夏の雑談

 原文が分からんのですけれども、米国人が「夏期の読書」と言うとき、それは「人生の無駄遣い」を意味したのだそうです(ホウエートレ著、高橋五郎訳『世界文豪 読書観』M45)。
 これは北海道に住んでいるとよく実感できることです。昨日も晴れたのでドライブに出掛けてしまいました。
 しかし蒸し暑い内地の人で若い人、人口の5%が経済の牽引者として頑張ればのこりの95%がたとい乞食をしていてもGNPを維持できる高度産業化時代に「酔生夢死」の一生を送りたくない人は、夏こそ読書するのが良いだろうと思います。インターネットが答えをくれない問題を、読書家なら自分で解けるようになるでしょう。
 ちなみに前掲の明治45年訳の本から2つ抜粋してみましょう。
 ソローいわく、最初に最良の著を読んでおけ。さもないと、一生読む機会はない。
 またジョンソン博士いわく、1日5時間読書せよ。必ず忽ちに博覧多識の者とならん、と。
 わが国の旧かな遣いに関する偉大な研究業績として、橋本新吉の名文があります。(岩波文庫『古代国語の音韻に就いて・他二篇』に所収。)
 新巻鮭は「サケ」か「シャケ」か? じつは北海道のアイヌ人には「サシスセソ」と「シャシシュシェショ」の区別が無いので、どっちでも正しいのです。
 江戸時代人は欧語の「ディ」の発音を「リ」に置換した。それでスペイン語の medias が「メリヤス」になりました。
 江戸時代の「ハヒフヘホ」という音は、室町時代以前は「Fa Fi Fu Fe Fo」(ただし両唇音)と発音されており、もっとさかのぼれば古墳時代には「パピプペポ」であった……等々。
 そこで兵頭が思いますに、ころび切支丹のファビアンは、自分では「ハビアン」と署名していたようですが、彼自身では「パビアン」と発音していたのではないか。幕末人が「エンフィールド」を「エンピール」、「ファイヤー」を「パヤ」と発音したことは間違いないのであります。
 『偕行』という陸軍将校向け機関誌の昭和13年1月号に、興味深い通達が掲載されております。
 すなわち「典範用字例」で、濁点、半濁点をつけることになった、と。また、送り仮名は国定教科書に合わせることにした、というのです。
 それまでは、たとえば、「意ノ儘ニ動カス」と書かれているとき、動かすのか動かさないのか、判然としませんでした(「動かず」なのかもしれない)。
 同じく、「捜索セシカ不明ナリ」だと、捜索したのかしなかったのかが分かりません(「捜索せしが、不明」なのかもしれない)。
 漢文教養が、日本陸軍の公文書の表記法の近代化を遅らせていたわけですね。
 げんざい、旧かな遣いで書く人も、濁点や半濁点は付けると思います。「古いしきたりが正当だ」と断言できないことが分かります。
 欧文は、ブラウジング(本のパラパラ斜め読み)では情報要素の見当をつけにくいため、索引がとても発達しました。本の編集者が非常な労力を要求されるのが、この索引付け作業です。たいていの日本の図書には、索引はありません。編集者が、やってられないのです。
 欧米にも真の読書家はそんなにいたわけではなく、じつは知識人でも、巻末の索引を頼りに、一部分を読んだだけで、棚に収納していた場合が多かったんです。(ソローの金言を想うべし。)
 これがやがて図書館の「キーワード検索」式カード分類や、デジタル時代の「Ctrl + F」機能にすんなりと進化しました。
 古くからの欧文の伝統である「索引」が非常に深化したものが、今日の「ウェブ公開式百科事典」やGoogleでしょう。
 ところで今日これほどネット上での検索の環境が便利に整っておりますのに、東洋の近代史の真実が西洋に向かって正しく広報されていないのはなぜでしょうか? 広報と言っても、現代では海外向け短波ラジオで演説する必要なんかありません。英語で日本の近代史料を悉くアップロードしておくだけでいいのです。外国の識字階級が必要に応じてキーワード検索をかけたときに、それが漏れずにヒットするようになっているだけで十分なのです。
 史料はいきなり全訳ですべて揃えなくとも、最初は肝心な箇所の抜粋抄訳で良い。史料の豊富さでは、シナ政府は日本に対抗できません。しかるに、近代日本語史料の英訳データベースに、見るべきものがぜんぜんないとは、一体どうしたことでしょうか。どうも日本政府や外務省のボンクラどもには、Google時代の対外宣伝広報のやり方がまるで分かっていないと評するしかないでしょう。
 松下幸之助は、日米経済摩擦が目立っていた1985年に「企業は売り上げの2%を宣伝に投じている。日本国はなぜもっと宣伝費を使わないのか」と提言をしました。今の国家予算は82兆円くらいでしょうか。としたら1兆6000億円くらい、近代日本語史料の英訳とアップロードに使ったって、なにもバチは当たらないのです。
 現実には、英国と同程度の1000億円台から始めるべきでしょう。米国と同言語の英国すら、それだけの努力を海外広報に払っているのだと考えれば、そもそも米国とは異言語である日本政府は、英国の数倍を使わねば宣伝が追いつかない筈です。原資は外務省関連予算(ODAやユネスコ向け醵金)を削れば軽く間に合うでしょう。
 史料そのものに真実を語らせるのを「ホワイト・プロパガンダ」と言います。
 日本人は伝統的に対外宣伝能力が低いので、これに徹するのが良いでしょう。
 たとえば、シナ人が「そもそも」どんな連中か、日本人が米国人に訳知りらしく説明してやる必要はありません。そんなデータベースは米軍の方が遥かに充実しているのです。彼らは旧日本軍以上に体系的に記録を残し、それを捨てずに保管し続け、有用なものはすぐに利用できる状態にしています。読書量の少ない日本人は知らない様子ですが、過去、シナ軍に最も深く長くコミットしたのは米軍なのです。
 彼らが生情報を持たないのは、戦前の排日テロや日支戦争のインサイダー当事者の記録です。これを日本発で英語データベース化しなければならないのです。
 ホワイト・プロパガンダ以上の対外宣伝の適性を有する個人も、おそらく探せば見つかることでしょう。
 たとえば佐藤優氏の『国家の罠』がもし外国語に翻訳された場合、米国人とイスラエル人にはピンとくるものがあると思います。「私は良い預言者で、王様の善政に力を貸していましたが、政治の風向きが変わったため、投獄されてしまいました」という、旧約聖書によく出てくる物語は、たぶん西欧ではウケないけれども、米国では興味をもつ人がいることでしょう。
 しかしTVスポークスマンの適性を兼ねたタレントは、たぶん日本の中からは見つけられないでしょう。ラジオ時代と違い、動画でアップにされた顔(特に髪型)と声が、外国の女子供に好感を与えなければいけないのですから、誤魔化しがききません。真のタレントが必要なのです。
 幸い、現代はインターネット時代です。そして米国の安全保障政策に影響を及ぼすのは、識字階級だけです。


ハインラインと橋爪氏の新書でアメリカ軍を見直せ

ポール・バーホーベン監督は1997年の映画版『スターシップ・トゥルーパーズ』を、ロバート・A・ハインラインの原作((c)1959、邦訳『宇宙の戦士』1966/矢野徹)の前半を読んだだけで創った──との与太話をなぜかウェブ上で時に目にするのですが、原作の最後まで承知せずしてあの映画の構成があり得ないことは、どなたも容易に判断できるであろうと思います。ただし後半1/2をナナメ読みした可能性はあるでしょう。
 米国で3大SF作家の一人に数えられていますハインラインは1907年生まれ(7人兄弟)でミズーリ州に生まれ育ち、ミズーリ大のあとアナポリス海軍士官学校を1929年に卒業して駆逐艦と空母『レキシントン』に乗務したのですが、肺結核のため1934年に中尉で除隊を余儀なくされます(5年いて中尉とはいくら大不況時の平時でも昇進が遅いような気がしますが事情は詳しく分かりません)。そのごUCLAで物理と銀鉱山と不動産を学びながら39年に作家デビュー。また同年にはカリフォルニア州議会議員に立候補して落選もしています。第二次大戦中は海軍航空研究所で高高度用特殊飛行服の研究に参与。大失敗の最初の結婚のあと、生物学者で七ヶ国語を解する海軍中尉の妻と再婚しました。
 ハインラインは、艦隊と海兵隊についてつぶさに見聞していたはずですが、あえて『スターシップ・トゥルーパーズ』は未来の海兵隊員とはせずに、未来の陸軍空挺隊員ということにして物語を綴っています。海兵隊と空挺部隊は立体戦時代となる将来には別組織にしている意味はなくなるだろうという洞察が働いていたのでしょう。このくらいの想像力の無い人にはおそらくRMAも推進できますまい。日本のSF小説の弱さは、自衛隊の未来の弱さでもあるのです。
 さてげんざい日本で自衛隊に志願するには年齢制限があり、たぶん25歳を過ぎますとよほどの特殊技能がなければ「国軍とはこういう世界なのか」との納得体験をするチャンスは去ります。しかしこの小説は、主人公を一兵卒から下士官、下士官から下級士官(少尉)へ徐々に昇進させることで、軍隊の擬似見学をさせてくれるのです。入隊の時期を逃した民間人どもは必読です。
 戦時中の昭和16年、つまり支那事変の最終年に『将軍と参謀と兵』という陸軍の宣伝映画が制作されてるんですが、その目的は、大衆の観客に「エリート参謀は威張って楽をしているようですが、こんなに大変なんですよ。将軍といっしょに兵隊のことを考えていますよ」と弁疏することにありました。
 インテリ熱血愛国者のハインラインの企図は全く違います。「キミ自身が良き兵隊になれ。できたら分隊長になれ。できたら小隊長になれ。できたらもっと大きな軍隊を指揮してみろ」と言ってるんです。そしてそのために必要になる心掛けを小説の形で懇切丁寧に教えている。もちろん参謀(幕僚)についてもとても分かり易い説明があります。
 「新兵はこんなショックを受けるものだが、乗り越えろ」と教える小説や映画は、他にもいっぱいありましょう。しかし「最優秀下士官と最優秀下級将校では気苦労がこれだけ違ってくるんだぞ」と具体的に教えてくれるこの小説の後半1/2は、他のフィクションでは得られない情報です。ハヤカワ文庫『宇宙の戦士』を読んだことがなく、最近のif戦記などをフットロッカーに入れている現役自衛官の貴男は、情報環境を再検討しましょう。
 娯楽小説としてはごくつまらぬストーリーです。
 しかし次のような描写が1959年になされているのには感心するでしょう。
 「やつらの惑星の表面を吹き飛ばすと、兵隊や労働者をぶち殺すことはできるだろう。だが知識カーストや女王たちを殺すことはできないはずだ──地中推進式の水爆を使って直撃弾をくわえても、女王いっぴき殺せるかどうか疑わしいものだ。おれたちは、やつらがどの程度の深さまでもぐりこんでいるものやら、見当がつかないんだ。」
 そこで、気化すると空気より重く「どこまでも沈下してゆく」油性の神経ガス弾を穴に投げ込むというのです。これは近未来の北朝鮮でも使われるかもしれませんね。じつはこの小説は朝鮮戦争(1950〜1953)で多くの米兵捕虜が洗脳されてしまったという、近過去の生々しい事件が下敷きになっています。
 「たとえ捕虜になったところで、自分の知らないことを敵にしゃべれるわけはない。どんなに薬を注射され、拷問され、洗脳され、果てしない不眠状態に苦しめられたところで、もともと持っていない秘密をしぼり出すことは不可能だ。だからこそおれたちは、作戦の目的について知っておかなければいけないことだけを教えられるだけだった。」
 このノウハウは、佐藤優氏ご推薦の『スパイのためのハンドブック』(英語版1980、邦訳82年)にも載っていますが、あのマンハッタン計画の大秘密が漏れなかったのも、技師たちをとことん情報的に細分化したからに他なりませんでした。なにしろ副大統領のトルーマンですら、原爆の開発そのものを、大統領に昇格するまで知らなかったほどなのです。
 10万人単位で戦死者を出してしまった第二次大戦が終わったと思ったら、今度は朝鮮戦争でまた1万人単位の若者を死なせることになった。こうした面倒はいつまで続くのか、という1950年代後半の全米的な疑問に、50歳になったハインラインは、自分ならうまく答えられると思ったのです。
 話は変わりますが、第二次大戦における米国の総動員体制はなぜ非常にうまくいったのかという疑問に明快に答えてくれているのが、橋爪大三郎氏の最新刊・『アメリカの行動原理』です。
 橋爪先生に「彼らは『アソシエーション』を作るのが得意だから」と説明されてから再び『スターシップ・トゥルーパーズ』を書いたハインラインについて想像をめぐらしてみてください。いったいどうしたら日本国の現在および将来に何のプラスにもならない幼稚な青年向けロボット・アニメを根絶できるのだろうかとわたくしが日々心配していることについて、あるいは共感してくださるかもしれません。
 『アメリカの行動原理』は新書ですけれども、他にも読みどころは満載で、おそらく橋爪先生にも内容(仮説)にかなりの自信があるのではないかとお見受けしました。なお、195頁の「トーマス」は、もし「ウッドロー」の間違いであるとしたら、増刷の際に直っているでしょう。

 



笠懸(騎射)を実見する

 先週は北海道でもいちばん僻地じゃないかといわれる日本最大の某弾薬庫に取材に行ったのですが(記事は数ヵ月後の『北の発言』に載ります)、今日はまた趣向の変わった世界を堪能しました。
 各地の神社で行なわれている流鏑馬、あれをアンフォーマルなスポーツにしたのが笠懸です。もうひとつ、「犬追物」というのがあるんですが、アイボでも使わないと「動物虐待」になってしまいます。
 なかなか拝見する機会がなかったこの笠懸の騎射行事が、なんと今年は函館市で開かれる。この情報を事前に「鎖帷子剣士」様からもたらされていたわたくしは、早速本日、出かけて参りました。
 (なぜこの話を事前に武通掲示板にUPしなかったかというと、道南ではウェブサイトを見て行動を決めるような奴は一人も居ないからに他ならない。当日のギャラリーはすべて地元TVを視て催しを知った人々であろう。)
 競技に使用されていた馬は在来種である道産子か、それに馬格の近い観光牧場用の米国種であるように見えました。関東から来ていたチームの乗用馬は函館近郊の牧場から借り出していたようです。
 ホンモノの在来馬の特徴は「側対歩・そくたいほ」だということです。これはラクダの走りと同じ。すなわち右側もしくは左側の前後の脚が「ムカデ競走」のように常に平行の関係を保って動くのです。この走り方は、馬の背において左右のローリングを生じますけれども、上下動はほとんどありません。
 観察しましたところでは、騎射の本番のギャロップで側対歩(それも完全なものと不完全なものがある)になっている馬は、四分の一以下だとお見受けしました。
 側対歩でない馬に乗って射手が安定を得るためには、尻を浮かせ、膝の屈伸で馬体の上下動をキャンセルしなければなりません。これが既に無意識にできてしまうくらい熟練している乗り手でない限りは、弓で的を正確に射ようとする以前に、疾走中に矢筈をきっちりと弦につがえる作業だけでも一苦労だという様子が窺われました。
 本日拝見した騎射の馬の速度は、50m間隔で置かれた3つの的の横を合計11秒〜15秒で通過していました。
 側対歩の馬の場合、射手は、膝ではなく、股関節で自身の腰のセンタリングを保たねばなりません。つまり左右の足を交互に外側に突っ張ります。日本式の鐙は、鐙ごと爪先を完全に90度外側に開くことができます。俯瞰射のとき、この鐙は有利です。
 騎射競技の走路は幅がごく狭いものです。これは、終始両手放しで走り抜くため、馬が蛇行したりしない用心であるそうです。
 さて本日の大目的は、実はこれも鎖帷子剣士さまより前触れのあった、籏谷嘉辰先生にお目にかかることでした。町田市の「はたや」といえば刀剣が御趣味の向きには有名でしょうが、カケダシ者のわたくしは今年になって知ったのですから恥ずかしいったらありゃしない。学生時代に読んだ『蕨手刀』という超シブい資料の中に掲載されていた写真は、この籏谷先生が研がれたものであったそうで、今更ながら驚くばかりです。つまり考古学的刀剣の研ぎ出しを任せられる方なのです。
 さらにまたトーシローのかなしさ、わたくしは籏谷先生が「全日本戸山流居合道連盟」の現在の会長だとも存じあげず、名刺を見て仰天しました。「戸山流」については過去に武道通信の「かわら版」にも言及してきました。しかし、中村泰三郎氏が現役であったウン十年前の居合の古本の知識で止まっていたのです。
 籏谷先生の右手を見せて貰いましたら、テニスプレイヤーともまた違った指のふくれた形状が、もうタダ者ではないのです。真の剣術家ならば、その人がただ立っている姿のバランスを見ただけで、二腰に馴染んでいるレベルの剣士か否か、分かるのでしょうが、凡愚は手首から先を見せてもらったりして即物的に納得する次第です(泣)。
 籏谷先生は、戸山流らしいストッパー・ボタンをつけた本身の太刀を佩用され、リアルに古式を再現したいでたちで騎射をされていました。さすがに鎧はナシでしたが和鞍です。「戦用の和鞍だと肩や腰にかかる鎧の重量を馬が分担してくれるのです」とのことで、要するに昔どおりの装束を決めてみて、はじめて昔の剣術や弓術について理解し得ることが多いのだとのお話。まことにご尤もでした。
 こういう方でもないと訊けぬ質問を小生はこの機会にぶつけてみますた(構成と文責/兵頭)。
Q:一人の刀匠が刀をひと月に何本くらい鍛造できるのでしょうか?
A:お弟子さん方が大勢いらっしゃる所ならば5本くらいいけるかもしれませんが、現在は月に2本(脇差なら3本)までしか国から許可が出ません。それより多くなったらもう粗製となり、美術品として認め難いからでしょう。「丁寧に打てよ」と求められているわけです。
Q:人を一人斬ると刀身に膏がべっとりと付いて、二人目からは斬り難くなるという話がありますが、本当でしょうか?
A:以前、肉屋から豚の頭をそっくり買って来まして、真正面から頭蓋骨ごと(ただし牙だけは避けて)スパリ、スパリと何度も斬撃を試みたことがありますが、スライス・ハム状になるまで、何回でも抵抗感なく骨ごと断ち斬ることができました。どうも、膏のせいで日本刀が切れなくなることはないのではないか、というのが、現在の心証です。
Q:「七人胴」というのは、ありえたのでしょうか?
A:昔の日本人は今の小学5年生の体格ではないでしょうか。しかも「試しもの」では、屍体の腹部の骨の無いところを斬ったのかもしれません。その場合は7人重ねたものを一度に斬ったと言っても嘘にはならなかったのでしょう。
Q:さいきん、三十三間堂の通し矢の記録など、現代人の力量では考えられない過去の大記録について、「あれは嘘だ」と断言する人がいらっしゃるようですね。大衆は決して「天才」の実在を認めたがらないものだ、とトックヴィルも書いているんですが……。
A:私はじつは西暦1940年代末の仙台の生まれですが、東北の戦後の経済成長は関東にだいたい10年遅れていましたから、戦前の日本の農家の少年の鍛えられ方について証言することができると思います。少年時代から「水汲み」をさせられ、成人してさらに力仕事を続ければ、背筋力などがどのくらいつくか、です。戦時中でしたら、水を満たしたドラム缶を抱えて持ち上げられる兵隊が、中隊に必ず一人はいた。200kg以上のはずです。
Q:すると畠山重忠が300kgの在来馬を担いだなどという話もリアルだった可能性があるのですね?
A:中身入りのドラム缶を持ち上げる、数百人に一人いる程度の力持ちだったら、時代を超えた語り草にはならない。やはりそのレベルにとどまらない異常な力を見せ付けたので、目撃者はそれを他人に語り伝えずにはいられず、伝説ができたのだと思うべきなのではないでしょうか。それから三十三間堂の出場者は、皆「選手」でした。幼少から弓の特訓を積んだ選手候補が一藩に何十人もいて、その中からふるい落とされて残った、筋力も持久力も最高成績のスペシャリストたちが、命がけで競った記録なのです。
Q:柄の半分くらいしか「なかご」の無い日本刀が多い理由がよく分かりません。あれでは、合理的な構造とは言えないのではありませんか?
A:もともと平安時代の刀は片手で握るものでしたので、柄は短かく、しかも馬上で使う都合から、柄の先が曲がっていたのです。「なかご」は、その当時の柄にとっては合理的な長さがあったのです。後代に柄が両手で握るものに進化し、長くなりました。ところが、刀鍛冶はすぐに「なかご」の長さを変えなかった。それで、柄は長いのに「なかご」は短いという、組み合わせも生じたのです。けれども、実戦的な刀は、長い柄の端まで「なかご」がちゃんと伸びています。
Q:刀の鍔に透かしがありますよね。あの隙間から敵の刃先が入ってきたりしないかと、素人はとても不安になっちゃうのですが。
A:何の問題もないと思います。ちなみに鍔の材質は、粘る鉄です。無闇に硬くないので、強く打撃されても割れません。敵の刀の刃が少し食い込むくらいの軟らかさです。もし割れてしまいますと、手拳の保護になりませんから。
 ……このように、現に道を極めていらっしゃる方への直問くらい蒙を啓かれるものはありません。わたくしはいつか上京の折に籏谷先生にもっと長時間のインタビューを試み、それを一冊の本にして日本武道の恒久財産にしたいと願っております。


時評および雑記録

 月刊『中央公論』はタダで(しかも正確に引越し後の住所宛てに)送られてきますので、毎月はやばやと目を通させて貰っている媒体です。いつもは「こんなんで売れるのかよ」と他人事ながら首を傾げるコンテンツばかりなんですが、どうしたわけか今月号の橋本五郎氏の岡田克也党首に対するインタビューは傑作でした。
 なんと、聞き手の台詞であるゴチック体の部分だけを拾い読みすると、「いや御尤も」と首肯できる社説になってるんです。明朝体部分は読む価値はほとんどない。国益を損ねているのはこういう腰抜けたちのせいなんだなと再認識されるのみです。
 こんなインタビュー記事、初めて見ました。読売の編集委員さんは違うなと感服仕った。
 朝日新聞の言うとおりにすればとても不利なことになるんだとシナ政府にわからせる「ゲームのルール」((c)佐藤優)を、日本政府は機械的に実施しなくちゃダメでしょうね。それには同時に橋本氏のような才能をヘッドハンティングして専属のスピーチライターに雇って、シナのスパイどもが何か発表する度に、間髪を入れずに反撃のコメントをしていくことが肝要でしょう。
 今月の中公は、秦郁彦氏に全国新聞の社説を批評させていて、これも読ませました。
 月刊『voice』は今月号は送られてきませんでしたが、なかなか面白いという噂があります。
 唯一自腹で購読している月刊『軍事研究』。7月号では志方さんが例のシナ原潜の日本領海侵犯が「軍部または原潜艦長の独断であったのだろう」と書いています。大丈夫かよ? また黒井文太郎氏の『国家の罠』寸評がパンチが効いていました。(前に黒井さんってどういう人なんですかと加藤健二郎氏に訊いたことがありますがエラく謎のようでした。)
 すでに旧聞ですが今月の初めに、オーストラリアの南西部のパースに近い砂浜に、またも鯨が85頭打ち上げられたと、ネットのニュースで知りました。
 これは東シナ海と「浅さ」が似ていて、しかもシナのスパイの潜伏をしっかりと監視し易い同海域を使って、米海軍が「低周波ソナー」のテストをしているからだろうと想像されるところです。4月にもこのようなことがありました。
 以下は、靖国関係と遺族会に関するいくつかの資料の摘録です。
 なお靖国問題に関する兵頭二十八の見解は『武道通信』vol.19 (H-14-10)に掲載された拙稿「武士道と宗教と靖国」をご参照ください。
▼『近代真言史の研究』S62、所収・藤原正信「『靖国』問題と日本遺族会」
 ※これは日本遺族会についてよく調べてある感じです。
 S24時点で、遺族年金も、弔慰金もゼロであった。
 これでは困ると、800万遺族の「犠牲者」自覚がつのる。→利権団体化。
1950年から、「運動」の柱に。
 1952−4−30「戦傷病者戦没者遺族等援護法」公布。これで遺族年金が実現。
 しかし小額のため、すぐに増額運動が。
 1956−5−1、遺族会は要求した。すなわち靖国神社は「国事に殉じた人々」の「みたま」を祭神とし、「その遺徳を顕彰し慰霊するものであること」と。
※このへんから「寺院化」が始まった。
 1965の全国戦没者追悼式は、遺族会の願いには反して、武道館で行なわれた。
 靖国法案第一条(1967−3の案)
 「靖国神社は、日本憲法の精神にのっとり、戦没者及び国事に殉じた者に対する国民の感謝と尊敬の念を表わすため、その用に供される施設を維持管理し、これらの人々の遺徳をしのび、これを慰めその功績をたたえる等の行事を行ない、もって社会の福祉に寄与することを目的とする」
 1969−3の修正案の第一条
 「靖国神社は、戦没者及び国事に殉じた人々の英霊に対する国民の尊崇の念を表わすため、その遺徳をしのび、これを慰め、その事績[蹟カ?]をたたえる儀式行事等を行ない、もってその偉業を永遠に伝えることを目的とする」
 法案が廃案となって、S51−6に議員が中心の「英霊にこたえる会」ができた。
▼靖国顕彰会『靖国』S41
 昭和27年5月2日。これが戦後最初の政府主催の全国戦没者追悼式。新宿御苑。両陛下が御親臨。
 昭和28年3月、(財)日本遺族会、発足。
 昭和34年3−28に、千鳥ガ淵墓苑ができるとき、遺族会は、そこを国家的権威に支えられた「合掌の場」とせぬこと、また、全戦没者の遺骨を象徴・代表するものでないことを政府に確認させた。
  ※追悼施設だと定義されれば、そこは遺族会が絶対の場になってしまう。もはや戦後遺族会は戦前戦中の遺族とは異なったいびつな存在である。
 竣工日には両陛下が親拝。
 昭和37年8月15日に、郷友連盟(日本遺族会と並ぶ圧力団体 ※昔の在郷軍人会)が、殉国者顕彰慰霊祭をやっている。
 戦後最初の全国戦没者追悼は、S38に、日比谷公会堂で。
 第2回は、遺族の強い要望で靖国神社で。
▼(財)日本郷友連盟『日本郷友連盟十年史』S42−2
 S29−11   全国33都道府県の戦友団体の代表があつまる。
 S30−6−6  「日本戦友団体連合会」結成。植田謙吉が会長。S31から岡村寧次が理事長。
 S30−8−14 終戦時の自決烈士顕彰慰霊祭を靖国神社内で。
 S31−5−12 会名を日本郷友連盟に改む。
 S31−8−14 殉国諸霊顕彰慰霊祭を靖国神社で執行。
 S31−10−10 社団法人の許可。
 S32−8−15 大東亞戦争殉国英霊顕彰慰霊祭。神社内にて。
 S33−8−15 大東亞戦争殉国者顕彰慰霊祭。これは九段会館にて。
 S38−6−1  全国在郷軍人会を合併。
 S38−8−15 運動が実り、この年から、国家行事として政府主催の全国戦没者追悼式が行なわれる。この年は日比谷公演にて。
 S39−8−15 政府主催の第2回全国戦没者追悼式。
▼田中伸尚・他『遺族と戦後』1995(岩波新書)
 地方の遺族会に入ると、年1〜2回、バスで靖国に行ける。会費は年に¥1,000-だ。
 九段会館は国有財産なのだが、1953の特例法により、(財)日本遺族会に無償貸付され、同会が運用している。
 そもそも1934の即位大礼にあわせて帝国在郷軍人会が建設したもの。終戦後は1957−1まで、米空軍の将校クラブなどとして接収されていた。貸付としたのは、無償払い下げだとその後の固定資産税の負担が生ずるため。貸付実施後に「九段会館」と改名し、日遺連の事務所も置かれた。
 軍人援護は、支那事変で拡充された。
 1938に、いろいろな援護団体が「恩賜財団軍人援護会」に統合される。
  →1946−4「恩賜財団同胞援護会」に。
 1939に「軍人保護院」という役所もできる。
  →1945−12廃止。
  ※兵頭いわく、これは警察、消防、海保などといっしょにして復活させるべきだ。
 支那事変中に、例大祭に遺族が招待されるようになったが、招魂式では、「わが子を返せ」などのヤジも飛んだという。いかに事変が不人気であったか。入江侍従も日記で、肝心の事変が未解決なままでは2600年をちっとも祝う気分になれない、と書いている。 1945−11−24、GHQ覚書にもとづき政府が1946−2−1に公布した「勅令第68号」は、軍人恩給を事実上、停止した。
  ※傷夷軍人手当ては残された。しかし、遺族の年金と、退役軍人本人の年金が、なくなってしまったのだ。これは理不尽だった。というのも、旧軍人はサラリーの1%を恩給の原資として天引きされ、強制積み立てさせられていたからだ。
 GHQいわく、軍人恩給が日本の軍国主義を助長したからである、と。
  ※兵頭余談。官僚の天下り退職金制度が誰もが官僚になりたがる日本の仕組みを助長していると言えよう。
 戦前の軍人恩給は、最終サラリーの1/3以上が貰えた。しかも、資格が生ずるまでの年限が、やたらに短い。外地加算などがあるため。短い者は3年で有資格者となれた。
 1945−12−15、GHQは「国教分離指令」いわゆる“神道指令”を出す。
  特定神社の国による優遇を禁ずるもの。
   ※これ以前には、幣原喜重郎首相がS20に参拝している。
 1946−2−8にNHKラジオで「戦争犠牲者遺家族同盟」の結成をよびかける「私達の声」が読み上げられ、大反響。
  ※はやくも「犠牲者」「被害者」のスタンスに切り換えていることに注意!!!
 1947−11−17、各地遺族会の全国組織「日本遺族厚生連盟」設立。
  その規約の第4条はなんと「本連盟は、……平和日本の建設に邁進すると共に、戦争の防止と、世界恒久の平和の確立を期し、以て全人類の福祉に貢献することを目的とする」
 1948当時は「遺族800万」と呼号され、選挙の圧力に使われた。
 1949−5−14、衆議院は「遺族援護に関する決議」を採択。ただし、なんらの新法を実現したものではない。
 1950−6の参院全国区で、遺族厚生連盟会長の長島銀蔵(もと貴族院議員)が10位という高位で当選。票田としての遺族会の力を示す。
 しかし具体的な法律はなかなかできなかった。占領下なので。
 1951−2−23、一ツ橋の共立講堂で、「第1回全国遺族代表者大会」。(第2回から、全国戦没者遺族大会、となる。)
 1951−10−18、靖国神社が宗教法人になって初めて挙行された秋季例大祭に、吉田首相らが公式参拝。
 (これ以降、首相の公式参拝は、昭和60年まで56回あるが、昭和61年に中曾根が、8.15参拝を停止するのである。)
 1952−1−16、閣議で遺族年金と弔慰金(十年国債)を支給することなどを旨とする「戦傷病者戦没者遺族等援護法」案が決定。通称“遺族援護法”。
 戦没者一人について年に5万円。これでは少ない、10万にしろという運動が、すぐに始まる。(1−20の第3回全国戦没者遺族大会で決議。)
 が、ともかく1952−4−30から遺族年金がやっと復活した。
  ※7年間もコジキ同然に放置されれば「8.15」被害者意識が充満するには十分かも。
 1953−3−11、(財)日本遺族会が設立さる。
 1953−6、日本遺族厚生連盟は解散。
 1953−8、恩給改正法が施行される。これで「勅令第68号」は事実上消滅し、公務扶助料が復活する。
 1963〜65、中公に、林房雄の『大東亞戦争肯定論』。
 1963に、初めて8.15に政府主催の全国戦没者追悼式が日比谷公会堂で開かれ、その後、8.15追悼は恒例化している。
 1969−6、靖国神社法案が上程される。
 1975、これを最終断念。
 1976−6、「公式参拝運動」へ転換。
 1978時点で、遺族世帯は185万ある。組織されているのは104万世帯。
 S59−8から、中曾根の下で「靖国懇」が1年間、20回以上開かれる。江藤淳、中村元、曾野綾子ら。
 平13現在、武道館で毎年8.15に行なわれる「全国戦没者追悼式」には天皇参席。
▼畑中市蔵『恩給──文官・旧軍人恩給の解説と手続』S32−2
 そもそも明治8年に海軍が英国を真似て「海軍退隠令」、翌年に陸軍が仏国を真似て「陸軍恩給令」を公布したのが始まり。
 明治16年に「陸軍/海軍恩給令」となる。
▼『靖国神社百年史 事歴年表』S62
 S27−8−16、陸軍の終戦時自決者の慰霊祭。
 S30−8−14、陸海軍の終戦時の自決者の慰霊祭。
 S30−8−15に、拝殿前に署名簿を置いたら、一般人の3割の1280人が記帳した。
 S38−8−15、法務大臣の賀屋興宣が日比谷公会堂における政府主催の第1回全国戦没者追悼式に参列し、日本遺族会会長として神前奉告参拝。前日の14日には、国務大臣の佐藤栄作が。また15日には小林武治厚相が、「特別参拝」。
 S39−8−15、両陛下ご臨席にて、第2回の全国戦没者追悼式が、大村銅像の前で。
 S50−8−15、三木武夫総理が乗り込む。
 S51−8−15、「英霊にこたえる会」主催の第1回全国戦没者慰霊大祭。石田和外会長。以後、恒例行事に。
 S53−8−15、福田総理、特参。
  ※安倍晋三氏いわく、昭和54年に「A級戦犯」が合祀をされたあと大平が公式参拝したときシナは何の文句も言わなかったと。
 S56−8−15、鈴木善幸総理、特参。
 S57−8−15、おなじく。※鈴木にもトウ小平は何の文句もつけず。
 S58−8−15、中曾根総理、特参。
 S59−8−15、おなじく。
 S60−8−15、おなじく。※ここでトウ小平が文句をつけた。トウ小平は97-2に死んだ。
  ※佐藤優氏が『世界』2005-1に寄せていた文章によれば、1997-11の橋本-エリツィンによるクラスノヤルスク合意の効果として「…その直前まで中国は、歴史認識の問題で日本にがんがんいっていたのです。あのクラスノヤルスクの直後からその話が消える。中国は日ロ関係の発展をよく見ていました」──とのこと。じゃあS54〜59年までの日ソ間にはどんな蜜月があったと仰るのでしょうか? 牽強付会の「地政学」的な説明が聞きたいものです。
 神社で祈るのに資格はいりません。また、偉い人が自宅に神棚を儲け、神主を呼びつけたって構いません。ではなぜ日本人がわざわざ靖国の社頭まで出向くことに価値があるのか。それは、そこが対外国の戦勝祈念に関しては最も意義の重い「祝詞」の公的空間であるからです。何事かを誓うのにもそれなりの空間が必要なのです。選挙カーの上での誓いは誰も誓いだと思って聴いてはいません。
 靖国は近代神社です。そこで表と奥を分ける必要は無い。参拝は社頭で十分です。否、国会議員であるなら、国民の目から見えない奥に招じ入れられてコソコソと秘密の儀式をやっていてはいけないのです。皇族ならば庶民の目にお晒し申し上げては不敬ですからそれで宜しいのですけれども、代議士に関してはあれがイメージを悪くしています。ほんらい「記帳」をする必要もないのです。


摘録と偶懐──『原爆を投下するまで日本を降伏させるな』

 鳥居民氏の最新刊です。
 まず摘録です。
 ソ連の諜報機関がゾルゲやフックスその他からあつめた情報は、参本など他の機関を迂回して、直接にスターリンの執務室に届けられることになっていた。
 だからバルバロッサ作戦にしろ、原爆の開発にしろ、早くからほとんどの情報は上がっていたのだが、単にスターリンの「これは敵の陰謀だろう」という猜疑心ゆえに、金庫に放り込まれたまま、眠っていた。
 オリンピック作戦の人的損害予測は小さなものだった。
 マーシャルは、最初の30日の損害は、ルソン島作戦の死傷31000人を越えないと述べた。統合参謀本部議長のレーヒーは、沖縄の戦死傷率35%をあてはめれば、その倍の6万になるのではないかといった。
 キングはその中間を予測した。そして米海軍が九州作戦を嫌っていたことは事実である。
 しかし、所要14個師団のうち12個を出すことになる陸軍では大乗り気だった。
 「100万人を救った」説は、スチムソンが親分トルーマンの道義的苦悩を軽くするために1947年の『ハーパーズ・マガジン』1月号に寄稿して流布させた無根拠な数字である。
 日本陸軍は、みずからの内部の戦争犯罪人を自覚するがゆえに、米国に降伏を申し入れることができずに、ソ連などに和平仲介を求めさせようとした。近衛と吉田は、それでは陸軍人たちの身の安全と引き換えにとてもつない譲歩をすることになるであろうと怖れた。
 重臣たちは、かつてドイツのウィルヘルム2世が亡命することとなり、過酷な賠償を科せられたきっかけが迂闊な休戦提案にあったのだと記憶し、皇室抹殺の可能性があったがゆえに、天皇に終戦のことは助言できなかった。
 小磯国昭が南京政府の繆斌に期待した工作は、成功するはずはなかった。なぜなら重慶の狙いは、日本と延安(中共ゲリラ)の連携を防止することにあったので。
 昭和20年6月下旬以降、天皇が得たいちばん貴重な助言は、高木八尺と南原繁によるものだろう。その内容はおそらく「米軍に出血を強いれば米国は皇室維持の問題で譲歩する、との天皇の判断は今後は適正でない。なぜなら3月以降のB-29爆撃は都市部の住民を丸裸にしていくものであり、このまま冬に向かえば必ず国民が、何の手も打てぬ天皇を恨むようになる。その民心離反の実情を米国が知るところとなったら、米政権内での親日派で皇室擁護論者のジョセフ・グルーの影響力が無になろう。その結果、戦後、皇室は潰されてしまう」であったろう。
 FDRの急死で大統領に繰り上がったトルーマンは大学も出ておらず、政府内外の一流人たちから軽輩と見られていることを意識せざるをえず、さらにソ連のモロトフからも侮られたと思った。
 4月25日に初めて、自分が原爆という切り札を手にしていることを知らされたトルーマンは、唯一の相談相手のジェームズ・バーンズと、その最もトルーマンの権威を確立する役に立つ使い方を、謀る。
 こんな兵器が完成直前の段階にあるのならソ連の参戦はもはや無用だがソ連が今後どうするかはスターリンの意志のままであり、やめろと言っても止められるものではない。
 とすればソ連の参戦前に日本の都市に新兵器を落とし、それで以て日本を降伏させて、スターリンに見せ付けてやるのが将来的にベストだ。これでトルーマンも偉大な男になれる。
 この演出を完全に興行してみせるためには日本を原爆投下前に絶対に降伏させてはならない。
 また、ソ連の対日戦への参加日をスターリンまたはモロトフから聞き出す必要が是非にもある。
 なぜならプルトニウム原爆の実験と、二つの爆弾の日本に対する投下準備には、まだなお、手間隙を要したからである。
 このためスターリンが最も恩義を感じている特使ホプキンズを再派した。ホプキンスは、東欧で最大の人口を有し、英国内に亡命政権が存在し、米国内にも移民が多いポーランドを敢えてソ連にくれてやるという約束をしてスターリンを喜ばせた。その代わりに参戦日を聞き出したのだろう。つまりポーランドはトルーマンとバーンズの原爆の演出のために、切り捨てられたのだ。
 トルーマンの日記(と妻への手紙)に、ソ連参戦に関連して「これでジャップはお終いだ」と書かれている。あたかもソ連参戦を喜んでいたようだが、それは歴史家の甚だしい読み間違いなのだ。じつはトルーマンは、ソ連参戦の日が、原爆使用準備完了の日よりもずっと遅くなることを知らされたので、自分のために大喜びしていただけである。
 スチムソンはポツダム宣言の中に、日本の国体護持保証の文言を入れさせようとした。が、トルーマン=バーンズが削除させた。また回答期限も盛り込まなかった。さらに外交ルートでなく、放送だけで日本に届くようにした。これでは鈴木貫太郎も「黙殺」するしかないように、彼らはわざと仕向けたのである。
 アメリカが原爆を独占し、あるいはソ連に圧倒的な差をつけていた1953年までにどうしてトルーマンはソビエトに核攻撃しなかったのだろうか。それは最初の二発の原爆使用が道義的に問題があったと悩んでいたからかもしれない。
 以上が勝手な摘録ですが、今月発売の『諸君!』で中西先生が紹介している1999年の本には、トルーマンは戦後の国連創設の際にもポーランドに関してスターリンに対して大譲歩をしていた、とあるようです。
 対日参戦日を知るためだけにポーランドを捨てたのだという鳥居先生の仮説は不自然でしょう。
 ソ連軍を西ドイツの国境に(緩衝国家ぬきで)直接に対峙させておくことが、戦後のヨーロッパ経営のために有利であると判断したのではないでしょうか。
 あるいはトルーマンにはポーランド人に対する個人的な不快感のようなものが、何かあったのが理由だったかもしれぬと、わたくしには想像できるばかりです。
 それと、マリノフスキーの極東軍はどうしてBTにT-26などという旧式戦車ばかりを揃えて1945年夏に満州に侵攻してきたかの理由は、やはり単純だったのでしょう。スターリンは米国の原爆投下に焦りまくり、異常な見切り発車を命令したのです。それでもあんな怒涛の急襲ができてしまったのです。


よいちばなし

『北の発言』で連載しているわたくしの記事のための取材として昨日は余市の防備隊のOB、四名の方にインタビューして参りました。日本最後の「魚雷艇乗り」の方々です。
 なにしろこうした自衛隊「神代記」の逸話は地元の民間史家でも記録してくれませんし部隊内での引継ぎもありはしませんから、わたくしのような者が今のうちに聞き歩くしかないのです。さすがに全国までは手が回りませんけれども……。
 魚雷による戦闘法、および、壮絶な苦労話のハイライトは、ひとつ『北の発言』次号を読んでいただくとしまして、二、三、周辺的な「余話」をご紹介しましょう。
 65式長魚雷は電池式なのですが、「過酸化水素」も入っていると説明されて、わたくしはその場で混乱してしまいました。あとで調べてみると、過酸化水素は液体電池の起電を維持するために必要な素材なんですね。これをいぶかしんでいたために深い質問に進めずじまいであったのが残念です。
 水に入ると「しゃ板」が倒され、駆動がアクティブになったそうです。
 また、大湊で調整された水雷が、ふだんは××の×××××に貯蔵されていたとはまったく知りませんでした。ミグ25事件のときは、魚雷は搭載しないで出動していたんだそうです。そして40ミリは、航走中は使えるもんじゃないそうです。
 また12号艇以前と13号艇以降では魚雷のサイバネティクスが違っていたようです。後期型にはマイコンチップが入っていて、発射前のプリプログラミング入力が簡単で、したがって訓練で射った魚雷が行方不明になることはほとんどなかったが、それ以前の魚雷では行方不明になってヘリで捜索したことが一再ならずあったそうです。
 ちなみに魚雷はすべてホーミングではなく、爆発尖はインパクト・フューズのみだったということです。ミグ25事件のときはソ連が潜水艦でコマンドー部隊を函館に送り込むといわれていたんですが、ほんとうにそうなったら沖合いの魚雷艇は何もなし得なかった蓋然性があったようです。
 まあ、それよりショックだったのは、魚雷艇は冬の間は余市には居らず、大湊に引き篭もっていたという事実でしたが……。
 10号艇(英国からの輸入品)にはソナー・マンが乗っていましたが、それ以後の艇はASWとは全く無縁になりました。
 10号艇は、火薬カートリッヂでエンジンをかける「飛べフェニックス」方式でしたが、横須賀から回航するとき犬吠埼沖でエンジン1基がダメになったそうです。その部品をとりよせるのに途方も無い日数がかかったそうです。
 アメリカの魚雷艇の場合、彼らは航空機用の軽量ガスタービンの経験があったわけです。しかし戦後の日本はいきなり舶用の重いガスタービンを作って魚雷艇に搭載しました。
 それを搭載した試作艇はたいへんなスピードを出してくれましたが、あるときタービンブレードが吹っ飛び、けっきょく量産されませんでした。
 三菱のW型2サイクル・ディーゼルは要所をアルミで造ってあり、こっちは戦前からの蓄積もあったので、モノになったようです。
 最後の15号艇が除籍されるときに、なぜ海保にくれてやらなかったのかとお尋ねしましたら、海保は機関の「油さし」しかできないからだ、というお話でした。海自のような本格的な「機関科」を内部で育てていないということでしょう。
 魚雷艇は一航海ごとにアルミ構造が破損しますために、その都度、自前で熔接し直す必要があったのだそうです。これは外注頼みの海保ではできない芸当でしょう。むしろ海保は最初から自前で魚雷艇を持つべきだったんでしょう。
 頑丈なアルミ構造すら破損するとすれば、7Gの衝撃を受け続ける中の人はどうなるのか? 次回の『北の発言』でお確かめください。聞くも涙ですぜ。
 15号艇を保存したいという自治体が、ふたつあったそうです。富山の魚津と、天塩の鏡沼海浜公園(キャンプ場)です。
 そういう用途廃止後の民間保存は法律的には単純な手続きで問題はなく、最大のネックは、現地までの輸送費用なんだそうです。そのため、いずれの保存希望も、ついに実現はしませんでした。
 たとえば余市の魚雷艇は本籍が大湊ですので、大湊で除籍となるわけです。引き取る人は、そこから自腹で輸送しなければなりません。この費用を日通に見積もらせたところ、とんでもない額になったそうです。自重100トンですからね。
 あと、15号艇を払い下げてもらって自分で走らせて使いたい、と申し出てきた個人がいらしたそうです。「でも、燃料が航空燃料だったりで、取得はなんとかなっても、維持は大変ですよ」と説明したら、最後は諦めたそうです。その個人とは石原慎太郎さんだそうです。

 



旧軍の未解決の諸問題は比島にこそ存在する

 先の戦争は日本によるアジアの解放戦争だったと60年も経ってまだ歴史を学ばず脳内自慰している総てのバカ右翼に問いたい。
 米軍指揮下のフィリピン軍が4万人も死んでいるのは、白人の帝国主義者に強制されたものだと思うんですか、と。
 旧厚生省その他によりますと、1941年から45年まで、フィリピンで日本兵は51万8000人死んでいるそうです。うち47万人はゲリラに殺されたと言う人もいます。いや8割は餓死だった、という人もいます。とにかく51万という数字は、シナで戦死している日本兵46万人を上回る。
 そう、比島防衛戦こそは、日本陸軍史上、最低最悪の戦いだったんです。それがどういうわけか戦後日本人の意識の中ではスルーされています。
 しかも面妖にも、3万520人しか死んでいないインパール作戦などが「拙戦」「悪戦」の代表格として取り沙汰されているんです。(ビルマ全体で昭和20年8月までにトータル14万6000人死んでいるが、牟田口が第15軍司令官だったのは昭和18年3月18日から19年8月29日の間だけ。)
 それには特殊な事情があります。勅任官の師団長を3人も馘にした牟田口は、ビルマの仇を東京で、かつての部下たちにとられ、復讐されてしまったんです。つまり、牟田口に左遷された高級軍人たちは、ノモンハンの前線部隊長たちとは異なり、決して黙って泣き寝入りはしませんでした。彼らの恨みのエネルギーは敗戦を挟んで反牟田口の大宣伝となり、おかげでちっぽけなインパール作戦が、比島作戦全体よりもむしろ悪名が高くなってしまったのです。
 19世紀はじめ、ナポレオンは、スモレンスク以東に49万1000人の味方の死体を置き去りにして帰ってきています。これと同規模の体験を20世紀の日本陸軍が舐めたのは比島戦であって、ビルマ作戦ではありません。もちろん13万人が死んだニューギニア戦でもなく、94000人が死んだ沖縄戦でもない。
 ビルマでは、敵方のウィンゲートの第一回東征でも、出発時の1/3の英兵&グルカ兵はジャングルの肥やしとなっています。10万人出して7万人が戻ってきた牟田口のインパール作戦と、死亡率は同じでした。ビルマでは日英お互いにシンプルに死闘を繰り広げたのです。
 比島戦は、道義的にも最も問題の多い、日本史の汚点です。
 支那事変は、シナ人が官民合同の国家的テロ作戦を日本に仕掛けた結果始まったものでした。その結果、シナ人がたとい何十万人死のうと、それは自業自得だと言えるでしょう。
 しかるに比島戦はそうではない。現地政府の教唆に基づく反日テロなどは戦前の比島には起きてはいませんでした。そういうところに日本軍が乗り込んでいった結果、フィリピン人民はなんと111万人も殺されることになってしまったのです。
 シナ人に理由もなく土下座するのが趣味の日本人が多いようですが、そういう方たちはまずその前にフィリピンに向かって頭を垂れるのが人の道というものであろうと思います。
 こうした大掴みな戦史の理解が日本ではまだ不十分なようですので、別宮暖朗先生と先の大戦に関する評論本を一冊つくることにしました。現在、某P社の担当の人に原稿は渡っていますが、既製の解説に大いに逆らう内容ですので、審査に通るかどうかは分かりません。
 ところで、フィリピンではほとんどの日本兵が「住民」と交戦した経験があるでしょう。このため、終戦後、ジャングルから出てこられない日本兵はとてもたくさん居たと考えられます。投降すれば死刑になると自覚したのです。
 小野田少尉もおそらくは住民を射殺したことがあるために出てこられなかった。そこで厚生省では「残置諜者であった」という物語を用意しました。その物語を、当時のフィリピン人も受け入れてくれましたので、晴れて帰還が可能になったのです。
 今度の日本兵にはどんな物語が用意されるのか知りませんけれども、大事なことは、住民との交戦を水に流し、今日まで山奥で生かしておいてくれたフィリピン人すべてに感ずる心でしょう。
 外務省と法務省は、フィリピン人に認めないビザ無し日本観光の特権を、どうして生まれつきの暴徒であるシナ人などに認められるのでしょうね。これほど恩知らずで無礼な態度は、ありますまい。


トヨタは日本軍人に喧嘩を売ろうというのか

 キザですがネットでCBSの動画ニュースをみてたら、米国の南部のメーカーで量産している6輪の防爆(対路傍爆弾)装甲自動車「バッファロー」とやらが、いまイラクを何台も走り回っており、兵隊に好評であるとの話でした。「ステロイドで強化したハンヴィー」などと仇名していました。
 「これはプラモデルになるだろう」と直感しますた。
 デザインですが、前2輪を後4輪から存分に離して配し、その上にボンネット式にエンジンを載せ(たぶん非装甲)、その後方の4輪の上に全周装甲ボックスを置いて操縦室&乗員室とし、シャシの前方に、路傍まで十分に届く長さのCCDカメラ付きロボットアームを装載しています。車体底部はV型(舟形)ですが、足回りは耐爆ではなさそうで、人員だけ防爆する思想と見受けました。
 南アやイスラエルが昔からこの手の耐地雷トラック、耐地雷ジープを使用または製造しておりましたが、考えてみればそんなのはハイテクでも特許でも秘密でもないのでしょうから、各国で必要だと思い立ったら直ちに国産させられるわけです。現時点ではこの「バッファロー」が、最も重く、故に「決定版」というところでしょうか。
 イラクの市街地パトロールに限っては、車高をことさらに低くしても始まりません。それよりも、できるだけ頑丈にして重くして路傍の爆発物の衝撃から人命を守った方が良い。視察性の要請があるので、窓を小さくできないのは仕方ありません。しかし、もはやハンヴィーのサイズでは路傍爆弾を凌ぎ切れないことはハッキリしています。
 そこで「ハンヴィーもどきを自衛隊に納入してイラクでも使わせているトヨタは何をしている」という話ですよ。
 げんざい米国市場でいちばん儲けさせてもらっている世界的メーカーが、世界一のテロ後援国家にしてテロ自演国家でもあるシナに媚びて、かつてシナの官民合同テロの犠牲となった幾十万の御魂をお招きする祭場である靖国神社を誹謗するとは何事ですか? 靖国を誹謗することは万国の正規軍将兵を誹謗し、テロリストの肩を持つことと同じです。米国トヨタは、南部の無名会社がするよりも早く、防爆トラックを製造して「愛国号」「報国号」としてペンタゴンに献納するのが筋ではないのですか。
 また防衛庁はトヨタとの契約は切るべきです。これは当然でしょう。
 シナおよびガソリン絡みでもうひとつ日本国が考えておかなくちゃならないのは、中東石油を西回りで日本までもってくるタンカー・ルートを用意することです。
 つまり、クルードオイルを米国東海岸に陸揚げして、米国内で石油製品にして、それを米国西海岸から船積みして、太平洋を横断して日本までもってくる。このルートで輸入するオイルの量をだんだんに増やしていくことです。
 インド洋、マラッカ海峡、南シナ海、台湾海峡で将来何が起ころうと、西回りルートには影響しません。
 長期的な投資が必要です。しかし、やる価値はじゅうぶんにあるのです。


堂々巡り

 ……「日本人に自主防衛の気概が無い」→「アメリカ政府にとってはシナが頼もしく見え、シナに秋波を送る」→「シナは対米協力の見返りとして日本の永久非核をアメリカに誓わせる。また、日本は核をもったら何をするか知れない危ない国だと対外宣伝する」→「日本政府は先の大戦についてお詫びをし、防衛力を制限し、国民にますます自主防衛の気概がなくなる」→ …………。
 このようなエンドレス・ループに決定的に陥ったのが1970年代でしょう。
 1976年に日本は「核兵器の不拡散に関する条約」(NPT)を批准します。同年、三木首相は、防衛費は必ずGNPの1%以内にすると閣議決定しました。その理論的な合理化は、外国からの核攻撃をまったく想定しない「(旧)防衛大綱」に拠っていました。
 開き直ったと言えば格好がつきそうですが、国民の生命を守る義務のある政治家と安保関連官僚は、道徳的にはこれ以下にはなれないくらい、堕落したのです。
 安全保障の危機には、「外患」「内乱」そして「社会が共同体のモラルとモラールを破壊することによる自殺的弱体化」がありますが、当時の政治家と官僚はその三番目を演出していました。立派な国家叛逆と言って可です。
 1976年くらいまでは、米ソの核戦力の大宗はICBMで、米ソの核武力は拮抗しているので、したがって米ソ全面戦争は起こるまいと広く信じられていました。
 しかも石油ショック以来、石油の大輸出国であったソ連が軍拡の原資を潤沢に得、元気満々になってしまった。石油自給国だったシナもソ連陸軍の圧力にさらされ、石油輸入国で参っていた米国はソ連海軍のSLOC攻撃(中東からの石油搬出を遮断する)の意志を知り、いっそうシナと強く手を結ぶ気になります。
 ところがこの構図は永続はしませんでした。米国のあるテクノロジーが、何もかもガラリと変えたのです。
 そのテクノロジーとは、70年代後半から登場したナヴスター衛星群、GPSです。
 「GPSは巡航ミサイルの誘導用に開発された」と読める解説をときどき目にしますが不正確です。GPSはもともとSLBMのトライデント、およびその発射原潜のために考えられたシステムでした。
 GPSは米ソの核の均衡を覆しました。GPS利用により、米国のSLBMは、やがてソ連のICBM並の精度を持つことになるだろうと、ソ連側には予測ができました。つまり米国は海中からソ連の地上の核を丸裸にできるようにもなってしまう。ソ連にはその対抗手段が持てません。ソ連は海中での技術競争でも遅れをとっていました。
 ICBMという比較的シンプルなシステムに一点張り投資していれば、それだけで強大な米国と戦略的に拮抗できたという、ソ連にとってのとても幸せな時代は永遠に去ったのです。
 ソ連は覆えらんとするバランスを元に戻そうと、択捉島に基地を新設したり、気違いじみた軍拡を試みましたが、ついに力(財源)は尽きました。
 こうなって、米国には、中共の助けも要らなくなったのです。
 シナが、ソ連に代わる気違いアクターとして、テロ国家・北鮮を育て始めたのは合理的でしょう。
 北鮮がテロ用の核兵器を研究し続け、日本が腑抜けであり続ける限り、米国は半島問題でシナを頼りたくなるかもしれません。
 米国の「GPS+SLBMによる平和」の達成は、米国以外の国(ソ連)が米国と対等の核大国でいようとする野望の芽を摘んだのでしたが、米国本土がそれによって外国からの一発の核攻撃も被らずに済むようになったのではありませんでした。
 むしろ逆に、80年代のように一千発を越えるRV(再突入体)の落下を覚悟する必要がなくなったがため、今や、わずか数発の核爆発も米国は怖がる、厭うという、新情況が生まれたのです。
 お蔭で、米国に届く核手段をタッタ20発しか持っていないシナも、米国に対してかつてのソ連と同等の立場になろうという野望を抱くことすら可能になりました。
 また、非核の同盟国である日本は、かつて以上にシナからの核脅迫を恐れねばならないことにもなっているのです。
 「GPS+SLBMによる平和」は、米国のMAD発動をなかなか有り得なくし、日本上空の米国の核の傘を消滅させてしまったんです。日本が単独でシナからの核攻撃を被った場合、米国はシナに反撃すべきかどうか悩む筈です。
 この新たな不満足情況もテクノロジーでなんとかできるのではないかと思い付かれたのがMDです。
 が、残念ながら、MDはGPSほどは世界の核情況を変えないでしょう。日本は自力で核武装する以外に、シナの核から身を守る術はないでしょう。
 ロシアやシナなどの反近代勢力を弱めるために、日本が同じ価値観を共有する近代国家として米国を支援するのは、世界人類のためになり、道徳的に正しく、当然のことです。
 しかし独自の核武装そっちのけでMDなどに協力するのは、不健全な対米貢献となるでしょう。あたかもそれで日本国民の安全が買えるかのように政治家と官僚らが宣伝するとすれば、それは為政者として不道徳的でもあります。
 弾道弾は真上から落ちてくるという誤解がありますが、シナや北鮮から発射されたRVは、かなり斜め横から飛んで来ます。曲射砲ではなく加農。つまり野球のライナー性の当たりのような軌跡をこそ想像すべきでしょう。
 もし完全な迎撃ミサイルを配備できるとすれば、その発射機よりも東側に位置する長細い土地が、守られることになります。つまり迎撃ミサイルの射程が短くとも、それによって守られる地表面積は、やや広い。……のですけれども、肝心のMDがRVに命中する確率が、とても低いんです。
 東京都の西部の横田基地にMDの日米共同司令部を置く構想が報道されています。こうした観測気球によって、世論の反応をいろいろと見極めながら、新しい基地が決まることでしょう。
 意味するところは二つあります。一つ。独自核武装を渋る腑抜けの日本人、特に東京都民を守ってやっているというポーズをアメリカ側が示すこと。二つ。MDが当たらぬものだという見通しを知悉する日本の防衛官僚は、米空軍とMDの司令部をあくまで「東京都」内に置かせ、象徴的に両者を混然一体化させておきたい──ということです。
 すなわちシナもしくは北鮮が関東の米軍基地を攻撃すればそれはそのまま日本の首都東京を狙った攻撃と看做されるようにしておく。また、東京都を攻撃すれば、それは自動的に米軍の司令部所在地も攻撃したことになるようにしておく。こうしておいたならば、米国大統領としても、対支/対北鮮の核報復攻撃の命令が下し易いでしょう。
 ただし、その暁に米国大統領が必ずそうしてくれるという保証は、ぜんぜん無いんです。
 ここでお話は冒頭に還ります。いかにして日本国民は自主防衛の気概を持つんでしょうか? その光明は、まがいものでない武士道の研究の中にのみ、見出せることでしょう。


「東大卒二等兵」という負の遺産

 戦後の日本防衛史には二つの大きな筋があって、ひとつは核武装をめぐる佐藤栄作以前の日本の総理大臣と米国政府との間の交渉史。もうひとつはそれ以外のすべての路線の変遷史です。
 後者は大きく分けて「旧大綱」路線と「ガイドライン」路線です。この非核の二路線については、佐道明弘氏著『戦後日本の防衛と政治』(2003)が、初めて分かり易くまとめて書いてくれた。後者二つの路線は、いずれも、それを考えたのは時の首相ではなくて、官僚と政治学者たちでした。佐道氏は、従来は半匿名のように朦朧としていたその官僚と政治学者たちの役割を、解明し得る範囲で整理してくれました。
 「大綱」路線とは、すなわち「護憲」+「財政重視」です。
 「ガイドライン」路線とは、すなわち米国との攻守同盟です。
 兵頭に言わせれば、そのどちらにも「シナ(およびその国内シンパ)への遠慮」が前提として在る。だからどっちの路線だろうと、国民にモラル(西洋近代の道徳)とモラール(士気)の放棄を呼びかけたようなものでした。そんな不健全な路線を採択された上で「国民一人一人が国を守る気概を持とう」などと政府から呼びかけられても、誰も気概など持ちようがなかった。庶民のうち、自分の頭で考えられる一握りの分子は、「だったら核武装しようぜ」と思ったでしょう。
 シナに遠慮しない路線とは、すなわち核武装路線です。
 佐藤総理は核武装の放棄を米国政府(それもキッシンジャーの言うなりに中共と手を組むことに決めた米国政府)に対して約束しましたので、以後、日本には「自主防衛」路線はあり得なくなった。「非核の自主防衛」というスローガンは言語の上ではあるのですが、それは実態として、大綱路線か、ガイドライン路線か、どちらかの範疇でしかあり得ない。
 ですからかつて日本の核武装を理論的に捨てさせた高坂正尭・京大教授に学んだこともある中西輝政氏が今日、核武装に肯定的な論客となっている様子なのは、いみじく感慨深い。それは日本人のモラルとモラールの復活の兆しかもしれません。
 初期の防衛庁に自衛隊の管理官庁としての性格を付与したのは、旧内務官僚(警察)の海原治氏です。
 佐道氏の本には海原氏の経歴が載っています。その前半が興味深い。
 1917年生まれ。一高→東大。1938-10に高等文官試験行政課合格。39-4内務省に就職。40-2入営。二等兵。満州に駐屯していたが、本土へ転属。主計大尉で終戦。
 つまり陸軍に入営後に幹部候補生に志望して兵隊から将校になった。兵隊である間は他の二等兵と全く同じ扱いです。それだけでもイイトコ育ちの青年には十分なトラウマ体験になる。また、幹候に行くのだと判明した兵隊の訓練や内務指導は、他の兵よりもキツくなるのです。ぶっちゃけ、イジメ半分です。これでは海原氏、すっかり陸軍が嫌いになって復員したとしても不思議じゃありません。
 戦前・戦中の気の利いた金持ちエリートならば、陸軍に二等兵でとられる前に、海軍の短期現役に志願して、海軍士官の身分を手に入れてしまうものです。海軍は志願してきたエリートをそれなりに優遇してくれたところです。しかるに海原氏の場合、微妙な時期に満20歳になったので、その機転を利かせ損なったのでしょう。
 2.26事件で陸軍部隊に警視庁を占拠されて捕縄をかけられたことも警察の屈辱となっているのは事実ですけれども、もっと根の深い陸軍への恨みは、戦前〜戦中に、ヒラの警察官のみか内務省キャリアまでを一兵卒として徴兵したことなのです。
 しかもどういうわけか日本には、パラミリタリーの重武装警察をして陸軍の権力に国内で拮抗せしめるという、仏・独・蘇式の発想が無い。たとえば機動隊をM2カービン等で武装させて機動憲兵隊として併行的に充実させていけば、何もことさらに陸自を怖がる必要も無かったはずです。海原氏のようなエリート内務官僚で、それを発想した人が一人もいなかったらしいのも不思議なことです。よほど戦前の陸軍の徴兵システムは、非軍人エリートの意気地を破壊してしまう有害なものだったのでしょう。そのシステムがまた逆に、服部卓四郎のようなエリート参謀を万人に対して天狗にさせていた担保だったんでしょう。
 「向米」もしくは「親米」の戦後日本政府の伝統的路線について、これをイデオロギー、つまり「反共」で説明していたのは、甚大な誤りでした。
 歴史的に、社会や国家の長期連続を信じられなかった、シナ、朝鮮、ロシアの住民たちは、社会や国家への継続的な信頼感がなく、私利や血族の利便を公的契約を守ることよりも優先できる文化を染み着かせています。他者の自由を許容しない態度と、そのような文化は一致します。
 国家の継続、社会の連続を信じて生きてきたわたくしたち日本人は、彼らシナ人、朝鮮人、ロシア人たちとは、他者の自由について一致することができないでしょう。それは共産主義のせいなどではなかった。それはまさに彼らがシナ人、朝鮮人、ロシア人だからなのに他ならなかった。ですから、彼らが共産主義を捨てたと宣言しても、わたくしたちは彼らとは対等の付き合いができないんです。
 約束を守らない人とは、近代人は道徳的なビジネスはできません。それはイデオロギーとは無関係です。
 東アジアでは、日本人だけが契約を守れる近代人です。その事態は、こんご100年くらいは変わりそうにありません。
 昭和11年からの統制官僚のマクロ経済の失敗のおかげで日本国民が「貧国意識」に誘導され、そこから戦後の「小国意識」が生じてしまったのも、まことに不幸なことでした。
 核兵器などハイテク兵器の開発は、投資の乗数効果により、日本経済の国際的競争力を改善し、少ない労働者で多数の老人を守って行ける社会を可能にします。歴代日本政府が続けてきた、土建事業への公的投資のタレ流しは、そのような社会の実現を不可能にするでしょう。