旧資料備忘摘録 2020-9-5 Up

▼半田虎雄、興津辰矩、原田亀彦『遊猟案内』M41-3、初版M34?
 英国には、伐木に制限がある。これ、まったく猟用ゲームを増やさんが為。

 毛の短いポインターは、日本の鬱蒼たる山野には向かない。皮がズタズタになる。セッターかレトリバーがよい。
 大小の散弾を混用することには、何のプラスの効果もない。

 ひきがねを「引鍵」と書いている。
 ショットガンの飛鳥射ちは、よほど上を狙わないと、近射におわる。

 鳥がバレルの上に見えていたら、もう当たらないと知れ(例外は、降下中の鳥)。
 ※欧州貴族は鳥撃ちの経験をそのまま、戦闘機の空中戦に適用できたわけか。

 横行飛行する鳥に対しては、6フィート前を狙え。
 兎は冬は北向き斜面にいることなし。
 射手のひとりは必ず最初の場所にとどまれ。
 ウサギは馬鹿だから3回、元の場所へ戻る。
 足元を駆け抜けようとしたら、鋭いホイッスルを吹け。それで立ち止まるところを射て。

 雁は必ず風上に飛び立つので、風上からアプローチせよ。
 白服は、狐に警戒されるから、×。

 「待屋」撃ちというのがあった。
 千葉の印旛沼附近は、関東で最後まで鳥だらけな聖地だった。

▼城北獵人『鳥を獲るまで』大9-1
 初めは、「杖[じやう]銃」や7mmくらいから、小鳥撃ちをする。※7ミリは空気銃か。
 昂じてきて、16番や12番の散弾に移行。

 英製(グリーナ社製、100円もする。その日本製コピーもある)でも単銃身のショットガンにはリアサイトがある。これは入門者用。
 水平2連には、リアサイトはない。

 有鶏式はなぜよくないか。矮樹のため、撃鉄がひきあげられて、勝手に暴発するのだ。
 オートマチック散弾銃は、弾薬の自家再生が2回しかできない。すなわちケース購入の出費が大きい。
 しかし5連発は鴨射ちには便利である。

 無煙火薬を使うと、安物の銃身は破裂する。ダマスカス鋼なら大丈夫だが、もう作られていない。軽い銃身は、反動がキツくなって不快である。

 ソードオフ銃身のショットガンは、もともと短い猟銃に比べて、パワーは半減。なぜならチョークが中途半端だから。

 エジェクターのことを「からはき」と称する。弾薬再生する人にとっては、これは却って迷惑。
 無煙火薬なら、必ず紙ケースにすること。国産の真鍮製だと、ケースが破裂して薬室にへばりつくことあり。紙なら、その問題はない。

 コロスは「送り」。
 雷管として、砲兵工廠でつくるエレー(英国製の模倣)と村田雷管あり。後者は、銅製と真鍮製と2タイプあるが、真鍮製のは発火せぬことあり、推奨できない。

 もし短銃身なら、無煙火薬にしないと、燃え尽きてくれない。
 十文字信介[しんすけ]は、すでに故人である(p.43)。

 宮内省猟犬係 というのがあった。
 去勢犬は肥満し、鼻も鈍くなる。
 断尾は不具であり、英では品評会に出させない。

 ドイツ種はよく断尾されている。
 ドイツで穀物畑を通過するときに尾で作物を痛めぬように断尾したという。これは神戸の田丸帝之助の説(p.139)。

 犬舎の周りの土は月に二度は客土しないと、寄生虫がわく。
 犬舎床に、新しい藁は、必ず要る。

 日本では、爆薬猟、毒、据銃はすでに禁止されているが、朝鮮では、M40-12の「朝鮮狩猟法」により、許可を得ればOK。

▼小原正忠『皮革の知識』S10-7 (財)軍人会館出版部
 靱[ゆき]……革へんであることから、オールスキンだった。
 鞘……も然りで、昔は皮でつくった。その名残りが、猪の毛皮。

 弓で、左手につける鞆[とも]。
 中華民国の兵隊は、すでに木綿布製の軍靴になっている。
 帽子の内側の革は山羊。

 弓術の的も、昔は皮。
 馬術は最近、五輪種目になった。

 小一のランドセル。男は黒、女は赤と、もう決まっていた。
 貂[てん]の皮は、保温力が抜群なので、シナで珍重した。

 牛や馬は、頚動脈を切る。
 羊や豚は心臓を突く。
 ウサギは、後頭部を強打。
 銀狐は、特にキズつけぬよう、圧死させる。

 M2-3に、はじめて伏見駐在の親兵に、帽・衣・袴と靴を使用させた。
 S6年度の製革業者は、東京に104工場、大阪に43工場、兵庫に224工場で最多。和歌山は、大阪より盛んだが、これは紀州藩が技術導入をすすめたから。
 とはいえ、なめした皮を原料として製品をつくっているのは、大阪一点集中。

 満蒙では、屠夫は囘々教徒が多く、その技術は優秀で、皮に刀痕をほとんど付けない。
 蒙古人は生きた家畜をめったに殺すことがないから、皮を剥ぐ段階でメチャメチャに傷つけてしまう(p.413)。
 馬皮は、腰部のみが、靴甲のエナメルに使える。他は、牛より質が落ちる。

 キツネのしっぽは、こどもを温かく包むためのもの。
 狐は、魚と兎の内臓を最も好む。
 寒いほど元気に動く。夜行性。

 『保元物語』に、義家が革の鎧を重ね、木の枝に懸けて、六重[むかさね]を射徹した、とある。
 寺の太鼓は、馬か犬。木魚の撥の先も、犬の革をつけたものが多い。

▼鈴木俊行『銃猟総要』大13-12
 著者は農大の先生。
 フリントロック猟銃は1630から普及。
 複筒猟銃は1815年、ジョージ・マントンによる。
 1820からロンドンがメーカーのメッカに。
 1821、管打ち銃、完成。

 1814、ポーリが元込銃をつくる。
 1836、ルフォーショーが針打ち式を創る。
  それが、縁打ち式から、中心打ちへ進化。

 1861にドウによってセンターファイア式がイギリスに紹介された。
 1874にグリーナーがチョークをつくる。

 開閉部のガタを追放する工夫は、1863の人形頭止めにはじまり、1875の十字閂止めに至る。

 1875にウェストリー・リチャーズが、今日と同様な アンソン=ディーレイ式無鎚銃を完成。バネ撃針で発火させる。

 1884に自動脱包機。
 ダマスカス巻き張り筒は、無煙火薬だと割れてしまうので、1890頃からは、鋼筒になった。

 単引鉄も、ウェストリー・リチャーズが完成した。
 上下二連銃は、さいきんできた。
 すでにブラウニングの5連発自動銃あり。

 舟銃として、ホーランドの径1.25インチ、筒長7フィートの複筒あり。鴨用。
 兎は鴨よりも弾に弱い。
 80ヤードで鴨を殺すには8番チョークが必要。これも舟銃。

 山野猟では12番が適当。
 12番のバレルは30インチがベスト。この長さがあれば、3グラムの黒色火薬は完全燃焼してくれる。

 無煙火薬なら28インチより短くてもよい。
 雷管は、村田管のような発火力の弱いものでは、火薬が遅燃となり、初速が800ft/sec.しか出ない。

 エレイの中管を使えば、無煙火薬で1100ft/秒を出す。
 無煙火薬は薬筒の中で燃え尽きる。
 黒色火薬は筒全体の中で燃えるので、バレルも熱くなる。

 大口径かつロングバレルで遠射するには、急燃でない方がよい。だから主力艦の主砲の装薬は、黒色火薬なのだ。

 地が湿っていると、犬の足音が遠くへ響かない。
 木に雉が上下に分かれて逃げたら、下の方から撃て。上の方は犬に気をとられて竦んでいるから。逆だと、下のは逃げ、二度と人間に隙を見せぬ。

 狐は背後から射たれると、斃れないときは後ろをふりむく。そのときに撃ち倒す。
 鹿は、突然音を出すと立ち止まる。そこを射つ。

 イノシシは、通り道が決まっている。
 死ぬと必ず、あおむけとなる。

▼人見絹江『戦ふまで』S4-11
 ウォーミングアップのことを「ジョッキング」と書いている。また本文では「ジョッグ」とも。
 大正11~12、テニス全盛の岡山でダブルスの選手だった。

 それ以前の女学校のスポーツはテニスと決まっていたのだ。だがそれから2、3年のうちに、陸上が入り、テニスを駆逐した。
 人見は走、走り巾、槍投げを選んだ。
 勉強は、できない方ではなかった。短歌も人より多く作った。
 通学は、1里余の歩きであった。

 女学校→二階堂塾→京都の女学校→二階堂塾の助教授→大阪毎日。
 大15にゴールデンブルクに行くまでは、長髪。向こうで、他の選手が断髪しているのを見て、切って帰国した。9月。

 この本が出るまでの10年に、女学生の身長が1寸延びた。
 走り幅跳びのシザーズを「シーサス」と言っていた。

 世界記録級の選手となった後でも、試合前は「丁度子供の時代に遠足に行く前夜の様な気持になる」。
 どんな試合でも予期しないことが起きるので、「咄嗟の工夫」できりぬけなければならない(p.32)。

 スポーツ選手はminimum 9h寝る。
 食事は、イワシ、メザシ、さくら干しを混ぜた普通の和食を八分目。

 世界女子スポーツ連盟のミリョー夫人の主張。女子の250m走はスプリントとして苦しいので廃止。ただし、8000、10000mはある。槍、砲丸はオリンピックでは右手と左手の両方で試技すること(円満な体格をつくるため)。
 この時点で、女子棒高跳びは米ソのみ。

 日本では、走り幅跳びは女子に悪いと言いながら「三段跳」を平気でやらせている。
 女子スポーツ連盟は、100、走高跳、槍という、女子のための三種競技も提案している。

 人見は自分のスプリントのピークは20~22才(現時点)だと感じている。

▼人見絹江『ゴールに入る』S6-2
 ああ南欧の空高く、やがて輝く日のみ旗……という小学生の歓送歌を受けて、プラハ大会へ。
 人見が張学良と会ったときの身長は、1.660mであった。

 「金の苦労を知らねば一人前にはなれん」
 すでに「美津濃運道具店」は存在。
 人見は父親似である。農業。

 プラハ行き。五度目のシベリア鉄道沿線は様変わりしており、極貧状態だと見えた。

▼紀平信『電波探知機』S20-10印刷、S20-11pub.
 戦時中、『図解科学』と『機械化』に掲載したものに加筆。

 大戦中、大阪帝大の岡部金治郎は、マグネトロンをつくりあげた。
 1943-7のハンブルグ5日間連続大空襲で、第一波は錫箔片、雲母片を撒き散らした。後者は探照灯の光を乱反射する。※というよりも、AAGの光学照準眼鏡中に小さな輝点として見える敵機が、雲母片の反射とそっくりなので、追随照準が不可能になるのである。

 第二波はAAを潰し、第三波以降は無差別爆撃。

 音速は、時速とすれば1200km。
 雲はエンジン音を反射する。だから聴音機の角度が狂ってしまう。
 むしろレーダーのバックアップとして死角をカバーさせる用法に利があり、米は依然としてスペリー式三喇叭管長音機を使用。

 径150cm探照灯は、8000mが限度。
 独は300cmを持っているが、1万m以上の白点は雲母片で容易に邪魔される。

 コレヒドールに置いてあった米のSCR271型は、半径300kmを警戒できる。360度回転。ただし150km以遠は、距離誤差が10%出る。それ以内は4%だが。

 イギリスがシンガポールのチャンギー監獄の給水塔に設置していたのは、CD/CHL で、塔頂はSL=120mだったから、飛行機を80km、大型艦なら32km、駆逐艦は18km先から探知できた。

 また英軍は、マレーで車載レーダーGL II も持っていて、30km先までの探知能力があった。
 比島には米軍のSCR268もあった。車載で、30km以内を測定できる。

 ドゥーリトル隊は、日本に防空警戒レーダーがあるものと仮定して、超低空でやってきた。この用心。

 高い土地や塔頂にレーダーを置いても、灯台の光と同じで、すぐに限界に達してしまう。
 よって1941からは、ショートサンダーランド飛行艇にレーダーを搭載し、空中レーダー哨戒をさせている。

 レーダー砲戦の初めは、英BBフッドが、独BBビスマルクにやられた。濃霧中で。
 1945頃、艦対艦レーダーは10mから20mの誤差があった。十分にモノになる範囲だった。自弾着は、水柱からの反射で、わかるのである。
 水平線上にBB檣が現れるのは30km先だ。

 空中レーダーから、海面の潜望鏡露頂を見張る場合、ペリが1.5m出ていれば、捕捉できる。水平距離は20kmまで。

 英米は錫箔には煤を塗って反射を抑え、夜間にバラ撒くという念の入れようだった。

▼三浦定之助『潜水の友』S10-8
 著者は、静岡県水産試験場技師。水産界の潜水の権威。

 わが国の兜式潜水の嚆矢は、安政4年に長崎港・飽の浦に、船渠を築造したとき。
 ついで慶応2年、横浜に英軍が「弾薬庫船」を泊めていたが、その船底をきれいにするため、英の『バロシア』号の潜水器を使用。増田万吉という人夫世話方が、装着第一号。
 この増田の経験に基づいて、赤羽の海軍工作局が潜水器をM5に創った。

 スキンダイブから上船すると、水圧で皮膚に浸みた海水が、拭いても拭いても滲み出る。
 真夏でも1h水中にいれば、悪寒を覚える。
 ポンプ送気は8~9人でする。

 20kgの錘りをつけていても、潮がちょっと速いと、流されてしまう。
 流速1m/秒あると、もう20m以下の作業はできぬ。

 木柄ハンマーは、海泥中に落としても、柄が上向きのため、見つけやすい。
 各種潜水器は、1890年代に一斉にできた。

 潜水病のおそれのない潜水器として西村という人が十数年来苦心して造りあげた。すでに三、四回改造。いま、ぜんぜん新しい改良型にも着手している。著者も改造意見を聞かれた。その旧型のスペックは、長さ10m、巾と高さは2m、重さ11トン、海中4哩、空気供給なしに4h~4.5h航続、乗込員5人。

 「西村式低圧潜函」=豆潜航艇である。
 堪圧600ポンド。
 潜水可能海深250m。

 胴の左右に0.5m×0.5mくらいの昇降翼があって、内部から動かせる。
 キールは丈夫で、岩礁上を這いずっても問題ない。

 舟首に作業室あり。出し入れ自由の作業手(アーム)が突き出ていて、その下に付き出た網袋に、採集物を入れる。

 空気喞筒は1650に独人ゲーリクが考えた。
 1905に英海軍が潜水病の研究を発表。
 マスク式は1900頃から日本で発達し、最近では、ナイル河口に20年間沈んでいた八阪丸から金塊をサルベージしている。

 潮が50cm/秒あると潜水器は流されるが、マスク式なら90cm/秒までOK。
 明治以前の海人にはもちろんゴーグルなどない。

 ムツ、キンメダイ、タラは深海から釣り上げれば即死するが、フグと小鮫は生きている。
 鮫には浮き袋がないのだ。他の魚は一定まで引き上げられると浮き袋が破裂して無抵抗となる。
 釣った鯛が苦しそうにしていたら、針で浮きブクロをつきやぶってやると、とたんに復活する。

 ブリはもともと深海魚だったらしく、エアタンクを持たない。
 アワビと真珠貝は、70mにあり。
 40mは、テングサ(白浜特産)、ホタテ。
 それより浅いのは、タイラギ、ワカメ。

 よって潜水病で死ぬのは、まずアワビとり。
 海の中の松茸。だから競争乱獲されて浅いところから資源枯渇し、ますます深く潜らねばならず。

 深いところから上るあぶくは、細かい。
 アワビのついていた跡は、翌年まで消えない。

 ホタテは北の海。真珠は南海。
 潜水夫のみは、米国でも豪州でも入国を阻止されることなし。

 お守りは、水天宮。
 深いほど、ポンプ押しも大回転せねばならず、1人が5分で交替し、10~20人がかりということも。

 ヘルメット式は、兜をぬぐまで一瞬もポンプを停止できない。マスク式は、ミニタンクがあるから、はじめに圧を上げて、やすみやすみもOK。
 機械コンプレッサーの油は、送気される臭いを考え、外国ではオリーブ油。日本だと白絞[しらしぼり]油。
 船首を風上に向けておくためにトモに張る帆を「風帆[かぜほ]」という。
 潜水者は、小便がめんどうなので、朝昼は水を抜く。
 十数年も前から、電話付きの潜水器がある。

▼安藤玉治『海底に戦ふ』S19-9
 ※南部式の宣伝のような本。
 下北半島にもフカは多い。

 サルベージのことを「解撤潜水」と言っている。
 上船後しばらく、かぶとは被ったままで、潜水病になっていないか、様子を見る。危なそうにときはすぐにまた飛び込めるから。
 両目が完全に飛び出しても、もとの位置に戻せば、治る。

 ナヒモフは、優秀艦だったのに、戦闘しないで逃げ、対馬沖に自沈したのが、怪しいとみられた。深さ57尋。
 S12に「在支第三国」といえば、米英仏のこと。
 S10に海深120尺に沈んだ『ちた丸』2276トンも引き揚げた。

 S16-5、タイの砲艦『トニブリ』号2200トンをコーチャン沖で浮揚させた。
 セレターの5万トン浮きドックは、1928建造、翌年回航、自重2万トン、排水12万トン。英国は自沈させたのだが、日本が引き上げた。

▼辻圭吉『米国鉄道歴史物語』S61
 1812年の英国機関車をもとに、1825にジョン・スティヴンが米国初の機関車を自作してデモンストレーション。
 同年、英国ではロコモーション号が運行開始。
 米の第一号は、英製機関車を輸入して、石炭輸送用鉄道馬車を曳かせた。1829-8。

 米1830の機関車技術ではまだボイラー爆発の危険があったので、圧縮綿花を防壁代わりに積み上げて客車を防護した。

 1825にイリー運河開通。
 五大湖とNYCが水路で直結された。
 ただし年の三分の一は氷結のため使えない。

 カウキャッチャーは1833からとりつけられた。
 1830年代にレールがなかった州。アーカンソー、ミズリー、テネシー、ヴァーモント。

 中西部では同時に運河開削がさかんに進められたが、延長距離ではレールがまさる。
 ホテル、有料道路、渡橋、渡船、運河、運漕業者たちは、かならず新しい鉄道に反対した。
 しかし1830年代は鉄道熱狂歓迎時代で、起債は飛ぶように売れた。

 I型レールは米人ロバート・スティヴンが発明。そりかえり事故がなくなる。
 ねぎぼうず形煙突(ダイヤモンドスタック)は、火の粉を抑制する。
 途中駅がないので、米では機関車は大型化した。

 1832、米でボギー台車が発明され、曲線の通過が高速で可能に。
 1835、機関手室(キャブ)が冬期用につくられる。

 1850前後の鉄道工夫たちはアイルランド人とドイツ人。
 技師は工兵隊が出張することも。1855頃特に。
 1843までレールは英から輸入。

 1855には世界のレールの半分が米国にあった。
 1850年代に鉄道が東部と内陸中西部を強くむすびつけ、南北戦争の形勢にも影響。北部23州は鉄道によって経済共同体になっていた。

 1856鉄道vs.渡船諸団体の争訟で、鉄道側を勝たせた(=ミシシッピ初の鉄橋を実現)弁護士が、リンカンだった。

 プルマン寝台車も米国の発明。1859。のち世界に普及。
 南北戦争以前では、1853~56のクリミアと1853のサルジニア王イタリア統一戦争で、鉄道が使われた(物資と傷病兵)ことがあるのみ。

 1862-1、リンカンは北部、南部の全鉄道の管理運行をダニエル・マッカランに一任。彼は戦争中、完全にその期待に応えた。
 ※臨時に一人に権限を集中することは、衆目が一身に集まることでもあるから、まずいことにはならない。

 欧州からの介入を避けるため、北部は穀物を輸出したが、その輸送も鉄道あったればこそ。
 1963、西部では楽に生きようとする者が多く、労務者のなり手がなかったので、NYのアイルランド人や兵隊くずれ、解放黒人に頼らず、シナ人を試用。極寒でも驚くほど能率がよいので、大量に導入。1866には6000人。シェラネバダ超えを完成。

 ウェスティングハウスは、鉄道用空気ブレーキと信号機の発明で1886に会社を起こす。
 1862に、薪→石炭に。これで火の粉も減る。

 WWIでは、戦時鉄道評議会(理事5名)に管理させようとしたが、全く無能で、東部の港と駅は手に負えない滞貨の山となったので、政府が全鉄道を接収。平和条約批准後21ヶ月以内に返還し補償もするという条件で。
 ウィルソンが任命した、財務の専門家ウィリアム・マクドゥー鉄道総司令が、すべてをやりとげた。

 WWIIではゴムと石油不足で鉄道が陸海軍需品の90%を輸送。軍隊の97%を輸送。
 特に西海岸~東海岸への石油輸送に大活躍。

 1908、フォードT投入。
 1916、連邦が高速道路助成法を通す。州を支援。
 1920、バス登場。
 1929、自動車が2300万台普及。ほぼ全家庭に1台。
 1929、グレイハウンドというバス会社合同のシステムができる。

 1930年代、不景気にもかかわらず、トラックだけは増え続け、全貨物の10%を1939に扱っていた。
 1865、米で初の鋳鉄製のパイプライン。東西パイプラインは1947に貫通。

 セントローレンスの掘深拡幅は1959で、それまでは、航洋船は入れなかった。



意図的拡散テロ・マスク――の登場は近い。

 KIM GAMEL 記者による2020-9-4記事「Face masks with valves are now off limits for soldiers in South Korea」。
    CDCの警告にもとづき、米陸軍の第8軍は、在韓米軍将兵が、一方通行の通気弁から呼気を排出するタイプのバルブがついているマスクを着装することを、禁じた。

 この排気孔からは、着装者のウイルス混じりの呼気が、周囲の他者に向けてそのまま放流され得る構造であるため。
 ※つまり着装者の身を守ってくれるが、周辺者へは配慮が無い。

 韓国の食品薬品安全省大臣も、こうした排気バルブがついたマスクは推奨できないと表明している。

 在韓米軍は先月から、基地外公共空間での基地関係者のマスク着用を義務付けている。
 《ネック・ゲイター》とかバンダナ/スカーフでもよい。ただしバルブ付きマスクだけは駄目だ。

 問題のマスクは《Vogmask》というらしい。1個30ドルで基地内売店で売られていた。
 吸気は、多層フィルター構造の布面を透過してくる構造だが、呼気は、排気バルブから楽に抜け出して行く仕組みになっている。このバルブは、本人が息を吸い込むときには自動的に閉じる。

 バルブ部分にはフィルターがないので、着装者の呼気に含まれているウィルスはノーチェックで出て行ける。

 第8軍の禁令は、将兵だけでなく、その家族、軍と契約している文民、基地出入り業者にも、及ぼされる。
 VOGマスクの着装者が、基地ゲートを入ることは、もうできない。

 キャンプ・ハンフリーの基地売店いわく。通常の返品手続きが適用されます。購入時のパッケージに入ったままの、未使用のVOGマスクは、返品・返金可能です。

 韓国は大気が汚染されているので、こんどのパンデミックより前から、人々は汚染避けのマスクを着装することが珍しくはなかった。
 しかし在韓米軍は、制服の米軍将兵がマスクを着用することを、今次パンデミック前はずっと禁じていたのである。

 バルブ付きの防塵マスクは、建設作業員たちの間では前から人気だった。呼吸が楽だから。
 しかし、伝染予防の見地からは、このタイプのマスクは推奨し得ない。

 この点では、「フェイス・シールド」も、それ単体ではあまり意味がない。これは『Physics of Fluids(流体の医学)』という学術誌で実験した記事が、図版付きでわかりやすい。

 ※これからの生物兵器テロリストは、静かなモーターで強制排気され続けるマイクロ換気ファンのついたマスクを着装して、駅や地下街を歩き回るだけで、その目的を達成できるようになるだろう。その換気ファンの正規品にはフィルターがあることになっているのだが、特殊改造が施されていれば、外目には、わかりようがない。それは、内部で炭疽菌の袋に直結している、拡散装置かもしれないのだ。つまり、最も社会に気配りしているような外見の人物が、じつは、最も危険な、《歩く生物兵器》たり得るわけだ。


旧資料備忘摘録 2020-9-4 Up

▼銅金義一(大佐)『銃器の科学』S19-12(3版3000部)、初版S18-7
  ※所蔵は北海道教育大学の函館図書館。

 拳銃は、天正13年、伊国にて、青銅製のもの、大村、有馬、大友の使節に、マンドウア〔マントヴァ?〕城主より贈られる。

 6連発ピストルは、嘉永6年のぺルリ来港で初めてもたらされた。
 米のベネットメルシーLMG。※日本の96式や11年式に近いレイアウトだ。1909の発明という。

 小銃の仕事を馬力で表せば、2900馬力。
 馬力あたりの重量を算出すれば、0.0014kg/馬力 である。こんな効率の高いエンジンはない。

 民国四年式 という よくわからぬLMG。バットストックは11年式。バイポッドはM60のようである。側方給弾らしい。

▼福村省三『弾道ノ数学』S19-5(三版)、初版はS6
 著者は兵学校の教官。
 数学の専門家は「理学博士」。

 存速 remaining velocity
 弾道上の任意の点におけるタマのスピードのこと。記号は v である。

 計算によれば、両艦の距離が小のとき、追撃艦の方が、発射した砲弾の落速が大となって、有利。
 距離大のときは、反対に、射撃しつつ退却する艦の方が、砲弾の落速が大となり、有利になる。

 弾道学では、半数必中界は「楕円」である。
 このテキストでは「半数必中楕円」と書いてある(p.335)。

 1918にパリに189発落下したベルタ砲の弾着データから計算すると、半数必中楕円は、長径4540m、短径2600mだった。

▼雑誌『ニコニコ』
 第一号 M44-2-11。
 第13号 M45-2。記者が、汚穢屋になる。それも銀座で。舟で木挽橋から持ち去るのだが、陸上は大八車に桶を12個ばかり積んで行く。

 第28号。
 本間さまには及びもないが……は明治の前。もともと姫路の油屋手代で、大坂で巨富を成した者。
 家憲は絶対秘密だが、こんな感じらしい。あらゆる業は一門内で分担する。投機しない。蓄妾しない。富豪と縁組しない。当主は相続前後に全国を見て回れ。
 本間家は、写真も外部には出さない。

 第32号。
 海軍省は、建物は立派だが、入ろうとする者に対して威圧的である。陸軍省は、古い木造の粗末なものだが、受付は親切丁寧。大臣が、新聞記者にもすぐ会ってくれる。もちろん、局長や次官も。

 第53号。
 井上剣花坊「維新史の裏面(下)」。幕末のテロリストが家を焼くには「焼玉」あり。桐灰を細末に砕き、それに火薬を混ぜて紙に包み、口火をつけて用いる。

▼牧野輝智『現代発明家伝』M44-9
 ※『発明界之四十七士 発明及発明家』という出版物も、まったく同じ牧野の『発明』誌の連載をまとめてある。

 村田経芳。天保3-6-10生まれ。戊辰では参謀心得。
 専門知識の少ない下級技術者を相手に、みずから槌を執って、苦心惨憺。ついに十三年式銃を案出した。

 M15に13年式を携え、遍く欧州諸国を巡視した。

 日清戦争においてわが陸兵のほとんど全部に使用せられ、連戦連捷の栄誉を荷ふに至った軍銃は実にこの十三年式および十八年式村田銃である。尤も日清戦争以前において翁はさらに十連発の軍銃を完成し、二十三年式村田銃の名を以てその製作に着手していたけれども、日清戦争のときまでは支給が行きわたらず、二十三年式は僅に台湾占領の節、使用せられただけに過ぎなかった。故に日清戦争は十三年式銃および十八年式銃の活劇舞台とも言ふべきである(携行数十一万梃)。その後、三十三年、北清事変の頃には、二十三年式銃が各師団に行き渡り、その特長は広島兵および善通寺兵により充分発揮せられた。

 もし翁が出ずして我が兵器を一新しなかったならば有坂銃の如き精鋭なる銃器が突然に起るはずはない。要するに翁は我が兵器界の鼻祖である。大恩人である。

 村田刀を数本試作したところで、ある日、部下の愛剣家を招き、競剣会を催した。
 別役少将、富岡少将ら十数名がやってきて、まず豚の首、次に銅の延べ金、最後に鉄線を切った。
 村田刀は少し曲がったが鉄線を断ち切り、ひとり応じた富岡の兼元は延べ銅にきりつけボロボロに。

 翁、齢ようやく加わり、特に昨今は著しく健康を害している。※この本はM44-9-7に納本されている。序文はM44-7、著者前文はM44-8。博文館の類似本はM42-5、雑誌『発明』はM39創刊。

 村田は、肺炎で赤十字病院に入院中に「回転家」を案出した。冬と夏とで、向きを変えられる。

 以下、下瀬火薬。下瀬は安政6-12-16生まれ。広島市鉄砲町に、長男として。
 藩学問所で英語を学ぶが、蒲柳の質。そのご、広島にできた官立の英語学校に入り、M10に海軍兵学校(東京)をめざしたが、強度の近視などあって×。
 M11、工部大学校に3番で入学。ここは私費ゆえ、たいへん苦労した。

 M17-5に卒業。首席。同年、印刷局に。
 M20-5に海軍省技手として転出。
 M26に下瀬火薬をつくった。
 M26-6に、海軍技師に昇進。同時に、海軍造兵廠の主幹。

 M30暮に英米独へ出張。三年間。
 帰朝すると、その年に工学博士。
 と同時に海軍設立の下瀬火薬研究所長に。

 当時、英国にはリダイト、米にはゼラチン、仏にはメリニットがあった。
 ※下瀬火薬の成分について一切の言及がない。秘密扱いと心得たようだ。

 M40に勲三等旭日中綬章、年金360円を下賜される。
 その後もしばらく、海軍技師として下瀬火薬製造所長を務めていたが、健康を害して休職。
 白山御殿町に、静かに身心を養うている。

 以下、欄木松次郎。わが国のゼンマイ製造業の始祖。
 いまより十数年前まで、時計のぜんまいはすべて輸入だった。
 今は東洋へ輸出している。

 算法を独習。
 22歳で深川のブリキ商に奉公。
 独立し、婦人髪用「タボ止め」を作っていたときに、鋼鉄の焼き直しが分った。
 M26にゼンマイ製造に乗り出す。小石川区西丸町。

 はじめはゼンマイ廃物の「鶴掛け鋸」を売ってしのぐ。
 ついに服部金太郎への納入に成功。
 ランギは、「筆ペン」も発明した。
 富を欲するも富の奴隷となることなし。

▼小泉親治(海軍少佐)『軍刀』水交社 S13pub.
 韓鍛冶とは刀身ではなく、太刀、刀の拵えを細工せしむるために呼んだ技術者で、それは「黄金鍛治」とか「白金(silver)鍛治」という名を見れば明らか。
 つまり「環頭太刀」をつくらせた。
 日本のは「円頭大刀」。
 鐵の古字は銕である。シナ人は鉄を輸入した。

 始皇の「金人」は銅のこと。
 平安~吉野時代は馬上戦。ゆえに太刀は2尺4寸~2尺8寸もあった。
 室町末期から徒歩戦になり、そんなに長いと地面に切り込むから、すりあげなかご としてしまった。

 2尺以上は刀、または太刀という。
 1~2尺を 脇差 という。
 1尺以下を、短刀という。

 包丁鉄とは、玉鋼の製造でできたズク銑を原料として、これに鉧[けら]を交ぜて、脱炭したもの。ほとんど純鉄。

 S8に、(財)日本刀鍛錬会が、出雲に玉鋼の自給工場をつくった。よってS13時点で古ながらの刀の原料はここからしか供給されていない。

 村正と正宗は時代が違うから、講釈で師弟関係とするのは大ウソ。

 上代古墳からは、二、三種の砥石が出ているが、江戸時代には九種を使い分けるようになった。
 細名倉 と 内曇 が著名。
 今では、ササ口砥→大村砥→伊予砥→改正砥→名倉砥内曇→鳴瀧→さらに細かいことをいろいろと。

 明治海軍も、サーベルか日本刀かで迷った。
 迷った試作の拵えが、遊就館に各種ある。
 戎装するも、武士気概を失はざれば可なり。

 M33の北清事変に陸戦隊員として参戦した将校中には、洋剣式拵えの不可を極言する人もあった。
 が、日露戦争と大3~大9役に、海軍の白兵戦はなく、沙汰は止んでいた。

 S9-2に陸軍の刀、改正。
 同時に、天皇御服制が改まり、陸軍式御服装中、通常礼装の御佩刀は陸軍式の太刀と改まり、海軍式御礼装中の長劒は廃せられ、大元帥佩刀と改まった(皇室令第三号)。
 つまり、天皇刀は大元帥刀と陸軍式刀のふたつだけとなって、様式剣はなくなった。

 これをうけて陸戦隊も、海軍砲術学校などが中心となって働き、陸戦隊規程で、長剣の柄 および鐔を古式に改めた。

 S10初夏に、海軍砲術学校では、海軍刀の長剣廃止のことがまとまり、予備役の筆者が、校長の工藤久八中佐から委嘱された。
 筆者は 太刀の黄金時代たる 鎌倉中~室町前 の様式を採り、黒漆の柄巻き太刀として製図した。
 それで、鐔の外の金物は山銅を金色に、またどこにか軍艦旗を象り、手貫緒をつけよといわれたので、大切羽に旭光を顕した。
 その案で一口を試作せしめ、S10-11に砲術学校に引き渡す。→海相に進達。
 S12-7の支那事変勃発により、省議で原案通りまとまり、S12-10に勅令制定。

 洋剣の柄は中央がふくらんでいる。
 日本刀は なかほどが やや窄まっている。
 護拳という鉉[つる]も邪魔で、切り合うときは折れ易く、是れあるが由に手を傷つけたという話は各戦役事変毎に聞き及ぶ。
 また、片手だと先端が左右に流れ易く、充分に切り込むことができぬ。
 つまり突くに徹した構造なのに、日本人はどうしても斬りたがるわけである。

 海軍の長剣は鞘が木だが、陸軍のは鉄鞘で、内に折板[へぎ]のように薄い板が貼ってある。
 鯉口は発条で留めるように緩くしてあるから、歩行中に刃は皆、まくれてしまう。

 筆者より前の世代の兵学校生徒は、舶刀(カットラス)法を教わったが、どうしても左手を添えたくなってダメだった(腰に当てていなければならない)。
 ※これは動揺する船上では左手は索具などを掴んでいる必要があるため。じっさいにアボルダージュをしないと舶刀の意匠の意義は悟れないのである。

 海軍刀の鞘は革か鮫皮を寄せることに定めてある。
 石突は太刀。鐺[こじり]は、打ち刀や腰刀。

 海軍刀は直刀は不許可である。
 海軍は軍刀といい、陸軍は刀という(?)。
 打物 とは、鍛工金属の総称で、鋳物の対語。

 刀身は1尺7寸以上たるべし。昭和刀のような洋鋼打延べは×、と、うるさい。
 柄は最短、5寸5分とす。

 古来、太刀の柄沙皮のみは南洋の【魚蕈】[えい]の背皮を輸入していた。強靭なること、鮫皮の比にあらず。
 鞘の長さは1尺8寸以上とす。
 革は牛または馬または鮫。

 昔のよろい職人は、それを買った人が矢玉で死ぬと、さすがにショックであり、改善は急速に進んだ。これが平時ではそうはいかぬ。

 草履ばきで直立不動となって刀を右手に提げ、鋒が地につくものは長すぎる。ベターなのは、さらに1~2寸、短くすりあげる。
 重さは、己が力量に対しては軽しと思う ほどあいを妙とする。
 現在、騎兵科将校の刀が歩兵科より長いのも、馬上戦用ゆえ。

 昭和刀は、鋼に二種類ある。炭素鋼と、不銹鋼である。
 洋鋼を適度な長さに切って機械打ちするものと、刀形の型を用い圧搾するものとの2種あり。

 いっぱんに炭素含有量は、太刀、刀で4~7/1000。
 上等の鋸で、8~9/1000。
 鉋で、8~12/1000。
 剃刀で、11~13/1000。
 斧で、7~11/1000。

 歌仙拵え=36人斬り倒した。
 刀を人に渡すときは、柄を左にし、両手にて鞘を持ち、刀方を手前にする。
 筆者は、海軍の准士官以上の短剣も腰刀に改めよ と提議中。

▼『戦記名著集 4』S4-9
 軍事談片。新聞記者による聞き書き集成。M37-2-29から。
 南北戦争後、機械水雷除去作業で、幾多の人命と船舶が失われている(p.369)。

 旅順閉塞作戦。『米山丸』に「機関砲」をのせていた。「小さき鉄砲を四つ並べて」「其上に箱を載せて箱の中には弾丸が沢山入って居る、さうして手が付いて居って、此手を前後すると弾丸が沢山に撃出せる、併し是は今さら効力が無いと云ふので余り用ひて居りませぬが」(pp.387~)。これを閉塞船に搭載し、射手として下士官1名をつけた。6月4日の談話。
 ※この詳しい解説は『たんたんたたた』でしてある。

 ロシアから旅順戦線に撃ち込まれた榴霰弾の模写。スチール製であった(p.401)。

 以下、小笠原長生の「旅順戦話」。
 3月8日、午前8時。老鉄山の右の方に、巡洋艦×4、戦艦×3が進み、間接射撃。

 ※3月7日は露暦の2-25。3月8日は露暦の2-26。3月11日は露暦の2-27。3月15日は露暦の3-2 となっており、つじつまが合わぬ。

 3月24日、第二回の間接射撃。朝7時。
 6隻が老鉄山の陰から東港に対し。午後2時まで。

▼田中榮次(陸軍少尉)『ノモンハン戦記 鬪魂』S16-2
 序文が佐々木信綱。著者が竹柏会の投稿会員なので。

 道とは名のみ。先導車が「携帯羅針」でコースを決めていた。
 輸送中は、空襲を避けるために車間を大きくとる。

 先頭車より「停止」の逓伝。
 各車は、やや左に避ける。乗員整列。
 白木箱をのせたトラック縦隊を挙手目迎目送。

 兵は水筒の他、ビール瓶に沸かし湯を入れ、腰に縛り付けて前線へ。
 すれ違う傷兵「頼むぞ」「仇を討ってくれ」。
 展望哨、監視哨の兵。
 軍隊内では、同郷人とばったり会っても、「貴様」「俺」がぴったりくる。

 ボイル湖とホロン湖をあわせて「ホロンバイル」という。
 下士官および兵の認識票は、所属部隊号と番号。将校のは姓名。兵器室で刻印する。
 ナイフで削って書いてもいい。真鍮製。

 ハンマーと小十能[こじゅうのう]。
 前へ前へ出るにしたがって他人から示される厚意が身に沁みる。
 軍刀は、背に、針金で縛りつけた。

 低空攻撃を受けると、兵の目だけが動いて壕内からそれを追う。
 イ-16と三度、銃撃を復行した。
 「一装用」……新品、大事の品の意。

 田舎ほど、「兵隊検査が済んだら嫁を」と親が早婚させる。
 前進隊形より戦闘隊形へ。

 ソ連兵部隊は、自動車で逃げて、火網に誘致する。敵の常套戦法。
 「○○分隊軽機故障」
 ※ノモンハン戦中のLMG故障は、あきらかに多かったようだと確かめられる。

 敵は徹底してこっちの指揮官を狙い撃ちしてくる。
 日本軍は、敵機の来襲を、後方から、ラッパの長音で知らせた。
 「どうしても我々日本人には守勢といふのが耐へ切れなく苦しい」

 敵飛行機が優勢なので、壕は個人壕のみとした。
 「小十字嘴[し]」や円匙も、肉攻には必要(p.196)。

 「跳梁」とは……TKに飛び乗って天蓋を壊し、手榴弾を突っ込んだりガソリンを注ぎ込むこと。敵は拳銃で反撃してくる。

 敵は極東軍のほとんどを消耗してしまい、このごろは、西部国境から将兵を回して来ているという。「装甲も非常に厚く小山の如き重戦車であった」。ちょうど機関部のあたりに金網をはつてやつて来た。今までガソリンで動かしていたのを重油に改めたとも云ふ(p.203)。

 砂地では、対戦車地雷の不発が多い。

 満州には九州出身兵が多い。よって東京弁は目立つ。
 小林恒は、ノモンハンで隻客を失い、東京要塞司令となった。

▼菊地清『ソ連邦の自動車』南満洲鉄道(株)調査部 S17-4
 ノモンハンでは、ウランバトルから1000km、チタから500~600kmの間、兵員と物資すべてを車で運んだ。

 イタリアが馬→自動車の転換を1935に図ったのは、毒ガス対策を重視した。
 1924、フィアットの1.5トン・トラックをモデルに、アモ工場(今のスターリン工場)で10両の自動車を造ったのが、黎明期。

 トラック化の比率は、独22%、仏24%、英21%、米13%、蘇83%(1939年度)。
 ※もちろんプロパガンダ。

 タイヤ不足は深刻。
 合成ゴムあるも品質粗悪。
 欧米製の三分の一の時間しか耐久しない。

 「ジス」は、「スターリン記念工場」の頭文字“З[ゼー]И[イー]С[エス]”。

 「ガズ」は、「ゴリキー自動車工場」の頭文字“Г[ゲー]А[アー]З[ゼー]”。正確には、その上に「モロトフ記念」がついている。フォードが建ててやった。

 1929年、トラック1546台つくった。
 1932年、トラック25052台。
 1934年、トラック132917台。
 1938年、トラック18万4300台。

 全種自動車保有量(2輪やトラクター等は含まない)。
 1925年、12074台。
 1930年、24910台。
 1935年、179500台。
 1939年、76万台。

 ガズAAトラックは40馬力。ハンドブレーキは後2輪に利く。フットブレーキは4輪に利く。
 他のトラックも同じ。ハンドは後輪のみ。フットは全輪に。
 6輪のジス6の場合、フットは6輪にかかり、ハンドは「センター」にかかる。

 ヤロスラーヴリ工場の「ヤー5」「ヤグー3」「ヤグー4」は、いずれも非舗装道で3.5トンを運べるトラックだが、フットもハンドも後輪にしか、かからない。

 圧縮比と回転数が増せば、排気量が増えなくとも馬力は上がる。
 石油の軍事消費量。陸軍では、米が年間120万バレル。ソ連、イタリア、英、仏は、年間30万バレル。
 海軍では、米英仏伊の次がソ連。
 しかしソ連の陸軍と海軍の消費量比は、1:5以上。海軍は、石油食い なのだ。

 WWI末、連合軍は西部戦線に20万両の車両を集めた。うち9万2000台はトラック。
 ドイツは4万の車両をもっていたが、その半分を西部戦線に置いた。

 戦車は、連合軍が3500両、ドイツは45両のみだった。休戦時点で。

 飛行機はドイツは当初、252機の戦闘機を有した。戦中に、4万7600機を作った。休戦時点では、5000機のみ。
 仏は、132機からスタートし、最後は1万2000機。

 ドイツは後方では石炭を焚く機関車を徹底活用して凌いだ。

 1936年、ソ連国内で、石油を配送していたのは、鉄道が42%、海送が20%、河川が11%、パイプラインが11%である。趨勢として、河川のバージ輸送をパイプに置き換えつつある。

 農業トラクターの数。1924年に2.56(千台)。1930年に72.1。1935年に360.3。1938年に483.5。
 米は1938年に、1528.0(千台)のトラクターを持っている。

 ソ連は質よりも量を重視し、車種やパーツを極少化させようとしている。そうすれば運転の習熟が楽になる。寒冷地では、気化されないガスがシリンダーに送り込まれてしまう。すると潤滑油が洗い流されてしまって、磨耗が加速する。

▼Engelbecht & Hanighen 『Merchants of Death』1934、ロンドン
 1855~1870の間のイギリスは、アメリカから多数の工作機械を買って、小銃と拳銃を造った。

 ニューヨークの古兵器商 フランシス Bannerman & Sons 社は1865設立で、日露戦争中、陸軍省に Army Rifles ×10万梃 他のサンプルを personally submitted したという。

 1932-2-7にチェコの Skoda が日本向けに1700ケースの弾薬を、また8日にはフランスが100万フラン相当の自動火器を、日本向けに船積みした。

 1933-3-11にUPが伝えたところでは、ホチキス社は、日本からのMGの大量注文を抱えており、パリ駐在の日本武官はホ社のテストレンジに Parmanent Room を持っていると。

 1933-1-17~2-23の間に、米ニューポートニューズ港からTNT原料の Nitrate of soda が5000トン、日本向けに出荷されたと。

▼米国現大統領ルーズベルト著、村上俊蔵・抄訳『鉄騎隊――米国義勇軍実戦記』M40-6
 ※ラフ・ライダーズである。

 応募ものすごく、東部エリート大学から来た若者が、将校でなくともよいというのに感心。
 インディアン多数が、混じっていた。

 アパッチ族がおそれられたのは、まったく姿が見えないから。そして白人を殺すと1夜で50マイル逃げてしまう。
 このときTRの馬は、1頭50ドルでもとめた。
 部下には、剣など使える者ひとりもおらず。よって剣は持たせずに、連発ピストルと小銃を持たせることにした。
 ※ただし挿絵では皆サーベルをふりまわしているように画いている。

 このころの老人は皆、Civil Warの経験者である。
 鉄道と輸送船に政府の統制は皆無。TRみずからが才覚せねばならなかった。

 ダイキリは地名。
 馬の上陸に困ったらどうするか?
 答え。ただ海に投げ込めば、勝手に岸まで泳ぎ着く。
 ただし 溺れる馬もある。

 「遥かにヤング蒋軍のホッチキッス砲の音聞え……」「敵のモーゼル銃の弾丸は、……」(p.58)。

 キューバでは大蟹が死者を食べてしまう。
 「カットリング砲」も味方にあり(p.86)。
 「穿壕工事」は野戦の常識になっている(p.95)。
 サンチヤゴで見物していた外人ら、いわく。米国兵はトルコ兵より勇敢だが、組織と行政はギリシャ軍にも劣る、と。TR、同意す。

 新兵が、乗馬と射撃を二つともに習得するには、2年はかかる(p.131)。

▼西沢勇志智『日本火術考』S2 聚芳閣pub.
 東京帝大の火薬学教室が所蔵する、世に稀な古写本の数々。

 フロントサイトは「先目当」。リアサイトは「前目当」という。
 アジャスタブルなリアサイトは「矢倉」という。
 凱旋門形の枠の中で横棒の上下調節ができるタイプだと、「猿矢倉」と称した。

 「煙リカヘシ」「カニノ目」は火縄銃について既に用いられていた。

 導火薬 は、花火用語だった。
 ピンのことは「横鋲」。
 用心金、引金 も昔からの用語である。

 払い下げのことを幕末には「御払」といった。
 修理は「修復」。

 ケウエール筒。
 幕末の幕府の武器庫に、和筒製ミニー銃×157(大手前 伝習第一大隊 予備銃)、ベルギー製 鳥羽ミニー銃×1200、鳥羽短ミニー銃×1400(うち800梃箱入りのまま)(小川町 伝習第二大隊 同断)。
 鳥羽ミニー銃×100、舶来磨ミニー銃×221、舶来ゲヱール銃×460(うち156は損耗品)。60梃は残兵へ渡し、御役立分は208梃。
 錆色付御銃×144(稽古筒)。
 ステイン直し銃×20。
 和製ゲヱール、英鳥羽ミニー銃、……などなど、ミニエー銃が過半であることが分る。

 石川確太郎(訳官)は、数冊の洋書をみて、機械を8個選び、英人の「応篤爾斯」に計って、鹿児島火薬製造所をつくった。
 他に仏人「魯間」、蘭商社長「篤双武士」、も関与。
 嘉永甲年に計画が始まり、M2-7に半成し、M5-2に全成。

 鳥羽=鳥渡=アントワープ?

 慶応3年3月、小栗上野介と武田斐三郎(成章)が、西洋式火薬製造所を創立せんとして、王子滝野川に撰定す。

▼防研史料 極秘『挺進砲兵破壊隊ニ関スル説明』S18-9 雪部隊本部
  この資料は、歩兵科は中隊まで配布。その他は大隊まで配布する。

 歩兵特殊潜入(斥候)群を以って、敵砲兵を撃滅破摧せんとするにあり。
 ……他に如何なる有利なる目標現出するも介意することなく一意衷心敵火砲撲滅破壊に邁進するを要す。

 理想は、鹵獲使用、押収にある。
 ※ガダルカナル以後の調製なのに、やはり対ソ戦を念頭している。

 破壊の方法。
 一。榴弾を装填し、砲腔に土塊を投げ込み、長い綱で発射、粉砕。
 二。小銃、拳銃で揺架を打ち貫き、駐退液を流出せしむ。
 三。手榴弾2~3個を腔内で爆発させる。
 四。黄色薬 10~15kgを薬室に挿入し、緩燃導火薬で点火。

▼陸軍航空本部監修、航空五條[ごすじ]会ed.『空征かば(ビルマ航空戦記)』S17-11
 ビルマで最も手強いのは、重慶マークのP-40の米人パイロット。
 B-17には非常ベルがあり、それが鳴るとパラ降下で脱出す。

 重爆の後方銃手は、互いに足を蹴飛ばしあいながら合図する。
 MGは、ガタガタガタ\/と音を立て、大掃除の畳叩きを連想させる。

 MG故障、弾倉を足で蹴って外す。
 切れた前の薬莢を「万能鋏」で排除。※89式旋回機関銃か。
 撃つのは、片手でもできる。

▼磯部祐二(朝日特派員)『倫敦防空戦』S16-4
 チャーチルの娘と結婚したのは、喜劇役者のヴィック・オリヴァー。
 独機はスモークで空に輪を描き、爆撃目標を示す。※写真あり。

 開戦と同時に子供と妊婦をたった2日で全交通手段を動員して田舎へ疎開させた(p.51)。
 フォニーウォーゆえ、その後、勝手に都市に戻る子供が多かったが。
 のちには、カナダや豪州へも子供を疎開させた。

 一般外国人は、地図はおろか旅行ガイドの所持も禁ぜられた。
 スパイ容疑者500人逮捕(6月中)。
 敵性外人2万人抑留(7月7日まで)。

 200ある映画館(一部はニュース映画専用)にはすべて専用防空壕が設けられている。

 ホワイトホールの官庁は、各ビルの屋上見張りが、第二のサイレンを鳴らすことで、初めて全員避難。
 地下鉄ホームは、近郊から押しかける連夜の人でパンクしたので、男は入れぬことになった。
 小駅は、人を入れず、警報でゲート封鎖。

 地下鉄には三段ベッドの備えが必要。
 地下鉄では、ヂフテリアの子供間感染に要注意。
 犬には犬専門の防空室。
 壕はもちろん戦間期から準備してあった。

 山の水平壕の場合、入り口の上部斜面は、コンクリートで固めること。

 WWIで独は英を103回空襲した。うち52回はプレーン、51回はツェッペリン。総計270トン、8776発の爆弾を落とした。ほとんどが飛行船から。死者1414人。倫敦のみでは、441名死。1発の最大被害は、小学校に命中して46人の子供が死んだことあり。次は、重爆弾が住宅地に落ち、12名が即死。

 ロンドンのWWIのAAGは、294門だった。
 WWIIの独の時計爆弾は、100kgぐらいで、ビルの3階くらい貫く。
 遅延タイムは、1時間から24時間くらいまである。だから、爆弾処理は、2から3昼夜してから、行なう。

 ビルの屋上に、空爆監視用の小塔を増設。RC製。円錐形。その天井は鈍角に尖っていて、特に分厚い。

 英政府は、ガスマスクを4万5000個用意し、それを国民と外国人にタダで配った(p.132)。
 地下室では、ガス調理や、何かを燃やすストーブは×。
 普通警報とは別に、ガス警報を出すようになっている。

▼田村周助『軍法会議判例挿入 法の裁き実例鑑』S3-1
 哨兵睡眠罪。 禁固1ヶ月~2ヶ月。
 下級者に対する私的制裁は「陵虐罪」。禁固1ヶ月。

 傷身図免役罪。 兵役をのがれようとして手を切る者がほとんどである。 懲役3ヶ月から4ヶ月。

▼阪井政夫『自動車人ノ見タ満洲』S18
 旅順の鉄条網は2000ボルトだったという。

 妓生は世界一の優遇をうけ、正三品、正四品という高位をおくられた者も。正三品は郡守と同等官。
 平壌が第一の産地で普州これに次ぐ。
 平壌には妓生学校があり、いやしくも京城の高位大官と起居寝食、風流頤事を共にするのに事欠かぬよう訓練されている。
 妓生には一牌、二牌、三牌の三段階があり、一~二牌は相手の門地品位を撰ぶが、三牌は節操も風尚も右に劣る。
 一人の娘を持ち、それが善い妓生になれば一族はその恵に浴して他の羨望の的となる。
 のみならず土地の恵にもなった。
 高位大官の寵を受ければそれをツルにネポティズムおこなわれ、立身、減刑も可だった。

 当時、奉天は名古屋と同じ、人口百数十万人で、三百両のバスが動いていなければならない計算。
 しかし自動車は統制で、一台も見ず。

 一輪車(ネコ)のことは、推車(トイチョー)という。
 満洲の計画工業は、小さいもので困っていた。下請け工業が未発達なのだ。

 哈爾浜にはロシア人が集中している。
 タクシーは全員、露人の運転手。燃料はアルコール。
 彼らは自動車をじぶんひとりで修理し、20年以上も走らせ続ける能力をもつ。部品も自分で作ってしまうのだ。

 代燃車(非液体燃料)は、停止待機中も、エンジンを切ることができない。 

▼『麗澤大学紀要』1986-12 所収「北東アジア猟漁民の猟漁システムの特長とその先史学的・進化的意義(I) 銛漁と弓矢漁」/渡辺仁
 アイヌの漁矢を「ペラ・アイ」という。
 子供に持たせた松明で夜間、魚を誘う。木製の撥形の鏃をとりつけた矢の先を水に入れて、魚の頭部を狙って発射。打撃のショックで魚は死す。
 死魚回収の必要から、これは浅瀬でしかできない。鏃材は、サビタ、イタヤなどの堅木。
 矢柄はヤナギ。

 狙うのは、サケマスよりは小さい雑魚、ドジョウの類である。

 弓矢は、槍や銛より、コントロールが効く。また自分より高い樹上の獲物に対しても有効。
 けれども、超大物には弓は無効。象や鯨は狩れない。

▼『日本民俗学』1993-2 「弓神事の原初的意味をさぐる――三本足の烏の的を中心に」/萩原法子
 そもそも 3本弓で占う流鏑馬の前には、歩的(かちゆみ)の神事があった。民間土着として。
 ビシャ、モモテ、マトイ、ユミギトウ などと言った。
 さらにその元をたどると、これは占いではなくて、必ず射破る、魔よけの儀式であった。

 漁民にとっては、カラスもネズミも害獣。
 カラスは韓国ではカルサという。
 太陽黒点の象徴でもあり、ウサギは月の象徴。
 つまりカラスと兎で、日月を射ることになる。
 「山海経」「淮南子」とも通じる。

▼『大阪大学文学部 待兼山論叢 史学篇』1984 「原始・古代における弓の発達――とくに弭の形態を中心に」/松本武彦
 弓は腐りやすく、出土は稀。
 しかし、ここ十数年間に、低湿地から百例以上、出ている。
 筆者はアーチェリーをたしなむ。

 弓の長さは時代によって変わらぬ。径1センチと細ければ長さ50センチ~。径3センチと太ければ、150センチ強、の範囲だ。

 最大で276センチの巨大弓も出土しているが、これは祭祀用と考えられる。
 加工としては、樹皮や糸を巻く。漆や朱を塗る。横反れや乾燥割れをふせぐため樋とよばれる縦溝を刻む。
 副葬品は必ず装飾的な加工がされている。

 縄文、弥生、古墳時代を通じて材は、イヌガヤ、カヤ、イヌマキの三針葉樹。
 旧説では、針葉樹→広葉樹の変化があったとする。
 マユミ、ケヤキなどは確かにあるが、すべて副葬品だ。

 広葉樹は、硬度、反発力にすぐれるが、乾燥割れしやすく、加工しにくい。
 この加工技術の限界が、古墳時代まで続いた。

 ゆはず とは、弓の両端の、弦をかけるこしらえである。その変化は、時代とともに、大きい。
 古代の大陸の弓は、中央部をわずかに内弯させ、上下弭部にかけて外弯させてある。
 すなわち「弓」の字形に、定形加工する。

 打製石鏃は、弥生中期に、畿内を中心として、重畳急増す。
 弓の材質は変わっていないので、射技が変わったと論者は見る。

 弓の下の方を握ると、上下のもどりに時間差ができ、矢は上方へ向かって飛び、飛距離が伸びる。
 引き込みを顔の前で止めるのは狙撃・狩猟に向いている。
 引き込みを後頭部までするのは、戦争向きだ。

 E・S・Morseによれば、今の日本の弓道の原形は、最も発達したモンゴル式であると。
 それは、地中海式よりも発達しているのだと。
 ただし、オリジナルのMorseの論の初出が不明。皆、引用らしい。

 基本文献として、『古代学研究 78』(1975)佐原真「かつて戦争があった」。
 インディアン含め、狩猟民族を観察したところでは、弓は近接必中武器である。

▼国立国会図書館調査立法考査局『米国の戦時行政』第二巻 S27
 “The United States at War”の訳。第一巻は欠。

 開戦後、二、三ヶ月で「戦時生産局」が設立された。
 それまでは、生産管理局供給優先割当委員会があった。

 民間には物資使用制限が課されたので、民間はむしろ官注を望んだ。
 そして1942の前半に1千億ドルの官注をした。
 かつて最も景気のよかった年の総生産額以上の軍需生産の発注であった。

 ゴムは海軍の「弁」にも必要。
 パイプラインを大増設して、鋼材が足りなくなった。

 機関車工場は機関車が非常に必要なときに、戦車生産に転換した。
 トラック工場は飛行機ラインに転換し、それでトラック不足になった。

 WWII中の生産額で見ると、順番は、飛行機>船>鉄鋼>弾薬>他のケミカル(オイル含む)>非鉄>食糧>航空用ガソリン>戦車とトラック>人造ゴム>機械器具。
 圧倒的に、飛行機が大。

 クロームを乳母車に使うことを1942に禁止。
 一人の長官代理に、計画と実行の両権を結合させることが鍵。委員会では絶対にダメ。
  ※個人は、永続しない。いつでも除去できる。悪の不死身組織にはさせない。

 鉄くずと、アルミくずも、集められた。
 1940にリバティー船を策定。鉄鋼運搬船。
 旧式の、三連式往復エンジン、蒸気ウインチ、英国の貨物船の型を採用。11ノット。1万トン(重量トン)積載可。溶接船体とした。
 議会の発注承認は1941。

 米はガルフや南西部からタンカーで東部に油を運んでいた。東部にパイプラインはなかった。
 鉄道タンク車、艀、パイプラインの増産を必要とした。
 短距離ではタンクトラックを増産。
 1943までテキサス~東部のパイプラインは無い。

 国内トラックは速度35マイル/時に制限された。
 五大湖の鉄鋼輸送は艀を使った。

 以下、第三巻。
 WWII中、米人口は、1億3000万人。
 1942の新聞検閲局の方針。「社説に対する干渉を避けてはならない。この種の意見は自発的には統制できないものである」。

 宣戦後の1月6日、大統領は、目標として、飛行機5万機、戦車45000両、AAG×2万、船800万トンを掲げた。

 以下、第四巻。
 石油は、メキシコ湾、カリブ諸港から、北部諸港へ。そこから、英船に積み替えられて、ヨーロッパへ。
 ゴムは、1942まで天然のストックあり。1943からほとんど合成にきりかわったものの、総供給量は1941のピークに達していない。

 ロシアは独自に合成ゴムをつくっていた。その製法は米国にも教えなかった。
 生産額でみると、WWII中、米は「砲」の略1.5~2倍の「弾薬」を生産した。

 以下、第五巻。
 WWII中、カナダで油井を開発した。アラスカからパイプラインを引いた。

 以下、第六巻。
 ドイツは1943に初めて軍需省を設け、アルベルト・シュペールが「有期限集中生産」方式で、まずは戦車、次に飛行機、ある時期は砲、と重点を変えさせた。
 工場に大量生産対応がとれなかったのて、設計と計画でデザインの単一化、製品の標準化をした。
 しかし全部門を統括する計画は遂におこなわれなかった。
 また空軍の飛行機は1944まで軍需省の下になかった。

 1943の戦車増産は、部品がアンバランスで失敗。
 飛行機は爆撃機か戦闘機かで紛糾。
 1944半ばにガス欠。なのに飛行機ばかり作り続けたのは、計画の失敗といえる。

 モスクワ以降、弾薬も不足。
 鋼の割当が機構的に不全。
 熟練工を無計画に軍に投入した。

 アメリカにおいては戦時動員が必然もたらす犠牲に対して利己的グループが敢えてした抵抗は公衆の手によって直ちに阻止せられた。
 失敗は永く放置されなかった。

 米は、二交替制がふつう。
 独は、飛行機エンジン以外、一交替制に終始。
 また、婦人の工業動員なし。

 ドイツは鋼は余っており、アメリカと違って民間にも大量に流した。
 米は、バランスのとれた極限動員だった。



すでに中共は核軍拡を急いでいるはず。なぜなら、米露から制限条約加入を強いられてしまう前に、交渉の基準点を高くしておく必要があるから。

 ストラテジーペイジの2020-9-3記事。
   インドは、93895梃の5.56mmカラカル・カービンをUAEから輸入する。代価1億1000万ドル。
 これは、古い英国設計のスターリングSMG(インドでライセンス生産していた)の更新用だ。

 ほんらいこいつはインド国産のINSASというアサルトカービンで1990年代に代替する予定だったが、それはインド政界=産業界の腐敗構造のために、大失敗に終わっていた。その計画は2015年になって漸く放棄された。

 カラカルを設計したのは、HK416やSIG516を設計したチーム。韓国もカラカルをライセンス生産している。

 次。
 Oriana Pawlyk 記者による 2020-9-2記事「Air Force Tests New Bomb That Could Replace Controversial Cluster Munitions」。
     収束爆弾の不発弾問題を軽視していない米空軍は、クラスター弾に代わる新型の破片爆弾をテスト中。
 BLU-136 次世代エリア攻撃弾 と称する。
 全重2000ポンド。これにJDAMキットをとりつけることも、もちろんできる。その場合、名前は「GBU-31v11」に変わる。
 爆発点からの距離150フィートまでは、破片による毀害がある。

 2017年のNYTによると、実戦ではクラスター子弾の2割は不発となり、友軍にも住民にもその地域環境は危険になってしまう、と。
 しかしペンタゴンは、北鮮が脅威だからクラスター爆弾は捨てない、と言っていた。

 ジョージ・W・ブッシュ政権はクラスター子弾の不発率を1%未満にしろ、と指令していた。米軍は結局、この指令を実行できなかったのである。
 すなわち国防次官のパトリック・シャナハンが2008-12に明文化していた。2018年以降、米軍は、子弾の不発率が1%未満でないクラスター兵装を使用しない、と。

 次。
 海保も「対機雷」のシミュレーションをしておかないと、危ない。
 2015年6月8日にアゾフ海で、ウクライナの国境警備艇が、即製機雷に艦尾をやられ、使い物にならなくなった。
 1人死亡、1人行方不明、1人負傷。

 つまり本式の機雷を大量にもっているロシアも、わざと、IED機雷をテロに使うのだ。ましていわんや特亜の手下ならば……。

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旧資料備忘摘録 2020-9-3 Up

▼尾崎正久ed.『日本自動車史』S17-10
 まず欧州車が輸入の9割を占める時代がM40以前。
 自動車=高級という固定観念。ランニングコストなど顧みられず、米国車は売れず。
 S3~4には世界最高級の米パッカードが1年で250台近く売れた。
 S17の日本の自動車税率は世界最高。その淵源がこのへんにある。

 WWIで米国車は技術的にも欧州にキャッチアップ。
 熱河作戦の川原快速部隊をみて、上海の蔡十九路軍は、「我に自動車の整備がなかったため」と思い、また蒋軍幕僚の萬王宗は「今後の作戦、軍の行動力は自動車に據る處 頗る大なり。軍用公路の建設と軍用自動車の整備を急務とす」と進言。

 S10-8、自動車は国防上極めて重要なるに鑑み 之が急速国内生産確立の要あり」と閣議声明。
 S11、自動車製造事業法 公布。
 S14、国産自動車工業が確立した。

 1884、ゴットリーフ・ダイムラーがガソリン機関を発明。
 1886、ダイムラー、同機関を水冷に改む。
 1889、ダイムラー、同エンジンを2気筒機関化。
 1890頃、プジョーが、ダイムラー機関とゴムタイヤ付きの四輪車を結合する。

 19世紀末、ベンツ社 できる。
 1894、ロンドンの博覧会で仏独車がショックを与える。英は20世紀初めに追いついた。

 日本では、舶来品でなくば物に非ずという時代。
 内山タクリー号は、欧米車がチェン・ドライヴをシャフト・ドライブとしたのに、資力でついて行けず。

 ハンドワーク自動車工業の採算点は、月産20台。
 ライジングサン石油会社支店は、M45に全国に百ヶ所のGSを設けた。

 この頃の自動車税は、懲罰的に高く、しかも逐次、上がったため、大衆普及は阻まれた。

 M40年より3~4年前に、陸軍中央幼年学校に、同校の西村教官の手によって、自動車が1台輸入された。それが軍の自動車導入の初め。
 正式研究は、M40-4に、仏のノーム・オートモビル社のトラックを1台、輸入した。

 M41、仏シュナイダーのトラックを1台輸入し、陸軍技術審査部で各種試験。
 同部の設計で、2工廠にて、試作させた。
 主査は川崎少将、川久工兵大佐。
 その下に、澤田中佐、広瀬又雄中佐、大塚中佐。佐藤清勝少佐、高橋源次郎少佐、水谷吉蔵少佐(この3人がのち主役に)。中柴大尉。

 試作に先立ち、仏ルノー、英ソーニクロフト、独ガッチナウの3車を輸入。
 M43-2に大阪砲兵工廠で、第一車の試作着手。担当は、火砲製作所長の長野中佐、渡辺芳三郎大尉で、重・軽量貨物自動車を1台づつ。

 まもなく東京砲兵工廠でもガッチナウ〔ガッゲナウ?〕のコピーを始める。

 M44-4に中柴、佐藤 両審議官が相携えて下阪した折にはすでに完成直前。
 東廠の村岡提理は、「兵員乗用にあらず 軍用品積載運搬用の荷車(箱の大いさ約1畳敷)なり」と。
 大廠の1両は、鉄道線路より軍隊に至る「後方輸送」勤務用、ひとつは、やや軽量敏速で、第一線に出て糧食・弾薬を配るもの。
 技術審査部は前者を重視していた。

 M44-5、後方輸送用陸軍第一号車、完成。※口絵によれば「試作T号自動貨車」といった。
 総重量2トン。1時間7里。
 野砲×1、または山砲×2を積載できた。

 6月に東京工廠でも2台出来。
 6月下旬には青山練兵場で4両の不整地走行テスト。
 さらに7月には、長野まで初の運行演習。※碓氷峠を越えられるかどうかを見るわけ。

 それを承け、さらに6台つくって、総力10台となる。
 外国は6気筒だが、これらは4気筒であった。
 また外国車は石油〔非ガソリン?〕を使うのに、国産試作車は、揮発油とした。
 このとき「システム」という表現すでにあり。

 大廠第二次製作車×4台をM45に初めて満州に送る。
 当時、軍用自動車は、英に2万、仏に1万、米に1万5000台あり。日本には10台。

 しかし1台5000円で、400貫を積んで、10哩/h 走った。空荷なら、20哩/時 出せた。
 野砲など2400kgまでは積めるだろう。
 重砲は牽引できるだろう――とは、第一次満州運行試験の報告。

 大3-8、青島攻略、始まる。
 ここに2廠製の4台の軍用貨車を出した。
 第一回試作車は「甲号貨車」。
 実地運行の結果、改善したのを「乙号自動貨車」と名づけた。

 当時陸軍で自動車を操縦できるのは2人の輜重兵中尉以下、ぜんぶで6名のみ。

 大3-11、「攻城廠自動車班」として山東省の一角、労山湾に上陸。青島より3里東方の李村に集結。
 1日十数回、2里前方、王可庄の攻城重砲隊と海軍重砲隊まで巨弾を運搬。絶賛を博した。

 満州では、自動車が使われた前例がほとんどない。
 M45の満州耐寒試験は、途中中止。

 大5-2に、「耐寒自動車運行試験」を奉天にて1ヶ月。これには山田乙三・騎兵大尉も加わっていた。
 青島の乙号自動貨車を再改造したのが丙号、さらに改造したのが丁号である。

 また青島では、勉式〔ベンツ〕乗用車を鹵獲。米国の斯土式〔スター〕や、英国の応式〔オースチン〕乗用車も、比較テストした。

 この軍用自動車試験班が、大14に、陸軍自動車学校となり、それがS16には、陸軍機甲整備学校となるわけである。

 大7-3、軍用自動車補助法で、初めて、保護すべきタイプとして「6輪自動車」が明記された。
 すくなくとも後方2車軸は起動軸にして、差動装置を備ふることを要す。
 4輪車も6輪車も、普通の道路において10時間以上の持続的運行を為し得るタンク容積とすること。
 制動機は、作用部位を異にして独立して使用し得るもの2種以上を備ることを要す。

 「汽車製造会社」は東京にあった。
 軍用車規格が厳しすぎたため、S9に軍は商工省標準型式を採用。
 軍用は瓦斯電の独占だったが、基準緩和で石川島造船も参入してきた。

 なぜ米式のマスプロはできなかったか?
 日本では、単一規格による多産的製品は、ただちに粗悪品であることを連想させたから。むしろハンドワークにより、ひとつのギヤー、一個のスプリングさへ、精神を打ち込んで作り上げるという欧州車に、魅力を感じていたから。

 アメリカのマスプロに対して、日本は低労銀で対抗できる――とも考えられたのだ。

 東京瓦斯電気工業会社は、最初より軍用自動車製造を目的として出発している。
 自動車は、広い国土でないとのびない。
 英、独では、都市部中心の発達となったために、小馬力、小型車が増えた。

 S10の本邦道路統計。
 幅員3.7m以下の道が、総延長の79.1%あり。この巾ではクルマは通行不可能。
 幅員3.7~5.5mの道は、17.4%あり。
 幅員5.5~9mの道は、1.8%あり。
 幅員9m以上の道は、0.7%あり。

 上記の 3.7mより広いすべての道路のうちで、舗装されていたのは、8000km。

 日本は欧米製のバスを直輸入できなかった。その理由がこの悪路。サスの強力なトラック・シャシを改造して、バスにする必要があったのだ。
 これをしたのは日本とインドのみという。

 1937年のトラック保有数(日本のみS11)。
 米3846752台。
 仏50万台。
 英438565台。
 蘇306425台。
 独282432台。
 加183786台。
 豪179000台。
 伊115000台。
 白72279台。
 日56083台(小型車含む)。

 S14における民間の揮発油消費中、自動車が90.4%だった。
 ※とうぜんながらこの本には軍用のデータは出されていない。

▼小林行雄『古代の技術』S37
 木器製作に轆轤を使った。この刃具は、石器では絶対に無理。かならず鉄製刀子が必要ならん。
 シナでは軟玉を轆轤で加工している。秦代にすでに盛ん。攻玉技法という。

 S10に日本で革製の盾の完全形が発掘された。とはいえ、残っていたのは、表面の漆の膜ばかりだが。
 長さ1.5m。
 黒漆を塗り、その上に顔料で赤く彩色してあった。
 「祟神紀」9年の「赤盾黒盾」らしい。
 「目」の字状の木枠に、革を張った。

 末永雅雄は『日本上代の武器』(S16)の中で、これを、編み物に塗漆したものと勘違いした。
 古語の「たてぬい」とは、糸で紋様を縫い付けていたので、これがS25の出土品によって、判明したのだ。

 漆で固めた革製品の強度に対する信頼感は、想像以上に大きかったようである。

 銅矛銅戈は、砂岩質の石材に彫刻して雌型をつくり、二枚の型をかさねあわせて、青銅を流し込んで鋳る。
 鉛とアンチモニーを錫の代わりに混ぜると、鋳流しは容易になるが、鋳上がり後の加工は、鉄刃なくしては不可能ゆえ、鋳放しとなる。

▼『続 古代の技術』S39
 屋根瓦はシナ戦国時代からあり。日本では6世紀末の仏寺から。

▼『増訂 故実叢書第廿一回 本朝軍器考 外四種』S4 吉川弘文館
 白石の「本朝軍器考」。まず「本朝軍器考撰用書目」を載せる。文献集。
 上古はツルギもタチも同じもの。
 後代に、タチツルギ=両刃 と分かれた。

 歩楯も鹵楯も「てだて」と読む。後世の「もちたて」である。
 地に並べるのは「かいだて」。

 幕末の家人の栗原信充の撰による「武器袖鏡二編附言」。
 上古の剣の寸は十拳[とつか]を定めとする。
 いざなぎのみことが「かぐつち」を斬ったのも、すさのをのみことが三段[みきだ]に打ち折ったのも、十握。
 旧事記にいう。十握は、人身の半量なれば、「おほはかり」=大量 というのだと。

▼小川和久・坂本衛『日本の「戦争力」』2005-12 アスコム
 1年に数回のTTX=図上演習。その上に、CPX=指揮所演習や、FTX=実動演習。
 総務庁消防庁の国民保護室は住民避難を担当するはずだが……。
 危機管理庁が必要だ。 NSC国家安全保障会議も必要だ。

 島嶼国家には、いちどに数十万人の兵員を運べる能力が必要なのに、日本の海自だけ、その能力がない。
 ドイツは敗戦国の縛りで、500トン超の潜水艦保有ができなかった。
 日本のC-1とC-130をぜんぶ稼動させても空挺隊員1500人くらいしかパワープロジェクトできない。
 小川は2003夏に、日本にいる中国の学者、ジャーナリスト、外交官、駐在武官を前に日本の軍事力の真実を講演した。

 陸自が実戦するときは、RCT連隊戦闘団を新編する。師団や旅団に縛られない。
 沿岸警備隊は62ヵ国がもつ。
 国境警備隊は、国境や領海がらみの紛争を、ほんものの戦争にエスカレートさせないための緩衝システム。

 海保は初期には高等商船学校出の予備士官を中心に集めた。パージの関係で。予備士官たちは、旧海軍の正規将校たちに対しては恨みがある。
 だから2003年まで艦船名がかぶっても平気であった。

 沖縄の米海兵隊基地。北から、キャンプ・シュワブ、キャンプ・ハンセン、キャンプ・コートニー。瑞慶覧、普天間、牧港。

 米国政府は「バンデンバーグ決議」に縛られる。他国との相互防衛条約の基本原則は、自助と相互援助。
 米軍が最も多く燃料を置いているのは本土東海岸。
 その次が、鶴見。
 三番目が、佐世保。これらと八戸をあわせると、1107万バレル。第七艦隊を10回満タンにできる。半年分に相当。

 海自がこれを使うなら、2年分になる。
 1991時点でスービック基地の貯油は240万バレルしかなかった。にもかかわらず無知な外務省北米1課や安全保障課は、「フィリピンこそが米軍最大の海外軍事拠点」と、何の根拠もなく説明していた。

 米陸軍の弾薬庫である、秋月(江田島)、川上(北広島)、広(呉)の貯蔵能力は11万9000トン。それでだいたい米軍の5個歩兵師団を1ヶ月戦闘させられる。これは日本の三自衛隊が抱える弾薬11万5000トンよりも多い。

 佐世保には、海軍と海兵隊の弾薬庫がある。西太平洋~インド洋では最大の弾薬庫。

 嘉手納には空軍の弾薬庫。維持管理するのは第400弾薬整備中隊。この中隊の説明資料に、「わが中隊は米軍で最大の弾薬整備中隊である」とある。

 大西洋の第二艦隊は、予備・練習艦隊の意味合いが濃い。
 第一艦隊と第四艦隊は存在しない。欠番。
 第七艦隊が、陣容としては、最大。

 1991の湾岸に展開した57万余の米軍が使った燃料と弾薬の8割以上は、日本から運ばれたもの。
 1990-8から1991-2-28までの7ヶ月間に佐世保と中東を往復した米軍関係の支援艦船は113隻。だいぶぶんが老いるタンカーと弾薬補給船だった。

 湾岸戦争で当地の海軍と海兵隊は、『ブルーリッヂ』から指揮された。
 2002-6に韓国で米装甲車が女子中学生2人を轢殺したとき、駐韓大使が謝罪したら、韓国人はますますいきり立って反米運動が過熱。

 施設や区域と関係ない従業員給与の一部肩代わりは、地位協定第24条と齟齬する。そこで1987に、日米特別協定が結ばれた。

 2003年における議会報告。米軍駐留経費をいちばん高率負担しているのはオマーンで79%、次が日本で75%(2001年度)である。50%を超える国としては、あとは、スペイン、サウジアラビア、クウェートだけ。

 普天間はまずヘリ部隊だけ1週間の期限をつけて移転させるよう迫れば、問題はなかったはず(p.135)。
 小川案。キャンプハンセンに海兵隊用の陸上滑走路を建設する。そこに普天間の機能を移してしまえ(p.136)。

 日本に生物・化学兵器対処マニュアルのまともなものがなかったので、小川が2000年に訳して啓正社から公刊した。それが『生物化学兵器』。
 サリンを弾道ミサイルに搭載しても意味がないこと、水源池にボツリヌス菌を撒いても上水道を通るあいだに死滅してしまうこと、こういう常識が日本の人々にない。
 ボツリヌス菌はビルやマンションの屋上タンクに直接投入された場合が怖いのだ。

 ロシアは1997まで核ミサイルの照準を日本列島に合わせていた。
 爆弾を体に巻いていると思われる容疑者は、頭部を撃て。
 2005-3にマドリッドで開かれた、テロと治安の国際サミットに日本の政府関係者は1人も出席しなかった。

 日本の警察官がハイレベルの対テロ能力を備えていないことは、東京都心でそのたたずまいを見ただけで分かってしまう。これでは抑止にならない(p.174)。

 直前まで交戦していた当の部隊を占領軍にしてはならない(p.196)。
 砂漠で緑色迷彩服を着るのには意味がある。米英とは違うんだという強調になる。
 小川は年に百数十回の講演を依頼される。

 横須賀の空母機動艦隊に属する7隻の巡洋艦と駆逐艦は、まず合計200発のトマホークを発射できる。日本本土には次発分と次々発分もストックされているので、最大で600発。
 グァム島には、核弾頭型のトマホークが数十発ある。

 神奈川県のキャンプ座間には、国連軍後方司令部(人員38名、8ヵ国)あり。
 日本はこの8ヵ国と「国連軍地位協定」を結んでいる。国連軍が朝鮮半島から撤退するまで有効。
 キャンプ座間の他、横田、横須賀、佐世保、嘉手納、ホワイトビーチは、国連軍基地に指定されている。だからそこには国連旗も掲揚される。
 半島有事には、在日米軍も在韓米軍も、すべて国連軍になる(p.240)。

 アメリカは、なまじいに国連軍の帽子をかぶっているから、1994のときにも、先制攻撃に踏み切りにくかった。

 湾岸戦争のとき、イスラエルには39発の弾道ミサイルが撃ち込まれ、死者は2人だった。
 ※イスラエルの人口密度は293~250人/平方km。日本は333人。

 ノドンは宇宙空間では秒速3kmだが、大気圏内を落下することで秒速1.5kmとなり、そのスピードで着弾する(p.255)。
 ノドンが実際に地上に落ちたときのデータなど存在しない。
 陸自の203ミリ榴弾は弾重が92.5kg。破片は80m近くまで殺傷力がある。ノドンの弾頭重量は不明。

 化学弾頭のSSMは目標上空2kmで爆発させ、1km四方を汚染させる。
 サリンは揮発しすぎるのでノドンのようなBM用には向いてない。
 BM弾頭への充填に向いているのは、粘性の強いマスタードとVXだけ(p.257)。

 韓国空軍パイロットは年に200時間以上飛んでいる。
 空自パイロットでも150時間以上。
 米海軍トップガンだと400時間以上。

 韓国陸軍はロシア製T-80も80両、輸入した。

 米軍はSAMであるパトリオットをSSMに転用する。「近々配備が始まる予定」(p.269)。北鮮の240ミリ多連想ロケットは20発の連射が終わるまでに44秒かかる。次の連射までには陣地変換も含めて4分かかる。その4分以内にパトリオットが命中する(p.270)。

▼小川和久『ヤマトンチュの大罪』1996-2
 少女暴行事件の前の1995-5にも宜野湾市で20代前半の女性が海兵隊員にハンマーで殴り殺された。被疑者の身柄は起訴まで日本側に引き渡されなかった。

 1945の米英間の協定では、米軍基地内では米法が適用されるが、基地外では、英警察がすべての権限をもつ。
 米軍は、本州や四国の山間部に4本の低空飛行訓練ルートを設けている。
 在韓米軍基地は内外の看板表示を控えめにしてある。これは反米感情を刺激しない用心。
 在韓米軍基地内で米軍を取材するのに、いちいち韓国政府の許可も必要である。日本ではその必要なし。
 日本にある米軍基地だけが、アメリカ本土と同じ扱いにあるのだ(p.36)。

 1980-4-25にテヘランの人質を救出しようとした作戦に参加した4機のMC-130Eは、嘉手納から出撃していた。第一特殊戦飛行隊。3日後に、3機だけ戻ってきた。

 1990-8中旬、カリフォルニア州駐留の第七海兵遠征旅団は2日半でサウジまで空輸された。定員1万6500人。ハワイの第一海兵遠征旅団は、輸送機のやりくりに手間取って、5日がかり。

 千歳よりもワシントンのアンドリュース空軍基地の方が寒い。嘉手納の空軍部隊をそっくり千歳に移転してもらうことに特に問題はない(p.57)。

 台湾のミサイル艇『龍江』型は、1番艦を米タコマ造船所に発注し、79年建造の2番艦以降は、ライセンス生産。

 嘉手納から戦闘機は1時間40分で韓国に到着する。三沢からは2時間。
 外務省の安全保障課は、安保条約の運用をアメリカの意向どおりに行うだけの組織で、課長には軍事のじゅうぶんな知識はなかった。湾岸戦争後は、だから、実態に即した「日米安全保障条約課」に改名されている。

 アメリカは、核のイントロダクションとトランジットを分けている。ところが外務省はこれをわざと明確にしない。
 核弾頭が持ち込まれていなくとも、核運用をサポートする施設は在日米軍基地のいたるところに組み込まれている。アメリカの核戦略に不可欠なシステムが日本国民の税金で維持されている。

 湾岸戦争後、外務省北米局の高官から言われた。小川は日本を戦略的根拠地というが、横須賀はスービックの50分の1の戦略的価値しかない。日本から米軍が撤退することがあっても、フィリピンから去ることなどありえない。「私がいっているのだから間違いありません」と(pp.116-7)。

 1990-3-27にWP紙に、ヘンリー・スタックポール少将(沖縄の第三海兵遠征軍司令官)のインタビュー記事が載った。いわく。米軍は日本軍に対する壜の蓋なのである〔だから海兵隊の規模を縮小しないでくれ〕と。

 中共とフランスの核実験は〔日本に対する〕宣戦布告にも等しい。ただちに国交断絶を宣言し、わが大使は召還し、両国大使には国外退去を命ずるほどの強い姿勢が望まれた(p.138)。

 日本に展開する在日米軍基地は、吉田茂とアチソン国務長官との間の交換公文にもとづく地位協定によって、「朝鮮国連軍」の基地としての性格を定められ、それは60年の安保改訂以後も継続されている。
 8ヵ国は、米、英、仏、蘭、加、豪、NZ、比である。

 米連邦上院議員(100人)は、1人平均40人の専門スタッフを抱える。有力議員なら1人で80人。下院議員でも平均18人の専門スタッフを雇っている。それらスタッフの人件費は、議員1人あたり年間40万ドルあまりが国費から支給されている。

 RANDコーポレーションはSDIに一貫して反対し続けた。
 防衛庁記者クラブは、だいたい政治部と社会部の記者が1人ずつ配属される。
 日本の国際政治学会には1400人が登録している。



低軌道の衛星コンステレーションが民間でも軍用でも激増することにより、アマチュア天文家の星空観察は不可能になる時代が来るだろうと懸念されている。

 Tony Capaccio 記者による記事「Pentagon Warns China Is Nearing a Milestone in Nuclear Weapons Buildup」。
      国防総省のリポートは言う。中共軍は三分野について3年以内に米国に並ぶ。すなわち、軍艦の建造能力。非核弾頭の地対地弾道弾と巡航ミサイル、統合された防空システム。

 げんざい、中共のICBMは、サイロ式と路上機動式をあわせて100基。SLBM×12基をもつSSBNは6隻。空中受油可能なH-6N爆撃機は複数。
 この爆撃機からはやがて、空中発射式のICBM運用が試されるのではないかとペンタゴンは言う。

 核弾頭のストックは200~250発だが、これは2030年には400~500発を超えているはずだ、と同報告書。
 ちなみに米国の核弾頭は3800発、ロシアは4300発。

 また中共は「ラーンチ・オン・ウォーニング」――敵核兵器の飛来中にこっちも発射してしまう――への態勢移行の努力をしている。

 次。
 Dan Brouillette 記者による記事「U.S. Energy Secretary: Natural gas pipelines key to unlocking America’s energy potential」。
   ※記者はエネルギー省長官。

 天然ガスの配給パイプライン網に米国ニューイングランド地方~ノースカロライナの地元が反対して計画が潰されるケースが続出しているが、2018年にじっさいにあったように、これは次に厳冬が到来したときにはロシアからLNGを輸入しなくてはならなくなることを意味する。 ※米国の家庭用暖房には天然ガス=都市ガスもよく使われている。

 過激環境運動家、政治活動が好きな判事たち、規制命の地方役人たち、そしてマスコミうけする話なら何でも騒ぐ地方政治屋たちが、米国の地産地消式エネルギー安保を妨害している。

 カリフォルニア州のいくつかの市では天然ガス利用を条例で禁じた。おかげで2019年には米国で最も高い電力料金をそれら住民は負担せねばならなかった。

 2018にロシアからのLNG輸入をニューイングランド諸州が余儀なくされたとき、地産地消ができるテキサス州民、ペンシルベニア州民、南北ダコタ州民は、それより3割安いガス料金を享受できていたのだ。

 次。
 Robert Cherry 記者による 2020-9-2記事「First Impressions are Trumping Complete Facts on Police Violence」。
     過去3年間、米国で、武器をもっていない黒人が警察官から殺された件数は、毎年、20件以下だった。
 それに比し、同じ3年間に、2095人の11歳以下の少年たちが、銃撃によって死傷させられている。
 2020年、シカゴだけで、17歳以下の少年32人が、すでに銃で殺されている。
 シカゴの貧民区の学校に通う児童・生徒たちにとっては、警察官から射殺されるリスクよりも、警察官が学校近くに居ないことによる銃犯罪の蔓延の方が、困った事態だ。

 地面に押さえつけられて窒息死したフロイド氏は、本人の希望によってパトカーの外に出ていた。これは追加リリースされたビデオで分かった。
 また検死所見によると、フロイドの呼吸が困難だったのは、直前に違法薬物を過剰に摂取していて、肺水腫状態になっていたからだった。
 フロイド氏は、警察官から何もされなくとも、自宅で窒息死していたかもしれぬ状態だった。

 次。
 ストラテジーペイジの2020-9-2記事。
    インド紙『インディア・トゥデイ』によると、インド軍やインド警察の「コスプレ」ファンたちに無料でダウンロードさせて、そのあとでスマホから情報を盗もうとする、パキスタン製のスパイアプリ(アンドロイド用)が流布しているという。

 このフェイクアプリはユーザーのスマホのカメラにアクセスできる。もちろんデータもぜんぶ抜ける。

 次。
 機雷をめぐる国際法のおもしろさ。
 1907ハーグ協定により、すべての機雷原は、原則として、宣言されなくてはならない。
 ただしすべての宣言された機雷原にじっさいに機雷が仕掛けられている必要はない。ダミー機雷でもいいし、それすらなくともいいのだ。

 そしてまた、戦術的にも、じっさいに機雷が有効である必要はない。一回、デモンストレーション的に爆発させるだけでも、阻止効果が狙える場合があるからだ。

 なぜ米国はこれまで「ブロケイド」という言葉を政府の公式用語としては使いたがらなかったか? そうした理由も、拙著・最新刊『封鎖戦』をご一読されることにより、見当がつくようになります。
 この国際法分野全体が、日本人が最も不得意とする「グレーゾーン」域なのだ。



ミニ講演 の続報。

 9月23日(水曜日)の18時30分から開講します、《地政学の入門レベル講座》につきまして、さらに詳しくお知らせ申し上げます。

 場所:〒040-0051 函館市 弁天町 16-2 「フォトスペース 一期一画」〔駐車場はございません〕。
 料金:おひとりさま「一千円」也 を徴収いたします。
 おひらき:20時30分より前には解散しなければ……と思っています。

 ※これから、人のあつまり具合によりまして前後のイベント等も考えようと思いますが、《三密》回避とどう両立させればいいのか、が、悩ましいところです。何か、皆様のお知恵を拝借できましたなら、幸いです。  拝具



「地政学」は殺傷力のある武器である。〈新装版〉 ニュー・クラシック・ライブラリー


(管理人Uより補足情報 2020年9月12日追記・訂正)

 古い蔵(を改造したレンタルスペース?)でのミニイベントだそうです。主催者の方の連絡先とFaceBookページ『兵頭二十八 地政学入門カフェ』が公開されました。

 私は仕事のため、23日には大阪から函館へ飛べません。本当に悲しいです。参加できる方が羨ましい。

 ですので、ミニ講演を撮影・録音してくださるアルバイトの方を募集します。

 兵頭先生は引っ越し後、近所のガソリンスタンドへ履歴書をもっていきましたが、残念ながら採用してもらえなかったそうです。バイトの神様、何でだよ! 助けてあげておくれよ!



旧資料備忘摘録 2020-9-2 Up

▼陸地測量部撮影『明治四十年 特別大演習写真帖』
 於・栃木県 結城町  11月。
 信号用気球〔横に長いタイプ〕と、補充用ガスタンク(?)。

 畑の中に、もののみごとに立射散兵壕を掘ってしまっている写真。
 野重第一大隊の射撃。十榴か十五榴。未見のクリアな写真。7門以上がズラリと。

 38MG 33聯隊と59聯隊の「機関銃隊」。
 陪観の外国武官たち。20人以上を招いている。
 鬼怒川の渡し船は、竿で押す平船だった。

 有線電話。
 野重第2大隊、15榴? これも未見でクリアー。
 38式75Hの発射。まことにクリアー。

 聯隊でする一斉の坐り射ち。珍。

 ※これらの激レア資料は竹田宮家から三康図書館に寄贈されているものである。

▼陸地測量部撮影『明治四十一年 特別大演習写真帖』M42-3-19発行
 版元は、東京市京橋区 小川一真の写真製版印刷所。

 昨年版にはなかった乃木の肖像写真も。
 於・奈良方面。
 61聯隊の38式MGのバレルに、見たことのない機能不明なリングが2個、付いている。

 コメの収穫がまだ終わっていない生地。
 無線電信ポールはアルミか?

 新鋭の38式野砲の写真。
 無線の自転車式発電機。傑作。
 ポールは対地絶縁になっている。

▼陸地測量部撮影『明治四十二年 特別大演習写真帖』 
 於・宇都宮。

 キッチナー元帥が、日光をついでに観光している。11月4日。
 東那須野の西2kmを、騎兵第14聯隊旗がゆく。11月6日。

 「第一騎兵機銃隊」の38カービンの背負い方、クリアーに分かる写真。
 38MG射撃中、大頭陀袋で空薬莢を受ける。
 通信機には、ミニ天幕をさしかけていた。

 騎MG手は、大型拳銃サック。
 背嚢に予備の靴を縛り付けている。

 1聯隊にMGは2梃? 第七師団が北海道から参加していた。

▼『明治四十三年 特別大演習写真帖』
 於・岡山。
 後備歩兵第11聯隊参加。そのMGも。
 山砲の射撃、もちろん41式ではない。空砲だからか、後座していない。

 墓場に司令部! 独立野重 15Hか。
 司令部には自転車あり。スタンドないので、倒している。

 38MGの、見たこともないクリアな写真。 連続フィーディングの様子がバッチリ写っている。紙箱は本当に直前までは剥がさないのだ。

 馬の背の山砲。

▼特別大演習統監部撮影『明治四十四年 特別大演習写真帖』小川一真・印行
 於・久留米。
 「石人石馬」というケッタイな置物があるところに通信所開設。
 ラッパ手の写真。

 乃木が写っている。軍服、佩章。M44-11-14。
 例の改造モノキュラーを首からさげているからすぐ分かる。
 「統監部」は、久留米市南方6000mの藤田に設けられた。

 山砲は旧型。
 集合写真には乃木が見えない。
 統監部員ではなくて陪観Guestだから。

▼特別大演習統監部撮影『大正元年 特別大演習写真帖』(株)兵林館印行
 於・所沢。
 用水路に水車あり。

 特別大演習にプッシャー式複葉機×1、初登場。 モ式のような型。
 11月16日、「入間川町西南方畑地ニ於ケル飛行機」。

 まったく面目を一新している無線電信隊の牽引車載無線とアンテナ。これはすごい。

 近衛工兵、架橋中は下半身裸。
 所澤試験飛行場における飛行機×2。ゴンドラ付きの飛行船も。

 15榴のけっこう迫力な写真。
 「飛行機操縦将校」が覆面姿で奏上。革ジャンである。
 このころすでに老人を「高齢者」と表現している。

 貨車で運ばれる野砲の写真も初めて登場。ライトがないから光源は、かがり火だ。

▼『大正二年 特別大演習写真帖』
 於・名古屋
 独立重砲連隊第一大隊の15Hが首を下げている写真。リアルでいい。
 焼ける前の名古屋の天守、やはり塔ではない。シャチホコに金網をかぶせてある。
 組梯子を「展望哨」という。
 昔の木柱の送電柱。

 野砲兵が、乗車のままで、渡渉。
 「モーリスファルマン」のクリアカットと、そこから空撮した名古屋城。

▼『大正三年 特別大演習写真帖』
 於・京都府~大阪府。

 南軍司令官の決心奏上。
 北軍司令官の決心奏上。

 初登場! 工兵第11大隊の「飛行機射撃」。※AA射撃である。
 一斉に、腰ダメでライフルを射つ。北軍飛行機に向けて。

 八尾飛行場上空モーリスファルマン。
 山砲兵の陣地進入で煙使用。

 はじめて「御着輦」にさいして馬車列の末尾に自動車が写っている。11月19日。

 大阪城天守跡より東方を望む。煙突濛々たり。
 北方の工場地帯は、工廠か?
 山砲に41式が初めて登場。

 ※版元がふたたび小川一真に戻っている。

▼『大正四年 特別大演習写真帖』東京印刷(株)印行。
 於・青森。そのため10月とやや早い。
 他地方とくらべて明らかに農家がボロい。道もメチャ悪い。

 「弘前着陸場」と「浪岡着陸場」にモヘリスファルマン。1機は尾翼に「22」と。

 対空射撃は今回は肩射ちに変わっている。照尺を立てて。
 10月下旬の青森で架橋作業。これは洒落にならぬ。

 米武官は保安官ハット。

▼『大正五年 特別大演習写真帖』
 於・久留米、博多、福岡。
 いきなり飛行機から始まる。
 今回は、双垂直尾翼、プッシャー型だが、先尾翼は無いタイプ。

 佐賀練兵場における飛行隊。ナンバーは、20、29、33が認められる。他に3機。

 四四式騎銃の初登場写真。
 「騎兵の徒歩戦」

 泥道でトラック立ち往生の写真。
 天皇じしん自動車で移動。
 無線柱の全高が分かる写真。
 MGはまだ38式。

▼『大正八年 特別大演習写真帖』
 ※ただし海軍である。
 ※陸軍は大6以降しばらく、WWIとその後のシベリア出兵のため、特別大演習がなくなった。

 皇太子(昭和天皇)の肖像が初登場。
 混合はまだ混焼。
 主砲塔の上に訓練用のミニ砲×2を剥き出しマウント。

 金剛の艦載機は射出ではなく、水上にクレーンでおろして発進させる。
 別な戦艦、砲身上にシミュレーション砲をとりつけている。

▼『昭和四年 特別大演習写真帖』合資会社 巧芸社 S5-3pub.
 於・水戸、茨城県。
 「大元帥陛下」の呼び名、初登場。
 サイドカーによる先導も、初登場。

 暹羅の参謀総長(王族)が陪観。
 11年式LMG、初登場。
 歩兵の偽装、初登場。

 10年式10加。
 独立野重第七聯隊のトラクター前進。10加か?

 3年式MGによるAA架射撃。
 AAG、聴音機、照空燈。
 煙幕渡河、軍用犬。

 巨大ドラムを2名で肩に神輿担ぎして延線。
 LMGによる対空射撃。

 平射歩兵砲と曲射歩兵砲の初登場。
 「演習中止号音」はラッパ3人で吹く。

▼『昭和五年 特別大演習写真帖』S6-4pub.
 於・岡山。
 ※竹田宮別當石原健三殿 というスリップあり。陸軍から宮家へ寄贈するときは別当宛にしたと知られる。

 平射歩兵砲、曲射歩兵砲。
 乙式一型偵察機、外套付の旋回MGはルイス。
 まだトラックはソリッドタイヤ。

▼軍令部『昭和五年特別大演習写真帖』
 こちらは海軍。
 御召艦は霧島。

 陸奥から偵察機が発艦。
 デリックで吊るされている時にもうプロペラが回っている。

 長門による駆逐艦曳航訓練。
 めずらしい単装高角砲の操砲俯瞰写真。

 演習が終わるや、神戸にて観艦式。

▼熊本県『昭和六年陸軍特別大演習 並 地方行幸 熊本県記録』S9-3pub.
 S6-11に挙行。

 足の出るサイドカーのクリアな写真。
 竹田宮が写っている。秋田県人のような印象。
 11年式MG改造MGを主武装としたルノーFT×1台。ハルの正面下部に「125」の白番号。

 さらに戦車隊の分列行進。
 先頭が89式、ケピ帽付き、旧式履帯。これが2両。
 続いてFTが6両。ただし重なって見えない車両があるかも。
 サイドスカート付きはない。
 またFTはすべて11LMG改搭載らしくみえる。

 このころから各地の測候所に、自立4角トラス鉄塔があるようだ。
 特別大演習は、師団の上の「軍」の単位を動かす。

▼『昭和七年 特別大演習写真帖』S8-2pub.
 於・大阪。
 独立野重8聯隊のトラクターなど。

 ※この写真帖だけは過去に見たことがある。ということは、かなりの数が出回った。

▼『昭和八年 特別大演習写真帖』S9-3 (株)青雲堂印刷
 於・福井県。
 なんと名古屋放送局が出張し、現場からラジオ放送していた。
 トラック内に対空無線所。
 「飛五 83」のナンバープレート。

 珍しい、90式野砲の写真。「独立野砲兵第一大隊」。

 軽装甲列車。伝令犬。
 被牽引の鳩車は空気タイヤである。
 ゴム舟。

▼新潟県『新潟県防空演習記録』S9-2
 ガスマスクで75ミリAA発射の写真。
 3年式MGのAA射、高射架は担送把付きであること。銃尾が下がらないようにするつっかえ棒があることなどがよくわかる。

 11年式軽機関銃の三脚架。珍。
 この演習は7月14日から16日に行なわれた。

 ガスの種類の解説。
 ホスゲンは、保存中は液体。作用時は気体。腐った林檎臭。窒息死する。
 くしゃみガスは、ヂフェニール塩化砒素。常には固体。作用時はミスト状。アダムサイトも同様。
 催涙ガスは、塩化アセトフェーン(常時固体、作用時ミスト)と、臭化ベンヂール(常時液体、作用時気体)と、塩化ピクリン(常時液体、作用時気体。駆虫薬のコクゾールと同じ)。
 糜爛ガスは、イペリット(常時液体、作用時気体、マスタード臭)と、ルイサイト(常時液体、作用時気体、ドクダミ臭。こちらは砒素中毒も起こさせる)。

 「みどり」筒甲は、催涙性の白色煙を出す。

▼『昭和八年 陸軍特別大演習 竝 地方行幸 福井市記録』S10-3、福井市役所pub.
 重砲兵の観測班がメガホンを手にしている。
 28式野砲に雨傘を立てて、そこに擬装網をかぶせている。

▼『昭和八年 陸軍特別大演習 竝 地方行幸 福井県記録』S10-3
 サイドカーは、護衛する自動車の左右どちらに供奉するからで、「サイド」が逆になる。右側で護衛するサイドカーは、オートバイの右サイドに舟がつく。左側から護衛するサイドカーは、舟が左側にある。

 ゴムボートを使った渡河。

▼『陸軍特別大演習記念写真帖』S9-3pub.
 S8-10に福井県で実施されたイベント。
 ※見たことのある写真ばかり。コロタイプで画質も劣っている。

▼『昭和八年特別大演習冩眞帖』S9-3pub.
 ※海軍の演習。

 御召艦は比叡。
 空母上の水冷複葉機。2枚ペラの縁取りよく分かる。
 陸奥の曲がった煙突を少し上から覗き込む。

 舷側副砲(?)に手動で装填する、珍写真。
 空母は全くのフラッシュデッキ。

 「空中分列」。※『日本の海軍兵備再考』のカバー絵が参考にした写真だとすぐ分かる。

▼『昭和九年 特別大演習写真帖』S10-3、大正写真工芸所(和歌山)
 於・群馬県。
 89式戦車の初登場。
 1枚中に3台写っており、ドライバー席が反対なのがよくわかる。
 マーキングは、「4」の右隣上に、おそらく小さく「戰」、その下に小さく縦書きでおそらく「十一」。
 戦車第二大隊である。

 ロート目薬の看板もいい。
 92式歩兵砲の初登場。弾薬車とともに輓曳されている。

 92式重装甲車×3台の写真は見覚えがある。こちらにはヨゴレあり。別版に違いない。
 92式歩兵砲の車輪がスポークではないタイプ。砲手の帽子がアミダ。めずらしい。
 第二戦車大隊の89式×5両の縦隊は、初見。

 4年式15榴? みたことがある写真だが、こちらはネームが邪魔していないので、別版だ。
 犬に荷車を曳かせている。
 野重の96式15H、初見。

 工兵の救命胴衣、初見。
 89戦車の単車の渡河、うしろすがた。初見。

 通信所に通信所の記号マーク、初見。
 92式10加、初見。
 擲弾筒、初見。

 戦車の第11中隊の89式×2両には、「1」の右横上に小さく「戰」、その下に小さく縦書きで「十一」とマーキング。

▼群馬県『陸軍特別大演習 竝 地方行幸 記念写真帖』S10-4、青雲堂pub.
 ※この写真帖には以前に見覚えがある。普通に出回っていたのだろう。

 「東京戦車隊ノ前進(板倉附近)」。
 89式TKの後姿。5台。
 末尾の1両は、ハル下部中央に「21」と白ペイント。
 ケピ帽付きだが、履帯は新型。

 15珊Hの写真には見覚えがある。

 またしても「東軍戦車ノ前進(海老瀬附近)」とあって、92式重装甲車×3が……。これはS9-11-11に撮影されたのだと分かる。

 89TK×1の「神流川渡河」(藤岡町附近)。

▼『昭和十年 特別大演習写真帖』S11-3
 ※陸と海が一冊という珍しい企画。
 於・鹿児島。課題が、上陸vs.対上陸 らしい。

 87双軽。
 94式軽装甲車、初登場。89TKを先導している。戦車第一大隊。

 旧式のだが、十五榴のクリアな良い写真。
 41式山砲の輓曳方法、よく分かる。
 92式歩兵砲の車輪は、丸孔付になっている。

 No.8904 の八九式戦車、しかも車体MG射撃。
 No.8937他の前を、天皇が白馬にて「御閲兵」、これは初見、珍。

 戦車の分列行進も初見。

▼『昭和十一年 特別大演習写真帖』S12-3、青雲堂pub.
 於・北海道。北海道は初であろう。10月初旬にやった。室蘭の近くか。
 なんと赤青立体写真付。

 94式対戦車砲。初登場。車輪は涙滴形の孔あき。
 横に「1独」「2独」……とペイントされた89式戦車を、貨車「チキ」車に2両づつ乗せて輸送している。 
 千歳野に、アイヌ家屋。
 サイドカーのめちゃ格好良い写真。背後にトラック。渋すぎる。
 野重兵が38騎銃を背負う姿。

 砲車〔?〕上から92MGを対空射撃するクリアな写真。
 上空から写した、豆粒大の89式戦車×複数。これは珍。

 94式軽装甲車の前進。
 天皇と89式戦車(No.8919)が、すれ違っている、最高の大カット。
 ケピ帽型砲塔。

 超めずらしい92式重装甲車の写真。マフラー金網がよく分かる。



終了したリムパックで各国艦艇は13基の戦術ミサイルを発射した。

 James Hasik 記者による記事「Close the Pentagon ? it’s too big of a target」。
     2019年にサウジアラビアの石油精油所の半分が、24発のイランの巡航ミサイルによって一時的に麻痺させられた。サウジ軍はペトリオット・システムで防空されていたのに、そもそもミサイル飛来の探知にすら、失敗している。

 同じことはペンタゴンでも起きる。この建物には価値の高い人材と情報が集積されすぎている。しかも地上部分が大きすぎる。

 こんな巨大脆弱ターゲットを放置しているのは阿呆ではないか、と、そろそろみんな、気づきつつある。リモート・ワークが全米規模で実践されているために。

 超一流企業が人材や情報の配置を分散できているのに、テロ時代&核時代&パンデミック時代のリスク分散に最もこころがけねばならぬはずの国防総省にそれができていないなんて、まったくおかしな話だろう。

 ペンタゴンは分散せよ。リモートワーク化できるところは、さっさとそうするのがよいだろう。

 次。
 「ネットワーク機雷」が可能なはずだ。
   水深50mを超えると沈底機雷の威力は激減してしまう。この問題を克服して沈底機雷が有効になる海域をできるだけひろめようと、ロシアは「MDM-6」機雷を製造した。潜水艦から撒く、沈底式なのだが、炸薬が1100kgもある。この爆発威力のおかげで、深さ120mでも毀害力が発揮できるのだ。

 しかしこうした解決方法は、効率は悪い。
 人体内の結石を、多数の超音波銃の一点集中で破砕する医療機器のような技法を、海底に散布した複数の沈底機雷によっても、再現ができるのではないか?

 比較的に軽量な沈底機雷も、複数が同期的に起爆して、フェイズドアレイのように、海面の一点、それも水上艦の艦尾部分に焦点が合うようにできたなら……?
 あるいはこれが、自爆しておわる使い捨ての機雷ではなく、空砲を何発でも連射ができる砲身のような、定置型の防御システムだったら……?

 未来の機雷戦を考えるヒントが満載の新刊『封鎖戦』は、好評発売中です!



旧資料備忘摘録 2020-9-1 Up

▼中沢宇三郎ed.『航空忠魂碑』日本軽飛行機倶楽部 S16-4
 陸海軍の戦死した航空兵を全員、リストアップ。遺族の全住所までも。

 張り線がMG弾で切られるときは「バチン」と大音がする。
 陸軍最初の戦死航空兵は大正2年で、中尉が2名、墜死。
 大3は1人。モ式1911型。着陸前にストール。

 大4、ナシ。
 大5、1人。モ式4型が空中分解。
 大6、2人。カーチス駆逐機の機体故障。モ式4型の烈風空中分解。

 大7、4人。うち一人は、イタリアに留学中。※WWIの休戦年。
 大8、5人。
 大9、4人。うち2人は気化器の不備から空中火災。1人は200mから琵琶湖に墜落。

 大10、4人。
 大11、11人。写真偵察中に、エアポケットで機外へ投げ出された少佐も。
 大12、5人。明野海岸で、繋留バルーンを射撃中、破壊した気球の索に絡まり、墜落。1人は、日本初の空中衝突事故。大12-2-10、於・所沢上空。品部左右一郎、陸軍歩兵特務曹長。僚機のパイロットは、死なずに済んだ。

 大13、8人。錐揉み練習中にバーティゴー → 死。電柱に衝突した者も。
 大14、6人。
 大15、9人。
 S2、8人。
 S3、10人。濃霧で山腹に激突。
 S4、17人。八七重爆が墜落。中将と少将も1人ずつ含まれている。

 S5、11人。八七重の後部ペラに触れ、死。
 S6、16人。ポテで「行方不明」。
 S7、44人。ポテで対地攻撃中、AAにやられる。※第一次上海事変。 旅客機フォッカーM3がAAに墜とされ、不時着したところを囲まれて8人全滅。演習で、探照灯に照らされて墜落。

 S8、29人。
 S9、新京に降りたところ、吊下爆弾が爆発して2人同時に死亡。
 S10、?。

 S11、所沢の教官の大尉、後ろから滑走してきた学生機のペラで死亡。 所沢~各務ヶ原の夜間往復中、針路を失い、静岡の林に不時着。 普通に飛んでいたとき、高圧電線に触れた最初の事故は、S11-8-21で川崎市内。

 以下、海軍の事故。
 大4に海軍パイロットの最初の殉職。いきなり4名。
 大15、鳳翔に13式攻撃機が着艦失敗。1人死亡。
 S4-4-20、演習で13式艦攻が飛んだが荒天で母艦に戻れず、不時着して3人以上死亡。

 S8-6-10、八九式艦攻が加賀の艦橋に触れて墜落。1名死。
 S9-1-22、赤城の戦闘機パイロットの少佐が着艦に失敗し、水死。S9-7-4、三式艦戦が鳳翔の艦側に衝突し、でんぐり返しとなり、死。この時点でも13式艦攻を使っていて、エンジン事故が多い。空中衝突も。

 S10-2-6、横須賀で八九式艦攻が行方不明。3人殉職。 S10-7-13、夜間対抗演習で赤木の八九式艦攻が戻れず、中佐1人死。
 S11からは、艦攻の機種名を記していない。※秘密保持がうるさくなった?

 S12-11-9、三座艦攻が帰艦時に空母に激突。2人は助かったが1人は放り出された。
 S13-8-16、中攻隊が午前11時に衡陽に達し、飛行場を爆撃していたところへ20機の敵戦闘機が。デボアチンに燃料系を銃撃されてもガソリンが漏れるだけで火災になるとは決まっていない。エンジンに当たると火災になる。

 民間飛行家が、大正1年に米国で1人、死んでいる。国内で民間パイロットが初めて事故死したのは大2だった。

▼『陸軍喇叭譜』S6-2
 号音には、以下の種類がある。
 起床、点呼、食事、会報、消燈、火災、非常、飛行機警報、着ヲ著ケ、休メ、解レ、故〔?〕ヘ、前へ、止レ、駈歩、撃方待テ、集レ、突撃(襲撃)。

▼岡田三郎『白瀬中尉』S18-7
 11歳の矗[のぶ]少年、狼に仔犬を3匹喰われた。その報復のため鎌を研ぎ、1里ほど山中へ。

 あまりに水泳が得意なので、陸軍教導団で水泳助教を命ぜらる。M13。
 M25-10-1、予備役に。これは『兵事新報』第23号に投書したのが祟った。お情けで少尉。
 兒玉に知られる。

 M17に、占守島の100人足らずの露化されたアイヌを、色丹島に『函館丸』で移住させた。
 33歳で、スペンサー銃と、父の僧にもらった日本刀を肩からかけたいでたちで、予備海軍大尉の郡司(幸田露伴の実兄。天才5人兄妹の長兄)とともに、千島へ。

▼海軍航空技術廠材料部の会pub.『海軍航空技術廠材料部 終戦50周年記念誌』H8-7
 S12~13年ころ、ニッケル節約代用鋼として、クロムマンガンモリブデン鋼などを規格決定。
 ただし特に強度を要する鋼種には2%までのNi添加を許す。
 ところが、モリブデンもすぐになくなり、タングステンへの代用が図られると、こんどは中国からタングステンが来なくなった。量的にはモリブデンの2倍を要するので絶望。
 やむをえずシリコンマンガンクロム鋼にする。これで終戦へ。

 20ミリ機銃の弾体は自動機械で加工して量産をはかることになり、快削鋼でなくばならずと、硫黄を0.1%含む鋼として、しかも20%の冷間引き抜き加工をしている。

 ブローチはタングステンやコバルト含む高速度鋼。プロペラのスプラインの径の大型化にあわせてつくった。

 飛行機用防弾鋼は、対米開戦後に研究。ニッケルクロモリが足らなくなり、いろいろ工夫した。
 S10から研究した超々ジュラルミンがちょうど零戦に間に合った。
 素材でも一瞬、米国に先行できた次第。

 合成ゴム(ブナN)は、S15に航本がドイツ駐在監督官経由で5トン買い、潜水艦で運んだのを試料として、国産化した。

 タンク用のスポンジゴムはまず一式陸攻、ついで零戦、二式大艇に採用された。開始はS18-3以降。
 戦後は材料の余りで、サンダルを作った。

 大西瀧治郎中将は松下幸之助をじかに口説いて、木製機「明星」(99艦爆)をつくらせた。日本初の全化工木製機として7機つくった。

 魚雷は末期には、銅合金でつくるべきところを、鋼材に代えたので、錆で困った。
 20ミリMGのAP弾は、高炭素高クロム鋼だが、この取得と工作が共に困難に。そこで、弾体を快削鋼(自動旋盤鋼)にし、頭部のみ部分焼入れした。APトレイサーに採用。

 ノモンハンのソ連機MGが使っていた撚り線バネの研究で、おくれをとった。海軍の20ミリMGの銃身リコイルばねは、最初の後座衝撃の強さのため、連射中にみるみるへたってくる。
 ピアノ線はS12から研究しS16に国産化というありさまだった。

 技術大尉の眞部二郎の遺書。大東亜戦争遂に此処に至る。我何をなせしや。一死以て闕下に詫び奉る。

▼網野善彦ed.『馬の文化叢書 第3巻』1995
 著者は山梨生まれの神大教授。
 鎌倉期の犬追物は、平安期には牛追物だった。
 古代の射芸の中心は歩射=かちゆみ。
 中世に、騎射となる。

 弓で相手の足を止め、馬で追いつき、組み付いてとどめを刺す。
 S28に、鎌倉材木座にて、1333合戦の遺骨発掘。馬の体高は109cm~140cmであった。
 今の馬は150~170センチで、150以下はポニーである。

 民俗学者の宮本常一は、絵巻物を見るに、東国武士ののりざまに比べ、都の貴族の乗馬姿がずっと様になっている、と。

 往々、馬を射られるのを嫌って、さっさと下馬していたらしい。
 遠矢を射るには、カブトは脱ぐ。
 近代の遠射のレコードは385mという。

 万葉の常套表現に「馬なめて」と出てくる。これは2頭をならべて、ということ。

 もともと日本に持ち込まれた弥生時代の馬が、アラブ系の血の入ったもので、それが縮んで木曽駒になっていた。蒙古馬とは別系統なのだ。
 安土時代にも鉄炮を「テツハウ」と表記することあり。

▼『馬の博物館 研究紀要 鎌倉の武士と馬』(財)馬事文化財団 1999-12
 以下、深田一元。
 蕪村「背の低き馬に乗る日の霞かな」
 今の競走馬、450~550kg。当時の馬、二百数十kg。

 ポニーに負荷をかけると、9km/時。洋種の小型馬は、22.5km/時。
 M26の日本騎兵の馬。体高143センチ、300mを18km/時で走った。
 当時のドイツの騎兵だと、体高160センチ以上。500mを28km/時で走れた。

 日露戦争の戦訓。馬体重の三分の一の負荷になれば、もう故障を生ずる。
 鎌倉武士は武装すれば100kgにもなっただろう。それで250kgの馬に乗られては、もはや、動くのがやっとである。

 幕末に騎兵集団を創ろうとしたが、馬だけの集団とは何か、理解できなかった。馬は身分を表すもので、従者が分離したら、何の働きもできない。

 高校弓道は28m先の的によく当たる。
 明治の騎兵いわく、馬上射撃は当たらない。よほど近くない限りだめ。

 騎兵が刀の刃を下にして吊るすのは、馬上で片手で抜くからである。
 刃を上にして差すのは、徒歩で両手で使うからである。
 鎌倉の刀は腰で折れていた。室町の刀は先で反る。

 以下、伊藤一美。
 手柄の褒美は、八幡太郎義家の時代から、土地かさもなくば馬。
 馬盗は斬首。
 干しワラビは馬糧だった。これを盗んだ室町のある者、一家皆殺し。

 馬から御家人を引き落とした者、相手にひきわたし、斬首。
 御家人も、60歳以上は、鎌倉で輿に乗ってよかった。

 以下、西本豊弘。
 縄文時代に馬なし。
 弥生の最も末にから、馬の骨が出る。岡山市で一例。
 4世紀の古墳時代から、でかい馬の骨が急に出るようになる。たとえば甲府。

 「甲斐の黒駒」は雄略天皇時代から出る名詞。
 魏志倭人伝は「牛馬なし」とリポートしていたが、じつはいた。

 中世には、大きい馬と小さい馬が混じっていた。
 鎌倉時代には大きい馬もいた。
 日宋貿易では、犬や猫まで輸入している。もちろん馬も輸入した。
 鎌倉以前も以後も、馬の輸入は一貫して続いている。しかし、急に馬が大きくなったと認められるのは、鎌倉時代。

 江戸時代でも百姓馬は120センチ。大名馬は139センチくらいのことも。
 金属加工人は、馬の骨も加工した。
 だから骨の出土は少ない。
 サイコロの普及品も、馬のホネ製である。
 江戸時代にも馬を食べていた。
 武蔵の鎌倉馬は、江戸馬の平均より、あきらかに大型。

 鎌倉では、鏃が束になって出土したことも、太刀が出土したこともない。なぜなら、合戦場にはすぐに拾い屋があつまって、戦場を掃除してしまったからだ。

 牛馬脳による「なめし」技術は、古代からあり。
 大腿骨は、曲がっているので、使われずに捨てる。脛骨は、まっすぐなので、よい。

 脚の九本ある奇形馬が生まれたので、外ヶ浜に追い払えという命令が出ている。
 五行説で、猿は水の性、馬は火の性。よって猿を飼って防火を祈った。

 側対歩は、在来馬におこりやすく、上下動が減るので、騎射に向く。
 絵馬は、生き馬の代わりだった。

 以下、野口実。
 大鎧は中央でできた。騎射も近衛のほうが上手かった。それを武士が真似した。
 蝦夷でしか捕れないアザラシの皮。これも武具には欠かせなかった。
 馬をたくさんもっていれば、それを与えることでかんたんに手下を増やせた。小党の忠誠は、馬で買えたのである。

 以下、川合康。
 長篠の嘘は大田牛一の「信長公記」にはなく、小瀬甫庵の「甫庵信長記」に出る。
 斉藤実盛は実際は富士川と関係ないらしい。
 矢は十数mで射るのが最もよい。

 百姓兵は馬術ではかなわないから、それの巧みな敵に会えば、すぐに引きずりおとさねばならぬ。馬で背後にまわりこまれて弓で射られるようになってはいけない。源平合戦以降は。

▼和田秀穂『海軍航空史話』S19-10
 高度2000mの低速機に対し、2万発の小銃弾を射っても1発の命中もなし。青島の話。
 1000mになると、小銃弾が、あたるようになる。
 240kg爆弾の投下安全距離は、高度950m以上。

 五十六が航本部長になってから、すごい予算をとってくれた。これこそ功績。
 大15-5初、佐世保→青島→呉淞→佐世保の親善飛行。F5飛行艇で。大西瀧治郎少佐。

 三菱神戸造船所の内燃機関製造関係社員がフランスでイスパノスイザ社に学ぶ。それで150馬力エンジンを造れるようになった。650馬力まではイスパノの真似である。
 13式攻撃機は、10年間も制式の座にあった。滞空5時間、180km/時。

 89式改 攻撃機は、鈍重な割りに高価だったことが不評の因。

 S4の艦隊の要求は、艦攻に1トンの兵装をもとめていた。エンジン劣る日本ではそれは双発にするしかなかった。空母の収容機数が減っても、運搬爆弾量が増えればよい。

 金星は初期には1回飛ばすと天麩羅状態=油まみれ。双発の93艦攻。
 S6に、設計は日本臣民に限り、外国人の助けを排除するという制令を設けた。
 技術本部長山本。96艦戦が手柄。

 S8に、沿岸偵察機、のちの中攻をつくれ、と三菱に一社指命。
 三菱はヒスパノ系水冷エンジンの技術でながいあいだ軍用発動機を独占。そこへ中島が、寿(ジュピター)とライト(光、栄)空冷でなぐりこみ。
 やむなく三菱は水冷を捨て、米穂ホワール・ウィンドと結んで、明星、瑞星、金星、火星をつくる。

 大西瀧治郎は英国に行ってヴィッカースと交渉した。
 航空魚雷は大3に、呉工廠で45センチ魚雷を150呎の起重機から落として実験開始。
 金子少佐が主唱者。佐藤鉄太郎少将(のち中将で死)も、敵の港湾にひそむ艦船を攻撃するには、どうしても飛行機でやらねばいかぬ。飛行機でやるには魚雷を研究せねばいかぬ、と。大4にファルマン100馬力にホワイトへットの14吋魚雷を積んで実験。3人乗り機に1人だけ乗せ、ガスも1時間分のみにしたが、フラフラで照準つけられず。

 霞ヶ浦のセンピルは、擬装18吋短魚雷で指導した。
 18吋長魚雷になったのは、10式艦攻でテストしてよかったので、それ以来。

 S5に呉で試製した爆発尖による実装魚雷3本を13式艦攻で『明石』に発射。2本がうまく命中。
 航行艦隊に対する演習頭部付魚雷の発射訓練は、S6以降。

▼阿部信夫『海軍読本』S12-11
 日本は日露戦争がおわったとき、いったん水雷艇を捨てた。
 なぜなら、対米海戦は外洋戦闘になるから。
 しかしロンドン条約で、駆逐艦まで制限されたので、やむなく、制限外の600トン以下で工夫せねばと、『千鳥』『真鶴』『友鶴』(S8-10竣工)『初雁』の4隻――26ノット、公称527トン、12センチ砲×3、発射管×2――をつくり、次に『鴻』(28ノット、発射管3)を8隻、S11から。

 ギュヌメール、フォンクいらい、フランス機にはモーターカノンの伝統があったのだが、さいきん、復活した。

 飛行機搭乗員は、その任務の重要なるところから、なるべく士官をもって充てるのが適当なのであるが、これは人事行政上、不都合の点が多いので、士官に近い教育を施したものを採用し、これを士官代用として勤務させる方針の下に、昭和5年以降、少年航空兵制度を樹立した(p.179)。

 予科練出身も、本人次第で、佐官まで進級できる(p.180)。

 ジュトランドでは、英の信管は瞬発しなかった。AP弾と機能する信管は独だけだった。
 日清戦争の魚雷は14インチ。射程=最大駛走距離は400m。
 日露戦争では、18吋、4000m。
 WWIでは、21インチ、1万5000m。
 いまでは2万m走る。
 英戦艦ネルソンは、24インチ魚雷をもっている。
 米は25インチをテスト中だという。しかも700ポンドの炸薬はTNTより威力のある新式のものという噂。※TORPEXが開発中であった。

 ドイツはWWI末に25インチ魚雷を使ったという。1500mを40ノットで走る。400kg炸薬。

 モントルー会議におけるローザンヌ条約のダーダネルス海峡通航に関する条約の改訂。平時は、どんな軍艦も出入りしてよし(これはもとから)。戦時は、黒海の沿岸国の軍艦しか通過できない。つまりソ連は地中海にいつでも出られることになった。

 1937-7-1現在、米戦艦は15隻。
 長門のライバルは、メリーランド、コロラド、ウエストバージニア(1921-11進水、21ノット)。40センチ砲×8門。

 米軍の航空機は陸海で分かれているが、1935-3から、機材を共通化し合理化すること、パイロット育成などで協力する組織をつくっている。民間のよいとこどりも、ここが決定できる。

▼佐藤光貞『海軍の科学』S16-5
 潜水艦の魚雷は「一発二萬圓もするものですから、……」(p.73)。
 イタリーでは「人間魚雷」が研究され完成されている……らしい(p.121)。

▼南波辰夫『飛行機の歴史』S18-3
 ロールスはランガドック卿の三男。ロイスは弟。どちらもケンブリッヂ出。自動車から始めた。
 ロールスは気球家。もっとも初期の英人パイロットでもある。
 34歳で墜死。英人初の航空犠牲者になった。

 ホーカーは名飛行家。
 ソッピーズ社のテスパイだった。みずからメーカーを起こし、空中で病死した。

 欧州にはアルプスがあり、天候が変わりやすい。だから安全第一の飛行機ができた。
 米国は都市が散在。地上交通との競争上、スピードが命。双発高速旅客機となり、それが大型爆撃機に直結した。

 P-38は1939-2-11に米大陸を7時間43分で横断した。