平成16年度 近畿地方部隊見学

(2005年3月24日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

兵頭流軍学 開祖 兵頭二十八先生 より
 防衛庁オピニオンリーダーおよび防衛政策懇談会のメンバーによる平成16年度近畿地方部隊見学(05年3月15日~16日)の、写真によるご報告である。今回は空自・小牧基地と海自・舞鶴基地を回った。

小牧 レポート

青色塗装のC-130は、イラク行き用に改造中のもの。黒枠の中のレンズは、地対空ミサイルのロケットモーターが発する赤外線を探知して警報するIRセンサー。これが計4個ついていた。
同じく。空自のC-130部隊はすべて小牧所属。イラク以外にも新潟やらインド洋やら予定外の使用が増えて絶対的な数不足に陥っていた。中東にはピンチヒッターでU-4を飛ばしている。そこで今回の視察もCH-47での移動となった。
機尾にも2方向に向けてミサイルセンサーが付けられていた。中央の小さな2球は尾灯か。

 民航がセントレアに行ってしまったので閑散とした小牧基地(=旧名古屋空港)。この結果、困ったことになった。ひとつはタラップなどの大型機用地上施設も撤収されたため、政府専用機が小牧を利用できなくなってしまった。もうひとつは、三菱工場の戦闘機の音が目立つようになってしまった。当地の住民は過去の墜落例から戦闘機にだけは不寛容らしい。ちなみに日本がC-17を買ってもしょうがない理由が、この地上ファシリティの不備という。千歳と百里くらいでしか運用ができぬのでは困るわけだ。

 イラク名物の砂嵐にC-130が耐えることは実証された。では次期輸送機C-Xのような大口径のターボファンの場合は砂嵐によるトラブルは考えられないのか? ターボプロップで問題なければ、ターボファンでも問題ないとのことであった。また次期輸送機が双発になることについても輸送関係の○○隊長さんにこっそり訊いて見た。隊長さんはC-Xの双発には反対で、できれば四発にしてくれというご意見だったんだそうである。なんとなれば、空自の輸送は、ランニングコストや運航回転率だけ考えればよい民航と違い戦時想定である。エンジンに被弾する場合がある。そのとき、2発の半分を失うのと、4発の1/4を失うのとでは大違いであると。また昔C-1ベースの改造機でUSBとかいって、主翼上面のそれも前縁にエンジン排気口をもってくるという特殊なエンジン配置でコアンダ効果とやらにより揚力を倍増せんとするSTOL実験機があった。斯くすれば下から見た赤外線も減るし騒音も減るから良いことづくめなんじゃないの──と思っていたが、いつの間にか計画は消滅した。その「ダメな理由」も今回聞かせてもらえた。離着陸時の、エンジンの噴流によって強制的に揚力を増した低速飛行状態のとき、もしそのエンジンが事故または被弾によって止まったら…? たちまち翼上面で空気剥離が生じ、とてもリカバーはできないのである。

主翼下、燃料ポッドの上に「チャフ・オンリー」と書かれたカバーがある。イラクで使用するときはこのカバーは外す。
主翼下の胴体の横には「チャフ・オンリー」と「フレア・オンリー」と書かれたカバーが並んでいる。これらカバーを外せば、射出装置が剥き出しとなる。
機首下に増設された風除けに注目。ここにも敵ミサイル欺瞞手段の放出口がある。チャフかフレアかは聞き忘れた。スマン…。

 コクピット内に、敵の地対空ミサイルの接近を警報する計器が二つ、増設されていた。どれがその計器であるかは書かないことにする。

  パイロットの後方、機関士席の頭上に仮眠ベッドが…。まさに空とぶ長距離トラック。たとえばC-1だと内地から硫黄島まで飛んで気象が悪くなっても引き返すことは不可能だが、C-130ならば余裕で他の飛行場に向かえるのだ。

 C-130の荷室にはトイレも設けられていた。もちろん空中から垂らし飛ばすことはなく、タンクに回収する。加藤健二郎さんは実際に座って調子を確かめていた。

舞鶴 レポート

 舞鶴の海自用のヘリ飛行場にCH-47が降りた。左端に写っているのはいつも防衛庁の視察でご一緒する應蘭芳さん……といわれても若い人は分かるまいが、TV実写版『マグマ大使』をリアルで視ていた世代ならば興味があろう(ググれ)。なお画面の奥には、シナからの輸入石炭を燃やす火力発電所を建設するために架けた橋が見える。若狭湾は原発銀座で特別警戒地区になっているはずだが、まだ電力が足りないらしい。

 管制塔から『のと』が見えた。本来なら地方隊を置くべき新潟が軍港でないために、舞鶴地方隊が西は島根沖、東は秋田沖までもカバーしなければならない。いかに日本は大東亜戦争後も太平洋側を「正面」視していたかが分かる。不思議な謎だ。

 総監部の廊下は軍艦式に配管が剥き出し。じつはこの建物は大正14年に江田島から移転した機関学校のもので、ネイバル・ホリデイで計画中止となった軍艦の材料が転用されている。舞鶴は曇りの日が多いゆえ米軍艦上機の空襲もほとんど受けず、こうしてそのまま残っているわけ。天井がやたら高いのは、海軍士官の浩然の気を涵養するためという。我々はこうした説明を、水兵で入隊し、砲術ひとすじタタキアゲで三佐になった方から受けた。昔ならば「兵隊元帥」と呼ばれた特務少佐ではなかったか。

「母は来ました今日も来た」──舞鶴は終戦後に大陸からの引揚げ船を迎えた港で、ここはそれを記念した博物館。入港船は岸壁や桟橋につけさせずに、沖泊させてランチで上陸させた。すなわち日本人を装った朝鮮人などを勝手に上陸させぬ用心だ。検疫で伝染病を疑われた人は隔離施設に収容された。将来の半島有事でもこの心掛けが必要だろう。博物館で再認識したのは米軍がジャップの引揚げのためにリバティ船を100隻も貸してくれたんだということ。典型的なサイズは7200トン、148×19m、ここに3300人くらい乗せて運航できた。もともと2週間で1隻造ったというから恐れ入る。これと日本の戦標船を比べればあまりに格差があり、彼我の統制の質の違いを思わざるを得ない。

SH レポート

 次に艦載の対潜ヘリSH-60を見る。中型ヘリは天井が低くていかにも窮屈そうであるが、SH-60が3時間を越えて飛び続けることはまずないゆえ、苦にはならぬとのことであった。

 両側のオーディオスピーカーのような黒いものはEMSで、敵潜水艦などが出すわずかな電波の放射を探知する。後方にもあり全方位を警戒できる。整備兵が触っている円筒はデータリンクの送信装置で、機体後部にもある。指向性の強いマイクロウェーブらしく、リンク中は2m以内に近寄るなと警告文が書いてあった。

 左舷。整備兵の左手が触れている翼は、次のK型では大きくなって、そこにヘルファイアが吊下される予定。

 左舷後方に向いたEMS。その右側の白いドラムはフライトレコーダーで、ヘリがもし海没してもこいつだけは分離され回収されるように外部に飛び出している。

 ふつうヘリをダッシュさせるには機首下げの姿勢になるのだが、この水平尾翼が自動的に角度を変えることでSH-60の機首は水平を保つ。尾部ローターの回転軸はやや傾斜しており、これにより尾部ローターも揚力を稼ぐ。

 右舷のこのダーツのようなものは、ワイヤーで吊るして海面上を舐めさせ、地磁気の変化を捉えるMADである。既知の地磁気データと違うところがあれば、そこに敵潜がいる可能性がある。

 後席の1人分を占めているディッピングソナー。パッシブのソノブイで敵潜の位置を絞った後、ホバリングしながらこれを、横方向に最も遠くまでアクティブ・ピンが届く水深まで下ろしてやる。確実な探知半径は2.5kmで、もしこの範囲に敵潜が在れば決して聴き逃すことはない。そしていったん探知した敵潜をSH-60がロストすることもありえないとの話であった。アクティブの周波数は機ごとに違っているから、敵潜からも、何機のヘリでどのように絞り込まれつつあるのか、情況の見当がつくという。ちなみに次期SH-60のK型はディッピングソナーが低周波に変わる。それはディップさせると唐傘の骨のようなものが開くのだという。なおP-3Cと違い、SHは機上でソノブイの解析ができず、データを母艦に中継して解析してもらわねばならない。ソノブイは1本50万円くらいらしい。ディッピングソナーはSH-60が自機で解析できる。

うみたか レポート

 46ノットで爆走できるミサイル艇『うみたか』。このクラスの艦長は少佐級と聞いた。なにしろ幹部は4名しか乗ってないのだ。もともと対ソ用の計画艦だったから、北鮮のボロ船相手には勿体無いような強力兵装だ。後部に4発積んだ対艦ミサイル(キャニスターには90式SSMとレタリング)はハープーンの改造品だという説明をうけた。本当ですか? ちなみに射程は「100km強」とのこと。

 高速航行時に舵をきると、ハルはいったんは内傾するが、じきに外傾するという。最大速度で最も急激な舵をきっても転覆しないことは試験済みだという。計算上、70度くらい傾いても転覆しないという。おお、怖…。

 椅子は高性能なスプリング・クッションが効いている特別なもの。波に乗ったときの上下動がすごいのだろう。5点式ハーネスで固縛するようだ。ちなみに食堂の椅子もガッチリした肘付き椅子であった。

 通路は狭かった。ベッドは3段(最新護衛艦は2段)。ただし水兵の体格が向上しているので面積は昔より大。キッチンはなく、3日分のレトルト加熱食のみ。これが護衛艦であれば2週間分の生鮮食糧を積み込む。「1000浬シーレーン防衛」を標榜した折、1000浬の作戦往復は2週間に相当すると計算されたからだ。このミサイル艇内にも神棚と公衆電話(船舶電話)があった。

 複合型作業艇。28ノット出るらしい。その真下あたりが補機室で、機関科員がエンジンを遠隔監視していた。

 煙突の後ろ側にガスタービンの吸気グリルがある。機関が冷えている状態から安定アイドリング状態にするまで約10分、その状態で静止から40ノット航走までタッタの30秒で加速できるという。ちなみに海保も40ノット出せる船を調達しているが、エンジンはドイツ製の高速ディーゼル。国産ディーゼルには40ノットは無理だそうだ。出力は海保のが小さいが、これは兵装が軽いため。

 ウォータージェットの首振りノズル。これが3個並んでいる。46ノット出すときは3つのエンジン(つまり3つのウォータージェット)を使うが、33ノットまでは外側の2基だけでいい。また27ノットまでは1罐でOK。さらに、3つのうちのどのノズルでも、18ノットの経済運航ができる。後進はスラストリバーサーによる。吸水口はミサイルの下の艦底にある。ウォータージェットの弱点として、小さな流木をエンジンが吸い込んだ場合にタービンが破損することがあり得る。ゴミだらけの大陸沿岸で作戦しても大丈夫だろうか?

 甲板下、オットーメララ対空自動砲の基部。ボトリング工場のような揚弾機である。ここに76ミリのタマを80発セットしておけば、最大発射速度で1分足らずで撃ち尽くす。そのあとはまた人力で給弾しなければならない。砲身はもちろん水冷。この兵装は世界中に輸出されておりカタログも公開だから、こんなところを我々に撮影させてもOKなのだろう。

 同じ岸壁に舞鶴地方隊の指揮下には無いイージス艦『みょうこう』がいた。これをミサイル艇の赤外線カメラでズームアップしたところ、SPYレーダーが煙突の次に白く光って目立つ。つまりかなりの熱量だ。聞けば、SPYレーダーは水冷しているのだが、その結果、こんどは結露が集塵機のように作用して、薄汚れた「涙」が垂れてみっともなく、その拭き取り掃除が手間だそうである。


管理人 より
語るべき言葉は全て語られている。私などがもし何かをあえて付け加える事を許されるならば、それは黒く塗りつぶしているのでわかりづらいだろうが、「とんびに注意!」(舞鶴4)の笑顔が、素敵過ぎる事である。

偶然でかけた先島群島の現況

(2004年11月28日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭二十八先生 より)
04/11/18~11/22にかけまして、兵頭はたまたま先島群島方面に女連れで小旅行をいたしました。以下はその写真リポートであります。


宮古島

 宮古島の西海岸にある「砂山ビーチ」から西方海上の伊良部島を望む。伊良部島の西隣(つまり写真だと向こう側)に下地島が、ほとんどくっついて一体となっている。この伊良部島まで宮古島から「伊良部架橋」を建設することも決まっている。2005年着工で、8~10年後に開通見込み。ちなみに伊良部=下地島の電力は宮古島の火力発電所から海底ケーブルで供給されている。

 宮古島の西平安名崎から伊良部島の東海岸の南半分を望む。潮流は右から左に流れているように見えたが、あるいは季節風のせいかもしれぬ。11月から2月、つまり冬には北風が強い。この地点から東京都世田谷区まで1900km、室蘭までは2420kmである。どちらも姉妹都市らしい。

 同じ西平安名崎から伊良部島の東海岸の北半分を望む。宮古島は高い山がないので台風が来るととんでもないことになる。観光名所であった風力発電塔が、2003年9月の台風でことごとく倒壊してしまっていた。

 バスの中から宮古島の島尻地区にある国交省・大阪航空局の民航用管制レーダーを撮影。2000m滑走路のある宮古空港の北方の、なんとも低い丘上に建っている。手前の畑はサトウキビ。

 先島群島といえども冬場は裸で海で泳ぎたくなるような高温ではない。旅行中の最低気温は21℃、最高は26℃くらいで、やむなくホテルの温水プールを利用した。

 こちらは航空自衛隊第53警戒群の防空レーダー。
 BADGEシステムの日本最南端で、空港の近くの島内最高峰を占位。地元民はアイスクリームと呼び、子供はメロンと呼ぶ。もともとレドームは2個あったが、昭和41年の第二宮古島台風で1個飛ばされたという。これまでのMax風速は85.3m/sであったとか。

下地島

伊良部島と下地島の間の狭水道。ゴムボートくらいでなくば通航できそうにない。
下地空港の3000m級滑走路の北端からさらに海中に延びる誘導灯の列を見る。
同じく。左脇の通路は点検用で人が歩けるのみ。

 下地空港の滑走路の北端のフェンス。画面左側に滑走路が延び、右側に誘導灯が並ぶ。この北端部分はもとから陸上のようだが実は埋め立てたものだ。

 そのフェンスによじのぼって滑走路の南端方向を望遠する。見ての通り防衛基地を造るには十分な地積が余っている。滑走路長が2700m以上あればF-15クラスの重戦闘機を運用可能だ。そこでシナはこの島に空自や海自の航空部隊が展開することを極度に恐れ、核潜水艦で小泉内閣を恫喝したわけである。ちなみにこの見物中、飛行機の気配も、警備員の気配も無し。

 この二枚は撮影地点をしかと思い出せぬ。撮影時刻は夕方ですが、なにしろ経度が違いすぎるので、明石標準時では感覚がおかしいぞと思いました。

滑走路の北半分、その東隣の道を南から北へタクシーで走った。じつに下地島はサトウキビ畑か未利用地以外は何も無かった。だから観光地でもない。それが良かった。
滑走路と西海岸に挟まれた道路を北から南へ走る。ここは数年後にはすごい警備厳重になっていそうな予感がするぞ。
滑走路の西脇の道から西方を見れば、夕陽が沈まんとす。この方向には尖閣諸島があるわけだが…。
下地空港の滑走路の南端から北を望遠する。

 二枚とも、滑走路の南端からさらに誘導灯列を写したもの。南端部分には埋め立て工事はしていない。

多良間島

宮古島と石垣島の間にある多良間島。写真で島の南海岸中央に長さ800mの旧多良間空港滑走路が見えている。ここには9人乗りのアイランダー機が離発着できる。

 多良間島の西海岸に2003年10月10日にオープンした新多良間空港の1500m滑走路を俯瞰。39人乗りの旅客機が利用できるようになったのだが、シナはここを台湾空軍や米軍の小型戦闘機が利用するのではないかと邪推する。じつは米国の「ランド研究所」が数年前にそういう強調をしてくれちゃっていたのだ。そこでシナ原潜は、この多良間島と石垣島の間を04年11月10日に領海侵犯してみせ、日本人を核恫喝した。写真だと、島の左側の海中を、手前から向こう側へ通航したことになる。

石垣島

 石垣島には八重山列島のハブ港がある。しかし肝心の石垣空港の滑走路長が1500mと、大型ジェット旅客機にはギリギリの長さ。このため羽田や新千歳行きのジェット旅客機が必要な燃料を搭載した重さでは離陸できず、いったん那覇を中継せねばならない。那覇空港の負担を減らすために2000m級の新石垣空港の建設が進んでいるところだが、これにシナの手先の環境団体やアカ新聞が噛み付いた。シナはここも台湾征服作戦の抵抗拠点になると、妄想をたくましくしているのだ。

 石垣港には海上保安庁の最南端の拠点がある。しかしシナは原潜を使うことで「やーいおまえらには対潜装備なんかないだろ~やーい」とせせら笑った。これが許せるかい諸君?

 しかしシナ潜には恐るべき天敵が居るのである。それが「グラスボート」(笑)。船底がガラス張りになっているので海底の珊瑚や熱帯魚がよく見える。先島海域にはこんな観光船やダイバーが年中ウヨウヨしているから敵性潜水艦は浅い海面(たとえば下地と多良間の間)や昼間の沿岸接近を避けなければならない。たぶん実戦では悪天候だけがシナ潜の頼りじゃなかろうか。

 石垣港からは先島の各島へ高速客船が頻発している。ほとんどが浅海面にスクリューのひっかからないウォータージェット推進で、20ノット以上は出すのだが、この通り、船尾にはオープンデッキがあるというおおらかさだ。ベンチに座っていると塩まみれになること請け合い。

西表島

 西表島の船浮湾は国際避難港に指定されている。そのため8基の係留ブイが湾内にある。北向きの湾口は狭く、しかもリーフで外洋の荒波から守られているのに、係留ブイの下の水深は80mと大型船にも十分。ちなみに日本海海戦の前に東郷平八郎はこの港に上陸してつぶさに視察をした。彼がGF司令長官に抜擢されているのも、そんな周到さがあったためだろう。「切らずに済んだカード」を東郷は無数に持っていたのだろう。

 西表島の西岸の船浮湾に面した船浮港には旧海軍の大戦末期の築城が一部保存されている。中央に見える小さいトンネルは、より大きな交通トンネルから枝分かれしているもの。穴を出た先の波打ち際に機銃坐があって、少なくとも1機の米軍艦上機を湾内に撃墜したとされる。

 ちょっと見難いが、小トンネルの右側に本トンネルがある。それを抜けた先に、旧海軍の横穴陣地が点々と残っているのだ。

旧海軍の通信所横穴壕。海底ケーブルで石垣島と結んでいたらしい。奥行きはない。
旧海軍の発電機室用横穴壕。奥行きはない。
旧海軍の弾薬庫跡。やや奥行きがあって、コウモリの巣窟である。懐中電灯で天井を照らすとすごいことに……。

 旧軍の特攻艇の待機所跡が2箇所、ロープで結界されて観光客に示されている。けっきょく米軍の上陸が無さそうなので、旧軍はせっかく構築した陣地をすべて放棄して石垣島に引篭もった。西表島は無防備で終戦を迎えたわけだ。おそらくこんな経緯からも、先島群島には沖縄本島のような反日的ムードが無いのだろう。この住民をシナや反日アカどもの餌食にさせるな。いまこそ沖縄本島の陸海空自衛隊をこぞって先島群島に転進させるべきである。

船浮湾口に浮かぶ無人島の内離島に上陸。ここはかつて炭坑があり、今も横穴やトロッコ・レール跡などが残っている。

(管理人 より)
 諸君、試みに問う。新婚旅行とは何処へ行くべきか?決まっている。先島群島方面だ。それ以外の何処へ行けというのか?其処以外の何処があるというのか?何処にも無い。何処にもあるわけが無い。それは絶対の真実だ。子猫が愛らしく、空を征く鳥を人が何時までも追い続けるように、それは至極当然の事実だ。待っている。神代の時代より多良間島は、下地島は、先島群島は新婚旅行に訪れる人々を待っている。ファインダーに覗かれる日を、シャッターが切られる音を心待ちにしているのだ。だから、兵頭先生が新婚旅行で航空自衛隊第53警戒群の防空レーダーを撮影したとしても、欠片一つも間違いもおかしな所も他の選択肢もない、神ですら違える事のできない必然的行動なのだ。

『日本海軍の爆弾』追補

(2004年7月16日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)

 魚雷調整宜候!
 約2000部が印刷され、1999年4月29日に都内のマニアックな書店に初登場、しかしほとんど人様の目に触れることもなく絶版となっております四谷ラウンドの『日本海軍の爆弾』が、近々「武道通信」のデジタル書籍ラインナップに加えられるらしいので、著者が出版後に余白に入れている書き込みをUPしようと思います。
 それにしてもPDFではなくバイナリーで打ち直しとは聞いてなかった。どなたがタイプ入力したんでしょうか。あんな数字だらけの本なのに、入力ミスは無いんでしょうか。誤植に寛大な「武道通信」さんですから、皆様この点、ご承知置きくださいまし。著者は校正はしておりません(しろと言われても困るから全部PDFで頼んであるんだが……)。
 なお武通からデジタル化されております小生の絶版本の印税は、すべて『並べてみりゃ分かる 第二次大戦の空軍戦力』で夜逃げした某G出版から印税の支払いを未だに受けられずにおられる当時の我が共著者の方々の口座へ速攻振り込まれる仕組みとなっております。満額には依然ほど遠いようです。

○ アメリカ合衆国戦略爆撃調査団『日本戦争経済の崩壊』(S25)によると、日本本土への投弾量は161425トン、ドイツへは1356808トンだと。

○ 関根一郎『飛行船の時代』(H5)によると、初のツェッペリンのロンドン爆撃は200kg爆弾を用いた。

○ 陸軍人の江橋英次郎の『航空魂』によると、海軍は大正2年6月に航空機から爆弾投下試験をしたのが日本初(63頁)。青島では、はじめに小さい気球をつけて投げつけ、弾頭が下になるよう図ったが、成績きわめて不良。鉄板矢羽根にあらためた(71頁)。

○ p.14「それとおぼしき写真が1枚」→「それとおぼしき写真が数枚」

○ 独のゴータはMG×3梃+50kg×7個+12.5kg×6個を積めた。ツェッペリンはその10倍という。ギガントになり初めて300kg爆弾を携行可に。

○ p.15 仏の航空隊は、他に100ミリ海軍砲弾も航空爆弾化している。炸薬はメリニットまたは過格魯兒酸塩。1915年に、それまでの手投げが、機外懸下となり、40kgの155ミリ砲弾も可能になった。

○ 福田敏之『姿なき尖兵』(H5)によると、昭和12年11月の上海で、シナ軍のカーチスホーク複葉戦闘機が、15kg爆弾を夜な夜な落とした。

○ p.33 「信管と発火装置が炸薬を完爆」→「信管が炸薬を完爆」

○ N.Friedman(1983)によると、ミッドウェーで米軍の使った蓋然性のある100ポンドGP爆弾Mark I は、全重52.664kg、炸薬29.51kgであった。また同じく500ポンド Mark 9は、全重222.9kg、炸薬146.6kgのライトケース爆弾であった。また同じく1000ポンド Mark 9は1944まで使われているライトケースだが、全重464.67kg、炸薬331.87kgであった。この最後のものは、計算すると炸填率71%ということになり、p.52数値と齟齬する。

○ 97式6番陸用爆弾は、沖縄の自衛隊駐屯地に「旧陸軍」の爆弾と誤記して実物が展示されていたのを見た。その解説板には、20×102センチ、56kg、炸薬23kgとあった。

○ 昭和16年時点で既知のドイツの250kg爆弾は、炸薬112.5kg、信管は側面に2個あり、頭部と尾部には無い。

○ p.42 カネオヘは岬であり、戦後は海兵隊の飛行場があるという。安部英夫氏指摘。

○ 澤地久枝『記録 ミッドウェー海戦』(S61)には「97式80番」と陸用爆弾の年式が書いてあるのだが、海軍文書には見えない。

○ p.46 「爆撃機中隊」→「爆撃中隊」

○ p.47 サラトガとレキシントンが戦艦改造であったがヨークタウンはそうではなかった。

○ p.50 1行目の「化学剤」とはアセトン溶液で、そのガラスのアンプルが割れてから5分~144時間で爆発した。 Mkは米海軍用。Mは米陸軍用。ANは共用。 またN.Friedman(1983)には600ポンド爆弾に相当するものが見えず、代わりに 550ポンドMk Iが見える。

○ p51 初期ラバウルにはB-17が250kg×6個の兵装でやってきたそう。

○ 那覇駐屯地に「米国500ポンド普通爆弾」あり。36×120センチ、全250kg、炸薬119kgと説明パネル。また「米国250ポンド普通爆弾」もあり。28×24センチ、125kg、炸56kgと。また「米国220ポンド破片爆弾」もあり。83×20センチ、110kg、炸70kgと。また「米国750ポンド破片爆弾」もあり。41×163センチ、375kg、炸175kgと。この最後のものはフリードマン本には見あたらず。

○ p.59 鹿屋などの昭和20年5月頃の戦訓では、地上火災機の搭載爆弾は8~9分で誘爆する。但し信管付きか?

○ p.60 「完全性の」→「安全性の」

○ p.60 ある史料とは、今日の話題社の本か、艦長モノのどれか。

○ p.70 那覇駐屯地に「99式6番通常爆弾」あり、23×108センチ、63kg、炸32kgと。ただし「陸軍」用と誤って説明してある。

○ p.72 『別冊第一巻』→『別冊 第一巻』

○ p.74 99式25番通は那覇にもあり、30×173センチ、250kg、炸60kgと。

○ p.87 イタリアのフィアットBR20は、1トン半爆弾×1を搭載、1936から飛んでいた。

○ p.98 『金剛』も36センチ級。

○ p.99 「当然、信管も」→「当然、5号爆弾の信管も」

○ p.102 「49.62kg」は、どうも 496.2kg と思われる。

○ p.104 那覇に「500ポンド半徹甲爆弾」の展示あり、30×120センチ、250kg、炸66kgと。 また昭和19年2月17日のトラック空襲で、清澄丸に中った爆弾は艦底で爆発。明石に中ったのは下甲板まで達して不発、と。すでに遅延式か?

○ p.116 「しかも簡単確実な照準機でも当たる」→「しかも簡単な照準機でも確実に当たる」

○ p.120 「まず平塚出張所で」→「まず工廠の平塚出張所で」

○ p.121 藤枝静男の小説『イペリット眼』は、平塚海軍火薬廠に眼科医として勤めていた頃の見聞に基づく。イペリットのことを「徳薬」と秘称したと。工員は3日で肺に違和感を訴え、やがて指の股に外傷が生ずる。

○ p.124 2003年に井戸汚染だと騒ぎになったのは、この「鹿島の海岸」。

○ p.124 「昭和14年まで盛んに撃った」→「昭和19年まで盛んに撃った」

○ p.133 牛用生物兵器は研究していたとの戦後文献もある。怪しいものだが。

○ p.140 ねじれ中翼もあり。

○ p.151 このランチャーの写真が、防研蔵『噴進兵器参考書』(館山海軍砲術学校編・S20-3)に載る。6.3mもあるようにはちょっと見えない。また同史料によると、仮称3式1番28号には、2型、2型改1、2型改2 というサブバージョンがあった。いずれも着発信管付き。炸薬0.580kg(98式爆薬)、射距離500mで、半数必中界は半径9mとある。

○ p.153 6番27号を2弾斉射した爆発状況の写真も『噴進兵器参考書』にある。炸薬は1.2kgだと。

○ p.159 「実用弾頭部」→「実用頭部」

○ p.170 99式6番2号は那覇駐屯地に実物があり、24×107センチ、全64kg、炸39kgと展示されていた。

○ p.171 海軍上等整備兵曹で三座水偵の磁探員だった広瀬昭二氏よりのお手紙にて、理由は後者だと判明。6番は両翼に1発づつ。ところが25番は胴体に1発のため、雑音源となってしまうのだった。なおまた、磁探は後部座席スペースも使うので、そこの金具はすべて取り外し、木箱を椅子とし、磁探員自身は落下傘も持たずに搭乗したそうだ。

○ p.178 Vulcanized fiber は19世紀末英国の発明で、木綿ぼろを抄造した原紙を塩化亜鉛液に漬けて表面を膠化させたものをラミネートする。日本では大6からつくっていた。錆びず、カビず、燃えず、油を通さず、電気絶縁体である。北越製紙の長岡工場は「ファイバー」をつくっていた。皮革やゴム、金属の代用品だった。防毒マスクの箱、物料投下筒、防弾タンクに使われた他、海軍航本は200リットルのドラム缶と20リットルのジェリ缶を昭和18年からつくらせた。また王子製紙は陸軍航本に頼まれて、昭和19年5月から江戸川工場で紙製のドラム缶をつくった。竹のタガをはめたという。

○ p.179 『噴進兵器参考書』を見ると、どうも1番9号は、28号の転用らしい。炸薬900グラム、信管0.2秒。水偵の翼下につけた写真あり。

○ JR爆雷。全長1850、径360、円筒爆弾型。尾部に撃発信管。水圧安定装置、検磁棒付き。0.2秒信管で、40m以上または浮上中の潜水艦に対し撃発もする。8m/s で沈んで行き、磁気変化を感じて爆発。130mで自爆。炸130kg、全300kgだった。航空機は150ノットからでも投下でき、Max高度100mだった。25番積める飛行機なら2個積めた。

○ 昭和11年に日露戦争を回顧した本の中で陸軍人いわく、当時「焼夷弾」という言葉は無く、「延焼弾」と言った、と。

○ 高度5000mからヱ式20ミリMG(旋特1型)を撃つと、そのタマは22.22秒で地面に落ちてくる。

○ 1916春、海軍大尉ルプリュールは、対気球焼夷火箭を発明。1機が火箭8本を同時に発射。それを2~3機編隊でやる。1916-5-22ヴェルダン上空で気球攻撃開始。その後、ロケットは焼夷弾に代わった。陸軍航空本部編『仏軍航空戦史』(大14)より。

○ 英はWWIIで工場地帯用の125kg焼夷弾、および1.7kgのエレクトロン、テルミット弾(ベルリン用)を落とした。他に人の背丈ほどもある油脂焼夷弾も。

○ p.187 とうじ、爆弾の直径の3倍厚の鉄筋コンクリートは、防弾力があると考えていた。2m厚で1トン爆弾に耐える、と。

○ 昭和14年5月の重慶は木造が多く防空力もなくわずかな爆弾で大損害をうけた。第二回空襲は1年後。

○ p.191 なぜ「火四弾」を陸軍文書で「カ四弾」と書いたかというと、カタカナならば支那人は読めまいと考えていたのである。防諜上、よくこういうことをした。国際宣伝に利用され易いデリケートな兵備だと懸念していたのか、非常にすごい秘密兵器だと考えていたのかどうかは、分からない。

○ p.194 スイス人が1940-3にフィンランドを調査し、人の背丈の1.5倍あるソ連の集束焼夷弾の写真を撮っている。尾翼は折りたたみ式で、うちわ状に開き、旋転力を与える。子弾は1.5kgでHEも混合。フィ人呼んで「モロトフのパン籠」と。

○ スペイン内戦では、非ハード目標、市街などには、2~3ポンド焼夷弾をバラまいた。

○ p.199 米軍戦後資料によれば、2式6番21号の子弾は重さ1kg×36個である、と。充填炸薬量はやはり分からない。

○ p.204 「その後どうなかったかも」→「その後どうなったかも」

○ p.205 「昭和18年4月13日~~~開発しようとしていた。」→トル。これは陸軍の話であって、関係が無い。

○ p.206 草鹿龍之介『聯合艦隊』S27-4の124頁によると、草鹿→空技廠の和田中将→浅田という流れだったと。着発では対飛行場制圧ほとんどできなかったという実感から。

○ p.209 これも『聯合艦隊』の124頁によると草鹿がそもそも発案したのだという。

○ B-26Bは、先行するA-20と同様に、胴体巾を最小限に抑えたデザインであった。ただしA-20のコクピットが完全ワンマンと徹底していたのにくらべ、B-26Bでは右隣の爆撃航法士をすこし後ろに下げる、梯状並置のレイアウトに妥協していた。

○ p.213 「駆逐艦×8隻」→「駆逐艦8隻」

○ p.214 水木しげるのマンガが正確ならば、沈められる前に軽機と小銃も撃ったらしい。

○ p.215 「そのまま利用できる点にあった」→「そのまま利用できる点に独創があった」

○ p.220 「甲板を掠めたり」→「甲板をかすめたり」

○ p.221 「無意味化したのも事実であった」→「無意味化したのが実態であった」

○ p.225 「92式250瓩」→「92式500瓩」

○ p.230 「増槽を設けるいう」→「増槽を設けるという」

○ p.231 『破竹 海軍経理学校第八期補修学生の記録』(S47)によると、昭和19年7月に一航艦参謀長・小田原俊彦大佐は戦闘機に反跳爆撃させようと考えていた。10月に大西中将が一航艦司令長官として比島に来るやただちに爆戦特攻の決意を語ったと。

○ p.238 なぜ海軍が先に特攻する必要があったのかについては、鳥居民氏の洞察が素晴しく冴えている。小著を書いていた時点では、まだ鳥居氏の全著作に目を通すことができなかった。

○ 『破竹』694頁によると、721空は、1式陸攻×2隊=72機、整備員までいれて7000名以上となり、戦力発揮上かえって不利だった、と。

○ p.241 安積幸二『火薬』(S17)によると、黄色薬は蒸気で溶かしたあと紙型に流し込み、そののち砲弾/爆弾に入れ、紙と金属の隙間にパラフィンを流し込んだ。つまり、蝋が使ってあったら、それはTNTではなく黄色薬が主薬なのだと疑える。黄色薬=下瀬薬=ピクリン酸である。特薬(毒ガス)の「きい」と混同してはならない。

○ p.242 「一資料によると~~~計画していたのだろうか。」→トル。んなこたーない。爆管は、桜花そのものを母機から分離するときに用いた。今のH-IIロケットがSRBを切り離すのに使っている爆発ボルトのご先祖。ただし宇宙では導爆線、大気圏内では電気が点火に使われる。

○ 長射程・大推力を可能にするコンポジット推薬は、高分子化合物に過塩素酸アンモニウムを混ぜてロケットの燃焼室に流し込むもの。日本は戦後の「カッパ6型」ロケットで初めて国産した。

○ p.246 銀河で離陸するためには桜花の頭部の長さを縮める必要があったのだ、とするのは、J.Cohen『戦時戦後の日本経済 上』(邦訳1950)。……たぶん間違いであろうが……。

○ p.251 車輪離陸の五〇型も考えたが、滑走路が短くてダメとされたと、コーヘンは書いている。なお修武台記念館に桜花一一型の実物があるとの噂をこの本の執筆時点で聞いていたが、その場所が分からず、また見学不可能であろうと思い込んでいた。

○ 『噴進兵器参考書』によると、「特殊小型爆撃機 小型」「特殊小型爆撃機 大型」なるものあり、どちらも炸529.9kg有し、8.3~9.2秒ロケット推進。無線操縦で敵爆撃機編隊に突っ込ませた。もちろん無人。

○ 陸軍航空本部『と號用爆弾及と號機爆装ノ栞 其の三』(S20-4)によれば、キ67(飛龍のこと)は、80通×2 または 500kg×1 または 250kg×3 または 25通×3 または 400瓩破甲×2 または「一、六米櫻弾」×1を積むとある。つまり桜弾(『日本航空機辞典』によれば重さ2900kg)は、径が1.6mだったのか? 尚、他に桜弾を積む陸軍機はないらしい。

○ p.254 安瓦薬は日本独自の爆薬である。なお、陸軍の航空爆弾は別な本にかなり詳しい数値表を載せたと記憶している。その書名失念。

○ p.256 「全100kg」→「炸17.100kg、全101kg」

○ p.256 87式は、昭和3年1月27日制式である。

○ p.257 88式4キロ演習爆弾は昭和4年6月3日制式。塩化第二錫は発煙剤である。

○ p.258 92式15キロは制式決定が昭和8年3月29日。

○ p.259 陸軍のガス砲弾も「92式」以降の番号である。きい1号(イペリット)と、きい2号(ルイサイト)を50:50でまぜているようだ。制定は昭和9年以降。

○ p.259 92式250キロの制式は昭和8年7月10日。炸薬は黄色薬または茶褐薬で、前者の場合パラフィン1.0kgが含まれる。

○ p.259 92式500キロの制式は昭和8年7月11日。これも「と」号にそのままでは使えず、弾頭接続部に補強帯を巻き、弾尾に補強環を装した改修型とする必要があった。500キロは「と」号に使うときは翼を切断する、とも。炸薬量にはパラフィン4.1kgを含むそうなので、ピクリン酸か。

○ p.260 93式は10キロの誤りではない! 防研蔵の「ソ軍関係史料」で判明するが、小粒薬が0.043kg入っているだけなのである。制式は昭和9年7月18日。

○ p.260 94式10キロのセメントは「マグネシウム系」ともいうのだが、それは「タタキ」のことだろうか。小粒薬は0.550kgである。昭和9年6月30日制式。

○ p.261 94式50キロは最近も沖縄で掘り出されている(朝雲99年5月27日)。炸薬19.26kgで、昭和9年11月21日制式。

○ p261 94式100キロは炸45.5kgで昭和9年11月21日制式。

○ p.261 95式4キロは、発煙剤0.190kg、昭和11年3月13日制式。

○ p.262 97式12キロは、点火剤が4.5kg入り。昭和14年3月4日制式。

○ p.263 「あお」はホスゲン(甲剤ともいい、大正から存在)で、「あおしろ」は「あお」90:「しろ」10で混ぜたもの。「あか一号」はジフェニール青化砒素でクシャミ系。「みどり一号」は塩化アセトフェノンで催涙である。「きい一号」はイペリットでガス状となる。「きい二号」はルイサイトで液滴状となる。「ちゃ一号」は青酸ガスである。なお秋山『陸軍航空概史』によると、陸軍の爆弾は昭和13年ころに、流線形から量産しやすい円筒形にスタイルが変わり、そのころすでに、15キロあかしろ(刺激剤)、50キロきい、50キロあか、50キロちゃ、50キロエレクトロン焼夷弾があったという。なお同書であかをホスゲンと書いているのは誤解を招くだろう。

○ p.263 「97式30キロ爆弾」というのもあった。炸11.080kg、被包熔融2号淡黄薬。昭和15年6月19日制式。

○ p.264 「カ四」は、前田哲男『戦略爆撃の思想』によると100式50瓩焼夷弾で、ゴム片の入ったもの。山口多聞・一連空司令官は、海軍の焼夷弾より大威力と認めていたという。

○ p.265 100式50瓩は黄燐だけでなくいろいろ混合した。昭和15年9月30日制式。

○ p.266 「76発を収容」→「76発を集束」 「30発を収容」→「30発を集束」

○ p.270 3式100kg爆弾・普通は、「と」号に使うときには「口絞り」「尾部補強環」でないとダメ。現地で改修する。信管は延期に装定。

○ p.272 3式250kg爆弾・普通は、「と」号には、弾頭を「口絞り」、弾尾上補強環をつけたものしか使うな、との文書あり。一史料に、炸薬は103kgと。

○ p.273 3式1000瓩爆弾は全重990.0kgである。弾頭が熔接のため、と号には弱すぎる。そこで弾頭を「口絞り」、弾尾に補強環を装した(改)を是非用いなければならないのである。なお、『と號用爆弾及と號機爆装ノ栞』によれば、炸薬は49.3kg、伝火薬は45グラムである。

○ p.274 4式60瓩について『と號用爆弾及と號機爆装ノ栞 其の三』は、これは96式6番通なのだと書いてある。しかし、96式の6番通は無い。となると陸軍航本のこの一級資料も、懐疑的に読まねばならぬ。

○ p.274 4式100キロ爆弾について『と號用爆弾及と號機爆装ノ栞』は、これは現地で「口絞り」するだけでOKとしている。信管は延期に装定。

○ p.274 4式250kg対艦爆弾には、炸薬の他に、伝火薬320グラム。

○ p.275 4式250キロ爆弾跳飛型は、海軍の99式25番通1型と同じである。 4式500キロ爆弾はおそらく海軍の2式50番であろう。しかし製造数が少なくて陸では入手困難であった。 4式60瓩は、『と號…栞』によれば、海軍の96式6番通だと。

○ 『と號…栞』には、他にも、「4式400kg破甲爆」と「4式200kg破甲爆弾」が見える。前者は炸薬20.56kg、パラフィン0.96kgと。30榴の破甲榴弾を改造したもので、信管は弾底のみ。と号の99襲などに用いた。後者は24榴破甲榴弾改造でやはり弾底信管のみ。炸薬11.83kg、パラフィン0.66kgだった。

○ p.276 800キロは「4式800kg対艦爆弾」といい、炸薬320.3kg、伝火薬1816グラム。と号用には0.2秒の丙信管をつけた。

○ p.277 「火へんに慮」は「炉」の旧字体である。しかし、より正しくは「炻器爆弾」と書く。材質はセトモノではない。耐酸炻器といって、海軍の「マル呂」の燃料槽などの素材として陶器メーカーが作っていた。

○ p.228 今岡和彦『東京大学第二工学部』(1987)によれば、「まるケ」は「決戦兵器」の意で、陸軍科学研究所、東芝や日立、二工の電気工学科の福田節雄教授らがS19秋から開発、S20-6末に浜名湖で「実射実験」した。真空管を使う。IRホーミング爆弾で本体長さ4~5mという。9月の鹿島灘上陸に間に合わすつもりだった。終戦後すべてバラバラにして焼く。

○ p.279 ふ号の海軍版は「八号兵器」といい、潜水艦に水素ボンベを抱かせていき、米沿岸で放流する構想。S19-6まで伊五五にそのような工事をしていた。

○ p.280 今岡和彦『東京大学第二工学部』によれば、S18に参本と軍令部の双方から二工助教授の糸川に特攻機の依頼あり。第58機動部隊は200隻というので誘導弾200発つくればいいだろうと、自分の名をとって「イ号爆弾」としてIRホーミング弾を研究した。S20-8に琵琶湖の軍鑑島で初テスト。松岡洋右の使者が来て完成見込みならポツダム受諾中止を奏上するとのことだったが試作はともかく量産はムリと答えた。8.16に図面を焼き、モノはバラして東京湾に捨てた、と。兵頭いわく、陸海どちらか不明だが、実験場からしてこの話は海軍系か。

○ 吉田隆『造船官の記録』によると、奮竜は「三式噴進弾」に十文字翼などをとりつけてデータをとった。

○ 以下も雑記。「50kg投下発烟弾」というのがあったか。 陸軍航空隊はS12-10-26から12-13までに、330トンの爆弾を落とした。これは同盟通信社 ed.『鉄牛と荒鷲』(S15-7)。 海軍航空隊は南京に対して160トンの爆弾を投下。南京のぞく中支には計900トンの爆弾を投下。これはS12-12-31の統計。バイアス湾上陸の10-12から10-31だけでも、対陸戦協力で560トンの爆弾を落とした。

○ p.285 「晩近の」→「輓近の」

○ p.287 末國・秦の刊年は1999のあやまり。

○ p.288 「千葉」→「千藤」

○ p.289 『大型爆弾試験報告』は、第8号~第壹壹合冊が神奈川大学図書館にある筈。那須信治教授。S18-11、「マル秘」、ガリ版。250~1000kg爆弾を用いた。掩壕内の98軽爆を500kg爆弾で大破させた等、本格的な実験だった。

○ 京都空襲の際の米軍爆弾破片がどこかに保存されていて、その厚さは20ミリあると。

○ 本書で必要あるときは、1ポンドを453.6グラム、また、1トンは2205ポンド、また、1フィートは30.48センチで換算してある。

自衛隊の船舶に対する港則法の適用について(通知)

(『兵頭二十八先生からの御下問』の回答)

〇自衛隊の船舶に対する港則法の適用について(通知)

〔昭和43年10月17日 海幕運第5653号〕

海上幕僚監部防衛部長から各部隊の長・各機関の長 あて

標記について、海上保安庁に照会中のところ下記のとおり回答があつたので通知する

 海上自衛隊の使用する船舶、外国の軍艦等総トン数の定めのない船舶のトン数については、別紙の左欄の長さを有する船舶は、右欄の総トン数を有するものとみなして港則法及び同法施行規則の規定を適用するものとする。
 なお、同法施行規則第1条第1項ロ及び第4条第4項第3号における「総トン数」は、「排水トン数」と読み替えるものとする。


トン数換算表

全長総トン数
14メートル未満20トン未満
14メートル以上
18メートル未満
20トン以上
50トン未満
18メートル以上
25メートル未満
50トン以上
100トン未満
25メートル以上
32メートル未満
100トン以上
150トン未満
32メートル以上
36メートル未満
150トン以上
200トン未満
36メートル以上
40メートル未満
200トン以上
250トン未満
40メートル以上
44メートル未満
250トン以上
300トン未満
44メートル以上
55メートル未満
300トン以上
500トン未満
55メートル以上
65メートル未満
500トン以上
800トン未満
65メートル以上
75メートル未満
800トン以上
1000トン未満
75メートル以上
90メートル未満
1000トン以上
2000トン未満
90メートル以上
100メートル未満
2000トン以上
3000トン未満
100メートル以上
130メートル未満
3000トン以上
5000トン未満
130メートル以上
170メートル未満
5000トン以上
10000トン未満
170メートル以上
190メートル未満
10000トン以上
15000トン未満
190メートル以上
210メートル未満
15000トン以上
20000トン未満
210メートル以上20,000トン以上

兵頭二十八先生からの御下問

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 じつはわが地元の某市役所の職員の人から「自衛隊の護衛艦や潜水艦が入出港するときに、商船のトン数と排水量の測り方が違っているため、毎年の統計がつくりにくい。護衛艦のトン数を商船と同じ表し方に換算する表のようなモンはないですかいのう」との質問を個人的に受けたのである。
 要は、護衛艦の「重量トン」表示を、商船の「容積トン」表示に直した一覧表はどこかにあるのかということだろう。
 誰かこの答えを兵頭に教えてくれませんか?


 かような御下問が当サイトに届けられたのがさる平成15年1月13日である。掲示板でデータを集めておくれ、とそういう主旨である。その場で即レスが出きれば一番良いのだろうが、管理人が無能なので掲示板にそのまま掲載した所、現在1月18日まで掲示板に書き込まれている方々から複数のデータが寄せられたが、「換算表はここにある!」という情報は無かった。
 私、管理人も色々探してはみたのだがやっぱり、発見できない。防衛庁にメールで問い合わせれば早いのかもしれないが、それはそれで面白くないじゃないか。
 そんな折、「某海軍関係者」と名乗る御方からメールが届いた。


 海上自衛隊の艦船が海上自衛隊の専用岸壁に入港する場合以外は、一般の船舶と同様に当該港湾を管轄する「港長」に「入港届け」を提出することが「港則法」という法律によって義務づけられており、この中に「総トン数」の記載欄があります。
 このため、海自艦船や外国軍艦の場合には問題が出てくるので、海上保安庁との取り決めによって「換算表」が作られています。
 港に入港する海自艦船等はその都度この換算表によるものを総トン数として記載した「入港届け」を提出していますので、海上保安部に確認されれば入港実績の統計として整理されたデータがあると思います。
 なお、海自の規則類集の中にある当該部分を添付します。
(アドビ社の「アクロバット」というソフトの「PDF」というファイル形式で、こ のファイルを読むために「アクロバット・リーダー」というソフトが必要ですが、これはインターネット上でタダで配布されていますし、色々なソフトにも添付されていますので、簡単に手に入ると思います。)

 なお、ファイル中で「写送付先:館内全般」となっていますが、これはディジタル化した時のミスで「部内全般」の誤植です。


上記のメールに添付されてpdfファイルを頂いたのだが、それをそのまま公開するのも──あんまり見やすくないし、重いので、やめた。というか、そのままのカタチで公開していいのかどうか私にはわかりません。
 しかし、海上自衛隊のサイトも見てみたのですが、御教授頂いた後ですら、一体何処にあるのかわからない(笑)尚、掲示板に投稿されたものとこの回答を兵頭先生に御送りした所──兵頭先生が掲示板を見る事は無いので ──下記の深い感謝の御言葉が届けられました。


(掲示板の)皆様のご教示もたいへん参考になり、改めて勉強をさせていただきました。また、さらに一層精進せねばと思っております。
 このたびはどうもありがとうございました。


私(管理人)も、掲示板の方々には本当に感謝しております。ありがとうございました。そして「某海軍関係者」様、本当にありがとうございました。それではお待ちかね、一般人にはまず役に立つ事の無い(笑)「換算表」です。

第9類 自衛隊の船舶に対する港則法の適用について(通知)

資料庫のコンテンツをWordPressに移行させる作業について/管理人U

資料庫のコンテンツを徐々にWordPressへ転載させていきます。

何せ数が多いのですぐには難しいですが、スマホでも見やすいようにいずれ全て転載できれば良いなと思います。

まだ転載できていないものは依然として下記URLです。

http://sorceress.raindrop.jp/siryou/siryou-view.html

こっそり進めている当サイトの企画があります。
今月内では難しいかもしれませんが、再来月までには公開できると思います。
乞うご期待です!

(管理人U)

日露戦争講演(7)──爆弾のはなし

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 『孫子』は、敵を知ると同時に己れを知れと説いております。

 有坂成章は、日本の町工場の技術水準というものが分っておりましたから、それに合わせて信管と砲弾を設計し発注いたしまして、日露戦争を勝利に導きました。

 それから、村田経芳は、日本の工業では西洋のようなバネはつくれないだろうと予測を致しまして火縄銃のバネを使って村田銃を完成致します。この予測は恐ろしく当りまして、後に陸軍も海軍もドイツの飛行機用のサイクルレートが高い機関銃をコピー生産しようとするのですが、国産バネの品質がネックとなって失敗しております。

 しかし堀越二郎さんを筆頭といたします日本の航空関係者には、自分が生きている時代の日本工業の実力が見通せていなかった節がある。高性能の機械を一つつくるのと一万個つくるのとは別な世界の話なのです。そこを考えずに身の程知らずに闇雲にアメリカやドイツの真似をして負けてしまっているところが、調べれば調べるほど、まことに情けないのであります。

 ところが、そんな昭和の航空界にも、日本の工業水準がいかなるものか、それを基として組み立てられる最も合理的な作戦とは何か、ちゃんと考えた人間もいました。

 もとより一人だけというのではございませんが、ここでは一人だけ、大西瀧次郎中将を、挙げておこうと思います。

 大西さんは肖像写真がいかにも押しの強そうな熱血派。しかも普通にしていても憎体なところが見てとれますから、これに「特攻長官」などというあだ名が奉られてしまいますと、もういけません。どこから見てもカミガカリの精神主義者だったという評判が固定してしまいます。

 確かに彼は海軍の砲熕、つまり大砲ですね、これと、水雷、つまり魚雷ですが、こうした既成のセクションからは、甚だしく恨まれる立場にあった。時に感情的に対立したこともあるだろうと思われます。

 というのは、砲熕と水雷は海軍の中でも非常に古い艦政本部のナワバリですが、大西は航空本部の若手の幹部としていちばん元気の良い年代を過ごしている。

 あるいは戦史通の人にも少し誤解があるかと存じますが、海軍の飛行機が投下する魚雷、これは、航空本部が百パーセント仕切っていた訳ではございませんでした。

 もちろん、航空本部というものができましてからは、その中に航空魚雷のセクションもあるのですが、もともと魚雷は軍艦のものでしたから、その航空魚雷の開発も実態としては古い艦政本部の人脈頼みなのですね。それで事の勢いと致しまして、純粋な航空本部の人脈に属する若い大西などは、魚雷よりも航空爆弾で敵艦隊をやっつけられることを証明しようとするわけです。

 ちなみにこの日本海軍の魚雷、たしかに複雑な機械ではありましたが、精密な機械ではありませんでした。やはり一本一本が手作りで調整されております。家内制手工業でありまして、精密工業とは関係がないのです。

 ですから、有名な酸素魚雷も、進駐軍は実物を持ち帰って分解したらもう用は済んでしまった。「動力が珍しい」という評価です。V2号を造ったフォン・ブラウンのようにアメリカ本国に連行されて働かされた日本の技術者なんてのもいません。アメリカは1945年にホーミング魚雷を実用化していますが、これに比べまして酸素魚雷はべつだん精密兵器ではなかった。V2号のような技術的な価値はなかったのであります。

 潜水艦の艦長などはこの辺をよく弁えておりまして、大手柄を上げた日本の潜水艦長は、95式酸素魚雷ではなくて、89式空気魚雷を発射したものがほとんどです。酸素魚雷は職人芸的な調整が必要でしたが、それは狭い発射室内ではとてもできなかったからです。

 以上は余談ですが、ともかく航空本部の内部で爆弾派と魚雷派の対立の構図がありましたために、昭和17年になりましても、航空母艦の上で魚雷を運んできて取り付けられる台車と、爆弾を運んできてとりつけられる台車が、それぞれまったく別の規格の物が必要でした。

 それから、「97式」などの艦上攻撃機は、魚雷も爆弾も取り付けられますが、その取り付けるフック、これは機体にネジ止めされているのですが、これが爆弾と魚雷とで違うものに交換する必要があった。ネジ止めですから短時間では変えられない。しかも、何度もお話申し上げていますように、戦前の日本の工業は精密なんてことは考えていませんから、ネジの穴の位置が、機体ごとにズレていた。他の機体のフックを間違ってもってきたら、もう、合わないわけです。

 ですから、すでにウェーク島に対する艦載機による攻撃、この時点で、魚雷と爆弾の交換にやたらに時間がかかって危ないじゃないかという問題点が発見されたのですが、急には改めようがない。それで、引き続くセイロン攻撃で冷汗をかき、ミッドウェーでとうとう空母を4隻沈められてしまった。

 この遠因と致しまして、航空本部内の爆弾派でありました大西瀧次郎が艦政本部の系列である魚雷派と協調する気持ちが薄かったという構図は確かにあっただろうと思います。

 しかし、自分の担当でありました航空爆弾と爆撃機に関しましては、大西はこの上ない合理主義精神を発揮しているのです。この辺がまったく誤解されていますので、私は『日本海軍の爆弾』という本を著わしまして旧海軍の爆弾がどのように発達してきたかをできるだけ調べててみました。

 山口多聞少将はミッドウェーのエピソードで人気が高いのですが、この山口さんが支那事変のときには、中攻隊という、陸上から発進する爆撃機の指揮をとっております。

 ご承知のように、日本海軍の陸上攻撃機にしろ、陸軍の重爆撃機にしろ、もともとドイツの旅客機とかアメリカの輸送機などの民間双発機をモデルにしていますから、燃料タンクに銃弾が当ったときに火災が起きないようにする対策、なんてことは設計段階で少しも考えていなかった。

 広い主翼の中がガソリンタンクになっております。

 これを上の方から敵の戦闘機の機関銃弾で撃たれますと、羽根の上には小さな穴しか開きませんが、銃弾がすぐに横転します関係で羽根の下には拳大の穴があく。この大穴からガソリンが吹き出しますから中攻が基地に帰って来れないということになる。情報によればすでに支那軍の戦闘機にはフランス製の20ミリ機銃を積んでいるものがある。これで上から撃たれたら、ますますたまったものではありません。

 さて、後のミッドウェー海戦では、日本海軍のパイロットは百人ちょっとしか死んでいないのですが、この支那事変の中攻隊は、じつに数百人が死んでいるのであります。

 山口提督には、人的・物的な損耗には一向に構わずに強気一点で味方が全滅するまで攻撃を反復させられる、そういう精神の強さが確かにありました。日本の飛行機に防弾がないのは山口さんの責任じゃありませんし、味方が全滅するまで戦える気力があるというのも軍人として得難い長所なのでありますが、ではこういうキャラクターの指揮官に空母機動艦隊まるごとを預けて大丈夫かとなりますれば、海軍の内部でもだいぶ不安があったはずであります。

 で、この支那事変で海軍の96式陸上攻撃機が支那軍の20ミリ機銃を積んだ戦闘機に上から撃たれて未帰還機を連日のように出していた、ちょうどその頃であります。

 内地の航空本部では、次の陸上攻撃機をどうするかという会議がございました。

 ここで、後の「一式陸攻」と呼ばれる有名な双発機の要求仕様が決まるのでありますが、この会議の席に大西瀧次郎も臨んでおりまして、そこで盛んに意見を陳べております。

 いったい彼はそこで何と言っていたか。

 次の中型攻撃機は、主翼内にはガソリンタンクを置かないでくれ、と要求しております。

 これはずっと後にアメリカ陸軍のB-26双発爆撃機などが徹底して実施した方法なのですが、ガソリン・タンクを胴体内だけに置く。

 そうすれば空中でタンクに銃弾が当ったときに、それが火災に進展する危険を最も低く抑えることができるのです。

 後ろからみたタンク部分の投影面積が小さくなりますので防弾板も張れますし、底を二重にしてガソリンが外に吹き出さないようにすることも胴体ならば容易だからです。

 つまり、中国の上空で山口多聞の中攻隊のクルーが何百人も死んでいる。それを何とかしなければいけないと、具体的で合理的な改善策を示したのは大西なのです。それも、B-26にはるか先駆けたものだった。

 ところがこの大西の提案を、飛行機専門家の側が、まるで真面目にはとりあおうとしないのですね。要するに、コピーのモデルであったドイツのユンカース旅客機やアメリカのロッキード輸送機などにはそういう前例がないからです。

 大西も粘り強く要求しています。しかし、結局、飛行機の専門家が黙らせてしまった。そういう会議の模様が、防衛庁の戦史部図書館に記録として残っております。けっきょく1式陸攻は、96式陸攻よりも燃え易い、ほとんど自殺的な軍用機になったのは皆さんもご存じのところです。

 こういう合理的な主張をこの時期にただ一人している大西が、あとあと「特攻キチガイ」と呼ばれるようになりましたのは、私には不審でありました。

 たとえば、こういう批評があります。どうして飛行機をそのまま船に衝突させる必要があっただろうか、アメリカ軍が編み出した、飛行機が低空で爆弾を落して、それを海面で跳躍させながら敵の船にぶつけるという戦法を、日本軍も採用すればよかったではないか、と。

 これなどは、戦前戦中の日本の工業技術の水準が、まるで分っておられない。己を知らずに他を見て歴史を論ずるやじうまの批判なのであります。近現代史におきましては、この種のやじうまの批判が多すぎる。

 大西は航空本部に在任中に、大小数十種類の新型爆弾の開発計画を立てまして、その実用化の推進役でした。

 昭和12、3年のころにその計画を一斉にスタートさせたわけですが、昭和16、7年までに間にあった爆弾もあれば、昭和19年まで何十回実験を重ねても遂にモノにならなかった爆弾もある。

 間に合わなかったのは、日本の工業水準が、用兵側の理想に追い付いていなかったからです。

 その追い付かなさ加減を具体的に一番よく知っていたのが、大西なのです。日本で彼以上に航空爆弾について知っている者はいませんでした。

その大西が、米軍がソロモンで見せた「スキップ・ボミング」という戦法、これを日本海軍もやれないか、検討しなかった筈はありません。

 現に、この反跳爆撃のための爆弾の開発はスタートしております。

 しかし、数回の実験をした段階で、大西には先の見通しが得られたのです。

 まず、米軍の跳躍爆弾は、じつはふつうの爆弾に特殊な信管を附けただけのものなのですが、この方法は、日本では無理であった。

 というのは、米軍の爆弾はニッケルを含む圧延鋼でできていまして、敵の船に爆弾が横腹から衝突しましても、殻が割れてしまうということがない。信管が作動するまで、もちこたえられるのであります。

 ところが、日本海軍の爆弾は、素材の関係から、横向きに衝突した場合には、殻が割れてしまう可能性が高かった。大量の炸薬と申しますものは、起爆のときに、一瞬の間ですが、圧力を閉じ込めていないと、完全に爆発し得ないのです。殻の一部が割れた状態で信管が作動致しましても、炸薬の一部は爆発反応をせずに終ってしまいます。この危険が、日本の爆弾には常にあった。陸軍の爆弾は海軍の爆弾よりもなお素材が悪いものでしたので、対艦攻撃には使ってはならないものでありました。

 しかも、米軍の爆弾は全体が450kgですのに中味の炸薬が250kgもある。これに対して日本の500キロ爆弾の炸薬は220kg。米軍の爆弾より重いのに威力がないのです。これも、殻の素材の悪さを厚さで補っていたためなのでありますが、それに加えまして、秒数の長い時限信管を、まるっきり新規に開発しなければならなかった。

これだけパッと考えましても、大西瀧次郎には、反跳爆弾は資材と人材と時間のすべてが不足しているこの戦争中には遂にモノになるまいと判断できたのであります。

 加えまして、飛行機の性能の差、飛行機の数の差、パイロットの腕の差がありすぎた。 本当に敵を知り己を知る戦術家でありましたならば、スキップ・ボミングを大々的に実施させましても、言うに足る戦果はなく、その生還率も極めて低いと見通せたのであります。

 事実として特別攻撃作戦は、威力の劣る爆弾、性能の劣る航空機、技量未熟なパイロットの組み合せでありましたけれども、一人一殺以上の戦果を上げております。

 しかしこれは何となくそうなったのではない。昔から合理主義者で人命尊重主義者として知られていた大西が考え抜いた末に出した結論であったからこそ、航空機による大々的な特別攻撃作戦は、海軍部内で説得力を持ち得たのではないでしょうか。

 どうもお時間が来たようですから、この辺でお話を終わろうかと存じます。


(管理人 より)
思えば、兵頭本・兵頭記事集めに加えて、印税がビタ一文も支払われていないというウソかホントかわからない噂のある兵頭講演ビデオまで買った時、「私はこのまま真っ当なコレクターらしく、面白可笑しく人生を棒に振るんだろうか」と思ったものでした。その時の私の感慨を貴方にも味わっていただければ幸いである。

日露戦争講演(6)──黒幕、南部の登場

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 次に、南部麒次郎のお話を致します。

 アリサカ中将は、大砲から小銃まで一人で考えたのですが、有坂の後継者となりますと、さすがに一人ではできませんで、大砲の方面と、小銃/機関銃の方面との二つに分れます。

 その、小銃/機関銃の分野で有坂の後を引き継いぎましたのが、これからお話し致します南部麒次郎。

 彼は佐賀・鍋島藩の出身ですが、この南部さんの経歴はほとんうに謎だらけです。

 もし、全容が明らかになれば、私は、大正から昭和にかけての日本の現代史、特に日中関係史は少なからず書き変えられるだろうと思っております。それほど、政治や外交方面への関与が浅くなかった。特筆すべき武器設計家なのであります。

 現在、日本の警察官が持っております「ニュー・ナンブM60」という5連発の回転式拳銃、これは実はスミスアンドウェッソン社のハンドエジェクターという小型拳銃のほぼコピーでありまして技術的には大したことはないのですが、このメーカーが「中央工業」と申します。【補注:2004年現在ではミネベア大森工場。】

 「中央工業」の前身は「南部銃製作所」と言っておりました。これは、南部麒次郎が中将になって陸軍工廠を退きまして、大倉商事などから資本金を集めまして大正13年に設立致しました。この大倉商事は銀座にありましたがバブル崩壊の余波で平成10年に自己破産を申請致しております。

 南部麒次郎が陸軍を退きました翌としの大正14年、皆さんにも少しは知られているかと存じますが、「14年式自動拳銃」が、陸軍の採用になっております。

 これが「明治26年式拳銃」から31年ぶりに日本陸軍に採用された新型拳銃でありましたが、じつは南部は日露戦争当時から既に工廠の中で自動拳銃を設計しておりまして、これを明治40年、つまり日露戦争後の大不況がはじまりました年に、寺内正毅陸軍大臣に見せていたのでした。

 しかし、寺内は、自動拳銃なんてものは不要不急の品であるといって頑として興味を示さなかった。

 どうも寺内さんは西南戦争で右肘の骨を砕かれておりまして、野戦病院でスッパリ切断されるところをなんとか残してもらい、いらい、敬礼も左手でしていたという将軍でありましたから、自分で南部式自動拳銃を射ってみることができなかった。右利き用の拳銃をたとえ左手で射ってみても、その良さは分りません。さしものプレゼン上手な南部麒次郎も、これにはお手上げだったようであります。

 まあ、普通のガン・マニアでしたら、たいてい、ここまで事実が分りますと、あとは事実そのままを編年体にまとめまして、それで終りであります。

 しかし歴史の研究は、記録から容易に判明する事実を極め終ったその場所を疑問の第一歩として、本当の調査を出発させなければならない。見えないところを見ようとしなければならないのです。

 なぜ、南部麒次郎は明治30年代から自動拳銃を開発して軍に提案しなければならなかったのでしょうか。上から要求もされもしないものを下で勝手に造って逆に採用を働きかけるとは、当時の日本陸軍という官僚機構の中では異例のことではないかと、ここで疑問に感じなければならんのであります。

 私はこの疑問に基づきまして関連しそうなところを手当たり次第に調べていきましたところ、南部麒次郎はただの軍人官僚ではなかったことが、だんだんに分って参りました。

 まず、彼は、近代日本で最初の企業家官僚であったと言っていいと思います。軍隊の中にあって、自動火器という精密工業製品の輸出を日本で最初になしとげたのです。これは、戦後、物作り大国となりました日本の進路を切り開いたのですから、日本の重工業の歴史に刻まれてよい事蹟のはずですが、なぜか今までの経済史家はほとんど注目してこなかったのであります。

 日清戦争と日露戦争との間には、9年間のインターバルがございます。つまり砲兵工廠としては、粗悪な機械で精密な兵器を生産できる熟練職工を引き止めておくために、9年間のシノギが必要でございました。

 明治33年に北清事変が起きておりますが、これはごく僅かの仕事を砲兵工廠にもたらしただけと見えまして、むしろ直後のリセッションで明治34年に辞めていく職工が多かったようであります。

 その一方でシベリア鉄道が開通しております。日露はやがて激突するという見通しは、参謀本部など軍の上層では共有しておりましたから、砲兵工廠の危機感も並ではない。

 このことは、旧陸軍の将校クラブの機関誌であった『偕行社記事』の明治35年1月発行号に、東京砲兵工廠の小銃製造所長の南部麒次郎大尉が寄せておりますインタビュー記事を読みましても推測ができると思います。

 そして、この記事の中で南部は注目すべき発言をしておりまして、職工たちに機関砲や自転車などをこしらえさせている、というのですね。

 自転車はこの頃は、要塞部隊が使っていたようです。要塞の内部は舗装されていますから、伝騎がわりに自転車が使えたようです。

 機関砲というのは、高田商会の斡旋で陸軍が製造権を獲得したホチキス式機関銃です。南部はこの量産を担当した関係で、自動火器とそうでない兵器の目に見えない違いを実感したのだと思われます。それは、1/100ミリ以下の精度です。

 人間の指先は、慣れてくると、金属表面の百分の数ミリの段差まで触覚で感じることができるそうです。しかし、一千分の一ミリ、一万分の一ミリの凸凹となると、いかなる名人といえども、目で見たり指で触って認識できるものではありません。20世紀の機関銃と航空用エンジンには、まさに、この人間の五感では分らないレベルの部品精度が求められたのであります。

 機械部品で一千分の一ミリの精度を出そうと思ったなら、それを加工する機械の方に一桁うえの精度がなければなりません。ところが、工作機械の加工精度に対してお金を出すことの意味、必要を、陸軍上層はなかなか理解ができなかった。安い中古機械がアメリカで売られているのだからそれを買ったら済むじゃないかという認識でした。それも貧乏国としては無理がないので、機械の精度が一桁あがると、機械の値段も一桁高くなったのです。

 航空エンジンのない当時、機関銃担当の南部麒次郎はこの問題を日本で一番よく分っていましたから、単に職工に仕事を与えるだけではなく、その精密な技能を維持させるために、新しく自動拳銃を作らせたかったのだと考えられるのです。

 自動拳銃は、ジョン・ブローニングという人が明治43年に非常に安価なモデルを売り出すまでは、とんでもなく値段の張るもので、しかも、工業先進国以外では製造できませんでした。

 だいたい普通の小銃の単価よりも、自動拳銃の単価の方が2倍ちかくしました。

 これを南部大尉は遅くとも明治35年内には「南部式大型自動拳銃」として完成致しまして、日露戦争たけなわの明治38年の1月から軍人向けに国内販売を開始しております。

 南部と晩年の村田とは親交があったようでありますから、こうした発想の大もとは村田の猟銃ビジネスだったろうと私は思っておりますが、南部の凄いところは、これを輸出するところまでもっていった。

 明治40年に少佐に進級して小銃製造セクションの長となると同時に、南部は自分の自動拳銃を清国市場向けに輸出し始めたといわれております。

 さらに大正年間に入りますと、彼は自分で設計した機関銃を中国の軍閥に売り始めます。じぶんでセールスして歩いた。この機関銃は三脚のついた重いもので、単価は小銃の40倍近いものです。

 要するに自動火器は高付加価値である。しかも、ある程度以上工業化された国だけが特権的に製造できる商品である。この事実に南部は目をつけまして、三井、大倉、高田といった当時の大手武器商社とも連携致しまして、中国市場を積極的に開拓致したのです。

 私は、こういう重工業製品の海外市場開拓を日露戦争いぜんにやったという設計家は知りません。南部が日本で初めてではなかったでしょうか。

 むろん、そうした大胆な企画を展開するにあたっては、彼は陸軍の上司に積極果敢に働きかけております。どうも政治方面の圧力までかけさせている形跡すらある。工業と経済と政治と外交のすべての方面で、南部さんは「日本初」の仕事をいくつかやったのだということが分って参りました。

 たとえば第一次大戦中の、有名な「対支21ヶ条要求」、これにも南部の関与がなくては絶対に有り得ない条項がある。それが第5項です。この中で日本側は、中国は兵器はすべて日本から購入するように、と要求しております。

 ところがですよ、考えてみてください。こういう要求をするには、仮にも中国側から買いたいと言われた武器は全部日本で国産品を供給できることが前提になっていたはずです。

 では、当時、日本はあらゆる近代戦の武器を国産できたか。それが、ひとつ、大変微妙なアイテムがあった。

 というのは、日露戦争中に南部が砲兵工廠で量産していた機関銃は、フランスのホチキス社からライセンスを買ったものでした。そのライセンスの契約では、製品の第三国輸出は禁じられていたのです。したがいまして中国に勝手に売ったりすればフランスから訴えられてしまう。

 ここで陸軍が南部に相談したか、南部が陸軍に請け合ったのか、どちらかわかりませんが、絶妙のタイミングで「三年式重機関銃」という、あらゆる部品を南部麒次郎が再設計致しました国産機関銃が完成するのです。これでホチキスのライセンス生産は終了しまして、同時に日本は機関銃を中国に輸出できるようになった。陸軍として「第5項」も要求できる立場になったのです。

 南部さんは今の「中央工業」を立ち上げた創業者なわけですが、自叙伝以外のまともな伝記がございません。

 大正7年の『太陽』という雑誌の6月号、ここに桃澤という退役陸軍砲兵少佐の短い寄稿が載ってございまして、その中で、「政府保護下の私立兵器製造会社」を設立しなければ、日本は第一次大戦のような大戦争に対応できない、と訴えております。この人の理想は、日本版のクルップ社を創ることだったように読まれるのですが、これはじっさいには、例えば、日本製鋼所と中央工業を併せたような組織にしないと無理でありましたろう。

 果して、南部麒次郎には「日本のクルップ」になってやろうというような大野心があったんでありましょうか? 仮にもしそうだったとしたら、それは三菱グループに潰されただろうと、私は想像しております。

 南部さんは、三井・大倉・高田の三大武器商社を糾合致しまして、「泰平組合」という武器輸出カルテルを結成させています。自叙伝ではそのことにはホンの数行、申し訳ばかりに触れているだけであります。この「泰平組合」には有力なメーカーがグループ傘下にありませんでしたために、支那事変の勃発ですぐに武器の供給ができなくなり、機能停止に陥ってしまいます。

 そのカルテルを三菱グループが乗っ取った……というと聞こえは悪いですが、三菱のリーダーシップですっかり解体して組み立てなおしたのが「昭和通商」であります。有名な「零戦」の20ミリ機銃を海軍の山本五十六に斡旋致しまして、そのライセンス生産を日本で実現させたのは三菱商事です。その三菱商事が「昭和通商」の幹事格になった。三菱グループと南部さんとはいつの頃からか商売仇であったんじゃないかと考えることは、可能なのではないでしょうか。

 しかし、日本で初めて国産の航空用機関銃を製造したのも南部麒次郎ですし、南部の設立した工場の優秀な設備と人員がなければ、満州事変以後の陸軍航空隊が必要としました膨大な数の7.7ミリ機関銃や12.7ミリ機関砲はとても調達ができなかったのは事実であります。つまり、97式戦闘機や隼などの活躍もありえなかった。しかし、南部さんは、これについても一言も語ることはありませんでした。

 ここで機関銃のお話から、飛行機と三菱重工のお話に移って参ります。

 といって、まるっきり唐突な展開ではございません。じつは、機関銃と航空機用のエンジンには、大きな“共通点”があるからです。

 これは、第二次大戦の工業技術面での敗因を考察する場合のキー・ポイントであります。そして、なかなか日本人には見えにくいお話なのであります。いまだにこれを分ろうとしない人も多い。「零戦」が精密機械であった、などという括り方は、その代表であります。「零戦」は少しも西洋レヴェルの精密機械ではなかったのだという真相が見えてこないうちは、将来の日本人も、かつての航空戦で訳も分らず負けたのと同じ弱点を持ち続けるだろうと、わたくしには心配されます。

 さて、機関銃と航空エンジンの共通点とは何でしょうか?

 どちらも高温・高圧の爆発反応を、動く部品、摺動部品によって封じ込めなければなりません。

 しかも、不随意に回転が止まってしまうことは、人命に関わるので、絶対に許されない。

 たとえば、機関銃が敵と撃ち合っている最中に突然部品がひっかかって動かなくなってしまったら、大変ですね。

 それが原因で部隊が全滅ということも、ありえます。

 同じように、空を飛んでいる飛行機のエンジン……。これも、飛行機が地上に降りてくるまでは、絶対に空中でエンストなんかして貰ったら困るものです。
 乗っている人間の命に関わるだけでなく、それで一つの作戦が大敗北するかもしれません。

 というわけで、機関銃に要求される工作精度は手動連発式の小銃より一桁高いものでしたし、航空用エンジンに要求される工作精度も、自動車用エンジンよりは一桁高いものだったのです。

 さらに機関銃にも航空機専用のものがございます。これに要求される精度は地上用よりも一段と高かった。と申しますのも、後部座席の旋回機関銃は、これは射手が手を伸ばして故障排除することができます。しかし、主翼についている機関銃、これは、一度飛び上がってしまいますと、故障排除のスベはないのであります。

 それで、ドイツなどでは、主翼につける機関銃には空中で遠隔操作によって再装填ができる装置をつけていました。それは、空気圧力ですとか、電気モーターの力で、不発弾を排除いたしまして、新しい実包を装填できる仕組みでしたが、日本ではこれがなかなかコピーできなかった。そのために、せっかくドイツから優秀な機関銃の設計図を買っておきながら、結局、それを後部旋回用としてしか国産化することができなかったのであります。具体名を挙げれば、MG15(旋回)とMG17(固定)。

 機関銃の遠隔装填装置のようなメカトロニクスの精密工作が日本の工場では造れなかったということは、日本の工作機械の最も質の良いものでも所詮その程度だったという証明でありますから、いわんや小型高性能の航空用エンジンは、量産できるわけがなかったと分ります。

 エンジンがよくても脚が出ずに胴体着陸となって飛行機がまるごとオシャカになった、あるいはゴムの油パイプが不良で、爆撃機が引き返す途中で脚が下りてしまって速度が出せず、敵戦闘機にやられてしまった……、みんな精密工作に関係した「フォース・マルチプライヤー」のネックだったと申せるのでありますが、ここではエンジンのお話だけを致しましょう。

 高度1万mを飛んで参りますB-29を迎撃するためには、戦闘機の機首に搭載するピストン・エンジンは、非常な高速で回さなければならない。しかも、正面面積を小さくして空気抵抗を少なくして、ブースト圧も爆撃機以上に高めなければなりません。

 これを直径の小さな空冷でやろうと致しますと、冷却が部分的に不足がちになりまして、空中でエンジンのあちらこちらが熱で熔けて火災になってしまいます。どうしても迎撃機というものは、水冷/液冷エンジンにしなければならなかった。

 ところが、大正14年に日本陸軍は、おそらくはアメリカの真似を致しまして、航空機の契約を、一社指名から、競争試作方式に切り換えました。

 これがまったく時期過早でありまして、当時日本では内燃機関を設計・製造できる最も体力のある会社は、三菱内燃機製造会社、すなわち後の三菱重工でありましたけれども、この三菱が、せっかくイスパノ系水冷エンジンのライセンスを持っておりまして、これから徐々に国産の水冷エンジンの技術を磨こうかという時であったのでありますけれども、そんなことをしておったのでは、すでに空冷路線に特化して陸軍機のシェアを占めつつある中島飛行機、つまり戦後の富士重工ですが、この中島との競争試作に勝てないのは明白でございました。

 それで、三菱は水冷戦闘機を造ることはすっかり止めてしまう。

 戦闘機に関してましては以後は空冷星型エンジンしか考えなくなったのであります。

 全体に、星型の空冷エンジンには、液冷ほどの工作精度が要求されて参りません。

 これが、水冷エンジンですと、気筒数に比例して曲軸、つまりクランクシャフトが長くなってまいります。これは回転速度が上がって参りますと、1万分の1ミリの工作精度で仕上げませんと、振動で飛行機が空中分解してしまう。

 ドイツのメッサーシュミット戦闘機が積んでおりましたダイムラーのエンジンは、このような精度で加工されていたのです。

 しかし、空冷星型ですと、曲軸はごく短いもので済みますから、いくらシリンダーの数を増しまして、大馬力に致しましても、液冷エンジンほどの加工精度は要求されません。その空冷エンジンのレベルで満足しておった結果として、日本の工作機械は、最もよろしいものでも千分の数ミリという精度にとどめてしまっておりました。

 そのために、あとでB-29の迎撃に液冷エンジンが必要だと気付きましてドイツから潜水艦でダイムラー・エンジンやら設計図やらを運んでまいりましても、とても、日本国内では、その長くて精密な曲軸を削り出すことができなかったのであります。

 つまり、高価な工作機械に投資できる三菱重工のような体力のある企業に、早すぎる競争入札方式で液冷エンジンの路線を放棄させてしまった陸軍の指導方針が、長い目で見ますと、日本の本土防空を不可能にしてしまったのだといえようかと思います。

 さきほど私が零式艦上戦闘機は精密な機械ではなかったと申しましたのもこの意味でございます。製造ロットが10とか100単位であった大戦初期の日本の戦闘機に供給致しましたエンジン、これは、製造ラインの最終工程で、ヤスリを持った職工が、ひとつひとつ擦り合わせ調整という仕上げをしていたのです。砲兵工廠の機関銃のラインと全く同じやり方でありました。

 この擦り合わせという仕上げをやりますと、もう部品の互換性はまったくない。戦地で墜落した僚機のエンジンのシリンダーを持ってきて使おうと思っても、誤差が0.何ミリもあるのではどうしようもありません。こういうのは精密機械とは言えないのです。

 工作精度がこの程度のままで少しも進歩がないのに、シリンダーの大きさをまったく変えないで、ブースト圧と回転数だけ高めようとしたのが、大戦後半に三菱と中島で造りました、いわゆる2000馬力エンジンです。

 いくら星型空冷といいましても、高温・高圧を動く部品で閉じ込めるメカニズムなのですから、ブースト圧や回転数に応じた精度は絶対に必要なのです。しかし、相変わらず、日本の航空エンジンは、最後にヤスリを手にした職工が擦り合わせで仕上げをしていたのです。

 人間の指先は千分の数ミリの段差は触覚できるかもしれないが、もう1万分の数ミリになりますと感じることもできません。しかし、2000馬力エンジンにはそのくらいの精度が必要だったのですから、そんなものが大量量産できた筈は初めから無いのです。

 日本は敗戦後、だいたい7年間くらい、著者の思うがままに戦前・戦中の回想を書いて出版することが禁じられておりました。アメリカの占領政策に、言論・出版の自由ということはなかったのであります。

 それで昭和27年にサンフランシスコ講和条約が成立する見通しとなった頃から、一斉に旧軍の要職にあった人の回想記が出版されます。

 昭和28年のベストラセラーになったのが、奥宮正武・元海軍中佐と、堀越二郎技師の共著の『零戦』という本でした。

 この中で堀越さんは、自分が主張したとおりに三菱重工のMK9Aという2000馬力エンジンを海軍が採用していさえすれば、「烈風」という素晴らしい戦闘機がマリアナ戦の前にも間にあったのだ、と書いています。これを信じる人が今でも多いようです。

 しかし、堀越技師は機体設計の専門家でありまして、発動機がどのように量産されていたのか、工場の実態はまるで知らなかったのであります。東大の工学部の航空科を首席で卒業したような人に、量産の現場は一生涯まったく無縁でした。これは戦前の日本の不思議な伝統なのであります。

 中島の「誉」エンジンを三菱の「MK9A」に替えたところで、製造ラインの最後にヤスリをもったベテラン仕上げ工が待ちかまえていて、一個につき何十時間もかけて調整してもなかなか調子良く回ってくれなかったという実態はまるっきり同じなのですから、「烈風」などというスーパー戦闘機も、絵に描いたモチでしかなかった。日本の飛行機は、最後まで精密産業の産物ではなくして、手作りであった。手作りでは、1万分の1の工作精度は絶対に得られませんので、日本にはB-29を撃墜する方法はなかったのです。これが、事の真相であります。

日露戦争講演(5)──野砲用砲弾における町工場の動員

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 有坂成章のもうひとつの功績が、「31年式野砲」という大砲を国産したことです。

 わたくしが2年前に『有坂銃』という本を出しましたときに、この「31年式野砲」がドイツの何という大砲をコピーしたものかはっきりさせられなかったと書きましたところ、長谷川慶太郎さんからお手紙を頂戴致しまして、その御教示によりますれば、ドイツの「1896年式固定砲架野砲」ではないか、とのことでありました。これは1990年にベルナルト・グラーフという人が出しましたドイツ語の本に諸元が載っているそうであります。

 このように、大砲自体は真似なのでありますが、真似でない有坂の大発明もあった。それが、「銑製榴弾」という当時どこにもない砲弾、および、その信管なのであります。

 当時の野砲の仕事は、榴霰弾という、バラ弾を発射する砲弾を撃つのですが、このバラ弾は決して頭上から降ってくるのではなくて、ほぼ水平に飛んでいくものなのです。この辺は今の人はほとんど知識のないところであろうかと思います。

 水平に敵兵を捕捉する砲弾ですから、敵兵が地面に穴を掘ってその中に入ると、もうまるっきり効果がありません。そこで、野砲から榴霰弾を発射していてはもう時代遅れで、野砲からも榴弾を発射しなければならないと気付かれ出したのが日露戦争中のことでした。

 榴弾というのは地面に当って爆発する弾薬で、これなら塹壕陣地を攻撃できるわけです。今の大砲にとっては、榴弾を発射するのはいうまでもない当たり前ですが、第一次大戦以前は、榴弾は榴弾砲という少し重い大砲から発射するものでありまして、軽量の野砲から撃ち出すようなものではありませんでした。それを有坂は、野砲から榴弾を発射できるように、75ミリの鋳物の榴弾を開発しました。これに対してロシア軍は、ついに戦争の最後まで、野砲から発射できる榴弾は開発できませんでした。

 つまり、有坂は、野砲の榴弾砲化という、第一次大戦の列強にさきがける大事業を、一人で、それも戦時中にやってのけているのです。

 しかも、有坂は、町工場でも造れる榴弾を工夫致しました。それを「銑製榴弾」と申します。

 銑製の銑とは銑鉄の銑、つまり、鋳物、キャスト・アイアンであります。

 それまでの榴弾はスチールで造るものですから、とても町工場では造れない。八幡製鉄所のような、本格的な高炉か、特殊鋼用の電気炉が必要でありました。

 しかし、鋳物であれば、クズ鉄を溶かすだけでどうにでもできた。町工場の平炉でクズ鉄を溶かせばよかったのです。

 イギリスは製鉄王国でありましたが、それでも後の第一次大戦ではたちまちスチールが枯渇してしまいます。そこで、はじめて、航空用爆弾に鋳鉄を混ぜることにした。

 有坂は極東の日本においてこの工夫にいちはやく取り組んだわけです。何の見本も、先例もない。今でしたら、これだけでも通産大臣から叙勲申請があっても良いくらいの、すぐれた着想と実行なのであります。

 次に榴弾用の信管ですが、これは発射するまでは絶対に起爆してはいけない。そして何千Gという発射の加速度に耐えなければならない。しかも、柔らかい地面に命中しても絶対確実に起爆しなければならない。

 要するに、精密技術でありますとともに、極限技術でもあるのが、榴弾用の信管でした。

 そんなわけですから、一般に、信頼できる新型信管の大量製作法を確定して立ち上げるまでには、大砲の開発と同じくらいのマン・アワーと設備投資が必要とされておりました。

 ところが日本陸軍は、それを有坂一人にやらせました。

 メッケル少佐の確立しました日本陸軍の人材養成機構は、野戦の指揮官ばかりを増やすものでして、技術者を増やすことにはまったく無頓着でした。

 たとえば村田経芳も、メッケルの人事システムのおかげで、戸山学校の教官として何度も転出しては、再び砲兵工廠に戻るというムダな異動を繰り返しております。そんな杓子定規な人事規定のために、日本の新兵器の開発は非常に遅らされたのです。しかし、こうした技術者の仕事を邪魔するばかりのシステムは、第二次大戦まで改まりませんでした。

 まあ、そんななかで有坂成章が東京近郊の町工場を総動員して全く新しい野砲用の榴弾とその着発信管を量産させましたのは、これこそ超人的な努力というほかないのであります。

 これは、海軍の大砲と比べてみれば一層ハッキリするだろうと思います。

 軍艦の弾庫に搭載されます主砲の砲弾、これは、数が非常に限られたものです。

 だいたい、一門あたり、一海戦で射耗する砲弾は100発から200発です。

 つまり、必要とならば、砲弾一つ一つ、信管ひとつひとつを手作りしても間に合うようなオーダーでしかありませんでした。

 ところが、陸軍の使用致します野砲の砲弾、これは何万、何十万と量産して撃ちまくらなければならない。とうてい、一個一個の信管を手作りしているヒマなんぞはないわけです。

 ということはつまり、海軍砲弾、および海軍信管は、家内制手工業で間に合う。

 早い話が、江戸時代の細工物の内職の延長と構えておってもよかった。余談ですが、後の「酸素魚雷」なんかも、まったくそんな感じで造られております。

 これに対しまして陸軍砲弾、およびその信管は、よほど大規模な工場制でなければ、絶対に必要量を補給することはできない。

 ということは、工程管理が必要である。マニュアルも必要である。メートル法も知らない町工場のオヤッサン達でも造れるようにやしさく設計しなければならない。

 こんな苦労は、江戸時代の日本人は知りません。まさに近代工業の最前線に一人で立っていたのが有坂成章だったと言えるのであります。

 本来精密部品であります信管。これも、日本の町工場ではとても作れるものではなかった。

 しかし、対露戦争という国難に際会しまして、町工場を動員しなければとても必要量を確保できない。そこで有坂は、当時、東京とその近郊に一番普及していました機械であります「活字鋳造機械」、これに着目いたしまして、この活字鋳造器でつくれる榴弾用の信管をわずか数カ月で設計するのであります。

 こうした近代的な苦労に比べますれば海軍砲の「伊集院信管」なんてものは少しも偉くはない。

 「伊集院信管」はイギリス海軍の弾底信管のコピーに過ぎません。そもそも発明と呼ぶに値しないのです。有坂の作った信管は外国にもその例のないようなものですが、「有坂信管」などという名前を彼は付けなかった。奉天会戦が切迫していて、それどころではなかったのです。

 しかしこれは本当に例外的な奥ゆかしさでして、いっぱんに明治から昭和にかけての技術系軍人というのはつくづく自慢好きでありまして、外国のモノマネにすぎないものでも、この兵器はオレがある日夢の中で着想を得て作ったなどと埒も無い自慢話に華を咲かせております。ですから、ロクに正体も分っていない「伊集院信管」も、なぜか、名のみ高しというようになっておる。

 それに加えまして、これまでの歴史家は非常に怠慢でありまして、その通俗説のいうところを実際に自分で確認しないで鵜呑みにしてきておりました。

 私は鵜呑みにしませんでしたのでいちいち調べてみたところが、今まで偉いと思っていた発明家が実はぜんぜん偉くはない。大半はホラに過ぎませんで、むしろ兵器に自分の名前をつけるようなマネを恥じた有坂成章のような人物が、本当にど偉い近代的発明を為したのであるということを、ようやくつきとめることができたのであります。

 この有坂成章、日露戦争が終りますと、次の信管のテスト中に、脳溢血でなくなってしまいました。

 脳髄を絞った—とは、まさにこの人のような活動を言うのでありましょうか。

日露戦争講演(4)──有坂成章

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 さて、山県有朋によって薩摩出身の村田経芳の代りに陸軍砲兵工廠に送り込まれたエリートが、長州の支藩である岩国出身の有坂成章であります。

 最初は、東京湾をロシア海軍から防衛するための要塞砲の世話係のような形で山県に使われていたのですが、だんだんに武器設計家としての頭角を現しまして、ついには日露戦争の陸戦兵器全般の面倒を見る「砲兵会議議長」という要職に就任致します。

 すなわち日露戦争は、陸戦に関しましては、ぜんぶ有坂が設計した小銃と大砲と弾薬で勝利したといって過言でない。

 この人がまた奥床しいというか、明治人には珍しく自己宣伝をしない人でありまして、そのために私が書きました『有坂銃』という本、これが伝記といたしまして唯一の単行本でございます。どうして遺族の人が没後に伝記を出版させなかったのか、これも謎なんです。

 おそらく、武器の大発明の陰には失敗作もあるのでしょう。その失敗作の欠陥品ために、平時に同胞が何十、何百人と死傷すれば、これは大変なトラウマであります。対ロシアの勝利という大功績をもってもその過去は帳消しにはならない。少なくとも本人は終生、気にしておりますので、国から表彰してやると言われれば金鵄勲章は受けますけれども、自分からはとても宣伝をして威張る気にはなれなかったのだと、私は、想像をしております。

 たとえば、旅順に「28糎榴弾砲」を投入した作戦がありますが、これも全く有坂一人の手柄でした。

 かつてケネディ大統領、成功には何人もの父親が名乗り出てくるが……、とピッグス湾事件の失敗のあとで嘆いたものですが、この28糎榴弾砲の話などはまさにその典型と申せます。「あれを提案したのはオレだぜ」という自慢話が、ポーツマス講和後に無数といっていいほど出ております。そのほとんどはホラ話であります。

 レッキとした将校たちがみんなで大ボラを吹いている。これが明治末期の雰囲気でしたから、乃木大将などもいたたまれなかったのは無理もない。

 詳しい経緯につきましては、小著『有坂銃』をご一読賜ればご納得いただけると思いますが、そもそもあの28センチ砲を日本の沿岸に取り付けさせたのは山県有朋でありまして、その実行を担当させられたのが有坂成章なのです。

 山県は軽い思い付きでこうした要塞を整備させたのではありません。彼はまず手元・足元から防備を固めるという主義の軍人だったのです。

 この沿岸要塞建設のために山県が投入した努力は、調べてみますと洵にすごいものなのです。心血を注いでいた。たぶん元治元年の奇兵隊が英仏軍に敗れた経験がよほど強烈だったのだと思いますが、とにかくそういう次第ですから、日露戦争中にこれを日本の沿岸から取り外すなどということはもっての他だったんです。

 ただ、有坂成章だけが、山県を説得できる男だった。もちろん、28センチ砲の据え付けの仕方を具体的に知っているのも有坂だけなのであります。他の軍人は、要塞砲が動かせるなんて知っていた訳がない。

 まあ、証拠と致しましては、当時陸軍大臣であった寺内正毅の明治37年8月25日と26日の日記、これを見ただけでも、提案が有坂から出ていることは明白であります。

 次に、日露戦争で歩兵が持っていた小銃ですが、これは明治30年に有坂が設計致しました「30年式歩兵銃」というものであります。

 この「30年式小銃」の口径とか全体の寸法は少しも変えないで、機関部の部品を僅かに変更いたしましたのが、有名な「38式歩兵銃」。銃剣はやはり30年式のものを流用しております。

 ですから、日本は明治38年設計の小銃でアメリカと戦ったというのは正しくありません。日本はまさしく明治30年に有坂が設計した小銃で、アメリカと戦っているのであります。

 では有坂銃は、時代遅れのダメな小銃だったか?

 とんでもないことでありまして、これは世界一進んだ小銃であった。しかも、最も省・資源的な武器であった。

 だからこそ日本は、弾薬補給の戦いでロシアに競り負けずにすんだのです。
 さらに、中国とイギリス、アメリカを同時に敵に回して何年間も戦争をすることができたのは、有坂の設計コンセプトが合理的であったおかげなのです。

 有坂銃がなければ、そもそも日本はアメリカと戦うこともできなかったと私は考えております。いや、その前に、満州の陸戦でロシアの騎兵部隊のために連戦連敗を喫していた筈であります。

 いったい、「30年式歩兵銃」のどこがそんなに優れていたか。

 日露戦争中の全ロシア兵が装備しました「1891年式歩兵銃」は、射距離500mでの最高弾道点が、地表から1.45mでありました。これは、日本兵であれば、200mぐらいのところだと、頭を低くすればかいくぐることができる。すなわち弾道の性能がよくないのであります。

 これに対し、有坂が3カ月で作った「30年式歩兵銃」の、射距離500mでの最高弾道点は、地表から1.2mしかありません。つまり、弾道が水平に伸びる。敵兵は、500m以内では、どこに立っていようと弾に当ってしまう。ですから、歩兵はともかくも、騎兵になりますと、事実上日本の歩兵部隊に近寄ることが不可能になったのであります。

 6.5ミリという小口径弾を採用するのはひとつの賭けでありまして、イタリア軍は先に6.5ミリを採用していましたが、こちらは銃身が短いので弾道性能がよくない。30年式では十分に銃身を長く致しまして、それで当時としましては世界で最も弾が低くまっすぐ飛ぶ、つまり誰が撃っても当て易いライフルになったのです。

 38式歩兵銃が白人兵と銃剣格闘するために長いのだという話が何の根拠もないデタラメな説明であることも、これで御分りかと存じます。事実は、このとき6.5ミリの小口径で弾道性能を良くするために有坂があの銃身長にする必要があったのです。それでも、着剣全長で比較しますと、ロシア軍のライフルより30年式歩兵銃の方が初めからずっと短く設計されています。

 ところで、当時の軍用銃は、弾がよく当るだけではダメなのです。その弾で、馬を一発で倒すことができなければ、戦前の軍用銃としては失格でした。

 明治の日本の最大の脅威はロシアであったことは誰でも知っています。

 そのロシア陸軍の最大の脅威が騎兵部隊であります。

 なにしろ馬の馬格が日本の馬の1.5倍以上良かった。馬の数でも日本などとは比較にもならない。ゼロふたつぐらい違っていたかしれません。騎兵対騎兵ではまったく勝負になりませんでしたから、なんとかこれの相手を歩兵部隊がするしかないというのが日本軍の苦しい立場でした。

 日露戦争前の日本軍歩兵部隊の研究課題は、コサック騎兵の突撃にどう対処するかに尽きていたといっていいでしょう。

 それをやり遂げたのは、秋山好古などではありません。有坂が歩兵部隊に持たしてやった、歩兵銃の威力だったのです。

 30年式歩兵銃の開発過程では、馬の一番太い骨を遠くから射つという実験を、何度もしております。一番太い馬の骨が打ち抜けるなら、その馬はただの一発で倒せる。襲撃をストップできるんです。それを有坂は、6.5ミリというギリギリの小口径で実現しました。

 おかげで、日本軍は、ロシア騎兵の突撃を少しも恐れる必要がなかった。横に一列に拡がって、30年式歩兵銃を撃つだけで、コサックだろうがなんだろうが、1000m以上離れた射距離からでも、突撃を破砕できたのであります。

 鴨緑江南岸で日本軍は初めてロシア騎兵500と遭遇致しますが、衝突しました日本軍の騎兵200がまさに風前のともし火というときに、近衛大隊の歩兵銃の掩護射撃でこれを撃退致しました。以後、日本軍にとってロシア騎兵は何の脅威でもなくなったのであります。あれほど恐れたコサックが日本兵を馬蹄にかけるという事態は一度も生じませんでした。ときどきやられたのは、日本の騎兵部隊だけなのであります。

 殊勲甲は有坂銃にありました。歩兵が有坂銃を持っていたから、少ない歩兵を横に薄く長く展開できた。そこをロシアの騎兵部隊も、突破することができなかったのです。

 さらに有坂の功績は世界史的であります。

 この日露戦争におきまして、勇猛無敵を謳われたコサックどもが最新の歩兵銃に対してからきし無力であると日本軍が証明してやりましたから、それであのロシア革命も起きたのであります。したがいまして有坂の功績は、明石大佐などよりも、遥かにでかいのであります。

 さて有坂の導入致しました6.5ミリ弾は、兵站上も有利でした。ロシア軍の7.62ミリ小銃実包と同じ弾数を用意するのに、より少ない資源しか要しません。弾薬が比較的に軽いですから、推進補給の労苦も少ない。それで、日露戦争を通じて日本軍は、小銃のタマ不足にだけは、苦まずに済んでいます。もしも日本軍の小銃弾補給が、野砲弾や攻城砲弾と同じように尽きてしまったなら、やはり日露戦争は失われたでしょう。