日露戦争講演(4)──有坂成章

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 さて、山県有朋によって薩摩出身の村田経芳の代りに陸軍砲兵工廠に送り込まれたエリートが、長州の支藩である岩国出身の有坂成章であります。

 最初は、東京湾をロシア海軍から防衛するための要塞砲の世話係のような形で山県に使われていたのですが、だんだんに武器設計家としての頭角を現しまして、ついには日露戦争の陸戦兵器全般の面倒を見る「砲兵会議議長」という要職に就任致します。

 すなわち日露戦争は、陸戦に関しましては、ぜんぶ有坂が設計した小銃と大砲と弾薬で勝利したといって過言でない。

 この人がまた奥床しいというか、明治人には珍しく自己宣伝をしない人でありまして、そのために私が書きました『有坂銃』という本、これが伝記といたしまして唯一の単行本でございます。どうして遺族の人が没後に伝記を出版させなかったのか、これも謎なんです。

 おそらく、武器の大発明の陰には失敗作もあるのでしょう。その失敗作の欠陥品ために、平時に同胞が何十、何百人と死傷すれば、これは大変なトラウマであります。対ロシアの勝利という大功績をもってもその過去は帳消しにはならない。少なくとも本人は終生、気にしておりますので、国から表彰してやると言われれば金鵄勲章は受けますけれども、自分からはとても宣伝をして威張る気にはなれなかったのだと、私は、想像をしております。

 たとえば、旅順に「28糎榴弾砲」を投入した作戦がありますが、これも全く有坂一人の手柄でした。

 かつてケネディ大統領、成功には何人もの父親が名乗り出てくるが……、とピッグス湾事件の失敗のあとで嘆いたものですが、この28糎榴弾砲の話などはまさにその典型と申せます。「あれを提案したのはオレだぜ」という自慢話が、ポーツマス講和後に無数といっていいほど出ております。そのほとんどはホラ話であります。

 レッキとした将校たちがみんなで大ボラを吹いている。これが明治末期の雰囲気でしたから、乃木大将などもいたたまれなかったのは無理もない。

 詳しい経緯につきましては、小著『有坂銃』をご一読賜ればご納得いただけると思いますが、そもそもあの28センチ砲を日本の沿岸に取り付けさせたのは山県有朋でありまして、その実行を担当させられたのが有坂成章なのです。

 山県は軽い思い付きでこうした要塞を整備させたのではありません。彼はまず手元・足元から防備を固めるという主義の軍人だったのです。

 この沿岸要塞建設のために山県が投入した努力は、調べてみますと洵にすごいものなのです。心血を注いでいた。たぶん元治元年の奇兵隊が英仏軍に敗れた経験がよほど強烈だったのだと思いますが、とにかくそういう次第ですから、日露戦争中にこれを日本の沿岸から取り外すなどということはもっての他だったんです。

 ただ、有坂成章だけが、山県を説得できる男だった。もちろん、28センチ砲の据え付けの仕方を具体的に知っているのも有坂だけなのであります。他の軍人は、要塞砲が動かせるなんて知っていた訳がない。

 まあ、証拠と致しましては、当時陸軍大臣であった寺内正毅の明治37年8月25日と26日の日記、これを見ただけでも、提案が有坂から出ていることは明白であります。

 次に、日露戦争で歩兵が持っていた小銃ですが、これは明治30年に有坂が設計致しました「30年式歩兵銃」というものであります。

 この「30年式小銃」の口径とか全体の寸法は少しも変えないで、機関部の部品を僅かに変更いたしましたのが、有名な「38式歩兵銃」。銃剣はやはり30年式のものを流用しております。

 ですから、日本は明治38年設計の小銃でアメリカと戦ったというのは正しくありません。日本はまさしく明治30年に有坂が設計した小銃で、アメリカと戦っているのであります。

 では有坂銃は、時代遅れのダメな小銃だったか?

 とんでもないことでありまして、これは世界一進んだ小銃であった。しかも、最も省・資源的な武器であった。

 だからこそ日本は、弾薬補給の戦いでロシアに競り負けずにすんだのです。
 さらに、中国とイギリス、アメリカを同時に敵に回して何年間も戦争をすることができたのは、有坂の設計コンセプトが合理的であったおかげなのです。

 有坂銃がなければ、そもそも日本はアメリカと戦うこともできなかったと私は考えております。いや、その前に、満州の陸戦でロシアの騎兵部隊のために連戦連敗を喫していた筈であります。

 いったい、「30年式歩兵銃」のどこがそんなに優れていたか。

 日露戦争中の全ロシア兵が装備しました「1891年式歩兵銃」は、射距離500mでの最高弾道点が、地表から1.45mでありました。これは、日本兵であれば、200mぐらいのところだと、頭を低くすればかいくぐることができる。すなわち弾道の性能がよくないのであります。

 これに対し、有坂が3カ月で作った「30年式歩兵銃」の、射距離500mでの最高弾道点は、地表から1.2mしかありません。つまり、弾道が水平に伸びる。敵兵は、500m以内では、どこに立っていようと弾に当ってしまう。ですから、歩兵はともかくも、騎兵になりますと、事実上日本の歩兵部隊に近寄ることが不可能になったのであります。

 6.5ミリという小口径弾を採用するのはひとつの賭けでありまして、イタリア軍は先に6.5ミリを採用していましたが、こちらは銃身が短いので弾道性能がよくない。30年式では十分に銃身を長く致しまして、それで当時としましては世界で最も弾が低くまっすぐ飛ぶ、つまり誰が撃っても当て易いライフルになったのです。

 38式歩兵銃が白人兵と銃剣格闘するために長いのだという話が何の根拠もないデタラメな説明であることも、これで御分りかと存じます。事実は、このとき6.5ミリの小口径で弾道性能を良くするために有坂があの銃身長にする必要があったのです。それでも、着剣全長で比較しますと、ロシア軍のライフルより30年式歩兵銃の方が初めからずっと短く設計されています。

 ところで、当時の軍用銃は、弾がよく当るだけではダメなのです。その弾で、馬を一発で倒すことができなければ、戦前の軍用銃としては失格でした。

 明治の日本の最大の脅威はロシアであったことは誰でも知っています。

 そのロシア陸軍の最大の脅威が騎兵部隊であります。

 なにしろ馬の馬格が日本の馬の1.5倍以上良かった。馬の数でも日本などとは比較にもならない。ゼロふたつぐらい違っていたかしれません。騎兵対騎兵ではまったく勝負になりませんでしたから、なんとかこれの相手を歩兵部隊がするしかないというのが日本軍の苦しい立場でした。

 日露戦争前の日本軍歩兵部隊の研究課題は、コサック騎兵の突撃にどう対処するかに尽きていたといっていいでしょう。

 それをやり遂げたのは、秋山好古などではありません。有坂が歩兵部隊に持たしてやった、歩兵銃の威力だったのです。

 30年式歩兵銃の開発過程では、馬の一番太い骨を遠くから射つという実験を、何度もしております。一番太い馬の骨が打ち抜けるなら、その馬はただの一発で倒せる。襲撃をストップできるんです。それを有坂は、6.5ミリというギリギリの小口径で実現しました。

 おかげで、日本軍は、ロシア騎兵の突撃を少しも恐れる必要がなかった。横に一列に拡がって、30年式歩兵銃を撃つだけで、コサックだろうがなんだろうが、1000m以上離れた射距離からでも、突撃を破砕できたのであります。

 鴨緑江南岸で日本軍は初めてロシア騎兵500と遭遇致しますが、衝突しました日本軍の騎兵200がまさに風前のともし火というときに、近衛大隊の歩兵銃の掩護射撃でこれを撃退致しました。以後、日本軍にとってロシア騎兵は何の脅威でもなくなったのであります。あれほど恐れたコサックが日本兵を馬蹄にかけるという事態は一度も生じませんでした。ときどきやられたのは、日本の騎兵部隊だけなのであります。

 殊勲甲は有坂銃にありました。歩兵が有坂銃を持っていたから、少ない歩兵を横に薄く長く展開できた。そこをロシアの騎兵部隊も、突破することができなかったのです。

 さらに有坂の功績は世界史的であります。

 この日露戦争におきまして、勇猛無敵を謳われたコサックどもが最新の歩兵銃に対してからきし無力であると日本軍が証明してやりましたから、それであのロシア革命も起きたのであります。したがいまして有坂の功績は、明石大佐などよりも、遥かにでかいのであります。

 さて有坂の導入致しました6.5ミリ弾は、兵站上も有利でした。ロシア軍の7.62ミリ小銃実包と同じ弾数を用意するのに、より少ない資源しか要しません。弾薬が比較的に軽いですから、推進補給の労苦も少ない。それで、日露戦争を通じて日本軍は、小銃のタマ不足にだけは、苦まずに済んでいます。もしも日本軍の小銃弾補給が、野砲弾や攻城砲弾と同じように尽きてしまったなら、やはり日露戦争は失われたでしょう。


日露戦争講演(3)──マタギ・スペシャル

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 明治41年に日本には泰平組合という輸出カルテルができまして、ここが余剰生産兵器を海外に売り捌く仕組みができました。これによって陸軍工廠では、国軍の需要のない端境期にも兵器をコンスタントに製造できる、つまり、腕の良い職工を常時つなぎとめておけるようになったわけであります。この事業を開始致しましたのが、日露戦争中の小石川の陸軍工廠でホチキス機関銃のライセンス生産を一人で担当しておりました南部麒次郎の少佐の時であります。

 ところが、戦前の銃砲店の商品広告などをよく調べてみますと、既に明治前半の村田経芳が、小石川工廠の設備と人員を活用致しまして、対民間のビジネスを始めていたということが分ってくるのであります。

 南部のように輸出をしたのではなく国内に売ったのでありますが、村田が退役した翌年の明治24年には、このビジネスはうまく軌道にのっていたことは、カタログ類から確実に分ります。

 残念ながら肝心の村田連発銃の生産はうまくいかなかったのですけれども、そうして普及致しましたのが、戦前の全国の職業猟師が愛用を致しました猟銃の「村田銃」でありました。

 名前こそ村田銃ですが、これはライフル銃ではない。単発の、非常に値段の安いショットガンなのであります。

 この猟銃の村田銃、発想はどこから来ているかというと、明治前半には素材が悪いこともありまして単発の13年式村田歩兵銃が部隊で使用中に銃身が曲がったり致しまして故障になる率が高かった。それを部隊におきましてはまだまだ直す技術はございませんから、いちいち製造元の工廠まで送り戻されて来ます。それを修理するセクションもありました。

 しかし、中には修理が全く不可能で、廃品にして、新しいのと交換した方がよい場合もある。その廃品銃の部品を活用して、村田が散弾銃をこしらえてみた。

 散弾銃というのは幕末に開港致しましてから白人の狩猟家が日本に持ち込んで流行らせましたもので、まあおかげでトキ以前にも何種類もの貴重な鳥や動物が大正時代に絶滅してしまうんでありますが、明治10年代ですと、まだ高級な輸入品です。

 べらぼうに値段が高かったので、田舎の職業猟師などはこれを手にしたくともとてもできない。いぜんとして江戸時代の火縄銃で猟をしておるありさまでして、村田はスイス式の国民皆兵制度を理想と考えておりましたから、安い近代ショットガンを田舎に普及させてついでに、射撃訓練もさせてやれ、と考えたこともあったようです。

 それで、最初は廃品の村田銃の機関部---つまり、槓桿を開いて薬室に装填して閉鎖して引金を引いて発火させる、その部分だけを流用致しまして、廃品利用の改造品という形で単発の散弾銃を造って民間の銃砲店に払い下げを始めたのですが、すぐに、18年式村田歩兵銃の生産ラインの一部を使って、まるっきり新品の猟用ショットガンとして受注生産を始めたようなのです。それこそ、口径や銃身長、台尻の木材の素材、安全装置をどうするかまで、客からの注文に応じていた痕跡がございます。

 だいたい、イギリス製の口径12番、水平二連の猟銃は200円以上していたそうですが、村田式の猟銃は、新調なのにたった9円50銭。

 二十分の一の激安というわけで、これは非常に普及致しまして、1950年代まで東北あたりでは村田式の猟銃で熊などを撃っていたことが、マタギの記録などを読みますとよく分るのです。


日露戦争講演(2)──見えない「精度」に投資できなかった近代日本

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』 で公開されたものです)

 ところで、日本陸軍のために小銃を造っていた工場は、東京砲兵工廠と申しまして、現在の小石川後楽園にあった。ところがこの砲兵工廠の運営に関しましては謎がいくつもある。

 たとえば、陸軍が採用を決めた新型の小銃、これは対外戦争を予期しまして一挙に膨大な量が発注されまして、常備連隊の武器庫にだんだんストックしていきまして、数年後に師団単位で一挙に旧式銃を更新するというパターンが多いのですが、いったいその納入が終ってしまった直後、日本最大のマスプロ機械メーカーでありました陸軍砲兵工廠では、何をやっていたのだろうという、未解明の大問題があります。

 と申しますのも、これが民間の工場でしたならば、設備投資を償却しなければいけませんし雇用者に賃金を手当てし続けなければならない。仕事が急になくなったら一大事でありますから未然に何らかの手を打つはずですね。しかし、官営の工廠ではどうするのか……?

 私に確信できましたのは、そこでは間違いなく、近代日本で最初の不況克服策、といいますか、雇用維持のための新需要の掘り起こしが、工廠独自に手探りで行なわれたに違いなかろうということであります。

 なにしろ当時の日本政府は外貨準備が常に逼迫しておりましたから節約できそうなところは極力節約を致しますこと、極端なものがあった。

 全般に、軍艦・兵器中心の海軍には、随分惜しまずに金をかけましたが、兵隊中心の陸軍は、機械に金を掛け出しますとそれこそキリがなくなって参りますから、革靴を造る機械が足りなくて明治10年くらいまで、まだ一部の兵隊にはワラジを支給致しましたぐらい。

 陸軍工廠の機械投資などもしわ寄せをかぶりまして、アメリカから廃品寸前の、それこそオクリがガタガタになっているような工作機械を種々雑多に買い求めまして、敷地が広いですから数だけはたくさん集めていたような次第だったのです。

 これは何を意味するかと申しますと、ボロい機械で軍用品に必要な精密な切削加工と仕上げを施さねばならなかった。

 およそ、うしろから弾をこめます近代小銃、もし部品に隙間がございますと、発射したときに火薬のガスが後方に漏れて参ります。ガスといいましても、ナマリの弾を4kmも遠くへ投げ飛ばすだけのエネルギーを発生致しますから、これが兵隊の顔面に少しでも吹き付けた日には、軽い火傷ぐらいでは済まされません。運が悪いと鼻の穴が三つに増えてしまった。

 そこで、いやしくも火器の部品の工作は、弾薬の威力が向上すればしただけ、仕上げの精度の方も上げて参りませんと、とても実用にはならない。ところが、今述べましたとおり、工作機械は、アメリカではスクラップ置場で解体寸前を二束三文で引きとってきたような年代物ばかりときておった。

 さて、このガラクタ工作機械を前にしていったい、どうすれば良いか。

 結局、工廠が頼りにできましたのは、機械の欠点をカバーしてくれる熟練職工の腕だったのであります。

 その機械にとことん慣れたベテランだけが、ボロい機械でも精密加工ができました。

 また、生産ラインの出口に老練な最終仕上げ工を置きまして部品のひとつひとつをヤスリでこすって精密機械の代りをさせておりました。

 もちろん、この方法では各部品に互換性がなくなりますから、最も重要なパーツには固有番号が専用のタガネでパンチされまして、兵隊さんが分解掃除などをした後で、他人の銃の部品と間違えて組み立てることがないようにされていたのであります。

 で、新型小銃の大量納入が完了しますと、陸軍省の予算も翌年から減らされますから、この大量に養成したベテラン職工を、砲兵工廠で抱えておくことが最早できなくなってしまう。これが村田経芳はじめ歴代の小火器設計家にとりまして最大の頭痛のタネとなったのです。

 と申しますのは、当時の職工は「渡り職人」です。給与体系は月給の他に歩合給があります。

 仕事がたくさんあれば歩合を稼げますから、全員が競うようにして部品を量産致しました。

 が、工廠に出勤しても仕事がまったくなくないとなれば、その月の歩合給はゼロであります。

 そうなりますと職工は他にうまい勤め口を探して転職するのが常でした。なにしろ終身雇用制なんてものは明治の職工にはありません。退職金も保険もないとなれば、それがむしろ当然なのであります。

 もしそのような状態で工廠に熟練工がいなくなり、その直後に戦争でも起きたらどうなるか。急に職工をいくらかき集めましても、彼らが担当する機械に十分に慣れないうちは、まともな小銃は一梃も供給できないことになるのです。

 このような最悪の事態を招かないように、当時の工廠ではどのような手を打っていたのでしょうか。

 こんなことに注意して改めて日本の陸軍小火器の造兵史を振り返りますと、今まで見えなかったいろいろな事実が、整合した意味をもって見えて参ります。

 たとえば、単発村田銃の最後の型は18年式村田歩兵銃と申しますが、これは明治17年5月頃から導入が始まりまして、年産数万梃のハイペースで量産を致しまして、だいたい明治19年には全国の鎮台のスナイドル銃だの何だのをすっかり交換してしまっております。

 ここでただちに職工の離職問題が発生致します。

 これは大変だというので、すぐに明治20年の秋に次の新型連発小銃の採用が政府に働きかけられまして、村田も直ちにその開発にとりかかるのです。これが明治22年に完成致しました、「村田連発銃」というもので、いわば、職工を手スキにさせないために、上の方から需要を造ったのですが、やはりその間に小銃製造所の職工が大量に流出してしまった形跡がございます。

 村田連発銃の連発機構は、西部劇でジョン・ウェインが持って出て参りますウィンチェスター・ライフル、あれに内部がよく似ておりまして、銃身の下のチューブから次々に実包を引き出してそれを装填する。これも特段に村田の発明というものではございません。

 当時の最先端軍事技術大国でございますフランスとプロイセンで、このような仕組みの連発歩兵銃が採用されておりまして、それを急いで模倣しただけであります。

 で、この村田連発銃、日清戦争の5年前に完成した訳でありますから、日清戦争ではすべての部隊が持っていても良かった。ところが、どうしたことか、明治27年の日清戦争までには装備更新がぜんぜん間に合わなかったのであります。

 原因は、はっきり指摘している史料はございません。そこで、あらゆる状況証拠を集めまして私なりに推理を働かせますと、どうも量産した銃の部品の精度が設計通りでなかったのだろうと思われます。

 それで、たとえば、少しでも中に砂がはいったりいたしますと、梃子の原理で内部の部品を複雑に動かしておりましたから、逆にレバーが動かせなくなってしまう。

 あたら最新の連発銃を携えながら敵前で一発も撃てなくなって立往生という、由々しい事態が予測されましたから、とてもこれを持たせて兵隊を戦場へは送れないというので、あれこれと改修を試みているうちに遂に日清戦争が始まってしまいました。

 これは、もともと部品の動きがスムーズでないからそんな故障も起こし易いのであります。要するに加工精度が必要水準を満たしておらなかった。

 けっきょく、日清戦争の最後になって台湾方面に投入された2つの師団を除きましては、全部隊が古い単発の村田銃で戦争する羽目になったのであります。それでも清国に勝ったのですから、やはり軍銃一定の効果はすばらしいものであったのです。

 妙なことに、この連発銃の量産と納入の最後の段階まで面倒を見るべき村田経芳本人が、明治23年に、東京砲兵工廠の現場から外されて予備役にされてしまっております。

 予備と申しましても、同日付けで少将に進級して男爵・華族に列する資格が与えられ、第一期の帝国議会貴族員議員の椅子まで用意されたのでありますから、表向きは円満退職でした。

 この人事は、山県有朋の一存で決定されておりますことは疑いがございません。なぜ山県はそんなことをしたのだろうと考えますと、理由として考えられるのは、要するに陸軍兵器の製造はできるだけ長州出身者に任せたい、村田は薩摩出身であるからこの辺で辞めて貰おうという、ただそれだけであったように思われます。

 ここで大事なことは、もし陸軍工廠の工作機械が極めて精度の高い最新型であったならば、村田はプロトタイプだけを完成してあとは誰任せでも不都合はなかったのであります。アメリカと戦争するようになって航空用エンジンや航空用の自動火器を量産致しますときに、この工作機械の精度こそは「フォース・マルチプライヤー」であったと誰もが気付きますが、明治時代には誰一人気付くものはございません。

 なにせ、精度の高い工作機械は値段もハネ上がる。明治人は、精度という見えない要素にはお金をかけられなかったのです。その代りに、そこから生じるいろいろな不具合は、熟練工を抱えることでこれを補わせるという仕組みでとりあえず「軍銃一定」を達成した。

 これが良く分っている村田を工廠から追い出したことによりまして、村田連発銃を製造する時にはそれに必要な熟練工が足りて居らかったのではないかと私には思われるのであります。

 常に仕事を作り出して熟練工に歩合給を保証して引き止めるという大切な工場経営方針が、おそらく村田の退役とともに中断したのであります。連発小銃の部品には単発小銃以上の精度が求められますのに、それに見合った機械投資は不十分で、人間にもお金をかけようとしなかった。それを理解する官僚がいなかったようであります。

 ために、村田がこしらえたプロトタイプと同じ部品精度が量産品の村田連発銃では実現されなかった—とまあ、このようにしか考えられません。

 それでは、村田の在職中には、東京砲兵工廠独自の仕事創出の手は打たれていたかと調べてみましたところ、これが非常に面白い。

 皆さんは靖国神社に大村益次郎の銅像が立っているのを御承知かと存じます。あの銅像が立ったのは明治26年でありまして、東京におきましては最初の西洋式銅像であったそうでありますが、この建設の提案は、明治19年に出されました。それから7年がかりで鋳造したのですが、その鋳造を請け負ったのが、小石川の東京砲兵工廠なのであります。

 つまり、あの銅像も、じつは職工対策だったのです。

 砲兵工廠内の小銃製造所、これは大規模なものでして、鋼鉄の原料から部品製作、組み立て、仕上げまで全部やります。そのラインの入口の部分が、鋳造とか鍛造でして、これを工廠では火の造りと書きまして「火造」と呼んでおりました。砲兵工廠の職人はフランスの真似をしたハイカラな作業服をあてがわれておりましたが、ここはほとんど素ッ裸、天井には昔の刀鍛冶よろしく、注連縄がめぐらされていたと申しますが、これは余計なお話です。

 ともかく、大村銅像の製作事業とは、この火造セクションの熟練工の慰留策であったことが、ほぼ判明致しております。鋳造なんて鋳物だから熟練工は必要ないか? とんでもない話でございまして、微妙な熱処理を誤りますと、どんな良い鉄を使いましても、ぐにゃぐにゃの銃身とかすぐに割れてしまうような部品しか出来て参りません。

 で、この火造セクションは小銃製造工程の入口でありますだけに、製造ロット数に必要な鋳造、鍛造を、切削とか仕上げとか組み立てセクションよりも、いちはやく終えてしまうことになります。つまり、最初に仕事がなくなる部門だったのです。だから、一番最初に銅像受注という形で端境期対策が講じられた次第です。

 熟練職人は工廠を辞めて他の民間工場に転職されてしまいますと、次の新装備、たとえば村田連発銃の発注が陸軍省から大量にありましたときに、また、新人職工を募集して、一から、クセのある製造機械に慣れてもらわなければならない。

 そのあいだに何千梃もの不良品が出てしまったというのがおそらく村田連発銃の真相で、つまり、火造部門ではなんとか引き止められましたベテラン職工が、切削や仕上げ部門では遂に引き留められなかったものと見えます。

 では、火造以外には何の手も打とうとしなかったかと調べてみれば、これもそんなことはなかった。

 明治21年に、将校用の拳銃を国産していないのは恥ではないかという意見が、陸軍将校の部内雑誌であります『偕行社記事』という媒体に載っているのが見えます。

 その前にも、兵器廠の記録によりますれば、明治16年、フランスから型式不明の拳銃をとりよせて戸山学校、つまり今の早稲田の近くにあった歩兵学校に支給した。明治19年にもフランスから士官用の拳銃2梃---たぶん「Mle 92」というやつだったと思われますが、これが戸山学校に渡されております。

 そして明治24年にはオーストリア製の「ガセール」(GASSER)という回転式拳銃が参考輸入されておりまして、これを模倣致しまして3年後の明治27年6月に何の前触れもなく「26年式拳銃」というのが制式化されております。

 これなども端境期対策だったと私などは睨んでおるのでありますが、回転式拳銃というやつは、自動火器や軍用小銃にくらべますと、いささか精度が粗くても構わないところがございまして、残念ながら優秀な職工をこのラインで養っていくということは、できなかった模様であります。

 ちょっとこの「26年式拳銃」についてもお話をしておきましょうか。

 重たい割に、弾に威力がない。しかも命中率も悪い--と、あまり評判は宜しくありませんでした。のちの「2.26事件」で反乱軍の下士官がこの拳銃を武器庫から持ちだしまして鈴木貫太郎に向かって屋内の至近距離から3発打ち込みました。死んだと思って引き揚げたら弾はすべて体の中央を外れておりまして、やがて侍従長の傷はすっかり癒えたという。その程度の威力でございます。

 これは26年式拳銃の引金が非常に重いので発射の瞬間に銃口がブレる癖がございましたのと、弾丸がもともと鉛のムク弾でしたのが、ダムダム弾禁止条約を律儀に守りまして、フルメタルジャケット弾に交換した。それで傷が軽くなったらしく思われます。

 では、そんな時代に遅れた拳銃であるならば、大正、昭和の早いうちに製造ラインを閉鎖してしまえばいいと思われるかもしれませんが、そこがお役所でして、関東大震災で小石川工廠が丸焼けになってくれた絶好のチャンスにも、どういうわけですか、この旧式拳銃のラインは、わざわざ復活させられております。そしてなんと終戦近くまで26年式拳銃を細々と造り続けていたようなのであります。

 こういう不合理は、機械も人員も優秀なのばかりを揃えた民間工場を設立しなければとても改善の見込みはないと、後のワシントン軍縮時代に断然奮起致しましたのが、明治20年代にはまだ新米の中尉でありました南部麒次郎でございます。

 が、南部のお話を致す前に、もう一つ、村田の仕事を語っておこうと存じます。

 それは、「村田銃」という名の猟銃---についてです。


日露戦争講演(1)

(2004年4月2日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』で公開されたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)
  このテキストは、数年前に某所で講演した内容とほぼ同じものである。さいきん日露戦争に興味を持った人たちのために、何かの参考になれば幸いです。


 きょうは、「形になっているものを他人の言葉で理解しただけでは歴史を研究したことにはならない」という、至極あたりまえのようなお話を致そうかと思っております。

 主に武器弾薬のお話を致しますが、こうした形になって残っているはずのものが、案外正しい意味付けが、日本人じしんによって、なされておりません。その理由をみなさんに考えていただけたら、と念じております。

 明治の初めに大勢の日本人が西洋に留学致しましたが、その頃のフランスに留学した生徒が覚えてきたのが、「人の覩ざる所をば覩よ」—“Ce que lon voi, Ce que lon ne voi pas. —なる標語でありました。

 フランス語でも英語と同じように「見る」という動詞 voir が「分る」という意味も持ちますので、その言うところは、「人の解せぬところを解せよ」となるのでしょう。

 ですが、そもそも意味がちゃんと把握できていないと、モノが目の前にあっても、まるで見えていないのと同じである。そういうことが、人間の社会には、しばしばある。

 つまり、見えていてすら、分らぬことがあります。

 まして、見えないところを人に言われずして理解するのは容易なことでは、ありますまい。

 楽ではないが、これができる国民とできない国民とでは、やはり競争の結果が全然違ってしまいます。

 さあそれでは果して、近代以降の日本人は、これまで何千人がフランスに留学して帰ってきたか知りませんけれども、西洋人に比肩するくらいに、見えないところまで見えるようになったか?

 どうも、私には、そうは思われない。それは、戦争のパフォーマンスに、端的に現れていると思うのです。

 さらに問題なのは、現代の日本人自身が、その格差にまだ気付いていない。証拠が目の前にあるのに、分らんのであります。

 これを皆さんにお示しするには、最も形として、また実績として把握し易い、武器の話がよかろうと愚考する次第であります。

 徳川幕府が外国に港を開きまして、とにかく一日でも早く西洋に追い付かねばならんという意気込みで明治新体制がスタート致しましたが、岩倉具視を団長とする一行がまずアメリカとヨーロッパの文明の進み具合をつぶさに視察しようじゃないかと出掛けまして、現地で一様に感じましたことは、「これなら40年か50年で追い付けるじゃないか」だったという。

 大いに高をくくったのであります。

 確かに蒸気機関の模造品は、40年どころか1年で日本人は自作してしまいました。

 しからば西洋の蒸気機関を凌ぐ高性能の蒸気機関を、日本人は何時造れるようになったか。日露戦争前か、明治末か、大正年間か、昭和の戦前か、戦中か?

 じつは、戦後の現在も、かろうじて肩を並べている程度で、決して追い抜かしてはいないのであります。その肩を並べられたのも、ようやく昭和50年頃でありまして、単に追い付くだけでも、明治維新から120年近くかかっている。

 皆さんは蒸気機関というと休日に山奥の観光地で走らされるSLぐらいしか思い浮かべられないかもしれません。

 しかし、第二次大戦中の軍艦の動力は、9割以上、スチーム・タービンであります。近年の豪華客船『クイーン・エリザベス2世』号も、敢えて燃費の良いディーゼルではなくて、わざわざスチーム・タービンを動力に採用しました。その方が客室が静かになるのと、最高速度が出せますので有事の際に兵員輸送船として徴発したときに、より兵隊が安全になるわけです。

 それから、火力発電所のボイラー。将来は、天然ガスでガスタービンを回すのが主流になっていくと思われますが、今までのところは多くが脱硫のC重油でスチーム・タービンを回して発電しております。中国などでは逆にこれから石炭火力発電がたいへんな勢いで増やされるはずであります。

 ま、要するに、ピストンがタービンに変っただけで、蒸気機関の時代は19世紀から一貫して続いているのです。

 日本は明治末に英国のビッカーズ社から戦艦『金剛』を買ったのを最後に、総ての軍艦を国産に切り換えた………ことになっておりますが、主機関、つまりエンジンに関しては実はそうではなかった。

 大正4年竣工の戦艦『扶桑』は、米英共同開発のブラウン・カーチス・タービンを輸入して搭載していました。これは、大正7年竣工の『伊勢』までそうでした。

 大正9年に竣工して連合艦隊のフラッグシップになった戦艦『長門』の動力は、「技本式タービン」といっておりますがこれもアメリカ製のコピーに過ぎませんで、高速で回転するタービンでスクリュー・プロペラをゆっくりと回しますために「減速ギア」という部品が必要なのですが、これは米国からウェスチングハウス社製を買って取り付けております。二番艦の『陸奥』ではこれをコピーした。

 駆逐艦なら小さいから国産化も早かったかというとそうでもありません。エンジンでは、とじこめる圧力が問題となるのでありまして、日本は高圧のタービンをなかなか国産できませんでした関係上、新鋭駆逐艦の主機にも、その時どきの最新式の外国製を買って取り付け、二番艦以降でそれをコピーするというパターンを繰り返しているのであります。

 大正3年には英国で『浦風』という駆逐艦が竣工しておりますが、これにはもちろん英国製のタービンが搭載されております。

 また大正11年には駆逐艦の『菱』と『蓮』が国内で竣工致しますが、主機は英国カメルレヤード社製であります。

 昭和元年には浦賀で駆逐艦『弥生』が竣工致しますが、この主機はメトロポリタン・ビッカーズからの輸入でありました。

 こうしたスチーム・タービン関連の技術導入は、昭和初期で終りましたが、それは、昭和初期についに日本の技術が欧米に追い付いたから、ではありません。

 満州事変の結果、外貨が非常に逼迫しまして、外国技術を買い求める分野を絞り込まなくてはならなくなった。それで、蒸気機関はもう良いから、むしろ飛行機や潜水艦や戦車や魚雷艇などの内燃機関を買わないと列強の技術進歩に完全に取り残されてしまうというわけで、外貨の使い途がそっちに集中されただけなのです。

 ですから、戦前日本の造艦技術の集大成といえます戦艦『大和』、これは速力があまり出なくて、味方の航空母艦についていくことができませんでした。これに対して、アメリカの新鋭戦艦は空母にピタリとついて巡洋艦並の30ノットで暴れ回っている。岩倉使節団に聞かせたならば甚だ不本意だと思われたに違いない結果が出ております。

 日本人は、40年あれば克服できると思った蒸気機関で、開国から70年経っても西洋に追い付けなかった。「黒船」を、凌げなかったのであります。

 1943年に日本帝国海軍は『島風』という駆逐艦をタッタ1隻、建造しました。この駆逐艦には、特別設計のスチーム・タービンを搭載しまして、40.9ノットの高速を出すことができましたが、蒸気圧そのものは、米国の大戦中の量産型駆逐艦、つまり何百隻もあるごく一般的な艦よりも低かったのであります。

 それでは戦後はどうかといいますと、これもかろうじて追い付いたというところで、まだ追い抜くまでには至っておりません。

 たとえば日本で最初の100万キロワットボイラーが導入されましたのは、昭和49年のことでありますが、このとき東京電力の鹿島火力発電所では、米国のジェネラル・イレクトリック社製の設備を買っております。

 まあ、考えても見てください。原子力発電も蒸気タービンで発電しているのです。原子力潜水艦も、蒸気タービンでスクリューを回している。つまりアメリカは戦後も休むことなく、蒸気機関を改良してきたわけで、この蓄積を日本のメーカーはおいそれとは越えられない。

 じゃあ、その急には越えられない要素とはいったい何なんだといったら、それは簡単には見えにくいところにあるものなのです。

 いま、仮に日本でジェット戦闘機を純国産しようと思いましても、それに搭載すべきターボ・ファン・エンジンは、純国産できません。タービン・エンジンも含めて純国産できますのは、予想できる将来も、中型のヘリコプターと、せいぜい小型の練習機だけであります。

 F-2、つまりFSXとしてアメリカ議会が騒ぎました飛行機も、エンジンだけは初めから米国のを輸入するつもりだった。今、日本で国産できるのは、練習機用の小さいターボファンと、ヘリコプター用のターボシャフトだけで、後は気の利いたサイズの民間旅客機用も戦闘機用もすべて外国製を使うしかない。

 大型の輸送機ですとか、国際線で飛ばす旅客機も、機体はいくらでも設計できます。けれども、エンジンだけは、どこか外国からライセンスを買ってきて製造する以外にない。

 これは、よく、敗戦直後の7年間、日本が航空エンジンの開発を進駐軍によって全く禁止させられたからだと言われるのですけれども、そんなのは大嘘です。

 考えてみてください。7年間の遅れだけが原因であったら、それは7年未満でキャッチアップできなければおかしい。なぜなら、見本が既に外国で出来上がっているからです。

 しかるに、サンフランシスコ講和条約から7年経った昭和35年には言うも愚か、現在は講和後48年、つまり7年の7倍が経過しようとしているのですけれども、日本はアメリカのメーカーが1980年代、7年の3倍くらい前において設計できたような旅客機用、戦闘機用のジェット・エンジンを設計することも、まだできないでいるのです。

 理由を簡単に推測しまするに、日本の技術者の間には、この分野で競争しても無駄であるという共通の意識がありますでしょう。

 次に、鉄砲のお話を致しましょう。

 17世紀後半からイギリスはインドの植民地支配を目指して勢力の扶殖を開始します。と同時に中国に迫って広東を拠点に商売を始める。

 18世紀初めには、ナポレオンに占領されたオランダが極東に持っている植民地も全部奪い取ってしまいまして、次いでシンガポールに極東の経営拠点を建設します。

 準備が整いましたところで1840年、とうとうそれまでの「商人」の仮面を脱ぎ捨てまして、阿片戦争によって香港その他を割譲させた。

 この香港をシンガポールに次ぐ海軍の拠点に仕立てまして、さていよいよ次は日本を狙おうか--というところで、太平天国の乱(1850~)とクリミア戦争が相次いで起った。

 日本の教科書ではほとんど見ることはありませんが、クリミア戦争(1854~6)には、じつは極東戦線というものがありました。沿海州からカムチャッカ半島にかけてのオホーツク沿岸に要塞を築いて立て篭っているロシア軍の守備隊に対しまして、イギリス・フランスの軍艦が香港から長駆出撃を致しまして、これを片端から町ごと焼き払うという作戦。まったくの日本の近海で、こんな戦争が行なわれていたのです。

 その間、日本政府はペリー艦隊(1853~)の対応で手一杯であります。日本の開国がアメリカ単独の手柄となった背景にも、じつは太平天国の乱とクリミア戦争極東作戦がありました。

 さてここからが鉄砲のお話なのですが、いったい、この時期のイギリス軍、あるいは英仏連合軍は、いかにすれば万を以て数えたインドや中国の軍隊を、いずれもわずか数千、数百の兵力だけで苦もなく平らげていくことが、できたのでしょうか?

 これは、ハードウェアだけをいくら比較致しましても、説明はつけられないのであります。

 たとえばインドには良い鉄が出ます。それから、真鍮の原料となる亜鉛も豊かにある。

 こうした原料を使って、西洋式の鉄砲が、あちこちで造られておりました。中東一帯に輸出されるほどに、たくさん造っていたのであります。

 性能も、ほぼ等しい。

 鉛の丸い弾丸を発射する、ライフリングの無いマスケット銃ですから、誰がどのように造っても威力はほぼ同じになります。だいたいヨーロッパでも、ナポレオン戦争を挟んで前後数十年間、マスケット銃の基本性能は進化がないのです。

 これが劇的にパフォーマンスが向上しましたのが「ミニエー銃」という簡単に先込めのできるライフル銃でありましたが、イギリス軍がこれを制式採用致しましたのが1851年。さらに「エンフィールド銃」として大成させましたのが1853年です。したがいまして、太平天国の乱までは、まだどちらも同じ性能の旧式の銃で撃ち合っているといってよい。

 もちろんのことに、フランス軍やイギリス軍がやって参りましたとき、インド人は、侵略者と同じくらいの殺傷威力のある火器と、十二分の弾薬を持っていたことになるでありましょう。

 資源に困らない国で、しかも人口も多いのですから、弾丸を火薬で発射する銃器の総数は、むしろ多かったに違いありません。

 しかし、それでもインドは植民地化されてしまった。—これは一体、どうしてでしょうか?

 同じことは、中国についても言えます。清国には多数の大砲があった。要塞に据え付ける非常に大きなものから、野戦向きのコンパクトなもの、アラビア人がもたらした「フランキ砲」という後込め式の軍艦用の大砲まで、何でもあったと言っていいでしょう。数も、英仏軍の何倍、いや多分、数十倍はあった筈です。アヘン戦争のときには、イギリス軍は3000門の大砲を分捕ったという話もある。

 とうぜん、小銃もあった。やはりマスケット銃ですから、ヨーロッパ製も中国製も、飛んでいく弾丸の射程や威力はほとんど同じです。いやむしろ、篭城用の巨大な火縄銃を持っていた中国兵の方が、威力は勝っていたかもしれません。

 ここでもインドと同じで、ハードウェアの性能と量、それを装備する兵隊の人数だけを比較したら、イギリス軍やフランス軍に、そもそも勝ち目があるのかすら疑われるのです。

 しかし、ごくわずかな軍艦から上陸したごくわずかな兵力によって中国軍は連戦連敗、じつに他愛もなく、城下の誓いを強いられてしまった。

 全体の数字はよく分らないのですけれども、アメリカの初代駐日公使のハリスは、徳川幕府の外務担当の役人に対しまして、中国でイギリス兵とフランス兵はこれまでに数百万人の中国人を殺しているから、そんなのが来る前に通商条約を結べと脅しております。これに対して阿片戦争でイギリス兵が最も苦戦したある1日の戦死傷者の数が180人であったと申します。

 —どうしてそんな違いになるのでしょうか?

 これも、見えない理由があったのです。

 その理由をなんとか見ようとして、幕末に日本人の悪戦苦闘が始まっております。

 まず清国が手もなく破られたのは、イギリス軍やフランス軍が使っている武器が全然違うからではないかと日本人は疑ってみました。

 それで、長崎で幕府の役人をしておりました高島秋帆という人、この人がオランダの軍隊が使用しているという小銃を買い求めまして実際に調べてみます。すると、これが日本に元からあります火縄銃と比較致しまして、飛んで行く弾丸の威力が、特段に強い訳ではないと知れた。

 日本の火縄銃は、弾丸の重さで口径を表わしますが、小さいものは足軽用の2匁半、これが今風に言い替えますと口径11.8ミリ、大きいものは、ちょっと果てしもないのですが、まあ実用的なところで、大勢の武士が練習しておったのが「10匁筒」と申しましてこれが口径18.7ミリというところであります。

 それに対して西洋列強の使用していたゲベール銃、こちらは、筒だけ見ましたらば、日本の8匁か9匁の火縄銃と、これといって異なるところがなかった。

 佐藤信淵は、アヘン戦争のころの英兵の鉄砲は、口径が日本式に表わして8匁、薬の量は6~7匁だと書いている。7匁というのは約25グラムです。

 これに対して幕末の関流という火縄銃の砲術では、口径10匁、薬の量は最大で7匁としていました。しかし銃身長が短いので弾道は湾曲致します。

 それで命中率はどうかといいますと、火縄銃は引金のひっかかりが軽く出来ている。

 「火ばさみ」が落ちますときのバネの力はごく弱いものでして、従いまして、打つ瞬間のブレが生じません。だいたい3匁半までの火縄銃でしたらゲベール銃など比較にならないくらい命中率が高かった。

 それなら西洋式小銃の利点とはどこに存していたのか。

 よく調べてみますと、ゲベール銃にはリアサイト、つまり「後ろの目当て」となります照門が、どこにもありません。鳥打ちの猟銃と同じで、筒先に照星がついているのみであります。その代りにバットストック、つまり頑丈な肩当て銃床がついていた。

 これは何を意味するか?

 日本の火縄銃というのは、これは一人が一人を狙い撃つ、「狙撃銃」であります。銃というものは引金を落すタイミングを自分で決めませんと、絶対に狙ったところへ弾は当ってくれません。

 ですから一斉射撃などというものはそれまでは日本にはなかった。テレビドラマなどでやっているやつ、あれは幕末の「西洋銃陣」、「洋式調練」に他ならないのでありまして、元亀・天正の戦国時代から幕末天保に至るまで、日本の火縄銃にそもそも一斉射撃というものはないのであります。あくまで一人が一人を狙って、自分のタイミングで撃っていた。

 しかしゲベール銃は、文字通りの一斉射撃のための武器だったのであります。

 密集隊形を組んで、指揮官の命令一下、敵の集団に対しまして全員が一斉に発砲します。有効射程は150m以下ですから、とにかく銃を水平に維持すればよい。だから、リアサイトはいらないのです。そのかわり、発射するための火薬の量は多い。火薬の量を多くしますと反動がきつくなりますから、頑丈なバットストックで支えるようになっていた。そうすることで、弾は水平に飛んでいきまして、敵軍を弾幕の中に捕捉することができるわけであります。

 一斉射撃の後は、これまた命令一下、全員が着剣した小銃で突撃します。ただ一回の突撃で、必ず前面の敵部隊を粉砕してしまわずにはおかない。これが西洋銃陣の真髄でありました。

 この密集隊形による一斉射撃や銃剣突撃を可能にしていたハードウェアが、火打ち石による撃発機構です。これは1830年からは雷管に代りますが、いずれにせよ火縄のような「生火」は扱いませんから、射手と射手とが隙間を空けずにくっついて立ち並びましても、何も危ないことはない。

 私は火縄銃の実弾射撃を見たことがございますが、発砲の際に無数の火の粉が風下1mくらいに雨のように降り掛かります。これは銃口から出る火の粉ではございませんで、主に引き金の上の方についております火皿から、横へ吹き飛んで参るのであります。

 だいたい、少なくも2m以上、隣りの射手と離れていなかったら、とてもではないが危なくて装填動作などやっていられない。自分が持っている大量の火薬、すくなくとも500匁以上ですが、それから地面にこぼしてしまった火薬などに不意に燃え移って、ゆゆしい事故を招きかねないのです。

 ここにおいて、西洋軍隊の強さとは、ハードウェアに特別な秘密があるわけではない、運用術が違うのだと高島秋帆は気付きましたから、そこから「西洋銃陣」「洋式調練」といったものが初めて全国に普及して参ったわけであります。

 13世紀にヨーロッパでは、ロングボウというたいへん強力な弓が用いられておりましたが、日本で明治時代に弓をいろいろと研究してみた人によると、強い弓で遠くの小さい的に当てることはできない。つまり、強い弓は一斉射撃でないと意味がない。そんなところからヨーロッパにはすでに近代以前から、一斉射撃のノウハウがあったのだろうと私は想像しております。

 しかし、秋帆にしましても、また、1847年に「三兵タクチーキ」という洋書を翻訳致しました高野長英に致しましても、西洋銃陣のソフトウェアの肝心なところまでは窺い知ることはできませんでした。

 それと申しますのは、戦場の最も危ない場面において上官が自分の命令を必ず部下に聞かせる、ひとりの例外もなく聞かせないではおかないという、厳格な規律を保つ手法であります。

 こればかりはいくら洋書を読みましてもすぐに日本人の指揮官に身につくものではありませんから、長州藩の諸隊のように真っ先にゲベール銃と洋式調練を採用したところでも、実戦になるとたちまち元亀・天正のバラバラ戦法に戻ってしまったのであります。けれども、今回はそのお話は致しません。

 さて、高島秋帆が1832年いらいオランダ人より買い求めました洋式銃や洋式大砲、これは海防に必要であると認められ、幕臣の江川太郎左衛門、佐賀藩、薩摩藩をさきがけと致しまして、輸入や模倣製造が始まります。

 幕府もペリー来航の2年後、1855年にはすべての藩が勝手に洋式小銃を造ってよいと布告を出しまして、その4年後には誰でも大手を振って外人から洋式銃を購入できる運びとなりましたがこの結果、長州藩の諸隊の武力が非常に改善されまして、二度目の長幕戦争はそのまま戊辰戦争に発展して日本の政体は一変することとなります。

 ただ、第二次長州征伐で長州側が全員ゲベール銃、一部はミニエー銃を持っていたにもかかわらず、必ずしも火縄銃装備の幕府軍を一方的に押しまくったという訳には参らなかった。

 こういうところなどを見ましても、西洋軍隊のアジア侵略は決して武器の性能にのみ頼っていたのではない、何か目に見えない要素があったからだということが、窺えるだろうと思います。

 この「見えない要素」を、日本人として、否、アジア人として、初めて見極めましたのが、薩摩の貧乏侍で村田経芳という、ほとんど学問も何もない男。明けても暮れても銃と射撃ばかりを研究して一生を終えたというこの若者がもし鹿児島に現れていなければ、日本の近代史はまるで違ったものになっていたかも知れぬという、それほど重要な人物でございますけれども、なぜかまだ謎の部分が多う御座いまして、必ずしも歴史家より正当な評価を受けてきたとは思えない。

 詳しいことは後でお手元の資料などを御一読賜りたいと存じますが、この村田が気付きましたることとは、他ではない。—西洋軍隊の強みは、銃士が全員、全く同じ弾道性能の火器を携えている。発射する弾丸は正確に同じ直径、同じ比重、同じ空気抵抗であります。

 薬室に注ぎ込みます火薬も、同じ工場から送られてきた同じ成分。

 それを、全員が同じ分量だけ正確に計って用います。

 これで、密集隊形を組みまして、一人の指揮官の号令の下、全員が水平に構えて一斉射撃を致しますから、正面150歩以内におります敵は、必ず火網の中に捕捉される。そうなれば、一梃一梃の照準とは無関係に、敵軍の一箇所に全滅的なダメージを与えることができる。そこに一斉の銃剣突撃が続きますから、味方に致しますと一方の血路は必ず開かれる。敵にとりましては一方の備えは必ず崩されてしまうわけである。

 このように規格を一つに統一することによりまして、教育訓練も容易になります。また、弾薬の製造と補給を合理化することができる。

 今の用語でこういうのを「フォース・マルチプライヤー」と申しますが、この場合は、規格統一が「フォース・マルチプライヤー」なのだと村田は気付きました。

 今でも日本人はこういう見えないところを見るのが苦手でございます。ですから「フォース・マルチプライヤー」という英語概念の適切な訳語もございますせん。言葉がないのは概念がないからです。

 不思議なものでございまして、人間は、ちゃんと意味を掴み切れていないものは、たといそれが目の前にあっても、見えないのです。「何だか訳の分らないうちに戦争に負けちゃった、競争に負けてしまった」という場合も、その背景には、まだ日本人が意味を掴み切れていない原因があるのです。それを見ようとしなければならない。

 そこで近代戦史だけに着目致しましても、見えない要素が「フォース・マルチプライヤー」となっております例が、非常にたくさん発見できるのであります。

 「フォース・マルチプライヤー」とは何か? これ、日本語がありません。

 無理に訳しますと「(フォース)力を・(マルチプライ)倍加する・もの」となるでしょう。 が、一言でもって言い替えられる日本語は無い。

 同じ意味の日本語がないということは、どういうことか? 英米人にはあるその概念が、日本人の頭の中には存在しなかったということです。

 尤もこの「フォース・マルチプライヤー」の場合は、英米人が言い出したのが比較的さいきんですから、訳語がなくても無理はないかもしれません。しかし、ある外国語にちゃんと対応する日本語がないのは、これも、戦争を想像する想像力の競争で、日本人が負けてきたことの一つのアカシなのであります。

 たとえばちょっと鉄砲から話が逸れますが、明治末期におきましてこれからは石油の確保が大事なのだと気付けなかったのは、日本の指導者に「フォース・マルチプライヤー」が見えなかったのであります。

 軍艦の数よりも、その軍艦の回転率を上げる港湾設備の方が大事であること、たとえば艦船の建造ドック、修理ドック、艤装岸壁といったものですが、これも「フォース・マルチプライヤー」でありまして、戦前の日本の指導者には分らなかったのであります。

 飛行機も大事だが、ガソリンの性能、それから飛行場を造成する土工機械、これがフォース・マルチプライヤーなんだと気付いたときにはもう手遅れであります。

 ナビゲーション・システムもフォース・マルチプライヤーでございました。

 レイテ海戦あたりからアメリカの潜水艦による日本側の被害が急拡大致しておりますが、これは、潜水艦がレーダーを積んだだけでなく、ロランという航法システム、これはいまのGPSの地上版のようなものでありますが、このネットワークが西太平洋の米軍占領地に展開されたためでした。

 日本人は、アメリカの潜水艦がレーダーを積んでいることは知っておりましたが、ロラン航法システムなんてものを活用していようとは思わなかった。

 昭和20年に入りまして米軍の艦載機が日本本土を空襲します際にまず岬の灯台を銃撃して破壊してしまう。そんなことをしたらアメリカ軍も夜の目印がなくなって困るだろう、などとこちらでは不思議がっていたのですが、彼らは電波航法システムを利用できましたので、光る灯台など壊してしまってよかったのです。

 ロラン・システムも一朝にしてできたものではありません。ヨーロッパ人は、だいたい18世紀から洋上での経度を正確に計るための精密時計の開発を続けてきておりました。その精密時計の延長上にロラン航法があり、また、今のGPSがあるのです。GPS衛星は精密原子時計を搭載しております。

 ここでも、目に見えない精密さこそが戦いを左右する「フォース・マルチプライヤー」になっております。

 というところでお話は村田銃に帰ります。

 ともあれ村田経芳だけは、西洋軍隊は、軍用兵器の規格を厳密に等しくして、なおかつそれを一斉運用することに心掛けますことによって、百梃の銃、能く一万の烏合の衆をも自在に追い回せるのであると、事の真相を見抜いたのであります。

 欧米人には見えて日本人にはなかなか見えないものの代表が、「フォース・マルチプライヤー」でありますが、しかし、すべての日本人にそれが見えないわけでは決してなかった。この村田経芳などは、それを最初に見ることのできた日本人であったわけです。

 ただ、それだけでしたなら、薩摩藩、もしくは御親兵が、東洋におけるもうひとつのナボレオン式軍隊、あるいはフリードリッヒ式軍隊になっただけで終ったでありましょう。それでは日本は欧米に並ぶことは覚束なかったのであります。

 と申しますのは、欧米ではまさにこの時期、後ごめ式のライフル銃が非常に急速に発達を致します。伝統的な集団一斉射撃から、各個人の狙撃の技量が重視されるように変っていくところだったのです。

 そこで非常に日本国にとって運のよかったことに、この村田という人、空中に投げ上げられた梅干しのタネを銃で打ち抜く、あるいは走っている獣をゲベール銃で打ち倒したという、とてつもない射撃の名人でした。ですから、日本国軍隊が使用する火器を国産の一種類で以て統制するというアジアでは初めてとなる大事業と並行致しまして、鎮台兵に対して、特に狙撃を重視する教練を施しました。

 そのご、日本の工業は、弾薬を無尽蔵に供給できるレベルにはついになりませんでしたから、命中率を追求する村田の主義が全陸軍に定着したことは、日本が欧米軍隊と何年間も戦争ができる一つの条件を整備したといっていいのです。

 後に日本陸軍は「擲弾筒」という超小型の迫撃砲を開発いたしますが、これは第一次大戦で欧米軍隊は小銃の筒先にカップをとりつけて手榴弾を発射した。小銃擲弾といいますが、しかし日本ではそんなことをしたら小銃の銃身が歪んだり部品にガタがきて命中率に悪影響を及ぼすというので、まったく別の発射装置である「擲弾筒」を造らせたのです。

 このように見て参りますと、明治にたった一人の村田経芳という男がいてくれたお陰で、日本は、少なくとも歩兵銃の分野では、岩倉使節団から9年で、世界に完全に追い付いた。以後、一度も遅れをとっておりません。

 しかし他方では、航空エンジンや核兵器の分野で、この村田経芳に相当する人物は遂に今まで現れておりません。これは現代日本の不運であります。

 ところで、村田銃そのものは、傑出した銃でもなんでもなかったのです。

 基本的にはフランスのシャスポー銃の模倣でありまして、その際に、コイルスプリング—「つる巻きバネ」というものは高品質の特殊鋼でありまして、当時の日本の工業技術ではなかなか量産ができそうにない。そのバネだけで大きな最新式の工場を建てねばならない。そんな余裕はございませんので、火縄銃時代から国産の技術が完成しております板バネでもって撃針を動かすように工夫をしました。

 これが大正解でありまして、1950年代まで地方で猟師が使っておりました「村田銃」と呼ばれる単発ショットガンは、ずっとこの機構を踏襲している。それほど日本工業の技術レベルにうまくマッチした、すぐれた量産工業製品だったのであります。

 その発想に一人で辿り着いて、自ら偉い人々に働きかけまして、遂に国軍の火器を統一した。

 日清戦争におきまして清国軍はドイツ商社が李鴻章をとりこんで盛んに売り込みましたモーゼル連発ライフルという強力な最新兵器などを多数持っておりましたが、装備は各部隊内でもバラバラ、従って訓練もまちまち、国家単位での弾薬補給も行なわれないという次第で、日本陸軍は村田の開発致しました単発の小銃だけで大勝をおさめておる。これぞ「軍銃一定」の真骨頂であります。繰り返しますが、このように一国の第一線部隊が用います銃器をただ一種類に統一できたのは、アジアでは日本だけです。村田経芳の功績はここに尽きております。

 もう少し、この村田の話をしましょう。

 もし、明治に近代オリンピックが開かれたとしましたならば、エアピストルからスモールボアライフルまで、それから散弾銃のスキートとトラップも含めてになるでしょうが、バイアスロンを除いては、この村田が、射撃系の金メダルを総ナメにしただろうと、わたくしには信じられます。

 横浜には1863年から明治8年まで12年間、イギリス軍将兵1000名ないし300名、加えまするにフランス軍将兵300人が駐屯しておりました。この事実上の進駐軍、日本政府が各種の賠償金の残額を支払い終るまで居座っていたのであります。

 この軍人たちに加えまして、横浜では外人貿易商が軒並み武器を扱っておりました関係からか、若しくは護身のためでもあるのか、自ら狩猟や射的を好む者が非常に多かったと見えます。

 その軍人と民間人の中から鉄砲の腕自慢ばかり200人ほどが相集いまして、明治5年10月の15日と16日の2日間、本牧におきまして「小銃的射会」を催しました。

 この噂をどうして聞いたか、たまたま現在の品川区にございました薩摩藩邸に滞留しておりました村田経芳、自らこしらえた小銃を肩にかつぎ、飛び入りで参加を致しまして、並み居る200名の外人選手をあっさりと斥けて第一等の命中を得た。

 『新聞記事』というタイトルのニュース雑誌が当時ございます。その第68号を見ますと、大会の模様がこう伝えられている。すなわち、「発的場」に於きまして「我国旗を一等に建て」た。そのとき、村田を祝う声が地面を動かした、等と報じられてございます。

 ちなみに第二等はスイス人の貿易商であったそうですが、ともかくも「国際競技会」と名付けられるものにおきまして優勝を果たしましてそれで表彰台のメインポールに日の丸の旗を掲げた日本人は、この村田経芳が本邦の嚆矢である。

 この明治5年といいますれば日本政府は挙げて条約改正をいかに達成するか、汲々としておりましたけれども、日本国でただ一人、村田経芳だけは、白人コンプレックスというものには無縁であった。

 日本人全員が自分のように小銃射撃の腕を高めさえすれば大袈裟な陸軍なんてものを創らなくとも国は独立できるのだ---と身を以て示しましたから、徴兵制の陸軍を創るのにどうしたら良いかと頭を悩ましておりました大久保利通や長州の山県有朋にたいへん気に入られることとなりまして、よしそれならこいつに日本陸軍の小銃のことは任せておいたら良かろうということになった。それから10年足らずで出来上がった村田銃のおかけで日本は日清戦争に勝ち、独立国として世界から認知されることになる。まさに福沢諭吉のいう、「一身独立して一国独立す」を、地で行った男であります。


第7師団研修記念 15/10/30

(2003年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

 

 長官官房広報課で毎年企画してくれる「防衛庁オピニオンリーダー・部隊見学」。
 平成15年度は10月29日から30日の2日日程で、場所は北海道の千歳地区であった。関東に住んでおれば、入間基地に集合し、そこからU-4やCH-47やC-1で沖縄でもどこでも連れてって貰うといういつものパターンなのだが、さすがに今年からは「お住まいは函館ですか。だったら近くの駐屯地のヘリで送迎しますよ」なんて言ってはくれない。往復切符1万円を自腹購入して、汽車(オレたち地方の田舎者は「JR」なんて呼ばないだよ)で出かけることとなったのである。いやー、北海道で私有車が無いのはほんとに不便。だけど「高速道路つくるカネがあるなら、新幹線を通してくれ」というのも間違いなく道民の多数意見ですから、ついでにご紹介しておきます。

 この日は訓練検閲の状況最終日で、ヘトヘトの部隊の中からランダムに小隊を選抜、89式FV(ファイティング・ヴィークル=装甲歩兵戦闘車)からの重MATと35mmと同軸7.62mmの実射でしめくくっていた。(望遠を持たぬため、各実射の写真は無し。)
 35mmは1両の「BMP」(そんなんもう来るのかよ、という突っ込みはその場では控えた)に対して各車が1発づつ発射して3発を集中するセオリーのようだった。幕敵にはしっかり当たっていた。
 89式FVを保有するのは、歩兵(普通化)が機械化されている第7師団だけ(内地で見られるのは教育用)。次は第2師団にも回っていくのだろうが、かなり先の話か。この89式とペアを組む90式戦車は、第7師団、第2師団(戦車連隊を有するが、歩兵の比率が高く、かつ機械化の度合いは低い)と行き渡り、第5旅団(いまは師団だが間もなくシュリンク)がその次に受領するようだが、第11旅団(いまは師団)までは行かぬのではないかという話であった。

 加藤健二郎氏(後頭部)も「防衛庁オピニオンリーダー」の常連だ。(このコナれないカタカナの肩書きは、NHKの番組タイトルの付け方にも似た官公署的センスがまぶしく、オレ的には人に語るのがためらわれる響きがあるのだが、海上保安庁でも同じ肩書きを下さっており、やはりその肩書きおよび連年のご招待の意図は「広報してください」というところにあるだろうと思うから、ここでPRを致すわけである。)
 写真は、UH-1で某駐屯地から某施設に移動している機内。加藤氏とは「夜間の照準の難しい40mm自動擲弾発射機が重宝するとしたら、それはチョッパーから俯瞰射撃をする用法だけではないか。銃を痛めることを嫌う陸自では米軍のように普及することはあるまい」との意見でだいたい一致している。皆さんのご意見はどうかな?

 ヒューイは3機編隊で、10月の十勝沖地震で貯蔵タンクが炎上した出光石油基地(苫小牧海岸)の上空を通過。右下の1個が黒焦げです。1個だけサイズが違うので、共振の周波数が運悪くピッタリと合っちゃったんでしょうなあ。ついでに、これ見て思うんですけど、ハワイ空襲で重油タンクを全部燃やすのには、それだけでもハンパじゃない数の艦攻/艦爆が必要だったのでは?

(おまけ)

 防衛庁技術研究本部の札幌テストセンターは、国産ジェットエンジンとかミサイル用のラムジェット・エンジンの試験を行なう日本で最強の設備(メインは3音速風洞)が整っている。ガッチャマンの秘密基地のような非日常的内部と思ってOK。
 写真は、開発中の超兵器の恐るべき秘密の数々に圧倒され、すっかり固まって出てきた兵頭である。『それで、…世界制服は何時できるのかね?』と思わず葉巻をくゆらせつつ、猫を撫でつつ、質問しそうになってしまったのだ。(もちろんペットの持ち込みは禁止です。隣の敷地は牛の牧場なのだが。)

  【写真無し】

◎「口の堅い兵頭」というご公儀筋の評判を落としたくないので、内部写真も1枚も示すことができず、申し訳ありませんが、既知かつ公知のアウトラインにつき、蛇足的概説をしておくとしましょう。
 皆さんは「風洞」と聞くと、TVドラマの『タイム・トンネル』のようなものの奥に(…オレも古いな…)巨大なプロペラがぐるんぐるんと回っているようなものをご想像されるかもしれない(これを「ゲッチンゲン型」といいます)。あるいは富士の樹海とか…(それは風穴)。
 しかし今は、次のような風洞が主流であります。
 屋外の巨大ガスタンクにまず6気圧くらいで圧搾空気(ただし乾燥空気。そうでないと吹き出したとき結露現象が起きてしまうから)を溜めておきます。それを再度コンプレッサー(ガスタービン直結の遠心もしくは軸流式)で高圧にして、風洞に導きます。風洞の断面は四角形です。直線で長い導入経路の天井部分にはリニアーに多数のソレノイドが設けてあり、空気道の「絞り」を微妙に変えていくことができます。
 このとき、風洞の横幅(2mです)は不変でありまして、天地の狭さだけが2mから数センチまで、連続的に、自在な曲線でもって、変え得る。
 通り抜ける所の断面積を狭くすればするほど、流体は高速になるという現象は、たとえば洗車するときに透明ホースの途中を強く握ってみれば、あぶくの挙動で確かめられられるかと思います。この原理で、札幌試験場では、最大マッハ4までの気流を
実現している。遅いほうは亜音速(0.3マッハ)まで遅くできるので、この数値的エンベロープの広さと、風洞断面積の広さ(2m×2m)において、日本国内にある他省庁や私企業の風洞は、札幌試験場には敵わないそうです。
 しかし、アメリカやEUの風洞には負けているんですね(ライト兄弟も手作りの風洞で実験してから飛行機を飛ばしたというくらい、アメリカは年季が入ってます)。防衛庁の風洞は、二百数十億円くらいかけて造ったらしいのですが、大蔵省は「アメリカにも無い世界最高の風洞を造らせてくれ」といっても聞く耳は持ちません。(風洞とは別な施設ですが「エンジン高空性能試験装置」という燃焼テストチャンバーも敷地内にあって、こちらは高度7万5000フィートまでは対応しているものの、マッハ2.5を越える高速には対応できていません。これを明記してある公式パンフレットを見れば、日本はSR-71とかバルキュリーのような巡航兵器を造るつもりはないのだな、と米国人も安心することでしょう。)
 なお、巨大ガスタンクの空気は、超音速気流を再現すると、十数秒くらいで全部なくなってしまいます。その短時間にデータを取らなくちゃならない。
 ちなみに、翼面にテープを貼ってピラピラさせるやつ、あれはメーカーにある低速風洞で実施できることなので、ここでは致しません。
 風洞性能のスペックで重要なのは、実機より小さい模型で実験するわけですから、「レイノルズ数」をいかに実機と実空気の関係に近づけてやることができるか、であります。たとえば、空気をどこまでも薄くして良ければ、高速吹き出しを実現するのは容易になるのですが(ドイツの最新風洞などはコレ)、それでは粘性が、実機と実空気の関係と、かけ離れていく。高速で吹き出す空気の密度が濃いというのも、札幌試験場のウリであります。
 皆さんは、供試模型を支えている棒、あれが気流を乱してしまうことはないのだろうか、と思いませんか? それは確かにあるようです。が、今は計算によって補正ができるのだそうです。
 アメリカの風洞は、超音速でなお且つ、湿った空気を吹き出すこともできるそうです。これはたいへんな技術で、単純に水蒸気を混ぜようとしても、吹き出した瞬間に氷の粒になってしまうのがオチであります。日本では実現できていません。
 風洞で消費された圧搾空気は、最後には、吸音材を貼った巨大消音棟の内部にて、大気圧に戻されます。敷地の隣は牛の牧場ですけれども、このおかげで、牛たちも突然の轟音で驚くようなことはないのであります。
 ところでこの施設の人事面での面白いところは、「場長」が陸自の将官であることでしょう。なぜ空自ではないか? どうも、建設用地を探すときに、空幕さんはあまり協力的ではなかったらしいですな。みすみす、格好良いポストを逃したわけか。
チャンチャン!

 高さ70.6mある千歳空港の管制塔。いまは成田の91.1mなどに抜かれているが、できた当時は日本一の高さだった。ちなみに世界一はスキポールで101.7mもあり。

 千歳空港の管制は国交省ではなく防衛庁の担当となっている。恒常風が夏は南、冬は北で一定しているので、4本の滑走路はすべて同じ方位に延びている。ただしナビゲーターが混同してしまうといけないので、航空地図ではわざと1度づつ違えて表記してあるのだ。
 邀撃というやつは、スクランブルして会敵するまでに、こちらの戦闘機が敵機と同じかそれ以上の高度に達していなければならず、しかもそれが我が領土内の上空であったならばもう遅い。というわけで、ロシアの核爆撃機が高速化するのに伴って、米空軍のF-86部隊は千歳を引き払い(昭和33年頃)、三沢以南に後退した。つまり千歳基地は「国境に近すぎる空軍基地」と言って差し支えないだろう。このシビアな環境下、F-15のスクランブルのために民航機の離発着を待たされてしまうなどとブー垂れている日本人は全員、露探である。

 下の階にある管制室。かつてより随分照明が明るいのである。(写真が暗いのは撮りっきりカメラのため。)
 管制官は普段は2時間交代。ラッシュ時には1時間で交代しなければ、集中力が保てなくなる激務である。
 ちなみに空港の管制レーダーが比較的に小さいように見えるのにもかかわらず、覆域がかなり広いのは、こちらの信号に対して飛行機の方からリスポンドをしてくれるからである。その返ってくる信号の中に、固有ID、高度、速度、方角、上昇中か下降中か、ぜんぶ入っている。
 1本の滑走路は、ジャンボのような大型機は後流(タービュランス)が残るので3分の間隔としなければならないが、戦闘機など中型機以下ならば2分ごとに離陸または着陸させることが許されるといわれる。したがって、隣国が弾道弾を撃ってきたような場合に、基地の全力を短時間で空中退避させたいと考えたなら、滑走路の数は多ければ多いほど良いのである。

 千歳に40機が展開しているF-15のシートにわたしも座らせて貰った(その写真は無し)。
 防衛庁は、さすがに潜水艦でも飛行機でも、最新型の内部を親切に公開してくれるようなことはない。潜水艦ならば、来年除籍されることになっている最旧型。F-15ならば、グラスコクピット化される前の古い型だ。しかしF-15は電子機器を大改修してとことん寿命まで使っていく気である。まだ残っているF-4はF-2で置き換える。が、その先は…?
 F-22やF-35を韓国が買ったら、財務省でも検討してくれるのだろう。
 F-15の単座型のシート後方には、与圧されざるガランドウのスペースがあり(跳ね上げ式のキャノピーの後半の下端面に板があって、それが閉じれば密封される)、ここにかなりな機材が追加搭載できそうだった。
 どうせ改修をやるのなら、まずアメちゃんの左手のサイズにあわせてあるために、親指を延ばしても親指ボタンに届かぬスロットルハンドルからして、なんとかしたらいいんじゃないの、というのが実感だ。宇宙船から戦車まで、乗り物にはチビばかり乗せることにしたら設計が楽じゃないかと割り切るロシア式に対し、「デカい奴ほど耐久力もあるじゃろう」と欲張るアメリカ軍。日本はどっちでいくべきか?
 いうまでもなく戦闘機は、買ったら一生使える耐久消費財ではなく、消耗品の集合体である。たとえばタイヤ。着陸が下手だと余計なブレーキングが必要になるために1回でゴムが剥け、全交換しなければならぬ。千歳基地は5cm以上の積雪で除雪をするが、5cm、あるいはもっと積もった滑走路でも、離発着は問題なくできる。
 千歳は三沢と並び、雪国にあるのに降雪で使用不能になることは滅多に無いという点では好立地だ。青森空港などはその点ぜんぜん恵まれていないのである。 ちなみにタキシングウェイを滑走路代わりに使うのは無理らしい。上からみて直線であっても、レベルから見るとサインウェーヴのようにうねっているからだ。
 さらに余談続行。F-15の燃費だが、ミリタリー出力では3リットルで1秒とぶ。
 これがアフターバーナーだと、13リットルで1秒。マッハ2.5ならば1秒で730mは進むだろう。
 空自はJP-4(ガソリン6割に灯油4割のブレンド)を使っているが、これを米軍機に供給したり、米軍のJP-8を空中給油されたりして問題は無いのか? 

答え:最初の数回に限れば、問題はない。

 空中給油の鉄則だが、給油できる機会は逃さずにこまめに実施する。なぜなら、給油機の調子が急に悪くなるという困った事態だってよくあるから。F-15を千歳からアラスカまで7時間でフェリーしたときは、途中で5回の空中給油を米空軍のタンカーから実施した。ベーリング海で泳ぎたいパイロットはいない。

 「特輸隊」という日本語表記がカッコ悪いと、司令が随分気にしておられた。ここは日本に2機しかない「政府専用機」の運用部隊で、じつは千歳にあるのである。
 政府専用機は、常に2機が同時に飛ぶ。先行機に皇族や首相をお乗せし、30分送れてバックアップ機が続いていく。先行機に不具合があれば、すぐに輸送任務を交代できる(もちろん、どこかに降りてからだが)。これまでのところ、そのような事態は1度だけ、あったそうである。
 鍛えられた若い人間が耐えられる最大加速度は11Gだそうで、F-2などは6Gくらいの機動を平気でする。これに対して、軍用輸送機のC-1は、荒い着陸もこなさなければならないが、それでも3Gまでしか耐えられないように機体構造ができてい
る。さらに民間のジャンボ機となれば、1.5G以上の加速度は決してかからないように、操縦機能からして制限されている。というわけで、戦闘機パイロットを40歳くらいで卒業すると(そのあたりの年齢で、ハイG機動中に首が回らなくなるそうである。若いうちはそれができる)、民航機の機長になるのは簡単だが、その逆は、ないのだ。特輸隊の機長はもちろん全員が戦闘機卒業者だ。

 機内の1階前方部分が内部撮影禁止なので、文章でお伝えしよう。首相や皇族の居室兼寝室は1階の先頭キャビンにあった。すぐ上が操縦席ということになる。長椅子やベッドにも、ちゃんと安全ベルトが備わっていた。ビデオなどを再生できるテレビが壁に埋め込まれていた。御付きの者、補佐官等の居室もやや後ろにある。同行記者などは最後部のエコノミー席にすし詰めにされるようだ。中央には会議用の大テーブル。もちろん地声は通じないから全員ヘッドセットで交話する。小泉総理はそこで必ず同行者との記念撮影をするそうである。
 機内騒音という点では、もともと古い設計であるジャンボは、あまり理想的ではない。特に頭にコブのある形状のため風切り音が強いという。核戦争指揮機としての「エアフォース・ワン・日本版」を考えるときに、この騒音問題は重要だ。首相が冷静に危機対処を考えられなくては困るであろう。では米国はなぜジャンボなのかといえば、やはり核爆発から安全な距離を取り続けるために、航続性能が最重視されているのだ。
 ちなみに兵頭の体験的機内騒音ランキングは、CH-47 > C-1 > UH-1 > 佐川急便の遊覧ヘリ > 民航ターボプロップ > 民航ジェット(U-4を含む)となるが、ブラックホークは未聞。しかし馬力から考えて、静かなわけはないだろう。

 狭い! エアバスのような1階建て飛行機と違い、2階建てジャンボの操縦室は、シベリア収容所の懲治房のように狭かった。正副機長の他に、バックアップのパイロットが後席から監視しており(逆噴射など許さん!)、さらに、航空機関士の代わりに航法士が控える。背伸びもできないし、シートがリクライニングするわけでもない。
 なお、操縦要員、それから運用幹部たちは、いちおうアメリカの「エアフォース・ワン」の部隊でも勉強をして来たという。ただし、連中は、AF1のセキュリティ機能については一切、何も教えてくれなかったそうだ。たとえば、ミサイル避けのECMやフレアはあるのか。隠された自動火器はあるのか。大統領用の脱出カプセルはあるのか(たぶん無いという話だった)。
 もちろん本機にも秘密スイッチはありません。

 キャビン後部の記者会見席。アテンダントはもちろん空自隊員である。
 キャビン後部の……ここ、何て言うんですか? クルー用の機内食は、和洋に分かれ、正副機長が同じメニューで腹痛などを同時に起こさぬようにしているのは、民航機と同じであった。

 本機最大の特徴は、邦人救出用のこのメカだ! なんと自前のタラップあり(200kgくらいあるらしいが、写真の作業服の女の同乗隊員が手で上げ下げする。この人たちは機内で複数見かけたが、飛行中はキャビンの床下にある貨物室に居るのだろうとしか思えなかった)。

 この前部貨物室は、さらに機内の階段によってキャビンへ通じている。ということは、飛行中は与圧されているのだろう。
 ところで兵頭はかねてより、「女の隊員を増やすな」論者である。たとえばこのハッチめがけて南ベトナムの群集が殺到してきたとして、女の隊員でその群集を梯子の上から張り倒し蹴り飛ばし、邦人だけを確実にレスキューできるのか?
 皆さんも是非、考えてください。

   【写真なし】

◎この他に、88式SSMとMLRSの展示説明も受けたのだが、雨天の夕方のガレージ内の撮影となり、わたしの使いきりカメラには何も写っていなかったから、報告はまたの機会としたいのである。

  これがU-4です。オレはのらなかった。
のっているのはオレ
 まんなかの人は元海自幹部で今は拓殖大学の鈴木祐二教授ですぞ。
 こんど安全保障論の大学院専攻が新設されたらしい。

おまけ:最近のH先生 15/10/6(寒中水泳記念)

「10月6日の尻別川にて撮影された写真。当日、近くの羊蹄山山頂は冠雪していた。インストラクター氏が水深のあるところにさしかかったとき『ここで飛び込んでもいいですよ』といったら、若い人がみんな飛び込んだ。しょうがないから私もとうとう寒中水泳。まさかこの歳になって10月の北海道の川で泳ぐことになるとは思わなかった。ちなみにドライスーツ着用なので、潜水をやっても、足首より上から腹のあたりまでは濡れないで済んだ。さすがに首周りから水はしみてきた。なおこの日は早朝の降雨のため、増水した川の水の透明度は、水中見通し距離20cmぐらいだった。考えてみると、なんて危ないんだ!」

 「なお来年は北海道の各種スカイ・スポーツに挑む予定である。」


お詫びと訂正 『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』の誤記について

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)

 2003年10月の長野県・御岳山のロープウェイ事故報道に接し、旧著『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』(2000年11月刊)の内容につきまして遺憾なところがあると痛感致しましたので、改めまして、この場をお借りて訂正をしておこうと思います。

 この拙著につきましては、版元さんの方へは、間違ってしまった箇所について訂正のシールを貼ったり、正誤表を付して出荷をして戴くように要請しておいたのですけれども、その措置が確実にとられたかどうか、著者として承知をしておりません。
 やはり、インターネット上できちんと訂正しておく責任があると思いました。特に、初期出荷分をお買い求め戴いた方々、あるいは図書館への初期納品を閲覧された方々は、どうぞ下記をごらん戴きたいと存じます。
 お手数をお掛けして申し訳ありません。
 なお、訂正そのものがもう情報として古いということもあり得ます。ご容赦ください。

●p.9 キャプションを以下に差し替え。
 4人乗りの搬器と次々にすれちがううち、眼下に「海浜駅」が見えてきた。広い駐車場と、名鉄・内海行きのバス乗り場もある。

●p.12 右段。
 スヘ → スペ

●青森県の補足。
 小川原湖にも「グルメシップかみきた」があるという。8ノット、50人乗り。冬は休む。上北町営だ。

●p.17 キャプションにつけたし。
 1983年製。23ノット、58人乗り。

●p.18 右段6行目。
 開いてい無い → 開いていない

●p.19 左段 下から5行目。
 いうべき、日本から → いうべき日本から

●山中温泉につけたし。
 山代、山中、粟津、片山などを総称して「加賀温泉」といい、仲居が夜のご予定を斡旋する仕組みが今日なお生きている。

●p.21 キャプションにつけたし。
 (株)京成マリーナ。

●p.27 大丸山につけたし。
 建物の一部が残骸としてあり。

●p.27 キャプションにつけたし。
 少し上に先代ロープウェイ搬器が転がっている。郊外の解体屋には先々代のグリーン/クリーム・ツートンの搬器がある。

●p.28 左段18行目。
 起させる → 起こさせる

●p.32 鶴見岳の補足。
 山上駅は標高1300m、別府高原駅(山麓駅)は503mにあり。斜長1816m、片道10分。建設費は4億8000万円。2号支柱は48mある。

●p.33 立石山の補足。
 昭和58年の資料で船原山にリフトがかかっているのが確認できた。「志高ユートピア」というレジャー施設である。

●p.45 左段。
 ペアリフト → シングルリフト

●p.53 右段5~6行目。
 これは他にあまり例をみない… → 三峰、鶴見岳も覗ける。

●p.54 宮ノ下につけたし。
 昭和27年12月開業、昭和33年リニューアル、斜長138m、高低差53m。3線である。

●p.58 くじら丸キャプションにつけたし。
 前方天井に見える垂直の突起は、ときどき水を噴き上げて見せるノズルである。

●p.59 「さがみ湖ピクニックランド」につけたし。
 山頂ペアリフトは平成4年3月のAnsaku製、バーなし、最高400m。スーパースライド用のシングルは搬器間隔8m、昭和52年3月設置、1m/秒。シングルは貨物の輸送は禁止されているとかで、スライドは並行のベルトコンベアで上げられてくる。

●p.65 下の写真のキャプションと、左の写真のキャプションが入れ違い。

●p.67 「まだふみもみず」は百人一首にもある小式部内侍の歌。

●p.71 補足。
 1998年2月に、在イタリアの米軍F-16がゴンドラのロープを切り、100m落下して、スキー客20人死亡。パイロットは帰還し、軍法会議無罪。

●p.75 ルビ。
 「きょうせんどう」→「きゅうせんどう」

●p.86 五台山ロープウェイに補足。
 昭和44年2月開業、53年9月休止。

●p.89 左段いちばん下に補足。
 雲辺寺の最大径間は1882m(2/3号支柱)という。立山は1710mだ。

●p.105 日本平に補足。
 観光用索道のある山の中には「走り屋のメッカ」と化しているところがある。榛名、赤城、いろは坂、六甲山、筑波、箱根……。

●p.108 右段、下から7行目。
 ものといえ → ものとはいえ

●p.112 修善寺に補足。
 この「城山」と → この「城山山頂」と 運行は昭和39年5月からで、廃業は昭和52年12月。会社名は分からないと同町役場の産業課のご回答であった。

●p.117 左段。
 『明石丸』 → 『赤石丸』

●p.118 七夕豪雨に補足。
 これは昭和47年の7/5~7/12に全国を襲った「7月豪雨」のことかもしれない。

●p.119
 行方 → 行き方
 ともに上原造船所製である。

●p.122 その他に補足。
 TDLのは、トゥモローランドとファンタジーランドを結んでいた。
 ザウスは2002年9月30日に閉園した。

●p.123 東京都に補足。
 昭和20年代、渋谷駅のハチ公の上に「ひばり号」というロープウェイが走行していたという。
 麻布サルは筆者が2001年7月に実見したときはメイトが2匹おり、また、他の野生育ちとは異なって毛並みが異常に良かった。

●p.125 御岳山に補足。
 「みたけさん」駅は海抜831m。
 「大展望台」 → 「大展望台駅」
 リフトは10時頃から、ケーブルは8時台から動く。

●p.131 右段。
 じつは偶然にだが、私は → じつは、偶然にだが私は

●p.133 キャプション。
 ピカビカ → ピカピカ

●p.134 眉山の先代搬器について。
 当時の切符の写真をみると、車掌が乗れないくらい小さい。

●p.135 右段。
 じつには僥倖だ → じつは僥倖だ

●p.136 キャプション。
 「のアップ」をトル

●p.141 池田湖に補足。
 2001年4月に、1隻が復活したらしい。

●p.153 右段1~2行目。
 「震えている他にない」とあるが、原稿では「震えているより手がない」である。このような編集人によるくだらない勝手な直しが至る所にあり、その一方でこちらの指定をまじめに実行してくれぬので、実に難儀をさせられた。以上、ちょっと言い訳でした。

●p.153 右段の下から11~10行目。
 現在~存在しない をトル

●p.165 長野県に補足。
 茅野市の白樺湖に『ニューはくちょう』。98人乗り、6ノット。3kmの周遊で、冬は休む。

●p.174 キャプション。
 支柱には~痕跡がある → 安全のため夏は積雪期より線路を低くできるようになっている。ペアリフトは1基90kgほどであるらしい。

●p.178 右段。
 3~4行目の「御岳ゴンドラリフト・スカイラブ」と、8~9行目の「御岳ロープウェイ」は全くの名前の入れ違いでありますのでお詫びして訂正します。

●p.178 右段 12行目につけたし。
 夏は運休する。

●p.178 右段、下から7~1行目はトル

●p.178 下の写真。
 画像の下部に何かレールのようなものが写っているが、これは撮影者が自動車の内部から撮影したのでその窓枠である。もちろんトリミングの指定をしたのだけれども、編集部はどうでもいいと思ったようだ。

●長野県に補足。
 苗場に「世界最長」を謳う5.5kmの「苗場-田代ゴンドラ」が登場したらしい。

●p.180 左段の説明を修正。
 昭和60年7月26日に、単純な地滑りが起きた。地震は観測されなかった。松寿荘で26人圧死。

●p.182 右段「その他」の補足。
 宝暦2年初演の『亀山の仇討』という芝居のバリエーションに「ふいご渡し」のシーンの入るものがある。石井兄弟が題材。

●新潟県に補足。
 三条市からアプローチする下田村の笠堀ダムにも昭和30年代から遊覧船がある。

●p.189 左段。
 スペック等不明だが → 11ノット、60人乗り、19トン。

●p.191 左段に補足。
 他に『はっさき丸』もあるという。50名乗り、最も小型。

●p.194 書写山に補足。
 市の肝煎で書写山の伽藍を解体修理するとともに、登山の負担をなくそうとした。

●兵庫県に補足。
 姫路市の「手柄山中央公園」は昭和31年から整備され、昭和41年の姫路大博覧会に合わせて単線自動循環式の「スカイウェイ」が谷越えの等高運転をした。顛末不明。

●p.195 右段。
 針伏山 → 鉢伏山

●p.197 神竜湖に補足。
 『さくら』は6.1トン、航海5.5ノット、85人乗り。
 『ふじ』は7.3トン、5.5ノット、120人乗り。
 『はくちょう』『さつき』『わかば』も現役。

●p.203 キャプションに補足。
 『すいせい』は21ノット、50人乗り。第5、第6、第7、第8がある。

●p.209 左段。
 『いるか丸』 → 『いるか』

●p.214 右段、下から2行目。
 真の山頂には → 藻岩山山頂駅前には

●p.216 左段、5行目。
 降る → 下りる

●p.218 ひぐまの写真。
 この写真は同ページの上段に大きく用い、前ページのキャプションと連接させるべきものである。さもないと面白い演出にならない……ということを編集者は分かってくれなかった。

●p.223 右段、5行目。
 終点で、それに → 終点でそれに

●p.223 層雲峡に補足。
 スキー場は11月にオープンし、リフトは10月に夏仕様から冬仕様に切り替えてスキー客を運ぶ。リフトの椅子は161基ある。

●p.228 下の写真のキャプションにつけたし。
 ともに10ノット、60人乗り。

●p.232 左段2行目。
 中旬までしか → 中旬しか

●p.232 大沼に補足。
 航海速力は、11.0~11.8ノット。

●p.235 右段のルビ。
 はんぜん → はいぜん
 ※分からないから編集部でルビをつけますというのは良いのだが、そのルビが間違っていたら何の意義があるだろうか?

●山梨県に補足。
 昭和16年刊の『機械科学の驚異』(加藤弁三郎著)によると、昭和10年秋頃の新聞で、富士登山ケーブルカーなる計画が報じられた。吉田口から5合目まで、深さ40mに直径16m(すれ違い箇所では30m)のトンネルを掘り、5合目で地表に出して乗り換えさせ、さらに頂上へ。乗り換え式とするのは、一気に6.5kmを引き上げるワイヤーが無いためである。車は1台180人乗りの流線形で、頂上まで40分を予定。これで、女、子供の登頂を可能にする。総工費500万円。実現せず。

●p.253 平草原に補足。
 平成12年末、平草原温泉のオバハンに聞いた話:子供の頃に大阪から旅行で来て乗った覚えがあるが、山頂駅は「グリーンヒル白浜」のあたりであったと。そこで同ホテルの玄関番老人に聞いたら、今のNHKテレビ塔のところだったと。


(管理人 より)
実に部数1000部という貴重書『日本のロープウェイと湖沼遊覧船』を閲覧していて、しかも尚且つ当サイトも見てるという方が一体どれほどいるのかわかりませんが、これが、あの野心的大著の訂正であります。因みに私はe-book offで買いました。


2003/9/7 三沢リポート

(2003年に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

管理人:一連の写真は2003年9月7日に三沢基地で撮影されたものである。行った人もいるだろう。行きたかった人もいるだろう。想い人の肌に初めて触る時のような興奮をもって狙撃銃を抱える男性に不審な目を向けられる諸氏もおられるだろう。まぁ、ともかく、興味がある方無い方も、まずはぜひぜひ見ていっておくれよ。勿論、撮影は「管理人」ではありません。 


 アメちゃんのバスはボンネットにこだわるが、その理由は衝突安全の重視だ。 
 私有車と思われる、シュヴィムワーゲンもどき?
 「高機動車」でなく「メガクルーザー」と書いてある。ランクルをやめて、単価の高いこいつに切り替えたのか。
 空自のペトリオット部隊の使う「待機車」
 待機車内部。上段ベッドはおりたたんでいる。エアコン・シャワー・トイレ付だがNBCフィルターはない。
 炊事車の内部。こうした後方装備は陸自で共通化すべきだ。
 こいつがないと「ストライク・パッケージ」にならぬ電子妨害専用機。
 ふきながし曳航機。ふきながし中にはマイクがあって、AA機関砲の命中率を地上でリアルタイムで把握できる。
 こっちは当てて落としてしまうPRVだが発砲スチロール製なので、エンジンに命中しない限り平気で飛び続けるという。
 DVADは1回の引金でタマが100発飛び出すが、そのリンクは、AP×45+HE×5・・・のくりかえし。つまり榴弾は10発出る。
 クラスター爆弾も堂々の展示。
 サイドワインダー最新型に対抗する国産ドッグファイトAAM。
 古い320kg爆弾にレーザーガイダンスと動翼をとりつけたものだが今の話題はJ-DAMの導入決定だろう。
 12.7ミリの狙撃銃もあった。飛行場は広いからネ。もちろん米軍のもの。
 ハンヴィーの「銃塔」型発見!触って材質を確かめたかったが、人ゴミで断念。
ミニミくらいは装備できそうだ。

おしまい


北海道駒ケ岳レポート

(2003年9月14日に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭二十八先生より)

 北海道駒ケ岳は火山活動があるとかで、周囲4kmが入山禁止になって久しいのだが、それを知らず、勝手に入り込んでしまった者がいる。一連の写真はその時に撮影されたものらしい。以下、2003年9月4日に入手したフィルムに推測キャプションをつけてみた。


 北海道駒ケ岳を南から見る。中央部が「馬の背」で、そこから右下の方へ斜めに登山道が見えるのである。手前の白壁は砂防工事。
 T字路から南をふりかえる。奥が「カウベルビレッジ」方向だ。封鎖された道路なので車も人もいない。
T字路を右折し、しばらく歩いたところからふり返る。つまり奥が西である。
 舗装が途絶え、土の道となる。6合目駐車場をめざして進む。
 馬の背から南をみおろす。誰も立入れないバス駐車場が見える。
 登り開始。写真では伝わらないが、胸つき八丁の連続なのである。
 ずんずん登る。
 さらにずんずん登る。
 右手のピークは隅田盛。892mだ。なぜか手前にマンホール。
 馬の背に到達。左のピークは円山で1000m、右のピークは剣ヶ峯で1131m。これ以上進む体力はなかった。
 馬の背から西をみる。
 この踏み跡は砂原岳方向へ通じているようだ。右手が火口原になる。
 砂原岳 1113mをみる。その手前が火口原で、ごく小さな噴気も・・・。
 うしろをふりかえると大沼湖。さらに遠くには函館山もみえる。
 馬の背から東を見る。


「正論」2003年3月号 ”TMD幻想から覚めよ!日本の「核武装」放棄で笑うのは誰か”の訂正

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭 二十八 先生 より)

 月刊『正論』3月号の連載コラム(ちなみにコラムとは柱の意味で、囲み記事を指すのが今では普通で、2頁以上ある長い記事のことは通常、コラムとは呼びません)「TMD幻想から覚めよ」の中に誤りが多数あるとの指摘を5月17日に手紙で受け取りました。その内容が信用できると思われましたので、この場を借りまして甚だ遅れ馳せながら訂正を公示致し度いと存じます。

 訂正すべきだと思われた箇所は以下の通り。


原子炉に挿入する新品の燃料棒には、天然ウランは約0.7%含まれている。

 【記事では約0.3%としていましたが、それは誤り。より正確には、ウラン234が0.006%、ウラン235が0.712%、ウラン238が99.282%だそうであります。】

ウラン235の比率を2~4%に高めた低濃縮ウランを使う原子炉(すなわち軽水炉のことである)から生産されるプルトニウムは、原爆材料としては性能が悪く、原爆材料に使用された実績もない。

 【記事では、軽水炉からも原爆用プルトニウムが取り出し得ると断言しているようになっています。それは可能だとする学説もあるにはあるのですが、それを一線兵器用として量産しているような核大国は無いのでありました。】

黒鉛減速・炭酸ガス冷却の「プルトニウム生産炉」でも、ウラン238のごく僅かがプルトニウムになるだけであり、具体的には、1トンのウラン238から、たった数百グラム(1000分の1未満)のプルトニウム239を取り出すことができるだけである。

 【記事では、「内部のウラン238のかなりな部分がプルトニウム239に変身」としていますけれども、これは全く大間違いでありました。私の記事の熱烈な愛読者であるに絶対まちがいのない金正日大先生が、この誤てる情報から大いなる脳乱を得られたことを祈願致すのみであります。】

再処理工場で溶出させたプルトニウムは、まず金属に変換しなければならない。

 【いきなり「粉末」にはならないのであります。核兵器の中に入っているプルトニウムは、発泡スチロール状だと書いている本も見ました。金属とするのは、密度が高くなければ臨界せぬからであります。それを発泡スチロール状とするのは、プルトニウムはいつも出ている中性子がウランに比べて多いので、あまり密にしすぎるのもヤバいからでありましょう。】

使用済み燃料に含まれる核分裂成生物からの放射線が強力である。

 【記事では、プルトニウムの放射線が殺人的に強い、と書いてありますが、プルトニウムの放射線はアルファ線なので手袋一枚で止まる強度です。しかしこれが粉末として肺の中に吸い込まれたときに、発癌するのではないかと疑われてきているわけであります。】

CANDU炉は、原子力委員会が、これからは輸入技術よりも、国産技術(新型転換炉)の方にしようというので、導入しないことに決めた。

 【記事ではアメリカが圧力をかけて輸入を止めさせたと書いておきましたが、当時アメリカが日本の原子力施設で強い猜疑を向けていたのは東海一号発電炉—これは天然ウランを使える黒鉛炉で、各国の兵器級プルトニウム生産炉と同じもの—だけであったようです。それから、CANDO炉と書いたのも単純誤り。】

 貴重なご指摘を下さった方、どうも有難うございました。


(管理人より)

訂正の指摘をされたのは「プロ」の方らしいです。やっぱ、「プロ」は凄いですね。


兵頭二十八先生より皆様への「虫のよい無償調査発注」

(2003年頃に旧兵頭二十八ファンサイト『資料庫』へUPされたものです)

(兵頭二十八先生より)
 いつもお世話になっております。前回ちょっとお尋ねした「排水量換算表」の件では、改めて、このサイトの底知れぬ深さを認識させられたように思っております。
(尤も直接読んでないので甚だ恐縮なのですが…。管理人様、いつもすまないねえ…。それは言わない約束? おお、そうじゃった!)
 そこで、図に乗りまして第二の「発注」を致します。皆様には是非、下記についての書き込みをしていただけますと誠に幸いでございます。
 これらは無論、本来であれば兵頭本人が図書館を回って調べねばならないのですが、現在、兵頭には複数の雑誌原稿の入稿〆切が切迫しておりますため、多少時間を「巻き上げ」たいのであります。勝手ですが、「軍事関係の蔵書ほとんどゼロなのにオピニオン誌の編集者たちからは立派な『軍事評論家』だと思われている軍学者」の生計のため、ひとつ「特急」で宜しくお願い申し上げます。
 薄謝として、管理人様が保管する「写真」のうち、「最もくだらない一枚」が貴男の自宅へ直送される……かもしれません。これはあまり期待しないで下さい。


(管理人より)
 下記全ての「御下問」について何か御存知の方は是非掲示板に御投稿下さい~。ええ、住所と御本名をメールで御教え下されば、各設問に対して無条件で先着5名様に焼き増ししたのを喜んで送らせていただきます!よろしくお願いしま~す!

※2020年現在、掲示板は当サイトには存在しません。


長期募集

 日米戦争中、米軍から日本兵に投降を呼びかけたビラ(伝単)で、「白旗を持って出てきなさい」と書いたものが、あったか否か?
 これについて些細な事でも御存知の方は、是非、情報を掲示板へお書き込みください。
 なぜ兵頭がこんなことに関心があるのかは、月刊『発言者』をずっと愛読されて
いる方にはお分りですね。けっこう見逃されている部分なのであります。

これまでに寄せられた御投稿

No.2

http://www.iwojima.jp/data/handbill.html

http://www.city.yokohama.jp/me/soumu/sisi/war-colect2.html

http://village.infoweb.ne.jp/~pms/Tenji/dentan.htm

http://asao20.hp.infoseek.co.jp/dentan.htm

http://www.asaho.com/jpn/bkno/2002/0318.html

http://history.independence.co.jp/ww2/phtop.html

書籍
「紙の戦争 伝単」平和博物館を創る会・編 エミール社

御投稿者:水 様
2003/02/15(Sat) 20:13


No.1
 某有名プラモデル雑誌上でミリタリー関連のインターネットHPを紹介するコラムを長年書いてこられている大先達の三貴雅智様から、次のような貴重な情報を、別ルートにて頂戴致しましたので、謹んで皆様にお知らせし度いと思います。
http://members.aol.com/RLobinske//Saipan.html に、“Military Life on Saipan 1944-1945”という頁があり、1枚の「生命を助けるビラ」の写真が載っています。
 太平洋戦線で米軍が撒いた勧降伝単の実物だ。
 これです!
 こういう情報を求めているのです!
 ちなみにこれを見る限り、米軍は日本兵に「白旗」を要求していなかったことが分る。この例外のリーフレットは、どこかに残ってないか?
 あるいは、記録文中で言及されてないか?
 ビルマ戦線では?
 引き続き、幅広く情報をお寄せください。お待ちしております。
 三貴様、どうもありがとうございました。サ・ス・ガ……です。
 久々に「ハヒャッ」とうならされてしまいました(楽屋落ち・1)。
 ぜひ『軍事新潮』、略して「ぐんしん」の秘密メンバーになってください(楽屋落ち・2)。

兵頭 二十八 先生 より

※管理人注  リンク先にコンテンツがもう存在しないものはURLの記載だけしております。


聴取期間終了
(兵頭二十八先生より)
 お世話になっております。
 北朝鮮工作員と在日米軍関係の質問は、雑誌の締め切りが過ぎたので、打ち切ります。
 ご協力ありがとうこざいました。


(管理人より)
1:掲載媒体はクローズドな雑誌である。
2:情報を提供した方でどうしても読みたいという方は、「管理人」の手に渡されたコピーをfax(或いは別の方法)します。

御下問:四

想定状況:
 あなたは北朝鮮のトップ・リーダーである。朝鮮半島で戦争が起きることが確実となった。さあ、あなたは工作員または正規軍その他に、日本国内にある米軍基地または米軍関連施設を、どのような優先順位でどのように攻撃するよう、命令を出すか?その理由は?

--聴取期間は、2月中旬まで。みんな、相手の身になって考えよう!

これまでに寄せられた御投稿

No.4
私は、どこに基地があってどこに施設があるのか全然把握してないので具体的な場所は言えませんが

ただ、私でも言える事はおそらく真っ先に米軍の通信施設・通信関連施設は破壊するでしょう

チェ・ゲバラもボー・グェン・ザップも共通して指摘するように「敵の通信を切断する」ことが劣勢にあるゲリラ側を勝利に導きました。だから、何よりも米軍の通信施設・アンテナ・ケーブルを切断・使用不可能にすると思います。

御投稿者:谷口公一 様
2003/02/06(Thu) 22:03


No.3
横田基地を最優先目標に選定しました。その理由として、
①在日米軍の元締(=自衛隊の元請)がいる
②最大の空輸拠点である
③弾道弾で狙った場合、たとえ逸れたとしても周辺の町に被害を与える(嘉手納だと海)
④関東一円の交通(=物流)を遮断できる

基地や軍関連施設以外ならば、東京電力の給電制御所(システム)でしょうか。
停電に続いて発生する混沌で「日本」を長期間無力化できるかと。

あと、さしでがましいことを申し上げるならば、家族住宅やアメリカンスクールを
狙うのは逆効果だと思います。昔どこぞの国が行った奇襲攻撃のように、
兵士および国民の士気を沸点まで上昇させ、無差別報復の許可証にサインしたことになると思われます。

御投稿者:カミノクレッセ 様
2003/02/03(Mon) 23:36


No.2
やっぱ「家族住宅」でしょうか。

理由は「米国民の厭戦意識の喚起」と「つぎは日本!!」ってメッセージを送ることで「日米分断」を図るってことで…

「日本国法令でこの施設の中に入ることは禁止されています」
みたいな看板を見ると血圧があがります。

御投稿者:横浜市民 様
投稿日:2003/02/01(Sat) 15:06


No.1
 今晩は、手持ちの資料に米軍基地の所在地を示しているものがないことに気づき、途方にくれているバッタンバンでございます。
 そうゆう訳ですので、単なる思い付き程度の意見ですが書かせていただきます。正規軍が採るべく方策は、横須賀軍港もしくは岩国基地への弾道弾の集中攻撃だと思います。その理由は、
 ①前者は基地面積が広く、敷地内のどこかに落ちる可能性が高い、後者は北朝鮮本国から近いため弾頭重量の大きいものを攻撃に使える。
 ②周辺海域の水深が浅く、交通量も多いため、海に落ちた、不発弾を無視できない。
 などです。
 工作員には、米軍基地周辺の歓楽街に時限爆弾を仕掛けたり、米軍基地当てに、白い粉の入った封筒を送りつけたりして基地の警戒レベルを上げさせることが良いかと思います。
 役に立つのかはなはだ疑問ですが、僕はこう考えました。御投稿者:バッタンバン 様
投稿日:2003/01/29(Wed) 23:30


(兵頭二十八先生より)
 某雑誌原稿の〆切が過ぎましたので、「着弾」と「国内全般テロ」の情報募集も打ち切ります。有益な御書き込みを戴いた皆様、誠に有難うございました。某雑誌ですが、2月中旬に全国書店に並ぶと思います。

要聴取情報・其の三

 あなたが日本国内に潜伏中の北朝鮮工作員であったとして、本国から「法律を一切無視して何でもいいから日本国内に最大最悪の混乱を起こせ。それも5日以内に!
 最後にはおまえも死ね」と極秘に厳命されたら、あなたはどこ/誰をどのように攻撃または工作するか? あるいはそれとも、その命令の実行は他の仲間に任せることにして、あなたは何かをしたフリだけで済ませ、引き続き日本住民としての自由なライフを延長しようと画策するか?

これまでに寄せられた御投稿

No.10
まあまず気になったのは、北朝鮮工作員ということをわかるように事を起こすのかそうではないのか。「死ね」という命令は死が確実にあるような工作をしろということなのかそれともどんな工作をして例え生き残っても死ねということなのか。継続的なテロは認められないのか。
などなど。まあ実際そういう命令が来たら、こんな風に聞くことは出来ず、ただ従うしかないのでしょうけど(苦笑)
自分はインフラを狙うテロ(水道、電気施設の破壊もしくは無力化)を考えたりもしましたが、食品に毒(細菌)を盛るのも面白いかなぁとも思いました。まあ、せこいですが(苦笑)
あと、他の仲間に任せて自分はエンジョイは難しそうですね。効率的な工作を行うには工作員同士のネットワークの確立が不可欠だと思います。ということは、各々がそれぞれの所在地を知り、そうでなくても工作員同士の情報交換で自分のことがばれる可能性もある。そうなれば自分は味方を裏切った(首領様のために死ななかった)奴として狙われるかも知れませんしね。
ただ、何か行うとして、全て自分で調達するのか、それとも本国から送ってくれるのか。これによっても自分が出来る範囲は変わってくるので、一概にはいえませんが・・・
後は、混乱を起こす目的でしょうか・・・
首領様のお心は知れない、といったところなのでしょうけど。

御投稿者:楠 様
投稿日:2003/01/28(Tue) 17:58


No.9
朝鮮総連工作員 張 龍雲 小学館文庫のp21-p23から引用

非公然活動が最近下火になっているというのは大きな誤解である。事態はかえって深刻になっている。なぜなら1990年代に入って、ことに1998、99年の二年間に、北朝鮮の工作員の任務対象が大きく変わったのである。ひとことでいうと、今までの対韓国(対南)工作活動中心から対日工作活動へと比重が大きく移ったのである。軍事面から見て、韓国と日本が同等の敵国となったのである。今までは韓国潜入のための経由点、あるいは資金面の工作対象に過ぎなかった日本が、軍事的攻撃目標、あるいはテロの対象に格上げになった。
情報筋によると、行動のための日本国内調査や下調べは完了しているという。「テロならいつでもできる」ということだ。対象は横須賀や沖縄など米軍基地の所在地を筆頭に、都市の生命線である電力供給施設にも及ぶ。
私の知らない別系列の非公然組織が、この種のテロ活動をテストケースで行っているらしい。そうした事件が、この何年か徐々に増えてきている。たとえば愛媛県の松山や兵庫県の淡路島で起こった、高圧送電線の鉄柱のボルトが何者かによって緩められた事件が、それである。このようなきわめて反社会的なテロ活動が、普通の日本人によってなされる事件ではないことは明白である。
何の犯行声明もない。愉快犯とも思えない。この種の不可思議な事件は、北朝鮮の破壊工作のシミュレーションもしくは訓練と見たほうが妥当であろう。現に日本の公安筋もそう考え、私に確認を求めてきた。
電気、交通など日本経済の動脈を寸断し、社会を混乱させることを狙った犯行である。挑発行動か、進行中の交渉への威嚇かもしれない。 略

なにも警備の厳しい原子力発電所やそのほかの発電所、ダムなどをわざわざ大量の爆薬で破壊する必要はない。送電線の数本を切るなり倒してしまえば、都市機能を停止させるには十分なのだ。
北朝鮮はそんな愚策を弄するより、スパナや電動工具を使って日本民衆の厭戦感を助長する工作だけで、目的を達成できる。
この点、日本では北朝鮮のこの種のテロ活動には全く無防備というほかない。北朝鮮側にとっては、特別な装備も武器もいらない、このような作戦がより実用性が高いのである。

引用終わり

確かに、元工作員の証言だけあって、鋭い。

読売新聞1999年11月23日の報道に拠れば空自のT-33ジェット練習機が墜落し、高圧線を切断し、東京都内や埼玉県の80万世帯が停電を起こし、鉄道も一時ストップし、信号、自動券売機、銀行・郵便局のATMが止まった。東京証券取引所で、国際証券先物オプション取引で一部会員の銀行、証券会社の端末が動かなくなり、約30分間取引を中断したと報道されし、
送電線を攻撃する事はリスクが少なく効果が意外に高い。
 その他に1986年3月23日、雪の重みで鉄塔が倒れ、神奈川県、静岡県などで133万世帯が停電したという事件もあるし、送電線を攻撃するのはかなりの混乱を起こせるのではなかろうか?。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/25(Sat) 00:08


No.8
(管理人注:No.4に対してのレス)

 国土地理院の2万5千分の一「興津」
http://mapbrowse.gsi.go.jp/cgi-bin/nph-mm.cgi?mesh=5238443&res=0)をごらんいただければお分かりいただけるように,若干両者には距離があります。ですからトンネルを通行不能にするよりも、興津川の橋梁を破壊することを考えたんです。ま、この方法を採るなら、大河川(多摩川天竜川など)のダム堰堤を破壊するのがよいでしょうが・・・。
 あくまでも軍師殿の設問は実行可能な方法を考えろ。という、知的実験(っていうか頭の体操)と私は考えたんですが、見解の相違があるようですね.確かにダダ龍様の挙げられた施設に対する警備手段は貧寒としたものです。有事法制が無い以上、警察力に拠って守備せざるをえませんし,警察力自体手が回らないでしょう。テロ実行のイニシアティヴは相手方にあるわけですし。

御投稿者:螺鈿 様
投稿日:2003/01/22(Wed) 19:51


No.7
もし、私が北朝鮮の工作員なら、
素手ならば、火炎瓶を大量に作って警察・消防署に投擲する

武器を使えるなら、AK47・RPGを持ってNTT・放送局(NHK・民放)に乱入して抵抗する警備員・職員を処断して手当たり次第
放送設備に手榴弾を投げ、RPGを撃ち出来る限り破壊する。

こんな事にならなければいいと思うが、戦争になれば
向うは、「殺る」だろうなぁと考えます。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/22(Wed)


No.6
駅前や繁華街の広場にある噴水の水源に培養したサルモネラ菌や真菌類を混入するのが良いと思います。こういった場所では人通りも多く、汚染された水も飛まつとなって飛び散るので効率よく多くの人間に感染させられると思います。問題は、通常の風邪の感染対策で予防できてしまうということでしょうか。

御投稿者:バッタンバン 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 23:31


No.5
 北朝鮮工作員として我国を混乱に落とす事を第一とするならば今上帝並びに直系の皇太子殿下二名の暗殺が最も効果が有ると思います。
 永続すると疑わぬ「日本」の象徴としての皇統を断たれるという事態は人々の心に必ずや大きな混乱を引き起こすのではないかと考えます。

御投稿者:枯山 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 20:23


No4
(管理人注:No.3へのレス) 

>  ①回線のバックアップルートが存在すれば、無意味となるのでは無いでしょうか。

回線ではなく、中枢、すなわちホストコンピュータと、そのバックアップが対象です。

> ②大規模な土石流を起こすことが可能な方法はあるのでしょうか?

新幹線と東名高速は、それぞれ興津トンネルを通行不能にすればいい。土石流は不要でしょう。

→ま、いろいろ方法はありましょうが、わたしが示唆したいのは、これらの施設が他の重要施設ほど厳重な管理下にないという点です。破壊活動に対する早急な対策が必要です。

御投稿者:ダダ龍 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 15:48


No.3
(管理人注:No.2へのレス) 

 ①回線のバックアップルートが存在すれば、無意味となるのでは無いでしょうか。マイクロ波回線なら割り込むことも不可能ではないでしょうが・・・。
②大規模な土石流を起こすことが可能な方法はあるのでしょうか?新幹線は東名高速より1キロほど山の手をトンネルで抜けていますし・・・。4つのルートが地上で近接している地点としては、由比町由比地区付近が挙げられますが、それでも一キロ少し離れています。(手元の「マックスマップル東日本道路地図」による)この地区を流れる河川に大規模な土石流を起こす方法があるならいいんですけどね。核兵器をここで使用してもコストとベネフィットがつりあわないのではないでしょうか?
 どうせ核兵器を使用するなら、万景峰号で持ち込み、大型トラックで任意の原発、柏崎刈羽でも志賀でも、あるいは状況が許せば東海でも構いませんが、そこで爆発すれば、首都圏にパニックを引き起こすこともできるのではないのでしょうか?
 なんにせよ権力行使者を狙う必要がありますのでやはり、首都圏で行う必要があるでしょう。また大マスコミ関係者に生命の危険を認識させないと大規模なパニックをある程度長期に渡って、起こさせねばなりません。
 麻生幾の小説ではありませんが1000人単位の草に伝染性と致死性が高く、免疫をもつ人が少ないウイルス(小説では天然痘だったと思いますが)に罹患させ、都内に徘徊させるのがいいと思います。軍師様が「お前も死ね」と設問されているのですから・・・。しかし、北鮮は今何かやろうとしても「意在っても力なし」の状態でしょうね。
 はい、自己訂正です。F-16が飛来したのは関西空港でした。恐らく、極東有事の際には米軍が使うのでしょうね。

御投稿者:らでん 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 12:00


No.2
 最大最悪かどうかはわかりませんが、①日銀ネット(金融機関と日本銀行との資金決済につかうネットワーク・システム)および全銀ネット(銀行間の資金決済につかうネットワークシステム)の中枢を破壊したら、カネのながれがとまり、②由比から興津にかけての隘路(興津トンネルなど)に障害をもうければ国道1号線、東名高速道、東海道新幹線、東海道線がとまり物流が麻痺するでしょう。

御投稿者:ダダ龍 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 11:22


No.1
 恐らく北鮮中枢はわが国の中枢に対し、ある程度時間的な幅を持って混乱を惹起させたいと望むでしょう。しかしながら、必死の決意を持ち、テロを行うには、高い志操を持ち、体制に殉じる確信がなければなりません。もしそうでないならば、現今の朝鮮総連の運動家や北鮮シンパがそうであるように日本国内における法の下の平等を否定し他の在留外国人に絶した特権を要求し続けるほうが安全安価であると思います。だってねえ、草だって日本の安楽な生活の方が快適でしょうしねえ・・・。うんで、適当にこう、営業開始前の新幹線の線路に置石したりして・・・、偉大なる戦果を挙げたとやる気のなさ全開で行動したりして・・・。

御投稿者:らでん=螺鈿 様
投稿日:2003/01/19(Sun) 22:54


要聴取情報・其の二

 過去の実戦で、長距離砲弾またはSSMの1発の着弾で、平均して何人の軍人や民間人が死んでいるか? あらゆる時と場所、建物毎に、できるだけ多くの「実例報告」も、出典明記の上、求む。

これまでに寄せられた御投稿

No.10
ジャワ攻略戦とガダルカナル玉砕戦 共栄書房のp307から引用

十月二十四日(土)雨 山形戦死⑦
朝、五時十五分射撃開始。敵砲火益々盛ン。本日ハ総攻撃ノ日、是非共成功セシメ度。一同元気旺盛頑張ル。夕刻ヨリ雨トナリ、砲撃止マズ。十七時攻撃開始、二十一時飛行場占領ノ通報アリ。喜ビタルモ後誤報ト判明ス。雨は夜半迄降ル。本夜ノ攻撃成功セズ。山形菊衛戦死。鈴木三郎負傷(戦闘支障ナシ)。

引用終わり

1942年10月24日のアメリカ軍の砲撃により
日本軍兵士1人戦死。1人負傷。しかし、10日後の11月3日に鈴木一等兵戦死。 
アメリカ軍の砲撃により日本軍兵士に2人戦死。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/28(Tue)


No.9
ジャワ攻略戦とガダルカナル玉砕戦 木村竹治 庭野静三 共栄書房の第Ⅱ部 飢餓の戦場、ガダルカナルの死闘 p308から引用

十月三十日(金)晴一時雨
四時三十分頃敵巡洋艦三、駆逐艦三現ハレ、二時間半ニ亘り射撃ス。陸砲兵ノ死角ヲ海上ヨリ射撃スルヲ以テ困ルナリ。マルデ機関銃ノ如シ。陣地ノ近所ニ四発落下破裂ス。一同無事、夕刻ヨリ雨降リ壕中溢レル。

引用終わり。

当時第二師団野砲兵第二連隊第一大隊第三中隊の庭野静三陸軍大尉の日記に拠ると
1942年10月30日4時30分頃に巡洋艦3、駆逐艦3による2時間半の艦砲射撃を受けた
日本軍砲兵陣地の近くに4発落下したが、陣地に居た日本軍は無事。

ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記 河合武郎のp233から引用

十五榴の殺傷効力半径は五十メートルです。

引用終わり。

日本軍の15センチ榴弾砲の殺傷効力半径は50メートル。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/28(Tue)


No.8
ルソンの砲弾 第八師団玉砕戦記 河合武郎 光人社のp190から引用

四月二十三日、敵の第一波は、まず砲兵の集中射に始まった。午前十時ごろだったと思う。敵の息もつかせぬ砲撃が開始された。 略

米軍の射撃思想は一発必中ではない。弾幕をもって、大網を打つように撃ってくる。同じ山にいても、直距離も余り離れていない河合中隊には、弾着の地響きが、自分が被弾しているようにはっきりと伝わってくる。長い長い恐怖の時間だった。砲撃はやっと止んだ。そこに伝令が壕に飛び込んで来た。大隊本部が大変だという。とっさに、私は壕を飛びだした。まるで軍艦のブリッジのように、整然とこしらえてあった大隊本部は、足の踏み場もない泥と、喧噪の真っ只中にあった。直撃は受けていないが落盤である。上を見上げると不気味にえぐられたその下に、こんもり盛り上がった土の山があった。その山にむかって無数の人が取り組んでいた。手に手に道具を持って、それもない人は自分の鉄帽を脱いで、一生懸命に泥を払いのけている。泥の下には五、六人の人が埋まっているという。

引用終わり

昭和二十年四月二十三日フィリピン・ルソン戦時
アメリカ軍の砲撃により山岳地帯に作った日本軍陣地が
崩れ日本軍側に5・6人の死亡者がでたと

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/26(Sun)


No.7
ノモンハンの夏 半藤一利 文春文庫のp266から引用

須見部隊第七中隊の大高豊治上等兵の日記に、その後のことが印象深く記されている。

「七月十六日 晴
穴ぐら生活も大分慣れて来た。飛行機の爆音によって、敵機か友軍機か判読もつく様になった。朝から砲撃の大試合が始まった。一尺五寸位の大きな破片がとんで来る。聞き馴れるとなんでもない。穴ぐら生活も今日で二日目。水には一番苦しむ。(略)食う物とても、ささやかなものだ。(略)

「七月十七日 晴
穴ぐら生活第三日目、砲の音はどんどん聞えてくる。付近に二、三発当たった。物凄いスリルだ、恐怖にかられる音だ。小林、宮岸に逢えた。平田は負傷したそうだ。二十日の総攻撃まであと三日、元気で嬉しい。前方五百位の所に敵が来襲して来たので眠らずに警戒す」

引用終わり

大高豊治上等兵が篭ったタコツボ?に7月16日、砲弾の破片が飛んで来たが無事

7月17日に付近に2、3発当たったが無事。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/26(Sun)


No.6
グアム島玉砕戦記 佐藤和正 光人社NF文庫 p255-p256から引用

ようやく迫撃砲の射程外に出てほっとした軍医は、立ち止まって部下に休息を命じた。そのとき、十メートルほど横の椰子林に艦砲が落下した。椰子の木は裂けて吹っ飛び、強烈な爆風が軍医を地面に叩きつけた。
「みんな、だいじょうぶか!」
倒れ伏した部下を見回して軍医は叫んだ。両脇に伏せていた二人の兵が頼りない声をあげた。
「やられました、軍医殿・・・・・・」
「よし、見せろ」
いそいで傷口を見ると、太股に小さな破片が当たっていた。二人とも盲管だった。いまは破片を摘出している暇はない。
「軽傷だ、命に別状はない。どうだ、歩けるか?」
「痛いですが、何とか歩けます」
「よし、我慢して歩け、そのうち直る」
艦砲が落下する場所に、おちおち休んでいるわけにもゆかず、一行はもう少し先まで進むことにした。

引用終わり

吉田軍医中尉と十三人の負傷した衛生兵が、グアム島中部の折田・オルドットから北部の高原・サンタロサへ移動中にアメリカ軍の艦砲射撃を受け日本軍兵士に2人負傷

同 p302-p303から引用

(グアム島中部)品川へ出ると、そこに一軒の島民の家があったので中へ入ってみると、及川という海軍の兵と、佐藤という青森出身の陸兵がいて、三人でボソボソ話しながら休憩してたんです。そこへ艦砲が至近距離に落下しちゃった。ドーンと音がしたかと思ったら、うなりをあげて破片が飛んできて、目の前に座っていた佐藤さんの首をスッポリ切り落として柱にバサッと突き刺さった。ワッ!という声が上がっただけで、佐藤さんの頭がゴロッと足元に転がっちゃった。ギロリと目を剥いた無念の形相のまま、頭が床の上で天井を睨んでいるんです。ゾッとしましたねえ。私はあわてて及川と二人でそこを飛び出して一目散に折田へ撤退したんです。

引用終わり

谷島昌一技手は、零戦の計器テストを専門とする整備技術者
証言によると、アメリカ軍の艦砲が至近距離で落下し
日本軍兵士に1人即死 とのことです。

大本営参謀の情報戦記 堀 栄三 文春文庫のp125から引用

巡洋艦と駆逐艦では大砲の大きさが違うが、平均して一発は八十キロと仮定する。 略

一発の有効破壊半径は百メートルある

引用終わり

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/25(Sat)  


No.5
(株)国際出版「Gun」昭和51年4月号の記事によりますと、第二次世界大戦中のドイツによるV-1(Fi103)による初攻撃(1944年6月13日)では、ロンドン、ベスナル・グリーン地区に着弾したV-1により6名が死亡。1944年6月30日にはV-1がイギリス空軍省ビルに着弾し、198名が死亡。

また、朝日ソノラマ「報復兵器V2」(野木恵一)によると、一発のV-1による最大の被害は1944年末にアントワープ市内の映画館に命中したときのもので、観覧中のイギリス兵269名死亡、192名負傷。1944年9月8日のV-2による初攻撃ではロンドン西部チズウィックに着弾し、3名が死亡、18名が重軽傷。

引用開始~
(V-1による)最初の一週間の攻撃による死者は22人重傷者は68人で、平均すると一発当たり死者2.7人、重傷者8.5人となる。この数字はそれまでのFi103による被害、一発当たり死者2.7人、重傷者9.1人とほぼ一致している。
~引用終了。

御投稿者:読書公社 様
投稿日:2003/01/22(Wed) 21:31


No.4
確か、1991年の湾岸戦争時にイラク軍が空爆の報復として発射したスカッドミサイルがサウジアラビアの米軍基地に?着弾してアメリカ軍兵士に約20人前後が死亡した云々
って昔NHK教育で放映されたドキュメント番組のナレーション
を覚えていますが、録画してなかったのでどこが製作したのか正確に指摘できないのが歯がゆい。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue) 04:15


No.3
(管理人注:No.2を指して)

↓下のレイテ戦の砲撃戦が書かれている部隊は
第一師団の重砲の部隊です。場所はリモン峠の後方
のカナンガ=ロノイ間の街道付近の叢林から撃ったようです。

闘魂ビルマ戦記 サムライ重機分隊員の死闘 石井貞彦 光人社NF文庫のp368-p370から引用

突如として、はるか東北方でドドーンと砲の連続発射音がした。つづいて、ヒューンと中空高く弾道音がこちらに向かって、まるで弾丸が見えるような感じで飛んできた。私たちは、あわてて西側の路側にとびこんだ。道はかなり高くかさあげしてあった。その急斜面にメザシのように私たちはならんで伏せた。顔をあげて弾道音の方向をうかがうと、星明かりに黒く浮きでて見える、富士山のような山容をもつポパ山の三合目あたりの上空をこえ、私たちの方に飛んでくる。
十センチ加農砲の遠距離砲撃である。
やがて、それらの弾丸は、斜め上方から急角度で私たちの方へ落下してきた。ガガーンと初弾群が炸裂したのは、後方、さきほどまで待機していた谷間付近であった。つづいて四門、四門と八発の砲声が起こるとともに、弾丸が二段になって飛んでくるや、すこし距離をちぢめて炸裂した。弾着はだんだんと近づいてきて、ついには破片が周囲に落下しはじめ、不運にも最後の集弾が、私たちのいる位置から路面にかけて落下してきた。そのなかの一弾が、うつぶせになって両足をすこしひろげていた私の股間ちかくに落下した。激しい炸裂音が全身をつらぬいたような衝撃で、腰がファッと爆風でもちあげられたとたん、サクッと男の急所に激痛がはしった—-やられた!しかも男の急所ときては、いよいよオレも終わりだな。おもえば昭和十七年二月、ビルマ進攻作戦いらい十八年、十九年はアラカン戦線、そしてこの二十年と三年間を激戦の渦中をくぐり、編成いらいの戦友はつぎつぎと姿を消し、中隊にはもう数えるほどしか残っていない。略

片キンとは情けなや
砲撃が終わるやいなや、戦友たちは起き上がってバタバタと路上を走って行く。その足音を聞きながらも、私は起き上がれなかった。傷口はしびれ、痛みも出血も感じないが、力がすっかりぬけていた。と、路上の向こう側で、「片岡、やられた」という声を一瞬聞いていたのだ。片岡(政市)一等兵は指揮班に最近きた補充兵だ。見てやろうと私は、痛みをこらえて道にはい上がり、黒い影にちかづいた。「片岡、しっかりせい!」と声をかけたが、もう言葉もない虫の息だった。右大腿部に砲弾が直撃して片足がふっとんでいた。私一人では手当てのしようもない。 略

その月の光で谷のなかを歩いてくる兵のなかに、大隊本部の菊地伍長をみとめて呼びとめた。彼は崖をはいのぼってくると、私のたのみで、路上の片岡を見に上がっていった。まもなく、「ダメだった」といいながら、私のところへやってくると   

引用終わり。

昭和二十年四月十九日頃
ビルマ西部の第二十八軍干城兵団第二梯団の歩兵百十二連隊の第一(細川)大隊の一兵士の証言

英軍の10センチ加農砲による砲撃八発?で日本軍兵士1人戦死、1人負傷

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue)


No.2
われソロモンに死すとも ガタルカナル戦記 光人社1992 の中の鈴木正光氏の遺書となった日記 p282-p283から引用

(1942年)十一月四日。

海岸道、とくに前方に進出なしありし砲兵は、後退をかさねつつあり。前にあれば、後退しつつあるわが歩兵の第一線にたいして、援護射撃をなしえざるなり。 略

ついに一日、前進砲列救援のため観測所を下りしより、いまだに観測所に登らず。中間点-待機所間の往復なり。 略

昨三日、第一中間点においてまた通信手一名戦死せしむ。
その通信手、玄蕃を中にはさみて、右に通信手、左に余と三名寝ありしに、付近に砲弾集中落達。玄蕃の頭部に破片命中せしなり。もし玄蕃あらざりせば、余に命中するところなりしならんも、運なりというか、命なりというか、心に黙しつつ葬る。

ガダルカナル島戦時、
アメリカ軍の砲弾が集中して日本軍側に一人死亡した。 と

レイテ戦記 下 大岡昇平 中公文庫のp45-p46から引用

突然日本軍の105ミリカノン砲一門が反撃した。これは地形上の便宜からこの陣地に配置されていた野砲第二大隊(早尾猛大尉)の10センチ榴弾砲か第四大隊の15センチ榴弾砲一門かである。十一月十七日クラシアンの米砲兵陣地に日本軍唯一の有効な遠距離砲撃を加えた砲であった。この頃は早尾大隊長はじめ幹部将校はことごとく戦死していたが、残った砲二門(他の一門は恐らく10センチ榴弾砲)はちょうど米軍の二個大隊の間隙に巧みに隠されていたのであった。
砲撃は600ヤード東南の米砲兵観測所に指向され、戦死一、負傷十五の損害を与えた。米小火器班の重迫撃砲と二七一野砲大隊の射撃が集中し、対戦車自走砲一個小隊がこの砲を破壊するために前進した。日本軍の砲はまもなく射撃を止めたが、30分後第二大隊が進撃を始めると、再び300ヤードの距離から三発発射した。戦死三、負傷十五。G中隊と対戦車自走砲が側面から攻撃して四人の砲手を殺し、陣地の破壊に成功した。斥候はさらに一門の105ミリ砲を発見したが、夕闇が迫ったし、砲は二五フィート(米公刊戦史)の距離から発射を続けるので、攻略を諦めた。二七一野砲大隊は夜通しこの砲兵陣地とカナンガ=ロノイ間の街道を砲撃した。この砲撃が遂に日本軍の最後の10センチ砲を破壊した。
これは諫山少尉と第五中隊の三木泰蔵少尉、清水幹部候補生らほか兵十五の抵抗であった。第五中隊は中隊長今村孝雄中尉戦死、砲弾を射ち尽していたので、まだ砲弾50発を持っていた第六中隊の位置に移動して、戦い続けたのであった。しかし結局十九日夜の砲撃で大半は戦死、三木少尉と原田准尉は敵陣に斬り込んで戦死した。これは砲撃によって重傷を負い、捕虜となったある上等兵の証言である。 略

この陣地の十榴がクラシアンの敵砲兵陣地に数発の有効弾を送ったにすぎなかった。しかしその最後の戦闘は見事というほかはない。

引用終わり。

1944年12月19日レイテ戦時

日本軍砲兵が撃った砲弾でアメリカ砲兵観測所に戦死1人、負傷15人の損害を与えたとアメリカ軍の重迫と野砲が反撃したので日本軍砲兵は射撃を止めたがアメリカ軍の第二大隊が前進すると日本軍砲兵が砲弾三発発射して、アメリカ兵に戦死3人、負傷15人与えたと。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/21(Tue) 01:08


No.1
陸軍めしたき゛どぶ長゛奮戦記 光人社1992のp64-p65から引用

ノモンハン事件時の砲撃戦で富岡観測手の証言に拠ると

七月下旬のある日、大隊観測所ふきんにさかんに敵砲弾が落下し、その一弾がついに観測所の真ん中に命中した。そして、その炸裂で召集の観測手一名が即死し、三中隊現役の茶山上等兵も負傷した。私たちも爆風で一瞬、息がつまるような気がしたが、このとき、私たちの一年先輩で召集の野呂上等兵は、私たちのところへ飛んでくるなり、「茶山の首が飛んだ!」と大声でさけんだ。見ると野呂上等兵も爆風に吹かれて真っ黒な顔をしている。ところが首が飛んだと思われた茶山上等兵は、頭ではなく鉄帽がペチャンコになって吹き飛んだもので、彼は負傷しただけですんだのである。 略

即死した召集の観測手には、三中隊の中島軍曹が末期の水を飲ませたが、背骨が折れているとみえ体がぐにゃぐにゃで、あらためて砲弾の恐ろしさを知った。砲弾をうけはじめてから時間はいくらもたっていない。ほんの数十秒の間の出来事である。

と 引用終わり

ノモンハン事件時

ソ連軍の砲弾一発で、日本軍兵士に即死が一名。 一名負傷との事です。
御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 05:36


要聴取情報・其の一

 北朝鮮の持っているSSM(地対地ミサイル)は、日本各地の大都市や港や基地や飛行場へ、それぞれ何分何秒で届くのか?

これまでに寄せられた御投稿

No.3
ノドンの飛翔時間は7-8分と言うことで、調査打ち切りとありますが、ミサイルの弾道計算に関するページがありますので、ご紹介しておきます。

http://village.infoweb.ne.jp/~kubota01/index.htm

御投稿者:富士見町 様
投稿日:2003/01/25(Sat) 22:01


No.2
『自由』昭和六十一年九月号の「核シェルターの有効性」という記事に地対地ミサイルのパーシングⅡが最大射程千八百キロ飛ぶのに十三分かかるそうです。一つの目安として参考にしてください。

御投稿者:枯山 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 20:23


No.1
諸君! 1999年3月号 麻生 幾 99「春の危機」のp42から引用

警察庁警備企画課

アラートは、防災無線を使用することからして問題が多い。アラートが市町村の住民に伝達されるまでには最低でも一時間が必要だ。何しろ、防災無線はハード的にも、国→都道府県→市町村とダイレクトに繋がっていない。
ノドンミサイルは発射されてから、遅くとも二十分以内で日本の国土に着弾する。
現状の防災無線システムでは到底間に合わない。しかも、アラートするにはしたが、受け取った国民はいったい何をすればいいのかが分からず混乱するだけだ。その対策も考えておかなければならない。 と 引用終わり

ノドンミサイルは発射されてから遅くとも二十分以内で日本の国土に着弾する。 そうです。

御投稿者:谷口公一 様
投稿日:2003/01/20(Mon) 05:36