摘録とメモ──『沢木耕太郎ノンフィクション VII  1960』04-6

 著者は学部は経済系だがスポーツノンフィクションがキャリアの芯にある。20代で渡米経験。70年代末の、三人称で「シーン」を提示する米式ニュージャーナリズムを摂取した。
 本書は「危機の宰相」と「テロルの決算」の合冊で、ともに大幅加筆されている。前篇は1977-7の文藝春秋本誌に掲載されて以降、これまで単行本になったことがない。
 1960年モノの第三弾としては、全学連元委員長の唐牛健太郎について書こうと構想されていたが、どうやら作品にはならぬらしい。「未完の六月」というタイトルだけ決まっていた。6月とは安保条約が自然承認された1960-6を指す。
 1945年の流行語は「一億総懺悔」。47は不逞の輩。48は斜陽。50はレッド・パージ、51は逆コース、53は家庭の事情、55はノイローゼ、57はよろめき、59はカミナリ族。そして60年代は「アンポ」に明け、バイゾーに暮れた。
 1950年代の政経のテーマは「復興」。60年代は「成長」だ。
 戦争に頼らずにほぼ完全雇用が実現したのが池田時代。
 佐藤栄作の「安定成長」も、池田の「所得倍増」の末葉である。
 池田勇人は吉田学校である。福田赳夫は岸信介と行動を共にする道を選んでいる。岸は反吉田であった。だから池田と福田赳夫は敵対関係である。
 福田は池田より4年後輩だが昭電疑獄で逮捕され、無罪になったものの次官の椅子を逃し、政界に転じた。
 池田の派閥後継者が大平である。大平と福田をくっつけたのは、ブンヤから池田の秘書になった伊藤昌哉。同じく池田の秘書の田中六助も元新聞記者。※米国のように政治家のスターティングキャリアとしての弁護士は一般的でなく、しかも途中腰掛職としてのシンクタンクや大学ポストもない日本では、番記者から大臣秘書を経て国会議員というパターンが、官僚スピンアウトと並ぶ成りあがりコースなのか。
 大平は高松高商時代にクリスチャンになった。※だから大平は首相時代に靖国に参拝していないのか。
 財界浪人・矢次一夫は、岸のラインにつながる韓国・台湾ロビイストだった。
 池田の経済ブレーンの下村治には『経済大国日本の選択』という大著がある。本編の主人公で1989に没。
 下村が生まれた明治の佐賀には「尽忠報国」の気風が強かった。金儲け否定である。
 下村に「自分語り」の文章がほとんどないのは、下村が佐賀の『葉隠』士族のダンディズムを受け継いでいるからだ。p.51
 下村はシナ事変中の大蔵省で、理財局金融課長の迫水久常の下、会社活動統制の諸法令をつくった。配当、資金、設備投資、賃金、経理のすべてに網をかぶせた。
 満州事変以前の大学では、マルクスの言う「剰余価値」の源泉はなにも労働だけではないだろうと論じ、投稿。当時は「生産性」という概念が経済学にまだ無かった。
 とにかく現行の経済学はまるで役に立たないと理解して、昭和9年に入省。大蔵官僚としてケインズを独習。加うるに、ハロッドとアレン。昭和27年に経済危機が去るまで、不十分な統計をもとに、インフレなき立ち直りの方法を、待ったなしで模索し続けた。そして肺病で3年、職務を離れている。
 本人が本当に読んだと言うのは5冊。ケインズ『貨幣論』『一般理論』、ハロッドの『動態経済学序説』、ジョーン・ロビンソン『不完全競争の経済学』、エドワード・チェンバリン『独占的競争の理論』。加えておそらくマルクス『資本論』、シュンペーター『経済発展の理論』。
 明治維新から1945まで日本の年平均成長率は4.5%だった。他国に比べればはるかに高率。そして1945から1955にかけては9%であった。これがさらに維持できるとは思わなかったのが普通のエコノミスト。
 ベビーブーマーが中学卒業するのは1963だから、政府はそこから先の完全雇用を図れなければ、暴動もありえた。
 ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の中核をなすものは、「有効需要の原理」と「流動性選好の理論」。
 完全雇用が達成できるかどうかは有効需要の大きさによる。したがって失業をなくしたければ、有効需要を創出しろという。
 ところが昭和25年時点でも池田らの世代は「消費は悪、節約・貯蓄こそ美徳」としか思ってなかった。国内の消費を増大させることが完全雇用につながると理解できる者は稀少であった。
 またケインズは、投資家が幅をきかす英国ならではの着想で、利子とは、流動性を放棄することについての対価であると。
 さらにケインズは、一の投資が短期的に一以上の需要を誘発する「投資の乗数効果」を指摘。しかし、投資が生産能力を増加させる長期の「生産力効果」までは思い至らず。
 ハロッドとドーマーがこの穴を埋めた。彼らはさらに、投資による生産力増大を吸収するだけの「需要」が必要であること、それには経済が「成長」していなくてはならぬことを明らかにした。
 下村は、その投資をさらに二種類に分けた。ひとつは、超過利潤の存在を嗅ぎ付けて機会主義的に便乗せんとする投資。もうひとつは、企業家の創造的な発意による投資で、この後者こそが経済の長期的な発展の動力であると見た。前者は景気変動の主因である。
 またさらに下村は、道路や住宅や病院といった固定資本への投資は、翌年の国民総生産をそんなに増すと決まってはいない。数ある投資の中でも、主として民間の製造業の設備投資が、産業を高度化して経済の成長をもたらすと結論づけした。民間設備投資額が多いほど、経済の成長率は高くなる。
 これが当たっているとすれば、ハロッドやドーマーの数式以上に日本経済は飛躍するはずだ。なぜなら日本では1955年から民間に設備投資意欲が漲っているから。また日本の投資は貯蓄率によって制約されていない。民間設備投資は賢明な企業家が決心しており、日本の労働者には最新の生産設備を使いこなす能力もある。
 下村の文章は時論的であり独創的だが修飾が無く、実証的。そして非妥協的な立論態度で予言を的中させていった。下村いわく、面白い話にはどこか飛躍が必要である。しかし自分は順を追わないと話はできない。また役所のペーパーは、何をするのか、なぜそうするのか、そうすればどうなるのかを簡潔に書かねばならないのだと。
 下村は、経済企画庁のエース・大来佐武郎や、米国ニューレフト仕込の学者・都留重人ら著名理論家と筆鋒するどく論争する。多くのエコノミストは、日本はまだ復興期で総需要抑制が必要だと言っているなか、下村だけが55年を境に勃興期に入ったとし、供給力に需要を追いつかせればよいと主張。
 結局下村が正しかったわけだから、当時の大物たちの下村批難は、後からの下村賛辞と等価だ。
 所得倍増は不可能だ、と言っていた口舌の徒は、自らを批判することなく、こんどは高度成長の「ひずみ」論に軸を変え、相変わらず日本国民に対して無責任に生きた。都留のように「永遠の正論」に身を寄せて現実を批判する安逸を下村は選ばず。
 1960に下村いわく、計画は、計画以外の可能性を否定しがちである。常に成長率が一定であるべきだと考える役人どもの発想は日本人の経済活動をダメにすると。福田赳夫はこの役人どもに賛成の人。同じ宏池会の大平、宮沢も、高度成長論には否定的だった。それはかれらが所詮は官僚だったから。池田は偶然に大蔵事務次官になったようなもので、考え方は役人の型通りではない。
 下村は、政府の役人が経済成長を統制して決定するのではなく、政府は成長を「予測」すればいいんだという構え。
 下村いわく、マルクスの考える資本主義とは、人口の増加率と比べてみると成長が無いに等しい、Goldの存在量が制約する資本主義で、リアルじゃないと。
 後進国市場にモノを売るしか能の無い日本が自由化すれば米国商品に席捲されるだけ、つまり自由化は第二の黒船だ、と考えていた者が多かった1950年代末に下村いわく、自由化とは国際的にも国内的にも、非効率産業を再編成して高能率産業に資源を集中することである。経済成長の意味はまさに自由化であり、自由化なき経済成長こそいびつだと。
 1971に下村いわく、経済の成長は生産性の向上による。生産性の向上は技術革新による。日本と欧米の技術格差が大きく、石油価格も安定していたがゆえに、これまでは高度成長は容易だった、と。
 池田は大蔵キャリアの途中で難病の皮膚病に罹り、5年間寝たきりとなり、妻は看病疲れで死ぬ。治る前に札所をまわり、一生嘘をつかないと願をかけた。
 前尾繁三郎も病気で、大蔵省の三等の赤切符組。やがて形影相伴う人生を歩むことに。
 林房雄の『随筆池田勇人』によれば、もし戦争に負けたら、地下に潜ってゲリラになろうと、昭和20年に前尾と話し合っていたと。つまり彼らのレベルの大蔵官僚は8.15まで敗戦情報を知らず、その点では庶民と同じだった。
 前尾いわく「強制によって計画的に事をはこべば最も能率的であるかのように錯覚する」のは「本末転倒で、逆に非能率」。だが、それが「真の政治とまちがえられている」と。
 「直税部長」には酒の配給権があり、また遺産相続の税金相談を受けることがあり、選挙出馬の下準備をするには好都合であった。
 S24初当選で、第三次吉田内閣の大蔵大臣になる。※元鉄道官僚の佐藤もそうだが昔の高級役人は破格の待遇で政権に迎えられている。
 すぐにドッジ・ラインを履行。補助金、補給金を打ち切って均衡予算を達成。これは国民から見れば耐乏予算。救ったのは翌年の朝鮮戦争。
 池田内閣時代に「金鵄勲章年金」「国防省昇格」などの右派の法案要求が自民党内にあったが、池田は斥けた。※池田の軍隊嫌いと安保音痴は別に論じなければならない。
 大蔵省出身の池田は身内にカネをごまかされるのをとても嫌がる。大蔵キャリアは税務署からスタートするので自然、カネにうるさいわけ。
 宏池会(池田の後援団体)のカネを管理したのが田村敏雄。しかし田村は気分上は首相池田と対等であり続けたので宏池会内部で浮いてしまった。田村は下村より早く死ぬ。田村は池田の弔辞では「両腕」にたとえられていた。それが機関誌に印刷されたときに「片腕」に直されたのは派閥内の某小者の策動。
 池田は自分では文章を書かず、田村などがすべて代筆していた。下村のリアル理論をロマンティスト田村が通訳することで政治家池田は理解した。
 田村は大蔵入省後、満州国官僚になる。語学の達人だったが、昭和15年のドイツ派遣予定はWWIIでキャンセルとなる。夢は、満州を、病院、刑務所、兵営の必要がない天国にすること。だが敗戦で文民なのにシベリアに抑留、その間に妻の死。さらに帰国後は公職追放。なんとか大蔵省の外郭団体に。やがて池田を総理にすることでかつての理念を実現しようと考える。
 戦前、田村が若いころ、大学で経済学の名に値するのはマルクスだけであった。田村もドイツ語原書でそれに通暁。
 1963に田村は、実験できない社会科学をソ連がやってくれて、社会主義は不平等を解消しないことを立証してくれたと書く。
 田村もまた口舌の徒・都留重人を攻撃していわく、現代において均しからざるを解消しようとすれば、それは経済の成長しかないのだ。金持ちの所得をすべて奪って分配しても国民一人あたり数百円にしかならぬ、と。
 池田内閣時代は、田村は、池本喜三夫の日本農業革命論に傾倒した。すなわち、1町分区画に農地を整理し、30馬力以上のトラクターで三倍深耕すれば、日本の全農地面積が倍増したのと同じことになる。かつ、畜産との混合農業にすれば、化学肥料は買わずに済む。結果、農産物価格は半値になり、農民の一人当たり所得は7倍になる、というもの。
 昭和33年の旧一万円札は、戦前の猪の図柄の「十円札」より手の届かない感覚であった。
 宮沢喜一いわく、子供のころにジョン・スチュアート・ミルを読まされた。そこには、トレランス=寛容という言葉がよく出てくる、と。
 司馬遷は呉起をすぐれた能力は持っているものの人の信頼を得にくい人物として、また田文を自分が特別な能力をもっていないことをよく知っている人物として描いている。
 ※前篇についてのコメント。地味な文献調査に労力を注いでいること、短時間で読ませる文章にまとめていること、これをなしとげてしまった年齢、いずれも脱帽の他はありません。
 後編。
 赤尾敏はもともと左翼運動から入ったが、大正末に獄中でイタリアのファシズムに感心して国家主義に回心。反東條なので、翼賛政治会からは、中野正剛、鳩山一郎らとともに除名された。それでも戦後はS26まで追放されていた。
 昭和27年の講和は、タブーであった右翼活動を公然化させた。※旧軍肯定、旧軍擁護を出版物で堂々と語れるようになったのがS27である。ナチス・グッズもその流れ。
 この頃、ナチスのアイテムは少しもタブー視されず、右翼活動でその旗や類似した制服を持ち出す者が普通にいた。※ナチズムと日本の戦前軍国主義は根っから別物だという今日の常識はまだ誰にもなかった。
 周恩来は昭和30年から日本の右翼に注目。昭和32年の岸内閣の成立は、右翼団体をさらに元気づけた。34年には李承晩もやりたい放題だった。
 赤尾敏は、講和後、国会内に自由に出入りできる「前議員待遇」を停止された第一号。赤尾の愛国党本部には明治天皇とキリストの肖像が掲げられていた。教育勅語を指導原理としていた。また街宣では日章旗と星条旗をともに掲げ、反米右翼は右翼小児病だと言っていた。
 経団連は社会党にも献金を続けていた。
 明治末、三宅島に医師はゼロだった。戸籍で「庶子」となっていた浅沼稲次郎は、士官学校や兵学校の入試成績がよくても、入学は不可能だった。軍人も医者もいやなら慶応の理財に行って実業家になれと言われた。
 早稲田の雄弁会はおのずから最も先鋭な政治意識をもつ学生の集まりとなっていた。
 大正12年に、軍事教練の早稲田導入に反対して、壮士学生に殴られる。※WWIから10年経とうというのにまだ日本ではROTCが無く、シナ事変では帝大卒の勤め人が二等兵として前線に送られるわけである。民主主義後進国。
 戦前は、国会議員と地方議会議員を兼任することが許されていた。
 戦前は、東京帝大出身の法学士は無試験で弁護士になることができた。
 斎藤隆夫の反軍演説は、シナ事変は聖戦なのかと、否定的に質問したもの。それにより議員除名。※明白に自衛戦争である事情の説明が政府によってなされなかったのは何故なのか?
 浅沼が親とも仰いだ麻生久は、陸軍省新聞班の昭和9年の「陸パン」は資本主義精神を否定しているから賛成だと。日本での社会変革の担い手は、軍隊と無産階級の合体したものだと。麻生は満州事変には反対を唱えたが、シナ事変には賛成。
 大杉栄が殺されたとき、浅沼も近衛連隊のターゲットリストに載っていた。
 翼賛選挙に推薦されず、非推薦でも立候補しなかったことで、戦後の追放を免れ、戦後の社会党の大幹部に。
 終戦直後では、「社会民主党」という党名は、ドイツにおける裏切りというイメージをインテリに与えるものだった。
 戦後の浅沼は、結論が出てはじめて動く、大勢がほとんど決しかけたとき、はじめて口を開くという態度におちつく。
 党活動への精進ぶりは誰も真似ができないもので、そのストイシズムは、どこかで自己を罰したいという潜在的な欲求に支えられていた。
 昭和32年の訪中で浅沼を団長とする社会党訪中団は大歓迎を受けた。ところが34年の第二回目は冷淡だった。これはシナの作戦だったが社会党左派は分からない。浅沼は第一回目の感動を忘れられなかった。北朝鮮人の黄方秀が過激演説をすれば中共の態度は変わると示唆した。その結果、「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であ」るが、それが「それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のため」であるから「アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなして闘わなければならない」との池田の演説になった。この演説の全文が翌日の人民日報に掲載された。※つまり事前に原稿の内容が編集幹部に渡されていたと疑えよう。
 池田は共同通信の記者にも原稿のサワリを、本番三日前に見せている。それが載った毎日新聞のベタ記事に「米国は日中共同の敵」と要約されたフレーズあり。自民党幹事長の福田赳夫はそれを見逃さず、浅沼に抗議電報を打った。かくして要約フレーズが知れ渡り、社会党の過激性、卑屈性が世間に印象づけられた。※記事を発見したのは福田の秘書か誰かだろうが、それを効果的宣伝に結びつけたのは福田の手柄である。福田が8.15靖国参拝もやっていないのは三木より常識人の証拠である。しかし国債濫発とテロリスト釈放は大失政となった。
 浅沼には「支那事変は日本民族が飛躍するためのひとつの仕事」とおべんちゃらを述べた過去がある。そうした自己の軽薄さへの負い目から、第一回訪中と第二回訪中の間の、戦争中のことについての「反省」ぶりは誰より真剣であった。それをシナではしっかり評価していた。さらにまたシナ政府の要人は、そのような浅沼評価が公けにされれば「内政干渉」になるかもしれないとも理解をしていた。p.356
 羽田空港でシナの工人帽をかぶってタラップを降りてきた軽薄さがまた右翼の反発を買った。
 浅沼は、マッカーサー元帥感謝決議案に賛成の演説もやっていた。要するに庶民感覚と一緒。しかし彼には人並みのHomeはあったためしがない。庶子として育ち、結婚後も党務第一に暮らし、実子はいなかった。だから孤独であり、大勢の中に居ることを望んでいた。
 安保に倦んだ国民は池田の所得倍増論を歓迎していた。なのに浅沼は演説で安保のことをしきりに取り上げるので社会党議員も困っていた。
 山口二矢の精神的独立は中2から。父親がインテリで一喝主義のため、反抗期の見られない少年だった。
 当時の右翼の典型は、文学を軟弱と断じ、武道がすべて。
 玉川学園の小原国芳いわく、子供がいったん学校をやめると、再び学校をやり直すことはできない。
 韓国で学生が李承晩を倒したのが、日本の反岸運動を煽った。
 二矢によると、自民党では河野一郎と石橋湛山が容共派でゆるせんと。さらに暗殺候補リストに三笠宮祟仁まであり。
 一度は愛国党に属した山口は、口先ばかりで警察と狎[な]れ合っている右翼には左翼革命は止められないと絶望した。しかし彼にも、殺人の結果として係累にも迷惑が及ぶとの予想が、単独実行の抑止力として働いていた。ところが、昭和16年刊の谷口雅春著『天皇絶対論とその影響』を人から貸されて読んだところ、家族の迷惑を考えることは「私」であり、天皇を絶対唯一神として信仰するならば、無私の忠を実行せねばならないと確信する。
 さらに『明治天皇御製読本』を古書店で買い求め、決行までその本だけを読んでいた。「末とほくかかげさせてむ国のため命をすてし人のすがたは」などは暗誦していた。
 昭和35年に山口二矢が浅沼委員長を刺殺した凶器は、刃渡り1尺1寸、幅8分、鍔なし。短刀というより脇差サイズ。強盗対策として自宅に置かれていた古道具であった。
 山口は、刀剣では斬るのではなく刺さなければだめだという知識を、周囲の人から十分に仕入れていた。心臓ではなく腹でも死ぬという知識もあった。刀身が十分に長いために、武道のトレーニングを受けていない青年が、柄を腹に押し当てたままぶつかったとき、浅沼の巨躯は深く貫かれた。山口には刺したまま抉るという知識はなかったらしい。
 浅沼は第一撃で背骨前の大動脈が切断され、内出血ですぐ意識を失い、死亡。山口の第二撃は左胸を狙ったが、ごく浅手。※これは刃を縦にして腕だけで心臓を刺そうとして肋骨でブロックされたのだろう。
 偶然の重なりから、警備がガラ空きになった瞬間だった。しかし第三撃および自決は刑事が阻止した。
 主催者の意向に従い、私服警官だけを配したことが、テロ抑止力を薄めさせたと反省されている。すでに多くの政治家が刺されていたときに、ずいぶん寝惚けた警備をやっていた。
 警視庁からは、右翼の「面通し」ができる公安の警備課の刑事たちが応援に来ていたが、現場の丸の内署長の掌握下に入っていなかった。
 山口は17歳なので死刑にはならない。だが少年鑑別所(一種の診断センター)に移された最初の夜の8時前に首吊り自殺した。シーツを細長く裂いて80cmの紐に縒り、裸電球の金網カバーにひっかけて。
 党の顔で、象徴的まとめ役であった浅沼の死の直後から、イタリア共産党わたりの「構造改革」路線か、それとも極左暴力革命かという路線論争が社会党内で発生。「構革」は当初、日共内で研究が進み、一時は異端の烙印を押されたが、のちには「密教」として日共に採用される。
 ※本編も最近の初見でした。記憶では、「山口に続け」とか相変わらず言行不一致を恥じない様子のバカ右翼が80年代末まで棲息していました。しかし、青年山口はまるっきり異星人でそこらの乞食文盲とは生きる世界が違っていたことがよく分かるノンフィクションでしょう。児玉邸に軽飛行機が突っ込んだあたりから自称右翼団体は大衆を指導するどころか、蔑まれる者におちぶれていきました。朝鮮ヤクザとフュージョンしてしまった今では尚更でしょう。その後、狡猾な共産主義者は非暴力を装ったグラムシ戦術で日本社会の伝統破壊に成功しつつありますが、頭の悪い人の多い「2ch保守」ではとうていこの狡猾さには対抗できそうにありません。歴史からはもっと靭強な政治のロゴスが引き出されなければなりません。


まずシナを黙らせないと半島も黙らない

 ウェブの毎日新聞が1月10日の午前3時に「航空機搭載型レーザー砲」のニュースをのっけています。
 昨秋からボーイング社(今や旅客機から戦闘機まで造るようになった総合兵器メーカーです)が、自民党の防衛族議員に対して、巨費を投じているわりには開発がはかばかしく進んでいないエアボーン・レーザー砲システムに、日本も協力しないかと非公式に打診している──といった内容です。
 冷戦後、米国の軍用機メーカーは企業体力をつけるために大幅に統合され、ずいぶん数が減っています。ボーイング社はその整理の波の生き残り組として肥え太った大企業ですが、そのボーイングが、レーザー砲の底無しの開発費に音を上げた。彼らにとって事態は深刻なのでしょう。
 報道されない背景には、ペンタゴンあるいは米政府の上層が、この兵器システムの価値そのものに疑念を抱き、調達計画や支援予算面で冷淡になりつつある動きもあるのではないでしょうか。
 「航空機搭載型レーザー砲」は、地上から発射されてまず垂直に上昇する敵の弾道ミサイルが、雲を抜けて成層圏へ顔を出し、そこからさらに大気圏外に向かって、ブースターを切り離す直前にナナメの弾道コースを決めてしまうまでの間に、ミサイル燃料の詰まったブースターの筒体部分を強烈なレーザーパルスで照射して、薄い殻を破り、敵ミサイルのブーストを中途で失敗させようというコンセプトの兵器システムです。
 引力に逆らって重い弾頭を遠くに飛ばそうというロケットの筒体は、特別に軽量化する必要があり、物理的に可能なギリギリの薄い素材が用いられます。しかもそれは内部から重い燃料(固体の場合と液体の場合とあり)によって大きな圧力(膨張力)がかけられている。高空では大気圧が小さくなりますので、パンパンの状態になります。その外殻に、レーザーパルスの衝撃によってほんのわずかな破孔を開けてやることができれば、内圧によってブースターは自壊するのです。
 レーザー砲の搭載母機は、ほぼ大型旅客機の転用に近いもので、敵地近くの成層圏を、燃費を抑えてゆっくり長時間ロイタリングしています。つまり雲の無い見通し良好な高空において、水平方向に目標を捉えようというのです。標的の面積は小さなRV(再突入体)ではなくブースター付きですから、大きい(レーダーにも捉え易いしレーザーを当て易い)。かつまた、尻から派手な赤外線も放出していますので、光学照準装置でもトラッキングし易い。ますます好都合でしょう。
 敵のロケットも空気抵抗の大な大気圏内はできるだけ素早く通り抜けてしまわないとエネルギーの大損ですので、成層圏ではまだまだ垂直に上昇しています。それはぐんぐん加速中であるとはいえ、落下時に比べればまだ低速ですから、真横から照準をつけているレーザー砲の標的としてはイージーであるかもしれません。
 成層圏にある母機から横向きにレーザーを発射すれば、そのレーザービームも、雲や水蒸気による拡散・吸収の悪影響をあまり受けずに標的まで到達してくれるでしょう。
 このように理論的なフィージビリティはあると説明されてきたのですが、ボーイング社での実験はそんなにうまくいっていないようです。どこがどううまくいっていないのかは、公式説明がありません。自民党の族議員さんたちは、ミーティングでそこに突っ込めたでしょうか? やや疑問だろうと兵頭は思います。
 技術的に停滞をしているのは、やはり射距離とパワーでしょう。成層圏といっても空気はありますから、どんな波長のレーザーも距離に応じて減衰させられてしまいます。どうも、ベスト・コンディションの想定でも有効射程は300kmに達しないらしい。
 その「300km」という数値も、どこから出てきているのか疑ってみる智恵は必要でしょう。射程が300kmあれば、北朝鮮の東西の海岸線から、北朝鮮の全領土をカバーすることは可能です。しかしそれは彼らの旧式なミグ21戦闘機の行動半径内であることは勿論、沿岸から発射された長射程地対空ミサイルからも安全でない距離です。
 もっと考慮すべきことがあります。イランの内陸は沿岸もしくは国境から何kmあるか、地図で計ってみましょう。イランのどの国境線からも300km以上離れている土地が、イランには存在します。つまり、このエアボーン・レーザーが実用化されても、イランのミサイル発射を封じ込めることはできない。ましてシナには無意味です。米国政府がこのシステムに見切りをつけつつある背景には、これがありましょう。
 要するに、この「航空機搭載型レーザー砲」は、とりあえず北朝鮮に対してしか意味をもたないんです。目下、北朝鮮の弾道ミサイルは日本にとってのみ脅威らしいですから──兵頭は、V-2のロンドン攻撃の人的損害にかんがみて、V-2より弾頭の軽い北鮮のSSMは東京の真剣な脅威たりえない、また彼らは生物兵器弾頭も核弾頭も有していないと、過去にも雑誌に書きましたし、現在も思っておりますけど──、だったら日本がカネを出すべきだろ、と、ボーイング社の幹部会議では結論したんでしょう。
 技術的な突っ込みを入れておきましょう。現在のボーイング社のレーザー砲の威力では、300km先での照射は数秒間、持続しないとロケットブースターの外板を穿孔しないそうです。とすると、分散したランチ・パッドから同時一斉にSSMが発射された場合、一機の「空中レーザー砲台」では撃ち漏らしを生ずる可能性があります。いったい「砲台」は、つごう何機を常時ロイタリングさせていたら済むのでしょうか? またそれは現実的でしょうか?
 もうひとつ。長射程のSAMがSSMのデコイになり得るでしょう。長SAMとSSMを同時に多数発射されたら、「空中レーザー砲台」はまず自機を守ろうとするのではないでしょうか。
 もうひとつ。レーザーパルスを受けたとき、剥離蒸散して外殻をプロテクトするコーティング剤を、ロシアあたりが開発して「ローグ・ネイション」に売り込むでしょう。
 もうひとつ。北朝鮮の得意技にローテクの風船があります。アルミを蒸着させた風船に照明弾を吊るして、水素充填または熱気球方式で放球し、SSM発射のデコイにする可能性もあるでしょう。
 日本としてこのシステムに出資すべきではない最大の理由は、これがシナのIRBMやSLBMや巡航ミサイルに対して、意味をもたないことです。日本がシナと核バランスをとれてない、すなわち対等でないことが、北鮮や韓国を増長させている。拉致や教科書問題、靖国問題も畢竟ここに淵源するのです。およそモノには順番があります。日本の人的資源は有限です。ですから政策にも優先順位があります。「空中レーザー砲台」開発への参画は、シナとの核バランスがまず取れた後に検討されるのがふさわしいテーマでしょう。


叡智の戦いは記録から

 クリス・ヘッジズ著、伏見威蕃 tr.『本当の戦争』04-6(原2003)を読みました。田舎の貧乏暮らしでは、こういう本を半年後くらいに書店で見つけてふと購読することがあるわけです。以下、いつもの調子での摘録とコメント。
 著者はかなり自慢できる経歴の戦場ルポライター。※だが旧日本軍に関する文献調査は浅薄である。ニューヨークの大学図書館はこんなものなのか?
 ジェフリー・チョーサーはフランスで捕虜になったことがある。
 この世で最も質問したい事柄は、かえって質問されない。
 心的外傷後ストレスはベトナム戦争までは公式に認められておらず。PTSDは白人より黒人とヒスパニックがなりやすい。症状は前頭葉の働きの低下なので、嗅覚も鈍る。
 1000人以上の命が奪われる激しい紛争を戦争と定義。
 米軍の15%、20万4000人が女性。ただし潜水艦と小型艇には乗れない。
 戦死者数に対し2割6分くらいの数の、戦闘外での兵士の死亡事故や病死がある。
 WWIIの日独を併せると米兵のキルレシオは16だった。ヴェトナムでは18だった。朝鮮戦争ではシナ兵も併せ50であった。
 WWIIのアメリカの経費は3兆ドル。湾岸戦争は経費760億ドルだったが、占領後にさらに5000億ドルかかっている。
 金額の上では米国製武器が世界市場の半分を制覇。残りをロシアと英国とで争っている。※日英の武器メーカー合併は互いにメリットのあるオプションであろう。
 p.27 民間人の戦争被害について、シナの数値を挙げ得ていない。※つまりニューヨークの図書館では、信拠できるデータが不明なのだろう。
 ドレスデンでは13万5000人が2日間で死んだ。広島市は米軍調査では6万4000人なのに、独自調べで14万人と呼号している。※これはドレスデンの損害を上回らせるための数字操作の可能性があろう。
 長崎は、米軍調査で3万9000人、独自調べで7万4000人。レニングラードの3年包囲では80万人が死んだ。ユダヤ人ではない「ドイツ国家の敵」も1937〜45に500万人が殺された? スターリンの1930年代の大粛清は200万人?
 米沿岸警備隊は平時は国土安全保障省の指揮下にある。※日本もそうすべし。あるいは「国家警察」を創設してそこに統合するのがよいだろう。
 国防長官は、戦争をおこなう地域を担当する統合軍の司令官に命令を与える。
 陸軍の新兵は入営6週目にして、20ポンドの背嚢+武装で1日6マイル行軍。
 17歳未満、35歳以上は米軍に入れない。既婚者で未成年の子供が2人いるのも×。20歳で体脂肪率が24%あるのも×。顔面の入れ墨も×。
 ベトナム戦争中、4000人が徴兵逃れで刑務所に送られた。
 歩兵は他兵科に比べ死亡率10倍。歩兵として出征したら、5人のうち1人は死傷すると思え。ベトナム戦争までは、全兵種を均して死傷率は6〜8%だったが、湾岸戦争以降、これが一挙に1%未満に。
 PCS=1〜2年ごとに所属隊が変更されること。海外配置は家族に大きなストレスをかけている。
 米国では既にすべての両親の半数以上が大卒の学歴である。
 軍隊内での黒人犯罪率はシャバでの三分の一。ただし黒人の佐官昇進はあきらかに白人より低率。多くの黒人はシャバで通用する資格を取るため軍隊に入っているので、ただの歩兵にはなりたがらない。ヒスパニックは歩兵になりたがる。
 ホモは12%混じっているが、それは免職の理由になる。
 戦闘中の月給は無税。
 摂氏30度を1度上回るごとにカロリーを1%増やさねばならない。熱帯ではトレーラータンクの水は日陰で5日間は腐らない。
 髭は夜に剃る。すると朝には顔の脂が復活していて怪我をしにくい。ヒマラヤ級の高地に派遣されると鍛えられた兵士の体重が10kgも減る。
 下士卒と将校の性交渉は軍法会議行き。米軍艦がタイに帰港するのは下半身需要。
 ベトナムでドラッグが流行ったので湾岸では徹底撲滅した。
 肺は密度が小さいのでライフル弾が貫通しても他臓器のように破裂しないですむ。
 スペイン内乱でライフルに撃たれたジョージ・オーウェルによると、爆発的な音と光を電撃のように感ずるが痛みは無い。たちまち膝の力が抜けて頭を地面に激しくぶつけるがやはり痛みは感じない。感覚は鈍いが負傷したことは理解していると。
 航空機と艦艇では、負傷の太宗は火傷。痛みを鈍らせ難いので苦痛大。
 大型砲弾の破片は最大800m飛ぶ。炸薬150グラムの対人地雷でも膝上までズタズタになる。破片創より銃創の方が治りは遅い。しかし最も治りが遅いのは地雷。ナパームは1980年に禁止された。
 イスラエルvsレバノン紛争では、砲撃死傷が25%、小火器死傷が20%、RPG死傷が15%であった。しかし機械化されていなかったかつての戦争では砲撃死傷が太宗。またベトナムのジャングル戦では銃創の割合が4割を超えたが、地雷と手榴弾も多用されたので破片創を超えることはなかった。
 衛生兵の呼称が三軍で異なる。野戦手当てでは、一発目の射出口に見えるのが二発目の射入口でないかどうか、すべての傷口を見逃すな。
 鶏をBC兵器探知に使おうとする場合、二羽以上を一緒にしてはいけない。つつき合って死んでしまう。
 炭疽菌は人から人にうつらないこと、ウィルスではないので抗生物質も効くことが、攻撃軍向きだと考えられている。
 天然痘はゲノム配列が明らかにされているので、複製可能。
 初陣でアドレナリンが出すぎると視野は狭窄し、細かい筋肉制御が不可能になる。
 兵士は発砲をためらいがちである。WWIIでは半数以上、朝鮮戦争では45%の兵が一発も敵兵に向けて撃っていなかった。そこで米軍は訓練マニュアルを工夫し、ためらわず撃つ兵士を養成している。
 ベトナムで戦死した米軍将官は一人、大佐は八人だった。これは批難されている。
 ベトナムでは2000人の米軍下級士官が、部下によって殺されたか、またはそれを疑い得る状況で死んでいる。
 国際協定により、後日の戦死者個人識別が難しくなる集団埋葬は、避けなければならない。
 兵士の戦死について遺族宅へ通知に行く係には鉄則があり、いかなるかたちであろうと遺族の体に触れてはならぬ。
 国立軍人墓地に埋葬された場合、配偶者もともに埋葬できる。名誉勲章を受ければ退役後の年金がつき、アーリントンの墓地の権利を得、子供は士官学校に優先的に入れる。
 戦場では自意識の抑圧に由来する「仲間意識」が芽生える。これは平時の友情とは異なるので、戦後まで続くことはない。
 退役後、私服に勲章をつけてもよい場合がある。ただし軍服を着る場合、顎鬚は不可。
 ※こういうのを読んでも、米国の図書館には、日本の戦争の正確な記録をあつめた英語の本が無いことがよく分かります。かつて国費で主要文献を翻訳させろよという声もあったんですが、どの御役所、どの国会議員も、手を貸そうとしない。予算はとてもつかないでしょう。その間にも、シナ政府の息のかかった英語版のプロパガンダ現代史が全米図書館の本棚に充実していきます。どうしたら良いでしょうか? だれかが英文で、「抄訳インターネット文庫」を整備していくべきなのではないでしょうか。


磨り減るものは「神器」になりにくい

 浜本隆志氏著『謎解き アクセサリーが消えた日本史』(04-11)を読みました。以下は兵頭の気儘な摘録とコメントです。
 著者は1944生まれ。ヨーロッパ文化論の専門家。指輪研究から日本史の謎に気付いた。
 天平時代以降に日本文化からアクセサリーが消える。これは世界史的に稀有。
 鎌倉時代は金が豊富。室町時代には銀山が開発される。フロイスは、ピアスも指輪も首飾りも無いと報告している。復活するのは明治。
 円環形の装身具は肉体と魂の無事帰還を祈る意味あり。
 アマゾンでは豹の牙をもつ者がシャーマンとなる。
 古代日本でも動物の歯や牙は強い動物に対する畏敬の念から呪術的アクセサリーになった。※この説明ではなぜ「爪」がアクセサリーにならないかが理解できない。戦前、日本にオオカミがいた頃、オオカミの牙を「根付」にした人が馬小屋に入ったら馬が怯えて騒ぎ、犬も近寄っただけで総毛が逆立ったという。つまりオオカミの牙に関しては、単純にそれが「野獣除け」の威力を発揮したので長距離移動時の護身の実用になったのであろう。しかし嗅覚の鋭敏なイノシシを狩るときにはオオカミの臭いなどは却って邪魔なので、イノシシの牙が代用されたのだろう。
 縄文時代のヒスイの産地は新潟=富山県境の河口一帯。穴あけ加工は、竹管と研磨剤と水でも可能で、のちにメノウの刃具も発明されていた。
 シナのヒスイはミャンマーから取り寄せた軟玉で加工はしごく容易だった。
 古墳時代には出雲産の碧玉が勾玉材料に加わる。
 縄文女はピアスをしていた。石飾り。19世紀アイヌもピアスをしていた。
 渦巻きは生命力の根源を象徴すること、ケルトと一般。
 古墳中期にスキタイ風の装身具が一時渡来する。
 縄文時代にはヘビ信仰、弥生時代にはシカ信仰。
 金銀銅の腕輪を「くしろ」と称す。
 巨大古墳が造られなくなったのは「大王」の支配が確立したので権力誇示の必要が失せた。
 「ひれ」は、ヘビ、ハチ、ムカデなどを象徴し、振ると魔物を払う。※祝詞で振る電光形はやはり蛇なのか。
 大化の改新後に神社が整えられた。天武天皇は祭祀の場所を大和の三輪山から伊勢に移した。もともと本拠地であり、しかも太陽がはやく昇る土地とされ、それゆえ御神体が鏡となる。同時にアマテラスを太陽神とする『記紀』の創世神話も編纂され、天皇家の唯一絶対性が強調された。
 大化2年の薄葬令で副葬品が禁じられる。つまり宝物は天皇家の独占となる。
 三種の神器の権威化は、南北朝まで『古事記』を公開しなかったように、人目にさらさせずに伝承したからできた。天皇すら見ることはできない。天皇家は、三種の神器神話によって、宝玉信仰を封印した。
 飛鳥時代には仏舎利は塔の礎石に埋納されたが、後には相輪に移された。※もともと柱の上なのだろうという仮説は『日本の高塔』に書いた。
 正倉院を開封させた権力者に、頼朝、義満、信長、家康などがいる。秀吉も開封したが、その記録を抹殺したという。
 農耕文化=母権制=妻問婚。
 真珠は淡水からも採れる。万葉集の「白玉」。有機質なので土中で腐ってなくなる。遣唐使は砂金ではなく特産の真珠で現地の経費を弁じたろう。平安朝には全く国内のアクセサリーではなくなった。バロックは「歪んだ真珠」の意。
 日本の家紋の早いのは参内する牛車に描かれた文様。戦国時代に敵味方識別のために図柄が単純化。
 天正遣欧使節の4人は8年半後に帰ってきたが、マカオに追放されるか、殉教した。
 1613に支倉常長は仙台を出港、メキシコに上陸、大西洋まで歩き、さらに渡欧。7年後に戻ったが洗礼を受けていたので幽閉されて終わる。
 江戸幕府は水晶の発掘を禁じていた。p.144
 バビロニアとインドでは太陽神をミトラという。
 ケルト戦士は首にリングを巻いただけで全裸で出陣?
 古代ローマの主婦は左手中指に鍵つき指輪。着物にポケットがついていなかったので。また朝から入浴するので。帝国が衰亡し奴隷が解放されると呑気に入浴もできなくなり、鍵指輪もなくなった。
 婚約指輪は古代ローマに発する。
 封建時代には、主君が臣下に槍、剣、旗、手袋を下賜した。
 ルネサンス人の宝石ランキングはルビーが一位でダイヤは三位だった。
 ダイヤモンドはアーサー王伝説にも登場するが当時はインドが主産。18世紀にブラジル、19世紀に南アフリカで大鉱脈が発見された。
 欧州の痩せ地では農民も移動が求められる。逐われる商業民族もいる。嵩張らない動産を身に着けているのが安全で有利。しかし日本の気候では土地は決して捨てるものではなかった。つまり不動産こそが宝。
 水と接することが多い日本の農耕文化もアクセサリーを排除した。
 疫病が流行し、陰陽道がアニミズム(勾玉、呪術)を駆逐した。「弥生時代に魔除けとしての呪術信仰がアクセサリーから他の金属『宝器』へ移行したので、アクセサリー文化が低調になった」(p.194)と著者は考える。
 ※誰も気付かない謎に挑んだ好企画ではないでしょうか。そして明快な答えがまだ出されてはいないようなので、読者がさらに想像を付け加える余地もあると思いました。兵頭の考えはこうです。金属器をもった渡来人が、あまりに急速に土着石器人を平らげてしまった。金属器(特に武器)がその過程で神のような働きをし、「玉」は護符性を失墜した。それに次いで、金属農器をたくさん持った者と持たざる者との経済力の格差が日本では圧倒的になると分かってきた。「鎌足」という名前がそれを象徴します。少しでも財力に余裕があるのなら、宝石などを調達しているヒマに、農耕用の「鉄刃」を一個でも余計に備えた方が、日本の土地と気候から無限の富を引き出せると知られた。かくして土地こそが宝となった。鉄製農具は使えばチビていく消耗品なので、同じく消耗品の「おほみたから」同様、神性までは獲得しなかった。


再度、靖国問題の大誤解をただす

 昭和天皇は、不吉な敗戦記念日である 8.15 に、靖国神社へ御親拝あそばされたことはございません。
 以下、もし日付等が間違ってたらごめんなさい。
 昭和20年11月20日、靖国神社の臨時大招魂祭に昭和天皇が行幸せられ給う。御親拝。
 昭和27年10月16日、天皇皇后両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和29年10月19日、両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和32年4月23日、両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和34年4月8日、両陛下は靖国神社の創立90周年臨時大祭に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和40年10月19日、天皇陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和44年10月19日、天皇皇后両陛下は靖国神社の創立100年記念大祭に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和50年11月21日、両陛下は大東亜戦争終結30年に当たって靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 すなわち戦後の昭和天皇の御親拝はいずれも 8.15 を外してある。これがなぜ当然のことであったのかは、兵頭が過去何回も説明してきましたよね。靖国神社は「戦没者追悼の場」などでは決してないからなんです。
 昭和38年8月15日に天皇皇后両陛下は、政府主催の全国戦没者追悼式に御臨席になりました。が、これも断じて靖国神社「御親拝」とは無関係だったのであります。
 この重い歴史にぜんぜん頓着の無かった愚かな首相が三木武夫だったということは長く記憶されるべきです。後にシナに屈服した中曽根康弘氏も軽薄才子でしたが、やはり日本の総理大臣として最初に悪い前例を作ってしまった三木氏の罪がいちばん重いでしょう。ご皇室が昭和50年を最後として現在まで靖国神社に行幸・行啓し得なくなっておりますのは、この三木氏のせいでしょう。
 昭和50年、三木氏は総理大臣として戦後初めて敗戦記念日の8.15参拝をしでかしました。それだけでなく、社・共・公に問い詰められて「個人の資格」で参拝すると表明したんですね。こんな二重の過誤をやっちまった時点で、そもそも「首相の資格」無し、だと思われます。即刻辞任すべきでした。
 この三木氏のあと、大平首相は8.15参拝をしませんでしたが、次の、適切にも「暗愚の宰相」と人々から呼ばれた鈴木善幸氏が、首相在任中に三度つづけて8.15「私人」参拝をやっちまいました。この人は、正しいとか、正しくないとか、そもそも何も考えていなかったようです。
 続く中曽根康弘氏も無反省にこの悪慣行を引き継いだ。そして彼の首相としての三度目の8.15参拝のとき、肩書きに「内閣総理大臣」を用い公式に参拝したことを、社会党・公明党・社民党・共産党が、三木氏の過去の言質を楯にとって鋭く咎めました。さらに社会党はシナへ通牒します。早速シナの新聞が呼応し、紙上で中曽根攻撃を行ないました。国内に有力な金づるが乏しいのでせいぜいこれからシナ利権で稼がせて貰おうか、とでも思っていたのか、中曽根氏はこのシナからの新聞攻撃にあっさりと屈服して、その秋の例大祭にも出ないと言い出し、じっさい、二度と靖国参拝をしなかったのです。
 この事態は、昭和天皇をとても憂鬱にしました。
 「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」──これは昭和61年8月15日の御製です。
 日本では、戦死者を「追悼」するのは、戦死者それぞれの菩提寺とか、特別な公営・国営の追悼施設ですべきことです。靖国神社はそのような追悼施設ではありません。近代日本の全有権者が、戊辰戦争以降の全戦死者とともに、現今の日本国家の敵どもに対する敢闘と戦勝を誓う場なのです。
 したがって日本の敗戦に関係する日は靖国神社の記念日や祭日にはなり得ない。ましてその日に社頭で「不戦の誓い」をするなど以ての外です。
 この靖国のもつ「場の意味」が理解できているなら、シナも8.15参拝ばかりを攻撃するのは、いかにも捩れた、可笑しな話です。
 シナ人には、近代的神社の意味は理解できません。シナ人に理解できるのは「人格」です。彼らは靖国神社の中に死んだ旧軍人の人格を見て、それらの魂魄が現世人によって鞭打たれていないことが不安なんです。
 ですから、東條英機ら一部の高級軍人だけではない。全祭神が鞭打たれるようになるまでは、連中は決して靖国へのいいがかりを止めないでしょう。これに屈することがいかに国益に反するかは申すまでもありません。
 靖国神社を攻撃することがシナ政府または個々のシナ人にとって「安全・安価・有利」な政治であるうちは、彼らは靖国攻撃は止めません。
 靖国攻撃をかますことで日本人との交渉が何か少しばかり有利になる、と彼らが値踏みしているうちは、攻撃は無限に続きます。つまり、この問題でのいかなる妥協も、ますますしつこい彼らのイビリ攻撃を招くだけです。
 逆に、日本の要人が毅然として靖国公式参拝を──ただし8.15ではなく他の吉日に──続けていけば、シナ人はじきに黙るでしょう。そしてイチャモンをつける標的を他に探すでしょう。
 マルキシズムはもうひとつの宗教じゃないかと、戦前からもう言われていたんですが、シナ人はキリスト教原理主義的な「この世の終末は近づいた」=「各国のプロレタリアよ用意せよ」は、信じません。その代わり、シナの政治家はマルクスから、近代的な人民操縦法を学習して、実践しております。
 ──革命が勝利を得たとて人民の革命的興奮は直ぐ消えるものではない。その興奮をできるだけ長く保持せしめよ。そのためには、人物、公共建造物などに対し、激烈な復讐の手本を人民に示し続けよ。それを決して止めてはならない──。
 つまりシナ政府は「靖国神社叩き」という手本をシナ人民に示して、人民の復讐的興奮を永久に持続させようと図っているわけです。その政府の手本を見習い、人民も永久に「日本人叩き」をすれば良いと思っているのです。
 残念ですが、シナ人がいつの日か近代化しない限り、シナ人のクレームに対していかなる「弱み」を見せることも、現在および次代の日本人の命取りでしょう。


謎の多い文部省の「武士道」関与

 佐伯真一氏著『戦場の精神史 武士道という幻影』(04-5)は、『あたらしい武士道』を書くときに参照できなかった本のひとつです。NHKブックスなので書店で買えるだろうと思っていたのが甘かった。
 以下、おくればせながら例によって内容を兵頭が摘録し、※で私見を附していきたいと思います。
 著者は1953生まれ。平家物語の専門家。
 平曲諸本のなかで『延慶本』が最古の手掛かり。これ、今の定説。他本より詳しい部分は、源氏側の武士たちの勲功談がとりいれられたのが、比較的そのまま残ったのだろう。
 私戦にも軍使保護などの一定のルールがあったことは『今昔物語集』『奥州後三年記』等から分かる。
 文献上で堂々とだまし討ちや謀略を肯定するようになったのは、戦国時代から江戸初期。
 『常陸国風土記』によれば、ツチグモ=ヤツカハギ=山の佐伯・野の佐伯どもであった。※というところからインドネシアのサヤンではないかと昔思ったのである。
 p.44 佐原真が「現状では、縄文時代に戦争があったとみるには充分ではない」と述べているのが、現在の通説的な見解であろう。
 西嶋定生は指摘する。雄略天皇は書状をおくって、中華帝国のために夷や毛人を討つと表現していた。これが国内では、朝廷が華であり周辺民が夷であるとの構図に置き換わると。
 吉井厳によると、ヤマトタケルの物語は「相模〜甲斐」の線が東限であったと。その先には大和朝廷の支配は及んでいなかった。が、5世紀後半には雄略天皇の支配が関東平野に及んでいた。
 アテルイをとらえた田村麻呂の理想化は、清水寺にはじまり、謡曲「田村」で巨大化完成。
 『陸奥話記』は安倍貞任の敗死後の夷を同等の人間として観察している。つまり11世紀後半の東北住民は近畿の日本人とさして違和感はなかった。
 石井紫郎は考察する。暗殺によって敵を滅ぼせば、そこから無限の報復連鎖が始まる。そこで長期利益のために正々堂々とした合戦が選択されたのではないかと。
 富士川合戦のとき頼朝がつかわした軍使が平家に全員斬首されてしまった。これは『山槐記』に伝聞が載るので事実だろう。公戦すなわち叛乱征伐であるので敵とは取引しないという平家の考えであった。平曲では延慶本にだけ見える。
 『続日本紀』が伝える8世紀の内戦では、言葉争いに勝つことが敵味方の士気を決定的に変えた。のちの合戦の「名乗り」も、正義の陣営の正しい言葉の魔力がよこしまな敵に勝つという信仰ではないかと。
 後三年合戦絵詞では、斬首刑される武将は片肌を脱ぎ、髪をかきあげて前に垂らしている。
 読み本系の平曲にある有名なくだり。昔は敵将の馬など射るものではなかった。そのうち、馬の腹を射て敵をまず地面に立たせて戦うようになった。今は、いきなり馬ごとよせてすぐ組み、もろともに落下して腰刀で勝負を決めると。
 こうなった理由に諸説あり。※兵頭いわく。少数の弓の名手しか戦場に存在しないという状況ではなくなってきた。弓が高性能化して、誰が射ても遠くからよく刺さるようになった。反面、精密な狙いは超名人以外にはつけ難くなった。ただし遠くから人体を旨く射て殺してもその首は近くにいる味方に奪われてしまう。これでは損だ。そして多くの場合は、下手糞が遠くからやたらにたくさん射るので、人よりも馬に当たる。これは昔であれば腕の悪さの証明で「恥」だったが、近年誰もが下手糞であるのと、とにかく首をとれば名誉が獲得できるので、どうでもよくなった。かくして、数すくない大将首の手柄に執着する強兵は、射撃の手間などぜんぶスキップして組討ち(死体独占)を狙うようになった。
 観応の擾乱で、大見物人の中、1丈の樫棒と、4尺6寸の大太刀の、馬上一騎打ちがあった。互いの得物が折れて、引き分けになったと。※当時すでにシナ小説の影響があったか。まずガチではありえまいと思われる話。
 石山寺縁起絵巻には、なぎなたを水車のように振り回す僧徒が一人描き込まれている。
 山鹿素行以前の武士を「ごろつき」と見たのは折口信夫で昭和3年のこと。山伏など漂泊民の系譜だとした。
 p.122 シーボルトは学生時代の決闘で顔に2、3カ所の傷があった。※著者はドイツ学生の決闘遊び「メンズール」を知らぬ模様。なぜ顔だけなのかを考えたい。
 非武装のことを白装束ともいった。
 鎌倉〜室町時代、不意討ちや騙まし討ちを「スカシ」「すかす」と表現した。
 p.137 宇治川先陣の佐々木は「嘘」をついた。※然らず。本当に腹帯が弛んでいたから、梶原も締め直したわけである。この疑問は学習院院長時代の乃木大将も抱き、人に尋ねて、納得している。
 『理尽鈔』出て、智謀・謀略礼賛となる。同書は江戸初期の知識人に大きな影響を与えた。特にその秩序感覚に。ex:将がいつも約束を守るようにしているのは、いざという時に謀略を成功させるためであると。※ある武将がいつも虚言を吐かぬようにしているのは、一生に一度、敵に大嘘ついて騙してやるためであると、日本の何かの古い文典に出ていたが、いま思い出せない。
 『理尽鈔』いわく、孔子や釈迦も自分が尊敬されたいから教えを説いたのであると。利己的で愚かな民衆に秩序を守らせるために、神や仏を信じさせておけと。また寺院に次男・三男を出家させれば国の過剰人口を制御できると。※チベットのラマ教寺院の知見ではないか。
 酒井憲二いわく『甲陽軍鑑』の写本の本文は室町時代の言葉をよく残しているから、高坂彈正の口述をもともと多く含んでいただろうと。
 軍鑑のなかでは虚言は「計略」とされ、「謀臣」はシナでも悪いことではないと。腕は曲がらなくては役立たぬ。曲がったことも必要だ。
 相良亨は軍鑑を深く読み、他人に頼らず付和雷同せず身を飾ろうとせず事の真相をみきわめることができ計略にひっかからないのが真の武士で、その反対は女侍だと。
 越後流兵法は一つではなく、汎称である。
 北条氏長は「謀略」を適当な判断力のこととし、「計略」は用間のこととする。
 孫子の「兵は詭の道也」に氏長は悩まなかったが、素行は悩み迷った。室鳩巣は『駿台雑話』で素行の苦しい解説を笑って、「詭」は「詐偽」のようなBADな意味ではないとした。
 武士道の近世的継承である教訓書として力丸東山『武学啓蒙』(1802)がある。
 『葉隠』が、上方風のうわついた武道と難ずるのは、犬死にに価値を見ようとしない『理尽鈔』のことである。その中に「図に当たる」という表現が多用されている。『理尽鈔』こそ江戸初期のロングセラーで、「『葉隠』はそれに反発したつぶやきに過ぎない」p.212
 葉隠には「異端の書」という位置づけがふさわしい。その精神は伝統的潮流となって次の世代に継承されたわけではない。p.220
 ※長いコメント。S15年7月、ドイツ便乗軽薄内閣である第二次近衛内閣が、組閣するやいきなり大きな方針を打ち出しました。『葉隠』テクスト、特に「武士道とは死ぬことと…」のくだりを、戦前の三島由紀夫や小林秀雄が読むことになったのは、この大きな方針の小さな結果だったんです。まずS15-7-26の閣議で「基本国策要綱」の三の(1)として「我国内ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ、自我功利ノ思想ヲ排シ、国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス」等と決定されます。ついでS15-8-1の閣議で「基本国策要綱ニ基ク具体問題処理要綱」が決まった。そのイの一番の要目が「一、国民道徳ノ確立」で、起案庁は企画院と文部省です。ちなみに企画院というのは、近代日本をダメにした統制バカ官僚の巣窟でした。イの一番に掲げてはいますけど、もちろん教学事業なんか経済官僚にはよくわからないからすべて文部省に丸投げです。おそらく文部省はこれあるを期して早々と『葉隠』をチョイスして出版事業を進めさせていたのです。栗原荒野のフルテクスト校注の『葉隠』が刊行されたのが昭和15年2月。同じくフルテキストを和辻哲郎らが校訂する岩波文庫版の『葉隠』(上巻)が出たのも昭和15年の4月。どっちも第二次近衛内閣よりずっと早い。これは不思議なことですが想像は容易で、すでに各省の浮薄な官僚どもが1939年9月の欧州大戦勃発直後から松岡洋右らにそそのかされ、大車輪でこうした事業に先行着手していたのでしょう。この他、昭和15年には口語訳の三冊本も出ている。あのフレーズは、文部省とシナ事変以降の陸軍省が結託して人工的に「古典的名句」に仕立てたものです。
 「武士道」を嫌って「士道」を標榜した儒者も、中江藤樹以降、多い。徂徠も野蛮の武士道を難じた。
 松陰は中谷市左衛門という武士を紹介し、彼は寝首をかかれないように、熟寝中でも一呼かならず醒める、と。古川哲史は、松陰が特に『武道初心集』の影響を受けていると。
 鉄舟の『武士道』がすべてM20の口述であるかは疑問。出版年はM35である。
 新渡戸の意識では「武士道」は彼の造語。よって古来の武士道とは内容が違っていて当然。ただし米国刊行と同年に日本では三神礼次『日本武士道』が刊行されている。
 新渡戸がM4に東京に出てきたとき漢文や国語の学校はもうまったく廃れていた。だから新渡戸は和漢の古典には詳しくなれなかった。
 1898に植村正久が「基督教の武士道」を著わしている。
 「どうも新渡戸は、キリスト教文化に比べて、日本の武士の道徳は、正直という徳においてやや劣ると感じていたのではないだろうか。」p.267
 ※ただ「嘘をつかない」ことを学ぶだけで、日本人は近代に対応できた──と兵頭は思って『あたらしい武士道』を書き上げました。


ゴロリンピック

 総合格闘技で「小手返し」をきめた例はない、と昨年の小著『あたらしい武士道』に書いてしまったんですけど、04年末のPRIDEで、曙が「リストロック」をされてタップ負けしたらしいですね。わたくしはこれをウェブのニュースで読みました。
 どうやら、これまで「手首の関節攻め」は、お仲間である相手選手の身体破壊につながる危険行為であるために、総合格闘技のショーでは自粛されていたのだろうなと、推測ができるかと思います。ホイス選手としては、曙との体格差がありすぎるために、ふだんならば遠慮をする手首の破壊ワザを、敢えて仕掛けるしかなかったんでしょう。
 もちろん曙選手がたわいもなくこれにやられてしまったのは、単純にこのワザに無知だったからだろうと信じられます。柔術家だと分かっている敵が両手でわが手首や前腕を掴んできたなら、すぐ反応しなければ致命的でしょう。
 わたくしも4級で柔術をやめてしまったので偉そうな指導は誰にもできるわけもないのですが、道場で「あ、これは危険だ(そして実戦向きだ)」と思った手首と肘のキメ方があるので、ご紹介しておこうと思います。こういうのに無知だと本当にシャレでは済まないでしょう。
 まずとにかく、手首の骨の太そうなご友人に頼んで、仰向けに寝てもらってください。
 その、寝かせた敵の右脇に、じぶんは腰をかがめて立ちます。
 そして、敵の右前腕を上に伸ばしてもらいます。手先はグーにしてもらいます。
 それをわが両手で掴むのですが、このとき、わが右掌は敵の拳を真上から包み込むように掴みます。わが左手は敵の手首を素直に握ります。
 そのまま、敵の右手首を敵の右肩に押し付けていきます。わが右掌の包み込みと押し付けの力が十分にあれば、敵は手首が屈曲してしまうために存分の抵抗ができません。最後は、敵の右拳が敵の右肩を自分で殴るような感じで、くっつきます。
 この押し付けの動作と同時に、わが右足の爪先を、敵の首の右側面から首の下へこじ入れ、敵の首を、われから遠い方に脛で押しやるようにします。すなわちこれにより、敵はじぶんの首をじぶんの左肩の側へ曲げさせられます。(この所作に何の意味があるのかというと、次のキメの痛みがぜんぜん違ってくるんです。首が自由であれば、敵はあるていど我慢し続けてしまいます。なお実戦では、事情によっては、わが右足刀で敵の気管を圧する場合があり得ましょう。)
 次に、わが両手に力をこめて敵の右手首をわずかに握り直し、われから見て、徐々に9時の方向へ動かします。このとき、敵の右手首は敵の右肩からすこしづつ離れていく。と同時に、敵の手首の地面からの距離も、すこしづつ増すようにします。とうぜん、われによる「捻り」の力も全力で加えつつ、おこなうのです。
 すなわち、われの両手は、ゴルフクラブのスウィングをするように9時方向に動くのですが、そこに、自然な回転方向の捻りの力も全力で加える。
 動かし始めて1秒で、敵は「ギブ・アップ」の意思表示をするはずです。肘が伸びきるより、ずっと前にです。
 わたくしは無知ですが、おそらくそこから手加減せずに2秒進行させると、肘が伸びきり、敵の肘および手首は壊れてしまうのではないでしょうか。
 柔術では、仰向けに倒して伸ばしきった敵の右肘をわが左膝に押し当てて折るという荒ワザがあるんですが、それよりもこのキメ方の方が力もいらず、時間も短くて決着するに違いないと、素人なりに思いました。つまり、これは「一対多」にも向く瞬殺ワザです。
 ただしこのキメは総合格闘技の「ショー」にはまったく向かないでしょう。ギャラリーには、何でタップするのか分からないはずです。あまりに早く決着するので。そしてもし「勢い」がついたり、ショーのために「見得」の静止時間を設けてしまいますと、手加減が失敗し、相手選手の骨を壊してしまいかねないでしょう。
 リストロックもそうですが、相手が曙選手のような頑丈な大男であり、かける側がホイス・グレーシー選手のような熟達者であるからこそ、「ショー」としてハッキリ見ばえがして、しかも相手に永久負傷をさせずに済ますというコントロールが可能になるのだと、想像をしております。


新刊を勝手にご紹介します

 先日の上京で大盛堂で買ってきた本の中の一冊をようやく読み終わりました。松村昌廣氏著『軍事情報戦略と日米同盟』(04-12)。著者は1963生まれ。
 以下、内容摘録、および所感のメモです。※印がついているところは、まるっきり兵頭の思い込みです。他も、文責は兵頭です。
 米国の軍事情報通信システムは、core,tasking(収集情報の優先順位を決める),collection,processing,dessemination(利用者への供給)からなる。
 MASINT(Measuremant and Signature Intelligence)というのがある。※「どの通信機を使っているか」の追跡のことだろうか?
 インターネットを暗号付きで利用する方式が三軍にある。
 p.18 ペンタゴンと市ヶ谷のホームページの公開情報には雲泥の差がある。米国が公開している内容をなぜ隠すのか? ※ここに日本の「エリート」がアメリカに勝てていない原因および結果が存する。兵頭も初期の旧著でこの意味を考察せざるを得なかった。
 SSM発射炎を探知するDSPはいま静止軌道上に5基あるが、これを新型静止衛星×4と長楕円衛星×2に2006以降更新する。さらに低軌道周回のRV捜索追跡衛星を24基、回すつもり。※2007からのMDに間に合うか。
 AWACSとJSTARSの機能は将来、レーダー衛星によって代替できる。※鉄条網が風に揺れてドップラーになり強調されていた第一次湾岸戦争時のJSTARSの合成開口レーダー画像は高度200km以下をパスする衛星からなら得られるかもしれないが、衛星には赤道以外の特定上空にロイタリングできないという決定的な不利がある。これをどうするか。
 クリントンは2000-9にNMDの採用を見送ることにした。※財政健全化よりも大事だとは思えなかった。9.11以前で、抑止は十分と考えた。
 9.11後にロシアはABM条約の廃止を呑み、米国との対等の地位を公けに放棄した。
 情報RMAは「支配的機動」「精密交戦」「全次元防護」「効率的兵站」を眼目とする。ステルス技術は「精密交戦」に包含されている。
 WWI後、英の国際問題研究所と米の外交問題評議会が交流し、政策型知識人が同盟の下地を作っているような関係は、日米間には無い。
 NSAにおける、フランス、イタリア、タイの位置づけ(ドイツ、日本、韓国、トルコ、ノルウェーと同等なのかそれ以下なのか)は、不明である。
 インテルサットが701型から703型になり、南半球への電波ビームが細くなったので米英の傍受基地ではサイドロブをコレクションできなくなった。そこで80年代半ばから海外傍受基地が増やされた。
 NSAが日本に設けた衛星傍受拠点は三沢にあり、処理拠点は千歳、九州、東京にある。
 イリジウムは低軌道のため既存傍受施設ではコレクションしにくかった。※それで経営破綻させられた?
 93年と95年にNSAは日本の自動車に関して露骨な諜報を展開。※これがバレているのは、クリントン政権のやり方に反対の人がいたからだろう。
 米の衛星情報は、日本の外務省の北米局か、防衛庁防衛局の対米・安保政策責任者に渡される?
 イスラエル国内に、米軍基地および米軍のプレゼンスが無い。両国の軍隊は、共同作戦をしたことがない。
 「リンク16」のようなシステム統合技術を米国から暗号のブラックボックス付きで貰ってはいけない。まず自前のユニークなシステムで三自衛隊を統合してから、そののちに米軍と繋げるべきである。
 RMAはまだ起きていない。既成の如く報ずるのは情報操作である。
 「リンク11」は短波を使えるので電離層で反射させれば500kmの通信ができるが、単一回線を順番待ちで使っていくロールコール方式であるため、データ量が画像に対応できず、文字中心となる。「リンク16」はUHFなので水平線までの32kmの見通し交信しかできないが時分割多重接続方式なのでデータ量が画像に対応できる。しかも傍受や妨害にとても強い。
 KH-11の後継機「FIA」が2005に上がる?
 p.116 RMAの目指すところ、米国は陸戦(接近戦)を同盟国陸軍に分担させようとするだろう。米軍の近接戦闘能力は弱まるだろう。
 ※アフガン戡定作戦がイラク戦争でも再現されていたなら、そのようになっただろう。かつてパクス・ロマーナが崩れたのは、ローマ市民が、小刻みな戦争の反復と、短兵を揮っての白兵戦を厭うようになってからである。ガリアと近東の戦場を最後に制圧したのは、飛び道具ではなく、短い刀剣を手にして陣形を固く保持し抜いたローマ市民の重装歩兵の勇気および規律であった。大きな戦争を一回して勝ち、あとは平和の配当を楽しもうと市民が思うようになったら、辺境での小さな反乱は放置され、ついには破滅的な大戦争を招く。この教訓を英米指導者は知っている。イタリア人はチビなので、だんだんにこの気概を失ったが、幸か不幸か英米人はガタイが大きく、hand-to-hand の接近戦に生まれながらに自信を持っている。さらに第一次湾岸戦争以降、暗視技術の多用で、映画の「プレデター」の味もしめてきた。これに文明的優越と武芸鍛錬文化と軍隊の実戦的訓練とエリートの気迫が伴っている。
 p.119 RMAはビジネスにおける革命の軍事応用にすぎない。問題はむしろ既存の軍隊(三自衛隊)が組織としてそれを受け入れないことにある。
 ※「諸列強」と書いてあるが、列強は the great Powers の和訳でたぶん最初から複数概念だろう。
 米軍も通信の95%は民間衛星利用で、専用軍事衛星利用の通信は5%のみ。
 p.121 日本が打ち上げた偵察衛星のうちレーダー衛星は「夜間・悪天候の下でも移動物体が捕捉可能」。※これは米軍の計画中の衛星と混同した誤記か。
 p.125 「わが国憲法が集団的自衛権の行使を禁ずるとするかぎり、共同攻撃作戦を可能とする米国との高い水準のデータリンクは憲法の要請に反している。」
 ※加藤健二郎氏の名を「健二朗」と書いているのは元本の誤記なのか?
 米は仏の『シャルル・ドゴール』のために「リンク16」を供給している。E-2Cと母艦を結ぶ。
 「リンク22」は「リンク16」より劣った廉価バージョン。11と22はどちらもUHFでも使えるのだが16のような容量はない。
 UHFでグローバルに通信できるのは米軍だけ。他の国はまだ短波依存。「スーパーバード」が使えない遠洋では、海自はインマルサットなど外国の通信衛星と、リンク11の短波に依存するほかない。
 BADGEには空自独特の暗号が用いられてきた。そのためE-2Cはもともと米海軍の飛行機であるのに、海自や米海軍とは接続ができない。日本のE-2Cは空自のF-15ともデータリンクの相性が悪かった(元米海軍機と米空軍機なので)。また、空自のリンク11は海自のリンク11とのインターオペラティビティは無いだろう。
 自衛隊でリンク16が使えるのは空自のAWACSと海自のイージス艦だけ。
 海自はリンク11でもリンク16でも米海軍に完全に情報通信面でとりこまれつつあるが、空自は米空軍との情報通信共有を拒否してきたようだ。すなわち空自と米空軍は「リンク11」がつながらない。ただし近年の共同訓練に参加しているロットのF-15は謎。※AWACSだけが確実に米空軍とリンク16でつながるわけか。ということは浜松のE-767の行動に注目すると米軍の気にしていることも読めるわけか。
 巡航ミサイルやステルス対策で有効なレーダー情報の統合運用は、米英海軍間で実現している。弾道ミサイルの脅威にされされていず、イージス艦をもつ必要にない英国は、この選択にとびついたが、結果として、米軍情報なしでは行動できない海軍になるだろう。豪海軍がこれに続き、その次は海自になりそうだ。この投資が巨額と見積もられるので、海自は隻数削減を呑んだ。※米はマルチスタティックレーダーを艦隊のソフトウェア上で実現しようというのか。技本で研究中のバイスタティック/マルチスタティックレーダーは察するところ次期国産BADGEだから空自専用、本土防空専用ということか。
 p.160 自衛隊が低い水準のデータリンク能力しか持たないのであれば、自衛隊は高いレベルの対米協力活動はできず、米軍は単独で行動するだろう。
 リンク16を採用しつつ、同時に米国の暗号ブラックボックスに支配されない選択肢として、英国BAE社が今よびかけてきている日英共同開発案に乗るという手がある。
 2001から英潜水艦隊が導入したトマホークの地図情報は、軍精度GPSデータの鍵とともに、米軍が供給する。このアクセスは米はいつでも拒否できる。つまり英国は米国に相談なしではトマホークを発射できない。
 英はF-35の開発コストのうち4000億円を負担したが、米はアビオニクスを英に開示せぬ方針である。
 仏やイスラエルが米(NSA)と結んでいる暗号保全協定(GOSMIA)を日本も結んで、三自衛隊の独自データリンクをまず達成してからリンク16を導入しないと、米のリンク16の暗号ブラックボックスを日本は使うしかなくなり、その結果は日本のミサイル発射権をすっかり米に渡すに等しい。
 p.173 三自衛隊は暗号も共有していない。
 海自のMOF(基本的に文字データ)と空自のBADGEを早くリンク11で結んで共通戦術ピクチャー(陸自のオーバレイマップのCRT版のようなもの)をつくれ。
 海南島に01年に着陸したEP-3はリンク11で、その暗号の鍵はCD-ROM供給であった。※てことはCD-ROMを瞬時に破壊する保全装置が機内にあるのだろう。あるいは鋏で切って窓から投げ捨てか。あるいは「自動的に消滅するCD」か。
 リンク16の暗号鍵は48時間で切り替わる。周波数はランダムホッピングだし、元データにも暗号がかかっている。リンク11はホッピングしない。
 秘匿性が重視される軍用のデジタル交信では互いの装置をまず認識しなければならず、そのために互いの位置を正確に知っていないと通じない。リンク11で457m、リンク16では9.8mの誤差しか許されない場合がある。
 オランダ海軍はNATOのソースコードに依存している。つまりは、独自行動はしないと決めているのだ。
 C3I担当の国防次官補には三軍にああせよ、こうせよの権限がない。米三軍も相互データリンクを嫌う組織文化があった。
 2002時点で英国防省は将来常に米国の援兵として共同作戦をすると公表している。
 韓国はイージスシステムを輸入することにしたが、通信ソフトは暗号も含めてフランス製を選んだ。つまり米国と共同作戦しないことを決心している。
 最初にインド洋に派遣された日本のイージスはディエゴ・ガルシアの防空が任務だった。つまり海自として初めて米海軍の実戦の「ピクチャー」をリンク16経由で貰った。ただし第七艦隊と第二、第六艦隊とでは暗号が異なるので、当初はうまくいかなかった。
 二国以上の合同司令部の形態には三つある。WWIIの米英、あるいは戦後の米加の方式。朝鮮戦争の一国主導方式。そしてデザートストームの並立方式。日米同盟は現況ではデザートストーム型。
 空自には「単独防衛」の気概があったから、指揮通信システムはまったく自律的なものになった。海自は最初から米海軍との共同作戦しか念頭になく、ROE共有を急いできた。※おそらくF-35導入決定は海自の政治力が空自を上回ったということだろう。空自のホンネは国産がベスト、F-22が次善だがライセンスでないなら断る、というところか。外務省より防衛庁が、その防衛庁の中でも海自派が、さいきんノシてきた。その背景には米国との親密度の差があったというわけだ。
 イージスのレーダーは低空目標に対して72km有効。※どのくらいの「低空」かだが…。
 最大18目標と交戦できるが『こんごう』は終末誘導レーダーを3基しか有しないので同時に3目標にまでミサイルを発射できる。
 ミニ・イージスと呼ばれる『きりさめ』は大型航空機を200km先で捕らえるのみ。
 2004年度内に海自のイージスは全部リンク16対応となる。
 p.220-3 「悪魔は細部に宿る」ので日米同盟全体のべき論など無意味。自衛隊が指揮組織上の、また通信システム上の統合を自己実現しないうちに海自が米国製のリンク16を使い出してしまえば、もはや三自衛隊は分断され、米国の走狗となるばかりである。拙速に米軍とのシステム統合化を進めてはならない。「日本政府はインド洋へのイージス艦派遣を断念すべきであった。」
 p.229 イスラエルは米衛星から直接、早期警戒情報をダウンリンクできる体制を敷いている。
 98年時点で、米国から日本に早期警戒情報が届くまで8分かかる。北鮮のSSMは7分で落達するのだが。
 米海軍の原子力正規空母は調達コストだけで1兆円以上。ランニングコストは毎年260億円。米国はこれを12隻揃えて保持しつづける予定で、加えてハリアー空母になる海兵隊の強襲揚陸艦を12隻もつ。
 大型空母の寿命は50年。ニミッツ級は23年たったら炉心を分解して核燃料や内壁等を交換しなければならない。そのドック作業には2年半もかかる。
 正規空母はニューポートニューズのドライドックでしか作れない。同時に1艦しか船台に置けないのだ。
 2000年のジャパンハンドラーズによる「アーミテージ報告」とは何を要求したものであったか。米空母艦隊がインド洋に集まった場合、正規空母の空白となる西太平洋では、ハリアー軽空母(強襲揚陸艦)と海自の艦隊がその穴を埋めて欲しいというのだ。海自の16年計画型DDHはそれに呼応している。
 日本政府は集団的自衛権の行使が必要であることを自国民に説明せずに「事務方同盟」が続いてきた。
 わが国の輸出に占める米国市場の比率は25%あり、ドイツの8%より高い。東アジアからの迂回輸出を含めると米国市場依存はさらに高い。
 日本は経常黒字を出しながらその金融資産を自国内の金融市場でほとんど運用できぬため、米国財務省証券を購入した。
 日本が米国の走狗とならず、日米同盟を「共同体化」することもできなければ、「周辺地域に対する限定的抑止の目的で短・中距離弾道ミサイル搭載の核戦力や巡航ミサイル搭載の小型戦術核兵器などを保有する可能性は想定できよう」p.288
 ※シナ奥地に届く核ミサイルは米本土に届いてしまう。短射程の核兵器もヨコスカやカデナやハワイに届いてしまう。そしてシナ奥地に届かない核ミサイルは「抑止」になるのだろうか。抑止は1(抑止ができる)か0(抑止ができない)かしかなく、「限定」も「非限定」もなかろうと思うのだが。敵がもし核ミサイルを一発発射してきたら、その後は「抑止」の話ではなくて、「核戦争遂行」と「民間防衛」の話であろう。
 パトリオットのPAC-2はライセンス生産のため日本側ができるのは発射ボタンを押すことだけ。※そもそも空自の長射程SAMはBADGE連動だから、ナイキも有事には半自動発射のようなものであった。そして初期のBADGEは米国のシステムではなかったのか。
 横須賀に核燃料の処理施設がないので、2008以降の米空母は本国まで燃料交換に行かねばならない。
 海自の作戦艦艇54隻は英仏海軍の34隻と比べてかなり多い。予算が増えないとすれば、隻数を減らして軽空母中心に再編成し、英式の現代化をはかるしかない。本国防衛だけならその軽空母中心艦隊が計3つ、遠征艦隊も持つ気なら、つごう4つ必要だろう。※かくしてF-35というわけか。
 海自潜水艦隊は質量ともに増やす必要がある。艦齢を延長し、25隻体制にしてほしい。通常型なのに大型化しているのはおかしい。光学潜望鏡もおかしい。乗員は3割減らせるはずだ。射程110km、弾頭重量230kgのハープーンは対地攻撃用に改造できる。それに核弾頭をつけてAIP潜水艦から運用できるだろう。p.296
 ※以下、コメント。電気通信の見地から軍事・国際関係を語れる日本人が登場することを、長年待っていました。このような著作・著者が少しでも増えていくことを期待します。そして願わくは、東京の大きな書店でしか買えぬ書籍上ではなく、見易いHP上で毎日のように啓蒙を続けて欲しいと思わずにいられません。そうなれば、このような恣意的な摘録で内容紹介をするというご無礼も敢えてしなくて済むわけです。


バラけてよろしきものと、よろしからざるもの

 90年代に自民党が政権を一回、明け渡さざるを得なくなったのは、テレ朝とTBSの夜の報道番組が原因だと言われました。
 昼のワイドショーや、女性週刊誌や、タブロイド版夕刊紙を、これに加える人もいます。しかし庶民に対する「洗脳力」では、夜のプライムタイムの地上波TV放送に勝るものはなかったんでしょう。わたくしは、NHKの総合と教育も、かなり悪さをしたと思っていますが…。(「グラムシ戦術」につきましては04年の「武道通信かわら版」バックナンバーに縷述しましたので、未読の方はググってください。)
 ところが、その、敵に自分の首を絞めてもらうための「縄」を渡していたのは、他ならぬ自民党の郵政族(旧田中派)だったのでした。
 アメリカの半分の人口と経済規模がある国で、どうして首都圏の民放地上波TVチャンネルがたったの5局しかないんですか? 人気スポーツイベントでもない番組が10%以上の視聴率を取るなんてことが、そもそも日本が「メディア先進国」とは程遠い環境にある証拠なんです。
 つまり、自民党田中派が角栄いらい電波をメシの種の利権にしようとして、自由に参入が許されるべき民放局の数を極端に制限してきた。放送局と広告業界と電波行政と族議員と国会クラブの政治部記者どもは癒着結託をしてきた。
 その因果の小車がついにめぐりまして、たった一人の久米宏氏に、愚かな庶民の投票行動を左右させてしまっていたのです。庶民が愚かであり続けるのは、放送行政が近代的でないからです。日本国を実質指揮している5%の非庶民は日夜忙しくてTVなど視ていません。その反面で、95%の庶民はTVしか視ません。その庶民が国会議員の当落を左右するのが民主主義ですが、その庶民の投票行動をごく少数のTVスタッフが左右するのは、成熟した民主主義ではありません。
 いま、デジタル地上波TVの放送タワーを2007年、あるいは2011年までに首都圏のどこに建てるかという実に馬鹿な論議が進行中です。これは、日本国をどうやってメディア環境の上でも良き国にするか──とは何の関係もありません。日本国民をどうやってメディアが幸せにしていくか──とも何の関係もない、只の利権ビジネスなのです。
 TV受像機切り替えの泡沫需要を狙いたい家電業界と経産省、1つの番組に今まで通り10%以上の視聴率を維持させて広告収入を高く請求したい電博と番組制作プロダクション、観光客を集めたい巨大タワーの膝元商店街、500億円の受注をとりたい土建業界、そのキックバックを当てにする関連議員らが、己れらの全く一時的な金儲けのためだけに運動しているのに過ぎません。
 これは経済的にはミクロなバブルにしかなりません。然るにその結果、第二、第三の久米宏氏や「グラムシ戦士」たちが今後何十年もまた政局を壟断することになります。95%の庶民はますます愚かになり、日本は完全な知的階級制社会になります。これは正味では日本国民の損失でしょう。
 「新東京タワー」構想が国策上、間違っている理由として、それが近未来の核戦争をまったく想定していないこと、があります。(これを指摘する人がいないのも情け無い限りと言うしかありません。)
 ビンラディンがNYの貿易センタービルをターゲットに選んだのは、あのビルにあった通信設備が破壊されれば、米国の銀行決裁が全部止まる、……すなわち、ドルの世界支配を大混乱させてやれるだろうと考えたからです。しかしそうはならなかった。じっさいの通信は、核戦争を考えて分散されていたからです。あのアンテナは広告的象徴でしかなかったんです。
 通信や放送は、これからは分散的であるほど国民の福祉には適う筈です。ニューヨークやシカゴのように、摩天楼にデジタル地上波の送信設備を各局個別に設置するのが合理的でしょう。
 そして、大都市圏とそうでない地方とのデジタル・デバイドを解消する準天頂衛星は、前倒しで実用化すべきです。(そのための新ロケット射場の確保を含めた宇宙事業の見直しについては04年の『納税通信』紙上で提言しました。)
 政府は政府専用のチャンネルを短波ラジオとインターネットと衛星で複数確保し、NHKは分割してできるだけ多数の新民放の事業体に売却すべきです。
 バラける方がよりマシになるものとしては、放送の他に、金融機関があるでしょう。
 民主党西村議員が大蔵省に反発するのは分かるもののその余勢で「減税」政策まで唱えるのは軽忽です。日本経済の需要の不足は、日本経済が自由経済に未だなっていないことと、国がハイテク軍需を主導せず、単年度会計の土木建築や補助金バラ撒きで税金を文字通りドブ(=最下流)需要にただ流し捨ててしまっているのが主因です。
 不自由経済の元凶の西の横綱は「金融商品の不自由」です。もう米国のITバブル、「ニュー・エコノミー」の90年代から知られていたことです。残念ながらわたくしと同年齢の元エリートバンカー木村剛氏すら、いまだに「銀行は分割して小さくするほど自由経済に貢献できる」ことを認めることができないようです。
 『あたらしい武士道』にも論及したように、人間の最大の戦闘器官は頭の中にあります。その一点で日本の選ばれた人材が北鮮やシナや米国のカウンターパートに劣れば、軍事でも政治でも経済でも、日本はとめどなく後落していくしかないですね。


強者に対する卑屈さ

 あまり関心がなかった山下奉文将軍の伝記を、福田和也氏の新刊で読んだ。
 以下雑感。
 高知県の杉村の大杉とは、拙著『日本の高塔』p.87に紹介した長岡郡大豊町のものと同一のものだろう。あれを調べた99年当時、高さ68m、さしわたし7mで日本一の杉だったが、これが山下将軍とゆかりがあったとは知らなんだ。
 山下のキャリアで最も興味深いのは2.26関連ではなくて、1940年7月から航空総監となり、同年12月にドイツに調査に行って、何を感じてきたかだ。
 シナ事変での海軍航空の万能ぶりをその目で見ているはずの山下は、「海軍主導の統一日本空軍」を是としていたのだろうか? それともあくまでドイツ流に、陸軍の補助兵科としての対地直協空軍しか考えていなかったか。そこが知りたい。
 これは防研に生史料も多いはずで、しかも兵頭が『日本海軍の爆弾』や『パールハーバーの真実』を書いていた頃には防研の所員が頻繁に読んでいる痕跡があったから、きっと防研の中の若手研究家が決定版を出してくれるに違いないと思って長年待っていたが、一向にそれが出てこない。
 海軍もこの調査団にはつきあった。それは陸軍主導の空軍構想を邪魔するためであったと思える。その抵抗はあっさりと成功し、WWIIを通じて陸海競合で、あまたの駄作機が研究され量産され、戦争資源がムダ使いされた。
 後智恵では、2式戦があれば雷電は要らず、疾風があれば紫電改は要らぬ。同様、海軍の艦爆があれば陸軍の軽爆など無用で、海軍の陸攻と陸軍の双発重爆も機種統一ができた。「統一空軍」の可能性は大きかった。
 ちなみに大西瀧次郎は、海軍主導の「空軍」構想を戦前から持っていて、シナ事変の陸戦サポートで大いにその実力を見せつけてやったものの、陸海の政治力の圧倒的な差から、最上層部に一度もまじめに検討してもらえずじまいだった。
 敗北の少し前になってようやく戦争指導部が本気になり、「軍需省」を創った。これが要するに「空軍省」のプロトタイプである。そして同省のもとに陸海の航空戦力は生産が一本化されるはず……だったのであるが、陸海軍の双頭制という明治憲法の遺制はここでも合理化努力を押しつぶし、大西は軍需省のナンバー2に甘んぜねばならず(ナンバー1は陸軍人)、終に何の見るべき成果も上がらなかったのである。
 果たして統制派ではなく皇道派の山下がどんな「空軍」を考えていたのか? 残念ながら福田氏の新著でも、それは分からぬ。
 乃木の殉死と山下の刑死を対比しようとすると、話はまとまりづらくなる。
 山下は刑死必至の情勢でなぜ自決を選べなかったのか。「出世レースをかちぬいてここまできた選民中の選民が、どうして自殺などせにゃならんのか」という主役意識であろう。エリートの陸幼組にはそれがあった。大将の次は首相が狙えたのだ。まして他の主役、たとえばライバルの東條が生きている間に、意地でも死ねたものではなかった。「東條ではなくオレに仕切らせてくれていたらこの戦争は負けなかったんだ」と口には出さなくとも陸幼出身の大将はみんな確信していた。そういう病人どもである。
 その東條は一度は位人臣をきわめていたから、満足してピストルの引き金を引けた(外れたが)。参謀総長にも陸相にもなっていない山下は、とうてい人生に未だあきたらなかったと思われる。
 欧米流の古典教養はエリートに何を与えるかというと、「世界はお前を中心に回ってないよ」という諭しである。「俺は所詮ギリシャ人を超えられないのだ」と、自己および現代世間を相対化し、限界を自覚しつつ生きることができて、はじめて世界史的な大事は成るのである。
 乃木には、日露戦争勃発の段階で、死に所は「大将」「軍司令官」ぐらいしか無いと読めていた。生きながら得ても首相はおろか、陸相にも絶対になれないのだと読めていた。それが彼を、天皇だけ見つめる「忠臣」にした。安藤大尉も年は若いがこの境地であった。
 本書で面白かったエピソードの一つは、徴用員としてシンガポールにいた井伏鱒二が、山下に「欠礼」をやらかして、「…無礼者。のそのそして、その態度は何だ」等とさんざん怒鳴られ叱られた、とのくだりだ。
 「のそのそ」というところが要マークである。のそのそしている奴を、軍隊では誰も同情しない。この感覚は、創設当時のフォードやクライスラーの工場ラインでも職工同士に共有されていた。なかなか現代のヒキコモリどもには説明をしても伝わらないところである。
 もうひとつは、敗戦後に収容所で日本兵捕虜が英軍将校から虐められたという話だ。あらためてこんな話を読めば、二度の大戦でのドイツ兵捕虜との違いを、厭でも考えずにいられなくなる。
 マッカーサーが東京市民をつくづくうちながめ、「日本人は勝者におもねる12歳のこども」と評したように、日本兵捕虜たちも勝者に対しては卑屈であった。それが、収容所の看守としてその卑屈さにつきあわねばならなかった英人の側にサディズムを誘発したのである。
 これをむずかしい言葉で説明すれば、日本人に「近代的自我」が無かったからである。
 小林源文氏がさいきん劇画を描いているのかどうか知らないのだが、彼には「近代的自我」があった。彼の劇画のインパクトはそこから来たものだ。これは、ナチ物でない世界を扱った作品で、より明瞭に確かめられると信ずる。
 豪州映画の『マッド・マックス』に日本のマンガ家がインパクトを受けたのも、じゃっかん20歳そこそこのメル・ギブソンの「近代的自我」に触れたからである。
 欧米人は近代的自我を有しているから、これらを見て特にショックを受けたり、作品世界を模倣しようとも思わない。
 これらにショックを受けて模倣しようとする日本人アーティストに近代的自我がない場合は、やはりその模倣はオリジナルに迫るインパクトを与えることができないのである。
 将軍山下は交換可能な将棋の駒にすぎず、シンガポール陥落が世界史的な大事件だったとしても、それを成し遂げたのは山下のキャラクターとはほとんど因果関係が無かったであろう。