摘録と偶懐—-太田昌克著『盟約の闇──「核の傘」と日米同盟』04-8

 この本は「チャンネル桜」の収録翌日に東京の本屋で見つけて買ってきました。本の背中の「太田昌…」という著者名から、「前の沖縄県知事(昌秀氏)がこんなものを書いてるのだ」と錯覚し、読むのが遅くなりました。
 著者は1968年富山県生まれ。早大政経で米ソ冷戦に興味を持ったが、共同通信社に入社するや、いきなり広島支局に配属されている。※つまり「再教育OJTの要あり」と思われたかな?
 巻末年表は示唆に富む。※1957-8にソ連が米本土に届くICBMに成功すると、日本に関して対ソの「核の傘」は怪しくなった。そこで米は60-7に水中発射に成功したポラリス(まだ射程1850km)を搭載したSSBNを日本に寄港させることで日本防衛とソ連包囲の意思表示をしようとする。その前準備として、61-6に訪米した池田総理に随行した小坂善太郎外相に対し、ラスク国務長官がSSN(攻撃型原潜)の寄港を打診した。
 ついで63-1にライシャワー駐日大使がSSNの寄港を正式に申し入れ。
 ところが60年安保の再来を厭うた「低姿勢」池田は、3月の国会で野党に応じて、核弾頭を装備しているポラリス原潜(この時点で射程4630km)の寄港を断る旨、表明してしまった。
 シナが核爆発させた直後の64-11-12にやっとSSN「シードラゴン」の佐世保入港が果たされる。しかし肝腎のSSBNの寄港は実現することはなかった。
 61年にナイキ・ハーキュリーズ(核弾頭装着可)を導入決定するときに日本の核アレルギー輿論が騒いで、防衛庁は手を焼いた。このような輿論のため、核ミサイルを装備しない攻撃型原潜の寄港すら難題だった。
 通常弾頭だけのナイキ・アジャックスは62年から自衛隊に供与されている。67年の閣議決定は、非核弾頭のみに改造したものを導入する、とせねばならなかった。
 ライシャワーに次ぐ大使館ナンバー2のエマーソンは、戦中は中共へ連絡員として派遣され日共の幹部とも接触していた。そしてGHQでも日共とのリエゾンをとっていた。
 シナ版ロスアラモス研である「北京核兵器研究所」は58年の第二台湾海峡危機後に設立された。
 鉄道王ハリマンの息子はWWII中に駐ソ特命全権大使で、ケネディ政権下では国務省の役人でありながら大統領に直接書簡を送ることができた民主党の重鎮。
 63-1には次官としてソ連と核実験禁止条約の交渉を進めていたが、席上ソ連側から、米ソが共同でシナの核施設を先制破壊しようじゃないかと持ちかけられ、その感触を大統領に伝達した。ケネディはこれを真剣に検討し、暗殺される直前には、蒋経国やCIAもまじえてそれを実施する計画をいろいろ検討していた。※暗殺理由はどうみても核外交絡みでしょう。
 62-3時点で日本本土には核爆弾は置かれていない。ただし三沢に関しては57〜68年の間、「コア」抜きの投下水爆が貯蔵されていたと今では判明している。
 核爆弾は、沖縄に1000発あり、これを24時間待機のC-130×11機で本土の空軍基地に輸送し、板付のF-100×26機、ヨコタのB-57×36機、三沢のF-100×25機に搭載して、大陸を攻撃する手筈になっていた。専用のC-130は「ハイギア」と名づけられていた。
 デフコン2となり、水爆積んだハイギアが嘉手納から板付まで飛ぶのに1時間50分、ヨコタまでは3時間10分、三沢までは4時間15分。プラス2時間弱で、それぞれ出撃可能になった。
 三沢の場合は、水爆全体ではなく、コアだけ運ぶわけである。他の基地もそうであったのかどうかは不明。
 54年にシナが金門島を砲撃してから、65年までの間、本土の米空軍基地にコア抜きの水爆が貯蔵されたと、今では判明している。※その基地名は不明だが、距離から言って板付(福岡)か?
 1958頃に水爆の安全装置の改良が進み、コアを分離しておかずとも、事故で核分裂が起きる可能性はゼロになった。
 米国は核兵器の所在について否定も肯定もしない:Neither Confirm Nor Deny.
 西独では議会が認める3年前の1955から米軍の核兵器搬入が実施されていた。首相は知らぬこととし、問題になったら部下閣僚のせいにするつもりであった。57-12にジュピターとソーを西独内に配備しようとNATOが話し合ったところ、西独にはまったく発射権も発射拒否権も無いものだから西独輿論は8割が反発した。しかし西独議会は58年にそれを許容する決議。
 ケネディ政権時代には射程1000kmのSSMパーシング-1が「ツー・キー」システムで配備されている。その安全装置は62年に開発されたもので電子暗号を入力する。
 また、西独の核武装を押し止めるため、米人司令官の麾下、NATOの多国籍クルーが乗り込んだポラリス原潜を共同で運用しようじゃないかとも提案したが関係国にまったく不評で、ジョンソン政権はこの案を捨てた。
 フランスがミラージュ核報復機を配備し、西独にメイス巡航ミサイルが配備され、シナも核武装にスパートをかけていた59-7に、赤城宗徳長官が北部方面隊視察のついでに「赤城構想」を発表。6年かけて防衛費を倍増させること、核弾頭装着可能な「ボマーク」を導入するなどの内容。社会党が反発して棚上げに。※廃止後のいまでも弾頭重量が公表されていない「30型ロケット」(日本版オネストジョン)とも符号しよう。オネストジョンと核ファルコンは同じ小型弾頭を用いた。
 しかし高度成長の入り口で隊員増は給与面でかなり難しいと見込まれた。また池田政権は韓国との国交正常化交渉で「植民地時代の賠償に代る巨額の対韓経済援助」を求められており、それを実施するとすれば防衛費増額の余地はさらになかった。
 シナの原爆保有が間もなく確実という62年に日本の輿論を観察した国務省極東局は驚く。池田内閣は防衛費の対GNP比を増やす気配がなく、アメリカとともにアジアの地域防衛に貢献しようというそぶりもなく、核兵器開発も、米軍の核持ち込ませも、嫌がっていたから。ケネディ政権は、日本を「最も核武装化しそうにない国」と評価する。
 ライシャワーは、池田が、シナがやるのは核実験だけで核戦力は持つまいと思い込んでいる、と本国にリポート。国防総省から衛星写真を持った高官がじかに説明に乗り込んだようだが池田は真面目に相手にしなかった。※池田には核戦争リテラシーが無かった。
 66年赴任の駐日大使ジョンソンも、日本人がシナに親近感のみ抱き、その核武装を自国への脅威と捉えていないことに呆れた。※前に紹介した沢木耕太郎氏のノンフィクションなどを読めばその当時の空気が分かる。岸-佐藤-福田ライン以外は全員、中共との国交こそが手柄になり儲けにもなると狂奔していた。もちろん野党も。
 そこでしかたなく62年から岩国沖数マイルに海兵隊のLSTが核爆弾の浮かぶ貯蔵庫として68年頃まで置かれた。しかしライシャワー大使は66年までそれを知らなかった。この経緯は81年に公になった。
 ルメーが空軍参謀長としてペンタゴンの重鎮であった1962時点でペンタゴン内には日本の核武装を進めたい理想論があった。
 ルメイはROTC? ロンドンからB17によるドイツ爆撃を指揮。ついでグァムからB29による日本爆撃を指揮。ベルリン空輸を指揮。61年に空軍参謀総長。63年にキューバ危機で強硬論。65年に退役。68年に独立党のウォラス候補の副大統領候補になる。いつも対ソ・対支の全面核戦争を考えていた。※だから日本の核武装も許せということになる。だから日本は勲章を与えた。
 しかしジョンソン政権は、64年のシナの核実験以降、核不拡散の大方針を固めてしまった。※核抜きの沖縄返還が決まった69年時点でも米軍は日本の核武装を望んでいたという人がいるが本当だろうか。対支核抑止の機会は64年10月に去ったのではないか。つまり国防方針とは近未来の脅威に間に合うように策定すべきであるのに、シナ人の政治に盲目たりし池田勇人ら当時の吉田学校の腰抜け達がこぞってそれをサボったのである。
 60年代に日本に寄港していた米空母の主任務は対シナの核爆撃であった。68-1に「エンタープライズ」が佐世保に初寄港。※67のシナ水爆実験を承けた対北京メッセージであるが愚かな大衆はそれを解せず、ベトナム反戦運動の一環として北京に使嗾されるままにこれに反対した。
 72年にニクソンが横須賀を通常動力空母「ミッドウェー」の母港にしろと要求。その理由として、これは「核の傘」だと。
 ※米支国交回復交渉は、71年春の「ピンポン外交」で急に始まったのではない。それは表向きの宣伝である。まず69年1月のニクソン政権の登場を、周恩来は「対ソ防衛」と「アジア征服」の見地から是非に利用せねばならないと考えた。シナによる70年4月の人工衛星打ち上げは、ICBMポテンシャルの強調であって、ズバリ、米国に北京との国交交渉を迫るサインであった。米支の裏交渉はおそらく70年から始まった(その経過は日本の輿論を考慮してまだ公表されていない。愚かな大衆と役人と研究者は71年以後の公表部分が歴史のすべてと思い込んでくれているが)。中曽根が70年9月に訪米し、「シナの核ミサイルは日本にとって脅威だから、日本本土に米軍の核を置き、核の傘を維持してくれ」と頼んでいたにも関わらず、71年春、ヨコタ基地の核攻撃用のF-4はすべて沖縄と米本土に移されてしまった。つまり71年実戦配備の日本向けIRBM「東風3」が東京に撃ち込まれたとき、米軍の核攻撃部隊が核攻撃されたのと同じことになり米支核戦争の引き金が自動的に引かれるという意味でいちばん堅確なスタイルの「核の傘」は、この時、撤去された。それこそがキッシンジャーの初回北京訪問の前提になる「前交渉」の焦点だった。米国はまず「手土産」を整えたのである。周恩来はこの米国の譲歩事実を示すことにより、毛沢東および人民解放軍内の強硬派を説得できたのに違いない。72年の『ミッドウェー』の寄港要求は、ペンタゴンとしてはキッシンジャー一派の対支宥和に全く反対であったことを示す。
 SIOPはICBMと有翼空軍と潜水艦ミサイルと空母攻撃機の核を統一してターゲット分配を決めたもので、陸軍の核弾頭は無関係だった。
 このSIOPの標的としてレーガン政権のピーク時には東側の16000箇所がリストにあったが、冷戦後、半減。シナは82年に対象から外されたものの99年から再び対象になっている。つまりレーガン政権が対ソ集中のために外した。
 国務省のロバート・ジョンソンは63-10に文書をまとめた。すなわち、シナの核兵器はシナ大陸への「直接攻撃に対する抑止力となる」こと。「米国の助力を求める周辺国の動きを食い止め、アジア諸国と西側諸国の分断が図れる」こと、また、シナの軍事的脅威をアジア諸国が認知すれば、アジアに核戦争をもたらすのは米国の核だとシナが宣伝することが可能になること。そこで米国としては、アイク政権のように過度に核兵器に依存すればシナ宣伝の思うツボであるから、アジアの通常戦力を削減してはならず、アジア人の目に見えない形で北京に核戦力をつきつけなければならない。具体的にはSLBM原潜をシナの核実験前に太平洋に配備せよ。そしてIRBMはアジアには配備するな。また米ソ間の部分核実験禁止条約を宣伝してシナを国際世論から孤立させることだ──と。
 64年6月の国務省のペーパーは、シナの核武装を予期しつつも、日本に対する「核の傘」は「海上型核抑止力」の日本港湾の利用によるのが望ましい、などと書いている。※つまりトリップ・ワイヤーを避けてフリーハンドを確保できればよいというもので、まさに「抑止にならぬ」勝手な関与政策である。
 さらに同ペーパーは、東大のミュー3型ロケットについて、これはミニットマンICBMと同格のものであり、今すぐミサイル転用を決意すれば69年に実用化すると見積もった。※その発展型のミュー5型は、日本政府みずからの手でいまや完全に潰された。
 ご丁寧にも詳細なコスト計算までしてくれていた(p.218)。日本がミュー型を改造した核搭載の弾道弾×100基を75年までに揃えるのに、毎年GNPの0.5%、つまり数百億円で済む、と。
 奄美大島は講和発効2年後の53-12に早々と返還されていた。トカラ列島以北は米国の信託統治の範囲に含まれなかった。※要するに奄美大島には旧海軍の泊地があって、ホワイト・フリートの横浜訪問のときもそこから邀撃する計画であったので、米海軍としてはどうしても押さえておきたかったのである。
 64年に佐藤栄作が自民党総裁になるときの公約が「沖縄本土復帰実現」だった。佐藤が首相として初めて表立って小笠原の返還を求め、それはまず68年に実現された。沖縄返還を6年以内にするという日米の基本合意は67末である。
 小笠原の潜在主権は沖縄と同様、もともとサンフランシスコ講和条約に明記されていた。そしてその前に戦時中の「大西洋憲章」が領土不拡大原則を打ち出しているので、国務省も早く返せと米軍に求めていた。米海軍の巡航ミサイル「レギュラス」は、浮上潜水艦からのみならず、空母や巡洋艦からも発射できた。この核ミサイルの貯蔵も小笠原にしていた。米海軍は父島の二見港が潜水艦基地になると考えていた。※二見港は狭いので、原潜登場により価値が下がった。海自の潜水艦はときどき立ち寄るようである。
 米空軍にとっては、グァムからシナをB52で爆撃する際に、予備滑走路を別の島に確保しておきたかった。核爆弾貯蔵も分散しておきたかった。
 三木は佐藤後の総理の地位を狙っており、そのさいに「かつて米国に核の問題で譲歩した」と政敵に攻撃されることを嫌い、「持ち込み密約」に抵抗した。密約は必ずリークされると信じていた。そのためついに佐藤は三木外相を外し、密使の若泉敬に「核抜き本土並み返還・ただし有事の持ち込みはご自由に」の線でジョンソンおよびニクソン大統領と話をつけさせた。若泉は晩年の94年にこの話をオーブンにする。
 ※米政権が、議会に対する説明責任から、密約であっても正式な交換公文とするように求めるのに対し、60年代の日本の政権は、密約は必ず誰かから漏れ、それがマスコミや野党や政敵に政権攻撃の武器を渡すことになるのだとほとんど確信しており、文書化はもちろん口約束すら回避しようとした。つまり日本の議会はおろか、内閣、首相官邸内にすら「秘密漏洩」を罰するメカニズムが存在しないのである。これでは政治のリーダーシップなどあり得ず、選挙で責任をとらない官僚が独走したくなるのは自然だ。そして80年代以降、狡猾なシナは、この官僚どもを裏からコントロールしてしまえば、選挙とは無関係に国会、内閣、官邸を操れることを悟ったのであろう。
 ウォルト・ロストウは独自の理論をもつ頭の良すぎる経済学者であった。彼のすばらしい理論によれば南ベトナムはもう少しで「離陸」でき、近代工業国の仲間入りができることになっていた。それゆえ、60年代のインドシナの共産勢力に対する最強硬の対策をジョンソン大統領に提案し続け、とうとう米軍を「泥沼」に引き込んだ。
 68末、たまたま米国民はベトナム戦争に嫌気がさしていた。そしてべトナムから撤退してくれそうな共和党のニクソンが次期大統領に当選した。※かたや日本では69年になっても国民がシナおよび社共勢力の宣伝に操縦されており、対ソ・対支の核抑止の必要をぜんぜん理解しようとはしなかった。佐藤本人も、核武装は単に通常兵備よりも安価になるから有利なのだと考えていた節がある。「抑止」を理解できる政治家ではなかったのだ。佐藤がそうだとしたら、兄の岸もそうだったのだろうか?
 ICBMとB52とポラリス原潜の核の三本柱が充実してきていたので、米国にとっての沖縄基地の重要度は60年代前半よりもずっと低下しつつあった。特に平時の核配備について然りだった。
 沖縄復帰の交渉過程でニクソン政権は、核兵器撤去のための費用500万ドルを日本政府に負担させる方針だった。p.179
 佐藤は池田と正反対にシナを信じておらず、シナの核はまさに気違いに刃物だと66年12月にラスク国務長官に語った。※岸ラインだから当然。池田は吉田ライン。
 67-2にジョンソン政権は、シナの核戦力の高度に秘密なインフォメーションを佐藤だけに説明しようとした。しかし佐藤はその話が必ず外に漏れ、政権攻撃に使われると警戒し、謝絶した。結局、閣僚に対する秘度の低いブリーフィングだけが行われた。※つまりシナのミサイル基地の衛星写真や、開発中の対日攻撃用「東風3」のスパイ写真を佐藤に見せ、日本本土や沖縄への米軍の核貯蔵を公認させようと思ったのだろう。66年以降のこの時点でジョンソン政権が日本に核武装を促していたわけではないだろう。しかし佐藤には「核抑止」はサッパリ分からなかったのだろう。また、これ以後のある時から、日本の新首相は早期にホワイトハウスを訪問し、ホワイトハウス内において、高度に秘密の「ブリーフィング」を、日本のマスコミの目を気にせずに、受けるという慣習が出来上がったのだろう。
 63-2にマクナマラはケネディに秘密メモを提出。イスラエルは兵器級プルトニウムを抽出していて、核保有国となる決意も固く、2〜3年で核武装する、と。69年に米国とイスラエルは、「Don’t Ask, Don’t Tell」を決めた。すなわちイスラエルは核保有宣言を決してせず、アメリカもイスラエルにNPT加盟を求めない。
 フランスがIRBMを配備し、かつまた水爆実験した直後の68-9に佐藤は語った。「岐阜であれだけの話をしたのだから、一人ぐらい核を持てというものがあってもよさそうなものだな。いっそ、核武装をすべきだと言って辞めてしまおうか」。※そうすべきだった。官僚であった佐藤は「国民の教育」に失敗し、放っておいても返ってきた沖縄奪還の手柄に執着するあまり、NPTにサインさせられてしまった。代わりにノーベル平和賞を貰ったが、日本国民の権力はシナの核の前に丸裸となったのである。そして未だに「核抑止」が学ばれていないために、日本では核問題は「議論」以前の沙汰となっている次第だ。
 初代科技庁長官は正力松太郎。中曽根は59年に岸内閣の科技庁長官になった。※科技庁は50年代はあきらかに日本核武装の推進機関であった。
 しかし中曽根も核抑止に関する国民の教育には手をつけようとしなかった。
 70年1月に蝋山道雄ら専門家グループが政府要路に対し、外交的に核武装は得か損かという報告を提出し、外交的に安全にならぬこと、核兵備が大国の条件である時代は去った、などとネガティブな結論を出した。また同グループはそれに先立つ68-9に、ウタント報告のテキトーな数字を無批判に流用して、核武装は高くつき過ぎ、日本にそんなカネは無いと報告した。※この連中がキッシンジャー一派の意を承けた米人どものプロンプターを単に翻訳復唱していただけであることを歴史研究者として直感できなくては嘘だろう。自分たちで一から計算せず、世界公知のウタント報告の数字を使い、それでギャラを貰うとは、どういう「専門家」たちなんですか?
 75-8-6の新聞発表で日本はNPT早期批准を約束し、独自核武装の選択は封印された。
 ※ところでバンカーバスターの核弾頭版はどうなるのだろうか? 地中貫通爆弾は、現時点ではまだ浸徹量が10m未満。将来とて100mにも達することはなさそうだ。そして北鮮やシナが移動式ミサイルを隠している山岳地帯の横穴トンネルの上には、少なくとも厚さ数百mの岩盤がある。結局、トンネルのすべての出口に対するマッシブな核攻撃しか「カウンターフォース」の方法はないだろう。しかしイランの砂漠の地下工場については別な手が考えられるかもしれない。それは「十分の数キロトン」のミニ・ニュークをタンデム2連打で撃ち込む方法である。すなわち最初の一発を地表爆発させてミニ・クレーターを掘る。次にそのクレーターの底部にもう一発撃ち込むわけだ。


二、三の修正あり

 わたくしの参照したウェブ上の年表が十分でなかったようで、過去の首相の靖国参拝につき正しくないデータに基づく話をしておりました。
 遺族会と自民党の中曽根氏らがいかに靖国をねじまげてきたか(小泉氏の「8.15参拝宣言」もそもそも対遺族会の空約束だった)、また、梅原猛氏が中曽根内閣時代に「靖国懇」でアンチ靖国の立場から使った言葉を借りれば「靖国神道は、19世紀に起こった西洋諸国の国家主義によって」進化した神道であるがゆえにまさに必要かつまさに貴重なのであり、首相はとうぜん吉日に参拝しなければならないのだという点につきましては、いずれまた詳しく論じたいのですが現在、有料の原稿の仕事がありまして時間が取れません。
 以下の事実間違いだけを提示させてください。「放送形式」では過去に間違ったことを書き、あるいは書くべきことを書き漏らしたと思います。それをおわびし訂正します。
一、福田赳夫首相は靖国に四回参拝し、うち一回は8.15であった。
二、大平正芳首相は靖国に三回参拝しているが、8.15は外している。 


摘録とメモ──『花田清輝著作集 IV』1964

「近代の超克」と「もう一つの修羅」を収める。前者は有名な座談ではない。
 ホーリーローラーはくるくる教徒。
 寺田透が花田に語った。孔明はハンゼン氏病のため、劉備が再三訪問するまで、世間との交渉を絶っていたのだという説があると。花田も納得。病人だからいつも車にのって戦場にあらわれるのか。しかしおそらくは信ずるに足りない一片の浮説だろう、と。p.47 ※武田氏周辺の軍師にもその影があったろう。
 高坂彈正は「我等、元来、百姓」だから「保坂彈正、槍彈正、高坂彈正、逃げ彈正」といわれていますと『甲陽軍鑑』の冒頭で自己卑下。
「うたごえ運動」「生活綴り方運動」、どちらも遊びだ。
 トルストイは「アンナカレーニナ」の心理追求に訣別して、「コーカサスの俘虜」では行動描写だけを書いている。
 1930にドイツ映画『人間廃業』あり。
 ビリー・ワイルダー(ウィルダー)もドイツ映画出身で米に移住した。『お熱いのがお好き』は30年代にベルリンで想像していたシカゴなのである。
 ヒッチコックは四半世紀にわたり自作の剽窃ばかりしているようなものではないか。※TVシリーズがあった。
 ネヴィル・シュートの『渚にて』は、アルバニアの飛行機がナポリにウラニウム爆弾を落とすところから北半球の核総力戦になるという設定。※ノストラダムス信者だったのか。
 ケストナーいわく、原始文化は具象。文字文化は抽象。それは「第二の一対の目」だと。花田いわく、その次はTV具象になると。
 徳川夢声の『カツベン譚』いわく、むかしは映画スター以上に「映画説明者」が人気を左右したのだと。これをいやしむことばが「カツベン」。※日本の洋画TVで前後に「映画解説者」がしゃしゃり出てくるのはカツベンの伝統かと分かる。
 カツベンは講談、落語、浪曲、芝居からの転出者多かった。だから声優のマネゴトができた。活動写真の弁士。『くらがり二十年』によると無声は落語家をめざしていた。
 山路愛山は二宮尊徳のことを「並の人間に毛の生えた位のもの」と『報徳新論』で評す。p.187 二宮門下が内務&文部官僚になって、報徳講というものを推奨。バックが明治政府であった。日露戦争後の農村危機が背景。
 福田恆存は三島の脚本をベタ誉めした。小説より評価した。三島はすべてを誉められないと我慢のできない天才なのだとも言った。
 セルバンテスの『びいどろ学士』は自分の全身がガラスでできていると思い込んでいる。※つまり『コブラ』のクリスタルボーイか。
 1954封切り映画に『放射能X』『原子怪獣現る』『ゴジラ』がある。前二者は米画。これを比較すると、原子怪獣に米人たちは銃で立ち向かっているのに、日本人は国土を怪物の蹂躙にゆだねてなすすべがない。米人にとって映画の怪獣は仮想敵なのである。※ウルトラマンは日米安保だと言った評論家もいたっけな。
 福沢は勝を咸臨丸の船室から船酔いで出られなかったと誹謗する。木村芥舟は『咸臨丸舟中の勝』で、それは身分や格式に拘泥する幕府役人に対する不満からだったと弁護。
 暗殺をおそれて14年間も夜間外出しなかった福沢が痩せ我慢の説とはかたはらいたい。痩せ我慢の説が書かれたとき、徳冨蘇峰だけが勝を弁護した。
 氷川清話いわく「おれは、愚物は、とうてい、話をしてもわからず、英物はみずから悟ときがあるだろうと思って、うっちゃっておいた」
 世に意気地を除外したる聡明ほどくだらぬものはなし。聡明にして意地弱く臆病なる者は、ともすれば是れ大勢なり抗すべからずと称して事をなげうつなり。/堺利彦
 花田は橋川文三を、今日における福沢の亜流だと。橋川や吉本隆明にはただナショナリズムの観点があるだけだと。
 新井白石は源頼朝をこきおろしている。白石の理想は天皇親政であった。北畠親房は、将軍の仁政に期待をかけていた。両者は対立する。
 榎本は明治11年にシベリアを横断して帰国。『シベリヤ日記』あり。当時のコザックの子供は自分の年齢を知らなかった。そして両親も把握していなかった。特に男親は。
 この本はなぜか昭和14年9月に満鉄総裁室弘報課から発行された。※つまり関東軍は対ソ戦をすぐ始める予定だったのだ。
 真山青果の『坂本竜馬』に、竜馬が上海で手に入れた毒薬を岩倉に投げ与えるシーンあり。坂本はそこでいう。百姓を刀で殺すのはけがれだと。庄屋など細引きでくびりころせ、とその使い方を細かく伝授。
 坂本はこう書いていると。「人を殺すことを工夫すべし。刃にてはかようにして、毒類にてはかようにしてなどと工夫すべし。乞食など二三人試みておくべし。」p.300
 真山脚本は演出家が介在しない書斎読書の方が鑑賞にむいている。
 真山は正宗白鳥と同世代の自然主義小説家であった。周到な史料の科学的な研究の上で書いている。にもかかわらず調査事実にがんじがらめにされていないところがすごい。ロゴスだけでなくミュートス、たとえば政治講談に近親。
 千田是也いわく、演劇でもクローズアップは可能である。それは台詞でできると。
 柳田邦男いわく、東京男の眼のけわしさは、元来があまり人をみたがらず、はにかんでいた者が、おもいきって他人を知ろうとする気になったときだと。
 戦時中も若者は平静に話し合うことができず、喧嘩によって知り合おうとしていた。
 柳田いわく、農村においてこそ明治〜大正に景観は一変したのだと。桃、キョウチクトウ、サルスベリ林の樹花はわざと植えたもの。菜種もそう。ゲンゲソウも。
 白石は『孫子兵法択』で、作戦篇の「敵を殺すものは怒りである」を「怒りをもって敵を殺してはならない」と解釈する。
 花田は戦時中はラテン語を勉強していた。
 丈八の蛇矛といえばそれは張飛の武器。
 露伴いわく、虚言を束し来って歴史あり。※その通り。
 中谷宇吉郎いわく「語呂の論理」と。
 うち聞くより早や三枚目の安敵かとみえて……。
 花田はフィクションには敵と味方の二人の主人公が必要だという説。馬琴の脇役はリアルだが影が薄く、対立主人公になりえていないという。※だから葛藤が弱い。
 鶴女房より、浦島の鶴じじいの方がはるかに非凡だ。
 近松の書いた俊寛は、すすんで島に残ろうとする
 ラロシュフコオいわく「美徳は、たいてい、仮装した悪徳にすぎない」
 戦争中「武士道というは死ぬこととみつけたり」が「盛んに方々で引用されていた」
 花田はこれまで『葉隠』を読んだことがなかった。S28の記事。
 古川哲史が校訂者だが、古川は戦争中、葉隠は、ニーチェのツアラトゥーストラより神々しき犠牲精神だと絶賛していた。
 古川は戦後も『封建的ということ、その他』で、葉隠に武士道の本質をみようとしている。
 甲陽軍鑑によれば、陣屋で番をしているものの眠気をさますために、博打は奨励される。常朝も「おろめけ、空言いえ、ばくちうて」といっている。書き取った陣基はシャレの通じない人物にみえると。
 ※前回の沢木さんの新刊もそうなんですが、自分の生まれた時代のことがじつは一番把握しづらいもので、こうしていい歳をしてから勉強し直さなければなりません。


摘録とメモ──『沢木耕太郎ノンフィクション VII  1960』04-6

 著者は学部は経済系だがスポーツノンフィクションがキャリアの芯にある。20代で渡米経験。70年代末の、三人称で「シーン」を提示する米式ニュージャーナリズムを摂取した。
 本書は「危機の宰相」と「テロルの決算」の合冊で、ともに大幅加筆されている。前篇は1977-7の文藝春秋本誌に掲載されて以降、これまで単行本になったことがない。
 1960年モノの第三弾としては、全学連元委員長の唐牛健太郎について書こうと構想されていたが、どうやら作品にはならぬらしい。「未完の六月」というタイトルだけ決まっていた。6月とは安保条約が自然承認された1960-6を指す。
 1945年の流行語は「一億総懺悔」。47は不逞の輩。48は斜陽。50はレッド・パージ、51は逆コース、53は家庭の事情、55はノイローゼ、57はよろめき、59はカミナリ族。そして60年代は「アンポ」に明け、バイゾーに暮れた。
 1950年代の政経のテーマは「復興」。60年代は「成長」だ。
 戦争に頼らずにほぼ完全雇用が実現したのが池田時代。
 佐藤栄作の「安定成長」も、池田の「所得倍増」の末葉である。
 池田勇人は吉田学校である。福田赳夫は岸信介と行動を共にする道を選んでいる。岸は反吉田であった。だから池田と福田赳夫は敵対関係である。
 福田は池田より4年後輩だが昭電疑獄で逮捕され、無罪になったものの次官の椅子を逃し、政界に転じた。
 池田の派閥後継者が大平である。大平と福田をくっつけたのは、ブンヤから池田の秘書になった伊藤昌哉。同じく池田の秘書の田中六助も元新聞記者。※米国のように政治家のスターティングキャリアとしての弁護士は一般的でなく、しかも途中腰掛職としてのシンクタンクや大学ポストもない日本では、番記者から大臣秘書を経て国会議員というパターンが、官僚スピンアウトと並ぶ成りあがりコースなのか。
 大平は高松高商時代にクリスチャンになった。※だから大平は首相時代に靖国に参拝していないのか。
 財界浪人・矢次一夫は、岸のラインにつながる韓国・台湾ロビイストだった。
 池田の経済ブレーンの下村治には『経済大国日本の選択』という大著がある。本編の主人公で1989に没。
 下村が生まれた明治の佐賀には「尽忠報国」の気風が強かった。金儲け否定である。
 下村に「自分語り」の文章がほとんどないのは、下村が佐賀の『葉隠』士族のダンディズムを受け継いでいるからだ。p.51
 下村はシナ事変中の大蔵省で、理財局金融課長の迫水久常の下、会社活動統制の諸法令をつくった。配当、資金、設備投資、賃金、経理のすべてに網をかぶせた。
 満州事変以前の大学では、マルクスの言う「剰余価値」の源泉はなにも労働だけではないだろうと論じ、投稿。当時は「生産性」という概念が経済学にまだ無かった。
 とにかく現行の経済学はまるで役に立たないと理解して、昭和9年に入省。大蔵官僚としてケインズを独習。加うるに、ハロッドとアレン。昭和27年に経済危機が去るまで、不十分な統計をもとに、インフレなき立ち直りの方法を、待ったなしで模索し続けた。そして肺病で3年、職務を離れている。
 本人が本当に読んだと言うのは5冊。ケインズ『貨幣論』『一般理論』、ハロッドの『動態経済学序説』、ジョーン・ロビンソン『不完全競争の経済学』、エドワード・チェンバリン『独占的競争の理論』。加えておそらくマルクス『資本論』、シュンペーター『経済発展の理論』。
 明治維新から1945まで日本の年平均成長率は4.5%だった。他国に比べればはるかに高率。そして1945から1955にかけては9%であった。これがさらに維持できるとは思わなかったのが普通のエコノミスト。
 ベビーブーマーが中学卒業するのは1963だから、政府はそこから先の完全雇用を図れなければ、暴動もありえた。
 ケインズの『雇用、利子および貨幣の一般理論』の中核をなすものは、「有効需要の原理」と「流動性選好の理論」。
 完全雇用が達成できるかどうかは有効需要の大きさによる。したがって失業をなくしたければ、有効需要を創出しろという。
 ところが昭和25年時点でも池田らの世代は「消費は悪、節約・貯蓄こそ美徳」としか思ってなかった。国内の消費を増大させることが完全雇用につながると理解できる者は稀少であった。
 またケインズは、投資家が幅をきかす英国ならではの着想で、利子とは、流動性を放棄することについての対価であると。
 さらにケインズは、一の投資が短期的に一以上の需要を誘発する「投資の乗数効果」を指摘。しかし、投資が生産能力を増加させる長期の「生産力効果」までは思い至らず。
 ハロッドとドーマーがこの穴を埋めた。彼らはさらに、投資による生産力増大を吸収するだけの「需要」が必要であること、それには経済が「成長」していなくてはならぬことを明らかにした。
 下村は、その投資をさらに二種類に分けた。ひとつは、超過利潤の存在を嗅ぎ付けて機会主義的に便乗せんとする投資。もうひとつは、企業家の創造的な発意による投資で、この後者こそが経済の長期的な発展の動力であると見た。前者は景気変動の主因である。
 またさらに下村は、道路や住宅や病院といった固定資本への投資は、翌年の国民総生産をそんなに増すと決まってはいない。数ある投資の中でも、主として民間の製造業の設備投資が、産業を高度化して経済の成長をもたらすと結論づけした。民間設備投資額が多いほど、経済の成長率は高くなる。
 これが当たっているとすれば、ハロッドやドーマーの数式以上に日本経済は飛躍するはずだ。なぜなら日本では1955年から民間に設備投資意欲が漲っているから。また日本の投資は貯蓄率によって制約されていない。民間設備投資は賢明な企業家が決心しており、日本の労働者には最新の生産設備を使いこなす能力もある。
 下村の文章は時論的であり独創的だが修飾が無く、実証的。そして非妥協的な立論態度で予言を的中させていった。下村いわく、面白い話にはどこか飛躍が必要である。しかし自分は順を追わないと話はできない。また役所のペーパーは、何をするのか、なぜそうするのか、そうすればどうなるのかを簡潔に書かねばならないのだと。
 下村は、経済企画庁のエース・大来佐武郎や、米国ニューレフト仕込の学者・都留重人ら著名理論家と筆鋒するどく論争する。多くのエコノミストは、日本はまだ復興期で総需要抑制が必要だと言っているなか、下村だけが55年を境に勃興期に入ったとし、供給力に需要を追いつかせればよいと主張。
 結局下村が正しかったわけだから、当時の大物たちの下村批難は、後からの下村賛辞と等価だ。
 所得倍増は不可能だ、と言っていた口舌の徒は、自らを批判することなく、こんどは高度成長の「ひずみ」論に軸を変え、相変わらず日本国民に対して無責任に生きた。都留のように「永遠の正論」に身を寄せて現実を批判する安逸を下村は選ばず。
 1960に下村いわく、計画は、計画以外の可能性を否定しがちである。常に成長率が一定であるべきだと考える役人どもの発想は日本人の経済活動をダメにすると。福田赳夫はこの役人どもに賛成の人。同じ宏池会の大平、宮沢も、高度成長論には否定的だった。それはかれらが所詮は官僚だったから。池田は偶然に大蔵事務次官になったようなもので、考え方は役人の型通りではない。
 下村は、政府の役人が経済成長を統制して決定するのではなく、政府は成長を「予測」すればいいんだという構え。
 下村いわく、マルクスの考える資本主義とは、人口の増加率と比べてみると成長が無いに等しい、Goldの存在量が制約する資本主義で、リアルじゃないと。
 後進国市場にモノを売るしか能の無い日本が自由化すれば米国商品に席捲されるだけ、つまり自由化は第二の黒船だ、と考えていた者が多かった1950年代末に下村いわく、自由化とは国際的にも国内的にも、非効率産業を再編成して高能率産業に資源を集中することである。経済成長の意味はまさに自由化であり、自由化なき経済成長こそいびつだと。
 1971に下村いわく、経済の成長は生産性の向上による。生産性の向上は技術革新による。日本と欧米の技術格差が大きく、石油価格も安定していたがゆえに、これまでは高度成長は容易だった、と。
 池田は大蔵キャリアの途中で難病の皮膚病に罹り、5年間寝たきりとなり、妻は看病疲れで死ぬ。治る前に札所をまわり、一生嘘をつかないと願をかけた。
 前尾繁三郎も病気で、大蔵省の三等の赤切符組。やがて形影相伴う人生を歩むことに。
 林房雄の『随筆池田勇人』によれば、もし戦争に負けたら、地下に潜ってゲリラになろうと、昭和20年に前尾と話し合っていたと。つまり彼らのレベルの大蔵官僚は8.15まで敗戦情報を知らず、その点では庶民と同じだった。
 前尾いわく「強制によって計画的に事をはこべば最も能率的であるかのように錯覚する」のは「本末転倒で、逆に非能率」。だが、それが「真の政治とまちがえられている」と。
 「直税部長」には酒の配給権があり、また遺産相続の税金相談を受けることがあり、選挙出馬の下準備をするには好都合であった。
 S24初当選で、第三次吉田内閣の大蔵大臣になる。※元鉄道官僚の佐藤もそうだが昔の高級役人は破格の待遇で政権に迎えられている。
 すぐにドッジ・ラインを履行。補助金、補給金を打ち切って均衡予算を達成。これは国民から見れば耐乏予算。救ったのは翌年の朝鮮戦争。
 池田内閣時代に「金鵄勲章年金」「国防省昇格」などの右派の法案要求が自民党内にあったが、池田は斥けた。※池田の軍隊嫌いと安保音痴は別に論じなければならない。
 大蔵省出身の池田は身内にカネをごまかされるのをとても嫌がる。大蔵キャリアは税務署からスタートするので自然、カネにうるさいわけ。
 宏池会(池田の後援団体)のカネを管理したのが田村敏雄。しかし田村は気分上は首相池田と対等であり続けたので宏池会内部で浮いてしまった。田村は下村より早く死ぬ。田村は池田の弔辞では「両腕」にたとえられていた。それが機関誌に印刷されたときに「片腕」に直されたのは派閥内の某小者の策動。
 池田は自分では文章を書かず、田村などがすべて代筆していた。下村のリアル理論をロマンティスト田村が通訳することで政治家池田は理解した。
 田村は大蔵入省後、満州国官僚になる。語学の達人だったが、昭和15年のドイツ派遣予定はWWIIでキャンセルとなる。夢は、満州を、病院、刑務所、兵営の必要がない天国にすること。だが敗戦で文民なのにシベリアに抑留、その間に妻の死。さらに帰国後は公職追放。なんとか大蔵省の外郭団体に。やがて池田を総理にすることでかつての理念を実現しようと考える。
 戦前、田村が若いころ、大学で経済学の名に値するのはマルクスだけであった。田村もドイツ語原書でそれに通暁。
 1963に田村は、実験できない社会科学をソ連がやってくれて、社会主義は不平等を解消しないことを立証してくれたと書く。
 田村もまた口舌の徒・都留重人を攻撃していわく、現代において均しからざるを解消しようとすれば、それは経済の成長しかないのだ。金持ちの所得をすべて奪って分配しても国民一人あたり数百円にしかならぬ、と。
 池田内閣時代は、田村は、池本喜三夫の日本農業革命論に傾倒した。すなわち、1町分区画に農地を整理し、30馬力以上のトラクターで三倍深耕すれば、日本の全農地面積が倍増したのと同じことになる。かつ、畜産との混合農業にすれば、化学肥料は買わずに済む。結果、農産物価格は半値になり、農民の一人当たり所得は7倍になる、というもの。
 昭和33年の旧一万円札は、戦前の猪の図柄の「十円札」より手の届かない感覚であった。
 宮沢喜一いわく、子供のころにジョン・スチュアート・ミルを読まされた。そこには、トレランス=寛容という言葉がよく出てくる、と。
 司馬遷は呉起をすぐれた能力は持っているものの人の信頼を得にくい人物として、また田文を自分が特別な能力をもっていないことをよく知っている人物として描いている。
 ※前篇についてのコメント。地味な文献調査に労力を注いでいること、短時間で読ませる文章にまとめていること、これをなしとげてしまった年齢、いずれも脱帽の他はありません。
 後編。
 赤尾敏はもともと左翼運動から入ったが、大正末に獄中でイタリアのファシズムに感心して国家主義に回心。反東條なので、翼賛政治会からは、中野正剛、鳩山一郎らとともに除名された。それでも戦後はS26まで追放されていた。
 昭和27年の講和は、タブーであった右翼活動を公然化させた。※旧軍肯定、旧軍擁護を出版物で堂々と語れるようになったのがS27である。ナチス・グッズもその流れ。
 この頃、ナチスのアイテムは少しもタブー視されず、右翼活動でその旗や類似した制服を持ち出す者が普通にいた。※ナチズムと日本の戦前軍国主義は根っから別物だという今日の常識はまだ誰にもなかった。
 周恩来は昭和30年から日本の右翼に注目。昭和32年の岸内閣の成立は、右翼団体をさらに元気づけた。34年には李承晩もやりたい放題だった。
 赤尾敏は、講和後、国会内に自由に出入りできる「前議員待遇」を停止された第一号。赤尾の愛国党本部には明治天皇とキリストの肖像が掲げられていた。教育勅語を指導原理としていた。また街宣では日章旗と星条旗をともに掲げ、反米右翼は右翼小児病だと言っていた。
 経団連は社会党にも献金を続けていた。
 明治末、三宅島に医師はゼロだった。戸籍で「庶子」となっていた浅沼稲次郎は、士官学校や兵学校の入試成績がよくても、入学は不可能だった。軍人も医者もいやなら慶応の理財に行って実業家になれと言われた。
 早稲田の雄弁会はおのずから最も先鋭な政治意識をもつ学生の集まりとなっていた。
 大正12年に、軍事教練の早稲田導入に反対して、壮士学生に殴られる。※WWIから10年経とうというのにまだ日本ではROTCが無く、シナ事変では帝大卒の勤め人が二等兵として前線に送られるわけである。民主主義後進国。
 戦前は、国会議員と地方議会議員を兼任することが許されていた。
 戦前は、東京帝大出身の法学士は無試験で弁護士になることができた。
 斎藤隆夫の反軍演説は、シナ事変は聖戦なのかと、否定的に質問したもの。それにより議員除名。※明白に自衛戦争である事情の説明が政府によってなされなかったのは何故なのか?
 浅沼が親とも仰いだ麻生久は、陸軍省新聞班の昭和9年の「陸パン」は資本主義精神を否定しているから賛成だと。日本での社会変革の担い手は、軍隊と無産階級の合体したものだと。麻生は満州事変には反対を唱えたが、シナ事変には賛成。
 大杉栄が殺されたとき、浅沼も近衛連隊のターゲットリストに載っていた。
 翼賛選挙に推薦されず、非推薦でも立候補しなかったことで、戦後の追放を免れ、戦後の社会党の大幹部に。
 終戦直後では、「社会民主党」という党名は、ドイツにおける裏切りというイメージをインテリに与えるものだった。
 戦後の浅沼は、結論が出てはじめて動く、大勢がほとんど決しかけたとき、はじめて口を開くという態度におちつく。
 党活動への精進ぶりは誰も真似ができないもので、そのストイシズムは、どこかで自己を罰したいという潜在的な欲求に支えられていた。
 昭和32年の訪中で浅沼を団長とする社会党訪中団は大歓迎を受けた。ところが34年の第二回目は冷淡だった。これはシナの作戦だったが社会党左派は分からない。浅沼は第一回目の感動を忘れられなかった。北朝鮮人の黄方秀が過激演説をすれば中共の態度は変わると示唆した。その結果、「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であ」るが、それが「それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のため」であるから「アメリカ帝国主義についておたがいは共同の敵とみなして闘わなければならない」との池田の演説になった。この演説の全文が翌日の人民日報に掲載された。※つまり事前に原稿の内容が編集幹部に渡されていたと疑えよう。
 池田は共同通信の記者にも原稿のサワリを、本番三日前に見せている。それが載った毎日新聞のベタ記事に「米国は日中共同の敵」と要約されたフレーズあり。自民党幹事長の福田赳夫はそれを見逃さず、浅沼に抗議電報を打った。かくして要約フレーズが知れ渡り、社会党の過激性、卑屈性が世間に印象づけられた。※記事を発見したのは福田の秘書か誰かだろうが、それを効果的宣伝に結びつけたのは福田の手柄である。福田が8.15靖国参拝もやっていないのは三木より常識人の証拠である。しかし国債濫発とテロリスト釈放は大失政となった。
 浅沼には「支那事変は日本民族が飛躍するためのひとつの仕事」とおべんちゃらを述べた過去がある。そうした自己の軽薄さへの負い目から、第一回訪中と第二回訪中の間の、戦争中のことについての「反省」ぶりは誰より真剣であった。それをシナではしっかり評価していた。さらにまたシナ政府の要人は、そのような浅沼評価が公けにされれば「内政干渉」になるかもしれないとも理解をしていた。p.356
 羽田空港でシナの工人帽をかぶってタラップを降りてきた軽薄さがまた右翼の反発を買った。
 浅沼は、マッカーサー元帥感謝決議案に賛成の演説もやっていた。要するに庶民感覚と一緒。しかし彼には人並みのHomeはあったためしがない。庶子として育ち、結婚後も党務第一に暮らし、実子はいなかった。だから孤独であり、大勢の中に居ることを望んでいた。
 安保に倦んだ国民は池田の所得倍増論を歓迎していた。なのに浅沼は演説で安保のことをしきりに取り上げるので社会党議員も困っていた。
 山口二矢の精神的独立は中2から。父親がインテリで一喝主義のため、反抗期の見られない少年だった。
 当時の右翼の典型は、文学を軟弱と断じ、武道がすべて。
 玉川学園の小原国芳いわく、子供がいったん学校をやめると、再び学校をやり直すことはできない。
 韓国で学生が李承晩を倒したのが、日本の反岸運動を煽った。
 二矢によると、自民党では河野一郎と石橋湛山が容共派でゆるせんと。さらに暗殺候補リストに三笠宮祟仁まであり。
 一度は愛国党に属した山口は、口先ばかりで警察と狎[な]れ合っている右翼には左翼革命は止められないと絶望した。しかし彼にも、殺人の結果として係累にも迷惑が及ぶとの予想が、単独実行の抑止力として働いていた。ところが、昭和16年刊の谷口雅春著『天皇絶対論とその影響』を人から貸されて読んだところ、家族の迷惑を考えることは「私」であり、天皇を絶対唯一神として信仰するならば、無私の忠を実行せねばならないと確信する。
 さらに『明治天皇御製読本』を古書店で買い求め、決行までその本だけを読んでいた。「末とほくかかげさせてむ国のため命をすてし人のすがたは」などは暗誦していた。
 昭和35年に山口二矢が浅沼委員長を刺殺した凶器は、刃渡り1尺1寸、幅8分、鍔なし。短刀というより脇差サイズ。強盗対策として自宅に置かれていた古道具であった。
 山口は、刀剣では斬るのではなく刺さなければだめだという知識を、周囲の人から十分に仕入れていた。心臓ではなく腹でも死ぬという知識もあった。刀身が十分に長いために、武道のトレーニングを受けていない青年が、柄を腹に押し当てたままぶつかったとき、浅沼の巨躯は深く貫かれた。山口には刺したまま抉るという知識はなかったらしい。
 浅沼は第一撃で背骨前の大動脈が切断され、内出血ですぐ意識を失い、死亡。山口の第二撃は左胸を狙ったが、ごく浅手。※これは刃を縦にして腕だけで心臓を刺そうとして肋骨でブロックされたのだろう。
 偶然の重なりから、警備がガラ空きになった瞬間だった。しかし第三撃および自決は刑事が阻止した。
 主催者の意向に従い、私服警官だけを配したことが、テロ抑止力を薄めさせたと反省されている。すでに多くの政治家が刺されていたときに、ずいぶん寝惚けた警備をやっていた。
 警視庁からは、右翼の「面通し」ができる公安の警備課の刑事たちが応援に来ていたが、現場の丸の内署長の掌握下に入っていなかった。
 山口は17歳なので死刑にはならない。だが少年鑑別所(一種の診断センター)に移された最初の夜の8時前に首吊り自殺した。シーツを細長く裂いて80cmの紐に縒り、裸電球の金網カバーにひっかけて。
 党の顔で、象徴的まとめ役であった浅沼の死の直後から、イタリア共産党わたりの「構造改革」路線か、それとも極左暴力革命かという路線論争が社会党内で発生。「構革」は当初、日共内で研究が進み、一時は異端の烙印を押されたが、のちには「密教」として日共に採用される。
 ※本編も最近の初見でした。記憶では、「山口に続け」とか相変わらず言行不一致を恥じない様子のバカ右翼が80年代末まで棲息していました。しかし、青年山口はまるっきり異星人でそこらの乞食文盲とは生きる世界が違っていたことがよく分かるノンフィクションでしょう。児玉邸に軽飛行機が突っ込んだあたりから自称右翼団体は大衆を指導するどころか、蔑まれる者におちぶれていきました。朝鮮ヤクザとフュージョンしてしまった今では尚更でしょう。その後、狡猾な共産主義者は非暴力を装ったグラムシ戦術で日本社会の伝統破壊に成功しつつありますが、頭の悪い人の多い「2ch保守」ではとうていこの狡猾さには対抗できそうにありません。歴史からはもっと靭強な政治のロゴスが引き出されなければなりません。


まずシナを黙らせないと半島も黙らない

 ウェブの毎日新聞が1月10日の午前3時に「航空機搭載型レーザー砲」のニュースをのっけています。
 昨秋からボーイング社(今や旅客機から戦闘機まで造るようになった総合兵器メーカーです)が、自民党の防衛族議員に対して、巨費を投じているわりには開発がはかばかしく進んでいないエアボーン・レーザー砲システムに、日本も協力しないかと非公式に打診している──といった内容です。
 冷戦後、米国の軍用機メーカーは企業体力をつけるために大幅に統合され、ずいぶん数が減っています。ボーイング社はその整理の波の生き残り組として肥え太った大企業ですが、そのボーイングが、レーザー砲の底無しの開発費に音を上げた。彼らにとって事態は深刻なのでしょう。
 報道されない背景には、ペンタゴンあるいは米政府の上層が、この兵器システムの価値そのものに疑念を抱き、調達計画や支援予算面で冷淡になりつつある動きもあるのではないでしょうか。
 「航空機搭載型レーザー砲」は、地上から発射されてまず垂直に上昇する敵の弾道ミサイルが、雲を抜けて成層圏へ顔を出し、そこからさらに大気圏外に向かって、ブースターを切り離す直前にナナメの弾道コースを決めてしまうまでの間に、ミサイル燃料の詰まったブースターの筒体部分を強烈なレーザーパルスで照射して、薄い殻を破り、敵ミサイルのブーストを中途で失敗させようというコンセプトの兵器システムです。
 引力に逆らって重い弾頭を遠くに飛ばそうというロケットの筒体は、特別に軽量化する必要があり、物理的に可能なギリギリの薄い素材が用いられます。しかもそれは内部から重い燃料(固体の場合と液体の場合とあり)によって大きな圧力(膨張力)がかけられている。高空では大気圧が小さくなりますので、パンパンの状態になります。その外殻に、レーザーパルスの衝撃によってほんのわずかな破孔を開けてやることができれば、内圧によってブースターは自壊するのです。
 レーザー砲の搭載母機は、ほぼ大型旅客機の転用に近いもので、敵地近くの成層圏を、燃費を抑えてゆっくり長時間ロイタリングしています。つまり雲の無い見通し良好な高空において、水平方向に目標を捉えようというのです。標的の面積は小さなRV(再突入体)ではなくブースター付きですから、大きい(レーダーにも捉え易いしレーザーを当て易い)。かつまた、尻から派手な赤外線も放出していますので、光学照準装置でもトラッキングし易い。ますます好都合でしょう。
 敵のロケットも空気抵抗の大な大気圏内はできるだけ素早く通り抜けてしまわないとエネルギーの大損ですので、成層圏ではまだまだ垂直に上昇しています。それはぐんぐん加速中であるとはいえ、落下時に比べればまだ低速ですから、真横から照準をつけているレーザー砲の標的としてはイージーであるかもしれません。
 成層圏にある母機から横向きにレーザーを発射すれば、そのレーザービームも、雲や水蒸気による拡散・吸収の悪影響をあまり受けずに標的まで到達してくれるでしょう。
 このように理論的なフィージビリティはあると説明されてきたのですが、ボーイング社での実験はそんなにうまくいっていないようです。どこがどううまくいっていないのかは、公式説明がありません。自民党の族議員さんたちは、ミーティングでそこに突っ込めたでしょうか? やや疑問だろうと兵頭は思います。
 技術的に停滞をしているのは、やはり射距離とパワーでしょう。成層圏といっても空気はありますから、どんな波長のレーザーも距離に応じて減衰させられてしまいます。どうも、ベスト・コンディションの想定でも有効射程は300kmに達しないらしい。
 その「300km」という数値も、どこから出てきているのか疑ってみる智恵は必要でしょう。射程が300kmあれば、北朝鮮の東西の海岸線から、北朝鮮の全領土をカバーすることは可能です。しかしそれは彼らの旧式なミグ21戦闘機の行動半径内であることは勿論、沿岸から発射された長射程地対空ミサイルからも安全でない距離です。
 もっと考慮すべきことがあります。イランの内陸は沿岸もしくは国境から何kmあるか、地図で計ってみましょう。イランのどの国境線からも300km以上離れている土地が、イランには存在します。つまり、このエアボーン・レーザーが実用化されても、イランのミサイル発射を封じ込めることはできない。ましてシナには無意味です。米国政府がこのシステムに見切りをつけつつある背景には、これがありましょう。
 要するに、この「航空機搭載型レーザー砲」は、とりあえず北朝鮮に対してしか意味をもたないんです。目下、北朝鮮の弾道ミサイルは日本にとってのみ脅威らしいですから──兵頭は、V-2のロンドン攻撃の人的損害にかんがみて、V-2より弾頭の軽い北鮮のSSMは東京の真剣な脅威たりえない、また彼らは生物兵器弾頭も核弾頭も有していないと、過去にも雑誌に書きましたし、現在も思っておりますけど──、だったら日本がカネを出すべきだろ、と、ボーイング社の幹部会議では結論したんでしょう。
 技術的な突っ込みを入れておきましょう。現在のボーイング社のレーザー砲の威力では、300km先での照射は数秒間、持続しないとロケットブースターの外板を穿孔しないそうです。とすると、分散したランチ・パッドから同時一斉にSSMが発射された場合、一機の「空中レーザー砲台」では撃ち漏らしを生ずる可能性があります。いったい「砲台」は、つごう何機を常時ロイタリングさせていたら済むのでしょうか? またそれは現実的でしょうか?
 もうひとつ。長射程のSAMがSSMのデコイになり得るでしょう。長SAMとSSMを同時に多数発射されたら、「空中レーザー砲台」はまず自機を守ろうとするのではないでしょうか。
 もうひとつ。レーザーパルスを受けたとき、剥離蒸散して外殻をプロテクトするコーティング剤を、ロシアあたりが開発して「ローグ・ネイション」に売り込むでしょう。
 もうひとつ。北朝鮮の得意技にローテクの風船があります。アルミを蒸着させた風船に照明弾を吊るして、水素充填または熱気球方式で放球し、SSM発射のデコイにする可能性もあるでしょう。
 日本としてこのシステムに出資すべきではない最大の理由は、これがシナのIRBMやSLBMや巡航ミサイルに対して、意味をもたないことです。日本がシナと核バランスをとれてない、すなわち対等でないことが、北鮮や韓国を増長させている。拉致や教科書問題、靖国問題も畢竟ここに淵源するのです。およそモノには順番があります。日本の人的資源は有限です。ですから政策にも優先順位があります。「空中レーザー砲台」開発への参画は、シナとの核バランスがまず取れた後に検討されるのがふさわしいテーマでしょう。


叡智の戦いは記録から

 クリス・ヘッジズ著、伏見威蕃 tr.『本当の戦争』04-6(原2003)を読みました。田舎の貧乏暮らしでは、こういう本を半年後くらいに書店で見つけてふと購読することがあるわけです。以下、いつもの調子での摘録とコメント。
 著者はかなり自慢できる経歴の戦場ルポライター。※だが旧日本軍に関する文献調査は浅薄である。ニューヨークの大学図書館はこんなものなのか?
 ジェフリー・チョーサーはフランスで捕虜になったことがある。
 この世で最も質問したい事柄は、かえって質問されない。
 心的外傷後ストレスはベトナム戦争までは公式に認められておらず。PTSDは白人より黒人とヒスパニックがなりやすい。症状は前頭葉の働きの低下なので、嗅覚も鈍る。
 1000人以上の命が奪われる激しい紛争を戦争と定義。
 米軍の15%、20万4000人が女性。ただし潜水艦と小型艇には乗れない。
 戦死者数に対し2割6分くらいの数の、戦闘外での兵士の死亡事故や病死がある。
 WWIIの日独を併せると米兵のキルレシオは16だった。ヴェトナムでは18だった。朝鮮戦争ではシナ兵も併せ50であった。
 WWIIのアメリカの経費は3兆ドル。湾岸戦争は経費760億ドルだったが、占領後にさらに5000億ドルかかっている。
 金額の上では米国製武器が世界市場の半分を制覇。残りをロシアと英国とで争っている。※日英の武器メーカー合併は互いにメリットのあるオプションであろう。
 p.27 民間人の戦争被害について、シナの数値を挙げ得ていない。※つまりニューヨークの図書館では、信拠できるデータが不明なのだろう。
 ドレスデンでは13万5000人が2日間で死んだ。広島市は米軍調査では6万4000人なのに、独自調べで14万人と呼号している。※これはドレスデンの損害を上回らせるための数字操作の可能性があろう。
 長崎は、米軍調査で3万9000人、独自調べで7万4000人。レニングラードの3年包囲では80万人が死んだ。ユダヤ人ではない「ドイツ国家の敵」も1937〜45に500万人が殺された? スターリンの1930年代の大粛清は200万人?
 米沿岸警備隊は平時は国土安全保障省の指揮下にある。※日本もそうすべし。あるいは「国家警察」を創設してそこに統合するのがよいだろう。
 国防長官は、戦争をおこなう地域を担当する統合軍の司令官に命令を与える。
 陸軍の新兵は入営6週目にして、20ポンドの背嚢+武装で1日6マイル行軍。
 17歳未満、35歳以上は米軍に入れない。既婚者で未成年の子供が2人いるのも×。20歳で体脂肪率が24%あるのも×。顔面の入れ墨も×。
 ベトナム戦争中、4000人が徴兵逃れで刑務所に送られた。
 歩兵は他兵科に比べ死亡率10倍。歩兵として出征したら、5人のうち1人は死傷すると思え。ベトナム戦争までは、全兵種を均して死傷率は6〜8%だったが、湾岸戦争以降、これが一挙に1%未満に。
 PCS=1〜2年ごとに所属隊が変更されること。海外配置は家族に大きなストレスをかけている。
 米国では既にすべての両親の半数以上が大卒の学歴である。
 軍隊内での黒人犯罪率はシャバでの三分の一。ただし黒人の佐官昇進はあきらかに白人より低率。多くの黒人はシャバで通用する資格を取るため軍隊に入っているので、ただの歩兵にはなりたがらない。ヒスパニックは歩兵になりたがる。
 ホモは12%混じっているが、それは免職の理由になる。
 戦闘中の月給は無税。
 摂氏30度を1度上回るごとにカロリーを1%増やさねばならない。熱帯ではトレーラータンクの水は日陰で5日間は腐らない。
 髭は夜に剃る。すると朝には顔の脂が復活していて怪我をしにくい。ヒマラヤ級の高地に派遣されると鍛えられた兵士の体重が10kgも減る。
 下士卒と将校の性交渉は軍法会議行き。米軍艦がタイに帰港するのは下半身需要。
 ベトナムでドラッグが流行ったので湾岸では徹底撲滅した。
 肺は密度が小さいのでライフル弾が貫通しても他臓器のように破裂しないですむ。
 スペイン内乱でライフルに撃たれたジョージ・オーウェルによると、爆発的な音と光を電撃のように感ずるが痛みは無い。たちまち膝の力が抜けて頭を地面に激しくぶつけるがやはり痛みは感じない。感覚は鈍いが負傷したことは理解していると。
 航空機と艦艇では、負傷の太宗は火傷。痛みを鈍らせ難いので苦痛大。
 大型砲弾の破片は最大800m飛ぶ。炸薬150グラムの対人地雷でも膝上までズタズタになる。破片創より銃創の方が治りは遅い。しかし最も治りが遅いのは地雷。ナパームは1980年に禁止された。
 イスラエルvsレバノン紛争では、砲撃死傷が25%、小火器死傷が20%、RPG死傷が15%であった。しかし機械化されていなかったかつての戦争では砲撃死傷が太宗。またベトナムのジャングル戦では銃創の割合が4割を超えたが、地雷と手榴弾も多用されたので破片創を超えることはなかった。
 衛生兵の呼称が三軍で異なる。野戦手当てでは、一発目の射出口に見えるのが二発目の射入口でないかどうか、すべての傷口を見逃すな。
 鶏をBC兵器探知に使おうとする場合、二羽以上を一緒にしてはいけない。つつき合って死んでしまう。
 炭疽菌は人から人にうつらないこと、ウィルスではないので抗生物質も効くことが、攻撃軍向きだと考えられている。
 天然痘はゲノム配列が明らかにされているので、複製可能。
 初陣でアドレナリンが出すぎると視野は狭窄し、細かい筋肉制御が不可能になる。
 兵士は発砲をためらいがちである。WWIIでは半数以上、朝鮮戦争では45%の兵が一発も敵兵に向けて撃っていなかった。そこで米軍は訓練マニュアルを工夫し、ためらわず撃つ兵士を養成している。
 ベトナムで戦死した米軍将官は一人、大佐は八人だった。これは批難されている。
 ベトナムでは2000人の米軍下級士官が、部下によって殺されたか、またはそれを疑い得る状況で死んでいる。
 国際協定により、後日の戦死者個人識別が難しくなる集団埋葬は、避けなければならない。
 兵士の戦死について遺族宅へ通知に行く係には鉄則があり、いかなるかたちであろうと遺族の体に触れてはならぬ。
 国立軍人墓地に埋葬された場合、配偶者もともに埋葬できる。名誉勲章を受ければ退役後の年金がつき、アーリントンの墓地の権利を得、子供は士官学校に優先的に入れる。
 戦場では自意識の抑圧に由来する「仲間意識」が芽生える。これは平時の友情とは異なるので、戦後まで続くことはない。
 退役後、私服に勲章をつけてもよい場合がある。ただし軍服を着る場合、顎鬚は不可。
 ※こういうのを読んでも、米国の図書館には、日本の戦争の正確な記録をあつめた英語の本が無いことがよく分かります。かつて国費で主要文献を翻訳させろよという声もあったんですが、どの御役所、どの国会議員も、手を貸そうとしない。予算はとてもつかないでしょう。その間にも、シナ政府の息のかかった英語版のプロパガンダ現代史が全米図書館の本棚に充実していきます。どうしたら良いでしょうか? だれかが英文で、「抄訳インターネット文庫」を整備していくべきなのではないでしょうか。


磨り減るものは「神器」になりにくい

 浜本隆志氏著『謎解き アクセサリーが消えた日本史』(04-11)を読みました。以下は兵頭の気儘な摘録とコメントです。
 著者は1944生まれ。ヨーロッパ文化論の専門家。指輪研究から日本史の謎に気付いた。
 天平時代以降に日本文化からアクセサリーが消える。これは世界史的に稀有。
 鎌倉時代は金が豊富。室町時代には銀山が開発される。フロイスは、ピアスも指輪も首飾りも無いと報告している。復活するのは明治。
 円環形の装身具は肉体と魂の無事帰還を祈る意味あり。
 アマゾンでは豹の牙をもつ者がシャーマンとなる。
 古代日本でも動物の歯や牙は強い動物に対する畏敬の念から呪術的アクセサリーになった。※この説明ではなぜ「爪」がアクセサリーにならないかが理解できない。戦前、日本にオオカミがいた頃、オオカミの牙を「根付」にした人が馬小屋に入ったら馬が怯えて騒ぎ、犬も近寄っただけで総毛が逆立ったという。つまりオオカミの牙に関しては、単純にそれが「野獣除け」の威力を発揮したので長距離移動時の護身の実用になったのであろう。しかし嗅覚の鋭敏なイノシシを狩るときにはオオカミの臭いなどは却って邪魔なので、イノシシの牙が代用されたのだろう。
 縄文時代のヒスイの産地は新潟=富山県境の河口一帯。穴あけ加工は、竹管と研磨剤と水でも可能で、のちにメノウの刃具も発明されていた。
 シナのヒスイはミャンマーから取り寄せた軟玉で加工はしごく容易だった。
 古墳時代には出雲産の碧玉が勾玉材料に加わる。
 縄文女はピアスをしていた。石飾り。19世紀アイヌもピアスをしていた。
 渦巻きは生命力の根源を象徴すること、ケルトと一般。
 古墳中期にスキタイ風の装身具が一時渡来する。
 縄文時代にはヘビ信仰、弥生時代にはシカ信仰。
 金銀銅の腕輪を「くしろ」と称す。
 巨大古墳が造られなくなったのは「大王」の支配が確立したので権力誇示の必要が失せた。
 「ひれ」は、ヘビ、ハチ、ムカデなどを象徴し、振ると魔物を払う。※祝詞で振る電光形はやはり蛇なのか。
 大化の改新後に神社が整えられた。天武天皇は祭祀の場所を大和の三輪山から伊勢に移した。もともと本拠地であり、しかも太陽がはやく昇る土地とされ、それゆえ御神体が鏡となる。同時にアマテラスを太陽神とする『記紀』の創世神話も編纂され、天皇家の唯一絶対性が強調された。
 大化2年の薄葬令で副葬品が禁じられる。つまり宝物は天皇家の独占となる。
 三種の神器の権威化は、南北朝まで『古事記』を公開しなかったように、人目にさらさせずに伝承したからできた。天皇すら見ることはできない。天皇家は、三種の神器神話によって、宝玉信仰を封印した。
 飛鳥時代には仏舎利は塔の礎石に埋納されたが、後には相輪に移された。※もともと柱の上なのだろうという仮説は『日本の高塔』に書いた。
 正倉院を開封させた権力者に、頼朝、義満、信長、家康などがいる。秀吉も開封したが、その記録を抹殺したという。
 農耕文化=母権制=妻問婚。
 真珠は淡水からも採れる。万葉集の「白玉」。有機質なので土中で腐ってなくなる。遣唐使は砂金ではなく特産の真珠で現地の経費を弁じたろう。平安朝には全く国内のアクセサリーではなくなった。バロックは「歪んだ真珠」の意。
 日本の家紋の早いのは参内する牛車に描かれた文様。戦国時代に敵味方識別のために図柄が単純化。
 天正遣欧使節の4人は8年半後に帰ってきたが、マカオに追放されるか、殉教した。
 1613に支倉常長は仙台を出港、メキシコに上陸、大西洋まで歩き、さらに渡欧。7年後に戻ったが洗礼を受けていたので幽閉されて終わる。
 江戸幕府は水晶の発掘を禁じていた。p.144
 バビロニアとインドでは太陽神をミトラという。
 ケルト戦士は首にリングを巻いただけで全裸で出陣?
 古代ローマの主婦は左手中指に鍵つき指輪。着物にポケットがついていなかったので。また朝から入浴するので。帝国が衰亡し奴隷が解放されると呑気に入浴もできなくなり、鍵指輪もなくなった。
 婚約指輪は古代ローマに発する。
 封建時代には、主君が臣下に槍、剣、旗、手袋を下賜した。
 ルネサンス人の宝石ランキングはルビーが一位でダイヤは三位だった。
 ダイヤモンドはアーサー王伝説にも登場するが当時はインドが主産。18世紀にブラジル、19世紀に南アフリカで大鉱脈が発見された。
 欧州の痩せ地では農民も移動が求められる。逐われる商業民族もいる。嵩張らない動産を身に着けているのが安全で有利。しかし日本の気候では土地は決して捨てるものではなかった。つまり不動産こそが宝。
 水と接することが多い日本の農耕文化もアクセサリーを排除した。
 疫病が流行し、陰陽道がアニミズム(勾玉、呪術)を駆逐した。「弥生時代に魔除けとしての呪術信仰がアクセサリーから他の金属『宝器』へ移行したので、アクセサリー文化が低調になった」(p.194)と著者は考える。
 ※誰も気付かない謎に挑んだ好企画ではないでしょうか。そして明快な答えがまだ出されてはいないようなので、読者がさらに想像を付け加える余地もあると思いました。兵頭の考えはこうです。金属器をもった渡来人が、あまりに急速に土着石器人を平らげてしまった。金属器(特に武器)がその過程で神のような働きをし、「玉」は護符性を失墜した。それに次いで、金属農器をたくさん持った者と持たざる者との経済力の格差が日本では圧倒的になると分かってきた。「鎌足」という名前がそれを象徴します。少しでも財力に余裕があるのなら、宝石などを調達しているヒマに、農耕用の「鉄刃」を一個でも余計に備えた方が、日本の土地と気候から無限の富を引き出せると知られた。かくして土地こそが宝となった。鉄製農具は使えばチビていく消耗品なので、同じく消耗品の「おほみたから」同様、神性までは獲得しなかった。


再度、靖国問題の大誤解をただす

 昭和天皇は、不吉な敗戦記念日である 8.15 に、靖国神社へ御親拝あそばされたことはございません。
 以下、もし日付等が間違ってたらごめんなさい。
 昭和20年11月20日、靖国神社の臨時大招魂祭に昭和天皇が行幸せられ給う。御親拝。
 昭和27年10月16日、天皇皇后両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和29年10月19日、両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和32年4月23日、両陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和34年4月8日、両陛下は靖国神社の創立90周年臨時大祭に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和40年10月19日、天皇陛下は靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和44年10月19日、天皇皇后両陛下は靖国神社の創立100年記念大祭に行幸せられ給う。御親拝。
 昭和50年11月21日、両陛下は大東亜戦争終結30年に当たって靖国神社に行幸せられ給う。御親拝。
 すなわち戦後の昭和天皇の御親拝はいずれも 8.15 を外してある。これがなぜ当然のことであったのかは、兵頭が過去何回も説明してきましたよね。靖国神社は「戦没者追悼の場」などでは決してないからなんです。
 昭和38年8月15日に天皇皇后両陛下は、政府主催の全国戦没者追悼式に御臨席になりました。が、これも断じて靖国神社「御親拝」とは無関係だったのであります。
 この重い歴史にぜんぜん頓着の無かった愚かな首相が三木武夫だったということは長く記憶されるべきです。後にシナに屈服した中曽根康弘氏も軽薄才子でしたが、やはり日本の総理大臣として最初に悪い前例を作ってしまった三木氏の罪がいちばん重いでしょう。ご皇室が昭和50年を最後として現在まで靖国神社に行幸・行啓し得なくなっておりますのは、この三木氏のせいでしょう。
 昭和50年、三木氏は総理大臣として戦後初めて敗戦記念日の8.15参拝をしでかしました。それだけでなく、社・共・公に問い詰められて「個人の資格」で参拝すると表明したんですね。こんな二重の過誤をやっちまった時点で、そもそも「首相の資格」無し、だと思われます。即刻辞任すべきでした。
 この三木氏のあと、大平首相は8.15参拝をしませんでしたが、次の、適切にも「暗愚の宰相」と人々から呼ばれた鈴木善幸氏が、首相在任中に三度つづけて8.15「私人」参拝をやっちまいました。この人は、正しいとか、正しくないとか、そもそも何も考えていなかったようです。
 続く中曽根康弘氏も無反省にこの悪慣行を引き継いだ。そして彼の首相としての三度目の8.15参拝のとき、肩書きに「内閣総理大臣」を用い公式に参拝したことを、社会党・公明党・社民党・共産党が、三木氏の過去の言質を楯にとって鋭く咎めました。さらに社会党はシナへ通牒します。早速シナの新聞が呼応し、紙上で中曽根攻撃を行ないました。国内に有力な金づるが乏しいのでせいぜいこれからシナ利権で稼がせて貰おうか、とでも思っていたのか、中曽根氏はこのシナからの新聞攻撃にあっさりと屈服して、その秋の例大祭にも出ないと言い出し、じっさい、二度と靖国参拝をしなかったのです。
 この事態は、昭和天皇をとても憂鬱にしました。
 「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」──これは昭和61年8月15日の御製です。
 日本では、戦死者を「追悼」するのは、戦死者それぞれの菩提寺とか、特別な公営・国営の追悼施設ですべきことです。靖国神社はそのような追悼施設ではありません。近代日本の全有権者が、戊辰戦争以降の全戦死者とともに、現今の日本国家の敵どもに対する敢闘と戦勝を誓う場なのです。
 したがって日本の敗戦に関係する日は靖国神社の記念日や祭日にはなり得ない。ましてその日に社頭で「不戦の誓い」をするなど以ての外です。
 この靖国のもつ「場の意味」が理解できているなら、シナも8.15参拝ばかりを攻撃するのは、いかにも捩れた、可笑しな話です。
 シナ人には、近代的神社の意味は理解できません。シナ人に理解できるのは「人格」です。彼らは靖国神社の中に死んだ旧軍人の人格を見て、それらの魂魄が現世人によって鞭打たれていないことが不安なんです。
 ですから、東條英機ら一部の高級軍人だけではない。全祭神が鞭打たれるようになるまでは、連中は決して靖国へのいいがかりを止めないでしょう。これに屈することがいかに国益に反するかは申すまでもありません。
 靖国神社を攻撃することがシナ政府または個々のシナ人にとって「安全・安価・有利」な政治であるうちは、彼らは靖国攻撃は止めません。
 靖国攻撃をかますことで日本人との交渉が何か少しばかり有利になる、と彼らが値踏みしているうちは、攻撃は無限に続きます。つまり、この問題でのいかなる妥協も、ますますしつこい彼らのイビリ攻撃を招くだけです。
 逆に、日本の要人が毅然として靖国公式参拝を──ただし8.15ではなく他の吉日に──続けていけば、シナ人はじきに黙るでしょう。そしてイチャモンをつける標的を他に探すでしょう。
 マルキシズムはもうひとつの宗教じゃないかと、戦前からもう言われていたんですが、シナ人はキリスト教原理主義的な「この世の終末は近づいた」=「各国のプロレタリアよ用意せよ」は、信じません。その代わり、シナの政治家はマルクスから、近代的な人民操縦法を学習して、実践しております。
 ──革命が勝利を得たとて人民の革命的興奮は直ぐ消えるものではない。その興奮をできるだけ長く保持せしめよ。そのためには、人物、公共建造物などに対し、激烈な復讐の手本を人民に示し続けよ。それを決して止めてはならない──。
 つまりシナ政府は「靖国神社叩き」という手本をシナ人民に示して、人民の復讐的興奮を永久に持続させようと図っているわけです。その政府の手本を見習い、人民も永久に「日本人叩き」をすれば良いと思っているのです。
 残念ですが、シナ人がいつの日か近代化しない限り、シナ人のクレームに対していかなる「弱み」を見せることも、現在および次代の日本人の命取りでしょう。


謎の多い文部省の「武士道」関与

 佐伯真一氏著『戦場の精神史 武士道という幻影』(04-5)は、『あたらしい武士道』を書くときに参照できなかった本のひとつです。NHKブックスなので書店で買えるだろうと思っていたのが甘かった。
 以下、おくればせながら例によって内容を兵頭が摘録し、※で私見を附していきたいと思います。
 著者は1953生まれ。平家物語の専門家。
 平曲諸本のなかで『延慶本』が最古の手掛かり。これ、今の定説。他本より詳しい部分は、源氏側の武士たちの勲功談がとりいれられたのが、比較的そのまま残ったのだろう。
 私戦にも軍使保護などの一定のルールがあったことは『今昔物語集』『奥州後三年記』等から分かる。
 文献上で堂々とだまし討ちや謀略を肯定するようになったのは、戦国時代から江戸初期。
 『常陸国風土記』によれば、ツチグモ=ヤツカハギ=山の佐伯・野の佐伯どもであった。※というところからインドネシアのサヤンではないかと昔思ったのである。
 p.44 佐原真が「現状では、縄文時代に戦争があったとみるには充分ではない」と述べているのが、現在の通説的な見解であろう。
 西嶋定生は指摘する。雄略天皇は書状をおくって、中華帝国のために夷や毛人を討つと表現していた。これが国内では、朝廷が華であり周辺民が夷であるとの構図に置き換わると。
 吉井厳によると、ヤマトタケルの物語は「相模〜甲斐」の線が東限であったと。その先には大和朝廷の支配は及んでいなかった。が、5世紀後半には雄略天皇の支配が関東平野に及んでいた。
 アテルイをとらえた田村麻呂の理想化は、清水寺にはじまり、謡曲「田村」で巨大化完成。
 『陸奥話記』は安倍貞任の敗死後の夷を同等の人間として観察している。つまり11世紀後半の東北住民は近畿の日本人とさして違和感はなかった。
 石井紫郎は考察する。暗殺によって敵を滅ぼせば、そこから無限の報復連鎖が始まる。そこで長期利益のために正々堂々とした合戦が選択されたのではないかと。
 富士川合戦のとき頼朝がつかわした軍使が平家に全員斬首されてしまった。これは『山槐記』に伝聞が載るので事実だろう。公戦すなわち叛乱征伐であるので敵とは取引しないという平家の考えであった。平曲では延慶本にだけ見える。
 『続日本紀』が伝える8世紀の内戦では、言葉争いに勝つことが敵味方の士気を決定的に変えた。のちの合戦の「名乗り」も、正義の陣営の正しい言葉の魔力がよこしまな敵に勝つという信仰ではないかと。
 後三年合戦絵詞では、斬首刑される武将は片肌を脱ぎ、髪をかきあげて前に垂らしている。
 読み本系の平曲にある有名なくだり。昔は敵将の馬など射るものではなかった。そのうち、馬の腹を射て敵をまず地面に立たせて戦うようになった。今は、いきなり馬ごとよせてすぐ組み、もろともに落下して腰刀で勝負を決めると。
 こうなった理由に諸説あり。※兵頭いわく。少数の弓の名手しか戦場に存在しないという状況ではなくなってきた。弓が高性能化して、誰が射ても遠くからよく刺さるようになった。反面、精密な狙いは超名人以外にはつけ難くなった。ただし遠くから人体を旨く射て殺してもその首は近くにいる味方に奪われてしまう。これでは損だ。そして多くの場合は、下手糞が遠くからやたらにたくさん射るので、人よりも馬に当たる。これは昔であれば腕の悪さの証明で「恥」だったが、近年誰もが下手糞であるのと、とにかく首をとれば名誉が獲得できるので、どうでもよくなった。かくして、数すくない大将首の手柄に執着する強兵は、射撃の手間などぜんぶスキップして組討ち(死体独占)を狙うようになった。
 観応の擾乱で、大見物人の中、1丈の樫棒と、4尺6寸の大太刀の、馬上一騎打ちがあった。互いの得物が折れて、引き分けになったと。※当時すでにシナ小説の影響があったか。まずガチではありえまいと思われる話。
 石山寺縁起絵巻には、なぎなたを水車のように振り回す僧徒が一人描き込まれている。
 山鹿素行以前の武士を「ごろつき」と見たのは折口信夫で昭和3年のこと。山伏など漂泊民の系譜だとした。
 p.122 シーボルトは学生時代の決闘で顔に2、3カ所の傷があった。※著者はドイツ学生の決闘遊び「メンズール」を知らぬ模様。なぜ顔だけなのかを考えたい。
 非武装のことを白装束ともいった。
 鎌倉〜室町時代、不意討ちや騙まし討ちを「スカシ」「すかす」と表現した。
 p.137 宇治川先陣の佐々木は「嘘」をついた。※然らず。本当に腹帯が弛んでいたから、梶原も締め直したわけである。この疑問は学習院院長時代の乃木大将も抱き、人に尋ねて、納得している。
 『理尽鈔』出て、智謀・謀略礼賛となる。同書は江戸初期の知識人に大きな影響を与えた。特にその秩序感覚に。ex:将がいつも約束を守るようにしているのは、いざという時に謀略を成功させるためであると。※ある武将がいつも虚言を吐かぬようにしているのは、一生に一度、敵に大嘘ついて騙してやるためであると、日本の何かの古い文典に出ていたが、いま思い出せない。
 『理尽鈔』いわく、孔子や釈迦も自分が尊敬されたいから教えを説いたのであると。利己的で愚かな民衆に秩序を守らせるために、神や仏を信じさせておけと。また寺院に次男・三男を出家させれば国の過剰人口を制御できると。※チベットのラマ教寺院の知見ではないか。
 酒井憲二いわく『甲陽軍鑑』の写本の本文は室町時代の言葉をよく残しているから、高坂彈正の口述をもともと多く含んでいただろうと。
 軍鑑のなかでは虚言は「計略」とされ、「謀臣」はシナでも悪いことではないと。腕は曲がらなくては役立たぬ。曲がったことも必要だ。
 相良亨は軍鑑を深く読み、他人に頼らず付和雷同せず身を飾ろうとせず事の真相をみきわめることができ計略にひっかからないのが真の武士で、その反対は女侍だと。
 越後流兵法は一つではなく、汎称である。
 北条氏長は「謀略」を適当な判断力のこととし、「計略」は用間のこととする。
 孫子の「兵は詭の道也」に氏長は悩まなかったが、素行は悩み迷った。室鳩巣は『駿台雑話』で素行の苦しい解説を笑って、「詭」は「詐偽」のようなBADな意味ではないとした。
 武士道の近世的継承である教訓書として力丸東山『武学啓蒙』(1802)がある。
 『葉隠』が、上方風のうわついた武道と難ずるのは、犬死にに価値を見ようとしない『理尽鈔』のことである。その中に「図に当たる」という表現が多用されている。『理尽鈔』こそ江戸初期のロングセラーで、「『葉隠』はそれに反発したつぶやきに過ぎない」p.212
 葉隠には「異端の書」という位置づけがふさわしい。その精神は伝統的潮流となって次の世代に継承されたわけではない。p.220
 ※長いコメント。S15年7月、ドイツ便乗軽薄内閣である第二次近衛内閣が、組閣するやいきなり大きな方針を打ち出しました。『葉隠』テクスト、特に「武士道とは死ぬことと…」のくだりを、戦前の三島由紀夫や小林秀雄が読むことになったのは、この大きな方針の小さな結果だったんです。まずS15-7-26の閣議で「基本国策要綱」の三の(1)として「我国内ノ本義ニ透徹スル教学ノ刷新ト相俟チ、自我功利ノ思想ヲ排シ、国家奉仕ノ観念ヲ第一義トスル国民道徳ヲ確立ス」等と決定されます。ついでS15-8-1の閣議で「基本国策要綱ニ基ク具体問題処理要綱」が決まった。そのイの一番の要目が「一、国民道徳ノ確立」で、起案庁は企画院と文部省です。ちなみに企画院というのは、近代日本をダメにした統制バカ官僚の巣窟でした。イの一番に掲げてはいますけど、もちろん教学事業なんか経済官僚にはよくわからないからすべて文部省に丸投げです。おそらく文部省はこれあるを期して早々と『葉隠』をチョイスして出版事業を進めさせていたのです。栗原荒野のフルテクスト校注の『葉隠』が刊行されたのが昭和15年2月。同じくフルテキストを和辻哲郎らが校訂する岩波文庫版の『葉隠』(上巻)が出たのも昭和15年の4月。どっちも第二次近衛内閣よりずっと早い。これは不思議なことですが想像は容易で、すでに各省の浮薄な官僚どもが1939年9月の欧州大戦勃発直後から松岡洋右らにそそのかされ、大車輪でこうした事業に先行着手していたのでしょう。この他、昭和15年には口語訳の三冊本も出ている。あのフレーズは、文部省とシナ事変以降の陸軍省が結託して人工的に「古典的名句」に仕立てたものです。
 「武士道」を嫌って「士道」を標榜した儒者も、中江藤樹以降、多い。徂徠も野蛮の武士道を難じた。
 松陰は中谷市左衛門という武士を紹介し、彼は寝首をかかれないように、熟寝中でも一呼かならず醒める、と。古川哲史は、松陰が特に『武道初心集』の影響を受けていると。
 鉄舟の『武士道』がすべてM20の口述であるかは疑問。出版年はM35である。
 新渡戸の意識では「武士道」は彼の造語。よって古来の武士道とは内容が違っていて当然。ただし米国刊行と同年に日本では三神礼次『日本武士道』が刊行されている。
 新渡戸がM4に東京に出てきたとき漢文や国語の学校はもうまったく廃れていた。だから新渡戸は和漢の古典には詳しくなれなかった。
 1898に植村正久が「基督教の武士道」を著わしている。
 「どうも新渡戸は、キリスト教文化に比べて、日本の武士の道徳は、正直という徳においてやや劣ると感じていたのではないだろうか。」p.267
 ※ただ「嘘をつかない」ことを学ぶだけで、日本人は近代に対応できた──と兵頭は思って『あたらしい武士道』を書き上げました。


ゴロリンピック

 総合格闘技で「小手返し」をきめた例はない、と昨年の小著『あたらしい武士道』に書いてしまったんですけど、04年末のPRIDEで、曙が「リストロック」をされてタップ負けしたらしいですね。わたくしはこれをウェブのニュースで読みました。
 どうやら、これまで「手首の関節攻め」は、お仲間である相手選手の身体破壊につながる危険行為であるために、総合格闘技のショーでは自粛されていたのだろうなと、推測ができるかと思います。ホイス選手としては、曙との体格差がありすぎるために、ふだんならば遠慮をする手首の破壊ワザを、敢えて仕掛けるしかなかったんでしょう。
 もちろん曙選手がたわいもなくこれにやられてしまったのは、単純にこのワザに無知だったからだろうと信じられます。柔術家だと分かっている敵が両手でわが手首や前腕を掴んできたなら、すぐ反応しなければ致命的でしょう。
 わたくしも4級で柔術をやめてしまったので偉そうな指導は誰にもできるわけもないのですが、道場で「あ、これは危険だ(そして実戦向きだ)」と思った手首と肘のキメ方があるので、ご紹介しておこうと思います。こういうのに無知だと本当にシャレでは済まないでしょう。
 まずとにかく、手首の骨の太そうなご友人に頼んで、仰向けに寝てもらってください。
 その、寝かせた敵の右脇に、じぶんは腰をかがめて立ちます。
 そして、敵の右前腕を上に伸ばしてもらいます。手先はグーにしてもらいます。
 それをわが両手で掴むのですが、このとき、わが右掌は敵の拳を真上から包み込むように掴みます。わが左手は敵の手首を素直に握ります。
 そのまま、敵の右手首を敵の右肩に押し付けていきます。わが右掌の包み込みと押し付けの力が十分にあれば、敵は手首が屈曲してしまうために存分の抵抗ができません。最後は、敵の右拳が敵の右肩を自分で殴るような感じで、くっつきます。
 この押し付けの動作と同時に、わが右足の爪先を、敵の首の右側面から首の下へこじ入れ、敵の首を、われから遠い方に脛で押しやるようにします。すなわちこれにより、敵はじぶんの首をじぶんの左肩の側へ曲げさせられます。(この所作に何の意味があるのかというと、次のキメの痛みがぜんぜん違ってくるんです。首が自由であれば、敵はあるていど我慢し続けてしまいます。なお実戦では、事情によっては、わが右足刀で敵の気管を圧する場合があり得ましょう。)
 次に、わが両手に力をこめて敵の右手首をわずかに握り直し、われから見て、徐々に9時の方向へ動かします。このとき、敵の右手首は敵の右肩からすこしづつ離れていく。と同時に、敵の手首の地面からの距離も、すこしづつ増すようにします。とうぜん、われによる「捻り」の力も全力で加えつつ、おこなうのです。
 すなわち、われの両手は、ゴルフクラブのスウィングをするように9時方向に動くのですが、そこに、自然な回転方向の捻りの力も全力で加える。
 動かし始めて1秒で、敵は「ギブ・アップ」の意思表示をするはずです。肘が伸びきるより、ずっと前にです。
 わたくしは無知ですが、おそらくそこから手加減せずに2秒進行させると、肘が伸びきり、敵の肘および手首は壊れてしまうのではないでしょうか。
 柔術では、仰向けに倒して伸ばしきった敵の右肘をわが左膝に押し当てて折るという荒ワザがあるんですが、それよりもこのキメ方の方が力もいらず、時間も短くて決着するに違いないと、素人なりに思いました。つまり、これは「一対多」にも向く瞬殺ワザです。
 ただしこのキメは総合格闘技の「ショー」にはまったく向かないでしょう。ギャラリーには、何でタップするのか分からないはずです。あまりに早く決着するので。そしてもし「勢い」がついたり、ショーのために「見得」の静止時間を設けてしまいますと、手加減が失敗し、相手選手の骨を壊してしまいかねないでしょう。
 リストロックもそうですが、相手が曙選手のような頑丈な大男であり、かける側がホイス・グレーシー選手のような熟達者であるからこそ、「ショー」としてハッキリ見ばえがして、しかも相手に永久負傷をさせずに済ますというコントロールが可能になるのだと、想像をしております。