 罰は、すばやくしなくてはならない。
 徒党は、党首をその党与の者に斬刑せしめる。

 三藩親兵は、兵卒は小銃と銃剣以外、帯刀禁止で、これに反発して辞退する者が多かった。
 なぜ当初「海陸軍」だったか。それは、幕末の軍制改革の出発点は「攘夷」であったから。
 それが、国内鎮定が主目的になったので「陸海軍」になった。

 戊辰のときに農民に貢課半減を約束し、農兵市民を使いながら、藩兵をしてこれに代え、約束を不渡りにしたことが、一揆の拡大をまねいた。

 M9の広島の田舎では年に数回しか魚を食べられなかったが、軍隊では毎日大きな皿で出た。
 斎藤実は仙台出身のため、薩摩の仁礼景範の入り婿となり、ようやく出世できた。

 M10の教導団(志願の下士官養成学校)では朝昼晩とも生卵×2個がついた。

 百姓で鍛えられた男にも、スナイドルは「重いことといったら肩がめりこみそうであった」。
 背嚢は「ランドセル」と呼んでいた。別名「提灯箱」。各家庭の玄関にあり、提灯を収納したもの。
 予備の靴を両外に1個づつ付け、毛布をまきつけ、外套を結びつける。

 桐野は少将になっても部下から「半どん」と呼ばれていた。
 尉官は艦長となることもできる。これはイギリス式で、少尉でも女王と会話ができる制度。

 官軍は、カットリング砲×2門、ミトライユース砲×1門を持っていた。
 一兵卒の証言。鹿児島へ入城し、まもなく西郷さんが自刃されたという噂を聞いて、官軍の兵もみな泣いた。西郷さんの最後が余りにも痛ましかったからである。

 竹橋暴動の近衛砲兵は、体格がよくなくてはなれず、要するに今の空挺だった。西南戦争の火力を担当した自負もあった。

▼有馬成甫『高島秋帆』S33
 1798に生まれた。
 bomb 破裂弾。
 granade 石榴弾。
 licht kogel 照明弾。
 brand kogel 焼夷弾。

 秋帆の蘭書は投獄のさいに没収され、2冊をのぞき、散逸した。
 スナッパーン猟用ショットガン。
 高島は1834から歩兵銃を輸入しはじめた。

 天保13の家宅捜索のとき、岩国の弟子・有坂淳蔵父子より注文を受けた大砲鋳造の代金の内金100両があった。
 「西洋銃陣」に使用したのは、1777年型フリントロック歩兵銃と、1815型のうち「ナポレオン燧石銃」と呼ばれたもの。

 弘化3=1846-8に斉彬が、谷山で発火演習検閲。
 1847-8に砲術館が開かれる。
 淳蔵は徳丸原〔いまの高島平である〕演習に「二子と共に参加」した。
 1841-6-28に徳丸から岩国に帰る。

 1853-8時点ですでに江川の教練は雷管銃となっており、号令は日本詞だった。
 1837に秋帆は、薩摩藩の新納主税にゲヴェール×1梃を贈る。

▼海軍造兵大監 吉田太郎ed.『徳川幕府末期ノ造兵事業沿革』大8-1-17
 嘉永6=1853年12月。
 真田信濃守が新計画。早打鉄砲を幕府に献じ、防備を助く。
 当時、江戸付近で大砲発射の稽古場は、大森村、徳丸原、佃島。

 安政元年12月23日、太政官符をもって諸国寺院の梵鐘を鋳潰して大砲小銃用材料となすべき令を発したれども、仏徒の抗議により広くおこなわれず。

 文久3=1863。湯島鉄砲製造所を関口水道町に移す。
 江川の設備と関口大砲製造所を合わせるため、元治元年=1864、滝野川村に反射炉と錐台を建設することに決め、元治元年に、江川中村反射炉と錐入場を廃止。
 しかし滝野川の反射炉は完成せず。

 徳丸参加ゲベールは50梃だった。
 江川は安政2=1855-1-16に没。

 天保14年頃、舶来の小銃「ゲウェール」と「ピストール」は火打だったが、短小の小筒または半台の猟筒等は「ドンドル」打だった。
 しかしドンドルは西洋の実戦にも使われたことはなく、輸入「フーヂー」爆【火へんに冐】も経年劣化していて火移りがよくなかった。発火はするのだが薬室に点火しない。
 試行錯誤の末、ついに粉雷(ドンドル)だけでなく精製硝石を加えることで完全なものを得た。

 幕府は湯島で使うために文久2=1862年12月にオランダに大砲施条機械×1台、小銃施条機械×1台、小銃【月唐】中鑽孔機×1台を注文。

 移転は水力の便が悪かったため。
 関口は湿地なので反射炉を滝野川に分離した。

 元治2年、外国注文した大砲製造機械が到着。
 慶応元年=1865には、池田筑後守が文久3年に出張購入した仏製大砲施条機械も到着。

 脆弱の反対語は、軟靭。

 M1-4に関口大砲製作所は、幕府→兵器司の管理に。
 ※この本は名詞がメチャクチャなので引用しかねる。

 文久3=1863年2月、大久保豊後守が幕府に、わが国はじめての施条砲製造を上申した。

▼大類伸・平塚博『伊太利史』S8-7
 西欧において最初に商業貿易のメカニズムを大成したのがイタリー人。

 イタリーに封建なし。つまり農村なし。いきなり都市ができた。
 典型がベニス。商人だけが支配し、地主はゼロだった。
 だから、土地の支配にも領土拡大にも興味はない。
 土地所有をめぐる「党派争い」のなかったことが、大発展の理由。他国にはすべてこれがあった。

 フィレンツェは内陸にあるゆえ、中継ぎでは儲からない。そこで羊毛を生産して加工して売り、大を成した。
 13世紀には英、フランドルの羊毛を、品質と技術で追い抜いた。
 そして法王庁と関係を強めたことで金融帝国のセンターに。
 教会ネットワークは、そのまま海外銀行支店だったから。

 商工業の繁栄には、カノンローでは対応できない。ローマ法が再評価され、ボローニャ大学で徹底研究された。ここからローマ法が仏英独に伝わる。つまりバンカーたるフィレンツェ人がローマ法を復活させたのだ。

 この時代を背景に、ディヴィナ・コメディア=神曲が書かれた。中世と近世の境界を画す。
 ミラノは外夷に近きため、フィレンツェのような民主制では×で、君主制都市だった。
 ヴェネツィアは、貴族共和制。
 領土の観念なき、浮島国のヴェネツィアが、陸軍で弱いのはあたりまえで、そのためミラノに対抗するにはどうしても傭兵が入り用だった。

▼セシル・モリソン著、橋口倫介tr.『十字軍の研究』1971、原1969
 馬不足も、船利用の理由だった。
 トルコ領内は水不足。馬が死ぬ。それも一因。

 イタリア艦隊の主力は、ジェノア。
 中心戦力は、フランク槍騎兵隊。
 アラブ側は軽装甲だったので、無敵。

 トルコの弓騎兵が間合いを保った場合のみ互角。
 第三回以降は、1人の騎士は徒歩の射手(アルシエ)または弩手(アルバトリエ)を2人引き連れた。

 ヴェニスはすでに11世紀末からビザンツ内に居留地をもっていた。
 よって十字軍は、販路をきりひらいたのではなく、金貨(輸送賃)をイタリア都市にもたらし、その金貨で、東方の物産を多量に仕入れることが可能になった。

▼『日本と世界の歴史 第9巻 12世紀』S44
 1095 クレルモン宗教会議。
 1099 第一回十字軍がエルサレム占領
 1147~1187 第二~第三回。聖俗老若男女、いっせい参加。

 トルコに押されたビザンツが、ローマ法王に傭兵派遣を懇請したのが1073のこと。
 レコンキスタに同期して、南イタリアのノルマン人は、東方進出を企図。
 北イタリアの諸都市は、相互に競いつつ、東方に経済帝国主義を追求。
 ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ、いずれも 寡頭制の共和国。

 西ヨーロッパでは農業生産が発達。騎士は土地不足を感じた。
 イベリア、ドイツ、フランス、南イタリアより4ルートで1097にコンスタンチノプルにいったん終結。総兵力1~10万(よくわかっていない)。
 1099からエルサレム包囲。1ヶ月後の7-15に占領。イスラミックを大虐殺。

 第二回を開始する二十数年まえ、三大騎士修道会ができる。テンプル、聖ヨハネ、ドイツ。ここではじめて「武」と「聖」が一致。

 サラーフ=アル=ディーン →サラディン。

 12世紀に工業製品の交換地として欧州に都市ができた。
 12世紀に「村の鍛冶屋」あらわれ、鉄製有輪犂ができる。肥沃な、重く湿った土を深く掘り起こせる。
 三大発明。蹄鉄。馬の肩に掛ける牽綱。牛の前額を使う牽綱による縦列繋駕法。

 馬は牛より牽引力は小さい。しかし縦列化させると、馬力×スピードで無敵となる。
 馬はそれ以前はもっぱら軍用だった。12世紀から、三圃農法で燕麦がとれるようになり、馬が増え、それが耕作用になった。

 粉挽きに投じていた人力は、水車で代用された。
 冬秋畑(小麦とライ麦)→夏春畑(燕麦と大麦とえんどう豆)→休耕&放牧地→冬秋畑………これをえんえん繰り返すサイクル。19世紀まで不変だった。

 英国では穀物栽培が遅れて、領主が発達できないでいたところ、12世紀に突如として最高品質の羊毛がとれるようになった。おかげで14世紀に一挙に近代化。

 中世城塔(ダンジヨン)は、H=30mくらいが多い。壁厚は2~3m。
 石造の城は、十字軍でコンスタンチノプルなどを見て、模倣が広まった。~13世紀。

 フランスのシュバリエは、ドイツのリッターである。
 マーシャルの原義は「厩吏」である。

▼メーリー・A・ウォード著、加藤直士tr.『英国戦時の努力』大6-10
 ドイツ軍の前進で、仏はスチールの四分の三を生産できなくなった。そこで英は shell 用のスチールの三分の一をフランスに送っているところだ。1916-8月中旬。

▼水野祐『勾玉』S44
 鏡は太陽で、勾玉は月。だから日本海側に「攻玉」技が発達した。航海文化だから。

 ヤサカニノマガタマは何色なのか?
 勾玉の多くは碧玉製。碧玉は出雲にしか出ない。それで玉造という町名がある。

 後藤守一の説。三種神器と皇位継承のしるしの神器は別なものである。天皇になったときの祭にもちだされるのは、さいしょは鏡と剣だけだった。剣は青銅剣、鏡は白銅鏡だから時代も神武まではさかのぼれまい、と。

 小林行雄の説。弥生といえば銅鐸。その銅鐸が三種神器にも神話にも出てこないということは、銅鐸がすっかり忘れられた時代に「三種」「神器」が定着したことを示唆する。
 それは古墳時代前期だ。仲哀紀には、筑紫の土豪が天皇を迎えるとき、白銅鏡(ますみのかがみ)、十握剣、八尺瓊勾玉を木に飾って迎えに出た、と。

 敗戦後は古代史家の信用が地を払い、古代史については考古学者に語らせる風潮となる。

 後藤氏いわく。鉄剣は時代が下るほどにみすぼらしく思われただろう。誇示の目的ではむしろ銅剣の方がよかっただろう。
 ※もし壇ノ浦の時点で鉄劒がボロボロに錆びていてみすぼらしかったなら、捨てても構わんと思えたのかも……。

 日本国内の鋳造品を、「【にんべんに方】製品」という。
 すべて古銅器の鋳なおしである。なにしろ銅鉱山は7世紀まで未発見なので。
 古銅器は神聖な場所に埋めておき、後で掘り出して鋳直す。そのあいだに「霊」もつくのだ。

 スサノヲがやまたのおろちの尾から得た劒を、伊勢神宮に置き、それをヤマトタケルがたずさえて東征した。 その途中で焼畑を切り抜けて、「草ナギ」と呼ばれるようになった。
 帰路に死亡したため、剣は熱田神宮に留まった。

 アメノムラクモ……大河の源頭の高地はいつも雲がかかっている。その霊が移っている。

 安徳帝は三種神器もろとも沈み、神剣のみ浮かんでこなかった。
 それで代用とした神剣を、江戸時代にこっそり見た者がある。それによると、両刃の柳葉状の切っ先部分が2尺1寸から2尺2寸あり、それと柄との間に6寸の、刃がついていない金属部分があった。その6寸の金属部分は、小鼓状に側面が弯入した糸巻きの芯を3段重ねて直列させたような意匠であったと。
 金属部分は白色だったというから、白銅製らしい。
 剣は三重の箱に収められていた。いちばん外側は木箱。その内側の石の箱との間に赤土が詰めてあった。石箱の内側には樟の丸木をくりぬいた容器があって、剣とともにGoldが敷き詰められていたと。

▼田村栄太郎『日本工業文化史』S18
 祟神天皇のとき、弓弭の調として鹿皮、羚羊皮、猿皮、熊皮を徴収した。これが日本の税徴収の初め。
 やがて顕宗天皇の頃になると、皮は絹布でおきかえられ、税ではなく、副物(貢献)になってしまった。

 シナでは毛があれば皮、なければ革と書く。柔らかにしたのは韋である。
 祟神の代は、なめしではなく松枝燻製だろう。

 鉄砲製造が盛んになると、国産鉄では脆いので、シャム鉄が輸入された。いわゆる南蛮鉄。これは刀剣や鎧用としては不適なものだった。

 陣笠は幕末からある。紙製。
 江川の韮山笠(藪潜り)も紙製。
 明治に軍帽にかわった。



ロシアは《浮遊核機雷》について宣伝するようになるだろう。

 北太平洋には大きく時計回りの海流があって、ベーリング海付近では東流している。そのまま行くとカリフォルニア州に漂着するコース。
 戦略級レンジの核魚雷なんぞというものを宣伝している国なら、戦略級寿命の漂流核機雷も宣伝するだろう。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-7記事。
   インドと中共軍が揉めた場所、パンゴン湖の標高は4250mある。
 インド空軍はそこに、22機保有しているアパッチE型ではなく、国産のLCH軽戦闘ヘリを送り込んだ。インド空軍に言わせると、LCHの実用作戦高度は6500mで、アパッチE型の6100mを上回るという。

 しかしアパッチは、パンゴン湖と同標高のアフガニスタンで活躍した実績がある。
 2020年に最初の2機を調達開始したばかりのLCHとは、蓄積されているものが違う。

 LCHからはレーザー誘導ミサイルも運用できない。

 インドでは戦闘ヘリを空軍と陸軍の両方で保有する。互いに運用主権を争っている。
 アパッチは、まだインド陸軍は手に入れていないが、6機が発注されている。両軍あわせて72機のE型を取得する計画がある。
 またインド空軍としてはLCHも62機揃えたい。陸軍はLCHを97機発注する気だ。

 当初のもくろみでは2012年にはインド空軍は65機のLCHを手にしているはずだった。しかし開発がうまく行かず、量産に移行したのが2020にずれこんだ。

 LCHは自重5.7トンのガンシップ。滞空5時間可能。上昇限度は5500m。
 コンセプトとしてはAH-1の双発型に類似する。2人乗りである。固定武装は20mmカノン。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-7記事。
    1939年において、ベネズエラは、米国、ソ連に次ぐ、世界第三位の産油国であった。
 ただ、油質は悪かった。タール分が多くて、精油コストの割に、売れなかった。
 つまり1バレル輸出あたりの儲けは、比較的に、少額だった。

 油田は1970年代まで国有化されなかった。その前もその後も、ベネズエラは石油利権を中心に腐敗した国である。
 いま人口は2400万人。一貫して石油収入があり、確認埋蔵量も膨大なのに、ほとんどがギリギリの貧乏暮らしだ。

 マデューロ大統領は、この国を出て行きたい者は自由に出て行け、という政策。ただし、戻ってくるときは厳しい審査を課す。

 ベネズエラの産油量は1999がピークだった。350万バレル/日。
 その年、社会主義政権が樹った。
 2015には、生産は265万4000バレル/日に落ちていた。
 2018には、さらに160万バレル/日に落ちてしまった。

 ベネズエラのGDPの四分の一は石油から来る。
 1999のGDPは980億ドルだった。
 GDPのピークは2008だった。
 それが2019年には700億ドルに低下。2020にはさらに15%落ち、2021にはさらに5%落ちると見込まれている。

 ベネズエラはその体制維持のためにキューバの力を全面的に借りた。代価としてベネズエラはキューバのGDPの2割にも達するカネや石油を与えていたが、2015にそのカネが尽きた。

 ※英国は帆船時代には風に恵まれていた。いつでもテムズ川河口から安全快適に出帆できた。材木だけが足りなかった。蒸気動力時代には石炭にも恵まれていた。質も量も最高だった。それを輸入する必要などなかった。しかし石油時代に入って、事情が一変した。英国がロシア内戦に干渉したのはコーカサス油田が念頭にあったからだ。それにマッキンダー本人が参加しているのだが、彼は《石油の地政学》については一言も語らなかった。意図的に秘したのだ。後発の日本は、英国人が隠しているものを解明する必要があった。しかしその眼力のある者が戦前には一人もいなかった。ドイツ系の地政学者は薄々感づいたが、彼らの《アウタルキー》は石油の前に食糧の心配をする必要が大きすぎた。今、中共は、カネの力でベネズエラをいくらでも操縦できるように見えるが、その油田を確保したとして、米国が《制裁》を課したなら、そこからどうやってはるばるタンカーで石油を運んで来ることができるのだ? これが、石油時代の地政学のおそろしいところなのだ。



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


旧資料備忘摘録 2020-9-7 Up

▼I・ミュージカント著『戦艦ワシントン――米主力戦艦から見た太平洋戦争』1988、原1986
 1941-5-15就役式。
 進水時には砲塔も環境もなし。1940-6-1。

 1923就役の『ウェストバージニア』いらいアメリカでBBはつくられていなかった。
 日本は1934に、ワシントン/ロンドン条約の廃棄を通告。

 そこで1935にBB×2の建造が決まった。『ノースカロライナ』と『ワシントン』。
 ただし基準排水量はあくまで軍縮条約を守り続け、3万5000トン。
 これだと16インチ砲の1トン強の砲弾に耐えるのは難しかった。
 この2艦の巾も、これまでの米艦で最大の108フィート3インチ=パナマ巾 に制約され、ちょっとした風でも横揺れした。

 米港湾の制約から、吃水も38フィートに制限される。水面下防御が弱くなった。
 それまでのコロラド級に比べれば6ノット速いが。
 真の性能革命は、1940に『アイオワ』『ニュージャージー』が建造されたときとなる。

 『ノースカロライナ』も『ワシントン』も、米海軍工廠。
 なお、先代の『ワシントン』は1921進水で、1924に、条約にもとづいて砲撃沈没させられている。

 『ワシントン』は1940-6-1までに機関搭載。
 空母についていくため、8基の超高圧ボイラーを据え、4つのシャフトに12万馬力を与え、28ノットを得た。ギヤードタービン。

 砲塔は16インチのニッケルクロム鋼。その屋根は7インチ厚。
 砲身は長さ60フィート。径16インチ。重さ108トン。

 19マイル離れた13インチの装甲を貫通する2700ポンドの砲弾を発射できる。
 マニュアルは、片舷斉射なら30秒ごとに発射できるとしていた。
 実際にはさらに半分の時間でできるように訓練された。

 1941時点でワシントンには16梃の1.1インチMG(4基×4門砲塔)と12梃のキャリバー.50 がついていたが、2年たらずで交換させられた。※おそらくエリコン20ミリに。

 1.1インチは故障しがちで、扱いにくかった。
 主砲には、それまでにない「自動砲撃管制装置」「安全装置」がついていた。

 砲弾は1発2700ポンドの重さ。
 1番と3番砲塔は、300発置けた。
 2番砲塔は360発。

 キングフィッシャーは爆雷を抱いて飛べた。対潜上空警戒もできたのだ。スペアフロートも積まれていた。
 連装5インチ砲(2連装で20門)はレーダー制御だった。
 推薬は600ポンド。
 訓練ではP-40とPBYが模擬魚雷攻撃。

 第一次ソロモン海海戦の直後、8月に、ワシントンの.50 は20ミリに換装された。さらに門数も増設。
 1.1 インチは しかし残したままであった。

 電力が途絶えると揚弾機が動かなくなる。
 索敵機が爆撃もできる米海軍の強み。10月26日にエンプラから発信したドントレス×2機が『瑞鳳』を見つけ、2発当てている。南太平洋海戦。

 ワシントンが22ノットで面舵一杯を切り、同時に25ノット全速に増速しようとすると、30秒以上かかってコースが変わる。

 ニューカレドニアには下士官兵用の公認あいまい宿があった。もちろん士官用も。

 11月13日、『アトランタ』は、敵艦に右後方の舷側砲12門を発射することが可能だった。が、発射電路が接続されたとたんに、艦内の全電力が落ちてしまった。歯車列に固定されている砲架や砲身は、艦の揺れにつれて砲口が上下するばかり。砲弾は目標から2000ヤードも手前にむなしく落ちた。

 1943初めまでの米魚雷は不発が多かった。※斜めにヒットすると起爆するが、直角だと不発になったという。

 16吋砲の砲員は、1門1門、砲長、装填手、揺架手、装薬手、点火手から構成されていた。
 点火手は、砲尾に雷管〔門管か?〕をさしこみ、それから砲長が砲尾を閉める。そして準備完了の信号灯をつける(艦橋内でつく)。ここまで規定で30秒。それを訓練で14秒まで短縮した。

 米駆逐艦は、探照灯ではなく、照明弾を使用した。
 米艦砲の推薬は「低閃光」と称されていたが、白く光る。日本艦のは消炎タイプだった。

 米艦内に密造酒あり。ただし上級士官には絶対になし。

 主砲レーダーFCSが利かないときは、舷側5インチの光学照準のスレーブに入るようになっていた。夜は照明弾を使用する。

 まずオーバー、次に手前、それから命中という、いつもの日本艦の撃ち方。
 護衛空母はジープ空母とも称された。18ノットしか出ない。

 B-24によるスキップボミングを3月1~2日に実施。
 戦艦に棺桶は置いてない。帆布につつんで、5インチ砲弾を重しとして、海中へ沈める。

 5月にパールハーバーに戻り、4連装の1.1インチ砲に換えて、ボフォース40ミリ×60門(4連装)にした。
 それまでに、80門以上の20ミリがついていた。
 1.1インチは弾丸に炸薬なし?

 またこのとき初めて、陸上攻撃用の16インチ砲弾が積み込まれた。それまではなかった。
 ※おそらく艦上機から緩降下で投下しても敵戦艦のアーマーに有効なAP爆弾やセミAP爆弾の目処が立って、米戦艦には日本の戦艦との砲戦などをもはや期待しなくなったのだと思われる。

 40ミリ弾は1万8000発積む。
 ある月は訓練のため、6万4000発積んだ。
 20ミリは6万発。
 5インチは3200発。

 9月1日の一提案。
 8000~1万ヤードで16インチ砲で陸用HE弾を斉射。その水柱で敵雷撃機を阻止したいと。→通らず。

 1943年10月24日、マーク32近接信管をつけた、5インチ対空弾を、4600発、積み込んだ。

 主砲を発砲する間隔は、安全のため、30秒が維持された。※腔発予防。
 キングフィッシャーのカタパルトは、火薬式。

 『大鳳』の引火爆発の理由。ボルネオ産の原油の蒸気が燃料に混じっていたから。
 『翔鶴』も同じ(p.320)。
 ※原油にはナフサのような揮発成分が含まれる。

 1945年1月、16インチ徹甲弾は423発積んでいたが、もう用は無いと判断され、HE×500発、プラス、5インチ黄燐弾×400発に、とりかえられた。

 硫黄島には16インチ砲弾を599発、撃ち込んでいる。

 ふつう、雷撃機は、太陽を背にするか、月の反対側から襲撃して来る。しかし、特攻機は、全方位から来た。

▼『三世紀の考古学 中巻』S56
 所収、中村一夫「狩猟」。
 槍は打製の長さ15センチ内外の穂を付けたらしいが、柄の出土が、未だ無い。

▼『三世紀の考古学 上巻』S55
 所収、金子浩昌「弥生時代の貝塚と動物遺存体」。
 イノシシ、シカ、クマの骨が、九州の縄文晩期の貝塚から出るが、どうやって獲ったのかは分っていない。

 イノシシは、飼育されたものがある。
 弥生中期の大阪湾岸の遺跡。骨に0歳~2歳のものが多い。これは飼育の証拠。
 シカの狩猟絵はある。しかし、イノシシの狩猟絵は無い。飼われていたからだ。

 縄文以来、脳髄を食べるために割られたいのししの脳頭蓋部分の骨が出土する。
 猪は、小島に暮らすと小型化する。それは飼育しやすい。

▼『考古学ジャーナル』No.52 (1971が亥年なので特集)
 貝塚を掘れば、猪の骨の出ないところはない。
 背に「怒り毛」という剛毛があり、それは靴を縫う針に使われたほど。

 信州諏訪神社の上社の例祭は、御頭祭と称し、鹿と猿の頭を七十五頭、血のしたたるまま奉納。
 古事記 穴穂宮の段を見ると、猪養部が賎民あつかいされたこともあった。

 亥の子餅=ぼたもち。
 猪と萩は相性よいとされ、女言葉の「おはぎ」になった。

 日本のイノシシは、北満→北九州→全日本と拡散。ところが最初の大型種は、洪積期に獲り尽くされていったん絶滅。
 新石器時代に小型になってまた九州から復活した。

 東北には現在イノシシは姿を消したが、旧家にはイノシシ猟用の槍や、落とし穴が残っている。
 古代全般に猟の獲物として鹿が最も多い。猪と違って集団なので。
 古代に狩猟が最も盛んだったのは、関東から東北の南部の地域。

 猪や鹿の骨は人為的に、斧で破砕されている。
 続日本紀。天平年間に、飼育されていた猪を買い上げて野山に放し、禁殺の勅が出た。
 これで畜産が急減したか。

 播磨国風土記によれば、日向の肥人(くまびと。滝川政次郎はこれは隼人だと指摘)が初めて畿内に猪飼を伝えた。その肥人には、南西諸島から伝わったらしい。
 古事記・安康天皇の条によれば、山城の猪飼民は「面黥」であった。

▼地方紙研究会ed.『甲府盆地――その歴史と地域性』S59
 所収、小野政「縄文時代における猪飼養問題」。
 幼獣雌雄多数出土していることは、狩猟殺を意味する。
 幼獣の首切り犠牲があったという。
 腸管が体長比でヒトの2倍もあるため、人糞までも吸収可能なのである。
 ほぼ1年で成体になる。
 よって2年以上飼うのは意味がないわけである。

▼『人類学雑誌』52巻8号  S12-8
 所収・直良信夫「日本史前時代に於ける豚の問題」。
 豚は鹿と違って頭部につかみどころがないので、頭部撲殺はしなかったようだ。鹿は頭を敲かれている。

▼大山柏『史前保安』S13
 石剣、骨剣は素材的に50cmを最長とす。
 致命傷を与えるためには15cmがミニマムである。

 縄文期の青森で出土した石剣は紡錘型51cm。刺すのみと思われる。
 縄文期の石剣は片刃形の片手包丁形が多い。世界的には両刃石剣が多いのだが。

 石の特性をよく活かしたのは、石斧である。
 欧州ではFlint石を使うのが一般的。

 スペイン岩壁画の弓人は、上から三分の一のところを握っており、日本とまるで逆だ。
 米インディアンは猛獣をまず、かぶら矢の音で威嚇し、次に、尖頭鏃でうちとる。

 北米インディアンの矢は野牛の体内に全没するほどの貫通力。南米インディオもかつてその矢で、1人のスペイン人を貫き、次の1人を傷つけたという例が記録されている。

 米インディアンは、毎分20射できる。
 英ロングボウは、毎分12射である。

▼永瀬康博『皮革産業史の研究――甲冑武具よりみた加工技術とその変遷』1992
 甲冑には、牛の生皮[きかわ]が鉄板代わりに使われたことがある。柔軟性が必要な部分には、鹿韋[しかがわ]が用いられていた。

 宝亀11年=780年8月18日に鉄甲から革甲への変更の勅が出されている。続日本紀。
 蝦夷征伐のため甲冑の増産が必要になって、鉄から革にスペックダウンされた。
 東大寺献物帳の中では「征箭」は50隻、などと数えられている。

 万葉集1019 鹿猪じもの弓矢圍みて
 万葉集3278 射目立てて猪鹿待つごと
 脇楯は大鎧の一部分。古くは脇立とも記される。
 姫路の明珍家は鎧匠。
 明治4年かその前後に陸奥宗光がヨーロッパから技師を入れて軍靴用の鞣工場を作った。牛皮。

 乕徹一口
 近世に刀の製造技術が進歩したが、ヨロイは廃れ、地金を外商から調達するまでに。
 もととも兜鍛治は甲冑師の下鉄師、甲冑工房の外で下に見られていた。

▼鈴木卓夫『たたら製鉄と日本刀の科学』
 出雲の真砂砂鉄は純度は高いが溶かすのに長時間かかる。そこから鋼ができる。播州の赤目砂鉄はすぐ溶けるが銑である。

▼『満蒙全書 第二巻』S9-10
 所収、柴山兼四郎「満洲国軍事講座」。
 張学良はシナ軍閥のような師団はつくらず、旅団を最大の単位としていた。これは反乱をおそれて、部隊をより小規模に分けたのである。
 熱河作戦時の海軍はストークブランの相似形の大型重迫をもっていたらしい、その証拠の写真。

 多賀万城の述。
 英国はシナ人からなる部隊も育てていて、M33の義和団事件では、英国将校の下、彼らを天津城攻撃に投じている。

 ロバをスローダウンさせるには、左手の薬指で、尻尾の根を軽く刺激するとよい。

▼関根海軍大佐・述『海戦史話』前編S11-8、後編S11-10 呉警備戦隊司令部pub.
 ※ネタ本は英書らしい。

 筆者はブラジルで米海軍士官と意見交換した。独英戦から米国は何を学ぶか。ユニラテラルな艦隊拡張では、何の実りもない。それを「軍縮条約」の押し付けと連動させることで、政治的勝利が得られる。

 華府条約は、これなのである。想定敵国を軍縮条約に巻き込み、想定敵国がこっちを脅威できない枠組に固定してしまう。これが目標でなくてはならぬと。

 渡洋接敵陣列、主力部隊の警戒航行序列、「リング・フオーメーシヨン」(輪形陣)も研究されつつある(後篇 p.309)。
 これは「キャリアー・グループ」の集合である。航空母艦団。
 ※空母機動部隊は日本が発明したんだとかいうベースレスな話をする人はさすがにもういないですよね?

 米空母の3層デッキは、「フライング・オフ」の前甲板、「サービス(整備)」の中甲板、「ランディング」の後甲板に分けている。
 1914いらい米海軍は、水中弾を研究している。毎年10万ドル使って(p.314)。

▼田中館秀三『南方文化施設の接収』S19-4
 ※著者は学者で、戦争初盤にスマトラ以外のマレーとジャワへ派された。たぶん石油探査を押収文献からバックアップすることが期待されていた。

 石油の獲得なしには此の戦は、飛行機に対する竹槍の戦争となる(p.4)。

 WWIの青島では、民政部がドイツの図書館を「解放」し、日本内地の中学校等に数冊づつ分けてしまった。著者はこれに反対。これこそ文化の破壊だと。
 しかしこのとき、図書館や各機関の文庫から、地下資源の重要書類が出てきた。それがおそろしく役立った。それをもとに『山東省の地質鉱山』という本が書けたぐらいである。
 こんな先例があるので、シンガポール占領とともに、派遣された。
 目当ては、ラッフルス博物館内の図書と、植物園。

 S17-2月にシンガポール入りしたとき、まだ一部の英兵たちは、武装のまま、隊伍整然と並び居るのを見た。
 昭南図書館には、小説5万冊、マジメな本5万冊があった。
 オランダ女は皆、肥っていた。
 英人は現地民と決して交わらない。オランダ人は、かなり対等視していた。

▼コリン・タッジ著、竹内久美子tr.『農業は人類の原罪である』2002-10
 氷河期が終わり、海面が上昇。
 それまで快適だった土地が「ペルシャ湾」になってしまい、人々は高台であるメソポタミアへ逃げた。これがジェネシスの意味だ。

 氷河期のおわり頃、ギリシャとトルコの住民は、男178センチ、女168センチが平均だった。
 しかし農業が普及すると人々はチビになり、BC4000頃は、男160、女155センチに縮んでしまった。
 ヘレン・フィッシャーいわく。鋤の発明で、女の地位は決定的に下がった。それは女の力では扱えぬ。
 農業で食い扶持が安定したので、野生動物は殺しつくしても苦しくなくなった。
 アラビアンナイトに出てくる怪鳥ロックのモデルは、マダガスカルでAD0頃に絶滅したエレファントバードだろう。

 旧約時代の小麦はまだ改良されておらず、穂がすぐに種軸から脱落する。落ち穂となる。
 アンナ・カレーニナによれば、その刈取りは両手大鎌による。

▼藤原彰『軍事史』S36-2 東洋経済
 著者は1922生まれ、41陸士卒、45大尉で復員。
 49年、東大文学部 史学科卒。
 1950、歴史学研究会書記。
 53、都立大講師、千葉大講師。

 参考にしている文献は、エンゲルス、井上清、松下芳男、小山弘健、林克也らの著作。
 写真が多く、まるで教科書のようである。

 話は幕末の「大塩の乱」から。
 当時、同心は3匁5分筒をもちだしたのだが、それは4町届かなかった。
 この乱は、終始、銃砲戦。斬り合いはまったく無かった。

 鉄砲の国産史は、本書時点では、小山の『近代日本軍事史概説』しか参考がない。
 海軍砲で「拇」は「センチ」。
 村田銃で統一されていたから清国に勝った(p.82)。

 日露戦争の歩兵の火線構成の写真に「いぜん散兵の間隔は密集に近い」とキャプション。

 日本はマキシムMGをついに実用化できなかった(p.102)。
 ロシアは貴族将校&封建農奴の軍隊だから負けた。
 露兵の7割は文盲(p.103)。
 よって、鉄砲も当たらない。鉄砲や砲を壊す。
 小山いわく、日露戦当時の日本兵の2割は無教育者で、その半分はまったく読み書き算術できない。

 『偕行社記事』1906-11は、勝因は、彼我軍人精神の優劣だったとし、将校に武士道を鼓吹する必要がある、と。
 M42操典で初めて、「攻撃精神」「必勝の信念」という綱領(項目)が謳われた。
 無形の要素が物質的威力を凌駕する、と。

 「真空地帯」という表現(p.115)。

 M42頃から、営内に樹木花卉を植え、菜園を設けろ、と。農民兵の精神を都会化しないために。
 軍上層では、都市化=反抗 ととらえていた。

 3年現役→2年現役となり、上流子弟が現役になるようになった。
 軍隊の擬似民主性。

 ルデンドルフ1935にいわく。戦争は短期総力でなくちゃいかんと。ゼークトも。
 それにはエリートフォースが必要で、在営期間の長い基幹部隊で勝て、と。特にゼークト。
 工業動員ではなく、事前大量な「貯蔵」で勝つ。

 戦争が長期化すれば、兵=国民は不穏化する。
 この反対の考えがフランスなのだ/デブネ。
 民主主義国は、常備軍の精強や動員速度ではなく、守勢から始めて、その後、工業動員と大衆軍持久で勝てばよい/ポソニー。

 WWI当時、歩兵は2年だったが、他は3年現役だった。
 師団は常備21個。戦時に動員するとMax100万。

 コメ騒動の鎮圧には軍隊も出動。
 プラス、シベリア出兵で世論は不穏化した。

 佐藤鋼次郎は、大川周明や北一輝と方向が似ていた。『国防上の社会問題』。
 デブネやポソニーが言うように、兵器は民間で造らせればいい、と思うようになった。それが総力戦だから。

 宇垣一成は、世論をなだめつつ、それを背景に、LMG、HMG、迫撃砲を導入。野砲を減らして重砲を増やした。ともかくも、WWI型の戦争に備える近代化の道をつけた。

 陸軍は、都市民を信用しなかった。だから甲種は、農村で、より多く合格させた。
 この指向が、日本兵が近代装備を使いこなすのを難しくした。 
 1928には「一年志願兵」にかえて「幹部候補生」制度を導入したが、知識階級への不信から、せいぜい小隊長にまでしかさせない制度だった。

 中等教育までは受けられたが、資産がなくて高等教育は受けられなかった者。このグループが陸軍内で出世しようとしたのが、大正時代。
 将校は、中小地主層から出た。
 武官の世襲傾向は、大正時代に強まった。なぜか。佐官以上で退職すれば、軍人恩給により、中流以上の生活ができたのである。

 盧溝橋の顛末は、清水節郎の手記にもとづき、秦郁彦が『盧溝橋事件』にまとめている。
 183ページの写真キャプション:「歩兵連隊砲(四一式山砲)は輓馬1頭引きであったが、馬が倒れ人力によって運ぶことが多かった」。
 ※著者は山砲兵部隊に所属させられ、この分解担送でほとほと厭になったんだなと察することができる。1個のパーツが100kgもあるのだ。

 湯浅倉平・内大臣は、上海戦以後、ソ連に備えるために、シナの相手は飛行機でいておき、地上軍部隊は早く撤収させねば――と言っていた。
 USSBSの見解。1941までの日本の軍拡は民需犠牲の上に成立していた。それは永続できない発展であり、日本の総力戦敗因の基盤もそこにあった、と。

 兵士の自発性に依頼せぬので、幹部の指揮能力がたのみだが、それが足りない。幹部候補生は、2年前は初年兵であり、よって古兵は従わぬ。

 ミッドウェー敗戦は5分違いの不運などではない(p.199)。
 依然、戦艦中心主義であり、偵察、通信、援護が手薄だったのだ。

 ガ島の写真キャプション。「分解搬送している連隊砲の砲身と砲架は、ともに100キロをこえる重量があった」。

 予算をとっていたから、自信がないと言えなかった。by 豊田副武『最後の帝国海軍』。
 秘密主義、自由な批判をゆるさず、国民を信頼しない。そのため自由言論による自由な軍事思想の発展がなかった。

 福留繁は『海軍の反省』の中で、潜水艦が期待はずれだったといっている。
 大井篤は『海上護衛戦』の中で、魚雷が逆転した、と言っている。

 クズ鉄利用の平炉・電気炉に頼っていたこと。
 『大和』も細部はダメで、外国技術依存だった。

 下士官が、中農の次男・三男ではなくなったとき、軍紀は崩壊した。
 GHQ参謀長ウイロビー少将は、作戦参謀を戦史室にあつめて、対ソ戦用に温存した。

 攻勢のみが群集心理から士気高揚を期し得る。これ、プロシア操典の背景。
 敵戦力の撃滅ではなく、都市や島、土地の占領にこだわった。封建的。銃後の士気に自信がないから。
 シナに食糧が余っていたので兵站は軽視された。

 メッケル式教育。統裁官が抱いている答解。その原案をいかに的中させたかで、陸大の学生の能力は判定された。
 敵を一歩も国土に入れないのが国防だとしたのは、佐藤鉄太郎の『帝国国防論』。
 S29に鈴木安蔵と浅田光輝が『ファシズムと軍事国家』という本を出版したが、これが、ミリタリー書籍が「ファシズム」をタイトルに使った嚆矢。
 S21には、石井三郎と富田泰次が『軍閥・官僚・ファッショ』を出している。

 他の参考文献。
 佐野学『共産主義戦争論』。S25の森守人『真珠湾・リスボン・東京』。

▼『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2>』S46-3
 S18に米軍は、アッツ作戦の直前に室蘭北東15kmの幌別村を砲撃した。5月17日より前である。
 根室のすぐ下にある落石岬。
 最も西の特警中隊は、紋別の西の「興部」に置かれた。
 最も南の特警中隊は、釧路の少し西。大楽毛?

 千島はもともと海軍のナワバリだった。陸軍は樺太に関心を集中していた。
 海軍の滑走路は、北千島、松輪島、択捉島にしかなかった。
 S18-8、他に適地がないか探したが、本島の計根別を拡張した方がよいと結論された。

 べトン陣地は、1トン爆弾に耐えることを基準にした。だから、たかがMG掩蓋なのに、巨大なサイコロ状となった。
 大楽毛は湧水のため普通の工作ができず、1.5m厚の上屋とし、屋根をかけて民家に擬装した。

 十字鍬すら不足していた。
 標茶と中標津のあいだに、計根別飛行場はあった。
 室蘭には、15加用の掩体があった。

▼陸軍少佐 荘司武夫『火砲の発達』S18 愛之事業社pub.
 マホメット教が拡がったのは大砲のおかげ。
 イタリアとフランスで、甲冑材の青銅から鋳造砲をつくった。

 鋳鉄砲は1440アウグスブルグでつくられた。
 銅製より軽いが耐力は劣る。
 黄銅の場合、鋳込んだだけで中グリ不要。しかし鋳鉄の場合は疎密があるので中グリ絶対必要。
 木工の中グリ盤が転用された。
 水力で砲身体を回転させるようになって大成。偏差がなくなるので。

 15世紀ごろ、反動励起を抑えるため砲口縁を厚くし重くするという、構造力学的には逆のことをやっていたために、砲身破裂が多発。スコットランド王のジェームズ2世は、味方砲の破裂で死亡している。

 前装でもこれだから、後装式など思いもよらなかった。
 砲に点火する、雨中でも消えない火種として、火索(火縄)が発明された。1455以降のいつか。

 西洋榴弾は1421、コルシカで初使用。グルナード。
 16世紀に、榴弾の二重点火手順が、一回自動点火式に改まる。於ドイツ。

 16世紀に、象限儀(射角付与)、照準歯弧、照尺が考案される。
 15世紀末に、小銃にライフルが切られたが、これが16世紀末に前装大砲に応用された。於ドイツ。
 またその頃、青銅資源が枯渇。溶鋼炉の開発に向かい、水力鞴が発明された。

 16世紀中葉、ビリングッチオが、水力中グリ工作機械を発明。ダビンチと同時代。

 1577に、大友宗麟がポルトガルから買った「国くずし」は、15世紀のポルトガル製青銅砲で、滑腔、後装式。薬室に穴をあけ、横栓を差す。

 松の生木に鉄箍を嵌めてもダメだが、竹タガを主材にするとOK。
 1718、仏ボンヌブアールが、撃茎式後装砲を考案。生火を使わない。
 次に、断隔螺式閉鎖機が工夫された。

 1743に英で腔圧が測定され、以後、比率の研究が、砲、タマ、火薬について、おこなわれた。
 1713のマリッツ(スイス人)の鑽孔機(ボール盤)は、円筒に穴をあけていくもので、芯までつまった鋳込みをすることで、素材の強弱のない砲が量産できるようになった。

 1760~1780 蒸気中グリ盤、できる。
 1794~1797に、砲兵工廠の一工員モーズレが、旋盤の送り台を発明。→旋盤が、精密機械に進化。

 1787、フランスのサンテシャンヌの官営武器製作所は、年に、1万4000梃の小銃と、5000門の砲、9000梃のピストルを造っていた。
 18世紀に英はプロシアに対して120門の加農と6万梃の小銃をいちどに補給してやっている。※ナポレオン戦争中のことだろう。

 1772、グルボーワル蒋軍が、砲具、砲車各部の互換性を制定。
 日本での大砲の張り初めは、堺の芝辻利右衛門(道逸)である。『本朝世事談綺正誤』によると。
 彼は1611に初の銑製砲を家康に献上した。
 口径1尺3寸、砲身長1丈、タマ1貫500匁。
 ただし製法は鉄砲そのもの。鉄板を巻いて鍛接したものだった。

 ナポレオンのツーロン港俯瞰砲撃の偉功は1793-12のこと。24歳で、少尉から少将に特進した。

 1803、英将校シュラプネルが榴霰弾を発明。
 1804、仏でボムカノンを発明。
 グルナードは球形榴弾。ボムカノンは、長形榴弾である。

 フォーサイスはスコットランドの牧師。
 雷汞は、1774、ルイ15世の軍医監バイヤンが発見。

 秋帆が350梃買ったのは天保2(1831)とする。
 鳥居について。「当時の徳川幕府と云ふものが、如何に馬鹿気て、その人なきかを物語ってゐるものである」。

 1833、仏チェリー少佐が装箍砲を発明。これは自緊を分業にしたもので、外側の皮が内側の肉を常時しめつけている。
 天保14年5月、吉野常三は雷汞で爆死。

 M15の朝鮮暴動に20ドイム臼砲を1大隊4門携行。
 これら滑腔臼砲はようやくM16に廃止となり、大阪工廠に廻送したが、3000門近くもあり、靖国神社の鳥居に鋳直した。

 佐賀藩は天保13(1842)に蘭式青銅砲を造りはじめる。
 水戸藩は天保10(1839)から青銅砲を造っている。
 薩摩は弘化3(1846)から。

 幕府は嘉永3(1850)に24ポンド加農と80ポンド・ボムカノンを輸入。象山の選定による。
 紅烙弾と装薬の間には泥を詰めた。

 盒弾=霰弾(ブリキドース)15kg。子弾49個入り。装薬4kg。最大射程750m、有効射程200~300m。

 実弾は2793m射程。700~800mでは3~4回、跳飛させる。
 300~400mでは、4~5回、跳飛させる。

 1865から摩擦管を輸入するようになり、以後、門管と拉縄式に。

 12ドイム臼砲は、M23に廃砲とされた。
 1855(安政2)年に、英人ブレークレーによって、螺式閉鎖機が。
 安政2年(1855)、オランダから船舶修理用の蒸気式工作機械類が渡来。

 普仏戦争で、プロイセンには後装ライフル砲があり、仏にはそれは少なかった。
 しかし仏はシャスポー銃のおかげで善戦できた。
 独軍は小銃に負けて火砲で勝った。

 M5-5、ドイツから8センチ・クルップ砲×16門が到着。廃砲を磨いたシロモノであった。キニフラル商会の手を経て、陸軍に納められた。キニフラルと契約したのは、M4の和歌山藩である。
 のちに常識となる褐色の皮革(馬具)は、M10頃までは珍しく、クルップ砲を曳かされた馬がそれで驚いた。
 クルップ野砲の榴霰弾は、弾子80個を硫黄によって詰める。
 同砲は、西南役で使われたのみ。7.5cmクルップとは異なる。

 M9(1876)、ドイツ商ハーレンスが持っていた75ミリ・クルップを3650ドルでまず1門購入。
 このとき駐独武官が意見書をよこし、ハーレンス商会などを通すな、今後は日本からクルップに将校を派遣するか、駐独将校に買わせろ、と。
 1873式75mmは、ハーレンスにやらせたが、以後、そのように改められた。

 日清戦争押収野砲は、台湾警備に長く使われた。

 M16以降、造兵予算に回すため、毛織り軍服を小倉地とし、金属ボタンはホックに代へ、飾具を省いた。
 7センチ野砲(75mm)はM16制式。

 M22に、そのための複働信管が制定された。M18の大廠のイタリア人、ポンペ・グリロ少佐の考案を数次、改良したもの。その後も、頻々改正。

 1889、クルップ工場で、ニッケル鋼がつくられる。これ、特殊鋼のはじめ。
 これなくしてベルタ砲もなし。

 1900、テーラーおよびホワイトが、高速度鋼をつくる。タングステン合金鋼。
 刃具に用いられる。

 M34、大廠でニッケル鋼やタングステン鋼がつくられ始める。

 三十一年式速射野砲の信管は、M32-6制定時点で「C号信管」と呼ばれた。
 火道が三段式のもの。
 柄付信管廻し(M35後まで修正、改正された)で、分画を測合する。
 M35、これら火砲を考案した人々に対し、それぞれ行賞の御沙汰があった。

 M32暮に31年式野砲の試製が7門、できあがる。
 M34から各隊に交付開始。
 M36-2に全砲兵隊に支給終了。

 ロシア野砲は 初速590m/秒。
 31年式野砲は、初速490m/秒。
 レンジは、ロシアのが8000m、31年式は、6200m。ただし戦役中に改造して7800mに延ばした。

 31年式野砲は、砲架後坐式。ロシアのは、砲身後坐式。
 駐退機は、1897の仏で75mm砲用に制定されている。
 ロシア軍の野砲は、榴霰弾のみ。榴弾なし。日本の野砲には榴弾の用意もあった。

 M32-6、「三十一年式速射山砲」制定。C号信管。
 水圧駐退機を使うつもりだったが、野砲と同じ、ベルビール発条に。※皿型バネ。
 砲身(輸入。初期110本)を軽くしたもので、閉鎖機は同じものである。※然らず。閉鎖機は違う。

 英の野砲は83ミリ。
 独の野砲は77ミリ。
 仏伊日の野砲は75ミリ。
 米露の野砲は76ミリ。

 日本初の著発信管はデマレー式で、慶応年間に4斤野山砲が使った。
 有坂信管は、15cm、9cm臼砲にも使われた。

 18秒複働信管(曳火が主だが、着発にもできる信管)。
 本書ではこれは31年式野砲用とされている。
 M31-5に仮制定。
 初速が大きい野砲だと、点火しなかったり、途中で消えることあり。
 M32に火道を三段薬盤にしたが、曳火精度が悪かった。
 これを二段薬盤としたのがM33、修正を加えて(耐水性とした?)M35に制式。
 日露戦争中の榴霰弾用に広く使われた。



「コブラ会」がいつのまにかTVシリーズになっていたのか……

 Christen Mccurdy 記者による2020-9-1記事「NATO receives PGMs purchased through joint procurement program」。
      NATOの支援&調達委員会は、2020年調達予定分の精密誘導弾薬の第一陣を受領した。納品は四度に分けられる。
 弾薬は「ペイヴウェイ」などの米国製の空対地兵器類で、調達総額は4400万ドル。

 この大方針は2014年のウェールズでのNATOサミットで決まった。
 欧州各国軍が空対地兵装を米国から買うことで、域内調達よりも15%以上、総コストが下がると見積もられたので。

 またNATO欧州諸国は、各国バラバラにではなく、数ヶ国がこうした弾薬類を共同でまとめ買いすることも2018以降は、できるようにしている。

 次。
 2020-9-7記事「China’s reusable spacecraft returns to Earth after 2 days」。
    新華社によると、シナ版のスペースシャトル(ただし無人機)が、宇宙軌道を2日間周回したあと、ゴビ砂漠の地表まで無事に戻ってきた。

 長征ロケットで酒泉から打上げられたのが9-4だった。
 写真も何も公開されていないようだが、形状は「X-37B」もどきだという噂。
 げんざい、X-37Bは軌道上にある。5月に打ち上げられてからずっと周回しているのだ。

 中共国有ロケット企業のCASCでは、将来、これに人を乗せる計画がある、と称している。

 次。
 Liu Zhen 記者による2020-9-4記事「China’s Type 075 assault ship could be a decade from full operation」。
    『075』型強襲揚陸ヘリ空母(LHD)の就役は来年だろう。しかし搭載する飛行機が無い状態がそれから何年も続くであろう。

 中共の軍事誌《現代の艦船》によれば、ヘリコプターで兵員を運ぶことにより、従来の『071』型揚陸艦(ドック型)だと台湾の西海岸にしか上陸作戦ができなかったのを、いきなり台湾の東海岸へ橋頭堡を築くことができるようになるのであると。

 しかし専門家に聞くと、ヘリ空母の運用ノウハウを中共軍が持っているわけではないので、それを獲得するのに、まだ何年もかかるはずだという。
 『075』型は、米海軍の『ワスプ』型より飛行甲板が少し狭いが、ヘリ空母としては世界で三番目のサイズである。

 『075』型からたとえば米海軍の「MQ-25 スティングレイ」(ボーイング製)のような高速無人機を運用するためには、カタパルトとアレスティング施設が必要だが、それは皆無である。
 ※低速中型UAVなら、カタパルトは要らず、収容はネットだけで問題ない。使い捨ての発艦アシスト・ロケットもオプションだ。要は、米国猿真似路線にこだわるのか、オリジナルを工夫するのか。

 中共軍は意図的にオンラインで、次世代の『076』型強襲揚陸艦のための、参加国内企業を公募している。その募集技術のなかに、《ドローン用の電磁カタパルト》と、アレスティング装置も明記されているので、『076』型を無人機母艦にするつもりであるのは、かなり確かだ。

 『075』型は排水量4万トン。しかしそこに30機積むつもりであった主力艦載ヘリコプター「直20」が未完成である。だから非力な「直8」でお茶を濁すしかない。
 ※「直8」は戦力としてはゼロである。たとえるなら1944年に複葉練習機を積んでいるようなものだ。では「直20」には期待できるかというと、ターボシャフトエンジンの国内産業基盤がないので、永久に仕上ることはないだろう。それも予見ができるので、彼らは回転翼機は諦めて、一足飛びに固定翼無人機に活路を見出そうとしているのではないのか?


旧資料備忘摘録 2020-9-6 Up

▼山口信夫ed.『朝日講演集 第三輯』大6-11
 稲垣三郎(少将)による「英国の陸軍に就て」。
 国内用の地方軍30万人と、海外用の正規軍がある。後者は6個師団、16万人。7年現役の兵隊と、士官。

 WWIが始まったとき、キッチナーだけが「3年続く」と断言していた。他は6から8ヶ月と高をくくっていた。
 キッチナーは、海外に出さぬ約束の地方軍と、殖民地軍をかきあつめて、フランス戦線に投入した。
 ただし、開戦から1ヶ月で43万6000人もが志願してきたことも特筆されるべし。
 ケムブリッヂ、オクスフォードは、キャンパスから大学生がいなくなった。残ったのは、外国人留学生と女子学生たちのみであった。

 ところが下級国民は、国家のことなんか考えていなかった。そこで徴兵令を出すにさきだち、半年以上、新聞の評論などで、戦争とは、国防とは、国民の義務とは……を説いた。
 徴兵対象はまず、未婚の男子と、子なしの男やもめ。
 次に18~41歳の全員を対象にした。ただし、内地で1年訓練し、塹壕戦だけをさせた。

 英国下流民は必ずしも愛国ではなかった。工場ストライキは続発している。

 英国は世界の海を単独で支配していたので、1846に穀物条例を廃止して、食糧の五分の三を輸入にきりかえ、農地を荒地に戻してもよかった。農民は工員にならせた。

 以下、日高諱爾中佐による「独逸の潜水艇戦に就て」。
 WWI前は、潜水艦を1隻造るのに2年を要した。
 今日では、1年で竣工する。
 UB型で、港湾防御型なら、6ヶ月で仕上がる。

▼紫芝幸憲『通信兵器』S19-4
 無線は、敵に窃聴せられる。
 単線の有線も、敵前、近距離なら窃聴せられる。

 線種。
 92式裸線は、1巻が1000mである。
 大被覆線は、500mである。
 92式小被覆線は、500mである。
 93式軽被覆線は、250mである。
 97式単心水底線は、1500mである。
 97式2心水底線は、500mである。
 2心2対被覆線は、1000mである。
 2式1対大被覆線は、500mである。
 3式1対小被覆線は、500mである。
 4粍亜鉛メッキ鉄線は、1000mである。
 2.9粍、2.6粍、2.0粍、1.6粍亜鉛メッキ鉄線は、それぞれ1000mである。
 2.9粍軟銅線は、1000mである。
 0.9粍、0.32粍軟銅線は、それぞれ1000mである。
 水底線〔番無し、古式か〕 は1巻が300mである。

 十年式擲弾筒信号弾として昼間あげるのは龍で、黄・黒・赤あり。
 夜は吊星で、昼も使える。白、赤、緑あり。
 どれもH=130m。
 20秒みえる。
 距離は夜は25000m遠くから分る。
 昼は吊星は3000m遠くから見える。
 黄龍と黒龍は8000mから見える。
 赤龍のみ、なぜか4000m。

 昼夜の近距離用には「流星」。
 白、赤、緑で、各、一星、二星、三星がある。
 H=120m。
 約5秒光る。
 夜は8000m、昼なら2000m遠くから見える。

 回光通信機には、92式携帯囘光機、92式十糎囘光機、92式二十糎囘光機(日光も使える。三脚に載せる)あり。※遭難時の手鏡合図の原理で照準をつける。

▼『日本食肉文化史』H3 (財)伊藤記念財団pub.
 「聖徳太子絵伝」には、客人の前で直刀形の短刀でイノシシを切る図が。
 江戸時代の獣肉屋の看板は「山くじら」だった。

 猿が肉食するという報告は1963にケニアから発信され、世界を驚かせた。
 ゴリラもボイルドビーフを好む。

 日本の人口は、8000年前には2万人弱。これは今の砂漠や極北と等しい人口密度。
 5200年前は、10万人。
 4300年前は、26万人。

 縄文中期には、東京と長野に全国の人口の9割が集中。
 縄文人は「山の人」で、海の幸は知らない。
 ナウマン象が、内陸に移動した。原因は、温暖化による蚊か?
 縄文後期から弓矢が狩に使われ、鹿類の数が急減する。

 食肉は鹿と猪が断トツで、犬、タヌキ、鯨がそれに次いでいた。
 旧石器時代、犬は貝塚に捨てられている。しかし縄文前記には、甕葬されるまでになった。

 古代の牛はどこから来たか、はっきりしない。いたにはいた。
 イノシシは寒さが苦手で、ドングリが減ると生きられない。

 シナでは2000BCの黄河・仰韶文明で早くも犬と豚が家畜化されている。
 馬、牛肉は、ステイタスフーズ。牛を庶民が食べ始めたのは唐代=10世紀以降。

 『周礼』では、牛は天子、羊は諸侯、豚は太夫、犬は士が食べるものとする。
 また庖人が扱う六畜として、馬、牛、羊、豚、犬、鶏 を定めていたが、後秦・漢からは、軍馬の需給が逼迫し、馬は食用ではなくなった。
 南支の水牛も食用とはしなかった。

 日本では家畜を食べることは明治までなく、すべて獣肉である。
 弥生期の遺跡から、鉄・青銅製の鏃、70~80センチの弓、2mの弓が出るが数は少なく、狩猟の縮小を物語っている。

 古代「しし」は獣肉全般を指す。
 仏教の影響で天武4年に 牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁ずる、最初の殺生禁断令が出たが、鹿と猪がそこに含まれていないことに注目せよ。
 加茂儀一は、これは渡来人に対する抑圧だったと見る。

 死肉はストック財とにならぬ。コメはなる。よって下々にコメばかりをつくらせようとしたのが大和朝廷。
 鯖田豊之いわく、日本のモンスーンでは雑草が育ちすぎ、茎が堅すぎて家畜の飼料にならない。

 佐原真は、ブタ飼は平安期に消失したという。
 武家集団に食肉禁忌は皆無。貴族や僧にあてつけるような宴も都内で開いた。

 室町初期の『庭訓往来』には、中流武家の肉食として、シカ、イノシシ、クマ、タヌキ、ウサギ、カワウソを挙げている。
 この豕は、家畜化したブタの可能性もある。
 干江豚は、イルカの干し肉で、戦陣食という。

 『太平記』には、新田義貞が1336(延元2年3月)に越前金ヶ崎城に籠城したとき、城中の兵粮が尽き、軍馬を毎日二頭ずつ「斬殺」して朝夕の食事にあてたと。

 江戸初期に野良犬なし。ことごとく食べられていた。
 710(延暦10)、桓武天皇は諸国に令し、百姓が牛を殺して漢神を祭るに用いるを厳禁す。
 801年、桓武天皇勅して牛を屠って神を祭ることを禁ず。

▼山本惣治『自動車』S14、ダイヤモンド社pub.
 著者は、日産自動車の取締役から、S14-5に 満洲自動車製造(株)創立とともにその理事長。
 満洲重工業開発(株)理事兼任。

 S10-8、「自動車工業法要綱」を政府は定めた。
 S11-7、「自動車製造事業法」公布。中心人物は、S13-5時点で満洲国産業部次長、当時の商工省工務局長の岸信介。

 S11年度、米は445万4535台つくり、2808万6380台を保有。
 日本は9149台をつくり、14万9635台を保有。

 アメリカ最初の自動車会社は、オールズ自動車会社で、1897設立。いまはGMに吸収されている。
 S11年、ドイツは27万1000台つくり、S12-1-1時点で124万3084台を保有。
 同じ時期、ソ連は11万9500台つくり、35万2820台を保有。

 日本は大正12年まで生産数が年50台を越したことはないが大13にいきなり136台つくった。
 S6の全生産台数が434台。

 S11年度、イタリーすら日本の三倍の41万5000台を保有し、45000台製造しているのに……。

 クーペは、2人乗りの2ドア車でスチール屋根。
 フェートンは、4人乗りの2ドア車で屋根は幌/オープン。これを金属屋根にすれば、セダン。2人乗りなら、スポーツ・フェートン。
 ロードスターは、2人乗りの2ドア車で、幌屋根。後部車体ハッチが出っ張っている。

 オオタ=高速機関工業(株)は、トラックからフェートンまで国産して、健闘。

 ちよだ(JH型)は、6輪トラック・シャシー。後輪はシングル。S13における定価8800円。TGE製。陸軍保護6輪自動車。
 スミダ(UH型)は、6輪。後輪がダブル。9100円。陸軍保護6輪自動車。
 どちらもS14以降、値段が高騰している。
 この2車種に関しては、購買補助金として1000円、維持補助金として毎年陸軍省より500円を4ヵ年、つまり合計2000円が、下附される。

 戦前「普通自動車」には、360kg以上の車は大抵含まれた。トラックも。
 全長2.8m、巾1.2m、高さ1.8m以内、4サイクルで750cc、2サイクルで500cc以下なら「小型自動車」となる。

 M44のドイツの最高時速レコードは、228.1km/時だった。
 S10の米国の最高レコードは、ソルト・フラットにて、484.8km/時。

 軍トラックは、東京自動車工業(株)と極まっていた。
 大7創のTGE(東京瓦斯電)自動車部と、大9創の自動車工業(株)=石川島 が合併したもの。

 大7-8には、「ちよだ」「スミダ」の保護自動車、のち商工省標準形式自動車「いすず」を完成。
 一時やかましく喧伝せられたテーラー・システムより、フォード・システムに移転しなければならない時代がきている。
 ※戦前に「システム」といった場合、マスプロ方式を示したもののようだ。

 S9-11 トヨタがトラックを発表。
 高速機関工業(株)は、今は小型自動車 オオタ号 のみ造る。
 S10-4に太田自動車製作所(S6創業)を継承した。
 この時点で、ニッサンは横浜市、トヨタは愛知県、川崎車輛(株)は神戸市、他は東京市にあり。

 日本の自動車界の最大の特徴は、そのほとんどが「営業車」であること。自家用車はS10において7分6厘にすぎない。
 欧米――ソ連をのぞく――との大きな違い。

 日本人の個人収入は、年165円。英1429円。米1474円(日本人の9倍)では、しかたない。データは、日本が1930~34年。英1935年、米1933年。

 1924にドイツで自動車用のディーゼル機関が完成。
 しかしS13では米でディーゼルがいちばん多く普及している。
 ディーゼルは高速運転ができないので、同出力のガソリン機関に比べて大型で重くなる。
 また、小径の気筒にできない。
 ために小馬力の6気筒とか8気筒にはできず、小型自動車の動力にできない。
 日本の道には小型が適する。しかしディーゼルと小型車は相性が悪い。これは日本にとって不幸。
 寒冷地ではガソリン車より始動困難。

 軽油=「発動機油」?
 イタリアの1台あたり人口は105.0人。イギリス21.0人。ドイツ47.0人。米4.5人。日本654.0人。

 1平方kmあたりの自動車数。日本は0.2台、ソ連は0.01、カナダ0.12、イタリア1.26、ドイツ2.34、イギリス8.33台で世界断トツ。

 道路1哩あたりの自動車台数。米国306万5250台。仏40万6909台。ソ連168万2109台。伊10万5810台。独21万6674台。日本の内地は、60万1760台。

 北イタリア(ナポリなど)の道はS12には芸術的なまでに整備されていた。
 満洲重工業をつくろうとしたとき、内地の日産以外のメーカーにとって脅威になるからと反対論が沸き起こった。
 筆者いわく、満洲と北支では、「自動車飢饉」といえるぐらいに需給のバランスは悪い。

▼須山智『吾国魚雷ノ由来』S18-5
 日本の最初の魚雷は、M17の、ドイツ朱式84年式。径355.5ミリ、駛走600~400m。
 東京造兵廠でドイツ人技師を傭い試作したが、なかなかうまくゆかず。88式。

 M26に、英国保式を輸入。26式。
 M33に、保式36糎魚雷の模倣製造を開始。

 四三式53糎で、はじめて射程が8000mに達す。
 四四式53糎で、10000mに。
 八年式で 2万mに。
 93式で4万mに。

 炸薬量(概数)。
 88式は50kg強。
 30式は100kg弱。
 44式は100kg弱~150kg。
 8年式は350kg弱。
 89式は300kg。
 90式は460kg。
 91式は240kg。
 93式は500kg弱。
 95式は400kg弱。
 97式は350kg。

 雷速(概数)。
 44式までは27ノット。
 6年式は36ノット。
 8年式は38ノット。
 89式は45ノット。
 90式は46ノット。
 93式は49ノット。
 95式は47ノット。
 97式は41ノット。

 炸薬量。
 44式は110kg。
 6年式は203.0kg。
 8年式改2は346.0kg。
 89式2型は296.0kg。
 90式は378.9kg。
 91式改二は155.5kg。
 91式改三は235.0kg。
 93式改二は470.0kg。
 95式二型(尖)は400.0kg。
 97式は350.0kg。

 斉射のことを叢射といった?

 ガダルカナル島へ物資補給が出来ぬので木で発射器を作って砂浜に物資を積んだ魚雷を打上げた。之にヒントを得て水陸両用魚雷を考案したが、渡辺設計主任が握り潰した。

 装薬。
 88年式は56kg。
 26式は49.2kg。
 30式は99.5kg。
 保式36センチ(32式)は54kg。
 34式は88kg。
 37式は100kg。
 38式二号は95kg。
 41式36糎は49.2kg。
 42式は95kg。
 43式45糎は95kg。
 43式53糎は130kg。
 44式一号(45糎)は95kg。
 44式一号(53糎)は130kg。
 44式2号(45糎)は110kg。
 44式2号(53糎)は160kg。
 4年式は110kg。
 6年式は203kg。
 8年式一号は300kg。
 8年式2号改2は346kg。
 89式は300kg。
 90式は373kg。
 91式は155.5kg。
 91式改3は235kg。
 92式は318.5kg。
 93式(609mm)は492kg、49ノット、4万m。
 95式は397.4kg。
 96式は397.4kg。
 97式は350kg。
 98式は350kg。
 特44式は110kg。
 【十ム ※読めない】式45糎は、110kg。
 潜水艦用45糎は、180kg。
 保式30式36糎は50kg。
 保式32式45糎は90kg。
 38式一号は100kg。

▼塙保己一ed.『群書類従・第二十三輯 武家部』S35
 「射礼私記」
 雨雪の日などには うるしはぎの矢を用意つかまつるべきなり。されば古人は かならず此矢をつつに入れるなり。同じく雪雨には ゆがけ 濡るるによって おんじゃく を粉にして塗るなり(英享5年)。

 弓の用語として以下がある。
 千檀巻 定(サグリ)
 順弦(しなびつる)
 発矢(はや)=1射
 弟矢(おとや)=2射
 焦箆(こがしの)
 【土月】月(あづち)
 【流のさんずいが足】(さくり)
 臥【流のさんずいが足】(まろびさくり)
 【竹かんむりの さんぎ という字】塚(かずつか)
 弓弦葉(ゆづるは)
 【足へんに瓜】(さくり)

 「騎射秘抄」は説く。若い荒馬に乗ったのでは弓矢は使えぬ。
 初心の人は、「片入の馬」を好くことあるべからず。(応永23年)

 ああ と矢ごたへをすること、鹿に限りたること。
 大事の物をまことに射あてんと思ふときは 矢づかを少し引きのこして まむきに物を見るべきなり。にあひ もろめにて よく見んためにそうろう。

 ふせ鳥 かけ鳥を射るときは ふがら かりまたにて射べきなり。
 頭上の木鳥を射るには はだぬぎ でなければ射られるものではない。

 鶯、鴈、とび、ふくろふ、みみづく、いしくなき、庭鳥、木ねづみ、むささび、鷹は 射ない。
 木鼠は、聖武天皇が禁じた。

 ふろくふ の羽は、人を調伏するときの矢に使う。

 3尺刀はきりあいには向かず。一太刀でやられる。
 2尺5寸で防ぎに回られると、決着がつかない。(小幡山城守申分)

 初心者が真剣勝負にのぞむと目が見えなくなるから、ひた打ちに打て。それしかない。
 「勝負を盲打に仕候。」

 身細き刀は 生膚の者 切れそうらへども、鎧の上を打ちそうらへば 名作はしらず たいていの刀はゆがむものにてござそうろう。ゆがめば名誉の切れ物も、きれぬ物にてござそうろう。

 大勢とわたりあっていると、長い刀ではだんだん「切っ先下り」になって敵を切れなくなる。
 また、初心者は切先を土に切り籠んでしまう。プロはそれに乗じてくる。

 とはいえ広い場所で2、3人を相手にするには、長くなくては不利だ。
 卜伝は、臍の上に鍔の越す刀はダメだと。
 尺に足らぬ懐中わきざしを「さすが」という。

 刀と、突くのみの短刀では、絶対に勝負にはならない。そんな隙はありえない。

 北条早雲。いる道具いらぬ道具を思案して いれども用ゐ いらずとももて。
 山本勘助は、鍔は大きいのが良い、と。すかしをいれれば重くならない。
 槍は2間より短いと下から馬武者を突くことができぬ。
 4~5寸の槍穂では即死させることはできないが、穂を長くするとやたら槍が重くなってしまうので、そこに妥協が必要なのだ。

 9尺とか1丈の槍も、あるにはあった。

 卜伝、3尺の刀にてさえ思ふばかりに人は切られず。まして1尺4寸の小長刀では。
 卜伝も2尺5寸の長刀で仕合うことはあった。

 矢の根は細く長くないと、敵に深く刺さらない。
 以上、天正5年の高坂弾正の「武具要覧」。

▼小桜軍二『軍隊的工場管理』S19-7
 著者は大阪造兵廠の人。
 ※驚くほど紙が白い。戦中の出版物としては異常。

 労務者は三年いれば尻が落ち着く。
 工場で米軍の捕虜を働かせていたら、日本の本職工員がいつも油を売っているので、「あれは重慶の捕虜だろう」と思われたという話。

▼豊田堅三郎『実験航空読本』S19-12
 繋留気球は、最近はストリームライン形で、しかも、頭上げ姿勢。こうすると、綱が切れても安全なのだという。

▼小野武夫『日本農業起源論』S17-5
 アイヌは雑穀のことをピエイという。
 朝鮮では稗を「ピ」という。
 日本の稗も「ぴえ」と発音したのではないか――と藤原相之助は言っている。
 奥羽では「へ」という。これも「ぺ」ならん、と。 

 満洲、朝鮮を経て日本に来た。
 シナ人から見れば夷の食い物ゆえ、BADな字が当てられているのだ。

 東海道にソウリという言葉あり。焼畑のこと。これは古事記神代巻にもある。→「ソリマチ」。
 ※「ソリメ」という地名も関係があるのだろうか?
 火の男神と土地の女神が結んで五穀が出るのは焼畑のことだ。

 信州では切替畑という。
 十町を毎年交互に半分づつ焼いて蕎麦を蒔き、1回収穫した次の年は放置しておく。
 5~7年単位で切り替える地方もある。
 焼くのは春。
 秋に焼くときは、刈り干したあとに焼く。ソバはこのときに蒔く。
 秋に刈って、翌春に焼くパターンもあり。

 「サス」「さし」「さぶり」「ソレ」「ソウレ」はいずれも焼畑である。
 刈野は「カノ」になることあり。「なぎはた」も。
 半島では「火田」と称する。

▼髙木豊治『航空工業技術読本』S19-5
 ハツリは、タガネとハンマーで表面を削っていく。
 「トースカン」は、罫書きの道具。定規上を滑らす。
 キサゲ は 大ヤスリのような形をしている。その先端からウェーブして刃になっている。

▼田中阿歌麿『趣味の湖礁学』大11-7
 小川原湖は、1月中旬から下旬に全面結氷し、3月下旬に全面解氷する。

 浜名湖の今切は600m切れている。
 明応7年8月24日の地震で海とつながった。
 天正7年の大風雨で今切が崩れ、今のかたちになった。

▼小川菊松ed.『最新化学工業体系 第6巻』S12-10
 火薬工業 by 西松唯一。
 テルミットは、酸化鉄の酸素がアルミに移るだけ。少しのガスも出さずに3000℃となり、レールが切れる。

 同じ黒色火薬でも、軍用、猟用、爆破用では、3成分が変動する。
 硝石は78~62の範囲で変わる。国によってもまちまちだ。

 黒色火薬の比重は、粉状だと水よりわずかに軽く、粒状だとやや軽い。中の空気を除外すれば、水の1.5倍ある。
 黒色火薬を鉄と銅で挟撃しても発火しないが、鉄と鉄との間で挟撃すると発火する。摩擦発火という点では、ピクリン酸やトロチルよりも危ないのである。

 硫黄は帯電する。捏ねているときにスパークするので、機械はアースせよ。
 黒色火薬は英では銅容器中で作る。日本とドイツでは木椀を用いる。

 本書の表に載っている75ミリから40センチの大砲で、いちばん炸薬量が多いのては、21cm列車砲で、28kgだという。対して、40cm砲は、20kgである。

 ピクリン酸より敏感である黒色火薬を砲弾に仕込むためには、フランネルの小袋に粒状薬を入れてから装填する。
 1500kgの炸薬を地上で爆発させると、2.7mの深さに穴が掘れる。
 また、10kg炸薬だと、1.2mである。

 化学兵器について。仏では、幼児1人をそっくり収容してしまえる《防毒 手提げ鞄》が つくられた。空気ボンベも付属している。

▼及川源七(少佐)『趣味の日清日露戦史』S2-2
 ソースは参本の日清日露戦史。
 策源と戦地を連絡することを、兵站戦略という。
 設堡陣とは、臨時築城された大規模な陣地。

 清国兵は、レミントン銃、グラー銃、スナイドル銃、擡槍(2人でもたげる銃)も。
 M27の戦時編成では、野戦1個師団は、歩兵12個大隊、騎兵3個中隊、砲兵3個中隊、工兵2個中隊 からなる。
 総計1万8492人。野砲24門。山砲12門。馬5633頭。

 22年式村田銃は、近衛師団と第四師団のみ支給された。
 後備部隊はスナイドル銃であった。

 北清事変で、北京攻撃に参加した日本の歩兵は6600名、工兵450名、騎兵150名。他に、野砲18門、山砲36門。

 日露戦争では、歩兵と工兵は30年式歩兵銃、輜重兵は30年式騎銃、後備歩兵と後備工兵は村田連発銃。後備輜重兵は村田連発騎銃。
 各騎兵旅団はホ式MG。
 各師団機関砲隊は「三脚架式機関砲」。

▼田村榮太郎『戦争を覘く』1934-4
 ※戦前における左翼暗黒史観全開の本。農民一揆史。

 朝鮮役について記された『乱中雑録』には、明兵の配となる女数万……と書いてある。

 島原の乱。寛永14年12月10日、立花&鍋島の部隊が原城に迫ったが、佐賀の陣営で火を失し、銃手の腰につけた火薬が均しく併発し、火を負うてあらそって水田に飛び込むという醜態を演じた。
 農民は片刃の鎌を槍に仕立てていた。

 高杉の「兵法問答書」に、西洋の長技は鉄砲だが、本邦の長技は刀槍にある、と。
 長州下関の24ポンド砲。まず砲口から、火薬入りの薬袋、そのあとに弾丸を入れる。それから火門針をさし、雷管をさし、引綱をひっぱる。

 高杉の渡英決意は、馬関敗戦の翌年=慶応1年3月。しかし、行けなかった。

 薩摩との取引で長藩の伊藤と井上が、長崎のグラバーから、ミニエーとゲベール×4300梃を買い、馬関に8月16日に持ってきた。
 その単価。「けべる一張三両二分」と高杉日記にあり。

 スナイドルは沢山射つと遊底が開けられなくなってしまう。

 鳥羽伏見。5日、かくて幕軍はみな退却して枚方に防戦の準備をしてゐた処、永井尚志は慶喜の命を帯びて来て、深意あり諸軍皆大坂に退けと伝達。

 西軍の人肉食の記述?(p.328)。

▼帝国水難救済会『北米合衆国海岸護衛隊』大15
 1790からある Revenue Cutter Service (密商監視部)と、Life Saving Service を1915年に合同して、コーストガードはつくられた。

 コーストガードは米財務省の所管である。
 戦時、または大統領令あるときは、海軍の一部に編入する。その時は経費も海軍もちとなる。

 準士官は キーパーズ と呼ばれる。下士卒は サーフメン と呼ばれる。
 商船内で起きた反乱の鎮圧もやる。

 Line Projecting Gun を有する。ライフル砲という。さらに遠距離向けには、カニンガム火箭を用いる。
 ライフル砲というのは、青銅製で2.5インチの滑【月唐】。砲架ともで185ポンド、弾重は17ポンド。砲身は長さ14.5インチ。前装式臼砲のような外観。
 ここに、後ろ向きにした中実砲弾を、砲口から装填する。断尾にはリングあり、そこに索が結ばれる。発射されると砲弾は前後が顛倒して、ロープを引きながら飛んでいく。
 索は長さ700ヤード。太さは最大0.39インチ。射程は最大695ヤードという。

 カニンガム・ロケットは、長さ5.95フィート。筒中に800ヤードの索を収める。最大1000ヤード飛ぶ。

▼東京市役所tr.『支那防空知識』S14-3、原1938
 錦州爆撃は、飛行機が2機。爆弾二十余のみだったという。
 昂々溪では二十余機襲来。馬占山を黒垣に退却させた。

 上海事変は200機弱来襲。
 WWIにおける、1918-11までの英軍の砲弾消費量は、3億発/7000門。
 ドイツは6億発/17300門。

 過去の戦争における、重砲~山砲の数。
 普墺戦争のドイツ、770門。
 普仏戦争のドイツ、980門。 ※日本の明治3~4年。
 日露戦争の日本、990門。
 日露戦争のロシア、1200門。

 消費砲弾数は、普仏戦争のドイツが50万発。
 フランスはWWIで砲弾3億5000万発消費。

 AAは曳火ではダメ。気圧の影響まぬがれないから。
 スイス ゾロタン のAAMGは、径2センチ、初速830~850m/秒。
 俯仰はマイナス15度からプラス80度。

 英ヴィッカースの12.7ミリAAMGは、仰角90度まで可能。毎分450発。初速914m/秒。
 有効射程1200m以下。最大射高4550m。最大水平射距離5430m。

▼欧亜通信社ed.『日露年鑑 昭和十九年度版』S18-12
 ボルガは水位差が小さいので発電に向かない。
 泥炭もカロリーが低い。
 ウクライナ炭とコーカサス石油なくして、モスクワ~ウラルの工場も動かないのだ。

 スターリングラード戦は、モスクワ方面への動力源供給を阻止しようというドイツ側の狙いがある。
 南北縦通の鉄路は、ルフトヴァッフェが執拗に爆撃した。
 これはドンバス(ウクライナ)の石炭を運ばせまいとしたもの。ドンバス炭はkgあたり7000カロリーと上質なので、鉄道で長距離を運んでもペイするのだ。

 ソ連は、ヴォルガ舟運でこれを凌いだ。
 かくして、スターリングラード戦へ。

 コンビナートとは「綜合企業」である。
 S17に米潜水艦が西太平洋でソ連汽船を撃沈したことあり。161名を日本汽船が拾って、大連まで送った。そこから彼らは陸路で帰国した。

▼川久保かね代『大東亞戦に祈る』S18-10
 私は通身隊だがバタアンでは全然無線通信ができなかった。無電を使ふとすぐ敵は探知器で探りあてゝ砲弾の集中射撃をした。



残飯撲滅運動を開始した習近平は、米軍により沿岸をブロケイドされる未来図を見据えている。

 Harm Venhuizen 記者による記事「8 weird DARPA projects that make science fiction seem like real life」。
    DARPAは役所のレッドテープの埒外にある。
 どの外部人を雇うか、そいつにいくら報酬を出すか、他の政府機関とは違う自由裁量を有している。だから開発スピードがとても速い。
 また、将来モノになるかどうか分からん企画にもカネを出してくれるのである。

 1960年代にDARPAは、ベトナムのジャングルの中でもっと自由に部隊移動を可能にする、象サイズの有脚自走車両を研究しようとした。これはいろいろ考えた末の結論だった。
 だが時のDARPA長官は、そんなプロジェクトが議会に知れたら予算を大きくカットされてしまうと懸念して、作業を中止させたという。
  ※このルーモアが『スターウォーズ』の四脚装甲車としてビジュアル化されたのか。

 次。
 9月23日の、「地政学」の基礎と最先端を、入門級の人たち向けにお話しする催しの、主催幹事役の連絡先は、以下の通りです。
chichich-wako@ezweb.ne.jp
 もしくは、フェイスブック
https://facebook.com/events/s/%E5%85%B5%E9%A0%AD%E4%BA%8C%E5%8D%81%E5%85%AB-%E5%9C%B0%E6%94%BF%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80%E3%82%AB%E3%83%95%E3%82%A7/589046358429248/?ti=as
 を、ごらんください。

 ペリーが嘉永6年に日本にやってきたとき、すでに米国研究者は、江戸湾を封鎖すれば幕府は抵抗もできなくなることを理解していました。
 大正時代の「オレンジ計画」でも、日本本土上陸作戦などは不要で、沿岸でのブロケイド&シーレーン遮断だけで日本を屈服させることはできる――と結論されていたのです。
 ところがなぜか1941~の日米戦争では、その大前提が忘れられたかのように、本格海戦が何度か生起し、米軍地上部隊が沖縄にまで上陸する必要があった。
 どうしてか?
 マハン流の艦隊決戦など必要ないことは、日本海軍とは違って、米海軍には分っていました。しかし石油動力時代には、古い「艦隊」の代わりに、敵国の海軍航空戦力をまずじゅうぶんに弱める必要があったのです。
 その手順として、あたかも主力艦隊決戦のような、航空艦隊決戦が連続して発生した。
 また陸地に前進航空基地を得るための、島嶼争奪作戦も必要だと思われました。

 しかし1946年にUSSBS(合衆国戦略爆撃調査団)は、仮説を提示しています。
 潜水艦を使って日本の沿岸に機雷を敷設させるミッションならば、洋上航空優勢とは無関係に行なえたのだから、戦間期に米国が整備すべきだったのは、まさしく、機雷敷設用の潜水艦隊だった――というわけです。

 この理論を大々的に実行した大国または軍事強国は、今日までひとつもありません。だからUSSBSの仮説は、いまだに仮説のままです。

 石油時代のブロケイドは、帆船時代や石炭時代のブロケイドとはまったく様相が変わるでしょう。ここをわかりやすく説明してくれている「地政学者」がいないようです。その穴を埋めねば……と思っています。